2017年 06月 25日
War Is Over
ちょっと早かったね(第二弾!?)

前記事で枯葉剤(除草剤)のことを取り上げたけれども、じゃあ「枯葉剤」が撒かれたベトナム戦争とはいったい何だったのかということになりますね?
いつ始まったのか、何のために戦ったのか、なぜアメリカが関係あるのか、かなり分かりにくい戦争である。

第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地であった。
大戦前に各地の植民地解放を支援していたのは、共産主義インターナショナル・コミンテルン(第三インターナショナル)だった。
1919~1924年までコミンテルンを率いたのはレーニンである。
レーニン死後、その後継を巡ってトロッキーとスターリンの激しく対立するもトロッキーが不利な立場になり、1929年には国外追放されるに至る。
同じ組織であるが、レーニン時代とスターリン時代はその中身が全く違う。
トロッキーは国外で活動を続けて、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化を画策しており、1938年には第四インターナショナルを結成した。
ドイツ・イタリア・日本が反共産主義インターナショナルを掲げて同盟を組んだのは1936年のことである。
この頃スターリンもトロッキー関係者や自身に反する者を粛清している。
トロッキーも1940年に殺された。

植民地解放を支援していたのはコミンテルンであるが、1924年を境にコミンテルンの中身が変わっていく。
ということは、植民地解放・民族主義運動・革命などの目的や質も微妙に変わっているはずである。
これが外からはなかなか分かりにくい点である。
ともかくベトナム(インドシナ)では1930年にインドシナ共産党が結成され、独立運動には共産党が主導的な役割を果たした。

1939年9月、第二次世界大戦勃発。
1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、親ドイツ独政権であるヴィシー政権が成立した。
フランスの植民地政権はここがチャンスとばかりにすぐさま独立に動いたわけではなく、ヴィシー政権に付き従うことを選択した。要するに親ドイツ(もっと言うと親枢軸国)となったということである。
肝心のドイツはベトナムには興味を示さなかった。代わりに触手を伸ばしたのは日本だった。
日本とフランス・ヴィシー政権は、ベトナムにおける日本の経済的優先権と軍事的便宜を認めるから、ベトナム(インドシナ)におけるフランスの主権を認めるという約束をし、フランス軍がいたところに日本軍が進駐した。
約束の上のことだったわけだが、住民たちはそんなことは知らないから、日本がフランスを追い出してくれたと勘違い。
日本はフランスの主権を認めたからこその進駐なのだから、ベトナム独立なんか支援するはずもない。

ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した。またフランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった。
※ベトミン・・・ベトナムの独立を目指す民族統一組織。


第二次世界大戦で日本は敗北。これを機に1945年9月、ホー・チ・ミン率いるベトミンがベトナム民主共和国を樹立し独立することを宣言した。
これに対抗してフランスが南部に傀儡政権を建国。
1946年からこの両者が戦争をする。(第一次インドシナ戦争)
         ↓
 8年戦った末にフランス側敗北
         ↓
1954年7月のジュネーブ協定により北緯17度線を境にしてベトナムは分断
南ベトナムはベトナム共和国となる。大統領はベトナムの貴族出身ゴ・ディン・ディエムが就任。
(朝鮮半島みたいですね)

ゴ・ディン・ディエムは、熱心なカトリック教徒で、反共産主義者でもあった。
東南アジアでの共産主義の拡大を懸念するアメリカの支援をうけて、ジュネーヴ協定成立直前に政権を樹立し、ジュネーブ協定に基づく南北統一総選挙を拒否するなどベトナム民主共和国への対決色を強めていった。
アメリカは当初フランス軍を支援するという形で南部を支援していたが、直接支援に切り替えた。
北部と南部は分断されたが、住民は好きな方の国家を選択して移ることが可能であった。
北から南に移ったのは100万人。これは主にカトリック教徒。
南から北に内ったのは9万人。
共産主義は権威主義的な宗教に依存しない(宗教を否定する)という特徴があるので、共産主義である北部からはカトリック教徒が移動したということになる。
枢軸国の反共産主義もやはり宗教がらみであると推測できる。

ゴ・ディン・ディエムは自身の弟を大統領顧問に任命し、秘密警察と軍特殊部隊を掌握させ、国内の共産主義者を始めとする反政府分子を厳しく弾圧した。
このように独裁的で汚職にまみれ、農民が多い南部地域に合った政策が採られるわけでなく、南部の国民の不満は募っていった。

そこで北部のベトナム民主共和国は南部の独立派に働きかけ、武力による統一を試み南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成。北部と南部の戦いが始まる。
フランスやアメリカは南部側の味方だった。言い方を変えればカトリックの味方であった。
北部は共産主義であるから、ソ連や中国に近い存在である。ソ連は原爆裏事情を察しながら「我々も原爆を成功させた」と言った国であり、アメリカにとって脅威であった。

北部と南部の戦いであるベトナム戦争にアメリカが直接介入したのは1965年。
カトリック教徒であるケネディ大統領が暗殺された(1963年)後の事である。
ケネディ大統領は何故殺されたのか?裏切り者だったのか。それとも忠誠者だったからか。

アメリカが直接介入を始めた1965年、アメリカの仲介により日本と韓国は日韓基本条約を締結。時の首相は佐藤栄作。
戦前・戦時中の賠償も謝罪も曖昧なまま、「経済援助」として多額の資金が韓国に送られた。
アメリカや韓国はベトナム戦争に派兵していた。
我々が(あなた達の代わりに)軍隊を出してやっているのだから、その見返りはきっちり貰いますよ的な感じ?
弱みを握られていて、出さざるを得なかった感じ?


ねえどっちにする?

アメリカが枯葉剤を散布した地域は南部に含まれると言う。
もう一度言いますが、アメリカは南部の味方をしてたんです。
でも北部のベトコンがジャングルなどに潜んでいるということで枯葉剤を散布したそうなのだ。
東か西かと聞かれれば、西の味方だけれども、西に原爆を落としたことと共通点はありますか?


Bed In

ベトナム戦争と言うと枯葉剤の次に反戦運動が思い出されるくらいにムーブメントだった。
どうしてアメリカに直接関係ないようなベトナム戦争の反戦運動がそれほど盛り上がったのだろうか。
それほどまでにアメリカ軍兵士の犠牲者が多かったということなのか?

オノ・ヨーコが共産系のヘルメットを被り、反共産主義だったヒトラーの声明文を読み上げ、共産主義とカトリックの戦いとも言える戦争に対して反戦運動を繰り広げたのは何故なのか?
共産主義同盟のヘルメットを被り、ヒトラーの声明文を読み上げたオノ・ ヨーコの意図がよく分からない。

ベトナムのジャングルという環境で戦意を喪失し、世論の反戦大合唱でさらに戦意を喪失し、帰国しても待ちわびてくれていたはずの人達は冷淡で、散々だったアメリカ軍。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。

1975年4月、ベトナム戦争は終結した。
アメリカは、南部ベトナムは、カトリックは、北部ベトナム(共産主義)に敗北した。
長い長い戦争が終わった。
独立まもない、そして独立以降のかなりの日々を戦争に費やした小国に、大国や権威が全く歯が立たなかった。
ロシア帝国を倒して羨望の眼差しを浴びたかつての日本のように、北部ベトナムもまた誰かの憧れの存在になったのだろうか。


TDRに遊べ、空港に学べ!?

築地と豊洲の市場について凄く良い考えがあるので一言。
「せっかくの築地ブランドが」とか「築地のブランド力を活かしたい」とか言うならば、豊洲市場を築地市場という名にしてしまえばいいと思う。
先例があるじゃないですか! 千葉にあっても東京ディズニーランド。千葉にあっても新東京国際空港。
これは東京というブランドを活かした命名ですよね?
豊洲にあっても築地市場。これで問題解決。

しかしながら築地ってそんなにブランド力あるんでしょうか?
確かに築地という名称は知っている。築地直送という表示も見たことがある(やや古臭いイメージ)。
でもお魚は築地直送品しか買わないもんね!とかいうことは全然ない。
寿司屋でも料亭でもないからあまり拘りはない。安さと鮮度と手軽さをミックスした感じで選ぶ感じでしょうか。
現代人にとってお魚ってそこまで身近ではないし。その気になれば通販で産地直送で買えたりするし。
産地で食べるのがやはり一番おいしいだろうと思う。
私は牡蠣は広島に行って初めて食べられるようになった。それまで苦手だった。
新潟の市場で買ってきた鮭も美味しかった。(なんで新潟で鮭なのか?よく分からないけれど鮭でした)

そもそも築地って東京ですよね?東京に魚?水族館?東京湾?
海外からの観光客のことは知らないけれど、日本に住む消費者からすると築地のブランド力って言うほどのものではないと思う。
私は築地市場にも行ったことない。
今どき出張マグロ解体ショーなんかも出前でやってくれて、私は見たことないけれど、母は見たことあるらしい。

ちなみに新東京国際空港は正式名称で呼ばれなくて「成田」というローカル名で呼ばれ続け、今では正式名も成田国際空港になっている。
これも小が大を倒した事例でしょうか。




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# by yumimi61 | 2017-06-25 23:33
2017年 06月 25日
綿(コットン)と枯葉剤
誤解のないように綿の木について補足しておく。

綿の木はアオイ科の植物である。
アオイ科の植物にはハイビスカス、ムクゲ、フヨウ、タチアオイ、オクラなどがある。(どれも花の容姿が似ていますね)(徳川家の家紋のアオイはアオイ科ではない)
アオイ科の植物は基本的に熱帯地方に自生する熱帯植物であり、日本では夏季に花が咲き、冬越しが難しい植物が多い。

但し今まさに道端や空き地や畑の周囲などあちこちで花が咲いているタチアオイは冬に地上部が枯れても時期が来れば芽を出して毎年花を咲かせる強健な宿根草(多年草)で帰化植物扱いである。
うちの実家にはアメリカフヨウがあるが、これも冬に地上部が枯れても芽をだし、暑い季節に巨大な花を沢山付ける宿根草(多年草)である。
このように寒い季節(植物によっては暑い季節)に一旦地上部が枯れてしまうものは、毎年芽を出して花を咲かせたとしても、通常は木(木本性)とは言わない。草(草本性)である。
落葉樹は葉を落とすが、幹が枯れて見えなくなってしまうことはない。
もう一つの見分け方としては茎が木化するか(硬くなるか)どうかである。

実際には木(木本性)と草(草本性)の中間の性質を持つ植物も多く存在しており、草本と木本を明瞭に区別することはなかなか難しい。
特に自生地(原産地)と違う気候で育てた場合には違う育ち方をする場合も多々ある。
冬季など生育不適期に葉を落として休眠してしまうのも植物が生き延びるための術である。
限界を超えれば休眠での冬越しも不可能ということになる。
アオイ科の植物の中には、熱帯樹木に分類されるものもあれば、常緑の多年草に分類されるものもある。
葉を落とすだけの多年草もあれば、上に挙げた例のように地上部が枯れて新たに芽を出す多年草もある。

地方や種類によって、熱帯性樹木であることもあるし、多年草であることもある。
さらにややこしいのは一年草品種が作られたこと。

プランテーションの時代くらいまでは多年草である綿の木に出来る綿毛を手摘みしていた。非常に手間暇が掛かり労働力が必要だったわけである。そこに使われていた人が奴隷と呼ばれたりしていた。
農場で使うと奴隷と非難され、工場で使えば雇用(従業員)と称賛されるなんて、何だかおかしな話であるが、それだけ農業は大変ということだろうか。
ちなみに現代でも機械で収穫できない野菜農家などは収穫時期に人を雇って使っている。
次第に農業にも機械化の波が押し寄せ、大型機械で一気に収穫するような方法にとって代わっていった。
個々の成長に配慮しない一気収穫は多年生に与えるダメージも大きくなる。
こうなると多年草を年間通して管理するよりも、毎年新しく種を播きえ揃って樹勢などにばらつきが少ない一年草のほうが扱いやすい。
綿栽培は(綿栽培に限ることではないが)、農業の機械化と大規模化、それに合わせた品種改良や化学薬品の使用などによって変化を遂げてきた。


一年草だから思う存分に枯葉剤が撒けるのではないかと思うかもしれないが、収穫までに実が傷んだり落ちたり綿の木が倒れたり枯れ果ててしまっては意味がないのである。そうなっては元も子もない。
従って一年草であっても(むしろ一年草であるからこそ)、、そこまで強い薬品は使えない。
葉だけを落として機械で一気に収穫する。
収穫してもしなくても一年草なので放っておけば枯れる。


ベトナム戦争の枯葉剤。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。

マラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するという目的では薬品用途が違い過ぎる。
森林(ジャングル)の枯死は言うほど簡単なことではなく、ほとんど意味を成さないであろう。

熱帯雨林
地域としては東南アジア、中部アフリカ、中南米などに見られる。特徴としては生息する生物の多さ、種の多様さ(生物多様性)が挙げられ、複雑な生態系を形成している。全世界の生物種の半数以上が熱帯雨林に生息しているとも言われる。また、大気中に含まれる酸素の40%は熱帯雨林によって供給されたものと見られている。

熱帯雨林に見られる植物の7割が樹木である。
これらの樹木は垂直に3 - 5層からなる層構造をしている。最上層には飛び抜けて高い樹木がまばらにあり、これを超高木層と言う。その下に樹木の枝葉で覆われた層がある。これらを樹冠と呼び、高さ30 - 50mにも達する。樹冠が集まる上層部を林冠と呼ぶ。また、構成樹種がきわめて多いのも特徴の一つである。 太陽エネルギーを元に合成される生産量の大半が樹冠に集中するため、下層とは異なる樹冠生態系と呼ばれる特異な生態系を形成している。また、つる植物や着生植物が多いのもこのような森林の特徴である。これらの植物も樹冠生態系を構成する要素となる。樹冠の下は1 - 3層から成る中間層の林冠、最下層の林床が形成されている。

熱帯雨林では、濃い植生のために日射が遮られ、地表付近では下草が生長しにくい。 これは、人間も含めた大型動物にとっては移動に適した地形となる。 これが、何らかの理由(伐採、山火事など)によって日射量が得られるようになった場合、いわゆるジャングルと呼ばれる低木・つる植物の豊富な、中を歩きにくい植生となる。

土壌の発達は良くない。落葉や腐植の層はほとんどない。これは、気温が高くて分解速度が速いためと、主としてシロアリが、落葉を素早く裁断して自分の巣に持ち込んでしまうからである。地質は、分解速度の速さと多量の降水のために養分が溶脱してしまい、やせた酸性の土壌となる。



樹木が何層にもなっている森林に上空から空中散布したところで森林が枯死すると思いますか?
除草剤を使ったことがあるでしょうか?
除草剤には以下のような区分けの仕方がある。

・非選択的除草剤―雑草と作物の区別なく枯らす。
・選択的除草剤―特定の植物には無害で目的の雑草だけを枯らす。

・茎葉処理型除草剤―散布された薬剤が茎や葉の表面から吸収され(根まで)枯らす。根や木化した茎からは吸収されない。(これで生えていた雑草が枯れると、陰に隠れていた種が光を浴びて一斉に発芽するので第2波雑草が急激に育つことが多く2度撒きが必要なことが多い)
・根吸収型除草剤―散布された薬剤が根から吸収されて枯らす。(葉に薬剤がかかっていなくても枯れる可能性ありということ)
・土壌処理型除草剤―地表面に除草剤の処理層をつくり、発芽した種子が育たないで枯れるようにする。(待ち伏せ型)

・光合成を直接阻害する除草剤―DCMU
・光合成の電子伝達系から還元力を奪って酸素に渡してしまう除草剤(酸素還元指示薬)―パラコート
・光合成には無関係な植物ホルモンタイプの除草剤―2,4-D

このうちパラコートが植物にも人間にも毒性が高いことで有名。自殺や殺人にもよく用いられた。但し土壌残留性は低い。
1882年には合成されていたが、除草剤としての特性を発見したのは1955年で、除草剤として発売されたのは1965年(ちょうどベトナム戦争中)。
イギリス・ロンドンのマンチェスター・スクエアに本社があるインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)社が開発した。

パラコートは、細胞内に入ると NADPH などから電子を奪ってパラコートラジカルとなる。パラコートラジカルが酸化されて元のパラコートイオンに戻る際に活性酸素が生じ、細胞内のタンパク質や DNA を破壊し、植物を枯死させる。パラコートは触媒的に何度もこの反応を繰り返し起こすので、少量でも強い毒性を示す。 NADPH は動物体内にもあるため、同様の反応を起こす。パラコートは、肺に能動的に蓄積する性質があるため、致死量摂取すると最終的に間質性肺炎や肺線維症が起こる。
人間に対しては致死性が高く解毒剤もなく、散布中の経気・経皮中毒の事例も報告されている。


雑草は人々に毛嫌いされるほど逞しい。森林どころか空き地や畑の雑草を駆逐することでさえ言うほど簡単なことではない。
散布しただけでは樹木に対しては効果がないものも多い。
ベトナム戦争で枯葉剤を散布したのは、フェアチャイルドC-123 プロバイダー(Fairchild C-123 Provider)。
第二次世界大戦後にアメリカのフェアチャイルド社によって製造された軍用輸送機である。
つまり上空から散布したということである。

除草剤は高温であるほど移行性が高くなり効果を発揮しやすい。熱帯地域にはぴったりではないか!と思ったかは知らないが、スコールのように降らせるには大量の液体が必要である。
ミスト化すれば少ない量で済むかもしれないが、土壌はおろか葉面まで確実に届かない可能性が高くなる。
粒子を小さくすればそれだけ気化(ガス化)しやすい。
気体(ガス)も高温のほうが拡散力が高いので、狙ったところに届かずふわ~と四方八方に拡散してしまい、肝心の効果は薄まる可能性が大いに考えられる。なにせ屋外である。
これで森林破壊できると思うほうが不思議である。












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# by yumimi61 | 2017-06-25 13:47
2017年 06月 23日
日本国憲法の秘密-504-
1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。
ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。


「除草剤」を使っておきながら何故「枯葉剤」と呼ぶのか。

除草剤― weed killer、herbicide
枯葉剤―defoliant

除草剤は特定の植物の生育を破壊したり抑制したり、枯らすために用いられる。
一方の枯葉剤は葉を落とすことだけを目的に用いられる。樹木を枯らすことを目的にしているわけではない。

ベトナム戦争で用いられた「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤のことを特別に枯葉剤(defoliant)と呼んでいると思っている人も多いかもしれないが、枯葉剤も除草剤と同じく用途があり使われているものである。

枯葉剤が多用されているのは綿(コットン)栽培においてである。
オーガニックコットンという言葉や表示を見聞きしたことがないだろうか。
つまり通常のコットンというのはそれほどオーガニックではないということでもある。
綿100%ならば肌に良いと思い込みがちだが、綿織物になるまでにはいろんな薬品を経ているわけで、一概に肌に良いとも言えない。
綿に何を求めているかは人それぞれだから悪いとも言えない。
肌着は肌に良いコットン!と決めている人が合成洗剤やら柔軟剤やら漂白剤をたっぷり使うのも何だか少し面白い。
栽培過程で用いられた薬品も洗濯しているうちに落ちるしね!?


綿は「綿の木」から出来る。木に花が咲き終わるとそこに青い実を付けて、その実が熟れて茶色になってパッと割れると中に白い綿毛が出来ている。綿毛が種を包んでいるのだ。
問題は花が一斉には咲かないこと。花は1日でしおれてしまうが、その代わりに次々に咲いていく。
7月~10月くらいまでの間に順次咲いて行くので、実や綿も順次出来ていく。
出来たものから収穫していけばよいが、大規模な農園で機械で行うとなれば、順次収穫には向かない。
この咲き方は朝顔を想像してみると分かりやすい。
花は一斉には咲かないし、1つの花は半日くらいしか持たないで萎んでしまう。花は順番に咲いていき、咲いた後に青い鞘が膨らみ出す。要するに咲いた順番に鞘や種が出来ていくわけだが、蔓が枯れる頃になると多くの沢山の鞘が茶色になって中に黒い種が出来ている。

木の葉が落葉する時期まで待つと、最初の頃に出来た綿毛は3ヶ月以上も放置されることになる。
屋外で育つものだから雨にも風にも当たる。綿の木は強い木であるが、そこに成る白い綿毛は汚れやすかったり傷みやすかったり失いやすかったりする。出来れば早めに収穫したほうがよい。
落葉まで待っていると使い物にならない綿もそれだけ多くなる。
しかし葉があるうちは収穫作業が行いづらく、また収穫した綿に葉が多く混じってしまい、効率が悪すぎる。
白い綿に混じり物が多ければ、せっかくの白い綿も台無しである。
そこで自然に葉が落ちるのを待つのではなく、ある程度綿毛が出来たところで人工的に葉を落としてすっきりさせた状態で収穫してしまうのである。
綿の木が枯れたりしたら元も子もない。綿毛が汚れたり落ちたりしても困る。葉だけがそっと落ちれば良いのである。
それほど強い薬品ではないことが想像できる。
空中散布してジャングルを破壊できるほどの毒性は「枯葉剤」にはないはずである。


綿(コットン)と言えばインド。
インドはヨーロッパに綿織物を輸出していた。
イギリスでは綿織物生産に乗り出し、インドから綿花(綿毛)を輸入して、自国で綿織物を生産し輸出するなど、綿はイギリスの産業革命の原動力にもなった。
大航海時代後はアメリカ南部で綿栽培が行われた。プランテーションと呼ばれる単一植物を大量栽培する大規模農園によって南部の経済は成り立っていた。当時のプランテーションは綿花(綿毛)が主流だった。
プランテーションはいわゆる奴隷を使っており、そこで生産された綿花(綿毛)はイギリスにも輸出され、自由貿易を主張するほど当時アメリカ南部は強かった。
一方のアメリカ北部は工業が発展した地域であるが、当時は保護貿易を主張していた。
南と北とでは産業構造がまるで違っていたのである。
1861~1865年のアメリカの南北戦争は、北部が南部の奴隷制を批判したことと、貿易の在り方の主張の違いから起こった。
北部が勝利したことから、奴隷制は廃止され、綿花(綿毛)生産も衰退していき、アメリカはその後、統一アメリカとして工業国の道を直走ることになる。
但しアメリカという国は大きいので、現在もコットン(綿繊維)の主要生産国である。 1位:中国  2位:アメリカ 3位:インド









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# by yumimi61 | 2017-06-23 16:06
2017年 06月 22日
日本国憲法の秘密-503-
第二次世界大戦中にDDT(有機塩素系殺虫剤;スイス)の大量生産が始まると、それに触発されたかのように、BHC(有機塩素系殺虫剤;フランス)、パラチオン(有機リン系殺虫剤;ドイツ)が開発生産されるようになる。
すべて1940年代のことである。

かのサリンも有機リン系である。
ドイツの企業はニコチンに代わる有機リン系の殺虫剤を1930年代に開発していた。
それを叩き台にタブンやサリンといった殺虫剤が第二次世界大戦前には誕生していたが、毒性が強すぎて殺虫剤としての有用性には問題があった。
そこで兵器に転用され、毒ガスとしての開発が進んだ。ドイツの化学工業は一歩も二歩も進んでいた。
1944年には史上最強の毒性を誇るソマンも開発した。
ドイツで開発されたタブン・サリン・ソマンの毒ガス(神経ガス)は、後に連合国によってGerman gasから「Gガス(G剤)」と呼ばれ研究されるようになる。
量産工場こそ建設されていなかったが、ドイツはかなりの量を備蓄していたらしい。
原爆や水爆並み、あるいはそれを超える殺傷能力を持つとされていた毒ガスをドイツは保有していた。
しかしヒトラーは、ドイツは、それを使うことはなかった。
(ちなみにホロコーストの毒ガス室で用いられたとされる毒ガスも違うものである)
核が抑止力になるのであるならば、毒ガスだって抑止力になるはずである。
だというのに世界はなぜ「核」を選び、「核」を特別扱いし、「核」に流れたのか。
それは核の開発に至らなかったことを暗黙に示唆している。


1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。

ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。

ベトナム戦争中に米軍と南ベトナム軍によって撒かれた枯葉剤は軍の委託によりダイヤモンドシャムロック、ダウ、ハーキュリーズ、モンサント社などにより製造された。用いられた枯葉剤には数種類あり、それぞれの容器に付けられる縞の色から虹枯葉剤と呼ばれ、オレンジ剤 (Agent Orange)、ホワイト剤、ブルー剤などがあった。

ベトナムで使用された枯葉剤のうち主要なものは、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T) の混合剤であり、ジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれ、副産物として一般の2,4,5-T剤よりさらに多い2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を生成する。
このTCDDは非常に毒性が強く、動物実験で催奇形性が確認されている。ベトナム戦争帰還兵の枯葉剤暴露とその子供の二分脊椎症の増加についてはこのTCDDとの関連が示唆された。


そもそも何故に殺虫剤ではなく枯葉剤(除草剤)を撒いたのか?
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。
枯葉剤で虫が殺せると思っていたというのか?
それともあえて殺虫という直接的手法ではなく、虫たちの住環境を破壊という回りくどい間接的手法を使ったというのか?(ベトナム戦争は長かったので何事にも悠長だったのかもしれませんね!)(ちなみにマラリアの流行は人間の住環境が大きく関係している)

枯葉剤の被害者として日本でも超有名で日本との関係も深いベトちゃんドクちゃん(1981年生まれ)。
では具体的に枯葉剤の何が問題だったかと言うと、合成過程で副産物として「ダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) 」を生成してしまうからだそうである。
一頃、ごみの焼却が問題になったことを覚えているだろうか。
塩素を含む廃棄物の焼却によってダイオキシンが発生することが問題視されて、焼却について様々な規制が行われるようになった。自治体のごみ処分場の焼却施設のみならず、野焼きの禁止や家庭用焼却炉まで廃止された。
それまで私は秋が深まると落ち葉で焚火をして、ついでに焼き芋をして子供達に食べさせたりしていた。
また家には煙の出ない、ちょっとお洒落な、なかなか良い小型の焼却炉があったのだが(紙幣を燃やしたこともあるが・・)、それも廃止せざるを得なくなった。

日本では1983年にはじめてごみ焼却炉の灰のなかからこの物質が検出されて専門家の間で注目されました。1996年、埼玉県所沢市で産業廃棄物焼却炉からも検出され、住民に大きな不安が広がって社会問題になったことなどをきっかけに、ダイオキシンは大気汚染防止法の指定物質とされました。さらに、2000年には排出基準値が定められて、ごみ焼却炉や製鋼用電気炉などの施設に適用されています。
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_25/ より>


(ダイオキシン類は)ごみの焼却などによる燃焼や薬品類の合成に際して、意図しない副生成物(非意図的生成物)として生じる。過去においては、米軍がベトナム戦争で散布した枯葉剤の中に2,3,7,8-TCDDが不純物として含まれていたことは有名である。日本においても、PCBや農薬の一部に不純物として含まれて、環境中に排出されたという研究結果もある。
現在では、廃棄物の焼却処理過程においての発生が一番多く、その他、金属精錬施設、自動車排ガス、たばこの煙などから発生するほか、山火事や火山活動などの自然現象などによっても発生する。



ダイオキシンの生殖毒性
ベトナム戦争時の枯葉剤に2,3,7,8-TCDDが副産物として含まれており、散布地域での奇形出産・発育異常の増加に対し、2,3,7,8-TCDDの催奇性との関連が取り上げられる。ただし、ダイオキシンによる催奇性はマウスでの実験においては確認されているものの、ヒトへの実験は不可能のためヒトに対する催奇形性は未確認である。

セベソでのダイオキシン類暴露事故(セベソ事故)後のある限定的範囲の疫学調査では、高汚染地域の14年間の198人の出生のうち奇形児は0人である。
同調査では、事故後はじめの7年間(2,3,7,8-TCDDの半減期にあたる)では、出生数が男児26人に対し女児48人であり、男児の出生低下が確認された。次の7年間では男児60人に対し女児64人であり、既に有差はない。こうした調査は実際に被曝した人的地理的範囲に対し調査対象数が少なく調査地域の選定も不明な点が多く、注意が必要である。

セベソでは事故翌年4-6月の妊婦の流産率は34%となった。また、周辺地域では癌発生率の増加、家畜の大量死、腫瘍、奇形出産などが報告されている。

PCB及びPCB加熱から生じたPCDFが混入した台湾油症の事例からは子供の成長遅延、知能低下、運動機能の発達遅延、皮膚の黒皮化などが報告されている。



ダイオキシンの無毒説
一部にダイオキシンが有毒であるという根拠が科学的ではないとする論議がある。この議論の根拠は、ダイオキシン自体の毒性は極めて高いものの、焼却されるごみの総量に比べて生成されるダイオキシン量がはるかに小さいことに基づいている。また、生成されるダイオキシン量が焼却されるごみの総量に比例しないという研究報告にも基づいている。[要出典]セベソでのダイオキシン類暴露事故においては、当日の家畜大量死、翌年の流産率の急増、女子出生への偏りなどが報告されたものの、事故直後では人間の死者と奇形出産が出なかった事から、対人間無毒説の根拠とされる。

また、当初はダイオキシンの高い急性中毒性について議論されていたが、いつの間にか慢性毒性や発がん性に話がすり替わっているというような、研究者の非科学的態度もダイオキシンが有毒であるという論への懐疑的要因である。

実際にダイオキシンが毒殺目的で人間に大量に与えられた事例があり、有名なところでは大統領候補だったヴィクトル・ユシチェンコの毒殺未遂事件がある。しかし、皮膚に湿疹などの異常がでたが、ダイオキシンの高い急性中毒性については毒殺事件という形での人体実験によって否定される結果になっている。



2,4-Dは除草剤として今でも重宝されているものなので、問題は2,4,5-Tにあったということになる。
アメリカでも日本でも現在は認可されていない。つまり製造していないのだ。
ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と類似のものであり、動物実験で催奇性が確認されている。ヒトに対する影響は不明とする否定意見があるが、これは人間に対しては動物のように実験を行うことが出来ないために不明となっているためである。








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# by yumimi61 | 2017-06-22 17:28
2017年 06月 21日
Syrup! Shut up!
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簡潔が知恵の精髄・・・下手の長談義?

"Hamlet" by William Shakespeare

This business is well ended.
My liege, and madam, to expostulate
What majesty should be, what duty is,
Why day is day, night night, and time is time,
Were nothing but to waste night, day and time.
Therefore, since brevity is the soul of wit,
And tediousness the limbs and outward flourishes,
I will be brief: your noble son is mad:
Mad call I it; for, to define true madness,
What is't but to be nothing else but mad?
But let that go.


『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。


”to be,or not to be.That is the question."

青酸カリカリ梅も浸けています。

Ume~! Yummy!







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# by yumimi61 | 2017-06-21 23:59
2017年 06月 20日
日本国憲法の秘密-502-
前記事にリンクした日本リザルツのブログに、WHOに勤務していた古知新先生は「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります、と書いてありましたね。

ではDOTSとは何か?
DOTS(直視監視下短期化学療法)とは、結核患者を見つけて治すために利用されているプライマリー保健サービスの包括的計画の名称で、WHOが打ち出した結核対策戦略である。
五つの主な要素は、
1)政府が結核を重要課題と認識し適切なリーダーシップをとること
2)菌検査による診断、経過観察の推進
3)結核患者が薬を飲み忘れないよう医療従事者の前で内服すること
4)薬の安定供給
5)菌検査結果の記録サーベイランス
である。米国や多くの途上国で大きな成果をあげている。


主な要素として5つ挙げてあるが、DOTSが直接指しているのは「直視監視下短期化学療法」という日本語からも分かるように、3)のことである。
医療従事者が薬の服用を監視すること、飲んだことを見届けること。入院も隔離もしなくてよい。
え?それだけ?と思いました?
言い換えると、結核というのは指示を守らない人、あるいは守れない人が罹患しやすい疾患と言える。
結核は感染しても発症しにくい感染症である。発症を抑えているのは個々人が持つ免疫である。
乳幼児、若年者、高齢者、不規則な生活をしている、ストレス過多、睡眠不足、アルコールや薬物の大量摂取、ホームレスなど、免疫が働きにくい人達と指示を守らない人(守れない人)というのは微妙に重なってくる。
それとは別に疾患などで免疫機能が落ちている人も同様に罹患しやすい。(エイズ死亡者の1/3は結核が直接的原因とも言われている)

結核患者に薬を服用させるということは治療の段階である。要するに診断が付いているということ。
でも発展途上国などで一番の問題となるのは予防も診断も出来ないということであろう。
その意味においてWHOの結核対策戦略に菌検査とあるが甚だ疑問である。

日本ではかつて乳幼児期にツベルクリン反応検査を行い、陰性者のみにBCGワクチン接種を実施していた。
BCGワクチンによって結核に対する免疫を付けるためである。免疫は接種から15年間くらい有効であるとされる。
2005年からツベルクリン反応検査が省略されて(すでに感染しているかどうかを確認しないで)、BCG直接接種が導入された。
そのため結核感染リスクが明らかに少ない生後6か月未満の乳児に限定されて行っている。
逆を言うと、生後6か月までは感染リスクを高めてはいけない。
感染しているのに BCGを接種するとコッホ現象(再感染)が起きる。コッホ現象が出ても重篤化しないで短期で快方に向かうことがほとんどだが、その時期にすでに感染環境にあったことが問題である(周囲に結核に罹患している大人がいたなど)。
再感染であるコッホ現象は軽いことが多いが、乳幼児が罹患しやすい粟粒結核とそれに随伴する結核性髄膜炎は重篤化しやすい。
日本の大都市圏では東南アジア並みの罹患率である。

ちなみに青年や成人の場合にはツベルクリン反応が陰性であってもBCG接種はするべきではない。効果が認められておらず、副反応が強くなる恐れがあるからである。
結核感染の機会が多い医療従事者に対しては雇入れ時にツベルクリン反応検査を行うことがある。陰性者にBCG接種をすることが目的ではなく、院内感染などが起こった時に感染診断の基準値とするためである。(医療機関が目的を分かっていないことがある)



第二次世界大戦中、スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。
そして直ちに生産が始まった。


DDTは大量生産された初めての合成農薬だった。
ではそれまで何を使用していたかと言うと、除虫菊、石灰硫黄合剤、ニコチン、青酸などである。

ここでニコチンについて。
ニコチン (nicotine) は、アルカロイドの一種の有毒物質である。主にタバコ属(ニコチアナ)の葉に含まれる天然由来の物質である。揮発性がある無色の油状液体。
アロマオイル(精油)のようなものと考えてよいと思う。
ニコチン自体に発癌性はない。(タバコの主たる発がん物質はタールだと考えられている)

1970年代にイギリスのモーズレイ病院の精神医学研究所にて、たばこにおけるハーム・リダクション(有害性低減)が提唱され、先駆者のマイケル・ラッセルは、ニコチンのために喫煙しながらタールによって死んでいると述べたが、2007年にも、英国王立医師会のタバコの助言に関する報告書は、ニコチン自体は危険ではなくタバコの代替品として提供されれば、数百万人の人命を救えることを報告している。ニコチン置換療法でのニコチンの提供では、33000人以上の観察研究やメタアナリシスによって、心血管疾患のリスク上昇がみられていない。

即効性の非常に強い神経毒性を持つとされている。中毒=依存性という認識にあるが・・。

中脳辺縁系のドーパミン神経の興奮を介した依存性の形成メカニズムは他の依存性薬物(コカイン、ヘロイン、アンフェタミンなど)と同じとされる[要出典]が半数致死量の低さと他細胞系への薬理作用の点から[要出典]、麻薬とはされておらず、毒物に指定されている。
末梢においては、中枢神経からの間接的な作用と、末梢の nAChR に作用することで毛細血管を収縮させ血圧を上昇させるが、ヒトにニコチン 1.5 mg/分を5分間静注すると脳血流が増すという報告もあり、縮瞳・悪心・嘔吐・下痢などをひきおこす。
中毒性があり、通常量でも頭痛・不眠・苛立ちを感じるなどの症状、過量投与では嘔吐・振戦・痙攣・死亡を起こす[要出典]。


複数回の摂取によりニコチン依存症を発症させる。WHO世界保健機関は「ニコチンはヘロインやコカインと同程度に高い依存性がある」と発表している。

日本の柳田知司はアカゲザルの実験を元に、「ニコチンは依存性薬物ではあるものの、身体的な依存性は有ったとしても非常に弱いもので精神依存の増強は認められず、その精神依存性は他の依存性薬物と共通する特性が見られるものの主要な依存性薬物と比較して明らかに弱いこと、また精神毒性(例えば、ニコチンの摂取は自動車の運転などの作業に悪影響を及ぼさない)も依存性薬物の中では唯一、これが認められない」と発表している。


家庭菜園や自然農法が趣味な人などは、煙草を水に浸しておけばその液が殺虫剤になるという話を聞いたり試したことがあるのではないだろうか。
ネット社会になった現代では、「無農薬とか自然農法とか言って人を殺すほどの有毒物質を撒くなんてどうかしている」とか「違法である」とかという意見も多く見られるようになったが、私も試したことがある。
私は木酢液(市販のもの;酸性と思われる)に煙草ほか、ハーブや唐辛子、ニンニクやニラなどを浸け込んで使用した。(薄めて使う。薄めないで使えるほど安価に大量に木酢液が手に入らない)
もっとも私は野菜など口に入れる植物に用いたのではなく、バラなど観賞用植物のアブラムシやチュウレンバチ幼虫の駆除や予防に使ってみたのである。
結果を言えば、そんなに驚くほどの効果はない。
そこに居る虫は嫌がって逃げる素振りは見せるが、殺虫剤としての能力は合成農薬のほうが確かである。
私の作ったものは樹木に群がる毛虫などを駆除できるとは到底思えない結果に終わった。
でも農薬よりは匂いが許せたので予防に使っていた時期もあった。
本気で殺虫殺菌したい時には農薬頼みであった。
今は強い植物が生き残っている感じと許容(諦め?)で農薬を必要最小限しか使わない。


こうした自然派(違法派?)ではなく、かつて正式に農薬として使われていたニコチンは硫酸ニコチンと言う。
殺虫剤の一種。特異臭のある微酸性褐色液体。有効成分はニコチン。
不揮発性で、このままでは殺虫効果は望めず、使用に際して炭酸ナトリウム、水酸化ナトリウム、石灰などでアルカリ性にしてニコチンを遊離させる。
殺虫力は強いが、植物には無害、一方で人畜毒性は高く毒物に指定されている。
速効性で殺卵効果もある。野菜、果樹のアブラムシ、グンバイムシ、スリップスなどの防除に用いられた。毒物で取扱いが難しいことなどから、近年余り使われなくなり、2006年に農薬登録が失効、使用禁止となった。


ニコチンを抽出するためにはアルカリ性にする必要がある。
タバコを間違えても食べても胃液は酸性なのでニコチンはなかなか抽出されない。(だからと言って食べていいわけはない)
水道水は中性を基準にしているが、若干どちらかに傾くことはあるようだ。
でも基本的に中性なのでやはりアルカリほど遊離できない。
使い方次第ということですね。農薬としては有用性に問題があったということでしょうか。

ちなみにタバコ最大の悪者となっているタールの大元は石炭である。石油、木材、泥炭、植物からも作り出すこともできる。
木から作る場合は炭焼きをする。この炭焼きによってタールと木酢液が出来る。










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# by yumimi61 | 2017-06-20 15:15
2017年 06月 18日
日本国憲法の秘密-501-
(殺虫剤DDTの)化学物質としての危険性については、1960年代に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」により取り上げられ、認識が広まった。

『沈黙の春』(Silent Spring)
1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を、鳥達が鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品。
発売されて半年で50万部も売れ、特にBook of the Month Club(高名な合衆国最高裁判所判事のウィリアム・O・ダグラスの推薦文が同封された)やニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに選ばれてからよく売れた。
1964年に新潮社から初めて日本語に訳された際の題名は、『生と死の妙薬-自然均衡の破壊者〈科学薬品〉』だった。翻訳は青樹簗一(南原実)。現在は上記のタイトルで文庫版が刊行されている。


(『沈黙の春』の現在の評価)
レイチェル・カーソンのこの著作は、あまり知られていなかったDDTの残留性や生態系への影響を公にし、社会的に大きな影響を与えているが、執筆から40年以上経過した現時点の最新の科学的知見から見ると、その主張の根拠となった1950年代の知見の中には、その後の研究で疑問符が付けられたものも存在する。例えば当時はDDTに発ガン性があるという見解が多かったが、長期間にわたる追跡調査はDDTによる人間に対する発ガン性に関しては未確定であり、国際がん研究機関発がん性評価においてはグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」とされている。またオスのワニが生まれなくなった要因を農薬に求める記述もあったが、ワニの性別は卵の温度で決まるため、その指摘自体が誤りではないかとされている。

また本書がDDTの世界的な禁止運動のきっかけとなった点についても、レイチェル・カーソンなどが実際に主張したことは、農薬利用などマラリア予防以外の目的でのDDTの利用を禁止することにより、マラリア蚊がDDT耐性を持つのを遅らせるべきだという内容だったことには留意をするべきである。実際に、安価な殺虫剤であるDDTの田畑での農薬としての使用は途上国では最近までほとんど減少せず、猛禽類や水棲生物の減少による生態系破壊はそのままで、DDTに耐性を持つ蚊を増やす結果となった。現在では途上国においては蚊帳への使用という限定的な条件でDDTの使用が認められている。 


人間も蚊と同様に耐性を持ったということでよろしいでしょうか?
それともDDT以外の発がん物質が増えて、発がん率は上がっているがDDTと特定することが困難になってきているということでよいでしょうか?

実は以前私も『沈黙の春』(正確を期すれば『沈黙』)についての見解を述べている
これがなかなか素晴らしいので再び紹介しておく。(手前味噌ですみません。しかもかなり長くなります、略すところがあまりないので)

ハルキストたちの沈黙

『沈黙』も『レキシントンの幽霊』に収められている短編である。(初出1991、講談社)
「集団読書テキスト」として全国学校図書館協議会から小冊子の形で販売されている。
ここに書いた『君が見つける物語』の顔なし騒動も、その本に収められていたこの短編『沈黙』の話をしている。
(略)

沈黙しない春

私が「沈黙」で真っ先に思い出すのは、村上春樹ではない。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮社)である。
1962年にアメリカで刊行された本の訳書。
原題は『Silent Spring』。
翻訳者は青樹簗一(あおきりょういち)。
初版は『生と死の妙薬』という邦題が付けられていた。

村上春樹はこの著書が念頭にあったのではないだろうか?

「沈黙の春」ではない、「沈黙」である。
春樹は、沈黙しないのである。

自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中とは違うというわけだ。
自分で生み出せ(創作)、物事をよく理解し、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされることはないと暗黙に語っている。(暗黙だからこそ沈黙でもある)

『沈黙の春』を無暗に受け入れる連中は好きではない。
しかし村上がもっと気に入らなかったのは、翻訳者の青樹簗一である。
「青樹」を「青木」に投影した。
そして彼を哀れんだ。


村上春樹の嫌いなタイプ

想像ばかりで申し訳ないが、村上春樹はおそらく三島由紀夫や尾崎豊のようなタイプが虫唾が走るほど嫌いなはずだ。
そうした人間を持ち上げる人間も同じように嫌い。
想像と書いたけれど結構確信に近い。

だから村上春樹は殊更に自分は普段は平凡な人間であるということを強調する。
しかし否定しながら心の奥底に憧れを抱く。
あんな人間にはなりたくないが、あんな風にはなってみたかった。
村上春樹のコンプレックスが見え隠れしてしまう。

私も『沈黙』を読んでみたのだが、私が怖いと思ったのは、大沢の青木の評価、つまり村上春樹の青木の描写である。

同様のものを感じたのが、オノ・ヨーコの「出る杭は打つ」発言だった。
「出る杭を打つ」という人はほとんどいないであろう。
少なくとも私は今日まで生きてきた中では聞いたことがない。
「出る杭は打たれる」という慣用句であるからだ。

出る杭は打たれる

1 才能・手腕があって抜きんでている人は、とかく人から憎まれる。
2 さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。

確かに、出る杭が打たれるということは、出る杭を打つ人が存在するということだけれど、大抵は出る杭を打っていることを認識していないか隠している。
だから「出る杭を打つ」とは言う人はまずいないのだ。
しかし彼女は言った。沈黙はしない。
恐るべしオノ・ヨーコ。自覚ありということか。

彼らはいつでも加害者であり被害者である。
その他大勢に埋没することはない特別な存在なのだ。

村上春樹はハルキストを失望させないためにわざと意味の分からない小説を書いているのかもしれないな。

しかしこんな小説を書いている人がなぜ、心理学や河合隼雄を手放しに信頼したり称賛したりしていたのだろう。
あれも全部嘘ということか?
それとも、それこそが「僕」か。



DDTは発がん性があるとされ、また環境ホルモンとして機能することが判明したため、世界各国で全面的に使用が禁止されたが、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国では、DDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者が、DDT禁止以降は再び激増した。例えばスリランカでは、1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、DDT禁止後には、僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている。

また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。このため2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる。

DDTを禁止した結果、多数のマラリア被害者とDDTよりも危険な農薬による多くの被害が発展途上国で発生し、アメリカ合衆国などではカーソンを非難する声が今も続いている。その一方、既にカーソンが「沈黙の春」内で述べている通り、DDTに対する耐性を獲得したマラリア蚊もDDT散布後数年以内に多数報告されており、DDTの散布だけでは直接の解決策には成り得るものではないといえる。

なお、日本を含む主な先進国では、根絶活動の成果および生活環境の変化によって、DDTの使用を考慮せざるを得ないほどのマラリア蚊の蔓延は既に見られなくなっている。




・すごくよく効く薬だけれど副作用も大きいということがある。しかしながらハイリスクハイリターンにはある種の魅力がある。

・この程度の効き目でこんなに副作用が大きいのでは使い物にはならん、ということもある。有用性に問題あり。

・こんな大勢の人を救えるのだから、1%ほどの人間ががんを発症しても仕方ないでしょうと考える人がいても不思議はない。
100%を網羅することは人間には不可能である。妥協点を探す必要がある。
1%ほどの人間もがんを発症することは避けなければならないとして、大勢の人を救えるものを止めてしまうと、総倒れになる可能性も無きにしも非ず。
1%に合わせた教育を行うと、99%は付いていけないか物足りない。
マイノリティとマジョリティの境界線が妥協点であるとも言えるので、マイノリティをあまりに重視すると社会は均衡を保てない。
(分かりやすい端的な例え話として聞いてもらいたいが、同性愛を禁じればエイズ発症が防げるとする。しかし同性愛を禁じられると困る人が1%ほどいる。その1%の人に寄り添うがために同性愛を解禁すると、エイズで総倒れになる可能性が無きにしも非ずということ)
(安倍政権を支持するのはマイノリティ重視に疲労困憊した人達なのではないだろうか。言い換えると安倍政権は”出る杭は打つタイプ”なのである。独裁のようにすら感じる安倍政権が支持される理由が分からないと言う人もいるが真の独裁タイプは1%側に属していることが多い。安倍政権は1%を打つ側であるので広く支持される)


上記転載文に「WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる」とある。
名前がとても印象的。ご両親は「温故知新」を意識して名前を付けたのでしょうか?
でも結果的に「温」がないわけだから、古きを訪ねて温めなかったことになるのでは・・・。「(そんなの)古!新しいことを知ろう!」みたいな。

古知新ドクターはWHOにいたという以外の情報がほとんどない。著作本などにプロフィールが掲載されているかと探したが著作本が見つからなかった。
1975年頃に東北大学の公衆衛生学教室に院生として居たらしい。
1989年に結核対策課長としてWHOに赴任したようだ。(秋篠宮紀子様が御研究されていたのも確か結核予防をテーマにした心理学でしたね)

1975年頃、この時代の東北大学の公衆衛生学教室は2代目教授、鈴木継美教授時代(1971~1980)である。
鈴木継美教授は東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から東北大学に赴任した。
私が公衆衛生学を学んだ鈴木庄助教授も東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から群馬大学に赴任した。1981年のことで3代目教授だった。
W鈴木ですね!

ともかく古知新ドクターのプロフィール。
東北大学医学部医学科卒業。医学博士。ハーバード公衆衛生大学院修士。UNICEFにおいて専門家として戦時下のミャンマー、アフガニスタン、モザンビーク等で活動。その後WHOに勤務。
結核対策課長時代にDOTS方式(直接監視下短期化学療法)を世界中に広げ、結核制圧に大きく貢献。
WHOの結核、エイズ、マラリア対策本部長を歴任。
ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にもあたる。
現在、ジュネーブにてコンサルタントとして活躍中。
特定非営利活動法人日本リザルツの理事も務める。


このプロフィールは、日本リザルツ公式ブログに掲載されているものなので、自称プロフィールとして信頼性の高い(?)ものではないだろうか。
しかし東北大学で修士を取得したとも博士を取得したとも書いてない・・。

日本リザルツは、貧困問題の解決を目指すアドボカシー(政策提言)型の国際市民グループだそうである。
ブログの最新記事は『古知新博士と関係省庁・国会議員への訪問』と、森友・加計の両学園の忖度・ご意向・コネクション事件が話題の中にあってはなかなか興味深い。

本日は、日本リザルツの理事でもある古知新先生と日本リザルツ白須代表が、国際保健の提言のために、関係省庁・国会議員へ訪問をしました。
古知先生は、WHOのエイズ、結核、マラリア部長を歴任し、ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にあたり、また、結核の治療システムである「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります。
では、その様子を写真でお届けいたします。
(写真満載)






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# by yumimi61 | 2017-06-18 14:10
2017年 06月 17日
日本国憲法の秘密-500-
前記事で「有効性」と「有用性」の違いについて書いたので、ついでに「相関関係」と「因果関係」の違いについて。

(例)がん検診受診率が高い地域ほどがん罹患率も高い。

この場合、がん検診受診率とがん罹患率には「相関関係」が認められるということになる。
しかし、がん検診を受診したから、がんに罹患したと言いきることは出来ない。(=がん検診受診とがん罹患の因果関係を疑うことは出来ても、1つの相関関係だけで因果関係があるとしてがん検診を悪者にすることは出来ない)
何故か?
元々がん罹患率が高い地域であり、そのことが広報され、がん検診を積極的に促した故に受診率が高くなっているということも考えられる。
罹患率が高い地域ほど受けさせる側も受ける側も検診に熱心になったということ。
検診受診率が高いから罹患率が上がったのではなく、罹患率が高かったから検診受診率も高くなったという全く逆の因果関係がある可能性も捨てきれない。


(例)A製薬のB胃腸薬を常用していた人と、そうでない人を比較したら、常用していた人のがん罹患率が高かった。

B胃腸薬を常用すると、がん罹患率は高くなるという相関関係がある。
しかしこの場合、比較対象が悪い。
胃腸薬を常用している人は元々体調が悪かったと考えられる。
常々体調が悪かった人と悪くなかった人のがん罹患率を比べれば果たしてどうだろうか。
ともかくこの比較と相関からB胃腸薬を常用するとがんに罹患しやすくなるという因果関係を導き出すことは難しい。


(例)選挙の出口調査で得票数の高かった候補ほど実際に当選する確率も高い。(←本来テレビが言えるのはこの程度のことのはず。全て開票していないのに当選確実を出すなんて言語道断)

出口調査の得票数と選挙結果(得票数)には相関関係がある。
では、出口調査の得票数が高いと当選する、こういう因果関係があると言えるだろうか?
あるから「当選確実」と言ってるんだろう?
「確実」とは、間違いや変更がない客観的事実のことである。(「確か」と言えば、主観的事実となる)

統計に「絶対」や「100%」はない。
それは何故かと言うと、人間である私達は「偶然」や「奇跡的」を排除することが出来ないからである。
でもそれを言い出すとキリがない。
例えば、幾ら理路整然にSTAP細胞を否定しても、奇跡を考慮してしまうと、完全否定は出来なくなる。
すると「ほんとだもん、偶然出来たんだもん」「我々は奇跡的に成功した」とか言い出して悪用される。
これは非現実的で社会性を欠き、社会にとってプラスになるとは言えない。
そこで「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」という値(有意水準)を決めておくのだ。
よく用いられる値が5%や1%。
これ以下でしか起こってこないこと(有意差あり)は否定の根拠となり得るという約束(ルール)の上で成り立っている。
もしも5%や1%以上の値が得られたとしても(有意差なし)、それを理由に「偶然」「奇跡」側が因果関係や正当性を主張することは出来ない。
数値的に否定の根拠になり得なかっただけのことで「不確定」「どちらとも言えない」といった状態である。データ(回数)を増やせば値が変わる可能性がある。


出口調査のほとんど全て正解する。「凄い偶然」「奇跡的なこと」である。
そこで「ほとんど正解する出口調査はインチキである」と思ったとする。
そしたら「出口調査は公平公正に行われていて当たり外れは半々である」という反対の仮説を立てる。
そして実際に公平公正に出口調査を行って選挙結果と照らし合わせるという検証を幾度も行う。
有意水準を5%としよう。
出口調査がほとんど正解していたとか、ほとんど外れていたとか、そうした極端な結果が5%以下ならば「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」と言えるわけである。つまりテレビで行っている出口調査はインチキだと主張する十分な根拠になり得る。
ほとんど正解やほとんど外れが5%以上となれば、「結構そういう偶然ってあるものなんだね」ということになり、「ほとんど正解する出口調査はインチキである」とは言えなくなる。
しかしながら、この結果によって「出口調査が公平公正に行われている」とも言えない。






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# by yumimi61 | 2017-06-17 23:59
2017年 06月 16日
日本国憲法の秘密-499-
MITに依頼して『成長の限界』を書かせたローマクラブ。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていたとされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


設立者であるアレクサンダー・キング。

1909年、イギリスのグラスゴーで生まれる。
イギリスのロイヤル・カレッジ・サイエンス*とドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン**で化学を学び、インペリアル・カレッジ・ロンドン***で研究に従事していた。

*ロイヤル・カレッジ・サイエンスは1907年からインペリアル・カレッジ・ロンドンの構成大学であり、2002年にはインペリアルに全面的に吸収されている。

**ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンはドイツの州立大学。こちらに書いたようにカトリック・イエズス系の大学で、イルミナティの創設地でもある。

***インペリアル・カレッジ・ロンドンは、イギリスの公立研究大学である。1907年に設置された理系の大学である。元々はロンドン大学のカレッジの1つであったが、2007年にロンドン大学から独立した。


アレクサンダー・キングは、第二次世界大戦中、ヘンリー・ティザードに招かれて生産省の副科学顧問に就任した。
戦時中に創設された省であり、当初は「戦争生産省」という名称であったが、すぐに戦争という単語は外されて「生産省」となった。
各行政機関の連絡調整や橋渡し役を担う戦時中の重要な行政機関であった。

ヘンリー・ティザードを覚えているだろうか?原爆開発に関する記事に登場したイギリスの化学者である。

1939年6月、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。

※オットー・フリッシュ(オーストリア)は原子爆弾開発の母ともいえるマイトナーの甥である。
アインシュタインと対立したデンマークのニールス・ボーアの研究所で働いていたが、イギリスにバカンス(バカンスと言う名の?)に出掛けて、イギリスにいたルドルフ・パイエルス(ドイツ)と一緒に研究をし、ブレイクスルー的に「ウランによる原子爆弾の製造が可能である」ことが分かった。
ウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファント***に報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザード****にその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。 

***マーク・オリファント(オーストラリアの物理学者)
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと願い、1927年にイギリスのラザフォードのいる研究所に入った。
オリファントはヘリウム3と三重水素を発見し、1934年にパウル・ハルテックとともに水素の核融合を発見した。

****ヘンリー・ティザード(イギリスの化学学者)
ガソリンのエンジン内での自己発火(ノッキング)の起こりにくさを示す数値・オクタン価を開発した。
レーダーの開発にも貢献し、UFOを真面目に研究したりもした。


しかしながら、イギリスはこの時もまだ、原子爆弾には大して興味を持っていなかった。
原爆は不可能であると正しく結論づけていたのである。

ヘンリー・ティザードはかつてこう言った。
「科学の極意(秘密)は、天才をマークするより何より、正しい質問をすることと、問題の選択にある」

第一次世界大戦でティザードが選択した問題は航空だった。
イギリスの陸軍航空隊で飛行機を飛ばすことを学び、実験装置の責任者となり、流線を観測するためにテストパイロットをも務めた。大戦末期には空軍で働いた。
第一次世界大戦後はオックスフォード大学で化学熱力学におけるリーダーとなり、オクタン価を発見した。
その後、彼は科学産業研究部門の政府ポストにも付く。
イギリス空軍への科学研究ディレクターとしてアドバイスし、マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受けた当時はイギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。

1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、そのウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。
ティザードは情報提供を無下にするようなことはしなかったが、彼自身は原爆を問題にしていなかった。



ヘンリー・ティザードがアレクサンダー・キングを招いたのは失敗だったのではないだろうか。
アレクサンダー・キングは1943年にアメリカに渡り、ワシントンのイギリス大使館で科学担当大使となった。
マンハッタン計画を見届けたイギリス政府の代表者と言えよう。

1940年、イギリスの党首の年頭所感(http://www.masuseki.com/index.php?u=interest/history/070903_morrison.htm

1939年、英国はナチス・ドイツに対して宣戦布告を行った。 以下は1940年のタイムズ紙に掲載された保守党・労働党各党首の年頭所感である。



保守党党首ウィンストン・チャーチルは言った。

「この戦いにはキリスト教文明圏の命運が懸かっている!
この戦いには長い時間をかけて築きあげた我が大英帝国の命運が懸かっている!
やつらの恐怖と暴力はすぐにも我々に向かってくるだろう。
なぜなら、ヒットラーは知っているからだ!我々を滅ぼすか、自分が敗れるか、結末はどちらかしかない事を!

我々がヒットラーに屈しなければ、全ヨーロッパは解放され、地球上のあらゆる生命は日の当たる丘への道を進んでいくだろう!
だがしかし!仮に我々が負けることがあれば、全世界が!諸君らの愛してくれた大英帝国も、我らが連邦も、アメリカ合衆国も、すべてが狂った科学の業火に炙られる地獄へと沈み長い暗黒時代が始まるだろう!
国民よ耐えよ!己の責務を支えとし、耐えよ国民!
この戦いを乗り切れば、千年後の我々の子孫は言うだろう。
『あの時が大英帝国と連邦がもっとも素晴らしかった時代だ』
と!」

一方、労働党党首ハーバート・モリスンは次のように言った。

「 や ろ う か (Go to it.)」



この記事が間違っているのか、タイムズ紙が間違えているのか、それとも一時的に変更があったのか分からないが、ハーバート・モリソンは党首ではなかったはずである。労働党のナンバー2であった。
1935年から1955年まで労働党党首だったのはクレメント・アトリーである。

アレクサンダー・キングは戦後にイギリスの科学政策諮問委​​員会の会長となり、ハーバート・モリソンの私的顧問となった。
チャーチル首相は第二次世界大戦中(終盤)7月に行われた総選挙で保守党が敗北(なんと181議席も失った)したことから辞職した。
そして労働党クレメント・アトリーが首相に就任。
ハーバート・モリソンはこのアトリー労働党政権で副首相や枢密院議長、院内総務を兼任した。

イギリスだってアメリカと同じ戦勝国であるが、アメリカが提案したマーシャル・プランを受け入れ、植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立を承認し、パレスチナの統治を国連に委ねるなど、イギリスは国際的な主導権を失うことになる。
その代わり、労働党らしく(?)、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度を確立した。
国営医療事業国民保健サービス(NHS)が設立されたのもこの政権の時である。


アレクサンダー・キングは1951年に科学産業研究省に移り、イギリスの大学に物理はむろんのこと、経済学や行動科学の研究を推進した。
行動科学とは、人間の行動を科学的に分析し、その法則性を解明しようとする学問で、心理学、社会学、精神医学などが含まれる。
様々な状況での人間の行動を体系化して、目標管理などに応用しようというもの。
行動条件を操作すれば、個人あるいは集団をコントロールすることも可能である。

1957年には、欧州経済協力機構(OEEC)の一部門である欧州生産性本部のディレクターとなる。
1961年、OEECにアメリカとカナダが加わり、OECD(経済協力開発機構)となる。その事務総長にも就任した。(本部はフランス・パリ。日本は1964年に加盟)



Henry Tizard invited King to join the Ministry of Production as Deputy Scientific Adviser. While there he would learn from an intercepted letter the properties of the insecticide dichloro-diphenyl-trichloroethane, coining the acronym DDT.

DDTは殺虫剤である。
1873年にオーストリアの化学者オトマール・ツァイドラー(ドイツ語版)によって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月から10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。

日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

日本では、1945年10月に京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。戦後アメリカから日本に輸出されたものは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの援助として特別に許されたものであった

2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。

DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており、分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。



スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
当時は昆虫など有害生物には有害な一方で人間には有毒ではないという評価であった。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。DDTの名付け親。

ちなみに「有効性」と「有用性」は違う。
何かに対して特定の効果がある、因果関係が認められれば有効であると言える。
一方の有用性は「使える!」(広く役立つ、利便性がある)ということである。
実験や研究で有効性が認められたとしても、それが使い物になるかどうかは別問題。
費用対効果ほか、様々な理由で現実的ではないものが多々ある。
また有用の場合は、特定の因果関係がなくても別に構わないし、本来の目的とは違うが使えるということもある。

ヘンリー・ティザードもアレクサンダー・キングも元々は化学者だったのだ。
こうした分野のほうが専門だったわけである。
DDTは直ちに生産が始まり、昆虫が媒介するマラリアなどの感染症から兵士を保護するために使用された。








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# by yumimi61 | 2017-06-16 17:33
2017年 06月 15日
日本国憲法の秘密-498-
ローマクラブはMIT(Massachusetts Institute of Technology;マサチューセッツ工科大学)に委託して『成長の限界』を書かせた。

マサチューセッツ州の首都がボストンである。

前にも書いたかもしれないけれど、私の大学時代の友人の恋人がアメリカに留学していた。
彼女は恋人に会ってばかりいて(?)一年留年した、私より入学年が1年早い先輩であった。
講義の始まる時間ぎりぎりか少し遅れてやってきて、いつも一番前の席に座った。
ファッションも持ち物も佇まいも小奇麗でどこか大人びていて、それが少しも不自然ではなかった。
簡単に人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。私は後ろのほうの席から嫌でも目に入る彼女を見ていた。
きっかけは忘れたけれど私達はじきに意気投合し、その後研究や実習のグループも一緒になり、濃密な時間を過ごすようになる。
彼女はお勧めの洋楽を録音したカセットテープを私にくれたりした。久保田利伸のファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』も「これすごくいいよ」と彼女が私にくれたものの1つである。名曲『Missing』が収録されているアルバム。
私にはその頃ボストンに留学している友人がいた。
そんなこともあって彼女から夏休みに一緒にアメリカに行こうと誘われた。「向こうで航空券取ってもらえば安く行けるから」と。
結局私達は一緒にアメリカには行かなかったけれども。
彼女は卒業後に医師と結婚し、NIH(アメリカ国立衛生研究所)に研究留学した夫とともにアメリカで暮らすことにもなる。

マサチューセッツやボストンと聞くと、今でもあの頃に引き戻される。青春、そんな時代があるとするならば、その青春時代に。
~今しか出来ない青春を~送ったとしてもね、あの時にあんなことしていなければなぁと思ったりすることもある。それが大人になるということなのよ。
それに、したいことがあっても青春には出来ないことも多いのが現実ね。
でもまあ、若いってことは、やっぱり素晴らしいことよ。あなた達が思う以上に。
青春を輝かせているのは老い、そのことは忘れないでね。


人間の成長には限界がある。
思春期、あるいは20歳前後を境に成長は止まり、下り坂となっていく。
私は「成長の限界」を考える時、いつもあるSF小説を思い出す。
『地球の長い午後』(原題 Hothouse(温室) アメリカでは The Long Afternoon of Earth)。
イギリスの小説家ブライアン・W・オールディスが1962年に出版したものである。
ローマクラブが『成長の限界』を発表したよりも早いが、ロジャー・レベルが海の二酸化炭素吸収スピードが考えていたより遅いので排出が上回れば温暖化を招く恐れがあると発表したよりは遅い。

はるか未来、寿命が尽きかけ膨張した太陽のもと、地球の自転は停止し地上には永遠の昼と夜が現れた。熱帯と化した昼の世界では、巨大に進化した樹木が大陸を覆い尽くし、活動する食肉植物が絶滅した動物にかわって地上を跋扈していた。そんななか、文明を失った人類は弱肉強食の世界で細々と生きていた。仲間を追われた少年グレンの旅の行方は……。

ブライアン・W・オールディスは第二次世界大戦中、陸軍に召集されて東南アジアで任務にあたったという。
そこは温室で、巨大に進化した樹木が鬱蒼としており、見たこともないような生き物がいて、まるで別世界のように感じたのではないだろうか。
私は目を閉じて留まることを知らない木々を想像してみた。

むかーし、次男がサボテンだか観葉植物を欲しがったことがあって、サボテンとエアプランツを買ってあげたことがあった。
最初はせっせと面倒を見ていたが、そのうちに忘れてしまったのだろう。
ある日私は次男の部屋で、ひょろっと、くねっと、伸びたサボテンを見つけた。
鉢は小さくむろん巨大というわけではない。でもその形が恐竜のようだった。
恐竜ってサボテンだったのではないのかと唐突に思いつき、太古の世界にサボテン恐竜を置いてみた。

『成長の限界』(1972年)では、(今後、技術革新が全くないと仮定すると。=日本語では削除)現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇(あと20年で石油が枯渇する)や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている。

畏まって「成長の限界」やら「資源の枯渇」などと言うと何だかとても大変なことのような感じがするけれど、よく考えれば、普通に考えれば、限界があるということはごくごく当たりまえのことである。
月に届くほど背が伸びたら困るのだ。
それにどんなに技術が進歩しても人間はまだ死から逃れられない。
地球が宇宙の1つの構成要素だとするならば、地球にも限界や死があって然るべき。
1個人という小さな単位で物事を見れば、限界や死は理不尽で残酷で納得のいかないことばかり。
でも単位を大きくすると、限界や終わりがあるからこそ、始まりがあり持続可能なのだ。
限界や終わりを必要以上に避ければ資源も枯渇する。資源は「終わり」が作ったものなのだから。
そう考えていくと、宇宙の観点から見ると、地球は決して無限などではないはずだ。
生まれては消えていく。消えてはまた生まれる。

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# by yumimi61 | 2017-06-15 12:58
2017年 06月 13日
日本国憲法の秘密-497-
1970年代に始まった国連の国際環境会議はモーリス・ストロングとともにあった。

1972年 国連人間環境会議を組織、同事務局長
「国際連合人間環境会議」とはスウェーデンで開催された、世界最初の大規模な環境問題会議。(ストックホルム会議)
この会議にて「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。

1973年 国連環境計画の初代事務局長
上記会議で制定された宣言や行動計画を実行するための機関として設立されたのが「国連環境計画」。
本部はケニアの首都ナイロビに置かれた。


何故1972年に始まったのか。それには理由がある。
ローマクラブが『成長の限界』を発表した年が1972年だった。。
第一報告書『成長の限界』(1972年)では、(今後、技術革新が全くないと仮定すると。=日本語では削除)現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇(あと20年で石油が枯渇する)や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている。

言い換えると、バラバラな世界ではなく、1つ世界ワンワールドによって世界(地球)はコントロールする必要があるということである。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)]とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。
*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていた
とされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


*FEMA(Federal Emergency Management Agency;アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)
大災害に対応するアメリカ合衆国政府の政府機関である。天災にも人災にも対応する。アメリカ合衆国国土安全保障省の一部であり、緊急準備・即応担当次官 (Under Secretary of Emergency Preparedness and Response) の下に置かれている。
連邦政府の災害対応部局拡大の一環として1979年4月1日にジミー・カーター大統領によってFEMAが設置された。(カーター元大統領は2002年のノーベル平和賞受賞者)

ローマクラブという名称は立ち上げのための会合をローマで開いたことからだそうだが、ローマカトリックのローマではないのかしら?

著名な会員
・ミハイル・ゴルバチョフ - 元ソビエト連邦共産党書記長。
・ワンガリ・マータイ - グリーン・ベルト運動の創設者、ノーベル平和賞受賞者。
・エメカ・アニャオク(Emeka Anyaoku) - 前WWF総裁、元イギリス連邦事務局長(Commonwealth Secretary-General)。
・ヘイゼル・ヘンダーソン - 未来学者、進化経済学者。

現在の日本人会員
・猪口邦子 - 元上智大学教授。政治学者。
・小宮山宏 - 元東京大学総長、三菱総合研究所理事長。
・西村六善 - 前地球問題担当大使。内閣官房参与。

日本人の名誉会員
・緒方貞子 - 国際協力機構(JICA)理事長。 
・池田大作 - 創価学会名誉会長。
・松浦晃一郎 - 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)第8代事務局長。

日本人の準会員
・榊原康寛 - ゼリ財団(ZERI)**パン・パシフィック代表理事。


**ZERI;Zero Emissions Research and Initiatives
1997年に日本政府と国連大学(UNU)の支援を受けて東京に設立された。
財界人、科学者、学者、知識人などのネットワーク。
設立者はベルギー生まれで起業家であり作家であるグンター・パウリ(Gunter Pauli)。
ル・ポイント、ハフィントン・ポスト、タスマニアン・タイムズは、彼を「持続可能なスティーブ・ジョブズ」と銘打つ。


アスペン研究所は、元々はアスペン人文科学研究所であった。
1949年、「ゲーテ生誕200年祭」がコロラド州アスペンで開催され、哲学者、芸術家、文学者等が招かれ対話が繰り広げられた。
日常の煩雑さから解放され、コロラドのような場所でゆっくりと語り合い、思索するための時間が人間には必要である。こうして翌1950年にアスペン人文科学研究所として設立された。最初は小さな哲学系の研究所であり、経営幹部などを対象として教育セミナーを行っていた。
この研究所が大きく変わったのは1969年のことである。
ジョセフ・E・スレーターとロバート・O・アンダーソンがこの研究所の会長に就任し、その範囲と規模を拡大し、国際問題の世界指導者、学者、科学者のための有名な会議場とになった。
国連とも緊密に協力しあい、モーリス・ストロングとも提携している。
アスペン研究所は世界中に拡張されてきたが、日本アスペン研究所は1998年に創立された。
初代理事長は、ソニー・盛田昭夫と入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったカトリック教徒の小林陽太郎である。


ジョセフ・E・スレーター(Joseph E. Slater)
1922年アメリカ・ユタ州のソルトレイクシティに生まれる。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業。そのままそこで1942~1943年経済学の講義を担当した。
真珠湾攻撃後に海軍に入隊する。
戦後1949年~1953年にかけて西ドイツのボンの高等弁務官事務所に勤務した。
1959年にはアメリカ・アイゼンハワー大統領の対外援助委員会(ドレーバー委員会)の書記官となる。
ジョン・F・ケネディ大統領には教育・文化事業省次官補に任命される。
1967年~1972年まではソーク研究所(Salk Institute for Biological Studies;1963年にカリフォルニア州サンディエゴ郊外に創立された生物医学系の研究所)の所長を務めた。
ニューヨークの国際関係評議会やロンドンの戦略研究所のメンバーでもあった。


ロバート・O・アンダーソン(Robert Orville Anderson)
1917年、アメリカ・シカゴ州で生まれる。シカゴ大学卒。
両親はスウェーデンからの移民。父親は著名な銀行家であり、「石油」に投資した最初の銀行家であったとも言われている。
そんなわけで石油会社を渡り歩くことは苦労なく出来た。
そして1950年までに幾つかの製油所を所有した。
1963年にフィラデルフィアのAtlantic Refining Companyを合併し、1966年にAtlanticの会長兼CEOとなる。さらにRichfield Oil of Los Angelesを合併し、Atlantic Richfield Companyを設立し(後にARCOと改称)、アメリカ最大の油田を発見した。
ロックフェラーのスタンダード石油トラストの一社に数えられていたが、2000年にイギリス・ロスチャイルド系のBPに買収された。



ジョセフ・E・スレーターはドイツ勤務の後はフォード財団に入り、1960年代には定期的に日本に訪れていた。
フォード財団はロックフェラーや松本重治らが1952年に設立した国際文化会館にも早い段階から助成を行ってきた。
フォード財団のことも前に書いたことがある。

オバマ大統領の母親(アン)と財団に関する記事である。

過去記事「警告4」より>
インドネシアとフォード財団
1949年、インドネシアはオランダから独立した。
脆弱な経済基盤を整えるべく、また途上国がアメリカの意図しない方向へ行かないよう、指導したのはアメリカだった。
インドネシアとアメリカは経済学における大学間協定を結んだ。

これを実質的に牽引したのは民間財団であった。

フォード財団はインドネシアの国家建設助成を目的とする一連のプロジェクトの一環として、インドネシア大学とカリフォルニア大学バークレー校の協定を結んだ。(1956-1960年)
有能な若者に目星を付けて奨学金を出し、アメリカのカリフォルニア大学のバークレー校に入学させた。
そこで「アメリカ式」を教え込み、彼ら留学生は帰国後、政治や経済の中枢部となった。。
そのためフォード財団の奨学金を得てカリフォルニア大学バークレー校に行った留学生は、「バークレーマフィア」と呼ばれるようになる。

協定期間が終了した1960年以降もフォード財団による援助は続いた。
教育分野では上記留学、アメリカの大学スタッフの派遣、インドネシア大学での経済学コース設置など。
通商政策や農業開発などにもプロフェッショナルが派遣された。
ハーバード国際開発研究所からの財政支援協力もあった。

1965年のインドネシアの軍事クーデターはスハルト軍部とアメリカのCIAが接近して起こしたのではないかと言われている。
スハルト軍部というのは、アメリカフォード財団によって養成されたインドネシア人が主力であったと思われる。
スカルノ大統領が共産主義を支持基盤としていたため、共産主義の撲滅に動いたというのだ。
スハルトは共産主義者を大虐殺してアメリカに応えた。

1960年代半ば、アンの再婚相手ロロ・ソエトロは、何故アメリカ本土や日本ではなくハワイに留学していたのだろうか。
(日本も1960年からインドネシアの留学生を多数受け入れていたことはこちらに書いた。)


1977-1994年 アンはフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに在住。


オバマ母はフォード財団の一員
1977年~死の前年の1994年まで彼女はフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに駐在した。

1988~1992年にはインドネシアのマイクロファイナンス事業の立ち上げに深く関与した。
マイクロファイナンスとは貧困者相手の金融。
貧しい家庭の主として女性に小口のお金を融資する事業。

借りる側にとって確かに高利貸よりは良いだろう。
それによって生活や環境が改善するなら悪いことばかりではない。
そこに上手く付け込んだ事業である。
膨大な資金力をバックとした(だからこそ可能な)金儲けであることには変わりない。


でもこんな金儲けのためだけに送り込まれたわけではないだろう。
おそらく諜報員だったのであろう。彼女の父親も諜報員だったらしい。
ハワイ大学はCIAの活動拠点の1つであった。
インドネシアは世界最大のイスラム教徒を抱える国である。

過去記事「警告5」より>
ガイトナー財務長官の父もフォード財団の一員だった
ティモシー・フランツ・ガイトナー財務長官の父ピーター・フランツ・ガイトナーは、フォード財団の主任研究員であった。
そのため、ガイトナー財務長官も少年期をアフリカ、インド、タイなどの発展途上国で暮らすこととなる。

====ガイトナー財務長官の経歴=====
1988年に財務省に入省。13年間勤務。
2001年〜2003年、IMFの局長。
2003年〜2009年、ニューヨーク連邦準備銀行総裁。←この時にリーマン破綻やらAIG救済やらあった。
オバマ政権で財務長官となった。(親がともにフォード財団の研究員)




1969年にアスペン研究所が刷新された。
1972年にローマクラブが『成長の限界』を発表し、モーリス・ストロングは国連人間環境会議(ストックホルム会議)を組織し事務局長となった。
その翌年には国連環境計画の初代事務局長にもなるが、その年に早くも『明日の地球世代のために―「成長の限界」をめぐる世界知識人 71人の証言』という本が出版されている。

その71人にジョセフ・E・スレーターも含まれている。

Q.国連は、何百万膳、何千万語という報告書や文書を積み上げています。あなたは、アスペン研究所や口ーマ・クラブないしMITが、この紙のバベルの塔に屋上展を架さないためには何ができるとお考えですか。

A.さきほども申しあげましたように、われわれの若干の省が数年かかって、ある制度の創設のため努力をいたしましたが、それは今でも存在しています。International Federation of Institutes for Advanced Study (IFIAS) がそれです。われわれは、およそ24の、程度の高い研究所を世界から結集しました。
例えば、パスツール研究所、ニールス・ボーア物理学研究所、ウッズ・ホール海洋学研究所、大気研究大学コーポレーシヨン、アスペン研究所、日本経済研究センターなどが結集して、この連盟を創りましたが、この主な機能は三つあります。
第一は、国際的、学際的諸問題の共同研究を行なうことです。
第二は、教授および博士号取得ずみの学生の交換です。
第三は、毎年、五年先までの計画をたて、そうすることによって、種々の研究所の計画が調和のとれたものとなり、やがては、事実上の単一の大学あるいは研究所 (そのためのキャンパスがないのはむろんですが) ができあがるようにすることです。
こうした作業が機能し始めれば、IFIASは高い質の研究を提供できるでしょうし、国連の扱う諸問題に機能的に関係を結ぶことができるようになります。
モーリス・ストロングのような国連にいる強力なリーダーたちと、協力することができるようになるのです。ストロングは、国際的、学術的な仕事を開拓しようとしている質の高い (特に、既成であって質の高い) 諸制度の間の橋渡しをしようとしている人です。われわれは、国連の機構の肥大を回避し、多くの官僚主義的硬直性を回避することができます。IFIASは、1972年10月に第1回総会を開きましたが、そのメンバーたちは、これまでに申し上げたプログラムに賛意を表明しました。


異論を生まない世界を構築しようとしていることが分かる証言である。
質問にMITの名が出てくるが、『成長の限界』はローマ・クラブが直接研究執筆したものではなく、MITに委託したのである。MITのデニス・ メドウズ(当時は助教授)を中心とする若手研究者グループが担当した。

実はスティーブ・ジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』の著者ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)もアスペン研究所の会長であった。
アル・ゴアがアップルの取締役に就任した年に就任した。
翌年にビルダーバーグ会議にも出席している。(あっ私と同じだわ?)

ウォルター・アイザックソン
ハーバード大学を卒業後、オックスフォード大学の大学院に進学。その後、ロンドンの「サンデー・タイムス」でジャーナリストの経歴をスタートさせ、1977年より雑誌「タイム」の編集に従事。’95年同誌編集長。
2001〜2003年CNNのCEO(最高経営責任者)。2003年よりワシントンD.C.に拠点を置くアスペン研究所の理事長兼CEO。CNNの委員長兼CEOも務める。
また、オバマ米国大統領から要請を受け、ボイス・オブ・アメリカ、自由欧州放送、および他の国際放送を管轄する米政府放送管理局の委員長に就任。
伝記作家としても活躍し、アップル共同創業者であるスティーブ・ジョブズ唯一の公認伝記「スティーブ・ジョブズ」や、「キッシンジャー―世界をデザインした男」「アインシュタイン―その生涯と宇宙」などを手掛ける。


ところで、今更ながらだけどジョブズの伝記。
生前から企画してジョブズが例え死ななくても2011年11月21日に発売予定だったとか、「唯一の公認伝記」だとか「公式伝記」だとか、強調しすぎて逆に怪しくなってますね。








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# by yumimi61 | 2017-06-13 18:11
2017年 06月 12日
日本国憲法の秘密-496-
モーリス・ストロングのしてきたエネルギー事業は「地球に優しい」とは正反対のもので、生態系を破壊したとか環境汚染を引き起こしたとかで、訴訟を起こされたことも一度ではない。

彼が1989年に設立した環境テクノロジー企業は、有害廃棄物を再使用可能な製品にリサイクルするために使用できる革新的な技術を持っていると主張して、アメリカのエネルギー省から研究助成金を得ることに成功した。
さらに技術能力を著しく誇張して人工的に株価を上げた。大株主はモーリス・ストロング所有の別の会社だった。
こうした不正も発覚している。

国連絡みのスキャンダルもあった。
それは前記事に引用した過去記事に書いてあるストロングと親しかった韓国人が2006年に逮捕された事件である。

またモーリス・ストロングは国連の平和大学に関連してコスタリカのラジオ局もつぶした。

平和大学
1980年に国際連合総会決議に基づき設立された研究機関。人類すべての間に「理解、寛容、平和共存」の精神を広める目的で、平和に関する高等教育を行う国際機関をつくり人道支援を供与するために設立された。本部キャンパスは、コスタリカの首都サンホセの西20kmのシウダード・コロンにある。コスタリカ政府が用意した面積3平方kmほどの敷地は平和公園および森林公園に囲まれている。コスタリカは軍隊がないという実績があり、コスタリカ政府の働きかけもあって本部はコスタリカに置かれる事になった。なお、同じく軍隊を持たない日本には国際連合大学がある。


University for Peace
The University for Peace was established in 1980 by the General Assembly of the United Nations. Maurice Strong became director in 1999 where he was at the center of further controversy, particularly in reference to the eviction of the beloved radio station Radio for Peace International (RFPI), the fleeing of the Earth Council in 2003, and the implementation of military training programs on campus. Strong was a board member of the Earth Council, which was created as an international body to promote the environmental policies established at Earth Summit in 1992. The Costa Rican government donated more than 20 acres of land to be used by Earth Council, but when plans for building fell through, it was allegedly sold for $1.65 million. Earth Council temporarily moved to the UPEACE campus until December 2003 when it moved to Canada in the midst of government accusations and demands for $1.65 million. RFPI was served with an eviction notice in July 2002 based on claims the station was operating without proper permits, which RFPI refuted. Those close to the situation claim that UPEACE officials didn’t approve of the criticism they were receiving from the station and took matters into their own hands, when power to the building was cut and a wire fence put up around the perimeter.

Radio for Peace International  About RFPIより
While the founders of RFPI tried to establish other sister stations none ever materialized, largely due to financial issues. In 2003 after a decade and a half of broadcasting and weakened by internal strife the station was forced off the air and out of the buildings that had been built by the staff and supporters by a hostile actions initiated by Maurice Strong, then President of Council of the University for Peace. From 2003 to 2008 the station was kept alive by volunteer supporters while broadcasting over the Internet exclusively, but such broadcasts never gained the support and listener ship that it had achieved in the mid-nineties.


『不都合な真実』公開より前の2004年、アル・ゴアはゴールドマン・サックス系の経営者である人物と組んで、ロンドンに投資会社(ジェネレーション・インベストメント・マネイジメント)を設立している。
この会社は二酸化炭素原を金融商品にした、いわゆる「排出権ビジネス」への投資である。

排出権ビジネスは排出取引がベースにある。
排出取引(英語:Carbon emission trading)とは、各国家や各企業ごとに温室効果ガスの排出枠(キャップ)を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や企業との間で取引(トレード)する制度である。排出権取引、排出量取引ともいう。京都議定書の第17条に規定されており、温室効果ガスの削減を補完する京都メカニズム(柔軟性措置)の1つ。

1990年代前半から、アメリカ合衆国で硫黄酸化物の排出証取引が行われた(国内排出証取引制度)。
アメリカはこうした経験を踏まえ、京都議定書の策定交渉時においても排出取引制度の導入を強く求めた経緯がある。同国はその後に京都議定書から離脱したが、排出取引制度は京都メカニズムとして組み入れられた。これは排出枠の対象を温室効果ガスに変え、対象を国単位に変えたものである。


もっとも簡単に言えば、お金を出せば二酸化炭素を排出してもよいということ。
二酸化炭素削減目標を達成できなかった企業や国(二酸化炭素プラスチーム)はお金を支払う。
目標を達成した企業や国(二酸化炭素マイナスチーム)はお金を支払う必要はない。
プラスとマイナスで帳尻合わせてOKって・・・それじゃあ減らないでしょ?(構成要素の二酸化炭素が減ったら困るんだ!?)
これはあれですよ、紙幣発行の仕組みに似ている。前にも書いたけれど紙幣(銀行券)とは債券である。
日銀は債券を発行し、国債を買っている。

日本銀行では、引き受けた国債は資産に、発行した紙幣は負債に計上する。プラスマイナス0というわけだ。
国債にも満期があり、いつかは金利付で返済される。国債という債券を持っている日本銀行にも返済される。
国債が減って、自行が発行した紙幣(銀行券)が手元に戻ってくる。
この戻ってくる紙幣をプラス勘定しなければ日本銀行の銀行券に関する収支は負債が膨らむ一方となる。
国債が減った分は資産も経るが、手元の紙幣が増えたので負債も減る。金利を無視すれば、収支上はプラスマイナス0であることに変わりない。
他と何が違うかと言えば、日本銀行の負債は自分で返さなくてもよいこと。
政府(国民)が返してくれるのを待っているだけである。日本銀行は何の苦も無く負債が減る。
例えば日銀保有の国債が全て支払われて0になったとしよう。資産は0となる。
払われた金額が負債を消していくことになるので、こちらも0になる。負債も0ということ。
しかし現実には手元に自行が発行した紙幣が戻ってきて残っている。
支払われた時点でこれを廃棄すればいいが、しなければ引き受けた国債の金額と同じだけの紙幣がある状態となる。
日銀が発行した正規品なのだからどこに出しても通用する。
紙幣は国債を根拠に発行されたのだから、市中にある紙幣はほぼ全て国債の代替品であると見做すことが出来て、日本銀行は国債を手に入れさえすれば資産がどんどん増えていく。
帳簿上ではなく現実的な資産ということだ。突き詰めれば日本中の紙幣は全て日本銀行の資産となる。
やはり無から有を生むということになのだ。(マイナスして物を出すという負債計上のカラクリ)


日本は6%削減の目標を掲げた。

チーム・マイナス6%
地球温暖化の一因とされる温室効果ガスを抑制するために2005年〜2009年12月まで日本国政府が主導したプロジェクトである。現在は25%削減を目指すチャレンジ25キャンペーンに移行している。

2005年に発効した京都議定書で、地球温暖化を抑制するため、日本は2008年から2012年の間に温室効果ガスの排出量を1990年にくらべて6%削減することが目標として義務付けられた。この目標を達成するため政府の地球温暖化対策推進本部は京都議定書目標達成計画を作成した。この計画の中で、国民に向けた情報提供、地球温暖化対策の普及啓発を目的として、経済界と協力して進める大規模な国民的運動としてチーム・マイナス6%(運営は「チーム・マイナス6%運営事務局」)を立ち上げた。
(目的は)京都議定書の目標を達成するために、温暖化の現状を国民に対して周知させ、どのような行動が温暖化の防止につながるのかをアナウンスし、実践することを呼びかけることである。


日本はまず「6%分の排出権」という商品をローンで購入。
二酸化炭素を減らして帳消しにするか、お金でローン返済するか。
お金で返したほうが安いですよ!そんなにすぐに達成できるわけはない!ということで、日本は1000億円(金利も付いてもっと?それとも含んでいる?)を支払った。
25%削減となったら、さらに金額が増える。
達成できる企業や国は排出権を分けて売ることが出来るわけである。(’ローンよりは安くしておくわよ’とかなんとか言って?)


日本のCO2削減目標6%、国連に認められる 排出増えるもクレジット購入で達成 環境ビジネスオンライン2016年4月6日

海外から排出権を購入して達成

日本は、京都議定書第一約束期間(2008〜2012年度)において、温室効果ガス排出量を基準年(原則1990年度)比で6%削減する義務を負っていた。この削減目標を達成するために、昨年11月18日を期限として、国連気候変動枠組条約事務局に対して「償却(目標達成のためのクレジット・排出枠の無効化)」を行うことが求められていた。

これを受けて、日本が保有するクレジット・排出枠(初期割当量、森林吸収源、海外からの京都メカニズムクレジット)について、6%削減目標の達成に必要となる約63億9,200万トン分(5カ年分)の償却を昨年11月16日までに行い、日本の京都議定書第一約束期間の目標達成が確定した。

その後、日本の償却状況について国連が審査を行っていたが、このたび審査が完了し、前述のとおり、国連ホームページにおける結果の公表を受け、日本の京都議定書第一約束期間の削減目標達成が正式に決定した。


先物取引に似ている。
「排出権は必ず値上がりして儲かります。あなたも投資してみませんか?」といった詐欺商法的な商売も出来る。
これは株価と同じような感じ。「あの会社の株値は近いうちに値上がりするから今が買いですよ!」「あの会社に投資して損はありません」的な。


先物取引の本場はシカゴであるが、そのシカゴにも排出権ビジネスを行っている「シカゴ気候変動取引所」がある。
出資者はゴールドマン・サックスで、こちらはモーリス・ストロングが役員の1人である。


『不都合な真実』は最初からマネーの匂いがぷんぷんしていたが、『不都合な真実』の学校での上映中止を求めて保護者が提訴までしたイギリスのブラウン財務大臣は、アル・ゴアを気候変動担当の特別顧問にした。
ブラウンとは2007年~2010年まで首相を務めたブラウン首相である。労働党党首。ブレア政権で財務大臣を10年務めていた。
ブレア首相とブラウン首相で13年間労働党政権であった。
アル・ゴアを特別顧問にしたイギリスは早速「気候変動に関するレポート」を発表。
排出権や温室効果を取引する国際的な取り決めを早急に締結すべきだと主張した。
2007年にはEU議長のドイツ・メルケル首相も「EUは2020年までに温室効果ガスの排出を20%削減して1990年の水準に戻す」と発言。
追い打ちをかけるように同年IPCC(「気候変動に関する 政府間パネル)が最新報告書(第4次評価報告書)で「温暖化には疑う余地がない」と断定するに至る。

そんな過激に削減できるわけがない?
では結果を見てみましょう。
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アイルランドにギリシャにスペインにポルトガル・・・財政危機に陥った国がみな大きくプラスですね・・・。
マイナスが大きい国々は出資額が多いという解釈で良いですか?








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# by yumimi61 | 2017-06-12 22:36
2017年 06月 12日
日本国憲法の秘密-495-
the Harvard School of Public Health(ハーバード大学公衆衛生学院)は、現在はthe Harvard T.H. Chan School of Public Health という名称になっている。
これは2014年に3億5000万ドル(当時のレートで約375億2000万円)というハーバード大学史上最高額の寄付が公衆衛生学院に対して行われたからである。

Hong Kong Group to Give Harvard’s School of Public Health $350 Million ニューヨークタイムズ2014年9月8日

寄付をしたのは香港最大の不動産業者でデペロッパーのHang Lung Group(恒隆グループ)と、投資会社Morningside Group(晨兴资本)を経営する一族。
香港だけでなく中国本土にも進出して勢力を拡大している。
一族の中にこの学校で学位を取得した卒業生がいた。
校名の名は創業者であるT.H. Chan(陳曾熙)。彼は第二次世界大戦前に日本に留学していたこともある。
香港は長いことイギリスの植民地であった。


アル・ゴアはハーバード大学在学中(1965-1969)に公衆衛生学院がつくった人口開発研究所でロジャー・レベルに師事していた。
それから10年後の1976年に下院議員に当選し、第二次世界大戦中の原爆の街(秘密の街)だったオークリッジにある国立研究所に出入りした。
1993~2001年、ビル・クリントン大統領の下で副大統領を務めた。
父親の代からオクシデンタル石油やアライド・ケミカル・アンド・ダイの経営に携わり、石油事業や原子力事業に深く関わってきた。

ビル・クリントンとアル・ゴアと言えば、スティーブ・ジョブズ。
ジョブズは1997年にアップルのCEOに復帰し、アップル社は2001年にiPodを発売した。
ここからアップル社の快進撃が始まるわけだが、2003年アル・ゴアはそのアップル社の取締役に就任した。

アップル社プレス 
アル・ゴア元米国副大統領、アップルの取締役に就任(米国報道発表資料抄訳―2003年3月20日)

2003年3月19日、カリフォルニア州クパティーノ、アップルは本日、元米国副大統領のアルバート・ゴア・ジュニアがアップルの取締役に就任したことを発表しました。ゴア氏は本日開催されたアップルの取締役会で選任されました。

「世界最大の組織である米国政府の運営に、下院議員として、上院議員として、そして第45代副大統領として関わってきたアルは、かけがえのない知識と知恵をアップルにもたらしてくれます。アルはまた、熱心なMacユーザでもあり、Final Cut Pro(ファイナルカットプロ)を使って自分でビデオ編集も行なっています。アルは素晴らしい取締役となってくれるでしょう。アルが就任する初めての民間企業の取締役会にアップルの取締役会を選んでくれたことをとても嬉しく、かつ光栄に思います。」と、アップルのCEO(最高経営責任者)、スティーブ・ジョブズは述べています。

アル・ゴア元副大統領は、「スティーブと彼のチームはアップルを再び世界最高の会社にするという大変な仕事をやり遂げました。私は特に、新しいMac OS X(マックオーエステン)オペレーティングシステムとアップルのオープンソースの潮流への取り組みに大きな感銘を受けています。この伝説的な会社の目を見張る再起を導いた偉大な取締役陣と一緒に仕事をし、彼らから学ぶことをとても楽しみにしています。」と述べています。

ゴア氏は1993年1月20日に第45代米国副大統領に就任しました。1996年に再選され、米国を史上最長の持続的成長へと導く為に尽力しました。上院議長、閣僚、そして国家安全委員会メンバーとして計8年間務めたほか、環境政策、テクノロジー、科学、通信そして政府経費削減など広範な行政課題にリーダーとして積極的に取り組みました。

また、25年前の米国下院議員時代には、「インフォメーションスーパーハイウェイ」という用語を普及させ、後にインターネットとなった通信インフラの構築のための連邦政府の資金確保に貢献しました。その後もテクノロジー分野の積極的なリーダーとして、米国全土の学校や図書館をインターネットに接続する官民の運動を立ち上げました。

ゴア氏はGoogle(グーグル)社のシニアアドバイザーを務めています。また、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、フィスク大学、ミドルテネシー州立大学の客員教授を務めています。
ゴア氏は、1969年にハーバード大学を優秀な成績で卒業し政治学の学士号(B.A. in Government)を取得したほか、バンダービルト大学で宗教学と法律学を専攻しました。



アル・ゴアの『不都合な真実』がブームになったのは2006年。
彼は「環境成金」として有名だが、もう一人「環境マフィア」と呼ばれる男がいた。
カナダ出身のモーリス・ストロングである。
以前にもソ連(ロシア)関係で取り上げたことがあるので、若干長くなるがそのまま引用しよう。

モーリス・ストロング
ゴルバチョフ氏とともに、リオ・地球サミットの中心人物だったのがモーリス・ストロング氏。
「国際環境会議のドン」と言われる。また「ゴッドファザー」「環境マフィア」の異名を持つ。
カナダのエネルギーも牛耳った男。

1929年カナダ生まれ

1964年 カナダ電力公社総裁

1966年 カナダ政府国際開発庁長官

1972年 国連人間環境会議を組織、同事務局長

   「国際連合人間環境会議」とはスウェーデンで開催された、世界最初の大規模な環境問題会議。(ストックホルム会議)
  この会議にて「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。

1973年 国連環境計画の初代事務局長

   上記会議で制定された宣言や行動計画を実行するための機関として設立されたのが「国連環境計画」。
   本部はケニアの首都ナイロビに置かれた。

 
1975年、ペトロ・カナダCEO

   ペテロ・カナダはカナダの国営企業として創業された。
   ストロング氏はカナダ首相よりCEOを要請されカナダに戻る。
   1978年までペテロの会長兼CEOだった。

   その後、カナダの開発投資会社や主要国有企業の持株会社の会長を歴任。
   またカナダのオンタリオ・ハイドロ社( オンタリオ州政府電力会社)のCEO、
   世界YMCA同盟*の拡張委員会の委員長も務めた。   

1980年 NGO世界資源研究所理事長(本部:ワシントンDC)

1983年 「ブルントラント委員会」のメンバーとなる。

   ケニアのナイロビで開催された国連環境計画管理理事会特別会合にて日本から提案された委員会。

1985年 国連アフリカ緊急活動事務所長

1992年 国連環境開発会議(地球サミット)事務局長

1993年 NGOアースカウンシル会長(本部:コスタリカ)


その他、地球憲章委員会、持続的国際発展研究所(本部:カナダ)、Africa-America Institute(フォード財団フェローシップ)、ストックホルム環境研究所、インドネシアのエコロジー研究所、スウェーデン王立科学アカデミーベイエ研究所などのメンバーでもある。

また長い間、NPO世界経済フォーラム(本部:スイス)の役員であった。
世界銀行総裁の相談役でもあった。

更に、持続可能な開発のための経済人会議、国際自然保護連合、世界自然保護基金、アイゼンハワーフェローシップ奨学金基金、ハーバード大学国際開発センターの諮問委員会、トヨタ自動車の国際諮問委員会のメンバーや役員を歴任。

1998年〜2005年は、国連平和大学総長に就任。
国連の事務次長にも就任し、アナン国連事務総長の特使として北朝鮮問題を担当した(国連北朝鮮問題特別顧問)。

2006年初頭、旧フセイン政権を不当に支援する計画を立てていたとして、韓国人ロビイスト朴東宣(パク・ドンソン)が逮捕された。
朴東宣は、北朝鮮問題を担当していたストロング国連事務次長と密接な関係があったという。
ストロング氏はこの汚職疑惑により国連の役職を辞任した。
その後は北京に移住し、北京大学の名誉教授および環境財団の名誉会長に就任。
アジアの環境問題などに取り組んでいるご様子。



カナダ生まれだが、カナダもやはりイギリスと関わりの深い国である。
モーリス・ストロングの父親も母親も精神的な病を患っており、彼は貧困の中で子供時代を過ごしたという。
そして14歳で学校を中退した。(カナダは日本の小学1年~高校3年までの12年制となっている)
日本で言えば大学は愚か高校での教育も受けていない。
そんな彼がいかにして華麗な経歴を手にしていったのか、上に記した年表からでは分からないであろう。

彼は1948年19歳の時に証券会社に見習いとして雇われるのだが、それまで何をしていたのか不明。
ただ最初の職歴より前の1947年に国連の権力者と面会し、国連の仕事を要求している。
そして国連本部でジュニア・セキュリティ・オフィサーを務めるが、翌年にはカナダに戻り証券会社に雇われるのだ。
そこで石油専門家として石油事業会社を任され、さらにコネクションによって別の会社の財務担当副社長などに就任し、1956年には自身で会社を設立して天然ガスの会社を引き継ぐ。
そして億万長者になっていくのだ。
こんなとんとん拍子に上手くいくなんてありえない。何か裏がある。それがマフィアとも言われる由縁である。
ともかく彼もまたエネルギー畑を歩んできた人である。
1970年代に始まった国連の国際環境会議はモーリス・ストロングとともにあった。


モーリス・ストロングはアナン国連事務総長の特別顧問だった。北朝鮮を担当していてしょっちゅう北朝鮮に行っていたらしい。
同じくアナン国連事務総長の特別顧問だったのがジェフリー・サックス。ソ連崩壊前後のソ連・ロシア経済改革の顧問であった。
日本の小泉政権で 特命担当大臣(金融担当・経済財政政策担当)及び総務大臣を務めた竹中平蔵氏は、ハーバード大学留学中にジェフリー・サックス氏やローレンス・サマーズ氏と知り合う。
1989年にはハーバード大学教授のジェフリー・サックス氏の誘いでハーバード大学客員准教授及び国際経済研究所客員フェローに就任した。
2001年から小泉首相と組んで郵政民営化などの経済改革を実施。
過去記事「ソチ」より)


郵政と言えば東芝のあの方も思い出しますね?
東芝名誉顧問、西室泰三。
株式会社東芝代表取締役社長(後に代表取締役会長を経て、2016年4月時点で相談役)、株式会社東京証券取引所代表取締役会長兼社長、株式会社東京証券取引所グループ取締役会長兼代表執行役、日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長、ゆうちょ銀行取締役兼代表執行役社長、第33期慶應義塾評議員会議長等を歴任。東芝でウェスチングハウスの買収により巨額損失を出し、その後に社長となった日本郵政の海外事業買収でも同様の巨額損失を出した。その経歴と実績から「東芝の闇将軍」、「肩書コレクター」の異名をとる。

山梨県都留市出身(現在の本籍は神奈川県)。実家は絹織物の染色業者。小学校に上がる前から毎日、朝食前に論語の素読をさせられる。小学校4年生時に終戦を迎える。
私立武蔵中学校・高等学校から2年間の浪人生活を経て慶應義塾大学経済学部入学。在学中にカナダブリティッシュコロンビア大学へ留学

(籠池理事長、教育勅語ではなく論語はどうですか?)(もうそれはいいから?)








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# by yumimi61 | 2017-06-12 14:17
2017年 06月 11日
日本国憲法の秘密-494-
2006年の『不都合な真実』で一躍メジャーになった「地球温暖化問題」だが、地球温暖化説の発端はもう少し遡って1980年代にある。
NASAゴダード宇宙研究所の科学者ジェームズ・ハンセンが6人の科学者と共著で書いた論文『増大する大気二酸化炭素の気象への影響』を科学雑誌『サイエンス』に投稿した。
この論文の中で、21世紀に予想される地球温暖化が南極の氷を溶かし世界の多くの都市を水没させ、内陸部は砂漠化する恐れがあると論じられた。
ジョームズ・ハンセンもアル・ゴアも地球温暖化を回避するために必要なものは原子力発電だと主張してきたのである。


劇的な温暖化説の発端は1980年代にNASAの研究者からもたらされたが、実はそれより以前から気候変動に注目する動きはあった。
それはそうだろう、地球誕生以上今日まで地球の気候は同じではなかったというのが通説なのだから。
地球の最後の氷河期は1万年前だったと言われる。
「地球」を語る以上、長いスパンで物事を見る必要がある。

氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。
過去数百万年に関して言えば、氷河期という言葉は一般的に、北アメリカとヨーロッパ大陸に氷床が拡大した寒冷期について用いられる(アジア地域は氷床が発達せず寒冷な地帯であったらしい)。この意味で言えば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期と氷期の間の「間氷期」と考えている。


間氷期は人間が生活できる暖かい場所がかなりの範囲に広がっている時期ということである。
でも歴史科学的にはまた氷河期がやってくるはずなのだ。
ともかく間氷期における気温は上昇と下降を小刻みに繰り返していて、 有史以来今よりも気温が高かった時代はいくらでもあった。
人間の生活がもたらす影響なんてちっぽけだと言ってしまえばそれまでだ。
1800年前半から始まった産業革命は石炭の時代をもたらし、1900年代にはさらに機械工業化が進み石油の時代をもたらしたが、1800年代で区切り、それより前の時代の気温を一切考慮しないというのは片手落ち。
それより前に気温が上昇する時代があったならば原因は違うところにあるかもしれない。
そもそも「昔」と「今」が比較に耐えられるデータなのかどうかも怪しい。(データすらないフィクションなのかノンフィクションなのか分からない書物や絵画などではもっと心許ない)
それくらい雲をつかむような話である。
聖書がフィクションやノンフィクションか問うた時に、人は一様の答えを出せますか?
(地球外部の気温ばかり気にしていて地球内部の温度を気にしないのも片手落ち)


ロジャー・レベル(Roger Revelle)という海洋学者がいた。
アメリカは戦後も核実験を実施していたのだから、核が海洋引いては地球に与える影響を研究すればよいものを、何故か二酸化炭素に目を向けたのだった。
それは国際地球観測年と深く関係している。

第1回国際極年
1882年から1883年の第1回国際極年には、12カ国(オーストリア=ハンガリー帝国、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、オランダ、ノルウェー、ロシア、スウェーデン、イギリス、カナダ、アメリカ)が参加した。
これらの国は北極近辺の14の測候所で、氷、大気、電磁気、地磁気、曙光、海流、潮、構造および運動の観測を行った。このほか、世界中の40を越える気象台が、国際極年の観測に協力した。

第一次世界大戦後、電信、ラジオ、電話が発達し、飛行機などが実用化すると、これらを利用した提案が1927年に、国際気象委員会に提出された。


第2回国際極年
1932年から1933年の第2回国際極年は、これらの新技術を使って気象情報を交換することが可能であるか、また、それが各国の気象予報にどれだけ有効であるかを調査する目的であった。また極地の気象観測が、気象予報にどれだけ意味を持つのかを調査する意味もあった。44カ国がこれに参加し、情報が集積された。しかし、両極地の情報は極端に少なかった。

国際地球観測年
1950年代、アメリカのLloyd Berknerによって、ロケット観測などを含む第3回の国際極年が提案された。国際学術連合(ICSU)は、これを極地以外の総合的な地球物理学観測の計画に拡張した。70を超える国立またはそれに相当する機関が協力し、国際地球観測年委員会を組織し、実行した。

1957年7月1日から1958年12月31日まで続いた、国際科学研究プロジェクトの名称。国際年の第一号として数えられる。当初は太陽の磁気が地球に与える影響を研究するために設定された。
かつての1882年から1883年の第1回国際極年と、1932年から1933年の第2回国際極年にひき続くものである。
国際地球観測年で行われた協力は12項目があった。以下に列挙する。オーロラ、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動。
ソビエト連邦とアメリカ合衆国は、国際地球観測年のために初期の人工衛星・スプートニク1号とエクスプローラー1号を打ち上げた。主な成果は、バン・アレン帯の発見、中央海嶺、プレート・テクトニクス説の確認作業などがある。



ロジャー・レベルはシアトルで生まれ、カリフォルニアのポモナ大学で地質学を学び、1936年にカリフォルニア大学バークレー校で海洋学にて博士号を取得した。
第二次大戦中は海洋学者としてアメリカ海軍に属していた。
1950~1964年まではカリフォルニア州サンディエゴにあるスクリップス海洋研究所(SIO)の所長であった。
SIOは国際地球観測年に参加しており、ハワイのマウナ・ロアと南極大陸のマウナ・ロア天文台で大気二酸化炭素の測定を開始した。
ロジャー・レベルは海洋研究科学委員会(SCOR)と国際海洋委員会(IOC)の下で最初の気候変動委員会委員長を務めた。
このSIOが二酸化炭素原因説の主要な研究所となっていくのである。

レベルは著名な化学者ハンス・スースをシカゴ大学から招き、1957年に彼と共同論文を発表した。
海は過剰な二酸化炭素を吸収していることが知られているが、論文ではその吸収速度はかつての科学者が予測した速度よりも遥かに遅いと述べている。
人間の排出が吸収速度を上回れば温室効果をもたらし、時間の経過とともに地球温暖化を引き起こすだろうと提起した。

続いてレベルは、大気中に含有する二酸化炭素の測定方法を考案するため、デーヴィッド・キーリングという科学者を招いた。
1960年、キーリングは大気中の二酸化炭素(濃度)の増加と化石燃料の燃焼の因果関係が強まった事を示す研究論文を発表した

どちらも地球温暖化(温室効果)の原因が二酸化炭素であるという直接的な根拠は示さなかったが、これらの論文は地球温暖化の基礎的事実となっていく。


このロジャー・レベルは、1964年にハーバード大学公衆衛生学院によって設立されたハーバード人口開発研究所の所長でもあった。
The Harvard Center for Population and Development Studies was founded in 1964 by the Harvard School of Public Health (now the Harvard T.H. Chan School of Public Health) under the direction of Dean Jack Snyder and director Roger Revelle with a mandate to address issues of population control.

ハーバード大学公衆衛生学院は元々は保健師養成学校だった。
The School traces its origins to the Harvard-MIT School for Health Officers, founded in 1913; Harvard calls it "the nation's first graduate training program in public health." In 1922, the School for Health Officers became the Harvard School of Public Health, and in 1946 it was split off from the medical school and became a separate faculty of Harvard University.

日本では保健師の事を英語でPublic Health Nurceと訳すことが多いが、この訳では正確に通じないことが多い。
外国ではCommunity Health Officer(地域保健師)などと言っている。
日本の場合は国家資格である保健師資格だけではなく看護師資格も保有していないと保健師にはなれない。従って看護師の上級資格ということになる。保健師は公衆衛生の専門家である。
私も一応保健師である。
しかし外国で公衆衛生の専門家と言う場合には学位重視であり資格は関係なくなる。
昨今は日本でもそんな風潮がある。保健師に限らず大学という観点から見てもかつて職人肌だったMITも方向転換した。
なにはともあれ、「公衆衛生の専門家」と「保健師」が一致していないことが多々ある。
教育課程や資格制度が違うこともあるが、大学時代に専門教育を受けなくても大学院で公衆衛生を学んで学位(ドクター)を取れば専門家になれるわけである。
大学院で学ぶというのは研究とか論文作成とかそんな感じでしょうか?その基礎となる膨大な専門知識は必要ないというわけですね。(どうせ忘れるから、いらないわよ?)(だから’飛んでも理論’なんか吹聴してしまうのでは?)
下手すれば公衆衛生関係の研究所か何処かで働けば公衆衛生の専門家になり得るのだ。


この日本と諸外国の差を上手くついたというか、誤解の元になったというかが、元祖iPS細胞騒動の森口尚史の一件である。
学位は取った(ドクター)らしいが、看護師及び保健師の資格を取得しているのかは定かではない。もちろん医師でもない(でも世界初の手術を自分がしたと主張している)(日本の法律上は保健師資格があれば緊急時等に医師の指示等があれば医師の代わりが出来なくはない)。
平成の世になった1989年に東京医科歯科大学医学部保健衛生学科看護学専攻に入学し、学士(保健学)を取得後、同大大学院博士前期課程に進学し、修士(保健学)を取得した。
東京大学で博士(学術)を取得し、東京大学特任教授などを経て、東京大学医学部附属病院特任研究員を務めた。専門は知的財産法、医療技術評価。
2012年(平成24年)10月、読売新聞により「ハーバード大学客員講師」の肩書きで「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術を実施した」と大々的に報じられたが、多方面から数々の疑義が提起され、その2日後に同新聞は「同氏の説明は虚偽」とし、それに基づいた一連の記事は誤報であったことを認めた。東京大学などがいまだ調査中である。



地球温暖化問題のベースにはロジャー・レベルらの論文があったわけだが、必要以上に危機感を煽り、それに乗っかったのが国連であり政府である。
1980年代にNASAの科学者ジェームズ・ハンセンらが論文を投稿し、そのジョームズ・ハンセンが1988年にアメリカの上院公聴会で「地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因」と述べた。
その年にIPCCは設立された。


するとなんと、元祖温暖化説のロジャー・レベルらは、そうした風潮に反対する立場を取った。
物理学者S.フレッド・シンガーと電気工学者チャウンシー・スターとの共同執筆での記事―「温室効果ガスの温暖化について何をすべきか:あなたが飛ぶ前に見よ(転ばぬ先の杖)」。
急激な温暖化対策は雇用と繁栄を犠牲にし貧困問題を大きくするだけで効果的ではない。
特に途上国の経済は壊滅的になるであろう。
記事は次のように結論づけた。「現時点では過激とも言える温暖化対策を正当化する科学的根拠は乏しい。政策対応が遅れてもリスクはほとんどない」

In 1991, Revelle's name appeared as co-author on an article written by physicist S. Fred Singer and electrical engineer Chauncey Starr for the publication Cosmos: A Journal of Emerging Issues, titled "What to do about greenhouse warming: Look before you leap," which was published in the summer of 1992. The Cosmos article included the statement that "Drastic, precipitous—and, especially, unilateral—steps to delay the putative greenhouse impacts can cost jobs and prosperity and increase the human costs of global poverty, without being effective. Stringent economic controls now would be economically devastating particularly for developing countries...". The article concluded: "The scientific base for a greenhouse warming is too uncertain to justify drastic action at this time. There is little risk in delaying policy responses."


その論争中の1991年7月、ロジャー・レベルは亡くなった。82歳だった。

すると今度はロジャー・レベルの弟子が出てくる。(死人に口なしの弔い合戦?)
「あの記事はシンガーが一人で書いたものでロジャー・レベルは名前を使われただけ。レベルは名前を使われたことを恥ずかしいと思っていたんだ」
本人は死んでいるのでもちろん確認しようもない。
弟子は、シンガーの行動は非倫理的であり、アル・ゴア上院議員(当時)の地球温暖化政策を打ち砕くために仕立てられたものであると主張した。 (つまりアル・ゴア派)
シンガーはそのレベルの弟子に対して訴訟を起こした。
結局その弟子は「自分の主張全部間違っているわけではない」としながらもシンガーに謝罪した。
しかしその後も他の人達がレベルが実際に記事を書いていたと言い続けたことから、弟子は気分を害して再び争いは続いた。

ロジャー・レベルの娘(Carolyn Revelle Hufbauer)
地球温暖化:私の父が本当に言ったこと。 ワシントンポスト1992年9月13日
Contrary to George Will's "Al Gore's Green Guilt" Roger Revelle—our father and the "father" of the greenhouse effect—remained deeply concerned about global warming until his death in July 1991. That same year he wrote: "The scientific base for a greenhouse warming is too uncertain to justify drastic action at this time." Will and other critics of Sen. Al Gore have seized these words to suggest that Revelle, who was also Gore's professor and mentor, renounced his belief in global warming. Nothing could be further from the truth. When Revelle inveighed against "drastic" action, he was using that adjective in its literal sense—measures that would cost trillions of dollars. Up until his death, he thought that extreme measures were premature. But he continued to recommend immediate prudent steps to mitigate and delay climatic warming. Some of those steps go well beyond anything Gore or other national politicians have yet to advocate. [...] Revelle proposed a range of approaches to address global warming. Inaction was not one of them. He agreed with the adage "look before you leap," but he never said "sit on your hands."


娘が書いているように、実はアル・ゴアもハーバード大学在学中にロジャー・レベルの弟子だったのだ。
教えたことに反しているとレベルは激怒していたというのだ。




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# by yumimi61 | 2017-06-11 16:20
2017年 06月 09日
日本国憲法の秘密-493-
アル・ゴアはハーバード大学を卒業し、1974年にヴァンダービルト大学ロー・スクールに入学したが1976年に中退している。
その年にテネシー州から下院議会選挙に出馬し当選したアル・ゴアは、下院議員の就任宣誓式を待たずに早速活動開始。
彼が一番最初にしたことはテネシー州にあるオークリッジ国立研究所でエネルギーと環境に関する研究に浸ることであった。
ゴア家はテネシー州の出身である。アル・ゴアの父親も議員だったのでアル・ゴアはワシントンD.C.で生まれている。

オークリッジ国立研究所
アメリカ合衆国エネルギー省の管轄下でテネシー大学とバテル記念研究所が運営する科学技術に関する国立研究所。
後にオークリッジ国立研究所となった施設は、1943年にマンハッタン計画の一部として建設された。研究施設とその近くの町であるオークリッジは、一年弱でアメリカ陸軍工兵司令部によって建設された。オークリッジには、約2年間 75,000 人が住み、その存在は秘密にされていた。
マンハッタン計画のオークリッジでの目標は、核兵器に使用するためのウランとプルトニウムの分離精製であった。このため、4つの施設(コード名は、X-10、Y-12、K-25、S-50)が建設された。このうち X-10 が現在のオークリッジ国立研究所に相当する。

現在の(現在も?)売りは中性子の研究である。

過去記事より(受付のお姉さま方?インフォメーション?工場見学案内係?オークリッジに置かれたY-12国家安全保障複合施設のシフト交代の写真を掲載した記事です)
1942年2月~11月、テネシー州オークリッジの土地を取得。
ウラン精製工場とマンハッタン計画の司令部施設用地として取得された。
(面積)56,000エーカー(23,000ha)+追加の3,000エーカー(1,200ha)

今話題の豊洲市場は40.7ha。東京ディズニーランドは51ha、東京ディズニーシーは49.3ha。
上記のオークリッジの土地は豊洲市場の565倍。
どれほど大きな爆弾を作るつもりだったのか!?量産!!?

ちなみにアメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートは日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の100倍以上ある。山手線内側が余裕で2つ入る大きさなんだとか。
ディズニーランドパリも日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の20倍ある。
福島第一原発の面積は350ha。
環境省が、福島県内を除染して出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設に予定している面積は約1,600ha。

(オークリッジに出来た施設は)1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス(CEW)と名付けられた。
最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
オークリッジの施設はサイトXという暗号名を与えられた。後のオークリッジ国立研究所となった。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった。


アル・ゴアはその後もオークリッジ国立研究所を何度も訪れていて、オークリッジ国立研究所も地球温暖化に関する分析や気候変動のシミュレーションを提供した研究機関の1つである。


2006年のアル・ゴアの『不都合な真実』にお墨付きを与えたのは「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」であった。
IPCCは国際連合環境計画(United Nations Environment Programme: UNEP)と国際連合の専門機関にあたる世界気象機関(World Meteorological Organization: WMO)が1988年に共同で設立した機関。早い話、国連の組織である。
第二次世界大戦後に設立された国連にはロックフェラーやロスチャイルドが深く関わっている。

1980年代にNASAの科学者ジェームズ・ハンセンらが論文を投稿し、そのジョームズ・ハンセンが1988年にアメリカの上院公聴会で「地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因」と述べた。
その年にIPCCは設立された。
しかしこの説がメジャーになったのは2006年の『不都合な真実』によって。さらに翌2007年にアル・ゴアとIPCCが揃ってノーベル平和賞を授与され、それを煽った。

IPCC
国際的な地球温暖化問題への対応策を科学的に裏付ける組織として、間接的に大きな影響力を持つ。
代表者、会員の氏名は非公開である。
名称は「政府間パネル」であるが、参加者は政府関係者だけに限られず、各関連分野の科学者など専門家も参加している。


ノーベル平和賞を受賞したくらいなので議長は分かっている。
ラージェーンドラ・クマール・パチャウリー(英語:Rajendra Kumar Pachauri, ヒンディー語:राजेंद्र कुमार पचौरी, 1940年8月20日 - )は、環境エネルギー問題の専門家。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の議長を2002年から2015年までの2期13年務めた。2002年よりIPCCの3代目の議長となり、2007年にはアル・ゴアと共にIPCCがノーベル平和賞を受賞した。

インドで生まれ、アメリカのノースカロライナ州立大学で学ぶ。

インドの財閥タタ・グループのタタ・エネルギー研究所の所長や日本の財団法人・地球環境戦略研究機関の理事を務める。2007年の来日時には立命館大学から名誉博士号を授与され、2009年には日本政府から旭日重光章を叙勲されている。

2015年2月24日にセクハラ疑惑によりIPCCの議長職を退任。議長代行にはギズーリ副議長が就いた。


IPCCの議長だったラージェーンドラ・パチャウリーはインドのタタ・グループの関係者である。
タタ・グループ
インド3大財閥のひとつであり、サブグループに分かれていない単一の財閥としてはインド最大である。インドにおける産業や商業に幅広く関与しており、ほとんどの領域で上位の勢力になっている。
構成企業100社以上。車(タタ・モーターズ)、鉄(タタ製鉄)、IT、電力で売り上げの8割を占める。 

ペルシア一帯(現在のイラン)からインドに渡ってきたパールシー(ゾロアスター教徒)の子孫であるジャムシェトジー・タタ(1839年-1904年)が、1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社をその始まりとする。1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。


インドはかつてイギリスの植民地であった。
タタ家はその時代にアヘン貿易で莫大な利益を上げたインドロスチャイルドとも言われるサッスーン家(サッスーン商会)と結びついた。

1865年、香港上海銀行設立。
フリーメーソンによる植民地協会(英国王室の後ろ盾)によって植民地香港で設立された。
植民地での利益を本国へ送金するほか、清に融資したり外債発行を担当した。
サッスーン商会、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルドなどが出資者。麻薬と紅茶に関係あり。サッスーンは後にロスチャイルド家と縁戚関係となる。

サッスーン商会の 設立者はデイヴィッド・サスーンである。
インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

このように世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。


第二次世界大戦後のインド独立(1947年8月15日)以後、サッスーン家の権益を受け継ぎついたのがタタ家だった。
インドは1974年と1998年に核実験を行っている。










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# by yumimi61 | 2017-06-09 14:55
2017年 06月 08日
日本国憲法の秘密-492-
トランプ大統領がパリ協定(地球温暖化対策の国際ルール)からの離脱を発表して話題になったが、「地球温暖化」がいつからブームになったか覚えているだろうか?
覚えていません。(不都合な真実?)

『不都合な真実』(原題: An Inconvenient Truth)は、2006年のアメリカ映画である。アル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領が主演している。
第79回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞・アカデミー歌曲賞を受賞し、本作で環境問題啓発に貢献したとしてゴアがノーベル平和賞を授与されている。


アル・ゴアが副大統領だった期間は1993~2001年で、大統領はビル・クリントンである。
前述したが、ビル・クリントンを出馬させ支援させたのは、ロックフェラー2世の5男であるデイビット・ロックフェラー。
同じ民主党から立候補したロックフェラー2世の長男の長男(3世)への対抗馬であった。予備選で3世に勝利したビル・クリントンは大統領になった。

アル・ゴアも2世議員である。アル・ゴア(ジュニア)の父親(アルバート・ゴア・シニア)も上院議員であった。
そのアル・ゴアの父親は政界引退後にオクシデンタルという会社の取締役となった。

政界を引退した後、ゴアはユダヤの政商アーマンド・ハマーの経営する石油採掘会社、オクシデンタルの顧問弁護士となった。その後、同社の副社長に就任し、取締役会入りした。

オクシデンタル・ペトロリウム(Occidental Petroleum Corporation、略称:オクシー、OXY)
アメリカの石油、ガス及び化学関係企業。
1920年に創業され、その後大富豪、政商として知られるアーマンド・ハマーが、ソビエト連邦との貿易で得た莫大な資産を元に経営権を握った。「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ規模の独立系石油会社である。本社はカリフォルニア州ロサンゼルス市に所在する。


アーマンド・ハワー
ロシア系ユダヤ人の熱烈な共産主義者で、アメリカ共産党の元となった社会主義労働党の創設者であるジュリアス・ハマーの子としてニューヨーク州マンハッタンに生まれた。「アーマンド・ハマー」という命名の由来は、アメリカ社会主義労働党の象徴である腕とハンマー(arm and hammer)である。1924年にコロンビア大学の医学部を卒業し、医師の資格を持つ事から、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。

大学卒業後に、父親のつてで当時ロシア革命により成立したばかりのソビエト連邦との貿易ビジネスを開始し、フォード車のソ連への輸出や穀物類のアメリカへの輸出、鉛筆の生産などのビジネスを行う。また、父親からの紹介を受けて知り合ったソ連の指導者であるウラジミール・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担う事になった。

1924年にレーニンが死んだ後も、第二次世界大戦を経て冷戦時を通じ、アメリカとソ連の間の貿易の中心的な存在となり、共産主義のシンボル的な存在であるレーニンの信頼を得たことからソ連の周辺衛星国などの、ソ連の影響下にあるいわゆる東側諸国の指導者の信頼も受け、これらの国との貿易ビジネスも積極的に行い、多大な収益を上げた。他にも酒造業や美術品の売買から、石油や原子力発電などのエネルギー事業に至るまで、様々な分野にその事業を広げることとなった。1982年には中ソ対立で進出が遅れた中華人民共和国の鄧小平と会談も行って経済協力を話し合った。

また、ソ連との貿易で得た莫大な資産を元に、「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ規模の独立系石油会社・「オクシデンタル・ペトロリウム」(略称「オクシー」、「OXY」)の経営権を握り、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王やリビアのイドリース1世国王との深い関係を元にして石油開発、取引を行ったほか、北海油田の開発などで莫大な資産を得て、同社を世界第8位の石油会社に成長させた。

ハマーが手掛けた教育事業として、UWCアメリカ校であるArmand Hammer United World College of the American Westを創設した。また、チェルノブイリ原子力発電所事故と福島第一原子力発電所事故で救助活動に参加したロバート・ゲイル博士はArmand Hammer Center for Advanced Studies in Nuclear Energy and Healthの所長を務めた(1986-1993)。

共和党の熱心な支持者としても知られ、リチャード・ニクソンからロナルド・レーガンまでアメリカの指導者と個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になった他、民主党のアル・ゴアとも親密な関係があった。不正な献金に有罪判決が出た際も、当時大統領であったジョージ・H・W・ブッシュから恩赦が与えられるなど、その影響力をビジネスだけでなく政治や外交にもふんだんに発揮した。


地球温暖化説を否定するのは何もトランプ大統領だけではない。
大国アメリカの大統領だから影響力が大きいと言うならば、この人もいた。

アメリカではブッシュ政権が「地球温暖化など単なる学問上の仮説で、温暖化現象は現実に確認できていない」とする公式見解で温暖化を否定し、ほとんどのメディア報道も追従しており、地球環境の温暖化問題について本作で初めて知ったアメリカ人もおり国内で強い影響を与えた、とする評もある。

他方で、内容が事実誤認やデータ誇大化などにより「センセーショナリズムが勝る」等の批判もある。イギリスでは学校での公開は政治的活動であると保護者らから提訴され、英高等法院は「9ヶ所事実誤認している場所がある」として「是正措置を取るように」と判決した。しかし、地球温暖化の問題提起は妥当として、保護者らの「上映差し止め」請求は退けている。


ブッシュ大統領が石油畑を歩いてきた大統領なら、アル・ゴアもまた石油畑を歩いてきた人物である。
ゴア家は散々地球環境を汚染してきた企業に深く関与してきた。だから改心したのかと言うと、そういうことではない。

2006年の『不都合な真実』で一躍メジャーになった「地球温暖化問題」だが、地球温暖化説の発端はもう少し遡って1980年代にある。
NASAゴダード宇宙研究所の科学者ジェームズ・ハンセンが6人の科学者と共著で書いた論文『増大する大気二酸化炭素の気象への影響』を科学雑誌『サイエンス』に投稿した。
この論文の中で、21世紀に予想される地球温暖化が南極の氷を溶かし世界の多くの都市を水没させ、内陸部は砂漠化する恐れがあると論じられた。

ジェームズ・ハンセン
1981年よりNASAゴーダード宇宙研究所ディレクターを務め、気候変動分析チームのリーダーとして、地球の温暖化傾向を指摘。1965〜66年惑星大気に関する研究のため、京大、東大に留学。
In recent years he has become a climate activist to mitigate the effects of climate change, on a few occasions leading to his arrest.

ジョームズ・ハンセンもアル・ゴアも地球温暖化を回避するために必要なものは原子力発電だと主張してきたのである。

Global Energy Policy Researchより
原子力の活用によって防がれた死亡増と温室効果ガスの抑制
ジェームズ・ハンセン
論文地球温暖化

米国のNASAの前研究センター所長で、温暖化に警告を示したジェームズ・ハンセン博士の学術誌「Environmental Science and technology」への寄稿。原題は「Prevented Mortality and Greenhouse Gas Emissions from Historical and Projected Nuclear Power」。限定公開。原子力を推進することによって大気汚染が抑えられ、温暖化も防止するので多くに命が救われると述べている。逆に原子力が縮小すれば、気温上昇を2度C以下に、CO2排出を450ppm以内に抑える目的を達成することは難しくなると指摘した。米国のメディアで、この主張は大きく取り上げられている。


Prevented Mortality and Greenhouse Gas Emissions from Historical and Projected Nuclear Power

Pushker A. Kharecha* and James E. Hansen
NASA Goddard Institute for Space Studies and Columbia University Earth Institute, 2880 Broadway, New York, New York 10025, United States

In the aftermath of the March 2011 accident at Japan’s Fukushima Daiichi nuclear power plant, the future contribution of nuclear power to the global energy supply has become somewhat uncertain. Because nuclear power is an abundant, low-carbon source of base-load power, it could make a large contribution to mitigation of global climate change and air pollution. Using historical production data, we calculate that global nuclear power has prevented an average of 1.84 million air pollution-related deaths and 64 gigatonnes of CO2-equivalent (GtCO2-eq) greenhouse gas (GHG) emissions that would have resulted from fossil fuel burning. On the basis of global projection data that take into account the effects of the Fukushima accident, we find that nuclear power could additionally prevent an average of 420 000–7.04 million deaths and 80–240 GtCO2-eq emissions due to fossil fuels by midcentury, depending on which fuel it replaces. By contrast, we assess that large-scale expansion of unconstrained natural gas use would not mitigate the climate problem and would cause far more deaths than expansion of nuclear power.



以前に原爆や水爆のことを書いた時に触れたけれど、核開発については軍事機密であるし、簡単に拡散されると人類滅亡の危機に陥るということで各国とも詳細の公表は差し控えている。
原料となるウランについても同様で、生産地や生産に携わる企業が限定されている。
オクシデンタル(グループ会社のオクシデンタル・ミネラルズ)はアメリカ西部のニューメキシコ州にウラン鉱山を所有し(1980年代にカナダのマックス・リソース社に売却)、ウランやプルトニウムの開発を行ってきた。
シベリアにもウラン鉱山を所有していたらしい。また足りない分は多くのウラン鉱山を所有していたバーナード・バルークから調達した。


バーナード・バルーク
アメリカ合衆国の官僚、政治家、投資家。サウスカロライナ州出身のユダヤ系アメリカ人。
ユダヤ系で理学療法の先駆者だった南軍軍医総監のサイモン・バルークの家庭に生まれる。

メリルリンチの共同経営者。ウォール街の伝説の相場師と呼ばれた。

戦争を一種の公共事業と認識している人物で、第一次世界大戦ではウッドロウ・ウィルソン大統領の側近(大統領選挙に協力した見返りとして大統領府へ自由に出入りできる立場)となり、戦時産業局長官を務め、当時世界最大の工業国家となったアメリカにおける軍産複合体の実権を握り、外交分野でもドイツに巨大な賠償金を課した賠償委員会の議長として活躍した。
戦時産業局はパリ講和会議の代表団と計画してブルッキングス研究所を設立した。
(ブルッキングス研究所はキャボット家が出資している) 
バルークはその地位を利用して国家軍事予算から膨大な利益を得て、第一次世界大戦中に自身の資産も増大させた。

以後もハーディングやクーリッジ、フーバー等の歴代大統領に対し、特別顧問という特権的な肩書きでアメリカの重要政策に関わり続ける事でアメリカの執政に必要なあらゆる政治的ノウハウを学ぶと同時に、重要な政治部門の実力者と個人的なパイプを強化し、実質的に大統領以上の政治的影響力を行使できる立場に立った。 
ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーヴァー、フランクリン・ルーズベルト、トルーマンと6人の大統領顧問であった。

その結果としてルーズベルト政権が成立した1930年代には、強大化した政治的な影響力を利用し、公的にも金融界の大物から長老政治家というスーパーエリートへ転身を遂げることに成功。フランクリン・ルーズヴェルト大統領の顧問として大いに専権を振るった。

ハリー・トルーマン政権でもその影響力は低下することなく国連原子力委員会の米国代表に選ばれ、バルーク案によりアメリカの核独占による世界平和を唱えた。冷戦という言葉を初めて使い、それが戦後の世界情勢を意味する言葉として認められた事実は、彼の特権的な地位を証明している


(第二次世界大戦中、)その権限はまさに戦時におけるアメリカの産業戦略の最高責任者といえるものであり、彼はそこで大統領の実質的な代行として内閣レベルで指揮監督される全ての物流統制を統括していた。(ただ、いかに信頼を得ていたとはいえ、彼にゆだねられたその強大すぎる権限は彼の実質的立場がルーズベルト大統領をしのいでいた証拠と見る向きもある。)
なお、原爆の開発を主導したマンハッタン計画にも関わっており、京都への原爆投下を主張していたと言われている。 




日本に原爆を投下後も核開発を続けてきたアメリカ、私達も原爆を造ることに成功したと宣言したロシア、この両国は東西冷戦時代にアライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)という会社から濃縮ウランを購入していた。
前に散々書いたけれど、濃縮ウランがなければ原爆も原発も不可能である。
アライド・ケミカル・アンド・ダイもオクシデンタルのグループ企業。
アライド・ケミカル・アンド・ダイは「アライド・ケミカル法」と呼ばれるウラン精製方法(ウラン含量の高い粉末にする)を開発し、濃縮ウランの製造(この粉末から濃縮していく)において独占的な地位を占めていた。

この粉末の名称は「Yellowcake」。
鉱石は破砕機でパルプ状に粉砕され、その後さらに濃酸、アルカリまたは過酸化物溶液で処理される。これを乾燥、濾過した後に残ったものがイエローケーキである。近年の機器で作ったイエローケーキは実際には茶色か黒色で、黄色ではない。この名前は、初期の採鉱法によるものの色から名付けられた。

当初、イエローケーキを構成する物質については同定されておらず、1970年にはアメリカ鉱山局は、重ウラン酸アンモニウムまたは重ウラン酸ナトリウムから構成されていると考えていた。組成は、浸出物及びその後の沈殿条件によって異なる。イエローケーキ中に同定された物質には、水酸化ウラニル、硫酸ウラニル、ウラン酸ナトリウム、過酸化ウラニルや様々な酸化ウランである。近年のイエローケーキは、通常重量比で70-90%の八酸化三ウランを含む。他の酸化物には、二酸化ウラン、三酸化ウランがある。

ウランが採鉱される全ての国でイエローケーキが作られている。




アライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)
1920年 染料や薬品類の生産を目的に化学会社の統合によりアライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)として設立。
1928年 大手化学メーカーとして発展。第二次世界大戦後はナイロンや冷媒などの総合素材メーカーとなる。


2度のオイルショックがあった1970年代に石油・ガス事業に傾倒し、1980年代には経営多角化を目指しアライド・コーポレーション(Alied Corporation)に社名を変更した。

1983年 航空宇宙、自動車部品大手のベンディックス(BENDIX)を買収。
1985年 航空機器メーカーのギャレット(Garrett)を有するシグナル社(Signal Companies)と合併して、社名をアライド・シグナル(Allied-Signal)に改称した。
 石油・ガス事業からは撤退した。

1999年、ニュージャージー州のモリスタウンに本社のある巨大多国籍企業ハネウェル(Honeywell International, Inc.)と合併した。
アライドシグナルの方が規模が大きく、さらにニュージャージー州モリスタウンのアライド・シグナルの本社を今も本社としているが、ブランド名として有名なハネウェルを社名に残した。


ハネウェル(Honeywell International, Inc.)
1886年に設立されたアメリカの多国籍企業であり、電子制御システムや自動化機器を製造販売している。アメリカ航空宇宙局、ボーイング、アメリカ国防総省に技術サービスやアビオニクスを提供している会社である。

フォーチュン100企業の1つであり、現在約13万人の従業員(うちアメリカ国内で58,000人)を抱える巨大企業である。1925年12月7日から2008年2月9日まで、ダウ平均株価を構成する銘柄の1つだった。

ハネウェルが軍需産業に参入したのは第二次世界大戦の時であり、当時は航空機の部品を製造していた。ベトナム戦争のころから様々な製品を製造するようになった。クラスター爆弾、ミサイル誘導システム、ナパーム弾、地雷などである。

ハネウェルはアメリカ合衆国で核兵器製造に関わる企業のコンソーシアムに参加している。

アメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) によれば、スーパーファンド法で規定する有害廃棄物で汚染された土地と最も多く関係している企業がハネウェルだという。ハネウェルは米国内の大気汚染に責任のある企業の44位とされており、毎年425万kgの有害物質を大気中に放出している。










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# by yumimi61 | 2017-06-08 14:57
2017年 06月 07日
Cooling
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# by yumimi61 | 2017-06-07 23:04
2017年 06月 06日
日本国憲法の秘密-491-
前にも書いたように第一次世界大戦でドイツは敗北した。
ドイツの発展が脅威だったから戦ったのに、負けたドイツが何も変わらぬわけがない。
ドイツは敗戦によってロスチャイルドに呑みこまれていった。
その代わり第一次世界大戦はアメリカのロックフェラーの台頭を許すことになった。
第二次世界大戦(ヨーロッパ戦)はロックフェラーが仕掛け、日米戦(太平洋戦争)はロスチャイルドが仕掛けた。
大局的に見れば、ロスチャイルドとロックフェラーの戦いとも言える。
原爆はロックフェラー側の切り札であった。


ドイツが庇護なく発展したように、ドイツがそれまでの支配者にとって脅威になったように、技術は「武器」になる。
第二次世界大戦の落とし子「原爆」は世界の脅威となった。
原爆は本当にあり得るのか。原爆を開発したのは、アメリカかドイツか、それとも日本か。みな疑心暗鬼である。
そして在り得なかったからこそ当のアメリカにとっても脅威であった。
アメリカは核開発を止めることは出来なかったし、事情をある程度察していたソ連が「原爆は在り得ない」と言わず「私達も原爆を造った」と言うことのほうが余程恐ろしかった。
但しこの社会主義国ソ連(共産主義)のおかげで、ロスチャイルドとロックフェラーは再び歩み寄りを見せる。
皮肉にもまさに「平和のための原子力」となったわけだ。
国連ビルはロックフェラーが寄贈した土地に建てられている。そこで働く人達はロックフェラーやロスチャイルドの関係者が多い。
国際社会は核の平和利用に舵を切った。
しかし核開発はもう止めようと言いつつ止められないのは先を越されたら困るからである。



第二次世界大戦の時のロックフェラー家は、ロックフェラー2世(1874-1960)の時代であった。
2世没後は長男である3世(1906-1978)が継承した。
3世は、まだ2世の時代の第2次世界大戦直後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴した。
マッカーサーは親子でカトリック教国フィリピンの総督であったのでカトリック教徒である可能性が高い。
昭和天皇は親カトリックであり、日本の天皇周辺にもカトリック教徒が多い。

ところで最初の話を覚えているだろうか?まあ覚えていませんよね。
日本銀行創始者・松方正義の15男と言われている松方三郎の話から続いてきている。
松方正義の長男(松方家2代目当主)は、十五銀行(華族銀行、初代頭取は最後の長州藩主・毛利元徳、宮内省の御用銀行でもあった)を倒産させてしまい、島津家に多大な借りを作って失脚。
西園寺八郎の実父が毛利元徳である。
そして松方家の3代目当主は何故か松方三郎である。


で、松方三郎や親戚の松本重治はロックフェラー3世と親友だった。
この周辺の人物にはカトリック教徒が多い。
世界の大きな流れとしてカトリックへの回帰が認められる。
 ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                              −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)


ロックフェラー家
初代・・・アメリカの石油事業(スタンダード・オイル)の独占
     弟がナショナル・シティ銀行(現在:シティグループ)の創業者の1人。 
2代目(2世)・・・ニューヨークの大地主(元々はコロンビア大学が所有していた)
3代目(3世)・・・日本の国際基督教大学に関与し息子が留学経験あり、松本重治や松方三郎の親友

ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達
 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978)交通事故死 →息子4世ジェイ・ロックフェラー(民主党上院議員、1992年に大統領選出馬)
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-2017?) ・・・1992年大統領選でビル・クリントンを支援
                                    お家騒動により、民主党、ロスチャイルド寄りか



お金も「物」であることに違いないけれど、ひとまずお金は物でないとする。
あなたは、お金と物と、どちらが欲しいですか?
お金で物が買えるのだからお金に決まっているだろ?
では、卵と鶏では、どちらが欲しいですか?
卵を沢山産んでくれる鶏に決まっているだろう?
鶏を沢山生み出す卵に決まっているだろう?

もしもこの世界に物がなければお金の価値もない。
この世界にもしもお金で動いてくれる人がいなければお金の価値はない。
そう考えると物を生み出す人が重要であることが分かる。物を生み出す≒技術とも言える。
こうして世界に技術信仰が蔓延っていく。
だが黎明期と成熟期では技術の在り方は違うであろう。開発ではなく利用の割合が大きくなってくる。
また成熟期では、技術的に優れているもの=消費者が欲するもの、とは限らなくなってくる。
市場(マーケット)が考える「良い物」「売れる物」は何なのか?ややもすると技術信仰はこれらのことを置き去りにしてしまいがちである。

技術信仰に傾いた世界を金融主義に引き戻したのが投資家や信託銀行。
株式会社は技術者や経営者の所有物ではない、株主の所有物である。誰が偉いかと言ったら株主である。
企業を出来るだけ束ねて、その大大企業の親分(持株会社)の株主になるのが世界を支配するには手っ取り早い。
財産を手にした人のほとんどは願う。手にした財産を苦労なく増やせないだろうかと。せっかく手にした財産を税金なんかに持っていかれたくないと。私は、私達は選ばれし人間なのだと。自分が死んだ際には後継者にそっくり相続させることは出来ないだろうかと。
ロスチャイルドやロックフェラーなどは相続時に法律を変更して相続税がかからないようにしたが、誰でもがそんなこと出来るわけではない。
せいぜい財団や慈善団体などを作って自身の財産を動かしたり、オフショアを利用したりするくらいであろう。
大金持ちになるには世界を舞台にしなければならない。しかし単一単純な世界ではないのでそれだけ物事は複雑になる。また世界は裏付けのない紙幣で溢れているわけだから、財産を管理してくれたり、資産を運用したり、いかに税金を逃れるか指南してくれる人が求められた。
こうして金融第一主義時代がやってきた。


金融第一主義で台頭してきたのは、メロン財閥のメロン・フィナンシャル(現:バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)、ボストン系(キャボット)財閥の資産管理会社ステート・ストリート、世界最古世界最大と言われるカナダのゴールト財閥の保険会社(金融サービス会社)サン・ライフ・フィナンシャル、投資家ジョン・C・ボーグルが創設した世界最大級の投資信託運用会社ヴァンガードなど。

メロン財閥とカナダのゴールト財閥の祖はアイルランドからの移民である。
キャボットもヨーロッパにルーツを持つ移民で黒い貴族を彷彿させるものがある。
やはりヨーロッパ、とくにイギリスとの繋がりを感じさせる。
イギリス連邦加盟国であるカナダ(連邦立憲君主制国家で君主はイギリスのエリザベス女王)のサン・ライフには第二次世界大戦中に、ヨーロッパから金などが秘密裏に持ち込まれて管理されていたとか、イギリスの「クラウンジュエルズ」が保管されていたとかの噂があるくらい。
上記の会社はアメリカをはじめ日本企業においても株主としてよく名が挙がっている。

若干単純ではあるがアイルランドはカトリックの国である。








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# by yumimi61 | 2017-06-06 11:36
2017年 06月 05日
日本国憲法の秘密-490-
ジョセフ・グルーは1908年から第一次世界大戦アメリカ参戦1917年までドイツにいた。

ジョセフ・グル―がドイツで何をやっていたかと言うと、ハーバート・フーヴァーがドイツで何をする気なのか見張っていた(見極めていた)のである。ちなみにジョセフ・グル―は華やかなドイツの社交界生活が結構気に入っていたらしい。

ハーバート・フーヴァー(共和党)は、1929-1933年のアメリカ大統領。
スタンフォード大学(2005年にスティーブ・ジョブスが卒業式でスピーチした大学)を卒業後、オーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後中国で鉱山の開発に従事し、億万長者になる。
1907年から1912年にかけてフーヴァーはドイツの鉱山学の父と呼ばれるゲオルク・アグリコラの古い技術論文を翻訳している。
次期大統領候補の呼び声も高かった。
人々がドイツの発展を脅威に思っている最中にドイツに近づいていったハーバート・フーヴァー(アメリカ)は、親ドイツなのか、それとも反ドイツなのか。
ヨーロッパロスチャイルド系からすれば、反旗を翻しそうなアメリカの動きは気になるところである。

ハーバート・フーヴァーはクェーカー教徒の一家に生まれて自身もクェーカー教徒であった。
クェーカー教徒と言えば、アメリカ建国に一役買ったトマス・ペイン、ジョンズ・ホプキンス(大学の初代学長はラッセル商会にいたダニエル・ギルマン)。GHQにも信者がいて現天皇の皇太子に家庭教師を務めたエリザベス・ヴァイニングもクェーカー教徒であった。


1901-1909年 セオドア・ルーズベルト(共和党)(フランクリン・ルーズベルトと親戚)
1909-1913年 ウィリアム・タフト(共和党)(イェール大学、ラッセル商会、スカル・アンド・ボーンズ)
1913-1921年 ウッドロウ・ウィルソン(民主党)(父がアメリカ長老教会創設者)(ジョンズ・ホプキンス大学から政治学のPh.D. を受けている)


1921-1923 共和党 ウォレン・ハーディング(在任中に急死)
1923-1929 共和党 カルビン・クーリッジ(ラッセル商会の取締役だった一族)
1929-1933 共和党 ハーバート・フーヴァー 
1933-1945 民主党 フランクリン・ルースベルト(ラッセル商会の取締役だった一族、在任中に急死1945年4月)
1945-1953 民主党 ハリー・トルーマン(ルーズベルト大統領死去により副大統領だった彼が昇格)
1953-1961 共和党 ドワイト・アイゼンハワー

ウィルソン大統領(民主党)の下で食糧庁長官、
ハーディング大統領(共和党)、クーリッジ大統領(共和党)の下で商務長官、
そして自身が大統領になる。
第二次世界大戦後はトルーマン大統領(民主党)、アイゼンハワー(共和党)の下で働いた。
ジョセフ・グル―が共和党政権から民主党政権になっても駐ドイツ外交官を留任したように、ハーバート・フーヴァーも共和党と民主党の垣根を超えている。
(なにしろロックフェラーが二大政党制を勧奨しており共和党と民主党のどちらも支援していたというのだから)
但しハーバート・フーヴァーは2期目の大統領選で、ラッセル商会でアジア担当役員だった一族のフランクリン・ルーズベルトに大敗を喫し、ルーズベルト政権にはお呼びがかからなかった。
フーヴァーはフランクリン・ルーズベルトを厳しく批判するようになる。
フランクリン・ルーズベルトは私が民主党っぽくない大統領だったと書いた人である。(原爆開発に消極的)
ハーバート・フーヴァーは大統領退任後にスタンフォード大学に政策シンクタンクである「フーヴァー戦争・革命・平和研究所(フーヴァー研究所)」を創設している。
またアメリカにおける原爆開発発祥の地であるコロンビア大学から、トーマス・エジソンと並んで「アメリカ史上2人の偉大な技術者」として表彰されている。


第一次世界大戦の終盤、ジョセフ・グル―とハーバート・フーヴァ―は一緒にフランスに入った。
彼らが日本の代理人として西園寺八郎と牧野伸顕、松平恆雄、吉田茂を育成した。
西園寺八郎は天皇の私的顧問、牧野伸顕は公式顧問、松平恆雄と吉田茂は私的相談役になった。

=天皇在位=
明治天皇 1852-1912
大正天皇 1912-1926(1921からは正式に皇太子に摂政任命)
昭和天皇 1926-1989

西園寺八郎(1881-1946)・・・長州藩の毛利一族・・・昭和天皇(1901年生まれ)の実父だという説あり
旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生。1899年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。その後、ドイツのボン大学に留学した。1906年、養父公望の長女新と結婚した。
養父である西園寺公望が第一世界大戦後のパリ講和会議に首席全権特使として渡仏した際は妻と共に随行している。
西園寺(毛利)八郎の長男は、ゾルゲ事件にてスパイ容疑で逮捕されている。
ソルゲ事件―1933年から1941年にかけてソ連(スターリン時代)のゾルゲ諜報団(スパイ組織)が日本で諜報活動を行っていたことが発覚した事件。
近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実や含まれていた。
西園寺(毛利)八郎の長男も立場を利用して得た国家機密を流していた。


牧野伸顕(1861-1949)
薩摩藩士・大久保利通の息子(大久保伸顕→牧野伸顕)である。後に華族の称号を得る。
娘・雪子が吉田茂の妻となった。つまり吉田茂の義理の父親。
第一次世界大戦後のパリ講和会議には次席全権大使として参加。首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や吉田茂などがいた。


アメリカも明治期以降の日本もヨーロッパ(ロスチャイルドなど)の影響下にあった。
ジョセフ・グル―とハーバート・フーヴァ―はどちらかと言うとロスチャイルドから独立して勢力拡大を狙うアメリカのロックフェラー寄りになっていったのではないだろうか。
それに追従したのが日本であった。
ロスチャイルドとロックフェラー、両者の影響下にいて、両者を上手く利用した。
両者の影響下にあったという点では中国も同じである。






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# by yumimi61 | 2017-06-05 13:38
2017年 06月 04日
日本国憲法の秘密-489-
※豆知識※

その1:慶応幼稚舎は幼稚園ではなく小学校である!
知ってる?じゃあ。

その2:慶応幼稚舎の所在地は元々は福沢諭吉の別邸(広尾別邸)だった。
1879年(明治12年)、福沢諭吉が現在の幼稚舎の校地の場所を購入し、広尾別邸とした。
1937年(昭和12年)、幼稚舎は福沢家広尾別邸の場所に移転した。
##「幼稚舎」という名称であるが、小学校であり幼稚園ではない。幼稚舎出身の南博は旧制東京高校尋常科(後身校:東京大学)に入ったとき、修身の時間に教育勅語を暗誦できなかったため、「君は教育勅語を知らんのか、いったいどこの小学校からきた」と教師から怒られ、「慶應義塾の幼稚舎です」と答えたが、「幼稚園のことを訊いているのではない、小学校は何処だ」と怒鳴られたという。このようなエピソードからもわかるように、現在でも幼稚園であるとの誤解が多く、また、そう思い込む者も多い。

(森友学園はやっぱり「目指せ東大!」だったのでしょうか?)

その3:福沢諭吉がハーバード大学学長に教授の派遣を依頼したことによって慶應義塾に赴任したトーマス・ペリーのお披露目会である「園遊会」が行われた場所は福沢の広尾別邸(後の慶応幼稚舎)であった。

その4:皇室行事の園遊会が催されるようになったのは戦後1953年のことで、実はそれほど古式ゆかしい行事ではない。
戦前(明治時代)に行われていたものに「観菊会」「観桜会」があるが、これは江戸時代に締結した通商条約の改正交渉をスムーズに運ぶために始められたものであり政府主導。天皇皇后が臨席したが主催者ではない。
成り立ちからロスチャイルドなどヨーロッパ系と繋がっていた明治新政府が条約を改正したかったということは、その条約が日本にとって不平等だったのではなくヨーロッパにとって不平等だった(と感じていた)からに他ならないであろう。
行われた場所は新宿御苑や浜離宮。元は地方藩の下屋敷であった場所である。
現在新宿御苑にて内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されている。
新宿御苑は大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。

その5:観菊会(かんぎくかい)はたぶん「見ても聞いても言わない(貝!)」に掛かっている。
ところで日光東照宮をはじめ有名な「見ざる聞かざる言わざる」の三猿。
英語では、"Three wise monkeys"(3匹のずる賢い猿)と言われていて、"see no evil, hear no evil, speak no evil"と訳される。
「あの人たちさぁ良いことしか言わないよね」
「そうそう、自分達に都合の悪いことは見ないし、聞かないし、言わない」
つまり半分皮肉である。
論語には入っている「行わない」(悪いことは行わない)が省かれていることから、あの人達は自分達の悪いことは見ないし聞かないし言わないけれど、悪いことはするという意味が隠されています(たぶん)。

おまけ:お買い物に行ってそらまめを買っておやつに食べました。

以上、豆知識を終わります。

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ジョセフ・グル―
アメリカ・ボストン生まれ。1932~1942年まで駐日アメリカ大使だった。
要するに真珠湾攻撃と太平洋戦争開戦時に日本にいた大使である。
ジョセフの従妹ジェイン・ノートン・グルーが初代J・P・モルガンの長男(後継者)であるジャック・モルガンの妻であった。
モルガンもロスチャイルドの代理人(代理店)である。
このジョセフ・グル―のの妻アリス・ペリー・グルーはその名の通りペリー一族である。


ジョセフ・グル―はボストンの銀行家一族である。
ハーバード大学時代に学生新聞「クリムゾン」の編集に携わっていた。
「クリムゾン」は1873年に創刊された学内新聞としては最古の歴史を誇る。
過去にはフランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディなど後に大統領になった人物も学生時代に編集に関わったことでも知られている。
ジョセフ・グル―がクリムゾンに所属していた時の仲間に、キャボットが出資したラッセル商会のアジア担当取締役になり、第二次世界大戦中の大統領にもなるフランクリン・デラノ・ルーズベルトがいた。
この2人は学生時代からの友人であった。

ジョセフ・グル―は後にキャボット一族とペリー一族の血を引くアリスと結婚し、駐日アメリカ大使になるわけだが、家族はジョセフがハーバード大学を卒業すると彼を世界旅行に旅立たせた。この時に日本にも来ている。
そしてジョセフ・グル―は「鈴木」という名の人物を連れてアメリカに帰国した。
ジョセフとアリスとの縁を取り持ったのはこの「鈴木」だったという。鈴木大拙!?
その後は家族や友人のコネクション(圧力、忖度?)を存分に使い外交官大使の地位を手に入れた。
外交官としてエジプト、メキシコ、ロシア、ドイツ、デンマーク、スイスなどに派遣された。
しかしジョセフ・グルーは難聴気味であり他国の言葉での会話は不可能であったという。

ジョセフ・グルーは1908年から第一次世界大戦アメリカ参戦1917年までドイツにいた。
ここで注目すべき点がある。
前に書いたようにアメリカはホワイトハウスの主(大統領)が変われば、長官をはじめ政府高官、その下にいる補佐官や秘書などごっそり入れ替わる。党が変われば尚更である。
ところがジョセフ・クルーは変わらなかったのである。

1901-1909年 セオドア・ルーズベルト(共和党)(フランクリン・ルーズベルトと親戚)
1909-1913年 ウィリアム・タフト(共和党)(イェール大学、ラッセル商会、スカル・アンド・ボーンズ)
1913-1921年 ウッドロウ・ウィルソン(民主党)(父がアメリカ長老教会創設者)(ジョンズ・ホプキンス大学から政治学のPh.D. を受けている)






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# by yumimi61 | 2017-06-04 13:03
2017年 06月 02日
日本国憲法の秘密-488-
キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族、企業にさらに貸し出す。

キャボット家の創始者はアメリカ大陸発見者。コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて航海した。


ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。


アヘンを輸出して儲けていた。
そんなに美味しい商品(麻薬)ならばと、アメリカからも参入(というか権益を分けて上げた)。その1つにラッセル商会がある。
ラッセル商会設立者サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルはピューリタン(清教徒)系大外のイェール大学で「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones、S&B)も創設している。 


このラッセル商会は、ブッシュ大統領(共和党)を輩出したブッシュ家、クーリッジ大統領(共和党)を輩出したクーリッジ家、ルーズベルト大統領(民主党)を輩出したデラノ・ルーズベルト家、タフト大統領(共和党)を輩出したタフト家が取締役や監査役に就任していた。
その他、雑誌「フォーブス」を創刊し上院議員を輩出するフォーブス家、ジョンズ・ホプキンス大学の初代学長を輩出したギルマン家の人物も取締役だった。


※ジョンズ・ホプキンス大学
クェーカー教徒の実業家ジョンズ・ホプキンスの遺産を基に、1876年に世界初の研究大学院大学として設立された。初代学長はアヘン輸出入業者のラッセル商会取締役であったダニエル・ギルマン。
アヘンに関連して人間の支配や心理戦争などを研究した。
それまでのアメリカの大学教育は教養中心の学部教育であったが、新たに研究を中心とした専門教育を行うことを目的とし、大学院教育のシステムを確立した。大学院教育と奨学金を組み合わせることによってPh.D.(博士)の学位の授与制度の改革を行ない、この制度を他の多くの大学が取り入れることによってアメリカ全土に広まったとされる。
全米で初めて実験室での科学実験を行ったのも、また、公衆衛生大学院 (School of Public Health) を初めて設置したのもこの大学である。附属のピーボディ音楽学院(Peabody Institute)も北米で最初の音楽学校であり、この大学には「アメリカで最初」と言われるものが多い。


アメリカの最初のPh.D.は1861年にイェール大学が神学、古典語、物理学の3分野で3件授与したのが最初である。当初は分野も数も限られていたが、上記のようにジョンズ・ホプキンス大学がPh.D.の授与制度の改革を行って広まった。アメリカの学術界の発祥の地とも言えよう。

※クェーカー教はプロテスタントに分類されることもあるが、正式にはカトリックでもプロテスタントでもないキリスト教のフレンド派ということになる。会員は"Friends"を自称している。
平和主義や質素を掲げるが神秘主義を信仰の特色とする。一方極めてリベラル(要するに科学的)でもある。
発祥はイギリス。アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられるベンジャミン・フランクリン(フリーメイソン、父はイギリスからの移民)がイギリスからアメリカに移住させ、『コモン・センス』というパンフレットを発表してアメリカがイギリスから分離独立することが正当であることを強く訴えたトマス・ペインもクェーカー教徒であった。
アメリカ建国にはピューリタンの他クェーカー教徒も関係している。
戦後の日本においてGHQのボナー・フェラーズ准将が熱心なクエーカー教徒で日本でのクエーカーの布教活動に精力を注いだ。また、信徒のエリザベス・ヴァイニングは後に天皇となる皇太子・明仁の家庭教師を務めた。(皇太子明仁とは現天皇)

※エリザベス・ヴァイニング
終戦後の1945年には著作活動を停止しアメリカ・フレンズ奉仕団広報部に勤務、1946年にGHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ来日、少年時代の皇太子と義宮(現・常陸宮正仁親王)らに英語教育などを施すなどした。また、学習院大学や津田塾大学においても講義などを行なった。

※アメリカ・フレンズ奉仕団
1917年にアメリカ合衆国フィラデルフィアで戦争による民間の犠牲者の救済のために設立されたキリスト友会(クエーカー)系の人道援助や社会正義、人権、平和や死刑の廃止などのために活動する団体である。1947年にイギリス・フレンズ協議会と共にノーベル平和賞を受賞した。
フレンド派は伝統的にあらゆる形態の暴力に反対し兵役を拒否したため、AFSCの当初の目的は良心的兵役拒否の実現のための兵役の代替であった




オーガスト・ベルモント
ドイツ生まれのユダヤ人。ロスチャイルド一族の庶子だった。若い頃からフランクフルトのロスチャイルドのそばで働いてきたロスチャイルド代理人。彼は1837年24歳の時にアメリカに送りこまれた。
ラッセル商会の設立は1824年であるが、その頃にはアメリカでのロスチャイルドの立場が危うくなってきたということだろうか。
このオーガスト・ベルモントが結婚した相手がキャロライン・ペリー、黒船で日本にやってきたペリー提督の娘である。1849年に結婚している。

ジョセフ・グル―
アメリカ・ボストン生まれ。1932~1942年まで駐日アメリカ大使だった。
要するに真珠湾攻撃と太平洋戦争開戦時に日本にいた大使である。
ジョセフの従妹ジェイン・ノートン・グルーが初代J・P・モルガンの長男(後継者)であるジャック・モルガンの妻であった。
モルガンもロスチャイルドの代理人(代理店)である。
このジョセフ・グル―のの妻アリス・ペリー・グルーはその名の通りペリー一族である。


アリス・ペリー・グルー
ペリー提督の兄の孫にあたるトーマス・サージェント・ペリー(アメリカ・ボストンの言語学者)と、キャボット一族であるリラ・サミュエル・キャボット(印象派画家)の間に生まれた娘である。夫妻には3人の娘がいてアリスは3女である。
アリスの父トーマス・ペリーは慶應義塾大学の教授として来日した。妻と3姉妹も一緒に赴任した。
1898年に慶應義塾の創始者・福澤諭吉がハーバード大学学長に書簡を送り、教授の派遣を依頼したことによる。
福沢諭吉は伊藤博文・井上馨・西郷従道など300人以上を招待してペリー教授紹介の園遊会を盛大に催した。
一家は1901年に帰国したが、アリスは駐日大使夫人として夫ジョセフ・グル―とともに再来日した。

キャボット家とペリー家の血を引く人物が日本と関係深いのである。


鍋島信子(松平信子)
アリス・ペリー・グルーの親友。
鍋島信子は佐賀藩主の娘。キリスト教徒。
元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男・松平恆雄(明治10年生まれなので幕末を知らない、外交官・政治家)の妻となる。前にも書いたけれど会津藩は徳川幕府に忠誠を尽くし明治新政府に対抗して最後まで戦った藩である。
鍋島信子と松平恆雄の娘は秩父宮妃である。
昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。
朝敵会津藩の復権ではなくて、旧会津藩が変な気を起こさないように取りこんだのであろう。


九条節子(大正天皇の妃、昭和天皇の母、貞明皇后)
アリス・ペリー・グルーの親友(鍋島信子がアリスに節子を紹介した)。
九条家は五摂家の1つで公家。
大正天皇は幼少期から病弱であり最後まで天皇の公務を全うできなかった。
そんなこともあってか、九条節子に関しては替え玉説など様々な噂がある。
また昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮と4人の男子を産んだが、子の父親が全て違うという説もある。
昭和天皇が西園寺八郎、秩父宮と高松宮が東久邇宮稔彦、三笠宮が近衛文麿。


牧野雪子(吉田雪子)
アリス・ペリー・グルーの親友。キリスト教徒。
雪子の父親は薩摩藩士・大久保利通の息子(大久保伸顕→牧野伸顕)である。つまり雪子の祖父が大久保利通ということになる。
牧野雪子は吉田茂の妻となる。
吉田茂(旧姓:竹内)はジャーディン・マセソン商会の商人吉田健三の養子になり、吉田健三が40歳という若さで亡くなったために吉田茂は子供ながらに莫大な財産を相続した。
ジャーディン・マセソン商会もロスチャイルド系でアヘン貿易に携わっていた。


吉田茂・雪子夫妻の子供達
 長男(健一)
 長女(桜子)・・・夫・寛は岸信介(安倍首相祖父)・佐藤栄作兄弟の従兄弟。佐藤寛が婿養子となり吉田寛となった。
 次男(正男)
 次女(江子)
 三女(和子)・・・九州の実業家であった麻生太賀吉の妻となる。夫妻の長男が麻生太郎。長女信子は寛仁親王妃。


麻生セメント株式会社
麻生グループの中核企業。麻生グループは麻生太賀吉の父である麻生太吉が明治時代に福岡県飯塚市で始めた麻生炭鉱を源流としている。
麻生セメントは2001年に旧麻生セメントがセメント部門を分社化して新しく麻生セメント株式会社を設立して誕生した会社。フランスのセメント大手であるラファージュ(Lafarge)が資本参加している合弁会社であった。
この会社が2004年に三井鉱山セメントの土地と鉱山を継承している。また同年、麻生ラファージュセメント株式会社に社名変更。
2013年にラファージュの資本5%を買い取り社名からラファージュを抜いた。
ラファージュはロスチャイルド系企業でヒラリー・クリントンが顧問に名を連ねていた。
2014年にラファージュはスイスのセメント大手ホルツィムと合併してラファージュホルツィムとなっている。

2016年6月報道
 フランスのセメント大手が、シリアに持つ工場の操業を続けるため、過激派組織イスラム国(IS)などと取引をしていたと6月22日付の仏ルモンド紙が報じた。
従業員らの通行の許可をISから受けたり、石油を購入したりしたという。
 問題が指摘されているのは仏ラファージュ(現ラファージュホルツィム)。
シリア北部アレッポの北東に工場を構えていたが、近郊をIS(の前身組織)が支配下に置くようになったため、2013年にIS側との「取引」が始まったという。

 ルモンド紙によると、石灰石を積んだトラックや従業員らの往来に支障がないようIS側に許可を求め、通行証の発行を受けた。また、仲介者経由でIS側から石油を買ったり、「税金」を支払ったりし、間接的にISに資金供給した形だという。
こうした「取引」は、工場の操業を断念した14年秋まで1年余り続いた。ラファージュ幹部も事情を把握していた模様。
 これに対してラファージュ側は「工場がある地域に紛争が迫るさなかでは、従業員らの安全確保が最優先課題だった」とする声明を出した。ISとの関係については言及していない。


2013~2014年というのは、湯川遥菜や後藤健二が拘束された時期と重なる。
拘束(人質)事件が発覚し大々的に報道されたのは2015年1月~2月。







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# by yumimi61 | 2017-06-02 16:10
2017年 06月 01日
Memorial Day
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この味がいいねと君が言ったから ファーストジューンはアイス記念日

空見上げ今日はいい日と言う君に 下駄を預けて気象記念日


"Have a nice day!"

The draft divide

you and me

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# by yumimi61 | 2017-06-01 23:33
2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-487-
伊香保・草津界隈の人ならば知っていると思うのですが、ドイツ人のベルツをご存知でしょうか。
伊香保には「ベルツの湯」という日帰り温泉があったのですが、今は食の駅になっています(これはまだありますよね?)。
草津の「ベルツの湯」は、今はベルツ保育園になっています。

ベルツの湯に関する怪文書!?

エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。

1876年(明治9年)に来日。
ベルツは伊香保と草津の温泉の効能を紹介した人物でもある。

草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

自身も草津に約6000坪の土地と温泉を購入し、伊香保温泉にも別荘を構え、幾度となく訪れた。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。

しかし同時に日本にとっては手厳しい日記を残している。
ベルツは花子という日本人女性と結婚しており、その2人の間に生まれた息子が後年(ナチス時代)ベルツの日記を日本語、ドイツ語、英語で出版した。
但し息子が母親の出生や両親の出会いなどは『ベルツ日記』から削除されたという。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。


歴史が無いと言ったのは伊藤博文である。
大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。

日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。


日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。


もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。



実はベルツは前記事に書いたベア商会のドイツ系ユダヤ人であるベア(バイル)と非常に親しくしていた。
日記にも再三登場する。
1880年(明治11年)3月17日、前年行われた西南戦争を題材にした芝居『西郷と鹿児島の変』を観覧。「恐ろしく退屈だったので、お昼にバイルのところへ行き、彼と一緒に再び劇場で数時間を過した」と記している。

1881年(明治12年)7月27日、「バイルのところで昼食中に烈しい雷雨があった。マニラ通のバイルは当地の雷雨の威力のちっぽけなことをあざけった」と記す。

1881年8月4日、「彼(ナウマン)はネットーやバイルと共に自分の一番親しい友人」と記す。

1881年10月20日、「又もやバイルと中村屋へ。日本画家の制作ぶりを見ようというのである。バイルは最も優れた画家たち(その中に狂斎もいた)を招いていた」と記す。
※狂斎(暁斎)は古河出身ですよ!
強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師。
海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。


1882年(明治13年)11月8日、「夜、バイル来訪。彼は日本人一といってもその指導階級だが―と国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の設立に関して折衝中である。バイルは金持ちだ。彼にとっては、もっと金を儲けることなどあまり問題でないことを日本人は知っている。だから彼は落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点で日本の発展にバイルほど寄与しし得る人物は他にないという一事だけは疑う余地がない。交渉が好結果に終わることを日本の繁栄のために祈る」

ベア(バイル)のベア商会は1880年に出された通達によって廃業に追い込まれて1881年には高田商会が誕生している。
ベアは結局ドイツに帰国するのだが、1882年の時点ではまだ日本にいた。
ベア商会廃業の代わりに別の会社の設立を提案されたようである。
ベルツは好結果を祈ったが祈りは届かったものと思われる。

ところで中村屋。新宿中村屋のサロンのことである。
中村屋サロン美術館公式より
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。そして1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになりました。それが「中村屋サロン」のはじまりです。

artscape中村屋サロンより
明治期末から大正期にかけて、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵とその妻・黒光(本名・良)の周りに集まった芸術家たちの交流を指す。1908年に、愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(号・碌山)がヨーロッパから帰国し、新宿中村屋の近くにアトリエを構えたことに始まる。荻原を慕う若い画家・彫刻家たちに加え、パトロンである相馬夫妻の関係する文学者や演劇関係者たちがジャンルや国籍を越えて交わり、そのなかで傑作が生まれ、夭逝や恋愛などロマンチックでスキャンダラスな出来事が幾つも起きた。特に、荻原の遺作であり第4回文展三等賞に浴したヌードの彫刻《女》(1910)は、荻原の黒光への秘めた思慕が表われたとされる。また、洋画家の中村彝は、新宿中村屋で出会ったロシアからの盲目の亡命詩人をモデルに《エロシェンコ氏の像》(1920)を制作した。これはレンブラントとルノアールの表現を咀嚼し、半透明の層を重ねた独自の暖かみのある表現に至り、大正期の洋画を代表する作品となっている。中村彝はまた、黒光の娘・俊子をヌードモデルにした作品を制作し、やがて恋愛関係になって求婚するも黒光に拒まれた。その後、俊子は、インドから亡命した革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚した。新宿中村屋に関わった美術家としてはほかに、同店の現在も使われるロゴマークを揮毫した画家の中村不折、彝とともにエロシェンコを描いた画家の鶴田吾郎、夭逝した彫刻家の中原悌二郎と戸張孤雁などがいる。ほかにも、相馬夫妻の子どもを教えたことがある美術史家の會津八一、女優の松井須磨子、評論家・社会主義者の木下尚江と秋田雨雀といった多彩な人々が、ここに関わり、さまざまな人生の交差する場となっていた。

何故中村屋に拘っているかと言うと、以前にも出てきたことがあるのです。原爆との関係で。
松方正義の家族から「弐キ参スケ」について書いたコチラの記事中にリンクしたサイトのサブタイトルが「広島・長崎の原爆は「新宿 中村屋」が製造使用した。」なのである。
群馬県沼田市から横浜に出て生糸業者を営んだ星野一家についてはパート4に書かれている。

さて、タイトルの“毛利元就”と云えば、「三本の矢の教え」で有名な話である。
その「三本の矢の教え=兄弟が結束して事に当たれ」が、日本製原爆完成にも生かされたと云う話である。その3兄弟とは、群馬県沼田市からでた星野3兄弟である<星野直樹・星野茂樹・星野芳樹+星野花子>それと、親子2代で朝日新聞記者だった野田豊(野田経済研究所々長)と、「野田皓一」である。
以上、6名の共通項は<皇室、日本キリスト教婦人矯風会、朝日新聞、日本共産党、福井県小浜市発心寺(原田祖岳)、上智大学、間組、京都大徳寺、京都真珠庵、京都青蓮院門跡(東伏見慈洽)、西園寺家、近衛家の旧宮家と旧華族>である。
毎度でてくる「戦争指導者の巣窟」ではある。

星野直樹は東条英機の私設秘書的な存在であり、星野茂樹は“トンネル屋”で、星野芳樹は“日本共産党員、満洲浪人、理論物理学者、静岡新聞記者、アフリカに学校建設、日本水泳界の重鎮”と多才な顔を持つ。
星野直樹と星野芳樹の二人は、大満洲帝国で傍若無人な振る舞いをしていたのであるが、星野茂樹は鉄道省の仕事で「丹那トンネル工事、関門海峡トンネル工事」の監督をしていたと云うのであるが、旧鉄道省(現国土交通省)の工事記録を見られれば、星野茂樹の活躍ぶりも理解できるが、星野茂樹自身の著作がないので“トンネル屋”が本業か?との疑念がある。
石川九五と丹那トンネル工事に従事した証言は、<証言・私の昭和史、テレビ東京、文春文庫刊>に有り、関門海峡トンネル工事に関しては<昭和17年11月、鉄道トンネルの開通に力を尽くした鉄道省下関工事事務所長星野茂樹らに木杯が下賜された際の裁可書>が存在している。

鉄道省に在職していたのだから、“元首相 佐藤栄作”と面識がないと云う事は考え難い。佐藤栄作と面識があれば、岸信介とも繋がり、其処から大満洲帝国に連なる、東京帝国大学系の「満洲帝国官僚の人脈」に繋がるのである。

当時の状況からして、星野茂樹が“大満洲帝国”に一度も足を踏み入れなかった事は更に考え難い。星野茂樹の細君(鳥居はな)が虚弱体質で、星野茂樹夫婦は“ままごと遊びの様な夫婦”だったと、星野芳樹は証言して居る訳だが?星野直樹が大蔵省から推薦されて、「満洲国務院 総裁」になったという証言は偽証である。星野直樹は大満洲帝国建国に始めから関わっていたから「満洲国務院 総裁」に就任できたのである。
又、東京帝国大学在学中に満洲旅行をしている筈だが、そこの部分は抜けている。

そう云った意味で<星野直樹、星野芳樹、星野茂樹>は、満洲で諜報活動をしていたのである。
当然の事ながら、諜報員としての名前には“伏野愿城(ふしの はれき:兵 アムール州・第19収容所 第2017病院 ザヴィチンスク死亡)”姓などを使用していた訳である。

さて、星野茂樹は満洲全土の地質調査報告書を作成して、日本製原爆製造の原材料“ウラン鉱脈”発見に貢献しているのである。
星野芳樹は、日本共産党幹部なのだから、当然、満洲中央銀行総裁西山 勉の秘書“大森寿恵子(日本共産党 書記 宮本顕治の夫人)”とは、昵懇と考えるのが自然である。
大満洲国の下町の情報を、兄星野直樹や大森寿恵子に報告していたのである。又、星野芳樹が共産党員として官憲に逮捕勾留されていた時期に、拘置所内で「理論物理学書を原書で読んだ」と云う事と、戦後原子力の平和利用を合法化した、日本共産党員で反ファシズムを標榜していた「武谷三男(京都帝国大学理学部卒)」が、特高に検挙されたら、取調室で「原爆製造の理論式を書いて、日本製原爆製造に積極的に協力した」のと同じ事を、星野芳樹もしていたのである。

星野直樹の根幹を形成する思想は「ブルードンは財産は盗賊だといってるぞ」と云うのだから、中国東北部を“大満洲帝国”として「国を盗んだ」訳である。
それを承知の上で、<前航空幕僚長 田母神俊雄と、上智大学名誉教授 渡辺昇一>は、日本の行為は「侵略(盗賊)ではない」と述べているのだから、やはり防衛省と日本の大学教授は“盗人たけだけしい連中”の集団だね。
星野直樹と東条英機は、“大満洲帝国”の官僚と軍の象徴的な存在である。その星野直樹が「盗賊」だと云うのだから、その思想で行動していた事は間違いないのである。次に星野一族と野田一族の関係を述べる。

星野直樹(ほしの なおき、官僚:満州国務院)
星野茂樹(ほしの しげき、官僚:鉄道省)
星野芳樹(ほしの よしき、官僚:日本共産党からアフリカまで)
星野花子(ほしの はなこ、戦前からアメリカ在住)
野田 豊(のだ ゆたか、朝日新聞記者、陸軍大佐、野田経済研究所長)
野田皓一(のだ こういち、ウズベキスタン抑留、朝日新聞記者)






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# by yumimi61 | 2017-05-31 23:35
2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-486-
明治維新の志士たちは、お金もないのにヨーロッパの協力を得たせいか、倒幕どころか世界征服の野望を持っていた。
日清戦争と日露戦争に勝利し、借金はその野望は膨らむばかりだった。
第一次世界大戦では空前の好景気に沸いたが、沸いたものは必ず冷める。この地球上に冷めない熱湯はない。
数年後には空前の不況が襲い、1930年頃には恐慌が起こった。
職を失い失望した人々は島にはない何かが大陸にはあるかもしれないと夢を見て海を渡った。
1932年には日本主導で満洲国が建国された。

日露戦争終結から3年後の1908年、泰平組合が設立される。
泰平組合は、三井物産、大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立され、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合である。

・大倉商事―大倉財閥の商社。新潟出身の兵器商だった大倉喜八郎が大久保利通や伊藤博文らとの親交により一代にて大財閥を築き上げた。海外支店を開設した初の日本企業(1874年にロンドンに)。

・高田商会―1880年、三条実美太政大臣(公家)により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう通達を出した。これによりその3年前にドイツ人により設立され、兵器商社として主に政府機関を取引先としていたベア商会が廃業に追い込まれ、ベア(バイル)はドイツに帰国した。ベアはユダヤ人であった。
そして同商会の番頭であった高田慎蔵、同じく同商会にいたイギリス人のスコット、ドイツ商人が設立した兵器商社のアーレンス商会(ベア商会のベアも高田も最初はここで働いていた)の出資により、内商であることを明確にするため高田慎蔵を名義人とした上で1881年に設立された。ベア商会の商権は同商会に買い取られた。高田商会も兵器商社である。
高田慎蔵と三井物産の初代社長はともに佐渡出身。

どの商社も日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で大きな儲けを上げた。
しかしながら高田商会は不況と関東大震災で被災により1925年に倒産している。
倒産した高田商会の後釜が三菱商事で、泰平組合は昭和通商(株主:三井物産・大倉商事・三菱商事)という名称で再出発した。

表向きは民間の商社として活動を開始したが、その実態は駐在員(多くは予備役の軍人だった)が現地で情報収集など諜報を行ったり、朝鮮・満洲・蒙疆で生産された阿片を中国市場に持ち込み、里見甫らの宏済善堂(阿片の分配のための阿片問屋。里見はその副理事長(理事長空席))を通じて換金し、戦争遂行に必要な戦略物資の調達にあたるなど、様々な活動を行っていた。

また、駐在武官が軍機内容の通信を陸軍省と行う際に、在外公館の無電を通さずに同社の無電を用いて暗号文を打電する“昭和通商依頼電”(いわゆる“依頼電”)など、日本陸軍の独自外交ルートとしても活用され、南京軍事法廷で死刑判決を受けた田中軍吉少佐が、昭和通商ハノイ支店長を務めていた事でも知られている。



吉田茂(旧名:竹内茂)が養子となった吉田健三(40歳で死亡)はジャーディン・マセソン商会の商人であった。
この商社もアヘンを扱っていて香港上海銀行設立時に出資している。

安倍首相の祖父・岸信介は1936年に満洲に渡った。
建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。
昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された。
東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴のまま無罪放免されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。


岸信介と吉田茂は、昭和通商の里見甫とともにアヘンの密輸出入や販売に携わっていた。
アイゼンベルグがサッスーン一族を駆逐してアヘン販売網を奪取できたのは、この日本勢の協力があったからである。
上海から日本に来たアイゼンベルグは里見甫とも出会っていたのである。

アメリカのラッセル商会でアジア担当だったウォーレン・デラノ・ジュニアが紅幇いう中国の秘密結社と取引をしており、その紅幇は蒋介石を支援したと前記事に書いたが、イギリスに貢献したサッスーン商会もやはり蒋介石を支援していた。
その蒋介石は日本と戦っていたわけだから次のような関係になる。
これはもうアメリカとイギリスは蒋介石を支援するしかない。
でもアメリカとイギリスは歴史的背景からしてそれほど仲が良いわけではない。

  蒋介石(中国国民党)vs日本・アイゼンベルグ
  ラッセル商会(アメリカ)vs日本・満洲・昭和通商
  サッスーン商会(イギリス)vs日本・満洲・昭和通商・アイゼンベルグ

厄介なことに清(中国)には次のような対立もあった。

  漢民族vs満洲民族(少数民族であるが清の支配層であった)
  漢民族(原住民)vs漢民族客家(北から南下してきた漢民族で我こそが正統であると主張する)
  満洲民族vs漢民族客家
  国民党vs共産党vs北洋軍閥(満洲は北洋軍閥の流れを汲む)

満洲は日本に置き換えられるので、中国(国民党)と日本(北洋軍閥・満洲)の勢力どちらもを抑えたければ共産党を支援するしかない。
サッスーン商会を潰されたイギリスにとってはアメリカを牽制する意図もある。さらに余計なことをさせないためにイギリスはアイゼンベルグも取りこんでおいたのだのだろうか。
ともかくロスチャイルドはアイゼンベルグによってアジアのアヘン市場をだいぶ縮小させられてしまった。

この頃、岸信介はアメリカのロックフェラーが二大政党制を強く主張しており、民主党の支援者になっていることを聞かされる。
それはつまり「ロックフェラーさんは、ロスチャイルドに対立して共和党を支援しているのに、民主党も支援しているんですよ~まったくねぇ」という話である。
ロックフェラーは元はロスチャイルドの子分のようなものだから、親分に忠実(民主党支援)であるふりもしなければならないし、かといっていつまでも子供でいるというのもどうかということで共和党を支援してみたりする。





 

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# by yumimi61 | 2017-05-31 00:54
2017年 05月 30日
日本国憲法の秘密-485-
ラッセル商会でアジアの麻薬と奴隷の輸出入を担当していた取締役がウォーレン・デラノ・ジュニア。
紅幇(ほんぱん)という名の中国の秘密結社と取引があった。(もうひとつ青幇という名の秘密結社もある)
経済的活動を中心とする互助的な組織。省外や海外などの異郷にあって同業・同郷・同族によって組織される。厳格な規約のもとに強い団結力と排他的性格を持つため秘密結社と呼ばれる。
当初は水運業の組合組織だったが、水運業が廃れ始めるとアヘン、賭博、売春を資金源とするようになった。
日中戦争において蒋介石が首都南京が陥落し重慶に政府を移した時に多くの紅幇が政府に協力した。(日本には勝ったものの蒋介石は戦後に中国共産党に敗れて台湾に移った―中華民国)

ウォーレン・デラノ・ジュニアの孫にあたるのが第二次世界大戦中のルーズベルト(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領である。
デラノ家は中国とアヘンを中心とした貿易を行い財を成した家系。その始まりはラッセル商会にある。
ノーベル賞を受賞したセオドア・ルーズベルト(共和党)とフランクリン・ルーズベルト(民主党)はもともと親戚関係にあった。
(さらにフランクリンは、)セオドア・ルーズベルトの弟エリオット・ルーズベルトの娘であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。
エレノアはイギリスの女学校で学んでいる。 戦後1952年まで国連のアメリカ代表を務めた。


この2人、党との関係性が何だかおかしい。
民主党系にバイアスがかかっているはずのノーベル賞を共和党のセオドア・ルーズベルトが受賞した。
セオドア・ルーズベルト大統領は大統領就任式に聖書を使わなかった唯一の大統領。
聖書重視のプロテスタント(もっと言えばキリスト教原理主義者)とは思えない行動である。
アメリカ共和党の支持母体はキリスト教原理主義と言われている。
政治スタイルもそれまでと違う民衆を味方に付ける方法を取り入れた。
一方のフランクリン・ルーズベルト。彼は原爆開発に乗り気ではなかった。科学を積極的に取りこんだリベラル民主党っぽくないのである。
そして終盤戦(原爆投下時)は同じく民主党のトルーマン大統領に変わった。
ブッシュ家はSkull and Bonesだけでなくラッセルにも関係しているがキリスト教原理主義で共和党である。

ラッセル商会の取締役にはアルフォンソ・タフトもいた。
タフト家も後に大統領を輩出する。 連邦準備制度を相談したジキル島会議が行われた時に大統領だったウィリアム・タフト(共和党)である。

現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。

黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。


この時(1912年)は誰が大統領になっても良かったのではなく、民主党のウッドロー・ウィルソンを勝たせたかったのであろう。だから共和党の票を割るためにノーベル賞受賞者である元大統領セオドア・ルーズベルトが引っ張り出された。
アメリカ民主党はイギリスやカトリック、ロスチャイルド寄り。
アメリカ共和党はアメリカ独立や聖書を重視している。ここにロスチャイルドからの完全なる分離独立を画策するロックフェラーが付いた。
第二次世界大戦はロックフェラーが仕掛けたのであろうということは前述した。
セオドア・ルーズベルトは共和党でありながら民主党(リベラル)(もっと言うとイギリスやカトリック)に近い政治家であった。
そして第二次世界大戦中のフランクリン・ルーズベルトは民主党でありながら共和党に近い政治家であった。
当時はまだ2期までという決まりが無く史上唯一4選(1933年3月4日~1945年4月12日)している。がしかし、原爆開発には積極的ではなかった。

デラノ家とルーズベルトの出現によって世界は混沌としてくる。



香港上海銀行はアヘン貿易がもたらした銀行とも言える。そして昨日このように書いた。
ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。


その中のデイヴィッド・サッスーン商会。
設立者はデイヴィッド・サスーンである。
インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。


このように世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。
ではそのアイゼンベルグとは何か?

・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。


ショーン・アイゼンベルグ(ショール・アイゼンバーグ、シャウル・アイゼンバーグ)という人物がいる。
その「アイゼンベルグ」だという。

ショーン・アイゼンベルグ(1926-1997年)
旧ハザール王国領に隣接していたウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域のうちポーランドに属するガリチア出身の貧しい労働者階級のユダヤ人の両親もと、1926年にドイツのミュンヘンで生まれた。

ここで一つ大きな疑問がある。
アイゼンベルク(アイゼンバーグ)はドイツの地名である。
ドイツ出身ではない一族がなぜドイツ名なのか。おそらくどこかで改名したか偽名だろう。
  
ドイツは第一次世界大戦(第一次世界大戦はロスチャイルドの庇護無しで驚異的に発展したドイツが脅威だったから起こったと思われる)に敗れて民主的共和制のワイマール政権となる。
この頃のドイツ共産党(KPD)の党員の多くがユダヤ人であった。そしてソ連の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。
王族やローマ教皇、貴族やロスチャイルドなどは旧体制を代表するものである。それらは共産主義が目指すものではない。旧体制にとっては目の上のタンコブ。ドイツの発展が脅威だったように共産主義インターナショナルもまた脅威だったのであろう。
共産主義インターナショナルは独裁で暴力的でろくな組織ではないと吹聴し、それを排除するために多額の資金が提供された。それもユダヤ資本と言われている。
 共産主義インターナショナルに参加していたユダヤ人、
 それを撲滅するために資金を提供したユダヤ人、
相反する2種類のユダヤ人がいることになる。これも混乱のもとになっている。

第二次世界大戦の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)は親カトリック国で反共産主義インターナショナルの同盟であった。

ユダヤ人であるアイゼンベルグ家は1938~1939年にかけてアルプスを越えてスイスに入った。
スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。
第二次世界大戦がの最中にオランダから中国の上海に向った。上海には各国・各組織の諜報員たちが蠢いていた。
そして日中戦争の最中の1940年にショーン・アイゼンベルグは日本にもやって来た。
彼は日本で、日本人女性と結婚したオーストリア人の画家と接触した。その画家もスパイだったのだろうか
日本人女性は官僚の家系の娘だったという。
こうしてアイゼンベルグは財界四天王の一人である永野重雄を紹介され、終戦直後にスクラップ工場を設立している。
またアイゼンバーグは日本人と結婚して日本国籍を取得している。
そのお相手はオーストリア人画家と官僚家系日本人夫妻の娘だという説もあれば、永野重雄の娘とする説もある。(永野重雄の次女の夫は日本銀行職員) いずれにせよその娘はユダヤ教に改宗した。

永野重雄については何度か書いているが、先日も登場した
ソニーの盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した1989年に入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎(カトリック教徒)について書いていた時である。

歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。

全日空(ANA)の前身は朝日新聞航空部である。
会社設立に協力したのは永野重雄。若狭得治に「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と言わしめるほど。
何で急にANAの話が出てくるかと言うと、航空機のことを書いていた過去記事にも経済同友会が出てきたからである。
経済同友会を創立し初代代表幹事に就任したのは他でもない永野重雄である。



これも不思議だが、イギリスに貢献したサッスーン一族を殺して麻薬販売網を力ずくで奪い取ったアイゼンベルグを、イギリスの国有会社インペリアル・ケミカル・インダスト(ICI)の日本での代表者としてイギリス政府が指名し、それによって彼は世界的なビジネス・コネクションを手に入れた。
もっともイギリスは王室と政府(貴族と庶民)という2つの権力があるので、事と場合によっては在り得るかもしれないが。
アイゼンベルグはもちろんアメリカとのコネクションもあった。
パキスタンに原発を売ったのはこのアイゼンベルグで、パキスタンが原爆を開発しつつあるとのキャンペーンを張ったのはアメリカとイスラエル。

スパイ(諜報員)はスパイと名乗って近づかない。詐欺師は詐欺師と名乗って来ない。
思想も主義もない金が全ての人もいる。ある力だけを買われた前後左右の関係や背景をよく知らない人物も増えてくる。
マインドコントロールによって意味も分からず動かされる人もいる。
世界はいよいよ複雑になり、表面的なことだけでは真実は見えにくくなっている。








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# by yumimi61 | 2017-05-30 13:16
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-484-
前記事に書いたシェルバーン家はスイスユニオン銀行(UBS)の経営一族でありスイスの金融家でもあった。
ロスチャイルドなどに有利な条件で資金を貸し付けてきた。
シェルバーン家に財産を管理させたのがキャボット家。キャボット家の創始者はアメリカ大陸発見者。
キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族、企業にさらに貸し出す

ジョン・キャボット
中世の航海者。カトリック教徒。北アメリカ大陸の発見者として知られる。
コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、ヴァイキングの航路を辿ってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。この二度目の航海でデラウェアとチェサピーク湾を発見したことは、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。


セバスチャン・キャボット
16世紀のイギリスの航海者。父と共に北アメリカ大陸の発見者に名を連ねる。
ヴェネツィアの航海者ジョヴァンニ・カボートの子として生まれる。1484年にイギリスに帰化。1497年には、ブリストルを出航してアジア航路を開拓する船団に参加。父ジョヴァンニは翌1498年の航海途上で亡くなるものの、セバスチャンはその遺志を継ぎ、1508年には北アメリカの東海岸を探検する。そこでは後のハドソン湾、ハドソン海峡を発見し、南北をなぞるようにフロリダまで達した。

しかし、父子ともども庇護を受けたヘンリー7世の死後、後を継いだヘンリー8世が出資に消極的であったためにイギリスでの活動を諦め、1513年に英国王の使節として赴いたスペインにそのまま移住。宮廷に仕えて主席水先案内人の地位を得る。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。1533年に赦免された後はイギリスへ戻り、「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands、モスクワ会社の前身で、レバント会社やイギリス東インド会社の先駆者)といった会社の総支配人や製図業者として北極海を通したロシア貿易航路探検隊や北東航路探検隊を組織し晩年を過ごした。


庇護したヘンリー7世と出資に消極的だったヘンリー8世、この2人の何が大きく違うかと言うと、カトリックとの関係である。
結婚離婚や世継ぎを巡ってローマカトリックと揉めて、イングランド国教会をカトリックから分離独立させたのが、ヘンリー8世(在位:1509-1547)である。
さらにアイルランド王を兼務するようになったのもヘンリー8世の時からである。
しかし再びイギリスとカトリックは近づいて行く。それが1700年後半。
シェルバーン家はアイルランド貴族となり重要な役割を果たす。


大航海時代に貿易でお金になったのは、鉱石、麻薬、お茶、絹や綿繊維、香辛料、奴隷(移民希望者)など。
シェルバーン家もアヘンと奴隷で儲けたが、それはつまりキャボット家がアヘンと奴隷で大儲けしたということでもある。
イギリスは清(中国)とアヘン戦争したことからも分かるように国家ぐるみでアヘンを輸出していた。
麻薬の素晴らしいところは中毒性があるところである。
イギリスは中国から物を買うのに銀で支払っていたけれども、「銀なんかいらん、頼む、アヘンで払ってくれ!」とかなんとか言われたらしいから、イギリスにとっては中毒様様である。

ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。

そんなに美味しい商品(麻薬)ならばと、アメリカからも参入(というか権益を分けて上げた)。その1つにラッセル商会がある。
ラッセル商会
19世紀に極東で著名であったアメリカ系の貿易会社である。主に上海に拠点を置き、横浜にも支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入を中心に取引を行なっていた。
1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミドルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセルにより広州で設立された。


アメリカのアヘン輸入専売会社であるラッセル商会は、アヘンと中国人奴隷の輸出入業社で、アヘン常用者の中国人苦力(クーリー)を奴隷としてアメリカに運んで鉄道建設などに従事させた。常用者なのでアメリカでもアヘンを欲しがる。当然アメリカにも入っていく。

キャボット家はこのラッセル商会にも出資していた。またフォーブス家(世界の富豪を発表しているあのフォーブスです)も出資していた。

ラッセル商会設立者サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルはピューリタン(清教徒)系大外のイェール大学で「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones、S&B)も創設している。

Skull and Bones(S&B)
アメリカのイェール大学にある秘密結社。「The Brotherhood of Death」の異名がある。会員名簿は公開されている。ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した。

構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。週に二回ニューヘイヴンのクラブストリートのはずれの窓のないクラブハウスで議論をするために集まる。なおイェ―ル大学には他に、「スクロール&キー」「ベルセリウス」「ブック&スネーク」「ウルフズヘッド」と呼ばれる結社が存在している。
アメリカの大学に複数ある排他的結社の一つで、入会に関する一切が不明であり、ただ大学の「新入生の中から15人選出される」のみが判明している。

 入会式に関しては、「新入生がドロレスをする」「棺桶に入り、初体験などを告白する」と言われる。入会者へは高価な振り子時計が送られ、卒業の際には1万6000ドルが送られるという。

 322という数字に意味を付けている。「新入生には、322のナンバープレートを盗ませる」「入会に際し、頭蓋骨と322が描かれ、リボンがかけられた黒い封筒が送られる」「デモステネスの没年であるBC322年を基本とし、会員(ボーンズマンと呼ばれる)はBC322年を紀元1年とするカレンダーを使う」などと言われている。

 これに関し、スカルアンドボーンズは元来ドイツの大学の学友会で、W・H・ラッセルが、在学中ドイツへ留学したおり、むこうの学生と深い親交を結び、帰国後、フラタニティの名前を「322番目の」学生結社とした、という説がある。 

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリー(1966年)とジョージ・W・ブッシュ(第43代アメリカ合衆国大統領。入会時は1968年)が2人ともS&B出身だった。また、ジョージ・W・ブッシュの父である第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュ(1948年)や、祖父のプレスコット・ブッシュ(1917年)もS&Bのメンバーだった。

プレスコット・ブッシュはS&Bでハリマン家の息子ローランド・ハリマンと出会い、銀行家の道を歩み成功する。その後、二人はユニオン銀行の頭取と社長として、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンと深い関係を築いていく。
歴代のCIA長官はボーンズマンが務めている。その他、ボーンズマンは金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも存在している。

ボーンズマンen:Daniel Coit Gilmanは、en:Timothy Dwight V・アンドリュー・ディクソン・ホワイトの2人とベルリン大学へ哲学を学びに留学した仲間だったが、1856年にS&Bを Russel Trust Association として改組した。これはen:Russell Sage Foundationの前身である。


ブッシュ大統領は一般的にはS&B会員だったというよりキリスト教原理主義者(聖書重視の変わらない福音派でリベラルと対立する、プロテスタント)として有名である。


"Skull and Bones"という名称は儀式に頭蓋骨や骨を用いたかららしい。(なにせ秘密結社なので断定は出来ない)
それもアメリカ大陸の先住民であったアパッチ族の指導者のそれを利用したらしい。
ちなみにアパッチ族のアパッチはズニ族の言葉で敵という意味でフランス人が命名したもので自ら名付けた部族名ではない。(先住民同士でも敵味方があったわけですね)
アパッチ族
ヨーロッパからの移民(いわゆる白人)に対しても絶えず、強力で好戦的な部族であり、アパッチの有名な指導者として知られるコチーズ、マンガス・コロラダス、そしてジェロニモなどは、敵対したアメリカ陸軍やメキシコ陸軍から、獰猛な戦士、また熟練した戦略家として知られている。

こうしたことから"Skull and Bones"は有色人種撲滅を目指していたのではないかと言われることもある。
しかしながらイェール大学は反イギリス・反イングランド国教会のピューリタンがルーツにある。
確かに当初は反イギリス・反イングランドだったフリーメイソンやピューリタンが変異したことを考えれば、後の時代に出来た"Skull and Bones"はすでにカトリックやイギリスと繋がっていたと考えることも出来る。そこに秘密結社の背徳的な感じと奴隷問題などが相まって有色人種撲滅を想像しても不思議はない。
でもブッシュ大統領がキリスト教原理主義だったことから考えると、そういった組織だったとは考えにくい。
聖書の登場人物、ユダヤ人もアラブ人もアブラハムもモーゼもキリストもみな有色人種である。
だからアパッチ族の骨を使った儀式はむしろ獰猛な戦士・熟練した戦略家に肖ろうとするものだったのではないだろうか。
では"Skull and Bones"が思い描いていた敵は誰なのか?
イェール大学だけにイギリス?ロスチャイルド?リベラル派?カトリック?内紛的にアラブ人?イスラム?(ラッセルはトルコ産のアヘンを売り捌いていた。イギリス系は主にインド産)











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# by yumimi61 | 2017-05-29 16:11
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-483-
押しも押されぬ世界的財閥となったロスチャイルドもロックフェラーも最初から財閥だったわけではない。
いいとこ200~300年の歴史。
ヴェネチアやスイスの金融の歴史はもっと長い。


ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争いである。
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた。
このハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。
ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。
ロスチャイルドは元々はヘッセン家の金庫番であった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)

■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)

1714年よりイギリスの王家がハノーヴァー出身となる。つまり反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)ということになる。
フリーメイソンは当初反イギリス・反イングランド国教会であった。つまり親カトリック。
アメリカに渡ったのは反イギリス・反イングランド国教会の教徒たち(ピューリタン)で、それはフリーメイソンとも深く関係していた。アメリカをイギリスから独立させた勢力とも言える。
啓蒙思想などを介してフランスのフリーメイソンにも応援を求めた。
それら勢力とアメリカで戦ったイギリス正規軍はヘッセン家(プロテスタント)が調達した。
一方イルミナティは親カトリック(親教皇)。ヘッセン家から破門された男爵が支援しており、神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)側に取り込まれ、反ヘッセン家(反プロテスタント)組織となった。


ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
         フリーメイソンvsイルミナティ   

右側サイドがやや劣勢に立つ。
そこに登場したのがナポレオン!ヨーロッパの王族や貴族は新しい敵を前に一致団結!!
この反ナポレオン勢力に資金を貸し付けたのがロスチャイルド家で、傭兵を貸し出したのがヘッセン家。
ナポレオンはカトリックの権威を利用しようとカトリックに近づく。
しかしナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
ナポレオン撃破に貢献したのはカトリックということで教皇の地位も上がりイエズス会は晴れて復活。
かつてカトリックに対立したヘッセン家は傭兵と郵便支配(ナポレオン戦争のドサクサに紛れてタクシス家を掌中に収めた)で大儲け。ヘッセン家の財産はロスチャイルドがロンドンに移し守ってくれた。
両者win-winで万歳!!


●イギリスの諜報活動担当:シェルバーン家

シェルバーン家はアイルランド貴族。
イングランドの君主(王)がアイルランドの君主を兼ねるようになったのが1509年から。
シェルバーン家は「伯爵」という爵位を1719年に与えられた(1期)。元はアイルランド議会の議員であった。
貴族は基本的に世襲だが国家功労者などに与えらえることがある。
最初のシェルバーン家(伯爵)は継承者なく一代で途絶えてしまう。
次にまたシェルバーン伯爵の称号が与えられたのが1753年(2期)。1期シェルバーン伯爵のにあたる人物だったとか。
1766-1768年に首相を務めたウィリアム・ピットもシェルバーン伯爵の配下の一人であった。戦争をしたがらないウォルポールを批判して台頭した。1766年にチャタム伯爵の称号を与えられる。
1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。

※イギリスのシンクタンクである王立国際問題研究所(通称:チャタムハウス)はウィリアム・ピット一族所有の建築物である。
王立国際問題研究所と外交問題評議会(CFR)は姉妹機関。
"When a meeting, or part thereof, is held under the Chatham House Rule, participants are free to use the information received, but neither the identity nor the affiliation of the speaker(s), nor that of any other participant, may be revealed".
チャタムハウスルール (Chatham House Rule) とは、王立国際問題研究所に源を発する、会議参加者の行為規範である。チャタムハウスルールを適用する旨の宣言の下に運営される会議においては、当該会議で得られた情報を利用できるが、その情報の発言者やその他の参加者の身元および所属に関して秘匿する(明示的にも黙示的にも明かにしない)義務を負うというルール。このルールの適用により、参加者はその所属する組織への配慮や、発言が自らのものとして公表された際の影響を度外視しやすくなるため、進行中の問題や政治的な話題を取り扱う場であっても闊達な議論をもたらすとともに、情報の共有が促進されることが期待される。また、会議全体ではなく、その一部のみへの適用も可能である。このルールは、王立国際問題研究所において1927年に考案され1992年および2002年に改正されたものであるが、その適用は同研究所主催の会議等に限定されるものではなく、英語圏を中心に広く一般に用いられている。


なんでもかんでも出所(出典)を求めるなんてナンセンスですよね!?
それはともかく、シェルバーン伯爵の息子(2代目)もイギリスの首相を務めている(1782-1783年)。

イギリスの爵位
・公爵(Duke)・・・現在ならばウェールズ公チャールズやエディンバラ公フィリップ王配など。
・侯爵(Marquess)
・伯爵(Count)
・子爵(Viscount)
・男爵(Baron)
・準男爵(Baronet)
・騎士(Knight)

1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。
1714-1727 ジョージ1世
1727-1760 ジョージ2世
フリーメイソンはこの時代に創設されている。

シェルバーン家は、ヴェネチア、ジェノバ、ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドンなどを転々とし、アヘンと奴隷で莫大な富を築いた一家。
イギリス・フランス・スイスのイエズス会との関係を築き上げていて、フリーメイソンの上層部にいた人物でもあった。
シェルバーン伯爵は神秘主義(悪魔崇拝とも言われる)に魅せられていたという。
イエズス会が解散させられたのが1773年。
イルミナティはイエズス会が解散後のイエズス会の内紛をきっかけに1776年に創立されたとされている。(イルミナティ創設はイエズス会の中の親教皇派によるものではなかったということは前述した)
イルミナティ創設にはシェルバーン伯爵が関与していて、ここでプロテスタントのはずのイギリスとカトリックが明確に繋がり、さらにフリーメイソンとも繋がることになる。







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# by yumimi61 | 2017-05-29 00:32
2017年 05月 27日
Horn
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"For there is no good tree that brings forth rotten fruit; nor again a rotten tree that brings forth good fruit."

Beetle spends most of their time on rotting wood or in decaying leaves.

I'm not a bug!

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# by yumimi61 | 2017-05-27 23:57
2017年 05月 26日
日本国憲法の秘密-482-
【イエズス会について】

上智大学は学校法人上智学院のもとにあり、ローマ・カトリック教会に所属する男子修道 会の一つ、イエズス会が設立母体です。上智大学に隣接して建てられている聖 イグナチオ教会も宗教法人ですがやはりイエズス会の経営によるものです。

上智大学の使命は、カトリックの伝統とイエズス会教育の特徴を受け継ぐもので、「キリスト教ヒューマニズム」に基づく人間教育を中心に据えている。

<上智大学公式サイトより>

上智大学の他にも、聖心女子大学(美智子皇后出身校)、清泉女子大学などはイエズス会が設置母体となっている。
このイエズス会発の聖心女子大学と清泉女子大学に、ローマカトリック教会のシャルトル聖パウロ修道女会が設立母体の白百合女子大学を合わせた3校が東京都内でのお嬢様大学3Sとして有名。
3Sは全てカトリック系の大学である。
大学と聞けばすぐに偏差値を持ち出す人もいて、「そんなに偏差値高くないのにどうしてお嬢様大学なわけ?」とか言い出す人がいるけれど、お嬢様に偏差値は関係ありません!
日本の学校や教師はこうした宗教的背景のある学校であっても、生徒や保護者に信仰の有無や信仰している宗教を尋ねることもなく、もっと言うと世間における格式なども全く考慮せず、偏差値の妥当性だけで平気で薦めることが多々あるのだが、それはどうなんだろうと私は前々から少々疑問に思っている。
まぁいろんなことがどっちもどっち状態なんだろうけれども。

イエズス会は男子修道会であり、イエズス会系の学校も当初男子校であった。女子の入学が認められたのは1900年代以降が多い。上智大学が共学となったのは1957年。
イエズス会の初代会長を務めたイグナチオ・デ・ロヨラは「高貴な婦人に奉仕することが最大の理想であった」と後に告白したそう(下世話な話だけどマゾヒスティック?女王様・・)。
「高貴な婦人」が「聖母マリア」に投影されて、聖母マリアこそが理想の女性像になり、深い敬愛の念を抱いたんだとか(下世話な話だけれど処女性にサディズム?ジャンスカ的な?それともやっぱりセーラー服?)。
上智は元男子校だからあれだけど、イエズス会で最初から女子高というのは「高貴な婦人」=「お嬢様」=「奉仕されるべき女性」という発想なんでしょうね。

前記事にも書いたように1773年にイエズス会は教皇によって解散となった。
ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世(ロシア女帝)がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

イエズス会が細々と生き残っていたのがロシアとプロイセン。
プロイセンは当時神聖ローマ帝国内の王国であった。
神聖ローマ帝国は、このプロイセンと、神聖ローマ帝国の皇帝を世襲していたハプスブルク家のハプスブルク君主国が、広い領地を保有していた。
その他に多数の中小領邦国があった。
プロイセン王国は現在で言うとポーランド、リトアニア、ラトビア、ベラルーシ、ウクライナの一部辺りがその領地。

1814年、教皇(ピウス7世、イタリア貴族出身) によりイエズス会の復興が許可された。
その前後に何があったかと言うと市民革命であるフランス革命(1789年勃発)と、それに続くナポレオン戦争である。
フランス革命はアメリカは独立戦争より10年ほど遅れて起こった。
神聖ローマ帝国はナポレオンとの戦いに敗れて1806年に崩壊した。
(しかしハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北まで統治し続けた。)

フランスの市民革命やナポレオン戦争、それは旧権威・権力(王族やカトリック教会)との戦いだったはずである。
これをもう一度思い出してほしい。

ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                           −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)

・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)


イギリスとカトリック、カトリックと反カトリック勢力(プロテスタント)を繋げたのは「蓄財は悪ではない」のカルヴァン、黒い貴族、ヴェネチア・スイス金融家である。

市民やナポレオンが旧権威・権力と戦うためにはかなりの資金が必要である。
先日私は「フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ金融家 に付け込まれるようになった」と書いたが、誰が新勢力に資金を提供していたのか。
そしてナポレオンに権威を与えるのは誰か。
それがヴェネチア・スイス系の金融家、カトリックのローマ教皇であるならば、フランスはやはり上記ラインに取りこまれることになる。


フランス革命は旧体制との戦いである。当然革命側とカトリック教会(及び反革命勢力)は激しいい対立に陥った。
それを収拾するために、1801年、ナポレオンとローマ教皇(ピウス7世)との間で修好協約が締結され、フランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係を修復した。
ナポレオンは自身が皇帝になったことことからも分かるように、市民がイメージする市民代表者ではない。
そもそも十分な資金がなければ大規模な戦争なんて出来ない。
1804年のナポレオンの皇帝戴冠式にはローマ教皇が出席している。
またナポレオンはカトリック盟主の神聖ローマ帝国ハプスブルグ家の娘と結婚している。
ナポレオンは自分の権威を確かにするためにカトリックを選んだのだ。
以後カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復した。

ナポレオンはカトリックを利用した。
1804年のフランス訪問で「ナポレオンに利用されている」と感じた教皇とナポレオンとの関係は急速に悪化し、ナポレオンが教皇領を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを破門。
1809年、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアのサヴォーナに監禁した。ナポレオン退位後、1814年にようやくローマへ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。


天才騎士だったナポレオンは多くの敵を作り、ローマ教皇とも持ちつ持たれつの関係になれずに(教皇はすでに権威者であったし古参者もいた)、一時代を終えることとなる。
大規模戦争であったからこそナポレオンは天才と形容されたとも言えるが、資金の調達などを考えると皮肉なことでもある。
時代が終われば、迫害されたローマ教皇というイメージだけが駆け巡り、強かったナポレオンが落ちた分だけ教皇の地位は逆に上がる。
イエズス会が復活したのはナポレオンが失脚した1814年のことである。
ナポレオンにとって痛手だったのはロシア遠征での敗北やプロイセンの参戦である。これが失脚に繋がった。
ロシアやプロイセンと言えばそう、イエズス会が生き残っていた地域である。
ヨーロッパ諸国にイエズス会が再び認められたのはナポレオンという新たな敵を倒した功績によるものだったのではないだろうか。

復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。
弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。


教皇不可謬説
カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。

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アメリカ独立革命とフランス革命の双方において活躍し、「両大陸の英雄」(The Hero of the Two Worlds、le héros des deux mondes)と讃えられた人物がいる。フランスのラファイエット侯爵。
ラファイエット侯爵はベンジャミン・フランクリンの考えに共鳴し、1779年にはフリーメイソンへ加入している。フリーメイソンへの加入儀式を執り行ったのはアメリカ初代大統領となtったジョージ・ワシントン。
アメリカ建国に携わった人物はほとんどフリーメイソンだった。

ベンジャミン・フランクリン
父親はイギリスからアメリカに渡った移民。アメリカでは奴隷所有者であった。
父親にはイギリスで結婚したイギリス生まれの妻がいて一緒にアメリカに渡った。2人の間には7~8人の子供がいたが、妻は亡くなる。
ベンジャミンは妻の死後4か月後に再婚。さらに10人ほどの子供が出来た。(全部再婚した妻の子かは不明)
ベンジャミンはイギリス生まれの妻の子ではない。最後の方に出来た子である。

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。
個人崇拝を敬遠する
(?)アメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。

ベンジャミン・フランクリンは1730年にフリーメイソンに加入し、1734年にはグランドマスターとなる。
印刷業を営んでいたので発行物はお手の物。
図書館や学術協会を設立し、ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長を務めるようになると、印刷業から引退し公職に専念しつつ啓蒙思想の普及に身を捧げるようになる。
1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。
ベンジャミン・フランクリンは科学者でもあり、ロンドン・ロイヤル・ソサエティ(現存する最も古い科学学会、1660年にチャールズ2世国王の勅許を得て設立)の一員でもあった。
ベンジャミン・フランクリンはイギリスのトマス・ペインにアメリカへの移住を提案。これを受けて1774年にアメリカに渡った。
トマス・ペインはアメリカ独立戦争が始まった翌年の1776年1月に『コモン・センス』というパンフレットを発表、アメリカがイギリスから分離独立することが正当であることを簡潔に力強く訴えた。
このパンフレットがベストセラーとなり独立の気運が高まり、1776年7月4日にアメリカ独立宣言をする。(まだ独立戦争の最中で勝利したわけではない)。
ドイツでイルミナティが設立されたのは1776年5月のことである。

イギリスから独立すべきと煽ったのはイギリス出身者だった。
やはりフリーメイソンの当初の特色である反イギリス王(反ドイツ出身王)・反イングランド国教会がベースにあった。
そこに啓蒙思想や科学が取りこまれる。この橋渡しがベンジャミン・フランクリン。
後にフリーメイソンとイルミナティも結合する。

アメリカの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物だったそうである。
自由の女神が左手に持っている独立宣言書には、アメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命が勃発したバスティーユ襲撃の日である「1789年7月14日」がローマ数字で刻印されている。
またその足元にはかつてフリーメイソンのシンボルマークとともに以下のように記されているプレートがあった。
e0126350_17494658.jpg


AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK. GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT. THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.

(訳)この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。


1884年にフランスで仮組みし、それを幾つかに分解してフランス海軍輸送船でアメリカに運び、1884年8月5日に設置式典、1886年10月28日に除幕式が行われた。

ただ前述の対立するイギリスのフリーメイソン(グランドロッジ)とフランスのフリーメイソン(グランドオリエント)は1877年頃に公式に関係を断絶している。
従ってフランスに最初に出来た啓蒙思想に忠実なフリーメイソンではないと考えられる。
またフランスはナポレオン失脚後に王政復古し、15年後に7月革命(中流階級であるブルジョワ革命)が起きて、7月王政(立憲君主制、ブルジョワ支配、選挙権を持つ国民は1%に満たない)が18年ほど続き、王政が完全に終了したのが1848年のことで、1700年代のフランス政府と1800年代のフランス政府はかなり違いがある。
自由の女神にはフリーメイソンやイルミナティにとって何かと問題児だったフランスがやっと落ち着いたという意味もあったのではないだろうか。

なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言(1789年)の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。







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# by yumimi61 | 2017-05-26 11:50
2017年 05月 25日
日本国憲法の秘密-481-
カトリック教会に異を唱え宗教改革が起こった16世紀以降に出来た新しいキリスト教会(宗派)をプロテスタントと言う。
これを福音教会(福音派)とも言う。
教皇だとか誰か他の偉い人の言葉を信じて動くのではなく、聖書を唯一の神の言葉と信じる教会である。(万人司祭主義)
何故こんな考え方が生まれたかと言えば、カトリック教会が権威を振りかざし信徒の信仰心を利用してお金を吸い上げ腐敗していたからである。

当時改革派だった福音派(プロテスタント)も時代が進むと保守派と呼ばれるようになる。
それは科学の発達(科学信仰)によって、聖書に記されていることをそのまま受け入れることを拒否する人が現れてきたからである。
こうした聖書批判が行われたことによって聖書を信じない、あるいは聖書の記述をそのまま信じることは出来ない(新しい解釈なり変化が必要)という人も増えてきた。
このような立場を取る人達をリベラルと言ったりする。
しかし依然福音派を信じる人もいる。
特に近代主義や合理主義の先端を行くことを自負するアメリカにおいて、科学者が提唱した進化論、人工妊娠中絶や同性愛などを頑なに拒否する福音派の人達は「キリスト教原理主義」と非難や侮蔑の意味合いを持って呼ばれる。
共和党の支持基盤だと言われ、ブッシュ大統領の信仰心が有名である。
でも「キリスト教原理主義」(プロテスタント、福音派)はもともとはカトリックに対立した改革派であった。

宗教改革はドイツのルター(ルーテル派)が有名だが、同じ頃スイスのチューリッヒでも宗教改革が起こっていた。
指導者はフルドリッヒ・ツヴィングリ。
カトリック教会制度に疑問を感じはじめ、やがてルターと同じく聖書や信仰こそが大事であるという万人司祭主義をとるようになる。
しかしながらその他の点についてはルターとの一致点を見出せずルターとも対立した。

神父であることからも分かるようにルターは元々は熱心なカトリック教徒であった。
おそらく神学博士として聖書を研究すればするほど乖離するものが増えていったのだろうと思う。
そんなルターがカトリック体制に反旗を翻した。
なるほど説得力のある話である。

しかしルターは「95のテーゼ(95ヶ条の論題)」をラテン語で記述したのだった。
すでに述べたように1300年中頃の黒死病の大流行を経てラテン語は消滅しつつあった。
ラテン語を読める人などほとんどいない所にラテン語で掲示したというのだ。
神学博士ゆえのプライドか、ラテン語が消滅しつつあるにも係わらず公用語にしているローマ教会や何の疑問もなくローマ教皇やローマ教会を支持する無知な聖職者や修道士に対するアンチテーゼか。
それとも逆に神父であり博士であるが故の非常識さやバランス感覚の欠如がそうさせたのか。
いずれにせよ、その掲示だけで大きな反響と支持を集めることは困難である。


私はルターは利用されたのではないかと思っている。

(略)
こうしてローマ教皇は、東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)という4つの敵を抱えることになった。

しかし同時にヴェネツィアの地中海商業覇権がユダヤ人に変異をもたらした。
前に書いた「サタンは悪者ではない派」や「黒い貴族」が生まれたのである。
さらに事を複雑にするのがユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教を信仰すればユダヤ人になれるならば、ビジネスに成功したユダヤ人を見てユダヤ人になる(ユダヤ教に改宗・入信する)人もいるだろうと思う。
敵対関係にあって差別や迫害の対象になりやすいとはいえ、商いや金融においては「ユダヤ人」がブランド力になるからだ。
この変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったのではないだろうか。
つまりローマカトリックにとっては、味方のユダヤ人もいれば、敵のユダヤ人もいるという状態である。

その後、4つの敵の2つは消えていった。
東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)

一方、新たに反カトリックという敵が生まれた。
この反カトリック勢力と黒い貴族が近づいていったのではないだろうか。
変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったように。
ルターは利用されたような気がする。

さらに、変異したユダヤ人と黒い貴族は起こり方が似ているので、この両者を近い存在だと考えれば、複雑な関係が浮かび上がる。
  ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                              −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)



フルドリッヒ・ツヴィングリはチューリッヒで徹底的にカトリックに対抗し成果をあげていく。
そしてそれがスイス全土に広がりを見せつつあった。
スイスの州はカトリック派とプロテスタント派で武力衝突(スイス内紛)するようになる。(ドイツでも両者が武力衝突した)
その戦いの中でフルドリッヒ・ツヴィングリは志半ばで戦死した。
ツヴィングリの死後にその派閥に近づいたのが「蓄財は悪ではない」と説いたフランス出身のカルヴァンだった。
カルヴァンも蓄財を悪とした既成の教えを否定したのであるから改革派(福音派、プロテスタント)である。彼はジュネーブにいた。
ツヴィングリ存命時の勢いを失っていた反カトリックであるツヴィングリ派はカルヴァンの呼びかけに応じ合同信条を作成したチューリッヒ協定を結ぶことでカルヴァン派と合流した。
これが長老派教会となったのだ。
牧師と教会員から選ばれた長老とにより教会が運営されるため「長老派」と呼ばれる。主にスコットランドやアメリカに広まった。


ツヴィングリが生きている時には戦争をするほど反カトリックであった。
先日私は「長老派教会ほどカトリックと対立しなかったイングランド国教会」と書いたが、それはカトリックからの分離独立の過程が全然違うということなのだ。長老派の前史を指している。
カルヴァン派と合流して出来た長老派も一応プロテスタントである。しかしそれほど反カトリックだろうか。
上に再掲した文章がその答えのようなものである。
スイスの蓄財を橋渡しに融和した。そして反カトリックを隠れ蓑にした。

●カトリック
●プロテスタント(福音派・キリスト原理主義))⇔リベラル派
   ルター(ドイツ) ・・・ルター派(ルーテル教会)
   フルドリッヒ・ツヴィングリ(スイス) ・・・戦死。一応後継指導者がいたが勢いは失った。
                                           ↑呼びかけ ・・・カルヴァン派(長老派教会)
                                     カルヴァン(フランス→スイス) 




フリーメイソンは、反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリックの仲間が集った。
啓蒙主義のようにも見えるが、神や教会を否定しておらず純粋な啓蒙主義ではない。
クラブの資金はロスチャイルドが提供していた。

もうひとつイルミナティという秘密結社がある。(フリーメイソン創立から若干遅れて創立した。1700年代後半) こちらもロスチャイルドが資金提供。
これも前に書いたことがあるが、イルミナティは急進的な社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を主張する結社であるが、その設立はイエズス会学者からの迫害が動機にあったという。
設立者はカトリックの支配下に置かれていたバイエルンのインゴシュタット大学の教授。
その大学に集められた学者はみなカトリック・教皇(イエズス会)の配下にあった。
イルミナティの創立者はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学して、カトリック・イエズス会系の学者たちから教えを受けた。20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった人物である。
どこからどう見てもイエズス会系の学者であった。何故にイエズス会学者から迫害されるのか?

イエズス会は宗教改革でカトリックが危機に陥った時に創立されたものだが、1769年に就任したローマ教皇によって解散に至った。
これは反イエズス会(反カトリックではない)だったヨーロッパの諸王室から強い圧力を受けたからと言われてる。
その解散命令が却ってイエズス会系の学者達を団結させ、非イエズス会の学者達に様々な圧力を加えるようになったそう。つまりイエズス会系学者が非イエズス系学者を迫害したというのだ。
イエズス会の庇護のもとに育ったイルミナティの創設者はこの頃に反イエズス会の思想に染まったという。


イエズス会を解散したのは他でもない教皇である。それを裏切られたと感じればイエズス会が反教皇になってもおかしくはない。
何が言いたいかと言うと、イエズス会にも「相も変わらず教皇信奉派」と「教皇に裏切られたと恨んでいる派」がいたのではないだろうかということである。(ルーツはどちらもイエズス会)
イエズス会派  ×教皇精鋭部隊派  〇「利権などを失い教皇に裏切られたと恨んでいる派」
非イエズス会派 ×精鋭部隊以外の信徒 〇「相も変わらず教皇信奉派」=反イエズス会


「イエズス会学者からの迫害が設立動機」と言うと一見もっともらしいのだが実は真相が相当ぼやける。教皇との関係もぼやける。
その上、社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教や反王制を主張するとなると、フランスのフリーメイソンや啓蒙思想とも上手くいきそうな気配がある。
イルミナティはフリーメイソンに対抗してドイツで作られたと言うひともいる。つまりイギリス王(ドイツ出身)の周辺から始まったということである。

イルミナティの創設地であるバイエルンのインゴシュタット大学は、ドイツの州立大学であるルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(Ludwig-Maximilians-Universität München)の前身。
この大学には現在、かつて強烈に対立したカトリックと福音主義、両方の神学部があるという。


・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)

両者はイギリスの在り方ひとつで結合できる。
イングランド国教会が親カトリックになり、イギリスが王政をやめればよいのだ。
(よくよく考えればすでにそうではないか!)と誰か気が付いたか。
とはいえ、この融和もやはりロスチャイルドやスイスの金融家が橋渡ししている。
逆にヴェネチアやスイスには反カトリックや反教皇、反王政という風潮が全くないわけではなかったが、それを上手く収めたのは黒い貴族出身のイギリス王家だったのではないか。
こうして両者は一体化した。
もっともそれを知っているのは上層部の一部の人だけだと思うけれども。

          
                 








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# by yumimi61 | 2017-05-25 14:06