2013年 01月 26日
機宜*2
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「そんなに簡単には死ねないもんだよ」

受け止める人によって微妙に意味合いの変わるこの言葉。
彼の言葉の真意はどこにあったのだろう。


死にたいと思うことは、たぶん特別なことではない。
「死にたいなぁ」「こんなことなら死んだ方がいいかも」「生きるのに疲れた」「死んで楽になりたい」、このように漠然と死ぬことを考えてみたことのある人は少なくないと思う。
それと、子供時代に、「お母さん、死ね」や「先生、死ね」と思ったり書いたり呟いたりした経験がある人も結構いるのではないだろうか。
しかし実際にそれを実行する人となると、その数は激減するだろう。


社会的に自殺者数や殺人者を減少させたいと思う時には、誰かが「死んだ理由」や「殺した理由」を検討することよりも、多くの人が「何故死なないのか」「何故死ねないのか」「何故殺さないのか」「何故殺せないのか」を考えることのほうが重要だと思う。
自殺や殺人に明確な閾値は存在しない(少なくとも示せない)。
1人の人間の死因(病気)から大勢の人の病気を予防することは出来ない。




桜宮高校であった体罰と生徒の自殺

私達には桜宮高校や亡くなった生徒の家庭であった出来事の詳細は分からない。
報道される内容や証言がすべて間違いないもので、そこから受ける印象が現実に即したものなのか判断することも出来ない。

しかし、試合中のミスで30回も40回も叩いたと聞けば、一般的な感覚では、そりゃあやり過ぎだと思う。
しかも体罰は法律で禁じられているそうだ。

学校教育法第11条
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。


そうであるならば、体罰したほうが悪いと言うしかない。
但し、裁判で体罰ではなく教育的指導と認められた事例もあるようだ

今回のケースは自殺によって体罰が発覚したわけだけれど、自殺にあまり比重を置かないほうがよいと思う。
無関係な人間が限られた情報で体罰と自殺の因果関係を証明することは難しい。
罪は殺人ではなく、学校教育法の違反である。
感情的な問題は当事者や関係者で処理すべきこと。





行き過ぎた指導(体罰)を車のスピードに置き換えてみよう

40キロの法定速度の道路で、スピード違反の取締りをやっている最中、55キロで走っていたら捕まる。
罰金と減点が待っている。
「こんなに見通しがいいのに~」とか「今までずっと優良ドライバーだったんです」なんて言ったって(多くの場合)許してもらえない。
逆に法定速度40キロで走っていたとしても、人を轢いて殺してしまったら事情聴取されるだろう。
しかしながら、どんなスピードで走っていようが、事故を起こさず、取締りもやってなければ、拘束されることはない。
法律というのはそういうもの。
正しさや優良さは運によって維持されている側面がある。


さらに自由と制約についても考えてみる。
スピードを出し過ぎると危険であることは多くの人が分かっている。
分かっている人は皆、スピード違反をしないか?
おそらくそんなことはない。分かっていてもしてしまう。
これくらいなら大丈夫だと思ったり、自分の運転技術を過信したりする。
個人的なやんごとなき理由があったのかもしれない。

法定速度など撤廃して自由にするためには、全ての運転者がもれなく道路状況を判断して安全に走行することが必要になる。
運転の免許を与える人をもっと絞り込めばある程度可能になるかもしれないが、現在の制度で法定速度だけを撤廃し安全が守られるなどと誰も思わないであろう。
免許者を絞り込んだら絞り込んだで、無免許運転者が増えて逆に危険が増大するかもしれない。
自由には責任が付いてまわるのだが、その責任への意識があまり高くないので、結局のところ制約が必要ということになる。
自分のスピード違反には目を瞑ったり不平を言ったりするくせに他人の体罰は槍玉に上げる。
人の正義なんて怪しいものなのだ。


この怪しい正義の犠牲に誰がなるか。
そこが問題なのだと思う。

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by yumimi61 | 2013-01-26 01:27


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