2013年 08月 24日
器官33
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引き抜いたのか、辞めたのか。
物は言いようであるからして。







尾崎豊の父母の出身地

尾崎豊さんの父親・尾崎健一さんは、1926年12月6日に愛知県半田市(知多半島)に生まれた。
尾崎健一さんの父親の実家は岐阜県にあった。
健一さんは愛知県にて10年弱暮らした後、父親の実家がある岐阜県へ転居した。

尾崎豊さんの母親・尾崎(旧姓:荒井)絹枝さんは、1930年10月24日に岐阜県に生まれた。
1952年~1957年、愛知県の国立療養所大府荘で事務官として働いていた。

二人が結婚したのは1957年(健一さん31歳、絹枝さん27歳)のことで、これを機に東京へ転居した。
健一さんは別の女性と結婚しており子供もいた。
地元では暮らしにくく飛び出した形だったのかもしれない。
東京で自衛隊事務官の職を得て、 明治大学の夜間学部に通ったらしい。(今は夜間学部はだいぶ減っているが、出身者はこんなにもいる
長男誕生が1960年、次男(豊)誕生は1965年(父39歳、母35歳)。
子供時代の豊さんは両親の年齢が友達の親に比べると比較的高いことが気になったそうだ。
また共働きだったため親は家には不在がちだった。
尾崎豊さんにとって岐阜県は父母の実家がある場所だったけれども、毎年帰省するというようなことはなく、数えられる程度しか行ったことがなかったらしい。
父親の再婚(豊の実母が再婚相手)と異母兄弟の存在が尾崎豊の心にも影を落とし、彼がごく当たり前の結婚生活を維持したいと願った所以でもあった。



愛知県の喫茶店

愛知県半田市の半田駅近くに尾崎豊さんの従兄が営む「カガシヤ」という喫茶店がある。
従兄とは父親が兄弟という関係。
愛知県半田市の篆刻家*・榊原星卿という人が尾崎健一さんの兄。(婿養子となったので姓が違う)

従兄同士は17歳も年の差があり、デビューするまでは一度も会ったことがなかったそうである。

1987年3月、尾崎豊さんは両親とともに知多半島へ旅行しており、その時に喫茶店に立ち寄ったそうだ。
そのことを健一さんが本に執筆したため熱心なファンの間では知られた場所となっている。

*篆刻とは作品例



新美南吉の出身地と半田

私は新美南吉の作品『手袋を買いに』の言葉をたびたび引用してきた。

白狐相関マップ*12機宜*109機宜*110

新美南吉も愛知県半田市(知多半島)の生まれである。
1913年7月30日生まれ。結核のため1943年に29歳で亡くなった。
出生時の名前は渡辺正八。
母方の実家が裕福な農家であったが跡取りがおらず、8歳の時に養子に出された。その時に「新美」姓となった。
故郷を作品の舞台にしていた。
新美南吉は尾崎豊さんの父親より13歳上であるが数年間同じ土地に暮らしていたことになる。


実は私も半田に暮らしていたことがある。
愛知県ではなくて群馬県渋川市半田というところ。
利根川の近くで川沿いの土手にもよく行った。
大工の親戚の倉庫の2階の住居に暮らしていた時期のことである。
親戚の家は渋川市の市街地にあった。

私がここに載せた話はその場所(半田)をイメージして書いたものである。
物語に出てくる工場も実際に存在した。日本カーリット群馬工場である。
そして物語に書いたように当時の私はそこが工場だとは知らなかった。
川沿いの土手を歩いていくと高い塀にぶつかったと記憶している。
日本カーリットはかつて横浜にも工場があったが、爆発事故を起こして閉鎖された。(こちらの記事にも書いた)

こちらに書いた、国道を走る自衛隊車両の列を見たのも、そこに暮らしていた時。

余談だが、電子機器の製造工程(電子回路などの基板に電子部品を搭載)には「半田付け作業」というものがある。
はんだ(半田)には鉛が含まれているので、半田付け作業も鉛作業として扱われている。
現在は鉛フリーはんだが開発されているようだ。



第15代久左エ門はソニー創業者

ソニーの創業者の一人である盛田昭夫も愛知県出身である。
昭夫の生まれは名古屋だが、盛田家は知多半島(現:常滑市小鈴谷)にあった。
1660年代(江戸時代初期)に盛田久左衛門がその地で酒造業を創業した。
1708年に味噌とたまりの醸造を、1868年には醤油の醸造も開始し、13代目までは知多半島にて醸造会社を経営した。
13代目の時に本社を名古屋(名古屋市中区)にして、ぞれまでいた知多半島の常滑市小鈴谷に醸造所(小鈴谷工場)を置いた。

盛田昭夫は長男であったため盛田家15代当主を継ぐべく期待を持って育てられた。
しかし昭夫は井深大とともに、終戦の翌年1946年に東京通信工業(ソニーの前身)を創業した。
14代目である昭夫の父はそれを承認し、経済的な支援も行った。(創業資金19万円は盛田家が出した)
そのため一時期はソニーの筆頭株主は盛田(実家、1898年盛田合資会社→1955年盛田株式会社)であった。

盛田昭夫は愛知県には残らず東京で起業したわけだが、盛田家は不在の昭夫をそのまま15代当主(社長)にした。
14代目が会長になり、次男(昭夫の弟)を専務として社長代行させた。


盛田株式会社の企業博物館「盛田味の館」は愛知県常滑市に作られており、2008年には館内に「十五代当主盛田昭夫の常設展」がオープンした。



一族の人間模様(その1)

江戸時代から代々続いてきた家系で事業を展開しているとなれば、複雑な人間模様があることは自明の理。
昔は子供の数も多かった。
だからなのか、そのかわりなのか、今ほどの長寿が約束されていたわけではない。
跡継ぎが多すぎたり、いなかったり。
子供の出来不出来の問題あるし、好き嫌いがあれば政略もあった。
養子縁組なども今より簡単に行われていた。
将軍家でも実子でない場合があるように、代々続いてきた家系にもそうした人間模様はあったはずである。


近代に近い盛田家の当主を振り返ってみる。

11代当主 久左エ門 命祺 (1816~1894)

12代当主 久左エ門 命彦 (1837~1906)

13代当主 久左エ門 命昭 (1866~1928)

14代当主 久左エ門 命英 (1887~1964)

15代当主 久左エ門 昭夫 (1921~1999)

16代当主 久左エ門 英夫(英粮) (1953~ 



(倒産しないかぎり)良い時もあれば悪い時もあるのが会社経営である。
盛田家も同じだった。

醸造法革新によって業績を回復させ、多角経営に乗り出して経営安定を図ったのは11代目である。
その経営は順調に軌道に乗ったが、新事業である農園造成からのワイン造りが低迷し、さらに安価な品を売る他社の成長や進出もあって、12代~13代目の時代には再び業績が下降した。
13代目は親類縁者の資本を加えて盛田合資会社を設立する手を打った。

個人的な要素としては12代目は骨董趣味があり、その収集のために盛田家の資産を注ぎ込んでいた。
13代目は温厚な人柄で経営者としての適性にやや欠ける部分もあった。

それに見かねて経営に乗り出したのが、13代目の実子・彦太郎である。1887年生まれ。
少年期は11代目が小鈴谷に作った学校「鈴渓高等小学校(鈴渓義塾)」で学んだ。
卒業後は安城農林高校に進学、更に慶應義塾大学に進んだ。
慶應義塾大学2年の時に12代目が亡くなり、これを機に盛田家の再建を決意し大学を中退。

12代目が収集した骨董品をオークション方式で売却し資金を捻出。
問屋を通さず直接小売店に売る方式も取り入れた。
これらが功を奏して徐々に業績が回復していき、彦太郎が14代目久左エ門を襲名した。
この14代目が盛田昭夫の父親である。

盛田昭夫は骨董品の出来の悪さ(保存状態の悪さ)や馬鹿高い価格にカルチャーショックを受けつつ、後に自身も超高級な音の玩具などを集めたりした。
こう言ったら叱られるかもしれないが、コロンビア映画やCBSレコードの買収も、その一つだったのかもしれない。
懐の深い人の好い年長者という顔と忙しなく合理的で革新的な経営者という顔を持っていた。
盛田昭夫は、11代目と12代目と13代目を合わせたような人だったのかもしれない。



一族の人間模様(その2)

盛田家はミツカン酢の「ミツカン」とも関係がある。
ミツカンも江戸時代に(現在の)愛知県半田市で酒造業として創業された。(ミツカンの歴史
現在も半田市に本社を置いている。
創業者は中野又左衛門。代々、社長はこの名前を襲名してきた。
しかし4代目が姓を「中野」から「中埜」に変更した。以後は中埜又左衛門で襲名。
この姓を変えた4代目こそ、盛田家と関わりのある人物だった。

盛田家には分家があり、そちらも酒造業を営んでいた。
分かりやすく言えば、長男によって代々継がれていく実家が本家で、兄弟家が分家となる。
ミツカンの4代目(中埜又左衛門 1854‐1895)は、盛田家の分家から「ミツカン」の中野家へ養子に入った人物である。
先代の死によって4代目を襲名したのが13歳の時だというから、養子に入ったのは幼い時なのだろう。


中埜又左衛門と盛田家分家の盛田太助は兄弟であった。
盛田太助の5男は盛田善平。
この盛田善平と中埜又左衛門(盛田善平の叔父にあたる)が組んでビール事業に乗り出したのである。(ミツカンがビール?
1887年に2人は丸三麦酒醸造所を設立。
1898年には半田に赤レンガの工場を作った。(戦時中は中島飛行機の倉庫としても使われた)
この工場から「カブトビール」が誕生したのである。
ジブリ最新作『風立ちぬ』にも登場したらしい。

ざっくり言ってしまえば、カブトビールは盛田産ビールということになる。



一族の人間模様(その3)

ビール醸造のパイオニアとなった盛田善平は「麦」繋がりで、1899年に敷島製粉工場、1919年には敷島製パン株式会社(Pasco)を設立した。
ドイツ人製パン技師を招いて1920年創業。
国内においては、食パンシェア第1位。製パン業界第2位のシェアを誇る。


社名の「敷島」は盛田善平が好きだった本居宣長の「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」という歌から取られたそうである。

製パン会社から少々離れるが、この歌に関して興味深いやり取りがこちらで見られる
この歌をホームページに載せていた管理人と本居宣長記念館の主任研究員との間で交わされたメールである。 

群馬県前橋市には「敷島」という地名が存在する。敷島町である。
県営の敷島球場や陸上競技場(正田醤油スタジアム)を抱える敷島公園の住所は、群馬県前橋市敷島町66である。
私は敷島公園の近くにも住んでいたことがある。
敷島町は名古屋市や奈良市にもあるみたい。



一族の人間模様(その4)

盛田本家13代目の妻は盛田善平の妹(盛田家の分家・盛田太助の娘)だそうだ。
盛田昭夫の父である14代目は、盛田本家13代目が父で、分家の娘が母ということになる。
つまり親戚同士で結婚したということ。(14代目は実子らしい)
仮にいとこ同士であっても法的に結婚は可能であるし、実際に昔はよくあったと聞く。
但しやはり生まれてくる子供が遺伝子異常を来たすリスクは高くなる。
必ずそうなるということではないが、同じ劣性遺伝子を持っている確率が他人同士よりも上がる。

上記のような本家と分家の近親婚による遺伝子異常の心配も実子で継いできたという想定の話で、間に血の繋がりが全くない養子が入っている場合には心配なくなる。

これとは逆に身元を伏せた養子縁組が普及したり、結婚離婚の繰り返しや未婚による出産、精子や卵子の提供などで異父母きょうだいが多くなると、遺伝子異常のリスクが次第に高まっていくことが考えられる。
本人達が近親だと知らないで関係を持ったり結婚したりする確率が上がるからである。
同性婚や未婚の母への寛容さが時代を逆行させてしまう可能性がある。



一族の人間模様(その5)

盛田昭夫の父は14代目。
母は岐阜県の地方銀行である「大垣共立銀行」の創業者(初代頭取)・戸田鋭之助の娘であった。

「大垣共立銀行」の前身は1879年に開業した「第百二十九国立銀行」である。
この銀行を設立したのは大垣藩士らで、中心となったのが大垣藩の家老だった戸田鋭之助。
頭取は大垣藩9代藩主の息子・戸田氏寛。
1896年に「第百二十九国立銀行」を母体とした「大垣共立銀行」を創業。
頭取は戸田鋭之助がなった。

戸田鋭之助は大垣の産業振興にも尽力した。
かつての大垣は「繊維のまち」だったそうだ。


大垣共立銀行は安田財閥の安田善次郎(富山出身、オノ・ヨーコの曾祖父)との関わりを持つ。
大垣共立銀行は1909年に安田保善社(現:安田不動産)の傘下に入ったのである。
これにより頭取は安田善三郎(安田善次郎の婿養子、オノ・ヨーコの母方祖父)に変わり、戸田鋭之助は副頭取となった。
頭取は滅多に顔を出さなかったそうだが決定権は安田保善社にあった。
安田善三郎の四女がオノ・ヨーコの母。


かつて群馬にあった群馬商業銀行(1900年開業)担保倉庫がレンガ造り。
後に明治商業銀行に吸収合併され、明治商業銀行は保善銀行(安田銀行)が吸収合併した
倉庫は担保の乾繭や生糸の保管に使われていたとのこと。

オノ・ヨーコの父方祖父・小野英二郎は1883年に新島襄から洗礼を受けている。






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by yumimi61 | 2013-08-24 00:59


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