2015年 12月 07日
日本国憲法の秘密-123-
革命の拠点は国外にあり

1963年にイランで起きた白色革命。革命を起こしたのは列強国に支えられたイラン国王2世。
1世時代から近代化と西洋化と中央集権体制強化は着々と進められており、2世の時に突然革命が起こったわけではない。

白色革命で特記すべきは、改革を批判したホメイニを国外追放処分にしたこと。
ホメイニはそれを受けてイラクへ移り、その後フランス・パリへ亡命した。
前記事では端折ってフランス・パリに亡命と書いたが、トルコやイラクにも滞在していた。
フランスに亡命したのは1978年と言われている。白色革命から15年も経ってのことだ。
イラクとフランスを何度も行き来したのか、あちこちを転々としたのか、実はイラン国内に潜伏していたのか、その辺りの実態は分からない。
フランスに移動した翌年1979年に国王が追放され(反体制運動に耐えかねた国王が自らエジプトに亡命)、ホメイニによるイラン革命は成就する。
言い方を変えれば、フランスに拠点を移したら、あっと言う間に革命は成功したということになる。
イラン革命は武力を伴うクーデターとは少々違うものであった。

革命は国外に拠点を置き指導者がいることが多い。亡命はひとつの勲章でもある。
辛亥革命を起こし「中国革命の父」(国父)とも言われる孫文も亡命中の身であった。
日本・イギリス・アメリカなど各地に滞在し、清(中国)で辛亥革命の武昌起義が起こった時にはアメリカにいた。
ダライ・ラマ14世もチベットからインドへ亡命した。そこに「チベット亡命政府」を置き、中国共産党と対立している。
ダライ・ラマ14世はフランス・パリの名誉市民であり、ノーベル平和賞受賞者でもある。
ダライ・ラマというのは、チベット仏教ゲルク派 の高僧ラマであり、その後のダライ・ラマはチベット仏教の最高位に位置する転生者とされている。
これは血縁による世襲でも、養子による継承でもなく、実力者による後継でもなく、転生者(子供)がどこかから発見されてくるのである。輪廻転生の思想を踏まえている。
ある日突然どこかからと言っても、政府が必要な地域から転生者は見つかることになっている。
チベットは政教一致であり、宗教的指導者でありながら君主でもあった。ある日突然どこかから発見されてくるのに、絶対的信頼を置いている。(教育をするから大丈夫なんだと言われれば、ああそうですかとしか言いようがないが、そうなると遺伝なんてあまり意味ないですね。それとも転生者には遺伝的な繋がりがあるという見解でしょうか?)
ダライ・ラマ14世がそれに終止符を打ったそうだ。

2011年には、自身の政治的権限を委譲したいという意向を表明し、政府の長から引退することになった。これを承けた亡命チベット人憲章改定案では「チベット国民の守護者にして保護者であり、チベット人のアイデンティティと統合の象徴である」と規定され、ダライ・ラマがチベットの政教両面の権威者の座に即くというダライ・ラマ5世以来の伝統を終わらせることになった

日本国憲法の象徴天皇の条文によく似ている。

中国で革命に成功した孫文は、1921年にチベット人・モンゴル人・ウイグル人などを同化して中華民族としての単一民族国家を目指すことを明らかにした。
その後、イギリス主導でチベットの近代化は進められ、1922年にはインドと電報線が結ばれ(イギリスの植民地であるお隣インドが重要な橋渡し)、その後も水力発電所、兵器工場、郵便制度、警察組織などが作られた。
この近代化によってチベット軍が力を付けたため、晩年のダライ・ラマ13世はイギリスと距離を取るようになる。(その死には暗殺説も付きまとう)
軍が力を持つことは国にとっては心強いことかもしれないが、君主制国家の君主には脅威でもあるのだ。
いつ反旗を翻されるか分からないからだ。
そんなことがあった後のダライ・ラマ14世。
世界的にチベット仏教やらダライ・ラマが有名になったのは、やはりノーベル賞の受賞があったからではないだろうか。

ダライ・ラマ13世も14世も中国の共産党とは対立しているわけだが、共産党政権である中国を西側諸国で最初に承認したのはイギリスであった。1950年のこと。
(1949年の建国直後に、ソ連・東欧諸国・インドが承認している)


民主主義革命家のホメイニはシーア派でありイスラム原理主義者

君主制や国王主導の革命に反対し、イラン革命を成功させ、共和制に移行させたホメイニ。

イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者(師)として、同国を精神面から指導した。

ニュースでもよく耳にするシーア派とスンニ派。
一番の違いは後継者。
シーア派は預言者 ムハンマドの代理人アリー(ムハマンドと血縁もあり)の子孫にのみ継承する資格があるとする派閥で、スンニ派は血縁による世襲に拘らない派閥(話し合いで決めよう派)。
現在の主流はスンニ派。君主制が人気がないのと同じで、子孫(血縁者)のほうが圧倒的に少ないのだから、これは当然の帰結。
君主制に反対のホメイニは、なんと血縁世襲を支持するシーア派なのである。
国王の世襲は許さないが、イスラム教開祖の世襲は許す、国王による独裁は許さないが、宗教最高指導者の独裁は許すという立場。
すなわち体制にノーではなく、人にノーということなのだ。
現に革命後にはホメイニが宗教独裁体制を布いた。
自分は終身任期の最高指導者(国家元首)となり、任期4年の大統領(行政府の長)をも指導しうる立場となった。こうなれば君主と言い換えることができよう。
宗教となると国家という枠組みも超える。それは国名にも表れた。
「イラン・イスラム共和国」
イスラム教シーア派を国教とする「イラン」という国と「イスラム教」の最高指導者であると宣言したようなものなのだ。
貧しい人にも優しくして平等な社会を実現しようという思想を持つわけだから、君主国(王国や帝国)と名乗るわけにはいかない。だから主権は国民にあると謳う共和国である。

日本の天皇を宗教最高指導者に置き換えると分かりやすいと思う。
総理大臣の世襲は許さないが、天皇の世襲は許す、総理大臣による独裁は許さないが、天皇の独裁は許すという立場を取ったのが、他の誰でもない革命家から最高指導者に上り詰めた天皇だった。こんな感じである。
天皇教(神教でもいいけれど)という宗教があると仮定すれば、天皇は日本国の最高指導者(国家元首)であり、さらに天皇教の最高指導者であるということ。
天皇教信者は日本国内のみならず、他国にも散らばっているという状況なわけである。
イギリス女王はまさにこの状況にある。

ホメイニの狙いは宗教による統一であったと振り返ることができる。
ホメイニはイスラム原理主義を代表する人物である。
異なった民族や信者、主義主張の人を1つの国家として統一しようという「統一」もあれば、1つの国家に留まらず幾つもの国に散らばっている民族や信者を最高指導者の下に統一しようという「統一」もある。
ドイツやアラブの民族主義、ユダヤ教やカトリック教会などが後者の例となる。
ただ散らばっているのが特徴であっても、やはり本拠地(形)が無いと箔が付かない。
シオニズムはそれを形成する運動であり、イスラエルが建国された。
民族主義でも本拠(中心)となる国家が必要である。
国家も企業のようにM&A等によって財閥形成が可能。
でも皆が皆特別であったら特別の意味がなくなる。お得感がないと結合は緩むことになっている。
そこで注目するのがお得感ではなく、心の繋がり。
・・・・・お得感はなくとも、貧しくても辛くても、あなたは神様に愛されている。信じれば必ず救われる。・・・・・
これでいけば、すなわち、宗教の信仰心による結合ならば、お得感が少なくとも結合は緩まないと考えたわけである。


オスマン帝国崩壊とカリフの消滅

預言者ムハマンドの代理人のことをカリフと言う。
カリフはイスラム国家やイスラム共同体の最高権威者であり最高指導者である。
イスラム教のトップに君臨する人で、カトリックのローマ教皇みたいな感じ。
しかしカリフは神や神の子でないのはもちろんのこと、預言者でもない。
従って「神がこう言っている」「神ならばこう言うだろう」などと言って、カリフが独断でイスラム教の教義を変更したり付け加えたりすることは出来ない。
イスラム教上は絶対君主にはなれないのだ。
カリフが同時に国家の君主であれば、その国の絶対君主にはなり得る。

上に書いたように世襲制のシーア派は少数派なので、カリフは世襲制ではない形で決まっていた。
だいたいは時の権力者が選出されていたのだ。
しかしそれも1923年までのこと。


転換点は1922年のトルコ革命。
第一次世界大戦にドイツ側で参戦したオスマン帝国。
オスマン帝国は東ローマ帝国を崩壊させたイスラム教の国家であった。
大戦の敗戦によりオスマン帝国は事実上解体。
1923年10月29日、トルコは共和政を宣言し、国家元首としてムスタファ・ケマルが初代大統領に就任した。さらに、近代化を進めるトルコ共和国は政教分離を採用したため、1924年3月3日にカリフ制も廃止され、アブデュルメジトはオスマン家の一族と共に国外に追放された。

イスラム教の世界で広く承認された最後のカリフはオスマン家の人物だったのだ。
広く承認されるためには、やはり帝国のような大きな国の権威・権力者から選出されるのが最適である。
選挙と同じで支持を集めやすい。
イスラム教の世界が細かく分かれ、そうした大きな国家がなくなったことがカリフの衰退に繋がったのだと思う。

1924年、オスマン帝国は最後まで残っていた領土アナトリア(その昔、小アジアと呼ばれた特別な地)から新しく生まれ出たトルコ民族の国民国家、トルコ共和国に取って代わった。

トルコ革命によりトルコは共和制を宣言し、オスマン家を頂点としイスラム教を国教とする帝国からトルコ民族による近代的・西欧的・世俗的な国民国家への転換がはかられた。この革命の結果、トルコは中東諸国において支配的なイデオロギーであったイスラムを政治の場から引き離すことに成功し、国民国家の要件である均質化された国民と自国民による自立的な国民経済の創出をかなりの程度に実現したが、東部の経済開発の遅れ、都市と農村の経済格差などの問題は先送りにされ、クルド人問題やイスラムの社会参加をめぐる軋轢が21世紀まで大きな課題として残された。

・東ローマ帝国の後継を自認したのがロシア帝国なのだから、基本的にロシア帝国にとってオスマン帝国は敵であったはず。一線を交えた露土戦争の敵というよりかねてからの精神的な敵ということ。
現代の国に当てはめればロシアとトルコになる。この両国は東ローマ帝国を巡って敵と考えることが出来る。

・しかしトルコは第一次世界大戦後の革命によってオスマン帝国を倒したわけだから、その意味ではトルコとロシアは精神的に繋がるわけである。
第一次世界大戦時、ロシア帝国は連合国側でドイツ帝国やオスマン帝国と戦ったのだ。

・ところがところが、そのロシア帝国は終戦も待たずして、ロシア革命によって共産勢力に倒されてしまった。
要するにオスマン帝国が事実上終わりを告げた第一次世界大戦終結時、次ぐトルコ革命時には、ロシア帝国はソ連に様変わりしていた。
ロシア帝国もオスマン帝国も第一次世界大戦をきっかけとして崩壊したのだ。同じ境遇にある仲間でもある。

ロシアとトルコの問題は、双方の大統領がどんなアイデンティティを形成しているかによる。
またはアイデンティティを超える職業意識や欲を持っているのかどうか。
確立したはずのアイデンティティが嫌になる時もありますね。




[PR]

by yumimi61 | 2015-12-07 19:51


<< 日本国憲法の秘密-124-      日本国憲法の秘密-122- >>