2015年 12月 15日
日本国憲法の秘密-130-
言語と宗教

トルコ共和国は第一次世界大戦後のトルコ革命によってオスマン帝国を倒し1924年に誕生した国である。
トルコ共和国としての歴史は浅いわけだが、トルコ共和国(トルコ語正式名:Türkiye Cumhuriyeti)は自国のルーツは突厥(Türük)にあるとしている。
要するにトルコの建国は552年ということなのだ。

突厥(Türük)はウイグル帝国よりも早い時代に出来た遊牧国家。
国家内には様々な部族が暮らしているが、ひとつの共通点として言語があった。
現代の民族区分は、国単位(国境重視)であったり、宗教単位であったり、分子人類学的(人種)であったりするが、昔は言語を主軸としており、同じ言語(似た言語)を用いる人達を1つの民族と捉えていた。
テュルク語(チュルク語)を話す集団はテュルク語族(チュルク語族)であり、昔から非常に広い範囲に分布していた。
地域や部族によって多少違いはあるが、共通性が大きいために意思疎通は容易であると言われる。
分布の広大さに比べて言語間の差異が比較的小さいのが特徴だそうだ。
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現代においてもテュルク諸語を母語とする人々のことをテュルク系民族(英語: Turkic peoplesまたはTurks、 トルコ語: Türk、 ロシア語: Тюрки)と言うことがある。
英語では、トルコ共和国のトルコ人(狭義のTürk)をTurkish、語族(広義のTürk)をTurkicと区別しており、ロシア語など他のいくつかの言語でも類似の区別があるらしい。
現在、テュルク諸語のうち最大の話者数を持つのはトルコ共和国公用語のトルコ語。

トルコ共和国の公用語として人口約7,200万人の話者を擁し、ブルガリアに約75万人、ギリシャに約15万人、キプロスに約25万人の話者がいる。ドイツ・オーストリア・スイス・リヒテンシュタインなど西ヨーロッパ東部〜中央ヨーロッパのトルコ系移民社会(200万人以上)でも話されているが、現地で生まれてトルコ語が満足に話せない若者も増えている。
アラビア語・ペルシア語からの借用語が極めて多い他、日常語にはブルガリア語・ギリシャ語など周辺の言語からの借用語も多く、近代に入った外来語にはフランス語からのものが多い。


トルコ共和国がルーツだとしている突厥(Türük)は582年にローマ帝国のように東と西で分裂した。
東と西の戦い、それぞれの内紛を経て、西突厥は崩壊する。
突厥の北側には鉄勒というテュルク系遊牧民がいた。多くの部族を擁していたが、部族それぞれに君長は無く分散して東西の突厥に属していた。
この鉄勒の中から回鶻(ウイグル)が台頭し、東側で帝国を形成した。
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先日、中国ではイスラム教のことを清真教と呼ぶと書いたが、回回教(回教)とも呼び、かつてはこちらが主流だった。
回教と回鶻(ウイグル)の「回」が同じなので、イスラムと結びつけて考えかちだが、実は回鶻(ウイグル)はマニ教が盛んで、世界史上唯一マニ教を国教化した国であったのだ。
広範囲に多くの信者を持つ世界宗教であったが、キリスト教・イスラム教から弾圧されて、世界から姿を消した宗教である。
言語が共通であるということは布教には非常に好条件であり、マニ教はテュルク系民族に乗ったことで広範囲に広まったと言えよう。
当初はキリスト教やイスラム教(マニ教よりも後発)を抑えて、世界的にはマニ教一人勝ちの様相を呈していたのかもしれない。
突厥や回鶻の時代は、中国では隋や唐の時代ということになる。
マニ教 ー消えた世界宗教の謎ー (まとめ)

仏教の発祥はインド、開祖が釈迦。
仏教の三大体系は、チベット語系仏教、漢語系(北伝)仏教、南伝仏教。
チベット仏教は、7世紀にインドから伝えられた密教的な要素が強い仏教と、土着の宗教であるボン教とが結びついたもので、チベット仏教では一般に、顕教(文字などによって伝えられる開かれた教え)を学んだ後、密教(口伝によって師から弟子へ伝えられる秘密の教え)を学ぶ。
チベット密教という言葉もあるくらいで、密教の特色が強く、またその部分のみが注目されやすい。
オウム真理教もチベット密教に傾倒し、そうした要素を教団内に取り入れたものと考えられる。
マニ教が弾圧されていた時に明教と呼んで誤魔化していたことがあるように、密教もまたマニ教の化身、カモフラージュだったのではないかと私は考えている。


大変換

西突厥が崩壊した後、東側では回鶻(ウイグル帝国)が形成されていた時代の西側はおおよそこんな感じになっていた。
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ハザールは、白人ユダヤ人を誕生させた国として歴史上重要な国である。
※聖書に登場するユダヤ人に白人はいない。イエスをはじめとして皆オリエンタルな人達である。
ユダヤ人は、北欧や東欧の「アシュケナージ」、南欧の「セファルディム」、中東やアジアの「ミズラヒム(ミズラヒ)」と区分けされる。
昨今ではヨーロッパやアメリカのユダヤ人を「アシュケナージ」、中東やその他地域のユダヤ人を「セファルディム」と分け、「セファルディム」を2流市民と見做す風潮がある。


テュルク語(チュルク語)を話す集団・テュルク語族(チュルク語族)は、広範囲に幾つもの部族があり、同じ部族でも分散していたり、動くのも得意であったことから、「ワレワレハ〇〇人デアル」というような強い民族意識を持っていたわけではない。
よそから入ってきた者に「ここはテュルクの土地だからね~」と教える時に使っていたくらいで。
トルキスタンは、 「テュルク人の (Turki) 土地 (-stan)」を意味するペルシア語に由来し、テュルク諸語、ロシア語、欧米語に入った。
また先にも書いたようにトュルクではマニ教のほうが広まっていて、イスラム教徒のほうを異教徒と呼んでいた。

それが一変したのは中国が清王朝(1644‐1912年)の時だった。
清王朝というのは満洲の女真族が建国した後金国が前身。
後と付くことからも分かるように「金国」という王朝が最初にあったが、モンゴル帝国によって倒された。
それがモンゴル帝国崩壊後に復活したのだ。(厳密には密教にあやかったという明朝の後になる)

「テュルクの土地」は清朝に占領され、軍政が敷かれた。
日本が朝鮮を植民地にした時に朝鮮総督府と朝鮮総督を配置したように、清朝もテュルクの土地にイリ将軍府を設置しイリ将軍を配置した。
「テュルクの土地」は「ムスリムの土地」を意味する「Hoise jecen/回疆」並びに「新しい土地」を意味する「Ice jecen/新疆」に変えられて、そこにムスリム社会を形成した。
この時からこの土地は異教徒に過ぎなかったイスラム教徒(ムスリム)のものとなった。

1868年、イギリスは新彊・チベット(当地方での英国の分離工作は一世期以上の長きに渡る)をロシアとインドとの緩衝地帯にする為、特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受ける。1870年、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。

1871年、ヤクブ・ベクの新疆侵入に乗じて、ロシア帝国がイリ地方を占領、恵遠城も破壊の対象となった。清朝は欽差大臣の左宗棠を派遣して、1876年までにヤクブ・ベク軍を鎮圧。1881年には、ロシアとの間でイリ条約が締結され、多額の賠償金と引き換えにイリ地方は清朝の支配下に戻った。



いつまで「国」「国家」「国民」という単位を信じれば気が済むのだろうか

イギリスが清と戦った戦争。清が敗北し、不平等条約を結ばされ、半植民地化が決定的となった戦争である。
 ・アヘン戦争(1840‐1842)
 ・アロー戦争(1856~1860)

イギリスとの2度の戦争(アヘン戦争、アロー戦争)、日本との日清戦争、その全てで敗北した清は膨大な賠償金を取られ、不平等条約を結ぶことを余儀なくされた。
さらには戦争していない国々にまで脅され不平等条約を結ぶ羽目となり泣きっ面に蜂。
国は弱体化しておりどう見ても勝算はないように思うが、清は果敢にも列強国相手に宣戦布告したのだ。それが北清事変である。
戦争のきっかけとなる反乱を支持し煽ったのは女(清末期の権力者だった西太后)であった。
敗戦後は責任を取ることも無く西洋文化に親和したというから何とも痛ましいかぎり。
ドイツの「背後からの一突き」ではないが、やはり崩れる時は大抵内部からなんだろうと思わずにはいられない。


アヘン戦争とアロー戦争の後には、日清戦争(1894-1895)と北清事変(1900年)が続いた。
日本は日清戦争の後に日露戦争(1904-1905年)を戦い歴史的勝利をあげる。
度重なる敗戦後の1911-1912年、辛亥革命にて清(大清帝国)が崩壊。
「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命 は明治維新の第二歩である」と革命の父・孫文は言った。
その後は第一次世界大戦(1914-1918年)が勃発。
ロシア帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国が崩壊した。
「日露戦争の日本の勝利はロシア革命の第一歩」との評価もある。

ロシア帝国もドイツ帝国もオスマン帝国も、おそらくみな内部から崩壊した。
つまり国境で定める「国」「国家」「国民」という定義や絆が力を失ったということだ。
もちろん表向きは愛国心たっぷりな人達が舵をとっているわけだが・・・。

「グレート・ゲーム」は、19世紀から20世紀にかけての、英露両国による、主としてアフガニスタン争奪抗争から生まれた言葉で、一進一退の経緯を辿った両者の攻防をチェス盤上のゲームに見立てたものである。

実際の英露抗争は、ユーラシア大陸国際政治史の別方面、極東においてより激しく争われた。中央アジアにおける英露抗争に連関する極東国際政治史には、大英帝国・ロシア帝国(のちにソビエト連邦)に加えて日本・アメリカ合衆国・中国や多数の周辺諸国がプレーヤーとして参加しており、途中からは米ソ両超大国の争いへ継承され、現代においても多数のプレーヤーが参加するという経緯を辿った。極東方面での諸国間の抗争はグレート・ゲームの盛衰と切り離せなかった。

このゲームは、世界の一体化が進行するなか、帝国主義時代の空白域となっていた中央アジアに対し、先鞭をつけて緩衝国化することが英露双方の重大な関心事となったことで始まり、その舞台はコーカサスからチベットにおよぶ広大な地域におよんだ。一般的には、1800年代初頭に始まり、1907年の英露協商協定をもって終結したとされる。



古代においては「国」「国家」「国民」などという意識は薄かった。
「愛国心」とやらは決して古臭いものではないのだ。
世界が開かれ、人があちこちに移動できる近代においても、「国」「国家」「国民」などという意識が高いはずがない。
近代に生まれ育ち、新しいものをよしとして生きてきた人々に、「愛国心」なるものが育つとは考えにくい。
すなわち国境で定める「国」「国家」「国民」などといったものは、本当はどこにも存在しない。幻影なのである。
ないものをあるように見せるためには、「愛国心」を煽る必要がある。


東トルキスタン亡命政府は4つ目の政府?

1881年にロシア帝国は西側のトルキスタンを併合し、ウズベキスタン首都のタシュケントにトルキスタン総督府を置いた。
すると、清朝は1884年に東側のトルキスタンに新疆省を設置し中国内地並の省制を導入した。
中国の領域である東側のトルキスタンでは1933年(~1934年)と1944年(~1946年)の2度にわたり、別々の地域(西端と北西端)を拠点にしてムスリム(イスラム教徒)の民族国家・東トルキスタン共和国が建国され、それぞれ一定期間、東トルキスタンの一部において実効的な独立政権を実現した。
現在はアメリカ合衆国に東トルキスタン共和国亡命政府の本部が置かれており、中国を侵略者であるとしている。

第二次世界大戦後、中国共産党政権になり、1955年に新疆ウイグル自治区が設置され、現在に至る。
ロシア帝国が併合した西トルキスタン(カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国)はそのままソビエト連邦を構成する共和国となり、ソ連崩壊まで続いた。
カザフスタンは共和国として、それ以外の4国は社会主義共和国としてそれぞれ独立した。
一般的には、この5国を中央アジアと呼んでいる。

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赤い点がウズベキスタンの首都タシュケント。
青い点がソユーズの帰還船が着地したという辺り。
この辺りは砂漠が多い。またカザフスタンの国土は日本列島の北海道から九州までがそっくり入る大きさ。
着地点が少しずれてしまったら何かと大変。どこへ着地したんだとかね?
ジャンボ旅客機だって見つからないんだから、それはそうでしょ?
あれは山だったから?海もダメ?見渡す限り広がる砂漠ならOK?
あと飛行機の尻もちくらいどうってこないわよね、きっと。宇宙船のことを考えれば。
それから地球の都市なんて全体からすればごく僅かだから、地球の夜はだいたいどこも真っ暗なはず。
それが普通なのよ。



愛国心発揮!?

今日の夕方、何気に群馬テレビのニュースを見ていたら、あれが映った。
あれというのは、11月22日に安中市の山の斜面にヘリコプターが墜落した現場。(ずるっ?)
なんでも本日やっと撤去作業が行われたのだとか。
その映像を見て思ったんだけど、あの場所ってもしかしてソーラーパネル設置予定箇所なんだろうか?
事故発生当時から天国の階段のような細長い階段(梯子?)が気になっていたのだけれど。



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by yumimi61 | 2015-12-15 11:53


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