2016年 01月 24日
日本国憲法の秘密-169-
イライラカンカン!?

1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃を仕掛け、
イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍がそれを迎撃するという形で戦争は始まった。
なかなか終わらない戦争に対し、日本では両国の名前をもじって「イライラ戦争」と呼ばれた。


それは日本航空123便が上野村に墜落する5ヶ月程前のことだった。

両国の都市爆撃の応酬が続く最中の1985年3月17日、48時間の猶予期限以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃するとサッダーム・フセイン大統領が突如宣言した。

この宣言後、イランに住む日本人以外の外国人はおのおの自らの国の航空会社や軍の輸送機によって順次イランから脱出していった。ところが、日本においてはそうではなかった。ただちに日本航空にチャーター便の派遣を依頼したのだが、日本航空のパイロットと客室乗務員が組織する労働組合は、組合員の安全が保障されないことを理由にいずれもこの要請を拒絶した。

その間、在イラン日本大使館では手を尽くして救援機を派遣した各国と交渉したものの、いずれの国も自国民救出に手一杯であり、希望者全てを乗せてもらうことは到底かなわず、いまだ200名を超えるイラン在留邦人が全く脱出方法が見つからずに生命の危機に瀕する状況にあった。
(同年8月12日の日本航空123便墜落事故で亡くなった海上自衛隊出身の高濱雅巳機長は、真っ先に救援便の運行乗務員に志願していたと言われている。)

外務省の依頼を受け、日本航空の経営陣は救援機を飛ばす覚悟を固めていたとされるが、そもそも外務省の判断が遅れたため、時間的な余裕が殆ど無く、反会社側組合等が脱出の安全が保証されなければ飛べないと強い抵抗を示した為、チャーター機の派遣は実現しなかった。結局、邦人の救出はイラクの隣国であるトルコ政府によりチャーター機が飛ばされた事により事なきを得ている。 


なお当時の自衛隊法は、自衛隊の外国における活動を人道目的を含めて想定しておらず、また、イランまでノンストップで飛行できる航空機が配備されていなかったため、自衛隊を派遣するのは事実上不可能だった。 今日、同様の事案が発生した場合には航空自衛隊の日本国政府専用機を、機内の首相執務室や会議室などを撤去して、座席を設置して運用する。


当時はイラン・イラク戦争の真っ只中にいたわけだが、200人を超える日本人がイランに滞在していたという。
彼らは戦地で何をしていたのだろうか。
ビジネス?報道関係者?フリーのジャーナリスト?留学?観光?移民?

サッダーム・フセインはイラクの大統領である。
絶大な力を持つ大統領が「イラク国内にいる外国人は一人残らず殺害する。殺されたくなかったら48時間以内のイラクから出ていけ」と宣言したというならば分かる。
それはかなりヤバイ状況だから一刻も早く退散しなければならない。
でも「イラクから出ろ」と言うことならば、直ちに日本まで飛ぶ必要はない。
安全な近隣諸国に取り敢えず避難させてもらえばよいのではないだろうか。

サッダーム・フセイン大統領は「48時間以降にイラン上空を飛ぶ航空機は、無差別に攻撃する」と宣言したと言う。
全然覚えていないけれど48時間のスタート時間をちゃんと言ってくれたのかしら?
ほら、イスラム国人質騒動の時は時差があるというのにスタート時間も分からなかったから。
ともかく上空を飛ぶ飛行機を攻撃するというならば、飛ばなければよいのでは?
イランに滞在し続けるか、陸路や海路でイラン国外に出ることも出来る。
どうして皆が皆焦って、48時間以内に「イラン」から脱出する必要があったのだろう。すごく疑問である。


美談

トルコ政府がトルコまでチャーター機を飛ばしてくれたおかげで事なきを得たということなのだが、その時まだ日本人(200人)より多いトルコ人(500~600人)がイランに残っていたそう。
自国民より優先して日本人を救ってくれたことが美談になっている。

残されたトルコ人たちはトルコ大使館が用意した車に分乗し、陸路でイランを脱出し、トルコへ向かいました。このことでトルコ政府に文句を言ったトルコ人は一人もいなかったといいます。

 この頃、なぜトルコが自国民より日本人を優先して救出したのか、日本政府も日本のマスコミもわからなかったといいます。駐日トルコ大使はその理由を短いコメントで表しました。
「エルトゥールル号の借りを返しただけです」

 明治23年(1890年)9月16日、トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山県大島樫野先付近で台風のため座礁し、機関が爆発して約500名の乗組員が死亡する事件があり、日本は生存者を治療、看護し、イスタンブールまで送り届けたことがありましたが、トルコでは教科書にも載っている話で誰もが知っている歴史的事件だったのです。

日本人を救出せよ!トルコ航空機決死のフライトより>

日本海軍のコルベット艦、「比叡」と「金剛」が、遭難事故の20日後の10月5日に、東京の品川湾から出航、神戸で生存乗員を分乗させ、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けた。なお2隻には、秋山真之ら海兵17期生が少尉候補生として乗り組んだ。

トルコの行為には、かつて日本人が優しくしてくれたからという理由があったという。
さて美談の主役はトルコでしょうか日本でしょうか?両方?
「ギブ&テイク。与えよ、さらば与えられん」という教え?

現在のトルコ共和国は1890年のオスマン帝国とは違う。
トルコはオスマン帝国を革命によって倒して建国されたのだから、オスマン帝国を良いものとは思っていないはずだ。
トルコ共和国は第一次世界大戦後のトルコ革命によってオスマン帝国を倒し1924年に誕生した国である。
トルコ共和国としての歴史は浅いわけだが、トルコ共和国(トルコ語正式名:Türkiye Cumhuriyeti)は自国のルーツは突厥(Türük)にあるとしている。
要するにトルコの建国は552年ということなのだ。
突厥(Türük)はウイグル帝国よりも早い時代に出来た遊牧国家。
過去記事:日本国憲法の秘密-130-より>
こちらの記事の「オスマン帝国の崩壊とカリフの消滅」ではトルコとロシアの関係性に触れた)

しかも船の遭難は天災のみならず人災的側面もあったそうだ。
そうとなれば、「あんな馬鹿な国の人でさえ助けて下さってありがとうございます」という感じになるのだろうか?
エルトゥールル号遭難事件はオスマン帝国末期の外交政策と海軍の弱体化がもたらした悲劇であったが、この事件で被害者に対して示された日本人の友誼は、その後も長く日土友好関係の起点として両国の関係者に記憶されることになった。トルコ人が公的な場で日本人に対して日土友好の歴史について語るとき、必ずといっていいほど第一に持ち出されるのがエルトゥールル号遭難事件の顛末である。一方、こうしたトルコ人の言説に対して、エルトゥールル号遭難事件の顛末は、日本において事件の近くの串本町以外では、あまり記憶されておらず、長らく公的な場で語られることすらもまれであった。
近年では、小学4年生の道徳の教科書に記載されて一部の小学校では教えられている。また、中学生のある歴史の教科書にも掲載されている。



21世紀に入ってからはエルトゥールル号事件の顛末が、1985年(昭和60年)のイラン・イラク戦争における逸話と絡めて、インターネット上の電子掲示板やメールマガジンで紹介される機会が増えた。

この逸話は、特に2002年(平成14年)のサッカー、2002 FIFAワールドカップでのサッカートルコ代表チームの活躍を機として、盛んにテレビ番組や雑誌でも取り上げられ、日本の一般の人々の間にも徐々に広められるようになった。2004年(平成16年)には、これらのことを紹介した児童書が小学生高学年向けの読書感想文コンクール課題図書になり、現在では日本でも、「親日国トルコ」のイメージを語るエピソードとしてなくてはならないものとなった。

2006年(平成18年)、日本政府は、イランで救出に当たったトルコ人の客室乗務員など13人に勲章を授与し、感謝の気持ちを送った。
2007年(平成19年)10月28日、同時期に開催されたエルトゥールル号回顧展に併せて、東京都三鷹市の中近東文化センターでこの事件に関するシンポジウムが、当該トルコ航空機の元機長、元客室乗務員、野村元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブル支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら当時の関係者出席の上で開催されている。



武田家の恨み!?

1985年8月12日の墜落事故当時、日本航空の代表取締役社長だったのは高木養根。

広島県福山市生まれ、岐阜県高山市育ち。
1933年京都帝国大学文学部に入学。同年の文部省による滝川幸辰法学部教授の処分(滝川事件)に反対、古谷綱正・花田清輝(のちの文芸評論家)らとともに大学自治を擁護する文学部の運動の中心として活動したが、学内で配ったビラの文面が治安維持法違反に問われ2ヵ月で大学中退を余儀なくされた。1年間の拘置生活の後1935年、東京帝国大学法学部に再入学した。

1940年に大学を卒業し大日本航空に入社したが終戦により解散。1951年、航空活動の再開を見越して設立された日本航空に入社した。営業部次長、香港支店長、総務部長等を歴任、1961年取締役、1963年常務、1969年専務、1971年副社長を経て1981年、日航生え抜きとして初の社長に就任した。

しかし在任中に日本航空350便墜落事故(1982年2月9日・羽田沖)、日本航空123便墜落事故(1985年8月12日・御巣鷹)などの重大航空事故が続き、その責任を負って1985年退任した。

その後も個人の資格で遺族への慰問行脚をしたほか、毎夏、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に慰問登山を続けた。

山崎豊子の小説「沈まぬ太陽」に登場する国民航空社長・堂本信介のモデルとされるが、人物像は大きく異なる。



※滝川事件
1933年(昭和8年)に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。
事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。

1933年4月、内務省は滝川の著書『刑法講義』及び『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として発売禁止処分を下した。翌5月には斎藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に滝川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月26日、文部省は文官分限令により滝川の休職処分を強行した。
滝川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。


※滝川幸辰教授
旧岡山藩士の子として生まれる。鳥取の瀧川家によれば、戦国期の武将・滝川一益の三男辰政は岡山池田家に御預けになっており、これが幸辰の先祖とされている。
滝川事件で大学を追われるが、第二次世界大戦後、大学に復帰、京都大学総長を務め、学生運動との対立事件を繰り返した。特に「第2次滝川事件」と呼ばれる学生による瀧川への「暴行」事件は有名である。なお総長が理系学部から選ばれる傾向の強い京都大学(および前身の京都帝国大学)では、現在のところ、瀧川が文系学部から選出された最後の総長となっている。


先日書いたように、織田信長の家臣であった滝川一益は武田征伐に活躍し、上野国(群馬県)を与えられた。
沼田城は滝川一益の一族である滝川益重にものになったが、本能寺の変が起こり織田信長が暗殺される。
その後、滝川一益は「神流川の戦い」に臨んだ。
神流川は日本航空123便が墜落した上野村を流れているのだ。


滝川教授の「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という講演内容が問題にされたとあるが、沼田の薬種商に嫁いだ歌人・生方たつゑの伯父にあたる生方敏郎はトルストイに傾倒した人だった。
群馬県沼田生まれ。明治学院を経て早稲田大学英文科卒。在学中からトルストイに傾倒、「東京朝日新聞」記者となり、随筆、評論、小説を書き、大杉栄と交わりがあった。1935年より個人雑誌『古人今人』を10年以上に渡り刊行、軍部への風刺から二度発禁処分を受けた。



※『沈まぬ太陽』
山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」がミリオンセラーとなり、大変な反響を呼んでいる。 各新聞、雑誌の書評は「政官民の癒着構造を暴いた力作」といったものが多く、絶賛の嵐である。 長年運輸業界、とりわけ航空業界を担当してきた記者がこの本を読んだ第一印象は「こうして史実が曲げられていくのか。誠に恐ろしい」ということであった。
この小説には筋書きを面白くするため、あまりにも事実とはかけ離れた“再構築”がなされており、ペンの暴力の典型と言っても過言ではない。 以下、どこの部分が事実を曲げているかを検証したい。

小説「沈まぬ太陽」余話(Ⅲ)より>


銀座の恋の物語~

昨日の記事のロッキード事件の説明に出てきた児玉誉士夫。
2014年5月のオバマ大統領来日の折、非公式夕食会が催された鮨店「すきやばし次郎」が入っているビルは塚本素山ビルで、そのビルにはかつて児玉誉士夫の事務所も入居していた。
アメリカと日本の首脳がこのビルで非公式の会食を持つということは、かなり意味のあることだったのだ。 という話をこちらに書いた
日航機墜落の理由の噂に出てきた不二家もありで、何かと意味深。
確かその時、TPPのことが話し合われていた。
よく覚えているのは句を作ったからである。
どうですか、これは?

2014年4月24日
好きやばし いくら秘めても あかみ差す さよりと僕は 人肌を抱く
シダ類の アジアンタムで 語呂合わせ 憂鬱になれば ブルーとつけよ

(なぜアジアンタムかと言うと、記者会見の場に飾られていたからです)

2014年4月25日
フロマンと SOAPについて 語り合う 誰かお願い 一肌脱いで
ロジックの ツリーを立てれば 予測つく そんな冷たい ことは言わずに


日本の右翼運動家。CIAエージェントであったという。暴力団・錦政会顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家が児玉のための葬儀に集まり、焼香した。三男はTBSサービス社長の児玉守弘。

家系は後に児玉誉士夫自身によって作られた「設定」のようである。実際のところ、児玉誉士夫の出自は全く不明である。幼少時は酷い貧乏暮らしで、父親と二人で掘っ立て小屋に住んでいたとされる。7歳で母親を亡くし、8歳で朝鮮に住む親戚の家に預けられ、京城商業専門学校を卒業した後、来日して向島 (墨田区)の鉄工所に住み込んだ。それからは様々な右翼団体を転々とすることになる。


片桐機長日航機殺人事件から28年 「機長、何するんです!やめてください!」


辻説法の数寄屋橋

児玉誉士夫という人は朝鮮出身なのではないだろうか。
天皇直訴事件で華々しくデビューした。直訴文は建国会の赤尾敏が書いたものだったらしい。

最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。1929年には赤尾敏と津久井龍雄ら高畠素之門下によって創設された急進的な右翼団体「建国会」(会長は上杉慎吉、顧問に頭山)に加わった。すぐに昭和天皇に直訴しようとして捕まる。この天皇直訴事件で半年投獄された。

赤尾敏は銀座数寄屋橋(すきやばし)での辻説法が有名。
当時の様子の写真あり。→有楽町~銀座
当初は社会主義者であったが、社会主義者として活動した後、1926年(昭和元年)に「天皇制社会主義」を理想として民族主義者に転向。1942年(昭和17年)には衆議院議員に当選した。1945年(昭和20年)の敗戦後、政治活動と講演活動を行い、1951年(昭和26年)大日本愛国党を創党した。特に銀座数寄屋橋などでの辻説法による過激な街頭演説で有名であった。

現代の政治家が行っている街頭演説と同じ感じである。
辻説法はもともとは宗教の布教のための演説であった。
赤尾は街頭宣伝車を導入した右翼の走りなんだそうだが、政治家の選挙運動(選挙カーや演説)の走りと言ってもよいのかもしれない。

赤尾が設立した建国会の顧問は頭山満と平沼騏一郎。
この平沼騏一郎は第35代総理大臣(1939年)となった人物であるが、平沼赳夫は養子である。
1941年に家族そろって平沼騏一郎の養子になったそうだ。
平沼赳夫氏の母が平沼騏一郎の兄の孫にあたる。
その平沼騏一郎の兄(平沼淑郎)は、早稲田大学の第3代総長であった。
岡山出身。

先日書いた宗教てんこ盛りの日本会議の国会議員懇談会会長が平沼赳夫氏。
【国会議員懇談会の役員】
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首相に官房長官、財務大臣に防衛大臣、国家公安委員長・・・。
会員の国会議員は多すぎるため掲載しないが、今話題の甘利大臣ももちろん会員である。


日本を牛耳るもの

児玉誉士夫は、「世界は一家、人類はみな兄弟」の笹川良一にだいぶ世話になったようである。
しかしそれにしてもどうしたらそんな大物になれるのでしょう?

児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた辻嘉六に勧められて、1946年初頭、逮捕される直前に、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。

鳩山一郎は鳩山由紀夫の祖父。御二人とも首相になった。
日本民主党設立当時の総裁は総裁は鳩山一郎で、幹事長は岸信介(安倍首相の祖父)。
鳩山一郎は滝川事件にて滝川幸辰の罷免を要求した。

児玉誉士夫はさらに河野一郎や岸信介を総理大臣にするために力を貸したという。
河野一郎は河野洋平の父にあたり、河野太郎の祖父にあたる。
河野太郎氏は現在、国家公安委員長である。
河野一家のことを前に書いたことがある。駅伝と肝移植の件である。
肝移植といえば暴力団山口組後藤組の後藤組長を忘れてはいけない
後藤組長はアメリカで生体肝移植の手術を受けたそうなのである。
後藤組長は信州大学医学部付属病院での手術を勧められなかったのかしら?



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by yumimi61 | 2016-01-24 11:21


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