2016年 12月 04日
誤解
コンプライアンス(compliance)

とある書類を受け取る必要があったが、少々遠距離だったのでわざわざ自宅まで届けてもらうには申し訳ないと思い「郵送でもいいですよ」と言ったら、相手方が「最近会社がコンプラコンプラ煩いんでそうもいかないんですよ」と。
このコンプラとは企業コンプライアンス(regulatory compliance)のことである。

コーポレートガバナンスの基本原理の一つで、企業が法律や内規などのごく基本的なルールに従って活動する事、またはそうした概念を指す。ビジネスコンプライアンスという場合もある。「コンプライアンス」は「企業が法律に従うこと」に限られない「遵守」「応諾」「従順」などを意味する語だが、以下では主にこの語を使う。なおRegulatory complianceは直訳すると「規制追従」という意味になる。

今日ではCSR(corporate social responsibility の略。企業の社会的責任履行)と共に非常に重視されている概念、仕組みである。

2000年代から、法令違反など不祥事によるステークホルダーからの信頼の失墜や、それを原因として法律の厳罰化や規制の強化が事業の存続に大きな影響を与えた事例が繰り返されているため、特に企業活動における法令違反を防ぐという観点からよく使われるようになった。
こういった経緯から、日本語ではしばしば法令遵守と訳されるが、法律や規則といった法令を守ることだけを指すという論もあれば、法令とは別に社会的規範や企業倫理(モラル)を守ることも「コンプライアンス」に含まれるとする論もある。また、本来、「法的検査をする」といった強い実行性をもっている。


complianceの意味としては、応じる、従う、服従、(法律や規則)遵守、迎合、盲目的などがある。

「企業コンプライアンス」の他に、医療でも使うし、物理でも使う。
「機械的コンプライアンス」「弾性コンプライアンス」、どちらも物体の変形しやすさを示す物理量である。
バネや弾性など力を受けて変形したものを元に戻す力(弾力・復元力)の反対。元に戻す(修正する)力がないと変形しやすい。
言い換えればなんでも受け入れてしまうということ。
法律や規則の遵守は確かに必要であるが、例えばその法律や規則、権威権力あるいは世論や常識に間違いがあったとしても、あまりにコンプライアンスを重視すると修正が効かず間違えたまま突っ走る。
応用が効かない、臨機応変さがないというようなことに繋がる。


2012年公開のアメリカ映画『Compliance』。日本公開は2013年で邦題は『コンプライアンス 服従の心理』。
ファストフード店でマネージャーをしている中年女性サンドラは、ある日、警察官を自称するダニエルズからの電話を受ける。ダニエルズはサンドラの店の従業員が金を盗んだと述べる。サンドラはダニエルズの証言からベッキーが容疑者であると考え、呼び出した。ベッキーは盗んではいないと主張すると、ダニエルズは彼女を身体検査するように要求する。そして、サンドラはマネージャーとして、従業員を管理する責任があると思い、ダニエルズの言うとおりに身体検査を実行していくのであった。

この映画は実際にあった事件をヒントに製作された。
その事件とは「ストリップサーチいたずら電話詐欺」である。

アメリカ合衆国で2004年に犯人が逮捕されるまで約10年間続いた、一連の事件の総称である(サーチ=身体検査)。犯人はレストランや食料雑貨店に電話をかけて警察官を自称し、「警察への協力行為」の名のもとに店長らを誘導、女性店員を裸にして身体検査をしたり、その他の異常な行為をするよう仕向けた。狙われた店の多くは、小さな田舎町のファーストフードレストランだった。

一連の犯行は70件を数え、行われた場所も30州もの広範囲にわたっていた。最後に起こされた2004年のケンタッキー州マウントワシントンにおける犯行から、当時37歳で、アメリカの刑務所・収容所運営会社であるコレクションズ・コーポレイション・オブ・アメリカの従業員であったデビッド・スチュワートが逮捕された。


つまり警察を装って電話で指示していたのが2004年に逮捕されたデビッド・スチュワート。指示のみで実際の行為には及んでいない。
逮捕後、スチュワートは警察官を騙った罪と男性同士の性交を唆した罪でケンタッキー州に移送された。しかし有罪判決は受けなかった。検察と弁護側双方が、彼の犯罪への関与を示す直接的な証拠がないため法的判断ができないと主張したからである。
実際に、言われるままに(言われた以上に?)、身体検査やわいせつ行為に及んだのは店関係者ということ。



ひそひそ話

和歌山カレー事件に見る、科学鑑定への誤解が冤罪を生む構図 (BLOGOS ビデオニュース・ドットコム 2015年04月18日)

以前に一連の原発問題の議論の中で、われわれの社会において「科学の民主化」と「民主の科学化」がいずれも大きく遅れている問題が指摘されたことがあった。

「民主の科学化」については一般の市民が科学的な思考をする習慣が身についていないことを、「科学の民主化」では科学者が科学的に正しいことだけに目が行くことで、民主主義にとって何が正しいかの視点が欠けていることが問題になっていることを学んだ。

そしてそれが、日本が原発問題で一つの方向性を打ち出すことを難しくしているのではないか、という論点だった。


これは至極もっともな意見だと思う。
科学と民主に限らず、社会はいつでも大きく乖離している。政治と民主、男と女、健常者と身障者、雇用者と労働者、都市と田舎、、、などなど。
人にはそれぞれ事情があって、それぞれの使命があり、それぞれの価値観で生きている。
その全てを尊重すれば、どうしたってひずみが生まれてくる。
全てを尊重することなど現実的でないから、人々はいつでも何かを切り捨てながら生きている。
社会には必ず抑圧されたり虐げられたり、捻じ曲げることを強要されたり、失望したり絶望する人がいるものである。
どんなに理想的な社会に見えても、必ずそうした人はいる。

そのひずみを抑え込み、切り捨てを諦めさせるのが、民主主義であり、法律や法規であり、多数決である。
「多いものが正しい」「権威権力が正しい」、これが民主主義の基本ルールなのだ。
この正しさは「科学的な正しさ」ではない。「誰かがこうあるべきだと望む(決めた)社会に相応しい、適合する正しさ」である。
「誰かがこうあるべきだと望む(決めた)社会に相応しい、適合する正しさ」と「科学を含め学問的な正しさ」とが一致することもあれば、そうでないこともある。
また学問も所詮人間が積み上げてきたものである。
どうやって積み上げスタンダードになったのかと言えば、やはり「多いものが正しい」「権威権力が正しい」という民主主義の基本ルールの下で確立されてきた。
私達の正しさはすべからく「多いものが正しい」「権威権力が正しい」から逃れられないのである。
従って自分の正しさを主張するためには、権威権力を握るか、民衆を誘導して多くの支持を得る必要がある。
正しさを声高に主張できるという特権を得れば、やはり行使したくなるようだ。


また「人間の幸福」を軸に物事を考えれば、学問的な正しさなどは霞んでしまう。
お金を得ることや有名になることを幸福と思えば、一生懸命勉強するよりも一攫千金狙って生きる方が正しいのだ。
時と場所が変わって命が何より大事になれば、嘘をついても嘘を受け入れても命を守ることが正しくなるのだ。
「そんなことをしなくてもいい、そんなことをしても無駄」と幾ら言ったとしても、「こうすることで安心や満足感を得ることが出来る」と言う人には効果はない。
競技には直接ルーティーンなど関係なくても、それで力を発揮できると本人が(あるいは著名な科学者が)言うならば、それは意味あることになるのだ。

「自由の敵に自由を与える必要はない」―ナチスやホロコーストの否定や異議を認めない、つまり言論の自由を認めないドイツは「戦う民主主義」の先進国である。
原爆や核について口封じしたアメリカもそうであろう。
「自由の敵」「民主主義の敵」とは、「誰かがこうあるべきだと望む(決めた)社会に相応しくないと烙印を押された者、適合出来ない者」のことである。


どうもその問題が司法の世界にも持ち込まれているようだ。そして、それは人を裁きその自由を奪ったり、場合によっては死刑という形で合法的に人の命を奪うこともあり得る司法の場では、取り返しが付かないほど重大な事態に発展しかねない危険性を孕んでいる。


取り返しが付かないほど重大な事態が誰かの身に起こっても、社会は進んでいくしかない。
世界の終わりを私達は誰一人として経験したことなどないし、遅かれ早かれ人は等しく死んでいく。
私達は無力である。そして諦めの毎日を生きている。

冤罪であることを証明したとして、喜ぶのは死刑囚くらいだろう。
被害者は落胆するかもしれない。
その他大勢の人にとっては他人事だ。死刑囚が死のうが死ぬまいが関係ない。赤の他人の死や苦痛など痛くも痒くも無い。
いや、冤罪の証明も信じられなくて、極悪犯にシャバに出てきてもらっては困ると却って迷惑がるかもしれない。

夏祭りの炊き出しのカレーに猛毒のヒ素が混入し、4人の死者と60人以上の怪我人を出した和歌山カレー事件で、既に死刑が確定している林真須美死刑囚の犯行を裏付ける唯一の物証となっていた科学鑑定の結果に今、重大な疑義が生じている。

これまでこの番組では事件の捜査や裁判の問題点、林真須美氏の死刑判決の物証となった科学鑑定、いわゆる「中井鑑定」の妥当性の問題などを指摘し、最高裁判決が依拠している科学的な根拠が実は脆弱で、そもそも鑑定に示されている「異同識別」の結果が読み違えられている可能性があることを指摘してきた

京都大学大学院の河合潤教授が中井鑑定の中身を検証した結果、この裁判では中井鑑定に対する大きな誤解があることが判明した。中井鑑定は事件の関係先9箇所から採取したヒ素がいずれも同じ起源であることを示しただけで、それはその地域で流通するヒ素がほぼ同じドラム缶に入って中国から輸入されたものだったために、当然のことだった。

中井鑑定はむしろ、林家から発見されたヒ素とカレーにヒ素を混入されるために使われた紙コップに付着していたヒ素とは、軽元素の不純物の含有量が一致しておらず、まったくの別物であることを示していた。しかも、林家のヒ素よりも紙コップに付着していたヒ素の方が、3倍から7倍も純度が高いものだったことから、林家にあったヒ素を発見された紙コップを使ってカレーに投入するというストーリーがあり得なかったことを、中井鑑定は示していたのだった。

河合教授の指摘と、裁判で使われた中井鑑定を実施した東京理科大の中井泉教授の間では、その後、学会誌の誌上などで激しい論争となっている。一見、素人には難解な専門的な論争に見えるが、その中身を詳しく見て見ると、実は非常に初歩的な問題点が議論されていることが分かる。

要するに中井教授は、検察から依頼された9つのサンプル中に含まれるヒ素の「異同識別」という鑑定嘱託書の意味を、ヒ素の起源が同一だったかどうかを鑑定して欲しいと依頼されたものと理解し、それを行ったまでだった。しかし、その起源が同一であることは、先述の通りむしろ当たり前の結果であり、それではまったく林真須美氏の犯行の裏付けにはならない。しかし、にもかかわらずマスコミはその鑑定結果を「林宅と紙コップのヒ素が一致」と大々的に報じ、特に化学などに特別な素養があるわけではない裁判所も事実上、その報道と同レベルの解釈によって、鑑定結果を林真須美犯人説の裏付けとしてしまったのだった。

そして、河合教授が弁護側からの依頼で、単純に中井鑑定の結果を「林真須美氏が犯行を犯していない可能性」を裏付けるために再度検証した結果、不純物の組成などから、中井鑑定はむしろ真須美氏が犯行をしていないことを裏付けるデータを提供していたことがわかったのだという。








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by yumimi61 | 2016-12-04 12:28


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