2017年 03月 13日
父の病⑲
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)

1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日)
 死亡


1月26日(木)夕方
「かなり温度差があり、あれでは緩和ケア病棟に受け入れてもらうことは無理です」という言葉を残して看護学校の講義に出掛けて行った地域連携課の担当者(看護師資格を持つ相談員)と夕方再び会った。
まず私との2者面談を行った。
私は父と話をして転院することに対して了解を得たことを告げたが、相談員さんはもはや転院に積極的ではなかった。
完全に緩和ケア病棟への転院は無理と判断し諦めているような様子であった。
緩和ケア病棟は審査が厳しいので誰でも入れるわけではないというようなことを説明された。
本人が治療を望んでいる状態ではもちろんダメ。
病気の状態や現実を全てを理解し納得していること。迷いがある状態ではダメ。
死を受け入れて、死までを安らかに過ごしたいので「お願いします」というような気持ちや態度である必要がある。
それは家族ではなくあくまでも本人の意志でなければならない。
これだけを聞けば、父は緩和ケア病棟を希望する患者に相応しい優等生ではないと相談員さんに判断されたと理解するしかない。

しかし、死の受容ってそんなに簡単なことだろうか?
死はあらゆる人間に等しく与えられているものだが、死ほど不確かで不公平で理不尽なものはない。
それを受容した優等生でなければ入れない緩和ケア病棟とはいったい何なのだろう?
身体的な問題だけではなく、死に直面している患者の精神的サポートを含めた総合的なケアを行うのが緩和ケア病棟ではないのか。
迷いや死への恐怖、死を受容する過程にある不安定さ、死を直面してもなお持ち続ける希望、それを許さないターミナルケアや医療にどんな意味があるというのだろうか?


私は学生時代にキューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を一度読んでおくことと言われ買わされたか買った。(買っただけでなくちゃんと読みました)
キューブラー・ロスは死の受容までには5つのプロセスがあると論じている。
当然のことながら最初から受容できるわけではない。受容が理想とも限らない。
受容した患者しか受け入れられないという緩和ケア病棟は医療の役割を端から放棄したようなものである。

エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross;1926〜2004年)は「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医(終末期研究の先駆者)として、人類史に名を残している人物です。彼女が切り開いた終末期医療は、今、世界中の多くの医学部で必修科目となっています。

特に1969年に、彼女によって出版された『死ぬ瞬間』は、世界的なベストセラーとなりました。今でも本書は、サナトロジー(死学)の基本テキストとして、世界中で読み継がれています。

なによりも意義深かったのは(1)それまでは医学が及ばない領域とされてきた「死」について、医師が言及したこと(2)死にゆくプロセスを5つの段階として科学的に捉えようとしたこと、の2点とされます。

「死の受容」プロセス(5段階モデル)
第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
第2段階:怒り(anger)
第3段階:取り引き(bargaining)
第4段階:抑うつ(depression)
第5段階:受容(acceptance)

5段階モデルの代表的な批判1:本当に「受容」が理想なのか?
キューブラー・ロスによるこの5段階モデルの、最も中心的な批判とされるのが「段階」という考え方に対するものです。特に、キューブラー・ロスのモデルは、最終段階とされる第5段階に行き着くことを、無意識にも理想としている点が批判されます。
「段階」という考え方は、過去から未来への直線的な物事の進行を表現するものでしょう。そして、次の段階に至っているときは、前の段階は終了している(または次の段階の前提になっている)ことが求められます。
本当に「受容」という段階に至ることが、誰にとっても理想的な死なのでしょうか。そこに、キューブラー・ロス個人の価値観が入っているとは言えないでしょうか。批判の多くは、ここに集中するようです。


キューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)と、それへの代表的な批判についてより>


迫りくる死を受容するということは言うほど簡単なことではない。
それまで人生を達観していたような高名な学者や医師、宗教家であっても、いざ自らに死が迫りくると平常心ではいられず取り乱すという話はよく聞く。

人間一度は死なねばならない、とはだれしも一応は合点しているが、 「自分の死」 に直面したときは、動物園で見ていた虎と、山中で突如出会った虎ほど違う。

『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として、40数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきた。
 死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、聖人とも聖女とも呼ばれていたそうだが、晩年脳梗塞に倒れ、豹変している。
「もうこんな生活はたくさん。愛ってよく言ったもんだわ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」
精神分析は時間と金の無駄であった。自分の仕事、名声、たくさん届けられるファン・レター、そんなのは何の意味もない。今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない、と言うのである。
 死は誰にでも訪れるものだから恐れなくてもよい、と他人を励ましてきた人が、自分の死に対してはとてもそうはいかなかった。
 幻滅して、離れていってしまったファンも多かったようだ。
 これはいかに「自分の死」に対して我々が無知であるかの証であろう。

 もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮しているときは、平気で死ねるように見えるし、不治の病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいるが、あれは極度の興奮で一時気が動転しているか、死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのである。
 フランスの哲学者、パスカルは、 「ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである」(パンセ) と、言っているが、すべての人間の悲劇は遅かれ早かれ死なねばならないところにある。

 核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、交通戦争だと騒いでいても、しょせんは死が怖いということではないか。
 死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、それに衣を着せ和らげたものと対面しようとしているに過ぎない。

人生の目的 第5章生と死より>












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by yumimi61 | 2017-03-13 15:23


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