2017年 04月 07日
父の病㉙
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)
1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日) 死亡



緩和ケア病棟に転院させたい私と、転院は無理だと思うと譲らなかった地域連携課担当者。
1月26日の夕方に私と地域連携課の担当者が行った面談は平行線のままだった。
刻々と時間だけが過ぎて行った。
「ではとりあえずお父さんと話をしてみましょうか」
担当者はそう言い、私達は父の病室へと向かった。

「お話を聞きたいので少しお時間よろしいですか」と担当者が声を掛けると、父は起き上がった。
「ここでは何なので別のお部屋にしましょう。車椅子を持ってきましょうね」と担当者は部屋を出ていく。
父はベッドを降りて歩いて行こうとするので私は「車椅子を持ってきてくれるって」と言うと、「トイレ」という返事。
父は病室内にあるトイレに一人で歩いて行き用を足した。

その後車椅子に乗って別室へ。3者面談が始まった。
3者面談と言っても私と担当者はここに来るまでに散々話をしたわけで、この時間は担当者が父に質問をするという形で進められた。
私はなるべく口を挟まないようにした。

「私は専門家ではないので詳しいことはよく分からないけれども」
父はそう言って質問に答えていった。

私がよく覚えているのは次の2点。

「緩和ケア病棟をどうして知っていましたか?」という質問だった。
私は「緩和ケア病棟」という言葉は一度も使わずに、がんの苦痛を取り除いてくれる病棟などと父に転院の説明をしていた。
面談についての口裏合わせや指図なども一切していない。
「どうしてって・・それはA病院にもB病院にも案内やバンプレットに書いてあったからね」
「それを見たんですか?」
「そうです」
父は知っていたのだ。


「あとどれくらい生きられると思っていますか?」
なんと残酷な質問であろう。
がんを宣告された時に父は医師に余命を訊いた。でも医師はそれを数字で表すことはなかった。
医師が答えられなかった質問を患者本人にぶつける。
「まあ自分の希望としてはあと4~5年生きられればいいなあと思っているけど。まあ無理だろと思う。どうですかねえ?」
私はちょっと泣きそうになった。
「そうですね~希望としては4~5年と言わずずっと生きられればいいですよねぇ」担当者が答えた。


父の回答は何も問題なかった。私が一番最初に問診票に書いたことと何ら相違はない。
少なくとも私はそう感じた。
担当者も否定する要素はなかったと見られ、「じゃあとりあえずB病院の手続きを進めましょうか。それでいいですか?」と言って話をまとめた。
私達は「はい」と頷いた。こうして面談は終わった。

担当者はバツが悪かったのか、それとも私に対する何らかの批判や疑いが込められていたのか、私と2人になった時に「今朝とは全然様子が違っていました」と言った。


1月27日(金)
この日も私は父の病室を訪ねた。
どころがベッドはもぬけの殻。
父とその隣のベッド(いつも奥さんが付き添っていた方)2つとも誰もおらず未使用仕様になっていた。
(そう言えば隣の人は転院するって言ってたなぁ。転院は今日だったのかぁ)、昨日夕方にはその方もまだいたのでぼんやりとそう思った。
でも父はどこへ?どこへと言ったって病室を変わった以外には考えられないけれども。
私はナースステーションに行って名前を告げ病室を尋ねた。
「ちょっと待ってください。確認してみます」と看護師さん。
「ここですね」
ナースステーションのすぐ前の個室を案内された。
ナースステーション前の個室ということは容態が悪化したということだろうか、私がすぐさまそう思った。
ナースステーション前の個室は差額ベッドの個室とは訳が違う。
通常、頻繁に観察や処置の必要がある重症患者が入るところである。


父はベッドサイドモニタを付けてギャッジアップしたベッドで横になっていた。
動けるような状態の患者が入るところではないせいか、個室であるがトイレは設置されていない。
ベッドのそばにポータブルトイレが置いてあった。
「苦しいの?」と訊くと父は頷いた。

しばらくすると部屋にリハビリスタッフの若い女性が訪ねてきた。
「今日はリハビリは無理そうですね。お休みしましょう」
「そうだね」
「また良くなったらしましょうね」

「この人が凄く良くしてくれるんだ」と父が言った。
「いえいえ」みたいな感じで微笑むスタッフ。
「また頼むね」

私はある出来事を思い出していた。
あれは肺炎で入院した時だったろうか、退院間近の父の病室にリハビリスタッフがやってきた。やはり若い女性だった。
父はリハビリの誘いを無下に断っていた。
2人のやりとりを聞いているとその日の午前中にも誘いにきたらしい。その時にも父は断り午後に再び誘いにきたようだった。しかし父は「リハビリはやらないって言っただろう」と邪険に突き放した。
私はその父の態度にむっとして、すぐにその場で「そういう言い方しなくてもいいんじゃない」と父を諌め、私はそのスタッフに謝った。
「いいんですよ。また来てみますね」と戻っていった。
「どうしてあんなふうに言うの?私だって医療従事者なのに。あの人は若い頃の私かもしれないんだよ」
私は父に言った。
言って気が付いた。ベッドサイドに行って声を掛け邪険にされる、その若い女性にかつての自分を投影していたのだ。
「リハビリはお金取るんだから」、父はそんなふうに力ない反論をしたように思う。

父はその時のことを覚えていたのだろうか。
だから優しく「この人が凄く良くしてくれるんだ」と言ったのだろうか。
それともそんなことはもう全く覚えていなかったのか。

そしてもうひとつ気付いたことがあった。
父は肺炎が良くなっても慢性呼吸不全の患者である。在宅酸素療法をしている患者である。
長時間酸素を吸わなかったり動いたりすれば苦しくなってしまうのだ。
病院に入院しているということで私はそのことをすっかり忘れていた。
酸素吸入をしない状態でのリハビリは苦しかったのかもしれない。
下手に苦しいなんて言えば退院が延びると思っていたのかもしれない。

昨日(26日)3者面談した時にも酸素吸入のことを忘れていた。
面談途中で地域連携課の担当者が「ああそうだ忘れてた、酸素吸入しましょうね。携帯用ボンベを持ってきます」と気が付いたのだった。
車椅子に座っていた父は病院の携帯用ボンベから鼻腔カニューレで酸素を吸入しながら質問に答えた。
病院のベッドでは酸素吸入可能で、在宅酸素療法で使用している外出用の酸素ボンベも「持ち帰ってください」と言われる。
病院に入院するということは具合が悪いわけで、ベッドを長時間離れることをあまり想定していない。
そのせいで携帯酸素ボンベのことが頭からすっかり飛んでしまうのだった。


病室が変わっていたのを知ったのは27日の午前中のことで、私は一旦実家に帰り、午後に再び母と出直した。
私はまた地域連携課の担当者と面談する予定が入っていたので、「ちょっと話をしてくるね」と母を父の病室に残して病室を出ようとした時、「〇〇〇も大変だね」と父が母に話しかけている声が聞こえてきた。


地域連携課の担当者は父がナースステーション前の個室に移ったことをすでに知っていた。
「昨日のお話で分かったかと思いますがあれではやはり難しいと思います」と担当者は話を切り出した。
え?
昨日のお話で分かった・・?いやいやいや分からない、どういうこと?
「4~5年生きられるとか言ってたでしょう、そういう感じではやっぱりねぇ」
え?
希望でしょ、希望を口にしたらいけないのか。本人だって「無理だと思う」と言っていたのに。
もっと言えば、余命の質問にも昨日の問いかけにも、専門家は誰も数字を提示しなかったのだから、どう考えたって勝手だと思うのだけれど。
私は担当者の予想外の言葉に正直驚いていた。
昨日の話の最後の「じゃあとりあえずB病院の手続きを進めましょうか。それでいいですか?」という言葉は社交辞令だったのだろうか?
だけどもう反論する気力は失せていた。
どうしても緩和ケア病棟には向かわせたくないらしい、そのことはよく分かった。

「あれから私、B病院の一般病床にあたってみたんですよ。知り合いがいるので。それで一般病床に入院させてもらえることになりました。もともと呼吸科にかかっていて、先生(ドクター)も知っているわけだし」
それはそうなのだが・・。
「その一般病床から緩和ケア病棟を目指してもいいですし、疼痛コントロールも同じ病院だから緩和ケアの先生と連絡を取ってやりやすいと思うんですよね」
緩和ケア病棟を目指すとはどういうことだろうか。これも言葉の綾だろうか。
一般病床(急性期病床)での入院は1~2週間が目途である。
余命をそれ以下と見越してのことなのか、だったら同じ一般病床に転院させる必要があるのだろうか。このままここにいたって同じではないのか。
「1~2週間でまた次のところを探さなければならないということにはならないでしょうか?」
私は質問してみた。
「いやそれはないです」
「長くいられるということですか?」
「そうです」
俄かには信じ難い返事であった。

若い人の突然死だってあるくらいだから、高齢な末期がんの患者であればいつ容態が悪化しても不思議はない。
不思議はないが、26日夕方から27日の変化は唐突で予想外のものであった。
入院後に父の状態は少し回復して、ベッドに座り、病室内のトイレに行くくらいには動けていて、かつての元気さこそはなかったが隣の人と多少会話し、毎日リハビリも行っていた。
もともと柔らかいご飯を好まない人でもあったが、「普通のご飯に変えてもらったよ」と私に報告したりもした。
がんと診断されてから食欲はガクンと落ちたが、それでも何かしら食べるようにしていた。
私も実家に行く時は大きなプリンとか美味しいカステラを買っていったりした。
茶碗にご飯よりはおにぎりのほうが食べやすいというので(しかもコンビニおにぎりの明太子指定)、なるべく父の希望に沿うようにもした。
元々蓄えもあったせいか目に見えて痩せるということはなかった。それは入院してからも同じだった。
緩和ケア病棟は、突然の変化、それに追いつかなかったり心変わりしてしまう家族の気持ちを恐れているということなのか。
もはや入院先があるというだけでもよしとしなければならないのであろうと思い、私は「お願いします」と言った。










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by yumimi61 | 2017-04-07 12:27


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