2017年 04月 14日
日本国憲法の秘密-453-
私が『日本国憲法の秘密』というタイトルで書いてきたことを大まかに分類すれば次のようになる。

日本国憲法→松方正義とその家族→飛行機→戦争→原爆


松方正義は日本銀行の創始者。総理大臣にも2回就任。日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣なども歴任している。
明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても天皇から財政委任の詔勅を得て、大きな権力を持って財政をすすめた。
明治時代(1868-1912年)というのは近代化の名の下、戦争と借金によって世界の金融システムに呑みこまれていった時代である。

ロスチャイルド家が台頭した1700年〜1800年代はちょうど、ヨーロッパにおいてオカルティズムな神秘主義が拡大した時代だった。
その前の1500〜1600年代に起こった宗教改革が良くも悪くも宗教の権威主義に変化を与え、合わせて独裁的な君主に反旗を翻す市民革命も起こったため、様々なことが世俗化し、自由の名のもとに多様化していった。
1人の人間が発揮する吸引力というものが失われた時代であると言える。
またイングランドでの中央銀行の誕生を経て、1800年代半ばから始まった産業革命が、近代化への幕開けを告げた。
それは科学の時代の到来でもあった。

要するに、「金(紙幣・数字)で買えない物はない」「科学で解決できないことはない」という時代を迎え、宗教はその根幹から揺らぐことになった。
「マリアの処女懐胎」や「イエスは神の子」を謳うキリスト教、特にそれによって権力を獲得したローマカトリックへの打撃が深刻であることは想像に難くない。
こうした時代の変化をいち早く読み取れば、宗教や国のこれまでの権力者は金(紙幣・数字)や科学に近づいていくだろうと思う。
それは自身が生き延びる術であるからだ。



明治初期の金庫番は早稲田大学創始者の大隈重信である。
薩長藩(鹿児島・山口)出身者が強大な権力を握った時代にありながら、大隈重信は佐賀出身であった。
このことから考えれば金庫番は実力者である必要があって、大隈は実力があったということだろう。しかしやはり派閥が違うためか何かと合わず辛酸を舐めた。
この大隈の後に金庫番に就いたのが松方正義である。
松方家は武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時が鎌倉時代初期に島津忠久に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たことから始まる。
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


明治天皇は1852年生まれで、明治元年には若干16歳である。
天皇すり替えの噂も絶えないが、そうでなくとも歴史上長いこと天皇は実権を握ってこなかった。
個人的に見ても、明治初期の天皇は実績や実力不足である。
この天皇を中心にすんなりと一国が回っていくとはとても思えない。
明治初期には実力者は別にいて、実権は別の者が握っていたと考える方が自然である。


1868年1月3日(慶応3年旧12月9日)に王政復古の大号令が発令された。
その時に作られた政治体制は「三職」であった。
 1.総裁(有栖川宮熾仁親王)
 2.議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)    
 3.参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)


表の最高権力者は有栖川宮熾仁親王であった。
明治初期に権力を持っていたのは、長州藩でも天皇でもなかったのである。
つまり天皇同様に長州藩もすんなりと一国を回していくにはやや実力不足であった。
転換の混乱期にあまり表舞台に立たないほうがよいだろうという打算もあったのかもしれない。

では有栖川宮熾仁親王とは何者か?
総裁の有栖川宮熾仁親王は明治天皇や長州藩から信頼を得ていた人物だったのだ。
有栖川宮家はもともとは徳川家や幕府関係者とも親密な宮家だったのが、幕末の有栖川宮家の幟仁親王(父)と熾仁親王(子)は長州藩と内通しており、孝明天皇から処分されている。
王政復古後に熾仁親王(子)は三職の総裁に就任したが、幟仁親王(父)は国家神道普及の道を歩んだ。 

(王政復古直後)長州藩に近い皇族→(数ヶ月で)長州藩に近い公家→(1885年)長州藩士という流れで、首相が誕生した。
以前リンクした記事に裏天皇は旧徳川勢力とあったが、江戸時代というよりもそれ以前からある宮家や公家の中に倒幕派に付いた者がいたのである。また幕末にはそれまでの親幕府から翻った藩もあった(親倒幕派が藩主に就いた)。
それに追加して明治維新の混乱に乗じて発生した怪しい宮家もあり、それらも当然のことながら明治天皇や長州藩派であった。



熊本洋学校ジェーンズ邸は、西南戦争にて明治政府側の征討大総督であった有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。
この有栖川宮の許可により、旧ジェーンズ邸に博愛社が設立された。
その博愛社が10年後に日本赤十字社となったため発祥の地と言っているのだが、ジェーンズとも熊本洋学校とも関係ない。跡地だったということだけだ。
今回の熊本地震でジェーンズ邸も倒壊してしまったらしい。



博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。


現在の日本赤十字社社長の近衛忠煇氏は熊本藩細川家に生まれた(兄が細川元首相)。
英国ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスヘ留学、1964年(昭和39年)に帰国。日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚した。同年より日本赤十字社に入社。
1965年(昭和40年)に母の実家である近衞家の養子となった(伯父の文隆の夫人の養子)。

日本赤十字社は皇族が名誉総裁や副総裁に就任しており、当初から皇室との関係が非常に深い。
新島襄の妻だった八重は日本赤十字社に取りこまれた。

近衛家と島津家は親密である。
島津家は関が原の戦で徳川軍と戦った根っからの反徳川派であった。
その島津藩は後に篤姫を将軍の継室として送り込むまでになる。
島津斉彬藩主が養女であった篤姫を近衛家の養女として13代将軍・徳川家定の継室に送りこんだからである。

上記「三職」にある薩摩・尾張・越前・安芸・土佐を現代の県に当てはめれば、鹿児島・愛知・福井・広島・高知である。
実は長州藩(山口)は含まれていないのだ。
そもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。
三菱の岩崎弥太郎、三井資本で外国旅行に出かけ問題となった後藤象二郎&板垣退助、海援隊の坂本龍馬はみな土佐藩出身である。
土佐藩を脱藩し薩長同盟の立役者となった坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩に戻って直に暗殺され、薩摩藩や長崎商人の支援で結成された亀山社中(海援隊)は土佐藩の後藤象二郎に引き継がれ、土佐地下浪人として没落していた岩崎家の弥太郎の手に渡り今なお続く三菱財閥になりましたとさ。
(長州出身の伊藤博文は三井資本、肥前出身の大隈重信は三菱資本で動いていた)
その三菱財閥の岩崎家が薩摩・島津家の家臣だった松方家と婚姻によって親戚になりましたとさ。



では長州藩が表舞台に登場したのはいつだったのかと言えば、これが松方正義とも関係する。
大隈の後に金庫番となった松方正義が中央銀行設立を推進するようになったのは、1877年に渡欧してフランスの蔵相レオン・セーに会ってからである。
日本銀行設立は1882年だが、その前年1881年に前金庫番であった大隈重信とその一派が明治政府中枢から追放された(明治十四年の政変)。
レオン・セーはロスチャイルド家の使用人であり番頭であった。
つまり松方正義はフランスのロスチャイルド家に見込まれて、日本に中央銀行を設立し、権力の中枢に就いていったと考えられる。
もう一人、ロスチャイルド家に見込まれた者がいた。長州5傑の1人伊藤博文である。
真の実力者は往々にして邪魔になるので、見込まれたと言っても実力があったということではないだろう。
傀儡として適任者であった。
伊藤博文は長州藩出身者である。1885年に初代内閣総理大臣に就任した。
長州藩はイギリスとの関係も深いが、1700年代からナポレオン時代が終わる1815年頃までイギリスとフランスの仲はあまりよろしくなかった。
フランスではフランス革命戦争やナポレオン戦争が起こっていて(つまりフランスでは従来の権力の地位が揺らいでいた)、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国(王族のいる国々)が、フランス第一共和制およびフランス第一帝政(ナポレオン)の打倒を目的として同盟を組んでいた。
フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ、金融家に付け込まれるようになった。


・大隈重信と福沢諭吉―横浜正金銀行 
・松方正義―日本銀行

この2つが世界と金融システムを共有することに尽力した。
「金(紙幣・数字)で買えない物はない」という時代になれば、一番の権力は金が握ることになる。
「金は天下の回り物」という言葉があるが、当初お金は金本位制であり銀行によって回されていた。
お金を回す銀行が力を持っていたことは確かだが、金(Gold)を集めるのは容易ではなかった。
金本位制が崩れれば単なる紙幣を発行する者が一番の権力者ということになる。
やがて中央銀行から紙幣が発行されるようになる。
要するにそれはお金は天の下で回るようになったということだ。みな天という傘の下にいるということになる。
日本ならば天は日本銀行ということになる。
でも会社というのは出資者や株主があってこそ。
日本銀行という天の天は筆頭株主(出資者)であるはずだ。
ロスチャイルド家なのか天皇家か、それとも別の誰かか。
国や社会を支配するものがお金になった時、権力は肩書や名誉にあるのではない。お金こそが権力となる。
そして国家や社会は誰かの所有物となる。

日本銀行設立から7年後の1889年(明治22年)にやっと大日本帝国憲法(明治憲法)が制定され、明治天皇が38歳になった1890年に施行された。
天皇が表の権力者になったのはこれ以降である。
翌1891年松方正義は総理大臣に就任した。


松方家は松方正義の女好き子沢山と政略が相まってあらゆる方面に縁戚関係がある。

松方正義の数多い子供とその関連事項について書いている中、飛行機関係に話が移った。
松方正義の14男・義行(1896-1970)の時である。義行は7代目森村市左衛門の養子となった人物。

6代目森村市左衛門が森村財閥の創始者であるが、森村財閥の創始に大きく貢献したのは異母弟の森村豊。
森村家は慶應義塾創始者の福沢諭吉との関係が強い。
森村豊は、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力の下、佐藤百太郎が計画した「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡り、現地で語学と商業を学びながら事業を展開する。
1893年(明治26年)、森村豊は同じ船で渡米した新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)を設立。


新井領一郎(旧名:星野良助)は、群馬県勢多郡水沼村(桐生市黒保根町水沼)にて富農・星野彌平の子として1855年に生まれたが、1866年に隣村の生糸問屋・新井系作の養子となった。
兄の星野長太郎は水沼製糸所設立者で衆議院議員でもあった。
兄弟は日米貿易の創始者として活躍した。
黒保根の星野家は生糸商人になる前は鍛冶屋だった。
祖先の兄弟の兄が黒保根に住み着き、弟は沼田に住んで、ともに鍛冶屋をしていた。

松方正義の9男・正熊の妻は新井領一郎の長女である。(松方家と新井家が縁戚関係となる)
この夫妻には6人の子がいるが、そのうちの1人が1956年に駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーの後妻となった。
駐日大使に就任したのは1961年のこと。任命したのはケネディー大統領。そのケネディ大統領は1963年日米間のテレビ衛星中継開始に合わせるように暗殺された。
翌1964年、ライシャワー駐日大使が日本の大使館前で精神疾患患者に刺される。この時の輸血がもとでC型肝炎を発症。この事件をきっかけに精神衛生法が改正され、日本赤十字社が血液事業を独占した。
駐日大使が襲われたということで日本の医療制度に大きな影響を与えた事件であるが、その影響力の強さのわりにはあっさりと肝炎に感染させてしまうなど杜撰さや稚拙さを感じさせる事件(対応)でもある。

森村財閥は日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)、日本碍子(日本ガイシ)、東洋陶器(現:TOTO)、日本特殊陶業を設立し、成功を収めた。


松方正義の14男・義行が養子に入った7代目森村市左衛門は6代目の次男である。(松方家と森村家が縁戚関係となる)
松方正義の14男・義行は7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
1899年に森村後継者だった6代目の長男(27歳)と、森村財閥の基礎を作った6代目の異母弟・森村豊(46歳)が相次いで亡くなり、次男が森村財閥を引き継いだ。
森村財閥の他にも、横浜正金銀行、第一生命保険、三菱信託銀行、三菱銀行、東芝、三井信託銀行など数多くの企業の役員に就任した。
7代目森村市左衛門の妻は井上勝(長州藩士の息子で伊藤博文と親交があった。清国経由でロンドンに留学した「長州五傑」の1人)の長女。
ちなみに、 松方正義の10男・義輔(1883-1972;日本銀行金沢支店長、日本特殊陶業監査役、共立原料各監査役)の妻も井上勝の三女である。
7代目は企業のみならず多くの大学や研究機関の役職も歴任した。


6代目森村市左衛門の異母弟・森村豊の3男・森村勇は、ハーバード大学で海軍命で留学していた山本五十六に出会う。
1920年頃のことである。
森村勇はこの時に山本五十六から航空機の魅力についてとくと聞かされ、自身も航空機にはまっていく。
当時、森村勇は20歳代前半で、山本五十六は35歳前後。
山本五十六が第26代連合艦隊司令長官に就任した1939年、森村勇は大日本航空監査役として太平洋を横断した。








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by yumimi61 | 2017-04-14 16:36


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