2017年 04月 16日
日本国憲法の秘密-454-
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


倒幕の立役者である薩長藩。
しかしながらそもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。

1867年大政奉還、1868年に明治時代がスタートする。

その5年ほど前のことである。薩摩藩はイギリスと戦った。
九州のほとんどを手中に収めていた島津家だがそのベースは薩摩にあった。
イギリスは島津家と戦ったとも言い換えることができる。

薩英戦争(文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日))は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した。

生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日)、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。


薩摩藩(島津家)に対するイギリスの心証はよくなかったはずである。
だからイギリスは薩摩藩とは犬猿の仲だった長州藩に近づいたのかは分からないが、1866年なんと犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩は軍事的同盟を組んだのである。

そして江戸時代は終焉に向かっていった。


博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。


以前上記のように書いたが、松方正義も負けず劣らず子沢山である。
・松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。

正妻が産んだ子は4男1女の5人らしいので、残りの21人は妾やら何やら別の女性が産んだ子である。
松方正義が認知すれば子は「庶子」になるし、認知しなければ「私生児」ということになる。
正妻が産んだ5人を除く21人全てが認知された子だったのかどうかは実際のところ不明。
当然のこと全ての子と女性が松方正義と一つ屋根の下暮らしていたわけではない。
産んだ女性あるいは乳母に育てられ、後年になって養子という形で松方正義の子になったということも十分考えられるわけである。
それどころか、松方正義の子としながらも、松方正義の最初の方に生まれた子の養子になった者も複数いる。
そんなこんなで後年に生まれた子ほどその実態(実父が誰で養父が誰なのか)はよく分からないというのが実情。
また家系図などは歴史を遡って調べたり語られるものであり、一般に多く伝えられている事柄に間違いが少しもないとは言い切れない状況にある。

例えば前回書いた松方正義の14男・義行。
彼は7代目森村市左衛門の養子となり、7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
しかし彼は実は松方正義の子ではなく、同じ鹿児島出身の川上佐七郎の次男(川上義行)とする資料もある。

川上佐七郎
1851−1917 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)4年3月23日生まれ。日本海陸保険,大阪舎密,川崎造船所などの取締役を歴任。帝国商業銀行の設立につくし,大阪株式取引所の理事となった。大正6年10月21日死去。67歳。鹿児島県出身。

日本銀行の監事なども歴任したようである。
川上佐七郎は新島襄の同志社大学設立運動に寄付をしていたようで、新島襄から川上佐七郎に宛てた書簡(礼状)が2012年に発見されている。

川上佐七郎は松方正義の妻の従兄弟にあたる人物。
松方正義の妻は薩摩藩士・ 川上助八郎の長女。
川上助八郎は、薩英戦争の時には薩摩藩士としてイギリス艦艇に突撃する決死隊に参加していたという。(とはいっても戦闘機はまだない)
また最後の(明治2年に廃止)屋久島奉行でもあった。
(屋久島は鹿児島県に属する島で現在は世界自然遺産となっている。ちなみに世界自然遺産の登録されている日本の地は4つ。知床・白神山地・小笠原諸島・屋久島。富士山は当初自然遺産を目指していたが後に文化遺産に変更して、自然遺産ではなく世界文化遺産として登録された)
屋久島は平安時代に近衛家の荘園となり、戦国時代には戦場となり鉄砲が伝来した。
安土桃山時代の豊臣秀吉時代に屋久島は島津家の領地となり、森林資源の厳しい統制が布かれるようになった。



●1867年11月9日(慶應3年10月13日) 朝廷(天皇や貴族)が薩長両藩主に倒幕の密勅

前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は小御所会議により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
京では朝廷が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。
13日に密勅を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。相楽総三は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。

(浪士というのは前にも書いた通り、主君を失ったり主家を離れた食べる事さえままならない元武士のことである。風来坊とも言えるかもしれない。雇われた浪士は一時的とはいえ主君が出来たのだから、侍であり武士となる。7人の侍は農民に雇われたが、この場合は薩摩藩に雇われた)

彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。
薩摩藩士は浪士を雇って、放火・掠奪・暴行などの犯罪行為、挑発行為を繰り返した。

その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。



●1867年11月9日(慶応3年10月14日) 大政奉還

朝廷の密勅によって動き出した薩摩藩。
しかし密勅の翌日(あるいは当日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上した。
大層あっけなく目的を果たしたわけだから、雇われた浪人ももうお役御免のはずである。
無血開城が叶うのだ。

討幕の密勅の直後の慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。
そうして騒乱は拡大していった。もはや目的なき騒乱である。


●1868年1月19日(慶応3年12月25日) 江戸薩摩藩邸の焼討事件

薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。


権力とは別の場所で暴走が起こったのか。
それともやはり後ろで権力者が糸を引いていたいのか。

倒幕(討幕)に際し薩摩藩として表立って行動していたのは島津ではなく西郷隆盛や大久保利通である。
薩摩藩が諸手を挙げて西郷らの討幕計画に賛同していたかというとそうではなかった。
地元薩摩では西郷の言動を非常に危険視していたとも言う。
松方正義の妻の父・川上助八郎も西郷のやり方には異を唱えていたらしい。
西郷を支援していたのは他でもない島津家であった。
賞典は西郷や大久保に与えられたわけではない。もちろん雇われた浪人たちでもない。
藩であり藩主、結局は権力者に与えられる。

戊辰戦争(新政府vs旧幕府勢力)の戦功賞典
 10万石:島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
 4万石:山内豊信父子(土佐)
 3万石:池田慶徳(鳥取)、戸田氏共(大垣)、大村純熈(大村)、島津忠寛(佐土原)、真田幸民(松代)
 2万石:佐竹義尭(久保田)、藤堂高猷(津)、井伊直憲(彦根)、池田章政(岡山)、鍋島直大(佐賀)、毛利元敏(長府)、松前兼広(松前)
 1万5千石:前田慶寧(金沢)、戸沢正実(新庄)、徳川慶勝父子(尾張)、浅野長勲(広島)、大関増勤(黒羽)
 1万石:松平慶永父子(福井)、六郷政鑑(本荘)、榊原政敬(高田)、津軽承昭(弘前)、戸田忠恕父子(宇都宮)、黒田長知(福岡)、有馬頼咸(久留米)、秋元礼朝(館林)など

西郷と大久保は幼い頃からの友人であったが、明治新政府が樹立した後は時代の波に呑みこまれ対立する運命を辿る。
そして負けたのが西郷である。西郷は死んだ。
しかしながら大久保もまた暗殺された。
倒幕(討幕)を代表する薩摩藩士はともに不運な最期を迎えた。
薩摩藩一の出世頭となった松方正義は藩士ではなかった人物である。
藩士ではないというのは、武士として戦った実績がほとんどなく、幕末においても勤皇志士としての活動歴がないということ。
父親は商家に生まれた松田正恭。松方家に養子入りし松方正恭となる。
松方正恭の息子として生まれたのが松方正義(血の繋がりは松田にある)。
薩摩藩時代の松方正義も異例の出世を遂げたそう。
生麦事件の時には島津久光の側近だった。





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by yumimi61 | 2017-04-16 17:49


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