2017年 04月 18日
日本国憲法の秘密-456-
21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。

松方正義Wikipediaの家族欄では巌(松方正義の長男)の養子となったとあるが、ここは勘違い。
正式に養子となったのは3男・松方幸次郎のほう。長男・巌の世話になっていたこともあったということのようである。
松方三郎Wikipediaのほうでは松方幸次郎の養子として届け出たことが記されている。
( 昭和30年(1955年)5月9日、本名“義三郎”を“三郎”と改名。子供のころから“義三郎”の名を嫌い、自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた(『松方三郎』341頁))

1899年 8月1日 - 松方正義と松方の妾キタの子として生まれる。“義三郎”と名付けられる。京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ。その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む。
1905年 4月 - 兄松方幸次郎の養子として届出。

はたして、川上左七郎の4男なのか、松方正義の15男か、正解は不明。
(川上左七郎は川崎造船所の取締役、養父の松方幸次郎は川崎造船所の社長である)
正解は不明だが、松方義三郎(後に三郎)は松方家の3代目当主に納まった。
 松方家初代当主 松方正義(父)
 松方家2代目当主 松方巌(長男)
 松方家3代目当主 松方三郎



松方義三郎(三郎)が正式に養子に入ったのは松方正義の三男・松方幸次郎であるが、長男・松方巌の世話になっていた時期もある。
松方巌は十五銀行の頭取であった。

十五銀行
1877年(明治10)5月21日に国立銀行として開業。
岩倉具視の呼びかけにより有力華族が発起人となり華族銀行とも呼ばれた。
原資は禄(貴族や官人に支払われていた金銭と維新功労者に対して付与された金銭・物資など)制度処分の代わりに発行された公債(国債)。
初代頭取には最後の長州藩主・毛利元徳が就いた。
宮内省(現在の宮内庁)の金庫(御用銀行)でもあった。

1897年(明治30年)に普通銀行(株式会社)に転換。
転換後の初代頭取は園田孝吉。

園田孝吉
1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。
1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。
1889年11月に帰朝し、翌1890年3月、松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取をつとめた。1897年4月、病により同頭取を辞任。1899年には十五銀行頭取、帝国倉庫運輸株式会社社長などを務める。


1920年(大正9年)、十五銀行は 浪速銀行、神戸川崎銀行、丁酉銀行を合併する。
この合併の頃に十五銀行の頭取だったのが松方巌である。
神戸川崎銀行は川崎造船所(現在の川崎重工のルーツ)の創業者で川崎正蔵財閥の創始者である川崎正蔵が神戸にて開業した銀行。
川崎正蔵は松方正義と同郷で旧友という間柄。
当時大蔵次官であった松方正義の計らいもあって、1878年(明治11)に東京築地の官有地(現在の築地本願寺や聖路加国際病院の近く)を借受けて川崎築地造船所を設立した。
1894(明治27)年に勃発した日清戦争にて急成長し、1896年に株式会社とする。
株式会社になった川崎造船所の初代社長は松方正義の三男・松方幸次郎である。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と相次ぐ戦争で潤った重工業は、第一次世界大戦後の1920年に本格的な戦後不況に陥り、企業や銀行は不良債権を抱えた。
また1923年に発生した関東大震災で支払いを猶予する処置(震災手形)を行い、それが膨大な不良債権と化していた。
こうして金融恐慌が発生した。
十五銀行は川崎造船所に巨額な融資を行っており、川崎造船所も十五銀行も経営破綻危機に陥る。
1927年(昭和2)4月21日、十五銀行に取り付け騒ぎが発生して休業。事実上倒産した。
川崎造船所は公的資金投入によって再建した。

十五銀行最後の(倒産時)頭取が松方巌である。
彼は倒産の責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上した。
なにせ十五銀行は華族銀行であり御用銀行である。銀行が倒産して累が及ぶのは天皇家であり華族である。
松方巌がもっとも恐れた頭が上がらなかったのは松方正義立身出世の立役者である島津家であった。

島津家は華族の中でももっとも被害(預貯金・所有株式)が大きかったし、島津家がなければ銀行倒産後のカタを付けることも出来なかったのである。
島津家は東京品川に所有していた不動産(御屋敷)を一部残して箱根土地(後の西武グループコクド、創設時の役員は当時の著名な財界人や公家の血筋の人物)に売却し銀行整理の資金とした。
その後、十五銀行は再開したが1944年帝国銀行(→三井銀行)に吸収された。

品川のお屋敷はもともとは仙台伊達藩の下屋敷であった。
1873年(明治6)に島津家の所有に移り、天皇もたびたび訪れたという。
第二次世界大戦中、島津家もコクドもその土地を日本銀行に売却した。
戦後はGHQの管理下に入り駐留軍の将校宿舎として1954年(昭和29)まで使用された。
接収解除後の1961年(昭和36)、日本銀行は清泉女子大学に売却した。(忖度した!?)

イエズス会の名称ではありませんが、イエズス会の会憲をそのまま受け継いで創立されている女子修道会もいくつかあります。例えば日本では聖心会(聖心女子大学)、聖マリア修道女会、聖心侍女修道会(清泉女子大学)等です。上智大学 イエズス会の女子教育より>


松方巌は一切を投げ出して島津家の許しを乞うたという。
松方家の長男、2代目当主はこうして潰された。
(松方三郎はこの顛末を知っていて長男・巌の養子にならなかった!?)
松方家はこれまで以上に島津家に頭が上がらなくなったことは容易に想像できる。


21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。

学習院の中等科と高等科を経て、京都帝国大学経済学部卒業。
大学卒業後、満洲鉄道東亜調査局に入社。
1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職。中国の北支・中支・南支の各総局長、満州国通信社理事長を歴任。
戦後は1949年(昭和24)から1959年(昭和34)まで共同通信社にて編集局長や専務理事を歴任。


学習院中等科時代に登山を始める。
1921年(大正10)21歳の時に厳冬期の燕岳(北アルプス)に初登頂、翌1922年(大正11)に慶應義塾大学山岳部と厳冬期の槍ヶ岳(北アルプス)初登頂した。

登山(山に登る、山を越える)ということは日本でも古代の時代から存在していた。
開山(開拓)、調査研究、山岳信仰、宗教的な登山、狩猟、採掘、採取、戦術、移動、冒険など。
但し山に登ることだけを目的として、高く険しい山を目指す道楽・娯楽・趣味・レクリエーションとしての登山(アルピニズム)が広く伝わったのは明治時代のことで、来日したイギリス人が行って広まっていった。
富山県、岐阜県、長野県に跨る飛騨山脈を日本アルプスと命名したのもイギリス人。
後に日本人が長野県の木曽山脈を中央アルプス、長野県・山梨県・静岡県に跨る赤石山脈を南アルプスとして付け加え、飛騨山脈は北アルプスとした。
イギリスは登山が盛んな国で本場スイスのアルプスの山々の初登頂はほとんどイギリス人によって行われた。
日本では明治末から大正にかけて日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、皇族も登山を好んで行うようになる。
大正時代には測量が行われ、山小屋も出来た。松方三郎の厳冬期の初登頂はその頃である。
広島の先生の言う「冒険家とも言える一部の先鋭的な登山」はこの頃に盛んになったわけだが、やはり若さが必要とみえてその主役は高校生や大学生であった。
この時代に高校や大学に通えるということは通常は平均よりも裕福な家庭の子供である。

日本初の本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925(大正14)年、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒、三田幸夫=11代会長ら)によるカナディアン・ロッキーのアルバータ山への初登頂である。

松方三郎は1925年(大正14)にイギリスに留学し、スイスのアルプスで数多くの山に登った。
1925~1927年の2年間で以下登頂。
ヴェッターホルン、ユングフラウ、 グロース・シュレックホルン、 シュトラールホルン、ダン・ブランシュ、ツィナル・ロートホルン、オーバーガーベルホルン、マッターホルン(ツムット稜・イタリア稜)、ピッツ・ベルニナ、ピッツ・パリュなど。
1927年にはアイガー・ヘルンリ稜下部初登攀。






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by yumimi61 | 2017-04-18 14:18


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