2017年 06月 16日
日本国憲法の秘密-499-
MITに依頼して『成長の限界』を書かせたローマクラブ。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていたとされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


設立者であるアレクサンダー・キング。

1909年、イギリスのグラスゴーで生まれる。
イギリスのロイヤル・カレッジ・サイエンス*とドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン**で化学を学び、インペリアル・カレッジ・ロンドン***で研究に従事していた。

*ロイヤル・カレッジ・サイエンスは1907年からインペリアル・カレッジ・ロンドンの構成大学であり、2002年にはインペリアルに全面的に吸収されている。

**ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンはドイツの州立大学。こちらに書いたようにカトリック・イエズス系の大学で、イルミナティの創設地でもある。

***インペリアル・カレッジ・ロンドンは、イギリスの公立研究大学である。1907年に設置された理系の大学である。元々はロンドン大学のカレッジの1つであったが、2007年にロンドン大学から独立した。


アレクサンダー・キングは、第二次世界大戦中、ヘンリー・ティザードに招かれて生産省の副科学顧問に就任した。
戦時中に創設された省であり、当初は「戦争生産省」という名称であったが、すぐに戦争という単語は外されて「生産省」となった。
各行政機関の連絡調整や橋渡し役を担う戦時中の重要な行政機関であった。

ヘンリー・ティザードを覚えているだろうか?原爆開発に関する記事に登場したイギリスの化学者である。

1939年6月、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。

※オットー・フリッシュ(オーストリア)は原子爆弾開発の母ともいえるマイトナーの甥である。
アインシュタインと対立したデンマークのニールス・ボーアの研究所で働いていたが、イギリスにバカンス(バカンスと言う名の?)に出掛けて、イギリスにいたルドルフ・パイエルス(ドイツ)と一緒に研究をし、ブレイクスルー的に「ウランによる原子爆弾の製造が可能である」ことが分かった。
ウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファント***に報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザード****にその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。 

***マーク・オリファント(オーストラリアの物理学者)
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと願い、1927年にイギリスのラザフォードのいる研究所に入った。
オリファントはヘリウム3と三重水素を発見し、1934年にパウル・ハルテックとともに水素の核融合を発見した。

****ヘンリー・ティザード(イギリスの化学学者)
ガソリンのエンジン内での自己発火(ノッキング)の起こりにくさを示す数値・オクタン価を開発した。
レーダーの開発にも貢献し、UFOを真面目に研究したりもした。


しかしながら、イギリスはこの時もまだ、原子爆弾には大して興味を持っていなかった。
原爆は不可能であると正しく結論づけていたのである。

ヘンリー・ティザードはかつてこう言った。
「科学の極意(秘密)は、天才をマークするより何より、正しい質問をすることと、問題の選択にある」

第一次世界大戦でティザードが選択した問題は航空だった。
イギリスの陸軍航空隊で飛行機を飛ばすことを学び、実験装置の責任者となり、流線を観測するためにテストパイロットをも務めた。大戦末期には空軍で働いた。
第一次世界大戦後はオックスフォード大学で化学熱力学におけるリーダーとなり、オクタン価を発見した。
その後、彼は科学産業研究部門の政府ポストにも付く。
イギリス空軍への科学研究ディレクターとしてアドバイスし、マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受けた当時はイギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。

1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、そのウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。
ティザードは情報提供を無下にするようなことはしなかったが、彼自身は原爆を問題にしていなかった。



ヘンリー・ティザードがアレクサンダー・キングを招いたのは失敗だったのではないだろうか。
アレクサンダー・キングは1943年にアメリカに渡り、ワシントンのイギリス大使館で科学担当大使となった。
マンハッタン計画を見届けたイギリス政府の代表者と言えよう。

1940年、イギリスの党首の年頭所感(http://www.masuseki.com/index.php?u=interest/history/070903_morrison.htm

1939年、英国はナチス・ドイツに対して宣戦布告を行った。 以下は1940年のタイムズ紙に掲載された保守党・労働党各党首の年頭所感である。



保守党党首ウィンストン・チャーチルは言った。

「この戦いにはキリスト教文明圏の命運が懸かっている!
この戦いには長い時間をかけて築きあげた我が大英帝国の命運が懸かっている!
やつらの恐怖と暴力はすぐにも我々に向かってくるだろう。
なぜなら、ヒットラーは知っているからだ!我々を滅ぼすか、自分が敗れるか、結末はどちらかしかない事を!

我々がヒットラーに屈しなければ、全ヨーロッパは解放され、地球上のあらゆる生命は日の当たる丘への道を進んでいくだろう!
だがしかし!仮に我々が負けることがあれば、全世界が!諸君らの愛してくれた大英帝国も、我らが連邦も、アメリカ合衆国も、すべてが狂った科学の業火に炙られる地獄へと沈み長い暗黒時代が始まるだろう!
国民よ耐えよ!己の責務を支えとし、耐えよ国民!
この戦いを乗り切れば、千年後の我々の子孫は言うだろう。
『あの時が大英帝国と連邦がもっとも素晴らしかった時代だ』
と!」

一方、労働党党首ハーバート・モリスンは次のように言った。

「 や ろ う か (Go to it.)」



この記事が間違っているのか、タイムズ紙が間違えているのか、それとも一時的に変更があったのか分からないが、ハーバート・モリソンは党首ではなかったはずである。労働党のナンバー2であった。
1935年から1955年まで労働党党首だったのはクレメント・アトリーである。

アレクサンダー・キングは戦後にイギリスの科学政策諮問委​​員会の会長となり、ハーバート・モリソンの私的顧問となった。
チャーチル首相は第二次世界大戦中(終盤)7月に行われた総選挙で保守党が敗北(なんと181議席も失った)したことから辞職した。
そして労働党クレメント・アトリーが首相に就任。
ハーバート・モリソンはこのアトリー労働党政権で副首相や枢密院議長、院内総務を兼任した。

イギリスだってアメリカと同じ戦勝国であるが、アメリカが提案したマーシャル・プランを受け入れ、植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立を承認し、パレスチナの統治を国連に委ねるなど、イギリスは国際的な主導権を失うことになる。
その代わり、労働党らしく(?)、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度を確立した。
国営医療事業国民保健サービス(NHS)が設立されたのもこの政権の時である。


アレクサンダー・キングは1951年に科学産業研究省に移り、イギリスの大学に物理はむろんのこと、経済学や行動科学の研究を推進した。
行動科学とは、人間の行動を科学的に分析し、その法則性を解明しようとする学問で、心理学、社会学、精神医学などが含まれる。
様々な状況での人間の行動を体系化して、目標管理などに応用しようというもの。
行動条件を操作すれば、個人あるいは集団をコントロールすることも可能である。

1957年には、欧州経済協力機構(OEEC)の一部門である欧州生産性本部のディレクターとなる。
1961年、OEECにアメリカとカナダが加わり、OECD(経済協力開発機構)となる。その事務総長にも就任した。(本部はフランス・パリ。日本は1964年に加盟)



Henry Tizard invited King to join the Ministry of Production as Deputy Scientific Adviser. While there he would learn from an intercepted letter the properties of the insecticide dichloro-diphenyl-trichloroethane, coining the acronym DDT.

DDTは殺虫剤である。
1873年にオーストリアの化学者オトマール・ツァイドラー(ドイツ語版)によって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月から10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。

日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

日本では、1945年10月に京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。戦後アメリカから日本に輸出されたものは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの援助として特別に許されたものであった

2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。

DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており、分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。



スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
当時は昆虫など有害生物には有害な一方で人間には有毒ではないという評価であった。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。DDTの名付け親。

ちなみに「有効性」と「有用性」は違う。
何かに対して特定の効果がある、因果関係が認められれば有効であると言える。
一方の有用性は「使える!」(広く役立つ、利便性がある)ということである。
実験や研究で有効性が認められたとしても、それが使い物になるかどうかは別問題。
費用対効果ほか、様々な理由で現実的ではないものが多々ある。
また有用の場合は、特定の因果関係がなくても別に構わないし、本来の目的とは違うが使えるということもある。

ヘンリー・ティザードもアレクサンダー・キングも元々は化学者だったのだ。
こうした分野のほうが専門だったわけである。
DDTは直ちに生産が始まり、昆虫が媒介するマラリアなどの感染症から兵士を保護するために使用された。








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by yumimi61 | 2017-06-16 17:33


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