2017年 08月 04日
日本国憲法の秘密-530- (加計学園問題について)

1976年7月26日、田中角栄元首相(在任期間:1972年7月7日-1974年12月9日)が逮捕された。

いわゆるロッキード事件である。
前に記事にしたが、この贈収賄事件には、丸紅ルート・全日空ルート・児玉ルートという3つのルートによる金の流れがあった。

アメリカ・ロッキード社の旅客機を全日空に買ってもらうためだったと言われている。
購入に関しての賄賂ならば購入の決定権がある者や承認する者に賄賂を贈るのが最適。
あるいは決定権者や承認権者を上手く唆したり、脅したり出来る者。
もしも本当にロッキード社が自社最新鋭の旅客機を全日空に買ってもらいたくて賄賂を配ったとするならば、次のようになる。

贈賄側:ロッキード社
収賄側:全日空

しかし賄賂罪は公務員が関与していないと成立しない。
民間企業のロッキード社から民間企業の全日空の人物に賄賂が贈られていても犯罪にはならない。
実際の事件ではこういう構図となった。

贈賄側:ロッキード社
収賄側であり贈賄側(ロッキード社と政治家等を仲介):丸紅・全日空・児玉誉士夫(政界のフィクサー)
収賄側:田中角栄(元首相)・橋本登美三郎(元運輸大臣)・佐藤孝行(運輸政務次官)

贈収賄罪は贈賄と収賄で通常セットである。
少額ならばともかく赤の他人が大金を贈ったり貰ったりしていて何の意味もないということはないだろう。貰ったことやその意図に気が付かなかったということもまずない。自らの立場を心得ていれば尚更だろう。
商社の丸紅社長らは贈賄罪に問われたが、全日空ルートの全日空人物は誰一人として贈賄罪に問われなかった。
全日空ルートは贈賄と収賄がセットになっていない。
贈賄でないとすると全日空は公務員サイドから利益供与される立場ではなかったということになる。本当に単なる仲介人。
やはり売買しようとしていたものは旅客機ではなかったと考えるのが妥当。
児玉ルートも結局贈収賄とも解明出来なかった。

ロッキード事件で逮捕され贈収賄罪で有罪判決の下った公務員3人のうちの田中角栄と橋本登美三郎は吉田学校の生徒として名前が挙がっている。
トカゲのしっぽ切りだったのだろうか。


「ミスターゴールドマンサックス」「ミスターウォール街」と呼ばれたシドニー・ワインバーグ同様に、田中角栄も小学校しか出ていないタイプである。
政財界の有力者が集まる東京の生まれでもない。新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)の出身で、金持ちの2世でも有名大学出身でもない。
そんな田中が総理大臣にまで上り詰めた。これこそ成りあがり伝説に相応しい。
こんな人はもう2度と出てこないだろう。(現代でそうなるには義務教育の中学を卒業しないで成り上がらなければいけないわけだから相当ハードルは高い。中卒ならばまだチャンスはあるでしょうか)


田中角栄の出世に寄与したのは理研である。
理研の創設者は「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一。
埼玉県深谷の豪農出身。

国庫からの補助金(165万円+毎年25万円)、皇室からの下賜金(年10万円を10年間)、三井財閥や古河財閥からも寄付を受けて1917年に理化学研究所が設立された。設立場所の土地や設備は三菱財閥が提供した。


ジアスターゼやアドレナリンの発見で知られる科学者・高峰譲吉が中心にいて設立者の1人されているが、高峰と渋沢は高峰の渡米を巡って対立した。
但し理研や研究者たちは研究成果(特許)によってアメリカで財を成した高峰に憧れを抱き続けてきたはずだ。

高峰譲吉
タカジアスターゼ、アドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。
高峰は1890年にアメリカに移った。
当時の法律ではまだ日本人は帰化することは出来なかったが高峰は永住覚悟だった。


1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。
東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、譲吉は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。
渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、譲吉の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉の暗殺を試みた。その時譲吉は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは譲吉の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。

1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。
譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。
1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学士院会員となる。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。


1921年、大河内正敏が理化学研究所の3代目所長に就任した。
1代目2代目所長は二足三足のわらじで他の仕事が忙しく理研にかまっている暇はなかった。名前貸しのようなものであったのだろう。
そもそも研究も理研で専属に行っているわけではなく、東京帝国大学の研究室で行われたりしていた。
そんなわけで1代目2代目所長の時には理研はぱっとせず、当然これといった成果も出ずに資金だけを食いつぶしていった。
2代目所長の古市公威と三島由紀夫の祖父が親交があり、古市が三島由紀夫の本名の名の由来なのだとか。(ちなみに三島由紀夫の祖父は福島県知事だったことがある)


理研を発展させたのは1921年に43歳で就任した3代目所長である。

大河内 正敏(1878年-1952年)

東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。
無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。
孫は女優の河内桃子。

当初彼も東京帝大教授と貴族院議員とを兼務していたが、1925年に理研専属となる。
大河内は日本初の造兵学者で兵器研究が専門だった。当時は東京帝国大学工科大学に造兵科があって、彼は三島由紀夫と同じく恩賜の銀時計組(首席と次席)だった。
理研も兵器製造などを目指したのだろうか。
理研は物理・化学の基礎研究が中心で応用技術は少なく、特許を販売しても大した額にはならなかった。
とにかく何か事業につなげたかった。

「工業的試験は基礎科学の発明研究よりもはるかに困難で独自の試験所を設立する必要がある」という大河内の信念のもと、1922年に「東洋瓦斯試験場」が設立された。
アドソールを活用すれば、自動車や航空機用の燃料を得ることが出来るようにもなるとしていたが、それは結局成功しなかった。
アドソールは、新潟県で産出できる酸性白土の蒲原粘土を原料にした材料である。
吸湿性に優れていて、これを使った冷房装置を考案している。

活性白土は酸性白土を熱酸処理して得られるものであり、原土の比表面積が100平方メートル毎グラム程度であるのに対し、活性白土は200平方メートル毎グラム以上となることが多い。
その生産場所は日本では新潟県胎内市・新発田市・糸魚川市や山形県鶴岡市など酸性白土の産地の近くであることが多い。最大手の水澤化学工業が約8割を生産する。1935年前後に相次いで日本活性白土、東洋活性白土、武田白土工業(現水澤化学工業)が設立された。

多孔質で吸着性・脱色性に優れ、植物油を軽度の真空状態で接触させてカロチノイドやクロロフィルなどの有色素成分を除去したり、石油製品の脱色精製に用いられる。使用済みの廃白土はセメント原料や有機肥料製造時の発酵促進に使われる他、白土に残留した植物油を分離してバイオディーゼル燃料を作る試みもなされている。

東洋瓦斯試験所のアドソールを事業化する目的で設立された会社が理化学興業であると言われることもあるが、高性能なピストンリングを大量に製造するためである。
理研はやがて理研コンツェルンという財閥になっていくのだが、理化学興業はその中核をなす会社である。
1927年、三井・三菱・住友などの協力を得て設立した。
ピストリングの加工技術を理研の研究者が開発し、理化学興業(後の株式会社リケン)、ひいては理研コンツェルンの基盤づくりに貢献した。
1932年、理化学興業は柏崎工場を建設。
アドソールならば新潟ということも合点がいくが、そうではなくてピストリングの工場である。
朝日新聞の航空機「神風号」に使われたことで名を上げたとか。

2007年7月16日、新潟中越沖地震で被災、7月22日まで操業停止した。その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止、メーカー各社の技術者が操業再開の支援のために駆けつけるほどの影響があった。

この理化学興業柏崎工場の建設に14歳の田中角栄が関わっていたというのだ。
小学校卒業後、土木工事の現場で働くも1ヶ月で辞めて、その後は柏崎の県土木派遣所に勤めていたという。








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by yumimi61 | 2017-08-04 23:41


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