2017年 08月 07日
日本国憲法の秘密-531- (加計学園問題について)
小学校しか出ていない田中角栄が出世したのは、理化学研究所の3代目所長の大河内正敏の庇護があったから。
大河内正敏の孫に女優の河内桃子がいるが、彼女にも若干気になる点がある。カトリックとの関わりである。
戦争の背景には宗教対立があることが少なくない。
文化人や芸能人が戦争に無理やり(?)協力させられたというならば、こうした宗教活動はどうお思いでしょうか?
こういうのも無理やり協力させられているんですか?

亡くなる前年の末まで俳優座の舞台にも立ち続けたが、1998年11月5日の午前9時45分、大腸癌のため入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。66歳没。亡くなる直前の10月29日、病床でレデンプトール会の近藤雅広神父(当時・心のともしび運動専務役員)より洗礼受け「マリア」の洗礼名を与えられる。葬儀は河内の実娘が喪主を務めた。墓所は東京都台東区谷中の谷中霊園。

カトリック善き牧者の会制作のカトリック布教番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読を永年務め、その功績によりヨハネ・パウロ2世から聖十字架章を親授された他、1996年にはバチカン市国勲章も授与されている。


多くの財閥が戦後GHQによって解体(分解)されたように、理研も解体した。
理研は戦時中日本の原爆開発を担っていたいうが、「星野3兄弟が原爆を作った」と言われることはあっても、「理研が原爆を作っていた」と言われることがないのは皮肉なことである。

日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。鈴木が指名されたのは、当時原子核を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一 (最終階級は陸軍中佐) の2名だけだったからである。なお、すでに理研の仁科芳雄等は、英国の学術雑誌ネイチャーに、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題して、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対称核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果を投稿してあり、同年7月6日に掲載されることになる

鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。
1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄主任研究員は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある)。

その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。
以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。
アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年5月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。

軍の研究を外部に委託する時には航空技術研究所や航空本部を経由したということはどういうことか、察するものがある。 



大河内正敏3代目所長にから「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究を振られた仁科芳雄主任研究員は戦後の1946年に4代目所長となった。
理化学研究所は理研産業団より遅く1948年に解体となったが、すぐさま株式会社科学研究所を設立し、仁科芳雄が初代所長に就任。
皇室や政府の補助金によって設立された理化学研究所は最初から純粋な民間企業とは言えなかったが、解体後はとりあえず純粋な民間企業として再出発した。
しかし1956年には再び政府が出資、1958年には特殊法人化した。

新潟にいて理研所長の大河内と田中角栄が出会ったのは1932年。
田中が大河内を頼って上京したのは1934年16歳の時。
戦時中の1943年に田中土建工業を設立。
理化学興業などから仕事を請け負い、田中土建工業はみるみる年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

田中角栄が国会議員となったのは1947年のことである。
吉田学校の生徒だった田中角栄は翌1948年に発足した第二2次吉田内閣で法務政務次官となった。

まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、1948年11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたもののわずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。
炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。


裁判で係争中だったにも関わらず、裁判前後に田中角栄が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだというから凄い。
理研への政府出資(1956年)や特殊法人化(1958年)も理研に恩のあった田中が積極的に関わったと言われている。
田中が初めて入閣したのは1957年39歳のこと。郵政大臣に就任。任命者は安部首相の祖父である岸信介首相だった。

産業団を切り離し民間企業から特殊法人となった理化学研究所の所轄は文部省であろう。
では理研が特殊法人になった前後の文部大臣は誰だったかと言えば、「文部大臣は瀬尾」とまで呼ばれた灘尾弘吉である。
瀬尾の文部大臣期間
1956年12月23日 - 1957年7月10日 石橋内閣 
1958年6月12日 - 1958年12月31日 第2次岸内閣
1963年7月18日 - 1964年7月18日 第2次池田内閣
1967年11月25日 - 1968年11月30日 第2次佐藤内閣

この灘尾弘吉も、池田勇人、宮澤裕(宮澤喜一の父)、永野重雄、加計勉と同様に広島県出身である。
東大卒業後、当時内務省の人事課長で広島中学の先輩だった佐上信一の計らいで、内務省に入省し衛生局に入る。
※佐上信一は内務官僚で、岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などを歴任した。

天下りだけではなく就職斡旋もあるということ。
官僚(国家公務員)に限らず地方公務員だって役所なんてコネ就職がほとんだとよく言われている。
あとほら、よく聞きますよね?議員さんに入学や就職をお願いするとか、スピード違反などのもみ消しをお願いするとかっていう話。
権力って恐ろしいもので(素晴らしいもので?)議員さんは何でも屋みたくなっている。
「何かあったら何でも言ってください」とか選挙中につい言っちゃってるんでしょうね。



先日、加計学園の創立者である加計勉が同郷の池田勇人(首相)と親しくしていて、その関係で宮澤喜一(首相)の後援会長も務めていたと書いて思い出した。
私は以前にも宮澤喜一首相のことを書いたことがある。

甍(いらか)百五十五 ・・次男が部活中に怪我をした時の話です。
前の百五十四から続いている話です。
きいちときいと
(略)
待合室は来た時よりも人が増えていた。
ご年配の方々は朝が早いと言うけれども意外にゆっくりめスタートなんだろうか?
その中に威風堂々とした男性がいた。
診察に呼ばれた際にも大きな声ではっきりと返事して一際存在感を放っており、かつては中小企業の経営者だったというような雰囲気を醸し出していた。

「ああ、きいちの甥っ子だな」
国会中継を見ていたその男性が発した言葉である。
え?きいち?
テレビに目をやると宮澤経済産業相がいた。
そうか宮澤洋一経済産業相は宮澤元総理の親戚筋なのかぁ。
え・・・・み・や・ざ・わ・・?
ああー!この間話題になっていたSMバーの人はこの人だったのか。どおりでどっかで見たことがあるような顔だと思った。
(略)



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by yumimi61 | 2017-08-07 14:04


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