2016年 12月 05日 ( 1 )

2016年 12月 05日
解釈
幸不幸理論

「人間の(私の、君の)悩みなんて宇宙から見ればちっぽけな事」
誰でも一度くらい聞いたことがあるのではないだろうか。それくらいわりと頻繁に囁かれている言葉。
でも私は思うんです、どうして比較対象が宇宙なのかと。
ちっぽけな人間を宇宙という大きなものと比較することが間違えているような。
ちっぽけな一人の人間なのだから、そこに降りかかった悩みはちっぽけなんかではないでしょう。悩みは大きくて当たり前。
一人の人間にとっては人生を左右するような大きな悩み、その時その人にとってそれが全てになってしまってもそれは仕方がない。

小学校上がりたての子供が運動会の徒競走で1番になったと喜んでいた。
その時に「君の1位なんて世界から見ればちっぽけな事」と言いますか?言わないでしょう。世界となんて比べませんね?
子供が生まれたと喜ぶ夫婦に「あなた達の喜びなんて宇宙から見ればちっぽけな事」と言いますか?言わないでしょう。
どうして悩みや存在になるといきなり宇宙や地球などという大きなものが持ち出されるのか。
それは大きなものと比較することで悩みを相対的に小さく見せて誤魔化すためである。
悩みや不幸は相対的な評価で、喜びは絶対的評価、これが現代のセオリーで生きるための知恵。
比較と言ったって「宇宙」と「悩み」という漠然としたもので、学問的に言えば比較対象になるような条件はこれっぽっちも満たしていない。


逆に自分より下や他人の不幸をみて安心するということもある。
「私の不幸なんてあの人に比べればちっぽけな事」
自分のダメさ加減や不幸と、他人のそれを比較して、他人のほうが大きければ安堵するわけである。
このことによって人間の幸福や不幸は多くの場合比較によって形成されるという知見を得ることが出来る。
だけど1位と2位にどれほどの差がありますか?もっと言えば6位だって7位だって、30位だって同じようなもの。
1位と7位の差は世界から見ればちっぽけな事、宇宙から見れば同じようなもの、そういうことになる。
だけど人間は比較の世界を生きているから、1位と2位には、1位と7位には大きな違いを感じるわけである。



lose-loseな関係!?

限りある世界、限りある資源、限りあるエネルギー。
そんな中、実に緻密に生命は設計され、保存され連鎖し循環してきた。
あらゆる物が相関関係にあると言ってもいいだろう。
このような世界においては、物質的にWin-Winな関係は成り立たない。
こちらが増えれば、あちらが減る。あちらが増えれば、こちらが増える。両方が増えるということはない。
物質的にWin-Winな関係が成り立つ場合というのは、地球上のどこか一部分だけを切り取った場合である。
局所的、あるいは一時的にはWin-Winな関係が成り立っても、大局的にはありえない。

誰かが死ぬということは、誰かが生きるということなのだ。
誰かが生きるということは、誰かが死ぬということである。
何かが死ぬということは、何かが生きるということ。
何かが生きるということは、何かが死ぬということ。
普段そんなことは意識していないが、生は死の上に成り立っている。
でもその「死」とは人間の概念としての死であって、物質的には、ミクロ的には、死とは言えない。
だからこそ連鎖し循環可能なのだ。だからこそWin-Winな関係は成り立たないのである。


まさに修飾

前記事に掲載した「和歌山カレー事件に見る、科学鑑定への誤解が冤罪を生む構図」の中で「異同識別」が取り上げられていた。

最高裁判決が依拠している科学的な根拠が実は脆弱で、そもそも鑑定に示されている「異同識別」の結果が読み違えられている可能性があることを指摘してきた。

京都大学大学院の河合潤教授が中井鑑定の中身を検証した結果、この裁判では中井鑑定に対する大きな誤解があることが判明した。中井鑑定は事件の関係先9箇所から採取したヒ素がいずれも同じ起源であることを示しただけで、それはその地域で流通するヒ素がほぼ同じドラム缶に入って中国から輸入されたものだったために、当然のことだった。

河合教授の指摘と、裁判で使われた中井鑑定を実施した東京理科大の中井泉教授の間では、その後、学会誌の誌上などで激しい論争となっている。一見、素人には難解な専門的な論争に見えるが、その中身を詳しく見て見ると、実は非常に初歩的な問題点が議論されていることが分かる。

要するに中井教授は、検察から依頼された9つのサンプル中に含まれるヒ素の「異同識別」という鑑定嘱託書の意味を、ヒ素の起源が同一だったかどうかを鑑定して欲しいと依頼されたものと理解し、それを行ったまでだった。


「異同識別」とは、違いを識別するという意味である。
「同」という漢字が入っているが、この漢字はほとんど意味を持たない。
「異なるか同じか識別する」という意味ではなく、違いがあることを前提にしている。
複数の試料や検体の異なる点を探すことが目的なのだ。
同じことを確認するのは「照合」である。
結果的に、異なる点はなかった(全く同じ)ということもありうるかもしれないが、それは要求されていることではない。
見た目には分からない、素人にはわかりようもない、同じような物の中にある僅かな差異を見つけ出すことが常に求められている。
違いがあることを前提にしている、これが非常に大事な点である。
「異同識別」という言葉が一番よく用いられるのは遺伝子分野である。


取り逃がすな!

事件報道で「DNA型が一致した」と言っているのを聞いたことがあると思うが、一頃は「DNAが一致した」と言っていた。
さすがに不味いと思ったのか「型」が挿入されるようになった。

当然のことながらDNAや遺伝子と言ったって、髪色‐黒、肌色‐黄、とか書いてあるわけではない。
生命に必要な情報はDNAの塩基配列に隠されているとされていて、これを調べる方法は「DNAシークエンシング(DNA sequencing)」と呼ばれている。
それはすなわち、DNAを構成するヌクレオチド(塩基と糖が結合した化合物にリン酸基が結合した物質)の結合順序(塩基配列)を「決定」することである。
ヌクレオチドの、通称「塩基」と呼ばれる有機塩基(プリン塩基またはピリミジン塩基)には、アデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)の4種類がある。
塩基もその定義が見直しされたり拡大され、複数の定義が存在している状態。
化学的には酸と対になって働く物質のこと。

有機塩基を、例えばAAAGTTTCなどと記述したものが、塩基配列である。
でもミクロの世界のことで目に見えるわけではない。
そこでどうやって調べるかというと、長さを調べている。
現在主流となっているのは、塩基依存的にDNA断片を作製し、その長さを比べることで塩基の順序を知る方法である。(DNA断片長による方法)


DNA型鑑定は上記とは違う。
DNAの特定領域における反復配列の繰り返し回数の違いを調べる方法「短鎖DNA型」が主流である。
DNAの塩基配列のうち、同じ塩基配列が繰り返して存在する特殊な「縦列反復配列」と呼ばれる部分があるとされ、その繰り返し回数は人によって異なるので、これを利用して個人識別を行うものである。

<DNA型の種類>
MCT118型
HLADQα型
TH01型
PM型(Poly Marker:LDLR型・GYPA型・HBGG型:D7S8型・GC型)



A型、B型、O型、AB型、(Rh+と-)、この血液型で個人を特定することなど出来ないわけだが、このDNA型では同じ型になるのは1000兆分の1とされている。(単に数でしかないのに・・・)

検査で判定できるのはあくまで繰り返し数のみであり、その結果は数値でのみ示される。そのため厳密には「DNA鑑定」より「DNA型鑑定」と称するべきとの見方がある。→この部分は前述のとおり、報道ではひっそり変更されています。

現在の技術ではヒトゲノムの塩基配列のすべてを調べるわけではなく、「一卵性双生児以外すべて結果が異なる」という認識は誤りである。赤の他人であってもDNA型が一致することはある。
「極めて低い確率(数十兆分の一)ではあるため指紋認識のような識別手段としての信頼性がある」というのも誤りで、どの程度の確率で同じDNA型の人が出現するかはまだ明確ではない。
「すべての人間のDNAのパターン・データが登録されれば偶然の一致による誤判定は防げる」というのも誤り。

アメリカのメリーランド州では、2007年1月、データベースに3万人分程度が登録されているDNA型プールにおいて、理論値では1000兆分の1の確率とされるDNA型の「偶然の一致」があったことが裁判で明らかになっており、DNA型の理論上の一致確率に重大な疑念がもたれている。 


「謳っている確立にも大いに疑問あり」ということである。

DNA型鑑定による個人識別の歴史・現状・課題への言及を極力省き、簡潔に表したいという目的からか、鑑定の結果「DNAが一致」したといった表現がしばしばみられる。しかし、それらはいずれもDNAのすべてが一致するかを調べたのではなく、DNAのごく一部の分析からパターンの一致・不一致を判定し、確率論的に推定したものである。どういう分析が行われ、何がどう一致したのかを確認しないと評価を誤りかねない。この点指紋と異なり、判断者に高度な専門的知識が必要とされる性質のものであり、裁判に利用する際その判断は専門家の解釈に依拠することになる。

なお、DNA型鑑定は高度の感度を有する鑑定であるため、陽性対照および陰性対照をも試料として鑑定すべきとの指摘もあるが、日本の科学捜査研究所・科学警察研究所では鑑定ごとの陽性対照および陰性対照の鑑定は実施していない。
今後、陽性対照および陰性対照の鑑定が実施されていないDNA型鑑定については、証拠能力が否定されるべきとの見解が有力化している。



全て確率の世界

「異同識別」は違いを識別するという意味であると書いたが、「ここが違います」と見つけるだけではダメである。
どれをどのような方法で調べ、どう判定が下されたかを提示し、何らかの違いを発見したならばその違いが何を意味するかまでを示さなければならない。証拠として利用する場合には特にそうであろう。
だけど専門家でなければ、説明されたところでその方法の妥当性や判定の正誤までは判断しかねる。従って鵜呑みにするしかないというのが現状ではないだろうか。
例えば、「この装置を用いた結果から判定を下しました」と説明されても、その装置が適当なのか、精度はどんなものなのか、装置の使い方を使用者が熟知しているのか、そんなことは分かりませんよね?
さらにコンプライアンスを重要視すれば疑問は生じなくなり、言われたままに受け入れる状況となる。

「DNAの型が一致した」ということは、「異同識別」ではなく「照合」である。
違いを見つけ出すという使命は弱い(ない)。
どちらかと言えば、「同じであれ」という念が込められていることが多いのではないだろうか。
現場や遺体に残されていた血痕や体液などのDNA型と、容疑者のDNA型を照合するわけである。

DNA型鑑定の前提にあるのは、「DNA型が一致したら同じ人物である」ということである。
この前提がなければ幾ら一致したところで証拠にはならない。
だけどDNA型鑑定ではDNA全体を見ているわけではない。一部分だけを取り出しているに過ぎない。
膨大な情報全体が一致する確率は少ないにしても、一部分が一致することは無きにしも非ず。
本来一部分で存在全てを語ることは出来ない。「一部分が一致したところで・・・」と言われてしまう可能性がある。
だから、その一部分には特別性を持たせる必要があり、且つ一部分であっても一致する確率も極めて低いものにする必要がある。
そうでなければ、「DNA型が一致したら同じ人物である」とは言えないのである。DNA型に証拠能力はなくなってしまう。
その特殊性が、同じ塩基配列が繰り返して存在する特殊な「縦列反復配列」があり、その繰り返し回数は人によって異なり、DNA型の「偶然の一致」は1000兆分の1の確率でしかないということである。
信頼度100%としなかっただけはましかもしれないけれど、もちろん世界の人類全てのDNA型を調べて弾き出した数字ではない。
世界人口って何人か知っていますか?おおよそ70億人くらいです。
さらに言えば人間は間違う生き物ですよ。







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by yumimi61 | 2016-12-05 12:05