2017年 03月 02日 ( 2 )

2017年 03月 02日
映像
金正恩(キム・ジョンウン)氏がクアラルンプール空港で殺害されたとして防犯カメラ映像が流されている。

若い人は知らないかもしれないが、クアラルンプールと言えば、1975年8月4日に日本赤軍が起したテロが思い出される。
拘束されているメンバー及び、仲間に引き入れようと目をつけた新左翼活動家の釈放を目的に、マレーシアの首都クアラルンプールにある、アメリカとスウェーデンの大使館を占拠し、アメリカの総領事らを人質に取った。日本政府(首相:三木武夫)は要求に応じ、超法規的措置として日本赤軍への参加を拒否した2人を除く5人釈放した。

それはともかく、防犯カメラの映像が気になるのだった。
私が気になるのは空港のクリニックの場面である。

左手から歩いてきて、クリニック内に入っていく様子が公開されている。
分かりやすいためか安心感を与えるためか、クリニックと通路を仕切っているのはガラス。
そのため待合室の様子は外から見える。(一部曇りガラス)
クリニックに行く前に空港係員と警備員に顔に何かされたと訴えている映像があり、クリニックまで警備員らしき人と連れ立って歩いている。
しかしクリニックに入った後も警備員は一歩引いていて、率先してクリニック担当者に何かを伝えるような様子は見られない。
この時点において警備員に緊急性や重大性は全く感じられない。
金正恩(キム・ジョンウン)氏とおぼしき人物は受付のようなところに立って何か言っているようだ。
その後の映像が続かない。
次の瞬間は担架に乗せられて搬出されようとしている場面。

下の画像が途切れる前後。
(画像はこちらから
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後にこんな画像が公表された。
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彼は黄色〇の椅子に座っていたことが分かる。
クリニックに来たのに診察室に入ることなく(?)、横に寝かされることもなく、そこでぐったりしている。
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途切れて公表されていない部分の映像が非常に大事である。
歩いていた彼がどのように崩れていったのか。
クリニックの誰かが彼の所にきて問診をしている様子があるのか。
何か計測した様子や処置をした様子があるのか。
診察室には入らなかったのか。

防犯カメラならば経過時間も分かるだろう。
彼がその椅子に座ってから担架に乗せられるまでに、どれくらいの時間が経ったのか。
数分か、数十分か、数時間か。
担架に乗せられてから空港を出るまでにどれくらいの時間を要したのか。
病院に搬送途中に亡くなったというけれども、それは病院を出てから何分後なのか。たらいまわしにされたということはないのか。
VXで死ぬまでの時間を云々言っているが、ここにどれほどいたのか分からないと何とも言えないのでは?

どれくらい後に行ったのか分からないが完全防備でクリニック内などを消毒をしている画像もある。
では、クリニックで彼に直接接触した人間はいないのか。
その人は素手ではなかったのか、手袋をしていたのか。
途切れた間の防犯カメラ映像があれば、それも分かるだろうに、何故かその重要な場面の映像が公開されていない。

近づいたり抱きついたりしている映像だけでは殺害した証拠にはならない。
彼女たちが何か薬品のようなものを持たされていたとしても、それがVXであったという証拠はどこにもない。
たとえ彼女たちがVXで殺害しましたと自白しても、先進国では通常それだけで公判を維持することは出来ない、それだけで犯人にしてはいけないはずである。
可能性を言うならば、クリニックで何か薬品を投与され、それが死に至らしめたということも考えられなくはないのだ。
そういう意味においても、途切れた時間の映像が重要である。







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by yumimi61 | 2017-03-02 16:59
2017年 03月 02日
とおせんぼう
コンビニのくじであたったランチパック
よりによってピーナッツ
実は子供の頃から
あまり好きじゃないのよ
食べられないわけじゃないけど
ピーナッツバター
バタバタバーター
アイスと交換してなんて言えない

ない物がないような世界であなたが
貰って嬉しいものって何だろう
冷蔵庫の隅に忘れられた
スキッピーが泣いていた
ピーナッツバター
バタバタバーター
車のドアのポケットできっと



私人か公人か。
テレビカメラの前で、政府専用機のタラップをお手々繋いで一緒に乗り降りし、誰に向かってか揃って手を挙げる。
夫の出張に妻が同じ飛行機で同伴する。同じホテルの同じ部屋に宿泊する?
ファーストレディが公人ではなく私人ならば「公私混同」として大問題になりかねない。
公私混同の舛添前都知事の二の舞。
さらに言うなら韓国ではないけれども国家機密情報漏洩ということにだってなりかねない。

日本国の象徴やリーダーが夫婦同伴なのだから、企業は夫あるいは妻の出張に家族を同伴させて~~もちろん費用は企業持ちでお願いします。(やめて くれ!?)

そういえば、バリバリ現役で働いているキャリアウーマンのファーストレディっていませんよね?
時代遅れでは?
ヒラリー・クリントンさん?
誤解よ、私はただいつもビルと一緒にいたかっただけよ?新しい愛の形!?

1969年、ヒラリーはイェール・ロー・スクールに進み、そこでビル・クリントンに出会う。
1972年の大統領選ではビル・クリントンが参加していた民主党のジョージ・マクガヴァン大統領候補の選挙運動に加わった。
1973年のロースクール卒業(法務博士(Juris Doctor)の学位を受ける。)後は、エデルマンが新たに始めた児童防衛基金 (Children's Defense Fund) で働いた後、1974年には下院司法委員会によるニクソン大統領の弾劾調査団に参加している。
調査団解散後はビルのいるアーカンソー州に移り、ビルとともにアーカンソー大学ファイエットビル校ロースクールで教鞭を取った

この年ビルがアーカンソー州で下院議員選に出馬するが落選、翌1975年に彼と結婚している1976年にはビルがアーカンソー州の司法長官に選出されて州都リトルロックへ移るのに伴い、アーカンソー大学での職を辞し、ビンス・フォスターがパートナー(共同経営者)を務めるローズ法律事務所に移った。また同じ年の大統領選では、ビルとともにジミー・カーター民主党候補の選挙戦に参加した。
1978年ビルが32歳の若さでアーカンソー州知事に当選するとアーカンソー州のファーストレディとなったが、弁護士としての活動も続け、1979年にはローズ法律事務所の女性初のパートナーとなった。その一方で、アーカンソー州における質の高いヘルスケアの普及を目的とした地方健康諮問委員会 (Rural Health Advisory Committee) の議長を務めるとともに、児童防衛基金の活動にも参加。またカーター大統領の指名により、連邦議会が設立した非営利団体の司法事業推進公社 (Legal Service Corporation) の理事を務めた。

1980年ヒラリーは娘のチェルシーを出産。ビルは再選をかけた同年の知事選に破れるが(当時のアーカンソー州知事の任期は2年)、次の1982年の知事選で当選してカムバックした。この82年の選挙戦を機に、ヒラリーは結婚後も引き続き使っていた「ヒラリー・ローダム」を「ヒラリー・ローダム・クリントン」に替えている。

この第二期目のクリントン知事のもとで、ヒラリーはアーカンソー州の教育制度改革を目的とした教育水準委員会 (Education Standards Committee) の委員長を務めた。

1991年にビルは大統領選に出馬。その選挙運動中、ヒラリーが「家にいてクッキーを焼いてお茶を入れることもできたが、自分の職業を全うすることを選んだ」とコメントしたことで、一部から「専業主婦に対して冷淡」とか「急進的フェミニスト」などという批判を浴びることになった。こうした批判は選挙運動中収まることはなく、ヒラリーはその対応に苦慮した。この頃、法律事務所や「ウォルマート」の社外取締役、児童防衛基金の会長などの職を次々に辞している。

同年秋、ビルとクラブ歌手ジェニファー・フラワーズの不倫問題が公になり、この両者の間で交わされた電話の会話の一部を録音したテープがマスコミに流出すると、それまで選挙戦を優勢に戦っていたビルの支持率が急落した。


ビル、大統領になる。

就任後早々、ビルはヒラリーを医療保険改革問題特別専門委員会 (Task Force on National Health Care Reform) の委員長に任命した。

後にヒラリーは著書の中で、医療保険改革の失敗は「すべて自分の政治力が未熟であったせい」だと記している。一方当時の政治評論家は一様にこの失敗が「ファーストレディーを国政に参画させるという前代未聞の人事が国民には不適切だと受け止められたということに他ならない」と評した。しかし、1996年の著作『It Takes a Village and Other Lessons Children Teach Us』はベストセラー本となり、ヒラリーの子供を中心とした政策課題は過半数の女性には好感を持って迎えられ、また大多数のアメリカ国民は「国主導型の健康保険制度導入ということ自体がアメリカにとっては時期尚早だった」と見ていたことが世論調査などで明らかになっている。

いずれにしても、大統領選挙キャンペーンでビルがヒラリーとのコンビを「ひとつ分のお値段で、ふたつ分のお買い得 ("get two for the price of one")」と言っていたように、ビルがヒラリーを「最大のアドバイザー」と評して全幅の信頼を置いていたのは事実であり、ヒラリーはその後もクリントン政権を通じて閣議に臨席するという特別な存在であった(これはケネディ大統領が信頼する実弟のロバート・ケネディを司法長官に任命して常に傍らにおいた例を踏襲したものだといわれる)。

ヒラリーは、イーストウィングにあるファーストレディーとしてのオフィスとは別に、大統領執務室や閣議室のあるウエストウイングにも異例のオフィスを構えたが、そうした彼女のスタッフたちを、ヒラリー自身も含めて周囲は「ヒラリーランド (Hillaryland)」と呼んだ。








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by yumimi61 | 2017-03-02 11:00