2017年 04月 10日 ( 1 )

2017年 04月 10日
父の死②
父が亡くなった翌1月30日に通夜を、31日に葬儀・告別式を家族葬で行った。
2月2日に入院費用を清算するために病院に出向いた。
支払いを済ませた帰りに地域連携課に立ち寄った。
大変お世話になったけれども転院は叶わずじまいで、週末に亡くなったため担当者と会うこともないまま立ち消えてしまったので、一言お礼だけでもと思った。
部屋から出てきて私の顔を見るなり「まあ」という感じで担当者は私の両手を握った。
その手が私よりも暖かかったことをとてもよく覚えている。(お昼時で食事中だったからですかね?)

「月曜日に出てきて聞いてびっくりしました」と担当者。
人は必ず死ぬものだけれど、人の死を予想する(想像する)のはやはり難しいなあと思う。

もしも父ががんであることを全く知らずにいたら、どれくらい生きられたのだろうか。
もしも父にがんであることを宣告しなかったなら、生きる長さは違っただろうか。
もしも放射線治療を受けなかったから、父はもっと早くに亡くなっていただろうか、それとももっと生きられたのだろうか。
思うことはいろいろある。
比較してどっちがどうなのか知りたいと思う気持ちもある。
でもそれは決して叶わない欲求である。
2つ以上の選択肢を1人の人間でどっちが良いのかと実際に両方試してみること出来ない。
巻き戻しは出来ない。原点に帰ることは出来ない。
他者と比べることは出来るかもしれないが、他者は他者。結局それは他人の人生である。
何から何までまっるきり同じ人間なんて一人としていない。
だから偶然でもなんでも何かが一致する時、人はそこに奇跡をみるのではないかと思う。
人生は一度きりで、前に進むしかなく、人間は日々否応なく選択の中を生きている。



世界が終わる時、あなたが食べたいものは何ですか?
あなたがこの世を旅立つ時、手にしていたい物はなんですか?
重力崩壊と究極の愛がずしりと響く。


昨日も書いたこの文は私が過去記事(夏休み)に書いたものである。

本のあれこれに続いて選挙の話を書いた。
人生が選択の連続でありながら、選挙というものは自分の選択が全く反映されないことがあるわけで(勝者に投票した人しか自分の選択が反映されない)、これが選挙の、もっと言うと社会の、根本的な欠陥のような気もする。
反映なきところでは責任も欠如しやすい。
選択が反映されず責任を負わない人や、選挙を棄権して責任を負わない人が増えると、選挙で当選者に投票した人でさえ投票責任を負わなくてもよいのだと思うようになる。
1つの選択であるはずの投票行動には少しも責任が伴わないということになってしまう。だから何があっても他人事観満載となる。

国や東電に責任があると言うのは簡単だが、それを言えば政治家を選んだ責任は、国(首相など)を任命した責任は、原発を造ることを了承した住民の責任は、それに恩恵を受けてきた者の責任は、原発があると分かっていながらそこに住むことを選択した者の責任は、などと責任は波及する。
この考えを持ち出すと、一人の過ちということはあっても、一人の責任ということは在り得なくなる。
選択の余地が全くない社会ならともかく、選択肢のある社会においては、自分の人生を選択するのは自分で、それを引き受けるのも自分。それが原則だろうと思う。
責任をもって一人一人があらゆることに対して真摯に誠実に向き合うべきなのだ。
でもそこまで責任を波及させたくないと言うならばどこかで区切ってやる必要がある。
全てを掬い上げることが出来ないのが社会という単位なのだろうと私は思っている。
それが嫌ならば社会の形態を変え、選択肢のあまりない出来るだけ平等な社会にすればよいのだ。
これこそが共産主義が目指したものである。だけど多くの人はこれを嫌ってきたのである。





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by yumimi61 | 2017-04-10 16:45