2017年 04月 30日 ( 1 )

2017年 04月 30日
幼子の神頼み
私は3~4歳の頃に生死をさまよう病気をしたことがあるということは前にも書いたことがある。
その時の入院から10日間の私の様子を母が記録したものが実家に残っていた。
レポート用紙に書かれているもので、年はなく月日だけ。
10日目以降は書かなかったのか書いたけど紛失しまったのか分からないが、10日分しか確認できなかった。

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10月14日

入院 AM11:20 外来にて血液検査の後、入院。
尿便の検査、診察の結果、腸と腎臓内に出血しているための腹痛との事。
2,3日後に体に紫斑が出れば、紫斑病らしい?
4日間の絶食のため体が衰弱しているのでPM3:30より点滴はじめる。
ぐったりしていて口もきけず一人で起き上がることも不可能。
時おり腹痛あり、夜通し点滴しているのでほとんど寝ず、痛みのため時々苦しむ。
夜9:30に2本目点滴交換。

10月15日

8時朝食。おもゆとみそ汁1/4位のむ。
朝9:10点滴終わり、続いて3本目交換。
昼食もおもゆとおすまし。2,3口食べたら腹痛起きてダメ。
まだ口をきく気力なく、ぐったりねたまま。
夕食より5分がゆになるが腹痛のため何も食べない。
夜8時ごろ痛みがひどく30分ぐらい続くので痛み止めを打つとじきに寝る。
しかし30分くらいでまた起きてしまい、又30分くらい激痛で苦しみあばれているので、9時ごろ強力で寝られるという痛み止めを尻よりしてもらったがそれも効かず、相当苦しみあばれた後PM9:30の定期注射でやっと落ち着き寝る。
PM10時点滴終わり4本目入れる。
1時間くらい寝て又痛さで目が覚めPM11時頃より死にもの狂いの激痛におそわれ1晩中苦しみ、手に刺してある注射のことは忘れて床中あばれ狂ってあばれ狂って。
この痛さはもう筆には表せないものだった。
死んじゃいそう、お腹切って、先生呼んで、神様にお願いしてー、と叫び狂った一夜だった。

10月16日

朝食5分がゆ、夕べの腹痛の疲れで食欲なし。
朝6時の定期注射で又落ち着く。朝9時4本目点滴終わり続いて5本目。
夕べの激痛の疲労と寝不足のため午前中ほとんど寝る。
まだ元気はなく口もきかない。
昼食おかゆ1/3位食べる。まだ口が物足りない感じでりんごを半分ほどおろしてやると一寸腹痛起きるもじきになおる。
PM3:005本目終わり6本目入れる。回診の結果、速度が早まり80滴になったので1本6時間平均で、注射も3回から4回に増える。
体内で出血のため1週間位の腹痛は仕方ないとの事。
午後1時又ひどい腹痛。1時間位我慢しても10分間隔でおそってくるので又痛み止めをしていただく。
PM8:40頃6本目終わり7本目入れる。
夕方頃より自分で話しかけられるようになり笑えるようになる。
夕食もおかゆとじゃがいも半分くらい食べてリンゴ滋養糖のむ。
腹痛なく安眠出来た様子。
夜中1:10、7本目終わり8本目交換。

10月17日

夕べぐっすり寝たため早くから目が覚め気分爽快の様子。起き上がって本を読める。
朝食5分がゆ半分食べ、豆腐食べ、リンゴ食べる。
ずっと起きあがって髪もとかす。食欲旺盛。
10時点滴9本目入れる。
昼食半分、途中残した半分も食べる。
今日は気分よく1日寝ずほとんど起きていた。
昼食は9分目ほど食べられ、その他リンゴ半分おろして食べる。
夕方5時半10本目入れる。

10月18日
明け方4:20より痛みだし止まらないので5時痛み止め打ち、点滴も9本目終わり10本目5時に換える。
注射効かずずっと痛がり、6時に定期注射。
その後も痛みとれず6:30再び筋肉痛み止め、7:30頃やっと落ち着き寝る。
朝E先生心配してみにきて下さる。
しばらく寝てから又10:30頃より痛み出し、おさまっては痛むの繰り返しで11時過ぎまたひどいので痛み止め筋肉を打つ。
少しおさまり昼のおかずだけ2,3口食べ、薬が効いてきて楽になり眠る。湯たんぽにて腹を温める。
午後も一時痛みにおそわれる。夕食も食べず。
夕方5時半点滴10本目終わり11本目。
痛み PM5:00 5:30 6:00
7時くらいにおさまる。
PM8:40点滴もれたためはずす。
PM9:50頃より差し替え。1回目逆流してやり直し。2回目の同じところに入れたがうまく入らず。
又別の血管を切ったが細くてビニール管がなかなか入らず、これも2回くらい刺したが血ばかり出てなかなか入らず、痛くて泣き出してしまい、涙がこぼれた。
やむなく3本目の血管に今度は細いトンボ針で入れてやっと成功。
同時に腹も痛んだので痛み止めを夜中12時頃打ち寝る。
明け方5:30落ちなくなっているので又はずす。手を解放して朝まで寝る。

10月19日

9時T先生回診。AM10:20点滴入れ直す(12本目)
足、最初やはりうまく入らず何回もして相当痛く泣く。一度に入らないので恐怖症になる。
反対の足に又さして成功。
朝食食べず、みかん1ヶ、番茶。昼食1/2、リンゴ半分食べて一寸腹痛。夕食全然。
PM4:00から痛み30分様子見てダメなので痛み止め打つ。30分おさまって5時又痛い。6時になってもとれず注射。6:30うとうと寝る。又すぐ痛む。
PM6:20に点滴12本目入れる。
(PM5:30K先生様子見に来て、痛み止めもそう打てないが、いよいよとれない場合は麻酔を打つと言った)
寝ようとしているが痛みがおそって20、30分するとむっくり起き上がり、いたいいたいと叫ぶ。
苦し紛れの叫びの中で「なおちゃん、なおちゃんに会いたい、なおちゃん!!」と叫んでいる。
隣のベッドのなおみちゃんが自分が呼ばれていると思い「私呼ばれてもどうしてもやれない」と悲しい声で顔をおおって答える。
可哀想がって自分のおもちゃをくださる。
でも全然痛み止まらず叫び続ける。相当がまんしてもしきれず、「先生!!看護婦さん、お願い、お腹切ってばい菌と血出して」とか、「神様お願い」といいながら手を合わせ苦しんでいるのを見ていたたまれず看護婦さん呼ぶ。
もう2本注射打ってあるからそうは打てないと言う。少し様子をみるよう指示。
陣痛のような激しい痛みが5分間くらいおそって又少しおさまり静かになり、又20分くらいすると大声で叫ぶの繰り返し。
痛みでじっとしていられず、たえず体を動かしてはあばれまわっているが、足に刺されている点滴注射で思うようにならず相当の苦痛。
夜中12時痛みとれず、看護婦さん当直の小児科ではない先生を呼んで下さる。
腹が大きく張っているが浣腸は腸を刺激するので好ましくない。注射ももう限界らしいがやむなく12:20又痛み止め。ほとんど寝られない。

10月20日

6時検温37.8℃。6:30便あり。7:40血液検査のため採血。7:30点滴14本目(350cc)
10時回診により点滴40より60滴になり、昼食より又おかゆからおもゆに変更。
検温10時37.4℃。PM2時37.2℃、PM6時37.3℃。
昼食果汁。正午15本目点滴。午後元気が出る。
夕食おもゆ全部。スープ半分、ジュース全部。
PM7:50点滴16本目。夜中3:10に17本目入れる。
夜は静かに寝たが今日よりベッドが1つになり私はほとんど寝られず体がくたくた。
夜も点滴をみたり、足の刺してある所をみないと絶えず危険なので寝るひまがない。

10月21日

朝方4時ごろより痛み出し、4:30、5:00、6:00と激痛。
10分くらい直って又10分位痛み。いつもの痛みで一番ひどい。
大声で絶叫。死んでしまうとか、バカーとか、どうしてなおらないのママのうそつきとか、先生のうそつきバカーとすごい叫び。
ほとんど止まる間がなかったのでT先生朝見て下さる。
尻より出血のためと腹痛のため今度はE先生が見て禁食と輸血の必要性。
50ccの輸血。又痛くて大声で叫び、大あばれし、他色々の注射。注射も今日より4回の他あと3回増える。
AM11:20頃の輸血でやっと寝る。11:30に17本目点滴。禁食なのに食事来る。
PM3:30頃、姉と姪がお見舞いに来て下さったが重体で寝たきり話も出来ない。目が覚めてかすかにうっすらと目をあけてうなづくだけ。
PM4時近く園のK先生みえる。もも組のお友達にかかせた画集つづりとパンダちゃんいただいたがもうろうとしていて聞くことにうなづくだけでしゃべろうとはしない。
一通り病状を説明して、間もなく帰る。
午後よりお腹の痛みは全然起こらずほとんどぐったり寝たまま。
夕方頃から周りにつられて何か食べたくてしきりにお腹すいたを連発。
もうなだめるのに苦労で苦労で看護婦さんやみんなになだめられてうなづくものの、お腹が痛くなければもう口がさびしくてさびしくて食べたくて、もう可哀想なほどで涙が出るのをじっとくいしばる。
夜10時18本目入れる。
今日こそ痛みなくゆっくり休めると思ったが夜11時頃よりやはり痛み出し午前4時近くまで熟睡せず起きたり横になったりうとうとしていて一時も休まらず今日もまた寝られなかった。
夜中の12時定期注射ゴムより2本、筋肉1本。

10月22日

6時の起床体温36.9℃。朝7時点滴19本目、PM4:30に20本目。
AM6時 ゴム注2本、筋肉注1本、PM2:00筋肉注射。
AM5時出血あり、シーツが赤く汚れていた。
6時に注射してからまた静かに寝て8時40分ごろ起き、9時におしっこをとったら最初血液がどっとあふれ、その後から尿が出た。
T先生回診にてまた緊急に輸血必要となり、姉たちにTEL。
12時少し回って輸血。
午後は気分がよくなり、又食べ物がほしくてほしくてなだめすかしても我慢しきれず、人が食べていると口を開くほど食べたい様子。でも我慢せねば禁食の意味がないから泣いていて可哀想だけどどうすることもできない。痛い苦しみよりよっぽどましだと思う。

10月23日

夕べ全然痛みなく初めて朝まで静かで、昼間も元気出たらお腹すいた連発。
朝の回診で腹の具合も前よりよく、痛みもなく食欲を訴えるので今日一日我慢して明日より流動食を考えるという。あとは点滴・注射とも変わりなし。
輸血もする。PM2時ごろ輸血。
その後も変わりなかったが午後より手が紫色になってはち切れそうにふっくらと腫れてしまう。
K先生PM3時頃様子を見に来たが変わりなし。
手の僅かな腫れは血液のせいらしいが、心配ないと言うが次第に腫れは増して熱を帯びたので当直T先生見てくださり、同時にPM5時頃より又痛みあり、PM6:30頃痛み止め打つ。
その後晴れのほうがひどく痛がるので、T先生みて止血剤を打っていただく(7時ごろ)。
冷えタオルで手を冷やす。

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皮肉にもと言おうか最後は止血剤を打ったところで終わっている。
アンダーラインは母の記録では波線で引かれていた。同じペンで書かれてあり後年引いたような感じではない。
以前病気のことを書いた時に私は「後に問題となった血液製剤が使われたのか、そのあたりははっきりとしない。」と書いたのだが、どうやら止血剤(血液製剤)も使ったらしい。


薬害肝炎全国弁護団

原告になるための要件
昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までに製造・販売された血液製剤(フィブリノゲン製剤・および第9因子製剤)は、C型肝炎に感染する危険性が極めて高かったと考えられています。

昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの間に、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用された可能性があり、これによりC型肝炎に感染した可能性があります。

薬害肝炎訴訟では、昭和39年(1964年)頃から平成6年(1994年)年頃までの間に、血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を投与された方で、かつ、C型肝炎に感染された方について、損害賠償請求訴訟を起こしています。

なお、血液製剤は、患者に知らされないままに使用されているケースがほとんどです。

C型肝炎に感染した方で、次の医療機関で、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤が使用された可能性が高いと思われます。
→ フィブリノゲン製剤納入医療機関の検索

現在、薬害肝炎訴訟では
1.C型肝炎に感染した方(インターフェロンにより治癒された方も含む)
2.昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの期間に血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用されたことが、何らかの手段で証明できる方

が原告となっています。



http://www.okatani.or.jp/hp/html/info_fibrin.html
 フィブリノゲン製剤は、1964年に製造承認され、C型肝炎ウィルスの不活性化処理が十分にされるようになった1994年まで、30年間にわたって手術などで危険な使用が続けられました。
 主として出血を止める止血剤として使われましたが、この血液製剤からC型肝炎ウイルスに感染し、それが原因でC型の慢性肝炎になり、肝硬変、肝がんになる方がいることもわかり、社会問題となっています。
 それは十分な審査をせずこの血液製剤の製造・販売を認めた厚生省(当時)と、高率に肝炎が発生する危険があることを添付文書に明記しなかった三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)に責任があります。
 東京、大阪、札幌、名古屋、福岡ではフィブリノゲン製剤で肝炎になった患者さんが国、製薬メーカーを相手取り訴訟を起こしています。
そして重要なことは、フィブリノゲン製剤を使用してC型肝炎ウイルスに感染しているにもかかわらず、そのことを知らされていない患者様がいることです。
当院ではフィブリノゲン製剤の使用状況を調査し、使用した患者様、あるいは使用したことを否定できない患者様などにはご連絡をとり、C型肝炎ウイルスに感染しているかどうかの検査をお勧めする活動を行なっています。




1964年から1994年に血液製剤を使った人が感染している可能性があるということだが、その1964年というのはライシャワー事件(駐日アメリカ大使が精神疾患患者に刺され輸血したところC型肝炎に感染した)が発生した年であり、血液銀行業務を日本赤十字社が独占した年でもある。
ライシャワー事件によって売血批判が巻き起こり、事件から5カ月の1964年8月28日、閣議決定により血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。
路線転換を迫られたミドリ十字社は、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索し、閣議決定のまさにその日1964年8月28日に社名を「日本ブラッドバンク」(創始者は軍医)から「株式会社ミドリ十字」に改称した。(創業以来、緑の十字が社章であった。緑の十字は国際的には薬局のマーク)
何らかの裏取引があったのでは?
1982年に創業者が急死した後は、多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権が握られることとなった。
止血を目的とした非加熱血液製剤の投与によって患者がHIVに感染し死亡した事件(薬害エイズ事件)はこの後に起こっている。
三菱ウェルファーマは事件発覚後にミドリ十字を吸収合併した。


・22年間ずっと出産時の輸血による感染だと思っていました。病気になったのは、天災のようなもので仕方がなかった。命があるだけでも感謝しなくてはいけないと、己に言い聞かせてきましたが、事実が分かった時は、あまりの展開にめまいがしました。

・私は、昭和59年まで3年程看護師をしていました。その当時、日常的にフィブリノゲン等の血液製剤を出血時に使用していました。私も何度か、あの小さなボトルを点滴台に下げたと記憶しています。そして、手術後、輸血後、肝炎ということで、具合の悪くなる患者にも接していました。1987年に胎盤はく離で死産し、2週間入院した時に医師から言われたのは、「最近、肝炎になる人が多い。必ず検査を受けてね」ということでした。新鮮血の使用については説明がありましたが、血液製剤については何も説明はありませんでした。その時の医師の困惑した様子がずっと気にかかり、何だか違和感を覚えてしまいました。新鮮血では、そんなに肝炎にはならないのではと、ずっと疑問に思っていました。2002年にフィブリノゲンの件が明るみに出て、自分への使用を確信しました。2007年、出産した病院に電話をして、フィブリノゲン使用が判明しました。その時、もやもやしていたものが晴れた気がしました。同時に、製薬会社の責任感のなさに腹が立ちました。

・手術時に輸血もしているので、ずっと輸血による感染だと思っていた。止血剤が原因と知り、輸血に協力してくれた方々からの感染ではなかったことが分かったことが、嬉しかった。

・出産時帝王切開手術で、当時は輸血8本しましたから、原因はそれだと思い、血液製剤が使われていたとは夢にも思わなかった。2度の流産。やっと授かった子供と私が生死の境にあり、親子共々助かり、宝をいただいたが、一生共にする病気になり、憎むこともできず、娘を得た事は、自分の命より大切です。インターフェロンは2回やりましたが、効果はありませんでした。副作用がとても辛いです。又、3回目に挑戦したいと思っています。複雑な気持ちで一杯です。

・輸血後の肝炎だと思っていて、それで命が助かったのだから仕方がないと、前向きに治療などして生きてきたが、血液製剤が原因だった時は、非常にショックを受けた。

・当時は輸血感染だと思って、命が助かったのだから仕方がないと、自分を納得させていた。止血するために使われた血液製剤で感染したことは、納得できなかった。しかも、効果はなかった。

・輸血も同時に受けているので、いろいろ複雑です。


http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/03/dl/s0300-1a_Part9.pdfより






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by yumimi61 | 2017-04-30 16:11