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2017年 05月 01日
日本国憲法の秘密-462-
ソニー創業者のひとり盛田昭夫の夫人は三省堂の創業一族である。

三省堂の創業者
・亀井忠一(旧姓:中川)
・亀井万喜子

母子と記されていることも多いが母子ではなく夫妻である。

中川忠一の父親は幕臣であり江戸に暮らしていた。
明治新政府となった後、一家は静岡県沼津市に移住。生活は楽ではなかった。
亀井家は、源義経(源頼朝の異母弟、幼名は牛若丸、頼朝とは対立した)の家臣であった亀井重清の流れを汲む家だそうである。
亀井重清は伊豆の出身で、重清の母は源頼朝の乳母であったと言われる。

以前岩倉具視のことを書いた時に源家について触れたので、少々長いが引用しておこう。

岩倉具視は公家の家の出であり、幕末・明治の公卿・政治家である。
明治初期に岩倉視察団として外国を巡ったのが有名。
公家と言っても江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので家計は裕福ではなかったという。
岩倉具視は公家である岩倉家に養子に入った人物である。

岩倉具視は岩倉家に養子に入った人物で岩倉家とは血の繋がりはない。
岩倉家は第62代村上天皇の皇子を祖とする「村上源氏」の総本家(嫡流系・本家本元)の久我家の支流になる公家である。
岩倉家は鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫にあたる。
同じ源を名乗っているので分かりにくいが、幕府の源頼朝は武家(武士)であり、源通親は朝廷(天皇)に仕える公家という家柄となる。仕えると言っても天皇の分家など元々は縁戚関係にある。

源頼朝の曽祖父は源義家(八幡太郎)。「河内源氏」の3代目棟梁(嫡男継承)。
現代で棟梁と言うと、大工の棟梁を思い浮かべると思うが(もうそれも思い出さない?ちなみに現場監督とは違います)、武家の棟梁は武家の筆頭者、一番の権威者である。「将軍」とは「源氏の棟梁」のことなのだ。

源氏には嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏など21の流派があるとされている。
源(祖)は天皇であるが、皇室を離れた(皇籍離脱した)人や家のことである。
皇籍を離脱しないのが宮家である。
源氏は公家や武家を形成したり、仏門や神道を統括するなど流派によってそれぞれ違う。
現代において「源氏」と言う時には、武家源氏として歴史上に名を馳せた「清和源氏」を指すことが多い。
前出の河内国(大阪府南東部)を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)もその主流で、源頼朝を生みだした。
また足利尊氏の足利氏(下野源氏)や新田義貞の新田氏(上野源氏)も清和源氏・河内源氏の分派となる。
前に鎌倉幕府倒幕後に同祖である足利氏と新田氏が戦ったことを書いたが、鎌倉幕府の倒幕自体、実は清和源氏・河内源氏内の戦いでもあったのだ。すなわち武士同士の戦いである。
武士だけに勝ち負けの勝敗は潔く着く。
徳川家康の徳川家も清和源氏を名乗っていた。
徳川家は清和源氏新田氏の一族。新田郡(新田荘)得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。
新田氏の支流が徳川氏と世良田氏になる。

岩倉家の村上源氏は武家ではなくて公家である。

河内源氏の3代目棟梁・源義家(八幡太郎義家)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)(
美智子皇后の父方・正田家の祖先は新田義重の家臣だった生田隼人と言われている。
上野国碓氷郡(現在の群馬県高崎市八幡町・安中市板鼻付近)にあった荘園・八幡荘は頼義-義家-義国と河内源氏の拠点であったが、それを源義重が相続して新田荘とともに新田氏の本拠地となった。



●源義家(八幡太郎)→源義親(次男)→源為義(四男)→源義朝(長男)→源頼朝(長男)(鎌倉幕府将軍)→源頼家(長男)(鎌倉幕府2代目将軍)、源実朝(四男)(鎌倉幕府3代目将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→足利頼氏→足利家時→足利貞氏→足利尊氏(室町幕府将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→新田義兼→新田義房→新田政義→新田政氏→新田基氏→新田朝氏→新田義貞

※源頼朝の長男・頼家は、北条家に将軍職を剥奪され伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。北条家は伊豆国出身の豪族で鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。
藤原家が政略結婚によって中枢部に入っていったのと同様に北条家も婚姻によって源家に入り込んだ。
弟で3代目将軍となった源実朝は北条家に担ぎ出されただけであり、その後は摂関家である九条家出身者と皇族が将軍職に就いた。
摂関家は藤原氏嫡流で鎌倉時代に公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。
鎌倉幕府(鎌倉時代)には9代まで将軍がいるが、源家が実権を握ったのは2代まででしかない。源一族としては3代目まで。
その後2代は九条家出身ながら藤原姓を名乗った2人と、その後4代はみな天皇・親王の子である。
鎌倉幕府と言えば源頼朝、そのイメージがとても強い。
新田義貞は鎌倉幕府を倒したわけだが、初代将軍のイメージがあまりに強いので源一族内の権力争いのようにも思えるが実は違う。天皇家が権力を持っていた幕府を倒したのである。
でも新田義貞は天下を取る気がなく、将軍職に就いていた後嵯峨天皇ではなく後醍醐天皇に味方した。
朝廷が南北(と言っても狭い範囲の南北です)に両立し、南北朝動乱の時代を迎えるきっかけともなった。

亀井家の話に戻ろう。
亀井万喜子の祖先は家臣として源家の近くにいた。
江戸時代には徳川家康に仕えていて旗本(知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格)となった。
亀井家の屋敷は明治時代には小松宮邸(明治初期に、子沢山の伏見宮邦家親王の8番目男子によって創設された怪しい宮家)の一部となり、後に山の上ホテルだか明治大学キャンパスだかに含まれたそうな。

亀井万喜子の両親は万喜子が幼い時に亡くなってしまい、万喜子は亀井家の婿養子になっていた姉の夫の養子となった。

「婿養子」「お婿さん」を勘違いしている人がとても多いが、結婚する男女の男性が女性の名字になることや女性の実家に居候すること(俗に言うマスオさん)が婿養子の定義ではない。
婿養子とは結婚と同時に夫が妻の親と養子縁組することである。(言い方を変えれば、婚姻と同時に妻と異父母兄弟姉妹になるということである)
女姉妹しかいないような家が男の後継ぎが欲しい時、単に養子を迎え入れることもあれば、婿養子を迎え入れることもある。(養子として迎え入れ、後に実の子と結婚するケースもあった)
どんな形でも正式に養子になれば相続人(家長権・戸主権)の権利を得る。
明治民法の家制度では、女姉妹しかいない場合、長女が法定家督相続人ということになる。
家の継続を重んじていたため、法律上家督継承することになっている者(法定家督相続人)は、原則としてその家を去るような形で結婚をすることができなかった。
結婚相手に婿養子になってもらうか、自分が家督を継承し戸主となり夫を家族にするかのどちらか。
夫にしたい人も法定家督相続人ならば結婚自体無理ということになる。
戦後(昭和22年)にこの法律は改正されたが、現実的にはそれからも久しく長男長女の結婚の困難さは存在していた。
女姉妹しかいない場合、長女は「お婿さんを~」と親に懇願されるというようなことが普通にあったのである。


これも知らない人が多いかもしれないが、結婚の際に女性の姓を名乗る(選択する)ということは、戸籍筆頭者が女性(妻)になるということである。
戸籍謄本を取れば筆頭者に妻の名があり、夫はその下になる。
現代においては相続などには直接関係ないので普段はそれほど気にならないかもしれないけれど。
夫婦別姓という制度ははたしてどんなふうにするつもりなのか。戸籍を廃するということになるのだろうか。(戸籍がある国は世界的に3か国しかないそう) 子供はいつ姓を選ぶのだろうか。夫婦別姓がありならば、成人した子が親と同姓である必要もないだろう。


それから戸籍の筆頭者は死んでも変わらないものである。
戸籍から抜けたり新しく戸籍を作るのは離婚結婚した時で、死んでも筆頭者は筆頭者のままである。
戸籍に入れるのは子供であり養子縁組した養子。
親が離婚して再婚するような場合、養子縁組をしなければ、再婚前に生まれた子供は例え未成年であっても(親権に関係なく)元の戸籍のまま。
元の戸籍というのは、元夫の戸籍か、新たに母親が作った戸籍か、母親の実家の戸籍。離婚後にどうするかは姓を含めて選べる。
ただその状態から母親が再婚しても子供は養子縁組しない限り動かない。
例えば母親が筆頭者となって新たに戸籍を作っていた場合に母親が再婚すると、母親は筆頭になっていた戸籍から抜ける。戸籍の筆頭者が除籍になって子供だけが残ることになる。(これでも法律上は特に問題なし)






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by yumimi61 | 2017-05-01 22:32