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2017年 05月 18日
日本国憲法の秘密-475-
前回はチェース・マンハッタンの国際諮問委員会メンバーだった長谷川周重(元住友化学社長)に関連する話だった。
今回もその続き。

世界最古の財閥とも言われる住友財閥は鉱山でその地位を築いた。
そんな住友はドイツの重工業(金属・機械・化学工業)と関係が深い。※鉱業や鉄鋼業は金属工業に含まれる。
ドイツにおける重工業の基盤確立に大きな役割を果たしたのはドイツ銀行である。
従ってドイツの重工業と関係が深いということはドイツ銀行と関係が深いとも言える。
ドイツ銀行という名称からドイツの中央銀行と勘違いされることもあるが市中銀行である。中央銀行はドイツ連邦銀行。

ドイツ銀行は1870年に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立された。
日本で最初に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立されたのが横浜正金銀行である。1880年。
ドイツ銀行は創業2年後の1872年(明治5年)に初の海外支店を日本の横浜と清の上海に設立し、その翌年にロンドンにも開設した。
しかし東アジア取引は思ったほどうまくいかず経営を圧迫し横浜支店も上海支店も3年で閉鎖。
以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンクへの道を選んだ。(貿易に特化した横浜正金銀行もあまり上手くいかなかった)
ユニバーサルバンクというのは、一般的な預金や融資などの銀行業務だけでなく、証券、生保、損保、信託業務、リース業など幅広い業務を行うことが認められている総合的金融機関。
ユニバーサルバンクの発祥はドイツ。ドイツやスイスでは古くからこうした総合的なサービスを手がける大手金融機関が主流であった。ドイツ銀行はその筆頭である。
日本は法改正などによって2000年以降にユニバーサルバンク化している。


ドイツ銀行の創業者は銀行家アデルベルト・デルブルックと政治家ルートヴィヒ・バンベルガー。
設立を指導し取締役に就任した人物にゲオルク・ジーメンスがいる。(→後に頭取にも就任)
ドイツにはジーメンス家という財閥がある。
1874年に「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」(現:ジーメンス社)を設立したのが始まり。
創業者のウェルナー・ジーメンスは通信・電機産業界の世界初の国際的企業家と言われる人物。

ウェルナー・ジーメンス
ドイツの電気工学者。ジーメンス社を創立した企業家。14人兄弟のうちで6番目(7人の男子の中では最年長)に生まれた。リューベックのギムナジウムで学んだあと,砲兵隊に入り,電気の知識を身につけた。1847年に精密機械工ハルスケJ.G.Halskeと共同でジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所(現在のジーメンス社)を設立した。ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所はロシアに進出して電信を敷設し,成功をおさめた。

ジーメンス社(Siemens AG)
ドイツの総合電機メーカーで,世界有数の電機工業コンツェルン。
当初は電信機器の製造と電信ケーブルの敷設工事を主としたが,その後ロシア,イギリス,フランスなどの各国にも事業を拡大,またアイルランド−アメリカ間の海底電信ケーブルを布設して電信線,海底電線など弱電部門においてヨーロッパで独占的な地位を確立した。1866年には発電機の製造に成功,強電部門も発展させた。
1897年株式会社に改組しジーメンス・ウント・ハルスケ株式会社となったが,株式はすべてジーメンス一族が所有した。 1900〜01年のヨーロッパ恐慌時には多くの企業を傘下に収めた。 1903年自社の重電部門がシュッケルトと合併して,ジーメンス=シュッケルトウェルケとなり,弱電部門 (通信機) を主力とするジーメンス・ウント・ハルスケとともにジーメンス・コンツェルンの中核となった。
第2次世界大戦後,在外資産とドイツ民主共和国 (東ドイツ) の資産を没収され打撃を受けたが,資産分割を免れ,その後のドイツ連邦共和国 (西ドイツ) 経済の発展と歩調を合わせて事業分野を拡大し,1950年代以降急速に発展した。 1966年両社を統合して現社名に変更するとともに主要子会社の業務を統合。ヨーロッパ,カナダなど多くの国に子会社をもっている。
事業内容は発電・送電機器,産業用・輸送用機器の重電部門,電話,デジタル交換システム EWSD,通信システムの通信機器部門,データ処理機器,データ送信機器,鉄道信号システムのデータシステム部門,プラントエンジニアリング,配電・駆動回路,オートメーションなどプラント・設備部門,X線装置,電子医療機器などの医療機器部門,ICカードや ISDN用チップなどの部品部門がある。



創業者ウェルナーの弟ウィルヘルム(ウィリアム)はイギリスにジーメンス・ブラザーズを設立した。
創業者ウェルナーの従兄がドイツ銀行設立を指導したゲオルク・ジーメンスである。
ジーメンス社やドイツ銀行はドイツの産業革命とともに急速に発展した。

1923年に日本の古河財閥とジーメンス社が設立した合弁会社が富士電機製造(現:富士電機)である。
富士は「富士は日本一の山~」の富士ではなくて、ふるかわの「ふ」とジーメンスの「じ」で「ふじ」。「富士」は当て字。
富士電機から分社設立された会社が富士通(Fujitsu)。


古河財閥
古河財閥の源流は、明治8年(1875年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。

古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(大日電線と日本電線は合併し大日日本電線を経て現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。


傘下企業の「横浜ゴム」はヨコハマタイヤの名で知られるタイヤ・ゴムメーカー。
2015年よりプレミアリーグのクラブ・チェルシーのユニフォームの胸スポンサー。YOKOHAMA!
広告費はおよそ80億円くらいで、マンチェスター・ユナイテッドのシボレーに次ぐ金額らしい。
ヨコハマタイヤはドイツのコンチネンタルタイヤの日本総輸入元(日本の輸入窓口で他者は輸入できない)であったが、現在はドイツのコンチネンタルタイヤの日本法人が出来たので販売代理店である。


古河財閥が足尾銅山で成功したと聞けば、ああ~古河市の古河(こが)かぁと思う人もいるだろうけれども、古河財閥の古河(ふるかわ)さんは古河市出身ではない。京都出身である。
ちなみに古河市の古河は奈良時代あたりには我許すの「許我」であり、日本有数の製鉄場だったそうですよ。
古河財閥の創始者は古河市兵衛。小野組から独立した人物。
京都の没落した貧しい家庭に育ち、子供の頃から豆腐行商をしていた。17歳の時に盛岡で高利貸しを営む叔父を頼り、金銭取立てを手伝う。
その叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり古河姓になる。ついでに名前も変えて「古河市兵衛」となった。


小野組は三井と明治政府に騙された商家。

小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していた。


1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を超える勢いがあった。
ところがその翌1874年、明治政府は担保額の大幅引き上げなど一方的に金融政策を急変し、これによって小野組は倒産を余儀なくされた。
小野組倒産のもとに三井銀行はある。

大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井・小野両組共同出資での銀行設立を提案。
両組は政府主導による設立を望んでいなかったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、渋々1872年に「三井小野組合銀行」を創設した。
1873年、「三井小野組合銀行」(前身)は「第一国立銀行」(後身)となった。初代頭取は渋沢栄一。
しかし両組とも本当は独自の銀行を欲していた。
1874年、明治政府は公金預かり高に対する担保をそれまでの1/3からに全額に突如変更。
これにより小野組は倒産。三井組は生き残り、第一国立銀行から手を引いた。
1876年、三井組は日本初の私立銀行として三井銀行を開業した。



1874年小野組の倒産後、古河市兵衛は渋沢栄一などの資金援助で有利な条件で官営鉱山の払下げを受けた。
小野家の人物にではなく、高利貸取り立てあがりの古河市兵衛に草倉銅山を払い下げたのである。
古河はその後の足尾銅山の成功もあり、1897年には銅山 12,銀山8,金山1など 69鉱区に及ぶ大鉱山所有者となって鉱山王と呼ばれた。金属の精錬事業などにも乗り出し古河財閥を形成した。

現在は新潟県に属する草倉銅山は江戸時代に会津藩が開発した鉱山で会津藩が所有していたものである。
会津藩は最期まで明治新政府に対抗した藩。
明治維新後は明治政府が草倉銅山を接収。そしてその経営権を古河市兵衛に渡した。






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by yumimi61 | 2017-05-18 15:09