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2017年 06月 13日
日本国憲法の秘密-497-
1970年代に始まった国連の国際環境会議はモーリス・ストロングとともにあった。

1972年 国連人間環境会議を組織、同事務局長
「国際連合人間環境会議」とはスウェーデンで開催された、世界最初の大規模な環境問題会議。(ストックホルム会議)
この会議にて「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。

1973年 国連環境計画の初代事務局長
上記会議で制定された宣言や行動計画を実行するための機関として設立されたのが「国連環境計画」。
本部はケニアの首都ナイロビに置かれた。


何故1972年に始まったのか。それには理由がある。
ローマクラブが『成長の限界』を発表した年が1972年だった。。
第一報告書『成長の限界』(1972年)では、(今後、技術革新が全くないと仮定すると。=日本語では削除)現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇(あと20年で石油が枯渇する)や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている。

言い換えると、バラバラな世界ではなく、1つ世界ワンワールドによって世界(地球)はコントロールする必要があるということである。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)]とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。
*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていた
とされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


*FEMA(Federal Emergency Management Agency;アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)
大災害に対応するアメリカ合衆国政府の政府機関である。天災にも人災にも対応する。アメリカ合衆国国土安全保障省の一部であり、緊急準備・即応担当次官 (Under Secretary of Emergency Preparedness and Response) の下に置かれている。
連邦政府の災害対応部局拡大の一環として1979年4月1日にジミー・カーター大統領によってFEMAが設置された。(カーター元大統領は2002年のノーベル平和賞受賞者)

ローマクラブという名称は立ち上げのための会合をローマで開いたことからだそうだが、ローマカトリックのローマではないのかしら?

著名な会員
・ミハイル・ゴルバチョフ - 元ソビエト連邦共産党書記長。
・ワンガリ・マータイ - グリーン・ベルト運動の創設者、ノーベル平和賞受賞者。
・エメカ・アニャオク(Emeka Anyaoku) - 前WWF総裁、元イギリス連邦事務局長(Commonwealth Secretary-General)。
・ヘイゼル・ヘンダーソン - 未来学者、進化経済学者。

現在の日本人会員
・猪口邦子 - 元上智大学教授。政治学者。
・小宮山宏 - 元東京大学総長、三菱総合研究所理事長。
・西村六善 - 前地球問題担当大使。内閣官房参与。

日本人の名誉会員
・緒方貞子 - 国際協力機構(JICA)理事長。 
・池田大作 - 創価学会名誉会長。
・松浦晃一郎 - 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)第8代事務局長。

日本人の準会員
・榊原康寛 - ゼリ財団(ZERI)**パン・パシフィック代表理事。


**ZERI;Zero Emissions Research and Initiatives
1997年に日本政府と国連大学(UNU)の支援を受けて東京に設立された。
財界人、科学者、学者、知識人などのネットワーク。
設立者はベルギー生まれで起業家であり作家であるグンター・パウリ(Gunter Pauli)。
ル・ポイント、ハフィントン・ポスト、タスマニアン・タイムズは、彼を「持続可能なスティーブ・ジョブズ」と銘打つ。


アスペン研究所は、元々はアスペン人文科学研究所であった。
1949年、「ゲーテ生誕200年祭」がコロラド州アスペンで開催され、哲学者、芸術家、文学者等が招かれ対話が繰り広げられた。
日常の煩雑さから解放され、コロラドのような場所でゆっくりと語り合い、思索するための時間が人間には必要である。こうして翌1950年にアスペン人文科学研究所として設立された。最初は小さな哲学系の研究所であり、経営幹部などを対象として教育セミナーを行っていた。
この研究所が大きく変わったのは1969年のことである。
ジョセフ・E・スレーターとロバート・O・アンダーソンがこの研究所の会長に就任し、その範囲と規模を拡大し、国際問題の世界指導者、学者、科学者のための有名な会議場とになった。
国連とも緊密に協力しあい、モーリス・ストロングとも提携している。
アスペン研究所は世界中に拡張されてきたが、日本アスペン研究所は1998年に創立された。
初代理事長は、ソニー・盛田昭夫と入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったカトリック教徒の小林陽太郎である。


ジョセフ・E・スレーター(Joseph E. Slater)
1922年アメリカ・ユタ州のソルトレイクシティに生まれる。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業。そのままそこで1942~1943年経済学の講義を担当した。
真珠湾攻撃後に海軍に入隊する。
戦後1949年~1953年にかけて西ドイツのボンの高等弁務官事務所に勤務した。
1959年にはアメリカ・アイゼンハワー大統領の対外援助委員会(ドレーバー委員会)の書記官となる。
ジョン・F・ケネディ大統領には教育・文化事業省次官補に任命される。
1967年~1972年まではソーク研究所(Salk Institute for Biological Studies;1963年にカリフォルニア州サンディエゴ郊外に創立された生物医学系の研究所)の所長を務めた。
ニューヨークの国際関係評議会やロンドンの戦略研究所のメンバーでもあった。


ロバート・O・アンダーソン(Robert Orville Anderson)
1917年、アメリカ・シカゴ州で生まれる。シカゴ大学卒。
両親はスウェーデンからの移民。父親は著名な銀行家であり、「石油」に投資した最初の銀行家であったとも言われている。
そんなわけで石油会社を渡り歩くことは苦労なく出来た。
そして1950年までに幾つかの製油所を所有した。
1963年にフィラデルフィアのAtlantic Refining Companyを合併し、1966年にAtlanticの会長兼CEOとなる。さらにRichfield Oil of Los Angelesを合併し、Atlantic Richfield Companyを設立し(後にARCOと改称)、アメリカ最大の油田を発見した。
ロックフェラーのスタンダード石油トラストの一社に数えられていたが、2000年にイギリス・ロスチャイルド系のBPに買収された。



ジョセフ・E・スレーターはドイツ勤務の後はフォード財団に入り、1960年代には定期的に日本に訪れていた。
フォード財団はロックフェラーや松本重治らが1952年に設立した国際文化会館にも早い段階から助成を行ってきた。
フォード財団のことも前に書いたことがある。

オバマ大統領の母親(アン)と財団に関する記事である。

過去記事「警告4」より>
インドネシアとフォード財団
1949年、インドネシアはオランダから独立した。
脆弱な経済基盤を整えるべく、また途上国がアメリカの意図しない方向へ行かないよう、指導したのはアメリカだった。
インドネシアとアメリカは経済学における大学間協定を結んだ。

これを実質的に牽引したのは民間財団であった。

フォード財団はインドネシアの国家建設助成を目的とする一連のプロジェクトの一環として、インドネシア大学とカリフォルニア大学バークレー校の協定を結んだ。(1956-1960年)
有能な若者に目星を付けて奨学金を出し、アメリカのカリフォルニア大学のバークレー校に入学させた。
そこで「アメリカ式」を教え込み、彼ら留学生は帰国後、政治や経済の中枢部となった。。
そのためフォード財団の奨学金を得てカリフォルニア大学バークレー校に行った留学生は、「バークレーマフィア」と呼ばれるようになる。

協定期間が終了した1960年以降もフォード財団による援助は続いた。
教育分野では上記留学、アメリカの大学スタッフの派遣、インドネシア大学での経済学コース設置など。
通商政策や農業開発などにもプロフェッショナルが派遣された。
ハーバード国際開発研究所からの財政支援協力もあった。

1965年のインドネシアの軍事クーデターはスハルト軍部とアメリカのCIAが接近して起こしたのではないかと言われている。
スハルト軍部というのは、アメリカフォード財団によって養成されたインドネシア人が主力であったと思われる。
スカルノ大統領が共産主義を支持基盤としていたため、共産主義の撲滅に動いたというのだ。
スハルトは共産主義者を大虐殺してアメリカに応えた。

1960年代半ば、アンの再婚相手ロロ・ソエトロは、何故アメリカ本土や日本ではなくハワイに留学していたのだろうか。
(日本も1960年からインドネシアの留学生を多数受け入れていたことはこちらに書いた。)


1977-1994年 アンはフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに在住。


オバマ母はフォード財団の一員
1977年~死の前年の1994年まで彼女はフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに駐在した。

1988~1992年にはインドネシアのマイクロファイナンス事業の立ち上げに深く関与した。
マイクロファイナンスとは貧困者相手の金融。
貧しい家庭の主として女性に小口のお金を融資する事業。

借りる側にとって確かに高利貸よりは良いだろう。
それによって生活や環境が改善するなら悪いことばかりではない。
そこに上手く付け込んだ事業である。
膨大な資金力をバックとした(だからこそ可能な)金儲けであることには変わりない。


でもこんな金儲けのためだけに送り込まれたわけではないだろう。
おそらく諜報員だったのであろう。彼女の父親も諜報員だったらしい。
ハワイ大学はCIAの活動拠点の1つであった。
インドネシアは世界最大のイスラム教徒を抱える国である。

過去記事「警告5」より>
ガイトナー財務長官の父もフォード財団の一員だった
ティモシー・フランツ・ガイトナー財務長官の父ピーター・フランツ・ガイトナーは、フォード財団の主任研究員であった。
そのため、ガイトナー財務長官も少年期をアフリカ、インド、タイなどの発展途上国で暮らすこととなる。

====ガイトナー財務長官の経歴=====
1988年に財務省に入省。13年間勤務。
2001年〜2003年、IMFの局長。
2003年〜2009年、ニューヨーク連邦準備銀行総裁。←この時にリーマン破綻やらAIG救済やらあった。
オバマ政権で財務長官となった。(親がともにフォード財団の研究員)




1969年にアスペン研究所が刷新された。
1972年にローマクラブが『成長の限界』を発表し、モーリス・ストロングは国連人間環境会議(ストックホルム会議)を組織し事務局長となった。
その翌年には国連環境計画の初代事務局長にもなるが、その年に早くも『明日の地球世代のために―「成長の限界」をめぐる世界知識人 71人の証言』という本が出版されている。

その71人にジョセフ・E・スレーターも含まれている。

Q.国連は、何百万膳、何千万語という報告書や文書を積み上げています。あなたは、アスペン研究所や口ーマ・クラブないしMITが、この紙のバベルの塔に屋上展を架さないためには何ができるとお考えですか。

A.さきほども申しあげましたように、われわれの若干の省が数年かかって、ある制度の創設のため努力をいたしましたが、それは今でも存在しています。International Federation of Institutes for Advanced Study (IFIAS) がそれです。われわれは、およそ24の、程度の高い研究所を世界から結集しました。
例えば、パスツール研究所、ニールス・ボーア物理学研究所、ウッズ・ホール海洋学研究所、大気研究大学コーポレーシヨン、アスペン研究所、日本経済研究センターなどが結集して、この連盟を創りましたが、この主な機能は三つあります。
第一は、国際的、学際的諸問題の共同研究を行なうことです。
第二は、教授および博士号取得ずみの学生の交換です。
第三は、毎年、五年先までの計画をたて、そうすることによって、種々の研究所の計画が調和のとれたものとなり、やがては、事実上の単一の大学あるいは研究所 (そのためのキャンパスがないのはむろんですが) ができあがるようにすることです。
こうした作業が機能し始めれば、IFIASは高い質の研究を提供できるでしょうし、国連の扱う諸問題に機能的に関係を結ぶことができるようになります。
モーリス・ストロングのような国連にいる強力なリーダーたちと、協力することができるようになるのです。ストロングは、国際的、学術的な仕事を開拓しようとしている質の高い (特に、既成であって質の高い) 諸制度の間の橋渡しをしようとしている人です。われわれは、国連の機構の肥大を回避し、多くの官僚主義的硬直性を回避することができます。IFIASは、1972年10月に第1回総会を開きましたが、そのメンバーたちは、これまでに申し上げたプログラムに賛意を表明しました。


異論を生まない世界を構築しようとしていることが分かる証言である。
質問にMITの名が出てくるが、『成長の限界』はローマ・クラブが直接研究執筆したものではなく、MITに委託したのである。MITのデニス・ メドウズ(当時は助教授)を中心とする若手研究者グループが担当した。

実はスティーブ・ジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』の著者ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)もアスペン研究所の会長であった。
アル・ゴアがアップルの取締役に就任した年に就任した。
翌年にビルダーバーグ会議にも出席している。(あっ私と同じだわ?)

ウォルター・アイザックソン
ハーバード大学を卒業後、オックスフォード大学の大学院に進学。その後、ロンドンの「サンデー・タイムス」でジャーナリストの経歴をスタートさせ、1977年より雑誌「タイム」の編集に従事。’95年同誌編集長。
2001〜2003年CNNのCEO(最高経営責任者)。2003年よりワシントンD.C.に拠点を置くアスペン研究所の理事長兼CEO。CNNの委員長兼CEOも務める。
また、オバマ米国大統領から要請を受け、ボイス・オブ・アメリカ、自由欧州放送、および他の国際放送を管轄する米政府放送管理局の委員長に就任。
伝記作家としても活躍し、アップル共同創業者であるスティーブ・ジョブズ唯一の公認伝記「スティーブ・ジョブズ」や、「キッシンジャー―世界をデザインした男」「アインシュタイン―その生涯と宇宙」などを手掛ける。


ところで、今更ながらだけどジョブズの伝記。
生前から企画してジョブズが例え死ななくても2011年11月21日に発売予定だったとか、「唯一の公認伝記」だとか「公式伝記」だとか、強調しすぎて逆に怪しくなってますね。








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by yumimi61 | 2017-06-13 18:11