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2017年 07月 04日
日本国憲法の秘密-509-
1935年にニューヨーク州知事から特別検察官に任命された男、トーマス・E・デューイ。
彼はマイヤー・ランスキ―の親友でありシチリア出身ニューヨーク拠点マフィアのトップになったラッキー・ルチアーノをターゲットに据えた。

1936年、野心家の検事トーマス・デューイは、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指しし厳しく追及した。そのため、(ラッキー・ルチアーノは)当時引退したギャングが集まる街だったアーカンソー州ホットスプリングスに身を隠した。このとき、古くからの友人のオウニー・マドゥンに生活の面倒を見てもらう。しかし4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕される。マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い5千ドルですぐに釈放されるが、デューイ側はすぐに再逮捕しニューヨークに連行された。ルチアーノ側はアーカンソー州司法長官のカール・E・ベイリー(Carl Edward Bailey)長官に5万ドルの賄賂を交換に釈放を求めたが断られた。

裁判では容疑は数多くあった。殺人、酒の密造・密売、労働組合の恐喝、ミカジメの取立てなどである。しかし有罪になったのは、彼が犯さなかった数少ない犯罪の一つである強制売春だった。売春事件としては異例の禁固30〜50年の刑を宣告された。このときの裁判で検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受けた売春婦たちで、ルチアーノに対して不利な証言をさせていた。そこまでしてもデューイ側はなんとしてもルチアーノを投獄させたかったという。ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を主張したが、その後10年近く刑務所で暮らすことになる。ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所(Clinton Correctional Facility, Dannemora)に送られた。

投獄されるがその権勢は衰えず、刑務所内から面会に来たマイヤー・ランスキーやフランク・コステロたちを使い、組織犯罪の指揮をとり続けた。刑務所の中でも大きな権威を持っていた。刑務所ではラジオを置き、新聞を取り、労働はせずに快適に暮らしていた。



ダッチ・シュルツ
ドイツ系ユダヤ人(ユダヤ系)。1920~1930年代にニューヨークで活動したギャング。
気が短く暴力的な性格で、問題がおきると銃で解決するタイプで、多くの流血沙汰を起こした。
ラッキー・ルチアーノらと縄張り協定を結び、全米犯罪シンジケートの協力者として位置付けられていた。
またニューヨーク・マンハッタンのアフリカ系の人達(黒人)が集まるハーレムの賭博組織を支配下に置いた。
これはタマニーホールの弁護士と結託して行ったことである。

1933年1月に脱税容疑で告発される。その後はニューヨークを離れて潜伏するが、1934年11月にニューヨークに戻った。
元州知事や元州議会議員ら豪華なメンバーの弁護団を組織して裁判に備えた。弁護団の計らいにより、裁判地をシュルツの悪名が轟いていたニューヨーク市ではなくカナダ国境に近い田舎町マローンとすることに成功すると、広告会社を雇って地元の企業に寄付金をばらまき、慈善活動を行なった。政治家のように地元民と握手したり、子供にキスをして「善良な市民」をアピールし、政府のスケープゴートにされた犠牲者のように振る舞った。
翌年行われた裁判では、第一審で有罪となったが、第二審では陪審の買収工作により無罪を勝ち取った。アル・カポネやワキシー・ゴードンらの脱税投獄の例から有罪は確定的と見られていたが、そうした予想を覆した。


裁判とは誰かの正義である。つまり感情である。法とか科学とか実はそんなに関係ない。
それが露骨に出るのが陪審裁判である。市民の感情で罪と罰は決まる。市民の感情に沿わない人が悪い人ということである。
裁判は感情的なもの、しかしそれではあまりに近代的、沈着冷静、客観的ではない。
規範のシンボルのような裁判に規範がないというのでは示しがつかない。
そこで「判例」というものがある。
同じような裁判が繰り返されて行われるとその判決は規範化し一定の拘束力を持つようになる。
判例は判決を導く上での法的理由付けにもなる。
誰かの個人的感情によってかけ離れた判決を出すということは出来ないということ。
(但し日本はアメリカやイギリスと違って判例法の国ではないので、判例に法的拘束力まではない)
判例法の国であるアメリカで予想を覆す判決が下された。

無罪となったダッチ・シュルツは1935年8月にニューヨークに戻った。
この判決に激怒したニューヨーク市長がダッチ・シュルツをすぐさま逮捕するように命じる。
この時にはトーマス・E・デューイは特別検察官になっており、上記に書いたようにラッキー・ルチアーノを公衆の敵とターゲットに据えていた。
しかしその下の副官はラッキー・ルチアーノと通じていた。(1935年9月、副官は行方不明となった)
ダッチ・シュルツは再びニューヨークを脱出した。

ダッチ・シュルツはニューヨークを追われた事を恨み、トーマス・E・デューイの暗殺を全米犯罪シンジケートの会議に諮った。
全米犯罪シンジケートの暗殺実働部隊とも言えるマーダー・インク(殺人株式会社)のリーダーだった“レプキ”・ルイス・バカルターは反対、その右腕だったジェイコブ・"グラ"・シャピロは賛成。
決定権は上層部にある。ラッキー・ルチアーノは反対であったという。
ラッキー・ルチアーノがマーダー・インクに指示したのはダッチ・シュルツ殺しだった。
計画は実行され、銃撃から22時間後にダッチ・シュルツは死んだ。

事件翌日のニューヨークのタブロイド紙に 「シュルツ銃撃さる」の見出しが踊った。ハーレムの女王で過去シュルツにポリシーゲームを乗っ取られたステファニー・セント・クレアは死の床にあるシュルツに"As ye sow, so shall ye reap." 自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない という短い電報を送った。

最後に言った言葉は「俺のことはほっといてくれ」。彼はユダヤ教徒だったが、銃撃直後にカトリックに改宗したため、ニューヨークのゲート・オヴ・ヘヴン墓地に埋葬された


彼はなぜ最期にカトリックに改宗したのだろうか。いずれにしても組織がカトリックと深い関係にあったことを示唆している。

ラッキー・ルチアーノと、トーマス・E・デューイは裏で通じていたか、取引をしたのだろう。
トーマス・E・デューイの命を狙ったダッチ・シュルツの暗殺を依頼したのはトーマス・E・デューイだったかもしれない。
ダッチ・シュルツは、デューイの暗殺を企てた結果殺されたと報道されると、デューイは一躍名を上げて1940年には大統領候補にもなるのである。
1942年にニューヨーク州知事となる。
第二次世界大戦後の1948年大統領選挙では当選が有力視されていたが民主党のトルーマンに敗れる。
トルーマンは原爆投下を指示した功労者である。
その原爆「平和のための原子力」はロスチャイルドとロックフェラーの争いに束の間の平和をもたらした。
我々も原爆開発に成功したなどとぬかすソ連という敵に一致団結して戦わなければならないのだ。
トルーマンはユダヤ人の親友がいて1948年にイスラエル国家の承認に踏み切っている。

シカゴ・トリビューン紙は、デューイの勝利という見出しを掲げた。このことは世紀の大誤報として現在も記憶されている。

シカゴ・トリビューン
1847年に当時台頭してきたノー・ナッシング(Know Nothing)と呼ばれる外国人排斥運動の新聞として創刊された。 創刊当時は定住外国人やカトリック教徒について批判的な姿勢をとり、外国人への恐怖に関する記事が紙面の多くを占めた。

創刊8年後にジョゼフ・メディルら6人がこの新聞を買収し、外国人への恐怖を与える内容は抑えられていく。しかしやがて禁酒運動に傾倒していく(プロテスタントは後から来た移民などと比べ飲酒を控える事が多い)。

1930年には、当時禁酒法によってマフィアやギャングが街を牛耳っていたため、紙面で「民衆の敵」としてリストアップして非難した。ちなみに民衆の敵ナンバー1はアル・カポネだった。

1935年には、保守派の立場のロバート・R・マコーミック大佐が編集長を務めた時代のこの新聞は、孤立主義の色が強く、政治面や社会面では偏った報道を行なっており、「アメリカ人のためのアメリカの新聞」を自称していた。また、アメリカ民主党とニューディール政策を強く非難し、イギリスとフランスをはっきりと軽蔑しており、 ジョセフ・マッカーシー上院議員と蒋介石を非常に好意的に紹介した。

シカゴ・トリビューンで有名なスクープは、日本の真珠湾攻撃の前日に報道されたアメリカの第二次世界大戦参戦計画の暴露である。

アメリカ大統領選挙での選挙結果について共和党のトマス・デューイの勝利との誤報を出してしまい(民主党のハリー・S・トルーマンが勝利)、笑いものにされた。「デューイ、トルーマンを破る」と書かれたシカゴ・トリビューンを持って笑うトルーマンの写真は有名である。
それ以来この新聞は変化を遂げたとはいえ、共和党寄りの方針が基本となっている。


アル・カポネはイタリア系。但しシチリア出身のマフィアではなくイタリア系のギャングであった。
ニューヨーク生まれでシカゴに事務所を構えた。
シカゴにとって民衆の敵だったことに違いはないだろうけれども(もっともシカゴにもマフィアがいたが)、全米という観点から見ると、知名度の高さと影響力の大きさが一致していない人物。
映画化されたりしていたので名が知られていた。


ちなみに刑務所で労働もせずに快適に暮らしていたラッキー・ルチアーノはどうしたかと言うと、第二次世界大戦中にアメリカ海軍から協力を求められて出所したそうな。

ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に、恩赦を求める嘆願書をニューヨーク州知事となったかつての宿敵デューイ元検事に提出した。政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。しかし、アメリカ市民権を持たないのでイタリアへ強制送還される。

(イタリアのナポリで)、スカラ座のバレリーナのイゲア・リッソーニを愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送る。表は医療器具や家庭電化製品を扱う商人で、裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。

アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた恩人と言える。

米本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点でルチアーノは間違いなく1960年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。さらにその資金を、ミラノの弁護士で銀行家のミケーレ・シンドーナを通じてマネーロンダリングさせていた。




ソニーの創業は1946年。当初は東京通信工業という社名であった。
その会社が「SONY」という言葉というかロゴを商品に使い始めたのは1955年。
そして1958年に社名をソニーにして東証1部に上場した。
ソニー・コーポレーション・アメリカを設立したのが1960年。
ではSONYにはどんな意味があるのか?

SONYは「音」を意味するラテン語の「SONUS (ソヌス)」、「小さい、坊や」を意味する「SONNY(サニー)」が由来。
「SONNY」だと「損(SON)」を連想させるため、「N」をひとつなくしてSONYとなった。
1955年にトランジスタラジオの商標にSONYという名称が採用されたのが始まり。
世界のどの国でも誰にでも読めて発音できる言葉として考案された。


アメリカで名を馳せたイタリア系ギャングのアル・カポネの息子の通称もソニーだった。
Albert Francis "Sonny" Capone
本名は、アルバート・フランシス・カポネ(Albert Francis Capone)である。
1918年生まれなのでソニー株式会社より誕生は早い。

ギャング・マフィア絡みのソニーとしてもう一人有名なのが、チャールズ・"ソニー"・リストン(Charles "Sonny" Liston)。
ボクシングのヘビー級王者だった人物である。こちらも通称がソニー。
彼には出生記録が無く、正確な生年月日は不明。1932年生まれということになっているが、これは本人の申告によるものである。
1932年生まれということは、ソニー株式会社よりも誕生は早い。

チャールズ・"ソニー"・リストンは幼い頃から犯罪に手を染めており、武装強盗や警官襲撃などで19回逮捕された記録が残されている。
1950年に強盗などの複数の罪に問われ、5年の有罪判決が確定し刑務所に収監され、結局2年間の刑務所生活を送った。
この間に、ボランティアでアスレチック・ディレクター(アメリカの高校や大学には全運動部活動を管理する管理者がいるが、その刑務所版ということだろう)を務めていた神父からボクシングの手ほどきを受けた。神父ということはプロテスタント(牧師)ではない、カトリックである。
仮釈放で刑務所を出所した彼は、その神父の支援を受けてアマチュアデビュー。
セントルイスのマフィアのボスとも関係するようになる。
翌1953年にプロデビュー。

1956年5月5日、路上でリストンを呼び止めた警官に暴行を働いた上に拳銃を奪い去ったとして感化院へ9ヶ月間送られる。その後、再び警官相手に暴力沙汰を起こして町を出て行くよう宣告を受け、セントルイスからフィラデルフィアへ拠点を移す。
この時点での戦績は14勝(7KO)1敗。

この頃から数年に渡って、ボクシングプロモーターでフィラデルフィアマフィアの裏の顔を持つフランク・パレルモと、ニューヨークマフィアのルッケーゼ一家の一員でマーダー・インクの殺し屋でもあったフランキー・カルボの支配下で試合を行うようになる。

フィラデルフィアへ拠点を移しての復帰後には19連勝(17KO)をマークした。
しかしながら、バックに付いている裏社会との関係が記者たちの格好の標的となり、世界王座に挑戦させるべきではないとの世論が形成された。
時の王者に対して、NAACP(全米黒人地位向上協会)がリストン戦に同意しないよう直訴したり、ケネディ大統領までが否定的な見解を示すなど大きな騒動に発展した。

結局、フロイド・パターソン(6人の白人挑戦者を下した黒人のヘビー級王者)が「逃げていると言われるのは心外」と反対を押し切って契約書にサインし、1962年にソニー・リストンと対戦し1ラウンドKOで敗れた。
そのソニー・リストンは絶対有利と言われながらも、カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)にあっけなく負けたため、八百長が疑われたくらいであった。

ソニー・リストンは1975年にラスベガスの自宅で死亡した。
病死で処理されたが、麻薬の過剰摂取やギャングに殺されたとする説も根強い。

「知らなかった」とか「そんなの関係ない」と言えばそれまでだが、「ソニー」という名称はあまりクリーンなイメージではない。















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by yumimi61 | 2017-07-04 12:10