2017年 12月 10日 ( 2 )

2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-635- (外貨準備と貿易について)
本日2本目です。

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※年度の〇印は1985年(昭和60年)。日航機墜落とプラザ合意、中曽根首相の靖国神社公式参拝の年。
※年度61~平3の□はバブル経済期。西暦だと1986~1991年。

水色の部分が建設国債の発行額(4条公債発行額)。
戦後初の建設国債発行はオリンピック翌年1965年(昭和40年)。
棒グラフのピンク部分が財政法で禁じられている赤字国債の発行額(特例公債発行額)。
1975年(昭和50年)に、特例として1年度に限る法律を公布して赤字国債を発行した。
三木内閣の時で、大蔵大臣は後に首相となる大平正芳。
衆参両院の大蔵委員会(現:財政金融委員会)の強行採決によって決定した。
以後毎年「特例公債法」を制定しては赤字国債を発行し習慣化してしまう。


加計学園のことを書いている時に前川・前文部科学事務次官は元首相・中曽根家と親戚だということに触れた。
その親戚関係は森&安西コンビに繋がり、そのコンビの姻戚関係は三木首相家や佐藤首相家、皇后の実家などと結ばれている。

中曽根弘文―前川真理子<前川喜平の妹>
(長男)中曽根康隆・・慶應義塾大学卒、JPモルガン証券入社、2013年より国会議員(父)秘書
(長女)中曽根文子・・慶應義塾大学卒、川鍋一朗(日本交通3代目社長)と結婚

※中曽根弘文・真理子夫妻の長女(前川喜平からみると姪)は、日本交通社長・川鍋一朗の妻である。
日本交通は日本交通公社(現JTB)のことではなくてハイヤー・タクシー会社である。
日本交通と川鍋という名を覚えているだろうか?
千葉県勝浦の森・安西というカジメ拾いの漁師コンビの姻戚関係に出てきた。


森&安西&鈴木コンビが設立した昭和電工と東信電気。
森家は首相家(三木武夫)と姻戚関係にある。
安西家は皇后の実家や首相家(佐藤栄作)と姻戚関係を結んだ。

三木は吉田茂の官僚政治を批判し、官僚・軍人・皇族等の出身ではなく一般人の政党員による政治を謳っていたにも関わらず、吉田茂と縁戚で近く親しい間柄にあった岸信介や佐藤栄作(ともに官僚出身)政権の誕生に協力していた。
つまり三木武夫は実のところ、吉田茂、池田勇人、岸信介、佐藤栄作に近い人物なのだ。
三木は、吉田学校の生徒の1人に数えられる田中角栄が逮捕された時の首相である。
「私的参拝」と言って靖国参拝し物議を醸した。
そしてー
超法規措置としてテロ犯を釈放した首相でもある。



三木首相(徳島県出身)→福田首相(群馬県出身)→大平首相(香川県出身)→鈴木首相(岩手県出身)→中曽根首相(群馬県出身)

1975~1987年の約12年間に四国出身の首相が2人、群馬県出身の首相が2人。
超法規措置と靖国参拝問題、どちらも三木首相と群馬県出身の首相に関係していた。


禁じ手である赤字国債の発行に踏み切った三木内閣であったが、当時大蔵大臣だった大平は赤字国債の習慣化に懸念を示していた。
そこで年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めた。

国債の満期は長くても10年。
しかし莫大の費用がかかる建設費(建設国債)は10年で返済するのは負担が大きすぎる。
マイホーム購入にかかった3000万円のローンをサラリーマンが10年で全て返済しなければならないとしたらいかに大変か。元金だけでも毎月25万円返済にあてなければならない。
建設費とはそういう額の大きいものである。
そこで建設国債には60年ルールというものがある。60年で返せばよいとうことである。(でもまずこの60年という設定が長すぎる。住宅ローンだって定年までの30年とか20年くらいのローンが主流だろう。親子ローンは出来る限り避けたい。子供に親のローンを残すのは忍びない)
もし満期までの期間を60年と長くとれば国債を買ってくれる人がいなくなる。なぜなら60年後というのは40歳の人が100歳になってしまうのだから生きているかどうか分からない。100歳にもなっったら利息で儲かったも何もなくなるだろうから。
だから10年満期の国債を返すためにまた国債を発行する(借金する)借換償還が行われる。

例えば6兆分の建設国債を2000年に発行したとする。
満期は2010年にやってくる。2010年に6兆+利息を返す必要がある。
そうとなると最低でも1年に6000億くらいずつ建設国債返済分貯金をしなければならない。でもそんなに貯金する余裕はない。
だから60年ルール。
10年満期で実際にお金を出すのは1兆円のみ。足りない5兆円分はまた借りる。(+利息もあり)
10年後また満期がくる。お金を出すのは1兆円のみ。足りない4兆円分はまた借りる。
2000年に発行した建設国債を返しきるのは2060年である。
建設国債が数十年に1度とかそれくらいのペースで発行されるのならばまだしも毎年毎年発行したら借金は膨らむ一方である。
そもそも10年後に出す1兆円だって儲けや節約がなければ、結局のところ赤字国債から出ているようなものとなる。
日本は国債発行額も然ることながら借換債発行額もとても多い。
返せるあてのない借金を繰り返しているのだ。
金利なんか上げられるわけがない。

せめて赤字国債は借り換えしないで10年満期で全て現金で返そうと決めたわけである。
そうでもしないと「借りればいい」とずるずると歯止めが効かなくなるのは目に見えていた。
1975年に発行された初の赤字国債の満期は1985年の冬だった。


三木おろしの風が吹いて退陣。1976年(昭和51年)12月24日に福田赳夫が首相就任。1978年12月7日まで務めた。1978年度(昭和53年度)は若干赤字国債発行額は減少した。
その後が大平首相。
財政再建と赤字国債の削減を最優先課題とし、赤字国債依存体制から脱却するために消費税の導入を考えていると言明。
しかし翌1979年(昭和54年)になると衆院選挙風が吹き始める。
野党はもちろんのこと、増税では選挙を戦えないと多数の自民党議員も増税・消費税反対を唱える始末。マスコミも反対に同調。
9月の臨時国会所信表明演説で首相が「新たな負担をお願いすることになる」と消費税に触れると、野党が大平内閣不信任案を提出。それを受けて解散総選挙と相成った。

解散後に大平首相の増税発言について「増税の独断専行は困る」と牙を剥いたのは、初の赤字国債発行時の三木元首相だった。
いくら大平首相が赤字国債は健全な状態でないことを説明しても反対の嵐。
田中派と三木派は対立しており(田中が逮捕された時の首相が三木)、田中派は大平をささえていたが、ロッキード事件の影響や増税発言によって主流派とはいえ自民党内でも厳しい立場に置かれた。
そんなこともあって結局選挙中に大平首相自ら消費税導入断念を表明した。
自民党の獲得議席数は選挙前から1議席減らしただけに過ぎなかったが、自民党は過半数を割り込み惨敗と言われた。
大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚いた。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。


その大平は選挙公示日に体調が悪くなり、翌日入院。12日後の6月12日に急死した。「辞めろということは死ねということか」という言葉を地で行く形となった。






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by yumimi61 | 2017-12-10 22:09
2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-634- (外貨準備と貿易について)

戦後日本の物価は上がり続けた。
戦前(1936年頃)と高度経済成長期の始まった1954年との比較では物価は300倍にもなっている。
戦前(1936年)と1949年の比較では220倍ほどだったという。
インフレが起きたということは紙幣が多くなったということ、つまり紙幣をかなり発行したということである。

実態はともかくとして日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中1943年だった。まだ天皇が絶対的権力を握っていた時代である。
「日本銀行兌換券」(額面と同額の金貨との交換が保証された紙幣)から「日本銀行券」(金の保有高に基づいて紙幣を発行するのではなく日本銀行法に基づいて発行する)に取って代わり紙幣が改められた。
正々堂々好き放題に紙幣が発行できるようになった。
日本国は日本銀行に国債を引き受けさせた。
国債引き受けとは日本銀行に国債を渡して紙幣を作らせること。日本銀行は作った紙幣を国に渡す。
国は戦争を行っている最中であるから民間企業などに軍需品を作らせ買い取るわけだが、買うにはお金が必要。
国から企業に支払われたお金は世に出るということである。こうして世に流通する紙幣が増えていきインフレが進行していく。
あまり急速にインフレが進行してしまうと物が人々に行き渡らず生活の基盤すら危うくなってしまう。
日本はインフレ対策に個人相手に国債を発行したりもした。
お金を持っている人がお金を国に貸すことで世の中の紙幣を減らす作用がある。
また「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの下、購買意欲を抑制し預金を引き出すのを抑えたりもした。
世に紙幣が多く出回っていても欲しがる人がいなければ極端な物価高にはなりにくい。
紙幣を大量発行した戦時中こそハイパーインフレ状態なのだが、その紙幣は主に戦争に費やされ、上記のような対策の効果もあって世の中の人々はハイパーインフレ状態を認識しないでいた。


日本がアメリカのパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月のこと。日本は1937年から日中戦争を行っていた。
その日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中の1943年(昭和18年)。この時に初の日本銀行券(不換紙幣)が発行された。
実はその1年前の1942年(昭和17年)に千圓(1,000円)や貳百圓(200円)という超高額紙幣が準備されていた。明治以来ずっと最高額面は百圓(100円)だったことを考えるとインフレに備えて大きな額面の紙幣を作っておいたと考えられる。これは金貨との交換が保証されている日本銀行兌換券である。
但しすぐには使われなかった。インフレ抑制策が上手く機能していたのだろう。
1943年(昭和18年)8月12日には金属類回収令が出され日本中の貴金属が没収された(戦後も戻ってくることはなかった)。
貳百圓(200円)が実際に発行されたのは終戦4か月前の1945年4月16日だった(大蔵省予告では1月6日)。
戦争は終わっていないのに世にお金が回りだしたということは、日本ではこの頃、戦争に対する楽観ムードが漂い始めたのではないだろうか。


1945年4月というのは、日本が本格的に特攻作戦を開始した時期と重なる。
特攻作戦とはパイロットの命はもちろんのこと、寝る間も惜しんで作った高価な戦闘機を大破させ海に沈めてしまう作戦である。

「“特攻作戦”は何故行われたのか」より 航空特攻作戦の概要/知覧特攻平和会館
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。
沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず " 死ぬ・亡くなる " という『必死』条件の作戦でした。
 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。
 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。


そして迎えた終戦。
1945年8月に戦争状態は終結。降伏文書への調印は9月2日。
しかしながら8月15日玉音放送の日が日本における終戦記念日である。戦争が終わった~!とタガが外れた日とも言える。
その翌日8月16日に4月発行開始とは別種の貳百圓(200円)紙幣、8月17日に千圓(1,000円)紙幣が発行された。(ともに日本銀行兌換券)
日本では1945年の終戦直後にハイパーインフレが起きたと言われている。
発行された紙幣の額面からしてもそれはそうだったんだろうと思う。


国の命令で軍需品にしか力を注いでこなかった戦争の時代が終わった。
ふと我に返ればいろいろな物が品薄であり、負けてタガが外れ購買意欲が刺激されたことも重なり物価高になった影響はあるだろうが、ハイパーインフレが起きたということは戦争に負けてもなお日本国内には結構お金が残っていたということである。
戦争で儲かったのは寝る間を惜しんで軍需品を作っていた企業だろう。
しかし終戦直後のインフレで紙幣は紙くず同然になったと言われている。預金も借金も目減りした。


日本の戦費は今の金額で言えば4400兆円にも上ったという。
しかしなにせ戦時中のことである。日銀に引き受けさせた国債は満期時に返すという約束がなされていたのかどうか。
日銀の国債を踏み倒せるならば借金はだいぶ少なくなるであろう。返す必要があるのは個人向け国債だけとなる。
多額の借金返済の必要がなくなるとなると戦時中の経済規模をぐんと縮小してもさほど問題はない。
多額の費用を注ぎ込んだであろう船や飛行機が戦闘で撃たれ突撃し大破し海に沈めば、その費用分の円は消えてなくなる。
経済規模は小さくなるということである。。
幸いと言うかなんと言うか、現金による賠償金支払いもなく、日本国内の軍需工場の機械など資本設備をかつて日本が支配した国に移転譲渡することが戦争賠償となった。
戦時中に世に出た沢山の紙幣は機械などにかなり化けたはずである。
これを外国に無償譲渡するということは機械に投資された円が消えるということである。これによっても経済規模が小さくなる。
1946年に金融緊急措置令によって預金封鎖を行い、新円紙幣への切り替えを実施した。この時に戦時中と戦争直後に発行された紙幣は失効した。


しかしそれでも現在の4400兆円に値する紙幣発行は如何せん多い。
戦後解体されたものの多くの財閥はやがて息を吹き返す。息を吹き返した財閥は銀行を持っているところが多い。
大量発行された紙幣を使わないで高額な兌換紙幣に交換したもの勝ちだったんだろう。
日本のインフレ(物価上昇)は着実に進行し続けた。
インフレになれば、あるいは国債などで世に紙幣供給がなされれば、経済規模(少なくとも名目GDP)は一回り大きくなる。
戦後初の国債は1965年。国債によって世に紙幣が出る。
だが初の国債発行前もずっと日本のインフレは進行していた。
つまり戦争中に発行した膨大な紙幣の影響力が戦後20年あまり、1964年東京オリンピックの頃まで及んでいたということになる。
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれる驚異的な経済成長は、戦時中の裏付けのないとてもつもない紙幣発行によって支えられていたのだ。
但し紙幣を膨張させただけならば奇跡は起こらなかったであろう。
上り詰めた山は下るしかない。
一旦かなり縮小させたことが成功の鍵となっている。犠牲が必要だったのだ。
製造した物のあっけない廃棄、支配下においた国(途上国)への設備の無償譲渡、財閥解体、有力者の処罰などなど。
世の中的には貧しくなってしまったが、そうでない人や企業が確かにあったからこそのJapanese miracle。














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by yumimi61 | 2017-12-10 15:00