2017年 12月 12日 ( 2 )

2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-638- (外貨準備と貿易について)

1987年11月6日、竹下内閣が発足した。

経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任。首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持つと考えられた竹下内閣は、長期政権になるとの見方が一般的だった。


だが長期政権にはならなかった。リクルート事件が発覚したからだ。

消費税導入と前後して、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件で竹下自身の疑惑も浮上し、内閣支持率は軒並み10%を割り込んだ。財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣を迫るなか、1989年4月22日、竹下が公表していなかったリクルート社からの借入金の存在がスクープされると進退が窮まり、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が自殺している。内閣総辞職直前には、竹下登邸周辺でデモ活動も起きた。

アメリカで政府紙幣を発行しようとした大統領は暗殺されたとか暗殺されるとか言われることがあるが、日本でもこの頃、増税しようとするとよからぬことが起こった。

竹下内閣は1988年12月に消費税法を成立させて、1989年4月から消費税3%が導入された。
リクルート事件の発覚は1988年6月18日(朝日新聞スクープ)。

7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した

10月にリクルート社などの家宅捜索が行われ、2月にリクルートの江副前会長などが逮捕された。

事件の捜査を主導した佐渡賢一(検察官)によるとリクルートから5000万円借りていたことは分かっていたため、青木伊平竹下登在東京秘書を聴取したところ事務所の出納記録を持参されて単純な金の貸し借りだったため、「事件性無し、シロ」と上層部と青木に伝えた。
青木から念のため公表すべきか相談されたため、あなた達の判断と返答したことから竹下首相側は公表しなかった。
しかし、その後朝日新聞がこの借金話を報道して世論が沸き、それにより4月25日に竹下首相は、首相退陣表明した。翌日の4月26日に青木伊平元竹下登在東京秘書が自殺した。


1989年6月3日、竹下内閣総辞職。
消費税導入から1ヶ月も経たないうちに退陣表明し、2ヶ月あまりで総辞職することになった。

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中曽根内閣、竹下内閣と、赤字国債発行は着実に減っていった。
グラフの元年(1989年)もほとんどピンクの部分は見えていないが発行している。
ペースからいけばその次の年には発行はなくなるだろうという見通しはついていたが残念ながら竹下内閣は1990年年度予算審議の国会まで続かなかった。
でもその後の宇野政権(2ヶ月と短期政権だった)、海部政権、宮澤政権にも影響力を持っていたとのことで、海部・宮澤の2つの政権(1990年~1993年度)では赤字国債発行額ゼロを達成した。

中曽根内閣だった1983年8月12日、「1980年代経済社会の展望と指針」が閣議決定された。
この中に1990年までに赤字国債依存体質からの脱却という目標が掲げられており、以後毎年「中期的展望」が作成されていた。
1990年までという時期は少しだけずれ込んだが、結果が本当に実ったのだ。
但し宮澤内閣では建設国債発行額が伸びている。

1991年以降それまで右肩上がりだった税収を減らすことになるが、これは投資家や企業がバブルに浮かれて投資につぎ込んだ付けが回ってきたため。投資失敗によって巨額損失を出した企業などが多数あったため税収にも響いてきたということ。
こういう狂騒に勝てるのは一握りである。
また金利が低かったので企業は借金して設備投資したりしたが、バブルが弾けて世に不景気色が強くなると思うように売れなくなり、結局業績も悪化する。
バブルで不動産価格が高騰していたが、銀行などは時価で担保とし融資している。
その価格が下落すれば、融資額と土地評価額が大きく開くことになり、もはや担保をもってしてもチャラにはならない。金融機関も不良債権を多数抱えることになった。
金利を上げなかった成れの果て。

でもどんなに経済損失があったと言っても資産価値が失われたと言っても、紙幣が火災で焼失したわけでもないし、土地や建物を海に投げ捨てたわけでもないので、バブルで舞った紙幣が消えてなくなってしまったわけではない。
どこか収まるところに収まっただけのことであり、あるところにはあるのだ。






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by yumimi61 | 2017-12-12 23:10
2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-637- (外貨準備と貿易について)
東京オリンピックの翌年1965年に戦後初めて発行された国債は建設国債である。
オリンピックが終わってからの建設国債に「なんで?」と思うかもしれない。
オリンピック不況を高速道路建設で乗り越えようという算段だったのか高速道路が本格的に整備されていくのは1965年以降である。
赤字国債が初めて発行されたのは1975年(昭和50年)である。
法律違反であるがゆえ、財政法第4条に対する特例として1年度に限る法律(「昭和50年度の公債の発行の特例に関する法律」)を公布して赤字国債を発行した。


高度経済成長期のさなかに開催された1964年東京オリンピックの翌年、日本は不況に襲われた。
高度経済成長期の終焉を迎えるかどうかの瀬戸際となった。
その時は佐藤内閣だった(1964-1972)。

ちなみに日本は1960年開催夏季オリンピックにも立候補しているがローマに破れている。
このオリンピック誘致期の首相は吉田茂。
次の1964年開催夏季オリンピック誘致期の首相は岸信介。(開催時は池田勇人首相)
麻生&安倍の親族コンビである。

佐藤内閣において、1965年6月3日-1966年12月3日、1968年11月30日-1971年7月5日の期間、大蔵大臣を務めていたのは群馬県出身の福田赳夫である。彼は大蔵官僚出身の政治家。
戦後初の国債発行を決めた時の大蔵大臣は福田赳夫だった。
1965年7月 、臨時国会にて政府は財政投融資の増額と歳入補填国債発行を内容とする1965年度(昭和40年度)の補正予算を決定した。
福田大臣就任後1~2か月後のことである。

補正予算とは、当初予算成立後に発生した事由によって、当初予算通り の執行が困難になった時に、本予算の内容を変更するように組まれた予算。 予見し難い 事態への対応として予備費の計上が認められているが、予備費でも対応できないような 事態が生じる場合には、追加予算を編成することになる。 

会計年度も4月スタート。災害のような突発的な出来事もないのに僅か3ヶ月で補正予算を組まなければならなかったということだから、予算の読みが甘いと言われても仕方がない。
国の予算は、まず通常国会の召集日に内閣から衆議院に提出され予算委員会に付託され、審議を経て記名採決にて成立する。
その後参議院に送られるが、3月2日まで衆議院を通過すると憲法の規定により参議院で議決が行われなくても年度内に自然成立する。
ともかく4月からの予算なので3月末日までには成立するよう定められている。
通常国会は現在は1月に召集されているが、かつては12月に召集されていた。
一応まとまった予算案が12月には国会に提出されるということなので各部署での予算編成はもっと前に行われる。
1964年の東京オリンピックは10月開催であった。
つまり1965年度(昭和40年度)予算編成の段階ではオリンピック後不況がまだ反映されていないであろう。予想もしていなかったということか。
どれくらいの時期に不況が顕著になってきたのかよく分からないが12月に始まり一応3月までチャンスのある通常国会中にも予算の修正はなされなかったということになる。

1965年7月に決定した国債を赤字国債とし、これを初の赤字国債と言う時もあるが、4月スタートで7月に赤字と決めるには如何せん早すぎる。
赤字というよりは予算修正(歳入補填)とみるほうがやはり自然である。
翌1966年度(昭和41年度)から歳入補填国債が建設国債として正式に最初から政府予算に盛り込まれていくことになる。
国債が発行されて、紙幣が公共事業に投資されれば、世に紙幣が出るということになるからインフレ傾向(経済規模拡大)は続きやすい。
結果、高度経済成長期は以後1973年まで続いた。
オリンピック需要でぐんと上がった経済規模を高度成長のまま維持するには、さらにかなり上乗せしていかなければならない。上げたものは落ちるのに落とさないばかりか上げていくのだから大変、負担は大きくなる。それが建設国債の始まりなのだ。


1973年オイルショックにて日本の高度成長期も終わる。
赤字国債発行はその2年後1975年。
禁じ手である赤字国債の発行に踏み切ったのは三木内閣。
昨日載せた金利のグラフを見れば分かると思うが、この時の政策金利は9%とまれにみる超高金利だった。
1973年に4%だったのが2年後に9%に急上昇している。
その上での国債発行だったわけである。
金利が高い時の借金は、借りる側は損をする、貸す側は得をする。
お金の貸し借りにはリスクが伴うが、何と言っても借りる側が国なので有事でもなければリスクはそれほど高くない。
お金を借りる国にとっては痛手となり、投資家は得をする。
そんな時期にあえ赤字国債発行に踏み切った。
1年度に限る国債発行前提なのだから、せめて金利を下げておくとかすればよいものを超高金利での国債発行。いったいどこを向いて舵取りしているのかと言わざるを得ない。(個人向け国債の金利には固定と変動があるが、金融機関向けの国債は固定金利)


1975年(昭和50年度)に発行した赤字国債10年物の満期が1985年度(昭和60年度)にやってくる。
発行当時大蔵大臣だった大平正芳は赤字国債の習慣化に懸念を示し、年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めていた。
借りたお金は1985年に耳を揃えて返さなければならない。
現金で返せなければならないとなると、返そうそうな額しか借りられないということを意味する。
つまり無制限に借りることにブレーキをかけることができる。
人は往々にして見えない借金は忘れてしまい、目先の計算しかしないので(ソーラー発電の時にもそんな目先の計算を披露していた人がいた)、完済までの期間が長ければ長いほど気が緩むという側面もあるから、それを防ぐ意味でも60年ルールなんて適用すべきではない。

中曽根内閣では赤字幅は減少していた。
そこに国債償還が加わるのだから、1985年度以降はそれなりに節約が必要になる。
でも借金するということはそれくらいの覚悟が必要だろう。
1985年度分の予算編成は1984年秋くらいから、国会での予算審議は1984年12月から始まる。

1984年1月、財務大臣の諮問機関である財政制度審議会から驚くべき意見書が提出された。
借換債を発行しないで現金償還することを特例法に定めていたのに、建設国債と同じように借換償還にすべきという提言がなされた。
本来赤字国債発行は法律(財政法)違反であった。それをクリアするための特例公債法ですら変更せよと言うのだ。
経済成長と国民生活の安定という聞こえの良い大義によって。

1984年6月、特例公債法が改正された。
「償還のための起債は行わないものとする」(借換債の禁止)
  ↓
「償還のための起債は、国の財政状況を勘案しつつ、できる限り行わないよう努めるものとする」

借換債の禁止が変更され努力規定となり実質的に正々堂々借り換えが行われるようになる。
日本では「努力しなさい」を言い換えると「実行しなくてよい」ということになるらしい。

財政制度等審議会
日本の国の予算,決算および会計の制度に関する重要な事項について調査審議するため,財務省の付属機関として設けられている財務大臣の諮問機関で,1950年に発足した。
財務事務次官を会長とし,学界,報道機関,財界,関係行政機関の OB,その他の学識経験者から任命される委員 25人以内で構成されている。
公債政策,財政硬直化対策,財政による資源配分政策など基本的な財政制度や各年度の予算のあり方などについて重要な勧告や提言を行なっている。


国家戦略特区もそうだったけれども、何かと得意の有識者ってやつですかね。











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by yumimi61 | 2017-12-12 14:34