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2007年 04月 30日
皇居に消火器爆弾事件
【元“傭兵”が皇居に消火器爆弾 製造した爆発物600キロ】
2008年10月19日配信 産経新聞

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事件の概要と判決
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by yumimi61 | 2007-04-30 00:00
2007年 04月 29日
武士道とは死ぬ事と見つけたり
fujix Home Page の「悪魔のことわざ」よりの転載です。
年賀状も面白いです。


(転載はじめ)
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◇ 武士道とは死ぬ事と見つけたり

佐賀・鍋島藩士、山本常朝「葉隠」のなかの有名な言葉である。
が、この言葉はかなり間違った理解をされている。
「武士道といふは死ぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり」

・武士道の本質は死ぬことだ。つまり生きるか、死ぬかという二つを選択するかといえば、早く死ぬ方を選ぶと言うことにすぎない。
と言うような意味である。

この「葉隠れ」に魅了された三島由紀夫が「葉隠入門」を書いたのは昭和42年のことである。
そして、この本を読むと「葉隠」が三島の精神の中で大きな地位を占めていたかが分かる。

先ほどの言葉の続きを書けば、
・二者択一を迫られたときに絶対に正しい方を選ぶことは難しい。人は誰でも、死ぬよりは生きる方がよいと言うに決まっている。
となれば、多かれ少なかれ生きる方に理屈が多くつくことになる。
死を選んでさえいれば、事を仕損じて死んでも犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。
これが武士道の精神である。
   ー三島由紀夫 「葉隠入門」

三島由紀夫は昭和45年11月25日、市ヶ谷陸上自衛隊で激文をまき、その後割腹自殺をとげた。
その後、色々な識者がの行動、精神面について分析を試みているが、悪魔に言わせれば、本当の答えは上の文章にあるのである。

事件当日の夕刊で語られた著名人の三島事件に関する第一声は次のようなものであった。

「常軌逸した行動」
    ー中曽根防衛庁長官 『朝日新聞』

「三島さんは本気だったんだなあということだ」
    ー開高健 『朝日新聞』

「こういうことは単なる事件と簡単に考えてはいけない」
    ー松本清張 『朝日新聞』

「彼は結局内面の緊張に耐えられなくなって死んだのではないか」
    ー井上光晴 『朝日新聞』

「全く不思議なことを起したものです(絶句)」
    ー有馬頼義 『毎日新聞』

「彼はこれからの七〇年代の日本の運命の予言者になるかも知れぬ予感がする」
    ー村上兵衛 『毎日新聞』

「文学とは全く関係のないナンセンスなことだ」
    ー山崎正和 『毎日新聞」

「天才と狂気は紙一重」
    ー佐藤総理大臣 『毎日新聞』

「精神日本生かすため自決予期していた」
    ー伊沢甲子麿 『読売新聞』

「今回とった行動はもとよりかれの思想にたいしても批判はあるがいまは何もいいたくない」
    ー石原慎太郎 『読売新聞』

「直情しすぎた行動の美学」
    ー竹山道雄 『読売新聞』

*掲載紙はいずれも東京本社最終版による。
    福島鑄郎「三島由紀夫」より。
 

その後、続々と批判やら賛美の声が交錯していく。

「軽薄すぎる現代に対して、いつも怒っているところが特に好きだった。
 −しかし好意的にそう思ってもなお、私はこの事件に失望している。
それは本質的にすぐれた文学者であった三島なら後世に残る「愛国者のためのバイブル」が書けたはずだし、
書くべきだったと思うからである」
    ー月刊ペン 編集長

「・・・三島由紀夫の死は、その唐突な喜劇的ショックから、次第に神話に昇華していくに違いない」
   ー竹中労

「三島氏ははじめから終りまで演技に徹した生涯。
 鶴田浩二のチャンバラ、村田英雄の流行歌と次元を一にしていた」
    ー立原正秋

「現代の狂気としかいいようがない。実りがないことだった」
    ー石原慎太郎

「理解できない。永遠にわからないだろう」
    ー 福田恒存

「一流の仕事をする文士で情事が道楽であるのが媚薬の量を間違えることがあっても別に驚くことではない」
    ー吉田健一

「なぜこんなにうろたえるのか。三島由紀夫に恩をうけっぱなしで、恩がえしをしないうちに突然の死を知った」
    ー野坂昭如

「日本の地すべりをくいとめる人柱」
    ー林房雄

「インチキな平和的・民主的秩序なるものの面皮をひっぱがそうとしたのではないか。
ムダ死にであることにより逆に象徴的行為としては完全に成功した」
    ーいいだもも

「可哀そうな、可哀そうな三島由紀夫」
    ー森茉莉

「彼とは文体もちがい政治思想も逆でしたが、わたしは彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはなかった」 
     ー武田泰淳

「三島にさきをこされたとあわてふためく左翼ラジカリズム馬鹿と、
三島につづけとトチ狂う右翼学生馬鹿と、
生命を大切にと教訓をたれる市民主義馬鹿」
     ー吉本隆明

「まったく伜は天才的な詐欺師だと思いましたよ。私もだまされたし、家族の者もだまされた。みんな、こんなことになるなんて、夢にも思わなかった……」
     ー父平岡梓

「三島が言う「放将な美徳」や「純潔な頽廃」といった相反する両極の概念の結合は、精巧ではあるがニセモノになる」
        ー開高健(「一個の完壁な無駄」)

  *以上 嵐山光三郎「追悼の名人」より


後は、悪魔がどこかで拾い集めておいたノートから。

「数年前三島さんにロールシャッハ法による心理診断をした結果、わかったことは、三島さんの精神構造が、非現実化、非人間化への著しい傾向でした。
これらの反応は、美しく、華麗であり、宗教的、魔術的で怪奇でもありました」
     ー片口安史中京大教授 

「三島の行動と実践は ある種の反面教師だった.,左翼の側にも三島のいうように口舌の徒が多すぎる。
革命という言葉が乱用され、実践が少なすぎる。三島には、目分を賭けきってしまう立派さがあった。
こうなったら、われわれも死に方と死ぬ決意を固めなくてはいけない。
ただ毛沢東語録の中にこういうのがありますー『人はいずれ死ぬものだが、ファシストに奉仕した死は鴻毛より軽く、人民のために死ぬのは泰山より重い』と。三島の死は前者で、われわれの死は後者になるでしょうがね」
     ーML派学生解放戦線、香月徴

自決の翌々日に執り行われた葬儀に白薔薇を持って訪れた弔問客に向かって、(三島の)母の倭文重が次のように言い放った。
「お祝いには赤い薔薇を持ってきてくださればようございましたのに。公威(三島由紀夫)がいつもしたかったことをしましたのは、これが初めてなんでございます。喜んであげてくださいませな」
  - ジョン・ネイスン

「文体の隅々まで刻苦して西洋を溶け込ませた作家が声高に攘夷を言った。
その心の闇はこれ以上覗かないほうがよさそうだ。覗いても闇なのだから何も見えはしない。
死者にはむしろ死者の平和を。それが、生き残った者の礼節ということになろうか」
     ー出口裕弘「三島由紀夫・昭和の迷宮」

最後に三島由紀夫ご本人のお言葉を。

「たいてい勇気ある行動というものは、別の在るものへの怖れから来ているもので、 全然恐怖心のない人には、勇気の生まれる余地がなくて、そういう人はただ無茶をやってのけるだけの話です」
     (「葉隠入門」 光文社) 

「すべてのものに始めと終りがあるように、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。
行動は、たびたび繰り返したように、瞬時に始まり、瞬時に終るものであるから、その正否の判断はなかなかつかない。歴史の中に埋もれたまま、長い年月がたっても正当化されない行為はたくさんある」
     (行動の終結)

「『葉隠』の死は、何か雲間の青空のようたふしぎな、すみやかな明るさを持っている。それは現代化された形では、戦争中のもっとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。神風特攻隊は、もっとも非人間的な攻撃方法といわれ、戦後、それによって死んだ青年たちは、長らく犬死の汚名をこうむっていた。しかし、国のために確実な死へ向かって身を投げかけたその青年たちの精神は、それぞれの心の中に分け入れば、いろいろた悩みや苦しみがあったに相違ないが、日本の一つながりの伝統の中に置くときに、『葉隠』の明快な行動と死の理想に、もっとも完全に近づいている。人はあえて言うであろう。特攻隊は、いかなる美名におおわれているとはいえ、強いられた死であった。そして学業半ばに青年たちが、国家権力に強いられて無理やりに死へ追いたてられ、志願とはいいながら、ほとんど強制と同様な方法で、確実な死のきまっている攻撃へかりたてられて行ったのだと……。それはたしかにそうである。「死」には、「選んだ死」とか「強いられた死」とかの区別はない」
      (「葉隠入門」 光文社)
 

最後の最後に岡本太郎氏のお言葉。

「あれかこれかとなったらマイナスを選ぶんだ。これをやったら死ぬ、という方に進むんだよ」
「どうなるかはわからない。たとえどうなろうと、賭けるんだ。
 瞬間瞬間が一回きりの賭で、賭けた以上は一寸先は虚無だろう。
 だから、賭けとうし貫いて自分の運命を生きなければならない」

彼も葉隠れ武士だ。


*参考:三島由紀夫(「葉隠入門」 光文社)

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(転載おわり)

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by yumimi61 | 2007-04-29 00:00
2007年 04月 28日
『マルコポーロ』1995年2月号 松本サリン事件
『マルコポーロ』1995年2月号 p.156

緊急特集2
米化学兵器研副所長が松本で徹底検証。
松本サリン事件は、テロリストの犯行だ。


死者七名を出した松本のサリン事件は、半年を経た現在も解決をみず警察の捜査は難航している。
それというのも、日本にはサリンを実際に扱える専門家がいないからである。
警察は完全に初動捜査を誤り、事件はうやむやのうちに忘れられようとしている。
そこでついに、米国生物化学兵器研究所副所長のオルソン氏が事件の解明に乗り出した。
事件現場を徹底して歩き、第一通報者河野義行氏との会見は二時間半にも及んだ。
オルソン氏は警告する。
「事件はもう一度起こる。これをやった人間は『次はもっと大きな舞台でやってみせる』とほくそえんでいる」と。


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カイル・オルソン●文
text by Kyle B. Olson
1954年、米国モンタナ州生まれ。1977年ウエスト・バージニア大学院、1980年モンタナ州立大学院修了。
1985年米国化学製造者協会安全及び運営担当研究員として化学分野の実績を積み、1990年ジュネーブ国際平和会議メンバー、1991年対イラク化学兵器処理活動コンサルタントを歴任。1992年には米国政府の生物化学兵器処理などに協力する非営利団体「米国生物化学兵器研究所の設立メンバーとして副所長就任。


松本のサリン毒ガス事件の知らせを聞いたとき、私はまず、「起こるべくして起こってしまった」と、思いました。

日本では、第一発見者の河野義行さんが、ほとんど容疑者として扱われているようですが、この事件の本質はそんなに単純なものではありません。これがアメリカであれば、すぐに軍が現場を封鎖するとか、CIAやFBIが事件の解明に乗り出すことになる。あるいは、一週間以内に私のような専門家が派遣されているはずです。これは国家安金保障上の重大な失敗と言わざるをえません。

日本から送ってもらった報道記事の内容を子細に検討しても、疑問の点がたくさんあります。このレポートで私はその疑問点を詳述して、事実の解明に少しでも役に立ちたいと願っています。


さて、事実の解明を始める前に、サリンがいかに危険な物質であるかをお話ししましょう。

サリンは1930年代にドイツで開発されました。すでに1925年のジュネーブ協定で化学兵器の使用は禁止されていましたが、その開発と備蓄には何の規制もなく、また、報復としてのみ使用することが許されていたのです。

1960~80年代 NATOドクトリンでは、ヨーロッパで対ソ連戦が起きた場合、1日に最大1万トンの化学兵器を使用する計画がありました。もしもこの計画が実行に移されれば、東ヨーロッパは数日のうちに存在しなくなってしまう。化学兵器というのは、それくらい危険なものなのです。

そこで1970年代末から再交渉を行ない、化学兵器の開発、研究を禁止し、貯蔵量をなくそうと努力していますが、未だに締結されていません。現在においてもサリンを始めとする化学兵器がアメリカに4万トン、旧ソ連に4万5千トン存在しています。


アメリカの化学兵器のうち最も危険なのは、ケンタッキーやアーカンソーに備蓄されている20万発のサリンを積んだミサイルです。当時つくられたサリンの質が悪く、腐食が進んでいるため、これらの処分を巡ってアメリカでは大変なツケを払わされています。なにしろサリンの分解は簡単なものではありませんし、それ以上に、少しでも人体に触れれば死に至らしめてしまう危険なものだからです。

結局、完金に密閉された部屋で、ロボットを使って遠隔操作で裁断しますが、その時にミサイルが爆発しても大丈夫なように、かなり頑丈な建物が必要になるのです。
太平洋のジョンストン島に唯一の処理場がありますが、とても間に合いません。そのためアメリカ本土にあと8ヶ所の処理場を建設する計画はあるのですが、そんな危険なものを、どこが喜んで引き受けるでしょうか。地元住民の反対で頓挫しています。

すでにアメリカはこのミサイル処理に120億ドルを投じていますが、これは最初にミサイルを作った予算の、なんと10倍以上です。
それだけではない。太平洋沿岸の各国などに置き去りにしたミサイルの処理のために、さらに250億ドルの予算が必要です。


そもそも、サリンが戦場で使用された例は、歴史上一度もないのです。湾岸戦争で使用したと言われるイラクのケースでさえも、実際に使用したかどうか、確認はできていません。


その理由は二つあります。

よく、化学兵器はA液とB液をミサイルに積んで、爆発時に混合させるといわれます。バイナリー・ウェポンと呼ばれるものです。しかし、サリンは化学反応に時間がかかるので、この方法は適当ではありません。
となると、非常に危険な物質を戦場に持ち込まなくてはなりません。そのためには設備が大がかりなものになって、すぐ敵の目についてしまう。

仮に首尾よく敵に打ち込んだとしても、風によって思わぬ方向に拡散します。ドイツが第一次世界大戦で学んだ教訓は、風が毒ガスの向きを変えてしまうということでした。それでも使用しようとする場合には、防毒マスクと防護服で全身を覆う必要があるわけで、そんな恰好で戦闘を行うことは、あまりにも非現実的です。

無理にサリンを使用する実例を想像するならば、戦術上どうしても必要な町を落とす前に無人化しておきたいような場合。しかし、それも賢明な方法とはいえません。あとは、抑止力としての存在。その程度です。
私は幾つかの疑問を解くために、まず第一通報者の河野義行さんのお宅を訪ね、2時間半にわたって事件当夜の現場を案内していただき、また詳しいお話を聞きました。


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河野さん、あなたと家族の皆さんはモルモットにされたんです。

オルソン:いろんな資料読んだときに、なぜ、誰がやったのかに非常に興味をもちました。今回お話があったとき、ああ、やっとこのいくつかの疑問を自分が解けるチャンスが出来たと、正直言って興奮しました。
河野さんご自身はどんなふうにお考えだったんですか。

河野:私はまったく何がなんだか分からないという状態です。人為的ということが、警察のほうで言われてるわけなんですけど、いままでのマスコミの報道をいろいろ見てると百パーセント、それも信用してるのかどラなのか疑問です。

オルソン:サリンというのは絶対、偶然には出釆ません。つまり、非常に明確な意図を持った人物が作ったものだと私は思っています。
ご自身、いちばん初めに普通じゃないと感じられた症状は何だったんですか。

河野:まず目のほうで、見える像が非常に歪んで釆ました。

オルソン:呼吸困難とか、あとはのどがごくっと詰まるとか、呼吸器官でそういうことが何かおありになったですか。

河野:そういうふうには感じなかった。

オルソン:耳鳴りとか・・・・。

河野:幻聴というんですか、ドドドドドというような音がしました。そのときは幻聴と思ってなかったんですが、娘のほうもやはりそういうような音を聞いたようです。

オルソン:たとえば唾液が出るというようなことありませんでしたか。

河野:唾液はかなり出ましたし、救急車の中でかなり吐きました。

オルソン:ああ、そうですか。日本ではあまり注目されていないようですが、これは非常に重要なことなんです。いわゆる神経に障害を与えるある種のガスの非常に典型的な症状なんですよ。
あの夜は、具体的に皆さん、どうしていらしたんですか。

河野:まず8時から9時のあいだ私、長男、妻の3人が居間でテレビを見ながら食事をしておりました。長女がこの家の2階にいました。次女は離れにいました。長男は9時から10時頃までこの部屋で寝まして、それ以後起きて、離れの自分の部屋に戻ってるんです。
私は九時から十時頃まで新聞等読んでおりまして、妻は台所と居間を行ったり来たりしながら、洗い物とか片付けとか、そういうことをしておりました。

オルソン:最初に犬の異変にお気付きになったということを聞いてますけども、それまで奥様はべつに何でもなかったですか。

河野:10時から10時40分、NHKの歌謡番組を妻と一緒に見ておりました。その番組が終わってしばらくしてから、妻がちょっと気持ちが悪いと言い出しまして、このときはまだ異変とか異常とかいうふうに感じてませんでした。それで、私が居間のほうで横になったら、ということで横たえました。それとほぼ同じ時間に犬小屋のほうから音がしたわけなんです。

私はなぜかなと思って、犬小屋を見ましたら、親犬が横になっておりましたもんですから、外に出ていったんですよ。親犬は白い泡を吹いていました。
玄関のところに緑の車があるんですけど、その前においた漬物桶に水が張ってあります。それで泡を拭いてやろうと恩いまして、その桶を犬のところへ運びました。

それから、同じ車の中に軍手がありましたもんですから、もう一度、車のほうへ戻りました。それで犬を拭いたんですけど、とても助かりそうもないと判断して犬小屋の前の簀子の上へ親犬を横たえたんです。
そのときには子犬はもう横たわって、ぜんぜん動かないような状況でした。
同時に2匹が具合が悪くなるというのは、普通では考えられませんから、外から毒物かなんかを投げ込まれたんじゃないかなと思いました。それで、中にいる妻に対して、警察のほうへ連絡したほうがいいんしゃないかと声を掛けた。ところが返事がなかった。それで、居間のほうヘ戻りましたところ、もう妻が非常に痙攣を起こして苦しんでいた。そんな状況ですね。

オルソン:そのときに救急車を?

河野:妻が非常に苦しがってまして、衣服をちょっと緩めたんですけれども、痙攣とか異常な状態だったもんですから、まず救急車が先だと思い、119番通報しました。
私に具体的な変調が現れたのはその時です。先程言ったように、ドドドドッという音がしました。また、非常に画像が歪んだというか、テレビの垂直同調が合わないときのようにバタバタバタと見えて、非常に驚きました。また、ライトが暗く感じたんですけど、うちはいつもわりと暗いもんですから、それはちょっと判断がつきませんでした。
それから私はみんな集まれというようなことで、子供を呼んだんです。
その後は、一秒でも早く救急隊員を呼ぼうと歩きだしましたが、玄関で座り込んでしまいました。その時に次女とすれ違っています。長男には「ちょっと駄目かもしれない。駄目だったら後を頼むよ」というようなことを話しました。
それからサイレンの音が聞こえてきたので、フラフラと歩きながら外へ出て、救急車の中で倒れたわけです。

オルソン:いちばん初めに第一容疑者として扱われたときに、河野さんはどのようにリアクションなさったんですか。

河野:警察のほうは容疑者という言い方はしてないはずです。あくまでも被害者という言い方で一貫しております。

オルソン:ただし、いろいろ私が読ませていただいた報道だと、必ずしもそういう扱いではなかったような・・・・。

河野:ですから警察は被害者というスタンスの中で、容疑者的扱いをしたということです。

オルソン:じゃ、河野さんが薬学的な知識をお持ちである。ただし私に言わせれば、サリンとぜんぜん関係ない薬学だと思いますけど、とにかく知識をお持ちになってる。
それから日本の非常に保守的な社会の中で、職を転々とする生き方が少し変わっていらっしゃるとかということから、1+1=2ではなく3も4もという形になったことをどう思われますか。

河野:捜査員自身が薬品に対する知識というものがおそらくなかったと思います。たとえば硝酸銀という薬品がありますんですが、これがAgNO3という化学記号になるんですが、Agって書いてナンバー3というような押収リストになってるんですよね。化学的知識がかなり低い方だと思うんです。

オルソン:県警以外にどなたかいわゆる専門家と話をなさいましたか。

河野:まず私のほうで、7月15日の日に独自検証ということで、有機化学の田坂興亜先生(国際基督教大学)をお呼びしまして、私のほうの自宅でそういうものが出来るかどうかというような検証をしております。そのときにサリンのつくり方、第一段階物質、それから第二段階物質に対して、サリンがどういうふうにつくられるかというような説明は聞いております。
サリンの作り方は8通り以上ある。大学生なら理解できる程度の知識。

オルソン:なぜ私がこのような質問をするかと言いますと、犠牲者と呼んでも容疑者と呼んでも何でもいいんですが、河野さんに対する警察側の態度みたいなものですね。それは私としてはどうしても確かめたかったんで、こんな質問をしました。
そもそも、はっきりとした知識に基づいてあのような危険な物質をつくり出した人間が、自らも被害を蒙るような場所に戻るということが、論理的に全く考えられないことだからです。
実はこれは私自身の見解であって、なおかつ自分と一緒にこの仕事に関わっているプロフェッサーも含めた意見なんですが、今回の事件を、いわゆる中央官庁が一切調査してないというのは、たいへんな驚きです。これはテロリストがつくったのかもしれない。こういうものをテロリストが手にλれればどうなるか。
つまりあなたを含めてご家族、かなりの人がモルモットだったと思います。
まず松本で一応使ってみてどんな反応になるか。将釆、たとえば都会のど真ん中で使うということでの、テロリスト集団による一種のトライアルだったということをなぜ考えないのかと私は不思議に思います。
私に言わせれば、誰か個人が自分を含めて近所、家族も危険にさらすようなことをするという可能性よりも、このテロリスト説のほうがよっぼど信懸性がある。
私どもの見解に関して河野さんにあえて、どういうふうに思いますかなんてことは聞きません。ただ実際に政府の中央機関がなんら関心を持たず、なおかつ世界的なレベルでの一連のテロリスト、海外で活躍しているテロリストとの関係みたいな形からの視点でものを見ないということを、私は危倶します。
ところで、事件当時にお撮りになった写真を見せていただけますか。

河野:7月4日ですね。私の友だちが警察の方と一緒に並んで撮った写真なんですけど。

オルソン:縁側の前には何かありましたか。

河野:ドラム缶が置いてあるだけで・・・・・。

オルソン:家屋の犬小屋に面した壁の、床下にあたる部分が格子になってましたよね。縁側の下が通風口になっていて、その吹き出し口が犬小屋のところなのです。この縁側の下は、警察は調べましたか。

河野:さあ、私にははっきりとわかりません。

オルソン:これは重要だと思いますよ。つまり、池で発生したサリンはまず縁側の下を通って犬小屋を襲った。遅れて、台所や縁側のガラス戸の隙間、あるいは床板の間からサリンが拡散して来て、奥さんや河野さんを襲ったと考えることができるからです。

河野:たとえばですね、先ほど居間のところのガラスが割れたところを見ていただきましたよね。いわゆる浸透性というんですか、そういう性質に対してはどんなかなと。

オルソン:少量でもたいへん大きな影響を与えるということをまず言いたいと思います。つまりサリンというのは、雫が肌に触れただけでその人を殺す。そのぐらいの毒性のあるものだということを理解していただくとすると、たとえばさっきの床の裂け目で充分ですね。特にこういう日本的な家屋ですから、普通のところよりは当然、浸透性は高いでしょう。
今回の場合は、マンションで亡くなった皆さんは窓を開けていらっしゃった。逆に、河野さんは風の通りがいいから閉めていらっしゃったというのがあるわけで、どっちが幸運だったかということです。

河野:サリンは重い物質で、しかも草木を枯らすことはないということのようですけれど・・・・。

オルソン:その通りです。つまりサリンをつくる過程で副作用としてガスが発生して、樹木や下草を枯らしたんだと思います。
サリンのつくり方は、使ってる装置によって、それこそ8通り以上あるんですね。もちろん最終的なデータがないのでこういう結論を出すのは怖いんだけれども、かなり可能性があるのは、アルコールを最後に足すことによってそれが完成するわけですけど、それ以前の2つぐらいのステップをここでやったのではないかということは言えます。
最初に聞いたとき思ったのは、フッ化水素ですか、それとあと・・・・。

河野:塩化水素と、東京大学の森謙次先生もそラいうふうなことをおっしゃってます。

オルソン:私もそう思います。木が枯れたのは、そのガスによる影響だと思います。フッ化水素はガラスのエッチングにも使うような非常に危険な物質です。質量の違いや、発生した時間の違いから、拡散したガスの層が違っていたのでしょう。
入院した直後はどのような処置を受けられましたか。

河野:薬品名は分かりませんけれども、入院した当初というのは、かなり吐き気がひどくて、それから熱も38度5分から39度近く出まして、注射、座薬なんかを入れても全く効かなかったです。それから、ずっと点滴というような形で1日4本とか5本とかいうような量の点滴をやってます。下痢が1カ月ずーっと続きまして、体重が10キロ以上減りました。
妻に関しては、いわゆる血液透析というんですかね、毒物を活性炭に吸着させるというような処理を施したそうです。
被害にあわれた方のほとんどが、中性脂肪が減っていると、病院の先生から聞きました。

オルソン:最近の症状はいかがですか。

河野:微熱ですね。37度2分ぐらいまで上がるんです。それから朝起きたときが36度8分ぐらい。その間で振れてます。それから頭痛と不眠が残ってますね。
仕事は一応長期欠勤という形をとっています。1994年中の職場復帰をめざしていたんですけど、今の筋肉の状態ではまだ無理です。落ち葉をかき集めて燃やしたりとか、軽い運動をするようにしています。

オルソン:奥さんをはじめ、他のお子さま方の病状というのはいかがなんですか。

河野:妻のほうは、依然として意識不明の状態です。それから視神経のほうがやられてるということです。目は開いてるんですけど、見えてない。刺激与えても脳波に変化がないというような状況が確認されています。
現在、自分の診察も兼ねて週に2回見舞いに行っています。本当はもっと行ってやりたいのですが、まだちょっと無理です。
子供については、たまに微熱が出ることがありますんですけど、まあそれが後遺症なのか、ちょっと断定出来ません。
先ほどおっしゃったように第2、第3の事故というか事件が、可能性あるわけですから、ほんとに全容を解明していただかないと安心出来ないですね。


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パート2に続く。


  

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by yumimi61 | 2007-04-28 14:55
2007年 04月 27日
『マルコポーロ』1995年2月号 松本サリン事件(パート2)


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その後、幾人かの被害者や、河野さんの主治医を始め、治療に当たった医師に話をききました。


たとえば明治生命寮に住んでいた大西英夫さん(50)は、当夜の状況を次のように証言してくれました。

「わが家は一階で、池とは反対側の部屋でした。暑いので南と北の窓を開けてありました。10時半頃、頭が痛くなって、鼻水、くしゃみが出ました。そして、その後に吐いてしまいました。横になったのですが、眉間のところが痛くて寝るどころではありません。
妻は11時半まで長電話をしていましたが、途中から息苦しさを感じています。また、電灯が暗い感じがして2人でつけたり消したりしていました。妻には下痢の症状が出ました。
12時頃、救急車のサイレンの音がしましたが、近くの大学生が騒いでいるんだと思ったんです。それが裁判官舎にも赤色灯が見えたんで妻が聞きにいきまして、『ガス漏れじゃないか』と消防署の人に言われました。
 ところがしばらくして警察の人が、『明治生命寮は無事か』と聞いてきましたので、驚いて各部屋を回ったんです。
3階の榎田さんの部屋から返事がなく、マスターキーで開けて部屋に入ると、風呂の中で死んでました。肌の色が異様な黒っぽい感じだったのを党えています。同じ3階の稲田さんは突然意識不明になったそうです。発見された時は口から血が流れていました。それに比べれば、うちは軽症でした。榎田さんを相沢病院に運んだのは午前1時すぎ。ご臨終が2時18分です。
報道陣に、『あなたも見てもらったほうがいいよ』と言われてたんですが、すでに相沢病院は一杯で城西病院に行きました。そうしたら先生が『帰ってはいけません』と。亡くなった方の次に酷い検査結果が出たそうです」



城西病院の薄井尚介副院長は、当夜の様子を語るとき今も興奮を抑えられない様子でした。

「その夜は救急担当病院ではなかったのですが、ほかの病院に収容しきれなくなった患者さんが続々とやってきました。救急担当病院では、ベッドに収容しきれず、一時は患者を待合室のソファに横たえていたようです。
患者に共通して見られた症状は目がピンホールのように暗くて見えない状況でした。それとコリンエステラーゼ(神経の伝達をスムーズに行うために不可欠な酵素)の著しい低下です。
うちの病院で亡くなられた患者さんは一人だけですが、電気ショックみたいにベッドから飛び上がって手が付けられない状態で、この人の命を救うのに手一杯でした。抗痙攣剤を致死量に近いくらい使いましたが、全く駄目でした。  硫酸アトロピン(縮瞳・唾液・嘔吐・尿失禁等に効果がある)をどんどん打ちましたが、効果がない。一人のために外来用の硫酸アトロピンを金部使いました。ほかにも、なんとか呼吸をさせようと気管切開までしたんですが・・・・。結局一時間ほどで為す術もなく亡くなりました。
大西さんご夫妻が入院されたのは明け方の六時五十分。それまで同僚の命を救おうと必死だったようです。
ご主人の場合、正常値が百から250といわれるコリンエステラーゼがわずかに39。亡くなった患者さんが10とか20という値で、その次に深刻だったんです」



また、河野義行さんの担当医、松本共立病院の鈴木順氏は次のように語っています。

「この事件の被害者は200名。うち死者が7名。当院入院患者は18名です。その夜はドクター5人と看護婦10人が緊急に呼び出されました。
興味深いのは警察官や救急隊員、医師や看護婦に頭痛や呼吸苦、目がチカチカするといった2次汚染があったことです。特に患者と同じ部屋で長時間接している看護婦に症状が現れました。手袋などはしていたんですが患者の吐き方が酷いので、手についてしまったんでしょう。
最初は心理的な問題かという意見もありましたが、サリンと分かる前から訴えがあったし、やはり患者と長く接した人間に顕著に現れています。
原因がサリンと分かってからは、日本医師会から『有毒化学剤等障害者に対する処置・治療に関する参考資料』というのが送られてきました。そこに書かれている症状はいちいち納得できるものでしたね。
呼吸器官の組織のただれですか? なかったと思います。自衛隊やその他中央からの情報提供や実態調査もありませんでした」



私は2次汚染の原因は、衣服に付着したサリンだと思います。いずれにしても、恐るべき威力というしかありません。

これらの人物へのインタビューで得た最も重要な情報はすべての患者において、コリンエステラーゼの数値低下が見られることです。これは、全く新聞の報道では知ることができませんでした。現地へ来て初めて分かったことですが、疑いなく、サリン中毒にみられる顕著な症状です。

また、呼吸器官の組織がただれていないということは、多くの患者に塩素やフッ化水素の被害が少いことを示しています。

私は松本を訪れる前まで、サリンはかなり純度の低いものではないかという漠然としたイメージを持っていました。それは、サリンが、1滴でも体に触れれば死に至らしめる劇薬であるにもかかわらず、一命を取り留めた人達がたくさんいたからです。
しかし、それは間違いだったようです。むしろ犯人はきわめて純度の高いサリンを作っています。このことに、あらためて背筋の凍る思いがしています。

160ページの表を見てください。ここに示しただけでもサリンの作り方は8通りあります。余談ですが、この図を掲載した私の本の共著者は大学院生です。つまり、それほど簡単な知識なのです。大学で化学を勉強した程度で充分理解できるでしょう。

このうち松本で作られたサリンの製法は、最も低い100度で生成するルートをたどったと思われます。一番最後にフッ素化合物と五塩化リンとアルコールを混合するとでき上がりです。

この結果生じるものは、サリンと塩化水素、また化合しなかったフッ化水素が気化することもあるでしょう。サリンは重たい気体ですから、河野家の庭木が高いところまで枯れていたのは塩化水素やフッ化水素によるものと考えられます。
サリンは植物を枯らすことはありません。また、池から風下に行くに従って樹木の上のほうが被害が大きくなっています。

犯人たちは、サリンの精製という手順を省いただけで、実験自体は非常に上手くいったと、今頃ほくそえんでいることでしょう。


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最終段階の薬剤を混ぜるだけならたったの2,3分だ。

もう1つの疑問は、サリンが重たい物質であるにもかかわらずアパートの住人には、上の階に深刻な被害者が多かったことです。現場を見てみてわかりましたが、河野家の付近は昔のお屋敷があったところで一軒一軒の敷地が大きく、最近ではそれを取り壊してマンションを建てているとのことでした。

鉄筋コンクリートの建物と木造家屋が混在する点は、サンプルとしても興味深いものです。

辺りにはそれほど高い建物はなく、サリンの発生現場からみて風下はコの字形の吹き溜まりになっています。こういった地形では一種のビル風のようなものが吹きあがったり、風が巻いたりします。重いといっても、あくまで気体ですから、風に乗って思わぬ広がり方をすることは当然です。テレビのシミュレーションでやっていたようにじわじわとは広がらないのです。

ただ、もしもこの何棟かのアパートが無かったら、被害は付近の多くの家に広がっていたでしょう。そのことを考えるとさらにゾッとします。

私の感覚では作られたサリンの量は約1キログラムです。
これはあくまで仮定ですが、アルコールとフッ化水素を加える前の液体はまだ安全ですから、これを氷でできた容器に入れて最後の作業を現場で行なったとしたら、私ならわずか2,3分で現場を立ち去ることができるでしょう。そして、氷製の容器はサリンの化学反応で起きた熱によって溶けてしまうのです。化学反応が起きるまでには、最短で20分、最長で二時間。無事に逃げるまでには充分な時間があります。

いずれにしても、サリンは現地で最終段階の作業を行なったのです。決して純粋なアンプルなどを用いたわけではありません。つまり、犯人は作ろうと思えば何度でも作ることができる。

松本という街は、来年長野オリンピックの舞台の一つになるそうですが、私にはテロリスト達が実験をするのにふさわしい場所だと思えました。
つまり、通りすがりの人はほとんどいない。結果は必ずマスコミが伝えてくれる。
そして、地方の警察がオタオタするだけで、やがて有耶無耶のうちに忘れ去られてしまう。

もちろん、それがなぜ松本なのかは、犯人に土地勘があったとか、何らかの理由があったには違いありませんが。

サリンの実験に適した気象条件は、気温が高く、湿度が低く、直後に雨が降って痕跡を消してくれることです。


事件の起こった6月27日は、梅雨の合間でした。前日までシトシト降り続いた雨がやみ、初めて気温が30度に達して、部屋の窓を開けている家がたくさんありました。しかも、その後に雨が降る確率は非常に高かった。湿度が高いことを除けば、非常に適した条件だったのです。
いずれにしても私には犯人のほくそえむ顔が見えるようです。
もしもこれが、新宿の地下街で起こったら。あるいは大阪の繁華街で起こったら。いや、ニューヨークやロンドンかもしれない。
犯人たちは、次はもっと大きな舞台で、大きな悲劇を起こそうとしているのです。
(取材協力・大野和基)

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by yumimi61 | 2007-04-27 16:00
2007年 04月 26日
イエスは馬小屋で生まれたか?
keep innovating
京都産業大学

イエスは馬小屋で生まれたか?

平塚 徹(京都産業大学)
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 イエス・キリストは「馬小屋」で生まれたとよく言われます。中には、聖徳太子が馬小屋で生まれたこととの類似性を指摘する人もいますし、この類似性に基づいて、かなり大胆な説を主張する人もいます。

 しかし、西洋のキリスト教文化においては、イエスが生まれたのは「馬小屋」だとは言えません。例えば、キリスト降誕を主題にした絵画を見ると、確かに、馬小屋らしいところが場面になっていることが多いのですが、そこにいるのは「馬」ではなく、「牛」と「ロバ」なのです。また、クリスマスにはキリスト降誕の場面の模型を飾る習慣がありますが、ここでも、「牛」と「ロバ」が定番になっています。つまり、イエスが生まれたの「馬」小屋ではなく、「家畜」小屋なのです。それでは、日本ではイエスが「馬小屋」で生まれたという話が流布しているのはなぜかということが問題になります。しかし、この問題を考える前に、イエスが「家畜小屋」で生まれたという伝承があることを確認しておきましょう。

 実は聖書を見ても、この点については、はっきり書いてありません。家畜小屋で生まれたことを示唆するのは、「ルカ福音書」第2章第7節「初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」の記述です。しかし、これでも、はっきりと家畜小屋だと分かるわけではありません。

 それでは、イエスが家畜小屋で生まれて、そこには牛とロバがいたという話は、どこから出てきたのでしょうか。実は、これは、「偽マタイ福音書」という書物に出てくる記述がもとになっています。この本によると、イエスは洞窟で生まれたことになっています。しかし、その後、マリア達は洞窟をあとにして、家畜小屋に入って、イエスを飼葉おけに寝かせると、牡牛とロバがイエスをあがめたとあります。この場面が、西洋のキリスト教絵画でよく描かれる場面のもとになったのです。そして、その後、この話が単純化して、イエスは家畜小屋で生まれたという伝承が成立したようです。

 それでは、日本でイエスが「馬小屋」で生まれたという話が流布しているのはなぜでしょうか。イエスが生まれた「家畜小屋」を指す言葉ですが、例えば、フランス語では étable が使われます。この単語は、「家畜小屋」や「牛小屋」を意味しています。一方、英語では、stable という単語が使われますが、この単語が問題です。この単語は、フランス語の étable と同じ語源の単語で、やはり、「家畜小屋」一般を指すのにも使われた単語なのですが、現在では「馬小屋」の意味で使うようになっています。つまり、イエスが stable で生まれたと言うときには、本当は「家畜小屋」を指しているはずなのですが、何も知らずにこの言葉だけを見ると、「馬小屋」だと思ってしまうのです。恐らく、この「馬小屋」という解釈が日本では流布してしまったようです。日本では、イエスが生まれたときに牛とロバがいたという話もなかなか聞かないし、そのことを表す絵画もそれほど目にしないので、「馬小屋」でもおかしいとは思いにくいわけです。

 なお、「ルカ福音書」第2章第7節に出てくる「飼葉おけ」ですが、日本聖書協会から出ている文語訳聖書では、「馬槽(うまぶね)」という単語が使われています。これは、馬にやる餌を入れる容器ですが、この訳は、イエスが馬小屋で生まれたという話に影響されたのでしょう。

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 イエスが生まれた「家畜小屋」を指す単語を集めてみました。日本では「ベツレヘムの馬屋(うまや)」などと言うのですが、英語以外を見ていると、必ずしも「馬小屋」というわけでもなさそうです。



英語 stable
フランス語 étable
スペイン語 establo, pesebre
イタリア語 stalla
ドイツ語 Stall


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 「偽マタイ福音書」第14章のラテン語版・英訳・フランス語訳・ドイツ語訳を以下に掲載します。赤い単語が「家畜小屋」を指す単語です。

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【ラテン語[A系統写本]】
Tertia autem die natiuitatis domini egressa est Maria de spelunca et ingressa est in stabulum et posuit puerum in praesepio, et bos et asinus genua flectentes adorauerunt eum. Tunc adimpletum est quod dictum est per Esaiam prophetam dicentem: Agnouit bos possessorem suum et asinus praesepium domini sui. Et ipsa animalia in medio eum habentes incessanter adorabant eum. Tunc adimpletum est quod dictum est per Abacuc prophetam dicentem: In medio duorum animalium innotesceris. In eodem autem loco commoratus est Ioseph et Maria cum infante tribus diebus.
(Corpus Christianorum, Series Apocryphorum 9, Brepols)

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【ラテン語[P系統写本]】
Tertia autem die natiuitatis domini egressa est Maria de spelunca et ingressa est stabulum et posuit puerum in praesepio, et bos et asinus adorabant eum. Tunc adimpletum est quod dictum est per Esaiam prophetam dicentem: Cognouit bos possessorem suum et asinus praesepe domini sui. Ipsa autem animalia, id est asinus et bos, in medio eum habentes incessanter adorabant eum. Tunc adimpletum est quod dictum est per Habacuc prophetam dicentem: In medio duum animalium innotesceris. In eodem autem loco moratus est Ioseph et Maria cum infante tribus diebus.
(Corpus Christianorum, Series Apocryphorum 9, Brepols)

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【英訳】
And on the third day after the birth of our Lord Jesus Christ, Mary went out of the cave and, entering a stable, placed the child in the manger, and an ox and an ass adored him. Then was fulfilled that which was said by Isaiah the prophet, 'The ox knows his owner, and the ass his master's crib.' Therefore, the animals, the ox and the ass, with him in their midst, incessantly adored him. Then was fulfilled that which was said by Habakkuk the prophet, saying, 'Between two animals you are made manifest.' Joseph remained in the same place with Mary for three days.
(The Apocryphal Jesus, edited by J. K. Elliot, Oxford U.P.)

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【フランス語訳】
Or, deux jours après la naissance du Seigneur, Marie quitta la grotte, entra dans une étable et déposa l'enfant dans une crèche, et le boeuf et l'âne, fléchissant les genoux, adorèrent celui-ci. Alors furent accomplies les paroles du prophète Isaïe disant : « Le boef a connu son propriétaire, et l'âne, la crèche de son maître », et ces animaux, tout en l'entourant, l'adoraient sans cesse. Alors furent accomplies les paroles du prophète Habaquq disant : « Tu te manifesteras au milieu de deux animaux. » Et Joseph et Marie, avec l'enfant, demeurèrent au même endroit pendant trois jours.
(Écrits apocryphes chrétiens, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard)

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【ドイツ語訳】
Am dritten Tag nach der Geburt des Herrn verließ Maria die Höle und ging in einen Stall. Sie legte den Knaben in eine Krippe; Ochs und Esel huldigten ihm. Da ging in Erfüllung, was der Prophet Jesaja gesagt hatte: "Es kennt der Ochse seinen Besitzer und der Esel die Krippe seines Herrn." Die Tiere nahmen ihn in ihre Mitte und huldigten ihm ohne Unterlaß. So erfüllte sich der Ausspruch des Propheten Habakuk: "In der Mitte zwischen zwei Tieren wirst du bekannt werden." An demselben Platz blieben Josef und Maria mit dem Kind drei Tage lang.
(Fontes Christiani 18, Apokryphe Kindheitsevangelien, übersetzt und eingeleitet von Gerhard Schneider, Herder

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by yumimi61 | 2007-04-26 12:47