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2015年 06月 30日
昭和 百陸
近い遠いは誤差範囲

ヨーロッパは緯度が高く、平均して気温が低い。
中でもイギリスは緯度が高い。且つ島国で自国領土がそれほど大きいわけでもない。
緯度が高いと太陽から受けるエネルギーが少なくなる。

土地による気温の高低の差は太陽からの距離によるものではない。
そんなものは宇宙的観点では大した差ではない。
大人が必死で年齢を誤魔化しても子供には大して効果が無いのと同じようなもの。
(それはつまり子供の視点が違うということでもある)
気温の高低を決めるのは角度である。
太陽の光が真っ直ぐに届くか、斜めに届くかの違い。
緯度が高いほど低角度となるため、届く面積が広がる。
同じエネルギーが狭い面積と広い面積を暖める場合には、広いほどエネルギーが分散される。
同じ熱量が点を暖めるのか、それとも面を暖めるのか違いである。
従って単位面積(点)で比較すれば、広い面積、要するに低角度である高緯度のほうが受け取るエネルギーが少なくなってしまう。
日本の夏と冬の日差しを思い浮かべると分かりやすいと思う。

太陽は大きい大きいと言われるが、それはガスなどによる見かけの大きさであって、太陽の中心部はそれほど大きくないのではないだろうか。
だからこそ広大な宇宙にありながら距離のように角度を無視できない。
光には真っ直ぐ進む性質があるからだ。
中心から外れた地では余熱や余波を受け取っているような感じになってしまう。
但し熱には弊害もある。

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http://searchdog.blog51.fc2.com/blog-entry-108.html


イギリスは地理的に農作物の栽培に不利なのだ。その不利を面積でカバーすることも出来ない。
外に適当な土地があると知れば、それを外に求めるのは自然な流れであった。
農作物栽培に不利なイギリスで産業革命が起こって工業が発展したこともある意味当然である。
貿易に国の活路を見出したことはイギリスがあの地で存続していくために必要不可欠なものであったとも言える。

不利な地に生きてきたイギリスからすれば不平等条約は不平等ではない。これでやっとフラットになれるといった具合である。
「温暖な気候で広大な大地がありながら、あなたたち何しているわけ?」
そんなことは言わないかもしれないが、イギリスがそう思っていても不思議はない。
しかしイギリスはひとつ重大なことを見落としていた。
温暖で広大な土地にはそれなりに多くの人が住んでいたのである。


小さな島で考えたこと

北海道もそうだけれど、噴火の島などを見ても、こういうところで生活している人がいるんだなぁと妙に感心してしまうというか、しみじみしてしまいます。
簡単に言えば日本も広いなぁということなのですが、あらゆることを無意味にしてしまうパワーを感じてしまうのです。
逆を言えば今ここにあるものにこそ意味があるという感覚なのですが。
誰かに希望を与えるということは誰かに無力感を植え付けることなのかもしれないと思ったりもします。

私がこちらの記事に書いたこと。
日本という島国に住み、その日本でさえ行ったことない所が山ほどある。ごく限られた場所でしか生活したことはない。
そんな私がそう思うのだ。
大陸や国土の広い国に住む人が同じように感じてもおかしくない。
あんな場所で、あんな小さな島国で、生活している人がいるんだなぁ・・・と。


ガンバレ希!?

・1840-1842年 アヘン戦争
・1852年-1853年 第二次英緬戦争(ビルマ戦争)
・1853-1856年 クリミア戦争
<1854年 日米和親条約締結>
・1856-1860年 アロー戦争
<1858年 日米修好通商条約締結>
・1861-1865年 アメリカ南北戦争(奴隷制度を巡る対立)
・1863年 薩英戦争
・1864年 下関戦争

イギリスをはじめとする西欧の列強国は温暖で広大な中国を植民地化したかったのではないだろうか。
そのためには中国に勝つことはもちろん、他の列強国にも勝たなければならない。
これはなかなか大変なこと。イギリスが手こずっているうちに、なんとアメリカが日本と条約を結んでいた!OMG・・・。
「え?アメリカが日本?そっち?なんで?おまけじゃないの?島国よ?」と思ったかは不明だが(たぶん思った)、イギリスは少々慌てた。
しかしイギリスは自分の信じた道を進むことにした。まずは中国である。そしてアロー戦争を仕掛けた。
ところがその最中に今度は本格的に日米修好通商条約を締結するという。しかも不平等条約ではないというのだ。
「えーなんで?ねえ日本、あなた正気なの?島国なのよ、分かってる?アメリカもアメリカだわ、ねえ正気?日本と対等ってどういうつもり?」とイギリスが言ったかどうか分からぬがアメリカは正気だった。
イギリスは地団駄を踏んだ。「不平等じゃなくちゃダメなのにー!!」


平等など最初から望んでいない

ここからがイギリスの本領発揮。

アメリカの南北戦争は、奴隷制を否定する北部と奴隷制を肯定する南部との戦い。
何も趣味で奴隷を雇っているわけではない、奴隷は歴史的に産業や貿易に深く関係してきたものである。
奴隷を巡る対立というのは結局産業や貿易の在り方を巡る対立なのだ。
北部は工業主体で産業革命が進む欧州に対して保護貿易を求めた。
南部は農業主体で自由貿易を望んでおり働き手として奴隷が必要だった。
平等や権利、理念や思想といった絵空事ではなく、ひどく現実的な問題がそこには横たわっていた。
産業として見れば、欧州に対して強かったのは南部であり、弱かったのは北部である。

ところが1860年の大統領選挙にて彗星のように現れた人物がいた。エイブラハム・リンカーンである。
ケンタッキー州の丸太小屋で生まれたそうで出自の詳しいことはよく分かっていない。
ケンタッキー州というのは南部と北部の境界地域。南部に含まれることもあれば含まれないこともある。
リンカーンも大統領選挙選当初は出身地に合わせるがごとく撤廃でも推進でもなく制限という中間的な主張をしていた。
しかし南北戦争の途中から北軍の指揮を取り、奴隷解放宣言も行った。
歴史的に非常に有名な大統領となった。
現代において「平等」や「権利」や「黒人や奴隷の差別撤廃」を掲げると南部での支持が得やすいわけだが、歴史的には逆だったということになる。
南部が奴隷を多く使っていたことに北部が反対し支持を得たという構造である。
そして今でも人種や産業の構造や位置関係は大きく変化していないのだと認識するに至る。

イギリスは南北戦争には加担していないが、私はこのエイブラハム・リンカーンの登場にイギリスが一枚噛んでいるのではないかと思っている。


頭脳戦か二枚舌外交か

イギリスは1863年以前に薩摩藩とも手を組んでたのではないだろうか。
生麦事件も薩英戦争も想定内。イギリスと薩摩藩が敵対する関係のように見せるための筋書きあるドラマ。
まずは長州藩を追い込む戦略。
しかし行く行くは長州藩と手を組むことまで織り込み済みだった。よって薩摩藩はクーデターには直接関与しない。
直接手を下せば恨みを買い後々までしこりを残すからだ。末代まで続く恨みの恐ろしさを知っていたのだろう。会津藩を上手く利用した。

1863年旧5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた。
長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。
長州藩の軍艦は元イギリス商船・・・。

5月10日、アメリカ商船ペンブローク号(Pembroke)に砲撃。
5月23日、フランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)に砲撃。
5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号(Medusa)に砲撃。
オランダ以外は軍艦ではない。
そしてイギリス船には砲撃なし・・・。
イギリスは長州藩とも手を組んでいた可能性がある。

この年の8月に「八月十八日の政変」があり長州藩は京都を追放された。
その後のクーデターも失敗に終わった。

翌1864年7月、長州藩に対して報復措置をとることを決定し、アメリカ・フランス・オランダの3国に参加を呼びかけたのはイギリスだった。
下関海峡の閉鎖のため経済的(貿易)損失を被ったからという理由だった。

イギリス9隻、オランダ4隻、フランス3隻、アメリカ1隻、総勢17隻で連合艦隊を編成。
8月5日~8月7日にかけて馬関(下関)と彦島の砲台を徹底的に砲撃し破壊占拠した。

8月8日、戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じた。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていたが、家老宍戸備前の養子宍戸刑部を名乗り、四国連合艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んでキューパー司令官との談判に臨んだ。

出された要求を全て受けいれたあげく、長州藩の課せられた莫大な賠償金を幕府に押し付けた。
イギリスの作戦勝ちである。




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by yumimi61 | 2015-06-30 10:22
2015年 06月 29日
昭和 百伍
失敗は成功の母

長州藩の過激な行動の中心にあったのが、吉田松陰の私塾であった「松下村塾」である。
危険思想と過激な行動により幽閉された時期もあったが、松下村塾出身者が倒幕に貢献した。
現代では松下村塾出身者を偉大な改革者とした崇める風潮が強いが(現在のNHKの大河ドラマが松下村塾を描いている)、その改革とは「尊王(尊皇)攘夷」だったのだ。
ともかく前記事に書いた通り1863年旧8月に長州藩は京都を追われた。

一旦は朝廷と親密な関係を築きながらも倒幕の夢果たせず失脚。
しかしそれでも諦められなかった。

1864年旧6月、池田屋事件。
京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した事件。
京都に潜伏して以下のクーデターを企てていた。
「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋(徳川)慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というものであった。

1864年旧7月、禁門の変(蛤御門の変)。
長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。


1864年旧8月、下関戦争。
長州藩攘夷の思想に基づく、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国との間に起きた、武力衝突事件。
幕府は攘夷を軍事行動とはみなしていなかったが、長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施した。戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、米英仏蘭に対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

池田屋では新撰組に襲撃され、禁門の変で敗れ、下関戦争でも敗北した。
長州藩の計画実行は悉く失敗した。


皮肉な巡り合わせ

風向きが変わったのが1865年。慶応元年。

慶応時代は1865‐1868年。
慶応への改元は江戸時代最後の改元となった。
長州藩の起こしたクーデターや戦争による社会不安を払拭するための改元だった。
江戸時代では一貫して幕府が元号の案を出してきたが、最後の慶応は将軍・徳川家茂が孝明天皇に委ねたものである。
幕府は尊皇を実践したわけで、それはつまり長州藩の行動は真に尊皇ではないというということを示したものではなかろうか。
結果的に最後の元号になったが、幕府が力を失って朝廷側に奪われたものではなかったはずだ。
この時の改元で「平成」も候補の1つとなっていた。
慶応は、『文選』の「慶雲応(まさ)に輝くべし」から採用された元号だそうである。

慶応元年(1865年)、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太ら俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行する(功山寺挙兵)。これにより正義派(倒幕派)政権が成立すると、高杉らが結成した奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備し、大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を配備して、戦術の転換など大規模な軍事改革を行う。

ここで述べている俗論派(保守派)と正義派(倒幕派)というのは、長州藩の中のことである。
長州藩では内紛が起こっていた。
保守が俗論で、倒幕が正義、たぶん後世で付けられたものだろうけれども、この命名がいかにもといった感じである。
「散々失敗したんだし、もういい加減落ち着いて藩運営していきましょう」という派閥に対して、「寝返るとは何事か!おまえらそれでも長州藩士なのか!!幕府や会津藩を許しておけるわけがない!!!」という倒幕派。
松下村塾出身者はやはり倒幕派である。
長州藩内でクーデターにより俗論派(保守派)が退けられると、西洋色が現れ始めた。
正義とは何かね?攘夷とは何かね?


イギリスの影 ~イギリスを世界の覇者にしたもの~

慶応2年1月21日(1866年3月7日)に坂本龍馬の仲介で薩摩藩と長州藩は薩長同盟を結んだ。

長州・薩摩間の和睦は、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが長州の高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問するなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。
土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が6か条の同盟を締結した。


ここで少し時代を遡る。
西欧の国がアメリカ大陸やアジアに進出した大航海時代。
新しく発見した地での直接交易が航海の援助者だった王家に莫大な富をもたらした。
富をもたらしたのは西欧に持っていけば非常に価値の出る貴金属や香辛料などであった。
これに味を占めて、16世紀から18世紀は貿易が国の政策の中心となる。
まずはそのものに価値のある金・銀などの金属や正金(正貨)を得ること、次いで現地では然程価値なく西欧では価値が出る物で貿易差額を得ること、これが目的であった。
国力は富(金属や正金、貨幣など)に比例するという考えのもとにひたすらその増大を目指した。
これらを牽引したのは絶対君主制だった国々である。ということは要するに国力とは王権の絶対性ということになる。
絶対君主制を維持したり絶対性を強化するために貿易は拡大していったのだ。

国王や女王の勅許(特別許可;特許)によって設立された商社が東インド会社。
アジア地域との貿易独占権を与えられ、アジア各地の植民地経営や貿易に従事した。
イギリス、フランス、オランダなど各国で設立された。
この場合の「インド」は、ヨーロッパと地中海沿岸地方以外の地域全般が含まれ、インドという国に限ったものではないが、イギリス東インド会社はまさに国家としての「インド」を支配することに成功した。

このように貿易を主導してきたイギリスだが明や清(中国)、日本との貿易は思うような成果を上げられず苦汁を嘗めた。
日本においては江戸時代初期に長崎の平戸に商館を設置し対日貿易を行っていたが、オランダとの競争に敗れ経営不振に陥り一方的に商館を閉鎖し撤退した。
その後に再開を試みたが以降は江戸幕府から拒絶された。

イギリスと清との戦争も貿易不均衡を補うためのアヘンの密貿易が原因であったように、貿易拡大の失敗がイギリスを戦争に駆り立てたのかもしれない。
・1840-1842年 アヘン戦争

アヘン戦争に勝利したイギリスは清との間で不平等条約(南京条約)を結ぶことに成功した。
不平等には、強者が弱者を虐げる不平等もあれば、強者が弱者にハンディキャップを与える(強者に不利な条件を付ける)不平等もある。
ハンディキャップを付けるということは、親子の遊び、スポーツの試合、外国人の大学入試など一般的に行われるていることである。
不平等条約には両方の側面がある。
不平等条約が嫌だと言う場合にも、「弱い者いじめ反対!」「勝負の世界だから公平公正に戦いましょう!」「あなたはハンデを付けるほど弱くないでしょ!」「強い者が勝つのは当然!」など理由には違いがあると思う。
1対1の勝負ならば分かりやすいが、複数と複数の勝負になれば強弱の判定も難しい。
江戸幕府においてもこの辺りの判断は個々に違いがあったのだと思う。
孝明天皇も不平等条約には反対の立場であった。


産業革命と戦争

産業革命はイギリスに始まったと言われ、1760年代から1830年代を産業革命期としている。
産業革命はそれまでの貿易で得た富を以てして成し得たというのも一般的な考え方だ。
成功するためには、勝利するためには、資金が必要。―この考え方はオリンピックをはじめとして現代社会においても強固に継承されている。
産業革命の成功がイギリスだった理由にはもうひとつあって、それが植民地の多さである。
製造したものを植民地で売れば容易く販売競争にも勝利できるだろう、誰もがそう思った。
しかし果たして本当にそうだろうか?
産業革命の成功はなぜ戦争抑止に働かなかったのだろう?
産業革命は国の富には繋がらなかったのでは?
合理的で効率的と思われた産業革命は実はとても割に合わないものだったのではなかろうか。


・1856-1860年 アロー戦争
・1861-1865年 アメリカ南北戦争(奴隷制度を巡る対立)




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by yumimi61 | 2015-06-29 14:52
2015年 06月 28日
昭和 百肆
最後は「人」の問題

1862年に薩摩藩と会津藩が京都入りした。
京都入りしたと言っても、京都は朝廷と長州藩が牛耳っていた。
土佐藩も尊皇攘夷論を掲げ長州藩に追従していた。
薩摩藩は長州藩を追い出して実権を握りたいと考えており、一方の長州藩は討幕を企てていた。


長州藩の討幕を主導したのは久留米藩の真木保臣である。

久留米の水天宮の神職の家に生まれる。文政6年に神職を継ぎ天保3年、和泉守に任じられる。国学や和歌などを学ぶが水戸学に傾倒し、弘化元年、水戸へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け水戸学の継承者として位置づけられる。
(水天宮の第22代宮司である)

真木は、文化十(一八一三)年に久留米で生まれ、藩校明善堂で学び、弘化元年に水戸遊学を許されて、江戸に赴いている。四度、会沢正志斎を訪ねている。嘉永五年(一八五二)年に、藩政改革の建白をして執政有馬監物らを排斥する藩政の改革を企てるが失敗、以後十年の長い間、塾居生活を余儀なくされた。この時期に真木が書いた倒幕の戦略書が「大夢記」である。山口宗之氏は『真木和泉』において、次のように書いている。 http://www.taimukan.com/taimuki.html


上記のように真木は水戸学を学びに久留米から水戸に赴いている。
繰り返しになるが水戸藩はあらゆる学派を網羅し、また臣下としてあるべき姿つまり道徳を説いた。そして将軍からも信頼されていた。
尊皇攘夷を掲げて倒幕をけしかけるような学問でも藩でもなかったのだ。
水戸学に明治維新のルーツを求めるには無理があり過ぎる。

後期水戸学を代表する徳川斉昭の妻は宮家出身者。
有栖川宮*織仁親王の娘であり皇室と無縁というわけではなかった。
しかしそれと尊王(尊皇)攘夷とも別物である。
実権を握っていたのは幕府である。そのうえで幕府と皇室は上手く共存していたのだ。
前に「民度が保てれば国営企業でも民間による自由貿易でも実はどちらでも上手くいく」と書いたことがあるが、それに似ている。
尊王(尊皇)攘夷は「王を敬い上位に置いておきなさい」という教えのような気がするが・・・。

*有栖川宮
江戸時代1625年に創設された宮家。
明治時代以前は天皇との血統の遠近にかかわらず、親王宣下(天皇の命)を受けることで親王になれ、4つの宮家が存在しており、そのうちの1つ。
逆を言えば例え天皇の子であっても親王宣下を受けない限り、親王や内親王を名乗る事は出来なかったのである。(厳しいですね)
有栖川宮は歴代、書道・歌道の師範を勤めて皇室の信任篤く、徳川将軍家や水戸徳川家をはじめ、彦根井伊家や長州毛利家、広島浅野家、久留米有馬家などとも婚姻関係を結び、公武ともに密接であった。
1913年に後継者なく10代目が亡くなり、旧皇室典範では皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮の断絶が確定した。
しかし大正天皇は、10代目が亡くなったことをまだ公表していない死の翌日に特旨をもって、当時8歳だった息子・宣仁親王(大正天皇と貞明皇后の第三皇子で現天皇陛下の叔父にあたる)にこれを引き継ぎ「高松宮」の宮号を与えた。
10代目の未亡人が亡くなると、有栖川宮の祭祀及び邸宅や財産が全て高松宮に引き継がれた。
但し旧皇室典範の決まりにより宣仁親王は有栖川宮の当主を正式に継承することはできなかった。
その高松宮宣仁親王は、1930年、徳川斉昭の息子であり江戸幕府最後の将軍(第15代将軍)となった徳川慶喜の息子・徳川慶久の娘と結婚した。
これによって有栖川宮や徳川幕府や水戸藩との繋がりが出来た。
子が生まれれば有栖川宮の血統も繋がったが子は出来なかった。
1987年に宣仁親王、2004年に妃が亡くなり、有栖川宮は再び断絶した。
旧皇室典範は1889年(明治22年)に制定され、皇族の子は天皇からの世数にかかわらず永遠に皇族とする永世皇族制を定めた。またそれまでの氏族や家系などの格式は廃止された。
戦後1947年に旧皇室典範は廃止され、新たな皇室典範が同年5月3日に日本国憲法と同時に施行された。
この時に11宮家が皇室離脱となった。
憲法9条ばかりが話題になるが、皇室典範の9条は「天皇及び皇族は、養子をすることができない」である。
要するに現皇室典範でも養子縁組は認められていないため、子が出来なければ断絶してしまう。(こっそりと・・・)
天皇の命令で後継者を選んだりすることも出来ない。


DNAに刻まれた恨み!?

1840年代に水戸や江戸で学んだという真木保臣は早いうちから倒幕の夢を持っていた。
その後は久留米に戻り、久留米藩でクーデターを企てるが失敗し、1852年に幽閉された。
1863年旧5月に解放されるが、この時の幽閉は3度目だった。幽閉解放を繰り返していたことになる。
1863年の解放が許されたのは、朝廷に付き従い京都にいた長州藩から久留米藩に圧力がかかったからだった。
長州藩は意のままに操れる急進派の公卿(朝廷に仕える最高幹部)を利用して、勅命として真木の解放と京都入りを久留米藩に要求した。(開放要求なんてまさに過激派っぽいですね!)
天皇の命令となれば無視することもできず、久留米藩はその要求を受けいれ、真木を開放する。

真木は京都へ向かう途中で、当時の長州藩主・毛利敬親**と面会している。
長州藩は1863年旧4月に藩庁を萩から山口に移していた。


**毛利氏

長州藩の藩祖は毛利輝元であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として、徳川家康の東軍と戦った。
しかし西軍が負けると判断していた西軍武将の吉川広家(毛利氏家臣で周防岩国領初代領主)は、黒田長政(筑前福岡藩初代藩主)を通じて家康と水面下で交渉を行っていた。領地と家系の存続のためである。
吉川は毛利にも戦わないほうが得策だと説き、毛利軍も不戦を貫いた。
吉川は家康との交渉の中で毛利氏も西軍には関与してないと説明していたが、戦後、吉川広家の説明とは異なり、毛利輝元が西軍に関与した書状が多数押収された。
そこで家康は毛利輝元の領地を没収し、吉川広家に周防国と長門国の2ヶ国を与えて、毛利家も広家に継がせようとした。
吉川広家は家康に直談判して毛利家の存続を訴えたため、毛利輝元は隠居のまま、その子である毛利秀就に周防国と長門国の2ヶ国(37万石)を継承させる形で決着した。但し領地は大幅に削減された。
これにより毛利秀就が初代長州藩主となったが、藩の実権を握っていたのは毛利輝元であった。

毛利氏は鎌倉幕府の名臣・大江広元の子である大江季光を祖とする一族だが直系ではないため名字が毛利となった。
毛利という名は秀光が父から受け継いだ領地・相模国愛甲郡毛利庄(現在の神奈川県厚木市周辺)に由来する。
鎌倉時代末期頃に越後国佐橋庄南条(現在の新潟県柏崎市)から安芸国高田郡吉田(現在の広島県安芸高田市)へ移り領主として成長し、戦国時代には戦国大名となって中国地方最大の勢力となる。
そして関ヶ原の戦いにて西軍の総大将に担ぎ上げられた。

要するに関ヶ原の戦い前の毛利氏は安芸国の広島を居城として山陽山陰10か国にまたがる120万石の領地を持っていたが、それが大幅に減少してしまったのだ。
また長門国・周防国を領地として存続を認められた際、徳川幕府に対して周防国の山口か防府に藩庁(居城)を置きたいと希望したが、幕府の指示は長門国の萩であった。

藩の名前というのは基本的に藩庁(城)のある場所の地名となっている。一部は国の名称を使用している。また国を州と呼ぶこともある。
長門国=長門州=長州、周防国=周防州=防州である。
藩庁が萩に置かれたので、毛利氏の領地である周防国と長門国は両方を合わせて「萩藩」と呼ぶのが適している。
ところがこれを萩藩を呼ぶことはない。(藩という呼び方は明治時代以降に定着したもので、江戸時代には藩主の名を用いた呼称だった)
萩は毛利が希望した防府や山口に比べると、三方を山に囲まれ日本海に面したひなびた土地であったため、気に入らなかったらしい。(今では風光明媚な良い観光地になっているのにね)
徳川幕府を恨んでいたのだ。
長州藩士は毛利家が広島から萩に移った時の家臣をルーツに持つため、大都市広島から移転させられた恨みを継承して結束が非常に固かったという。
これが長州藩を倒幕へと駆り立てた要因でもあった。

1863年旧4月、毛利敬親は幕府に無断で山口に新たな藩庁を築き「山口政事堂」と名付けた。
その後幕府にも申請し、正式に萩藩は山口藩となった。(山口移鎮)(できちゃった藩)
その翌月に幽閉を解かれた真木が毛利を尋ね、倒幕クーデター計画を披露したのだった。
現代では、萩藩時代、後の山口藩時代を総称して「長州藩」と呼んでいる。


天皇が旗頭

最初に真木保臣が計画したクーデターは「大和行幸」だった。
孝明天皇を行幸として大和国(奈良県)に誘い出す。
表向きの予定は神武天皇陵や春日神社などの参拝である。
本当の目的は討幕のための挙兵だった。
何故天皇の行幸に合わせるかと言えば、天皇が指揮を取っているように見せるためである。
尊皇攘夷派にとって天皇の存在ほど心強いものはない。

「大和行幸」クーデターを実現させるため、暗殺や脅迫など荒っぽい手法で朝廷の反対者を押さえつけた。
尊皇攘夷を信奉する急進派の公卿は元々積極的に関与していたわけだが、それ以外の公卿も過激な行動に委縮して計画を征することが出来なくなっていた。
これを憂慮したのが京都守護職の会津藩主・松平容保である。
クーデターを計画している側にとってはこの松平容保と会津藩兵が目の上の瘤であった。
真木は松平容保を京都守護職から解任させることも画策したが、結局は勅命によって松平容保を江戸に行かせている間に計画を実行することにした。

「大和行幸」クーデターの先鋒隊が「天誅組」***である。
天誅組は中山忠光を大将として同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)で編成された。
中山忠光は孝明天皇の皇后の弟であり、 明治天皇の叔父にあたる。
急進的で過激な公卿であり、官位を辞してまでして天誅組を結成した。
旧8月15日に挙兵し、大和国(現在の奈良県五條市)の幕府代官所を襲撃した。

***天誅
神などの人間を超越した存在が、悪行を行った人間に対して誅伐を下すこと。天罰。
転じて、イデオロギーが対立する相手や私怨の相手などに対する殺害・粛清を正当化するため「天の誅伐の代行」の意味合いで用いられるようになった。


八月十八日の政変

「大和行幸」の詔は旧8月13日に発せられた。
同じ日、薩摩藩が尊皇攘夷派のクーデターを阻止するためという理由で会津藩に提携を依頼。
薩摩藩は長州藩や急進派公卿を一掃するクーデター計画を練っていた。
8月15日松平容保から一掃クーデターの了承が得られたため、翌16日には孝明天皇を説得し、17日に天皇の密命が下った。
孝明天皇は尊皇攘夷派に付かなかったのだ。

そして1863年旧8月18日、クーデターは実行された。これを「八月十八日の政変」という。
大和行幸クーデターに先回りして実施した形になる。
京都にいた徳島藩・岡山藩・鳥取藩・米沢藩など諸藩がこれに協力した。
この政変で急進派と呼ばれていた公卿7名(七卿落ち)と長州藩が京都から追放された。

八月十八日の政変によって大和行幸クーデターを計画していた尊攘過激派が逆に京都で討伐されると、天誅組は孤立。
朝廷からも見放され、幕府に命じられた彦根藩や紀伊藩によって鎮圧された。
中山忠光は大坂へ脱出し長州に逃れ保護されるも、1864年に暗殺された。

(日付は旧暦)
1863年8月8日 交代のための会津藩兵が京都に到着。
1863年8月11日 任期を終えた会津藩兵が京都を後にする。
1863年8月13日 大和行幸の詔が発せられる。
            薩摩藩が会津藩(会津藩主で京都守護職・松平容保)に共闘依頼する。
            京都を出発していた会津藩兵も再び京都に戻す。
1863年8月15日 天誅組が挙兵。
1863年8月15日-8月17日 薩英戦争(薩摩藩兵は鹿児島を離れず)
1863年8月18日 政変クーデター(八月十八日の政変)、長州藩の追放に成功する。

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by yumimi61 | 2015-06-28 11:31
2015年 06月 27日
昭和 百参
愛がなかった?

なぜ朱子学や尊王攘夷思想を語る時に欠かせないのが鎌倉時代であるかと言うと、後醍醐天皇が朱子学を信奉していたと考えられているからである。

後醍醐天皇や楠木正成は、朱子学の熱心な信奉者と思われ、鎌倉滅亡から建武の新政にかけてのかれらの行動原理は、朱子学に基づいていると思われる箇所がいくつもある。

「建武」という名称もその表れの1つかもしれない。
そんな後醍醐天皇が短いながらも天皇自ら政治を行う親政を実現したことから、これが後世に於いて特別視されるようになったと思われる。

しかしその特別視が有らぬ形で利用されるようになった。
後醍醐天皇は天皇であったが現実を直視し力を重視した人である。
だからこそ自ら討幕を試みたのだし、「建武」などという元号を付けたのだろう。
ところが後世においては「尊王」ばかりが持て囃されるようになった。
天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし後者を否定する文脈で用いられ、鎌倉幕府の滅亡から「建武の新政」への原動力になったと言われるようになったのだ。
天皇の後継問題で揉めたあげく武力に訴えかけ、その後も2人の天皇が存在し、一方の天皇は一方の天皇を否定するという状態であったにも関わらず。


力では変わらない現状とは何だろう

太平記
『太平記』(たいへいき)は、日本の古典文学作品の一つである。歴史文学に分類され、日本の歴史文学の中では最長の作品とされる。
全40巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで(1318-1368年頃までの約50年間)を書く軍記物語。

第二次世界大戦後、「太平記」を称する小説やテレビドラマが多く作られたため、混同を避けるために『古典太平記』と呼ばれることもある。 

古典文学作品としての『太平記』は作者や完成時期が不明であり、なぜか第22巻が欠けているという。

一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。
また、「ばさら」
*と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれている。

*ばさら 
身分秩序を無視して実力主義的であり、公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識であり、後の戦国時代における下剋上の風潮の萌芽となった。

南朝というのは昨日も書いた通り、後醍醐天皇の朝廷ということになる。
後醍醐天皇はどちらかと言えば実力主義的であったと思われるので、実力主義に批判的だったとは思わない。
しかし権威を軽んじて嘲笑したり、奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識を持っていたとも思えない。
別のものを一緒にしてしまうので誤解が生じてしまうのだろう。

全体の構想にあるのが儒教的な大義名分**論と君臣論、仏教的因果応報論が基調に有り、宋学の影響を受けたとされる。この考え方にもとづき、後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれるが、水戸光圀は修史事業として編纂していた『大日本史』において天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。これにより足利尊氏は逆賊であり南朝側の楠木正成や新田義貞などは忠臣として美化され(徳川将軍家は新田氏の末裔を称していた)、これがのちに水戸学として幕末の尊王攘夷運動、さらに太平洋戦争前の皇国史観へと至る。

**大義名分
儒教に由来する考え方で、本来は臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を指した。
今日では転じて、「行動を起こすにあたってその正当性を主張するための道理・根拠」を指す事が多い。

現実を追求し尊重しながら、臣下として守るべき道義や節度、出処進退などのあり方を説いた。
それが儒教に由来する考え方であり、水戸学だったのだと思う。
現実をないがしろにして盲目に権威に服従することとは一線を画するものであった。
ところが次第に権威に服従することを良しとする風潮が「尊王攘夷」として強調されるようになっていった。

すでに江戸時代以前の古注釈の頃から指摘されているように、『太平記』の引く故事は時に単純な勘違い以上に漢籍(あるいは『日本書紀』など日本の史書)と相違するものがあり、しばしば不正確とされる。


満月の夜に海をゆけ~

「聞くところによれば、日本を創造した伊勢の天照大神のおおもとは大日如来であり、民衆を救うために龍神の姿となって大海原に出現したとの事。
わが君、後醍醐天皇は、その天照大神の末裔でありながらも、臣下の者の裏切りによって西海を流浪しておいでです。
今、この義貞は、天皇の臣下の道を貫かんがため、武器を持って敵陣の前に立ってます。
目指すは、天皇を助け、国民が心安らかな世にする事、どうか全世界の龍神よ!この義貞の忠義の心をご理解いただいて、潮の流れを遠くに退け、道を開いてくださりたまえ」
こう言って自らが持っていた黄金造りの太刀を抜いて海中に投げ入れた。


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太刀を海に投じる新田義貞
画:月岡芳年***


***月岡芳年
幕末から明治前期にかけて活動した浮世絵師。
衝撃的な無惨絵の描き手としても知られ、「血まみれ芳年」の二つ名でも呼ばれる。浮世絵が需要を失いつつある時代にあって最も成功した浮世絵師であり、門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」と評価されることもある。

義貞は、部隊を三隊に分割した。義貞の本隊が化粧坂切通し、大舘宗氏と江田行義の部隊が極楽寺坂切通し方面から、堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂切通しから鎌倉を総攻撃する手はずを整えた。

5月21日未明、義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付けた。幕府側の切通しの防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていた。加えて18日に大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に失敗したことで、再度の侵入を防ぐためにさらにその防備は厳重となっていた。しかし、義貞率いる軍勢は稲村ヶ崎の突破に成功した。
現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。
『太平記』では、義貞が小金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。


新田義貞の鎌倉ぜめ(声入り)

後醍醐天皇も新田義貞も現実的な人であった。水戸学も同様である。
現実的な力を認めたくない人は新田義貞の稲村ヶ崎突破と鎌倉攻略を奇跡の賜物に仕立て上げたかったのだろう。
奇跡とは偶然であり、それを確実に起こすことが出来るのは天(神)のみ。
神への信仰が不可能とも思われる稲村ヶ崎突破と鎌倉攻略を可能にした。
このようなストーリーにして極端な「尊王」思想に繋げた。
この場合の天(神)は見えない大いなる力ですらなく、王や天皇という絶対的権力であることが分かる。
海に道を開くという奇跡は、聖書におけるモーセの海割り、古事記や日本書紀における神功皇后の三韓征伐の際の引き潮にも見ることができる。


『水戸黄門』(『水戸黄門漫遊記』)も弱い者の味方のようでいて、結局最後は絶対的権力で土下座させる(ねじ伏せる)のがお決まりのパターン。
最後は悪代官も虐げられていたか弱き庶民も等しく土下座なのよ、ねえ分かってるの?
庶民は権力を憎みながら、その一方で単純明快な絶対的権力にどこか憧れている。
黄門様がどこを旅しようとも、その絶対的権力が物語の中で動くことはない。
予定調和の筋書きを逸脱することはなく、フラグクラッシャーも出てこない。
人々はその物語に自分を投影するのだ。そしていつでも安心して見ることができる。
だからこそ『水戸黄門』は支持され続けてきたのだろう。
権力とは厄介なものだ。
『水戸黄門漫遊記』は明治時代に講談として広まったと考えられている。


スイカの名産地~

さてまた長州藩と薩摩藩の話に戻ろう。
薩摩藩の事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進したのは島津久光だった。
1862年4月に公武合体推進派兵を率いて鹿児島から京都に進出した。
島津久光と朝廷の公武合体派が江戸(幕府)に出した勅使の圧力の下、幕府はやむを得ず人事制度改革を行った。(文久の改革)
この改革にて新たに京都守護職という役職が設けられ、1962年9月、それに就任したのが会津藩主・松平容保であり、京都守護には会津藩の兵が集められた。


島津久光と朝廷の公武合体派が出した勅使が江戸から京都に戻る途中、その事件は起きた。
生卵事件生麦事件。
1862年9月14日に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。 

この事件によってイギリスと薩摩藩の関係が悪化する。
そしてついには薩英戦争に発展する。
文久3年7月2日(1863年8月15日)-7月4日(8月17日)は、生麦事件の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と鹿児島藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。 
薩英戦争後の交渉が、英国が薩摩に接近する契機となった。 


この一連の流れは出来すぎている。スイカが腐ったような匂いがプンプンする。(スイカは泡を吹くことありますよ!腐って発酵して最後は爆発するんですね)


当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。


ニューヨーク・タイムズは随分褒めてくれたけれど、この流れは出来過ぎだと思います!




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by yumimi61 | 2015-06-27 12:49
2015年 06月 26日
昭和 百弐
水戸黄門の功罪

京都守護職は、水戸藩主の子として生まれ会津藩主になった松平容保をトップに、会津藩の兵隊1000名ほど常駐させた。
今で言えば軍隊のようなものである。
兵隊は交代をしていたようで、毎年8月8日に次の1000名が会津から京都に到着し、入れ替わりで会津に帰る一行は8月11日に京都を出発することになっていたという。
後世にて非常に有名になった新撰組はこの配下組織であり、浪士(町人など)で構成されていた。
新撰組の人数は当初は20~30名ほどで、最大時で200名くらい。
会津藩正規軍に対して、新撰組は会津藩預かりの非正規軍であった。

この時代のキーは水戸藩なのである。
まず第一に、前記事に書いたとおり、第12代将軍・徳川家慶が水戸藩主の息子に将軍を継承させようとしていたことの影響が大きい。
もうひとつが「水戸学」と呼ばれる思想である。

水戸学は前期後期と分けられ、前期は第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心とする。
徳川光圀というのはテレビ時代劇で有名な『水戸黄門』の偉いおじいちゃまである。
「頭が高い~この方をどなたと心得る~ひかえおろうひかえおろう~」おろおろささっ「はは~」という名シーンのおかげで最高権力者の将軍と勘違いしている人がいそうだが(私も子供の頃は昔将軍だった人が隠居して全国行脚しているのかと思っていた)、水戸光圀は水戸藩主だったのである。
さすがに水戸藩主というだけでは弱いと思ったのか、ドラマでは「恐れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあられる」とかなんとか言っていたが、副将軍という役職は現実には存在せず、そもそも『水戸黄門』自体が創作作品である。
実在の人物をモデルにしたといった程度のことで、史実を描いたものではない。
一説にはモデルは水戸光圀ではなく徳川斉昭(第9代水戸藩主、第15代将軍の実父)だと言われている。

後期水戸学はまさにその徳川斉昭が設置した藩校・弘道館がベースである。
その学校の教育理念を示した記述に「尊王攘夷」という言葉が出てくるそうで、幕末に流行した「尊王攘夷」はここが発祥である。
つまり「維新」も「尊王攘夷」も水戸藩で用いられた言葉だったのだ。
昨日も書いた通り、徳川斉昭は息子を将軍後継者に指名されるほど将軍から信頼を得ていた人物である。


タイムマシーンがなくとも歴史は変えられる

水戸学
儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。徳川光圀の『大日本史』編纂のために集まった学者を中心としており、朱子学者が多かったが、あらゆる学派を網羅していた。

『大日本史』の編纂が始まったのは1657年。それが完成したのは1906年(明治39年)。
この間なんと250年!
これではもう最初に目指したものと違ったものが出来上がったとしても何ら不思議はない。
特に江戸幕府が倒され時代が大きく変わった明治に入ってからの完成では、編纂意図の連続性や一貫性は薄いと考えられる。
こちらの記事の、「天皇の起源は明治時代、確定は大正時代」というところにも書いたが、現在のようなスタイルの天皇の歴史は決して古いものではないのだ。
明治時代にリセットしリスタートしたという感じが強い。

徳川光圀は神話ではない史実に基づいた日本史の編纂を試みたのだと思う。
広く知識人(儒学者、漢文を読める人)を集めて、日本史の読解や解明を行わせた。
それはつまり『古事記』や『日本書記』といった書物に疑問を抱いた部分があったということだろうし、『古事記』や『日本書記』に書かれた後の時代を記録に残そうと思ったに違いない。
徳川光圀は幕藩体制に誇りを持っていたのだろうと思う。
日本において天皇が権力を持った時期というのは実はそう長くはない。
とくに大化の改新後、明治時代に入るまでは、ごく短期間を除き天皇が権力を持ったことはなかった。

広義では「朱子学」は「儒学」に含まれる。
孔子を始祖とする思考・信仰の体系が「儒教」と呼ばれ、それを学問として語る場合には「儒学」と呼ばれる。
御存知のとおり、中国では漢文を使う。
中国から伝わった学問を日本では「漢学」と言っている。
ヨーロッパから伝わった学問が「蘭学」、日本の学問は「国学」である。
学問というのは文字が読めないことには始まらない。文系理系で言えば文系がまず最初にあった。
ごく簡単に言ってしまえば、「儒学」は文系的な考え方やアプローチが基礎となっており、その中の「朱子学」というのは理系的な思想やアプローチである。
要するに現実を追求しようとしたのが水戸学だと思う。
その水戸学は歴史から抹消されそうである。


世界三大幕府のひとつですね・・・

朱子学や尊王攘夷思想を語る時に欠かせないのが鎌倉時代である。
鎌倉時代というより鎌倉幕府の倒幕と言うべきかもしれない。
鎌倉幕府を倒したのは誰だかご存知ですか?
(歴史に名高い)新田義貞です。群馬県出身。

新田義貞とは別に倒幕を企てていたのは後醍醐天皇。ガンダーラ~ガンダーラ~税制~♪
自身の後継問題をはじめ鎌倉幕府にいろいろと不満を蓄積させていたらしい。
そんな後醍醐天皇が新田義貞に討幕を指示! したわけではない。
後醍醐天皇とそれを支援する一派の討幕クーデターと、新田義貞の挙兵がたまたま同じ時期に行われ、新田義貞が鎌倉を陥落させた。
新田義貞は反幕府派の楠木正成が起した乱の際、幕府の指示に従って楠木討伐に向かったくらいである。
新田義貞は幕府の傍若無人な振る舞いに怒ったのだ。

義貞が幕府に反逆した決定的な要因は、新田荘への帰還後に幕府の徴税の使いとの衝突から生じたその殺害と、それに伴う幕府からの所領没収にあった。楠木正成の討伐にあたって、膨大な軍資金が必要となった幕府は、調達のため、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令した。新田荘には、金沢出雲介親連(幕府引付奉行、北条氏得宗家の一族、紀氏とする説もある)と黒沼彦四郎(御内人)が西隣の渕名荘から赴いた。親連と黒沼は、6万貫文もの軍資金をわずか5日の間という期限を設けて納税を迫ってきた。これだけ高額の軍資金を短期間で納入するよう要請した理由は、新田氏が事実上掌握していた世良田が長楽寺の門前町として殷賑し、富裕な商人が多かったためである。

両者の行動はますます増大し、譴責の様相を呈してきた。義貞の館の門前には泣訴してくるものもあった。特に黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かった。また、黒沼氏は元々隣接する淵名荘の荘官を務める得宗被官で世良田氏の衰退後に世良田宿に進出していたが、同宿を掌握しつつあった新田氏本宗家との間で一種の「共生」関係に基づいて経済活動に参加していた。だが、黒沼による強引な有徳銭徴収は長年世良田宿で培われてきた新田本宗家と黒沼氏ら得宗勢力との「共生」関係を破綻させるには十分であった。そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺した。
これに対して、得宗・北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給した。これは、徴税の使者を殺害した義貞への報復措置であった。そして、間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入った。


やらなければやられてしまう。こうして討幕を決意したのだった。たららららららぁらら~♪


やる気があるのかないのか分からない

鎌倉幕府は後醍醐天皇とその一派が元弘の乱(1331年)を起こした際、後醍醐天皇に代わって光明天皇を擁立した。
後醍醐天皇は元弘の乱にて一旦敗北し隠岐の島に追放されたのだった。
そこを脱出し再度戦いを挑んだのが1333年のことで、これが新田義貞の挙兵と重なったのである。
新田義貞が幕府を滅亡に追い込んだので、後醍醐天皇は京の都に復帰した。

上に「ごく短期間を除き天皇が権力を持ったことはなかった」と書いたが、鎌倉幕府が新田義貞によって倒された後の「建武の新政」時代はそのごく短期間の1つである。
後醍醐天皇が実権を持って自ら政治を行う「親政」を開始した。
このことからも新田義貞は自らが天下を取るために討幕を行ったわけではないことが分かる。

後醍醐天皇の親政もそう長くは続かなかった。
足利尊氏が離反したからだ。
足利という姓から分かるように足利氏のルーツは栃木県にあり、新田氏とは同祖とも言われている。
1331年元弘の乱の際に新田義貞同様、幕府から討伐を指示された。
足利尊氏は父の喪中だったので断ったが許されず、この時から密かに幕府に反感を抱くようになっていた。
しかしこの時の討伐では活躍し乱を制圧することに貢献した。

1333年再びの倒幕クーデターでは後醍醐天皇側に付くことを決意し参加する。
後醍醐天皇や足利尊氏は西の京都で挙兵。
しかし京都から鎌倉は距離がある。彼らは幕府本拠地鎌倉に乗り込んだわけではなかった。
近隣の反幕府勢力を結集し、京都にある幕府出先機関(京都守護)を滅ぼしたのだ。
同じ頃、東の群馬で挙兵し鎌倉に攻め込んだのが新田義貞だった。
これにて鎌倉幕府は滅亡。
幕府を倒す側にいた足利尊氏と新田義貞はともに後醍醐天皇に付くことになった。

この足利尊氏が1335年に勝手に京都から鎌倉に移動し、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど天皇を無視して好き勝手な振る舞いをするようになる。
足利尊氏の離反である。
もともと後醍醐天皇は権力は握ったものの武士の支持は得られておらず、各地に反乱因子を抱えていた。
足利尊氏の鎌倉での振る舞いは武家政権の復活を思わせるものだった。
足利尊氏は、後醍醐天皇の親政から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた新田義貞を「天皇の敵だから討伐すべき」と主張するも、天皇は逆に新田義貞に足利尊氏の討伐を命じた。
しかし新田軍は敗北。1336年に足利軍が京都に入り、後醍醐天皇を幽閉し京都を支配した。「建武の新政」は3年あまりで崩壊。
京都入りした足利尊氏が光明天皇を即位させるも、後醍醐天皇は幽閉先を脱出し奈良の吉野に朝廷を置いた。
この時から室町時代に至るまで日本には2つの朝廷が存在することになった。

足利尊氏が擁立した天皇側の朝廷を北朝、後醍醐天皇側の朝廷を南朝(吉野朝廷)という。
京都内における栃木対群馬の対決で、朝廷は京都と奈良に分かれるという、よく考えるとわりと狭い地域での出来事である気がしないでもない。
皇室は南朝を正統な朝廷と認めているそうである。短くとも親政の時代があったからであろうか。
しかしその親政の時代も「建武」という名称が付いていることはどこか皮肉めいているというか、、、それとも後醍醐天皇の人の良さでもあるのか。










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by yumimi61 | 2015-06-26 10:43
2015年 06月 25日
昭和 百壱
威信ではなく維新?

黒船が来航し、日米和親条約(神奈川条約)を締結すると、広く攘夷思想が広まった。
倒幕派だった長州藩と薩摩藩は極端な尊王(尊皇)攘夷思想を持っていた。今で言えば過激派である。
長州は現代の山口県、薩摩藩は鹿児島県となる。

イスラム過激派にも幾つものグループがあるのと同じで、同じ思想を持っていても両者は別グループである。
「思想」とは時に、自分達の「夢」を叶えるための手段に過ぎないことがある。
思想をベースにしている場合には仲間になりやすいが、夢をベースにしている場合には仲間にはなれない、むしろ自分の夢を阻む憎き相手にもなってしまうのだ。

長州藩と薩摩藩はおそらく天下を取るという夢があったのだろう。当初両者は仲間ではなかった。
朝廷(天皇家)に近いところにいて信頼を得たのは長州藩であった。
現代においては明治維新を改革、長州藩や薩摩藩を改革革新運動の旗手として持ち上げる向きが強いが、鎖国開国という言葉を使えば「開国絶対反対!」「開国をした幕府なんか倒せ!」というのが長州藩や薩摩藩であったのだ。
みな言葉のイメージや歴史ドラマなどにコロリ騙されている。

維新という言葉は大昔からあった言葉ではなく、1830年に水戸藩の藤田東湖が藩政改革への決意を述べる際に用いた言葉。造語。
藤田東湖は水戸藩藩主・徳川斉昭の片腕(側近中の側近)であった。
徳川斉昭は江戸幕府最後の将軍となる第15代将軍・徳川慶喜の実父である。
「維新」は徳川幕府寄りの言葉だったわけで、倒幕派に乗っ取られたと言える。


歪曲路線

日米修好通商条約締結を指揮した井伊直弼は桜田門外の変*で暗殺された。

*安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。

日米修好通商条約と絡むのが将軍の後継問題である。
黒船が来航した1853年時の将軍は第12代・徳川家慶である。
黒船来航の3週間後に亡くなった。
享年61歳と当時としては決して若いというわけではなかったが、死因は熱中症と言われており、そういう意味では急逝だった。

第13代将軍・徳川家定(1824年生まれ)は、第12代徳川家慶(在職:1837-1853年)の実子である。他の実子は早世していた。
1841年に第12代将軍の後継者となることが決定したが、父である将軍・家慶は子・家定の継嗣としての器量を早いうちから心配していた。
そこで目を付けたのが上記に書いた水戸藩主・徳川斉昭の息子である。1837年10月28日生まれ。(10月28日は群馬県民の日ですね!)
徳川斉昭は攘夷派であり開国派の井伊直弼とは対立したと言われるが、どちらも将軍の信頼を得ていた人物であるわけで、真っ向から対立する思想を持っていたとは考えにくい。
このあたりも歴史が歪曲されているか、誤解があるように感じる。

弘化4年(1847年)8月1日、老中・阿部正弘から水戸藩に七郎麻呂(当時は松平昭致)を御三卿・一橋家の世嗣としたいとの第12代将軍・徳川家慶の思召(意向)が伝えられる。これを受けて七郎麻呂は8月15日に水戸を発ち、9月1日に一橋家を相続。12月1日に家慶から偏諱を賜わり慶喜と名乗る。
家慶は度々一橋邸を訪問するなど、慶喜を将軍継嗣の有力な候補として考えていたが、阿部正弘の諫言を受けて断念している。


徳川御三家は徳川将軍家に後嗣がいない時に後嗣を出す資格を有していた。
その中でも一橋家は独立した別個の「家」ではなく、「将軍家の家族」として認識されていた。
そこを継がせたということは、将軍を継がせることが念頭にあったからに他ならない。
しかし老中・阿部正弘らに強く反対されていた。
そうこうしているうちに黒船がやってきた。
そして第12代将軍・徳川家慶は急逝。
結局後を実子である家定が継いだが実権を老中の阿部正弘に握られたことは想像に難くない。
第13将軍・徳川家定の在職期間は1853年-1858年。1858年8月14日に35歳で亡くなった。子はいなかった。
この間ずっと後継者問題で揉めていたわけである。

家定は病弱だった上、もともと悪かった体調が将軍就任以後はさらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日(1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。

歴史的にこの将軍継嗣問題はこのように語られる。
徳川慶喜を推す徳川斉昭(実父)や阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や家定の生母・本寿院を初めとする大奥の南紀派が対立した。

攘夷と開国とで反対位置に置いた2人(徳川斉昭と井伊直弼)を、ここでも対立位置に置き敵対関係にあったと見せるのは分かりやすく納得しがちだが、実はそうでもないと思う。
老中の阿部正弘は前述のとおり家慶が後を継ぐことには率先して反対しており、だからこそ第13将軍・徳川慶喜が実現しなかったとも言えるわけで、徳川慶喜を推す派だったというのは正しくないであろう。
阿部正弘と井伊直弼の立ち位置を逆転させてもよいくらいである。


中から壊れていく

1858年に第14軍将軍となった徳川慶福(就任時に家茂と改称)は当時はまだ13歳に過ぎなかった。
国の采配を振るうには如何せん若すぎる。

阿部正弘の推薦を受け、阿部の後釜として老中首座(勝手掛老中;財政担当)に就いたのは堀田正睦であるが、堀田は外国掛老中(外交担当)も兼ねた。
水戸藩主で徳川慶喜の実父である徳川斉昭は蘭癖のある堀田に好感を持てなかった事からこれを反対していたという。
堀田正睦のほうも徳川斉昭とは外交問題を巡って意見が合わず、従って子である慶喜にも好感を持っておらず、徳川慶福(家茂)が第14代将軍に相応しいと考えていた節があるそうだ。
病弱の将軍を就任させて実権を握ったのと同様に、若い将軍ならば引き続き実権が握れるだろうという邪心もあったのではないか。

堀田は日米修好通商条約締結の際、孝明天皇から条約調印の勅許を得るように指示され京都に向かったものの勅許を得ずに江戸に戻った人物でもある。
勅許を得るようにと主張した井伊直弼とは対立関係にあり、日米修好通商条約締結の1か月前に老中を罷免されている。

これらを考え合わせれば、江戸幕府の老中だった阿部と堀田は、反徳川斉昭(父)、反徳川慶喜(息子)、反水戸藩、反井伊直弼であったと推測できる。
彼らもまた思想よりも夢をベースにしていたのかもしれない。

井伊直弼が日米修好通商条約調印の勅許を得ることに注意を払ったのは、日米和親条約で勅許を得なかったことが尊王(尊皇)攘夷派を勢いづかせることになったからだと思う。
井伊らは以下のように進めたのだが、尊王(尊皇)攘夷派は反対にあってなかなか上手くいかなかった。

・外国と対等な関係を維持するためにすぐに交渉のテーブルには着かない。⇒尊王(尊皇)攘夷派に準備期間を与えてしまった。
・反省を踏まえ無駄に時間を掛けずに日米和親条約調印に踏み切った。⇒尊王(尊皇)攘夷派を中心に反感を買ってしまった。
・反省を踏まえ調印の勅許を得ることを指示した。⇒勅許を得られないまま調印がなされてしまった。
・過激派の反乱が拡大することを危惧して反乱者を叩いた(1958-1959 安政の大獄)。⇒桜田門外の変での暗殺に繋がってしまった。

組織を倒す最も簡単な戦術は内部崩壊を仕掛けることである。
敵の中に味方を作り内部崩壊させて国を滅ぼすパターンは長いこと世界で広く利用されてきた方法であり王道である。
そして最も防ぐことが困難な策略であるとも言える。


薩摩藩の台頭

1858年に将軍に就任した13歳の徳川家茂(慶福)。実権を握ったのは老中の堀田正睦だった。
2年後の1860年には堀田と対立していた井伊直弼が桜田門外の変にて暗殺される。
やはりこれによって潮流は変化した。
台頭してきたのは薩摩藩である。
先に朝廷の信頼を得ていたのは長州藩であったが、おそらくそれに対抗したのだろう。
薩摩藩は倒幕を表には出さず、幕府と朝廷で協力していこうという公武合体という政策をアピールした。
これによって堀田も失脚。殺されはしなかったが以後表舞台に立つことはなかった。

1862年、公武合体策の目玉として繰り出されたのは、17歳になった第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の異母妹の結婚だった。まさに幕府と朝廷の合体。2人は同い年であった。
親戚関係を結ぶという政略結婚である。孝明天皇は義兄になった。


薩摩藩の事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進したのは島津久光だった。
1862年4月に公武合体推進派兵を率いて鹿児島から京都に進出した。


薩摩藩と会津藩の提携

京都入りした島津久光と朝廷の公武合体派が江戸(幕府)に出した勅使の圧力の下、幕府はやむを得ず人事制度改革を行った。(文久の改革)
この改革にて新たに京都守護職という役職が設けられ、1962年9月、それに就任したのが会津藩主・松平容保であった。
松平容保は元々は水戸藩主の子であり、桜田門外の変の際には水戸藩の脱藩者が関与していて不利な状況の水戸藩をかばった人物である。
京都守護職就任は一旦は断わったものの、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在である」という言葉に押し切られて就任するに至る。
朝廷と将軍(幕府)が合体していたので断れなくなってしまっていたのだ。

将軍・徳川家茂は婚姻の翌年1863年に朝廷のあった京都に入った。
将軍が京都入りしたのは実に229年ぶりのことだったそうだ。






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by yumimi61 | 2015-06-25 12:25
2015年 06月 24日
昭和 百
明治時代の発起人

前記事でも少し触れたが、第一次世界大戦(1914-1918年)中、日本経済は好転した。
第一次世界大戦の参戦を独断で決定したのは早稲田大学の創始者・大隈重信である。
大隈は総理大臣にもなった人物であるが、横浜正金銀行の仕掛け人でもある。
こちにら書いた通り、横浜正金銀行の設立は早稲田大学と慶応大学の創始者コンビによって企てられ実現したものである。
そして日本の金融機関として唯一、日露戦争の外債引き受けに加わっている。
横浜正金銀行は為替銀行であったので外貨を取り扱う銀行であり、外国との取引があるという性質を持つが、1865年にイギリスの植民地であった香港と租界地であった上海で相次いで設立された「香港上海銀行」の兄弟銀行のようなイメージはどうしても払拭できない。

香港上海銀行はイギリスの金融グループHSBCホールディングス傘下の銀行であるが、前述のとおり発祥はイギリスの植民地であった香港であり、現在でも香港に本店を置いている。香港ドルを発券できる銀行でもある。
イギリスやアメリカ、フランス、また発展が見込まれる地域の有力現地銀行多数を傘下に収めており、現在では総資産的にも世界最大の銀行となっている。

「ほぼ全世界」を活動地域としてカバーする世界で唯一の銀行になった(国際的に活動する銀行はスタンダード・チャータード銀行やシティバンク、バンク・オブ・アメリカなど多数あるが「ほぼ全世界」をカバーしている銀行は他に類を見ない)。

1992年のイギリス最大のミッドランド銀行(現:HSBC Bank plc)の買収にあたり、登記上の本部をイギリス本国に移転することをイギリス政府から要請されていた。そうした事情から、前年の1991年ロンドンにHSBCホールディングス(HSBC Holdings plc)を設立し、登記上の本拠地をロンドンに移動、イギリス法人となった。ロンドン本社はドックランズのカナリー・ワーフにある「HSBCタワー」(香港本部と同じくノーマン・フォスター卿の設計)である。

2001年にはキャッチフレーズを「The world's local bank(全世界の地元銀行)」に変更し、併せて全世界で高い人気を誇るF1のジャガー・レーシングチームのスポンサーになるなど、名実ともに全世界をカバーする展開を行いつつ、拠点数と収益を伸ばし続けている。


この香港上海銀行が香港で設立された翌年の1866年に、横浜で日本支店が設立された。
その後も神戸や長崎、大阪など、日本の主要港地域や商業地域に出店した。

日本政府の貿易金融政策の顧問業務や造幣への協力を行った他、日本最初の近代的銀行で、東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身である横浜正金銀行がその体制を作る際には、香港上海銀行をそのモデルにし、香港上海銀行も多くの協力を行なった。

このように横浜正金銀行設立には欠かせない銀行であった。横浜正金銀行の設立は1880年のことである。
しかし日本にとってそれより重要だったのは香港上海銀行の設立(1865年)と日本支店の開設(1866年)であった。
大政奉還と明治元年(1867~1868年)はその後に起きた出来事である。
要するに明治時代への転換の仕掛け人や支援者は香港上海銀行と見るべきだろう。となればイギリスが関与しているということになる。


強い者とは何か?

江戸時代を、日本の行方を、左右したのは日米修好通商条約であった。
黒船来航やペリー渡来、鎖国していた幕府に対する開国要求として語られることが多いが、鎖国という言葉は後世で作られた言葉である。
江戸幕府が完全に国を閉じていたわけではなく、貿易に対してかなり慎重な姿勢を取っていたということだと思う。
それだけリスクを予想していたということでもある。
また当時結ばれていた修好通商条約というのは、強い者が弱い者に半ば強制するように結ばせた不平等条約と言い換えることができ、十分な警戒が必要であった。

ここで注意しなければならないのが強い者を「列強国」と一括りにしてしまうことである。
確かにイギリスが清との間で結んだ不平等条約に他の列強国も便乗していたことは確かなのだが、日本の幕末に結ばれた条約において列強国を一括りにしてしまうと歴史認識を誤ると思う。
イギリスは日本と貿易関係にあった国の1つであるが早々撤退している。
江戸時代終焉の発端になった1853年の黒船来航はアメリカの船であり、アメリカ人がやってきて「日米間の通商条約を結んでもらえないだろうか」と言ったのである。
すぐに武力攻撃に出るわけでもなく、日本側の「考えさせてほしい」という返答に、「わかりました」と黒船は帰っていったのだ。
次に来たのは1年後の1854年。
この時に日米間で「日米和親条約」が結ばれた。これは別名「神奈川条約」とも呼ばれている。
この条約締結に関して幕府は朝廷に事後報告したのだった。
もちろん全く話を入れていなかったわけではなく、朝廷にもアメリカ国書を送ってはあったが、調印をしたことが事後報告であったのだ。

ここで浮かび上がるのが、幕府(徳川家)と朝廷(天皇家)、アメリカとイギリスの微妙な関係である。


攘夷運動へ

アメリカの申し入れに強く反対したのは幕府ではなく朝廷だった。
日米和親条約(神奈川条約)も当初は朝廷の承認を得た上で調印する方針でいたが、天皇の許可(勅許)を得られなかったため幕府の独断を持って大老(将軍補佐)の井伊直弼が調印した。
井伊直弼の銅像が横浜市の掃部山(かもんやま)公園にある。
1909年(明治42年)の横浜開港50周年記念に建立されたものだそうだ。

日米和親条約(神奈川条約)が事後報告だったことで幕府は反感を買うことになった。
「攘夷」とは外敵(外国勢力)を追い払うという意味。
攘夷で言う外敵の反対が王であり、尊王(尊皇)攘夷運動が盛んになった。


1858年条約締結

この頃の天皇は孝明天皇。
天皇在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)−1867年1月30日(慶応2年12月25日)であり、若干14歳で即位している。
黒船来航時(1853年)は22歳で、幕府が日米和親条約(神奈川条約)を締結した時(1854年)は23歳。
やはり攘夷思想を持っていたようで、条約には反対の立場だった。
攘夷思想というのは相手を選ぶものではなく、とにかくよそ者は排除したほうがよいという思想であるので、相手がアメリカであろうがイギリスであろうがどこであろうが、受けいれたくはなかったはず。
孝明天皇は貿易自体には反対ではないが不平等条約は結ぶべきではない立場で条約に反対した。
同時に孝明天皇は佐幕的な人物でもあった。
日米和親条約(神奈川条約)以降、朝廷対幕府という構造になったので、幕府と敵対関係にある人物のように思えるが、孝明天皇は幕府にとって都合の悪い天皇ではなかったのだ。

幕末には「尊王」「攘夷」「倒幕」「佐幕」「勤王」といった思想や主義主張があった。
これも混同しやすく間違いやすい。
天皇を尊ぶ「尊王派」、外国勢力は断固として受け入れない「攘夷派」、幕府を倒すことを目的とする「倒幕派」、幕府を慕い補佐しようという「佐幕派」、天皇に仕えて幕府には仕えないという「勤王派」があった。
攘夷に賛成してくれない幕府には従うことは出来ないという考え方はもちろんあるわけだが、基本的なことを言えば、「尊王」及び「攘夷」という思想や主義主張と、「倒幕」「佐幕」「勤王」という思想や主義主張は別物である。
国の在り方への思いと、幕府への態度という違いになる。
また「尊王」についても元々存在していた尊敬心というよりは、外圧への高まりとともに日本古来固有のものを全面に押し出す風潮が高まり盛んになった思想でもある。
孝明天皇のように攘夷であるけれども佐幕であるということも別に珍しいことではなかった。
そんな中においてはっきりと倒幕派だったのは長州藩と薩摩藩だと言われている。

しかし幕府への動きが本格化するのは調印後のことである。
日米修好通商条約は1858年7月に調印された。
井伊直弼は日米和親条約(神奈川条約)の勅許ないまま調印の反省もあったのか、最後まで孝明天皇の勅許を得ての条約締結に力を尽くすように指示したが、列強国の圧力も高まる中で結局勅許は得られないままの調印となってしまった。。

幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)。但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった。



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by yumimi61 | 2015-06-24 14:34
2015年 06月 23日
昭和 玖拾玖
借換からみるギリシャ

ここ数日ギリシャのデフォルト(償還不可能・債務不履行)が回避されるかどうかが話題になっているが、ギリシャの国債の借換が報じられたことがあった。
2011年6月末のことである。

ギリシャ借り換え、フランス案の対象は10.8兆円相当 (2011年6月29日 ブルームバーグ
ギリシャ支援策の第2弾に民間投資家の関与を求めるフランスの提案で、ロールオーバー(借り換え)の対象となるギリシャ国債が929億7000万ユーロ(約10兆8300億円)相当に上ることが、ブルームバーグのデータで明らかになった。

フランス案では、2014年半ばまでに満期を迎える国債が借り換えの対象となる。借り換えに応じる投資家は、償還される資金の70%を再投資し、新発30年債を受け取る。ギリシャ政府はこのうち20%を元本返済の担保となる「トリプルA」格付けのゼロクーポン債に投資する。


これはフランスの金融機関とギリシャ政府の取り決めである。
フランスのフィガロ紙が報じ、フランスの銀行関係者もこれを認めたということだったが、フランス銀行連盟(FBF)とフランス財務省はノーコメントだったらしい。
合意内容というのは国債保有者(債権者・投資家)が満期で受け取る資金の70%を新たな国債を買う資金に充てるというものである。この部分を借換と言っている。
新たな国債は「ギリシャ国債の30年物」。
この国債の金利はユーロ圏の対ギリシャ貸出金利(EUやIMFがギリシャに貸す資金に掛かる金利)と同程度に設定され、且つギリシャの将来的な経済成長率に基づくプレミアムあり。
ギリシャ経済が大幅に改善すれば追加的な収益が見込める可能性もあるのだが、現状を考えれば非現実的な話である。(経済には実態なんかないんだからありえる?)

それよりも美味しいのは利回りだろう。
最初に設定される金利は表面利率(クーポン)。基準金利。
昨日例に挙げたように金利5%で100万円ならば1年後の金利は5万円。金利10%ならば1年後の金利は10万円、これが表面利率・基準金利である。
しかし100万円分の国債を50万円で買ったとするならば、実際の美味しさ具合は変わってくる。
購入価格100万円に対して5万円の金利が付けば5%、購入価格50万円に対して5万円の金利が付けば10%となる。
どちらも額面は変わらず、満期で受け取る金額(元金)は100万円であり、金利(表面利率)は5%である。
しかしながら実際に付いてくる金利は大きく変わってくる。これを利回りという。

戦争に負けそうな国の戦時国債など誰も買いたくないのと同じで、今にも破綻しそうな国の国債など普通は誰も買いたくない。
そうなったら額面で売れるわけがない。安くして買ってもらうのだ。
焦げ付かない限り、購入額が安ければ安いほど、リターンは大きい(利回りが良い)。
万が一、焦げ付いた場合にも安く買っておいたならば、痛みは少ない。
ハイリスクハイリターン商品であるが、安く買うことでローリスクハイリターン商品に生まれ変わるというわけ。

しかしいくら安く買うと言っても、破綻しそうな国に金を注ぎ込むなんて真っ平御免、金をドブに捨てるようなものだ、そういう投資家もいるだろう。
いるだろうと言うか、多くのお金持ち、要するに多くの投資家というのは、堅実なものである。
世界は広い。商品はいろいろある。何もあえてギリシャでなくても良い。
ということは結局、ギリシャは大丈夫なのだと私は判断する。
またはアイルランドのように破綻しても誰かが債務を肩代わりしてくれるかである。
アイルランドは民間銀行の債務を政府が肩代わりしたが、政府の債務だとすると誰が肩代わりするんだろうか。
肩代わりされるようでは主権なんてなくなるだろうけれども。


線路は続くよどこまでも=======

前記事に記した通り、日露戦争中と戦後の1904年~1907年の3年間で13億円の国債を発行した。
さらに1908年~1911年の3年間にも7億円の外債を発行している。
またこの時期には、国債だけではなく地方債や社債も外債で発行された。
発行したのは東京市・京都市・大阪市・横浜市などの主要都市、南満洲鉄道や電力会社などの企業であった。

この後には第一次世界大戦(1914-1918年)が勃発。
この戦争は主にヨーロッパを舞台に行われており、日本は勝者側での参戦だったため、戦争ダメージは然程なく、むしろ経済的には好転した。
1916年にはイギリス・フランス・ロシアが初めて日本に向けて外債を発行している。

1923年には関東大震災が発生。
復興資金に充てるためとして1924年に「震災善後外債」を発行した。
イギリスで2,500万ポンド(6分利付)、アメリカで1億5,000万ドル(6分半利付)。
被災地となった東京と横浜も外債を発行。

前記事にて、日露戦争後に発行された外債⑤の償還期限が1931年(昭和6年)で、この国債を借り換えたことを書いた。
1931年というのは満洲事変が勃発した年である。
満洲事変というのは、こちらの下部に書いた通り、日本が管理していた南満州鉄道の爆破事件(柳条湖事件)が発端となった。
この爆破は日本の謀略であったが中華民国の犯行と発表することで満州における武力行使の口実とした。
この満州事変から日中戦争、大東亜戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)の流れを「15年戦争」と呼び、満州事変は「15年戦争」の起点でもあった。

このように日本は借金を重ねてきた。
しかし基本的に利益の出ない国がこれほどの借金を返す術などない。
個人の住宅ローンと同じで、予算内で支払える金額以上のお金を借りることは出来ないと考えるべきだし、すべきではない。
先の時代を読むことや国家運営が難しいことは十分に理解するが、金利の高い長期融資を受けるということは致命的なのである。
一度でも借金してしまい債務者になって返済に困れば、もうその立場は弱い。
債権者のほうが強いのだ。キャスティングボードを握られてしまう。

【借金に追われて】日本が太平洋戦争に突入した理由が悲しすぎる【原発・靖国まで】


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父の日は過ぎてしまったけれど。

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あの頃はパパがいたね。(い、い、今もいるけど?)

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ママがいないね。(いるわよ?)

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こ、こ、これは!?

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これはたぶん東京の大仏ね。

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これは雨のディズニーランド(涙)。 別に泣く必要はなかったかしら。

子供の日も過ぎてしまったけれど。

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前も載せたっけ?

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やめなさい?

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増えているじゃないか?

おしまい。おやすみ。(ね、ね、ねるのか?)


@com

「そうだ、この間偶然見つけたんだよ、新しいカフェ。きっと気に入るよ」
「あ-。かっ!え?」
「か・・・」
「蚊取り線香つけよう。ローズの香りだよ。去年のだけどね」

「それクッキーじゃないか。今頃・・食べるの・・?」
「だめ?」
「いーよ」
「じゃじゃじゃーん。渦巻きクッキー」
「でした・・・」





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by yumimi61 | 2015-06-23 12:52
2015年 06月 23日
昭和 玖拾捌
食べられない米

国債は発行や購入後にも市場での売買が可能なものであるが、それでも外には出ていかず国内保有率が非常に高い日本国債。この動かなさ加減はある意味凄い。

1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。

時代劇などで何万石という言葉を聞いたことがあるかと思うが、江戸時代は金本位制ならぬ米本位制だったのだ。
現代の税金の代わりが年貢であり、国(幕府)に対して米を納めていた。
この米の量が「石」や「俵」という単位で表された。
全ては米が基本。農家が米を育て、それが国(幕府)や大名、上級の旗本や御家人といった直臣に納められた。(国や地方の財源であり公務員の給与となる)
その納められた米が下級の旗本や御家人に分配された。(公務員の給与)
米は食べられるものなのでもちろん食べてもよいが、米本位制であったので米は何にでも交換できたし、貨幣への換金が可能だった。
そうとなれば米を食べている場合ではありませんね!

「年貢の取り立てが厳しい」などというセリフも聞いたことがあると思うが、それを現代語で言い直せば「高い税金取りやがって」ということになる。
米に惑わされ過ぎてはいけない。制度の基本は今と大きく変わるものではないのだ。


借金漬け

日本もかつては外国で外国通貨建てで国債を発行したこともあった。(外国債券・外国債・外債)

日露戦争での外債が有名だが、記録にある最古の外債は1870年にロンドンにて発行した「9分利付英貨国債」で発行額100ポンド(500万円ほど)だそうである。(明治元年1867年)
新橋駅−横浜駅間の鉄道建設費用の調達だった。

さらに1873年にも「7分利付英貨国債」を発行。発行額は240万ポンド(1200万円ほど)。
これは秩禄給与を全廃するための費用だった。
秩禄給与というのは、上記に書いたように江戸時代の幕府や藩が下級の旗本や御家人に給与として米を分配していた制度で、明治時代に突入しても反乱が怖くて破棄できずにいたが、明治政府にとってはこの負担が大きかったそうだ。
それを全廃するために分配米を貨幣で支給し、さらに債券(国債)を無償で交付したのである。
総額およそ1億7400万円、利子は1割、7分、6分、5分(10%、7%、6%、5%)の4種。交付人数は34万人。
とりあえず支払いは先延ばし出来るかもしれないが、いつかは支払うものである。
起債年は1877年(明治10年)なので10年後1887年には満期を迎える。
総額が1億7400万円というのは当時としては莫大な金額であり、1873年にイギリスで調達した金額は1200万円ほどで、総額にはどこにも及ばない。

この他にも明治維新自体が外国からの資金援助で行われたものと考えられている。
資金援助の資金が寄付ならばよいが、その可能性は少ないだろう。
融資だとすればそれもまた金利の付く借金である。
借金まみれで明治時代は始まっている。


箸休めもなし

1000兆の負債を抱えても日本という国は倒れない
誰に非難されるわけでもなく、誰に通告されるわけでもなく、さほど危機感も無く、改善もせず、赤字額を伸ばし、延々と続いてきたのだ。

緑字は前記事に書いたことだが、「延々と」言っても始まりは明治時代(1867年~)である。
従ってたかだか148年しか経っていないという見方もできるのだ。
現在の日本の借金額は、物価の違う明治元年から毎年毎年1年も欠かすことなく6.8兆円ずつ赤字を積み上げてきた計算になる。
凄まじいとしか言いようがない。

日露戦争中、戦後に高橋是清が関与した外債発行をこちらに記した
①1904年5月― 1億円、6%、関税収入
②1904年11月― 1億2000万円、6%、関税収入
③1905年3月― 3億円、4.5%、煙草専売金
④1905年7月― 3億円、4.5%、煙草専売金
⑤1905年11月―2億5000万円、4%、無担保
⑥1907年3月― 2億3000万円、5%、無担保

3年あまりの間に13億円借金したことになる。もちろんこれは発行額である。

金利5%で100万円の借金をすれば1年後には105万円返済しなければならない。5万円が金利である。
簡単に単利で計算し、元利とも10年後に一括返済するとなれば150万円を返済しなければならない。50万円が金利である。
元金の半分の額もの金利が乗ってきてしまうのだ。
金利10%で100万円を借りれば1年後の返済は110万円、10年後ならば200万円。元金と同額の金利が乗ってくる。
単利というのは金利が少ない方で、付いた金利にも金利が付いていく複利ならば金利額は単利よりも高くなるし、1年ではなく半年複利ならばさらにどんどん増えていく。

借金1000兆円といった場合には金利を含めているのだろうか?
国債発行額が1000兆円という場合には、支払額はそんなものでは済まない。
日本国の貸借対照表では負債に公債として860兆円ほど記載されているが、これが発行額だとすれば借金額1000兆円には金利は含まれていないと考えられる。


お茶を濁す

さて、眼を転じて外国債を見ると、あたかも第2回4分利付英貨公債の償還期限が迫っていた。
それは、かつて日露戦争直後(1905年=明治38年11月)、特派財政委員高橋是清に英・米・独・仏の市場で2500万ポンド発行させたものであった。
うち、156万ポンドは明治45年以降昭和5年までの間に償還し、残額は2344万ポンドあったが、その償還期限が昭和6年1月1日であったので、この借換ないし償還の問題が、償還期限の切迫とともに、わが国財政上の重要懸案となっていた。
当時、民間では、借換でなくとも償還可能である旨を主張する論者もあった。
しかしながら、財政の実情は借換または新規外債によらなければとうてい不可能であった。
<『国債』 東洋経済新報社)>

これは上の⑤の外債のことである。
1905年11月に発行された2500万ポンド(当時1ポンド=10円くらいだったので2億5000万円)の外債。
昭和5年というのは1930年なので、発行からすでに25年経過している。いったい何年物だったのろう。
それまでに返した金額はたった156万ポンド(1560万円)だったという。
金利だけを支払っている状態で元金は減っていなかったのではなかろうか。
住宅ローンを組んでいる人は分かるかもしれないが、金額が大きい借金の元金はなかなか減っていかないものですよね。
そしてなんと元金残額2344万ポンド(2億3440万円)の償還期限が1931年(昭和6年)!
当時民間では借換でなくとも償還可能だと主張した者がいたらしいが、どんな計算だったのやら。
「総理(または大臣)、戦争をすれば返せます!」、こんな感じだろうか?
それともすでに「借金は日本への出資金ということにしてもらいましょう!」だったのか?

借金は⑤だけではなく、①~⑥だけでもなく、さらには外債だけでなく国内で発行したものもあった。


増えてるじゃないか?

以前に書いたことだが、①~⑥の国債の引き受け全てに参加したのは、パース銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、クーン・ローブ商会。
④から参加したのがドイツの銀行、⑤から参加(戦時中は避け戦後に参加)したのがフランスの銀行やロスチャイルドであった。

結局⑤の4分利付英貨国債は、1930年5月に、5分半利付英貨国債と5分半利付米貨国債に借換を行った。
私達が一般に想像する借換、例えば住宅ローンの借換などは、ローン途中で金利の安い金融機関に乗り換える、固定金利から変動金利に変更するというようなことが多いと思う。
借換には手数料も掛かってくるので、残金や金利をよく検討しなければならない。
上記国債の借換はローン途中ではない。満期が来るからどうしようという話である。もうすぐそこに償還期限が迫っている。
そこで何をするかと言えば、満期を迎えてしまうのだ。(え?)
満期を迎えたら借りていたお金は耳を揃えて返さなければならない。
例えば⑤の国債を5つの銀行が5000万円ずつ保有していたとしよう。
日本は2億5000万円(元金)を支払う必要がある。
しかしお金を出さないのだ。(ええ?)
5つの銀行には一旦返済されたつもりになってもらう。
「そこで改めて話があるのですが、そのお金でまた国債を買ってもらえませんか?」
「いいですよ」
ということで、「4分利付英貨国債」が「5分半利付英貨国債」と「5分半利付米貨国債」に化けるのである。







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by yumimi61 | 2015-06-23 10:34
2015年 06月 21日
昭和 玖拾質
今日は父の日か・・・。うわーんパパに会いたいよー。
会いに行ったらいいじゃないか?いや来なくていい?

今日はヨガの日ね。よーがある?

今日は日曜日。日曜日の心温まるお話


信用と信頼の話

前の記事で、市町村よりも都道府県、都道府県よりは国、こうした順で信用信頼度は上がると思うと書いた。
企業でも同様で、個人経営や家族経営よりは中小企業、中小企業よりは大企業のほうが一般的な信用信頼度は高い。
この信用信頼度に大きく関わっているのは見たままそのまま規模の大きさである。

大きいほど体力があるだろうということで信用を得やすい。
1億円の中で10万円失うのと、100万円の中で10万円失うのでは、自ずと意味合いが変わってくる。
また大きいほど中に多くの物や者を入れやすいこともある。
どんなに頑張っても100ミリリットルの容器に1リットルの水を入れることは出来ないのだ。
規模が大きいほど多くの人材がいて多様性が生まれる。
ひとりの小さな手何もできないけど~それでもみんなの手と手をあわせれば何かできる~♪ という状態が作れる。
また多様な人間がいるということは違った見方をする者がいるということで、間違いを指摘するなど軌道修正するチャンスがあり盲目に突き進み崖から転落することを防ぎやすい。

信用度にはこの多様性も大きく影響している。
どうして市町村が国より信用度が低いかと言えば、職員が限られたコミュニティの中から選ばれることが多いからである。また縁故採用なども非常に多い。
多様性という面からみると心許ない。
ただし地域的な信頼度という視点で見れば、それほど劣るものではない。
その地域をよく知っている者が縁故というしがらみの中で仕事をする、大きく外れないという意味でこれは悪いことばかりではないのだ。
最初から大きさなど期待していない。別のものを期待している。
そうした役割を持った職員に国家公務員や大企業の従業員と同一の役割を求めるのは違うと思うが、コンピューターやインターネットなどでそれら全てが繋がってしまったことが物事や役割分担を複雑にした。

これとは逆に多様性があると思われ信用されている国家公務員や大企業が実は多様性が無いということになればやはり問題を生じそうである。
同じ地域や同じ大学からしか採用しない、縁故採用を多用しているとなれば、やはり多様性というのは失われていくだろうと思う。
これは縦の話ではなく横の話であり、縦の話と横の話を混在されても困る。


国内消化の国債の表裏

日本が発行している国債はほとんど日本国内で消化(購入)されているから大丈夫という論理がある。
日本には国債を買い続けるだけの十分な貯蓄(資産)があるというわけだ。

しかしこれも見方を変えれば、多様性が全くない国と言える。
市場で売買される国債が日本国外から買われないということは、日本や日本円には信用や魅力がないとみることが出来るし、日本が非常に閉鎖的であり国内で買い占めているとみることも出来る。
グローバルな国を謳いながら内々で済まそうとしているということは、何か不都合なことを隠蔽しているのではないか、よほど体力がないのかと勘繰られても仕方ない。

最近では国内も国内、日本銀行が一人で買い占めているような状況である。


「ちから」とは何か?

日本という国が企業だとすれば、とっくのとうに破綻している経営状態にある。
それなのになぜ破綻せずに今日までやってこれたかと言えば、紙幣を造ることができるからであり、同時に実際のお金のやり取りの多くは現物紙幣を必要としないからである。
どうして破綻しないのだろうという疑問を持つよりは、どうしてこんな経常状態にありながら深刻な問題として扱われず、国の危機と報じられることがないのだろうという疑問を持つことのほうが適当かもしれない。
中小企業ならば許されないことが大企業ならば許される、大企業であっても許されないことが国家であれば許される。
国家であれば何でもよいというわけでもなく、許される国家と許されない国家がある。国家は選ばれる。
平等や公平なんてどこ吹く風。明らかに差別はある。
つまるところ、大きな権力があればどんな問題も握りつぶせるということなんだと思う。


システムというものを作り上げるのが権力ならば、そのシステムを何食わぬ顔で破壊するのも権力なのだ。
よくクイズの最後で大逆転もありますとかなんとか言って、それまで地道に積み上げてきた点数を一挙にひっくり返してしまうような点数を最後の問題にだけ与え、いままでの戦いはなんだったの?という状況になることがあるが、あれに似ている。
何千万、何億、何十億、何百億、何千億、、、会社の規模によってその負債金額は様々ではあるが、多くの会社が生まれては消えてきた。
ところが1000兆の負債を抱えても日本という国は倒れない。
誰に非難されるわけでもなく、誰に通告されるわけでもなく、さほど危機感も無く、改善もせず、赤字額を伸ばし、延々と続いてきたのだ。

そういう意味においては楽観視してよいのではないだろうか。
これまでそうだったように、これからも多分、日本という国は大丈夫なんだろうと思う。

そんな日本が何より怖いのは「力による現状変更」なのではなかろうか。
最近やたら耳にすることが多くなった「力による現状変更は認めない!」という言葉。
暴力と言わないのがミソですよね?
暴力も力ならば、体力、腕力、知力、能力、実力、精神力、超能力、発想力、人間力、勢力、軍事力などなど、みな力である。
歌唱力?演技力?画力?精力?女子力?努力?破壊力?戦力?威力?原子力?火力?水力?風力?吸引力?吸収力?求心力?遠心力?重力?計算力?読解力?英語力?労働力?生産力?原動力?睡眠力?空想力?走力?競争力?強力?協力?
世の中には力が溢れている。
英語ではforceやpowerという言葉があり、さらにはviolentなんていう言葉もあり、微妙に使い分けているようだが、「力による現状変更は認めない」という言葉はその全てを否定してしまうような気がする。
要するに「現状変更は認めない」ということが言いたいのではないかと思える。
どんな力を付けても現状を変えることはできない、どんな力を付けることも意味ないと宣言しているような。

「力による一方的な現状変更や、強い者が弱い者を振り回すことは、ヨーロッパでもアジアでも、世界のどこでも認めることはできない」 ドイツ・エルマウサミットにて安倍首相





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by yumimi61 | 2015-06-21 12:32