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2015年 08月 30日
日本国憲法の秘密-44-
あっけらかんと開いた駅をうらうらとした談笑が彩り、うつらうつらした浅瀬がせせらぎを奏でていた。

-底ひなき淵やは騒ぐ山川の浅き瀬にこそ仇波は立て-

重い沈黙が流れる。
心というのものが淵から生まれてくるならば、深い想いは底深き淵にあるに違いない。
胸の中心がぎゅうっと痛くなった。
初恋でもないのに、風で波立つ水面のように、寄せては返す想いに揺れていた。
認めたいけど、認めたくない。
恋歌が悠久の時を超えてもなお人の心を打つのは何故なんだろうか。

「飛行機見に行かない?」
唐突な彼の提案に戸惑いながら安堵する自分がいる。
「飛行機?」
「そう、羽田、羽田に行こう」
少年の面影を残す彼の横顔がとても大人っぽくって時々ドキリとすることがある。
「飛行機見学かぁ・・小学生の時に行ったなぁ」
金色の光が背中伝いに伝わって何か不思議な気持ちがした。

私は常々東京の駅には、迷いのない人と思い切り迷っている人の二種類しかいないと感じている。
東京でなくともどこでもそうだろうと言う意見もあるだろうけれど、東京の迷いの無さははっきりと目に見えるものだ。
当の私はそのどちらにも当てはまらないので、もしかしたら私みたいな人が他にも生息しているかもしれないと思ってもみるのだが、それらしき人を見掛けない。
人なみにさらわれないように昔は壁伝いに歩いていたし、出入り口付近ではなく車両の中央に立っていられるようになったのはわりと最近のことなのだ。
釣り針を投げて世界のどこかに自分を固定しておきたかった。
疑いの無い存在があるということは、儚く存在を失うということなんだろう。

夕刻の賑わいの中に彼がいて私がいた。
流れる水や過ぎゆく時に私達は時々抗う術を失う。
決して戻らない落し物に胸の隅がざわつき、時計を見るといった何気ない仕草に泣きたくなったりもする。
誰かの役に立っているだろう電光掲示板や案内板、脇を通り抜ける人の声や足音、恐らくいつでもどこでも見られる駅の風景に時を刻む。
無と有の交点が分かったような気がした。
彼と私は普通の電車で空港に行くことにした。

沢山の人が時間を気にしているであろう駅のホームであることを思い出した。
「ねえ水時計って知ってる?」
「砂時計なら知ってる」
「砂・・時計・・あっ」
「どうした?」
「日時計は?」
「知ってるよ」
ばらばらに散らばった時間が一つ所に集約されてくるのを漠然と感じていた。
「水時計を日本で最初に作ったのは天智天皇なんだって。日本では漏刻って言うらしいんだけど。奈良の飛鳥寺の近くにその遺跡があるって」
「あっ」
「なに?」
「いやなんでもない。天智天皇って何年頃だっけ?」
「大化の改新の後だから600年代後半、たぶん」

漏刻に使われる容器を漏壺(ろうこ)と呼ぶらしい。
「銀色のうろこと銀色のろうこ」、小さな声で2回繰り返しそれらの言葉を噛みしめた。
でもまだ意味のあるものに咀嚼することは出来なかった。
その人にとって必要なものを覚えていて、その人が生きていくうえで必要ではないものを忘れていくとするならば、その魚は私にとってどんな意味があるというの?
その人にとって必要なものを思い出すことが出来て、その人が生きていくうえで必要でないものは思い出さないとするならば、その時計は私にとってどんな意味があるというの?

水族館近くの駅を出て一つ乗り換えると、その先は空港へと続いている。
普通の空港線は意外に空いていて拍子抜けしてしまうほどだった。
私と彼は四人掛けボックスシートに二人だけで座った。
糀谷、大鳥居、穴守稲荷、天空橋、この四つの駅を過ぎれば、もうそこは羽田空港。
車窓には生活のある街並みが続いた。
住宅街を走る電車は誰かの生活を物凄いスピードで一瞬だけ切り取っていくので、まるで異次元からタイムマシンでやってきた人になったような気持ちになる。
途中電車が住宅のすぐ横を通り抜けたので、浅草花やしきのジェットコースターみたいだとも思った。
「子供の頃、電車の旅をすると、窓から探したものがあります。さてなんでしょう?」
「踏切待ちの人」
「ううん、違う」
でも本当は踏切の音も踏切待ちの人も好きだった。
踏切にぽーっと立っている人や並んで止まっている車を遠くから眺めるのはタイムマシーンっぽさを助長したから。
でも目を凝らして探したのは違うもの。それはフォルクスワーゲンのビートル。
ワーゲンを百台見ると幸せになれるだったか、それとも願いが叶うだったか忘れたけれど、子供達の間ではそれが流行っていて、旅行で電車やバスに乗ると必ずワーゲンを探した。
今ではちょっと信じられないけれど、当時何十台というワーゲンを実際に見かけたから、今よりもワーゲンに乗っていた人がずっと多かったということなんだろうか。
そうやって集めた幸せの種だけど、赤色のワーゲンを見るとクリアされてゼロに戻ってしまうとかいうルールがあったりして、幸せになるのも大変なんだと子供心に思った。

醒めた声でキャスターが 繰返すバイオレンス
息を抜くこともいつか 忘れた街角
古い型のワーゲンを 今も見かけると
胸の奥しまいこんだ 想い出がよぎる
(杉山清貴&オメガトライブ REMEMBER THE BRIGHTNESS)


穴守稲荷駅を過ぎると電車は地下に吸い込まれていった。
天空橋駅が地下にあるなんて冗談みたいな話。
でも天空橋という橋は人が渡る人道橋として地下ではない場所に実際に存在している。
幅約3メートル、長さ約74メートルという小さな橋で、地元の小学生によって付けられた名前らしい。
天空橋というわりには小さな橋で驚く人もあるらしいけれど、川の上を歩いたり走ったりできるのは、それだけで奇跡のようなことだと思うし、高くても低くても宙であることには変わりなく、川の上だけは空が消えることはない。
人道橋になる前は鉄道を渡す橋梁があったそうで、真っ直ぐなガーダー橋である天空橋の横顔は鉄道橋の面影を残している。

それにしても羽田という場所は不思議なところだと思う。
飛行場のために付けられたようなその名で、飛行場が出来るずっと前からそこに存在していた。
「ねえ知ってる?羽田って漁村だったらしいの」
「想像できない?」
そう彼が言うので、曖昧な笑みを返して窓の外を見たけれど、彼の顔が映って目が合った。
「羽田空港は沖合を埋め立てて建設したんだろう」
私は彼の埋め立てという言葉で少し前にいた夕凪を思い出し、水族館での出来事をなぞっていた。
薄暗い館内に煌めく光、目の前を通り過ぎて行ったマイワシの大群、身体の一部か心の一部が締め付けられたような気がするけれど、妙な懐かしさを感じてもいた。
羽田は川の淡水と海水とが混じり合う豊かな汽水域で、漁業を営む人が暮らす漁村だった。
汽水域は栄養が多いから植物プランクトンが増え、その植物プランクトンを餌にする動物プランクトンや貝類が増える。そしてそれらを餌にする魚もやってきて魚の成長を支える。
汽水域は多くの生物を育て増やす力があるのだそうだ。
でも川から流れてくる栄養は結局のところ洗剤や農薬や肥料だったりするわけで、それが汚濁の原因を作っているとも言える。
私はどこに向かっているのだろう。


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8月30日の昼間、
疑いの無い存在があるということは、儚く存在を失うということなんだろう。
というところまで書いた。
そして8月30日の夜に、
彼と私は普通の電車で空港に行くことにした。
と言うところまで書いた。
その後は8月31日つまり今日、続けて書いた。

昨日の夜、少し書いた後にすぐお風呂に入った。
そしたら右膝に痣(あざ)が出来ているのを見つけた。
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どこかにぶつけた覚えは全くない。



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by yumimi61 | 2015-08-30 14:12
2015年 08月 29日
日本国憲法の秘密-43-
僕とあいつとの出会いは他でもない目の前にいる彼女を介したものだった。
春先の無分別な希望を天気で表したような空が広がる日に、僕はある種の背徳を感じながらコインランドリーにいた。
僕の住んでいたマンションからこのコインランドリーに来るには大通りを抜けてこなければならない。
東名高速や東海道新幹線を「日本の大動脈」と例えることがあるが、道の大小によって大通りを動脈と例えればコインランドリーがあるこの通りは静脈ということになる。
血液は、行く道と戻る道、同じ道を通らない。一方通行。
しかし僕らを町に繋ぎとめるそれらの道は、多くの場合一方通行ではないし、同じ道を帰ることもある。
「日本の大動脈」という例えは、路線の大小や利用者の多さ、経済的重要性のみで決まるのではなく、一方通行であるかどうか、これが何より肝心なのだろうと思う。
同じ方向に進む者しか受け入れない、一方通行とはそういうことだ。
静脈血は栄養も酸素も少ない、これは嘘である。
嘘と言い切るのはいささか極端かもしれない。そうでない場所もあるのだ。

大学前の街路樹の新緑は確かに美しかったし、木漏れ日は生命感に溢れていた。
僕はそこを潜り抜け、教会が近くにある間口の狭いこじんまりとしたコインランドリーで、誰かが置いていったであろう週刊マンガを読みながら洗濯物が乾くのを待っていた。


あの頃は確かコンサバファッションというものが流行っていたはずだ。
流行というものに興味も縁もなかった僕が何故そんなことを知っているかと言えば、それもコインランドリーに置きざりにされた雑誌のおかげである。
1960年代がアバンギャルドの時代ならば、1980年代はコンサーバティブの時代。
バブル景気はコンサーバティブへの憧れによって支えられていた。
僕がそう悟ったのも少し後のことになるが、世の中のバブル映像やバブル談義がコンサーバティブからあまりに乖離していて今でも居た堪れない気持ちになる時がある。
コインランドリーの入り口はアグレッシブな自動ドアではなくて手動で開けるタイプだった。
遠慮がちにその入り口が開けられる時、僕はいつも迷った。
視線を上げて入ってくる人を確かめるべきなのか、無関心を装って雑誌に視線を落としたままがよいのだろうかと。

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幸福と興福、降伏と光復

1543年に鉄砲が伝来したという種子島にかつて華蔵山慈遠寺という寺があったという。

種子島最古の本格的伽藍による寺院で、島の領主種子島氏の祈願寺であった。
大同4年(809年)、奈良興福寺の末寺として創建され、長享2年(1488年)に法華宗に改宗する。法華宗の初祖は日増である。


「慈遠寺の由来」の説明板によれば、境内の広さはおよそ4ヘクタールあったとされ、釈迦堂、祖師堂、社壇、拝殿、庫裏、宿坊などが配置されていた。赤尾木浦(西之表港旧港)の背後に位置することから、遣唐使船や遣明船の寄港地・発進地としての役割を持ち、慈遠寺の宿坊には使節団や遠島配流となった人物らが足跡を残した。

寺があったと過去形なのは、明治元年(1868年)の廃仏毀釈により廃寺となってしまったから。
「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。
残存しているのは手水鉢のみだという。

奈良の興福寺というのは、先日載せた絵葉書の一枚に描かれていた場所である。


島津氏に近衛家あり

島津氏は薩摩藩。江戸幕末に公武合体を推進したのは島津久光だった。
島津という氏名のルーツは近衛家の島津荘(大荘園;荘園は私有地のこと)の下司であったことから。

初代島津忠久(鎌倉時代)が薩摩国・大隅国・日向国の3国(初期には越前国守護にも任じられた)の守護職に任じられて以降、南九州の雄族として守護から守護大名、さらには戦国大名へと発展を遂げ、その全盛期には九州のほぼ全土を制圧するに至った。また江戸時代には外様大名・薩摩藩主として存続し、幕末期には雄藩の一つとなって、明治維新の原動力となった。

島津氏は、秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の日向国島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移している。しかし、現在では同じ惟宗氏でも広言ではなく惟宗忠康の子孫とする説が最も有力である。

島津氏はその発祥に近衛家があり強い関連性を持つわけだが、後に血縁関係にもなる。
熊本県知事や総理大臣を歴任した細川護煕氏や日本赤十字社社長や国際赤十字赤新月社連盟会長を務める近衞忠煇氏、さらには現在の天皇陛下もみな親戚である。(こちらにも書きました)
鉄砲伝来時代の島津氏と種子島氏も親戚関係にあった。


近衛家のルーツは藤原氏

近衛家は藤原氏の分家である。元は藤原氏だった。
家名は平安京の近衛大路にちなみ、自邸を近衛殿と称したことに由来するそう。
近衛大路の現在の通りは、油小路通(あぶらのこうじどおり)。


藤原氏のルーツは中臣氏、蘇我入鹿の暗殺に関与した

蘇我馬子の孫である蘇我入鹿と同じ私塾生だった中臣鎌足が、藤原という氏名を貰い藤原鎌足となり、藤原氏族の始祖となった。
なぜ氏名を貰ったかと言うと、当時大臣であった蘇我入鹿を宮中で暗殺するというクーデターを実行したからである。
このクーデターが大化の改新に繋がった。
また最有力氏族の蘇我氏を滅ぼすという目的にも大きく貢献した。(こちらに書きました)

その後、藤原氏が台頭してくる。
また蘇我氏族滅亡計画も続行され、蘇我関係者が次々と不審な死を遂げる。(こちらこちらに書きました)


奈良の興福寺

藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。

藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。

平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。

鎌倉・室町時代の武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。



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by yumimi61 | 2015-08-29 14:09
2015年 08月 28日
日本国憲法の秘密-42-
鉄砲伝来

アメリカでは8月26日朝方に発生した銃事件が話題になっているようだが、日本の鉄砲伝来記念日は8月25日である。
1543年8月25日、九州南方の種子島にやってきた一隻の船に・・・・ 西之表市・歴史と文化・鉄砲伝来
翌年には鉄砲の量産に成功し、またたくまに全国に伝わったそうな。
刀にしても鉄砲にしても、日本のそれは優れていた。武器も武力も確かなものを持っていた。
しかしそれが無暗に悪用されることはなく、庶民に爆発的に広がることもなかった。
もっとも藩によってかなりの差があり、長州藩などはかなり数を保有していたらしい。
また庶民に広がることはなかったと書いたが、農民は害鳥獣駆除のために普通に所有していたらしい。
農江戸時代の一揆では、統治者と農民、双方ともに武器(刀や鉄砲)は使わないという暗黙のルールがあった。
江戸時代というのは治安が良く平和的だったのだ。
勘違いされている鎖国は、実は管理貿易であり、アメリカのモンロー主義のように中国内(周辺)の権力争いには干渉しないという選択的な外交姿勢であった。
優秀な武器や武力は侵略を遠ざけた。

アメリカの銃社会と日本の自衛隊というのは、同じような考えの下にあるのではないだろうか。
規模や護るものや管理体制は違うけれども、根本的には同じような気がする。
電気柵なども発想は同じ。


優先シード!?

アメリカの大企業の大株主として名高い会社「、シード・アンド・カンパニー」。
シードと言えばseed!と思いきや、cedeだった・・。

巨大企業を支配する『シード・アンド・カンパニー』とは(まとめ)
アメリカの中枢を担う大企業の多くに、大株主として君臨しているシード・アンド・カンパニー(Cede & Co.)という謎の会社があります。この会社の業務を調べていくと驚愕の事実が判明。それは『証券全ての所有』でした。

==Name and Address==
CEDE & CO
P.O. BOX 20
BOWLING GREEN STATION
NEW YORK, NY 10274


世界遺産のこと

今年7月、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界遺産リストに登録された。
山口・福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島・岩手・静岡の8県に点在する遺産である。

九州の自治体で遺産登録運動が始まり、当初は「九州・山口の近代化産業遺産群-非西洋世界における近代化の先駆け-」であった。
九州・山口というのは長州藩があったところであり、安倍首相の出身地でもあり、こちらに書いたように「田布施システム」の田布施のある場所としても知られる。

「田布施システム」ではなく「長州システム」と言う人もいる。
明治以降の日本陸軍兵士にとって自らの生命を脅かす「最大の脅威」は、ロシアでも中国でもアメリカでもイギリスでもなく、人命軽視も甚だしい長州陸軍閥がつくりあげた「長州システム」そのものであった。 <日本陸軍兵士の最大の脅威は「長州システム」であった> 

2014年1月17日に閣議にて世界文化遺産への推薦を決定。
8エリア23資産とした上で、1月29日に「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」の名称で正式版の推薦書を世界遺産センターに提出した。
遺産群の中には文化財保護法対象外の稼働遺産が含まれていることから、法的保護根拠の新たな解釈調整が必要となり、国内の文化遺産では初めて文化庁ではなく内閣官房(地域活性化統合事務局)によって推薦が行われた

ユネスコの諮問機関は名称を「明治日本の産業革命遺産  製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業/Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining」にするように提案したという。
韓国との関係が取り沙汰されたが、簡単に言ってしまえば、九州と山口という名称を外すようにアドバイスしたということになる。
7月5日に登録決定。
内閣官房や外務省の発表では、「明治日本の産業革命遺産  製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を正式名称としている。
違いは下線を引いた箇所。
「Iron and Steel」で鉄鋼業を意味するし、steel industryで鉄鋼業だからsteelだけでも通じると思うが、製鉄・鉄鋼(製鋼)と分けた理由は何かあるんだろうか?
鉄鉱石から鋼を作るのが鉄鋼業で、2つに分けるならば銑鉄をつくる前半分の工程が製鉄、銑鉄から鋼を作る後半分の工程が製鋼である。
全部を行うのは銑鋼一貫製鉄所。

・主に九州、山口を中心に進められた日本の近代化は、西洋先進諸国からの積極的な技術導入によって進められ、それらの国と日本における文明の交流を示す顕著な事例であること
・鎖国状態にあった日本において、非西洋地域で初めて、約50年間という短期間で飛躍的な経済的発展を成し遂げた産業遺産群は、その歴史上の重要な段階を物語る建築物をまとまった集合体として捉えることができる顕著な事例であることが評価され、2015年、文化遺産に登録されました。
明治日本の産業革命遺産


鉄の歴史は古かった

日本初の銑鋼一貫製鉄所は福岡県北九州市の官営八幡製鐵所だそうである。
上記世界遺産資産の1つである。
戦争をはじめ鉄鋼需要が増加したこともあって、日清戦争(1894-1895)の賠償金の一部を利用して建設されたと言われている。
1901年(明治34年)操業開始。
まるで日露戦争(1904-1905)に備えての操業開始のようだが、翌年から2年間、つまり1904年まで稼動が停止してしまったそう。とんだ目論み違い?

ただ製鉄の歴史はもっと古い。
日本だったら古墳時代(3~7世紀、201~700年頃)にはすでに刀剣や鉄製品が存在している。
鍛冶屋という人達が作っていたのだ。
従って日本刀の歴史も古い。
鉄砲伝来は前述したように1543年と言われている。翌年には量産したそうだ。
上記の世界遺産名称は「明治日本の産業革命遺産」であるが、明治時代限定の産業革命という解釈でよいのだろうか?


たたら

「たたら」というのは、古い時代の鉄に関連する言葉。
「たたら吹き」や「たたら製鉄」などと呼ばれる手法がある。

世界各地でみられた初期の製鉄法で、製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称。
たたらは「Tatara」で通用する。

これで有名なのが島根県出雲地方。炎の神話・たたら

鉄砲伝来の地・種子島も鍛冶や製鉄の歴史は古いと、西之表市が書いている。歴史と文化・たたらの島
種子島では,昔は製鉄にかかわる一斉の作業を「たたら」と呼称した。おそらく砂鉄の選鉱に、わずかに傾斜し樋状の用水路を使用したと思われ、いつしかその用水路も「たたら」と呼ばれるようになった。この水路を利用する選鉱は後、かんな流しに変わり、大正時代まで続いた。

この「たたら」、漢字がいろいろある。
鑪・踏鞴・多々良・多々羅も「たたら」であり、古くはどの漢字を充てたかの違いにしか過ぎない。
群馬県には1954年まで多々良という村があった(邑楽郡)。
現在は館林市に吸収合併され市町村名としては残っていないが、駅名や中学校名などとして残っている。
また多々良沼という白鳥が飛来することで有名な沼がある。
1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、周辺5村(日向村、木戸村、高根村、成島村、谷越村)が合併し多々良村が成立する。

皇后陛下の本家にあたる正田醤油という会社が館林にあるが、「多々良」はそこからも遠くない場所である。





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by yumimi61 | 2015-08-28 12:06
2015年 08月 27日
日本国憲法の秘密-42-
中国(清)

清は少数派である満州民族が統治していた時代であり、満州民族を快く思っていない漢民族も少なくなかった。
革命によって清の時代に終止符を打った孫文も漢民族であり同様の思いを持っていた。(こちらの記事の「孫文と蒋介石」にも書きました)
日本はその孫文を支援し、さらには満洲を独自に占領するようになったのだから、満洲民族からの反発が強いことは想像に難くない。
一方で日本が満洲を国家として独立させたことは、統一のために戦いを繰り広げてきた漢民族などからすれば面白くないだろうと思う。
満洲事変(日中戦争)に至る前から日本は嫌われ要素満点だったわけである。

アヘン戦争(1840-1842)、アロー戦争(1856-1860)、日清戦争(1894-1895)、北清事変(8ヵ国連合軍との戦争,1900)、清の時代の中国は相次いで戦争に敗北し、多額の賠償金を要求され、不平等条約を結ばされ、散々だった。
中華民国が出来たのは1912年。
国名が変わっても統治者が変わっても、国が存続している以上、借金を帳消しにしてくれるほど債権者は優しくはないだろう。
清は欧州の強国から借金をしていた。
借金(金利)というのは恐ろしいものだということは再三書いてきた。
孫文らがどんな革命を目指していたのか分からないが、債務者である中国には真の意味の自由や平等はないはずだ。


日本(明治~)

明治維新に手を貸したのは外国勢(イギリス)だったと言われている。
九州勢(長州藩や薩摩藩など)に資金や武器の供給があった。
これも何度か書いたが明治時代は借金によって成立した。
この明治期に作られた天皇制に支えられ、富国強兵路線を直走った。
莫大な借金を背負うことになる日露戦争以前にすでに借金を抱えており、「整理」しなければならない状況だったのだ。
それでも勝敗その他、飴と鞭を使い分けられたせいか立ち止まることはなかった。
お金と暴力という飴と鞭を使い分けたせいか、抑止力にはならなかった。
日清戦争(1894-1895)、日露戦争(1904-1905)、第一次世界大戦(1914-1918)、満洲事変(1931-1933年)、支那事変(のち日中戦争1937年から始まり太平洋戦争へと続く)、太平洋戦争(第二次世界大戦,1941-1945年)。
残ったのは利益や力を差し出すことだけだろう。


アメリカ(モンロー主義の崩壊)

1823年、モンロー大統領は、アメリカとヨーロッパの相互不干渉を提唱した。
孤立主義・中立主義を基本とする外交姿勢を打ち出したのだ。
これをモンロー主義と言うが、これが崩れたのが第一次世界大戦(1914-1918年)だった。
群集心理と大衆広報を利用して、結局アメリカも参戦した。(こちらの記事の「戦勝国を勝ち取れ」にも書きました)
アメリカの大きな転換点であり、その後の国際政治に多大な影響を及ぼすことになった。
モンロー主義に決別し、戦争に参加し、国際連盟というモンロー主義とは正反対の組織の設立に関与したウィルソン大統領はノーベル平和賞に輝いた。
「不干渉」「中立」「孤立」「独自」、つまり「個」や「極」を許さないのが現代の世界である。
まさに「いじめ」が起こる状況なのだ。

アメリカを第一次世界大戦に突き動かしたものは何か。
やはりお金、マネーだろうと思う。
アメリカの連邦準備制度(FRB)は第一次世界大戦勃発の前年に設立された。
1907年の恐慌に端を発する。
アメリカは1776年の建国以来、個々の銀行等が米国債や金準備を使って紙幣を発行していた。
しかし、ロンドンでの米銀の手形割引拒否に端を発する1907年恐慌が起き、アメリカ合衆国内の決済システムが混乱した。


ジョージ・コーテルユー財務長官は、金融業界を保護するために、経済の安定を維持する国家主導の十分な能力が必要であると考えた。その対策として、まずオルドリッチ・ヴリーランド法(1908年)でアメリカ通貨委員会を設立。1910年11月22日、ジョージア州沿岸のジキル島にJ・P・.モルガンが所有するジキル島クラブで秘密会議が開かれ、FRB設立について計画が討議された。
ジキル島での秘密会議に始まった連邦準備制度は 1913年12月23日多くの上院議員がクリスマス休暇で不在であった隙を突いてクーデター的に成立した。
こちらの記事に書きました)

日本銀行にしろFRBにしろ、国家の経済の安定化を図る目的に作られる機関が民間企業であるということが何ともかんとも困ったものである。
「国家権力でもって自由に悪事を働くことができずにいいだろう」と言われれば、「そうだね」としか言いようがないのもまた困りものである。


アメリカ(戦争と国債発行とアコード)

第一次世界大戦でモンロー主義が崩壊したとはいえ、アメリカは第一次世界大戦にて勝ち組となった。
開戦当初から参戦していたわけではないことから、資金を貸し付けたり武器を輸出したりして儲けることが出来た。

ところが第二次世界大戦はそうはいかなかった。
アメリカは戦費調達のための国債発行額は膨らんでいった。
1942~1951年、この期間がアメリカの国債発行額が一番大きかった時期である。
1951年というのは財務省とFRBが「アコード」を取り交わした年。

 年度  全財政支出  軍事予算
 ------------------------------
 1941  136億ドル  64億ドル
 1942  351億ドル  256億ドル
 1943  785億ドル  666億ドル
 1944  913億ドル  791億ドル
 1945  927億ドル  829億ドル

財政支出の伸びも凄いが、軍事予算が占める割合も凄い。
国民から不満は噴出しないのかと思うだろうが、アメリカ国内の工業などの産業は戦争によって需要が増えるので潤うのである。
戦争は1930年代の世界恐慌がもたらした不況を吹き飛ばすものであった。
民間企業の経済状態は一時的にせよ好転するのだ。
前にも書いたことがあるが、国家と民間企業の経済状態は必ずしも一致しない。
国の経済を語る時に一番の問題は、この区別が付いていないことだ。
増税でクリアできればいいが、そうでなければ別物と考えたほうがいい。
過去の金利付借金を膨大に抱えているとするならば増税ではどこにも解決できないだろうと思う。
「経済効果」という言葉ほど怪しいものはない。

1945年、アメリカの国債発行残高はGNPの1.2倍に達した。
清とアヘン戦争行う前、1821年、イギリスの国債発行残高はGNPの2.9倍であった。
第二次世界大戦中の国債発行残高も3倍ほどである。
とにかく戦争にはお金がかかる。莫大な資金が必要なのだ。
勝利して膨大な賠償金なり、それに見合う何かを得なければ、たとえ勝ったとしても国家が財政破綻してしまうリスクがある。
現在の日本の国債発行残高はGDPの2倍ほど。
(GDPとGNPという違いが若干あることと、時代が変われば経済規模の大きさや物価が違うので、比率とはいえ一概に比較はできない)
アメリカもイギリスもそんなに借金があったならば日本から賠償金取れば良かったのに。(非国民?)(ご心配なさらずに?)(それもそうだったな?)
兎にも角にも、アメリカもイギリスも「賠償金」を得なかったが破綻はしなかった。
日本もどんなに借金を抱えようとも破綻の心配はしない。

1951年のアメリカ財務省とFRBのアコード(協定)は国債価格維持を撤廃するものであった。
それまで増え続ける国債発行をFRBが買い支えて価格維持するという政策をとっていた。
これを廃止したことによって、FRB独自判断で金融政策が行えるようになった。
だからこれをFRBの独立と言っている。
言い換えればFRBは国家の指示に従わなくてもよいということだし、国家の財務省は金融家の提案する政策を採用せず独自に市場に向き合うことができるということになる。
建前は悪くはないが、こうなれば沢山マネーを持っている者が強くなるだろう。
金融知識や金融界へのコネクションなども重要だと思う。
結果的にFRBの金融調整が重要性を増してしまうのだ。


FRB日本支店

アメリカの国債保有ナンバーワンは日本である。
何年か中国にトップの座を明け渡していたが返り咲いた。
そうは言ってもアメリカの国債も半分から3分の2は国内で買われている。
ナンバーワンが中国やら日本というのは、外国で一番保有している国はどこかという話である。

日本はこのアメリカ国債保有額がほぼ外貨準備高であるが、国債は急に外貨が必要になった時のための備えとしてはいまいちだということを前に書いたことがある。
そこで考えた。
こんなのはどうでしょうか?
FRBの日本支店を日本に置きます。日銀内でもよいでしょう。
FRBはアメリカドル紙幣を製造できます。印刷し発行しています。
FRBの日本支店は日本国内でアメリカドル紙幣を印刷し発行可能となります。
日本銀行は国債という債券を買うために日本紙幣という債券を発行しているという話も前に書いたが、FRB日本支店はアメリカ国債を買うためにアメリカドル紙幣を発行する。持ちつ持たれつ。
これなら外貨準備に国債でも良さそうですね!




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by yumimi61 | 2015-08-27 16:17
2015年 08月 26日
日本国憲法の秘密-41-
消えた胃の内容物

大阪中1遺棄 女子生徒死亡数時間前に食事の形跡 NHK NEWSWEB 2015年8月23日 5時47分

 大阪・寝屋川市の中学1年の女子生徒と男子生徒が遺体で見つかった事件で、女子生徒が夜、死亡する数時間前に食べ物を食べた形跡があることが警察への取材で分かりました。警察は2人がこの日の早朝、男に車に乗せられたとみていて、当日、死亡するまでどのような経過をたどったのか重点的に捜査することにしています。男は逮捕容疑の女子生徒の遺体の遺棄について否認しているということです。

 今月13日夜、大阪・高槻市の駐車場で寝屋川市の中学1年生、平田奈津美さん(13)が遺体で見つかり、21日、同級生の星野凌斗さん(12)が大阪・柏原市の竹林で遺体で見つかりました。警察は寝屋川市の契約社員、山田浩二容疑者(45)を平田さんの遺体を遺棄した死体遺棄の疑いで逮捕し、23日から本格的に取り調べることにしています。
 警察は2人が13日の早朝、寝屋川市の駅の近くで山田容疑者に声をかけられ車に乗せられた疑いが強いとみていますが、その後の捜査で、平田さんの胃の内容物から、この日の午後7時ごろに死亡する数時間前に、食べ物を食べた形跡があることが警察への取材で分かりました。警察は2人が山田容疑者の車に乗せられたあと、当日、死亡するまでどのような経過をたどったのか、幹線道路沿いの防犯カメラの映像も分析して重点的に捜査することにしています。

 警察によりますと、山田容疑者は調べに対し、「車の同乗者が女の子を殴り、その後、遺体を遺棄した」などと供述し、逮捕容疑を否認しているということです。警察は山田容疑者が星野さんの遺体の遺棄にも関わった疑いがあるとみて調べています。

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大阪・中1遺棄 食事与えずに連れ回しか 東京新聞Web 2015年8月24日 朝刊

 大阪府寝屋川市の市立中木田中一年の平田奈津美さん(13)が殺害・遺棄され、行動を共にしていた星野凌斗(りょうと)君(12)も遺体で見つかった事件で、平田さんの胃には内容物がほとんど残っていなかったことが二十三日、捜査関係者への取材で分かった。

 高槻(たかつき)署捜査本部は、長時間、食事を与えられず連れ回された可能性があるとみている。星野君の遺体は、内容物を調べられなかった。

 二人の顔や手首に巻かれていた粘着テープは茶色の布製で酷似していたことも判明。平田さんの死体遺棄容疑で逮捕された契約社員山田浩二容疑者(45)=寝屋川市=が、大阪府柏原(かしわら)市の山中で見つかった星野君の遺棄にも関わった疑いがあるとみて調べる。

 山田容疑者は逮捕容疑を否認していたが、その後、黙秘している。

 捜査本部は二十三日、山田容疑者が除染作業員として滞在していた福島県二本松市の宿舎を家宅捜索。山田容疑者を送検した。

 山田容疑者が、平田さんの遺体発見翌日の十四日、知人に「大変なことをした」と話していたことが知人への取材で分かった。胃の内容物は通常、食後六時間前後でなくなるとされる。防犯カメラの捜査で、平田さんと星野君は十三日早朝、京阪寝屋川市駅周辺で連れ去られたとみられる。

 捜査本部は、山田容疑者が二人を粘着テープで縛り、車内に監禁するなどしたとみて平田さんが死亡したと推定される午後七時ごろまでの足取りを調べる。



食事与えず連れ回しか 大阪・中1遺棄、胃に内容物なし 中日新聞Web 8月24日朝刊

 大阪府寝屋川市の市立中木田中一年の平田奈津美さん(13)が殺害・遺棄され、行動を共にしていた星野凌斗君(12)も遺体で見つかった事件で、平田さんの胃には内容物がほとんど残っていなかったことが二十三日、捜査関係者への取材で分かった。

 高槻署捜査本部は、長時間、食事を与えられず連れ回された可能性があるとみている。星野君の遺体は、内容物を調べられなかった。

 胃の内容物は通常、食後六時間前後でなくなるとされる。

 二人の顔や手首に巻かれていた粘着テープは茶色の布製で酷似していたことも判明した。平田さんの死体遺棄容疑で逮捕された契約社員山田浩二容疑者(45)=寝屋川市=が、大阪府柏原市の山中で見つかった星野君の遺棄にも関わった疑いがあるとみて調べる。

 山田容疑者は逮捕容疑を否認していたが、その後、黙秘している。

 捜査本部は二十三日、山田容疑者が除染作業員として滞在していた福島県二本松市の宿舎を家宅捜索。山田容疑者を送検した。

 また、柏原市の現場近くの茂みで二十三日、黄色のサンダルを回収。星野君が履いていたものかを調べる。


大阪中1遺棄 食事与えず連れ回しか…平田さんの胃に内容物ほとんどなし SANSPO.COM 2015年8月24日 5時2分

大阪府寝屋川市の市立中木田中1年、平田奈津美さん(13)が殺害・遺棄され、行動を共にしていた星野凌斗君(12)=同中1年=も遺体で見つかった事件で、平田さんの胃には内容物がほとんど残っていなかったことが23日、分かった。

 高槻署捜査本部は、食事を長時間を与えられず連れ回されていた可能性があるとみている。胃の内容物は通常、6時間前後でなくなるとされる。星野君の遺体は、内容物を調べられなかった。

 2人の顔や手首に巻かれていた粘着テープは、茶色の布製で酷似していたことも判明。平田さんの死体遺棄容疑で逮捕された契約社員、山田浩二容疑者(45)が、大阪府柏原市の山中で見つかった星野君の遺棄にも関わった疑いがあるとみて調べている。現場近くでは、星野君がはいていたものと似た黄色のサンダルが見つかった。捜査本部は同日、山田容疑者を送検した。


大阪中1遺棄:胃の内容物なし…平田さん 長時間拘束か 毎日新聞 2015年8月25日9時50分

 大阪府寝屋川市の市立中木田(なかきだ)中1年の平田奈津美さん(13)と同級生の星野凌斗(りょうと)さん(12)の遺体が見つかった事件で、平田さんの遺体を司法解剖した際、胃には内容物が何もなかったことが捜査関係者への取材で分かった。

 平田さんと星野さんは、契約社員の山田浩二容疑者(45)=平田さんの死体遺棄容疑で逮捕=の軽ワゴン車で連れ去られたとされる。府警は2人が食事を与えられず、長時間にわたり拘束された疑いがあるとみている。

 捜査関係者によると、平田さんと星野さんは13日午前5時過ぎまで、京阪寝屋川市駅近くの商店街にいたとされる。しかし、これ以降は周辺の防犯カメラ映像で、2人の姿を確認することはできなかった。

 付近では同じ頃、山田容疑者の軽ワゴン車が駅周辺を行き来する様子が別の防犯カメラに捉えられていた。府警は山田容疑者が、13日早朝に駅から別の場所に連れ去ったとみている。

 府警が平田さんの遺体を詳しく調べた結果、胃には食べかすなどがまったく見当たらず、死亡時は空腹状態だったことが分かった。星野さんの遺体は、胃の中を確認できる状態ではなかった。

 一方、山田容疑者のものとみられるシルバーの軽ワゴン車が13日午後、星野さんの遺体が遺棄された大阪府柏原市の竹林方面に向かっていたことが、現場近くの会社への取材で分かった。会社に設置された防犯カメラに映り、府警は24日、この映像を確認した。

 この軽ワゴン車が竹林方面に向かって、会社前の道路を通過したのは13日午後0時45分ごろだった。府警によると、山田容疑者はこの直前の午後0時40分ごろ、会社から西へ約1キロ離れたコンビニ店で、粘着テープ2個を買っている姿が店の防犯カメラ映像で確認されている。府警は竹林周辺の防犯カメラを分析し、山田容疑者の足取りをさらに詳しく調べている。


中1女子、胃の内容物なし=食事与えず拘束か-遺体遺棄事件・大阪府警 jijicom(時事通信社) 2015年8月26日 5時11分

大阪府寝屋川市立中1年の平田奈津美さん(13)と星野凌斗さん(12)が遺体で見つかった事件で、平田さんの胃には内容物がなかったことが26日、捜査関係者への取材で分かった。

 府警は、2人が契約社員山田浩二容疑者(45)=平田さんの死体遺棄容疑で逮捕=の車で連れ去られ、食事を与えられず長時間にわたって拘束されたとみて調べている。
 府警によると、平田さんの遺体は13日午後11時半ごろ、高槻市の駐車場で、星野さんの遺体は21日午後7時35分ごろ、柏原市の竹林で、それぞれ見つかった。
 捜査関係者によると、遺体を司法解剖した結果、平田さんの胃の内容物は確認されなかった。死亡推定時刻は13日午後7時前後とされる。星野さんも同日ごろ死亡したとみられるが、遺体は胃の内容物を確認できる状態ではなかったという。


長時間食事与えず? 胃に内容物なし 大阪・中1遺棄 朝日新聞デジタル 2015年8月26日5時00分

大阪府寝屋川市の中学1年生、平田奈津美さん(13)の遺体を遺棄したとして同市の契約社員、山田浩二容疑者(45)が死体遺棄容疑で逮捕された事件で、司法解剖の際、平田さんの胃に内容物が確認されなかったことが捜査関係者への取材でわかった。府警は平田さんと、竹林で遺体が見つかった同級生の星野凌斗(りょうと)さん(12)が長時間食事を与えられないまま連れ回されたとみて調べている。

 捜査関係者によると、13日午前5時8分、平田さんと星野さんとみられる男女が京阪電鉄寝屋川市駅前の商店街の防犯カメラに映っていた。同11分と17分、山田容疑者の軽ワゴン車に似た車がその近くを行き来する映像もあった。

 府警が周囲の防犯カメラを調べたところ、その後は2人とみられる男女の姿を確認できなかった。2人は商店街で最後に防犯カメラに映った直後、山田容疑者と接触し、連れ去られたと府警はみている。

 司法解剖の結果、平田さんは13日午後7時ごろに死亡したと推定されている。胃に内容物が確認できないことから、平田さんは連れ去られた後にほとんど何も食べていないと府警はみている。

 府警は星野さんも13日ごろに死亡したとみている。司法解剖では、胃に内容物があったかどうかは分からなかったという。

 府警によると、山田容疑者は逮捕当初、「同乗者の男が遺棄した」と容疑を否認していた。現在は黙秘しているという。



消化したんじゃない?

8月12日の夜21~22時頃、自宅近くのコンビニにいたところを目撃されている。コンビニの防犯カメラでも確認されているらしい。
このコンビニでカップラーメンを一本ずつちびちびと食べていたという証言もある。
その後の2人の姿は駅近くの商店街の防犯カメラ確認されたという。
最後に映ったのが8月13日の5時10分頃。
これを最後に姿が消えた。防犯カメラにも映っておらず目撃情報もない。

記事には「胃の内容物は通常6時間前後でなくなるとされる」とあるが、食べた物が胃に停滞する時間は通常は6時間もない。
脂質は停滞時間が長くなるので、ステーキや揚げ物、天ぷらなどであれば、5時間くらい停滞することもある。
バターやラード、マヨーネーズなども停滞時間が長い。
アイスクリームも長めで、3~4時間停滞する。
胃内滞留時間が長い脂質は、逆に言えば長時間空腹を感じさせないということである。


コンビニで食べたカップラーメンは商店街のカメラに映っていた時にはもう胃には残っていない。
連れ去られたのが13日朝5時頃で、死亡推定時間が13日19時頃だとすると、その間は14時間。
胃に内容物がないからといって、連れ去られた後に何も食べていない証拠にはならない。


2年1組22番

1984年10月30日~11月3日、修学旅行で奈良と京都に行った。
その時のファイルが何故か残っていて、2,3年位前に実家から持ってきた。
今日、それを見てみようと思い立った。
だけどなかなかファイルが見つからなかった。
私は青いファイルだと思い込んでいたのだが実際は黄色で見過ごしていたのだった。

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チューリップマークが付いているのが私のコースだったんだろうと思う。
ちなみにチューリップも武士の作曲だ。
奈良と京都に行ったと書いたが、2日目はやや食み出して三重の伊賀上野の忍者屋敷にも行ったようだ。
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宿泊先。
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ファイルの中にこれが入っていた。
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絵葉書セット。5枚くらい入っていたんだろうか。残っているのは3枚。
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イラストは「たかとくみずめ(高徳瑞女)」さんという方。
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最終日は京都の清水寺に立ち寄って帰路に着く。
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「音羽の滝では真ん中の水を飲んできました。」
音羽・・・御殿・・ 星はいつつのてんで描く!?




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by yumimi61 | 2015-08-26 13:53
2015年 08月 24日
日本国憲法の秘密-40-
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出典:内閣官房 「平和安全法制」の概要(PDF)



法律が新設される箇所と新法が設置される箇所に大きな変化があると考える。
それは赤字で記載されている箇所であるが、これを見ても大きく変わるのは、「国際社会に関する事項」であることが分かる。
主目的は自衛隊法や日米安全保障条約の改正ではないのだ。
これらは国際平和支援活動に付随して改正されるようなものである。

一番大きな変更は、「国際連携平和安全活動」の新設である。

「国際連携平和安全活動」とは?
国際連合の総会、安全保障理事会若しくは経済社会理事会が行う決議、別表第一に掲げる国際機関が行う要請又は当該活動が行われる地域の属する国の要請(国際連合憲章第七条に規定する国際連合の主要機関のいずれかの支持を受けたものに限る。)に基づき、紛争当事者間の武力紛争の再発の防止に関する合意の遵守の確保、紛争による混乱に伴う切迫した暴力の脅威からの住民の保護、武力紛争の終了後に行われる民主的な手段による統治組織の設立及び再建の援助その他紛争に対処して国際の平和及び安全を維持することを目的として行われる活動であって、二以上の国の連携により実施されるもののうち、次に掲げるもの(国際連合平和維持活動として実施される活動を除く。)をいう。

国際連合に縛られながらも、「国際連合平和維持活動」以外の「国際連携平和安全活動」が出来るようになるのだ。
「国際連合平和維持軍」以外にも活動に参加できるようになる。
ではそれは誰かというと、「二以上の国の連携」である。
つまり2つの国があって、それが連携すれば、「国際連携平和安全活動」と称する活動が行えるようになる。
安全保障理事会、G8やG7の一致や決議を待たずしても、2つの国が一致し連携すればよいのだから、ハードルが随分と下がる。
これは日本の法律なので1つの国を日本とすれば、もう1つはどこになるだろうかと考えてみる。
そうなった時にまず思い浮かぶのが日米安保で結ばれているアメリカだろう。
従って「安保法制」や「安保関連法案」ということになるのかもしれない。
しかし連携する国をアメリカと限った法律ではないし、赴く先は「周辺」と限っているわけでもなく、武力攻撃された場合に適用すると限っているわけでもない。
その時々によって連携する国が変わることもあり得る法律である。

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宿命と運命

「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」 <安倍首相の戦後70年談話より>

発表される前には喧々囂々たる論議が巻き起こっていた70年談話も、話題になったのは当日(8月14日)と翌日(8月15日)くらいで、その後はどちらかと言えばバカンス(お盆休み・夏休み)気分が勝り、もう半ば過去の話。
でも大丈夫、あと10年もすればまた安倍談話として盛んに話題になるでしょう。(村山談話や小泉談話なんて知ってた?覚えてた?)

私はたまに衝撃を受けることがある。
それは北海道や沖縄の人が「内地」や「本土」という言葉を使っているのを聞いた時。
「内地」や「本土」という言葉は戦争や侵略(植民地)を彷彿とさせる。
この時代に日本国内でまだ「内地」や「本土」なのかと愕然とするが、方言だと思えばいいのだろうか?
ともかく宿命を背負っているのは日本だけではない。
日本の植民地だった土地に生まれた人は「ここはかつては日本の植民地だった」という宿命を背負っている。
北海道や沖縄に生まれた人は「内地ではない所に生まれた」という宿命を背負っているのだし、広島や長崎に生まれた人は「原爆を落とされた街に生まれた」という宿命を背負っているのだ。
ドイツならば「ユダヤ人を迫害したナチスドイツの国」という宿命を背負っている。
同和地区に生まれた宿命。
犯罪者の親元に生まれた宿命。
同性結婚の夫婦の元で育つ宿命。
宿命というのはそういうことではないだろうか。
謝罪を続ける宿命とは何だろう?

「内地」
日本における内地とは、大日本帝国憲法下の日本において、行政上日本本土(本国)とされる地域で、その範囲は共通法1条に定義されている。なお、共通法で内地に含まれない台湾・朝鮮・関東州・南洋群島がいわゆる外地である。

(デジタル大辞泉)
1 一国の領土内の土地。国内。
2 もと樺太・千島・朝鮮・琉球・台湾などに対して、日本の本来の領土である本州・四国・九州・北海道。本土。⇔外地。
3 北海道や沖縄で本州をさしていう。
4 海岸から遠く入った内部の土地。内陸。   


「本土」
日本は島国すなわち領土がすべて島で構成される国である。日本の領土は6,852の島から成っている。
国土交通省は、これら6,852の島に、「本土」・「離島」の2つの区分けを設けている。
北海道・本州・四国・九州・沖縄本島の5島を「本土」、これら5島を除く6,847島を「離島」としている。
ただし、地理学上はこのような区分け・分類はない。
そのため、「本土」の受取り方もさまざまで、北海道・本州・四国・九州の4島を、一般的に「本土」と言う場合もある。また、沖縄本島内では本州・四国・九州を一般的に「本土」と呼ぶこともある。


(デジタル大辞泉)
1 その国の主な国土。属国・離島などに対していう。
2 その人の生まれ育った国。本国。「―に帰還する」
3 仏土。浄土。



中国の攻防

・奉天派(張作霖) ←日本
・直隷派 ← 欧米 ・・・崩壊する
・中国国民党(孫文や蒋介石)と中国共産党(毛沢東や北京大学) ←ソビエト連邦
※張作霖、孫文、蒋介石は来日経験があるなど日本との関係が深く、日本から支援を受けていたことがある。

・奉天派(張作霖) ←欧米 ・・日本の支援から欧米の支援にシフト(満洲で良好な関係を築いていたが、満洲を巡って険悪になる)
                   北京政府の政権を握った。
・中国国民党 ←欧米 ・・共産党の台頭に脅威を感じた欧米が打倒共産党のために国民党を支援する。
                共産党の協力を得て1928年に中華民国統一に成功する。
・中国共産党 ←ソビエト連邦 ・・国民党に弾圧され1927年に内戦に突入する。
                    北京のソビエト連邦大使館が国民党に襲撃されたためソ連は中華民国との国交断絶。


【中華民国】
1912年1月1日、革命家の孫文が南京において「中華民国」の樹立を宣言した。(中華民国臨時政府)
「中華民国」時代をごく簡単にまとめれば、次のようになる。
  ・北京政府(北洋軍閥政府とも言う) 1912年2月12日-1928年6月9日
  ・中国国民党による南京国民政府(国民党時代、蒋介石政権とも言う)1928年6月9日-1949年10月1日
※中国国民党と中国共産党の関係は流動的で、協力した時期もあれば、内戦を繰り広げた時期もある。

1937年12月に日本軍が首都であった南京を制圧。
1940年、蒋介石政権反対派であった汪兆銘が日本軍と組み、蒋介石とは別の「南京国民政府」を樹立した。

1937年より日中戦争(支那事変、大東亜戦争、中国抗日戦争)が始まる。
1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃にて太平洋戦争に突入する。


【満州国】
日露戦争後に鉄道に関連して日本が満洲に進出する。
1931年に満州事変が勃発。関東軍(日本の陸軍だが関東地方の関東ではない)が満洲を占領した。
1932年、日本主導で「満洲国」建国。
これを侵略行為として中華民国が国際連盟に提訴する。
国際連盟は「満洲は中華民国の主権下にあるべき」と判断し、日本はそれが不服で1933年に国際連盟を脱退した。


・蒋介石の「南京国民政府」⇒連合国⇒「中華民国(中国)」として国際連合の常任理事国となる。
・汪兆銘の「南京国民政府」⇒枢軸国⇒終戦で崩壊
・満洲国⇒枢軸国⇒終戦で滅亡

第二次世界大戦後の1946年より、蒋介石の中国国民党(アメリカ支援)と毛沢東の中国共産党(ソ連支援)の内戦が激化する。
1949年10月1日、共産党が主要都市を占領し、北京を首都として共産党による「中華人民共和国」が成立した。
弱体化した中国国民党・蒋介石の「中華民国」政府は台湾に移転。
台湾は日清戦争の後(1895年)に清から日本に割譲された地域であり日本の植民地となっていたが、第二次世界大戦後はGHQが中華民国(中国国民党・蒋介石)に進駐させ、日本による統治から中華民国による統治に入れ替わった。
ただし日本は1949~1969年の長きに亘って台湾を秘密裏に支援 してきたと言われている。
現に東日本大震災の義援金額トップは台湾だった。


「中華民国」(台湾)も「中華人民共和国」も、自分たちが戦勝国である「中国」の政党政府と主張した。
国際連合の常任理事国は「中華民国」であり、また当初国際社会が主権国家として認めていたのも「中華民国」であった。
ところがイギリスは、1950年に「中華人民共和国」を主権国家(独立国・合法政府)として承認する。
ただ国際連合において「中国」の代表権が「中華民国」から「中華人民共和国」に移され、主権国家として承認されたのは1971年のことである。
これにより「中華民国(台湾)」は国際連合から脱退した。台湾の領有は曖昧なまま。


共産党の時代へ

1945年8月15日 玉音放送、終戦。
日本との縁で枢軸国側に付いた「満洲国」と汪兆銘の「南京国民政府」は崩壊する。

1946年2月3日、マッカーサー総司令官が三原則を提示。
1946年2月13日、マッカーサーの部下が三原則をベースに作成した草案(GHQ原案)を日本政府に提示。

1946年、中国にて国共内戦(国民党と共産党の内戦)勃発

1946年、労働組合による労働運動が活発化する。
1946年8月 日本労働組合総同盟と全日本産業別労働組合会議が結成される。
1946年9月 全官公庁労組拡大共同闘争委員会が結成される。

1946年10月7日、「日本政府改正草案」が帝国議会で可決される。
1946年10月12日、政府が枢密院に諮問。
1946年10月29日、日本国憲法の公布。

1947年1月1日、吉田茂首相が年頭の辞で労働組合を非難。
1947年1月9日 全官公庁共闘がゼネラル・ストライキ実施を決定。
1947年1月11日 皇居前広場に4万人集結、全官公庁のゼネスト実施を宣言。
1947年1月15日 全国労働組合共同闘争委員会(全闘)結成。
1947年1月18日 要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。
   全官公庁であるため、このゼネラル・ストライキ実行されれば、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになる。吉田政権へのダメージは計り知れない。

1947年1月31日 ゼネラル・ストライキ中止の井伊放送
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声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進
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1947年2月1日 全官公庁労組拡大共同闘争委員会と全国労働組合共同闘争委員会が解散。

1947年5月3日、日本国憲法施行。
   以後今日まで一度も改正されたことがない。

1948年7月31日 政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。
   マッカーサーが芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示したことによる。   

1948年10月7日、芦田内閣総辞職。
1948年11月2日、アメリカ大統領選挙。

1948年12月23日、死刑判決の下ったA級戦犯の死刑が執行された。

1949年10月1日、中国共産党による「中華人民共和国」が成立。

1950年、イギリスが「中華人民共和国」を承認。

1950年6月25日 朝鮮戦争勃発。国連軍をはじめ多くの国が参加し関係した国際的な戦争である。

1951年4月3日 アメリカ財務省と連邦準備制度のアコード。(FRBの独立)

1951年9月8日 「日本国との平和条約」「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」調印。
1952年4月28日 上記条約発効。・・・・・戦争状態終結、主権回復
 条約には「日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない」「それでは危険なので日米安保条約を結ぶ」と記されている。

1953年7月27日 朝鮮戦争休戦。現在に至る。

1954年7月1日、「自衛隊法」施行。
第3条 自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。

1959~1960年 安保闘争
1960年1月19日、「新日米安全保障条約」調印。

1969年3月、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが結婚。

1970年、新「日米安全保障条約」から10年経過、安保闘争。

1970年3月、共産主義者同盟赤軍派がよど号ハイジャック事件を起こす。

1970年4月、ビートルズ解散

1970年9月、PFLPが旅客機同時ハイジャック事件を起こす。

1971年8月15日、ニクソン大統領がドルと金の交換停止を発表(ニクソンショック)。固定から変動相場へ。

1971年10月25日、国際連合の中国の代表権が「中華民国」から「中華人民共和国」に入れ替わる。

1972年1月、連合赤軍による山岳ベースリンチ大量殺人事件発生。
1972年2月19日-28日、あさま山荘事件発生。

1972年2月21日‐28日、ニクソン大統領が中国を電撃訪問し毛沢東主席と対談。共産党政府が事実上承認された。

1972年5月、日本赤軍がテルアビブ空港乱射事件を起こす。
1973年7月、PFLPと日本赤軍の混成部隊がドバイ日航機ハイジャック事件を起こす。
1974年1月、日本赤軍がハーグ事件を起こす。
1974年10月、佐藤栄作元首相がアジア初の ノーベル平和賞受賞者。
          受賞には国連大使だった加瀬俊一(妻がオノ・ヨーコの祖父の娘)の裏工作があった。
1975年3月、日本赤軍がクアラルンプール事件を起こす。







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by yumimi61 | 2015-08-24 12:35
2015年 08月 23日
日本国憲法の秘密-39-
埋め立てて埠頭を作るにはどれくらいの土砂が必要だろうか。
その土砂は幾何の生命を救ったのだろう。
失われた生命はいかばかりか。
背中がじっとり汗ばんでくるのが分かる。
太陽が西に傾き、海風が途絶えていた。夕凪だと思った。
風がそよとも吹かない夕凪を油凪と呼ぶことがあると知ったのは確か湾岸戦争の時だった。
油にまみれた水鳥に「海が水ではなくて油で出来ていれば良かったのにね」と私が言ったらあの人は大層驚いていたけれど、最初からそういうものならばきっと誰も何の違和もなく受け入れていたはず。
存在とはそれほど絶対的なものなんだと思う。
北と南の間にも凪があるとするならば、今この場所がそうなのかもしれない。

「今日はありがとう。私こっちから帰るから」
彼に言った。
「えっなんで?」
「なんでって・・うーん・・あっそうそう森に用事があるの」
「森?」
「そうそう森」

彼は少し困ったような顔をしてからにっこり笑って言う。
「こっちのほうが近道。それに早くて遠くまで行けるよ」
そしてまた私の腕を掴んで反対側にずんずんと歩いた。
熱さなのか痛さなのか分からないが、上手く処理できない思いが体の中に流れるのを感じた。
風が無い時には走れば風が生まれるなんてもう言わないんだよ。
なんで水族館なんかに来てしまったんだろう。

半ば朦朧とした意識の中で彼の声を聞いた。
私が水族館のことを考えていたって伝わったのだろうか。
「世界には400ほどの水族館があるらしいよ」
意識が現世に引き戻される。
「それって多いの?」
「日本の水族館がそのうちの20%くらいを占める。どう?」
「多いー」
「人口比で一番。なんでだろう?」
「海に囲まれた島国なのにね」
私は咄嗟に高台にある公園を思い出した。雄大な川の流れを望める公園。
海の無い県に育った私は自分の存在を疑ったことがあまりない。
ここが何処でわたしが誰かなんてことを疑ったことがなかったのだ。 
住む場所を変えても疑うほどの変化は起きなかった。

「海に囲まれた島国だから・・かもしれないね」
「ん?」
「水族館が多い理由」
それは海に近くて魚を捕獲しやすいとか、海水を利用できるとか、そういう類の理由ではなくて、なんていうかもっと精神的なこと、心の拠り所を求めるような。
「不安なんじゃないかな。目の前に海が広がっているのに魚が見えないっていうことが。海の近くに住んでいるのに魚のことを知らないっていうことが怖いんじゃないのかな」
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by yumimi61 | 2015-08-23 14:33
2015年 08月 22日
日本国憲法の秘密-38-
「幻とは存在するものなのか、それとも存在しないものなのか、ってこと?」
「存在か・・」
彼女の疑問に対して僕は質問を返し、それに対する彼女の回答は肯定も否定もしないものだった。
透明なグラスに注がれた無色の水をしばらく眺めてから、それをゆっくり手に取り、喉元に落とした。
冷えた水が咽頭から食道を通過していく。
「ニューヨークは存在が確かな街だからね」
彼女は手を止めて、僕を真っ直ぐに見つめた。
僕は急に彼女の信頼を得たような気持ちになったが、それはとても不思議な感覚だった。
何故かってそれはこれから僕が話そうとしていることと矛盾しているように思えたから。

「人種のるつぼって言うだろう。ニューヨークのこと」
最初が肝心、導入が大事、研修で口酸っぱく言われることだ。
だけど実のところ僕は全くそう思っていなかった、期待が大きければ失望も大きくなるものだから。
A good beginning makes a good end.
良い終わりってなんだよ?終わりを望んでいるか僕は。
導入よりも運用が大事、継続は力なり、現実はこうだろうって思っていたんだ。
だけど僕は今少なからず安堵していた。僕はまだ彼女の信頼を失っていない。
彼女はなお先輩の話をひとつして聞き逃すまいとする新人のような真剣なまなざしで僕を見ていた。

「肌の色が一つではなくて、聞こえてくる言語も一つではない。その街で感じるのは自分という個の存在。なぜ人々がニューヨークに惹かれるのか?自分の存在を確かめるということはそれくらい難しいってことなんだろうな。るつぼってさ、物質に熱を加えて溶かす耐熱容器のことだよ?」
「るつぼ・・」
「ニューヨークは人種を溶融する街なのか・・? pot of races、melting pot of racesだよ」
「レース?」
「そう」
僕は深く頷いた。

「ニューヨークはレースのない街?」
彼女の手元にいた魚はとうに息絶えているはずだが、いよいよ生気を失っていくようだった。
「レースっていうのは、カテゴリー内か、あるいはカテゴリー対カテゴリーで行われるものだろう?」
「うん」
「ニューヨークという街はひとつのカテゴリーに括り難いんだろうな。同じになることを端から放棄しているというか」
「自由の街!」
そう言って彼女は、ナイフを持った右手を突き上げて笑った。

ニューヨークの街にもそこかしこに生活が散らばっている。
誰かを形成していたはずの何かを、遠い昔に海の向こうに置いて、まだ手の届く昨日を振り返りもしない。
摩天楼を見上げることも無く、前だけを見て足早に歩く人を思った。
10段ほどの鉄階段があるアパートに暮らしていた彼は、部屋に一人でいたならニューヨークだって東京だって然程変りはしないと言った。

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大人の階段のぼる~♪

1960年代後半、ベトナム戦争が激化し、それに伴って反戦運動も盛り上がりを見せた。
また日本では新日米安全保障条約10年経過となる1970年を目前に条約廃棄を目指す運動も起こった。
しかしながら全共闘の闘いというのはもっと私的なものである。
セクトと呼ばれる党派に属さない学生らの活動である。
現代で言えば「プロ市民」と言ったところだろうか。
体制という旧態依然として権力と欲に溺れた巨大な敵と戦う市民。
または飛び込みでデモに参加するような市民。組織に縛られず出席自由。

1954~1973年は日本の高度成長期である。
戦争が終わって生まれ、高度成長期に育った世代が、大学生となっていた。
1960年と1970年を比べると、大学進学率は倍にもなった。
(全体8.2%→17.1%、男子13.7%→27.3%、女子2.5%→6.5%)
1970年から1975年の5年間の上昇も飛躍的である。全体で27.2%となり、男子だけで見れば41%にもなった。
大学進学率はこの1975年を頭打ちに減少しだし、1975年の率を越えたのは1990年代後半のことである。
「大学生」の裾野が広がったことが一部特権者や知識人への批判を生んだのだろう。

全共闘運動は、本館封鎖とバリケードストライキという実力行使を伴う闘争であることがその特徴なのだという。
時期的には1968年~1969年。
大学の不正経理に端を発した日本大学の闘争と、医学部のインターン制度に端を発した東京大学の闘争が中心となった。
とくに東京大学のそれは学生と国家権力との闘いになり、大学という枠を超えていった。


東大紛争

1946年~1968年までは、医学部学生は医学部を卒業してもインターン教育を修了しないと医師国家試験を受験できなかった。
インターン生は診療訓練ということで、無給にて劣悪な環境な中、酷使されたという。

1967年、東大医学部のインターン生が立ち上がった。
これが東大の全共闘のきっかけとなったのである。
インターン制度完全廃止を要求して医師国家試験ボイコット運動を展開した。
実際にこの年の医師国家試験は受験生3150人のうち405人しか受験しなかったという。
これを受けて翌年1968年に医師法が改正され、インターン制度は廃止された。
大学卒業後すぐに医師国家試験を受けて医師免許を取得することが可能になったのだ。

インターン制度は学生側の不満だけでなく制度的な問題もあった。
医師免許を持たない者は法律的に医療行為を行えない。
医学生であっても医学部を卒業しても、国家資格を受験し合格し医師免許を得なければ、医療行為は出来ないのである。
その医学生やインターン生に訓練と称して医療行為を行わせることは法律違反であるし、一たび何かあれば結果は重大となる。
その結果や責任を無給で負わなければならないとするならば、やはり負担は大きいだろうと思う。

1968年の法改正によって、医師免許取得後に、臨床研修として上級医の指導の下、臨床経験を積む卒後教育(臨床研修)が制度化されたものの、努力規定であって義務ではなかった。
これはこれで問題で、臨床研修を受けずしても免許を持っているだけに正々堂々と医療行為が行えてしまう。
2004年に義務化された。


東大医学部インターン生の自問自答

インターン生は被害者から加害者になる可能性があった。
可能性と言うか、医師免許のない医療行為は法的にはすでに加害者なのかもしれない。

それは戦争観にも重なっていった。
平和運動は被害者意識に支えられている。特に日本ではそれが顕著である。
召集令状によって戦地に赴くことを強制された。年端もいかない若者が特攻で死んだ。
街に降る爆弾の雨、終いには原爆。
酷い目に合わされ続けたという被害者意識が平和への願いの根幹にある。
日本は戦争を仕掛けたことはないのか、国民も戦争に積極的だったことはないのか、間接的にしろ直接的にしろ日本も戦争に加担しているのではないか。
その挙句の「アメリカの戦争に巻き込まれたくない」はあまりに「一国平和主義」すぎるのではないか。
そんな自問自答があった。

「先ず隗より始めよ」ではないけれども、自分達はこれでよいのかという内省的模索が「自己否定論」に繋がっていった。
大学に寄りかかった学問や研究で自己を肯定することは、平和運動や学生運動が嫌い、自分自身が嫌悪した権力の中に生きることに他ならぬではないか。

東大紛争、全共闘の始まりは、ある意味誠実で謙虚なものだったのだ。
これが利用されたというか、変質していった。
自己否定論の登場以降、新左翼は「社会的弱者との連帯」を掲げて反差別闘争に力を入れるようになった。(自己否定論


1969年5月30日、東大教養学部にて、三島由紀夫と全共闘の討論会が催された。
三島由紀夫もまた「自己否定」的な考えを強く持っていたのだ。
だから東大の全共闘に「風穴を開けたことは評価している」と言ったのだろう。
ただ「自己否定論」とともに全共闘が掲げた「大学解体論」には賛同できなかったのだと思う。
暴力を否定しなかったのは、現実的にそれ以外に立ち向かう術がなかったからである。
力による現状変更は許さないと言うけれど、力によっても現状変更しなかった現実が横たわっていた。
あるとすれば、それは言葉だと思っていたに違いないが、そこに希望を見ていたのだろうか、それとも絶望を見ていたのだろうか。






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by yumimi61 | 2015-08-22 12:10
2015年 08月 21日
日本国憲法の秘密-37-
私達のマークを作ってみました。(私達って誰やねん?)

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憲法9条の罠にはまる

国際連合に加盟申請したのが1952年。
日ソ共同宣言(鳩山一郎首相が署名)を経て、日本の国連加盟が承認されたのが1956年。
「アメリカの戦争に巻き込まれる」と日米安全保障条約に反対するならば、なぜ「国際連合の戦争や武力行使に巻き込まれる。アメリカと行動を共にさせられるのではないか」と国連加盟に反対しなかったのだろうか。
国際連合憲章には軍事措置の実施や国や地域よりも国連を優先させることがあることが明記されているのに、何故これだけがスルーされたのか。

その1つの要因は日本国憲法にあると思う。
日本は戦争に敗北し占領下にあり主権がなく武装解除されていたにも係わらず、第二次世界大戦の講和条約である「日本国との平和条約」(1951年)、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(1951年)、「国際連合加盟」(1956年)、こうした条約よりも先に日本国憲法を制定施行した。
そしてその9条には「戦争の放棄」という文言が踊っていた。
この9条が他を見えなくしてしまったのではないだろうか。
曰くつきの9条。
解釈で誤魔化すことが出来る条文であることを知っていたがゆえに、(国際連合主導の)新日米安全保障条約では7条で解釈にまで踏み込んだ。
もしも日本政府が誤魔化す側ならば、本心では憲法9条など問題ではないと思っていても不思議はない。

新日米安全保障条約の調印(岸首相が署名)は1960年。
安保闘争は労働運動や学生運動の流れの中で行われたものであり、こう言っては語弊があるかもしれないが反対運動には格好の材料だったと思われる。
政党はもちろんのこと、労働組合も全学連も共産主義者同盟(ブント)も安保闘争のために結成されたわけではないのだ。
その前、1957年に在日米軍の兵士が群馬県相馬が原演習地(現 相馬原駐屯地)にて日本人主婦を射殺ししてしまうという事件(ジラード事件)が発生し、裁判権に関する事なども含めて反米感情の高まりに繋がった。


1970年の安保闘争

激化した安保闘争だったが、新日米安全保障条約が強行採決され批准されると、あっさりと終焉を迎えた。
全学連の主流派が日本共産党から離れてブントを結成し、結成後まもなく巻き起こった安保闘争を先端で牽引したが、条約が批准し発効するとブントも解体を余儀なくされた。
燃え尽き症候群みたいなものだろうか。

1960年から10年経過の1970年。
これ以降は新日米安全保障条約を終了することが可能となる。
よく更新という言い方をするが更新時期が決められているわけではなく、1970年以降はいつでも終了したい旨、通告できる。

ブントが復活したのは1966年のこと(二次ブント)。
それだけが目的ではないはずなのに、安全保障条約に向けて結成が繰り返された。

しかし1970年の安保闘争の中心にいたのは全学共闘会議(全共闘)だった。
とはいっても、こちらも安保闘争が主目的ではなかった。

1968年から1969年にかけて日本の各大学で学生運動がバリケードストライキを含む実力闘争として行われた際に、ブントや三派全学連などが学部やセクトを超えた運動として組織した大学内の連合体。略して全共闘(ぜんきょうとう)。

全共闘は各大学等で結成されたため、その時期・目的・組織・運動方針などはそれぞれである。中でも日大全共闘と東大全共闘が有名である。東大全共闘では「大学解体」「自己否定」といった主張を掲げたとマスコミが伝え、広く流布した。「実力闘争」を前面に出し、デモでの機動隊との衝突では投石やゲバルト棒(「ゲバ棒」)も使われた。特定の党派が自己の思想や方針を掲げる組織運動というよりは、大衆運動との側面があったともされる。大学により、個人により、多様であったと言える。


各地の大学では「70年安保粉砕」や「安保条約破棄」をスローガンとして掲げ、デモなども全国で展開されたが、1960年の安保闘争ほどの盛り上がりは見せず、安保闘争が激化することはなかった。
条約の下で10年平和に暮らせば、人々はそれに反対したり破棄する意味を見失う。要するに世論に支えられることもなかったのである。
1970年に限らず、その後いつでも通告の上で条約を破棄することはできる。条約の条文を読んでいれば分かることだ。
反対運動をしたいならばすればよかった。でもそれもしなかった。

1970年の時は佐藤栄作首相。岸首相の実弟。
岸首相は安倍首相の祖父であり、佐藤首相は安倍首相の叔父である。
日米安全保障条約の節目に立ち会う一家なのか!?





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by yumimi61 | 2015-08-21 13:14
2015年 08月 20日
日本国憲法の秘密-36-
よみうりだった・・・(感無量)



1945年8月15日 玉音放送、終戦。

1946年2月3日、マッカーサー総司令官が三原則を提示。
1946年2月13日、マッカーサーの部下が三原則をベースに作成した草案(GHQ原案)を日本政府に提示。

1946年、労働組合による労働運動が活発化する。
1946年8月 日本労働組合総同盟と全日本産業別労働組合会議が結成される。
1946年9月 全官公庁労組拡大共同闘争委員会が結成される。


1946年10月7日、「日本政府改正草案」が帝国議会で可決される。
1946年10月12日、政府が枢密院に諮問。
1946年10月29日、日本国憲法の公布。

1947年1月1日、吉田茂首相が年頭の辞で労働組合を非難。
1947年1月9日 全官公庁共闘がゼネラル・ストライキ実施を決定。
1947年1月11日 皇居前広場に4万人集結、全官公庁のゼネスト実施を宣言。
1947年1月15日 全国労働組合共同闘争委員会(全闘)結成。
1947年1月18日 要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。

   全官公庁であるため、このゼネラル・ストライキ実行されれば、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになる。吉田政権へのダメージは計り知れない。

1947年1月31日 ゼネラル・ストライキ中止の井伊放送
-------------------------------------------------------------------------------------------------
声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進
---------------------------------------------------------------------------------------------------

1947年2月1日 全官公庁労組拡大共同闘争委員会と全国労働組合共同闘争委員会が解散。

1947年5月3日、日本国憲法施行。
   以後今日まで一度も改正されたことがない。

1948年7月31日 政令201号によって、国家・地方公務員のストライキが禁止された。
   マッカーサーが芦田内閣に書簡を送り、公務員のストライキを禁止するよう指示したことによる。 
  

1948年10月7日、芦田内閣総辞職。
1948年11月2日、アメリカ大統領選挙。

1948年12月23日、死刑判決の下ったA級戦犯の死刑が執行された。

1950年6月25日 朝鮮戦争勃発。国連軍をはじめ多くの国が参加し関係した国際的な戦争である。

1951年4月3日 アメリカ財務省と連邦準備制度のアコード。(FRBの独立)

1951年9月8日 「日本国との平和条約」「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」調印。
1952年4月28日 上記条約発効。・・・・・戦争状態終結、主権回復
 条約には「日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない」「それでは危険なので日米安保条約を結ぶ」と記されている。

1953年7月27日 朝鮮戦争休戦。現在に至る。

1954年7月1日、「自衛隊法」施行。
第3条 自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当るものとする。


戦後の労働運動

1936年(昭和11)に42万人いた労働組合員は、戦争の勃発で労働運動が禁止され、解体されていたが、戦後に進駐したGHQ/SCAPは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認していた。第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、1946年(昭和21)には国鉄労働組合が50万名、全逓信(郵政)従業員組合が40万名、民間の組合は合計70万名に達した。これらの勢力がたびたび賃上げを要求して、新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。

11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘(全官公庁労組拡大共同闘争委員会)が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。ここで挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。
(多くの労働組合を指導していたのが共産党だった)

GHQは民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、共産党を脅威に感じるようになる。
ストライキは在日米軍への影響も大きく、軍事的な危機を招きかねないと判断するも、GHQ総司令官であったマッカーサーはアメリカ大統領選へ出馬予定だったため、民主主義の象徴のような労働組合を取り締まることはアメリカ選挙選には不利な材料となった。
そのためマッカーサーは動けないであろうとも思われていたが、要求期限前日の1947年1月31日についに動く。

午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令。伊井委員長はGHQによって強制的に連行され、NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表した。


GHQを解放軍として自分達と同じ思想を持つと思っていた日本共産党は、この事実をなかなか受け入れられず迷走した後、暴力革命路線へ転換することになった。
労働組合は日本社会党への支持へ傾いたこともあり、共産党は一層孤立した。

関係性の変化。

日本の労働組合―GHQ=共産党  ⇒  日本の労働組合(社会党)×GHQ(アメリカ)×共産党 (×は対立関係)
                                社会党・共産党×全学連×GHQ(アメリカ)



全学連(全日本学生自治会総連合)の台頭

学生運動は戦後に始まったわけではなく、もっと古くからあるものである。
日本では大正時代に始まった。
運動の中心となるのは活動家と呼ばれる学生であるが、高等教育を受けられる者は限られており、明治時代に大学が次々に設立されるようになっても、大学進学率は僅かでしかなかった。
社会全体の中の学生、青年期にある者の中で大学に進学している者が元々少数なわけだから、その中で活動に没頭する者となれば超少数となるであろう。
従って学生運動も労働運動に連動していた。

ところが上記のように1947年1月31日に大規模なゼネラル・ストライキがGHQによって阻止された。
これが学生に失望を与え、主体的活動へと駆り立てることになった。

全学連が誕生した直接のきっかけは、GHQの打ち出した「国立大学の地方自治体委譲案」であった。
国立大学といえど国家が全て権限を握るのではなく、大学が所在する地方自治体(都道府県)に権限や権利を任せようというものである。
これにも猛反発があった。
特権を失うことや地方や大学の自立を恐れた人達がいたのだろう。
反対を受けて文部省が代案を発表した。
「大学管理法案」
各国立大学に学外者9名、教授代表3名および学長からなる管理委員会を組織し、これに学長、学部長、教職員の任免権をはじめ財政運用等にかかわる一切の権限を与えようとするもの。
アメリカの州立大学の管理方式に似ていることから「大学理事会法案」とも呼ばれた。
合わせて国立大学の授業料の3倍値上げ案も発表された。

学生はこれに猛反対した。
1948年6月1日、5000人が日比谷音楽堂に集まり、「教育復興学生決起大会」を開き、デモを行った。
また全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、一斉ストライキを決議する。
私立大学もこれを支援し、全国113校20万人の学生がストライキを決行した。
1948年9月、大学生自治会の全国的連合組織として全日本学生自治会総連合を結成。全国の国公私立145校30万人が参加。本部は東京大学内に置かれた。


ここですでに争点がぼやけている。
学生らはいったい何に反対だったのだろうか?
GHQの提示した「国立大学の地方自治体委譲案」か、文部省が発表した「大学管理法案」なのか?
それとも「授業料値上げ案」か?
授業料は安いに超したことはないと思うが、学生運動に身を投じていられたような学生は金銭的にそれほど不自由する家庭に育ったわけではないはずだ。
そうだとすると大学が国家の権限から外れることに猛反発したということになる。
「私達は国家の権限内にいたい!地方自治体なんてとんでもない!学外者も嫌!」こんな感じだろうか?


リスタート

全学連は1955年7月に開催された日本共産党第6回全国協議会(六全協)までは日本共産党の強い影響下にあり、反レッド・パージ(1950-1952年)、全面講和運動(1950-1951年)、朝鮮戦争反対(1950-1953年)などの闘争を行い、次第に暴力革命路線に傾いていった。
しかしその暴力革命路線は一般的な学生の支持を遠ざけることになる。
そこで共産党指導部は方向転換をし、それを決議したのが六全協だった。
これを境に全学連と共産党の対立が表面化する。
1956年、全学連は他の社会運動から独立し学生独自の立場で平和と民主主義を実現しようと再出発する運びとなった。

再出発した全学連は、左翼である日本共産党系の日共系(代々木派)、それに対立する新左翼の反日共系(反代々木派)とに分裂する。
代々木派という呼称の由来は、日本共産党の党本部の最寄駅が代々木駅だったからだそう。ただし党本部の住所は代々木ではなく千駄ヶ谷。
日本共産党東京都委員会が代々木駅近くで住所も代々木。

全学連の主流派は反日共系であった。
1958年には共産主義者同盟(ブント)が結成された。学生主体による新左翼組織のブント結成は世界初と言われている。
活動は安保闘争で激化した。
これがやがて多数の党派に分裂する。新左翼の党派間でしばしば対立し、内ゲバ(内部ゲバルト;暴力行為や武力衝突)が発生した。
赤軍派や連合赤軍はここから生まれた。


「反日」って実は「反日本共産党」だったりして

「反日」という言葉はよく聞くが「反日本」という言葉は聞いたことが無い。
反日とは日本に対する反感、反発的・反抗的な態度と思い込んでいるが、そのルーツは反日共(反日本共産党)だったりすることはないのだろうか?
もしそうならば、反日とは新左翼組織のことである。
右翼対左翼という構図ではなく、左翼内の話となる。
近親憎悪という言葉もあるが、憎しみというのは近く親しい関係にあるものほど深くなりやすい。狭い範囲で起こりやすいのだ。




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by yumimi61 | 2015-08-20 13:11