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2015年 12月 31日
日本国憲法の秘密-145-
ここはやっぱり「愛は盲目」と言うべき?(昨日言うべきだった?)

1918年に婚約した皇太子(後の昭和天皇)と久邇宮家の1番目女子「良子女王」は、結婚への障害を乗り越えて1924年1月26日に結婚した。
前述の「宮中某重大事件」、それに「関東大震災」(1923年9月1日)も発生したことから延び延びになり、6年目にしてやっと結婚に漕ぎ着けた。

婚約辞退を迫った山縣有朋と協調姿勢をとっていた当時の首相・原敬は、1921年11月4日に暗殺された。
山縣も追うように1922年2月1日に亡くなった。
こちらの記事の「第一次世界大戦時の日本の首相」のところにも書いたが、原首相は第一次世界大戦終結時の首相である。
第一次世界大戦の講和会議と条約への調印は原首相の時に行われたことになる。
1921年11月4日、東京駅で18歳の鉄道労働者の若者に刺殺された。
原首相は栃木県の足尾銅山の副社長に就任していたことがあったそうだが、その若者の父親は足尾銅山の技師であったという。
無期懲役の判決を受けるも恩赦により1934年に出所。
1937年に神戸モスクでムスリム(イスラム教徒)となり、以降の消息は不明であったという。



初代首相(1885年12月22日)から原敬暗殺(1921年11月4日)までの歴代首相。
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1.伊藤博文 周防国(現山口県) 長州藩閥  ・・・唯一の帝国大学(後の東京大学)創設
2.黒田清隆 薩摩国(現鹿児島県) 薩摩藩閥
3.山縣有朋 長門国(現山口県) 長州藩閥
4.松方正義 薩摩国(現鹿児島県) 薩摩藩閥
5.伊藤博文 2次  ・・・日清戦争
6.松方正義 2次
7.伊藤博文 3次
8.大隈重信 肥前国(現佐賀県) 肥前藩閥 ・・・東京専門学校(後の早稲田大学)創設者、政党「憲政党」総裁
9.山縣有朋 2次
10.伊藤博文 4次   ・・・政党「立憲政友会」総裁
11.桂太郎 長門国(現山口県) 長州藩閥 ・・・日露戦争
12.西園寺公望 山城国(現京都府) ・・・「立憲政友会」総裁
13.桂太郎 2次
14.西園寺公望 2次
15.桂太郎 3次
16.山本権兵衛 薩摩国(現鹿児島県) 薩摩藩閥
17.大隈重信 2次  ・・・政党「立憲同志会」(桂新党)総裁、第一次世界大戦参戦
18.寺内正毅 周防国(現山口県) 長州藩閥 ・・・朝鮮総監
19.原敬 陸奥国(現岩手県) ・・・「立憲政友会」総裁
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江戸幕府倒幕派であった「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身者が首相をはじめとする要職を独占していた。(藩閥政治)
ここまでの首相で「薩長土肥」でないのは、西園寺公望(12代・14代)と、暗殺された原敬(19代)のみである。
西園寺家は、先日こちらに書いた藤原北家の支流である。
蘇我氏族と天武天皇に繋がったことにより政界で力を持つようになり、藤原兄弟の中でも「藤原朝臣」姓が名乗れるのは不比等とその子孫に限定され、不比等が鎌足の後継者として認められる。
不比等には4人の息子がおり、藤原四家の祖となったが、平安中期項に栄えたのは藤原北家の1家だけだった。
藤原北家には近衛家と九条家が出来て、鎌倉時代に入ると近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立した。
藤原氏族は多数の支流があり、一大氏族となった。

五摂家より家の位は一段下がるが、歴史は古い家ということになる。
但し反蘇我氏族・反倭国でクーデター首謀者である藤原家がルーツなので、倒幕派「薩長土肥」に似た立場である。

西園寺公望は、1919年の第一次世界大戦「パリ講和会議」に首席全権として派遣された。
原首相ではなく、西園寺公望元首相が派遣されたのである。
西園寺公望元首相は天皇家に近く、1871~1880年(22~31歳)の間、フランスに留学していた。
その後の10年の間にも欧州の国で大使を務めている。
その経験が買われたのか、1919年のパリ講和会議に首席全権として派遣が決まったものの、69歳になっていた。
そもそもの決定が遅かったこと、船室(当時は船旅だったんですね~)の改装を待っていたため、日本を出発したのが1919年1月14日だった。(会議の開催は1月18日から)
同伴者は愛人と娘夫妻と、後に首相となる近衛文麿(娘が細川護熙元首相及び国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)会長兼日本赤十字社社長の母親)。

これも上記リンク記事(2015年2月1日)に書いたものだが、その記事には「5項21箇条の要求」についても書いている。忘れもしない、日本人がイスラム国の人質になったと騒いでいた頃のことだ。
近衛家は藤原氏五摂家のひとつ。

初代から原首相までの歴代首相の中では原敬首相だけが毛色が違う。
盛岡藩盛岡城外の岩手郡本宮村(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。後に「平民宰相」と呼ばれる原だが、原家は祖父・直記が家老職にあったほどの上級武士の家柄で、敬は20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入された。徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるため分籍した。彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動をとったことがなかったとされる。

原敬は大隈重信を毛嫌いしていた。
大隈重信と伊藤博文も下記政変をきっかけに対立関係にあった。(政変で有利になった伊藤博文が初代首相に就いたということになる)(国立大学vs私立大学という様相も呈している)
その後、伊藤博文は反大隈だった原敬を立憲政友会に誘った。
日本の大学誕生に貢献したのは伊藤博文だった。昭和時代の千円札の人である。
きっかけは憲法論議が発端となった明治十四年の政変(1881年政変)。
伊藤博文&井上毅 vs 大隈重信&大隈の頭脳であり助言役だった慶應義塾門下生(今風に言えば御用学者)の戦い。
大隈重信ってご存知ですか?早稲田大学の創設者ですよ。つまり後者は早稲田・慶應ペアになります。
その戦いで勝利したのは伊藤ペア。大隈は失脚し政府から追放された。
その翌年に新党を立ち上げて、早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立した。


野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した。

尾崎行雄(相模国・現神奈川県出身)は世界連邦運動に携わった人物である。
日本では(第二次世界大戦)終戦直後に尾崎行雄ら有志の議員が「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出。1948年には「世界連邦建設同盟」が結成され尾崎行雄が会長に、賀川豊彦が副会長となって活動を開始した。また、名誉会長には戦後初の総理大臣東久邇稔彦が、第五代会長には湯川秀樹が就任している。「世界連邦建設同盟」は現在「世界連邦運動協会」と名を変えて活動している
世界連邦政府の実現を求めた著名人の言葉にも掲載あり。

当初大隈重信に付いていた尾崎行雄だったが離反し、伊藤博文に付く。
尾崎行雄や犬養毅は慶應義塾出身者である。
その他、西園寺公望(京都府)、桂太郎(山口県)、原敬(岩手県)は、伊藤博文(山口県)寄りの人物である。

また下記の5人は軍人から首相になった人物で、繋がりが強い。
黒田清隆(鹿児島県;陸軍軍人)、山縣有朋(鹿児島県;陸軍軍人)、桂太郎(山口県;陸軍軍人・台湾総監・陸軍大臣)、山本権兵衛(鹿児島県;海軍軍人・海軍大臣)、寺内正毅(山口県;陸軍軍人・朝鮮総監・陸軍大臣)
松陰神社の記事で桂太郎のことを書いたが、桂は明治天皇の信頼も厚かったようで、首相でありながら現役の軍人であり続けた。

こうやって見ていくと、ここまでの首相で浮くのは、肥前藩(佐賀県)出身の大隈重信である。
晩年(首相に再登板した頃)はそれほど勢いもなく、軍人チームの桂太郎や山本権兵衛に取り込まれていった。(その挙句の第一次世界大戦独断参戦)
結びつき(関係性)がやや弱いのが原敬(岩手県出身)であろう。
不気味なのが西園寺公望(京都府出身)である。
この人達を抜けば、残るは結局「薩長同盟」である。


明治維新は借金から

1863年、八月十八日の政変にて朝廷を支配していた長州藩を京都から追放した。
これは中川宮と薩摩藩の起こしたクーデターであった。
1875年、中川宮は新たに創設された「久邇宮家」の初代当主となった。
昭和天皇の結婚相手の父「久邇宮邦彦王」と、明治天皇の娘の結婚相手「東久邇宮稔彦王」は異母兄弟で、兄弟の父は初代当主の「久邇宮朝彦親王」。

同じ倒幕派であるが、クーデターをきっかけに長州藩と薩摩藩は敵対関係となる。
しかしどちらも自藩だけでは倒幕は困難な情勢だった。
高杉晋作(長州藩)は桂小五郎(木戸孝允と同一人物;長州藩)・井上馨(長州藩)・伊藤博文(長州藩)と共に薩長盟約を模索していた。
土佐藩の脱藩浪人で長崎で亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介によって、1866年3月7日、薩長同盟が結ばれた。
この頃、薩摩藩は武器や艦船を大量に輸入しており、船の購入代金は中央政府である幕府を上回っていた。支払い能力以上の買い物と思われるが、ツケで購入していたのだろうか。(参考:薩摩藩は幕府と対等の海軍・海運のインフラ整備を達成?

主に第二次長州征伐に際し、薩摩が長州に対し物心両面の援助を約するものである。
第一条では長州で戦争が始まった場合に薩摩が京都・大坂に出兵して幕府に圧力を加えること、
第二条~第四条で戦争の帰趨如何に関わらず薩摩が長州の政治的復権のために朝廷工作を行うことを、それぞれ約束している。
第五条では、薩摩が第一条により畿内に出兵して圧力を加えた上でも、橋会桑(一会桑政権)が朝廷を牛耳ったうえで薩摩側の要求を拒むようであれば、彼らとの軍事的対決に至る覚悟があることを長州に対し表明する内容となっている。


※橋会桑(一会桑政権)
幕末京都にて、徳川慶喜(禁裏御守衛総督、一橋徳川家当主)、松平容保(京都守護職・会津藩主)、松平定敬(京都所司代・桑名藩主)の三者により構成された体制。

八月十八日の政変にて長州藩の敵対しているはずの薩摩藩と長州藩が手を組むことで、最大の効果を上げられる。
中川宮もこちら側に付いたと思われ、結局裏切られたのは松平容保(京都守護職・会津藩主)ということになる。


薩長藩でなかった首相

西郷隆盛(薩摩藩)のように反乱した人物もいるが、倒幕から新政府は基本的に薩長同盟で成り立っていた。
久邇宮家と明治天皇は当然のことながら薩長同盟サイドである。

「良子女王」が満洲民族か朝鮮民族ならば問題なかったのだ。
でもそうではなく日本人だった。
「良子女王」の父は久邇宮邦彦王で、母は薩摩藩藩主・島津忠義の娘。
表向きな両親が実際にそのまま両親だったのだろう。
これでは、昭和天皇と良子女王は、異民族になってしまい、子が心配である。
長州藩にとってさらに具合悪いのは、久邇宮(中川宮)と薩摩藩主という長州藩を京都から追放したペアの娘だったということ。
さらには久邇宮と天皇家は親戚となっている。
これではまたいつ長州藩が政界を追放されるかわかったものではない。山縣有朋らは慌てた。

山縣は原を評価し、対抗関係にありながらも内閣総理大臣としての原を支持しつづけ、また影響力を行使しようとしていた。原が暗殺された折には深く嘆いたともいわれる。一方で原も山縣を高く評価し、山縣の影響力を十分承知して巧みに懐柔していった。
だが『原敬日記』では、山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについては嫌悪を表しており、軽蔑の意を込め「あれは足軽だからだ」(実際の山縣は足軽以下の中間出身)と述べている。


伊藤博文も足軽出身である。
革命家というのはとかく「小・弱・低・少」である。
「小・弱・低・少」が「大・強・高・多」を倒すから英雄になれるのだ。
そして同時に多くの革命は「小・弱・低・少」を操っている「大・強・高・多」がいるのである。

山縣に同調していたという首相・原敬の本心はどこにあったのだろうか。
薩長、どちらからも疑惑の目で見られてしまう立場だった。

暗殺された原敬首相の後任は、日露戦争の資金調達に奔走した高橋是清である。
20.高橋是清 武蔵国(現東京都)(選挙区は岩手県) ・・・「立憲政友会」総裁



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by yumimi61 | 2015-12-31 22:18
2015年 12月 30日
日本国憲法の秘密-144-
女王様

昭和天皇は1921年に大正天皇の摂政となり、1926年12月大正天皇崩御に伴い皇位を継承した。
皇太子妃時代の1918年に皇太子妃が内定。皇太子16歳、お相手14歳という若いカップル誕生。
そのお相手は久邇宮邦彦王の1番目女子。

明治天皇は久邇宮家を気にかけていた。

久邇宮家の1番目女子は「良子女王」という。
名は「良子(ながこ)」で「女王」は身位の称号である。
明治以降の日本の皇族の身位はかなり特異的である。

一般的には「王」は国の君主、最高権威(権力)者である。国王とも言う。
女性が君主として自ら王位を有している場合は「女王」(queen regnant)である。
男王の妻である「王妃」(queen consort)は女王ではなく、女王と王妃は区別される。
「王」の上に位置するのが「皇帝」である。1つではなく幾つかの国の最高権威者であるからである。
女性ならば「女帝」である。やはり皇后とは区別される。
大倭国時代も幾つかの国の集合体だったので帝であり女帝だった。

「王」は本来は君主を指す語であるが、漢朝以後、王よりも上級の君主号として皇帝号が位置づけられるようになると、「王」の称号は、皇帝の配下のうち特に高位の者に対して用いられ、諸侯の称号として(諸侯王)だけでなく、皇族男子の称号としても用いられるようになった。そして、魏朝以後、皇族男子としての「王」のうち、特に皇帝と近縁であるなど一定の者に対しては「親王」というさらに上位の称号が与えられるようになり、これが後に日本や大韓帝国に波及した。

日本の女王とは?
現行の皇室典範では天皇からみて直系で三親等以遠の者に与えられる。
以遠というのはそれよりも先(遠い)ということなので、四親等や五親等や六親等など。
他の国では、女性の最高権威(権力)者が女王なのに、日本では周辺の周辺観が漂っている。
他国の女王の地位を貶める作戦なのか、それほどに日本の天皇は凄いということなのか。
世界の先進国を自負しグローバル化を推し進める日本で、誰もガラパゴス化と言わないのだろうか。

皇族とは?
天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)及びその配偶者の総称。天皇を除く、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王の総称である(「天皇」の存在については憲法にも規定が特記され、皇族には含まれない)。

親王・内親王とは?
現在は天皇の嫡出の男子、及び、天皇の嫡男系の嫡出の男子(嫡出子である皇子から生まれた嫡出子の皇孫)である者を親王という(皇室典範6条参照)。また、皇室典範7条には、王が即位した場合には、その兄弟を親王とする特例も定められている。天皇の子や男系の孫であっても、庶子または庶子の子である者は親王とならない。
なお、女性の親王号を内親王といい、嫡男系の嫡出の子であって3世以下(曾孫の代以降)にあたる皇族は王、女王という。

皇室典範6条  嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。


竹田宮や久邇宮など庶子であるが親王であったが、現行では庶子は親王になれないらしい。
また前述したが直系・傍系の考え方や嫡男(正妻の産んだ長男)の定義が皇室は全く違う。
※直系・傍系と親等の数え方はこちらの図を参照してください。
嫡流継承の本家とは直系での継承となる。
長男が本家を継承しても、兄弟が結婚も独立もせず、あるいは結婚後も本家内で同居している場合には、本家の家族となる。
長男が、あるいは兄弟が、本家から出て独立して新しい家を起こせば、それは分家であり新宅となる。

6条に「嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫」とあるが、一般には天皇正妻の産んだ子と、長男の子が、親王と内親王になれると解釈されるのだが、皇室ではそうではない。
皇室の場合、天皇夫妻から生まれた男子、その男子から生まれた男子(天皇夫妻から見ると孫)が親王となる。
天皇夫妻から生まれた女子、天皇夫妻の男子から生まれた女子が内親王となる。
また皇室には男女差別が明らかにある。

今上天皇時代の親王は、皇太子徳仁親王、秋篠宮文仁親王、悠仁親王。
内親王は、紀宮清子内親王(民間の方と結婚して皇族離脱した黒田清子さん)、敬宮愛子内親王、眞子内親王、佳子内親王。
6条を一般的に解釈すれば秋篠宮家の子供は親王や内親王ではない。
また秋篠宮家が独立した分家ならば直系とは言わない。(天皇家と同居という扱いなんだろうか?)
明治・大正時代の天皇それぞれに親王・内親王がいるが、明治時代の場合、全て庶子である(正妻との子・嫡出子は1人もいない)。
一夫一妻制にしてしまうと、事実が隠されてしまう可能性が大いにある。


色盲騒動の真実

16歳の皇太子は14歳の女王と婚約したが、直に騒動が勃発した。
「宮中某重大事件」である。

裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(のちの香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である。

良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見されたのが発端となった。元老の山縣らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫った。
当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になった。1920年(大正9年)6月18日に宮内大臣・波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁・中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめることになった。

良子女王の母・邦彦王妃俔子は旧薩摩藩藩主の公爵・島津忠義の娘であったことから、「旧長州藩出身の山縣は皇室に薩摩の血が入るのを嫌っているのではないか」との憶測が主流を占めていた。
ただしこの事件の発端は、同じ元老である西園寺が、当時注目されていた優生学の観点から、万世一系の皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山縣に相談したことにあるといわれている。さらに公家出身で幕末宮廷の内部事情に詳しい西園寺は、久邇宮家の祖である久邇宮朝彦親王(旧中川宮)が八月十八日の政変などで政治的事件へ干渉したことなどに不快感をもっていたため、この婚儀によって久邇宮家の国政干渉が再現される可能性を危惧していたともいわれる。

最終的には、当の裕仁親王本人の意向で婚約辞退は撤回となる。
一貫して山縣との協調姿勢をとっていた当時の首相・原敬は、この事件でも婚約破棄に関して明確な反対を示しておらず、後の皇太子訪欧における対応とあいまって、国粋主義者から「君側の奸」とみなされるようになる。これが一部の過激派から暗殺の対象として狙われるようになり、原敬暗殺事件の遠因となった。


色盲(色覚異常)の遺伝を恐れて婚約辞退を迫ったということだが、1900年代前半は遺伝子研究途上にある。
遺伝学の基礎にあるのは進化論。生物はどうやって進化してきたのかという疑問である。
生物の形質(性質)はどうやって決まり変化するのか。生まれつき決定している事柄なのか環境で決まっていくのか。
遺伝のイロハが分かっていたわけではない。今だって分からないことばかりだ。
ただ人々は性交し子供を授かり出産し育ててきた。
同じ1人の男性でも女性が違うと子供が全然違う。同じ女性の子供はみなどことなく似ている。母親が色盲だったら子供もそうだった。
そのような実体験や実感を歴史は積み上げてきたのだろう。
同じ民族同士なら異常が少ない、立派な君主の子はやっぱり立派だ、そんな実感が優生学というものを生み出したのだろう。

ちなみに明治天皇の子の異常については、1923年に京都帝国大学小児科教授が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した。
1934年には鉛を使用した白粉の製造が禁止されたが、鉛白入りのものの方が美しく見えるとされ、依然かなりの需要があったという。

昭和天皇は満州民族か朝鮮民族の両親から生まれて上手くいった。
だから昭和天皇の妃となる者もやはり満州民族か朝鮮民族から選ぶことにした。
良子女王は満州民族か朝鮮民族と聞いていたのだろう。
ところが婚約後に「どうもそうではない、日本人らしい」という情報が耳に入ったのだろう。それで慌てふためいた。
真偽を確かめる人物に元満洲鉄道総裁が選ばれたということが、それを物語っている。
長州藩と薩摩藩で血のことが語られているが、違う民族ならもっと大変だ。
ともかく出身にしろ障害の有無にしろ血に拘りがあったことは、この一件からよく分かる。
久邇宮家の出自が怪しいことを知っていた人物もいたようだ。
「君側の奸」は君主の味方のふりをした敵(君主サイド内の裏切り者)ということだから、内側から崩壊することも知っていたということだ。




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by yumimi61 | 2015-12-30 14:52
2015年 12月 29日
日本国憲法の秘密-143-
生粋の江戸っ子(べらんめえ)、生粋のロンドンっ子(コックニー)

九条節子さんの彼女の本名は朱貞明で、中国人か朝鮮人であろうという説も当たっているだろうと思う。
何故かと言えば、明治天皇の子の異常を男女が異民族であるせいではないかと考えたはずだから。
さらに昨日書いた通り、私は天皇の周囲にいる人達が大正天皇の実子に皇位継承させることを望んだとは思わない。
このことから導かれることは、昭和天皇の実父は大正天皇ではないということで、では誰なのかと言えば、おそらく明治天皇であろう。
これまでに散々子を亡くしていたり、望まない性質の子が生まれてしまった明治天皇をあえて何故?と思うかもしれないが、そうであるからこそ、比較対象になる。
同じ民族同士ならば子に異常が出ないのかという学術的な興味が捨てられなかったということも考えられる。
九条節子さんは16歳で嫁いでいるわけだから、最初の1人2人妊娠・出産・成長に失敗しても、やりなおしがきく。
場合によっては方針を転換することもできる。
失敗はしなかった。結婚翌年(1901年)には子が誕生した。
成長にも特に問題なかったのだろう。
同じ民族同士ならば上手くいく、その思いを強くしたことだろう。


遺伝学の基礎となった「メンデルの法則」がグレゴール・ヨハン・メンデルによって発表されたのは1865年のこと。
優性の法則、分離の法則、独立の法則の3つからなる。
メンデルはオーストリア帝国・ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭で、植物の研究を行っていた。
しかしメンデルの法則は当初それほど注目されなかった。
メンデルの法則が再発見され注目されだしたのは、1900年代に入ってからで、メンデルはすでに没していた。
遺伝学的にはまだそんなレベルであったが、親の性質を受け継ぐという考え方はかなり古くからあったと推測される。


反長州藩のふりをした倒幕派

昭和天皇の実父母はともに満洲民族、あるいは朝鮮民族。
さてさてそれを続けるかどうか。

昭和天皇は1921年に大正天皇の摂政となり、1926年12月大正天皇崩御に伴い皇位を継承した。
皇太子妃時代の1918年に皇太子妃が内定。皇太子16歳、お相手14歳という若いカップル誕生。
そのお相手は久邇宮邦彦王の1番目女子。
内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。

明治天皇の成人した4人の娘の1人が嫁いだ先が東久邇宮稔彦王だった。
昭和天皇の結婚相手の父「久邇宮邦彦王」と、明治天皇の娘の結婚相手「東久邇宮稔彦王」は異母兄弟。兄弟の父は「久邇宮朝彦親王」。
先日、2番目男子、9番目男子、13番目男子が出てきたが(聖護院や竹田宮の話)、それらの兄弟と父親(伏見宮邦家親王)が同じである。「久邇宮朝彦親王」は4番目男子。
2,4,9,13番目男子、それぞれ母は違う。

「久邇宮朝彦親王」は1836年に仁孝天皇の猶子となり、翌年に親王宣下。
1838年には僧侶になるため出家。異母兄は聖護院だったが、こちらは奈良興福寺塔頭・一乗院の住職となった。
その後、京都の青蓮院の住職の座に就き、「青蓮院宮」または「粟田宮」と称されるようになったそうな。
日米修好通商条約に反対し、反井伊直弼でもあり、、1859年の安政の大獄で隠居永蟄居を命じられる。
これで「青蓮院宮」を名乗れなくなったため、相国寺(足利将軍家所縁の寺)塔頭の桂芳軒に幽居して「獅子王院宮」と称した。(金閣寺と銀閣寺は、相国寺の山外塔頭寺院)
1860年に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると目出度く復帰。
国事御用掛として京都で朝政に参画。この時期は朝廷を長州藩が支配していた時期である。
1863年には僧侶の道を棄てて俗人に戻り「中川宮」を自称する。

1863年9月30日、八月十八日の政変が起こる。
これは中川宮と薩摩藩、それに京都警備を担当する京都守護職だった会津藩(松平容保)が加わり、長州藩を京都から追放したクーデター事件である。
1864年、「中川宮」から「賀陽宮」に改称。京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所跡地に屋敷が与えられ、賀陽宮家は宮家の列に新しく加わった。

幕府の長州藩征伐も上手くいかず、徳川家も崩壊し、江戸時代は終わりを迎える。
中川宮は徳川の京都守護藩と組んで長州藩を追い出した側ということで、幕府側の公家という立ち位置となっているが、反井伊直弼だったわけで、親幕府(幕府維持側)だったとは到底思えない。

しかし一度は長州藩の敵になったわけで、明治元年の1868年に一旦広島藩預かりとなる。
その後1872年に父親の宮家である「伏見宮」に復籍した。
そして何故か1875年、新たに「久邇宮家」が創設される。初代当主になったのである。
「竹田宮」同様、かなり怪しい宮家の起こり方である。

内側から壊れるというが、彼は旧幕府側の内側に入り込んだ人物だったのではないだろうか。
ただ表向きは長州藩追放クーデターの張本人であるため、明治新政府の中枢には入らず、東京へ移住することもなかった。
公家社会には隠然たる勢力を保ち伊勢神宮の祭主を務めるなどした。
朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり[独自研究?]、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの逸話を持つ[要出典]。還俗してからも子を多く作った。今上天皇以下の皇族は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる。

明治維新の立役者なのに東京にも来られず不憫と明治天皇は思っていたのか分からぬが、久邇宮家を気にかけていたという。


ワンワールドへの布石

明治天皇の娘の結婚相手「東久邇宮稔彦王」は、その経歴が凄い。

世界連邦建設同盟(現:世界連邦運動)名誉会長、第2代会長。
中央情報局(CIA)の日本側協力者の一人。
貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。千葉工業大学の創設者。

第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。

東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。
その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策]を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。


つまり終戦処理総理大臣だったということだろうか。
東久邇宮はそういう役回りの宮家だったんだろう。

(終戦直後)日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は旧日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本の降伏文書に調印がされ、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。

旧日本領や占領地に展開していた現地師団に敗戦や撤退を説得できるのは、日本軍幹部の人間ではなく皇族だったということだ。
それは現地師団が日本軍の指揮下にあったのではなく、天皇直下(皇族指揮下)にあったということの証ではないだろうか。
彼らはまさに天皇のために戦っていたのである。

※世界連邦運動
世界連邦運動(せかいれんぽううんどう、World Federalist Movement、WFM)は、世界の全ての国家を統合した世界連邦の成立を目指す国際的な非政府組織である。
第二次世界大戦末期において成立した国際連合が戦争抑止力の低いことを痛感した世界の科学者・文化人たちが、より強力な世界連邦の形成をすすめることで世界から戦争を無くしていこうと決意し、1946年10月ルクセンブルクで「世界連邦政府のための世界運動」を起こした。この運動にはバートランド・ラッセル、アルベルト・アインシュタイン、アルベルト・シュバイツァー、ウィンストン・チャーチル、湯川秀樹などのノーベル賞受賞者が賛同した。このとき本部をジュネーヴにおいた。


世界連邦日本国会委員会の第15代会長は鳩山由紀夫元首相。




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by yumimi61 | 2015-12-29 11:53
2015年 12月 28日
日本国憲法の秘密-142-
鉛について

以前群馬県の前橋工業高校跡地の土壌汚染について書いたことがある
鉛は基準値の360倍の値だったとか。

鉛は実はとても身近なものである。
鉛中毒は通常,鉛を含む塗料の小片(割れてはげかけた塗料)の直接的な摂取によって引き起こされる。患者は,家の改装時の再塗装の表面処理の際に,こすり取りややすりがけにより生じた粒子の形態で,エアロゾル状の鉛に大量に暴露する場合がある。
不適切な鉛の釉薬をかけた陶磁器は米国以外では一般的であり,特に酸性物質(例,果物,コーラ飲料,トマト,リンゴ酒)に接触した場合,鉛を浸出させうる。
鉛を含む密造ウイスキーおよび民間療法,ならびに,胃または組織中に時々みられる鉛を含む異物(例,弾丸,カーテンまたは釣りのおもり)も,有力な原因候補である。軟組織中にとどまる弾丸は血中鉛濃度を上昇させる場合があるが,この過程には数年を要する。
職業暴露は,乾電池の製造および再利用,銅像制作,真鍮製造,ガラス製造,パイプ切断,ハンダ付けや溶接,溶錬,陶器または色素の制作の際に起こりうる。
一部の民族的な化粧品ならびに輸入のハーブ製品および薬用草は鉛を含み,移住民社会において鉛中毒の集団発生を引き起こしたことがある。加鉛ガソリン(米国以外の国において)の蒸気を,中枢神経作用を求めて娯楽的に吸入すると,鉛中毒を来す場合がある。
MSD 鉛中毒より>

健康に障害を来たすかどうかは、一般的には使用量(接触量)による。(個人差ももちろんあるだろう)
電気製品を製造するのに欠かせない「ハンダ付け」も鉛を使用する作業である。
そのような鉛を扱う作業は、労働安全衛生法に基づいた鉛中毒予防規則に則って鉛健康診断を行うように定められている。
ハンダ付けに関しては鉛を取り除く技術開発も行われてきた。
Panasonic ism 5000年の歴史を塗りかえるモノづくり技術 ~鉛フリーはんだ~
上記記事の中にこのように書かれている。
みなさんは、工場での基板のはんだ付けがどのように行われているかご存じだろうか?
まさか、工場の片隅で職人風のおじさんがはんだゴテを持ってはんだ付けしていると思っている人はいないだろう。だが、ロボットが手際よく1か所1か所はんだ付けしているのでは? と思っている人はいるかも知れない(現に私がそうだった!)。だが、実際にはフルオートメーションの流れ作業である。


記事が書かれた時、あるいは書いた人が見学した場所ではそうだったかもしれないが、世界のソニーでも工場のラインで高卒の若い作業者がはんだゴテを持ってはんだ付けを流れ作業の中で行っていた。
工場の片隅で技術開発部門の人達がはんだゴテを持って、ああじゃないこうじゃないと作業することもあるだろう。
(鉛を扱う人に対しては比較的軽めの作業でも鉛健康診断の対象としていた)
「実装」と呼ばれる部門(周囲と区切りあり)ではラインのハンダ付け作業者より遥かに多くの鉛や有機溶剤を扱っていた。

鉛フリーはんだと含鉛はんだでは特性の違いがあり、完全に置き換えるまでには至っていないのが現状であり、鉛フリーはんだと言っても完全に鉛を除去することは不可能とも言われる。
さらに技術力や資本力に差があるとなれば、全企業、全世界に同じものを求めるには無理がある。
コスト削減との兼ね合いは難しい。


人間だもの?

昨日リンクした大正天皇の記事(お写真あり)の著者が、庶民的な人間天皇である大正天皇に御腦が云々とは!と憤っていたが、人間の定義はどうあるべきなんだろうか?
遺伝子的なことであるべきか、見てくれであるべきか、それとも心あっての人間と言うべきか。

日本ではほとんど知られていないが、ギフテッドと呼ばれる子供達がいる。

ギフテッドは、英才児、優秀児、天才児などと和訳されているが、日本では、そのような子供を「飛び級できるような賢い子」という一面でしか捉えられておらず、誤解が生じている。そのため、本項では、英才児、優秀児、天才児などと和訳せず、「ギフテッド」と呼称する。
ギフテッド (gifted)は、贈り物を意味する英語の「ギフト (gift)」 が語源であり、神、または、天から与えられた“資質”、または、遺伝による生まれつきの「特質」と言える。「ギフテッドの才能を伸ばす」という言い方はできる。しかし、「こうすればギフテッドになる」とは、言わない。

ギフテッドは、早期教育において、他人よりも、早く多く習得する先取り学習によって、ギフテッドに成長するようなことはない。ギフテッドは、自ら、常に、多様な「知的刺激」を切望して満たし、自分の好みの学習方法で、自分の興味のある分野を極めて深く掘り下げて、探求する傾向にある。  ギフテッドは、そのため、結果的に同年者より先のレベルに到達することが多い。ギフテッドは、教育熱心な保護者主導で、幼児教室に通わせる。または、業者の教材を子供に買い与える、受動的な早期教育とは一線を画する。


知られていないどころか、誤診されてしまうことがある。
自分でカウンセラーなり精神科を訪ねたというならともかく、そうではなくて心理テストや普段の行動などからの誤診は質が悪い。

日本の現状は、ギフテッドの社会認知がいまだ希薄である。
ギフテッド教育がさかんな諸国では、ギフテッドが、発達障害、注意欠陥・多動性障害(ADHD)や自閉症、強迫性障害、アスペルガー症候群、気分障害 の気分変調性障害、 鬱、双極性障害などに誤診され社会問題となっており、注意が呼びかけられている。
一般的なギフテッドの社会認知は進んでいても、医療関係者や教育者のギフテッドに関する知識不足によりギフテッドが誤診されやすい傾向が指摘されている。
不必要な処方薬の摂取は、ギフテッドの才能や能力を鎮圧させてしまう。薬の摂取をやめ、教育などで知的深究心を満たさせると誤診された症状が改善するという報告もある。


例えば日本の学校の先生や教授が個人的に欧米の教育に理解がありギフテッドの知識があったとしても、その学校がそうした子供を受けいれるかどうかは全く別の話である。
また知識や理解があっても実際のところ見極めは難しい。一目で見抜けるなんてことはまずないだろう。
従って机上の空論になりやすい。
早期教育を施し海外に行って飛び級したような子をギフテッドと呼んでいたりする。

ギフテッドの人間には異常なほどの熱情、並外れた集中力、一般人とは一風変わったふるまいが見られる。これは多動性障害、双極性障害、自閉症スペクトラムやその他の心理的障害の兆候に似ているが、ギフテッド教育の専門家はドンブロフスキの「積極的な分離」(w:en:Positive Disintegration) という人格形成理論をしばしば引用する。積極的な分離理論の中核をなすのが、刺激に対する並ならない反応(OE Overexcitabilities 過度激動)である。これは神経の感受性が増すことによって通常の人間よりも刺激を生理的に強く経験する性質であり、ギフテッドの特徴である。

近年これに似た感じのHSPがネットを中心にして知られだした。
HSPは、Highly Sensitive Person(とても敏感な人)の頭文字。
『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』(エレイン N. アーロン著 講談社/ソフトバンク文庫)で紹介された新しい概念である。
アメリカでは5人に1人が該当し、日本人はもっと多いだろうとか言われているので、ギフテッドよりは多そうだが、その差が分かるのかどうかは疑問。

5人に1人ということは20%だけれど、多いとみるか、少ないとみるか?
5人に1人という謳い文句はよく使われる。
「日本人の5人に1人が不眠」「日本人の5人に1人がうつ病」「5人に1人が認知症になる」「日本人男性の5人に1人が結婚しない」「日本の妊婦の5人に1人が帝王切開」「日本人の5人に1人が糖尿病」「在日韓国・朝鮮人の5人に1人が生活保護」などなど。
日本人や在日云々言うということは民族によって違いがあると考えている証拠ではなかろうか。
普通とは違う人がいて、さらにそれは民族によっても違いがあるとなれば、これもまた難しいですね。

傷つきやすい、動揺しやすいあなたはHSPかも?敏感過ぎる、繊細すぎる人たち(まとめ)

繊細だとか敏感だとか社会不適応と言うと、人間関係ばかりに注目してしまいがちだが、実は人間関係ではなく、関係性関係なく人間が怖いという人達がいる。
それはもう虫が怖いというのと同じレベル。
病的虫嫌いは虫恐怖症?
上記リンク記事ではトラウマや環境のせいでなるらしいと書いてあるが、そうでない人もいる。
なんで恐怖なのか自分でも分からない状態。理由なき反抗とでも言おうか。それとも遺伝子レベルで許容できないとでも言えばいいのか。
目に見えるところに、自分のすぐそばに、虫がいる状態、人間がいる状態が耐え難いといった感じ。
虫の場合は種類関係なくほとんどの虫がダメなことが多い。
一方、人間の場合は、大丈夫そうな人間か大丈夫そうな場・空気かをそれこそ敏感に感じ取る。


コウノトリ伝説

1900年、大正天皇は20歳の時に結婚する。(天皇即位は1912年)
お相手は16歳の九条節子さん。(後の貞明皇后)
九条は藤原氏から出た五摂家のひとつ。
現在の迎賓館は大正天皇が皇太子時代に東宮御所として建設されたものを改修したもの。

こちらにも転載したが、九条節子さんは実は日本人ではなかった説がある。
彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。

夫妻は4人の子に恵まれた。
1901年、1902年、1905年、1915年生まれ。
1901年に生まれた子が昭和天皇となった。
結婚翌年には最初の子が誕生しているせいか、大正天皇は側室を置かなかった。

しかしどうだろうか。
大正天皇の兄弟姉妹の多くは早くに亡くなってしまった。
大正天皇も少々普通とは違うと見做されていた。
その違いが良いものとして受け止められていたふうはない。
庶民ならともかく、大日本帝国を背負っていく天皇である。
何も手を打たず自然にまかせていたとは到底思えない。
富国強兵の時代に「赤ちゃんは神からの授かりものですから」、そんな呑気なことを言っていただろうか。(人間らしい皇太子だったから言っていたかも?)

※コウノトリ
中国東北部(満州)地域やアムール・ウスリー地方で繁殖し、中国南部で越冬する。渡りの途中に少数が日本を通過することもある。

※怨念~鶴舞う形の群馬県~
日本にはタンチョウのほかに、2種のツルが生息しています。冬、ロシアや中国から西日本に渡ってくるナベヅルとマナヅルです。江戸時代には北海道から九州まで広く生息していましたが、明治時代になると、乱獲や生息環境の悪化によりその数は減少しました。この危機に山口県周南市や鹿児島県出いずみ水市で保護活動が始まり、現在はナベヅル約1万羽、マナヅル約3千羽が国内で生息しています。
しかし、一方で新たな問題が生じています。保護区を設置し、給餌や田んぼの水はりによるねぐらの創出を行なっている出水市に、現在、世界の約90 %のナベヅル、約50 %のマナヅルが集中し、越冬しています。約800 ha の干拓地に1万羽以上のツルが集中することで、農業被害が発生すると共に、感染症の蔓延や突発的な事故が起きた場合、一度に大量のツルが死んでしまう恐れがあります。
日本野鳥の会 一極集中する越冬地より>




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by yumimi61 | 2015-12-28 13:22
2015年 12月 28日
日本国憲法の秘密-141-
一条ゆかり世代(一条さゆり世代?)

一条美子さん(昭憲皇太后)」は明治天皇の子を生まなかった。
明治天皇は7人の側室(典侍・権典侍)を置いて、5人の側室が合わせて15人(男子5人・女子10人)を産んだが、成人した男子は大正天皇ただ1人であった。
大正天皇の実母は権典侍(女御や典侍より位が下がる)であった柳原愛子さん。

明治天皇の側室(典侍)の1人・園祥子さん。
彼女は1人で8人(男子2人・女子6人)の子を生んでいる。半分以上はこの人の子ということだ。
しかし4人は幼少期に亡くなっている。成人したのは女子4人。

先日嫡流(本家)のことを書いたが、皇族の場合は天皇家が嫡流(本家・直系)となる。当主は天皇であり、特別な事情がない限り長男(皇太子)が継承していく。
天皇の長男(皇太子)以外の子などが当主になった家を宮家と呼ぶ。
一般的に言えば、分家や新宅である。私の親戚の伯母は日常的に分家のことを「新宅」と呼んでいた。
秋篠宮など「〇〇宮」は宮家の当主に与えられる称号であるが、宮家は世襲制で継承できる。

園祥子の産んだ娘は軒並み(成人した女子4人全て)宮家当主に嫁いでいる。
その1つに竹田宮がある。

「伏見宮」の邦家親王(後に伏見宮を継承し当主となった)の9番目の男子。
9番目男子の母は正妻・妃ではなく側室。従って庶子である。
その子が1858年に仁孝天皇の猶子となり親王宣下を受ける。(猶子は養子のことだが養うことや財産分与が主目的ではなく、権威や権力の増強、継承維持などが目的)
父の邦家親王も光格天皇の猶子となって親王宣下を受け、皇位継承候補になったことがある。

明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗る事は出来なかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に世襲親王家の当主などの、天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった。

つまり天皇家は古くから正妻の長男が継承する嫡流継承ではなかったということである。

9番目男子の異母弟(13番目男子)は、1860年に孝明天皇の猶子となり、2番目男子が住職を務める聖護院(皇族・貴族が住職を務める寺院)に入り、1866年に親王宣下を受ける。
しかし2番目男子は明治維新の際に僧侶の道を棄てて俗人に戻り、「聖護院宮」を自称する。
2番目男子はその後、内国事務総督・海軍総督などに就任する。
13番目男子も明治維新の際に僧侶の道を棄てて俗人に戻り、「照高院宮」を自称する。
1868年47歳で2番目男子が亡くなった後、13番目男子が15歳で「聖護院宮」を継承する。
1870年に聖護院と区別が付かないということで、「北白川宮」に改称する。北白川宮初代当主は13番目男子。
しかし13番目男子も1872年17歳で亡くなってしまう。
それを継承したのが9番目男子。

こうなると猶子は親王宣下も後付ではないかという感じがする。
明治維新のごたごたに乗じて、「聖護院宮」や「照高院宮」を勝手に作ったっぽく、さらに改称までして上手く初代当主に納まっている。

北白川宮の2代目当主となった9番目男子の1番目男子(1882年生まれ)が、「竹田宮」初代当主になった人物である。
1番目男子と言えども、母は北白川宮の正妻ではないので、やはり庶子である。
しかし1906年に明治天皇より「竹田宮」の称号を授かり、明治天皇の側室・園祥子さんの娘を妻とする。
日本オリンピック委員会(JOC)会長の竹田恒和氏や明治天皇の玄孫として売り出した竹田恒泰氏は竹田宮の子孫である。

直系でも嫡出子でもないし、宮家の起こり方もおかしい。
日本の伝統と言われているものは、そのようなものなのだ。
そのような伝統を維持し、そのような人達を尊びながら、社会的に妾(愛人)や婚外子(非嫡出子)が公に承認されなかったり差別されたりしている現状はいたく不比等不平等である。


元祖セクハラ発言被害者?

満州族から連れてきた子を天皇に据えたので、後は血の繋がりを大事にすれば後生安泰万々歳、のはずだった。
ところが天皇の正妻が子供を産まない。いきなり調子が狂う。
彼女が何をしたかと言えば・・・
社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈恵医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。
「天皇の妻にそんなことを望んでいませんから、どうぞ天皇の子を産んでくださいまし」とかなんとか言われたか知らないが、産まないのではなく産めないのならば仕方ない。
子が出来ない哀しみが社会事業に走らせたのだろうか。
ともかく世襲制であるからして、子が出来ないことには困る。
明治天皇は7人の側室と子作りに励んだ。
生まれた子にも不幸が続き、結局男子は1人しか残らず選択の余地なく皇位継承者に決まった。
それが大正天皇であるが、大正天皇も生まれてすぐに重い病気に罹ったと言われている。
今で言う、ADHDのような感じだったのだろうか、突飛な行動が目についたらしい。(大正天皇のお写真あり


優生思想

大正天皇は即位数年で公務が困難となり、1921年に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を摂政に任命した。
若干20歳の若者に大日本帝国が託されたわけである。
大正天皇は1926年12月25日(クリスマス)に47歳で崩御したということだが、死の原因となった病名や死因は発表されていない。
明治と昭和の天皇の誕生日は国民の祝日として残っているが、大正天皇の誕生日はだけは残っていない。
大正天皇を軽んじているように思われても仕方がない。
最高権威者である天皇といえど、成果主義が適用される。国を率いて戦争を行うような天皇が後世に名を残す。
世襲でただ天皇に就いただけでは軽んじられることもあるということだ。
敗戦後に象徴となった天皇の評価はいかほどだろうか?

明治天皇の子として産まれた15人のうち、成人したのはたった5人。
そのうちの1人が大正天皇で、残り4人が宮家に嫁いだ女子である。
死因はみな慢性脳膜炎であり、大正天皇も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだという。
1923年、京都帝国大学小児科教授の平井毓太郎が脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症であるとの研究成果を発表した。禁裡院(皇居)中の女子は、鉛あるいは水銀を原料とする白粉を用いたから、皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果であると推定された。平井の発表に先立つ1907年の段階ですでに含鉛白粉の害は上流階級や有識階級の間で周知の情報となっていたとされている。

明治天皇が子作りに励んでいた頃にはまだ原因が分からなかった。
しかし周囲も「何かおかしい」と思って原因を考えてみるだろう。
その時に何を思うだろうか?
民族が異なる男女の子作りは相性が悪いのかもしれない、そう考えるのではないだろうか。
明治天皇と女達は民族が違ったということである。
優生思想の原点は優秀な子孫を増やして優秀な民族国家を作ろうということではなく、同じ民族でないと相性が悪く、子供が出来ない、子供が健康に生まれない、子供が普通とは違う、子供が育たないとの考えにあったのではないだろうか。

植物では奇形や病気による異状を利用して新品種を生み出す。
普通ではないことや異常が価値あるものになるのだ。要するに優秀と劣等や平凡は裏腹の関係にある。
ハーフに憧れる日本人は結構いると思うが、それは普通の日本人とは違うからであるし、数的にも少ないからである。
しかし例えばハーフの場合は病気になる率が非常に高いと聞けばどうだろうか?躊躇したり敬遠したりする人も出てくるだろう。
違いや希少性に価値を見れば憧れや貴重な存在になるが、野菜のように揃った物や使い勝手が良い物が優れているとなれば違いや希少性は価値にはならない。むしろ歓迎されぬ物である。
奇形なく揃った虫食い跡のない野菜を多くの消費者が望むからだ。消費者が望まない物では商売にならない。







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by yumimi61 | 2015-12-28 10:52
2015年 12月 26日
日本国憲法の秘密-140-
広瀬川流れる岸辺~

明治天皇の正妻(皇后)は一条美子。後の昭憲皇太后。
明治天皇とともに明治神宮の祭神になっている。
左大臣・一条忠香と、その側室(妾)・新畑民子の間に生まれた子である。


新畑民子は一条家に仕えた医師(典医)の娘であり、医師である民子の父親はの氏名は「新畑大膳種成」と伝わっている。
ここで不思議に思うのがその氏名である。
本来の名は新畑種成だと思うのだが、ミドルネームのように間に「大膳」と名が入っている。
思い出すのは大膳職。

膳職(だいぜんしき)は、日本の律令制において宮内省に属する官司。和訓は「おおかしわでのつかさ」。朝廷において臣下に対する饗膳を供する機関である。
大宝律令以前は膳職という官司であったが、大宝律令制定時に、天皇の食事を掌る内膳司と饗膳の食事を掌る大膳職に分割された。ただし、主食については大炊寮が掌っており、大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当した。『養老令』によれば、醢(肉や魚を塩辛状にしたもの)、醤・未醤(みそ)などの調味料、菓(くだもの)、雑餅(雑穀などの餅製品)などを供給し、管下の組織として菓・餅類を扱う「菓餅所」と醤・未醤を扱う「醤院」が設置された。

『延喜式』神名帳によれば、延長5年(927年)頃の大膳職には御食津神社・火雷神社・高倍神社の3社が祀られていた。


新畑大膳種成は医者ではなくて大膳職だったのではないだろうか?
さては養老と養命酒が一緒くたになってしまったか・・。
養老令(養老律令)は大化の改新にて大宝律令に続いて制定された基本法令。
医療や食事のことだけでなく、刑法をはじめ、あらゆるものを網羅した法令である。

養命酒は、日本産の薬用酒である。製造元に残る伝承によれば、慶長年間、信州伊那郡大草領(現在の長野県上伊那郡中川村大草)に住んでいた庄屋の塩沢宗閑翁が、雪の中で倒れていた老人を助けた。この老人が塩沢の元を去るときに、礼として薬用酒の製法を教えてくれたものが養命酒の起源だという。1602年、「養命酒」の名で製造開始。1603年には徳川家康に献上され、そのときに「飛龍」の印を使うことが許されたという。日本初の商標ともいわれている。

養老と言えば、養老乃瀧を思い出しますね?
学生時代には折々よく使いました。(お酒は二十歳からですよ!)
前橋市の千代田町界隈にあったのだが、今はもうない・・。
千代田町界隈にはライブハウスもありましたね。群馬の伝説のライブハウス!?「前橋ラタン」。
その後、住吉町に移転しましたが、それもいまは営業していない・・・。
住吉町には「楽屋」という飲み屋さんもありましたね・・・・。(お酒は二十歳からですよ!!)

前橋RATTAN
前橋市千代田町
雑居ビル2階
でした。
現在、
交番がある場所。

ぐんまの音楽史 前橋ラタン回顧録 Vol.2

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<写真:前橋ラタン回顧録 Vol.6より>


こちらの写真、交番の隣の太陽です。


天皇の料理番

今年TBSで『天皇の料理番』というドラマを放送していた。
あれはオリジナルのドラマではなくて、小説をベースにしていて、これまでにもドラマ化されたことがある作品である。

『天皇の料理番』(てんのうのりょうりばん)は、1979年に出版された、杉森久英による小説。2015年までに、3回テレビドラマ化された。
宮内省大膳職司厨長(料理長)を務めた秋山徳蔵の青年期から主厨長になるまでを描いた作品。秋山の実際の経歴をもとにしているが、細部はフィクションであり、実在した秋山との混同を避け、杉森の原作では「秋沢篤蔵」、ドラマ版では「秋山篤蔵」の表記となっている。


官司の1つである大膳職は古くからあるものだが、小説やドラマは明治時代以降の話である。
最初の大膳職は第12代景行天皇の叔父に当たる人物で、天武天皇の時に高橋姓を貰った。

『高橋氏文』逸文によれば、上総国の安房大神(現在の安房神社(千葉県館山市)に比定)がその御食津神(文中では御食都神と表記)であるという。

高橋神社

   【延喜式神名帳】高椅神社 伊豆国 田方郡鎮座
   【現社名】高橋神社
   【住所】 静岡県三島市松本298
       北緯35度5分33秒,東経138度54分57秒
   【祭神】磐鹿六雁命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】康永2年(1343)「伊豆国神階帳」「従四位上高橋の明神」
       寛永元年(1624)12月再建
       明治6年村社
   【関係氏族】高橋氏
   【鎮座地】移転の記録はない
   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社流造
       拝殿
   【境内社】熊野神社・山神社

御祭神の磐鹿六雁命は、第十二代景行天皇の叔父に当たり、その子孫は代々大膳職(宮中の食事を司る職)の長官として宮中に仕えた。天武天皇の御代に高橋の姓を賜り、以後高橋姓を名乗ってきたその一族がこの地に住み、祖神を祀ったのがその起源である。
その後の由緒については、ほとんど伝わらないが、現在の社殿は寛永元年(1624)の再建と伝えられる。


高橋氏族のルーツが大膳職であると考えられている。下記の3番。

高橋の名の由来については諸説あり、同姓には諸流ある。
1.筑後国北部の御原郡の国人一族が高橋氏を名乗る。初め大蔵党の支流。のちに豊後大友氏の支流出身の高橋鑑種や高橋鎮種(紹運)が家督を継いだ。筑後十五城の一つ。
2.安芸国・石見国に勢力を張った国人一族が高橋氏を名乗る。高橋興光の代で毛利元就に滅ぼされる。
3.磐鹿六雁命(後世、日本料理の神として尊崇を集めた)を祖とする古代氏族の一で、膳部(かしわで)氏とも称した。代々内膳司を勤めており、同僚の安曇(あずみ)氏との衝突の果てに家記『高橋氏文』(789年奏上。逸文のみ残る)を奏上したことで知られる。



死後あなたはなんと呼ばれたいですか?戒名で?

明治天皇の正妻(女御であり皇后)・一条勝子(美子)は「一条」姓であったにもかかわらず、入内すると急に「藤原朝臣」となっている。
また出生年も誤魔化したようだ。

慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇の女御に治定。
明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日皇后に立てられた。
この際、天皇より3歳年長であることを忌避して、公式には嘉永3年(1850年)の出生とされた。

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「一条美子女御宣下 女御藤原美子入内立后一件(女御入内備忘定功卿記)」

從三位藤原朝臣美子
右中辨藤原朝臣長邦傳宣
權中納言藤原朝臣公正宣
奉 勅宜爲女御者
明治元年十二月二十八日 中務少輔輔世奉

宮内庁書陵部編纂『皇室制度史料(后妃4)』吉川弘文館所収

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明治期以降の天皇は元号が帝号(追号)となった。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇である。
現在の天皇のことは今上天皇と呼ぶが(あまり使われないけれども)、天皇陛下が亡くなって新しい天皇陛下が即位すれば、平成天皇となるわけである。
天皇陛下は分かりやすい。

分かりにくいのは皇后陛下のほうである。
明治期以降、皇后には諡号(贈名)が贈られることとなっている。
江戸時代最後の天皇・孝明天皇の女御には「英照皇太后」が贈られた。
生前皇后にはならず、死後に皇太后という称号が与えられた。

明治維新以後は、皇太后は先帝の皇后または天皇の母の称号となり、皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)により皇族に含まれ(第5条)、敬称は「陛下」と定められた(第23条)。また、大宝律令以来三后の班位(身位)は太皇太后、皇太后、皇后の順と定められていたが、1910年(明治43年)制定の皇族身位令(明治43年3月3日皇室令第2号)第1条により、皇后、太皇太后、皇太后の順と定められ、皇后を上位と改めた。

称号にはランクが付いている。
1910年に、①皇后②太皇太后③皇太后の順番に決められたそうだ。
 ・皇后は天皇の正妻、最高位の妻。
 ・太皇太后は先々代の天皇の皇后。現天皇の祖母。
 ・皇太后は先代の天皇の皇后。あるいは現天皇の母。

例えば今の天皇皇后両陛下のうち、天皇陛下が先に崩御すれば、皇位は継承されて新しい天皇が即位する。
皇后はご健在でも、新しい天皇の妃が新たに皇后になるので、これまでの皇后は皇太后となる。
皇后と皇太后が生存している状態である。
やがて皇太后が亡くなる。
その時に諡号が贈られるわけだが、最高ランクの皇后経験者は「〇〇皇太后」ではなく、「〇〇皇后」という諡号になるということなのだ。

一条勝子改め一条美子(またの名を藤原朝臣美子)は女御になると同時に皇后(正妻)になったと書かれている。
宮内庁史料にも「入内立后」とある。(宮内庁史料を提示しているところがわざとらしくて怪しすぎるが・・・)
文句なしに「皇后」の諡号を与えられる権利がある。
しかし贈られた諡号は「昭憲皇太后」である。皇后ではないのだ。
制度がよく理解できなかったか・・・あえた外したか・・・・。

昭憲皇太后については、本来皇后が追号であるべきとして、明治天皇と昭憲皇太后を祀る明治神宮が1920年(大正9年)に宮内省に、1963年(昭和38年)・1967年(昭和42年)には宮内庁に追号を「昭憲皇后」に変更するよう申し入れたが、認められなかった。次代の大正天皇の后貞明皇后以降は、「皇太后」として崩御しても生前の最高位である「皇后」の位で追号されている。



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by yumimi61 | 2015-12-26 11:49
2015年 12月 25日
日本国憲法の秘密-139-
藤原氏嫡流系

明治天皇の正妻(皇后)は一条美子。後の昭憲皇太后。
明治天皇とともに明治神宮の祭神になっている。
左大臣・一条忠香と、その側室(妾)・新畑民子の間に生まれた子である。(一条忠香の正妻の子ではない)
美子という名は改名後の名前であり、元は勝子であった。

一条家のルーツは蘇我氏族暗殺に関与して藤原朝臣という氏名を貰った藤原氏族にある。
藤原氏の始祖は藤原鎌足。その二男が藤原不比等。
藤原不比等は政敵・蘇我氏族の女を妻の1人にした。
また他の妻が生んだ娘を天武天皇夫人にした。
蘇我氏族と天武天皇に繋がったことにより政界で力を持つようになり、藤原兄弟の中でも「藤原朝臣」姓が名乗れるのは不比等とその子孫に限定され、不比等が鎌足の後継者として認められる。
不比等には4人の息子がおり、藤原四家の祖となったが、平安中期項に栄えたのは藤原北家の1家だけだった。
藤原北家には近衛家と九条家が出来て、鎌倉時代に入ると近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立した。
藤原氏族は多数の支流があり、一大氏族となった。

近衛家・鷹司家・九条家・二条家・一条家の五摂家は、藤原氏の嫡流系と言われている。
嫡流系は正妻の産んだ長男が継承してきた家系である。いわゆる「本家」「直系」である。
氏族の継承にも嫡流継承と氏的継承があり、後者は氏族の中の最高権威者(または最高実力者)が氏長の地位に就くというもので正妻の長男である必要は無かった。
正妻を1人とすれば、正妻の産んだ長男である必要がある嫡流では家数が増えるなんてことはありえない。本家はずっと1つである。
複数の嫡流系があるとするならば、正妻が複数、あるいは結婚と離婚を繰り返して子を産ませるという裏ワザを使うしかない。(それでも男・夫側から見れば長男は1人しかいないはずではあるが)
氏的継承の場合には、「意見が合わないので家を分けましょう」とか「長男家の負担が大きいので分けて分担しましょう」とか「勢力拡大のために家を分けましょう」ということもあったかもしれない。
ともかく氏族の中に複数の嫡流系があるということは、政略があるということである。


ああ勘違い

嫡流系が複数ある理由として考えられるのが嫡出子との混同である。
嫡出子(ちゃくしゅつし)と嫡流(ちゃくりゅう)・嫡男(ちゃくなん)の違いが分からなかった、あるいは勘違いしており、嫡流を嫡出子の意味として使っていたということ。

嫡出子とは法律上の婚姻関係にある男女の間に生まれた子供である。
一夫一妻制ならば1人の夫と1人の妻の間に生まれた子。生まれた順番や男女の区別はなく、生まれた子はみな嫡出子である。(例え子の父親が本当は夫でないにしても)
非嫡出子は婚姻していない男女の子。婚外子とも言う。
子を認知するとかしないとかいう話を聞いたことがあるかもしれないが、認知は男性が非摘出子として認めるということであって、認知したからといって嫡出子になれるわけでは決してない。
女性は自分のお腹に子供がいるのだから母であることは間違いないが、その相手は正直なところ簡単に確定できない。
「あなたの子よ」と女性に言われても、女性が多くの男性と関係を持っている場合には違うことも考えられる。また策略のための真っ赤な嘘かもしれないのだ。
そうしたリスクや諸事情を分かった上で、「私の子です」と男性が認めるのが認知なのだ。
嫡出子にするためには結婚するしかないが、他にお相手がいるとなればそう簡単に事は運ばない。
もう1つは男性と養子縁組をして養子にすることだ。
本当にその男性の子であっても、男性が認知しないかぎり、戸籍上は赤の他人となる。
女性が認知を拒否した場合、また妊娠出産の事実を告げなければ、やはり戸籍上は赤の他人である。
現代では非配偶者間の人工授精を認めたり、子が生まれるはずのない同性間の婚姻を認めたりするので、尚のこと複雑。
血縁ってなんだろう?
そのうち非配偶者間のセックスによる受精が認められる日が来るかもしれない。

嫡出子と嫡流・嫡男の違いが分からなかったとすれば、それは由緒ある家系の人ではなかっただろう。
古い日本社会に、公家・武家・農家・商家に、馴染みが無かったということだろう。
また嫡出子という考え方は戸籍が導入された明治期以降の考えだと思うので、近現代の人が誤って解釈したということになる。
それはやはり古くからの家系を継承してきたような人ではなかったのだと思う。

代々嫡男の家系である血筋を嫡流という。
ただし、正室が生んだ男子全員を指す場合もある。日本における現行の皇室典範の「嫡男」の語はこの意である。更に明治以後の民法では、かつての正室に相当する妻が生んだ子供を女子を含めて嫡出子と呼称している。




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by yumimi61 | 2015-12-25 13:31
2015年 12月 24日
日本国憲法の秘密-138-
南北分裂

南朝と聞いた時、あなたは何を思い浮かべますか?
奈良県吉野でしょうか、中国の南朝でしょうか、それとも南朝鮮でしょうか。

日本にも皇室が南北2つに分裂した南北朝時代があった。1336~1392年のこと。
鎌倉時代、建武新政時代の後で、室町時代の初期にあたる。
南北に分裂したと言っても、南が奈良で、北が京都。
渡来氏族の漢氏が、奈良の倭国と東大阪の河内で東と西と分類されているのと同じで、狭い範囲のことである。
裏を返せば、それだけこの辺りが重要な地であったということである。

鎌倉時代に幕府に不満を募らせた後醍醐天皇は討幕を試みた。
実際に鎌倉幕府を倒したのは群馬県の武士・新田義貞である。
ただこの両者が企てた倒幕は直接的には関係ない。
新田義貞は義貞で、地元に関係する出来事において幕府の傍若無人な振る舞いに怒りを爆発させた。
それまでは幕府の命令に従っていたのだ。
このことはこちらにも書いた

鎌倉幕府は後醍醐天皇とその一派が元弘の乱(1331年)を起こした際、後醍醐天皇に代わって光明天皇を擁立した。
後醍醐天皇は元弘の乱にて一旦敗北し隠岐の島に追放されたのだった。
そこを脱出し再度戦いを挑んだのが1333年のことで、これが新田義貞の挙兵と重なったのである。
新田義貞が幕府を滅亡に追い込んだので、後醍醐天皇は京の都に復帰した。

上に「ごく短期間を除き天皇が権力を持ったことはなかった」と書いたが、鎌倉幕府が新田義貞によって倒された後の「建武の新政」時代はそのごく短期間の1つである。
後醍醐天皇が実権を持って自ら政治を行う「新政」(親政)を開始した。
このことからも新田義貞は自らが天下を取るために討幕を行ったわけではないことが分かる。

後醍醐天皇の「建武の新政」もそう長くは続かなかった。足利尊氏が離反したからだ。
足利という姓から分かるように足利氏のルーツは栃木県にあり、新田氏とは同祖とも言われている。


足利尊氏は倒幕前から後醍醐天皇に付いており、新田義貞も倒幕後は反幕府だったという御縁から後醍醐天皇に付いた。足利尊氏とも親戚筋である。

足利尊氏が1335年に勝手に京都から鎌倉に移動し、関東にあった新田氏の領地を勝手に没収するなど天皇を無視して好き勝手な振る舞いをするようになる。足利尊氏の離反である。
もともと後醍醐天皇は権力は握ったものの武士の支持は得られておらず、各地に反乱因子を抱えていた。
足利尊氏の鎌倉での振る舞いは武家政権の復活を思わせるものだった。
足利尊氏は、後醍醐天皇の親政から離反しなかった武士のうちでは最大の軍事力を持っていた新田義貞を「天皇の敵だから討伐すべき」と主張するも、天皇は逆に新田義貞に足利尊氏の討伐を命じた。
しかし新田軍は敗北。1336年に足利軍が京都に入り、後醍醐天皇を幽閉し京都を支配した。「建武の新政」は3年あまりで崩壊。
京都入りした足利尊氏が光明天皇を即位させるも、後醍醐天皇は幽閉先を脱出し奈良の吉野に朝廷を置いた。
この時から室町時代に至るまで日本には2つの朝廷が存在することになった。

足利尊氏が擁立した天皇側の朝廷を北朝、後醍醐天皇側の朝廷を南朝(吉野朝廷)という。
京都内における栃木対群馬の対決で、朝廷は京都と奈良に分かれるという、よく考えるとわりと狭い地域での出来事である気がしないでもない。
皇室は南朝を正統な朝廷と認めているそうである。短くとも親政の時代があったからであろうか。
しかしその親政の時代も「建武」という名称が付いていることはどこか皮肉めいているというか、、、それとも後醍醐天皇の人の良さでもあるのか。


奈良と京都、奈良と大阪ではないが、群馬(西)と栃木(東)の東西分裂があった。
栃木の足利尊氏と群馬の新田義貞はともに反幕府として行動し、結果的に京都の後醍醐天皇を助け「建武の新政」を成立させたが、足利尊氏の離反によって、朝廷は京都の北朝(鎌倉幕府・栃木の足利尊氏)と、奈良の南朝(京都の後醍醐天皇・群馬の新田義貞)に分裂した。

南朝の天皇の末裔を保護しているとするならば、長州藩ではなく、群馬だろうと思う。


南朝違い!?

南朝北朝は天皇家(皇室)が2つできたということである。
ただ前述したとおり、日本は天皇が実権を持っていた時代は少なく、武家が主導してきた。
後醍醐天皇は政権も持ったのだが、それも3年で終わった。
ということは、再び武家政権に戻ったということのだ。
室町時代は、新田義貞を破った足利氏の時代である。
北朝があろうが南朝があろうが(2人の天皇がいようが)、政権を握っていたのは足利氏族である。

室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。

九州が関係するのは、足利尊氏が天下を取る過程において新田義貞には勝つが、京都の他の武士勢力に敗れ、一旦九州に下ったからである。
この時に、九州福岡を舞台に、北朝勢力(足利氏)と南朝勢力が戦った。
九州には南朝を支持する勢力が多かった。
ただそれも武将への忠誠から戦うのではなく、有利そうな側に付くという御都合日和見主義であった。
人数は少ないとはいえ、足利氏のベースのほうがしっかりしており、忠臣がいた。
日和見主義なので形勢が変われば臣下も流れる。足利氏は着実に戦うことで、最後は九州勢ほとんどが足利氏の北朝側に付くという事態になった。
こうして足利氏は復活し再び京へ上って天下を取った。


歴史操作

上では南朝北朝を奈良と京都と現代風に述べたが、当時は下記のような名称であった。
南朝は「大和国吉野行宮」。
北朝は「山城国平安京」。

山城国が現在の京都である。
「やましろ」は、古くは「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。
この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている。
延暦13年11月8日(794年12月4日)の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から「山城国」に改称した。これが「城(ジョウ、き)」という字を「しろ」と読む原因となった。 平城京時代の木簡を見る限り「山代国」・「山背国」の表記は並存していたと見られている。


桓武天皇は、現天皇陛下が「桓武天皇の生母が百済の武寧 王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と話されたその人である。

古代の倭国(大倭国・大倭国・日本)の中心は京都ではなく奈良であった。
都(朝廷)を京都に初めて置いた天皇は継体天皇ということだ。
継体天皇も非常に謎多き怪しい天皇である。(この記事この記事この記事に書いた)
継体天皇は九州・百済・高句麗系の人だと思う。

朝廷を京都に置いて、都市計画のもと、本格的に京都を日本の首都に作り上げたのは桓武天皇だった。
桓武天皇の在位期間は781~806年。
これ以降、奈良は次第に廃れてきて、京都が都となっていったのだ。

筒城宮 (京都府京田辺市) - 第26代継体天皇
弟国宮 (京都府長岡京市) - 第26代継体天皇
恭仁京 (京都府木津川市) - 第45代聖武天皇
長岡京 (京都府向日市・長岡京市・京都市) - 第50代桓武天皇
平安京 (京都府京都市) - 第50代桓武天皇から第122代明治天皇

平安京は延暦13年10月22日(西暦794年)の桓武天皇入京以降、日本の首都と見なされた計画都市である。唐の都長安城を意識してつくられ、平安城ともいい、現在の京都市中心部に位置した。明治2年(1869年)に政府が東京に移転して実質的には首都機能を失ったが、その位置づけについては争いがある。平安京が置かれ、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代と言う。

桓武天皇は中央集権に移行した大化の改新から100年後くらいの天皇だが、皇室の威厳をさらに強化するため蝦夷を敵視し大々的に討伐に乗り出した。
当時の蝦夷とは、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称である。
東側の武力を潰しにかかり、さらには反乱が起きないように国軍も廃止した。
残したのは、首都(京都)警備隊と九州辺境防衛隊(防人)だけであった。
この時の九州の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍(反乱派)が白村江の戦いに て唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵と説明されるが、白村江の戦いからはすでに100年以上経過していて納得のいくものではない。

「防人」という呼称を奪いたかったのだろう。先日「東国」をリンクしたが、そこに書かれているように防人は東国にいた。
東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。

奈良時代に限らず、奈良時代前の倭国の中心は奈良であったと考えられる。
奈良時代は710~794年。
平安時代はその後であり、桓武天皇が九州に防衛隊を残したのも後の出来事。
それよりまえに東国に防人はいたのだ。
そして満洲の関東軍は日本の関東地方の関東とは直接関係ない名称である。

平安時代は反乱を必要以上に恐れたため武力を嫌った。国の軍や兵士まで廃止してしまった。
だから平安時代は皇族や貴族の時代といった印象が強い。
しかし実際には天皇家のそばにいた蘇我一族の暗殺に関与した藤原氏が実権を握っていた時代あり、武士が地方各地で力を増した時代あり。その代表は源氏と平氏である。
歴史教科書的には平安時代は江戸時代よりも長いが、政治・文化的な断絶性が高く、分けようと思えば分けられる。
継続して安定していたのは江戸時代のほうである。
平安時代を長くしているのも意図的ではないか勘繰ってしまう。


太平洋の恐怖

明治天皇のルーツが日本でもモンゴルでもなく、中国東北部か北朝鮮付近(満洲~朝鮮半島北部)と思う理由は、明治維新を推進したのが薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(鹿児島、山口、高知、佐賀)の4藩で、明治新政府の主要官職に就いたのもその藩の人物だったからだ。
薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩(鹿児島、山口、高知、佐賀)の人間が東日本の人間を天皇に据えたとは思えない。
DNA欲しさのすり替えだったとしても(輪廻転生でもよいけれども)、環境の違う土地勘のない場所で、誰をどんなふうに探せばよいのか、正直分からないだろうと思う。

それに彼らは密かに世界征服の野望を持っていた。
かつて大陸の広範囲を制覇したモンゴル帝国には憧れもあるが、革命家のような人は「小・弱・低・少」が「大・強・高・多」を倒すストーリーにより惹かれる傾向がある。
従ってモンゴル帝国よりもそれを倒した金朝・清朝(女真族・満州族)への憧れのほうが強くなる。
憧れて同化し、いつかそれを超えてみたいと夢を見る。
相応しいのは自分達だという自負がある。

天皇のすり替えと人物の選定や移動にはブローカー(仲介者)がいたと思う。
それはすでに世界のあちこちを見てきた人達だ。
明治維新には外部に指導者がいたはずだ。彼らが資金も援助した。
それが出来るのはやはり九州・中国・四国あたりの地域だった。

太平洋(の間の行き来)の脅威が現実になりつつある危機感もあった。


宣教師の活躍

当時世界のあちこちに派遣されたのは宣教師である。
列強国の植民地政策に宣教師が果たした役割は大きい。
日本にイエズス会のフランシスコ・ザビエルがやってきたのは1549年。
織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も最初はキリスト教の布教を認めていたし、極端な弾圧をしたわけではない。信者となる者も少なくはなかった。
ただ九州近辺のキリシタン大名と相まって力を持ち始め、神社や寺院を破壊したり(仏教などへの弾圧行為)、長崎などの土地の一部をイエズス会に寄進している事実を把握した後にはキリスト教禁止令を出し、宣教師を追放した。
植民地化を防ぐという意味では妥当な判断であったと思う。

イエズス会は中国でも活動した。
1500年代後半、明時代後半頃より、中国に長期滞在して布教を始め、西洋の文化や技術を伝えると同時に中国文化などを貪欲に吸収した。
中国全土の実測図(皇輿全覧図)を作成したのもイエズス会の宣教師だった。
イエズス会宣教師は自ら姓名を中国名にし、中国の言葉を使い、中国の服装を身につけて中国社会に入り込んだというから恐れ入る。
布教にあたっては中国人の慣習や伝統的儀式を尊重し、孔子の崇拝や先祖の祭祀などの典礼(一定の儀式、儀式作法)も認めた。

ただキリスト教の他の会派からするとイエズス会の方法はやりすぎに見えたようで(あるいは到底真似できなかった)、神への冒涜としてローマ教皇に訴えた。
ローマ教皇もイエズス会の布教方法を否定した。
「それならば来ないで」と中国(清)の皇帝がキリスト教を追放したのは1700年代前半のこと。
それが再び解禁されたのは、1800年代半ば。アヘン戦争(1840-1842年)で清が敗北した頃。
プロテスタントを含め多くの宣教師が清に入り込んだ。
その後、清はアロー戦争(1856-1860年)も戦って敗北する。

黒船日本来航(1853年)、日米和親条約(神奈川条約)締結(1854年)、日米修好通商条約締結(1858年)、ひたひたと太平洋の恐怖が近づいていた。

日米修好通商条約締結(1858年)から14歳の明治天皇が即位(1868年)するまでの期間は10年。




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by yumimi61 | 2015-12-24 13:02
2015年 12月 23日
日本国憲法の秘密-137-
聖地

現在の中国(東北部)と北朝鮮の境界線付近は2000m級の山々が連なる山岳地帯である。
中国東北部はかつての満洲国なので、満洲と朝鮮半島を日本が占領していた時代には日本の支配下にあったと言える。
その中でもちょうど国境に位置する白頭山(長白山)は女真族の聖地とされ、清の時代には皇室を構成する満洲族の聖地としており他民族の立ち入りが制限されていた。
現在でも朝鮮民族のルーツがそこにあるということで、領有を巡る争いがある地である。
白頭山は2744mの火山だということだ。

朝鮮王朝末期の19世紀終わりから20世紀にかけて、白頭山を朝鮮人のナショナリズムの象徴とする運動が生まれ、それ以降、大韓民国や北朝鮮双方の国歌や朝鮮民族の代表民謡であるアリランでも歌われるようになった。過激な韓国人民族主義者が白頭山を自国領と主張するパフォーマンスが行うことがあり、中国を警戒させている。

また抗日ゲリラの聖地でもある。

第二次世界大戦前は、満州国との境界であったことから、白頭山山麓の針葉樹の密林は反満抗日ゲリラの拠点ともなり、しばしば日本軍によるゲリラ掃討戦が繰り広げられた。
金日成は、自分が白頭山を根拠とするゲリラ(パルチザン)の指導者であり、小白水の谷にある白頭山密営で金正日が生まれた、と自称しており、現地では「生家」とともにそのような案内が行われているが、証言などから「金正日ロシア(ソ連)極東生まれ説」が有力となっている。


満洲の抗日ゲリラは中国共産党に吸収された。
前に中国は「中国共産党」と「ロシア革命を起こした過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)をモデルにした国民党」が内戦を繰り広げていたと書いたが、北朝鮮共産党(現在は朝鮮労働党と言う)は中国共産党やソ連共産党の仲間みたいなものである。

1935年、中国共産党中央は、コミンテルンの人民戦線統一戦略に基づき、東北人民革命軍を、あらゆる反日抗満武装団との合作をめざし再編する方針を打ち出した。したがって、共産主義には属さない武装団体も、抗日の一点で一致すれば、共闘し、吸収することをめざすこととなった。


セオリー

以前も書いたように思うが、日露戦争の日本勝利がアラブ社会に与えた影響は大きかった。
それにはおそらくモンゴル帝国の崩壊が重なっている。
極東の国(女真族)が世界規模の帝国を倒したという伝説が生き生きと蘇り、人々の気持ちを高揚させる。
革命のベースにはあるのは、小が大を、弱が強を、低が高を、少が多を、倒す爽快感なのだと思う。
「やられたらやり返す。倍返しだ!」などと言う決め台詞を吐く『半沢直樹』が支持されるのはまさにそうした気持ちからだろう。
ラグビー日本代表が強敵南アフリカに歴史的勝利を挙げてお祭り騒ぎとなるのも同じようなもの。
つまりそれは特別な革命家だけが持つ心情ではなく、誰の心の中にも少なからず存在すると言える。
ロシア帝国に戦争で勝利したのは日本だったが、ロシア帝国を滅ぼしたのは過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)であった。
日本が支持されるならば、過激派ボルシェビキ(後ソ連共産党)が支持を集めるのも当然のことなのだ。

ただひとつ一筋縄にいかないのが、悪と善(正義)という組み合わせである。
「小が大を」「弱が強を」「低が高を」「少が多を」という例に当てはめる場合、「悪が善(正義)を倒す」「善(正義)が悪を倒す」どちらになるのだろうか?
小さく・弱く・低く・少ないのは、悪のほうか善(正義)のほうか。

・『半沢直樹』を例にとれば、「善(正義)が悪を倒す」ことに人々は爽快感を覚えたということになる。
小さく・弱く・低い・少ないのが善(正義)であり、半沢直樹であった。
ドラマを見てないのでよく分からないが、平社員の半沢直樹vs組織幹部といった構図か、弱小組織vs巨大権力といった構図になっていたんだろうか。

・『水戸黄門』も、「善(正義)が悪を倒す」ことに人々は爽快感を覚えてるわけだが、水戸黄門は権力者という設定なので、小さく・弱く・低いほうには当てはまらないと思うが、本来ならば弱い高齢者が頑強そうな悪人を倒すということで、人々は水戸黄門を小さく・弱く・低いほうに当てはめて見ているのだろうか。
それとも権力者は少ないほうに当てはまるので、「少が多を倒す(圧倒する)」と見ているのだろうか。

・爆笑問題の太田さんは芸人の生活保護不正受給問題に関連して、「自分たちが100%正義というようなツイッターユーザーが不快」と述べた。
ツイッターユーザーのほうが「大・強・高・多」だと感じるから不快になるのだと思うが、テレビに出演している自分達が「大・強・高・多」という認識はないのだろうか?

・STAP細胞の狂喜騒動では、小が大を、弱が強を、低が高を、少が多を、倒す爽快感を人々が共有し歓喜した。
発見者や論文の筆頭著者が笹井副センター長など他の人物ではダメだったのだ。
様々な問題が発覚した時に小保方さんを庇った人たちは、小保方さんがまさに「小・弱・低・少」に見えたのだろう。

・悪党はなるべく少数で且つ巨大権力に対抗する必要がある。(悪党主役セオリー)


元号と即位の怪

属国離脱への道〜【入門編】日本近現代の謀略探求〜より>
ネット上では、明治天皇すり替え説として広く知られている。山口県田布施町にある大室家とは南朝の末裔とされ長州藩が代々、保護してきた。その大室家のある人物・大室寅之祐が睦仁親王とすり替えられて、そのまま明治天皇となってしまったというわけである。
(略)
それでは本当にすり替えられてしまっているのか。睦仁親王と明治天皇は、使用前使用後のごとく立ち居振る舞い、見た目がことなっているという証言がある。
睦仁親王は天然痘にかかったことがあったが、明治天皇にはその痕跡はない。
睦仁親王は女官に囲まれて大切に育てられたためか弱々しい性格だったようだ。13歳だった1864年7月の「禁門の変」のときは、砲声と女官たちの悲鳴に驚いて失神してしまった。ところが、明治天皇は馬を乗りこなし馬上から近衛兵を閲兵し、大声で号令をかけるなど、堂々としたものだった。もちろん睦仁親王が乗馬をした記録は残っていない。
また、睦仁親王は性格だけでなく肉体的にも虚弱体質であり、毎年のように風邪をこじらせていた。十代半ばの思春期となっても女官たちと一緒に遊技に興じていたという。一方、明治天皇は体重24貫の巨軀。側近と相撲をすれば、投げ飛ばすほどの馬力を誇った。


明治天皇は孝明天皇の子とされている。
世襲制であるからして、子でなければ天皇を継承できない。

孝明天皇は江戸時代最後の天皇。条約には反対したものの佐幕派(親幕府)の天皇だった。
日米修好通商条約の調印勅許(天皇の許可)を巡るごたごたに巻き込まれた人。
若干15歳で即位し、黒船来航時(1853年)は22歳、幕府が日米和親条約(神奈川条約)を締結した時(1854年)は23歳、日米修好通商条約締結時(1858年)は27歳。
1867年1月30日(慶応2年12月25日)に急逝、35歳だった。

孝明天皇の結婚相手は英照皇太后。孝明天皇が亡くなった後、皇后を経ずに皇太后になった。
それまでの身分は女御であり、孝明天皇即位から2年後の1848年に12歳で女御として入内したのだった。
入内した女御と天皇は堂々とセックスが出来て、誰でも子供を産めたのである。
14歳と22歳の時に女児を産んだが早くに亡くし、子はいなかった。
明治天皇はこの人の子ではない。

女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。
称は、中国(周)の官制を記した書「周礼」に由来する。位は、皇后・中宮につぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。
初見は「日本書紀」雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇のとき紀乙魚(き の おとな)・百済王教法などを女御としたのに始まる。はじめ位は低かったが、その位は次第に高まり、平安時代中期以降、皇后は女御から昇進する慣例となった。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。
定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。


明治天皇の母は典侍の中山慶子と言われている。
典侍(ないしのすけ/てんじ)とは、律令制における官職で、内侍司(後宮)の次官(女官)。単に「すけ」とも呼ばれた。

正式な皇妃となれる身分ではないが、天皇の子供を儲けることも多かった。
1852年11月3日、中山慶子16歳は実家にて男児を産み、5歳まで実家で育てていたという。
この子(祐宮)が後に明治天皇と呼ばれることになる。
1860年、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子の「実子」とされ、親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。
今でこそ「養子」と言っているが、当時は「実子」にしたのだ。
天皇に絶対権力があり、それほど重要なポストであって、しかも世襲制ならば、もっと真剣にお相手選びや子作りをしたほうが良いのではないかと思ってしまうが、昔は結構雑である。
言うほど重要ではなかったのではないかと思ってしまう。

孝明天皇亡き後、1867年2月13日に皇位を継承したのは睦仁親王。これまた14歳であった。
まだ明治時代になっていないのだから明治天皇ではない。
大政奉還が1867年11月9日で、明治時代になったのは1868年10月23日(慶応4年9月8日)。

明治天皇の即位による改元。
ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて明治元年と為す)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。また、一世一元の詔も併せて出され、天皇在位中の改元は行わないものとした。


孝明天皇が亡くなったのが1867年1月30日(慶応2年12月25日)。
皇位継承が1867年2月13日(慶応3年1月9日)。
大政奉還が1867年11月9日(慶応3年10月14日)
即位が1868年10月12日(慶応4年8月27日)。
元号を明治にしたのは1868年10月23日(慶応4年9月8日)。慶応4年1月1日に遡って元号を明治にすることにしたので慶応4年は消失したことになる。

慶応義塾大学が慶応という名を付けたのは時の元号に肖ったからだそうだが、それがなんと1868年(慶応4年)のことだというのだ。
前にも書いたけれど、おかしくない?
慶応大学は存在しない。明治大学である。明治元年大学はどうかしら?

江戸と明治の間にすっぽりはまった天皇交替。
なぜ即位の礼が1年8か月も後になったのか?
当初は11月に即位の礼を行う予定であったが、大政奉還など時勢が急速に変化していく中で、国事多難を理由に見送られた。・・だそうだ。
倒幕派、すなわり明治新政府は、尊皇派であったはずだ。なにより天皇が大事だったはずだ。
それなのに「天皇行事は後でいいや」とは!

大政奉還・・・・1867年11月9日(慶応3年10月14日) 
・大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌15日に天皇が奏上を勅許した政治的事件である。
・「大政」とは天下の政(まつりごと)の意で、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)が1867年(慶応3)10月14日、徳川氏265年間の政権を朝廷に奉還し、翌15日、朝廷がそれを勅許した幕末期の一大政治事件をいう。


「明治天皇に奏上し、天皇が奏上を勅許した」と書いているが、即位前であり、元号もまだ慶応であり、明治天皇は存在しない。
「朝廷に奉還し、朝廷がそれを勅許した」という書き方は上手く逃れた観があるが、「条約調印には天皇の勅許が絶対に必要だ!」と暴れていた人達は誰だったのか?

馬と鹿と金華山

天皇すり替え説では、中山慶子の産んだ子と明治天皇の特徴があまりに違うという。
とくに馬の話はよく出てくる。

ちなみに明治天皇の馬は「金華山号」という名だったそうだ。

明治天皇の御料馬を「金華山号」といいます。明治天皇は1876年(明治9年)と1881年(明治14年)の2回、東北に巡幸されてみちのくの馬に心ひかれ、明治13年(1880)、水沢・佐野厩舎で育成された南部馬の同馬をお買い上げになりました。

金華山という名からは中国や朝鮮を思い浮かべるが、金華山は日本の東北にもある。

金華山(きんかさん)は、宮城県石巻市の太平洋上に浮かぶ島のことである。人口は6人。対岸の牡鹿半島との間に内海「金華山瀬戸」がある。
金華山は、島全体が黄金山神社の神域となっており、地場の信仰の対象として有名である。恐山、出羽三山と並ぶ「奥州三霊場」に数えられている。「三年続けてお参りすれば一生お金に困ることはない」という言い伝えがあり、参拝客を集めている。また、神の使いとして保護されている多数の鹿が生息している。毎年10月第一、第二日曜には鹿の角切りの神事が行われる。



明治天皇のルーツ

天皇がすり替えられたという話は周辺の状況からしてほぼ間違いないと思うが、長州藩が代々保護してきた南朝の末裔とされる大室家の子だったという点は違うと思う。
理由は馬である。
ルーツは馬を操る騎馬民族か弓馬を操る戦闘集団にある。
それは南朝や九州ではない。日本ならば東日本。または中国東北部の馬賊やモンゴルの遊牧民など。
ずばり、明治天皇は現在の中国東北部か北朝鮮付近(満洲~朝鮮半島北部)から連れてきた子だろう。






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by yumimi61 | 2015-12-23 14:56
2015年 12月 22日
日本国憲法の秘密-136-
宗教を超えられなかったモンゴル帝国?

日本がアジアを侵略したということを殊更否定する人がいる。
侵略ではなく、アジア各国を欧米諸国から解放し独立させるために戦ったのだと主張する。
だから実際のところ日本軍はアジア諸国の人々から歓迎されていたのだと言う。
しかしながら前述したように倒幕派の吉田松陰や明治政府は世界征服の野望を持っていた。

アジアの国々を解放したという話は、明治時代や昭和時代のことを指しているのではないと思う。
それは史上最大規模の帝国となったモンゴル帝国を倒した高麗への、引いては女真族(満州族)への賛美だろうと思う。
出来事としては14世紀のことである。
それが21世紀の日本の中でまだ息衝いている。
日本と女真族(満州族)の関わりは深いということだ。
朝鮮や中国を仲間と考える人にとっては「侵略」という言葉は適さなくなる。同士であり同志である。

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左)内モンゴル地区の契丹という民族が建国した「遼」という国。(1000年頃)
契丹はモンゴルの一部族だったのではないかと考えられる。
右)女真族が建国した「金」という国。(1200年頃)
国姓(君主の姓)は完顔である。
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遼の繁栄した時代は中国は宋であった。
当時「遼」の中で暮らしていた女真族が次第に台頭してきて、遼と対立するようになり、1115年に金朝を樹立する。
そして宋と組んで、遼に対抗し、遼を滅ぼす(但しモンゴル地域は制覇できず)。
その後も金の勢いは留まらず、西夏(チベット分派のチベット系民族の国、現在は寧夏回族自治区となっておりイスラム教徒が多く住む)を服属させ、宋に攻め入り領地を広げていく。
宋の支配者らは南に移動。
その後はモンゴルが息を吹き返し、1200年代からモンゴル帝国を形成していく。
このモンゴル帝国に金も宋も高麗も滅ぼされた。
モンゴル帝国は、東アジア、中央アジア、西アジア、南アジア、東欧を制覇した。
但し、日本(東アジア)、イランとイラクの一部とトルコの一部以外(西アジア)、インドとパキスタン(南アジア)、東南アジアは制覇されなかった。
上記区分は国連区分を採用した(国連ではインドからイランを南アジアと区分する)。また国名と領地は現在のものに当てはめた。
欧米での西アジアはアフガニスタンとエジプトを除いた中東と同義のことがある。国名で言えば、アラブ首長国連邦、イエメン、イスラエル、イラク、イラン、オマーン、カタール、クウェート、サウジアラビア、シリア、トルコ、バーレーン、ヨルダン、レバノン、パレスチナ自治政府。

陸続きにあって制覇されなかったのは宗教の強い国だったという仮説はどうだろうか?


イスラム教と変異した仏教

仏教の開祖である釈迦(ブッタ)はインドの人。
しかし日本人である私達は仏教と言えば中国の国教という印象が強く、インドには仏教の国という印象があまりない。
それは日本の仏教は中国から伝わったと習ったからかもしれないし、地理的に中国の方が近く行き来が多いということもあるのかもしれない。
インドは仏教ではなくヒンズー教であると言う人もいるだろう。

仏教とヒンズー教の元祖はバラモン教。
バラモン教の信者は支配層や富裕層であり、それを民衆に拡げるために、インド土着の神様は仏教に帰依したと言って布教して信者を獲得していった。
仏教とヒンズーは教派の違いみたいなもので系統は同じである。土着の神様を取り入れたことから多神教とも言われる。
大きな違いはヒンズー教はカーストを認めるが仏教は認めない、ヒンズー教は輪廻転生を謳うが仏教は謳わないという立場を取ったことである。
カーストとはインドの職能を基にした階級制度。世襲であり変化することはない。
但し不平不満を言わずより良く生きれば来世では上の階級で蘇るかもしれないと説いた。
釈迦(ブッタ)は永遠も輪廻もないと悟った人。
輪廻を脱して(解脱して)真理を見出し、不平不満を言わず(誰かの責任にせず)、執着せず、夢を見ず、苦痛からも逃れ、成仏(死んだわけではなく究極の悟りということ)したのである。
釈迦の気持ちが伝わったかどうかは分からないが、仏教は下層の人達を拾っていく教派となった。
ピラミッドは下のほうが大きい(数が多い)。ということでインドの国教は仏教となった。

それに変化を与えたのはイスラム教だった。
モンゴル帝国が快進撃を始める前の1100年代に、アフガニスタンからのイスラム教政権がインドに侵攻し弾圧を加えて、1200年代までにインドの仏教徒は壊滅状態となった。

インドでのイスラーム教徒人口は、2014年の時点で1億8000万人を超えているとされる。イスラーム教徒の人口規模はインドネシアの約2億人、パキスタンの1億7000万人についで世界第3位であり、イスラーム教はインド国内でヒンドゥー教に次ぐ勢力を持っている(インド、パキスタン、バングラデシュのイスラーム教徒の人口数は合計で4億8000万人を超えており、南アジアは世界で最もイスラーム教徒が多い地域となっている)。

イスラム教徒の数が多いのは、西アジアでも中東でもない。南アジアなのだ。
ただなにせ人口が多い。
(イスラム教徒が)億単位の人口といえど、約13億人を数えるインドにおいては、人口比でいえばインドのムスリムは基本的にヒンドゥー教徒よりも少数派である。ヒンドゥー教徒がインド人の約80%を占めるのに対し、イスラム教徒は約13%ほどである。イスラムが多数派となっているインドの州はジャンムー・カシミール州のみである。

インドの仏教徒はイスラム教またはヒンズー教に改宗するか逃亡するしかなかった。
キリスト教やイスラム教に弾圧されたマニ教は壊滅した(中国で生き残っているという説もある)が、仏教は他のアジア地域で信仰が継続された。
しかしながらイスラム教徒との対立の過程において、仏教もヒンズー教も新参者に対する古参者という括りで一旦一緒くたになった。
この時に両者の教えが混じり合い変化。釈迦(ブッタ)の悟りの境地は上手く伝わらず、仏教も輪廻転生を信じるなどヒンズー教寄りの宗教となった。
アジアの仏教も輪廻転生を支持している宗教である。チベット仏教などは転生者を探してくるほど輪廻転生に傾倒している。
釈迦(ブッタ)の仏教を駆逐するという目的を果たしたせいか、インドではヒンズー教が再興した。
1800年代、イギリス領だったインドでは、ヒンズー教徒地域をインド、イスラム教徒地域をパキスタンとして、分離独立させた。


従軍慰安婦のルーツは金朝にあり!?

遼を倒すために一度は手を組んだ宋と金であったが、遼を倒す際の力関係では金のほうが上。
そのため宋内には不満や反発があり、金との関係は上手くいかなかった。
宋の皇帝は国内の反発派を抑えられなかった。
そしてついに宋と金の軍が対決。これを靖康の変という。宋は金に敗北した。

金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて満州へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。
また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。


徽宗・欽宗は宋の8代・9代皇帝。父と息子(長兄)である。この2人は満洲に連行されたが、弟が南京に逃げて即位した。以降を南宋と呼んでいる。

靖康元年(1126年)12月初10日、宋官僚の呉幵と莫儔は、親王、宰執、宗室の娘各二人、民間や楽団の女性各500人と宝物を献上し、宗室の女性は金の二首領粘没喝(完顏粘罕)と完顏斡離不(完顔宗望)にささげられた。その代わり、黄河以南の地を宋側に保全してもよいとの許しを得ることができた。元北宋の皇太后、皇后、妃嬪、皇女(公主)、宗女(宗姫)、女官、宮女、官吏や平民の女性は金に連行され、洗衣院という官設の妓院に入れられ、性的奉仕を強要された。幼い皇女も洗衣院で育てられ、成長後に洗衣院の娼婦となった。

南宋の初代皇帝高宗の母の韋氏、妻の刑皇后や娘の趙仏佑、趙神佑も含まれていた。金の捕虜となって北方へ拉致された女性の数は宋の妃嬪83名、王妃24名、皇女22名、嬪御98名、王妾28名、宗姫52名、御女78名、宗室に近い姫達195名、族姫1241名、女官479名、宫女479名、采女604名、宗婦2091名、族婦2007名、歌女1314名、貴戚、官民の女性達3319名の計11635名であった。宋王宮の女性捕虜は、金額を付けられて戦争報酬・賞与とされ、金の将兵に分け与えられた。

『呻吟語』には「十に九人、娼となりて、名節を失い、身もまた亡ぶ」「辛うじて妓楼を出ても、即ち鬼籍に上る」。また、ある鍛冶屋によれば「八金を以って娼婦を買う、すると実に親王女孫(皇族の孫娘)、相国姪婦(宰相の甥の嫁)、進士夫人(科挙合格者の妻)なり」ともある。
等級に関係なく女性達はみな女真人から陵辱を受けたといわれ、『南征録匯』には「開封府の港には人の往来、絶え間なく続き、婦女より嬪御まで妓楼を上下し、その数五千を超え、皆盛装を選び出ず。選んで収むること処女3000、入城を淘汰し、国相(完顔宗翰)より取ること数10人、諸将より謀克までは賜ること数人、謀克以下は賜ること一、二人。韋后、喬貴妃ら北宋後宮は貶められ、金国軍の妓院に入れられる」とある。
金の兵から彼女らは陵辱を受け続け、「掠められた者、日に涙を以って顔を洗い、虜酋(金皇帝・皇族・将帥など)共、皆婦女を抱いて、酒肉を欲しいままにし、管弦を弄し、喜楽極まりなし」。汚辱に耐えかねた欽宗の皇后朱氏は入水して自害した。


Wikipedia公娼にて、各国歴史上の公娼が説明されているが、金をはじめ高麗・李氏朝鮮・朝鮮・日本に多くのスペースを割いている。


だからホテル?(だからひとり?)

貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
 貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
 貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。(ちなみに勢津子のかかりつけの美容師が吉行あぐりである)この会津から皇室への婚姻で、会津の人は喜んだというが…。 
山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ より>




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by yumimi61 | 2015-12-22 12:57