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2016年 02月 26日
日本国憲法の秘密-200- ❤
人生をやり直せるとしたら、あなたはどこに戻りたいですか?
あの分岐点での進行方向が違っていたら、今私はどこにいるのだろう。
ソフトリセットしてもハードリセットしても物理的な物体までがリセットされるわけではなく、傷だらけのハードはそのままである。
リセットの出来るコンピューターをあなた達は何故買い換えたりするのだ?

その日、彼女は、大阪市北区にある大阪新阪急ホテル2階の宴会場「花の間」に現れた。  

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他人の迷惑お構い無しに好きな時に寝て好きな時に目覚め泣く。
上からも下からも垂れ流し。まともなことは何一つ出来はしない。一人では生きていけないか弱き生き物。そのくせ我儘で。
人はそれを無垢と言い、そこに大いなる希望を見る。
時は流れ、何十年もの年を経て、ソフトもハードもリセットし、赤ん坊へと返る人間。
傷だらけの物理的な物体だけが残されて、かつての希望は救いようのない絶望に変わる。
希望を絶望に変えたのは誰だ?
胸に手を当てて考えて見れば分かる。それは初期な人でも初期化された人でもなく周辺にいる人達なのだ。
後ろめたさに苛まれながら他人に迷惑をかけることが唯一の救いとなり、迎える死が微かな希望となる。
どんな綺麗事も通用しない心の内を私達は知っていた。


あの日のあなたの希望は何だったのですか?お金ですか?名誉ですか?栄光ですか?
それはあなたのためにですか?私のためにですか?
1995年3月20日、春分の前日、彼岸。
病院の外来ホールに置かれたテレビが異様な光景を映し出していた。
沢山の救急車と消防車、車道にまで敷かれた青いビニールシートに横たわる人、人の群れ。
所狭しと置かれた物に、書類が築いた机の上の山が、経済の風向きを変える。
不用意に触れたら音を立てて崩れ落ちていく様はあの街に相応しいものだったのかもしれない。
ぎりぎりのバランスで実に器用に必要なものを探し出す。
テレビに映し出される奇跡を見つめながら悠遠の日を思い浮かべると、あるフレーズが脳裏を去来した・・・プランタン・・・。

彼女が纏うワンピースがヴィヴィアン・ウエストウッドでもバーバリーでも私には何ら関係ない。取るに足らないことだ。だってあの人は私ではないのだから。
でももしそれが道に横たわる人に被せられた毛布のように、リセットできない傷ついた身体を覆う布だとするならば、あるいは傷つかぬように保護するカバーと同じものだと言うならば、そこに足を止める価値はあるだろう。
この世界には裸同然で暮らす人がいるという事実があり、ほとんどの人が何かしらを纏わないと生きていけなくなったという現実がある。
生命や尊厳を脅かすものが増殖し続け、人々は完全な装備を求め続ける。
どんな装備をしたらあの事故は防げたのだろうか按じてみるが、「やっちゃえ」という空耳が聞こえて考えるをやめた。
武装は戦うためのものか、それとも防護のためか、その答えが「やっちゃえ」だと思うのだ。
「やっちゃえ」を格好よく思ったり何も感じない人は自分の感性を疑ったほうがよいと感じるが、それは悪女の深情けだと彼女が言っていた。
”自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ”
時代遅れの話か、そうだ、その通り。

「あれっまだいたんだ」
「残務整理」
「残飯整理?」
院内コンビニで買った生きるための糧が彼には残飯に見えたらしい。相変わらず嫌味なやつだ。
「部屋間違ってますよ。ここにはあなたの机もベッドもありませんから」
かつては病室だったというこの部屋は雑魚部屋と呼ばれていて個人の机もパソコンも設置されていない。
その代わりと言ってはなんだが、これ見よがしの家族写真が目に入ることもなければ、性質の悪い嗜好に付き合わされることもない。
テレビ・冷蔵庫・電子レンジという戦後日本を代表する変形三種の神器が揃う豊かな部屋ではあるが、明け方東の空が白む頃に真っ白な若い女性の幽霊が出るという噂もある。
それはどう考えても夜勤のナースではないかと誰かが突っ込めば、もうとっくに廃止になったはずのナースキャップを被っていたと返され、恐怖に慄くというのがお決まりのパターン。
いつの世も科学の先端を走ってきたはずの医学を提供する場所にはこの手の話が尽きない。

あなたは奇跡を信じますか?そんな偽宣教師みたいな科白を吐いたら、あの人はなんて答えたんだろう。彼ならなんて答えるのだろう。
「ねえ奇跡って信じてる?」
「例えばどんな?あなたと出会ったことが奇跡ですっみたいな?」
「はははは。どっかで言われた?」
「ちょくちょく」
「いやそうじゃなくて、奇跡ってなんだと思う?」
「起こり得るが可能性が極めて低い事象、つまり確率がゼロに近づくほど奇跡の度合いが高いということ。または科学的には説明できない要因で発生した比較的発生頻度の低い事象」

12時でも13時でもなく、その間。
お昼時賑わうスクランブル交差点に突っ込んだあげくに歩道を走行して、死者が1人や2人って、ある意味奇跡的ではないだろうか。
刑事ごっごはやめとけと彼は言いたいに決まっているけれど、私は奇跡の話をしているのだ。
交差点の120メートル手前で一旦停止。停止時間は1分ほどでハザードランプも付けていた。そこから急発進して交差点に進入した。車はプリウス。
本人の意思でなく意識を失っていた状態で急発進したとするならばギアはP(パーキング)やN(ニュートラル)ではなくD(ドライブ)に入ったままだったということになる。
しかもサイドブレーキ(パーキングブレーキ)もかけていない状態ということか。
プリウスの場合、P(パーキング)に入れる時にはギアシフトレバーではなく押しボタン操作である。
シフトレバーは運転手の左横、つまり多くの車がそうであるように運転席と助手席の間にある。
しかしD(1速)が前方、Rが後方というマニュアル車のような配置ではない。
さらにどのギアに入れてもレバーは自動的に中央に戻ってしまうそうだから、どのギアポジションにあるのか、どこに入れたのかシフトレバーでの目視確認できなくなってしまうのだ。
私の車はハンドル左脇にギアシフトレバーがあるタイプなので、シフトレバーの目視確認には意味がない。
計器盤のギアシフト表示を確認しながらの操作である。
でもマニュアル車に乗るような時にはシフトレバーのポジションを目で確認する。位置を手が記憶している。中央にニュートラルに入っているかを確認するため左右に振ってみたりする。
パーキングボタンにしてもフットブレーキにしてもシフトレバーにしても車が変わって慣れないうちは面食らう。
機器類や変化に弱いお年寄りならば尚の事だと思う。

「ザクロかも・・・」
「くろ?」

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ハザードランプのスイッチは押したのにパーキングのスイッチは押さなかった?なぜだろうか?

意識を失った状態で急発進してしまった車ならばギアはD(ドライブ)にあったということで、それはすなわち運転手は足でブレーキを踏んで停車していたということに他ならない。
ブレーキを離せば例え平らな道でも車はゆっくりと動き出す。ブレーキの踏みが甘いだけで動くこともある。
停車するにはしっかりとブレーキを踏み続けなければならない。
結果的に1分の停車時間だったかもしれないが、体調が悪くなって停車したのならばすぐに発車できるとも限らない。
足でブレーキを踏み続けるよりもギアをパーキングに入れて力を抜いたほうが楽なのに、何故そうしなかったのだろう。

「どこに停まったって?」
「交差点の120メートル手前、四車線の一番左の車線、左折車線」
「左折車線を走っていたのか、それとも停車すべく一番左の車線に入ったか」
「もっと手前の防犯カメラチェックして!なんてね。でもねこれも奇跡かもしれないと思うの。スクランブル交差点の信号は歩車分離式だった。で、歩行者が青という状態。だから車側はすべて赤で信号待ち。急発進した車は信号無視をして交差点に進入したことになる。でも考えてみて。急発進した車の前に信号待ちの車があれば歩行者を巻き込む事故ではなく追突事故になるわよね、普通?そうじゃないということは赤信号なのに前方に一台も車がいなかったということ。いつも混雑している道だと言っていたけれど左折する人はあまりいない道だったのかな?それともやっぱり奇跡的?」
「不人気な左折車線か。左に折れるとどこに行くの?」
「え?そんなの分かんない。もっと真面目に考えて。歩車分離式っていうのは待ち時間が長いの。息子達の通った小学校の前の交差点が歩車分離式信号だったからよく分かるんだけど、歩車分離式は歩行者・南北ラインの車・東西ラインの車と3つで1サイクル。普通の信号は歩行者も車の信号に連動しているから2つで1サイクル。1つ多いからそれだけ待ち時間も長くなる。スクランブル交差点だったら時間も長め。だからね普通より赤信号待ち時間が長いはずなの。それなのに、いなかったのよ、前に1台も。奇跡的でしょ?ねえそう思うでしょ?」
「不通じゃないよな?」
「うん絶対普通じゃない」

事故当日の夜19時のニュースでは「運転手が心臓の近くの血管が破裂する病気を発症して意識を失っていた可能性があることが、捜査関係者への取材で分かりました」と伝えていた。
動脈瘤破裂とも大動脈解離とも言わない遠回しの表現だった。
私は昭和の大スター石原裕次郎を思い出していた。あの人も確か解離性大動脈瘤だったはず。でも亡くなったのは肝臓が原因だった。
亡くなったのはいつだったろうか。調べてみたら1987年だったのだが、何より驚いたのは亡くなった時の年齢が52歳だったことだ。
若さとは存在そのものが傲慢なのかもしれない。
停まった車を追い抜くことは簡単だ。そしていつかは自分も停まるであろう。永遠に走り続けることのできる車などないから。
拝啓、アインシュタイン様。相対性理論が身に染みています。
地球が回っているということは時間も回っているということですね。宇宙ではなくて地球に、この世界に、永遠を見ることならば許されるのでしょうか。

事故翌日になると疾患名が表に出てきた。
「大阪の繁華街で乗用車が歩道に突っ込んだ事故で、車を運転していた男性を処置した救急隊が、'大動脈解離の症状がみられる'と警察に伝えていたことがわかりました」
その日の午後には司法解剖によって大動脈解離による心タンポナーデが死因だったと判明したと発表された。
気になったのは「症状」という言葉であった。プロならば「所見」ではないのか。
自覚症状は患者本人が自覚する症状、身体や精神の変化である
自覚症状に対して他覚症状という言葉を使う場合もあるだろう。他者から見える症状ということで。
しかし専門的には、とくに診断に携わる者にとっては、所見や他覚的所見という言葉のほうが一般的だと思った。
患者に意識があれば、いつどのような変調をきたしたのか問診が可能だ。
上半身を動かした拍子に痛みが出て、痛みの場所は胸や背中で、痛みの箇所が動いているような気がすると言うならば大動脈解離を疑える。
だから'大動脈解離の症状がみられる'との情報を提供してもおかしくない。
でも一般的に、大動脈解離には病院外で簡易に他の疾患と判別できるだけの特異的な症状や反応、所見がない。
唯一考えられるのが左右の血圧差。これならば病院外でも測定可能である。
だけど、心肺停止の状態だったならば、血圧測定なんて意味がない。血圧は測れない。何よりすべきは蘇生処置なのだ。
意識が無く心肺停止に陥っている人の'大動脈解離の症状'がどうして分かるのだ?


その時、信号が緑色に光った。
私はタコメーターの針が2を超えないようにアクセルを踏んでいった。
左脚よりも右脚のほうが太いのは車を運転するからだろうか、それとも人には利き手同様利き足なるものがあり、それが影響しているんだろうか。
そんなことはどうでもよいと言われればまあそうだろう、左右の太さの違いに思いを巡らすことのできる私は今この瞬間、五体満足健康であるということなのだ。
靴下の色が白であるべきか黒であるべきかで争ったあの頃の私達も間違いなく五体満足健康だった。
5合目か8合目か分からぬが坂道を上って振り返る日々はやはり眩いほどに煌めいている。
100歳まで生きるとすれば50歳は道半ば。まだ人生の半分にしか到達していない。今まで生きてきた以上の時間がまだこの先にあるということに圧倒されつつ、99歳になった時を思い浮かべてしんみりとする。
それは台秤の増し錘と送り錘を操作しているみたいなことだった。

1983年10月15日-20日、あかぎ国体開催。
やがて来るバブル景気を知ってか知らずか、追い風ではなく向かい風の中を走れと先輩は言った。
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あの時、この街に高校球児がやってきた。
四国・徳島の山あいにある県立高校の池田がパワー野球で夏春連覇し、史上初の夏春夏3連覇をかけて闘ったのが1983年夏の甲子園だった。
その3連覇を準決勝で阻止したのが1年生のKKコンビ擁する大阪のPL学園だった。
どんな時代であっても若者のひたむきな姿は見る者の胸を打つ。
物知り顔の大人の予想を壊していくフラグクラッシャーが生まれる蔦の絡まるスタジアムには期待を裏切らないドラマがあった。
どんな時代でも。分かってる。それでも1980年代前半は泥臭くも美しい珠玉の汗と涙に満ち溢れていた。
1980年夏、早稲田実業のマウンドに立っていたのは1年生の荒木大輔。その後早稲田実業は荒木大輔を擁して甲子園に5期連続出場を果たした。
高校時代は期間限定、必ず終わりが来る、終止符を打たなければならない、1982年夏、荒木の最後の甲子園で早実を破ったのが池田高校だった。2対14と池田の大勝であり、荒木は甲子園で優勝することなく高校生活を終えた。
この池田に翌年勝利したのがPLで、こちらもPL学園の圧勝で、池田高校の3連覇の夢を阻んだ。
1980年と1983年に彗星のように甲子園に登場した1年生選手。
その狭間1981年夏には群馬の前橋工業高校が1年生投手を起用して甲子園に臨んだ。
中学時代から期待されていたが当時野球の強豪校だった桐生高校への進学を断念したという渡辺久信である。
高校3年夏の県大会決勝では最終回に押し出しフォアボールにてサヨナラ負けを喫し、甲子園出場はならなかった。
PL学園のKKコンビは荒木大輔同様に5期連続出場を果たし、優勝・準優勝・準優勝・ベスト4・優勝という結果を残した。
最後の夏に優勝していなかったら彼らのその後の人生は違ったかもしれない。




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1978年春の甲子園。
前橋高校のエース、松本稔。
(群馬県立中央中等教育学校に勤務する群馬県伊勢崎市出身の高等学校教諭。
元アマチュア野球選手で、現在は高校野球の指導者の傍ら野球解説者も務める。群馬県立前橋高等学校を経て筑波大学体育専門学群・筑波大学大学院体育研究科修士課程修了)

滋賀県の比叡山高校と1回戦で対戦。下馬評では比叡山高校有利と見られていたが、キレのあるスライダーと抜群の制球力、さらには一人もランナーを出せずに焦り始めた相手打線の淡白な攻めにも助けられ、投球数78、奪三振5、外野への打球に至っては僅かに3という完璧な内容で高校野球の全国大会史上初めて完全試合を達成した。
27人目の打者を迎えた時に実況の三宅定雄アナウンサー(毎日放送)が松本を「あまりにも淡々としております」と評し、初球のピッチャーゴロを無難に処理し大記録を達成した際も、最後に捕球した一塁手が喜びを爆発させる中で松本は笑顔を浮かべただけですぐに整列へと向かった。勝利後のインタビューでは「相手に申し訳ないことをしてしまいました」と述べ、「史上初のパーフェクトだよ」と問われても落ち着いた様子で「ああ、そうですか・・・」と答え、その知的なコメントと立ち振る舞いが世間の感心を得た。なお、松本は後年「完全試合はもう既に誰かが達成しているだろうという程度の知識だった。(完全試合が達成されれば史上初という)情報が入っていたらダメだったかもしれない。」と振り返っている。
一般的に投手力の高いチームが有利とされているセンバツにおいても完全試合は、1994年の第66回選抜高等学校野球大会の江の川高校(現・石見智翠館高校)戦における金沢高校の中野真博を含めて2人しか達成しておらず、夏の全国高等学校野球選手権大会では2014年の時点では未だに達成されていない。

群馬県の高校野球界はセンバツにおける前橋高校と桐生高校の名門2校によるアベック出場に沸き、先述の完全試合や桐生高校のベスト4進出、さらに後の春季関東大会において両校が決勝で対戦(桐生高校が勝利)するなど「群馬県高校野球界の黄金期」と評された。


阿久沢 毅
(群馬県勢多郡大胡町(現 前橋市)出身の高等学校教諭兼高校野球指導者。群馬県立桐生高等学校を経て群馬大学教育学部卒業。群馬県立勢多農林高等学校教諭)

1978年春の甲子園で王貞治以来となる2試合連続ホームランを放つなどの活躍でベスト4まで進出し、一躍ドラフトの注目株となる。
同年のドラフト会議に際してはプロ野球の全12球団からの打診を受けたとも言われており、東京六大学野球連盟の名門である早稲田大学野球部のセレクションも受けたが家庭の事情などもあって地元の国立大学である群馬大学に進学(最終的に早稲田大学にはチームメイトの木暮が進学した)。大学では準硬式野球に転向。怪我の影響で左手が使えない状態でありながら、巧みな流し打ちで打率6割を記録した。

大学卒業後いったん小学校教諭となり2年間勤めた後、昭和60年から現在に至るまで、地元の群馬県で高等学校教諭と高校野球指導者(太田高校、桐生高校、渋川高校を歴任し、現在は勢多農林高校に勤務)を務めている。母校である桐生高校の監督に就任した際は多くの関係者が甲子園出場を期待したが、自らの信念である「スクールベースボール」の実践を最優先としたため勝利への執着心が薄く、実現はしなかった。

スポーツライターの二宮清純は、著書『最強のプロ野球論』の中で「最強のスラッガー」を複数人列挙したが、阿久沢はプロ入りしなかった選手の中で唯一その名を連ねており、二宮はその理由として以下のエピソードを挙げている。
第50回選抜高等学校野球大会での活躍から、桐生高校が大阪高野連に招待されPL学園高校との練習試合を行った際、試合前の練習中から桁違いの打球を連発(その飛距離は後にPL学園に入学する清原和博(のち西武ほか)に匹敵したとされている)し、練習試合では金石昭人(のち広島ほか)から高校生離れした飛距離の本塁打を見せ付ける。1974年から高校野球に金属バットが導入されて力任せに飛距離を伸ばす打者が増加する傾向の中で、柔軟性も兼ね備えた阿久沢のバッティングは木製バットの使用が義務付けられているプロ野球でも十分に活躍できたと推測されている。また当時の『週刊ベースボール』でも、木田勇(のち日本ハム他)や森繁和(のち中日投手コーチ他)といった社会人野球の有力選手に混じって高校生として唯一ドラフト一位候補に挙げられていた。


小暮洋
中学時代は目立つ選手ではなく、群馬県立桐生高等学校入学後も野球を続けることにためらいがあるほどであった。 特に同期だった阿久沢毅は県大会優勝投手であり、誰も木暮に期待をする者はいなかったという。
しかし、関口信行監督の合理的な指導と1927年夏に桐生中学(現桐生高等学校)を初めて甲子園に導いた大先輩阿部精一の技術的な指導とによって着実に力をつけ、エースに成長。
春の選抜では26イニング連続無失点の記録を打ち立てた。
当時は、ピンクレディーの「サウスポー」が流行していて、そのイメージでマスコミに取り上げられ、甲子園のアイドルとして女子学生に絶大な人気があった。
卒業後は、1年の浪人を経て早稲田大学教育学部に進学。硬式野球部に在籍し、東京六大学リーグで通算36試合登板し17勝10敗、防御率2.32、121奪三振。1981年秋は防御率1位(1.45)、1982年秋にはチーム最多の5勝を挙げチームのリーグ優勝に貢献した(このとき、大学創立100周年であり、その記念の年に花を添えた)。
大学卒業後は社会人東芝に進むも、肩の怪我が癒えずに4年で野球を離れる。
現在は東芝三菱電機に勤務。野球とは縁のない生活をしている。





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by yumimi61 | 2016-02-26 10:56
2016年 02月 24日
日本国憲法の秘密-199-
松方正義の家族2

昨日の続き


3 三男:幸次郎(1865-1950、実業家、政治家) 川崎造船所*社長、衆議院議員。妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義**の娘。幸次郎の娘・花子は松本重治夫人。孫の操は建築家・槇文彦の妻。

*川崎造船所
川崎とあるので川崎の工業地帯(京浜工業地帯)にあるんだろうと思いがちだが、川崎は人の名前由来である。
川崎正蔵。薩摩国鹿児島城下大黒町(鹿児島県鹿児島市大黒町)生まれ。17歳の時(1857年)に長崎に出て貿易に従事、藩命によって金・米を扱った。鹿児島町吏、さらに大坂の蔵屋敷用達を命ぜられたが、貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船数隻を購入して薩摩国産物を畿内に輸送、巨利を博した。
江戸時代に幕府に次いで船を所有していたのが薩摩藩であったが川崎の影響もあるのだろうか。

明治4年(1871年)上京し、明治6年(1873年)帝国郵便汽船会社副社長となり、東京、琉球間の郵便航路開始に尽力した。同社は明治11年(1878年)に三菱汽船会社と合併する。
帝国(日本国)郵便汽船会社は昨日も書いた大隈重信が任されていた国有の会社である。大隈は1877年の西南戦争時に三菱の岩崎弥太郎に援助を求めて、それがきっかけで三菱と合併したわけだが、その前から薩摩出身の川崎が国有会社の副社長だったということである。こうなると薩摩の西郷隆盛が率いた西南戦争自体が胡散臭くなってくる。西郷隆盛も政府側で戦争計画に加わっていて最後に裏切られたのか、全く知らずに利用されただけなのか。

川崎は明治10年(1877年)大阪に官糖取扱店を開き、また琉球反物の運送販売により巨利を得て、念願であった造船業を開始。 
明治11年(1878年)築地造船所、明治13年(1880年)兵庫川崎造船所を開業、明治19年(1886年)には官営兵庫造船所の払い下げを受けて、明治20年(1887年)川崎造船所(現・川崎重工業)を設立。

1878年に初めて自分の造船会社を作ったということであるが、その後も官営の造船所の払下げなど優遇を受けている。
事実上、後継者がいなかった川崎正蔵は、同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男・松方幸次郎を後継者に選ぶ。

造船会社は戦争があると儲かることになっている。需要が高まるから(戦争関連品の物価が上がる)。しかしその反動で戦争が終わると収支が悪化することになっている(需要が減り物価も下がる)。体力余力のない会社や売れていた時期に調子に乗り過ぎた会社はここで倒産する。一時的に儲かっていた会社ほど倒れやすい。会社がバタバタ倒産すると世にも重い空気が流れる。戦争に負けていれば尚更。そして戦後恐慌が起こる(戦時中に戦争関連品の生産取引が活況となっていたので世に紙幣が沢山出た状態-インフレ。しかし戦争関連品以外の生産は抑えられていたので紙幣があっても買う物がない状態-ハイパーインフレ。これらが相まって恐慌らしさを際立てる)。船の需要が減れば船以外の乗り物に進出するに決まっている(企業の余剰紙幣が投資される)。


**九鬼隆義
三田藩(現:兵庫県三田市周辺)の13代目藩主。当初は大政奉還に強く反対した佐幕派であったが勤王派(尊王派)に転身した。
落差や転換は物事を有利に進める1つの手法として有効である。国家予算1年分という巨額な復興計画を出しておいて半減すれば、最初から半分の額を提示したのよりも随分減らしたような気分になる。これはバーゲン安売りでも使われている方法である。(定価1800円を謳う指なし手袋が200円で売っていれば凄くお得感があって東京のお友達の分まで買ってしまうというわけですよ) 
同じ新聞を長期間購読しているよりも毎月のように変えた方が得であるという現象も落差や転換が利用されたもの。
今まで敵だった人が「やっぱりあなたの味方になる」と言ってくれば嬉しさやが違う。当たり前にあるものには有難味を感じにくいのが人間の性。年をとったり病気になると急に配偶者や家族が愛しく思えるなんていうのはその典型で、新しい(若い)女(男)または金を持っている男(女)のほうが良いに決まっているという気持ちと本質は同じである。
このように落差や転換の利用は世に溢れている。

明治になってから隆義は、川本幸民を通じて江戸の福澤諭吉と親密になり、藩士を慶應義塾に学ばせたり、慶應義塾の学校運営にも助言するなど晩年まで親密な関係となる。
川本幸民(1810年生まれ)は三田藩の侍医の息子で、自身も10代目三田藩主の命で1829年から4年間江戸に留学し、三田に戻って侍医となる。川本幸民はその後、薩摩藩の藩主・島津斉彬に見出されて薩摩藩に移籍し、人生の半分以上(35年)を薩摩藩で過ごした。明治元年に三田に戻り、その後に東京にも行くが、明治4年には死去。

13代目の三田藩主・九鬼隆義(1837年生まれ)はこの川本幸民を介して福沢諭吉と親密になったということだが、福沢は1835年生まれで幸民が江戸に留学していた時にはまだ生まれていない。川本幸民が薩摩藩に移籍してからの出会いだろう。福沢諭吉は慶應義塾の経営が芳しくなかった時に薩摩藩主・島津家の援助を受けている。川本と福沢、両者の接点は島津家にあると考えるのが妥当である。
明治に入ってからは、福沢諭吉は慶應義塾の拡大のための資金を九鬼隆義にも依頼したという。


九鬼隆義の先代、三田藩主12代目の九鬼精隆。
嘉永7年(1854年)1月20日、父の隠居で跡を継いだ。安政6年(1859年)8月19日に36歳で死去したが、男子がなく、娘3人も2人が既に夭折、2歳の娘1人が残るのみであったため、御家断絶の危機にさらされた。精隆の死を隠匿して綾部藩より迎えた隆義を婿養子に決め、9月18日に幕府に急養子の届けを出して許可を得た(末期養子)。そのような事情のため、精隆の死が発表されたのは9月23日であった。

同じ九鬼ではあるが、九鬼隆義は三田藩ではなく綾部藩(現:京都府綾部市周辺)の人物であった。
綾部藩主の3男で側室の子であり、順当にいけば綾部藩主(家督)を継承するには難しい位置にいた。
ところが前述のように三田藩の藩主が急逝し後継ぎがいないということで九鬼隆義が三田藩に養子に入ったのである。

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。

江戸時代初期には、大名の末期養子は江戸幕府によって禁じられていた。武家の家督を継ぐためには、主家(大名にとっては徳川将軍家が主家ということになる)に事前に届出をして嫡子たることを認められる必要があり、末期養子はこの条件を満たすことができない。御目見以上の格の大名家においては、さらに将軍との謁見を済ませておくことも必要とされた。末期養子がこのように厳しく禁じられたのは、次のような事情による。
まず、末期養子においては当主の意思の確認が困難であったことによる。家臣などが当主を暗殺して、彼らに都合の良い当主に挿げ替えるなどの不法が行われる事態を危惧したものである。

慶安4年に幕府は末期養子の禁を解いた。とはいえ、末期養子の認可のためには、幕府から派遣された役人が直接当主の生存と養子縁組の意思を確かめる判元見届という手続きが必要であり(ただし、後に当主生存の確認は儀式化する)、無制限に認められたわけではなかった。また、末期養子を取る当主の年齢は17歳以上50歳以下とされており、範囲外の年齢の当主には末期養子は認められていなかった。17歳未満の者が許可されるのは寛文3年(1663年)、50歳以上の者が許可されるのは天和3年(1683年)になってからであった。それも当初は米沢藩の上杉綱憲の相続のように、全ての所領を相続できず減知されるといった代償が存在した。


それでも藩主のすり替えや届出遅延が発覚している。
こうしたすり替えは多くの場合、すり替えても不自然ではない年齢で血筋上も妥当な相続者を一族内から選び、藩内で内密に行われたが、一族外の他家(姻戚関係はあった)からの養子という事例もあった。
ただ急逝は暗殺だけが原因とも限らないため、年齢詐称や遅延を幕府側が黙認したり融通したりすることもあった。
しかしながらいま振り返れば、九鬼隆義の三田藩養子入りは疑うべき事例だったかもしれない。

1859年、九鬼隆義は三田藩主に就くと藩政改革を断行し、下級藩士の白洲退蔵や小寺泰次郎の登用、スナイドル銃の使用など、藩兵の軍備洋式化を行なった。
白洲家は江戸時代の1700年頃から代々儒学者として三田藩主の九鬼家に仕えていた。
白洲退蔵は横浜正金銀行の第3代頭取でもあり、こちらの記事の「日銀と仲良しだった横浜正金銀行」でも取り上げたことがある。
白洲退蔵の息子・白洲文平はハーバード大学卒業後、三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現:クラシエ)を経て、神戸で白洲商店という貿易会社を設立し綿貿易で巨万の富を築いた。
白洲文平の息子・白洲次郎はイギリスに留学し、やがて吉田茂首相の側近となっていく。電力業とも関係が深い。
白洲次郎の息子・白洲信哉さんは細川元首相の公設秘書だった人で、脳科学者の茂木健一郎さんと懇意にしている。
2012年に都知事選に出馬するという話もあったが出馬しなかった。
次の2014年の都知事選に細川元首相が担ぎ出された。


1871年廃藩置県により廃藩されると、九鬼隆義は神戸に移り住んだ。
明治5年(1872年)、近代港として発展が見込まれる神戸に居を移し、三田藩士の多くもこれに倣った。生田川付け替えに伴う埋立地の買占め、転売で巨利を得た。
神戸の土地を買うように勧めたのが福沢諭吉だったという。
条約に基づいて神戸港は1863年1月1日に開港予定だったが、ロンドン覚書によって5年延期され1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港した。
なお慶応4年9月8日より、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って明治と改元された。開港は1868年1月1日なので改元の直前であった。
また幕府が朝廷に統治権を返上した大政奉還は1867年11月9日(慶応3年10月14日)であり、明治新政府成立の王政復古は1868年1月3日(慶応3年12月9日)であるから、神戸港開港や改元に非常に近い。
神戸港が開港すれば地価が上がりそこで商売ができることを福沢諭吉は見通していたのに、1868年に近代私立大学への一歩を踏み出した自身の(慶應義塾)大学に「慶應」という元号を採用したのは何とも奇妙なことである。

「神戸の土地を買え」 <松方幸次郎とその時代 土地買い占めより>
廃藩置県時に禄高五十石以上の家臣は八十六家を数えた。ところが、今も三田に残る末裔はわずかに五家。大半の旧家臣は故郷を捨てて神戸に移住したのである。
そして、隆義をはじめ財力のある家臣は、神戸の土地を次々と買っていく。明らかに開港場としての神戸に着目した先行投資である。その際、将来性のある場所として現在の元町周辺より三宮近辺を勧めたのが、福沢だったというわけだ。隆義は、江戸で活躍した蘭学者川本幸民 (三田藩出身) を介して福沢と親しくなり、長男の摩爾 (改名隆輝) を慶応幼稚舎に入れている。また、兄弟藩・綾部藩家老の養子で明治期を代表する文部官僚となった九鬼隆一も、慶応義塾に入れて一年ほど福沢の教えを受けるなど一族との縁は深い。
その福沢がなぜ、神戸の事情に通じていたのかは定かではない。しかし、 「神戸の土地を買え」 という福沢の読みは図星だった。地下は高騰し、九鬼一族とその家臣らは巨利を得た。ちなみに明治末期、神戸市内での高額地租納税者を見ると、一、二位を、旧三田藩関係者が占めているのである。


九鬼に仕えていた白洲退蔵も慶應義塾に学んでいる。
明治6年(1873年)3月に、九鬼隆義は福澤諭吉の助言に従い小寺泰次郎、白洲退蔵らと共に外国の医薬品を中心に食料品・雑貨・薬種などを販売する輸入商社『志摩三商会』を設立した。
これが成功を収め不動産や金融業に乗り出し、現在の元町、三宮といった神戸港周辺の都市開発や女子寄宿学校(神戸女学院の前身)・神戸ホームの創立に関わるなど、神戸の街づくりに多大な影響を及ぼした。 
白洲退蔵の横浜正金銀行への官吏転進や支配人の交代などもあり、明治25年(1892年)に九鬼家に返納された。


九鬼隆義はキリスト教とも無縁ではない。
神戸在住の宣教師(プロテスタント)と知り合いキリスト教に強い関心を示した。この影響で多くの三田出身者がキリスト教に入信したそうだ。1875年に三田旧領の子女教育のため神戸に「神戸ホーム(のち神戸英和女学校)」(現:神戸女学院)を開校した。
1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務に異動した。
1887年に神戸教会にてキリスト教の洗礼を受けた。しかしながら三田内部および三田の寺院の強い反対でキリスト教を棄教して仏教に帰信したという説もあるようだ。
1890年に貴族院議員に勅選され、1891年に55歳で亡くなった。6人(3男3女)の子がいて、長女(1869年生まれ)が松方幸次郎に嫁いだ。

【神戸と日銀】

阪神大震災や地下鉄サリン事件が発生した1995年当時の日本銀行総裁は松下康雄。兵庫県神戸市出身である。
1998年3月20日に大蔵省接待汚職事件のスキャンダルにより任期途中で引責辞任した。
3月20日は地下鉄サリン事件が発生した日にちである。
1998年という年は日本銀行法が全面改正され新法となった1997年の翌年ということになる。
大蔵省接待汚職事件ノーパンしゃぶしゃぶ事件とも言われた(むしろそちらの方の名が通るかもしれない)(ノーパンしゃぶしゃぶなるものが存在することを世に知らしめたという効果もあった)。
※ノーパンしゃぶしゃぶ
ノーパン(パンツを履いていない、パンティ?) の女性店員が接客するしゃぶしゃぶ料理店、もしくは風俗店である。東京・新宿の高級ノーパンしゃぶしゃぶ店が、大蔵省接待汚職事件で大蔵官僚(当時)接待の舞台のひとつとなっていたことが報じられたことから、1998年(平成10年)頃に話題となった。


引責辞任した松下康雄の後の日銀総裁が速水優。これまた兵庫県神戸市出身。何の因果かしら?
指名したのは橋本龍太郎首相。金融ビッグバンの人。
(速水優は)クリスチャンとして知られ、キリスト教系の国際基督教大学理事、東京女子大学理事長等を務め、日銀総裁退任後の2003年からは学校法人聖学院名誉理事長、聖学院大学全学教授を務めた。同年聖学院大学名誉法学博士(LLD)の称号を受ける。2005年第36回キリスト教文化功労賞顕彰。






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by yumimi61 | 2016-02-24 12:40
2016年 02月 23日
日本国憲法の秘密-198-
松方正義の家族

•妻:満佐子(1845-1920、薩摩藩士・川上助八郎の長女) 4男1女の子を産んだ。

1 長男:巌(1862-1942、松方家当主、実業家、銀行家) 十五銀行代表者。妻・保子は医学者で衛生行政にも携わった長與專齋の娘。夫妻の娘婿に貴族院議員の黒木三次*がいる。
 
*黒木三次
三次の父は薩摩藩士の黒木為もと。為もとは1844年に帖佐為右衛門の三男として薩摩(鹿児島)に生まれた。黒木万左衛門為善(だれ?)の養子となり黒木姓を名乗る。幕末の幕府対新政府軍との戦いに薩摩藩の小銃隊を指揮するなどして参加し、その後も軍人としての道を歩む。
その為もとの長男が三次。
1923年2月3日に父の為もとが死去し、長男である三次が爵位を継承し伯爵となった。同年9月1日に関東大震災が発生すると復興を目的とした帝都復興院の参与に就任した。
帝都復興院の総裁は医師であり満洲鉄道の初代総裁でもあった後藤新平が就任し、幹部には後藤の腹心やブレーンが集められた。
後藤は巨額を投資する大規模な復興計画をぶち上げたが、あまりに巨額過ぎた(国家予算1年分)ため反対もあり承認された予算は半分弱くらいとなった。しかし現在の東京という都市の基礎を築いた。
NHKの前身である東京放送局を設立したのは震災翌年の1924年のことでこちらも後藤新平が初代総裁になった。

後藤の下で東京放送局の理事長に就任したのが岩原謙三。
三井財閥などの反三菱財閥勢力が投資して1882年に設立された共同運輸会社(現:日本郵船)に1883年に入社し、その後に三井物産に転職する。三井物産ではロンドン支店、ニューヨーク支店と海外勤務を経験し、神戸支店長を務めて1906年に三井物産常務取締役に就任した。
1914年(大正3年)、岩原は自社(三井物産)が総代理店を請け負っていたヴィッカース造船所(イギリス)が、大日本帝國海軍の戦艦金剛の建造を受注出来るよう、海軍高官に贈賄を行ったことにより逮捕される(シーメンス・ヴィッカース事件)。同年7月18日、東京地方裁判所にて岩原に贈賄罪で懲役2年の実刑判決が下された。
また1910年(明治43年)に芝浦製作所取締役に就任し、1920年(大正9年)に芝浦製作所社長に就任した。
(芝浦製作所は東芝の前身、東芝も三井系企業)
1926年に東京放送局が日本放送協会(NHK)となると岩原が初代会長となった。NHK会長就任後も足利紡績や日本無線電話で代表取締役社長を務めていた。会長在任中の1936年に逝去。

黒木三次の養子になったのが西郷従達。黒木従達となった。
従達の父は西郷隆盛の甥である西郷従徳。軍人であり貴族院議員。軍事参議官だった黒木為もとの下にいた。母は宮内大臣を務めた岩倉具定の娘。
黒木従達は1944年に東宮傅育官として宮内庁に入り皇太子明仁親王(現:今上天皇)に仕え、1977年に東宮侍従長となり、1983年に急逝した。
この人の最後は驚くものでした。明仁皇太子の執務室もあったであろう事務所から1983年1月、侍従長だった黒木氏は勤務時間中に仕事場を抜け出し、新宿のトルコ風呂(現在のソープランド)行き、興奮のあまり脳梗塞を起こして天に召されました。享年67歳。黒木従達侍従より>(心筋梗塞?)


2 次男:正作(1863-1945、外交官) 駐シャム(タイ)公使であった。妻は三菱財閥創始2代目総帥・岩崎弥之助(4代目日本銀行総裁)の娘。

岩崎弥之助は三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟で、弥之助の妻は後藤象二郎の娘。
上に書いた三井など反三菱勢力が投資して設立した共同運輸会社を三菱商会に合併して「日本郵船」としたのが弥之助である。
1872年に政府が藩保有の船を政府所有とし(大半が江戸幕府と薩摩藩所有)、日本国郵便蒸気船会社(郵便を含めた貨物郵送船を運航する国有会社)を設立。これに関わったのが大蔵官僚だった大隈重信で支援したのが渋沢栄一。1874年の西南戦争で困ってしまった大隈は三菱の弥太郎に援助を要請した。そのことから国有の日本国郵便蒸気船会社を三菱が任され、三菱商会と合併し「郵便汽船三菱会社」へと改称。その後、共闘運輸会社と合併し、「日本郵船」となる。国有と三井系(反三菱)を三菱が吸収した形になったが、当の三井は三井物産に独自に船舶部門を持つことになる。
日本郵船の歴代社長は東京大学(伊藤博文・政府・国立・三井系)と慶應義塾大学(福沢諭吉・島津系)が多く、早稲田大学(大隈重信系)出身者はいないという話をこちらに書いた
岩崎弥之助はその他にも銀行・倉庫・地所・造船などの事業を興し、帝国議会の創立時に天皇から勅選されて貴族院議員となった。日本銀行総裁(第4代)にも就任した。

三菱の岩崎弥太郎、三井資本で外国旅行に出かけ問題となった後藤象二郎&板垣退助、海援隊の坂本龍馬はみな土佐藩出身である。(長州出身の伊藤博文は三井資本、肥前出身の大隈重信は三菱資本で動いていた)
岩崎家は郷士(半農半士・半商半士)の地位を失って地下浪人に没落していた。

地下浪人とは土佐藩における身分の一種で上士身分の浪人と区別して付けられた呼称。40年以上郷士身分であった者が、郷士身分を他者に譲って浪人となって、地域に居付いた者を地下浪人と呼んだ。
上士は山内一豊に付き従って土佐に入った家臣等の子孫であり、下士は長宗我部氏の旧家臣や土着の豪族層等の子孫が主な者であった。上士と下士も細かく身分が別れており、下士の身分としては、郷士、用人、徒士、足軽、組外、庄屋等があった。
地下浪人は足軽などより下の身分だったということである。

江戸時代には、旗本株、御家人株、郷土株などとして武士の身分が売買されており、この株が養子縁組とセットなっていた。株を売る側は養子を自身の後継者とする。早い話、武士の身分や家督(相続権)を売るということであり、自身に男子後継者がいる場合には廃嫡しなければならなかった。
武士の身分が欲しくて希望する人もあれば、金銭など目当てに商人に売買を持ちかける武士もいた。
株の売買は正式に認められたものではなく闇で行われていたもので、もし発覚すれば死罪か解雇となった。
ただこれは金銭で動くことを禁じていたもので、武士が商人や農民を養子にすることを禁じておらず、実力や運に恵まれれば商人や農民でも武士になることが出来た。
だからこそ売買が成り立っていたわけである。株の売買(金銭の授受)が見つかりさえしなければ、という状況を生み出せてしまった。江戸時代には一生変わらない士農工商という厳しい身分制度があったというのは嘘である。
(相撲界で年寄株などと言っているが、あれは闇社会の名残ではないのか?)

岩崎家は前述のように没落していたが土佐藩士・吉田東洋の知遇を得、吉田東洋の妻の兄弟の子であった土佐藩士・後藤象二郎との交際を経て、坂本龍馬率いる海援隊での経理を担当したことが出世の糸口となった 。

坂本龍馬は土佐郷士株を持つ裕福な商家に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
亀山社中は薩摩藩や長崎商人の援助を得て長崎の亀山にて結成し、倒幕を目的とした活動を行うとともに、交易の仲介や物資の運搬、銃器の斡旋などで利益を得ていた。薩長同盟締結に大きな役割を果たした。
脱藩が許され、海援隊と中岡慎太郎の陸援隊は土佐藩に付属する外郭機関として認められた。薩摩藩付きから土佐藩付きに変わったのである(もともと土佐藩出身ではあるが)。名称が海援隊になったのはこの時である。
しかし1867年に坂本も中岡も暗殺された。
坂本亡き後、後藤象二郎が海援隊を引き継ぎ土佐商会とし、岩崎弥太郎に任され、九十九商会を経て、三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させた。

土佐藩を脱藩し薩長同盟の立役者となった坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩に戻って直に暗殺され、薩摩藩や長崎商人の支援で結成された亀山社中(海援隊)は土佐藩の後藤象二郎に引き継がれ、土佐地下浪人として没落していた岩崎家の弥太郎の手に渡り今なお続く三菱財閥になりましたとさ。
その三菱財閥の岩崎家が薩摩・島津家の家臣だった松方家と婚姻によって親戚になりましたとさ。さっ妻に!?

三菱財閥創始者の岩崎弥太郎は妻との間に3人(1男2女)の子を儲けた。妾も6人いて6~10人くらいの子供がいたらしい。
さらにもう1人養子にしている。
松方財政の推進者で大蔵次官を務め貴族院議員(勅選)となった郷純造の4男・昌作である。2歳で岩崎弥太郎の養子となり岩崎豊弥と改名した。
もはや江戸時代でもないし岩崎弥太郎には実子もいた。この養子は家督(本家)を継承させるという言わば縦線のための縁組ではなく、横線のための縁組だろう。
明治時代になると本家や分家の独立性が薄れ、一族で財閥を形成している。大きさや多さが重要になってくる。
もちろんただ大きくかったり多ければよいわけではない。それでは貧乏子沢山大所帯になってしまう。権力者や有力者、有力企業などと縁組する必要がある。こうして三菱岩崎家は雪だるま式に大きくなっていった。
養子に入った岩崎豊弥(旧・郷昌作)の長女は、昭和天皇の侍従長を長く務めた入江相政に嫁いでいる。
入江相政の姉の娘が三笠宮崇仁親王(大正天皇と貞明皇后の第四皇子)妃となり、侍従長を通して天皇家とも繋がったことになる。

前出の郷純造の(異母)妹の息子に中島武市がいる。
中島武市と郷純造の子は従兄弟にあたる。つまり岩崎豊弥(旧・郷昌作)と中島武市も従兄弟である。
武市の長男の娘がシンガーソングライターの中島みゆき。

弥太郎の娘婿4人の中から、加藤高明及び幣原喜重郎の2人が内閣総理大臣となっている。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。





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by yumimi61 | 2016-02-23 12:40
2016年 02月 22日
日本国憲法の秘密-197-
松方正義の松方家のルーツと、島津家のルーツ

武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時から始まる。鎌倉時代初期、島津忠久*に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たというから、非常に古い譜代

*島津忠久は島津家の始祖となった人物であるが、元の姓は惟宗で、惟宗忠久だった。
惟宗は平安時代に始まった秦氏(渡来系氏族)の子孫。
惟宗忠久は鎌倉幕府の御家人(家臣)であった。
1185年に源頼朝より摂関家(藤原北家の5家)の1つである近衛家の領地だった島津荘の下司(実務を行う下級職員)に任命された。
惟宗忠久は1200年までに信濃国塩田荘の地頭、大隅国(鹿児島県)・薩摩国(鹿児島県)・日向国(宮崎県)の守護にも任命されている。
島津荘というのは日向国中南部・大隅国・薩摩国の3国にまたがる日本最大の荘園である(最盛期には8000町を超える規模があった)。
惟宗忠久は島津荘を本貫(本籍地・出身地)にしたいと思い「島津」左衛門尉と自称した(左衛門尉は官職名で、忠久は実際に1198年に左衛門尉職になっていた)。
つまりこの時に惟宗忠久は島津忠久になったということである。
しかし実際には惟宗忠久(島津忠久)は鎌倉で活動し生涯を終えており、南九州に移ったという形跡はない。
南九州に移ったのは島津家3代目にあたる人物である。
きっかけは元寇(モンゴル帝国と高麗王国による日本侵攻)であった。(これは侵攻があったので戦いに出向いたという解釈で間違いないのだろうか・・?侵攻側だったということはないのだろうか?)
元寇以来、薩摩に住み着き、4代目が初めて薩摩の地で没した当主で、土着が確認できるのは5代目からだそうだ。

ともかく松方家は島津家(旧・惟宗家)の家臣として一緒に薩摩にやってきたということになる。

先日こちらの記事で「九州大名の勢力」を書いた。
16世紀(1500年代)の大村家、有馬家、龍造寺家、島津家、大友家の勢力争いである。
キリスト教と深く関係する勢力争いでもある。

大村家に養子入りし(大村家乗っ取り)、日本初のキリシタン大名となったのは大村純忠(元は有馬)は長崎を開港し、1579年にはイエズス会に長崎を寄進した。
イエズス会の保護のもとにポルトガル商人との間で南蛮貿易が盛んに行われるようになる。
1582年には長崎から天正遣欧使節(九州のキリシタン大名がローマ教皇に派遣した少年使節)が出航した。

しかし大村は龍造寺家から圧迫を受けるようになる。
さらに大村純忠はキリスト教を狂信するあまりに神社仏閣を徹底的に破壊し、養父の大村純前の位牌さえも焼き捨てるという異常な行為を行い、大村家の衰退を助長した。
この行為が時の権力者にキリスト教を警戒させ、制限したり禁止するもととなった。

すると今度は島津家と有馬家が組んで、1584年に龍造寺家を倒す。
有馬家は龍造寺家を倒したことを神に感謝するとして浦上村をイエズス会に寄進してしまう。
長崎は島津家に占領されることになった。


大村家は肥前大村(現:長崎県大村市)、有馬家は肥前島原半島(現:長崎県島原市)、龍造寺家は肥前佐賀郡(現:佐賀県)、島津家は薩摩国・大隅国・日向国(現:鹿児島県と宮崎県)、大友家は豊後(現:大分県)をそれぞれ根拠地としていた。
戦国時代の全盛期には島津家が九州のほぼ全土を制圧した。

長崎も16世紀終盤に島津家が支配したわけだが、17世紀に15歳の松方和泉守が主命を受けて長崎へと鉄砲製造の技術を学びに行っている。
以後、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。

私は昨年8月28日に鉄砲伝来について書いた。
アメリカでは8月26日朝方に発生した銃事件が話題になっていたからであり、日本の鉄砲伝来記念日が8月25日だったからである。(但し8月25日は旧暦で新暦では9月23日)
翌8月29日にも鉄砲が伝来したという種子島のことと、今日のように近衛家と島津家の関係について書いている。
もっと前には「種子島にB型肝炎の良い薬がある」と語ったらしい村下孝蔵さんの話も書いた
よい薬があるからと種子島に行ったサーファーもいなかったっけ?
今ならば「打ち上げ場所」といった感じだろうか。
そう言えば先日(ここの「ティーにしよう!」のところ)は、本能寺が早くから種子島で布教していたとも書いた。
本能寺の変はその本能寺で1582年に起こった出来事である。
織田信長は何かよからぬ噂を小耳に挟んでいたのかもしれない。

種子島(鹿児島)への鉄砲伝来、1543年8月25日。
イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸してキリスト教が伝えられたのは、1549年8月15日。
日本初のキリシタン大名となったのは大村純忠(有馬晴純の次男)で1563年のこと。長崎港を開港した人。
長崎港は1579年にイエズス会に寄進され、長崎を支配したのは鹿児島を本拠として島津家だった。
それどころか島津家は九州のほぼ全域を支配下においた時期もあるのだ。
その島津家の始祖、島津忠久のもとは惟宗忠久、惟宗は渡来系氏族の子孫。
もし島津忠久が日本よりも朝鮮や中国など外国との繋がりが強かったとしたら・・?
鉄砲やキリスト教はヨーロッパからもたらされたというよりも朝鮮や中国からの侵入なのではないだろうか。
地理的に順序的に大陸や半島を経由してヨーロッパ人がやってきたという考えもあるのだろうけれども、ただの経由ではないとしたら・・?


種子島と渋谷と覚醒剤とパチンコ(群馬県?)

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昨年のクリスマスディナーショー


※酒井法子
タレントとして伸び悩んでいた酒井は、1990年当時、日本の芸能界が目を向けていなかった中華民国・台湾での活動を始め、香港、中華人民共和国など、中国語圏各地においても、日本での評価以上の人気と知名度を獲得。中国語歌唱による楽曲も発表した。1992年(平成4年)5月には、初めての海外公演として、中華民国台北市でのコンサートを成功させた。

1993年、脚本家の野島伸司に引き立てられ、主演したドラマ 『ひとつ屋根の下』(フジテレビ)、続いて1995年に『星の金貨』(日本テレビ)が立て続けにヒットする。同ドラマの主題歌となったシングルCD『碧いうさぎ』は自身初のミリオンセラーとなり、デビュー9年目にして初めて 『第46回NHK紅白歌合戦』(1995年)に出場した。ドラマでの役柄に合わせて、酒井はこの楽曲を、NHK紅白歌合戦史上初めて、日本手話を交えて歌った。

1998年(平成10年)12月、当時プロサーファーであった高相祐一と結婚した。同時に妊娠3ヶ月であることも公表され、酒井は翌年7月11日に長男を出産した。
産前産後休業をとっていた酒井は2000年(平成12年)に芸能活動を再開したが、同年7月には、デビュー当時からの担当マネージャーが芸能事務所社内で自殺する事件が起きている。

結婚・出産を経た酒井は、子育てと女優活動を両立、2003年(平成15年)には、伊藤忠商事とサンミュージックが設立した洋服ブランド、『ピーピーリコリノ (PP rikorino)』のプロデュースを始めている。さらに、日中文化スポーツ交流年(2007年)・文化親善大使となって、様々なイベントに参加し、当時の内閣総理大臣・安倍晋三とも面会、また、最高裁判所制作による、裁判員制度のPR映画『審理』(2009年)に主演するなど、芸能人としてのステータスを高めていた。

2009年(平成21年)には夫とともに覚せい剤取締法違反事件を起こし、二人とも有罪判決を受けるに至った。
2010年6月には離婚調停を経て夫との離婚が成立、慰謝料はなく、長男(当時11歳)の親権は酒井が得た。
事件翌年の2010年(平成22年)1月、酒井は介護士や音楽療法士を目指し、群馬県高崎市にある創造学園大学ソーシャルワーク学部ソーシャルワーク学科介護福祉コースに入学。eラーニングを主とした勉強を始めたが、2013年3月に大学は閉校している。

2011年[中国禁毒大使]のキャンペーンとして、中国に招聘され、色々なイベントに出席。
2013年1月、中華人民共和国最大ネットサイトの年度文化、ファンション賞「アジア最注目女優大賞」を受賞。
2014年、今井雅之の舞台「手をつないでかえろうよ-シャングリラの向こうで」に出演予定だったが、所属事務所オフィスニグンニイバが直前の1月16日になって辞退を申し入れる。



※舞台「手をつないでかえろうよ-シャングリラの向こうで」
2014年3月に公演予定の舞台を酒井法子は1月になって辞退した。
舞台は俳優の今井雅之が原作・脚本・主演。

舞台よりパチンコ営業を優先した酒井法子に「女優」の資格なし(アサ芸プラス)

清原和博、加藤茶、酒井法子……パチンコ営業に活路を見いだす“芸能人の稼ぎ”のカラクリ(サイゾー)
文化人やスポーツ選手ならば講演会ですね!
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のりピーの”激アツ”ホール営業にファン大喜び(東スポWeb)

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痩せるとは限らない


※オフィスニグンニイバ
オフィスニグンニイバは、東京都渋谷区円山町5 - 2第二伊藤ビル6階にある、テレビドラマを中心に活躍する役者のマネージメント事務所として、1996年6月に設立された芸能事務所。社名のニグンニイバは漢字で書くと「新群新葉」である。
代表の廣瀬洋二郎は元サンミュージックマネジメントスタッフで、同社の所属タレントであった桜井幸子と一緒に退社・独立(桜井は2009年現役引退)し所属タレントも増やし現在に至る。
2012年末には不祥事で芸能活動を引退していた酒井法子(元サンミュージック)と契約・芸能活動再開を実現させたことでも話題を呼ぶ。


※桜井幸子
1992年、NHK連続テレビ小説『おんなは度胸』でヒロインを務める。翌1993年には、観月ありさの代役として出演した野島伸司脚本『高校教師』で、真田広之演じる主人公と恋に落ちる女子高生・二宮繭役を演じ、一躍人気女優となる。以後、野島作品の常連となり、野島三部作にも全て出演した。
2003年2月20日に、音楽プロデューサーの田中聡と結婚するが、2006年4月27日に離婚。
2009年12月28日、所属事務所の公式サイト上において、2009年限りでの芸能界引退を表明。


1986年に所属プロダクションビルの屋上から飛び降りて亡くなったアイドル岡田有希子もサンミュージックだった。

※今井雅之
兵庫県立豊岡高等学校卒業後、俳優になろうと志すが、自衛官の父に俳優になりたいのであれば自活するよういわれ、1980年4月陸上自衛隊に一般曹候補学生で入隊。同年12月滋賀県今津町の第3師団第3戦車大隊(今津駐屯地)に配属。上官に俳優になりたいため辞めたい旨を告げ、「自衛隊は俳優養成所ではないぞ」と叱られる。1981年9月、陸士長で自己都合退職。1986年3月法政大学文学部英文学科卒業。
1986年奈良橋陽子演出『MONKEY』にて演劇デビュー。1988年に特別攻撃隊が主題の演劇「リーインカーネーション」の初演、これは後に今井のライフワークともいえる『THE WINDS OF GOD』に発展していく。


前述のとおり、2014年1月に酒井法子のドタキャン騒ぎがあった。その暮れ・・・。
2014年末に腸閉塞のために体調を崩し医師から「余命3日」を宣告され緊急手術を行い、術後には回復した事をブログで報告。2015年4月21日、ブログにて、大腸癌のため、主演舞台『THE WINDS OF GOD』を降板することを発表[11]。同年4月30日には記者会見を開き、3月から入院中で、抗がん剤治療をしており、「ステージ4」の末期ガンであることを明かした。長らく健康診断を受けていなかったこともあり、発見時には既に手の施しようのないほど病状が悪化していた。5月28日午前3時、入院先の病院で家族に看取られながら死去した。

千葉真一、アグネス・チャン、の熱心なファンで、自身のブログやテレビ番組で度々公言している。
日本文化チャンネル桜の賛同者であり、神社本庁や日本会議、靖国会館などでの講演会で特攻隊を「武士道精神に溢れる」と語るなど、保守系文化人としての側券を見せるとともに、『THE WINDS OF GOD』公演の最後には涙ながらに「NO MORE WAR!」と叫ぶなど、反戦への意志も強い。

芸能人にはパチンコ営業のみならずブログという稼ぎもありましたね!
ちなみに私のブログは全くお金になりません。むしろお金を払うくらいです(容量を大きくしたり広告を消したりしたければ有料です)。
私は選択の余地なく入る広告が嫌で以前は有料に入っていたのですが、突然の値上げと変更に怒り、無料に移りました。
そんなわけで広告が時々入っているかと思いますが(でもエキサイトは文字広告なので控えめではある)、私がアフィリエイトを行っているわけでもありません。


昨年54歳で亡くなった今井雅之は、1986年に奈良橋陽子演出の『MONKEY』にて演劇デビューし、奈良橋の主宰するアップスアカデミーに所属していたが、『THE WINDS OF GOD』のニューヨークオフ・ブロードウェイ公演が頓挫したことに端を発する事務所とのトラブルから独立。
1997年、エル・カンパニーを立ち上げる。
2008年2月1日、エグゼに移籍。エル・カンパニーを今井の著作権管理会社として存続する。
2009年10月1日、オスカープロモーションに移籍。


奈良橋の事務所とトラブルがあり独立したとあるが、後に和解したのか、故人となってしまったからなのか、舞台の映画化の監督は奈良橋が務めている。
舞台「手をつないでかえろうよ〜シャングリラの向こうで〜」が映画化されることが10月16日、京都で開催中の京都国際映画祭2015で発表された。よしもと祇園花月での会見には、監督を務める奈良橋陽子、プロデューサーの野村祐人、主演の川平慈英が出席した。

※奈良橋陽子
千葉県市川市出身。父親は外交官で、カナダ・モントリオールにある国際連合の専門機関である国際民間航空機関(ICAO)日本政府代表部に勤務しており、奈良橋も5歳でカナダに渡る。1962年、日本に帰国し聖心インターナショナルスクールを卒業後、国際基督教大学言語学専攻卒業。大学在学中にジョニー野村と知り合い、結婚。一男ー女を出産したが、離婚。アメリカ・ニューヨークにある小劇場および俳優養成学校ネイバーフッド・プレイハウス卒業。
ジョニー野村と共に設立したプロダクションでバンド「ゴダイゴ」のプロデュースを行い、数々の曲の作詞を手がける。演出家として活躍するー方、プロデュ一サ一としても、芸能人別所哲也、藤田朋子、今井雅之、川平慈英らを現代演劇界、テレビ業界へと輩出する。



急転

ここでまた松方家の話に戻ろうと思います。
17世紀から鉄砲製造を監督指導を生業としてきた松方家の当主も19世紀には30代目となっていた。
30代目当主・松方七右衛門、彼には後継ぎの男子がおらず、養子を迎えた。地元の商家の息子の松田正恭である。
1818年に松方家の家督を継ぎ、松方正恭に改めた。
この人が松方正義の父親である。正義は4男だった。
従って松方正義も良くも悪くも松方家との血の繋がりはない。
さらに13歳の時に両親を亡くしている。
正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。




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by yumimi61 | 2016-02-22 16:32
2016年 02月 22日
日本国憲法の秘密-196-
はつえちゃんが合格した!(そうじゃなくて・・?)


泥仕合

(板垣退助の自由党では)民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉・中江兆民らまでも自由党から去ることとなった。また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合の様相を呈した。

(大隈重信の立憲改進党は)1883年頃から政府の圧力が強まり、加えて自由党の板垣退助の洋行問題を巡る疑惑追及を行うと、逆に自由党側からも前島や尾崎・犬養と関係が強く同党の機関紙となっていた郵便報知新聞などが政府の資金を受けているとの疑惑が出されて岩崎弥太郎を海坊主になぞらえた「海坊主退治」キャンペーンが繰り広げられたことから、泥仕合となった。


政府を出て活動を始めた板垣と大隈であったが、1882年の板垣退助と後藤象二郎の外国旅行をきっかけに、政府の思惑通り暗転していく。
同年に日本銀行が設立され、その年から1885年までの間に幾つかの激化事件が発生した。


お金の変わり目にはご注意

1885年に日本銀行券による銀兌換(日本銀行兌換銀券発行;銀貨と交換保証のある券を発行)が始まった。
銀貨が直接出回る銀本位制ではないが交換を保証しているということで事実上の銀本位制が採られた。
もともと金銀複本位制であり、1871年にも金本位制を導入するが、金貨が仕舞い込まれたのか日本ではほとんど金貨が流通しなかった。

(福沢諭吉と大隈摩重信が)正金を集めるべく横浜正金銀行を開業したのが1880年。これも思うような成果を上げることは出来なかった。
金本位制に移行できたのは、日清戦争(1894-1895年)の勝利によって清から賠償金を得たからである。
清からの賠償金3億5000万円を準備金として金本位制に移行したのだ。
こちらに、「日本はロンドンに2億5000万円ほどの金銀貨を保存していたという」と書いたが、この時は金本位制によるポンドの基軸通貨体制(1850年確立)が布かれていたので、賠償金の一部をロンドンに保管したということだと思う。
賠償金は銀払いだった言われているが、ロンドンで銀で金と交換したのか、賠償金の一部は金でそれがロンドンに持ち込まれたのかはよく分からない。
過去記事より>

ここでその頃の歴史をもう一度見てみたい。

1881年、大隈重信、政界を追われる。
1885年、初内閣誕生。伊藤博文が初代首相に就任。
1886年、ジュネーヴ条約に調印し、
1887年、日本赤十字社を結成。

1888年、大隈重信、伊藤博文の心変わりにより外務大臣として呼び戻される。(条約改正対応)
1889年、森有礼、暗殺される。
1889年、大隈重信、条約案反対派から爆弾による襲撃を受けて右足切断に至り、辞職する。
1890年、新島襄、死去。
1890年、大日本帝国憲法発布。
1891年、内村鑑三、教職を追われる。
1891年、近衛師団編成

1894-1895、日清戦争。
1896年、大隈重信、再び外務大臣に就任。
1897年、大隈重信、薩摩藩閥と対立して辞職。
1898年、大隈重信、憲政会結成し、首相に就任するも4ヶ月で内閣総辞職。
1904-1905、日露戦争。
1905年、大韓帝国実効支配。
1909年、伊藤博文(韓国統監府初代統監)、朝鮮にて暗殺される。
1910年、大韓帝国併合。初代朝鮮総監には寺内正毅(長州藩出身)が就任した。


国立銀行条例によって設立された横浜正金銀行だが、1887年に横浜正金銀行条例が交付された。
1897年には貨幣法を制定し、金本位制に移行した。
日本銀行は1899年に金貨と交換できる日本銀行兌換券を発行。
それと同時に政府紙幣と国立銀行券の発行停止が言い渡され、国立銀行も民間銀行へと転換した。
日本銀行は政府も他の国立銀行も蹴落とし紙幣(銀行券)発行業務を独占することに成功する。
金本位制に移行できたのは、上記のとおり1894-1895年の日清戦争の賠償金によるものだと言われている。
お金の変わり目には戦争があった。戦争へ続く道の岐路にはお金の変わり目もあった。

1904-1905年の日露戦争の後の1906年には横浜正金銀行が関東州と中国において銀行券の発行を許可される。
同じ年、日本銀行と横浜正金銀行が専用線電話で結ばれた。これが日本初の専用線だった。
国立銀行条例に則らず独自の条例を持つ2つの銀行は国立なのか私立なのか。
三井と三菱という財閥をバックに付けて国家を代表し銀行券を発行する銀行は果たして国立なのか私立なのか。
異様な体制が確立しつつあった。
実はこの時まだアメリカのFRS(連邦準備制度)とFRB(連邦準備制度中枢機関)は設立されていない。
設立は1913年のことである。

1931年9月満洲事変勃発。ここから1945年の戦争終結までを15年戦争と呼ぶこともある。
1931年12月、金貨兌換(金貨への交換)を停止した。

1938年、近衛内閣によって第73議会に提出され、国家総動員法が制定された。
総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したものである。

1941年12月8日未明(日本時間)、ハワイのパールハーバーに攻撃を仕掛け、太平洋戦争が始まった(第二次世界大戦参戦)。
1942年2月24には日本銀行法(旧法)が公布された。
これに伴いそれまでの日本銀行条例と兌換銀行券条例が廃止された。
正金との交換を保証する兌換銀行券が廃止されたということは、以後の日本銀行券は不換紙幣になったということである。
戦時中にそれを行ったのだ。

日本銀行法(旧法)と書いたが、日本銀行法が全面改正されたのは1997年のことである。
1997年は金融ビッグバン(金融改革)の一環として橋本内閣によって持株会社が解禁された年でもある。
事業支配力が過度に集中する恐れがあるとして独占禁止法によって禁止されていたが、1997年6月に改正され解禁された。
子会社が金融機関に限定 される金融持株会社も同年12月に解禁された。


旧日本銀行法

戦時中に制定され1997年まで有効だった(旧)日本銀行法の記述は時代を感じさせる。

第1条 日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ製作ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス
2 日本銀行ハ法人トス

第2条 日本銀行ハ専ラ国家目的ノ達成ヲ使命トシテ運営セラルベシ

第3条 日本銀行ハ法令ノ定ムル所ニ依リ通貨及金融ニ関スル国ノ事務ヲ取扱フモノトス
2 前項ノ事務ノ取扱ニ要スル経費ハ法令ノ定ムル所ニ依リ日本銀行ノ負担トス


3条までを転載した。
6条、11条、40条は「削除」とある。
部分改正時に削除されたのかと思い、改正箇所を確認したが違うところだった。
どうも戦後すぐに改正(削除)されたようだ。
下記リンク先が削除された6条について書いている。
6条は外国人出資についての条項だったようだ。
日本銀行の出資証券について

日本銀行は法人であると第1条2項に記されている。
権利能力が付与された法人であるということだが、法人の種別には触れていない。
国立なのか私立(民間)なのかも不明で、認可法人や財団法人といった規定もまだない。
ただ第2条に「専ら国家目的の達成を使命として運営される」という記述はある。


銀行券

銀行券を発行できる唯一の銀行である日本銀行。
銀行券についての条項は旧法では第4章、新法では第5章。(下記参照)

------------------------------------------------------------------------------------------------
第4章 銀行券

第29条 日本銀行ハ銀行券ヲ発行ス
2 前項ノ銀行券ハ公私一切ノ取引ニ無制限ニ適用ス

第30条 主務大臣ハ閣議ヲ経テ前条第1項ノ銀行券ノ発行限度ヲ定ムベシ
2 主務大臣前項ノ発行限度ヲ定メタルトキハ之ヲ公示ス

第31条 日本銀行ハ必要アリト認ムルトキハ前条第1項ノ発行限度ヲ超エテ銀行券ヲ発行スルコトヲ得但シ15日ヲ超エ其ノ発行ヲ継続セントスルトキハ主務大臣ノ認可ヲ受クベシ

第31条ノ2 日本銀行ハ15日ヲ超エテ発行限度ヲ超ユル銀行券ノ発行ヲ継続シタル場合ニ於テハ16日以後ノ発行限度ヲ超ユル銀行券ノ発行高ニ対シ其ノ日数ニ応ジ主務大臣ノ定ムル割合ヲ以テ発行税ヲ納ムベシ

第32条 日本銀行ハ銀行券発行高ニ対シ同額ノ保証ヲ保有スルコトヲ要ス
2 前項ノ保証ハ左ノ各号ノ一ニ該当スルモノナルコトヲ要ス
一 商業手形、銀行引受手形其ノ他ノ手形
二 第20条第2号又ハ第22条第1項ノ規定ニ依ル貸付金
三 国債
四 第20条第5号ノ其ノ他ノ債券
五 外国為替
六 地金銀(金銀貨ヲ含ム)
3 前項第1号、第2号及第5号ノ手形、貸付金及外国為替ハ3月以内ニ満期ノ到来スルモノナルコトヲ要ス但シ主務大臣ノ認可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラズ
4 第24条ノ規定ニ依リ外国金融機関ニ対シ出資ヲ為シタル場合其ノ他特別ノ必要アル場合ニ於テ主務大臣ノ認可ヲ受ケタルトキハ第2項各号ニ該当セザル有価証券又ハ債権ヲ以テ第1項ノ保証ニ充ツルコトヲ得
5 日本銀行ハ第2項各号及前項ノ保証ノ価格ヲ定メ主務大臣ノ認可ヲ受クベシ
6 主務大臣ハ第2項第1号乃至第4号及第4項ニ掲グルモノニ付各別ニ保証ニ充ツルコトヲ得ル金額ノ限度ヲ定ムベシ


第33条 銀行券ノ種類及様式ハ主務大臣之ヲ定ム
2 主務大臣前項ノ種類及様式ヲ定メタルトキハ之ヲ公示ス

第34条 日本銀行ハ主席大臣ノ定ムル所ニ依リ銀行券発行高ヲ公告スベシ

第35条 日本銀行ハ主務大臣ノ定ムル所ニ依リ本店、支店又ハ出張所ニ於テ汚染、毀損其ノ他ノ事由ニ因リ通用シ難キ銀行券ヲ無手数料ニテ引換フベシ

第36条 日本銀行ハ銀行券ノ製造及銷却ノ手続ヲ定メ主務大臣ノ認可ヲ受クベシ

---------------------------------------------------------------------------------------------------

第5章 日本銀行券

(日本銀行券の発行)
第46条  日本銀行は、銀行券を発行する。
2  前項の規定により日本銀行が発行する銀行券(以下『日本銀行券』という。)は、法貨として無制限に通用する。

(日本銀行券の種類及び様式)
第47条  日本銀行券の種類は、政令で定める。
2  日本銀行券の様式は、財務大臣が定め、これを公示する。

(日本銀行券の引換え)
第48条  日本銀行は、財務省令で定めるところにより、汚染、損傷その他の理由により使用することが困難となった日本銀行券を、手数料を徴収することなく、引き換えなければならない。

(日本銀行券の製造及び消却)
第49条  日本銀行は、日本銀行券の製造及び消却の手続を定め、財務大臣の承認を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。
2  第7条第4項の規定は、前項の承認について準用する。

---------------------------------------------------------------------------------------------------


新旧比較

【日本銀行券の発行】
第29条 日本銀行ハ銀行券ヲ発行ス
2 前項ノ銀行券ハ公私一切ノ取引ニ無制限ニ適用ス
 ↓
第46条  日本銀行は、銀行券を発行する。
2  前項の規定により日本銀行が発行する銀行券(以下『日本銀行券』という。)は、法貨として無制限に通用する。


【日本銀行券の種類及び様式】)
第33条 銀行券ノ種類及様式ハ主務大臣之ヲ定ム
2 主務大臣前項ノ種類及様式ヲ定メタルトキハ之ヲ公示ス
 ↓
第47条  日本銀行券の種類は、政令で定める。
2  日本銀行券の様式は、財務大臣が定め、これを公示する。


【日本銀行券の引換え】
第35条 日本銀行ハ主務大臣ノ定ムル所ニ依リ本店、支店又ハ出張所ニ於テ汚染、毀損其ノ他ノ事由ニ因リ通用シ難キ銀行券ヲ無手数料ニテ引換フベシ
 ↓
第48条  日本銀行は、財務省令で定めるところにより、汚染、損傷その他の理由により使用することが困難となった日本銀行券を、手数料を徴収することなく、引き換えなければならない。


【日本銀行券の製造及び消却】
第36条 日本銀行ハ銀行券ノ製造及銷却ノ手続ヲ定メ主務大臣ノ認可ヲ受クベシ
 ↓
第49条  日本銀行は、日本銀行券の製造及び消却の手続を定め、財務大臣の承認を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。


旧法の30条、31条、32条、34条(上で赤字で記した箇所)に対応する条項が無くなった。
特に注目すべきは32条が無くなったことである
「日本銀行は銀行券発行高に対し同額の保証を保有する必要がある」「前項の保証は次の各号のどれかひとつに該当するものであること」とし、6つの保証をあげていた。
但し日本銀行券が兌換紙幣であるとは書いておらず、日本銀行の運営上(帳簿上)の保証であるとの見方も出来る。
① 商業手形、銀行引受手形、その他の手形
② 第20条第2号又ハ第22条第1項の規定による貸付金
③ 国債
④ 第20条第5号のその他の債券
⑤ 外国為替
⑥ 地金銀(金銀貨を含む)

一般的には日本銀行が市中銀行から国債を買い取ることで日本銀行券を発行すると理解しているが、法律上は国債以外の有価証券でもよいと定められていた。
⑥が正金と呼ばれてきたもので、かつての銀行券(兌換紙幣)はこれと交換するという保証券であった。
従って銀行は原則として発行した銀行券(兌換紙幣)分の正金を持っていなければならないということになる。
それ以外のものは結局みな紙切れである。紙幣(日本銀行券)の保証が同じ紙幣(日本銀行券)では全く意味がない。
紙幣に価値がない以上、日本銀行が国債を買って日本銀行券を差し出すという行為は(国債の方が利息付だからお得ね、とかなんとか言って)債券で債券を買っているということ。(でも戻ってくるのは結局自分達が発行した債券)
意味がないから消したのか、もはやそんな誤魔化しさえする気もないレベルなのか、新法ではこの条項が削除された。

私達の持っている紙幣は、通帳にプリントされている数字は、何の保証もないただの紙切れであり、ただの数字である。
1条に「日本銀行が発行する銀行券(日本銀行券)は法貨として無制限に通用する」とあるので、財務大臣と日本銀行が相談して決めた銀行券ならば何でも法貨になるのである。
そのうちカラフルなアニメチックな日本銀行券が発行されるかもしれませんね。
人気のキャラクター(私には何だかよく分からないけれど)に登場してもらい、少数枚オークションで発行して希少性を出し額面より値を釣り上げるというのはどうでしょうか?
または違う種類を各地の日本銀行からバラバラに何種類も出して、フルセット揃ったらプレミアムを付けるという方法はどうでしょうか?
それだったら、ジグソーパズルみたいに何十枚か集めたら一つの絵になるというのもいいかもしれませんね。壮大!お金持ちの家が額に入れて応接間あたりに飾ってくれるかも。


債券ぐるぐる回っているだけで何も意味はないけれど、実際にそれで物が買えるのだから現状はすごく意味があることでもある。
地球がぐるぐる回っているだけで本当は何も意味はない。でもそこに生きている人がいる以上、それはとても意味あることかもしれない。
簡単に作れる意味ある価値ある物を特定の人だけに与えるのではなく公平に全ての人に分け与えたらいいと思う。
しかし実際のところ物には限りがある。物質やエネルギーには限界があるから。
全ての人に行きわたる物が作れないならば、全ての人に平等に紙幣を与えても意味のないこと。
問題の本質は物よりも人が多いということなのだ。

人の数を維持したまま、あるいは増加するのを許容しながら、全ての人に平等に物を行き届かせようとするならば、物への欲求を下げなければならない。
物の質を低下させる必要がある。質の低下というと誤解を生じるかもしれない。過剰華美であるべからずということ。
世界を1つにしないという解決しないと考えはある意味においては間違えてはいない。
しかしそれはもはや宇宙を作るより難しそうな気もする。


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by yumimi61 | 2016-02-22 01:42
2016年 02月 20日
日本国憲法の秘密-195-
大不況

昨日の記事の繭ではなく生糸の価格ではないだろうかという話の続き。

日本の明治時代(1868-1912)の44年の半分の期間、ヨーロッパは大不況にあった。
アメリカは同時期に始まり、ヨーロッパより早く不況を脱している。

※大不況(1873年-1896年)
大不況とは、イギリスのヴィクトリア朝時代の後半(1873年-1896年)に発生した世界的な経済危機を指す。第二次産業革命および南北戦争が終結したことで力強い経済成長を遂げていた欧米に深刻な影響をもたらした。

大不況の影響は、西欧及び北米にて最も著しかった。当時の情勢を知りうる信頼できるデータが、これらの地域のものが最も入手しやすいからというのもある。英国はしばしば最も激しい打撃を受けたと考えられている。例えば、この期間に英国はいくつかの巨大産業で、欧州大陸国家に対して保っていた優位を失った。


※1873年恐慌
1873年から1879年までヨーロッパと北アメリカで不況を生じさせた金融危機である。さらに長引いた国もあった。例えばイギリスでは「大不況と呼ばれる経済停滞の20年間が始まり、それまで世界経済をリードしてきた国力を弱らせた。当時は「大恐慌」とも呼ばれたが、1930年代初期に世界恐慌が起きた後は、長期不況と呼ばれるようになった。

1873年恐慌とその後の不況には幾つか潜在的な原因があった。それに関して経済史家は相対的な重要性を議論している。普仏戦争(1870年-1871年)の結果、ヨーロッパにおける戦後のインフレ、投機的投資の蔓延(圧倒的に鉄道に対する投資)、巨大な貿易赤字、経済的混乱の波紋があり、1871年のシカゴ大火、1872年のボストン大火など資産の損失があり、その他要因もあって銀行の資本準備高に大きな歪みが生まれ、1873年9月から10月にニューヨーク市の準備高は5,000万ドルから1,700万ドルまで急落した。
金融危機の最初の兆候はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンでの財政破綻であり、それが1873年までにヨーロッパと北アメリカの大半に広がった。


※アメリカの恐慌の要因
南北戦争の後のアメリカ合衆国は、鉄道の建設で経済は好況だった。1868年から1873年の間に国内で総延長33,000マイル (53,000 km) の新線が敷設された。鉄道に対する投資の流行は、政府による土地払い下げと鉄道に対する補助金が大きな推進力となった。当時、農業を除けば鉄道産業が最大の雇用主であり、多額の金とリスクを伴っていた。投機家が大量の現金を注入して産業の異常な成長をもたらし、ドック、工場、補助設備など造りすぎた状態になっていた。それと同時に、直ぐにはあるいは早期にリターンが見込まれない計画にあまりに多くの資本が投じられた。

どうやって恐慌から脱するかと言えば、企業を倒産させたり、建設工事を中止することによってである。
それはもちろん大きな痛みや不満を生じることとなり、犠牲者を生むだろう。
しかしやはりそうでもしないかぎり、状況が大きく変わることは難しい。
小手先の政策で目に見える変化は起こらない。そんなことで動く変化は逆に疑ったほうがいい。
現にアメリカは、1873年から1875年の間に18,000社が倒産した。失業率は1878年の8.25%が最大だった。建設工事が止まり、賃金がカットされ、不動産価格が下がり、企業の利益が消えた。
多くの州は重い負債に喘ぎ、重税に苦しんだ。
1877年、急激な賃金カットのために鉄道労働者が大ストライキを敢行した。このストライキで国内の広い範囲、特にペンシルベニア州や鉄道の大中心であるシカゴで列車が止まった。ラザフォード・ヘイズ大統領は連邦軍を派遣してストライキを止めようとし、その結果起きた衝突で100人以上が死亡した。
1877年7月、木材の市場が崩落し、ミシガン州の製材会社数社を破産に追い込んだ。その1年以内に、この第2の経営破綻の影響はカリフォルニア州にまで達した。
こうして1879年春、不況に終止符を打った。しかし労働者と経営者、経営者と銀行との間にしこりを残した。
根競べの勝負に挑むか大きな変化を望むか。
いち早く不況を脱したアメリカには多くの移民が流れ込んだ。


生糸の輸出状況

生糸の輸出先

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<出典>横浜市史 第三巻上  p.470 (基調講演「横浜開港と生糸貿易」より)
(注)赤と青のラインは私が記入したものです。

欧米で恐慌が発生した1873年が明治6年である。
青ライン(明治13年)はアメリカが不況を脱した翌年にあたる1880年。
この年に輸出先に大きな変化があったことが分かる。イギリスからアメリカへシフトされたのだ。
おそらくイギリスはそれまで日本から仕入れた生糸をアメリカへ再輸出していたのではないだろうか。
江戸時代のアメリカの開港要求は通商が主目的ではなく、寄港地を確保したかったのだ。
一方、日米修好通商条約に便乗した形のイギリスは最初から通商目的であった。

赤ライン(明治17年)は1884年。その2年前1882年(明治15年)に日本銀行が開業した。
生糸の輸出先がイギリスであってもアメリカであっても生糸の質が保たれていれば日本の生糸売価(単価)に大きな変化はない。
輸出量の増減は影響がある。
開港した当初は主なる輸出品となった生糸に目を付けて製糸業に新規参入した業者が多くいた。
そのため生糸の品質が落ちたり、品質検査や格付けをしないまま同じ値段で買い漁っていくという状況もあって、一時期外国で日本産生糸の評判が落ちた。
そのため品質検査が強化され、再び信頼を回復した。
それは1860年代(江戸幕末)頃の話で、1880年代というのはもうその時期を過ぎている。


激化事件

板垣退助は1881年に自由党を結成したが、その前の歴史をもう一度振り返る。

※自由民権運動の始まり(自由民権運動とは何だったのか?)
1873年(明治6年)、板垣退助は征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らとともに下野した。(明治六年政変)

下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成、有司専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立する。この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになる。 この建白書を巡って、民選議員を設立すべきかどうかの論争が新聞紙上で交わされた。 翌1875年(明治8年)には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。

江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。


こうして見ると発端は征韓論である。
さらに遡れば、明治初期の名の知れた人物の多くは薩長土肥藩出身者であるから、倒幕(討幕)派だったわけである。
上青字にも「士族民権は武力闘争と紙一重であった」と書いてあるが、革命・革新とテロリズムは紙一重。
テロリズムとクーデターは同義語。
革命もテロリズムもクーデターも戦争も「力による現状変更」である。


※激化事件と自由民権運動の衰退
大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討していた。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対し不満をつのらせていた。
こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件、1882年(明治15年)には福島事件、1883年(明治16年)には高田事件、1884年(明治17年)には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年(明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発した。また、大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行した。
この間、1882年(明治15年)には板垣が保守主義者の暴漢に襲われた(岐阜事件)。また、1884年には自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど打撃を受けた。



・1882年(明治15年) 福島事件
福島県喜多方にて、福島県令の圧政に反抗。この時の福島県令と加波山事件の栃木県令は同一人物(薩摩藩出身の三島通庸)。西郷隆盛に取り立てられ藩主・島津忠義から抜擢され、大久保利通の計らいにより新政府に出仕した。

・1883年(明治16年)3月 高田事件
新潟県高田・頸城地方(現:上越市)における自由党員らの弾圧事件。

・1884年(明治17年)5月 群馬事件
群馬県北甘楽郡(現:甘楽郡下仁田町・南牧村・甘楽町、富岡市、高崎市と安中市の一部)における自由党急進派と農民による激化事件。
小規模で終わったが、貧困農民の騒動と自由党急進派が結びついた端緒であり、実際に政府転覆を目的として加波山事件などに続く武装蜂起のはじめとなった事件である。
警察や高崎駅(開業時)、高利貸し邸などの襲撃を計画したり実行しており、金銭に絡む不満を抱えていたことが窺える。
1872年に官営の富岡製糸工場が造られた地域でもあるので、富岡製糸工場(国家や三井財閥)との確執や取引に関わる問題があったのかもしれない。

・1884年9月(明治17年) 加波山事件
栃木県令暗殺未遂事件。茨城県筑波連山の1つ加波山に立てこもった。

・1884年(明治17年)11月 秩父事件 
埼玉県秩父郡(横瀬町・皆野町・長瀞町・小鹿野町・東秩父村)(秩父市と合わせて秩父地方と呼ぶが秩父郡と言う場合には秩父市は含まれない)
農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。
自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例とされる。
埼玉県秩父地方・児玉郡・群馬県多野郡・甘楽郡・碓氷郡・長野県佐久地方は峠を挟むものの経済的にも文化的にも不可分の関係であった。

・1884年(明治17年)11月 飯田事件
愛知県田原市に存在した結社と飯田市にあった結社が共同で明治政府への挙兵を計画していた。政府転覆未遂事件。

・1884年(明治17年)11月 夷隅事件
千葉県夷隅郡(現:千葉県夷隅郡・いすみ市・勝浦市)を中心とした房総半島一帯で発生した自由民権運動弾圧事件。
1884年3月に政府によって地租条例が公布され地租軽減要求が事実上拒否されたことによって激化した。

・1884年(明治17年)12月 名古屋事件
愛知県西春日井郡(現:名古屋市西区)で巡査殺害、同県知多郡長草村(現:大府市)役場において国税を強奪。旧自由党の党員が起こした政府転覆未遂事件(そのための軍資金調達)だが、罪は殺人罪と強盗罪だった。

・1885年(明治18年) 大阪事件
旧自由党の大井憲太郎を中心とし、朝鮮に政変を起こして日本国内の改革に結びつけようという発想に基づくものであった。

激化事件が起こった地域は養蚕業や製糸業が盛んだった地域に重なる。
不換紙幣や生糸に直接関係していそうなのは群馬事件と秩父事件である。
日本のデフレ政策が原因だとすれば、東日本の農民のみが困窮し不満を抱いたなんてことはないはずである。
世界遺産の富岡製糸工場に喜ぶのも良いが、草葉の陰で泣いている人達がいるかもしれないということを私達は知るべきなのだ。


色眼鏡

※秩父事件
1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。 

国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引所(同取引所はフランスのみならず、当時欧州最大の生糸取引所のひとつであった)における生糸価格の大暴落の影響により、1882年から1883年にかけて生糸の国内価格の大暴落が発生した。

埼玉県秩父地方は昔から養蚕が盛んであったが、当時の同地方の産業は生糸の生産にやや偏っており、さらには信州(長野県)など他の養蚕地域に比べてフランス市場との結びつきが強く(秩父郡内における最初の小学校はフランスの援助で設立され、そのために当時の在日フランス公使館の書記官が秩父を訪れたほどである)、上述の大暴落の影響をより強く受けることとなった。養蚕農家の多くは毎年の生糸の売上げをあてにして金を借り、食料の米麦その他の生活物資等を外部から購入していたため、生糸市場の暴落と増税等が重なるとたちまち困窮の度を深め、他の各地と同様、その窮状につけこんだ銀行や高利貸等が彼らの生活をさらに悲惨なものにしていた。


生糸の国内価格の大暴落が起こったのではなく、影響があったとするならば輸出量の減少ではないだろうか。
1884年にイギリスとフランスへの輸出量が激減した。アメリカ輸出分は減っていない。
従って例えばイギリスやフランスと独占契約のような取引をしていれば収入に与える影響が大きかったはずだ。

実は通商が活発になり多くの生糸が輸出に回されたことによって国内用の生糸が不足した時期があった。
生糸不足によって西陣や桐生などの絹織物業が圧迫されたくらいである。
需要より供給が少ない時には一般的に物価は上がる。
1870年以降は製糸にも器械が導入されるようになったので生糸の生産性が上がり、供給不足も次第に解消されるようになってはいったが、まだしばらくの間、輸出品としても国内用としても重要な品であり、国内で生糸価格が暴落したとは考えにくい。
群馬県に作られた官営の富岡製糸工場は官営と言いつつも三井資本であり、1891年には三井財閥に払い下げられた。
その富岡製糸工場は建設から器械導入、技術指導など全てにおいてフランスとの関係が深かった。
富岡製糸場で生産された生糸は1877年から三井物産によってリヨンへ直輸出されるようにもなり、日本人による直輸出が始まった。
それまでは日本に買い付けに来た外国の商人や商社と取引をしていた。
1878年(明治11年)にパリ万国博覧会に赴いていた松方正義(当時は勧農局長)が富岡の生糸の質の低下を指摘された
残念ながら官営の富岡製糸工場によって富岡の生糸の質が低下したのである。
地元農家といろいろ確執があっただろうことは想像に難くない。








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by yumimi61 | 2016-02-20 11:36
2016年 02月 19日
日本国憲法の秘密-194-
不換紙幣の行き先

松方は不換紙幣を回収・焼却処分にし、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制の導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、軍事費を除く政府予算の縮小等により紙幣発行量を縮小していった

①不換紙幣を回収・焼却処分
②デフレーション政策により紙幣発行量を縮小

この2つは似て非なるものである。
①は過去に発行した不換紙幣を回収して処分すること。
②は今後の紙幣発行量を縮小するということ。

日本銀行は1882年に日本銀行条例を制定し、同年開業した。
開業から2年後の1884年、兌換銀行券条例を制定。
これにより銀行紙幣を発行できるのは日本銀行のみとなり、それまで国立銀行が発行した銀行紙幣を回収した。


松方正義は、国立銀行条例に基づいた銀行紙幣の発行や大隈重信が条例を改正して発行を認めた不換紙幣を廃止し、銀行紙幣の発行を日本銀行のみにするという政策を採った。

一番の問題は不換紙幣をどうやって回収するかである。
ごく一般的に考えれば、不換紙幣と日本銀行紙幣の交換が妥当であろう。

不換紙幣は〇年〇月〇日より使用できなくなります。
不換紙幣をお持ちの方は日本銀行紙幣との交換に応じますので日本銀行までお越しください。


不換紙幣は正金と交換保証のない紙幣である。「有事の際にはただの紙切れ」という代物なのだ。
政府は信用を前面に出して不換紙幣を発行した。信用したからこそ不換紙幣での取引に応じたのだ。
債券ではないというところがミソで、直ちに使われる運命にあるのが不換紙幣である。
世に出た不換紙幣は一か所に留まらない。紙幣は拡散し末端に届く。
末端というのは、生きるために必要な物を生産し販売している農家であったり、労働者であったりする。
末端は社会の基礎、土台、ベースと言い換えることが出来る。

・交換したが手数料とかなんとか言われて、額面が減ってしまった。怒!(こっちはわざわざ日本銀行まで出向いたんだぞ、手数料を貰いたいのはこっちのほうだ。怒!)
・告知が行き届かず、有効期限を過ぎてしまい、不換紙幣を出したら「これはもう使えない」と言われた。怒!
・告知は見たが、使用できなくなる日が告知が出た次の日だった。怒!
・告知も何もないまま不換紙幣が使えなくなっていた。怒!

「ごく一般的に考えれば、不換紙幣と日本銀行紙幣の交換が妥当であろう」と書いたが、不換紙幣を持っている人を怒らせないための策としてごく一般的ということである。
しかし不換紙幣を回収することが目的だとすると、交換する日本銀行紙幣が不換紙幣ではほとんど意味がない。
正金不足のために発行した不換紙幣を兌換紙幣と換えることなど出来そうもない。
仮に正金が増えていたとしても他人の尻拭いなど率先してしないだろうと思う。
そんなことしたらたちまち経営危機に陥ってしまう。
ということで、不換紙幣はある日ばっさり切られた可能性が高いと考える。
もし不換紙幣を現金で持っていなかったとすれば、不換紙幣を口実に狙い撃ち的な預金封鎖が行われたのかもしれない。
その被害にあったのが一部の農民だったのではないだろうか。


外遊中~Do Not Disturb~

板垣退助は1881年に自由党を結成した。
自由民権運動が盛り上がりを見せていた。
1882年4月、遊説中に暴漢に襲われた板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず」と言ったというが、板垣は死ななかった。
もしかして「死す」は、肉体の死すなわち生命の終わりのことではなく、精神性や思想など精神の死という意味だったのだろうか?
7か月後の1882年11月には後藤象二郎と欧州旅行に出かけ、帰国したのは1883年6月だった。
自由民権運動を先導していた自由党の分裂を画策して、政府側が企画した渡航であり、渡航資金は三井が提供した。
この時に後藤象二郎と板垣退助はルイ・ヴィトンのトランクを買ったか貰ったかして、ルイ・ヴィトンのトランクを持った初めての日本人として語り草となっている。

伊藤博文も1882年に欧州に出掛けていた。
明治15年(1882年)3月3日、明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。
日本に内閣制度が創設されたのは1885年。
伊藤博文が立憲政友会を設立したのは1890年。

明治新政府成立(1868年)から間もなくの1871~1873年の大規模な外国歴訪・岩倉使節団もそうだけれど、政府要人や政党の党首が肝心な時期に長期に日本を不在にしているというのは信じ難い。
日本銀行条例の制定や日本銀行の設立はその1882年のことであった。


若かったあの頃~何も怖くなかった~

松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集積されていった。
一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持基盤であった)。


不換紙幣の切り捨てが困窮の原因だったと推測するが、違う要因も考えてみたいと思う。

農産物の価格や需要は景気(空気・雰囲気)に影響されにくいということを昨日書いた。
気候や災害や病気などにより農産物が上手く育たないという現象が大規模に発生した時、外国から農産物が入ってきて今までよりも格段に供給量が多くなった時、空気ではなく急激な人口増減や民族変化が起きた時、このようなダイレクトな要因によって価格は左右する。

明治時代にも頻繁に河川氾濫があったようなので、災害(台風や大雨による洪水)による生産高の減少は考えられる。
生産高が大幅に減少すれば、農産物価格は上がるが、その上昇が数の減少をカバーできなければ生産者の収入は減る。
ただし今今農業を始めたわけではないだろうから、生産者はそんなことは言われなくとも百も承知のはず。


もうひとつ注目すべきは上記の青文字記述の中に繭の価格という箇所。
繭ではなくて生糸の価格ではないだろうか。
条約によって開港し通商が始まったわけだが、日本からの輸出の70~40%は生糸が占めていた。
外貨を稼ぎ、日本の産業機械化や近代化を支えたのは、生糸だったと言っても過言ではない。
生糸と言っても、生糸が実るわけではない。
蚕の餌となる桑を栽培し蚕を育て繭を生産する養蚕業があり、繭を絹にするために生糸へと加工する製糸業があり、さらに生糸を加工して絹織物などの繊維を作る繊維業がある。
1軒の農家で全てを行う場合もあれば、分業している場合もある。
生糸の主要産地は群馬、長野、埼玉、山梨、福島を中心とした太平洋側東北地方であった。
桑の栽培ついでに出荷用野菜などを栽培している農家も少なくなかった。
出荷用として栽培してなくとも家庭用や近所にお裾分けするくらいの野菜は作っていたと思う。

輸出される生糸は非常に高い値で売れた。
生糸を買っていたのは当初はイギリスとフランスで、後にアメリカへの輸出が増えた。
日本で高い値で売っても、日本から買い取ったイギリスやフランスの商人は50%近くも利益が出せるほど欧州の市場で高値で捌くことができたらしい。
初期にはイギリスは輸入した生糸を輸出するという再輸出も行っていた。
Win-Winという関係にあったということである。
ただこのWin-Winという関係が成り立つことはそう簡単なことではない。
私とあなたという2者のWin-Winは、2者に関係する第3者にとってWinではない可能性があり、その場合には横槍が入り関係が崩れやすい。
またWin-Win関係自体が客観に基づいたものではなく主観に基づいているので自己満足の世界と言える。
高い空に飛び立って俯瞰したら「あれ?なんか私もっと得してもいいんじゃない?」などと目覚めてしまうわけである。
比較しない世界、知らない世界は幸せなのだ。比較が入ると途端に不幸な人が増える。
前にも書いたが世界を広げれば広げるほど不幸な人は増えるというのが実態。グローバル化は不幸の源。






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by yumimi61 | 2016-02-19 10:54
2016年 02月 18日
日本国憲法の秘密-193-
地域差

これまで10の席を1000人で競っていた(インフレーション)。
その1000人という数を減らすのがデフレショーンである。
競争率が高くなって価値が上がった状態、すなわちインフレ膨張状態は、慢心・得意気・誇張が大きくなる。
これを景気が良いとも言うのだが、実態を反映していないことが多い。
実態は正金席は10しかなく、兌換紙幣(交換保証のある紙幣)を持っている人は1000人中の10人しかいない状況である。
保証のない紙幣を持つ人によって見かけ上膨らんでいるだけである。

デフレは出回る紙幣が少なくなった状態。
10の席を20人で競うようになれば1000人の時よりも競争率が下がる。つまり物価が下がるということである。
数が少ないほど実態に近くなる。
10の正金に対して10人の兌換紙幣保有者がいることは当然である。



以前江戸時代の開港について書いていたが、この記事の下の方で「タウンゼント・ハリスの「江戸開市」や「兵庫開港・大阪開市」に対する認識の変化」というページをリンクした。

江戸は問題が多く、江戸開市は時期が早すぎると判断されたという記述である。
1860年に駐日公使ハリスがアメリカの国務長官に送ったという書簡が紹介されている。

江戸で締結した条約の第3条に、1862年1月1日から交易のため江戸市中に住む権利がアメリカ市民に与えられていますが、ここ何ヶ月にも渡りこの条項が私の懸念材料となり、心配の種だけでなく、苦悩にすらなってきています。
この都市の住民は、世界の如何なる都市とも大きく異なっています。その主要部分は世襲の大名、身分の高い侍、幕府の高級役人などで、夫々に大勢の家来が居ます。これらの、総て帯刀した家来たちの合計は非常に多くの人数に上り、30万人以上とも言われています。このクラスの侍たちの性格が重要問題で、何もする事がなく、彼らの多くは全くふしだらで、自分より下級と見れば傲慢になり、過激にふるまいます。徒党を組んで通りをノシ歩き、多くは酒が入り、常に帯刀し、すぐ違法行為に走るだけでなくその機会を探し回っています。
こんな彼らが外国人を見る目は、単にその主君の意見の反映に過ぎませんが、この主君たちの多くは江戸に外国人が入ってくることに反対で、その家来たちが我々に敵意を抱くのとほぼ同じようなものです。こんな現状から、交易のためアメリカ市民が江戸に入ってくると、非常に重大な問題が持ち上がるのではないかと云う大きな恐れを抱いています。・・・
江戸は商業都市でも工業都市でもなく、流入する商品は住民のためだけに確保され、そこから出荷される商品は何もありません。・・・
すでに出来上がったこの国との交易は、高額で利益に富む究極の姿になると思われますが、外国人と日本人の衝突が1回でも起れば、こんな望みある期待もひどい打撃を受け、ほぼ壊滅するでしょう。この条約で取決められた期間内に外国人が差別なくこの首都に住む権利は、最も遺憾な結果を引き起こし、期待を寄せる総ての人達に致命傷を与えるでしょう。・・・
イギリスとフランスの公使たちと頻繁に情報交換をしましたが、本件に関して合意に達しています。



江戸時代の都市には、幕府が直轄する江戸・京都・大阪の三都と、大名が支配する城下町があった。
税金は農地にかけられ、生産者に納税義務があった。物納(米)である。
江戸時代の税は全国統一の制度ではなく、各地域(大名)によって違いがあった。

江戸幕府は、1854年に日米和親条約を、1858年に日米修好通商条約を結んだ。
この条約が尊皇攘夷運動や倒幕運動の引き金となる。
幕末という時代を迎えていたわけである。
上に転載した書簡は幕末混乱期の江戸の様子である。
江戸には日本各地から、家臣を連れた大名、流浪の民、商人などが一攫千金を狙って又は興味半分に流入していたと考えられる。
膨れ上がった状態、バブル、インフレーションが起こっていた。
少ないところに多い、これがインフレーションの基本である。
人のインフレが起こる場所では、経済的にもインフレが起こりやすい。

日本のバブル経済期を慢心・得意気・誇張的に語る人がいて、テレビなどでも映像ともともに時々取り上げられるが、その時代に生きていた人であっても「バブル経済の恩恵なんか何一つ受けていない」と言う人が大勢いる。
その理由の1つはバブルやインフレは大都市で発生しやすいからである。
大都市に暮らしていなかった人はまるで他人事のようにその時代を眺めるしかないのである。


人口密度

インフレーションの基本は、「少ないところに多い」。
面積の少ないところに多くの人がいるということもインフレーションの1つなので、インフレの関連指標として人口密度も参考になる。

これが景気の良い所だ!?
世界人口密度(国・地域)ランキングトップ20(全データはこちらのサイトを参照
【単位:人/km2】
1 マカオ 19,246.85
2 モナコ 19,033.00
3 シンガポール 7,813.85
4 香港 6,896.85
5 バーレーン 1,768.56
6 マルタ 1,335.63
7 バミューダ 1,303.62
8 バングラデシュ 1,217.73
9 モルディブ 1,171.90
10 蘭領セント・マーチン島 1,107.76
11 チャンネル諸島 856.72
12 パレスチナ 713.40
13 バルバドス 665.26
14 台湾 645.81 1
15 モーリシャス 621.14
16 仏領セント・マーチン島 579.59
17 アルバ 574.61
18 サンマリノ 527.28
19 韓国 517.96
20 オランダ 499.82

ここではバチカン市国が含まれていないが、バチカンは2000人/km2くらいなので上位に食い込む。
日本は31位で、348.72人/km2である。
しかし日本と言っても、北海道と東京では全く様子が違う。
そこで都市比較。

都市的地域の推定人口と面積(Demographia, 2014年人口上位25位) ※人口50万以上都市的地域対象
一番左の数字は人口、一番右の数値は人口密度(km2)である。赤〇はこの中の人口密度トップ10。

37,843,000 1位 東京=横浜 (Tokyo-Yokohama) 日本  4,400
30,539,000 2位 ジャカルタ (Jakarta) インドネシア 9,500
24,998,000 3位 デリー (Delhi) インド 12,100
24,123,000 4位 マニラ (Manila) フィリピン 15,300
23,480,000 5位 ソウル=仁川 (Seoul-Incheon) 韓国 10,400
23,416,000 6位 上海 (Shanghai) 中華人民共和国 6,100
22,123,000 7位 カラチ (Karachi) パキスタン 23,400
21,009,000 8位 北京 (Beijing) 中華人民共和国 5,500
20,630,000 9位 ニューヨーク (New York) アメリカ合衆国 1,800
20,630,000 10位 広州=仏山 (Guangzhou-Foshan) 中華人民共和国 6,000
20,365,000 11位 サンパウロ (Sao Paulo) ブラジル 7,500
20,063,000 12位 メキシコシティ (Mexico City) メキシコ 9,700
17,712,000 13位 ムンバイ (Mumbai) インド 32,400
17,444,000 14位 大阪=神戸=京都 (Osaka-Kobe-Kyoto) 日本 5,400
16,170,000 15位 モスクワ (Moscow) ロシア 3,500
15,669,000 16位 ダッカ (Dhaka) バングラデシュ 43,500
15,600,000 17位 カイロ (Cairo) エジプト 8,900
15,058,000 18位 ロサンゼルス (Los Angeles) アメリカ合衆国 2,400
14,998,000 19位 バンコク (Bangkok) タイ王国 5,800
14,667,000 20位 コルカタ (Kolkata) インド 12,200
14,122,000 21位 ブエノスアイレス (Buenos Aires) アルゼンチン 5,300
13,532,000 22位 テヘラン (Tehran) イラン 9,100
13,287,000 23位 イスタンブル (Istanbul) トルコ 9,800
13,123,000 24位 ラゴス (Lagos) ナイジェリア 14,500
12,084,000 25位 深圳 (Shenzhen) 中華人民共和国 6,900


人口の多い都市圏を抱えている国の多くは後進国や新興国である。
先進国でランキング入りするのは日本とアメリカくらい。ロシアは先進国?新興国?
全部、後進国と新興国だろう?
アメリカは移民が多い。

先日中国は人口が多いから他の国から見ると何でも爆的に見えると書いたが、都市圏では日本の東京=横浜が世界ダントツ1位である。
都市を狙って商売をするならば東京は美味しい市場である。人口が多いのだから。


悪循環

たいして(全く?)儲けがでない所に多くの人員を配置して高給を与え、そこに投資し公費までをも注ぎ込むとなれば、その他の所では人員も給料も投資も少なくなるのは当たり前のことである。
この地球に存在する物は全て有限であり、循環しており、エネルギーはある形態から他の形態へ変換しても総量は常に一定不変である。
「長引くデフレ」や「デフレ脱却のために」としか言わないが、インフレーションとデフレーションが同時に存在していると考えられる。

ニュースではデフレ系のニュースを伝え、バラエティ番組などではインフレ系ではしゃいでいる。
そんなちぐはぐなことを行っているのがインフレとデフレが共存している何よりの証拠だろうと思う。


アフリカの大地開拓?

大隈重信が失脚し、大隈の後任で大蔵卿になった松方正義はデフレーション政策をとった。
インフレにあったものをデフレ誘導したということである。

松方は不換紙幣を回収・焼却処分にし、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制の導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、軍事費を除く政府予算の縮小等により紙幣発行量を縮小していった。

松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた。このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落したりした。一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集積されていった。
一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持基盤であった)。

また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長していったことと相まって、資本家層と労働者層の分離という資本主義経済の基礎地を作ることとなった。


上の記述の中のこの部分「松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招いた」が解せない。

「少ないところに多い」がインフレの基本と書いたが、農産物の物価も同じである。
少ない農産物を多くの人が求める時(供給より需要が大きい時)に農産物価格は上昇する。
異常気象などで農産物が上手く育たない時に農産物の値が上がるということは現代においても度々経験している。
農産物の価格が下がるのはその農産物の旬の時期(出荷最盛期)である。
旬の時期は十分に供給量が確保されるからである。
需要よりも供給量が大きくなれば利益が薄くなったり、利益がほとんど出ないこともあり得る。
但し米などの農産物は生きていくために必要な食料として消費される物であるから、需要に大きな変化が起こりにくい。景気による影響を受けにくい物のはずである。
日本の人口や民族に大きな変化がないとするならば、デフレーション政策が一番に農村を直撃したということに対しては大いなる疑問を生じる。




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by yumimi61 | 2016-02-18 12:34
2016年 02月 18日
日本国憲法の秘密-192-
銀行紙幣発行と物価

日本銀行は1882年に日本銀行条例を制定し、同年開業した。
開業から2年後の1884年、兌換銀行券条例を制定。
これにより銀行紙幣を発行できるのは日本銀行のみとなり、それまで国立銀行が発行した銀行紙幣を回収した。

以前にも書いたが紙幣を発行するという事はどういうことなのか、いまいちど考えてみてほしい。
銀行は基本的に人様から預かったお金を利用して業務を行っている。
昔は正金を預かって、代わりに銀行紙幣を発行した。これが銀行紙幣の後ろに正金が保証されている状態の基本である。
しかし、なにも別に銀行に正金を預ける必要はないと考える人も大勢いる。
正金のほうが銀行紙幣よりも利用価値が高ければ正金を持っていた方が便利だし安心である。
市内加盟店でしか使えない市の金券と、全国どこでも使用できる日本銀行券(紙幣)のどちらが利用価値が高いかと言えば日本銀行券である。
銀行紙幣と正金の関係はそのようなものであった。
こうなると思うように銀行に正金が集まらない。
正金を集めたい銀行は工夫した。「正金を銀行に預けてもらえば返す時には少し上乗せして返します」という上乗せ方法(利息)である。
市の金券もプレミアムが付いているプレミアム金券である。
20%もプレミアムが付いていると購入したい人が殺到するのと同じで、上乗せがあると預けてもよいかという人も出てくる。
利息(プレミアム)を沢山つけると、「預かった正金=発行した銀行紙幣」という関係が崩れ、「預かった正金<発行した銀行紙幣」という状態になる。

戦費調達など急に大金が必要になった場合には悠長に正金集めしている余裕もない。
すぐに正金なり兌換紙幣が必要である。
例えば、戦争に使う車を国家が自動車会社から購入する必要がでてきたとする。通常は以下のような関係になる。
 自動車会社・(車)→国家
 自動車会社←(正金または兌換紙幣)・国家

でも国家は正金・兌換紙幣不足で支払いが出来ない。

そこで自動車会社と直談判。
①「1年くらい支払いを待ってもらえないだろうか。もちろん利息はたんまり付けてやる」→会社がOKならば国家は債券を発行する。
②自動車会社も1年もお金を貸しておくほど余裕がない。「いやいや1年も無理です」「それならば不換紙幣でお願いしたい。悪いようにはしない、私を信用してくれ」→会社がOKならば正金への交換保証のない銀行紙幣を発行する。
債券ではなく銀行紙幣なのだから期限はなく直ちに使用可能な紙幣である。ただ保証がないだけ。
しかし「悪いようにはしない」と国家の偉い人が言っているのだから見返りや口利きがいろいろあるはず。(と会社の人は思う)
この状態は、「預かった正金ゼロ<発行した銀行紙幣」である。

保証のない紙幣が大量に出回った状態がインフレーションである。
10の席を1000人で競う場合と、10の席を20人で競う場合は、前者の方が競争率が高い。
10の席に価値が出るのだ。競争率の高さはそのまま価値に繋がるという側面がある。
競争率〇倍の難関校や競争率〇倍の採用率と謳っているのは、学校や会社や職業の価値を強調しているわけである。
席が物(正金)であり、人が紙幣である。
10の席に価値が出た状態を物価が高いと言い換えることが出来るのだ。


景気は空気だと何度も言ったじゃない

インフレーションを英語で書けばinflation。
経済用語というだけでなく単語には意味がある。
1.膨脹
2.慢心・得意・誇張
経済用語のインフレーションは通貨膨張と訳される。

風船が膨らんだ状態がインフレである。バブル経済はインフレーションの1種。


デフレと言っているデフレーションは英語で書けばdeflation。
1.空気[ガス]を抜くこと
2.収縮
経済用語のデフレーションは通貨収縮と訳される。

これを踏まえて、昨日も転載したこの文を読んでみてほしい。
南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、本位貨幣である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官である大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。


これまで10の席を1000人で競っていた(インフレーション)。
その1000人という数を減らすのがデフレショーンである。
競争率が高くなって価値が上がった状態、すなわちインフレ膨張状態は、慢心・得意気・誇張が大きくなる。
これを景気が良いとも言うのだが、実態を反映していないことが多い。
実態は正金席は10しかなく、兌換紙幣(交換保証のある紙幣)を持っている人は1000人中の10人しかいない状況である。
保証のない紙幣を持つ人によって見かけ上膨らんでいるだけである。
慢心・得意気・誇張が大きくなると書いたが、実は不安が潜んでいるのだ。
交換保証のない紙切れなんか早く使ってしまって正金を得た方が良いという購買行動に繋がる。
交換保証のない紙幣が出回るほど、限りある安定的に価値ある物を欲しがる人も増える。
金や不動産の価格が上がるということ。
それでもそうしたものを買い漁ったというのは我先にという不安の表れでもあったのだ。
膨張して人も増えて混乱状態にあるから妥当な人が選ばれるとは限らない。
1000人の中の10人は兌換紙幣を持っている人のはずだが、席がその人のものになるとは限らないということなのだ。

デフレは出回る紙幣が少なくなった状態。
10の席を20人で競うようになれば1000人の時よりも競争率が下がる。つまり物価が下がるということである。
数が少ないほど実態に近くなる。
10の正金に対して10人の兌換紙幣保有者がいることは当然である。
10の席に10人しかいなければ争う必要もない。
10の席に1人しかいなければ独り占め。


信用創造

上記の②で発行した不換紙幣は信用紙幣とも言う。
紙幣の後ろにあるのは正金ではなく、信用という無形で曖昧なものである。

経済用語には「信用創造」という言葉もある。
現在流通している紙幣は日本銀行券であるが、これを正金で考えてみたいと思う。

B会社が金銀行に1000の正金を預けた。(預けたB社は引き換えに1000の兌換紙幣を貰った)
銀行というのは預かった正金を利用して商いをしている。
つまり預かった正金を別の人に貸し出すということである。
しかしB会社の人が正金を引き出しに来るかもしれないので、一定割合の正金は銀行に置いておく必要がある。(この残しておくお金のことを法定準備預金と言い、預金に対する割合のことを法定準備率と言う。市中銀行は法定準備預金を日本銀行に預ける。法定準備預金の金利はこれまでも0%で、これはマイナス金利にはならない。それ以上預けるとマイナス金利が適用されるという話)

法定準備率を10%とすれば100の正金を残しておく。
残りの900の正金は改築をするというC会社に貸し付けた。
C会社は改築を請け負ったD建設会社に900の正金を支払った。
D建設会社はとりあえず900の正金を金銀行に預けることにした。(預けたD社は900の兌換紙幣を貰った)

金銀行にしてみれば貸し出した900の正金が偶然にも返ってきて1000の正金がある状態に戻った。
しかし、兌換紙幣はB社1000+D社900で計1900となっている。
B社とD社が正金を全て引き出しに来たら、1900の正金を出さなければならない。

これも結局「預かった正金<発行した銀行紙幣」という状態になっているということなのだ。

途中までしか書かなかったが、D建設会社から預かった900の正金を利用して今度は別のE社に800貸し出す。
こうしていくと、実際に存在する正金と兌換紙幣の差はどんどん大きくなってくる。
このままでは不味いので、貸し付けた会社の貸付金額に利子を付けさせてもらおう。
900の正金を貸したC会社の返済金は倍の1800正金。これで何とかやっていける。え?C会社倒産?





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by yumimi61 | 2016-02-18 09:42
2016年 02月 16日
日本国憲法の秘密-191-
三井と三菱

1898年6月22日、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が合同し、憲政党を結党した。
これは同年8月10日に予定されていた衆議院議員選挙に備えて藩閥政府に対抗するためである。
与党側にいた大隈重信の進歩党が野党・自由党に歩み寄ったのだ。

伊藤博文は政党設立準備のため内閣総辞職し一旦引っ込んだため大隈内閣が成立した。
当時憲政党のメンバーだった尾崎行雄は文部大臣として入閣した。
尾崎行雄が三井三菱両財閥中心の金権政治の風潮を批判した演説が行われた帝国教育会茶話会は1898年8月21日に催されたものである。

憲政党の2人のリーダー。
1881年「明治14年の政変」で政界を追われた大隈重信と、それより先に政界を飛び出て野に下った板垣退助。

自由民権運動が勢いを増していたのが1880年頃であった。
1881年に10年後に国会を開設するという詔が発せられると、自由民権運動を先導していた土佐の板垣退助と後藤象二郎らは自由党を、大隈重信は立憲改進党を結成した。
板垣退助が遊説中に暴漢に襲われて、出血しながら「板垣死すとも自由は死せず」と言ったという出来事は1882年のことだ。

政変によって失脚した大隈の代わりに大蔵卿となったのが松方正義である。
松方は、明治14年(1881年)7月に「日本帝国中央銀行」説立案を含む政策案である「財政議」を政府に提出し、政変によって大隈が失脚すると、参議兼大蔵卿として復帰し、日本に中央銀行である日本銀行を創設した。
日本銀行の創立は1882年である。創立者は松方正義ということになるが、松方正義は大蔵卿(現在の大蔵大臣)であったわけだから、個人で創立したわけではなく、民間銀行ではない。
国が創立したのであるからして、日本銀行は国立銀行の1つであった。
日本銀行が他の国立銀行と違ったのは、国立銀行でありながら国立銀行条例ではなく日本銀行条例に則ったことである。(国立銀行条例がすでにあったにも関わらず、新たに日本銀行条例を制定して開業している)

この特別扱いは後に大学に関連して伊藤博文によっても行われている。
明治時代の1886年、伊藤博文によって唯一の帝国大学が設立された。これが現在の東京大学へと繋がっていく。 (略)
1886年に伊藤博文によって設立された帝国大学、この大学は上記の東京大学までの流れが前身と言われている。
伊藤博文が果たした役割というのはつまり、「帝国大学令」という法律の制定であった。
帝国大学と名付けたのはこの1校だけだったのだから、1校のためだけの法律を発効したのだ。
他の学校との差別化を明確にするための策であったのだろう。
過去記事より>

この差別化は尾を引いた。
帝国大学はその後、地方にも幾つか作られたが、御上の人達は一番最初に作られた東京の帝国大学と地方の帝国大学は別物と考えていたのではないかという節が見受けられる。

戦後1947年から1950年の間に学制が旧制から新制へと変わっていった。これを学制改革と言う。
これにより戦時中に設立された医学専門学校も医科大学になった。
国が設置した大学は「官立」と呼ばれた。
帝国大学に関しては官立とは言わない。帝国大学は「帝国大学」だったのである。
帝国大学令と大学令、2つの法律が存在したことはすでに述べたところ
過去記事より>

銀行の話に戻ろう。
日本銀行設立の2年前の1880年、横浜正金銀行が設立された。
大隈重信と福沢諭吉の早慶創始者コンビが関与したものだが、こちらの銀行は設立時には国立銀行条例に基づいている。
その後1887年に日本銀行のように横浜正金銀行条例という独自の条例が発効された。
横浜正金銀行は三菱東京UFJ銀行の前身銀行と言われている。

財閥系で分ければ、日本銀行は三井系で、横浜正金銀行は三菱系であった。
大隈重信の立憲改進党は三菱資本、伊藤博文の立憲政友会は三井資本。
三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎は土佐の出身であり、板垣退助とは同郷で土佐藩山内家繋がりもある。


物価について

西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、本位貨幣である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官である大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。

西南戦争は日本の内戦である。
西郷隆盛を指揮官とした九州の士族と明治新政府の戦いである。
戦争に費用が必要なことを否定するつもりはないけれど、相手は外国ではなく国内の一勢力である。
そことの戦いにおいて政府側が戦費調達に四苦八苦するようでは先が思いやられる。

存在する物はそれぞれ固有の価値を持っている。
大きな価値がある物もあれば、あまり価値のない物もある。
しかし同じ物であっても、人や場所や時代(時間)によって価値は変わる。
物価とは物の価値のことで、その価値を価格(値段)で表している。
物価が上がっている状態をインフレーション、物価が下がっている状態をデフレーションと言う。
デフレーションのことを短縮してデフレと言うが、安倍政権になって「デフレ脱却」という言葉を何度聞いたことだろうか。
今話題になっているマイナス金利もデフレ脱却ための策だということだ。

①販売価格が10万円のAテレビ-このテレビを買うためには1万円札が10枚必要
②販売価格が1万円のAテレビ-このテレビを買うためには1万円札が1枚必要

物価が高いのは①のほうである。
紙幣の価値が高いのは②のほうである。
①がインフレーション、②がデフレーションである。

自動車に結んだ紐を引っ張って1人で動かせる場合と、1人から始めて1人ずつ足していって10人目でやっと動かせた場合を比べてみるとよい。
「1人」に力があるのは前者である。
力持ちをスカウトするとしたら1人で動かした人を選ぶだろう。
これが②の紙幣の価値が大きいということなのだ。

しかしこの考え方には致命的な欠陥がある。
等価が無視されているからである。
紙幣とは印刷された紙にすぎない。
紙幣を紙と考えた場合にAテレビと価値が吊り合うだろうか?吊り合わないだろう。
①販売価格が10万円のAテレビ=1万円札10枚分(紙)
②販売価格が1万円のAテレビ=1万円札1枚分(紙)

一般的には価値が吊り合うからこそ交換できるのだ。物々交換が基本になければならない。
①販売価格10万円のAテレビ=販売価格10万円の洗濯機
②販売価格1万円のAテレビ=販売価格1万円の米

価格は吊り合っていても、①の10万円の洗濯機を持っている人がテレビはあるからいらないと言えば、交換交渉は決裂する。
このように物の価値は人によって変わる。見た目の価値と実質的な価値は違う。
販売価格1万円の米を持っている人もテレビはあるからいらないと言う。しかし1万円のAテレビの人はどうしても米が欲しい。
そこで販売価格10万円のAテレビと販売価格1万円の米を交換してくれと言い出した。
それは得だと1万円の米の人が応じれば、下記のように物の価値は等しくなってしまう。

③販売価格10万円のAテレビ=販売価格1万円の米

販売価格1万円の米の人が販売価格10万円の商品でもテレビはいらないと言えば交渉決裂。
10万円のテレビはこの交渉に於いては何の価値もなくなる。
物の価値(物価)とはこのように一律ではない。
現代でそれを一番感じられるのはオークションではないだろうか。
「物価」という言葉だけで全てを論じることは無理である。ほとんど意味がない。
意味があるとしたら個より集団が優先され、人々がマインドコントロールされている状態の時であろう。


引換券

欲しい物があるけれど、自分では作れない物だとすれば、何かと交換して得る必要がある。
物々交換を成立させる最低限の要件は欲しい人と欲しい人がいるということである。
テレビや洗濯機はそんなにすぐには壊れないため「あるから今は必要ない」と言われやすい。
物々交換に有利なのは多くの人が定期的に欲しがる物である。それがないと生きていけない物で消耗品。
主食である米を租税として徴収していたのは理にかなっている。
徴収する物としても分配する物としても優れている。(唯一の心配は天候や災害による収穫不足)

お金とは結局「物」である。
一般的には左右が吊り合わなければ人々は交換する気にはならない。
保存がきいて安定的に価値ある物であればいつでもどこでも交換に応じてもらえるはず。
それが金や銀であった。
金貨や銀貨として金や銀が直接出回るのが金本位制や銀本位制。金貨や銀貨は原貨や正貨や正金とも呼ばれる。
金や銀ではない硬貨や紙幣を採用する場合には、左右を吊り合わせるために、その硬貨や紙幣の後ろに金や銀を保証した。

①販売価格が10万円のAテレビ=1万円札10枚分(紙)/約10万円分の金
②販売価格が1万円のAテレビ=1万円札1枚分(紙)/約1万円分の銀

金や銀との交換が保証された通貨を「兌換通貨(兌換紙幣や兌換硬貨)」と言った。
普段は紙幣や硬貨で売買など取引をしているが、その紙幣や硬貨は持ち主が望めば金や銀に交換できる。
いわば引換券みたいなものである。

渋沢栄一が1873年(明治6年)に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現:みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間によって数多くの国立銀行が設立された。
国立銀行は国立銀行紙幣を発行できたのだが、この紙幣は兌換紙幣であり金貨などとの交換を義務付けていた。
理屈としては紙幣を発行する銀行は発行した分の正金を持っていなければならない。


大隈重信は国立銀行条例を改正し、さらに多くの国立銀行の設立を促し、そのうえで不換紙幣としての国立銀行紙幣の発行を認める。
後ろに金や銀が置かれていない紙幣である。
交換保証がある紙幣は銀行や政府が危なくなったら金や銀に交換するという事が出来るが、ただの紙である紙幣にはそれが無い。
何で保証したかと言えば政府の信用である。
「悪いようにはしない、私を信用してくれ」と言って紙幣を乱発したわけである。
これが、西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。ということである。

つまり左右が吊り合っていない状態。
①販売価格が10万円のAテレビ=1万円札10枚分(紙)
②販売価格が1万円のAテレビ=1万円札1枚分(紙)

信用がある間や短期間ならばこれも可能であろう。
しかし信用が危うくなってきた時や長期間になると難しい。
価値や信用が違う場所(外国など)では融通が利かなくなる。





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by yumimi61 | 2016-02-16 12:48