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2016年 04月 28日
日本国憲法の秘密-233-
松方正義の家族(続き)

六女:梅子(1892-1978) 4代目堀越角次郎(1885-1951)の妻となる。裏千家流の女流茶人・堀越宗円でもある。

松方梅子関連で千家の話の続です。

裏千家は東京進出とともに離れの茶室「寒雲亭」を東京の久松家敷地に移築した。
久松家は知多半島(愛知県西部)発祥の士族。

近世大名の久松松平家は源義家の末裔を称したが、これは松平姓を称することにより、松平・徳川氏の公称する清和源氏新田氏流を冒したことによるものと考えられる。

系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。それによれば、道真が大宰府に左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、尾張国知多郡阿久居(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、この地の人は彼を久松殿と呼んだ。のちの南北朝時代に京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、この地の領主となった。そして、室町期に雅規14世孫の道定が足利将軍家に仕えて阿古居の地7,000貫を所領として認められ、先祖久松麿にちなみ久松氏を称したという。


久松家は松平家(徳川家康)と関係があった。

松平家の起こり
後世の徳川氏・松平氏の系譜によると、徳川氏の祖となる松平親氏は清和源氏の新田氏の支流で、上野国新田郡新田荘得川郷(えがわ — 、現在の群馬県太田市徳川町)を拠地とする得川義季(世良田義季、得河三郎義秀とも)の後裔と称する時宗の僧で、三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の領主・松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となってその名跡を継ぎ松平親氏を名乗ったという。

得川(徳川)は松平家に婿養子に入ったわけである。
三河国の松平家本家8代目の当主・松平広忠が徳川家康の父で、正妻・於大が徳川家康の母。
松平家の主君は今川氏。今川氏は室町幕府将軍家となった足利氏の一族(一族の中でも征夷大将軍継承権を有していた吉良家の分家)。
足利氏と新田氏とは親族(もと兄弟)だが対立し南北朝を各々支えた時期がある。
於大の父は水野忠政。
水野家は松平家と交友を深めたく娘を嫁がせたりしたわけだが、水野忠政の死後に家督を継承した於大の兄・信元は松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従う。
今川-松平-水野ラインにいた水野家出身の於大はこれを理由に松平広忠から離縁される。
於大はその後、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝と再婚し、子供も産んでいる。
於大と久松俊勝の間に生まれた子は徳川家康の異父兄弟となる。従って、徳川家(松平家)と久松家には関係があるということになる。
徳川家康の異父兄弟が「久松松平家(久松家)」を名乗る。
(戦国時代に織田信長と徳川家康は清洲同盟を結んでいる)

久松松平家(久松家)の本家2代目・松平定行が伊予松山藩に入ったことが、久松家と裏千家が関わるきっかけとなった。
寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より松平定行(親藩)が15万石で入封し明治維新まで続く。また、元禄16年(1703年)2月には、幕府から江戸松山藩邸での預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹した。
江戸初期には経済的には豊かであったが、寛文・延宝年間(1661年 - 1680年)に干ばつ・洪水などの飢饉に見舞われ、それ以後は財政難が続いた。特に5代定英の享保17年(1732年)の享保の大飢饉では領民の餓死者は3,500人にのぼる甚大な打撃を受けた。この餓死者の中に藩士は1人も含まれていなかった。定英は領民を蔑ろにしたとして、幕府より「裁許不行届」と咎められ差控え(謹慎)の処分を下された。

江戸時代(1603-1867年)、裏千家は7代に亘って、伊予松山藩の茶道奉行として京都の松山藩邸に出仕していたのだ。

東京の久松家敷地に移築した「寒雲亭」は、その後、鎌倉材木座にあった堀越家の別荘への移築を経て、東慶寺(鎌倉市山ノ内にある寺)に寄贈された。(移築と書いてきたが、模造という説もある)
一旦は東京に出た裏千家であるが、結局また京都に戻る。


先日載せた年表を再び。
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1871年、明治新政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。
      (薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。)
1871年 熊本洋学校設立(1874年に共学化)
1872年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組。任務名目は「天皇および宮城(皇居)の守護」。
1875年 新島襄が京都に同志社英学校設立。
1876年 熊本洋学校閉鎖。(ジェーンズが学生の引き受けを同志社の新島襄に依頼)
1876年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸に女子塾を開設。
 ※J.D.デイヴィスは同志社英学校の設立に参加した宣教師・教育者。
  当時デイヴィス邸があった場所(京都市上京区京都御苑内23)には現在京都迎賓館が建っている。
  1994年(平成6年)10月に国立京都迎賓館として建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

1876年、神風連の乱(熊本)・秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)が発生。翌年の西南戦争に繋がる。
1877年、西郷隆盛、明治政府との西南戦争(熊本・宮崎・大分・鹿児島)に敗れ自決。
1878年、大久保利通、暗殺される。
1881年、大隈重信、政界を追われる。
1885年、初内閣誕生。伊藤博文が初代首相に就任。

1886年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸にて京都看病婦学校を創立し、
1887年、京都看病婦学校校舎と同志社病院を建設。病院開院。

1886年、日本政府がジュネーヴ条約に調印し、
1887年、日本赤十字社を結成。

1888年、大隈重信、伊藤博文の心変わりにより外務大臣として呼び戻される。(条約改正対応)
1889年、森有礼、暗殺される。
1889年、大隈重信、条約案反対派から爆弾による襲撃を受けて右足切断に至り、辞職する。
1890年、新島襄、死去。   3ヶ月後⇒新島八重が日本赤十字社の正社員となる。
1890年、大日本帝国憲法発布。
1891年、内村鑑三、教職を追われる。
1891年、近衛師団編成。
                  ⇒新島八重、裏千家の円能斎に入門。
1894-1895、日清戦争。  ⇒新島八重、篤志看護婦として従軍。
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新島襄の妻・八重は、襄が亡くなって間もなく(3ヶ月後)に日本赤十字社の正社員となった。
夫が京都看病婦学校や同志社病院を設立していたにも関わらず、そちらではなく日本赤十字社に関与していくのだった。
その後に勃発した日清戦争で日本赤十字の篤志看護婦として従軍。
さらに篤志看護婦人会の「看護学修業証」(看護婦免許ではない)を得て看護学校の助教を務め、日露戦争にも篤志看護婦として従軍。
後世では日本のナイチンゲールなどと語られるようになる。

また新島八重は襄亡き後に円能斎に入門し、茶名「新島宗竹」を許され、その後は女性では最高位にあたる裏千家の師範にまで上り詰めている。(入門年は1894年説と1890年説がある)
堀越梅子(茶名:堀越宗円)は1953年に裏千家の初代老分に就任した。
老分は総支配人みたいな立場。以後、裏千家の重要役職となり各時代の財界人・文化人で茶道に造詣の深い人物を就任させている。


裏千家・円能斎の妻は九鬼家の出身。
福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い占めた一族。
九鬼に仕えていたのが、孫が吉田茂の側近となる白洲退蔵。
明治初期に神戸の土地を買った九鬼隆義は、1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務となるなど皇族の近くにもいた。
長女が松方正義の3男・幸次郎に嫁いでいる。
松方幸次郎の娘・花子はロックフェラー3世と友人だという松本重治に嫁いでいる。
裏千家・円能斎に入門し、裏千家の初代老分になった堀越梅子は松方正義の6女。
堀越家や九鬼家は福沢の慶応義塾の巨額な寄付をしていたと言われており、子弟は慶應義塾出身だったりする。白洲退蔵も慶應義塾で学んでいる。


裏千家・円能斎(当時51歳)は1923年(大正12年)に長男(当時30歳、淡々斎)に家督を継承した。
継承した翌年に円能斎は死去。
長男(淡々斎)は1925年に大徳寺の管長(最高指導者)・伝衣老師のもとへ入門。
大徳寺は、少庵の子として生まれた宗旦が10歳の頃(1588年頃)に、家督争いが起こらないようにという千利休(1522年生まれ)の希望によって預けられた京都の寺。
(事情を知っている者がいるのは不味い。いっそのことその懐へ入ってしまおう。)と思ったのか仏門を叩いたわけである。
淡々斎という号は九鬼隆一(三田藩家臣出身。藩主・九鬼隆義の斡旋で綾部藩家老・九鬼隆周の養子となった。福沢と面識も得て慶應義塾に学んだのち文部省に出仕し若くして文部少輔にまで栄進)から授けられた。
淡々斎の他に無限斎という号もあるが、こちらは大徳寺の伝衣老師から授けられたもの。
この得度をきっかけに伊勢神宮をはじめ全国各地の寺院や神社に献茶や供茶を行い、裏千家と宗教との関わりを強くした。
大徳寺に貞明皇太后(大正天皇の皇后)を迎えて献茶したのを皮切りに、以後、皇族や外国賓客にもしばしば茶を献じた。
堀越宗円(堀越梅子・松方梅子)が老分に就任した1953年には桂離宮で皇太子(現天皇)に献茶した。
国際茶道文化協会を設立して茶道の海外普及にも努めた。
初めてラジオで献茶風景を放送したのも、初めて人工衛星による日米テレビ宇宙中継に出演したのも淡々斎であった。

淡々斎の長男も大徳寺の管長・瑞厳老師について仏門に入る。
号の鵬雲斎は瑞厳老師から授かったもの。
1951年に茶道普及のためのにハワイに赴いて以来、国の文化使節や青年会議所会頭を歴任。
ハワイ大学、コロンビア大学、ロックフェラー財団などの講師として世界各地を廻り、裏千家支部を開設した。
放送電波(テレビ各局番組)に茶を乗せたり、自らがテレビ出演するなどして茶道をPRした。
自身が先代から家元を継承したのは1964年で、2002年長男に継承した。
2012年3月5日にユネスコ親善大使に任命されている。



先妻・近衛朝子(近衛文麿元首相の次女) ・・姉・昭子(近衛元首相の長女・島津家に嫁ぐ)
            ======長男・細川護熙(元熊本県知事・元首相・肥後細川家の第18代当主)
            ======次男・近衛護煇(近衛家養子となり近衞忠煇と改名。日本赤十字社社長、国際赤十字会長)
夫・細川護貞(肥後熊本藩主だった肥後細川家の第17代当主)
                 ======長女・松井明子(表千家に嫁ぐ
後妻・松井薫子(熊本藩筆頭家老であった松井家・松井明之の娘)


妻・甯子内親王(大正天皇の四男*・三笠宮崇仁親王の長女) ・・妹・容子内親王(三笠宮崇仁親王の次女・裏千家に嫁ぐ
夫・近衛護煇
*大正天皇の長男が昭和天皇となった。昭和天皇の皇后は島津家の娘であり、昭和天皇の5女は島津家に嫁いだ。




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by yumimi61 | 2016-04-28 14:28
2016年 04月 26日
日本国憲法の秘密-232-
理想の少年を見つけた

殺されるかもしれない

子どもを戻してもらいたかったら、午後4時までに東上線鶴ヶ島駅へ15万持って来い
※消印は落合長崎局

 1957年4月4日午後、東京・中野区に住む主婦のもとに一通の手紙が届いた。2日夜、区立中学1年生の息子A君(12歳)が「風呂に行く」と出たまま帰っていなかった。
 主婦がすぐに警察に届けなかったのには訳があった。すでに離婚していたとは言え、A君の父親が当時有名だったプロレスラーであり、「アメリカでプロレスを学ぶ」と言って行方不明となっていたからである。まもなく失踪届が出され、失踪宣告の期限が過ぎたため自動的に離婚が成立した。そんなことがあり、主婦は警察沙汰になればスキャンダルになるということを恐れていたのである。
 主婦は夫が出て行った後、板橋で旅館を経営していたが失敗しており、家を売却して3月下旬に中野に引っ越してきたばかりだった。

4月9日、中野署に南多摩郡(現・多摩市)の都立桜ヶ丘保養院の精神科医から電話が入った。中野区に住む患者の自宅に、バラバラの少年の遺体があったという言うのである。
 中野区桜山町(現・東中野3丁目付近)に住む日本棋院七段名人の長男・林邦太郎(当時26歳)は精神を病み、桜ヶ丘保養院に5年入院していたが、自宅で療養していた。
 ところが4月4日ごろから再び精神状態が不安定となり、6日から再入院した。診断の最中、林は異常な言動を繰り返したため、不審に思った医師はこの日林宅を訪問。家族とともに林の四畳半の部屋に入ると、室内に血痕が散らばっていた。
 畳をあげて床下を調べてみると、大型の金魚蜂と熱帯魚用の水槽が2つずつあり、金魚蜂には頭部と両足、水槽には胴体と両腕が収められていた。さらに蓋をパテで密封し、ホルマリン漬にしてあった。医師はこれを見て警察に通報したのだった。

 林は精神鑑定を受けたが、「責任能力は認められる」とされ、58年7月16日に懲役10年の判決を受けた。その2年後に週刊誌に「模範囚として過ごしている」と消息が報じられたという。

少年誘拐殺人ホルマリン漬事件より>

少年の父親は元大相撲力士で旧全日本プロレス所属のプロレスラーだった清美川梅之
犯人の父親は日本棋院に所属していた囲碁棋士(事件当時七段)・林有太郎

事件は1957年のことだが、その後も林棋士はご活躍のご様子。現代ならばどうなのだろうか。
1956年に第1期囲碁選手権戦決勝に進出、決勝で木谷實に0-2で敗れたが、高松宮賞を受賞。1962年首相杯争奪戦決勝で大窪一玄に勝って優勝。同年62歳で第2期名人戦リーグ入り。1963年八段。1969年、69歳で九段昇段。1983年、本因坊戦の予選を打って帰宅後に羊羹を誤嚥して急逝。当時現役最長老の82歳だった。羽織袴姿で通し、対局中も正座を崩すことは無く、謹厳・実直な人柄で知られた。

5年間も精神病院に入院していたということだが責任能力はあると判断され、且つ刑罰は懲役10年だった。
これも現代ならばどうなのだろう。
人の命や罪の重さは、時代によって、世相によって、人によって、その他諸々の条件によって違うのは当然のこととして受け止めなければならないのだろうか。


松方正義の家族(続き)

六女の梅子の話の続になります。
梅子は4代目堀越角次郎の妻となる。また梅子は裏千家流女流茶人・堀越宗円、その人でもある。

裏千家も表千家も千家の傍系。
こちらに織田信長と本能寺の変に関して書いたが、本能寺の変が起こった当時はお茶と茶器ブームだったということで千利休についても述べた。

茶道といえば現代では表千家や裏千家が有名だが、どちらも千家の傍系(利休の養子であり娘婿である千少庵の子孫の系統)である。本家の堺千家は断絶した。
千利休の祖父は田中千阿弥で、新田里見系田中氏の一族である。利休が千姓にしたのは祖父の名から貰ったものだと言われる。
河内源氏棟梁の八幡太郎義家の孫にあたる源義重(新田姓を名乗り新田氏の祖となった新田義重)の庶長子が里見義俊。
義重の長男であったが庶子であったため嫡男に家督を譲っている。
その里見義俊の次男が田中義清。

平安時代に上野国の田中村(現在の群馬県太田市)に居館を構えて田中氏と称した。田中氏は後に越後国に所領を与えられて同地から赴いたという。館の跡地には長慶寺が建立(開基は義清、開山は慶弁)され、この寺は利休ゆかりの寺としても知られている。

千利休の祖父は田中千阿弥は田中義清の子孫であることを自称していたという。

表千家を「千利休を祖とする千家の本家」という説明がなされることが多いが、上にも書いたように本家は断絶している。
群馬県の新田にルーツを持つと言われる千利休は豊臣秀吉から死罪を言い渡され亡くなったのだ。
本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕えていたはずの千利休が何故突然切腹を言い渡されたのか定かではない。
天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。

当時は時の権力者から死罪を言い渡された人物の家族がそのままの生活を送れるなんてことはなかった。
つまり千家は没落状態だった。
千利休自刃後、利休の一族は各地に四散していたが、徳川家康や前田利家らの嘆願で豊臣秀吉に許され、逃亡していた(逃亡先は飛騨高山の金森可重説と阿波説がある)利休の嫡男千道安が堺へ帰郷し、家督を相続した。しかし利休の血脈としての堺千家は、道安に嫡子がいなかったため、断絶した(ただし道安の娘は利休の娘婿である万代屋宗安の息子に嫁いでいる)。

徳川家康や前田利家の取り持ちによって赦されたため、千利休の長男・道安が大阪堺に帰郷し千家を継承した。道安が2代目ということになる。
しかし道安には嫡子(正妻の産んだ男子)がいなかったので、3代目以降が続かなかった(但し女子はいたのである)。
傍系(分家)が今日に至るまで生き延びたことは結構だが、本家と分家は別物であり、本家が分家筋を養子などとして正式に迎え入れていないのならば、分家筋が本家を名乗ることは出来ない。
継承する実子がおらず、何も手を打たなければその家は断絶するよりほかないのだ。

表千家のWikipediaなどは道安(本家)の説明すらない。
茶の湯の大成者である千利休(せんのりきゅう)の没後、千家は2代・千少庵(せんしょうあん)、3代・千宗旦(せんそうたん)と続いた。

少庵は千利休の後妻の連れ子であり娘婿ともなった。千利休との血の繋がりはない。
道安は先妻との間に生まれた長男であり、千利休と血の繋がりがあり、本家を継承した。
少庵が分家を立てたのならば、分家の初代が千少庵であり、千利休の2代目ではない。
裏千家というのは表千家の分家であり、表千家・裏千家・武者小路千家を総して三千家と呼ばれるが、三千家は本家の堺千家に対して、傍系の京千家の系統である。

表千家7代・如心斎が、「千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家(の嫡子)とし、二男三男にはこれを名乗らせない」と定め、他の二家もこれを了承したため、茶道で千家といえば表千家・裏千家・武者小路千家の三家に限定されることとなった。
さらに京都上京区にある上流(三千家)に対して、下京区にあった藪内家を下流と呼んで区別し、三千家以外を排除していった。


表千家・裏千家の表裏という呼称は表通りの表か裏かという家の所在から付けられたものだそうで、両家は隣り合っていた。
裏千家は「分家である表千家」の分家という関係性も持つ。
「本家分家」というのは基本的に親族でなければならない。本家から分かれて独立した家を作るのが分家である。
本家にしても分家にしても、その家の長は血の繋がりがある人物か養子縁組などでその一族の仲間入りをした人物である必要がある。
本家と分家の姓は同じでも同じでなくても良い。その一族内に名乗りのルールがあればそれに従うしかない。
ただ姓を変えた場合にはより独立性は強くなる。(もっとも現代では戸籍の氏名を自分の好きに変更することは出来ないだろうけれども。芸名や通名によって本家と分家の姓を変えることは出来る。)
もうひとつ商売上の「のれん分け」という考え方がある。
こちらもかつては親族、親族でなければ養子にしてのれん分けするということが多かったが、必ずしも親族である必要はない。
例えば奉公人(従業員)などに同じ屋号の店を出すことを許可することもある。

明治時代になると、茶道は旧時代の遺物として全く顧みられなくなり、かつ、紀州藩の手厚い庇護もなくなり、茶道・家元制度ともに存亡の危機に立たされた。この時、家元制度をとらずに特定の藩組織の中でのみ普及していた流派は消滅した(近年、雨後の筍のように復興している)。表千家も危機的状況にあったものの、家元制度をとっていたこと、そしてなにより三井家という強力なパトロンを擁していたことにより、裏千家のような辛酸は舐めずにすんだ。

「裏千家のような辛酸は舐めずにすんだ」とあるが、なぜ裏千家が辛酸は舐めたのかと言えば表千家の分家だったからだろう。
本来、分家は独立したのであるから、辛酸を舐める必要はない。独自路線を行けばよいのである。
ただ遺産相続の時などに「分家だから取り分が少なかった」というような「辛酸を舐める」は有り得るかもしれない。
しかし遺産相続というのも現代的な考えであって、分家する時にある程度財産分与が行われていることが多いので、その後は通常「本家の資産は本家のもの」「分家の資産は分家のもの」となる。
また個人資産と会社所有の資産は別物である。いくら創業者であろうと株主や出資者、あるいは債権者などがいる会社の資産を全て個人の自由にすることは出来ない。

裏千家は明治時代までその活動はほとんど知られていない。
つまりそれまでは千利休「本家」を継承したということに威力があったということで、本家を自称した表千家のほうが有力だったのだ。
裏千家の台頭は明治時代から。

明治4年、京角倉家から養子に入ったのが、12代又玅斎直叟である。
明治の混乱期の中、新しい裏千家の基礎固めに努め、34歳で家督を長男駒吉(後の13代円能斎鉄中)に譲ったのちも側面から流儀の伸長をはかった。円能斎は明治29年まで6年にわたって東京に居を移して協力者を求め、京都に戻ってからも教本の出版や機関誌 「今日庵月報」などの発行を通して一般への茶道普及に尽力した。また女学校教育の中に茶道を取り入れ、かつ教授方針の一致をはかる講習会を催すなど裏千家茶道の組織化にも力を注いだ。その他、三友式の創始や、流し点や大円点の復興などの功績がある。

戦後になって14代淡々斎碩叟が茶道の学校教育への導入を働きかけた結果、学校のクラブ活動で教えられる茶道の大半は裏千家となっている。淡々斎はまた各地の寺院・神社にて献茶・供茶を行ったり、海外への普及に取り組んだりと、茶道振興に功が大きい。全国統一の同門組織として「社団法人茶道裏千家淡交会」を結成し、また家元を財団法人化するなど、裏千家茶道の組織化も引き続き行われ、流派別の茶道人口としては最大規模を誇るようになった。こうした普及・組織化の活動は15代鵬雲斎汎叟にも引き継がれ、特に海外普及に力を注がれた。鵬雲斎はまた社団法人日本青年会議所会頭を務めた。



【千の堺本家】千利休-千道安  ・・・嫡男がおらず養子縁組などもなく断絶
 
         【分家の京千家】千少庵―千宗旦―江岑宗左(宗旦の3男)  ・・・表千家
                              ―仙叟(宗旦の4男)  ・・・裏千家


千宗旦は亡くなる前に家督を継承し隠居している。(宗旦を千家3代目というのは間違いである。あくまでも分家・千少庵の2代目)
千宗旦はこの時、自宅敷地内に新たに茶室を建築し、そこ隠居場所として4男と共に移り住んだ。
この新しく作った茶室を4男に譲ることによって裏千家は誕生した。
敷地内に作ったのだから表と裏が隣接しているのは当たり前と言えば当たり前な話。

実は千少庵と宗旦はかなり怪しい。
1578年に少庵の子として生まれた宗旦は、10歳の頃(1588年頃)に千利休(1522年生まれ)の希望で大徳寺(京都の寺)に渇食として預けられた。
これは宗旦の父・少庵が利休の後妻の連れ子だったことから、家督争いを避けるために仏門に入れられたと言われている。
家督は一般的には嫡男(長男)が継承するものだが例外もあるので庶子や養子が継承するということも全くあり得ないということはない。
しかしこの時点で利休は嫡男の道安に家督継承させる意思があったということになる。
そうなると1591年に利休が突然豊臣秀吉から切腹を命じられたという一件は、家督継承が背景にあったのではないかと推測できる。
利休―道安という継承を好ましく思わない者がいた。だから利休を殺した。
道安も少庵も謹慎処分を受けて一旦は没落するが千家再興が赦されることになる。
利休が没し千家再興が赦されると、少庵の希望によって宗旦は還俗した(仏門を棄て世俗に戻ってくること)。
還俗の時期は1594年と言われているが諸説あり、実際は利休が亡くなって直に還俗したのかもしれない。
そして千利休の後継者に成りすますことに成功する。全ては計画のもとに実行された。
幕末から明治への混乱期に紛れて起こった宮家はみな仏門からの還俗が利用されている・・・。

千宗旦が隠居するために自分好みの茶室を作った。これを「寒雲亭」と呼ぶ。
自宅敷地内に出来た隠居用茶室を新たな分家としたのだが、なにせ自宅敷地内であるし、表千家の家長だった人物の好みで作った茶室(分家)で、そこに元表千家家長が住んでいるというのだから独立性が弱すぎる。
分ける必要があるのか!という状態である。これでは「分家」ではなく「離れ」である。(余談だが昔の家には離れがあることが多かった。少し成長した子供や成人になっても家を出ない子供がいる場合などに離れを利用していた)


上でも述べたように「離れの分家」は明治時代になるまでの活動は知られていない。
裏千家の台頭は東京に進出してから。「離れの分家」からやっと「本来の分家」になったわけだ。
東京に進出したのが円能斎である。
上の転載文には、12代目が34歳で家督を長男・駒吉(後の13代円能斎鉄中)に譲ったとあるが、37歳の時に隠居し次代に家督継承した。また12代や13代という数え方は千利休を祖とした数え方なので合っていない。
円能斎鉄中は1890年(明治23年)18歳の時に家を継ぎ、且つ東京に進出した。そして近代茶道の先駆者となる。
円能斎や鉄中という号は「北白川宮」や「小松宮」から授かったものである。

「北白川宮」(宮家成立1870年成立)・「小松宮」(宮家成立1882年)
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。
竹田宮の始祖となった人物の父・北白川宮能久親王は、初代近衛師団長・小松宮彰仁親王の実弟である(母親も同じ)。
現天皇家と繋がる久邇宮朝彦親王(4番目男子)は2人(8番目・9番目男子)の兄にあたる。異母。
博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。

還俗を利用した形で明治維新の混乱期に発生した宮家である。

北白川宮の2代目当主の長男(1882年生まれ)が、「竹田宮」初代当主になった人物である。
長男と言えども、母は北白川宮の正妻ではないので、やはり庶子である。
しかし1906年に明治天皇より「竹田宮」の称号を授かり、明治天皇の側室・園祥子さんの娘を妻とする。
日本オリンピック委員会(JOC)会長の竹田恒和氏や明治天皇の玄孫として売り出した竹田恒泰氏は竹田宮の子孫である。



松方正義の六女で堀越角次郎4代目(2代目3代目が相次いで亡くなり若くして大資産家)の妻となった梅子は、東京で円能斎の門下生となっていた。
松方梅子(後、堀越梅子)の裏千家流茶人としての名が堀越宗円である。
裏千家は宗旦の4男・仙叟が宗旦隠居のために作った離れの茶室を譲り受けたことから始まったわけだが、以後「千宗室」という名を襲名している(家元名)。  
堀越宗円は、裏千家家元名に使われている「宗」と円能斎の「円」を使用しており、関係の深さが窺い知れる。





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by yumimi61 | 2016-04-26 21:39
2016年 04月 25日
日本国憲法の秘密-231-
ちょっと早かったね(笑)

遅い? 



松方正義の家族(続き)

19 六女:梅子(1892-1978) 4代目堀越角次郎(1885-1951)の妻となる。裏千家流の女流茶人・堀越宗円でもある。

松方梅子は4代目堀越角次郎に嫁いだが、4代目ということで分かるように堀越角次郎という名は襲名されている。
では初代の堀越角次郎は何者なのか?

堀越角次郎
1806(文化3)年1月15日~1885(明治18)年8月25日
幕末・明治前期の商人。上野国碓氷郡藤塚村(高崎市)の田島安兵衛・はなの次男。無頼に交わり家を逐われ江戸に出る。同郷の堀越文右衛門の養子となり,天保14(1843)年本船町に呉服店を開いて(翌年通旅籠町に移転),開港後横浜に出店して洋織物引取商を営む。攘夷浪士の脅しにも,商人こそが外国人と利を争う真の攘夷家だと屈せず,商才を発揮して巨富を蓄えて土地にも投資した。横浜正金銀行設立発起人となった明治12(1879)年に隠居して安平と称した。<参考文献>田島鶴治編『風雪―堀越家のあゆみ―』

生活態度が悪く、悪い仲間と交わったために、家を追い出されて江戸に出た。

幕末の商傑伝には欠かせない堀越角次郎は豪胆不敵で、株や土地投資などリスクを恐れずに手掛け、巨万の富を築いた。
「上州は由来、長脇差の本場、国定忠治のような無法の徒も出したところだけに、その初めはやくざ稼業の仲間入りをし、忠治気取りで、その方面では相当幅をきかせたといわれるが、堅気の時分に産物仲買商を営み、商売上の手違いから負債がかさみ、生まれ故郷にもいられぬような失敗をきたし、自暴自棄に陥ったと・・・
日本経済新聞電子版 資産株と土地で増殖、堀越角次郎氏

長脇差は博徒の抗争などに用いられた日本刀のこと。
赤城の山も今夜を限り 生まれ故郷の国定の村や 縄張りを捨て国を捨て~
そうは言っても清水次郎長さんには敵いませんよね?

この町も追われた~
ということで出た江戸で同郷の堀越文右衛門(屋号:丸文)と知り合い、養子となり(改名して)援助を受け呉服商(丸分のれん分け・分家)になる。
角次郎の商売が大成功したのは1859年に横浜港が開港したことが大きく、やはり外国との織物取引で財を成した。
彼が他の人と違ったのは、自分の商売と財を元手に利殖商法(「必ず儲かる」や「資金が増える」と謳って投資や出資をさせる)も行ったこと。
今で言う投資会社のようなことを行ってさらに大儲けした。
江戸から明治に移行する時に土地の扱いが大きく変わったということは前にも述べたが、堀越角次郎は集めた資金で横浜などの土地を積極的に買っていき、気が付けば大土地所有者になっていて、今度はその土地を用いて貸地や貸家経営を行い利益にした。
こうして明治から昭和初期にかけて大資産家に伸し上ったが、財産税法の導入後は厳しくなった。



エレクトロニクス商社というと、社名はカタカナが含まれる企業が多いのではないかと思います。
8月13日放送の「アサザイ 今日の1社」でご紹介したのは、その名も漢字2文字のエレクトロニクス商社・丸文(7537・東証一部)です! 
丸文の創業は170年前、呉服問屋を起源としていまして、その後業態転換をはかり現在にいたります。その中でも「常に時代の一歩先を見据え、次のニーズに応える」ことを理念とし、日本で初めて集積回路(IC)の輸入販売を開始するなど半導体供給のパイオニアとしても活躍してきました。

慶応義塾大学の三田キャンパスの一角に、歴史を感じさせる赤レンガの図書館がある。そして、この建物が意外なことに丸文とつながりがある。
日本で初めて集積回路を輸入した独立系のエレクトロニクスの専門商社である丸文。この事業としての設立は1947年であり、既に67年という歴史があるが、そのルーツは江戸時代の1844年に堀越角次郎が現在も本社を構える日本橋(大伝馬町)で絹織物・綿織物の問屋を始めたことにまで遡る。

この時代の商人が外国と貿易を行うということは、言葉の問題だけではない困難を伴った。その最も厄介なものが『攘夷論者』である。「尊王(皇)攘夷」の「尊皇」は理解できるが、「攘夷」という言葉の意味はひとことでは片付けられない。それぞれの者が持っている「攘夷」の解釈を巡って、多くの藩が争い、また、手を組んだほどである。そして、この時代に「攘夷」という言葉の解釈に最も苦しんだ一人が福沢諭吉であったと思う。この言葉を嫌い、この言葉の意味を自分の中で折り合いをつけることが出来なかったがゆえに、福沢諭吉は自ら政治的な活動を行うことはせず、また、吉田松陰のように塾生に政治的な活動をさせることもしなかったのだと、私は考えている。堀越角次郎と福沢諭吉は親友である。堀越角次郎は赤レンガの図書館を諭吉に寄贈し、諭吉は角次郎の墓誌銘を刻んでいる。二人に共通していることは、当時の一般的な解釈で「攘夷」という言葉を捉えなかったことである。
ラジオNIKKEI アサザイより>

丸文の発展に堀越角次郎が寄与したのは確かだが、丸文の本家(創業者)は堀越文右衛門であり、2代目堀越角次郎は本家の次男である。
群馬県で生まれ、12歳の時に江戸に出て父の店で働き、横浜港開港後の1864年、25歳の時に堀越角次郎の名を襲名し2代目となった。妻は初代角次郎の娘。
この2代目堀越角次郎と福沢諭吉(1835年生まれ)は面識があった。

福沢諭吉は大阪にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士の末子として生まれ大分に戻り、その後長崎に遊学した。
そして大阪を経て江戸に出る。
江戸に出た福沢諭吉が丸文の本店を訪れ、襲名前の茂三郎(2代目堀越角次郎)と知り合いとなり、茂三郎から西洋について話を聞いたり本を借りたりしていた。
福沢諭吉の転機はおそらくアメリカへの渡航だったろうと思う。
安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣することが岩瀬忠震の建言で決定した。万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ。
この渡航には通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)が随行していた。
ジョン万次郎は土佐国の漁師の家に生まれ、漁の最中に遭難して、伊豆諸島の無人島に漂着。その後アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、そのままアメリカに行って船長の養子になってしまったという人物。
福沢諭吉は中津藩士の娘と結婚し幕臣となり遣欧使節として欧州にも渡航した。

福沢諭吉が江戸に出てきたのは(1858年)、中津藩の命によって江戸築地(鉄砲洲)に蘭学塾を開くためだった。
その後にアメリカや欧州に渡航し、書物を翻訳をしたり西洋事情の本を執筆し、1868年(慶應4年)に中津藩の蘭学塾を慶應義塾と改称した。(しかし慶應4年は遡って1月1日から明治元年になった・・・)
築地の明石町。聖路加病院・聖路加看護大学・中央保健所とに囲まれる場所, "病院前"交差点に, ロータリー (三角形の安全地帯) がある。
ここに「日本近代文化事始の地」という説明板があって, 『慶応義塾発祥の地』 『蘭学の泉はここに』という 二つの石碑が建っている。

2代目が養子に入り堀越角次郎を襲名した年は1864年であるが、初代は80歳(1885年)まで生きたので正式に家督を継承したのは1879年(明治12年)だった。
福沢諭吉が神戸の土地を買うとよいと九鬼家にアドバイスしたのは、横浜の堀越家を見てのことだったのだろう。

3代目堀越角次郎は2代目の長男。つまりこちらも本家筋(母が分家初代の娘ではあるが)。
明治9年(1876)慶応義塾幼稚舎に入学。20歳で卒業し家業に就く。しかし若干27歳で逝去。

2代目堀越角次郎は57歳で、3代目堀越角次郎は26歳で、ともに1896年(明治29年)に亡くなった。(不気味・・・?)
2代目はモスリン(綿や羊毛の単糸を使い平織に製織した薄地の織物)の国産化にも成功した。
しかし明治20年代にモスリン市況が崩落。
その対策の一環として洋反物問屋の杉村甚兵衛と問屋組合「モスリン商会」を設立した。
このモスリン商会の支配人に迎えたのが、後に三越の初代専務となった日比翁助で、福沢諭吉の推薦だった。
さらに2代目堀越は1895年(明治28年)に「東京モスリン紡織株式会社」を設立。堀越の財力と信用によって三井物産が出資に参画したが、会社設立直後に2代目も3代目も相次いで亡くなった。
福沢諭吉は島津家や九鬼家からも資金援助してもらっていたというが、堀越角次郎2代目3代目ともに慶應義塾に巨額の寄付をしていた。(寄付?ほんならお借りしますと言ったとか?)

そしていよいよ松方梅子が結婚した4代目堀越角次郎の登場。
彼は2代目の4男、3代目の弟である。
3代目が若くして亡くなったので、3代目の子ではなく2代目の子(3代目とは兄弟)が継承した。やはり本家筋である。
2代目3代目が亡くなったのは4代目が11歳の時で同年に襲名。
慶應義塾大学を卒業し、欧米各国を見聞旅行。初代と2代目が拡大した土地などの資産が豊富にあり、若くして高額納税者だった。ここに松方家は娘を嫁がせたわけである。
4代目の存命期間は1885(明治18)年~1951(昭和25)年。
戦後に財産税法が導入されて堀越家も没落。
一方の松方家は日本銀行筋なのだから・・・・。





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by yumimi61 | 2016-04-25 15:29
2016年 04月 24日
日本国憲法の秘密-230-
泣いて生まれてきたけど 情報が命に直結する時代
『政府は知らなかったのではなく、言わなかったのだ。』
より

@ayukero52
【転載】「東電社員達だけが飲んだ ヨウ素剤 証拠写真見つけた。」

@tokaiama
ヨウ素剤配布は30年以上前から準備され、
多数の原発立地自治体が保有している。
今回は、民主党政府と佐藤福島知事の政治判断によって
「パニックを心配」とやらの理由で意図的に配布しなかった。
結果責任は民主党幹部、政府、佐藤雄平らが負わねばならない
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121003/k10015491891000.html (リンク切れ)

@tokaiama
福島放射能巨大事故でヨウ素剤を意図的に配布せずに福島県民、
多数の国民を被曝させた事件は、明確に「刑事事件」である。
これは巨大な犯罪なのだ!
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121003/k10015491891000.html (リンク切れ)


ヨウ素剤が放射能汚染による影響を全て排除・防止できるわけではない。ターゲットにしているのはヨウ素のみである。
ヨウ素は甲状腺に集まるという性質を持っている。人間の身体は余分なヨウ素を排出するという調整機能を持っている。一部のヨウ素を除いて半減期も短い。これらの特徴によってヨウ素剤は活きてくるのだが、有効性や実効性には一部疑問もある。個人差もあるだろう。
また1回の服用で長期に有効性を確保できるわけではないので、災害の状況や災害場所からの避難の有無如何によって効果は異なるし、飲み忘れにも注意が必要となる。
昨日述べたように通常でもヨウ素過剰によって健康障害を引き起こすことがあるので、妊産婦、新生児、乳幼児、甲状腺疾患などの患者が個人の判断で安易に服用することにはリスクもあるし、服用する場合には食べ物や飲料にも気を付ける必要がある。
ヨウ素剤を常備しているから全ての被害を防げるという誤解を生まないようにすることも大事であり、なかなか難しいのが現実。

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政府は国民を見殺しにし、自分の家族だけ避難させていた疑い (日々雑感)
http://pop-rin.seesaa.net/article/209084723.html より

染谷正圀(吉岡吉典・元参議院議員=故人の政策担当秘書だった)
そういえばあの日、今東京から離れるよう指示があったという
知人からの電話を受けました。

knklsm
確か知り合いの役人の妻子は3/15午前中のうちに関西に逃げたな~。
うちは昼に逃げたのだが後悔している。
もっともっと後悔している人がどれほどいるのだろうか。

bonny
私の妹は電通の下請け会社で働いていますが
事故日から3日間電通は休み、下請けは普通に働かされていました。
電通は情報入ってたんですね...

ほびっと
原発付近の住民も、爆発後町の防災無線でわざと
北西方向(汚染が流れてく方向)に避難誘導されたと
NHK特集で証言されてました。
東電や県関係者などがスムーズに逃げられるようにそんなことをしたのでは?
福島にいたそれら関係者の家族がいつどのように避難したか追及してほしい。

ほびっと
先週日曜日に放送されたNHK特集で、原発近くに住む方が爆発後、
防災無線で北西に向かって逃げるよう誘導された事実は重い。
あえて汚染の広がる方向へ多数の住民が車で避難し、大渋滞。
反対に安全な方向へスムーズに逃げられた人間もいるはずだ。
今後自治体の避難誘導を素直に聞くべきか?

seafurry
秘密にすれば情報にアクセスできる一握りの人間だけが得をする。
現在の汚染状況しかり、食品汚染しかり。公開が平等の前提条件だ。

DARPA1960
テレビタックルで石原幹事長がSPEEDIのデータについて
「我々も知っていたけど、黙っていた」と発言してました。
国会議員は総ぐるみで隠蔽。聞いた瞬間、本当にショックでした。

ソラQ(東京)
山本氏→石原氏との事:私の娘の学校も情報を知っていた家庭の娘さんは
全員避難し卒業式欠席でした
SPEEDiのデータを当時から山本一太は知っていたと。
エリートの子弟が多く通う東京の番町小学校の児童の多くが
東京から事故当時疎開していたのも道理で。

RIFT UP
東電幹部や保安員・政治家などの子供達が今どうしているか調べるべきだ。
相当数が疎開している可能性がある。
原発事故当日、番町小学校の多くが避難したとのツイートもある。
東電内部(関連会社含む)では「西日本に避難しろ」とのメール
が拡散したという

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 



松方正義の家族(続き)

16 十一男:金次郎(1886-1906) 早世 なお松方正義の幼名は金次郎だった。

17 十二男:十一郎(?-1888) 早世


18 十三男:虎吉(1890-1973) 松本重太郎の養子となる。

松本重太郎はこちらに書いた通り、松方家のいとこ婚に関係する人物。

  父・松方幸次郎(松方正義の三男
                    ======松方花子(松本重治の妻となる)
  母・好子(九鬼隆義の次女)

  父・松本枩蔵(旧姓・井上、松本家に養子入り)  
                    =======松本重治       
  母・光子(松方正義の五女)  

松本重治(1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。
ロックフェラー3世と松本重治は終生変わらぬ友人関係にあったという。
1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)はともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したものである。
3世の息子の4世はハーバード大学で東洋の歴史と言語を学んだ後、日本の国際基督教大学に3年間留学していた。
ロックフェラー家はアメリカ連邦準備制度(FRS)やその理事会(FRB)の設立メンバーにも名を連ね、現在も大株主ではないかと言われている(非公開のため実態が不明)。
ロックフェラーと松本重治は戦後の日本において重要な役割を果たしたと考えられる。

その松本重治の父親が松本重太郎の養子となった松本枩蔵(旧姓:井上)であり、松方家の娘と結婚し、重治が生まれた。
松本重治の父・松本枩蔵は明治時代に関西経済界のドン(西の松本、東の渋沢)と言われた松本重太郎の養子となった。旧姓は井上。
重治は松本姓ではあるものの松本家の血は引いていない。血筋的には井上家と松方家のハーフである。
しかしながら父の松本枩蔵(つまり井上家の血筋)は失脚しているのである。
松本枩蔵は重太郎の勧めでアメリカに長く遊学し、帰国後には九州電気軌道会社(西日本鉄道の前身会社)の重役(のち社長)となり生活の大半を九州で過ごしたが、妻と子(松本重治)は神戸に暮らした。
九州電気軌道会社2代目社長であった松本枩蔵が専務・社長在職中の約10年間(20年間とも)に渡り、社印・社長印を盗用し社名の約束手形を振り出して多額の借入金を作り、そのすべてを私用に費消していたことが、1930年10月の社長退任直後に発覚し、失脚した。


実家が大阪の両替商であった井上枩蔵(後の松本枩蔵)が松本重太郎の養子になったのは枩蔵が20歳の頃で、松方虎吉が生まれる1,2年前のことである。(枩蔵と虎吉は20歳くらい年の差がある。重太郎には実子がいなかった)
養子となった松本枩蔵は重太郎の勧めで10年ほどアメリカに遊学している。
枩蔵が帰国した頃、同じく重太郎の養子になった松方虎吉は10歳に、松本重太郎は50歳を超えた。
虎吉に才能がないとみたのか分からないが、後継者として考えるならば、年齢的にも枩蔵のほうが適している。
松本枩蔵は帰国後の1897年に重太郎の会社「日本紡績」(1895年創業、経営難によりに1905年解散)に取締役として入社し翌年社長に就任。同年、松方正義の娘・光子と結婚した。
松方家と松本家のパイプラインを養子から婚姻にシフトしたのだろう。
1899年に息子・松本重治が生まれた。
松本枩蔵はその後、1908年に創業した九州電気軌道(西鉄の前身会社)に入社し、1912年に専務に就任する。
しかしそう、枩蔵は不正手形濫発が発覚し、失脚してしまうのである。
それを見越していたように、枩蔵は九州を本拠にしていたが、妻子は離れて神戸で暮らしていた。
そして不正が始まったとされる1920年代初期、20代となった息子はアメリカへ長期留学に出て日本不在。
30歳を前にした1927年に帰国し、松方幸次郎の娘と結婚させている。
父の不正が発覚したのは1930年で、社長退任直後というタイミング。
松本家の汚名を最小限にしつつ井上家を排除し、松方家の血筋を濃くしたといった感じである。
また後から養子になった松本(松方)虎吉の人生も後世に伝わるようなものはない。






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by yumimi61 | 2016-04-24 14:18
2016年 04月 22日
日本国憲法の秘密-229-
熊本の地震で現地から中継するリポーターが最初軒並みモンベルのウェアを着ていたので、あれは社有物でテレビ局はモンベルと提携でもしているんだろうかと思ったが、だんだん違うブランドの人も出てきたので、そうではないんだなぁと思った。
(くまもんにちなんで・・と正直思わなくもありませんでした)
ところでNHKはブランド名を隠さなくていいんですか?


松方正義の家族(続きです)

15 十男:義輔(1883-1972) 日本銀行金沢支店長、日本特殊陶業監査役、共立原料各監査役

東大卒でアメリカに留学という王道コースを歩む。
妻は井上勝*の三女。

*井上勝(旧名:井上卯八)
長州藩士・井上勝行の息子として長州(山口県)で生まれるが、5歳の時に養子に出されて野村弥吉と改名する。
長州藩の藩校・明倫館で学ぶ。長崎に遊学し伊藤博文と親交を結ぶ。
長州藩の第13代藩主(安芸毛利家25代当主)・毛利敬親に渡欧を命じられ、イギリス総領事による斡旋の下、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5人が清国経由で秘密留学した。
のちに「長州五傑」と呼ばれる5人の1人である。
ジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)で密かに出航し、上海でホワイト・アッダー号に乗り換えへロンドンに向かった。
主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。
帰国後に井上勝と改名し、明治新政府の仕事に携わる。
鉄道事業の推進に寄与し「日本の鉄道の父」とも呼ばれるが、帰国後もイギリス人技術者やイギリスの投資がなければ推進できなかったであろう。

井上勝の実子は女子のみで、次女の夫(松浦勝純)が井上家に養子に入る(婿養子・井上勝純)。
井上勝純の娘は東大名誉教授・鈴木竹雄の妻となる。
鈴木竹雄は鈴木商店(現:味の素)の2代社長・鈴木忠治の三男。

鈴木製薬所・鈴木商店(現:味の素)
鈴木商店の創業者・鈴木三郎助(本名:鈴木泰助)は、相模国三浦郡堀内村(現:神奈川県三浦郡葉山町)の商家に生まれる。
父・忠七は公郷村(現・横須賀市)の豪商「滝の崎」に奉公に出て手腕を認められ、慶応2年(1866年)に妻帯・独立して「滝屋」を称していた。しかし明治18年(1885年)に腸チフスにより35歳で他界したため、泰助はわずか9歳で家督を継ぐことになった。
とはいっても、18歳までは浦賀町(現・横須賀市)の米穀商・加藤小兵衛商店で住み込みで働いていた。
最初に三郎助を名乗ったのは父の忠八で、泰助は18歳の時に自宅に戻りそれを襲名した。
しかし数年で家業は資金繰りに行き詰まり、米の先物取引に手を染めて、日本橋蛎殻町(米穀取引所があり米相場の中心地だった)に入り浸り、全財産を注ぎ込んでしまっていた。
代わりに母と妻が部屋貸しをして生計を立てていた(葉山は静養地として人気が出始めた頃)。
転機は葉山に来ていた大日本製薬(覚醒剤が合法だった時代にヒロポン(Philopon)を一般販売していた、新生児奇形等を呈する薬害を引き起こしたサリドマイドを含む睡眠導入剤を販売していた会社。現:大日本住友製薬)の技師の「ヨウ素(ヨード)作り」の助言だった。
海から採取した海草(かじめ)を乾燥させ、あぶり焼きにして沃度灰を作り、灰のなかからヨウ素(ヨード)を抽出して薬品とするを作るという仕事を一家で行った。
そして1904年(明治37年)の日露戦争によって莫大な利益を上げた。


海藻や魚類はヨウ素を海水から濃縮して取り込んでいる。
ヨウ素(I)の同位体は37種類の存在が知られており、127Iのみが安定同位体であり、他は全て放射性同位体である。
安定同位体を利用し、原子力災害時の放射線障害予防薬や造影剤の原料として用いられている。
また放射性同位体の崩壊を利用することで放射線医学試薬として用いることが出来る。
さらに強い殺菌力を利用し消毒薬や農薬などに使用されている。

自然に存在するヨウ素はほぼ100%安定同位体の127Iであり、放射性同位体と比較して「安定ヨウ素」と呼ばれる。安定ヨウ素はカリウム塩、ヨウ素酸カリウムの錠剤といった「安定ヨウ素」製剤として用いられる。

動物の甲状腺は、甲状腺ホルモンを合成する際に原料としてヨウ素を蓄積する。原子力災害時等により、不安定同位体の放射性ヨウ素を吸入した場合は、気管支や肺または、咽頭部を経て消化管から体内に吸収され、24時間以内にその10 - 30%程度が甲状腺に有機化された形で蓄積される。放射性ヨウ素の多くは半減期が短く、その代表としてよく知られるヨウ素131 (131I) の半減期は8.1日であり、β崩壊することで内部被曝を起こす。
放射性ヨウ素の内部被曝は甲状腺癌、甲状腺機能低下症等の晩発的な障害のリスクを高めることが、チェルノブイリ原発事故の臨床調査結果より知られている。
大量にヨウ素を摂取した場合は、甲状腺にヨウ素が蓄積され、それ以後にさらにヨウ素を摂取しても、その大半が血中から尿中に排出され、甲状腺に蓄積されないことが知られている。 それを応用したのが、放射線障害予防のための「安定ヨウ素剤」の処方である。


放射性ヨウ素を蓄えてしまう前に、安定ヨウ素で先に満たしてしまおうという考えで放射線汚染時に用いられるのがヨウ素剤である。
ヨウ素は通常でも過不足で健康障害を引き起こすことがある。
ヨウ素を含む海に囲まれる島国であり、広大な大陸でもないため土壌のヨウ素含有率も深刻に少ないという状況ではなく、さらに海産物を食べる習慣のある日本人は不足にはなりにくい。よってどちらかと言えば過剰が問題であった。
健康な人であればヨウ素摂取量が多少増えても排泄により自然に調節可能だが、長期間の過剰摂取は過剰症を引き起こすことがある。また疾患を持つ人は自然調節が上手くいかない場合もある。
外国では塩にヨウ素を添加していることも多いので日本人は注意が必要。
過不足ともに主に甲状腺(ホルモン)や妊娠や胎児に影響がある。

ヨウ素の放射性同位体は半減期が短いため通常は環境中に認められることはまずないが、核分裂によって発生する半減期の長い(約1570万年)129Iが微量に、または汚染箇所では高濃度に存在することがある。
チェルノブイリ原子力発電所の事故では、核分裂によって放射性同位体の131Iが多量に放出され、甲状腺に蓄積し甲状腺ガンが多発させたと報告された。


ヨウ素(ヨード)事業で大きな利益を得た鈴木三郎助(泰助)は、1907年に鈴木製薬所を設立した。
1907年というのは、池田菊苗がL-グルタミン酸ナトリウムを発見した年。(約38 kgの昆布から煮汁をとり、うま味の素であるL-グルタミン酸ナトリウム約30 gを得ることに成功した)
翌1908年に「グルタミン酸を主要成分とする調味料製造法」に関する特許を出願し認められる。
鈴木三郎助(泰助)は知人を通してL-グルタミン酸ナトリウムを開発中だった池田菊苗を面談を重ねており、すぐさま特許の実施契約を得て、「味の素」という名称で製造発売した。
鈴木製薬所は、1912年に鈴木商店に、1932年に味の素本舗鈴木商店に、1946年に味の素に社名変更する。

・1909年(明治42年)の発売当初は、新製品だったことに加え、なかなか売れずに苦戦を強いられたが、鈴木が販売促進のために大阪に出掛けたところ、うどんが食文化として定着していたことや、またうどんの出汁を昆布で取ることから、昆布のうま味成分を抽出した味の素は格好の市場となり、鈴木は大阪市内のうどん屋や高級料亭などに向けて、味の素を売り込みに回ると共に、大阪で大きな足掛かりを築き、これがその後の味の素の評判につながることになる。また「大阪の食文化への貢献」もあり、1996年(平成8年)には「ほんだし うどんおでんだし」(通称・どんでん、現在は販売終了)の発売に際し、吉本興業の所属タレント・坂田利夫をテレビCMに起用したり、また関西テレビの制作で関西ローカルで放送された「素のよしもと」のスポンサーを担当するなど、今日に至るまで吉本興業との関係が続いている。

・1917年(大正6年)頃には、「味の素の原料はヘビだ」という噂が流れた。大道商売の薬売りが、売り口上として面白おかしく語ったことに端を発するのだが、これが宮武外骨が刊行していた『滑稽新聞』に取り上げられ、一般に広まった為、売り上げが激減した。これを受け、当時の製造元であった鈴木商店は、東京朝日新聞などの新聞広告でこの噂は嘘だと反論したが、逆にこれが噂をさらに広げる結果となり、売上減は続いたが、関東大震災の際、原材料だった小麦粉を救援物資として放出したことで、この噂は沈静化した。

噂は逆境ではあったが、知名度を上げることには大いなる貢献をし、その後の関東大震災の救援物資のイメージ大転換がすぐさま利益に繋がった。


味の素は戦後も一時期安全性が非常に問題視された時期があった。中華料理症候群とか。
目の前で調理しているラーメン店に行ったら、大きなお玉で魔法の白い粉をどっさり入れていたので「ああこれかぁ」と私も思ったことがある。
しかしその安全性の問題も製法が原因だったとかで、今はそれほど問題視されているふうはない。
但し私が思うに、うま味調味料中毒は深刻で、日本人などはおそらくこれ系のものが入っていないと美味しいと感じられない人が多いと思う。
L-グルタミン酸ナトリウムの発見は日本の10大発明の1つ。
味の素は総会屋への利益供与事件(1997年発覚)、国際カルテル事件(2000年発覚)、人工甘味料アスパルテーム製造法特許報奨金訴訟(2002年)などの問題も起こした。
昨今はパンダちゃん小瓶かなんかで可愛らしく購買意欲をそそっている。


L-グルタミン酸ナトリウム発見者・池田菊苗の経歴
1864年、薩摩藩士・池田春苗の次男として京都で出生する。京都府中学、大学予備門を経て、1880年から大阪衛生試験所で化学を学ぶ。
1889年、帝国大学理科大学化学科(現東京大学理学部化学科)卒業、大学院へ進学する。
1891年、高等師範学校教授となる。
1896年、東京帝国大学理科大学化学科の助教授となる。
1899年より、物理化学研究のためにドイツ・ライプツィヒ大学オストワルド研究室に1年半留学する。
1901年5月から10月までロンドンに滞在。夏目漱石と同じ下宿に住み、以降親交を持つ。帰国後、東京帝国大学教授に昇進。
1902年、理学博士の学位を取得。

1907年、、L-グルタミン酸ナトリウムの発見!
1913年、日本化学会会長。
1917年、理化学研究所の創立に参加(同化学部長)。


鈴木商店(現:味の素)2代目社長が鈴木忠治で、忠治の三男が鈴木竹雄・東大名誉教授(商法学者)。
竹雄の妻は井上勝の娘婿・井上勝純の娘。
井上勝の次女が松浦(井上)勝純の妻で、三女が松方義輔の妻。

鈴木竹雄
兄に三楽オーシャン(現メルシャン)社長・会長を務めた鈴木三千代や、工学博士で昭和電線電纜会長を務めた鈴木松雄。弟に通商産業省重工業局長等や日揮会長を務めた鈴木義雄や、経済同友会副代表幹事や昭和電工社長・会長を務めた鈴木治雄、三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現・三菱自動車工業)社長を務めた鈴木正雄、大蔵省国際金融局長や国際通貨基金理事等を務めた鈴木秀雄がいる。娘は日本放送協会(NHK)報道局長やパリ日本文化会館初代館長等を務めた磯村尚徳の妻。慶應義塾大学法学部教授の鈴木千佳子は娘。






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by yumimi61 | 2016-04-22 13:00
2016年 04月 21日
日本国憲法の秘密-228-
昨日、熊本県玉名郡南関町にある橋本製菓の「黒棒」を貰って食べた。
かりんとうみたいに硬いのかと思ったら柔らかくて美味しかった。

だからというわけではないが、昨日またまた突然思い出したことがある。
子供の頃、静岡への海水浴に誘われたことがある。
だけど私はその時、「東海大地震が来たらやだなぁ~」と思っていて、結局行かなかった。
子供が東海大地震を心配していたくらいなのだから、当時東海大地震が話題になっていたに違いない。

1969年に茂木清夫(当時:東京大学教授)が、遠州灘で大地震が発生する可能性を指摘したのが最初だが、安政東海地震の古文書では駿河湾の奥でも震度7の揺れがあったと推定されたことから、遠州灘だけが震源域だとすると矛盾があった。1976年には、羽島徳太郎(当時:東大地震研究所)が安政東海地震の津波の波源域が駿河湾内に及んでいたことを推定した。次いで石橋克彦(当時:東大地震研究所)は、東海地震説の決定打とでも言うべき「駿河湾地震説」を提唱した。安政東海地震では駿河湾西岸で地盤の隆起があったことを突き止め、これまでの震度や津波のデータを総合すると、駿河湾の奥まで震源域が達していて、1707年の宝永地震でも同様に駿河湾奥までが震源域だったとし、断層モデルも提唱した。再び東海地震が発生すれば、静岡県を中心とする地域が壊滅的な被害を受け、日本の大動脈である東海道新幹線や東名高速道路が寸断されるなど多大な影響が出るとして、即急な災害対策や地震予知体制の確立を訴えた。

地震が話題になって私が心配していた時期はこの頃だろうか。
1978年に「大規模地震対策特別措置法」を制定し、その中で静岡県下を中心とした「地震防災対策強化地域」を設定し、体積歪計やGPSなどの観測機器を集中して設置することで、世界でも例を見ない警戒宣言を軸とした「短期直前予知を前提とした地震対策」をとることになる。 

前述のように観測網の整備が進んでいる為、「事前の予知が可能なほぼ唯一の地震」とされていたが、ほかの地域でも観測網の整備が進んだことで、プレスリップをはじめさまざまな地震前駆現象を捉えることが可能となり、研究者の間では「東海地震だけが事前予知可能」という見方はほとんどされなくなった。


でもこれまでの地震はどれも「近いうちに地震が起きます」広報はなかった。

2011年3月に発生した、想定東海地震を上回る規模の東北地方太平洋沖地震(Mw9.0)でプレスリップが検出できなかったことについて、地震予知連絡会の島崎邦彦会長は「プレートの状況が異なり、今回の結果で東海地震の予知ができないということにはならない」としている。


他方、「事前の予知が可能」と言っても必ずしも事前に予知できるとは限らない。地震の基本的メカニズムが十分に解明されていない現状では、予知が可能なのはプレスリップが生じた場合に限られるというのが大多数の研究者の認める所である。プレスリップが生じない場合、またはそれが微弱で、検出できずに予知に失敗する可能性、現象の進展が余りに急激で警戒宣言が間に合わない可能性もある。

宇宙や惑星の謎が十分に解明されていない現状においては、生命の発生や生命体のメカニズムが完全に解明されていない現状においては、人間に出来ることは僅かであると言い換えることも出来るだろうか?

予知できることを前提にするのではなく、予知無しで地震が発生する事も想定して、対策を練るべきであるといった意見は、近年強まりつつある。特に政府や行政に対して、「地震予知に莫大な予算を使うよりも、耐震化などの防災分野に予算を使うべき」といった厳しい意見もある。
 
「想定外」や「史上初」という言葉や見解で「仕方ないこと」に出来るならば、常に記録更新が目指される。

また、東海地震にばかり世間の関心が集まったため、他地域で起こりうる大地震への関心が相対的に低くなり、防災予算が静岡県に集中的に配分されてきたことに対する批判もある。

今のところ、来る来ると言われている東海大地震や南海トラフ巨大地震、首都直下地震を避けるように大地震は起きている。


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【サミット候補地】
仙台市―宮城県 2011年3月11日 東日本大震災
新潟市-新潟県 2004年10月23日 新潟県中越地震
            2007年7月16日 新潟県中越沖地震
軽井沢町―長野県 2011年3月12日 長野県北部地震
             2014年11月22日 長野県神城断層地震
神戸市―兵庫県 1995年1月17日 阪神・淡路大震災
広島市―広島県 1945年8月6日 原爆投下
            2014年8月20日 豪雨による広島市の土砂災害(←この頃アイス・バケツ・チャレンジが大盛り上がりで、広島の土砂災害なんか何処吹く風だった)
浜松市―静岡県 東海大地震や南海トラフ巨大地震危険地域
◎志摩市―三重県   同上
名古屋市―愛知県   同上 

前回が北海道(洞爺湖)で前々回が沖縄なので、今回は九州あたりが妥当かと思ったが、幸いにというか何というか候補地にはなっていなかった。
サミットやオリンピック中には絶対にテロや自然災害は起こらないという見解でよいですか?



以前書いた年表に熊本洋学校と新島襄の創立した学校などを追加した。

1871年、明治新政府は、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設。
      (薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。)
1871年 熊本洋学校設立(1874年に共学化)
1872年、西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組。任務名目は「天皇および宮城(皇居)の守護」。
1875年 新島襄が京都に同志社英学校設立。
1876年 熊本洋学校閉鎖。(ジェーンズが学生の引き受けを同志社の新島襄に依頼)
1876年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸に女子塾を開設。
 ※J.D.デイヴィスは同志社英学校の設立に参加した宣教師・教育者。
  当時デイヴィス邸があった場所(京都市上京区京都御苑内23)には現在京都迎賓館が建っている。
  1994年(平成6年)10月に国立京都迎賓館として建設が閣議決定され、2005年(平成17年)4月17日に開館した。

1876年、神風連の乱(熊本)・秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)が発生。翌年の西南戦争に繋がる。
1877年、西郷隆盛、明治政府との西南戦争(熊本・宮崎・大分・鹿児島)に敗れ自決。
1878年、大久保利通、暗殺される。
1881年、大隈重信、政界を追われる。
1885年、初内閣誕生。伊藤博文が初代首相に就任。

1886年、新島襄がJ.D.デイヴィス邸にて京都看病婦学校を創立し、
1887年、京都看病婦学校校舎と同志社病院を建設。病院開院。

1886年、日本政府がジュネーヴ条約に調印し、
1887年、日本赤十字社を結成。

1888年、大隈重信、伊藤博文の心変わりにより外務大臣として呼び戻される。(条約改正対応)
1889年、森有礼、暗殺される。
1889年、大隈重信、条約案反対派から爆弾による襲撃を受けて右足切断に至り、辞職する。
1890年、新島襄、死去。
1890年、大日本帝国憲法発布。
1891年、内村鑑三、教職を追われる。
1891年、近衛師団編成。

1894-1895、日清戦争。





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by yumimi61 | 2016-04-21 13:07
2016年 04月 19日
日本国憲法の秘密-227-
あんたがたどこさ 肥後さ
肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ せんばさ
せんばやまには狸がおってさ
それを猟師が鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 食ってさ
それを木の葉でちょいとかぶせ

昨日唐突に思い出した手毬歌。
子供の頃、これを歌いながらボール(毬)をついていた。
「さ」のところでボールを脚にくぐらせるのが掟。
熊本には「せんばやま」という山がないそうで、だからこの歌は熊本県外のどこかで熊本県出身の人と話しているという歌らしい。
「どこさ」という方言を使う地域の人と熊本の人が会話していて、熊本の人は「どこさ」に合わせて「肥後さ」や「熊本さ」などと語尾に「さ」を付けているのでは?
埼玉県の川越に仙波という地名や仙波東照宮があるので、川越あたりで作られた歌ではないかと言われている。
「どこさ」という方言を使うのは東北や北海道のような気がするが、川越付近では使うのだろうか。
「昨日さ~」「あのさ~」「それでさ~」「あの人さ~」というように「さ」を使うことはあるけれど、「どこさ」は使わないなぁ。

まあともかく川越藩。
弘化4年(1847年)、幕府は「御固四家」体制を敷き、江戸湾防衛を川越藩・彦根藩・会津藩・忍藩の有力4藩に負わせた。川越藩の分担区域は、浦郷から三崎に至る三浦半島一帯とその海上であった(彦根藩は鎌倉七里ヶ浜方面、会津藩は内房、忍藩は外房)。嘉永6年(1853年)のペリー来航の際には、鴨居から大津一帯に川越藩は藩兵を展開、ペリーの上陸した久里浜は川越藩兵500名や彦根藩兵が固めた。第5代藩主の典則はペリーに同行した。嘉永7年(1854年)、ペリーの2度目の来航には、幕府は品川台場を築造し、海防ラインを江戸湾内海に変更、川越藩はその防衛を会津藩・忍藩と共に担い(川越藩は第1台場を担当、会津藩は第2、忍藩は第3)、高輪にも陣屋を構えた。
三浦半島の防衛を引き継ぐ熊本藩の準備が遅れ、川越藩は三浦半島と品川の双方に延べ6万人もの藩兵を配置する負担も生じた。

川越藩は開国をめぐる世情に最も通じていた藩の一つであり、100年にわたり川越藩領の上野国前橋(群馬県前橋市)の主力産品であった生糸は川越藩士速水堅曹、深沢雄象らによって品質向上と増産が図られ、藩の専売品として横浜の港から川越藩御用商人の吉田幸兵衛らによって輸出され、莫大な利益を生んだ。こうして越前松平家の長い念願が叶って慶応3年(1867年)、前橋で城の新築がなり、直克は立藩した前橋藩に還城した。その際に川越藩時代の石高をもって前橋藩を立藩したため、比企郡・高麗郡・埼玉郡周辺の6万2千石の領地が飛び地になることから、比企郡松山(現在の東松山市)に松山陣屋が設置された。松山陣屋は陣屋としては国内最大級の規模であったが、わずか5年で廃藩置県を迎えて終焉した。



血液銀行(輸血用血液)の日本赤十字社の独占業務になったきっかけが「ライシャワー事件」だった。
肝炎感染の直接的原因は事件(刺されたこ)でなく、治療(輸血)にあった。
ライシャワーの妻は松方正義の息子・松方正熊を父に持ち、新井領一郎(旧名:星野良助)の娘・美代を母に持つ。
松方正義は薩摩国(鹿児島県)出身。新井領一郎は上野国(群馬県出身)。
松方正義の子供関連の記事をずっと書いてきたが、子供も多いため松方正義自身についての事柄はすでに忘れていると思うので一部再掲する。

松方家は武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時から始まる。鎌倉時代初期、島津忠久*に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たというから、非常に古い譜代。
松方家は島津家(旧・惟宗家)の家臣として一緒に薩摩にやってきたということになる。
戦国時代の全盛期には島津家が九州のほぼ全土を制圧した。
長崎も16世紀終盤に島津家が支配したわけだが、17世紀に15歳の松方和泉守が主命を受けて長崎へと鉄砲製造の技術を学びに行っている。
以後、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
17世紀から鉄砲製造を監督指導を生業としてきた松方家の当主も19世紀には30代目となっていた。
30代目当主・松方七右衛門、彼には後継ぎの男子がおらず、養子を迎えた。地元の商家の息子の松田正恭である。
1818年に松方家の家督を継ぎ、松方正恭に改めた。
この人が松方正義の父親である。正義は4男だった。
従って松方正義も良くも悪くも松方家との血の繋がりはない。さらに13歳の時に両親を亡くしている。
正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


実は松方家は武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族・河越重頼の四男・河越重時が始祖である。
武蔵という場所と河越という姓から現在の川越が含まれていると考えられる。
しかも松方家は鉄砲製造に携わっていた。
従って『あんたがたどこさ』という手毬歌は松方家に関係があるとの推測も立つ。

仙波山に狸がいるかどうかは分からない。(狸はどこにでもいる?)
タヌキは元々極東にのみ生息する世界的に見れば珍しい動物であり、日本、朝鮮半島、中国、ロシア東部などに分布していた。主に山野に生息しているが、日本に棲むものは都市部でも見られる。
タヌキは人家近くの里山でもたびたび見かけられ、日本では古くから親しまれてきた野生動物である。昔話やことわざにも登場するが、そのわりに、他の動物との識別は、必ずしも明確にはされてこなかった。 タヌキと最も混同されやすい動物はアナグマであり、「タヌキ」「ムジナ(貉)」「マミ(猯)」といった異称のうちのいずれが、タヌキやアナグマ、あるいはアナグマと同じイタチ科のテンやジャコウネコ科のハクビシンのような動物のうちのいずれを指すのかは、地方によっても細かく異なり、注意を要する。
たとえば、関東周辺の農村部には、今もタヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域が多い。山形県の一部には「ホンムジナ」とよぶ地域もあった。栃木県の一部では、「ムジナ」といえばタヌキを指し、逆に「タヌキ」の名がアナグマを指す。タヌキとアナグマを区別せず、一括して「ムジナ」と呼ぶ地域もある。タヌキの背には不明瞭な十字模様があるため、タヌキを「十字ムジナ」ということもある。


群馬でタヌキと言えば、「分福茶釜の茂林寺」である。
館林市の東武伊勢崎線沿いにある。
一帯は茂林寺沼と低地湿原が広がる自然が残されており、現在でも野生のタヌキを見ることができる。
茂林寺(もりんじ)は群馬県館林市堀工町にある曹洞宗の寺院である。山号は青竜山(せいりゅうざん)。本尊は釈迦牟尼仏。
室町時代中期の応永33年(1426年)に大林正通禅師により開山した。
当寺は説話で有名な「分福茶釜」ゆかりの寺として知られる。分福茶釜には、お伽話としての「ぶんぶく茶釜」と伝説としての「分福茶釜伝説」の二通りの説話がある。寺が所蔵する分福茶釜は一般参拝者も見学可能である(拝観は有料)。また「狸コレクション」と称する日本各地の狸にまつわるグッズや狸の剥製が多くが展示されている。境内の至る所に信楽焼の狸が配置されている。

館林は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の四男・徳川綱吉 を家祖とした館林徳川家があった。

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茂林寺から連れてきた狸



日本赤十字社の前身「博愛社」は、1877年西南戦争の時に設立された。
どこに設立されたかというと熊本である。
明治初期、熊本洋学校という革新派の熊本藩士が設立した学校が熊本城内古城(現在の中央区古城;熊本県立第一高等学校がある場所)にあった。
洋学校ということからも分かるように、外国人を招聘しての学校だった。
招かれたのはアメリカの退役軍人リロイ・ジェーンズ。
ジェーンズは月給400円が与えられ、妻子と共に来日した。熊本県は洋学校のために敷地、校舎、寄宿舎、教師館を用意した。
授業は英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物を行い、すべて英語で行った。


ジェーンズは日本語が分からなかったので英語で行うしかなかったのである。
英語を知らない生徒に英語で授業を行っていたが、その教育は大変厳しいもので、見込みがない者は次々と退校を言い渡されたそうだ。
その熊本洋学校は、1871年に設立されて、1876年に閉校。たった5年しか存続しなかった。
これは熊本バンド結成に対する旧守派の反発が一因となったと言われている。
熊本バンドは洋学校の生徒35名が熊本城外花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約した。この契約によって結ばれた人々をバンドと称した。キリスト教(プロテスタント)色の濃いグループである。
閉校にあたって、ジェーンズが生徒の引き受けを依頼した人物が同志社を設立した新島襄だった。
結果、熊本バンドは同志社で学び、その後も新島襄との関係によって群馬県などで牧師をするなど何かと縁がある。

リロイ・ジェーンズ
結婚後にアメリカ・オランダ改革派教会宣教師のグイド・フルベッキの斡旋で来日して、陸軍士官学校とイギリスのラグビー校を目指して熊本洋学校設立に参加し、全教科を一人で教えることとなった。最初の頃キリスト教については言及しなかったが、三年目に、毎週土曜日に自宅で聖書研究会を始めた。ジェーンズの自宅は、ジェーンズを迎えるために明治4年に建てられたもので、熊本県最初の西洋建築であり、県重要文化財に指定されていて、日本赤十字発祥の地と言われている。


新島襄は京都看病婦学校も設立し、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズを指導者として招聘した。
日本の保健師活動は、この学校がキリスト教精神にのっとり慈善事業として実施した巡回看護が元になっているのである。 日本の公衆衛生活動及び保健師の原点はここにある。

転載した上の説明にジェーンズ自宅が「日本赤十字発祥の地と言われている」と書いてあるが、ジェーンズも熊本洋学校も日本赤十字社(博愛社)には直接的には何も関係ない。
前述のとおり、熊本洋学校は1876年に閉校となり、ジェームズ一家は同年10月7日に熊本を去った。
その2週間後の10月24日、熊本で「神風連の乱」が勃発した。
明治政府に対する肥後士族反乱の一つである。
乱を起こしたのは国学・神道を基本とした教育を重視し、明治政府に強い不満を抱いていたグループ・敬神党である。
神道の信仰心が非常に強かったため、周囲からは「神風連」と呼ばれていたそうだ。敬神党の構成員の多くも神職だったという。
三島由紀夫は、晩年、神風連の乱に強い関心を持ち、敬神党の思想に共感していたといわれる。
「神風連の乱」は明治政府への不満を暴発させた一部士族による反乱の最初の事件で、この事件に呼応して秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)が発生し、翌年の西南戦争(熊本・宮崎・大分・鹿児島)に繋がった。(しかし西南戦争は少々怪しい)

熊本洋学校ジェーンズ邸は、西南戦争にて明治政府側の征討大総督であった有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。
この有栖川宮の許可により、旧ジェーンズ邸に博愛社が設立された。
その博愛社が10年後に日本赤十字社となったため発祥の地と言っているのだが、ジェーンズとも熊本洋学校とも関係ない。跡地だったということだけだ。
今回の地震でジェーンズ邸も倒壊してしまったらしい。

ジェーンズはアメリカ帰国後に夫人から不貞を理由に離婚訴訟を起こされた。
夫人の実家は名門一家であり、その実家がジェーンズと激しく対立。
ジェーンズは子供を養育しながら裁判を重ね、財産も心身もともに消耗してしまう。
熊本洋学校の教え子の斡旋で何年か日本の教壇に立ったが、アメリカに帰国した晩年はやはり不遇で、教え子の私信だけを楽しみにしていたという(涙)。









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by yumimi61 | 2016-04-19 12:11
2016年 04月 18日
日本国憲法の秘密-226-
エドウィン・O・ライシャワーが松方正熊と美代(新井領一郎の娘)の間に生まれた春子を後妻に迎えたのが1956年。
ライシャワーが駐日アメリカ大使だった期間は1961~1966年。
ライシャワーを駐日大使に任命したのは、就任まもないケネディ大統領だった。
そのケネディ大統領は、1963年11月22日(アメリカ時間、いい夫婦の日)に凶弾に倒れる。
まるで日米間のテレビ衛星中継(当時は宇宙中継と呼んでいた)開始に合わせるようにケネディ大統領は暗殺された。
11月23日早朝、世界の放送史上画期的な実験、太平洋を越えたテレビの宇宙中継が行われた。午前5時28分、モニターテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が鮮やかに映し出された。ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報。中継のアナウンサーは「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念」とリポートし、衝撃は全国に広がった。<NHKアーカイブスより>
そして今、ケネディ大統領の娘さんが駐日アメリカ大使である。


日本は1954年に、1960年の夏季オリンピック開催地に立候補したが、1955年のIOC総会の投票でローマに敗れた。
次いで1964年の夏季大会開催地にも立候補。
1959年のIOC総会にて、デトロイト(アメリカ)、ウィーン(オーストリア)、ブリュッセル(ベルギー)を抑えて開催地に決定した。
一度敗れて次に当選するというのは、2016年大会に敗れて2020年大会に決定した今回とパターンが同じである。
オリンピックの「都市開催」というのは何かと不公平不平等なので、正々堂々「国家主催」にすればよいと思うが、これまでの32夏季大会の中で複数回開催している都市がある。
 ・ロンドン(イギリス) 3回(1908年、1948年、2012年) 
 ・パリ(フランス) 2回(1900年、1924年) 
 ・ロサンゼルス(アメリカ) 2回(1932年、1984年)
 ・アテネ(ギリシア王国→ギリシア) 2回(1896年、2004年)
 ・東京(日本) 2回(1964年、2020年)
このうち、他の都市でも開催があるのはアメリカのみ。
イギリス、フランス、ギリシア、日本は他の都市での開催は無し。
違う都市で開催したことがあるのはアメリカとドイツのみである。

国旗のようなポスターが評判の良い1964年東京オリンピックのは開会式は10月10日だった。
この日が「体育の日」として祭日になったわけだが、2000年からは日にち関係なく土日にくっつけて10月の第2月曜日となっている。
開会宣言は昭和天皇、組織委員会会長は安川第五郎、準備委員長は新田純興。

安川第五郎
安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。
安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれる。1906年(明治39年)、福岡県立中学修猷館を卒業。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館において柔道を学んでいる。その後、第一高等学校を経て、1912年7月、東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年間勤務する。

1915年に兄とともに安川電機を創設し、1949年に会長就任。1955年には日銀政策委員にも就任した。


新田純興
日本の元サッカー選手、サッカー指導者。北海道出身。
裁判官の父・純孝の任地である函館で生まれる。幼名は稜威丸(みいつまる)。新田家は新田義貞の流れを組む新田岩松家の末裔で、御家人・岩松秀純の庶子の系統(清水氏)。町人であったが純興の曽祖父の代に御家人株を獲得し、祖父・純畸が新田と称したと伝える(新田純弘「埋み火はまた燃える 新田一族銘々伝」)。
1910年(明治43年)に卒業した東京高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)の6年次にサッカーを始め、1915年に卒業した東京高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第一高等学校、東京帝国大学でプレーを続けた。東大時代には大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)創設や第1回全国優勝大会(現天皇杯全日本サッカー選手権大会)の開催に尽力した。
卒業後に三菱鉱業(現三菱マテリアル)に入社。佐渡鉱山に赴任した為にJFAの活動からは離れるが、1935年に東京に戻るとJFA理事に就任。ベルリン・オリンピックへの選手派遣費募金活動に尽力した。この際に田辺治太郎と共に多額の寄付を行った。
1962年からはJFA常務理事に就任。



・東京オリンピック招致の成功は、開催に先駆けて1964年4月28日に経済協力開発機構 (OECD) への加盟が認められる大きな背景となった。OECD加盟は原加盟国のトルコに次いでアジアで2番目、同機構の原型となったマーシャル・プランに無関係の国としては初めてで、戦前は「五大国」の一国であった日本が敗戦を乗り越えて再び先進国として復活した証明の一つともなった。

・東京オリンピック開催を契機に競技施設や日本国内の交通網の整備に多額の建設投資が行なわれ、競技や施設を見る旅行需要が喚起され、カラー放送を見るためのテレビ購入の飛躍的増加などの消費も増えたため、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。テレビ購入者が増えたため「テレビ番組」の視聴者も多くなった。その為、娯楽性の高い「バラエティ番組」が増えたといわれる。

・特に開催地の東京では、開催に向けて競技施設のみならず地下鉄やモノレール、ホテル、首都高速道路など様々なインフラストラクチャーの整備が行なわれ、都市間交通機関の中核として東京(首都圏)から名古屋(中京圏)を経由して大阪(京阪神)に至る三大都市圏を結ぶ東海道新幹線も開会式9日前の10月1日に開業した。これらの殆どは現在に至るまで改良を重ねながら利用されている。

・東京オリンピックは、ベルリンオリンピックで初お目見えしたオリンピックのテレビ中継技術が格段に向上したことを印象づける大会となった。衛星放送技術を始め、カラー写真・小型のコンパクトカメラの開発などもその特徴である。
東京オリンピックの衛星中継は、現地の映像をシンコム3号で日本からアメリカへ送信し、さらにアメリカが受信した映像をリレー1号でヨーロッパへ送信するという方式で行われた。また当時初めてスローモーションの画像を使い、競技での微妙な結果をその場で確認でき、その後のスポーツ中継で欠かせない放送技術になった。


1964年東京オリンピックの前年、衛星放送の実験放送の最中、ケネディ大統領は暗殺された。
長く続くラインのどこか途中で寸断すれば、日本経済に「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらしたというようなことも言えるかもしれないが、そこで何もかもが終了するわけではない。
日本では、戦後混乱期の1947年(昭和22年)には国債発行額が税収を上回り、それが戦後インフレの原因になったという反省から財政法が制定され、赤字国債の発行と日銀の赤字国債引き受けを禁止して、均衡財政主義を取ることとなった。しかし1965年(昭和40年)補正予算で赤字国債(2590億円)の発行が再開され、翌1966年(昭和41年)度予算では7300億円の建設国債が予定された。
戦後初の国債発行はオリンピックの翌年に行われた。どっと沸いたものは急速に落ち込むのが世の常。
好景気の後には不景気があるのが当たり前だし、好景気の中に景気悪い人がいることも、不景気の中にあっても景気の良い人がいることも、ある意味当然である。
光があれば影がある。光が多く強いところでは影も色濃く強い。
太陽は出たり入ったりを繰り返し、この世界に昼と夜を作り出す。
それが私達地球人が享受している定めである。よって光と影があるということはバランスが取れているということでもあるのだ。
ただもしも、この地球が、昼が続く国と夜だけ続く国とに分かれてバランスを取っていたならどうだろうか。
人間はおそらく昼が続く国に移動するだろう。人口は集中し様々な問題を生じる。
そこで半ば強制的に夜の国に住まわせる。
この時、夜の国に住まわせるのが声の大きい人だと不公平だなんだと騒ぎだして煩いので、大人しく聞き分けのよい我慢強い人間を住まわせるほうが良い。
影の部分に良識人を回した方が世界は上手くいくのだ。

巨額な借金があるのに、破綻することも破綻の危機が伝えられることもなく、何時なんどきも「比較的安全な円」などと言われる日本は、バランスが取れているからに他ならない。
借金と吊り合うだけのお金を作って出しているから、いくら借金の額が嵩んでも破綻しない。
バランスシートでバランスが取れなくても現実でバランスが取れているのだ。
打ち出の小槌を持っているというわけ。それを埋蔵金と呼ぶ人もいるかもしれない。
逆を言えば、だから借金が減らないし、本気で減らす気もない。何とかなってしまうからだ。

東京オリンピックの半年ほど前、ライシャワー大使は大使館前で精神分裂病(統合失調症)患者だったという19歳の若者に太腿をナイフで刺された。
この時に輸血を受けて、輸血が原因の肝炎に罹患したという。
これがきっかけになり売血問題がクローズアップされ、その後日本において輸血用血液は献血により調達されることになる。この事件は「ライシャワー事件」と呼ばれ、精神衛生法改正や輸血用血液の売血廃止など、日本の医療制度に大きな影響を与えた。
ライシャワー大使は3ヶ月の入院を経て回復し退院し(その後ハワイ州ホノルルの病院に再入院した)一時は辞任を考えたものの、「今退任し帰国すれば日本人は事件の責任を感じてしまうだろう」と考え留任することを決め、その後も駐日大使として活躍した。
(が、1966年に自ら辞任してアメリカに帰国した)

この一件については以前にも書いている。

血液銀行(輸血用血液)が日本赤十字社の独占業務になったきっかけが「ライシャワー事件」だったということである。
今なお日本の血液は日本赤十字社が牛耳っている。(その日本赤十字は皇室との関係が深い)

こちらに書いたが、第五福竜丸が被曝した1954年時点で、アメリカは輸血が肝炎の感染経路になっていることを知っていたのである。
当然のことながら日本も知っていたはずである。
上記のライシャワー事件を追いかけた医学生のレポートにおいても、輸血後8割の人に肝機能障害が認められ、輸血により肝炎が引き起こされていることは明白であったと書かれている。
第五福竜丸の事件から10年経った1964年には現場の医師達もそのことを知っていた。
輸血をすれば高確率で肝炎に感染することは分かっていた。

なのにどうしてその血液を使ったのか。
大使館職員でもいいし、日本の政治家でも、医師でも医学生でも看護師でもいい。
感染している恐れの低い非血縁者から血液を供血してもらえば良かったのにと思う。(そんな人いないから?)
当時の状況ではそちらのほうが賢明なはずである。

それに、特別な血液は少しも用意されていなかったんだろうかとも思う。
松竹梅ならば松の血液。
特上、上、並みなら特上。
もっと厳選するならばVIP専用。
つまり安全であることが保障された血液である。
だって皇族や総理大臣、大企業の社長様だって事故や病気で急に血液が必要なことはあるのだから、特別な血液を持っていたのではないかと思うわけで。
「駐日アメリカ大使くらいでは出せませんよ」ということなんだろうか?

それともまさか生贄?演技派たちの大博打?

私はそこからさらに数年経た後の輸血によりC型肝炎のキャリアとなった。

(しかしそれを明確に知らされたのは次男妊娠時の1996年のことである。それまではキャリアという認識がなく高校生や大学生の時には献血もしていた)
国も医師も輸血で肝炎に感染するという事実を知っていながら、何故これだけ長期に亘って放置し続けたのか。
過去記事より>


松竹梅の松と梅が逆になることはあっても、松方と梅田は置き換えられないはずだ。
ライシャワー大使の妻の父親は松方正義の息子で、母親は新井領一郎の娘。
血族者からの輸血は避けるべきものだが、血族でなくても多方面に華麗な縁戚関係を持つ家系の妻を娶ったのだから、血を選べたのではないかと思う。
また縁戚関係に拘らなくとも政界と財界に強い力を持つ人達と近い関係にあり、しかも輸血を必要としている人が駐日アメリカ大使とくれば、松や特上やVIP専用の血が供されてもよかったのではないかと思うのだ。
輸血による肝炎を知っていたのに、そんなに簡単に肝炎に感染させてしまうというのはちょっと信じ難い。




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by yumimi61 | 2016-04-18 12:51
2016年 04月 17日
日本国憲法の秘密-225-

なぜ星野の話が出てきたのか忘れかけているかもしれないが、松方正義の九男・正熊の妻が群馬出身の生糸貿易商・新井領一郎*の長女・美代だったからである。
新井領一郎(星野良助)は、群馬県勢多郡水沼村(桐生市黒保根町水沼)にて富農・星野彌平の子として1855年に生まれた。
新井領一郎は1866年に隣村の生糸問屋・新井系作の養子となった。
兄の星野長太郎は水沼製糸所設立者で衆議院議員でもあった。
兄弟は日米貿易の創始者として活躍した。

桐生市黒保根町は1889(明治22)年~2005年まで勢多郡黒保根村だった。2005年に桐生市に合併された。
黒保根村は下記地図の青ラインの箇所。(下記地図は平成の大合併前の市町村区分け)
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黒保根村とその南側にある新里村が桐生市に編入され、旧桐生市と黒保根村・新里村の間にある東村(あずまむら)・大間々町・笠懸町が合併し「みどり市」になった。
桐生市は飛び地になってしまったのだ。
分裂し飛び地になってしまった原因は競艇場(桐生競艇)と言われている。
桐生競艇の所在は笠懸町だが、2003年までは桐生市がメイン施行者であった。しかし桐生市は撤退。閉鎖も検討されたがサブ施行者だった笠懸側が桐生市分を引き継いで存続が決まった。
その後の市町村合併話では競艇をどうするかで折り合いが付かなかった。

●笹川良一(日本船舶振興会の会長だった)で桐生と言えば競艇である。桐生競艇。
近年はずっと競艇場は赤字運営が続いていており桐生市は撤退。しかし未だ「桐生」を名乗っている。
平成の大合併の折には、競艇事業を引き継ぐか否かが焦点になった。
桐生市主導の合併は「競艇事業を引き継がない」で、新田郡笠懸町主導の合併は「競艇事業を引き継ぐ」であった。
これで周辺町村は分裂し、飛び地合併で「桐生市」と「みどり市」になった。
それならばと思ったのかしれないが、「桐生市」と「太田市」の合併話もあった。
しかしこれも競艇事業問題がネックとなって実現しなかった。(ということはやはり太田市は競艇場閉鎖反対派ということか)

過去記事より>

黒保根村の中心地が水沼であった。
養蚕業で栄えた他、銅山街道が通じており足尾銅山から銅の積み出しが行われ賑わった。
現在はわたらせ渓谷鉄道が桐生から足尾を繋いでいる。水沼駅はホーム内に温泉施設があることで有名。
頸髄を損傷し、その後に口で詩や絵を描くようになり作品を発表している星野富弘さんは勢多郡東村(現:みどり市)の出身。
1991年に同村に村立富弘美術館を開館したが、最寄駅はわたらせ渓谷鉄道の神戸駅。
星野富弘さんはその後、新里村(現:桐生市新里町)に転居している。
2006年には熊本県葦北郡芦北町に町立星野富弘美術館が開館した。
第79回(2012年)Nコンの高等学校の部の課題曲『明日(あした)へ続く道』『もう一度』の作詞もされたそう。
(余談)鈴蘭って見た目は可愛くて儚げな花だけれど、地下茎でどんどん繁殖してそこに根強く居ついてしまうんです。他の植物を駆逐する勢いで。しかも毒性もかなり強い。


黒保根の星野家は生糸商人になる前は鍛冶屋だった。
祖先の兄弟の兄が黒保根に住み着き、弟は沼田に住んで、ともに鍛冶屋をしていた。

新井領一郎の妻は牛場卓蔵の娘。ミッションスクールの東洋英和女学校で教育を受け、ニューヨーク在住の新井領一郎と結婚した。
牛場卓蔵
伊勢国安濃郡渋見村(後の安東村、現三重県津市)の井草家に生まれる。伊勢国一志郡(後の七栗村、現三重県津市)の牛場圭次郎の養子となる。慶應義塾に学び、島田三郎らと共に陸奥宗光の家に寄食する。
衆議院議員、山陽鉄道取締役会長などを務めた。


新井領一郎の息子・米男
ハーバード大学を卒業し、東京海上火災保険会社(現東京海上日動火災保険)アメリカ支社総支配人、ジャパン・ソサエティ副会長を歴任し、第二次世界大戦後はニューヨーク山一證券会社取締役会長を務めた。

新井領一郎の娘・美代
松方正義の九男・正熊に嫁ぐ。

松方正熊と美代には6人の子供(1男5女)がいる。
 ・春子(1915年生まれ)―駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワー(1910年生まれ)*の妻(ハル・松方・ライシャワー)となる。

*エドウィン・O・ライシャワー
父親は宣教師で、エドウィンは日本で生まれ育った。
1927年17歳の時にアメリカに帰り、オバーリン大学を卒業し、ハーバード大学の大学院に進学する。
その後ヨーロッパに留学し、1935年25歳の時に再び来日。
東京帝国大学文学部の初の外国人特別研究生となり、同年にパリ大学の学生だったアドリエンと東京で結婚した。
日中戦争最中の1937年に北京に行き燕京大学で中国語を学びアメリカへ帰国。
そしていよいよ第二次世界大戦(太平洋戦争)。
1941年12月、日本がパールハーバーを攻撃し宣戦布告、アメリカと日本の開戦。
ライシャワーはアメリカ陸軍通信隊の依頼で日本語の翻訳と暗号解読のための学校を設立。さらに参謀部情報に入隊し、日本軍の暗号解読や心理戦などの対日情報戦に従事した。
終戦後はハーバード大学に戻り、極東学会の副会長・会長を歴任。
1955年、妻のアドリエンが急逝。
翌1956年に松方春子と結婚した(ハル41歳、エドウィン46歳)。この年にハーバード燕京研究所所長となった。
駐日アメリカ大使だった期間は1961~1966年。

大使を自ら辞任して帰国、ハーバード大学教授に帰任した。極東問題の専門家として非公式に大いに助言した。
佐藤栄作のノーベル平和賞受賞(1974年)に際しては、佐藤の受賞の推薦文を記述した。
1973年から定年退職の1980年までハーバード大学日本研究所所長を務めた。
 
パールハーバーを奇襲攻撃したわりには、すでに何年も前から着々と準備していたような気がするのは私の気のせいでしょうか?

1987年、アメリカを公式訪問した皇太子明仁親王・同妃美智子(現天皇皇后両陛下)がライシャワー邸に滞在している。
ライシャワーを駐日大使に任命したのは、就任まもないケネディ大統領だった。
そのケネディ大統領は、1963年11月22日(アメリカ時間、いい夫婦の日)に凶弾に倒れる。
まるで日米間のテレビ衛星中継(当時は宇宙中継と呼んでいた)開始に合わせるようにケネディ大統領は暗殺された。
11月23日早朝、世界の放送史上画期的な実験、太平洋を越えたテレビの宇宙中継が行われた。午前5時28分、モニターテレビに史上初めて太平洋を越えてきた映像が鮮やかに映し出された。ところが、この歴史的な電波に乗って送られてきたのは、ケネディ大統領暗殺の悲報。中継のアナウンサーは「この電波でこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのは誠に残念」とリポートし、衝撃は全国に広がった。NHKアーカイブスより>
そして今、ケネディ大統領の娘さんが駐日アメリカ大使である。




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by yumimi61 | 2016-04-17 13:40
2016年 04月 16日
日本国憲法の秘密-224-
尾瀬の群馬県側は私有地であったので、そこを利根発電(東京電力前身の一企業)が取得したということだが、では利根発電が取得する前はいったい誰の所有地だったのだろうか?

江戸時代に私有地はなかったはずなので、幕末混乱期から明治時代に、誰かが私有地にしてしまったと考えられる。
誰かと言っても誰にでもそれが許されるわけもなく、明治時代の有力者や権力者か、お金によって許可された者であると思う。
幕末から明治にかけて巨利を得た人がいるが、利益は主に紙幣と土地に関係している。
マネーロンダリングと土地転がし。

尾瀬の群馬県側は片品村である。片品村に多い姓は星野。
「原爆に星野が関係している」という話の、星野を片品村や尾瀬に置き換えてみたらどうだろうか。
それをもっと絞り込むならば、所有者ということにならないだろうか。


また少し話が脱線するが、昨日の記事で熊本に触れたので今日もあることに注目してみたい。

阿蘇山(あそさん)と四阿山(あずまやさん)である。

阿蘇山
九州中部の熊本阿蘇地方に位置する世界最大級の大きさを誇るカルデラ(東西約17km、南北約25km、面積約350k㎡)の中に今も噴煙を上げ続けている中岳を始めとする中央火口丘群(主に阿蘇五岳など)が存在します。 その中央火口丘群のことを”阿蘇山”と呼んでいます。阿蘇五岳は高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳、根子岳のことで、阿蘇山という単体の山はありません。阿蘇山火山防災連絡事務所 阿蘇山について より>

四阿山
長野県と群馬県の県境に跨る山。標高2,354m。日本百名山の一つに数えられている。吾妻山・吾嬬山(あがつまやま)などとも呼ばれ、群馬県側の嬬恋村(つまごいむら)(嬬恋は妻恋とも書いた)では吾妻山が用いられている。

約80万年前から30万年前に活動した安山岩質溶岩による成層火山で、34万年前の噴火により直径約3kmのカルデラが形成された。その後の侵蝕により現在の複数峰による「四阿火山」の形態となる。四阿火山とは周辺の根子岳(2,207m)、四阿山、浦倉山(2,091m)、奇妙山の総称。志賀高原から続く火山帯に属する。山頂域には環状の崩壊地形が存在する。

四阿山の南山腹には複輝石安山岩の大岩脈があり、六角柱状の俵を積み上げたような奇観を呈し、四阿山の的岩として国の天然記念物に指定されている。
この山の南西(長野県)側にスポーツ等の合宿で名高い菅平高原が広がり、長野県側及び群馬県側にはスキー場がある。また、この山の北に日本の滝百選の一つである米子大瀑布がある。


阿蘇五岳と四阿火山に共通する山名がある。根子岳である。


群馬県嬬恋村と長野県上田市を結ぶ国道は144号線である。
群馬県北西部の長野原町から西へ向かい、長野県との県境にある鳥居峠(標高1,362m)を越え、長野県上田市内を走る国道18号まで東西に結ぶ延長約44kmの路線。群馬県側は別名「長野街道」ともよばれる。起点は、JR羽根尾駅前にある羽根尾交差点で、ここは本路線と国道145号、国道146号が交わる全国町村の中でも珍しい国道連番3路線の起点となっており、木造で「国道三起点」と書かれた立派なモニュメント(案内塔)が建てられている。

144号線は鳥居峠を越えると長野県上田市に入るのだが、かつてそこは上田市ではなく真田町であった。2006年に上田市に合併した。
(歴史)
1876年(明治9年)5月 - 真田村・横尾村・横沢村・大日向村が合併して長村となる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、長村が単独で自治体を形成。
1958年(昭和33年)10月1日 - 傍陽村・本原村と合併して真田町が発足。同日長村廃止。
町名は公募により決まったが、町名の由来は旧長村地区に「真田」という大字名があるためとする説と、戦国大名真田氏発祥の地であるためとする説が有力。




現在では四阿山から湯の丸山までの群馬県境に近い一帯が真田町長(さなだおさ)という大字名になっている。―上田市真田町長
現在の菅平高原と真田町長がかつての長村にあたる。

上の地図の144号線の真田という交差点をピンクでマークした。
その北側に樺沢という信号があり、真田と樺沢の間に樺沢発電所がある。
先日、「樺山と見たら鹿児島」と思えと書いたが、樺沢が多いのは群馬県である。

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樺沢という姓を調べてみると次のようにある。
現新潟県である越後国が発祥。群馬県前橋市富士見町、岩手県和賀郡西和賀町に地名がある。群馬県、新潟県、埼玉県、東京都に多数みられる。カバは紅葉をあらわすとされる。
多数みられると言っても全国で3800名程度しかいない。
うち1100人が群馬県。新潟県でおよそ690人、東京都で450人、埼玉県で440人程度。長野県には20人ほどしかいない。群馬県に集中している。
やはり群馬に集中している星野姓は群馬県内では9番目に多い姓だったが、樺沢は群馬でも333位である。これで全国一。
二番目の新潟は545番目に多い姓。次に続く埼玉は1816番目。
さらに群馬の中でも偏っていて、圧倒的に多いのは旧勢多郡富士見村。群馬1100人の半分近くを占める。
次が前橋市。
富士見村は2009年5月5日に前橋市に合併したので、現在は前橋市が半分以上を占めているということになる。次が渋川市、高崎市。
富士見村の石井というところに樺沢という地名があった。富士見は赤城山の南面にある。
新潟では南魚沼市に樺野沢という地名があり、かつてそこに樺沢城があった。上越国際スキー場の近くである。


上田市の樺沢からほぼ東に真っ直ぐで富士見町。
新潟の樺野沢を含めるとトライアングル三角形となる。


三重県宇治山田町宮後(現・伊勢市)に生まれ、群馬県沼田市の商家(薬舗)・生方家に嫁いだ歌人・生方たつゑの夫は生方家29代目の生方誠。初代国家公安委員や沼田市長を歴任した。
生方誠の伯父に文筆家の生方敏郎がいる。
生方敏郎の母親は星野宗七の妹で、生方家に嫁いだ。
上野国沼田藩の戸鹿野村の名主の星野宗七は、幕末の1868年に横浜の外国人居留地の近くの堺町に星野屋という店を構えて、蚕種紙生糸の商売を始めた。1860年に次男、光多が生まれた。
生方敏郎と星野光多は従兄弟。

星野光多
光多は横浜で外国人と商売をするめに英語が必要になり、アメリカ・オランダ改革教会宣教師、J・H・バラのバラ塾に通うことになった。
光多は1874年(明治4年)12月、15歳で横浜公会でバラから洗礼を受けて、教会員になった。
牧師、フェリス女学院元教頭。

【星野光多の家族】
・兄(銀治)―星野製糸所設立、県会議員、沼田貯蓄銀行創設。
・弟(又吉)―牧師
・妹(幸)―フェリス和英女学校卒業後母校の教師となる。東奥義塾から青山学院大と北大の教授になった高杉栄次郎に嫁ぎ、弘前女学校(現:弘前学院聖愛高等学校)の教頭になる。子の英雄は弘前学院元校長、あいは米国留学後、津田塾大学初代学長となる。
・妻(長谷川みね)―妹・幸の学友。フェリスの教員
・長男(直樹)―大蔵官僚、満州国にて国務院総務長官(「弐キ参スケ」の一角)、企画院総裁、内閣書記官長を歴任。終戦後にA級戦犯となり終身禁固刑を受けるも釈放され、その後は旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任した。
・次男(茂樹)―東大卒業後国鉄入社、鉄道トンネル技師。
・三男(芳樹)―静岡新聞記者、共産党員、参議院議員、スワヒリ語学校経営。

生方たつゑは『真田窓のある家』(角川書店、1983年7月)というタイトルの本を執筆した。
真田窓とは何か?
※注・表高3万石に対し、14万4千石を打ち出しただけでなく、城下の町屋の窓にまで税金を課し、その結果、重税を逃れるため、高い塀の上部に最小限の窓を取り付ける工法“真田窓”が出現嗚呼 沼田城!!嗚呼 無城!!より>
真田信直が1662年に沼田領の検地を実施し、実高3万石の所領だったにも関わらず14万4000石と幕府に過大申告した。
本来は農地に税は掛けられるので、税は農地に比例し見合った分を納めることになるが、農地を大きく申告したので納めるべき税も増大した。
税は幕府へ納めるものの他に藩主(領主)が懐に入れる分があったと思われる。
領民は農地以上の税金を請け負わなければならなくなった。つまり真田は農地以外からも税金を取ったということなのだ。このため領民は増税に苦しめられた。

なぜここで真田窓を持ち出したかと言うと、連子窓が気になっているからである。







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by yumimi61 | 2016-04-16 13:36