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2016年 05月 31日
日本国憲法の秘密-251-
不自然?どういうこと?
だからハイビーム?

地図見たら思いだした。
うちの長男が中学生の時に脚を骨折して救急車で搬送してもらったことがあったけれど、その時の病院が北関東自動車道の太田桐生IC近くの太田福島総合病院だった。
その後、病院名が変わったようで今はイムス太田中央総合病院になっている。



中島飛行機の初期に投資していた(1918-1919年)が創業者の中島知久平と経営面で意見相違に直面し、最後は手を引くしかなくなった川西清兵衛(川西一族、川西財閥)。
川西はその後も飛行機に関わっている。

1920年、中島の技術者を引き抜く形で、「川西機械製作所」(神戸市兵庫区)を設立し飛行機部を設置した。
1928年に飛行機部が「川西航空機株式会社」として独立した。当時の社長は、川西が中島に投資していた時代に太田の中島飛行機に実際に送り込まれていた川西龍三(清兵衛の次男・慶應義塾理財科卒)。

1930年(昭和5年)に工場を武庫郡鳴尾村(現西宮市)に移転。軍用機開発を通じ、海軍と密接な関係となる。1938年(昭和13年)に海軍管理工場となる。
また戦闘機の分野にも進出し、水上戦闘機の強風、陸上戦闘機の紫電を開発。1942年(昭和17年)7月、兵庫県加西郡九会村・下里村(現加西市)に姫路海軍航空隊鶉野飛行場に隣接して川西航空機姫路製作所鶉野工場を設立するため、同系列の日本毛織の工場が譲渡された。
1943年(昭和18年)には鳴尾製作所に隣接した鳴尾競馬場及び鳴尾ゴルフ倶楽部の土地も接収され、鳴尾飛行場(帝国海軍所有)及び川西飛行機の生産用地として使用された。鳴尾村近辺は軍需村となり、国民徴用令で従業員は6万人を超えた。軍の要請で従業員および資材輸送のために鉄道も建設され(阪神国道線及び国鉄東海道本線へ接続)、現在の阪神武庫川線となった。


1944年(昭和19年)8月、鶉野の組立工場が完成する。この工場の主力生産品として、ようやくまともな戦闘機となった紫電の改良版である紫電改が開発された。海軍航空技術廠(空技廠)での雷電との比較試験の結果から、海軍は紫電改を零式艦上戦闘機の事実上の後継機として認定し、大量生産を行うべく目論んだ。ただし航続距離の短さからベテランパイロットには不評であったという。もっとも紫電改は元々迎撃機(海軍で言う局地戦闘機)であり、制空戦闘機としては設計されていない。その上、既に大東亜戦争の戦局は絶望的状況になっていて、生産も空襲などで頓挫し、敗戦までの生産数は紫電446機、紫電改44機と少数にとどまった。

川西は鳴尾以外にも甲南製作所(現神戸市東灘区)、宝塚製作所(宝塚市)、姫路製作所(姫路市)があったが、それぞれが鶉野工場の様な疎開工場を持っていた。鳴尾製作所は福知山(石原飛行場、正明寺地下工場)、逆瀬川、甲陽園、関西学院、武庫川など、甲南製作所は盾津飛行場(松下航空機、現東大阪市盾津)、梅田(阪急電車)、山芦屋、苦楽園に、宝塚製作所は北条、篠山、三田、甲子園、仁川、逆瀬川など、姫路製作所は鶉野以外にも北条、龍野などにそれぞれ疎開工場を操業していた。
このうち、松下飛行機会社は松下電器産業(現・パナソニック)が海軍の要請で飛行機の製造を目指して設立した会社だが、同時に川西の下請けも行った。松下飛行機の設立には、松下創業者の松下幸之助や後の三洋電機創業者・井植歳男らが絡んでいる。



戦争は開発争いの側面を持つ。戦時中にも飛行機の開発は進んでいた。

後継機の開発が順調に進んだ陸軍に比べ、海軍は後継機の開発がうまくいかず、零戦は終戦まで主力機として使用され、性能でも当初高性能を誇った零式艦上戦闘機(零戦、海軍の主力艦上戦闘機)もアメリカやイギリスの新鋭機に敵わなくなった。

前に述べたように零戦は三菱(設計者:堀越二郎ら)が開発した戦闘機であるが、中島飛行機もライセンス生産しており、総生産数の半分以上は中島製である。
またエンジンは中島飛行機が開発製造した「栄」を搭載していた。

零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機(J2M1。後の雷電)の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機(艦上戦闘機ではない)として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化(後の紫電一一型、紫電二一型(紫電改))を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期の戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。


陸軍の代表的な戦闘機は「隼」や「疾風」。
陸軍戦闘機の開発。
九七式戦闘機(キ27)→一式戦闘機「隼」(キ43)→二式戦闘機「鍾馗」(キ44)→ 四式戦闘機「疾風」(キ84)
上記は全て中島飛行機が開発製造。

1944年4月、キ44「鍾馗」をテーマにした軍歌『鐘馗呑龍新司偵』(作詞:時雨音羽、作曲:細川潤一、歌唱:鬼俊英歌)が発売された。

広島市は陸軍の軍都であり陸軍施設が多くあった場所である。(広島市からは若干離れた呉市は海軍基地があった)


まず、ウソはいけない。京都は爆撃されたのだ。昭和20年の1月16日、東山区などが被害を受けている。その後も爆撃は続き、合計で20回を超える空襲により、死者302人、負傷者561人が記録されている。無論、文化財も被害を受けた。

 それでも、東京や大阪に比べれば被害は少なかったと言える。そこで生まれたのが、怪しげな「米国は文明国であり、京都には日本の文化財がたくさん残っているので、それを惜しんだ」というような解説である。そういえば、東京裁判の原告も「文明」であった。連合国は、よほど文明という言葉がお好きなようだ。

しかし、この分厚い『資料 マンハッタン計画』に目を通しても、文化財の保護などというレベルの話題は出てこない。第一、普通の米国人は、日本の文化財に興味など示さない。「日本人は米国の文化に興味を持っているから、米国人も日本の文化に興味を持っているはずだ」というのは、人のいい日本人の思い込みに過ぎない。彼らの関心は、主に自国と欧州(ロシア含む)なのだ。日本に関心を寄せる米国人は、ごく少数派にすぎない。

『資料 マンハッタン計画』にある同日付けの資料135「軍事政策委員会政策会議」には、「最初の爆弾の投下地点について意見が交わされたが、最適の投下地点はトラック港に集結している日本艦隊であろうというのが大方の意見のようであった。スタイアー将軍が東京を挙げた。 <中略> 日本人が選ばれたのは、彼らが、ドイツ人と比較して、この爆弾から知識を得る公算は少ないと見られるからである」と記録されている。


日本人ならば、この爆弾がどんな性質を持つのか何も分からないだろう、ばれないだろう、と見くびられたということだろう。

 「京都―この目標は、人口100万を有する都市工業地域である。それは、日本のかつての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある」
 要するに、原爆を投下されても、それが、たとえば“天変地異”とか“小惑星の衝突”などと思われてはいけないのである。ちゃんと米軍による新型爆弾であると認識するだけの知的レベルがなくては困るというのだ。


新型爆弾と認識しないと困る。
しかし爆弾と認識するだけならば必ずしも高い知的レベルは必要ない。
情報操作しやすさがあれば十分である。

 広島については、次のように分析している。
 「広島―ここは、陸軍の重要補給基地であり、また、都市工業地域の中心に位置する物資積み出し港である。広島はレーダーの格好の目標であり、広い範囲にわたって損害を与えることのできる程度の広さの都市である。隣接して丘陵地があり、それが、爆風被害をかなり大きくする集束作用を生むであろう。川があるので、焼夷弾の目標としては適当ではない」

さらに駄目押しが続く。「京都は、住民の知的レベルが高く、したがって、この兵器の意義を正しく認識する能力が比較的に高いという利点がある。広島は、広域にわたって破壊しうる規模の広さをもち、付近に丘陵地があるため、[爆風の]集束作用が得られる可能性があるという利点をもっている」。  

<http://www.chukai.ne.jp/‾masago/genbaku.html より>







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by yumimi61 | 2016-05-31 11:33
2016年 05月 25日
日本国憲法の秘密-250-
飛行機研究所(中島飛行機)を設立した時に集まった人々について一筆しておく必要がある。重要人物は栗原甚吾と佐久間一郎である。
栗原は東北帝大工学専門部機械科出身で横須賀工廠造機部の工手(工場長と職工の中間になる役付)で、造兵部飛行機工場の工場長中島知久平に極めて近い地位にあった。
栗原は中島知久平より、製図のできる4名を探して欲しいと依頼されて、当時横須賀工廠の発動機製図で最も将来を嘱望されていた、若手の佐久間一郎を口説き落した。 


横須賀工廠は海軍の軍需工場。

佐久間一郎は後日中島エンジン部門の大親分となり、戦後も元従業員に慕われて、親睦会“武荻会”の会長であった人であるので少し書いておきたい。
佐久間一郎は1908年(明41)11月横須賀海軍工廠造機部に見習工として入廠した。小学校高等科を卒業した翌年で15才であった。親子3代工廠勤めである。
一郎は工廠に勤めて3年目、18才の春で、豊島実業補学校を卒業し、さらに別科へ通っていた時のことである。
鈴木組長は、すでに勉強家として認められていた佐久間一郎に目を付けて、ガソリンエンジン修理を伍長を飛び越えて、一郎に直接命じた。
18才の佐久間一郎は、ガソリンエンジンを動かした男として一躍有名になり、エンジンに詳しい男となった。こうして一郎は飛行機の発動機を手掛けることになった。このことがその後の一郎の人生を決定することになる。
工手栗原は佐久間一郎というエンジンに詳しい青年を発見したのである。
こうして、中島飛行機の創立に重要役割をはたす、中島知久平・栗原甚吾・佐久間一郎は出会ったのである。


◎東京大学航空学科第1回卒業生 吉田孝雄 中島飛行機に入社
東京帝大に航空研究所が設立されたのは1918年(大7)4月、工学部に航空学科が設立されたのは1920年(大9)4月(第1回生卒業は1924年(大13)3月)であった。この第1回卒業生の中に吉田孝雄がいた。
1924年(大13)の暮、佐久間一郎は発動機工場として建設中の東京工場行きの口頭辞令を受けた。製図工場長であった地位を、この春卒業したばかりの吉田孝雄に譲った。
製図工場長は材料部品の計画からコストの算出まで受持った。製図工場長の指示は製作現場にまで及び強いものであった。
吉田は佐久間一郎や中島知久平よりも飛行機の空気力学や構造力学の理論を学んではいても実技に関しては素人であった。このような人事はエンジン設計部門でも行われるのである。
余談であるが、中島機体部門の才人 糸川英雄は1935年(昭10東大航空学科卒である。
帝国大学工学部の教育には後述するような欠陥があり、これが中島の技術進歩の大きな障害になった。


◎帝国大学工学部機械工学科新卒業生初めて中島飛行機に入社し、エンジンの自主技術設計始まる
最初の技術導入エンジン、ロレーンの生産が始まった翌年1926年(大15)、東京大学新卒の田中正利が入社した。
中島知久平はエンジン自主開発の大号令を発した。エンジンはNWA・水冷W型、18シリンダ、1,000psで、設計主任には1926年(大15)3月帝国大学を卒業したばかりの白面の青年技師 田中正利を任じた。この項の、「中島飛行機エンジン史」の執筆者 水谷総太郎は“いかにも中島所長らしい大胆不敵な企画であった”と書いている。太田工場の吉田孝雄の場合と全く同じである。これは、私が今考えると中島所長は帝国大学の教育を過大評価していた為である。

中島知久平は田中が入社するとエンジンの部分品をスケッチしてよく勉強しておくようにアドバイスしたが、田中はこれを軽視していたとのことである。エンジンの構造図は文献に出ており、これを見ていたので田中は自信過剰になっていたのかも知れない。
田中正利はNWAの後、NWA-G、空冷エンジンはNAA、NAB、NAC、NAD等、水冷・空冷6機種設計を担当したが成功したものは1つもなかった。それでも、中島エンジン最初の設計担当者であったためか武蔵工場総務部長に転出するまで設計部長であった。
その後、多数のエンジンが自主開発されたが、これらの設計担当者を誰が任命したか知らない。私の所属していた気筒班の班長 近藤善一郎は1937年 (昭12)東大卒であり、当時設計に入社した者は担当エンジンを与えられたと話した。しかし、昭和12年頃になると重要エンジンは与えられず、NAI(空冷倒立V12シリンダ25.8 l)であった。

欧米エンジンの製造ライセイスを他社に例を見ないほど多数導入したにも拘らず、自主設計エンジンで成功にいたったものは、前記のように極めて少数であった。
1952年(昭27)7月「航空情報」誌に発表された故関根技師長の手記
「中島飛行機発動機20年史」の中“試作の反省”の項には、〈列型、星型を通算すると、成功率は実に6/23という低率となっている。かように低位の成功率では普通の営利本位の企業体では成り立つ余地はないのだが、中島エンジン部門はJ字型上反りの発展の経路を辿ったのは何故かを、我々は深く反省しなければならないのである。知る人ぞ知ると言うに止めて敢えてここではその説明を加えないでおこう。〉と述べられている。(この項は中島飛行機エンジン史より転載)
この文章は難解でよく判らない。中島航空エンジンの執筆者 水谷総太郎も不可解と書いている。

FG会 昔のことを話そうかい 出典:『エンジン設計のキーポイント探究』 著者・岡本和理 掲載・戸島敏明

=筆者のまえがきより=
筆者は太平洋戦期間中{1942年(昭17)1月~1945年(昭20)8月}中島飛行機(株)エンジン設計部に勤務しシリンダ設計に従事していた。
1942年9月空冷星型18シリンダ、35.8l、1,800psが海軍に制式採用され「誉」と命名され、引続いて陸軍にも「ハ45」として制式採用された。このエンジンは、外径は1,180mmと小さく、重量は835kg(0.464kg/ps)と軽く、空冷エンジンでは世界一高性能であると設計担当者を初め、中島のエンジン技術者一同も自負して鼻を高くしていた。
ところが生産を始めて間もなく日本空軍は攻撃戦から防衛戦に転じざるを得なくなった。するとエンジンの点火プラグが潤滑油で汚染して発進できないという不具合が多発し始めた。
この不具合対策に技術陣は連日会議を開催した。原因として多数の提案が出されたが決め手を欠き、うやむやの中に終戦を迎えた。
私は中島のエンジン技術について疑問を抱き続けていた。
1993年(平成5)日産自動車系会社の勤務を完全に終り郷里・山口県防府に引上げ閑居していた。1997年(平成9)(株)グランプリ出版より英国の著名な航空ジャーナリストBill Gunston著、「世界の航空エンジン レシプロ編」の翻訳本が出版され贈呈を受けた。
航空エンジンの技術の詳細について書いたこの著書を読んで、誉エンジンに対する疑問が一挙に氷解した。このことを私個人で私蔵するのは惜しいので、同じ技術のルーツを有する富士精密工業時代に自動車エンジンFG4Aの開発に、共に働いたFG会員を対象として、標題の一文を配布した。
ところが、筆下手の私の文章は理解されないらしいので、補足文をつぎつぎと4っも書いた。



1930年6月 国産エンジン第1号「寿」(450馬力)
1933年6月 ゼロファイターなどとして世界にその名を轟かせた零式艦上戦闘機(海軍の零戦)等に搭載した「栄」
1941年3月 奇跡のエンジン、悲劇のエンジン、「誉」

零戦(ゼロ戦)とは戦いの名称ではなく戦闘機の略称である。
零戦の開発は三菱重工業。
設計者の堀越次郎がジブリ映画『風立ちぬ』の主人公モデルになったことで一般にもその名を知られた。
堀越次郎も群馬県出身。

1903年6月22日群馬県藤岡市に生まれる。藤岡中学校、第一高等学校を経て東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業。同期に木村秀政、土井武夫らがいる。三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。 最先端の航空機技術を学ぶ為にヨーロッパ、アメリカへ1年半派遣された。
1932年、入社5年で設計主任に抜擢された堀越は、まだ複葉機が主流な時代において、単葉機である七試艦上戦闘機を設計。しかし試作された2機は試験飛行中に墜落してしまい不採用。
1937年より十二試艦上戦闘機の設計を行う。後の零式艦上戦闘機(零戦)である。
以降、技術部第二設計課長として雷電、烈風の設計に携わったが、零戦も含めいずれも途中以降は他課に設計が移されている。

(戦後)新三菱重工業を退社した後、1963年から1965年にかけて、東京大学の宇宙航空研究所にて講師を務めた。1965年「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究 :昇降だ操縦系統の剛性低下方式」で東大工学博士。1965-69年防衛大学校教授。1972-73年日本大学生産工学部教授。

(零戦は)三菱に加え中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10,000機。

外国の製品を日本でライセンス生産する理由は種々あると思うが、日本の会社の製品を同じ日本の会社がライセンス生産するということは、三菱の製造力では需要に追いつかなかったということになりそうだ。
機体も然ることながら、零銭のエンジンには中島製の「栄」と搭載した。
三菱は水冷式エンジンを開発していたが、後に空冷式に変更した。

中島飛行機は1920年代、フランスの会社とのライセンス生産契約などを軸に水冷式エンジンを製作していたが、1925年にイギリス・ブリストル社と星型9気筒ジュピターのライセンス生産契約を結び、この後に空冷式エンジンに転換する決断をする。
国産エンジン第1号の「寿」は空冷星型エンジン(レシプロエンジン)である。
内燃機関が発明された当初から、高温となる燃焼室周囲の冷却が重要な課題であった。
この冷却方法に「水冷」と「空冷」がある。
水冷は複雑で難しい、緻密さが空冷以上に要求される、故障が多い、致命的な欠陥に陥りやすい、コストがかかる、重くなるなどデメリットも多かった。
メリットとしては空冷よりも冷却効率が良く温度管理がしやすいため安定的に温度を保てること。
独立した大陸であるアメリカの軍隊では、海上を飛び離着陸場所が限られる海軍は空冷、海軍よりも整備や修理がしやすい陸軍は水冷などと使い分けていた。
「空冷」と「水冷」は原子力発電所における問題でもある。以前に書いたが日本の原発は水冷式、外国では空冷式が主流である。


大戦後半になると、アメリカの強力な戦闘機に対抗できる馬力の強いエンジンが望まれていました。
実は、エンジンはあったのです。
「誉」
中島航空機が開発した「誉」は、同時代のアメリカのエンジンよりひとまわり小さく軽く、それでいて2000馬力を出すことができ、当時「奇跡のエンジン」と呼ばれていました。
その高性能は以下のように驚異的なものでした。

昭和19年敗色濃くなる頃、誉エンジンを搭載した高速偵察機「彩雲」は、マリアナ沖のアメリカの機動部隊を偵察中に、最新鋭のグラマンF6F戦闘機に襲われました。
しかし敵の戦闘機をそのずば抜けた高速性能で振り切り、「われに追いつくグラマンなし」と基地に打電しました。
さらに敗色深まる昭和20年3月、誉エンジンを搭載した戦闘機「紫電改」の部隊は、四国 松山基地を飛び立ち、アメリカの最新鋭の戦闘機を多数撃墜、圧倒的な強さを見せました。
この紫電改、戦後アメリカに運ばれアメリカ軍のパイロットによりアメリカ軍の戦闘機と空戦実習を行ないました。
そこで第二次大戦中の最高傑作機と呼ばれたアメリカ軍のP51「ムスタング」は紫電改に勝てなかったと言います。

この当時世界最高性能のエンジン「誉」を設計したのは、弱冠27歳の中川良一氏。
彼の若く独創的な発想が素晴らしいエンジンを生み出しました。
しかしこの独創性が悲劇の原因ともなりました。
実は大排気量のガソリンエンジンは技術的にかなり難しく、トラック、船舶など大型のエンジンは現在ではほとんどがディーゼルエンジンです。
しかしジェットエンジンのなかった当時は、大型の飛行機を飛ばすことができるのは、大排気量のガソリンエンジンだけでした。

その誉の大きさは、
1気筒のボア×ストロークが130×150 mm(1.99リッター)
これが星形2列 18気筒もあり、
総排気量35800cc(35.8リッター) (プリウス20台分)
出力は2000馬力 (3000回転)、
スーパーチャージャー付き(ブースト圧500mmHg)
重量850kg 直径1.2m
という巨大なものでした。

当初は2000馬力だったが次第にパワーアップして、2800馬力を実現しました。
実はガソリンエンジンの排気量を大きくすると、燃焼室の容積が大きくなるため、ガソリンを均一に燃焼するのが非常に難しくなります。
そのため、ノッキングやデトネーション、バックファイヤーなどが生じやすく、エンジンが高温になったり、ピストンやクランクの破損につながります。
しかも誉は、以前の栄に比べ大幅な出力アップを狙ったため、回転数を3000回転と栄より250回転も上げました。
こうして小型、軽量、しかも大出力という画期的な高性能エンジンとして誕生した誉でしたが、量産に移行するとトラブルが続出しました。その結果生産量は上がりませんでした。

悲劇のエンジン「誉」 その1~高性能すぎた故の悲劇より>


誉の悲劇
・海軍機工場の建設は初め佐久間一郎が指導したが、海軍は「陸軍のエンジンを作る者が口出ししないでくれ」と言った。
佐久間一郎製作所長を解任され、三鷹研究所建設を担当する。
中島知久平は佐久間一郎が陸海軍の確執に巻込まれるのを避けて、1941年(昭16)11月佐久間一郎を製作所長から解任し、新たに武蔵野製作所長に沢森源重郎、多摩製作所長に沼津武志(広工廠出身)を任命した。佐久間一郎には三鷹研究所建設を担当させた。

昔のことを話そうかい 中島知久平の技術力と企業経営思想より>

・エンジンの本質をよく理解していなかった。ここでエンジンの本質とは、エンジンの進歩は理論ではなく、試行錯誤に よるものであることを指す。このことは、富塚教授、MITのC.F.テーラー教授、日産自動車でエンジン設計を指導したドナルド・ストーン等は、全く同じことを説いている。大学を卒業したばかりでエンジンの実務経験の乏しい設計者達は、このことを全く知らないで、一人前の設計者になったつもりであった。
しかし、三菱も中島と全く同一条件にあった筈であるのに、三菱は実戦で役立つ飛行機を終戦の日まで製造し続けた。これについて中島設計者のコメントを聞いたことはない。そしてまた、米軍が日本より持ち帰った誉を米軍の使用する100オクタン燃料と潤滑油を使用して、性能運転を行い2,000馬力を計測し誉の高性能を確認したので、誉20型は世界一高性能であったと自負した。これは、何も米軍に確認されるまでもなく、日本海軍が認めていたことである。
この主張の中には重大な誤認がある。それは運転台上で高性能であることと、実用飛行機エンジンとして高性能であることは同一ではない。すなわち、実用飛行機エンジンは耐久性・信頼性が絶対条件である。
飛行機用では速度記録は3kmのコースを2回往復できるだけの耐久性があればよいのであり、自動車エンジンはF-1レース用は2時間、ルマンレース用は24時間耐えればよいのである。

昔のことを話そうかい 中島飛行機のエンジン技術より>

・航空機用資材(金属材料、燃料、潤滑油等)の大部分を米国よりの輸入に頼っていたのに、その供給が止まり、代用材の使用・燃料・潤滑油の質の低下に加え、製造工場では徴用工の多用により技能が低下した。誉エンジン設計担当者は、これらがエンジン不調の原因と考えていたので、なす術はなく終戦をむかえた。
昔のことを話そうかい 中島飛行機のエンジン技術より>

・特攻隊による攻撃が始まり、大型航空機の開発は中止させられた。また使い捨てられる戦闘機を補うための生産に明け暮れ他に手が回らなくなった。
工場が爆撃対象となり建物・従業員ともに壊滅的な被害を受けた。
三菱は需要のあるものを作れるものを淡々と製造していたのだと思う。(←上のアンダーライン部の答えでもある)
従来から使用していた中島製や三菱製の戦闘機が特攻に用いられたほか、軍部にて特攻兵器が開発生産されていた。

●桜花
日本海軍が太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。
1945年5月28日の新聞では、ロケット機「神雷」と呼称された。開発段階では発案者の名前を取り「○大(マルダイ)部品」(○の中に「大」の字)とも呼ばれた(マルの中に「大」の文字)。連合国側からは、自殺を禁じているキリスト教的な価値観により、自殺(攻撃)を行う「愚か者」の機体との意味合いで、英語の「Fool」の和訳「馬鹿」にちなんだBaka Bomb(単にBakaとも)というコードネームで呼ばれていた。

「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。
終戦までに11型が製造され755機生産された。桜花で55名が特攻して戦死した。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる。

桜花の着想は、航空偵察員大田正一海軍特務少尉が、日本陸軍が母機(爆撃機)から投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の対艦ミサイル(対艦誘導弾)である(イ号一型甲無線誘導弾・イ号一型乙無線誘導弾)を開発中との情報を得て、イ号一型甲製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る。
この大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった。


下記は「誉」エンジンの若き設計者として上の転載文にも名が挙がっている中川良一執筆本からからの文章。
中川は戦後は富士精密工業とプリンス自動車(社名変更後)にて自動車及びエンジンの開発を指揮した。プリンス自動車が日産に吸収合併された後に常務・専務をを歴任。また自動車技術会会長にも就任した。

中島の社風その2
 「中島飛行機エンジン史」 執筆あとがきより (中島飛行機㈱三鷹研究所試作部次長 中川良一 ) 

 しかし外面的に派手な上記の業績に対して、これを立派に実現した裏方の努力功績のほうも大きかったのではなかろうか。特に経験の少ない若手が存分に活躍出来たのは各部署での裏方の経験実力のおかげで、それがなければ成果をあげることは難しいのだ。例えば設計部門では若手の主任設計者などの計画した略図や一部寸法の入れてある内容をキチッとした設計図面にするのはこれらの人々がいなければ到底成り立たないのである。 私の経験でも私の計画したフリーハンドに近い図面を、直ぐに理解して信じ難いようなスピードで、組立図面や部品図面にしてしまうのだ。このようないわゆる書き手が揃っていることがこの会社、このグループを支えているのである。  

 これらの人々は設計だけでなく、機械、仕上げ、熱処理、組み立て、検査、運転、実験などあらゆる部門におり、我々の画くかなりあぶなかしい図面を立派に工程化して一人前のエンジンに作り上げ、飛行機にのせられるようにして行くのだ。私が図面を出して各部門を回って歩いて見ていると、各部門から「これはこんな風にするんだ。でないとうまくまわらないよ」などという注意が沢山あった。  

 一例をあげてみよう。木型の神様といわれる生島君という人がいた。私は栄20型の設計の時に、極めて難しい後蓋の図面をかいて、やや得意気に生島氏に見てもらった。彼は「うーん仲々良く出来ているがここは間違っていますよ。この断面を出してごらんなさい。すると分かりますよ」といわれて舌をまき成程と感心したことがある。彼の頭の中には図面を見れば外型と中子が立体的にちゃんと出来ているのであろう。またそのほかに一部記載してあるが低圧燃料噴射方式が途中で行き詰ったときに、フリーピストン式バルブを考案した八田技手や、混合比自動調整方式を伊地知さんと一緒に考案した萩野技手なども思い出される。  
 このようなベテラン集団は、工業揺らん期の日本産業の何処でも幼稚な当時の技術を支え補って存在していた。しかし中島発動機部門の各部門において支えていたのはそれらの中でも特級の名人級の人々が多く、中島の発動機部門の急速な成果を支えた人々として忘れることは出来ないと思う。地味な方々のすばらしい功績として心からの感謝と賞賛の意を捧げるものである。  

 以上のような明るいのびのびとした自由の空気の中で若い連中が競争と協調の中で思い切った努力を傾けた。しかもベテラン諸氏のこれを生かし支えた大きな力が組み合ったのである。皆があの頃は良かったというのは全く当然である。






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by yumimi61 | 2016-05-25 11:13
2016年 05月 24日
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島袋里奈さんが米軍基地の隣の地域であの時間にランニングしていたのはなぜ? 沖縄ではかわいい女性の1人歩きに危ないという認識はないの?→結果…

沖縄県うるま市で、かわいい島袋里奈さんが米人軍属に、殺されました。
誠に痛ましいことで、島袋さんのご冥福をお祈りします。
ですが、ちょっとこの事件で違和感を感じたことがありますので皆様のご意見を伺いたいと思います。
うるま市のような、いわば基地の隣の「危ない地域」なのに、20歳の女性が夜8時過ぎに、なぜ「1人」 でランニングをするのでしょうか?
女性が一人で、夜にランニングをするのが危険な土地は、日本中にあちこちにあると思うのですが、あの地では「危ない」という認識はないのでしょうか?


<ネットの回答>

沖縄では、あなたが想像している以上に県民にとっては安全区域です。これは在住していないとわからないことかもしれませんが。。うるま警察署が公開捜査に移ったときから沖縄県民は、「内地(本土)に逃げたのかな〜?」とか、彼氏、親と喧嘩でもして身を潜めているのかな〜ぐらいのレベルです。むしろ、米軍などまず頭にも出てきませんでした。どこかのニュースで取り上げられていた、沖縄住民の声、「沖縄県民が手にかけるはずがない」と住民は言っていたぐらい、殺人事件というものはないものです。なので、沖縄県民の防犯意識の低さと言われればそれまでですが、何も知らない本土の方に、女性が一人でウォーキングなんて・・等被害者を悪くいうことはやめてもらいたいです。こればっかりは地域性が十分関与してくると思います。でも、沖縄県民に対してもこの事件は根強く記憶に残ることとなるでしょう。しかし、沖縄では女性が夜出歩いては危険!というリスク管理がないのです。すなわちその手の事件が少ないのです。そこらへんは重々承知いただきたいものです。

事件が発生したであろう場所ですが、米軍基地は近くにはありません。また、商業施設などもあり地元ではう回路にもなっておりその時間帯では到底事件が発生するとは予測できません。テレビ報道などで夜間は人通りも無く危険な地域と報道されましたがそれは深夜(22時以降)であり、事件発生した場所に限らずどの地域でも危険ゾーンとなるのは当たり前で午後8時頃の時間帯であればウォーキングをする人などもあり危険を感じさせる感じはありません。だから平気で運動コースとして被害者は利用していたと思います。また、基地周辺での米兵の凶悪犯罪は少ないのが現実で酔っぱらっての犯罪を含め多くは繁華街とその周辺(住宅地)で発生しています。これまでの事件発生場所を見ても納得出来ると思います。

そもそも、沖縄の犯罪発生率は全国で26番目、東京より沖縄の方がはるかに安全です。くわえて、その沖縄県の中でも米軍関係者の犯罪発生率は0.16% 沖縄県民の犯罪発生率0.36%なので県民の方が2倍以上危険です。うるま市と限定してみても、犯罪発生率は(1,946地域中):958位 かなり安全な部類の地域ですよ。皇居の周りで走ってる人々の方が危険性は数段高いと言えます。千代田区の犯罪発生率(1,946地域中):2位 事故の発生率(1,946地域中):1位



〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇
枯葉散る夕暮れは
来る日の寒さをものがたり
雨に壊れたベンチには
愛をささやく歌もない
〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇

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by yumimi61 | 2016-05-24 17:17
2016年 05月 22日
日本国憲法の秘密-249-

青梅街道に面した桃井3丁目の信号近くにある日産自動車荻窪工場跡地の一角に、互いに背を向けあうように2つの記念碑が建立されている。

1つの記念碑には、東京大学生産技術研究所(現・文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けて、富士精密工業がペンシルロケット(※)の初飛行に成功したことやこのロケット技術が現在のロケットを生み出す原動力となったことが記されている。誠に晴れやかな記念碑だ。
※ペンシルロケット:実験用のロケット。鉛筆のように小さいと形容されたが、実際は鉛筆よりは大きい。20cm~50cmくらいのもの。

もう1つの記念碑は、青梅街道の斜め方向の遥か上空を見つめるように建立されている。そこには『中島飛行機発動機発祥の地』・『昭和62年12月10日建立』とある他には、何も記されていない。それだけに、中島飛行機荻窪工場がこの地で果たした歴史的な重さに思いを馳せざるを得ないのである。
大正14年以降、中島飛行機荻窪工場で設計・製造されたエンジンは、国産第1号450馬力の『寿』(1930年(昭和5年)6月完成)、世界にその名を轟かせた零式艦上戦闘機等に搭載した『栄』(1933年(昭和8年)6月完成)、『誉』(1941年(昭和16年)3月完成)などがある。

つまり桃井3丁目の荻窪工場跡地は、日本の『ロケット発祥の地』であるとともに、国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、世界に誇る中島飛行機のエンジンをいくつも生み出した、郷土が誇るべき歴史的な跡地である。

杉並区産業振興センター 「すぎなみ学倶楽部」歴史より>
 

1947年(昭和22年)、立川飛行機(前身は石川島飛行機)の技術者が「東京電気自動車」を創立。
次のように社名変更。
「東京電気自動車」→「たま電気自動車」→「たま自動車」(ガソリン車に転身、エンジンは富士精密工業と提携)→「プリンス自動車」(1952年11月)
1954年(昭和29年)、富士精密工業と合併し、社名を「富士精密工業」とした。

富士精密工業は、1947年に中島飛行機の技術者が創立した会社。
戦後、中島飛行機は富士産業という名の持株会社に指定された(持株会社なので事業は行わない)上で持株を処分される。そして12社に分割された。
そのうちの1社が富士精密工業(後、プリンス自動車工業→日産自動車)。富士重工業(スバル)はそのうちの5社が合併したもの。

「すぎなみ学倶楽部」に書いてあることを辿れば結局みな中島飛行機に行き着くわけだが、鍵は「東京大学」である。
東京大学生産技術研究所(現・文部科学省宇宙科学研究所)の指導を受けて、富士精密工業がペンシルロケットの初飛行に成功したとある。
ペンシルロケットに関係しているのが「糸川英夫」。後に「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれるようになった人物である。

糸川英夫 1912年7月20日-1999年2月21日
1912年、東京市麻布区(現在の東京都港区西麻布)で生まれる。小学校では六本木、中学校からは東京青山に育った。教育者の家庭であり父は麻布の笄小学校の教師であった。英夫という名は、1912年の東大銀時計卒業者の鳩山秀夫にちなみ、秀才好きの父に命名された。越境入学で麻布の南山小学校に学び飛び級で卒業した。
第一東京市立中、東京高校理科甲類を経て、1935年、東京帝国大学工学部航空学科を卒業。


鳩山秀夫は鳩山由紀夫元首相の祖父・鳩山一郎の弟。鳩山家はフリーメイソンリーと関わりがあるともされる。(戦後の日本のフリーメイソンリーの不動産を見ると海軍とフリーメイソンリーは関係がありそうという話は前に書いた)
近衛文磨が独裁新党結成準備のために一旦内閣を総辞職したのが1939年1月5日。
その前年の夏頃から立憲政友会の鳩山一郎と中島知久平は対立が激しくなった。
中島は同じく立憲政友会の久原とも対立し、ついには総裁が2人になる状態になる。
近衛が新体制(戦時体制)を1939年6月に発表。久原派や鳩山派は中島派よりも先に近衛の新党に合流している。麻生・安部の社会大衆党はそれよりも早かった。
こうして1940年7月に近衛2次内閣が成立し、太平洋戦争に向かっていく。


糸川英夫は東京帝国大学工学部航空学科を卒業後に中島飛行機に入社していた。
しかし1941年パールハーバー奇襲攻撃直前に退社。翌1942年、設立されたばかりの東京帝国大学第二工学部の助教授に就任した。
戦後の1948年に教授となる。教授就任後の1949年に東京大学にて博士号(工学博士)取得。論文は「音響イムピーダンスに依る微小変異測定法に関する研究 」。

東京帝国大学第二工学部は、戦時体制下の技術者不足を見込み、1942年に千葉県千葉市稲毛区に設立した学校。
1949年に学生募集が停止され、1951年に廃校となった。翌1952年に東京帝国大学第二工学部の後身として同地に東京大学生産技術研究所(東京大学の附置研究所)が設立される。
1962年に六本木の歩兵第3連隊(東京・高崎・新発田で愛称は麻布三連帯)駐屯地跡地(現在は国立新美術館・政策研究大学院大学となっている)に移転。
千葉の稲毛区の跡地は一部が東大の大規模実験施設(千葉実験所)となっており、残りは千葉大学西千葉キャンパスとなった。


ロケットと飛行機は完全に切り離せるものではない。
ということで、田中舘愛橘を思い出してほしい。
政府の研究会のメンバーで「臨時軍用気球研究会」を設立し自らも委員となったのが田中舘愛橘。
航空工学の父とも言われる。専門は地球物理学。
田中舘愛橘は1918年に東京帝国大学付属研究所として「航空研究所」を設立し、1920年に東京帝国大学工学部に航空学科を新設した。
この「航空研究所」は第二次世界大戦後に「宇宙航空研究所」となり、現在の「JAXA宇宙科学研究所」に至る。
「航空学科」は戦後一旦閉鎖されるが、「航空宇宙工学科」として復活した。



1918年、田中舘愛橘、東京帝国大学附属「航空研究所」を江東区の’越中島’に創立。
1920年、田中舘愛橘、東京帝国大学工学部に航空学科を新設。
1921年、附属が外れ、「東京帝国大学航空研究所」となる。

「東京帝国大学航空研究所」の成果がいまひとつ上がらないことに加え、1923年9月1日発生の関東大震災にて建物が被害を受けたこともあり、駒場に移転する。
東大には駒場キャンパスがあるが、そこはもともと東大農学部の前身となる駒場農学校があったそうだ。
その後は後に東大に吸収される旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部および、千葉大学医学部、同薬学部の前身となった旧制高等学校。東京帝国大学の予科であるからして東京帝国大学へ進むのは当然の話。入学試験を経て大学へ進学する現代の一般的な高校とは性質が違う)が使用していた。
しかし駒場で農学部と言って思い出すのは、東京大学ではなくて筑波大学であろう。
筑波大学(茨城県つくば市)の附属高校には本家(東京都文京区)と駒場(東京都世田谷区)と坂戸(埼玉県)があり、このうち駒場が東京大学進学率の高い超難関校として有名なわけだが、この学校はもともと東京教育大学(筑波大学前身)の農学部附属駒場高校であった。
筑波大学附属の駒場高校がかつての一高のようになっているのではないだろうか。
ともかく文京区に駒場、東京大学と筑波大学は昔から近いところにある。

越中島に設立された「東京帝国大学航空研究所」はいつの間にやら駒場で研究に従事していたのである。
しかしそれでも研究者が各々の研究室を中心に自由に研究を進めるという形式では横との繋がりが得にくい。
飛行機でもロケットでも何か1つだけでは飛ばない。
こうして「東京帝国大学航空研究所」はこれといった成果は上げられぬまま、戦争に突入し、1945年8月終戦を迎えた。
「東京帝国大学航空研究所」は1946年から「理工学研究所」として再出発し、1958年に「航空研究所」と改称。

かたや「東京帝国大学第二工学部」は、田中舘愛橘が1920年に新設した東京帝国大学工学部航空学科を1935年に卒業し、中島飛行機に入社し辞めた糸山英夫を助教授に迎えて、戦時中1942年に千葉に設立された。
終戦後の1951年に廃校となり、翌1952年に「東京大学生産技術研究所」(東京大学の附置研究所)として再出発する。

そして1964年。
「東京大学宇宙航空研究所」(現・JAXA宇宙科学研究所)が全国共同利用研究所として東大の駒場IIキャンパスに設置された。
「東京大学生産技術研究所のロケットグループ」が東京大学宇宙航空研究所に移動した。
(ロケットグループが転出した東京大学生産技術研究所は、航空宇宙関係を除く工学全般の研究・教育活動を行っており、大学に附置された研究所としては日本最大級であり、世界でも屈指の規模を誇るそうだ。2001年に六本木から駒場に移転)

さらに1981年。
「東京大学宇宙航空研究所」は旧文部省(現・文部科学省)の国立機関「宇宙科学研究所」として改組発足する。
元の「東京大学宇宙航空研究所」メンバーは新発足の「宇宙科学研究所」と「東京大学工学部境界領域研究施設」に分割される。

1987年。
「東京大学工学部境界領域研究施設」は発展的解消、「東京大学先端科学技術研究センター」となる。
旧文部省(現・文部科学省)の国立機関「宇宙科学研究所」の大部分が相模原(相模原キャンパスと呼ばれる)に移転。

2003年。
日本の航空宇宙3機関、文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)・独立行政法人航空宇宙技術研究所 (NAL)・特殊法人宇宙開発事業団 (NASDA) が統合して、「国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)」とが発足した。
内閣府・総務省・文部科学省・経済産業省が共同して所管する国立研究開発法人で、同法人格の組織では最大規模である。

・文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)
上記のとおり、1918年に東京帝国大学附属航空研究所に始まった東京大学宇宙航空研究所を1981年に文部省の国立機関とした。

・独立行政法人航空宇宙技術研究所(NAL)
総理府(現・内閣府)科学技術行政協議会により1955年(昭和30年)に設立された日本の研究所。当初は「航空技術研究所」の名称で設立され、8年後の1963年(昭和38年)に科学技術庁(現・文部科学省)「航空宇宙技術研究所」と改称された。

・特殊法人宇宙開発事業団 (NASDA)
前身は1964年に科学技術庁内に設置された宇宙開発推進本部だが、これが1969年に発展的に解消し、科学技術庁の下部機関として新たに宇宙開発事業団が発足させた。
日本の宇宙開発を担う目的で日本政府が設立した特殊法人であり、根拠法は「宇宙開発事業団法(2003年統合により廃止)」。

ロケットとは言い方を変えるとミサイルである。これを上手く使い分けて国によって報道の仕方が違ったりする。
世界の熾烈な宇宙開発競争はこの辺りから。
1958年にソ連がスプートニクロケットによって世界初の人工衛星を打ち上げたことでスプートニク・ショックが起き、宇宙開発競争が始まる。1961年にはソ連がボストークロケットによりユーリイ・ガガーリンが搭乗したボストークの打ち上げを成功させ、世界初の有人宇宙飛行を成し遂げた。一方、1969年にはアメリカがサターンV 型ロケットによりアポロ11号を打ち上げて世界で初めて人類を月に到達させた。


中島飛行機を辞めた糸川英夫を助教授に迎え、戦時中の1942年に設立された「東京帝国大学第二工学部」は千葉県の稲毛に作られた。
稲毛と言えば、奈良原が1912年に民間飛行場を作った場所である。

奈良原三次
国産機での初飛行を成功させたのは奈良原三次と言われている。
鹿児島県出身、父は薩摩(島津)藩士。1908年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士となる。
1910年、「臨時軍用気球研究会」(田中舘愛橘が1909年に設置)の委員に任命された。
1913年、稲毛から姿を消す。
1930年、門下生だった伊藤音次郎(伊藤飛行機)に迎えられて日本軽飛行倶楽部の会長に就任し復帰。


1911年に奈良原に弟子入りした伊藤音次郎は1915年に稲毛に伊藤飛行機研究所を創立した。
その後、1918年に津田沼の鷺沼海岸に移転した。
津田沼は稲毛の北西で船橋や習志野に近い。
この2つの地点の間が現在は幕張副都心(千葉市美浜区など)として発展している。
1970年代後半に埋め立てられた地で、かつての海岸沿いは少し内側に入ったことになる。
伊藤飛行機は、朝日新聞社が1923年に発足させた東西定期航空会に飛行機や飛行士を提供していたが、これは前記事で述べたように、1928年に政府主導のもとに設立した逓信省所管の航空会社「日本航空輸送株式会社」に無償譲渡された。(裏取引は?)
伊藤は軽飛行機に軸を移し、戦争を機に航空業界からも引退。
千葉県成田市東峰で農地開墾に携わり農場主となっていたが、新東京国際空港(成田空港)の建設計画に際して用地売却契約を最初に結んだ。

新空港建設の方針が閣議決定がされたのは1962年11月。
1966年に当時の首相・佐藤栄作(山口県出身、岸信介の弟、ノーベル平和賞受賞)が友納武人千葉県知事(当時)に成田市三里塚案を提示し、佐藤内閣、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に正式決定。
宮内庁下総御料牧場は、江戸時代には幕府によって設置され、軍馬や農耕馬の放牧されていた佐倉牧があった場所。
伊藤が農場主だった東峰は空港用地の北側で、三里塚は南側。

友納武人
副知事時代から、東京湾を大規模に埋め立てて京葉工業地帯の礎を築き、当時は農業県だった千葉県民の大きな雇用や東京ディズニーランドを含む今日に至る千葉県の発展を築くなど、「開発大明神」の異名をとり「千葉県中興の祖」という評価が根強い。その一方で、東京湾埋め立てをめぐる三井不動産社長・江戸英雄との繋がりを始めとした土建業との癒着や川鉄公害訴訟などの環境破壊が起き住民からの反発も招くなど、房総半島の破壊をもたらした人物という批判も強い。また成田空港の三里塚変更にも関与。1971年、成田闘争のヤマ場となった土地収用に伴う行政代執行を指揮した。

現在の千葉県知事は元芸能人で現在もサンミュージック所属。甘利事件も千葉絡みだった。


ではなぜ糸川秀夫が「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれるようになったのか?

第二次世界大戦が終わると、連合国司令部は日本の軍備を徹底的に解体した。もちろん飛行機の研究は禁止された。戦時中多かれ少なかれ航空機の設計・製作に携わってきた航空工学のスペシャリストたちは、研究の対象を失って途方に暮れ、やがて、より基礎的な分野やそれぞれの専門に近い学問領域へと散って行った。
1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約によって日本が独立した時、世界の空はジェット機の時代に入りつつあった。イギリスのジェット旅客機コメット1号は1949年(昭和24年)にデビューしていたし、フランスのカラベルも設計が開始されていた。戦後聞もなくいろいろな分野に散った航空工学の専門家たちは、再び日本に戻ってきた学間の自由を背景にして、続々とジェット機の研究になだれ込んで行った。

しかし、1953年(昭和28年)に約半年間をアメリカで過ごした、東京大学生産技術研究所の糸川英夫は別の考えを持ち、帰国後生研所長の星合正治に進言した。
──アメリカはすでにロケットの時代に入りつつあります。我々もロケット機をやりましょう。ジェット機と違って空気のない所でも安定して飛べるロケットで、宇宙を自由に飛び回りましょう。──(糸川)

<JAXA 日本の宇宙開発の歴史 日本の宇宙開発のはじまり AVSAと糸川構想

糸川は東京帝国大学第二工学部の後身として東京大学生産技術研究所が設立された1952年の翌年、アメリカで半年ほど過ごした。シカゴ大学に通っていたそうだ。
この時にロケットに目覚めたらしい。
(三菱の国産ジェット機MRJの挑戦サイトには「興味深い点としては、中島飛行機は戦中の時期からすでにジェット機やロケットなどの産業に参入していたことです」と書いてあったけれども・・)


これに先立つ1953年10月3日、糸川は経団連の主催で講演会を開き、ロケットや誘導弾に興味のありそうなメーカーを13社集めた。それに保安庁から6名ほど、全員で40数名の出席であった。富士精密工業の戸田康明も、その講演会にいた。

──上司から行ってこいと言われて糸川先生の話を聴きに行き、そこで初めて糸川先生の顔を拝見したわけです。そのときの講演は、日本でジェットエンジンの研究は遅れたけれど、ロケットはこれから日本でやってもアメリカに遅れをとらないでやれるということで、ロケットの原理から始まり空気力学や誘導関係など難しい話を聴きました。私はそれまでロケットのことは何も知りませんでしたから、会社に戻ってそのままにしていました。しばらくして上司から「糸川先生に協力して、おまえが主体になって当社でロケットを開発せよ」と言われ、大変なことになったというのが本音です。──(戸田)

経団連での講演の後で、糸川は数社を回りロケット開発に協力する会社を探したが、積極的に協力を申し出るところはなかった。故松下幸之助に至っては「糸川先生、そないなもん、もうかりまへんで。50年先の話や」と、にべもなかった。

結局のところ、戦前糸川が勤務していた中島飛行機の後身である富士精密が、前述の戸田の告白にあるとおり唯一協力することとなった。以後プリンス自動車、日産自動車を経て、現在のIHIエアロスペースに姿を変えるまで、このグループは日本の宇宙開発の核となって常に日本のロケットを熱烈に支え続けることになる。

<同上 日本の宇宙開発のはじまり 同志の結集

JAXAの述懐には富士精密工業の戸田康明とあるが、戸田自身が当時日産にいたと書いている。
日産の上司の命令で糸川先生の御指示に従ってロケット開発を担当することになったと。
プリンス自動車工業と富士精密工業が合併し「富士精密工業」となったのが1954年、社名を「プリンス自動車工業」に変更したのが1961年、日産自動車に吸収合併されたのが1966年。
日産の戸田と東京大学生産技術研究所の糸川がペンシルロケットを開発したはずなのに、戸田を富士精密工業の人間だと言い、「戦前糸川が勤務していた中島飛行機の後身である富士精密が、前述の戸田の告白にあるとおり唯一協力することとなった」と述べている。不可解な記述である。

実は,私は先生と同年の生まれ,淋しい限りです。糸川先生に協力してロケット・モーターの開発を始めたのは1953年であり,敗戦によって航空業務を米国から禁止されてから7年経過したその翌年のことでした。糸川先生は「航空機はジェット機時代となり日本で今からやるのは手おくれだ,やるならロケット飛行機だ 」というので,東京〜ニューヨーク間を2時間,日帰りも出来るような飛翔体構想を持ち,当時学生だった秋葉先生に紙製模型を作れと命ぜられたと聞いています。

私は当時日産の荻窪工場の技術部長で,上役の中川取締役から糸川先生の御指示に従ってロケット開発を担当せよと命ぜられ,ロケットのロの字も知らぬのに困ったなと思いました。
1953年10月,初めて糸川先生に面接し先生の熱意に感銘し御協力を誓いました。先生の頭の鋭さ,理解の早さ,大臣級の人なども説き伏せる能力,報道陣への宣伝・応対等その行動力はただ驚くばかりでした。
お目にかかってから約1年,完成したのは何と極小のペンシル・ロケット。

ただ先生とのお付合いは,ほぼ1953年からの約10年間に限られ,鹿児島内之浦で東京大学ロケット実験が順調に進められるようになると,糸川先生はただ1人鹿屋に宿泊され,単独行動されることが多くなった。次いでそのころから,一部報道員らによる糸川先生への批判攻撃が新聞,週刊誌等を賑わわし,高木先生の引き止めにもかかわらず突如東大教授を辞任されてしまった。1965年以降組織工学研究所長としてロケット業務から手をひかれ,OB会等にもほとんど出席されなくなったことは残念であった。
だが,糸川先生が我が国でのロケット開発のパイオニアであり,今は宇宙科学研究所のロケット業務が順調にすすめられている功労者であることはうたがいのないことである。
ISASニュース 1999.4 No.217 糸川先生のご逝去をいたむ 戸田康明

糸川の晩年に何があったのか。本を執筆したりテレビ出演したりもしているので、それほど不幸だったわけでもなさそうだけれど。
2006年、早稲田実業学校校門前に「日本の宇宙開発発祥の地記念碑」が建立された。糸川英夫のペンシルロケットの実験から50周年を記念したもので、記念碑はペンシルロケットの形をイメージした1.3mのもの。実験をする糸川の姿が刻まれている。
杉並区桃井3丁目、日産自動車荻窪工場(戸田がいたというまさにその場所である)跡地にもペンシルロケット発祥の地があり、早稲田実業にもペンシルロケット発祥の地があるっていったいどういうことなのだろう?
そう言えば確か2006年は早稲田実業野球部が優勝した年でしたね。
しかし未だロケット飛行機は出来ず。


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by yumimi61 | 2016-05-22 14:51
2016年 05月 21日
日本国憲法の秘密-248-
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涙・・・ありえない・・・!?



中島知久平は機体の注文を受けていたわけでもないのに、エンジンを100基(総額約150万円)即決注文した。
注文当時の機体製造能力は月3機程度、資本金が中島の労務込みで75万円という会社なのに、100基150万円の即決は確かに大胆である。
大胆ではあるが、無計画で無謀な注文ではなかった。
軍部がパイロットを本格的に養成するのであれば、それくらいの飛行機は優に必要となることを中島は誰よりもよく分かっていた。
分かっていたというか、それを助言できるのは中島であったはずだ。
その後、陸軍から70機、海軍から30機の飛行機の注文を受ける。
中島式四型の量産機として開発された五型は軍隊の練習機として100機納入された。
さらに民間にも18機納められ、中島式五型は計118機生産された。

1919年12月26日、「日本飛行機製作所」は「中島飛行機製作所」として再出発した。
中島は航空機メーカーとして軌道に乗り、以後企業規模を拡大し日本最大の航空機・航空エンジンメーカーとなっていった。また、中島の成功をきっかけとして、三菱重工業・川崎航空機・立川飛行機・日立航空機・愛知航空機といった各航空機メーカー(航空機部門)の誕生が続くこととなった。

上に名が挙がっているのは航空機の開発や製造を行う航空機メーカー(部門)だが、下記は運輸業としての航空会社。

●東西定期航空会
1923年から1929年までの間、朝日新聞社が主催し白戸栄之助や伊藤音次郎らが協力して運営した、東京と大阪間を結ぶ航空会社である。
1923年(大正12年)1月11日に大阪の城東練兵場から浜松の三方が原を中継し、東京府洲崎の埋立地第1号地への飛行を行い、皇室に献上する鮮魚の籠などの小荷物を運んだ。第1回の飛行でも霧の中の着陸となり機体は損傷した。陸軍払い下げの中島式5型、7機で週1便の郵便飛行を開始し、1926年からは週3回に増便された。しかしこの間の1923年2月22日に島田武男飛行士、4月28日に高橋信夫飛行士が事故死し、白戸栄之助は航空界を引退した。
1926年に朝日新聞航空部が成立する。1928年8月にはドルニエ コメット(ドイツの旅客機)を用いて定期旅客運送を始めた。



●日本航空株式会社
1923年(大正12年)6月、川西清兵衛が設立した国内で3番目の商業航空事業会社。大阪飛行場を拠点として水上機で大阪-別府間の定期便などを運航。



■日本航空輸送
1928年10月30日に政府主導のもとに、逓信省(交通・郵便・通信を管轄した中央官庁)所管の航空会社として「日本航空輸送株式会社」が設立される。
1929年3月31日、上記民間航空会社「東西定期航空会」と「日本航空株式会社」の2社が統合され、両社は航空輸送業務を無償譲渡し(2社は消滅)、「日本航空輸送株式会社」の運航が開始された。
当初は立川陸軍飛行場をターミナルとしていたが、1931年に羽田空港に移転した。
日本航空輸送は日本本土の各都市と中国大陸の日本の租界がある都市を結ぶ航空路を運航し、軍事的にも重要であったこともあり、日本政府から多額の助成金の交付を受けて規模を拡大した。1938年にはのべ70,000人の乗客があり、この数字は当時全世界の2.6%を占めていた。


第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))敗戦まで、日本はアメリカやフランス、イギリスなどと並ぶ世界的な航空技術先進国であった。これは民間航空においても同様であり、1929年(昭和4年)に設立された日本航空輸送株式会社は、日本の主要航空路および日本の租界が置かれていた中国大陸を結ぶ航空路を運航しており、北東アジアにおける航空網の中心的存在であった。

「日本航空輸送株式会社」
役員:原邦造(社長)、戸川政治(常務)、稲畑勝太郎・大橋新太郎・大川平三郎・根津嘉一郎(初代)
大株主:三菱航空機、三井合名、瀬尾喜兵衛、安田保善社、住友合資、瀬尾喜一郎

・原邦造
満洲鉄道勤務、東京貯蓄銀行取締役を経て、1924年より愛国生命社長。東武鉄道の取締役でもあった。
兵庫出身の原六郎の養子である。原六郎は幕末に尊皇攘夷論を指示したいわゆる倒幕派。
明治初期にアメリカとイギリスに官費留学。帰国後は、第百国立銀行や東京貯蔵銀行を設立し頭取となる。
1883年(明治16年)、大蔵卿・松方正義の要請を受け、破綻の危機に陥っていた横浜正金銀行の第4代頭取に就任した。
また、1882年(明治15年)に創業した日本銀行との関係を、正金銀行が外国業務を担当することで整理し、以後、日本銀行と横浜正金銀行とが両輪となって日本の財政と金融を牽引していく基礎を確立した。
この他日本興業銀行、台湾銀行、勧業銀行の創立委員を務め、金融業以外にも富士製紙・横浜船渠各会社長、東武鉄道、山陽鉄道、播但鉄道、総武鉄道、九州鉄道、北越鉄道、北海道鉄道、京仁鉄道、台湾鉄道、東洋汽船、東京電燈、帝国ホテル、汽車製造、猪苗代水力発電、台湾製糖などの設立、事業に多大の貢献をした。また義父・土倉庄三郎に但馬の山林整備と事業化を要請した。



■大日本航空
1938年、上記「日本航空輸送株式会社」は国策会社に改組改編され、「大日本航空株式会社」となる。
これは1937年に勃発した日中戦争以降に、満州国を含む中国大陸との航空路の軍事的重要性が更に高まったことから、政府が「日本航空輸送株式会社」を国策会社にしたもの。
「日本航空輸送株式会社」の臨時総会が1938年11月7日に開催され、国策会社への事業継承と同月末での解散が承認された。
またこれに合わせて、日本のローカル線を経営していた「日本航空輸送研究所(代表者・井上長一)」、「日本海航空株式会社(代表者・中島久太郎)」、「東京航空株式会社(代表者・相羽有)」、「安藤飛行研究所(代表者・安藤考三)」は航空輸送を停止することになり、日本国内における航空輸送事業は「大日本航空株式会社」によって統一営業されることとなった。
(中島久太郎は兵庫県の人物で中島飛行機とは関係ない)
国策会社「大日本航空株式会社」としての営業開始は1938年12月1日より。

国策会社「大日本航空株式会社」
総裁:児玉常雄(児玉源太郎陸軍大将の4男)
副総裁:有地十五郎(海軍中将)
資本金:2,550万円  

・児玉常雄
陸軍士官学校卒。工兵中尉のとき東京帝国大学に進む。1932年に大佐で退役し、満州航空副社長→社長となる。大日本航空総裁の他、中華航空の社長も務めた。

1939年3月7日の閣議で国際航空輸送事業を大日本航空株式会社に独占させる「大日本航空株式会社法案」が決定された。これを受け、政府は3,725万円を出資し、資本金は1億円に増資された。

政党が1つに集約され独裁体制を敷いたように、航空輸送事業も国策会社が支配し、独占を規定する法案が決定する。

1939年1月5日、近衛首相は内閣総辞職。
伊藤博文が内閣総辞職して立憲政友会の設立を準備したように、近衛も新党結成の準備に専念するのであった。
1939年4月30日、中島知久平は一方的に「政友会革新同盟」を結成して総裁となった。
こうして立憲政友会は分裂し、どちらも総裁を主張するという状況に陥った。
 ・正統派(鳩山派)(久原派)
 ・革新派(中島派)

近衛文麿はソ連共産党やナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指し、1939年6月に「新体制」声明を発表。
これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・立憲政友会久原派、ついで立憲政友会鳩山派・立憲民政党永井派などが相次いで解散した。


大日本航空の運航機材:
前身の日本航空輸送など受け継いだ一五式水上機(中島飛行機製)やフォッカー スーパーユニバーサル(アメリカ製)などの羽布張りの旧式機
全金属製単葉機である国産初の高性能双発旅客機である中島AT-2
陸軍の一〇〇式輸送機の民間転用型である高性能機三菱MC-20
ダグラスDC-2(アメリカ製)
ダグラスDC-3(アメリカ製)
ロッキードL-14(アメリカ製)
立川(立川飛行機の前身は石川島重工出資の石川島飛行機)Y-39  ・・石川島は現在のIHI
など当時世界最新鋭の全金属製単葉機が主に旅客輸送に用いられていた。
貨物機としては、陸軍から九七式重爆撃機の武装撤去型三菱MC-21を供与されていた。

これからアメリカと戦争をしようとしている国であってもアメリカ製の航空機を使用していた。
公務(国家)と商売(民間)は別物。
それと同じように国家が戦争を行うことと、国民一人一人の相手国への感情は別物である。
しかし政府が国際航空輸送事業を国策会社に独占させた。国家は飛行機での出入国や輸出入を管理したかった。

日中戦争とも第二次世界大戦とも境目がよく分からぬままに、太平洋戦争が始まって、戦争は終わった。
休戦しているだけで本当は終わっていないのかもしれないけれど、一応終わった。

日本が1945年(昭和20年)8月14日に連合国によるポツダム宣言受諾を決定、敗戦したために、日本軍は順次武装解除されることになった。民間航空についても飛行機の所有・運用も一切禁止され、飛行活動に従事する組織も廃止・解散させられることになった。

大日本航空も解散の対象となり、戦後処理のために軍用機とともに日本国内で運航されていた緑十字飛行も同年10月7日に終了し、11月18日にGHQが布告した 「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」(SCAPIN-301)によって日本人による航空活動は一切禁止され、1952年(昭和27年)に再開が認められ、ノースウエスト航空の機材支援・全搭乗員派遣で日本航空の初号機が飛行するまで日の丸を付けた航空機が日本の空に飛ぶことはなかった。
なお、大日本航空は名称からすれば現在の日本航空の前身の企業のようにもみえるが、間接的な関係はあっても法的には別の会社である。 直接的な後継会社としては1947年に航空施設部門を分割した三路興業(現国際航業)がある。



緑十字飛行
太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦連絡事務処理のため、1945年(昭和20年)9月14日から同年10月10日まで日本機でもって行われていた行為の呼称。
1945年8月14日のポツダム宣言受諾により、後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官となるダグラス・マッカーサーは、日本の大本営に対し、日本政府、大本営の代表使節団のアメリカ領マニラへの派遣を要請した。混乱を避けるため、マッカーサーは、代表使節団の使用機材、外装、通信波長に至るまで細かく指定したが、機体に関しては全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描け、とした。「緑十字飛行」「緑十字機」という名称はこれに由来する。


日本政府の要請により、終戦処理連絡飛行がGHQの許可(SCAPIN23号)により実施されることになった。許可されたのは次の機材である。

機材:計27機
三菱 MC-20(陸軍)
ダグラス DC-3(大日本航空)
三菱 一〇〇式輸送機(陸軍)
三菱 一〇〇式司令部偵察機(陸軍)
三菱 一式陸上攻撃機(海軍)
九州飛行機 機上作業練習機「白菊」(海軍) ・・白菊は特攻機としても使用された機体
(許可された機材に中島飛行機製はなかった・・)

組織要員:大日本航空50名、陸軍50名、海軍250名よりなる混成組織


上記転載文に、大日本航空と日本航空は法的には全くの別会社であり直接的な関係はなく、直接的な後継会社としては三路興業(現:国際航業)があると記されている。

国際興業ホームページ 会社情報 国際興業の歴史より
日本の民間航空の草分け、日本航空輸送株式会社(昭和14年、大日本航空株式会社と改称)は、終戦によって事業継続が不可能となり、分割されることになりましたが、その一部を継承し、設立されたのが、当社の前身、三路興業(のちに国際不動産株式会社に改称)です。
戦前、航空写真測量技術は軍や政府が所有するところでしたが、戦争による疲弊と連合国軍の接収によって、終戦直後は皆無といってよい状態でした。復興に必要な航測技術がないことに注目した三路興業は、昭和24年、日本の航空写真測量のパイオニア、日本航測株式会社を設立、荒れ果てた国土の再建に乗り出しました。
同社は順調に規模を拡大、昭和29年には資本の強化と業務領域の拡大を図るため、国際不動産と合併、国際航業が誕生しました。
合併後、新会社は航空写真測量事業を積極的に推進しました。海外の最新鋭機器の導入、「国際航業型空中三角測量方式」といった新技術を開発するなど、航空写真測量業としての技術基盤を強固なものにしていきました。


日本の民間航空の草分け、日本航空輸送株式会社(昭和14年、大日本航空株式会社と改称)は、終戦によって事業継続が不可能となり、分割されることになりましたが、と書いてあるが日本航空輸送株式会社も純粋な民間航空ではない。実態は国策会社と言えるが法的には違うといった程度。
しかも日本航空輸送株式会社は1938年(昭和13年)11月30日をもって消滅した。単なる改称ではない。
従って戦後に三路興業という会社が民間会社の日本航空輸送株式会社から一部を継承したのではなく、国策会社だった大日本航空株式会社から一部継承したのである。
何故こんな嘘を書く必要があるのだろうか?

1947年9月 三路興業株式会社設立。
1948年10月 国際不動産株式会社に社名変更。
1954年5月 国際航業株式会社に社名変更
国際航業株式会社は、東京都千代田区に本社を置き、最先端の空間情報技術を活用し国土保全、防災・災害復興、行政支援など社会インフラの整備・構築や民間ビジネスの業務効率化を実現する空間情報コンサルティング事業を展開している企業である。

終戦後GHQに接収された全国の飛行場施設の保全を一手に引き受けていたのが国際航業だった。
国際航業の空港施設部門が分離独立したのが空港施設株式会社。

現在、国際航業は日本アジアグループの子会社である。
2006年12月に日本アジアグループが国際航業の筆頭株主となった。2012年4月に国際航業を完全子会社化した。

日本アジアグループの設立は1998年。
1998年12月 Japan Asia Holdings Limited(本社:香港)が設立。
2001年05月  宏徳不動産株式会社を傘下に収め、日本アジアホールディングズ株式会社に商号変更。

ところが会社ホームページの会社概要には設立が1988年とある。
吸収合併した国際航業は戦前の国策会社を引き継いだのだから、当然それより歴史は古い。
こういう場合の設立年はいつになるべきか?と悩んだわけでもないだろうけれども、何故1988年なのか分からない。
会社ホームページのグループ沿革が記されているが、それを見ても1988年に特記事項はない。


Japan Asia Holdings Limited(本社:香港)の設立者は次のお二方。(役員紹介より)
現在の筆頭株主は藍澤証券らしい。

山下哲生 代表取締役会長兼社長
1978年大蔵省(現 財務省)入省。多国間ODA(政府開発援助)業務に携わる。1981年より野村證券に在籍。アジアを中心に投資銀行業務に従事。1998年12月に香港にてJapan Asia Holdings Limitedを創業。2001年当社の前身となる日本アジアホールディングズ株式会社を創業、以降グループ主要会社の代表取締役等を経て、2013年より当社代表取締役会長兼社長(現任)。
慶応大学商学部及び法学部政治学科卒業。野村・ウォートンビジネス・スクールにてMPTコース及びマッキンゼー & CoにてMBIコース修了。

呉文繍 取締役
1998年Japan Asia Holdings Limited(本社:香港)創業に関わる。それ以降グループ主要会社の代表取締役社長などを経て、2013年より当社取締役兼国際航業株式会社代表取締役会長(現任)。
国立台湾大学文学部(中国文学専攻)卒業。Harvard Business School Advanced Management Program 修了。
WEF(世界経済フォーラム)のGlobal Agenda Council on InfrastructureおよびDisaster Resource Partnershipに参画。また、国連国際防災戦略事務局の民間企業諮問委員として2013年7月に議長就任。






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by yumimi61 | 2016-05-21 08:45
2016年 05月 20日
日本国憲法の秘密-247-
1920年4月、帝国飛行協会(1913年設立)主催の新たな長距離飛行競技会が開催された。
東京都江東区にあった洲崎飛行場を離陸し、大阪の城東練兵場(大阪城の東側周辺にあった)上空で折り返し、そのまま洲崎に戻るという870kmの行程の速さを競う競技会。
中島飛行機の最新型の中島式七型(在米同胞号)と伊藤式恵美14型が出場。
中島式の機体は中島飛行機製であるが、機体を所有し競技会に出場するのは帝国飛行協会であった。
パイロットは千葉県佐倉市出身の飯沼金太郎。
競技会当日、洲崎飛行場を離陸しておよそ30分後、神奈川県の丹沢山地に墜落(激突)して機体は大破。
飯沼は一命を取り留めたが足に後遺症が残り、1921年に帝国飛行協会に辞表を出して24歳で引退した。

飯沼がパイロット生命を絶たれた長距離飛行競技会で優勝したのは残る1機の伊藤式恵美14型。
こちらのパイロットは広島県出身の山縣豊太郎。伊藤音次郎が1915年に設立した伊藤飛行機研究所の1期生。
1919年10月に開催された第1回東京大坂間懸賞郵便飛行競技会に出場した伊藤式恵美機のパイロットでもある。
彼は1920年8月、津田沼飛行場でアクロバット飛行の練習中に主翼が折れ墜落し亡くなった。22歳だった。


≪民間航空黎明期のパイロット≫
・1920年 山縣豊太郎(伊藤飛行機)が22歳で没 津田沼でアクロバット飛行練習中に墜落
・1920年 飯沼金太郎(帝国飛行協会)が24歳で引退 競技会で神奈川県の丹沢山地に墜落して重傷
・1921年 佐藤要蔵(中島飛行機→退社)が27歳で没 津田沼で練習生の飛行練習中に墜落
・1924年 水田嘉藤太(陸軍→中島飛行機)が33歳で引退 尾島で練習生の飛行練習中に墜落して重傷


1909年、陸海軍共同の「臨時軍用気球研究会」を設立。
1910年12月、徳川大尉と日野大尉が外国機にて国内初飛行に成功。
国産機での初飛行を成功させたのは奈良原三次と言われている。
鹿児島県出身、父は薩摩(島津)藩士。1908年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士となる。
1910年、「臨時軍用気球研究会」(1909年設置)の委員に任命された。
1910年10月、奈良原は海軍に在籍していながら、弓師(弓職人)の技術を使って自費(?)で奈良原式1号機を完成させたが、飛行は失敗に終わったそうだ。
海軍を退役して民間人となった奈良原は1911年5月5日、同年4月1日に陸軍が開設した所沢飛行場においてノーム50馬力エンジン(フランス製)を搭載した奈良原式2号機の飛行に成功させたという。
同年10月13日、同じく所沢飛行場にて、グノーム50馬力エンジン(フランス製)を搭載した「臨時軍用気球研究会式一号機(略称:会式一号機)(徳川式)」が初飛行に成功した。徳川は陸軍に所属していた。
日野式は失敗に終わっていた。
この時代の国産機とは機体が国産ということで、エンジンはまだ外国製であった。
ともかく、国産機初飛行並びに国産民間機初飛行は、1911年5月5日の奈良原2号機ということになった。

政府の研究会のメンバーで「臨時軍用気球研究会」を設立し自らも委員となったのが田中舘愛橘。
航空工学の父とも言われる。専門は地球物理学。
田中舘愛橘は1918年に東京帝国大学付属研究所として「航空研究所」を設立し、1920年に東京帝国大学工学部に航空学科を新設した。
この「航空研究所」は第二次世界大戦後に「宇宙航空研究所」となり、現在の「JAXA宇宙科学研究所」に至る。
「航空学科」は戦後一旦閉鎖されるが、「航空宇宙工学科」として復活した。

1911年5月5日に国産民間機(エンジンは外国製)での初飛行を成功させたという奈良原は、翌1912年4月に奈良原式4号機「鳳号」を有料にて初公開した。
5月には千葉・稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設した。ここに民間飛行家が集まるようになる。そのため稲毛が民間航空発祥の地と言われている。
「鳳号」の「鳳」は出資者が贔屓にしている横綱のしこ名だったそう。
有料公開に味をしめて「地方巡業」に出たが興行は散々な結果に・・・。
金集めが厳しくなり、自信喪失のなか意欲も失って、遂には稲毛から突然に姿を消してしまった。
人はこれを「奈良原、航空界からの引退」と呼ぶ。


奈良原式4号機「鳳号」を操縦したのは白戸栄之助。
奈良原は1877年生まれで、白戸栄之助は1885年生まれ。
奈良原は海軍に在籍していたが除隊、白戸は陸軍に在籍していたがやはり除隊している。
奈良原式4号機「鳳号」を初公開した1912年は、それぞれ35歳と27歳だった。
德川、日野、中島、金子養三らは外国にて飛行訓練を受けて操縦士資格を得ているが、奈良原や白戸はそうではないので自己流ということになりそうだ。
当時まだ日本国内では操縦士や航空兵育成教育が整っていなかった。

海軍を除隊した奈良原に陸軍を除隊した白戸が弟子入りして民間機を操縦したので日本の「民間操縦士第1号という名声」を得た。
白戸は奈良原が稲毛に開設した民間飛行場で教官となり、伊藤音次郎ら門下生を育成した。


しかし奈良原は1913年に稲毛から姿を消した。

奈良原門下生の白戸は1916年に千葉町(現・千葉市中央区)寒川に白戸飛行機練習所を、1917年1月に稲毛海岸に白戸共同飛行練習所を設立した。
同じく奈良原門下生だった(技術は志賀に、操縦は白戸に学んだ)伊藤は1915年2月千葉県稲毛に伊藤飛行機研究所を設立し、1918年に津田沼に移転した。

白戸は航空機の開発には携わらずパイロット養成のみであった。
しかし1923年に愛弟子2名が墜落事故で相次ぎ亡くなったことから航空業界(パイロット養成)から引退した。

伊藤は航空機の開発とパイロット養成両方に携わったが、1920年代になると、それまで軍が採用していた輸入機やライセンス生産機体が民間に格安あるいはタダ同然で払い下げられるようになった。
外国車が日本で製造され価格で勝負できなくなり経営が厳しくなった時代が自動車業界にもあったように、伊藤飛行機は外国製品に性能的にも価格的にも優位に立てなくなった。
伊藤飛行機の国産機の開発は事業として成り立たず、細々と修理によって生き延びる程度で倒産寸前となる。
民間に供給する製品はやはり価格が非常に重要で、性能や品質の良い物をいかに安く提供できるかが勝負である。(場合によっては「安かろう悪かろう」でも売れる)
伊藤飛行機は経営方針を変えて、手軽な軽飛行機やグライダーに特化した。
伊藤音次郎は1930年に日本飛行倶楽部を設立し、この倶楽部に稲毛から消えて航空業界から引退した奈良原を会長に迎えた。こうして民間軽飛行機の普及に貢献した。

航空業界で生き残れたのは、性能品質の良い物を供給できる開発力と製造力を持ちパイロット養成も行っていた中島飛行機と、幕末から明治初期の転換期に巨利を得た資本力のある財閥系の会社のみであった。


1918年5月に創業した中島飛行機は当初「飛行機研究所」という名称だった。
これを「中島飛行機研究所」に変更したのは、1919年4月に東京帝国大学が「航空研究所」を設立し、似たような名称で紛らわしかったからである。
創業時に中島飛行機に出資したのは、江戸時代から続く神戸の老舗肥料問屋・石川茂兵衛商店の石川茂兵衛だった。
この石川が創業から1ヶ月あまりで倒産したため、川西清兵衛が資本を肩代わりすることになったと説明されていることも多いが、石川は第一次世界大戦(1914年7月28日~1918年11月11日)に関係して米穀で大儲けしたのである。その後は神戸の米穀肥料市場理事長にも就任している。
石川の会社が傾いたのは1929年に発生した世界恐慌とその影響を受けた1930~1931年の日本の昭和恐慌の頃で、もう少し後のことである。

川西清兵衛は大阪生まれで、神戸の石炭石油問屋川西家の婿養子となり、「川西清兵衛」を襲名した。
1896年に日本毛織を創立し毛布製造を始め、日露戦争や第一次世界大戦の軍用毛布で大儲けをする。
兵庫電気軌道(山陽電気鉄道の前身)、川西倉庫、日本毛糸紡績会社、昭和毛糸紡績、共立モスリン、山陽皮革、神戸生糸など多数の関連企業を設立して川西財閥を形成した。
川西は安田銀行の監査役を務めていた関係で神戸の石川茂兵衛と旧知の仲で、石川から中島飛行機への出資話を持ちかけられたのである。
1918年5月、川西がそれを受けて経営に参画し、「日本飛行機製作所」に改称。
「1ヶ月あまりで」という話は、1918年4月に「中島飛行機研究所」に改称してから1ヶ月でまた商号変更したということである。

「日本飛行機製作所」(合資会社)
役員:川西清兵衛(社長)、中島知久平(所長)、川西清司、川西龍三、石川茂兵衛、石川茂、有馬唯一。
事務長:川西龍三(清兵衛の次男・慶應義塾理財科卒)、板東舜一(慶應義塾理財科卒・日本郵船)
資本金:川西清兵衛50万、石川茂兵衛10万円、中島知久平15万円(労務を提供するという方法の出資)


ところが翌1919年、川西清兵衛と中島知久平が衝突する。
1919年10月第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会で中島式飛行機がアメリカ製ゴルハム機(伊藤式恵美機)に勝利した翌月のことである。
アメリカの三井物産駐在員からホール・スコット150馬力発動機を200基ほど売りに出せるという情報を得た。
中島はその発動機を、機体の注文を受けていたわけでもないのに、100基(総額約150万円)即決注文したのである。
注文当時の機体製造能力は月3機程度、資本金が中島の労務込みで75万円という会社なのに、100基150万円の即決は確かに大胆である。
ちなみに陸軍に納入していた20機の飛行機の1機あたりの機体価格は1万1千円だったそうだ。(エンジン別)

社長の川西清兵衛は怒り、注文をキャンセルするように指示するが所長の中島は応じない。
川西は中島に所長を退任して技師長になってもらうと通告するも中島は拒絶。
とうとう解雇通知を出すという状況になり、中島派の社員も多いため、工場は休業状態に追い込まれた。(この頃は工場を増設し300名ほどの社員を抱えるまでになっていた)
幾らお金があったとしても人や材料や技術がなければ作れない。
社長として苦境に立った川西は中島知久平に対して、「所長を辞めないのなら3日以内に工場を10万円で買い取れ」(+陸軍から注文を受けた飛行機20機分の利益)と迫る。
関西財界の一翼を担う実業家・資本家の川西にとって退役将校に過ぎない中島知久平に払える金額ではないと高を括っていた。
中島は同郷の実業家で衆議院議員(立憲政友会)でもあった武藤金吉*に相談。
新田銀行から10万円の融資を受け工場を買い取り。
その後は陸軍の井上幾太郎陸軍少将の仲介で三井物産と提携した。
(立憲政友会は1900年に伊藤博文が結党、三井財閥資本であった。後に政界に進出した中島知久平も入党するが、1938年頃から鳩山派と対立、1939年には革新派(中島派)と正統派(久原派)に分裂した。日本が戦争に向かっていた時期。久原派や鳩山派)

*武藤金吉
上野国山田郡休泊村(現在の群馬県太田市)出身。英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業した後、東奥日報創刊とともに記者となり、自由民権を主張した。1899年(明治32年)には自ら「実業新聞」を創刊した。また蚕糸業の発展に尽力し、帝国蚕糸株式会社専務取締役、大日本蚕糸会評議員などの職に就いた。その他山保毛織株式会社社長、群馬県農工銀行取締役などを歴任した。
1904年(明治37年)の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、8回当選を重ねた。田中義一内閣で内務政務次官に就任したが、在職中(1928年4月23日)に死去した。




伊藤博文が1900年に設立した立憲政友会は40年続いて1940年7月に解散に至った。
総裁専制色の強い組織であり、日露戦争、満洲事変、日中戦争を経ての太平洋戦争突入と、戦争の時代を築いた。
中島飛行機の創業者・中島知久平も1930年に衆議院議員に初当選し、立憲政友会に入党した。
翌年には中島飛行機の経営からは離れた。
1937年6月、貴族院議長だった近衛文麿が首相に就任し組閣した第一次近衛内閣に、中島は鉄道大臣として初入閣した。
近衛首相は翌1938年1月にいわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発表し、中国との関係を断絶して話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを失った。
同年4月には「国家総動員法」を制定して戦時体制を整え、同年11月に「東亜新秩序建設」を戦争目的と規定する声明(東亜新秩序声明、第二次近衛声明)を発表した。
引き返せない戦争に突き進んでいた。

1938年夏頃から、立憲政友会では中島知久平派と鳩山一郎派の対立が激しくなった。

1939年1月5日、近衛首相は内閣総辞職。
伊藤博文が内閣総辞職して立憲政友会の設立を準備したように、近衛も新党結成の準備に専念するのであった。

1939年4月30日、中島知久平は一方的に「政友会革新同盟」を結成して総裁となった。
こうして立憲政友会は分裂し、どちらも総裁を主張するという状況に陥った。
 ・正統派(鳩山派)(久原派)
 ・革新派(中島派)

近衛文麿はソ連共産党やナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指し、6月に「新体制」声明を発表。
これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・立憲政友会久原派、ついで立憲政友会鳩山派・立憲民政党永井派などが相次いで解散した。
近衛の新党準備期間の1年半の間には3人の首相が就任していた。
1940年7月22日、満を持しての近衛再登板。第2次近衛内閣が組閣された。
「新体制」運動を展開し、保守政党から合法無産政党まですべての政党を自発的解散に追い込んだ。
1940年8月15日の立憲民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなった。

近衛文磨が準備した大政翼賛会が1940年10月に発足、解散した全ての政党が合流し、一党独裁制がここに誕生した。
右の翼も左の翼も尾翼も揃っている飛行機は上手く飛ぶ。
※翼賛体制
日本の太平洋戦争下における一国一党組織である大政翼賛会を中心に、軍部の方針を無批判に追認し、国民を戦争に総動員した体制。

近衛首相は日本放送協会(NHK)の2代目総裁でもあった。
1936年9月に就任。
終戦の年1945年の12月、A級戦犯に指名された当日服毒自殺を遂げたのだが、それまでずっと日本放送協会の総裁であった。
玉音放送は日本放送協会から流されたものである。


中島は戦闘機を作っていた中島飛行機の創業者であるため軍部や戦時体制に賛成していたと誤解されやすいが、政党でみれば1940年に作られた戦時体制に反対していた政党は立憲政友会と立憲民政党である。
ただ両政党の中にも派閥があり、特に立憲政友会は久原派と中島派で完全に分裂状態だった。
このうち最初に解散し戦時体制に迎合したのは久原派(正統派)であった。
同様に戦時体制賛成党にも反対派は存在した。
そして最後は一党独裁制となり大政翼賛会に集約されたのであり、賛成派も反対派もここに集結する以外になかったわけである。

例えば社会大衆党(なんの因果か、あべ・あそうコンビ)。
1932年7月に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された(安部磯雄委員長・麻生久書記長)。こうして、無産政党の統一が実現した。事実上の二大政党制を担ってきた民政党と政友会に対する、いわゆる日本憲政史上初の“第3極”である。
しかし、社会大衆党は陸軍統制派・革新官僚に迎合・接近していく。親軍路線を主導したのは、麻生久を中心とする旧日本労農党系のグループであった。麻生は1934年「戦いは文化の母である」と主張する「陸軍パンフレット」を「広義国防論」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。1937年に行われた総選挙で第3党に躍進する倍増の38名当選の成果を得たが、同年の日中戦争勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領を制定。その後も軍部との関係を強化し、1940年3月には、斎藤隆夫の反軍演説による懲罰動議に対して反対の姿勢を示し欠席・棄権した党首の安部磯雄、西尾末広、片山哲、水谷長三郎、鈴木文治ら8名に対し、麻生主導で除名処分にするなど、より親軍部の立場を鮮明にした。同7月に二大政党よりも早く、先頭切って自発的解散の形をとって消滅、大政翼賛会に合流した。


麻生久
大分県玖珠郡東飯田村(現・九重町)生まれ。旧制大分中学校(現・大分県立大分上野丘高等学校)、第三高等学校を経て、1913年東京帝国大学仏法科に入学。学生時代はトルストイ、ツルゲーネフなどロシア文学に熱中し、これがロシア革命に関心を寄せる契機となった。また女性関係も派手であったといわれている。

東大卒業後の1917年、東京日日新聞(現・毎日新聞)に入社。翌1918年には東日紙上に「ピーターからレーニンまで」を連載しロシア革命を支持した。また同年には吉野作造らとともに大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を立ち上げ、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。

麻生は、軍部勢力と無産勢力、天皇勢力と庶民勢力の連携によってはじめて日本の革命は行われる、と信じていた。しかし急速に軍部独裁の高まりを見せる中、軍部・日中戦争・大政翼賛会を支持し、反対派を放逐・圧迫していった麻生の態度は、戦争肯定論者ともとれる。

戦争派だったが1940年9月6日に心臓麻痺で急逝した。享年49歳。


戦争に反対だった安部磯雄
福岡藩士岡本権之丞の次男として福岡市に生まれる。安部姓を名乗るようになったのは徴兵忌避のためである。当時60歳以上の扶養家族がいれば徴兵免除の特典が与えられたため、60歳以上の老人のいる家を探して謝礼を支払い名義上安部家の養子となる。
1879年3月、小学校を優秀な成績で卒業したが、明治維新後実家が貧しかったので上級学校には進まず、地元の私塾向陽義塾(現在の福岡県立修猷館高等学校の源流の一つ)に入門した。その後、同志社英学校(現・同志社大学)に入学していた義兄が磯雄の才能を惜しみ、磯雄を海軍軍人にするために同志社に学ばせようと父親を説き、学資の援助を申し出たことにより同志社英学校に入学することとなった。1884年同志社英学校卒業(在学中、新島襄より受礼)。
その後、ハートフォード神学校(アメリカ)やベルリン大学に学ぶ。1895年に帰国後、同志社教授を経て1899年東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となる(1907年から教授)。

日本の社会主義者。キリスト教的人道主義の立場から社会主義を活発に宣伝し、日本社会主義運動の先駆者であった。また、日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる。 早稲田大学野球部創設者でもある。






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by yumimi61 | 2016-05-20 10:53
2016年 05月 18日
日本国憲法の秘密-246-
1919年3月9日、中島式四型のテスト飛行が成功に終わる。パイロットは佐藤要蔵。
海軍がこれを高評価したという噂を聞きつけ、同年4月15日、陸軍が航空部(後の陸軍航空本部、1945年11月に廃止)を設立。直ちに中島式四型を20機ほど正式発注した。

1919年4月25日、多くの来賓や観客を集めて、尾島飛行場が正式開設され、合わせて祝賀飛行が行われた。
この時は2機が飛行した。パイロットは佐藤要蔵と、陸軍を退役したばかりの水田嘉藤太。
佐藤が操縦したのは、トラクター式に馴れないパイロットの操縦訓練用に製作した中島式三型(四型に改良前モデル)。
水田が操縦したのは、3月に佐藤が飛行を成功させている中島式四型。
2人はこの時に軽々とアクロバット飛行を披露し、関係者をも唖然とさせ、群衆を熱狂の渦に巻き込んだ。
観客から機体が見えなくなると判断すれば、宙返りして高度を下げるほど余裕があった。
高度も3000m超え、飛行時間も1時間程度を記録した。

女性問題で陸軍と揉めて退役した水田はそれに相応しく(?)、非常にハイカラな人でスター性を持ち合わせていた。
陸軍で問題になった新橋の芸者とも(正式に結婚したのかどうかは不明だが)常に一緒で、搭乗の際にも夫人に見送られるという洒落た演出をしてみせた。
またこの元芸者の夫人がとても美しい人で余計に絵になったらしい。


絵になる、華がある、それはそれで素晴らしいことではあるが、それと実用性はまた全く別の話である。
アクロバット飛行は航空ショーには適しているかもしれない。
しかし現実的なことを考えれば、アクロバット飛行が必要な機会はそうそうない。
飛行機に求められるのは、荷物や人を輸送できる能力であり、戦闘機ならば戦闘できる能力となる。
輸送というのは自動車や船や列車など他にも手段があるわけだから、それらに勝る利点が必要となる。
飛行機による戦闘に関して言えば、アクロバット飛行が出来る方がよいだろう。
但し1人2人乗った飛行機同士が戦い、撃ち落とすなり逃げきったとして、戦況にどれほどの影響があるだろうか。
普通に飛んで行って上から爆弾落としたほうが影響力は強い。
そうなるとアクロバット飛行が出来る飛行機やパイロットは別に必要ではないということになってしまう。


安全に安定的に飛行でき、確実に離着陸できる飛行機やパイロットが重宝される。中島知久平はおそらくその辺りのことは十分に理解していた。
また飛行機だけでなくパイロットの技術的な問題が大きいことにも気付き始めていた。
操縦技術の向上を目指して、尾島飛行場が正式に開設されると、尾島に飛行学校を設け、水田を校長とした。
水田はもともと陸軍の所沢飛行場で操縦教官をしていたくらいだから、水を得た魚である。

1919年10月、帝国飛行協会主催で第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会が開催された。
帝国飛行協会とは、先に述べたように、民間の力を掘り起こすべく政府と軍が1913年に発足させた民間団体である。
しかしこの団体の活動も思ったほどの成果が挙げられず、結局海軍機関兵だった中島の中途退役を許して民間にしたわけだが、第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会のエントリーも中島飛行機から1機とそれ以外にもう1機、計2機しかなかった。
2機では淋しすぎると思ったのか、中島飛行機にもっと出場させてくれないかと協会から要請があり、中島飛行機はもう1機エントリーした。それでも中島2機、他1機、計3機の競争である。
中島飛行機以外の1機は、伊藤音次郎の伊藤飛行機研究所の伊藤式恵美五型であった。
伊藤式恵美五型は、アメリカ人のウィリアム・R・ゴーハムが日本で飛行機及び航空エンジンを製作する目的で、1918年8月に家族と飛行家を伴い来日した際に持ち込んだ機体。
従って機体もエンジンもアメリカ製。伊藤飛行機がこれに若干改良を加えて伊藤式恵美五型としたが、一般的にはゴルハム複葉機と呼ばれる機体。
日本での航空機工場設立を企てたゴーハムだったが、第一次世界大戦後(1918年11月終結)の不況や日本でも中島飛行機などがすでに創業していたため失敗に終わった。
持ち込んだ機体とエンジンは伊藤音次郎に売却したのである。

余談だがウィリアム・R・ゴーハムはその後、来日するに当たり世話になった足の不自由なプロモーター・櫛引弓人*のためにハレー・ダビットソン製のバイク用エンジンを搭載した2人乗3輪自動車(クシカー)を製作し贈った。
1919年12月、クシカーに目をつけた久保田鉄工所の創業者らが「実用自動車株式会社」を大阪に設立して、ゴーハムを技師長に迎え入れ、ゴーハム設計によるゴルハム式3輪車と4輪車を製造したが経営的には失敗に終わった。
その後ゴーハムは鮎川義介(山口県出身、久原財閥を引き継いで日産コンツェルン創始)の戸畑鋳物に招聘されて小型エンジンの開発と生産に従事し、以後「日立」と「日産」の技術者として活躍する。

松方正義の五男・五郎のところで自動車について書いた
昭和初期の日本の自動車メーカー(保護自動車3社)と言えば、「瓦斯電」「ダット(快進社))」「石川島」であった。

・「ダット・DAT(快進社)」は、1911年に創業された日本初の国産自動車メーカーであり、日産自動車の前身である。
当時外交官(イタリア大使館三等書記官)であった後の総理大臣・吉田茂 の所有する東京府渋谷村麻布広尾88番地(現・東京都渋谷区広尾5丁目)の地に創業した。
創業者は愛知県出身、東京工業学校(現:東京工業大学)機械科卒の技術者であるが、会社創立のパトロンは竹内明太郎**。DATのTはTakeuchiのTである。
竹内明太郎は吉田茂の実兄。吉田茂は竹内綱の息子であり、横浜の貿易商・吉田健三の養子となって、40歳で急逝した吉田の莫大な財産を相続した。(こちらにも書いた)
竹内明太郎は竹内綱の息子であるが、茂は実母も不明であるため、母親が(さらには父親も)同じであるかどうかは分からない。
**竹内明太郎
現在の高知県宿毛市出身の明治・大正期の実業家・衆議院議員。早稲田大学理工学部設立者。竹内綱の長男で吉田茂の兄(異母兄とも)。麻生太郎の大伯父。子は横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身の一つ)教授の竹内強一郎、孫は地理学者、一橋大学教授、日本地理学会会長の竹内啓一、曾孫に、TBSテレビの報道局記者・ニュースキャスターである竹内明がいる。エッセイストの麻生和子(茂の三女)は姪、学者の吉田健一(茂の長男)は甥に当たる。


1911年に創業された「快進社」と、1919年12月にゴーハムの製作したクシカーに目を付けて創業された「実用自動車製造」、この両者が1926年に合併して「ダット自動車製造」を設立。
1931年に戸畑鋳物(現:日立金属)(社長:鮎川義介)が「ダット自動車製造」を買収して傘下に入れた。

1933年、 石川島自動車製作所がダット自動車製造株式会社を吸収合併して東京自動車工業株式会社に改称(後のいすゞ自動車)。
1933年、旧ダット大阪工場を戸畑鋳物が70万円で購入、自動車製造株式会社となる。鮎川義介が東京自動車工業株式会社に対し、ダットサンの製造に関する一切の権利を譲渡するよう嘆願し、無償でダットサンの製造権を譲り受ける。製造権と図面と技術者を得て、自動車製造が開始される。
・・・会社は横浜に設立。これが現在の日産自動車である。
1934年、自動車製造株式会社が日産自動車と改名。「ダットサン」をアジア、中南米などに向けて輸出を開始する。

「快進社」や「ダット自動車製造」やは日産の前身企業であるが、それらを鮎川が吸収合併し、それがさらに石川島自動車に吸収され、その後石川島(東京自動車工業)がダットサン製造の権利を鮎川に無償譲渡して日産自動車が誕生したことなどを考えると、それぞれどんな恨み辛みや恩義借りがあるのか分かりにくい。

*櫛引弓人(くしびきゆみんど、1859-1924年)
日本の興行師。博覧会における各種興行を取り扱う「ランカイ屋」と呼ばれる興行師の一人で、「博覧会キング」と呼ばれた。
青森県三戸郡五戸町に生まれる。慶應義塾入学後、1885年、渡米する。

1893年、シカゴ万国博覧会で、日本庭園を作り、そこで日本娘による茶のサービスを行う。1896年、アトランタに日本庭園と球戯場を作り、資金を作り、興行師としての基礎を固める。1897年には、映写機(ヴァイタスコープ)と映写技師をつれて日本に戻り、東京で初の映画の上映会を行う。1899年、川上音二郎一座のアメリカ公演も彼の発案である。

その後、セントルイス、シアトルの万国博覧会で辣腕をふるい、1910年の日英博覧会では、在米邦人が出資して作った「ジャパン・ビューティフル」の総支配人を務め、大きな富士山のジオラマの前に高さ約30メートルの鎌倉大仏を作り、色鮮やかな投光と組み合わせて見せた。
また、1915年には、チャールズ・ナイルズ、翌1916年にはアート・スミスと女性飛行士キャサリン・スティンソンを連れて日本に戻り、日本各地でアクロバティック飛行の興行を打った。




第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会は、飛行機に30kgの郵便物を積んで東京から大阪まで一気に飛んで大阪で着陸、さらに再び大阪を離陸して東京に帰るというものであり、当時としてはなかなかハードルが高い。
中島飛行機からは中島式四型(パイロット:佐藤要蔵)、中島式六型(パイロット:水田嘉藤太)が出場した。
四型のテスト飛行が成功したことにより、陸軍から発注されていた20機の製造に入るとともに、量産機にすべく四型の改良も行われた。
陸軍向け量産機が中島式五型。
五型の機体強度を上げ、エンジンを強化し、プロペラを変更したものが中島式六型機として製作された。
水田はその最新の中島式六型機を操縦。これが優勝候補だった。
ところがコースを間違えて(?)和歌山県紀ノ川付近に一旦不時着してしまい失格となる。(でもそこから大阪に飛び立ち、大阪ではまたもやアクロバット飛行を披露)
失格にはなったものの帰路レースにも参加。同乗者1名(夫人ではなく男性)ありで2時間39分という大記録を打ち立てる。
優勝した中島式四型機は往路3時間40分、帰路3時間18分、計6時間58分。
2位の伊藤式恵美五型機(ゴルハム機)は、計8時間28分。


1919年3月に中島式四型機の初飛行を成功させ、1919年10月開催の第1回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会ではその四型機を操縦して優勝した佐藤要蔵。
彼は秋田県の仙南村出身で、優勝した翌月には故郷で飛行を披露した。(尾島飛行場から飛んで行ったのではなく機体は秋田まで運ばれた)
ところが佐藤は翌1920年に中島知久平と衝突して中島飛行機を辞めてしまう。
「安全や安定や確実性が重要だと言いながらどうして水田なんですか?」と言ったかどうか・・詳しいことは分からない。
ただ中島は水田に自分で飛行機学校を開設できるくらいの資金は提供してやったという。
しかし1921年、津田沼飛行場で練習生とともに飛行練習中に機体が墜落して亡くなってしまった。27歳だった。
津田沼飛行場は伊藤音次郎(伊藤飛行機研究所)が開設した飛行場である。 

1924年、水田も練習生とともに尾島飛行場で飛行練習中に機体が墜落して重傷を負い、飛行機操縦からの引退を余儀なくされた。33歳だった。(49歳に逝去)


第2回懸賞郵便飛行競技会は1920年に大阪久留米間で、第3回懸賞郵便飛行競技会は1921年に東京盛岡間と実施された。
また1920年4月にはやはり帝国飛行協会主催の新たな長距離飛行競技会が開催された。
東京都江東区にあった洲崎飛行場を離陸し、大阪の城東練兵場(大阪城の東側周辺にあった)上空で折り返し、そのまま洲崎に戻るという870kmの行程の速さを競う競技会。
(1919年10月の第1回懸賞郵便飛行競技会は飛行場として利用されていた城東練兵場に一旦着陸した。)
この長距離飛行競技会には5機がエントリーしたが、実際に出場した飛行機は2機。
中島飛行機の最新型の中島式七型(在米同胞号)と伊藤式恵美14型のみ。
中島式七型はアメリカ在住の日本人が帝国飛行協会に寄付した資金により製作された機体であるため「在米同胞号」とも呼ばれた。
つまり機体は中島飛行機製であるが、機体を所有し競技会に出場するのは帝国飛行協会ということである。
1920年2月に完成して、3月に帝国飛行協会に引き渡され、4月の競技会に参加した。

パイロットは飯沼金太郎。千葉県佐倉市出身。
臨時軍用気球研究会所属の澤田秀陸軍中尉の書生を経て、1917年に帝国飛行協会の飛行機操縦練習生に採用される(徳川好敏に迎え入れられる)。
そのまま同協会の研究生となり残る。そして1919年9月~1920年4月まで尾島飛行場に出向した。
尾島飛行場での彼の仕事は帝国飛行協会専用の格納庫を建設するための工事監督であり飛行とは直接関係なかったが、任務の傍ら中島飛行機の佐藤要蔵から中島式の飛行機の操縦を教わった。

競技会当日、洲崎飛行場を離陸しておよそ30分後、神奈川県の丹沢山地に墜落(激突)して機体は大破、飯沼は一命を取り留めたが足に後遺症が残った。
1921年に帝国飛行協会に辞表を出して24歳で引退。
しばらく療養生活を送った後に、津田沼の伊藤音次郎のもとで世話になる。
とはいっても飛行機に乗れるわけではなく、生活は荒れがちだった。
そんな噂を耳にした中島知久平は、飯沼が絵を描く趣味があったことを知っていたため、画材道具一式を用意して尾島飛行場に招いて彼の面倒を見た。
5~6年ほど油絵を描く生活を送り、歩きながら聞ける「ラジオ傘」なるものを発明したりもした。
しかしどうしても飛行機への夢が捨てきれなかった飯沼を中島はさらに援助した。
1929年、中島飛行機東京工場に近い場所に飯沼金太郎商店を開店させた。東京工場から大量に出る金属の切削屑を飯沼金太郎商店に引き受けさせ、飯沼はこれを転売することで利益を得た。
すると今度も中島の助言により、その利益を元手に1932年に細亜航空機材研究所を設立。
さらに翌1933年、亜細亜航空機材研究所を母体として、亜細亜航空学校・亜細亜航空機関学校を創立し、念願の後進育成に携わることになった。





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by yumimi61 | 2016-05-18 10:45
2016年 05月 17日
日本国憲法の秘密-245-
中島飛行機
エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。


国産ジェット機MRJの挑戦 世界が注目する日本の航空技術より>
技術の日本と言うのは、世界共通の認識です。それは飛行機についても同じで、部品レベルでは世界中の飛行機に日本製の部品が使われています。これだけ高い技術を持っているのですから、日本独自で飛行機全体を作ることは出来そうな気がします。

これは、実際にそうであった時期もあります。かつて日本にはいくつかの飛行機メーカーがあり、それぞれのメーカーは戦闘機の生産も行っていました。第二次世界大戦当時に使用されていた戦闘機はほとんどが日本製、つまり国産でした。
連合国から「ゼロ・ファイター」と呼ばれて恐れられていた日本の戦闘機ゼロ戦は、戦争に用いられたものではありますが、現在でも航空機史上に残る名機として伝説になっています。

この当時から、日本の航空技術は非常に高いというのが連合国に共通した認識でした。戦後は日本が飛行機を生産するということは長らくありませんでしたが、自動車や造船などの産業が世界トップレベルであることを考えると、飛行機がそうであっても不思議ではありません。このことに連合国側が驚異を感じたため、日本の敗戦を機に飛行機の生産を禁じたのです。これは意外に思われるかも知れませんが、現在でも日本は戦闘機の国産をするには、一定の制約があります。




<国産ジェット機MRJの挑戦 往年の国産航空機メーカーより>
■三菱重工業
日本の航空業界を常にリードしてきた会社です。戦中までは国産の戦闘機を製造しており、その中でも代表的なメーカーとして知られています。名古屋市にある同社の名古屋航空宇宙システム製作所という施設は「名航」と呼ばれており、航空ファンなどからは神聖視されているところもあります。

現在でもボーイングやエアバス、ボンバルディアなど、多くのシェアを持つ航空機メーカーに部品供給をしており、自衛隊や米軍の戦闘機やその部品などを幅広く生産しています。種子島で打ち上げられている国産ロケットも同社の製品で、空に関する総合的な事業を展開しているメーカーです。
かつてはYS-11という戦後初の国産飛行機の事業譲渡を受け、販売していたこともあります。YS-11はまもなく役割を終えようとしていますが、現在もアフターサービスは同社が行っています。

これだけの技術があれば国産の飛行機を生産出来るのでは、という期待が社内外で持ち上がり、国が推進する国産ジェット機生産プロジェクトに名乗りを上げています。このプロジェクトはMRJ(三菱リージョナルジェット)という飛行機の生産という形で実現に向けて着々と準備が進みつつあります。
三菱重工業が生産する初の国産ジェット機MRJは、2011年に初飛行の予定です。



■中島飛行機
退官した海軍将校によって設立された航空機メーカーで、設立当初から戦闘機の受注生産を前提とした会社でした。通常はエンジンか機体、どちらかについては別のメーカーから購入したものを利用するのですが、中島飛行機は全ての生産を自社で行うことが最大の特長です。
その高い技術力は世界的に知られており、終戦直前までは三菱重工業をも上回る実績を持っていました。いわゆるゼロ戦のうち、有名なものはほとんどが中島飛行機の製品です。

しかし、軍需産業という目的で設立された航空機メーカーであることから、終戦直前の時期には戦闘機の生産拠点を破壊するために、アメリカ軍の爆撃目標にされることは当然の流れで、中島飛行機の工場はほとんどが無くなってしまいました。

終戦を機に、中島飛行機は12社に分社され、航空機の製造も禁じられました。これは事実上、中島飛行機を解体するための措置だったのですが、分社されたそれぞれの会社は、一部の会社が再び合併によって再結集しています。この再結集によって誕生した会社が富士重工業(スバル)です。また、一部は現在の日産と合併しているため、日本の自動車産業には旧中島飛行機の流れを汲む会社がいくつもあることになります。

興味深い点としては、中島飛行機は戦中の時期からすでにジェット機やロケットなどの産業に参入していたことです。中島飛行機解体を機に一度は頓挫していますが、再び富士重工業は航空事業への参入にチャレンジすることを表明しています。



国産ジェット機MRJの挑戦 国産ジェット機は技術者の悲願より>
戦後、日本は高い技術を持ちながらも飛行機を生産出来ないという状態が続き、この状態は日本航空機製造という会社によって生産されたYS-11まで続きました。YS-11は戦後初の国産飛行機ですが、座席数の少ないプロペラ機であったため、現在では過去のものとなってしまっています。現在はジェット機の時代となっており、世界の市場に打って出るにはジェットエンジンの飛行機でなければなりません。

現在世界中のメーカーによって生産されているジェット機の主要部品には、多くの日本製部品が使われています。NASAが運用しているスペースシャトルですら、日本製の部品でないと使い物にならないものが多くあるため、このことを考えても多くの飛行機に日本の技術が利用されていることは想像に難くありません。

これらの技術を結集して、国産のジェット機を作れないか。これは多くの飛行機部品を製造するメーカーの技術者に共通する思いでした。技術的には可能であっても、ジェット機の生産には莫大な開発費が必要になります。また、事業として成立させるには、多くの問題をクリアしなければなりません。このことがハードルを高くしてしまい、長らく国産ジェット機は構想だけのものでした。
現在事業化が進められている国産ジェット機の各プロジェクトは、そうした技術者や関係者にとって、長年の悲願でもあるのです。



戦時中、戦闘機の生産拠点だった中島飛行機の工場が爆撃目標になった。
長い江戸時代が終わった後、江戸時代を彷彿させたり懐古称賛するようなものは残しておきたくなかった。
明治時代が始まった時には新時代に相応しい歴史が必要で、都合の悪い歴史は残しておきたくなった。
都合の悪いものは叩き潰し、壊滅、解体したい、そう思うのが当然の流れであるという。
逆を言えば、残したものは、残っているものは、都合の悪いものではなかったということになる。


連合国は戦後の日本に航空技術が温存されないように、これらのメーカーに対して飛行機の生産を禁じる措置をとりました。これだけではなく、日本は終戦からサンフランシスコ講和条約の発効(1952年)まで、飛行機を飛ばすことも禁じられていたのです。
この措置により、日本から航空機メーカーというものが消え、長らく国産の飛行機が製造されるということはなくなりました。



1917年5月に群馬県尾島町(現:太田市)に「飛行機研究所」(のちの中島飛行機)に創立した中島知久平は、同年12月に正式に海軍を退役した。
その中島が取り組んだ飛行機製作は海軍向けではなく陸軍向けだった。
中島知久平が中途退役を許可されたのは、陸軍の気球重視を阻止するためだったのではないかと考えることが出来る。
中島は当然その技術力を買われたわけでもあるが、海軍機関兵という立場では陸軍がすんなり受け入れるとは思えなかった。だから民間人になってもらう必要があった。
この場合、風任せの気球があまりに脅威だったということになる。
気球が脅威なのか、気球に囚われる発想が脅威なのか、さて。

もうひとつの考えらるのは、風まかせの気球を重視していた陸軍の飛行機派に実力を買われたということである。
民間の力の掘り起しも試みたが思ったほどの成果が上がらなかったので、海軍機関兵の中島に民間人になってもらい飛行機を発注しようという考えである。
風任せの気球での攻撃は危険と思っていたのか、飛行機のほうがさらに確実に攻撃できると思っていたのか、さて。



実力を買われたと言っても、高い技術力と言っても、最初から失敗なく上手くいったわけではない。(だから失敗したじゃないか?)
そもそも飛行機が少し浮き上がった「成功」や何十メートルか飛んだ「成功」と、それが実用に耐えうるものになるかは別の話。
飛んだのか、ジャンプしたのか、落ちたのか。
その方法や機体で長距離飛ぶことは出来るのか、量産が可能で且つ量産体制が敷けるのか。
その飛行機は何人乗せることが出来るのか、どれくらいの積載に耐えうるのか、戦闘に向くものなのか。
飛んだのは良いが、大破することなく着地できるのか。
作ったのは良いが、操縦できる者がいるのか。
性能と安全の兼ね合い。
費用対効果は、投資対効果はどうなのか。
様々な課題がある。
それは、机上理論の確立、実験成功やマウスを対象にした非臨床試験成功が、実用化に即繋がるものではないことを意味する。

【中島式一型・・・トラクター式複葉複座式】
機体は独自設計による木製骨組に羽布張りの複葉機。エンジンは陸軍から払い下げられたホール・スコット(アメリカ製)。

●中島式一型一号機
1918年(大正7年)8月1日には帝国陸軍向けである中島初の国産航空機たる中島式一型1号機が完成。
初飛行は尾島飛行場で行われたが、河原の凸凹の滑走路だったため機体の震動が激しく、ついにはひっくり返って大破。

●中島式一型二号機
上記一号機を約20日かけて修理を行い、修理完了後にこれを改めて中島式一型二号機とした。しかし、この二号機も8月25日に行われた陸軍のパイロットによる飛行試験中、着陸の際に利根川の堤防に激突してまたも大破。

●中島式一型三号機
二号機のテストパイロットを務めた岡楢之助騎兵大尉の案によって機体の小改造が行われ、約一週間後に中島式一型三号機として修理が完了した。1918年9月13日に場所を各務原飛行場(岐阜県)に移し、再び岡大尉をパイロットとして飛行試験を行ったが(17分の飛行成功)、着陸時の滑走中に飛行場の一角にあった溝にはまり機体を破損。

●中島式一型四号機
再び岡大尉の案に基づく改造が行われ中島式一型四号機とした。四号機の試験飛行は1918年12月9日、場所を尾島飛行場に戻して行われたが、飛行中に機体故障が発生し利根川に墜落。テストパイロットを務めていた中島の佐藤要蔵飛行士が重傷を負って本島病院に入院した。
この後の修理は行われず、一型が陸軍に納入されることはなかった。

太田の人も飛ばない中島飛行機にしびれを切らして次のように歌って揶揄したという。
札はだぶつく、お米はあがる、何でもあがる、あがらないぞい中島飛行機。

不調の原因は設計の段階で重心が後ろに片寄り過ぎていたことと言われている。
また当時の陸海軍の主流はプッシャー式(推進式)(ふなっしーではありません)だったが、中島式一型はトラクター式(牽引式)であったため、パイロットがトラクター式を上手く操縦できないという原因もあった。
プッシャー式はプロペラが後部にあり機体を押し出すタイプで、トラクター式はプロペラが前部にあり機体を引っ張るタイプ。
トラクター式のほうが安定性や安全性に優れており、後にトラクター式が主流となる。


【中島式二型】
海軍向け水上機の開発計画。但し実際に開発製造はされなかった。
中島は海軍在籍中の1916年に水上機を設計製造している。

【中島式三型】
トラクター式に馴れないパイロットの操縦訓練用に、ファルマンタイプの主翼を付けてみた機体だが、墜落大破している。(徳川大尉が操縦し国内初飛行で成功したのがファルマン機だった)

【中島式四型】
中島式三型の経験をフィードバックした複葉機。


1918年8月~12月に試作・飛行した中島式一型の一~四号機の失敗を受け、中島式三型機が設計製作され、さらに四型機では新設計の主翼が採用されるなど改良が施された。
四型機が完成したのは1919年2月。初飛行は3月9日だった。
12月の飛行で負傷した佐藤要蔵がパイロットとして再び挑む。
風速10mを越える強風という悪条件であったが、尾島町、埼玉県大里郡、太田町、木崎町、境町と大旋回し、無事飛行場に着陸した。飛行時間20分、高度も500mを超えた。


陸軍向けの試作機を製作していたが一向に上手くいかず、陸軍も見限り始めていた。(「やっぱり気球だな」とか?「東京帝国大学航空研究所の飛行機を待つか」とか?)
と言っても、中島飛行機は創業が1917年5月、中島の海軍正式退役は1917年12月、試作機1号飛行が1918年8月なので、創業から1~2年くらいのことである。
1919年3月に四型機の飛行が成功すると風向きは急に変わった。
1919年4月15日、陸軍に航空部(後の陸軍航空本部、1945年11月に廃止)が設立される。 初代部長は井上幾多郎(山口県出身)。
陸軍航空部は直ちに中島式四型を20機ほど正式発注した。

実は1919年3月の四型機の飛行を最初に高評価したのは海軍だった。
陸軍はもともと気球志向であることに加え中島は海軍出身である。
このままでは中島の飛行機を海軍に取られてしまうかもしれない。
ちょうどその頃、陸軍の所沢飛行場で操縦教官をしていた水田嘉藤太中尉が新橋の芸者との女性問題によって兵器工場へと配置換えになり、それが不服の水田は陸軍に辞表を出していた。
この水田を中島知久平が拾った。問題を起こしたものの飛行操縦の腕はあった水田を陸軍は密かに民間の中島に売り込んだわけである。




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by yumimi61 | 2016-05-17 11:24
2016年 05月 15日
日本国憲法の秘密-244-

1903年、自転車屋を営んでいたライト兄弟(アメリカ)が飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した。
1906年に万国国際法学会は、各国の自衛に供されぬかぎり航空は自由という原則を採った。14対9という多数決の結果は、航空技術の熾烈な競争を招いた
自衛がダメなら攻撃ならいいのかということになるが、訳の妙だろうか。ともかく初期から兵器としての使用に懸念があったことは事実。

1907年、世界恐慌。
1908年、オルドリッチ・ヴリーランド法にてアメリカ通貨委員会を設立。 

1910年11月22日、J・P・.モルガンが所有するジキル島クラブで秘密会議が開かれ、FRB設立についての計画を討議。

1909年、陸海軍共同で「臨時軍用気球研究会」を設立。
1910年12月19日、日本国内で初飛行。操縦は徳川好敏と日野熊蔵。飛行機はフランス製とドイツ製。
1911年4月1日、陸軍が所沢飛行場を開設。
     5月5日、海軍を除隊した奈良原が奈良原式2号機で飛行成功(したらしい)。国産機初・民間機初の名声を得る。
    10月13日、「臨時軍用気球研究会式一号機(略称:会式一号機)(徳川式)」が飛行成功。操縦は陸軍の徳川好敏。
    10月25日、「イ号飛行船」の飛行成功。操縦は海軍の中島知久平。
1912年4月、奈良原式4号機「鳳号」を有料にて初公開。
     5月11日、後に大正天皇と昭和天皇となる親子を迎えて奈良原式4号機「鳳号」の飛行成功。
     5月、千葉県の稲毛海岸の干潟を利用して民間飛行場開設。
     6月、海軍が「海軍航空術研究委員会」を設立。
     7月、明治天皇崩御。
    12月、横浜沖観艦式で海軍飛行機隊を初披露。操縦は中島知久平など。
1913年、政府と軍が「帝国飛行協会」という民間団体を発足。
1913年、奈良原が稲毛からいなくなる。(引退)
1913年10月20日、陸軍の気球隊が所沢飛行場に移った。

この頃の日本の桂太郎と西園寺公望が交互に首相に就任していた「桂園時代」(1901~1913年2月20日)であった。
桂太郎は長州藩出身の陸軍軍人で、西園寺公望は公家出身で明治維新後に新潟府知事に就任したが軍人志望でフランス留学を希望。留学から帰国後は伊藤博文の腹心となった。伊藤博文は1909年にハルピンで朝鮮民族主義活動家に暗殺された。

1913年12月23日、多くの上院議員がクリスマス休暇で不在の隙を突いて連邦準備制度が成立した。

1915年2月、奈良原に師事していた伊藤音次郎が稲毛に伊藤飛行機研究所を創立した。
同年、伊藤式・恵美1型を制作。但しこの機体は伊藤が一から設計製造したものではなく、他者が製造し、その後ばらしてあったものを買い受けたものである。
1916年1月8日、伊藤音次郎が上記機体で東京訪問飛行を行う。
1916年12月、白戸栄之助が千葉町(現・千葉市中央区)寒川に白戸飛行機練習所を開設した。
1917年1月には稲毛海岸にも白戸共同飛行練習所を開設した。

「桂園時代」の後の首相は山本権兵衛(薩摩藩出身の海軍軍人、1913年2月20日-1914年4月16日)。
その後は大隈重信(2次、1914年4月16日-1916年10月9日)、寺内正毅(長州藩出身の陸軍軍人、1916年10月9日-1918年9月29日)と続く。

一方、大正天皇(大正への改元は1912年7月だが、即位の礼は3年後の1915年)はと言うと・・・。
1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を休むことが多くなり、1919年(大正8年)には食事を摂ることも勅語を読むこともできなくなるほど病状は悪化していた。
1921年11月25日に正式に、後の昭和天皇が摂政に任命された。(大正天皇崩御は1926年12月25日)


これは私の推測だが、飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功したのは表向きライト兄弟ということになっているが、それ以前より可能だった、あるいはすでに成功していたが公にはされていなかったということではないだろうか。
ヨーロッパで出来なかったということはなかったと思うし、それはアメリカ国内にも言えることかもしれない。
ライト兄弟の成功によって飛行機による有人動力飛行に火が付いてしまった。
民間利用には希望がなくもないが、軍事利用には懸念が大きかった。
これがヨーロッパが国盗り合戦から足を洗った1つの理由であったかもしれない。
また日本と外国の関係もここで大きく変わった可能性がある。
江戸幕府がアメリカとの関係を持つことに大反対だった明治新政府(かつての討幕派)はイギリスをはじめヨーロッパとの関係を深めたわけだが(借金も沢山していた)、ヨーロッパが若干日本と距離を取り始めた。
それに伴い日本とアメリカとの関係が密となっていく。
このアメリカが曲者である。アメリカという国は広い。また移民も多い。
アメリカ人と言うだけでは、どこ出身で、どこの国に親しみを感じているのか分からない。
宗教や政党が違えば考え方も大いに変わる。
単純な国民像を描きにくい国なのだ。団結が乏しいとも言える。。
だからこそアメリカは何かにつけオーバーアクションになってしまうのだろう。


海軍の機関大尉だった中島知久平は1916年に水上機を設計し、海軍の横須賀工場で製造した。

中島は、航空の将来に着眼し、航空機は国産すべきこと、それは民間製作でなければ不可能という結論を得た。これを大西瀧治郎中尉にひそかに打ち明けたところ、大西も大賛成で、中島の意図を実現させようと資本主を探して奔走した。大西も軍籍を離れて中島の会社に入ろうと思っていたが、軍に却下された。中島の「飛行機製作会社設立願い」は海軍省内で問題となった。中島はこのとき「退職の辞」として、戦術上からも経済上からも大艦巨砲主義を一擲して新航空軍備に転換すべきこと、設計製作は国産航空機たるべきこと、民営生産航空機たるべきことの三点を強調した。



1917年5月、中島知久平は出身地である群馬県尾島町(現:太田市)に「飛行機研究所」(のちの中島飛行機)を創立した。
中島の出身地である尾島は、実は徳川とも関係がある地である。
明治時代の町村制施行で新田郡に尾島町と世良田村が誕生。この時に德川村は他の村々とともに世良田村となった。
1957年に世良田村が尾島町と堺町に分かれて編入し世良田村はなくなる。世良田と徳川地域は尾島町に含まれた。
2005年の合併により太田市となり尾島町もなくなったが、世良田町や徳川町といった町名は残っている。
新田郡には、新田町・尾島町・藪塚本町・笠懸町の4町が存在したが、新田町・尾島町・藪塚本町が太田市と合併、笠懸町が山田郡大間々町・勢多郡東村と合併してみどり市を発足したため新田郡は消滅した。
この合併では、歴史ある「新田」という名称を残したほうがいい派と、もともと市である太田市という名称を使うべき派で、一悶着あった。
新田郡が消え、新田町も消えてしまうと、「新田」という地名が残らなくなる。
そこで苦肉の策(妥協案)として旧新田町の大字名に全て「新田」を付けて、太田市新田○○町としたのである。

新田氏の始祖・源義重(八幡太郎義家の孫。異母弟に足利氏の始祖がいる)の子・新田義季が世良田と徳川の領地を父から譲られて、世良田姓や徳川姓を名乗ったことから、この地が「徳川氏発祥の地」と呼ばれる。
松平姓だった家康(松平家9代目)は清和源氏系新田氏家の世良田・徳川の末裔を称しており、勅許を得て家康個人のみが徳川氏に復姓(改姓)したため、以後の江戸幕府将軍家は徳川姓となった。
徳川家康の先祖は、新田義季(後の世良田・徳川)が徳川に創建した満徳寺の僧だったという。
現在の愛知県碧南市にあった寺での連歌会にて出会った松平太郎左衛門信重の家に婿養子として入ることになった。
実家の寺を棄て、僧の道を棄て、故郷を棄てての養子入りに、実家の親はさぞかし立腹したことでしょう。(兄弟がいっぱいいたのかな?)
でもこの寺、後に縁切寺として知られるようになる。(親に勘当されたんでしょうね、やっぱり)
2代将軍・徳川秀忠の娘は豊臣秀頼と別れた後、縁切のためこの寺に入り、その後に再婚したそう。
江戸幕府と関係の深い寺だったので、1872年(明治5年)に廃寺にされてしまった。


1917年12月1日、中島が海軍中途退役を認められる(予備役に編入)。
同年12月21日、海軍を正式に退官。
当初尾島町(現:太田市)の自宅の養蚕小屋を使用して創業した「飛行機研究所(後の中島飛行機)」を太田町(現:太田市)に移転した。

中島が最初に飛行機製造を相談したという大西瀧治郎は中途退役が認めらなかった。
1916年複葉機を設計し民間製作の必要を感じた中島知久平機関大尉が海軍をやめて飛行機製作会社(後の中島飛行機)をつくりたいと大西中尉に打ち明けた。大西は賛成して奔走し、資本主を探し回った。大西が面会した山下亀三郎が海軍省に報告したため、大西は出頭を命じられ、「軍人に賜わりたる勅諭」を三回暗誦させられてから始末書を書かされた。
山下亀三郎は山下汽船(現:商船三井)・山下財閥の創業者。

大西瀧治郎は1924年3度目の海軍大学校受験に不合格となる(3度までしか受験できない決まりだった)。
学科試験をパスし、口頭試問に臨んだが、数日前に料亭で飲んだ際に暴れて芸者を殴り暴力事件として新聞になったことから素行不良を理由に「大西は出頭するに及ばず」と入試候補を取り消された。1925年1月7日霞ヶ浦海軍航空隊教官。1926年2月1日佐世保海軍航空隊飛行隊長。1927年12月1日第一艦隊司令部付、連合艦隊参謀。
海軍大学校は幹部養成学校で海軍兵学校出身の少佐や大尉に受験資格がある。出世コース(キャリア)である。
但し海軍大学校を卒業せずとも大将まで昇進するケースはあった。大西瀧治郎は中将まで昇進した。

実はこの大西が神風特別攻撃隊の創始者だと言われている。
1945年8月16日、大西は渋谷南平台町の官舎にて遺書を残し割腹自決した。
神風KAMIKAZE 大西瀧治郎中将の苦悩

国産機の民間製造に意気投合した中島知久平と大西瀧治郎は結果的に全く別の道を歩むことになった。
そして迎える太平洋戦争。

大西は、真珠湾内の魚雷発射は水深が浅いため不可能なこと、ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持がむずかしいことの二点を山本五十六に説明し、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」と頼んでいる。大西は「日米戦では武力で米国を屈服させることができないから早期戦争終末を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのためにも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである」との見解を吉岡忠一に漏らしている。1941年9月24日軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃への悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は黒島亀人に説得される。
山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した。


また大西は太平洋戦争前より大型機論を唱えていた。
1935年横須賀航空隊副長兼教頭大西瀧治郎大佐は、当時の海軍が持っていた戦闘機よりも優速の双発陸上攻撃機が完成される見込みがついていたこと、戦闘機の航続力が短いこと、海上での航法能力が小さいことなどのために、航空母艦での使用が制限されていたことから戦闘機無用論を唱えて横空の戦闘機関係者を論破した。また、1937年7月海軍航空本部教育部長にあった大西は「航空軍備に関する研究」と題するパンフレットを配布しており、その中で大遠距離、大攻撃力、大速力を持つ大型機による革新を説き、小型航空機に将来性はなく、戦闘機は爆撃機の速度、高度増大でさらに必要なくなると主張してる。

にもかかわらず、だからこそと言うべきか、あまりにも皮肉な運命が待っていた。
1944年10月より大西瀧治郎は前線に立つ多くの若者に航空機による体当たりという特攻を命じることとなる。
国産の航空機製造に携わる中島知久平は体当たり専門の廉価な航空機は作れないと拒んだ。
飛行機不足で出撃できない特攻隊員は、トヨタの自動車エンジンを積んだ小型のベニヤ板製モーターボートに炸薬を搭載し艦艇に体当たりする「震洋」の特攻要員に回された。

1945年5月19日、海軍大学校卒業者ではない大西が軍令部次長に就任する異例の人事が発表される。
夏がやってきた。終戦は近づいていた。
それでも大西は、2000万人の男子を特攻隊として繰り出せば挽回は可能という「2000万人特攻論」を唱えていたという。
7月26日にポツダム宣言が出されても、8月6日・9日と原爆が投下されてもその考えは変わらなかった。
8月13日にまだ「国民が2000万人犠牲の覚悟を決めれば勝てる」と主張していた。
そして8月15日、玉音放送、戦争が終わった。
翌8月16日、大西は死んだ。









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by yumimi61 | 2016-05-15 12:47
2016年 05月 14日
日本国憲法の秘密-243-
日本国内で初めて飛行機による飛行に成功したのは1910年12月19日と言われている。パイロットは徳川好敏と日野熊蔵 。
日本ではその前年1909年に陸海軍共同で「臨時軍用気球研究会」を設立した。
陸軍は1911年4月1日に所沢飛行場を開設、同年10月13日に「「臨時軍用気球研究会式一号機(略称:会式一号機)」が飛行した。

海軍は、「今どき気球なんてダサい」か「気球なんて風任せで不確実なものは駄目だ!」か分からぬが、気球を重視する傾向の強い陸軍に同調することができなかった。
そこで1912年に「海軍航空術研究委員会」を設置し、同年中に横浜沖観艦式にて海軍飛行機隊の披露された。
この時代、海軍はヨーロッパから飛行機を購入していた。


1909年に陸海軍共同で「臨時軍用気球研究会」を設置し、陸軍大尉の徳川好敏と日野熊蔵が1910年4月からヨーロッパに派遣されて同年12月に初飛行に臨んだ。
その後、陸軍と海軍は袂を分かつ。
海軍は1912年6月の「海軍航空術研究委員会」の設置から同年12月の横浜沖観艦式での海軍飛行機隊披露までの間にフランスに1名とアメリカに3名の大尉を派遣した。

【日本の旧軍隊の階級】
大将・中将・少将・大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉・陸軍准尉と海軍兵曹長・陸軍曹長と海軍上等兵曹・陸軍軍曹と海軍一等兵曹・陸軍伍長と海軍二等兵曹・陸軍兵長と海軍兵長・陸軍上等兵と海軍上等兵・陸軍一等兵と海軍一等兵・陸軍二等兵と海軍二等兵

※二等兵から始まるので二等兵が新人。
但し海軍では1942年前は四等兵と三等兵が存在していた。海軍に入隊した兵士はまず海軍陸上部隊である海兵団で教育された。この期間を四等兵とし、教育機関が終わると各部隊に配属され1年間くらい研修期間があった。この期間が三等兵。これを経て二等兵に昇進した。

※前線に出るのは大尉や少佐まで。
前線に出れば当然死亡率や負傷率は高くなる。
但し海軍の戦艦や巡洋艦の艦長はほとんどの場合がそれより上の位の大佐であった。駆逐艦艦長はその下の中佐から大尉くらいだった。戦艦内に階級が存在したとしても戦艦が攻撃されて爆発なり沈没するなりすれば、現実問題として階級による生存率はそれほど変わらなくなる。船に乗るということは命運をともにするということでもあるのだ。
それは飛行機にも言えることであろう。



1909年に陸海軍共同の「臨時軍用気球研究会」を設立した日本は、1911年10月13日に「「臨時軍用気球研究会式一号機(略称:会式一号機)」を初飛行させた。
同年10月25日には純国産(エンジンは輸入)の「イ号飛行船」を初飛行させた。
この飛行船の操縦員が後に中島飛行機を創業する中島知久平であった。
また1912年に海軍からアメリカに派遣された大尉の1人が中島知久平だった。
中島は海軍機関科所属で、制度上、海軍機関科は戦闘要員である海軍兵科と区別して扱われた。(戦闘要員の兵科のほうが優遇された)
中島は日本で3番目のパイロット免許取得者である。


日本で初飛行が行われると、物珍しさも手伝って日本でも外国人による航空ショー(アクロバット飛行)が人気を集めるようになる。
これを機にさらに航空に興味を持ってもらい、民間の力を掘り起こすべく、政府と軍は「帝国飛行協会」という民間団体を1913年に発足させる。
そして鳥コンテストやロボットコンテスト(ロボコン)のような大会が催されるようになる。
(但し航空ショーブームは物珍しさが醒め1920年までには下火になっていた)

国産機での初飛行を成功させたのは奈良原三次と言われている。
鹿児島県出身、父は島津藩士。1908年に東京帝国大学工学部造兵科を卒業して海軍少技士となる。
1910年、「臨時軍用気球研究会」(1909年設置)の委員に任命された。
1910年10月、奈良原は海軍に在籍していながら、弓師(弓職人)の技術を使って自費(?)で奈良原式1号機を完成させたが、飛行は失敗に終わったそうだ。
海軍を退役して民間人となった奈良原は1911年5月5日、同年4月1日に陸軍が開設した所沢飛行場においてノーム50馬力エンジン(フランス製)を搭載した奈良原式2号機の飛行に成功させたという。
同年10月13日、同じく所沢飛行場にて、グノーム50馬力エンジン(フランス製)を搭載した「臨時軍用気球研究会式一号機(略称:会式一号機)(徳川式)」が初飛行に成功した。徳川は陸軍に所属していた。
日野式は失敗に終わっていた。
この時代の国産機とは機体が国産ということで、エンジンはまだ外国製であった。
ともかく、国産機初飛行並びに国産民間機初飛行は、1911年5月5日の奈良原2号機ということになった。


政府の研究会のメンバーで「臨時軍用気球研究会」を設立し自らも委員となったのが田中舘愛橘。
航空工学の父とも言われる。専門は地球物理学。
陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の南部藩士の家に生まれた。
南部藩の藩校で学んだ後に、一家が東京へ移住。慶應義塾、官立東京開成学校予科を経て、1878年(明治11年)に前年に発足したばかりの東京大学理学部(のち帝国大学理科大学)に入学。日本で最も早い時期に「野球」に接した人物でもある。

1882年(明治15年)に東京大学理科物理学科を第1期生として卒業し準助教授に就任。
1888年~1891年、公費でイギリス、ドイツ、アメリカへと留学し、帰国後に東京帝国大学理科大学教授に就任。

1891年(明治24年)10月に発生した濃尾地震で震源地の岐阜・根尾谷の断層を発見・調査した。この調査経験を元に、地震研究の必要性を訴え、1892年(明治25年)に設立された日本で初の地震研究組織である文部省震災予防調査会に委員として参加している。また、岩手県水沢に緯度観測所(現在の国立天文台水沢観測センター)を設立した。

1904年(明治37年)には日露戦争の影響で気球の軍事利用研究に参加することとなり、これがきっかけで航空に関する研究に取り組むこととなった。


田中舘愛橘は1918年に東京帝国大学付属研究所として「航空研究所」を設立し、1920年に東京帝国大学工学部に航空学科を新設した。
この「航空研究所」は第二次世界大戦後に「宇宙航空研究所」となり、現在の「JAXA宇宙科学研究所」に至る。
「航空学科」は戦後一旦閉鎖されるが、「航空宇宙工学科」として復活した。
JAXA宇宙科学研究所の本部(中核研究施設)は、神奈川県相模原市にあり「相模原キャンパス」と呼ばれる。
JAXA宇宙科学研究所の衛星打ち上げ拠点は、鹿児島県にある鹿児島宇宙空間観測所である。
相模原には現在アメリカ軍の施設があるが、戦前その辺りは兵器工場など日本の軍事施設が数多くあり、相模原を軍都にする計画もあった。
軍事施設は陸軍関係が多いが、海軍の毒ガス工場が相模原にあったと言われている。

1911年5月5日に国産民間機(エンジンは外国製)での初飛行を成功させたという奈良原は、翌1912年4月に奈良原式4号機「鳳号」を有料にて初公開。
5月には千葉・稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設した。ここに民間飛行家が集まるようになる。そのため稲毛が民間航空発祥の地と言われている。
「鳳号」の「鳳」は出資者が贔屓にしている横綱のしこ名だったそう。
有料公開に味をしめて「地方巡業」に出たが興行は散々な結果に・・・。
金集めが厳しくなり、自信喪失のなか意欲も失って、遂には稲毛から突然に姿を消してしまった。
人はこれを「奈良原、航空界からの引退」と呼ぶ。(1930年頃に日本軽飛行機倶楽部の会長に就任して復活した)



奈良原式4号機「鳳号」を操縦したのは白戸栄之助。
青森県北津軽郡金木町出身。陸軍の気球隊に入り、除隊後、陸軍軍曹当時の上官であった徳川好敏の紹介で奈良原三次に師事する。

気球隊
日本で最初に軍用気球が飛ばされたのは、1877年(明治10年)5月23日である。西南戦争で、薩軍に包囲された熊本城救援作戦に気球を利用する計画が立てられた。築地海軍省練兵所で行われた気球の実験は成功したが、熊本城攻防戦に決着がついたため実用化は見送られた。
1904年(明治37年)、日露戦争の際には、芝浦製作所製の気球を配備した臨時気球隊が旅順攻囲戦に投入され、戦況偵察に活躍した。臨時気球隊の成功を受けて、翌1905年(明治38年)には、東京中野の電信教導学校内に気球班が設置された。1907年(明治40年)に、気球班は改組されて陸軍気球隊となり、鉄道連隊、電信大隊、気球隊を合わせた交通兵旅団の一部となった。1913年(大正2年)10月20日、気球隊は陸軍の航空基地であった所沢飛行場に転出した。


奈良原は1877年生まれで、白戸栄之助は1885年生まれ。
奈良原は海軍に在籍していたが除隊、白戸は陸軍に在籍していたがやはり除隊している。
奈良原式4号機「鳳号」を初公開した1912年は、それぞれ35歳と27歳だった。
德川、日野、中島、金子養三らは外国にて飛行訓練を受けて操縦士資格を得ているが、奈良原や白戸はそうではないので自己流ということになりそうだ。
当時まだ日本国内では操縦士や航空兵育成教育が整っていなかった。

海軍を除隊した奈良原に陸軍を除隊した白戸が弟子入りして民間機を操縦したので日本の「民間操縦士第1号という名声」を得た。
白戸は奈良原が稲毛に開設した民間飛行場で教官となり、伊藤音次郎ら門下生を育成した。
彼らには民間飛行士の資格が与えられた。

1912年は明治天皇が崩御した年である。
持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して、心臓麻痺で亡くなった。7月30日、61歳だった。
飛行機の時代が始まったと思ったら、明治時代が終わった。まさに時代の転換点だった。
奈良原式4号機「鳳号」を有料初公開したのは1912年4月だが、5月11日には青山練兵場(東京)で後に大正天皇・昭和天皇となる親子を迎えて飛行に挑み成功したそうだ。
稲毛海岸に飛行場を開設したのも同月だった。
明治天皇が亡くなる2か月前のことである。

そして1913年、当の奈良原が稲毛からいなくなる。
その後、白戸栄之助や伊藤音次郎はどうしたのか。

白戸栄之助
1916年12月に、それまでの本拠であった稲毛を離れ、千葉町(現・千葉市中央区)寒川に白戸飛行機練習所を開設し、もっぱら飛行士の養成に努めた。
1917年1月に稲毛海岸に白戸共同飛行練習所を設立する。


伊藤音次郎
1891年、大阪生まれ。1910年19歳の時に奈良原三次の弟子となる。
伊藤に目を掛けたのは技師長だった志賀潔(細菌学者の志賀潔とは別人)。志賀潔は稲毛飛行場に後から雇われ奈良原式設計を根本から改革した人物だが、伊藤は航空機設計を志賀から学んだ。操縦は短い期間ではあったが白戸に教わる。
1915年2月千葉県稲毛に伊藤飛行機研究所を創立し、独立した。1915年に自らの出身地の名前をつけた伊藤式・恵美1型を製作し1916年1月8日東京訪問飛行を行い飛行家として有名となった。1917年に台風で稲毛の施設が被害を受けると、1918年に津田沼に研究所を移転した。






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by yumimi61 | 2016-05-14 12:07