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2016年 08月 31日
・1週間くらい前に腕に発疹が出た。
小さな蚊を見かけた後に痒くなった箇所があったので蚊に刺されたのかと思って肘のあたりを搔いていたら、発疹が広がってきた。えっ・・蚊じゃない・・?
湿疹?蕁麻疹?アレルギー性紫斑病?
痒みがある・・・まさかダニ?
ダニに刺されたということで落ち着きました。


・先日車に乗っていて、交差点で右折しようと右折車線で待っていたら、対向車線から走ってきた車は左折のウィンカーを出して減速した。
その交差点には横断歩道があるのだけれど、左折しようとしている車は横断歩道の前で停止。
だけど・・・横断歩道を渡っている人がいない・・・少なくとも私には見えない・・・
なぜなぜなぜなの?
横断歩道のある歩道に立っている黄色い服を着て帽子を被った子供の人形を知っていますか?
その人形がある横断歩道だったのです。
でもそこのその人形・・・だいぶ年季が入っていて・・・直視するのも痛々しいくらいで・・・
幾らなんでもあの人形を歩行者と見間違えたとは思えないのだけれど・・・
ちょうど人がひとり横断歩道を渡り終えたくらいの時間が過ぎたら、何事もなく左折車は発進した・・・。
あれはいったい・・・


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by yumimi61 | 2016-08-31 23:07
2016年 08月 30日
日本国憲法の秘密-338-
1904-1905年、日露戦争。
1908年、本野一郎、ロシア大使に就任。
1912年7月30日、明治天皇崩御
1914年4月9日、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)崩御
1914年4月16日、大隈重信首相再登板(第一次内閣から16年後の第二次内閣発足)
1914年6月28日、サラエボ事件発生(オーストア・ハンガリー帝国の皇太子がサラエボで民族主義者に暗殺される)。
1914年7月28日、第一次世界大戦勃発。
1914年8月23日、日本もドイツに宣戦布告。
1915年1月5日、対華21カ条要求提出。
1915年11月10日、大正天皇即位の礼
1916年10月9日、寺内内閣発足。本野一郎が外務大臣に。
1917年、大正天皇の幼少期の病が悪化し、公務が難しくなる。
1917年2月‐3月、ロシア革命(国会議員の臨時政府による君主制打倒)
1917年10月、ロシア革命(レーニン率いるボリシェヴィキ政権となる)
1918年1月、共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立。
1918年3月、ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱。
1918年4月、本野一郎が癌のため外務大臣を辞職。
1918年5月、チェコスロバキア軍が蜂起して、シべリア鉄道沿線地域やシベリア西などに拡がる。
1918年7月、シベリア共和国が成立し独立宣言(社会革命党と立憲民主党の5名政権)。
1918年8月、レーニン暗殺未遂。アメリカがシベリア出兵を決定。

イギリスは、ロシアがウラジソストクに保管していた備蓄軍事物資がドイツに渡ることを防ぎ、ドイツの視線を東に向かせ再びドイツの軍事力が東西に分散されることも期待して、東シベリアでの戦いを考えた。
そこで軍事独裁政権であるコルチャークの臨時全ロシア政府とアメリカと日本に依頼することにした。
シベリアでの戦いにはチェコスロバキア軍が非常に重要な戦力となるとも見做していた。
アメリカは1918年8月にシベリア出兵を決定したという。

(日本には)積極的な出兵論と消極的なそれの2つが存在し対立していた。
積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。これが参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平達の出兵論である。
対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに立憲政友会総裁の原敬達によって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。


本野一郎は肥前(佐賀)出身。読売新聞社創業者の息子(一郎が12歳の時に創業)。横浜貿易商会に入社してリヨン支店に赴任。務めの傍ら、フランスのリヨン大学で法学を学び法学博士の学位を取得。
同郷の大隈重信の誘いで帰国し陸奥外務大臣の秘書官となり、伊藤博文が設立した東京帝大で「国際法」を教える。
大隈は第一次伊藤内閣で外務大臣だった、。陸奥は第二次伊藤内閣の外務大臣であった。
本野はその後、ベルギー、フランス、ロシア公使(日露戦争時の公使)を経て、1908年にロシア大使に就任。10年あまりロシアに駐在していた。
第一次世界大戦中の1916年10月に発足した寺内内閣で外務大臣に入閣。帰国が間に合わず首相の寺内正毅が臨時で1ヶ月半ほど外務大臣を兼任していた。

寺内内閣の前は大隈内閣。大隈は1907年に政界を引退しており、当時は早稲田大学総長であった。
つまり再登板首相なのだが前回はすでに16年前。第二次内閣は第一次世界大戦が勃発する前の1914年4月に発足した。
(日英同盟に基づいて)第一次世界大戦に参戦したが西部戦線には出向かず、ドイツ領ミクロネシア(狭義の太平洋諸島;マリアナ・マーシャル・カロリン)(南洋諸島とも言う)に侵攻して占領。1915年1月には中国北京政府に対華21ヶ条要求を提出し、禍根を残すことになる。
この時の外務大臣は大隈と密接な三菱財閥と血縁関係にあった加藤高明。イギリス留学経験もあり日英同盟の推進者。

明治天皇は1912年に亡くなっており、時代は大正となっていた。但し大正天皇の即位の礼は3年後1915年まで行われなかった。即位の礼が行われなかったということは皇位継承が内外に示されなかったということである。大隈重信の首相再登板や第一次世界大戦参戦決定はその間に行われたことだ。
その第二次大隈内閣は元老との不協和音を生じる。(前も散々合わなかったというのに・・)
元老とは主権者たる天皇の諮問に答えて内閣総辞職の際の後継内閣総理大臣の奏薦(大命降下)、開戦・講和・同盟締結等に関する国家の最高意思決定に参与した重臣。天皇のエージェントみたいな感じ。一番最後に任命された西園寺公望は京都出身の公家だったが、後は全て長州藩と薩摩藩出身。
伊藤博文(長州)、黒田清隆(薩摩)、山縣有朋(長州)、松方正義(薩摩)、井上馨(長州)、大山巌(薩摩)、桂太郎(長州)、西園寺公望(公家)

元老は大隈や加藤が独断で何でも行うと言って大隈続投を好まず、結局大隈は1916年10月に内閣総辞職するに至った。その時に大隈自身は加藤高明を首相に推薦したが、元老会議は朝鮮総督の寺内正毅に要請して、大正天皇は寺内に新たな組閣を命じた(首相交代)。


レオナード・ハンフリーズ (Leonard Humphreys) は
“ 当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである ”
としている。

そこで寺内首相は同地域において日本の息のかかった傀儡政権を樹立する事を参謀本部第二部長中島正武少将に命じた。


「そこで」で繋げた文章なので、あたかもレオナード・ハンフリーズが生き証人のようだが、ハンフリーズは第一次世界大戦後の1924年生まれである。
アメリカの歴史学者。パシフィック大学教授。
主に明治・大正期の陸軍政策史を研究。米陸軍語学学校で日本語教育を受けた。進駐軍として第二次大戦後来日し、9年間滞在。その間軍務の他、民間の仕事にも携わった。帰米後スタンフォード大で学び、1969年パシフィック大助教授等を経て’80年パシフィック大教授就任。’75年スタンフォード大から日本陸軍に関する研究で博士号を取得。講演などで日本の紹介に努める。アジア研究学会会員。著書「Will Japan Rearm?」(’73年)。

そのハンフリーズは上記のように、「政治的・イデオロギー的な理由もあった。日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があった」と述べているようだが、 そうだとすると日本は君主制で資本主義が良いと思っていたということになる。簡単に言えば差別のある社会。
ファシズムや共産主義は基本反資本主義なので、日本がもしもファシズムで反資本主義ならば、当時のロシアと相容れないことはない。
もっともハンフリーズはロシアのことを「革命政権」と表現しており、この場合にはアメリカが後援した立憲民主党の臨時政府、社会主義者によるソビエト、レーニンによるボリシェヴィキ政権と、幾つかの意味にとれる。
臨時政府とボリシェヴィキ政権は、同じ革命政権でも反対の立場に立った。

レーニン・ロシアは君主制には反対で且つ経済を社会主義(共産主義)に移行することを目指していた。どちらかと言えば、経済変革の重点が大きかったと思う。
そしてそれには世界的な(少なくともヨーロッパの)変革が必要だと考えていた。
1919年3月、レーニンは共産主義の国際組織コミンテルン(第三インターナショナル)を結成した。

中島正武は高知県出身の軍人。1915年に陸軍少将に昇進し参謀本部付となり、第一次世界大戦には「観戦武官としてロシア軍に従軍」した。(革命前のロシアは帝国であり、日本にとって憎き(?)ニコライ2世皇帝がいた)(シベリア共和国を乗っ取って軍事独裁制を布いたのも元ロシア軍人)


日本はドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦したが、日本は西部戦線にも東部戦線(ロシアの西側・ヨーロッパの東側)に兵力を送り込むのではなく、ドイツ領だったミクロネシアや中国の山東省に侵攻して占領した。
しかし軍事占領というのは権益の帰属を確定するものではなく、戦後の条約によって確定するものである。
その際に軍事占領を主張したければ、休戦協定や講和条約が成立するまで占領しておく必要がある。
後で説明するつもりだが、こうしたことから北方領土問題に関する日本の主張は正当性に欠けるものであり、きわめて不利である。

ドイツ軍が手薄ですぐに占領を果たしたとはいうものの、そこに継続して居座っている必要があった。
中国に日本が居座っていることに異を唱えたのが中国。中国は当初参戦はしていなかったが(1917年8月14日にドイツとオーストリアに宣戦布告し参戦)、各国が権益を持っていた地域だけは交戦区域として認めていた。
日本がその交戦区域を逸脱したとして抗議し、交戦区域の撤廃を通告した。
交戦地域でなくなった場合、戦争に参加していない(宣戦布告していない)中国に侵攻することはアンフェアで侵略行為となる。(租借地とはあくまでも契約に基づいて貸している土地で外国ではない)
侵略と言われたくないために「ドイツ領を占領したのは中国に返すため」と日本は言い訳したのだが、租借条約はドイツと中国が結んだもので返還は直接行われるべきものであると中国は主張。他国への無断譲渡も条文で禁じていたという。日本の行為は余計なお世話極まりない。
ドイツ領を日本が勝手に中国に返還したとなれば、戦後にそれが問題視されて多額の賠償義務を負う可能性があった。もしもドイツが戦争に勝つようなことがあれば尚更立場は弱くなる。日本にとっても良いことなどない。
対華21カ条要求には山東省の権益の日本移行と他国への譲渡禁止が盛り込まれていた。


日本が本当に危惧していたのは関東州(中国の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地)だった。
日露戦争の勝利で、その権益がロシアから日本に移行したが、権益期限が1923年までだった。
そう、これは、1898年にロシアと中国(清)との間で結んだ租借条約に基づくもので、それを日本に移行しただけなのだ。日本と中国(清)が新たに条約を締結したわけではない。
当事国から当事国への返還ではなく、他国への移行となるわけだが、これは問題ではなかったのだろうか?
こちらは譲渡可と条文に明記されていたのだろうか?それとも別途ロシアが中国に了解を得たのか?
それとも中国(清)と日本が同じ国という認識だったのか?
勝手に移行したということになればロシアにも日本にも問題があるが、しかしこちらは第二次世界大戦後に返還されたわけだから、今更問題にしようもない。
でも当時は、第一次世界大戦でドイツが勝てば問題にされかねないし、そうでなくてもレーニン・ロシアで期限を迎えたら、その後は更新してもらえない可能性があった。


日本もアメリカ同様にシベリア出兵を宣言したのは1918年8月のことだが、1918年1月に共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」が成立した時点ですでにウラジオストクに艦隊を派遣していた。そのためシベリア出兵(シベリア侵攻)の噂はその頃から絶えなかった。

1918年の米騒動(米価格高騰による暴動が発生した)
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戦争特需によって景気が良くなって物価が上がり、都市部流入者や工業労働者が増えて生産者が減り生産が減ったとか、輸入米が入って来なくなったので価格が上昇したと言われるが、ロシア革命が起こった1917年までは大きな変化はない。むしろ少し安く推移している。
つまり日本国内の米は価格を押し上げるほど少なくなっていないし、労働者の給料も高くなっていたわけではない。
第一次世界大戦勃発も日本の参戦も日本国民に大きな影響は与えていない。
米の価格が高騰したのはロシア革命以降である。(上の図の黄色線がロシア革命時期)
主食である米の価格が上がるということは全体的に価格は上昇する。いわゆる物価が上がった状態となる。
なぜロシア革命で日本の物価が上がったのか?それは米が少なくなってきたからである。
でも急に生産量が減ったとか大量に消費して無くなったとかいうことではない。
これから値が上がることを予想して、米を買占めたり、売り惜しみをする人が出てきて、市場に流通する量が減ったのだ。
何故これから値が上がると予想したかと言えば、いよいよこれから本格的な戦争が始まると思ったからだろう。日本にとっての本格的な戦争ということ。
戦争が本格的に始まれば軍需品以外は品薄になる。だから価格は上がる。その価格の高い時に売り抜けて儲けるという魂胆。
これらをさらに煽るのが投機(マネーゲーム)。米は先物取引など投機対象となっていた。投機になると実際に米を持っていない人も参加できる。
先物取引では値がかなり上がるという雰囲気を作っておいて投資させ、実際にはそこまで上がらないほうが儲かる。(儲かるのは一部の人で先物取引に応じた人は大抵大損する)

この米の価格の変動をを見ると、イギリスやアメリカに依頼されたからシベリアに出兵したわけではないことが分かる。
第一次世界大戦が終結しても価格がそこまで落ちなかったのは、日本はまだシベリアでの戦いを続行していたから。撤退したのは1922年10月のことである。
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by yumimi61 | 2016-08-30 12:49
2016年 08月 29日
日本国憲法の秘密-337-
トマーシュ・マサリクとアメリカ人妻の間にはヤンの他に4人の子がいた。
その中のひとり、1879年生まれの姉アリツェ。
アリツェはカレル大学に入学を許可された最初期の女子学生の1人であり、その後、英国、ドイツ、アメリカに留学した。帰国後、大学教授となり、1911年のカレル大学における社会学部設立に貢献したが、第一次世界大戦中はマサリクの子は危険人物であるとして幽閉状態に置かれ、活動を制限された。チェコスロバキア独立後はチェコスロバキア赤十字総裁となり、父親の意向で女性の権利拡大にも貢献した。しかし、1939年のナチス・ドイツのチェコスロバキア併合により、米国に亡命。終生米国で暮らした。

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(左図)ルクセンブルク朝時代の神聖ローマ帝国
黄緑:ルクセンブルク家領
橙:ハプスブルク家領
青:ヴィッテルスバッハ家領
紫:アンジュー家領
桃:ブルゴーニュ家領
赤:ヴィスコンティ家領
黄:サヴォイ家領
緑:ヴェッティン家領

チェコスロバキアはかつてのボヘミア王国ということになる。
1306年にチェコ人民族王朝であるプシェミスル家が断絶し、1310年にドイツ貴族(領邦君主家)ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。
ルクセンブルク家のカレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世兼務)の時に、プラハが神聖ローマ帝国の首都となり、1348年にドイツ語圏最初の大学であるプラハ・カレル大学が設立される。
歴史の古いチェコの最高学府であり東ヨーロッパ一の大学とも言われている。
チェコの初代大統領・トマーシュ・マサクリはこの大学の教授であった。2代目大統領のエドヴァルド・ベネシュもこの大学の講師だった。トマーシュ・マサクリの娘もこの大学に入学した。

彼女は医師を目指していたが1年で諦め、同大学で歴史や社会学、哲学などを学んだ。
当時のチェコのこの大学がどうであったかは分からないが、アメリカの大学では医学や法学といった専門的な分野は大学院レベルで学ぶものとされていて学部では専攻がない。教養科目を学ぶ。
専門ではなく教養なので高校と大学の科目に共通点がある。従って高校の時に高校よりは高いレベルの大学での授業についていけるような人は大学でも授業を受けられる。それが高校と大学どちらの単位にもカウントされたり、大学の単位になったりする。
(日本の大学は下手すると中学・高校・大学と2重3重に同じような授業を受けるはめになる。しかも大学でもクラス制を重視していて横並び集団から抜けるのは容易ではない)
アメリカでは自分にあったレベルの単位をとっていけて、尚且つ貯金ではないが大学の単位を貯めることが出来る。だから早く進むことが可能。飛び級は単位を取らずに飛ばしていいよということではない。
ただアメリカは高校卒業を大学入学条件にしておらず、高校卒業同程度の学力があり大学の授業に付いていけることを証明すれば何歳でも大学に入学できる。
この制度が大幅短縮を可能にしているのだが、ハーバード大学でも(天才詐欺師!?の)アダム・E・ウィーラーくんの偽願書にコロリと騙されてしまったくらいなので、偽願書も氷山の一角なんでしょうね。証明するって難しい。


アリツェ・マサリクは独自の研究生活(大学生活)を終えると、アメリカのシカゴ大学セツルメントに招聘される。

セツルメント
日本では隣保館と言われる場所のことを指す場合もあるが、基本的に、持つ者と、持たない者がともに相集って一定の地域、場所で共同して支えあう精神に基づくボランタリズム運動の意味あいが強い。社会福祉の発達に大きな影響を及ぼした。
隣保館
貧困・教育・差別・環境問題などにより世間一般と比較して劣悪な問題を抱えるとされる地域(スラムや同和地区など)において、その対策を講ずる事の出来る専門知識(教育学や法律に関する知識・社会福祉援助技術など)を持つ者が常駐(住み込む事が理想的であるとされる)し、地域住人に対して適切な援助を行う社会福祉施設。時に(特に外国の隣保館を指す場合において)セツルメント(英: settlement)と呼称される。現在では広義で、特にセツルメントの語は専門家による一般市民への福祉的援助・指導を指す意味合いがある。

最初の隣保館はイギリスで産声を上げた。1870年代に同国の経済学者かつ歴史学者兼社会改良家で牧師でもあったアーノルド・トインビーがスラム地区の労働者貧困の問題に対して「労働者を取り巻く制度・環境の改良・整備」や「下位の労働階級への十分な教育の普及」及び「教育による労働者らの意識の向上」を解決手段と位置づけ、それを行うための施設を提唱し設置を呼びかけたセツルメント運動が隣保館の源流である。

アメリカにおいては、女性活動家ジェーン・アダムズとその友人エレン・ゲイツ(Ellen Gates Starr)によって、同国最初のセツルメントハルハウスが誕生する。


イギリスでは1884年にロンドンにてイギリス国教会牧師のバーネット夫妻が開設したものが最初だったとされる。ロンドンの極貧地域の牧師となり成人夜学校を創立した。

アメリカでは上記のジェーン・アダムズとエレン・ゲイツ・スターが1889年にシカゴに開設したハルハウスが最初だったとされる。彼女らは社会福祉の母とも呼ばれる。
ハルハウス
13もの施設にさまざまな部門を抱えるまでに発展し、アメリカ合衆国では最大規模のセツルメントのひとつとなった。ジェーン・アダムズは、このようなセツルメントをロンドンのトインビーホールという先駆で見てきたことがあり、同様のものをアメリカにもと設立に踏み切った。彼女は、ここを拠点に平和運動、市民運動を展開し、ノーベル平和賞を受賞した。
その始まりは、近在に住む労働者階層の人たち、その殆どが移民でもあり、彼らに社会的、教育的な学習の機会を提供するというのが、第一の目的であった。もともとは、1856年に建てられた裕福な実業家の邸宅であったが、30年を経過した当時は、シカゴの中でももっとも貧しい地域に位置していた。


困っている人などを援助する社会福祉的な仕事をする人を英語ではsocial worker(ソーシャルワーカー)と言う。
この場合には慈善事業やボランティアなども含まれてくるので広義のソーシャルワーカーである。
日本では国家資格である社会福祉士と精神保健福祉士のことをソーシャルワーカーと呼んでいる。これは非常に狭い範囲のソーシャルワーカーである。
イギリスではソーシャルワークを行う場合には資格が必要でさらに登録制である。


アリツェ・マサリクはハルハウスではなくて、シカゴ大学内に設置されたセツルメントに招かれたらしいが、ハルハウス創設者の社会福祉の母たちとの出会いがあった。
そしてチェコに戻った後の1911年にプラハ・カレル大学に社会学部を設置し教授となる。
シカゴとシカゴ大学に縁がある人なのだ。

第一次世界大戦後に独立をはたしたチェコスロバキア共和国で、1919年にチェコスロバキア赤十字の総裁となり、第二次世界大戦前の1938年にドイツがチェコスロバキアに侵攻するまでその地位にあった。
ドイツ侵攻後は再びシカゴ大学セツルメントに招聘され、アメリカで暮らした。
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by yumimi61 | 2016-08-29 13:54
2016年 08月 28日
日本国憲法の秘密-336-
チェコスロバキア共和国の初代大統領に就任したのは、第一次世界大戦前から独立運動を行っていたトマーシュ・マサリク。
第一次世界大戦勃発後は国外に亡命し、連合国を廻ってチェコの独立支援を訴えた。
1917年3月、ロシアで革命が起こり君主制が崩壊。
何度も書いているがこの革命は国会議員が中心となったものである。
マサリクもこれに刺激を受けて、連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて、つまり国外で「チェコスロバキア国民会議」を発足させた。
この時にロシアの支援を取り付けているが、最初の革命はレーニンらポリシェヴィキはロシア国内におらず関与していない。
革命ロシアから支援を取り付けたとするならば、それは臨時政府(国会議員)かメンシェヴィキであり、ポリシェヴィキではないはず。
ロシア臨時政府を後援していたのはアメリカらしいので、ロシアの支援を取り付けたと言っても、その背後にはアメリカがいるということになる。

実はトマーシュ・マサリクの妻がアメリカ人なのだ。
マサリクは1850年にオーストリア領だったチェコの東部の町の労働者階級の家に生まれた。
父親はハンガリー領スロバキア出身のスロバキア人。母親がチェコの出身。
1882年32歳の時にプラハ大学の哲学教授に任命されるが、大学で学び段階を踏んで教授になったわけではなさそうだ。
若い頃は鍛冶屋で働いており、大学教授に任命されるまでに研究に従事していたというがこれは怪しい気がする。時代も国も違うので一概には言えないが教授になるための口実ではないだろうか。
教授に就任後はチェコの文化や歴史に関する雑誌や書籍を出版したり、百科事典の編纂にも加わったりした。
彼はなぜ大学教授になれたのか?それはアメリカ人の妻が関係しているのではないかと推測する。

以前日本の医学医療系の大学について書いたことがある。
現在の大学医学部は医学専門学校としてスタートしたところが多い。第二次世界大戦前の旧制時代のことである。
また現在の国立医学部保健学科の前身は医療技術短期大学部である。短期であったのは需要増のため短期養成した医学専門学校の名残と専門職の受験資格が得られる修学年数に関係していた。看護師やPT・OTなどは3年で国家試験が受験できる。
国立の他にも短大や専門学校があったが大学流行りなって大学化したところが多い。(一方、福祉系やPT・OTの専門学校などは増加した)
このように制度が変わったことによって専門職分野でも学位が必要以上に重視されるようになってきた。
一番問題だったのは、大学化した医学専門学校、医療技術短期大学部、短大や専門学校の講師陣である。
医療現場に送り込む専門職を養成しているくらいなので皆エキスパートであることには違いないのだが、大学教授になるために学位が必要だとすれば、古い制度で養成されてきた人はそれだけで除外されてしまうことになる。
一定の条件に該当すれば救済処置を受けることも可能だが、大学卒業して何年も経って働きながら論文書いて、何のコネクションも無い人に審査されるとなれば随分とハードルが高くなる。
そもそも救済処置に該当しなければ大学や大学院に入らなければならない。
実際に(それなりの年齢になってから)大学院に籍を置いて論文を提出するかなんかして学位を授けてもらい、新設の大学の教授や准教授になった人が大勢いる。どんな縁故なのか国立出身なのにその大学院は私立だったり。
制度が違っただけで実際にはそれに相応しい人もいるだろうし、そうでない人もいるだろう。
見る人が見れば、正直あんなレベルで教授なのかということも無きにしも非ず。
相応しいか相応しくないかということになれば、現行制度の学生だって同じだ。コネクションや情が混じれば成績だとか実力だとか適性だとかそんなことは関係なくなる。
またこれも前に少し書いたけれどまったく非合法に学位を取得している人もいる。
どんな方法で取得した学位でも一旦取ってしまえば学者であり科学者になれる。
外国にでも行けば大学や取得方法の違いなど尚更分からない。
そういうルートで偉くなる人が少なからずいるということで、肩書だけでは判断できないもの。どうあるべきかという正解も良く分からない。

ともかくトマーシュ・マサリクはアメリカ人妻の存在が大きかったのではないかと思われる。
1886年に夫妻の間に息子が生まれている。

ヤン・マサリク
ヤンはプラハとアメリカで教育を受けた。
第一次大戦中、マサリクはオーストリア・ハンガリーの軍隊に服務した。1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。マサリクは1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで、駐米国の代理大使となった。1925年にマサリクは駐イギリス大使となった。

(戦争回避のためドイツの要求を呑む形となった)ミュンヘン協定書を受け取った2人のチェコスロバキア代表であったが、あまりの内容に涙を流したという。その後、イギリスに対する抗議のために大使を辞任したが、大使辞任後もロンドンに留まった。

1940年にチェコスロバキア亡命政権がロンドンで設立されると、ヤン・マサリクはエドヴァルド・ベネシュ大統領の下で外務大臣に就任した(父は1935年から体調を崩し1937年に亡くなっている)。
第二次世界大戦中、マサリクはBBCを通じてドイツ軍による占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。1942年にマサリクはベイツ大学から法学博士号を受け取った。
(ベイツ大学―アメリカ東部メイン州にあるリベラルアーツの名門校)

第二次世界大戦でドイツが敗北したことによりチェコスロバキアは再建された。
亡命政府の代表であった大統領エドヴァルド・ベネシュと外務大臣ヤン・マサリクはそのまま外務大臣となった。
しかし1946年の選挙でチェコスロバキア共産党が38%の得票を得て第一党になる。
マサリクやベネシュはチェコの独立を目指して設立された「チェコスロバキア国民会議」の代表者であったが、その政治的な主義思想はどのようなものだったのか。
独立を果たすまでは独立目的で良いかもしれないが、独立を果たした後の国家をどのように運営していくのかというビジョンが必要だろう。
「チェコスロバキア国民会議」は共和国を成立させ、第二次世界大戦前と戦争中にスターリン・ソ連に接近したという事実があるが、一応「チェコスロバキア国民会議」は非共産政党と見做されている。
選挙の結果を受けて共産党指導者を首班とする連立政権となっていたが、1948年2月に共産党が実権を奪い、事実上社会主義国となった。
非共産政党に属するヤン・マサリクは選挙後も相変わらず外務大臣だったが、1948年に不審な死を遂げる。

マサリクはソ連に呼び出されモスクワを訪問し、ヴャチェスラフ・モロトフ外相と会談し帰国したが、帰国後間もない1948年3月10日に外務省の中庭、浴室の窓の下でパジャマ姿で遺体となって発見された。死因は転落死であった。
初期の「調査」では、マサリクは窓から飛び降りて自殺したと発表した。冷戦が終結し秘密文書が次々と公表されるようになった1990年代以降の有力な説では、この自殺説は否定され、マサリクは政府の大半を占める共産主義者によって、窓から投げ落とされ殺害されたと考えられている。マサリクの死には不自然な点が多く、議論はまだ続いている。


第一次世界大戦前にはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったがオーストリア・ハンガリー帝国の敗北を受けて戦後に独立、第二次世界大戦でドイツに占領されるもドイツ敗戦を受けて再建したチェコスロバキア共和国という国家。
政治形態は君主のいない共和国(民主主義)が良いと思っていることは分かるが、では国家をどのように運営していくのか。国の収支、つまり経済的にどうあるべきなのか、ここが見えてこない国家。
その国で非共産党員が共産党員に殺害されたのではないかという憶測が広がる。
共産とは経済の在り方であるからして、要するに資本主義支持者が共産主義支持者に殺害されたという構図になる。

第二次世界大戦の枢軸国がファシズム国家だと言われる。
トロッキーやコミンテルンはロシア帝国を崩壊させた過激派ボリシェヴィキの革命家と組織のことで、この革命の裏にはユダヤ人の資本家がいた。
資本主義と社会主義(共産主義)は対峙する主義である。そこが一体になって「君主制」」を壊し、「共産党一党制」の社会主義を導入した。
ファシズムは本来社会主義に近いものであるので、社会主義勢力が何よりファシズムに敵対するのは不自然である。
資本主義に向かうべきなのだ。その不自然さを分かっている人間がいるからこそ、第二次世界大戦後に「冷戦」という状態を作り出したのだろう。敵対しているふりである。


「トロッキーやコミンテルンはロシア帝国を崩壊させた過激派ボリシェヴィキの革命家と組織のことで、この革命の裏にはユダヤ人の資本家がいた。」
この文章はこれだけを見ると誤解される部分でもあるが、当時は説明すると長くなるので一般的な表記に留めた。
最近ずっと書いてきたのがロシア革命のこの部分の説明である。
武装宣言し臨時政府に応戦し、後に赤軍として白軍と戦ったたボリシェヴィキは一般には過激派と呼ばれている。ボリシェヴィキ政権に参加した左翼社会革命党が後にテロリズムを行う組織になってしまたことも影響している。
レーニンやトロッキーはユダヤ人の血を引いている。
シベリア鉄道にはユダヤ金融家の資本も入っている。
ロシア帝政(ロシア財閥)を崩壊させたロシア臨時政府の背後にアメリカがいたことから財力をユダヤ人資本家が支えていたことも推測される。
臨時政府(資本主義)が君主制を倒し、ボリシェヴィキ(共産主義)が社会主義国に移行した。どちらも君主制には反対(民主主義)だった。
ファシズムも反資本主義であるので、この点で社会主義に敵対するのは不自然なのだ。
逆も言える。社会主義(共産主義)は反資本主義なので、この点でファシズムに敵対するのは不自然である。
ドイツ・イタリア・日本がファシズム国家ならばソ連と敵対するのはおかしい。イギリスやアメリカといった資本主義国家と敵対するのは理に敵っている。
ドイツ・イタリア・日本がソ連と敵対するならば君主制の是非においてである。
君主制の是非という観点からみれば、ドイツ・イタリア・日本はイギリスと敵対する理由はない。
ソ連の存在がどうしても浮いてしまう。不自然極まりない。
ソ連がアメリカならばわりと上手く収まる。

結論を言うと、世界は社会主義(共産主義)の撲滅を目指してきたのではないかと思うのだ。
差別のない社会などといった甘っちょろい社会主義風(共産主義風)のものではなく、「社会主義(共産主義)」がターゲットだった。
優越のない社会は好きでない、優越がなくて何が面白いというのだ?、優越感大好き、人と違う存在でありたい、神になりたい、そんな多くの意思が資本主義を支えてきた。
東西冷戦と社会主義国の崩壊はその一過程に過ぎなかったのではないだろうか。誰かが練ったストーリー。
ヤン・マサリクの不可解な死は東西冷戦の端緒であった。利用され棄てられたのかもしれない。
但し社会主義(共産主義)を撲滅出来たとしても、資本主義で一番や唯一無二を目指せば、戦いは避けられない。
その結果、1対その他多数ということになれば、それは結局、ファシズムのようなものである。
目的を達成した場合にはそれ以上の戦いは必要としないので、十分に骨抜きにしておくことがとても重要になる。

誰にでもチャンスのある社会が民主主義であり、資本主義なのだ。(但しチャンスはコントロール可能)
「誰にでもチャンス」を謳うがために、民主資本主義という本来そぐわない組み合わせが世界を凌駕してきた。
これを突き詰めれば「民主」の部分が民主でなくなるのは当然の流れ。それがバランスをとって回っている自然の摂理だからだ。
後はいかに誤魔化すかということなのだが、多くの人間を上手く誤魔化せたとして、自然(神)を誤魔化すことが出来るだろうか?これが不安材料でもある。
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by yumimi61 | 2016-08-28 11:24
2016年 08月 27日
日本国憲法の秘密-335-
政権を握ったレーニンらボリシェヴィキは、政権をとってロシアを支配したい者すべてを敵に回したことになる。
皇帝派然り、臨時政府派然り、シベリア共和国(臨時全ロシア政府)然り、コルチャークの軍事独裁政権然り。
各地で起こった内戦は最終的に赤軍(ボリシェヴィキ政権派)vs白軍(ボリシェヴィキ以外の勢力)として収束いくわけであり、武装しなかった勢力はないということである。
その中でも反ボリシェヴィキとして単独的に個人を狙うテロリズムを行ったのは社会革命党戦闘団と左翼社会革命党。
それにプラスしてイギリスの名が挙がってくる。
ドイツに勝たせたくないがために反ボリシェヴィキの立場をとったイギリスは、エージェント(諜報員)をロシアに送り込んでいた。

ブルース・ロックハート。
イギリス・スコットランドのエディンバラの北東、北海に面する東海岸の小さな漁港町アンストラザーに生まれた。
(ちなみにウィリアム王子とキャサリン妃が出会った大学は、アンストラザーよりもう少し北側のセント・アンドリュースという町にあるセント・アンドリュース大学)
家族はみな教育者。
彼は1908年21歳の時にゴム農場を営む伯父とともにイギリス領マラヤに行く。
イギリス領マラヤとはマレー半島の南部、現在のマレーシアとシンガポールの部分。
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種子島に初めて伝わった鉄砲はマラッカ銃だったという。またイエズス会のフランシスコ・ザビエルも日本に来る前にはマラッカにいた。
マラヤは世界最大のゴム生産地であり、イギリスの収益にも大きく貢献していた。
イギリス領とはいえブルース・ロックハートが行った所は白人が非常に珍しい存在だった上に、地元の王子との恋愛事件もあって大変センセーショナルだったらしい。
しかしマラヤとマラリアを誰かが言い間違えたか聞き間違えたかして、後ろ指を指されるようになり、3年後(日本とアメリカを経由して)帰国する運びとなった。

母国に帰った後にはイギリスの外交官となって、領事としてモスクワ領事館に赴く。
同時に彼は実業団チーム(紡績工場)のサッカー選手としても招待されプレーしていた。
モスクワでは超有名なサッカー選手が来るらしいと話題になったが、有名な選手というのは彼の弟(ラグビー選手)で人違いだった。
その後第一次世界大戦が勃発するが引き続きロシアに駐在し総領事となっていた。
ロシアの君主制崩壊も見届けて(?)1917年秋にイギリスに帰国。
ボリシェヴィキが政権を取ったのはその後のことだった。
ロックハートは1918年1月にエージェントとしてロシアに戻された。

このロックハートらがイギリスの諜報員がレーニン暗殺を企てたとして、ロックハートも逮捕され死刑が言い渡されるが、ロシアの諜報員との交換によって解放された。
そんな彼が1932年にイギリスエージェントとしての経験などをまとめた"Memoirs of a British Agent" というタイトルの本を発行する。これが世界的にヒットし、アメリカのワーナー・ブラザーズが映画化した。
これ以降何冊か自伝のような同様の本を出版している。

オリンピックが終わったら世界が終わるわけではないように、ロシア革命や第一次世界大戦が終わったからといって世界が終ったわけでもないし、永久に続く平和が訪れたわけでもない。
エージェント(諜報員)という微妙な立場の職務を公にして自らを売るなんてことは、エージェント(諜報員)としての資質がなかったということに他ならない。
そんなことをされたらイギリスは今後非常にやりにくくなるはずだと思うのだが。

第二次世界大戦中の1941年8月、イギリスにPolitical Warfare Executive(PWE)という情報・特殊作戦を行う秘密組織が設けられた。
簡単に言えばプロパガンダ担当部署。ロックハートが会長(局長)だった。
情報省の職員の他、イギリスの公共放送BBCの職員がメンバーとなった。本部はBBCのロンドンオフィスにあった。
プロパガンダに積極的だったのは何もナチス・ドイツだけではない。
ロックハートは第二次世界大戦後も、本の執筆や編集や放送といった情報分野で積極的に活動した。
(NHKもプロパガンダ特殊作戦執行部なんですか?)


(それでですね、実はこのロックハート、チェコに関係深いんですよ、オバマ大統領)(うむ、知っている?)

先日書いたチェコの独立運動。第一次世界大戦前から始められていて、中心人物はトマーシュ・マサリク。
オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったチェコスロバキアには反オーストリア感情を持つ人が少なくなかった。
ウクライナと同様、機会があれば独立したいと考えていた。

哲学者でオーストリア議会の議員でもあったチェコ出身のトマーシュ・マサリクが中心となって1907年から1914年までオーストリア・ハンガリー帝国からの独立運動を行っていた。
戦争が始まると革命家の立場は非常に危うくなるので、第一次世界大戦勃発後にはやはり亡命している。
亡命先はスイス・イタリア・イギリスなどで、亡命先でチェコの独立を訴えた。
大戦中の1917年の2月〜3月にかけてロシアで革命が起こる。(とはいってもデモがきっかけで無血で国会議員によって皇帝が排除されたという革命)
この革命に刺激を受けて、スラブ民族もオーストリアに対して抵抗運動を組織することを決め、ロシアの支援を取り付けた。(第一次世界大戦でオーストリアとロシアは敵国。チェコスロバキアはオーストリア領)
最初の革命時にはレーニンらポリシェヴィキはロシア国内におらず関与していない。
マサリクが革命ロシアから支援を取り付けたとするならば、それは臨時政府(国会議員)かメンシェヴィキであり、ポリシェヴィキではないはずだ。


第一次世界大戦中は亡命しながら敵国の連合国を行脚し支援を訴えた。
彼は自分と同じように連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて組織化し、「チェコスロバキア国民会議」を発足させた。
そして敵国である連合国を巡ってチェコ独立への支援を訴えた。
ところがイギリスとフランスは「帝国の解体を目的に戦争を行っているわけではない」とこれに冷ややかだった。
一番手ごたえがあったのは結局ロシアなのだ。
この場合のロシアとはロシア帝国を崩壊させた「臨時政府」である。
臨時政府の首相がアメリカ国旗付の車に乗っていたことからも分かるように、ロシア臨時政府はアメリカの支援を受けていたと思われる。
そうとなればアメリカは反ボリシェヴィキ・反レーニン・反トロッキーだったということになる。
(だけどロシアが広いようにアメリカも広い。植民地時代からの独立戦争だけを見てもアメリカという国は一様ではない。さらに多くの移民が流入して商売したりしているのだから非常に複雑な国である)

チェコ出身の哲学者で政治家のトマーシュ・マサリクが独立を目指して発足させた「チェコスロヴァキア国民会議」と、それより先に自然発生的に生まれてロシアで組織化された「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」は同じようでいて同じではない。
前者はどちらかというと「国」に重点が置かれていて、後者は「民族」に重点が置かれている。
「チェコスロバキア軍(汎スラブ派)」を指揮していたのは「チェコスロヴァキア国民会議」だったと説明されることも多いが、それはたぶん違うと思う。



第一次世界大戦中、トマーシュ・マサリクの右腕として独立運動を指揮した人物がエドヴァルド・ベネシュ。
チェコ生まれで大学講師を務めていた。
マサリクとベネシュが行っていたチェコスロバキア独立運動の転機はイギリスが極東戦を決意し、軍事独裁政権であるコルチャークの臨時全ロシア政府とアメリカと日本に依頼することにしたこと。
連合国側はシベリアでの戦いにはチェコスロバキア軍が非常に重要な戦力となるとも見做していた。
またチェコスロバキア軍の活動はチェコスロバキアを支配下におくオーストリア・ハンガリー帝国への圧力ともなる。オーストリア・ハンガリー帝国が連合国に屈せばドイツにとっては大きな痛手となるはずだ。
チェコスロバキア軍を指揮していたのは「チェコスロバキア国民会議」でなかったと考えられるが、連合国はこのような思惑から「チェコスロバキア国民会議」をチェコスロバキア国の(将来の)政府として次々に承認した。
協力依頼に連合国を廻った時には良い返事をもらえなかった国もあったけれど、ここにきて光が見えてきたということになる。
「チェコスロヴァキア国民会議」と「チェコスロバキア軍」は「国家」と「民族」と思想は違っても、そこは同じ民族。他の民族よりも話が通じやすいだろう。
またこのことはオーストリア・ハンガリー領のチェコスロバキア国内に留まっている反皇帝(反ハプスブルク家)派も刺激し、国内にも民族委員会(国民委員会)が誕生し亡命勢力と呼応し始めた。

そして1918年10月28日、オーストリア・ハンガリー政府が連合国の和平案に同意した。この日にチェコスロバキア国内の民族委員会(国民委員会)がプラハの政庁を占拠し権力を掌握した。
戦後の1920年に憲法に基づいて正式にチェコスロバキア共和国が誕生する。
初代大統領(1918-1935年)はトマーシュ・マサリク。
第二次世界大戦をはさむ2代目大統領(1935-38、1945-48)がエドヴァルド・ベネシュだった。
1918~1935年まで外務大臣、1921~1922年は首相も兼務している。


第一次世界大戦で敗北したオーストリア・ハンガリーでは、チェコスロバキア共和国とハンガリー民主共和国が独立した。
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チェコスロバキア(地図5と6)は1つの国であるが、スロバキアとカルパティア・ルテニア(地図の6と4)は北部ハンガリーと呼ばれて歴史的にはハンガリーに属していた地域であった。
しかしチェコスロバキアの初代大統領のトマーシュ・マサリクはスロバキアを譲れない。
お隣ルーマニアも領土拡大を狙っていて、チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニアは国境で揉めたが、大戦に勝った連合国の仕切りでハンガリーが領土を減らす形となった。
オーストリア・ハンガリー帝国時代のハンガリーに比べると、面積で72%、人口で64%を失った。ハンガリー人の全人口の半数ほどがハンガリーの国外に取り残されるという状態に陥った。
このことからハンガリーには不満が鬱積。次第に孤立化し、異様なナショナリズムが高揚していく。
1930年後半になると、ナチス・ドイツと協調するようになる。

オーストリアは言語的にもドイツ語に近く、この両国は統一を望んでいたが、どちらも自国が盟主国であるべきという立場なので実現を難しくさせていた。
オーストリアが多民族国家なのと、両国にはカトリックとプロテスタンという大きな違いもあった。
ドイツ(プロイセン)が絶好調で統一ドイツ(ドイツ帝国)となった時には、とりあえずオーストリアの統合は断念したという経緯がある。
ところが第一次世界大戦後に二重国家が解消され、民族的な国家も誕生したため、かえってドイツとオーストリアは統合しやすい状況が生まれていた。
そしてドイツ・ナチス政権は1938年3月にオーストリアを併合した。

第一次世界大戦後に独立したチェコスロバキアのチェコ周辺地域にはドイツ人が沢山住んでいたため、この地域をズデーテン地方として自治を求める政治運動が活発になる。
チェコスロバキア政府がドイツ人の勢力拡張を恐れてドイツ人には不公平となる制度を取り入れるなどしたためズデーテン地域のドイツ人の反発が強まった。
このように懸案事項を抱えていたチェコスロバキアもナチス・ドイツは併合しようと試みた。
チェコスロバキアにドイツが侵攻するという観測が強まり、再度の世界大戦が危惧された。
イギリス首相が調停に乗り出したが、ドイツ側はイギリスの首相は戦争回避のためにドイツの要求をほとんど呑んでくれる見透かしており強気。
結局チェコスロバキア側が折れるしかなくスデーデン地域を割譲。さらに会談や裁定によってハンガリーやポーランドにも領土を奪われる。
これらを受けて、1938年10月、チェコスロバキア2代目大統領のエドヴァルド・ベネシュが辞任してイギリス・ロンドンに亡命。ベネシュはドイツに強硬的な態度で臨むイギリスに期待したが、イギリス政府はドイツを刺激しないようにベネシュに活動の自粛を求めた。
その後もナチス・ドイツはチェコスロバキアの独立運動を煽りスロバキアを独立させ、残るチェコにも進駐し1939年9月にドイツの統治下となった。ここにチェコスロバキアという国家は崩壊した。

エドヴァルド・ベネシュは第二次世界大戦勃発後の1940年にチェコスロバキアの再建を目指して亡命政府の大統領となった。
イギリスとフランスに裏切られた感を持っていたエドヴァルド・ベネシュは再びソ連に近づいていく。この時代のソ連最高指導者はスターリン。
エドヴァルド・ベネシュは外相時代の1935年にもチェコスロバキア・ソ連相互援助条約を締結していたが、1943年に亡命政府でありながらソ連と相互友好援助条約を締結した。

エドヴァルド・ベネシュとイギリス政府の連絡係がブルース・ロックハートだった。
ロックハートは第二次世界大戦後も本の執筆や編集や放送といった情報分野で積極的に活動したと上に書いたが、チェコスロバキア向けのBBCラジオ放送番組を10年以上も担当していた。
チェコ・プラハに外交官として駐在したこともある。
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by yumimi61 | 2016-08-27 14:10
2016年 08月 26日
日本国憲法の秘密-334-
1917年3月、君主制打倒の革命。ロシア臨時政府(立憲民主党中心)。
1917年4月、アメリカが第一次世界大戦に参戦。
1917年11月、ソビエト(ボリシェヴィキ)が政権を奪取。
1918年1月、共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立。
1918年3月、ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱。
1918年7月、シベリア共和国が成立し独立宣言(社会革命党と立憲民主党の5名政権)。
1918年9月、シベリア共和国がロシア臨時政府の後継政府となることを決定し、臨時全ロシア政府を名乗る。
1918年11月、コルチャークがクーデターを起こし、臨時全ロシア政府を乗っ取り、軍事独裁体制を敷いた。



ロシアのシベリア鉄道に投入した資本を守る、ロシアに戦争に戻ってきてほしい、そのような思惑があり、第一次世界大戦連合国は反ボルシェヴィキであった。
イギリスにはドイツに勝たれたら困るという明確な動機があり、アメリカには君主制打倒の革命を後援していたという裏事情があった。
さらにイギリスは特別な事情を抱えていた。

イギリスは日本に貸し付けた資金が回収できないと困る。
ロシアやフランスは中国に貸し付けた資金が回収できないと困る。
ロシアと日本が戦って日本がロシアに負けることはイギリスにとって避けたい事態である。ロシアと中国が一緒になって日本と戦い日本が負ける状態も同じく。


イギリスは日本がロシアと戦って負ける事態は避けたかったが、かといって日本vsロシアとなった時に積極的に日本を支援するわけにもいかない。イギリスはロシアを敵に回したくないのだ。
日英同盟(1902年)からの日露戦争(1904-1905)も微妙なバランスの基に行われている。

第一次世界大戦最中に連合国側にいて戦争離脱したロシアに対して、イギリスが反ボルシェヴィキという立場を取るとするならば、シベリア方面(シベリア共和国→臨時全ロシア政府)の力を借りる(利用する)しかない。イギリスが自らボリシェヴィキ政権に攻撃を仕掛けるなんて出来るわけがないのだ。

この状態でロシアに戦争に戻ってきてもらうには、ドイツを勝たせないようにするには、どうしたらよいだろう、イギリスは思案した。
協商(連合国)側だったロシアがすでにドイツと講和したということは、ロシアの備蓄軍事物資がドイツに渡ってしまう可能性があった。
ロシアは備蓄軍事物資をヨーロッパの西部戦線からは遥か遠く、且つ鉄道で運べる極東のウラジオストクなどに保管していた。
それがドイツの手に渡ることだけはどうしても防ぎたかった。
そこでその極東での戦いを考えた。
備蓄軍事物資がドイツに渡ることを防げるだけでなく、ドイツの視線を東に向かせ、再びドイツの軍事力が東西に分散されることも期待できる。
しかしイギリスやフランスが東に軍隊を送り込むことは出来ない。西部戦線がそれこそ危なくなってしまう。
そこで軍事独裁政権であるコルチャークの臨時全ロシア政府とアメリカと日本に依頼することにした。

「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵したと言われることもあるが、これは大義名分にはならない。
捕虜と書いてないことからも分かるように、彼らは戦いで敵に捕らわれた捕虜とは違うのだ。
志願してチェコスロバキア軍に参加しロシア側で第一次世界大戦に臨んだのであり(一部捕虜もいたが強制的な参加ではない)、ロシア革命とロシア大戦離脱後は反乱を起こして領域を各地に拡げたのであって、敵に捕らわれている事実は少しもない。
捕囚とはただ単に囚われているということだが、何に囚われていたのか?民族という悪い思想だろうか?
まあともかく、ドイツに勝たせないことが、目的であり、極東戦線の根拠である。


ここでレーニンに話を戻す。
ロシアの社会主義運動は、ナロードニキの流れを汲む組織と、レーニンらが社会主義運動組織のリーダーを集めて結成したロシア社会民主労働党に大別できる。
厳密にはナロードニキの流れを汲む組織もロシア社会民主労働党やソビエトに含まれる部分もあるが、それを超えての主張や活動があった組織を分けてみた。

・革命組織「人民の意志」(テロリズムを行う)
アレクサンドル2世の暗殺に成功、アレクサンドル3世の暗殺計画(理論派としてマルクス主義を導入したレーニン兄が関係する)するも失敗。

・社会革命党
左翼で社会主義でありソビエトに属し、右派は臨時政府+メンシェヴィキ政権にも参加した。
左派はボリシェヴィキの臨時政府打倒に加わった。そのため除名され独立。⇒左翼社会革命党
レーニンの行った憲法制定議会選挙でボリシェヴィキを抑えて勝利するも、レーニンが憲法制定議会を解散する。憲法制定はもともとは臨時政府が公約していたもの。
社会革命党と立憲民主党の5人が政権を担うシベリア共和国(臨時全ロシア政府)が1918年7月(9月)に成立したが、それがコルチャークに乗っ取られると、反発して武装。しかし鎮圧されて、右派もボリシェヴィキの味方になる。

・社会革命党戦闘団
社会革命党から生じたテロリズムを行う組織。
ロシア革命前にロシアの政治家や大公(アレクサンドル2世の子)を暗殺した。
後にリーダーが秘密警察のスパイだったことが発覚している。
 
・左翼社会革命党
ボリシェヴィキに同調し政権にも参加したが、第一次世界大戦からの離脱(ドイツとの講和)に大反対。1918年7月駐露ドイツ大使を暗殺したあげくに反ボリシェヴィキに翻り、同じく反ボリシェヴィキであった社会革命党戦闘団の元サブリーダーらと共謀する。かつて自分達を除名した右派が武装して臨時全ロシア政府に抵抗したあげくボリシェヴィキの味方になったため余計に憎悪を募らせたと考えられる。


1918年8月30日、レーニンが会合での演説を終え自動車に乗ろうとした時、3発の銃声が響き渡り、レーニンは崩れ落ちた。
2発がレーニンの身体(肩の辺り)に命中したそうだが、レーニンは更なる暗殺者の陰に怯えて病院への搬送を拒否。自宅へと運ばれ医師の処置を受けることになった。
急所を外していてショック死や失血死を免れ、適切な処置により感染症が防げれば死なずには済むかもしれない。
銃弾による鉛中毒も心配だが自宅での摘出手術は危険すぎたので行われなかったそうだ。これが予後を分けたのか否か。
レーニンは命は取り留めて容態も一旦は回復するも、健康状態はやはりこの頃から傾き始めていった。
3年後の1921年末頃からかなり状態が悪くなり、1922年には何度か発作を起こして職務から離れざるを得なくなる。
代わりに最高指導者に納まったのは共産党書記長(事務職トップ)のスターリンだった。
そしてレーニンは1924年1月21日、53歳で亡くなった。死因は脳梗塞とされている。
政権を取り共産主義国家を樹立して1年も経たないうちに命を狙われ、3年ほどで職務が厳しくなり、6年後には志半ばで亡くなった。

ボリシェヴィキの政権奪取以降始まったロシアの内戦は、レーニンの暗殺未遂によって激化し、レーニンに代わってスターリンが最高指導者に就いた頃に、赤軍(ボリシェヴィキ政権)勝利で終息した。
レーニンとスターリンは全く異なる性質を持っており、運動も活動も、政治体制も国家の在り方も別物であるが、これがゆえに、いつ間にやらレーニンとスターリンが混同され、単に「社会主義」や「共産主義」で表される「独裁」や「暴力」「非合法」「テロリズム」みたいな論調が大手を振って歩くようになる。
レーニンの撃たれた現場に社会革命党の女性党員がいたため逮捕されるが、彼女が実行犯だった可能性は薄い。
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by yumimi61 | 2016-08-26 12:12
2016年 08月 25日
日本国憲法の秘密-333-
ベルリン~イラクの鉄道計画は、ドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世が主導した。
ドイツ帝国(連邦国家;1871-1918年)とは、プロイセン王国とドイツ帝国の君主が兼務された時代。そのドイツ帝国3代目の皇帝。
プロイセン王国がドイツ帝国の盟主国であった。
先日も書いたが、ドイツ帝国は君主が1人の統一ドイツ時代(1871-1945年)の一時代。
ヴィルヘルム2世は、プロイセン王子フリードリヒ(後の第2代ドイツ皇帝・フリードリヒ3世)とイギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生まれる。
1888年に祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世が相次いで死去したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。
母のイギリス王女ヴィクトリアはヴィクトリア女王の娘。従ってドイツ皇帝・ヴィルヘルム2世はイギリス・ヴィクトリア女王の孫にあたる。
ロシアのラストエンペラー、ニコライ2世皇帝はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世の従弟である。そしてそのニコライ2世の結婚相手は、イギリス・ヴィクトリア女王の次女の娘。
要するに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と、ロシア皇帝ニコライ2世の妃、イギリスジョージ5世国王は、イギリス・ヴィクトリア女王の孫なのである。

ここでもう一度過去記事よりイギリスの王家の移り変わりを抜粋。

■ステュアート朝(1371-1714)
スコットランド起源の王朝。

ジェームズ1世
チャールズ1世
チャールズ2世
ジェームズ2世
メアリー2世女王&ウィリアム3世
アン女王

■ハノーヴァー朝(1714-1901)   
ドイツ起源の王朝。
1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。
アン女王が子供に恵まれず、且つ宗教的理由(カトリック忌避)によってドイツの家系に王位を継承した。
※ハノーヴァーはハノーファーとも言う。

ジョージ1世
ジョージ2世
ジョージ3世
ジョージ4世
ウィリアム4世
ヴィクトリア女王

■サクス=コバーグ=ゴータ朝(1901-1917) ・・・・・改称による
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェッティン家の分家にあたり、ドイツ中部にあった2つの領邦からなるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系である。
一族からは現在のベルギー王家、ポルトガルやブルガリアの君主も輩出した。

エドワード7世
ジョージ5世

■ウィンザー朝(1917-現在) ・・・・・・改称による
第一次世界大戦中の1917年、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠された家名を避け、イングランド王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。
また王家は姓を用いないとの先例を覆してウィンザーを同家の姓としても定めた。
「サクス=コバーグ=ゴータ朝」も「ウィンザー朝」も改称しただけであって、ヴィクトリア女王の血統が途絶えたわけではないので、「ハノーヴァー朝」の継続と見做すことができる。

ジョージ5世
エドワード8世 ・・・「王冠をかけた恋」の人。退位後はウィンザー公爵となる。再婚相手の夫人はアメリカ人。
            ロスチャイルド家やヒトラーと親しかった。ニクソン大統領とも親交を持つ。
ジョージ6世
エリザベス2世女王




イギリスの中心国家は古くからイングランドなのだが、実は王家はイングランド出身の家系であったことがない。
古くはゲルマン人やノルマン人といった北欧出身者、フランスに定住した北欧出身者、もう少し後になるとウェールズやスコットランド、そして1714年からはずっとドイツ起源の王家である。ドイツと言えばゲルマン人。
そんなイギリスもローマカトリックが主流だった時代があったわけだが、1500年代半ばのヘンリー8世の時に結婚離婚や世継ぎを巡ってローマカトリックと揉めて、イングランド国教会をカトリックから分離独立させる。
カトリックとイングランド国教会(プロテスタント)が混じり合う状態がしばらく続く。
最初の妃との間に生まれた娘は父とイングランド国教会(プロテスタント)を憎む。
次の再婚相手の子(エリザベス1世)はイングランド国教会(プロテスタント)を信仰し、国教としての地位を確立した。
カトリックを信仰した最後の君主は上でアンダーラインしたジェームズ2世。
ジェームズ2世の娘とその夫による革命によってカトリックの再確立の可能性は完全に無くなり、イングランド国教会の国教化が名実ともに確定した。カトリック信者のジェームズ2世と息子はアイルランドに亡命した。この革命は議会政治の礎も築く。
従ってイギリスはその後はずっとイングランド国教会(プロテスタント)のはずである。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と、ロシア皇帝ニコライ2世の妃、イギリスジョージ5世国王は、皆イギリス・ヴィクトリア女王の孫である。
全く知らない仲でもないのに、第一次世界大戦はこの時に行われている。
この人たちはキリスト教徒ではあるがカトリックではないはず。
ロシアはキリスト教でも東方教会(正教)なので嫁ぐ場合などには改宗しているはずで、プロイセンはプロテスタンが国教なので、皇帝が兼務されているドイツ帝国も同じはずである。
イギリスも上記のとおり、イギリス国教会(プロテスタント)。
しかしイギリスとドイツは敵になった。鉄道話でも折り合いが付かず、イギリスはドイツの計画を阻止したかった。
さらにジョージ5世はドイツ語由来の家名を変更したり姓を設けたり、ドイツ色払拭に躍起になった。
第一次世界大戦で敵国になってしまったからと言えばそれまでだが、それを言うなら権力者にこれだけ強い縁があっても戦争回避出来なかったものなのかということにもなる。
(愛は憎しみの中から生じるから無理です!?肉親の憎悪ほど恐ろしいものはありません?)


ドイツ帝国の盟主国だったプロイセン王国の財源は宮廷付きのユダヤ人であった。
ユダヤ人とお金と言えば、ユダヤ財閥の代表格であるロスチャイルドを思い浮かべるが、ロスチャイルドは1822年に一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられている。
巨大財閥として知られているが実はそんなに歴史は古くない。(日本の財閥もそうか)
それまでは宮廷付きの金融家だったのだ。
金融家として大成功したのは市民革命の成れの果てのナポレオン戦争のおかげ。
これによって君主の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけとなった。
市民革命とナポレオン戦争で借金を積み上げたフランスを踏み台にして、オーストリアの帝相(君主直轄の首相といった感じ)に気に入られて、ハプスブルク家より男爵位を与えられることになったのだ。

ハプスブルク家はスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系で、ヨーロッパ一の名門貴族。
古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国(オーストリア公国)、スペイン王国、ナポリ王国、トスカーナ大公国、ボヘミア王国、ハンガリー王国、オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公・国王・皇帝の家系となった

神聖ローマ皇帝に戴冠するのはカトリックのローマ教皇で、1500年代からはハプスブルク家の世襲で神聖ローマ皇帝となっていた。
バックにローマ教皇が付いていたからこそヨーロッパ一の名門貴族になれたということでもある。
ハプスブルク家はカトリック擁護者(守護者)として有名である。
しかし宗教改革によってプロテスタントが生まれ、カトリックとプロテスタンとは分裂し戦争まで引き起こした。
皇帝側が敗北しプロテスタントも受容されたが後々まで禍根を残した。
プロテスタントのプロイセンが力を付けて王国になりプロテスタントを国教にする。
そしてプロイセン王国がドイツの盟主国になっていくのだった。
ナポレオン戦争時にはオーストリアとプロイセン以外の全てがナポレオン・フランスに吸収され、神聖ローマ帝国としては完全に終焉を迎えた。

その後にオーストリアとドイツという国が形成されていくわけだが、オーストリアはハプスブルク家でカトリック主流となった。ドイツはプロイセンのプロテスタントが主流となる。
但しドイツの財源がハプスブルク家に認められたロスチャイルドだとするとカトリックに流れざるを得ない。
第一次世界大戦の中央同盟国であるドイツ帝国とオーストリア帝国の財源がロスチャイルドならば、両国はカトリック重視ということになる。
イギリス政府や中央銀行であるイギリス銀行もロスチャイルドのお世話になっているが、政府と王家は別物?お金と宗教は別?


こちらの記事に書いたが、第二次世界大戦の枢軸国であるドイツとイタリアは、それぞれ1929年と1933年にカトリック教会と政教条約を結んで協力関係にあった。
日本では1921年に昭和天皇(まだ皇太子だった時代)がローマを訪れてローマ教皇と接見している。
昭和天皇はローマ教皇への思い入れが強かったらしく、常々外交を結びたいと考えていたようだ。
ただバチカンとは1929年のイタリアとの政教条約で誕生した宗教的な国であって、それ以前ならとんでもないことになるし、それ以降も他の一般的な国と外交を結ぶのとはわけが違う。
しかも日本はカトリックどころかキリスト教国でもない。
そんな中、戦時中の1942年、昭和天皇は独自の判断でバチカンと国交を結んだ。

開戦後、法王庁に初めて使節を派遣した。これはわたしの発意である。・・・私はローマ法王庁と連絡のある事が、戦いの終結時期に於いて好都合なるべき事、又世界の情報募集の上にも便宜あること並びに、ローマ法王庁の全世界に及ぼす精神的支配力の強大なること等を考えて、東条に公使派遣を要望した次第である」(昭和天皇独白録より)

1941年12月に真珠湾攻撃をしたばかりだというのに、1942年にはですでに戦争終結のことを考えており、戦争終結にバチカン・ローマ教皇が好都合だったということは、いったいどういうことなのでしょうか?

バチカン市国も歴史がそれほど古い国ではない。
古くからあったのは「教皇領」である。教皇領とは要するにローマ教皇国家である。
下図左の茶色の部分が教皇領だった場所。右はその部分の拡大。
先日のイタリアの地震はこの旧教皇領の真ん中あたりで起こったもの。
教皇領の下側やシチリアはスペイン系ハプスブルク家の領土だった時代がある。
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教皇領の起こりは移動してきたゲルマン民族が国を作り始めた700年頃にフランク国王から寄進されたもの。
フランシスコ・ザビエルが日本にやってきた時にも九州の土地を寄進したらしいが、寄進されるのが得意なのだ。
カトリック信者だった海軍軍人の山本信次郎なども教会や修道会に土地を寄進していたという。
教皇領に侵攻したのはナポレオン・フランス軍。
1798年に市民は教皇国家の権力崩壊とローマ共和国の成立を宣言した。
それがローマを占領していたフランス軍によって公認され、教皇領全体が共和国になった。
フランスはフランク王国の後進国の1つであり一応カトリック国なのだけれど、無関心国というか社会主義運動が活発といおうか何というか。
しかしナポレオン戦争中なのでフランス軍もいろいろあって(あちこちに戦いに行かなければなので)、教皇領は復活したり消滅したり、フランス帝国がローマを併合した時期も短いながらあった。
ナポレオン戦争はナポレオン・フランスが敗北。
ということで1814年に教皇領が復活。

欧州各国で革命が頻発した1800年代にイタリアでも革命があった。
まずフランス革命で身の危険を感じたローマ教皇がローマを脱出し、その後に教皇国家の首相が暗殺され、教皇国家は無政府状態になっていた。そこにイタリアの革命家がローマ共和国を設立した。1849年のこと。
ローマ教皇はなんとかそこを取り返すべく、イタリアに亡命中だったナポレオン3世(1世の甥)に接触。
フランスでは革命によってちょうど王政が崩壊していたので、そこにナポレオン3世を戻して大統領に就任させる。(フランスでは王政と帝政は別物で、ナポレオン戦争敗北で王政が復活しており、ナポレオン家は亡命していた)
両者の利害が一致し、フランス大統領のナポレオン3世はローマ共和国を倒しにローマに乗り込む。
こうして教皇領が復活するのだった。そしてフランス軍がそのままローマに駐留して警備にあたった。

しかし1870年、フランスとプロイセン(ドイツ連邦)の戦争が勃発。フランスが敗北したことにより、教皇領からも撤退。ドイツはナショナリズムを喚起したこの戦争に勝利したことで統一ドイツを果たしてドイツ帝国になった。ドイツが絶好調な時期。
教皇領からフランス軍が撤退したことによって、1861年に成立していたイタリア王国によって、1870年ローマが占領され、教皇領は完全に消滅した。
翌1871年にはイタリアの首都がローマに移された。
イタリア王国はローマの占有は認めないが、一応バチカンの占有と教皇の立場は保障するとの提示をしたのだが、その代わりに毎年お金を支払うことが条件だった。(バチカンリース料ですね)
これに教皇が怒りまくる。

教皇庁は、カトリック教会が特定の政治権力の影響を受けないことを理由にこれを拒絶。イタリア政府に関わる者すべてを破門するという強硬な処置をとった。
教皇側が拒否、国政への不参加を呼びかけるなど、イタリア王国とローマ教皇の対立構図が形成された。これによりイタリア王国と教皇庁の関係は断絶し、教皇は自らを「バチカンの囚人」(1870年 - 1929年)と称した。


つまりムッソリーニが政教条約を結んでバチカン市国を誕生させるまでイタリアとローマ教皇の関係は険悪だったのだ。
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by yumimi61 | 2016-08-25 13:04
2016年 08月 24日
日本国憲法の秘密-332-
なぜ連合国がコルチャークの軍事独裁政権を支持したか。
理由の1つはシベリア鉄道である。
レーニンのボリシェヴィキ政権(ソビエト政権、社会主義政権・共産主義政権)は史上初の国家形態。
これまでの国家と全く変わってしまう可能性があった。
そうなるとシベリア鉄道に投資した資本の行方が危うい。
つまり莫大な資本が回収できなくなってしまう可能性があった。
投資サイドにしたら一大事である。
だからボリシェヴィキ政権(ソビエト政権、社会主義政権・共産主義政権)を潰して、これまで通りの路線を行ってくれる政党や政権を望んでいた。

またロシアが対外的に弱いのも困る。
あんな広大な大国だから心配はいらないと言うかもしれないが広大な大国だからこそのリスクもある。
ロシアが下手に戦争に負けて他国に支配されるようなことがあれば、資本の行方が心配である。
軍事力が我が身に向かってくることなく強大であることが理想だった。(ロシアが我が物になると言うならば話は別だが果たしてロシアに勝てるのだろうか・・自信はなかった。そんなチャレンジャーはドイツくらい!?)

シベリア鉄道へはフランス・ロシアを筆頭に、イギリスやドイツ、アメリカ、その他多くの資本が投入されていたのだから、連合国は反ボリシェヴィキにならざるを得なかったのだ。

その中でもイギリスは特別だった。
イギリスは「ロシアに負けて欲しくない」だけではなく、「ドイツに勝たれたら困る」という明確な動機があった。
ドイツと戦っている側だからドイツが勝ってもいいなんて思っているわけがないが、それ以外にもドイツに勝たれたら困る理由があったのだ。
それは鉄道である。
シベリア鉄道の建設は1891年から。
それに対抗しようと思ったのか、イギリスでも1800年代末から植民地を起点とした鉄道建設を計画していた。(アフリカ~インドで主要3地点の地名頭文字から3C政策と呼ばれる)
ドイツも同じように鉄道建設を計画していた。こちらは本国ベルリン~イラク。(3C同様に3B政策と呼ばれる)

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地図の黒線が鉄道の線路になるのだが、これは私が3地点を直線で結んだだけのものである。もっと回っていく計画だったかもしれない。
ロシアはシベリア鉄道からアフガニスタン方向に敷く計画を持っていた。(灰色ライン)
フランスはアフリカを東西に横断する鉄道を建設する計画を持っていた。(灰色ライン)
イギリスの計画していた路線に一部被ってくるので、イギリスはこの両国とは話し合いで調整し譲ってもらった。これも三国協商と言える。
ドイツとは話し合いで決着しなかった。ドイツの路線をもしもインドまで伸ばすようなことがあれば、イギリスの路線にもろに被ってくる。
イギリスはドイツの敷設をどうしても阻止したかったのだ。
ここで気になるのがあの海峡である。ドイツの鉄道は争奪合戦を繰り広げたアナトリア(小アジア)を中間主要地点にしている。
あの場所がドイツに支配されることは避けたい、そうした思いはなかっただろうか。
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by yumimi61 | 2016-08-24 18:12
2016年 08月 24日
日本国憲法の秘密-331-
共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立は1918年1月。
ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱したのは1918年3月。


志願兵と捕虜からなりチェコスロバキア軍の西部戦線への移動が計画される。
レーニンにはチェコスロバキア独立のための行動と説明される。

1918年3月26日、ロシア政権は「チェコスロバキア国民会議」のロシア支部と条約を締結し、チェコスロバキア軍が武装解除して、民間人としてウラジオストクに移動することを許可した。

この移動の過程でチェコスロバキア軍がシベリア鉄道沿線で蜂起した。(何処で何をきっかけにどのように蜂起したのか分からないのが実情)
チェコスロバキア軍はかなりの土地を支配下に収めたが彼ら自体は国家に拘る集団ではない。指揮系統も明確でなく占領を目的とした蜂起とも言い難い。
要するに占領してそこを自分達の国家(領地)にしようという行動とは少し違う。
そのチェコスロバキア軍の蜂起に便乗したのが、メンシェヴィキと社会革命党やその他諸々の政治的勢力だった。
この人達には政権を奪う、国作りという目的がある。
その中の一勢力が、現在のカザフスタンとの国境近くの西シベリアのオムスクという都市(地図で黒丸)に臨時シベリア政府を設立した。
社会革命党の3名の党員と立憲民主党2名の党員が政権を担う政府であった。
立憲民主党は臨時政府の中心となっていた党、つまり君主制を倒した国会議員を擁していたロシアの政党である。(アメリカが得意な)リベラルな政党。
立憲と名が付いているように憲法制定を約束していたがなかなか実行されず、レーニンらボリシェヴィキが再三要求していた。(しかしボリシェヴィキが政権奪取後の憲法制定議会選挙ではボリシェヴィキは社会革命党に敗北したという経緯がある)
1918年7月、シベリア共和国の独立が宣言される。これはアジアに属するウラル山脈東側の国ということになる。
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しかしながら宣言から4ヶ月後の1918年11月にシベリア共和国はクーデターによって乗っ取られる。
首謀者はアレクサンドル・コルチャーク。
政権を担っていた5人は全て逮捕され、コルチャークは独裁制を企てた。
コルチャークはロシア帝国時代の軍人であったが、君主制を崩壊させたロシア革命時には臨時政府に服従していた。
しかし臨時政府に反対する軍部の反乱を押さえられなかった責任を取らされ司令官を解任され、臨時政府は事情聴取のため彼を召喚した。つまり臨時政府は臨時政府で、この人物にやや疑念を抱いていたということになろう。

(コルチャークは)ロシア軍の危機的状況に関して報告すると同時に「陸海軍の再編こそが国を救う唯一の方法」と説いた。臨時政府の閣僚や新聞は「将来の独裁者」としてコルチャークを危険視したが、陸海軍大臣アレクサンドル・ケレンスキーは、戦時体制の強化のためにアメリカ合衆国に向かうように命令した。

8月19日、コルチャークは訪露中のアメリカ海軍少将ジェームズ・H・グレーンと上院議員エリフ・ルートに招かれ、準公式の軍事オブザーバーとしてイギリス・アメリカに向け出国した。グレーンとルートには、コルチャークが実施したボスポラス海峡での作戦を聞き出しダーダネルス海峡侵攻作戦を計画することを意図していた。ハリファクスに到着したコルチャークは第一海軍卿ジョン・ジェリコーの歓待を受けるが、そこでアメリカがダーダネルス海峡侵攻作戦を放棄したことを知り、予定を変更しアメリカでは艦隊と軍港を視察するだけに留め、日本経由でロシアに帰国することになった。


ボスポラス海峡やダーダネルス海峡というのは、黒海と地中海を、アジアとヨーロッパを結ぶ要衝である。
現在のトルコ北部にあたるが、その昔小アジアと呼ばれていたアナトリア近辺で、幾つかの文明発祥の地であり、キリスト教にとっても重要な地、古くから争奪合戦が繰り広げられてきた場所である。
過去に私も何度かアナトリア(小アジア)について書いている。

2014年09月15日 甍(いらか)百十八 赤いクロスは血(小アジアのカッパピアカッパドキア(美しい馬の地)出身のキリスト教聖人由来)
2015年02月26日 昭和 参拾弐 わりと唐突だった十字軍(十字軍編成はアナトリアの領土奪回がきっかけとなった)
2015年02月27日 昭和 参拾参 オスマン帝国時代(オスマン帝国の始まりはアナトリア(小アジア)の片隅の小さな領地)
2015年03月17日 昭和 肆拾  「ヨハネの黙示録」はアジアの教会への忠告から始まる
2015年03月26日 昭和 肆拾伍 入れ替わり(オスマン帝国の出現はオスマンの衝撃と語られるほどだった)
2015年12月07日 日本国憲法の秘密-123 オスマン帝国崩壊とカリフの消滅(崩壊寸前まで死守したのはアナトリア、ロシアとトルコの関係)

シベリアと言うと極寒中の極寒である北東部を思い浮かべることが多いと思うが、シベリア共和国の中心は比較的住みやすくてロシア首都やヨーロッパに近い西シベリアにあった。
しかもその勢力やそれを支援していたアメリカ、いわゆるリベラル派は、シベリア西から東ではなくさらに西に、それもドイツやフランスやイギリスではなく、トルコとギリシャの境界付近、アジアとヨーロッパを繋ぐ要衝に目が向いていたのだ。


前述のとおり、コルチャークは訪露中だった上院議員エリフ・ルートと接触後にアメリカに発ったわけだが、エリフ・ルートはアメリカの陸軍長官や国務長官だった人物。法律家で万国(ハーグ)平和会議への参加を各国へ呼び掛けたりもした。
万国平和会議は以前常設仲裁裁判所と国際司法裁判所の違いについて書いた記事で触れたが、この会議は1899年にロシア皇帝・ニコライ2世(1891年皇太子時代に来日して日本に嫌悪感を感じたとされる人物)の提唱で26か国が集まり開催された。

万国平和会議後の1900年代初頭には新設された仲裁裁判が利用され、箱としての仲裁裁判所を中味を詰めて常設化しようとする試みが見られた。
これが国際連盟下で1921年に設立された「常設国際司法裁判所」に繋がった。
常設的な第三者(裁判官)が法的拘束力を持つ命令を下すという性質を備えた司法裁判所が誕生し、幾つもの紛争を解決し、その判決が国際法の整備にも寄与することになった。
第二次大戦後は、国際連合の下に「国際司法裁判所」が設立されて現在に至る。国際連合の主要機関の一つである。
国際司法裁判所も常設仲裁裁判所と同じくオランダ・ハーグ平和宮にある。


「常設国際司法裁判所」への移行を先導したのがエリフ・ルートである。その草案が認められて1912年にノーベル平和賞を受賞している。
エリフ・ルートは共和党員であるが、民主党のウィルソン大統領にも協力的で、ノーベル平和賞を受賞したことからも分かるように民主党寄りな人物。つまりリベラル派なのだ。

コルチャークは、横浜港に着いた時に十月革命の勃発を知り、2か月半日本に滞在した。この間日本軍部やイギリス政府と接触し、1918年にウラジオストクに到着すると、ボリシェヴィキ政権に対抗するためイギリス軍への入隊を求めた。イギリス軍は、当初コルチャークをイラクに派遣することを計画したが、最終的にボリシェヴィキ政権を打倒した後にロシアが連合国に復帰することを条件に要請を受け入れた。その後、イギリスの後援で、オムスクに樹立された反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府に陸海軍大臣として迎え入れられた。

十月革命とはレーニンらボリシェヴィキが政権を奪取した革命。

1917年3月、君主制打倒の革命。ロシア臨時政府(立憲民主党中心)。
1917年11月、ソビエト(ボリシェヴィキ)が政権を奪取。
1918年1月、共産主義国家「ロシア社会主義連邦ソビエト共和国」の成立。
1918年3月、ロシア(ボリシェヴィキ政権)がドイツと講和して第一次世界大戦から離脱。
1918年7月、シベリア共和国が成立し独立宣言(社会革命党と立憲民主党の5名政権)

シベリア共和国(シベリア政府)は、同年9月にロシア臨時政府の後継政府となることを決定する。
シベリアだけに留まらず全ロシアの政府であることを主張し、臨時全ロシア政府を名乗る。
そこにコルチャークが陸海軍大臣として迎え入れられた。
何故イギリスが反ボリシェヴィキ政権の臨時全ロシア政府を後押ししたかと言うと、ロシアに戦争に戻ってきてほしかったから。
ロシアが戦争に戻らないとイギリスやフランスなど連合国はやはりピンチだったのである。
レーニンのボリシェヴィキでは戦争に戻ってくることを期待するのは難しい。

コルチャークがクーデターを起こしたのは、陸海軍大臣として迎え入れられた後の1918年11月のことであった。
臨時全ロシア政府を乗っ取り、自分に反対する者を一掃し、全権を掌握、軍事独裁体制を敷いた。
しかし全ロシアと言ってもボリシェヴィキ政権は存在しているわけであり、実際に支配下においたのはウラル山脈東側のシベリア地域(ロシアのアジア地域)のみ。
またそれにはチェコスロバキア軍の協力を得ている。
コルチャークは全権を掌握後、次のように演説し、ボリシェヴィキ政権打倒を宣言した。

“"臨時政府は本日終焉を迎えた。閣僚評議会は、その手に持つ全ての権力を私アレクサンドル・コルチャークに明け渡した。私は、国家の解体と内戦という困難な状況の中で、この責任を受け入れ、反動勢力や政党争いを終わらせらければならない。私の目的はボリシェヴィキを倒すための軍隊の組織、法と秩序の確立、そしてロシアの人々が自由を選択することが出来る政府の創設。私は、国民がボルシェヴィキを倒すために団結し、必要とあれば、あなた方が全てを犠牲にして戦うことを求める。”

下線部分は日本発の革命的敗北主義を彷彿させる。(もっともこれはキリスト教の終末論にも相通じるものがあるが)

前に独裁者の観点から独裁という体制はあり得ないと書いたが、一党独裁ならばあり得る。
この場合には大勢の協力者・同調者や支持者がいるのだから党首と言えど独裁者とは言えない(見かけ上独裁者に見えるだけ)。
真の独裁者になれるとしたら、強力な権力と実力や実績でもって軍隊を指揮できる者である。
権威権力者が一番恐れてきたのは敵味方問わず軍事力である。だから軍隊を掌握できたなら独裁体制が敷ける可能性がある。但しやはりこれも反乱の可能性はいつでも捨てきれない。
実現性が高いのは一党独裁のほうであろう。

コルチャークのクーデターと体制に反発したのは社会革命党であり、立憲民主党はそうでもなかった。
反ボリシェヴィキや反社会主義・反共産主義という点でも立憲民主党の臨時政府とコルチャークは一致する。
このことからコルチャークの軍事独裁体制の後ろにはやはりアメリカ(リベラル派)が付いていたのではないかと推測される。
武装を嫌いボリシェヴィキとは対立した社会革命党は元を正せば左翼で社会主義である。
その社会革命党もコルチャークを非難し武装するがチェコスロバキア軍などに鎮圧され、その後社会革命党はボリシェヴィキの味方に付くことになる。
コルチャーク軍事独裁体制の臨時全ロシア政府は1920年1月に赤軍に倒されるまで続いた。
第一次世界大戦が終結するまで好調で領域を拡大し、パリ講和会議(1919年1月)ではロシアの正当政府である旨、支持を取り付けたほどである。
しかしもはや第一次世界大戦はオーストリア・ハンガリー帝国やドイツ帝国の敗北で終結していた。
支持を取り付けたというもののコルチャークはすでにその存在意義を失っていたのだ。イギリスやフランスは離れて行った。
アメリカ(リベラル派)がバックに付いて軍事独裁体制を目指したが、そもそもそのアメリカでもシベリアに派遣されたアメリカ軍の指揮官(ウィリアム・グレイブス)がコルチャークを支持していなかった。
グレイブスは君主制や独裁制には反対であり、コルチャークには一切協力せず、シベリア鉄道の安全な運行だけに尽力を注いだ。
社会革命党を敵に回したコルチャークは社会革命党の支持基盤である農民からも支援は得られず。
戦争反対者からももちろん支援は得られず。
コルチャークは民族独立にも反対だったため独立を目指す民族集団や地域からも支援を受けられず。
こうして瞬く間に戦況は悪化し1920年の終焉を迎えることとなった。

軍隊を掌握する軍事独裁も他国の軍事力が関係してくると維持は難しくなる。他国の軍事力を支配する力までは持っていない。軍事独裁体制は支配の及ぶ国内でのみ有効なものなのだ(世界の軍事力を掌握できるというならば話は別だが)。
それは要するに、軍事独裁には、しようと思えば外側からのコントロールが可能ということである。
それが国際連盟や国際連合に繋がったのではないだろうか。
但しこれは軍事独裁にこそ威力を発揮するのであって、一党独裁や民主主義体制に対する実効力はそこまでではない。(経済的孤立がそれに代わるものだが、損得勘定重視や欲に目がくらむ人が結構いるので、効果のほどは疑疑問符付き)
戦争が起こらない時代にも効果は薄い。
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by yumimi61 | 2016-08-24 11:53
2016年 08月 22日
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台風が過ぎ去った夕方、夕焼けに染まった空に虹が架かった。

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by yumimi61 | 2016-08-22 23:59