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2016年 09月 30日
日本国憲法の秘密-365-
21歳で学位を取得し、1922年25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任したエンリコ・フェルミは、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。
授賞式の足でアメリカに移住し、コロンビア大学を研究の場とした。
昨日も転載したが、フェルミのWikipediaに以下のような記述がある。
実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

実験家と理論家という2つの顔と書いてあるが、これは学位にも言えることである。
もともと学位授与に関しては世界共通の規定があるわけではない。
国によって違うし、大学独自の規定で授与していることもある。
学位は資格ではなく、所定の教育課程を修了したもの(取得学位)、研究などを行って論文を公刊した者(研究学位)、大学などが功績を認めた者(名誉学位)に授与されるものであって栄誉称号である。
本来それだけでは何の意味も無いものであるが、ヨーロッパの大学において昔から教授職の資格として用いられていた。要するに大学教師陣の出世に必要だったものである。
現在においても、日本の学位の考え方や歴史は、欧米のそれとかなり違う。

「核物理学の父」のアーネスト・ラザフォードにはこのような記述がある。
鉄の磁化に関する研究で学士(文学)の学位を取得。 
数学と数理物理学を専攻し修士(文学)の学位を取得。

上記の学位を取得したのはニュージーランドである。

日本人の感覚からすれば、「鉄の磁化に関する研究」や「数学」「数理物理学」がどうして「文学」なのだろう?と思うのではないだろうか。
英語では "Bachelor of Arts degree" "Master of Arts degree" である。略してBAやMA。
この英語は多くの場合、「学士(文学)」「修士(文学)」と訳される。
もっとひどい場合にはArtsが芸術と訳されたりもする。

"Bachelor of Arts degree"(BA)はリベラルアーツに由来する。
ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本と見なされた自由七科のことである。
具体的には「文法学」「修辞学」「論理学」の3学、および「算術」「幾何(幾何学、図形の学問)」「天文学(円運動についての学問、現在の地理学にも近い)」「音楽(ここでいう音楽の教育は、現代の音楽教育とは範疇が異なる)の4科のこと。


最近では、そうした伝統的な科目群の位置づけや内容に現代的な学問の成果を加え、やはり大学で誰もが身に付けるべき基礎教養的科目だと見なした一定の科目群に与えられた名称で、より具体的には学士課程における基礎分野 (disciplines) のことを意味する。
この現代的な分類では、人文科学、自然科学、社会科学、及びそれぞれの一部とみなされる内容が包括されることになる。


Arts とは人文学だけでなく自然科学や社会科学も含まれるため、物理や化学や地学などをはじめ多くの分野が含まれてくる。
これらは大学での一般教養であり、昔はどれか1つを専攻するということではなく万遍なく学ぶ必要があった。
だから昔の発明家などはあれもこれもとかなり幅広い分野で名を残していたりするわけだ。

中世の頃の大学は貴族など金持ちの道楽(たしなみ?)的要素が強かった。つまり浮世離れしていたわけである。
そんな一般社会とはかけ離れた大学に見切りを付けたのはフランスで、1800年代に総合技術大学を誕生させた。
基礎的な学問をベースにし、その学問を一般社会に応用できる人物の育成を始めた。
こうした大学で育成された人物にBS(Bachelor of Science)を授けた。基礎科学に対して応用科学となる。
数学や物理や化学や地学は、どちらにも該当する。学んだ内容(大学)によって基礎か応用か違いがでる。
経済学は基礎で、経営学は応用といった感じ。
生物学、医療技術や看護学なども応用科学のBS (Bachelor of Science)にあてはまる。

「実験家と理論家」は、S(Science)とA(Arts)に似ている。
私はかつて「物理学は表現の学問」と書いたが、あながち間違えていないことが分かってもらえると思う。
A(Arts)は基礎や一般教養という意味合いもあるが、ひとつ間違うと浮世離れしてしまう。


Ph.D.にも誤解がある。
「Ph.D.」=「博士号」だと思っているらしく、日本では「Ph.D in Medicine」=「博士(医学)」などとして用いられているが、Ph.D. はDoctor of Philosophy の略で、直訳すれば「哲学博士」である。
直訳では「哲学博士」となることから分かるように、基本的にはあくまで、伝統4学部のうち職業教育系の神学・法学・医学を除いた「哲学部(ないし教養部)」のリベラル・アーツ系の学位である。

伝統4学部とは、哲学、法学、医学、神学。中世からの伝統を持つ。
上にも書いたように現代では基礎分野の範囲も細分化し拡大してきているので、まとめて学術分野(基礎分野)とし、その分野の博士に授けるのがPh.D.(学術博士)と認識している人もいるようだが、外国では神学・法学・医学の他に農学や工学などの技術・技能系分野でもPh.D.ではないし、専門職関連の学部では専門職学位を出している。
基礎の反対が応用。
学術の反対が技術・技能・専門ということになる。
つまり学術雑誌とは基礎分野の雑誌ということで、そこに掲載されたからといって、社会に役立つものとは限らない。技術・技能・専門からはかけ離れていることもある。

専門分野の学位、例えば、Medicinae Dr.(M.D.)医学博士。

M.D.は専門職教育と応用研究に重点を置いた学位であり、アメリカの医学部卒業者という意味でもあるので、それをそのまま外国の医師にあてはめてよいのかという問題もある。
日本の医師はM.D.と称することが多いが、M.D.は博士に匹敵する学位なので、医師免許を持っているだけの、あるいは医学部を卒業しただけの医師がM.D.と称してよいのかは議論があるところ。
医学部6年所定教育修了者を博士として見做すかどうかは社会的なコンセンサスを得ていない。
厳格に言えば、日本の医学部卒業者の学位は、Bachelor of Medicine(医学士)である。
ヨーロッパの医師たちはMBBS(内科学士)やMBChB(外科学士)などと称する。
日本の自称M.D.は博士ではないということが知られてきて、外国で研究職として働く場合にはPh.D.がないと採用されないという話もある。
しかしながら一方で、日本にはM.D.&Ph.Dがやたらいすぎておかしいという見解もあるらしい。
どちらにしてもPh.D.は、ひとつ間違うと浮世離れしてしまう基礎分野の学位である。

アメリカでは1800年代にドイツのフンボルト大学を手本に、アーツ分野(真理発見に資する学術系の学問;基礎科学・一般教養)であれば広くPh.D.の学位を認めるようになった。
現在では、Ph.D.は学術の研究を行う者に与えられており、BA(Bachelor of Arts, 教養学士・文学士〔外国語と哲学を含む〕)、BS(Bachelor of Science, 理学士)、MA(Master of Arts, 文学修士)、M.Sc.(Master of Science, 理学修士)、M.Phil.(Master of Philosophy, 哲学修士)の上位の学位である。そのため、どのような分野の研究にも適応できる学位であるとして「変幻自在な学位」 (the protean Ph.D.) と表現する者もいる。

M.D.&Ph.Dとはアメリカの医学部を卒業した医師で、且つアーツ分野(基礎科学や一般教養)でも博士号を取得したもののことである。


1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)が「中性子」を予想する。
1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)

1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)が「中性子の存在」を実験で証明する。
1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。
1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。

1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、シラードがアメリカに移住。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジンがアメリカに帰化。
1938年、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。 

1939年1月、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)が「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功。

1939年3月、シラードとフェルミがコロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。

アメリカは1700年代後半に独立した国である。独立国としての歴史は浅い。
伝統あるヨーロッパにはなかなか敵わない。
おそらく原爆の開発はアメリカで行う必要があったのだ。同時にアメリカ発信ではダメだということも分かっていたのではないだろうか。例えヨーロッパ出身であったとしても。
ここで大きくイギリスが関与してくる。

1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。
2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。

オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。
これにより、1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された。 委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。


オットー・フリッシュ(オーストリア)
ウイーン大学で22歳の時に博士号取得。
1930年にハンブルク大学のオットー・シュテルン(1943年のノーベル物理学賞受賞者)の下で職を得た。
1933年、シュテルンの紹介で、イギリス・ロンドン大学のバークベック・カレッジの一員となり、物理学者パトリック・ブラケット(イギリス)の下で1年間研究を行った。
その後はデンマークのコペンハーゲンに移り、量子力学の確立に貢献した物理学者ニールス・ボーア(オーストリア)の下で5年間研究に勤しんだ。
この間にフリッシュの研究は、原子核物理、その中でも中性子の研究に特化していった。

(オットー・フリッシュは)1938年のクリスマス休暇中、スウェーデンのクングエルブにあるマイトナー(放射線や核物理学の研究を行ったオーストリアの物理学者。フリッシュの叔母にあたる)の元を訪れた。
訪問中、マイトナーは、ベルリンからのオットー・ハーンフリッツ・シュトラスマンからの手紙を受け取った。
そこには、ウランの原子核に中性子を衝突させると、副産物としてバリウムが発見されたと書かれていた。ハーンらはこの結果を説明することはできなかった。
フリッシュとマイトナーは、仮にウランの原子核が2つに分かれることがあるのならば、この現象が説明でき、その時にエネルギーが生み出されることを示した。

このすぐ後に、スタニスワフ・ウラムは、核分裂は連鎖反応を引き起こし得ることを証明した


スタニスワフ・ウラムはポーランド出身ユダヤ系数学者。1938年にはちょうどアメリカのハーバード大学にいた。アメリカに移住したのは1939年。

1939年夏、フリッシュはバーミンガムへの小旅行のため、デンマークを離れた。しかし第二次世界大戦の勃発により帰ることができなくなった。そのためイギリスで、物理学者のルドルフ・パイエルスと共に核分裂に関する研究を行った。その結果、ウランによる原子爆弾の製造が可能であることが明らかになった。2人はその結果をフリッシュ=パイエルスの覚書 (Frisch-Peierls memorandum) としてまとめた。この覚書は原爆の爆発から、その後の放射性降下物までを予測していた。

この覚書はイギリスにおける原子爆弾製造計画(チューブ・アロイズ)の基礎となり、さらにマンハッタン計画においても同様の役割を果たした。フリッシュはアメリカのロスアラモス国立研究所で研究を行うこととなり、アメリカへ行くためにはイギリス市民である必要があったため急遽市民となったうえで、1943年にアメリカへと移動した。


ルドルフ・パイエルスはドイツ出身のユダヤ系物理学者。
1933年にパイエルスはイギリスに渡り、1939年頃までにフリッシュやチャドウィックとともに原子の研究を行うようになる。

ドイツのオットー・ハーンとスウェーデンに亡命していたリーゼ・マイトナーは1938年にウラニウムにおける核分裂を報告した。
1939年パリのコレージュ・ド・フランスの科学者のグループ、フレデリック・ジョリオ=キュリー、ハンス・フォン・ハルバン、レフ・コワルスキー、フランシス・ペランはウランの原子核で発生する核分裂を発表し、2つか3つの中性子が必要であることを示した。
この重要な発見は自然と維持される連鎖反応が可能であると言うことを示していた。
これは即座に多数の科学者が、非常に強力な爆弾「原子爆弾」が理論的に作成可能であることを想像させた。
しかし、ほとんどの科学者はその様な原理的な爆弾は不可能であると考えていた。

パリのグループのフランシス・ペランは連鎖反応を維持するために必要な最小限度のウランの量である「臨界量」(critical mass)を定義した。しかし、自然のウランは核分裂により生じた高速中性子を減速するための減速材なしでは連鎖反応を維持することができないことも発見した。

1940年初め、パリのグループは重水が理想的な減速材であるという理論的背景を固めた。彼らは、フランス軍需相にノルウェーのヴェモークにある大きな水力発電所からどれだけの重水を得ることが可能か問い合わせた。フランスはノルウェーの重水の全在庫をドイツが購入する注文を行っていたことを発見した。これは、ドイツも原爆の開発を行っていることを示していた。


最初イギリスの研究は、自然のウランを使用した高速中性子による原爆は不可能であると正しく結論づけていた。この理由は、ウラン238がたくさんの中性子を捕獲し失われてしまうためである。しかし、1940年2月、イギリスに亡命していたオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの2人のドイツ人の科学者は、原爆は製造可能であり、ウランの同位体の質量の軽いものであるウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファントに報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザードにその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。

重水のチームは遅い中性子研究をケンブリッジ大学で続けるために招かれたが、その計画は爆弾を作り出すという期待がされていなかったため、優先度を低く設定された。
技術者の集団(ティザードの使節)は1940年9月に北アメリカに送られ、その代わりに、レーダー、ジェットエンジン、核研究などの全領域の技術を手に入れた。

ティザードの使節は帰還した際に、彼らは、遅い中性子の研究がケンブリッジのパリのグループや、コロンビア大学のエンリコ・フェルミや、カナダのジョージ・ローレンスにより継続されていたことを報告した。彼らは戦争遂行とは関係ないと結論付けていた。


誰もが実現不可能だと思っていた原子爆弾の研究は、イギリスというブランドを利用しつつ、アメリカにてヨーロッパ出身者を中心に行われることになった。
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by yumimi61 | 2016-09-30 14:14
2016年 09月 29日
日本国憲法の秘密-364-
物理学者ラザフォードの言うように「原子核のエネルギーを工業的規模で解放することは出来ない」とするならば、ウェルズ作品は現実のものとはならない。
核戦争が起きないならばそれに越したことはないし、元々小説であり作品だから別に現実にならなくても良いはずだが、シラードはそれでは嫌だったのだろう。
敬愛するウェルズを否定されたようで悲しんだのか、それとも自分の好奇心や高揚感を否定されて落ち込んだのか、シラードはそれから核エネルギーのことが頭を離れなくなった。


核エネルギーが頭を離れなくなったシラードは、すぐさま核エネルギーに関するいくつかの特許を取得した。

STAP小保方騒動の時にも書いたかもしれないが、特許は何か特定の物についての存在の証明をしているわけでもないし、特許申請された方法や技術の正当性や最適化を保証しているわけでもない。
それが有益で優れたものであることを公認したのとも違う。
「今までに特許申請されていない、これまでに認可されていない技術(=新しい技術)」であることを保証し、その技術の開発者と認めただけである。
有益なものもあれば、しょうもないものもある。
特許は物に対して与えるものではなく、形がない発明(技術)に対して与えられるものである。
間違っても「STAP細胞」に特許は与えられない。


シラードは1932年に発見された素粒子中性子による連鎖反応の理論的可能性に思い至る。
「電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる!」

中性子の発見は1920年のアーネスト・ラザフォードによる予想に始まり、その存在の実験的証明は1932年にケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックによってなされた。
チャドウィックは上記の核反応で発生する粒子(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)n が、陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい粒子からなる粒子線である事を確認し、これを中性子(neutron)と名付けた。


アーネスト・ラザフォードとは1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説いたその人である。

中性子はなく、核分裂でもないとすると?

(シラードは)核連鎖反応のアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、この特許をイギリス陸軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの拒絶され、海軍へと同じ申請を行った。
彼はいくつかの根拠からベリリウムやインジウムなどを連鎖反応を生成する可能性のある有力な候補とみなし、病院の施設を借りて実験を行った。 実験によってベリリウムは中性子源として利用できることが判明したものの、期待した連鎖反応を起こさないことが分かった。他の元素での実験を企図したものの、亡命先でしっかりした地位がなかったため資金難から十分な実験を行うことはできなかった。


シラードは敬愛し原子爆弾を描いたSF作家の母国イギリスの軍隊に自分のアイディアを持ち込んだが相手にされなかった。
軍隊に持ち込んだのは需要が必要だったからで、なぜ需要が必要なのかと言えば、資金を得たいがためである。
戦争や敵(ライバル)は需要を掘り起こしやすいということなのだろう。平和や無欲な状態、危機感無き場所では需要が刺激されない。
需要なき研究開発は自分の興味関心を満たすものに過ぎない。
それでも良いという人もいるだろうが、結局資金がないと出来ないので、需要に頼る羽目になる。
もちろん自分の興味関心を満たすだけでは物足らないという名誉欲に満ち溢れた人もいる。
どちらにしても需要頼みとなる。
要するに技術開発というのはいつでもアドレナリン優位、戦闘状態のようなものなのだ。


シラードは1919年に母国ハンガリーから逃げるようにしてドイツに移り住み、1933年にオーストリアに亡命、
イギリスやアメリカを行き来するなか、イギリスのオックスフォード大学クラレンドン研究所の常勤研究員としての職を得て、アメリカに滞在していたがほどなくして退職。
シラードは帰国せずにアメリカで暮らすことを決意する。1939年初頭のことである。
この頃にはシラード自身も核の連鎖反応は実現不可能なもので、自分は時間を無駄にしただけだと思うようになっていたそうだ。

あの論文が発表されたのはちょうどそんな時だった。
1939年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマが「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したそうだ。
シラードはこのことを旧知の知り合いから伝え聞いた。

中性子の照射によってウランは2つの核に別れ、それに伴って莫大なエネルギーが放出される。こうしてシラードの予想とはやや違った形で突如としてウランによる連鎖反応の可能性が浮上した。
ナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い危機感を抱くようになった。

シラードが考えていた核反応は「分裂」ではなかったのだ。

オックスフォード大学の研究所を辞めてアメリカでの職を失ったシラードはコロンビア大学に転がり込んだ。
コロンビア大学には物理学者のエンリコ・フェルミとウォルター・ヘンリー・ジンがいた。

エンリコ・フェルミ
イタリア、ローマ出身の物理学者。統計力学、核物理学および量子力学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験をして、多くの放射性同位元素を作り1938年のノーベル物理学賞を受賞している。フェルミに由来する用語は数多く、フェルミ推定のような方法論やフェルミのパラドックスといった問題、フェルミ粒子のような粒子の分類やフェルミウムといった元素名にその名を残している。他にも物理学の用語にフェルミに因むものが多く存在する。実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

ピサ高等師範学校で物理学を学ぶ。1918年(17歳)で入学し、1922年(21歳)で学位取得。
1926年25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
ここで、ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論(フェルミのベータ崩壊の理論)を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。このノーベル賞受賞の為、ストックホルムを訪れた際に、ユダヤ人の夫人と共に、アメリカに移住する。あらかじめコロンビア大学の永住権スポンサーがあったので亡命ではなかった。


1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)*が「中性子」を予想する。

1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。

1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)**が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)

1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)***が「中性子の存在」を実験で証明する。

1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。

1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。

1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、シラードがアメリカに移住。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジンがアメリカに帰化。
1938年、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。
1939年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)****とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)*****が「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功。

*アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)
21歳の時に学士、22歳で修士の学位を取得、復学をしたり留学したりで23歳と26歳の時にも学士を取得。
博士号を取得したのは30歳の時だった。「核物理学の父」と呼ばれる人物。
1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言った人。

**ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)
ドイツ・バイエルンのミュンヘン大学で21歳の時に(大学入学3年後)で博士号を取得。

***ジェームズ・チャドウィック(イギリス)
イギリスのケンブリッジ大学のカレッジ(Gonville and Caius College)で30歳の時に博士号取得。
20歳で大学卒業、修士号は1913年22歳の時にビクトリア大学で取得していたが、その後第一次世界大戦が始まった。
彼はラザフォードに師事していて、博士号もラザフォードの下で取得している。

****オットー・ハーン(ドイツ)
ドイツのマールブルク大学で22歳の時に(大学入学4年後)で博士号を取得。

*****フリッツ・シュトラスマ(ドイツ)
ドイツのハノファー大学で27歳の時に(大学入学9年後)博士号を取得。


ウォルター・ヘンリー・ジン
カナダのベルリン出身。
カナダ・クイーズ大学で1927年21歳の時に学士、1930年24歳の時に修士の学位を取得。
同年アメリカのコロンビア大学に入学し物理学を学び博士号取得。

1927年~1928年はクイーンズ大学で、1931年~1932年はコロンビア大学で教鞭をとり、1932年にニューヨーク市立大学の講師になった。
1938年にアメリカに帰化し、コロンビア大学の物理学研究所で働いていた。
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by yumimi61 | 2016-09-29 13:00
2016年 09月 28日
日本国憲法の秘密-363-
1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)
1945年2月、ダウンフォール作戦の骨子が完成。
1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。

1945年3月26日~6月23日、沖縄戦。(4月1日にアメリカが沖縄本島に上陸、6月21日アメリカが占領)

1945年4月12日、アメリカ・ルーズベルト大統領死去(後継はトルーマン大統領)。
1945年4月28日、イタリア・ムッソリーニが銃殺される。
1945年4月20日、ドイツ・ヒトラー総統が自殺。
1945年5月7日、ドイツが無条件降伏文書に調印。
1945年5月8日、ドイツが批准文書に調印。

1945年7月16日、トリニティ実験(原子爆弾を用いた核実験実施)。
1945年7月17日~8月2日、ポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。
1945年7月21日、トルーマン大統領が原爆実験成功の報告を受ける。


1945年4月12日ルーズベルト大統領が急逝し、この日、副大統領のトルーマンが急遽大統領に昇格した。
トルーマンが副大統領に就任したのは、ルーズベルト大統領の4期目のことで1945年1月20日からである。
従って副大統領の職務経験も3か月に満たない。
しかもトルーマンが大統領に昇格して穴が開いた副大統領席には誰も就かなかった。
1945年4月12日~1949年1月20日までアメリカの副大統領は不在だったのだ。
(もしもトルーマンが急逝したらどうするつもりだったんでしょうね?トルーマンは死なないから大丈夫??)
前にも書いたがアメリカには君主も首相もいない。
副大統領はサポート役や代理であって首相とは立場が違うが、戦争の最中という大事な時期に、しかも経験の浅い大統領だというのに、副大統領さえいない異常事態にあった。
大統領の死去によって独裁体制を敷いたのがドイツ・ヒトラーだが、アメリカもそれに負けず劣らずの独裁期間だったということになる。


Wikipedia日本への原子爆弾投下には以下のように書かれている。
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。 
具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。


科学や科学者に需要は必要ない。
強い興味関心と名誉欲に突き動かされるのだ。子供のような強い好奇心を持ち、一番になりたい、褒めてもらいたいと願う。

1939年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマが「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したそうだ。

海を温めるもの

日本の原子力発電所は海沿いにあって海水を利用している。
60%の廃熱は温排水として海に戻される。
空冷式ではないので冷却塔は無い。
電気を作るために使う熱の2倍の熱を海に捨てているのだ。
このことは昨年も書いた。
考えようによっては原発は海を温めるためのボイラーのようだ。

原子力発電所では核分裂によって生じる熱(これで電気を作っている)と崩壊熱という熱を生じる。
崩壊熱とはその名の通り、放射性物質の崩壊によって生じる熱である。
徐々に熱量は減るとはいえ、半減期の長い物質もある。
汚染水(放射性物質)が海に放出されれば、半減期に応じて崩壊熱を出し続けることになる。

放射性物質の毒性(生き物への影響)も然ることながら、熱(温度変化)が生態系や地球に影響を与えかねない。
(だから気候変動は嘘じゃないって言ったでしょ?)

現代においては太陽のエネルギー源は核融合ということになっている。
核融合も核分裂も核反応である。
例えれば、原子爆弾は核分裂であり、水素爆弾は核融合となる。


原子爆弾は細胞分裂核分裂なのだろうか?


科学は利用されて初めて需要が生まれる。
需要が無いのに莫大な資金を投入するなんてあまりにも馬鹿げた話だ。
科学は資金のために需要が必要なのである。需要があるから科学が存在するのではない。逆なのだ。

ドイツの科学者に先を越されて悔しがったのがハンガリー(旧:オーストリア=ハンガリー帝国)からアメリカに亡命したユダヤ人学者レオ・シラードだった。
父は土木技師で、シラードは22歳の時にドイツ・ベルリンのベルリン工科大学へ入学した。
当時のベルリンにはアインシュタインなど有名学者が多く暮らしており物理学のメッカだった。
編入なのかどういう経緯なのか分からぬが、半年あまりで工学に飽きてベルリン・フンボルト大学に移り物理学を学ぶようになる。
哲学、倫理学なども受講し、アインシュタインに直談判して統計力学のセミナーを受けて持ってもらったりもした。
シラードの興味の対象は幅広く、また彼の波乱に富んだ生涯と切り離せない。熱統計力学、原子核物理学、分子生物学の科学的研究のみならず、先進の物理的アイデアに基づいた多くの特許や、社会活動団体の設立、さらには小説の執筆にまで及ぶ。
しかしながらシラードは「心の中ではいつでも生物学者であった」そうだ。
また世界政府(国家の上位組織)の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想としていたそうだ。

1939年、シラードはベルリンで教えを受けたアインシュタインに頼み込んで、ルーズベルト大統領への核開発を促す書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を書いてもらった。
この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。

ルーズベルト大統領は検討するように部下に命じた。
担当官らはアインシュタインではなくてシラードとコンタクトを持った。1939年10月21日初会合。
しかしながらルーズベルト大統領はこの件に関して然程感心を示さず、研究費要求にも応えず、開発話は中断した。

アインシュタインあってのシラードなのにアインシュタイン抜きとは端から怪しい。

シラードはベルリン工科大学に入学する以前1916年18歳の時にハンガリー・ブタペストにある王立ヨージェフ工科大学に入学している。しかし翌年1917年には徴兵される。
第一次世界大戦(1914-1918)後の1919年クリスマスにベルリンに移った。
ベルリン工科大学に入学したのは1920年1月のことだが(半年でベルリン・フンボルト大学に移る)、翌年には博士論文に取り組む。

1921年冬学期にはラウエに博士論文の指導を引き受けてもらったが、与えられた相対論の問題には何か月も実りがなかった。クリスマスに課題から離れて思い浮かぶままのアイデアを考えながら散策していたとき、ひらめきが訪れ、一つの論文を書き上げた。これは課題と異なるものであったため、シラードはまずアインシュタインへと相談した。
アイデアは独創的なもので「それは不可能だ」と始めは驚いたアインシュタインも説明の後にはそれを気に入り、自信を得たシラードは論文をラウエへと提出した。
ラウエはいぶかしくこれを受け取ったものの、シラードは翌朝それが博士号審査論文として受理されたことを知らされた。
1922年シラードはこれにより系の変数のゆらぎへの熱力学第二法則の拡張に関する論文で博士号を取得した。


論文よりも特許を申請することを好み、原子炉や粒子加速器など多くの先進的なアイデアが特許として残されている。科学のみならず世界情勢に関しても人より先を見通すことに長けており、そうした自己の信念やアイデアを絶対視して周囲をまとめようとしたため、しばしば同僚研究者を苛立たせた一方で、その洞察力には一目置かれた。亡命後はわずかなスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば朝から何時間も湯舟に浸かって思索するのを好んだ。
お風呂の時もあなたのことを研究のことを考えていました。小保方さんか!

シラードは1933年4月にドイツからオーストリアに亡命した。
では博士号を取得してから1933年までシラードはドイツで何をしていたのか?

シラードは博士号取得後もベルリンのあちこち研究室やカフェで議論を楽しんだ。1925年にラウエ(博士号審査論文指導者)の助手として採用され、1927年には大学の私講師となった。この頃、イギリスやアメリカを含め各地を飛び回るとともに、粒子加速器などの多くの特許を提出している。現代数学に対する自己の能力不足を認識したシラードは、理論物理をあきらめ、リーゼ・マイトナーとの実験核物理学の研究や、生物学への転向、さらにはインドでの教授職など新たな進路を模索したが、見通しは芳しいものではなかった。

1920年代半ば、ヴァイマル共和国(共和政時代のドイツ)の議会制民主主義の衰退を感知していたシラードは、その崩壊に備えて彼がブントと呼んだグループを組織しようとしていた。
ブントは将来「過飽和溶液中の種結晶」となることを意識して、深い宗教的・科学的精神により結びつきその内に民主制を代表させた一種の組織的エリート集団である。この計画は科学者エリートが政治・社会に関わっていくというその後の彼のさまざまな社会活動の端緒となるものとなった。
またシラードは、イギリスのSF作家 H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、1920年代のベルリン在住時には彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。


シラードは亡命先のオーストリアで生物学を目指すことにした。
そんな彼の運命を変えたのは、新聞の小さな記事だった。
著名な物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド出身でイギリスで活動)の講演記事で、ラザフォードは「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言及していた。
それはシラードにとって敬愛し信奉するSF作家ウェルズの作品を否定するということに他ならなかった。

ウェルズは文明や科学には批判的な立場であり、その立場から文明や科学の行く末を描いた。
核エネルギーや原子爆弾、タイムマシーンに透明人間、反重力世界などが未来を彩る。
1914年に発表された『解放された世界』では、世界大戦が勃発して大量の原子爆弾によって焼野原になる世界を描いた。核戦争が行われる未来、時代設定は1956年。
そうした状況を防ぐために「世界統一政府」が必要だというのがウェルズの主張の根幹である。
第一次世界大戦は「あらゆる戦争を終わらせるための戦争」と言われたりもしたが、「あらゆる戦争を終わらせるための世界統一政府」といったところか。
1928年の『開かれた策略』では、かつてない変化に直面した世界に対して、科学的精神を持った多くの集団が国家の枠組みを越え戦争を廃絶させる世界共同体の創設をめざして活動するための「策略」が議論されていた。


新しい価値観、新しい時代、愛と平和と自由とセックスを信条にヒッピーが流行り、野外レイヴ、アンダーグラウンドクラブ、トランス、サイケデリック、グランジなどの文化とリンクした新たなヒッピーが形成され、大麻などドラッグを取り込んだ。
この若者集団から学生運動や活動家(過激派)が派生した。
「地球が新しい時代 を迎える」「新しい意識をつくる」といった思考は、「ニューエイジ」や「スピリチュアリズム」のブームを生むことになった。
これらにSF(Science Fiction;サイエンス・フィクション)が絡まって、宇宙や科学の時代の到来とともに、より現実に近くなっていった。
科学と神や精神が繋がらないという人もいるかもしれないが、そうではないのだ、両者は元々とても近いところにあるものなのだ。
現代は再び神に回帰する時代と言えるかもしれない。



カトリックの国に生まれ育ち、カトリックの国に亡命したシラードはウェルズの作品に強い影響を受けていたと思われる。

物理学者ラザフォードの言うように「原子核のエネルギーを工業的規模で解放することは出来ない」とするならば、ウェルズ作品は現実のものとはならない。
核戦争が起きないならばそれに越したことはないし、元々小説であり作品だから別に現実にならなくても良いはずだが、シラードはそれでは嫌だったのだろう。
敬愛するウェルズを否定されたようで悲しんだのか、それとも自分の好奇心や高揚感を否定されて落ち込んだのか、シラードはそれから核エネルギーのことが頭を離れなくなった。
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by yumimi61 | 2016-09-28 13:22
2016年 09月 27日
日本国憲法の秘密-362-
昨日書いた「白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)」は秘密結社という位置づけにある。
前に書いた「トゥーレ協会」も「イルミナティ」も秘密結社である。
「トゥーレ協会」も「イルミナティ」もドイツのバイエルンで誕生しており本部もバイエルンにあった。
「トゥーレ協会」が生み出した政党が「国家社会主義ドイツ労働者党」、 後にヒトラーが党首となり独裁政権を敷いたナチスである。
「イルミナティ」は今現在でも陰謀論に頻繁に登場する団体である。

近世以降、この名前(イルミナティ)で呼ばれた秘密結社が数多くある。グノーシス的要素やテンプル騎士団、シオン修道会、アサシン、フリーメイソンとの関連等を持つとされる。尚、イルミナティに入るためにはフリーメイソンに入らなければならないという説がある。
陰謀論においては非常に人気があり、現在でも密かに世界へ手を伸ばし影響を与えている影の権力であるとされる。ただし、日本ではそれほど有名ではなく「ユダヤの陰謀」や「フリーメイソンの陰謀」などの表現に置き換えられていることが多い。


もうひとつ陰謀論で人気の高い団体がフリーメイソンリー。
16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社。

秘密結社(secret society)とは、組織の存在や構成員、組織の活動などを外部の人間に秘匿している団体のことを言う。
秘密にしているのだから外部に本当のことが分かるわけがないのに「秘密結社」認定しているという矛盾を抱えているため、どうしても陰謀論自体が胡散臭くなってしまうジレンマに陥るわけである。
こんな観点ではどうでしょうか?
思い出したけれど、上流階級の人達は自分や家族のことを他人に話したりしないそうである。秘密主義。
だからきっと秘密結社とかツボなんだろうね。


もうひとつ犯罪秘密結社というものがある。犯罪を行う者は秘密と何かと縁がある。詐欺師が詐欺師と名乗らないのと同じ。
犯罪秘密結社は犯罪集団や暴力団、暴徒(野次馬連)と言い換えることが出来る。
但し暴力団は見た目で分かることも多いので、そういう意味では秘密には無縁。むしろその姿を誇示し自己PRしている。さらに暴力も秘密的な犯罪とは言えない。
もう少し知能的で表立って見えない犯罪を行う組織が犯罪秘密結社と言えそうである。
暴徒とは徒党を組んで乱暴をはたらくもの。大衆・群衆の乱闘や暴動など。見た目は、普段は、善良(?)市民であることが多いので、日常における見た目では分からないという点においては犯罪秘密結社に通じるものがある。

殺人現場にやじうま達が暇潰しで群がる 中高生達が携帯片手にカメラに向かってピースサインを送る 犯人はともかく まずはお前らが死刑になりゃいいんだ♪ ←この歌詞は様々なことを包括していて素晴らしいと思います。

フリーメイソンは存在が公になっているので秘密結社に分類されないこともあるが、公になっていない活動を行っているとしたら秘密結社にあたる。
儀式など完全にオープンにされていない神秘性を持つので秘密結社と位置付けられることも多い。
フリーメイソンの発祥はスコットランドと言われている。
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

犯罪秘密結社を英語に訳せばsyndicate(シンジケート)。
企業連合・組合や大学評議会、債券・株式の引受団などと、犯罪集団は同じ単語で括られるのである。



フリーメイソンは元々はスコットランドやイングランドの石工職人や大工職人の集まりだったと考えられている。
その名が記録に残るのは1500年代以降であるが、起源や目的などははっきりとしていない。
1500年代というのは宗教改革が起こった年代。要するにカトリックが窮地に陥った年代である。
イエズス会が創設されたのも1534年と、この時代のことである。

下記上段左図は宗教改革後のヨーロッパの宗教領域。前記事に載せた北方人種の地図と比較。
(左図)オリーブがカトリック、ブルーがプロテスタント、レッドがイスラム。
下段はローマ帝国最大版図。
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誤解があると思うが、ローマ帝国はカトリック(イエス登場後の新約聖書重視)ではない。キリスト教(旧約聖書)を含め、多神教であった。
カトリックが勢いを増したのは他でもない北方人種の民族大移動のおかげである。
ドイツはカトリックと一番関係が深いと言える国であるが、宗教改革もドイツから始まった。
そして北方人種とプロテスタントの領域はほぼ重なってくる。
ここで注目すべきは、スカンジナビア半島とアイルランド島、スコットランド、ドイツ以東(ドイツ・ポーランド・オランダなど)である。
ここはローマ帝国の支配が及ばなかった地域である。旧約聖書的キリスト教や多神教といったものには縁遠く、独自の文化を持っていたと考えられる。(民族は神話的なものを共有していた)
逆に言えば、宗教的に無垢であり、感化されやすいという特徴を持っているはずである。
斜に構えることが出来ない。ブームや文明的なものに弱い。
だからカトリックに大いに感化され、次いでプロテスタントにも感化された。

フリーメイソンは宗教改革の時代に元々の職人の集まりから性質を変えて、宗教的な背景を持つ組織に変化したのではないかと考えられる。
プロテスタントが勃興してきた地で秘密に活動しなければならないとすれば、それはカトリックだろう。


ルーズベルト大統領も、トルーマン大統領もフリーメイソンだった。
・ルーズベルト大統領―1911年にニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8で入会
・トルーマン大統領―1909年にミズーリ州のベルトン・ロッジNo.450で入会。

ルーズベルト大統領は29歳の時。上院議員1年生の時にフリーメイソンになった。
トルーマン大統領は25歳の時、上院議員どころか、カウンティ・ジャッジにも兵士にもなっていなかった頃。

「白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)」はプロテスタント支持で反カトリックであった。
トルーマンは票田を棄てても、反カトリックに同調することは出来なかったのであろう。

第二次世界大戦は宗教的に、カトリックvsその他 と見ることもできる。
当時、ドイツとイタリアはバチカンと政教条約を結んでいた。
日本の昭和天皇もローマ教皇と接見し、バチカンと国交を結ぶなど、カトリック信仰が見え隠れする。
ドイツ・イタリア・日本はカトリック国。
対するイギリスやアメリカはプロテスタント。ソ連は正教会だが正教会は国家によって弾圧されていたので無神論的な国と言えたかもしれない。
戦争に勝利したのは反カトリックチームである。カトリック派は敗北した。
それにもかかわらず世界的にカトリックが拡大している。
さらに価値観の一体化によってカトリックとプロテスタントの差がなくなってきている。
世界は多様化を極めているようで、実は一元化しているのだ。


第二次世界大戦は宗教的に、カトリックvsその他 と見ることもできる。
ドイツ・イタリア・日本はカトリック国。
対するイギリスやアメリカはプロテスタント。

こう書いたばかりだが、君主のいないアメリカに国教はない。
移民が多く、宗教も入り乱れた状態である。
アメリカはプロテスタント国家のイギリスやオランダからの入植者の影響でプロテスタント色が強いと思われがちだが、独立戦争ではその人達と戦ったわけであるから、ある意味プロテスタントは長年の敵である。
独立後にアメリカ聖公会はイギリス(イングランド)ではなく、スコットランドと連携した。(このあたりが非常に怪しいことは前に書いた)
またイギリスからの移民にはイギリス国教会に幻滅したり弾圧されてきた人もいる。そうした人達が継続してプロテスタンを信仰したかどうか。
そして、ルーズベルト大統領もトルーマン大統領も、カトリックが背景にあると思われるフリーメイソンリーのメンバーだった。
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by yumimi61 | 2016-09-27 10:55
2016年 09月 26日
日本国憲法の秘密-361-

1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)
1945年2月、ダウンフォール作戦の骨子が完成。
1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。


1945年3月26日~6月23日、沖縄戦。(4月1日にアメリカが沖縄本島に上陸、6月21日アメリカが占領)


沖縄戦が行われている最中に重大な出来事が発生した。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が亡くなったのである。1945年4月12日。脳卒中で急逝したという。

第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ノーベル平和賞を受賞した第26代大統領セオドア・ルーズベルトとルーツが同じである(遠い親戚)。
そしてフランクリン・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルトの弟の娘(姪)と結婚した。

1932年の大統領選に出馬。
選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中で“ニューディール”(新規まき直しの意味)の用語を使用。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。

アメリカ大統領の中で唯一4選した大統領となった。(4期目当選ほどなく病に倒れ終戦を待たずに亡くなった)
アメリカは今でこそ大統領は1人10年(実質2期)までと定められているが、第二次世界大戦以前は規定はなかった。
初代ワシントン大統領が2期務めたので、その慣例に倣っていただけなのである。
その慣例を打ち破った唯一の大統領がフランクリン・ルーズベルト。


フランクリン・ルーズベルトは1921年39歳の時にカナダでにポリオに罹患し、その後遺症によって下半身が麻痺し車椅子で生活していた。(ギラン・バレー症候群だった説もある)
障害を持つ大統領だったのだ。
原子爆弾の開発(マンハッタン計画)を推進した大統領でもある。

1939年5月~6月、イギリス国王夫妻(ジョージ6世とエリザベス)がカナダとアメリカを公式訪問した。
戦争においてのイギリスへの支援を要請するという政治的目的と、北米の民衆の支持を得る目的があった。
ニューヨーク万国博覧会に出席し、ホワイトハウスでフランクリン・ルーズベルト大統領と会談。
その後、ハイドパークの大統領私邸も訪問した。
イギリス国王夫妻とフランクリン・ルーズベルト大統領は密接な関係を築いた。
これが第2次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼしたと言われている。



ルーズベルト大統領の死後、大統領に就任したのは副大統領だったトルーマン。
フランクリン・ルーズベルト大統領はセオドア・ルーズベルト元大統領と縁戚関係にあったわけだが、トルーマンはそれとは対照的だった。
そうした縁戚はなく、高校卒業後、銀行の事務職、農業、兵士などの職に就いた。
大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だそうだ。
トルーマンを支援したのは犯罪集団のボス民主党員トム・ペンダーガスト。
シカゴのアル・カポネ、カンザスシティのペンダーガストと呼ばれたほどの人物。
1922年、トルーマンはこのペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく行政官)に選任された。
以降もペンダーガストがトルーマンを支え大統領になる道筋を作った。
1934年にトム・ペンダーガスト支援の下でミズーリ州の上院議員に当選。

トルーマンが議員時代の1941年、ルーズベルト大統領が軍事費に国家予算を注ぎ込んでいるとして、軍事費の不正使用に関して調査を行う「トルーマン委員会」を設立し、この委員会の調査報告によって浪費が押さえられたとしてトルーマンはその名を知らしめた。
1944年の大統領選ではじめてトルーマンは副大統領候補となったのであって、前3期の副大統領はトルーマンではなかった。(1933-1941ガーナー、1941-1945ウォレス)
ルーズベルト大統領に2期仕えたガーナーは次第にルーズベルトと意見が合わなくなり対立するようになったという。
そしてルーズベルト大統領が3期目を目指した大統領選にガーナーも立候補するのであった。(何事も長くなると・・やっぱり2期くらいが限界なんでしょうか?)
だというのに、ルーズベルト大統領は1941年に軍事費浪費問題で自分を追い詰めたトルーマンを副大統領候補に指名するなんて。


トルーマンは白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)に加入していた時期があった。

「白人至上主義団体」とされるが、正確には北方人種を至上とし(ノルディック・イデオロギーという)、主に黒人、アジア人、近年においてはヒスパニックなどの他の人種の市民権に対し異を唱え、同様に、カトリックや、同性愛者の権利運動やフェミニズムなどに対しても反対の立場を取っている。
プロテスタントのアングロ・サクソン人(WASP)などの北方系の白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持つ、神(エホバ)による選ばれし民として、他の人種から優先され隔離されるべきである、と主張する。


北方人種を祖とするのはゲルマン民族である。
ヒトラーは当初ゲルマン民族の優越性を信じていた。
そこに自身が信奉するワーグナーが熱烈支持したアーリアン学説が取り込まれる。
アーリア人は中央アジア発祥だが、言語が似ているからヨーロッパもアーリア人という説である。
白色人種は高い知性を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべてアーリア人が作ったと主張。ゲルマン民族はアーリア人の末裔とした。
「主要な文明はすべて」というところが重要で、このために中央アジアを含める必要があった。そしてアーリア人になってしまったというわけである。

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北方人種がゲルマン民族になっていく過程が赤色にほぼ一致する。
赤色範囲から民族大移動によってさらに南下して、ドイツやフランスは形成された。
イギリスは北方人種の入植もあったが、大陸から北上した人達もいて、ドイツなどとは少し違う。
ヒトラーが構想した大ゲルマン帝国にはイギリスやフランスの西側は含まれていない。
世界的に北部信仰があることは間違いない。


アングロ・サクソンとはグレートブリテン島に入植したゲルマン民族のこと。つまりイギリス人ということになる。
WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)は、アメリカにおいて使われた言葉で、アイルランド人のカトリック信仰者(アイリッシュカトリック)が白人エリート支配層(プロテスタント信仰者)を指した造語であった。
アメリカに入植して支配層になっていた人達を指したということなのだろうが、その後、この言葉は非常に曖昧なものとなっていく。

社会学では、この語は北西ヨーロッパに家系のルーツを持ち米国建国の担い手となった集団を意味するが、今日では意味が拡大し、多くの人々にとって WASP とはいかなるマイノリティ集団にも属さないほとんどの「白人」を指す語となっている。
21世紀では、アメリカ社会における保守勢力であるキリスト教右派において、従来の福音派のみならずカトリック右派の地歩が拡大し、ヨーロッパ系キリスト教徒の中での保守的な価値観の文化層の一体化が進んでおり、アメリカ保守すなわちWASPという構図は過去のものとなりつつある



1800年代の白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)
結成から徐々に反奴隷解放も主張に加えられるようになり、白い布で作った装束を身にまとって黒人の居住区を練り歩くという、一種の嫌がらせ行為を行うようになった。軽いからかいとしての行動に過ぎなかったが、白人の復讐を恐れていた黒人達は白装束の集団に恐れをなして家の中に逃げこんでしまった。これに味を占めたKKKの一部は示威行為を度々繰り返すようになり、評判を聞きつけた南部の人種主義者達がKKKへの加盟を望む動きが生まれ、民主党最右翼の人種差別過激派として保守的な白人の支持を集め始めていく

白人至上主義は実は民主党に近いところにあったものだ。(トルーマンも民主党員)

それでもこの時点でのKKKには後に見られるような「反ユダヤ的」などの民族主義は無く、あくまで人種主義が思想の中核であった。
また最初の時点でのKKKは「黒人を懲らしめる」「躾け直す」という理屈で行動しており、必ずしも暴力行為を伴う訳ではないデモ活動などを基本としていた。だが次第に過激化し始めた彼らは白装束で街を巡回し、彼らが独断で決めた時刻以外に外出する黒人を鞭で叩いたり、夜中に「ナイトライダー」と呼ばれる馬に乗った団員が現れ、脅迫、暴行を加えるようになった。更にこれに批判的な白人までもが敵として暴力を振るわれ、投票権を行使しようとした黒人が殺害される事件まで発生する。



1900年代の白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)
「黒人を躾ける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動し、その思想も従来の黒人差別のみならず有色人種全体の排撃を主張した。人種主義に加えて民族主義や宗教色も強まり、セム人種ユダヤ系やムスリムも攻撃の対象としたKKKは白人貧困層の絶大な支持を集め、幾つかの州では少なからぬ政治的影響力を持つに至った。他にカトリック教徒や共産主義者も攻撃対象とされた。1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われた。暴力行為も凄惨の限りを尽くし、両手を攻撃、縄で縛って列車に轢かせる、焼印を押すなど残虐さを極めた。

こうした動きに乗る形で伝統的にKKKの勢威が強かった南部の州のみならず中西部のテネシー州やオレゴン州、それにオクラホマ州ではKKKの構成員もしくはKKKに対して好意的な政治家らが州政府を支配するなど合法的な進出を果たし、インディアナ州ではKKKの構成員エドワード・L・ジャクソン (Edward L. Jackson) が州知事にまでなっている。一方ではこの当時影響力を有していたKKKを自己の選挙に利用するために擦り寄る者もおり、後の大統領ハリー・トルーマンもそのためにこの当時KKKに加入していた。この当時(1925年頃)が KKK の絶頂期であり、1928年には構成員数万人を動員してワシントンD.C.でデモ行進を行った。このデモ行進が皮肉にもKKKが行った最後の大規模な行動となる。


最盛期には600万人を超える加入者がいたが、1900年以降は激減して1万人以下になったという。しかしながら現在も分派として幾つかの組織が存続しており活動を続けているという。

トルーマンは白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)に加入するも、同団体の示す「カトリック教徒とユダヤ人の雇用の禁止」に同意できずに脱退したそうだ。
トルーマンは親カトリック、親ユダヤ人だったのではないだろうか。







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by yumimi61 | 2016-09-26 14:39
2016年 09月 25日
日本国憲法の秘密-360-
1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。


1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)。
 ・ドイツとの最終戦の戦略
 ・難民の処遇

1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。
 ・戦後処理
 ・ポーランドの国境と政権について
 ・ドイツの分割統治について(ソ連東側陣営とイギリス・アメリカ・フランスの西側陣営で共同管理)
 ・東欧諸国の戦後処理
 ・国際連合について(投票方式と拒否権)
 ・ヤルタ協定(アメリカとソ連の対日参戦についての取り決め)

ドイツの敗戦色が色濃くなってきたうえに日本も占領各地で敗戦続き。
この頃には戦争の終わりが見えてきていた。戦争は終結に向かっていた。
ところが日本はそんななか本土決戦を行うことを決定したのだった。
それを連合国も察知したのだろう。
植民地争奪、領土の奪い合いならまだ分かる。しかし侵攻されてもいない国が自ら本土決戦を決定する理由は理解し難かった。
負ければ甚大な被害を出した上に本土が占領されることを意味するからだ。
当時の日本は、冷静に考えれば勝算はゼロに等しい状況である。
戦争には時間や得点など「終わり」のルールがなく、降参や占領を待つしかない。
要するにどんなに負け続けても、どんなに犠牲出し続けても、負けを認めないかぎり続けられてしまう。
勝っている側も、それまでの戦いを無意味にしないためには応戦する以外の選択肢はなくなる。
戦争は泥沼化する。戦争とは残酷なものである。
本土決戦を避けるチャンスは2度あると考えられた。
1つはドイツが降伏した時。
それでもダメならば中国(満洲)における戦いにソ連軍を投入して追い込んでもらう。これが2つ目。
連合国は本土決戦を回避したかった。日本ではそれが及び腰に見えたのかもしれない。


ダウンフォール作戦
1944年以降、太平洋やアジア各地で敗退を続けても、頑なに抵抗を行い続けていた大日本帝国に対し、その本土での陸上作戦を行い戦争を終結させるために検討された作戦である。
1945年2月のヤルタ会談直前に骨子が完成。


①オリンピック作戦(Xデー)・・・1945年11月1日予定
九州南部への上陸作戦。その目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保のため。

②コロネット作戦(Yデー)・・・1946年3月1日予定
オリンピック作戦で確保した九州南部の航空基地を利用し関東地方へ上陸する作戦である。
茨城・千葉の海岸、神奈川の海岸に上陸して、挟み撃ちのように首都を狙う。10日で東京を包囲する計画。
上陸の3ヶ月前から艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行なう予定で、攻撃の中にはミサイルやジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていたという。


オリンピック。
1940年に東京で開催することが決定していたオリンピックを日本政府は日中戦争の激化により中止した。
当時の首相・近衛文麿は、1938年6月23日に行われた閣議で「戦争遂行以外の資材の使用を制限する」ことを決定し、この中にオリンピック中止が明記されていた。
1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。(第二次世界大戦勃発前)
IOCの委員で日本招致の立役者でもあった嘉納治五郎は、1938年3月13年)にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で死亡した(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳肺炎だった。開催中止が決定したのはその後のことである。

これを考え合わせると「オリンピック作戦」というネーミングは意味深である。
連合国が日本に対して「オリンピックの時のようにもう(戦争を)止めたらどうですか」と言っているようにも聞こえるし、逆に日本が連合国に対して「私達はオリンピックを中止できる国です、あなたたちは止めたくても止められないんでしょ」と言っているようにも思える。
戦争が泥沼化(激化)することが分かっていても戦争を止められない連合国。
戦争が激化してきたからオリンピックを止めた日本。
なんだかこの対比にあるような気がする。
ダウンフォール作戦は本当に連合国が練った作戦だろうか?

作戦的に疑問に思う点がある。
まず第一は、連合国は本土決戦の決定を知っていて首都機能の移転計画を知らなかったのだろうかという点である。
次に思うのは、東京を狙うのに九州南部を基点にすることは有効だろうかということである。
九州南部を占領したとしても、それはすぐに日本にばれてしまうことである。九州南部だけ占領しても北部は残っている。中国地方や四国だってそう遠くはない。
九州南部を基点にしても果たしてそこが上手く機能するだろうか。日本の抵抗に合うと考えるのが普通ではないか。
上陸作戦は敵に気付かれないように行うべきもので、目に見える準備は適さないと思うのだが。

連合国がドイツ占領下の北西ヨーロッパへ上陸侵攻したネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)は次のようなものだった。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2ヶ月以上要した。

第一次世界大戦期から戦間期にかけて各国軍にて上陸作戦専門の舟艇である「上陸用舟艇」が作られた。特に第二次世界大戦期に劇的に発展し、海洋国家であるイギリス・アメリカ・日本によって各種の上陸用舟艇が開発され活躍している。
戦時中のみならずく揚陸任務時にも用いられ、東日本大震災の時にも活躍している。
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トモダチ作戦に基づいて気仙沼市大島地区に接岸するアメリカ海軍の汎用揚陸艇(LCU)


九州南部に航空基地を確保したということは、空からの上陸を予定していたということになる。
落下傘とは飛行中の輸送機などから兵士が落下傘(パラシュート)降下すること。グライダーを利用することもある。落下傘部隊はそれは出来る部隊である。
現在の自衛隊ならば第一空挺団がお馴染み。その昔、船橋の習志野駐屯地近くに住んでいた村上春樹さんが落下傘の練習していたのをぼーっと見ていたと書いていましたよね!?あの部隊ですよ。
ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)では夜間に降下したようだが、1985年群馬に墜落した日本航空123便事故の時には第一空挺団は夜間出動しなかったそうだ。(あれは墜落場所が分からなかったから?)
空挺団は精鋭部隊である。誰にでも出来るわけではない。それでも落下傘降下は命がけである。
森林深くに降下するのは夜でなくても難しい。
海岸や砂漠のような障害物がなく、着地時の衝撃を吸収できる場所がよい。
安全や確実性を重視すれば場所を選ぶ。
しかしそういう場所は真っ先にマークされるので、結局安全に降下できる保証はない。
パラシュートで降下するのだから重装備ではない。いくら人が降下上陸しても重点的に防衛されているだろう首都で大々的な戦闘なんか出来ないだろう。
また目的地に到着するまでに航空機が標的になる。
輸送機が対空攻撃に弱く、敵が対空兵器を多数準備した場合には、輸送機が撃墜されて作戦が失敗することもある。ただし、このことはヘリボーンと共通であり、実際、敵軍の防空網が健在な状態で大規模なエアボーンやヘリボーンが行われることは稀である。
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by yumimi61 | 2016-09-25 14:28
2016年 09月 24日
坂道
水曜日の朝、中学校の時の同級生が亡くなったと電話をもらった。

小学校は違ったので同じ学校に通ったのは中学の3年間だけだけれども、あの頃の3年間はやはりとても密度が濃い。
私は彼とすぐに仲良くなって彼のことを「あべちゃん」と呼んでいた。
中学1年の春ったか秋だったか、学校の行事で埼玉県秩父の長瀞に日帰り旅行に行った。長瀞ライン下りをしたりしたと思う。
その帰り、もうそろそろ学校に着くという頃にバスの中で、あべちゃんに手紙を手渡された。
12歳か13歳、青春という時代に足を踏み入れたばかりで、ラブレターにはなりきれない甘酸っぱい手紙だった。
それからも私達は友達だった。からかいあって、ふざけあって。

彼は山の方に住んでいた。同級生の中で家が一番遠くにある子だったと思う。
たぶん学校から6キロくらいあったんじゃないかな。自転車通学をしていた。
中学生の通学距離6キロも結構なものだけれど、山だから坂が多い。往路は下りで復路は上り。
暗くなるまで部活して、前店で腹ごしらえして(?)、それから友達や先輩とつるんで前半坂道は自転車を押して帰る。
あべちゃん談によれば帰宅は21時とかになるらしい。
ある日、部活が無かった日だったのか、腹ごしらえをしなかったのか、つるまないでひたすら坂道を漕いだのか、そのあたりのことは忘れてしまったけれど、夕方に帰宅したら、お母さんだかおばあちゃんだかが「今日は学校半日かい?」と訊いてきたんだそうで。
あべちゃんがその話をしてくれたんだけど、それが凄く面白くて、何だか凄く強烈で。
私はその話を大人になってもずーっと覚えていて、前にも書いたことがあるような気がする。それとも誰かに話したのかもしれない。

あべちゃんは正行っていう名前なんだ。
下の名前で呼んだことあったかな。たぶんないなぁ。
お彼岸に向こうに逝っちゃったんだね。

ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。


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今日前橋でクリテリウムがあった。
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明日は赤城山ヒルクライム。
交通規制がありますので気を付けて下さい。
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by yumimi61 | 2016-09-24 23:33
2016年 09月 23日
日本国憲法の秘密-359-
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の転機は1943年の独ソのスターリングラード攻防戦だった。
1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦(正式名:ネプチューン作戦)が転機と言われることがあるが、こちらは劣勢を確実にしたもので、「転機」は独ソのスターリングラード攻防戦である。


ロシア(ソ連)は第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも連合国の一員だが、他の国々とは少々立ち位置が違う。いわば異端児である。
第一次世界大戦は革命によって離脱。史上初の社会主義国を誕生させた。
しかしレーニン革命政権は連合国に嫌われて、ロシア内戦において連合国は反政権側に味方した。
アメリカは君主制に反対だが、資本主義には賛成という国である。
この考えに基づくと、君主に代わる権力者が生まれて、「強い国」を目指すファシズム国家になりやすい。
国民に分配するために強い国である必要があるという「手段」から、国民に分配するためにがなくなると強い国は単なる「目的」となる。この場合は強い国の恩恵に授かるのはごく僅かな者となるだろう。
それを隠すのが「社会保障重視」や「弱者への寄り添い」などのプロパガンダである。
レーニンは志半ばで亡くなり、後を継いだのがスターリン。何度も書いているがレーニンとスターリン体制は全く違うものだが、スターリンも社会主義国を維持したため多くの人がそれに気付くことなく、社会主義(共産主義)の誤解にも繋がった。

第二次世界大戦では当初ドイツとソ連は不可侵条約を締結していた。
「仲良しこよし」だから条約を締結したわけではない。作戦の一環である。
そのドイツとソ連の作戦的な条約をぶち壊したのが日ソ中立条約である。
東とも西とも手を組んだソ連を信用できなくなったから、ドイツはソ連に侵攻したのだ。
これ(対ドイツ)によってまたもソ連は、連合国が嫌った社会主義国でありながら連合国の一員となった。
連合国の大国として勝利するも、ソ連は連合国共同宣言に反して日本との講和条約(サンフランシスコ条約)に署名しなかった。

ヨーロッパ大陸を占領する勢いだったドイツを劣勢に追い込むという転機に大いに貢献したのがソ連である。
連合国にとって陸上戦に強いソ連軍は非常に在り難い存在であった。
しかし一方、ソ連軍が東ヨーロッパから中央、そして西ヨーロッパに進出してくることは連合国にとって脅威でもあったのだ。
第二次世界大戦勃発当初に連合国からソ連に要請された対日参戦は、太平洋南西部で連合国と戦う日本軍の勢力を分散させる狙いがあった。日本軍の北と南への分散である。
1943年以降にソ連に要請された対日参戦は、ソ連軍を東と西に分散させる狙いがあった。


1945年5月2日~5日、ドイツの各軍がそれぞれ降伏。

1945年4月30日にドイツ総統ヒトラーが自殺すると、海軍総司令官カール・デーニッツが大統領に指名された。
デーニッツは連合軍への降伏は不可避であると考えていたが、できるだけソ連軍ではなく米英軍に将兵を降伏させたいと考えていた。このためデーニッツは各軍の降伏タイミングを熟考していた。
この時、連合国は対ソ戦が念頭にあった。ドイツもそれを見通していた。
独ソ戦では敗れたドイツだが、それでも連合国が対ソ戦を行うとするならばドイツ軍は重要な戦力となりうるはずだと考えていた。

降伏は個人で行われる場合(投降)と組織で行われる場合がある。
降伏とは戦いの中で行われるものなので、組織であっても通常は各軍ごとに行われる。
降伏(投降)した者については戦時国際法(ハーグ陸戦条約)で保護されていて、違反した場合には国際法で裁かれる。
個人や軍の独自の判断による降伏とは別に、国家が戦争を終結させるために自国の軍を降伏させることがある。
戦時国際法の状況下においては、国際法に合意された諸条約において国家による降伏行為の当事適格性については不分明であるが、慣例的にハーグ陸戦条約付属書36条以降にもとづき休戦協定を結び、のち平和条約の締結をすることになるか、第三款「占領」による戦闘終結のいずれかとなる
現場が負けを認めてない状況では敗戦の自覚が薄れるということはあるだろうと思う。
俯瞰して出した結論と、目の前の状況だけを見て出す結論は、違うことがある。
現場を知らない、現場を見ていないから実感がまるでないということも、あると思う。


1945年5月7日、ドイツが無条件降伏文書に調印。

調印に臨んだのはデーニッツ大統領から降伏文書調印権限を与えられたドイツ国防軍最高司令部作戦部長ヨードル大将と、連合国軍司令官ドワイト・D・アイゼンハワー。
調印時間は5月7日1時41分(中央ヨーロッパ時間)(英国夏時間では2時41分)。
文書での停戦発効時間は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていた。(英国夏時間では5月9日0時01分)
ヨーロッパ戦勝記念日は5月8日となっている。


1945年5月8日、ドイツが批准文書に調印。

連合国側は第一次世界大戦の講和がドイツ国民に受け入れられず、「背後の一突き」伝説を生み出してナチ党の台頭を招いたことを繰り返す可能性を感じていた。このため連合国は戦場での降伏文書にだけでは足らず、批准文書が必要であると考えた。
この調印を行う人物は陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥でなければならないと考えられていた。
ソ連側は調印式にアイゼンハワー元帥の参加を要請したが、アイゼンハワーは代理として副司令官でイギリスのアーサー・テッダー元帥を派遣した。

ロシアやウクライナなど旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

各国とも信用しきれない状態、不信感の塊である。
敗戦の自覚があるのかドイツを信用できなかった連合国。
そして、アメリカを信用しきれないソ連。
ところで日本は無条件降伏を批准したのでしょうか?


1945年5月6日~8日、プラハの戦い。

チェコの首都プラハ。
プラハがドイツとソ連の最後の戦いの地であった。
チェコスロバキアの歴史をもう一度。
チェコスロバキア共和国の初代大統領に就任したのは、第一次世界大戦前から独立運動を行っていたトマーシュ・マサリク。
第一次世界大戦勃発後は国外に亡命し、連合国を廻ってチェコの独立支援を訴えた。
1917年3月、ロシアで革命が起こり君主制が崩壊。
マサリクもこれに刺激を受けて、連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて、つまり国外で「チェコスロバキア国民会議」を発足させた。
この時にロシアの支援を取り付けているが、最初の革命はレーニンらポリシェヴィキはロシア国内におらず関与していない。
革命ロシアから支援を取り付けたとするならば、それは臨時政府(国会議員)かメンシェヴィキであり、ポリシェヴィキではないはず。
ロシア臨時政府を後援していたのはアメリカらしいので、ロシアの支援を取り付けたと言っても、その背後にはアメリカがいるということになる。
実はトマーシュ・マサリクの妻がアメリカ人なのだ。


1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。
トマーシュ・マサリクの息子、ヤン・マサリク。
彼は1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで駐米国の代理大使となった。1925年には駐イギリス大使となった。


1938~1939年、チェコ スロバキアからスロバキアが独立し、段階的にナチス・ドイツ、ハンガリー王国、 ポーランドに併合された。(チェコスロバキアの解体)
「チェコスロバキア国民会議」は共和国を成立させ、第二次世界大戦前と戦争中にスターリン・ソ連に接近したという事実があるが、一応「チェコスロバキア国民会議」は非共産政党と見做されている。
1940年にチェコスロバキア亡命政権がロンドンで設立されると、ヤン・マサリクはエドヴァルド・ベネシュ大統領の下で外務大臣に就任した(父は1935年から体調を崩し1937年に亡くなっている)。
第二次世界大戦中、マサリクはBBCを通じてドイツ軍による占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。
第二次世界大戦でドイツが敗北したことによりチェコスロバキアは再建された。
亡命政府の代表であった大統領エドヴァルド・ベネシュと外務大臣ヤン・マサリクはそのまま外務大臣となった。


ベルリンでの戦いに勝利したソ連軍(赤軍)はそのまま南下してプラハに向かった。
プラハにはドイツ中央軍集団の残存兵90万人と、その他にも幾つかの部隊が存在していた。
ドイツはヒトラーの死を受けて降伏に向かっていた。
5月2日、国防軍最高司令部はプラハにいたドイツ中央軍集団の司令官に降伏のための準備に入るように連絡した。
ドイツ中央軍集団の司令官は「西へ退却してアメリカ軍に降伏する」と返答した。
降伏文書調印後に国防軍最高司令部はアメリカ軍の護衛付でプラハに向かい、ドイツ中央軍集団司令官にアメリカ軍に降伏するよう伝えたが、「今は出来ない、どの段階で行うかは約束できない」と報告した。
チェコスロバキアでは残存する多くのドイツ軍兵士、迫りくるソ連軍(赤軍)、解放と独立を待ちわびるチェコスロバキア人(蜂起したパルチザンなど)、ドイツのチェコ担当大臣が「暴動を起こした者は血の海のなかでおぼれ死ぬこととなる」とラジオで発表するほど緊張が高まっていた。
ドイツ軍とソ連軍の戦いは5月6日から始まり5月8日にドイツ軍が撤退することに同意。5月9日にソ連軍がプラハを占領した。(しかしドイツ軍の抵抗勢力が11日頃までは抵抗を続けていた)
ドイツ中央軍集団の司令官は5月9日に部隊を捨ててオーストリアへ脱出してしまう。(5月18日にアメリカ軍に拘束された)
ドイツ軍を追い出して、プラハを占領したのはソ連軍だったのだ。


ドイツは連合国の対ソ戦に期待があった。
ドイツ軍がその中で活躍をし、勝利するようなことがあれば、ドイツの敗戦感は薄れるし、講和条約での扱いも少しは良くなるかもしれないという打算があっただろう。
しかし連合国はそんなドイツの打算に乗るわけにはいかない。
さらに日本という問題児を抱えていた。
「叩くべき相手はソ連ではない日本だ」、連合国の対ソ戦は封印された。



1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

なんとなく日本では着々と本土決戦へのレールが敷かれていたような・・。

※大本営
大本営は、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍の最高統帥機関である。天皇の命令を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所で、これを更に仰々しい名にしたもの。
日清戦争時の大本営は広島(広島城)にあった。
また広島城は江戸幕末1864年の幕府の第一次長州征討の際に、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となっていた。

※大本営移転計画
初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会(NHK)、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会(NHK)、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。



日本では1944年1月頃から大本営の移転計画が秘密裏に進められていた。
1944年7月にサイパンが陥落すると本土決戦が現実味を帯びてきた。
同月に日本は「フィリピン」「千島列島」「本土」「台湾」の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた。
翌8月にフィリピンにアメリカ軍が侵攻。(元々はアメリカの植民地でマッカーサーがいたが、日本が占領していた)
このフィリピンでの戦いに敗れて本土決戦が決定されたという経緯がある。

「フィリピン」「千島列島」「台湾」、最近よく聞く名前ですね!

1945年1月20日、「帝国陸海軍作戦計画大網」を制定。
この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。

大本営を本土深くに避難させておいて本土深くに敵を誘い込んだらダメだと思うのですが?
それに普通は軍隊の勢力を分散させたくないものです。
すでに負け続きで軍隊は疲弊し物資や船も無い状態。
島のどこからも上陸できる状態で、援助してくれる国もなく、大国数国を相手に回すなんて正気の沙汰ではない。不利極まりなくて負けを承知で戦うようなものではありませんか?
前線で出血するのが敵ではなくて自軍だったらどうするんでしょう。
いざ頂上決戦の本土決戦で戦う者がいなくなったりはしませんか?
敵っていったい誰なのでしょうか?



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by yumimi61 | 2016-09-23 11:56
2016年 09月 22日
土壌汚染
【土壌汚染】
土壌汚染とは有害物質に土壌が汚染された状態にあることを言います。
全国各地、土壌汚染はかなりあると思います。

①自然由来
鉱石由来の汚染。地中に元々含まれているものだが、地層形成過程での流れや堆積で物質が偏在した場合には汚染土壌となりうる。(金の卵にもなり得るけれども)

②人為的
工場の排水や有害物質の管理や廃棄が不適切で土壌汚染をもたらしたもの。

③埋め立て
埋め立て造成の際に埋め立て用として持ち込まれた土砂や建設残土などに有害物質が含まれていた場合。

【何が問題になるか】
土壌汚染の何を問題にしているかと言えば、ほとんどの場合、健康被害だと思います。
土壌汚染による健康被害は、土壌に含まれている有害物質が人体に取り込まれることによって生じますので、どのように取り込まれるのかということが問題になります。

①地下水(井戸水)の飲用 ・・・土壌中の有害物質が地下水に溶け出す恐れがあるため
②汚染土壌への接触(素手で直接土壌を触る) ・・・皮膚からの浸透や手から口へ運ばれるなどして体内に入る
③汚染土壌の上での活動(1) ・・・砂ぼこり(粉塵)を鼻や口から吸いこむ。
④汚染土壌の上での活動(2) ・・・気化した有害物質を鼻や口から吸いこむ。
⑤農作物や家畜 ・・・汚染土壌で育成された農作物や家畜に有害物質が移行し、それらを食することで体内へ。
⑥魚介類 ・・・汚染土壌や汚染地下水から有害物質が川や海に流出して、さらに魚介類に移行する。生物濃縮あり。

「土壌汚染対策法」(平成14年法律第53号)は、①と②と③、つまり「地下水」並びに「直接」の接触による健康障害を防止することを目的に制定されました。
土壌汚染に該当すると認められた場合には、摂取経路の管理、摂取経路の遮断、土壌汚染の除去などの措置をとる必要があります。

第2条  この法律において「特定有害物質」とは、鉛、砒素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く。)であって、それが土壌に含まれることに起因して人の健康に係る被害を生ずるおそれがあるものとして政令で定めるものをいう。

【法で定める2つの区域】
区域の指定は都道府県知事が行います。

①要措置区域  ・・・下記の1と2に該当する区域
②形質変更時要届出区域  ・・・下記の1に該当する区域

1.土壌汚染状況調査の結果、当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合しないこと。
2.土壌の特定有害物質による汚染により、人の健康に係る被害が生じ、又は生ずるおそれがあるものとして政令で定める基準に該当すること。


①の要措置区域のほうが問題が多いということになります。①になるには次の政令に該当する必要があります。

*政令「土壌汚染対策法施行令」 (平成14年11月13日政令第336号)
第五条  法第六条第一項第二号 の政令で定める基準は、次の各号のいずれにも該当することとする。
一  次のいずれかに該当すること。
イ 土壌の特定有害物質による汚染状態が第三条第一号イの環境省令で定める基準に適合しない土地にあっては、当該土地又はその周辺の土地にある地下水の利用状況その他の状況が同号イの環境省令で定める要件に該当すること。
ロ 土壌の特定有害物質による汚染状態が第三条第一号ハの環境省令で定める基準に適合しない土地にあっては、当該土地が人が立ち入ることができる土地であること。
二  法第七条第六項 の技術的基準に適合する汚染の除去等の措置が講じられていないこと。


*第三条第一号イ
イ 当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合しないことが明らかであり、当該土壌の特定有害物質による汚染に起因して現に環境省令で定める限度を超える地下水の水質の汚濁が生じ、又は生ずることが確実であると認められ、かつ、当該土地又はその周辺の土地にある地下水の利用状況その他の状況が環境省令で定める要件に該当すること

*第三条第一号ハ
ハ 当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合せず、又は適合しないおそれがあると認められ、かつ、当該土地が人が立ち入ることができる土地(工場又は事業場の敷地のうち、当該工場又は事業場に係る事業に従事する者その他の関係者以外の者が立ち入ることができない土地を除く。第五条第一号ロにおいて同じ。)であること


【環境省令で定める基準】
工場跡地の豊洲市場の土地はまずこの基準に基づいた調査・検査が行われたと思います。

(項目は報道にでてきた物質を私が抜き出したものであり、他にもあります)
(測定方法も定められています)
●土壌環境基準(27項目)
・全シアンー検液中に検出されないこと。
・鉛ー検液1Lにつき0.01mg以下であること。
・砒素ー検液1Lにつき0.01mg以下であり、かつ、農用地(田に限る。)においては、土壌1kgにつき15mg未満であること。
・ベンゼンー検液1Lにつき0.01mg以下であること。

●地下水の水質汚濁に係る環境基準(28項目)
・全シアンー 検出されないこと。
・鉛ー0.01mg/L以下
・砒素ー0.01mg/L以下
・ベンゼンー0.01mg/L以下


【東京都の指定状況】

◎東京都の要措置区域等の指定状況 東京都環境局より

■要措置区域
土壌汚染の摂取経路があり、健康被害が生じるおそれがあるため、汚染の除去等の措置が必要な区域
 ・汚染の除去等の措置を都道府県知事が指示する(法第7条)
 ・土地の形質変更の原則禁止(法第9条)
■形質変更時要届出区域
土壌汚染の摂取経路がなく、健康被害が生じるおそれがないため、汚染の除去等の措置が不要な区域(摂取経路の遮断が行われた区域を含む。)
 ・土地の形質変更時に都道府県知事に計画の届出が必要(法第12条)



今問題になっている豊洲市場は、江東区豊洲六丁目になるようですが、要措置区域には指定されていません。全て形質変更時要届出区域 です。

(指定年月日)(指定番号)(区域が存在する場所)(面積)(指定基準に適合しない特定有害物質)
============================================
H28.4.15 指-701号 江東区豊洲六丁目地内 10040.09㎡ 砒素

H26.12.3 H28.5.31 指-556号 江東区豊洲六丁目地内 5918㎡ シアン・砒素・ベンゼン・カドミウム・六価クロム・水銀・鉛

H25.10.4 H26.3.13 指-431号 江東区豊洲六丁目地内 16994.2㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H25.5.30 指-388号 江東区豊洲六丁目地内 5090㎡ 砒素

H25.3.15 指-367号 江東区豊洲六丁目地内 7791㎡ 鉛・砒素・ふっ素

H25.3.13 指-364号 江東区豊洲六丁目地内 4437㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H25.3.5 指-354号 江東区豊洲六丁目地内 14690㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H23.11.28 H23.11.29 H25.7.3 H26.5.27 H26.9.29 H26.10.9 H26.10.21 H26.3.10
指−232号 江東区豊洲六丁目地内 384777㎡  カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン( 一部自然由来特例区)

H23.11.17 H25.3.4 H25.3.27 指−223号 指−224号 江東区豊洲六丁目地内 48212㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H23.5.12 H23.12.13 指−156号 江東区豊洲六丁目地内 13407,1㎡ 砒素・ふっ素


【要措置区域とは?】

①(調査検査するまでもなく)(基準値の越え方が著しく)明らかに汚染されている場合で、地下水を飲用として用いる場合。
②基準値を超えた汚染が認められ、不特定の人が立ち入ることが出来る土地である場合。

③技術的基準に適合する汚染の除去等の措置が講じられていない場合。

①か②のどちらかに該当し、且つ③に該当するした土地が要措置区域となります。
つまり措置を講じれば「要措置区域」ではなくなるということです。


【講ずべき措置】

技術的基準に適合する汚染の除去等の措置がどのようなものかは、「土壌汚染対策法施行規則」にて具体的に述べられています。
第39条と第40条(~42条)で、別表5と別表6を参照。
ここに「盛土」が出てきます。

別表5の9
(土地の状態)
土壌の第二種特定有害物質による汚染状態が土壌含有量基準に適合しない土地(前二項に掲げる土地を除く。)
(措置)
土壌含有量基準に適合する汚染状態にある土壌により覆うこと(以下「盛土」という。)
(環境省令で定める措置)
イ 舗装
ロ 立入禁止
ハ 土壌入換え
ニ 土壌汚染の除去


別表6の11 盛土
イ 当該土地のうち基準不適合土壌のある範囲を、まず、砂利その他の土壌以外のもので覆い、次に、厚さが五十センチメートル以上の基準不適合土壌以外の土壌(当該土地の傾斜が著しいことその他の理由により土壌を用いることが困難であると認められる場合には、モルタル等)により覆うこと。
ロ イにより設けられた覆いの損壊を防止するための措置を講ずること。


これによれば盛土は50㎝以上あれば良さそうですね。
舗装も環境省が定める措置の一方法となっていますので、参考までに舗装措置も。

別表6の8 舗装
イ 当該土地のうち基準不適合土壌のある範囲を、厚さが十センチメートル以上のコンクリート若しくは厚さが三センチメートル以上のアスファルト又はこれと同等以上の耐久性及び遮断の効力を有するもの(当該土地の傾斜が著しいことその他の理由によりこれらを用いることが困難であると認められる場合には、モルタルその他の土壌以外のものであって、容易に取り外すことができないもの(以下「モルタル等」という。))により覆うこと。
ロ イにより設けられた覆いの損壊を防止するための措置を講ずること。


みなさん盛土の意味がお分かりですか?盛るんですよ?「ご飯山盛り」と言ったりしますよね?
盛るというのは上に乗せることです。山にしなくて平らでもいいですけれども、プラスされるということです。
だから前に「いっそのこと山でも」と言ったわけです。
汚染された土壌を掘ってどかして、汚染していない土壌を入れるのであれば、「土壌入れ換え」という措置にあたります。

土壌入れ替えには「区域外の土壌と入れ換える」と、「同じ区域内で土壌を入れ換える」場合があります。
上部(地表近く)に入れる土壌は、基準に適合した(汚染していない)土壌である必要があります。
同じ区域内で入れ換える場合は、基準不適合土壌(汚染土壌)のある範囲や深さについて、ボーリングによる土壌の採取及び測定などによって把握しなければなりません。
区域外入れ換えでも区域内入れ換えでも、汚染土壌から50㎝以上離しなさい(地表面から50㎝の深さは汚染されていない土壌にしなさい)ということ。
汚染土壌を除いて土壌を何も戻さなければ、地下に空間が生まれるだろう。
横と下も必要な措置をとれば、法規を逸脱するものではないので、これ自体は問題ないと思う。(但し地下空間というのは通常でも地上よりもいろいろなリスクが高くなることは確かなので、汚染土壌が周囲に残る地下空間を不特定多数の人が使用する場にするには適さないと思う)
(じゃあ地下鉄は、デパ地下は、地下駐車場はどうなるの?うーん、そうですねえ。分かりました、徹底管理すればいいんじゃないですか!?)

―――地表               
 汚                     
 染
 土
 壌
―――汚染ここまで 
 50㎝
--------
汚染されていない土壌

 ↓

―――地表   
汚染されていない土壌
 50㎝
====
 汚                     
 染
 土
 壌
―――汚染ここまで 


「盛土」や「舗装」、「入れ換え」といった措置は、土壌への直接接触を防ぐための措置となります。
【何が問題になるか】の②と③に対する措置です。
地下水に対する措置は変わります。
豊洲は土壌のみならず地下水の汚染も認められるということなのでしょうか?
盛土や土の入れ換えだけで地下水から完全に遮断することは不可能です。

地下水への特定有害物質溶出の有無を確認して(モニタリングして)、水質汚濁防止法の地下水の浄化基準を超過した場合、またモニタリング前、あるいは基準を超えていなくても土地所有者が措置を行うことを希望した場合には、次のような措置を実施する必要があります。(どちらにしても継続モニタリングは必要となります)
・原位置不溶化措置(重金属等に限る)
・不溶化埋め戻し措置(重金属等に限る)
・原位置封じ込め措置
・遮水工封じ込め措置
・遮断工封じ込め措置(揮発性有機化合物を除く)
・掘削除去措置、原位置浄化措置(浄化措置で、これを行えば指定区域が解除される)
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by yumimi61 | 2016-09-22 14:15
2016年 09月 21日
日本国憲法の秘密-357-
1945年1月30日~2月3日、マルタ会談。

アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の会談。
マルタは地中海の島。
有名な会談だと、上記のように首脳の名前で書かれることが多いが、国や軍隊をを動かすような会談が首脳だけで行われているわけではない。
この会談も陸海空軍それぞれの代表者、外相や国務長官などが出席して開催されており、ルーズベルト大統領の出席は最終日のみである。
会談ではドイツとの最終戦の戦略を練った。
また強制収容所の解放によって膨大な難民を生じることになり、この難民をどうすべきかが議論された。
強制収容者はもともと人種差別するために作られたものではない。
戦争中には罪もなく拘引された人もいたが、罪ある人もいたのである。
これをいちいち調べ上げて罪がないと判断された人だけ解放したわけではない。
多くの収容者(難民)は帰国(本国への送還)を拒否したり恐れて、連合国管理の難民キャンプや難民センターに移住した。
移動途上で亡くなった人もいたし、急激に増える難民によって難民キャンプの環境も厳しくなったことには変わりなかった。
そして結局、この難民キャンプにおける自治権の欠如や選択の自由の乏しさは民族主義を拡大させることになる。
その影響を受けて、パレスチナやイスラエルの問題が生じるのである。
イスラエルという国が誕生し、イスラエルとアメリカが多くの難民を受け入れた。



1945年2月4日~11日、ヤルタ会談。

アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン最高指導者の会談。
ヤルタはクリミア。
戦争の終わりが見えてきた時期だったようで戦後について話し合われた。
・ポーランドの国境と政権について
・ドイツの分割統治について(ソ連東側陣営とイギリス・アメリカ・フランスの西側陣営で共同管理)
・東欧諸国の戦後処理
・国際連合について(投票方式とイギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5か国の拒否権を決定)
・ヤルタ協定

※ヤルタ協定
アメリカとソ連の間で締結された秘密協定。
・外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持。
・樺太南部をソ連に返還。
・千島列島はソ連領。
・満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保
・上記条件と引き換えにドイツ降伏後2か月または3か月後にソ連は対日参戦する。


1945年4月30日、ドイツ総統のヒトラーが自殺。

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の転機は1943年の独ソのスターリングラード攻防戦だった。
スターリングラードが戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。
緒戦はドイツ側優位に進んでいた戦いだったが、最終的にソ連側が圧倒し、ドイツ軍を中心にした枢軸国合同軍が降伏し、これでドイツは劣勢に転じた。

ノルマンディー上陸作戦が転機と言われることがあるが、こちらは劣勢を確実にしたもので、「転機」は独ソのスターリングラード攻防戦である。
どちらにしても、和平交渉での決着でなく戦争を続行して決着を付ける場合には、陸上での戦いは避けることが出来ないということだ。
ノルマンディー上陸作戦は1944年6月6日に連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。
正式作戦名「ネプチューン作戦」(英語: Operation Neptune)。
最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。2016年現在に至るまで最大規模の上陸作戦である。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2ヶ月以上要した。


ドイツの劣勢を受けて、ヒトラーは1945年1月16日にベルリンの総統官邸の地下壕に居を移し、ここから統括した。
しかし、連合軍が東西両方から迫っており、敗戦は確実な状況となっていた。4月半ばまでにはソビエト軍はベルリンに入り、ライヒ官房が位置する市の中心部へと侵攻していた(ベルリンの戦い、ベルリン市街戦)。ヒトラーの一部の側近や国防軍首脳部の一部は南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、ヒトラーはそれを拒否した。

ヒトラーは自殺の意向を表明し、その後軍医であったヴェルナー・ハーゼSS中佐に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼの提案は、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用だった。またヒトラーは、同盟国のイタリア社会共和国の指導者ベニート・ムッソリーニが、パルチザンに捕らえられ処刑された後に、遺体がミラノのガソリンスタンドに逆さ吊りにされ見せものにされたことを知っていたことから、自分は同じ運命をたどりはしないと決意する。
そして4月30日に地下壕で自殺したとされる。

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地下とかシアンとか、何だか少し豊洲市場っぽいですね!?
シアンは一般的には青酸カリと言った方が分かりやすいかもしれません。

一口に水と言ってもいろいろな水があります。
「水道水」「井戸水」「飲料水」「排水」「雨水」など。
水質検査においては水の種別ごとに水質基準が設けられています。
基本になるのは水道法第4条に基づく水質基準で、これは「水質基準に関する省令」によって定められています。
物質の危険度の評価が定まらないものがあり見直しが行われていますが、現在51項目の水質基準が設けられています。
その中の1項目に「シアン化物イオンおよび塩化シアン」があり、基準値は「シアンの量に関して、0.01mg/l以下」となっています。

水道水の51項目の水質基準ほどではありませんが、利用者の健康や生活に何らかの影響を及ぼすことが懸念される水質項目に対して「水質管理目標設定項目」及び「要検討項目」として、目標値や指針値が示されています。
これらは水道事業者に測定の義務を課したものではありませんが、自主的に管理することを求めています。30項目ほどあります。農薬もここに含まれます。

飲用井戸水としての水質検査は項目はもっと少なくなり、シアンは項目にありません。
さらに給水人口が100人に満たない家庭の井戸に検査義務もありません。
ただ水道の代わりに使うのであれば、やはり上記の水道水に準じた検査が必要だと思います。

あとシアンが出てくる水質検査としては、「排水」と「消毒副生成物」があります。

「排水」は、下水法・水質汚濁防止法に基づいての水質検査で20項目あります。
その中の1つが「シアン化合物」で、基準値は「1mg/l 以下」です。

「消毒副生成物」はビル管理法における特定建築物(特定施設)において1年に1回、6~9月の間に検査しなければならない水質検査で12項目あります。
その中の1つが「シアン化物イオンおよび塩化シアン」で、基準値は「シアンの量に関して、0.01mg/l以下」です。

地下ピットに溜まった何だか分からない水は、余程のことがない限り飲みませんよね?
命の保障、健康の保障がありませんものね。
それから同じ水を検査したならば、検出されたりされなかったりでは困るのでは?水質検査の信頼性も揺らいでしまいます。

豊洲市場 公明党の独自調査でシアン化合物検出(NHKニュース)

豊洲市場の土壌の汚染対策をめぐる問題で、都議会公明党は、盛り土が行われていなかった市場の建物の地下にたまった水について民間の調査機関に分析を依頼した結果、水産卸売場棟から環境基準を上回るシアン化合物が検出されたと発表しました

豊洲市場の土壌の汚染対策をめぐる問題で、都議会公明党は、今月14日、青果棟、水産仲卸売場棟、水産卸売場棟の3つの建物の地下にある空洞にたまった水をそれぞれ200ミリリットル採取し、民間の調査機関に成分の分析を依頼していました。
その結果、検査項目とした合わせて7種類の有害物質のうちベンゼンや六価クロムなど5種類については検出されなかったと発表しました。
一方で、3つの建物からそれぞれ、環境基準を下回る微量のヒ素が検出されたほか、水産卸売場棟から、環境基準を上回る、1リットル当たり0.1ミリグラムのシアン化合物が検出されたということです。シアン化合物については、先週、発表された東京都や共産党都議団による調査結果では、3つの建物のいずれからも検出されなかったとしています。
公明党は、「今回の調査結果はあくまで参考値ではあるが、新たな疑義であり、都に再調査を求めたい」と話しています。


「建築物における衛生的環境の確保に関する法律」(ビル管理法)の特定建築物とは、3,000平方メートル以上の店舗や事務所、遊技場などに利用される建築物、8,000平方メートル以上の学校施設が該当します。
特定建築物にはビル管理法で管理方法が定められており、建築物環境衛生管理技術者(ビル管理士・ビル管理技術者)の選任が必要となります(常駐でなくて可)。
管理の1つに水質検査があります。
特定建築物で地下水を用いる場合もありますが、多くは水道水だと思います。
それなのに何故別途検査するかというと、受水槽(貯水槽)に一旦水を貯めてから各水道口まで分配しているからです。
受水槽(貯水槽)で貯めているうちに汚染されてしまう可能性があるので厳しくなっています。
地下ピットに溜まっていた水はそれとは全く違います。
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by yumimi61 | 2016-09-21 12:14