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2016年 10月 31日
日本国憲法の秘密-396-
権威を支えるのは世俗である。
権威に溺れた宗教は世俗化する。
そうこうしているうちに腐敗が進む。

世俗とは、一般的に「世間」「世の中」を意味する語であるが、政治や宗教においては「宗教とは無縁」の状態を言う。
殆どの企業や会社(コーポレーション)、いくつかの政府は、世俗的な組織である。

アメリカ合衆国の一部の私立大学がキリスト教会やユダヤ教に結びついている(例えば、ベイラー大学、ブリガムヤング大学、ボストンカレッジ、エモリー大学、ノートルダム大学、デュケイン大学、南メソジスト大学、イェシーバー大学が著名である。)のに対して、アメリカの州立大学は、世俗的な組織である(特に合衆国憲法の修正第1条による)。
イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして日本における公立大学も世俗的であるが、一部の国々において私学助成を受ける一部の小学校や中等教育学校は、特定の宗教団体に連なっている。


宗教の世俗化とは宗教の本質を失うことだ。
宗教の本質は心であるので、その反対は物質ということになる。物質を言い換えれば、金や経済ということになる。
宗教の世俗化を簡単に言えば経教一致ということになる。貿易と布教の一体型はもろにこれに当てはまってくる。
世俗には心が無い、金や経済ばかりを追いかけている、まずこれが前提にある。多くの人が救われない社会である。(社会全体の状態のことなので各々に信仰心があるとかないとかは関係ない)
政治の世俗化とは政教分離のことを言う。政治に宗教(心的なもの)は持ち込まないのが政教分離。現実主義、民主主義。
心を担当し物質以外な側面から人々を救っていくのが宗教である。

ところがほとんどの政府が政教分離が出来ていない。
信者から支持が欲しい政治家は宗教に赴くことになる。
お金が必要な政治家は金融家や経済人にも媚を売る。
こうして宗教・政治・経済一致の社会が出来上がる。
全てが一致した社会とは、逃げ場のない社会である。どこからも救われない閉鎖的な社会。

カトリックがイベリア半島の再征服に成功したのが1492年。
この頃からカトリックの世俗化は目に余るようになり腐敗が顕著になってくる。
貿易一体型と言っても、貿易がいつも好調なわけではない。ヨーロッパのカトリック国や住民を相手に商売をしたり貢がせていた。

イギリスのオクスフォード大学教授のウィクリフ、チェコのプラハ大学教授のフス、イタリアのドミニコ会修道士だったサヴォナローラなど腐敗した教会や教皇を批判し改革を試みた者もいたが、彼らはカトリック教会により火刑にされた。
宗教改革の発端となるドイツのルターはその後に出てきた人物である。
ルターは本質を失っている(もともと持っていない)教会や信者に失望し改革に乗り出す。
当時のドイツ(神聖ローマ帝国)の皇帝カール5世は、スペイン王でもあった。
そんなわけで特にドイツは搾取の対象になっており、ルターだけでなくドイツ各地の諸侯もカトリックに不満を抱いていた。
ドイツ皇帝(スペイン王)とドイツ諸侯の対立があったゆえに、ルターはドイツ諸侯に守られる形で改革を推し進めることが出来た。
1529年、ルター派の諸侯や都市が皇帝カール5世に対して宗教改革を求める「抗議書(プロテスタティオ)」を送った。
これが「プロテスタント」(抗議者という意味)という名の由来である。
(イエズス会の創立は1534年8月15日)

織田信長と豊臣秀吉の安土桃山時代、徳川の江戸時代、日本で南蛮貿易や南蛮船と呼ばれていたのは、中国の南方を経由して日本にやってきたスペイン・ポルトガルとの貿易や船のことで、それはすなわちカトリック(イエズス会)のことなのだ。
イギリスやオランダはプロテスタントの国となる。

1614年、江戸幕府が「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令。

1587年7月に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」はキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。
(バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来しているそう)
プロテスタントは神父ではなく牧師であり、バテレン追放令はカトリックが追放されたということになる。
神父らは1614年以降、フィリピン、マカオ、ベトナム、タイなどに順次脱出する。
キリシタン禁令は外国人に適用するものではない。

1623年、スペイン領フィリピンとの貿易が禁止される。
1624年、スペインと国交断絶、スペイン船来航禁止。
1637年、キリスト教農民一揆「島原の乱」勃発。※島原は長崎県。
1639年、ポルトガル船の入港禁止。 ⇒これ以降が「鎖国」と呼ばれている。


織田信長は浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)と戦っていた。
江戸幕府はカトリック教会イエズス会勢力戦っていた。
どちらも著しく宗教の本質から逸脱していたからである。


1614年、大坂冬の陣。
1615年、大坂夏の陣。
江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。
豊臣秀吉と徳川家康は一度は和解したが、結局豊臣家は滅ぶことになる。
豊臣秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を建て、豊臣家がそこに入っていた。
秀吉亡き後、秀吉の息子達、特に三男がカトリックに入れ込んで大阪城に籠り宣教師も住まわせた。
そしてスペイン(カトリック)の支援を受けて幕府(徳川家)と戦う算段をしていた。
豊臣家はカトリックの呪縛から逃れられなかったのだ。
幕府は「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令した上で大阪城を包囲。豊臣側の挑発によって戦いは始まった。
このようにカトリックは、徳川政権を武力で転覆する構想を立てていた。
また幕府側に外交顧問としてイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が付いていたため、日本においてもプロテスタントとカトリックという対立が生じていたのだが、全てが「キリスト教」で括られる日本でこういうことが語られることはほとんどない。

幕府の努力によって日本は250年あまり平穏な日々が続いた。
鎖国鎖国言うのが好きだが鎖国なんかしていない。
あの当時船で日本に来るのは命がけだった。
フィリピンや日本の周辺は世界的に見ても熱帯低気圧の発生が多い。
アメリカの東側も東アジアほどではないが多い。
気候の良い時期は台風、ハリケーン、サイクロンに見舞われる確率が高くなる。
残念ながら誰でも来れるわけではなかったのだ。
一般に開国と言われるのが1854年。アメリカと日米和親条約が締結された年である。前年にペリー黒船が来航している。
アメリカが独立したのは1776年。
イギリスの植民地となっていた地域がイギリスと戦って独立を勝ち取ったと言われるが、アメリカを植民地にしていたのはイギリスだけではない。
最初に上陸したのはやはりスペインである。つまりカトリック。
その後多くのヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に興味を示し移民も多く渡ったが、カトリック国領に渡るものにはカトリック信仰が求められた。
ただ宗教改革の時代に多くの国から入植したため、アメリカ全体をみれば宗教も多様化した。
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by yumimi61 | 2016-10-31 14:11
2016年 10月 30日
日本国憲法の秘密-395-
1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指し太平洋横断の最中に台風に遭遇。日本の土佐沖(現・高知県土佐市)に漂着。
そこでサン=フェリペ号事件が起き、それをきっかけに再び禁教令が発令された。
そしてフランシスコ会の宣教活動が禁教令に対して挑発的であると勝って決めつけられて、京都や大阪にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人(スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人各1人)、および日本人の信者20人が捕らえられ長崎まで市中引き回し(見世物)にされ処刑された。

サン=フェリペ号事件とは対照的な出来事が1609年にあった。時は江戸時代になっていた。
1609年9月、フィリピンのマニラからメキシコに向かっていたガレオン船3隻が航海中に台風に遭遇し、1隻は難破し日本の田尻の浜(現:千葉県夷隅郡御宿町)に漂着する。ここで地元民に救助された。
もう1隻は豊後(現:大分県臼杵市中津浦)に緊急入港し、もう1隻は航海を続けた。
この3隻の中の1隻にはフィリピン総監交代のため召還命令を受けたロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた。
彼はフィリピン総監死去を受けて臨時総監を務めており、その後正式に就任する者が決まったため御役御免でフィリピンからメキシコに戻るところだったのだ。
ロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた船が千葉に漂着した船であった。

難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待した。ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。大多喜城の本多忠朝(藩主)も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。



サン=フェリペ号事件から2年後の1598年に豊臣秀吉は病没した(61歳)。

豊臣秀吉は明(中国)の征服を目指していた。
配下の西国(西日本)諸大名を結集させ遠征軍を立ち上げた。
秀吉は朝鮮の手助けがないと中国征服は難しいと睨んでいたのか(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向ける。
こうして1592年に戦争が始まるも明がそれ以上の戦闘の拡大を防ぐために朝鮮へ出兵させたため朝鮮で膠着状態となり1593年に休戦し交渉が始まる。
しかし1597年に交渉決裂し、翌1598年に再び戦闘が開始される。
そんな中、秀吉が亡くなったわけだが、秀吉の死によって日本は撤退することになった。
この中国や朝鮮半島への野望は明治政府で復活することになる。

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。

豊臣秀吉の死から5年後の1603年(徳川家康60歳)、江戸幕府が成立し、徳川の時代に入る。
後世からみると江戸時代は長いので、初代の徳川家康が並々ならぬ強権者だったように感じるかもしれないが、家康は自分の地位や権力にはわりと頓着しない人であった。
秀吉に絆されて和解したり、秀吉の死後もすぐに天下を取らなかったり、新田が祖先であることを強調したりと、そうした性質は随所に見られるが、家康が征夷大将軍だったのも僅か2年のことで1605年までである。
1605年(家康62歳)に将軍職を辞して息子に譲位し、後で支える人になった。(これが大御所政治と呼ばれるようになる)

大御所政治(将軍を辞した1605年から1616年に死没するまでに家康が行ったこと)
・1605年、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の船友2人をタイ南部パッターニ(Pattani)へ送って日本とオランダの貿易を招聘。
・1607年、朝鮮通信使と謁見し、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復。
・1609年、オランダ使節と会見。オランダ総督からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可。
・1611年、家康の祖先である新田義重(旧名は源義重;新田氏本宗家の初代で上野国新田荘を本拠としていた。この時はすでに故人、墓所は群馬県太田市別所町の円福寺)に鎮守府将軍を贈官する。
・1611年、エスパーニャ(現:メキシコ)の副王の使者と会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。
両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。
・1613年、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可。

この他中国とも通商関係があった。

日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。
日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

※対馬藩は対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)並びに浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩。

朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。
このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。
1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。


要するに幕府が作成した国書ではなく、対馬藩が勝手に国書を作った(偽造した)のである。
さらに相手からの回答書も改ざんした。
自分の国も相手の国も騙したわけだ。
なんでそんなことをしたかと言えば、日朝貿易の実権を握りたかったからである。
1609年に貿易協定である「己酉約条」が締結されている。
内部告発によって偽造や改ざんが発覚するのは30年も後のことである。
すでに条約が運用されていたため、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれることになった。
管理を強化するにはそれなりの理由がある。

鎖国ではないが一般的には鎖国と呼ばれている時代は1639~1854年。
1639年、南蛮船の入港を禁止したのだ。

何故南蛮船の入港を禁止するに至ったか、それにはウィリアム・アダムス(三浦按針)を知る必要がある。
江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

アダムスはイギリス人であるが、オランダ・ロッテルダムから極東(日本)を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願した。
航海は5隻からなる船団で行われ、1598年6月24日に出航した。

①ホープ号("希望"の意・旗艦) ⇒沈没
②リーフデ号("愛"の意)
③ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船) ⇒オランダに引き返す
④トラウ号("忠誠"の意)  ⇒ポルトガルに拿捕される
⑤フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意) ⇒スペインに拿捕される

アダムスは①ホープ号、弟トマスは④トラウ号の航海士として採用される。
兄弟は航海途上で②リーフデ号に配置換される。
航海は散々で日本に到着したのは②リーフデ号のみ。
これを運命と言わず何を運命と申しましょう。
そのリーフデ号も食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
アダムスは生き残った1人だったのである。
しかし生存者も危うく殺されるところだった。

1600年4月29日、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報した。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招く。 


徳川家康はここで知ったのだ。
カトリックのイエズス会とフランシスコ会の対立だけでなく、西洋にはカトリックとプロテスタンという対立があるということを。
日本人からは得られない情報、すでに日本で活動していたカトリックからはもたらされなかった情報、貴重な情報でありアダムスは貴重な存在だった。
家康はアダムスを離したくなくなって外交顧問にした。


ここでもう一度、フランシスコ会とイエズス会を整理しておく。これが非常にややこしいのだ。

★フランシスコ会 
 1209年イタリアでフランシスコ(イタリア人)が創立。無所有と清貧を主張し托鉢を行いながら布教。
 レコンキスタでカトリック国となった1429年以降のスペインで浸透し、フィリピン、メキシコと版図を広げていった。

★イエズス会
 宗教改革真っ只中の1534年8月15日にフランスで創立される。(フランスも一応カトリック国)
 創立者はパリ大学の学友6名。 しかし創立者にフランス出身者はいない。
 出身内訳は、スペイン5人、ポルトガル1人、サヴォイア(イタリア・フランス・スイスにまたがるようにしてあった国)1人。
 貿易と布教が一体。教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し現代に至っている。


フランシスコ会とイエズス会は対立していた。
フランシスコ会をスペイン系と書いたが、実はイエズス会も創立者7人のうちの5人がスペイン出身である。
フランシスコ・ザビエルも7人のうちの1人でスペイン出身である。

スペインとポルトガルはレコンキスタ(カトリックが再征服)によってカトリック国となった国。
レコンキスタが成就した後に大航海時代はやってくる。ローマ教皇はこのスペインとポルトガルを利用して貿易一体型の布教を行い植民地化を試みていた。

史上最悪のローマ教皇と言われたアレクサンデル6世(在位:1492-1503年)、スペイン出身。
1494年にスペインとポルトガルに「トルデシリャス条約」を結ばせる。
ヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めで、西経46度37分の経線を境に、西側はスペイン、東側はポルトガルものとした。
大西洋側に線引きをしたということ。ところが反対側の太平洋側に線引きを行っていなかったので東南アジアのモルッカ諸島(インドネシア)の帰属をめぐって両国に争いが行った。
そこで反対側の線引き交渉が行われ、1529年に「サラゴサ条約」も締結された。
下の緑の線が太平洋側の線。日本は北海道が少し分割されてしまう。
緑の線の西側はポルトガル、東側はスペイン。
日本が放棄したはずの北方領土にやたらこだわるのは、世界征服を狙ったカトリックのこの条約由来!?
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ローマ教皇(スペイン・ポルトガル)の世界征服の野望が頓挫するきっかけとなったのがフランシスコ会であり日本であった。
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by yumimi61 | 2016-10-30 11:32
2016年 10月 29日
日本国憲法の秘密-394-
長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)は1580年にイエズス会に寄進され、日本で唯一の外国領(イエズス会の教会領)になったという歴史がある。
当時の長崎では布教と貿易とが一体化していた。
続く1584年に浦上(旧浦上山里村)が寄進され、神父や修道士がともに生活をし、住民を司牧する土地となった。
このように勝手に日本の領土を宗教組織に寄進してしまうので時の為政者たちは貿易や宗教を制限せざるを得なかったのだ。
1913年(大正2年)に町名変更があり、旧浦上山里村の郷の一部が浦上町となった(現在は緑町)。


浦上(この浦上とは旧浦上山里町のこと)は日本におけるカトリックの聖地であると前述したが、上記のように早い時期にカトリックのイエズス会に浦上山里村が寄進されていて、その地にはカトリック信者が多かったからである。

浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった(浦上崩れ)。


日本に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルだと言われている。
1549年8月15日に鹿児島に上陸した。
日本に着いた日がちょうど聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあって、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
それから31年後、実際に長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)がイエズス会に寄進された。

1568~1582年は織田信長の時代。
織田信長の一番の敵は宗教団体だった。
宗教団体が町を乗っ取った挙句、信者を利用し一揆と称してあちこちで戦いを繰り返し、支配地域拡大を狙っていたからである。
織田信長は長いこと浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)と戦っていた。
織田信長の同じく浄土真宗本願寺勢力を警戒していたのがイエズス会であった。

織田信長はダライ・ラマのように神秘的なことは一切信じていなかったらしい。神も仏も信じない超現実主義者。
ところがなんと!1582年5月、織田信長、突如自ら「神」となることを決意。
「盆山(ぼんさん・Bonsan)」 という名前の石を置き、自らの化身として祀って、自分の誕生日に参拝するよう命じた。
これに不快感を示したのが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイス。OMG。
そして・・・。
1582年6月、「本能寺の変」 が起こった。そして織田信長は死んだ。


本能寺の変にはイエズス会が関わっており、当然日本側の織田に近い所にも協力者がいた。
豊臣秀吉は当初反織田信長側の人間だったと考えられる。
長崎(1580年)と浦上(1584年)がイエズス会に寄進されたのは本能寺の変(1582年)の前後である。

德川家康は織田信長の次男と組んで豊臣秀吉に対抗したが、1586年末に和解する。
(豊臣秀吉は)徳川家康に対しては融和策に転じ、天正14年(1586年)、妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

その頃九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。

大友宗麟はクリスチャンでキリシタン大名として有名な人物。
九州では秀吉の停戦命令を無視して戦いが続けられ、島津軍が勝利することになる。
その翌年1587年に豊臣秀吉が九州に侵攻する。そして島津軍を圧倒し九州を平定に導いた。

豊臣秀吉はそこで九州の実態を知ることになった。
九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。

1587年7月、「バテレン追放令」を発令。
「バテレン追放令」はキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。(バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来しているそう)
禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。

驚いたことは驚いたのだろうが、豊臣秀吉はイエズス会に強硬な態度が取れなかったということだ。


石山本願寺が無くなり、織田信長が死に、豊臣秀吉からは暗黙の了解を得たイエズス会に次なる敵が現れたのは、「バテレン追放令」から6年後の1593年のことだった。

1593年(文禄2年) - フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見
1594年(文禄3年) - 京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。


スペイン系カトリックのフランシスコ会である。
当時のフィリピンはスペイン領(1565-1898年)だった。(アメリカ領となるのはその後で1898-1946年)
フィリピンは世界でも類を見ないカトリック国であるが、その歴史はスペイン領だった時代に始まっている。
イベリア半島のスペインとポルトガルはカトリックの執念(レコンキスタ)が実った国で、カトリック国である。
レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。
イスラムに奪われた土地を奪還再征服すべく750年も戦ったのだというから恐ろしい感嘆する。

フランシスコ会が日本に進出してきたためイエズス会(1543年創立、創立者は騎士、「教皇の精鋭部隊」)によるキリスト教日本市場の独占は崩れた。
さらにフランシスコ会は京都に滞在が許されるなど日本においては後発でありならがすぐさま大躍進した。
かなり後の時代でも日本人にはカトリックとプロテスタントの区別すら付いていない。
この時代の人に、豊臣秀吉に、キリスト教のイエズス会とフランシスコ会の違いはよく分からなかったであろう。(日本初上陸のイエズス会の宣教師がフランシスコ・ザビエルという名前だし・・)

イエズス会とフランシスコ会、両者は同じカトリック(の修道会)であるが、活動の仕方やその佇まいが異なった。
イエズス会は貿易を資金源にし(貿易と布教一体型)、ローマ教皇に近いだけあって派手で煌びやかなことが好きである。
フランシスコ会は無所有と清貧を主張したイタリアのフランシスコが1209年に創立した修道会であり、染色を施さない修道服を纏い、托鉢(信者などに食料を分けてもらう;乞食)を行いながら布教につとめた。
創立はイタリアにおいてだったが、レコンキスタによってカトリック国となったスペインでも布教し、フランシスコ会がスペインに広く浸透した。その後フィリピンにも進出したのである。
フランシスコ会はどの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属したが、当のローマ教皇に活動を禁止されたり、その主張が異端として退けられてきた歴史も持つ。
一方でローマ教皇はフランスシスコ会を上手く利用する(取り込む)ことで、当時教会が抱えていた最も重要な懸案をともに解決することが可能であるともみておりフランシスコ会を承認し、時には支援したこともあった。
教会が抱えていた最も重要な懸案とは、他の異端の出現を阻み、市民を教え導くということである。
ローマ教会(ローマ教皇・イエズス会)は市民生活からはかけ離れており共感を得にくかったことの証である。
スペインの植民地だったフィリピンを経由して日本に入ってきたフランシスコ会と、先にいたイエズス会とが対立するに至る。


そしてあの事件が起こった。
1596年、サン=フェリペ事件。
事件と言うが暴力沙汰が起きたわけではない。

日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。
豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。


サン=フェリペ号はメキシコを目指していたが東シナ海で複数の台風に襲われ甚大な被害を受けた。
船には船員の他、7名の司祭が乗っていた。(うちフランシスコ会は2名)
日本に漂着し、船員たちは長浜(現:高知市長浜)の町に留め置かれることになった。
一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人増田長盛が浦戸に派遣されることになった。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していたため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。

言っていたことと実際にやることが違うってやつですね。

船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。
さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。
このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。


「フィリピンだって日本と同じようなものだろう!」と余計に怒らせてしまったのかもしれませんね。

しかし増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

カトリック宣教師による征服計画の真偽
荷物の没収に抵抗しようとした船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げたとされているが、この逸話は徳富蘇峰が大正〜戦前の昭和年間に記した近世日本国民史が初出である。 現在に至るまで実際にそのようなやりとりがあったという当時の史料は日本側の記録には見当たらない。


このことが秀吉に報告された直後の1596年12月8日に再び禁教令が発令された。
さらにフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた

京都や大坂にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人(スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人各1人)、および日本人の信者20人が捕らえられた。
市中引き回し(広く一般に公開、つまり宣伝効果がある)の上、「長崎で処刑せよ」という命令を受けて一行は大坂を出発し歩いて長崎へ向かった。
1597年2月5日処刑。

この事件には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。
黒幕はイエズス会だろう。
カトリック宣教師による日本征服計画はフランシスコ会によるものではなくイエズス会だろう。

処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。

イエスが処刑されて英雄になり、その地位を確かにしていったのがキリスト教ローマ教会そのものである。
日本の上記出来事は「二十六聖人の殉教」という。
1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって聖人の列に加えられ、「日本二十六聖人」と呼ばれることになった
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by yumimi61 | 2016-10-29 13:29
2016年 10月 28日
WC
TLが騒がしかったので(言ってみたかっただけ)(ティーンズラブではなくてツイッターのタイムラインって意味みたい。知ってる?)、批判が殺到しているとか?炎上しているとか?賛否両論真っ二つとか?の東急電鉄のマナー向上広告の話題に乗ってみようと思います。
車内化粧が問題になっているらしいのですが、マナー向上広告は車内化粧以外にも行っているそうです。(これは大事な情報ですね!?)

車内化粧、みっともない? 東急電鉄のマナー向上広告に反発、論争も(2016年10月28日産経ニュース)

「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」。電車内で化粧をする女性。その姿を批判的に描いた東急電鉄のマナー向上広告の動画が、ネット上で波紋を呼んでいる。「恥ずかしいことだ」と動画に賛同する人がいる一方で、「何がいけないの?」と反発する声も。「みっともなさ」の感覚や公共の場での振る舞いを巡って論争が起きている。


都会の女がみんなキレイとは限らない。
田舎の女を馬鹿にした感じがなんかイラッとしますね?


●その広告を不快だと感じた人のブログ記事
若い女はいつまで「みっともない」と脅される立場でいなきゃいけないだろうのか(車内化粧について思うこと)

●広告では若い女なんて言っていないのに、どうして「若い女」と決めつけたのさとお怒り?のブログ記事
電車の中での化粧が「みっともない」かはともかく、私は不快ですよ
この広告で言っているのは電車内での化粧の話しかしていないのに、こういう考えに発展するということが問題です。フェミとかどうこう以前に読解力の問題です。

はてなブログのはてなき戦い!?

ところで何故東急電鉄の広告は「キレイ」とカタカナを使用したのでしょうか?  
それはやはりハイカラ観を出すためで、それが「若い女」に繋がったのではないかと推測されるがどうだろう。
単に広告で化粧していた人が若かったから?

都会の女はみんなきれいだ。 都会の女はみんなキレイだ。 都会の女はみんな綺麗だ。

電車内で化粧している人は私も見かけたことがある。
車の中で化粧している人を見かけたこともある。
それどころか車の中で歯を磨いている人を見かけたことすらある。(漱ぎはどうするんんだろうと凄く気になった)
私は走行中の車の中で何か食べたり飲んだりしたことがある。運転しながらもある。

私が車内化粧批判よりも驚いたのは、テレビで前に駅のホームや電車内で飲み食いするのはみっともない(恥ずかしい)と言っていたこと。
公園だって、アウトレットだって、ディズニーランドだって、飲み食いしている人はいる。
だいいち、食べて下さい、飲んでくださいばかりに販売している。
駅だって売店があり、立ち食いソバ屋があったりする。
観光客相手の電車だったら車内飲み食いOKである。
新幹線や特急・急行ならばよいが、普通列車では許せないということなんだろうか?
上越線沿いに住みボックスシートが当たり前だった時代に電車をよく利用した私は普通列車内だって飲み食いするをよく見かけた。

だからということもないが電車内で化粧していても別に驚きはしない、えらく迷惑を被ったとも思わない。
しかし見てはいけないものを見てしまったような気にはすごくなる。凝視できない。
実は私がそういう気持ちになるのは電車内だけではない。
トイレでも同じなのだ。
トイレには大抵大きな鏡がある。トイレを「化粧室」と呼ぶことだってあるくらいだ。
デパートやホテルなどちょっと洒落た場所のトイレ(化粧室)には本当に化粧スペースを設けていることもあるが、一般的には手洗い場の前に鏡が設置してあるだけである。
そこで化粧や化粧直しや髪の毛いじりをする人(特に若い人)は非常に多い。
手も洗わないのに手洗い場を塞いで熱中して立っているとすれば迷惑千万。
手洗い場が沢山あって支障が無ければ特に迷惑ということはないけれども、なんとなく目のやり場に困る(鏡を見ないで俯きがちに後にする)。
見てはいけないものを見てしまった気持ちになる。

つまり他の人がいる公共の場で化粧をするという行為は、実はトイレであっても電車内であっても同じなのだ。
トイレの個室ならば他人の目に触れることはないけれど、なかなか出てこないというのも却って迷惑かもしれない。
トイレが電車と違うのは異性の目がないということだけ。
すなわち公共の場で行うのがいけないということではないのだ。
電車内で行うのはダメで、トイレならば良い、それは化粧する姿を男に見せるなということなんだと思う。
言い換えると、女は化粧を男のためにしているということになる。
綺麗な自分を見せたい人がいないところで化粧をする。
電車内で化粧をする人は、「男」がぐっと狭まって、例えば「好きな男」とかになっているのでは。
だから知らない人に見られてもへっちゃらなんだろうと思う。





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by yumimi61 | 2016-10-28 12:02
2016年 10月 27日
日本国憲法の秘密-393-
前記事の住宅地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図だったが、調来助という人は長崎医科大学(現:長崎大学医学部)の教授だった人である。
福岡県朝倉郡大福村(現:朝倉市)出身。東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒。

(卒業年の)大正15年9月、北京医院外科医長に27歳の若さで赴任しました。これは、日清戦争後の日本と中華民国(現在の中国)の友好親善という日本の大きな目的と、同仁会(医界と民間外交団体幹部が作った医療事業団体)の主な活動である中華民国の医学・薬学およびその技術を普及させ、一般衛生状態の改善を図るという大きな使命がありました。来助は、2年半にわたり実践し、成果を上げました。
 さらに昭和4年4月からは、現在の韓国の朝鮮京城帝国大学第2外科助教授として8年間にわたって朝鮮の医学の普及と優秀な医師の養成に尽力しました(昭和9年に医学博士号取得)。
 昭和12年5月からは、朝鮮全羅南道立光州医院長を5年間務め、医療業務達成のために努力しました。およそ15年間の長い海外派遣で、日本医学の普及と日・中・韓の友好親善を、医学を通して立派に果たした彼の功績は高く評価されました。

来助は、朝鮮から帰国後、東京帝国大学の推薦と長崎医科大学の強い要請を受け、昭和17年4月、長崎医科大学第1外科教授に就任し、以来、23年間優秀な医師の養成と医学研究に没頭しました。
 昭和20年8月9日の原子爆弾投下で自らも被爆し、原爆症に耐えながら、被爆者の治療・救済に努め、その悲惨さを「医師の証言長崎原爆体験」や、被爆者約8千人の治療と同時に原爆による症状等を分析して「原爆障害の大要」として報告しました。

福岡県朝倉市 ふるさと人物誌21 原爆医療の先駆者 「調 来助」(しらべ らいすけ)より>

しかし放射性物質の影響やリスクは少しも考慮されることなく今日に至る・・・・。
「原爆症」とははたして何か?火傷のことなのか?


地図を掲載していたブログに長崎原爆当時の新聞についても書かれていた。

まずは、長崎に原子爆弾が投下されたことを戦時中の新聞がどのように伝えているか、その一報を見てみます。
朝日新聞は、戦前、戦中、戦後と、一貫して新聞の過去号が出版されており、大きな図書館などで閲覧することができます。1945年8月12日付の朝日新聞には、1面下段に「長崎にも新型爆彈」という記事が載っています。

―――
長崎にも新型爆彈
西部軍管區司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆彈らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込
―――

長崎の原子爆弾投下の第一報は、わずかこれだけのものでした。この記事の左側には、広島への原子爆弾投下を受けて「新型爆彈への對策」や「一瞬に廣島變貌」といった記事が載っていますが、それらに比べるとごく小さな扱われ方でした。


先日広島のところに出てきた新聞も朝日新聞だった。
原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。
新聞社には原爆(新兵器)という認識は全くない。
それどころか、大きな被害が出たという噂話も届かなかったらしく、被害は若干の模様だと記されている。
これでは報道機関もあてにならんということになってしまう。


広島での大本営発表は投下当日ではなく翌日(7日)だった。
―――
大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分)
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

―――


長崎の時は大本営ではなく西部軍管区司令部発表だったようだ。

1935年8月西部防衛司令部として発足し中国・四国・九州地方を管轄区域とする西部軍司令部が軍管区内の軍隊を指揮・統率した。1945年2月1日第16方面軍の編成により廃止され、その後は第16方面軍司令部が西部軍管区司令部を兼ね九州地方の軍政を統括した。
第16方面軍司令官は西部軍管区司令官を兼ね、軍管区司令官としては天皇に直隷した。また、参謀長、参謀副長も、西部軍管区のそれを兼ねた。


西部軍司令部は福岡県小倉市(現:北九州市)に、第16方面軍司令部は福岡県二日市(現:筑紫野市)にあった。


9日に投下され、当日(3時間43分後)に大本営発表並みの西部軍管区司令部発表があったにもかかわらず、朝日新聞が一報を掲載したのは8月12日付新聞だったらしい。
そしてその時点でも「詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込」だったのである。

では地元をよく知っているはずの地方紙はどうだろうか。
広島では地方紙の中国新聞が原爆投下翌日と翌々日の新聞を休刊にした。新聞社も被害にあって発行しなかったというのだ。
長崎は?

1945年から1949年の占領期に米国軍から検閲を受けた出版物が眠っているメリーランド大学のプランゲ文庫には、原爆投下後まもないころの長崎市民が読んでいた新聞が収蔵されています。
長崎で発行されていた地方紙も、全国紙だった毎日新聞の長崎版も、プランゲ文庫には収蔵されているそうである。しかし・・・
原子爆弾が投下された直後の長崎市の様子がわかる新聞記事は、残念ながらプランゲ文庫にも収蔵されていません。検閲が開始されたのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「言論および新聞の自由に関する覚書」を出した1945年9月10日以降となります。


こんな状況でよく爆心地がピンポイントで分かったものである。

長崎市が編纂した『長崎原爆戦災史 第二巻 地域編』によると、被爆直後から、爆心地は松山町であるという未確認の情報が出まわっていたといいます。

後日、公式な爆心地の推計と決定が行われました。文部科学省学術研究会議・原子爆弾災害調査研究特別委員会から、理科学研究所の木村一治、田島英一、また地震研究所の金井清などの科学者が長崎に派遣され、現地を調査しました。
木村らは、浦上天主堂の忠霊碑(爆心地からおよそ450メートル)、浦上天主堂前の記念碑(450メートル)、長崎医科大学附属病院の窓枠(650メートル)、井樋の口の交番所(1470メートル)などに残されている焼け跡の向きなどを手がかりにしました。これらの焼け跡の向きの焦点が合った場所が、爆心地であると考えたわけです。
長崎市松山町171番地が爆心地であることが決定されました。

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by yumimi61 | 2016-10-27 20:54
2016年 10月 27日
日本国憲法の秘密-392-
●浦上天主堂(カトリック浦上教会)
長崎県長崎市本尾町1-79

浦上天主堂もヨーロッパ建築。石と煉瓦造りのロマネスク様式。
信者が寄付をしたり建設に携わるも資金難と工期遅れのため屋根は木造瓦葺に設計変更したそうだ。
土地を買い取って(?)建設を始めてから19年後の1914年に完成。
象徴的な双塔が出来たのはさらに11年後の1925年で、2つの鐘が吊るされた。

左側が爆弾によって壊れる前の浦上天主堂。右側が壊れた後。
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双塔は高さがあるが、建物は2階程度の高さだと思う。(建物は少し高い所に造られている)
教会なのでほぼワンフロアーで天井が高いがらんとした空間である。
従って屋根と外壁が壊れれば何も残らないということになる。


◎爆心地はどこだ?

長崎の爆心地は平和公園の平和祈念像辺りだと思っている人が多いようだ。
観光客が沢山訪れるのも記念式典が催されるのもそこ。
でも爆心地とされている場所は違う。もう少し南側に位置していて、道路を一本挟んでいる。
Yahoo地図には「原爆公園」とある。
通常、「原爆落下中心地公園」「原爆投下中心地公園」「爆心地公園」「爆心公園」などと呼ばれる。
1945年10月、爆心地を「松山町170番地テニスコート跡地」と確定(後の調査で、「松山町171番地」と訂正)。煙突の残骸の円柱に「爆心」「Centre」と書き記して、標柱として建てる。

浦上天主堂の遺壁もこちらにある。
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平和公園にはゾーンがある。
但し、長崎市民が「平和公園」と言った場合、平和祈念像地区・願いのゾーンのみをさす。 毎年8月9日の長崎原爆の日(長崎原爆忌)には、平和祈念像前の式典広場にて原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。
長崎市民ではなくても多くの人は「平和祈念像地区・願いのゾーン」が平和公園だと思っている。
だからそこが爆心地だと勘違いすることになる。
平和公園の住所は、長崎県長崎市松山町9で、これは平和祈念像地区・願いのゾーンの南側にあたる。

■平和祈念像地区・願いのゾーン(平和祈念像・折鶴の塔・長崎の鐘・平和の泉・世界平和シンボルゾーン・長崎刑務所浦上刑務支所跡・長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂)
■原爆落下中心地地区・祈りのゾーン
■長崎原爆資料館地区・学びのゾーン(長崎原爆資料館・国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館・長崎市平和会館)
■スポーツのゾーン(県営長崎ビッグNスタジアム・長崎市営ラグビーサッカー場・長崎市民総合プール)
■広場のゾーン(長崎市営陸上競技場・長崎市営庭球場・長崎市営ソフトボール場・長崎市営弓道場)

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こんな近くに長崎大学医学部がありながら、考えられる原爆(放射性物質や放射線)の影響に対して
何も対策が取られなかったことは驚きではなかろうか。



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この写真が原爆投下2日前に撮られた写真だそうだ。
ちょっとぼやかしてやれば焼野原に見えなくもない。(文字と矢印は私が書き入れました)
陸上競技場らしきものはすでにあるが、県営野球場や市営ラグビーサッカー場はまだない。
右上の広場のような土地は長崎大学医学部のグラウンドだろう。現在もそこにある。
その上が浦上天主堂(カトリック浦上教会)ということになる。
現在「原爆公園(爆心地公園)」となっている所も、当時から広場のような感じだったことが見て取れる。(テニスコートだったと言われている)
赤字で三菱地所と書いた所も当時は広場だったようだ。なんでも三菱の土地で野球場として使っていたらしい。
戦後にはアパート(団地?社宅?)が8~9棟建設されて、「三菱浜口アパート」と呼ばれ、わりと最近までそのアパートは存在していた。
見るたびに切ない三菱浜口アパート
それが壊され2014年に「トレディア浜口」という名の15階建てのマンションが誕生。
西日本菱重興産(三菱長崎造船所の総合建設子会社)が所有で、三菱社員専用の賃貸マンションらしい。
原爆爆心地も当時三菱が買収したばかりだったと言われている。
長崎の商人で富豪の高見和平が所有していた「高見別荘」のテニスコートだったが、三菱長崎造船所が宿舎にする計画で買収したばかりだったとかで、その近辺は無人となっていた。
原爆爆心地には宿舎は建てられないということで、野球場つぶしてアパート建てたんですかね?


今度はこの地図を見てもらいたい。
地図はこちらのブログ、科学技術のアネクドート 松山町171番地は別荘だった――長崎とアトム(2)より。
地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図より(色付き囲みは上記ブログで付けたものだそうです)。
色付き囲みは爆心地と、防空壕にいて松山町でたった一人生き残った少女(黒川幸子さん・9歳)宅。
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横向きだと分かりにくいので縦向きにして現在の地図とならべて見る。
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左地図の左白抜き部分が当時「松山町」だった地域らしい。
線路、大通り、川が今と変わっていないので、比較しやすい。
右地図にて黒線(長崎本線含む)で囲ったところが白抜き部分にあたり松山町である。
つまり現在の平和公園の一部は松山町に含まれないということになる。
平和祈念像が設置されている場所や式典を行っている場所は、原爆が投下された松山町ですらなかったということなのだ。

縦地図で長崎本線の左側(横地図で長崎本線の下側)には、「駒場町2丁目」と書いてある。
「松山町」は1923年に付けられた名称であるが、1940年にその中の一部が「駒場町2丁目」に変更された。
現在スタジアムや競技場がある所である。1940年の「駒場」というのは何やら意味深。
長崎県下、1940年に変更があったのはここだけである。
「駒場町2丁目」は1964年に松山町に戻り、以降今日まで変わっていない。
長崎県では1964年に住居表示実施された。この時に大々的に町名が整理された。
(土地の番号・地番は分割したり合わせたりすることで番号が順序よく並ばなくなってしまい、郵便局などが不便のため地番とは別に並びのよい住所表示をいうものが導入された)
浦上天主堂は現住所的には本尾(もとお)町となる。小高い丘一体が本尾町で、現在は頂上周囲にぐるりと民家が密集している。
しかしそう、爆心地は松山町と断定され、爆心地を示した公園があるにもかかわらず、原爆は浦上天主堂や現在の平和公園(平和祈念像)の上空で爆発したと言われることが非常に多い。
それを裏付けるかのように、浦上天主堂の遺構は平和祈念像のある平和公園ではなく、原爆公園のほうにある。そこは松山町である。

ちなみに、上記のブログによると、「高見別荘」を買い取った三菱長崎造船所は、そこを「女子挺身隊の宿舎」にする予定だったそうである。
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by yumimi61 | 2016-10-27 11:30
2016年 10月 26日
日本国憲法の秘密-391-
●原爆ドーム
広島県広島市中区大手町1丁目10

広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した。

1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル。
ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。



広島県物産陳列館(原爆ドーム)の建物の構造(広島市ホームページ 原爆ドームより
中心に中庭を配置して吹抜けになっており、建物中央は楕円形の階段室がありました。
全体は窓の多い3階建てですが、建物中央の階段室部分は5階建てで、その上にドームが載っていました。また、一部に地下室が設けられていました。
建物は一部鉄骨を使用した煉瓦造で、石材とモルタルで外装が施され、内壁の大半は漆喰壁であったと考えられます。


ドーム部分は鉄骨で形作り、屋根には銅版が乗っていた。
銅の屋根は寺社の屋根などに用いられているのを見かけるが、鎌倉の大仏や自由の女神も銅版だそうである。
上空で爆発したわりにはドーム部分を含め、上階が残っていることになる。
銅版がなくなって、鉄骨がそのまま残っている理由は、融点の差(銅:1085℃、鉄1538℃)だと説明されている。銅版は真っ先に融けてしまったんだとか。

ところで原爆ドームって何か変ではありませんか?

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安田女子大学の皆さん、なんか違うなあと思いませんでした?

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by yumimi61 | 2016-10-26 12:14
2016年 10月 25日
日本国憲法の秘密-390-
長崎での投下目標は、市内中心部の中央橋の予定だったが、実際は、4Km北にずれ、よりによって、長崎でもキリスト教信者がもっとも多く住んでいた浦上地区の上空、しかも日本のキリスト教の歴史上、最も重要な建築物である浦上天主堂カソリック教会のほぼ真上で爆発したのである。
ナガサキ・消えた原爆ドームという話より>



長崎での投下目標は中島川に架かる橋だった。
中島川は市街地を流れる川で、それほど大きな川ではない。
長崎市には北から南に流れる浦上川というもっと大きな川がある。
ただ中島川は江戸時代には大川と呼ばれていたそうだ。
広島爆心地の地名は「中島」だが、長崎の投下目標も「中島」である。
中島川の中央橋の西側地域も中島橋と呼ばれているらしいが、町名で言えば江戸町と築町になる。
長崎県庁は江戸町にある。

しかし実際に原爆投下された場所とされているのは、そこではない。
平和公園や浦上天主堂(カトリック浦上教会)の上空で爆発したとされている。

実は、その教会の廃墟は、被曝から13年後の、ぼくが小学校1年生の頃までは、そのままの姿で残っており、教会の庭には聖像の首が ゴロンゴロンと転がっていたのである。そして、その頃には、長崎を観光で訪れる人々のための市内観光バスツアーというのが既にあり、その目玉が浦上天主堂の廃墟であり、廃墟から掘り出された鐘楼の鐘を鉄塔に吊り下げた「アンジェラスの鐘」だった。
ナガサキ・消えた原爆ドームという話より>

広島同様、長崎も放射性物質や放射線に対する対策は一切取られていない。



長崎の原爆は松山町171番地の上空で爆発したそうだ。
現在は平和公園の一角となる。
当時は長崎の商人で富豪の高見和平が所有していた「高見別荘」のテニスコートだったが、三菱長崎造船所が宿舎にする計画で買収したばかりだったとかで、その近辺は無人となっていた。
周囲は民家が密集しており、頑丈で大きな建物が立ち並んでいたということはなく、焼夷弾で事足るような場所である。
シンボルとなり、ターゲットにしやすく、且つ焼夷弾ではなく爆弾が必要なのは浦上天主堂だったろうと考えられる。
長崎の浦上は日本におけるカトリックの聖地である。
しかしそう、平和公園も浦上天主堂(カトリック浦上教会)も実は松山町なのだ。


長崎の現在の中心市街地一帯はその昔「長崎区」であった。昔からハイカラだったのだ。
「長崎区」の北側は「上長崎村」。
「長崎区」や「上長崎村」の北西方向に「浦上山里村」があった。
長崎の街は埋め立ての歴史であり、市街地も埋め立てて造られたところがあるが、市街地より西側も現在の長崎本線の浦上駅の辺りまで海だった。深く湾入していたのだ。
浦上駅北側の長崎本線と長崎電鉄に挟まれた小さな地域を川口町というが、これはそこが河口(川口)だったことの名残だそうだ。現在もある浜口町と岩川町の一部が川口町になったのだが、どちらにしてもそこまで海が来ていたということが分かる名である。

長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)は1580年にイエズス会に寄進され、日本で唯一の外国領(イエズス会の教会領)になったという歴史がある。
当時の長崎では布教と貿易とが一体化していた。
続く1584年に浦上(旧浦上山里村)が寄進され、神父や修道士がともに生活をし、住民を司牧する土地となった。
このように勝手に日本の領土を宗教組織に寄進してしまうので時の為政者たちは貿易や宗教を制限せざるを得なかったのだ。
1605年に肥後の豪族が浦上山里村の世襲庄屋(村長)に任命され、その庄屋(高谷小左衛門)の屋敷が小高い丘に造られた。
それが浦上天主堂(カトリック浦上教会)のある場所である。
明治時代に入ると、江戸時代にカトリックが抑制された浦上の地に信者が戻りだし、1880年(明治13年)に大浦天主堂から専任の神父が来て、庄屋の跡地を買い取った。(買い取った?)
つまり屋敷跡地に浦上天主堂(カトリック浦上教会)の建設を始めたのだが、19年もの歳月を要し、完成は1914年だった。
1913年(大正2年)に町名変更があり、旧浦上山里村の郷の一部が浦上町となった(現在は緑町)。
繰り返しになるが浦上天主堂(カトリック浦上教会)は松山町である。

要するに長崎の原爆が投下されたという場所はかなり曰くつきの地である。
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by yumimi61 | 2016-10-25 12:15
2016年 10月 24日
日本国憲法の秘密-389-
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昨日は父と母がいつもお世話になっているヘルパーさんの一人が所属している女声合唱団のコンサートに行ってきた。
1983年創立で33歳になる合唱団で、団員の平均年齢も年々上がっているらしい。
近年は2年に1回コンサートを開催していて、昨日が19回目のコンサート。
母は病気をしたあと視力も聴力も落ちてしまったので、一番前の席で見てきました。
そのかいあって顔も見えて歌も聞こえたということなので良かった。
やはり知っている歌だと聞き取りやすいみたいです。
全曲暗記は凄い!とくにラテン語。
楽しくて素敵なコンサートでした。ありがとうございました。


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1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。


1868年、明治元年。
翌1869年3月28日、明治天皇が東京に入り、江戸城改め皇城(1888年に宮城と改称、現:皇居)と改めた。いわゆる「東京遷都」。

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日施行。
近代立憲主義に基づく憲法とされるが、天皇の絶対性を謳った憲法で実態は「近代立憲主義」とは程遠い。憲法とは名ばかり。
しかも憲法制定は明治時代に入ってから20年も経った後のことであった。
明治元年の時、明治天皇はまだ16歳。神として祀り上げて絶対性を布くには如何せん若いということだったのだろう。
憲法公布の時は37歳、機が熟したということになる。

大本営―陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関。
大本営は1893年5月22日(天皇40歳の時)に公布された戦時大本営条例によって法制化された。
そして翌年に日清戦争が行われるのである。

日清戦争、1894年7月~1895年3月。
日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。
同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が広島に移り、大本営も広島城本丸に移った(広島大本営)。
明治天皇は1895年5月30日まで広島にいた。
広島城本丸には1873年に「広島鎮台」が置かれ、日本の近代軍制史上もっとも早期の軍事拠点であった。その後は第5師団指令部が置かれていた。

日露戦争、1904年2月8~1905年9月。
この時は宮中(皇居)が大本営だった。

広島の原爆ドームは広島城にほど近い場所にある。
広島の原爆は市街地に投下されたということになる。しかも県庁所在地である。
原爆が落とされた場所を移ることなく、県庁をはじめ様々な公的機関、学校や病院、商業施設、ホテルなどが立ち並ぶ。
そう簡単に消えることのない放射性物質の影響など微塵も気にした様子はない。



関東の人間からすると広島は不思議な土地だ。
何が不思議かという川の流れである。
関東を代表する利根川は支流が次々と合流しながら1本の川になって平野に向かっていき海に辿り着く。
広島市街地に向かっていく川は太田川という川なのだが、この川は平野部で幾つにも分かれて、そのまま広島湾に流れ込む。広島中心部には幾本もの川が流れている。
広島は三角州で作られた街である。原爆ドームの場所の地名は中島である。
従って川に架かる橋を落とすと陸の孤島が幾つも出来てしまい、逃げたくても逃げられたない、救助や消火活動に行きたくても行けない、そういう状況が生まれる。
原爆なんか落とさなくても被害を拡大できる土地である。


広島は軍都である。
第二次世界大戦前から広島城の敷地には軍関係の建物があり、戦時中にはさらに増えたらしい。
それにもかかわらず原爆投下の日まで広島は空襲されていない。
アメリカが原爆を落とす予定だったから空襲を避けていたと言われるが、あまりに呑気というか何というか、「戦争とは何か」という根本が揺らぐ。
何故空襲しなかったか。上記のように被害が大きくなってしまうからである。
被害がない状態から大きな被害という落差が必要だったのだ。

(広島城敷地に)戦争末期、空襲下でも指揮できるようシェルター機能を兼ねた半地下式RC平屋構造で司令部防空作戦室が作られた。1945年(昭和20年)6月12日には、本土決戦に備え広島師管区が中国軍管区に改称され、天皇に直隷し中国地方を管轄することとなった。
ここが広島市への原子爆弾投下の第一報を外に向けて伝えた場所である。


とはいえ広島に原爆が投下されたという8月6日には大本営発表はなかった。

原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。
新聞社には原爆(新兵器)という認識は全くない。
それどころか、大きな被害が出たという噂話も届かなかったらしく、被害は若干の模様だと記されている。
これでは報道機関もあてにならんということになってしまう。
朝日新聞東京版(昭和20年8月7日付)
広島を焼爆
六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもつて同市附近を攻撃、このため同市附近に若干の被害を蒙つた模様である(大阪)

朝日新聞大阪版(昭和20年8月7日付)
天候回復、敵襲にそなへよ / 西宮、広島暴爆 / 今治、前橋等にも来襲
(広島)六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時三十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙つた模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆撃は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとつていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したと思つたか、白昼僅か二機を持つて爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する

日本本土に行われていた空襲は「焼夷弾」が用いられていた。
焼夷弾は油のような可燃性物質を詰め込み、それを撒き散らし引火させて火災での被害を狙うものである。
一方、「爆弾」とは発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊するものである。
爆弾には火災が付き物と思っている人も少なくないかもしれないが、爆弾自体には火災を起こす能力はない。

8月7日の大本営発表を受け、8月8日には各紙とも広島が「新型爆弾」で攻撃されたことを1面トップで報じた。

火勢がやや収まってきた6日17時30分、呉鎮守府の呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による被害および正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で「8月6日廣島空襲被害状況報告書」にて原爆の空中爆発による攻撃であると断定した


断定する前に発表したということだろうか?

9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していることを確認、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。
これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医および理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射能測定や被爆者の血液検査などを行った
この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、白血球の減少している被爆者が多いことが分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕んだ放射線はα線、γ線、β線、中性子線であることが判明した。







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by yumimi61 | 2016-10-24 11:58
2016年 10月 23日
日本国憲法の秘密-388-
1945年7月12日~8月2日、ポツダム会談。
1945年7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が行われる。爆縮方式のプルトニウム原爆。
1945年7月21日、トルーマン大統領がトリニティ実験の成功の報告を受け取る。(成功?)
1945年7月24日、トルーマン大統領がソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かす。
1945年7月26日、イギリスの選挙開票日。保守党の敗北を受けてチャーチル首相が帰国し退任。
            ポツダム宣言発表。(アメリカ・トルーマン大統領が一人で署名)         
1945年7月28日、大山口列車空襲事件。
            鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?
              ⇒ノーコメントと言ったようだが、黙殺、拒否、全面的に無視と報じられる。
1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。


広島原爆投下は護衛機も付けずにたった一機で飛んできて行った。
開発にかけた19億ドルという莫大な費用を背負っているわりには緊張感が無さすぎる。
しかもカメラが故障して、キノコ雲の写真がたった一枚撮れただけだった。(アメリカ軍発表)
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長崎でも天気が悪くてキノコ雲だけしか撮れなかった。
撮れなかった理由は原爆を投下していないからだろう。
地上で原爆ではない爆弾を爆発させた。普通の空爆もプラスしたかもしれない。


広島原爆の地上起爆説

広島に原爆を投下したとされているB-29(エノラゲイ)
現在、機体はスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターという博物館に展示されています。
こんな図体のでかいプロペラ機が原爆を投下後に直ちに旋回して爆風から逃れることができるのでしょうか。
本当に原爆を投下したのであれば、機体は解体されるかまたは海に投げ捨てるはずなのです。
放射線を浴びて二度と使い物にならないのですから。
博物館に行く機会がある方は機体を放射能測定器で試しに測ってみて下さい。
放射線は全く検出させませんので。


下の写真は広島市民(爆心地から7km)撮影で「ヒロシマ新聞」掲載。
ヒロシマ新聞は中國新聞労働組合の被爆50年記念事業として、「もし原爆投下の日の新聞があったら」という仮定にたち、現在の視点で作成、発行した新聞である。
広島県の地方紙は中國新聞。
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1945年3月10日の東京大空襲の死者が長崎の死者(7万人)よりも多く11万人と言われている。
たった一晩、見えにくい夜間の投下でこれだけ多くの被害者を出した。
下町が狙われ、日本家屋の火災が原因だったらしいが、これだってキノコ雲の写真でも出して原爆投下と言えば、原爆投下になっていたかもしれない。

3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸
4月13日 - 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。


3月10日以降の東京への空襲はB29の機体数が書かれているが、3月10日は書かれていない。
3月10日の死者は30倍~100倍くらい多いのだが、いったいどれほどのB29が飛んできたというのか。
戦時中でもあるし、流されやすく専門知識も無い市民がごまんといるのだから、情報なんかどうにでもなる。
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by yumimi61 | 2016-10-23 09:03