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2017年 03月 22日
サムライ~生きるために死んでいく~
あの世代の方達は、よく「もののけ姫」とか「侍ジャパン」とかおっしゃるので、ちょっと我々というか、違和感を感じるところであります。

「七人の侍」をしっかりと守ることが私の責任です。



黒澤映画『七人の侍』は、毎年のように野武士に襲われて作物を奪われる農民らが7人の侍を雇って対抗する物語である。
農民は野武士の野盗から村を守るため侍を雇うことを決断する。
雇われたのは食べることもままならない浪人であった。
彼らは農民自らが戦うことが出来るように訓練する。
農民はそれぞれ武器を手に、雇った侍(浪人)とともに野武士と戦うのであった。


タイトルは侍であるが、農民に雇われるまでの彼らは浪人であった。
侍とは武士の別称。
主君に仕える職業が武士である。
侍は「従う」を意味する「さぶらう」 に由来する名称である。
主君のために命を投げ出すことも厭わない。
その代わり普段は主君の後ろ盾があり領地や食糧などが与えられる。
安心な毎日と危険な毎日が背中合わせに存在している。
どうも武士や侍を勘違いしている人が多いような気がする。

浪人や野武士は、主君(主家)を滅ばされたり、解雇されたり自ら飛び出したりして、主君を失った武士の事である。
望んで離れた者もあれば、望まないのに放り出されてしまった者もいる。いろんな人がいる。
武士や侍が主君に使える職業である以上、主君を失った時点で武士ではなくなる。
厳密に言えば、浪人や野武士は武士でも侍でもない。元武士や元侍である。
彼らを持っているのは食う物にさえ困る日々である。
危険を避ければ飢えと渇きが襲ってくる。
飢えと渇きを満たすには結局危険に身を晒す必要がある。


ラストシーンで語られる有名なセリフはこうである。7人の侍のリーダー格のお言葉。(7人の侍は全員無事とはいかなかった)
「今度もまた負け戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ、私達ではない」


「黒澤明と早坂文雄−風のように侍は」(筑摩書房)のなかで、西村雄一郎が、黒澤明本人に、この有名な台詞の意味を直接訊いたというクダリがあります(739頁)。

《黒澤本人に、聞いたことがある。
「七人の侍」のラストで、志村喬の勘兵衛が「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」というが、あれはどんな意味だったのかと。
すると黒澤はこう答えた。
「百姓は、なかには藤原釜足のようにずるいのもいるし、土屋のような賢いのもいる。しかしどんな場合でも、大地と共に根強く生き続けていく。それに対して侍は、ただ旗のように翻っているだけだ。大地をさっと吹き過ぎていく風のようなものなのだ」
と答えた。》
のだそうです。

映画収集狂 勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない より>

人は食べなければ生きていけない。
作物に始まり作物に終わる映画。
農民は本当に弱い存在なのだろうか。自由とは何か。安心とは何か。安全とは何か。
村を襲来して作物を奪う野武士も雇われた浪人も、実は同じような立場の人間であった。
『7人の侍』、このタイトルが意味するものは、農民という主君によって一時的に侍となり得た浪人たちということであろう。
武士とは因果な職業である。

生きろ!

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by yumimi61 | 2017-03-22 21:35
2017年 03月 21日
49日
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柔らかな光の粒を宿らせし 仏の御石露の輝き



3月18日、亡き父の49日法要と納骨を行いました。

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実家の後飾りに飾ってあった折鶴。
葬儀の翌日だったか翌々日だったかに実家を訪ねると折鶴があった。
普通の鶴と、入れ物に入った小さな鶴と、繋がっている鶴。

実家には私達姉妹が子供の頃から折り紙の本がある。
子供の時にはそれを見ながらいろんなものを折った。
妹の娘(姪っ子)も子供の頃、実家に来るとそれを見ながら折り紙をしていた。
その本も折り紙もまだ残っていた。
「折り紙があったから作った」と姪っ子。

それから数日して金と銀の折り紙で私も鶴を折った。
その後に姪っ子がまた赤い折り紙で鶴を折った。

近所の人がお線香をあげに来てくれた時、置いてあった折鶴に気が付いたらしく、
「あやちゃんが折ったんでしょう。子供の時によく折ってたものね。鶴が繋がっているやつを器用に折って、私もあやちゃんから貰ったのを家にまだ飾ってあるわ」と。

ちなみに父の母の名前は「つる」である。





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by yumimi61 | 2017-03-21 12:41
2017年 03月 17日
父の病㉒
以前ローマ帝国について書いたことがあるが、西ローマ帝国は400年代に滅亡した。
西ローマ帝国が滅亡した主たる原因はゲルマン民族の大移動だったと言われている。
ゲルマン民族とは北ヨーロッパからやってきたゲルマン語を話す民族である。
「蛮族」と呼ばれることもあるが、分かりやすく言えば「野蛮人」ということである。
野蛮とは、文明・文化に対立する概念であり、文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。未開や粗野と同義。しばしば自身を「文明」と称する人々によって相手に付けられるレッテルとして用いられる。野蛮だとされる民族は「蛮族」と呼ばれる。
(今日の日本では未開の地やグンマーなどと言われている群馬県なんか当てはまりそうですね!?だから「未開の地」という呼称に怒った人もいるわけですよ)


しかしやがてその蛮族であるゲルマン民族はヨーロッパ全土に広がり各地を支配するようになる。
西ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族がヨーロッパを支配した時代までを「中世」と言っている。
中世は「暗黒時代」とも言われる。
何故暗黒時代なのか?
ゲルマン民族の支配によって古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退・停滞したからだという。
知的でもアカデミックでもない馬鹿な体育会系というような感じに思われていたのではないだろうか。
史上最大とも言える広大な帝国を作り上げたモンゴル帝国の遊牧民なんかも同じように思われていたかもしれませんね。(巻き込まないでくれ?)
ヒトラーやナチスはゲルマン民族の優位性を信じていた。(ヒトラーがゲルマン民族だったかどうかはともかくとしてゲルマン民族にはヨーロッパを支配したという動かぬ実績がありますからね)
ユダヤ人に「馬鹿な体育会系」と言われたことに憤慨したのか(そんなこと言ってませんよ?)、ナチスはオリンピックに力を入れ、青少年団体の加入を義務付けた。やがてこれがドイツの兵力を支えていく。


近代キリスト教・カトリック(あえて近代と言う)は、このゲルマン民族の大移動とともに拡大していき、ゲルマン民族が支配者になることでその地位を動かぬものにしていったのである。
つまりカトリックとゲルマン民族は切り離すことが出来ない。中世・暗黒時代の主役はカトリックとゲルマン民族なのである。


何故に中世の話なんか始めたかと言うと、ホスピスのルーツがあるからである。

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

旅人とは主にゲルマン民族で、教会とはカトリック教会だったのではないだろうか。


古代―中世―近代
中世は輝かしいルネサンス時代の到来をもって終焉を迎えた。
輝かしいルネサンスとは何か?
ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
早い話、懐古趣味ですか?

宗教改革も同じ時期であり、1500~1600年代(14-15世紀)頃。それによりカトリックは窮地に陥り、プロテスタントが興った。
大航海時代は1400~1600年代(15-17世紀)。
こうして世界の中心はヨーロッパ本土からイギリスやアメリカに移っていくことになる。

ルネサンスに後に来るのは啓蒙時代。大きく分ければ現代もここに属する。
聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動の時代。
中世に学問の中心であった教会や大学にかわり、フランス王立アカデミーやロイヤル・ソサエティなど国家の支援を受けた研究機関が、この時代には人文学、自然学ともに学術の中心となった。こうした動きは中央だけでなく、地方にも及んでいる。アカデミーは学者や芸術家に年金を支給して生活上の保護を与え、あるいは年報を刊行して発表の場を与え、また懸賞金をかけて特定の主題を提示し論文を募集し、学芸の振興を図った。

権威者的には、保守的なのが絶対君主、上から近代化を指示するのが啓蒙専制君主となる。
近代化は国民の総意だとするのが立憲君主!?
そしてここに大きな問題が立ちはだかる。
古代から近代の流れは退化なのか進化なのかということである。
多くは退化であるとの認識を持っている。唯物主義では進化と捉える。
人の一生の前半は進化で、後半は退化!?
さてはて。



















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by yumimi61 | 2017-03-17 11:50
2017年 03月 16日
父の病㉑
Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.
明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。
- Mahatma Gandhi (ガンジー) -

1人の人間の0歳~50歳までの50年間と50歳~100歳までの50年間には同じだけの時間が存在している。

では何が違うのか?
0歳~50歳までの50年間は「生」の中に「死」がある。
50歳~100歳までの50年間は「死」の中に「生」がある。

人間の死に例外はない。人は必ず死ぬ。
人間はそのことをよく知っているはずである。
にもかかわらず、死に向かう過程に対するケアはメジャーではない。
成長過程に対するケアと比較すればよく分かる。
「レームダック」には興味もなく冷たいということだろうか。
そうであるならば社会は社会的役割を終えた人には冷たいということになる。
要するに人間は社会の歯車であり金づるということだ。次世代の人間を作る製造マシーンでもある。
その役目を終えた時には、社会から、家族から見捨てられる。
それまでの「生」が支配していた世界から、「死」が支配する世界へと移行していく。
その節目が50年といったところであろう。
歯車や金づるでありつづければ「生」が支配する世界とより長く繋がっていられるが、時間は決して巻き戻せない。
前に進むしかないのである。どんなに繋がりを願ってもその距離は離れていくばかりである。
それは物理的にどうにもならないのである。

死が優勢となる世界は恐ろしいので、心を入れ替え健康に注意しながらも、普段は出来る限り死を意識しないようにしている。死が優勢な世界なんて認めたくないとも思っている。
ところが無情にもある日突然病を宣告される。ある日突然病が襲い掛かり倒れてしまう。
死があちらからこちらに向かってくるように目の前に迫ってくる。
「助けてくれ~」と叫んでも、生が支配する世界にはその叫びは届かない。死を意識しないようにと努めている人はその叫びに耳を塞ぐ。


紐の長さが同であるならば、振り子が大きく揺れている時も、小さく揺れている時も、往復にかかる時間は同じである。(振り子の等時性)
ガリレオが発見した法則である。
1人の人間の0歳~50歳までの50年間と50歳~100歳までの50年間は、どんな人生を送ろうとも同じだけの時間が存在している。
ただ人の一生は振り子やブランコのように往復はしない。一方通行である。
「世界のクロサワ」「世界の巨匠」と言われる黒澤監督であるが、映画に込めた思いが一方通行であったということはないであろうか。それは心配し過ぎか。


死に向かう過程に対するケアはメジャーではなく、緩和ケアの認知度もまだまだ低い。
「緩和ケア」よりはまだ「ホスピス」のほうが名が通るかもしれない。


緩和ケアについては、東北大学病院がんセンターが運営している「がん情報みやぎ」というサイトで非常に詳しく説明している。
宮城県のがん患者さんと、ご家族のために。と謳っているなか、県外者の私が臆することなく引用転載させてもらいました。

がん情報みやぎ 緩和ケアについて知ろう

【緩和ケアの定義】
WHOは1990年に、緩和ケアを「治癒を目指した治療が有効でなくなった患者に対する」ケアであるとしていました。
しかし、WHOは2002年に緩和ケアの定義を修正し、「生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対する」ケアであるとしました。
これは、終末期に限らずより早期から提供されるべきものであるという立場を明確にしたものです。


誤解してもらいたくないのは、「緩和ケアの定義」とは「緩和ケア病棟の定義」ではないということである。

■基本的緩和ケア
緩和ケアはがんの診断時から、がん患者に関わるすべての医療者によって提供されるべきもので、これを基本的緩和ケアと呼びます。基本的緩和ケアとは手術や抗がん剤、放射線治療などのがん治療を行う医師や看護師などのがん医療に携わるすべての医療者によって提供されるものです。
■専門的緩和ケア
しかし、担当の医師・看護師らによる通常の診療・ケアで患者の苦痛を緩和することの困難も存在します。そのような場合は、緩和ケアについて特別なトレーニングを受けた専門家が対応し、これを専門的緩和ケアと呼びます。
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※青四角、赤四角は私が書き入れたものです。

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※赤ラインは私が入れたものです。
実際には明確な区別は医療従事者でも出来ていない印象を受ける。
ホスピスについては「場所」を指しているのではなく「ケアの考え方」を指していると書いているが、ホスピタルと並ぶ言葉(語源が同じ)でもあるので場所という認識が高いかもしれない。


【専門病棟のおける緩和ケア(ホスピス・緩和ケア病棟)】
 緩和ケア病棟(ホスピス)は、緩和ケアを専門的に提供する病棟です。名称としては緩和ケア病棟、ホスピス、緩和ケアセンターなどが用いられています。
 緩和ケア病棟は、一般病棟や在宅ケアでは対応困難な心身の苦痛がある患者への対応や、人生の最期の時期を穏やかに迎えることを目的とした入院施設です。緩和ケアの専門的な知識・技術をもった医師が診察にあたり、看護師数も一般病棟より多い傾向にあります。病棟によっては専属の薬剤師、メディカルソーシャルワーカー、宗教家(チャプレン)、ボランティアなどがおり、院内の栄養士、理学療法士、作業療法士などと共同して多職種によるチームケアがなされています。
 抗がん剤治療などを行わない場合が多いため、医師や看護師などが患者のベッドサイドに行く時間も比較的取りやすく、病室は多くが個室であり、病室の中に家族がくつろげるスペースがあるなど、プライバシーに配慮された構造になっています。家族が宿泊できる家族室や家族風呂、家族が調理できるキッチン、談話室などもあります。また、病棟では七夕やクリスマスなど季節ごとの行事や、音楽会などのレクリエーションを行っていることも多いです。

患者さんにとって、緩和ケア病棟に入院するメリットは以下のようなものがあります。
●苦痛症状を緩和するための専門的なトレーニングを受けた医師・看護師が主治医・受け持ち看護師となり、24時間ケアを受けられる
●ほぼ全室個室であり、プライバシーが守られた環境で家族や友人と穏やかな時間を過ごせる
●面会や持ち込み物の制限が少なく、自分の家のようにその人らしい生活を送れることなどである


父を転院させようと思っていた緩和病棟の問診票にも「緩和ケア病棟」の下に(ホスピス)と書いてあった。




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by yumimi61 | 2017-03-16 13:00
2017年 03月 14日
乳の病⑳
本当に「受容」が理想なのか?―前記事にリンクした「キューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)と、それへの代表的な批判について」の中で挙げられていた批判の1つである。
そしてもう1つの批判が、「神との取り引き」という段階は科学的なのか?というもの。

精神科医であったキューブラー・ロスが、この5段階モデルで示したのは、精神医学的には「防衛」と呼ばれるメカニズムです。ただ第3段階とされる「取り引き」には「神」が登場します。これは、科学的なアプローチではなく、神学的なアプローチであり、混乱を招いてきました。

ここに、精神科医として、精神医学的な表現をするべきだったという批判があります。結果として、この理論は、科学としての説得力を下げてしまっています。

さらに『死ぬ瞬間』の原著(On Death and Dying)において、第3段階とされる「取り引き」に割かれているのは、わずかに3ページと言います。通常の科学的な態度では導き出せないステップを、サラリと簡単に触れただけで、あとはそれを事実として取り扱う態度はどうなのかという批判があって当然でしょう。



分からないことが多い。誰にでも証明できない。その気があれば捏造できる。
科学と神(宗教)という存在に関しての共通点である。
科学と神(宗教)は元々がとても近いものである。

(過去記事より)
ロスチャイルド家が台頭した1700年~1800年代はちょうど、ヨーロッパにおいてオカルティズムな神秘主義が拡大した時代だった。
その前の1500~1600年代に起こった宗教改革が良くも悪くも宗教の権威主義に変化を与え、合わせて独裁的な君主に反旗を翻す市民革命も起こったため、様々なことが世俗化し、自由の名のもとに多様化していった。
1人の人間が発揮する吸引力というものが失われた時代であると言える。
またイングランドでの中央銀行の誕生を経て、1800年代半ばから始まった産業革命が、近代化への幕開けを告げた。
それは科学の時代の到来でもあった。

要するに、「金(紙幣・数字)で買えない物はない」「科学で解決できないことはない」という時代を迎え、宗教はその根幹から揺らぐことになった。
「マリアの処女懐胎」や「イエスは神の子」を謳うキリスト教、特にそれによって権力を獲得したローマカトリックへの打撃が深刻であることは想像に難くない。
こうした時代の変化をいち早く読み取れば、宗教や国のこれまでの権力者は金(紙幣・数字)や科学に近づいていくだろうと思う。
それは自身が生き延びる術であるからだ。


分からないことに対しては恐れ・畏れを抱く。だからこそ威厳が保たれるという側面がある。
分かることが増えるにつれて宗教の権威が揺らぎ始める。社会は変化していく。
それならばと、宗教は率先して金や科学を懐に抱く。


それまでの絶対的権力が緩んだことによって勢いを増したのが、狂信的や反社会的として迫害されていた異端の宗教や宗派や教派である。
自由の名のもとに様々なものが交差して混じり合い変異した。
ユダヤ教とキリスト教の神秘主義の一体化はすでに述べたところであるが、さらには東方やエジプトの古代文明もが取り込まれアジアやイスラム圏にも近づいた。
この時代の神秘主義の中身が何かと言えば、神秘思想、占星術、魔術、錬金術などである。
神秘主義は秘密結社という場に於いて一際光輝いた。そこにはおそらく優越感や背徳感や一体感が存在したのだと思う。
いつの世にも決して廃れない占いやスピリチュアル、『ハリーポッター』や『鋼の錬金術師』などの流行を見れば、科学の時代になって久しい現代においてもこれらのものが多くの人々を魅了することを証明しうる。
また社会が金融や科学に傾けば傾くほど、これら神秘主義は支持されるという側面も持つ。
音楽や唱和などは多分にこの要素を持っている。

余談になるが、こうした時代背景を考え合わせれば、魔女狩りは神秘的な魔女を恐れて迫害したのではないという予想が付く。
どちらかといえば現実的で科学的だったからであり、その現実性や科学性が権力者や世俗の方向性と合致しなかったため迫害されたのだろう。 


(略)

不利な状況に追い込まれながら、こうした激動の時代を乗り越えて、今なおローマ教皇という宗教権力者が存在していることは、無条件の賞賛に値することかもしれないとも思う。
「事実」と「真実」という言葉に違いがあるとすれば、「真実」という言葉を贈れるような、そんな。
「事実」が必ずしも必要とされるものではないことを長い年月をかけて証明してみせたのは宗教であった。


(略)

たとえば今誰かが新しい宗教を興したとする。
すでに2000年以上の歴史があるユダヤ教やキリスト教と同じだけ歴史を重ねようと思ったら、少なくとも2000年という時間が必要になる。
たとえ新興宗教が頑張って幾ら年月を重ねたとしても、ユダヤ教やキリスト教が今後も衰退せずに存続すれば、その歴史の長さを超えることは決してない。
また2000年という時間は絶対に一人で達成できるものではない。
時代の荒波を超えて多くの人々が繋いできた信仰。信仰は強い意志でなければならない。
時間×人数(聖職者及び信徒)のエネルギー、、、それを前にすれば「私個人」だけではどうにもならないという事実に息を呑むだろう。
これを一から超えようなどと思う奇特な人物はもう出現しないのではないだろうか。
まさに、遅きに失する。
救世主の名乗りを上げたとしても、宗派や教派として紛れ込む手段を取らざるを得ない。
宗教界に於いてはもはやそれほど絶対的な存在なのだ。

イエスの誕生が起源と謳われ定められた西暦が用いられ、今や世界で広く使用されるに至るが、この暦の貢献度も高い。
人は毎日毎日来る日も来る日も、キリスト教の歴史の長さや長い時間を積み重ねた偉大さを無意識のうちに刷り込まれている。
とはいっても、西暦が実際に世界に広がったのは1800年頃からで、要するに上記時代背景の下に採用された暦でもある。
金融システムに支配された世界は非常に孤立化に弱いため、結果多くのものが共有されるようになった。
こうした共有がなければ今ほどのコンピューター社会を迎えることもなかっただろう。
宗教はお金を融通してもらう存在だけに甘んじているわけでなく、産業や政治への偉大な貢献者でもあるのだ。



近代世界は共産主義や社会主義を忌み嫌った。
枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)の始まりは反インターナショナル(反共産主義)であった。
ロシア革命で初めて世界に誕生した共産主義国(社会主義国)がソ連である。
その共産主義に密接に関係しているのが「唯物主義」。
観念や精神、心などの根底には物質があると考え、それを重視する考え方である。
「心」や「愛」を振りかざして人を騙し洗脳し搾取する世界にノーを突きつけた。
現実的で科学的。言葉だけの学より実を取り、具体的な方法論を提示した。
しかしそれは「過激」というレッテルを貼られるようになった。
人々は怖かったのだ。
虎は自分とは全く違うもの。柵を取っ払えば自分や愛する者が虎に何をされるか分からない。だから柵を取っ払おうとする人は過激に見えた。
「心」や「愛」を振りかざす世界は動物園の虎を眺めているような状態だということである。
多くの場合、動物園に入るには入園料が必要。
お金を払い安全な場所から獣を眺めて、「心」や「愛」を共有した気になる。

だけど彼にはもうお金を払い安全な場所から獣を眺める時間(退職金を息子夫婦に渡して同居し孫と一緒に暮らす時間)が残されていない。
だから見ず知らずの住民の陳情を受けて公園を造った。
自分のお金ではない、税金で造ったものだ。仕事の一環に過ぎない。
入園料を取らず、柵を取っ払って誰でもが入れるようにしたって、もうあの頃の息子は戻ってくるはずもないのに。
(映画『生きる』の話です)



戦争があったからこそ科学は発展したと言われることがあるように、戦争と科学は切っても切れないものである。
同じように医療の発展と戦争も切り離すことができないものである。
そしてそれらに大きく関わって来たもの、それが宗教である。
宗教、戦争、科学、医療、みな密接な関係にある。
「神」が科学的ではなく神学的であり科学としての説得力を下げると言うならば、逆に精神医学や科学として論じていることは本来神の領域だから人間は立ち入るなと言うことだって出来てしまう。
どちらが正しいのか、私達は誰も明確な答えを持っていない。
私達が明確に例外なく知っている事実は、人間は誰しもが肉体的な終わりを迎える、要するに死んでしまうということだけである。

ともかく医療にはキリスト教✚の影が付きまとう。

教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待を「ホスピタリティ」(英: hospitality)と呼び、そこから今日の病院を指す「ホスピタル」(英: hospital)の語がでた。
歴史的には、ホスピタルもホスピス同様に、病院だけでなく、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども指した。


保健師活動の基盤にもキリスト教がある。

保健師活動は1887年に京都看病婦学校(同志社)がキリスト教精神にのっとった慈善事業として実施した巡回看護がもとになっている。巡回看護は社会事業的活動として、病院に行くことができない貧しい病人に対して看護活動を行ったものである。
その後1920年代から東京市や聖路加国際病院、済生会などが精力的に活動していた。巡回看護の内容は、貧困者への看護、災害被災者への手当てと保健指導(伝染病予防)、妊婦の妊娠出産に対する援助や育児相談などであり、現在保健師が行っている公衆衛生看護活動の基礎となっている。














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by yumimi61 | 2017-03-14 14:31
2017年 03月 13日
父の病⑲
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)

1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日)
 死亡


1月26日(木)夕方
「かなり温度差があり、あれでは緩和ケア病棟に受け入れてもらうことは無理です」という言葉を残して看護学校の講義に出掛けて行った地域連携課の担当者(看護師資格を持つ相談員)と夕方再び会った。
まず私との2者面談を行った。
私は父と話をして転院することに対して了解を得たことを告げたが、相談員さんはもはや転院に積極的ではなかった。
完全に緩和ケア病棟への転院は無理と判断し諦めているような様子であった。
緩和ケア病棟は審査が厳しいので誰でも入れるわけではないというようなことを説明された。
本人が治療を望んでいる状態ではもちろんダメ。
病気の状態や現実を全てを理解し納得していること。迷いがある状態ではダメ。
死を受け入れて、死までを安らかに過ごしたいので「お願いします」というような気持ちや態度である必要がある。
それは家族ではなくあくまでも本人の意志でなければならない。
これだけを聞けば、父は緩和ケア病棟を希望する患者に相応しい優等生ではないと相談員さんに判断されたと理解するしかない。

しかし、死の受容ってそんなに簡単なことだろうか?
死はあらゆる人間に等しく与えられているものだが、死ほど不確かで不公平で理不尽なものはない。
それを受容した優等生でなければ入れない緩和ケア病棟とはいったい何なのだろう?
身体的な問題だけではなく、死に直面している患者の精神的サポートを含めた総合的なケアを行うのが緩和ケア病棟ではないのか。
迷いや死への恐怖、死を受容する過程にある不安定さ、死を直面してもなお持ち続ける希望、それを許さないターミナルケアや医療にどんな意味があるというのだろうか?


私は学生時代にキューブラー・ロスの『死の瞬間』という本を一度読んでおくことと言われ買わされたか買った。(買っただけでなくちゃんと読みました)
キューブラー・ロスは死の受容までには5つのプロセスがあると論じている。
当然のことながら最初から受容できるわけではない。受容が理想とも限らない。
受容した患者しか受け入れられないという緩和ケア病棟は医療の役割を端から放棄したようなものである。

エリザベス・キューブラー・ロス(Elisabeth Kübler-Ross;1926〜2004年)は「死」に関する科学的な認知を切り開いた精神科医(終末期研究の先駆者)として、人類史に名を残している人物です。彼女が切り開いた終末期医療は、今、世界中の多くの医学部で必修科目となっています。

特に1969年に、彼女によって出版された『死ぬ瞬間』は、世界的なベストセラーとなりました。今でも本書は、サナトロジー(死学)の基本テキストとして、世界中で読み継がれています。

なによりも意義深かったのは(1)それまでは医学が及ばない領域とされてきた「死」について、医師が言及したこと(2)死にゆくプロセスを5つの段階として科学的に捉えようとしたこと、の2点とされます。

「死の受容」プロセス(5段階モデル)
第1段階:否認と孤立(denial & isolation)
第2段階:怒り(anger)
第3段階:取り引き(bargaining)
第4段階:抑うつ(depression)
第5段階:受容(acceptance)

5段階モデルの代表的な批判1:本当に「受容」が理想なのか?
キューブラー・ロスによるこの5段階モデルの、最も中心的な批判とされるのが「段階」という考え方に対するものです。特に、キューブラー・ロスのモデルは、最終段階とされる第5段階に行き着くことを、無意識にも理想としている点が批判されます。
「段階」という考え方は、過去から未来への直線的な物事の進行を表現するものでしょう。そして、次の段階に至っているときは、前の段階は終了している(または次の段階の前提になっている)ことが求められます。
本当に「受容」という段階に至ることが、誰にとっても理想的な死なのでしょうか。そこに、キューブラー・ロス個人の価値観が入っているとは言えないでしょうか。批判の多くは、ここに集中するようです。


キューブラー・ロスによる5段階モデル(死の受容モデル)と、それへの代表的な批判についてより>


迫りくる死を受容するということは言うほど簡単なことではない。
それまで人生を達観していたような高名な学者や医師、宗教家であっても、いざ自らに死が迫りくると平常心ではいられず取り乱すという話はよく聞く。

人間一度は死なねばならない、とはだれしも一応は合点しているが、 「自分の死」 に直面したときは、動物園で見ていた虎と、山中で突如出会った虎ほど違う。

『死ぬ瞬間』などの著書で世界的に有名な精神科医、キューブラー・ロスは、ターミナルケア(終末医療)の先駆者として、40数年にわたり数千人の人々の最期を看取ってきた。
 死に行く人を励まし、愛の言葉で力づけてきた功績で、聖人とも聖女とも呼ばれていたそうだが、晩年脳梗塞に倒れ、豹変している。
「もうこんな生活はたくさん。愛ってよく言ったもんだわ」
「聖人? よしてよ、ヘドが出る」
精神分析は時間と金の無駄であった。自分の仕事、名声、たくさん届けられるファン・レター、そんなのは何の意味もない。今、何もできずにいる自分など一銭の価値もない、と言うのである。
 死は誰にでも訪れるものだから恐れなくてもよい、と他人を励ましてきた人が、自分の死に対してはとてもそうはいかなかった。
 幻滅して、離れていってしまったファンも多かったようだ。
 これはいかに「自分の死」に対して我々が無知であるかの証であろう。

 もちろん、戦場とか大ゲンカで極度に興奮しているときは、平気で死ねるように見えるし、不治の病で死の宣告を受けた患者の中には、自殺する人もいるが、あれは極度の興奮で一時気が動転しているか、死を恐れるのあまり自分から死んでしまうのである。
 フランスの哲学者、パスカルは、 「ここに幾人かの人が鎖につながれているのを想像しよう。みな死刑を宣告されている。そのなかの何人かが、毎日、他の人たちの目の前で殺されていく。残った者は、自分たちの運命もその仲間たちと同じであることを悟り、悲しみと絶望とのうちに互いに顔を見合わせながら、自分の番がくるのを待っている。これが人間の状態を描いた図なのである」(パンセ) と、言っているが、すべての人間の悲劇は遅かれ早かれ死なねばならないところにある。

 核戦争が怖い、公害が恐ろしい、食糧危機だ、交通戦争だと騒いでいても、しょせんは死が怖いということではないか。
 死という核心に触れることがあまりにも恐ろしすぎるので、それに衣を着せ和らげたものと対面しようとしているに過ぎない。

人生の目的 第5章生と死より>












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by yumimi61 | 2017-03-13 15:23
2017年 03月 10日
Re

赤 青 黄色の 衣装をつけた

信号無視がしゃしゃりでて〜



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by yumimi61 | 2017-03-10 09:15
2017年 03月 07日
父の病⑱
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)

1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日)
 死亡


父は入院して10日で亡くなった。上記が父が入院してから亡くなるまでの経過である。

1月17日から2日後の19日がかかりつけの病院の呼吸器外来の日だった。
月に2回(午後のみ)しか来ていない医師なので、もしも17日以降外来日までの期間がもっと開いていれば状況はまた違ったものになっただろうと思う。
ちょうどこの頃、母もめまいやふらつきが酷いということで受診することになっていて、午前中は母の受診に付き添っていた。(母が通っていたデイケアで母を担当してくれていた理学療法士さんが受診を勧めてくれたこともあって予約してあった)
母と入れ替わりで父を病院に連れて行った。
12月頃からの様子や1月18日の夜中に起きた出来事、D病院を受診して鎮痛剤を処方してもらったこと、D病院で放射線治療を受けた時に緩和ケアのアンケートを取っていたので繋げてもらえると思ったというようなこと、D病院を受診するならばかかりつけ医の紹介状を持ってきてと言われたこと等を話すと、肺気腫を長いこと診ていた呼吸器外来の医師は「そういうことならばとりあえずすぐにこのままこちら(系列病院)に入院させて、B病院の緩和ケア病棟に転院する手続きをとりましょう」と言ってくれた。
そして入院を手配してくれた。
但しこの呼吸器外来の医師はかかりけ病院の常勤ではく非常勤である。普段は開業医。


かかりつけの系列病院に移動して、そちらの病院の医師とも少し話をした。
その医師も「B病院の緩和ケア病棟に転院を前提に1~2週間を目途にお預かりします」と言っていた。
「ただB病院が空いていないと転院できないしなぁ。今日も送ろうとしたけど断られたんだよ」ともちょこっと言っていた。
「状態が今後どうなっていくか、どれくらい持つのかそれははっきり分からない。急変して転院まで持たないということもあり得るということは覚悟しておいて下さい」と付け加えた。
こちらの医師としてはそう言うしかないだろう。
この系列病院は、呼吸器科があるわけでもないし、がんの病院でもない。がんの疼痛コントロールなんて完全に専門外。救急搬送されてくる急性期病院である。
逆を言えば急性期病院であるからこそ、急な受け入れに対応できるということでもある。
しかし私もここに長くいられるとは思っていなかったし、それを強く希望していたわけではない。
ただこの時点では父が入院できたことは本当に一安心だった。


週が明けた月曜日午後にその病院の地域連携課より電話があった。
転院にあたってお聞きしたいことや記入してもらうものがあるので来てほしいということだった。
翌火曜日に予約した。


1月24日(火)
地域連携課の部屋の前にスタッフの氏名や顔写真が掲載されていた。
お電話をいただいた人の名前を探すと、看護師ではなく相談員とあった。
実際にお会いすると、身分証明書を首から下げていたので、何気にそれを見ると看護師と書いてあった。
この病院に看護師として就職したわけではない(現役看護師ではない)が、看護師資格を有しているのだなあということが分かった。
おそらく経験豊富な看護師さんでリタイア後に医療ソーシャルワーカーとして働いているということなのだろうと勝手に解釈した。
御本人も「看護師の〇〇です」と名乗った。

私は日々の生活の中で自分が保健師や看護師資格を有していることを積極的に言うことはあまりない。
仕事や就活の場以外でそれを言うことはメリットよりデメリットのほうが大きいと感じるからである。
人には知らない方がいいこともあるのだ。
ところが最初に面談で担当の人が名乗った時、「私も看護師の資格持っているんです」と、つい口が滑ってしまった。こんなことは珍しい(ほんとですよ!ねぇ?)

肺がん発覚からこれまでの経過を一通り説明した。
そして緩和ケア病棟に入るには審査があるということを聞いた。
まずは書類をファックスで送るのだという。その後に今度は病院に行って面接もあるとのことだった。
病気についてどのように説明されたか、どのように思っているか、緩和ケア病棟に何を望むなど、記述式の問いがある用紙に記入を求められた。
患者本人と家族がそれぞれ別に同じ質問に答える必要があった。
但し患者が書けない場合には代筆でもよいということであり、私はその場で2枚の用紙を書きあげて提出した。
別れ際に「では早速書類を作ってファックスしておきますね」と担当者は言った。


1月26日(木)
午前中は母の受診に付き添っていた。帰りに父のところに立ち寄るつもりでいた。
携帯電話に11時すぎに着信があったことに着信時間から30分後くらいに気付いた。留守電が入っていた。
しかし病院という場少しざわついた場所で聞いたせいか音量を上げても留守電の声が聞き取れなかった。
掛け直そうと思って場所を移動しようと思ったが母が診察に呼ばれたようだったので、呼び出し音の途中で慌てて切って戻った。
母はクモ膜下出血の後に耳が少し遠くなっていて普通の声はよく聞こえないため、病院で名前を呼ばれてたり、医師が質問や説明をする時にはそばにいるようにしている。
診察が終われば次は会計でいつ呼ばれるか分からないので、それが終わったら地域連携課に掛け直そうと思っていた。
するとちょうど会計をしている真っ最中に再び電話が鳴った。12時30分だった。
今度はそこで電話を受けた。
地域連携課の担当者は今日私が母と病院を受診していることは父から聞いたそうで知っていた。
予約をしていたわけではなかったが話があるということだったので「帰りにそちらに寄ろうと思っています」話すと、後どれくらいかかるかと訊かれたので、「会計中なのでもうすぐ行けると思います」と答えて電話を切った。
地域連携課を訪ねると、「実は私、この後〇時〇分から看護学校の講義があるんです」ということで、何やら急いでいた理由と看護学校の講師をしていることが分かった。

急ぎの話は、「かなり温度差がある」ということだった。
この日の朝に父に話を聞くために訪ねたところ、「転院なんか知らない。家に帰る」というようなことを父が言ったらしいのだ。
その言い方が荒かったのか無下だったのか、ともかく父は「話は娘が来てから」と全く取り合わなかったらしい。
緩和ケア病棟は家族ではなく本人が何もかも納得の上で強く希望していないと入れないそうで、「あれでは緩和ケア病棟に受け入れてもらうことは無理です」ということだった。
でも私は24日に書いた質問の答えに嘘なんか書いたつもりは全くない。
とにかくもう一度お父さんと話をしてみてくださいとは言っていたが、緩和ケア病棟への転院はもはやないような雰囲気があった。
看護学校の講義の時間が迫っていたので、夕方もう一度面談をする約束をして別れた。


「この病院には呼吸器科もないし、がんの専門でもないので強い薬もないから転院するけれど、とりあえずここに入院させてくれるって」と、私は父に入院した日とその翌日にも話しておいた。
それを忘れてしまったのか、それとも元気になって欲が出てきたのか。

実は父は入院後に少し元気を取り戻していた。
痛みは完全に無くなったわけではないとは言っていたが、22日(日)に母と姪っ子とお見舞いに行った時には途中でリハビリのスタッフが来て、ベッドに座り足の上げ下げなどのリハビリも行っていた。
リハビリスタッフは毎日訪ねてはリハビリを働きかけてくれていた。
もちろん普通に話も出来た。姪っ子に売店で何か買っておいでとお金を渡したりもしていた。
大部屋だが部屋にトイレがあり、そのトイレまでは点滴をしながらも歩いて用を足していた。
24日(火)25日(水)頃には父の声に張りが出てきたように私は感じていた。


地域連携課の担当者と別れたその足で母と父の病室を訪ねた。
「お父さんっ転院しないで家に帰るって言ったでしょ」
私は家で父に話しかけるように遠慮なくそう言った。
「今朝来て急に言われたから、娘が来てからにしてくれって言ったんだよ」と父。
「あの人は転院の手続きをしてくれている人だから。入院した時に説明したじゃない、転院するんだよって。あの時苦しかったからよく覚えてないんでしょ。だけどここにずっといられるわけではないし、家に帰っても大変だと思うよ。入院する前の日の夜の事を考えたらそう思うでしょう?今は病院で面倒見てくれるから少し楽になったかもしれないけれどさぁ」
「人は、喉元過ぎれば熱さ忘れる、なんだなあ」
結局父はすぐに観念した。
「面会に行くよ、お母さんも連れて行くから。状態がよくなれば外泊もできるんだって」と教えてあげるとちょっと安心したみたいだった。
母が「みんな心配してよくしてくれるんだからあまり我儘言わないで言うことを聞いてくださいね」と「そうだね」と父はうんうんと頷いた。

父の隣のベッドは父と同い年だった。
その人のところにはいつも奥さんが面会に来ていた。
たぶん午前中からずっといて長くいるようだった。
奥さんはいつもその旦那さんに何やらかんやら話かけていて、旦那さんは何故かいつも嫌そうで怒り調子だった。
リハビリスタッフがリハビリの誘いに来た時にも「お父さん、待っててくれているんだから早く」とかなんとか奥さんに急かされて旦那さんが声を荒げて怒っていた。
でもとげとげしい態度で接するのは奥さんにだけ。
そのせいか一緒に付いて行こうとする奥さんにリハビリスタッフが「奥さんはここで待っててもらっていいですか」と病室待機命令。(でも結局付いて行った)
娘さんらしき人がいたこともあったが、娘さんはベッドサイドで雑誌を読んでいた。

その隣の夫婦が私と父のやり取りを聞いていて話しかけてきた。
「みんな心配だからよね~」と奥さん。
「いや、この人(私の事)の言うことは合っているけれど、お前(奥さん)のは合っていない」と旦那さん。
「ねえ」とどちらにも同意を求められ若干困る私。
「でもおたくがお隣で良かったわ~話し相手がいてくれて。この病室の他の人、いつもみんな寝てるから」
5人の患者がいたっが(1人2人?入れ替わったような気もするが)、確かに他の3人は寝ていることが多かったし面会者とも行き会わなかった。
父は元々こうした病室などでもわりと誰にでも話しかけ打ち解ける人である(だから情報通で驚くことがある)。
今回の入院はさすがにこれまでのような元気はなかったが、それでも隣の人とは少し会話をしたらしかった。
隣の人も転院予定なのだという。
兎にも角にも父に転院の了承を取り付けたので一度実家に戻ることにした。
「御先に失礼します」
「あら、もう帰るの?」と奥さん。
「また夕方来なければならないので」




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by yumimi61 | 2017-03-07 11:38
2017年 03月 06日
父の病⑰
(医療保険)
■一般病床 89.4万床
■医療型療養病床 27.1万床
■精神病床 33.6万床

(介護保険)
●介護療養病床(介護療養型医療施設) 6.1万床 ・・・廃止が決定してから5~6万床減少した。
●特別養護老人ホーム 54.1万床
●介護老人保健施設 36.2万床

・有料老人ホーム
・軽費老人ホーム(ケアハウス)
・グループホーム
・サービス付き高齢者向け住宅



すでに述べてきたように、介護保険制度に関係する施設で看護師必置が定められている施設は、介護認定で要介護1~5を認定されていないとそもそも入居資格がない。
またそうした施設であっても、医師が常勤でいるとは限らず、看護師の人数が多いわけでもない。種類や専門性も特に問わない。
がん末期患者のケアは正直難しいと思う。

父は肺気腫を患い慢性呼吸不全で動くと苦しくなるという症状が長いことあったが、在宅酸素療法をして安静な状態にあれば動脈血酸素飽和濃度が著しく悪くなるということはなかった。
肺がん末期の状態になるまでは動けないということもなかった。
それまでの介護認定が要介護ではなく要支援は妥当な判断であったと思っている。
但しそれはあくまでも酸素療法をしているからであって、それをしなければ療養病棟の医療区分2や3に該当する患者である。
「肺気腫による呼吸機能障害3級」の認定も受けていた。


肺がんと診断され治療手段がないと宣告され、それでも放射線治療を受けたのが昨年5~6月。
ところが8月の介護認定の更新で父の介護認定の等級は下がった。(要支援2→要支援1)
状態維持や改善可能性は低い。急速に状態の不可逆的な悪化が見込まれる。
予防給付(要支援)ではなく介護給付(要介護)に移るべき状態に相応しい。
父の状態は厚生労働省が示す予防給付に該当しない状態にあった。
・末期の悪性腫瘍や進行性疾患(神経難病等)により、急速に状態の不可逆的な悪化が見込まれるもの等。
要支援2のままならまだしも下がる理由は私には理解できなかった。
認定に不服があれば不服申し立てをすることが出来るが、現実的な話をすれば実費負担が若干増えるだけで父は今まで通りのサービスを受けることが可能だったし、要介護1になったところで要介護4や5に比べたら優先度は低くすぐさま施設入居は出来ない。父も介護施設に入居を希望していたわけでもない。
サービスに不服があったわけではないので関係性の維持のほうがずっと大切である。
不服申し立てをするメリットはない。


治療がなく状態が安定している状態で病院に入れて欲しいなどとはこれっぽちも望んでいない。
それは、安定したら病院から出てもらう、治療をしないのならば来るな、という現代の国や病院の方針とも何ら相違するものではないはずである。
幸い私は保健師資格や看護師資格を持っている。
同居しているわけではないので毎日常時一緒にいることは出来ないが、父の苦痛などは多少なりとも理解できるし、それを軽減するアプローチが全く出来ないわけではない。
私だけでなく、介護保険のほうでケアマネージャーさんやヘルパーさんにもお世話になっている。
ケアマネージャーさんも看護師資格を持っている。ヘルパーさんの中にも看護師資格を保有している人がいる。
でも薬剤処方や投与、医療行為など個人レベルでは行えないことも多々ある。
がんの治療を全くしないという選択もあったのに何故放射線治療を受けたのか、何故医師が近隣病院での放射線治療を勧めたのか、それは最期の時(ターミナルケア)を案じたからである。
末期患者の新患よりは、そこでがんの治療をした既患のほうが良いに決まっている。一見さんではないのだから。

ところが今回、科を亘るネックが想像以上に大きいことに気付かされた。
手術ならば外科、手術をしないならば内科、放射線治療ならば放射線科ということになるが、同じ病院であっても科が違うとすんなり物事は運ばない。繋がっていない、分断されている。
病院にとって新患でなくても、科が変われば新患、そんな感じ。受け入れたくない理由に過ぎないのだろうか?
放射線科で治療を受け、もうそれ以上は治療がないと言われ在宅で療養していたのに、末期で疼痛が出て内科を受診すれば「どうしてここに?」という反応であった。
全く別の専門外来を受診したというならばともかく、内科を受診したのである。
しかも何年、何十年と期間が開いているわけではない、放射線治療を受けたカルテがあるだろうにと思う。
そのカルテには他病院からの紹介状だって残されているはずである。

専門科があって、専門医や専門ナースがいる。それは悪いことではない。
しかし一人の人間は尊重されなければならない。
憲法にも謳われていることである。
「すべて国民は、個人として尊重される。」
病気や部分だけを診れば(看れば)よいのではない。
人は物や機械ではない、身分・地域・性別・信仰に関わらず、一人の人間として、一人の人格をもった存在として、尊重され尊厳が守られなければならない。
専門医対患者ではなく、病院対患者という「病院」という単位で考えれば尚更だと思うのだが。


父は母がクモ膜下出血を罹患した後、母の身体や生活を心配して、自分が調子悪くても家を離れたがらなかったし、無理して動いていたようなところがある。
ケアマネさんにもヘルパーさんにも、どこの病院でも母を心配するようなことを口にしていたように思う。
自分のことより母のことを優先し大事にしていた。
晩年はそれが生きがいになっていたようなところもある。
しかし現実的に苦しくて痛くて動けない状態となっていた。精神的にも余裕がない。
夫婦喧嘩というほどでもないのだろうけれど、何か行き違いがあったか何かひょんなことから「お母さんは俺が痛み止め(市販薬)飲んで何とか動いているって知らないだろう」と口走ったこともあったと母から聞いていたし、父がそんなようなことを呟いてるのも耳にしたことがある。
動けない父が家にいることは、父の身体的なことのみならず、父にとっても母にとっても負い目になって精神的に良くない、家で過ごすにはもう限界が来ていると私は思った。
例えば私が同居しているとか、母が健康で元気な時であれば、在宅での訪問診療・訪問看護を利用して最期の時を過ごすということも出来たかもしれない。
しかしそういう状況にはなかった。


かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

12月頃から私は父に病院受診を働きかけ、父が1月17日にやっと応じてくれた。
放射線治療をしたD病院を受診したが、かかりつけの病院に戻された。
このかかりつけの病院というのは肺気腫を中心に診てもらっていた病院である。
父が受診していた呼吸器外来(専門外来)の医師は常勤ではなく月2回診察に来ている非常勤の医師(開業医)である。
腫瘍疑いの際には対応不可ということで他の病院を受診するように言われたのでA病院を受診したという経緯があった。
肺がんでかかりつけだったわけではない。むしろ肺がんは診られない(治療は出来ない)ということで病院を移るきっかけとなっている。







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by yumimi61 | 2017-03-06 16:46
2017年 03月 04日
父の病⑯
高齢化社会ばかり叫ばれるので病院も施設もさぞかし儲かるのだろうと思いがちだが、どちらも経営はそれほど楽ではない。

(医療保険)
■一般病床 89.4万床
■医療型療養病床 27.1万床
■精神病床 33.6万床

(介護保険)
●介護療養病床(介護療養型医療施設) 6.1万床 ・・・廃止が決定してから5~6万床減少した。
●特別養護老人ホーム 54.1万床
●介護老人保健施設 36.2万床

・有料老人ホーム
・軽費老人ホーム(ケアハウス)
・グループホーム
・サービス付き高齢者向け住宅



療養病床は高価な機器や薬剤を使用する機会が少ないために一般病床などよりも支出が低く抑えられる。
また人件費も少なくて済む。
介護より医療の割合が大きくなればなるほど支出は増える。
病院が利益を上げるためには、人件費をなるべく抑え、入院単価(平均在院日数遵守など)と利用率(ベッド回転数)を上げることが大事であるが、単価を上げるためにはクリアしなければならない条件がある。
介護療養病床(介護療養型医療施設)の廃止が決まったために、医療型療養病床に転換した病院があるが、医療型療養病床は医療区分2・3の患者が8割以上(暫定で5割もあり)という決まりがあるため、医療の度合いが俄然高くなり支出が大きくなる。
患者も誰でも良いわけではなく、医療区分2・3の患者である必要がある。
介護療養病床(介護療養型医療施設)から医療型療養病床に転換した病院では病床利用率が下がり、且つ利用率の格差も広がっている。
患者確保と病床管理(ベッドコントロール)に苦労していて、なかなか利益に繋がらない。


施設も人件費をなるべく抑え、入居単価と利用率を上げることが大事。
入居単価が低い施設は放っておいても人気が高いが、入居単価が高い施設では利用者確保が経営を左右する。
入居単価が高いということは多くの場合、設備投資や人件費に費用が掛かっているはずなので、それを踏まえていかに利益を出すかということを考えなければならない。
例え非営利法人であっても利益を出さなければ人件費が出なくなったりして結局経営を維持できなくなってしまう。
(非営利法人とは利益を株主や出資者などに分配しない法人のことで利益を出すことは別に問題ない。但し無暗に利益追求すべき法人ではない)
営利法人であるならば利益追求は当然な話。


そこで病院も施設にも営業が必要になってくる。
かつては病院や施設の営業というと事務方の仕事であった。
例えば、企業の検診(健診)や人間ドック担当者のところに営業に向かい、「ぜひともうちの病院を使ってくれませんか」とアピールするわけである。
一方で病院は営業される側でもある。
製薬会社にはMR(Medical Representatives)と呼ばれる営業職があり、医師や薬剤師を訪ねて「これこれこういったうちの薬剤をぜひとも使ってもらえないでしょうか」と自社製品の情報提供とPRをする。

昨今は医療ソーシャルワーカーやケアマネージャーも営業活動を行う。
(昨今はと書いたが、聖路加病院の浅賀ふさは病院営業マンの先駆者ではないだろうか?)

医療型療養型病院の医療ソーシャルワーカーは、急性期病院や回復期リハビリ病院などに営業に出向き、自分の病院の対象となる患者を紹介してもらい、その患者を転院させて受け入れる。

施設のケアマネージャーは自分が勤務している施設などに利用者を確保するために病院の地域連携課(室)に営業に出向いて、医療ソーシャルワーカーなどに施設をアピールし、施設の利用者になりそうな人に施設を紹介してもらうなどする。

会計検査院が「特定の業者に偏りがちである」と指摘したように、公正中立であるべきケアマネージャーが所属法人の利益に繋がるようなプランを作成をしたりマネジメントをしてしまうことがある。
それ以外にも営業活動がケアプランやマネジメントに影響を与えていることがある。
医療や介護の現場も純粋に清廉潔白というわけでもない。
それは給料を得るために働く人がいて、利益を上げる必要があるからなのだ。
なかなか難しい問題ですね。


さらに難しいのは営業を行う人達。
経営側からは「利用率や回転率をなんとかしろ」とか」「利用者を確保してこい」といった命令を下され、いざその通りにすると今度は現場側から「こんな人手で患者(利用者)増やすとか迷惑なんですけど」とか「重症患者(利用者)ではなくてもっと軽い人を見つけてきてください!」とか言われてしまう。
経営と現場の板挟み。中間管理職みたいな感じでストレスを蓄積させたり爆発させやすい。
「いやいや・・そういう・・わけにも・・いかないのよ・・・法律での・・規定もあることだし・・・むにゃむにゃ」(蓄積型)
「はっ?それ私に言う?文句があるならば直接経営側に言いなさいよ!」(爆発型)
どちらの言い分が正当かどうかはともかく、現場に出ないマネジメントだけの仕事は現場から理解を得にくい。






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by yumimi61 | 2017-03-04 14:49