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2017年 04月 30日
幼子の神頼み
私は3~4歳の頃に生死をさまよう病気をしたことがあるということは前にも書いたことがある。
その時の入院から10日間の私の様子を母が記録したものが実家に残っていた。
レポート用紙に書かれているもので、年はなく月日だけ。
10日目以降は書かなかったのか書いたけど紛失しまったのか分からないが、10日分しか確認できなかった。

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10月14日

入院 AM11:20 外来にて血液検査の後、入院。
尿便の検査、診察の結果、腸と腎臓内に出血しているための腹痛との事。
2,3日後に体に紫斑が出れば、紫斑病らしい?
4日間の絶食のため体が衰弱しているのでPM3:30より点滴はじめる。
ぐったりしていて口もきけず一人で起き上がることも不可能。
時おり腹痛あり、夜通し点滴しているのでほとんど寝ず、痛みのため時々苦しむ。
夜9:30に2本目点滴交換。

10月15日

8時朝食。おもゆとみそ汁1/4位のむ。
朝9:10点滴終わり、続いて3本目交換。
昼食もおもゆとおすまし。2,3口食べたら腹痛起きてダメ。
まだ口をきく気力なく、ぐったりねたまま。
夕食より5分がゆになるが腹痛のため何も食べない。
夜8時ごろ痛みがひどく30分ぐらい続くので痛み止めを打つとじきに寝る。
しかし30分くらいでまた起きてしまい、又30分くらい激痛で苦しみあばれているので、9時ごろ強力で寝られるという痛み止めを尻よりしてもらったがそれも効かず、相当苦しみあばれた後PM9:30の定期注射でやっと落ち着き寝る。
PM10時点滴終わり4本目入れる。
1時間くらい寝て又痛さで目が覚めPM11時頃より死にもの狂いの激痛におそわれ1晩中苦しみ、手に刺してある注射のことは忘れて床中あばれ狂ってあばれ狂って。
この痛さはもう筆には表せないものだった。
死んじゃいそう、お腹切って、先生呼んで、神様にお願いしてー、と叫び狂った一夜だった。

10月16日

朝食5分がゆ、夕べの腹痛の疲れで食欲なし。
朝6時の定期注射で又落ち着く。朝9時4本目点滴終わり続いて5本目。
夕べの激痛の疲労と寝不足のため午前中ほとんど寝る。
まだ元気はなく口もきかない。
昼食おかゆ1/3位食べる。まだ口が物足りない感じでりんごを半分ほどおろしてやると一寸腹痛起きるもじきになおる。
PM3:005本目終わり6本目入れる。回診の結果、速度が早まり80滴になったので1本6時間平均で、注射も3回から4回に増える。
体内で出血のため1週間位の腹痛は仕方ないとの事。
午後1時又ひどい腹痛。1時間位我慢しても10分間隔でおそってくるので又痛み止めをしていただく。
PM8:40頃6本目終わり7本目入れる。
夕方頃より自分で話しかけられるようになり笑えるようになる。
夕食もおかゆとじゃがいも半分くらい食べてリンゴ滋養糖のむ。
腹痛なく安眠出来た様子。
夜中1:10、7本目終わり8本目交換。

10月17日

夕べぐっすり寝たため早くから目が覚め気分爽快の様子。起き上がって本を読める。
朝食5分がゆ半分食べ、豆腐食べ、リンゴ食べる。
ずっと起きあがって髪もとかす。食欲旺盛。
10時点滴9本目入れる。
昼食半分、途中残した半分も食べる。
今日は気分よく1日寝ずほとんど起きていた。
昼食は9分目ほど食べられ、その他リンゴ半分おろして食べる。
夕方5時半10本目入れる。

10月18日
明け方4:20より痛みだし止まらないので5時痛み止め打ち、点滴も9本目終わり10本目5時に換える。
注射効かずずっと痛がり、6時に定期注射。
その後も痛みとれず6:30再び筋肉痛み止め、7:30頃やっと落ち着き寝る。
朝E先生心配してみにきて下さる。
しばらく寝てから又10:30頃より痛み出し、おさまっては痛むの繰り返しで11時過ぎまたひどいので痛み止め筋肉を打つ。
少しおさまり昼のおかずだけ2,3口食べ、薬が効いてきて楽になり眠る。湯たんぽにて腹を温める。
午後も一時痛みにおそわれる。夕食も食べず。
夕方5時半点滴10本目終わり11本目。
痛み PM5:00 5:30 6:00
7時くらいにおさまる。
PM8:40点滴もれたためはずす。
PM9:50頃より差し替え。1回目逆流してやり直し。2回目の同じところに入れたがうまく入らず。
又別の血管を切ったが細くてビニール管がなかなか入らず、これも2回くらい刺したが血ばかり出てなかなか入らず、痛くて泣き出してしまい、涙がこぼれた。
やむなく1本目の血管に今度は細いトンボ針で入れてやっと成功。
同時に腹も痛んだので痛み止めを夜中12時頃打ち寝る。
明け方5:30落ちなくなっているので又はずす。手を解放して朝まで寝る。

10月19日

9時T先生回診。AM10:20点滴入れ直す(12本目)
足、最初やはりうまく入らず何回もして相当痛く泣く。一度に入らないので恐怖症になる。
反対の足に又さして成功。
朝食食べず、みかん1ヶ、番茶。昼食1/2、リンゴ半分食べて一寸腹痛。夕食全然。
PM4:00から痛み30分様子見てダメなので痛み止め打つ。30分おさまって5時又痛い。6時になってもとれず注射。6:30うとうと寝る。又すぐ痛む。
PM6:20に点滴12本目入れる。
(PM5:30K先生様子見に来て、痛み止めもそう打てないが、いよいよとれない場合は麻酔を打つと言った)
寝ようとしているが痛みがおそって20、30分するとむっくり起き上がり、いたいいたいと叫ぶ。
苦し紛れの叫びの中で「なおちゃん、なおちゃんに会いたい、なおちゃん!!」と叫んでいる。
隣のベッドのなおみちゃんが自分が呼ばれていると思い「私呼ばれてもどうしてもやれない」と悲しい声で顔をおおって答える。
可哀想がって自分のおもちゃをくださる。
でも全然痛み止まらず叫び続ける。相当がまんしてもしきれず、「先生!!看護婦さん、お願い、お腹切ってばい菌と血出して」とか、「神様お願い」といいながら手を合わせ苦しんでいるのを見ていたたまれず看護婦さん呼ぶ。
もう2本注射打ってあるからそうは打てないと言う。少し様子をみるよう指示。
陣痛のような激しい痛みが5分間くらいおそって又少しおさまり静かになり、又20分くらいすると大声で叫ぶの繰り返し。
痛みでじっとしていられず、たえず体を動かしてはあばれまわっているが、足に刺されている点滴注射で思うようにならず相当の苦痛。
夜中12時痛みとれず、看護婦さん当直の小児科ではない先生を呼んで下さる。
腹が大きく張っているが浣腸は腸を刺激するので好ましくない。注射ももう限界らしいがやむなく12:20又痛み止め。ほとんど寝られない。

10月20日

6時検温37.8℃。6:30便あり。7:40血液検査のため採血。7:30点滴14本目(350cc)
10時回診により点滴40より60滴になり、昼食より又おかゆからおもゆに変更。
検温10時37.4℃。PM2時37.2℃、PM6時37.3℃。
昼食果汁。正午15本目点滴。午後元気が出る。
夕食おもゆ全部。スープ半分、ジュース全部。
PM7:50点滴16本目。夜中3:10に17本目入れる。
夜は静かに寝たが今日よりベッドが1つになり私はほとんど寝られず体がくたくた。
夜も点滴をみたり、足の刺してある所をみないと絶えず危険なので寝るひまがない。

10月21日

朝方4時ごろより痛み出し、4:30、5:00、6:00と激痛。
10分くらい直って又10分位痛み。いつもの痛みで一番ひどい。
大声で絶叫。死んでしまうとか、バカーとか、どうしてなおらないのママのうそつきとか、先生のうそつきバカーとすごい叫び。
ほとんど止まる間がなかったのでT先生朝見て下さる。
尻より出血のためと腹痛のため今度はE先生が見て禁食と輸血の必要性。
50ccの輸血。又痛くて大声で叫び、大あばれし、他色々の注射。注射も今日より4回の他あと3回増える。
AM11:20頃の輸血でやっと寝る。11:30に17本目点滴。禁食なのに食事来る。
PM3:30頃、姉と姪がお見舞いに来て下さったが重体で寝たきり話も出来ない。目が覚めてかすかにうっすらと目をあけてうなづくだけ。
PM4時近く園のK先生みえる。もも組のお友達にかかせた画集つづりとパンダちゃんいただいたがもうろうとしていて聞くことにうなづくだけでしゃべろうとはしない。
一通り病状を説明して、間もなく帰る。
午後よりお腹の痛みは全然起こらずほとんどぐったり寝たまま。
夕方頃から周りにつられて何か食べたくてしきりにお腹すいたを連発。
もうなだめるのに苦労で苦労で看護婦さんやみんなになだめられてうなづくものの、お腹が痛くなければもう口がさびしくてさびしくて食べたくて、もう可哀想なほどで涙が出るのをじっとくいしばる。
夜10時18本目入れる。
今日こそ痛みなくゆっくり休めると思ったが夜11時頃よりやはり痛み出し午前4時近くまで熟睡せず起きたり横になったりうとうとしていて一時も休まらず今日もまた寝られなかった。
夜中の12時定期注射ゴムより2本、筋肉1本。

10月22日

6時の起床体温36.9℃。朝7時点滴19本目、PM4:30に20本目。
AM6時 ゴム注2本、筋肉注1本、PM2:00筋肉注射。
AM5時出血あり、シーツが赤く汚れていた。
6時に注射してからまた静かに寝て8時40分ごろ起き、9時におしっこをとったら最初血液がどっとあふれ、その後から尿が出た。
T先生回診にてまた緊急に輸血必要となり、姉たちにTEL。
12時少し回って輸血。
午後は気分がよくなり、又食べ物がほしくてほしくてなだめすかしても我慢しきれず、人が食べていると口を開くほど食べたい様子。でも我慢せねば禁食の意味がないから泣いていて可哀想だけどどうすることもできない。痛い苦しみよりよっぽどましだと思う。

10月23日

夕べ全然痛みなく初めて朝まで静かで、昼間も元気出たらお腹すいた連発。
朝の回診で腹の具合も前よりよく、痛みもなく食欲を訴えるので今日一日我慢して明日より流動食を考えるという。あとは点滴・注射とも変わりなし。
輸血もする。PM2時ごろ輸血。
その後も変わりなかったが午後より手が紫色になってはち切れそうにふっくらと腫れてしまう。
K先生PM3時頃様子を見に来たが変わりなし。
手の僅かな腫れは血液のせいらしいが、心配ないと言うが次第に腫れは増して熱を帯びたので当直T先生見てくださり、同時にPM5時頃より又痛みあり、PM6:30頃痛み止め打つ。
その後晴れのほうがひどく痛がるので、T先生みて止血剤を打っていただく(7時ごろ)。
冷えタオルで手を冷やす。

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皮肉にもと言おうか最後は止血剤を打ったところで終わっている。
アンダーラインは母の記録では波線で引かれていた。同じペンで書かれてあり後から引いたような感じはない。
以前病気のことを書いた時に私は「後に問題となった血液製剤が使われたのか、そのあたりははっきりとしない。」と書いたのだが、どうやら止血剤(血液製剤)も使ったらしい。


薬害肝炎全国弁護団

原告になるための要件
昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までに製造・販売された血液製剤(フィブリノゲン製剤・および第9因子製剤)は、C型肝炎に感染する危険性が極めて高かったと考えられています。

昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの間に、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用された可能性があり、これによりC型肝炎に感染した可能性があります。

薬害肝炎訴訟では、昭和39年(1964年)頃から平成6年(1994年)年頃までの間に、血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を投与された方で、かつ、C型肝炎に感染された方について、損害賠償請求訴訟を起こしています。

なお、血液製剤は、患者に知らされないままに使用されているケースがほとんどです。

C型肝炎に感染した方で、次の医療機関で、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤が使用された可能性が高いと思われます。
→ フィブリノゲン製剤納入医療機関の検索

現在、薬害肝炎訴訟では
1.C型肝炎に感染した方(インターフェロンにより治癒された方も含む)
2.昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの期間に血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用されたことが、何らかの手段で証明できる方

が原告となっています。



http://www.okatani.or.jp/hp/html/info_fibrin.html
 フィブリノゲン製剤は、1964年に製造承認され、C型肝炎ウィルスの不活性化処理が十分にされるようになった1994年まで、30年間にわたって手術などで危険な使用が続けられました。
 主として出血を止める止血剤として使われましたが、この血液製剤からC型肝炎ウイルスに感染し、それが原因でC型の慢性肝炎になり、肝硬変、肝がんになる方がいることもわかり、社会問題となっています。
 それは十分な審査をせずこの血液製剤の製造・販売を認めた厚生省(当時)と、高率に肝炎が発生する危険があることを添付文書に明記しなかった三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)に責任があります。
 東京、大阪、札幌、名古屋、福岡ではフィブリノゲン製剤で肝炎になった患者さんが国、製薬メーカーを相手取り訴訟を起こしています。
そして重要なことは、フィブリノゲン製剤を使用してC型肝炎ウイルスに感染しているにもかかわらず、そのことを知らされていない患者様がいることです。
当院ではフィブリノゲン製剤の使用状況を調査し、使用した患者様、あるいは使用したことを否定できない患者様などにはご連絡をとり、C型肝炎ウイルスに感染しているかどうかの検査をお勧めする活動を行なっています。




1964年から1994年に血液製剤を使った人が感染している可能性があるということだが、その1964年というのはライシャワー事件(駐日アメリカ大使が精神疾患患者に刺され輸血したところC型肝炎に感染した)が発生した年であり、血液銀行業務を日本赤十字社が独占した年でもある。
ライシャワー事件によって売血批判が巻き起こり、事件から5カ月の1964年8月28日、閣議決定により血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。
路線転換を迫られたミドリ十字社は、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索し、閣議決定のまさにその日1964年8月28日に社名を「日本ブラッドバンク」(創始者は軍医)から「株式会社ミドリ十字」に改称した。(創業以来、緑の十字が社章であった。緑の十字は国際的には薬局のマーク)
何らかの裏取引があったのでは?
1982年に創業者が急死した後は、多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権が握られることとなった。
止血を目的とした非加熱血液製剤の投与によって患者がHIVに感染し死亡した事件(薬害エイズ事件)はこの後に起こっている。
三菱ウェルファーマは事件発覚後にミドリ十字を吸収合併した。


・私は、昭和59年まで3年程看護師をしていました。その当時、日常的にフィブリノゲン等の血液製剤を出血時に使用していました。私も何度か、あの小さなボトルを点滴台に下げたと記憶しています。そして、手術後、輸血後、肝炎ということで、具合の悪くなる患者にも接していました。1987年に胎盤はく離で死産し、2週間入院した時に医師から言われたのは、「最近、肝炎になる人が多い。必ず検査を受けてね」ということでした。新鮮血の使用については説明がありましたが、血液製剤については何も説明はありませんでした。その時の医師の困惑した様子がずっと気にかかり、何だか違和感を覚えてしまいました。新鮮血では、そんなに肝炎にはならないのではと、ずっと疑問に思っていました。2002年にフィブリノゲンの件が明るみに出て、自分への使用を確信しました。2007年、出産した病院に電話をして、フィブリノゲン使用が判明しました。その時、もやもやしていたものが晴れた気がしました。同時に、製薬会社の責任感のなさに腹が立ちました。

・手術時に輸血もしているので、ずっと輸血による感染だと思っていた。止血剤が原因と知り、輸血に協力してくれた方々からの感染ではなかったことが分かったことが、嬉しかった。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/03/dl/s0300-1a_Part9.pdfより






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by yumimi61 | 2017-04-30 16:11
2017年 04月 29日
Crossover
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by yumimi61 | 2017-04-29 23:59
2017年 04月 28日
日本国憲法の秘密-461-
貴族とは何か?
貴族とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する
貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。


イギリスにはいまだに議会を構成する貴族院が存在する。

日本で言えば、天皇と天皇が特権を与えた人々が貴族に該当するわけだが、貴族というものが浸透してこなかった。
その1つの要因が平安時代に大きな転換があったからであろう。古代からのヤマト(大和)朝廷が乗っ取られるような形で終わってしまった。
その平安時代に華やかな貴族社会が形成される。
京都の朝廷で天皇に仕える貴族は公家として別扱いされるようになる。
しかし平安時代末期に地方に経済的・軍事的基盤を持つ武家が現れ始めた。平家や源家はその代表格。
そして1300~1500年頃には天皇・皇族・公家は経済的・政治的実権を喪失した。
これが復活したのが1800年代後半の明治維新である。

●天皇家
●公家(公家の中でも最高幹部として国政を担う職位にあるものを公卿という)

平安時代に公家の中でのも格式や家格が定まってきて公卿になれる家筋は限られるようになった。
平安時代末期には武家にも公卿になる道が開かれた。

●将軍徳川家
●大名
 親藩:徳川家の親戚(御三家・御三卿など)→格式は高いが権力が集中してしまうため幕府の役職には就かない
 譜代:代々徳川家に仕えてきた家臣
 外様:関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した大名と戦後に服属した戦国大名

大名分類は上記の類の他に知行石高(領地の大きさ)も関係する。
大名という名称のルーツは鎌倉時代にあり、大きな名田(荘園・領地)を持っていた者のことを言った。
また一国以上の領地を持つ大名を国持ち大名とも言った。前田家、島津家、毛利家はその代表格。
(国というのは上野国や下野国などのことで現在の県と考えてよいと思う。藩はその中にあるもので現在の大きな市といった感じ)

●幕臣・・・幕府直属の家臣全て。
 旗本:知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格にあったもの。
 御家人:知行が1万石未満で将軍に直接謁見できない家格にあったもの。


会社で例えると、德川将軍家が株主であり社長。
親藩が株主。
譜代が本社勤務で役職に就くもの。
外様が子会社で役職に就くもの。子会社などの社長。
幕臣は本社所属の従業員。その中にも社長に直接面会できる人とできない人がいる。
武士というのは公務員であり会社の従業員であった。
自由業ではないので何でも自分の好きなことが出来るわけではないが、お給料がもらえ比較的安定した生活を送ることが出来る。
大名や役職に就けばかなりの権限が与えられて好きなことも出来るようになる。
しかし公務員や従業員は命令によって時には危険な仕事やきつい仕事もこなさなければならない。上下関係もある。
この武士という職業は(商家や農家と同様に)世襲が可能だった。
支持率が高く物事が上手くいっている時に首にしたり解散しますか?という話ですよね。

幕府というのはいわば巨大な会社であるわけだが永久未来その地位が保証されているわけではない。油断をすれば倒されて、別の会社、別の社長になることもある。
世襲にするか、部下を誰にするか、選ぶのは社長であり株主。

一方、君主という存在は動かない。実権を持っている持っていないの違いはあっても、「家」であり「世襲」である以上、それが全く関係ない他の家に移ることはない。正面切って奪うということも不可能。実力や暴力でどうこういうものではない。
奪いたければ正攻法ではダメである。人を騙す、欺く必要がある。
しかしながら世界には君主という存在自体が終わりを迎えた事例が幾つもある。君主を制度と考え廃止に追い込んだわけである。そこには大きな民衆の力が働いた。

実権を失っていた君主という権威を大々的に復活させ、華族制度を敷いたのが明治政府であった。
世襲による特権階級を認めた。それは民主主義に反するものである。世界の風潮の逆をいった。


「家制度」が設けられたのも明治時代のこと。
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
家長権は戸主権として法的に保証されていた。


「江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている」とあるが、これは武士が世襲可能だったことに由来する。
また武士という職業は必要とあれば戦に赴くわけで、そんな危険な任務を女性にさせるわけにはいかないということで、男性から男性へ継承されたのは仕方がないことでもあった。
江戸時代が特異的なのは戦争を行わなかったこと。非常に平和な時代であった。
従って戦争に駆り出される武士という職業が他の時代よりもお得な職業に思えたのではないだろうか。
その平和な時代の反動なのか、戦争をしたくてしかたない人がいたのか、明治時代から昭和の前半は富国強兵路線を直走った。


江戸時代というのはどちらかと言えば家の縛りは緩かった。
藩や長屋的な集まりの中で人々は暮らし、日常においては誰が誰の子であるかとかはそれほど重要なことではなかった。
時に外国から日本の家制度や日本企業の家体質は異質とみられることがある。
では何に違和感を感じるのだろうか。
赤の他人が家族のように付き合うことを異質だと感じるのか、それとも家父長的な世襲を異質と感じるのか、
日本の「家」が社会構造やシステムの問題として語られることがあるが焦点がいまひとつはっきりしない。
もっとも世界の風潮に反して君主制や貴族制度を復興させたことは確かに間違いなく異質ではある。


明治時代の民法で定められた「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。
戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。
一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。


家長権は戸主権として法的に保証されており、「家」の財産など諸々は家長権(戸主権)とともに継承した。
これが「家督を継承する」ということである。
現代においては、妻や子(同一戸籍に入っているかどうかに関係なく)が法定相続人にとして認められ財産を得る権利が定められているが、明治時代には戸主を継ぐ者だけが相続できた。













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by yumimi61 | 2017-04-28 14:44
2017年 04月 27日
Premier&Premium
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by yumimi61 | 2017-04-27 23:37
2017年 04月 26日
第三のトビラ
2010年8月11日 『ロック』

この世界がかわる前の最後の光。
それがそのしょうげきにおきた光・・・。
「もとの世界にもどるのにはどうしたら。」
「第三のトビラにいきなさい。
第三のトビラにロックをかければ
この世界とうらは昔のようにまじわらなくなるわ。」
また光が問いかける。
「どこに・・・どこに第三のトビラはあるのですか。」
「それはわからない・・・だけどこの近くのどこかにあるはず。」
さがすしかない・・・いやさがさなければならない。ぜったいに。 

2010年8月13日 『カギ』







 

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by yumimi61 | 2017-04-26 21:03
2017年 04月 25日
日本国憲法の秘密-460-
学校、特に名門私立校は保護者にとっても子供にとっても人脈づくりの場として非常に重要である。
勉強なんか別に出来なくてもいいの!
一種のサロンみたいなものである。奥様の役割も大事。
PTA活動が嫌だなんて言うのはしがない庶民の証のようなものである。

上流階級に社交は欠かせない。(→「少なくともあなたより上流よ!」・・・上流違い)
社交界とは、王族、貴族、上流階級の名家などの人々が集い、社交(交流)する場のこと。
それゆえ、歴史的には、爵位や称号など勲章や地位を持たぬ者は、基本的には出席することができない集まりだった。
知的で洗練された会話や振る舞いをすることが求められ(国際儀礼第一級)、各国間での高度な外交や交渉事や、政治や経済の方向性や流れなどが、あたかも世間話のように決められている歴史的な場でもある。欧米では、社交界に初めてお披露目をすることをデビュタントと称する。

ヴェルサイユ宮殿などフランスの宮廷に起源を持つサロンが有名である。明治時代の日本でも社交界を育てるため、鹿鳴館が造られ、華族文化が開花した。現代日本においても、皇族、旧華族、名門家、政治家、高級官僚、財界人、各国要人(VIP)、外交官・大使、名士などが集う"社交界"があり、夜会(パーティー)などが催されている。
近年、セレブリティー(著名人、セレブタント、成金など)らが集うパーティーやイベント等が、ほぼ同義の意味で、多くのメディアで報道されたりするが別物である。


中世の王侯貴族たちの戦勝大宴会や、宮廷舞踏会が社交界の原型です。
19世紀に入ると民主主義が台頭したフランスにおいても、社交界が盛んでした。なぜなら社交界は、上流階級が社会に権威を誇示するために必要だったからです。豪華になればなるほど、注目を浴びておのれの階級差を知らしめました。
王政が廃止され、階級制度が無くなったはずのフランスの社交界が、イギリス以上に華やかだったのもそのためでした。


1950~1960年代にアメリカ社交界の華だったのがベイブ・ペイリー。
通常は社交界の華であればよいわけで、野に咲く花である必要はない。
上流階級では目立つことは良しとしない(古風な?)価値観みたいなものがある。
「寄付しま~す!」と言って寄付するのではなく誰も知らないところでこっそりしてこそ根っからのお金持ちというわけ。やたらに表に出てこない。その神秘性と相まり雲の上の存在となる。(だからロックフェラー3世の名前はなかったのか!?)
しかしベイブ・ペイリーという人はファッションアイコンでもあった。
社交界のお嬢様のみならず、庶民までもがそのファッションを真似ようとした。
このベイブ・ペイリーの旦那様(再婚)がユダヤ人でCBSネットワークの創設者で億万長者のビル・ペイリーであった。
盛田夫妻は子供達を通わせた学校における交流でビル・ペイリーを紹介されるに至る。
そしてそのビル・ペイリーからロックフェラー3世夫妻を紹介されたようである。


『ゴシップガール』で主人公たちがよくコーヒー片手にたむろっていた場所がメトロポリタン美術館入り口前の階段。
盛田一家が渡米して借りたアパートはそのメトロポリタン美術館の向いにあった。
アパートと言っても高級アパートである。
盛田一家が借りた部屋はもともとウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト・ネイサン・ミルスタインが住んでいたところであった。
10を超える部屋があり広々としていたというから日本の「アパート」から思い浮かべるそれとは全く違う。
ミルスタインがパリに数年滞在することになったため、ニューヨークのその住居を家具など込みでそのまま借りることになった。
一般的な駐在員が暮らせるような住居(金額)ではないが、億ションが珍らしくないアッパー・イースト・サイドにおいては随分良い話だったのではないだろうか。
とはいってもそこは単なる駐在員盛田家住居となっただけでなく、社交の場として用いられたというから、アメリカ進出の命運がかかった会社だと思えばまあそんなものかもしれない。

背が低く見劣りがして英語もろくに話せない爵位や勲章も持たない一駐在員の日本人が社交の場に出て行っても有り余る成果があるとは思えない。
知らない人が一人でいる盛田昭夫を見たら普通に小さなおじいさんである。(もっとも当時は若かったはずだが)
女の人だって同じであろう。着物だけで勝負できるわけではない。
ホームパーティを開き、上流階級の人々を招いて、家族ぐるみの交流をはかる。
それならば日本人であるという物珍しさやデメリットはメリットにもなり得る。それをよく分かっていたのかもしれない。
とはいっても普通は気後れするだろうから、それが出来たのは夫妻の天性の素質と家柄なのかもしれない。










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by yumimi61 | 2017-04-25 13:40
2017年 04月 24日
日本国憲法の秘密-459-
ソニーの盛田夫妻の子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's School(男子校)とNightingale-Bamford School(女子高)であった。
どちらも名門私立高である。
アメリカ東部にはセブンシスターズと呼ばれる7つの名門私立女子大学(1つはハーバード大学に吸収された)があるが、ニューヨークのアッパーイーストに在る7つの名門女子校もセブンシスターズと呼ばれ、ゴシップガールのモデル校となったNightingale-Bamford Schoolはそのうちの1つである。
大学とその下の学校のセブンシスターズは別物。

名門私立高では日本の幼稚園年長学年(キンダーガーテン)から高校3年生(12年生)までの13年一貫教育を行っている所が多い。
アッパーイーストのセブンシスターズは全て13年一貫教育、日本で言うところの小・中・高一貫教育である。
一方、St. Bernard's Schoolが含まれるアッパーイーストの名門男子校は8年生(日本の中学2年生)までという所が多い。
それ以降どうするのか言えば、多くはボーディングスクールに進学する。
ボーディングスクールは、思春期から大人への過渡期(日本の中学3年生~高校3年生)の4年間の教育を行う全寮制私立校。男女共学である所が多い。
難関大学受験を目指す子供もいるが、どちらかと言うと、規則・礼儀・自立・協調・コミュニケーション・体力を重視した「エリート教育」が行われる。
Think differentタイプではないかもしれない。
アメリカにもThe Ten Schoolsと呼ばれる10の名門ボーディングスクールがあるが、イギリスやスイスのボーディングスクールに行く子もいる。
スイスのボーディングスクールには世界中から富裕層の子弟が集まり、アメリカやイギリスの名門大学に送り出されている。
富裕層の子弟が行くくらいなので(富裕層の子弟しか行けないように)学費は当然高い。
北朝鮮の金正恩労働党委員長や暗殺された異母兄・金正男氏もスイスのボーディングスクールに通っていたと言われる。


話は脱線するが(時間がかかりそうですか?)、群馬県太田市にぐんま国際アカデミーという日本人相手に英語で授業を行う小中高一貫校があることを以前何度か書いたことがある。(私立なのに市長が関わっていて税金が投入されたということで一時期問題視された)
ぐんま国際アカデミーには英語に慣れるために幼稚園児が通うプレスクール(プリスクール・幼稚園ではない)があるが幼稚園児の教育は行っていない。
前橋にBe English Academyというキンダーガーテンコースを持つインターナショナルスクールがある。
その学校のホームページに「ぐんま国際アカデミー初等部、群大付属小学校、開校以来合格率100%」と書いてある。(合格率100%というのは通った子が全員受かったということではなく、受けた子が全員受かったという意味ですよね?)
それはともかくとして、特徴の1つとして「日本赤十字社の加盟校―群馬県の保育施設の中ではじめて日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校となりました」と書いてある。


日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校というのはご存知でしょうか?JRCという名前で聞いたことはないでしょうか?
優しさや思いやりを学び国際人を育むことを目的に(!?)、加盟している幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校がある。
赤十字のホームページによれば、現在約1万3000校が加盟していて約303万人の青少年赤十字メンバーがいるそうである。
会長は学校長であることが多く、指導者は教員や保育士である。
日本赤十字社では活動のための資料提供、赤十字の全国的・国際的組織を活用した便宜供与や学校間連携の支援、希望する加盟校の教員や生徒向けの研修などを実施しているが、指示や通達によって学校内の組織を拘束することは一切ないとのこと。何をするかは自由裁量だそうである。(加盟はどうですか?忖度とかはありませんか?)
実は群馬県は加盟校が多い。小・中・高合わせて557校が加盟しておりメンバーは15万人を超える。
私が若かりしころ通った学校も加盟校で私も活動したことがある。
(小中高いつだったか忘れたけど、交流会か研修会かなにかで高崎経済大学に行って大学生のお兄さんお姉さんに優しくしてもらったことを覚えている)
首都であり、人口が最多で群馬県より1000万人以上も多く、当然学校数も多く近隣県からも通学する子もいるであろう東京都はどうかと言えば、加盟校は群馬よりも少なく544校である。
西の都(?)大阪府の加盟校は450校ほど(資料がやや古く2010年)。
群馬よりも80~90万人くらい人口の多い広島県での加盟校は291校。
群馬の3.5~4倍の人口数(750万)である愛知県の加盟校は1005校。
赤十字発祥の地(?)の熊本県での加盟校は253校。(人口は群馬よりも10万人くらい少ない)
都道府県別一覧がなかったので全部は調べれませんでした。あしからず。
でも群馬の加盟校は多いと思われる。しかしながら幼稚園・保育園で加盟している所がこれまで1つもなかった。これはこれで珍しい現象。
そんな中、Be English Academyが群馬の幼稚園・保育園で初めて加盟したということなのである。



校章に十字が入るSt. Bernard's School(男子校)と、『ゴシップガール』のモデル校Nightingale-Bamford School(女子高)は、兄弟姉妹校ということである。
『ゴシップガール』でもそんな感じで描かれている。
St. Bernard's School(男子校)が文学に強い学校ということなので、出版社三省堂創業一族出身の盛田夫人の影響かと書いたが、紹介したのはアメリカの証券会社スミス・バーニーのソニー担当役員だったそう。

当時スミス・バーニーは米国預託証券(ADR)を発行していた。
現在ADR発行を引き受ける預託機関(預託銀行)は、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン、JPモルガン、シティバンク、ドイツ銀行といった大手銀行によって占められているそうである。
こうした預託機関が外国企業の現地で株式を取得し、その株式を担保に預託証券を発行する。
その預託証券をアメリカの証券取引所に上場させることで、通常の米国株式と同じようにアメリカの投資家が自国通貨(ドル建て)で売買できるようになる。
早い話株式と同じであるが、制度上株式と言うわけにはいかない。

株式とは株式会社の社員権である。間違っても社員証ではない。出資者や株主であることを証明する券(現在はデータ)。
企業は資金調達のために株式を発行するので、株式会社は誰かに多額の借金がある会社と言い換えることも出来る。
株主は企業に利益が出れば配当という恩恵(利息のようなもの)を受けることが出来るほか、株は売買が可能。
持っている人にとっては価値のある(お金と交換可能な)「有価証券」であるが、その価値は永久に保証されてはいない。
何故かと言うと、会社に利益が出るとは限らず、株式の取引(売買)も株価(時価)によって行われるからである。
出したお金が必ず戻るとも限らない代わりに、出したお金よりも戻ることもある。他人の借金でギャンブル、マネーゲームしているというわけ。
企業の価値も株価(時価総額)で比較されるようになるので、株価が上がれば必然的に企業価値も上がる。
しかし株価は噂や雰囲気レベルでも上下する。企業価値は噂や雰囲気でも変動するということであり、実態があるようなないような。

広く株式売買を可能にするには証券取引所に上場(株式公開)させなければならない。
日本には東京、名古屋、福岡、札幌の4ヵ所の証券取引所がある。「東証」が有名ですね。
約3500社が上場していて、上場企業数はムンバイ(インド)、トロント(カナダ)に次いで世界第3位だとか。
アメリカの証券取引所は、ニューヨーク証券取引所、ナスダック証券取引所、アメリカ証券取引所の3つ。

ニューヨーク証券取引所
世界一上場審査が厳しいとされ、上場企業数は約2,800社。そのうち外国企業は約460社(47の国・地域)が上場している。
日本の三大証券取引所とは異なり、企業規模などによる市場指定(第一部・第二部など)は行ってはいない。大規模企業の上場が多く、日本企業では1970年にソニーが上場して以来、2016年12月現在13社が上場している。


上場日本企業(上場の早い順)
ソニー、ホンダ、京セラ、三菱UFJフィナンシャルG、NTT、オリックス、トヨタ、キャノン、野村HD、NTTドコモ、みずほフィナンシャルG、三井住友フィナンシャルG、LINE

パイオニア、TDK、日立、パナソニック、クボタ、コナミHDなどは上場を廃止した。
ニューヨーク証券取引所は企業に厳正なコーポレートガバナンス(企業コントロール)を求めるため、その対策費にかなりの経費が費やされるという。
あげく上場しても企業にメリットがなければ無駄ということになるわけだ。
上記にあるようにソニーが1970年に上場で、次が1971年のパナソニックだった。そのパナソニックが上場廃止となり、1977年上場のホンダが2番目の古参となっている。

ナスダック証券取引所
ニューヨーク取引所よりも中小企業やベンチャー企業が多い。
またナスダックは世界で初めてコンピュータネットワークを導入した取引所でありIT企業や情報関連企業が多い。
世界的大企業となったインテルやマイクロソフトといった企業もナスダックに上場している。
三洋電機もこちらに上場していた。


盛田家がアメリカに渡った1960年代にはソニーはまだアメリカの証券取引所に上場しておらず、ADRが発行されアメリカ市場で資金調達していたのである。

スミス・バーニーは1998年にソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となった。
ソロモン・ブラザーズは1980年にアメリカ有数の投資銀行に成長したが、1987年のブラックマンデーと1991年の不正スキャンダルで地に落ちた。
そんなソロモン・ブラザーズとスミス・バーニーをくっつけたのは、かのウォーレン・バフェット氏である。
その後シティグループの傘下となり、2009年には「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となり、さらにその後、モルガン・スタンレーがシティ保有の株式を買い上げたらしい。

ソニー(出井CEO)が出資して「マネックス証券」を設立したのが松本大氏(テレ東の女性キャスターとご結婚されましたね)。→過去記事
かつてソロモン・ブラザース・アジア証券にいたそうで、現在は東証の取締役でもある。

ちなみにソニーの平井現CEOは国際基督教大学の出身である。









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by yumimi61 | 2017-04-24 15:22
2017年 04月 23日
日本国憲法の秘密-458-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎で1950年に改名、1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
  巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

 養父:松方幸次郎(1865-1950)・・・川崎造船所社長、1936年から衆議院議員
  幸次郎の妻:九鬼好子(隆義の次女)→松方好子
  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

 妻:佐藤星野→松方星野・・・敬虔なカトリック信者

 長男:松方峰雄・・・元日本航空国内旅客事業本部副本部長、元JALフライトアカデミー代表取締役副社長
 
 次男:松方富士雄・・・元トヨタ(ニューヨーク駐在事務所など)勤務


親戚であり友人の松方三郎と松本重治⇔ロックフェラー3世・4世

1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)はロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助した。
国際基督教大学(ICU)は高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。


松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者。
松本重治の妻の母は九鬼家の娘であるため、キリスト教徒(カトリック)であった可能性が高い。
世界でも類を見ないカトリック国であるフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーであるが、親子2代してフィリピン総督だった。
戦後の日本の金庫番(日本銀行総裁・大蔵大臣)一万田尚登は金融面で絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取っていた。
こうしたことから考えても、彼らは、国際基督教大学(ICU)は、カトリック(ローマ教皇)との繋がりが強いと思われる。


松方三郎の次男・松方富士雄はトヨタが1967年にニューヨーク駐在事務所を開設した際にアメリカにいた。
ソニーがアメリカにソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立したのが1960年のことである。創業者の1人である盛田昭夫が取締役社長に就任した。
ウォークマン発売(1979年)より20年も前の話である。(商品だけで巨万の富を得たり多国籍企業になったり、それを維持することはそうそう容易なことではありません。きっぱり)
盛田昭夫一家が本格的に渡米したのは設立から3~4年後のことらしいので1963~1964年頃。
1952年生まれの長男筆頭に2男1女の子供がいた。
その子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's SchoolとNightingale-Bamford Schoolであった。

St. Bearnard’s School(男子校)
1904年創立。イギリス人が多いこともあってイギリスの古き良き(?)伝統を色濃く反映する学校。
「古風な価値観の宝庫」と言われる。アメカジなんかありえない!?
文学に強い学校で、ニューヨークの旧家の子弟や有名作家やジャーナリストの子弟が多い。
ということは!良子の影響か・・(失言でした、すみません。盛田昭夫夫人良子様が出版会社三省堂創業家の出だからでしょうか、ね?)(盛田家も代々続く旧家(酒屋)ではある)
学校のマークには十字架が入っている。
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読みはセント・バーナード?ズ?セント・バーナードと言えば犬。
この学校のセント・バーナードはベルギーのストリート名から取ったらしい。(関係者がいたとかで)

セント・バーナード(犬)
 セント・バーナードは、2世紀頃にローマ帝国軍の軍用犬としてアルプスに移入されたモロシア犬が、その後独自の発達を遂げたものと考えられている。
 17世紀中頃から、スイス・アルプスの山深いグラン・サン・ベルナール峠にある修道院にて雪中遭難救助犬として使役されるようになり、20世紀初頭に至るまで、2,500名もの遭難者を救助した。このエピソードは画家などの絵により首に体を温めるためのラム酒の小樽をぶらさげたスタイルで知られている。なかでも有名なのは、生涯に40名を救助した「バリー」号で、その活躍ぶりにちなんで、一時この犬種をバリー・ハウンド(バリー犬の意)と呼んだこともあった。これにちなんで東京消防庁の特別救助隊や消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)ではセント・バーナードが描かれたワッペンを車両と隊員の肩に付けている。



Nightingale-Bamford School(女子高)
1920年創立。ナイチンゲールとバンフォードは創立者2人の名前。教師だった人物らしい。
アメリカの小説&テレビドラマ『ゴシップガール』はご存知でしょうか?
あれは作者セシリー・フォン・ジーゲザーの体験が元になっている話だそうだが、この学校が作者の母校でモデルになっているそうである。

ゴシップガール
 ニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイドを舞台とし、名門私立学校に通う高校生を中心に描いた恋愛群像劇。原作本は全米で2002年に発売され、シリーズ通算で400万部のベストセラーとなった。日本では2003年からヴィレッジブックスより順次発売された。全11巻。
 『The O.C.』のクリエイター、ジョシュ・シュワルツとステファニー・サヴェージの製作により、2007年9月からアメリカでテレビ放送が開始され、「ヤング版『セックス・アンド・ザ・シティ』」や「ポスト『The O.C.』」と呼ばれ、出演者もブレイクしてファッション・アイコンとなった。
 日本では、2009年4月16日にスーパー!ドラマTV開局20周年記念番組として放送開始。2010年5月20日には日本テレビでも放送を開始した。

ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イーストサイド。ハイソサエティなこの街の高校生は、酒にドラッグ、パーティー、セックス、そしてお金。何でも無制限にアクセス可能。自分の体面さえ保てばどんなにハメを外そうとお咎めなしなのだ。そしてそんな彼らの間で人気を集めているのは、正体不明の「ゴシップガール」なる人物が管理する情報サイト。街の人気者に関する目撃情報で成り立つこのサイトで、今もっとも注目されているのはセリーナ・ヴァンダーウッドセン。1年前、何も言わずに街を去りコネチカット州の寄宿学校に転校してしまった彼女が、なんと突然舞い戻ってきたからだ。









 

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by yumimi61 | 2017-04-23 18:01
2017年 04月 22日
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by yumimi61 | 2017-04-22 23:46
2017年 04月 21日
日本国憲法の秘密-457-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎、1950年に改名
                 ※1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
 巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

黒木三次の父は黒木家に養子入りした薩摩藩士。
父が死去し長男である三次が爵位を継承し伯爵となった。
関東大震災が発生すると復興を目的とした帝都復興院の参与に就任した。(帝都復興院の総裁は医師であり満洲鉄道の初代総裁でもあった後藤新平が就任。幹部は後藤の腹心やブレーン。NHK前身の東京放送局の初代総裁も後藤であった)


 養父:松方幸次郎(1865-1950)

川崎造船所の川崎は地名ではなく創業者(川崎正蔵)の名字。川崎正蔵は薩摩藩出身。国有の郵便汽船会社は西南戦争を機に三菱汽船会社と合併したが、その前から川崎は国有会社の副社長でもあった。
川崎は同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男に会社を譲った。
幸次郎の妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義の娘である。九鬼隆義も三田藩主家に養子入りした人物。その経緯には怪しさが残る。廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得る。キリスト教をはじめ西洋文化を積極的に取り入れ、宮内省にも勤務した。
三田藩主の九鬼家に仕えていた白洲家も慶應出身。
慶應義塾の創始者・福沢諭吉は薩摩の島津家や九鬼隆義から経済援助を受けている。
慶應義塾は島津家や松方家(日銀)、岩崎家(三菱)寄りの立場にあるということである。
慶應は学閥が強いことで昔から有名。
先日まで書いていた話に出てきた阪急グループ創始者も慶應出身。阪急・小林一三並びに三越・三井・三菱の三グループは全て慶應閥であり、東急グループのオーナーだった五島慶太はこの慶應閥から兵糧攻めにあった。
東急グループの母体企業・田園都市株式会社の創始者は(日本経済の父であり理研の創始者でもある)渋沢栄一であり五島ではなく、その田園都市株式会社の経営にこっそり関わっていたのが小林一三であった。
また東急電鉄の株式を握っていたのも五島ではなくフィクサー小佐野賢治であった。
小佐野は日本航空と全日空の株を買収して航空業界へ進出することを狙っていた。その後ろにはロックフェラーがいたとされる。(過去記事参照)

阪神大震災や地下鉄サリン事件が発生した1995年当時の日本銀行総裁は兵庫県神戸市出身者。
1998年3月20日に大蔵省接待汚職事件のスキャンダル(ノーパンしゃぶしゃぶ事件)により任期途中で引責辞任した。
1998年という年は日本銀行法が全面改正され新法となった1997年の翌年だった。
引責辞任した総裁の後任者も神戸出身。


川崎造船所は最初は築地の官有地に作られたが、その後神戸に移っている。
上にも書いてあるが廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得たのが、川崎造船所の社長だった川崎幸次郎の妻の父・九鬼隆義である。


  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

父・松方幸次郎(松方正義の三男)
                     ======松方花子(松本重治の妻となる)
母・好子(九鬼隆義の次女)

父・松本枩蔵(旧姓・井上、松本家に養子入り)・・・失脚 
                     =======松本重治       
母・光子(松方正義の五女) 
 


井上枩蔵が養子入りしたのは松本重太郎。
肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立や経営に参画した。
西の松本、東の渋沢(栄一)と呼ばれた、大物実業家。

松本重治(1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。

松本重治は松方家に二重の縁がある。
①母が松方正義の娘(但し正妻の子ではない)
②妻が松方幸次郎の娘

松方幸次郎の養子となった松方三郎と、松方幸次郎の娘と結婚した松本重治は同い年である。

松本重治は東京大学卒業後にアメリカへ遊学。さらにウランス、オーストリア、イギリスを巡る。
松本重治の妻となる花子(幸次郎の娘)もイギリスへ8年あまり留学していた。
重治と花子はイギリス・ロンドンで出会い(落ち合い?)、ロンドンでプロポーズして、1927年に帰国し結婚。
川崎造船所のある神戸の地元紙(神戸新聞)では帰国時に「松方花子さまのお帰り!」とかなんとか記事にするほどであった。
松本重治は東京大学で助手として勤務した後、1932年(33歳の時)に新聞連合社(後の同盟通信社)に入社し、1945年に退職するまで上海支局長や編集局長、常務理事などを歴任した。
前記事の松方三郎の経歴に、「1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職」と書いたが、この会社に先にいたのは松本重治だったのである。
親戚でもあるし、同い年でもあって、松本重治と松方三郎は親しい間柄にあった。
松本重治はロックフェラー3世と大の仲良しだったことでも有名。


戦後、松本重治が設立に関わり、専務理事や理事長を務めた国際文化会館の設立にはロックフェラー3世が関与している。
ロックフェラー家はアメリカ連邦準備制度(FRS)やその理事会(FRB)の設立メンバーにも名を連ね、現在も大株主ではないかと言われている(非公開のため実態が不明)。

2世の5男であるデイヴィッド・ロックフェラーvs3世の長男であるジェイ・ロックフェラー。
ここが長らく揉めていたが、デイヴィッドがお歳を召し(先日亡くなったとか?)、今現在はジェイ・ロックフェラーさんがジョン・ロックフェラー4世ということで落ち着いたようだ。
3世はロックフェラー家やアメリカにとっても不評で隠しておきたい存在なのか、日本語版Wikipediaには存在しない。
ただこの3世とその息子の4世は日本にとても関係が深い。

ロックフェラー4世は、ハーバード大学で東洋の歴史と言語を学んだ後、日本の国際基督教大学に留学し日本語を3年間学んだ。
この大学はロックフェラーと所縁がある。
それもそう、1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)ともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したのである。



国際基督教大学(ICU)
東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。
1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った。


湯浅八郎の父は、同志社創立者の新島襄と同郷(群馬県安中)の湯浅治郎である。
湯浅八郎
1890(明治23年)東京に生まれた。同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である父・湯浅治郎、徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である母・初子の間に生まれた。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しいクリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。
第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。


国際基督教大学(ICU)は新島襄や同志社との関係を匂わせて設立されている。
(ちなみに大学が置かれた場所は戦前中島飛行機が所有していた土地である。中島飛行機も群馬で創業された会社)
このような記述もある。
キリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。1949年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。

でもこのあたり少しおかしい。
ダグラス・マッカーサーは以前にも書いた通り、フィリピンに長い間いた人である。
マッカーサーがキリスト教を信仰していたとするならばカトリックであったと考えるのが自然である。

フィリピンは世界でも類を見ないほどの(?)カトリック国である。
国民の90%以上が一神教のカトリック信者で信仰心も厚い。日曜日は家族で教会が当たり前。
そんなフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーだった。親子2代、フィリピンを担当することになる。



一万田尚登
日本銀行総裁としての在任期間3115日間は歴代最長である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。

東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木榮吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。


1946~1954年、日本銀行総裁。
1954~1956年、大蔵大臣。
1957~1958年、大蔵大臣。

戦後の日本の金庫番が国際基督教大学の創立に深く関わっていたということだ。

 
 妻:松方星野・・・山口県出身、実業家佐藤市十郎の次女

松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者だったという。
星野という名前は「ベツレヘムの星」ちなんでいるというから、親も熱心なカトリック信者だったのであろう。
しかしですよ、星野といったら名字!
松方星野では、まるで松方さんと星野さんという2人の名字が併記されているよう。
(前にも書いたが星野姓が全国多いのは群馬県)
ともかくこのように松方三郎の妻はカトリック信者。

松方三郎の親戚であり友人の松本重治の妻(松方幸太郎の娘)も母が九鬼家(三田藩主家)出身である。
三田藩家老・九鬼兵庫(松方星野ばりの名前!)の屋敷跡に1952年に献堂されたカトリック三田教会がある。
三田藩の藩主も家老も九鬼家で親戚である。一般的には、藩主が本家筋で、家老が分家筋。

九鬼隆義はキリスト教とも無縁ではない。
神戸在住の宣教師(プロテスタント)と知り合いキリスト教に強い関心を示した。この影響で多くの三田出身者がキリスト教に入信したそうだ。1875年に三田旧領の子女教育のため神戸に「神戸ホーム(のち神戸英和女学校)」(現:神戸女学院)を開校した。
1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務に異動した。
1887年に神戸教会にてキリスト教の洗礼を受けた。しかしながら三田内部および三田の寺院の強い反対でキリスト教を棄教して仏教に帰信したという説もあるようだ。


三田藩家老・九鬼家の屋敷跡にカトリック三田教会が造られたことからも分かるように、三田藩家老の九鬼家は敬虔なカトリック信者であった。
神学者になった者や修道院に入った者がいるほどである。
家老家がカトリックで藩主家がプロテスタントとは考えにくい。
九鬼家のキリスト教信仰もカトリックとプロテスタントの混同があり少々おかしい状況。
日本人はキリスト教や十字架やイエスやマリアは知っていても、宗派や教派(カトリックやプロテスタントの違いさえ)を理解していないところがあるので、一緒くたになってしまったのだろうか?
中にはカトリックとプロテスタントの違いが分からない人がいたとしても敬虔なカトリック信者を抱えていることから、「家」としてはカトリック信仰であったと言ってよいだろうと思う。
無宗教・無信仰の日本人にはピンとこないかもしれないが、宗教の違いは結婚その他の障害になるほど大変なことである。
「家」「家族」を重視するならば尚のこと。

松本重治の密葬は世田谷(アンゴラ大使館のお隣)の東京聖三一教会(聖公会)で執り行われた。
従ってキリスト教信者であったことは間違いないが、聖公会とはイギリスの王(現在は女王)を頂点とするキリスト教である。
カトリックから分離したのでプロテスタントとも言われるが、カトリックの教義などそのまま維持しており、限りなくカトリックに近いとも言われる。









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by yumimi61 | 2017-04-21 13:21