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2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-487-
伊香保・草津界隈の人ならば知っていると思うのですが、ドイツ人のベルツをご存知でしょうか。
伊香保には「ベルツの湯」という日帰り温泉があったのですが、今は食の駅になっています(これはまだありますよね?)。
草津の「ベルツの湯」は、今はベルツ保育園になっています。

ベルツの湯に関する怪文書!?

エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。

1876年(明治9年)に来日。
ベルツは伊香保と草津の温泉の効能を紹介した人物でもある。

草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

自身も草津に約6000坪の土地と温泉を購入し、伊香保温泉にも別荘を構え、幾度となく訪れた。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。

しかし同時に日本にとっては手厳しい日記を残している。
ベルツは花子という日本人女性と結婚しており、その2人の間に生まれた息子が後年(ナチス時代)ベルツの日記を日本語、ドイツ語、英語で出版した。
但し息子が母親の出生や両親の出会いなどは『ベルツ日記』から削除されたという。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。


歴史が無いと言ったのは伊藤博文である。
大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。

日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。


日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。


もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。



実はベルツは前記事に書いたベア商会のドイツ系ユダヤ人であるベア(バイル)と非常に親しくしていた。
日記にも再三登場する。
1880年(明治11年)3月17日、前年行われた西南戦争を題材にした芝居『西郷と鹿児島の変』を観覧。「恐ろしく退屈だったので、お昼にバイルのところへ行き、彼と一緒に再び劇場で数時間を過した」と記している。

1881年(明治12年)7月27日、「バイルのところで昼食中に烈しい雷雨があった。マニラ通のバイルは当地の雷雨の威力のちっぽけなことをあざけった」と記す。

1881年8月4日、「彼(ナウマン)はネットーやバイルと共に自分の一番親しい友人」と記す。

1881年10月20日、「又もやバイルと中村屋へ。日本画家の制作ぶりを見ようというのである。バイルは最も優れた画家たち(その中に狂斎もいた)を招いていた」と記す。
※狂斎(暁斎)は古河出身ですよ!
強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師。
海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。


1882年(明治13年)11月8日、「夜、バイル来訪。彼は日本人一といってもその指導階級だが―と国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の設立に関して折衝中である。バイルは金持ちだ。彼にとっては、もっと金を儲けることなどあまり問題でないことを日本人は知っている。だから彼は落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点で日本の発展にバイルほど寄与しし得る人物は他にないという一事だけは疑う余地がない。交渉が好結果に終わることを日本の繁栄のために祈る」

ベア(バイル)のベア商会は1880年に出された通達によって廃業に追い込まれて1881年には高田商会が誕生している。
ベアは結局ドイツに帰国するのだが、1882年の時点ではまだ日本にいた。
ベア商会廃業の代わりに別の会社の設立を提案されたようである。
ベルツは好結果を祈ったが祈りは届かったものと思われる。

ところで中村屋。新宿中村屋のサロンのことである。
中村屋サロン美術館公式より
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。そして1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになりました。それが「中村屋サロン」のはじまりです。

artscape中村屋サロンより
明治期末から大正期にかけて、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵とその妻・黒光(本名・良)の周りに集まった芸術家たちの交流を指す。1908年に、愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(号・碌山)がヨーロッパから帰国し、新宿中村屋の近くにアトリエを構えたことに始まる。荻原を慕う若い画家・彫刻家たちに加え、パトロンである相馬夫妻の関係する文学者や演劇関係者たちがジャンルや国籍を越えて交わり、そのなかで傑作が生まれ、夭逝や恋愛などロマンチックでスキャンダラスな出来事が幾つも起きた。特に、荻原の遺作であり第4回文展三等賞に浴したヌードの彫刻《女》(1910)は、荻原の黒光への秘めた思慕が表われたとされる。また、洋画家の中村彝は、新宿中村屋で出会ったロシアからの盲目の亡命詩人をモデルに《エロシェンコ氏の像》(1920)を制作した。これはレンブラントとルノアールの表現を咀嚼し、半透明の層を重ねた独自の暖かみのある表現に至り、大正期の洋画を代表する作品となっている。中村彝はまた、黒光の娘・俊子をヌードモデルにした作品を制作し、やがて恋愛関係になって求婚するも黒光に拒まれた。その後、俊子は、インドから亡命した革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚した。新宿中村屋に関わった美術家としてはほかに、同店の現在も使われるロゴマークを揮毫した画家の中村不折、彝とともにエロシェンコを描いた画家の鶴田吾郎、夭逝した彫刻家の中原悌二郎と戸張孤雁などがいる。ほかにも、相馬夫妻の子どもを教えたことがある美術史家の會津八一、女優の松井須磨子、評論家・社会主義者の木下尚江と秋田雨雀といった多彩な人々が、ここに関わり、さまざまな人生の交差する場となっていた。

何故中村屋に拘っているかと言うと、以前にも出てきたことがあるのです。原爆との関係で。
松方正義の家族から「弐キ参スケ」について書いたコチラの記事中にリンクしたサイトのサブタイトルが「広島・長崎の原爆は「新宿 中村屋」が製造使用した。」なのである。
群馬県沼田市から横浜に出て生糸業者を営んだ星野一家についてはパート4に書かれている。

さて、タイトルの“毛利元就”と云えば、「三本の矢の教え」で有名な話である。
その「三本の矢の教え=兄弟が結束して事に当たれ」が、日本製原爆完成にも生かされたと云う話である。その3兄弟とは、群馬県沼田市からでた星野3兄弟である<星野直樹・星野茂樹・星野芳樹+星野花子>それと、親子2代で朝日新聞記者だった野田豊(野田経済研究所々長)と、「野田皓一」である。
以上、6名の共通項は<皇室、日本キリスト教婦人矯風会、朝日新聞、日本共産党、福井県小浜市発心寺(原田祖岳)、上智大学、間組、京都大徳寺、京都真珠庵、京都青蓮院門跡(東伏見慈洽)、西園寺家、近衛家の旧宮家と旧華族>である。
毎度でてくる「戦争指導者の巣窟」ではある。

星野直樹は東条英機の私設秘書的な存在であり、星野茂樹は“トンネル屋”で、星野芳樹は“日本共産党員、満洲浪人、理論物理学者、静岡新聞記者、アフリカに学校建設、日本水泳界の重鎮”と多才な顔を持つ。
星野直樹と星野芳樹の二人は、大満洲帝国で傍若無人な振る舞いをしていたのであるが、星野茂樹は鉄道省の仕事で「丹那トンネル工事、関門海峡トンネル工事」の監督をしていたと云うのであるが、旧鉄道省(現国土交通省)の工事記録を見られれば、星野茂樹の活躍ぶりも理解できるが、星野茂樹自身の著作がないので“トンネル屋”が本業か?との疑念がある。
石川九五と丹那トンネル工事に従事した証言は、<証言・私の昭和史、テレビ東京、文春文庫刊>に有り、関門海峡トンネル工事に関しては<昭和17年11月、鉄道トンネルの開通に力を尽くした鉄道省下関工事事務所長星野茂樹らに木杯が下賜された際の裁可書>が存在している。

鉄道省に在職していたのだから、“元首相 佐藤栄作”と面識がないと云う事は考え難い。佐藤栄作と面識があれば、岸信介とも繋がり、其処から大満洲帝国に連なる、東京帝国大学系の「満洲帝国官僚の人脈」に繋がるのである。

当時の状況からして、星野茂樹が“大満洲帝国”に一度も足を踏み入れなかった事は更に考え難い。星野茂樹の細君(鳥居はな)が虚弱体質で、星野茂樹夫婦は“ままごと遊びの様な夫婦”だったと、星野芳樹は証言して居る訳だが?星野直樹が大蔵省から推薦されて、「満洲国務院 総裁」になったという証言は偽証である。星野直樹は大満洲帝国建国に始めから関わっていたから「満洲国務院 総裁」に就任できたのである。
又、東京帝国大学在学中に満洲旅行をしている筈だが、そこの部分は抜けている。

そう云った意味で<星野直樹、星野芳樹、星野茂樹>は、満洲で諜報活動をしていたのである。
当然の事ながら、諜報員としての名前には“伏野愿城(ふしの はれき:兵 アムール州・第19収容所 第2017病院 ザヴィチンスク死亡)”姓などを使用していた訳である。

さて、星野茂樹は満洲全土の地質調査報告書を作成して、日本製原爆製造の原材料“ウラン鉱脈”発見に貢献しているのである。
星野芳樹は、日本共産党幹部なのだから、当然、満洲中央銀行総裁西山 勉の秘書“大森寿恵子(日本共産党 書記 宮本顕治の夫人)”とは、昵懇と考えるのが自然である。
大満洲国の下町の情報を、兄星野直樹や大森寿恵子に報告していたのである。又、星野芳樹が共産党員として官憲に逮捕勾留されていた時期に、拘置所内で「理論物理学書を原書で読んだ」と云う事と、戦後原子力の平和利用を合法化した、日本共産党員で反ファシズムを標榜していた「武谷三男(京都帝国大学理学部卒)」が、特高に検挙されたら、取調室で「原爆製造の理論式を書いて、日本製原爆製造に積極的に協力した」のと同じ事を、星野芳樹もしていたのである。

星野直樹の根幹を形成する思想は「ブルードンは財産は盗賊だといってるぞ」と云うのだから、中国東北部を“大満洲帝国”として「国を盗んだ」訳である。
それを承知の上で、<前航空幕僚長 田母神俊雄と、上智大学名誉教授 渡辺昇一>は、日本の行為は「侵略(盗賊)ではない」と述べているのだから、やはり防衛省と日本の大学教授は“盗人たけだけしい連中”の集団だね。
星野直樹と東条英機は、“大満洲帝国”の官僚と軍の象徴的な存在である。その星野直樹が「盗賊」だと云うのだから、その思想で行動していた事は間違いないのである。次に星野一族と野田一族の関係を述べる。

星野直樹(ほしの なおき、官僚:満州国務院)
星野茂樹(ほしの しげき、官僚:鉄道省)
星野芳樹(ほしの よしき、官僚:日本共産党からアフリカまで)
星野花子(ほしの はなこ、戦前からアメリカ在住)
野田 豊(のだ ゆたか、朝日新聞記者、陸軍大佐、野田経済研究所長)
野田皓一(のだ こういち、ウズベキスタン抑留、朝日新聞記者)






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by yumimi61 | 2017-05-31 23:35
2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-486-
明治維新の志士たちは、お金もないのにヨーロッパの協力を得たせいか、倒幕どころか世界征服の野望を持っていた。
日清戦争と日露戦争に勝利し、借金はその野望は膨らむばかりだった。
第一次世界大戦では空前の好景気に沸いたが、沸いたものは必ず冷める。この地球上に冷めない熱湯はない。
数年後には空前の不況が襲い、1930年頃には恐慌が起こった。
職を失い失望した人々は島にはない何かが大陸にはあるかもしれないと夢を見て海を渡った。
1932年には日本主導で満洲国が建国された。

日露戦争終結から3年後の1908年、泰平組合が設立される。
泰平組合は、三井物産、大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立され、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合である。

・大倉商事―大倉財閥の商社。新潟出身の兵器商だった大倉喜八郎が大久保利通や伊藤博文らとの親交により一代にて大財閥を築き上げた。海外支店を開設した初の日本企業(1874年にロンドンに)。

・高田商会―1880年、三条実美太政大臣(公家)により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう通達を出した。これによりその3年前にドイツ人により設立され、兵器商社として主に政府機関を取引先としていたベア商会が廃業に追い込まれ、ベア(バイル)はドイツに帰国した。ベアはユダヤ人であった。
そして同商会の番頭であった高田慎蔵、同じく同商会にいたイギリス人のスコット、ドイツ商人が設立した兵器商社のアーレンス商会(ベア商会のベアも高田も最初はここで働いていた)の出資により、内商であることを明確にするため高田慎蔵を名義人とした上で1881年に設立された。ベア商会の商権は同商会に買い取られた。高田商会も兵器商社である。
高田慎蔵と三井物産の初代社長はともに佐渡出身。

どの商社も日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で大きな儲けを上げた。
しかしながら高田商会は不況と関東大震災で被災により1925年に倒産している。
倒産した高田商会の後釜が三菱商事で、泰平組合は昭和通商(株主:三井物産・大倉商事・三菱商事)という名称で再出発した。

表向きは民間の商社として活動を開始したが、その実態は駐在員(多くは予備役の軍人だった)が現地で情報収集など諜報を行ったり、朝鮮・満洲・蒙疆で生産された阿片を中国市場に持ち込み、里見甫らの宏済善堂(阿片の分配のための阿片問屋。里見はその副理事長(理事長空席))を通じて換金し、戦争遂行に必要な戦略物資の調達にあたるなど、様々な活動を行っていた。

また、駐在武官が軍機内容の通信を陸軍省と行う際に、在外公館の無電を通さずに同社の無電を用いて暗号文を打電する“昭和通商依頼電”(いわゆる“依頼電”)など、日本陸軍の独自外交ルートとしても活用され、南京軍事法廷で死刑判決を受けた田中軍吉少佐が、昭和通商ハノイ支店長を務めていた事でも知られている。



吉田茂(旧名:竹内茂)が養子となった吉田健三(40歳で死亡)はジャーディン・マセソン商会の商人であった。
この商社もアヘンを扱っていて香港上海銀行設立時に出資している。

安倍首相の祖父・岸信介は1936年に満洲に渡った。
建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。
昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された。
東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴のまま無罪放免されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。


岸信介と吉田茂は、昭和通商の里見甫とともにアヘンの密輸出入や販売に携わっていた。
アイゼンベルグがサッスーン一族を駆逐してアヘン販売網を奪取できたのは、この日本勢の協力があったからである。
上海から日本に来たアイゼンベルグは里見甫とも出会っていたのである。

アメリカのラッセル商会でアジア担当だったウォーレン・デラノ・ジュニアが紅幇いう中国の秘密結社と取引をしており、その紅幇は蒋介石を支援したと前記事に書いたが、イギリスに貢献したサッスーン商会もやはり蒋介石を支援していた。
その蒋介石は日本と戦っていたわけだから次のような関係になる。
これはもうアメリカとイギリスは蒋介石を支援するしかない。
でもアメリカとイギリスは歴史的背景からしてそれほど仲が良いわけではない。

  蒋介石(中国国民党)vs日本・アイゼンベルグ
  ラッセル商会(アメリカ)vs日本・満洲・昭和通商
  サッスーン商会(イギリス)vs日本・満洲・昭和通商・アイゼンベルグ

厄介なことに清(中国)には次のような対立もあった。

  漢民族vs満洲民族(少数民族であるが清の支配層であった)
  漢民族(原住民)vs漢民族客家(北から南下してきた漢民族で我こそが正統であると主張する)
  満洲民族vs漢民族客家
  国民党vs共産党vs北洋軍閥(満洲は北洋軍閥の流れを汲む)

満洲は日本に置き換えられるので、中国(国民党)と日本(北洋軍閥・満洲)の勢力どちらもを抑えたければ共産党を支援するしかない。
サッスーン商会を潰されたイギリスにとってはアメリカを牽制する意図もある。さらに余計なことをさせないためにイギリスはアイゼンベルグも取りこんでおいたのだのだろうか。
ともかくロスチャイルドはアイゼンベルグによってアジアのアヘン市場をだいぶ縮小させられてしまった。

この頃、岸信介はアメリカのロックフェラーが二大政党制を強く主張しており、民主党の支援者になっていることを聞かされる。
それはつまり「ロックフェラーさんは、ロスチャイルドに対立して共和党を支援しているのに、民主党も支援しているんですよ~まったくねぇ」という話である。
ロックフェラーは元はロスチャイルドの子分のようなものだから、親分に忠実(民主党支援)であるふりもしなければならないし、かといっていつまでも子供でいるというのもどうかということで共和党を支援してみたりする。





 

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by yumimi61 | 2017-05-31 00:54
2017年 05月 30日
日本国憲法の秘密-485-
ラッセル商会でアジアの麻薬と奴隷の輸出入を担当していた取締役がウォーレン・デラノ・ジュニア。
紅幇(ほんぱん)という名の中国の秘密結社と取引があった。(もうひとつ青幇という名の秘密結社もある)
経済的活動を中心とする互助的な組織。省外や海外などの異郷にあって同業・同郷・同族によって組織される。厳格な規約のもとに強い団結力と排他的性格を持つため秘密結社と呼ばれる。
当初は水運業の組合組織だったが、水運業が廃れ始めるとアヘン、賭博、売春を資金源とするようになった。
日中戦争において蒋介石が首都南京が陥落し重慶に政府を移した時に多くの紅幇が政府に協力した。(日本には勝ったものの蒋介石は戦後に中国共産党に敗れて台湾に移った―中華民国)

ウォーレン・デラノ・ジュニアの孫にあたるのが第二次世界大戦中のルーズベルト(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領である。
デラノ家は中国とアヘンを中心とした貿易を行い財を成した家系。その始まりはラッセル商会にある。
ノーベル賞を受賞したセオドア・ルーズベルト(共和党)とフランクリン・ルーズベルト(民主党)はもともと親戚関係にあった。
(さらにフランクリンは、)セオドア・ルーズベルトの弟エリオット・ルーズベルトの娘であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。
エレノアはイギリスの女学校で学んでいる。 戦後1952年まで国連のアメリカ代表を務めた。


この2人、党との関係性が何だかおかしい。
民主党系にバイアスがかかっているはずのノーベル賞を共和党のセオドア・ルーズベルトが受賞した。
セオドア・ルーズベルト大統領は大統領就任式に聖書を使わなかった唯一の大統領。
聖書重視のプロテスタント(もっと言えばキリスト教原理主義者)とは思えない行動である。
アメリカ共和党の支持母体はキリスト教原理主義と言われている。
政治スタイルもそれまでと違う民衆を味方に付ける方法を取り入れた。
一方のフランクリン・ルーズベルト。彼は原爆開発に乗り気ではなかった。科学を積極的に取りこんだリベラル民主党っぽくないのである。
そして終盤戦(原爆投下時)は同じく民主党のトルーマン大統領に変わった。
ブッシュ家はSkull and Bonesだけでなくラッセルにも関係しているがキリスト教原理主義で共和党である。

ラッセル商会の取締役にはアルフォンソ・タフトもいた。
タフト家も後に大統領を輩出する。 連邦準備制度を相談したジキル島会議が行われた時に大統領だったウィリアム・タフト(共和党)である。

現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。

黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。


この時(1912年)は誰が大統領になっても良かったのではなく、民主党のウッドロー・ウィルソンを勝たせたかったのであろう。だから共和党の票を割るためにノーベル賞受賞者である元大統領セオドア・ルーズベルトが引っ張り出された。
アメリカ民主党はイギリスやカトリック、ロスチャイルド寄り。
アメリカ共和党はアメリカ独立や聖書を重視している。ここにロスチャイルドからの完全なる分離独立を画策するロックフェラーが付いた。
第二次世界大戦はロックフェラーが仕掛けたのであろうということは前述した。
セオドア・ルーズベルトは共和党でありながら民主党(リベラル)(もっと言うとイギリスやカトリック)に近い政治家であった。
そして第二次世界大戦中のフランクリン・ルーズベルトは民主党でありながら共和党に近い政治家であった。
当時はまだ2期までという決まりが無く史上唯一4選(1933年3月4日~1945年4月12日)している。がしかし、原爆開発には積極的ではなかった。

デラノ家とルーズベルトの出現によって世界は混沌としてくる。



香港上海銀行はアヘン貿易がもたらした銀行とも言える。そして昨日このように書いた。
ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。


その中のデイヴィッド・サッスーン商会。
設立者はデイヴィッド・サスーンである。
インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。


このように世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。
ではそのアイゼンベルグとは何か?

・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。


ショーン・アイゼンベルグ(ショール・アイゼンバーグ、シャウル・アイゼンバーグ)という人物がいる。
その「アイゼンベルグ」だという。

ショーン・アイゼンベルグ(1926-1997年)
旧ハザール王国領に隣接していたウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域のうちポーランドに属するガリチア出身の貧しい労働者階級のユダヤ人の両親もと、1926年にドイツのミュンヘンで生まれた。

ここで一つ大きな疑問がある。
アイゼンベルク(アイゼンバーグ)はドイツの地名である。
ドイツ出身ではない一族がなぜドイツ名なのか。おそらくどこかで改名したか偽名だろう。
  
ドイツは第一次世界大戦(第一次世界大戦はロスチャイルドの庇護無しで驚異的に発展したドイツが脅威だったから起こったと思われる)に敗れて民主的共和制のワイマール政権となる。
この頃のドイツ共産党(KPD)の党員の多くがユダヤ人であった。そしてソ連の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。
王族やローマ教皇、貴族やロスチャイルドなどは旧体制を代表するものである。それらは共産主義が目指すものではない。旧体制にとっては目の上のタンコブ。ドイツの発展が脅威だったように共産主義インターナショナルもまた脅威だったのであろう。
共産主義インターナショナルは独裁で暴力的でろくな組織ではないと吹聴し、それを排除するために多額の資金が提供された。それもユダヤ資本と言われている。
 共産主義インターナショナルに参加していたユダヤ人、
 それを撲滅するために資金を提供したユダヤ人、
相反する2種類のユダヤ人がいることになる。これも混乱のもとになっている。

第二次世界大戦の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)は親カトリック国で反共産主義インターナショナルの同盟であった。

ユダヤ人であるアイゼンベルグ家は1938~1939年にかけてアルプスを越えてスイスに入った。
スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。
第二次世界大戦がの最中にオランダから中国の上海に向った。上海には各国・各組織の諜報員たちが蠢いていた。
そして日中戦争の最中の1940年にショーン・アイゼンベルグは日本にもやって来た。
彼は日本で、日本人女性と結婚したオーストリア人の画家と接触した。その画家もスパイだったのだろうか
日本人女性は官僚の家系の娘だったという。
こうしてアイゼンベルグは財界四天王の一人である永野重雄を紹介され、終戦直後にスクラップ工場を設立している。
またアイゼンバーグは日本人と結婚して日本国籍を取得している。
そのお相手はオーストリア人画家と官僚家系日本人夫妻の娘だという説もあれば、永野重雄の娘とする説もある。(永野重雄の次女の夫は日本銀行職員) いずれにせよその娘はユダヤ教に改宗した。

永野重雄については何度か書いているが、先日も登場した
ソニーの盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した1989年に入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎(カトリック教徒)について書いていた時である。

歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。

全日空(ANA)の前身は朝日新聞航空部である。
会社設立に協力したのは永野重雄。若狭得治に「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と言わしめるほど。
何で急にANAの話が出てくるかと言うと、航空機のことを書いていた過去記事にも経済同友会が出てきたからである。
経済同友会を創立し初代代表幹事に就任したのは他でもない永野重雄である。



これも不思議だが、イギリスに貢献したサッスーン一族を殺して麻薬販売網を力ずくで奪い取ったアイゼンベルグを、イギリスの国有会社インペリアル・ケミカル・インダスト(ICI)の日本での代表者としてイギリス政府が指名し、それによって彼は世界的なビジネス・コネクションを手に入れた。
もっともイギリスは王室と政府(貴族と庶民)という2つの権力があるので、事と場合によっては在り得るかもしれないが。
アイゼンベルグはもちろんアメリカとのコネクションもあった。
パキスタンに原発を売ったのはこのアイゼンベルグで、パキスタンが原爆を開発しつつあるとのキャンペーンを張ったのはアメリカとイスラエル。

スパイ(諜報員)はスパイと名乗って近づかない。詐欺師は詐欺師と名乗って来ない。
思想も主義もない金が全ての人もいる。ある力だけを買われた前後左右の関係や背景をよく知らない人物も増えてくる。
マインドコントロールによって意味も分からず動かされる人もいる。
世界はいよいよ複雑になり、表面的なことだけでは真実は見えにくくなっている。








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by yumimi61 | 2017-05-30 13:16
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-484-
前記事に書いたシェルバーン家はスイスユニオン銀行(UBS)の経営一族でありスイスの金融家でもあった。
ロスチャイルドなどに有利な条件で資金を貸し付けてきた。
シェルバーン家に財産を管理させたのがキャボット家。キャボット家の創始者はアメリカ大陸発見者。
キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族、企業にさらに貸し出す

ジョン・キャボット
中世の航海者。カトリック教徒。北アメリカ大陸の発見者として知られる。
コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、ヴァイキングの航路を辿ってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。この二度目の航海でデラウェアとチェサピーク湾を発見したことは、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。


セバスチャン・キャボット
16世紀のイギリスの航海者。父と共に北アメリカ大陸の発見者に名を連ねる。
ヴェネツィアの航海者ジョヴァンニ・カボートの子として生まれる。1484年にイギリスに帰化。1497年には、ブリストルを出航してアジア航路を開拓する船団に参加。父ジョヴァンニは翌1498年の航海途上で亡くなるものの、セバスチャンはその遺志を継ぎ、1508年には北アメリカの東海岸を探検する。そこでは後のハドソン湾、ハドソン海峡を発見し、南北をなぞるようにフロリダまで達した。

しかし、父子ともども庇護を受けたヘンリー7世の死後、後を継いだヘンリー8世が出資に消極的であったためにイギリスでの活動を諦め、1513年に英国王の使節として赴いたスペインにそのまま移住。宮廷に仕えて主席水先案内人の地位を得る。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。1533年に赦免された後はイギリスへ戻り、「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands、モスクワ会社の前身で、レバント会社やイギリス東インド会社の先駆者)といった会社の総支配人や製図業者として北極海を通したロシア貿易航路探検隊や北東航路探検隊を組織し晩年を過ごした。


庇護したヘンリー7世と出資に消極的だったヘンリー8世、この2人の何が大きく違うかと言うと、カトリックとの関係である。
結婚離婚や世継ぎを巡ってローマカトリックと揉めて、イングランド国教会をカトリックから分離独立させたのが、ヘンリー8世(在位:1509-1547)である。
さらにアイルランド王を兼務するようになったのもヘンリー8世の時からである。
しかし再びイギリスとカトリックは近づいて行く。それが1700年後半。
シェルバーン家はアイルランド貴族となり重要な役割を果たす。


大航海時代に貿易でお金になったのは、鉱石、麻薬、お茶、絹や綿繊維、香辛料、奴隷(移民希望者)など。
シェルバーン家もアヘンと奴隷で儲けたが、それはつまりキャボット家がアヘンと奴隷で大儲けしたということでもある。
イギリスは清(中国)とアヘン戦争したことからも分かるように国家ぐるみでアヘンを輸出していた。
麻薬の素晴らしいところは中毒性があるところである。
イギリスは中国から物を買うのに銀で支払っていたけれども、「銀なんかいらん、頼む、アヘンで払ってくれ!」とかなんとか言われたらしいから、イギリスにとっては中毒様様である。

ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。

そんなに美味しい商品(麻薬)ならばと、アメリカからも参入(というか権益を分けて上げた)。その1つにラッセル商会がある。
ラッセル商会
19世紀に極東で著名であったアメリカ系の貿易会社である。主に上海に拠点を置き、横浜にも支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入を中心に取引を行なっていた。
1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミドルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセルにより広州で設立された。


アメリカのアヘン輸入専売会社であるラッセル商会は、アヘンと中国人奴隷の輸出入業社で、アヘン常用者の中国人苦力(クーリー)を奴隷としてアメリカに運んで鉄道建設などに従事させた。常用者なのでアメリカでもアヘンを欲しがる。当然アメリカにも入っていく。

キャボット家はこのラッセル商会にも出資していた。またフォーブス家(世界の富豪を発表しているあのフォーブスです)も出資していた。

ラッセル商会設立者サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルはピューリタン(清教徒)系大外のイェール大学で「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones、S&B)も創設している。

Skull and Bones(S&B)
アメリカのイェール大学にある秘密結社。「The Brotherhood of Death」の異名がある。会員名簿は公開されている。ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した。

構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。週に二回ニューヘイヴンのクラブストリートのはずれの窓のないクラブハウスで議論をするために集まる。なおイェ―ル大学には他に、「スクロール&キー」「ベルセリウス」「ブック&スネーク」「ウルフズヘッド」と呼ばれる結社が存在している。
アメリカの大学に複数ある排他的結社の一つで、入会に関する一切が不明であり、ただ大学の「新入生の中から15人選出される」のみが判明している。

 入会式に関しては、「新入生がドロレスをする」「棺桶に入り、初体験などを告白する」と言われる。入会者へは高価な振り子時計が送られ、卒業の際には1万6000ドルが送られるという。

 322という数字に意味を付けている。「新入生には、322のナンバープレートを盗ませる」「入会に際し、頭蓋骨と322が描かれ、リボンがかけられた黒い封筒が送られる」「デモステネスの没年であるBC322年を基本とし、会員(ボーンズマンと呼ばれる)はBC322年を紀元1年とするカレンダーを使う」などと言われている。

 これに関し、スカルアンドボーンズは元来ドイツの大学の学友会で、W・H・ラッセルが、在学中ドイツへ留学したおり、むこうの学生と深い親交を結び、帰国後、フラタニティの名前を「322番目の」学生結社とした、という説がある。 

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリー(1966年)とジョージ・W・ブッシュ(第43代アメリカ合衆国大統領。入会時は1968年)が2人ともS&B出身だった。また、ジョージ・W・ブッシュの父である第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュ(1948年)や、祖父のプレスコット・ブッシュ(1917年)もS&Bのメンバーだった。

プレスコット・ブッシュはS&Bでハリマン家の息子ローランド・ハリマンと出会い、銀行家の道を歩み成功する。その後、二人はユニオン銀行の頭取と社長として、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンと深い関係を築いていく。
歴代のCIA長官はボーンズマンが務めている。その他、ボーンズマンは金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも存在している。

ボーンズマンen:Daniel Coit Gilmanは、en:Timothy Dwight V・アンドリュー・ディクソン・ホワイトの2人とベルリン大学へ哲学を学びに留学した仲間だったが、1856年にS&Bを Russel Trust Association として改組した。これはen:Russell Sage Foundationの前身である。


ブッシュ大統領は一般的にはS&B会員だったというよりキリスト教原理主義者(聖書重視の変わらない福音派でリベラルと対立する、プロテスタント)として有名である。


"Skull and Bones"という名称は儀式に頭蓋骨や骨を用いたかららしい。(なにせ秘密結社なので断定は出来ない)
それもアメリカ大陸の先住民であったアパッチ族の指導者のそれを利用したらしい。
ちなみにアパッチ族のアパッチはズニ族の言葉で敵という意味でフランス人が命名したもので自ら名付けた部族名ではない。(先住民同士でも敵味方があったわけですね)
アパッチ族
ヨーロッパからの移民(いわゆる白人)に対しても絶えず、強力で好戦的な部族であり、アパッチの有名な指導者として知られるコチーズ、マンガス・コロラダス、そしてジェロニモなどは、敵対したアメリカ陸軍やメキシコ陸軍から、獰猛な戦士、また熟練した戦略家として知られている。

こうしたことから"Skull and Bones"は有色人種撲滅を目指していたのではないかと言われることもある。
しかしながらイェール大学は反イギリス・反イングランド国教会のピューリタンがルーツにある。
確かに当初は反イギリス・反イングランドだったフリーメイソンやピューリタンが変異したことを考えれば、後の時代に出来た"Skull and Bones"はすでにカトリックやイギリスと繋がっていたと考えることも出来る。そこに秘密結社の背徳的な感じと奴隷問題などが相まって有色人種撲滅を想像しても不思議はない。
でもブッシュ大統領がキリスト教原理主義だったことから考えると、そういった組織だったとは考えにくい。
聖書の登場人物、ユダヤ人もアラブ人もアブラハムもモーゼもキリストもみな有色人種である。
だからアパッチ族の骨を使った儀式はむしろ獰猛な戦士・熟練した戦略家に肖ろうとするものだったのではないだろうか。
では"Skull and Bones"が思い描いていた敵は誰なのか?
イェール大学だけにイギリス?ロスチャイルド?リベラル派?カトリック?内紛的にアラブ人?イスラム?(ラッセルはトルコ産のアヘンを売り捌いていた。イギリス系は主にインド産)











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by yumimi61 | 2017-05-29 16:11
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-483-
押しも押されぬ世界的財閥となったロスチャイルドもロックフェラーも最初から財閥だったわけではない。
いいとこ200~300年の歴史。
ヴェネチアやスイスの金融の歴史はもっと長い。


ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争いである。
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた。
このハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。
ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。
ロスチャイルドは元々はヘッセン家の金庫番であった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)

■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)

1714年よりイギリスの王家がハノーヴァー出身となる。つまり反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)ということになる。
フリーメイソンは当初反イギリス・反イングランド国教会であった。つまり親カトリック。
アメリカに渡ったのは反イギリス・反イングランド国教会の教徒たち(ピューリタン)で、それはフリーメイソンとも深く関係していた。アメリカをイギリスから独立させた勢力とも言える。
啓蒙思想などを介してフランスのフリーメイソンにも応援を求めた。
それら勢力とアメリカで戦ったイギリス正規軍はヘッセン家(プロテスタント)が調達した。
一方イルミナティは親カトリック(親教皇)。ヘッセン家から破門された男爵が支援しており、神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)側に取り込まれ、反ヘッセン家(反プロテスタント)組織となった。


ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
         フリーメイソンvsイルミナティ   

右側サイドがやや劣勢に立つ。
そこに登場したのがナポレオン!ヨーロッパの王族や貴族は新しい敵を前に一致団結!!
この反ナポレオン勢力に資金を貸し付けたのがロスチャイルド家で、傭兵を貸し出したのがヘッセン家。
ナポレオンはカトリックの権威を利用しようとカトリックに近づく。
しかしナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
ナポレオン撃破に貢献したのはカトリックということで教皇の地位も上がりイエズス会は晴れて復活。
かつてカトリックに対立したヘッセン家は傭兵と郵便支配(ナポレオン戦争のドサクサに紛れてタクシス家を掌中に収めた)で大儲け。ヘッセン家の財産はロスチャイルドがロンドンに移し守ってくれた。
両者win-winで万歳!!


●イギリスの諜報活動担当:シェルバーン家

シェルバーン家はアイルランド貴族。
イングランドの君主(王)がアイルランドの君主を兼ねるようになったのが1509年から。
シェルバーン家は「伯爵」という爵位を1719年に与えられた(1期)。元はアイルランド議会の議員であった。
貴族は基本的に世襲だが国家功労者などに与えらえることがある。
最初のシェルバーン家(伯爵)は継承者なく一代で途絶えてしまう。
次にまたシェルバーン伯爵の称号が与えられたのが1753年(2期)。1期シェルバーン伯爵のにあたる人物だったとか。
1766-1768年に首相を務めたウィリアム・ピットもシェルバーン伯爵の配下の一人であった。戦争をしたがらないウォルポールを批判して台頭した。1766年にチャタム伯爵の称号を与えられる。
1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。

※イギリスのシンクタンクである王立国際問題研究所(通称:チャタムハウス)はウィリアム・ピット一族所有の建築物である。
王立国際問題研究所と外交問題評議会(CFR)は姉妹機関。
"When a meeting, or part thereof, is held under the Chatham House Rule, participants are free to use the information received, but neither the identity nor the affiliation of the speaker(s), nor that of any other participant, may be revealed".
チャタムハウスルール (Chatham House Rule) とは、王立国際問題研究所に源を発する、会議参加者の行為規範である。チャタムハウスルールを適用する旨の宣言の下に運営される会議においては、当該会議で得られた情報を利用できるが、その情報の発言者やその他の参加者の身元および所属に関して秘匿する(明示的にも黙示的にも明かにしない)義務を負うというルール。このルールの適用により、参加者はその所属する組織への配慮や、発言が自らのものとして公表された際の影響を度外視しやすくなるため、進行中の問題や政治的な話題を取り扱う場であっても闊達な議論をもたらすとともに、情報の共有が促進されることが期待される。また、会議全体ではなく、その一部のみへの適用も可能である。このルールは、王立国際問題研究所において1927年に考案され1992年および2002年に改正されたものであるが、その適用は同研究所主催の会議等に限定されるものではなく、英語圏を中心に広く一般に用いられている。


なんでもかんでも出所(出典)を求めるなんてナンセンスですよね!?
それはともかく、シェルバーン伯爵の息子(2代目)もイギリスの首相を務めている(1782-1783年)。

イギリスの爵位
・公爵(Duke)・・・現在ならばウェールズ公チャールズやエディンバラ公フィリップ王配など。
・侯爵(Marquess)
・伯爵(Count)
・子爵(Viscount)
・男爵(Baron)
・準男爵(Baronet)
・騎士(Knight)

1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。
1714-1727 ジョージ1世
1727-1760 ジョージ2世
フリーメイソンはこの時代に創設されている。

シェルバーン家は、ヴェネチア、ジェノバ、ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドンなどを転々とし、アヘンと奴隷で莫大な富を築いた一家。
イギリス・フランス・スイスのイエズス会との関係を築き上げていて、フリーメイソンの上層部にいた人物でもあった。
シェルバーン伯爵は神秘主義(悪魔崇拝とも言われる)に魅せられていたという。
イエズス会が解散させられたのが1773年。
イルミナティはイエズス会が解散後のイエズス会の内紛をきっかけに1776年に創立されたとされている。(イルミナティ創設はイエズス会の中の親教皇派によるものではなかったということは前述した)
イルミナティ創設にはシェルバーン伯爵が関与していて、ここでプロテスタントのはずのイギリスとカトリックが明確に繋がり、さらにフリーメイソンとも繋がることになる。







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by yumimi61 | 2017-05-29 00:32
2017年 05月 27日
Horn
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"For there is no good tree that brings forth rotten fruit; nor again a rotten tree that brings forth good fruit."

Beetle spends most of their time on rotting wood or in decaying leaves.

I'm not a bug!

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by yumimi61 | 2017-05-27 23:57
2017年 05月 26日
日本国憲法の秘密-482-
【イエズス会について】

上智大学は学校法人上智学院のもとにあり、ローマ・カトリック教会に所属する男子修道 会の一つ、イエズス会が設立母体です。上智大学に隣接して建てられている聖 イグナチオ教会も宗教法人ですがやはりイエズス会の経営によるものです。

上智大学の使命は、カトリックの伝統とイエズス会教育の特徴を受け継ぐもので、「キリスト教ヒューマニズム」に基づく人間教育を中心に据えている。

<上智大学公式サイトより>

上智大学の他にも、聖心女子大学(美智子皇后出身校)、清泉女子大学などはイエズス会が設置母体となっている。
このイエズス会発の聖心女子大学と清泉女子大学に、ローマカトリック教会のシャルトル聖パウロ修道女会が設立母体の白百合女子大学を合わせた3校が東京都内でのお嬢様大学3Sとして有名。
3Sは全てカトリック系の大学である。
大学と聞けばすぐに偏差値を持ち出す人もいて、「そんなに偏差値高くないのにどうしてお嬢様大学なわけ?」とか言い出す人がいるけれど、お嬢様に偏差値は関係ありません!
日本の学校や教師はこうした宗教的背景のある学校であっても、生徒や保護者に信仰の有無や信仰している宗教を尋ねることもなく、もっと言うと世間における格式なども全く考慮せず、偏差値の妥当性だけで平気で薦めることが多々あるのだが、それはどうなんだろうと私は前々から少々疑問に思っている。
まぁいろんなことがどっちもどっち状態なんだろうけれども。

イエズス会は男子修道会であり、イエズス会系の学校も当初男子校であった。女子の入学が認められたのは1900年代以降が多い。上智大学が共学となったのは1957年。
イエズス会の初代会長を務めたイグナチオ・デ・ロヨラは「高貴な婦人に奉仕することが最大の理想であった」と後に告白したそう(下世話な話だけどマゾヒスティック?女王様・・)。
「高貴な婦人」が「聖母マリア」に投影されて、聖母マリアこそが理想の女性像になり、深い敬愛の念を抱いたんだとか(下世話な話だけれど処女性にサディズム?ジャンスカ的な?それともやっぱりセーラー服?)。
上智は元男子校だからあれだけど、イエズス会で最初から女子高というのは「高貴な婦人」=「お嬢様」=「奉仕されるべき女性」という発想なんでしょうね。

前記事にも書いたように1773年にイエズス会は教皇によって解散となった。
ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世(ロシア女帝)がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

イエズス会が細々と生き残っていたのがロシアとプロイセン。
プロイセンは当時神聖ローマ帝国内の王国であった。
神聖ローマ帝国は、このプロイセンと、神聖ローマ帝国の皇帝を世襲していたハプスブルク家のハプスブルク君主国が、広い領地を保有していた。
その他に多数の中小領邦国があった。
プロイセン王国は現在で言うとポーランド、リトアニア、ラトビア、ベラルーシ、ウクライナの一部辺りがその領地。

1814年、教皇(ピウス7世、イタリア貴族出身) によりイエズス会の復興が許可された。
その前後に何があったかと言うと市民革命であるフランス革命(1789年勃発)と、それに続くナポレオン戦争である。
フランス革命はアメリカは独立戦争より10年ほど遅れて起こった。
神聖ローマ帝国はナポレオンとの戦いに敗れて1806年に崩壊した。
(しかしハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北まで統治し続けた。)

フランスの市民革命やナポレオン戦争、それは旧権威・権力(王族やカトリック教会)との戦いだったはずである。
これをもう一度思い出してほしい。

ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                           −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)

・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)


イギリスとカトリック、カトリックと反カトリック勢力(プロテスタント)を繋げたのは「蓄財は悪ではない」のカルヴァン、黒い貴族、ヴェネチア・スイス金融家である。

市民やナポレオンが旧権威・権力と戦うためにはかなりの資金が必要である。
先日私は「フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ金融家 に付け込まれるようになった」と書いたが、誰が新勢力に資金を提供していたのか。
そしてナポレオンに権威を与えるのは誰か。
それがヴェネチア・スイス系の金融家、カトリックのローマ教皇であるならば、フランスはやはり上記ラインに取りこまれることになる。


フランス革命は旧体制との戦いである。当然革命側とカトリック教会(及び反革命勢力)は激しいい対立に陥った。
それを収拾するために、1801年、ナポレオンとローマ教皇(ピウス7世)との間で修好協約が締結され、フランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係を修復した。
ナポレオンは自身が皇帝になったことことからも分かるように、市民がイメージする市民代表者ではない。
そもそも十分な資金がなければ大規模な戦争なんて出来ない。
1804年のナポレオンの皇帝戴冠式にはローマ教皇が出席している。
またナポレオンはカトリック盟主の神聖ローマ帝国ハプスブルグ家の娘と結婚している。
ナポレオンは自分の権威を確かにするためにカトリックを選んだのだ。
以後カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復した。

ナポレオンはカトリックを利用した。
1804年のフランス訪問で「ナポレオンに利用されている」と感じた教皇とナポレオンとの関係は急速に悪化し、ナポレオンが教皇領を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを破門。
1809年、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアのサヴォーナに監禁した。ナポレオン退位後、1814年にようやくローマへ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。


天才騎士だったナポレオンは多くの敵を作り、ローマ教皇とも持ちつ持たれつの関係になれずに(教皇はすでに権威者であったし古参者もいた)、一時代を終えることとなる。
大規模戦争であったからこそナポレオンは天才と形容されたとも言えるが、資金の調達などを考えると皮肉なことでもある。
時代が終われば、迫害されたローマ教皇というイメージだけが駆け巡り、強かったナポレオンが落ちた分だけ教皇の地位は逆に上がる。
イエズス会が復活したのはナポレオンが失脚した1814年のことである。
ナポレオンにとって痛手だったのはロシア遠征での敗北やプロイセンの参戦である。これが失脚に繋がった。
ロシアやプロイセンと言えばそう、イエズス会が生き残っていた地域である。
ヨーロッパ諸国にイエズス会が再び認められたのはナポレオンという新たな敵を倒した功績によるものだったのではないだろうか。

復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。
弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。


教皇不可謬説
カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。

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アメリカ独立革命とフランス革命の双方において活躍し、「両大陸の英雄」(The Hero of the Two Worlds、le héros des deux mondes)と讃えられた人物がいる。フランスのラファイエット侯爵。
ラファイエット侯爵はベンジャミン・フランクリンの考えに共鳴し、1779年にはフリーメイソンへ加入している。フリーメイソンへの加入儀式を執り行ったのはアメリカ初代大統領となtったジョージ・ワシントン。
アメリカ建国に携わった人物はほとんどフリーメイソンだった。

ベンジャミン・フランクリン
父親はイギリスからアメリカに渡った移民。アメリカでは奴隷所有者であった。
父親にはイギリスで結婚したイギリス生まれの妻がいて一緒にアメリカに渡った。2人の間には7~8人の子供がいたが、妻は亡くなる。
ベンジャミンは妻の死後4か月後に再婚。さらに10人ほどの子供が出来た。(全部再婚した妻の子かは不明)
ベンジャミンはイギリス生まれの妻の子ではない。最後の方に出来た子である。

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。
個人崇拝を敬遠する
(?)アメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。

ベンジャミン・フランクリンは1730年にフリーメイソンに加入し、1734年にはグランドマスターとなる。
印刷業を営んでいたので発行物はお手の物。
図書館や学術協会を設立し、ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長を務めるようになると、印刷業から引退し公職に専念しつつ啓蒙思想の普及に身を捧げるようになる。
1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。
ベンジャミン・フランクリンは科学者でもあり、ロンドン・ロイヤル・ソサエティ(現存する最も古い科学学会、1660年にチャールズ2世国王の勅許を得て設立)の一員でもあった。
ベンジャミン・フランクリンはイギリスのトマス・ペインにアメリカへの移住を提案。これを受けて1774年にアメリカに渡った。
トマス・ペインはアメリカ独立戦争が始まった翌年の1776年1月に『コモン・センス』というパンフレットを発表、アメリカがイギリスから分離独立することが正当であることを簡潔に力強く訴えた。
このパンフレットがベストセラーとなり独立の気運が高まり、1776年7月4日にアメリカ独立宣言をする。(まだ独立戦争の最中で勝利したわけではない)。
ドイツでイルミナティが設立されたのは1776年5月のことである。

イギリスから独立すべきと煽ったのはイギリス出身者だった。
やはりフリーメイソンの当初の特色である反イギリス王(反ドイツ出身王)・反イングランド国教会がベースにあった。
そこに啓蒙思想や科学が取りこまれる。この橋渡しがベンジャミン・フランクリン。
後にフリーメイソンとイルミナティも結合する。

アメリカの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物だったそうである。
自由の女神が左手に持っている独立宣言書には、アメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命が勃発したバスティーユ襲撃の日である「1789年7月14日」がローマ数字で刻印されている。
またその足元にはかつてフリーメイソンのシンボルマークとともに以下のように記されているプレートがあった。
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AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK. GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT. THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.

(訳)この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。


1884年にフランスで仮組みし、それを幾つかに分解してフランス海軍輸送船でアメリカに運び、1884年8月5日に設置式典、1886年10月28日に除幕式が行われた。

ただ前述の対立するイギリスのフリーメイソン(グランドロッジ)とフランスのフリーメイソン(グランドオリエント)は1877年頃に公式に関係を断絶している。
従ってフランスに最初に出来た啓蒙思想に忠実なフリーメイソンではないと考えられる。
またフランスはナポレオン失脚後に王政復古し、15年後に7月革命(中流階級であるブルジョワ革命)が起きて、7月王政(立憲君主制、ブルジョワ支配、選挙権を持つ国民は1%に満たない)が18年ほど続き、王政が完全に終了したのが1848年のことで、1700年代のフランス政府と1800年代のフランス政府はかなり違いがある。
自由の女神にはフリーメイソンやイルミナティにとって何かと問題児だったフランスがやっと落ち着いたという意味もあったのではないだろうか。

なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言(1789年)の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。







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by yumimi61 | 2017-05-26 11:50
2017年 05月 25日
日本国憲法の秘密-481-
カトリック教会に異を唱え宗教改革が起こった16世紀以降に出来た新しいキリスト教会(宗派)をプロテスタントと言う。
これを福音教会(福音派)とも言う。
教皇だとか誰か他の偉い人の言葉を信じて動くのではなく、聖書を唯一の神の言葉と信じる教会である。(万人司祭主義)
何故こんな考え方が生まれたかと言えば、カトリック教会が権威を振りかざし信徒の信仰心を利用してお金を吸い上げ腐敗していたからである。

当時改革派だった福音派(プロテスタント)も時代が進むと保守派と呼ばれるようになる。
それは科学の発達(科学信仰)によって、聖書に記されていることをそのまま受け入れることを拒否する人が現れてきたからである。
こうした聖書批判が行われたことによって聖書を信じない、あるいは聖書の記述をそのまま信じることは出来ない(新しい解釈なり変化が必要)という人も増えてきた。
このような立場を取る人達をリベラルと言ったりする。
しかし依然福音派を信じる人もいる。
特に近代主義や合理主義の先端を行くことを自負するアメリカにおいて、科学者が提唱した進化論、人工妊娠中絶や同性愛などを頑なに拒否する福音派の人達は「キリスト教原理主義」と非難や侮蔑の意味合いを持って呼ばれる。
共和党の支持基盤だと言われ、ブッシュ大統領の信仰心が有名である。
でも「キリスト教原理主義」(プロテスタント、福音派)はもともとはカトリックに対立した改革派であった。

宗教改革はドイツのルター(ルーテル派)が有名だが、同じ頃スイスのチューリッヒでも宗教改革が起こっていた。
指導者はフルドリッヒ・ツヴィングリ。
カトリック教会制度に疑問を感じはじめ、やがてルターと同じく聖書や信仰こそが大事であるという万人司祭主義をとるようになる。
しかしながらその他の点についてはルターとの一致点を見出せずルターとも対立した。

神父であることからも分かるようにルターは元々は熱心なカトリック教徒であった。
おそらく神学博士として聖書を研究すればするほど乖離するものが増えていったのだろうと思う。
そんなルターがカトリック体制に反旗を翻した。
なるほど説得力のある話である。

しかしルターは「95のテーゼ(95ヶ条の論題)」をラテン語で記述したのだった。
すでに述べたように1300年中頃の黒死病の大流行を経てラテン語は消滅しつつあった。
ラテン語を読める人などほとんどいない所にラテン語で掲示したというのだ。
神学博士ゆえのプライドか、ラテン語が消滅しつつあるにも係わらず公用語にしているローマ教会や何の疑問もなくローマ教皇やローマ教会を支持する無知な聖職者や修道士に対するアンチテーゼか。
それとも逆に神父であり博士であるが故の非常識さやバランス感覚の欠如がそうさせたのか。
いずれにせよ、その掲示だけで大きな反響と支持を集めることは困難である。


私はルターは利用されたのではないかと思っている。

(略)
こうしてローマ教皇は、東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)という4つの敵を抱えることになった。

しかし同時にヴェネツィアの地中海商業覇権がユダヤ人に変異をもたらした。
前に書いた「サタンは悪者ではない派」や「黒い貴族」が生まれたのである。
さらに事を複雑にするのがユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教を信仰すればユダヤ人になれるならば、ビジネスに成功したユダヤ人を見てユダヤ人になる(ユダヤ教に改宗・入信する)人もいるだろうと思う。
敵対関係にあって差別や迫害の対象になりやすいとはいえ、商いや金融においては「ユダヤ人」がブランド力になるからだ。
この変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったのではないだろうか。
つまりローマカトリックにとっては、味方のユダヤ人もいれば、敵のユダヤ人もいるという状態である。

その後、4つの敵の2つは消えていった。
東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)

一方、新たに反カトリックという敵が生まれた。
この反カトリック勢力と黒い貴族が近づいていったのではないだろうか。
変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったように。
ルターは利用されたような気がする。

さらに、変異したユダヤ人と黒い貴族は起こり方が似ているので、この両者を近い存在だと考えれば、複雑な関係が浮かび上がる。
  ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                              −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)



フルドリッヒ・ツヴィングリはチューリッヒで徹底的にカトリックに対抗し成果をあげていく。
そしてそれがスイス全土に広がりを見せつつあった。
スイスの州はカトリック派とプロテスタント派で武力衝突(スイス内紛)するようになる。(ドイツでも両者が武力衝突した)
その戦いの中でフルドリッヒ・ツヴィングリは志半ばで戦死した。
ツヴィングリの死後にその派閥に近づいたのが「蓄財は悪ではない」と説いたフランス出身のカルヴァンだった。
カルヴァンも蓄財を悪とした既成の教えを否定したのであるから改革派(福音派、プロテスタント)である。彼はジュネーブにいた。
ツヴィングリ存命時の勢いを失っていた反カトリックであるツヴィングリ派はカルヴァンの呼びかけに応じ合同信条を作成したチューリッヒ協定を結ぶことでカルヴァン派と合流した。
これが長老派教会となったのだ。
牧師と教会員から選ばれた長老とにより教会が運営されるため「長老派」と呼ばれる。主にスコットランドやアメリカに広まった。


ツヴィングリが生きている時には戦争をするほど反カトリックであった。
先日私は「長老派教会ほどカトリックと対立しなかったイングランド国教会」と書いたが、それはカトリックからの分離独立の過程が全然違うということなのだ。長老派の前史を指している。
カルヴァン派と合流して出来た長老派も一応プロテスタントである。しかしそれほど反カトリックだろうか。
上に再掲した文章がその答えのようなものである。
スイスの蓄財を橋渡しに融和した。そして反カトリックを隠れ蓑にした。

●カトリック
●プロテスタント(福音派・キリスト原理主義))⇔リベラル派
   ルター(ドイツ) ・・・ルター派(ルーテル教会)
   フルドリッヒ・ツヴィングリ(スイス) ・・・戦死。一応後継指導者がいたが勢いは失った。
                                           ↑呼びかけ ・・・カルヴァン派(長老派教会)
                                     カルヴァン(フランス→スイス) 




フリーメイソンは、反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリックの仲間が集った。
啓蒙主義のようにも見えるが、神や教会を否定しておらず純粋な啓蒙主義ではない。
クラブの資金はロスチャイルドが提供していた。

もうひとつイルミナティという秘密結社がある。(フリーメイソン創立から若干遅れて創立した。1700年代後半) こちらもロスチャイルドが資金提供。
これも前に書いたことがあるが、イルミナティは急進的な社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を主張する結社であるが、その設立はイエズス会学者からの迫害が動機にあったという。
設立者はカトリックの支配下に置かれていたバイエルンのインゴシュタット大学の教授。
その大学に集められた学者はみなカトリック・教皇(イエズス会)の配下にあった。
イルミナティの創立者はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学して、カトリック・イエズス会系の学者たちから教えを受けた。20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった人物である。
どこからどう見てもイエズス会系の学者であった。何故にイエズス会学者から迫害されるのか?

イエズス会は宗教改革でカトリックが危機に陥った時に創立されたものだが、1769年に就任したローマ教皇によって解散に至った。
これは反イエズス会(反カトリックではない)だったヨーロッパの諸王室から強い圧力を受けたからと言われてる。
その解散命令が却ってイエズス会系の学者達を団結させ、非イエズス会の学者達に様々な圧力を加えるようになったそう。つまりイエズス会系学者が非イエズス系学者を迫害したというのだ。
イエズス会の庇護のもとに育ったイルミナティの創設者はこの頃に反イエズス会の思想に染まったという。


イエズス会を解散したのは他でもない教皇である。それを裏切られたと感じればイエズス会が反教皇になってもおかしくはない。
何が言いたいかと言うと、イエズス会にも「相も変わらず教皇信奉派」と「教皇に裏切られたと恨んでいる派」がいたのではないだろうかということである。(ルーツはどちらもイエズス会)
イエズス会派  ×教皇精鋭部隊派  〇「利権などを失い教皇に裏切られたと恨んでいる派」
非イエズス会派 ×精鋭部隊以外の信徒 〇「相も変わらず教皇信奉派」=反イエズス会


「イエズス会学者からの迫害が設立動機」と言うと一見もっともらしいのだが実は真相が相当ぼやける。教皇との関係もぼやける。
その上、社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教や反王制を主張するとなると、フランスのフリーメイソンや啓蒙思想とも上手くいきそうな気配がある。
イルミナティはフリーメイソンに対抗してドイツで作られたと言うひともいる。つまりイギリス王(ドイツ出身)の周辺から始まったということである。

イルミナティの創設地であるバイエルンのインゴシュタット大学は、ドイツの州立大学であるルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(Ludwig-Maximilians-Universität München)の前身。
この大学には現在、かつて強烈に対立したカトリックと福音主義、両方の神学部があるという。


・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)

両者はイギリスの在り方ひとつで結合できる。
イングランド国教会が親カトリックになり、イギリスが王政をやめればよいのだ。
(よくよく考えればすでにそうではないか!)と誰か気が付いたか。
とはいえ、この融和もやはりロスチャイルドやスイスの金融家が橋渡ししている。
逆にヴェネチアやスイスには反カトリックや反教皇、反王政という風潮が全くないわけではなかったが、それを上手く収めたのは黒い貴族出身のイギリス王家だったのではないか。
こうして両者は一体化した。
もっともそれを知っているのは上層部の一部の人だけだと思うけれども。

          
                 








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by yumimi61 | 2017-05-25 14:06
2017年 05月 24日
rose
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by yumimi61 | 2017-05-24 23:51
2017年 05月 23日
日本国憲法の秘密-480-
カトリック、イングランド国教会、イギリスの王政と首相誕生、ピューリタン(反イングランド国教会)、市民革命、啓蒙思想、アメリカ植民地、旧約聖書(ユダヤ教)、アメリカ独立。

啓蒙思想やフランス革命、アメリカ独立に関係してくるのがフリーメイソンである。

フリーメイソンは元々は建築関係者の組合(職人団体)であった。
その当時建築職人の地位(評価)は比較的高かった上に、技術の伝承していかなければならない故、秘伝的な要素もあり、また厳しい掟も存在した。
現在に続くフリーメイソンはもちろん職人団体ではない。同じ名称を語った社交クラブである。
1700年前半にイギリスで誕生した。それはちょうどジョージ1世と、その息子ジョージ2世が王だった時代である。

フリーメイソンの信条(会員規定)の要約 ・・・メイソン版聖書
メーソンは、人に博愛と親切心を実行すること、貞操を守ること、血縁と友を尊敬すること、宗教の信条を受け入れ教義に従うこと、貧しいものを支えること、盲を導くこと、足の不自由なものを支えること、孤児に宿を貸すこと、祭壇を護衛すること政府を支持すること、道徳を教えること、学びを普及すること、人を愛すること、神を畏れること神の慈悲を請い幸福を望むことを教える(ラインは私によるもの)

フリーメイソンには神(宗教)への尊崇義務が存在した。但しその神(宗教)を公に特定はしていなかった。
啓蒙思想は王政や教会といった古い価値観を否定したものである。
よってフリーメイソンと啓蒙思想も相容れないはずなのだ。
そこで注目するのが「政府を支持すること」という信条。
このことからフリーメイソンは王政や教会という古い価値観(旧体制全般)を否定したのではなく、「王」を否定したのではないかと推測できる。
つまり首相や議員周辺で始まり広まったのではないだろうか。
フリーメイソンに集ったのは民衆ではなく比較的上流にいた人達である。
反王政と言うことになれば、王が頂点にいるイングランド国教会だって肯定は出来ないであろう。
逆を言えば、それ以外の宗教は容認できるということである(要するにカトリックはOKなのだ)。
「教える」が信条のメインなので啓蒙思想のようであるが、宗教や政府を否定していない。
カトリックの「代理人」になったといった感じだろうか。


これに対して神(宗教)までをも否定したのがフランスで最初に作られた(1733年創立)フリーメイソンだった。
神(宗教)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、政治的な会話をすることも禁じた。
これがイギリスのフリーメイソンとの確執を引き起こす原因となった。
フランスという国(一応カトリック国)はなかなか複雑である。
フランス最初のフリーメイソンには上流階級と中流階級に分かれた派閥があった。
1765年に派閥が衝突して中流階級が上流階級を追い出すことに成功。
追い出された上流階級派閥は別のグランドロッジ(グランドオリエント)を設立。これがさらに啓蒙思想に忠実な無神論的な組織となる。(もちろんカトリックもNOである)
残ったはずの中流階級ロッジは発展なく消滅してしまう。
フランスのフリーメイソンは庶民でも会員になれた。

しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。
英連邦メイソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。




宗教と関係しているのがお金。
キリスト教(カトリック)は個人の蓄財を悪しきこととして認めていない。お金持ちは救済されない。天国へ行けない。そんなにお金があるならば教会に寄付しなさいと言うわけである。(そんなカトリック教会は当時腐敗していた)
ところが宗教改革で蓄財は良いことと言った人物がいた。
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンである。
物事を比較する時には基準がないといけない。
基準もなく神に選ばれし人物かは分からないではないか。基準はお金である。お金が貯まる人は神の恩恵を受けている人であるから神に選ばれた人なのだと説いた。
お金や蓄財は悪である、欲にまみれている、汚い、人間を堕落させる、そう教えられ思い込んできたのに、そうではないと言う。
人々は神の救済を願い、また選ばれた人になりたいがためにお金を貯めるようになった。
目的は物を買うためではない。だから貯めたお金は出て行かない。
こうしてヨーロッパには銀行が続々誕生しお金が集まり資本となった。

銀行がお金を貸すのは王族や皇帝である。戦争なんかすると莫大な費用がかかる。貸し付ける額が違う。
大金を貸すからには土地や建物など担保をとっておく。返せなければ金貸しに渡るということ。
金融家の中には貴族の称号をもらった者もいた。(黒い貴族などと呼ばれる)
当時は貿易の要であったヴェネチアに本部を置く銀行が多く、ここで育った金融家がこぞってスイスに移ってスイスは金融立国となった。
カトリック教会や王族・皇帝が保有していた権威や権力や不動産をお金で絡め取った。
(思想や信条ではなく金融業で成り立っているのでその利害によってOKにもNOにもなる)



17~18世紀のイギリスとフランスは海上覇権や貿易利権などを争って対立関係にあった。
1700~1815年の115年の間のおよそ半分60年間は戦争状態であった。
1756~1763年の七年戦争(アメリカではフランス・インディアン戦争)では、北アメリカとインドの両植民地でイギリスとフランスが戦いフランスが破れて、フランスは植民地を失った。
1775~1783年がアメリカ独立戦争。アメリカの独立にもフリーメイソンが関与していると言われている。

コロンビア大学の設立は1754年。
おそらく最初の教授サミュエル・ジョンソンはイギリスのフリーメイソン系の人物だったのだろう。
反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリック、これで辻褄が合う。
アメリカはこの流れを汲んだ国であると言うことだ。



1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。王朝が変わったのだ。
ハノーヴァー朝の最初の王がジョージ1世である。
フリーメイソンが正式に発足したのはこの時代で発祥はイギリスのスコットランドと言われている。
ちょうど王朝の変化に重なるようにして誕生し発展した。

イギリス王家となったハノーヴァー(ドイツ)の家はヴェルフ家である。
中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。初期中世バイエルンに発し、その分家がユーラブルグントの王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その跡を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。

中世の神聖ローマ帝国はカトリックの教皇と結びつきが強い。どちちが偉いかで教皇と皇帝で揉めたこともあったけれど、両者は持ちつ持たれつで権威者になったので基本的にはセットな関係であった。(神聖ローマ帝国皇帝は主にハプスブルク家が継承した)
ヴェルフ家から唯一皇帝となったオットー4世の母方の祖父はイギリス王のヘンリー2世であり、オットー4世は幼少期をイギリスで過ごしている。
帝位争いをする頃にはカトリックの教皇とは味方になったり裏切ったりを繰り返し、神聖ローマ皇帝になった後の1210年にとうとう教皇から破門を宣告されるに至っている。

イギリス王を輩出したハノーヴァー王家は分家だった。
オットー4世の弟・リューネブルク公ヴィルヘルムの子オットーは、子のないオットー4世の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。14世紀にはヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世がルクセンブルク家のヴェンツェルの対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグストが選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。


王朝名の改称はしているものの現在のウィンザー家もこの家系である。
ジョージ1世がイギリス王になったことはカトリックにしたらおもしろくないであろう。
オットー4世がカトリックローマ教皇から破門された上に、イギリスもカトリックから分離独立してプロテスタントに属することにした国である。
フリーメイソンにはカトリック、特に教皇精鋭部隊と言われるイエズス会が関係しているはずである。
フリーメイソンに資金提供していたのはやはりロスチャイルドだった。
そしてそのロスチャイルドにもバックがついているらしい。


また話がややこしくなるが、ヴェルフ家は一度断絶しており、新ヴェルフ家は実は黒い貴族(ヴェネチアの金融家出身)なのではないかという噂がある。
だからこそイギリスは大英帝国として繁栄を極めることが出来たのではないか。
要するに黒い貴族出身のヴェルフ家が王に就いたイギリスは、ヴェネチア・スイスルートのコネクションの恩恵を受けられたのではないかということである。







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by yumimi61 | 2017-05-23 16:04