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2017年 06月 30日
日本国憲法の秘密-507-
ブッシュ政権で国家安全保障問題担当副大統領・チェイニー副大統領首席補佐官・ブッシュ大統領補佐官を兼任していたルイス・リビーの律家としての師匠というか上司というか親分というかが、アンドレ・マイヤー。
ラザード・フレールを代表する人物となった。
そしてゴア家、ケネディ家、リンドン・ベン・ジョンソン大統領をクライアントに持ち、CBSの会長を長く務めた。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである。

アンドレ・マイヤ―は顧問弁護士と紹介されていることも多いが、前記事に書いたように16歳で学校を中退しており、彼は法的な法律家ではない。(職歴もメッセンジャー→銀行マン)
「顧問弁護士」と言うよりも「顧問」と言った方が相応しいであろう。
もっとも松本重治がインタビューで次のように答えていたことがあるので(過去記事にも書いた)、上の方の世界では法的資格など別に必要ないのかもしれないが。

■国際弁護士時代
ある日、大船駅のホームで、いとこの松方正広君にばったり出会った。彼の弁護士事務所に机を置かして貰えまいかと頼んだところ、快く引き受けてくれた。・・・私は外国からの技術導入を専門に扱う「国際弁護士」になった。・・・私はジャーデイン・マデイソン社の顧問弁護士もやっていた・・・


日本では通常、大学の法学部や法科大学院(2004年に創設された制度)を卒業したからといって、弁護士になれるわけではない。
まず司法試験に受かる必要がある。その上で司法修習生として決められた期間の修習と研修を受け、最終試験に合格しなければならない。
松方重治は経歴を見る限り、日本でも外国でも弁護士資格を取得したような経歴ではない。
松本重治は日銀の松方家と親戚で、松方三郎と親友。ロックフェラーらと日本に国際文化会館を設立して理事長となった人物である。


ルイス・リビーはマーク・リッチの顧問弁護士だった。

マーク・リッチ(Marc Rich, 1934-2013)
ベルギー出身の起業家、相場師。スイスの商品取引大手であるグレンコア社の創設者。

ベルギーのアントウェルペンにてユダヤ人の家庭に生まれる。出生名は Marc David Reich。1941年にナチを避けて一家で渡米。高校卒業後、ニューヨーク大学に進学するが、一学期で退学。すぐにディーラーとして働き始め、貴金属取引の分野で頭角を現す。
1974年、グレンコア社の前身である商品取引会社マーク・リッチを共同創業。

イランからイスラエルに必要量の石油を極秘にパイプライン輸送で供給する合弁事業を何年にもわたって成功させた。イランとイスラエルとの間の非公式仲介者として活動し、またイスラエル諜報特務庁(モサド)の活動を財政面で支援した。アパルトヘイト政策のため経済制裁を受けていた南アフリカ共和国へ総額20億ドル(約1780億円) 相当の石油を販売した。

1970年代のオイルショックの際には巧妙な原油取引により巨億の富を手にした。しかし、パートナーのピンカス・グリーンと共謀して脱税やイランとの不正な石油取引を行った疑いで、1983年にアメリカの検察当局から起訴される。当時、リッチはスイスにいたが、連邦捜査局(FBI)の「10大重要指名手配犯リスト」に名前が載ったためにアメリカに帰ることは事実上不可能になった。1984年には欠席裁判で有罪判決を受けた。

2001年1月20日、任期終了数時間前のクリントン大統領から恩赦が与えられた。しかし、これに先立ってリッチの元妻デニス・アイゼンバーグ・リッチが民主党に総額100万ドル以上の献金を行っていたため、一部のメディアで「金で恩赦を買ったのではないか」と物議をかもした。クリントンの決定の裏側には、イスラエル政府からの嘆願や、リッチが献金していた名誉毀損防止同盟からの圧力も存在したと伝えられている。

リッチは赦免を獲得するや否や、石油・食料交換計画のスキャンダルに絡む事業でサッダーム・フセインと協力を行っている。



マーク・リッチは1966年32歳の時にデニス・アイゼンバーグと結婚した。(1996年離婚)

デニス・アイゼンバーグ・リッチは作詞家(Joy Denny)である。
シスター・スレッジ(アメリカ出身の4姉妹グループ)の"Frankie”という楽曲を作詞したことによって他の有名歌手の作詞も手掛けるようになる。
シスター・スレッジは1971年にマイナーデビュー、1972年にメジャーデビュー、1975年にアルバムデビュー。
1979年に“He's The Greatest Dancer”と“We Are Family”が大ヒットするも、その後は低迷。
しかし1984~1985年にイギリスで再びヒットする。
"Frankie”は1985年にイギリスで1位に輝いた。(アメリカでは50以内にも入らず)


マーク・リッチはまずフィリップブラザーズという非鉄金属のトレーディング事業を行う会社に入った。この会社はロスチャイルド系である。
宝の山とはよく言ったもので、非鉄金属を含む産業廃棄物のスクラップを買い取り、それを金属メーカーに持ち込んだり海外に輸出したりして、新たな金属としてリサイクルする事業がある。
アルミ缶などを集める廃品回収はお金になりますね?それと同じ。
レアメタルという言葉を聞いたことがあると思うが、あれも非鉄金属である。
買い取るということは、買取価格があるわけで、買取価格にはやはり相場がある。だから投機の対象にもなる。

日本に来たショーン・アイゼンベルグが新日鉄の永野重雄を紹介されてスクラップ工場を設立したと過去記事に書いたが覚えているだろうか?
まあ、そういうことである。

ユダヤ人であるアイゼンベルグ家は1938〜1939年にかけてアルプスを越えてスイスに入った。
スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。
第二次世界大戦がの最中にオランダから中国の上海に向った。上海には各国・各組織の諜報員たちが蠢いていた。
そして日中戦争の最中の1940年にショーン・アイゼンベルグは日本にもやって来た。
彼は日本で、日本人女性と結婚したオーストリア人の画家と接触した。その画家もスパイだったのだろうか
日本人女性は官僚の家系の娘だったという。
こうしてアイゼンベルグは財界四天王の一人である永野重雄を紹介され、終戦直後にスクラップ工場を設立している。
またアイゼンバーグは日本人と結婚して日本国籍を取得している。
そのお相手はオーストリア人画家と官僚家系日本人夫妻の娘だという説もあれば、永野重雄の娘とする説もある。(永野重雄の次女の夫は日本銀行職員) いずれにせよその娘はユダヤ教に改宗した。


ショーン・アイゼンベルグは日本に来てまず日本人と結婚したオーストリア人の画家と接触したが、マーク・立地の妻のデニス・アイゼンバーグ・リッチもオーストリアのデペロッパーと親密な関係がある。
「アイゼンベルグ」と「アイゼンバーグ」は言語による読みの違いであって同じ姓である。
この2人も何らかの関係があるのではないか。

今ではすっかり忘れているかもしれないが、私はデイビット・ロックフエラーが頭取だったこともあるチェース・マンハッタン銀行の日本人の国際諮問委員会メンバーについて書いていたところで、今は住友化学社長だった長谷川周重と住友に関連して話が広がっている最中である。
長谷川周重の妻の父親は禅を外国に紹介したという鈴木大拙のパトロンだった。
鈴木大拙とベアトリス夫妻には実子がおらず、イギリス人男性と日本人女性の間に生まれた子供を養子にしたのだが、その子は鈴木勝(アラン勝, Alan Victor Suzuki)で、後に『東京ブギウギ』の作詞者となるということを過去記事に書いた。
作詞者を送り出しているという共通点もあるのだ。

住友商事のサイトにはマーク・リッチとフィリップブラザーズに関する記述がある。

住友商事グローバルリサーチ 資源商社の盛衰
2015年10月23日 住友商事グローバルリサーチ 代表取締役社長 高井 裕之

世界最大の資源商社グレンコアの株価が9月末、上場時から9割近く下げた。ロンドン上場は2011年5月。上昇基調だった商品市況が下方転換したタイミングであり、資源ブームの潮目の変化を象徴するかのようだ。

 グレンコアの創業者は伝説の商品トレーダーと呼ばれたマーク・リッチ氏である。筆者も以前、ロンドンの夕食会でご一緒したことがあるが、一線を退いたとはいえユダヤ系のベルギー人トレーダーは神秘的オーラを放っていた。

 そもそも資源商社という業態はユダヤ系ドイツ人が1901年に創業したフィリップブラザーズ(略称フィブロ)が源流とされる。元来フィブロは非鉄金属を扱う商社で、リッチはそこで丁稚奉公をしつつ商売のイロハを学んだ。

 リッチは石油トレードで頭角を現す。1970年代に入り石油メジャーから主導権を奪還した産油国が独自で取引を始めた際に、リッチはその取引を仲介しフィブロの稼ぎ頭に躍進する。その後、彼が独立して興したグレンコアの前身が、自身の名前を冠した商社マークリッチだ。



ロスチャイルド系のラザール・フレールで育ったアンドレ・マイヤ―はアイゼンベルグの顧問であった。
ゴア家、ケネディ家、リンドン・ジョンソン大統領の顧問でもあった。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである
アンドレ・マイヤ―の部下のルイス・リビーはマーク・リッチの顧問弁護士だった。アル・ゴアの顧問弁護士もしていた。
ルイス・リビーは天然痘流行によって冬の北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定で怪しげな小説を書いている。
マーク・リッチの妻の姓はアイゼンベルグ。
ブッシュ政権で副大統領になったディック・チェイニーはアイゼンベルグの大株主であった。
アイゼンベルグは戦後、中国にいたサッスーン一族を駆逐して麻薬販売網を奪取した。日本に来たアイゼンベルグ他、日本の協力があった。サッスーン一族もロスチャイルド系である。

マーク・リッチは1973年の第一次オイルショックで億万長者となる。
その翌年ソ連に乗り込み、マークリッチという会社を設立して麻薬や武器の生産と販売を始めた。




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by yumimi61 | 2017-06-30 18:10
2017年 06月 29日
日本国憲法の秘密-506-
アル・ゴアの顧問弁護士だったルイス・リビー。

ルイス・リビー
ブッシュ政権で、国家安全保障問題担当副大統領、チェイニー副大統領首席補佐官、ブッシュ大統領補佐官を兼任していた。
ネオコンの代表的人物。
小説家としての顔を持ち、保守派に典型的に非難された種類の性的逸脱で満ちた『ジ・アプレンティス』(The Apprentice)を1996年に発表。天然痘流行によって1903年の冬に北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定。
2005年にプレイム事件(CIAリーク事件)で起訴された。


ルイス・リビーは、イエール大学の元教授で国務次官や国防副長官、世界銀行総裁などを務めたポール・ウォルフォウィッツの教え子である。
ポール・ウォルフォウィッツは親イスラエル(親ユダヤ)、親インドネシア(親イスラム)であり、親保守主義者(ネオコン)を代表する人物で対テロ戦争で重要な役割を果たした。
リビーが国務省に入ったのもこの師匠のおかげ。

リビーはイエール大学の後にコロンビア大学法科大学院法務博士課程を修了しており法律家である。
法律家としての師匠というか上司というか親分というかが、アンドレ・マイイヤー。

André Meyer(1898-1979)。
文字の上の点で分かると思うけれども(!?)、アンドレ・マイヤ―はフランス人である。
ユダヤ系の家系であるが裕福な家庭ではなかった。
16歳で学校を中途退学し、パリ証券所でメッセンジャーとして働き始める。
そのうち第一次世界大戦が勃発し、人手不足になった銀行に入る。
そしてラザール・フレールのレイモンド・フィリップに目を掛けてもらいラザール・フレールに入る。

ラザール・フレール
パリのラザード兄弟が始めたプライベートカンパニー(個人名義の不動産・株式・現預金などの資産を運用するための資産保有会社)である。株式非公開の投資銀行の最大手。ロスチャイルド系の投資銀行である。
 1852年パリ「ラザール・フレール」
 1870年ロンドン「ラザード・ブラザーズ」
 1880年ニューヨーク「ラザード・フレール」
経営が別だったが2000年に統合した。

FRB(連邦準備制度理事会)の5代目議長、そして世界銀行初代総裁であったユージン・マイヤーはラザート家の親戚である。
ユージン・マイヤーはワシントン・ポストの経営者だったキャサリン・グラハムの父である。

Katharine Meyer Graham(1917-2001)
アメリカ合衆国の新聞社経営者。夫のフィリップは1961年にニューズウィークを買収、後に謎の自殺を遂げる。キャサリンは1969年以後、アメリカの新聞ワシントン・ポストの発行人から社長、そして会長を歴任した。
マクリーン家からワシントン・ポストを買収したユージン・メイヤーの娘。夫フィリップ・グレアムの自殺後、同社を経営。
リチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件報道は、ワシントン・ポストの評価を高めると共に、報道に踏み切った英断を行った発行人として彼女の名を一躍有名にし、アメリカで最も影響力のある女性の1人として広く語られることとなった。


マルク・マイヤー(祖父)・・ニューヨーク「ラザード・フレール」勤務
ユージン・マイヤー(父)・・・ニューヨーク「ラザード・フレール」勤務
                 ユージン・マイヤー・アンド・カンパニーを設立
                 ニューヨーク証券取引所理事、戦時軍需品・財政委員会・戦争産業委員会メンバー
                 FRB理事・議長(5代目)、再建金融公社会長
                 世界銀行総裁(初代)
                 ※1933年にワシントン・ポストを買収した(1946年から娘の夫に任せた)。
キャサリン・マイヤー・グラハム(娘)・・夫の死後(1963年)にワシントン・ポスト経営者となる。


ユージン・マイヤーやキャサリン・グラハムのバックにはラザード・フレールがいたわけだが、そのラザード・フレールを代表する人物となったのがアンドレ・マイヤーである。
アンドレ・マイヤ―はゴア家、ケネディ家、リンドン・ベン・ジョンソン大統領をクライアントに持ち、CBSの会長を長く務めた。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである。

André Meyer, called "the most creative financial genius of our time in the investment banking world" by David Rockefeller, became one of the most important people in American business with an influence that extended around the globe.

Although he personally was publicity-shy, André Meyer was an advisor to the Kennedy family and a lifelong friend and advisor to Jackie Onassis. He was a friend and advisor to other high-profile public figures such as William S. Paley at CBS and Katharine Graham at the Washington Post. He was also a close confidant of U.S, President Lyndon Johnson, consulting at the Oval Office several times a year during Johnson's tenure.



前にロックフェラーのお家騒動のことを書いたけれども、ロスチャイルドにもそれなりにお家騒動がある。
ロスチャイルド5人兄弟で一番成功したのがイギリス家。
そのイギリス家にはイヴェリン派(分家)とジェイコブ派(当主・本家)がある。
両者はイギリス・ロスチャイルドの中核N・M・ロスチャイルド&サンに部外者を許すのかどうかなどで対立。(結局2010年に200年続いた同族経営に終止符を打っている)
イギリス家当主のジェイコブ・ロスチャイルドはN・M・ロスチャイルド&サンから締め出され、ここを所有しているのはイギリス家分家のイヴェリン(国籍はスイスに移した)とフランス家当主である。

アメリカで巨大に成長しロスチャイルドからの独立を画策したロックフェラー家(2世の子供達)の中でロスチャイルドと組んでいたのは末っ子のディビット・ロックフェラー。
N・M・ロスチャイルド&サンから締め出されたイギリス家当主のジェイコブ・ロスチャイルドは、ロックフェラー4世(本家で3世の息子)に近づいた。
しかしながら、ディビット・ロックフェラーも、ジェイコブ・ロスチャイルドも、ロックフェラー4世も皆さん力を落としているとか(ご高齢で亡くなった方もいるくらいですからねぇ・・)。
2000年前後からロスチャイルド系とロックフェラー系の銀行や企業の統合が相次いでいる。


ラザール・フレールの顧問になった日本人がいる。澄田智である。

澄田智(1916-2008)
群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。
群馬県高山村に陸軍軍人・澄田睞四郎の長男として生まれる。父方の先祖は伊予国宇和島藩士の家系。

1934年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生に中村彰(日本初の学士俳優)がいた。旧制第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。

戦後、大蔵省に復帰。銀行局長時代に金融効率化行政を手掛け、太陽銀行誕生に力を発揮、1969年8月から1971年6月にかけて大蔵事務次官を務めた。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、いわゆる「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。大蔵省局長級以上の人事に関しても、澄田 - 竹内道雄の大物次官経験者ラインが、大きな影響力を及ぼしていたとされた。

1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが、前川が輸銀時代には澄田の部下であったため(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省の「ロイヤル・ロード」を極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。

日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦と円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。1985年のプラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。


日本航空123便が墜落したりプラザ合意が行われた1985年の日銀総裁は澄田だった。
1989年に日銀総裁を退任し後、ラザール・フレール顧問に就任している。
1993~2008年という長期に亘り日本ユニセフ協会の会長を務めている。
ユニセフ(UNICEF:国連児童基金)は、「世界中の子どもたちの命と 健康を守るために活動する」国連機関だそうだが金融機関と考えて差し支えないないであろう。


澄田智は澄田睞(らい)四郎の長男である。
澄田らい四郎
日本の陸軍軍人。陸士24期、陸大33期。最終階級は陸軍中将。

本籍愛媛県。澄田忠興陸軍中佐の四男として名古屋で生れる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月砲兵少尉に任官し重砲兵第4連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、澎湖島重砲兵大隊付、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(第33期)を首席で卒業した。

由良重砲兵連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務(砲兵課)、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。

帰国後、陸大教官、参謀本部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。


澄田らい四郎は愛媛県の家系で、本人は名古屋で生まれ広島で育っている。
戦前からフランスとの関係が深かった人物。
第二次世界大戦中はインドシナ(ベトナムなど)、中国で任務に就いた。
その息子である澄田智が何故に群馬県生まれなのかと言うと、澄田らい四郎の妻・静枝が群馬県の高山村の出身だからである。
静枝は製糸と紡績業で財を成した高山の地主である松井家に生まれた。
静枝の父・松井貫一はキリスト教徒であり、高山村に教会(日本キリスト教団・名久多教会)を開いた信者の1人。
松井貫一の長男(静枝の兄)・松井萬緑は、加島銀行常務、大同生命取締役、第一銀行広島支店長を歴任した。

加島銀行や大同生命でピンと来るかもしれないが、NHKの朝ドラ『あさが来た』の主人公モデルである広岡浅子(大同生命創業者)と関係がある。
広岡浅子は三井家のお嬢様である。(しかしながら浅子は三井家男子が外に作った子供で母親も定かではない。浅子は三井家に養子入りした)
浅子の夫となったのが大阪の豪商・加島屋8代目の次男の広岡信吾郎(分家・広岡商店)。
夫は遊び人で、浅子が仕事に精を出し、本家(加島屋)と一緒に加島銀行を設立。その後、大同生命を創業。
浅子は三井家から嫁ぐ際にお手伝いも一緒に連れてきたが、夫はそのお手伝いと恋仲になり、お手伝いは広岡信吾郎の子を4人産んだ。(浅子との子は1人)
そのうちの1人が松井萬緑と結婚したのである。
ちなみに広岡浅子もクリスチャンである。

お手伝いが産んだ男児・広岡松三郎(大同生命取締役)の妻・澤田貞子の兄の妻は岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)の長女。
澤田貞子の別の兄の子供にはカトリック司祭にになったり、上智大学教授になったりしている者がいるので、カトリック教徒であると考えられる。
ちなみに今人気の(?)棋士ひふみん(加藤一二三、福岡県出身)もカトリック教徒である。

・1970年12月25日に下井草カトリック教会で洗礼を受ける。
・1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベの列福式に参列。列福式の前後にはヨーロッパ各地を訪れた(初の外国旅行)。1982年10月10日におこなわれたコルベの列聖式にも参列し、コルベの出身地・ポーランドも訪れた。
・1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない、と、将棋観戦記者である東公平に語ったのは、湾岸戦争の話をしていた時であった。
・自戦記などを書くとき、必ずと言っていいほどキリスト教のことに触れる。「キリスト教について」という章名を入れることさえある。「将棋世界」誌で自戦記を連載した際も、毎回必ず冒頭にキリスト教の話題を持ち出した。
・対局中の望ましい態度として、「元気いっぱい、明るい気持ちで、前向きに積極的に、快活で、勇気を持っていること(ひるんだり、弱気になったり、落ち込むのは良くない)」が大事であり、いい状態を持続させるために祈ったり歌を歌ったりする。
・夫人と共に、麹町の聖イグナチオ教会で、カップル相手に結婚講義を行っている。


ちなみに将棋ソフト不正使用疑惑を掛けられた三浦弘行九段は群馬県出身である。



日銀総裁からラザール・フレールの顧問になった澄田智の父親・澄田らい四郎は「中国山西省日本軍残留問題」の中心人物である。

残留の発端は、中国共産党軍(中原野戦軍)と対決していた閻錫山が内戦の本格化を見越し、日本人らの大規模残留を希望。これに城野宏や河本大作ら現地の関係者が同調し、結果、当時3万人いた民間人のうち約1万もの人数が残留に応じる。

閻錫山は、蒋介石の中国国民政府の軍人であり重鎮である。
第二次世界大戦前後の中国にはこのような関係があった。

  蒋介石(中国国民党)vs日本・アイゼンベルグ
  ラッセル商会(アメリカ)vs日本・満洲・昭和通商
  サッスーン商会(イギリス)vs日本・満洲・昭和通商・アイゼンベルグ

  漢民族vs満洲民族(少数民族であるが清の支配層であった)
  漢民族(原住民)vs漢民族客家(北から南下してきた漢民族で我こそが正統であると主張する)
  満洲民族vs漢民族客家
  国民党vs共産党vs北洋軍閥(満洲は北洋軍閥の流れを汲む)


大戦で日本は敗北した。蒋介石(中国国民党)は連合国サイドに立って日本に宣戦布告したのだから、蒋介石(中国国民党)にも敗北したという形になる。
中国では戦後に国民党と共産党の内戦が始まった。
そして天下を取ったのが中国共産党(中華人民共和国)で、台湾に追いやられたのが中国国民党(中華民国)。
日本は国民党と戦っていたのだから国民党は憎きライバルだったはず。
ところが反共産党で団結し、そのライバル国民党と手を組んだというのだ。(日本はよっぽど共産党がお嫌いなのですね)
戦う気満々だったのか、ただの残留希望なのか分からぬが、現地に3万人いた日本人民間人(戦時中にもかかわらず敵国に3万人もの人がいたのですね。満洲中心かな)の実に1/3が中国残留を希望したという(調査したんですかね?)

これに日本軍の一部(当時山西省を担当していた澄田睞四郎中将麾下の支那派遣軍第一軍将兵59000人)が同調。紆余曲折の末、在留邦人および日本兵を合計した約2600人が戦闘員(特務団)として現地に残され閻錫山の軍隊に編入、終戦後も4年間の内戦を戦うこととなった。
4年間のうちに約1600名は日本へ内地帰還できたが、残り約1000人のうち約550名が戦死、残りは人民解放軍により長きにわたる俘虜生活を強いられた。

この残留では、A級戦犯としての追訴を免れると同時に日本軍兵力の温存を望む澄田睞­四郎と共産軍と戦うために国民党軍の戦力の増強を目論んだ閻錫山との間で不明朗な合意が結ばれ、当時の現役日本兵のうち残留を希望しない者も正規の軍命により残留を余儀なくされたと主張する元残留日本兵が、軍人恩給の支給を求めるという形で訴訟を起こしている。

しかし、日本政府は残留兵を「志願兵」とみなして「現地除隊扱い」とし、原則として恩給等を補償しないという姿勢である。2005年には本件で最高裁判所に上告したが敗訴している
。仮に日本政府がこれを軍命による残留と認めると、ポツダム宣言に定める日本軍の武装解除に違反することになるとされる。


国民党を支援していた日本は中国の内戦でも負けてしまったわけだが、旧日本軍が台湾(中華民国)を秘密裏に支援してきたということはよく語られることである。(私も前に書いたことがある)


岸信介と吉田茂は、昭和通商の里見甫とともにアヘンの密輸出入や販売に携わっていた。
アイゼンベルグがサッスーン一族を駆逐してアヘン販売網を奪取できたのは、この日本勢の協力があったからである。
上海から日本に来たアイゼンベルグは里見甫とも出会っていたのである。

アメリカのラッセル商会でアジア担当だったウォーレン・デラノ・ジュニアが紅幇いう中国の秘密結社と取引をしており、その紅幇は蒋介石を支援したと前記事に書いたが、イギリスに貢献したサッスーン商会もやはり蒋介石を支援していた。
その蒋介石は日本と戦っていたわけだから次のような関係になる。
これはもうアメリカとイギリスは蒋介石を支援するしかない。
でもアメリカとイギリスは歴史的背景からしてそれほど仲が良いわけではない。


ラッセル商会はロックフェラー系、サッスーン商会はロスチャイルド系。
共産党政権の中華人民共和国を共産主義国以外で真っ先に承認したのはイギリス。

満洲は日本に置き換えられるので、中国(国民党)と日本(北洋軍閥・満洲)の勢いのどちらもを抑えたければ共産党を支援するしかない。
サッスーン商会を潰されたイギリスにとってはアメリカを牽制する意図もある。さらに余計なことをさせないためにイギリスはアイゼンベルグも取りこんでおいたのだのだろうか。
ともかくロスチャイルドはアイゼンベルグによってアジアのアヘン市場をだいぶ縮小させられてしまった。


ちなみにFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の初代副議長は、ウォーレン・デラノ・ジュニアの息子である。
ウォーレン・デラノ・ジュニアの孫にあたるのが第二次世界大戦中のルーズベルト(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領。 
原爆開発にそれほど積極的ではなく1945年4月に急死した。

世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。
ではそのアイゼンベルグとは何か?

・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。





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by yumimi61 | 2017-06-29 13:53
2017年 06月 27日
日本国憲法の秘密-505-
ヘンリー・ティザード(イギリスの化学者、空軍科学研究ディレクター、原爆実現可能という情報提供を受けてMAUD委員会を組織)・・・保守党派(チャーチル派)で原爆熱はなかった
    |
アレクサンダー・キング(イギリスの化学者、第二次世界大戦中に科学担当の駐米イギリス大使、ローマクラブ設立者)・・・労働党派
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モーリス・ストロング(ローマクラブが「成長の限界」を発表した年に国連人間環境会議を組織し事務局長)
    |
ミハイル・ゴルバチョフ(ソビエト連邦共産党書記長、ローマクラブの会員)


※ローマクラブ→アスペン研究所(設立者のスレーターはフォード財団、アンダーソンは石油会社の経営者)
         →MIT
         →FEMA(Federal Emergency Management Agency;アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)



モーリス・ストロング(アナン国連事務総長の特使) ― ジェフリー・サックス(アナン国連事務総長の特使)
             (北朝鮮問題特別顧問)         (ソ連崩壊前後のソ連・ロシア経済改革の顧問)
                  |                             |
                小泉首相(拉致問題進展) ―  竹中平蔵(郵政民営化など経済改革)
                                                |
                                    西室泰三(東芝社長、日本郵政社長、東証社長)
                                                ↓
                         東芝の原子力事業企業買収で巨額損失、日本郵政での買収でも巨額損失
                                         


             ロジャー・レベル(ハーバード人口開発研究所の所長、地球温暖化についての論文)
                  | ↕対立
モーリス・ストロング ― アル・ゴア(石油会社や原子力会社の経営者、下院上院議員、副大統領)
                  |
              オークリッジ国立研究所(原爆開発マンハッタン計画により建設された一部)


アメリカ上院 ― NASA研究者ジェームズ・ハンセンなど(公聴会で地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因と唱える)
                  |
  国連組織IPCC(気候変動に関する政府間パネル)(議長はインド財閥タタ・グループの関係者だった)
 
アル・ゴアIPCCが2007年にノーベル賞(『不都合な真実』公開が2006年)
※ジェームズ・ハンセンもアル・ゴアも温暖化防止のため原子力発電を推進


アル・ゴア父(下院上院議員、石油会社の顧問弁護士→副社長・取締役)―アーマンド・ハワー(石油会社の経営者・大富豪)

※アーマンド・ハワーはロシア系ユダヤ人、熱烈な共産主義者(父はアメリカ共産党の父)、医師、ソ連との貿易ビジネスで成功(フォード車など)、石油会社の経営権を取得、共和党の熱烈支持者で歴代大統領と親密、民主党アル・ゴアとも親密。(共産党に・・共和党に・・民主党・・)

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アル・ゴアの娘カレナ・ゴア(Karenna Gore)は、クーン・ローブ商会の経営者であったジェイコブ・シフの曾孫と結婚した。
On July 12, 1997 she married Andrew Newman Schiff, a primary care physician in Washington, D.C., and great-great grandson of Jacob Schiff,at the Washington National Cathedral.Andrew Schiff now works as a biotechnology fund manager.

ジェイコブ・シフはドイツ系ユダヤ人の銀行家でアメリカで活躍した。
日露戦争の際、日本の戦時国債を大量に購入し、戦費調達に行き詰まっていた高橋是清(当時日本銀行副総裁)を救った。旭日大綬章が明治天皇より贈られている。
クーン・ローブ商会はロスチャイルド系である。アメリカの連邦準備理事会(FRB)の創立を企てた秘密会議をJ・P.モルガン、ロックフェラーとともに構成した。

カレナ・ゴアの夫はプライマリケア医だったが、現在はアイスリング・キャピタルという投資会社のマネージャーである。
プライマリケア医とは専門医ではなくて総合医や家庭医のこと。第一次医療を担当し、部分ではなく全人的に診察する。日本では評価が低いがイギリスを始めとするヨーロッパやアメリカでは重視されている。
アイスリング・キャピタルはテクノロジーを推進し、健康を向上させるグローバル企業(公的機関含む)に投資しているそう。

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アル・ゴアの顧問弁護士だったのがルイス・リビー(スクーター・リビー)。

アーヴィン・ルイス・“スクーター”リビー(Irving Lewis "Scooter" Libby Jr.)
コネティカット州・ニュー・ヘイブン出身。ユダヤ系。弁護士、政治家。
ブッシュ政権で、国家安全保障問題担当副大統領、チェイニー副大統領首席補佐官、ブッシュ大統領補佐官を兼任していた。

リビーの日本語版Wikipediaには僅かしか記述はない。
しかも一番最初の記述はこうである。(最初に強調するあたり何か臭う!)
英国のウィンストン・チャーチル元首相の熱烈な崇拝者で、補佐官時代には執務室にチャーチルの肖像画を掲げていたほどである。(要出典!!要出典!!!)
英語版Wikipediaは非常に長い。ささっと見た感じチャーチルは出てこない。

コネチカット州に生まれる。イエール大学を1972年に卒業。1975年コロンビア大学法科大学院法務博士課程修了。1981年国務省に勤め始める。 

リビーが国務省に入ったのは、イエール大学の教授だったポール・ウォルフォウィッツのおかげである。

※ポール・ウォルフォウィッツ
東欧系ユダヤ人。父はポーランドからの移民。
1970年にイエール大学教授、その後ジョンズ・ホプキンズ大学教授になる。
1973年国務省入り、軍備管理軍縮局で第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)を担当。
カーター政権下の1977~1980年国防副次官補。
レーガン政権下で1981年国務省政策企画委員長、1982年国務次官補(東アジア・太平洋担当)、1986年駐インドネシア大使を歴任(オバマ大統領の母も1980年代にインドネシアにいた)。
ブッシュ(父)政権下で1989~1993年国防次官。
1994年ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究所(SAIS)所長を経て、アーンスト・アンド・ヤング(ロンドンを本部とする大手会計事務所)*に属する。
2001年ブッシュ(息子)政権で国防副長官に就任。
2005年世界銀行総裁に就任。
親イスラエル(親ユダヤ)、親インドネシア(親イスラム)であり、親保守主義者(ネオコン)**を代表する人物で対テロ戦争で重要な役割を果たした。

*アーンスト・アンド・ヤング
BIG4と呼ばれる4大会計事務所の1つ。
 ・アーンスト&ヤング (Ernst & Young) - 略称:E&Y(EY) 本部:ロンドン
 ・デロイト トウシュ トーマツ (Deloitte Touche Tohmatsu) - 略称:DTT, Deloitte. 本部:ニューヨーク
 ・KPMG - 本部:アムステルダム
 ・プライスウォーターハウスクーパース (PricewaterhouseCoopers) - 略称:PwC 本部:ロンドン

世界中の巨大企業はクライアントとして全てこの4大会計事務所に網羅されていると言われるほどである。
東芝の会計不正で会計監査人としての責任が問題にされ矢面に立たされた新日本有限責任監査法人は、アーンスト・アンド・ヤング(EY)系。
EYの日本エリアのマネージャーは新日本有限責任監査法人の理事長が兼任していたが、東芝事件を受けてアメリカから派遣されている。

日本の4大監査法人
 ・新日本有限責任監査法人(アーンスト・アンド・ヤングと提携)
 ・有限責任あずさ監査法人(KPMGと提携)
 ・有限責任監査法人トーマツ(デロイト トウシュ トーマツのメンバーファーム)
 ・PwCあらた有限責任監査法人(プライスウォーターハウスクーパースと提携)

かつてはPwCあらた有限責任監査法人ではなく、みすず監査法人(中央青山監査法人)だったが、不祥事発覚により業務停止命令を受け、その後も信用回復できず解散に至る。ソニーやトヨタをクライアントにしていた。
この監査法人はPwC系であり、みすず解散後に受け皿としてみすず監査法人の一部を独立させて、あらた監査法人を設立した。
みすず監査法人の事業の多くが移管されたのが、EY系の新日本有限責任監査法人だった。
PwCもEYもどちらも本部はロンドン。東芝は新日本有限責任監査法人からPwCあらた有限責任監査法人に変更したと報じられたが、どうなんでしょうか・・。
東芝事件以降に最大手とも言われる新日本有限責任監査法人は顧客離れが相次ぎ存続の危機にあるらしい。

**新保守主義(ネオコン)
新保守主義とは左翼から鞍替えした右翼のこと。
旧保守主義とは区別するために新保守主義と呼ばれる。
公民権運動、フェミニズム運動(ウーマン・リブ)、反戦運動などのムーブメントにより大々的に「道徳的正さ」が求められるようになり、品行方正な政治家を良しとする風潮が生まれた。
公民権運動、フェミニズム運動(ウーマン・リブ)、反戦運動、こうした運動をする側は反体制、要するに左翼として捉えられる。アメリカの政党で言えば民主党である。
ヘルメットを被って暴れるといった左翼のイメージからは品行方正さは感じられないが、左翼の運動は結果として波風を立てない大人しい政治家を生みだした(これもある意味、核抑止力が効いていたということですね)。
左翼の中の異端児と言おうか、窮屈な社会に息が詰まったとでもと言うべきか、いつなんどきも品行方正であることがそんなに偉いことか!、といった感じの人達がネオコンである(核抑止力の崩壊と言ってもいいでしょう)。
第二次世界大戦後、ソ連を脅威に感じてびくびくしながら冷戦で様子を窺っていたアメリカだったが、レーガン大統領(1981-1989)は強硬路線を採った。これに乗って左翼・民主党から転向した人が結構いた。
レーガン・中曽根時代には、よくタカ派という言葉が聞かれたが、主張のはっきりとした行動的な人達のことであり、ネオコン派ともダブルものがある。
民主党が政権を取ると、左翼から右翼(反体制から保守)に回るので、必然的にネオコンに足を突っ込むことになる。

ポール・ウォルフォウィッツとルイス・リビーは新保守主義(ネオコン)の代表人物である。
ネオコン人物はレーガン大統領の時に政界に入りこみ、ブッシュ(息子)大統領の時に花開いた(!?)。
しかしそのブッシュ家は旧保守主義の代表格。キリスト原理主義者(カトリックに対立したプロテスタント)でもある。
キリスト教原理主義を馬鹿にしたのが科学を積極的に取り入れたリベラル派(革新派・改革派)である。保守に対しての革新である。ネオコンのベースにはリベラルがある。
まとめるとネオコン派は、対外的に軍事の優越を唱えた強硬派であり、国内においてはリベラル派であり、且つ世界は一つのグローバリストでもある。(核抑止力が崩壊して台頭したのに、核を振りかざしそうですね)


ルイス・リビーは小説家としての顔を持つ。
(熱烈なチャーチル崇拝者なので、チャーチルと同じノーベル文学賞を目指したということでしょうか?)

『ジ・アプレンティス』(The Apprentice)
アメリカの副大統領首席補佐官を務めたルイス・リビーによって書かれた小説。1996年に公表された。
リビーは、本を書くのに20年以上を費やしたといわれる。公表当初は余り注目されなかったが、プレイム事件をきっかけに脚光を浴びる。
主人公は天然痘流行によって1903年の冬に北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定である。
この小説は、同性愛、近親相姦の場面を含み、獣姦、小児性愛、売春、強姦嗜好など、保守派に典型的に非難された種類の性的逸脱で満ちていた。


つまり、1903年頃の日本は、保守派に非難されるであろう種類の性的逸脱で満ちていたということなのだ。少なくともルイス・リビーの書いた小説の中の日本ではそうだったのだ。
1903年と言えば、日露戦争の前年。
ルイス・リビーは1950年生まれなので、まだ誕生しておらず、当時の日本を見たわけではない。
強烈な体験を小説として描くことはよくあるけれども、時代から考えればそうではなさそうである。
しかしながら20年以上も時間を費やしたというからかなりの執着心である。直接見たわけではないにしても何か強烈な印象があるのではないか。

天然痘
非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。
天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
天然痘は感染した場合肉眼で判別可能な症状が現れるため特定しやすく、発病および感染はヒトのみに限られ、さらに優れたワクチンが存在するといった、根絶を可能とする諸条件をそろえた病気であった。
日本においても1955年に天然痘は根絶された。
1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発するに至った。現在自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないとされている。

1978年にイギリスのバーミンガム大学メディカル・センターにおいて、微生物学研究室からウイルスが漏洩し、研究室の上階で働いていたジャネット・パーカーが天然痘を罹患し1か月後に死亡した。彼女は天然痘により死亡した世界最後の患者である。

1984年にWHOでなされた合意に基づいて、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) とロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター(VECTOR) のレベル4施設以外の研究所が保有していた株は全て廃棄された。この2施設における天然痘株についても破壊することがWHOの会議で一旦決定されたが、実際の作業は数度に渡り延期され、2001年にアメリカが株の廃棄に反対する姿勢を明確にしたことで中止となった。 しかし近年レベル4施設の設備を備えない不適切な場所においても生きた天然痘ウイルスが発見されており、その管理・取り扱いが非常にずさんであることが発覚している。

千葉県血清研究所が開発し1975年に日本国内で製造承認を受けた天然痘ワクチン「LC16m8」株は、1980年のWHOの撲滅宣言後に冷凍保存された。2001年同時多発テロ後、備蓄が始まり自衛隊に投与されている。


日本は2003~2009年、自衛隊をイラクに派遣した。

WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種が廃止されたが、アメリカでは2011年現在ワクチンを備蓄し続け、またその製造が可能な状態を維持し続けている。

根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5 - 10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいない。そのため、生物兵器として使用された場合に、大きな被害を出す危険が指摘されており、感染力の強さからも短時間での感染の拡大が懸念されている。ワシントン・ポスト(2002年11月5日号)は、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク(注:記事はイラク戦争前のもの)、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げている(ただし、イラクとフランスについては可能性はとても高いというわけではないとしている)。



プレイム事件(Plame Affair)
アメリカの元外交官ジョゼフ・ウィルソンの妻であるヴァレリー・ウィルソン(結婚前の姓名はヴァレリー・プレイム)が、実は米中央情報局(CIA)のエージェントであることがマスコミに漏洩、暴露された事件である。別名プレイムゲート(Plamegate)、CIAリーク事件(CIA leak case)

2001年暮れ頃から、アメリカ合衆国政府でイラクが2001年4月に核の原料であるウランをアフリカのニジェール共和国から入手しようとしたという「ニジェール疑惑」が浮上した。
   ↓
この情報源として提出された契約書を国際原子力機関が偽物と鑑定。(つまりイラクはウランをニジェールから入手していないと主張)
   ↓
ブッシュ政権のディック・チェイニー副大統領ら複数の政府高官が偽物ではないと強硬な姿勢を崩さなかった。
   ↓
2002年2月、ジョゼフ・ウィルソンがCIAから派遣されニジェールで調査。結果として疑惑は根拠がないと報告した。
   ↓
アメリカ合衆国政府は調査が不足しているとして「ウィルソン報告書」を握りつぶしニジェール疑惑を支持し続けた。合わせてブッシュ大統領はイラクに大量破壊兵器があると世論に訴えた。
   ↓
チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーがCIAに再調査を依頼。
   ↓
CIAこれを断る。
   ↓
アメリカ政府は、イラクのアル=カーイダ支援、大量破壊兵器開発、アル=カーイダに対する大量破壊兵器の輸出の可能性を主張。
   ↓
2003年3月7日、国際原子力機関のモハメド・エルバラダイ事務局長(エジプト出身)は「ニジェール疑惑は偽造文書」と国連安保理へ報告。
   ↓
2003年3月19日、イラク戦争開戦。・・・・正規軍の大規模戦争は2003年に終結、その後も米軍はイラクに駐留、非正規軍の戦いなどが2011年まで続いた。・・・・大量破壊兵器は発見されず。
   ↓
2003年7月14日、ワシントンの保守系コラムニストであるロバート・ノバクが、ジョゼフの妻はCIAエージェントであると報じる。(ジョぜフは調査を拒否したCIA派だから十分な調査をしなかったという論調)
ノバクはこの寄稿で二人の政府高官(後の裁判でカール・ローヴとルイス・リビーである事を証言している)の裏づけがあるとも述べた。なお、CIAエージェントの身分暴露は、アメリカ合衆国の法律である「情報部員身分保護法」により禁止されている。
他方、こうした情報漏洩にジョゼフは即座に反撃して記者会見を開き、妻がCIAの秘密工作員であることを明らかにしたのはアメリカ合衆国政府による報復であると述べ、テレビなどのメディアを通じその違法性を訴えた。その後しばらくアメリカ合衆国では混乱状態が続いた。


連邦大陪審は2005年10月28日、ディック・チェイニー副大統領のルイス・リビー首席補佐官を偽証、嘘誓がそれぞれ2件、司法妨害が1件の計5つの訴因で起訴した。起訴容疑からは「情報漏洩」は除かれている(リビーの嘘のためチェイニーの疑惑が明らかにならなかったの意)。起訴を受けてリビーは副大統領補佐官の職を辞した。
リビーは、CIAエージェントの身元がヴァレリー・プレイムであることを「ジャーナリストたちから聞いた」と繰り返し主張していた。だが、起訴状ではプレイムについては2003年6月にディック・チェイニーから聞いたと、まったく違った事実が記載されている。

2006年4月、リビーは大陪審でブッシュ大統領が事件に直接関与していたと証言した。2006年8月、ノバクに対する情報漏洩はアーミテージが行ったということになった。彼は2006年9月7日のCBSで自らが情報源であることを認め、自分に非があるということを認めた。しかし、フィッツジェラルド特別検察官はこの件は起訴しなかった。


「核兵器」とか「ミサイル」とか言う時もあるのに、どうして「大量破壊兵器(weapons of mass destruction;WMD)」という言葉を使ったのだろうか?
ウランを問題にしたならば核兵器を疑っていたはずだ。
その核兵器(大量破壊兵器)は見つからなかった。
では生物化学兵器はどうだったのだろうか?例えば天然痘は?それは探していません?


 


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by yumimi61 | 2017-06-27 12:37
2017年 06月 25日
War Is Over
ちょっと早かったね(第二弾!?)

前記事で枯葉剤(除草剤)のことを取り上げたけれども、じゃあ「枯葉剤」が撒かれたベトナム戦争とはいったい何だったのかということになりますね?
いつ始まったのか、何のために戦ったのか、なぜアメリカが関係あるのか、かなり分かりにくい戦争である。

第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地であった。
大戦前に各地の植民地解放を支援していたのは、共産主義インターナショナル・コミンテルン(第三インターナショナル)だった。
1919~1924年までコミンテルンを率いたのはレーニンである。
レーニン死後、その後継を巡ってトロッキーとスターリンが激しく対立するもトロッキーが不利な立場になり、1929年には国外追放されるに至る。
同じ組織であるが、レーニン時代とスターリン時代はその中身が全く違う。
トロッキーは国外で活動を続けて、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化を画策しており、1938年には第四インターナショナルを結成した。
ドイツ・イタリア・日本が反共産主義インターナショナルを掲げて同盟を組んだのは1936年のことである。
この頃スターリンもトロッキー関係者や自身に反する者を粛清している。
トロッキーも1940年に殺された。

植民地解放を支援していたのはコミンテルンであるが、1924年を境にコミンテルンの中身が変わっていく。
ということは、植民地解放・民族主義運動・革命などの目的や質も微妙に変わっているはずである。
これが外からはなかなか分かりにくい点である。
ともかくベトナム(インドシナ)では1930年にインドシナ共産党が結成され、独立運動には共産党が主導的な役割を果たした。

1939年9月、第二次世界大戦勃発。
1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、親ドイツ独政権であるヴィシー政権が成立した。
フランスの植民地政権はここがチャンスとばかりにすぐさま独立に動いたわけではなく、ヴィシー政権に付き従うことを選択した。要するに親ドイツ(もっと言うと親枢軸国)となったということである。
肝心のドイツはベトナムには興味を示さなかった。代わりに触手を伸ばしたのは日本だった。
日本とフランス・ヴィシー政権は、ベトナムにおける日本の経済的優先権と軍事的便宜を認めるから、ベトナム(インドシナ)におけるフランスの主権を認めるという約束をし、フランス軍がいたところに日本軍が進駐した。
約束の上のことだったわけだが、住民たちはそんなことは知らないから、日本がフランスを追い出してくれたと勘違い。
日本はフランスの主権を認めたからこその進駐なのだから、ベトナム独立なんか支援するはずもない。

ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した。またフランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった。
※ベトミン・・・ベトナムの独立を目指す民族統一組織。


第二次世界大戦で日本は敗北。これを機に1945年9月、ホー・チ・ミン率いるベトミンがベトナム民主共和国を樹立し独立することを宣言した。
これに対抗してフランスが南部に傀儡政権を建国。
1946年からこの両者が戦争をする。(第一次インドシナ戦争)
         ↓
 8年戦った末にフランス側敗北
         ↓
1954年7月のジュネーブ協定により北緯17度線を境にしてベトナムは分断
南ベトナムはベトナム共和国となる。大統領はベトナムの貴族出身ゴ・ディン・ディエムが就任。
(朝鮮半島みたいですね)

ゴ・ディン・ディエムは、熱心なカトリック教徒で、反共産主義者でもあった。
東南アジアでの共産主義の拡大を懸念するアメリカの支援をうけて、ジュネーヴ協定成立直前に政権を樹立し、ジュネーブ協定に基づく南北統一総選挙を拒否するなどベトナム民主共和国への対決色を強めていった。
アメリカは当初フランス軍を支援するという形で南部を支援していたが、直接支援に切り替えた。
北部と南部は分断されたが、住民は好きな方の国家を選択して移ることが可能であった。
北から南に移ったのは100万人。これは主にカトリック教徒。
南から北に内ったのは9万人。
共産主義は権威主義的な宗教に依存しない(宗教を否定する)という特徴があるので、共産主義である北部からはカトリック教徒が移動したということになる。
枢軸国の反共産主義もやはり宗教がらみであると推測できる。

ゴ・ディン・ディエムは自身の弟を大統領顧問に任命し、秘密警察と軍特殊部隊を掌握させ、国内の共産主義者を始めとする反政府分子を厳しく弾圧した。
このように独裁的で汚職にまみれ、農民が多い南部地域に合った政策が採られるわけでなく、南部の国民の不満は募っていった。

そこで北部のベトナム民主共和国は南部の独立派に働きかけ、武力による統一を試み南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成。北部と南部の戦いが始まる。
フランスやアメリカは南部側の味方だった。言い方を変えればカトリックの味方であった。
北部は共産主義であるから、ソ連や中国に近い存在である。ソ連は原爆裏事情を察しながら「我々も原爆を成功させた」と言った国であり、アメリカにとって脅威であった。

北部と南部の戦いであるベトナム戦争にアメリカが直接介入したのは1965年。
カトリック教徒であるケネディ大統領が暗殺された(1963年)後の事である。
ケネディ大統領は何故殺されたのか?裏切り者だったのか。それとも忠誠者だったからか。

アメリカが直接介入を始めた1965年、アメリカの仲介により日本と韓国は日韓基本条約を締結。時の首相は佐藤栄作。
戦前・戦時中の賠償も謝罪も曖昧なまま、「経済援助」として多額の資金が韓国に送られた。
アメリカや韓国はベトナム戦争に派兵していた。
我々が(あなた達の代わりに)軍隊を出してやっているのだから、その見返りはきっちり貰いますよ的な感じ?
弱みを握られていて、出さざるを得なかった感じ?


ねえどっちにする?

アメリカが枯葉剤を散布した地域は南部に含まれると言う。
もう一度言いますが、アメリカは南部の味方をしてたんです。
でも北部のベトコンがジャングルなどに潜んでいるということで枯葉剤を散布したそうなのだ。
東か西かと聞かれれば、西の味方だけれども、西に原爆を落としたことと共通点はありますか?


Bed In

ベトナム戦争と言うと枯葉剤の次に反戦運動が思い出されるくらいにムーブメントだった。
どうしてアメリカに直接関係ないようなベトナム戦争の反戦運動がそれほど盛り上がったのだろうか。
それほどまでにアメリカ軍兵士の犠牲者が多かったということなのか?

オノ・ヨーコが共産系のヘルメットを被り、反共産主義だったヒトラーの声明文を読み上げ、共産主義とカトリックの戦いとも言える戦争に対して反戦運動を繰り広げたのは何故なのか?
共産主義同盟のヘルメットを被り、ヒトラーの声明文を読み上げたオノ・ ヨーコの意図がよく分からない。

ベトナムのジャングルという環境で戦意を喪失し、世論の反戦大合唱でさらに戦意を喪失し、帰国しても待ちわびてくれていたはずの人達は冷淡で、散々だったアメリカ軍。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。

1975年4月、ベトナム戦争は終結した。
アメリカは、南部ベトナムは、カトリックは、北部ベトナム(共産主義)に敗北した。
長い長い戦争が終わった。
独立まもない、そして独立以降のかなりの日々を戦争に費やした小国に、大国や権威が全く歯が立たなかった。
ロシア帝国を倒して羨望の眼差しを浴びたかつての日本のように、北部ベトナムもまた誰かの憧れの存在になったのだろうか。


TDRに遊べ、空港に学べ!?

築地と豊洲の市場について凄く良い考えがあるので一言。
「せっかくの築地ブランドが」とか「築地のブランド力を活かしたい」とか言うならば、豊洲市場を築地市場という名にしてしまえばいいと思う。
先例があるじゃないですか! 千葉にあっても東京ディズニーランド。千葉にあっても新東京国際空港。
これは東京というブランドを活かした命名ですよね?
豊洲にあっても築地市場。これで問題解決。

しかしながら築地ってそんなにブランド力あるんでしょうか?
確かに築地という名称は知っている。築地直送という表示も見たことがある(やや古臭いイメージ)。
でもお魚は築地直送品しか買わないもんね!とかいうことは全然ない。
寿司屋でも料亭でもないからあまり拘りはない。安さと鮮度と手軽さをミックスした感じで選ぶ感じでしょうか。
現代人にとってお魚ってそこまで身近ではないし。その気になれば通販で産地直送で買えたりするし。
産地で食べるのがやはり一番おいしいだろうと思う。
私は牡蠣は広島に行って初めて食べられるようになった。それまで苦手だった。
新潟の市場で買ってきた鮭も美味しかった。(なんで新潟で鮭なのか?よく分からないけれど鮭でした)

そもそも築地って東京ですよね?東京に魚?水族館?東京湾?
海外からの観光客のことは知らないけれど、日本に住む消費者からすると築地のブランド力って言うほどのものではないと思う。
私は築地市場にも行ったことない。
今どき出張マグロ解体ショーなんかも出前でやってくれて、私は見たことないけれど、母は見たことあるらしい。

ちなみに新東京国際空港は正式名称で呼ばれなくて「成田」というローカル名で呼ばれ続け、今では正式名も成田国際空港になっている。
これも小が大を倒した事例でしょうか。




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by yumimi61 | 2017-06-25 23:33
2017年 06月 25日
綿(コットン)と枯葉剤
誤解のないように綿の木について補足しておく。

綿の木はアオイ科の植物である。
アオイ科の植物にはハイビスカス、ムクゲ、フヨウ、タチアオイ、オクラなどがある。(どれも花の容姿が似ていますね)(徳川家の家紋のアオイはアオイ科ではない)
アオイ科の植物は基本的に熱帯地方に自生する熱帯植物であり、日本では夏季に花が咲き、冬越しが難しい植物が多い。

但し今まさに道端や空き地や畑の周囲などあちこちで花が咲いているタチアオイは冬に地上部が枯れても時期が来れば芽を出して毎年花を咲かせる強健な宿根草(多年草)で帰化植物扱いである。
うちの実家にはアメリカフヨウがあるが、これも冬に地上部が枯れても芽をだし、暑い季節に巨大な花を沢山付ける宿根草(多年草)である。
このように寒い季節(植物によっては暑い季節)に一旦地上部が枯れてしまうものは、毎年芽を出して花を咲かせたとしても、通常は木(木本性)とは言わない。草(草本性)である。
落葉樹は葉を落とすが、幹が枯れて見えなくなってしまうことはない。
もう一つの見分け方としては茎が木化するか(硬くなるか)どうかである。

実際には木(木本性)と草(草本性)の中間の性質を持つ植物も多く存在しており、草本と木本を明瞭に区別することはなかなか難しい。
特に自生地(原産地)と違う気候で育てた場合には違う育ち方をする場合も多々ある。
冬季など生育不適期に葉を落として休眠してしまうのも植物が生き延びるための術である。
限界を超えれば休眠での冬越しも不可能ということになる。
アオイ科の植物の中には、熱帯樹木に分類されるものもあれば、常緑の多年草に分類されるものもある。
葉を落とすだけの多年草もあれば、上に挙げた例のように地上部が枯れて新たに芽を出す多年草もある。

地方や種類によって、熱帯性樹木であることもあるし、多年草であることもある。
さらにややこしいのは一年草品種が作られたこと。

プランテーションの時代くらいまでは多年草である綿の木に出来る綿毛を手摘みしていた。非常に手間暇が掛かり労働力が必要だったわけである。そこに使われていた人が奴隷と呼ばれたりしていた。
農場で使うと奴隷と非難され、工場で使えば雇用(従業員)と称賛されるなんて、何だかおかしな話であるが、それだけ農業は大変ということだろうか。
ちなみに現代でも機械で収穫できない野菜農家などは収穫時期に人を雇って使っている。
次第に農業にも機械化の波が押し寄せ、大型機械で一気に収穫するような方法にとって代わっていった。
個々の成長に配慮しない一気収穫は多年生に与えるダメージも大きくなる。
こうなると多年草を年間通して管理するよりも、毎年新しく種を播き生え揃って樹勢などにばらつきが少ない一年草のほうが扱いやすい。
綿栽培は(綿栽培に限ることではないが)、農業の機械化と大規模化、それに合わせた品種改良や化学薬品の使用などによって変化を遂げてきた。


一年草だから思う存分に枯葉剤が撒けるのではないかと思うかもしれないが、収穫までに実が傷んだり落ちたり綿の木が倒れたり枯れ果ててしまっては意味がないのである。そうなっては元も子もない。
従って一年草であっても(むしろ一年草であるからこそ)、、そこまで強い薬品は使えない。
葉だけを落として機械で一気に収穫する。
収穫してもしなくても一年草なので放っておけば枯れる。


ベトナム戦争の枯葉剤。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。

マラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するという目的では薬品用途が違い過ぎる。
森林(ジャングル)の枯死は言うほど簡単なことではなく、ほとんど意味を成さないであろう。

熱帯雨林
地域としては東南アジア、中部アフリカ、中南米などに見られる。特徴としては生息する生物の多さ、種の多様さ(生物多様性)が挙げられ、複雑な生態系を形成している。全世界の生物種の半数以上が熱帯雨林に生息しているとも言われる。また、大気中に含まれる酸素の40%は熱帯雨林によって供給されたものと見られている。

熱帯雨林に見られる植物の7割が樹木である。
これらの樹木は垂直に3 - 5層からなる層構造をしている。最上層には飛び抜けて高い樹木がまばらにあり、これを超高木層と言う。その下に樹木の枝葉で覆われた層がある。これらを樹冠と呼び、高さ30 - 50mにも達する。樹冠が集まる上層部を林冠と呼ぶ。また、構成樹種がきわめて多いのも特徴の一つである。 太陽エネルギーを元に合成される生産量の大半が樹冠に集中するため、下層とは異なる樹冠生態系と呼ばれる特異な生態系を形成している。また、つる植物や着生植物が多いのもこのような森林の特徴である。これらの植物も樹冠生態系を構成する要素となる。樹冠の下は1 - 3層から成る中間層の林冠、最下層の林床が形成されている。

熱帯雨林では、濃い植生のために日射が遮られ、地表付近では下草が生長しにくい。 これは、人間も含めた大型動物にとっては移動に適した地形となる。 これが、何らかの理由(伐採、山火事など)によって日射量が得られるようになった場合、いわゆるジャングルと呼ばれる低木・つる植物の豊富な、中を歩きにくい植生となる。

土壌の発達は良くない。落葉や腐植の層はほとんどない。これは、気温が高くて分解速度が速いためと、主としてシロアリが、落葉を素早く裁断して自分の巣に持ち込んでしまうからである。地質は、分解速度の速さと多量の降水のために養分が溶脱してしまい、やせた酸性の土壌となる。



樹木が何層にもなっている森林に上空から空中散布したところで森林が枯死すると思いますか?
除草剤を使ったことがあるでしょうか?
除草剤には以下のような区分けの仕方がある。

・非選択的除草剤―雑草と作物の区別なく枯らす。
・選択的除草剤―特定の植物には無害で目的の雑草だけを枯らす。

・茎葉処理型除草剤―散布された薬剤が茎や葉の表面から吸収され(根まで)枯らす。根や木化した茎からは吸収されない。(これで生えていた雑草が枯れると、陰に隠れていた種が光を浴びて一斉に発芽するので第2波雑草が急激に育つことが多く2度撒きが必要なことが多い)
・根吸収型除草剤―散布された薬剤が根から吸収されて枯らす。(葉に薬剤がかかっていなくても枯れる可能性ありということ)
・土壌処理型除草剤―地表面に除草剤の処理層をつくり、発芽した種子が育たないで枯れるようにする。(待ち伏せ型)

・光合成を直接阻害する除草剤―DCMU
・光合成の電子伝達系から還元力を奪って酸素に渡してしまう除草剤(酸素還元指示薬)―パラコート
・光合成には無関係な植物ホルモンタイプの除草剤―2,4-D

このうちパラコートが植物にも人間にも毒性が高いことで有名。自殺や殺人にもよく用いられた。但し土壌残留性は低い。
1882年には合成されていたが、除草剤としての特性を発見したのは1955年で、除草剤として発売されたのは1965年(ちょうどベトナム戦争中)。
イギリス・ロンドンのマンチェスター・スクエアに本社があるインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)社が開発した。

パラコートは、細胞内に入ると NADPH などから電子を奪ってパラコートラジカルとなる。パラコートラジカルが酸化されて元のパラコートイオンに戻る際に活性酸素が生じ、細胞内のタンパク質や DNA を破壊し、植物を枯死させる。パラコートは触媒的に何度もこの反応を繰り返し起こすので、少量でも強い毒性を示す。 NADPH は動物体内にもあるため、同様の反応を起こす。パラコートは、肺に能動的に蓄積する性質があるため、致死量摂取すると最終的に間質性肺炎や肺線維症が起こる。
人間に対しては致死性が高く解毒剤もなく、散布中の経気・経皮中毒の事例も報告されている。


雑草は人々に毛嫌いされるほど逞しい。森林どころか空き地や畑の雑草を駆逐することでさえ言うほど簡単なことではない。
散布しただけでは樹木に対しては効果がないものも多い。
ベトナム戦争で枯葉剤を散布したのは、フェアチャイルドC-123 プロバイダー(Fairchild C-123 Provider)。
第二次世界大戦後にアメリカのフェアチャイルド社によって製造された軍用輸送機である。
つまり上空から散布したということである。

除草剤は高温であるほど移行性が高くなり効果を発揮しやすい。熱帯地域にはぴったりではないか!と思ったかは知らないが、スコールのように降らせるには大量の液体が必要である。
ミスト化すれば少ない量で済むかもしれないが、土壌はおろか葉面まで確実に届かない可能性が高くなる。
粒子を小さくすればそれだけ気化(ガス化)しやすい。
気体(ガス)も高温のほうが拡散力が高いので、狙ったところに届かずふわ~と四方八方に拡散してしまい、肝心の効果は薄まる可能性が大いに考えられる。なにせ屋外である。
これで森林破壊できると思うほうが不思議である。












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by yumimi61 | 2017-06-25 13:47
2017年 06月 23日
日本国憲法の秘密-504-
1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。
ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。


「除草剤」を使っておきながら何故「枯葉剤」と呼ぶのか。

除草剤― weed killer、herbicide
枯葉剤―defoliant

除草剤は特定の植物の生育を破壊したり抑制したり、枯らすために用いられる。
一方の枯葉剤は葉を落とすことだけを目的に用いられる。樹木を枯らすことを目的にしているわけではない。

ベトナム戦争で用いられた「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤のことを特別に枯葉剤(defoliant)と呼んでいると思っている人も多いかもしれないが、枯葉剤も除草剤と同じく用途があり使われているものである。

枯葉剤が多用されているのは綿(コットン)栽培においてである。
オーガニックコットンという言葉や表示を見聞きしたことがないだろうか。
つまり通常のコットンというのはそれほどオーガニックではないということでもある。
綿100%ならば肌に良いと思い込みがちだが、綿織物になるまでにはいろんな薬品を経ているわけで、一概に肌に良いとも言えない。
綿に何を求めているかは人それぞれだから悪いとも言えない。
肌着は肌に良いコットン!と決めている人が合成洗剤やら柔軟剤やら漂白剤をたっぷり使うのも何だか少し面白い。
栽培過程で用いられた薬品も洗濯しているうちに落ちるしね!?


綿は「綿の木」から出来る。木に花が咲き終わるとそこに青い実を付けて、その実が熟れて茶色になってパッと割れると中に白い綿毛が出来ている。綿毛が種を包んでいるのだ。
問題は花が一斉には咲かないこと。花は1日でしおれてしまうが、その代わりに次々に咲いていく。
7月~10月くらいまでの間に順次咲いて行くので、実や綿も順次出来ていく。
出来たものから収穫していけばよいが、大規模な農園で機械で行うとなれば、順次収穫には向かない。
この咲き方は朝顔を想像してみると分かりやすい。
花は一斉には咲かないし、1つの花は半日くらいしか持たないで萎んでしまう。花は順番に咲いていき、咲いた後に青い鞘が膨らみ出す。要するに咲いた順番に鞘や種が出来ていくわけだが、蔓が枯れる頃になると多くの沢山の鞘が茶色になって中に黒い種が出来ている。

木の葉が落葉する時期まで待つと、最初の頃に出来た綿毛は3ヶ月以上も放置されることになる。
屋外で育つものだから雨にも風にも当たる。綿の木は強い木であるが、そこに成る白い綿毛は汚れやすかったり傷みやすかったり失いやすかったりする。出来れば早めに収穫したほうがよい。
落葉まで待っていると使い物にならない綿もそれだけ多くなる。
しかし葉があるうちは収穫作業が行いづらく、また収穫した綿に葉が多く混じってしまい、効率が悪すぎる。
白い綿に混じり物が多ければ、せっかくの白い綿も台無しである。
そこで自然に葉が落ちるのを待つのではなく、ある程度綿毛が出来たところで人工的に葉を落としてすっきりさせた状態で収穫してしまうのである。
綿の木が枯れたりしたら元も子もない。綿毛が汚れたり落ちたりしても困る。葉だけがそっと落ちれば良いのである。
それほど強い薬品ではないことが想像できる。
空中散布してジャングルを破壊できるほどの毒性は「枯葉剤」にはないはずである。


綿(コットン)と言えばインド。
インドはヨーロッパに綿織物を輸出していた。
イギリスでは綿織物生産に乗り出し、インドから綿花(綿毛)を輸入して、自国で綿織物を生産し輸出するなど、綿はイギリスの産業革命の原動力にもなった。
大航海時代後はアメリカ南部で綿栽培が行われた。プランテーションと呼ばれる単一植物を大量栽培する大規模農園によって南部の経済は成り立っていた。当時のプランテーションは綿花(綿毛)が主流だった。
プランテーションはいわゆる奴隷を使っており、そこで生産された綿花(綿毛)はイギリスにも輸出され、自由貿易を主張するほど当時アメリカ南部は強かった。
一方のアメリカ北部は工業が発展した地域であるが、当時は保護貿易を主張していた。
南と北とでは産業構造がまるで違っていたのである。
1861~1865年のアメリカの南北戦争は、北部が南部の奴隷制を批判したことと、貿易の在り方の主張の違いから起こった。
北部が勝利したことから、奴隷制は廃止され、綿花(綿毛)生産も衰退していき、アメリカはその後、統一アメリカとして工業国の道を直走ることになる。
但しアメリカという国は大きいので、現在もコットン(綿繊維)の主要生産国である。 1位:中国  2位:アメリカ 3位:インド









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by yumimi61 | 2017-06-23 16:06
2017年 06月 22日
日本国憲法の秘密-503-
第二次世界大戦中にDDT(有機塩素系殺虫剤;スイス)の大量生産が始まると、それに触発されたかのように、BHC(有機塩素系殺虫剤;フランス)、パラチオン(有機リン系殺虫剤;ドイツ)が開発生産されるようになる。
すべて1940年代のことである。

かのサリンも有機リン系である。
ドイツの企業はニコチンに代わる有機リン系の殺虫剤を1930年代に開発していた。
それを叩き台にタブンやサリンといった殺虫剤が第二次世界大戦前には誕生していたが、毒性が強すぎて殺虫剤としての有用性には問題があった。
そこで兵器に転用され、毒ガスとしての開発が進んだ。ドイツの化学工業は一歩も二歩も進んでいた。
1944年には史上最強の毒性を誇るソマンも開発した。
ドイツで開発されたタブン・サリン・ソマンの毒ガス(神経ガス)は、後に連合国によってGerman gasから「Gガス(G剤)」と呼ばれ研究されるようになる。
量産工場こそ建設されていなかったが、ドイツはかなりの量を備蓄していたらしい。
原爆や水爆並み、あるいはそれを超える殺傷能力を持つとされていた毒ガスをドイツは保有していた。
しかしヒトラーは、ドイツは、それを使うことはなかった。
(ちなみにホロコーストの毒ガス室で用いられたとされる毒ガスも違うものである)
核が抑止力になるのであるならば、毒ガスだって抑止力になるはずである。
だというのに世界はなぜ「核」を選び、「核」を特別扱いし、「核」に流れたのか。
それは核の開発に至らなかったことを暗黙に示唆している。


1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。

ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。

ベトナム戦争中に米軍と南ベトナム軍によって撒かれた枯葉剤は軍の委託によりダイヤモンドシャムロック、ダウ、ハーキュリーズ、モンサント社などにより製造された。用いられた枯葉剤には数種類あり、それぞれの容器に付けられる縞の色から虹枯葉剤と呼ばれ、オレンジ剤 (Agent Orange)、ホワイト剤、ブルー剤などがあった。

ベトナムで使用された枯葉剤のうち主要なものは、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T) の混合剤であり、ジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれ、副産物として一般の2,4,5-T剤よりさらに多い2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を生成する。
このTCDDは非常に毒性が強く、動物実験で催奇形性が確認されている。ベトナム戦争帰還兵の枯葉剤暴露とその子供の二分脊椎症の増加についてはこのTCDDとの関連が示唆された。


そもそも何故に殺虫剤ではなく枯葉剤(除草剤)を撒いたのか?
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。
枯葉剤で虫が殺せると思っていたというのか?
それともあえて殺虫という直接的手法ではなく、虫たちの住環境を破壊という回りくどい間接的手法を使ったというのか?(ベトナム戦争は長かったので何事にも悠長だったのかもしれませんね!)(ちなみにマラリアの流行は人間の住環境が大きく関係している)

枯葉剤の被害者として日本でも超有名で日本との関係も深いベトちゃんドクちゃん(1981年生まれ)。
では具体的に枯葉剤の何が問題だったかと言うと、合成過程で副産物として「ダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) 」を生成してしまうからだそうである。
一頃、ごみの焼却が問題になったことを覚えているだろうか。
塩素を含む廃棄物の焼却によってダイオキシンが発生することが問題視されて、焼却について様々な規制が行われるようになった。自治体のごみ処分場の焼却施設のみならず、野焼きの禁止や家庭用焼却炉まで廃止された。
それまで私は秋が深まると落ち葉で焚火をして、ついでに焼き芋をして子供達に食べさせたりしていた。
また家には煙の出ない、ちょっとお洒落な、なかなか良い小型の焼却炉があったのだが(紙幣を燃やしたこともあるが・・)、それも廃止せざるを得なくなった。

日本では1983年にはじめてごみ焼却炉の灰のなかからこの物質が検出されて専門家の間で注目されました。1996年、埼玉県所沢市で産業廃棄物焼却炉からも検出され、住民に大きな不安が広がって社会問題になったことなどをきっかけに、ダイオキシンは大気汚染防止法の指定物質とされました。さらに、2000年には排出基準値が定められて、ごみ焼却炉や製鋼用電気炉などの施設に適用されています。
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_25/ より>


(ダイオキシン類は)ごみの焼却などによる燃焼や薬品類の合成に際して、意図しない副生成物(非意図的生成物)として生じる。過去においては、米軍がベトナム戦争で散布した枯葉剤の中に2,3,7,8-TCDDが不純物として含まれていたことは有名である。日本においても、PCBや農薬の一部に不純物として含まれて、環境中に排出されたという研究結果もある。
現在では、廃棄物の焼却処理過程においての発生が一番多く、その他、金属精錬施設、自動車排ガス、たばこの煙などから発生するほか、山火事や火山活動などの自然現象などによっても発生する。



ダイオキシンの生殖毒性
ベトナム戦争時の枯葉剤に2,3,7,8-TCDDが副産物として含まれており、散布地域での奇形出産・発育異常の増加に対し、2,3,7,8-TCDDの催奇性との関連が取り上げられる。ただし、ダイオキシンによる催奇性はマウスでの実験においては確認されているものの、ヒトへの実験は不可能のためヒトに対する催奇形性は未確認である。

セベソでのダイオキシン類暴露事故(セベソ事故)後のある限定的範囲の疫学調査では、高汚染地域の14年間の198人の出生のうち奇形児は0人である。
同調査では、事故後はじめの7年間(2,3,7,8-TCDDの半減期にあたる)では、出生数が男児26人に対し女児48人であり、男児の出生低下が確認された。次の7年間では男児60人に対し女児64人であり、既に有差はない。こうした調査は実際に被曝した人的地理的範囲に対し調査対象数が少なく調査地域の選定も不明な点が多く、注意が必要である。

セベソでは事故翌年4-6月の妊婦の流産率は34%となった。また、周辺地域では癌発生率の増加、家畜の大量死、腫瘍、奇形出産などが報告されている。

PCB及びPCB加熱から生じたPCDFが混入した台湾油症の事例からは子供の成長遅延、知能低下、運動機能の発達遅延、皮膚の黒皮化などが報告されている。



ダイオキシンの無毒説
一部にダイオキシンが有毒であるという根拠が科学的ではないとする論議がある。この議論の根拠は、ダイオキシン自体の毒性は極めて高いものの、焼却されるごみの総量に比べて生成されるダイオキシン量がはるかに小さいことに基づいている。また、生成されるダイオキシン量が焼却されるごみの総量に比例しないという研究報告にも基づいている。[要出典]セベソでのダイオキシン類暴露事故においては、当日の家畜大量死、翌年の流産率の急増、女子出生への偏りなどが報告されたものの、事故直後では人間の死者と奇形出産が出なかった事から、対人間無毒説の根拠とされる。

また、当初はダイオキシンの高い急性中毒性について議論されていたが、いつの間にか慢性毒性や発がん性に話がすり替わっているというような、研究者の非科学的態度もダイオキシンが有毒であるという論への懐疑的要因である。

実際にダイオキシンが毒殺目的で人間に大量に与えられた事例があり、有名なところでは大統領候補だったヴィクトル・ユシチェンコの毒殺未遂事件がある。しかし、皮膚に湿疹などの異常がでたが、ダイオキシンの高い急性中毒性については毒殺事件という形での人体実験によって否定される結果になっている。



2,4-Dは除草剤として今でも重宝されているものなので、問題は2,4,5-Tにあったということになる。
アメリカでも日本でも現在は認可されていない。つまり製造していないのだ。
ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と類似のものであり、動物実験で催奇性が確認されている。ヒトに対する影響は不明とする否定意見があるが、これは人間に対しては動物のように実験を行うことが出来ないために不明となっているためである。








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by yumimi61 | 2017-06-22 17:28
2017年 06月 21日
Syrup! Shut up!
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簡潔が知恵の精髄・・・下手の長談義?

"Hamlet" by William Shakespeare

This business is well ended.
My liege, and madam, to expostulate
What majesty should be, what duty is,
Why day is day, night night, and time is time,
Were nothing but to waste night, day and time.
Therefore, since brevity is the soul of wit,
And tediousness the limbs and outward flourishes,
I will be brief: your noble son is mad:
Mad call I it; for, to define true madness,
What is't but to be nothing else but mad?
But let that go.


『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。


”to be,or not to be.That is the question."

青酸カリカリ梅も浸けています。

Ume~! Yummy!







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by yumimi61 | 2017-06-21 23:59
2017年 06月 20日
日本国憲法の秘密-502-
前記事にリンクした日本リザルツのブログに、WHOに勤務していた古知新先生は「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります、と書いてありましたね。

ではDOTSとは何か?
DOTS(直視監視下短期化学療法)とは、結核患者を見つけて治すために利用されているプライマリー保健サービスの包括的計画の名称で、WHOが打ち出した結核対策戦略である。
五つの主な要素は、
1)政府が結核を重要課題と認識し適切なリーダーシップをとること
2)菌検査による診断、経過観察の推進
3)結核患者が薬を飲み忘れないよう医療従事者の前で内服すること
4)薬の安定供給
5)菌検査結果の記録サーベイランス
である。米国や多くの途上国で大きな成果をあげている。


主な要素として5つ挙げてあるが、DOTSが直接指しているのは「直視監視下短期化学療法」という日本語からも分かるように、3)のことである。
医療従事者が薬の服用を監視すること、飲んだことを見届けること。入院も隔離もしなくてよい。
え?それだけ?と思いました?
言い換えると、結核というのは指示を守らない人、あるいは守れない人が罹患しやすい疾患と言える。
結核は感染しても発症しにくい感染症である。発症を抑えているのは個々人が持つ免疫である。
乳幼児、若年者、高齢者、不規則な生活をしている、ストレス過多、睡眠不足、アルコールや薬物の大量摂取、ホームレスなど、免疫が働きにくい人達と指示を守らない人(守れない人)というのは微妙に重なってくる。
それとは別に疾患などで免疫機能が落ちている人も同様に罹患しやすい。(エイズ死亡者の1/3は結核が直接的原因とも言われている)

結核患者に薬を服用させるということは治療の段階である。要するに診断が付いているということ。
でも発展途上国などで一番の問題となるのは予防も診断も出来ないということであろう。
その意味においてWHOの結核対策戦略に菌検査とあるが甚だ疑問である。

日本ではかつて乳幼児期にツベルクリン反応検査を行い、陰性者のみにBCGワクチン接種を実施していた。
BCGワクチンによって結核に対する免疫を付けるためである。免疫は接種から15年間くらい有効であるとされる。
2005年からツベルクリン反応検査が省略されて(すでに感染しているかどうかを確認しないで)、BCG直接接種が導入された。
そのため結核感染リスクが明らかに少ない生後6か月未満の乳児に限定されて行っている。
逆を言うと、生後6か月までは感染リスクを高めてはいけない。
感染しているのに BCGを接種するとコッホ現象(再感染)が起きる。コッホ現象が出ても重篤化しないで短期で快方に向かうことがほとんどだが、その時期にすでに感染環境にあったことが問題である(周囲に結核に罹患している大人がいたなど)。
再感染であるコッホ現象は軽いことが多いが、乳幼児が罹患しやすい粟粒結核とそれに随伴する結核性髄膜炎は重篤化しやすい。
日本の大都市圏では東南アジア並みの罹患率である。

ちなみに青年や成人の場合にはツベルクリン反応が陰性であってもBCG接種はするべきではない。効果が認められておらず、副反応が強くなる恐れがあるからである。
結核感染の機会が多い医療従事者に対しては雇入れ時にツベルクリン反応検査を行うことがある。陰性者にBCG接種をすることが目的ではなく、院内感染などが起こった時に感染診断の基準値とするためである。(医療機関が目的を分かっていないことがある)



第二次世界大戦中、スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。
そして直ちに生産が始まった。


DDTは大量生産された初めての合成農薬だった。
ではそれまで何を使用していたかと言うと、除虫菊、石灰硫黄合剤、ニコチン、青酸などである。

ここでニコチンについて。
ニコチン (nicotine) は、アルカロイドの一種の有毒物質である。主にタバコ属(ニコチアナ)の葉に含まれる天然由来の物質である。揮発性がある無色の油状液体。
アロマオイル(精油)のようなものと考えてよいと思う。
ニコチン自体に発癌性はない。(タバコの主たる発がん物質はタールだと考えられている)

1970年代にイギリスのモーズレイ病院の精神医学研究所にて、たばこにおけるハーム・リダクション(有害性低減)が提唱され、先駆者のマイケル・ラッセルは、ニコチンのために喫煙しながらタールによって死んでいると述べたが、2007年にも、英国王立医師会のタバコの助言に関する報告書は、ニコチン自体は危険ではなくタバコの代替品として提供されれば、数百万人の人命を救えることを報告している。ニコチン置換療法でのニコチンの提供では、33000人以上の観察研究やメタアナリシスによって、心血管疾患のリスク上昇がみられていない。

即効性の非常に強い神経毒性を持つとされている。中毒=依存性という認識にあるが・・。

中脳辺縁系のドーパミン神経の興奮を介した依存性の形成メカニズムは他の依存性薬物(コカイン、ヘロイン、アンフェタミンなど)と同じとされる[要出典]が半数致死量の低さと他細胞系への薬理作用の点から[要出典]、麻薬とはされておらず、毒物に指定されている。
末梢においては、中枢神経からの間接的な作用と、末梢の nAChR に作用することで毛細血管を収縮させ血圧を上昇させるが、ヒトにニコチン 1.5 mg/分を5分間静注すると脳血流が増すという報告もあり、縮瞳・悪心・嘔吐・下痢などをひきおこす。
中毒性があり、通常量でも頭痛・不眠・苛立ちを感じるなどの症状、過量投与では嘔吐・振戦・痙攣・死亡を起こす[要出典]。


複数回の摂取によりニコチン依存症を発症させる。WHO世界保健機関は「ニコチンはヘロインやコカインと同程度に高い依存性がある」と発表している。

日本の柳田知司はアカゲザルの実験を元に、「ニコチンは依存性薬物ではあるものの、身体的な依存性は有ったとしても非常に弱いもので精神依存の増強は認められず、その精神依存性は他の依存性薬物と共通する特性が見られるものの主要な依存性薬物と比較して明らかに弱いこと、また精神毒性(例えば、ニコチンの摂取は自動車の運転などの作業に悪影響を及ぼさない)も依存性薬物の中では唯一、これが認められない」と発表している。


家庭菜園や自然農法が趣味な人などは、煙草を水に浸しておけばその液が殺虫剤になるという話を聞いたり試したことがあるのではないだろうか。
ネット社会になった現代では、「無農薬とか自然農法とか言って人を殺すほどの有毒物質を撒くなんてどうかしている」とか「違法である」とかという意見も多く見られるようになったが、私も試したことがある。
私は木酢液(市販のもの;酸性と思われる)に煙草ほか、ハーブや唐辛子、ニンニクやニラなどを浸け込んで使用した。(薄めて使う。薄めないで使えるほど安価に大量に木酢液が手に入らない)
もっとも私は野菜など口に入れる植物に用いたのではなく、バラなど観賞用植物のアブラムシやチュウレンバチ幼虫の駆除や予防に使ってみたのである。
結果を言えば、そんなに驚くほどの効果はない。
そこに居る虫は嫌がって逃げる素振りは見せるが、殺虫剤としての能力は合成農薬のほうが確かである。
私の作ったものは樹木に群がる毛虫などを駆除できるとは到底思えない結果に終わった。
でも農薬よりは匂いが許せたので予防に使っていた時期もあった。
本気で殺虫殺菌したい時には農薬頼みであった。
今は強い植物が生き残っている感じと許容(諦め?)で農薬を必要最小限しか使わない。


こうした自然派(違法派?)ではなく、かつて正式に農薬として使われていたニコチンは硫酸ニコチンと言う。
殺虫剤の一種。特異臭のある微酸性褐色液体。有効成分はニコチン。
不揮発性で、このままでは殺虫効果は望めず、使用に際して炭酸ナトリウム、水酸化ナトリウム、石灰などでアルカリ性にしてニコチンを遊離させる。
殺虫力は強いが、植物には無害、一方で人畜毒性は高く毒物に指定されている。
速効性で殺卵効果もある。野菜、果樹のアブラムシ、グンバイムシ、スリップスなどの防除に用いられた。毒物で取扱いが難しいことなどから、近年余り使われなくなり、2006年に農薬登録が失効、使用禁止となった。


ニコチンを抽出するためにはアルカリ性にする必要がある。
タバコを間違えても食べても胃液は酸性なのでニコチンはなかなか抽出されない。(だからと言って食べていいわけはない)
水道水は中性を基準にしているが、若干どちらかに傾くことはあるようだ。
でも基本的に中性なのでやはりアルカリほど遊離できない。
使い方次第ということですね。農薬としては有用性に問題があったということでしょうか。

ちなみにタバコ最大の悪者となっているタールの大元は石炭である。石油、木材、泥炭、植物からも作り出すこともできる。
木から作る場合は炭焼きをする。この炭焼きによってタールと木酢液が出来る。










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by yumimi61 | 2017-06-20 15:15
2017年 06月 18日
日本国憲法の秘密-501-
(殺虫剤DDTの)化学物質としての危険性については、1960年代に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」により取り上げられ、認識が広まった。

『沈黙の春』(Silent Spring)
1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を、鳥達が鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品。
発売されて半年で50万部も売れ、特にBook of the Month Club(高名な合衆国最高裁判所判事のウィリアム・O・ダグラスの推薦文が同封された)やニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに選ばれてからよく売れた。
1964年に新潮社から初めて日本語に訳された際の題名は、『生と死の妙薬-自然均衡の破壊者〈科学薬品〉』だった。翻訳は青樹簗一(南原実)。現在は上記のタイトルで文庫版が刊行されている。


(『沈黙の春』の現在の評価)
レイチェル・カーソンのこの著作は、あまり知られていなかったDDTの残留性や生態系への影響を公にし、社会的に大きな影響を与えているが、執筆から40年以上経過した現時点の最新の科学的知見から見ると、その主張の根拠となった1950年代の知見の中には、その後の研究で疑問符が付けられたものも存在する。例えば当時はDDTに発ガン性があるという見解が多かったが、長期間にわたる追跡調査はDDTによる人間に対する発ガン性に関しては未確定であり、国際がん研究機関発がん性評価においてはグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」とされている。またオスのワニが生まれなくなった要因を農薬に求める記述もあったが、ワニの性別は卵の温度で決まるため、その指摘自体が誤りではないかとされている。

また本書がDDTの世界的な禁止運動のきっかけとなった点についても、レイチェル・カーソンなどが実際に主張したことは、農薬利用などマラリア予防以外の目的でのDDTの利用を禁止することにより、マラリア蚊がDDT耐性を持つのを遅らせるべきだという内容だったことには留意をするべきである。実際に、安価な殺虫剤であるDDTの田畑での農薬としての使用は途上国では最近までほとんど減少せず、猛禽類や水棲生物の減少による生態系破壊はそのままで、DDTに耐性を持つ蚊を増やす結果となった。現在では途上国においては蚊帳への使用という限定的な条件でDDTの使用が認められている。 


人間も蚊と同様に耐性を持ったということでよろしいでしょうか?
それともDDT以外の発がん物質が増えて、発がん率は上がっているがDDTと特定することが困難になってきているということでよいでしょうか?

実は以前私も『沈黙の春』(正確を期すれば『沈黙』)についての見解を述べている
これがなかなか素晴らしいので再び紹介しておく。(手前味噌ですみません。しかもかなり長くなります、略すところがあまりないので)

ハルキストたちの沈黙

『沈黙』も『レキシントンの幽霊』に収められている短編である。(初出1991、講談社)
「集団読書テキスト」として全国学校図書館協議会から小冊子の形で販売されている。
ここに書いた『君が見つける物語』の顔なし騒動も、その本に収められていたこの短編『沈黙』の話をしている。
(略)

沈黙しない春

私が「沈黙」で真っ先に思い出すのは、村上春樹ではない。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮社)である。
1962年にアメリカで刊行された本の訳書。
原題は『Silent Spring』。
翻訳者は青樹簗一(あおきりょういち)。
初版は『生と死の妙薬』という邦題が付けられていた。

村上春樹はこの著書が念頭にあったのではないだろうか?

「沈黙の春」ではない、「沈黙」である。
春樹は、沈黙しないのである。

自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中とは違うというわけだ。
自分で生み出せ(創作)、物事をよく理解し、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされることはないと暗黙に語っている。(暗黙だからこそ沈黙でもある)

『沈黙の春』を無暗に受け入れる連中は好きではない。
しかし村上がもっと気に入らなかったのは、翻訳者の青樹簗一である。
「青樹」を「青木」に投影した。
そして彼を哀れんだ。


村上春樹の嫌いなタイプ

想像ばかりで申し訳ないが、村上春樹はおそらく三島由紀夫や尾崎豊のようなタイプが虫唾が走るほど嫌いなはずだ。
そうした人間を持ち上げる人間も同じように嫌い。
想像と書いたけれど結構確信に近い。

だから村上春樹は殊更に自分は普段は平凡な人間であるということを強調する。
しかし否定しながら心の奥底に憧れを抱く。
あんな人間にはなりたくないが、あんな風にはなってみたかった。
村上春樹のコンプレックスが見え隠れしてしまう。

私も『沈黙』を読んでみたのだが、私が怖いと思ったのは、大沢の青木の評価、つまり村上春樹の青木の描写である。

同様のものを感じたのが、オノ・ヨーコの「出る杭は打つ」発言だった。
「出る杭を打つ」という人はほとんどいないであろう。
少なくとも私は今日まで生きてきた中では聞いたことがない。
「出る杭は打たれる」という慣用句であるからだ。

出る杭は打たれる

1 才能・手腕があって抜きんでている人は、とかく人から憎まれる。
2 さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。

確かに、出る杭が打たれるということは、出る杭を打つ人が存在するということだけれど、大抵は出る杭を打っていることを認識していないか隠している。
だから「出る杭を打つ」とは言う人はまずいないのだ。
しかし彼女は言った。沈黙はしない。
恐るべしオノ・ヨーコ。自覚ありということか。

彼らはいつでも加害者であり被害者である。
その他大勢に埋没することはない特別な存在なのだ。

村上春樹はハルキストを失望させないためにわざと意味の分からない小説を書いているのかもしれないな。

しかしこんな小説を書いている人がなぜ、心理学や河合隼雄を手放しに信頼したり称賛したりしていたのだろう。
あれも全部嘘ということか?
それとも、それこそが「僕」か。



DDTは発がん性があるとされ、また環境ホルモンとして機能することが判明したため、世界各国で全面的に使用が禁止されたが、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国では、DDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者が、DDT禁止以降は再び激増した。例えばスリランカでは、1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、DDT禁止後には、僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている。

また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。このため2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる。

DDTを禁止した結果、多数のマラリア被害者とDDTよりも危険な農薬による多くの被害が発展途上国で発生し、アメリカ合衆国などではカーソンを非難する声が今も続いている。その一方、既にカーソンが「沈黙の春」内で述べている通り、DDTに対する耐性を獲得したマラリア蚊もDDT散布後数年以内に多数報告されており、DDTの散布だけでは直接の解決策には成り得るものではないといえる。

なお、日本を含む主な先進国では、根絶活動の成果および生活環境の変化によって、DDTの使用を考慮せざるを得ないほどのマラリア蚊の蔓延は既に見られなくなっている。




・すごくよく効く薬だけれど副作用も大きいということがある。しかしながらハイリスクハイリターンにはある種の魅力がある。

・この程度の効き目でこんなに副作用が大きいのでは使い物にはならん、ということもある。有用性に問題あり。

・こんな大勢の人を救えるのだから、1%ほどの人間ががんを発症しても仕方ないでしょうと考える人がいても不思議はない。
100%を網羅することは人間には不可能である。妥協点を探す必要がある。
1%ほどの人間もがんを発症することは避けなければならないとして、大勢の人を救えるものを止めてしまうと、総倒れになる可能性も無きにしも非ず。
1%に合わせた教育を行うと、99%は付いていけないか物足りない。
マイノリティとマジョリティの境界線が妥協点であるとも言えるので、マイノリティをあまりに重視すると社会は均衡を保てない。
(分かりやすい端的な例え話として聞いてもらいたいが、同性愛を禁じればエイズ発症が防げるとする。しかし同性愛を禁じられると困る人が1%ほどいる。その1%の人に寄り添うがために同性愛を解禁すると、エイズで総倒れになる可能性が無きにしも非ずということ)
(安倍政権を支持するのはマイノリティ重視に疲労困憊した人達なのではないだろうか。言い換えると安倍政権は”出る杭は打つタイプ”なのである。独裁のようにすら感じる安倍政権が支持される理由が分からないと言う人もいるが真の独裁タイプは1%側に属していることが多い。安倍政権は1%を打つ側であるので広く支持される)


上記転載文に「WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる」とある。
名前がとても印象的。ご両親は「温故知新」を意識して名前を付けたのでしょうか?
でも結果的に「温」がないわけだから、古きを訪ねて温めなかったことになるのでは・・・。「(そんなの)古!新しいことを知ろう!」みたいな。

古知新ドクターはWHOにいたという以外の情報がほとんどない。著作本などにプロフィールが掲載されているかと探したが著作本が見つからなかった。
1975年頃に東北大学の公衆衛生学教室に院生として居たらしい。
1989年に結核対策課長としてWHOに赴任したようだ。(秋篠宮紀子様が御研究されていたのも確か結核予防をテーマにした心理学でしたね)

1975年頃、この時代の東北大学の公衆衛生学教室は2代目教授、鈴木継美教授時代(1971~1980)である。
鈴木継美教授は東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から東北大学に赴任した。
私が公衆衛生学を学んだ鈴木庄助教授も東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から群馬大学に赴任した。1981年のことで3代目教授だった。
W鈴木ですね!

ともかく古知新ドクターのプロフィール。
東北大学医学部医学科卒業。医学博士。ハーバード公衆衛生大学院修士。UNICEFにおいて専門家として戦時下のミャンマー、アフガニスタン、モザンビーク等で活動。その後WHOに勤務。
結核対策課長時代にDOTS方式(直接監視下短期化学療法)を世界中に広げ、結核制圧に大きく貢献。
WHOの結核、エイズ、マラリア対策本部長を歴任。
ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にもあたる。
現在、ジュネーブにてコンサルタントとして活躍中。
特定非営利活動法人日本リザルツの理事も務める。


このプロフィールは、日本リザルツ公式ブログに掲載されているものなので、自称プロフィールとして信頼性の高い(?)ものではないだろうか。
しかし東北大学で修士を取得したとも博士を取得したとも書いてない・・。

日本リザルツは、貧困問題の解決を目指すアドボカシー(政策提言)型の国際市民グループだそうである。
ブログの最新記事は『古知新博士と関係省庁・国会議員への訪問』と、森友・加計の両学園の忖度・ご意向・コネクション事件が話題の中にあってはなかなか興味深い。

本日は、日本リザルツの理事でもある古知新先生と日本リザルツ白須代表が、国際保健の提言のために、関係省庁・国会議員へ訪問をしました。
古知先生は、WHOのエイズ、結核、マラリア部長を歴任し、ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にあたり、また、結核の治療システムである「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります。
では、その様子を写真でお届けいたします。
(写真満載)






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by yumimi61 | 2017-06-18 14:10