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2017年 12月 17日
日本国憲法の秘密-641- (外貨準備と貿易について)
与党第1党が自由民主党で政権を維持し、野党第1党がは日本社会党だった時代を「55年体制」と呼んでいる。38年間続いた体制。
1955年(昭和30年)にこの構図が成立し、1993年(平成5年)7月の衆議院選挙で自民党が野党になり崩壊した。
この時に自民党が負けた理由は新党ブームだった。
新党の代表格が細川護煕が結成した日本新党であり、その勢いに乗って細川はそのまま首相に就任することになるが、首相になる人物としてはかなり異色である。閣僚経験など一切ないまま首相に就任した。

細川護煕
肥後熊本藩主だった肥後細川家という家柄(現在第18代当主)。
上智大学→朝日新聞社→自民党公認で参議院出馬
1971年7月4日 - 1983年2月 参議院議員
1983年2月11日 - 1991年2月10日 熊本県知事
1992年7月26日 - 1993年7月 参議院議員
1993年7月18日 - 1998年5月7日 衆議院議員
(1993年8月9日 - 1994年4月28日 首相就任)

(日本新党)結党当初は現職の国会議員がおらず、国政の経験も、いわゆる三バン(ジバン=後援会組織、カンバン=知名度、カバン=選挙資金)も無い新人議員が多かったこともあり、議員よりも党事務局が主導する体制であった。代表である細川の個人的な人脈と人気に頼った「個人商店」も揶揄され、党の運営資金も細川が自宅や別荘等の私財を担保にした借金が主なものであった。(細川は熊本県知事選前に佐川急便より一億円借り入れていた件を1994年に追及され総辞職)

他にも羽田孜と小沢一郎らが自民党を離党して結成した「新生党」や、自民党の中堅・若手議員であった武村正義や鳩山由紀夫らが自民党を離党して結成された「新党さきがけ」も躍進した。
これはかなり大きな政変だったが、元はみな自民党議員である。
「新生党」は後に「新進党」となり、さらにバラバラになって、小沢の自由党は自民党に合流することになる。
「新党さきがけ」は保守リベラル政党であり、これが民主党の母体となる。
「日本新党」は後に「新進党」に合流。細川は最終的に民主党に合流した。
自民党を離党した人達が形作っていったリベラル政権。
一方で自民党内においても「リベラル政権を作る会」が発足していた。
対立しているようでいて実はそうでもないかもしれない。政党の明確な線引きが出来なくなった時代に日本は大きな転換点を迎えていた。


今年10月の選挙直前に突如新党が誕生し、安倍首相が選挙演説で「かつても新党ブームがありました。でも新党なんてダメなんです。もう残ってないでしょう」とか演説していたけれども、新党を一言で言えば有権者の顔色窺った気前の良いリベラル政党であって、そういう自民党も「リベラル政権を作る会」なんか作ってリベラル政権誕生に大いに手を貸していた。安倍首相なんかその会のメンバーだった。
おそらく昨今の日本社会、とくに経済界にはリベラル政権はダメだという認識がある。日本が落ちていく転換点となった時代にあったのがリベラル政権だからだ。
安倍首相の新党ブームがダメと言うことを言い換えればリベラル政権はダメということになる。
経済界などから支持を得るのは日本が強かった時代の自民党であろう。
安倍首相の祖父や父は強い時代の有力政治家で、安倍首相は2世3世議員というサラブレッドである(でも閣僚経験ないまま首相になったのは細川首相と同じ)。いまだ自民党にいて「野党が政権とってもダメ」「新党はダメ」と言っている。
安倍首相が支持を得ているのにはそれなりの理由があるのだ。
だが日本が強かった時代を、転換点にリベラル政権を作る会にいた安倍首相を、本当にそんなに信じてよいものだろうか?



自民党・社会党・新党さきがけによる連立政権で社会党党首・村山富市が首相であった村山内閣1996年1月11日に終わった。
その後の首相は自民党の橋本龍太郎であるが、橋本内閣でも自民党の単独政権になったのは1996年11月7日からである。
でも消費税5%導入開始時やアジア通貨危機が始まった時には自民党単独政権であった。

【アジア通貨危機における日本の支援】
日本は、2年間にわたり国際機関やG7各国と協調し当初の危機対応において、二国間支援の主導的な役割を果たした。また、一時的な資金不足を補填する流動性支援のみならずODAを含む日本独自の政策的金融手段を総動員し長期の安定的な資金を供与してアジア各国の実体経済の回復と安定化に対して全力で取り組んだ。

中でも、IMF・世銀年次総会において発表された新宮澤構想は、アジア諸国の実体経済回復のための円借款・輸銀融資などによる中長期の資金支援を含む合計300億ドル規模の資金支援スキームを用意するものであり、一連の支援策の中でも最大級の物で、チェンマイ・イニシアティブに引き継がれた。この他にも、日本は、人材育成等環境整備のための専門家派遣、研修員受入などの技術協力や、食糧・医療品などの緊急支援および人道・医療・保健対策面での無償資金協力も行った。

一方、日本では、経済恐慌などの危機は直ちに発生しなかったが、危機に際して東南アジアへの支援金の支出なども含め、相応の経済的打撃を被っている。当時アジアでも、特に著しい経済力を持ち、アジア各国へも工業製品を輸出する産業の多い日本は、それら各国の通貨危機の影響も少なからず被っている。


外国への支援がドルで行われる時は外貨準備が使われる。為替介入していたので日本はこれを沢山持っている。
と言っても外貨準備の多くは現金で保有しているわけではなく(アメリカ国債が主)、全額いつでも自由に使えるものではない。金利などから出していると考えられる。
外国への支援が円で行われる場合(円借款)は日本円が使われる。
だけど国内財政が赤字な政府は余分な円など持っていない。
とりあえず何かを流用して貸しておくとか、借金して貸しておくとかになるだろう。
援助なので相手国に低金利で貸し付けるだろうから、日本で借りる金利が高ければ赤字を積み上げることになる。
貸したものがきちんと返ってくる保証もない。

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消費税をアップにしたにも関わらず、その年1997年以降2~3年、税収は落ち込み歳出は増大した。


アジア通貨危機はドルペッグ制を敷いていたアジア諸国の通貨への投機攻撃によって発生した。
実は現在、為替市場の資金の9割以上は投機資金だそうである。
貿易や投資(外国債券・株式購入及び売却)など実体ある取引(売買)を実需と言い、それに対して実体がない売買(売買の差額だけが動く)を投機と言うが、実体ある取引に関わる資金は為替市場の1割にも満たないというのだ。
それくらい世界の金融市場が肥大化してしまった。
それは紙幣発行に裏付けが必要なくなり、倫理観も欠如し、紙幣が増え続けたからである。
極端なことを言えば、汗水垂らして一生懸命働き、為替レートの変動のリスクを気にしながら輸出入していったい何になる、という話である。
その何倍ものお金が蠢いていて、一晩で大儲けすることも夢ではないのだ。

だけどそれを非難しきれない側面もある。
物を作るにはエネルギーが必要だからだ。
この地球にある資源以上の物を人間は作れない。たとえどんなに紙幣を増やしたとしても。
金本位制の金は資源を代表するものだった。
金本位制は金以上の紙幣を発行するなということである。
物を作りだすのに必要な紙幣を、物を作り出すのに必要な資源以上に増やしても意味がない。混乱を招くだけだからだ。
でも今はもう紙幣のほうがずっと多い状態。
その紙幣を世に出して、本気でその分だけ物を作ろうとすれば、資源が尽きる。
そうしないために増えてしまった紙幣の引き受け場所が必要。それが為替市場になっている。
その気になれば小さな市場なんか簡単に潰せるだけの資金が為替市場には存在しているのだ。


そのように規模の違いの影響は大きい。
だからどこかの国が紙幣を大量に増やせば、関係国は自国を守るためにそれに合わせて紙幣を増やすしかなくなる。
製造大国だったために最後まで金本位制を強いられたアメリカがそれをやめた理由もそこにある。
そうしてずるずると世界経済規模は大きくなり続けた。


規模の小さな国や影響が心配な国は投機に規制を掛ければよいのではないかと思うかもしれないが、投機に規制をかければ外国資本減に繋がる。
規模の小さな国や影響が心配な国というのは、結局資本が十分でない国なので、発展を望むなら外国資本が減ることは望ましいことではなくなる。
また投機を規制すればどうしたって通貨安になり、国際的評価が上がることはないであろう。
諸々諦めてしまえばそれまでだが、グローバルとか言って国際社会でそれなりの地位にいたいとかいきたいとか思ったら規制は得策ではないということになる。





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by yumimi61 | 2017-12-17 15:17
2017年 12月 15日
日本国憲法の秘密-640- (外貨準備と貿易について)
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1991年にバブル景気が終了。1991年度から税収が落ち始めた。
赤字国債発行額ゼロを達成したのは1991年~1993年度(平成3~5)であり、税収が落ちた中で達成している。
急上昇した景気が落ちるのと同じで、ガクンと落ちた景気はやがて戻ってくる。
しかしバブル景気の影響がどれくらい続いて、いったいどれくらい戻したのか、分かりにくい状況を作った。
1994年(平成6)に特別減税を行ったからである。
これは村山内閣の前の大連立・細川内閣で決まったこと。
消費税導入が念頭にあり先行減税と言われれている。
細川護煕は熊本県出身。大学はイエズス会の上智大学卒。日本赤十字社社長の近衞忠煇は実弟。

1997年(平成9)に消費税が導入されたが、その前3年に亘って特別減税を実施。
1994年(平成6)5.5兆円、1995年(平成7)2兆円、1996年(平成8)2兆円規模。
さらに所得税率の見直しも行われた。これは働き盛りの世代に配慮したもので、一時的なものでなく変更されない限り続く恒久的な減税となり、年間規模で3.5兆円の減収となった。1995年(平成7)より。
要するに、1994~1996年(平成6~8)は一時的な特別減税と所得税率見直しによる恒久的減税合わせて、年間5.5兆円の減収となったのだ。


上のグラフの一般会計税収のところに一部緑色の線を入れたが、それが減税が実施されなかった場合の税収。
バブル景気内の1989~1990年の税収レベルである。
おそらく1994年頃から自然な景気回復が見られたのではないかと私と考えるが、減税したことによって消費が刺激されて維持した景気であって、そうでなければもっと下がっただろうと主張する人も出てくるだろうと思う。
維持したと言っても税収は前年より減らしているので、減税のメリットよりもデメリットのほうが大きかったことは明らかだが、「いやいや減税しなければもっと下がったはずだ」という主張が間違えているという証明はしようがない。(安倍首相の好きな悪魔の証明)


特別減税の初年度1994年(平成6)から赤字国債も復活し始めた。
一旦ゼロに、しかもバブル景気後の減収の中でゼロを達成したのだから、それを再開するとなると、それなりの理由(言い訳)が必要である。
その言い訳に持ち出されたのが特別減税による減収だった。政府は景気回復どころか十分に減収を見越していたということになる。
「減税特例公債」という名で年度限りの特例公債にさらに特例観をつけて発行を決めたのだ。
下記金額の(うち金額)部分が当初予算の「減税特例公債」額である。
年度途中にそれでも足りなそうだと補正予算を組む。その部分はもう普通の赤字国債である。


赤字国債発行額(決算)
1994年(平成6) 約4兆1000億円(うち約3兆円)
1995年(平成7) 約4兆8000億円(うち約3兆円)
1996年(平成8) 約11兆円(うち約2兆円)

上の国債発行額の棒グラフのピンク部分(赤字国債)では「減税特例公債」は除かれているので、実際にはもう少しだけピンク部分(赤字発行額)は増える。
「減税特例公債」同様に、2011年度(平成23)は東日本大震災からの復興財源調達のための「復興債」、2012・2013年度(平成24・25)は基礎年金国庫負担2分の1を実現する財源を調達するための「年金特例公債」を除いており、実際にはもっと赤字国債は多い。


消費税率を5%にアップさせた時に地方消費税が設けられ、5%のうちの1%(国の消費税率の25%)は最終消費地の自治体(都道府県)の税収となり、さらにその半分が市町村に分配される。
国の消費税率は4%である。
3%の時は消費譲与税として消費税額の20%が地方自治体に譲与されていた。
どちらにしても丸々全部が国の収入になるわけではない。(それで地方自治体への仕送りが減るならよいが)
消費税率を3%から5%にアップさせるとおよそ5兆円の税収増になる見込みだったそうだ。
国の取り分は4兆円ということになる。
5兆円のうちの1兆円近くは政府(国家機関)が買い物するにあたって支払っている消費税だそうだから、政府(国家機関)のお買い物金額はいかに大きいかということですね。
自分で支払った消費税が収入として入ってきても、その分支出もあったということだからプラスマイナス0。
従って消費税率を3%から5%にアップでの国の税収増は実質的には3兆円強くらい。
苦労に苦労を重ねて税率を上げても、赤字を減らさないと焼け石に水。


特別減税の3年間が終わり、1997年(平成8)4月より消費税が5%に上がった。
その年の7月よりアジア通貨危機が始まった。

アジア通貨危機(英語: Asian Financial Crisis)
1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。
タイ・インドネシア・韓国は、その経済に大きな打撃を受け、IMF管理に入った。マレーシア・フィリピン・香港はある程度の打撃を被った。中国と台湾は直接の影響はなかったものの、前述の国々と関連して影響を受けた。
日本に関しては、融資の焦げ付きが爆発し、緊縮財政と消費税増税のタイミングが重なった結果、1997年と1998年における金融危機の引き金の一つとなり、1998年9月の日本銀行政策金利引き下げ、10月7-8日の日本円急騰(2日間で20円の急騰)、10月23日に日本長期信用銀行の破綻と国有化、12月13日に日本債券信用銀行の国有化へと繋がる一連の金融不安の遠因となった。
また、新興国における通貨不安はアジアに留まらず、1998年8月17日からのロシア通貨危機、1999年1月ブラジル通貨危機など、その他の経済圏でも同様の混乱を招いた。


途上国(新興国)など経済規模がそれほど大きくなく、不安定要素の多い国の場合、通貨もやや不安定なことが多い。
些細な事をきっかけにインフレやデフレが起こりやすく、そうしたことが金利や為替相場にも影響を与え、そうなると安心した貿易関係を築けない。
そこで政府や中央銀行などが金利調節や為替介入を行い、経済的に関係の深い大国の通貨との為替レートを維持させている。
これをペッグ制と呼び、USドルと連動させている場合をドルペッグ制と呼んでいる。
日本、台湾、フィリピンを除く、アジアの殆どの国家は、米ドルと自国通貨の為替レートを固定する「ドルペッグ制」を採用していた。それまではドル安の状態で、比較的通貨の相場は安定していた。

つまりアメリカのUSドルがドル安の時には、ドルペッグ制を敷いているアジア各国の通貨のレートも安めに誘導していたということ。
連動して動いているのだからアメリカとの貿易において為替変動によって急激に損をすることも得をすることもない。(差があるところに儲けも損も生じやすい)
安い労働賃金を背景にアジア諸国は輸出を伸ばしていた。(アメリカとアジア諸国の労働賃金には大きな差があり、それは双方の国のメリットになった)

ところで何故アメリカがドル安で推移していたかと言うと、重要な貿易相手国の1つである日本が1985年プラザ合意によって円安から円高に急転換したから。
アメリカから見ればドル高だったのがドル安になった。
1985年に一気に上がった後も、徐々に円高(ドル安)は進行し、ピークは1994年だった。
その後は円安(ドル高)に動いて行き、円安(ドル高)の底が1997年である。
ドルペッグ制のアジア諸国のレートはアメリカのドルに連動しているのでそれぞれ高めに動いた。
これによってアジア諸国の輸出が伸び悩むようになる。
何度も言うようだがドル建てで決済している日本の輸出企業は円安のほうが有利である。
それと同じでドルペッグ制のアジア諸国がアメリカ以外の国と相手国の通貨建てで貿易を行う場合、自国通貨安のほうがよいのだが、上がってしまったのだ。
例えば日本に円建てで輸出し売上を自国通貨に両替する時、通貨高は安い時より不利となる。
輸出企業について言えばそうだが、通貨高になるということは一般的にその通貨が国際的に強いということ、評価が上がるということである。
だけど実際ドルペッグ制のアジア諸国がそれに値するかと言えばそうではない。アメリカと連動させて意図的に上げたものであって自然に上がったものではない。
輸出が伸び悩んでいるのに国際的評価が上がっている方向に動く。
つまり実際の経済状況と乖離した数値が出ている。純粋な自身の成長ではなく、他者の動きに振り回される運命。これでは持続可能性があるとは言えない。

輸出が伸び悩み経済が思うように発展しないとなると途上国(新興国)に投資している投資家らはおもしろくない。
それならば通貨の売買(FX取引)によって一儲けしてやろうということになる。そちらのほうがよっぽど確実に儲けられる。
アジア諸国の通貨が投機攻撃の対象となったのだ。
このような投機攻撃は1992年にイギリスのポンドがやられている。当時イギリスは不景気だったが、立場としてはアジア諸国側になるわけではない。1990年10月の東西ドイツが統一が背景にあり、統一を機に東ドイツに投資家の目は向いていた。


投機(通貨の売買)の場合、買いから入る場合と売りから入る場合がある。
一般的には買いから入る。
どこかの通貨を日本円で買って、円安が進んだら売って、その差額を利益とする。
為替レートの差によって利益が生まれるが、もうひとつ金利差によっても利益が生じる。
例えば日本円でアメリカドルを買うと、円とドルの金利差分の利息のようなもの(スワップポイント)が利益となる。
アメリカドルと日本円の金利差が1.5%だとして(ドル1.5%、円0%)、100万円で1万ドルを買って(1ドル100円の場合)、それを1年保持した後に売ったとすれば、1年分の金利差15,000円も受け取れる。(別に1年と限らずポジションを持った日数分だけ日割りで貰える)
金利が高い通貨で低い通貨を買って保持すると逆に金利差分を支払わなければならないけれど、日本円にはその心配は皆無。


売りから入る場合は株の空売りと同じような感じで、通貨を持っていなくても出来る。
株の場合は借りると金利を払う必要があるが、通貨のFX取引の場合、その必要もない。
円安の時に売って円高の時に買い戻すと儲けになる。(為替は円安円高の安い高いと金額の高い低いが反対なので株の空売りの安値高値とは少々違ってくる)。
例えば1ドル120円の時に1万ドル借りて売って120万円手に入れ、1ドル100円と円高に動いた時に1万ドルを買い戻して返す。必要なお金は100万円。手元に20万円残るがこれが利益となる。


通貨安になると輸出はよいが輸入がとても大変になるし、資本を確保するために金利を上げざるを得なくなる。
そもそも通貨安というのは自国通貨の国際的評価の下がった状態である。信用面でいろいろ影響してくる。

ドルペッグ制のアジア諸国の通貨はこれ以降変動相場制に移行した。








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by yumimi61 | 2017-12-15 13:39
2017年 12月 14日
日本国憲法の秘密-639- (外貨準備と貿易について)
1989年に3%で導入された消費税の値上げ(5%に増税、うち地方消費税1%導入)のための税制改革関連法案を成立させたのは、1994年6月30日に発足した自社さ連立政権で首相が社会党の村山内閣だった。
内閣発足から僅か5ヶ月後の法案成立という早業だった。(導入は1997年より)


増税の一番のネックになるのが当時の社会党に代表される左派・野党である。
実は左派・野党の有力者たちも国の財政状況を見れば増税は致し方ないというのは分かっていたのだ。
ただ立場的なこともあって有権者を前にするとなかなかそれを声に出して言うことができずにいた。
だったら左派・野党も政権に取りこんで事を進めようと思いついたわけである。飴と鞭作戦。結果的にこれが失敗だったのだ。

安定政権への要望、野党に安んじられない自由民主党等の状況の中、武村正義、竹下登、野中広務などが水面下で動き、社会党を首班とし、自民党とさきがけが参加する大連立政権が構想されていった。

この時に「リベラル政権を作る会」もできた。

自民党は自社連立政権樹立後の政権運営を想定して、村山首相を誕生させるための自社有志による勉強会を開き、「リベラル政権を創る会」と「憲法問題研究会」というふたつのグループを作った。ここでの政策研究が自社さ連立の政権政策の基礎となるとともに、首班指名選挙における村山首班側の基礎票となった。

リベラル政権を創る会には、自民党から逢沢一郎、安倍晋三、衛藤晟一、小川元、川崎二郎、岸田文雄、熊代昭彦、白川勝彦、二田孝治、村上誠一郎、谷津義男が、社会党からは金田誠一、中尾則幸、伊東秀子が、護憲リベラルの会からは翫正敏、西野康雄(旭堂小南陵、現・旭堂南陵)、国弘正雄、田英夫、三石久江が、二院クラブからは青島幸男と下村泰(コロムビア・トップ)が、無所属から紀平悌子が参加した。憲法問題研究会には自民党から石原慎太郎と松岡利勝が、社会党からは北沢清功、秋葉忠利が参加した。


「自社さ連立政権」での内閣総理大臣指名選挙では、自民党の議員もほとんど社会党の村山に投票した。
村山に投票しなかったのは中曽根康弘・渡辺美智雄などごく一部の議員しかいなかった。

「それまで反対していた増税を政権とったら掌返してやるのか、ではこれまでは何の理由もなく増税に反対していたというわけか、節操のない政党だ」という批判が社会党などに向けられた。
法案成立の2ヶ月後には阪神・淡路大震災が起こり、さらにその2か月後に地下鉄サリン事件も起こり、諸々逆風となって、1995年7月の参院選では連立与党三党(自社さ)は敗北に終わった。
投票率も50%を切るほど低調であり、このとき勝ったのは創価学会が有力支援組織であった新進党であった。(公明党と新進党に合流した)(勝ったと言っても第1党になったわけではないが) 
この時、自民党を初めとする与党は新進党を構成する旧公明党の支持母体である創価学会に対する攻撃を展開した。宗教法人法の改正に伴い、学会名誉会長池田大作の証人喚問を要求し、週刊誌に掲載された池田のレイプ疑惑を追及、自民党の機関誌「自由新報」に継続的に掲載し反創価学会キャンペーンと呼ばれるまでに至った。

新進党の初代党首は竹下登の影響下にあり赤字国債発行ゼロを達成した元首相の海部俊樹。
海部は、1994年6月に自民党総裁の河野洋平が自社さ連立政権構想で合意し首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して自民党を離党した。
新進党は「反自社さ連立政権」の受け皿として結党された。
1993年に(こちらも赤字国債発ゼロだった)宮澤内閣に対しての不信任決議案に賛成し、可決に追い込み自民党を離党した羽田孜や小沢一郎もいた。
赤字国債発行減少・ゼロ組の首相、中曽根・竹下・海部・宮澤の関係が「自社さ連立政権」を巡ってぎくしゃくし始めた。

小沢一郎と竹下登は1992年の対立で禍根を残している関係である。
1992年(平成4年)10月、東京佐川急便からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなった。竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などを行い、小渕を強引な形で後継会長に据えた。

だが自社さ連立政権の創価学会批判が功を奏したのか、1996年の衆院選では議席数を減らし勝てなかった。
翌1997年には公明党が離れ、新進党も解党に向かった。
ところがその公明党も、小沢一郎の自由党も、後に自民党とくっつくのだった。
その橋渡しに影響力を発揮したのも竹下登。

自民党は1998年(平成10年)7月の第18回参議院議員通常選挙で前回の改選前の61から45に大幅に議席を減らした。この選挙の敗北の責任を取り橋本内閣が総辞職し、同月30日に小渕内閣が成立した。8月中旬、元首相の竹下登は創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談を行い、創価学会の協力を取り付けた。

長いこと公明党は、政策的に良く言うと中道、悪く言うと一貫性がなかった。
掌返しは致命的になるほど嫌われるところでは嫌われる。
でも公明党は良くも悪くも比較的それが弱い。
信念ではなくて宗教的な繋がりで結ばれた組織だから。
そして典型的なトップダウン組織である。
分裂や離反が少なく中から壊れにくい。(たぶん今の自民党もそんな感じなんだと思う)
公明党は中道であり、親自民と非自民の狭間を揺れていた。選挙に勝てば日米安保・自衛隊に賛成、負ければ反対と、特に外交・防衛政策で立場の不鮮明が目立った。また、支持母体である創価学会においても、壮年部(40歳以上の男性)が親自民もしくは自公民路線、婦人部(既婚女性)と青年部(男性は40歳未満、女性は40歳未満かつ未婚者)が非自民もしくは社公民路線を支持するなど内部の路線対立も存在していた。

1998年7月の参院選における自民党敗因の理由は1997年の金融危機。

1999年(平成11年)1月14日、自民党と自由党の連立政権が発足。公明党もいまだ名目上は野党ながら、周辺事態法、国旗・国歌法、通信傍受法、住民基本台帳法改正など、政府・与党の重要法案に次々と協力し、与党入りの足場固めをした。同年10月5日、自民党の小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が誕生した。これ以降森内閣・小泉内閣・第1次安倍内閣・福田康夫内閣・麻生内閣、そして、自民党が政権を奪還した第2次安倍内閣・第3次安倍内閣においても公明党は自民党との連立政権を維持した。










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by yumimi61 | 2017-12-14 16:28
2017年 12月 14日
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by yumimi61 | 2017-12-14 01:09
2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-638- (外貨準備と貿易について)

1987年11月6日、竹下内閣が発足した。

経世会を結成した1987年(昭和62年)の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁、第74代内閣総理大臣に就任。首相としては初の地方議会議員出身者で、同時に初の自民党生え抜き(初当選は保守合同後初の総選挙:1958年5月)であった。また竹下は昭和最後の総理大臣でもあった。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持つと考えられた竹下内閣は、長期政権になるとの見方が一般的だった。


だが長期政権にはならなかった。リクルート事件が発覚したからだ。

消費税導入と前後して、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件で竹下自身の疑惑も浮上し、内閣支持率は軒並み10%を割り込んだ。財界も石原俊(経済同友会代表幹事、日産自動車会長)らが公然と竹下の退陣を迫るなか、1989年4月22日、竹下が公表していなかったリクルート社からの借入金の存在がスクープされると進退が窮まり、4月25日に内閣総辞職を表明。翌26日、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が自殺している。内閣総辞職直前には、竹下登邸周辺でデモ活動も起きた。

アメリカで政府紙幣を発行しようとした大統領は暗殺されたとか暗殺されるとか言われることがあるが、日本でもこの頃、増税しようとするとよからぬことが起こった。

竹下内閣は1988年12月に消費税法を成立させて、1989年4月から消費税3%が導入された。
リクルート事件の発覚は1988年6月18日(朝日新聞スクープ)。

7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した

10月にリクルート社などの家宅捜索が行われ、2月にリクルートの江副前会長などが逮捕された。

事件の捜査を主導した佐渡賢一(検察官)によるとリクルートから5000万円借りていたことは分かっていたため、青木伊平竹下登在東京秘書を聴取したところ事務所の出納記録を持参されて単純な金の貸し借りだったため、「事件性無し、シロ」と上層部と青木に伝えた。
青木から念のため公表すべきか相談されたため、あなた達の判断と返答したことから竹下首相側は公表しなかった。
しかし、その後朝日新聞がこの借金話を報道して世論が沸き、それにより4月25日に竹下首相は、首相退陣表明した。翌日の4月26日に青木伊平元竹下登在東京秘書が自殺した。


1989年6月3日、竹下内閣総辞職。
消費税導入から1ヶ月も経たないうちに退陣表明し、2ヶ月あまりで総辞職することになった。

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中曽根内閣、竹下内閣と、赤字国債発行は着実に減っていった。
グラフの元年(1989年)もほとんどピンクの部分は見えていないが発行している。
ペースからいけばその次の年には発行はなくなるだろうという見通しはついていたが残念ながら竹下内閣は1990年年度予算審議の国会まで続かなかった。
でもその後の宇野政権(2ヶ月と短期政権だった)、海部政権、宮澤政権にも影響力を持っていたとのことで、海部・宮澤の2つの政権(1990年~1993年度)では赤字国債発行額ゼロを達成した。

中曽根内閣だった1983年8月12日、「1980年代経済社会の展望と指針」が閣議決定された。
この中に1990年までに赤字国債依存体質からの脱却という目標が掲げられており、以後毎年「中期的展望」が作成されていた。
1990年までという時期は少しだけずれ込んだが、結果が本当に実ったのだ。
但し宮澤内閣では建設国債発行額が伸びている。

1991年以降それまで右肩上がりだった税収を減らすことになるが、これは投資家や企業がバブルに浮かれて投資につぎ込んだ付けが回ってきたため。投資失敗によって巨額損失を出した企業などが多数あったため税収にも響いてきたということ。
こういう狂騒に勝てるのは一握りである。
また金利が低かったので企業は借金して設備投資したりしたが、バブルが弾けて世に不景気色が強くなると思うように売れなくなり、結局業績も悪化する。
バブルで不動産価格が高騰していたが、銀行などは時価で担保とし融資している。
その価格が下落すれば、融資額と土地評価額が大きく開くことになり、もはや担保をもってしてもチャラにはならない。金融機関も不良債権を多数抱えることになった。
金利を上げなかった成れの果て。

でもどんなに経済損失があったと言っても資産価値が失われたと言っても、紙幣が火災で焼失したわけでもないし、土地や建物を海に投げ捨てたわけでもないので、バブルで舞った紙幣が消えてなくなってしまったわけではない。
どこか収まるところに収まっただけのことであり、あるところにはあるのだ。






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by yumimi61 | 2017-12-12 23:10
2017年 12月 12日
日本国憲法の秘密-637- (外貨準備と貿易について)
東京オリンピックの翌年1965年に戦後初めて発行された国債は建設国債である。
オリンピックが終わってからの建設国債に「なんで?」と思うかもしれない。
オリンピック不況を高速道路建設で乗り越えようという算段だったのか高速道路が本格的に整備されていくのは1965年以降である。
赤字国債が初めて発行されたのは1975年(昭和50年)である。
法律違反であるがゆえ、財政法第4条に対する特例として1年度に限る法律(「昭和50年度の公債の発行の特例に関する法律」)を公布して赤字国債を発行した。


高度経済成長期のさなかに開催された1964年東京オリンピックの翌年、日本は不況に襲われた。
高度経済成長期の終焉を迎えるかどうかの瀬戸際となった。
その時は佐藤内閣だった(1964-1972)。

ちなみに日本は1960年開催夏季オリンピックにも立候補しているがローマに破れている。
このオリンピック誘致期の首相は吉田茂。
次の1964年開催夏季オリンピック誘致期の首相は岸信介。(開催時は池田勇人首相)
麻生&安倍の親族コンビである。

佐藤内閣において、1965年6月3日-1966年12月3日、1968年11月30日-1971年7月5日の期間、大蔵大臣を務めていたのは群馬県出身の福田赳夫である。彼は大蔵官僚出身の政治家。
戦後初の国債発行を決めた時の大蔵大臣は福田赳夫だった。
1965年7月 、臨時国会にて政府は財政投融資の増額と歳入補填国債発行を内容とする1965年度(昭和40年度)の補正予算を決定した。
福田大臣就任後1~2か月後のことである。

補正予算とは、当初予算成立後に発生した事由によって、当初予算通り の執行が困難になった時に、本予算の内容を変更するように組まれた予算。 予見し難い 事態への対応として予備費の計上が認められているが、予備費でも対応できないような 事態が生じる場合には、追加予算を編成することになる。 

会計年度も4月スタート。災害のような突発的な出来事もないのに僅か3ヶ月で補正予算を組まなければならなかったということだから、予算の読みが甘いと言われても仕方がない。
国の予算は、まず通常国会の召集日に内閣から衆議院に提出され予算委員会に付託され、審議を経て記名採決にて成立する。
その後参議院に送られるが、3月2日まで衆議院を通過すると憲法の規定により参議院で議決が行われなくても年度内に自然成立する。
ともかく4月からの予算なので3月末日までには成立するよう定められている。
通常国会は現在は1月に召集されているが、かつては12月に召集されていた。
一応まとまった予算案が12月には国会に提出されるということなので各部署での予算編成はもっと前に行われる。
1964年の東京オリンピックは10月開催であった。
つまり1965年度(昭和40年度)予算編成の段階ではオリンピック後不況がまだ反映されていないであろう。予想もしていなかったということか。
どれくらいの時期に不況が顕著になってきたのかよく分からないが12月に始まり一応3月までチャンスのある通常国会中にも予算の修正はなされなかったということになる。

1965年7月に決定した国債を赤字国債とし、これを初の赤字国債と言う時もあるが、4月スタートで7月に赤字と決めるには如何せん早すぎる。
赤字というよりは予算修正(歳入補填)とみるほうがやはり自然である。
翌1966年度(昭和41年度)から歳入補填国債が建設国債として正式に最初から政府予算に盛り込まれていくことになる。
国債が発行されて、紙幣が公共事業に投資されれば、世に紙幣が出るということになるからインフレ傾向(経済規模拡大)は続きやすい。
結果、高度経済成長期は以後1973年まで続いた。
オリンピック需要でぐんと上がった経済規模を高度成長のまま維持するには、さらにかなり上乗せしていかなければならない。上げたものは落ちるのに落とさないばかりか上げていくのだから大変、負担は大きくなる。それが建設国債の始まりなのだ。


1973年オイルショックにて日本の高度成長期も終わる。
赤字国債発行はその2年後1975年。
禁じ手である赤字国債の発行に踏み切ったのは三木内閣。
昨日載せた金利のグラフを見れば分かると思うが、この時の政策金利は9%とまれにみる超高金利だった。
1973年に4%だったのが2年後に9%に急上昇している。
その上での国債発行だったわけである。
金利が高い時の借金は、借りる側は損をする、貸す側は得をする。
お金の貸し借りにはリスクが伴うが、何と言っても借りる側が国なので有事でもなければリスクはそれほど高くない。
お金を借りる国にとっては痛手となり、投資家は得をする。
そんな時期にあえ赤字国債発行に踏み切った。
1年度に限る国債発行前提なのだから、せめて金利を下げておくとかすればよいものを超高金利での国債発行。いったいどこを向いて舵取りしているのかと言わざるを得ない。(個人向け国債の金利には固定と変動があるが、金融機関向けの国債は固定金利)


1975年(昭和50年度)に発行した赤字国債10年物の満期が1985年度(昭和60年度)にやってくる。
発行当時大蔵大臣だった大平正芳は赤字国債の習慣化に懸念を示し、年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めていた。
借りたお金は1985年に耳を揃えて返さなければならない。
現金で返せなければならないとなると、返そうそうな額しか借りられないということを意味する。
つまり無制限に借りることにブレーキをかけることができる。
人は往々にして見えない借金は忘れてしまい、目先の計算しかしないので(ソーラー発電の時にもそんな目先の計算を披露していた人がいた)、完済までの期間が長ければ長いほど気が緩むという側面もあるから、それを防ぐ意味でも60年ルールなんて適用すべきではない。

中曽根内閣では赤字幅は減少していた。
そこに国債償還が加わるのだから、1985年度以降はそれなりに節約が必要になる。
でも借金するということはそれくらいの覚悟が必要だろう。
1985年度分の予算編成は1984年秋くらいから、国会での予算審議は1984年12月から始まる。

1984年1月、財務大臣の諮問機関である財政制度審議会から驚くべき意見書が提出された。
借換債を発行しないで現金償還することを特例法に定めていたのに、建設国債と同じように借換償還にすべきという提言がなされた。
本来赤字国債発行は法律(財政法)違反であった。それをクリアするための特例公債法ですら変更せよと言うのだ。
経済成長と国民生活の安定という聞こえの良い大義によって。

1984年6月、特例公債法が改正された。
「償還のための起債は行わないものとする」(借換債の禁止)
  ↓
「償還のための起債は、国の財政状況を勘案しつつ、できる限り行わないよう努めるものとする」

借換債の禁止が変更され努力規定となり実質的に正々堂々借り換えが行われるようになる。
日本では「努力しなさい」を言い換えると「実行しなくてよい」ということになるらしい。

財政制度等審議会
日本の国の予算,決算および会計の制度に関する重要な事項について調査審議するため,財務省の付属機関として設けられている財務大臣の諮問機関で,1950年に発足した。
財務事務次官を会長とし,学界,報道機関,財界,関係行政機関の OB,その他の学識経験者から任命される委員 25人以内で構成されている。
公債政策,財政硬直化対策,財政による資源配分政策など基本的な財政制度や各年度の予算のあり方などについて重要な勧告や提言を行なっている。


国家戦略特区もそうだったけれども、何かと得意の有識者ってやつですかね。











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by yumimi61 | 2017-12-12 14:34
2017年 12月 11日
日本国憲法の秘密-636- (外貨準備と貿易について)
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大平首相の後が鈴木善幸首相。鈴木首相は大平派だった。
当時国際的にはそれほど知名度があったわけではないが、後にアメリカとの「同盟関係」を初めて言及することになる。

「同盟」という言葉が最初に使われたのは1981年のこと。
鈴木善幸首相とレーガン大統領との会談後の共同声明の中で初めて「同盟関係」という文言が記された。
だから新たな軍事的密約を懸念したマスコミから記者会見の場で「同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」という質問がなされたくらいであった。
同盟関係になったのはそれほど昔ではない。(十分昔ですよ?)

日本とアメリカの共同声明の中で「同盟関係」と言及したのは、同じタカ派で仲が良いと有名なロンヤスコンビの中曽根康弘首相の時ではない。
中曽根首相は鈴木善幸首相の後の首相である。

1981年にアメリカと同盟関係を結んだ鈴木善幸首相の娘と1983年に結婚したのが麻生太郎議員。
この流れを見れば政略結婚と見做されても仕方ないだろうと思う。


先に述べたように鈴木首相は「増税なき財政再建」を掲げた。
増税言及によって猛反発を食らった挙句に死んでしまった大平首相をそばで見ていただけにさすがに増税には踏み込めなかったが、鈴木首相も財政再建が必要であるという認識は持っていた。
1980年に就任したレーガン大統領もアメリカで猛烈に進行していたインフレを何とかしようとしていた。
日米首脳がともになるべく健全な経済状態にしようという意見で一致していた時期である。おそらくそれが「同盟」ということだったんだろう。
原油価格が下がっても日本でガソリン小売価格が下がらなかったのがちょうどこの頃である。
目につきやすい増税ではない形で税収を確保していたのであろう。

鈴木内閣と中曽根内閣の時代は増税せずとも税収は伸びている。
一方で歳出の増加は非常に緩やかであった。
つまり赤字幅の減少が認められるということ。現に赤字国債の発行額も着実に減少していった。

中曽根内閣はさらなる税収確保のため売上税という大型間接税の導入を検討していた。
しかし野党や小売業界の猛反発があり、結局これも撤回された。

1985年9月プラザ合意、1986年12月頃からバブル景気が始まったとみられている。
1987年10月、自民党総裁任期の満了を控えた中曽根は次期総裁に自民党幹事長の竹下登を指名し(中曽根裁定と呼ばれる)、党大会において正式に決定された。翌11月中曽根内閣は総辞職した。

中曽根が竹下を選んだのは反感を買っても財政再建のために消費税導入を行える適任者と見做していたからだそうだ。
中曽根内閣のほとんどの期間(1982年11月27日~ 1986年7月22日)の大蔵大臣であった。
首相就任準備のためか中曽根内閣最後の第3次内閣(約3ヶ月間)では入閣していない。その時の大蔵大臣は広島県出身の宮澤喜一。つまりバブル景気の始まりの時の大蔵大臣は宮澤大臣だった。

ではこの時期に日本銀行総裁が誰だったかと言うと、群馬県出身の澄田智である(1984-1989年総裁)。

日本航空123便が墜落したりプラザ合意が行われた1985年の日銀総裁は澄田だった。
1989年に日銀総裁を退任し後、ラザール・フレール顧問に就任している。
1993〜2008年という長期に亘り日本ユニセフ協会の会長を務めている。
澄田智は澄田睞(らい)四郎の長男である。
澄田らい四郎
日本の陸軍軍人。陸士24期、陸大33期。最終階級は陸軍中将。
澄田らい四郎は愛媛県の家系で、本人は名古屋で生まれ広島で育っている。
戦前からフランスとの関係が深かった人物。
第二次世界大戦中はインドシナ(ベトナムなど)、中国で任務に就いた。
その息子である澄田智が何故に群馬県生まれなのかと言うと、澄田らい四郎の妻・静枝が群馬県の高山村の出身だからである。
静枝は製糸と紡績業で財を成した高山の地主である松井家に生まれた。
静枝の父・松井貫一はキリスト教徒であり、高山村に教会(日本キリスト教団・名久多教会)を開いた信者の1人。
松井貫一の長男(静枝の兄)・松井萬緑は、加島銀行常務、大同生命取締役、第一銀行広島支店長を歴任した。
加島銀行や大同生命でピンと来るかもしれないが、NHKの朝ドラ『あさが来た』の主人公モデルである広岡浅子(大同生命創業者)と関係がある。
広岡浅子は三井家のお嬢様である。(しかしながら浅子は三井家男子が外に作った子供で母親も定かではない。浅子は三井家に養子入りした)


澄田智の次の日銀総裁は三重野康。
1980年からの利下げ局面が長引く中で金融引締めに転じたかった三重野は、1985年9月のプラザ合意を奇貨とし、利上げへの地ならしも兼ねて、腹心であった営業局長の佃亮二に「高目放置」を主導させた。大蔵省や海外当局からの抗議で「高目放置」が取り止めになり逆に公定歩合が引き下げられると、澄田・ボルカー会談で利下げを前向きに検討するとの言質をボルカーに与えたことなどから澄田がさらなる利下げに動こうとしたことに強く反対し、「乾いた薪」論を展開して金利引き上げを模索するようになった。しかし、資産価格バブルを金融政策で防止するためには、「統計上の物価の安定」が実現している段階で大幅な金利引上げが必要となるため国民に対しては十分に説得的とはいえなかったことや、大蔵省や海外当局からの圧力の中で利下げが決められたという経緯もあって、結果として利上げが遅れバブルの生成を許すことになる。

1989年12月、同行の第26代総裁に就任すると矢継ぎ早の金融引締め政策を実施。「平成の鬼平」ともいわれたが、澄田前総裁の下で投機によって膨張を続けたバブル経済を崩壊させ(失われた10年を起こした)とされる。その処理・経済再建の課題を、後任の松下康雄に委ねた形となった。三重野は総裁退任後も、「インフレなき経済成長」を唱導し、長期(特に日銀出身の速水優が総裁在任中)にわたり、隠然たる影響力を保っていたと言われている。


上の転載文、バブル景気生成も崩壊もまるで三重野が悪いように書かれているが、三重野がやろうとしていたことは間違っていない。
だとすればバブル景気を導いたのは澤田総裁であろう。
プラザ合意後、金利を上げる必要があった。
だが逆のことをした。金利を大きく下げたのだ。
たまにバブル期は金利が高かったと言う人がいるが決して高くない(もちろん今と比べたらずっと高かったが、それまでの時代と比べると低い)。
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黒い折れ線グラフのほうが目立つが青い線のグラフが政策金利と言って日銀が決める貸出金利である。これが市中銀行の預金金利や貸出金利、国債金利や住宅ローン金利などに影響を与える。
グラフを見ると分かるが世の金利に反映されるまでには若干時差がある。


■プラザ合意後に金利をあげなければならない理由。

①円安(例えば1ドル350円) ②円高(例えば1ドル100円)
----------------------------------------------------------------
為替市場は円が多い状態    為替市場は円が少ない状態
世の中は比較的デフレ状態   世の中は比較的インフレ状態

貿易黒字の時には②の状態となる。(輸出企業が外国で稼いだドルを円と交換することを前提にした貿易黒字の場合)
しかし日本は1971年ニクソンショック以降、為替介入して円安誘導していた。(だから外貨準備高がとても高い)
貿易黒字だったにも関わらず①の状態にあった。
そういうズルはやめようとプラザ合意し、本来あるべき為替レートになった。
当時も貿易黒字だったわけだから自然にまかせておくと②の状態となる。
急激な為替レートの変動があったわけだから急速にインフレが進む可能性がある。
インフレを防止するには金利を上げて、預金者を増やし融資を減らして、世の中のお金を引き上げなければならない。
それをやらなかったのだ。

為替介入し①の円安に誘導した原資の円も借金(政府短期証券)であるということを前に述べた。
為替介入をやめるということは、政府に短期でお金を貸し付けていた人達(政府にお金を貸していたのは個人ではないが)の融資先がなくなったことを意味する。
さらにこの時金利が大きく下がった。
貸すメリットがたいしてなくなった。
じゃあお金どうしようかなあ~と考える。
金利が下がったんだから不動産を購入する人が増えるはずだと睨んだ。
しかも①から②の状態に移行するのだから必ず物価が上がってくる。不動産価格も値上がりするはずと読んだ。
だからお金を持っている人達が投資目的に不動産を購入し始めた。
買いは買いを呼んで値が吊り上っていく。不動産の高騰を招いた。不動産業界はハイパーインフレ状態だった。
円安(デフレ傾向)から円高(インフレ傾向)になったが、元の円安が作為的なものであり、それに関係していたのはお金を持っている人達。
貸していたお金が戻ってきて貸す先がなくなったからのインフレ。
庶民が持つのお金の量が増えたわけではないので、庶民にはあまり関係のない話。
不動産投資で儲かった企業などに勤めていればそれなりに恩恵があったかもしれないが。
あと金利が下がったのでローンしやすくなり買い物したり事業を始めた人もいるかもしれない。
金利が下がったため企業もお金を借りやすく設備投資が行いやすかったりしたため株価も上がっていき全体的になんとなく好調に見えた。
建築業界なども儲かっただろうから、その関係者も恩恵があっただろう。
これがバブル景気の正体である。
庶民や企業に関係するのはバブル景気そのもの(不動産高騰や株価上昇)というよりも金利が下がったこと(借金のしやすさ)だったのだ。借金はしやすかったが不動産や建築関係をはじめとした物価はかなり上がっていたはずなので得な話でもない。
急速なインフレ(物価高)を防ぐためには金利を下げるのではなく上げる必要があった。








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by yumimi61 | 2017-12-11 13:31
2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-635- (外貨準備と貿易について)
本日2本目です。

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※年度の〇印は1985年(昭和60年)。日航機墜落とプラザ合意、中曽根首相の靖国神社公式参拝の年。
※年度61~平3の□はバブル経済期。西暦だと1986~1991年。

水色の部分が建設国債の発行額(4条公債発行額)。
戦後初の建設国債発行はオリンピック翌年1965年(昭和40年)。
棒グラフのピンク部分が財政法で禁じられている赤字国債の発行額(特例公債発行額)。
1975年(昭和50年)に、特例として1年度に限る法律を公布して赤字国債を発行した。
三木内閣の時で、大蔵大臣は後に首相となる大平正芳。
衆参両院の大蔵委員会(現:財政金融委員会)の強行採決によって決定した。
以後毎年「特例公債法」を制定しては赤字国債を発行し習慣化してしまう。


加計学園のことを書いている時に前川・前文部科学事務次官は元首相・中曽根家と親戚だということに触れた。
その親戚関係は森&安西コンビに繋がり、そのコンビの姻戚関係は三木首相家や佐藤首相家、皇后の実家などと結ばれている。

中曽根弘文―前川真理子<前川喜平の妹>
(長男)中曽根康隆・・慶應義塾大学卒、JPモルガン証券入社、2013年より国会議員(父)秘書
(長女)中曽根文子・・慶應義塾大学卒、川鍋一朗(日本交通3代目社長)と結婚

※中曽根弘文・真理子夫妻の長女(前川喜平からみると姪)は、日本交通社長・川鍋一朗の妻である。
日本交通は日本交通公社(現JTB)のことではなくてハイヤー・タクシー会社である。
日本交通と川鍋という名を覚えているだろうか?
千葉県勝浦の森・安西というカジメ拾いの漁師コンビの姻戚関係に出てきた。


森&安西&鈴木コンビが設立した昭和電工と東信電気。
森家は首相家(三木武夫)と姻戚関係にある。
安西家は皇后の実家や首相家(佐藤栄作)と姻戚関係を結んだ。

三木は吉田茂の官僚政治を批判し、官僚・軍人・皇族等の出身ではなく一般人の政党員による政治を謳っていたにも関わらず、吉田茂と縁戚で近く親しい間柄にあった岸信介や佐藤栄作(ともに官僚出身)政権の誕生に協力していた。
つまり三木武夫は実のところ、吉田茂、池田勇人、岸信介、佐藤栄作に近い人物なのだ。
三木は、吉田学校の生徒の1人に数えられる田中角栄が逮捕された時の首相である。
「私的参拝」と言って靖国参拝し物議を醸した。
そしてー
超法規措置としてテロ犯を釈放した首相でもある。



三木首相(徳島県出身)→福田首相(群馬県出身)→大平首相(香川県出身)→鈴木首相(岩手県出身)→中曽根首相(群馬県出身)

1975~1987年の約12年間に四国出身の首相が2人、群馬県出身の首相が2人。
超法規措置と靖国参拝問題、どちらも三木首相と群馬県出身の首相に関係していた。


禁じ手である赤字国債の発行に踏み切った三木内閣であったが、当時大蔵大臣だった大平は赤字国債の習慣化に懸念を示していた。
そこで年度限りという条件と現金償還を特例公債法に定めた。

国債の満期は長くても10年。
しかし莫大の費用がかかる建設費(建設国債)は10年で返済するのは負担が大きすぎる。
マイホーム購入にかかった3000万円のローンをサラリーマンが10年で全て返済しなければならないとしたらいかに大変か。元金だけでも毎月25万円返済にあてなければならない。
建設費とはそういう額の大きいものである。
そこで建設国債には60年ルールというものがある。60年で返せばよいとうことである。(でもまずこの60年という設定が長すぎる。住宅ローンだって定年までの30年とか20年くらいのローンが主流だろう。親子ローンは出来る限り避けたい。子供に親のローンを残すのは忍びない)
もし満期までの期間を60年と長くとれば国債を買ってくれる人がいなくなる。なぜなら60年後というのは40歳の人が100歳になってしまうのだから生きているかどうか分からない。100歳にもなっったら利息で儲かったも何もなくなるだろうから。
だから10年満期の国債を返すためにまた国債を発行する(借金する)借換償還が行われる。

例えば6兆分の建設国債を2000年に発行したとする。
満期は2010年にやってくる。2010年に6兆+利息を返す必要がある。
そうとなると最低でも1年に6000億くらいずつ建設国債返済分貯金をしなければならない。でもそんなに貯金する余裕はない。
だから60年ルール。
10年満期で実際にお金を出すのは1兆円のみ。足りない5兆円分はまた借りる。(+利息もあり)
10年後また満期がくる。お金を出すのは1兆円のみ。足りない4兆円分はまた借りる。
2000年に発行した建設国債を返しきるのは2060年である。
建設国債が数十年に1度とかそれくらいのペースで発行されるのならばまだしも毎年毎年発行したら借金は膨らむ一方である。
そもそも10年後に出す1兆円だって儲けや節約がなければ、結局のところ赤字国債から出ているようなものとなる。
日本は国債発行額も然ることながら借換債発行額もとても多い。
返せるあてのない借金を繰り返しているのだ。
金利なんか上げられるわけがない。

せめて赤字国債は借り換えしないで10年満期で全て現金で返そうと決めたわけである。
そうでもしないと「借りればいい」とずるずると歯止めが効かなくなるのは目に見えていた。
1975年に発行された初の赤字国債の満期は1985年の冬だった。


三木おろしの風が吹いて退陣。1976年(昭和51年)12月24日に福田赳夫が首相就任。1978年12月7日まで務めた。1978年度(昭和53年度)は若干赤字国債発行額は減少した。
その後が大平首相。
財政再建と赤字国債の削減を最優先課題とし、赤字国債依存体制から脱却するために消費税の導入を考えていると言明。
しかし翌1979年(昭和54年)になると衆院選挙風が吹き始める。
野党はもちろんのこと、増税では選挙を戦えないと多数の自民党議員も増税・消費税反対を唱える始末。マスコミも反対に同調。
9月の臨時国会所信表明演説で首相が「新たな負担をお願いすることになる」と消費税に触れると、野党が大平内閣不信任案を提出。それを受けて解散総選挙と相成った。

解散後に大平首相の増税発言について「増税の独断専行は困る」と牙を剥いたのは、初の赤字国債発行時の三木元首相だった。
いくら大平首相が赤字国債は健全な状態でないことを説明しても反対の嵐。
田中派と三木派は対立しており(田中が逮捕された時の首相が三木)、田中派は大平をささえていたが、ロッキード事件の影響や増税発言によって主流派とはいえ自民党内でも厳しい立場に置かれた。
そんなこともあって結局選挙中に大平首相自ら消費税導入断念を表明した。
自民党の獲得議席数は選挙前から1議席減らしただけに過ぎなかったが、自民党は過半数を割り込み惨敗と言われた。
大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求するが、大平は「辞めろということは死ねということか」として拒否。ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。

これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌年の1980年(昭和55年)5月16日に社会党が内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。不信任決議案の提出は野党のパフォーマンスの意味合いが強かったため、可決には当の野党も驚いた。大平は不信任決議案の可決を受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。


その大平は選挙公示日に体調が悪くなり、翌日入院。12日後の6月12日に急死した。「辞めろということは死ねということか」という言葉を地で行く形となった。






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by yumimi61 | 2017-12-10 22:09
2017年 12月 10日
日本国憲法の秘密-634- (外貨準備と貿易について)

戦後日本の物価は上がり続けた。
戦前(1936年頃)と高度経済成長期の始まった1954年との比較では物価は300倍にもなっている。
戦前(1936年)と1949年の比較では220倍ほどだったという。
インフレが起きたということは紙幣が多くなったということ、つまり紙幣をかなり発行したということである。

実態はともかくとして日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中1943年だった。まだ天皇が絶対的権力を握っていた時代である。
「日本銀行兌換券」(額面と同額の金貨との交換が保証された紙幣)から「日本銀行券」(金の保有高に基づいて紙幣を発行するのではなく日本銀行法に基づいて発行する)に取って代わり紙幣が改められた。
正々堂々好き放題に紙幣が発行できるようになった。
日本国は日本銀行に国債を引き受けさせた。
国債引き受けとは日本銀行に国債を渡して紙幣を作らせること。日本銀行は作った紙幣を国に渡す。
国は戦争を行っている最中であるから民間企業などに軍需品を作らせ買い取るわけだが、買うにはお金が必要。
国から企業に支払われたお金は世に出るということである。こうして世に流通する紙幣が増えていきインフレが進行していく。
あまり急速にインフレが進行してしまうと物が人々に行き渡らず生活の基盤すら危うくなってしまう。
日本はインフレ対策に個人相手に国債を発行したりもした。
お金を持っている人がお金を国に貸すことで世の中の紙幣を減らす作用がある。
また「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの下、購買意欲を抑制し預金を引き出すのを抑えたりもした。
世に紙幣が多く出回っていても欲しがる人がいなければ極端な物価高にはなりにくい。
紙幣を大量発行した戦時中こそハイパーインフレ状態なのだが、その紙幣は主に戦争に費やされ、上記のような対策の効果もあって世の中の人々はハイパーインフレ状態を認識しないでいた。


日本がアメリカのパールハーバー(真珠湾)を奇襲攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月のこと。日本は1937年から日中戦争を行っていた。
その日本が名目上金本位制を止めたのは戦時中の1943年(昭和18年)。この時に初の日本銀行券(不換紙幣)が発行された。
実はその1年前の1942年(昭和17年)に千圓(1,000円)や貳百圓(200円)という超高額紙幣が準備されていた。明治以来ずっと最高額面は百圓(100円)だったことを考えるとインフレに備えて大きな額面の紙幣を作っておいたと考えられる。これは金貨との交換が保証されている日本銀行兌換券である。
但しすぐには使われなかった。インフレ抑制策が上手く機能していたのだろう。
1943年(昭和18年)8月12日には金属類回収令が出され日本中の貴金属が没収された(戦後も戻ってくることはなかった)。
貳百圓(200円)が実際に発行されたのは終戦4か月前の1945年4月16日だった(大蔵省予告では1月6日)。
戦争は終わっていないのに世にお金が回りだしたということは、日本ではこの頃、戦争に対する楽観ムードが漂い始めたのではないだろうか。


1945年4月というのは、日本が本格的に特攻作戦を開始した時期と重なる。
特攻作戦とはパイロットの命はもちろんのこと、寝る間も惜しんで作った高価な戦闘機を大破させ海に沈めてしまう作戦である。

「“特攻作戦”は何故行われたのか」より 航空特攻作戦の概要/知覧特攻平和会館
日本政府は沖縄を本土の最前線と考えていましたので、その最前線を守るために採られたのが、特攻作戦でした。
沖縄での陸軍による航空特攻作戦は、米軍主力が沖縄南西にある慶良間列島に上陸した1945年(昭和20年)3月26日から始まりました。特攻作戦とは、重さ250kgの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりして沈める、パイロットは必ず " 死ぬ・亡くなる " という『必死』条件の作戦でした。
 特攻作戦には、知覧基地を始め、宮崎県の都城など九州の各地、そして当時日本が統治していた台湾など多くの基地から出撃していますが、知覧基地が本土最南端だったということもあり最も多く、全特攻戦死者1, 036名のうち、439名(中継基地となった徳之島・喜界島を含む)、全員の半数近くが知覧基地から出撃しています。
 本格的な特攻作戦は、陸海軍共同で4月6日第1次総攻撃として始まり、7月19日第11次総攻撃の終了まで続きました。


そして迎えた終戦。
1945年8月に戦争状態は終結。降伏文書への調印は9月2日。
しかしながら8月15日玉音放送の日が日本における終戦記念日である。戦争が終わった~!とタガが外れた日とも言える。
その翌日8月16日に4月発行開始とは別種の貳百圓(200円)紙幣、8月17日に千圓(1,000円)紙幣が発行された。(ともに日本銀行兌換券)
日本では1945年の終戦直後にハイパーインフレが起きたと言われている。
発行された紙幣の額面からしてもそれはそうだったんだろうと思う。


国の命令で軍需品にしか力を注いでこなかった戦争の時代が終わった。
ふと我に返ればいろいろな物が品薄であり、負けてタガが外れ購買意欲が刺激されたことも重なり物価高になった影響はあるだろうが、ハイパーインフレが起きたということは戦争に負けてもなお日本国内には結構お金が残っていたということである。
戦争で儲かったのは寝る間を惜しんで軍需品を作っていた企業だろう。
しかし終戦直後のインフレで紙幣は紙くず同然になったと言われている。預金も借金も目減りした。


日本の戦費は今の金額で言えば4400兆円にも上ったという。
しかしなにせ戦時中のことである。日銀に引き受けさせた国債は満期時に返すという約束がなされていたのかどうか。
日銀の国債を踏み倒せるならば借金はだいぶ少なくなるであろう。返す必要があるのは個人向け国債だけとなる。
多額の借金返済の必要がなくなるとなると戦時中の経済規模をぐんと縮小してもさほど問題はない。
多額の費用を注ぎ込んだであろう船や飛行機が戦闘で撃たれ突撃し大破し海に沈めば、その費用分の円は消えてなくなる。
経済規模は小さくなるということである。。
幸いと言うかなんと言うか、現金による賠償金支払いもなく、日本国内の軍需工場の機械など資本設備をかつて日本が支配した国に移転譲渡することが戦争賠償となった。
戦時中に世に出た沢山の紙幣は機械などにかなり化けたはずである。
これを外国に無償譲渡するということは機械に投資された円が消えるということである。これによっても経済規模が小さくなる。
1946年に金融緊急措置令によって預金封鎖を行い、新円紙幣への切り替えを実施した。この時に戦時中と戦争直後に発行された紙幣は失効した。


しかしそれでも現在の4400兆円に値する紙幣発行は如何せん多い。
戦後解体されたものの多くの財閥はやがて息を吹き返す。息を吹き返した財閥は銀行を持っているところが多い。
大量発行された紙幣を使わないで高額な兌換紙幣に交換したもの勝ちだったんだろう。
日本のインフレ(物価上昇)は着実に進行し続けた。
インフレになれば、あるいは国債などで世に紙幣供給がなされれば、経済規模(少なくとも名目GDP)は一回り大きくなる。
戦後初の国債は1965年。国債によって世に紙幣が出る。
だが初の国債発行前もずっと日本のインフレは進行していた。
つまり戦争中に発行した膨大な紙幣の影響力が戦後20年あまり、1964年東京オリンピックの頃まで及んでいたということになる。
「東洋の奇跡」(英語では「Japanese miracle」)と呼ばれる驚異的な経済成長は、戦時中の裏付けのないとてもつもない紙幣発行によって支えられていたのだ。
但し紙幣を膨張させただけならば奇跡は起こらなかったであろう。
上り詰めた山は下るしかない。
一旦かなり縮小させたことが成功の鍵となっている。犠牲が必要だったのだ。
製造した物のあっけない廃棄、支配下においた国(途上国)への設備の無償譲渡、財閥解体、有力者の処罰などなど。
世の中的には貧しくなってしまったが、そうでない人や企業が確かにあったからこそのJapanese miracle。














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by yumimi61 | 2017-12-10 15:00
2017年 12月 08日
日本国憲法の秘密-633- (外貨準備と貿易について)
オイルショックとドル紙幣供給開始による猛烈なインフレにより、元来ガソリンがとても安かったアメリカにおいてガソリンが値上がりした。
このときアメリカ車よりも小さく燃費のよい日本車の需要が高まり、日本の大衆車がアメリカに輸出された。1970年代のことである。
1台あたりに大きな利益を望まず安く数売る薄利多売方式で自動車を販売し、かわりにアフターサービスも輸出し部品代なども稼いだ。
戦後様々な悪循環に陥っていったアメリカ経済に比べて日本の貿易黒字は堅調だった。にもかかわらず依然として円安が続いており、ますます輸出企業には有利な状況だった。
但し日本も貿易黒字だったとはいえ、決して健全な財政状況ではなかった。
ここには今でも払拭できない大きな問題を内包している。
景気が良い=良い財政状況 ではないのだが、そのように思い込みがちであるということ
あるいは景気さえ好ければ良い(自分さえ好ければ良い)という考えに基づいて世の中が回ってしまうこと。
過去にも何度か書いたが正気の沙汰ではないようなことを平気で行う。

日本の高度経済成長期は1954~1971年。沢山の物やサービスを生み出し続けていた時期。
しかしこの期間全てがイケイケの好景気だったわけではない。ここも間違いやすい。
高度経済成長期内で一番景気が良かったのは(長い好景気は)1965~1970年。「いざなぎ景気」と呼ばれている。
どうして景気が良くなったか分かりますか?
1965年11月に戦後初の国債を発行したからである。オリンピックの翌年のこと。
オリンピックが終わると日本は不況に見舞われたのだ。

高度経済成長期の只中、東京オリンピックや新幹線の整備などによる総需要の増加(オリンピック景気)で、日本経済は高い経済成長を達成していた。経済成長は同時に証券市場の成長も促し、投資信託の残高は1961年に4年前の約10倍となる1兆円を突破した。この勢いは、当時、「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というフレーズが流行るほどだった。

しかし、1964年に東京オリンピックが終了し、金融引き締めも重なると、企業業績の悪化が顕在化した。1964年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)が、1965年には山陽特殊製鋼が負債総額500億円で倒産した(山陽特殊製鋼倒産事件)。

重工業の不振は証券市場の低迷にある程度影響した。大手証券会社各社が軒並み赤字となった。大手証券会社は金融債を顧客から有償で預かってコールマネーの担保に入れるというレバレッジの掛け方をしており、ある程度において自業自得であった。なお、1964年は西ドイツ発行外債の内訳において、金融債が前年比で大幅に伸びていた。

ともかく重証の経営悪化を受け、日銀は公定歩合を1%以上も下げた。しかし効果は薄く、政府は不況拡大を防ぐために、1965年5月に山一證券への日銀特融を決め、7月には戦後初である赤字国債の発行を決めた。これを受け、同月を底値に株価は上昇し、結果、当時の政財界の関係者が危惧していた昭和恐慌の再来を未然に防ぎ、高度経済成長を持続した。



なぜ政府が国債を発行するのかと言えば、お金が足りないからである。
国営企業がない国の収入は税金しかない。(国営企業が赤字を出せば収入どころか赤字が膨らむという側面もある。経営手腕や経営環境がないなら民間企業の税収に頼ったほうがよいということになる。国営企業の場合には経営や雇用に対する非難などが政府を直撃するのでいつでも国民の支持を得ていたい政府としては難しい面もある)
税金だけで国の支出が賄えなくなった時には借金をする。国債は国の借金である。
国の支出にもいろいろあるが現在の内訳は下図のとおり。

http://www.zaisei.mof.go.jp/pdf/平成29年度一般会計予算.pdf
e0126350_14360905.jpg

一番多いのは社会保障費。年金や医療費の公費負担(国負担)分の費用。
高齢化や医療依存体質によって年々これが大きくなっているが、それでも社会保障財源の約50%を担っているのは企業事業主と労働者である。国の負担分は30%くらい。
次に多いのは地方自治体への仕送り。その次が借金(国債)返済。
この3つで支出の70%を占めてしまう。
仕送りをしてもらっている分際で憲法で禁じられている私立学校への寄付に税金から大金を投じるなんて言語道断。
収入の濃いピンク(公債金)は借金のこと。予算を組む段階で借金する予定でいる。借金が減るわけがない。



戦後の日本政府の借金・国債には2種類ある。(国債は公債とも言う)
①建設国債(財政法4条国債)
②赤字国債(特例法国債)

1947年(昭和22年)に制定された財政に関する基本法では一部領域を除いて政府が国債発行すること(借金すること)を認めていない。
本来赤字国債は法律違反なのである。
認められているのは公共事業費と出資金及び貸付金の財源。
出資金及び貸付金は配当や返済によって一応戻ってくるあてのあるお金である。
公共事業費は国が何かを作ったりする時のお金。例えば高速道路とか鉄道とか。支出額は大きいが毎年決まって出ていくものではない。建設する時に一時的に大金が必要になる。
だから建設国債と呼ばれていて、金額も大きいことから返済の計画(税収の範囲内で返済可能である計画)を国会に提出した上で国債発行される。
あとは全て税収の範囲内で行わなければならない。
後から行う政策(立法)もまずそれが念頭になければならない。

財政法4条
1.国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。
2.前項但書の規定により公債を発行し又は借入金をなす場合においては、その償還の計画を国会に提出しなければならない。
3.第1項に規定する公共事業費の範囲については、毎会計年度、国会の議決を経なければならない。


東京オリンピックの翌年1965年に戦後初めて発行された国債は建設国債である。
オリンピックが終わってからの建設国債に「なんで?」と思うかもしれない。
オリンピック不況を高速道路建設で乗り越えようという算段だったのか高速道路が本格的に整備されていくのは1965年以降である。
それ前に開通していたのは首都高の一部区間と名神高速の一部のみ。


赤字国債が初めて発行されたのは1975年(昭和50年)である。
法律違反であるがゆえ、財政法第4条に対する特例として1年度に限る法律(「昭和50年度の公債の発行の特例に関する法律」)を公布して赤字国債を発行した。
発行額については国会で議決された金額の範囲内。
国家戦略特区も、天皇の退位についてもそうだが、特例を許すならば基本法だって憲法だってどんどん破っていける。いずれ歯止めが効かなくなる。








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by yumimi61 | 2017-12-08 15:03