2017年 05月 24日
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# by yumimi61 | 2017-05-24 23:51
2017年 05月 23日
日本国憲法の秘密-480-
カトリック、イングランド国教会、イギリスの王政と首相誕生、ピューリタン(反イングランド国教会)、市民革命、啓蒙思想、アメリカ植民地、旧約聖書(ユダヤ教)、アメリカ独立。

啓蒙思想やフランス革命、アメリカ独立に関係してくるのがフリーメイソンである。

フリーメイソンは元々は建築関係者の組合(職人団体)であった。
その当時建築職人の地位(評価)は比較的高かった上に、技術の伝承していかなければならない故、秘伝的な要素もあり、また厳しい掟も存在した。
現在に続くフリーメイソンはもちろん職人団体ではない。同じ名称を語った社交クラブである。
1700年前半にイギリスで誕生した。それはちょうどジョージ1世と、その息子ジョージ2世が王だった時代である。

フリーメイソンの信条(会員規定)の要約 ・・・メイソン版聖書
メーソンは、人に博愛と親切心を実行すること、貞操を守ること、血縁と友を尊敬すること、宗教の信条を受け入れ教義に従うこと、貧しいものを支えること、盲を導くこと、足の不自由なものを支えること、孤児に宿を貸すこと、祭壇を護衛すること政府を支持すること、道徳を教えること、学びを普及すること、人を愛すること、神を畏れること神の慈悲を請い幸福を望むことを教える(ラインは私によるもの)

フリーメイソンには神(宗教)への尊崇義務が存在した。但しその神(宗教)を公に特定はしていなかった。
啓蒙思想は王政や教会といった古い価値観を否定したものである。
よってフリーメイソンと啓蒙思想も相容れないはずなのだ。
そこで注目するのが「政府を支持すること」という信条。
このことからフリーメイソンは王政や教会という古い価値観(旧体制全般)を否定したのではなく、「王」を否定したのではないかと推測できる。
つまり首相や議員周辺で始まり広まったのではないだろうか。
フリーメイソンに集ったのは民衆ではなく比較的上流にいた人達である。
反王政と言うことになれば、王が頂点にいるイングランド国教会だって肯定は出来ないであろう。
逆を言えば、それ以外の宗教は容認できるということである(要するにカトリックはOKなのだ)。
「教える」が信条のメインなので啓蒙思想のようであるが、宗教や政府を否定していない。
カトリックの「代理人」になったといった感じだろうか。


これに対して神(宗教)までをも否定したのがフランスで最初に作られた(1733年創立)フリーメイソンだった。
神(宗教)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、政治的な会話をすることも禁じた。
これがイギリスのフリーメイソンとの確執を引き起こす原因となった。
フランスという国(一応カトリック国)はなかなか複雑である。
フランス最初のフリーメイソンには上流階級と中流階級に分かれた派閥があった。
1765年に派閥が衝突して中流階級が上流階級を追い出すことに成功。
追い出された上流階級派閥は別のグランドロッジ(グランドオリエント)を設立。これがさらに啓蒙思想に忠実な無神論的な組織となる。(もちろんカトリックもNOである)
残ったはずの中流階級ロッジは発展なく消滅してしまう。
フランスのフリーメイソンは庶民でも会員になれた。

しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。
英連邦メイソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。




宗教と関係しているのがお金。
キリスト教(カトリック)は個人の蓄財を悪しきこととして認めていない。お金持ちは救済されない。天国へ行けない。そんなにお金があるならば教会に寄付しなさいと言うわけである。(そんなカトリック教会は当時腐敗していた)
ところが宗教改革で蓄財は良いことと言った人物がいた。
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンである。
物事を比較する時には基準がないといけない。
基準もなく神に選ばれし人物かは分からないではないか。基準はお金である。お金が貯まる人は神の恩恵を受けている人であるから神に選ばれた人なのだと説いた。
お金や蓄財は悪である、欲にまみれている、汚い、人間を堕落させる、そう教えられ思い込んできたのに、そうではないと言う。
人々は神の救済を願い、また選ばれた人になりたいがためにお金を貯めるようになった。
目的は物を買うためではない。だから貯めたお金は出て行かない。
こうしてヨーロッパには銀行が続々誕生しお金が集まり資本となった。

銀行がお金を貸すのは王族や皇帝である。戦争なんかすると莫大な費用がかかる。貸し付ける額が違う。
大金を貸すからには土地や建物など担保をとっておく。返せなければ金貸しに渡るということ。
金融家の中には貴族の称号をもらった者もいた。(黒い貴族などと呼ばれる)
当時は貿易の要であったヴェネチアに本部を置く銀行が多く、ここで育った金融家がこぞってスイスに移ってスイスは金融立国となった。
カトリック教会や王族・皇帝が保有していた権威や権力や不動産をお金で絡め取った。
(思想や信条ではなく金融業で成り立っているのでその利害によってOKにもNOにもなる)



17~18世紀のイギリスとフランスは海上覇権や貿易利権などを争って対立関係にあった。
1700~1815年の115年の間のおよそ半分60年間は戦争状態であった。
1756~1763年の七年戦争(アメリカではフランス・インディアン戦争)では、北アメリカとインドの両植民地でイギリスとフランスが戦いフランスが破れて、フランスは植民地を失った。
1775~1783年がアメリカ独立戦争。アメリカの独立にもフリーメイソンが関与していると言われている。

コロンビア大学の設立は1754年。
おそらく最初の教授サミュエル・ジョンソンはイギリスのフリーメイソン系の人物だったのだろう。
反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリック、これで辻褄が合う。
アメリカはこの流れを汲んだ国であると言うことだ。



1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。王朝が変わったのだ。
ハノーヴァー朝の最初の王がジョージ1世である。
フリーメイソンが正式に発足したのはこの時代で発祥はイギリスのスコットランドと言われている。
ちょうど王朝の変化に重なるようにして誕生し発展した。

イギリス王家となったハノーヴァー(ドイツ)の家はヴェルフ家である。
中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。初期中世バイエルンに発し、その分家がユーラブルグントの王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その跡を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。

中世の神聖ローマ帝国はカトリックの教皇と結びつきが強い。どちちが偉いかで教皇と皇帝で揉めたこともあったけれど、両者は持ちつ持たれつで権威者になったので基本的にはセットな関係であった。(神聖ローマ帝国皇帝は主にハプスブルク家が継承した)
ヴェルフ家から唯一皇帝となったオットー4世の母方の祖父はイギリス王のヘンリー2世であり、オットー4世は幼少期をイギリスで過ごしている。
帝位争いをする頃にはカトリックの教皇とは味方になったり裏切ったりを繰り返し、神聖ローマ皇帝になった後の1210年にとうとう教皇から破門を宣告されるに至っている。

イギリス王を輩出したハノーヴァー王家は分家だった。
オットー4世の弟・リューネブルク公ヴィルヘルムの子オットーは、子のないオットー4世の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。14世紀にはヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世がルクセンブルク家のヴェンツェルの対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグストが選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。


王朝名の改称はしているものの現在のウィンザー家もこの家系である。
ジョージ1世がイギリス王になったことはカトリックにしたらおもしろくないであろう。
オットー4世がカトリックローマ教皇から破門された上に、イギリスもカトリックから分離独立してプロテスタントに属することにした国である。
フリーメイソンにはカトリック、特に教皇精鋭部隊と言われるイエズス会が関係しているはずである。
フリーメイソンに資金提供していたのはやはりロスチャイルドだった。
そしてそのロスチャイルドにもバックがついているらしい。


また話がややこしくなるが、ヴェルフ家は一度断絶しており、新ヴェルフ家は実は黒い貴族(ヴェネチアの金融家出身)なのではないかという噂がある。
だからこそイギリスは大英帝国として繁栄を極めることが出来たのではないか。
要するに黒い貴族出身のヴェルフ家が王に就いたイギリスは、ヴェネチア・スイスルートのコネクションの恩恵を受けられたのではないかということである。







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# by yumimi61 | 2017-05-23 16:04
2017年 05月 22日
日本国憲法の秘密-479-
(He) was a key figure of the American Enlightenment.

1754年に創立されたコロンビア大学の最初の教授サミュエル・ジョンソンはイギリスからアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)の家系であり、牧師の補佐をしていた祖父の影響から自身も厚い信仰心を持っていた。
そのサミュエル・ジョンソンがアメリカ啓蒙思想(主義・運動)の重要人物(黒幕)だった。

啓蒙思想(英: Enlightenment, 仏: Lumières, 独: Aufklärung)
理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して、啓蒙主義とも言う。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。

時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近代哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学(倫理学)、文芸活動などを指すことが多い。17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代と言う。


ヨーロッパでは、ゲルマン民族の進出拡大によってローマ帝国が崩壊し、新しくヨーロッパ大陸に拡がったゲルマン民族とともに権威を高めたイエス・キリストを神とするキリスト教(カトリック)が支配した時代を中世と呼ぶ。
ホスピスのルーツのところでも書いた

しかしやがてその蛮族であるゲルマン民族はヨーロッパ全土に広がり各地を支配するようになる。
西ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族がヨーロッパを支配した時代までを「中世」と言っている。
中世は「暗黒時代」とも言われる。
何故暗黒時代なのか?
ゲルマン民族の支配によって古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退・停滞したからだという。
知的でもアカデミックでもない馬鹿な体育会系というような感じに思われていたのではないだろうか。
史上最大とも言える広大な帝国を作り上げたモンゴル帝国の遊牧民なんかも同じように思われていたかもしれませんね。(巻き込まないでくれ?)
ヒトラーやナチスはゲルマン民族の優位性を信じていた。(ヒトラーがゲルマン民族だったかどうかはともかくとしてゲルマン民族にはヨーロッパを支配したという動かぬ実績がありますからね)
ユダヤ人に「馬鹿な体育会系」と言われたことに憤慨したのか(そんなこと言ってませんよ?)、ナチスはオリンピックに力を入れ、青少年団体の加入を義務付けた。やがてこれがドイツの兵力を支えていく。

近代キリスト教・カトリック(あえて近代と言う)は、このゲルマン民族の大移動とともに拡大していき、ゲルマン民族が支配者になることでその地位を動かぬものにしていったのである。
つまりカトリックとゲルマン民族は切り離すことが出来ない。中世・暗黒時代の主役はカトリックとゲルマン民族なのである。


中世は輝かしいルネサンス時代の到来をもって終焉を迎えた。
輝かしいルネサンスとは何か?
ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。

宗教改革も同じ時期であり、1500~1600年代(14-15世紀)頃。それによりカトリックは窮地に陥り、プロテスタントが興った。
大航海時代は1400~1600年代(15-17世紀)。
こうして世界の中心はヨーロッパ本土からイギリスやアメリカに移っていくことになる。


啓蒙思想とは、科学的・合理的・批判的精神に基づく思想。
王政やキリスト教に代表される旧来からの権威や思想を徹底的に批判した。
すなわち「反体制」と言えよう。

そんな反体制である啓蒙思想の原義はヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」だそうである。
そこで言葉の意味についてもう一度考えてみたい。

「啓」は、開く、開放する、申し上げるなどの意味がある。
「蒙」は、受ける、被る、覆い隠す、(道理などに)暗い、愚か、無知などの意味がある。ちなみにモンゴルの略称(漢字)は「蒙古」であり、この字が使われている。
「啓蒙」ならばやはり「無知から開放してやる」「本当のことを教えてあげる」みたいな意味がありそうである。

辞書には次のようにある。
▶啓蒙
 (名詞)《「啓」はひらく、「蒙」はくらいの意》人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。

▶enlightenment
 1不可算名詞  a教化(すること), 啓発. b【仏教】 悟り.
 2[the E[N16-A12A]] 【哲学】 (18 世紀のヨーロッパ,特にフランスでの合理主義的)啓蒙運動.
 [ENLIGHTEN+‐MENT]

▶enlighten
 (動詞)啓発する、教化する、疑いを解く、(…に)教える、教える、明らかにする


啓蒙思想のベースにあるのはどうやら「教える」ということのようだ。
注目したのは英語enlightenmentという単語。
この単語は次のように分解が出来る。
en light en ment

mentは、~するもの(こと)、~させるもの(こと)、といった意味。
lightは光。
enは次のように使うことがある。

1名詞につけて「…の中に入れる」の意の動詞を造る.encase, enshrine.
2名詞・形容詞につけて「…にする,…ならしめる」の意の動詞を造る 《★この場合さらに接尾辞 ‐en が加わることがある: embolden,enlighten》.

まとめると、enlightenmentという単語は光にならしめる(外部の力で輝かせる)ということである。
「ならしめる」は外力によって「~にさせる」こと。
自発的あるいはすでに内包しているものは「たらしめる」である。私を私たらしめる、僕を僕たらしめる。

そう考えると上記のこの説明には矛盾がある。
自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。

啓蒙思想とは、神や先人(旧来からの体制)の教えに盲目的に従うのではなく、自分で納得するまで論理的に思考することなのだ。盲目的でないことは確かに大事かもしれない、そこまでは良しとしよう。
がしかし、物事を考える時(何かを評価する時)には基準が必要である。
先日お金の話でもこう書きました。
各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、貿易がコントロールできないし、国際比較も不可能となる。
多種多様なものを客観的に比較する時には何か軸となるものが必要である。そしてそれはやはり普遍的な価値が相応しい。


啓蒙思想の基準も普遍・不変である。言い換えると正しいものは普遍・不変・法則ということである。
「自分の頭で自ら考えて’普遍・不変・法則’を探しなさい」「普遍・不変・法則こそが最適・妥当なものです」というのが啓蒙主義。これを理性や常識とも言う。
普遍・不変・法則から外れようものならば狂気や狂人と呼ばれる。
だけど自分で探しなさいと言っても無知ならば探しようもない。だから予め「普遍・不変・法則」を教えておく必要がある。
一般大衆に広く教育を施すことによって無知から脱却できて貧困も解消されると主張してそれを実践した。
この考え方が公教育(義務教育)に繋がっていく。
結局自発は在り得ないというか自発ではない。嫌と言うほど「正しさ」を刷り込んでおく。「答え」を教えておくのだ。
自分で考えているようでそうではない。一種の洗脳である。
正しいこと(教わったこと、答え)は何だったっけ?と思い出しているに過ぎない。ペーパーテストなんかまさにそうだろう。どれくらい洗脳が進んでいるかの確認作業である。
例えば「江戸朝」だって間違いではない、むしろそのほうが当たっていても、「江戸幕府」と書かなければ×を付けられて点数にならない。
年齢を重ねれば「そんなのでは’良い学校’には進めませんよ」tと脅される。
いや、もう十分洗教育れているので、脅されなくても自分の頭で(江戸朝って書いたら×にされるな)(こんなことを書いたら良い学校に進学できなくなる)と判断して妥当なことをするのだ。
「人類の月面着陸はなかった」とか「あれは原爆じゃない」なんて言ったって狂人扱いされ村八分になるのがオチ、仮に自分の頭で考えてそう思ったとしてももう口になんか出さない。
啓蒙思想は広く浸透している。
(それなのにホロコーストを否定する発言は法的に取り締まらなくてならないということは、答えに相当揺らぎがあるということでしょうか?)
(また人間の記憶は万全ではないため教えられたことを覚えられなかったり思い出せない人が多数いるのも事実)


正さや答え(普遍・不変・法則)を多くの人に、それこそ異端児がでないように、与えなければならないわけだから、それを与える人にはやはりそれなりの権威が必要である。
多くの人がはははははーと跪かなければならない。その昔、跪くという動作は神に祈りを捧げることに他ならなかった。今でもイスラムの人達がやっていますね。
多くの人を跪かせる、すなわち多くの人が「あの人は上の人だから間違うはずがない」と認めて異を唱えない状態を作り出さなければならない。
その役割を担っているのが高等教育。啓蒙させるための先生育成。何か特別な感じの大学。ノーベル賞などの賞。
メディアが効果的に使用される。
権威は高ければ高いほど多くの人を網羅できる。旧来の神といったい何が違うのか?


そういえばコロンビア大学のモットーも旧権威のはずの聖書からの引用である。

大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(我らは汝の光によりて光を見ん。)を元にしている。


「我らは汝の光によりて光を見ん」は、あなたの光が眩しすぎて私が光っているのが見えない!ということではなくて、私たちは汝の光(神の英知や慈愛)によって光(希望など)を目にすることが出来るという意味。
啓蒙思想とは程遠い神あげ。しかも旧約聖書からの引用である。
よく旧約聖書がカトリック、新約聖書がプロテスタントと誤解している人がいるが、旧約聖書や約束の地の時代で、イエス・キリストの時代が新約聖書。キリスト教は後発。
カトリックとプロテスタントどちらもが新旧聖書を聖典としているが、歴史的背景を考え合わせれば、旧約聖書がユダヤ教で新約聖書がキリスト教と言うのが一番しっくりくる。

カトリック、イングランド国教会、イギリスの王政と首相誕生、ピューリタン(反イングランド国教会)、市民革命、啓蒙思想、アメリカ植民地、旧約聖書(ユダヤ教)、アメリカ独立。
この関係性をどう考えればよいのだろう。




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# by yumimi61 | 2017-05-22 13:21
2017年 05月 21日
日本国憲法の秘密-478-
ロックフェラー家はアメリカの石油事業でアメリカ有数の財閥に伸し上っていった。
そしてニューヨークの大地主にもなった。
ニューヨーク・マンハッタンのロックフェラー・センター、その場所はもともとコロンビア大学が所有していた土地であった。

アメリカでの原爆開発はコロンビア大学から始まった。
ではそのコロンビア大学はどんな背景を持っているのだろうか?
コロンビア大学
イギリス植民地時代(1754年)に英国国王ジョージ2世の勅許によりキングスカレッジとして創立され、全米で5番目に古い。
世界屈指の名門大学としてノーベル賞受賞者を101名輩出するなど全世界から多くの優秀な研究者、留学生が集まっている。卒業生はあらゆる分野の第一線で活躍しており、これまで34名の各国の大統領・首相や28名のアカデミー賞受賞者等を輩出している。最近の著名な卒業生は米第44代大統領バラク・オバマ。

大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(我らは汝の光によりて光を見ん。)を元にしている。



イギリスの植民地だった時代にイギリス王によって創設された学校、つまりイギリスの価値観を反映した学校であろう。
現在イギリスは君主を長とするイングランド国教会(聖公会)の国である。
かつてはそのイングランド国教会もカトリックに属していた。ローマ教皇の下にいたわけである。
しかし1500年代のヘンリー8世王の時に自身の結婚や後継ぎの問題などでカトリックの掟と折り合いがつかずカトリックから分離独立した。要するにイングランド国教会はプロテスタントという位置づけとなった。
そのためイギリスではこの辺りからカトリック信仰者が君主になることは難しくなってきた。

以前私はイギリスの君主について書いたことがあり、その一覧の中にジョージ2世も当然含まれているが特筆はなし。
今日はせっかくなのでこんなエピソードを紹介しておこう。
ハノーファーで生まれる。10歳の時、母ゾフィー・ドロテアが、スウェーデン人のケーニヒスマルク伯と不倫をして、父と離婚させられた上、死ぬまでアールデン城に幽閉されるというショッキングな体験をした。この時以来、母と会うことは許されなかった。ゲオルク・アウグストは母に対してこのような仕打ちをした父を憎むようになり、その不仲は終生続いた。

ハノーファー(ハノーヴァー)は現在のドイツ北部にある街。
■ハノーヴァー朝(1714-1901)   
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェルフ家の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であった。
1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。
アン女王が子供に恵まれず、且つ宗教的理由(カトリック忌避)によってドイツの家系に王位を継承した。
※ハノーヴァーはハノーファーとも言う。

ジョージ1世
ジョージ2世
ジョージ3世
ジョージ4世
ウィリアム4世
ヴィクトリア女王



現在のウィンザー朝(ウィンザー家)もドイツ起源のハノーヴァー朝の流れを汲む。
第一次世界大戦中の1917年に敵国ドイツの名称を避けてイギリスのウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。ウィンザーが姓にもなった。
このウィンザー家まで君主たるものに姓はなかった。何故君主に姓がなかったのか?
それは自分の家だけが潤えばよい家業ではないからである。
〇〇〇朝(朝廷)は「私」ではなく「公」の場。国の政治などを指揮する場所・機関のことである。
テューダー朝、ステュアート朝、ハノーヴァー朝、サクス=コバーグ=ゴータ朝など。
奈良朝、平安朝と同じ。


君主はその場所の、引いては国の最高責任者。
その最高責任者は基本的には世襲にてバトンタッチされた。しかしながら後継者がいない場合などには世襲ではないこともあった。この場合には最高責任者を引き受けてきた家が移り朝廷名も変わる。
引き受け手がおらず立候補すれば誰でもがなれるという状況でもPTA会長や役員決めは苦労するという世相からも分かるように(大した恩恵もなく労が多い)「最高責任者」なんてそんなに魅力あるものではない。
引き受け手がいないのは困るので世襲で覚悟させるというのは1つの手段であろう。(逆を言えば引き受け手が数多ならば世襲である必要もないということになる)
最高責任者なんて本来それくらい敬遠されるものなのに欲が絡むと途端に社会的地位の高さを示すステータスシンボルとなる。
それだけ恩恵に与る最高責任者が存在するということだろうか。

「公」の場と「私」の場をあえて混同させたのが「ウィンザー朝」「ウィンザー家」。
公私混同か、それとも朝廷が国を率いる場所ではなくなり君主が最高責任者でなくなったという実態に合わせて「私」に走ったということなのか。

日本では天皇以外が最高責任者だった時代を幕府と呼んで分けているが、最高責任者がいる場所を朝廷とするならば別に鎌倉朝でも江戸朝でも良かったはずである。
でもそれは譲らなかった。

(初めての武家政権と言われる鎌倉幕府)当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。



ジョージ2世の時代を一言で表せ「君主が最高責任者でなくなった時代」と言えるかもしれない。

父が即位して王太子になったが、父との不仲は解消されず、1717年に宮廷から追われレスター・ハウスに居住、政府に不満を抱く野党の集合場所となり、父が亡くなるまで関係は修復されなかった。

1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承した。
その治世の前半は、先王より続いていた第一大蔵卿(事実上の初代首相)ロバート・ウォルポールの長期政権の時期に相当する。ジョージ2世は始め父の側近だったウォルポールを信用せず、自分の側近である下院議長スペンサー・コンプトン(後にウィルミントン伯)を政府首班に据えようとしたが、コンプトンが無力であったことと、ウォルポールが王室経費を増額させた上で下院に認めさせると、王妃キャロラインの勧めもありあっさりウォルポールを信用するようになった。

こうしてジョージ2世はウォルポールとキャロラインの助言によりイギリスを統治することになり、この時代はウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリスにとっては平穏な日々が続いた。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった。

ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する1737年までたびたび摂政を務めた。


世襲で国の最高責任者という大役を継承せざるを得ないのに、父親とは個人的な理由によって不仲であった。その父への感情は「公」と「私」と切り離して割り切ることが出来なかった。
さらにハノーファーとイギリスという2つの国の最高責任者である。力は分散せざるを得ない。
イギリスではそんなジョージ1世・ジョージ2世の時代に「首相」が誕生した。


初代首相ウォルポール
彼はカトリックの君主を認めない派のホイッグ(党)に属していたが、反カトリックである長老派教会ほど反カトリックでもなかった。それはそのままイングランド国教会の特色と言い換えることが出来る。
ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。

どちらかに偏り過ぎないファジーさゆえに宗教対立が顕在化しなかった。
また彼の出自は貴族(男爵)ではないが地主であり貧しい層ではない。上か下かで分ければ上であるが、上からも下からも激しい拒絶感が少なかった。
またとても現実的であり、外交面では議会の不安定化(自分に不利になること)を嫌って戦争回避の平和外交に努めた。

ウォルポールは良くも悪くも現実主義者であり、理想が高じて冒険的政策をとったり好戦的態度を取るということがなかった反面、金権政治に罪悪も感じなかった。平和外交家だったのも「戦争=悪」という抽象的理念からではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいている。

でも実際にウォルポールの権力が強化されたのは政敵を巧みに排除ないし封じ込めたためであった。また言論弾圧や言論統制も行った。
一方で自分に有利とあれば官職を餌にして取りこんだりもした。
ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある。

ウォルポールが求心力を失ったのはスペインとイギリスの戦争である「ジェンキンスの耳の戦争」がきっかけ。スペインはカトリック国である。
ウォルポールは戦争に乗り気でなかったため、戦争指導に主導的役割を果たさず、それが彼の政治指導力の低下を招いた。また戦費の捻出のために土地税増額も余儀なくされ、ウォルポールの地主懐柔策が破綻した。



上にも書いたようにコロンビア大学はジョージ2世王の王立憲章に基づくキングスカレッジ(イギリス王立大学)として創立された。(アメリカ独立後に私立となった)
最初はイングランド国教会の教会(ニューヨークのトリニティ教会)で少数の学生をサミュエル・ジョンソンが一人で教えていた。
サミュエル・ジョンソンとは1700年代のイギリスの文壇の大御所のサミュエル・ジョンソンではない。
コロンビア大学のサミュエル・ジョンソンはアメリカのコネチカット州にあったイギリスの植民地(ニューヘイブンコロニー)生まれ。
彼の母はニューヘイブンコロニーの創設者の孫にあたる人物であり、迫害された原住民ではなくてイギリスからの移民だったわけである。
彼は教会執事(牧師の補佐役)だった祖父の影響を受けて育っており厚い信仰心を持っていた。

しかし少々おかしいことがある。
コネチカット州の植民地はピューリタン(清教徒)が住み着いた場所である。
ピューリタンとはイングランド国教会を非難して改革を唱えたキリスト教グループ。プロテスタントに含まれる。
市民革命の担い手にもなった。
逃れるようにアメリカに渡った、いわば反イングランド国教会、反イギリスなグループである。
サミュエル・ジョンソンは(現在の)イェール大学でピューリタン神学を学んでいる。
そして牧師となり教育者(哲学者・言語学者・歴史学者など)となった。

イェール大学もピューリタンによって創設された大学である。
ニューイングランドの植民地で最初に清教徒会衆派によって創設されたハーバード大学が堕落してしまった(つまり、「リベラル」になってしまった)と考えてハーバード当局に反旗を翻した会衆派の人々により創設された(ちなみに、後にイェールも堕落してしまったと考えた人たちがプリンストン大学を創立する。プリンストン大学総長は初代から第3代までイェール出身である)。現在に至っても、「リベラル」であるとされるハーバード大学と比較して保守色が強いと考えられている。

イングランド国教会の長である王が創立した学校なのに、イングランド国教会を非難したピューリタンが先生をしているなんて・・・。

He was a major proponent of both Anglicanism and the philosophies of William Wollaston and George Berkeley in the colonies, founded and served as the first president of the Anglican King's College (the predecessor to today's Columbia University), and was a key figure of the American Enlightenment.





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# by yumimi61 | 2017-05-21 15:23
2017年 05月 20日
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# by yumimi61 | 2017-05-20 23:53
2017年 05月 19日
日本国憲法の秘密-477-

1865年、香港上海銀行設立。
フリーメーソンによる植民地協会(英国王室の後ろ盾)によって植民地香港で設立された。
植民地での利益を本国へ送金するほか、清に融資したり外債発行を担当した。
サッスーン商会、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルドなどが出資者。麻薬と紅茶に関係あり。サッスーンは後にロスチャイルド家と縁戚関係となる。

1866年、香港上海銀行の日本支店を横浜に設立。
その後も神戸、大阪、長崎にも次々に支店を開設した。日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における金銀通貨の造幣にも協力した。横浜正金銀行(後の東京銀行→東京三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)がその体制を作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。

 ⇒倒幕の際に長州藩や薩摩藩に資金援助したのは香港上海銀行だったと思われる。
  新政府以後は融資や外債発行などを担当した。日本の借金に最初から深く関与している。
  
1868年は明治元年。

1870年、ドイツ銀行設立。設立指導者(取締役)にジーメンス社創業者の叔父がいた。
1874年、ジーメンス社の設立。以後急成長しジーメンス財閥を形成。

1874年、日本では小野組が倒産し、古河市兵衛が官営鉱山の払下げを受け、古河本店(現:古河機械金属)を設立した。その2年後に三井銀行が開業。

1876年、ドイツ銀行が国内最大銀行となる。
ドイツ銀行は国内外に出資して勢力を拡大していく。
またジーメンス社のジーメンス兄弟も次々と世界初の発明を成し遂げる。また単なる原理を実用化することにも長けていた。
ジーメンス社のジーメンスは経営者としてだけではなく技術者(発明家)としての顔を持っていた。
発明王と呼ばれるエジソンの発明はジーメンスの発明を応用したものがかなりある。エジソンは発明家というか応用力に優れていたのかもしれない。

1883年、ユダヤ人実業家・エミール・ラーテナウ(ドイツの政治家ヴァルター・ラーテナウの父親)がエジソンの技術を利用する権利を得てドイツ・エジソン電力応用社(Deutsche Edison-Gesellschaft für angewandte Elektrizität;DEG)を設立。出資者はロスチャイルドなど。

1883年、ドイツ人技術者カール・ベンツによってベンツ社(Benz & Cie)設立。

1887年、DEGがAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)に社名を変更。
エジソンとロスチャイルド系のAEGがドイツ発のジーメンズ領域に進出してきたことが対立の芽となった。

1889年、エジソンがアメリカでエジソン総合電気(Edison General Electric Company)を設立。(→1892年にゼネラル・エレクトリック(GE)となる)

1889年、独亜銀行を上海設立に設立。独亜銀行は中国の鉄道建設や鉱山開発に出資。
独亜銀行への出資者はドイツの銀行10余り。筆頭株主はディスコント銀行。次がドイツ銀行とロスチャイルド系の銀行、ロスチャイルド親銀行もそれに次ぐ。日清戦争後は香港上海銀行を上回る勢いがあった。

1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールルが現在の和歌山県沖で遭難し500名以上の犠牲者を出した。→この一件からイランイラク戦争を跨いで現代に続くトルコと日本の美談が存在する。その美談と怪しさについてはこちらに書いた

1891年、ロシアのシベリア鉄道建設。←フランス・ロシア・イギリス・ドイツ・アメリカなどから投資されていた。
同じ頃、イギリス(アフリカ~インド、3C政策)とドイツ(ベルリン~イラク、3B政策)も鉄道建設を計画していた。イギリスとドイツの鉄道は一部被っており、ドイツがもっと伸ばせばイギリスの線にもろ被ってくるということでライバルとなっていた。
ドイツのこの鉄道(バクダット鉄道)の社長はドイツ銀行のゲオルグ・ジーメンスの娘の夫である。
ゲオルグ・ジーメンス自身もドイツ国鉄総裁の娘と結婚している。(夫妻には娘しかいなかった)

1892年、ドイツがアナトリア鉄道を完成させ開業させた。(1888年にオスマン帝国から認可を取得していた)

1894-1895年、日清戦争
1894年、露仏同盟。

1900年、ドイツ人技術者のゴットリープ・ダイムラーらがダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社(Daimler Motoren Gesellschaft, DMG)を設立。自動車の燃料に石油を使うということでアメリカで油田開発も推進した。

1901年、ドイツのロスチャイルド家が消滅(息子がいなかったため)。遺産を受け継いだのはゴールドシュミット家とディスコント銀行。(もともとロスチャイルドはゴールドシュミットから独立した家。家業は両替商・金貸し)

1902年、日英同盟。
1904年、英仏協商。
1904-1905、日露戦争。
1907年、英露協商。
1907年、世界恐慌。

この頃、ヨーロッパにとってジーメンス社やドイツ銀行をはじめとするドイツの躍進が脅威となっていたのだろう。
彼らはロスチャイルドの庇護を受けることなく飛躍的発展を遂げたわけだから。

1910年、JPモルガン所有のジキル島クラブで秘密会議を開いた。JPモルガン、ロスチャイルド、ロックフェラー家関係者7名が参集。
1913年、連邦準備法によって連邦準備制度が成立(アメリカのFRB)。

ヨーロッパだけではダメだと思ったのかアメリカを巻き込む作戦に出る。
開戦直前にはドイツ銀行は世界最大銀行とまで言われるようになっていた。

1914-1918年、第一次世界大戦。
第一次世界大戦のきっかけとなったのはオーストリア皇太子の暗殺だが、第一次世界大戦で中央同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)の敵側になったのは、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国協商(Entente Powers)を中心としていた。つまり、ロシア・フランス・イギリスである。

欧米では石油が非常に重要な資源となりつつあった。
第一次世界大戦勃発時点で、ドイツ銀行はオスマン帝国石油の25%を支配していた。イギリス・オランダ資本のロイヤルダッチ・シェル(ロスチャイルド系)が25%、あとの50%はイギリス資本のBP(ロスチャイルド系)。
戦前ドイツ銀行と交渉を重ねたがその支配率は変わらなかったという。(オスマン帝国は当時中東全域を支配していた要の国であった) これが開戦の背景にあったとも言われる。

そしてドイツは負けた。
負けたのに何も変わらないというのはおかしい。
ドイツはこの敗戦によってロスチャイルドの庇護下に入ったのではないだろうか。

1923年、日本の古河財閥とジーメンス社が合弁会社を設立。富士電機製造(現:富士電機)である。
1924年、ドイツ銀行はロスチャイルド傘下の銀行を吸収。
1926年、ベンツとダイムラーが合併し、ダイムラー・ベンツとなる。ドイツ銀行が筆頭株主。
1929年、ドイツ銀行は最大のライバルディスコント銀行(ドイツロスチャイルド家の遺産を受け継いだ銀行)と合併。

まるでドイツ銀行が戦前と変わらずに拡大していて、ロスチャイルド系をも呑みこんでいるように感じるが、それはやはり逆で敗戦によってロスチャイルドに呑みこまれたのではないかと思う。 

※ドイツの自動車メーカー・ポルシェの創業者ポルシェも元はダイムラーの設計者だった。
ポルシェを創業したのは1930年頃で最初はデザイン事務所で、第二次世界大戦後に息子によって自動車メーカーとなった。



第一次世界大戦でドイツは負けた。しかしドイツだけでなく戦争に参加し戦場と化したヨーロッパはみな疲弊した。
一番の勝者はアメリカ。ロックフェラーはこの戦争で大儲けして資本力を増大させた。
ただ勢力的に言えば、中東や中国、日本などを支配していたのはロスチャイルドであった。

第二次世界大戦がヨーロッパの国で始まったということは仕掛け人はロスチャイルドではないだろう。
例え的に勝利しても本拠地であるヨーロッパを舞台にしてしまうと疲弊してしまうことを第一次世界大戦の経験から身を持って知っていたのだから。
そうとなれば仕掛けたのはロックフェラーである。アメリカと関係ない所で戦争をしてくれて自分達が儲かり勢力拡大できれば一石二鳥。
ナチスを支援したのはロスチャイルドではなくロックフェラー。
ロックフェラー家はドイツの出身だがユダヤ人ではなく、プロテスタントでもカトリックでもなかった。(でもカトリックが利用されているというか、カトリックが利用したというか)
枢軸国(その代表者たち)は反共産主義インターナショナルであり親カトリックであった。、
ドイツに応戦したのは結局イギリスやフランスだが、ドイツはこの時も強かった。
さらに悪いことにドイツが核開発をしているらしいとの情報があった。
このままではヨーロッパが疲弊するどころか、ドイツとロックフェラーに負けてしまうかもしれない。
そこでロスチャイルドはロックフェラーの目論見潰しのため日本の野心を利用してアメリカと戦わせることにした。日米開戦、いわゆる太平洋戦争が始まる。
これが功を奏して1943年から飛ぶ鳥を落とす勢いだったドイツが劣勢に回る。


アメリカ・ニューヨークのマンハッタンにあるロックフェラーセンター。
ほとんどのビルは1931~1939年にかけて建設されたもので、その敷地の所有者はコロンビア大学である。

1938年、ウォルター・ヘンリー・ジン(カナダ)がアメリカに帰化。⇒コロンビア大学へ
1938年末、フェルミ(イタリア)がノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。 ⇒コロンビア大学へ
1939年初頭、シラード(ハンガリー)はイギリス・オックスフォード大学の研究所(アメリカ滞在)を辞めて、アメリカに移住。⇒コロンビア大学に転がり込む
1939年3月、シラードとフェルミがコロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
(1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、戦争が始まる)


1942年、マンハッタン計画のもとフェルミやシラードはシカゴ大学に移る。
歴史上初めて臨界に達したという原子炉(シカゴ・パイル1号)はシカゴ大学にあった。
シカゴ大学はロックフェラーが設立した大学である。
マンハッタン計画には他に長いこと公立ナンバーワンであるカリフォルニア大学が加わっていた。

イギリスやアメリカ政府は原爆開発は無理だと判断しており、当初全く乗り気ではなかった。

原爆は初めて作るわけで、実現不可能という意見が多くを占めていた。それが理論通りに成功する保証などどこにもないはずである。
そもそもルーズベルト大統領がプロジェクトを承認した1941年10月の段階ではアメリカはまだ参戦していない(真珠湾攻撃前)。だから最初から日本に落とす予定だったでは辻褄が合わない。
投下までが上手くいく保証ももちろんない。軍用機の航続力には限界がある。爆撃機が投下前に攻撃されてしまえばそれで終わり。
誰がどこで使う予定で開発し製造するのか?どの範囲を狙い、それにはどれほどの威力が必要なのか、今ある軍用機に搭載可能なのか、少なくともそれくらいの指標は必要ではないだろうか。
そうした検討も行わずに、なんとなく作ってみました?
時間と金と成功率を鑑みれば、いかにこのプロジェクトがギャンブル的であったかが分かる。

またその爆弾が原子であろうが、どんな威力があろうが、爆弾である以上、それだけは何の意味も持たない。
戦争に勝つためには、侵攻して占領するか、相手から降参を引き出さなければならないのだ。
普通の爆弾ならともかく大量の放射性物質が降り注ぐと結論付けた原子爆弾を落とした所になんか侵攻して占領したくないだろう。
放射性物質は無害という評価だったのか?
西に落として東が占領できると思ったのか?
そうでないならば、残るのはただ1つ。相手から降参を引き出すしかない。
原爆は極めて他力本願な決め技である。決め技としては心許ない。どんなに負けが込んでいたって、占領も無く降参もしなければ勝敗は付かないだろう。
原爆の有効性を本当に信じていたらば、最初から日本に落とす予定で(あるいはイギリス?)、降参するという保証がなければ出来ない。







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# by yumimi61 | 2017-05-19 16:29
2017年 05月 18日
日本国憲法の秘密-475-
前回はチェース・マンハッタンの国際諮問委員会メンバーだった長谷川周重(元住友化学社長)に関連する話だった。
今回もその続き。

世界最古の財閥とも言われる住友財閥は鉱山でその地位を築いた。
そんな住友はドイツの重工業(金属・機械・化学工業)と関係が深い。※鉱業や鉄鋼業は金属工業に含まれる。
ドイツにおける重工業の基盤確立に大きな役割を果たしたのはドイツ銀行である。
従ってドイツの重工業と関係が深いということはドイツ銀行と関係が深いとも言える。
ドイツ銀行という名称からドイツの中央銀行と勘違いされることもあるが市中銀行である。中央銀行はドイツ連邦銀行。

ドイツ銀行は1870年に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立された。
日本で最初に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立されたのが横浜正金銀行である。1880年。
ドイツ銀行は創業2年後の1872年(明治5年)に初の海外支店を日本の横浜と清の上海に設立し、その翌年にロンドンにも開設した。
しかし東アジア取引は思ったほどうまくいかず経営を圧迫し横浜支店も上海支店も3年で閉鎖。
以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンクへの道を選んだ。(貿易に特化した横浜正金銀行もあまり上手くいかなかった)
ユニバーサルバンクというのは、一般的な預金や融資などの銀行業務だけでなく、証券、生保、損保、信託業務、リース業など幅広い業務を行うことが認められている総合的金融機関。
ユニバーサルバンクの発祥はドイツ。ドイツやスイスでは古くからこうした総合的なサービスを手がける大手金融機関が主流であった。ドイツ銀行はその筆頭である。
日本は法改正などによって2000年以降にユニバーサルバンク化している。


ドイツ銀行の創業者は銀行家アデルベルト・デルブルックと政治家ルートヴィヒ・バンベルガー。
設立を指導し取締役に就任した人物にゲオルク・ジーメンスがいる。(→後に頭取にも就任)
ドイツにはジーメンス家という財閥がある。
1874年に「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」(現:ジーメンス社)を設立したのが始まり。
創業者のウェルナー・ジーメンスは通信・電機産業界の世界初の国際的企業家と言われる人物。

ウェルナー・ジーメンス
ドイツの電気工学者。ジーメンス社を創立した企業家。14人兄弟のうちで6番目(7人の男子の中では最年長)に生まれた。リューベックのギムナジウムで学んだあと,砲兵隊に入り,電気の知識を身につけた。1847年に精密機械工ハルスケJ.G.Halskeと共同でジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所(現在のジーメンス社)を設立した。ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所はロシアに進出して電信を敷設し,成功をおさめた。

ジーメンス社(Siemens AG)
ドイツの総合電機メーカーで,世界有数の電機工業コンツェルン。
当初は電信機器の製造と電信ケーブルの敷設工事を主としたが,その後ロシア,イギリス,フランスなどの各国にも事業を拡大,またアイルランド−アメリカ間の海底電信ケーブルを布設して電信線,海底電線など弱電部門においてヨーロッパで独占的な地位を確立した。1866年には発電機の製造に成功,強電部門も発展させた。
1897年株式会社に改組しジーメンス・ウント・ハルスケ株式会社となったが,株式はすべてジーメンス一族が所有した。 1900〜01年のヨーロッパ恐慌時には多くの企業を傘下に収めた。 1903年自社の重電部門がシュッケルトと合併して,ジーメンス=シュッケルトウェルケとなり,弱電部門 (通信機) を主力とするジーメンス・ウント・ハルスケとともにジーメンス・コンツェルンの中核となった。
第2次世界大戦後,在外資産とドイツ民主共和国 (東ドイツ) の資産を没収され打撃を受けたが,資産分割を免れ,その後のドイツ連邦共和国 (西ドイツ) 経済の発展と歩調を合わせて事業分野を拡大し,1950年代以降急速に発展した。 1966年両社を統合して現社名に変更するとともに主要子会社の業務を統合。ヨーロッパ,カナダなど多くの国に子会社をもっている。
事業内容は発電・送電機器,産業用・輸送用機器の重電部門,電話,デジタル交換システム EWSD,通信システムの通信機器部門,データ処理機器,データ送信機器,鉄道信号システムのデータシステム部門,プラントエンジニアリング,配電・駆動回路,オートメーションなどプラント・設備部門,X線装置,電子医療機器などの医療機器部門,ICカードや ISDN用チップなどの部品部門がある。



創業者ウェルナーの弟ウィルヘルム(ウィリアム)はイギリスにジーメンス・ブラザーズを設立した。
創業者ウェルナーの従兄がドイツ銀行設立を指導したゲオルク・ジーメンスである。
ジーメンス社やドイツ銀行はドイツの産業革命とともに急速に発展した。

1923年に日本の古河財閥とジーメンス社が設立した合弁会社が富士電機製造(現:富士電機)である。
富士は「富士は日本一の山~」の富士ではなくて、ふるかわの「ふ」とジーメンスの「じ」で「ふじ」。「富士」は当て字。
富士電機から分社設立された会社が富士通(Fujitsu)。


古河財閥
古河財閥の源流は、明治8年(1875年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。

古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(大日電線と日本電線は合併し大日日本電線を経て現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。


傘下企業の「横浜ゴム」はヨコハマタイヤの名で知られるタイヤ・ゴムメーカー。
2015年よりプレミアリーグのクラブ・チェルシーのユニフォームの胸スポンサー。YOKOHAMA!
広告費はおよそ80億円くらいで、マンチェスター・ユナイテッドのシボレーに次ぐ金額らしい。
ヨコハマタイヤはドイツのコンチネンタルタイヤの日本総輸入元(日本の輸入窓口で他者は輸入できない)であったが、現在はドイツのコンチネンタルタイヤの日本法人が出来たので販売代理店である。


古河財閥が足尾銅山で成功したと聞けば、ああ~古河市の古河(こが)かぁと思う人もいるだろうけれども、古河財閥の古河(ふるかわ)さんは古河市出身ではない。京都出身である。
ちなみに古河市の古河は奈良時代あたりには我許すの「許我」であり、日本有数の製鉄場だったそうですよ。
古河財閥の創始者は古河市兵衛。小野組から独立した人物。
京都の没落した貧しい家庭に育ち、子供の頃から豆腐行商をしていた。17歳の時に盛岡で高利貸しを営む叔父を頼り、金銭取立てを手伝う。
その叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり古河姓になる。ついでに名前も変えて「古河市兵衛」となった。


小野組は三井と明治政府に騙された商家。

小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していた。


1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を超える勢いがあった。
ところがその翌1874年、明治政府は担保額の大幅引き上げなど一方的に金融政策を急変し、これによって小野組は倒産を余儀なくされた。
小野組倒産のもとに三井銀行はある。

大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井・小野両組共同出資での銀行設立を提案。
両組は政府主導による設立を望んでいなかったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、渋々1872年に「三井小野組合銀行」を創設した。
1873年、「三井小野組合銀行」(前身)は「第一国立銀行」(後身)となった。初代頭取は渋沢栄一。
しかし両組とも本当は独自の銀行を欲していた。
1874年、明治政府は公金預かり高に対する担保をそれまでの1/3からに全額に突如変更。
これにより小野組は倒産。三井組は生き残り、第一国立銀行から手を引いた。
1876年、三井組は日本初の私立銀行として三井銀行を開業した。



1874年小野組の倒産後、古河市兵衛は渋沢栄一などの資金援助で有利な条件で官営鉱山の払下げを受けた。
小野家の人物にではなく、高利貸取り立てあがりの古河市兵衛に草倉銅山を払い下げたのである。
古河はその後の足尾銅山の成功もあり、1897年には銅山 12,銀山8,金山1など 69鉱区に及ぶ大鉱山所有者となって鉱山王と呼ばれた。金属の精錬事業などにも乗り出し古河財閥を形成した。

現在は新潟県に属する草倉銅山は江戸時代に会津藩が開発した鉱山で会津藩が所有していたものである。
会津藩は最期まで明治新政府に対抗した藩。
明治維新後は明治政府が草倉銅山を接収。そしてその経営権を古河市兵衛に渡した。






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# by yumimi61 | 2017-05-18 15:09
2017年 05月 17日
Flitterwochen  
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# by yumimi61 | 2017-05-17 23:49
2017年 05月 16日
日本国憲法の秘密-474-
チェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

③長谷川周重
東京府立一中、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科卒業。住友合資入社。その後住友化学へ移り、常務取締役時代に技術導入、逐次展開方式を採用した。1965年、住友化学社長に就任し、以後会長・相談役を務める。
1974年、経団連副会長、日経連理事に就いた。1981年、日本経済協議会会長、日米中西部会代表世話人となる。
日本ギリシャ協会会長として、1988年にギリシャの外国人最高勲章であるグランド・コマンダー・オブ・ジ・オーダー・オブ・オーナー受賞を受賞する。1989年には世界経営協議会会長、名誉会長に選ばれ、藍綬褒章、フェニックス賞、勲一等瑞宝章を受ける。1984年9月から1993年9月にかけて財団法人交流協会会長に。1978年から1992年まで日比谷高校如蘭会会長など。

妻は安宅弥吉(安宅産業及び甲南女子学園創設者)の娘で、1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手の安宅登美子である。


妻の父親である安宅弥吉が創業した安宅産業は商社であった。10大総合商社に次ぐ商社であったが創業者の死後1977年に破綻。 メインバンクであった住友銀行の仲介によって多くの事業は伊藤忠商事に吸収合併された。
安宅産業は大阪で開業したが安宅の出身は石川県である。
また安宅弥吉は鈴木大拙のパトロンでもあった。
(鈴木大拙は)禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。
金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。


外国で禅と言うとスティーブ・ジョブズを思い出す人もいると思うのでWスズキについて少々。
欧米に禅を広めた2人の鈴木、それが鈴木俊隆と鈴木大拙とである。名字は同じだが親戚ではなく直接的な関係もない。

鈴木俊隆
神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県森町の蔵雲院の玉潤祖温に弟子入り。駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1930年同大卒業。永平寺、總持寺で修行。1936年に静岡県焼津市林叟院住職に転任。
1959年に55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの桑港寺の住職となる。桑港寺はそれまで主に日系人向けに教化活動をしていたが、当時の社会運動により、非日系アメリカ人の参禅者が増加。日系人との間で軋轢を生むようになり、鈴木は彼らのために1962年にサンフランシスコ禅センターを設立。1967年には長期修行道場として、カルメル渓谷近くの山中のカリフォルニア州タサハラ温泉にタサハラ禅マウンテンセンター(禅心寺)を設立した。



鈴木大拙・・・長谷川周重(住友化学社長)の妻の父・安宅弥吉(安宅産業のメインバンクは住友銀行)がパトロンだった。
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。
第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。

1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。
1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

1966年に、絞扼性腸閉塞のため東京築地の聖路加病院で死去、没年95。


仏教徒なのにわざわざキリスト教である聖路加病院にかかるものなのかしら?(救急搬送?)(医療に信仰は関係ありません!?)
キリスト教徒の松方三郎とも親しかったようだし。

それはともかく、1911年に結婚したベアトリスはアメリカ人。
神智学徒だったということだけれど、じゃあ神智学って何よっていう話ですよね?
神智学とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。
語源的には、ギリシア語で神を意味する θεός(テオス)と叡智を意味する σοφία(ソピアー、ソフィア)の合成語 θεοσοφία, theosophia (テオソフィア、神智)に由来する。

グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。
一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立された神智学協会の思想である。後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。


長谷川周重は日本ギリシャ協会会長で、ギリシャの外国人最高勲章も受賞しているようだけれど、そのあたりは関係ないのかしら?
ベアトリスの神智学はどうも神秘主義に関係しているようである。
ベアトリスは1920年頃に高野山で密教の研究もしていた(密教は神秘主義に通じるものがある)。高野山は天皇家とも関係が深い。

ジョブズと関係が深いのはノーベル平和賞候補の鈴木さんではなくて鈴木俊隆のほう。

乙川(知野)弘文
新潟県加茂市の曹洞宗の寺に生まれる。駒澤大学を経て、1964年に京都大学大学院で修士号(大乗仏教)を取得した。
福井県の永平寺で3年に及ぶ修行を積み、1967年、僧侶・鈴木俊隆の招きでアメリカ合衆国に渡った。タサハラ禅マウンテンセンターにて、1970年まで補佐を務め、1971年に鈴木が死去した後には、ロスアルトスの禅センターにて、1978年まで活動、1979年にはロスガトスの慈光寺に転任した。

1986年にはスティーブ・ジョブズのNeXT社の宗教指導者に任命され、1991年にはスティーブ・ジョブズとローレン・パウエルの結婚式を司った。
その後も各地にて活動していたが、2002年7月26日、スイスにおいて、5歳の次女を助けようとして溺死した。



住友の長谷川周重と関係あるほうの鈴木大拙とベアトリス夫妻には実子がいなかったそうで、イギリス人男性と日本人女性の間に生まれた子供(1916年生まれ)を養子にしている。
その子は鈴木勝(アラン勝, Alan Victor Suzuki)。
なかなか手を焼く子供だったようだ。
1948年に日本コロンビアから発売されヒットした笠置シヅ子歌唱の『東京ブギウギ』の作詞者である。
鈴木勝は、宝塚歌劇団出身だが宝塚では芽が出なかった池真理子(芸名:三日月美夜子)と結婚した。(彼女は宝塚に入る前には女子ミッションスクールに通っていた)
戦後は日本コロンビアから歌手デビューしスウィングの女王と呼ばれるまでになる。
1959年に離婚。


ジョブズが傾倒した禅というのは早い話シンプルということなんだと思う。シンプルは美しさに繋がる。究極の美は何もないことだろう。
私も時々「物がない世界に暮らしたい!」と強烈に思うことがある。(そのくせ次の日には物を買っていたりするからダメなんだけど)
ごちゃごちゃした感じが凄い嫌になることがある。物があると掃除も面倒になるし。(でも美しいと思う庭はシンプルな日本庭園ではないんだよなぁ)
生きていくには、生活していくには、いろんな物が必要であり、モデルルームのような部屋はなかなか維持できない。
それと似たようなことになるけれど、人はごちゃごちゃといろんなことを考える。それは悩みと表現されることもある。
そうした時には何もかも捨てたくなることがある。知っている人が誰もいないところに行きたい、人なんか誰もいないところに行きたい、とにかく余分なものが何もないところにいたい、そのように思う。
本当に死んで清算してしまう人もいるけれども普通は思うだけで変わらない日常を送っている。
そうした人間の雑多な余分な考え(煩悩?)を除くのが精神修行であり、その状態に至るのが悟りなんだと思う。でも本当は日常の場でその状態に達しなければ意味がないとも思う。
余分なものがあまりないお寺かなんかで俗世を捨てて質素な生活をするということは、転地療養と同じで環境的アプローチであって精神的なアプローチとは少し違うような気がする。
シンプルで美しい暮らしと言えばドイツ。
自然を愛し物を大切にする、物をあまり買わない、エコライフの実践。
ドイツの製品は品質が良くて頑丈でデザインもセンスがある物が多い(というイメージがある)。
ジョブズの禅はドイツにも通じている。


【住友グループ】

住友財閥は、日本の三大財閥の1つ。
ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。
世界財閥家系のなかでも最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。


室町将軍は源氏の分家筋である足利氏。

・家祖(住友家の本家)
家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。
 ⇒住友政友の長男が継承(本家)
 ⇒住友政友の長女が政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門の長男(銅吹所の跡取り息子)を養子に迎える。
 ↑
・業祖(住友家に居候していたが名字も家業も別だったという今で言うマスオさんだろうか?)
業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、1590年京都に銅吹所を設けた。(これが住友金属鉱山の源流)

要するに両家が合体して、養子(蘇我理右衛門の長男・銅吹所の跡取り息子)をが住友家の2代目となった。

住友3代目は養子の長男。幕府御用達の銅山師となり日本一の銅鉱業者へと発展させた。
そして何と言っても4代目。住友4代目が中興の祖と言われる。
それまでも順風満帆だったが1691年に開発に着手した別子銅山が素晴らしかった。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長して住友財閥(現在の住友グループ)の礎を築いた。
この銅山のおかげで住友家は財閥の地位を確実にした。だから4代目が中興の祖なのである。
住友は鉱山に始まった財閥である。世界有数の金鉱脈がある菱刈鉱山も経営している。

菱刈鉱山
鹿児島県伊佐市の菱刈地区東部にある日本最大の金鉱山である。金だけではなく、銀も産出する。
菱刈町は、江戸時代において産金地であった。そのため、昭和40年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年(昭和56年)に鉱脈を発見した。住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。ここにおける産金量は年間国内産金量のほぼ全てを占めている。
菱刈鉱山における推定の金埋蔵量は250tと推定され、これは国内の他の主要金山全てを合計したものを上回る大規模なものである。1997年(平成9年)には鉱山の累計産金量が国内トップ(83t)となった。探鉱自体は継続的に行われており、2012年(平成24年)には新たな鉱脈も発見された。
また菱刈鉱山の金鉱石は高品位という特徴があり、通常の金鉱石の品位は数グラム/tであるのに対し、菱刈のものは鉱床探査の試錐で290グラム/t、鉱山の平均でも約50グラム/tと非常に高く世界最高水準である。


鹿児島は島津家の本拠地だったわけだが、そのあたりは関係ないのかしら?(所有権を主張するとか)
福岡で買い付けようとしていた(そして紙幣を強盗された)金は菱刈鉱山の金でしょうか?


住友は三菱グループ以上に「結束の住友」として井桁マークののれんにこだわった。また、住友グループ主要企業の社長会である「白水会」においては、他の企業よりも数が少なく、それだけ直系を重視している。

早くから東京に拠点を置いた三井・三菱(創業時は大阪)両グループに対して、住友グループは長らく大阪の地に拘り続け、今も大阪に本社を置く住友グループの企業は多い。住友グループにあっては、少なくとも高度成長期までは名実共に大阪にその中心を置いていた企業が多かったことも事実であり、「住友」と言えば即座に大阪を連想することが多く実際、近畿圏においては、特に年配者層を中心に、今もってなお三井・三菱両グループよりも住友グループのプレゼンス・社会的ステータスをより一段と高く評価することが多いのもまた事実であり、住友グループの大阪での存在感は健在と言える。






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# by yumimi61 | 2017-05-16 14:58
2017年 05月 15日
日本国憲法の秘密-473-
デイヴィッド・ロックフェラーは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン・バンクの頭取だった。
(2000年にJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合している)
そのチェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

古株としては石坂泰三(元東京芝浦電気取締役社長、元経団連会長)。
1967年にチェース・マンハッタンの国際諮問委員会に就任しているので盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会に就任するよりも2年ほど早い。

次に藤野忠次郎(元三菱商事元社長)。1971年就任。藤野が就任していた時期はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取に就任していた時期に一番重なる。



②藤野忠次郎
1901年生まれ。渋沢栄一や石坂家同様に埼玉県出身。
1925年(大正14年)三菱商事に入社。
戦後、渉外部長として財閥解体でGHQとの折衝役を務め、昭和29年の三菱商事再統合で常務、41年社長、49年会長に就任。社長時代は沈滞気味だった社内を活性化して総合商社トップの座を不動のものにしており、同社“中興の祖”といわれる。
また三菱グループ首脳の集まりである金曜会の代表としてグループの結束に努めたほか、40年代の国交正常化前の中国にグループ企業の代表を率いて訪ね、日中貿易拡大に先鞭をつけた。
44年から56年まで東京商工会議所副会頭。


藤野が三菱商事の社長に就任したの日本の高度経済成長期(1954-1973)の最中の1966年。
しかし1970年代、日本は、いや世界は大転換期を迎えることになった。

【ニクソン・ショック】
1971年7月15日―第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)
ニクソン大統領の中華人民共和国(中国)への訪問を予告する宣言。翌1972年2月に実際に北京を訪問した。

1971年8月15日―第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)
ニクソン大統領が米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言した。
固定比率(1オンス=35ドル)(1オンス≒31.1グラム)による米ドル紙幣と金の兌換を一時停止した。


それまでは金と交換できる唯一の通貨がドルであり、ドルは絶対的価値を持ち、だからこそ基軸通貨でもあった。
何故ドルが基軸通貨になり得たかと言えば第二次世界大戦直後、アメリカは世界の金の3分の2を保有していたからである。つまり戦争で疲弊しなかった国とも言える。
(アメリカの製品をアメリカから買うのに日本円を出したって受け付けてもらえない。ドルや他に価値あるもの、たとえば金を渡す必要がある。使い道のない紙幣はいらない)
すでに各国とも金本位制ではなかったが、国際的には金を裏付けにした(金本位制)。
戦後はドルに対し各国通貨の交換比率を定めて、世界経済の安定を図ったわけである。
各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、貿易がコントロールできないし、国際比較も不可能となる。
多種多様なものを客観的に比較する時には何か軸となるものが必要である。そしてそれはやはり普遍的な価値が相応しい。
円は1ドル360円と決まっていた。
1オンス(約31.1グラム)の金を手に入れるためには、12,600円が必要となる。


しかしやはり各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、このコントロールも意味をなさなかった。
各国とも紙幣をどんどん増やす。要するに各国の経済規模はどんどん大きくなる。
(人間には製造できないものが、あるいは製造することに限界があったり簡単に作れないものがベースにあれば経済規模が無制限に大きくなることはない)
紙幣の量はアメリカをはじめ世界の金保有量を軽く凌駕するようになった。
簡単に金が買えてしまう状況である。言い換えると紙幣に見合う金が存在しない世界。
そんな中、基軸通貨であるため勝手な政策がとれないアメリカ。
加えてアメリカは第二次世界大戦後も戦争に参戦し、第二次世界大戦で疲弊しなかったにもかかわらず戦後赤字に陥っていく。そしてインフレを招いた。
一方、日本をはじめ疲弊した国々は回復してくる。
アメリカという国はある意味貧乏くじを引いたようなものである。
この状況に待ったをかけたのがニクソン大統領だった。

ニクソンショックの宣言は一時停止だったが、結局これが固定相場制から変動相場制へ移行のきっかけとなり、その後の世界経済にも大きな影響を与えた。
変動相場では為替差損が生まれるため(例えば円高時と円安時の差)、貿易など国際的な取引には常に為替変動リスクが存在する。
経済規模が大きければ大きいほど国際取引に強いとは言い切れなくなった。そういうコントロールの仕方である。
コントロールというと悪い印象も少なからずあるが、裏付けがない世界においては必要なものとも言える。


1970年代の世界経済の混乱はこのニクソンショックからの為替相場制への移行と、もうひとつ、オイルショックによってもたらされた。(何かとショックの時代ですね)


【オイル・ショック】
1973年―第1次オイルショック
1979年―第2次オイルショック

オイルショックは石油原産国が原油の生産や輸出を抑制し原油の価格が上昇したもので、ショックを受けたのは石油をたんまりと必要とする先進国である。特に工業国には痛手である。
1954年から成長を続けた(規模を拡大し続けた)日本経済の高度成長期も1973年のオイルショックにて終焉を迎えることとなった。

人が生きていくためにはエネルギー源となるものが必要である。
多くの事が人間の身体ひとつで完結していた時代には人間のエネルギー源があればよかったが、人間の代わりを機械がするようになると機械にもエネルギー源となるものが必要となる。
イギリスで起こった産業革命は石炭の利用によってもたらされた。これを第二次エネルギー革命とも言う。(第一次エネルギー革命は人間による火の利用)
第三次エネルギー革命は石油と電気の利用。この革命を牽引したのは自動車だった。
欧米で石油の利用が始まったのは1800年代後半から1900年代前半のことで、石油は自動車の動力となった。アメリカではトラクターなども登場して農業も変わっていった。火力発電の燃料ともなった。
石油が必要とあれば、どこかに石油(油田)はないかと探す。そうして1900年代半ばに中東やアフリカで大規模油田が発見された。
日本で石炭から石油に変わったのは1960年代のことである。
1962年の原油の輸入が自由化され、安く大量に石油が入ってくるようになった。
炭鉱は閉山し多くの失業者を生んだ。森林から生まれる木炭や薪などのエネルギー生産者は職を失い森林や荒れ過疎化を招いた。
石油は収入と雇用形態をも変えてしまったのだ。

すでに書いたようにロックフェラー家はアメリカで石油を独占することでアメリカ一の財閥に伸し上った。
そして第一次世界大戦で大きく資本力を拡大した。
第一次世界大戦までは中東の石油利権を握っていたのはロスチャイルド(系の企業)である。
その中東ににロックフェラーが入りこみ住み分けが崩壊。
第二次世界大戦でもアメリカは疲弊しなかったが、ヨーロッパ諸国は程度の差こそあれ勝敗にかかわらず疲弊した。
それをいいことに1954年国際石油資本8社からなるイラン国際企業連合を発足させ、中東の石油利権をロックフェラーに有利な条件で決定した。
ロックフェラーが独占したわけではないが第二次世界大戦後は石油利権に関して圧倒的な支配力を誇っていた。

同じ頃、原子力の平和利用が注目を浴びていた。
1953年12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で原子力平和利用に関する提案「Atoms for Peace」(平和のための原子力)を行ったからである。
アメリカでは1954年に原子力エネルギー法が修正され、アメリカ原子力委員会が原子力開発の推進と規制の両方を担当することとなった。
 ・世界で初めて実用としての原子力発電を開始したのはソ連で1954年のこと。(5MW)
 ・世界で初めて商用原子力発電所を設置したのはイギリスで1956年のこと。(50MW)
 ・アメリカでの最初の商用原子力発電所が完成したのは1957年。
 ・欧州経済共同体による欧州原子力共同体が発足したのは1957年。
 ・国際原子力機関(IAEA)の発足も1957年。

  ・日本にて原子力基本法が成立したのは1955年。
 ・日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年。東海村の試験炉。
 ・日本に最初の商用原子力発電所が完成したのは1966年。東海発電所。ガス冷却炉だった。
 ・日本初の原子力発電営業運転開始は1970年(大阪万博に送電)。美浜原子力発電所。軽水炉。


実は世界的規模の石油によるエネルギー革命と原子力の発展時期は戦後の同じ頃なのだ。
原子力利用がオイルショックによってもたらされたというのは適当ではない。

国際石油資本
石油メジャーのうち、第二次世界大戦後から1970年代まで、石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社は セブン・シスターズ(Seven Sisters)と呼ばれてきた。また、7社にフランス石油(CFP、現TOTAL)を加えて、エイト・メジャーズと言われることもあった。資源ナショナリズムにより石油輸出国機構(OPEC)が主導権を握るまで、世界の石油のほぼ全てを支配していた。
セブン・シスターズのうち、5社がアメリカ資本で、残りの2社が、イギリス資本系のBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)と、イギリスとオランダ資本系のロイヤル・ダッチ・シェルである。
また、エクソン、モービル、シェブロンは、ロックフェラーが創業し、1911年に34社に分割されたスタンダード・オイルが母体である。


アメリカ資本5社―モービル、テキサコ、シェブロン、ガルフ、エクソン ・・・・ロックフェラー系
イギリス資本―ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)  ・・・・ロスチャイルド系
イギリスとオランダ資本―ロイヤル・ダッチ・シェル ・・・・ロスチャイルド系
フランス資本―CFP(現:トタル) ・・・・ロスチャイルド系


このロックフェラーを代表とする国際石油資本に対抗して1960年に発足したのがOPEC(石油輸出国機構)である。
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟によって発足し、その後も他の中東諸国が次々に加盟した。
1968年にはOAPEC(アラブ石油輸出国機構国機構)も発足。イラク、サウジアラビア、クウェートなどはこちらにも加盟している。他は北アフリカの国々。
1973年にこのOPEC加盟国やOAPEC加盟国が原油価格を引き上げ、生産や輸出を制限した。
そしてこの前後に石油会社の国営化が加速した。

■現在の新セブンシスターズ(全て国営企業)
サウジアラムコ(サウジアラビア)、ペトロナス(マレーシア)、ペトロブラス(ブラジル)、ガスプロム(ロシア)、中国石油天然気集団公司(CNPC)(通称:ペトロチャイナ)(中国)、イラン国営石油(NIOC)(イラン)、ベネズエラ国営石油(PDVSA)(ベネズエラ)  

■旧セブンシスターズ(統廃合によって7社が4社に)
シェブロン、エクソン・モービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)

旧セブンシスターズの原油生産シェアは10%程度、保有する油田の埋蔵量シェアは5%程度に減少した。
一方の新セブンシスターズは、原油生産シェアも保有する油田の埋蔵量シェアも30%にまで増加。
セブンシスターズ以外の国営企業も含めると石油埋蔵量のシェアは70~80%が国営企業で、その他ロシア系の企業が15%ほど保有している。



1966年に三菱商事の社長に就任した藤野忠次郎は、沈滞気味だった社内を活性化して総合商社トップの座を不動のものにしており、三菱商事「中興の祖」と言われる。
これは純粋なバイヤー(商品買付→売却)業の成果ではなく投資の成功によってもたらされたものである。
つまりまだモノはなかった。見えないモノに大枚をはたいたのだ。
その投資額は三菱商事の資本を遥かに上回るもので常識ではありえない。投資に失敗すれば確実に会社は倒産する。
そんなリスクを犯して何に投資したかと言うと、「ブルネイの液化天然ガス(LNG)の開発プロジェクト」である。1969年のこと。
その投資を誘ったのは上に書いた旧セブンシスターズに含まれる「イギリスとオランダ資本―ロイヤル・ダッチ・シェル ・・・・ロスチャイルド系」である。
三菱はロックフェラー系、三井はロスチャイルド系と言われることもあるが、三井と三菱もいろんなところ(松方正義や石坂泰三、福沢諭吉などなど)で繋がっているし、ロックフェラー家も当主とそれ以外の兄弟(いわば本家と分家)がいて後継者問題など人間関係は複雑でありロックフェラー家と一括りに出来ない側面が多々ある。
でも藤野忠次郎はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取のチェース・マンハッタン銀行の国際諮問委員会メンバーだったわけだからデイヴィッド派だろう。
ブルネイの投資はシェルと三菱商事がそれぞれ45%、残りの10%をブルネイ政府が出資し、合弁会社「ブルネイLNG」を設立した。
すでにお膳立てが整っていたのだと思う。
1970年からブルネイから日本への液化天然ガスの供給が始まり、以後、ブルネイから日本に入ってくる液化天然ガスの半分を三菱商事が供給するに至っている。
但し近年の日本の液化天然ガスの輸入量が多い相手国は、オーストラリア、マレーシア、カタール、ロシア、インドネシアなどでブルネイがトップということではない。
ちなみに液化天然ガス(LNG)として輸入しているのはダントツ日本がトップ。韓国、中国、インド、台湾、スペインなどが続くが日本は桁が違う。輸入量としても世界最大。
ドイツも輸入量が多いがドイツはパイプラインによる輸入である。アメリカ、イタリア、トルコ、フランス、中国などが続くが、ドイツは桁が違う。









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# by yumimi61 | 2017-05-15 12:34
2017年 05月 14日
北海道
少し前に私が幼い頃に入院していた時に母がレポート用紙に綴った記録を書き写した。
そのレポート用紙には他にもこんなことが書かれている紙があった。
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レポート用紙は同じ物だがなぜかその一枚は色の褪せ具合が違っていて、少し白い。
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4泊5日の北海道の旅。
月日は入っているがこちらも何年かは記入されていない。
偶然なのか何なのか、私が入院していた期間と重なる月日である。
闘病記録は10月23日で途切れているが、北海道の旅の24日は阿寒湖だった・・・。
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記入されている旅館やホテルを調べたら全て今でも現存するようで何となく嬉しく思った。
それと日産レンタカーのブルーバード。年代的に3代目510型系というものになりそうだが、発売日が1967年8月15日。

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# by yumimi61 | 2017-05-14 23:46
2017年 05月 13日
グランド
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妻に贈る最高のラブソングです。

へぇどんな曲だろう。

♪愛することに疲れたみたい~

え?

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・か弱き大人の代弁者?





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# by yumimi61 | 2017-05-13 23:24
2017年 05月 12日
日本国憲法の秘密-472-
それにしても東芝がレコード産業に参入したのが「弔い合戦」だったとはどういうことだろうか。
「あの時は敵わなかったけれど成長して見返してやる」くらいな感じならば分からなくもないけれど、「弔い合戦」と言ってしまうとやはり穏やかではない。
東芝音楽工業(後の東芝EMI)というレコード会社が設立されたのは1960年だが、それより前に東京芝浦電気内に音楽事業部が出来ていたらしい。
それが昭和27年か28年頃(1952,1953年頃)で、事業部長となったのがビクターから戻った石坂範一郎だという。


「弔い合戦」とは、戦死者の仇を打って、その霊を慰めるための戦いである。
1952,1953年頃の直近の戦争と言えば第二次世界大戦(太平洋戦争)だから終戦の年から7,8年経っている。
1954年12月~1973年11月までが日本の高度経済成長期と言われる時代なので、東芝に音楽事業部が出来たのは戦後混乱期から高度経済成長期への過渡期である。
戦争に負けた憂さを音楽で晴らそうと思った、「弔い合戦」はそんな比喩的な言葉だろうか。
しかしながらたとえ合戦が本当の戦争ではなく比喩的な言葉だとしても、弔い合戦という言葉を用いたということは何か戦争に関係があったはずである。


もう一度この言葉を引用しておこう。

東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
(Musicman’s RELAY第82回 石坂 敬一)


仇を打つのが目的だとしたらイギリスと手を組むことは少々不思議ではないだろうか。
第二次世界大戦中、確かイギリスは敵だったはずである。アメリカやイギリスは連合国であった。日本は枢軸国である。
敵と手を組んでいったい誰に仇を打つつもりなのか?アメリカ?それともイギリスと手を組んだふりして乗っ取り作戦?
ひょっとして原爆の恨みだろうか!?
イギリスは当初原爆開発不可能派で、アメリカとイギリスは原爆開発に関して意見がなかなか一致しなかった。チャーチル首相もアメリカ側から半ばコケにされたし。
原爆はアメリカによって投下された。イギリスは面子をつぶされた形になった。その憂さを晴らすために敵国日本と意気投合!?


でも東芝の社長であった石坂泰三は東芝レコードの方針に異を唱えていたようである。
その成長を手放しで喜んでいたわけではなさそうだ。

城山三郎が書いた伝記的な小説「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」には、泰三が東芝レコードに対して怒りを抑えられなくなる場面が出てくる。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が爆発的にヒットしていた1967年の年末の出来事だ。

山下太郎を失ったこの年の暮れ、石坂の心を騒がせる歌が流行した。学生バンドのザ・フォーク・クルセダーズによる『帰って来たヨッパライ』で、天国行きを目指した酔っ払いが、天国へ入ることを許されずうろうろするといったユニークでユーモラスな歌であった。
だが、この歌は石坂の癇にさわった。妻の死を「最大の不幸」と記したほどの石坂にとっては、死は生の一大事、天国はまた妻雪子と再会できる静かな聖地のはずであった。いや、妻の死とか、わが身の高齢とかを差し引いても、死や天国をそんなふうにふざけの対象にしていいものなのか。
さらに、そうした歌を少年少女までがおもしろがるという風潮が、石坂の心を暗くした。それは、日本の青少年の思想を悪くし、ひいては少年のような日本を危うくすることにならないのか。ユーモアを解することにかけては人に負けぬつもりの石坂であったが、黙っては居られなくなった。しかも、皮肉にも、そのレコードの発売元が東芝の子会社である。石坂は怒りを抑えきれなくなった。
もっとも、石坂は東芝関係は全て土光に任せ、今は一相談役のみである。その辺のところは心得ていて、はっきり物を言い合える間柄の岩田弐夫専務に鬱憤をぶちまけた。
「同じレコードでもベートーベンならいいが、あんなもので儲けるとは、何事だ」
すさまじい見幕でたたみかけ、
「経営とは徳義だ。あんな歌で儲けるくらいなら、あの会社はつぶしたほうがいい」とまで言った。もっとも、爆発させてしまえば、それで終わりで、そのレコード会社は以後も若者向けのヒット曲で成長を続けることになる。


旧人類と新人類で分ければ、石坂泰三は旧人類。石坂範一郎は新人類。
ビートルズは1962年にEMIからデビュー。1963年にはヨーロッパを席巻した。当時ビートルズは新人類だった。

イギリスのEMIはレコード会社として有名だが当時は多種の事業に参入しているコングロマリット(巨大複合企業体)であった。収益は主に軍事レーダーが上げていた。
レコード産業はアメリカのコロンビアレコードのイギリス法人とドイツのグラモフォンレコード(HMV)のイギリス法人が合併してEMIとなったので、コロンビアとHMVそれぞれのレーベルがあった。アメリカのキャピトルレコードもEMIの傘下にあった。
ビートルズはEMIのパーロフォン・レーベルからデビューしたが、これも元はドイツの会社でEMIに買収されていた。コロンビアやHMVといったレーベルに比べると弱小レーベルだった。
ビートルズは当初コロンビア、HMV、キャピトルなどの大手レーベルからは相手にされなかった。(後にアメリカでのリリースはキャピトルとなる)
キャピトルの海外アーティスト発掘育成担当(A&R;Artists and Repertoire)のデイブ・デクスター・ジュニアはビートルズはアメリカでは売れないと断固拒否していたという。

同じ頃キャピトルが扱いヒットした海外アーティストがいた。日本の歌手・坂本九だった。
坂本九は日本ビクターレコードからデビュー。1960年に東芝レコードに移籍。ビクターから東芝ということで石坂範一郎と同じ歩み。
アメリカでヒットしたのは1963年のこと。英語で歌うビートルズが売れなくて(イギリス英語だから?訛っているから?)、日本人が日本語で歌い、しかもSUKIYAKIなんて歌の内容と全く関係ないタイトルが付いた曲が(もしかして食べ物ではなくて’好き’と’妬く’の好き妬き?)、今ほどの情報社会ではないあの時代に売れる理由が分からない。
1963年6月15日、「SUKIYAKI」(邦題は上を向いて歩こう)がビルボード誌では週間1位を獲得。年間でも10位。(こういう順位も情報操作みたいなことはないのでしょうか?売りが売りを呼ぶみたいなかんじで)(ちなみにこの坂本九は1985年に墜落した日本航空123便に搭乗していて亡くなった)
キャピトルのデイブ・デクスターが手の平を返してビートルズを認めたのは1963年末のことで、1964年ビートルズはアメリカで記録的にヒットした。
日本にビートルズが入ってきたのはアメリカでのヒットとほぼ連動している。
ビートルズ初来日は1966年6月29日。

東芝レコードの石坂範一郎がアメリカのポピュラー音楽のカタログを充実させるために、三大メジャーのキャピトル・レコードと原盤供給契約を交わしたのは1959年の夏のことだ。

1961年、フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナー、コールの来日公演を永島が実現させている。ZACの出身だったマネージャーのカルロス・ガステルは、ペギー・リーやメル・トーメも抱える腕利きで、キャピトル・レコードの最高経営責任者グレン・ウォリクス会長とも親密な間柄にあった。

戦後の日本のプロモーターの歴史はアメリカのZACとガステルから、永島へというラインで始まったとも言われている。


1962年にデビューしたビートルズは1970年に解散。
ジョン・レノンはデビューの翌年1963年に最初の結婚をしている。
オノ・ヨーコとの出会いは1966年11月9日のことだそうだ。ビートルズが日本に初来日した5ヶ月後。
オノ・ヨーコの曽祖父は銀行家。日本銀行理事でもあったという。
1969年に2人は結婚した。



石坂泰三の妻・雪子はマリアという洗礼名を持つカトリック教徒であった。
そうとなれば子供達だって少なからず影響を受けているはずである。
石坂泰三も晩年洗礼を受けてペドロという洗礼名を授かっていたようである。
ペドロはスペイン語・ポルトガル語での名前である。新約聖書の使途ペテロのこと。聖ペテロ十字(逆十字)のペテロさんである。英語ならばピーター、ドイツ語はペーター、フランス語ではピエール。
例えばポールはスペイン語・ポルトガル語ではパブロになるわけですね。
スペイン、ポルトガルで最大宗教はローマカトリック。
イスラム教に奪われたイベリア半島を700年あまりの運動(戦い)にてカトリックが奪還してスペインとポルトガルという国は生まれた。レコンキスタの地、復活の地である。
宗教改革と大航海時代には貿易と布教がセットになっていて、この2か国の船は世界中に出て行った。



例えどんな宗教であっても信心深いということは死や生や神を冒涜されることについては抵抗感があるだろう。
宗教が戦争の理由になることに関して、宗教を信仰する人がどうして戦いやテロなど出来るのかと訝しがることがよくあるが、冒涜が許せないという気持ちが強いからそうなってしまうのだろう。
自分の子供や愛する者を傷つけるやつは絶対に許さないという人は珍しくない。なかには仕返しをすると公言する人もいる。そこまでではなくても極刑にして欲しいと願う被害者や遺族は多い。最近では関係ない第三者までがそいうことを簡単に口にする。酷いやつはそれにみあった酷い罰を受けなければならない、状況によっては殺されてもいいと考えているわけである。
それは結局深く信じたり愛しているものを冒涜された時の反応と同じである。
死や生や神を冒涜されることについて抵抗感があるということは殊更特別なことではないのだ。
自分は大した信仰心もないのにその気持ちを利用する者がいるとするならば、それは同じではないけれども。

信心深いということに絡んでくるのが旧人類・新人類という区別。
人は老いを感じた時や死を身近に感じるようになるとやはり信心深くなるものである。この信心というのは宗教そのものであることもあるし、そうではなくて価値観の変化みたいなものも含まれる。
前に書いたように、生の中に死がある人と、死の中に生がある人は、同じではない。
年齢的なものだけではなく、戦争の中にある人とそういうものに無縁な人、安泰な生活をしている人と危険の中に身を置いているような人では、価値観や信心深さは常々違うだろうと思う。


石坂泰三は死や天国をおふざけの対象にした歌や、その歌を売り出した会社を許せないと思った。(ちょうど時期的にセンシティブな時でもあった)
そうだとすると、キリスト教を冒涜したと受け取られたジョン・レノンの発言やジョン・レノン、ビートルズなんかもあまり快く思ってはいなかった可能性もある。
そして石坂泰三はデイヴィッド・ロックフェラーではなくロックフェラー3世世代でもある。言い換えると石油派でもあった。


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ビートルズ初来日。
彼らは日本航空の法被(はっぴ)を着てタラップを降りた。
ビートルズより1年早くアメリカでヒットを飛ばした坂本九は日本航空の旅客機に乗っていて死亡した。
そのおよそ5年前の1980年12月8日(アメリカ時間)、ジョン・レノンも暗殺されて亡くなっている。
12月8日は真珠湾攻撃の日にちと重なるが真珠湾攻撃の12月8日は日本時間でハワイ時間では7日だったという。



ところで、すき焼は牛肉派ですか?(ちなみに肉じゃがは牛肉派?豚肉派?)
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前記事に載せた石坂敬一氏の経歴の中に
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当

とあったが、上の牛さんはピンク・フロイドが1970年に発売したアルバムジャケット。
『原子心母』は邦題。原題は"Atom Heart Mother"。

邦題は、「Atom=原子」「heart=心」「Mother=母」と英語をそのまま直訳したものである。このタイトルをつけたのは、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)の洋楽ディレクターだった石坂敬一である。

現在"progressive rock"は英語でも普通に使われている言葉である。省略形は"prog-rock"。
この言葉の誕生説として、1970年に発売されたピンク・フロイドの『原子心母/Atom Heart Mother』の日本盤のタスキに、「ピンク・フロイドの道はプログレッシヴ・ロックの道なり!」 (発案者は当時東芝EMIで担当ディレクターをつとめていた石坂敬一)というコピーが掲げられたのが初であるという説が有力とされるが、1968年に発売されたキャラヴァンのセルフタイトルのデビューアルバムのライナーノーツにも"progressive rock"という言葉が出ている。








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# by yumimi61 | 2017-05-12 13:51
2017年 05月 11日
日本国憲法の秘密-471-
1989年1月、盛田昭夫と石原慎太郎の共著『「NO」と言える日本』が発売された。
その年の5月、盛田昭夫は1969年より就任していたJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した。

入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎。
小林はカトリック教徒である。ローマ・カトリック・イエズス会が設立母体の上智大学から名誉博士号が贈られている。歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。
日米欧三極委員会はデイヴィッド・ロックフェラーが主導で1973年に設立された。
前出の山本正も日米欧三極委員会の事務局。
国際人として有名な女性・緒方貞子もそうである。
共通点はカトリック教徒であるということ。(ということは、対立したロックフエラー3世もデイヴィッド・ロックフェラーどちらもがカトリック教徒を仲間としていたことになる)



デイヴィッド・ロックフェラーは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン・バンクの頭取だった。
(2000年にJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合している)
そのチェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

古株としては石坂泰三(元東京芝浦電気取締役社長、元経団連会長)。
1967年にチェース・マンハッタンの国際諮問委員会に就任しているので盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会に就任するよりも2年ほど早い。

次に藤野忠次郎(元三菱商事元社長)。1971年就任。藤野が就任していた時期はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取に就任していた時期に一番重なる。

その他、長谷川周重(元住友化学社長、元経団連副会長)、緒方四十郎(元日本銀行理事、元日本開発銀行副総裁、緒方貞子の夫)、江尻宏一郎(元三井物産社長)がいる。


①石坂泰三
1986年(明治19年)生まれ。
第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日-1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三を嚆矢とする。

1911年(明治44年)東京帝国大学法科を卒業。逓信省に入省、貯金局に配属された。
岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となる。


岡野敬次郎は群馬県出身。父は上州岩鼻代官所勤務の幕臣だった。
1886年帝国大学卒業後ドイツに留学。その後帝国大学教授となり商法関係法案の起草にあたった。日本商法学の基礎を作った人物。宮中顧問官も兼任し貴族院勅選議員となる。長官や大臣、中央大学学長などを歴任。

(石坂は)1938年(昭和13年)に第一生命取締役社長に就任し(1947年まで)、同年第一生命本社ビルが完成しし、第一生命は大手生命保険会社に成長した。
戦後GHQの本部となったのがこの第一生命ビルであった。

三井銀行(現・三井住友銀行)頭取の佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。
1956年(昭和31年)に石川一郎経済団体連合会(経団連)会長辞任を受けて、後任の経団連会長、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任する。1957年(昭和32年)石川島播磨重工業(現・IHI)相談役、東京芝浦電気会長に就任する。


東京芝浦電気は先日書いた田中製造所→芝浦製作所の後身会社で東芝の前身。

1957年(昭和32年)にアラビア石油会長に就任。1960年(昭和35年)、1964年東京オリンピック資金財団会長に就任。1963年(昭和38年)日本工業倶楽部理事長に就任。1964年(昭和39年)、日本は経済協力開発機構(OECD) に加入。それにともない、産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入し、石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。同じ年、小泉信三の後を受けて、1975年(昭和50年)まで宮内庁参与に就任。 

小泉信三は現天皇の教育責任者だった人物。慶應義塾の塾長でもあった。小泉信三の父も慶應義塾の塾長や横浜正金銀行支配人を歴任している。


<石坂泰三の親兄弟>
石坂泰三は7~8人兄弟の3男。父親は石坂義雄。埼玉県大里郡奈良村(現埼玉県熊谷市)の地主であった。
江戸時代に領地を持っていた大名ならともかく、地主という考え方は基本的になかった。
地主になったのは明治初期に何らかの方法で土地を得た人達である。
どの程度の地主かは分からないが、明治新政府寄りの人物のほうが地主になりやすかったはずである。

石坂義雄の長男・弘毅(1878年(明治11年)生まれ)は、陸軍士官学校を経て軍人となった。
「石坂家」は通常はこの長男が本家を継ぐ。
長男の妻は、夏目漱石が明治43年に胃病の転地療養のために滞在した伊豆の修善寺温泉・菊屋の主人の弟で滞在中に漱石を診察した医師・野田洪哉の孫にあたる人物。
弘毅の長男・公成も医師である。本家を継ぐべき人物はこの医師である。
石坂公成
1925年(大正14年)生まれ。府立二中、旧制成蹊高等学校を経て、1948年、東京大学医学部卒業。
国立予防衛生研究所免疫血清室長、小児喘息研究所(デンバー)免疫部長、ジョンス・ホプキンス大学医学部教授(京都大学医学部教授兼任)、 ラホイヤ・アレルギー免疫研究所所長、カリフォルニア大学内科教授、米国免疫学会会長等歴任。

弘毅の娘の1人は三井生命社長の井上八三に嫁いでいる。

石坂義雄の末息子・禄朗(1897年(明治30年)生まれ)。
1922年東京帝国大学経済学部卒業。横浜正金銀行に入り東京支店頭取席、神戸、上海、カルカッタ、ロンドン各支店在勤、バタビヤ、神戸各支店副支配人、業務人事各部次長を歴務。
戦後は ニューエムパイヤ自動車顧問 芝浦製作所顧問のち取締役、日本輸出入銀行理事、芝浦機械製作所専務、東芝機械専務歴任。

石坂泰三は官僚から1938年に第一生命の社長に就任したが、弟である禄朗はそれより先に横浜正金銀行に入行している。

石坂家は三井や横浜正金銀行に関係があったことが分かる。埼玉県深谷出身の渋沢栄一繋がりだろうか。
さらに福沢諭吉の慶応義塾系である。


********************************************

日本ビクター
1901年、アメリカで ビクタートーキングマシンが設立される。
1927年、ビクタートーキングマシンの日本法人が設立される。
1929年、 ビクタートーキングマシンはRCA(Radio Corporation of America)に買収され、RCAビクターとなる。(RCA社は日本法人に関しては三井と東芝から出資を受けている)
1938年、日中戦争などきな臭さが漂い外資系への風当たりも強くなったことからRCAが撤退。
その後RCAの株式は日産に譲渡され、さらに東芝に売却。日本ビクターは1943年に完全にRCAとの資本関係を解消し東芝の傘下に入った。
戦後間もなく、資本が東芝から日本興業銀行へ移行。
日本興業銀行から日本ビクターの再建を懇望されたのが松下電器の松下幸之助。松下電器(現:パナソニック)の傘下となった。
2007年、ケンウッドと資本提携。(2012年までパナソニックが筆頭株主であった)。

ケンウッド
1946年、有限会社春日無線電機商会が長野県駒ヶ根市で設立される。(創業者3名親族)
1947年、商標を「TRIO」に決定。
1960年、社名をトリオ商事株式会社に変更。
1961年、日本国外向けブランド名をKENWOODを決定。
1969年、音楽レコード事業に進出(レーベルは「トリオレコード」)。
1972年、創業者3名のうち2名が経営方針の違いから会社を離れる。社名をケンソニックとする。
1970年末、経営危機に陥る。
1979年、日本銀行理事だった石坂一義(石坂泰三の長男)が顧問として送り込まれ、1980年より社長に就任。
1982年、社名をアキュフェーズに変更。
1986年、社名をケンウッドに変更。
2008年、日本ビクターの傘下に入る。


東芝
1893年、三井銀行(藤山雷太を送り込む)が田中製造所を引き受け芝浦製作所と改称。
1904年、株式会社芝浦製作所として再出発。
1939年、重電メーカーの芝浦製作所と弱電メーカーの東京電気が合併し、東京芝浦電気として発足。
1949年、三井銀行頭取の依頼で石坂泰三が社長に就任
1960年、レコード会社・東芝音楽工業(→1973年東芝EMI株式会社→EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサル ミュージック合同会社 EMIレコーズ・ジャパンレーベル→ユニバーサル ミュージック合同会社 EMI Rレーベル)を設立。
1984年、東芝に社名変更。

※EMIを買ったテラ・ファーマがシティグループから騙されたと言って訴えた話はこちらに書きました
「テラ・ファーマ・キャピタル」は、日本の野村ホールディングスのイギリス法人である野村インターナショナルのプリンシパル・ファイナンス・グループから分離独立した投資会社だよという話はこちらに

********************************************


音楽関係者ならよく知っているだろう石坂敬一。

昭和20年8月25日生まれ
昭和43年、慶應義塾大学経済学部卒業
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当
昭和56年、同社 邦楽本部において、BOOWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉を担当
平成3年、 常務取締役 就任
平成6年、 ポリグラム株式会社(現 ユニバーサル ミュージック株式会社)入社、代表取締役社長 就任
平成11年、ユニバーサル ミュージック株式会社 入社、代表取締役社長 就任
平成13年、同社 代表取締役社長兼CEO 就任
平成18年、同社 代表取締役会長兼CEO 就任
平成19年7月より、社団法人日本レコード協会会長 を務める


2016年末に亡くなられたそうである。


エンタメステーションMUSIC
生みの親だった石坂泰三、育ての親となった石坂範一郎~「あの会社はつぶしたほうがいい」という発言
より

石坂一族の本家に生まれた石坂範一郎(のりいちろう)は、分家の出身だった石坂泰三とは縁戚にあたる関係にあった。戦前は東芝の子会社になった日本ビクターに出向し、戦後もそのままレコード部門で洋楽部長を務めていた。
石坂範一郎の長男で父と同じ慶応大学を卒業し、1968年に東芝レコードに入社して洋楽ディレクターとなり、ビートルズやピンク・フロイドを担当した石坂敬一は、後に外資系のユニバーサル・ミュージックとワーナーミュージック・ジャパンで社長と会長を歴任してきたミュージック・マンである。東芝がレコード産業に参入したことについては、泰三の「弔い合戦」だったとインタビューでこう語っていた。

東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
(Musicman’s RELAY第82回 石坂 敬一)


石坂敬一の父親は石坂範一郎。
石坂範一郎は石坂一族の本家の出身で石坂泰三は分家出身との記述もあるが、本家の出身であるならば医師である石坂公成の子であるはずだがそうした裏は取れない。
石坂範一郎は戦前に東芝から日本ビクターに出向していたようで、戦前から石坂一族が東芝で幅を利かせていたような感じだが、石坂泰三が三井銀行に頼まれて東芝の社長に就任したのは戦後である。
要するに石坂範一郎は東芝社長石坂泰三コネクションで東芝や日本ビクターにいたわけではなさそうである。
コネクションならばやはり三井コネクションであろう。



東芝レコードがキャピトルの権利を獲得した1959年頃から61年にかけて、範一郎と永島と草野の3人はすでに海外との契約関係でお互いにつながりを持っていた。この3人に渡辺プロダクションの渡邊晋・美佐夫妻を加えた人たちが、日本の音楽出版ビジネスの先駆者に挙げられる。しかも全員がそれぞれの立場でビートルズの来日公演に、深く関わっていたことは注目に値する事実といえるだろう。
ビートルズの来日公演の前座として出演したのは、内田裕也、尾藤イサオ、望月ひろし、ドリフターズは、いずれも渡辺プロダクションの所属であり、発売元はすべて東芝レコードだった。



・範一郎は前述の石坂範一郎。

・永野は永野達司。プロモーターの先駆者。父親が三菱銀行の銀行家。戦前にニューヨークやロンドンに駐在していた。
アメリカ軍の諜報機関だった「キャノン機関」の一員との噂があるアルフォンゾ・B・シャタラックという人物と組んで、“S・Nプロダクション”を興し、アメリカからのアーティストの招聘を始めたほか、日本のジャズブームの時代にはコンサートの興行を積極的に手がけた時期もある。
1957年に協同企画を設立してからは外国人ミュージシャンの招聘へと軸足を移して、アメリカの大手プロモーターZAC(ゼネラル・アーツ・プロダクション)を通じて、仕事を広げて海外の大物を日本に招くようになり、ほどなくして興行の世界では第一人者の立場を確立している。


・草野は草野昌一。音楽出版社の専務であり訳詞者。

・渡辺プロダクションや渡辺美佐会長のことは前に書いたことがある
以前こちらに、安倍晋三(総理)を囲む「午年の会」のことを書いたことがある。
メンバーは芸能人や文化人だそうだ。
同じく芸能人や文化人が大挙してメンバーになっているのが「エンジン01文化戦略会議」である。「甍(いらか)三」に書いた。
iPS細胞の山中教授も名を連ねる。
一時期三洋電機取締役会長兼CEOに就任した野中ともよ氏や、神奈川県知事の黒岩祐治氏は、「午年の会」「エンジン01文化戦略会議」どちらのメンバーでもある。
この「エンジン01文化戦略会議」のメンバーをほぼ丸抱えしているのが芸能事務所の渡辺プロダクションである。

渡辺プロダクションの歩みを見ると、2009年11月に「英国ロスチャイルド家/バロネス・シャーロット・ドゥ・ロスチャイルド プライベートコンサートパーティー招待出席」とある。
ロスチャイルド家とも懇意なのかしら?

会長個人の経歴はこちらをどうぞ。
フランス政府とも懇意かしら。
2012は藍綬褒章も受章している。


やはり三菱・三井―政財界・貴族・天皇―ロスチャイルドといった繋がりでしょうか。
これが著作権ビジネスにも関わっているということになりますね。


<石坂泰三の子供達>
長男―日本銀行理事、トリオとケンウッドの社長
次男―戦死
三男―三井物産、ディクソンズ・グループ(イギリス家電販売大手)の顧問
四男―三菱銀行常務、松屋会長、ダイヤモンドクレジット(後の三菱UFJカード)会長
五男―東芝アメリカ会長、アメリカのシンキングマシンズ副社長
長女―熊本工業名誉教授・三浦鍋太郎の息子で東芝中央研究所勤務の三浦勇三に嫁ぐ
次女―元最高裁判事・霜山精一の息子で上智大教授の霜山徳爾に嫁ぐ

石坂泰三家は三井とも三菱とも関係があることが分かる。







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# by yumimi61 | 2017-05-11 17:19
2017年 05月 10日
Rain or Shine
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# by yumimi61 | 2017-05-10 23:37
2017年 05月 09日
日本国憲法の秘密-470-
1989年5月、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した。

入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎。
小林はカトリック教徒である。ローマ・カトリック・イエズス会が設立母体の上智大学から名誉博士号が贈られている。

ロンドンに生まれる。父親は大日本セルロイドから独立した富士写真フィルムのロンドン支店長から富士写真フイルム第3代社長となった小林節太郎。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校から1956年(昭和31年)慶應義塾大学経済学部卒、1958年(昭和33年)ペンシルベニア大学ウォートン・スクール修了(MBA)。

1958年(昭和33年)に富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)に入社、1963年(昭和38年)に富士ゼロックスに転じ、1968年(昭和43年)に取締役。副社長を経て、1978年(昭和53年)に吉村寿雄の後任として社長就任。1992年(平成4年)に会長に就任。2006年(平成18年)から2009年(平成21年)まで相談役最高顧問。2000年(平成12年)、西安交通大学より名誉博士号を授与された。
2015年(平成27年)9月5日死去。82歳没。


歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。


過去記事(マララさんの新聞記事)にも経済同友会終身幹事(元代表幹事)という役職を持っている人が登場した。
現在のNHK中央放送番組審議会副委員長は北城恪太郎氏。
バークレー・マフィアで名高いあのバークレー校で修士号取得(大学は慶應)。
現在は、日本IBM相談役、国際基督教大学(ICU)理事長、文部科学省中央教育審議会委員、経済同友会終身幹事。
かつて皇后陛下の御父上(正田氏)や麻生副総理兼財務大臣(元総理)の御父上(麻生氏)も経済同友会の幹事であった。
NHK中央放送番組審議会の委員長は元日本銀行総裁の福井俊彦氏。


全日空(ANA)の前身は朝日新聞航空部である。
会社設立に協力したのは永野重雄。若狭得治に「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と言わしめるほど。
何で急にANAの話が出てくるかと言うと、航空機のことを書いていた過去記事にも経済同友会が出てきたからである。
経済同友会を創立し初代代表幹事に就任したのは他でもない永野重雄である。
財界のドンとなる永野重雄を社会党の片山哲首相に紹介したのが和田博雄(社会党左派)であり、和田博雄を片山哲首相に紹介したのは吉田茂首相であった。
永野は佐藤栄作とも親交を結んだ。
吉田茂は麻生副総理・財務大臣・元首相の祖父。佐藤栄作は安部首相の叔父。

朝日新聞は左(左翼)寄りや反日と言われることが多い新聞だが、航空業界を通して言えば、朝日新聞は皇室や政府寄りな存在である。
皇室や政府を「右」や「日本(愛国)」にすれば真逆であるが、私は常々ここに人々の思い込みや煽動・洗脳があると感じている。
どういう事かと言えば、皇室や政府自体が人々の思う「右」や「日本(愛国)」ではない可能性もあるということだ。
皇室や政府が「左」は「反日」ならば、そこに近い朝日新聞が左寄りや反日でも、なるほど筋が通る。
皇室や政府の表だっての「左」や「反日」は不味いと思えば、カモフラージュするだろうし、もっともらしく振る舞うだろう。
前にも書いたが詐欺師と名乗ってくる詐欺師はいない。 

・永野重雄(1900年生まれ)
広島県呉市沖の瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島三之瀬にある浄土真宗本願寺派の弘願寺が実家。
重雄の父・法城は本来11代目を継ぐ立場にあったが、明治初期の激動期に寺を出奔して上京、大學南校(東京大学の前身)で法律を学び裁判官となった。法城は島根県浜田市を振り出しに松江市・山口県岩国市・山口市と中国地方の裁判所で判事生活を送ったのち職を辞し広島市中町(現・中区中町)で弁護士事務所を開業した。
重雄は10人兄弟の次男として島根県松江市に生まれた。だが実際に育ったのは広島のため、終生広島出身と押し通した。
広島市名誉市民。

以前こちらに書いたように、浄土真宗本願寺とくれば、織田信長である。
織田信長の一番の敵は石山本願寺だった。
織田信長だけではない、イエズス会も石山本願寺を危険視していた。
現在の本願寺派の総本山は京都の西本願寺だが、本願寺と名の付く宗派は本願寺派しかなく、当然その流れを汲んでいる宗派であろう。

(永野は)新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人。財界四天王の一人で、"戦後の財界のドン"ともいわれた。

【財界四天王】・・・池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。
小林中(富国生命保険相互会社元社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油元社長)
水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)
永野重雄(日本商工会議所元会頭、富士製鐵元社長)
櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)



日米欧三極委員会はデイヴィッド・ロックフェラーが主導で1973年に設立された。
ロックフェラー3世の協力のもと1952年に松本重治らが設立した国際文化会館に対抗したのだろうか?
前出の山本正も日米欧三極委員会の事務局。
国際人として有名な女性・緒方貞子もそうである。
共通点はカトリック教徒であるということ。(ということは、対立したロックフエラー3世もデイヴィッド・ロックフェラーどちらもがカトリック教徒を仲間としていたことになる)


どんなに一生懸命グローバルと言ったって、国際社会で活躍できる人を!と言ったって、女性活躍と言ったって、「緒方貞子なんて別に興味ないし~」という人がほとんどだと思うので、ここでちょっと緒方貞子にも注目してみたい。

緒方貞子----------------------------------------
1927年(昭和2年)、(現在の)東京都港区に生まれる。
曽祖父は元内閣総理大臣の犬養毅。祖父は外交官で犬養内閣外相の芳沢謙吉(犬養の長女・操と結婚した)。
芳沢謙吉・操夫妻の長女が緒方貞子の母である。
父は外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一。
犬養毅の長男の子に共同通信社の社長であった犬養康彦やエッセイスト犬養道子、タレントの安藤和津(異母・妾が産んだ子)がいる。
犬養康彦は上智大学出身。妻は大原財閥の大原総一郎の娘(長女)。大原総一郎の次女は日清製粉の正田英三郎の息子(美智子皇后の弟)に嫁いだ。大原総一郎は親の代からカトリック教徒である。ちなみに美智子皇后の兄・正田巌は日本銀行の監事であった。
犬養道子はボストンとパリのカトリック大学で哲学・聖書学を専攻し、ハーバード大学研究員を経て作家となる。イエズス会の活動を行っているカトリック教徒。
安藤和津も学習院と上智大学出身。イギリス留学後にテレビ朝日「CNNデイウォッチ」でキャスターを務めた。
皆さんカトリックである。
旧犬養邸は上智大学に提供されている模様。

夫・緒方四十郎は元日本銀行理事、日本開発銀行副総裁。朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理を務めた緒方竹虎の三男である。ここにも朝日の存在あり。

父の仕事で都合でアメリカ、中国、香港などで幼少期を過ごす。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入、聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。その後、父の勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得した。
こちらもバークレー校。
聖心女子大出身者には美智子皇后やクリスチャン(カトリック)作家として有名な曽根綾子などがいる。曽根さんは日本郵政の取締役に就任している。

国際基督教大学准教授、上智大学教授を歴任する。
1968年(昭和43年)、国際基督教大学 (ICU) 講師を務めていた時に、参議院議員を務めていた市川房枝の訪問を受けて、市川から「今年(1968年)の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請される。これが契機となって緒方自身は国際連合の仕事に関わるようになる。


市川房江は後年のイメージと違って戦前国策(戦争遂行)に協力した人物である。
市川は大日本言論報国会(昭和17年(1942年)12月23日に、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた情報局の指導の下に設立された団体。情報局の外郭団体であり、戦時下における事実上唯一の評論家団体であった)の理事に就任していた。言論統制側の人間であった。

国連公使、国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表、第8代国連難民高等弁務官:1990(平成2)年-2000(平成12)年他を務める。2001年(平成13年)からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年(平成15年)から国際協力機構 (JICA) 理事長。

2002年(平成14年)、外務大臣田中真紀子の更迭時にはその後任に推す声もあったが、本人が固辞した。2007年11月のデイヴィッド・ロックフェラー来日時には、回顧録出版記念パーティーの発起人を務めた。

小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関として、2004年(平成16年)12月27日に設置された皇室典範に関する有識者会議に、メンバーの一人として参加した

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グローバルとか開かれた世界とか保護主義はダメだとか弱者の味方だとかどんな宗教を信仰していてもとかなんとか言うけれど、国際社会は昔から秘密結社とかインナーサークル的なことが大好き。
誰にでも平等に開かれてなんかいないわよ。表と裏の顔があるの。見えないところでは平気で無視。虫けらみたいな扱いするのよ。ねえそうよね、そうでしょビル?


日米欧三極委員会はビルダーバーグ会議が日本の受け入れを拒否したから設立されたとも言われている。
しかしビルダーバーグ会議の中心人物も日米欧三極委員会を設立したデイヴィッド・ロックフェラーやキッシンジャーなどである。
ビルダーバーグ会議はロックフェラー3世と松本重治らが設立した国際文化会館(1952年)の2年後にスタートしている。
この頃の日本とのパイプ役はデイヴィッド・ロックフェラー(1962年初来日)ではなくロックフェラー3世(1978年没)だった。

ビルダーバーグ会議
1954年から毎年1回、世界的な影響力を持つ政治家や官僚、多国籍企業・金融機関の代表やヨーロッパの王族、貴族の代表者など約130人が、北米や欧州の各地で会合を開き、政治経済や環境問題等の多様な国際問題について討議する完全非公開の会議である。「陰のサミット」と呼ばれることもある。
最初の会議には、西ヨーロッパの11ヶ国から50名、アメリカからは11名が参加した。


アメリカ一の財閥ロックフェラー家の当主3世をそっちのけで大西洋重視というのもなんだかおかしい。
ということはロスチャイルドの意向?太平洋より大西洋重視?

ビルダーバーグ会議は、世界的な影響力を持つ政治家や多国籍企業・金融機関の代表やヨーロッパの王族、貴族などの代表者による会議であり、非欧米諸国からの出席者は少ない。
出席者のおよそ2/3が多国籍企業ないし多国籍金融機関の経営者、国際メディア、およそ1/3が各国の政治家と言われている。毎年、アメリカから30人、欧州各国から80人、国際機関などから10人とも言われている。また、著名な大企業であっても自薦では参加者を送ることができないと言われている。

1991年の会議には、当時アーカンソー州知事だったビル・クリントンが招待された。クリントンは会議の1年半後の1993年1月にアメリカ大統領に就任した。1993年の会議にはイギリス労働党のトニー・ブレアが招待された。ブレアは会議の4年後の1997年5月にイギリス首相に就任した。


オバマ大統領は呼ばれなかったのかなぁ?
2003年のイラク戦争、アメリカのブッシュ大統領が「悪の枢軸」とイラクを非難したり、副大統領が「イラクの核脅威は、予防的攻撃の正当性を証明している」と発言したり、イギリスのブレア首相が「イラクは、化学兵器と生物兵器を保有している。イラクのミサイルは45分間で展開できる」と断言したり、アメリカのパウエル国務長官が「サッダーム・フセインはガス壊疽、ペスト、チフス、コレラ、天然痘など、数十種類もの病原菌の研究に着手した」と言って戦争は始まったけれど、戦争をすることを決定したのは2002年のビルダーバーグ会議(5月30日-6月2日にアメリカのバージニア州で開催)だったとか。
「悪の枢軸」以降の発言は皆その会議の後に行われた。
戦争しても結局何の証拠も出てこなくて、石油畑のブッシュ大統領が悪者になったやつです。

議長
ベルンハルト王配 オランダ (1954–1975)
サー・アレック・ダグラス=ヒューム イギリス (1977-1980)
ヴァルター・シェール ドイツ(1981-1985)
エリック・ロール (Eric Roll, Baron Roll of Ipsden) イギリス(1986–1989)
第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン イギリス (1990–1998)
ダヴィニオン子爵エティエンヌ・ダヴィニオン (Étienne Francois Jacques Davignon, Viscount Davignon)ベルギー (1999–2011)
アンリ・ドゥ・キャストゥル (Henri de Castries) フランス (2012~)


先進国首脳サミット(G7)は日米欧三極委員会の設立(1973年)よりも遅く1975年から。
サミットは、ビルダーバーグ会議や三極委員会の意向を反映すると言われる。下部組織の1つだろうか。

ダニエル・エスチューリン(Daniel Estulin)は以下のように主張している。

・各年のビルダーバーグ会議の決定に従って、各国政府、財界への工作、メディアを通じた世論操作が発動される。

・その都度、議論されるトピックは国際政治経済状況による異なるが、最終目標は、あくまでも欧米による世界統一権力の樹立である。そのための手段として、メディアおよびネットの国際的支配、国民総背番号制と「人体埋め込みチップ」、GPSによる大衆監視、電子通貨システムを通じた国際通貨統合、人口抑制といったサブ・テーマが継続的に取り扱われている。

・9.11以降、米国・ネオコン派に対して米国・非ネオコン派および欧州派の意見対立がある。

・1997年の会議でビルダーバーグでは、カナダからケベック州を分離した残部をアメリカに統合する計画を検討する予定であったが、ダニエル・エスチューリン、ジェームス・P・タッカー(Jim P.Tucker,Jr)らの活動により、「トロント・スター」紙をはじめとするカナダのマスコミが大々的にビルダーバーグ会議について報道するに至った。それが国際世論の注目を集めたことにより、計画は頓挫した。その結果、ダニエル・エスチューリンは暗殺されかけた。 



ダニエル・エスチューリン
ジャーナリスト。1966年3月ソ連生まれ。1980年3月反ソ活動によりソ連から追放される。父のアイザック・エスチューリンは、著名な科学者だったが、反体制活動家でもあり同郷の市民のために、言論の自由を求めたことに対する罪で、投獄され、KGBの拷問を受けて死亡した。さらに、叔父が、スターリンの悪口を言ったことを家族の誰かに密告され、チェーカー(KGBの前身)に殺害される。
一方で、祖父は、KGBの部長を務めていて、1950年代は対敵諜報部員をしていた。その関係で、KGBをはじめMI6や、CIAからも多くの情報が得られ、著者はどのジャーナリストよりも、信頼度の高い詳細な機密情報を持っている。特にビルダー・バーグの権力掌握については、多角的な分析から、衝撃的な事実をいくつも掘り起こし、何度も命を狙われた。そのため、長年カナダのトロントに住んでいたが、現在ではマドリッドに移住し、執筆活動を続けている。


幾らなんでも父と祖父のギャップがありすぎるような気もするけれど・・そういう考え方はやっぱり日本的で家に囚われているからなのかな。
でも子供は父の血を継いでいる、影響を受けていると見做されて当然だと思うのに、拷問を受けて死亡した人物の子が警戒されずに情報が得られるもの?
犬養家はみなカトリックですよ! 3世もデイヴィッドも日本ではカトリック教徒を仲間にしていますよ!








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# by yumimi61 | 2017-05-09 20:51
2017年 05月 09日
日本国憲法の秘密-469-
ソニーはADR発行を通じて、スミスバーニーやモルガンと付き合いがあった。

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1929年、ウォール街で大暴で世界恐慌。
この時、アメリカでは銀行と証券会社を兼ねる経営が禁止される法律が制定された。
   ↓
 JPモルガン分社。
  ①JPモルガン・・市中銀行
  ②モルガン・スタンレー・・証券・投資部門

1960年、OPEC設立。

1969年、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなる。

1978年、ロックフェラー3世が交通事故死。
1979年、スリーマイル島原発事故。
1980-1988年、イラン・イラク戦争。

1984(3月~1985年8月)、グリコ森永事件。
1985年(1月)、アメリカがユネスコ脱退。
1985年(8月)、日本航空123便墜落。
1985年(9月)、プラザ合意。→円高
1985年(12月)、イギリスがユネスコ脱退。
1986年(1月)、ニューヨーク市場株価大暴落。(ユネスコ脱退が株価操作の合図だった可能性あり)
1986年(1月)、スペースシャトルチャレンジャー号爆発事故。
1986年(4月)、チェルノブイリ原子力発電所事故。

1986年、盛田昭夫が経団連副会長となる。

1986年(12月)、日本はバブル景気に突入。
1987年(2月)、ルーブル合意(プラザ合意によって始まったドル安とマルク安に歯止めをかけるための合意)
1987年(9月)、マルクが上昇している中、西ドイツがアメリカの反対を押し切って金利を引き上げ。
1987年(10月)、ブラックマンデー
※ニューヨーク市場の株価大暴落を発端に起こった過去最大規模の世界的株価大暴落。その割には大きな明確な原因がなかったとも言われている。それもそのはず大暴落は1986年1月から起こっていた。

1989年(1月)、盛田昭夫と石原慎太郎の共著『「NO」と言える日本』発売。(アメリカ批判)
1989年(5月)、ソニーの盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任する。


1991年(2月)、日本のバブル景気終了。

1991年(4月)、盛田昭夫が勲一等瑞宝章受章。

1991年(8月)、ソロモン・ブラザーズ不正入札発覚 ⇒有数の投資銀行に成長していたが窮地に陥る。

1991年、日本国際交流センターの山本正と読売新聞の企画に寄りデイヴィッド・ロックフェラーと盛田昭夫が対談。

1992年、盛田昭夫がイギリス王室から名誉大英勲章およびナイト爵の称号を受ける。

1993年(11月)、盛田昭夫がテニス中に脳内出血に倒れる。→以後表舞台から姿を消してハワイで療養。
 ※経団連会長に就任することが決まった後の事だった

1998年、スミス・バーニーとソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となる。(ウォーレン・バフェットによる)

2000年、JPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合した。

2009年、「ソロモン・スミス・バーニー」がモルガンと統合して「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となる。

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ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達

 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978) 交通事故死  ===息子4世ジョン(ジェイ)・ロックフェラー
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-1917?没 ) ===2014年医師である息子が飛行機事故で死亡

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1970年代から1981年までチェース・マンハッタン銀行(現:JPモルガン・チェース)の頭取だったのが、3世の息子4世と後継者争いをしていたデイヴィッド・ロックフェラーである。

ロックフェラー家は石油事業を独占することでアメリカ一の財閥に伸し上った一家である。
従ってエネルギー問題に深く関係している。
ところがロックフェラー家には後継者を巡ってお家騒動が持ちあがった。いわば内紛。
ロックフェラー家の本道エネルギーは石油である。
その本道に対抗しようと思えば、石油以外のエネルギーを持ち上げて本道を陥れようとする。
つまりロックフェラー一族の中に石油派と石油派以外がいるということになる。
そのようなことを前にも書きました

ロックフェラーの闘いとして有名なのは、デイヴィッド・ロックフェラ-vsジェイ・ロックフェラー。(敬称略)

ジェイ・ロックフェラー(以下ジェイRF)は日本にいたこともあるんですね。
野口英世とロックフェラーの関係は前にも少し書きました。
ジェイRFはアメリカ大統領も目指していたそうですが、民主党予備選でビル・クリントン(元大統領)に負けてしまったのです。
自分の叔父であるデイヴィッド・ロックフェラ-(デイヴィットRF)はクリントンを応援したというから心中穏やかではありません。
実はクリントンもロックフェラー家と並々ならぬ関係なんだそうです。

そんなこんなで、デイヴィットRFvsジェイRFが取り沙汰されるわけです。
昨今はデイヴィットRFの情勢が厳しいとか。

それはつまりこういう図式であるということです。

 シティグループvsゴールドマン・サックス  (リーマンショックのリーマン・ブラザーズは、シティグループの傘下)

 石油資源(エクソンモービル)vsクリーンエネルギー(原発含む)



ロックフェラー家がアメリカ一の財閥として大きな力を持ってくると、それを育てたロスチャイルド家もその地位を脅かされる。
大きくなってくれることを望んでいたが、あまりに大きくなると今度は逆に自分自身にとって脅威になるのだ。それは君主と軍隊の関係にも似ている。
こういう背景を考えると、石油派のロックフェラーに対抗する者にロスチャイルドが味方した可能性もある。


『「NO」と言える日本』での盛田のアメリカに関する主張
・アメリカの企業 アメリカの企業はM&Aのようなマネーゲームに躍起になり、実際の商品の創造や製造力を蔑ろにしている。
・アメリカの企業は短期的な利益に躍起になり、製造の海外移転などの長期的な全体の生計を犠牲にしている。
・アメリカの企業の重役の収入は多すぎて企業のためにならない。
・日本の企業は厳格な共同体であり、全体として結果はよい。
・アメリカとの貿易黒字はアメリカには望ましい製品が欠けていることが原因である。
・アメリカの企業は基本的な調査によれば強力だが、製品の進歩やマーケティングにおいてはそうではない。
・日本政府が日本の企業を保護することは当然である。政府は税金の収入に頼っているのだ。



アメリカでも問題視されたこの本を出版した後、盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会役員を退任している。
その2~3年後、勲一等瑞宝章と名誉大英勲章およびナイト爵の称号を相次いで受けている。
これは長年の功績というよりもどちらかというと、モルガン(ロックフェラー本道)を離れたことへの評価だったのではないだろうか。
そんな状況で行ったのが、本筋(3世亡き後の長男4世)とお家騒動を繰り広げたデイヴィッド・ロックフェラーとの対談である。

日本との関係が深かったのは終戦直後に日本を訪れたロックフェラー3世である。
アメリカに渡った盛田夫妻が紹介されたのも3世であった。
盛田昭夫は対談で(こともあろうにデイヴィッドに)3世の妻と私の妻が親しくていたと話した。
デイヴィッド・ロックフェラーが初めて来日したのは1962年のことだったというから3世よりはだいぶ後の事である。(4世が日本の国際基督教大学に留学した後)
それまではもっぱら3世が日本とアメリカのパイプ役だったわけである。
「3世の妻と私の妻が親しくていた」という話をデイヴィッドはどんな気持ちで聞いたのだろうか。
盛田はそれから2年あまりで表舞台から姿を消した。









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# by yumimi61 | 2017-05-09 13:48
2017年 05月 08日
日本国憲法の秘密-468-
少し前に私は商品だけで巨万の富を得たり多国籍企業になることはないと言いきったが、ではソニーに何も売りが無かったかと言うとそうではない。

ソニーの前身・東京逓信工業は、テープレコーダーを日本で初めて世に送り出した。
誰でも簡単に録音することを可能にしたのは盛田ら東京逓信工業だったのである。
創業者の盛田や井深は経営者だけでなく技術屋としての顔を持っていた。
ポケッタブルと呼ばれるポケットに入るほど小型のラジオ「トランジスタ携帯ラジオ」を日本で初めて作ったのも東京逓信工業である。世界的にも最小を達成し、アメリカ市場でも成功した。
1950年代のことで、盛田がアメリカに駐在する前のことである。
ソニーは間違いなく後に続くポータブル機器の先駆者であった。
東京逓信工業がソニーと社名を変えて、東証一部に上場したのは1958年。戦後に急成長した会社の1つである。

「トランジスタ携帯ラジオ」のトランジスタ開発の中心にいたのが後にソニー社長(4代目)にもなる岩間和夫。
日本における半導体産業の基盤を創った男ともいわれた。愛知県名古屋市出身。
東京帝国大学(現・東京大学)理学部地球物理学科卒。東京通信工業(現・ソニー)入社前は東京帝国大学地震研究所(現・東京大学地震研究所)に所属していた。戦時中はレーダー撹乱作戦に従事し日本軍のキスカ島撤退作戦に貢献した。


1972年にノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈は1950代に東京逓信工業にいて、トランジスタ開発に貢献した。
ノーベル物理学賞の受賞理由は「半導体内および超伝導体内の各々におけるトンネル効果の実験的発見」である。
その後アメリカIBM研究所を経て筑波大学の学長に就任した。
IBMはモルガングループの中核企業であり、盛田昭夫は1970年代にIBMの子会社の社外取締役にも就任していた。
同じ頃IBMのCEOがJPモルガンの社外取締役に就任しており、こうした人脈を通じてソニーはIBMとも繋がりがあった。
またIBMの取締役会でプルーデンシャル保険のCEOと知り合ったことによって、ソニーは保険事業にも参画することになる。


岩間和夫の妻は、盛田昭夫の妹・菊子である。
岩間和夫と盛田昭夫は義理の兄弟となる。年齢は岩間のほうが2つ年上である。
岩間和夫・菊子夫妻の娘は、城戸崎武の息子・城戸崎博孝と結婚した。

建築家・城戸崎博孝の経歴
1966年 日本大学理工学部建築学科卒業
1966年-1975年 松田平田設計事務所勤務
1977年 イギリス・シェフィールド大学大学院修士課程修了
1979年-1993年 丹下健三・都市・建築設計研究所勤務
1993年 アーキテクトファイブ共同主宰
2000年 城戸崎建築研究室設立


城戸崎武は三井物産の取締役や常務を歴任した人物。三井銀行の情報開発部門の顧問でもあったそうである。
城戸崎武の兄も三井不動産の取締役などを歴任した人物。後に東京ディズニーランドのオリエンタルランドの常務となった。(浦安沖を埋め立て開発に乗り出してディズニーランドを誘致しようとしたのは三井不動産と京成電鉄でオリエンタルランドという会社を設立した)
ともかく城戸崎家は三井に関係がある。

城戸崎武には娘もいる(博孝の妹)が、その娘は森永製菓創業者の孫・森永剛太(森永製菓6代目社長)と結婚した。
森永製菓にも創業パートナーがいた。松崎半三郎。
松崎半三郎の曾孫が安倍晋三首相の妻の昭恵さんである。

森永製菓の創業者の森永太一郎は佐賀県伊万里生まれ。
横浜で数年過ごした後の1888年(明治21年)にアメリカに渡った。
陶器で商売をするのが目的だったがアメリカで熱狂的なキリスト教徒になり商売よりも伝道に傾いた時期もあったが、西洋菓子の製法を学ぶ。
1899年(明治32年)に横浜に帰国し、森永製菓を設立した。
1935年(昭和10年)、社長を退き念願のキリスト教布教活動を開始した。
ここもキリスト教だったわけである。
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明治期以降の日本は大きく分ければ「三井財閥」と「三菱財閥」で成り立っている。
ここを中心に天皇家や日本の政治中枢部に繋がる大規模な縁戚関係も成り立っている。
世界共通の金融システムに乗っかったのは明治期であるが、システム構築に貢献したのが「横浜正金銀行」と「日本銀行」。
設立者は横浜正金銀行は大隈重信と福沢諭吉、日本銀行は松方正義。
財閥系で分ければ、日本銀行は三井系で、横浜正金銀行は三菱系であった。
大隈重信の立憲改進党は三菱資本、伊藤博文の立憲政友会は三井資本。
これを背景に今でも早稲田大学、慶應大学、東京大学が政界をはじめいろいろな場面で優遇されているというか強いわけである。

以前書いたように松方正義の長男は華族銀行と呼ばれる十五銀行の頭取だったが、倒産で島津家にさらなる借りを作って失脚した。
十五銀行
1877年(明治10)5月21日に国立銀行として開業。
岩倉具視の呼びかけにより有力華族が発起人となり華族銀行とも呼ばれた。
原資は禄(貴族や官人に支払われていた金銭と維新功労者に対して付与された金銭・物資など)制度処分の代わりに発効された公債(国債)。
初代頭取には最後の長州藩主・毛利元徳が就いた。
宮内省(現在の宮内庁)の金庫(御用銀行)でもあった。


十五銀行は整理再建されたが、1944年に帝国銀行に吸収された。
帝国銀行の元は三井銀行であるので、十五銀行は三井に吸収されたことになる。
十五銀行跡地は三井系企業が利用している。
このことは天皇家や華族が三井と繋がっていたことを思わせる。
トヨタもソニーも東芝も三井系企業である。縁戚関係があったり融資してもらったり。

東芝の前身となる田中製造所は東京逓信工業よりも全然古い会社で、天才発明家と言われた田中久重が1875年(明治8年)に設立した。
1881年(明治14年)に創業者が死去。田中製造所は養子が久重を襲名して引き継いだ。
ここまでは家業であった。
しかし事業(電信機の製造)は行き詰まり、1893年三井銀行がこれを引き受け芝浦製作所と改称し、1904年に株式会社芝浦製作所として再出発した。
この時に三井銀行から芝浦製作所に送り込まれたのが藤山雷太。
芝浦製作所は1909年にアメリカのGE社に資本の1/4を引き渡して技術提携。GE社はモルガングループ企業。


藤山雷太は森永製菓創業者の森永大一郎と同じく佐賀県伊万里の出身。
慶應義塾の出身で福沢諭吉の計らいで出世した。

福澤諭吉を介して、福澤の甥であり山陽鉄道社長であった中上川彦次郎の知遇を得て、黒田清隆、大隈重信、鳩山和夫らと知り合ったという。
その後、中上川によって三井銀行に採用され、若輩ながら抵当係長という重要ポストに付けられた。その後、雷太は中上川の妻の妹と結婚し姻戚関係となった。

藤山は王子製紙の専務取締役に就任している。ということで王子製紙も三井系企業。

1909年(明治42年)に渋沢栄一に推挙され大日本製糖(現在の大日本明治製糖)の社長に就任。
この倒産寸前と評される大日本製糖を台湾での生産拡大などの経営方針で僅か2年ほどで再建させ、その後、朝鮮製糖、内外製糖、東洋精糖を合併し、規模を拡大させた。

三井退社後から、この間、駿豆鉄道社長、日本火災保険副社長、歌舞伎座取締役、出版社泰東同文局社長を歴任。帝国劇場の創立にも関わる。1917年(大正6年)から1925年(大正14年)には東京商業会議所の会頭を務め、日本商業会議所連合会会頭にも就任した。1923年(大正12年)に勅選貴族院議員となる。
この間に拡大させた企業群は『藤山コンツェルン』の基礎となる。



以前こちらに三井のことや株主のことを書いた。
近年の日本の大企業に必ずといって名を連ねている2つの信託銀行も結局のところ三井と三菱である。
そして三井や三菱の後ろにモルガン(ロックフェラー)がいる。





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# by yumimi61 | 2017-05-08 15:56
2017年 05月 07日
日本国憲法の秘密-467-
インナーサークルという言葉を知っているだろうか?
かつてヘヴィメタ(ヘビだと~~~~蛇っぽいのでここはあえてヘヴィにしておく)(ベビメタでもない)に陶酔していた彼なら知っているかもしれない。

ヘヴィメタという言葉を聞いたことはあるが実際何を指すのか分からないという人もいるかと思うのでまずはヘヴィメタ。
1960年代の終わりから1970年代の初頭にかけてイギリスやアメリカなどで広く発展したロックのスタイルのひとつである。
日本での発展はそれより遅れている。
そしてヘヴィメタととヴィジュアル系が混同されていることがよくある。
見た目が派手と言うか独特と言うか何というかのヴィジュアル系バンドをヘヴィメタと思っている人も少なくないのだが基本的には見た目は関係ない。
ただ長髪とか上半身裸とか革パンとか、全体的には黒色チックがとても好きかもしれない。
でも音楽だけに特徴は音と歌詞。
音がその名の通りヘヴィ。

ヘヴィメタルは比較的古くから、アリーナ向けの商業ロックとアンダーグラウンドにシーンが分かれていて、また時代が下るごとにシーンも細分化が進んできた。シーンの分化はすなわち音楽性の多様化といえ、ヘヴィメタルは様々なサブジャンルを内包している。
とはいうものの、このジャンルに分類されるバンドのサウンドはハードロック同様、エレクトリック・ギターの歪んだ音を強調した、過激なものであるのが基本的である。それはヘヴィメタルが、ハードロックが限界点を迎えた後、パンク・ロックムーブメントの中で新たな音楽性を求め発展した末に生まれたジャンルであることによる。従って、ハードロックとヘヴィメタルの間に厳密な境界線は無く、ハードロックとヘヴィメタルとをひとくくりにしてHR/HM(HM/HR)と呼ぶこともある。


歌詞が独特。

攻撃的な音楽性に合わせ、歌詞もやはり攻撃的なものが目立つ。 一般社会(特に日本)では悪魔崇拝やオカルト、猟奇的な犯罪、麻薬についてなど、退廃的で過激な歌詞の印象、ないし偏見をもって語られることがあり、PTAなどから批判の矛先になることがある。これは、このジャンルの始祖的存在であるブラック・サバスとそのヴォーカルで放送禁止用語を多用するオジー・オズボーンなどのイメージから、ある程度は仕方の無いものと言える。

しかしメタルのメインストリームはアイアン・メイデンに代表されるように、メロディの美しさやリズムの格好良さに重きを置いており、歌詞の過激さはあくまでもギミックとしてのものである。そうしたものだけではなくポピュラー音楽として普遍的なラヴソングも存在し、他にはスラッシュメタル以降に多く見られるよう政治・社会問題を訴えるもの、移民の歌のように歴史的事象を取り上げたもの、人生観や個人的感情について唄ったもの、ドラゴンフォースに代表されるようなファンタジーもの様々なものが歌詞のテーマにされている。

過激な内容の歌詞も、単に注目を引くためのもので、作詞者の実生活や、メディアの取材やコンサートでのファンとの交流で見せるメンタリティとはかけ離れていることもままある。だが、ブラックメタルやマリリン・マンソンのように、本格的に反キリスト思想などの主張を歌詞に取り入れ、音楽活動全体の指針にしているバンドが存在するのも事実であるが、その一方でストライパーのようなクリスチャン・メタルという分野もある。これらも上記の政治・社会問題や歴史的事象を取り上げたものの派生とも取れる。


メタルとかロックとかパンクとかいう音楽は反体制・反権力であると思っている人も多いし、そうでなければならないと当事者たちが思い込んでいるふしもある。
でも人気者になる、つまり音楽家が職業として成功するということは、反体制や反権力とは相容れないところがある。
だって政治家は選挙で勝利した人達、つまり大衆に支持された人達なのだから、同じ土台(ステージ)に立ってしまう。
大衆に支持された時点で反体制・反権力であることはかなり怪しくなってくる。
これは当事者たちのジレンマにもなり、ストイックであるほど耐え難いものとなる。

でもそもそもメタルやロックやパンクって反体制・反権力なのかという疑問も生じる。
反キリスト思想を持つ者もいるが、その一方ではキリストを熱烈信仰する者もいる。
悪魔崇拝の象徴とされるデビルスター(反五芒星)や聖ペテロ十字(逆十字)を身に着けたり掲げたりする者がある一方で、ローマカトリックという世界的権威・権力の象徴である十字架をこよなく愛する者もいる。
宗教の権威権力は絶大である。
例えばロックバンドが大統領を支持をする。大統領なんて誰がなっても権力者であることに変わりない。
反体制・反権力を謳うならば大統領なんて支持できない。
ちなみに聖ペテロ十字(逆十字)は、ペテロが「私がキリストと同じ磔ではおこがましい」と言ったので逆にされたわけだから、対峙した悪魔ではなく謙虚なバリバリのキリスト信奉者である。
反体制・反権力ではなく、「自分の都合の悪いものには反対する」、これが多くの人間に共通することなのだ。
それにもし権力者も悪魔崇拝者だったら、反体制・反権力で悪魔崇拝しても同類になってしまうわけだし。


さてインナーサークル。
インナーサークル (Black Metal Inner Circle または Black Circle) は、90年代初期のノルウェーのブラック・メタルバンドとその関係者らを指して使われた言葉である。「誰が一番邪悪か」を競うかのように、教会の放火から殺人に至るまで様々な事件を起こしてヨーロッパ中を震撼させ、後のブラック・メタル・シーンにも多大な影響を与えている。
マスコミや音楽ジャーナリズムによって「悪魔崇拝集団」としてセンセーショナルに報道されたが、全ての事件に悪魔崇拝が関係しているとは限らない。中には Emperor の Samoth や Faust のように悪魔主義者ではない者も多数おり、ひとつの宗教的、思想的信条によって括れる性格のものではないと言える。


1991年4月8日、ノルウェーのヘヴィメタ、ブラックメタルバンドのバンドマンが死んだ。
ブラックメタルは反キリストであることが多い。
銃で頭を撃ちぬいたという。彼は同じバンドのメンバーと同居していた。
同居人が何より先にしたことは死体写真を撮ったこと。
その死体写真はアルバムジャケットに利用された。

ノルウェーの首都オスロにとあるレコードショップが開店。オーナーは死体写真を撮ったバンドマンであった。
このショップに集う若者達がショップの地下室で秘密結社(インナーサークル)を作った。
「誰が一番悪魔を崇拝しているか」、悪魔崇拝に囚われ、武勇伝を獲得するために、彼らは悪事に手を染めていく。
教会や礼拝堂を放火、メンバーの自宅を放火、同性愛者の殺人、暴行、不法侵入など・・・。
そしてついにはレコードショップオーナーであるバンドマンも殺害された。
社会を震撼させ、罪を犯した者は当然刑務所送りになったわけだが、懲りることなく刑務所内から作品を発表した。



inner circle(インナーサークル)とは、権力中枢部の側近、あるいは組織内で実権を握る少数の人々、そのグループのことである。
本来ヘヴィメタやブラックメタルバンドには関係ない。
インナーサークルは経済界全般、また政界にも影響力を発揮しうるビジネスリーダーのグループのことである。
いわばビジネス界のトップエリート。ではどうしたらビジネス界のトップエリートになれるのか。

 ・大企業の最高経営責任者(CEO)や経営幹部
 ・大企業の外部取締役や諮問委員会メンバー
 ・経済団体やシンクタンクの理事
 ・大学や慈善団体の理事
 ・政府高官や政府機関の諮問委員会メンバー

上記のどれか1つに該当しているということではなく、あれもこれもやっておいたほうがいい。ネットワークは増えパイぷは太くなり、箔が付き評価が高まるから。


ところで政府高官。
日本の報道で聞く政府高官はかなりの確率で官房長官のことなんだとか。
でも一般的には省庁の役職者。
日本の場合、省のトップは大臣で、庁のトップが長官と呼ばれている模様。組閣の時に決まる人達で多くは国会議員だけれども民間人でもよい。首相が決めている。
一方、省庁の役職者は国家公務員(と言っても広義には国会議員も国家公務員に含まれるけれど)。官僚と呼ばれたりもする。

アメリカの仕組みは日本のそれとは違う。政治任用制度。
各省庁の長官(アメリカに大臣はいない)のみならず、多くの政府高官を大統領が指名する(上院が承認)。
その数3000人ほど。この人達は議員や公務員である必要はない。
但しホワイトハウスの主が変われば、長官をはじめ政府高官、その下にいる補佐官や秘書さんなどごっそり入れ替わる。
だから回転ドア(revolving door)」とも呼ばれる。(まさにサークル!)

ジャパンハンドラーとして有名なアーミテージさん(カトリック信者らしい!)も政治任用制度で政府高官となった人物である(レーガン大統領とブッシュ大統領の時に政府高官だった)。
政治家と言われるが日本のような議員ではない。
経済界出身ではなく元軍人。だから安全保障分野に強い。
いろいろな団体や会社があるので政府高官を辞めても別に苦労はしない。天下りと非難されることもまずない。



1969年、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会の役員に就任した。
アメリカに渡って5~6年、48歳の時である。
子供達の学校のお付き合いの中で紹介されたというロックフェラーの力が大きかったであろう。
当時はまだロックフェラー3世(1906-1978)が存命だった。
ロスチャイルド→ロックフェラーのモルガンの国際諮問委員会である。
当然大企業のお偉いさんなどがいるわけである。その上、アメリカの企業の国際諮問委員会は取締役会にも匹敵するほど大きな権限を持っていたという。
ここで培った人脈がトップエリートの道を開いた。








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# by yumimi61 | 2017-05-07 17:23
2017年 05月 06日
Wearable
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"I be going MIA on people sometimes."

"Don't go MIA on me."

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# by yumimi61 | 2017-05-06 23:11
2017年 05月 06日
日本国憲法の秘密-466-
ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報  日本のロックフェラーの総代理人・山本正氏がガンで死去:その功罪とは? より
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タダシ・ヤマモトが作り上げた国際交流ネットワーク

(2010年2月13日 副島国家戦略研究所・中田安彦)

 日本で活動するアメリカ企業でつくる「在日米商工会議所」(ACCJ)というロビー団体では、毎年暮れに「今年のひと」を選出している。

 過去には07年に米企業側からも要望の多かった郵政民営化を推進した竹中平蔵・元参議院議員が選ばれている。他にも、06年には奥田碩(トヨタ相談役)、05年には西室泰三(東芝顧問)が選ばれているが、去年選ばれたのは、山本正(やまもとただし)という人物だった。おそらくこの連載をお読みの方で、この名前を知っているひとは半分もいないと思う。ただ、かつては「あらゆることが山本を経由する」といわれたほどの大人物なのだ。

 山本正氏は、財団法人日本国際交流センター(JCIE)理事長の肩書きを持つ。日本と国際社会との橋渡しをする「民間外交」を担うべく、まだ冷戦時代だった1970年に設立された。今回の受賞は今年が日米安保改定50周年とJCIE設立40周年に当たることがその理由だろう。

 山本氏は日米関係に少しでも携わったことのある人であれば、その名を知らないものはいない。ただ、積極的に表に出ることはせず、あくまで「黒子」に徹している。この連載では、以前に米富豪ロックフェラー家の肝いりで作られた、日米欧三極委員会(トライラテラル・コミッション)について何回か言及してきた。ロックフェラーら米国側のメンバーと一緒に、三極委員会の設立を73年に行ったのが、この亡くなった宮沢喜一元首相であり、この山本氏であった。石原慎太郎氏と共著で『NOと言える日本』を出したソニーの盛田昭夫氏が、デイヴィッド・ロックフェラー氏とニューヨーク郊外で読売新聞の企画で対談した時、盛田氏に付き添ったのもこの山本氏である。 

 山本氏は、三極委員会以外にも、日米議員や知識人の知的対話の場を提供した下田会議(1967年から)の立役者として知られる。この下田会議や続く日米議員交流には、歴代首相の相談役ともなった日本研究家のジェラルド・カーティス、皇太子妃の父上である小和田恒、ドナルド・ラムズフェルド(当時)そして若き日のジョゼフ・ナイら政治家・知識人が参加していた。このように日米人脈のつなぎ役(コネクター)となった山本氏だが、現在も中曽根康弘元首相が議長を務める「東アジア共同体評議会」(CEAC)の副議長のひとりであるほか、数年に一度、都内の米国大使館近くのホテル・オークラで開催される三極委員会年次総会では、ホスト役として活発に動く存在である。

<渋沢ファミリーの縁戚としての人脈力>

 山本氏は滅多にインタビューには応じないが、数年前に日経新聞で数回にわたる連載や、今回のACCJの受賞特集を読むとこの人の“人脈”が見えてくる。山本氏は国際都市・神戸の生まれ(1936年)で、父親が商社勤めであったという。香港、インドのムンバイなどに移り住んだ後、戦争中は母は父を残して5人の兄弟と一緒に神戸に戻ってきたという。

 山本氏より一世代前、すなわち戦後間もないころの日米交流人脈の拠点が国際文化会館(ロックフェラー3世らが設立)である。この理事長を09年に亡くなるまで務めていたのが、東京三菱銀行初代頭取の高垣佑(たかがきたすく)氏である。山本氏がいた頃の香港の日本人学校には、後に緒方四十郎・日銀総裁に後に結婚することになる、緒方(旧姓・中村)貞子(元国連難民高等弁務官)や高垣氏も在籍していたという。

 山本氏はカトリックの家系に生まれたことから若い頃は神父になるつもりだったというが、結局神父になったのは長男の山本襄治(聖イグナチオ教会)であった。イエズス会の上智大学在学中に聖職に就くべきか悩んだあげく、米国の大学に編入し、やがてMBA(経営学修士)を取得し、帰国後の62年には信越化学工業に入社した。

 そうして70年にJCIEを設立することになるのだがそのオフィスは都内麻布にあった。『軍隊なき占領』(ジョン・G・ロバーツ他著)という本には、その住所にあったのはもとはMRA日本センターだったという。このMRA(道徳再武装運動)で重要なのは、今もJCIEの評議員を今も務める渋澤雅英(渋沢栄一記念財団理事長)との関わりである。ロバーツらの著書によれば、雅英と山本は「縁戚関係」にあるという。また、「渋沢家五代目」として外資系金融機関で勤務した経験を生かして、現在は「コモンズ投信」の会長として活躍する、渋澤健氏は自らブログで山本氏のことを「私の叔父」として紹介している。渋沢家といえば、敬三など日銀総裁を輩出したことでもしられるが、その縁戚関係の広がりからも山本氏の日本の民間経済界における位置づけが分かってくる。

 ただ、三極委員会など「山本人脈」に連なるネットワーク組織の多くが、冷戦の時代に設立されたものであり、複雑化するアジア太平洋の国際関係の現在に対応し切れているかといえば必ずしもそうではないだろう。山本氏の人脈は「ロックフェラー人脈」に直結している。そのことがこれまでは強みであっただろう。ただ、ロックフェラー氏自身が、今年で95歳という高齢であり、山本氏自身もすでに現在73歳である。躍進を続ける中国、インドなど、BRICs諸国をいかにしてグローバル経済の枠組みに取り込んでいくかが、日本やG7諸国の現在の重要なテーマである。その中で日米欧という“西側”の三極を越えた、アジアへの人脈構築が求められている。「山本人脈」は良くも悪くも「アメリカ経由の国際交流」であった点はどうしても否定できない。

 三極委員会の北米会長であり、下田会議にも古い段階から参加してきた、ジョゼフ・ナイ元米国防次官補。オバマ政権の駐日大使の呼び声も高かったが、結局はそうならなかった。山本氏が親しいトマス・フォーリーが駐日大使に就任した97年ころから、時代は明らかに変化している。「山本人脈」につらなる竹中平蔵(ダボス会議評議員)、船橋洋一(朝日新聞主筆)らは、リベラル派の親米派知識人といえる存在だが、民主党新政権で存在感を示す、小沢一郎・党幹事長の唱える、「日米正三角形論」の枠組みからはずれた存在のようにも見える。

 山本氏が唱えた、非公式の民間交流の重要さは誰しも認めるところだろう。ただ、時代が変化するにつれて、その方法論もそれに応じて変化が求められていくが、今のところその新しいアジアの知的交流の芽はまだ見えてこない。(了)



山本正の出身地である神戸は以前書いた通り、明治時代の廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めにより九鬼隆義が買い占め、それにより九鬼家は巨万の富を得た。九鬼隆義はキリスト教をはじめ西洋文化を積極的に取り入れ、宮内省にも勤務したという人物。
松方正義の3男で松方三郎の養父でもある松方幸次郎(川崎造船所社長→衆議院議員)の妻の父親が九鬼隆義である。
九鬼家の屋敷があったところにカトリック教会が造られていて、九鬼家には神学者になった者もいる。
ロックフェラー3世の親友だという松本重治の妻は松本幸次郎の娘である。
松本重治の葬儀は東京聖三一教会(聖公会)で執り行われた。
松本重治やロックフェラー3世と親しかった松方三郎は晩年カトリック教会で洗礼を受けたと言う。
何かとキリスト教(主にカトリック)に縁深い。
神戸に生まれた山本正もやはり親の代からのカトリック信者であった。


前にも書いて、先日も書いた、国際基督教大学。
この大学はロックフェラーと所縁がある。
1952年設立の国際文化会館と1953年設立の国際基督教大学(ICU)ともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したのである。
日本銀行(戦後日本の金融界に絶大な権力を持ってローマ教皇庁に例えられ一万田法王と呼ばれた一万田尚登)やマッカーサーも関係している。

国際基督教大学(ICU)
東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。
1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った。


湯浅八郎の父は、同志社創立者の新島襄と同郷(群馬県安中)の湯浅治郎である。
八郎は第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。
このように 国際基督教大学(ICU)は新島襄や同志社との関係を匂わせて設立されている。
(ちなみに大学が置かれた場所は戦前中島飛行機が所有していた土地である。中島飛行機も群馬で創業された会社)
国際基督教大学はキリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲しているとも書かれているのだが、この説明は少しおかしいことを先日も指摘した。
ダグラス・マッカーサーは以前にも書いた通り、フィリピンに長い間いた人である。
マッカーサーがキリスト教を信仰していたとするならばカトリックであったと考えるのが自然である。


そしてこれも前に書いたことになるが、第2次世界大戦後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴したのがロックフェラー3世だった。


山本正、その人がロックフェラーについて(ロックフェラー回顧録を読んで所感などを)述べている。

世界を動かしたロックフェラー
-デイヴィッド・ロックフェラー『ロックフェラー回顧録』
山 本   正  新潮社読書情報誌『波』2007年11月号


筆者は、デイヴィッドとその家族、長兄のジョンに知己を得、長年にわたり親交を深める幸運を得た。初めて会ったのは、1972年、宮沢喜一氏、大来佐武郎氏等とともにロックフェラー邸での三極委員会設立準備会議の席だった。以来、30年以上にわたり三極委員会はじめ、筆者が主宰する(財)日本国際交流センターの活動についてもデイヴィッドは深い関心と支援を続けてくれている。ソニーの故盛田昭夫氏とデイヴィッドの対談を企画したり、マンハッタンやニューヨーク郊外の屋敷や別荘に伺ったり、あるいはプライベートな旅行に同行するなど、親しくその人柄に触れる機会を持ってきた。穏やかでゆったりした語り口で周りに不思議な安心感を与える、その人となりに長年接してきた筆者であるが、本書を通じて実に多くの事実をあらためて知った。

(略)

週給5ドルの店員から石油王として巨万の富を築いた初代ロックフェラーは資本主義の巨悪の象徴として弾劾されたが、敬虔なプロテスタントとして、酒、タバコを控え収入の10%は慈善寄付をするようにとの教育を子どもたちに施してきた。祖父を超えることはデイヴィッドの父には不可能に近く、如何にロックフェラーの富を社会と子どもたちに還元し、ロックフェラー家としての矜持を保つかに腐心した。

(略)

戦前から今日に至る人脈の華麗さは、ロックフェラーという名前だけで王族にも国家元首にも会えるということがなければ築けなかったことではあるが、一時は政治家を志した財界人デイヴィッドの力量に負う所が多い。中東や南米の元首たちとの交渉裏話はまさに、歴史そのものである。デイヴィッドとキッシンジャーが画策したとされるイランのパーレビ国王の亡命は米国政府の約束不履行を繕うためだった等、いくつものエピソードが述べられている。
国際関係に果たした役割の余りの多さ、大きさ故に、日本については世界的な話題となった三菱地所のロックフェラー・センター買収顛末が中心となっている。デイヴィッドが丸ビルの玄関で転倒、骨折し某病院に急遽入院、痛み止めと称してマティーニをホテル・オークラから届け、丁度電話をかけてきた夫人のペギーに見破られたこと、ソニーの大賀会長の好意で自家用機を出してもらい米国に帰っていただいたこと等、今では懐かしく思い出される。
しかし、本書の本質は、「社会の健全性のためにはフィランソロピー(社会変革をめざす寄付・助成活動)が必要」という確固たる一族の信念である。巨万の富を社会向上のために如何に分配するか、現在活躍している数多くの世界的な組織はロックフェラーの資金により生まれている。WHO(世界保健機関)もロックフェラー財団の活動から生まれたものであることは決して不思議なことではない。



「敬虔なプロテスタント」と書いているが、それは誰の事なのか?
ロックフェラー家の初代か2代目か?2代目の子供達も敬虔なプロテスタント信者であったのだろうか。
では3世だけが違っていたということであろうか?
3世の日本での人間関係等から推し測るとこの記述は怪しい。カトリック(あるいはカトリックに近い聖公会)との繋がりが強いと思われる。







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# by yumimi61 | 2017-05-06 00:41
2017年 05月 05日
日本国憲法の秘密-465-
ソニーの創業者の1人盛田昭夫一家はソニーのアメリカ進出をかけてアメリカに渡った。
子供達が通った学校はニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある私立名門校のSt. Bernard's School(男子校)とNightingale-Bamford School(女子高)であった。
校章に十字が入っているSt. Bernard's School(男子校)は文学に強い学校であった。
盛田夫人は出版社三省堂創業一族の出身である。三省堂の成功のきっかけは洋書の翻訳であり外国との繋がりが当初から深い。創業者の息子はアメリカに留学経験もあった。
盛田家に学校を紹介したのはアメリカの証券会社スミス・バーニーのソニー担当役員で、当時スミス・バーニーは米国預託証券(ADR)を発行していた。
現在ADR発行を引き受ける預託機関(預託銀行)は、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン、JPモルガン、シティバンク、ドイツ銀行といった大手銀行によって占められているそうである。

スミス・バーニーは1998年にソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となった。
ソロモン・ブラザーズは1980年にアメリカ有数の投資銀行に成長したが、1987年のブラックマンデーと1991年の不正スキャンダルで地に落ちた。
そんなソロモン・ブラザーズとスミス・バーニーをくっつけたのは、かのウォーレン・バフェット氏である。
その後シティグループの傘下となり、2009年には「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となり、さらにその後、モルガン・スタンレーがシティ保有の株式を買い上げたらしい。


盛田家に学校を紹介したのはスミス・バーニーの役員であったが、モルガンもソニーのADRを発行していた。
ということで、ソニーが1970年にニューヨーク証券取引所に上場する以前よりモルガンとのお付き合いもあった。

ではJPモルガンとモルガンスタンレーの関係はということになるが、それは以前書いた

1838年 ロンドンで「ジョージ・ピーボティ&カンパニー」*設立。
1854年 ジュニアス・スペンサー・モルガンがパートナー就任。
1864年 「J.S.モルガン&カンパニー」と社名変更。
1900年 ロスチャイルド一族のエドワード・グレンフェル
**が支配人となる。

*アメリカ出身のジョージ・ピーボディによってイギリスで設立された。
これは「ブラウン・ブラザーズ」を通じて行われたものであり、ロスチャイルドの三男・ネイサン・ロスチャイルドの代理人となる。
独身だったピーボディは後継者問題に直面し、ジュニアース・モルガンと提携した。
モルガン家はイギリスからアメリカに移住し財をなした一家であり、そのルーツはイギリスにあった。


**エドワード・グレンフェルはイングランド銀行総裁ヘンリー・グレンフェルの息子。
イギリスの老舗投資銀行「ブラウン・シプリー」の重役でもあった。
「ブラウン・シプリー」の創業者はアイルランド移民のアレグサンダー・ブラウン。
1800年に創業したリネン製品の輸入会社が成功して金融業に進出した。

ブラウン家がアメリカにて投資銀行家で鉄道王のハリマン家と結びつき、「ブラウン・ブラザース・ハリマン」になっている。
この「ブラウン・ブラザース・ハリマン」は多くの政治家を輩出。
父ブッシュ(41代大統領)の父親であるブレスコット・ブッシュが「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の前身の1つ「W・A・ハリマン」に就職し、頭取だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘・ドロシー・ウォーカーと結婚。
2人の間に41代大統領となったブッシュ(次男)が生まれる。
43代大統領のブッシュは孫にあたる。
ブッシュ大統領の「ジョージ・ハーバート・ウォーカー」という名前は、そっくり祖父(母方)の名前である。
父ブッシュの母の家系を辿るとイギリス王室に繋がるらしい。

「W・A・ハリマン」を設立したのは、ハリマン一族で政治家にもなったW・アヴェレル・ハリマン。
ブッシュの父・ブレスコット・ブッシュは合併した「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の経営者となった。
「ブラウン・ブラザース・ハリマン」はドイツでナチスを支援していた鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンの良きビジネスパートナーであり、アメリカ参戦後も敵国でありながら財政支援していた。


1861年 ジョン・ピアポント・モルガン(ジューニアス・スペンサー・モルガンの息子)が「J.P.モルガン&カンパニー」をニューヨークに設立。
1871年 ドレクセル・モルガン&カンパニーに改称。(フィラデルフィアの銀行家アンソニー・ドレクセルと組んだ)
      以後10数社の鉄道事業を買収して再編成した。
1892年 発明王エジソンの会社を吸収してゼネラル・エレクトリック(GE)を設立し、電気事業を再編。
1895年 再び「J.P.モルガン&カンパニー」と改称。
1901年 カーネギー鉄鋼会社を買収してUSスチール社を設立し、鉄鋼業を再編。
1907年 当時全米の電話を独占していたAT&Tを買収。

こうして様々な事業に投資し再編を行うことで金融資本による経済支配構造を構築した。(上記はアメリカ版)
構築初期段階で「モルガン」がロスチャイルドやユダヤ系であるということを上手く覆い隠した。
そして全ての富が一族(財閥)に転がり込むようなシステムを作り上げた。
そのために非常によく利用されたのが婚姻である。
一族内で婚姻を繰り返し財産が外に出ていかないようにしている。
また、政略結婚により他財閥や政治家と協力関係を結んだり、他財閥や有力者を取り込むことに成功した。
一族の人間を政治の世界へ送り込む場合もある。
こうして経済と政治を掌握していった。

(略)

1909年 「J.S.モルガン&カンパニー」を「モルガン・グレンフェル」に改称。

アメリカのモルガン親子を通じて、ロスチャイルド(イングランド・グレンフェル)はアメリカ(モルガン)を取り込んだのである。


余談だが沈没したタイタニック号の実質的オーナーは、J.P.モルガン&カンパニーであり、モルガン・グレンフェルである。

イギリス・ロスチャイルド家発の会社(ジョージ・ピーボティ&カンパニー→JSモルガン)のパートナーにジューニアス・スペンサー・モルガンが就任し、JPモルガンはジューニアス・スペンサー・モルガンの息子がニューヨークに設立した。当然この2つの会社は関係があった。
JPモルガンは上記のようにアメリカで巨大化した。
しかし1929年ウォール街で大暴落があり世界恐慌に繋がる。
この時、アメリカでは銀行と証券会社を兼ねる経営が禁止される法律が制定された。
そこでJPモルガンは会社を分けたのである。
JPモルガンは銀行として、証券・投資部門はモルガン・スタンレーとして再出発した。
モルガン・スタンレーの「モルガン」はジューニアス・スペンサー・モルガンでもその息子・ジョン・ピアポント・モルガンでもなく、投資部門の一社員から昇進していった人物の名前に由来すると言われるが、その叩き上げの社員というのはJPモルガンを設立したジョン・ピアポント・モルガンの孫であるのでモルガン一族の人間であり純粋な叩き上げとは少し違う。
モルガンは企業であり法人であるので家業ではないが、当時はモルガン一族が大きな影響力を発揮していたと考えてよいだろう。当然その後ろにはロスチャイルド家やロックフェラー家の後ろ盾があるわけだが。
家業ではなく株式会社なので状況によったり時を経れば創業家と言えど(ソニーと盛田家のように)会社への影響力を失うこともあるので、現在のモルガンがどうかは分からない。


2000年、金融持株会社であるJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合した。(JPモルガン・チェース銀行とJPモルガンはこの持株会社の子会社である)
その後、アラバマ州で地方債を発行し手数料を稼いだ。賄賂が多方面に支払われていたので事件化した。自治体の財政にとって危険な債務債券化協定を結んでいた。
しかしその後も大手銀行を買収。さらに2007年以降の世界金融危機で経営状態の悪化した銀行を買収し規模を拡大した。
いろいろ優遇されたり悪いことをしていたりして、結構それが公になるのだが、銀行と投資部門のどちらもその地位は揺るがず。ヘッジファンド部門は米国最大。
2011年にはバンク・オブ・アメリカを抜き、アメリカ最大の資産を擁する銀行となったそうである。

チェース・マンハッタン・バンク
1955年にバンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して誕生した銀行。
なお、バンク・オブ・マンハッタンは1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものであるが、かつての水道事業に因んで、木製水道管の断面が図案化されている。

チェース・マンハッタン・バンクがクレジットカードのMasterCharge(Master Card)の生みの親である。
この銀行で1970年代から1981年まで頭取を務めたのが、デイヴィッド・ロックフェラーである。

ここでロックフェラー家のおさらい

ロックフェラー家のルーツは南ドイツでないかと言われている。
初代ジョン・ロックフェラーの父親は問題大ありの人だったようで、決して裕福な家庭ではなかった。

ロックフェラーによる石油事業(スタンダード・オイル)の独占がアメリカ初のトラストだったが、1911年に連邦最高裁から解体命令が出され分割された。
ロックフェラーはシカゴ大学とロックフェラー大学も創設。慈善家としての顔も持つ。
ロックフェラーの息子(2世)は大恐慌時代にマンハッタンの中心地に14のビルから成るロックフェラー・センターを建設してニューヨークの大地主となった。
ジョン・ロックフェラーの弟のウィリアム・ロックフェラーはナショナル・シティ銀行(現在:シティグループ)の創業者の1人。 

ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達

 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978) 交通事故死
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-    )

1女5男。1人目が女の子だったので、後継者(襲名)は2人目長男であった。
次男のネルソンは、ニューヨーク州知事と第41代副大統領を歴任。
3男のローレンスはオバマ大統領の支援者だったらしい。
4男のウィンスロップは、アーカンソー州知事であった。(クリントン大統領もアーカンソー州知事だった)
5男のデイヴッドが現在ロックフェラー家の当主となっている。
デイヴッドは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン銀行(現:JPモルガン・チェース)の頭取であった。


初代・・・アメリカの石油事業(スタンダード・オイル)の独占
2代目(2世)・・・ニューヨークの大地主
3代目(3世)・・・日本の国際基督教大学に関与し息子が留学経験あり、松本重治や松方三郎の親友
第2次世界大戦後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴した。
戦後にジャパン・ソサエティの代表にも就任した。(ジャパン・ソサエティは、1907年にニューヨークで設立された。元々、日本に石油を売るためにロックフェラー家が設立した機関)
人口問題にも関わり、人口評議会と農業開発評議会を設立した。
(緑の革命を広めるためで、世界銀行と国連組織がこれを後援している)
人口問題への関与はカトリックから非難された。
歴とした3世であり、しかも日本やアジアに深く関わった人物であるにも係わらず、日本語版Wikipediaにはその存在はない。(初代、2世、4世はある)
政界入りをせず民間組織などを通じて裏で活動していたせいか、多くを知られていない。
このことは「緑の革命」の印象を悪くし、後の人口削減、種子バンク、悪魔の種(遺伝子組み換えF1種)への批判に通じる。
世界銀行と国連との関係性も両組織の在り方からしてプラスのイメージには働かない。


長男3世が亡くなった後、すぐに3世の長男(4世)に継承されなかった。

亡くなった時に3世の息子(4世)はそれなりの年齢(41歳)になっていた。
しかしロックフェラー家の当主は次男のネルソンに継がれた。
ネルソン・ロックフェラーは1974年~1977年にかけて副大統領に就任した。
1974年というのはニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任した年である。
辞任に伴ってジェラルド・フォード副大統領が大統領に昇格し、そのフォード大統領から副大統領に指名されたのであった。
この頃がどんな時代だったかといえば、こんな時代だった(ジョン・レノンの歴史とともに)。
1977年の大統領選でフォード大統領が敗れたためネルソン・ロックフェラーも副大統領職を去った。
その翌年に兄の3世が交通事故死して当主を継承するが、自身もその翌年に亡くなった。
愛人宅で心臓発作を起こしたが、浮気発覚を恐れた愛人が友人宅などに電話をするなどして時間を浪費。
救急通報までにが約1時間も遅れたことが命取りになったそうである。


本家の家督は本家当主の子供なり養子が継ぐのが筋なので、この場合3世の長男が継ぐのが正当ではある。
しかし3世の弟たちが本家ロックフェラー家の当主に納まった(主張した)のでロックフェラー家のお家騒動が勃発した。特に長いこと揉めていたのがこの2人。
デイヴィッド・ロックフェラ-(3世の末弟)vsジェイ・ロックフェラー(3世の息子の4世)。

※上記過去記事には没年が入っていませんが、デイヴィッド・ロックフェラーは現在お亡くなりになられています。



1991年、デイヴィッド・ロックフェラーとソニーの盛田昭夫が対談した。
この対談を企画したのは日本国際交流センターの山本正と読売新聞。

山本正という人はカトリック教徒である。
2012年に亡くなったが葬儀はカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で執り行われている。
山本は上智大学からアメリカのセント・ノーバート大学へ留学し1960年に卒業した。

上智大学は学校法人上智学院のもとにあり、ローマ・カトリック教会に所属する男子修道会の一つ、イエズス会が設立母体です。上智大学に隣接して建てられている聖イグナチオ教会も宗教法人ですがやはりイエズス会の経営によるものです。この聖イグナチオ教会はイエズス会の創設者で初代総会長を務めたイグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556.7.31)にちなんで名づけられたものです。上智大学ホームページより>

小坂財閥一族の小坂徳三郎(信越化学工業社長)の下で国際交流事業に携わり、1967年に日米の民間政策対話「下田会議」をペリー来航の地である伊豆で開催。
1970年、小坂の政界進出(衆議院議員当選)に伴い独立して、日本国際交流センターを設立した。

小坂財閥
創始者:小坂善之助
信濃毎日新聞創業社長→衆議院議員
   長男:小坂順造(日本銀行→信濃銀行取締役→信濃毎日新聞社長・長野電灯社長→衆議院議員→貴族院議員
       信越化学工業創業社長、信濃毎日新聞会長→社主、日本発送電総裁・電源開発総裁)
   二男:小坂義雄(小坂才兵衛の養子)
   三男:小坂武雄
   長女:小坂ちか(衆議院議員 花岡次郎の妻)
   二女:小坂はる(日本銀行総裁 深井英五の妻)
       (夫妻の長女・結子は日本を代表する天文学者・萩原雄祐の妻)
       (萩原雄祐・結子夫妻の3男は日本テレビの元社長。「視聴率買収事件」の責任を取り副社長に降格)
       ⇒日本テレビの視聴率4冠王を10年連続連覇したのも萩原の功績が一番だと言われている。
   三女:小坂国(三菱銀行副頭取 関根善作の妻)
   四女:小坂菊江(陸軍少将 津野田是重の妻)
   女:小坂信(中央工業会長 今井文平の妻)
   女:小坂ふじ(農商務省 田中隆一郎の妻)

ここでも女子が政略結婚にフル活用されている。

上記の小坂順造の子供達。
   長男:小坂善太郎(三菱銀行→信越化学工業取締役→衆議院議員)
   二男:小坂善次郎
 ◎ 三男:小坂徳三郎(朝日新聞社→信越化学工業社長・信濃毎日新聞社長→衆議院議員)
       (妻は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵と、日本の女子ゴルフ草分けの三井栄子との長女)
   長女:小坂百合子(東京都知事 美濃部亮吉の妻→離婚)

山本正は日本国際交流センター設立以降、日本における民間の国際交流のパイオニアとして数々の事業を推進した。
日米議員交流、三極委員会など、戦後日本の国際化を進める知的交流プログラムを推進したほか、近年は、「人間の安全保障」概念の普及と、地球規模課題における日本の国際的役割の強化にも尽力した。
また、独立・民間の非営利組織としての立場を貫き、日本の民間財団やNPO/NGOなど非営利セクターの強化や国際化を支援した。欧米、アジアの政財界、官界、学界、財団界、NPO界などに広汎な人脈を築き、日本と海外をつなぐ架け橋となってきた。
三極委員会(トライラテラル・コミッション)アジア太平洋ディレクター、 日英21世紀委員会ディレクター、 日独フォーラム幹事委員、 日韓フォーラム代表幹事、 世界基金支援日本委員会ディレクター、 「21世紀日本の構想」総理懇談会幹事委員(1999年)などを歴任。






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# by yumimi61 | 2017-05-05 17:30
2017年 05月 03日
All done
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『Waiting For Love』

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# by yumimi61 | 2017-05-03 23:33
2017年 05月 03日
日本国憲法の秘密-464-
三省堂の創業者
・亀井忠一(旧姓:中川)
・亀井万喜子

中川忠一の父親は幕臣であり江戸に暮らしていた。
明治新政府となった後、一家は静岡県沼津市に移住。生活は楽ではなかった。


幼くして両親を亡くした万喜子は、亀井家の婿養子になっていた姉の夫の養子となった。
その亀井家も明治新政府成立以降は静岡に転居した。
しかし姉の夫も亡くなってしまう。亀井家に残されたのは姉妹であった。
そこで妹万喜子に婿養子前提の縁談話が持ち上がった。そのお相手が中川忠一であった。

当時2人はともに15歳ほど。(2人は同い年くらいなのだが、後年どうして母子に間違われることになったのか・・)
2人が若かったせいか、忠一本人か中川家の意向か分からぬがとにかく一旦はお断りしたそうである。
でも最終的に忠一の両親も同居することで縁談はまとまった。
2人が結婚して忠一が亀井家の婿養子になったのが1870年(明治3年)。
その若き夫妻が万喜子の生家に近い神田神保町で古本屋を開業したのは1881年(明治14年)、2人が25,6歳のことである。
古本屋に持ち込まれる本は洋書や医学書、辞典などであり、客はそれなりの人達だったわけである。
そうした本を扱い、そうした人と接するには無学ではダメだと万喜子は独学でいろいろと勉強をした。
徳と才を兼ね備えた素晴らしい人だったそうである。

古本屋から新刊書店、その後は出版業にも進出。翻訳書の出版を軌道に乗せ、教科書・地図も手掛けるようになった。
1908年(明治41年)には日本の本格的百科事典を目指して「日本百科大辞典」(全10巻)を刊行したが、次第に経営が行き詰まり、6巻まで発行した1912年(明治45年)に一旦は倒産してしまう。(辞典は財界や学会の支援を受けて数年後に10巻まで発行した)
1915年(大正4年)、出版・印刷部門を分離独立し、株式会社化(株式会社三省堂を設立)で再建した。
この時創業者は顧問となり、社長の座は息子(亀井忠一の4男・寅雄)に譲った。
寅雄はアメリカに留学経験もあった。

ソニーの盛田昭夫夫人は亀井忠一の5男・亀井豊治の娘(4女)である。
豊治も三省堂の専務や取締役を務めた人物で、亀井忠一の4男と5男が亀井兄弟として出版業界で名を馳せた。
亀井家本家を継いだのは社長の座を譲り受けた4男寅雄。
5男の亀井豊治は分家した。
亀井良子(後の盛田良子)さんは亀井家の分家の娘であった。

亀井豊治の子供は女子5人。
そこで姉夫妻の子を養子として迎え入れている。
姉は福岡の弁護士に嫁いで亀井姓から坂巻姓になっており、その坂巻家の次男が養子となり、亀井豊治の長女と結婚し(婿養子)、亀井家分家を継承した。

亀井寅雄には後継者がいなかったのか、この養子が寅雄→豊治の後の社長となる。
三省堂が家業であれば、寅雄が養子を迎える必要がある。
しかし三省堂は株式会社化して法人となっていた。亀井家は創業家であるが、もはや家業ではない。
こうした場合には社長職に就くものは家督継承者である必要はない。株主や社長が決めたならば全くの第三者だって構わないということになる。








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# by yumimi61 | 2017-05-03 00:58
2017年 05月 02日
日本国憲法の秘密-463-
(訂正)前記事にマイナンバーが「戸籍筆頭者」宛てに送られたと書いたが、「世帯主」の誤りです。すみません。
死んだ人にマイナンバーは付与されません。
世帯主は生計をともにするグループのリーダー。その家の生計を主に支えている(所得が多い)のが世帯主。誰でもがなれる。
世帯主は住民票に記されている。こちらは死んだら除かれていなくなる。
二世帯住宅などでは生計を別にしている場合もあり、その場合は一軒家でも世帯主が2人いることになる。
でも夫婦共働きで同じ収入があっても通常世帯主は一人で夫の場合が多い。(妻または夫を扶養していなくても世帯主は1人)
学生の一人暮らしなどで住民票を移せば元の世帯から抜けて、新たに自分が世帯主となることになる。
但し学生の場合は親に仕送りをしてもらって生活をしていることが多い。
生計を支えているのが自分ではなく親などの場合には、親の生計を同一とする家族の人数に含まれる(別居の扶養家族)。
住民票上は世帯主だけど実質世帯主ではないという状況になる。
税金・社会保険をはじめクレジットカードや車の保険など様々なことに関係してくるので注意が必要。
だから一人暮らしをしても住民票を移動させない学生も多い。その場合投票券は親許にくるので(郵便物転送で新住所に配達されたとしても)帰ってきて投票するなんてことはまずない。


脱線して天皇の話をしておけば、日本の象徴である天皇(天皇家)には姓がない。(日本人の向かうべき形態、最先端というこですかね?)
戸籍や住民票など日本国民と全く違う人(家)が日本人の象徴になっているということにはいったいどんな意味があるのだろうか?

「家」というのは財産や所得がベースにある。
天皇家を「家」と言うからには財産や所得がなければおかしい。「ある」ということである。
国から支給されるお金が生活保護の類でないとするならば、公務に対する対価(給料)ということになる。
収入や資産が十分にあるのに生活保護はまずいが、そうでないならばその他に私的に儲けていても全く問題ないということ。

分家とは(例えば秋篠宮家)、独立して別の家(戸)を作ったということなので、その家の人間が本家を継ぐことは在り得ない。
源家と足利家と新田家は親戚であるが、家は独立して別になっているので、養子縁組なしで他の家を継ぐということはしない。
家を継ぐということは家督(家名・財産・事業などの全て)を継承するということだったからである。
将軍家や武士家でなくとも旧家はこうして継承されてきたのである(家督を継承した者の意向や権限において別の兄弟姉妹などに財産を分けてあげることはある)。
養子縁組など行わず本家を継ぐ人がいなくなれば本家は途絶えてしまうだけのことである。
それで分家だけが続くということはよくある。
皇室の皇位継承は旧家のそれにも則らないとてもおかしなものだと思う。


本家は皇太子→愛子さんと継承すればよいわけだが、現時点においては天皇は男子の継承しか認められてない。
男子に継承したい場合には通常は養子を迎えるのである。子供の時から養子を迎え入れてもいいし、婿養子でも良し。
例えば秋篠宮家の長男を皇太子の養子にする、愛子さんが婿養子を迎え入れるというようなことが行われるが一般的であろう。
女性天皇は認めないと言うのと同時に女系天皇も認めないと言われているが(昔は女性天皇も女系天皇もいたはずなのに)、女系天皇とは愛子さんが一般男性と結婚して生まれた子供が天皇になることである。
男系女系とは皇族の血が男と女どちらにあったかということ。
男(夫)側が皇族で妻側はなんでもよいのが男系。
女(妻)側が皇族で夫側はなんでもよいのが女系。
でも秋篠宮家の長男を皇太子の養子にして天皇にすれば男系であるのだからとりあえずこれで問題ないのでは?
結婚して分家となった秋篠宮家の人間が、別の家庭(本家)の一切合財を仕切るというのはどう考えてもおかしい。
それとも全く職能も金銭能力も統率力も無く他者が全て管理しているからという前提なんだろうか?戸主であるけど戸主でなし。実体のない象徴?


それから天皇の生前退位とは隠居だと考えられる。昔は隠居するということがあったし、明治民法にも隠居という制度があった。
普通は死んだ時に家督を相続するが、生前に隠居者の意思表示にもとづいて戸籍の届出をすることによって新しい戸主へ家督を継承させることが出来た。
家督とは家名・財産・事業などの全てであり、家とは財産や所得がベースにあるのだから、つまりは現役(主たる生計者)引退ということである。
もちろん現役引退後に収入を得ても構わない。それは隠居者のものになり、隠居者が死んだ時に相続される。現代において現役引退後にも収入が多い場合には税金など様々影響してくるけれども。
旧家や名家は代表者を「当主」とも呼ぶが、隠居すれば当主ではない。当主は戸主である。
但し家長は微妙で、家長には長老という意味合いもあるので、隠居しても家長は家長である。
「家父長制」が問題として語られる時は、この辺りも焦点がぼやける。


実は私、今の名字はこの世に生を受けてから4つ目の名字である。(出生時の名字、母の旧姓、養子縁組した養父の名字、結婚後の夫の姓)
だから名字に然程拘りが無いと言えば無いし、名字が変わる煩わしさがよく分かると言えば分かる。
ちなみに出生時の名字は「NかMか(N or M?)」で言えばNである。

私が少し前まで「父の死」や「父の病」と書いてきた父は厳密に言えば養父である。血の繋がりはない。
でも正直私はそのことを気にしたことがほとんど無い。
名字を書き換えたり変わったことを説明するのがめんどくさいーとか、周囲に変に気を使われるのが嫌だなあと子供の時に思ったことがあるが、実父ではない父と暮らすことを嫌だと思ったり恥だと思ったりしたことは一度もない。その点については恵まれていたのかもしれない。
私はそんな感じだったので、自分が養子であることも、「家」ということについても深く考えていなかった。

そしてある日結婚しようと思った。結婚することになった。
夫にしようと思っている人(現夫)を実家に連れて行った時、父(養父)はこんなことを言い出した。
「一緒に暮らしてほしいということではないけれど、うちの名字を継いでくれないだろうか」
私に下話もなく唐突に言い出したため私はとても驚いた。
何か家業があるならばそういう申し出も予想したかもしれないが、父は普通のサラリーマンだった。
確かに彼(夫)は長男ではない。私は長女という立場であり男の兄弟はいない。
でも私は彼が答える間もなく「私が嫌だから」と返答した。
「それなら仕方ないな」父もあっさり諦めた。
母が父に「名字を継ぐのと継がないのではそんなに違うものなの?」と訊いた。
「違うさ」と父は答えたそうだ。(私はその辺りはよく覚えていないが、後で聞いた時もお金の出し方が違うのだろうくらいにしか考えていなかった)
妻の名字になると妻が戸籍筆頭者になるということを父は知っていたのだろうか。
年をとったら一緒に暮らしたいという願望があったのだろうか。
ただ単に家を継承したいと考えていたのだろうか。
ともかく夫もサラリーマンである。サラリーマンが、とくに男性が姓を変える煩わしさは聞くまでもなく分かったので私が断った。そのほうが角が立たないと思ったから。

父は次男である。でも長男は幼くして亡くなっているので実質長男として育ってきた人。
だけど父は家を出た。要するに家を継がなかった人なのだ。でも遠くに住んでいたわけではない。
それでも生前に本家の墓とは別の墓を建てたくらいなのでやはり別意識があるのだろうと思う。
別の家、かしこまって本家か分家かで言えば分家ということになる。本家を継いだのは弟である(だけど結果的にその弟にも後継者が出来なかった)。
その父が名字を継げというのはいったいどういうことだったのか、今でもって真意はよく分からない。
私は名字を継がなかったけれど別に関係を断絶したわけではない。結婚後も今まで通り父であり母であった。
でも「嫁にくれた子」という言葉は時々耳にしたことがあった。
また父が亡くなってから近所の人などから「子供達には迷惑はかけられない」と父がよく言っていたと聞き、私はふと(それは私が名字を継がなかったから私に迷惑を掛けられないということだったんだろうか)と思った。
父にとって私は家を継ぐべき「養子」だったのだろうかとも考えた。
まあ、晩年は若干弱気になったのか、同居してくれたらみたいな希望を口にしていたこともあるけれども。

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# by yumimi61 | 2017-05-02 09:32
2017年 05月 01日
日本国憲法の秘密-462-
ソニー創業者のひとり盛田昭夫の夫人は三省堂の創業一族である。

三省堂の創業者
・亀井忠一(旧姓:中川)
・亀井万喜子

母子と記されていることも多いが母子ではなく夫妻である。

中川忠一の父親は幕臣であり江戸に暮らしていた。
明治新政府となった後、一家は静岡県沼津市に移住。生活は楽ではなかった。
亀井家は、源義経(源頼朝の異母弟、幼名は牛若丸、頼朝とは対立した)の家臣であった亀井重清の流れを汲む家だそうである。
亀井重清は伊豆の出身で、重清の母は源頼朝の乳母であったと言われる。

以前岩倉具視のことを書いた時に源家について触れたので、少々長いが引用しておこう。

岩倉具視は公家の家の出であり、幕末・明治の公卿・政治家である。
明治初期に岩倉視察団として外国を巡ったのが有名。
公家と言っても江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので家計は裕福ではなかったという。
岩倉具視は公家である岩倉家に養子に入った人物である。

岩倉具視は岩倉家に養子に入った人物で岩倉家とは血の繋がりはない。
岩倉家は第62代村上天皇の皇子を祖とする「村上源氏」の総本家(嫡流系・本家本元)の久我家の支流になる公家である。
岩倉家は鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫にあたる。
同じ源を名乗っているので分かりにくいが、幕府の源頼朝は武家(武士)であり、源通親は朝廷(天皇)に仕える公家という家柄となる。仕えると言っても天皇の分家など元々は縁戚関係にある。

源頼朝の曽祖父は源義家(八幡太郎)。「河内源氏」の3代目棟梁(嫡男継承)。
現代で棟梁と言うと、大工の棟梁を思い浮かべると思うが(もうそれも思い出さない?ちなみに現場監督とは違います)、武家の棟梁は武家の筆頭者、一番の権威者である。「将軍」とは「源氏の棟梁」のことなのだ。

源氏には嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏など21の流派があるとされている。
源(祖)は天皇であるが、皇室を離れた(皇籍離脱した)人や家のことである。
皇籍を離脱しないのが宮家である。
源氏は公家や武家を形成したり、仏門や神道を統括するなど流派によってそれぞれ違う。
現代において「源氏」と言う時には、武家源氏として歴史上に名を馳せた「清和源氏」を指すことが多い。
前出の河内国(大阪府南東部)を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)もその主流で、源頼朝を生みだした。
また足利尊氏の足利氏(下野源氏)や新田義貞の新田氏(上野源氏)も清和源氏・河内源氏の分派となる。
前に鎌倉幕府倒幕後に同祖である足利氏と新田氏が戦ったことを書いたが、鎌倉幕府の倒幕自体、実は清和源氏・河内源氏内の戦いでもあったのだ。すなわち武士同士の戦いである。
武士だけに勝ち負けの勝敗は潔く着く。
徳川家康の徳川家も清和源氏を名乗っていた。
徳川家は清和源氏新田氏の一族。新田郡(新田荘)得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。
新田氏の支流が徳川氏と世良田氏になる。

岩倉家の村上源氏は武家ではなくて公家である。

河内源氏の3代目棟梁・源義家(八幡太郎義家)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)(
美智子皇后の父方・正田家の祖先は新田義重の家臣だった生田隼人と言われている。
上野国碓氷郡(現在の群馬県高崎市八幡町・安中市板鼻付近)にあった荘園・八幡荘は頼義-義家-義国と河内源氏の拠点であったが、それを源義重が相続して新田荘とともに新田氏の本拠地となった。



●源義家(八幡太郎)→源義親(次男)→源為義(四男)→源義朝(長男)→源頼朝(長男)(鎌倉幕府将軍)→源頼家(長男)(鎌倉幕府2代目将軍)、源実朝(四男)(鎌倉幕府3代目将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→足利頼氏→足利家時→足利貞氏→足利尊氏(室町幕府将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→新田義兼→新田義房→新田政義→新田政氏→新田基氏→新田朝氏→新田義貞

※源頼朝の長男・頼家は、北条家に将軍職を剥奪され伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。北条家は伊豆国出身の豪族で鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。
藤原家が政略結婚によって中枢部に入っていったのと同様に北条家も婚姻によって源家に入り込んだ。
弟で3代目将軍となった源実朝は北条家に担ぎ出されただけであり、その後は摂関家である九条家出身者と皇族が将軍職に就いた。
摂関家は藤原氏嫡流で鎌倉時代に公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。
鎌倉幕府(鎌倉時代)には9代まで将軍がいるが、源家が実権を握ったのは2代まででしかない。源一族としては3代目まで。
その後2代は九条家出身ながら藤原姓を名乗った2人と、その後4代はみな天皇・親王の子である。
鎌倉幕府と言えば源頼朝、そのイメージがとても強い。
新田義貞は鎌倉幕府を倒したわけだが、初代将軍のイメージがあまりに強いので源一族内の権力争いのようにも思えるが実は違う。天皇家が権力を持っていた幕府を倒したのである。
でも新田義貞は天下を取る気がなく、将軍職に就いていた後嵯峨天皇ではなく後醍醐天皇に味方した。
朝廷が南北(と言っても狭い範囲の南北です)に両立し、南北朝動乱の時代を迎えるきっかけともなった。

亀井家の話に戻ろう。
亀井万喜子の祖先は家臣として源家の近くにいた。
江戸時代には徳川家康に仕えていて旗本(知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格)となった。
亀井家の屋敷は明治時代には小松宮邸(明治初期に、子沢山の伏見宮邦家親王の8番目男子によって創設された怪しい宮家)の一部となり、後に山の上ホテルだか明治大学キャンパスだかに含まれたそうな。

亀井万喜子の両親は万喜子が幼い時に亡くなってしまい、万喜子は亀井家の婿養子になっていた姉の夫の養子となった。

「婿養子」「お婿さん」を勘違いしている人がとても多いが、結婚する男女の男性が女性の名字になることや女性の実家に居候すること(俗に言うマスオさん)が婿養子の定義ではない。
婿養子とは結婚と同時に夫が妻の親と養子縁組することである。(言い方を変えれば、婚姻と同時に妻と異父母兄弟姉妹になるということである)
女姉妹しかいないような家が男の後継ぎが欲しい時、単に養子を迎え入れることもあれば、婿養子を迎え入れることもある。(養子として迎え入れ、後に実の子と結婚するケースもあった)
どんな形でも正式に養子になれば相続人(家長権・戸主権)の権利を得る。
明治民法の家制度では、女姉妹しかいない場合、長女が法定家督相続人ということになる。
家の継続を重んじていたため、法律上家督継承することになっている者(法定家督相続人)は、原則としてその家を去るような形で結婚をすることができなかった。
結婚相手に婿養子になってもらうか、自分が家督を継承し戸主となり夫を家族にするかのどちらか。
夫にしたい人も法定家督相続人ならば結婚自体無理ということになる。
戦後(昭和22年)にこの法律は改正されたが、現実的にはそれからも久しく長男長女の結婚の困難さは存在していた。
女姉妹しかいない場合、長女は「お婿さんを~」と親に懇願されるというようなことが普通にあったのである。


これも知らない人が多いかもしれないが、結婚の際に女性の姓を名乗る(選択する)ということは、戸籍筆頭者が女性(妻)になるということである。
戸籍謄本を取れば筆頭者に妻の名があり、夫はその下になる。
現代においては相続などには直接関係ないので普段はそれほど気にならないかもしれないけれど。
夫婦別姓という制度ははたしてどんなふうにするつもりなのか。戸籍を廃するということになるのだろうか。(戸籍がある国は世界的に3か国しかないそう) 子供はいつ姓を選ぶのだろうか。夫婦別姓がありならば、成人した子が親と同姓である必要もないだろう。


それから戸籍の筆頭者は死んでも変わらないものである。
戸籍から抜けたり新しく戸籍を作るのは離婚結婚した時で、死んでも筆頭者は筆頭者のままである。
戸籍に入れるのは子供であり養子縁組した養子。
親が離婚して再婚するような場合、養子縁組をしなければ、再婚前に生まれた子供は例え未成年であっても(親権に関係なく)元の戸籍のまま。
元の戸籍というのは、元夫の戸籍か、新たに母親が作った戸籍か、母親の実家の戸籍。離婚後にどうするかは姓を含めて選べる。
ただその状態から母親が再婚しても子供は養子縁組しない限り動かない。
例えば母親が筆頭者となって新たに戸籍を作っていた場合に母親が再婚すると、母親は筆頭になっていた戸籍から抜ける。戸籍の筆頭者が除籍になって子供だけが残ることになる。(これでも法律上は特に問題なし)






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# by yumimi61 | 2017-05-01 22:32
2017年 04月 30日
幼子の神頼み
私は3~4歳の頃に生死をさまよう病気をしたことがあるということは前にも書いたことがある。
その時の入院から10日間の私の様子を母が記録したものが実家に残っていた。
レポート用紙に書かれているもので、年はなく月日だけ。
10日目以降は書かなかったのか書いたけど紛失しまったのか分からないが、10日分しか確認できなかった。

======================================================
10月14日

入院 AM11:20 外来にて血液検査の後、入院。
尿便の検査、診察の結果、腸と腎臓内に出血しているための腹痛との事。
2,3日後に体に紫斑が出れば、紫斑病らしい?
4日間の絶食のため体が衰弱しているのでPM3:30より点滴はじめる。
ぐったりしていて口もきけず一人で起き上がることも不可能。
時おり腹痛あり、夜通し点滴しているのでほとんど寝ず、痛みのため時々苦しむ。
夜9:30に2本目点滴交換。

10月15日

8時朝食。おもゆとみそ汁1/4位のむ。
朝9:10点滴終わり、続いて3本目交換。
昼食もおもゆとおすまし。2,3口食べたら腹痛起きてダメ。
まだ口をきく気力なく、ぐったりねたまま。
夕食より5分がゆになるが腹痛のため何も食べない。
夜8時ごろ痛みがひどく30分ぐらい続くので痛み止めを打つとじきに寝る。
しかし30分くらいでまた起きてしまい、又30分くらい激痛で苦しみあばれているので、9時ごろ強力で寝られるという痛み止めを尻よりしてもらったがそれも効かず、相当苦しみあばれた後PM9:30の定期注射でやっと落ち着き寝る。
PM10時点滴終わり4本目入れる。
1時間くらい寝て又痛さで目が覚めPM11時頃より死にもの狂いの激痛におそわれ1晩中苦しみ、手に刺してある注射のことは忘れて床中あばれ狂ってあばれ狂って。
この痛さはもう筆には表せないものだった。
死んじゃいそう、お腹切って、先生呼んで、神様にお願いしてー、と叫び狂った一夜だった。

10月16日

朝食5分がゆ、夕べの腹痛の疲れで食欲なし。
朝6時の定期注射で又落ち着く。朝9時4本目点滴終わり続いて5本目。
夕べの激痛の疲労と寝不足のため午前中ほとんど寝る。
まだ元気はなく口もきかない。
昼食おかゆ1/3位食べる。まだ口が物足りない感じでりんごを半分ほどおろしてやると一寸腹痛起きるもじきになおる。
PM3:005本目終わり6本目入れる。回診の結果、速度が早まり80滴になったので1本6時間平均で、注射も3回から4回に増える。
体内で出血のため1週間位の腹痛は仕方ないとの事。
午後1時又ひどい腹痛。1時間位我慢しても10分間隔でおそってくるので又痛み止めをしていただく。
PM8:40頃6本目終わり7本目入れる。
夕方頃より自分で話しかけられるようになり笑えるようになる。
夕食もおかゆとじゃがいも半分くらい食べてリンゴ滋養糖のむ。
腹痛なく安眠出来た様子。
夜中1:10、7本目終わり8本目交換。

10月17日

夕べぐっすり寝たため早くから目が覚め気分爽快の様子。起き上がって本を読める。
朝食5分がゆ半分食べ、豆腐食べ、リンゴ食べる。
ずっと起きあがって髪もとかす。食欲旺盛。
10時点滴9本目入れる。
昼食半分、途中残した半分も食べる。
今日は気分よく1日寝ずほとんど起きていた。
昼食は9分目ほど食べられ、その他リンゴ半分おろして食べる。
夕方5時半10本目入れる。

10月18日
明け方4:20より痛みだし止まらないので5時痛み止め打ち、点滴も9本目終わり10本目5時に換える。
注射効かずずっと痛がり、6時に定期注射。
その後も痛みとれず6:30再び筋肉痛み止め、7:30頃やっと落ち着き寝る。
朝E先生心配してみにきて下さる。
しばらく寝てから又10:30頃より痛み出し、おさまっては痛むの繰り返しで11時過ぎまたひどいので痛み止め筋肉を打つ。
少しおさまり昼のおかずだけ2,3口食べ、薬が効いてきて楽になり眠る。湯たんぽにて腹を温める。
午後も一時痛みにおそわれる。夕食も食べず。
夕方5時半点滴10本目終わり11本目。
痛み PM5:00 5:30 6:00
7時くらいにおさまる。
PM8:40点滴もれたためはずす。
PM9:50頃より差し替え。1回目逆流してやり直し。2回目の同じところに入れたがうまく入らず。
又別の血管を切ったが細くてビニール管がなかなか入らず、これも2回くらい刺したが血ばかり出てなかなか入らず、痛くて泣き出してしまい、涙がこぼれた。
やむなく3本目の血管に今度は細いトンボ針で入れてやっと成功。
同時に腹も痛んだので痛み止めを夜中12時頃打ち寝る。
明け方5:30落ちなくなっているので又はずす。手を解放して朝まで寝る。

10月19日

9時T先生回診。AM10:20点滴入れ直す(12本目)
足、最初やはりうまく入らず何回もして相当痛く泣く。一度に入らないので恐怖症になる。
反対の足に又さして成功。
朝食食べず、みかん1ヶ、番茶。昼食1/2、リンゴ半分食べて一寸腹痛。夕食全然。
PM4:00から痛み30分様子見てダメなので痛み止め打つ。30分おさまって5時又痛い。6時になってもとれず注射。6:30うとうと寝る。又すぐ痛む。
PM6:20に点滴12本目入れる。
(PM5:30K先生様子見に来て、痛み止めもそう打てないが、いよいよとれない場合は麻酔を打つと言った)
寝ようとしているが痛みがおそって20、30分するとむっくり起き上がり、いたいいたいと叫ぶ。
苦し紛れの叫びの中で「なおちゃん、なおちゃんに会いたい、なおちゃん!!」と叫んでいる。
隣のベッドのなおみちゃんが自分が呼ばれていると思い「私呼ばれてもどうしてもやれない」と悲しい声で顔をおおって答える。
可哀想がって自分のおもちゃをくださる。
でも全然痛み止まらず叫び続ける。相当がまんしてもしきれず、「先生!!看護婦さん、お願い、お腹切ってばい菌と血出して」とか、「神様お願い」といいながら手を合わせ苦しんでいるのを見ていたたまれず看護婦さん呼ぶ。
もう2本注射打ってあるからそうは打てないと言う。少し様子をみるよう指示。
陣痛のような激しい痛みが5分間くらいおそって又少しおさまり静かになり、又20分くらいすると大声で叫ぶの繰り返し。
痛みでじっとしていられず、たえず体を動かしてはあばれまわっているが、足に刺されている点滴注射で思うようにならず相当の苦痛。
夜中12時痛みとれず、看護婦さん当直の小児科ではない先生を呼んで下さる。
腹が大きく張っているが浣腸は腸を刺激するので好ましくない。注射ももう限界らしいがやむなく12:20又痛み止め。ほとんど寝られない。

10月20日

6時検温37.8℃。6:30便あり。7:40血液検査のため採血。7:30点滴14本目(350cc)
10時回診により点滴40より60滴になり、昼食より又おかゆからおもゆに変更。
検温10時37.4℃。PM2時37.2℃、PM6時37.3℃。
昼食果汁。正午15本目点滴。午後元気が出る。
夕食おもゆ全部。スープ半分、ジュース全部。
PM7:50点滴16本目。夜中3:10に17本目入れる。
夜は静かに寝たが今日よりベッドが1つになり私はほとんど寝られず体がくたくた。
夜も点滴をみたり、足の刺してある所をみないと絶えず危険なので寝るひまがない。

10月21日

朝方4時ごろより痛み出し、4:30、5:00、6:00と激痛。
10分くらい直って又10分位痛み。いつもの痛みで一番ひどい。
大声で絶叫。死んでしまうとか、バカーとか、どうしてなおらないのママのうそつきとか、先生のうそつきバカーとすごい叫び。
ほとんど止まる間がなかったのでT先生朝見て下さる。
尻より出血のためと腹痛のため今度はE先生が見て禁食と輸血の必要性。
50ccの輸血。又痛くて大声で叫び、大あばれし、他色々の注射。注射も今日より4回の他あと3回増える。
AM11:20頃の輸血でやっと寝る。11:30に17本目点滴。禁食なのに食事来る。
PM3:30頃、姉と姪がお見舞いに来て下さったが重体で寝たきり話も出来ない。目が覚めてかすかにうっすらと目をあけてうなづくだけ。
PM4時近く園のK先生みえる。もも組のお友達にかかせた画集つづりとパンダちゃんいただいたがもうろうとしていて聞くことにうなづくだけでしゃべろうとはしない。
一通り病状を説明して、間もなく帰る。
午後よりお腹の痛みは全然起こらずほとんどぐったり寝たまま。
夕方頃から周りにつられて何か食べたくてしきりにお腹すいたを連発。
もうなだめるのに苦労で苦労で看護婦さんやみんなになだめられてうなづくものの、お腹が痛くなければもう口がさびしくてさびしくて食べたくて、もう可哀想なほどで涙が出るのをじっとくいしばる。
夜10時18本目入れる。
今日こそ痛みなくゆっくり休めると思ったが夜11時頃よりやはり痛み出し午前4時近くまで熟睡せず起きたり横になったりうとうとしていて一時も休まらず今日もまた寝られなかった。
夜中の12時定期注射ゴムより2本、筋肉1本。

10月22日

6時の起床体温36.9℃。朝7時点滴19本目、PM4:30に20本目。
AM6時 ゴム注2本、筋肉注1本、PM2:00筋肉注射。
AM5時出血あり、シーツが赤く汚れていた。
6時に注射してからまた静かに寝て8時40分ごろ起き、9時におしっこをとったら最初血液がどっとあふれ、その後から尿が出た。
T先生回診にてまた緊急に輸血必要となり、姉たちにTEL。
12時少し回って輸血。
午後は気分がよくなり、又食べ物がほしくてほしくてなだめすかしても我慢しきれず、人が食べていると口を開くほど食べたい様子。でも我慢せねば禁食の意味がないから泣いていて可哀想だけどどうすることもできない。痛い苦しみよりよっぽどましだと思う。

10月23日

夕べ全然痛みなく初めて朝まで静かで、昼間も元気出たらお腹すいた連発。
朝の回診で腹の具合も前よりよく、痛みもなく食欲を訴えるので今日一日我慢して明日より流動食を考えるという。あとは点滴・注射とも変わりなし。
輸血もする。PM2時ごろ輸血。
その後も変わりなかったが午後より手が紫色になってはち切れそうにふっくらと腫れてしまう。
K先生PM3時頃様子を見に来たが変わりなし。
手の僅かな腫れは血液のせいらしいが、心配ないと言うが次第に腫れは増して熱を帯びたので当直T先生見てくださり、同時にPM5時頃より又痛みあり、PM6:30頃痛み止め打つ。
その後晴れのほうがひどく痛がるので、T先生みて止血剤を打っていただく(7時ごろ)。
冷えタオルで手を冷やす。

=============================================

皮肉にもと言おうか最後は止血剤を打ったところで終わっている。
アンダーラインは母の記録では波線で引かれていた。同じペンで書かれてあり後年引いたような感じではない。
以前病気のことを書いた時に私は「後に問題となった血液製剤が使われたのか、そのあたりははっきりとしない。」と書いたのだが、どうやら止血剤(血液製剤)も使ったらしい。


薬害肝炎全国弁護団

原告になるための要件
昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までに製造・販売された血液製剤(フィブリノゲン製剤・および第9因子製剤)は、C型肝炎に感染する危険性が極めて高かったと考えられています。

昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの間に、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用された可能性があり、これによりC型肝炎に感染した可能性があります。

薬害肝炎訴訟では、昭和39年(1964年)頃から平成6年(1994年)年頃までの間に、血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を投与された方で、かつ、C型肝炎に感染された方について、損害賠償請求訴訟を起こしています。

なお、血液製剤は、患者に知らされないままに使用されているケースがほとんどです。

C型肝炎に感染した方で、次の医療機関で、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤が使用された可能性が高いと思われます。
→ フィブリノゲン製剤納入医療機関の検索

現在、薬害肝炎訴訟では
1.C型肝炎に感染した方(インターフェロンにより治癒された方も含む)
2.昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの期間に血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用されたことが、何らかの手段で証明できる方

が原告となっています。



http://www.okatani.or.jp/hp/html/info_fibrin.html
 フィブリノゲン製剤は、1964年に製造承認され、C型肝炎ウィルスの不活性化処理が十分にされるようになった1994年まで、30年間にわたって手術などで危険な使用が続けられました。
 主として出血を止める止血剤として使われましたが、この血液製剤からC型肝炎ウイルスに感染し、それが原因でC型の慢性肝炎になり、肝硬変、肝がんになる方がいることもわかり、社会問題となっています。
 それは十分な審査をせずこの血液製剤の製造・販売を認めた厚生省(当時)と、高率に肝炎が発生する危険があることを添付文書に明記しなかった三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)に責任があります。
 東京、大阪、札幌、名古屋、福岡ではフィブリノゲン製剤で肝炎になった患者さんが国、製薬メーカーを相手取り訴訟を起こしています。
そして重要なことは、フィブリノゲン製剤を使用してC型肝炎ウイルスに感染しているにもかかわらず、そのことを知らされていない患者様がいることです。
当院ではフィブリノゲン製剤の使用状況を調査し、使用した患者様、あるいは使用したことを否定できない患者様などにはご連絡をとり、C型肝炎ウイルスに感染しているかどうかの検査をお勧めする活動を行なっています。




1964年から1994年に血液製剤を使った人が感染している可能性があるということだが、その1964年というのはライシャワー事件(駐日アメリカ大使が精神疾患患者に刺され輸血したところC型肝炎に感染した)が発生した年であり、血液銀行業務を日本赤十字社が独占した年でもある。
ライシャワー事件によって売血批判が巻き起こり、事件から5カ月の1964年8月28日、閣議決定により血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。
路線転換を迫られたミドリ十字社は、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索し、閣議決定のまさにその日1964年8月28日に社名を「日本ブラッドバンク」(創始者は軍医)から「株式会社ミドリ十字」に改称した。(創業以来、緑の十字が社章であった。緑の十字は国際的には薬局のマーク)
何らかの裏取引があったのでは?
1982年に創業者が急死した後は、多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権が握られることとなった。
止血を目的とした非加熱血液製剤の投与によって患者がHIVに感染し死亡した事件(薬害エイズ事件)はこの後に起こっている。
三菱ウェルファーマは事件発覚後にミドリ十字を吸収合併した。


・22年間ずっと出産時の輸血による感染だと思っていました。病気になったのは、天災のようなもので仕方がなかった。命があるだけでも感謝しなくてはいけないと、己に言い聞かせてきましたが、事実が分かった時は、あまりの展開にめまいがしました。

・私は、昭和59年まで3年程看護師をしていました。その当時、日常的にフィブリノゲン等の血液製剤を出血時に使用していました。私も何度か、あの小さなボトルを点滴台に下げたと記憶しています。そして、手術後、輸血後、肝炎ということで、具合の悪くなる患者にも接していました。1987年に胎盤はく離で死産し、2週間入院した時に医師から言われたのは、「最近、肝炎になる人が多い。必ず検査を受けてね」ということでした。新鮮血の使用については説明がありましたが、血液製剤については何も説明はありませんでした。その時の医師の困惑した様子がずっと気にかかり、何だか違和感を覚えてしまいました。新鮮血では、そんなに肝炎にはならないのではと、ずっと疑問に思っていました。2002年にフィブリノゲンの件が明るみに出て、自分への使用を確信しました。2007年、出産した病院に電話をして、フィブリノゲン使用が判明しました。その時、もやもやしていたものが晴れた気がしました。同時に、製薬会社の責任感のなさに腹が立ちました。

・手術時に輸血もしているので、ずっと輸血による感染だと思っていた。止血剤が原因と知り、輸血に協力してくれた方々からの感染ではなかったことが分かったことが、嬉しかった。

・出産時帝王切開手術で、当時は輸血8本しましたから、原因はそれだと思い、血液製剤が使われていたとは夢にも思わなかった。2度の流産。やっと授かった子供と私が生死の境にあり、親子共々助かり、宝をいただいたが、一生共にする病気になり、憎むこともできず、娘を得た事は、自分の命より大切です。インターフェロンは2回やりましたが、効果はありませんでした。副作用がとても辛いです。又、3回目に挑戦したいと思っています。複雑な気持ちで一杯です。

・輸血後の肝炎だと思っていて、それで命が助かったのだから仕方がないと、前向きに治療などして生きてきたが、血液製剤が原因だった時は、非常にショックを受けた。

・当時は輸血感染だと思って、命が助かったのだから仕方がないと、自分を納得させていた。止血するために使われた血液製剤で感染したことは、納得できなかった。しかも、効果はなかった。

・輸血も同時に受けているので、いろいろ複雑です。


http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/03/dl/s0300-1a_Part9.pdfより






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# by yumimi61 | 2017-04-30 16:11
2017年 04月 29日
Crossover
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# by yumimi61 | 2017-04-29 23:59
2017年 04月 28日
日本国憲法の秘密-461-
貴族とは何か?
貴族とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する
貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。


イギリスにはいまだに議会を構成する貴族院が存在する。

日本で言えば、天皇と天皇が特権を与えた人々が貴族に該当するわけだが、貴族というものが浸透してこなかった。
その1つの要因が平安時代に大きな転換があったからであろう。古代からのヤマト(大和)朝廷が乗っ取られるような形で終わってしまった。
その平安時代に華やかな貴族社会が形成される。
京都の朝廷で天皇に仕える貴族は公家として別扱いされるようになる。
しかし平安時代末期に地方に経済的・軍事的基盤を持つ武家が現れ始めた。平家や源家はその代表格。
そして1300~1500年頃には天皇・皇族・公家は経済的・政治的実権を喪失した。
これが復活したのが1800年代後半の明治維新である。

●天皇家
●公家(公家の中でも最高幹部として国政を担う職位にあるものを公卿という)

平安時代に公家の中でのも格式や家格が定まってきて公卿になれる家筋は限られるようになった。
平安時代末期には武家にも公卿になる道が開かれた。

●将軍徳川家
●大名
 親藩:徳川家の親戚(御三家・御三卿など)→格式は高いが権力が集中してしまうため幕府の役職には就かない
 譜代:代々徳川家に仕えてきた家臣
 外様:関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した大名と戦後に服属した戦国大名

大名分類は上記の類の他に知行石高(領地の大きさ)も関係する。
大名という名称のルーツは鎌倉時代にあり、大きな名田(荘園・領地)を持っていた者のことを言った。
また一国以上の領地を持つ大名を国持ち大名とも言った。前田家、島津家、毛利家はその代表格。
(国というのは上野国や下野国などのことで現在の県と考えてよいと思う。藩はその中にあるもので現在の大きな市といった感じ)

●幕臣・・・幕府直属の家臣全て。
 旗本:知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格にあったもの。
 御家人:知行が1万石未満で将軍に直接謁見できない家格にあったもの。


会社で例えると、德川将軍家が株主であり社長。
親藩が株主。
譜代が本社勤務で役職に就くもの。
外様が子会社で役職に就くもの。子会社などの社長。
幕臣は本社所属の従業員。その中にも社長に直接面会できる人とできない人がいる。
武士というのは公務員であり会社の従業員であった。
自由業ではないので何でも自分の好きなことが出来るわけではないが、お給料がもらえ比較的安定した生活を送ることが出来る。
大名や役職に就けばかなりの権限が与えられて好きなことも出来るようになる。
しかし公務員や従業員は命令によって時には危険な仕事やきつい仕事もこなさなければならない。上下関係もある。
この武士という職業は(商家や農家と同様に)世襲が可能だった。
支持率が高く物事が上手くいっている時に首にしたり解散しますか?という話ですよね。

幕府というのはいわば巨大な会社であるわけだが永久未来その地位が保証されているわけではない。油断をすれば倒されて、別の会社、別の社長になることもある。
世襲にするか、部下を誰にするか、選ぶのは社長であり株主。

一方、君主という存在は動かない。実権を持っている持っていないの違いはあっても、「家」であり「世襲」である以上、それが全く関係ない他の家に移ることはない。正面切って奪うということも不可能。実力や暴力でどうこういうものではない。
奪いたければ正攻法ではダメである。人を騙す、欺く必要がある。
しかしながら世界には君主という存在自体が終わりを迎えた事例が幾つもある。君主を制度と考え廃止に追い込んだわけである。そこには大きな民衆の力が働いた。

実権を失っていた君主という権威を大々的に復活させ、華族制度を敷いたのが明治政府であった。
世襲による特権階級を認めた。それは民主主義に反するものである。世界の風潮の逆をいった。


「家制度」が設けられたのも明治時代のこと。
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
家長権は戸主権として法的に保証されていた。


「江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている」とあるが、これは武士が世襲可能だったことに由来する。
また武士という職業は必要とあれば戦に赴くわけで、そんな危険な任務を女性にさせるわけにはいかないということで、男性から男性へ継承されたのは仕方がないことでもあった。
江戸時代が特異的なのは戦争を行わなかったこと。非常に平和な時代であった。
従って戦争に駆り出される武士という職業が他の時代よりもお得な職業に思えたのではないだろうか。
その平和な時代の反動なのか、戦争をしたくてしかたない人がいたのか、明治時代から昭和の前半は富国強兵路線を直走った。


江戸時代というのはどちらかと言えば家の縛りは緩かった。
藩や長屋的な集まりの中で人々は暮らし、日常においては誰が誰の子であるかとかはそれほど重要なことではなかった。
時に外国から日本の家制度や日本企業の家体質は異質とみられることがある。
では何に違和感を感じるのだろうか。
赤の他人が家族のように付き合うことを異質だと感じるのか、それとも家父長的な世襲を異質と感じるのか、
日本の「家」が社会構造やシステムの問題として語られることがあるが焦点がいまひとつはっきりしない。
もっとも世界の風潮に反して君主制や貴族制度を復興させたことは確かに間違いなく異質ではある。


明治時代の民法で定められた「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。
戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。
一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。


家長権は戸主権として法的に保証されており、「家」の財産など諸々は家長権(戸主権)とともに継承した。
これが「家督を継承する」ということである。
現代においては、妻や子(同一戸籍に入っているかどうかに関係なく)が法定相続人にとして認められ財産を得る権利が定められているが、明治時代には戸主を継ぐ者だけが相続できた。













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# by yumimi61 | 2017-04-28 14:44
2017年 04月 27日
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# by yumimi61 | 2017-04-27 23:37