2017年 07月 20日
日本国憲法の秘密-519-
日本人がロックフェラーやロスチャイルドと聞くと「また陰謀論か」ぐらいにしか思わない人が多いだろう。それくらい雲の上の人、現実離れした存在なのかもしれない。
大富豪でもないし投資もしないから関係ない、関わりがないという人も多いのかもしれない。
リーマンショックで相当名を売ったリーマン・ブラザーズならばどうだろうか。
世界金融危機に繋がったから自分にも関係あると思うのだろうか?それとも遠い世界の話なんだろうか?
ゴールドマン・サックスはどうだろう?
ロックフェラーやロスチャイルド、リーマン・ブラザーズに比べたらもう少し現実的な存在に映るだろうか?

私のこのブログにもゴールドマン・サックスが何度か登場している。

六本木ヒルズから10年
ITや投資会社の起業家たちの拠り所であり、その後、ステータス・シンボルとなった六本木ヒルズ。
一時期よく、IT長者と芸能人の交際や結婚が報じられていたが、芸能人も多く、政界関係者も出入りしていた。
ヒルズ族という言葉も流行った。
何をしているのかは知らないがヒルズ族の親睦会なるものも催されていたらしい。

六本木ヒルズは2003年4月25日(尾崎豊の命日)に開業。
リーマン・ブラザーズの日本法人である「リーマン・ブラザーズ証券」は破綻する前、六本木ヒルズ森タワーの29〜32階に入居していた。
同じく森タワーに入居していたライブドアの堀江社長は2004年〜2005年頃、テレビにも頻繁に出演する時の人だったから、横手(千野アナウンサー)夫妻もよく知っていたのだろうと思う。

森タワーオフィスフロアーの最上階部分(42〜48階)を陣取るのは「ゴールドマン・サックス」の在日法人グループ。
33階は「J-WAVE」というFMラジオ局。(おかしいでしょ?いや別におかしくないから?いやいやおかしいわよ?)
日本の新進起業家たちが失墜していき、入居企業は外資系が多い。
ヒルズの落日と呼ばれるまでになったが、森タワーの高層階からは栄枯盛衰の世を眺めることができるのだろうか。
昨年3月8日には、政界と結びつきの強かった森ビルの会長も亡くなった。
六本木ヒルズは森タワーは何処に行くのだろう。



クリントン夫妻の娘
1980年生まれのチェルシー・クリントン。
彼女もアイルランド好き。
クリントン大統領のルーツでもあるので当然かもしれませんが。
バカンスにも訪れています。
スタンフォード大学では北アイルランドについての論文を書いたそうですが、その論文が公表されないので何か怪しいと言われたりもしています。
卒業後はニューヨークのヘッジファンド、アベニュー・キャピタル・グループで3年間働くものの、仕事への意欲が感じられなくなり2009年に退職。
しかし金融業界を高く評価していることには変わりないそうです。
その後、コロンビア大学で公衆衛生専攻での修士号を得ます。
現在は同大学で複数国間の衛生政策について教えながらオックスフォード大学から国際関係学の博士号取得を目指しているとのことです。

2010年、彼女は大学時代の友人で現在ゴールドマン・サックスに勤務する男性と結婚。(彼の親も政治家)
「好き好き好き好きメズビンスキー」と言ったかどうか。
宗教の違いを有耶無耶にして乗り越えて、ユダヤとの結びつけを強めました。


再び三洋電機(の話題)←ボブ・ディランが歌詞に出てくる『学生街』の歌詞も掲載した。
それからこちらも興味深い記事です。
三洋電機〝崩壊〟の裏でゴールドマン・サックスがやったこと。(パート3まであります)
三洋電機は金融機関の仕掛けた罠に嵌ってしまったということらしいです。
敵か味方か、昨今は演技派も多いのでなかなか分かりにくいですね。
でもまあ、会社内部に入り込んだ関係者がいたわけですね。 


ゴールドマン・サックスとは?(過去記事リンクは同上)
世界最大級の投資銀行で、ウォール街の主と言われているのがゴールドマン・サックス。
大手企業の株を買い漁り、空売りも辞さないというやり手の銀行。
ライブドアやソフトバンクなど日本の新進企業の資金源になっていたとも言われています。
ソフトバンクとはずぶずぶの関係だとか。(噂の持田社長や坂本龍一氏の名前も出ています)
お・と・も・だ・ち?

(略)

分からないということ
【ソニーの大株主】−2012年3月31日
1.日本トラスティ・サービス信託銀行 10.99%
2.MoxleyandCompanyLLC(常任代理人:三菱東京UFJ銀行) 5.42
3.日本マスタートラスト信託銀行 5.1
4.SSBTOD05Omnibus Account Treaty Clients(常任代理人:香港上海銀行)  2.39
5.Mellon Bank NAas Agentforits Client Mellon Omnibus USPension (常任代理人:みずほコーポレート銀行)0.87

【ソニーの大株主】−2013年3月31日
1.日本トラスティ・サービス信託銀行 9.8% 
2.MoxleyandCompanyLLC(常任代理人:三菱東京UFJ銀行) 5.6
3.日本マスタートラスト信託銀行 4.7
4.Goldman, Sachs & Co.Reg 2.3
5.SSBTOD05Omnibus Account Treaty Clients(常任代理人:香港上海銀行) 2.3

大きく変わったのは4位にゴールドマン・サックスが入ってきたことである。
ソニーは2012年11月に転換社債を発行し1500億円調達している。
社債発行の主幹事会社は、ゴールドマン・サックス、JPモルガン、野村インターナショナル、SMBC日興証券であった。
利息(クーポン)が無いかわりに額面金額よりも大幅に低い単価で売りに出され、償還日に額面金額で償還される「ゼロクーポン債」で発行された。
ソニーの株価が957円に達すれば株式への転換も可能。
全てが株式に転換された場合には、発行済み株式の約13%に相当する。



ゴールドマン・サックスの創業者はドイツ・バイエルンからの移民であるユダヤ人マーカス・ゴールドマン(Marcus Goldman)である。
1869年にアメリカで会社を設立。
1882年に末娘の夫であるサミュエル・サックス(Samuel Sachs)が入社する。
そして社名を現社名でもあるゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)にした。

サミュエル・サックスはアメリカ生まれ(1851年)だが、両親がドイツのバイエルン出身の移民であった。ユダヤ人である。
サミュエル・サックスは妻の父親が創業した会社に入る前、リーマン・ブラザーズにいた。

リーマン・ブラザーズはエマニュエル・リーマンとマイヤー・リーマンという兄弟が創立した会社。
兄弟の父はドイツのバイエルンからの移民で家畜商人だった。
リーマン・ブラザーズの創業者の1人であるエマニュエル・リーマンの息子フィリップがサミュエル・サックスと友人であった。
息子フィリップも父の会社リーマン・ブラザーズに入社し、初の取締役議長にもなった。
息子フィリップ・リーマンとその友人であり社員であるサミュエル・サックス2人は、新会社設立の資本金調達に株式を発行するという手法を編み出したイノベーターであった。
お金がある人が新会社を設立できる、お金持ちに個人的にお金を借りて新会社を設立する、ということではなくてお金が無くても広く資金を調達できるようになるわけである。
チャンスが広がると言えば確かにそうだが、借金ベースの世の中を作ったとも言えるのではないだろうか。


リーマン・ブラザースと・ゴールドマン・サックスという会社はサミュエル・サックスという人物を介して繋がるのだ。
そして全てドイツのバイエルン出身のユダヤという家系である。

  リーマン・ブラザーズ・・・・・(サミュエル・サックス)・・・・ゴールドマン・サックス
              友人・社員           姻戚・社員

トゥーレ協会もイルミナティも、ドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党;ナチス)も本部はバイエルンにあった。


ゴールドマン・サックスは1906年にSears, Roebuck and Company(シアーズ)の株式公開を担当し、株式公開市場に参入した。
シアーズ(Sears)は、アメリカ合衆国イリノイ州に本部がある百貨店。かつてシアーズ・ローバック(Sears, Roebuck and Company )によって展開され、カタログによる通信販売で知られた。また衣料など日用生活品以外に工具、カー用品などDIY用品のプライベートブランドを持つ。2005年に同業のKマートと合併し、持株会社シアーズ・ホールディングス下の事業会社・店舗となっている。
創業者はやはりユダヤ人であり、ゴールドマン・サックスがこの会社の株式公開を担当したのも個人的な付き合いからであった。

シアーズの創業経緯はなかなか面白い。
1886年、ユダヤ系のリチャード・シアーズはアメリカ・ミネソタ州で駅長をしていた。
当時のアメリカは鉄道会社が郵便輸送だけでなく配達も担当していたらしい。
ある日、シカゴの宝石会社が送った時計の入った荷物が宛先人によって受領を拒否された。
当時、卸売り業者が小売業者に委託販売用の商品(荷物)を送るということが一般に行われていたそうである。

卸売業者とは、生産者から商品を仕入れて、企業や小売業者に販売する人(問屋・中間業者)である。
消費者に販売するのは企業や小売業者。
 生産者→卸売業者→小売業者→消費者
生産者には農家や漁師などもいれば、工業製品メーカーもいる。
間に入るとその間の人もそれぞれみな利益をあげなければならないので、通常間に入れば入るほど商品価格は高くなるか、生産者の単品あたりの儲けが少なくなる(中間業者を入れずに同じだけ数を捌けるかどうかは別問題)。
間を抜いてしまえば、もっと安い価格で消費者に提供できたり、生産者がもっと高い価格を提示出来る。
築地市場とか豊洲市場はいわばその中間業者である。
産地でもないのに「築地ブランド」って何?と思うのだが、首都であり日本一の人口を抱える東京という都市にあるだけに数が捌ける市場という意味での「築地ブランド」だろうか。(だったら豊洲でも同じではないかと・・)

当時のアメリカでは卸売業者が頼まれてもいない商品を小売業者などに勝手に送りつけて在庫品を処分しようとすることが時々あったそうである。(送り付け商法)
またあえて存在しない住所や虚偽の住所宛てに荷物を送り、配達が不能であったことを連絡されると、その係員に安く売るからと売買を持ちかけるという方法も行っていた。(同情商法・誤発注商法)←インディーズでのCD販売や台風被害や災害地を名乗っての果実や野菜販売、障害者や子供連れ販売などを見たことあり。ネット社会な現代ではコンビニなどが誤発注商法を行っているのも時々見かけます。

リチャード・シアーズはシカゴの宝石会社からまとめて安く時計を買い、それを売る会社を設立した。いわば中間業者になったわけである。(現代社会にも訳あり商品のみを扱う競り市場があります)
「満足していただけなければ返金いたします」という今でもよく聞く宣伝文句はシアーズが発案したものである。

がしかし、起業ってそんなに簡単なことではないし、企業もそうそう上手くいくわけではない。
翌1887年、会社をシカゴに移転し、後に共同経営者となるアルバ・ローバックが入社する。
1893年、 社名をSears, Roebuck and Companyとする(共同経営)。
その年に1893年の不況で商品は売れずだぶつくようになる。(疫病神?)
1895年に共同経営者であるアルバ・ローバックが退社してしまい、オーナーがそっくり変わることになる。
この時にオーナーになったジュリアス・ローゼンウォルドがゴールドマン・サックスと旧知の仲で、1906年に同社へ株式公開を依頼した。
この新オーナーもドイツ系ユダヤ人。
アフリカに寄付するなどの慈善活動家でもあり、シカゴの科学産業博物館の創設者であり館長も務めた。
彼はどうせ卸業者が小売業者に配達するのだから、小売業者にではなくて消費者に直接届けてやれば手間暇が省けるではないかと思ったのか、それとも交通費かけて買い物に行くとお金がかかる(何とってもアメリカは広い!)から送料を多少乗せたとしても消費者にとってはそのほうが便利だし安く提供できると思ったのか、分厚いカタログを作成。聖書の次に読まれる書物とまで言われるようになった通信販売の先駆者である。
アマゾンはシアーズのインターネット版といったところでしょうか?


シアーズは1900年半ばにはアメリカ最大の、そしてまもなく世界最大の百貨店(総合スーパーマーケット)となった。
その本社ビルとして建設されたのがシアーズ・タワーで、当時はアメリカ一、世界一の高層ビルディングだった。
2013年よりアメリカ一の超高層ビルはワンワールド・トレード・センターになったそうである。

シアーズ・タワーは同社の繁栄の象徴であった。後に同社は事業拡大の失敗等により経営不振に陥り、1994年にシアーズ・タワーは売却された。シアーズの命名権自体は2003年に消滅していたが、その後もビルの名称は変更されずに残され、シカゴダウンタウンのランドマークの名称として地元民・観光客に親しまれていた。


しかし流通業者が都心の中心部に高層ビルでは如何せん使いにくい。シアーズには不向きなビルであった。
また経営不振も手伝って10年あまりで郊外にお引越ししたそうである。
その後、ビルディングは売却され、2009年にはイギリス系保険関連企業のウィリス・グループ・ホールディングスが命名権を取得してウィリス・タワーに改称された。

ウィリス・グループ(Willis Group Holdings Limited)
バミューダ諸島に本社を置くイギリス系保険関連企業。ニューヨーク証券取引所に上場している。
本拠地はロンドンのウィリス・ビルディング。
登記上の本社を2009年にアイルランドに移して、持株会社はアイルランドの法人となっている。

ウィリスはヘンリー・ウィリスによって1828年にロンドンに設立された会社から発展した企業であるが、大きな転換点がある。
1990年にアメリカに進出し、1998年に大手投資会社コールバーグ・クラビス・ロバーツに買収された点である。
買収したコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)はニューヨークの会社である。
ウィリス・グループと名乗っているが、もはや登記上もオーナー的にもイギリスの会社ではない。

コールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)の3人の創業者はいずれもユダヤ系で、投資会社ベアー・スターンズの出身である。
KKRも企業を買収して(あるいは上場前の企業の未公開株を得て)、企業を価値を高めてから転売する投資会社である。
その中でも最も得意としている手法がレバレッジド・バイアウト(LBO)。
KKRに資金を提供しているのはグループ・ブリュッセル・ランバート。そう、前に書いたベルギーの投資会社である。

通常買収にはかなりまとまった資金が必要である。この資金を調達する必要がある。
つまり買収する側も誰かから資金を借りるわけである。
お金を借りるからには何か担保が必要である。
レバレッジド・バイアウト(LBO)とは、その担保が自分が所有している資産ではなくて、これから買収しようとしている企業が保有している資産やその企業が将来生み出す利益でよいというのが大きな特徴。
手持ちの資金や資産がなくても買収を仕掛けることが可能で、小が大を呑み込むチャンスがあるというわけ。
しかも、買収のために借りたお金は買収された企業が返済していくというもの。
買収された企業は多大な借金を背負わされるのに、買収してオーナーになる意味?ほら、収支と資産価値は違うのでね・・。
ライブドアがフジテレビ買収騒動がLBOだったし、ソニーを買収するつもりもあったとか後で言っていた。
六本木ヒルズ開発の資金調達もこれに似たノンリコースローンであった。
お金を借りた人が(例えば森ビルが)借主に返済できなくなった場合にも、担保である六本木ヒルズを渡せばそれで返済義務はなくなるというもの。
物件売却額で例え借りた額が帳消しに出来なくても、それ以上の返済は必要ない。責任が自分の資産に及ばず、自分の借金になることもない。
要するにこれもお金を借りる人の資金力(返済能力)に信用を置いているのではなく、不動産など物件の収益力に信用を置いたものである。

10年で本社を移さざるをえなかったシアーズもシアーズ・タワー建設の資金をこの方法で調達したのではないだろうか。
流通業のシアーズがシカゴ中心部に超高層な本社ビルを建てたのは最初から間違いだった。
だけどシカゴ中心部のアメリカ一・世界一の超高層だからこそ物件の収益力はあったわけである。
シアーズは結局、2002年に破綻した企業(Kマート)に2004年に買収されて2005年に合併した。シアーズの名が使われているが、シアーズはあくまでも買収された側で傘下に入った側である。





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# by yumimi61 | 2017-07-20 15:47
2017年 07月 18日
日本国憲法の秘密-518-
億万長者に騙されるな!億万長者よ騙されるな!?

どんなものでも安く買って高く売ればその差額が儲けになる。
信用の下がった(株価の下がった)企業の株を買って、企業価値を上げて高く売れば儲けに繋がる。
EMIを買った「テラ・ファーマ・キャピタル」はこれを試みたが企業価値は上がらず失敗に終わった。

一方、バークシャー・ ハザウェイがウェルズ・ファーゴの株を永久保有銘柄と認定していたように、もしも永久に株を手放さずに保有し続けるとなれば、現金にはならない。
株は資産の1つに数えられ時価に見合った資産となるが、それを売らない限りあくまでも「資産価値」であって現金ではない。
資産価値のある株券だって状況によってはがただの紙切れになってしまうこともある。

気持ち(資産価値)はお金持ちだが、実際(現金)はお金持ちではないということも無きにしも非ず。
土地貧乏とか文化財貧乏とか言う人がいるけれども、貧乏かどうかはともかく売らなければお金にはならない。(資産価値のない土地などは売ってもほとんどお金にならないので、土地はあるけど貧乏であるという人も確かにいる)
不動産貧乏と言う人もいれば、相続税貧乏対策のために不動産に変えたほうが良いと言う人もいるけれども。


ともかく現金を持っている億万長者と、株式や不動産といった「資産価値」による億万長者は、同じではない。
通常資産価値だけで生活していくことはできない。日々の買い物に株券や不動産を出すわけにはいかないのである。(株主ならば配当や優待はあるけれども)
売買や投資や寄付をする相手が、「株式や不動産でもよいです」と言ってくれれば価値は価値のまま使えるが、一番融通が利くのはやはり現金であろう。
外国の貧しい人に寄付するのに日本企業の株式や日本の不動産なんかあげたって意味がない。そういう意味では日本円も同じく。
そうした意味のないものを意味あるものにするために、間に人や会社が入ることもある。
間の人や会社が買い取って相手方の必要なものに変えてあげる。。
間に入る人や会社はボランティアではないので利益を上げる必要がある。まごまごすればどこに寄付したのか分からないといった状態になる(間が取ってしまって相手方には僅かしか、あるいは全く渡らない)。
間に入る人や会社が資産価値を担保に融資する(現金を代わりに出す)という方法もある。この場合、資産家は資産もあるけれども同じだけ借金もあるという状態になる。資産価値は永久ではなく時価なので、資産価値が目減りすると怖い。


いくら資産価値があるとはいえ、売りたい時に売りたい価格で売れるとは限らない。
売りたいときには足元を見られることも少なくない。
また株式を保有している理由が転売による金儲けではなく他の理由であった場合、たとえば企業掌握や企業コントロールなどであった場合には、売ったら意味がなくなるので売ることはできない(売りたくない)。
大株主であるからこその権力なのだから。

聞かれもしないのに資産(100億円)は全て現金で借金はゼロと言い切る某資産家は確かになかなか強かではある。心配なのは相続でしょうかね?



経営破綻したのに大儲け?

以前書いた記事に、マイケル・ミルケンと関係のあるらしいグッゲンハイムは、ロサンゼルス・ドジャースやテレビ番組製作会社ディック・クラーク・プロダクションズを共同買収していると書いた。


ロサンゼルス・ドジャースというのアメメリカのプロ野球メジャーリーグ(MLB)ののチームです。
日本はセントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の2リーグ全12球。
アメリカはナショナル・リーグとアメリカン・リーグの2リーグ全30球団。
アメリカはその昔、5つも6つもリーグがあり、二大政党制ならぬ二大リーグ制になったのは1901年のことなんだそう。

ロサンゼルス・ドジャースはかつてはニューヨーク近郊のブルックリン(現在はニューヨーク市内)にあってブルックリン・ドジャースという名称だった。
アメリカで人気あるスポーツというのは「独立したアメリカ」「人種のるつぼ」というアメリカの特徴をよく表している。
1800年代イギリスやフランスからの移民者が好んだアイスホッケー、クリケット、ラグビー、サッカーなどは親しまれなかったり、そのまま受け入れることを拒絶されたりした。
そしてベースボールやアメリカンフットボールなど独自のルールを持つスポーツが発展していったのである。
ちなみにアメリカ人に一番人気のあるスポーツはベースボールではなくてアメフトである。


ブルックリンはイギリスやフランス以外の移民労働者が多く、当時のブルックリンは全米一野球熱の高い地域で、ブルックリンファンは全米一熱狂的であったそうだが、それが西部に移転してしまうというのだから、さあ大変。
これを遂行したのがドジャースの顧問弁護士から経営者になったウォルター・オマリー。
ちなみにドジャー(Dodger)の意味は次の通り。
1 すばやく身をかわす人、ごまかしじょうずな人、ぺてん師、責任を逃れる人
2 ちらし、 広告びら

オマリーは当時として数少ないフルタイムのオーナーであり、「企業家オーナー」として冷徹にドジャースの利益を上げる方策を取り続けた。その最たるものが、ドジャースのブルックリンからロサンゼルスへの移転である。ロサンゼルスという西海岸への移転は、観客動員の面でも人気の面でも「成功」ともいえる目覚しい成果をあげ、西海岸に野球ビジネスを広げたパイオニアという評価がある一方、ブルックリンからドジャースを「持ち出した」と野球ファンから非難を浴びたのも確かである。

ドジャースの移転の衝撃はあまりにも大きく、ブルックリンの町中の誰もが涙を流すほどの衝撃であった。この移転はオマリーに対する悪のイメージを決定付け、20世紀の三大悪人はヒトラー、スターリン、そしてウォルター・オマリー」などといわれるようになったのである。


ウォルター・オマリー1942年にドジャースの顧問弁護士になり、翌年には株を取得して経営に参加。
その年に社長兼GMに就任したのは元メジャーリーガーのブランチ・リッキー。
彼も株主であった。

1942年、ブルックリン・ドジャースの総支配人で友人のラリー・マクフェイルが徴兵されるとリッキーはドジャースに社長とGMを兼ねた後任として招かれる。1944年に人種差別の撤廃に消極的だったランディスコミッショナーが急逝すると、翌1945年にユナイテッド・ステート・リーグという黒人選手を受け入れるマイナーリーグ組織を創設。1945年8月28日にジャッキー・ロビンソンとマイナー契約を結んだのをはじめ、ドジャース支配下のマイナーリーグのチームに多くの黒人選手やニグロリーグ経験者を集めた。このことがメジャーリーグにおける新時代の幕開けになった。
リッキーが黒人選手を受け入れることに積極的であった理由としては、ブルックリンにおける黒人の人口の多さや将来的な黒人家庭の中産化を見越した上でのマーケティング戦略と、より効率的な選手の供給源の開拓のためであった。


当時メジャーリーグは白人しかいなかった。
黒人は黒人でニグロリーグというリーグを持っていて、スター選手もいた。
黒人はやはり概して身体能力が高いのか、その実力はメジャーリーグを上回っており、黒人選手を入れれば勝てるのではないかと考える向きはなくなかった。
しかしながらブランチ・リッキーがスカウトしたのは二グロリーグのスター選手ではなく全くの無名な黒人選手であった。
それがジャッキー・ロビンソンであり、彼がメジャーリーグ初の黒人選手であった。
安く買う(無料で手に入れる?)という儲けの基本に忠実であったわけだ。
こうしてメジャーリーグに黒人選手が加わったことにより皮肉にも人気実力を兼ね備えていた二グロリーグは消滅してしまうことになる。
イギリスやフランスという個の主張がアメリカで受け入れられなかったと同様に、黒人という個の主張も消え去るを得なかった。


ウォルター・オマリーはブランチ・リッキーの方針には反対であった。
野球熱が高いことと、金になることは、同じではないですね・・。
ロサンゼルスはアメリカ一の格差地域であり、また熱狂しない土地柄であるという。
オマリーは株を買い占めて経営権を握り、その格差都市・熱狂しない都市ロサンゼルスへの移転を実現させた。
移転に資金がかかったからか、選手の年棒は極力抑えたが、選手からは不満が噴出した。

球団のオーナーはウォルター・オマリーの息子に受け継がれたが、1998年にルパート・マードック率いるFOXに売却。
FOXは2004年に不動産業で財をなした実業家フランク・マコートにこれを売却。
しかしやはり経営は上手くいかなかった。オーナーであったマコートは2011年に会社更生法の適用を申請し、チームを売却。
つまり支出が収入を上回り赤字になって利益が出ていない会社(球団)ということである。
新しくオーナーとなったのがグッゲンハイムなどの投資グループ。このグループの中には元バスケットボール選手のマジック・ジョンソンもいる。
フランク・マコートが2004年に球団を買った時には4億ドルで、売却は20億ドルだから、経営に失敗しながらも、自身は良い買い物(良い転売)をしたことになる
経営難が発覚したのが自身の離婚だったというから、良い転売はきっと離婚問題も解決したのでしょう。
なぜ利益を出せない球団が高く売れるのか?それは資産価値が上がっているからである。
経済紙フォーブスが球団の「資産価値」なるものを発表している。(この資産価値は不動産とか放映権とか広告料とか選手の年棒総額とか加味して算出するのでしょうか?)
売却前に発表されたランキングでLAドジャースは資産価値14億ドルで2位であった(1位はNYヤンキースで20億ドル)。
その後にLAドジャースはオークションで20億ドルで売れた。スポーツチームの売却としては過去最高だったそう。

資産価値があっても売らなければ(売れなければ)現金は手に入らないんですよ?分かってます?お金を持っている人の道楽だから放っておけ?買い手はうじゃうじゃいる?買わぬなら買わせてみよう?買わぬなら・・?


ラブレターフロームカナダ~~♪(それはやめなさい?)

実はブロンフマン家(シーグラム)3代目のエドガー・ブロンフマンもアメリカメジャーリーグ球団のオーナーであった。
現在もトロント・ブルージェイズというカナダ本拠の球団が存在しているが、初のアメリカ国外の球団はモントリオール・エクスポズであり1969年に加わった。
1967年にモントリオールで開催されたエキスポが球団名称の由来だそうである。

モントリオールはカナダではトロントに次ぐ規模の都市。

住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッ系だが、市内の人口の31.7%は非白人と世界各地からの移民も多い多民族都市である。
周辺地域を含むモントリオール大都市圏の人口は約380万人であり、これは北米で15番目、世界でも第77位の規模。面積は約4千km2。
モントリオール大都市圏の住民の7割弱が第一言語をフランス語とし、フランス語圏ではパリとキンシャサに次ぐ規模である。
フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、美食の町、石造りの住宅街、街中にある数多くの教会、石畳のヨーロッパ調の旧市街の街並みなどから観光客向けに「北米のパリ」と宣伝される。
一方では、都市圏の住民の1割強の第一言語は英語であり、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて英国系移民によって街が発展してきたことからヴィクトリア朝の建物が多いなど英国文化も色濃く残り、北米文化と混合している側面も持つ。

かつてはカナダ最大の都市であったが、1970年に生じたオクトーバー・クライシスと言われる要人誘拐殺人ならびに爆弾テロ事件多発に伴う軍出動の戦時措置法の発動といった社会混乱(イギリス資本が攻撃の標的となった)、およびその後のフランス語単一公用語化に伴い、多くの企業の本拠地がトロントへと移った。


このようにフランス圏であり、イギリス色も混ざるというモントリオールでは、ベースボールの観客は思うように集まらなかった。
経営状態は悪くなり、深刻な財政難に陥り、とうとうオーナーは球団経営に匙を投げ、オーナー不在となる。
オーナー不在のモントリオール・エクスポズを2002年に1億2000万ドルで買い取って引き受けたのがMLB機構。
機構に売ったオーナーはその資金にMLBコミッショナーからの無利子での融資を資本金にして、なんとマイアミ・マーリンズを買収して新オーナーに納まったというこから開いた口が塞がらない。

MLB機構がオーナーであったモントリオール・エクスポズに救いの手を差し伸べたのはアメリカの首都ワシントンD.C.であった。
「我が街へおいでよ。何と言ってもアメリカの首都だからね」
と言ったってワシントンD.C.がオーナーになったわけではない。でも球場の建設費用を市が負担してくれるというから悪い話ではない。
こうしてワシントン・ナショナルズと球団名を変えて2005年に移転し、観客は大幅に増え、買い手が見つかり2006年に売却。

エドガー・ブロンフマンは匙を投げて機構に売却したオーナーではなくて、もっと前のオーナー。

メジャーリーグは例えば日本が本拠の球団でも参入できるんでしょうか?(若干遠いですか?)(もう増やす気はないからダメ?)(それとも陸続きでないとダメとか?)







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# by yumimi61 | 2017-07-18 19:47
2017年 07月 16日
日本国憲法の秘密-517-
Drexel&Co.を設立したにフランシス・マーティン・ドレクセルと、Drexel、Morgan&Co.をJ・P・モルガンと共同で設立したアンソニー・ジョセフ・ドレクセルは親子である。
ドレクセルはオーストリア出身のカトリック教徒。

父の設立したDrexel&Co.はベルギーのグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、息子が設立したDrexel、Morgan&Co.はJP モルガン(J.P. Morgan)に吸収された。
ともにロスチャイルド系である。
ベルギーのグループ・ブリュッセル・ランバートに吸収されたほうの会社にいたのが、ジャンクボンドの帝王マイケル・ミルケンであった。

マイケル・ミルケンは今回はじめて登場した人物ではない。
私は前にもマイケル・ミルケンのことを書いている!
2013年10月のことなのでSTAP細胞騒動よりも前の話。
STAP細胞騒動は2014年初頭に始まりました。あれももう3年も前のこと。時が経つのは早いものです。

この話の流れで何故にSTAP細胞が出てくるかというと、STAP細胞騒動が巻き起こる1週間ほど前に私はスティーブ・ジョブズの日の丸写真を使い、ベトナム戦争の頃のことを書いた。
2014年1月21日の記事である。

STAP細胞を最初に扱ったメディアはテレビ朝日の『報道 ステーション』(1月29日21:54~)であった。
理化学研究所は、それが正当な研究であったとしても基礎研究成果の1つにしか過ぎないはずのものをメディアに放出し、翌朝からメディアは小保方一色、メディアは狂騒の状態を呈した。
言っておくがノーベル賞を受賞したわけでもないし、当然のことながらSTAP細胞が社会に大きく貢献したわけでもない、科学雑誌に掲載されるというだけで、国を挙げて狂乱状態となった。

前にマイケル・ミルケンが登場した時もレコード会社のことを書いていた。EMI買収からの流れでソニー連合の話など。2013年10月のことである。
その中でスティーブ・ジョブズも登場した。(こちらの記事の=ジョブズの処方箋=
だからマイケル・ミルケンと書くとSTAP細胞を思い出すというわけです。


世界4大レコード会社といえば、ソニー、ユニバーサル、ワーナー、EMIの4つであった。
しかしEMIは分割買収されたために、世界3大メジャー時代へ突入した。
EMIは著作権などを管理する音楽出版部門と音楽ソフト部門を分割し、音楽出版部門を「ソニー連合」が、音楽ソフト部門をユニバーサル・ミュージックの親会社「ヴィヴェンディ」(フランス)が買収した。

EMIはビートルズを輩出したイギリスの大手レコード会社。

EMIを「ソニー連合」と「ヴィヴェンディ」が分割買収するまでには2つの所有者を経由している。

1つは「テラ・ファーマ・キャピタル」というイギリスのプライベート・エクイティ投資会社。
プライベート・エクイティというのは、機関投資家などから集めた資金を企業に投資する代わりにその企業の経営に深く関与し、自ら企業価値を高めて売却し利益を得ることを目的とした投資ファンドである。
安い時に(評価や信頼が下がっている時に)買って、企業価値を高めて転売し利益を設けるやりかたで稼ぐ。
「テラ・ファーマ・キャピタル」のCEOはゴールドマン・サックス→野村インターナショナル(野村証券)という職歴を辿り、野村インターナショナル内に企業買収部門を構築し、2002年に「テラ・ファーマ・キャピタル」を分離独立させた。

しかし残念ながら目論見は外れ、EMIの企業価値は上がらなかった。逆に買収した時よりも下がってしまった(買った時よりも悪くなった)。
EMIは買収前から負債を抱えていた会社なので、状況はかなり厳しい(負債積み上げ)。
さらに悪いことにというか、投資会社だからある意味当然だが、投資会社やそのCEOは自分のお金で買い物をしているわけではない。
他人から預かったり集めたお金を使ったり融資をしてもらい買っているわけである。
CEOは買い物の責任者といったところか。責任者なのでテラ・ファーマ・キャピタルのCEOはEMI買収の責任をとって辞任した。
そのCEOがシティグループ相手に訴訟を起こす。
テラ・ファーマ・キャピタルは買収資金の大半をシティグループから調達しており、その際にシティグループから虚偽の説明をされ騙されたと訴え出たのだ。
しかし「EMIの企業評価はあなたがしたもので、サーベラスもシティグループも関係ない」と言われ、最終的に和解に至り、テラ・ファーマ・キャピタルは負債を減らすために保有していたEMIの株式を融資者であるシティグループに譲った。

ということで、次なる所有者がシティグループである。

シティグループはロックフェラー系の金融機関で、創業者がロックフェラー1世の弟ウィリアムだと言われていることもあるが、彼は創業者ではない。
創業は1812年でありロックフェラー家が生まれる前よりも早い。
ロックフェラー1世は20代前半で起業し石油事業に投資し、後に自分も製油所を経営し、1870年にスタンダードオイルを創立。20代半ばで世界一の製油業者と言われ、30歳頃には押しも押されぬ石油王となる。
弟との関係は良好で兄弟は協力しあった。
弟ウィリアムの長男と次男がそれぞれナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨークの頭取スティルマンの娘と結婚した。
頭取スティルマンは、父がニューヨーク、テキサス、メキシコに金融・不動産王国を築いたという人物で、W・H・ハリマン、ジェイコブ・シフ、ウィリアム・ロックフェラーらと共にテキサスの主要な鉄道会社を掌握している。
親戚であり仕事仲間でもあるスティルマンが頭取を務める「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク」にウィリアム・ロックフェラーは投資しており、1893年にアメリカのトップ銀行となってスタンダード・バンクと呼ばれるようになる。
1909年にモルガンが大株主となった。
1955年に「ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク」(国法銀行)は「ファースト・ナショナルバンク」(国立銀行)と合併して「ファーストナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク」となり、その後改称により「シティバンク」となる。

1863年に設立された「ファースト・ナショナルバンク」の創業者の1人で、1877年から1912年まで頭取と会長を務めたジョージ・F・ベーカーはスティルマンやモルガンの親友であった。また孫娘がクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフの孫と結婚しており親戚という関係。
ロスチャイルドとモルガンとロックフェラーの関係が見える銀行である。
FRB設立のための秘密会議を構成するメンバーと非常によく似ている。


ロックフェラー4世とお家騒動を繰り広げたロックフェラー2世の末息デイヴィッド・ロックフェラーが頭取を務めていたチェース・マンハッタン銀行は、上記のシティバンクとはライバルの関係にあった。
チェース・マンハッタン銀行は、チェース・ナショナル銀行とマンハッタン銀行の合併により1955年に誕生した銀行。
マンハッタン銀行は水道事業からスタートした会社であり、チェース・ナショナル銀行で1930~1950年代の20年間あまり頭取を務めたウィンスロップ・W・オルドリッチは、オルドリッチ法案のネルソン・オルドリッチ(共和党)の息子でイギリス大使を務めていた。
(FRB誕生の法案を通したのは民主党。法案の名称以外は共和党のオルドリッチ法案とほとんど同じだった)
ウィンスロップ・W・オルドリッチの姉(ネルソン・オルドリッチの娘)がロックフェラー2世の妻である。
また上記「ファースト・ナショナルバンク」のシティジョージ・F・ベーカーはチェース・ナショナル銀行の大株主でもあった。
ライバル関係にあっても様々なしがらみによって繋がっている。
2000年にJ・P・モルガンと合併してJPモルガン・チェースとなった。


ロスチャイルドとモルガンとロックフェラーが合体したようなシティバンクが所有していたEMIは、音楽出版部門を「ソニー連合」」、音楽ソフト部門を「ヴィヴェンディ(ユニバーサルミュージックの親会社)」とに、分割買収された。

ソニー連合とは以下の投資グループ。
買収額は22億ドル(約1760億円)。

・ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ
・マイケル・ジャクソン・エステート(マイケル・ジャクソン遺産管理財団)
・GSOキャピタル・パートナーズ(ブラックストーン・グループ傘下の投資会社)
・ジンウェル・キャピタル(兆赫?台湾?)
・ムバダラ・デベロップメント(アブダビ政府傘下の投資会社)
・デービッド・ゲッフェン(映画プロデューサー)
 =デヴィッド・ゲフィン


ソニー連合の財務顧問を務めたのはレイン・グループ、ピーター・J・ソロモン・カンパニー、UBSインベストメント・バンク、グッゲンハイム・セキュリティーズ。 

【グッゲンハイム・セキュリティーズ】
グッゲンハイム・パートナーズの子会社。(グッゲンハイム証券)

親会社グッゲンハイム・パートナーズは非公開の世界的金融サービス会社で、資産運用や投資銀行サービスを提供している。
運用資産は1700億ドルを超えるという。
本社がニューヨークとシカゴにある。

「グッゲンハイム」はスイスに生まれたドイツ系ユダヤ人・マイアー・グッゲンハイムの一族。
貿易商だったが1847年に渡米し、コロラドの銀鉱山を安値で買い取ったことをきっかけに鉱山・精錬業で財産を築いた。

マイアー・グッゲンハイムの10人の子のうちの1人にソロモンR.グッゲンハイムがいる。
NYのソロモン・R・グッゲンハイム美術館の設立者。
ソロモン・R・グッゲンハイム財団を有し、幾つかの美術館を持つ。

グッゲンハイム・パートナーズの創業者はピーター・ローソン・ジョンストン。
ソロモンR.グッゲンハイムの曾孫にあたる。
グッゲンハイム・パートナーズは2000年に一族の資金を基に創立された。

●東京拠点
グッゲンハイム・パートナーズは、今年に入って東京にも運用拠点を設立した。
金融緩和により株価上昇が期待できると判断してのことで、2013年中に2億ドル(約200億円)を日本株に投資予定。
さらに今後数年をかけてアジアを対象に運用させる額を最大20億ドル(約2000億円)まで増やす予定とのこと。
外部投資家からの資金も受け入れ、そのうちの約1/3を日本株に投じる見通し。

●グッゲンハイム・パートナーズとマイケル・ミルケン
「ジャンク債の帝王(Junk Bond King)」として名を馳せたが、証券詐欺で業界を永久追放されたマイケル・ミルケン。
バークレーマフィアで名高いカリフォルニア大学バークレー校を卒業し、ロシアのユリ・ミルナーと同じくペンシルベニア大学ウォートン校でMBAを取得した。
ジャンク債の開拓で巨大な富を得る。
永久追放処分後は慈善活動家として活動しており、医療(がん治療)への資金援助や奨学金などを提供している。
投資助言行為などは禁じられているが、グッゲンハイム・パートナーズへのアドバイザーとなっていた疑惑が今年になって浮上した。
グッゲンハイムはロサンゼルス・ドジャーズやテレビ番組製作会社ディック・クラーク・プロダクションズを共同買収している。


ソニー連合の財務顧問の1つだったグッゲンハイム・セキュリティーズの親会社グッゲンハイム・パートナーズとマイケル・ミルケンに関わりがあったということで書いたのだ。
マイケル・ミルケンはドレクセル親子の父の設立したドレクセル系(後にベルギーのグループ・ブリュッセル・ランバートに吸収されてドレクセル・バーナム・ランベールとなる)で働いていた。
ドレクセル息子はモルガンと共同で新たに会社を設立(後にJPモルガンに吸収される)。

カナダのシーグラムを経営していたブロンフマン家
・フィリス・ブロンフマン(2代目)
イスラエルのランベール銀行の経営者の娘ジーン・ランベールと結婚。
ランベール銀行はベルギーの貴族ランベール一族が創立した銀行である。
ランベール銀行はイスラエル建国資金の一部を出資しているのでイスラエルの株主のようなもの。

ドレクセル・バーナム・ランベールはブロンフマン×ランベール一族の賜物のような投資会社。

・エドガー・ブロンフマン(3代目)
彼は4人と5回結婚しているが、そのうちの1人(1953年結婚‐1973年離婚)がアン・ローブである。
彼女の父はウォール街の投資銀行家であるジョン・ランゲロス・ローブで、母はリーマン・ブラザーズのリーマン一族出身である。
エドガーは「ユダヤ人名誉毀損防止同盟(ADL)」の名誉副会長と「世界ユダヤ人会議」の会長であった。


エドガー・ブロンフマンの妻アン・ローブの両親の組み合わせが、会社の合併でも体現されるのが、それを実現させたアメリカン・エキスプレス。
アメリカン・エキスプレスが1960年代に株価が暴落した時に株式を大量買いして大儲けしたのが投資の神様と言われるウォーレン・バフェットと彼が率いる会社バークシャー・ ハザウェイ。
似たような手法で1980年代にシジャンクボンドの帝王と呼ばれたのがマイケル・ミルケン。
マイケル・ミルケンは不正が発覚し、ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような投資会社ドレクセル・バーナム・ランベールは倒産した。
シーグラムの3代目はMCA(ユニバーサル)を松下電器(現パナソニック)から買い取るが、そのためにデュポンの株式も手放した。
4代目になると、ついにはシーグラムも売却。娯楽部門はロスチャイルド系会社ヴィヴェンディへ。ヴィヴェンディもドレクセル(息子)とモルガン共同会社が設立したGEに売却(但しミュージックは売却対象外)。
GEもコムキャストに売却。コムキャストの創業者はロシア系ユダや人。
父がユダヤ界のドンだったエドガー・ブロンフマン・ジュニアはワーナーミュージックを買い取ってCEOとなっている。

1990年松下電器(MCA)→1995年シーグラム(ユニバーサル)→2000年ヴィヴェンディ(ヴィヴェンディ・ユニバーサル)→2004年GEと合併(NBCユニバーサル)→2009年コムキャスト(NBCユニバーサル)


①シーグラムからヴィヴェンディに売られたユニバーサルミュージック。 ・・・EMIの音楽ソフト部門を買収
②元シーグラムCEOのエドガー・ブロンフマン・ジュニアがワーナーから買い取ったワーナーミュージック。
②ソニーミュージックエンタテインメント(アメリカ法人)。・・・EMIの音楽出版部門を買収
これがレコード会社の3大メジャーとなっている。

①のユニバーサルミュージックは本家ユニバーサルとは親会社が異なる。資本も当然別。
②のワーナーミュージックも本家ワーナーとは経営者が違う。資本関係なし。
②のソニーミュージックエンタテインメントの親会社はソニーミュージックホールディングスで、その親会社がソニー・エンタテインメントで、その親会社がソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ(ソニーのアメリカ法人)で、アメリカ法人のオーナーが日本のソニー。
本家ソニーと資本関係はあるということになる。
日本のソニーミュージックエンタテインメントはアメリカのソニーミュージックとは資本関係が異なり、3大メジャーと言う時に日本のソニーミュージックは含まれない。
日本のソニー・ミュージックエンタテインメントの親会社は日本のソニーで、アメリカのように事業会社ではなく中間持ち株会社である。
アメリカで言えばソニーミュージックホールディングスのような感じ。ソニー・ミュージックエンタテインメントの下に事業会社であるレーベルがある。


マイケル・ミルケンと関係があるらしいグッゲンハイム以外のソニー連合の財務顧問。

・レイン・グループ
ゴールドマン・サックスで投資銀行部門のメディア責任者だったジョー・ラビッチと、UBS(スイス本拠の金融機関)でメディア・テレコム部門責任者だったジェフ・シネが共同で設立。
後に野村証券のアメリカ法人での投資銀行部門責任者だったグレン・シフマン(リーマン・ブラザーズ出身)も加わっている。
また元グーグルCEOのエリック・シュミット、元フェイスブック社長のショーン・パーカーなどが出資者に名を連ねている。
ソフトバンクの孫正義社長も取締役の1人となっている。

・ピーター・J・ソロモン・カンパニー
創業者のピーター・J・ソロモンは、元リーマン・ブラザーズの副会長で投資部門の責任者だった人物。
新会社設立にあたって他社から銀行家・証券マンを引き抜いた。
ワーナーとタイムの合併はこの会社が担当した。

・UBSインベストメント・バンク
上にも書いたとおり、UBSはスイス本拠の金融機関。
インベストメント・バンクはそのうちの投資銀行業務・証券業務を行う部門。





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# by yumimi61 | 2017-07-16 18:13
2017年 07月 14日
日本国憲法の秘密-516-
トランプ大統領!未定になっていた科学顧問はもう決まりましたか?それとも永遠の秘密ですか?

前記事にオバマ大統領就任時の経済顧問団のことを書いたけれど、トランプ大統領の科学顧問(アメリカ合衆国科学技術政策局の局長)が未定のままで分からない。
オバマ政権ではジョン・ホルドレン前ハーバード大教授(理論物理学・環境政策)であった。
ハーバード大を巻き込むSTAP細胞騒動はジョン・ホルドレン大統領科学顧問の下で起こった事件でしたね。



ブロンフマン家の3代目でユダヤ界のドンでもあったエドガー・ブロンフマンは2013年に亡くなった。

息子であるエドガー・ブロンフマン・ジュニアは若い頃は家業に反発し、音楽家・演劇プロデューサーとして身を立てていた。 
彼が1989年に社長に就任してからシーグラムがMCAやポリグラムを次々と買収したのはこのような背景からである。
エドガー・ジュニアはシーグラム売却後もヴィヴェンディ・ユニヴァーサルの副会長にとどまっていたが、同社をNBCが買収した際に退任。その後、2004年にタイム・ワーナーの音楽部門であるワーナー・ミュージック・グループを他の投資家たちと共同で買収し、現在はその会長となっている。


家業に反発したとあるが、エドガー・ブロンフマンという名をそのまま継いでエドガー・ブロンフマン・ジュニアと名乗り、シーグラムの社長にも就任しているので、反発とは言えないであろう。

直接の関係がない分野の会社を多数傘下に収めている企業グループのことをコングロマリットと言うが、メディアや娯楽産業ではメジャーな企業であっても関連ある会社を多数傘下にしているということが多く、全く関係ない畑違いの会社を所有しているということがほとんどない。
従ってシーグラムという酒造会社と娯楽産業の繋がりに一見違和感を感じるのだと思うが、一般的なコングロマリットではむしろ普通のことである。

映画産業であるハリウッドを築いたのはユダヤ人で、ユダヤ系ギャングが多額の投資をしていた。
1930年代に金融資本と結びついて8大映画会社(Hollywood majors)が成立した。
ユダヤ人が創業し経営していたので、ユダヤ系ではない企業がなかなか買収できなかったという背景があると考えられる。(買収などしようものなら反ユダヤ企業だと烙印を押されADLに猛烈に抗議されたり脅されたりしてしまうため)

1.パラマウント ・・・ハンガリー系ユダヤ人
2.MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー) ・・・ロシア系ユダヤ人
3.20世紀フォックス ・・・ハンガリー系ユダヤ人
4.ワーナー・ブラザース ・・・ポーランド系ユダヤ人
5.RKO ・・・前身会社にはケネディ大統領父が関係している。現存しない。版権はワーナーが保有。
6.ユニバーサル ・・・ドイツ系ユダヤ人
7.コロムビア ・・・ドイツ系ロシア系ユダヤ人
8.ユナイテッド・アーチスツ ・・・チャップリンなどが創立、創立者の1人がユダヤ系、現在はMGM傘下。
(1~5がビッグファイブ、6~8がリトルスリーと呼ばれる)

映画企業は当初からユダヤ人よって始められ、ユダヤギャングやユダヤ全融業者が支援し、ユダヤ政治家を背景に成長した。
第二次世界大戦前には作家、脚本家、演出家はほぼユダヤ人によって占められており、さらにユダヤ系の俳優や芸術家や音楽家なども抱え込み、アメリカの5大産業の1つになる。
とある調査によれば、戦後1965~1982年の間にメジャー映画会社の中で働いていたプロデューサー、ライター、ディレクターの62%がユダヤ教徒の家庭に育ったユダヤ人であったそうである。

上記のメジャーから現在は5のRKOと8のユナイテッド・アーチスツが抜けて、代わりにウォルト・ディズニーとソニーが入る。コロンビアもソニーの傘下となっている。
ウォルト・ディズニーはユダヤ人ではなく(一族はアイルランド移民で父はカナダ生まれ)、当初ユダヤ人は雇わないという主義であったが、1980年代初めに破綻危機に見舞われ、創業者の甥が経営立て直しのために招き入れたのがマイケル・アイズナーという東欧系(チェコ出身)ユダヤ人であった。
後にその創業者の甥とも意見が合わなくなり創業者一族との軋轢が表面化。ディズニー―はユダヤ人に乗っ取られたと言われるようになる。
1984年から2005年までCEOを務めた。その後は投資家に転身。投資の傍らスタジオを設立し司会業などもこなす。


上に書いたようにコングロマリットが異なる分野の会社を傘下に持つ企業グループであるが、メディアや娯楽産業ではそうではないので、「メディア・コングロマリット(media conglomerate)」とメディアを冠して呼ばれる。
映画、放送、新聞・出版、インターネットなど多様なマスメディアを傘下に収める巨大な複合企業・寡占企業のことである。
アメリカを本拠地とするメディア・コングロマリットのビッグファイブ。
・・・は傘下にある放送・出版の代表的企業。

1.コムキャスト(NBCユニバーサル)
  ・・・ユニバーサル・ピクチャーズ(映画)、NBC(放送)
2.ウォルト・ディズニー・カンパニー
  ・・・ウォルト・ディズニー・ピクチャー(映画)、ABC、ESPN、ディズニーチャンネル(放送)
3.21世紀フォックス・ニューズ・コープ 
  ・・・20世紀フォックス(映画)、フォックス(放送)
  ・・・ザ・サン、タイムズ、ニューヨーク・ポスト、ウォールストリート・ジャーナル(出版)
4.ナショナル アミューズメント(バイアコム・CBSコーポレーション)
   ・・・パラマウント(映画)、MTV、CBS(放送)
5.タイム・ワーナー 
   ・・・ワーナー・ブラザース(映画)、CNN、TBS(放送)、タイム、ピープル、フォーチュン(出版)


1.コムキャスト(NBCユニバーサル)  

1990年松下電器(MCA)→1995年シーグラム(ユニバーサル)→2000年ヴィヴェンディ(ヴィヴェンディ・ユニバーサル)→2004年GEと合併(NBCユニバーサル)→2009年コムキャスト(NBCユニバーサル)

MCAの大元はシカゴのタレント事務所。
この会社MCAがユニバーサルを買収したイギリスのデッカ・レコードアメリカ法人を買収した。
デッカ・レコードは1930年代にEMIと並んでイギリスの2大レコードであった。
MCAはその他にもモータウン・レコードや(カート・コバーンにギターを買ってくれなかったディビッド・ゲフィンの)ゲフィン・レコードなどを次々と買収。
そのMCAを日本の松下電器が買収したのが1990年。しかし5年後にブロンフマン家のシーグラムに売却した。
ブロンフマン家は大手総合化学メーカーデュポン社の大株主でもあったが、MCAを買収するためにデュポンの株を手放している。それほど手に入れたかった。
というのも、MCAにはユニバーサルが含まれていたからだ。
ドイツ系ユダヤ人が創業した上記の8大映画会社の1つにも含まれていたユニバーサルである。
ユダヤの手に再び取り戻さなければならないという使命感があったに違いない。

2004年、シーグラムのユニバーサルはフランスのヴィヴェンディと合併した。
ヴィヴェンディ
ヴィヴェンディ(Vivendi)はフランスの企業。前身は水道事業を中心とするジェネラル・デ・ゾー社。1990年代からメディア事業や電気通信事業に進出し、2000年にカナル・プリュス、シーグラムとの合併によってヴィヴェンディ・ユニバーサルとなった。
ヴィヴェンディの前身のジェネラル・デ・ゾーは1853年に水道会社として設立された。
設立者はフランスのロスチャイルド家。もちろん大株主。

ただどこでもそうらしいが、音楽など娯楽部門はなかなか利益が上がらない。
はっきり言って儲けに繋がらない商売である。
儲けの基本は何でしたか?
安く買って高く売る。無料で得て高額で売る。投資しないで(経費を注ぎ込まないで)作り上げて売る。
娯楽部門はこの基本に則れない商売ということだ。
ミイラ取りがミイラになる、ロスチャイルド家にしてもそうだった。
赤字の膨らんだエンタテインメント事業(ヴィヴェンディ・ユニバーサル・エンタテインメント)の大半をGE(ゼネラル・エレクトリックに売却し、GE傘下のNBCとヴィヴェンディ・ユニバーサルを合併しNBCユニバーサル(GE 80%、ヴィヴェンディ・ユニバーサル20%)を設立した。

GEというとエジソンを思い出すかもしれないが、エジソンだけでは現在のような大企業になることは無理であったろう。
エジソンの会社は前身会社の1つではあるが、ライバルも多く(電流戦争)、実質的にGEを設立したのはドレクセル・モルガン&カンパニーであった。
ドレクセル・モルガン&カンパニーはJ.P. モルガン&カンパニーの前身であり、1871年にJ・P・モルガンとアンソニー・ジョセフ・ドレクセルが共同で設立した会社。
1895年にドレクセルという名を外した。
鉄鋼会社を買収して巨大化していく。タイタニック号の実質的なオーナーでもあった。
2000年にチェース・マンハッタンと経営統合してJPモルガン・チェースとなっている。アメリカ最大の資産を有する銀行。

ドレクセルという名に聞き覚えはありませんか?そう、先日出てきましたね。
1975年、ロスチャイルド系のランベール銀行がブリュッセル銀行(1871年ジャック・エレラが創業)と合併してGBL となった。
GBLは翌1976年にフランシス・マーティン・ドレクセルが創業したアメリカの銀行の支配権を得る。
フランシス・マーティン・ドレクセルはオーストリア生まれで、イタリアのカトリック教会でイタリア語と絵画を学ぶ。
1817年にアメリカに移住。
1837年に永住権を取得した後、アメリカ大手金融会社の1つとなるDrexel&Co.を設立。
メキシコ・アメリカ戦争とアメリカ内戦で連邦政府との金融取引に携わる。
創業者が1860年に死去し息子が事業を継承。
1868年にパリの会社Drexel、Harjes&Co.が設立され、1871年にはJ. P. モルガンと提携してニューヨークにDrexel、Morgan&Co.を設立。
だがその後、会社は傾いて行く。
幾つかの合併や改称を経て、1976年にベルギーに本拠を置くグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)という社名になった。
1980年代の企業乗っ取りの中心にいたのがこの会社。ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような銀行。
ランバートに吸収合併される前からドレクセルにいて、1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せたのがマイケル・ミルケン。
傾いていた会社はアメリカ5位の投資銀行となりウォール街に欠かせない会社へと変貌を遂げた。


モルガンもドレクセルもロスチャイルド系。
結局NBCユニバーサルはコムキャストの傘下に入るが、コムキャストの創業者はロシア系ユダヤ人である。

先日も書いた通り、ユニバーサル・ミュージックはGEとの合併の対象外であり、GE→コムキャストに移らず、フランスのヴィヴェンディが所有している。


5.タイム・ワーナー 
シーグラムのエドガー・ブロンフマン・ジュニアはMCAとポリグラムを買収して世界最大のレコード会社を所有することになったわけだが、それをフランスのヴィヴェンディに売却。さらにGEに売却されると役職も退任した。
ブロンフマン家はタイム・ワーナーの株主でもあった。
タイム・ワーナーも業績低迷悪化を改善するために音楽部門を切り離すことにした。
これを買ったのがエドガー・ブロンフマン・ジュニアを含む投資家グループである。
完全に売却したので、ワーナーという同じ名称を依然使用しているものの、タイム・ワーナーとワーナー・ミュージック・グループに資本関係はない。
エドガー・ブロンフマン・ジュニア取締役会長兼CEOである。
要するに彼はユニバーサル・ミュージックではなく、ワーナー・ミュージックを選んだということになる。
世界はひとつ~♪ではないけれども、ユニバーサルとワーナーもいずれ合併するんですかね?


アメリカ本拠地以外
本社が日本のソニー、フランスのヴィヴェンディ、ドイツのベルテルスマンが世界的な巨大メディア・コングロマリットとして挙げられることがある。
しかしソニー全体で言えばメディアだけでなく一般的なコングロマリットでもある。そのため単純に企業グループの売上高を比較すれば他のメディア・コングロマリットよりも桁違いに高い。
いずれソニーも合併するんですかね?

でも、世界はひとつ~♪ の世界で、映画を作ったり、歌を歌う理由って何ですか?
世界はひとつの世界で、映画や歌ってどこまで響くんでしょうか?
すれ違いや重なり合わない隙間に生まれる感情を描くものなのではないでしょうか?
それとも何か麻薬みたいなものですか?






                   








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# by yumimi61 | 2017-07-14 11:53
2017年 07月 13日
日本国憲法の秘密-515-
・エチェル・ブロンフマン(初代)
1898年にルーマニアからカナダへ移住。売春業から始まり、アメリカのユダヤ系ギャングと組んで大規模な酒や麻薬の密輸密売を行って巨万の富を築く。
マイヤー・ランスキーの作った全米犯罪シンジケートにも供給していた。
その金でジョセフ・E・シーグラムが創業した「ジョセフ・E・シーグラム&サンズ社」という酒造会社を買収して、あえて「シーグラム」という社名にした。

・フィリス・ブロンフマン(2代目)
イスラエルのランベール銀行の経営者の娘ジーン・ランベールと結婚。
ランベール銀行はベルギーの貴族ランベール一族が創立した銀行である。
ランベール銀行はイスラエル建国資金の一部を出資しているのでイスラエルの株主のようなもの。

・エドガー・ブロンフマン(3代目)
彼は4人と5回結婚しているが、そのうちの1人(1953年結婚‐1973年離婚)がアン・ローブである。
彼女の父はウォール街の投資銀行家であるジョン・ランゲロス・ローブで、母はリーマン・ブラザーズのリーマン一族出身である。


ブロンフマンに関連して、※ランベール銀行、※ソシエテ・ジェネラル、※グループ・ブリュッセル・ランバート、
※EU(欧州連合)、※イギリスとドイツ、イギリスとベルギーの切っても切れない関係、※ドイツとイギリスとフランスの複雑な関係、※ロスチャイルドはフランキスト?カトリック?、の続き。



※アメリカン・エキスプレスとウェルズ・ファーゴ
カナダのブロンフマン家3代目のエドガー・ブロンフマンの妻アン・ローブの父はウォール街の投資銀行家であるジョン・ランゲロス・ローブで、母はリーマン・ブラザーズのリーマン一族出身である。

ジョン・ランゲロス・ローブは1931年にウォール街にLoeb、Rhoades&Co.という証券会社を設立した人物の息子である。
父子ともにニューヨーク証券取引所の社長にも就任していた。
Loeb、Rhoades&Co.は1979年にShearson Hayden Stoneという会社によって買収された。さらに1981年にアメリカン・エキスプレスに買収される。
Shearsonは創業者(Edward Shearson)の名であり、彼はカナダのオンタリオ州の出身。
(1931)Loeb、Rhoades&Co→(1979)Shearson Hayden Stone→ (1981)Shearson/American Express

1850年にドイツからの移民であるリーマン兄弟によって設立されたリーマン・ブラザースは、1977年に当時経営が低迷していたクーン・ローブを統合し、リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ(Lehman Brothers, Kuhn, Loeb Inc.)と改称した。クーン・ローブは日露戦争で日本の公債を引き受けたジェイコブ・シフがいたことで有名。FRB創立の秘密会議のメンバーでもあった。
1924年にリーマン一族以外から共同経営者を招き入れる。その後も外部の人間がCEOに就任し会社は成長を続けたが社内での求心力を失い会社は崩壊の危機に立つ。
そして1984年にアメリカン・エキスプレスに買収された。
(1850)Lehman Brothers→(1977)Lehman Brothers, Kuhn, Loeb→ (1984)Shearson Lehman/American Express

エドガー・ブロンフマンの妻アン・ローブの両親の組み合わせが、会社の合併でも体現されたことになる。
ではそれを実現させたアメリカン・エキスプレスとはどんな会社なのか?
1850年に、ウェルズ・ファーゴの創設者でもあるヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴ、ジョン・バターフィールドの3人によって、荷馬車により貨物を運ぶ宅配便業者として事業を開始した。事業は好調に推移し、輸送網を全米、および隣国のカナダやメキシコにも広げた。
1882年に、世界で初めて郵便為替業務を開始したことで、同社の主事業となる金融業に参入した。1891年には、ウィリアム・ファーゴの発案により、世界で2番目(世界初は、1841年のトーマスクック・トラベラーズチェック)のトラベラーズ・チェックを発行し、アメリカ国内のみならず事業展開していた各国に導入を行った。
海外旅行に行くアメリカ人旅行者のサポートのために、1895年にフランスに、1896年にイギリスに事務所を開設したのを皮切りに海外に事業網を展開し、1917年には日本事務所を横浜に開設するなど、その事業基盤を世界中に広げた。


1964年にアメリカン・エキスプレスが破綻確実と見られていた会社に融資しようとして株価が暴落した時があった。
この時にアメリカン・エキスプレスの株式を大量買いしたのが投資家ウォーレン・バフェットである。
アメリカン・エキスプレスはその後大きく成長し、バフェットと彼が率いる会社バークシャー・ ハザウェイに多大な利益をもたらした。

(リーマンなどを吸収合併した頃のアメリカン・エキスプレスの)CEOジェームズ・ロビンソンの妻リンダ・ゴスデン・ロビンソンは、ロナルド・レーガン政権の樹立をバックアップして政財界との関係を深め、さらに1988年からはマイケル・ミルケンを擁護する広報戦略を展開した

マイケル・ミルケンとは先日も書いたが、ロスチャイルド系ランベール銀行に吸収されたドレクセルという会社にいて、ランベール吸収後の1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せた人物。
彼の手法はリスクのある社債を引き受けるというもの。
リスクが高いと評価された信用が低い企業が発行する債券はただの紙くず(junk)になりかねない。だからジャンク債と呼ばれる。
「ハイリスクハイリターンだから買う」と言えば”ジャンクボンドの帝王”になるし、「私が評価した企業価値より格付け機関がした評価や株価が低いだけである」と言って買えば”投資の神様”になる。
行っていることは同じで、その裏には往々にして不正がある。

儲けの基本は、安く買って高く売ること。
無料で手に入れたものを高額で売るのが一番良い。
無料で手に入れる方法?
騙したり盗んだり強奪すること。犯罪となる詐欺や盗難や強奪もあれば、法律を定めたり変えたりして合法的に奪うという手段もある。国の創成期や混乱期には盗難や強奪が有耶無耶になってしまうこともある。
寄付してもらうというのも無料で手に入れる1つの方法である。


上記にあるようにアメリカン・エキスプレスとウェルズ・ファーゴの創設者は同じである。
ウェルズ・ファーゴは1852年に創立された。現在はアメリカだけでなく、カナダ、北マリアナ諸島、西インド諸島においても現地法人を持ち、個人向けの業務を営む。2005年時点で、営業網は6,250店舗、顧客は2,300万人を数える。2015年現在、資産価値では全米第三位であり、市場価値では世界最大の銀行である。
但し、2016年9月8日、自社で顧客の許可のないまま口座を開設したりクレジットカードを発行したりする行為が横行していたと明らかにし、この問題で過去数年の間に5300人の行員を解雇したと認めた。この問題はCEOの辞任にまで発展、継続してきた金融機関としての時価総額世界一が途切れることになった。

投資家ウォーレン・バフェット率いるバークシャー・ ハザウェイがウェルズ・ファーゴの株式10%を保有していて唯一の永久保有銘柄と認定するほど優良銀行だったわけだが、不正発覚で今年4月に一部手放したとか。(永久が泣きますよ!?)


※オバマ政権とウォーレン・バフェット
2008年のアメリカ大統領選で民主党のバラク・オバマが勝利した。
そのオバマ大統領が選んだ経済顧問団17名のうちの1人がウォーレン・バフェットだった。

・デービッド・ボアニー 元民主党下院議員・副院内総務
・ロエル・カンボス 元米国証券取引委員会委員
・ウィリアム・デイリー 元商務長官
・ウィリアム・ドナルドソン 元米国証券取引委員会委員長
・ロジャー・ファーガソン 元米連邦準備制度理事会(FRB)副議長
・ジェニファー・グランホルム ミシガン州知事
・アン・マルケイヒー ゼロックスCEO
・リチャード・パーソンズ タイムワーナー取締役会議長
・ペニー・プリッツカー クラシック・レジデンス・バイ・ハイアットCEO
・ロバート・ライシュ 元労働長官、カリフォルニア大バークレー校教授
・ロバート・ルービン 元財務長官、シティグループ経営執行委員長
・エリック・シュミット グーグルCEO 
・ローレンス・サマーズ 元財務長官、ハーバード大教授
・ローラ・タイソン 元国家経済会議(NEC)議長
・アントニオ・ビヤライゴザ ロサンゼルス市長
・ポール・ボルガー 元FRB議長
・ウォーレン・バフェット バークシャー・ハサウェイCEO

またにウォーレン・パフェットはオバマ候補が財務長官の候補として、ローレン・サマーズや元FRB議長で選挙中のオバマ陣営の経済顧問でもあったポール・アンカーらとともに名を挙げた1人でもある。
結局財務長官に就任したのは親がフォード財団の一員仲間であるティモシー・フランツ・ガイトナーであったが。


※ユダヤ人名誉毀損防止同盟(ADL)と世界ユダヤ人会議
ユダヤ人名誉毀損防止同盟(ADL)はユダヤ人ギャングを支援し、ロシア出身のユダヤ人ギャングだったマイヤー・ランスキ―の作った全米犯罪シンジケートを乗っ取ったというか、便乗したとか言うか、手本にしたというかの組織となっていく。
ルーマニアからカナダへ移住し、アメリカのユダヤ系ギャングと組んで大金持ちとなったブロンフマン家の3代目エドガー・ブロンフマンは「ユダヤ人名誉毀損防止同盟(ADL)」の名誉副会長と「世界ユダヤ人会議」の会長となった。

世界ユダヤ人会議(英:World Jewish Congress、略称WJC)
1936年から活動しているユダヤ人の国際組織。本部はアメリカの都市ニューヨークにある。またフランスのパリ、ベルギーのブリュッセル、スイスのジュネーヴ、ハンガリーのブダペスト、イスラエルのエルサレム、ロシアのモスクワ、カナダのオタワ、オーストラリアのシドニー、アルゼンチンのブエノスアイレスなどに加入している事務所が存在する。一国一団体が原則であり、世界中のすべてのユダヤ人団体が加入しているわけではない。1994年の段階で86カ国の団体が加盟している。国際連合・ユネスコなどの国際機関にNGOとして参加している。

エドガー・ブロンフマンはおよそ30年(1979- 2007)という長きに亘って世界ユダヤ人会議の会長を務めた。この際ユダヤ界のドンと言ってもいいのではなかろうか。(2013年にお亡くなりになっております)
ちなみに現在の会長と言うと、エスティ・ローダーの息子でオーストリア大使などを務めたロナルド・ローダーである。エスティ・ローダー(会社)の社長だった時もあるし美術品コレクターとしても名高いアメリカの富豪である。
実は私、前にエスティ・ローダーのことを書いたことがある!
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はははやまらないで

カーネル・サンダースが1号店をオープンしたのは64歳の時なの。
エスティー・ローダーが何かしたのは(起業?)72歳の時なの。
私のノートにもそう書いてあるから!

カーネル・サンダース 1890-1980年
サンダースが、各地のレストランの経営者や従業員にフライドチキンの調理法を教えて歩合を得るという新しいビジネスモデル(フランチャイズ)を始めたのは、1952年である。この年、ユタ州ソルトレイク市のピート・ハーマン (Pete Harman) が最初のフランチャイジーとなり、フランチャイズ一号店が開業した。「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)というブランド名は、このときハーマンによって提案されたものである。

1952年の時には64歳ではなくて62歳ね・・・。
それに・・急に「ケンタッキー・フライドチキン」(KFC)1号店がポンと誕生したわけでもないわね・・・。

エスティー・ローダー 1906-2004年
1946年、皮膚科学の専門家であった伯父の開発したクリームの営業・販売を担当する形で、エスティローダー社を創設した。

う~ん72歳に何があったのかしら?
さらに1976年には日本法人を開設した。
日本法人のこと?それなら70歳よ?
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# by yumimi61 | 2017-07-13 14:21
2017年 07月 13日
rayer
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# by yumimi61 | 2017-07-13 00:03
2017年 07月 11日
日本国憲法の秘密-514-
・エチェル・ブロンフマン(初代)
1898年にルーマニアからカナダへ移住。売春業から始まり、アメリカのユダヤ系ギャングと組んで大規模な酒や麻薬の密輸密売を行って巨万の富を築く。
マイヤー・ランスキーの作った全米犯罪シンジケートにも供給していた。
その金でジョセフ・E・シーグラムが創業した「ジョセフ・E・シーグラム&サンズ社」という酒造会社を買収して、あえて「シーグラム」という社名にした。


・フィリス・ブロンフマン(2代目)
イスラエルのランベール銀行の経営者の娘ジーン・ランベールと結婚。
ランベール銀行はベルギーの貴族ランベール一族が創立した銀行である。
ランベール銀行はイスラエル建国資金の一部を出資しているのでイスラエルの株主のようなもの。


・エドガー・ブロンフマン(3代目)
彼は4人と5回結婚しているが、そのうちの1人(1953年結婚‐1973年離婚)がアン・ローブである。
彼女の父はウォール街の投資銀行家であるジョン・ランゲロス・ローブで、母はリーマン・ブラザーズのリーマン一族出身である。


前回、ブロンフマンに関連して、※ランベール銀行、※ソシエテ・ジェネラル、※グループ・ブリュッセル・ランバートのことを書いた。その続きである。


※EU(欧州連合)
欧州の統合はベネルクス3国によるベネルクス関税同盟に始まった(1948年)。
ベネルクス三国とはベルギー・ネーデルランド(オランダ)・ルクセンブルクである。
この3国の中心がベルギーの首都ブリュッセルだった。
だからここから発展したEUの本部もベルギーのブリュッセルにある。
関税同盟のベネルクス3国の他にフランス・ドイツ・イタリアが加わり1952年に欧州石炭鉄鋼共同体が作られる。
1957年にその6か国が欧州経済共同体と欧州原子力共同体を設立(ローマ条約)。
1967年には、欧州石炭鉄鋼共同体・欧州経済共同体・欧州原子力共同体の3つの共同体の運営機関が統合される。
1993年にEUが発足した後も2009年までこれらの共同体は存続していた。
ここから見えるのは、最初に出来た共同体とEUは同じ流れの上に乗っているようでいて、微妙に違うのではないかということである。
インナーシックスは第二次世界大戦の戦いで負けた国である。
ベネルクス3国とフランスは早々ドイツに負けた。イタリアとドイツも結果的に敗戦国となる。
戦いに敗れた国々が手を組んだのが共同体だった。
だから共同体はどちらかと言うと防衛的。それに対してEUは攻撃的である。
EU発足の際、本部はベルギーのランベール銀行に置かれていたという。

共同体の中で今現在残っているのは欧州原子力共同体のみで、この欧州原子力共同体はEU発足後にEUの下部機関という位置づけになったが、ほぼ独立して存在している。宙に浮いているような感じ。核開発の怪しさはここにも浮かび上がっている。


昨年のEU残留意思を問う国民投票の記憶が新しいイギリスであるが、イギリスの迷いは今に始まったことではない。戦後から続いている。
当初インナーシックスと呼ばれるベルギー・ネーデルランド(オランダ)・ルクセンブルク・フランス・ドイツ・イタリア以外のヨーロッパの国は共同体に懐疑的であり、インナーシックスも拡大を望んでいたわけではなかった。
イギリスはアメリカと同様に戦勝国である。戦いに敗れ去った国とは少し違う。
イギリスの最初の加盟申請は1961年。加盟が実現したのは1971年なので、最初の申請から実に10年の歳月を要している。
これにはイギリスがアメリカの内通者になることを懸念してフランスなどが加盟を拒否したという歴史がある。
第二次世界大戦後の世界は束の間の平和を享受しながら疑心暗鬼に満ち溢れていた。
イギリスの加盟の条件は保守党政権が受け入れた。
そのため1975年に労働党が政権を取った際に労働党は国民投票で残留の意思を国民に問うも、残留支持67%で維持された。

下記はEUの組織や機関の本部が置かれている場所。イギリスの名はない。

欧州委員会(ベルギー)
欧州議会(フランス)
欧州理事会(ベルギー)
欧州連合理事会(ベルギー)
欧州司法裁判所(ルクセンブルク)
欧州会計監査院(ルクセンブルク)
経済社会評議会(ベルギー)
地域委員会(ベルギー)
欧州投資銀行(ルクセンブルク)
欧州中央銀行(ドイツ)・・・1998年設立。ドイツ連邦銀行及びドイツの州立銀行をモデルにしている。
欧州原子力共同体(ベルギー)


※イギリスとドイツ、イギリスとベルギーの切っても切れない関係
1714年からイギリスの王家はドイツ出身となっている。ドイツのハノーファー公国の君主の家系からイギリス君主が出たのでハノーファー公国を冠した王家となった。
1901年にドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国を冠する王家となる。
1901年の改称は「大英帝国」を象徴する女王として知られるヴィクトリア女王の後から。
ヴィクトリア女王の母がザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系の人物であり、ヴィクトリア女王の夫は母の兄の子であるので(いとこ婚)、やはりザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主の家系。
こちらの公国の名を使用したというわけである。
現在のウィンザー家も第一次世界大戦中で敵国となったドイツの名を冠した家名を避けて改称したもので、流れ自体は続いているからドイツ出身の家系である。
またヴィクトリア女王の母の弟が初代ベルギー国王(レオポルト1世)となった。ベルギーとも親戚なのだ。
ついでに言うならば、ベルギーとオランダの王家も親戚である。

ベルギーやドイツは第二次世界大戦で敗れて共同体を作った。勝ったイギリスはそれとは立場が違う。
がしかし元を正せば、イギリス王家はドイツ出身である。
イギリスはドイツの血を分けた国なのだ。ドイツにも同じ勝者としての血が流れている。そう思っても不思議はない。
ベルギーにしたってそう。ベルギーはドイツに負けたが、ベルギー王家もドイツ出身である。兄弟喧嘩では敵わなかったが他人には勝てると思っても不思議はない。


※ドイツとイギリスとフランスの複雑な関係
第一次世界大戦よりもっと前、ナポレオン戦争(1796-1815)以前の状況は過去記事に書いた通り。

ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争いである。
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた。
このハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。
ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロシア、ザクセン・ヴァイマール、バエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。
ロスチャイルドは元々はヘッセン家の金庫番であった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)

■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあった)

1714年よりイギリスの王家がハノーヴァー出身となる。つまり反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)ということになる。
フリーメイソンは当初反イギリス・反イングランド国教会であった。つまり親カトリック。
アメリカに渡ったのは反イギリス・反イングランド国教会の教徒たち(ピューリタン)で、それはフリーメイソンとも深く関係していた。アメリカをイギリスから独立させた勢力とも言える。
啓蒙思想などを介してフランスのフリーメイソンにも応援を求めた。
それら勢力とアメリカで戦ったイギリス正規軍はヘッセン家(プロテスタント)が調達した。
一方イルミナティは親カトリック(親教皇)。ヘッセン家から破門された男爵が支援しており、神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)側に取り込まれ、反ヘッセン家(反プロテスタント)組織となった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
        フリーメイソンvsイルミナティ

⇒フリーメイソン+イルミナティ

右側サイドがやや劣勢に立つ。
そこに登場したのがナポレオン!ヨーロッパの王族や貴族はこの新しい敵を前に一致団結!!
この反ナポレオン勢力に資金を貸し付けたのがロスチャイルド家で、傭兵を貸し出したのがヘッセン家。
ナポレオンはカトリックの権威を利用しようとカトリックに近づく。
しかしナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
ナポレオン撃破に貢献したのはカトリックということで教皇の地位も上がりイエズス会は晴れて復活。
かつてカトリックに対立したヘッセン家は傭兵と郵便支配(ナポレオン戦争のドサクサに紛れてタクシス家を掌中に収めた)で大儲け。ヘッセン家の財産はロスチャイルドがロンドンに移し守ってくれた。
両者win-winで万歳!!


この頃、フランスは親プロイセンで、イギリスは親オーストリアだった。フランスとイギリスは植民地戦争を行っていた。フランスとイギリスは因縁の仲である。

ナポレオンはカトリックを利用しようとして逆に利用される形になった。
イエズス会が復活したのはナポレオンが失脚した1814年のことである。
復活後のイエズス会は急激な成長を遂げた。

イルミナティはローマ教皇がヨーロッパ王家の圧力に屈してイエズス会を解散した時に起こったイエズス会内紛をきっかけに設立された組織。「解散に怒った人達(可愛さ余って憎さ百倍派)」と「怒らなかった人達(何事も淡泊あるいは相も変わらず派)」がいたのであろう。イルミナティは怒らない人達が結成した。
またイギリスは王家がドイツ出身の家系となった時にイギリスには首相が誕生していて、以降政治の中心が王家から内閣へと変わっていった。従って反イギリス王家=反イギリスという短絡的な図式が成り立たなくなっていく。

ややこしいことに、ドイツは古くから領邦の国(連合国家のような国)なので、簡単に「ドイツ」と括れない側面がある。
それぞれの領邦に権威者がいたのでその権力争いもあったし宗教の違いによる戦いもあった。
歴史的なドイツをごく簡単に分ければ、ドイツも北部と南部に分けられる。
かつてのドイツ南部はオーストリア周辺であり、現在はドイツではない。
カトリックのローマ教皇と組んだハプスブルク家、神聖ローマ帝国が支配した地域である。
北部の代表はプロイセン王国で、オーストリアとプロイセンは1866年に戦争を行い、プロイセンが勝利している。それはカトリックの敗北も意味する。
イギリス王家の出身公国もドイツ北部に属していた。
勝利したプロイセンがオーストリアを除いてドイツ統一を果たし、1871~1918年の間、プロイセン国王がドイツ皇帝となった。
ドイツの産業界の台頭が脅威だったことを背景に第一次世界大戦は勃発したが、もうひとつ重要な要素としてカトリックが(ドイツ南部がドイツ北部に)敗北していたということもある。


※ロスチャイルドはフランキスト?カトリック?
ロスチャイルド家の祖はマイアー・アムシェル・ロートシルト(独: Mayer Amschel Rothschild)(1744-1812)
ロスチャイルドは英語読み。フランス語ではロチルド。
神聖ローマ帝国生まれ。
親戚の紹介でハノーファー王国のユダヤ人銀行家オッペンハイム家に丁稚奉公した。ここで宮廷御用商人(ほとんどがユダヤ人なので「御用ユダヤ人」とも呼ばれたの業務を学んだ
ハノーファーはイギリス君主を輩出した国である。
マイアー・アムシェル・ロートシル(ロスチャイルド家)はその後ヘッセン家の金庫番として台頭する。
父親の仕事を手伝っていた彼の息子5人が5か国(ドイツ・オーストリア・イギリス・イタリア・フランス)に散らばる。
この5人のロスチャイルド兄弟(ロスチャイルド家)に貴族の称号と紋章を与えたのはハプスブルグ家のオーストリア皇帝であった。1822年のことである。
ハプスブルグ家はカトリックとともに歩んだカトリックの擁護者。

ロスチャイルド家の祖マイアー・アムシェル・ロートシルトはユダヤのゲットーで生まれたユダヤ人である。
マイアー・アムシェル・ロートシルトの父親はユダヤ教徒であった。
マイアー・アムシェル・ロートシルトが金庫番を務めるヘッセン家はプロテスタント一家である。
マイアー・アムシェル・ロートシルト死後10年目にロスチャイルド家を貴族にしたのはカトリックのハプスブルグ家であった。

ロスチャイルド家は神秘主義(オカルト)を信奉していたと言われている。
神秘主義も元々の意味から変異して、黒い貴族の周辺で好まれ、キリスト教とユダヤ教の垣根を超えて結合した。
先日「フランク」や「フランキー」の話をしたが、ユダヤ教の神秘主義者にフランクがいて、フランクの信奉者をフランキストと言った。

ヤコブ・フランク(1726-1791)
ヤコブ・フランクは、ポーランド出身のサバタイのような“自称メシア”で、ユダヤ教の救世主思想を「この世の悪や不幸を人為的に頂点にまで満たして、この世を破壊し尽し、メシアを到来させる」という危険な思想に転換させた。
ヤコブ・フランクとその信者(=フランキスト)たちは、正統派ユダヤ教のラビ から破門されたが、フランキストたちは「改革派ユダヤ教」と名称を変え、ユダヤ教の中で一大勢力となっている。
そして、このフランキストがサバタイ派と結びつき、キリスト教徒・イスラム教徒・仏教徒たちの中に紛れ込んで、危険な終末思想を実現しようとしている。
さて問題は、世界を支配するユダヤ王ロスチャイルドが、ただの大富豪ではなく、タルムードを信奉していて、しかもサバタイ派=フランキストに属して いることである。
世界中で起こっている、まるで地球を滅ぼそうとしているかのような数々の破滅的な出来事の裏には、政治・経済・軍事・宗教・メディア・教育等を支配する一 族の意向があるのではないだろうか?

サバタイ派フランキストより>

1700年代半ば、当時のポーランド領(現在のウクライナ)においてヤコブ・フランクがフランク主義(フランキズム)を掲げて社会運動を起こした。
フランクは自らがシャブタイ(サバタイ)・ツヴィの生まれ変わりであると主張した。


サバタイ・ツヴィ(1626-1676)
トルコ出身のユダヤ人である。
激しい躁鬱病患者であったサバタイは、自分がメシアであるとの自覚を持っていたが、彼をメシアと認める人はいなかった。しかし、カバラ学者のナタ ンと運命的な出会いをし、ナタンはサバタイを「メシアだ」と宣言した。信用あるナタンの宣言により、人々はサバタイをメシアとして受け入れた。
サバタイは、イスラム教やキリスト教などの内部に、彼らの味方のふりをして入り込み、内部から腐らせ、無力化させて最終的には崩壊にいたらせるという戦法 を説いた。このアイディアは、屈辱的に改宗せざるをえなかったマラーノたちに希望と言い訳を与えてくれるものでもあった。このサバタイの思想は、 多くの熱狂的な信者を獲得し、ユダヤ人の間に大ムーブメントを起こした。

サバタイ派フランキストより>

シャブタイ派は、その中心人物たるふたりのカバリスト(カバラ思想信仰)の出会いをきっかけに誕生している。そのふたりとは、奇人として知られていたシャブタイ・ツヴィ(サバタイ・ツヴィ)(1626年〜1676年)と「ガザのナタン」ことアブラハム・ナタン(1643年〜1680年)である。
アブラハム・ナタンはエルサレムで生まれ育ち、シャブタイと出会った頃に幻の中で「シャブタイ・ツヴィこそがイスラエルの救世主である」という預言を受けたそうである。

フランク主義者(フランキスト)の多くはユダヤ教の伝統的なモラルを無視して放蕩にふけり、シャブタイ派思想の本質的な部分をさらけ出していた。フランクも同様に仲間を集めて擬似家族と小規模な王国を作り、仲間内で近親相姦を繰り返していた。この運動は1759年に信奉者(フランキスト)たちが大勢キリスト教に改宗したことにより終焉を迎えているとされる。

ユダヤ教の正統派からは異端とみなされていた。ただし現在のユダヤ教がシャブタイ派の影響を少なからず受けていることは事実である。

ロスチャイルドもユダヤのフランキストからキリスト教に改宗したのだろうか?
1700年代はプロテスタントのヘッセン家の金庫番をしていた。
その父が亡くなり、息子達に貴族の称号を与えたのはカトリックのハプスブルク家である。
カトリックに改宗したのか。それともずっとフランキストだったのか。









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# by yumimi61 | 2017-07-11 14:29
2017年 07月 09日
日本国憲法の秘密-513-
カナダはその昔イギリスとフランスの植民地だった。植民地争いから英仏戦争も勃発したが(イギリス勝利)、フランス人もそのまま住み続けるなど多様な面をみせる。
以降もカナダは多くの移民・難民を受け入れてきた。
カナダはアメリカ同様に移民の国である。
アメリカが「人種のるつぼ」なら、カナダは「人種のモザイク」である。

るつぼとは異なる金属を溶かして混ぜ合金を作るための道具である。
融け合ってしまったため元の金属がそれぞれ個を主張することはない(少なくとも表面上は)。あくまでも新たに出来た合金であり、それは均質等質である(でなければならない)。
モザイクは違う。
モザイクと言うと「モザイク処理」を思い浮かべる人が圧倒的に多く、やはり個を消すというイメージを抱くかもしれないが、モザイクとは装飾(アート)の事である。
小石や大理石、色ガラスやタイル、木片や貝殻など異なる材料で様々な模様や絵を表現 する技法や、その絵画(装飾)の事。
性質や姿形の異なる物が1つの絵を構成するが、材質そのものが融け合うということはない。
るつぼは現実的に融け合っているが、モザイクは現実的には融け合っていない。モザイクに融け合うという表現を使うとすればそれはあくまでも感覚的なものである。
アメリカは移民に対してアメリカという新たな国家に融けることを求める。アメリカの価値観に沿って暮らせということである。
一方のカナダは、元の民族国家の特徴そのままの共同体を作ってくれて構わないという国である。
だからカナダの中でも場所を移せば、イギリスであったりフランスであったりウクライナであったりイタリアであったりインドであったり韓国であったりする。逆に言うと「カナダ人」というものがどういう人達なのか分かりにくい。
モザイク処理に当てはめて考えたいならば、モザイクがかかっているのはカナダ人ということである。
移民というのは今に始まったことではなく、かなり古くからいたが、歴史的にも「人種のモザイク」が一般的である。だからこそアメリカは特別に「人種のるつぼ」と言われてきたという背景がある。

カナダがイギリスから完全に独立したのが1982年。しかしながら今でもイギリス連邦王国の1つである(カナダの君主はイギリスのエリザベス2世女王)。



カナダのシーグラムはブロンフマン一族のものである。
ブロンフマンを一躍有名にしたのは、1917年にアメリカで可決された禁酒法で1920年から全面的にアメリカ全土で全面的な禁酒が始まると、隣国のカナダにあったブロンフマン家は、ギャングやマフィアの重要な酒を調達するための供給源となった。
ブロンフマンも積極的にギャングとマフィアを巧みに操りながら、酒を密売し、天文学的な財を築いた。その結果、ブロンフマンはわずか数年で一躍北米有数の大富豪の仲間入りを果たし、「造酒王」の称号をほしいままにした。



・エチェル・ブロンフマン(初代)
1898年にルーマニアからカナダへ移住。売春業から始まり、アメリカのユダヤ系ギャングと組んで大規模な酒や麻薬の密輸密売を行って巨万の富を築く。
マイヤー・ランスキーの作った全米犯罪シンジケートにも供給していた。
その金でジョセフ・E・シーグラムが創業した「ジョセフ・E・シーグラム&サンズ社」という酒造会社を買収して、あえて「シーグラム」という社名にした。


・フィリス・ブロンフマン(2代目)
イスラエルのランベール銀行の経営者の娘ジーン・ランベールと結婚。
ランベール銀行はベルギーの貴族ランベール一族が創立した銀行である。
ランベール銀行はイスラエル建国資金の一部を出資しているのでイスラエルの株主のようなもの。


・エドガー・ブロンフマン(3代目)
彼は4人と5回結婚しているが、そのうちの1人(1953年結婚‐1973年離婚)がアン・ローブである。
彼女の父はウォール街の投資銀行家であるジョン・ランゲロス・ローブで、母はリーマン・ブラザーズのリーマン一族出身である。


※ランベール銀行
ランベール銀行はベルギーを本拠としている銀行でベルギーの貴族ランベール一族が創立した。
ランベール銀行はベルギーのソシエテ・ジェネラル(Société générale de Belgique)の親会社でもある。
(フランスにも「ソシエテ・ジェネラル」が存在する)


※ソシエテ・ジェネラル
ベルギーのソシエテ・ジェネラル(Société générale de Belgique)
ベルギー最大の持株会社で,コンツェルンを形成。本社はブリュッセルにある。1822年にブリュッセルの商人,金融業者たちが,通貨の混乱を克服し為替取引の便を図るために発券銀行として企画。当時ベルギーを統治していたオランダ国王ウィレム1世は,これを認可するに当たってその定款を大幅に修正し,自らも大口の出資を行ってその性格を国家財政の下請機関に変え,名称も銀行の名を避けて〈全ネーデルラント産業振興会社Société générale des Pays‐Bas pour favoriser l’industrie nationale〉とした。


フランスのソシエテ・ジェネラル(Société générale S.A.)(ソジェン)
フランスの預金銀行。クレディ・リヨネ,商工信用銀行,パリ国民銀行(パリ割引銀行の後身)とともにフランス四大預金銀行と呼ばれる。本店パリ。1864年にクレディ・モビリエと対立関係にあったパリの有力銀行家および産業企業家たちにより,通常の銀行業務のほかに,長期の産業金融などあらゆる金融業務をも営む〈混合銀行〉としてパリに創設された。同行は創設の当初から,パリおよび地方への支店・営業所の開設を積極的に進め,70年までに47の店舗を設置し,フランスの銀行の中で最初に全国支店網を完成させた。
ロスチャイルドの主導によってベルギーのソシエテ・ジェネラルがフランスに設立した。(イギリスにもジェネラル・クレジットを設立し、エジプトや近東で活躍)
フランスのソシエテ・ジェネラルは1945~1987年まで国有化されたが、その後また民営化した。
国有化時代もフランスの中央銀行であるフランス銀行が理事会の席を占めていた。
このフランス銀行は創立以降、株主総会への出席者は出資額の上位200人だけに許された。そしていわゆる200家族に支配された。フランス銀行は統計上4万名の株主がいたが、大株主は彼ら家族であった。その代表格がロスチャイルドで常任理事でもある。
フランスのソシエテ・ジェネラルはロスチャイルドは主導したものの出資はしていなかったが監査役に就任していた。

※ベルギー国立銀行
ベルギーの中央銀行。欧州中央銀行制度に参加している。日銀のモデルとなり、ユーロ導入前は独自通貨ベルギー・フランを発行していた。
ベルギー総合会社は国立銀行と別の経済主体であるが、しかし国立銀行の設立時に通貨発行権を譲った歴史をもっており、現代へいたるまでの経営史も他行との関わりにおいて興味深いため、一節を割いて説明している。

日本銀行創設者である松方正義はフランス蔵相レオン・セーからベルギーの国立銀行をモデルにするようにアドバイスされたのである。

上記の説明の「ベルギー総合会社」が「ベルギーのソシエテ・ジェネラル(Société générale de Belgique)」のことである。

(ベルギー総合会社は)ウィレム1世が発起人であり、彼とその家族が株式の大部分を保有した。この会社は旧教会領や工業会社のデベロッパーとして大掛かりな抵当貸付を営む一方、政府銀行家として国債を発行したり、中央銀行として発券したり貯蓄銀行の資金を預かったりした。

そこにライバルが現れる。
1835年、対抗馬となるベルギー銀行をチャールズという男がつくった。ベルギー銀行はジョン・コックリルと組んで、ベルギー総合会社とロスチャイルドが1832年から計画してきたパリ=ブリュッセル鉄道の利権を奪った。1838年の金融危機に、ベルギー総合会社は250万フランの即時手形(2-3日以内)をベルギー銀行へ突きつけて、このライバルを潰そうとした。もっとも、1830-40年代にベルギー総合会社はしばしばロスチャイルド家と国債引受を共同した。1840-48年の間にベルギー総合会社は国王の持株を買収した。1848年革命でベルギー総合会社とベルギー銀行がともにデフォルトしてしまった。国家経済を立て直すべく、ベルギーは双方の銀行券を法定通貨として認めた。すなわち、1851年にベルギー国立銀行が両行の発券権能と国庫金出納を吸収して開業に至ったのである。このときベルギー総合会社は国立銀行株を1万株取得した。
結局両者は共存。

ベルギーのソシエテ・ジェネラル(ベルギー総合会社)は1988年にスエズ金融の傘下に入る。
(スエズ金融の前身はスエズ運河会社。スエズ運河会社はエジプトスエズ運河を建設し所有した会社。海上だけでなく海底にイギリス産のケーブルが通った。1966年まではイギリス王室の持株比率が4割近くを占めていた。設立者はフランスの外交官。1958年にスエズ金融に改称し銀行を創設。フランスのリヨン水道の主要株主となる。そのリヨン水道と1997年に合併してスエズSAとなり、2008年にはフランスガス公社と合併して世界第2位の電気ガス事業者である)
傘下のベルギーのソシエテ・ジェネラルは1998-1999年にフォルティス・フィナンシャル・グループに売却。
フォルティス・フィナンシャル・グループはオランダの保険会社が合併して出来たグループ。そこにベルギーのソシエテ・ジェネラルが加わり、オランダ国有化を経て、2010年にはオランダ東インド会社の経営に参加したホープ商会の後継である銀行と200人家族に含まれる一族が設立したABNアムロ銀行に吸収合併された)


2020年東京オリンピックのエンブレムがベルギーリエージュ劇場のロゴと酷使していた問題があった。
リエージュ劇場(仏: Théâtre de Liège)は、ベルギーのリエージュ市にある劇場。古くからテアトル・ド・ラ・プラス(Théâtre de la Place)の名で知られていたが、2013年の新施設建築(併設)と同時に改称された。
フランス語共同体においてワロニー王立歌劇場、リエージュ・フィルハーモニー管弦楽団と並び「三大文化施設」とされている。

その三大文化施設をこともあろうに「こちらが真似するほど(相手方は)有名ではなかろう」的な発言をした人が結構いたが、日本銀行からしてベルギーの国立銀行をモデルにしている。


※グループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)
ベルギーの投資会社。
ベルギー国内で十指に入る会社で1956年からBEL20の構成銘柄となっている。2014年12月31日現在、ロスチャイルドのイメリーズを支配している。GBL のルーツはランベール家にある。GBL のレオン・ランベールはパリ家ギュスターヴのひ孫である。

1975年、ロスチャイルド系のランベール銀行がブリュッセル銀行(1871年ジャック・エレラが創業)と合併してGBL となった。

GBLは翌1976年にフランシス・マーティン・ドレクセルが創業したアメリカの銀行の支配権を得る。
フランシス・マーティン・ドレクセルはオーストリア生まれで、イタリアのカトリック教会でイタリア語と絵画を学ぶ。
1817年にアメリカに移住。
1837年に永住権を取得した後、アメリカ大手金融会社の1つとなるDrexel&Co.を設立。
メキシコ・アメリカ戦争とアメリカ内戦で連邦政府との金融取引に携わる。
創業者が1860年に死去し息子が事業を継承。J
1868年にパリの会社Drexel、Harjes&Co.が設立され、1871年にはJ. P. モルガンと提携してニューヨークにDrexel、Morgan&Co.を設立。
だがその後、会社は傾いて行く。
幾つかの合併や改称を経て、1976年にベルギーに本拠を置くグループ・ブリュッセル・ランバート(Groupe Bruxelles Lambert、GBL)に吸収され、ドレクセル・バーナム・ランベール(Drexel Burnham Lambert)という社名になった。
1980年代の企業乗っ取りの中心にいたのがこの会社。ブロンフマン×ランベール一族の賜物のような銀行。
ランバートに吸収合併される前からドレクセルにいて、1980年代にジャンクボンドの帝王"Junk Bond King"として名を馳せたのがマイケル・ミルケン。
傾いていた会社はアメリカ5位の投資銀行となりウォール街に欠かせない会社へと変貌を遂げた。

ドレクセル・バーナム・ランバートは、そうしたリスクのある社債をすすんで引受けたのである。
格付け会社の評価でリスクプレミアムがついた社債を、ハイイールド債とかジャンク債という。これをドレクセルが引受けた理由は、第一に利回りが良いからである。第二はミルケンがリスク分散する方法を考えたからだった。

しかしマイケル・ミルケンの不法行為が発覚。
ジャンクボンド市場は世論から非難されるようになった。ミルケンを解雇したドレクセルは顧客を失い倒産した。ミルケンは禁固10年の判決を受けた。刑期は司法取引で2年に縮んだ。出所後はかつての顧客を取り戻し、公然とM&Aのアドバイザーなどを務めるようになった。ミルケンは第1回イグノーベル賞を受賞した。

2017年ドナルド・トランプが大統領となった。トランプは1990年前後に経営難で苦しみ、ゴールドマン、ロスチャイルド、フィデリティなどから支援を受けていた。ラファージュとHSBCが支援するヒラリー・クリントンは敗れた。いずれのスポンサーにも、グループ・ブリュッセル・ランバートや、その株主のBNPパリバが関係している。アンタントが終わるまで民衆と富豪の戦いは何世紀でも続く。(アンタントはフランス語で協約・協商)

BNPパリバは欧州1位のメガバンク。
BNPは元はフランスの国立銀行。
パリバの元はオランダ貯蓄信用銀行とパリ銀行。







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# by yumimi61 | 2017-07-09 11:47
2017年 07月 07日
日本国憲法の秘密-512-
シーグラム(The Seagram Company Ltd.)
カナダの酒造メーカーである。1990年代にはMCAやポリグラムなどの娯楽企業を買収した。

沿革
1857年 - 後にシーグラムとなる蒸留酒製造所がカナダのオンタリオ州に開かれる。
1869年 - ジョセフ・シーグラムが前述の蒸留酒製造所の共同オーナーとなる。
1883年 - ジョセフ・シーグラムが単独オーナーとなる。
1928年 - ディスティラーズ・コーポレーションがジョセフ・シーグラムの蒸留酒製造所を買収し、社名をシーグラムに変更する。
1995年 - 松下電器産業(現 パナソニック)からMCAを買収。
1996年 - 娯楽部門をユニヴァーサルと改名。
1998年 - フィリップスからポリグラムを買収。
2000年 - 酒造部門をペルノ・リカールに、娯楽部門をヴィヴェンディに売却。以降シーグラムというブランド名はペルノ・リカールが使用している。


※ペルノ・リカールとヴィヴェンディ、両方ともフランスの企業である。

※MCAは現在のNBCユニバーサル。
NBCユニバーサルは、ゼネラル・エレクトリック (GE) 傘下のNBCと、ヴィヴェンディ傘下のヴィヴェンディ・ユニバーサル・エンタテインメントの合併により、2004年に設立された。
設立当初の出資比率はGEが80%、ヴィヴェンディが20%だったが、現在はアメリカのケーブルテレビ運営会社のコムキャストが全株式を取得しており、コムキャストの完全子会社。ユニバーサル・スタジオなどを擁している。
ユニバーサルミュージックはアメリカの音楽会社だが上記合併対象となっておらず、現在もフランスのヴィヴェンディが所有している。
日本のユニバーサルミュージック合同会社も当然のことながらフランスのヴィヴェンディが親会社となる。

前に東芝レコードのことを書いたけれど、その記事に登場した石坂敬一。「原子心母」の人である。

昭和20年8月25日生まれ
昭和43年、慶應義塾大学経済学部卒業
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当
昭和56年、同社 邦楽本部において、BOOWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉を担当
平成3年、 常務取締役 就任
平成6年、 ポリグラム株式会社(現 ユニバーサル ミュージック株式会社)入社、代表取締役社長 就任
平成11年、ユニバーサル ミュージック株式会社 入社、代表取締役社長 就任
平成13年、同社 代表取締役社長兼CEO 就任
平成18年、同社 代表取締役会長兼CEO 就任
平成19年7月より、社団法人日本レコード協会会長 を務める
2016年末に亡くなられたそうである。


彼の父親は石坂範一郎。
石坂範一郎は石坂一族の本家の出身で石坂泰三は分家出身との記述もあるが、本家の出身であるならば医師である石坂公成の子であるはずだがそうした裏は取れない。
石坂範一郎は戦前に東芝から日本ビクターに出向していたようで、戦前から石坂一族が東芝で幅を利かせていたような感じだが、石坂泰三が三井銀行に頼まれて東芝の社長に就任したのは戦後である。
要するに石坂範一郎は東芝社長石坂泰三コネクションで東芝や日本ビクターにいたわけではなさそうである。
コネクションならばやはり三井コネクションであろう。


早い話、ロスチャイルド系である。それもイギリス・フランス連合であろう。


シーグラムの説明に戻る。

ディスティラーズ社(シーグラムの元となった企業を買収した会社)はベッサラビアからのユダヤ系移民であるサミュエル・ブロンフマンが設立した。その後、シーグラムの社長には代々ブロンフマン一族が座っている。
1957年から1989年まで社長を務めたエドガー・ブロンフマンは世界ユダヤ人会議の会長でもあった。

ブロンフマンを一躍有名にしたのは、1917年にアメリカで可決された禁酒法で1920年から全面的にアメリカ全土で全面的な禁酒が始まると、隣国のカナダにあったブロンフマン家は、ギャングやマフィアの重要な酒を調達するための供給源となった。
ブロンフマンも積極的にギャングとマフィアを巧みに操りながら、酒を密売し、天文学的な財を築いた。その結果、ブロンフマンはわずか数年で一躍北米有数の大富豪の仲間入りを果たし、「造酒王」の称号をほしいままにした。
禁酒法の時代に酒を密輸し、大儲けしたことで有名なアル・カポネもブロンフマン家の一介の売人にすぎなかったといわれるほど、莫大な財を築いており、証拠が全くないにもかかわらず、禁酒法がユダヤ人主導で行われたという陰謀論が根強く残っている由縁である。

その息子であるエドガー・ブロンフマン・ジュニアは若い頃は家業に反発し、音楽家・演劇プロデューサーとして身を立てていた。彼が1989年に社長に就任してからシーグラムがMCAやポリグラムを次々と買収したのはこのような背景からである。

エドガー・ジュニアはシーグラム売却後もヴィヴェンディ・ユニヴァーサルの副会長にとどまっていたが、同社をNBCが買収した際に退任。その後、2004年にタイム・ワーナーの音楽部門であるワーナー・ミュージック・グループを他の投資家たちと共同で買収し、現在はその会長となっている。







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# by yumimi61 | 2017-07-07 23:50
2017年 07月 07日
日本国憲法の秘密-511-
全米犯罪シンジケートを作り、犯罪組織のビジネス化を推し進めたマイヤー・ランスキー。
元々数字に強く経済に興味を持っていたという。
彼はロシア系ユダヤ人(ユダヤ系)である。
シチリア発のマフィアはこの中に取りこまれることになったが、第二次世界大戦で潮目が変わった。
アメリカ海軍から協力を求められて出所し勝利に貢献したシチリア出身のラッキー・ルチアーノのほうが立場的に優位になったのだ。


(マイヤー・ランスキ―の)組織上の立場
ヴィンセント・テレサ(ニューイングランド一家所属)によれば、ランスキーはラスベガス等のギャンブルで全米のコーサ・ノストラの組織を儲けさせているが、あくまでコーサ・ノストラの代理人としてのそれであり、代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている。またアンソニー・サレルノ(ジェノヴェーゼ一家)は、ランスキーの死に際し、「ジェノヴェーゼ一家のワークスタッフに過ぎない。何をやるにもヴィンセント・アロ(ジェノヴェーゼ一家)を通さなければならず、独立した権力もなかった」とFBIに語った。これらマフィアの内部証言者2人とも、世間に定着した「暗黒街の大物」「闇社会の帝王」のイメージを否定した。

コーサ・ノストラは秘密結社的犯罪集団である。イタリア語で「我らのもの」を意味し、一般的にはマフィアとして知られるが、正確にはマフィアとコーサ・ノストラは区別される。
コーサ・ノストラは第二次世界大戦中にアメリカが強制送還したラッキー・ルチアーノに対してつけられた組織を言う。



(マイヤー・ランスキーの)「大富豪」の虚実
FBIの盗聴記録から、「生活の必要は自分から多くのものを奪った」、「戦争で大金持ちになった人々がいるが、彼らは職を持つべきではない」などと、富豪と思えないような発言(愚痴)を繰り返していたことが判明した。息子の手術代を払えずヴィンセント・アロに用立ててもらったエピソードも後になって露見した。晩年に滞在したイスラエルでのテレビインタビューではマスコミで言われている「3億ドルの資産」を真っ向から否定した。彼の質素な生活が、謙虚なライフスタイルの反映でも富豪のイメージを隠す偽装でもなく、実際の財政状態を表していたのではないかとの指摘もある。




「代理人として正直に振舞っている上では役に立つが、そうでなければいつでも消される立場にあるとしている」とあるが、確かに、トーマス・E・デューイ(特別検察官、後の大統領候補)の暗殺をダッチ・シュルツが企て組織に諮り、その組織に殺されたのが当のダッチ・シュルツだったことを知っていれば、国家と手を組んだラッキー・ルチアーノに反するような言動は行い難くなるだろう。
しかもマイヤー・ランスキーは戦後アメリカが敵視したソ連(ロシア)出身の人物である。


マイヤー・ランスキーには夢があった。目指すべきものがあった。
犯罪と呼ばれるようなことをあくまでも合法的に行う事である。
その手段の1つが法の抜け穴をつくこと。
もう1つの手段としては自分だけの法律を作ってもらうこと。(日本なら例えば日銀の日銀法、NHKの放送法、日赤の日本赤十字社法など。他では禁じられているようなことが独自の法律によって許可されている)
どんな犯罪を犯しても決して表沙汰になることはない体制、国家が手出しできない体制とはどんなものだろうか、彼は考えた。
その考えにはベースがあった。国家が簡単に手出しできない権威者、国家に優遇される者である。
これは別に彼が考えたことではないが、例えば日本の天皇は法的にも憲法と皇室典範によって刑事責任が及ばないと言われている(奇跡や例外を無視した100%を認めている)し、そもそもその権威によって法まで辿り着かないうちに犯罪は無きものとなるだろう。
手本がないわけではない、そうしたことに学べばいいのだ。
古臭い宗教や家柄が権威だと言うならば、それに代わるものを作ればいいではないか。その上に立てばよいではないか。
あの権威者たちは何を欲しているのか?何を大事にしているのか?ああそうだ、仕事だ、金だ。


余談だが、少し前に「(がん患者は)働かなくていいんだよっ」と発言した議員がいたらしく非難されているニュースを見たが、私は何が悪いのかよく分からなかった。
私ががん患者だったら、あくせく働かないで治療に専念したり、好きなことをしていたい。
「働かなくていいんだよ」と言われれば「ありがとうっ」という感じである。
と、そこまで考えてお金のことを思いついた。働かないと収入が絶たれて治療も療養もままならないということかと。
贅沢は敵よ?(は?)
がん保険は?(そんなの入ってねーし?)
傷病手当は?(非正規社員なんだよ?)
家族が養ってくれるでしょ?(独り身なんだよ?いや逆に養わなければならないんだ?)
寄付は?募金は?寄付や募金を募れば?(がん患者なんて珍しくないから集まらないさ?)
労災申請すれば?(まだ死ぬつもりはない!?)
国家を訴えれば?がんになったのはお前のせいだって。(証拠不十分?)





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# by yumimi61 | 2017-07-07 10:33
2017年 07月 06日
日本国憲法の秘密-510-
マーダー・インクの説明に「組織は一連のメンバー逮捕および実刑確定により事実上消滅した」との記述もあったが、逮捕されたからメンバーとして知られたのであって、逮捕されること無く潜伏したメンバーいただろう。
また逮捕されてもその生涯の多くを知られていないメンバーもいる。
死刑になった者もいるが出所した者もいる。
そもそもマーダー・インクを組織したボスたちが生き延びており、全米犯罪シンジケートが消滅したわけではなかった。

ボクシングのヘビー級王者となったチャールズ・"ソニー"・リストン(Charles "Sonny" Liston)のバックには、ボクシングプロモーターでフィラデルフィアマフィアの裏の顔を持つフランク・パレルモやニューヨークマフィアのルッケーゼ一家の一員でマーダー・インクの殺し屋でもあったフランキー・カルボなどが付いていた。

フランク・パレルモとフランキー・カルボ、「フランク」に「フランキー」である。
マーク・リッチと1966年に結婚したデニス・アイゼンバーグは、シスター・スレッジに"Frankie”(フランキー)という曲の歌詞を提供した。
この曲はアメリカの歌手フランク・シナトラ(Francis Albert "Frank" Sinatra)のことを書いたそうである。

フランク・シナトラ
現在も歌い継がれる数々の世界的大ヒット曲やゴールドディスクを世に送り出し、その卓越した歌唱力によって「ザ・ヴォイス」と称された。エルヴィス・プレスリーやマイケル・ジャクソンなどと並び、20世紀を代表する歌手の一人である。

第二次世界大戦前の1930年代より死去する1990年代までの長きに渡り現役の歌手として活動し、数々のミリオンセラーを連発し、また多くのミュージシャンに影響を与えた。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第3位にランキングされた。

しかし、デビュー期からイタリア系マフィアとの深い関係が度々取りざたされており、またマフィアを介してジョン・F・ケネディ大統領と親密な交友関係を持ち、ケネディの大統領当選に貢献したものの、後に仲たがいしたことから、同大統領の暗殺に関与したと噂されたこともある。



シナトラとマフィアとの関係

●タブー
シナトラはその生涯にわたり、イタリア系マフィアとの黒い噂が絶えなかった。実際にマフィアの大物のサム・ジアンカーナやカルロ・ガンビーノ、ラッキー・ルチアーノなどのイタリア系マフィアの歴代の大ボスとの交流があったことが、FBIの資料で公になっており、その資料は合計で2,403ページにも及ぶことから、いかに深く広いつき合いがあったかわかる。

しかも、このことは「公然の秘密」であったにも関わらず、メディアのインタビュアーがマフィアとの関係を尋ねることはタブーとされていて、実際に尋ねてしまった場合はインタビューは即時中断し、そのインタビュアーは二度とシナトラに対するインタビューはできなかった。

なお、有名なニュースアンカーのウォルター・クロンカイトがインタビュー番組の収録の際、番組のプロデューサーにけしかけられてシナトラにマフィアとの関係を尋ねてしまった際には、怒ったシナトラが自らのマネージャーを呼びつけて中座し、インタビューは中止された。その後、シナトラとマネージャー、プロデューサーの話し合いの後に再開し、シナトラより「興行先で興行主がマフィアであると知らず同席することはあった」との説明があったに留まった。


●最初の結婚
1940年代、シナトラはジェノヴェーゼ・ファミリーの副ボスウィリー・モレッティと友人となった。シナトラの最初の妻だったナンシー・バルバートはモレッティと縁のある人物のいとこであった。

●『ゴッドファーザー』

シナトラが『地上より永遠に』の脇役に抜擢されるまでの有名なエピソードがある。つまり、カムバックを狙ったものの、映画界における女性スキャンダルが元で役につけなくなったシナトラが、「育ての親」であるサム・ジアンカーナに泣きつき、最終的にジアンカーナが裏で「マフィア的に」動いて役に抜擢されたというものである。

このエピソードは後に、イタリア系マフィアの血族を描いた映画、『ゴッドファーザー』で取り上げられ、世間に知られるようになる(映画上ではさすがに実名ではなく、「ジョニー・フォンテーン」と言う芸名になっている)。

その後、あるパーティーに、「ゴッドファーザー」の原作者のマリオ・プーゾとシナトラとが同席していて、知人がプーゾをシナトラに紹介しようとしたところ、「Fuck off(うせろ)!!」と怒鳴ったのは有名な話である。


●ケネディ大統領暗殺事件
娘のナンシーによれば、ケネディが1960年の大統領選挙に立候補する際、ケネディの父親で、密造酒商売を通じてマフィアと繋がりが深く、禁酒法時代に密造酒製造・販売で財を成してのし上がった過去があるジョセフ・P・ケネディが、シナトラの歌手デビュー当時から密接なつき合いがあるイタリア系マフィアの大ボスで、ショービジネス界を裏で握っているジアンカーナに選挙運動に協力するように頼んでほしい、とシナトラに頼んだと証言している。
(略)
しかしケネディは大統領当選後、ケネディ家とジアンカーナをはじめとするマフィアとの関係を怪しんだFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーに忠告を受けたため、マフィアの協力で大統領に当選したことが表ざたになることを恐れた弟で司法長官となったロバートが、大統領就任後にジアンカーナをはじめとするマフィアとの繋がりがあるシナトラを露骨に避けた上、この様な事実のもみ消しのために「マフィアを徹底的に取り締まる」と発表し、実際にジアンカーナとシナトラとの関係を一方的に断った。

このような無礼な仕打ちに怒ったジアンカーナとシナトラは徐々に反ケネディに傾いて行き、ジアンカーナは「ケネディ大統領暗殺事件の黒幕の一人」と言われ、シナトラも「ケネディ大統領暗殺の際に何らかの役割を果たしたのではないか」、「ケネディ兄弟の暗殺はシナトラやジアンカーナへの裏切りに対する報復であっただろう」と言われる根拠となっている。ちなみにシナトラはケネディ大統領暗殺事件の直後、自分が出た映画「3人の狙撃者」のフィルムを回収して回った。なぜなら、そこでのシナトラの役は大統領狙撃未遂の主犯の上官だったからである。



「フランクに話そう」などと言うフランク(frank)は率直というような意味で用いられている。
日本語ならば「明け透け」といった感じだろうか。
本音で話し、嘘はつかない、隠し事はしない、年齢や身分、立場などの上下関係も関係なくフラットな感じで接する。
好感を抱く人もいれば無遠慮で礼儀知らずな嫌な奴と感じる人もいるだろう。
このフランクの語源になったのは、3世紀頃に隆盛した西ヨーロッパのフランクという部族集団である。
気取らない率直な性格で自由な社会を築き、且つ勇敢で強かった。
その特徴が英語のfrank(フランク)の意味となった。

flunk(フランク)ならば落第や失敗という意味である。
flunky(フランキー)ならば制服を着た使用人、下働きや助手、卑屈にぺこぺこする人、おべっか使い、太鼓持ち、取り巻き、ごますり(yes-man)、取るに足りない奴、言い成りになる人などの意味で、frankとはだいぶ意味が違ってくる。

フランキー(franky)と書いた場合は「フランクな人」という意味合いになるのだろうか?
シスター・スレッジの楽曲はFrankieと書いてフランキーである。Frankieとflunkyを掛けたとか!?

FrankやFrankieは、Francis(フランシス)という名の愛称として用いられる。
フランシス(Francis)は、アッシジのフランチェスコに由来する英語圏の男性名及び姓。
フランス語圏ではフランソワ、イタリア語圏ではフランチェスコ、ドイツ語圏ではフランツとなる。

アッシジのフランチェスコは、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。中世イタリアにおける最も著名な聖人のひとりであり、カトリック教会と聖公会で崇敬される。また、「シエナのカタリナ」とともにイタリアの守護聖人となっている。


要するにFrancis(フランシス)、Frank(フランク)やFrankie(フランキー)はカトリックに関連のある名前である。


フランク・シナトラの説明に、マイケル・ジャクソンなどと並び20世紀を代表する歌手の一人とあったので、ついでにマイケル・ジャクソンの「ファミリー」について。
と言っても、ジャクソン5でも、お姉さんでも、お父さんでも、子供達の話でもない。

実はマフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれる。だからそれが気になっている。ソニーだけにね!?
今更と言えば今更でもありますが、この動画の1:14あたり、「僕らはファミリーなんだ」という字幕がでるが、実際英語で何と言っているのか聞き取れない。(なんて言ってますか?その前がI love you なのは分かります)


マイケルの死後に設立されたジャクソン・ファミリー財団は御存知だろうか?(ファミリーですけど大丈夫ですか?)
なんと日本支部がある。→http://jffj.jp/greeting.html
Engilish→http://jacksonfamilyfoundation.ning.com/

慈善団体であるジャクソン・ファミリー財団は、マイケル・ジャクソンの悲劇的な死後、ジャクソン・ファミリーの全歴史とマイケル・ジャクソンの壮大な遺産を維持する為の献身的な目標と共に、マイケル・ジャクソンのジャクソン・ファミリーの家長であるジョセフ・ジャクソン、女家長であるキャサリン・ジャクソン、そして、わたくしサイモン・サフーリによって設立されました。

日本支部の代表は古賀賢治というお方。

古賀賢治
日本の芸術家、グラフィックデザイナー、アートディレクター。長崎県生まれ。東京都在住。
代表作ともいえる切手のコラージュ「平和の象徴」が、ニューヨーク国連本部のパーマネント・コレクション(永久保存)に日本人として初めて選出。
「平和の象徴」は、小さな紙片の中に人と人を結びつける力を強く秘めた切手に、世界の平和を希求する想いを託したものである。

20世紀の世界各国の使用済み切手と、国連が過去40年間に発行した切手による作品(この作品のみオリジナル制作。
他はすべてシルクスクリーンプリント)、それら合計8点のアート作品が国連郵便管理局によって永久保存されている。
また1994年、国連で開催された“自然災害軽減世界会議”の記念切手案が国連切手デザイン委員会の決定を経て、1994年に選出される。
オリジナル絵画3点およびデザインを手掛けたその作品は、1995年、ニューヨーク、ジュネーヴ、ウィーンのそれぞれの国連より20世紀最後の国連記念切手として発行された


国連尽くし。

凄く長いですが、年譜も貼っておきます。
国連難民高等弁務官事務所が度々出てくるが、ここもカトリックに関係あり。

1974年 - ニューヨーク渡米。アートワーク活動開始。

1982年 - デザインオフィス株式会社C.Y.A設立。

1992年 - NGO団体(主に国連難民高等弁務官事務所への支援)日米アースサクセス委員会ニューヨーク本部設立。同年8月日本支部設立。現在に至る。
マイケル・ジャクソンよりワールドツアー日本公演の際、「マイケル・ジャクソンワールド」のイメージ空間デザインの依頼・制作。

1993年 - ニューヨーク、アートディレクターズギャラリーにて個展開催。
ニューヨーク、ミューチュアル保険会社本社ギャラリーにて個展開催。ニューヨーク国連本部にて原画2点、シルクスクリーン6点の永久保存特別レセプションが行われる。

1994年 - 国連記念切手「国際防災の10年」の世界コンペへ作品提出、ニューヨーク国連本部デザイン査問委員会の決定を経て選出される。
伊勢丹デパートにて個展開催。横浜にて「自然災害軽減世界会議」へ特別出展。(日本で初めての国連国際会議。皇太子徳仁親王・同妃雅子さまが観覧した。)

1995年 - ニューヨークメットライフ(旧パンナムビル)保険ギャラリースペースにて個展開催。
「自然災害軽減の10年」の記念切手、ニューヨーク国連本部、ジュネーヴ国連支部、ウィーン国連支部から販売される。国連認定の難民救済募金箱設置スタート。(以後一年に一回国連難民高等弁務官事務所を通し基金の寄付を行っている。)阪神・淡路大震災被災者に対するベネフィットCD作成・参加。ジャズ界よりハービー・ハンコック、キース・ジャレット、パット・メセニー、チャールズ・ロイド、坂本龍一他海外アーティスト数十人参加。阪神・淡路大震災被災者、高校生・大学生6000名のためのフリーチャリティコンサートを企画・開催。ハービー・ハンコック・トリオ、小曽根真、菊池雅章他多数出演。

1996年 - 伊勢丹デパートにて個展開催。
1997年 - 銀座ミキモトアートギャラリーにて個展開催。

1998年 - 第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの弟、ロバート・ケネディ司法長官の次男ロバート・ケネディJr. (リバーキーパーズ財団を率いて河川汚染問題を主軸にした環境汚染を追求するアメリカ屈指の人物)を日本へ招聘。東京・京都で日米アースサクセス環境セッションを主催。

1999年 - メキシコ「サンイグナシオ・ラグーン(環礁)」の野生動物・植物(世界遺産候補地)が絶滅の恐れがあるため日米アースサクセス委員会とロバート・ケネディJr.並びに世界環境保護協会(アメリカ最大のNGO)、世界有数の学者が現地に集まる。

2000年 - 「ニース国連世界水会議」に出席。
「国連難民高等弁務官事務所・創立50周年記念コンサート」を開催。その際ニューヨークより「アメリカ公民権運動家」でもあり「ジャズ界のゴッド」でもあるマックス・ローチ・カルテットを招聘。2001年 - 天台宗総本山・比叡山延暦寺にて黒沢久雄、小林大僧正等とのパネル・コラボレーション。

2003年 - 「KENJI KOGA ANIMAL ARTBAG」ブランド、ニューヨークデビュー。

2006年 - <ダ・ヴィンチ・コード展>総合アートディレクション。最新のデジタル技術を駆使した「ダ・ヴィンチの謎」を六本木ヒルズで展開した。会場内で販売されるウォッチ・グラスなどのアート作品のプロデュースも手掛ける。

2010年 - LEDウッドオブジェ<ル・コルビュジエへのオマージュシリーズ>制作。近代建築の三代巨匠の一人、ル・コルビュジエ後期の代表作「ロンシャン礼拝堂(1955年竣工)」。その礼拝堂内部の南壁に無数に作られた「光入れのためのステンドグラスのカタチに魅せられ、マホガニーとLEDを組み合わせた作品である。尚、同時に<”ポスト侘び寂び”>としてウッドアートオブジェの作品も発表された。

2012年 - 5月皇居前に位置する「パレスホテル東京」がグランドオープン。その一階ロビー部分に設置されたデジタルサイネージ作品「淋派・狩野派などの日本の名画シリーズ」のアートディレクションを手掛ける。淋派・狩野派などの重要文化財クラスの名画の新しい見せかたを展開。新しいパブリックサイネージデザインを提案した。



何故にジャクソン・ファミリー財団日本支部の代表を務めているのか?
マイケル・ジャクソンとの関係はワールドツアー日本公演の際にイメージ空間デザインを依頼をされたかららしい。






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# by yumimi61 | 2017-07-06 00:17
2017年 07月 04日
日本国憲法の秘密-509-
1935年にニューヨーク州知事から特別検察官に任命された男、トーマス・E・デューイ。
彼はマイヤー・ランスキ―の親友でありシチリア出身ニューヨーク拠点マフィアのトップになったラッキー・ルチアーノをターゲットに据えた。

1936年、野心家の検事トーマス・デューイは、ルチアーノを「公共の敵ナンバーワン」と名指しし厳しく追及した。そのため、(ラッキー・ルチアーノは)当時引退したギャングが集まる街だったアーカンソー州ホットスプリングスに身を隠した。このとき、古くからの友人のオウニー・マドゥンに生活の面倒を見てもらう。しかし4月1日にカジノで遊んでいたところ逮捕される。マドゥンが用意した優秀な弁護士を雇い5千ドルですぐに釈放されるが、デューイ側はすぐに再逮捕しニューヨークに連行された。ルチアーノ側はアーカンソー州司法長官のカール・E・ベイリー(Carl Edward Bailey)長官に5万ドルの賄賂を交換に釈放を求めたが断られた。

裁判では容疑は数多くあった。殺人、酒の密造・密売、労働組合の恐喝、ミカジメの取立てなどである。しかし有罪になったのは、彼が犯さなかった数少ない犯罪の一つである強制売春だった。売春事件としては異例の禁固30〜50年の刑を宣告された。このときの裁判で検察側が出頭させた証人の多くは、当局の指示に従わないと逮捕すると脅迫を受けた売春婦たちで、ルチアーノに対して不利な証言をさせていた。そこまでしてもデューイ側はなんとしてもルチアーノを投獄させたかったという。ルチアーノは「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を主張したが、その後10年近く刑務所で暮らすことになる。ギャングが監視体制の厳しさからシベリアと恐れていたダンネモーラ刑務所(Clinton Correctional Facility, Dannemora)に送られた。

投獄されるがその権勢は衰えず、刑務所内から面会に来たマイヤー・ランスキーやフランク・コステロたちを使い、組織犯罪の指揮をとり続けた。刑務所の中でも大きな権威を持っていた。刑務所ではラジオを置き、新聞を取り、労働はせずに快適に暮らしていた。



ダッチ・シュルツ
ドイツ系ユダヤ人(ユダヤ系)。1920~1930年代にニューヨークで活動したギャング。
気が短く暴力的な性格で、問題がおきると銃で解決するタイプで、多くの流血沙汰を起こした。
ラッキー・ルチアーノらと縄張り協定を結び、全米犯罪シンジケートの協力者として位置付けられていた。
またニューヨーク・マンハッタンのアフリカ系の人達(黒人)が集まるハーレムの賭博組織を支配下に置いた。
これはタマニーホールの弁護士と結託して行ったことである。

1933年1月に脱税容疑で告発される。その後はニューヨークを離れて潜伏するが、1934年11月にニューヨークに戻った。
元州知事や元州議会議員ら豪華なメンバーの弁護団を組織して裁判に備えた。弁護団の計らいにより、裁判地をシュルツの悪名が轟いていたニューヨーク市ではなくカナダ国境に近い田舎町マローンとすることに成功すると、広告会社を雇って地元の企業に寄付金をばらまき、慈善活動を行なった。政治家のように地元民と握手したり、子供にキスをして「善良な市民」をアピールし、政府のスケープゴートにされた犠牲者のように振る舞った。
翌年行われた裁判では、第一審で有罪となったが、第二審では陪審の買収工作により無罪を勝ち取った。アル・カポネやワキシー・ゴードンらの脱税投獄の例から有罪は確定的と見られていたが、そうした予想を覆した。


裁判とは誰かの正義である。つまり感情である。法とか科学とか実はそんなに関係ない。
それが露骨に出るのが陪審裁判である。市民の感情で罪と罰は決まる。市民の感情に沿わない人が悪い人ということである。
裁判は感情的なもの、しかしそれではあまりに近代的、沈着冷静、客観的ではない。
規範のシンボルのような裁判に規範がないというのでは示しがつかない。
そこで「判例」というものがある。
同じような裁判が繰り返されて行われるとその判決は規範化し一定の拘束力を持つようになる。
判例は判決を導く上での法的理由付けにもなる。
誰かの個人的感情によってかけ離れた判決を出すということは出来ないということ。
(但し日本はアメリカやイギリスと違って判例法の国ではないので、判例に法的拘束力まではない)
判例法の国であるアメリカで予想を覆す判決が下された。

無罪となったダッチ・シュルツは1935年8月にニューヨークに戻った。
この判決に激怒したニューヨーク市長がダッチ・シュルツをすぐさま逮捕するように命じる。
この時にはトーマス・E・デューイは特別検察官になっており、上記に書いたようにラッキー・ルチアーノを公衆の敵とターゲットに据えていた。
しかしその下の副官はラッキー・ルチアーノと通じていた。(1935年9月、副官は行方不明となった)
ダッチ・シュルツは再びニューヨークを脱出した。

ダッチ・シュルツはニューヨークを追われた事を恨み、トーマス・E・デューイの暗殺を全米犯罪シンジケートの会議に諮った。
全米犯罪シンジケートの暗殺実働部隊とも言えるマーダー・インク(殺人株式会社)のリーダーだった“レプキ”・ルイス・バカルターは反対、その右腕だったジェイコブ・"グラ"・シャピロは賛成。
決定権は上層部にある。ラッキー・ルチアーノは反対であったという。
ラッキー・ルチアーノがマーダー・インクに指示したのはダッチ・シュルツ殺しだった。
計画は実行され、銃撃から22時間後にダッチ・シュルツは死んだ。

事件翌日のニューヨークのタブロイド紙に 「シュルツ銃撃さる」の見出しが踊った。ハーレムの女王で過去シュルツにポリシーゲームを乗っ取られたステファニー・セント・クレアは死の床にあるシュルツに"As ye sow, so shall ye reap." 自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならない という短い電報を送った。

最後に言った言葉は「俺のことはほっといてくれ」。彼はユダヤ教徒だったが、銃撃直後にカトリックに改宗したため、ニューヨークのゲート・オヴ・ヘヴン墓地に埋葬された


彼はなぜ最期にカトリックに改宗したのだろうか。いずれにしても組織がカトリックと深い関係にあったことを示唆している。

ラッキー・ルチアーノと、トーマス・E・デューイは裏で通じていたか、取引をしたのだろう。
トーマス・E・デューイの命を狙ったダッチ・シュルツの暗殺を依頼したのはトーマス・E・デューイだったかもしれない。
ダッチ・シュルツは、デューイの暗殺を企てた結果殺されたと報道されると、デューイは一躍名を上げて1940年には大統領候補にもなるのである。
1942年にニューヨーク州知事となる。
第二次世界大戦後の1948年大統領選挙では当選が有力視されていたが民主党のトルーマンに敗れる。
トルーマンは原爆投下を指示した功労者である。
その原爆「平和のための原子力」はロスチャイルドとロックフェラーの争いに束の間の平和をもたらした。
我々も原爆開発に成功したなどとぬかすソ連という敵に一致団結して戦わなければならないのだ。
トルーマンはユダヤ人の親友がいて1948年にイスラエル国家の承認に踏み切っている。

シカゴ・トリビューン紙は、デューイの勝利という見出しを掲げた。このことは世紀の大誤報として現在も記憶されている。

シカゴ・トリビューン
1847年に当時台頭してきたノー・ナッシング(Know Nothing)と呼ばれる外国人排斥運動の新聞として創刊された。 創刊当時は定住外国人やカトリック教徒について批判的な姿勢をとり、外国人への恐怖に関する記事が紙面の多くを占めた。

創刊8年後にジョゼフ・メディルら6人がこの新聞を買収し、外国人への恐怖を与える内容は抑えられていく。しかしやがて禁酒運動に傾倒していく(プロテスタントは後から来た移民などと比べ飲酒を控える事が多い)。

1930年には、当時禁酒法によってマフィアやギャングが街を牛耳っていたため、紙面で「民衆の敵」としてリストアップして非難した。ちなみに民衆の敵ナンバー1はアル・カポネだった。

1935年には、保守派の立場のロバート・R・マコーミック大佐が編集長を務めた時代のこの新聞は、孤立主義の色が強く、政治面や社会面では偏った報道を行なっており、「アメリカ人のためのアメリカの新聞」を自称していた。また、アメリカ民主党とニューディール政策を強く非難し、イギリスとフランスをはっきりと軽蔑しており、 ジョセフ・マッカーシー上院議員と蒋介石を非常に好意的に紹介した。

シカゴ・トリビューンで有名なスクープは、日本の真珠湾攻撃の前日に報道されたアメリカの第二次世界大戦参戦計画の暴露である。

アメリカ大統領選挙での選挙結果について共和党のトマス・デューイの勝利との誤報を出してしまい(民主党のハリー・S・トルーマンが勝利)、笑いものにされた。「デューイ、トルーマンを破る」と書かれたシカゴ・トリビューンを持って笑うトルーマンの写真は有名である。
それ以来この新聞は変化を遂げたとはいえ、共和党寄りの方針が基本となっている。


アル・カポネはイタリア系。但しシチリア出身のマフィアではなくイタリア系のギャングであった。
ニューヨーク生まれでシカゴに事務所を構えた。
シカゴにとって民衆の敵だったことに違いはないだろうけれども(もっともシカゴにもマフィアがいたが)、全米という観点から見ると、知名度の高さと影響力の大きさが一致していない人物。
映画化されたりしていたので名が知られていた。


ちなみに刑務所で労働もせずに快適に暮らしていたラッキー・ルチアーノはどうしたかと言うと、第二次世界大戦中にアメリカ海軍から協力を求められて出所したそうな。

ドイツが降伏しヨーロッパ戦線が終結した直後の1945年5月7日に、恩赦を求める嘆願書をニューヨーク州知事となったかつての宿敵デューイ元検事に提出した。政府は大戦中の功績を認め恩赦を許可した。しかし、アメリカ市民権を持たないのでイタリアへ強制送還される。

(イタリアのナポリで)、スカラ座のバレリーナのイゲア・リッソーニを愛人にし、彼女と共に競馬場や高級レストランに毎日のように通い優雅な生活を送る。表は医療器具や家庭電化製品を扱う商人で、裏は麻薬や煙草の密輸をやっていた。

アメリカ追放後も、レバノンの密輸業者と連絡し、トルコで生産されている非合法アヘンをレバノンでモルヒネに加工させ、トロール船でイタリア沿岸部、または、フランスのマルセイユに運びヘロインに精製させていた。この意味で、1970年代のパレスチナゲリラの分派たちに資金作りの方法を教えた恩人と言える。

米本土とのコネクションを持ち、イタリアとアメリカの間に麻薬密輸ルートを築き上げ、マフィアの勢力はさらに拡大する結果となった。中継基地のキューバも手中に収めている点でルチアーノは間違いなく1960年代の麻薬王となった。この麻薬はマフィアの資金源として彼の権威を絶大なものとした。さらにその資金を、ミラノの弁護士で銀行家のミケーレ・シンドーナを通じてマネーロンダリングさせていた。




ソニーの創業は1946年。当初は東京通信工業という社名であった。
その会社が「SONY」という言葉というかロゴを商品に使い始めたのは1955年。
そして1958年に社名をソニーにして東証1部に上場した。
ソニー・コーポレーション・アメリカを設立したのが1960年。
ではSONYにはどんな意味があるのか?

SONYは「音」を意味するラテン語の「SONUS (ソヌス)」、「小さい、坊や」を意味する「SONNY(サニー)」が由来。
「SONNY」だと「損(SON)」を連想させるため、「N」をひとつなくしてSONYとなった。
1955年にトランジスタラジオの商標にSONYという名称が採用されたのが始まり。
世界のどの国でも誰にでも読めて発音できる言葉として考案された。


アメリカで名を馳せたイタリア系ギャングのアル・カポネの息子の通称もソニーだった。
Albert Francis "Sonny" Capone
本名は、アルバート・フランシス・カポネ(Albert Francis Capone)である。
1918年生まれなのでソニー株式会社より誕生は早い。

ギャング・マフィア絡みのソニーとしてもう一人有名なのが、チャールズ・"ソニー"・リストン(Charles "Sonny" Liston)。
ボクシングのヘビー級王者だった人物である。こちらも通称がソニー。
彼には出生記録が無く、正確な生年月日は不明。1932年生まれということになっているが、これは本人の申告によるものである。
1932年生まれということは、ソニー株式会社よりも誕生は早い。

チャールズ・"ソニー"・リストンは幼い頃から犯罪に手を染めており、武装強盗や警官襲撃などで19回逮捕された記録が残されている。
1950年に強盗などの複数の罪に問われ、5年の有罪判決が確定し刑務所に収監され、結局2年間の刑務所生活を送った。
この間に、ボランティアでアスレチック・ディレクター(アメリカの高校や大学には全運動部活動を管理する管理者がいるが、その刑務所版ということだろう)を務めていた神父からボクシングの手ほどきを受けた。神父ということはプロテスタント(牧師)ではない、カトリックである。
仮釈放で刑務所を出所した彼は、その神父の支援を受けてアマチュアデビュー。
セントルイスのマフィアのボスとも関係するようになる。
翌1953年にプロデビュー。

1956年5月5日、路上でリストンを呼び止めた警官に暴行を働いた上に拳銃を奪い去ったとして感化院へ9ヶ月間送られる。その後、再び警官相手に暴力沙汰を起こして町を出て行くよう宣告を受け、セントルイスからフィラデルフィアへ拠点を移す。
この時点での戦績は14勝(7KO)1敗。

この頃から数年に渡って、ボクシングプロモーターでフィラデルフィアマフィアの裏の顔を持つフランク・パレルモと、ニューヨークマフィアのルッケーゼ一家の一員でマーダー・インクの殺し屋でもあったフランキー・カルボの支配下で試合を行うようになる。

フィラデルフィアへ拠点を移しての復帰後には19連勝(17KO)をマークした。
しかしながら、バックに付いている裏社会との関係が記者たちの格好の標的となり、世界王座に挑戦させるべきではないとの世論が形成された。
時の王者に対して、NAACP(全米黒人地位向上協会)がリストン戦に同意しないよう直訴したり、ケネディ大統領までが否定的な見解を示すなど大きな騒動に発展した。

結局、フロイド・パターソン(6人の白人挑戦者を下した黒人のヘビー級王者)が「逃げていると言われるのは心外」と反対を押し切って契約書にサインし、1962年にソニー・リストンと対戦し1ラウンドKOで敗れた。
そのソニー・リストンは絶対有利と言われながらも、カシアス・クレイ(後のモハメド・アリ)にあっけなく負けたため、八百長が疑われたくらいであった。

ソニー・リストンは1975年にラスベガスの自宅で死亡した。
病死で処理されたが、麻薬の過剰摂取やギャングに殺されたとする説も根強い。

「知らなかった」とか「そんなの関係ない」と言えばそれまでだが、「ソニー」という名称はあまりクリーンなイメージではない。















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# by yumimi61 | 2017-07-04 12:10
2017年 07月 02日
日本国憲法の秘密-508-
アイゼンベルグとは何か?
・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。


アイゼンベルグのルーツは「殺人株式会社」にある。
マーダー・インク (Murder, Inc.) または殺人株式会社 (Murder Incorporated)
1930年代から40年代にかけて暗躍した犯罪組織。主要メンバーの出身地にちなみ、ブラウンズヴィル・ボーイズ (Brownsville Boys) とも呼ばれた。なお、これらの名前は、マスコミが命名したものである。

1930年代前半に、ラッキー・ルチアーノを中心とするニューヨークのイタリア系ユダヤ系犯罪シンジケートが、「縄張り争いは各々のビジネスを損なう」という発想の元、殺人行為を規律化するため、プロの殺し屋から構成される暗殺専門の執行機関を作った。暗殺はビジネスの必要に限定され、恋愛や復讐など個人的な理由は禁じられた。反逆者の粛清や政府密告者の口封じが中心だった。
際限ない復讐合戦に歯止めをかけるという点で役立った反面、「抗争はギャングのビジネスを損なう」というビジネス至上主義は、容易にビジネス拡大のための縄張り強奪の正当化に転じた。

構成員は主にニューヨーク市ブルックリン区のブラウンズヴィル、イースト・ニューヨーク、オーシャン・ヒル地区のユダヤ系・イタリア系ギャングが中心だった。

この体制で実際に数百人のギャングやマフィア幹部らの殺害が実行された。その手口は、銃撃や絞殺、溺殺、刺殺などで、武器は足のつかないアイスピックやロープが好まれたといい、「仕事はあくまでビジネスと割り切る」、「決して民間人を巻き込まない」などの厳しいルールの下で任務を実行したという。メンバーは暗殺ターゲットと直接利害関係がなく互いに顔も知らないことが強みとなり、全米各地に出向いては暗殺業務に従事した。

組織は一連のメンバー逮捕および実刑確定により事実上消滅した。



イタリア系と言えば「マフィア」が有名であろう。
マフィアとは、本来イタリアの中でもシチリア島を起源とする犯罪組織のことである。
アメリカへの拡大は、1865年終結のアメリカ南北戦争の後にシチリアからアメリカに移住した人達に依る。
アメリカではニューヨーク拠点とシカゴ拠点のマフィアが有名。

シチリアはフランス王家の支配下にあり、続いてスペイン王家、オーストリア王家の支配下となり、再びスペイン王家の支配下に戻り、1861年にイタリア王国(統一イタリア)へ統合された。
フランス、スペイン、オーストリア、みなカトリック国であった。
このイタリア王国はローマ教皇領も併合した。教皇保障法によってその地位を保障しようとするが、ローマ教皇はこれを拒否して対立するに至る。
その対立はムッソリーニ政権でラテラノ条約(1929年)が結ばれるまで続いた。

日本では憲法改正が取り沙汰されているが(外国では結構何度も改正しているという論調もあるが)、改正しなかった期間ナンバーワン憲法は、カトリックと対立関係にあったこのイタリア王国の憲法である。
イタリア王国は1946年に共和国に移行し憲法も変わったが、その間に改正はなく、85年間改正無しという(名誉な?不名誉な?)記録を持っている。
日本の現憲法は1947年に制定されたものなので、今年で70年。
記録を更新しようと思ったら後15年は改正できない。

ともかくイタリアでマフィアが勢力拡大したのはイタリア王国誕生後のことで、マフィアはカトリックの宗教組織を利用して拡大していった。
また激化した労働者運動・社会運動(ファッシ・シチリアーニ)とも関係がある。
「ファッシ」という単語は集団というような意味だそうで、「ファシズム」はここから生まれたが、最初にこれを使用したのが1880年代後半のシチリアの運動である。
王国という政権に対して革命的な民主主義者という意味合いを持っていた。
カトリックという権威とマフィアという犯罪組織と労働者運動・社会主義的運動はここで繋がっていたのだ。
この時代にシチリアからアメリカに移住した者が多数いた。そしてアメリカでもマフィアが暗躍するようになる。

もうひとつ台頭したのがユダヤ系ギャング。
ユダヤは貧富の差が激しい。
金のないユダヤ人は金になることならば何でも行った。
また金のないユダヤ人が美味しい話を餌に東欧やロシアから連れてこられ、非合法な活動や売春などをさせられた。
他民族の通り一遍なユダヤ人に対する偏見がそれを助長したりもした。
しかしながらユダヤ系ギャングはなかなか頭脳的でもあった。逆境を糧に。ピンチをチャンスに。
1919年に禁酒法が成立すると、密造酒や密輸によって、ユダヤ系ギャングは全盛を極めることになる。

このようにマフィアやユダヤ系ギャングがアメリカ暗黒街を形成していくが、発祥の時代から言うと、アイルランド系ギャングのほうが早く、当初は彼らがアメリカの裏社会を仕切っていた。(後にアイリッシュ・マフィアと呼ばれるようになる) ボストンを拠点としていた。
アイルランド系ギャングの後に台頭してきたマフィアやユダヤ系ギャングと縄張り争いなどで抗争を繰り広げることになる。
アイルランド系ギャングは特にシカゴ拠点マフィアとの対立が激しかった。
アイルランドもカトリック国である。

ケネディ大統領の父親はアイルランド系ギャングと親密だったと言われる。
ジョセフ・P・ケネディ・シニア
巨大な資産をバックグランドにした民主党の有力政治家であり、アメリカのカトリック教徒および、アイルランド系アメリカ人の実力者でもあった。
フランクリン・ルーズベルトの大統領選出時(1932年)に財政支援を行った功によって、初代証券取引委員会委員長(1934年)、連邦海事委員会委員長(1936年)、在イギリスアメリカ合衆国大使(1938年〜1940年)のポストを歴任した。

1888年、ボストンにアイルランド系政治家の子として生まれたジョセフ・P・ケネディ・シニアは、ボストン・ラテン・スクールからハーバード大学に進み、金融業につくと株式市場を利用して莫大な財産を築いた。この財産を元手にさまざまな資産を運用するようになった。第一次世界大戦中、ケネディはベスレヘム・スチール社の造船部門の支配人補佐となり、海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルトと知り合った。その後、映画産業に食指を動かし、いくつかの映画会社を統合してRKOを設立する過程で一財産築いた。さらに1933年に禁酒法が廃止されると、ルーズベルト大統領の長男と組んでサマセット社という会社を設立、ジンとスコッチの輸入を一手にとりまとめさらなる富を生み出した。1945年には建設当時世界最大のビルだったシカゴのマーチャンダイズ・マートビルを買い取ったことでも有名になった。

しかし外交官および政治家としての活躍は唐突に終わる。1940年11月、バトル・オブ・ブリテンのさなかに行われたボストン・グローブ紙のインタビューで「英国で民主主義は終わった。米国にはまだあるかもしれない」と発言したことが大問題となったためだった。以後ケネディは表舞台には出ず、豊富な資産を運用して息子たちの政界進出を強力にバックアップした。


ケネディ大統領父が「イギリスで民主義は終わった」と述べたのは原爆開発が行われていた頃である。


アイルランド系移民を支持した団体として知られているのがタマニー・ホール。
私は以前にもこの団体について書いたことがある。

「タマニー・ホール」は移民など貧困層に関わる代わりに選挙の時に投票してもらうという方法を取っていたのである。
これがニューヨーク市政に強力に影響を及ぼすようになって、否応なく経済界をも巻き込んでいく。
雇用、特定候補への投票依頼、企業への見返り。選挙の企業票というのはこの時代に確立した。

「タマニー・ホール」のボスとして名高いのが、ウィリアム・ツィード。
アイルランド移民にボスあり。
移民や貧困層への慈善活動でその地位を揺るぎないものした。
「票は金で買うもの」と言って憚らず、ニューヨーク市会議員にもなった。
殺人、恐喝、売春、違法な酒場、密輸、密輸品の売買など、彼が絡まなかった犯罪は存在しないとまで言われた。
政治にも不正の限りを尽くした。
ニューヨーク市当局とマフィアのボス、それに群がるギャング達が公然と取引していたのである。
ウィリアム・ツィードはニューヨーク市のお金を着服していたことがばれて失脚したが、「タマニー・ホール」はその後もアイルランド人がトップに立ち続けた。
タマニー・ホールとアイルランド系移民と民主党の癒着はここに始まり育っていった。(ユダヤ人とドイツ人も、タマニー・ホールの集票マシーンに認められていた)
その集大成はおそらくケネディ大統領の誕生であったのであろう。
ケネディ大統領とは直接的な関係はないとされているが、アイルランド移民がアメリカやイギリスに恨みを晴らした瞬間であった。

だいぶアスターから話が逸れてしまったが決して無関係なことではない。
ウィリアム・バックハウス・アスターは、ボスのウィリアム・ツィードと組んでの不正取引で、アスター家の財産を拡大したのであった。
アスター家のこの代は、暗黒街に生きたアスター家の中でも特にアウトローに彩られていた。


アスター家はドイツ出身。アヘンの密貿易で財を成して、ニューヨークの土地を買い、人に貸して儲けた。
1800年頃から密貿易で得た資金をニューヨーク・マンハッタンの土地に投資するようになった。
この時代はまだニューヨークは今のような街ではなかったが、アスターは土地を購入するだけで開発にはタッチしなかった。
ある一定の期間で契約を結び土地を他人に貸したのである。
ニューヨークが開かれた街になることを知っていたのである。
土地を借りた人が勝手に開発してくれ、契約満了時期には土地の価格は高騰していた。
彼はリスクを負うことなく巨大な富を手にした。
金融業に手を出すこともなかった。


アスター1世→長男(アスター2世):精神障害があったため後継者にはならず
       →次男(アスター2世代理)・・・暗黒街に生きたアスター家の中でも特にアウトローに彩られていた

アスター2世代理→長男(アスター3世)
            次男ウィリアム・ジェイコブ・アスター・ジュニア(父の名を受け継ぐが後にそれを外す)
             ・・・妻キャロラインがニューヨーク社交界のスター
         次男夫妻には取り巻き連中がいた。
         (有力な取り巻き)
         ・ロスチャイルドがアメリカに送り込んだオーガスト・ベルモントの一族。
         オーガスト・ベルモントは1853年に黒船で日本にやってきたマシュー・ペリーの娘と結婚した。
         ・J.P.モルガンの一族

アスター3世→長男ウィリアム・ウォルドルフ・アスター
次男ウィリアム→長男(アスター4世)

アスター3世と次男ウィリアム・ジェイコブ・アスター・ジュニアが1890年と1892年に亡くなる。
すると次男の妻のキャロラインと3世の長男の間の確執が表面化。
キャロラインはロスチャイルド系の取り巻き連中を引き連れてアッパー・イーストへお引越し。
キャロラインの息子であるアスター4世は1912年沈没したタイにタック号に乗船していて47歳で亡くなった。
タイタニック号の実質的なオーナーはJ.P.モルガンであった。
タイタニック事件の時にはすでに母であるキャロラインも亡くなっている(1908年没)。
5世を継承したのは4世の子ではなく(若かった)、アスター3世の長男ウィリアム・ウォルドルフ・アスターの子であった。
当時5世はアメリカではなくイギリスに暮らしており、イギリスの近衛騎兵連隊ライフガードの任務にあたっていた。インド総監でもあった。
以降、アスター家はイギリスに移ることになる。アスター家とおしでは現在は8世となるが、4世の子孫ではないため、ウィリアム・ウォルドルフ・アスターからスタートしたウィリアム・ウォルドルフ・アスター4世ということになる。
どの家にもお家騒動があって「●●●家」で十把一絡げに語ると真相は分かりにくくなる。
ウィリアム・ウォルドルフ・アスター家のほうはイギリス・フランス連合と考えてよいのではないだろうか。


アイルランド移民を支援したのがタマニー・ホールならば、ユダヤ系ギャングを支援したのはユダヤ名誉毀損防止連盟(ADL)である。
ユダヤギャングが暗躍し始めた頃にはニューヨーク市警察も取り締まりを強化したが、ユダヤ名誉棄損防止連盟がユダヤ人を不当に扱うと非難して大々的に抗議活動を行った。(今の黒人問題のような感じ)
ニューヨーク市警察長官はその地位を追われ、結果警察も委縮。
そんなずる賢さも手伝ってユダヤ系ギャングは隆盛を極めることになった。
ユダヤ名誉毀損防止連盟(ADL)は現代でもユダヤ関連で様々な抗議活動を行っている。
今でこそ穏健派と言われるが、それは1968年に過激派であるユダヤ防衛同盟が出来たからである。


上に書いた「殺人株式会社のリーダーは“レプキ”・ルイス・バカルター。東欧系のユダヤ人(ユダヤ系)である。
その右腕だったジェイコブ・"グラ"・シャピロ。ロシア系のユダヤ人(ユダヤ系)。

だが殺人株式会社を組織したのは彼らではない。
ユダヤ系ギャングのボスであったマイヤー・ランスキーである。

上の転載文に「1930年代前半に、ラッキー・ルチアーノを中心とするニューヨークのイタリア系ユダヤ系犯罪シンジケートが、「縄張り争いは各々のビジネスを損なう」という発想の元、殺人行為を規律化するため、プロの殺し屋から構成される暗殺専門の執行機関を作った」とあるが、マイヤー・ランスキーはラッキー・ルチアーノの少年時代からの親友だった。

ルチアーノとの出会いはユダヤ人の用心棒などをやっていたルチアーノが、小柄だったランスキーに目を付けて自分を雇わせようとしたのが発端で、ランスキーは用心棒など要らないと突っぱねた。ランスキーが体格で大きく上回る自分に断固とした態度をとってきたことに驚いたと言い、以降無二の親友となった。身長は低く160前後だったという。

ラッキー・ルチアーノは、シチリア出身のニューヨーク拠点マフィアの最高幹部となる。
マフィアの古いしきたりを一掃してビジネスライクな組織に変革させた人物でもある。

(シチリア発の)マフィアは日本のヤクザや香港の三合会とは異なり、徹底した秘密組織・非公然組織である。これはマフィアには構成員に服従と沈黙を厳しく命じる血の掟(オメルタ)が存在するためである。掟を破った時には、他の構成員に対する見せしめの為、凄惨な制裁がなされる。行方不明になり、のちに拷問を受けた痕のある惨殺体で発見される例が最も多い。
この掟と正式構成員が少人数であることが相まって、マフィアに対する犯罪捜査は困難である。


その代わりに縄張り争いによる抗争に民間人を巻き込まないなどの決まりもあったわけである。
でもそんな古いしきたりは一掃してビジネスライクに徹する。
マーダー・インクの説明に、「仕事はあくまでビジネスと割り切る」、「決して民間人を巻き込まない」などの厳しいルールの下で任務を実行したという、と書いてあるがビジネスと割り切るからこそ殺人依頼のターゲットが民間人でも場合によっては引き受けられるのだ。
「決して民間人を巻き込まない」というのは古いしきたりである。
またマフィア同士の抗争は殺しで落とし前を付けるのではなく金で解決できるようにもした。これでこそビジネスライクである。
こうしてマイヤー・ランスキ―は「全米犯罪シンジケート(NCS)」を組織することに成功した。
シチリア発のマフィアもここに加盟していた。
マイヤー・ランスキ―はギャング・マフィア界の頂点に立つことになる。

(マフィアの)主な活動内容は麻薬取引、殺人及び暗殺、密輸、密造、共謀、恐喝及び強要、みかじめ料(縄張り地域で営業する店舗から喝取する占有料)徴収、高利貸しなどの犯罪と、不動産業など合法的なものである。

「ワイズ・ガイ」(wiseguy)であるように、マフィアのメンバーは個人事業者であり、一つに限らずあらゆる商売をする。賭博のノミ行為、暴利金融、ポルノ・セックス関連、故物売買以外に、パートナーと言われる周旋業がある。商売をしたい、賭博をしたい人間と、彼らにサービスを提供できる人間を繋ぎ、その代わり共同経営者になったり手数料を貰ったりする仕事である。

売春と賭博は「名誉ある男」が行うビジネスではないとされており、ご法度とされている。イタリアの流通業界団体の報告書によればマフィアは年間約1300億ユーロ(約15兆8600億円)の売上高を上げているとの推計を発表している。


上記にはないが保険金を巻き上げることもマフィアの重要な活動である。保険金というからには合法であろう。
しかし保険金を払わないと必ず良くないことが起こる。
でも古今東西、一番の活動はやはり麻薬取引である。

上記マフィアの活動には賭博はご法度とされているとあるが、マイヤー・ランスキ―の有力支援者はユダヤ人賭博王であった。
アーノルド・ロススタイン
アメリカの実業家、ギャンブラー、ギャング。組織犯罪の元祖とされ、ラッキー・ルチアーノやマイヤー・ランスキーに多大な影響を与えた。
またマイヤー・ランスキーと親しかったユダヤ系ギャングのべンジャミン・シーゲルは酒の密売と麻薬で稼いだ資金を元手に「ラスベガス」を作った。
アメリカのギャングには賭博が御法度なんてことはなかったのだ。
べンジャミン・シーゲルはハリウッドとの関係も深い。
ハリウッドの社交界に出入りして人脈を築く傍ら、手練手管でハリウッド映画のエキストラ組合に強引に入り込み、組合ストを盾に大手映画会社から示談金を巻き上げた。また映画スターから金を借りて返済せず、そうして懐に入れた金は年に40万ドルにも達した。
ケーリー・グラント、ハンフリー・ボガートら多くの映画スター、プロデューサーと交際し、ケティ・ガリアン、ウェンディ・バリー、ジーン・ハーロウ、マリー・マクドナルドらハリウッド女優と浮き名を流した。 


「全米犯罪シンジケート」の最高幹部の1人で、「殺人会社(Murder Inc.)」のメンバーでもあったアブナー・ツビルマンというユダヤ系ギャングもハリウッドに多額の投資をしていた。

活動がビジネスライクになってくると、民間人とギャング・マフィアの見分けがつきにくいという難点がある。
べンジャミン・シーゲル家の近所の人は彼がギャングスターだなんてことは全く知らず企業の役員か何かだと思っていたという。

ユダヤ系ギャングのマイヤー・ランスキ―とシチリア発マフィアのラッキー・ルチアーノ、それにやはりユダヤ系ギャングのべンジャミン・シーゲルが組んで、「殺人会社(Murder Inc.)」を設立して私的に運営していた。
ビジネスライクと言っても金で解決できると言っても、やっぱり最後は殺人。
この世には金で動かない人間がいる。そうなったら殺しで動かなくするしかない。
人々が最も恐れるのも金ではない、死(殺し)である。
こうして「全米犯罪シンジケート(NCS)」は確かなものになっていった。
CIAはここと関係を深めていく。









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# by yumimi61 | 2017-07-02 17:46
2017年 06月 30日
日本国憲法の秘密-507-
ブッシュ政権で国家安全保障問題担当副大統領・チェイニー副大統領首席補佐官・ブッシュ大統領補佐官を兼任していたルイス・リビーの律家としての師匠というか上司というか親分というかが、アンドレ・マイヤー。
ラザード・フレールを代表する人物となった。
そしてゴア家、ケネディ家、リンドン・ベン・ジョンソン大統領をクライアントに持ち、CBSの会長を長く務めた。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである。

アンドレ・マイヤ―は顧問弁護士と紹介されていることも多いが、前記事に書いたように16歳で学校を中退しており、彼は法的な法律家ではない。(職歴もメッセンジャー→銀行マン)
「顧問弁護士」と言うよりも「顧問」と言った方が相応しいであろう。
もっとも松本重治がインタビューで次のように答えていたことがあるので(過去記事にも書いた)、上の方の世界では法的資格など別に必要ないのかもしれないが。

■国際弁護士時代
ある日、大船駅のホームで、いとこの松方正広君にばったり出会った。彼の弁護士事務所に机を置かして貰えまいかと頼んだところ、快く引き受けてくれた。・・・私は外国からの技術導入を専門に扱う「国際弁護士」になった。・・・私はジャーデイン・マデイソン社の顧問弁護士もやっていた・・・


日本では通常、大学の法学部や法科大学院(2004年に創設された制度)を卒業したからといって、弁護士になれるわけではない。
まず司法試験に受かる必要がある。その上で司法修習生として決められた期間の修習と研修を受け、最終試験に合格しなければならない。
松方重治は経歴を見る限り、日本でも外国でも弁護士資格を取得したような経歴ではない。
松本重治は日銀の松方家と親戚で、松方三郎と親友。ロックフェラーらと日本に国際文化会館を設立して理事長となった人物である。


ルイス・リビーはマーク・リッチの顧問弁護士だった。

マーク・リッチ(Marc Rich, 1934-2013)
ベルギー出身の起業家、相場師。スイスの商品取引大手であるグレンコア社の創設者。

ベルギーのアントウェルペンにてユダヤ人の家庭に生まれる。出生名は Marc David Reich。1941年にナチを避けて一家で渡米。高校卒業後、ニューヨーク大学に進学するが、一学期で退学。すぐにディーラーとして働き始め、貴金属取引の分野で頭角を現す。
1974年、グレンコア社の前身である商品取引会社マーク・リッチを共同創業。

イランからイスラエルに必要量の石油を極秘にパイプライン輸送で供給する合弁事業を何年にもわたって成功させた。イランとイスラエルとの間の非公式仲介者として活動し、またイスラエル諜報特務庁(モサド)の活動を財政面で支援した。アパルトヘイト政策のため経済制裁を受けていた南アフリカ共和国へ総額20億ドル(約1780億円) 相当の石油を販売した。

1970年代のオイルショックの際には巧妙な原油取引により巨億の富を手にした。しかし、パートナーのピンカス・グリーンと共謀して脱税やイランとの不正な石油取引を行った疑いで、1983年にアメリカの検察当局から起訴される。当時、リッチはスイスにいたが、連邦捜査局(FBI)の「10大重要指名手配犯リスト」に名前が載ったためにアメリカに帰ることは事実上不可能になった。1984年には欠席裁判で有罪判決を受けた。

2001年1月20日、任期終了数時間前のクリントン大統領から恩赦が与えられた。しかし、これに先立ってリッチの元妻デニス・アイゼンバーグ・リッチが民主党に総額100万ドル以上の献金を行っていたため、一部のメディアで「金で恩赦を買ったのではないか」と物議をかもした。クリントンの決定の裏側には、イスラエル政府からの嘆願や、リッチが献金していた名誉毀損防止同盟からの圧力も存在したと伝えられている。

リッチは赦免を獲得するや否や、石油・食料交換計画のスキャンダルに絡む事業でサッダーム・フセインと協力を行っている。



マーク・リッチは1966年32歳の時にデニス・アイゼンバーグと結婚した。(1996年離婚)

デニス・アイゼンバーグ・リッチは作詞家(Joy Denny)である。
シスター・スレッジ(アメリカ出身の4姉妹グループ)の"Frankie”という楽曲を作詞したことによって他の有名歌手の作詞も手掛けるようになる。
シスター・スレッジは1971年にマイナーデビュー、1972年にメジャーデビュー、1975年にアルバムデビュー。
1979年に“He's The Greatest Dancer”と“We Are Family”が大ヒットするも、その後は低迷。
しかし1984~1985年にイギリスで再びヒットする。
"Frankie”は1985年にイギリスで1位に輝いた。(アメリカでは50以内にも入らず)


マーク・リッチはまずフィリップブラザーズという非鉄金属のトレーディング事業を行う会社に入った。この会社はロスチャイルド系である。
宝の山とはよく言ったもので、非鉄金属を含む産業廃棄物のスクラップを買い取り、それを金属メーカーに持ち込んだり海外に輸出したりして、新たな金属としてリサイクルする事業がある。
アルミ缶などを集める廃品回収はお金になりますね?それと同じ。
レアメタルという言葉を聞いたことがあると思うが、あれも非鉄金属である。
買い取るということは、買取価格があるわけで、買取価格にはやはり相場がある。だから投機の対象にもなる。

日本に来たショーン・アイゼンベルグが新日鉄の永野重雄を紹介されてスクラップ工場を設立したと過去記事に書いたが覚えているだろうか?
まあ、そういうことである。

ユダヤ人であるアイゼンベルグ家は1938〜1939年にかけてアルプスを越えてスイスに入った。
スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。
第二次世界大戦がの最中にオランダから中国の上海に向った。上海には各国・各組織の諜報員たちが蠢いていた。
そして日中戦争の最中の1940年にショーン・アイゼンベルグは日本にもやって来た。
彼は日本で、日本人女性と結婚したオーストリア人の画家と接触した。その画家もスパイだったのだろうか
日本人女性は官僚の家系の娘だったという。
こうしてアイゼンベルグは財界四天王の一人である永野重雄を紹介され、終戦直後にスクラップ工場を設立している。
またアイゼンバーグは日本人と結婚して日本国籍を取得している。
そのお相手はオーストリア人画家と官僚家系日本人夫妻の娘だという説もあれば、永野重雄の娘とする説もある。(永野重雄の次女の夫は日本銀行職員) いずれにせよその娘はユダヤ教に改宗した。


ショーン・アイゼンベルグは日本に来てまず日本人と結婚したオーストリア人の画家と接触したが、マーク・立地の妻のデニス・アイゼンバーグ・リッチもオーストリアのデペロッパーと親密な関係がある。
「アイゼンベルグ」と「アイゼンバーグ」は言語による読みの違いであって同じ姓である。
この2人も何らかの関係があるのではないか。

今ではすっかり忘れているかもしれないが、私はデイビット・ロックフエラーが頭取だったこともあるチェース・マンハッタン銀行の日本人の国際諮問委員会メンバーについて書いていたところで、今は住友化学社長だった長谷川周重と住友に関連して話が広がっている最中である。
長谷川周重の妻の父親は禅を外国に紹介したという鈴木大拙のパトロンだった。
鈴木大拙とベアトリス夫妻には実子がおらず、イギリス人男性と日本人女性の間に生まれた子供を養子にしたのだが、その子は鈴木勝(アラン勝, Alan Victor Suzuki)で、後に『東京ブギウギ』の作詞者となるということを過去記事に書いた。
作詞者を送り出しているという共通点もあるのだ。

住友商事のサイトにはマーク・リッチとフィリップブラザーズに関する記述がある。

住友商事グローバルリサーチ 資源商社の盛衰
2015年10月23日 住友商事グローバルリサーチ 代表取締役社長 高井 裕之

世界最大の資源商社グレンコアの株価が9月末、上場時から9割近く下げた。ロンドン上場は2011年5月。上昇基調だった商品市況が下方転換したタイミングであり、資源ブームの潮目の変化を象徴するかのようだ。

 グレンコアの創業者は伝説の商品トレーダーと呼ばれたマーク・リッチ氏である。筆者も以前、ロンドンの夕食会でご一緒したことがあるが、一線を退いたとはいえユダヤ系のベルギー人トレーダーは神秘的オーラを放っていた。

 そもそも資源商社という業態はユダヤ系ドイツ人が1901年に創業したフィリップブラザーズ(略称フィブロ)が源流とされる。元来フィブロは非鉄金属を扱う商社で、リッチはそこで丁稚奉公をしつつ商売のイロハを学んだ。

 リッチは石油トレードで頭角を現す。1970年代に入り石油メジャーから主導権を奪還した産油国が独自で取引を始めた際に、リッチはその取引を仲介しフィブロの稼ぎ頭に躍進する。その後、彼が独立して興したグレンコアの前身が、自身の名前を冠した商社マークリッチだ。



ロスチャイルド系のラザール・フレールで育ったアンドレ・マイヤ―はアイゼンベルグの顧問であった。
ゴア家、ケネディ家、リンドン・ジョンソン大統領の顧問でもあった。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである
アンドレ・マイヤ―の部下のルイス・リビーはマーク・リッチの顧問弁護士だった。アル・ゴアの顧問弁護士もしていた。
ルイス・リビーは天然痘流行によって冬の北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定で怪しげな小説を書いている。
マーク・リッチの妻の姓はアイゼンベルグ。
ブッシュ政権で副大統領になったディック・チェイニーはアイゼンベルグの大株主であった。
アイゼンベルグは戦後、中国にいたサッスーン一族を駆逐して麻薬販売網を奪取した。日本に来たアイゼンベルグ他、日本の協力があった。サッスーン一族もロスチャイルド系である。

マーク・リッチは1973年の第一次オイルショックで億万長者となる。
その翌年ソ連に乗り込み、マークリッチという会社を設立して麻薬や武器の生産と販売を始めた。




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# by yumimi61 | 2017-06-30 18:10
2017年 06月 29日
日本国憲法の秘密-506-
アル・ゴアの顧問弁護士だったルイス・リビー。

ルイス・リビー
ブッシュ政権で、国家安全保障問題担当副大統領、チェイニー副大統領首席補佐官、ブッシュ大統領補佐官を兼任していた。
ネオコンの代表的人物。
小説家としての顔を持ち、保守派に典型的に非難された種類の性的逸脱で満ちた『ジ・アプレンティス』(The Apprentice)を1996年に発表。天然痘流行によって1903年の冬に北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定。
2005年にプレイム事件(CIAリーク事件)で起訴された。


ルイス・リビーは、イエール大学の元教授で国務次官や国防副長官、世界銀行総裁などを務めたポール・ウォルフォウィッツの教え子である。
ポール・ウォルフォウィッツは親イスラエル(親ユダヤ)、親インドネシア(親イスラム)であり、親保守主義者(ネオコン)を代表する人物で対テロ戦争で重要な役割を果たした。
リビーが国務省に入ったのもこの師匠のおかげ。

リビーはイエール大学の後にコロンビア大学法科大学院法務博士課程を修了しており法律家である。
法律家としての師匠というか上司というか親分というかが、アンドレ・マイイヤー。

André Meyer(1898-1979)。
文字の上の点で分かると思うけれども(!?)、アンドレ・マイヤ―はフランス人である。
ユダヤ系の家系であるが裕福な家庭ではなかった。
16歳で学校を中途退学し、パリ証券所でメッセンジャーとして働き始める。
そのうち第一次世界大戦が勃発し、人手不足になった銀行に入る。
そしてラザール・フレールのレイモンド・フィリップに目を掛けてもらいラザール・フレールに入る。

ラザール・フレール
パリのラザード兄弟が始めたプライベートカンパニー(個人名義の不動産・株式・現預金などの資産を運用するための資産保有会社)である。株式非公開の投資銀行の最大手。ロスチャイルド系の投資銀行である。
 1852年パリ「ラザール・フレール」
 1870年ロンドン「ラザード・ブラザーズ」
 1880年ニューヨーク「ラザード・フレール」
経営が別だったが2000年に統合した。

FRB(連邦準備制度理事会)の5代目議長、そして世界銀行初代総裁であったユージン・マイヤーはラザート家の親戚である。
ユージン・マイヤーはワシントン・ポストの経営者だったキャサリン・グラハムの父である。

Katharine Meyer Graham(1917-2001)
アメリカ合衆国の新聞社経営者。夫のフィリップは1961年にニューズウィークを買収、後に謎の自殺を遂げる。キャサリンは1969年以後、アメリカの新聞ワシントン・ポストの発行人から社長、そして会長を歴任した。
マクリーン家からワシントン・ポストを買収したユージン・メイヤーの娘。夫フィリップ・グレアムの自殺後、同社を経営。
リチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件報道は、ワシントン・ポストの評価を高めると共に、報道に踏み切った英断を行った発行人として彼女の名を一躍有名にし、アメリカで最も影響力のある女性の1人として広く語られることとなった。


マルク・マイヤー(祖父)・・ニューヨーク「ラザード・フレール」勤務
ユージン・マイヤー(父)・・・ニューヨーク「ラザード・フレール」勤務
                 ユージン・マイヤー・アンド・カンパニーを設立
                 ニューヨーク証券取引所理事、戦時軍需品・財政委員会・戦争産業委員会メンバー
                 FRB理事・議長(5代目)、再建金融公社会長
                 世界銀行総裁(初代)
                 ※1933年にワシントン・ポストを買収した(1946年から娘の夫に任せた)。
キャサリン・マイヤー・グラハム(娘)・・夫の死後(1963年)にワシントン・ポスト経営者となる。


ユージン・マイヤーやキャサリン・グラハムのバックにはラザード・フレールがいたわけだが、そのラザード・フレールを代表する人物となったのがアンドレ・マイヤーである。
アンドレ・マイヤ―はゴア家、ケネディ家、リンドン・ベン・ジョンソン大統領をクライアントに持ち、CBSの会長を長く務めた。
デイビッド・ロックフェラーを育てたのもアンドレ・マイヤーである。

André Meyer, called "the most creative financial genius of our time in the investment banking world" by David Rockefeller, became one of the most important people in American business with an influence that extended around the globe.

Although he personally was publicity-shy, André Meyer was an advisor to the Kennedy family and a lifelong friend and advisor to Jackie Onassis. He was a friend and advisor to other high-profile public figures such as William S. Paley at CBS and Katharine Graham at the Washington Post. He was also a close confidant of U.S, President Lyndon Johnson, consulting at the Oval Office several times a year during Johnson's tenure.



前にロックフェラーのお家騒動のことを書いたけれども、ロスチャイルドにもそれなりにお家騒動がある。
ロスチャイルド5人兄弟で一番成功したのがイギリス家。
そのイギリス家にはイヴェリン派(分家)とジェイコブ派(当主・本家)がある。
両者はイギリス・ロスチャイルドの中核N・M・ロスチャイルド&サンに部外者を許すのかどうかなどで対立。(結局2010年に200年続いた同族経営に終止符を打っている)
イギリス家当主のジェイコブ・ロスチャイルドはN・M・ロスチャイルド&サンから締め出され、ここを所有しているのはイギリス家分家のイヴェリン(国籍はスイスに移した)とフランス家当主である。

アメリカで巨大に成長しロスチャイルドからの独立を画策したロックフェラー家(2世の子供達)の中でロスチャイルドと組んでいたのは末っ子のディビット・ロックフェラー。
N・M・ロスチャイルド&サンから締め出されたイギリス家当主のジェイコブ・ロスチャイルドは、ロックフェラー4世(本家で3世の息子)に近づいた。
しかしながら、ディビット・ロックフェラーも、ジェイコブ・ロスチャイルドも、ロックフェラー4世も皆さん力を落としているとか(ご高齢で亡くなった方もいるくらいですからねぇ・・)。
2000年前後からロスチャイルド系とロックフェラー系の銀行や企業の統合が相次いでいる。


ラザール・フレールの顧問になった日本人がいる。澄田智である。

澄田智(1916-2008)
群馬県出身の第25代日本銀行総裁、元大蔵事務次官。
群馬県高山村に陸軍軍人・澄田睞四郎の長男として生まれる。父方の先祖は伊予国宇和島藩士の家系。

1934年に東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同級生に中村彰(日本初の学士俳優)がいた。旧制第一高等学校を経て、1940年に東京帝国大学法学部を卒業後、大蔵省に入省。しかし、戦争の為、すぐに大蔵省を離れ、海軍経理学校に入校・卒業し、その後、従軍先のセレベス島にて終戦を迎える。

戦後、大蔵省に復帰。銀行局長時代に金融効率化行政を手掛け、太陽銀行誕生に力を発揮、1969年8月から1971年6月にかけて大蔵事務次官を務めた。「大物事務次官」の要件とされる2年間の任期を全うする。同省退官後は、輸銀に総裁として天下り、輸銀退任後には日本銀行に進む等、いわゆる「ロイヤル・ロード」を歩み続けた。大蔵省局長級以上の人事に関しても、澄田 - 竹内道雄の大物次官経験者ラインが、大きな影響力を及ぼしていたとされた。

1979年、前川春雄日銀総裁の下で副総裁職に就いたのだが、前川が輸銀時代には澄田の部下であったため(澄田輸銀総裁時代に副総裁職に居たのが前川であった)、この人事は「逆転人事」として話題を呼んだ。5年間の雌伏の時を経て、1984年に念願の第25代日本銀行総裁に就任。戦後、大蔵省の「ロイヤル・ロード」を極めたのは、山際正道・森永貞一郎に続いて3人目のことであった。

日銀総裁の座に就いた澄田の前には、日米貿易摩擦と円高圧力の難局が待ち受けていた。折からのアメリカの対日貿易赤字の拡大に際して、アメリカ側は日本側への政治的圧力を強めてきていた。1985年のプラザ合意でドル高是正が行われ、円レート決定は完全な自由相場制に移行し急激な円高となった。


日本航空123便が墜落したりプラザ合意が行われた1985年の日銀総裁は澄田だった。
1989年に日銀総裁を退任し後、ラザール・フレール顧問に就任している。
1993~2008年という長期に亘り日本ユニセフ協会の会長を務めている。
ユニセフ(UNICEF:国連児童基金)は、「世界中の子どもたちの命と 健康を守るために活動する」国連機関だそうだが金融機関と考えて差し支えないないであろう。


澄田智は澄田睞(らい)四郎の長男である。
澄田らい四郎
日本の陸軍軍人。陸士24期、陸大33期。最終階級は陸軍中将。

本籍愛媛県。澄田忠興陸軍中佐の四男として名古屋で生れる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1912年(明治45年)5月28日、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月砲兵少尉に任官し重砲兵第4連隊付となる。陸軍砲工学校高等科を卒業し、澎湖島重砲兵大隊付、陸軍重砲兵射撃学校教官などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(第33期)を首席で卒業した。

由良重砲兵連隊中隊長、陸軍省軍務局付勤務(砲兵課)、軍務局課員、フランス駐在などを経て、1925年(大正14年)から3年間、フランス陸軍大学校で学んだ。フランス滞在中には、フランスに留学していた甘粕正彦とも親交があった。

帰国後、陸大教官、参謀本部員、兼軍令部参謀、フランス大使館付武官、陸大教官、参謀本部課長、野砲兵第3連隊長、砲兵監部員、独立重砲兵第15連隊長などを歴任し、1938年(昭和13年)7月、陸軍少将に進級した。


澄田らい四郎は愛媛県の家系で、本人は名古屋で生まれ広島で育っている。
戦前からフランスとの関係が深かった人物。
第二次世界大戦中はインドシナ(ベトナムなど)、中国で任務に就いた。
その息子である澄田智が何故に群馬県生まれなのかと言うと、澄田らい四郎の妻・静枝が群馬県の高山村の出身だからである。
静枝は製糸と紡績業で財を成した高山の地主である松井家に生まれた。
静枝の父・松井貫一はキリスト教徒であり、高山村に教会(日本キリスト教団・名久多教会)を開いた信者の1人。
松井貫一の長男(静枝の兄)・松井萬緑は、加島銀行常務、大同生命取締役、第一銀行広島支店長を歴任した。

加島銀行や大同生命でピンと来るかもしれないが、NHKの朝ドラ『あさが来た』の主人公モデルである広岡浅子(大同生命創業者)と関係がある。
広岡浅子は三井家のお嬢様である。(しかしながら浅子は三井家男子が外に作った子供で母親も定かではない。浅子は三井家に養子入りした)
浅子の夫となったのが大阪の豪商・加島屋8代目の次男の広岡信吾郎(分家・広岡商店)。
夫は遊び人で、浅子が仕事に精を出し、本家(加島屋)と一緒に加島銀行を設立。その後、大同生命を創業。
浅子は三井家から嫁ぐ際にお手伝いも一緒に連れてきたが、夫はそのお手伝いと恋仲になり、お手伝いは広岡信吾郎の子を4人産んだ。(浅子との子は1人)
そのうちの1人が松井萬緑と結婚したのである。
ちなみに広岡浅子もクリスチャンである。

お手伝いが産んだ男児・広岡松三郎(大同生命取締役)の妻・澤田貞子の兄の妻は岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)の長女。
澤田貞子の別の兄の子供にはカトリック司祭にになったり、上智大学教授になったりしている者がいるので、カトリック教徒であると考えられる。
ちなみに今人気の(?)棋士ひふみん(加藤一二三、福岡県出身)もカトリック教徒である。

・1970年12月25日に下井草カトリック教会で洗礼を受ける。
・1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベの列福式に参列。列福式の前後にはヨーロッパ各地を訪れた(初の外国旅行)。1982年10月10日におこなわれたコルベの列聖式にも参列し、コルベの出身地・ポーランドも訪れた。
・1986年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章。有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない、と、将棋観戦記者である東公平に語ったのは、湾岸戦争の話をしていた時であった。
・自戦記などを書くとき、必ずと言っていいほどキリスト教のことに触れる。「キリスト教について」という章名を入れることさえある。「将棋世界」誌で自戦記を連載した際も、毎回必ず冒頭にキリスト教の話題を持ち出した。
・対局中の望ましい態度として、「元気いっぱい、明るい気持ちで、前向きに積極的に、快活で、勇気を持っていること(ひるんだり、弱気になったり、落ち込むのは良くない)」が大事であり、いい状態を持続させるために祈ったり歌を歌ったりする。
・夫人と共に、麹町の聖イグナチオ教会で、カップル相手に結婚講義を行っている。


ちなみに将棋ソフト不正使用疑惑を掛けられた三浦弘行九段は群馬県出身である。



日銀総裁からラザール・フレールの顧問になった澄田智の父親・澄田らい四郎は「中国山西省日本軍残留問題」の中心人物である。

残留の発端は、中国共産党軍(中原野戦軍)と対決していた閻錫山が内戦の本格化を見越し、日本人らの大規模残留を希望。これに城野宏や河本大作ら現地の関係者が同調し、結果、当時3万人いた民間人のうち約1万もの人数が残留に応じる。

閻錫山は、蒋介石の中国国民政府の軍人であり重鎮である。
第二次世界大戦前後の中国にはこのような関係があった。

  蒋介石(中国国民党)vs日本・アイゼンベルグ
  ラッセル商会(アメリカ)vs日本・満洲・昭和通商
  サッスーン商会(イギリス)vs日本・満洲・昭和通商・アイゼンベルグ

  漢民族vs満洲民族(少数民族であるが清の支配層であった)
  漢民族(原住民)vs漢民族客家(北から南下してきた漢民族で我こそが正統であると主張する)
  満洲民族vs漢民族客家
  国民党vs共産党vs北洋軍閥(満洲は北洋軍閥の流れを汲む)


大戦で日本は敗北した。蒋介石(中国国民党)は連合国サイドに立って日本に宣戦布告したのだから、蒋介石(中国国民党)にも敗北したという形になる。
中国では戦後に国民党と共産党の内戦が始まった。
そして天下を取ったのが中国共産党(中華人民共和国)で、台湾に追いやられたのが中国国民党(中華民国)。
日本は国民党と戦っていたのだから国民党は憎きライバルだったはず。
ところが反共産党で団結し、そのライバル国民党と手を組んだというのだ。(日本はよっぽど共産党がお嫌いなのですね)
戦う気満々だったのか、ただの残留希望なのか分からぬが、現地に3万人いた日本人民間人(戦時中にもかかわらず敵国に3万人もの人がいたのですね。満洲中心かな)の実に1/3が中国残留を希望したという(調査したんですかね?)

これに日本軍の一部(当時山西省を担当していた澄田睞四郎中将麾下の支那派遣軍第一軍将兵59000人)が同調。紆余曲折の末、在留邦人および日本兵を合計した約2600人が戦闘員(特務団)として現地に残され閻錫山の軍隊に編入、終戦後も4年間の内戦を戦うこととなった。
4年間のうちに約1600名は日本へ内地帰還できたが、残り約1000人のうち約550名が戦死、残りは人民解放軍により長きにわたる俘虜生活を強いられた。

この残留では、A級戦犯としての追訴を免れると同時に日本軍兵力の温存を望む澄田睞­四郎と共産軍と戦うために国民党軍の戦力の増強を目論んだ閻錫山との間で不明朗な合意が結ばれ、当時の現役日本兵のうち残留を希望しない者も正規の軍命により残留を余儀なくされたと主張する元残留日本兵が、軍人恩給の支給を求めるという形で訴訟を起こしている。

しかし、日本政府は残留兵を「志願兵」とみなして「現地除隊扱い」とし、原則として恩給等を補償しないという姿勢である。2005年には本件で最高裁判所に上告したが敗訴している
。仮に日本政府がこれを軍命による残留と認めると、ポツダム宣言に定める日本軍の武装解除に違反することになるとされる。


国民党を支援していた日本は中国の内戦でも負けてしまったわけだが、旧日本軍が台湾(中華民国)を秘密裏に支援してきたということはよく語られることである。(私も前に書いたことがある)


岸信介と吉田茂は、昭和通商の里見甫とともにアヘンの密輸出入や販売に携わっていた。
アイゼンベルグがサッスーン一族を駆逐してアヘン販売網を奪取できたのは、この日本勢の協力があったからである。
上海から日本に来たアイゼンベルグは里見甫とも出会っていたのである。

アメリカのラッセル商会でアジア担当だったウォーレン・デラノ・ジュニアが紅幇いう中国の秘密結社と取引をしており、その紅幇は蒋介石を支援したと前記事に書いたが、イギリスに貢献したサッスーン商会もやはり蒋介石を支援していた。
その蒋介石は日本と戦っていたわけだから次のような関係になる。
これはもうアメリカとイギリスは蒋介石を支援するしかない。
でもアメリカとイギリスは歴史的背景からしてそれほど仲が良いわけではない。


ラッセル商会はロックフェラー系、サッスーン商会はロスチャイルド系。
共産党政権の中華人民共和国を共産主義国以外で真っ先に承認したのはイギリス。

満洲は日本に置き換えられるので、中国(国民党)と日本(北洋軍閥・満洲)の勢いのどちらもを抑えたければ共産党を支援するしかない。
サッスーン商会を潰されたイギリスにとってはアメリカを牽制する意図もある。さらに余計なことをさせないためにイギリスはアイゼンベルグも取りこんでおいたのだのだろうか。
ともかくロスチャイルドはアイゼンベルグによってアジアのアヘン市場をだいぶ縮小させられてしまった。


ちなみにFRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の初代副議長は、ウォーレン・デラノ・ジュニアの息子である。
ウォーレン・デラノ・ジュニアの孫にあたるのが第二次世界大戦中のルーズベルト(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領。 
原爆開発にそれほど積極的ではなく1945年4月に急死した。

世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。
ではそのアイゼンベルグとは何か?

・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。





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# by yumimi61 | 2017-06-29 13:53
2017年 06月 27日
日本国憲法の秘密-505-
ヘンリー・ティザード(イギリスの化学者、空軍科学研究ディレクター、原爆実現可能という情報提供を受けてMAUD委員会を組織)・・・保守党派(チャーチル派)で原爆熱はなかった
    |
アレクサンダー・キング(イギリスの化学者、第二次世界大戦中に科学担当の駐米イギリス大使、ローマクラブ設立者)・・・労働党派
    |
モーリス・ストロング(ローマクラブが「成長の限界」を発表した年に国連人間環境会議を組織し事務局長)
    |
ミハイル・ゴルバチョフ(ソビエト連邦共産党書記長、ローマクラブの会員)


※ローマクラブ→アスペン研究所(設立者のスレーターはフォード財団、アンダーソンは石油会社の経営者)
         →MIT
         →FEMA(Federal Emergency Management Agency;アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)



モーリス・ストロング(アナン国連事務総長の特使) ― ジェフリー・サックス(アナン国連事務総長の特使)
             (北朝鮮問題特別顧問)         (ソ連崩壊前後のソ連・ロシア経済改革の顧問)
                  |                             |
                小泉首相(拉致問題進展) ―  竹中平蔵(郵政民営化など経済改革)
                                                |
                                    西室泰三(東芝社長、日本郵政社長、東証社長)
                                                ↓
                         東芝の原子力事業企業買収で巨額損失、日本郵政での買収でも巨額損失
                                         


             ロジャー・レベル(ハーバード人口開発研究所の所長、地球温暖化についての論文)
                  | ↕対立
モーリス・ストロング ― アル・ゴア(石油会社や原子力会社の経営者、下院上院議員、副大統領)
                  |
              オークリッジ国立研究所(原爆開発マンハッタン計画により建設された一部)


アメリカ上院 ― NASA研究者ジェームズ・ハンセンなど(公聴会で地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因と唱える)
                  |
  国連組織IPCC(気候変動に関する政府間パネル)(議長はインド財閥タタ・グループの関係者だった)
 
アル・ゴアIPCCが2007年にノーベル賞(『不都合な真実』公開が2006年)
※ジェームズ・ハンセンもアル・ゴアも温暖化防止のため原子力発電を推進


アル・ゴア父(下院上院議員、石油会社の顧問弁護士→副社長・取締役)―アーマンド・ハワー(石油会社の経営者・大富豪)

※アーマンド・ハワーはロシア系ユダヤ人、熱烈な共産主義者(父はアメリカ共産党の父)、医師、ソ連との貿易ビジネスで成功(フォード車など)、石油会社の経営権を取得、共和党の熱烈支持者で歴代大統領と親密、民主党アル・ゴアとも親密。(共産党に・・共和党に・・民主党・・)

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アル・ゴアの娘カレナ・ゴア(Karenna Gore)は、クーン・ローブ商会の経営者であったジェイコブ・シフの曾孫と結婚した。
On July 12, 1997 she married Andrew Newman Schiff, a primary care physician in Washington, D.C., and great-great grandson of Jacob Schiff,at the Washington National Cathedral.Andrew Schiff now works as a biotechnology fund manager.

ジェイコブ・シフはドイツ系ユダヤ人の銀行家でアメリカで活躍した。
日露戦争の際、日本の戦時国債を大量に購入し、戦費調達に行き詰まっていた高橋是清(当時日本銀行副総裁)を救った。旭日大綬章が明治天皇より贈られている。
クーン・ローブ商会はロスチャイルド系である。アメリカの連邦準備理事会(FRB)の創立を企てた秘密会議をJ・P.モルガン、ロックフェラーとともに構成した。

カレナ・ゴアの夫はプライマリケア医だったが、現在はアイスリング・キャピタルという投資会社のマネージャーである。
プライマリケア医とは専門医ではなくて総合医や家庭医のこと。第一次医療を担当し、部分ではなく全人的に診察する。日本では評価が低いがイギリスを始めとするヨーロッパやアメリカでは重視されている。
アイスリング・キャピタルはテクノロジーを推進し、健康を向上させるグローバル企業(公的機関含む)に投資しているそう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


アル・ゴアの顧問弁護士だったのがルイス・リビー(スクーター・リビー)。

アーヴィン・ルイス・“スクーター”リビー(Irving Lewis "Scooter" Libby Jr.)
コネティカット州・ニュー・ヘイブン出身。ユダヤ系。弁護士、政治家。
ブッシュ政権で、国家安全保障問題担当副大統領、チェイニー副大統領首席補佐官、ブッシュ大統領補佐官を兼任していた。

リビーの日本語版Wikipediaには僅かしか記述はない。
しかも一番最初の記述はこうである。(最初に強調するあたり何か臭う!)
英国のウィンストン・チャーチル元首相の熱烈な崇拝者で、補佐官時代には執務室にチャーチルの肖像画を掲げていたほどである。(要出典!!要出典!!!)
英語版Wikipediaは非常に長い。ささっと見た感じチャーチルは出てこない。

コネチカット州に生まれる。イエール大学を1972年に卒業。1975年コロンビア大学法科大学院法務博士課程修了。1981年国務省に勤め始める。 

リビーが国務省に入ったのは、イエール大学の教授だったポール・ウォルフォウィッツのおかげである。

※ポール・ウォルフォウィッツ
東欧系ユダヤ人。父はポーランドからの移民。
1970年にイエール大学教授、その後ジョンズ・ホプキンズ大学教授になる。
1973年国務省入り、軍備管理軍縮局で第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)を担当。
カーター政権下の1977~1980年国防副次官補。
レーガン政権下で1981年国務省政策企画委員長、1982年国務次官補(東アジア・太平洋担当)、1986年駐インドネシア大使を歴任(オバマ大統領の母も1980年代にインドネシアにいた)。
ブッシュ(父)政権下で1989~1993年国防次官。
1994年ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究所(SAIS)所長を経て、アーンスト・アンド・ヤング(ロンドンを本部とする大手会計事務所)*に属する。
2001年ブッシュ(息子)政権で国防副長官に就任。
2005年世界銀行総裁に就任。
親イスラエル(親ユダヤ)、親インドネシア(親イスラム)であり、親保守主義者(ネオコン)**を代表する人物で対テロ戦争で重要な役割を果たした。

*アーンスト・アンド・ヤング
BIG4と呼ばれる4大会計事務所の1つ。
 ・アーンスト&ヤング (Ernst & Young) - 略称:E&Y(EY) 本部:ロンドン
 ・デロイト トウシュ トーマツ (Deloitte Touche Tohmatsu) - 略称:DTT, Deloitte. 本部:ニューヨーク
 ・KPMG - 本部:アムステルダム
 ・プライスウォーターハウスクーパース (PricewaterhouseCoopers) - 略称:PwC 本部:ロンドン

世界中の巨大企業はクライアントとして全てこの4大会計事務所に網羅されていると言われるほどである。
東芝の会計不正で会計監査人としての責任が問題にされ矢面に立たされた新日本有限責任監査法人は、アーンスト・アンド・ヤング(EY)系。
EYの日本エリアのマネージャーは新日本有限責任監査法人の理事長が兼任していたが、東芝事件を受けてアメリカから派遣されている。

日本の4大監査法人
 ・新日本有限責任監査法人(アーンスト・アンド・ヤングと提携)
 ・有限責任あずさ監査法人(KPMGと提携)
 ・有限責任監査法人トーマツ(デロイト トウシュ トーマツのメンバーファーム)
 ・PwCあらた有限責任監査法人(プライスウォーターハウスクーパースと提携)

かつてはPwCあらた有限責任監査法人ではなく、みすず監査法人(中央青山監査法人)だったが、不祥事発覚により業務停止命令を受け、その後も信用回復できず解散に至る。ソニーやトヨタをクライアントにしていた。
この監査法人はPwC系であり、みすず解散後に受け皿としてみすず監査法人の一部を独立させて、あらた監査法人を設立した。
みすず監査法人の事業の多くが移管されたのが、EY系の新日本有限責任監査法人だった。
PwCもEYもどちらも本部はロンドン。東芝は新日本有限責任監査法人からPwCあらた有限責任監査法人に変更したと報じられたが、どうなんでしょうか・・。
東芝事件以降に最大手とも言われる新日本有限責任監査法人は顧客離れが相次ぎ存続の危機にあるらしい。

**新保守主義(ネオコン)
新保守主義とは左翼から鞍替えした右翼のこと。
旧保守主義とは区別するために新保守主義と呼ばれる。
公民権運動、フェミニズム運動(ウーマン・リブ)、反戦運動などのムーブメントにより大々的に「道徳的正さ」が求められるようになり、品行方正な政治家を良しとする風潮が生まれた。
公民権運動、フェミニズム運動(ウーマン・リブ)、反戦運動、こうした運動をする側は反体制、要するに左翼として捉えられる。アメリカの政党で言えば民主党である。
ヘルメットを被って暴れるといった左翼のイメージからは品行方正さは感じられないが、左翼の運動は結果として波風を立てない大人しい政治家を生みだした(これもある意味、核抑止力が効いていたということですね)。
左翼の中の異端児と言おうか、窮屈な社会に息が詰まったとでもと言うべきか、いつなんどきも品行方正であることがそんなに偉いことか!、といった感じの人達がネオコンである(核抑止力の崩壊と言ってもいいでしょう)。
第二次世界大戦後、ソ連を脅威に感じてびくびくしながら冷戦で様子を窺っていたアメリカだったが、レーガン大統領(1981-1989)は強硬路線を採った。これに乗って左翼・民主党から転向した人が結構いた。
レーガン・中曽根時代には、よくタカ派という言葉が聞かれたが、主張のはっきりとした行動的な人達のことであり、ネオコン派ともダブルものがある。
民主党が政権を取ると、左翼から右翼(反体制から保守)に回るので、必然的にネオコンに足を突っ込むことになる。

ポール・ウォルフォウィッツとルイス・リビーは新保守主義(ネオコン)の代表人物である。
ネオコン人物はレーガン大統領の時に政界に入りこみ、ブッシュ(息子)大統領の時に花開いた(!?)。
しかしそのブッシュ家は旧保守主義の代表格。キリスト原理主義者(カトリックに対立したプロテスタント)でもある。
キリスト教原理主義を馬鹿にしたのが科学を積極的に取り入れたリベラル派(革新派・改革派)である。保守に対しての革新である。ネオコンのベースにはリベラルがある。
まとめるとネオコン派は、対外的に軍事の優越を唱えた強硬派であり、国内においてはリベラル派であり、且つ世界は一つのグローバリストでもある。(核抑止力が崩壊して台頭したのに、核を振りかざしそうですね)


ルイス・リビーは小説家としての顔を持つ。
(熱烈なチャーチル崇拝者なので、チャーチルと同じノーベル文学賞を目指したということでしょうか?)

『ジ・アプレンティス』(The Apprentice)
アメリカの副大統領首席補佐官を務めたルイス・リビーによって書かれた小説。1996年に公表された。
リビーは、本を書くのに20年以上を費やしたといわれる。公表当初は余り注目されなかったが、プレイム事件をきっかけに脚光を浴びる。
主人公は天然痘流行によって1903年の冬に北日本の宿屋で立ち往生した旅行者という設定である。
この小説は、同性愛、近親相姦の場面を含み、獣姦、小児性愛、売春、強姦嗜好など、保守派に典型的に非難された種類の性的逸脱で満ちていた。


つまり、1903年頃の日本は、保守派に非難されるであろう種類の性的逸脱で満ちていたということなのだ。少なくともルイス・リビーの書いた小説の中の日本ではそうだったのだ。
1903年と言えば、日露戦争の前年。
ルイス・リビーは1950年生まれなので、まだ誕生しておらず、当時の日本を見たわけではない。
強烈な体験を小説として描くことはよくあるけれども、時代から考えればそうではなさそうである。
しかしながら20年以上も時間を費やしたというからかなりの執着心である。直接見たわけではないにしても何か強烈な印象があるのではないか。

天然痘
非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。
天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。
天然痘は感染した場合肉眼で判別可能な症状が現れるため特定しやすく、発病および感染はヒトのみに限られ、さらに優れたワクチンが存在するといった、根絶を可能とする諸条件をそろえた病気であった。
日本においても1955年に天然痘は根絶された。
1977年のソマリア人青年のアリ・マオ・マーランを最後に自然感染の天然痘患者は報告されておらず、3年を経過した1980年5月8日、WHOは地球上からの天然痘根絶宣言を発するに至った。現在自然界において天然痘ウイルス自体が存在しないとされている。

1978年にイギリスのバーミンガム大学メディカル・センターにおいて、微生物学研究室からウイルスが漏洩し、研究室の上階で働いていたジャネット・パーカーが天然痘を罹患し1か月後に死亡した。彼女は天然痘により死亡した世界最後の患者である。

1984年にWHOでなされた合意に基づいて、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) とロシア国立ウイルス学・生物工学研究センター(VECTOR) のレベル4施設以外の研究所が保有していた株は全て廃棄された。この2施設における天然痘株についても破壊することがWHOの会議で一旦決定されたが、実際の作業は数度に渡り延期され、2001年にアメリカが株の廃棄に反対する姿勢を明確にしたことで中止となった。 しかし近年レベル4施設の設備を備えない不適切な場所においても生きた天然痘ウイルスが発見されており、その管理・取り扱いが非常にずさんであることが発覚している。

千葉県血清研究所が開発し1975年に日本国内で製造承認を受けた天然痘ワクチン「LC16m8」株は、1980年のWHOの撲滅宣言後に冷凍保存された。2001年同時多発テロ後、備蓄が始まり自衛隊に投与されている。


日本は2003~2009年、自衛隊をイラクに派遣した。

WHOによる根絶運動により、1976年以降予防接種が廃止されたが、アメリカでは2011年現在ワクチンを備蓄し続け、またその製造が可能な状態を維持し続けている。

根絶されたために根絶後に予防接種を受けた人はおらず、また予防接種を受けた人でも免疫の持続期間が一般的に5 - 10年といわれているため、現在では免疫を持っている人はほとんどいない。そのため、生物兵器として使用された場合に、大きな被害を出す危険が指摘されており、感染力の強さからも短時間での感染の拡大が懸念されている。ワシントン・ポスト(2002年11月5日号)は、CIAが天然痘ウイルスのサンプルを隠し持っていると思われる国として、イラク(注:記事はイラク戦争前のもの)、北朝鮮、ロシア、フランスを挙げている(ただし、イラクとフランスについては可能性はとても高いというわけではないとしている)。



プレイム事件(Plame Affair)
アメリカの元外交官ジョゼフ・ウィルソンの妻であるヴァレリー・ウィルソン(結婚前の姓名はヴァレリー・プレイム)が、実は米中央情報局(CIA)のエージェントであることがマスコミに漏洩、暴露された事件である。別名プレイムゲート(Plamegate)、CIAリーク事件(CIA leak case)

2001年暮れ頃から、アメリカ合衆国政府でイラクが2001年4月に核の原料であるウランをアフリカのニジェール共和国から入手しようとしたという「ニジェール疑惑」が浮上した。
   ↓
この情報源として提出された契約書を国際原子力機関が偽物と鑑定。(つまりイラクはウランをニジェールから入手していないと主張)
   ↓
ブッシュ政権のディック・チェイニー副大統領ら複数の政府高官が偽物ではないと強硬な姿勢を崩さなかった。
   ↓
2002年2月、ジョゼフ・ウィルソンがCIAから派遣されニジェールで調査。結果として疑惑は根拠がないと報告した。
   ↓
アメリカ合衆国政府は調査が不足しているとして「ウィルソン報告書」を握りつぶしニジェール疑惑を支持し続けた。合わせてブッシュ大統領はイラクに大量破壊兵器があると世論に訴えた。
   ↓
チェイニー副大統領の首席補佐官ルイス・リビーがCIAに再調査を依頼。
   ↓
CIAこれを断る。
   ↓
アメリカ政府は、イラクのアル=カーイダ支援、大量破壊兵器開発、アル=カーイダに対する大量破壊兵器の輸出の可能性を主張。
   ↓
2003年3月7日、国際原子力機関のモハメド・エルバラダイ事務局長(エジプト出身)は「ニジェール疑惑は偽造文書」と国連安保理へ報告。
   ↓
2003年3月19日、イラク戦争開戦。・・・・正規軍の大規模戦争は2003年に終結、その後も米軍はイラクに駐留、非正規軍の戦いなどが2011年まで続いた。・・・・大量破壊兵器は発見されず。
   ↓
2003年7月14日、ワシントンの保守系コラムニストであるロバート・ノバクが、ジョゼフの妻はCIAエージェントであると報じる。(ジョぜフは調査を拒否したCIA派だから十分な調査をしなかったという論調)
ノバクはこの寄稿で二人の政府高官(後の裁判でカール・ローヴとルイス・リビーである事を証言している)の裏づけがあるとも述べた。なお、CIAエージェントの身分暴露は、アメリカ合衆国の法律である「情報部員身分保護法」により禁止されている。
他方、こうした情報漏洩にジョゼフは即座に反撃して記者会見を開き、妻がCIAの秘密工作員であることを明らかにしたのはアメリカ合衆国政府による報復であると述べ、テレビなどのメディアを通じその違法性を訴えた。その後しばらくアメリカ合衆国では混乱状態が続いた。


連邦大陪審は2005年10月28日、ディック・チェイニー副大統領のルイス・リビー首席補佐官を偽証、嘘誓がそれぞれ2件、司法妨害が1件の計5つの訴因で起訴した。起訴容疑からは「情報漏洩」は除かれている(リビーの嘘のためチェイニーの疑惑が明らかにならなかったの意)。起訴を受けてリビーは副大統領補佐官の職を辞した。
リビーは、CIAエージェントの身元がヴァレリー・プレイムであることを「ジャーナリストたちから聞いた」と繰り返し主張していた。だが、起訴状ではプレイムについては2003年6月にディック・チェイニーから聞いたと、まったく違った事実が記載されている。

2006年4月、リビーは大陪審でブッシュ大統領が事件に直接関与していたと証言した。2006年8月、ノバクに対する情報漏洩はアーミテージが行ったということになった。彼は2006年9月7日のCBSで自らが情報源であることを認め、自分に非があるということを認めた。しかし、フィッツジェラルド特別検察官はこの件は起訴しなかった。


「核兵器」とか「ミサイル」とか言う時もあるのに、どうして「大量破壊兵器(weapons of mass destruction;WMD)」という言葉を使ったのだろうか?
ウランを問題にしたならば核兵器を疑っていたはずだ。
その核兵器(大量破壊兵器)は見つからなかった。
では生物化学兵器はどうだったのだろうか?例えば天然痘は?それは探していません?


 


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# by yumimi61 | 2017-06-27 12:37
2017年 06月 25日
War Is Over
ちょっと早かったね(第二弾!?)

前記事で枯葉剤(除草剤)のことを取り上げたけれども、じゃあ「枯葉剤」が撒かれたベトナム戦争とはいったい何だったのかということになりますね?
いつ始まったのか、何のために戦ったのか、なぜアメリカが関係あるのか、かなり分かりにくい戦争である。

第二次世界大戦前のベトナムはフランスの植民地であった。
大戦前に各地の植民地解放を支援していたのは、共産主義インターナショナル・コミンテルン(第三インターナショナル)だった。
1919~1924年までコミンテルンを率いたのはレーニンである。
レーニン死後、その後継を巡ってトロッキーとスターリンが激しく対立するもトロッキーが不利な立場になり、1929年には国外追放されるに至る。
同じ組織であるが、レーニン時代とスターリン時代はその中身が全く違う。
トロッキーは国外で活動を続けて、コミンテルンに代わる国際社会主義運動の組織化を画策しており、1938年には第四インターナショナルを結成した。
ドイツ・イタリア・日本が反共産主義インターナショナルを掲げて同盟を組んだのは1936年のことである。
この頃スターリンもトロッキー関係者や自身に反する者を粛清している。
トロッキーも1940年に殺された。

植民地解放を支援していたのはコミンテルンであるが、1924年を境にコミンテルンの中身が変わっていく。
ということは、植民地解放・民族主義運動・革命などの目的や質も微妙に変わっているはずである。
これが外からはなかなか分かりにくい点である。
ともかくベトナム(インドシナ)では1930年にインドシナ共産党が結成され、独立運動には共産党が主導的な役割を果たした。

1939年9月、第二次世界大戦勃発。
1940年にはフランスがドイツに敗北し全土をドイツ軍の占領下に置かれ、親ドイツ独政権であるヴィシー政権が成立した。
フランスの植民地政権はここがチャンスとばかりにすぐさま独立に動いたわけではなく、ヴィシー政権に付き従うことを選択した。要するに親ドイツ(もっと言うと親枢軸国)となったということである。
肝心のドイツはベトナムには興味を示さなかった。代わりに触手を伸ばしたのは日本だった。
日本とフランス・ヴィシー政権は、ベトナムにおける日本の経済的優先権と軍事的便宜を認めるから、ベトナム(インドシナ)におけるフランスの主権を認めるという約束をし、フランス軍がいたところに日本軍が進駐した。
約束の上のことだったわけだが、住民たちはそんなことは知らないから、日本がフランスを追い出してくれたと勘違い。
日本はフランスの主権を認めたからこその進駐なのだから、ベトナム独立なんか支援するはずもない。

ヴィシー政権統治下および日本軍進駐下における1944年末から1945年にかけてのベトナム北部で大飢饉が発生し、20万人以上、ホーチミンの主張では200万人が餓死する事態が発生する。コミンテルンの構成員であったホー・チ・ミンを指導者とするベトミン(ベトナム独立同盟)武装解放宣伝隊は「飢饉は日本軍の政策によるもの」と主張し、民衆の反日感情が爆発した。またフランス政庁も反日感情をあおるために保有米を廃棄するなどした。この飢饉がベトミンの勢力拡大の決定的な機会となった。
※ベトミン・・・ベトナムの独立を目指す民族統一組織。


第二次世界大戦で日本は敗北。これを機に1945年9月、ホー・チ・ミン率いるベトミンがベトナム民主共和国を樹立し独立することを宣言した。
これに対抗してフランスが南部に傀儡政権を建国。
1946年からこの両者が戦争をする。(第一次インドシナ戦争)
         ↓
 8年戦った末にフランス側敗北
         ↓
1954年7月のジュネーブ協定により北緯17度線を境にしてベトナムは分断
南ベトナムはベトナム共和国となる。大統領はベトナムの貴族出身ゴ・ディン・ディエムが就任。
(朝鮮半島みたいですね)

ゴ・ディン・ディエムは、熱心なカトリック教徒で、反共産主義者でもあった。
東南アジアでの共産主義の拡大を懸念するアメリカの支援をうけて、ジュネーヴ協定成立直前に政権を樹立し、ジュネーブ協定に基づく南北統一総選挙を拒否するなどベトナム民主共和国への対決色を強めていった。
アメリカは当初フランス軍を支援するという形で南部を支援していたが、直接支援に切り替えた。
北部と南部は分断されたが、住民は好きな方の国家を選択して移ることが可能であった。
北から南に移ったのは100万人。これは主にカトリック教徒。
南から北に内ったのは9万人。
共産主義は権威主義的な宗教に依存しない(宗教を否定する)という特徴があるので、共産主義である北部からはカトリック教徒が移動したということになる。
枢軸国の反共産主義もやはり宗教がらみであると推測できる。

ゴ・ディン・ディエムは自身の弟を大統領顧問に任命し、秘密警察と軍特殊部隊を掌握させ、国内の共産主義者を始めとする反政府分子を厳しく弾圧した。
このように独裁的で汚職にまみれ、農民が多い南部地域に合った政策が採られるわけでなく、南部の国民の不満は募っていった。

そこで北部のベトナム民主共和国は南部の独立派に働きかけ、武力による統一を試み南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成。北部と南部の戦いが始まる。
フランスやアメリカは南部側の味方だった。言い方を変えればカトリックの味方であった。
北部は共産主義であるから、ソ連や中国に近い存在である。ソ連は原爆裏事情を察しながら「我々も原爆を成功させた」と言った国であり、アメリカにとって脅威であった。

北部と南部の戦いであるベトナム戦争にアメリカが直接介入したのは1965年。
カトリック教徒であるケネディ大統領が暗殺された(1963年)後の事である。
ケネディ大統領は何故殺されたのか?裏切り者だったのか。それとも忠誠者だったからか。

アメリカが直接介入を始めた1965年、アメリカの仲介により日本と韓国は日韓基本条約を締結。時の首相は佐藤栄作。
戦前・戦時中の賠償も謝罪も曖昧なまま、「経済援助」として多額の資金が韓国に送られた。
アメリカや韓国はベトナム戦争に派兵していた。
我々が(あなた達の代わりに)軍隊を出してやっているのだから、その見返りはきっちり貰いますよ的な感じ?
弱みを握られていて、出さざるを得なかった感じ?


ねえどっちにする?

アメリカが枯葉剤を散布した地域は南部に含まれると言う。
もう一度言いますが、アメリカは南部の味方をしてたんです。
でも北部のベトコンがジャングルなどに潜んでいるということで枯葉剤を散布したそうなのだ。
東か西かと聞かれれば、西の味方だけれども、西に原爆を落としたことと共通点はありますか?


Bed In

ベトナム戦争と言うと枯葉剤の次に反戦運動が思い出されるくらいにムーブメントだった。
どうしてアメリカに直接関係ないようなベトナム戦争の反戦運動がそれほど盛り上がったのだろうか。
それほどまでにアメリカ軍兵士の犠牲者が多かったということなのか?

オノ・ヨーコが共産系のヘルメットを被り、反共産主義だったヒトラーの声明文を読み上げ、共産主義とカトリックの戦いとも言える戦争に対して反戦運動を繰り広げたのは何故なのか?
共産主義同盟のヘルメットを被り、ヒトラーの声明文を読み上げたオノ・ ヨーコの意図がよく分からない。

ベトナムのジャングルという環境で戦意を喪失し、世論の反戦大合唱でさらに戦意を喪失し、帰国しても待ちわびてくれていたはずの人達は冷淡で、散々だったアメリカ軍。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。

1975年4月、ベトナム戦争は終結した。
アメリカは、南部ベトナムは、カトリックは、北部ベトナム(共産主義)に敗北した。
長い長い戦争が終わった。
独立まもない、そして独立以降のかなりの日々を戦争に費やした小国に、大国や権威が全く歯が立たなかった。
ロシア帝国を倒して羨望の眼差しを浴びたかつての日本のように、北部ベトナムもまた誰かの憧れの存在になったのだろうか。


TDRに遊べ、空港に学べ!?

築地と豊洲の市場について凄く良い考えがあるので一言。
「せっかくの築地ブランドが」とか「築地のブランド力を活かしたい」とか言うならば、豊洲市場を築地市場という名にしてしまえばいいと思う。
先例があるじゃないですか! 千葉にあっても東京ディズニーランド。千葉にあっても新東京国際空港。
これは東京というブランドを活かした命名ですよね?
豊洲にあっても築地市場。これで問題解決。

しかしながら築地ってそんなにブランド力あるんでしょうか?
確かに築地という名称は知っている。築地直送という表示も見たことがある(やや古臭いイメージ)。
でもお魚は築地直送品しか買わないもんね!とかいうことは全然ない。
寿司屋でも料亭でもないからあまり拘りはない。安さと鮮度と手軽さをミックスした感じで選ぶ感じでしょうか。
現代人にとってお魚ってそこまで身近ではないし。その気になれば通販で産地直送で買えたりするし。
産地で食べるのがやはり一番おいしいだろうと思う。
私は牡蠣は広島に行って初めて食べられるようになった。それまで苦手だった。
新潟の市場で買ってきた鮭も美味しかった。(なんで新潟で鮭なのか?よく分からないけれど鮭でした)

そもそも築地って東京ですよね?東京に魚?水族館?東京湾?
海外からの観光客のことは知らないけれど、日本に住む消費者からすると築地のブランド力って言うほどのものではないと思う。
私は築地市場にも行ったことない。
今どき出張マグロ解体ショーなんかも出前でやってくれて、私は見たことないけれど、母は見たことあるらしい。

ちなみに新東京国際空港は正式名称で呼ばれなくて「成田」というローカル名で呼ばれ続け、今では正式名も成田国際空港になっている。
これも小が大を倒した事例でしょうか。




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# by yumimi61 | 2017-06-25 23:33
2017年 06月 25日
綿(コットン)と枯葉剤
誤解のないように綿の木について補足しておく。

綿の木はアオイ科の植物である。
アオイ科の植物にはハイビスカス、ムクゲ、フヨウ、タチアオイ、オクラなどがある。(どれも花の容姿が似ていますね)(徳川家の家紋のアオイはアオイ科ではない)
アオイ科の植物は基本的に熱帯地方に自生する熱帯植物であり、日本では夏季に花が咲き、冬越しが難しい植物が多い。

但し今まさに道端や空き地や畑の周囲などあちこちで花が咲いているタチアオイは冬に地上部が枯れても時期が来れば芽を出して毎年花を咲かせる強健な宿根草(多年草)で帰化植物扱いである。
うちの実家にはアメリカフヨウがあるが、これも冬に地上部が枯れても芽をだし、暑い季節に巨大な花を沢山付ける宿根草(多年草)である。
このように寒い季節(植物によっては暑い季節)に一旦地上部が枯れてしまうものは、毎年芽を出して花を咲かせたとしても、通常は木(木本性)とは言わない。草(草本性)である。
落葉樹は葉を落とすが、幹が枯れて見えなくなってしまうことはない。
もう一つの見分け方としては茎が木化するか(硬くなるか)どうかである。

実際には木(木本性)と草(草本性)の中間の性質を持つ植物も多く存在しており、草本と木本を明瞭に区別することはなかなか難しい。
特に自生地(原産地)と違う気候で育てた場合には違う育ち方をする場合も多々ある。
冬季など生育不適期に葉を落として休眠してしまうのも植物が生き延びるための術である。
限界を超えれば休眠での冬越しも不可能ということになる。
アオイ科の植物の中には、熱帯樹木に分類されるものもあれば、常緑の多年草に分類されるものもある。
葉を落とすだけの多年草もあれば、上に挙げた例のように地上部が枯れて新たに芽を出す多年草もある。

地方や種類によって、熱帯性樹木であることもあるし、多年草であることもある。
さらにややこしいのは一年草品種が作られたこと。

プランテーションの時代くらいまでは多年草である綿の木に出来る綿毛を手摘みしていた。非常に手間暇が掛かり労働力が必要だったわけである。そこに使われていた人が奴隷と呼ばれたりしていた。
農場で使うと奴隷と非難され、工場で使えば雇用(従業員)と称賛されるなんて、何だかおかしな話であるが、それだけ農業は大変ということだろうか。
ちなみに現代でも機械で収穫できない野菜農家などは収穫時期に人を雇って使っている。
次第に農業にも機械化の波が押し寄せ、大型機械で一気に収穫するような方法にとって代わっていった。
個々の成長に配慮しない一気収穫は多年生に与えるダメージも大きくなる。
こうなると多年草を年間通して管理するよりも、毎年新しく種を播き生え揃って樹勢などにばらつきが少ない一年草のほうが扱いやすい。
綿栽培は(綿栽培に限ることではないが)、農業の機械化と大規模化、それに合わせた品種改良や化学薬品の使用などによって変化を遂げてきた。


一年草だから思う存分に枯葉剤が撒けるのではないかと思うかもしれないが、収穫までに実が傷んだり落ちたり綿の木が倒れたり枯れ果ててしまっては意味がないのである。そうなっては元も子もない。
従って一年草であっても(むしろ一年草であるからこそ)、、そこまで強い薬品は使えない。
葉だけを落として機械で一気に収穫する。
収穫してもしなくても一年草なので放っておけば枯れる。


ベトナム戦争の枯葉剤。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。

マラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するという目的では薬品用途が違い過ぎる。
森林(ジャングル)の枯死は言うほど簡単なことではなく、ほとんど意味を成さないであろう。

熱帯雨林
地域としては東南アジア、中部アフリカ、中南米などに見られる。特徴としては生息する生物の多さ、種の多様さ(生物多様性)が挙げられ、複雑な生態系を形成している。全世界の生物種の半数以上が熱帯雨林に生息しているとも言われる。また、大気中に含まれる酸素の40%は熱帯雨林によって供給されたものと見られている。

熱帯雨林に見られる植物の7割が樹木である。
これらの樹木は垂直に3 - 5層からなる層構造をしている。最上層には飛び抜けて高い樹木がまばらにあり、これを超高木層と言う。その下に樹木の枝葉で覆われた層がある。これらを樹冠と呼び、高さ30 - 50mにも達する。樹冠が集まる上層部を林冠と呼ぶ。また、構成樹種がきわめて多いのも特徴の一つである。 太陽エネルギーを元に合成される生産量の大半が樹冠に集中するため、下層とは異なる樹冠生態系と呼ばれる特異な生態系を形成している。また、つる植物や着生植物が多いのもこのような森林の特徴である。これらの植物も樹冠生態系を構成する要素となる。樹冠の下は1 - 3層から成る中間層の林冠、最下層の林床が形成されている。

熱帯雨林では、濃い植生のために日射が遮られ、地表付近では下草が生長しにくい。 これは、人間も含めた大型動物にとっては移動に適した地形となる。 これが、何らかの理由(伐採、山火事など)によって日射量が得られるようになった場合、いわゆるジャングルと呼ばれる低木・つる植物の豊富な、中を歩きにくい植生となる。

土壌の発達は良くない。落葉や腐植の層はほとんどない。これは、気温が高くて分解速度が速いためと、主としてシロアリが、落葉を素早く裁断して自分の巣に持ち込んでしまうからである。地質は、分解速度の速さと多量の降水のために養分が溶脱してしまい、やせた酸性の土壌となる。



樹木が何層にもなっている森林に上空から空中散布したところで森林が枯死すると思いますか?
除草剤を使ったことがあるでしょうか?
除草剤には以下のような区分けの仕方がある。

・非選択的除草剤―雑草と作物の区別なく枯らす。
・選択的除草剤―特定の植物には無害で目的の雑草だけを枯らす。

・茎葉処理型除草剤―散布された薬剤が茎や葉の表面から吸収され(根まで)枯らす。根や木化した茎からは吸収されない。(これで生えていた雑草が枯れると、陰に隠れていた種が光を浴びて一斉に発芽するので第2波雑草が急激に育つことが多く2度撒きが必要なことが多い)
・根吸収型除草剤―散布された薬剤が根から吸収されて枯らす。(葉に薬剤がかかっていなくても枯れる可能性ありということ)
・土壌処理型除草剤―地表面に除草剤の処理層をつくり、発芽した種子が育たないで枯れるようにする。(待ち伏せ型)

・光合成を直接阻害する除草剤―DCMU
・光合成の電子伝達系から還元力を奪って酸素に渡してしまう除草剤(酸素還元指示薬)―パラコート
・光合成には無関係な植物ホルモンタイプの除草剤―2,4-D

このうちパラコートが植物にも人間にも毒性が高いことで有名。自殺や殺人にもよく用いられた。但し土壌残留性は低い。
1882年には合成されていたが、除草剤としての特性を発見したのは1955年で、除草剤として発売されたのは1965年(ちょうどベトナム戦争中)。
イギリス・ロンドンのマンチェスター・スクエアに本社があるインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)社が開発した。

パラコートは、細胞内に入ると NADPH などから電子を奪ってパラコートラジカルとなる。パラコートラジカルが酸化されて元のパラコートイオンに戻る際に活性酸素が生じ、細胞内のタンパク質や DNA を破壊し、植物を枯死させる。パラコートは触媒的に何度もこの反応を繰り返し起こすので、少量でも強い毒性を示す。 NADPH は動物体内にもあるため、同様の反応を起こす。パラコートは、肺に能動的に蓄積する性質があるため、致死量摂取すると最終的に間質性肺炎や肺線維症が起こる。
人間に対しては致死性が高く解毒剤もなく、散布中の経気・経皮中毒の事例も報告されている。


雑草は人々に毛嫌いされるほど逞しい。森林どころか空き地や畑の雑草を駆逐することでさえ言うほど簡単なことではない。
散布しただけでは樹木に対しては効果がないものも多い。
ベトナム戦争で枯葉剤を散布したのは、フェアチャイルドC-123 プロバイダー(Fairchild C-123 Provider)。
第二次世界大戦後にアメリカのフェアチャイルド社によって製造された軍用輸送機である。
つまり上空から散布したということである。

除草剤は高温であるほど移行性が高くなり効果を発揮しやすい。熱帯地域にはぴったりではないか!と思ったかは知らないが、スコールのように降らせるには大量の液体が必要である。
ミスト化すれば少ない量で済むかもしれないが、土壌はおろか葉面まで確実に届かない可能性が高くなる。
粒子を小さくすればそれだけ気化(ガス化)しやすい。
気体(ガス)も高温のほうが拡散力が高いので、狙ったところに届かずふわ~と四方八方に拡散してしまい、肝心の効果は薄まる可能性が大いに考えられる。なにせ屋外である。
これで森林破壊できると思うほうが不思議である。












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# by yumimi61 | 2017-06-25 13:47
2017年 06月 23日
日本国憲法の秘密-504-
1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。
ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。


「除草剤」を使っておきながら何故「枯葉剤」と呼ぶのか。

除草剤― weed killer、herbicide
枯葉剤―defoliant

除草剤は特定の植物の生育を破壊したり抑制したり、枯らすために用いられる。
一方の枯葉剤は葉を落とすことだけを目的に用いられる。樹木を枯らすことを目的にしているわけではない。

ベトナム戦争で用いられた「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤のことを特別に枯葉剤(defoliant)と呼んでいると思っている人も多いかもしれないが、枯葉剤も除草剤と同じく用途があり使われているものである。

枯葉剤が多用されているのは綿(コットン)栽培においてである。
オーガニックコットンという言葉や表示を見聞きしたことがないだろうか。
つまり通常のコットンというのはそれほどオーガニックではないということでもある。
綿100%ならば肌に良いと思い込みがちだが、綿織物になるまでにはいろんな薬品を経ているわけで、一概に肌に良いとも言えない。
綿に何を求めているかは人それぞれだから悪いとも言えない。
肌着は肌に良いコットン!と決めている人が合成洗剤やら柔軟剤やら漂白剤をたっぷり使うのも何だか少し面白い。
栽培過程で用いられた薬品も洗濯しているうちに落ちるしね!?


綿は「綿の木」から出来る。木に花が咲き終わるとそこに青い実を付けて、その実が熟れて茶色になってパッと割れると中に白い綿毛が出来ている。綿毛が種を包んでいるのだ。
問題は花が一斉には咲かないこと。花は1日でしおれてしまうが、その代わりに次々に咲いていく。
7月~10月くらいまでの間に順次咲いて行くので、実や綿も順次出来ていく。
出来たものから収穫していけばよいが、大規模な農園で機械で行うとなれば、順次収穫には向かない。
この咲き方は朝顔を想像してみると分かりやすい。
花は一斉には咲かないし、1つの花は半日くらいしか持たないで萎んでしまう。花は順番に咲いていき、咲いた後に青い鞘が膨らみ出す。要するに咲いた順番に鞘や種が出来ていくわけだが、蔓が枯れる頃になると多くの沢山の鞘が茶色になって中に黒い種が出来ている。

木の葉が落葉する時期まで待つと、最初の頃に出来た綿毛は3ヶ月以上も放置されることになる。
屋外で育つものだから雨にも風にも当たる。綿の木は強い木であるが、そこに成る白い綿毛は汚れやすかったり傷みやすかったり失いやすかったりする。出来れば早めに収穫したほうがよい。
落葉まで待っていると使い物にならない綿もそれだけ多くなる。
しかし葉があるうちは収穫作業が行いづらく、また収穫した綿に葉が多く混じってしまい、効率が悪すぎる。
白い綿に混じり物が多ければ、せっかくの白い綿も台無しである。
そこで自然に葉が落ちるのを待つのではなく、ある程度綿毛が出来たところで人工的に葉を落としてすっきりさせた状態で収穫してしまうのである。
綿の木が枯れたりしたら元も子もない。綿毛が汚れたり落ちたりしても困る。葉だけがそっと落ちれば良いのである。
それほど強い薬品ではないことが想像できる。
空中散布してジャングルを破壊できるほどの毒性は「枯葉剤」にはないはずである。


綿(コットン)と言えばインド。
インドはヨーロッパに綿織物を輸出していた。
イギリスでは綿織物生産に乗り出し、インドから綿花(綿毛)を輸入して、自国で綿織物を生産し輸出するなど、綿はイギリスの産業革命の原動力にもなった。
大航海時代後はアメリカ南部で綿栽培が行われた。プランテーションと呼ばれる単一植物を大量栽培する大規模農園によって南部の経済は成り立っていた。当時のプランテーションは綿花(綿毛)が主流だった。
プランテーションはいわゆる奴隷を使っており、そこで生産された綿花(綿毛)はイギリスにも輸出され、自由貿易を主張するほど当時アメリカ南部は強かった。
一方のアメリカ北部は工業が発展した地域であるが、当時は保護貿易を主張していた。
南と北とでは産業構造がまるで違っていたのである。
1861~1865年のアメリカの南北戦争は、北部が南部の奴隷制を批判したことと、貿易の在り方の主張の違いから起こった。
北部が勝利したことから、奴隷制は廃止され、綿花(綿毛)生産も衰退していき、アメリカはその後、統一アメリカとして工業国の道を直走ることになる。
但しアメリカという国は大きいので、現在もコットン(綿繊維)の主要生産国である。 1位:中国  2位:アメリカ 3位:インド









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# by yumimi61 | 2017-06-23 16:06
2017年 06月 22日
日本国憲法の秘密-503-
第二次世界大戦中にDDT(有機塩素系殺虫剤;スイス)の大量生産が始まると、それに触発されたかのように、BHC(有機塩素系殺虫剤;フランス)、パラチオン(有機リン系殺虫剤;ドイツ)が開発生産されるようになる。
すべて1940年代のことである。

かのサリンも有機リン系である。
ドイツの企業はニコチンに代わる有機リン系の殺虫剤を1930年代に開発していた。
それを叩き台にタブンやサリンといった殺虫剤が第二次世界大戦前には誕生していたが、毒性が強すぎて殺虫剤としての有用性には問題があった。
そこで兵器に転用され、毒ガスとしての開発が進んだ。ドイツの化学工業は一歩も二歩も進んでいた。
1944年には史上最強の毒性を誇るソマンも開発した。
ドイツで開発されたタブン・サリン・ソマンの毒ガス(神経ガス)は、後に連合国によってGerman gasから「Gガス(G剤)」と呼ばれ研究されるようになる。
量産工場こそ建設されていなかったが、ドイツはかなりの量を備蓄していたらしい。
原爆や水爆並み、あるいはそれを超える殺傷能力を持つとされていた毒ガスをドイツは保有していた。
しかしヒトラーは、ドイツは、それを使うことはなかった。
(ちなみにホロコーストの毒ガス室で用いられたとされる毒ガスも違うものである)
核が抑止力になるのであるならば、毒ガスだって抑止力になるはずである。
だというのに世界はなぜ「核」を選び、「核」を特別扱いし、「核」に流れたのか。
それは核の開発に至らなかったことを暗黙に示唆している。


1944年にはイギリスで除草剤・2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) が開発された。
これが大量生産された最初の除草剤で第二次世界大戦後に広く使用されるようになった。
製造が簡単で、広葉(双子葉)植物を枯らすのに対し、イネ科植物には影響を与えず、現在でも用いられる。

ベトナム戦争で大規模に用いられた「枯葉剤」の6割ほどは 「2,4-D」とそれに構造が似ている「2,4,5-T」を混合したオレンジ剤だったと言われる。

ベトナム戦争中に米軍と南ベトナム軍によって撒かれた枯葉剤は軍の委託によりダイヤモンドシャムロック、ダウ、ハーキュリーズ、モンサント社などにより製造された。用いられた枯葉剤には数種類あり、それぞれの容器に付けられる縞の色から虹枯葉剤と呼ばれ、オレンジ剤 (Agent Orange)、ホワイト剤、ブルー剤などがあった。

ベトナムで使用された枯葉剤のうち主要なものは、2,4-ジクロロフェノキシ酢酸 (2,4-D) と2,4,5-トリクロロフェノキシ酢酸 (2,4,5-T) の混合剤であり、ジベンゾ-パラ-ダイオキシン類が含まれ、副産物として一般の2,4,5-T剤よりさらに多い2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を生成する。
このTCDDは非常に毒性が強く、動物実験で催奇形性が確認されている。ベトナム戦争帰還兵の枯葉剤暴露とその子供の二分脊椎症の増加についてはこのTCDDとの関連が示唆された。


そもそも何故に殺虫剤ではなく枯葉剤(除草剤)を撒いたのか?
枯葉剤の散布は、名目上はマラリアを媒介するマラリア蚊や蛭を退治するためとされたが、実際はベトコンの隠れ場となる森林の枯死、およびゲリラ支配地域の農業基盤である耕作地域の破壊が目的であったといわれる。
枯葉剤で虫が殺せると思っていたというのか?
それともあえて殺虫という直接的手法ではなく、虫たちの住環境を破壊という回りくどい間接的手法を使ったというのか?(ベトナム戦争は長かったので何事にも悠長だったのかもしれませんね!)(ちなみにマラリアの流行は人間の住環境が大きく関係している)

枯葉剤の被害者として日本でも超有名で日本との関係も深いベトちゃんドクちゃん(1981年生まれ)。
では具体的に枯葉剤の何が問題だったかと言うと、合成過程で副産物として「ダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) 」を生成してしまうからだそうである。
一頃、ごみの焼却が問題になったことを覚えているだろうか。
塩素を含む廃棄物の焼却によってダイオキシンが発生することが問題視されて、焼却について様々な規制が行われるようになった。自治体のごみ処分場の焼却施設のみならず、野焼きの禁止や家庭用焼却炉まで廃止された。
それまで私は秋が深まると落ち葉で焚火をして、ついでに焼き芋をして子供達に食べさせたりしていた。
また家には煙の出ない、ちょっとお洒落な、なかなか良い小型の焼却炉があったのだが(紙幣を燃やしたこともあるが・・)、それも廃止せざるを得なくなった。

日本では1983年にはじめてごみ焼却炉の灰のなかからこの物質が検出されて専門家の間で注目されました。1996年、埼玉県所沢市で産業廃棄物焼却炉からも検出され、住民に大きな不安が広がって社会問題になったことなどをきっかけに、ダイオキシンは大気汚染防止法の指定物質とされました。さらに、2000年には排出基準値が定められて、ごみ焼却炉や製鋼用電気炉などの施設に適用されています。
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/research_highlights/no_25/ より>


(ダイオキシン類は)ごみの焼却などによる燃焼や薬品類の合成に際して、意図しない副生成物(非意図的生成物)として生じる。過去においては、米軍がベトナム戦争で散布した枯葉剤の中に2,3,7,8-TCDDが不純物として含まれていたことは有名である。日本においても、PCBや農薬の一部に不純物として含まれて、環境中に排出されたという研究結果もある。
現在では、廃棄物の焼却処理過程においての発生が一番多く、その他、金属精錬施設、自動車排ガス、たばこの煙などから発生するほか、山火事や火山活動などの自然現象などによっても発生する。



ダイオキシンの生殖毒性
ベトナム戦争時の枯葉剤に2,3,7,8-TCDDが副産物として含まれており、散布地域での奇形出産・発育異常の増加に対し、2,3,7,8-TCDDの催奇性との関連が取り上げられる。ただし、ダイオキシンによる催奇性はマウスでの実験においては確認されているものの、ヒトへの実験は不可能のためヒトに対する催奇形性は未確認である。

セベソでのダイオキシン類暴露事故(セベソ事故)後のある限定的範囲の疫学調査では、高汚染地域の14年間の198人の出生のうち奇形児は0人である。
同調査では、事故後はじめの7年間(2,3,7,8-TCDDの半減期にあたる)では、出生数が男児26人に対し女児48人であり、男児の出生低下が確認された。次の7年間では男児60人に対し女児64人であり、既に有差はない。こうした調査は実際に被曝した人的地理的範囲に対し調査対象数が少なく調査地域の選定も不明な点が多く、注意が必要である。

セベソでは事故翌年4-6月の妊婦の流産率は34%となった。また、周辺地域では癌発生率の増加、家畜の大量死、腫瘍、奇形出産などが報告されている。

PCB及びPCB加熱から生じたPCDFが混入した台湾油症の事例からは子供の成長遅延、知能低下、運動機能の発達遅延、皮膚の黒皮化などが報告されている。



ダイオキシンの無毒説
一部にダイオキシンが有毒であるという根拠が科学的ではないとする論議がある。この議論の根拠は、ダイオキシン自体の毒性は極めて高いものの、焼却されるごみの総量に比べて生成されるダイオキシン量がはるかに小さいことに基づいている。また、生成されるダイオキシン量が焼却されるごみの総量に比例しないという研究報告にも基づいている。[要出典]セベソでのダイオキシン類暴露事故においては、当日の家畜大量死、翌年の流産率の急増、女子出生への偏りなどが報告されたものの、事故直後では人間の死者と奇形出産が出なかった事から、対人間無毒説の根拠とされる。

また、当初はダイオキシンの高い急性中毒性について議論されていたが、いつの間にか慢性毒性や発がん性に話がすり替わっているというような、研究者の非科学的態度もダイオキシンが有毒であるという論への懐疑的要因である。

実際にダイオキシンが毒殺目的で人間に大量に与えられた事例があり、有名なところでは大統領候補だったヴィクトル・ユシチェンコの毒殺未遂事件がある。しかし、皮膚に湿疹などの異常がでたが、ダイオキシンの高い急性中毒性については毒殺事件という形での人体実験によって否定される結果になっている。



2,4-Dは除草剤として今でも重宝されているものなので、問題は2,4,5-Tにあったということになる。
アメリカでも日本でも現在は認可されていない。つまり製造していないのだ。
ダイオキシン類が作用する分子生物学的標的は内分泌攪乱化学物質と類似のものであり、動物実験で催奇性が確認されている。ヒトに対する影響は不明とする否定意見があるが、これは人間に対しては動物のように実験を行うことが出来ないために不明となっているためである。








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# by yumimi61 | 2017-06-22 17:28
2017年 06月 21日
Syrup! Shut up!
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簡潔が知恵の精髄・・・下手の長談義?

"Hamlet" by William Shakespeare

This business is well ended.
My liege, and madam, to expostulate
What majesty should be, what duty is,
Why day is day, night night, and time is time,
Were nothing but to waste night, day and time.
Therefore, since brevity is the soul of wit,
And tediousness the limbs and outward flourishes,
I will be brief: your noble son is mad:
Mad call I it; for, to define true madness,
What is't but to be nothing else but mad?
But let that go.


『ハムレット』(Hamlet)は、シェイクスピア作の悲劇。5幕から成り、1600年から1602年頃に書かれたと推定される。正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)。4000行を超え、シェイクスピアの戯曲の中で最も長い。


”to be,or not to be.That is the question."

青酸カリカリ梅も浸けています。

Ume~! Yummy!







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# by yumimi61 | 2017-06-21 23:59
2017年 06月 20日
日本国憲法の秘密-502-
前記事にリンクした日本リザルツのブログに、WHOに勤務していた古知新先生は「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります、と書いてありましたね。

ではDOTSとは何か?
DOTS(直視監視下短期化学療法)とは、結核患者を見つけて治すために利用されているプライマリー保健サービスの包括的計画の名称で、WHOが打ち出した結核対策戦略である。
五つの主な要素は、
1)政府が結核を重要課題と認識し適切なリーダーシップをとること
2)菌検査による診断、経過観察の推進
3)結核患者が薬を飲み忘れないよう医療従事者の前で内服すること
4)薬の安定供給
5)菌検査結果の記録サーベイランス
である。米国や多くの途上国で大きな成果をあげている。


主な要素として5つ挙げてあるが、DOTSが直接指しているのは「直視監視下短期化学療法」という日本語からも分かるように、3)のことである。
医療従事者が薬の服用を監視すること、飲んだことを見届けること。入院も隔離もしなくてよい。
え?それだけ?と思いました?
言い換えると、結核というのは指示を守らない人、あるいは守れない人が罹患しやすい疾患と言える。
結核は感染しても発症しにくい感染症である。発症を抑えているのは個々人が持つ免疫である。
乳幼児、若年者、高齢者、不規則な生活をしている、ストレス過多、睡眠不足、アルコールや薬物の大量摂取、ホームレスなど、免疫が働きにくい人達と指示を守らない人(守れない人)というのは微妙に重なってくる。
それとは別に疾患などで免疫機能が落ちている人も同様に罹患しやすい。(エイズ死亡者の1/3は結核が直接的原因とも言われている)

結核患者に薬を服用させるということは治療の段階である。要するに診断が付いているということ。
でも発展途上国などで一番の問題となるのは予防も診断も出来ないということであろう。
その意味においてWHOの結核対策戦略に菌検査とあるが甚だ疑問である。

日本ではかつて乳幼児期にツベルクリン反応検査を行い、陰性者のみにBCGワクチン接種を実施していた。
BCGワクチンによって結核に対する免疫を付けるためである。免疫は接種から15年間くらい有効であるとされる。
2005年からツベルクリン反応検査が省略されて(すでに感染しているかどうかを確認しないで)、BCG直接接種が導入された。
そのため結核感染リスクが明らかに少ない生後6か月未満の乳児に限定されて行っている。
逆を言うと、生後6か月までは感染リスクを高めてはいけない。
感染しているのに BCGを接種するとコッホ現象(再感染)が起きる。コッホ現象が出ても重篤化しないで短期で快方に向かうことがほとんどだが、その時期にすでに感染環境にあったことが問題である(周囲に結核に罹患している大人がいたなど)。
再感染であるコッホ現象は軽いことが多いが、乳幼児が罹患しやすい粟粒結核とそれに随伴する結核性髄膜炎は重篤化しやすい。
日本の大都市圏では東南アジア並みの罹患率である。

ちなみに青年や成人の場合にはツベルクリン反応が陰性であってもBCG接種はするべきではない。効果が認められておらず、副反応が強くなる恐れがあるからである。
結核感染の機会が多い医療従事者に対しては雇入れ時にツベルクリン反応検査を行うことがある。陰性者にBCG接種をすることが目的ではなく、院内感染などが起こった時に感染診断の基準値とするためである。(医療機関が目的を分かっていないことがある)



第二次世界大戦中、スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。
そして直ちに生産が始まった。


DDTは大量生産された初めての合成農薬だった。
ではそれまで何を使用していたかと言うと、除虫菊、石灰硫黄合剤、ニコチン、青酸などである。

ここでニコチンについて。
ニコチン (nicotine) は、アルカロイドの一種の有毒物質である。主にタバコ属(ニコチアナ)の葉に含まれる天然由来の物質である。揮発性がある無色の油状液体。
アロマオイル(精油)のようなものと考えてよいと思う。
ニコチン自体に発癌性はない。(タバコの主たる発がん物質はタールだと考えられている)

1970年代にイギリスのモーズレイ病院の精神医学研究所にて、たばこにおけるハーム・リダクション(有害性低減)が提唱され、先駆者のマイケル・ラッセルは、ニコチンのために喫煙しながらタールによって死んでいると述べたが、2007年にも、英国王立医師会のタバコの助言に関する報告書は、ニコチン自体は危険ではなくタバコの代替品として提供されれば、数百万人の人命を救えることを報告している。ニコチン置換療法でのニコチンの提供では、33000人以上の観察研究やメタアナリシスによって、心血管疾患のリスク上昇がみられていない。

即効性の非常に強い神経毒性を持つとされている。中毒=依存性という認識にあるが・・。

中脳辺縁系のドーパミン神経の興奮を介した依存性の形成メカニズムは他の依存性薬物(コカイン、ヘロイン、アンフェタミンなど)と同じとされる[要出典]が半数致死量の低さと他細胞系への薬理作用の点から[要出典]、麻薬とはされておらず、毒物に指定されている。
末梢においては、中枢神経からの間接的な作用と、末梢の nAChR に作用することで毛細血管を収縮させ血圧を上昇させるが、ヒトにニコチン 1.5 mg/分を5分間静注すると脳血流が増すという報告もあり、縮瞳・悪心・嘔吐・下痢などをひきおこす。
中毒性があり、通常量でも頭痛・不眠・苛立ちを感じるなどの症状、過量投与では嘔吐・振戦・痙攣・死亡を起こす[要出典]。


複数回の摂取によりニコチン依存症を発症させる。WHO世界保健機関は「ニコチンはヘロインやコカインと同程度に高い依存性がある」と発表している。

日本の柳田知司はアカゲザルの実験を元に、「ニコチンは依存性薬物ではあるものの、身体的な依存性は有ったとしても非常に弱いもので精神依存の増強は認められず、その精神依存性は他の依存性薬物と共通する特性が見られるものの主要な依存性薬物と比較して明らかに弱いこと、また精神毒性(例えば、ニコチンの摂取は自動車の運転などの作業に悪影響を及ぼさない)も依存性薬物の中では唯一、これが認められない」と発表している。


家庭菜園や自然農法が趣味な人などは、煙草を水に浸しておけばその液が殺虫剤になるという話を聞いたり試したことがあるのではないだろうか。
ネット社会になった現代では、「無農薬とか自然農法とか言って人を殺すほどの有毒物質を撒くなんてどうかしている」とか「違法である」とかという意見も多く見られるようになったが、私も試したことがある。
私は木酢液(市販のもの;酸性と思われる)に煙草ほか、ハーブや唐辛子、ニンニクやニラなどを浸け込んで使用した。(薄めて使う。薄めないで使えるほど安価に大量に木酢液が手に入らない)
もっとも私は野菜など口に入れる植物に用いたのではなく、バラなど観賞用植物のアブラムシやチュウレンバチ幼虫の駆除や予防に使ってみたのである。
結果を言えば、そんなに驚くほどの効果はない。
そこに居る虫は嫌がって逃げる素振りは見せるが、殺虫剤としての能力は合成農薬のほうが確かである。
私の作ったものは樹木に群がる毛虫などを駆除できるとは到底思えない結果に終わった。
でも農薬よりは匂いが許せたので予防に使っていた時期もあった。
本気で殺虫殺菌したい時には農薬頼みであった。
今は強い植物が生き残っている感じと許容(諦め?)で農薬を必要最小限しか使わない。


こうした自然派(違法派?)ではなく、かつて正式に農薬として使われていたニコチンは硫酸ニコチンと言う。
殺虫剤の一種。特異臭のある微酸性褐色液体。有効成分はニコチン。
不揮発性で、このままでは殺虫効果は望めず、使用に際して炭酸ナトリウム、水酸化ナトリウム、石灰などでアルカリ性にしてニコチンを遊離させる。
殺虫力は強いが、植物には無害、一方で人畜毒性は高く毒物に指定されている。
速効性で殺卵効果もある。野菜、果樹のアブラムシ、グンバイムシ、スリップスなどの防除に用いられた。毒物で取扱いが難しいことなどから、近年余り使われなくなり、2006年に農薬登録が失効、使用禁止となった。


ニコチンを抽出するためにはアルカリ性にする必要がある。
タバコを間違えても食べても胃液は酸性なのでニコチンはなかなか抽出されない。(だからと言って食べていいわけはない)
水道水は中性を基準にしているが、若干どちらかに傾くことはあるようだ。
でも基本的に中性なのでやはりアルカリほど遊離できない。
使い方次第ということですね。農薬としては有用性に問題があったということでしょうか。

ちなみにタバコ最大の悪者となっているタールの大元は石炭である。石油、木材、泥炭、植物からも作り出すこともできる。
木から作る場合は炭焼きをする。この炭焼きによってタールと木酢液が出来る。










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# by yumimi61 | 2017-06-20 15:15
2017年 06月 18日
日本国憲法の秘密-501-
(殺虫剤DDTの)化学物質としての危険性については、1960年代に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」により取り上げられ、認識が広まった。

『沈黙の春』(Silent Spring)
1962年に出版されたレイチェル・カーソンの著書。DDTを始めとする農薬などの化学物質の危険性を、鳥達が鳴かなくなった春という出来事を通し訴えた作品。
発売されて半年で50万部も売れ、特にBook of the Month Club(高名な合衆国最高裁判所判事のウィリアム・O・ダグラスの推薦文が同封された)やニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに選ばれてからよく売れた。
1964年に新潮社から初めて日本語に訳された際の題名は、『生と死の妙薬-自然均衡の破壊者〈科学薬品〉』だった。翻訳は青樹簗一(南原実)。現在は上記のタイトルで文庫版が刊行されている。


(『沈黙の春』の現在の評価)
レイチェル・カーソンのこの著作は、あまり知られていなかったDDTの残留性や生態系への影響を公にし、社会的に大きな影響を与えているが、執筆から40年以上経過した現時点の最新の科学的知見から見ると、その主張の根拠となった1950年代の知見の中には、その後の研究で疑問符が付けられたものも存在する。例えば当時はDDTに発ガン性があるという見解が多かったが、長期間にわたる追跡調査はDDTによる人間に対する発ガン性に関しては未確定であり、国際がん研究機関発がん性評価においてはグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」とされている。またオスのワニが生まれなくなった要因を農薬に求める記述もあったが、ワニの性別は卵の温度で決まるため、その指摘自体が誤りではないかとされている。

また本書がDDTの世界的な禁止運動のきっかけとなった点についても、レイチェル・カーソンなどが実際に主張したことは、農薬利用などマラリア予防以外の目的でのDDTの利用を禁止することにより、マラリア蚊がDDT耐性を持つのを遅らせるべきだという内容だったことには留意をするべきである。実際に、安価な殺虫剤であるDDTの田畑での農薬としての使用は途上国では最近までほとんど減少せず、猛禽類や水棲生物の減少による生態系破壊はそのままで、DDTに耐性を持つ蚊を増やす結果となった。現在では途上国においては蚊帳への使用という限定的な条件でDDTの使用が認められている。 


人間も蚊と同様に耐性を持ったということでよろしいでしょうか?
それともDDT以外の発がん物質が増えて、発がん率は上がっているがDDTと特定することが困難になってきているということでよいでしょうか?

実は以前私も『沈黙の春』(正確を期すれば『沈黙』)についての見解を述べている
これがなかなか素晴らしいので再び紹介しておく。(手前味噌ですみません。しかもかなり長くなります、略すところがあまりないので)

ハルキストたちの沈黙

『沈黙』も『レキシントンの幽霊』に収められている短編である。(初出1991、講談社)
「集団読書テキスト」として全国学校図書館協議会から小冊子の形で販売されている。
ここに書いた『君が見つける物語』の顔なし騒動も、その本に収められていたこの短編『沈黙』の話をしている。
(略)

沈黙しない春

私が「沈黙」で真っ先に思い出すのは、村上春樹ではない。
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』(新潮社)である。
1962年にアメリカで刊行された本の訳書。
原題は『Silent Spring』。
翻訳者は青樹簗一(あおきりょういち)。
初版は『生と死の妙薬』という邦題が付けられていた。

村上春樹はこの著書が念頭にあったのではないだろうか?

「沈黙の春」ではない、「沈黙」である。
春樹は、沈黙しないのである。

自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中とは違うというわけだ。
自分で生み出せ(創作)、物事をよく理解し、口当たりの良い、受け入れやすい他人の意見に踊らされることはないと暗黙に語っている。(暗黙だからこそ沈黙でもある)

『沈黙の春』を無暗に受け入れる連中は好きではない。
しかし村上がもっと気に入らなかったのは、翻訳者の青樹簗一である。
「青樹」を「青木」に投影した。
そして彼を哀れんだ。


村上春樹の嫌いなタイプ

想像ばかりで申し訳ないが、村上春樹はおそらく三島由紀夫や尾崎豊のようなタイプが虫唾が走るほど嫌いなはずだ。
そうした人間を持ち上げる人間も同じように嫌い。
想像と書いたけれど結構確信に近い。

だから村上春樹は殊更に自分は普段は平凡な人間であるということを強調する。
しかし否定しながら心の奥底に憧れを抱く。
あんな人間にはなりたくないが、あんな風にはなってみたかった。
村上春樹のコンプレックスが見え隠れしてしまう。

私も『沈黙』を読んでみたのだが、私が怖いと思ったのは、大沢の青木の評価、つまり村上春樹の青木の描写である。

同様のものを感じたのが、オノ・ヨーコの「出る杭は打つ」発言だった。
「出る杭を打つ」という人はほとんどいないであろう。
少なくとも私は今日まで生きてきた中では聞いたことがない。
「出る杭は打たれる」という慣用句であるからだ。

出る杭は打たれる

1 才能・手腕があって抜きんでている人は、とかく人から憎まれる。
2 さし出たことをする者は、人から非難され、制裁を受ける。

確かに、出る杭が打たれるということは、出る杭を打つ人が存在するということだけれど、大抵は出る杭を打っていることを認識していないか隠している。
だから「出る杭を打つ」とは言う人はまずいないのだ。
しかし彼女は言った。沈黙はしない。
恐るべしオノ・ヨーコ。自覚ありということか。

彼らはいつでも加害者であり被害者である。
その他大勢に埋没することはない特別な存在なのだ。

村上春樹はハルキストを失望させないためにわざと意味の分からない小説を書いているのかもしれないな。

しかしこんな小説を書いている人がなぜ、心理学や河合隼雄を手放しに信頼したり称賛したりしていたのだろう。
あれも全部嘘ということか?
それとも、それこそが「僕」か。



DDTは発がん性があるとされ、また環境ホルモンとして機能することが判明したため、世界各国で全面的に使用が禁止されたが、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国では、DDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、DDT散布によって一旦は激減したマラリア患者が、DDT禁止以降は再び激増した。例えばスリランカでは、1948年から1962年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を31人にまで激減させることに成功していたが、DDT禁止後には、僅か5年足らずで年間250万に逆戻りしている。

また、発展途上国ではDDTに代わって、パラチオンなどのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が使用されている実態もあった(なお、パラチオンは日本を含む主な先進国では使用が禁止されている)。このため2006年よりWHOは、発展途上国においてマラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回ると考えられる場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認めた。WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる。

DDTを禁止した結果、多数のマラリア被害者とDDTよりも危険な農薬による多くの被害が発展途上国で発生し、アメリカ合衆国などではカーソンを非難する声が今も続いている。その一方、既にカーソンが「沈黙の春」内で述べている通り、DDTに対する耐性を獲得したマラリア蚊もDDT散布後数年以内に多数報告されており、DDTの散布だけでは直接の解決策には成り得るものではないといえる。

なお、日本を含む主な先進国では、根絶活動の成果および生活環境の変化によって、DDTの使用を考慮せざるを得ないほどのマラリア蚊の蔓延は既に見られなくなっている。




・すごくよく効く薬だけれど副作用も大きいということがある。しかしながらハイリスクハイリターンにはある種の魅力がある。

・この程度の効き目でこんなに副作用が大きいのでは使い物にはならん、ということもある。有用性に問題あり。

・こんな大勢の人を救えるのだから、1%ほどの人間ががんを発症しても仕方ないでしょうと考える人がいても不思議はない。
100%を網羅することは人間には不可能である。妥協点を探す必要がある。
1%ほどの人間もがんを発症することは避けなければならないとして、大勢の人を救えるものを止めてしまうと、総倒れになる可能性も無きにしも非ず。
1%に合わせた教育を行うと、99%は付いていけないか物足りない。
マイノリティとマジョリティの境界線が妥協点であるとも言えるので、マイノリティをあまりに重視すると社会は均衡を保てない。
(分かりやすい端的な例え話として聞いてもらいたいが、同性愛を禁じればエイズ発症が防げるとする。しかし同性愛を禁じられると困る人が1%ほどいる。その1%の人に寄り添うがために同性愛を解禁すると、エイズで総倒れになる可能性が無きにしも非ずということ)
(安倍政権を支持するのはマイノリティ重視に疲労困憊した人達なのではないだろうか。言い換えると安倍政権は”出る杭は打つタイプ”なのである。独裁のようにすら感じる安倍政権が支持される理由が分からないと言う人もいるが真の独裁タイプは1%側に属していることが多い。安倍政権は1%を打つ側であるので広く支持される)


上記転載文に「WHOが主催するマラリア対策プロジェクトの責任者である古知新(こち・あらた)博士は、DDTの使用推進論者として議論をよんでいる」とある。
名前がとても印象的。ご両親は「温故知新」を意識して名前を付けたのでしょうか?
でも結果的に「温」がないわけだから、古きを訪ねて温めなかったことになるのでは・・・。「(そんなの)古!新しいことを知ろう!」みたいな。

古知新ドクターはWHOにいたという以外の情報がほとんどない。著作本などにプロフィールが掲載されているかと探したが著作本が見つからなかった。
1975年頃に東北大学の公衆衛生学教室に院生として居たらしい。
1989年に結核対策課長としてWHOに赴任したようだ。(秋篠宮紀子様が御研究されていたのも確か結核予防をテーマにした心理学でしたね)

1975年頃、この時代の東北大学の公衆衛生学教室は2代目教授、鈴木継美教授時代(1971~1980)である。
鈴木継美教授は東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から東北大学に赴任した。
私が公衆衛生学を学んだ鈴木庄助教授も東京大学医学部保健学科人類生態学教室の助教授から群馬大学に赴任した。1981年のことで3代目教授だった。
W鈴木ですね!

ともかく古知新ドクターのプロフィール。
東北大学医学部医学科卒業。医学博士。ハーバード公衆衛生大学院修士。UNICEFにおいて専門家として戦時下のミャンマー、アフガニスタン、モザンビーク等で活動。その後WHOに勤務。
結核対策課長時代にDOTS方式(直接監視下短期化学療法)を世界中に広げ、結核制圧に大きく貢献。
WHOの結核、エイズ、マラリア対策本部長を歴任。
ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にもあたる。
現在、ジュネーブにてコンサルタントとして活躍中。
特定非営利活動法人日本リザルツの理事も務める。


このプロフィールは、日本リザルツ公式ブログに掲載されているものなので、自称プロフィールとして信頼性の高い(?)ものではないだろうか。
しかし東北大学で修士を取得したとも博士を取得したとも書いてない・・。

日本リザルツは、貧困問題の解決を目指すアドボカシー(政策提言)型の国際市民グループだそうである。
ブログの最新記事は『古知新博士と関係省庁・国会議員への訪問』と、森友・加計の両学園の忖度・ご意向・コネクション事件が話題の中にあってはなかなか興味深い。

本日は、日本リザルツの理事でもある古知新先生と日本リザルツ白須代表が、国際保健の提言のために、関係省庁・国会議員へ訪問をしました。
古知先生は、WHOのエイズ、結核、マラリア部長を歴任し、ジム・キム世界銀行総裁やマリオ・ラビリヨーネWHO結核部長(ローマ法王に謁見)の先輩にあたり、また、結核の治療システムである「DOTS戦略」を取りまとめた方でもあります。
では、その様子を写真でお届けいたします。
(写真満載)






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# by yumimi61 | 2017-06-18 14:10
2017年 06月 17日
日本国憲法の秘密-500-
前記事で「有効性」と「有用性」の違いについて書いたので、ついでに「相関関係」と「因果関係」の違いについて。

(例)がん検診受診率が高い地域ほどがん罹患率も高い。

この場合、がん検診受診率とがん罹患率には「相関関係」が認められるということになる。
しかし、がん検診を受診したから、がんに罹患したと言いきることは出来ない。(=がん検診受診とがん罹患の因果関係を疑うことは出来ても、1つの相関関係だけで因果関係があるとしてがん検診を悪者にすることは出来ない)
何故か?
元々がん罹患率が高い地域であり、そのことが広報され、がん検診を積極的に促した故に受診率が高くなっているということも考えられる。
罹患率が高い地域ほど受けさせる側も受ける側も検診に熱心になったということ。
検診受診率が高いから罹患率が上がったのではなく、罹患率が高かったから検診受診率も高くなったという全く逆の因果関係がある可能性も捨てきれない。


(例)A製薬のB胃腸薬を常用していた人と、そうでない人を比較したら、常用していた人のがん罹患率が高かった。

B胃腸薬を常用すると、がん罹患率は高くなるという相関関係がある。
しかしこの場合、比較対象が悪い。
胃腸薬を常用している人は元々体調が悪かったと考えられる。
常々体調が悪かった人と悪くなかった人のがん罹患率を比べれば果たしてどうだろうか。
ともかくこの比較と相関からB胃腸薬を常用するとがんに罹患しやすくなるという因果関係を導き出すことは難しい。


(例)選挙の出口調査で得票数の高かった候補ほど実際に当選する確率も高い。(←本来テレビが言えるのはこの程度のことのはず。全て開票していないのに当選確実を出すなんて言語道断)

出口調査の得票数と選挙結果(得票数)には相関関係がある。
では、出口調査の得票数が高いと当選する、こういう因果関係があると言えるだろうか?
あるから「当選確実」と言ってるんだろう?
「確実」とは、間違いや変更がない客観的事実のことである。(「確か」と言えば、主観的事実となる)

統計に「絶対」や「100%」はない。
それは何故かと言うと、人間である私達は「偶然」や「奇跡的」を排除することが出来ないからである。
でもそれを言い出すとキリがない。
例えば、幾ら理路整然にSTAP細胞を否定しても、奇跡を考慮してしまうと、完全否定は出来なくなる。
すると「ほんとだもん、偶然出来たんだもん」「我々は奇跡的に成功した」とか言い出して悪用される。
これは非現実的で社会性を欠き、社会にとってプラスになるとは言えない。
そこで「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」という値(有意水準)を決めておくのだ。
よく用いられる値が5%や1%。
これ以下でしか起こってこないこと(有意差あり)は否定の根拠となり得るという約束(ルール)の上で成り立っている。
もしも5%や1%以上の値が得られたとしても(有意差なし)、それを理由に「偶然」「奇跡」側が因果関係や正当性を主張することは出来ない。
数値的に否定の根拠になり得なかっただけのことで「不確定」「どちらとも言えない」といった状態である。データ(回数)を増やせば値が変わる可能性がある。


出口調査のほとんど全て正解する。「凄い偶然」「奇跡的なこと」である。
そこで「ほとんど正解する出口調査はインチキである」と思ったとする。
そしたら「出口調査は公平公正に行われていて当たり外れは半々である」という反対の仮説を立てる。
そして実際に公平公正に出口調査を行って選挙結果と照らし合わせるという検証を幾度も行う。
有意水準を5%としよう。
出口調査がほとんど正解していたとか、ほとんど外れていたとか、そうした極端な結果が5%以下ならば「そんな低い確率でしか起きないことは、起きないと言ってもいいよね」と言えるわけである。つまりテレビで行っている出口調査はインチキだと主張する十分な根拠になり得る。
ほとんど正解やほとんど外れが5%以上となれば、「結構そういう偶然ってあるものなんだね」ということになり、「ほとんど正解する出口調査はインチキである」とは言えなくなる。
しかしながら、この結果によって「出口調査が公平公正に行われている」とも言えない。






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# by yumimi61 | 2017-06-17 23:59
2017年 06月 16日
日本国憲法の秘密-499-
MITに依頼して『成長の限界』を書かせたローマクラブ。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていたとされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


設立者であるアレクサンダー・キング。

1909年、イギリスのグラスゴーで生まれる。
イギリスのロイヤル・カレッジ・サイエンス*とドイツのルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン**で化学を学び、インペリアル・カレッジ・ロンドン***で研究に従事していた。

*ロイヤル・カレッジ・サイエンスは1907年からインペリアル・カレッジ・ロンドンの構成大学であり、2002年にはインペリアルに全面的に吸収されている。

**ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンはドイツの州立大学。こちらに書いたようにカトリック・イエズス系の大学で、イルミナティの創設地でもある。

***インペリアル・カレッジ・ロンドンは、イギリスの公立研究大学である。1907年に設置された理系の大学である。元々はロンドン大学のカレッジの1つであったが、2007年にロンドン大学から独立した。


アレクサンダー・キングは、第二次世界大戦中、ヘンリー・ティザードに招かれて生産省の副科学顧問に就任した。
戦時中に創設された省であり、当初は「戦争生産省」という名称であったが、すぐに戦争という単語は外されて「生産省」となった。
各行政機関の連絡調整や橋渡し役を担う戦時中の重要な行政機関であった。

ヘンリー・ティザードを覚えているだろうか?原爆開発に関する記事に登場したイギリスの化学者である。

1939年6月、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。

※オットー・フリッシュ(オーストリア)は原子爆弾開発の母ともいえるマイトナーの甥である。
アインシュタインと対立したデンマークのニールス・ボーアの研究所で働いていたが、イギリスにバカンス(バカンスと言う名の?)に出掛けて、イギリスにいたルドルフ・パイエルス(ドイツ)と一緒に研究をし、ブレイクスルー的に「ウランによる原子爆弾の製造が可能である」ことが分かった。
ウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファント***に報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザード****にその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。 

***マーク・オリファント(オーストラリアの物理学者)
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと願い、1927年にイギリスのラザフォードのいる研究所に入った。
オリファントはヘリウム3と三重水素を発見し、1934年にパウル・ハルテックとともに水素の核融合を発見した。

****ヘンリー・ティザード(イギリスの化学学者)
ガソリンのエンジン内での自己発火(ノッキング)の起こりにくさを示す数値・オクタン価を開発した。
レーダーの開発にも貢献し、UFOを真面目に研究したりもした。


しかしながら、イギリスはこの時もまだ、原子爆弾には大して興味を持っていなかった。
原爆は不可能であると正しく結論づけていたのである。

ヘンリー・ティザードはかつてこう言った。
「科学の極意(秘密)は、天才をマークするより何より、正しい質問をすることと、問題の選択にある」

第一次世界大戦でティザードが選択した問題は航空だった。
イギリスの陸軍航空隊で飛行機を飛ばすことを学び、実験装置の責任者となり、流線を観測するためにテストパイロットをも務めた。大戦末期には空軍で働いた。
第一次世界大戦後はオックスフォード大学で化学熱力学におけるリーダーとなり、オクタン価を発見した。
その後、彼は科学産業研究部門の政府ポストにも付く。
イギリス空軍への科学研究ディレクターとしてアドバイスし、マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受けた当時はイギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。

1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、そのウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。
ティザードは情報提供を無下にするようなことはしなかったが、彼自身は原爆を問題にしていなかった。



ヘンリー・ティザードがアレクサンダー・キングを招いたのは失敗だったのではないだろうか。
アレクサンダー・キングは1943年にアメリカに渡り、ワシントンのイギリス大使館で科学担当大使となった。
マンハッタン計画を見届けたイギリス政府の代表者と言えよう。

1940年、イギリスの党首の年頭所感(http://www.masuseki.com/index.php?u=interest/history/070903_morrison.htm

1939年、英国はナチス・ドイツに対して宣戦布告を行った。 以下は1940年のタイムズ紙に掲載された保守党・労働党各党首の年頭所感である。



保守党党首ウィンストン・チャーチルは言った。

「この戦いにはキリスト教文明圏の命運が懸かっている!
この戦いには長い時間をかけて築きあげた我が大英帝国の命運が懸かっている!
やつらの恐怖と暴力はすぐにも我々に向かってくるだろう。
なぜなら、ヒットラーは知っているからだ!我々を滅ぼすか、自分が敗れるか、結末はどちらかしかない事を!

我々がヒットラーに屈しなければ、全ヨーロッパは解放され、地球上のあらゆる生命は日の当たる丘への道を進んでいくだろう!
だがしかし!仮に我々が負けることがあれば、全世界が!諸君らの愛してくれた大英帝国も、我らが連邦も、アメリカ合衆国も、すべてが狂った科学の業火に炙られる地獄へと沈み長い暗黒時代が始まるだろう!
国民よ耐えよ!己の責務を支えとし、耐えよ国民!
この戦いを乗り切れば、千年後の我々の子孫は言うだろう。
『あの時が大英帝国と連邦がもっとも素晴らしかった時代だ』
と!」

一方、労働党党首ハーバート・モリスンは次のように言った。

「 や ろ う か (Go to it.)」



この記事が間違っているのか、タイムズ紙が間違えているのか、それとも一時的に変更があったのか分からないが、ハーバート・モリソンは党首ではなかったはずである。労働党のナンバー2であった。
1935年から1955年まで労働党党首だったのはクレメント・アトリーである。

アレクサンダー・キングは戦後にイギリスの科学政策諮問委​​員会の会長となり、ハーバート・モリソンの私的顧問となった。
チャーチル首相は第二次世界大戦中(終盤)7月に行われた総選挙で保守党が敗北(なんと181議席も失った)したことから辞職した。
そして労働党クレメント・アトリーが首相に就任。
ハーバート・モリソンはこのアトリー労働党政権で副首相や枢密院議長、院内総務を兼任した。

イギリスだってアメリカと同じ戦勝国であるが、アメリカが提案したマーシャル・プランを受け入れ、植民地であったインド・パキスタン・セイロン・ビルマの独立を承認し、パレスチナの統治を国連に委ねるなど、イギリスは国際的な主導権を失うことになる。
その代わり、労働党らしく(?)、「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度を確立した。
国営医療事業国民保健サービス(NHS)が設立されたのもこの政権の時である。


アレクサンダー・キングは1951年に科学産業研究省に移り、イギリスの大学に物理はむろんのこと、経済学や行動科学の研究を推進した。
行動科学とは、人間の行動を科学的に分析し、その法則性を解明しようとする学問で、心理学、社会学、精神医学などが含まれる。
様々な状況での人間の行動を体系化して、目標管理などに応用しようというもの。
行動条件を操作すれば、個人あるいは集団をコントロールすることも可能である。

1957年には、欧州経済協力機構(OEEC)の一部門である欧州生産性本部のディレクターとなる。
1961年、OEECにアメリカとカナダが加わり、OECD(経済協力開発機構)となる。その事務総長にも就任した。(本部はフランス・パリ。日本は1964年に加盟)



Henry Tizard invited King to join the Ministry of Production as Deputy Scientific Adviser. While there he would learn from an intercepted letter the properties of the insecticide dichloro-diphenyl-trichloroethane, coining the acronym DDT.

DDTは殺虫剤である。
1873年にオーストリアの化学者オトマール・ツァイドラー(ドイツ語版)によって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月から10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。

日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

日本では、1945年10月に京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。戦後アメリカから日本に輸出されたものは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの援助として特別に許されたものであった

2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。

DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており、分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。



スイスのガイギー社からイギリス・マンチェスターの子会社に宛てられた手紙が、リバプールの検閲で没収されて、アレクサンダー・キングの手に渡った。
この手紙には新しい殺虫剤の特許についての詳細が書かれていた。
当時は昆虫など有害生物には有害な一方で人間には有毒ではないという評価であった。
アレクサンダー・キングは殺虫剤としての有用性を認識し化学合成した。そしてdichloro-diphenyl-trichloroethaneの頭文字を取って「DDT」と名付けた。DDTの名付け親。

ちなみに「有効性」と「有用性」は違う。
何かに対して特定の効果がある、因果関係が認められれば有効であると言える。
一方の有用性は「使える!」(広く役立つ、利便性がある)ということである。
実験や研究で有効性が認められたとしても、それが使い物になるかどうかは別問題。
費用対効果ほか、様々な理由で現実的ではないものが多々ある。
また有用の場合は、特定の因果関係がなくても別に構わないし、本来の目的とは違うが使えるということもある。

ヘンリー・ティザードもアレクサンダー・キングも元々は化学者だったのだ。
こうした分野のほうが専門だったわけである。
DDTは直ちに生産が始まり、昆虫が媒介するマラリアなどの感染症から兵士を保護するために使用された。








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# by yumimi61 | 2017-06-16 17:33
2017年 06月 15日
日本国憲法の秘密-498-
ローマクラブはMIT(Massachusetts Institute of Technology;マサチューセッツ工科大学)に委託して『成長の限界』を書かせた。

マサチューセッツ州の首都がボストンである。

前にも書いたかもしれないけれど、私の大学時代の友人の恋人がアメリカに留学していた。
彼女は恋人に会ってばかりいて(?)一年留年した、私より入学年が1年早い先輩であった。
講義の始まる時間ぎりぎりか少し遅れてやってきて、いつも一番前の席に座った。
ファッションも持ち物も佇まいも小奇麗でどこか大人びていて、それが少しも不自然ではなかった。
簡単に人を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。私は後ろのほうの席から嫌でも目に入る彼女を見ていた。
きっかけは忘れたけれど私達はじきに意気投合し、その後研究や実習のグループも一緒になり、濃密な時間を過ごすようになる。
彼女はお勧めの洋楽を録音したカセットテープを私にくれたりした。久保田利伸のファーストアルバム『SHAKE IT PARADISE』も「これすごくいいよ」と彼女が私にくれたものの1つである。名曲『Missing』が収録されているアルバム。
私にはその頃ボストンに留学している友人がいた。
そんなこともあって彼女から夏休みに一緒にアメリカに行こうと誘われた。「向こうで航空券取ってもらえば安く行けるから」と。
結局私達は一緒にアメリカには行かなかったけれども。
彼女は卒業後に医師と結婚し、NIH(アメリカ国立衛生研究所)に研究留学した夫とともにアメリカで暮らすことにもなる。

マサチューセッツやボストンと聞くと、今でもあの頃に引き戻される。青春、そんな時代があるとするならば、その青春時代に。
~今しか出来ない青春を~送ったとしてもね、あの時にあんなことしていなければなぁと思ったりすることもある。それが大人になるということなのよ。
それに、したいことがあっても青春には出来ないことも多いのが現実ね。
でもまあ、若いってことは、やっぱり素晴らしいことよ。あなた達が思う以上に。
青春を輝かせているのは老い、そのことは忘れないでね。


人間の成長には限界がある。
思春期、あるいは20歳前後を境に成長は止まり、下り坂となっていく。
私は「成長の限界」を考える時、いつもあるSF小説を思い出す。
『地球の長い午後』(原題 Hothouse(温室) アメリカでは The Long Afternoon of Earth)。
イギリスの小説家ブライアン・W・オールディスが1962年に出版したものである。
ローマクラブが『成長の限界』を発表したよりも早いが、ロジャー・レベルが海の二酸化炭素吸収スピードが考えていたより遅いので排出が上回れば温暖化を招く恐れがあると発表したよりは遅い。

はるか未来、寿命が尽きかけ膨張した太陽のもと、地球の自転は停止し地上には永遠の昼と夜が現れた。熱帯と化した昼の世界では、巨大に進化した樹木が大陸を覆い尽くし、活動する食肉植物が絶滅した動物にかわって地上を跋扈していた。そんななか、文明を失った人類は弱肉強食の世界で細々と生きていた。仲間を追われた少年グレンの旅の行方は……。

ブライアン・W・オールディスは第二次世界大戦中、陸軍に召集されて東南アジアで任務にあたったという。
そこは温室で、巨大に進化した樹木が鬱蒼としており、見たこともないような生き物がいて、まるで別世界のように感じたのではないだろうか。
私は目を閉じて留まることを知らない木々を想像してみた。

むかーし、次男がサボテンだか観葉植物を欲しがったことがあって、サボテンとエアプランツを買ってあげたことがあった。
最初はせっせと面倒を見ていたが、そのうちに忘れてしまったのだろう。
ある日私は次男の部屋で、ひょろっと、くねっと、伸びたサボテンを見つけた。
鉢は小さくむろん巨大というわけではない。でもその形が恐竜のようだった。
恐竜ってサボテンだったのではないのかと唐突に思いつき、太古の世界にサボテン恐竜を置いてみた。

『成長の限界』(1972年)では、(今後、技術革新が全くないと仮定すると。=日本語では削除)現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇(あと20年で石油が枯渇する)や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている。

畏まって「成長の限界」やら「資源の枯渇」などと言うと何だかとても大変なことのような感じがするけれど、よく考えれば、普通に考えれば、限界があるということはごくごく当たりまえのことである。
月に届くほど背が伸びたら困るのだ。
それにどんなに技術が進歩しても人間はまだ死から逃れられない。
地球が宇宙の1つの構成要素だとするならば、地球にも限界や死があって然るべき。
1個人という小さな単位で物事を見れば、限界や死は理不尽で残酷で納得のいかないことばかり。
でも単位を大きくすると、限界や終わりがあるからこそ、始まりがあり持続可能なのだ。
限界や終わりを必要以上に避ければ資源も枯渇する。資源は「終わり」が作ったものなのだから。
そう考えていくと、宇宙の観点から見ると、地球は決して無限などではないはずだ。
生まれては消えていく。消えてはまた生まれる。

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# by yumimi61 | 2017-06-15 12:58
2017年 06月 13日
日本国憲法の秘密-497-
1970年代に始まった国連の国際環境会議はモーリス・ストロングとともにあった。

1972年 国連人間環境会議を組織、同事務局長
「国際連合人間環境会議」とはスウェーデンで開催された、世界最初の大規模な環境問題会議。(ストックホルム会議)
この会議にて「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。

1973年 国連環境計画の初代事務局長
上記会議で制定された宣言や行動計画を実行するための機関として設立されたのが「国連環境計画」。
本部はケニアの首都ナイロビに置かれた。


何故1972年に始まったのか。それには理由がある。
ローマクラブが『成長の限界』を発表した年が1972年だった。。
第一報告書『成長の限界』(1972年)では、(今後、技術革新が全くないと仮定すると。=日本語では削除)現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇(あと20年で石油が枯渇する)や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らしており、破局を回避するためには地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると論じている。

言い換えると、バラバラな世界ではなく、1つ世界ワンワールドによって世界(地球)はコントロールする必要があるということである。

ローマクラブ
イタリア・オリベッティ社の会長であったアウレリオ・ペッチェイ(Aurelio Peccei)]とイギリスの科学者で政策アドバイザーでもあったアレクサンダー・キングが、資源・人口・軍備拡張・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立した。
世界各国の科学者・経済人・教育者・各種分野の学識経験者など100人からなり、1968年4月に立ち上げのための会合をローマで開いたことからこの名称になった。1970年3月に正式発足。
1979年にFEMAを設立。
*
「環境保護主義者」を動かしているのはローマクラブの代表機関であるアスペン研究所であり、彼らがアトランティック・リッチフィールドやその他の大手石油会社から莫大な資金援助を受けていた
とされるが、現共同会長のE.U.v.ヴァイツゼッカーの自伝(2014年Springer)によると、2012年10月に共同会長を受諾した時点では同クラブは破たん直前であったとしている。
本部は2008年にドイツのハンブルクからスイスのヴィンタートゥールへ移転した。


*FEMA(Federal Emergency Management Agency;アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)
大災害に対応するアメリカ合衆国政府の政府機関である。天災にも人災にも対応する。アメリカ合衆国国土安全保障省の一部であり、緊急準備・即応担当次官 (Under Secretary of Emergency Preparedness and Response) の下に置かれている。
連邦政府の災害対応部局拡大の一環として1979年4月1日にジミー・カーター大統領によってFEMAが設置された。(カーター元大統領は2002年のノーベル平和賞受賞者)

ローマクラブという名称は立ち上げのための会合をローマで開いたことからだそうだが、ローマカトリックのローマではないのかしら?

著名な会員
・ミハイル・ゴルバチョフ - 元ソビエト連邦共産党書記長。
・ワンガリ・マータイ - グリーン・ベルト運動の創設者、ノーベル平和賞受賞者。
・エメカ・アニャオク(Emeka Anyaoku) - 前WWF総裁、元イギリス連邦事務局長(Commonwealth Secretary-General)。
・ヘイゼル・ヘンダーソン - 未来学者、進化経済学者。

現在の日本人会員
・猪口邦子 - 元上智大学教授。政治学者。
・小宮山宏 - 元東京大学総長、三菱総合研究所理事長。
・西村六善 - 前地球問題担当大使。内閣官房参与。

日本人の名誉会員
・緒方貞子 - 国際協力機構(JICA)理事長。 
・池田大作 - 創価学会名誉会長。
・松浦晃一郎 - 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)第8代事務局長。

日本人の準会員
・榊原康寛 - ゼリ財団(ZERI)**パン・パシフィック代表理事。


**ZERI;Zero Emissions Research and Initiatives
1997年に日本政府と国連大学(UNU)の支援を受けて東京に設立された。
財界人、科学者、学者、知識人などのネットワーク。
設立者はベルギー生まれで起業家であり作家であるグンター・パウリ(Gunter Pauli)。
ル・ポイント、ハフィントン・ポスト、タスマニアン・タイムズは、彼を「持続可能なスティーブ・ジョブズ」と銘打つ。


アスペン研究所は、元々はアスペン人文科学研究所であった。
1949年、「ゲーテ生誕200年祭」がコロラド州アスペンで開催され、哲学者、芸術家、文学者等が招かれ対話が繰り広げられた。
日常の煩雑さから解放され、コロラドのような場所でゆっくりと語り合い、思索するための時間が人間には必要である。こうして翌1950年にアスペン人文科学研究所として設立された。最初は小さな哲学系の研究所であり、経営幹部などを対象として教育セミナーを行っていた。
この研究所が大きく変わったのは1969年のことである。
ジョセフ・E・スレーターとロバート・O・アンダーソンがこの研究所の会長に就任し、その範囲と規模を拡大し、国際問題の世界指導者、学者、科学者のための有名な会議場とになった。
国連とも緊密に協力しあい、モーリス・ストロングとも提携している。
アスペン研究所は世界中に拡張されてきたが、日本アスペン研究所は1998年に創立された。
初代理事長は、ソニー・盛田昭夫と入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったカトリック教徒の小林陽太郎である。


ジョセフ・E・スレーター(Joseph E. Slater)
1922年アメリカ・ユタ州のソルトレイクシティに生まれる。
カリフォルニア大学バークレー校を卒業。そのままそこで1942~1943年経済学の講義を担当した。
真珠湾攻撃後に海軍に入隊する。
戦後1949年~1953年にかけて西ドイツのボンの高等弁務官事務所に勤務した。
1959年にはアメリカ・アイゼンハワー大統領の対外援助委員会(ドレーバー委員会)の書記官となる。
ジョン・F・ケネディ大統領には教育・文化事業省次官補に任命される。
1967年~1972年まではソーク研究所(Salk Institute for Biological Studies;1963年にカリフォルニア州サンディエゴ郊外に創立された生物医学系の研究所)の所長を務めた。
ニューヨークの国際関係評議会やロンドンの戦略研究所のメンバーでもあった。


ロバート・O・アンダーソン(Robert Orville Anderson)
1917年、アメリカ・シカゴ州で生まれる。シカゴ大学卒。
両親はスウェーデンからの移民。父親は著名な銀行家であり、「石油」に投資した最初の銀行家であったとも言われている。
そんなわけで石油会社を渡り歩くことは苦労なく出来た。
そして1950年までに幾つかの製油所を所有した。
1963年にフィラデルフィアのAtlantic Refining Companyを合併し、1966年にAtlanticの会長兼CEOとなる。さらにRichfield Oil of Los Angelesを合併し、Atlantic Richfield Companyを設立し(後にARCOと改称)、アメリカ最大の油田を発見した。
ロックフェラーのスタンダード石油トラストの一社に数えられていたが、2000年にイギリス・ロスチャイルド系のBPに買収された。



ジョセフ・E・スレーターはドイツ勤務の後はフォード財団に入り、1960年代には定期的に日本に訪れていた。
フォード財団はロックフェラーや松本重治らが1952年に設立した国際文化会館にも早い段階から助成を行ってきた。
フォード財団のことも前に書いたことがある。

オバマ大統領の母親(アン)と財団に関する記事である。

過去記事「警告4」より>
インドネシアとフォード財団
1949年、インドネシアはオランダから独立した。
脆弱な経済基盤を整えるべく、また途上国がアメリカの意図しない方向へ行かないよう、指導したのはアメリカだった。
インドネシアとアメリカは経済学における大学間協定を結んだ。

これを実質的に牽引したのは民間財団であった。

フォード財団はインドネシアの国家建設助成を目的とする一連のプロジェクトの一環として、インドネシア大学とカリフォルニア大学バークレー校の協定を結んだ。(1956-1960年)
有能な若者に目星を付けて奨学金を出し、アメリカのカリフォルニア大学のバークレー校に入学させた。
そこで「アメリカ式」を教え込み、彼ら留学生は帰国後、政治や経済の中枢部となった。。
そのためフォード財団の奨学金を得てカリフォルニア大学バークレー校に行った留学生は、「バークレーマフィア」と呼ばれるようになる。

協定期間が終了した1960年以降もフォード財団による援助は続いた。
教育分野では上記留学、アメリカの大学スタッフの派遣、インドネシア大学での経済学コース設置など。
通商政策や農業開発などにもプロフェッショナルが派遣された。
ハーバード国際開発研究所からの財政支援協力もあった。

1965年のインドネシアの軍事クーデターはスハルト軍部とアメリカのCIAが接近して起こしたのではないかと言われている。
スハルト軍部というのは、アメリカフォード財団によって養成されたインドネシア人が主力であったと思われる。
スカルノ大統領が共産主義を支持基盤としていたため、共産主義の撲滅に動いたというのだ。
スハルトは共産主義者を大虐殺してアメリカに応えた。

1960年代半ば、アンの再婚相手ロロ・ソエトロは、何故アメリカ本土や日本ではなくハワイに留学していたのだろうか。
(日本も1960年からインドネシアの留学生を多数受け入れていたことはこちらに書いた。)


1977-1994年 アンはフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに在住。


オバマ母はフォード財団の一員
1977年~死の前年の1994年まで彼女はフォード財団プロジェクトの研究員としてインドネシアに駐在した。

1988~1992年にはインドネシアのマイクロファイナンス事業の立ち上げに深く関与した。
マイクロファイナンスとは貧困者相手の金融。
貧しい家庭の主として女性に小口のお金を融資する事業。

借りる側にとって確かに高利貸よりは良いだろう。
それによって生活や環境が改善するなら悪いことばかりではない。
そこに上手く付け込んだ事業である。
膨大な資金力をバックとした(だからこそ可能な)金儲けであることには変わりない。


でもこんな金儲けのためだけに送り込まれたわけではないだろう。
おそらく諜報員だったのであろう。彼女の父親も諜報員だったらしい。
ハワイ大学はCIAの活動拠点の1つであった。
インドネシアは世界最大のイスラム教徒を抱える国である。

過去記事「警告5」より>
ガイトナー財務長官の父もフォード財団の一員だった
ティモシー・フランツ・ガイトナー財務長官の父ピーター・フランツ・ガイトナーは、フォード財団の主任研究員であった。
そのため、ガイトナー財務長官も少年期をアフリカ、インド、タイなどの発展途上国で暮らすこととなる。

====ガイトナー財務長官の経歴=====
1988年に財務省に入省。13年間勤務。
2001年〜2003年、IMFの局長。
2003年〜2009年、ニューヨーク連邦準備銀行総裁。←この時にリーマン破綻やらAIG救済やらあった。
オバマ政権で財務長官となった。(親がともにフォード財団の研究員)




1969年にアスペン研究所が刷新された。
1972年にローマクラブが『成長の限界』を発表し、モーリス・ストロングは国連人間環境会議(ストックホルム会議)を組織し事務局長となった。
その翌年には国連環境計画の初代事務局長にもなるが、その年に早くも『明日の地球世代のために―「成長の限界」をめぐる世界知識人 71人の証言』という本が出版されている。

その71人にジョセフ・E・スレーターも含まれている。

Q.国連は、何百万膳、何千万語という報告書や文書を積み上げています。あなたは、アスペン研究所や口ーマ・クラブないしMITが、この紙のバベルの塔に屋上展を架さないためには何ができるとお考えですか。

A.さきほども申しあげましたように、われわれの若干の省が数年かかって、ある制度の創設のため努力をいたしましたが、それは今でも存在しています。International Federation of Institutes for Advanced Study (IFIAS) がそれです。われわれは、およそ24の、程度の高い研究所を世界から結集しました。
例えば、パスツール研究所、ニールス・ボーア物理学研究所、ウッズ・ホール海洋学研究所、大気研究大学コーポレーシヨン、アスペン研究所、日本経済研究センターなどが結集して、この連盟を創りましたが、この主な機能は三つあります。
第一は、国際的、学際的諸問題の共同研究を行なうことです。
第二は、教授および博士号取得ずみの学生の交換です。
第三は、毎年、五年先までの計画をたて、そうすることによって、種々の研究所の計画が調和のとれたものとなり、やがては、事実上の単一の大学あるいは研究所 (そのためのキャンパスがないのはむろんですが) ができあがるようにすることです。
こうした作業が機能し始めれば、IFIASは高い質の研究を提供できるでしょうし、国連の扱う諸問題に機能的に関係を結ぶことができるようになります。
モーリス・ストロングのような国連にいる強力なリーダーたちと、協力することができるようになるのです。ストロングは、国際的、学術的な仕事を開拓しようとしている質の高い (特に、既成であって質の高い) 諸制度の間の橋渡しをしようとしている人です。われわれは、国連の機構の肥大を回避し、多くの官僚主義的硬直性を回避することができます。IFIASは、1972年10月に第1回総会を開きましたが、そのメンバーたちは、これまでに申し上げたプログラムに賛意を表明しました。


異論を生まない世界を構築しようとしていることが分かる証言である。
質問にMITの名が出てくるが、『成長の限界』はローマ・クラブが直接研究執筆したものではなく、MITに委託したのである。MITのデニス・ メドウズ(当時は助教授)を中心とする若手研究者グループが担当した。

実はスティーブ・ジョブズの伝記『スティーブ・ジョブズ』の著者ウォルター・アイザックソン(Walter Isaacson)もアスペン研究所の会長であった。
アル・ゴアがアップルの取締役に就任した年に就任した。
翌年にビルダーバーグ会議にも出席している。(あっ私と同じだわ?)

ウォルター・アイザックソン
ハーバード大学を卒業後、オックスフォード大学の大学院に進学。その後、ロンドンの「サンデー・タイムス」でジャーナリストの経歴をスタートさせ、1977年より雑誌「タイム」の編集に従事。’95年同誌編集長。
2001〜2003年CNNのCEO(最高経営責任者)。2003年よりワシントンD.C.に拠点を置くアスペン研究所の理事長兼CEO。CNNの委員長兼CEOも務める。
また、オバマ米国大統領から要請を受け、ボイス・オブ・アメリカ、自由欧州放送、および他の国際放送を管轄する米政府放送管理局の委員長に就任。
伝記作家としても活躍し、アップル共同創業者であるスティーブ・ジョブズ唯一の公認伝記「スティーブ・ジョブズ」や、「キッシンジャー―世界をデザインした男」「アインシュタイン―その生涯と宇宙」などを手掛ける。


ところで、今更ながらだけどジョブズの伝記。
生前から企画してジョブズが例え死ななくても2011年11月21日に発売予定だったとか、「唯一の公認伝記」だとか「公式伝記」だとか、強調しすぎて逆に怪しくなってますね。








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# by yumimi61 | 2017-06-13 18:11
2017年 06月 12日
日本国憲法の秘密-496-
モーリス・ストロングのしてきたエネルギー事業は「地球に優しい」とは正反対のもので、生態系を破壊したとか環境汚染を引き起こしたとかで、訴訟を起こされたことも一度ではない。

彼が1989年に設立した環境テクノロジー企業は、有害廃棄物を再使用可能な製品にリサイクルするために使用できる革新的な技術を持っていると主張して、アメリカのエネルギー省から研究助成金を得ることに成功した。
さらに技術能力を著しく誇張して人工的に株価を上げた。大株主はモーリス・ストロング所有の別の会社だった。
こうした不正も発覚している。

国連絡みのスキャンダルもあった。
それは前記事に引用した過去記事に書いてあるストロングと親しかった韓国人が2006年に逮捕された事件である。

またモーリス・ストロングは国連の平和大学に関連してコスタリカのラジオ局もつぶした。

平和大学
1980年に国際連合総会決議に基づき設立された研究機関。人類すべての間に「理解、寛容、平和共存」の精神を広める目的で、平和に関する高等教育を行う国際機関をつくり人道支援を供与するために設立された。本部キャンパスは、コスタリカの首都サンホセの西20kmのシウダード・コロンにある。コスタリカ政府が用意した面積3平方kmほどの敷地は平和公園および森林公園に囲まれている。コスタリカは軍隊がないという実績があり、コスタリカ政府の働きかけもあって本部はコスタリカに置かれる事になった。なお、同じく軍隊を持たない日本には国際連合大学がある。


University for Peace
The University for Peace was established in 1980 by the General Assembly of the United Nations. Maurice Strong became director in 1999 where he was at the center of further controversy, particularly in reference to the eviction of the beloved radio station Radio for Peace International (RFPI), the fleeing of the Earth Council in 2003, and the implementation of military training programs on campus. Strong was a board member of the Earth Council, which was created as an international body to promote the environmental policies established at Earth Summit in 1992. The Costa Rican government donated more than 20 acres of land to be used by Earth Council, but when plans for building fell through, it was allegedly sold for $1.65 million. Earth Council temporarily moved to the UPEACE campus until December 2003 when it moved to Canada in the midst of government accusations and demands for $1.65 million. RFPI was served with an eviction notice in July 2002 based on claims the station was operating without proper permits, which RFPI refuted. Those close to the situation claim that UPEACE officials didn’t approve of the criticism they were receiving from the station and took matters into their own hands, when power to the building was cut and a wire fence put up around the perimeter.

Radio for Peace International  About RFPIより
While the founders of RFPI tried to establish other sister stations none ever materialized, largely due to financial issues. In 2003 after a decade and a half of broadcasting and weakened by internal strife the station was forced off the air and out of the buildings that had been built by the staff and supporters by a hostile actions initiated by Maurice Strong, then President of Council of the University for Peace. From 2003 to 2008 the station was kept alive by volunteer supporters while broadcasting over the Internet exclusively, but such broadcasts never gained the support and listener ship that it had achieved in the mid-nineties.


『不都合な真実』公開より前の2004年、アル・ゴアはゴールドマン・サックス系の経営者である人物と組んで、ロンドンに投資会社(ジェネレーション・インベストメント・マネイジメント)を設立している。
この会社は二酸化炭素原を金融商品にした、いわゆる「排出権ビジネス」への投資である。

排出権ビジネスは排出取引がベースにある。
排出取引(英語:Carbon emission trading)とは、各国家や各企業ごとに温室効果ガスの排出枠(キャップ)を定め、排出枠が余った国や企業と、排出枠を超えて排出してしまった国や企業との間で取引(トレード)する制度である。排出権取引、排出量取引ともいう。京都議定書の第17条に規定されており、温室効果ガスの削減を補完する京都メカニズム(柔軟性措置)の1つ。

1990年代前半から、アメリカ合衆国で硫黄酸化物の排出証取引が行われた(国内排出証取引制度)。
アメリカはこうした経験を踏まえ、京都議定書の策定交渉時においても排出取引制度の導入を強く求めた経緯がある。同国はその後に京都議定書から離脱したが、排出取引制度は京都メカニズムとして組み入れられた。これは排出枠の対象を温室効果ガスに変え、対象を国単位に変えたものである。


もっとも簡単に言えば、お金を出せば二酸化炭素を排出してもよいということ。
二酸化炭素削減目標を達成できなかった企業や国(二酸化炭素プラスチーム)はお金を支払う。
目標を達成した企業や国(二酸化炭素マイナスチーム)はお金を支払う必要はない。
プラスとマイナスで帳尻合わせてOKって・・・それじゃあ減らないでしょ?(構成要素の二酸化炭素が減ったら困るんだ!?)
これはあれですよ、紙幣発行の仕組みに似ている。前にも書いたけれど紙幣(銀行券)とは債券である。
日銀は債券を発行し、国債を買っている。

日本銀行では、引き受けた国債は資産に、発行した紙幣は負債に計上する。プラスマイナス0というわけだ。
国債にも満期があり、いつかは金利付で返済される。国債という債券を持っている日本銀行にも返済される。
国債が減って、自行が発行した紙幣(銀行券)が手元に戻ってくる。
この戻ってくる紙幣をプラス勘定しなければ日本銀行の銀行券に関する収支は負債が膨らむ一方となる。
国債が減った分は資産も経るが、手元の紙幣が増えたので負債も減る。金利を無視すれば、収支上はプラスマイナス0であることに変わりない。
他と何が違うかと言えば、日本銀行の負債は自分で返さなくてもよいこと。
政府(国民)が返してくれるのを待っているだけである。日本銀行は何の苦も無く負債が減る。
例えば日銀保有の国債が全て支払われて0になったとしよう。資産は0となる。
払われた金額が負債を消していくことになるので、こちらも0になる。負債も0ということ。
しかし現実には手元に自行が発行した紙幣が戻ってきて残っている。
支払われた時点でこれを廃棄すればいいが、しなければ引き受けた国債の金額と同じだけの紙幣がある状態となる。
日銀が発行した正規品なのだからどこに出しても通用する。
紙幣は国債を根拠に発行されたのだから、市中にある紙幣はほぼ全て国債の代替品であると見做すことが出来て、日本銀行は国債を手に入れさえすれば資産がどんどん増えていく。
帳簿上ではなく現実的な資産ということだ。突き詰めれば日本中の紙幣は全て日本銀行の資産となる。
やはり無から有を生むということになのだ。(マイナスして物を出すという負債計上のカラクリ)


日本は6%削減の目標を掲げた。

チーム・マイナス6%
地球温暖化の一因とされる温室効果ガスを抑制するために2005年〜2009年12月まで日本国政府が主導したプロジェクトである。現在は25%削減を目指すチャレンジ25キャンペーンに移行している。

2005年に発効した京都議定書で、地球温暖化を抑制するため、日本は2008年から2012年の間に温室効果ガスの排出量を1990年にくらべて6%削減することが目標として義務付けられた。この目標を達成するため政府の地球温暖化対策推進本部は京都議定書目標達成計画を作成した。この計画の中で、国民に向けた情報提供、地球温暖化対策の普及啓発を目的として、経済界と協力して進める大規模な国民的運動としてチーム・マイナス6%(運営は「チーム・マイナス6%運営事務局」)を立ち上げた。
(目的は)京都議定書の目標を達成するために、温暖化の現状を国民に対して周知させ、どのような行動が温暖化の防止につながるのかをアナウンスし、実践することを呼びかけることである。


日本はまず「6%分の排出権」という商品をローンで購入。
二酸化炭素を減らして帳消しにするか、お金でローン返済するか。
お金で返したほうが安いですよ!そんなにすぐに達成できるわけはない!ということで、日本は1000億円(金利も付いてもっと?それとも含んでいる?)を支払った。
25%削減となったら、さらに金額が増える。
達成できる企業や国は排出権を分けて売ることが出来るわけである。(’ローンよりは安くしておくわよ’とかなんとか言って?)


日本のCO2削減目標6%、国連に認められる 排出増えるもクレジット購入で達成 環境ビジネスオンライン2016年4月6日

海外から排出権を購入して達成

日本は、京都議定書第一約束期間(2008〜2012年度)において、温室効果ガス排出量を基準年(原則1990年度)比で6%削減する義務を負っていた。この削減目標を達成するために、昨年11月18日を期限として、国連気候変動枠組条約事務局に対して「償却(目標達成のためのクレジット・排出枠の無効化)」を行うことが求められていた。

これを受けて、日本が保有するクレジット・排出枠(初期割当量、森林吸収源、海外からの京都メカニズムクレジット)について、6%削減目標の達成に必要となる約63億9,200万トン分(5カ年分)の償却を昨年11月16日までに行い、日本の京都議定書第一約束期間の目標達成が確定した。

その後、日本の償却状況について国連が審査を行っていたが、このたび審査が完了し、前述のとおり、国連ホームページにおける結果の公表を受け、日本の京都議定書第一約束期間の削減目標達成が正式に決定した。


先物取引に似ている。
「排出権は必ず値上がりして儲かります。あなたも投資してみませんか?」といった詐欺商法的な商売も出来る。
これは株価と同じような感じ。「あの会社の株値は近いうちに値上がりするから今が買いですよ!」「あの会社に投資して損はありません」的な。


先物取引の本場はシカゴであるが、そのシカゴにも排出権ビジネスを行っている「シカゴ気候変動取引所」がある。
出資者はゴールドマン・サックスで、こちらはモーリス・ストロングが役員の1人である。


『不都合な真実』は最初からマネーの匂いがぷんぷんしていたが、『不都合な真実』の学校での上映中止を求めて保護者が提訴までしたイギリスのブラウン財務大臣は、アル・ゴアを気候変動担当の特別顧問にした。
ブラウンとは2007年~2010年まで首相を務めたブラウン首相である。労働党党首。ブレア政権で財務大臣を10年務めていた。
ブレア首相とブラウン首相で13年間労働党政権であった。
アル・ゴアを特別顧問にしたイギリスは早速「気候変動に関するレポート」を発表。
排出権や温室効果を取引する国際的な取り決めを早急に締結すべきだと主張した。
2007年にはEU議長のドイツ・メルケル首相も「EUは2020年までに温室効果ガスの排出を20%削減して1990年の水準に戻す」と発言。
追い打ちをかけるように同年IPCC(「気候変動に関する 政府間パネル)が最新報告書(第4次評価報告書)で「温暖化には疑う余地がない」と断定するに至る。

そんな過激に削減できるわけがない?
では結果を見てみましょう。
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アイルランドにギリシャにスペインにポルトガル・・・財政危機に陥った国がみな大きくプラスですね・・・。
マイナスが大きい国々は出資額が多いという解釈で良いですか?








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# by yumimi61 | 2017-06-12 22:36
2017年 06月 12日
日本国憲法の秘密-495-
the Harvard School of Public Health(ハーバード大学公衆衛生学院)は、現在はthe Harvard T.H. Chan School of Public Health という名称になっている。
これは2014年に3億5000万ドル(当時のレートで約375億2000万円)というハーバード大学史上最高額の寄付が公衆衛生学院に対して行われたからである。

Hong Kong Group to Give Harvard’s School of Public Health $350 Million ニューヨークタイムズ2014年9月8日

寄付をしたのは香港最大の不動産業者でデペロッパーのHang Lung Group(恒隆グループ)と、投資会社Morningside Group(晨兴资本)を経営する一族。
香港だけでなく中国本土にも進出して勢力を拡大している。
一族の中にこの学校で学位を取得した卒業生がいた。
校名の名は創業者であるT.H. Chan(陳曾熙)。彼は第二次世界大戦前に日本に留学していたこともある。
香港は長いことイギリスの植民地であった。


アル・ゴアはハーバード大学在学中(1965-1969)に公衆衛生学院がつくった人口開発研究所でロジャー・レベルに師事していた。
それから10年後の1976年に下院議員に当選し、第二次世界大戦中の原爆の街(秘密の街)だったオークリッジにある国立研究所に出入りした。
1993~2001年、ビル・クリントン大統領の下で副大統領を務めた。
父親の代からオクシデンタル石油やアライド・ケミカル・アンド・ダイの経営に携わり、石油事業や原子力事業に深く関わってきた。

ビル・クリントンとアル・ゴアと言えば、スティーブ・ジョブズ。
ジョブズは1997年にアップルのCEOに復帰し、アップル社は2001年にiPodを発売した。
ここからアップル社の快進撃が始まるわけだが、2003年アル・ゴアはそのアップル社の取締役に就任した。

アップル社プレス 
アル・ゴア元米国副大統領、アップルの取締役に就任(米国報道発表資料抄訳―2003年3月20日)

2003年3月19日、カリフォルニア州クパティーノ、アップルは本日、元米国副大統領のアルバート・ゴア・ジュニアがアップルの取締役に就任したことを発表しました。ゴア氏は本日開催されたアップルの取締役会で選任されました。

「世界最大の組織である米国政府の運営に、下院議員として、上院議員として、そして第45代副大統領として関わってきたアルは、かけがえのない知識と知恵をアップルにもたらしてくれます。アルはまた、熱心なMacユーザでもあり、Final Cut Pro(ファイナルカットプロ)を使って自分でビデオ編集も行なっています。アルは素晴らしい取締役となってくれるでしょう。アルが就任する初めての民間企業の取締役会にアップルの取締役会を選んでくれたことをとても嬉しく、かつ光栄に思います。」と、アップルのCEO(最高経営責任者)、スティーブ・ジョブズは述べています。

アル・ゴア元副大統領は、「スティーブと彼のチームはアップルを再び世界最高の会社にするという大変な仕事をやり遂げました。私は特に、新しいMac OS X(マックオーエステン)オペレーティングシステムとアップルのオープンソースの潮流への取り組みに大きな感銘を受けています。この伝説的な会社の目を見張る再起を導いた偉大な取締役陣と一緒に仕事をし、彼らから学ぶことをとても楽しみにしています。」と述べています。

ゴア氏は1993年1月20日に第45代米国副大統領に就任しました。1996年に再選され、米国を史上最長の持続的成長へと導く為に尽力しました。上院議長、閣僚、そして国家安全委員会メンバーとして計8年間務めたほか、環境政策、テクノロジー、科学、通信そして政府経費削減など広範な行政課題にリーダーとして積極的に取り組みました。

また、25年前の米国下院議員時代には、「インフォメーションスーパーハイウェイ」という用語を普及させ、後にインターネットとなった通信インフラの構築のための連邦政府の資金確保に貢献しました。その後もテクノロジー分野の積極的なリーダーとして、米国全土の学校や図書館をインターネットに接続する官民の運動を立ち上げました。

ゴア氏はGoogle(グーグル)社のシニアアドバイザーを務めています。また、カリフォルニア大学ロスアンゼルス校、フィスク大学、ミドルテネシー州立大学の客員教授を務めています。
ゴア氏は、1969年にハーバード大学を優秀な成績で卒業し政治学の学士号(B.A. in Government)を取得したほか、バンダービルト大学で宗教学と法律学を専攻しました。



アル・ゴアの『不都合な真実』がブームになったのは2006年。
彼は「環境成金」として有名だが、もう一人「環境マフィア」と呼ばれる男がいた。
カナダ出身のモーリス・ストロングである。
以前にもソ連(ロシア)関係で取り上げたことがあるので、若干長くなるがそのまま引用しよう。

モーリス・ストロング
ゴルバチョフ氏とともに、リオ・地球サミットの中心人物だったのがモーリス・ストロング氏。
「国際環境会議のドン」と言われる。また「ゴッドファザー」「環境マフィア」の異名を持つ。
カナダのエネルギーも牛耳った男。

1929年カナダ生まれ

1964年 カナダ電力公社総裁

1966年 カナダ政府国際開発庁長官

1972年 国連人間環境会議を組織、同事務局長

   「国際連合人間環境会議」とはスウェーデンで開催された、世界最初の大規模な環境問題会議。(ストックホルム会議)
  この会議にて「人間環境宣言」及び「環境国際行動計画」が採択された。

1973年 国連環境計画の初代事務局長

   上記会議で制定された宣言や行動計画を実行するための機関として設立されたのが「国連環境計画」。
   本部はケニアの首都ナイロビに置かれた。

 
1975年、ペトロ・カナダCEO

   ペテロ・カナダはカナダの国営企業として創業された。
   ストロング氏はカナダ首相よりCEOを要請されカナダに戻る。
   1978年までペテロの会長兼CEOだった。

   その後、カナダの開発投資会社や主要国有企業の持株会社の会長を歴任。
   またカナダのオンタリオ・ハイドロ社( オンタリオ州政府電力会社)のCEO、
   世界YMCA同盟*の拡張委員会の委員長も務めた。   

1980年 NGO世界資源研究所理事長(本部:ワシントンDC)

1983年 「ブルントラント委員会」のメンバーとなる。

   ケニアのナイロビで開催された国連環境計画管理理事会特別会合にて日本から提案された委員会。

1985年 国連アフリカ緊急活動事務所長

1992年 国連環境開発会議(地球サミット)事務局長

1993年 NGOアースカウンシル会長(本部:コスタリカ)


その他、地球憲章委員会、持続的国際発展研究所(本部:カナダ)、Africa-America Institute(フォード財団フェローシップ)、ストックホルム環境研究所、インドネシアのエコロジー研究所、スウェーデン王立科学アカデミーベイエ研究所などのメンバーでもある。

また長い間、NPO世界経済フォーラム(本部:スイス)の役員であった。
世界銀行総裁の相談役でもあった。

更に、持続可能な開発のための経済人会議、国際自然保護連合、世界自然保護基金、アイゼンハワーフェローシップ奨学金基金、ハーバード大学国際開発センターの諮問委員会、トヨタ自動車の国際諮問委員会のメンバーや役員を歴任。

1998年〜2005年は、国連平和大学総長に就任。
国連の事務次長にも就任し、アナン国連事務総長の特使として北朝鮮問題を担当した(国連北朝鮮問題特別顧問)。

2006年初頭、旧フセイン政権を不当に支援する計画を立てていたとして、韓国人ロビイスト朴東宣(パク・ドンソン)が逮捕された。
朴東宣は、北朝鮮問題を担当していたストロング国連事務次長と密接な関係があったという。
ストロング氏はこの汚職疑惑により国連の役職を辞任した。
その後は北京に移住し、北京大学の名誉教授および環境財団の名誉会長に就任。
アジアの環境問題などに取り組んでいるご様子。



カナダ生まれだが、カナダもやはりイギリスと関わりの深い国である。
モーリス・ストロングの父親も母親も精神的な病を患っており、彼は貧困の中で子供時代を過ごしたという。
そして14歳で学校を中退した。(カナダは日本の小学1年~高校3年までの12年制となっている)
日本で言えば大学は愚か高校での教育も受けていない。
そんな彼がいかにして華麗な経歴を手にしていったのか、上に記した年表からでは分からないであろう。

彼は1948年19歳の時に証券会社に見習いとして雇われるのだが、それまで何をしていたのか不明。
ただ最初の職歴より前の1947年に国連の権力者と面会し、国連の仕事を要求している。
そして国連本部でジュニア・セキュリティ・オフィサーを務めるが、翌年にはカナダに戻り証券会社に雇われるのだ。
そこで石油専門家として石油事業会社を任され、さらにコネクションによって別の会社の財務担当副社長などに就任し、1956年には自身で会社を設立して天然ガスの会社を引き継ぐ。
そして億万長者になっていくのだ。
こんなとんとん拍子に上手くいくなんてありえない。何か裏がある。それがマフィアとも言われる由縁である。
ともかく彼もまたエネルギー畑を歩んできた人である。
1970年代に始まった国連の国際環境会議はモーリス・ストロングとともにあった。


モーリス・ストロングはアナン国連事務総長の特別顧問だった。北朝鮮を担当していてしょっちゅう北朝鮮に行っていたらしい。
同じくアナン国連事務総長の特別顧問だったのがジェフリー・サックス。ソ連崩壊前後のソ連・ロシア経済改革の顧問であった。
日本の小泉政権で 特命担当大臣(金融担当・経済財政政策担当)及び総務大臣を務めた竹中平蔵氏は、ハーバード大学留学中にジェフリー・サックス氏やローレンス・サマーズ氏と知り合う。
1989年にはハーバード大学教授のジェフリー・サックス氏の誘いでハーバード大学客員准教授及び国際経済研究所客員フェローに就任した。
2001年から小泉首相と組んで郵政民営化などの経済改革を実施。
過去記事「ソチ」より)


郵政と言えば東芝のあの方も思い出しますね?
東芝名誉顧問、西室泰三。
株式会社東芝代表取締役社長(後に代表取締役会長を経て、2016年4月時点で相談役)、株式会社東京証券取引所代表取締役会長兼社長、株式会社東京証券取引所グループ取締役会長兼代表執行役、日本郵政株式会社取締役兼代表執行役社長、ゆうちょ銀行取締役兼代表執行役社長、第33期慶應義塾評議員会議長等を歴任。東芝でウェスチングハウスの買収により巨額損失を出し、その後に社長となった日本郵政の海外事業買収でも同様の巨額損失を出した。その経歴と実績から「東芝の闇将軍」、「肩書コレクター」の異名をとる。

山梨県都留市出身(現在の本籍は神奈川県)。実家は絹織物の染色業者。小学校に上がる前から毎日、朝食前に論語の素読をさせられる。小学校4年生時に終戦を迎える。
私立武蔵中学校・高等学校から2年間の浪人生活を経て慶應義塾大学経済学部入学。在学中にカナダブリティッシュコロンビア大学へ留学

(籠池理事長、教育勅語ではなく論語はどうですか?)(もうそれはいいから?)








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# by yumimi61 | 2017-06-12 14:17
2017年 06月 11日
日本国憲法の秘密-494-
2006年の『不都合な真実』で一躍メジャーになった「地球温暖化問題」だが、地球温暖化説の発端はもう少し遡って1980年代にある。
NASAゴダード宇宙研究所の科学者ジェームズ・ハンセンが6人の科学者と共著で書いた論文『増大する大気二酸化炭素の気象への影響』を科学雑誌『サイエンス』に投稿した。
この論文の中で、21世紀に予想される地球温暖化が南極の氷を溶かし世界の多くの都市を水没させ、内陸部は砂漠化する恐れがあると論じられた。
ジョームズ・ハンセンもアル・ゴアも地球温暖化を回避するために必要なものは原子力発電だと主張してきたのである。


劇的な温暖化説の発端は1980年代にNASAの研究者からもたらされたが、実はそれより以前から気候変動に注目する動きはあった。
それはそうだろう、地球誕生以上今日まで地球の気候は同じではなかったというのが通説なのだから。
地球の最後の氷河期は1万年前だったと言われる。
「地球」を語る以上、長いスパンで物事を見る必要がある。

氷河学的には、氷河期という言葉は、南半球と北半球に氷床がある時期を意味する事が多く、この定義によれば、グリーンランドと南極に氷床が存在する現代、我々は未だ氷河期の中にいることになる。
過去数百万年に関して言えば、氷河期という言葉は一般的に、北アメリカとヨーロッパ大陸に氷床が拡大した寒冷期について用いられる(アジア地域は氷床が発達せず寒冷な地帯であったらしい)。この意味で言えば、最後の氷河期は1万年前に終了したということになる。この約1万年前に終わった出来事を、文献によっては「最後の氷河期」と記載していることもあるが、科学者の多くは氷河期が終わったのではなく、氷河期の寒い時期「氷期」が終わったとし、現在を氷期と氷期の間の「間氷期」と考えている。


間氷期は人間が生活できる暖かい場所がかなりの範囲に広がっている時期ということである。
でも歴史科学的にはまた氷河期がやってくるはずなのだ。
ともかく間氷期における気温は上昇と下降を小刻みに繰り返していて、 有史以来今よりも気温が高かった時代はいくらでもあった。
人間の生活がもたらす影響なんてちっぽけだと言ってしまえばそれまでだ。
1800年前半から始まった産業革命は石炭の時代をもたらし、1900年代にはさらに機械工業化が進み石油の時代をもたらしたが、1800年代で区切り、それより前の時代の気温を一切考慮しないというのは片手落ち。
それより前に気温が上昇する時代があったならば原因は違うところにあるかもしれない。
そもそも「昔」と「今」が比較に耐えられるデータなのかどうかも怪しい。(データすらないフィクションなのかノンフィクションなのか分からない書物や絵画などではもっと心許ない)
それくらい雲をつかむような話である。
聖書がフィクションやノンフィクションか問うた時に、人は一様の答えを出せますか?
(地球外部の気温ばかり気にしていて地球内部の温度を気にしないのも片手落ち)


ロジャー・レベル(Roger Revelle)という海洋学者がいた。
アメリカは戦後も核実験を実施していたのだから、核が海洋引いては地球に与える影響を研究すればよいものを、何故か二酸化炭素に目を向けたのだった。
それは国際地球観測年と深く関係している。

第1回国際極年
1882年から1883年の第1回国際極年には、12カ国(オーストリア=ハンガリー帝国、デンマーク、フィンランド、フランス、ドイツ、オランダ、ノルウェー、ロシア、スウェーデン、イギリス、カナダ、アメリカ)が参加した。
これらの国は北極近辺の14の測候所で、氷、大気、電磁気、地磁気、曙光、海流、潮、構造および運動の観測を行った。このほか、世界中の40を越える気象台が、国際極年の観測に協力した。

第一次世界大戦後、電信、ラジオ、電話が発達し、飛行機などが実用化すると、これらを利用した提案が1927年に、国際気象委員会に提出された。


第2回国際極年
1932年から1933年の第2回国際極年は、これらの新技術を使って気象情報を交換することが可能であるか、また、それが各国の気象予報にどれだけ有効であるかを調査する目的であった。また極地の気象観測が、気象予報にどれだけ意味を持つのかを調査する意味もあった。44カ国がこれに参加し、情報が集積された。しかし、両極地の情報は極端に少なかった。

国際地球観測年
1950年代、アメリカのLloyd Berknerによって、ロケット観測などを含む第3回の国際極年が提案された。国際学術連合(ICSU)は、これを極地以外の総合的な地球物理学観測の計画に拡張した。70を超える国立またはそれに相当する機関が協力し、国際地球観測年委員会を組織し、実行した。

1957年7月1日から1958年12月31日まで続いた、国際科学研究プロジェクトの名称。国際年の第一号として数えられる。当初は太陽の磁気が地球に与える影響を研究するために設定された。
かつての1882年から1883年の第1回国際極年と、1932年から1933年の第2回国際極年にひき続くものである。
国際地球観測年で行われた協力は12項目があった。以下に列挙する。オーロラ、大気光(夜光)、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動。
ソビエト連邦とアメリカ合衆国は、国際地球観測年のために初期の人工衛星・スプートニク1号とエクスプローラー1号を打ち上げた。主な成果は、バン・アレン帯の発見、中央海嶺、プレート・テクトニクス説の確認作業などがある。



ロジャー・レベルはシアトルで生まれ、カリフォルニアのポモナ大学で地質学を学び、1936年にカリフォルニア大学バークレー校で海洋学にて博士号を取得した。
第二次大戦中は海洋学者としてアメリカ海軍に属していた。
1950~1964年まではカリフォルニア州サンディエゴにあるスクリップス海洋研究所(SIO)の所長であった。
SIOは国際地球観測年に参加しており、ハワイのマウナ・ロアと南極大陸のマウナ・ロア天文台で大気二酸化炭素の測定を開始した。
ロジャー・レベルは海洋研究科学委員会(SCOR)と国際海洋委員会(IOC)の下で最初の気候変動委員会委員長を務めた。
このSIOが二酸化炭素原因説の主要な研究所となっていくのである。

レベルは著名な化学者ハンス・スースをシカゴ大学から招き、1957年に彼と共同論文を発表した。
海は過剰な二酸化炭素を吸収していることが知られているが、論文ではその吸収速度はかつての科学者が予測した速度よりも遥かに遅いと述べている。
人間の排出が吸収速度を上回れば温室効果をもたらし、時間の経過とともに地球温暖化を引き起こすだろうと提起した。

続いてレベルは、大気中に含有する二酸化炭素の測定方法を考案するため、デーヴィッド・キーリングという科学者を招いた。
1960年、キーリングは大気中の二酸化炭素(濃度)の増加と化石燃料の燃焼の因果関係が強まった事を示す研究論文を発表した

どちらも地球温暖化(温室効果)の原因が二酸化炭素であるという直接的な根拠は示さなかったが、これらの論文は地球温暖化の基礎的事実となっていく。


このロジャー・レベルは、1964年にハーバード大学公衆衛生学院によって設立されたハーバード人口開発研究所の所長でもあった。
The Harvard Center for Population and Development Studies was founded in 1964 by the Harvard School of Public Health (now the Harvard T.H. Chan School of Public Health) under the direction of Dean Jack Snyder and director Roger Revelle with a mandate to address issues of population control.

ハーバード大学公衆衛生学院は元々は保健師養成学校だった。
The School traces its origins to the Harvard-MIT School for Health Officers, founded in 1913; Harvard calls it "the nation's first graduate training program in public health." In 1922, the School for Health Officers became the Harvard School of Public Health, and in 1946 it was split off from the medical school and became a separate faculty of Harvard University.

日本では保健師の事を英語でPublic Health Nurceと訳すことが多いが、この訳では正確に通じないことが多い。
外国ではCommunity Health Officer(地域保健師)などと言っている。
日本の場合は国家資格である保健師資格だけではなく看護師資格も保有していないと保健師にはなれない。従って看護師の上級資格ということになる。保健師は公衆衛生の専門家である。
私も一応保健師である。
しかし外国で公衆衛生の専門家と言う場合には学位重視であり資格は関係なくなる。
昨今は日本でもそんな風潮がある。保健師に限らず大学という観点から見てもかつて職人肌だったMITも方向転換した。
なにはともあれ、「公衆衛生の専門家」と「保健師」が一致していないことが多々ある。
教育課程や資格制度が違うこともあるが、大学時代に専門教育を受けなくても大学院で公衆衛生を学んで学位(ドクター)を取れば専門家になれるわけである。
大学院で学ぶというのは研究とか論文作成とかそんな感じでしょうか?その基礎となる膨大な専門知識は必要ないというわけですね。(どうせ忘れるから、いらないわよ?)(だから’飛んでも理論’なんか吹聴してしまうのでは?)
下手すれば公衆衛生関係の研究所か何処かで働けば公衆衛生の専門家になり得るのだ。


この日本と諸外国の差を上手くついたというか、誤解の元になったというかが、元祖iPS細胞騒動の森口尚史の一件である。
学位は取った(ドクター)らしいが、看護師及び保健師の資格を取得しているのかは定かではない。もちろん医師でもない(でも世界初の手術を自分がしたと主張している)(日本の法律上は保健師資格があれば緊急時等に医師の指示等があれば医師の代わりが出来なくはない)。
平成の世になった1989年に東京医科歯科大学医学部保健衛生学科看護学専攻に入学し、学士(保健学)を取得後、同大大学院博士前期課程に進学し、修士(保健学)を取得した。
東京大学で博士(学術)を取得し、東京大学特任教授などを経て、東京大学医学部附属病院特任研究員を務めた。専門は知的財産法、医療技術評価。
2012年(平成24年)10月、読売新聞により「ハーバード大学客員講師」の肩書きで「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術を実施した」と大々的に報じられたが、多方面から数々の疑義が提起され、その2日後に同新聞は「同氏の説明は虚偽」とし、それに基づいた一連の記事は誤報であったことを認めた。東京大学などがいまだ調査中である。



地球温暖化問題のベースにはロジャー・レベルらの論文があったわけだが、必要以上に危機感を煽り、それに乗っかったのが国連であり政府である。
1980年代にNASAの科学者ジェームズ・ハンセンらが論文を投稿し、そのジョームズ・ハンセンが1988年にアメリカの上院公聴会で「地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因」と述べた。
その年にIPCCは設立された。


するとなんと、元祖温暖化説のロジャー・レベルらは、そうした風潮に反対する立場を取った。
物理学者S.フレッド・シンガーと電気工学者チャウンシー・スターとの共同執筆での記事―「温室効果ガスの温暖化について何をすべきか:あなたが飛ぶ前に見よ(転ばぬ先の杖)」。
急激な温暖化対策は雇用と繁栄を犠牲にし貧困問題を大きくするだけで効果的ではない。
特に途上国の経済は壊滅的になるであろう。
記事は次のように結論づけた。「現時点では過激とも言える温暖化対策を正当化する科学的根拠は乏しい。政策対応が遅れてもリスクはほとんどない」

In 1991, Revelle's name appeared as co-author on an article written by physicist S. Fred Singer and electrical engineer Chauncey Starr for the publication Cosmos: A Journal of Emerging Issues, titled "What to do about greenhouse warming: Look before you leap," which was published in the summer of 1992. The Cosmos article included the statement that "Drastic, precipitous—and, especially, unilateral—steps to delay the putative greenhouse impacts can cost jobs and prosperity and increase the human costs of global poverty, without being effective. Stringent economic controls now would be economically devastating particularly for developing countries...". The article concluded: "The scientific base for a greenhouse warming is too uncertain to justify drastic action at this time. There is little risk in delaying policy responses."


その論争中の1991年7月、ロジャー・レベルは亡くなった。82歳だった。

すると今度はロジャー・レベルの弟子が出てくる。(死人に口なしの弔い合戦?)
「あの記事はシンガーが一人で書いたものでロジャー・レベルは名前を使われただけ。レベルは名前を使われたことを恥ずかしいと思っていたんだ」
本人は死んでいるのでもちろん確認しようもない。
弟子は、シンガーの行動は非倫理的であり、アル・ゴア上院議員(当時)の地球温暖化政策を打ち砕くために仕立てられたものであると主張した。 (つまりアル・ゴア派)
シンガーはそのレベルの弟子に対して訴訟を起こした。
結局その弟子は「自分の主張全部間違っているわけではない」としながらもシンガーに謝罪した。
しかしその後も他の人達がレベルが実際に記事を書いていたと言い続けたことから、弟子は気分を害して再び争いは続いた。

ロジャー・レベルの娘(Carolyn Revelle Hufbauer)
地球温暖化:私の父が本当に言ったこと。 ワシントンポスト1992年9月13日
Contrary to George Will's "Al Gore's Green Guilt" Roger Revelle—our father and the "father" of the greenhouse effect—remained deeply concerned about global warming until his death in July 1991. That same year he wrote: "The scientific base for a greenhouse warming is too uncertain to justify drastic action at this time." Will and other critics of Sen. Al Gore have seized these words to suggest that Revelle, who was also Gore's professor and mentor, renounced his belief in global warming. Nothing could be further from the truth. When Revelle inveighed against "drastic" action, he was using that adjective in its literal sense—measures that would cost trillions of dollars. Up until his death, he thought that extreme measures were premature. But he continued to recommend immediate prudent steps to mitigate and delay climatic warming. Some of those steps go well beyond anything Gore or other national politicians have yet to advocate. [...] Revelle proposed a range of approaches to address global warming. Inaction was not one of them. He agreed with the adage "look before you leap," but he never said "sit on your hands."


娘が書いているように、実はアル・ゴアもハーバード大学在学中にロジャー・レベルの弟子だったのだ。
教えたことに反しているとレベルは激怒していたというのだ。




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# by yumimi61 | 2017-06-11 16:20