2017年 09月 06日
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# by yumimi61 | 2017-09-06 23:22
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2017年 09月 05日
日本国憲法の秘密-549- (加計学園問題について)
西の小林一三、東の五島慶太。
阪急電鉄の小林、東急電鉄の五島。
東宝(と宝塚)の小林、東映の五島。
こういう対立関係にあった。
小林一三は慶應義塾→三井出身の実業家。
五島慶太は東京帝大→官僚の実業家。
小林、五島ともにやり手な事業家ではあったが、東急電鉄の創業者は五島ではなく渋沢栄一の田園都市株式会社であり、小林はその会社に密かに関与していたので五島は最初からビハインドな立場にあった。
小林は阪神(近畿)のイメージがとても強いが、出身地は山梨県である。
東急電鉄の株式を保有していた小佐野賢治も山梨県の出身である。小卒で上京し自動車部品の会社で働き、戦時中に東京トヨタ自動車に入社し、後に独立した。
小佐野賢治は故郷山梨をこよなく愛していたそうで、山梨県に小佐野賢治記念財団が設立されている。


倒産寸前にまで陥っていた東映は、借金が11億円(2006年の貨幣価値に換算すると数100億円)にも膨らんでいたが、住友銀行の鈴木剛頭取と交渉して融資を引き出した。東映再建には、東急専務で「経理の専門家」として五島が多大な信頼を寄せていた大川博を社長として派遣し、見事に3年で立ち直らせた。東映再建が失敗していたら五島家は破産していたといわれる。(でも今は東宝の独り勝ち状態)
住友銀行の鈴木剛は広島県、京都大学出身。住友銀行の西野田支店長時代、融資先であった松下電器産業の松下幸之助や三洋電機の井植歳男と出会い交流を深めた。
(三洋電機は新潟中越沖地震での子会社被災をきっかけに経営危機に追い込まれる。にもかかわらず倒産を回避しパナソニックとの経営統合によって巨大企業が消滅するという日本経済史上初の事例となった。倒産すれば会社が消滅するのは分かるが、ネームバリューのある大企業を統合再建する場合は通常そのまま名を残すことが多い。例えばシャープなど。しかし三洋電機はそのブランドを残すことを許されなかった。)
(住友銀行は現在は三井住友銀行となっている。銀行名を見ると三井銀行と住友銀行が合併して三井銀行がやや優位だったのかと思うかもしれないが、この合併は複雑。もともと三井系の銀行より住友銀行のほうが圧倒的に力があった。がしかし「さくら銀行」と「わかしお銀行」が絡んだ合併によって力関係が微妙な感じになっている)
大川博は鉄道院にて五島の先輩であった。経理に非常に明るかった。



(五島慶太は)1955年に横井英樹の白木屋乗っ取りに手を貸し、これに東横百貨店を吸収、「強盗慶太」の健在ぶりを知らしめる。
「強盗慶太」は慶應閥が五島慶太に付けたあだ名。(「ごとう」と「ごうとう」を掛けています。そんなの分かってるから?)五島自身も結構この名を面白がっていたようだ。
そんな五島を慕ったのが横井英樹だった。
横井は愛知県出身で小卒。しかしながら戦争で儲けた口で不動産業にも乗り出す。
横井は暗礁に乗り上げた白木屋(材木商→呉服屋→百貨店)買収の際に五島に頼み込んだ。

白木屋側、横井側も疲弊しきっていた。そこで横井は東急の五島慶太に買収を頼む策を講じる。横井は白木屋の株を買い取りをお願いするため、ほぼ毎日朝の6時に五島の家の前に立ち出勤を見送り、旅行に行く際には東京駅まで列車が出発するまで見送るなどしていた。その熱意によって五島は白木屋の買収に乗ることになる。ただし1株350円でしか引き受けないという条件であった。結果的に横井は5億8000万も損したことになる。

1956年(昭和31年)1月半ば、五島は築地にある料亭に横井と鈴木一宏を招き、五島は「君たち“五島学校”に入学せんかね、君たちのような生きの良い若い勝負師と組んで、まだまだ面白い仕事をしてみたい」と言い、それを聞いた横井は「五島会長、お言葉ありがたくちょうだいさせていただきます。今回の株の損は五島学校の入学金と思えば別に高いとも思えなくなってきました」と五島学校の門下生となった。しかし鈴木は門下生にはならなかった。白木屋乗っ取り騒動の一件で横井は五島という後ろ盾を得、その後も五島の企業買収にエージェントとして関わることが多かった。

次なる買収は東洋製糖。
後一歩で経営権を取得できるところまでいったところで、横井英樹襲撃事件が発生する。さらに五島が急死、東急を継いだ五島の長男・昇は、東急が横井に協力して買い占めていた東洋精糖の株式を東洋精糖の経営陣側に譲渡するなどの調停案(岸信介の絡みで永田雅一がまとめた)で合意し、東急は乗っ取りから撤退、東洋精糖の乗っ取りは結局横井が一人孤立してしまう格好になってしまう。このため、五島邸へ直接出向いて抗議している。
五島の急死が誤算だったのはいわずもがな、衝撃なのは長男の昇から横井は出入りを終生断られたことである。

五島慶太と横井英樹の関係をその息子は良かれと思っていなかったということだ。

五島慶太の死後は、五島門下生と言われた横井英樹と小佐野賢治が富士屋ホテルを巡って対立した。
横井も小佐野も五島慶太よりも30歳以上若い。
東京帝大卒の五島に対し、横井も小佐野も小学校卒という学歴しかない。
その2人が五島と仕事をしていたので、五島が師であり、2人は門下生と言われたわけだが、東急の株式を保有していた小佐野は横井とは立場が違う。
同じ五島慶太を師に仰ぎ、その五島から箱根の強羅ホテルを買った小佐野賢治がインテリに対する劣等感をぬぐえずにいたことに比べると、能天気でお気楽で執着心の強い横井の方が世間の注目を集めた。「ホテル経営は紳士の仕事」という名言とはそぐわぬ両雄ではあるが富士屋ホテルの支配権争奪をめぐり火花を散らすことになる。
このように小佐野にはインテリ(学歴)コンプレックスがあったようだ。一方の横井は能天気でそんなことは気にしないタイプ。
そして、五島から強羅ホテルを譲ってもらった(買った)のが小佐野賢治ならば、東京タクシーを譲ってもらったのが川鍋秋蔵である。

因縁はさらに続く。
1979年、横井英樹はホテルニュージャパンを買収した。
元の持ち主は藤山愛一郎、彼は藤山雷太の長男である。慶應義塾に銅像が出来るくらいの父を持っているわけだから当然慶應畑(但し大学は中退)。
大学中退したって別に困ることはない。父の興した藤山コンツェルンを継いで大日本製糖の社長となった。
1982年、ホテルニュージャパンは火の海と化し33人が死亡。
横井はホテル運営に違法があったとして実刑判決を受けて服役した。(藤山が持ち主の時に火災が起きていたら藤山愛一郎が服役していたということだろうか)


これまで見てきたように前川・前文科事務次官の縁戚関係から考えると、安倍首相サイドにいてもおかしくない人である。
そう受け取られても仕方ない背景を持っている。
では、あえてだからこそ前川事務次官の時に加計学園の獣医学部が新設が強力に推し進められたのだろうか?

獣医部新設は加計学園ありきだった。客観的事実と加計学園の背景からこれには同意できる。
加戸・前愛媛県知事は12年前も前から愛媛県は加計学園ありきだったと証言している。
加戸が愛媛県知事を務めたのは1999-2010年(3期12年)。
12年前は2005年なので、愛媛県は2005年から加計学園ありきで今治市への誘致を始めた。
当時はまだ国家戦略特区(2013年12月に国家戦略特別区域法制定)は存在しておらず、誘致に利用されたのは構造改革特区(2002年12月構造改革特別区域法制定)であった。
これは小泉首相(在位:2001年4月26日-2006年9月26日)の時に始まったものである。

特区で行われた規制の全国展開にあたっては、総理大臣を本部長とする構造改革特区本部に下に設けられた評価委員会が、各規制所管省庁との議論を経て、内閣総理大臣に意見を提出する。
初代評価委員長は、八代尚宏国際キリスト教大学客員教授。
その他の委員には、白石真澄東洋大学助教授、市川眞一クレディ・スイス証券チーフ・ストラテジストなどがいた。なお、当初は、三木谷浩史楽天会長や、野中ともよ三洋電機会長、北川正恭早稲田大学大学院教授も委員を務めていた。

例としては、認可第1号となった群馬県太田市(清水聖義市長)の外国語教育特区などがある。これは小学校から高校まで国語などを除き、すべて英語で授業を行うという構想である。


小泉首相は慶應義塾大学出身。太田市の清水市長も慶應義塾大学出身。
市長は特区で作った私立の学校の理事長となり、市長という権限を利用して公費を投入したことから地元では一頃問題になった。
慶應義塾大学に公務で行ったり、特区で作った学校の学生をとってもらえるように頼んでこようとツイッターで発言していたこともある。
三洋電機東京製作所は三洋電機の主力工場だったのだが、東京ではなくて群馬県の大泉町というところにあった。
太田市は2005年3月28日に「平成の大合併」を行い、新生・太田市となったが、大泉町は太田市との合併に合意しなかったため清水市長が嫌っていた。(市の名称でも太田か新田かで揉めた)
三洋電機が野中ともよを会長兼CEOに就任させるという人事を発表したのは2005年4月8日だった。


この三洋電機の奇抜な人事は従業員のみならず世間を仰天させた。
専門性や十分な経歴、民間企業での職歴などが微塵も感じられなかったからだ。
それがいきなり巨大企業のトップに立つ。誰だって驚く。
野中ともよ
東京都出身。都立富士高校卒。上智大学文学部新聞学科卒業後、アメリカ合衆国のミズーリ大学コロンビア校大学院に留学。帰国後フォトジャーナリストとしての活動を開始。
1979年からNHK総合テレビの報道、スポーツニュース番組でキャスターに就任。主な番組は、小林和男と共にキャスターを務めた海外ウィークリー、スポーツとニュース、サンデースポーツスペシャル等。
1993年から1997年にはテレビ東京・ワールドビジネスサテライトの2代目キャスターを担当した。
1987年には中京女子大学(現・至学館大学)の客員教授に就任。
1994年、上智大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2001年には経済界大賞「フラワー賞」を受賞。ジャーナリスト活動のほか、各種社会団体の委員、アサヒビール、ニッポン放送等企業の社外取締役や日興フィナンシャル・インテリジェンス理事長、NTTドコモ、日興コーディアル証券経営アドバイザーなどとして活躍。
2008年5月には、国連IPCC議長であり、2007年度ノーベル平和賞受賞者であるパチャウリとの間で、パチャウリが代表を務めるインドTeriとガイアイニシアティブとの活動協力を続ける。


ご覧のとおり、彼女もカトリック系の上智大学卒。
新聞学科を出てジャーナリストやキャスターになった。それはよい。
だけど経営諮問委員というのは果たして適任なんだろうか?
社会的活動
宇宙航空研究開発機構(JAXA)経営諮問委員
産業総合研究所 経営諮問委員
文部科学省中央教育審議会委員(第2期~第3期)
NPO法人ガイア・イニシアティブ代表理事
NPO法人ポイントグリーン]理事 (POINT GREEN は、鴨下一郎元環境大臣が2002年からすすめるエンターテインメントや文化の発信力を活用して「多くの人々に環境意識を発生させる」ための活動)
アースデイ いのちの森 実行委員長



もう何度か書いているが、野中ともよは「安倍晋三を囲む午年の会」と「エンジン01文化戦略会議」のメンバーである。
「安倍晋三を囲む午年の会」の発起人はフジテレビの黒岩裕治キャスター(2011年4月より神奈川県知事)。彼もどちらのメンバーでもある。
「エンジン01文化戦略会議」は文化人とか芸能人とかいろいろな人がいるが、代表は作曲家の三枝成彰、幹事長は林真理子、副幹事長の1人が秋元康であった(最新を確認していないので変わっているかもしれませんが私が記事を書いた頃はそうだった)。
iPS細胞の山中教授もメンバーに名を連ねていた。
それでそのメンバーの大部分を渡辺プロダクションが引き受けていて、渡辺プロダクションはフランス政府やイギリス・ロスチャイルドとの関係を匂わせている。
過去記事、甍(いらか)三甍(いらか)四十八 器官51など参照してください。

有志の囲む会に参加しているくらいだからどっからどう考えたって野中ともよは安倍首相派であろう。
それとも発起人を重視してフジテレビ(フジサンケイグループ)とでも言えばいいのだろうか?
ともかく、そして三洋電機は消滅した。
エンジン01文化戦略会議は地方を回って、知事や議員や有力者を取りこんでいるみたいな感じ。










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# by yumimi61 | 2017-09-05 14:18
2017年 09月 04日
日本国憲法の秘密-548- (加計学園問題について)
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昨日の図に付け足した。
松方正義は日本銀行創立者。薩摩の島津家の後援で立身出世した人物。三菱財閥をはじめ有名どころと数多くの姻戚関係を結んだ。
赤いラインを引いたのはハイヤー・タクシー会社の日本交通の創業家である。
川鍋一朗の父親が川鍋達朗、川鍋達朗の父親が川鍋秋蔵(図に名前はない)。

川鍋秋蔵は埼玉県北足立郡宮原村(後の大宮市、現・さいたま市北区)に9人兄姉の一人として生まれ、鉄道省立鉄道工業学校卒業後、鉄道省大宮工場(現・大宮総合車両センター)に勤めたが、独立を志して1919年に上京。梁瀬商会(ヤナセ)の見習い運転手となり、1921年には川崎造船所社長・松方幸次郎の運転手に転じ、将来の独立を目指す。 

松方幸次郎は松方正義の三男であり、松方三郎の養父である。
松方幸次郎の妻の父は福沢諭吉のすすめで神戸の土地を買い占めた九鬼隆義。宮内省にも勤務した。
松方幸次郎の娘と結婚したのが国際文化会館設立者の松本重治。
国際文化会館設立を支援したのがロックフェラー3世であり、国際基督教大学(ICU)もこの流れで作られた大学。
九鬼家や松本家はキリスト教徒である。

川鍋秋蔵は1928年に独立を果たした。川崎造船専属の仕事があったため事業は順調だった。
1945年川鍋秋蔵は五島慶太を紹介された。
五島慶太は長野県出身。あの松本深志高校卒業。経済的理由から一旦は進学を諦めて働き始めるも、再び上級学校への進学を目指す。紆余曲折を経て1911年29歳の時に東京帝国大学を卒業。
高等文官試験(官僚試験)に合格し、加藤高明(三菱に入社し岩崎弥太郎の娘と結婚した三菱の番頭とも呼ばれた政治家で首相にもなった)の斡旋で農商務省に入省。その後鉄道院に移った。
1944年には東條内閣で入閣している。

五島慶太の旧姓は小林で、五島は妻方祖母の姓である。
妻の父親は皇居二重橋の設計者で、結婚の際に仲人をしたのは工学博士の古市公威(帝大工科大学初代学長、理研2代目所長、土木学会初代会長)(三島由紀夫の本名はこの人由来)。
五島慶太は東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)の経営者。
川鍋秋蔵は東急系の東京タクシーを五島に譲ってもらい、以来五島慶太とは盟友関係にあったと言われている。
だが実際はそんな美しい関係がずっと続いたわけではな。
五島は慶應閥から嫌われていたからだ。

慶應義塾の創始者・福沢諭吉は薩摩の島津家や九鬼隆義から経済援助を受けている。
慶應義塾は島津家や松方家(日銀)、岩崎家(三菱)寄りの立場にあるということである。
慶應は学閥が強いことで昔から有名。
先日まで書いていた話に出てきた阪急グループ創始者も慶應出身。阪急・小林一三並びに三越・三井・三菱の三グループは全て慶應閥であり、東急グループのオーナーだった五島慶太はこの慶應閥から兵糧攻めにあった。
東急グループの母体企業・田園都市株式会社の創始者は(日本経済の父であり理研の創始者でもある)渋沢栄一であり五島ではなく、その田園都市株式会社の経営にこっそり関わっていたのが小林一三であった。
また東急電鉄の株式を握っていたのも五島ではなくフィクサー小佐野賢治であった。
小佐野は日本航空と全日空の株を買収して航空業界へ進出することを狙っていた。その後ろにはロックフェラーがいたとされる。



慶應義塾の福沢諭吉は尾崎行雄と聖公会とも関係がある。
過去記事
年初にイエズス会のことを書いた。
現皇后陛下が通われたのが聖心女子学院高等科と聖心女子大学だからである。
この学校はカトリック系。設立母体は「イエズスの聖心会」。
聖心女子大学の卒業生の中に参議院議員の山谷えり子さんがいて、尾崎行雄記念財団の顧問もされているので、財団の役員も列記した。
実は尾崎行雄もクリスチャンである。しかも聖公会の信徒であった。
1875年(明治8年)のクリスマスに、聖公会のカナダ人宣教師で英語教師でもあったアレクサンダー・クロフト・ショーより洗礼を受けた。


アレクサンダー・クロフト・ショーは宣教師として来日し、慶應義塾の近くに住んでいた。
1874年には福沢諭吉の子供たちが英語を習いに来る。そして、福沢家の家庭教師として3年間雇われる。
福沢が自宅の隣にショーのために洋館を建てる。そして、慶應義塾の英語教師に招聘される。
英語だけではなく聖書も教えるようなり、学生たちが信仰を持ち、1875年のクリスマスに尾崎行雄を含めた8人の日本人がショーから洗礼を受ける。
また、ショーは英国公使館付きの牧師に任命され、日本の指導者たちと幅広くかかわりを持った。


明治期以降の日本はキリスト教が支配してきたようなものである。
特に国際人としてグローバル社会の上層で活躍したいと思ったらキリスト教徒であることは必須条件である。それもカトリックや聖公会である必要がありそうだ。
ちなみに日産に送り込まれたカルロス・ゴーンも、ソニーに送り込まれたハワード・ストリンガーもカトリック教徒である。


ところで先生、あの人のモデルは小佐野賢治ですか?
小佐野賢治の妻・小佐野英子はジャニーズ事務所の後見人で多額の資金援助をしているんですよね?
ということは、ジャニーズ事務所に誰か想い人がいたということですか?


小佐野英子の父親は堀田正恒。
子爵・鍋島直柔の次男として生まれ、伯爵・堀田正倫の婿養子となる。
鍋島というのは佐賀藩主の家系。
鍋島直柔は1871年に鍋島家を相続した。
慶應義塾に入学し、1873年に明治政府からイギリス留学を許可されたという人物。
その息子であった正恒は伯爵・堀田正倫の娘と結婚して堀田家の養子となった。子爵から伯爵にランクアップ。
堀田は下総佐倉藩(千葉県佐倉市)の藩主の家系。

日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは明治時代以降のことである。
1884年(明治17年)7月7日に発せられた華族授爵ノ詔勅により、華族制度が設けられた。華族制度は華族令(明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)に規定された。

前にも書いたけれど世界の民主化に逆行したのが日本である。
身分が高い順に、公爵・侯爵・伯爵・子爵。そうした身分を天皇が独断と偏見によって与え、以後基本的に世襲となる。
権威者に気に入られなければ立身出世できないのが封建社会。自由競争とか実力社会とは反対な社会。
一番偉い公爵は九条道孝だった。明治天皇の母方の祖父である。現天皇の曽祖父にあたる。
近衛、島津、毛利などは公爵を授けられている。
総理大臣にもなった西園寺公望は侯爵である。(毛利を父に持ち西園寺公望の養子となった人物が昭和天皇の実父だという説がある)

但し小佐野英子の母親は堀田の娘ではない。
早くに亡くなったのか、堀田正倫は別の女性と結婚している。
その女性は仙台藩主であった伊達家の娘である。明治に入ってから生まれた伊達邦宗(31代当主)の娘。伊達邦宗もイギリスに留学している。
仙台伊達家は会津藩とともに親幕府派であったので明治維新後は憂き目を見ることになる。
伊達家分家や家臣は没落したり北海道へ渡って開拓の祖になった者もいた。
但し新政府側は親幕府派であっても主家などには爵位を授けて取りこんだ者もいて、主家であった伊達家も伯爵を与えられている。







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# by yumimi61 | 2017-09-04 15:27
2017年 09月 03日
日本国憲法の秘密-547- (加計学園問題について)
少し前に「ブログについて」という記事を書いて、その中でHTML編集の改行が面倒だと愚痴ったのですが、今日の先ほど、AUTO改行(自動改行設定)ボタンなるものがあることに気が付きました。
前からあったんでしょうか・・・だとしたら申し訳ない m( 〃..)m

これからはサクサク改行できそうです。
と思ったら新たな問題。プレビューをクリックすると、新たな画面で表示されるのではなくて同一画面で表示される(以前は新たな画面だった)。要するにそれまでの編集画面が消えてしまう。
戻るボタンで戻っても当然編集画面は真っ新おニューな状態で打ちかけた文字はなくなっている。
記事はどこに行ったのかと探してみると、どうも下書き一覧に自動的に保存されているようなのですが、そういう仕様なのでしょうか?(下書き保存ボタンではなくてプレビューボタンだけをクリックした)
しかしながらプレビューにて自動保存された下書き記事を編集し、改めてプレビューなり下書き保存なり投稿しようと思っても出来ない。
コピペし新規投稿画面に貼りつければ良いと言われればまあそうだけれども若干面倒ですね・・。
下書き保存をクリックし、下書き完了アナウンスがあったものは出来る。
書きかけて消えてしまうようなことがないように、公開前にまめに下書き保存しなさいということでしょうか。と同時にプレビューには気を付けろということでしょうね!?

ついでに凄く私事なのですが、ここ何年か私はブログ記事を一回で完成させて投稿するという形式ではなくて、一回の記事を何回かに分けて投稿しています。
最初は新規投稿ですが、2回目からの投稿は記事編集画面にて入力しているということになります。
「プレビュー・公開・下書き保存」のボタンが出てくるのは新規投稿画面のみで、記事編集画面では「プレビュー・保存」だけであり、記事編集画面では保存をクリックすれば保存だけでなく自動的に公開されてしまいます。
編集にて長文を足している時などは打ちかけた文字が消えてしまうということも発生するわけですが下書き保存が有効ではないのです。

================================
中曽根弘文―前川真理子<前川喜平の妹>
(長男)中曽根康隆・・JPモルガン証券入社、2013年より国会議(父)秘書
(長女)中曽根文子・・川鍋一朗(日本交通3代目社長)と結婚

中曽根弘文は慶應義塾大学卒。
長男の中曽根康隆も慶應義塾大学卒。
長女の中曽根文子も慶應義塾大学卒。その夫である川鍋一朗(日本交通3代目社長)も慶應義塾大学卒。

(川鍋一朗の父母)川鍋達朗―広瀬為宇
※広瀬為宇は、集成社取締役・日本陶器社長であった広瀬治郎の娘

(広瀬為宇の父母)広瀬治郎ー藤山桜子
※藤山桜子は、王子製紙取締役・大日本精糖社長などを務めた藤山雷太の娘

(広瀬治郎の父母)広瀬実光ー鄭沽龍
※鄭沽龍は北京公使館書記官であった鄭永昌の娘。鄭永昌は唐通事の鄭家8世鄭永寧の息子。


          広瀬実光・・・鄭沽龍 藤山雷太・・・江川みね
               |          |
              広瀬治郎・・・・・・・藤山桜子 
                       |
中曽根弘文・・・前川真理子  川鍋達朗・・・広瀬為宇
      |             |
    中曽根文子・・・・・・・・・川鍋一朗

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【ここでちょっとブレイク】
ブログ編集の問題はパソコンとスマホでは表示のされ方が違うということもある。パソコンで見るブログではこちらの意図した状態に反映されていないが、スマホで見るブログではちゃんと反映されているということがあるのだ。(私はほとんどパソコンで編集や投稿をしているけれども)
上の図もパソコンだと意図したもの(編集画面の図)とは線が一部ずれて表示されてしまうがスマホではきちんと表示されている。
下側のは図としてアップロードしたもの。


藤山 雷太(1863年9月13日(旧暦文久3年8月1日)- 1938年(昭和13年)12月19日)
佐賀藩出身の明治・大正・昭和の実業家、貴族院勅選議員。東京商業会議所会頭、芝浦製作所所長、大日本製糖社長、藤山同族社長、大日本製氷会長、日印協会理事、また三井財閥・安田財閥・共同の各信託会社の相談役・取締役等を歴任し、藤山コンツェルンを創立した。正五位勲三等。
1919年(大正8年)に藍綬褒章、1923年(大正12年)に紺綬褒章を受章。次いでフランス政府からレジオン・ドヌール・シュバリエ勲章を受章。安南(現在のベトナム)国王からはグラン・オフィシェ・ド・ランテン勲章を贈られた。


【ここで勲章(褒章)について一言】
褒章は、明治14年12月の「褒章条例」(太政官布告第63号)公布により、紅綬褒章、緑綬褒章、藍綬褒章が制定されたのが始まりで、以降、大正7年に紺綬褒章、昭和30年に黄綬褒章、紫綬褒章が制定され、現在に至っています。

褒章は天皇が授与する栄典である。法的には、戦前は大日本帝国憲法第15条の「其ノ他ノ榮典」であり、戦後は日本国憲法第第7条7号に該当する国事行為(同7条柱書き)であることに基づく。詳細は褒章条例(明治14年太政官布告第63号)により定められる。

戦前の絶対君主(独裁)の仕来たりが今なお重宝がられているという事実。
少なくとも反体制や戦争に反対する人が貰って喜ぶものではないと思うが。
「税金の無駄遣いになると思うので辞退します」と言えばいいのに。



私は藤山雷太についても以前書いている。東芝に関係した人である。

東芝の前身となる田中製造所は東京逓信工業よりも全然古い会社で、天才発明家と言われた田中久重が1875年(明治8年)に設立した。
1881年(明治14年)に創業者が死去。田中製造所は養子が久重を襲名して引き継いだ。
ここまでは家業であった。
しかし事業(電信機の製造)は行き詰まり、1893年三井銀行がこれを引き受け芝浦製作所と改称し、1904年に株式会社芝浦製作所として再出発した。
この時に三井銀行から芝浦製作所に送り込まれたのが藤山雷太。
芝浦製作所は1909年にアメリカのGE社に資本の1/4を引き渡して技術提携。GE社はモルガングループ企業。


藤山雷太は森永製菓創業者の森永太一郎と同じく佐賀県伊万里の出身。
慶應義塾の出身で福沢諭吉の計らいで出世した。


福澤諭吉を介して、福澤の甥であり山陽鉄道社長であった中上川彦次郎の知遇を得て、黒田清隆、大隈重信、鳩山和夫らと知り合ったという。
その後、中上川によって三井銀行に採用され、若輩ながら抵当係長という重要ポストに付けられた。その後、雷太は中上川の妻の妹と結婚し姻戚関係となった。
藤山は王子製紙の専務取締役に就任している。ということで王子製紙も三井系企業。

1909年(明治42年)に渋沢栄一に推挙され大日本製糖(現在の大日本明治製糖)の社長に就任。
この倒産寸前と評される大日本製糖を台湾での生産拡大などの経営方針で僅か2年ほどで再建させ、その後、朝鮮製糖、内外製糖、東洋精糖を合併し、規模を拡大させた。

三井退社後から、この間、駿豆鉄道社長、日本火災保険副社長、歌舞伎座取締役、出版社泰東同文局社長を歴任。帝国劇場の創立にも関わる。1917年(大正6年)から1925年(大正14年)には東京商業会議所の会頭を務め、日本商業会議所連合会会頭にも就任した。1923年(大正12年)に勅選貴族院議員となる。
この間に拡大させた企業群は『藤山コンツェルン』の基礎となる。



藤山雷太は森永製菓創業者である森永太一郎と同郷。
森永太一郎はファーストレディ安倍昭恵の曽祖父である。
彼女とその母もカトリック系の聖心出身。
森永製菓が森永乳業とは兄弟会社であるが、森永乳業はまた森永ヒ素ミルク中毒事件を起こした企業。(森永製菓はグリコ森永事件の被害企業)


美智子皇后は聖心女学院の中等科・高等科を経て聖心女子大学を卒業した。
国連難民高等弁務官など国連活動を行った緒方貞子も小学生の時にアメリカから帰国してずっと聖心であった(聖心女子大学卒)。現在はやはりカトリック系の上智大学の名誉教授でもある。
中曽根弘文の妻(前川喜平の妹)もずっと聖心だったらしい。
安倍首相の妻である安倍昭恵も聖心女子学院初等科・中等科・高等科を経て、聖心女子専門学校を卒業した。
聖心女子専門学校は英語科と保育科があり、彼女は英語科。
(トランプ大統領、英語科を卒業したからといって英語が話せるわけではありませんよ!)(それと電話会談って簡単に言うけれど、そんなに簡単なことではありませんよね?お得意のフェイクニュース?)
聖心女子専門学校はどちらの科も募集を停止したようなので、そろそろ閉校するのだろう。
明治天皇時代の教育勅語を暗唱して日本国イエーイ、安倍首相頑張れ~みたいな森友学園の籠池夫妻と安倍夫妻は意気投合したこともあったようだが、神様とか祈りとかはイエス・キリスト(あるいはローマ教皇?まさか天皇じゃないでしょ?)に通じると思われ。


第一次安倍内閣 2006年9月26日-2007年9月26日
この時に教育基本法を改正した。
安倍晋三の妻である安倍昭恵は当然公のファーストレディだったわけである。
しかしこの内閣は1年しか続かなかった。安倍晋三は突如その座を降りたのだ。
夫人である安倍昭恵が大学院へ進んだのはその後のことである。
なんでもファーストレディになってはじめて勉強してこなかったことを恥じたそうなのだ(負い目に感じた?)。
富裕層階級の、とくに聖心女子大学卒のレディたちによる陰湿なイジメでもあったのでは?
「同じ聖心として恥ずかしいですわよね~」とかなんとか。
それで昭恵は大学進学を考えたらしいのだが、一から学生やるのも・・(勉強したいんじゃないんですかっ!)
編入はどうかしら!?(短大ならともかく専門学校からの大学編入は無理ですっ!)
じゃあ大学院は?(えっ大学飛ばして大学院?そんなのダメに決まってるでしょっ!)(え?いいですよ、どうぞどうぞ!?)
安倍昭恵は立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科修士課程を2011年に終了し、修士号を得たらしい。
修士論文は「ミャンマーの寺子屋教育と社会生活 —NGOの寺子屋教育支援—」!?
(いやいや待って、おかしいでしょっ!なにこれ、忖度?御意向?圧力?お金?来る者拒まず?)
立教大学はアメリカ聖公会系の大学。聖公会はイギリスのキリスト教。
昭恵の祖父・父・弟が立教大学出身のようだ。やはりキリスト教徒一家なんでしょうかねぇ?



中曽根文子の夫・川鍋一朗の母は広瀬為宇で、広瀬為宇の母方の祖父が藤山雷太、父方の祖父が広瀬実光。
広瀬実光は日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)の社長だった人物。
日本陶器合名会社は6代目森村市左衛門と異母弟である森村豊が創立した会社である。
その後さらに、日本碍子(日本ガイシ)、東洋陶器(現:TOTO)、日本特殊陶業を設立した。
森村家はもともと旗本屋敷などに出入りする武具商であり、広瀬家は土佐藩主の家臣の家系で、仕事柄両家は親しい間柄にあった。
実光の父親・広瀬実栄は明治維新後、近衛第一大隊長として新政府に出仕したが,1873(明治6年)に板垣退助と共に下野。
板垣退助に近い存在であったということは、吉田茂の実父と言われている竹内網のこともよく知っていたであろう。
広瀬実栄は森村市左衛門が開業した森村銀行銀行の初代頭取となる。


ところで森村市左衛門や森村財閥を覚えているだろうか。
日本銀行創設者の松方正義の14男が7代目森村市左衛門(森村学園創始者、日本ゴルフ協会初代会長)の養子であったため、松方正義の家族について書いている時にページを割いた。
森村豊は渡米の船が一緒だった群馬出身の生糸貿易商・新井領一郎(旧名:星野良助)と知り合い、パートナーシップによって生糸輸入販売の会社(森村・新井商会)を設立した。
松方正義の9男の妻は新井領一郎の長女であり、夫妻の娘の1人は駐日アメリカ大使でライシャワー事件で有名なエドウィン・O・ライシャワーと結婚した。(過去記事
森村財閥の基礎を作ったのは6代目と異母弟、森村家にとって恩人となった新井領一郎。
森村家を継続的に支援していたのは慶應義塾創始者の福沢諭吉。

森村市左衛門6代目は貿易の専門家として日本銀行設立時の監事であった。
また教育・社会活動にも非常に積極的で、とくに、慶應義塾大学、日本女子大学、高千穂大学には多額の寄付を行った。

日本女子大学とはNHKの朝ドラ『あさが来た』の主人公のモデルだった三井家のお嬢様・広岡浅子が創立したとされる大学。
創立にあたっては、東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣伊藤博文、学習院院長近衞篤麿、文部大臣西園寺公望、財界人渋沢栄一、岩崎弥之助等各界の重鎮の多大な支援を受け、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され開校。(『わたしの大学』日本女子大学より引用)

大隈が日本女子大学の創立に関与しているため早稲田大学にも寄付を行っている。
また日本女子大学・学習院大学・学習院女子大学・立教大学・早稲田大学は学生交流協定を結んでおり、上記の関係を今に引き継いでいる。
高千穂大学の創始者・川田鐵彌は土佐(現:高知市)生まれ。
高知県尋常中学校と東京帝国大学(現:東京大学)を卒業して文部省に入り、 陸軍幼年学校の教官や東京専門 学校(現:早稲田大学)の講師をしていたという人物。
1903年(明治36年)に高千穂学校を創立した。戦後に大学となった。


松方正義の14男が養子入りした7代目森村市左衛門の妻は長州五傑の1人井上勝の長女。
松方正義の10男(日本銀行金沢支店長、日本特殊陶業監査役、共立原料各監査役)の妻も井上勝の三女。
井上勝の実子は女子のみで、次女の夫(松浦勝純)が井上家に養子に入る(婿養子・井上勝純)。
井上勝純夫妻の娘は東大名誉教授・鈴木竹雄の妻となる。
鈴木竹雄は鈴木商店(現:味の素)の2代目社長(創業者の弟)・鈴木忠治の三男。
鈴木商店とは味の素の前身で森&安西コンビへの出資者であり、昭和電工の創業者の1人。
ぐるぐる回ってまたこのコンビというかトリオというかに戻ってきましたね。







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# by yumimi61 | 2017-09-03 14:12
2017年 09月 01日
日本国憲法の秘密-546- (加計学園問題について)
中曽根康弘―小林蔦子<明治大学・早稲田大学教授であった小林儀一郎の三女>
(長男)中曽根弘文
(長女)中曽根美智子・・明治大学専務理事双川喜一の孫にあたる弁護士双川喜文の長男と結婚
(次女)中曽根美恵子・・元NHKアナウンサー。鹿島家娘婿の子で鹿島建設社長であった渥美健夫の長男と結婚

※中曽根康弘の妻の父である小林儀一郎の息子・小林義治は日本工業新聞社社長、産経新聞社専務であった。
また中曽根康弘の長女の息子であり双川正文はフジテレビのプロデューサーである。
このように中曽根家はフジサンケイグループと無縁ではなさそうだが、フジサンケイグループは「新しい歴史教科書をつくる会」や日本会議と関係がある。

「新しい歴史教科書をつくる会」
 ①残留組
 ②離脱組=日本教育再生機構(2006年発足)、改正教育基本法に基づく教科書改善の会(2007年発足)

「新しい歴史教科書をつくる会」=扶桑社(フジサンケイグループ)⇒2007年に関係解消
 ①残留組―自由社
 ②離脱組―扶桑社・育鵬社(扶桑社が新たに設立した子会社)
※豆知識―育鵬社の「鵬」は中国の伝説の鳥である。

上記のように「新しい歴史教科書をつくる会」は分裂した。
離脱組が安倍内閣をバックに新たに結成した日本教育再生機構(2006年発足)と改正教育基本法に基づく教科書改善の会(2007年発足)には日本会議が関わっている。
しかし残留組が組んだ出版社の社長で、つくる会の顧問もである加瀬英明は、日本会議の監事及び代表委員でもある。

ということで完全に分裂しているわけではないと考えられる。


中曽根弘文―前川真理子<前川喜平の妹>
(長男)中曽根康隆・・慶應義塾大学卒、JPモルガン証券入社、2013年より国会議員(父)秘書
(長女)中曽根文子・・慶應義塾大学卒、川鍋一朗(日本交通3代目社長)と結婚

※中曽根弘文の妻が前川喜平の妹であるが、前川真理子は美智子皇后と同じく聖心(カトリック系の学校)出身であるらしい。
ちなみに中曽根弘文議員は「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員」に属している。

※中曽根弘文・真理子夫妻の長女(前川喜平からみると姪)は、日本交通社長・川鍋一朗の妻である。
日本交通は日本交通公社(現JTB)のことではなくてハイヤー・タクシー会社である。
日本交通と川鍋という名を覚えているだろうか?
千葉県勝浦の森・安西というカジメ拾いの漁師コンビの姻戚関係に出てきた。

森興業(日本沃度→日本電気工業)、昭和肥料、東信電気、これらは漁師一家出身の森&安西コンビが関わった会社である。
スポンサーは、ヨード事業を手掛けていた鈴木商店で成功を収め、味の素を創業した鈴木三郎助。
電力事業を行っていた東信電気は国家統制に組み込まれることになった。後に東京電力の一部となる。
日本電気工業と昭和肥料は合併して昭和電工となった。

安西八郎兵衛(勝浦の貧しい漁師)
 |
安西直一
(森矗昶より12歳年上で豪農の娘と結婚した森矗昶の仲人となる、後に千葉県議会議長)
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安西浩(東京瓦斯会長)・・・帝国コークス社長の娘と結婚
安西正夫(昭和電工会長)・・・森矗昶の長女と結婚

安西浩の長男・一朗(昭和アルミニウム社長)
 東京大学名誉教授で癌研究会癌研究所所長でもあった吉田富三の娘と結婚
安西浩の長女・和子 ・・・佐藤栄作首相の次男と結婚
安西浩の次男・邦夫(東京ガス相談役)・・・日本交通社長であった川鍋秋蔵の娘と結婚

安西正夫の長男・孝之・・・日清製粉会長の正田英三郎の娘(皇后美智子の妹)と結婚
安西正夫の次男・直之・・・住友財閥の創業家住友家16代当主吉左衛門の娘と結婚
安西正夫の長女・千世・・・政治家大橋武夫の長男である大橋宗夫と結婚
安西正夫の次女・八千代・・・現在も武蔵野音楽大学の学長である福井直敬と結婚
安西正夫の三女・公子・・・住友銀行会長堀田庄三の長男でモルガン・スタンレー証券会長堀田健介と結婚

中曽根弘文・真理子(旧姓:前川)夫妻の娘の結婚相手である川鍋一朗の父は川鍋秋蔵の息子である。

森為吉(勝浦の貧しい漁師)
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森矗昶(豪農の娘と結婚隣家の安西直一に仲人を依頼し、以後ビジネスパートナーとなる。森コンツェルン創始者)
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森暁(昭和電工社長、衆議院議員)・・・外務官僚で貴族院議員であった室田義文の孫と結婚
森清(昭和火薬社長、衆議院議員)・・・1965年河野一郎亡き後、中曽根康弘らと対立し森派を形成
森美秀(昭和火薬社長、衆議院議員)森満江・・・父森矗昶のビジネスパートナー安西直一の息子の安西正夫と結婚
森睦子・・・三木武夫首相と結婚
森三重子・・・三重県知事や衆議院議員であった田中覚と結婚(田中は再婚)



中曽根弘文は慶應義塾大学卒。
長男の中曽根康隆も慶應義塾大学卒。
長女の中曽根文子も慶應義塾大学卒。その夫である川鍋一朗(日本交通3代目社長)も慶應義塾大学卒。

(川鍋一朗の父母)川鍋達朗―広瀬為宇
※広瀬為宇は、集成社取締役・日本陶器社長であった広瀬治郎の娘

(広瀬為宇の父母)広瀬治郎ー藤山桜子
※藤原桜子は、王子製紙取締役・大日本精糖社長などを務めた藤山雷太の娘

(広瀬治郎の父母)広瀬実光ー鄭沽龍
※鄭沽龍は北京公使館書記官であった鄭永昌の娘。鄭永昌は唐通事の鄭家8世鄭永寧の息子。

唐通事
唐通事とは、江戸時代の長崎や薩摩藩、琉球王国などに置かれていた中国語の通訳のこと。長崎においては、慶長9年(1604年)に在留明人の馮六官を唐通事に任じたのが初例とされ、以後日本語の出来る在留中国人とその子孫が一子相伝を原則として任じられた。
確実に両国の言語が理解できる環境を維持するために代々継承という形を採ったのだろうと思う。
鄭家と鄭永寧
長崎で唐通事を務めていた鄭家の初代は父親が中国人で母親が日本人のハーフであり、以後その子孫が継いできた。
鄭永寧は鄭家の8世にあたるが、彼は養子である(本姓は呉)。幾つの時から鄭家で育ったのかは不明。ともかく鄭家と血の繋がりはない。
そしてこの8世鄭永寧の時代は明治維新とともにやってきた。
長崎から東京に移り、1869年(明治2年)に外務省入りした。
以後、呉家は外務省や東京外国語学校で学び、外交官や三井物産などで働いた。



少し話がずれるが、「呉」という姓は中国によくある姓である。
また広島県には瀬戸内海に面して呉市が存在する。

(呉市は)地形的に天然の良港と言われ、古くは村上水軍の一派が根城にしており、明治時代以降は、帝国海軍・海上自衛隊の拠点となっている。第二次世界大戦中は、帝国海軍の拠点でもあり、当時は全国10大都市に数えられるほどの実に40万人を越える人口を抱えていた。

呉市山手の通称「山手の谷」はもともと被差別部落ではなかったが、1889年の軍港開設と共に海軍に納める牛豚肉のための屠場が設けられ、続いて火葬場や海軍の監獄、野犬処理場等が作られ、この付近に住む人々が賤視されて被差別部落になったとされる。山手の入口にある上山手橋には地獄橋の異名があった。

瀬戸内海沿岸に散在する部落について、「瀬戸内海ですと、村上水軍ですとか、塩飽水軍などの名前を聞くはずですが、村上水軍の一番の支配者の人は部落ではないのですが、水軍のかなりの部分は、現在でも被差別部落民です」(『江戸の非人 部落史研究の課題』本田豊、三一書房、1992)、「海岸や沖合警備の名目で瀬戸内の島々に政策的に配備された部落は、豊臣秀吉によって壊滅させられた村上水軍の系統を引くものではないか―そのように私は考えるのだ」(『日本民衆文化の原郷』沖浦和光、解放出版社、1984)との考察がある。

部落差別は江戸時代の身分制度の名残だとされてきたが、どうもそうではないらしい。

士農工商(四民)は、古代中国から用いられた言葉で、紀元前1000年頃には既に見られる。意味としては、漢書に「士農工商、四民に業あり」とあるように、「民」の職業は4種類に大別されるということになる。そして、これを連続して表記することで、「老若男女」のように、あらゆる職業の民、つまり「民全体」または「みんな」といった意味で使われる。
近世日本では、遅くとも17世紀半ばまでに「士」が武士を意味するように意味が改変されて受け入れられた。また、近代以降には「士農工商」が近世の身分制とその支配・上下関係を表す用語として認識されるようになった。しかし、1990年代になると近世史の研究が進み、士農工商という身分制度や上下関係は存在しないことが実証的研究から明らかとなり、2000年代には「士農工商」の記述は教科書から外されるようになった。

広島県は原爆が投下された町だとされるが、実はそこには福島という名のかなり大きな被差別地区があった。

県内には414ヶ所あるいは422ヶ所の同和地区があったが(解放同盟広島県連副委員長の本山清によると450ヶ所)、中でも最大の被差別部落は広島市西区の福島地区(福島町、南三篠町、都町)であり、規模の大きさは全国で五指に入る。広島県社会課による1925年の調査によると福島地区の戸数は894戸を数えたが、1945年8月6日の原爆投下で多大の被害を受け、福島町の人口の6割以上が被爆した。






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# by yumimi61 | 2017-09-01 15:03
2017年 08月 31日
日本国憲法の秘密-545- (加計学園問題について)
犬猫も家畜も減少傾向にあり、今後増加するとも思えず、獣医師の需要増は見込まれない。
国際的にも日本の獣医師数は家畜数に比べると多いという状況にある。
従って獣医師養成を目的とした獣医学部を新設する理由などどこにもない。
獣医師は民間資格ではなく国家資格であるからして、何の理由なく個人の夢や野望で増加させたり認可したりは出来ないであろう。
獣医学部の新設が長いことなかったことは別に不思議なことではないのだ。
また地域性や加計学園系列学校の実績を鑑みても、四国の愛媛県や加計学園が獣医師養成を担う必要はない。

獣医師増の必要はないという客観的事実→規制(新設は認めない)

岩盤規制を打ち破るのが国家戦略特区だとしているのだから、それは言い換えれば国家戦略特区は客観的事実を必要としないということになる。
調査もビッグデータも必要ない。
誰かの夢や野望、誰かの感情や縁故、そういうものがまかり通るのが国家戦略特区である。


教師の「依怙贔屓(えこひいき)」というものが古くから噂されたり問題になったりするように、差別にも通じる「依怙贔屓」は根の深い問題である。
客観的事実や集団の目的に合致した依怙贔屓(差別)なのか、それとも個人的な感情によるものなのかという違いがまずあると思うが、差別自体を忌み嫌う社会ではどちらであっても受け入れがたいのであろうし、確かにボーダレスな部分があることも否めず。
また客観的事実が例えば「あの子は見た目が可愛い」「あの子は可愛くない」「あの子は素直」「あの子は反抗的」だとしたら、その客観的事実による依怙贔屓(差別)が許されるのかどうかという問題にぶつかる。
問題と書いたが「美少女コンテスト」とか「ミスなんとか」とか「イケメン」とか見た目差別なんて十分に社会的コンセンサスを得ている観がある。
勉強が出来る子と同じように運動が出来る子も評価されるべきだという視点に立てば、勉強も運動も出来なくても見た目が良いことが評価されるべきという意見も無下には出来ない。
人間だから好き嫌いがあるのは仕方がないと言ってしまえば全てそれで終わってしまう。
そしてたぶん一番根が深いのは、他人が依怙贔屓をされるにはとにかく不愉快だが自分がされている分には(あるいは自分がしている分には)一向に構わないという人が多数を占める事であろう。
差別反対と言いながら自分が差別されることは気にならない。
差別反対と言いながら自分が差別することに対しては無頓着。
だから世の中は平等のようでいて(総論)、実はあっちにもこっちにも差別が蔓延している(各論)。
差別が蔓延しているのだから差別がなくなるわけないではないか。
国家戦略特区もそれにどこか似ている。
戦略を良き物としているのだから闘争が無くなるわけないではないか。戦う気満々なのである。しかも国家という冠が付いているわけだから国家レベルの戦いである。


愛媛県今治市が国家戦略特区に決まったのが2015年のことである。

首相官邸ホームページより平成27年12月15日 国家戦略特別区域諮問会議
(ラインは私が入れたものです)

平成27年12月15日、安倍総理は、総理大臣官邸で第18回国家戦略特別区域諮問会議を開催しました。

 会議では、「区域計画の認定」、「1次指定6区域の評価」及び「国家戦略特区の3次指定」について議論が行われました。

 総理は、本日の議論を踏まえ、次のように述べました。

「本日も、国家戦略特区で大きな成果が上がりました。
 家事を支援する外国人が、来年3月から神奈川県の各家庭で活動を始めます。これにより家事を担っている方々の負担が軽減され、活躍の幅が広がります。特に仕事を持つ家庭人には、大きな支えとなることと思います。
 全国で10番目となる国家戦略特区を、新たに決定しました。瀬戸内のしまなみ海道でつながった、広島県と愛媛県今治市です。
 例えば、しまなみ海道の『道の駅』の民間による設置、ライフサイエンスなどの新たに対応すべき分野における獣医師系の国際教育拠点の整備など、観光、教育、創業などの分野で、国際的な交流人口の流れを呼び込み、地方創生を実現します。
 
 医薬品などのドローンによる宅配を実証する千葉市や、福岡市と連携しながら高齢者の雇用を進める北九州市を、新たに特区の対象にします。  安倍政権の国家戦略特区に、終わりはありません。自治体や事業者の方から経済効果の高い規制改革提案があれば、これからもスピーディに対応してまいります。
 1つ1つの具体的事業を実現し、そのために必要であれば、新たな区域を指定してまいります。」
 

国家戦略特区で国家レベルの戦いのはずだが、安倍首相はどうも広島県と愛媛県今治市に国際人を呼び込みたいらしい。
国際人とは何かという議論もあるだろうが、簡単に言えば外国人ではないだろうか。
国家レベルの戦いに外国人を取りこむ・・国家とは何か・・国家とはどこか・・?


「国家戦略」において学校を作るならば私立学校なんか頼りにせずに国家が責任を持って国立で行えと言いたいが、日本国はすでにあった国立大学も手放している状態である(法人化)。
教育になんかもはや興味がないか、教育は手に負えないのか、それとも金欠なのか。
国立と私立の差も明確ではない。私立にも補助金いっぱい出しているし年金その他優遇しているし。


こうなってくれば客観的事実よりも個人の感情や縁故が優先されていると判断されても仕方ないであろう。
さらに加計学園は個人の感情や縁故が優先されるに相応しい背景を持っている。


「加計ありき」
前川喜平・前文部科学事務次官でなくたって、客観的(証拠)状況的(証拠)からそう思う。
これについて加戸守行・前愛媛県知事はどのように発言したかと言えば次の通り。

「(略)アメリカに、あるいはイギリス、ヨーロッパに10年遅れていると私は思います。10年の後れを取り戻す大切な時期だと、そんな思いできょう、参上させていただいたわけでありまして、そのことがらはそんな意味での地方再生、東京一極集中ではなくて、地方も頑張るんで地方も国際的拠点になり得るんだよと。そういうもののモデルケースとして、愛媛県の、今治の夢を託している事業であって、『加計ありき』と言いますけど、12年前から声をかけてくれたのは加計学園だけであります。
 私の方からも東京の有力な私学に声をかけました。来ていただけませんかと。けんもほろろでした。
結局、愛媛県にとっては12年間加計ありきでまいりました。いまさら、1、2年の間で加計ありきではないのです。それは愛媛県の思いがこの加計学園の獣医学部に詰まっているからでもあります」


加戸守行・前愛媛県知事は「加計ありき」を否定していない。
昨日今日の仲ではない、12年も前から加計学園ありきだったんです!と証言している。(12年前と言うと、2005年ということになりますね)
12年も前から安倍首相の友人である加計学園の理事長は獣医学部を設立を考えていた。
報道機関は加戸・前愛媛県知事の「加計ありき」発言もちゃんと報道してください!

一方で国家(国立)や国立大学法人や東京の有力私学は獣医学部新設や愛媛県での設立に見向きもしなかった。
それはつまり、必要がない、勝算がないと見做していたからであろう。
名だたる組織法人が勝算がないと判断したことに加計学園が乗り出せるのはどうしてだろうか?内閣がゴーサインを出せるのは何故だろうか?
腐るほどお金がある資産家揃いだから採算度外視?ついでに目的達成見通しも度外視?
魔力・超自然力による変質があるはずだから、名だたる組織法人の「勝算がない」は当てにならん?


お二人が閉会中審査の証言者となり、さらにその模様の報道に偏りがあったと取り沙汰されため、二人が対立軸のような印象を世間に与えたが、「加計ありき」については一致している。
加戸・前愛媛県知事は日本会議・教科書問題その他で内閣(官邸)に近い存在であるため、内閣(官邸)vs前川・前文科事務次官という構図は一見もっともらしく見えるが私はやや疑問に感じている。


前川喜作 早稲田大学理工学部卒 前川製作所創業者
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(長男)前川昭一 早稲田大学政経学部卒 前川製作所2代目社長(後に前川産業の社長)
(次男)前川正雄 早稲田大学理工学部卒 前川製作所3代目社長
※前川産業は前川製作所グループで不動産賃貸管理業を行う会社

前川・前文部科学事務次官は前川昭一の息子。前川製作所を継いでもよかった立場にあった。

前川製作所
株式会社前川製作所は、東京都江東区に本社を置く、日本の総合機械製造企業である。産業用冷凍機を始め、各種ガスコンプレッサーやそれらの周辺機器、食品加工機械などを製造・販売している。1924年(大正13年)に前川喜作が創業し、創業以来、世界各地に拠点を構えている。アンモニアを使った産業用冷蔵機では国内の60〜70%、冷凍運搬船用の冷凍設備では世界の80%以上のシェアを占めており[要出典]、世界三大冷凍機メーカーの一つと称される[誰によって?]業界最大手[要出典]である。

産業用冷凍機とは業務用冷凍機とは違うものであろうか。
業務用冷蔵冷凍庫・ショーケースと言えば三洋電機と言われて、確かにお店や施設で目にする冷蔵冷凍機にはSANYO製であることが圧倒的に多かった。(三洋電機の多くはパナソニックに吸収された)
冷蔵冷凍技術にも多種あり、その冷蔵冷凍技術は空調にも関係しているし、バイオメディカが扱うフリーザーがやインキュベーターにも関係している。
三洋電機が開発した世界初の製品も多々あり、シェアがトップクラスというものもある。(東京ドームの空調に利用されている吸収式冷凍機も三洋電機が手掛けたもの)
STAP細胞お披露目の写真撮影会の写真にもSANYOやPanasonicマークが写りこんでいる。(〇を付けた箇所)(小保方女史は早稲田大学理工学部卒)(STAP細胞騒動時の下村博文・文科大臣は群馬県出身で早稲田大学卒、選挙区は東京都板橋区)
(写真は過去記事に使ったものです)
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(前川昭一の長男)前川喜平
(前川昭一の長女)前川真理子・・中曽根康弘の息子である中曽根弘文と結婚
(前川昭一の次女)前川マヤ・・小泉グループのオーナーで東天紅社長の小泉和久と結婚

※中曽根弘文
自由民主党所属の参議院議員(6期)、自民党群馬県連会長。父は元内閣総理大臣の中曽根康弘。外務大臣(第142代)、文部大臣(第126・127代)、科学技術庁長官(第59・60代)、自民党参議院議員会長(第27代)などを歴任している。
私は昨年6月の参院選の時に選挙カーの後続車になったことをブログに書いた
・今日夕方車を運転していたら、目の前に選挙カーが現れた。(途中どこかで選挙カーの後続車となった)
某〇民〇の某候補の選挙カーで、車両の後ろ側に御立ち台(ステージ?)があるタイプの選挙カーだった。


某候補は中曽根弘文であるが、本人は此処に非ず。
代わりに群馬県議と太田市議が1人ずつ乗っていた(御立ち台に)。
誰かなぁと思っていたら以心伝心な感じでアナウンスがあって分かった次第。でも市議は誰だったか忘れてしまった。
県議は たぶんこの人だったと思う。
実はもはや名前は全然覚えていないのだが、当時調べてみたら太田医療技術専門学校理学療法学科卒業とあった。私はそこの卒業生を知っていたので印象に残っており、今回も学校と議員で調べて辿り着いたというわけ。

その県議の経歴を今回じっくり見てみたら専門学校以外にもへぇ~と思うことがあった。
社会福祉法人同仁会本部!
わたし、同仁会のことも前に書いたことがあるのですよ。(思い切りローカルネタの こちらの記事
(略)
そして2012年、そこは「サービス付き高齢者住宅 ぐるっぺ絆」になった。 運営しているのは大泉町にある「社会福祉法人 同仁会」という法人である。
旧太田市内にも施設を持っていたり、太田市養護老人ホームを受託したりしている。
ホテルプラザニッタ跡の高齢者住宅の落成式には太田市の清水市長や笹川県議(現在は衆議院議員、笹川良一の孫)も出席したという。
(余談ですが、あちこちで見かける笹川県議のポスターが何となく某アナウンサーに似ている気がするんです。気のせいですかね?視力が落ちているんじゃないか?)


※小泉グループ
中華料理レストラン事業の東天紅、小売業のアブアブ赤札堂、富士サファリパークを運営する小泉アフリカ・ライオン・サファリ等を有しているグループ。



少し前に書いた歴史教科書問題第一次は1982年、第二次は1984年だった。
第一次は文部省が「侵略」という言葉を書き換えさせたと一斉に報じたが、結局担当した日本テレビ記者の間違いで誤報という結果であり、書き換えさせたという事実はなかったというもの。
この顛末に納得がいかなかったのが当の日本テレビや系列の読売新聞ではなくて朝日新聞や週刊朝日だった。
読売の渡邊恒雄(東京大学)は元共産党員であり、実は朝日新聞社への入社を希望していたが不採用になったと後年本人が語っている。
渡邊は新しい歴史教科書をつくる会の出版社・自由社の社長であった石原萠記(早稲田大学・東洋大学)と学生時代に学生運動などもしていた。
渡邊は読売新聞にて政治家の番記者として大物政治家と繋がりを強め、フィクサーの児玉誉士夫とも親しくなり、CIAのスパイだったとも言われる正力松太郎や元共産党員である秘書を介して中曽根康弘や田中角栄とも親密になり、やがて自分もドンやフィクサーと呼ばれようになる。
中曽根に秘書には東大卒で渡邊家に住んでいたこともあるという小林克己がいて、田中の秘書には早稲田大学卒の早坂茂三がいた。保守系と呼ばれる政治家の側近にかつて学生運動にのめり込み共産党に入党までした人達がいたのだ。
共産党系つまり左翼であるから中韓などアジア寄りなのかと言うとそうでもなくて、新しい歴史教科書をつくる会に見られるように自虐的歴史は良しとしない(アジアに侵略した事実などないという)立場を取っていたりする。
第二次は「日本を守る国民会議(現在の日本会議)」編の高校用教科書が天皇中心の記述であり「天皇の人間宣言」も記載されていなかったことから中国が批判し、それを受けて中曽根康弘首相が文部省に検討を要請、異例の再審議が行われたという問題。
この歴史教科書問題の一件にも加戸守行・前愛媛県知事は当時文部官僚として関与している。

中曽根康弘は1985年日航機123便墜落時の首相でもある。
この事件にも文部省が関係しているという説もある。
その3日後の8月15日に公式に中曽根首相は靖国参拝をして物議を醸した。
リクルート事件はその3年後の1988年、朝日新聞のスクープにて発覚した。

中曽根康弘・前首相(当時)にも、加計学園創立者が後援会長を務めた宮澤喜一副総理・大蔵大臣(当時)にも、安倍首相の父である安倍晋太郎党幹事長(当時)にもリクルートコスモス社の未公開株が譲渡されていた。 
この時に文部官僚だった加戸はリクルートから接待を受けていたことが判明して文部省を辞職した。
前川文科事務次官が中曽根家と親戚というのはなかなか重い事実である。
中曽根と親密な関係にあった渡邊が支配した読売がスキャンダラスな報道をしたことも意味深長。時代が違うと言えばそれまでだが、ある時期の関係性を思えば報道しない選択だってあったはずである。

1988年6月18日に川崎駅西口再開発における便宜供与を目的として川崎市助役へコスモス株が譲渡されたことを朝日新聞が『川崎市助役へ一億円利益供与疑惑』としてスクープした。当時再開発が行われていた明治製糖川崎工場跡地の再開発事業であるかわさきテクノピア地区に関して、本来容積率が500%のところを800%に引き上げて高層建築を可能とさせるのが目的であったと報道された。

明治製糖は渋沢栄一らが台湾に創立した会社。川崎工場は1912年に設立された。
明治製糖は1996年に大日本製糖株式会社と合併し大日本明治製糖になったが、大日本製糖の前身・日本精糖も渋沢栄一が設立している。
日本で初めて角砂糖を作ったのが大日本製糖である。

7月になるとマスコミ各社の後追い報道によって、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮澤喜一副総理・蔵相、安倍晋太郎自民党幹事長、渡辺美智雄自民党政調会長ら、自民党派閥領袖クラスにもコスモス株が譲渡されていたことが発覚した。90人を超える政治家がこの株の譲渡を受け、森喜朗は約1億円の売却益を得ていた。時の大蔵大臣である宮澤は衆議院税制問題等に関する調査特別委員会で「秘書が自分の名前を利用した」と釈明した。さらに学界関係者では、政府税制調査会特別委員を務めていた公文俊平にも1万株が譲渡されていたことも判明した。
これだけ政治家が関与しながら、ロッキード事件の田中角栄のように逮捕起訴された政治家はいなかった。
こうなるとみな共犯であり共謀であるような感じ。
もっとも元首相が逮捕起訴されたほうが異例と言えるかもしれないが。



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# by yumimi61 | 2017-08-31 14:33
2017年 08月 28日
日本国憲法の秘密-544- (加計学園問題について)
前橋放送局の皆さん、私もこちらの本でしたら持っています!

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神尾哲男
埼玉県深谷市出身。1952年生まれ。
料理研究家、「料理工房神尾」主事。
1974年東京都目黒区「自由が丘トップ」にてフレンチシェフ澤部喜次氏に師事する。
1976年、池袋「レストランブッシェ」の料理長として迎えられる。
1982年、群馬県前橋市の本格フレンチレストラン「食卓物語」のオープンに伴いシェフに。以来、群馬県内を中心にキャリアを重ねるが、2003年に末期ステージ4の前立腺がんが判明。
骨とリンパ節への転移も判明し、医者からは「なぜ生きていられるのか?死んでいてもおかしくない」と驚かれる。
がんを抱えながら2007年、前橋市に「レストランポコ」開業。体に優しい料理は評判を呼び、多くのファンに惜しまれながら2013年に閉店。
その後は「料理工房神尾」を構え、健康に生き続けるための料理を提唱し、後進の指導にあたっている。2016年クラウドファンディングによる初著書『奇跡のシェフ』(上毛新聞)刊行。
2017年4月末に体調が悪化し前橋赤十字病院に入院。5月4日に同病院にて死去した。


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野村総合研究所(NRI,野村総研)
東京都千代田区大手町に本社を置く、日本の最大手シンクタンク、コンサルティングファーム、システムインテグレーター。
日本初の本格的な民間シンクタンクである株式会社野村総合研究所 (NRI) と、日本で初めて商用コンピュータを導入したシステム開発会社である野村コンピュータシステム株式会社 (NCC) が合併し、現在の野村総合研究所が誕生した。この合併により、リサーチ、コンサルティング、ITソリューション、システム運用等をトータルに提供する会社となる。

野村総合研究所 (NRI)の設立は1965年で、野村コンピュータシステム (NCC、前身は野村電子計算センター)の設立は1966年。両社が合併したのは1988年。写真の本は1990年に発行されたもの。
野村電子計算センターで思い出したので過去記事に関して追記。
前に私はベネッセの情報漏洩を記事にしたことがあり、赤ペン先生(進研ゼミ)のアルバイトをしていたと書いたことがあるが、それを扱っていたのは高崎共同計算センターだった。

文科省が実施している「全国学力・学習状況調査」は民間企業に丸投げしているらしいが、小学生部門を受注していたのが情報漏洩させたベネッセであるという記事はコチラ
さらに大きな問題はこれだけ大規模なテストが民間業者に丸投げされていることだ。
小6は大規模な個人情報流出が最近話題になったベネッセが受注しているそうだ。
やはりベネッセは国や自治体との結びつきが非常に強いと考えられる。

生活・学習環境の調査までされるにもかかわらず、民間企業・教育産業(小6はベネッセコーポレーション、中3は2007年度がNTTデータ・2008年度からは内田洋行が受託)に情報管理を任せていいのかという指摘がある。全日本教職員組合は特にベネッセコーポレーションが教育産業であり、情報が利用・転用される可能性があることを指摘してきたが、2014年度も小6はベネッセコーポレーションが受託した。

ベネッセにもなかなかご縁があるのですよ。
ある夏休み明けのこと、次男の高校の修学旅行の説明会と進路のための講演があった。そのことも記事にした

修学旅行説明会は1日だけでなく2日設けられていた。
9月3日 進路講演会+修学旅行説明会
9月4日 修学旅行説明会
私は修学旅行説明会のみの9月4日のほうに出席した。出席者はこちらのほうが少なかった。
前日行われた進路講演会の資料は翌日参加者にも配布された。
講演は全国学力テストや高校における模試をほぼ独占化したあげく、個人情報を大量に流出させたベネッセによるものだった。
講師はベネッセ社員。
2004年に大学入学しているので1985年生まれだろうか。そうだとすると日本航空123便が群馬県に墜落した年ですね。
今年で29歳。しかしベネッセに入社してからはまだ1年足らず。新人。
先輩達と立ち上げたベンチャー企業での経験が一番長いわけだが何の会社なんだろう。講演では語られたのだろうか。(出ればよかったじゃん?)
関東圏の事情に強い人のほうが良いような気もするが、気のせいでしょうかね。
この講師の方の経歴が資料に掲載されていたのだが、2008年神戸大学を卒業してリクルートに入社している。でも1年ちょっとで退社。
あららららら?


野村総研の説明に戻ります。
金融業・流通業に強みがあり、日本郵政公社(現・日本郵政グループ)の郵政総合情報通信ネットワーク、簡易保険システムの構築など、公共分野も拡大している。
米国ペンシルバニア大学による2015年および2016年グローバル・シンクタンク・ランキング(営利企業部門)では、5位に位置づけられている。また、給与水準は極めて高く、全従業員の平均年収は1,156万円 (2015年度) である。
なお、野村ホールディングスとは一定の資本関係があるものの、子会社ではない。

野村総研は日本郵政公社(現・日本郵政グループ)のネットワーク構築にも関与しているようだが、今年の5月に野村不動産と日本郵政との間に不穏な動きがあった。

日本郵政は2015年に買収したオーストラリアの物流会社の業績が悪化し巨額の損失を計上したのだが、この買収を主導したのは東芝社長も務めた西室泰三。
今年の5月頃、そんな巨額損失を出した日本郵政が野村不動産を買収するという報道があったのだ。
結局なくなったらしいが、日本郵政が不動産業に力を入れたいと考えていることを露呈した。
郵政民営化を果たしたのは小泉政権であるが、民営化して日本郵政になる前の日本郵政公社だった時代(民営化移行期)に日本郵政が多くの不動産を売却した先がリクルートコスモス社。
リクルート事件は、リクルート社がリクルートコスモス社の未公開株をが政治家や官僚、NTT経営陣などにばら撒いたという事件である。
この時にリクルート社から多額の接待を受けていたことが判明して文部省(大臣官房長)を辞職したのが後に愛媛県知事となる加戸守行である。この人が加計学園獣医学部新設にも関係している。


元々は野村証券の調査部だった野村総合研究所 (NRI)(現在の野村総研のリサーチ・コンサルティング部門)は、日本最大規模のコンサルティングファームである。官公庁・産業界のトップ企業をほぼ網羅して、サービスを提供してきている。米国のStanford Research Institute(現在のSRI International)をモデルに、日本初の本格的な民間シンクタンクとして設立された。 


そんな野村総研が1990年に上記書籍の「第6章21世紀を決める10年間」の「メタモーフォシスをむかえる技術」でここからが大事な時期だと説いている。
metamorphosis(魔力・超自然力による)変形(作用)、変質、変容、変態
これは技術もいよいよ魔力・超自然力頼みになるという理解でよろしいでしょうか?
これまでの産業革命の条件やパターンを見ていくと(産業革命波動説)、次のピークは2010年だというのだ。(過ぎてる過ぎてる?)(ありましたっけ産業革命?AI?自動運転?IoT?ちょっと遅れてるだけ?)
次なる産業革命に間に合うには遅くとも1990年代前半に種がまかれ芽を出していないとダメなんだそうだ。
ちなみに、今までの産業革命の革新技術は、蒸気機関、鉄鋼、電動機、自動車、コンピューター、IC、である。
この産業革命というか技術革新を成功に導いたキーテクノロジーあるいは戦略は次の(  )内のもの。蒸気機関(特になし)、鉄鋼(原価計算法)、電動機(交流送電)、自動車(大量一貫生産)、コンピューター(レンタル、ソフト)、IC(投資サイクル、シュリンク)。
単に技術だけあっても革命は起こりにくいというわけですね。だからこそ「技術戦略」。
それは私が前記事に書いた「多様性からは爆発的な流行(利益)は生まれない」ということに通じる。

野村総研は同じ場所で10のメガトレンドを紹介しているが、その10番目が興味深い。
第十 理論や科学常識を覆す新事実、新技術の登場。(からの、STAP細胞?)
物理学は19世紀末と同様に大きな見直しを迫られているかもしれない、そうですよ。
そしてさらに21世紀以降の技術として、テレパシーや透視といった類も真剣に研究開発テーマとしてあがってこよう、と10大メガトレンドを締めている。






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# by yumimi61 | 2017-08-28 14:12
2017年 08月 27日
日本国憲法の秘密-543- (加計学園問題について)
動物性脂肪は量に影響し、動物性タンパク質は質に影響する。(私の仮説)
つまり、動物性脂肪の過不足は健康に悪影響を与え寿命を縮めることになり、動物性タンパク質の過不足は脳機能やADL(日常生活動作)の低下を招くということ。
何故「動物」を重視するのかと言うと、人間は草木でなく動物だからである。
身体を構成するタンパク質は自分と同じタンパク質でできた動物、哺乳類なら哺乳類から摂る方が理に適っている。無理やロスが少ない。
生命活動、知的活動、経済活動、社会活動、あらゆる人間の活動の資本は身体である。
健康や長寿に魚が良いとか植物が良いといった説は根拠に乏しい。
日本対欧米という比較だけでは物足りない。なぜなら食生活の欧米化が進んでもなお寿命は延びてきたという現実があるからだ。
日本で獣肉消費量が魚肉を上回ったのは戦後高度成長期(1954-1973)後のことであるが、戦後はそれ以前もそれ以降も寿命は右肩上がりだった。(但し、寿命の長さ=QOLの高さ、とは言えない)

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QOL(quality of life)は動物性脂肪と動物性タンパク質の兼ね合いで決まるが、QOLは精神面・自己実現を含めた概念であり「自分らしさ」というものも重要であり、他者の価値観を押し付けたところで達成できるものではない。個々に違うものである。
ただそうした多様性を重視すると社会の管理は面倒になるので、一様の価値観でQOLを決めたがる、決めているというのが現実であろう。
人生や生活の多様性は爆発的な流行(利益)を生まないので、多様性を避ける方向で進んできたという歴史もある。

動物性脂肪と動物性タンパク質は完全に分断することは出来ない。
赤身(動物性蛋白質が多く含まれる部分)にも脂肪(飽和脂肪酸やコレステロール)が含まれている。部位によって脂肪とタンパク質の含有割合が変わるだけのこと。
脂肪が一番多いのは、ばら肉(脂肪32.9g、タンパク質14.4g)。
脂肪が一番少ないのは、ヒレ肉(脂肪4.8g、タンパク質20.5g)。
タンパク質が一番多いのは、もも肉(脂肪9.6g、タンパク質21.2g)。
タンパク質が一番少ないのは、ばら肉(同上)。
(可食部100g中)

簡単に言えば、家畜のお腹側がばら肉であり、背中側がロース肉。
ヒレ肉はその間に位置し、部位も腰に限る。
骨盤内にあり背骨(上半身)と大腿骨(下半身)を結ぶ筋肉(大腰筋)。
最も動かさない筋肉であるため非常に柔らかく、且つ脂肪も少ない。
一頭の家畜から採れる量は僅かであるため最高級の部位とされる。



獣医の需要は犬猫でも家畜でもない。
ではなぜ今獣医学部新設なのかと言えば、そう、それが国家戦略特区に関わる由縁。

国家戦略特区・・いったいどこの誰に対する戦略なのか?そもそも国家戦略という言葉がどこか物騒で何だか凄く嫌な感じがする。耳障り。
「絆」とか「TOMODACHI(間違ってもFriendではない!?)」とか「共生」とか「ボランティア」とか「寄付」「募金」「義援金」なんかが大事ではないんですか?
困った時はお互い様で助け合いの精神こそが美しい、人の物を盗んだり横取りしたり人を犠牲にしたり蹴落としたりして一番になることは人間として間違えているのではないですか?
大事なのは働き過ぎないことで、日本人は休暇や休日や家族サビースをもっと大事にすべきだと思っているんでしょう?
グローバルな時代だから自国ファースト主義はダメなんですよね?だからイギリスのEU離脱に幻滅したり、トランプ大統領が非難されたりしたんですよね?(なのに都民ファーストや日本ファーストは良き物という評価はなんなのか・・)
そういうものを持て囃しておきながら、一方で国家戦略特区イエーイ!みないな感じはどうも受け付けない。
国家戦略特区の受け付けなさは前にも書いた記憶があるが、国家戦略特区とは日本経済再生本部からの提案を受け、第2次安倍内閣が成長戦略の柱の一つとして掲げ、国家戦略特別区域法2条で地域振興と国際競争力向上を目的に規定された経済特区である。

日本経済再生本部からの提案を受けとあるが、日本経済再生本部をご存知だろうか?
知らないと政権(内閣)が有識者から提案を受けたように思うが、そうではない。
内閣の内閣による内閣のための組織。

日本経済再生本部
日本の内閣に設置された組織。2012年12月26日の閣議によって決定された。
第2次安倍内閣において、デフレや円高を脱却し、経済を再生する成長戦略の実現を目的として設置された。
組織
本部長:内閣総理大臣
本部長代理:副総理
副本部長:経済再生担当大臣兼内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)、内閣官房長官
本部員:他の全ての国務大臣

安倍首相にデフレ脱却なんて言われると「そうだそうだ!!」なんて思うのかもしれないが、庶民にとってデフレは言うほど悪いものではない。
給料は上がらないかもしれないが、物価も上がらないし、ローン金利も上がらないから、トントンな感じ。給料が上がると物価も上がってローン金利も上がるのに舞い上がってローンなどして失敗する。
デフレが嫌な人達は預貯金などの金利目当ての資産家や土地転がしや投資家などであって庶民は実際のところ何でも同じ。景気なんて気分の問題だから。

それでもデフレ(物価下落)を脱却したいならば物を沢山作らない、サービスしないのが一番。
それを実施すると結果的には人余り状態になるがデフレ脱却のためには致し方ありませんね?
だから国を挙げて皆さんそんなに働く必要はありませんよと推奨しているのである。
資格職だって需要以上には供給する必要はない。需要供給のバランスを見て規制をかけたり緩めたりする。それもこれも経済のため。誰かの夢だけに沿うことは出来ないのだ。

物も人も過剰である。そのわりにというか、だからというか、生産性は良くない。
生産性が良くないということは、生産活動に対する労働や資本への寄与度が低いということ、資源から付加価値を産み出す効率が悪いということ。無駄遣いが過ぎる状態。
コンピューターの時代ですし、機械のほうが速く正確にやってくれますから、あなたたち要りませんということなんでしょうかねぇ・・
でも国としては全部が全部働かなくなるのはやはり困るらしくて、あなたたちはせっせと働いてくださいと特別扱いする区域がある。それが国家戦略特区なわけである。
あらゆる岩盤規制を打ち抜く突破口とするために、内閣総理大臣が主導して、地域を絞ってエリア内に限り従来の規制を大幅に緩めることを目的とする。また、この区域は「解雇ルール」、「労働時間法制」、「有期雇用制度」の3点の見直しを対象としている。
今後は人口が減少していくことが予想されている。
過剰な人が減っていくことで生産性が上がればよいが、そういう楽観的な見通しがないから国家戦略特区があるのだろう。



加計学園が獣医学部を新設する目的は、「創薬プロセスにおける多様な実験動物を用いた先端ライフサイエンス研究の推進」である。
昨今は研究や開発や新技術と言えば何でも許されると思っている。
採算性は度外視。狂っているとしか思えない。
どこから湯水のように資金が湧き出てくるのか?北朝鮮然り。

創薬という言葉に関してはSTAP細胞騒動を記事にしていた時に触れた。長いがこちらにも転載しておく。
過去記事
若山氏が遺伝子解析を依頼した第三者機関の中立性
6月16日、STAP細胞の多能性評価としてのキメラマウス作製をまかされた若山氏(理研→山梨大学)が会見を開いた。
小保方氏によればSTAP幹細胞の樹立を担当したのも若山氏であったということだ。
若山氏が騒動勃発後にSTAP幹細胞の遺伝子解析を第三者機関に依頼しており、その結果を受けての会見だった。
会見で「第三者機関とはどこか?」という質問され、若山氏は「(記者会見の)直前まで(私と)一緒に発表する、という話もあった。だが、並んで発表すると僕の味方だと思われてしまう。中立的な立場であるということから、現時点では明らかにしないということになっています」と答えているが、放射線医学総合研究所である。(所在地は千葉県千葉市)
研究所創立当時は科学技術庁所管の国立研究所であったが、現在は文部科学省所管の独立行政法人である。
こちらの記事に書いた通り、第五福竜丸で被爆した船員らに対して追跡健康診断を実施していたのが放射線医学総合研究所であった。

「放射線なのに何故幹細胞の遺伝子解析?」と思うかもしれないが、放医研には分子イメージング研究センターがあるからである。
科学技術振興機構の分子イメージング研究プログラムを通して、理研と放医研、大阪大学や東北大学はみな仲間である。これをオールジャパン体制とも言うらしい。
(オールジャパンで!と言っていたら、侍ジャパン3連覇ならずというテロップが出て、ちょっと面白かったこと
遺伝子などを用いた診断や治療の確立を目指すものである。
最近「創薬」という言葉をよく目にするが「創傷薬」(皮膚の傷を治す)ではなく、「薬を創る」(新薬開発いわば経済発展もしくは金儲け)ことである。
(略)

現在の文部科学大臣は、放射線治療の盛んな群馬県出身で、小保方氏と同じく早稲田大学卒で、小保方推しの下村氏である。
若山氏は解析依頼した放医研はその文部科学省管轄で、理研にも近い研究所であった。
若山氏がどういう意味で中立という言葉を用いているのかよく分からないが、仲間内であるのだから中立とは言い難い。
しかし第三者と言えば確かに第三者である。
(略)

(略)
ともかく若山研究室と理研も第三者機関の報告と同じ解析結果が出ており異議なしという状態であったのだ。
このことは非常に重大な意味を持つ。
何故かと言えば、若山教授はもとより放射線医学総合研究所も理研も山梨大学も実験の根本となるようなこと(Oct4-GFPとCAG-GFPの違いや遺伝子導入について)を全く理解していなかったということになるからだ。
それを否定する唯一の方法は「第三者機関の解析試料は別の場所から持ち込まれたものであり、私達は一切関知していない。話を合わせただけ」と言うしかないだろう。



一頃盛んにバイオテクノロジーが持て囃され、農業系の学校も農業という言葉を捨ててバイオなんとかいう科をつくるのが流行った時期がありましたね。
バイオテクノロジーは、「バイオロジー(生物学)」と「テクノロジー(技術)」が合わさった言葉。
古くから行われている品種改良や細胞・遺伝子などを操作する最先端技術がある。
今度の加計学園はライフサイエンスときた。
ライフサイエンス
生物学を中心に化学・物理学などの 基礎的な面と,医学・心理学・人文社会科学・農学・工学などの応用面とから総合的に研究しようとする学問。生命科学。
ライフサイエンス研究ならば別に「獣医師」「獣医学部」に拘る必要はない。
現に獣医師でも医師でもない小保方さんだってマウスを使って実験してたんですよね?
基礎は終わったから応用に行こうと思っている?

過去記事より)
マウスで始まり、マウスに終わる

今まで述べてきたようにこの論文を否定する要素はいろいろとある。
いろいろあるということが「捏造であった」という証拠になると思うのだが、決定的なのはやはりマウスの種類である。
マウス種類が異なれば論文での主張は一切通用しなくなる。
マウスは出鼻を挫くことが出来る要素なのだ。

小保方氏に手渡されたというマウスが下記のどのマウスだったかによって、実験に与える影響は大きく変わってくるので、そこがはっきりしていないと実験は成立しない。
よって把握していないとすれば論外。
何度か実験を繰り返したと思うが(小保方氏によればSTAP細胞作製に200回成功)、その全てが同じ種類マウスだったのか、それとも混在していたのか。
また1匹のマウスの中に幾つかの要素の混在はなかったのか。
このあたりのことも明確ではない。

【考えられる種類】
・Oct4-GFPマウス―多能性指標となる遺伝子Oct4をターゲットにしてGFP(緑色蛍光)を導入したマウス。
・CAG-GFPマウス―CAGプロモーターによって導入したい外来遺伝子(GFP)をほぼ全身の組織細胞(細胞種非依存的)に過剰発現させたマウス。よって非侵襲的に緑色蛍光が発現する。
・免疫不全マウス―人為的に免疫不全にしたマウス。
・疾患モデルマウス―人為的に特定箇所に変異(異常)を起こさせたマウス。
・野生のマウス―遺伝子操作など何の処理も施されていないマウス。

小保方論文や理研のプレスリリースは当初Oct4-GFPマウスだと述べていたが、途中(検証実験報告など)からは雲行きが怪しくなっており、「GFPを常に発現させたもの」などと図に記入するなどCAG-GFPマウスであったことを匂わせ始めていた。
GFPからも分かるようにこの2種類は緑色蛍光するように遺伝子導入したマウスであり、疾患などとは直接的な関係はないマウスである。
しかしなにせ遺伝子操作しているのだから予期せぬ不調(不良・不具合)までは分からない。

しかしともかく緑色蛍光から始まっている実験なので細かい点は抜きにしてGFPだけに注目する。
Oct4-GFPマウスと言っていたのがCAG-GFPマウスだったとするならば、この実験の一切は成立しない。
もしも無知や過失(うっかりミス)によりマウスが入れ替わっていたとするならば、実験の途中で思うようにいかない点が多々出現して気付くはずである。
ところがそうではなくて全て上手くいったと論文にまとめた。このことが過失ではなく故意であったのだろうという確信に導いた。

証拠は緑色蛍光したマウス

Oct4-GFPマウスは分化した細胞では蛍光しない。だからこそSTAP実験だってそれをマーカーにしたのだ。
それなのにマウスが蛍光することは決定的におかしい。
Oct4-GFPマウスではない。


過去記事より)
マウスの面倒見てるかなぁ
STAP騒動の最中、iPS細胞の山中教授の研究室でのマウス管理が杜撰であったことが報じられ、山中教授が謝罪したことがあった。
杜撰管理は2年以上に亘る。ということはそれ以前にもあったのでないかという疑われても仕方ないだろうと思う。

実験計画では、マウスはいずれも研究所2階にある飼育室と実験を行う処置室で管理されることになっていたが、2011年1月〜13年5月、計14回にわたって1階の洗浄室で見つかっていた。洗浄のために飼育室から運びこまれた飼育ケースの中にいた。
正確な数は不明だが、死骸を含め少なくとも21匹いた。11匹は生きたマウスで、このうち5匹は遺伝子組み換えマウスだったことが確認されたという。
研究所では、実験に使ったマウスは処置室で殺処分した後に冷凍庫に保管し、処理の専門業者が定期的に回収している。飼育室で死んだ場合も冷凍庫に保管し、同様に回収される。

遺伝子改変動物は生態系への影響が心配されており、その取扱いは慎重を期する必要がある。
報道によれば同じ建物内の管理区域外にいたということだが、屋外に逃げ出すことだってあり得る。
すでに逃げ出したマウスがいるのかもしれない。
飼育数を把握していないのか、逃げ出したマウスの正確な数は不明だと言っている。
生態系への影響も然ることながら、マウス管理がそれほど甘いとすれば研究の信頼性も失墜することは避けられない。
違う系統のマウスが混入してしまったり、逃げ出したマウスが交尾して知らぬ間に繁殖していたということだって無きにしも非ず。
STAP細胞実験のように、マウスの種類が違えば実験そのものが成立しなくなる。

死骸の状態で見つかったものがあるようなので、一般的に考えても衛生状態が不安である。
研究所では様々なウイルスや細菌を扱い、マウスには遺伝子組み換えだけでなく、こちらに書いたようにヒト化マウスも利用されているのだ。
それを思うと信じ難い杜撰さである。
こうなると殺処分したマウスを含め医療廃棄物の処理もルーズなのではないかと疑いたくもなる。

まさかとは思うけれども、教員に事務要員(スクール・サポート・スタッフ)を付けるように、研究者に付ける生き物係(飼育係)としての獣医師養成?



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# by yumimi61 | 2017-08-27 15:54
2017年 08月 25日
日本国憲法の秘密-542- (加計学園問題について)
東日本大震災が発生する1年くらい前、次男は増水をやたら気にしていた。
その時私はそれが津波という形で、あんな形で現実になるとは想像もしていなかった。

2010年6月5日『増水』これは増水の心配をしていた時の会話を記した記事だが、そこに動物(ペット)が出てきて、家畜の話にもなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(略)
彼の心配は尚も続く。
「でももし急にどんどん増えたらどうするの?どうやって逃げるの?」
「そうなったら泳ぐしかないんじゃない」
「無理だよー。そんなに泳げない」
「太平洋側は無理としても日本海側なら行けるんじゃない」 ←またしてもいい加減な返事
「寒くて死んじゃう」
「その時が夏であることを祈ろう」
「ふざけてないでさー」(とうとう注意される始末)
「じゃあボートは?ボートに乗ればいいじゃない」(少し反省してまじめに)
「うちにボートある?」
「ボート?ゴムボートがあったかなぁ」(浮き輪に毛が生えた程度のボートです)
「犬はどうするの?一緒に逃げるんでしょ?」
「犬は難しいかな」(とは言ったけれど、以前子供に付き合って観た『マリと子犬の物語』に涙しました。『かわいそうな象』にも涙々)
「ひっどーい」(ほんとに大人ってひどいよね)
「そんなこと言ったらなっちゃんのほうが大変かも。犬はいざとなったら泳ぐかもしれないけど、猫は水嫌いでしょ。ぷるぷるってして、、、あー可哀想」(なっちゃんとは猫のことです)
(略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『マリと子犬の物語』というのは、2004年10月23日に発生した新潟県中越地震の時に新潟県山古志村であった実際のエピソードを元にした映画で、2007年12月8日に公開された。
新潟三洋電子が被災した地震である。
東日本大震災が起こる前は、この地震が自分が体験した地震の中で一番大きなものであった。
そのせいか発生の瞬間を今でもよく覚えいている。
2004年(平成16年)10月23日 土曜日 17時56分
当時息子達は小学生だった。地域の少年サッカーチームに所属していたので土日はサッカー三昧だった。練習だけなら半日、試合があれば1日。
その日も試合だったのだろうか、地震発生時に私は洗濯物を取りこんでいてベランダにいた。揺れが強くて思わず桟に掴った。
翌日は赤城山のふもとでサッカーの試合があったが、上空にはヘリコプターが行き交っていた。
『マリと子犬の物語』のひどい(?)お父さん(公務員)役は、今を時めく船越英一郎!(もうときめいていないから?寝た子を起こすな?下火下火??)



=都道府県別家畜飼育数ランキング(トップ10)

■乳用牛の飼育数
 1 北海道 795400
 2 栃木県 52900
 3 岩手県 44600
 4 熊本県 44400
 5 群馬県 38800
 6 千葉県 34800
 7 愛知県 28600
 8 茨城県 26700
 9 宮城県 21000
 10長野県17600

■肉用牛の飼育数
 1 北海道 509800
 2 鹿児島県 333200
 3 宮崎県 250000
 4 熊本県 129800
 5 岩手県 91600
 6 栃木県 87900
 7 宮城県 83900
 8 長崎県 76500
 9 沖縄県 71400
 10 群馬県 62500

■豚の飼育数
 1 鹿児島県 1332000
 2 宮崎県 838800
 3 千葉県 681400
 4 北海道 626000
 5 群馬県 613200
 6 茨城県 559500
 7 岩手県 450200
 8 栃木県 393200
 9 青森県 381800
 10 愛知県 349900

■採卵鶏飼育数(単位は千羽)
 1 茨城県 12648
 2 千葉県 11865
 3 鹿児島県 9945
 4 岡山県 9904
 5 愛知県 9052
 6 広島県 8714
 7 群馬県 7216
 8 新潟県 6919
 9 北海道 6716
 10 青森県 6514

■肉鶏(ブロイラー)飼育数(単位は千羽)
 1 宮崎県 28188
 2 鹿児島県 26430
 3 岩手県 21794
 4 青森県 6844
 5 北海道 4849
 6 徳島県 4483
 7 佐賀県 3659
 8 熊本県 3541
 9 群馬県 2730
 10 兵庫県 2520

乳牛、肉牛、豚、採卵鶏、肉鶏、以上5項目全てにランクインする都道府県は北海道と群馬県である。

(地方)都道府県名・ランクイン数(獣医師人数)
(北海道)北海道5(3427人)
(東北)岩手県4(628人)、青森県3(546人)、宮城県2(653人)
(関東)群馬県5(647人)、栃木県3(710人)、茨城県3(1145人)、千葉県3(1878人)
(中部)愛知県3(1671人)、長野県1(761人)、新潟県1(514人)
(中国)兵庫県1(1372人)、広島県1(717人)、岡山県1(596人)
(四国)徳島県1(348人)
(九州)鹿児島県4(1074人)、熊本県3(655人)、宮崎県3(652人)、長崎県1(490人)、佐賀県1(255人)
(沖縄)沖縄県1(450人)

加計学園の獣医学部新設が計画されているのは四国の愛媛県である。
四国は畜産業(家畜飼養)が盛んな地域とは言えない。
では犬猫はどうだろうか。犬猫飼育数のトップ10は人口トップ10とほぼ同じであり、四国では愛媛が一番多くて全国26位。
もちろん学生は大学が所在する地域にのみ就職していくわけではない。
しかし大都市圏ならともかく地方に存在する大学ではやはり就職先も地方色が強くなる。
また実習を伴う学部は実習先・実習地を考慮しなければならない。
それを考えると四国の愛媛県に獣医学部を新設しなければならない理由は特段ない。
我が家の次男は、大学を選ぶ際の希望に、「家から通学できない場所にある大学」「群馬外の大学」というものがあった。(なんたる親不孝者・・)
さらに「離島は嫌」という希望もあった。
私はそもそも離島に大学なんかあるのかと思ったのだが、彼の離島には四国も九州も北海道も含まれていた。(橋や船や飛行機は不安ということなんだろうか)
日本に各地に散らばると言っても、これだけ一極集中が進んでいる社会においては上京と下京(?)では学生や親の許容度は違うであろうし、移動距離も影響する。
また東から西への進学は少なく、場所も近畿あたりが限度であり、それ以西への進学は本当に少ない。
最近の親は進学で家を出た子は地元外で就職や結婚をし地元にはまず帰ってこないと諦めていることが多い。
確かに帰ってこないから一極集中が益々進んでいくのだろうと思う。
大学進学率の上昇が一極集中を進めたという背景がありそうだ。
じゃあ地方に大学を作ればいいかと言えばもはやそんな単純なことではないだろう。



【世界の家畜数】
牛 14.7億
豚 9.9億
羊 12.0億
山羊 10.1億
水牛 1.9億
馬 0.6億
ロバ・ラバ・ラクダ 0.8億
鶏 214億

鶏以外の家畜合計数は約50億頭となる。
世界人口は約73億人。人口であるから赤ちゃんも老人も含まれる。
その人口の7割(10人いれば7人)は何かしらの家畜を1頭飼育している計算となる。
日本の鶏以外の家畜合計数は1320万頭。(牛豚以外は馬・山羊・羊で5万頭ほど)
人口は1億2700万。
人口の1割(10人いれば1人)が何かしらの家畜を1頭飼育している計算になる。
国際比較では、人口に比べると家畜頭数が少ない。


家畜数が多いのは中国。人口も多ければ家畜も多い。
約10億頭の家畜を飼育している。世界の家畜の5分の1(20%)は中国にいる。(そのうち半分近くが豚である)
中国の人口はおよそ13億人くらい。
人口の7.7割(10人いれば約8人)の人が家畜を飼育している計算。

アメリカでは1億7000万頭の家畜を飼育している。
アメリカは豚よりも牛のほうが少し多い。
アメリカの人口はおよそ3億人。
人口の5.7割(10人いれば約6人)の人が家畜を飼育している計算。
アメリカの獣医師の数は15万6000人(2014年)ほどで、日本の獣医師数の4倍であるが、家畜数は日本よりアメリカのほうが10倍以上多い。


残念ながら中国の獣医師数のデータはない。
データがある国で獣医師数が多い国順は、アメリカ、ブラジル、インド、スペイン、エジプト、メキシコ、ウクライナ、日本、フランス、アルゼンチン、ドイツ、イギリス・・の順となる。
ブラジルやメキシコ、アルゼンチンなどラテンアメリカ(南米)は牛や馬の飼育数が多い。


鶏は世界全体で214億羽ほど飼育されているが、うち中国が45億羽で、アメリカが20億羽。
中国とアメリカ合わせて約65億羽なので、世界に鶏の3分の1近く(3割)はこの両国が飼育している。
次いでラテンアメリカ(南米)、東南アジア、南アジア。

ちなみに獣医師1人当たりの家畜頭数が一番多い国はダントツ、オーストラリアである。
オーストラリアの人口が約1800万人なのに対し、羊は1億5000万頭もいる。
日本の獣医師1人当たりの家畜頭数は世界的に見るとかなり少ない。
このことからも獣医師を増やす必要性は全く感じられない。
この現状で足りないと言うならば、それは量(数)ではなくて質(技能)ではないのかという疑問が頭をもたげる。

加計学園の獣医学部はひょっとしてアジアからの留学生狙いでしょうか?




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# by yumimi61 | 2017-08-25 10:37
2017年 08月 24日
日本国憲法の秘密-541- (加計学園問題について)
獣医師数(獣医師免許を保有している人の数) 39,098人
このうち獣医事に従事しているのは、34,548人でおよそ88.4%である。

獣医と聞くと町の動物病院の先生を思い浮かべる人が多いと思うが、獣医事といっても幅広い。

農林水産省PDF 獣医師の届出状況(2014年12月31日現在)

国家公務員(計518人)
 農林畜産関係 297人
 公衆衛生関係 159人
 環境、その他  62人

地方公務員・都道府県職(計7121人)
 農林畜産関係 3078人
 公衆衛生関係 3828人
 教育公務員   46人
 環境、その他  169人

地方公務員・市町村職(計1887人)
 農林畜産関係  128人
 公衆衛生関係 1531人
 教育公務員    4人
 環境、その他  224人

民間団体職員(計7623人)
 農協など    2205人
 製薬・飼料企業 2407人
 独立行政法人(国立大学等)1011人
 私立学校     686人
 競馬関係団体   224人
 社団法人・財団法人798人
 その他      292人

個人診療施設(計17241人)
 産業動物  1896人
 犬猫   15205人
 その他   140人


多くの人がイメージする獣医さんは犬猫動物病院の獣医師であると思われるが、総数に対する割合は38.9%である。
獣医師の6割はそうでない仕事に従事している。
都会の犬猫動物病院では少ないと思われるが、地域によっては犬猫動物病院の獣医師でも産業動物を扱っていることもある。
うちの犬猫がお世話になっている動物病院の獣医師は家族経営のような動物病院から獣医師も雇う比較的大きな動物病院に拡大したのだが、畜産農家での仕事もあるらしいし、小学校などにも出向いている。そのように兼務している人もいるだろう。
個人診療施設に従事する人は被雇用者よりも開設者(院長・経営者)のほうが多いという特徴がある。
それはつまり、単独の獣医師で病院を運営しているか、獣医師を雇っても少人数であるということである。
その一方で病院であるからして休日や夜間の対応を余儀なくされることもある。
客商売なので17時終わりや土日ともに休診するということは行いづらい。
自身に家族があれば、「あなた!よそのうちの動物と家族といったいどっちが大事なの?」なんてことにもなりかねない。
可愛くて癒しのペットブームを相手にする動物病院は零細企業で結構ハードな仕事だと思う。
がしかし、ペットブームがなければ個人の犬猫動物病院の経営はなかなか難しいであろう。
極端なことを言えば、ペットが病気になっても放置して、いつどこで死んだって、誰にも咎められないのだ。
動物虐待が問題視され逮捕されるようなこともあるけれど、合法的に保健所が殺処分してくれたりもする。
予防を怠らず、無保険で診療費が何万何十万もかかっても病院に連れてきてくれるお客様がいなければ、犬猫動物病院は成り立たない。
社会構造や経済状態に大きな変化がない社会において(飽和状態・成熟期~衰退期)、そのお客様が大きく増えるとは思えない。例えペット数が増加したとしても。



2014年12月31日現在の医師数(医師免許を保有している人の数)は311,205 人である。

医師は病院(入院ベッド数20床以上)に従事する医師が一番多く、次いで診療所(入院施設なしか入院ベッド数19床以下)の医師である。
医師の場合も診療所は院長・経営者であることが多いであろう。

加計学園の獣医学部新設が52年ぶりだということだが、医学部も40年近く新設がなかった。
それがやはり安倍政権において2016年度2017年度と相次いで認可された。
震災復興支援策の一環として認可された東北薬科大(仙台市)と、国際医療福祉大(栃木県)が国家戦略特区を活用して千葉県成田市に設置する医学部である。

40年近くも医学部の新設はなかったが医師数は今日までずっと増加傾向にある。
1982年と2014年を比較すると15万人近く医師数は増えている。
毎年亡くなる医師資格者よりも毎年医師免許を新たに取得する人の数が多くなれば結果的に医師数は増えていく。つまり社会の高齢化は結果的に医師数も増加させるのだ。

日本の人口は1980年以降微増。引きで見ればほぼ横ばい状態が続いている。
出生数が減った一方で寿命は延びた。各論では大きな変化が認められるが全体としては横ばいなのである。
医師数が15万人も増加して人口が変わらないのだから、人口あたりの医師数も増加している。
しかしながら寿命はそろそろ頭打ちであると見られていて、予想ではこの後大幅な伸びはないと考えられている。
出生数が上がらなければ、いよいよ人口は減少に転じていく。
今はちょうどその過渡期にある。
人口が減れば同じペースで医師数が減っていくことは当たり前のことではないだろうか。
人口減少が予想されている中で早急に医師数を増加させる必要が果たしてあるだろうか?
子供を預けることが当たり前のようになり保育園数やその在り方が問題となっている社会で、犬猫動物病院の需要がこれ以上伸びるわけがない。

出生数が減った一方で寿命が延びた。要するに高齢化社会の到来。
高齢化の理由として科学技術・医療の発展が挙げられることが一般的だが、こんな見方も出来る。
出生数が減れば子供相手の商売は斜陽となる。
斜陽の背景には出生数だけでなく感染症の減少なども存在する。
需要(対象)が減少すれば供給側の力(人数)は余る。
その余力が成人や老人に向き、結果、寿命が延びた。
同じエネルギーであっても、分配先が変われば、当然結果は異なるであろう。
もしも科学技術・医療の発展だけで寿命が延びて来たならば、この先も伸びるという予想してもおかしくないはずなのだ。
しかし予想は頭打ちである。
それはつまり寿命が延びた(高齢化した)のは余力の分配の影響が大きかったと考えているということではないか。
そうでないとするならば、科学技術・医療の発展に限界を感じているということになる。



●獣医師数39,098人、医師数311,205人、医師数は獣医師数より8倍ほど多い。

●日本の人口は、約1億2700万人。世帯数は5340万戸。(2015年国勢調査結果より)

●飼育家畜数(農林水産省の畜産統計より、2016年2月1日現在)
乳用牛 135万(過去5年減少傾向にあり)
肉用牛 248万(過去5年減少傾向にあり)
豚   931万(過去5年減少傾向にあり)
採卵鶏 1億7300万(過去5年横ばい)
肉鶏(ブロイラー) 1億3400万(過去5年横ばい)

●飼育戸数
乳用牛 1万7000戸(過去5年減少傾向にあり)
肉用牛 5万1900戸(過去5年減少傾向にあり)
豚     4830戸(過去5年減少傾向にあり)
採卵鶏   2440戸(過去5年減少傾向にあり)
肉鶏(ブロイラー) 2360戸(過去5年減少傾向にあり)

●犬猫推計飼育頭数(一般社団法人ペットフード協会の2015年調査より)
犬 988万(減少傾向にあり)
猫 985万(横ばい)


家畜の飼育数は鶏を除いた牛と豚では1314万。
鶏は桁違いに飼育数が多く、鶏全体で3億700万羽にもなる。
飼育戸数(畜産農家数)は牛豚農家は7万3730戸。
鶏の飼育農家は4800戸。
鶏は飼育数に比べて飼育戸数が非常に少ない。哺乳類ではないし大きさも違うので一概には言えない面もあるが、飼育環境があまり良くないであろうことは推測できる(飼育される側にとっても飼育する側にとっても)

医師も獣医師も勤務場所や専門(得意分野)が様々であるが、単純に総数で見ると、医師は人口1000人におよそ2人いる計算となり、牛豚に対する獣医師は1000頭に3人いる計算となる。
家畜の牛豚にペットの犬猫数も足すと3287万頭で、1000頭に1人の獣医師がいる計算となる。
世帯数で見ると、1000世帯に6人の医師がいる計算となる。
牛豚鶏全ての飼育戸数は7万8530戸で、獣医師の総数は3万9000人なので、2軒の飼育農家に1人の獣医師がいる計算となる。


畜産も全体的に減退傾向にあり、伸び代のある産業とは言えない。
統計から見れば犬猫・家畜共に獣医師を増加させる必要はないという結論に至る。





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# by yumimi61 | 2017-08-24 12:36
2017年 08月 22日
日本国憲法の秘密-540- (加計学園問題について)
2015年8月20日、日本国憲法の秘密-36- で、 よみうりだった・・・(感無量)と私は書いたのだが、正直何がよみうりだったのか全く記憶にない。
感無量って書いたくらいなのに・・・。
誰かご存知の方おりますか?

その記事は労働組合のことを書いています。
吉田茂は労働組合を非難していた。吉田は体制側トップにいたわけだからそれ自体は不思議なことではないが。
日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を図った。

またまた正直なことを申し上げれば、♪ちゃんちゃんちゃんちゃん絶対反対♪というような紋切型のデモにはこの国の未来を案じずにはいられない。あれで何かが変わるとは到底思えない。
全官公庁共闘はストライキを試みたが、「圧力」によって実施されることはなかった。

1947年1月31日 ゼネラル・ストライキ中止の井伊放送
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声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。…一歩後退、二歩前進
---------------------------------------------------------------------------------------------------

簡単に圧力に屈する共闘とはいったい・・と思わなくもないが、官公庁の共闘だけに仕方なかったのであろうか。



裏の顔を持ち、策略と圧力によって政財官を掌握し、支配してきた。
民主主義なんてどこ吹く風。酒に酔ったのか麻薬に囚われたのか女に溺れたのか知らないけれど、可愛い我が子を取られ敗戦しても君主制や世襲制を良しとし、新左翼が暴れたこともあって労働者運動は風前の灯火。
その体質は少しも変わっていない。
戦争が歴史の1ページになってしまった分だけむしろ酷くなっている。
圧力や意向なんてあって当たり前の社会。
加えて、加計学園の創設者は広島出身であり、安倍首相と現加計学園理事長が友人というだけでなく、最初から有力政治家や財界人の恩恵を受けてきた。
長い間そういう土壌にあったのだ。
それがたまたま獣医学部新設の一件でクローズアップされた。


話は変わるが、私は高校生の時に獣医学部卒の教師に生物を教わった。副担任だったこともある。
私はその先生のことをブログに書いたことがある。

2007年6月13日 『精気』
高校生の時、生物クラブを選んだことがあった。
担当の生物の先生に憧れていたという、よこしまな理由からだ。
生物に関することならテーマは自由。グループごとに研究・実験するというクラブだった。
私達は、教科書に載っているこのきれいな卵分割は本当に全ての卵におこることなんだろうか、という安易な疑問により『カエルの卵分割』をテーマに選んだ。
そしてその安易な疑問が、卵分割に人の手を加えたらどんなことが起きるんだろう、という生命操作に及ぶ領域にまで広がっていった。
もちろん当時「生命操作」なんていう単語さえ思いつかなかった私達だけれど。

私達はカエルの卵を求めて、学校から30分以上かかる沼に足を運んだ。 足を運んだといっても、30分は車での所要時間であって、生徒を時間外に、その沼まで連れて行ってくれたのはその生物の先生だった。
本当は分かっていたんじゃないだろうか。
高校生の発想と手技、学校の生物室の限られた器具、、その実験が成功しないであろうことは。百も承知だったはずだ。
でも私には、その沼で連なるカエルの卵を前に一番張り切っていたのは先生のように見えた。


憧れていた・・・えええっー?
私が通っていた高校は女子高だったので若い先生というだけでというのはとかくモテた。
高校1年だったか2年の時だったか忘れたけれど、新卒の男性教諭が3人も赴任してきて、女子生徒たちは3人のうちの誰派かということで凄く盛り上がったのである。(新卒のせいか皆丁寧で優しかったし、まだ見ぬ未来やいつかの過去が近くて親しみがあった)
1人は生物の教師、1人は国語の教師(だったように思う)、1人は教科は忘れた。
私は幼い頃から理科が好きだったこともあり生物の先生推し。
仲良くしていた友人は国語教師推しだった。
もう1人の先生に私は直接教わったことがなかったので教科は覚えていないが、妹の担任だった。・・その節は大変お世話になりました(*- -)(*_ _)ペコリ

私は生物の授業を選択し、生物クラブにも入った。
生物はもともと得意だったけれど、「先生ここが分かりません!」とか言って夏休み中にも友達誘って職員室まで押しかけたっけ。おかげでテストはいつも満点近かったはず。
先生は授業中に脱線して獣医学部にいた頃の話をしてくれた。
私達は先生の脱線話が大好きだった。


高校を卒業して何年かした時、先生から結婚しましたハガキが届いた。
それ以来高校卒業以来先生には会っていない。
数年前に県の教育委員会の指導主事をしていると風の噂で聞いた。
現在は前橋女子高勤務でしょうか?


前橋女子高がスーパーサイエンス校に指定(朝日新聞デジタル 2013年3月15日)

 文部科学省が全国43高校を指定する2013年度の「スーパーサイエンスハイスクール」(SSH)に、県立前橋女子高校が選ばれた。指定は2017年度までの5年間で、県内では指定中の県立桐生高校を含めて4校目。将来の科学技術を担う人材を育てるため、理数系を重視した教育を進める。文部科学省が全国の高校に募集し、今回は58校が応募した。

 前橋女子高では13年度、1年生全員が「科学的探究」の授業を週1回受け、課題を主体的に設定。2年生になる14年度にはグループごとに科学的な探究法を学ばせ、研究成果を発表するとしている。また、希望者向けの課外授業として、著名人の講演を年間10~15回計画し、大学の研究者らと高度な研究を進めるラボなどの時間も設ける。担当の武倫夫教諭は「自ら課題を解決する姿勢をもった人材を育てたい」と話す。

武倫夫教諭がその時の先生である。



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# by yumimi61 | 2017-08-22 14:15
2017年 08月 22日
残照
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儚く散る花があまりに美しくて憂いもせずぼんやりと眺めていた。
やがて来る日を知らないわけでもなかったのに。
哀しみがあなたを連れてくるなら
私はどんな顔をして久しぶりって言えばいいのだろう。
涙を堪えてさよならをしたのは桜が咲く頃でしたね。
笑顔を隠して神妙な面持ちで、夏は嫌いでしょうか。





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# by yumimi61 | 2017-08-22 00:57
2017年 08月 21日
日本国憲法の秘密-539- (加計学園問題について)
Q 文中の赤字部分「これを」が何を指しているか答えよ。
A 第一項の「これを」(              )
  二項の「これを」(              )
=====================================
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
二項  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
=====================================

日本国憲法第2章戦争の放棄の文章は本当に分かりにくいと思う。
でも第一項は、日本国民が国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する、と言っていると思われる。
主語は日本国民、述語は放棄する。
何でもかんでも永久に放棄するわけではなく条件付けされている。
国権の発動たる戦争や武力行使を、国際紛争を解決する手段として使用するのは、永久に放棄するのである。(言い換えると国権発動以外の戦争や国内紛争解決のためなら良いということになってしまうのですよ)

「国権の発動たる戦争」は放棄すると述べているだけで、「戦争」を放棄するとは言っていない。
戦争は出来る。ただ日本という国が独断で勝手に戦争を引き起こすことは出来ないのだ。
他国や国際機関が法的権限を発動して始める戦争に参加依頼されるようなことがあれば参加は可能。
まさに集団的自衛権による戦争はOKなのである。
また独断ではなく相談の上で国際的にゴーサインが出れば日本独自でも戦争が出来るかもしれない。
簡単に言うと、「日本は外国相手に独断で勝手に戦争をしない(するな)」ということになる。


非常に分かりにくいのは2項。
日本国民が国際紛争を解決する手段としての戦争や武力行使を永久に放棄するという目的を達成するために必要なことが2項に書かれているはずなのだ。
2項の主語は何か?
1項と同じく日本国民なのか?
助詞(てにをは)に「は」を使用しているので、「陸海空軍その他の戦力は」と「国の交戦権は」が主語になっていると取れなくもない。
例えばこうなら分かりやすい。
二項  前項の目的を達するため、日本国民は陸海空軍その他の戦力を保持しない。国の交戦権も認めない。

どうしても「これを」を使いたいならば、

二項 前項の目的を達するため、日本国民は陸海空軍その他の戦力、これを保持しない。国の交戦権、これも認めない。

でもそういう誰にでも分かりやすい文章にしなかった。試みたが採用されなかった。
その事実を勘ぐれば、「これを」はタイトルの「戦争放棄」を指しているとも取れなくはない。
憲法9条に隠れている意味を明文化してみたのが次の文。

過去記事より

キーポイントは「これ」という指示語。
「これ」が何を指すか?
ずばり、第二章タイトルになっている「戦争の放棄」である。
前項では出来ない戦争と出来る戦争があることが述べられていた。
要するに全部を戦争放棄しているわけではない。全部を戦争放棄されたら困る。
だから陸海空軍その他の戦力は「戦争の放棄」を保持しないと言っているのだ。
また日本という国としても戦争自体を放棄したわけではないということを高らかに宣言している。
国際的に戦争の参加依頼や了承があれば、日本は戦争をする。
それを拒否すること(戦争放棄)は国家権力が認めない。


「安全保障関連法案の合憲性」というだけでは論点がぼやけてしまうが、集団的自衛権が合憲かどうかということならば合憲である。
憲法は文章化していない国さえある。理想的な姿を描くものではあるが、そのぶん総論的で抽象的で曖昧さを残している。
従って法的拘束力は実はそれほど高いものではなく、それは他の法律に譲る場合が多い。
実際に活動するうえで問題になってくるのは理念や概念である憲法よりも、狭く細かい固有の法律のほうだろうと思う。

もしも一切合切戦争を放棄するのであれば「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」ではなく「陸海空軍その他の戦力を保持しない。」と書けばよいのだし、自衛の部隊しか認めないというならばはっきりとそう書けばよいものをそう書かなかった。
憲法が軍隊や戦力を否定しているわけではないからである。
勝手な戦争(侵略戦争とでも言うのかな?)を強く禁止しているだけなのだ。
ということで自衛隊も全く問題なく合憲なのだ。
しかし自衛隊法という固有の法律で何か制限しているものがあるとするならば、そちらに縛られる。
だからそれを変えるのだし、それで不十分ならば固有の新法を制定すればいい。
そうやってきたからこそ今日まで一度も憲法を変えずに済んだのだ。


過去記事より

常に被害者であれ

芦田試案はマッカーサー原則に一番沿う文章だったが、結局そうではない文章に変更された。
芦田試案は日本が戦力や交戦権を持たないことを目的とした。
つまりそれが一番重要であると考えたのだ。マッカーサーもそうであった。
マッカーサーや芦田が次に考えたことは、戦力や交戦権を持たないと決めた国がそれを破る時はどんな時だろうかということである。
一番の脅威は「世界の正義」だと思った。
正義を振り翳した耳触りの良い理由で戦争や武力行使が行われる時には、なし崩しに約束は破棄されるだろうと踏んだ。
だからマッカーサーは「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する」と主張したんだろうし、芦田は「前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する」と述べたのだ。
日本国民に罪は無くとも、日本が戦力を維持している以上、どうにもならないことがある。

急に飛び出してきた歩行者を撥ねた場合でも、「飛び出してきた方が悪い」という自動車側の言い分は通らなくなる。
過失割合10対0で歩行者が完全に悪いと判断されることはまずない。
でも逆に0対10で自動車が悪いという状況は結構ある。
自動車を運転するということは、人間が身体能力以上の物を持つということであり、戦力(武器)を保有することにどこか似ている。

ただこの状態が完全には当てはまらない物がある。それは電車の類である。
鉄道には人が入らないということを前提にしているせいか、コンピューターシステムで運行されているせいか、大きく長くて自由が利かないせいか、撥ねたり轢いたりしても自動車の運転手ほど過失が問題にならない。

ともかくマッカーサー原則は歩行者になることを勧めていた。
それは言い換えると被害者になれということでもある。


GHQのマッカーサーは何故日本に被害者になることを推奨したのか?それには理由がある。
マッカーサー総司令官が提示したという3原則を考えれば分かる。
三原則を簡潔にまとめると「世襲天皇制」「国権発動の戦争放棄」「絶対君主制」である。
敗戦国が「世襲天皇制」「絶対君主制」を維持していくには、被害者になるしか方法はない。
自動車側の加害者が過失0で罰や賠償から逃れられるなんてことはまずありえない。
だから敗戦と同時に日本は被害者となったのだし、敗戦国が世襲天皇制や絶対君主制という現状を維持し戦力も維持するとなれば当然問題視されるだろうから、例えれば過失が小さい歩行者ほどの戦力であることを宣言した。
また他国にすれば、日本は敗戦後も体制を変えないのだから、暴走の懸念は払拭できない。リベンジとか復讐とか再チャレンジとか倍返しとか結構身近にあるものだから、体制を変えない戦力はリスクと言えばリスクである。



戦争の不思議

「朝食はパン派」と「朝食はご飯派」がディベートではなく騎馬戦で決着を付けることにした。
話し合いではなくて、騎馬戦という戦争で勝敗を付けるのだ。
パン派の後ろには小麦農家が、ご飯派の後ろにはコメ農家が見え隠れする。
何人制といったルールは特にないので、クラスの仲間だけでなく、あっちからもこっちからもパン派ご飯派ともに援護者を連れてきた。
そしてついにパン派の勝利。
騎馬戦に勝っただけだというのに、勝者のパン派は俄然偉くなって、パン派の言うことが何もかも正しいような感じになる、これが戦争というものである。
パン派の人達は「おまえたちも明日からパンを食べろよな」なんて言い放ったりする。パンとご飯は本当に戦う必要があったのだろうか?
「あなたたちは明日からもご飯でいいわよ」とパン派の人達、これが負けても体制が変わらないということなんだろうか。それで本当にいいのだろうか?そうなら私達はいったい何のために戦ったのだろう?
何だかよく分からなくなる。例えが悪いのかな。

「明日からおまえたちもご飯を食べよ」と強制された。
私達は好きなものが食べたいから戦った。そして勝ったのだ。
ご飯を食べよなんて他人に強制する人間は排除されるべき、これならしっくりくるのかな。





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# by yumimi61 | 2017-08-21 00:40
2017年 08月 20日
日本国憲法の秘密-538- (加計学園問題について)
1925年に起こった史上最大の抗争・鶴見騒擾事件は、1923年の関東大震災後の電力戦争と発電所などの建設ラッシュが背景にある。
臨海部の埋め立てや第一次世界大戦の好況により東京都心から次第に大田区、横浜や川崎への進出が始まったが、本格的な移転は関東大震災がきっかけだった。
原料などの輸出入に便利な日本有数の港湾(東京港・川崎港・横浜港)を有しており、さらに巨大市場が近くに存在していることで、京浜は鉄鋼・機械・化学などの重化学工業を中心に日本一の工業地帯へ発展していくことになる。
工業地帯となれば電力需要が増大する。
逆を言えば工業地帯を発展させるためには安定した電力供給が鍵となる。
鶴見の火力発電所建設は京浜工業地帯発展のために欠かせないものであった。
こうしたことを背景に電力戦争が勃発していた。
電力会社が許認可事業であったこともあり、電力業界や建設を請け負う土建業界の対立は否応なく政官界をも巻き込んでいくこととなった。
(但し戦前の大日本帝国憲法では官吏なども天皇が任命しており、現在の 国家公務員法に当たるような法律はなく、政官界の全てに天皇が関与している)

こうして関東大震災後に京浜工業地帯は誕生した。
そして、1928年張作霖爆殺事件(列車爆破事件)、1932年柳条湖事件(鉄道爆破事件)が起こる。
これが満洲事変のきっかけとなったが、事件はどちらも日本が仕掛けたものであった。
満州事変は1933年に停戦するも、満洲事変から日中戦争を経て太平洋戦争(大東亜戦争)終結までを「15年戦争」と見る向きもある。
この満州事変が起こった後、軍需産業が活発化し、京浜工業地帯もさらに成長することになる。
特に造船・自動車産業企業である横浜の日産自動車や三菱重工業造船所が政府に支援された。
外債の金利上昇をきっかけに、ライバルだった国内大手電力会社5社が手を組んだのもやはりこの時期で1932年だった。

軍需品を作るには工場やエネルギーが必要だが、工場や発電所を造るには建設工事が必要である。
土木建築業のボスだった中野喜三郎にすら一目置かれ、実力もあった菅原恒覧・菅原通済親子が政財界に影響を持つのは必然的な結果であろう。
中野も菅原もフィクサーと呼ばれた。
何か物事を成し遂げようと思ったら、上層だけではダメである。
末端をよく知っている、末端に影響力を発揮し動かせる人物が、フィクサーとなり得るわけである。

関東大震災、京浜工業地帯の誕生、満洲事変、日中戦争、太平洋戦争(第二次世界大戦)と歴史は流れていった。


戦後、その菅原通済が支援したのが、吉田茂に不満を抱いていた政治家・芦田均であった。
昭和電工事件は菅原通済の妹の夫が社長就任時で芦田均内閣の時に発覚した。
芦田均内閣はこの事件により総辞職を余儀なくされた。この直後に吉田茂内閣が誕生し、吉田茂は政官財を掌握していくことになる。
おそらく吉田茂も末端(裏)に顔が利く人物だったのだろう。
一方で上(表)の要素が足りないことを自覚していたかアドバイスがあり、表要素獲得のための人材を送り込み手中に収めていった。
それが吉田茂の官僚政治である。


(その後の菅原通済は)三悪追放協会を組織し、会長となって売春・麻薬・性病の三悪追放キャンペーンを主唱。売春対策審議会では会長を務め、売春防止法制定に力を尽くした。
麻薬追放はかなり本気であり、麻薬追放国土浄化連盟という組織を作り、山口組の田岡一雄や山岡荘八らとも連携。1972年には『麻薬売春Gメン』、『麻薬売春Gメン 恐怖の肉地獄』に協力し、1973年には菅原の原案で、麻薬問題をモチーフにした日本・韓国・香港・タイ王国共同映画『東京-ソウル-バンコック 実録麻薬地帯』が封切り公開された。
いわばこれが菅原通済にとっての反吉田茂ということだったのだろう。



第一次吉田内閣は1946年5月22日- 1947年5月24日(368日)。
この第一次吉田内閣で日本国憲法は可決・交付・施行された。
敗戦し占領され連合国の統治下にあり、正式に戦争状態が終結しておらず(条約未締結状態)、日本国という国がどういった処遇を受けるか分からない状況下にあったはずなのに、まるで独立国家のように憲法を制定したのは甚だ不可解である。
多くの人が気付いていないようで今日まで成功してきたが、実はそれが日本国憲法の最大の過ちなのだ。
戦後処理に焦り過ぎた、言い換えれば戦後処理が悠長すぎた。(憲法改正は終戦2か月後から始まっている)
それは敵味方が一部繋がっていることを暗示している。
占領地日本に幾らGHQが付いていたとはいえ、GHQは政治家でも全権大使でもない。軍の組織である。
先進的な民主主義国家が、あるいは独裁国家が、軍に戦後処理の何もかもを一任するなんてことは在り得ない。

上げたものは下げる必要がある。その基本に則り、憲法施行という大役を果たした吉田茂が一旦その座を降りた。
その後に、反吉田勢力である片山哲と芦田均が続いた。
このチャンスを何とか、、、ここが戦後の分岐点だったのだ。
それが昭和電工事件で打ち砕かれ、吉田茂再登板と一党支配に続いて行く。(ちなみに戦後に再登板した首相は吉田茂と安倍晋三だけである)


芦田均の京都府出身で生家は豪農。父親も衆議院議員を務めた。
東京帝国大学法学部卒。外務省官僚(外交官)から政界入りした。
彼も官僚出身であったわけだが、官僚政治を代名詞とする吉田茂とは馬が合わなかった。
しかしながら帝大法学部卒で外務官僚という実績に加え実力もあったのであろう。
憲法改正特別委員会委員長に就任したのは芦田均であった。
法律改正となれば誰でもよいというわけにはいかない。法律を理解していてGHQとやり取りが出来なければやはり話にならない。



私は現在も続けている「日本国憲法の秘密」というタイトルの記事の最初の方で大日本帝国憲法(明治憲法)から日本国憲法への憲法改正について、特に憲法9条について触れた。
2015年、すでに2年前となる夏のことである。
芦田均(芦田案)も登場した。

2015年7月29日 日本国憲法の秘密-16-
1946年2月13日、マッカーサーの部下が三原則をベースに作成した草案(GHQ原案)を日本政府に提示。これ以降「マッカーサー草案」に基づく「日本政府改正草案」が作成され、1946年3月6日「日本政府改正草案」をマッカーサーが了承した。
しかしここから紆余曲折何度も改正が加えられることになった。

比較

【枢密院で可決した案】
1項 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。
2項  陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。

【芦田試案当初】
1項 日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。
2項 前掲の目的を達するため、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する。

【芦田案最終】
1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

芦田試案では、2項の頭に「前項の目的を達するため」という文言が付け加えらた。
目的というのは重要である。
しかしその目的が委員会の始めと終わりでは変わってしまっているのだ。
そして結局枢密院で可決した案に極めて近いものになった。

【委員会最初】
「陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認する」という目的を達成するため
  ↓
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを抛棄する」。

【委員会終盤】
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という目的を達成するために
  ↓
「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

最初の芦田試案は、「とにかくもう日本の軍隊や戦力は持たないようにしよう!」というのが目的だった。
軍隊や戦力が必要な時はどういう時かと言えば、戦争や武力行使の時だから、「日本の軍隊を保持編成しなくて済むように戦争や武力行使は永久にしないでおこう!」という条文なのである。
日本の軍隊に随分懲りてしまった観がある。
「戦争をしない」などといった目的のほうが違和感なく一般的だろうと思う。
やや違和感の残る目的を選び、わざわざ1項と2項を置き換えたことを思えば、熟考の上の変更だったに違いない。
日本の軍隊を脅威に思った外国人がいたか、日本の軍隊の恐ろしさを知っていた日本人がいたか、どちらかではなかろうか。

法律は芸術ではない

軍隊について書かれている部分を抽出してみると、大きな違いに気付く。
先頭に◎を付けた文章は、軍隊や戦力、交戦権を直接否定しており明確簡潔で非常に分かりやすい。
ところがこの文中に「これを」が挿入された。
そうすると「これを」が何を指しているのかが明確でなくなる。
読む人によって見解が変わるということが生じる。
よくアーティストたちが言うじゃないですか。「どんなふうに解釈していただいても結構です。人それぞれですから」みたいなこと。
でもそれを書いたり作ったのは個人であり、著作権を主張する人達である。
そうであるならばそこには明確な意図や答えがあるべき。
「どんなふうな解釈でもよい」というのは誤解を与える、「答えはあるけれど言いません」と言うべき。
法律であるならば尚更。どんなふうにも解釈できるのでは困る。
法律は芸術ではない。
なるべく誤解を与えない明確で簡潔な文章を用いる必要がある。
幾つもの解釈が出来る文章は避けなければならない。
にもかかわらず、明確だったものを曖昧にした。それが憲法9条である。

◎陸軍、海軍、空軍、またはその他の戦力が承認されることはなく、国家に交戦権が与えられることもない。(GHQ原案)
・陸海空軍その他の戦力の保持及び交戦権はこれを認めず。(日本政府改正案3月2日)
・陸海空軍その他の戦力の保持はこれを許さず。国の交戦権はこれを認めず。(日本政府改正案3月5日)
・陸海空軍その他の戦力の保持はこれを許さず、国の交戦権はこれを認めないこと。(日本政府改正案3月6日)
◎陸海空軍その他の戦力の保持は、許されない。国の交戦権は、認められない。(憲法改正草案、枢密院に諮問4月17日)
・陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。国の交戦権は、これを認めない。(憲法改正草案、枢密院に諮問5月25日)
◎陸海空軍その他の戦力を保持せず。国の交戦権を否認することを声明す。(芦田試案7月29日)
・陸海空軍その他の戦力は、これを保持せず。国の交戦権は、これを否認することを宣言する。(芦田試案改正案7月30日)
・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(芦田試案修正案8月20日)
・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。(日本国憲法)




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# by yumimi61 | 2017-08-20 13:03
2017年 08月 18日
日本国憲法の秘密-537- (加計学園問題について)
森&安西&鈴木コンビが設立した昭和電工と東信電気。
森家は首相家(三木武夫)と姻戚関係にある。
安西家は皇后の実家や首相家(佐藤栄作)と姻戚関係を結んだ。

三木武夫は吉田茂の官僚政治を批判するも、吉田茂に非常に近く元官僚でもある岸信介や佐藤栄作のが政権誕生に力を貸していた。
三木は、吉田学校の生徒の1人に数えられる田中角栄が逮捕された時の首相である。
「私的参拝」と言って靖国参拝し物議を醸した。
そしてー
超法規措置としてテロ犯を釈放した首相でもある。

過去記事より
日本政府は1977年10月1日に福田赳夫首相が「一人の生命は地球より重い」と述べて、要求された身代金600万ドル(当時のレートで16億円)の支払い並びに日本で服役および勾留中の9名の引き渡しを決断。
「生命は地球より重い」と「超法規的措置」という言葉が有名になった。
指名された9名のうち拒否した者が3名おり、実際に釈放したのは6名。
3名は未だに行方分からず。そのうちの1人が大道寺あや子である。
(略)釈放要求されたメンバー


大道寺あや子の他にもう一人東アジア反日武装戦線のメンバーがいる。
浴田由紀子(えきだゆきこ)
「大地の牙」班のリーダーだった齋藤和の内縁の妻。山口県出身。
現在の長門市に生まれる。生家は地主だったが、農地改革で没落していた。
1969年、県立大津高校卒業後、北里大学衛生学部に一般入試で入学。北里大学への進学にあたって、推薦入試で不合格となった際に親族の計らいで地元選出国会議員の安倍晋太郎の東京の家で書生・行儀見習いをしながら北里の夜学に通うすべも用意されていたというエピソードがある。
1971年、学生運動とは無縁だったが、高校の同級生の逮捕をきっかけにその救援活動に入り、伊達政保らと知り合う。同年初夏に渋谷駅前でハンスト中の平岡正明らのテック闘争に遭遇し、斎藤和と出会う。程なくしてその年の秋、斎藤らと出かけた韓国への「学習旅行」が大きな契機となり、反日思想を醸成させていく。
1973年、大学卒業、新宿の三越診療所で臨床検査技師として勤務。

上記は1977年9月28日に日本赤軍が起したダッカ日航機ハイジャック事件で要求された釈放メンバーである。
「生命は地球よりも重い」のインパクトでこちらのほうが有名だが、日本政府はその前にも釈放しているのだ。
1975年8月4日(8月4日に生まれて!?)に日本赤軍が起したクアラルンプール事件である。この時は三木武夫首相だった。



「超法規措置」で釈放するという判断(恩赦とは違うものでしょうか?)を初めて下したのは三木武夫首相である。
三木の後の首相が福田赳夫で、この時にも事件が起きて同じ判断をすることになる。
靖国参拝問題の中曽根(軍人出身)も超法規措置の福田(官僚出身)も群馬県出身で、そこに三木が絡んでいることになる。
その三木は官僚や軍人出身者による政治に反対で、官僚政治を推進した吉田茂とも対立したというが、実は吉田茂一派の政権誕生を支援していた。

昭和電工事件、ロッキード事件、リクルート事件。
何か因縁めいたものを感じずにはいられない。

福田赳夫は1948年昭和電工事件で10万円の収賄容疑で逮捕されている。当時大蔵省主計局長であった。
但しこの事件も実刑判決が下ったのは昭和電工社長だった日野原節三のみで、他の被告はほとんど無罪となっている。
三木武夫が昭和電工の創業者の1人である森矗昶の娘と結婚したのは戦時中の1940年のことだった。


昭和電工の社長(在任期間)
初代 森矗昶 1939 - 1940 勝浦高等小学校
第2代 鈴木忠治 1940 - 1945 横浜商業学校
第3代 森曉 1945 - 1947 京都帝国大学文学部
第4代 日野原節三 1947 - 1953 東京帝国大学法学部
第5代 佐竹次郎 1953 - 1959 東京帝国大学法学部
第6代 安西正夫 1959 - 1971 東京帝国大学法学部・経済学部

森矗昶(勝浦高等小学校卒)と森暁(京都帝国大学卒)は親子である。
森矗昶の仲人でビジネスパートナー安西直一の息子が安西正夫(東京帝国大学卒)であり、こちらも一族である。
貧しい漁師一家に生まれカジメ拾いをしていたくらいだったのに、起業して成功した途端に子供は帝国大学卒となる。
こういう事例は多数あり、教育(学歴)というのはお金が物を言う(重要)ということがよく分かる。
2代目の鈴木忠治は味の素創業者であり森&安西の事業のスポンサーでもあった鈴木三郎助の弟。
昭和電工1・2・3代目社長は創業一族が就任しているが、4代目は創業一族ではない。
3代目の森暁が戦後公職追放され、昭和電工社長の座も降りざるを得なかった。 
戦時中の中心的な政治家や戦争に関わった企業のトップは刑を免れても公職追放されたケースが多い。財閥解体(分離)などもあって一族で継承していくようなことが難しかった時期である。
バトンタッチされた社長が日野原節三で、この時に昭和電工事件は発生した。

日野原節三を昭和電工の社長に推したのは菅原通済であった。
菅原通済の妹(但し異母)が日野原節三の妻であった。

菅原通済の父親は菅原恒覧。

菅原恒覧
岩手県出身の鉄道技師。後、菅原工務所社長。
東京帝国大学工科大学土木科卒後、鉄道局に入る。
日本鉄道会社(現:JR東日本)の大宮-宇都宮間や甲武鉄道の建設業務に従事。
1891年建築課長に昇進すると、新宿から千駄ヶ谷、信濃町を経て飯田町にいたる市街線の調査及び測量に着手し1895年に開通させるなど、数多くの鉄道建設に携わった。
1901年東京に菅原工務所を開業して自ら土建業界入り。
1907年には鉄道工業会社を設立。
1907年(明治40)6月、菅原工務所の菅原恒覧と元鹿島組の星野鏡三郎などが出資して設立。当初の社名は「鉄道工業会社」、初代社長は菅原恒覧。
社名のとおり、鉄道敷設に関する工事を専門に請負っていた。
自らも鉄道土木で身を起こした菅原恒覧は、旧態依然とした土木業のあり方に不満を持っており、ヨーロッパの最新土木の技術と組織の両方を取り入れた日本初の鉄道敷設に関する設計から施工・監理まで一貫して行う総合請負業として同社を設立した経緯がある。後に菅原は鹿島組の鹿島精一と共に鉄道請負業協会(日本土木工業協会の前身)を設立し、土木請負業の積極的な近代化を図った。
1940年(昭和15)、初代の菅原恒覧が死去し、2代目社長には実業家として活躍していた息子の菅原通済が就いた。通済は江ノ島(江ノ島電鉄)、鎌倉の宅地開発で知られ、その実力から政界にも太いパイプを築いていた。
岩手県出身の外交官・高平小五郎は菅原家の親戚である。
 
菅原恒覧は東京帝国大学卒のエリートでありながら、鉄道建設に技師として広く携わっており、鉄道建設の立役者と言われる。
鉄道建設黎明期にはイギリスなどヨーロッパの鉄道技師が招聘されており、そうした人達との付き合いも当然あったであろう。
にもかかわらずというか、それに触発されたというか、自ら工務所を創業して社長として土建業界に入っていくのである。
おそらく技師として工務店社長として人を使い現場を知り尽くす人物だったのであろう。
そのため土建業界のボスと言われた中野喜三郎にさえ一目置かれた存在であったという。


中野喜三郎
香川県と岡山県に挟まれた瀬戸内海に浮かぶ香川県の豊島(小豆島の西側に位置する小さな島)出身。
父の下で石材業を修行し、1883年24歳の時に上京。
1885年、どんな伝手があったのか、皇居の眼鏡橋の工事を請け負い、それを機に中野組(中野石材店)を開業。
茨城県の稲田地域で産出される稲田石に目を付けて開発に乗り出し成功を収める。
手がけた主な土木工事・石工事は、中央線笹子トンネル、日本橋、国会議事堂、東京地方裁判所、三井銀行(現:三井住友銀行)など。
1916年、東京土木建築業組合が設立され初代会長に就任。後、日本土木建築業組合の会長にも就任した。
皇居の眼鏡橋工事が事業の始まりだったわけだが、1928年に藍綬褒章を受章。
地元・豊島の最高峰の山は340mの壇山だそうで、そのふもとに清水神社と石造りの水場があるが、その水場は中野が私財を投じて造ったものだそうである。
戦後、指定暴力団・松葉会で総会屋として名を馳せた人物に同姓同名の中野喜三郎がいるが関係性は不明。


鶴見騒擾事件
1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(現在の騒乱罪)で起訴された。
喧嘩、つまり抗争である。
抗争の原因は東京電力火力発電所建設所の工事である。
建物は基礎(水路)と建屋に分けられ、入札の結果、間(ハザマ)組が基礎、発電機を置く建屋工事を清水組(現:清水建設)が落札した。
しかし両社の工事の取り合いがあり、清水組の下請け青山組(青山組に一旦仲裁を試みた松尾が加わり青山松尾連合軍となる)と間組の下請け三谷秀組と間で3時間に亘って抗争が起こった。

事件当時の現場一帯は、地元の三谷秀の支配下にあったため、新参にあたる青山組との規模が違いすぎ、博徒としての性格が強かった三谷秀と、鳶としての性格が強かった青山組とでは「異業種」であった点で相互理解がしづらい面があり、仲裁が五分で成立しづらかった。さらに中野ら業界指導者層に三谷秀のような在野勢力の覇権を排除する意図があった上、三谷秀・青山組の両方に何らかの縁がある者が多かったため、仲裁する側も立場の両立を図ることが難しかった。

松尾嘉右衛門の親分が中野喜三郎であった。

松尾嘉右衛門はこの事件を契機として、中野喜三郎の引き立てもあり神奈川県の土木建築業界に君臨していく。高額納税者として貴族院議員(1945年 - 1946年)にも就任。松尾工務店、花月園観光社長として花月園競輪場の創始にも関わっている。建設業界への長年の功績により勲四等旭日章を受勲した。反面、県の公共事業に王制を敷いていた河野一郎と喧嘩をするなど、1965年に74歳で没するまで波乱の生涯を送る。流れ者として京浜に着いて旭硝子の工員から出発した松尾の成功物語は、京浜の隆盛を物語る神話といってもよい。松尾は清水組との縁も深め、下請けでも特に選ばれた「名義人」になっている。


鶴見騒擾事件に関わった人物は後に土木・港湾・運送・工場労務事業などで成功したものが多く、現在も事件に関わった人物および組織の流れを汲む多くの企業がこの地域に存在している。

事件の裁判・差し入れ等の莫大な経費一切を被り青山芳蔵は破産宣告を受けた。組は幹部に任せ40代でリタイア。その後は日本中から「大喧嘩の大将」「今幡随院」と仰ぎ見られ窮屈な思いをしたとされる。宮崎龍介と知り合い頭山満の知遇を得る。宮崎・頭山が何の意図を以って一介の鳶と接触したかは不明だが、晩年、皇姑站で線路に仕掛けられた爆薬で爆死した張作霖について「あの事件は・・」と何かを語ろうとしたとも伝わっている



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# by yumimi61 | 2017-08-18 12:52
2017年 08月 17日
日本国憲法の秘密-536- (加計学園問題について)
・鈴木三郎助・・父の代から商家。味の素の創業者
・森矗昶・・漁師一家。森コンツェルン(戦前の財閥)の創始者。衆議院議員(1924-1932)
・安西直一・・漁師一家。森矗昶の仲人で、後に千葉県議会長となる。


森興業(日本沃度→日本電気工業)、昭和肥料、東信電気、これらは漁師一家出身の森&安西コンビが関わった会社である。
スポンサーは、ヨード事業を手掛けていた鈴木商店で成功を収め、味の素を創業した鈴木三郎助。
電力事業を行っていた東信電気は国家統制に組み込まれることになった。後に東京電力の一部となる。
日本電気工業と昭和肥料は合併して昭和電工となった。

安西八郎兵衛(勝浦の貧しい漁師)
 |
安西直一
(森矗昶より12歳年上で豪農の娘と結婚した森矗昶の仲人となる、後に千葉県議会議長)
 |
安西浩(東京瓦斯会長)・・・帝国コークス社長の娘と結婚
安西正夫(昭和電工会長)・・・森矗昶の長女と結婚

安西浩の長男・一朗(昭和アルミニウム社長)
 東京大学名誉教授で癌研究会癌研究所所長でもあった吉田富三の娘と結婚
安西浩の長女・和子 ・・・佐藤栄作首相の次男と結婚
安西浩の次男・邦夫(東京ガス相談役)・・・日本交通社長であった川鍋秋蔵の娘と結婚

安西正夫の長男・孝之・・・日清製粉会長の正田英三郎の娘(皇后美智子の妹)と結婚
安西正夫の次男・直之・・・住友財閥の創業家住友家16代当主吉左衛門の娘と結婚
安西正夫の長女・千世・・・政治家大橋武夫の長男である大橋宗夫と結婚
安西正夫の次女・八千代・・・現在も武蔵野音楽大学の学長である福井直敬と結婚
安西正夫の三女・公子・・・住友銀行会長堀田庄三の長男でモルガン・スタンレー証券会長堀田健介と結婚


森為吉(勝浦の貧しい漁師)
 |
森矗昶
(豪農の娘と結婚隣家の安西直一に仲人を依頼し、以後ビジネスパートナーとなる。森コンツェルン創始者)
 |
森暁(昭和電工社長、衆議院議員)・・・外務官僚で貴族院議員であった室田義文の孫と結婚
森清(昭和火薬社長、衆議院議員)・・・1965年河野一郎亡き後、中曽根康弘らと対立し森派を形成
森美秀(昭和火薬社長、衆議院議員
森満江・・・父森矗昶のビジネスパートナー安西直一の息子の安西正夫と結婚
森睦子・・・三木武夫首相と結婚
森三重子・・・三重県知事や衆議院議員であった田中覚と結婚(田中は再婚)

田中覚
三重県四日市市出身の官僚。1955年に辞職して三重県知事選に出馬当選。5期務めた。四日市ぜんそく発生時の知事。
1972年、知事5期目の途中で、田中角栄・三木武夫の説得に応じて自民党三木派から衆議院選挙に立候補して当選した。
森三重子と結婚したのは1975年。

三木武夫の妻は、森矗昶の次女である。(三木は徳島県出身)
森&安西というカジメ拾い漁師コンビ一族は天皇家や首相一族と姻戚関係を結んだ。
戦後平和の象徴天皇、ノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作や平和的との評価がある三木武夫との関係から森&安西一族も平和的だと感じる人がいるのかどうか知らないが、一方ある意味、、、やけに公害好きな一族でもある。

三木武夫という政治家は捉えどころがない。
その存在は、自民党に居ながら「自民党をぶっ壊す」と息巻いた小泉純一郎、新党を作っては壊すと言われる小沢一郎、党を渡り歩きながら出世した小池百合子などと、どこか重なるところがある。
逮捕にまで至った田中角栄の金権政治に比べて「クリーン」と言われ、タカ派の中曽根康弘に比べて「平和主義者」と言われた。
一貫して派閥の寄せ集め状態の自民党の体質からの脱却、党の近代化を訴え、時の政権、党執行部とも衝突を繰り返した。
大政翼賛会や田中角栄などの大勢力と対立し、一貫して小規模の政党・派閥を渡り歩きながら首相にまで上り詰めたため、バルカン政治家の代表格とされる。

三木は吉田茂とも対立したと言われてる。何故かと言えば三木が吉田の官僚政治を否定したから。

三木は決して日本の官僚のことを否定していたわけではなく、日本の官僚機構が国際的に見ても優れたものであることを認めていた。しかし三木が日本の官僚機構を評価していたのは、あくまで行政機関としての役割や機能に関する点であって、自民党など政党が官僚的に運営されることに反発した。三木がなぜ政党が官僚的に動かされることに反発したのかというと、三木が政治家としての道を歩み始めた戦前期、政党政治が没落して官僚超然主義の内閣が続く中で、泥沼の戦争に突入して国民に多大な犠牲をもたらしたことに対する深い反省があった。

戦争に導いたのは官僚だとでも言いたいようだ。
だから国会中継で官僚なしに政治が回っていくとは到底思えないだろう様子を国民に見せているのだろうか?

政党政治と官僚政治との差について三木は、国民を代表して政治に当たる政党は、国民との血のつながりが絶たれれば生命力を失う反面、官僚は必ずしも国民との直接的な結びつきを必要としないとし、組織の性格が全く異なることを指摘した上で、国民とのつながりが政党の生命であり、国民から政治が遊離すれば政党政治は形ばかりのものになるとした。
そして政治が官僚主義的に運用されるようになれば形式主義、権力主義がはびこるようになり、更に官僚政治は目前の問題に対処するいわば受身の政治であるのに対し、政党政治は目先を廃し、問題を本質的に捉え、対処していくものであると主張した。
このような考え方を持つ三木は、政党が官僚的に運営されることに反対し、官僚的な政治を進めているとした佐藤栄作の三選、四選に反対し、更に派閥抗争や金権体質は党の官僚化が原因であるとして、三木が党の近代化を訴え続ける理由の一つとなった。

でも言う事とやることが違う人は大勢いる。その点、三木も例外ではなかった。
三木は吉田茂の官僚政治を批判し、官僚・軍人・皇族等の出身ではなく一般人の政党員による政治を謳っていたにも関わらず、吉田茂と縁戚で近く親しい間柄にあった岸信介や佐藤栄作(ともに官僚出身)政権の誕生に協力していた。
つまり三木武夫は実のところ、吉田茂、池田勇人、岸信介、佐藤栄作に近い人物なのだ。

松村謙三1964年(昭和39年)- 池田勇人総理退陣時の後継総裁選出について、日中友好及び党人の立場から河野一郎を推す。派閥共同代表の三木幹事長が、川島正次郎副総裁とともに、池田指名に従い佐藤栄作を推したことに反発。脱派して松村派を再結成。

言う事とやることが違う人が大勢いる、ということについての補足だけれど、大勢の中には、無意識に言う事とやること(行動)が違ってしまう人と、分かっていながらも言う事とやること(行動)が違っている人がいる。

言葉=行動
言葉≠行動(無意識)
言葉≠行動(意識あり)
さらには考えや思いとの不一致もある。
考え・思い=行動
考え・思い≠行動(消極的)
考え・思い≠行動(積極的)→役割演技、ロールプレイング、ディベートなど

考え・思いと行動が一致していなくても、表に出てくる言葉と見かけの行動が一致することは多々ある。
例えば、何らかの事情で本心を隠して迎合する場合、仕事などで役割演技が必要な場合など。
何が良くて何が悪いかということは一概には語れない。
同時に人や物事の評価ってなかなか難しい。表層だけでは分からない。

私は以前、長男が小学校の授業で行ったディベートについて書いたことがある。

長男が小学校高学年の時だったと思う。
学校の授業で、パンチームとご飯チームに分かれ、「朝食はどちらがいいか」ということを討論したと長男が教えてくれた。
「へぇ~。もしも1対35人とかだったら1人の方は大変だね」と私は言った。
「半々に分けるんだよ」
「え?半々?」
「自分がどっち派かということは関係なく割り振られるんだよ」
「えええっー。どうして?」
「そういうものらしいよ。だから俺は本当はご飯派なんだけどパン派になっちゃったの。しかもね、意見言う人あんまりいないから、だいたい俺が言ってた」

私はこの時初めて、ディベートに「強制割り当て」なんていうルールがあると知ったのだった。そしてとても驚いた。
だってそれは自分の思考や信念や好みに嘘をつくことを是とすることだから。
大人がお遊びでやるならともかく、子供が学習することではないのではないかと思った。 第一、ディベートなんかあえてやるまでもなく、日常は言い争いの宝庫である。(本気の議論は関係に亀裂が入りかねないからディベートで丸く収めようということ?)
パンとご飯は戦う必要がない。パンとご飯を許容しあうことが大切。パンとご飯に折り合いを付けることを学ぶべき。審判より仲介を。(結構いいこと言うでしょ?)

見かけの敵味方では本心は分からないということをディベートの一件で確信することになった。
かつて赤十字病院建て替えラッシュの記事でも役割演技について触れた。
三木武夫という政治家もディベートの片割れというか役割演技というかで、決して吉田茂系の敵ではなかったのだろうと思う。

元首相が逮捕されたリクルート事件。
天皇や首相が本気でその気になれば、元首相の逮捕起訴は権力で持って握りつぶせたであろう。
元首相さえも逮捕できる日本の警察アピールか、そうはしなかった。
小卒の田中角栄元首相が逮捕された時の首相が三木武夫だった。

また靖国神社に「私的参拝」し、問題を炙りだしたのが三木武夫である。
公人か私人かの言い争いではないけれども、公式参拝反対派の皆さんも私的参拝(御忍び?)ならば良いということなのだろうか?
それなら私的参拝にすれば良いのに。
そもそも公式参拝ってどういう意味なのだろう?予め参拝を予告し肩書を付けて参拝するということ?
私的参拝と宣言し予め参拝を予告して参拝すればテレビカメラが待ち構えていても勝手に肩書を呼称してくれても私的参拝?
私人が私的に参拝する自由があるのは確かだけれども、公務員という立場は特別であるからして、しかも戦没者追悼式を政府主催で行っているのだから、公務員のうちはそれで我慢しておくとかではダメなのかしら?
それが嫌ならば公務員を辞めればいいんだわ。
過去記事より
政治家の靖国神社参拝がたびたび話題になる。
この問題に火が付いたのは遊就館が再開した1985年夏のことである。同年8月15日の中曽根康弘首相の公式参拝が大きく問題にされた。
実はその前にも問題になった首相がいた。それが日本プレスセンタービル竣工パーティーに出席したという三木武夫首相である。
戦後の歴代首相のうち、吉田茂(5回)、岸信介(2回)、池田勇人(5回)、佐藤栄作(11回)、田中角栄(5回)、みな全て公式参拝しているが、国内でも外国でも何ら問題とされてこなかった。(誰も興味なかったんですかねぇ?)
ところが1975年(日本プレスセンタービル竣工の1年前)、三木首相は何故か急に「私的参拝」と言って靖国神社を参拝したのだ。
これが報じられ、参拝が公式か私的かの論議を呼び、それから10年間、首相が靖国神社を公式参拝することは避けられていた。
再開したのが1985年の中曽根首相だったのである。(靖国神社・遊就館の宣伝に使われたんでしょうか?)









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# by yumimi61 | 2017-08-17 14:43
2017年 08月 16日
精霊
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あなたが生きていくということは、運命の手綱を繋ぐこと。

あなたが生きていくということは、運命の手綱を手放すこと。
 
運命の手綱を緩めることなく、運命の手綱を委ねることなく。

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# by yumimi61 | 2017-08-16 00:50
2017年 08月 15日
🐼パンダ名🐻
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私もパンダの名前を考えたのですが、「キュウキュウ」はどうですか?

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# by yumimi61 | 2017-08-15 00:55
2017年 08月 12日
日本国憲法の秘密-535- (加計学園問題について)
「新しい歴史教科書をつくる会」の自由社は東京電力とも深い関係がある。
森&安西&鈴木コンビが設立した東信電気は現在の東京電力の一部となっている。
そして東信電気と昭和電工は設立者が同じである。

吉田茂・岸信介・佐藤栄作の身内である安倍晋三・麻生太郎の現総理副総理コンビはもちろんであるが、そのほか昭和電工や東京電力と大いに関係がありそうな政治家の名を上げればこの人ではないだろうか。

石破茂衆議院議員。
キリスト教徒でありながら「日本会議国会議員懇談会(相談役)」「神道政治連盟国会議員懇談会」の会員でもあることは先日書いた。

石破茂の母方がキリスト教なのである。母の祖父が金森通倫。
金森は熊本洋学校の熊本バンドの1人であった。
熊本洋学校が閉校するにあたり生徒を託されたのが同志社の新島襄(群馬出身)であった。(熊本洋学校の跡地が日本赤十字社発祥の地となった)
金森は新島襄から洗礼を受けたプロテスタントである。
同志社卒業後の1880年から5年ほど岡山教会(日本基督教団の前身日本組合基督教会の教会)の牧師を務めていた。
その後、東京の番町教会(プロテスタントの日本基督教団の教会)の牧師になるが、それも1年ほどで去り、自由党に入党し『自由新聞』の主筆となる。
この自由党は板垣退助のつくった党であるが、ここに竹内網(吉田茂の実父と言われている人物)がいた。
ちなみに読売グループの日本テレビ社屋に隣接して番町教会がある(カトリックの上智大学市ヶ谷キャンパスの近くでもある)。自由党に入党した金森は三井鉱山や東京米穀取引所に関係し、1898年に正式に棄教して、1900~1914年の間は内務省や大蔵省の委託職員であった。
1914年に信仰を回復してキリスト教への再入信を表明。救世軍に入隊。
救世軍はプロテスタントの伝道組織で本部はイギリス・ロンドンにあり。
宗教組織なのに何もかもを軍隊に準えているという不思議な団体。十字軍と間違いやすいのにね。

すでに述べたとおり、「日本会議」は教科書問題にも関わる団体である。
また石破は防衛大臣の経験もある。

防衛庁長官(第68・69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)、自由民主党政務調査会長(第52代)、自由民主党幹事長(第46代)、内閣府特命担当大臣(国家戦略特別区域担当)兼地方創生担当大臣等を歴任した。
父は、建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣などを歴任した石破二朗。

鳥取出身。慶應義塾高校・慶應義塾大学を卒業後に三井銀行(現:三井住友銀行)に入社。
石破の三井銀行入行に関して、三井信託銀行社長を務めた鳥取県出身の土井正三郎は、「昭和五十三年初夏の頃石破(二朗)さんから令息・茂君の就職について相談を受けたことがありました。そのとき私は本人の志望会社を認められることを強調し、たまたま入社志望会社の人事担当役員が古くから親交がありましたので、石破(二朗)さんと一緒に訪ねたこともありました。又、令息の学業、クラブ活動の成績等は極めて優秀、希望通り採用内定し、その通知を受けられた、ご両親のご安堵の程が察せられたことを想起しています」と述べている。東京都中央区にある本町支店に配属。

早い話、石破茂の父親(当時参議院議員)が同郷の三井銀行信託社長に三井銀行への就職斡旋仲介を依頼したということであろう。

1981年、父・二朗が死去。父の死後、二朗の友人であった田中角栄から「おまえが(おやじの後に)出ろ」と薦められ、政界入りを志した。
1983年、三井銀行を退職し、田中角栄が領袖の木曜クラブ事務局に勤務する。1986年、第38回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で鳥取県全県区(定数4)から出馬し、得票数は最下位ながら4位で初当選した。当時28歳で、全国最年少の国会議員であった。なお、石破本人は田中派からの出馬を希望していた[要出典]が、鳥取県全県区からは既に田中派の平林鴻三が選出されていたため、中曽根派の幹部であった渡辺美智雄を頼り、中曽根派から立候補した。


実は石破茂の妻が昭和電工の取締役だった中村明の娘である。
でもって、石破茂議員はかつての東信電気を含む東京電力の大株主であり、東電から政治献金も受けていた。
石破茂議員の娘は早稲田大学のAO入試で政治経済学部に入学し、東京電力にご就職。
ちなみにAO入試は「真正面からの裏口」「正々堂々とした裏口入学」などと揶揄されたりするものです。
もっとも卒業してしまえば、どんな成績でどんなふうに入学しどんな学生時代を送っていたかなんて全く関係なくなって、学歴だけが独り歩きしてくれますからね。だからこそのブランド校なわけで。
東電株主や政治献金についてはこちらのまとめ([炎上]石破茂さんが東電の仲間だった![東電の大株主][娘が東電入社] )に資料あり。



子供の頃、学校で日本の四大公害病を習いましたね?
昭和電工は四大公害病の原因企業でもある。

①水俣病
(種類)水質汚染(生物濃縮・食物連鎖)
(発生年)1953年頃
(発生地)熊本県水俣市
(原因企業と工場)新日本窒素肥料(現:チッソ, JNC)水俣工場
(物質)メチル水銀化合物

②新潟水俣病
(種類)水質汚染(生物濃縮・食物連鎖)
(発生年)1965年
(発生地)新潟県 阿賀野川流域
(原因企業と工場)昭和電工(現:新潟昭和) 鹿瀬工場
(物質)メチル水銀化合物

③イタイイタイ病
(種類)水質土壌汚染(排水→川→田→米)
(発生年)1910年頃
(発生地)富山県 神通川流域
(原因企業と工場)三井金属鉱業 神岡鉱山亜鉛精錬所
(物質)カドミウム

③四日市ぜんそく
(種類)大気汚染
(発生年)1959年頃
(発生地)三重県四日市市
(原因企業と工場)石原産業、中部電力、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサント化成
(物質)硫黄酸化物


昭和電工の鹿瀬工場はもともと、昭和恐慌の影響により電力会社が余剰電力を抱えていたこともあり、東京電力の前身の1つである東京電燈、東信電気および鈴木商店の共同出資により、阿賀野川第一発電所の発電全量を買い取る契約で昭和肥料鹿瀬工場として1929年(昭和4年)に操業を開始した、カーバイドから肥料用の石灰窒素を生産する工場である。さらに1936年(昭和11年)には昭和肥料鹿瀬工場に隣接して昭和合成化学が設立され、昭和肥料からカーバイドの供給を受けてアセチレン・アセトアルデヒドを経て酢酸やその誘導品を合成する工場が操業を開始した。 


第二水俣病は、熊本水俣病に対しての政府の責任回避ともいうべき対応によって引き起こされたといえる。政府は熊本水俣病が発生した時点で原因の究明を怠り、チッソ水俣工場と同様の生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場の操業停止という措置をしなかったからである。熊本水俣病に対して的確な対応をしていたならば新潟水俣病は避けられたはずであるといわれる。また昭和電工は証拠隠滅のため都合の悪い資料をすべて破棄したと見られ、事件の全容解明はほぼ不可能とみられる

昭和電工の新潟水俣病は、1971年に因果関係が認定され患者側全面勝訴した。
発生年(患者が初めて確認された年)の1965年に昭和電工の社長だったのは 、美智子皇后の妹が結婚した安西孝之の父親・安西正夫(社長在任:1959-1971)である。
安西正夫は初代社長の森矗昶の長女と結婚しており、森矗昶&安西直一というカジメ拾い漁師家コンビは姻戚関係も結んでいた。
正田美智子が天皇家に嫁いだのは(皇太子妃となったのは)1959年。
美智子の妹・恵美子が昭和電工社長の長男・安西孝之に嫁いだのが1963年。
新潟水俣病の発生より後になるが、上記に転載したように熊本ですでに発生が確認されており、同じことをしていた昭和電工は発生が予想できたはずなのだ。
にもかかわらず、その企業経営者一族に後に皇后になるだろう人の妹を嫁がせた。
さらに言うと、本家熊本の水俣病の原因企業チッソの社長として当時対応にあたったのが皇太子妃雅子の祖父・江頭豊である。
皇室はどれだけ公害病(水俣病)好きなのか。
ともかく何か裏がありそうな関係である。



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# by yumimi61 | 2017-08-12 14:49
2017年 08月 12日
資料(吉田13人衆)
安西家と姻戚関係にある政治家・大橋武夫は、吉田茂首相、広島出身の池田勇人首相、岸信介首相の弟で安倍首相の叔父にあたる佐藤栄作首相の時に入閣している。
大橋は吉田13人衆の1人でもある。
また同じく安西家と姻戚関係にある佐藤栄作も吉田13人衆の1人である。
そしてその安西家は皇后の実家や世界最古の財閥とも言われる住友とも姻戚関係にある。


吉田13人衆は、内閣総理大臣・吉田茂の有力な側近グループのこと。
吉田が退陣した後も吉田に付き従った。
吉田と同じ官僚出身者が多いのが特徴である。
通常、以下の13名を指して呼ばれる。
彼らの多くは吉田の政界引退後も政界で強い影響力を誇った。

  • 益谷秀次衆議院議長など)
  • 林譲治の父、衆議院議長など)
  • 周東英雄自治相農水相など)
  • 小金義照郵政相など)
  • 池田勇人池田行彦の義父、総理大臣など)
  • 佐藤栄作佐藤信二の父、総理大臣など)
  • 保利茂保利耕輔の父、衆議院議長など)
  • 大橋武夫運輸相など)
  • 橋本龍伍橋本龍太郎の父、橋本岳の祖父、文相など)
  • 愛知揆一愛知和男の義父、愛知治郎の祖父、外相蔵相官房長官など)
  • 福永健司福永信彦の父、衆議院議長など)
  • 小坂善太郎小坂憲次の父、外相、労相など)
  • 田中角栄田中眞紀子の父、田中直紀の義父、総理大臣など)
  • 渡邉恒雄著『派閥』(弘文堂、1958年)より。年齢順。


    出典が渡邊恒雄の著書となっているが、渡邊恒雄とは御存知の通りかつて永遠に不滅な読売巨人軍のオーナーだった御方。現在も読売新聞グループ本社代表取締役主筆。
    フィクサーと言われることもある。
    教科書問題にも微妙に絡んでくる。
    先日も載せたけれども私の過去記事から。

    末っ子の小野寿満子さんは、外交官の加瀬俊一氏と結婚。
    加瀬俊一氏は総理大臣顧問や国連大使を歴任。 
    佐藤栄作首相のノーベル平和賞受賞に向けて尽力したのも加瀬氏だったといことです。
    当時の日本において重要なポストにいたことは間違いないでしょう。

    この加瀬俊一氏と寿満子さんの息子さんが、オノ・ヨーコさんと従弟である加瀬英明氏。
    教科書に繋がるのはこの方です。
    彼もまた首相特別顧問、外相特別顧問などを歴任しているようです。

    加瀬英明氏は、一頃盛んにニュースにもなった「新しい歴史教科書をつくる会」の顧問であり、 「新しい歴史教科書」を出版している自由社の社長であられます。
    統一教会とも関係があります。(統一教会はX JAPANの話題でリンクした先にも出てきていた)

    上記の自由社はWikipediaにリンクしてありますが、自由社という同じ名前の社が2つあります。
    石原萠記氏が社長の自由社と、加瀬英明氏が社長の自由社です。
    社長は違えど、社名も所在地も同じ。
    (加瀬氏は、石原氏の自由社の取締役でもある)
    (加瀬氏の自由社の監査役の弁護士がパチンコチェーンストア協会法律分野アドバイザーというのもなかなか凄い)
    教科書検定に合格したのが石原自由社。
    すぐさま版権を譲渡し出版したのが加瀬自由社。
    歴史もあやふやなら教科書出版社もあやふやといったところでしょうか。(現実に問題多々あるらしい)

    石原萠記氏は学生時代、先頃話題になっていた読売グループの会長、渡辺恒雄氏らとともに学生運動に参加。
    社会主義者です。
    東京電力とも関係があり、自由社は東電から財政援助も受けていました。なんと3月11日大震災と原発事故発生の日にも東京電力の勝俣会長と一緒にいたというから悪運強し。

    渡辺恒雄氏は共産党員でしたが、後に自民党の中曽根首相など保守系の政治家と親密になっていったのは周知の通り。
    また読売グループは原子力発電とも関係が深い。(参考:CIAのスパイでもあったらしい正力松太郎氏)



    日本版金融ビッグバンと呼ばれる金融大改革によって財閥化・独占化を推し進めたのは世紀末(2000年前後)で橋本龍太郎が首相の時であった。



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    # by yumimi61 | 2017-08-12 13:04
    2017年 08月 11日
    日本国憲法の秘密-534- (加計学園問題について)
    昭和電工の話の続きです。
    ・鈴木三郎助・・父の代から商家。味の素の創業者
    ・森矗昶・・漁師一家。森コンツェルン(戦前の財閥)の創始者。衆議院議員(1924-1932)
    ・安西直一・・漁師一家。森矗昶の仲人で、後に千葉県議会長となる。


    鈴木はヨード事業に成功して味の素に軸を移し、さらに電気化学事業へ進出した。
    一方の、森&安西コンビは、日露戦争が終わって需要が減り、ヨード事業は思うようにいかなくなる。
    強引に千葉県のヨード事業者を連合させて生き残りを図るも、軍需で潤った事業は軍需が無くなれば当然沈む。
    第一次世界大戦後に経営難に陥った。森が救済を頼み込んだのが鈴木だった。 


    戦争で需要が高まったのは火薬の原料となりうる塩化カリウムである。ヨードより多量に灰に含まれる。
    でも戦争が終われば需要が無い。他に使い道はないか?そう考えたのが鈴木家(鈴木商店)で、塩化カリウムを電気分解してマッチの原料となる塩素酸カリウムの製造を行うことを始めた。
    電気分解というからには電気というエネルギーが豊富に必要である。
    だから電気がなければ仕事にならないし、電気が高ければ儲からない。
    そこで自前で電気も作ることにした。
    三郎助は、芝浦製作所(現在の東芝)の常務取締役の岸敬二郎に相談を持ちかけた。水力発電の第一人者といわれる岸はこの案に賛成し、長野電灯取締役の小坂順造と高橋保を紹介する。
    こうして東信電気が誕生し、長野県に発電所を建設するに至る。
    その時に建設部長に就任し、その後塩素酸カリウム製造工場の工場長に就任したのが森矗昶。
    鈴木三郎助なくして森コンツェルンなし。
    森は負債を片付け新たに自身でも森興業(日本沃度→日本電気工業)という会社を創立。 


    発電所で作る電力が余ったので、他に何か利用できないかということで誕生したのが昭和肥料という会社。
    余剰電力を使用して石灰窒素と硫酸アンモニウムを製造した。
    必要に迫られて作ったのではなく、電力が余ったから物を作った(ただ余らせておいたのでは無駄である)。
    言い方を変えれば、需要があるから供給するのでなく、供給するから需要を掘り起こせということになる。


    日本電気工業と昭和肥料が合併して昭和電工となったのは1939年。
    この時代に何が起きていたのかと言えば、日中戦争。
    1938年3月、近衛内閣において、「国家総動員法」や「電力国家統制法」が成立し施行された。
    大々的な戦争に突入するための法準備を整えたのだった。
    こうして民間人がそれぞれの場所で行っていた電力事業が国家に掌握されることになる。

    しかしそもそも明治時代の誕生は公と私の境界を曖昧にさせていた。
    公共所有であったものを権力者が私有に転換したり、縁故者に無料あるいは格安で払い下げたりもした。
    福沢諭吉や渋沢栄一、松方正義、大隈重信などに代表されるように、以後官なのか民なのか分からない人物が増えるきっかけともなった。
    また外から見れば、官であろうが民であろうが「日本」である。
    日本にお金を貸している債権者から言えば、官であろうが民であろうが「債務者」である。

    日本は倒幕と明治政府誕生の際にも借金。
    日清戦争、日露戦争でも借金。
    1923年の関東大震災の際は、日本の大手電力会社も巨額の外債を発行している(借金)。
    信用で成り立つ世界においては借りたものは返す必要がある。借りるということは通常元金だけでは済まない。
    金利は固定物もあるが世の情勢によって変化するものもある。
    変動金利は今は安くても将来高くならないという保証はない。
    返済計画以上に急激に上昇すれば返済に行き詰まることもあるだろう。だから変動金利での借金は怖いのだ。固定金利は通常割高)


    1932年、ライバルであるはずの日本の大手電力会社5社は手を組んだ。金利が上昇して返済が厳しくなったからだ。
    国内で競争していたのでは(競争は値段下げ合戦となったりサービス過剰を生む)外国への返済に回す利益が確保できずに共倒れになってしまう。
    だから競争しないで高い価格で押し付けたり、安い価格で買ったり没収する。
    このような手を組むことを企業連合やカルテルと言うが、お互いの利益を守るために行う。他社の台頭や参入を拒む独占目的でもある。
    1938年の国家統制の前に下準備が整っていれば人々は変化に気付きにくく移行もしやすい。


    森興業(日本沃度→日本電気工業)、昭和肥料、東信電気、これらは漁師一家出身の森&安西コンビが関わった会社である。
    スポンサーは、ヨード事業を手掛けていた鈴木商店で成功を収め、味の素を創業した鈴木三郎助である。
    電力事業を行っていた東信電気は国家統制に組み込まれることになった。後に東京電力の一部となる。
    日本電気工業と昭和肥料は合併して昭和電工となった。


    鈴木商店や味の素の鈴木三郎助には弟がいた。鈴木忠治。
    兄の三郎助は戦前の1931年に没。弟の忠治は戦後1950年に没。
    電力会社がカルテルを組んだり国家統制法によって戦争に直走った時代にはすでに三郎助は生きておらず弟が継いでいた。
    鈴木一族は長州五傑の1人である井上勝や日銀創立者の松方正義一族と姻戚関係にある。

    井上勝の次女・・松方正義の息子(松方義輔)と結婚
        三女・・松浦勝純と結婚(婿養子で井上姓となり井上勝純となる)
    井上勝純の娘・・鈴木竹雄(味の素創業者の弟である鈴木忠治の三男)と結婚

    鈴木竹雄東大名誉教授(商法学者)
    兄に三楽オーシャン(現メルシャン)社長・会長を務めた鈴木三千代や、工学博士で昭和電線電纜会長を務めた鈴木松雄。弟に通商産業省重工業局長等や日揮会長を務めた鈴木義雄や、経済同友会副代表幹事や昭和電工社長・会長を務めた鈴木治雄、三菱重工業副社長や三菱自動車販売(現・三菱自動車工業)社長を務めた鈴木正雄、大蔵省国際金融局長や国際通貨基金理事等を務めた鈴木秀雄がいる。娘は日本放送協会(NHK)報道局長やパリ日本文化会館初代館長等を務めた磯村尚徳の妻。慶應義塾大学法学部教授の鈴木千佳子は娘。





    安西家は3代前までさかのぼれば、ただの庶民であった。この家族を語るときは必ず、戦前の新興財閥であった森コンツェルンとの関係を抜きには語れない。安西八郎兵衛、森為吉は、勝浦の貧しい一漁師にすぎなかった。
    漁師と言っても、割のいい仕事はカジメの拾い集めだったという。
    「拾い屋」から始まり、個人の拾い屋を結集して、さらに小事業者を強引に仲間に入れて総房水産株式会社を起こしたわけだが、これが結局上手くいかず鈴木三郎助を頼ることになる。
    他者を強引に連合させて起業する、一塊の拾い屋にどうしてこんなことが出来たのだろうか?


    安西八郎兵衛
     |
    安西直一
    (森矗昶より12歳年上で豪農の娘と結婚した森矗昶の仲人となる、後に千葉県議会議長)
     |
    安西浩(東京瓦斯会長)・・・帝国コークス社長の娘と結婚 
    安西正夫(昭和電工会長)・・・森矗昶の長女と結婚

    東京瓦斯の最高実力者として20年以上も君臨し、「法王」と呼ばれる。
    東京瓦斯は現在の東京ガス。
    1885年10月 - 当時の東京府から東京府瓦斯局の払い下げを受け渋沢栄一、浅野総一郎らによって、東京瓦斯会社として創立される。
    当時の東京府長・渡辺洪基は福沢諭吉に師事した慶應義塾出身者で岩倉使節団にも随行している。府長在任は1年で(当時は1期1年でほとんど1年で交代)翌1886年には唯一の帝国大学(東京大学前身)の初代総長に39歳で就任した。
    また駐オーストリア公使、衆議院議員、貴族院議員を歴任し、東京統計協会(日本統計協会の前身の一つ)、国家学会、日本建築学会、工業化学会(日本化学会の前身の一つ)など多数の学会会長を務めた。
    1892年45歳の時に両毛鉄道(両毛線)の社長にも就任。両毛線は群馬県前橋市と栃木県小山市を結ぶ鉄道。伊勢崎市、桐生市、足利市、佐野市などを通る。かつては貿易の稼ぎ頭であった生糸・織物の輸送で重要な路線だった。
    帝国コークスのコークスは石炭系の固形燃料。


    安西浩の長男・一朗(昭和アルミニウム社長)
     東京大学名誉教授で癌研究会癌研究所所長でもあった吉田富三の娘と結婚
    安西浩の長女・和子 ・・・佐藤栄作首相の次男と結婚
    安西浩の次男・邦夫(東京ガス相談役)・・・日本交通社長であった川鍋秋蔵の娘と結婚

    安西正夫の長男・孝之・・・日清製粉会長の正田英三郎の娘(皇后美智子の妹)と結婚
    安西正夫の次男・直之・・・住友財閥の創業家住友家16代当主吉左衛門の娘と結婚
    安西正夫の長女・千世・・・政治家大橋武夫の長男である大橋宗夫と結婚※※
    安西正夫の次女・八千代・・・現在も武蔵野音楽大学の学長である福井直敬と結婚
    安西正夫の三女・公子・・・住友銀行会長堀田庄三の長男でモルガン・スタンレー証券会長堀田健介と結婚

    皇后の妹と結婚した安西孝之は慶應義塾大学卒で昭和電工入りし取締役となった。

    ※※大橋武夫は吉田・池田・佐藤内閣で入閣し、労働大臣や運輸大臣を歴任した。
    濱口雄幸首相は義父にあたる。
    長男の大橋宗夫は、元大蔵省関税局長で、NTT常務や安田総研の取締役理事長などに就任しており、2015年に亡くなった。
    大橋武夫の息子には他にも昭和電工社長となった大橋光夫がいる。
    彼は、日本と台湾間実務関係を維持するために設立された特殊な性格を有する日本台湾交流協会の4代目会長に2011年6月より就任している。この協会の理事長は事務長は歴代全て外交官である。
    中華民国(台湾)とは1972年の日中国交正常化によって国交を断絶した。それは今でも変わらない。国連他、中華民国を承認していない国が多数である。台湾は独立した国家ではなく中国に含まれるという認識にあるはずなので台湾との関係は純粋に台湾との関係だけでは済まない。
    前にも書いたけれど、二重国籍問題は、「台湾との二重国籍」ではなくて、「中国との二重国籍」問題となるはずである。





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    # by yumimi61 | 2017-08-11 15:45
    2017年 08月 11日
    あらけずり
    e0126350_00334063.jpg



    おかか、あるる?
    アルルの女!
    でも使わないけど。(使いなさい?)
    イメージは薄く軽く踊るような削り節だと思うんですよ、たぶん皆さん。
    本鰹と削り器、決して安い買い物ではありません。
    でも実際にはイメージどおりの削り節にならないのが現実です。
    刃物や工具は基本的に見せるために存在するものではないので、結構忠実に品質と値段が比例するものの1つかもしれません。
    鰹節に何万何十万を投資できるかどうかと言ったらまあ普通は出来ないですね。
    そもそも削る時間がない!?気力がない!?体力がない!?




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    # by yumimi61 | 2017-08-11 01:01
    2017年 08月 10日
    クマのお墓とカトリック
    どうしてクマのお墓が十字型なんだろう。
    野性のクマがキリスト教徒だったなんてことはないだろうから、お墓を作った人など関係者がキリスト教徒であるということだ。
    あの施設がキリスト教系なんですか?
    あれはただの縦の板と横の板だ!?
    それと、どうして墓が漢字じゃないんですか?
    子供には読めん!?


    電脳六義園通信所管理人 石原雅彦の日日抄
    桜とカトリックと渋沢栄一

    東京都北区飛鳥山。
    静岡県清水市に生まれ両親に連れられて上京し小学生時代を過ごした昭和30年代、桜の名所として名高い公園の中心には野球場があった。

    地域の野球チームに入っていたので、そこで試合をしたこともあるが、野球場の使用には前もって大人の代表者による申し込みが必要だったので、毎日放課後にする普段の練習は近所の空き地を探してやっていた。

    その当時飛鳥山公園に隣接した場所は野球に格好の空き地になっており、塀を乗り越えてこっそり進入すると人っ子ひとりいない広大な空き地の真ん中に野球の試合が出来るような広場があった。王子小学校に通う子どもたちはその場所を「カトリック」と呼んでおり、授業が終わると
    「カトリックに行こうぜ」
    などと言って飛鳥山公園脇の人目に付かない場所から手を貸し合って塀を乗り越えたのだった。

    国鉄の線路側に面した斜面は芝生が生えており野球に飽きるとごろごろ転がって遊んだ。かつてはハイカラに手入れをされていたであろう広大な敷地は、よく見ると建物の基礎の跡があり、おそらくカトリック教会があり、関東大震災とか、第二次大戦の空襲とか、不慮の火災とかで教会は消滅してしまい「カトリック」という名前だけが残ったのではないかと幼心に思ったものだった。

    後にその場所には幕末から明治を生きた実業家であり晩年を社会事業のために尽くした渋沢栄一の記念館が建てられたので、第二次大戦の空襲で焼けた渋沢栄一邸「曖依村荘(あいいそんそう)」の跡だったとわかったのだが、どうして王子の子どもたちがその場所を「カトリック」と呼んでいたかはいまだに謎である。僕の記憶の中で「カトリック」と言う言葉は「桜・幕末・明治・社会事業・渋沢栄一」と根拠もないままに結び付いて離れない。


    静岡県清水岡町。
    出身中学校への通学路でもあった記念塔通り。海から緩やかに桜ヶ丘に向かって登っていく坂道の左手に石垣を巡らせた建物があり、それは「カトリック清水教会」である。昭和10年完成の典型的カトリック教会なのだけれど、1600年代初めまで遡るとこの場所は「御浜御殿」という名の庭園付きの建物があり、それは徳川頼宣(10男)が父家康のために建てた隠居所だった。

    1609年「御浜御殿」が建った場所に326年後の1935年「カトリック清水教会」が建ったのだけれど、徳川家のものだったこの土地がどのようにしてカトリック清水教会」のものとなったのか、その変遷を知ってみたいなぁと思うのは春に花開く教会前の「桜」と門柱の「カトリック」の文字が幼い頃忍び込んだ渋沢栄一邸跡を思い起こさせるからかも知れない。





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    # by yumimi61 | 2017-08-10 01:08
    2017年 08月 08日
    日本国憲法の秘密-533- (加計学園問題について)
    日本中央政界における政権交代は失政による内閣総辞職後の衆議院野党第一党党首への大命降下や衆議院多数派工作で成立したものがほとんどであった。

    どういう事かと言うと、日本は民意によって政権交代がなされたことがないということである。
    1885年に内閣制度が誕生して以降、初めて民意(選挙で野党第一党が単独で圧勝)によって政権交代がなされたのは2009年だった。
    74年目にして初。
    これによって鳩山由紀夫内閣が誕生した。
    吉田茂の孫が麻生太郎、岸信介の孫が安倍晋三、そして鳩山由紀夫もまた同時代に首相を務めたことがある鳩山一郎(最終的に自民党)の孫である。


    政権交代を可能にするほどの野党民主党風がどうして吹いたのか覚えていますか?覚えていませんよね?
    そう、これといった理由はない。
    あえて言うならばこれまで民意による政権交代がなされたことが無かったから。
    自民党にいながら「自民党をぶっ壊す」と訳わからないことを言って観客を熱狂させた小泉劇場が目的を果たして終幕。
    高揚したものは下がる運命にある。
    上がったものが下がらなければ継続は難しい。
    小泉内閣の後、自民党は安部内閣(366日)、福田内閣(365日)、麻生内閣(358日)とまるで計画したように1年内閣を繰り出してきた。
    変わらない時は何があったってとことん変わらないが、英語派で漢字が読めないとかお金持ちだからカップラーメンの値段が分からないというような理由で首相の資質が大問題になる時もある。
    そしてついに政権交代という切り札を使った。
    野党はもちろんのこと、与党もメディアも「政権交代」を匂わせて選挙に突入したので誰も不思議に思わないけれども、同じような面々で74年起こらなかったことが起こるほどのことがあっただろうか?
    ない、と言わざるを得ない。

    地球温暖化への対策に必要な二酸化炭素の排出削減のための「鳩山イニシアティブ」をとったのも、アジアの問題を蒸し返したのも、急激な円高と株価下落という憂き目にあったのも、東日本大震災が発生したのも、政権交代した民主党政権であった。
    その後に誕生したのが今日まで続く安倍政権。
    2009年政権交代、2012年安倍政権誕生。
    たった3年で民意によって初めてもたらされたはずの政権交代を同じ民意が否定していく。



    戦争に敗北するという大事があれば通常国の在り方や社会は大きく変わるものだが、日本ではそれでも変わらず戦前戦後跨いで74年も民意による政権交代が行われなかった。
    74年目の政権交代が本当に民意だったかも怪しい。
    戦後日本の一党支配の基礎を築いたのは吉田茂。
    その吉田茂に不満を抱き社会党と連立を組んだのが芦田均内閣。
    この内閣は昭和電工事件をきっかけに崩壊していくが、もしも事件が起こらなかったらその後の歴史は変わっていたのだろうか。


    昭和電工事件
    ##1948年4月27日‥衆議院で昭和電工の復金融資を巡る贈収賄が問題化。肥料工場拡充のため23億円余の復金融資を受けた際に日野原節三社長が政・官・財界に膨大な運動費をばらまいた。
    ##6月23日‥日野原社長逮捕
    ##9月13日‥福田赳夫大蔵省主計局長を10万円の収賄容疑で逮捕。
    ##9月18日‥大野伴睦民自党顧問、20万円の収賄容疑で逮捕。
    ##9月30日‥栗栖赳夫経済安定本部総務長官、30万円と他の収賄容疑で逮捕。
    ##10月6日‥西尾末広前副総理(社会党書記長)を100万円の収賄容疑で逮捕。
    ##10月7日‥芦田内閣総辞職
    ##12月6日‥衆議院本会議で芦田、北浦圭太郎、川橋豊次郎の3氏に対する逮捕請求、20票の差で許諾。
    ##1962年4月13日‥最高裁で日野原元社長に懲役1年執行猶予5年の確定判決、同年11月に栗栖の懲役8ヶ月執行猶予1年追徴金150万円が確定。他の重要被告はほぼ無罪となる。



    昭和電工のルーツの千葉県の漁業にある。
    昭和電工の前身企業の創業や経営に大きく関わったのは、鈴木三郎助、森矗昶、安西直一の3人で、3人とも現在の千葉県勝浦市の出身である。

    ・鈴木三郎助・・父の代から商家。味の素の創業者
    ・森矗昶・・漁師一家。森コンツェルン(戦前の財閥)の創始者。衆議院議員(1924-1932)
    ・安西直一・・漁師一家。森矗昶の仲人で、後に千葉県議会長となる。

    この3人の事業の始まりと成功はヨード(ヨウ素)にあった。
    ヨード(ヨウ素)とは原発事故の時に散々話題になったあれ。
    カジメという海草を乾燥し焼いて灰を作り、灰の浸出液を煮詰めて取り出す。
    日本では1880年代から各地で行われていて、特に千葉では盛んに行われていた。

    ・森コンツェルンの創始者となる森矗昶は漁師の家に生まれたが、矗昶はヨード工場で見習い工をしていた。勝浦の豪農の娘と結婚。その豪農の隣家が安西家であり仲人を務めた。

    ・商家に生まれた鈴木三郎助は自身も商人を目指すが、結婚後も米相場に財産を注ぎ込むほどのめり込んでいた。ヨード事業を始めたのは母と妻。(過去記事229に書いた)
    ヨード事業で成功を収めるが、その資金でもって新たに会社を創業する。
    東京帝国大学にいた化学者・池田菊苗の発見したL-グルタミン酸ナトリウムの権利を貰って味の素製造に乗り出したのだ。
    池田菊苗は理化学研究所が創立後は理研にも所属していた。


    ヨード(ヨウ素)は上記3人の発見では決してない。すでに作られて利用されていたものである。
    鈴木の母と妻は作っていた製薬会社の社員から「作るといいよ」とアドバイスされ作り方を教わったくらい。
    先発ではないのに何故成功に繋がったのか?
    それは日露戦争(1904-1905)で需要が一気に高まったからである。
    何故需要が高まったか?実は需要が高まったのはヨードではない。
    ヨードより多量に灰に含まれる塩化カリウムのほうである。
    塩化カリウムとチリ硝石(主成分:硝酸ナトリウム)から硝石(硝酸カリ)を作ることが出来て、その硝石は黒色火薬の原料となった。
    戦争に使う火薬の原料として(カジメ→灰→塩化カリウム→+チリ硝石で硝石)の需要が高まった。
    硝石まで作れないにしてもカジメを採取し塩化カリウムを抽出できれば、それを売ることが出来る。

    鈴木家は硝石まで作ることが可能だった。
    何故かと言うとイギリス系商社ドットウェルの日本事務所(横浜)と付き合いがあったからだ。
    ドットウェル商会の前身はアダムソン商会で、1858年に中国で設立され中国各地に事務所を持ち、お茶などを輸出入をしていた。
    イギリスと中国とお茶と言えば、麻薬(アヘン)も忘れてはいけない。
    その貿易商社と鈴木家は取引があったため、日本で産出されず手に入らなかったチリ硝石を格安で手に入れることが出来た。
    だから硝石まで作ることが出来たのだ。





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    # by yumimi61 | 2017-08-08 15:17
    2017年 08月 08日
    日本国憲法の秘密-532- (防衛省問題について)
    文科省の加計学園問題と防衛省の日報問題がセットのような時期もあったので、私もここでちょっと防衛省管轄のハガキ名刺問題を挟んでおこうと思います。
    次男の病院騒ぎ記事でこちら↓の記事も思い出したものですから。

    あ、これリッチリンクと言います。画像をクリックすると当該記事が開きます。
    下記緑字はその記事から。

    数日前から家の階段の下から5段目に小銭とともに名刺のようなものが置いてあった。
    次男はポケットから出した小銭をしょっちゅう階段に置いておく。
    名刺もそこに一緒にあったので、学校前か街中で学習塾の勧誘にでもあったんだろうと思った。

    それでもどこから貰ったんだろうと思って名刺を見てみると、自衛官募集と書いてあった。
    名刺に書かれている氏名は女性名。これが俗にいう美人局作戦か(*˘︶˘*)♡

    昨年長男宛てに自衛隊から葉書が来たことを思い出した。
    また自衛隊への勧誘かぁと思った。
    (略)

    なんだかだんだん胡散臭さが漂ってきた。
    そこで次男に名刺をどこで貰ったのか尋ねてみた。
    すると「スーパー」という答えが返ってきた。
    スーパーというのは他でもないスーパーマーケットである。
    高校生男子がスーパーに行く機会はそれほど多くない。
    「競技場近くの?」と訊くと、「そう」と言った。
    学校の部活練習で陸上競技場を利用することがあるが、その競技場近くにスーパーマーケットがある。
    競技場練習の際にたまに立ち寄ることがあるらしかった。

    「勧誘されたの?」
    「そう」

    自衛隊が欲しいのは若く健康な(願わくば体育会系な)男子だろう。
    スーパーマーケットという場所は一般的に、そんな若い男子に遭遇することが極めて低い場所である。
    言うなれば勧誘キャンペーンを張るには相応しくない場所だ。
    何故そんなところで勧誘していたのか・・・?
    最初は不思議に思ったのだが、自衛隊募集相談員がボランティアみたいなものだとすれば、ただ単に買い物中に若い男子を発見して自衛隊募集相談員の血が騒いだのかもしれない。
    自衛隊募集相談員を調べていて見つけた。オバマ大統領、呼び捨てですよ!

    それはともかく。今度は住所をチェックしてみた。
    住所とTELのあとに何やら「串政」という怪しげな言葉が添えられている。
    住所と名前から辿ると「飲み屋」だった。
    ここを読むと、どうやら飲み屋のおばちゃんが自衛隊募集相談員のようだ。
    自衛隊のTシャツを着て接客もしているらしい。
    そんじょそこらの募集相談員とは気合が違うな。(と言っても他の自衛隊募集相談員を知らないが)
    そうか!スーパーに鶏肉を買い出しに行っての遭遇だったのか。
    ということは、あのスーパーは鶏肉が安いんだろうか。




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    # by yumimi61 | 2017-08-08 01:15
    2017年 08月 07日
    日本国憲法の秘密-531- (加計学園問題について)
    小学校しか出ていない田中角栄が出世したのは、理化学研究所の3代目所長の大河内正敏の庇護があったから。
    大河内正敏の孫に女優の河内桃子がいるが、彼女にも若干気になる点がある。カトリックとの関わりである。
    戦争の背景には宗教対立があることが少なくない。
    文化人や芸能人が戦争に無理やり(?)協力させられたというならば、こうした宗教活動はどうお思いでしょうか?
    こういうのも無理やり協力させられているんですか?

    亡くなる前年の末まで俳優座の舞台にも立ち続けたが、1998年11月5日の午前9時45分、大腸癌のため入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。66歳没。亡くなる直前の10月29日、病床でレデンプトール会の近藤雅広神父(当時・心のともしび運動専務役員)より洗礼受け「マリア」の洗礼名を与えられる。葬儀は河内の実娘が喪主を務めた。墓所は東京都台東区谷中の谷中霊園。

    カトリック善き牧者の会制作のカトリック布教番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読を永年務め、その功績によりヨハネ・パウロ2世から聖十字架章を親授された他、1996年にはバチカン市国勲章も授与されている。


    多くの財閥が戦後GHQによって解体(分解)されたように、理研も解体した。
    理研は戦時中日本の原爆開発を担っていたいうが、「星野3兄弟が原爆を作った」と言われることはあっても、「理研が原爆を作っていた」と言われることがないのは皮肉なことである。

    日本の原子爆弾の研究開発は、1940年4月陸軍航空技術研究所所長の安田武雄中将が部下の鈴木辰三郎に「原子爆弾の製造が可能であるかどうか」について調査を命じたことから始まった。鈴木が指名されたのは、当時原子核を学んだ者が陸軍では鈴木と新妻精一 (最終階級は陸軍中佐) の2名だけだったからである。なお、すでに理研の仁科芳雄等は、英国の学術雑誌ネイチャーに、『Fission Products of Uranium produced by Fast Neutrons(高速中性子によって生成された核分裂生成物)』と題して、2個の中性子が放出される(n. 2n)反応や、複数の対称核分裂を伴う核分裂連鎖反応(臨界事故)を起こした実験成果を投稿してあり、同年7月6日に掲載されることになる

    鈴木は東京帝国大学の物理学者嵯峨根遼吉(当時は助教授)の助言を得て、2か月後に「原子爆弾の製造が可能である」ことを主旨とする報告書を提出した。安田はその報告書を持って東条英機陸軍大臣ら軍の上層部に原子爆弾の開発を提案するとともに、各大学、研究機関、主な民間企業にも報告書を配布した(この時点ではまだ機密ではなかった)。
    1941年5月陸軍航空技術研究所から理化学研究所の大河内正敏所長に「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究が正式に依頼された。これを受けて仁科芳雄主任研究員は6月から研究に着手した(仁科は当初この要請を断ったという証言もある)。

    その2年後、1943年5月に「技術的にウラン爆弾製造は可能と考えられる」という内容の報告書を提出した。この報告を受け、航空本部長に就いていた安田中将は直ちに部下の川島虎之輔大佐に研究の推進を命ずるとともに、これを最高軍事機密扱いにし、航空本部直轄の研究とした。
    以後、川島が中心になって研究が進められることになった。軍の研究を外部に委託するときは航空技術研究所を通すのが通例であった。上部機関である航空本部が直轄とするのは極めて異例であり、この一件のみであった。
    アメリカ合衆国によるマンハッタン計画が開始された翌年の1943年5月に、理化学研究所の仁科博士を中心にニ号研究(仁科の頭文字から)が開始された。

    軍の研究を外部に委託する時には航空技術研究所や航空本部を経由したということはどういうことか、察するものがある。 



    大河内正敏3代目所長にから「ウラン爆弾製造の可能性について」の研究を振られた仁科芳雄主任研究員は戦後の1946年に4代目所長となった。
    理化学研究所は理研産業団より遅く1948年に解体となったが、すぐさま株式会社科学研究所を設立し、仁科芳雄が初代所長に就任。
    皇室や政府の補助金によって設立された理化学研究所は最初から純粋な民間企業とは言えなかったが、解体後はとりあえず純粋な民間企業として再出発した。
    しかし1956年には再び政府が出資、1958年には特殊法人化した。

    新潟にいて理研所長の大河内と田中角栄が出会ったのは1932年。
    田中が大河内を頼って上京したのは1934年16歳の時。
    戦時中の1943年に田中土建工業を設立。
    理化学興業などから仕事を請け負い、田中土建工業はみるみる年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

    1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

    田中角栄が国会議員となったのは1947年のことである。
    吉田学校の生徒だった田中角栄は翌1948年に発足した第二2次吉田内閣で法務政務次官となった。

    まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、1948年11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾決議を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

    直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたもののわずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。
    炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。


    裁判で係争中だったにも関わらず、裁判前後に田中角栄が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだというから凄い。
    理研への政府出資(1956年)や特殊法人化(1958年)も理研に恩のあった田中が積極的に関わったと言われている。
    田中が初めて入閣したのは1957年39歳のこと。郵政大臣に就任。任命者は安部首相の祖父である岸信介首相だった。

    産業団を切り離し民間企業から特殊法人となった理化学研究所の所轄は文部省であろう。
    では理研が特殊法人になった前後の文部大臣は誰だったかと言えば、「文部大臣は瀬尾」とまで呼ばれた灘尾弘吉である。
    瀬尾の文部大臣期間
    1956年12月23日 - 1957年7月10日 石橋内閣 
    1958年6月12日 - 1958年12月31日 第2次岸内閣
    1963年7月18日 - 1964年7月18日 第2次池田内閣
    1967年11月25日 - 1968年11月30日 第2次佐藤内閣

    この灘尾弘吉も、池田勇人、宮澤裕(宮澤喜一の父)、永野重雄、加計勉と同様に広島県出身である。
    東大卒業後、当時内務省の人事課長で広島中学の先輩だった佐上信一の計らいで、内務省に入省し衛生局に入る。
    ※佐上信一は内務官僚で、岡山県知事、長崎県知事、京都府知事、北海道庁長官などを歴任した。

    天下りだけではなく就職斡旋もあるということ。
    官僚(国家公務員)に限らず地方公務員だって役所なんてコネ就職がほとんだとよく言われている。
    あとほら、よく聞きますよね?議員さんに入学や就職をお願いするとか、スピード違反などのもみ消しをお願いするとかっていう話。
    権力って恐ろしいもので(素晴らしいもので?)議員さんは何でも屋みたくなっている。
    「何かあったら何でも言ってください」とか選挙中につい言っちゃってるんでしょうね。



    先日、加計学園の創立者である加計勉が同郷の池田勇人(首相)と親しくしていて、その関係で宮澤喜一(首相)の後援会長も務めていたと書いて思い出した。
    私は以前にも宮澤喜一首相のことを書いたことがある。

    甍(いらか)百五十五 ・・次男が部活中に怪我をした時の話です。
    前の百五十四から続いている話です。
    きいちときいと
    (略)
    待合室は来た時よりも人が増えていた。
    ご年配の方々は朝が早いと言うけれども意外にゆっくりめスタートなんだろうか?
    その中に威風堂々とした男性がいた。
    診察に呼ばれた際にも大きな声ではっきりと返事して一際存在感を放っており、かつては中小企業の経営者だったというような雰囲気を醸し出していた。

    「ああ、きいちの甥っ子だな」
    国会中継を見ていたその男性が発した言葉である。
    え?きいち?
    テレビに目をやると宮澤経済産業相がいた。
    そうか宮澤洋一経済産業相は宮澤元総理の親戚筋なのかぁ。
    え・・・・み・や・ざ・わ・・?
    ああー!この間話題になっていたSMバーの人はこの人だったのか。どおりでどっかで見たことがあるような顔だと思った。
    (略)



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    # by yumimi61 | 2017-08-07 14:04
    2017年 08月 06日
    ブログについて
    私が使用しているエキサイトブログは数年前に記事投稿や編集をする管理画面が新画面に移行した。
    その時私も新管理画面を試してみたがとにかく使いにくかったので、すぐに旧管理画面に戻して、以降ずっと旧管理画面を使用していた。
    「サポートを終了しているので新管理画面に移行してください」という表示は毎回出るものの新旧どちらでも使用できる状態が数年続いていた。

    ところが先日変更していないのに新管理画面になっていた。
    調べると旧管理画面は強制終了、完全に取扱いを止めたようだった。
    それなら仕方ないので新管理画面を使うしかない。


    新管理画面は通常編集とHTML編集とがクリック一つで切り替えられるようになっている。
    せっかくの新管理画面なのだから通常編集というのを使ってみた。
    これは投稿編集画面がすでにプレビュー状態となっていて、改行やリンクや文字色や大きさなどが編集画面に反映されてくるので確認しながら編集できる。便利と言えば便利。
    何より凄いと思ったのは、その画面を使って他のホームページなどをコピーペーストすると、一瞬で複製できること。
    文字だけでなく、自分でいちいち設定しなくても文字色にアンダーライン、写真やリンク、何から何までそっくりにコピーしてくれる。
    HTMLソースを表示させて確認する必要も全くない。
    ただし、このリンクは要らないとか、この装飾は要らないといった応用(変更)は効かない。そっくりそのまま瓜二つが基本(とはいっても文字を消すことなどできる)。
    凄いと思ったのと同時にある種の戦慄が走った。
    無料配布やリンクフリーであっても直リンは禁止、直リンクはマナー違反、一旦自分の所に取りこめなどと言っていた時代が懐かしい。 


    私はワードやメモ帳にちょこちょこ書いて保存し、それをブログ投稿画面にコピペするということも多用するが、これに関しては全くダメだった。
    文字サイズや行間隔がまちまちとなってしまい、今までのようにいかない。
    こちらが意図した状態にならない。書式の引継ぎが出来ないようである。
    そうならばと途中でHTML編集に切り替えた。
    そうすると今度は指示していないタグが自動で入りこみ、これまた意図しない状態となってしまう。
    最初から自分で入力したHTMLタグではないので見づらくて、さらに想定外の動きをするため、いじればいじるほど訳が分からなくなってくる。
    コンピューターが人間に歯向かって暴走するのではないかなどという懸念が時々語られるが、コンピューターは今だって暴走する(指示以外のことをする)。
    ワードからのコピペ、通常編集とHTML編集の切り替えをしていて、私は本当にそう感じた。


    旧管理画面はHTML編集に近かった。
    かつてホームページはHTML編集できなければ作れなかった。
    IBMのホームページビルダーが登場して誰にでも作れるようになったが、それでも凝ったり様々なことをするにはHTMLが理解できていないと不可能だった。
    ブログはHTMLを知らなくても投稿できる画期的なものであった。
    それで爆発的に広がった。
    エキサイトブログの旧画面編集は基本的なことは向こう側で勝手に設定してくれて(改行など基本操作のHTMLタグは表示されてこない形式)、文字サイズや文字色、装飾などはボタンを選んで押せば変えられるようになっていた。 
    変えたものについてはHTMLタグが編集画面に表示される。
    選ぶボタンの無いことをしたい時には、自分でHTMLタグを入れれば、それが反映されてきた。
    新管理画面も最初からHTML編集にすればワードコピペなども問題なく出来るみたいだが、今度は基本的操作も勝手にはしてくれないので、改行や段落なども自分でHTML入力しなければならない。 
    Enterを押すだけで改行できた旧管理画面に比べるとやはり面倒である。


    プログラミング教育に力を入れるとか今頃言っているけれども、社会や時代はプログラミングから離れることを選んできた。
    広く普及していくかと思ったことが普及せずに消えていって、コンピュータープログラミングが特別な人が出来る特別なことになってしまった。
    確かに覚えることも作業することも手間暇かかる。
    既存のSNSを便利だと躊躇なく受け入れ、慣れ親しんだ言語すら短文化が進み、文章が長いというだけで「長すぎる」「長くて何言っているのか分からない」というコメントが入る時代にコンピュータープログラミングを広く教える必要がどこにあるのか?普及するとも思えない。


    もうひとつ常々感じている不思議は働き方改革とかいうやつ。
    働き方改革なんて何十年も前にフレックス勤務として導入されたではないか。
    始業や終業が一斉ではなく働く時間を選べるなんてちっとも新しいことではない。
    ある程度の勤務年数を重ねた人は長い休暇を自分の好きな時に取得できるというような制度も何十年も前から実施している会社は実施している。
    フレックスがそれほど社会に普及しなかったということなんだろうか?
    もっともフレックス勤務は工場のライン作業者などには適さない。
    一斉に始まり一斉に終わる必要がある。
    個人で行えばよい仕事でない場合には、個人の好きな時間は選択できない。
    学校の教師とか病院の医師だってそうだろう。
    交代制にすればそれだけ頭数が必要になって人件費がかさむので、日勤のみなのに交代制というのは現実的ではない。
    また工場などの場合、ラインを動かしたり止めるという判断は、様々な管理においてとても重要な判断となる。
    同じく完全に工場を停止するのかどうかといった判断も。
    ラインや工場は動かし続けて人だけ交代で休んでもらうのか、部分的に動かすのか、それとも完全に停止して一斉に休みに入るのか、それとこれとでは大きな違いがある。

    働き方改革なんて言って誤魔化していないで、供給過多だからもう物は作らない、サービスもそんなにいらない、みんな働かなくていいよ、そのかわりお給料は減らさせて、はっきりとそう言えばいいのに。






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    # by yumimi61 | 2017-08-06 15:14
    2017年 08月 04日
    日本国憲法の秘密-530- (加計学園問題について)

    1976年7月26日、田中角栄元首相(在任期間:1972年7月7日-1974年12月9日)が逮捕された。

    いわゆるロッキード事件である。
    前に記事にしたが、この贈収賄事件には、丸紅ルート・全日空ルート・児玉ルートという3つのルートによる金の流れがあった。

    アメリカ・ロッキード社の旅客機を全日空に買ってもらうためだったと言われている。
    購入に関しての賄賂ならば購入の決定権がある者や承認する者に賄賂を贈るのが最適。
    あるいは決定権者や承認権者を上手く唆したり、脅したり出来る者。
    もしも本当にロッキード社が自社最新鋭の旅客機を全日空に買ってもらいたくて賄賂を配ったとするならば、次のようになる。

    贈賄側:ロッキード社
    収賄側:全日空

    しかし賄賂罪は公務員が関与していないと成立しない。
    民間企業のロッキード社から民間企業の全日空の人物に賄賂が贈られていても犯罪にはならない。
    実際の事件ではこういう構図となった。

    贈賄側:ロッキード社
    収賄側であり贈賄側(ロッキード社と政治家等を仲介):丸紅・全日空・児玉誉士夫(政界のフィクサー)
    収賄側:田中角栄(元首相)・橋本登美三郎(元運輸大臣)・佐藤孝行(運輸政務次官)

    贈収賄罪は贈賄と収賄で通常セットである。
    少額ならばともかく赤の他人が大金を贈ったり貰ったりしていて何の意味もないということはないだろう。貰ったことやその意図に気が付かなかったということもまずない。自らの立場を心得ていれば尚更だろう。
    商社の丸紅社長らは贈賄罪に問われたが、全日空ルートの全日空人物は誰一人として贈賄罪に問われなかった。
    全日空ルートは贈賄と収賄がセットになっていない。
    贈賄でないとすると全日空は公務員サイドから利益供与される立場ではなかったということになる。本当に単なる仲介人。
    やはり売買しようとしていたものは旅客機ではなかったと考えるのが妥当。
    児玉ルートも結局贈収賄とも解明出来なかった。

    ロッキード事件で逮捕され贈収賄罪で有罪判決の下った公務員3人のうちの田中角栄と橋本登美三郎は吉田学校の生徒として名前が挙がっている。
    トカゲのしっぽ切りだったのだろうか。


    「ミスターゴールドマンサックス」「ミスターウォール街」と呼ばれたシドニー・ワインバーグ同様に、田中角栄も小学校しか出ていないタイプである。
    政財界の有力者が集まる東京の生まれでもない。新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)の出身で、金持ちの2世でも有名大学出身でもない。
    そんな田中が総理大臣にまで上り詰めた。これこそ成りあがり伝説に相応しい。
    こんな人はもう2度と出てこないだろう。(現代でそうなるには義務教育の中学を卒業しないで成り上がらなければいけないわけだから相当ハードルは高い。中卒ならばまだチャンスはあるでしょうか)


    田中角栄の出世に寄与したのは理研である。
    理研の創設者は「日本資本主義の父」と言われる渋沢栄一。
    埼玉県深谷の豪農出身。

    国庫からの補助金(165万円+毎年25万円)、皇室からの下賜金(年10万円を10年間)、三井財閥や古河財閥からも寄付を受けて1917年に理化学研究所が設立された。設立場所の土地や設備は三菱財閥が提供した。


    ジアスターゼやアドレナリンの発見で知られる科学者・高峰譲吉が中心にいて設立者の1人されているが、高峰と渋沢は高峰の渡米を巡って対立した。
    但し理研や研究者たちは研究成果(特許)によってアメリカで財を成した高峰に憧れを抱き続けてきたはずだ。

    高峰譲吉
    タカジアスターゼ、アドレナリンを発明し、アメリカ合衆国で巨万の財を成した。三共創業者。現在の富山県高岡市生まれ。現在の東京大学工学部の前身の一つである工部大学校卒。
    高峰は1890年にアメリカに移った。
    当時の法律ではまだ日本人は帰化することは出来なかったが高峰は永住覚悟だった。


    1886年、東京人造肥料会社(後の日産化学)を設立。会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中であった「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なでんぷんの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡があり、1890年に渡米する。
    東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われ、譲吉は当初渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。
    渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けるが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買うが、新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解した。しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、譲吉の新しい醸造法を止めようと、夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、譲吉の暗殺を試みた。その時譲吉は隠れていたので見つからず、そのまま醸造所の所有者たちは譲吉の研究所に侵入、結局譲吉を発見できなかった所有者たちは、研究所に火を放って研究所を全焼させた。

    1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明する。タカジアスターゼは消化薬として非常に有名となった。
    譲吉が最初に居住したシカゴは当時アメリカでも有数の肉製品の産地で多数の食肉処理場が存在していた。この時廃棄される家畜の内臓物を用いてアドレナリンの抽出研究をはじめ、1900年に結晶抽出に成功。世界ではじめてホルモンを抽出した例となった。アドレナリンは止血剤としてあらゆる手術に用いられ、医学の発展に大きく貢献した。
    1912年には帝国学士院賞を受賞している。1913年6月26日、帝国学士院会員となる。同年、日本における「タカジアスターゼ」の独占販売権を持つ三共(現在の第一三共)の初代社長に就任する。


    1921年、大河内正敏が理化学研究所の3代目所長に就任した。
    1代目2代目所長は二足三足のわらじで他の仕事が忙しく理研にかまっている暇はなかった。名前貸しのようなものであったのだろう。
    そもそも研究も理研で専属に行っているわけではなく、東京帝国大学の研究室で行われたりしていた。
    そんなわけで1代目2代目所長の時には理研はぱっとせず、当然これといった成果も出ずに資金だけを食いつぶしていった。
    2代目所長の古市公威と三島由紀夫の祖父が親交があり、古市が三島由紀夫の本名の名の由来なのだとか。(ちなみに三島由紀夫の祖父は福島県知事だったことがある)


    理研を発展させたのは1921年に43歳で就任した3代目所長である。

    大河内 正敏(1878年-1952年)

    東京府出身。子爵。理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。
    無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。
    孫は女優の河内桃子。

    当初彼も東京帝大教授と貴族院議員とを兼務していたが、1925年に理研専属となる。
    大河内は日本初の造兵学者で兵器研究が専門だった。当時は東京帝国大学工科大学に造兵科があって、彼は三島由紀夫と同じく恩賜の銀時計組(首席と次席)だった。
    理研も兵器製造などを目指したのだろうか。
    理研は物理・化学の基礎研究が中心で応用技術は少なく、特許を販売しても大した額にはならなかった。
    とにかく何か事業につなげたかった。

    「工業的試験は基礎科学の発明研究よりもはるかに困難で独自の試験所を設立する必要がある」という大河内の信念のもと、1922年に「東洋瓦斯試験場」が設立された。
    アドソールを活用すれば、自動車や航空機用の燃料を得ることが出来るようにもなるとしていたが、それは結局成功しなかった。
    アドソールは、新潟県で産出できる酸性白土の蒲原粘土を原料にした材料である。
    吸湿性に優れていて、これを使った冷房装置を考案している。

    活性白土は酸性白土を熱酸処理して得られるものであり、原土の比表面積が100平方メートル毎グラム程度であるのに対し、活性白土は200平方メートル毎グラム以上となることが多い。
    その生産場所は日本では新潟県胎内市・新発田市・糸魚川市や山形県鶴岡市など酸性白土の産地の近くであることが多い。最大手の水澤化学工業が約8割を生産する。1935年前後に相次いで日本活性白土、東洋活性白土、武田白土工業(現水澤化学工業)が設立された。

    多孔質で吸着性・脱色性に優れ、植物油を軽度の真空状態で接触させてカロチノイドやクロロフィルなどの有色素成分を除去したり、石油製品の脱色精製に用いられる。使用済みの廃白土はセメント原料や有機肥料製造時の発酵促進に使われる他、白土に残留した植物油を分離してバイオディーゼル燃料を作る試みもなされている。

    東洋瓦斯試験所のアドソールを事業化する目的で設立された会社が理化学興業であると言われることもあるが、高性能なピストンリングを大量に製造するためである。
    理研はやがて理研コンツェルンという財閥になっていくのだが、理化学興業はその中核をなす会社である。
    1927年、三井・三菱・住友などの協力を得て設立した。
    ピストリングの加工技術を理研の研究者が開発し、理化学興業(後の株式会社リケン)、ひいては理研コンツェルンの基盤づくりに貢献した。
    1932年、理化学興業は柏崎工場を建設。
    アドソールならば新潟ということも合点がいくが、そうではなくてピストリングの工場である。
    朝日新聞の航空機「神風号」に使われたことで名を上げたとか。

    2007年7月16日、新潟中越沖地震で被災、7月22日まで操業停止した。その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止、メーカー各社の技術者が操業再開の支援のために駆けつけるほどの影響があった。

    この理化学興業柏崎工場の建設に14歳の田中角栄が関わっていたというのだ。
    小学校卒業後、土木工事の現場で働くも1ヶ月で辞めて、その後は柏崎の県土木派遣所に勤めていたという。








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    # by yumimi61 | 2017-08-04 23:41
    2017年 08月 04日
    資料(吉田学校の生徒たち、生徒と言っても大人です)
    (Wikipediaより転載)

    吉田は1949年第24回衆議院議員総選挙公職追放された旧勢力の公認候補の代わりとして、各省庁から有能な官僚を送り込み、結果総選挙に圧勝した。吉田はこれら吉田学校生らを強いリーダーシップで率い、戦後日本の政治体制の基礎を固めた。

    主な吉田学校生徒

    第24回衆議院議員総選挙で初当選

    官僚

    法曹界

    財界

    学界

    マスコミ界

    第24回衆議院議員総選挙よりも前に初当選

    初当選後に民主党から移籍
    ※この民主党は自民党の前身党の1つである。
    公職追放令で幹部を多数失った日本進歩党と吉田茂総裁に不満を抱く日本自由党芦田均系が合同して結成され、芦田を初代総裁とした党。

    第25回衆議院議員総選挙で初当選

    第2回参議院議員通常選挙で初当選


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    # by yumimi61 | 2017-08-04 14:53