2017年 04月 26日
第三のトビラ
2010年8月11日 『ロック』

この世界がかわる前の最後の光。
それがそのしょうげきにおきた光・・・。
「もとの世界にもどるのにはどうしたら。」
「第三のトビラにいきなさい。
第三のトビラにロックをかければ
この世界とうらは昔のようにまじわらなくなるわ。」
また光が問いかける。
「どこに・・・どこに第三のトビラはあるのですか。」
「それはわからない・・・だけどこの近くのどこかにあるはず。」
さがすしかない・・・いやさがさなければならない。ぜったいに。 

2010年8月13日 『カギ』







 

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# by yumimi61 | 2017-04-26 21:03
2017年 04月 25日
日本国憲法の秘密-460-
学校、特に名門私立校は保護者にとっても子供にとっても人脈づくりの場として非常に重要である。
勉強なんか別に出来なくてもいいの!
一種のサロンみたいなものである。奥様の役割も大事。
PTA活動が嫌だなんて言うのはしがない庶民の証のようなものである。

上流階級に社交は欠かせない。(→「少なくともあなたより上流よ!」・・・上流違い)
社交界とは、王族、貴族、上流階級の名家などの人々が集い、社交(交流)する場のこと。
それゆえ、歴史的には、爵位や称号など勲章や地位を持たぬ者は、基本的には出席することができない集まりだった。
知的で洗練された会話や振る舞いをすることが求められ(国際儀礼第一級)、各国間での高度な外交や交渉事や、政治や経済の方向性や流れなどが、あたかも世間話のように決められている歴史的な場でもある。欧米では、社交界に初めてお披露目をすることをデビュタントと称する。

ヴェルサイユ宮殿などフランスの宮廷に起源を持つサロンが有名である。明治時代の日本でも社交界を育てるため、鹿鳴館が造られ、華族文化が開花した。現代日本においても、皇族、旧華族、名門家、政治家、高級官僚、財界人、各国要人(VIP)、外交官・大使、名士などが集う"社交界"があり、夜会(パーティー)などが催されている。
近年、セレブリティー(著名人、セレブタント、成金など)らが集うパーティーやイベント等が、ほぼ同義の意味で、多くのメディアで報道されたりするが別物である。


中世の王侯貴族たちの戦勝大宴会や、宮廷舞踏会が社交界の原型です。
19世紀に入ると民主主義が台頭したフランスにおいても、社交界が盛んでした。なぜなら社交界は、上流階級が社会に権威を誇示するために必要だったからです。豪華になればなるほど、注目を浴びておのれの階級差を知らしめました。
王政が廃止され、階級制度が無くなったはずのフランスの社交界が、イギリス以上に華やかだったのもそのためでした。


1950~1960年代にアメリカ社交界の華だったのがベイブ・ペイリー。
通常は社交界の華であればよいわけで、野に咲く花である必要はない。
上流階級では目立つことは良しとしない(古風な?)価値観みたいなものがある。
「寄付しま~す!」と言って寄付するのではなく誰も知らないところでこっそりしてこそ根っからのお金持ちというわけ。やたらに表に出てこない。その神秘性と相まり雲の上の存在となる。(だからロックフェラー3世の名前はなかったのか!?)
しかしベイブ・ペイリーという人はファッションアイコンでもあった。
社交界のお嬢様のみならず、庶民までもがそのファッションを真似ようとした。
このベイブ・ペイリーの旦那様(再婚)がユダヤ人でCBSネットワークの創設者で億万長者のビル・ペイリーであった。
盛田夫妻は子供達を通わせた学校における交流でビル・ペイリーを紹介されるに至る。
そしてそのビル・ペイリーからロックフェラー3世夫妻を紹介されたようである。


『ゴシップガール』で主人公たちがよくコーヒー片手にたむろっていた場所がメトロポリタン美術館入り口前の階段。
盛田一家が渡米して借りたアパートはそのメトロポリタン美術館の向いにあった。
アパートと言っても高級アパートである。
盛田一家が借りた部屋はもともとウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト・ネイサン・ミルスタインが住んでいたところであった。
10を超える部屋があり広々としていたというから日本の「アパート」から思い浮かべるそれとは全く違う。
ミルスタインがパリに数年滞在することになったため、ニューヨークのその住居を家具など込みでそのまま借りることになった。
一般的な駐在員が暮らせるような住居(金額)ではないが、億ションが珍らしくないアッパー・イースト・サイドにおいては随分良い話だったのではないだろうか。
とはいってもそこは単なる駐在員盛田家住居となっただけでなく、社交の場として用いられたというから、アメリカ進出の命運がかかった会社だと思えばまあそんなものかもしれない。

背が低く見劣りがして英語もろくに話せない爵位や勲章も持たない一駐在員の日本人が社交の場に出て行っても有り余る成果があるとは思えない。
知らない人が一人でいる盛田昭夫を見たら普通に小さなおじいさんである。(もっとも当時は若かったはずだが)
女の人だって同じであろう。着物だけで勝負できるわけではない。
ホームパーティを開き、上流階級の人々を招いて、家族ぐるみの交流をはかる。
それならば日本人であるという物珍しさやデメリットはメリットにもなり得る。それをよく分かっていたのかもしれない。
とはいっても普通は気後れするだろうから、それが出来たのは夫妻の天性の素質と家柄なのかもしれない。










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# by yumimi61 | 2017-04-25 13:40
2017年 04月 24日
日本国憲法の秘密-459-
ソニーの盛田夫妻の子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's School(男子校)とNightingale-Bamford School(女子高)であった。
どちらも名門私立高である。
アメリカ東部にはセブンシスターズと呼ばれる7つの名門私立女子大学(1つはハーバード大学に吸収された)があるが、ニューヨークのアッパーイーストに在る7つの名門女子校もセブンシスターズと呼ばれ、ゴシップガールのモデル校となったNightingale-Bamford Schoolはそのうちの1つである。
大学とその下の学校のセブンシスターズは別物。

名門私立高では日本の幼稚園年長学年(キンダーガーテン)から高校3年生(12年生)までの13年一貫教育を行っている所が多い。
アッパーイーストのセブンシスターズは全て13年一貫教育、日本で言うところの小・中・高一貫教育である。
一方、St. Bernard's Schoolが含まれるアッパーイーストの名門男子校は8年生(日本の中学2年生)までという所が多い。
それ以降どうするのか言えば、多くはボーディングスクールに進学する。
ボーディングスクールは、思春期から大人への過渡期(日本の中学3年生~高校3年生)の4年間の教育を行う全寮制私立校。男女共学である所が多い。
難関大学受験を目指す子供もいるが、どちらかと言うと、規則・礼儀・自立・協調・コミュニケーション・体力を重視した「エリート教育」が行われる。
Think differentタイプではないかもしれない。
アメリカにもThe Ten Schoolsと呼ばれる10の名門ボーディングスクールがあるが、イギリスやスイスのボーディングスクールに行く子もいる。
スイスのボーディングスクールには世界中から富裕層の子弟が集まり、アメリカやイギリスの名門大学に送り出されている。
富裕層の子弟が行くくらいなので(富裕層の子弟しか行けないように)学費は当然高い。
北朝鮮の金正恩労働党委員長や暗殺された異母兄・金正男氏もスイスのボーディングスクールに通っていたと言われる。


話は脱線するが(時間がかかりそうですか?)、群馬県太田市にぐんま国際アカデミーという日本人相手に英語で授業を行う小中高一貫校があることを以前何度か書いたことがある。(私立なのに市長が関わっていて税金が投入されたということで一時期問題視された)
ぐんま国際アカデミーには英語に慣れるために幼稚園児が通うプレスクール(プリスクール・幼稚園ではない)があるが幼稚園児の教育は行っていない。
前橋にBe English Academyというキンダーガーテンコースを持つインターナショナルスクールがある。
その学校のホームページに「ぐんま国際アカデミー初等部、群大付属小学校、開校以来合格率100%」と書いてある。(合格率100%というのは通った子が全員受かったということではなく、受けた子が全員受かったという意味ですよね?)
それはともかくとして、特徴の1つとして「日本赤十字社の加盟校―群馬県の保育施設の中ではじめて日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校となりました」と書いてある。


日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校というのはご存知でしょうか?JRCという名前で聞いたことはないでしょうか?
優しさや思いやりを学び国際人を育むことを目的に(!?)、加盟している幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校がある。
赤十字のホームページによれば、現在約1万3000校が加盟していて約303万人の青少年赤十字メンバーがいるそうである。
会長は学校長であることが多く、指導者は教員や保育士である。
日本赤十字社では活動のための資料提供、赤十字の全国的・国際的組織を活用した便宜供与や学校間連携の支援、希望する加盟校の教員や生徒向けの研修などを実施しているが、指示や通達によって学校内の組織を拘束することは一切ないとのこと。何をするかは自由裁量だそうである。(加盟はどうですか?忖度とかはありませんか?)
実は群馬県は加盟校が多い。小・中・高合わせて557校が加盟しておりメンバーは15万人を超える。
私が若かりしころ通った学校も加盟校で私も活動したことがある。
(小中高いつだったか忘れたけど、交流会か研修会かなにかで高崎経済大学に行って大学生のお兄さんお姉さんに優しくしてもらったことを覚えている)
首都であり、人口が最多で群馬県より1000万人以上も多く、当然学校数も多く近隣県からも通学する子もいるであろう東京都はどうかと言えば、加盟校は群馬よりも少なく544校である。
西の都(?)大阪府の加盟校は450校ほど(資料がやや古く2010年)。
群馬よりも80~90万人くらい人口の多い広島県での加盟校は291校。
群馬の3.5~4倍の人口数(750万)である愛知県の加盟校は1005校。
赤十字発祥の地(?)の熊本県での加盟校は253校。(人口は群馬よりも10万人くらい少ない)
都道府県別一覧がなかったので全部は調べれませんでした。あしからず。
でも群馬の加盟校は多いと思われる。しかしながら幼稚園・保育園で加盟している所がこれまで1つもなかった。これはこれで珍しい現象。
そんな中、Be English Academyが群馬の幼稚園・保育園で初めて加盟したということなのである。



校章に十字が入るSt. Bernard's School(男子校)と、『ゴシップガール』のモデル校Nightingale-Bamford School(女子高)は、兄弟姉妹校ということである。
『ゴシップガール』でもそんな感じで描かれている。
St. Bernard's School(男子校)が文学に強い学校ということなので、出版社三省堂創業一族出身の盛田夫人の影響かと書いたが、紹介したのはアメリカの証券会社スミス・バーニーのソニー担当役員だったそう。

当時スミス・バーニーは米国預託証券(ADR)を発行していた。
現在ADR発行を引き受ける預託機関(預託銀行)は、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン、JPモルガン、シティバンク、ドイツ銀行といった大手銀行によって占められているそうである。
こうした預託機関が外国企業の現地で株式を取得し、その株式を担保に預託証券を発行する。
その預託証券をアメリカの証券取引所に上場させることで、通常の米国株式と同じようにアメリカの投資家が自国通貨(ドル建て)で売買できるようになる。
早い話株式と同じであるが、制度上株式と言うわけにはいかない。

株式とは株式会社の社員権である。間違っても社員証ではない。出資者や株主であることを証明する券(現在はデータ)。
企業は資金調達のために株式を発行するので、株式会社は誰かに多額の借金がある会社と言い換えることも出来る。
株主は企業に利益が出れば配当という恩恵(利息のようなもの)を受けることが出来るほか、株は売買が可能。
持っている人にとっては価値のある(お金と交換可能な)「有価証券」であるが、その価値は永久に保証されてはいない。
何故かと言うと、会社に利益が出るとは限らず、株式の取引(売買)も株価(時価)によって行われるからである。
出したお金が必ず戻るとも限らない代わりに、出したお金よりも戻ることもある。他人の借金でギャンブル、マネーゲームしているというわけ。
企業の価値も株価(時価総額)で比較されるようになるので、株価が上がれば必然的に企業価値も上がる。
しかし株価は噂や雰囲気レベルでも上下する。企業価値は噂や雰囲気でも変動するということであり、実態があるようなないような。

広く株式売買を可能にするには証券取引所に上場(株式公開)させなければならない。
日本には東京、名古屋、福岡、札幌の4ヵ所の証券取引所がある。「東証」が有名ですね。
約3500社が上場していて、上場企業数はムンバイ(インド)、トロント(カナダ)に次いで世界第3位だとか。
アメリカの証券取引所は、ニューヨーク証券取引所、ナスダック証券取引所、アメリカ証券取引所の3つ。

ニューヨーク証券取引所
世界一上場審査が厳しいとされ、上場企業数は約2,800社。そのうち外国企業は約460社(47の国・地域)が上場している。
日本の三大証券取引所とは異なり、企業規模などによる市場指定(第一部・第二部など)は行ってはいない。大規模企業の上場が多く、日本企業では1970年にソニーが上場して以来、2016年12月現在13社が上場している。


上場日本企業(上場の早い順)
ソニー、ホンダ、京セラ、三菱UFJフィナンシャルG、NTT、オリックス、トヨタ、キャノン、野村HD、NTTドコモ、みずほフィナンシャルG、三井住友フィナンシャルG、LINE

パイオニア、TDK、日立、パナソニック、クボタ、コナミHDなどは上場を廃止した。
ニューヨーク証券取引所は企業に厳正なコーポレートガバナンス(企業コントロール)を求めるため、その対策費にかなりの経費が費やされるという。
あげく上場しても企業にメリットがなければ無駄ということになるわけだ。
上記にあるようにソニーが1970年に上場で、次が1971年のパナソニックだった。そのパナソニックが上場廃止となり、1977年上場のホンダが2番目の古参となっている。

ナスダック証券取引所
ニューヨーク取引所よりも中小企業やベンチャー企業が多い。
またナスダックは世界で初めてコンピュータネットワークを導入した取引所でありIT企業や情報関連企業が多い。
世界的大企業となったインテルやマイクロソフトといった企業もナスダックに上場している。
三洋電機もこちらに上場していた。


盛田家がアメリカに渡った1960年代にはソニーはまだアメリカの証券取引所に上場しておらず、ADRが発行されアメリカ市場で資金調達していたのである。

スミス・バーニーは1998年にソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となった。
ソロモン・ブラザーズは1980年にアメリカ有数の投資銀行に成長したが、1987年のブラックマンデーと1991年の不正スキャンダルで地に落ちた。
そんなソロモン・ブラザーズとスミス・バーニーをくっつけたのは、かのウォーレン・バフェット氏である。
その後シティグループの傘下となり、2009年には「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となり、さらにその後、モルガン・スタンレーがシティ保有の株式を買い上げたらしい。

ソニー(出井CEO)が出資して「マネックス証券」を設立したのが松本大氏(テレ東の女性キャスターとご結婚されましたね)。→過去記事
かつてソロモン・ブラザース・アジア証券にいたそうで、現在は東証の取締役でもある。

ちなみにソニーの平井現CEOは国際基督教大学の出身である。









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# by yumimi61 | 2017-04-24 15:22
2017年 04月 23日
日本国憲法の秘密-458-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎で1950年に改名、1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
  巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

 養父:松方幸次郎(1865-1950)・・・川崎造船所社長、1936年から衆議院議員
  幸次郎の妻:九鬼好子(隆義の次女)→松方好子
  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

 妻:佐藤星野→松方星野・・・敬虔なカトリック信者

 長男:松方峰雄・・・元日本航空国内旅客事業本部副本部長、元JALフライトアカデミー代表取締役副社長
 
 次男:松方富士雄・・・元トヨタ(ニューヨーク駐在事務所など)勤務


親戚であり友人の松方三郎と松本重治⇔ロックフェラー3世・4世

1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)はロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助した。
国際基督教大学(ICU)は高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。


松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者。
松本重治の妻の母は九鬼家の娘であるため、キリスト教徒(カトリック)であった可能性が高い。
世界でも類を見ないカトリック国であるフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーであるが、親子2代してフィリピン総督だった。
戦後の日本の金庫番(日本銀行総裁・大蔵大臣)一万田尚登は金融面で絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取っていた。
こうしたことから考えても、彼らは、国際基督教大学(ICU)は、カトリック(ローマ教皇)との繋がりが強いと思われる。


松方三郎の次男・松方富士雄はトヨタが1967年にニューヨーク駐在事務所を開設した際にアメリカにいた。
ソニーがアメリカにソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立したのが1960年のことである。創業者の1人である盛田昭夫が取締役社長に就任した。
ウォークマン発売(1979年)より20年も前の話である。(商品だけで巨万の富を得たり多国籍企業になったり、それを維持することはそうそう容易なことではありません。きっぱり)
盛田昭夫一家が本格的に渡米したのは設立から3~4年後のことらしいので1963~1964年頃。
1952年生まれの長男筆頭に2男1女の子供がいた。
その子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's SchoolとNightingale-Bamford Schoolであった。

St. Bearnard’s School(男子校)
1904年創立。イギリス人が多いこともあってイギリスの古き良き(?)伝統を色濃く反映する学校。
「古風な価値観の宝庫」と言われる。アメカジなんかありえない!?
文学に強い学校で、ニューヨークの旧家の子弟や有名作家やジャーナリストの子弟が多い。
ということは!良子の影響か・・(失言でした、すみません。盛田昭夫夫人良子様が出版会社三省堂創業家の出だからでしょうか、ね?)(盛田家も代々続く旧家(酒屋)ではある)
学校のマークには十字架が入っている。
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読みはセント・バーナード?ズ?セント・バーナードと言えば犬。
この学校のセント・バーナードはベルギーのストリート名から取ったらしい。(関係者がいたとかで)

セント・バーナード(犬)
 セント・バーナードは、2世紀頃にローマ帝国軍の軍用犬としてアルプスに移入されたモロシア犬が、その後独自の発達を遂げたものと考えられている。
 17世紀中頃から、スイス・アルプスの山深いグラン・サン・ベルナール峠にある修道院にて雪中遭難救助犬として使役されるようになり、20世紀初頭に至るまで、2,500名もの遭難者を救助した。このエピソードは画家などの絵により首に体を温めるためのラム酒の小樽をぶらさげたスタイルで知られている。なかでも有名なのは、生涯に40名を救助した「バリー」号で、その活躍ぶりにちなんで、一時この犬種をバリー・ハウンド(バリー犬の意)と呼んだこともあった。これにちなんで東京消防庁の特別救助隊や消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)ではセント・バーナードが描かれたワッペンを車両と隊員の肩に付けている。



Nightingale-Bamford School(女子高)
1920年創立。ナイチンゲールとバンフォードは創立者2人の名前。教師だった人物らしい。
アメリカの小説&テレビドラマ『ゴシップガール』はご存知でしょうか?
あれは作者セシリー・フォン・ジーゲザーの体験が元になっている話だそうだが、この学校が作者の母校でモデルになっているそうである。

ゴシップガール
 ニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイドを舞台とし、名門私立学校に通う高校生を中心に描いた恋愛群像劇。原作本は全米で2002年に発売され、シリーズ通算で400万部のベストセラーとなった。日本では2003年からヴィレッジブックスより順次発売された。全11巻。
 『The O.C.』のクリエイター、ジョシュ・シュワルツとステファニー・サヴェージの製作により、2007年9月からアメリカでテレビ放送が開始され、「ヤング版『セックス・アンド・ザ・シティ』」や「ポスト『The O.C.』」と呼ばれ、出演者もブレイクしてファッション・アイコンとなった。
 日本では、2009年4月16日にスーパー!ドラマTV開局20周年記念番組として放送開始。2010年5月20日には日本テレビでも放送を開始した。

ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イーストサイド。ハイソサエティなこの街の高校生は、酒にドラッグ、パーティー、セックス、そしてお金。何でも無制限にアクセス可能。自分の体面さえ保てばどんなにハメを外そうとお咎めなしなのだ。そしてそんな彼らの間で人気を集めているのは、正体不明の「ゴシップガール」なる人物が管理する情報サイト。街の人気者に関する目撃情報で成り立つこのサイトで、今もっとも注目されているのはセリーナ・ヴァンダーウッドセン。1年前、何も言わずに街を去りコネチカット州の寄宿学校に転校してしまった彼女が、なんと突然舞い戻ってきたからだ。









 

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# by yumimi61 | 2017-04-23 18:01
2017年 04月 22日
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# by yumimi61 | 2017-04-22 23:46
2017年 04月 21日
日本国憲法の秘密-457-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎、1950年に改名
                 ※1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
 巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

黒木三次の父は黒木家に養子入りした薩摩藩士。
父が死去し長男である三次が爵位を継承し伯爵となった。
関東大震災が発生すると復興を目的とした帝都復興院の参与に就任した。(帝都復興院の総裁は医師であり満洲鉄道の初代総裁でもあった後藤新平が就任。幹部は後藤の腹心やブレーン。NHK前身の東京放送局の初代総裁も後藤であった)


 養父:松方幸次郎(1865-1950)

川崎造船所の川崎は地名ではなく創業者(川崎正蔵)の名字。川崎正蔵は薩摩藩出身。国有の郵便汽船会社は西南戦争を機に三菱汽船会社と合併したが、その前から川崎は国有会社の副社長でもあった。
川崎は同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男に会社を譲った。
幸次郎の妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義の娘である。九鬼隆義も三田藩主家に養子入りした人物。その経緯には怪しさが残る。廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得る。キリスト教をはじめ西洋文化を積極的に取り入れ、宮内省にも勤務した。
三田藩主の九鬼家に仕えていた白洲家も慶應出身。
慶應義塾の創始者・福沢諭吉は薩摩の島津家や九鬼隆義から経済援助を受けている。
慶應義塾は島津家や松方家(日銀)、岩崎家(三菱)寄りの立場にあるということである。
慶應は学閥が強いことで昔から有名。
先日まで書いていた話に出てきた阪急グループ創始者も慶應出身。阪急・小林一三並びに三越・三井・三菱の三グループは全て慶應閥であり、東急グループのオーナーだった五島慶太はこの慶應閥から兵糧攻めにあった。
東急グループの母体企業・田園都市株式会社の創始者は(日本経済の父であり理研の創始者でもある)渋沢栄一であり五島ではなく、その田園都市株式会社の経営にこっそり関わっていたのが小林一三であった。
また東急電鉄の株式を握っていたのも五島ではなくフィクサー小佐野賢治であった。
小佐野は日本航空と全日空の株を買収して航空業界へ進出することを狙っていた。その後ろにはロックフェラーがいたとされる。(過去記事参照)

阪神大震災や地下鉄サリン事件が発生した1995年当時の日本銀行総裁は兵庫県神戸市出身者。
1998年3月20日に大蔵省接待汚職事件のスキャンダル(ノーパンしゃぶしゃぶ事件)により任期途中で引責辞任した。
1998年という年は日本銀行法が全面改正され新法となった1997年の翌年だった。
引責辞任した総裁の後任者も神戸出身。


川崎造船所は最初は築地の官有地に作られたが、その後神戸に移っている。
上にも書いてあるが廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得たのが、川崎造船所の社長だった川崎幸次郎の妻の父・九鬼隆義である。


  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

父・松方幸次郎(松方正義の三男)
                     ======松方花子(松本重治の妻となる)
母・好子(九鬼隆義の次女)

父・松本枩蔵(旧姓・井上、松本家に養子入り)・・・失脚 
                     =======松本重治       
母・光子(松方正義の五女) 
 


井上枩蔵が養子入りしたのは松本重太郎。
肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立や経営に参画した。
西の松本、東の渋沢(栄一)と呼ばれた、大物実業家。

松本重治(1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。

松本重治は松方家に二重の縁がある。
①母が松方正義の娘(但し正妻の子ではない)
②妻が松方幸次郎の娘

松方幸次郎の養子となった松方三郎と、松方幸次郎の娘と結婚した松本重治は同い年である。

松本重治は東京大学卒業後にアメリカへ遊学。さらにウランス、オーストリア、イギリスを巡る。
松本重治の妻となる花子(幸次郎の娘)もイギリスへ8年あまり留学していた。
重治と花子はイギリス・ロンドンで出会い(落ち合い?)、ロンドンでプロポーズして、1927年に帰国し結婚。
川崎造船所のある神戸の地元紙(神戸新聞)では帰国時に「松方花子さまのお帰り!」とかなんとか記事にするほどであった。
松本重治は東京大学で助手として勤務した後、1932年(33歳の時)に新聞連合社(後の同盟通信社)に入社し、1945年に退職するまで上海支局長や編集局長、常務理事などを歴任した。
前記事の松方三郎の経歴に、「1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職」と書いたが、この会社に先にいたのは松本重治だったのである。
親戚でもあるし、同い年でもあって、松本重治と松方三郎は親しい間柄にあった。
松本重治はロックフェラー3世と大の仲良しだったことでも有名。


戦後、松本重治が設立に関わり、専務理事や理事長を務めた国際文化会館の設立にはロックフェラー3世が関与している。
ロックフェラー家はアメリカ連邦準備制度(FRS)やその理事会(FRB)の設立メンバーにも名を連ね、現在も大株主ではないかと言われている(非公開のため実態が不明)。

2世の5男であるデイヴィッド・ロックフェラーvs3世の長男であるジェイ・ロックフェラー。
ここが長らく揉めていたが、デイヴィッドがお歳を召し(先日亡くなったとか?)、今現在はジェイ・ロックフェラーさんがジョン・ロックフェラー4世ということで落ち着いたようだ。
3世はロックフェラー家やアメリカにとっても不評で隠しておきたい存在なのか、日本語版Wikipediaには存在しない。
ただこの3世とその息子の4世は日本にとても関係が深い。

ロックフェラー4世は、ハーバード大学で東洋の歴史と言語を学んだ後、日本の国際基督教大学に留学し日本語を3年間学んだ。
この大学はロックフェラーと所縁がある。
それもそう、1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)ともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したのである。



国際基督教大学(ICU)
東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。
1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った。


湯浅八郎の父は、同志社創立者の新島襄と同郷(群馬県安中)の湯浅治郎である。
湯浅八郎
1890(明治23年)東京に生まれた。同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である父・湯浅治郎、徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である母・初子の間に生まれた。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しいクリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。
第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。


国際基督教大学(ICU)は新島襄や同志社との関係を匂わせて設立されている。
(ちなみに大学が置かれた場所は戦前中島飛行機が所有していた土地である。中島飛行機も群馬で創業された会社)
このような記述もある。
キリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。1949年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。

でもこのあたり少しおかしい。
ダグラス・マッカーサーは以前にも書いた通り、フィリピンに長い間いた人である。
マッカーサーがキリスト教を信仰していたとするならばカトリックであったと考えるのが自然である。

フィリピンは世界でも類を見ないほどの(?)カトリック国である。
国民の90%以上が一神教のカトリック信者で信仰心も厚い。日曜日は家族で教会が当たり前。
そんなフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーだった。親子2代、フィリピンを担当することになる。



一万田尚登
日本銀行総裁としての在任期間3115日間は歴代最長である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。

東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木榮吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。


1946~1954年、日本銀行総裁。
1954~1956年、大蔵大臣。
1957~1958年、大蔵大臣。

戦後の日本の金庫番が国際基督教大学の創立に深く関わっていたということだ。

 
 妻:松方星野・・・山口県出身、実業家佐藤市十郎の次女

松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者だったという。
星野という名前は「ベツレヘムの星」ちなんでいるというから、親も熱心なカトリック信者だったのであろう。
しかしですよ、星野といったら名字!
松方星野では、まるで松方さんと星野さんという2人の名字が併記されているよう。
(前にも書いたが星野姓が全国多いのは群馬県)
ともかくこのように松方三郎の妻はカトリック信者。

松方三郎の親戚であり友人の松本重治の妻(松方幸太郎の娘)も母が九鬼家(三田藩主家)出身である。
三田藩家老・九鬼兵庫(松方星野ばりの名前!)の屋敷跡に1952年に献堂されたカトリック三田教会がある。
三田藩の藩主も家老も九鬼家で親戚である。一般的には、藩主が本家筋で、家老が分家筋。

九鬼隆義はキリスト教とも無縁ではない。
神戸在住の宣教師(プロテスタント)と知り合いキリスト教に強い関心を示した。この影響で多くの三田出身者がキリスト教に入信したそうだ。1875年に三田旧領の子女教育のため神戸に「神戸ホーム(のち神戸英和女学校)」(現:神戸女学院)を開校した。
1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務に異動した。
1887年に神戸教会にてキリスト教の洗礼を受けた。しかしながら三田内部および三田の寺院の強い反対でキリスト教を棄教して仏教に帰信したという説もあるようだ。


三田藩家老・九鬼家の屋敷跡にカトリック三田教会が造られたことからも分かるように、三田藩家老の九鬼家は敬虔なカトリック信者であった。
神学者になった者や修道院に入った者がいるほどである。
家老家がカトリックで藩主家がプロテスタントとは考えにくい。
九鬼家のキリスト教信仰もカトリックとプロテスタントの混同があり少々おかしい状況。
日本人はキリスト教や十字架やイエスやマリアは知っていても、宗派や教派(カトリックやプロテスタントの違いさえ)を理解していないところがあるので、一緒くたになってしまったのだろうか?
中にはカトリックとプロテスタントの違いが分からない人がいたとしても敬虔なカトリック信者を抱えていることから、「家」としてはカトリック信仰であったと言ってよいだろうと思う。
無宗教・無信仰の日本人にはピンとこないかもしれないが、宗教の違いは結婚その他の障害になるほど大変なことである。
「家」「家族」を重視するならば尚のこと。

松本重治の密葬は世田谷(アンゴラ大使館のお隣)の東京聖三一教会(聖公会)で執り行われた。
従ってキリスト教信者であったことは間違いないが、聖公会とはイギリスの王(現在は女王)を頂点とするキリスト教である。
カトリックから分離したのでプロテスタントとも言われるが、カトリックの教義などそのまま維持しており、限りなくカトリックに近いとも言われる。









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# by yumimi61 | 2017-04-21 13:21
2017年 04月 18日
日本国憲法の秘密-456-
21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。

松方正義Wikipediaの家族欄では巌(松方正義の長男)の養子となったとあるが、ここは勘違い。
正式に養子となったのは3男・松方幸次郎のほう。長男・巌の世話になっていたこともあったということのようである。
松方三郎Wikipediaのほうでは松方幸次郎の養子として届け出たことが記されている。
( 昭和30年(1955年)5月9日、本名“義三郎”を“三郎”と改名。子供のころから“義三郎”の名を嫌い、自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた(『松方三郎』341頁))

1899年 8月1日 - 松方正義と松方の妾キタの子として生まれる。“義三郎”と名付けられる。京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ。その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む。
1905年 4月 - 兄松方幸次郎の養子として届出。

はたして、川上左七郎の4男なのか、松方正義の15男か、正解は不明。
(川上左七郎は川崎造船所の取締役、養父の松方幸次郎は川崎造船所の社長である)
正解は不明だが、松方義三郎(後に三郎)は松方家の3代目当主に納まった。
 松方家初代当主 松方正義(父)
 松方家2代目当主 松方巌(長男)
 松方家3代目当主 松方三郎



松方義三郎(三郎)が正式に養子に入ったのは松方正義の三男・松方幸次郎であるが、長男・松方巌の世話になっていた時期もある。
松方巌は十五銀行の頭取であった。

十五銀行
1877年(明治10)5月21日に国立銀行として開業。
岩倉具視の呼びかけにより有力華族が発起人となり華族銀行とも呼ばれた。
原資は禄(貴族や官人に支払われていた金銭と維新功労者に対して付与された金銭・物資など)制度処分の代わりに発行された公債(国債)。
初代頭取には最後の長州藩主・毛利元徳が就いた。
宮内省(現在の宮内庁)の金庫(御用銀行)でもあった。

1897年(明治30年)に普通銀行(株式会社)に転換。
転換後の初代頭取は園田孝吉。

園田孝吉
1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。
1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。
1889年11月に帰朝し、翌1890年3月、松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取をつとめた。1897年4月、病により同頭取を辞任。1899年には十五銀行頭取、帝国倉庫運輸株式会社社長などを務める。


1920年(大正9年)、十五銀行は 浪速銀行、神戸川崎銀行、丁酉銀行を合併する。
この合併の頃に十五銀行の頭取だったのが松方巌である。
神戸川崎銀行は川崎造船所(現在の川崎重工のルーツ)の創業者で川崎正蔵財閥の創始者である川崎正蔵が神戸にて開業した銀行。
川崎正蔵は松方正義と同郷で旧友という間柄。
当時大蔵次官であった松方正義の計らいもあって、1878年(明治11)に東京築地の官有地(現在の築地本願寺や聖路加国際病院の近く)を借受けて川崎築地造船所を設立した。
1894(明治27)年に勃発した日清戦争にて急成長し、1896年に株式会社とする。
株式会社になった川崎造船所の初代社長は松方正義の三男・松方幸次郎である。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と相次ぐ戦争で潤った重工業は、第一次世界大戦後の1920年に本格的な戦後不況に陥り、企業や銀行は不良債権を抱えた。
また1923年に発生した関東大震災で支払いを猶予する処置(震災手形)を行い、それが膨大な不良債権と化していた。
こうして金融恐慌が発生した。
十五銀行は川崎造船所に巨額な融資を行っており、川崎造船所も十五銀行も経営破綻危機に陥る。
1927年(昭和2)4月21日、十五銀行に取り付け騒ぎが発生して休業。事実上倒産した。
川崎造船所は公的資金投入によって再建した。

十五銀行最後の(倒産時)頭取が松方巌である。
彼は倒産の責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上した。
なにせ十五銀行は華族銀行であり御用銀行である。銀行が倒産して累が及ぶのは天皇家であり華族である。
松方巌がもっとも恐れた頭が上がらなかったのは松方正義立身出世の立役者である島津家であった。

島津家は華族の中でももっとも被害(預貯金・所有株式)が大きかったし、島津家がなければ銀行倒産後のカタを付けることも出来なかったのである。
島津家は東京品川に所有していた不動産(御屋敷)を一部残して箱根土地(後の西武グループコクド、創設時の役員は当時の著名な財界人や公家の血筋の人物)に売却し銀行整理の資金とした。
その後、十五銀行は再開したが1944年帝国銀行(→三井銀行)に吸収された。

品川のお屋敷はもともとは仙台伊達藩の下屋敷であった。
1873年(明治6)に島津家の所有に移り、天皇もたびたび訪れたという。
第二次世界大戦中、島津家もコクドもその土地を日本銀行に売却した。
戦後はGHQの管理下に入り駐留軍の将校宿舎として1954年(昭和29)まで使用された。
接収解除後の1961年(昭和36)、日本銀行は清泉女子大学に売却した。(忖度した!?)

イエズス会の名称ではありませんが、イエズス会の会憲をそのまま受け継いで創立されている女子修道会もいくつかあります。例えば日本では聖心会(聖心女子大学)、聖マリア修道女会、聖心侍女修道会(清泉女子大学)等です。上智大学 イエズス会の女子教育より>


松方巌は一切を投げ出して島津家の許しを乞うたという。
松方家の長男、2代目当主はこうして潰された。
(松方三郎はこの顛末を知っていて長男・巌の養子にならなかった!?)
松方家はこれまで以上に島津家に頭が上がらなくなったことは容易に想像できる。


21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。

学習院の中等科と高等科を経て、京都帝国大学経済学部卒業。
大学卒業後、満洲鉄道東亜調査局に入社。
1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職。中国の北支・中支・南支の各総局長、満州国通信社理事長を歴任。
戦後は1949年(昭和24)から1959年(昭和34)まで共同通信社にて編集局長や専務理事を歴任。


学習院中等科時代に登山を始める。
1921年(大正10)21歳の時に厳冬期の燕岳(北アルプス)に初登頂、翌1922年(大正11)に慶應義塾大学山岳部と厳冬期の槍ヶ岳(北アルプス)初登頂した。

登山(山に登る、山を越える)ということは日本でも古代の時代から存在していた。
開山(開拓)、調査研究、山岳信仰、宗教的な登山、狩猟、採掘、採取、戦術、移動、冒険など。
但し山に登ることだけを目的として、高く険しい山を目指す道楽・娯楽・趣味・レクリエーションとしての登山(アルピニズム)が広く伝わったのは明治時代のことで、来日したイギリス人が行って広まっていった。
富山県、岐阜県、長野県に跨る飛騨山脈を日本アルプスと命名したのもイギリス人。
後に日本人が長野県の木曽山脈を中央アルプス、長野県・山梨県・静岡県に跨る赤石山脈を南アルプスとして付け加え、飛騨山脈は北アルプスとした。
イギリスは登山が盛んな国で本場スイスのアルプスの山々の初登頂はほとんどイギリス人によって行われた。
日本では明治末から大正にかけて日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、皇族も登山を好んで行うようになる。
大正時代には測量が行われ、山小屋も出来た。松方三郎の厳冬期の初登頂はその頃である。
広島の先生の言う「冒険家とも言える一部の先鋭的な登山」はこの頃に盛んになったわけだが、やはり若さが必要とみえてその主役は高校生や大学生であった。
この時代に高校や大学に通えるということは通常は平均よりも裕福な家庭の子供である。

日本初の本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925(大正14)年、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒、三田幸夫=11代会長ら)によるカナディアン・ロッキーのアルバータ山への初登頂である。

松方三郎は1925年(大正14)にイギリスに留学し、スイスのアルプスで数多くの山に登った。
1925~1927年の2年間で以下登頂。
ヴェッターホルン、ユングフラウ、 グロース・シュレックホルン、 シュトラールホルン、ダン・ブランシュ、ツィナル・ロートホルン、オーバーガーベルホルン、マッターホルン(ツムット稜・イタリア稜)、ピッツ・ベルニナ、ピッツ・パリュなど。
1927年にはアイガー・ヘルンリ稜下部初登攀。






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# by yumimi61 | 2017-04-18 14:18
2017年 04月 17日
誕生日
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前に犬のロンが4月で16歳になりますと書いたのですが15歳の誤りでした。
長男が小学1年生の年に子犬でうちに来たので間違いなく15歳です!なんで間違えてしまったんだろう。
改めまして、今日15歳になりました!
ロンはミニチュアダックスにしてはやや大型ですが、小型犬として人間年齢換算すると76歳になります。

リン(正式名称はリンク)は2月に13歳になりました。(こちらは合ってます)




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# by yumimi61 | 2017-04-17 23:03
2017年 04月 17日
日本国憲法の秘密-455-
・松方正義の妻・満佐子の父―川上助八郎(薩摩藩士、明治期に米商会である中外商行会社の頭取、蠣殻町米商会所第三代頭取となる)

・松方正義の妻・満佐子の従兄弟―川上左七郎(日本海陸保険、大阪舎密、川崎造船所などの取締役、大阪株式取引所理事、日本銀行監事などを歴任)


松方正義の妻は川上助八郎の長女だという資料が多いが、川上左七郎は川上助八郎の長男であるとする資料もある。
そうなると川上左七郎は松方正義の妻・満佐子の従兄弟ではなく兄弟ということになって、このあたりも辻褄が合わなくなる。
従兄弟なのか兄弟なのか、それとも全く赤の他人なのか、正解は分からない。
「川上」とは川の上流という意味になるので、地名としても比較的ポピュラーであることが推測される。
現に鹿児島市にも町名として存在する。
また「上流に住んでいる〇〇さん」のことを、「川上の左七郎さん」(例えです)と言っても不思議はない。
このように川上自体がそもそも混乱を来たしやすい名字である。

混乱ついでに言えば、同じく鹿児島出身の川上直之介という人物もいる。
銀行家。鹿児島県生。東京帝大卒業後、米・ 独に留学。横浜正金銀行に入行後、日本勧業銀行に転じる。元勧業銀行理事・元日本銀行監事。

川上直之介の父の名は川上助七。
川上直之介の妻は、松方正義の三女(男子含めたトータルでは8人目の子)・松方廣子である。
つまりこちらの川上さんも松方家と親戚である。


それで昨日書いた松方正義の14男・義行が実は川上左七郎の次男だという話の続だが、彼は松方正義の次男・松方正作の養子になった。その後に7代目森村市左衛門の養子となった。
  川上義行→松方義行→森村義行
松方正作は外交官で、彼の妻は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の弟で2代目総帥岩崎弥之助(元日本銀行総裁)の長女である。
従って川上左七郎の次男・義行の養父は日本銀行創始者(後に総理大臣にもなる)の息子、養母が三菱財閥の娘ということになる。さらに義行は森村財閥の娘と結婚した。


松方の14男とされている義行が実は川上左七郎の次男だという説を取れば、川上左七郎一家には他にも松方家へ送り込まれた子供がいることになる。

 川上左七郎の4男・川上義三郎―松方正義の三男・松方幸次郎の養子となる。
 川上左七郎の5女・川上文子―松方正義の三男・松方幸次郎の養子となる。

3 三男:幸次郎(1865-1950、実業家、政治家) 川崎造船所*社長、衆議院議員。妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義**の娘。幸次郎の娘・花子は松本重治夫人。孫の操は建築家・槇文彦の妻。

しかしながら義三郎と文子はともに松方正義の子供とする資料もあるわけである。
 松方正義の15男(女子も含めたトータルでは21人目)・松方義三郎
 松方正義の7女(男子も含めたトータルでは22人目)・松方文子
松方義三郎は松方正義が64歳の時の子供、松方文子は68歳の時の子。
そして松方正義にはまだこの後に4人の子がいることになる。



21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。

松方正義Wikipediaの家族欄では巌(松方正義の長男)の養子となったとあるが、ここは勘違い。
正式に養子となったのは3男・松方幸次郎のほう。長男・巌の世話になっていたこともあったということのようである。
松方三郎Wikipediaのほうでは松方幸次郎の養子として届け出たことが記されている。
昭和30年(1955年)5月9日、本名“義三郎”を“三郎”と改名。子供のころから“義三郎”の名を嫌い、自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた(『松方三郎』341頁)

1899年 8月1日 - 松方正義と松方の妾キタの子として生まれる。“義三郎”と名付けられる。京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ。その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む。
1905年 4月 - 兄松方幸次郎の養子として届出。


はたして、川上左七郎の4男なのか、松方正義の15男か、正解は不明。
(川上左七郎は川崎造船所の取締役、養父の松方幸次郎は川崎造船所の社長である)
正解は不明だが、松方義三郎(後に三郎)は松方家の3代目当主に納まった。
 松方家初代当主 松方正義(父)
 松方家2代目当主 松方巌(長男)
 松方家3代目当主 松方三郎





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# by yumimi61 | 2017-04-17 11:26
2017年 04月 16日
日本国憲法の秘密-454-
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


倒幕の立役者である薩長藩。
しかしながらそもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。

1867年大政奉還、1868年に明治時代がスタートする。

その5年ほど前のことである。薩摩藩はイギリスと戦った。
九州のほとんどを手中に収めていた島津家だがそのベースは薩摩にあった。
イギリスは島津家と戦ったとも言い換えることができる。

薩英戦争(文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日))は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した。

生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日)、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。


薩摩藩(島津家)に対するイギリスの心証はよくなかったはずである。
だからイギリスは薩摩藩とは犬猿の仲だった長州藩に近づいたのかは分からないが、1866年なんと犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩は軍事的同盟を組んだのである。

そして江戸時代は終焉に向かっていった。


博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。


以前上記のように書いたが、松方正義も負けず劣らず子沢山である。
・松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。

正妻が産んだ子は4男1女の5人らしいので、残りの21人は妾やら何やら別の女性が産んだ子である。
松方正義が認知すれば子は「庶子」になるし、認知しなければ「私生児」ということになる。
正妻が産んだ5人を除く21人全てが認知された子だったのかどうかは実際のところ不明。
当然のこと全ての子と女性が松方正義と一つ屋根の下暮らしていたわけではない。
産んだ女性あるいは乳母に育てられ、後年になって養子という形で松方正義の子になったということも十分考えられるわけである。
それどころか、松方正義の子としながらも、松方正義の最初の方に生まれた子の養子になった者も複数いる。
そんなこんなで後年に生まれた子ほどその実態(実父が誰で養父が誰なのか)はよく分からないというのが実情。
また家系図などは歴史を遡って調べたり語られるものであり、一般に多く伝えられている事柄に間違いが少しもないとは言い切れない状況にある。

例えば前回書いた松方正義の14男・義行。
彼は7代目森村市左衛門の養子となり、7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
しかし彼は実は松方正義の子ではなく、同じ鹿児島出身の川上佐七郎の次男(川上義行)とする資料もある。

川上佐七郎
1851−1917 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)4年3月23日生まれ。日本海陸保険,大阪舎密,川崎造船所などの取締役を歴任。帝国商業銀行の設立につくし,大阪株式取引所の理事となった。大正6年10月21日死去。67歳。鹿児島県出身。

日本銀行の監事なども歴任したようである。
川上佐七郎は新島襄の同志社大学設立運動に寄付をしていたようで、新島襄から川上佐七郎に宛てた書簡(礼状)が2012年に発見されている。

川上佐七郎は松方正義の妻の従兄弟にあたる人物。
松方正義の妻は薩摩藩士・ 川上助八郎の長女。
川上助八郎は、薩英戦争の時には薩摩藩士としてイギリス艦艇に突撃する決死隊に参加していたという。(とはいっても戦闘機はまだない)
また最後の(明治2年に廃止)屋久島奉行でもあった。
(屋久島は鹿児島県に属する島で現在は世界自然遺産となっている。ちなみに世界自然遺産の登録されている日本の地は4つ。知床・白神山地・小笠原諸島・屋久島。富士山は当初自然遺産を目指していたが後に文化遺産に変更して、自然遺産ではなく世界文化遺産として登録された)
屋久島は平安時代に近衛家の荘園となり、戦国時代には戦場となり鉄砲が伝来した。
安土桃山時代の豊臣秀吉時代に屋久島は島津家の領地となり、森林資源の厳しい統制が布かれるようになった。



●1867年11月9日(慶應3年10月13日) 朝廷(天皇や貴族)が薩長両藩主に倒幕の密勅

前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は小御所会議により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
京では朝廷が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。
13日に密勅を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。相楽総三は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。

(浪士というのは前にも書いた通り、主君を失ったり主家を離れた食べる事さえままならない元武士のことである。風来坊とも言えるかもしれない。雇われた浪士は一時的とはいえ主君が出来たのだから、侍であり武士となる。7人の侍は農民に雇われたが、この場合は薩摩藩に雇われた)

彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。
薩摩藩士は浪士を雇って、放火・掠奪・暴行などの犯罪行為、挑発行為を繰り返した。

その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。



●1867年11月9日(慶応3年10月14日) 大政奉還

朝廷の密勅によって動き出した薩摩藩。
しかし密勅の翌日(あるいは当日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上した。
大層あっけなく目的を果たしたわけだから、雇われた浪人ももうお役御免のはずである。
無血開城が叶うのだ。

討幕の密勅の直後の慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。
そうして騒乱は拡大していった。もはや目的なき騒乱である。


●1868年1月19日(慶応3年12月25日) 江戸薩摩藩邸の焼討事件

薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。


権力とは別の場所で暴走が起こったのか。
それともやはり後ろで権力者が糸を引いていたいのか。

倒幕(討幕)に際し薩摩藩として表立って行動していたのは島津ではなく西郷隆盛や大久保利通である。
薩摩藩が諸手を挙げて西郷らの討幕計画に賛同していたかというとそうではなかった。
地元薩摩では西郷の言動を非常に危険視していたとも言う。
松方正義の妻の父・川上助八郎も西郷のやり方には異を唱えていたらしい。
西郷を支援していたのは他でもない島津家であった。
賞典は西郷や大久保に与えられたわけではない。もちろん雇われた浪人たちでもない。
藩であり藩主、結局は権力者に与えられる。

戊辰戦争(新政府vs旧幕府勢力)の戦功賞典
 10万石:島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
 4万石:山内豊信父子(土佐)
 3万石:池田慶徳(鳥取)、戸田氏共(大垣)、大村純熈(大村)、島津忠寛(佐土原)、真田幸民(松代)
 2万石:佐竹義尭(久保田)、藤堂高猷(津)、井伊直憲(彦根)、池田章政(岡山)、鍋島直大(佐賀)、毛利元敏(長府)、松前兼広(松前)
 1万5千石:前田慶寧(金沢)、戸沢正実(新庄)、徳川慶勝父子(尾張)、浅野長勲(広島)、大関増勤(黒羽)
 1万石:松平慶永父子(福井)、六郷政鑑(本荘)、榊原政敬(高田)、津軽承昭(弘前)、戸田忠恕父子(宇都宮)、黒田長知(福岡)、有馬頼咸(久留米)、秋元礼朝(館林)など

西郷と大久保は幼い頃からの友人であったが、明治新政府が樹立した後は時代の波に呑みこまれ対立する運命を辿る。
そして負けたのが西郷である。西郷は死んだ。
しかしながら大久保もまた暗殺された。
倒幕(討幕)を代表する薩摩藩士はともに不運な最期を迎えた。
薩摩藩一の出世頭となった松方正義は藩士ではなかった人物である。
藩士ではないというのは、武士として戦った実績がほとんどなく、幕末においても勤皇志士としての活動歴がないということ。
父親は商家に生まれた松田正恭。松方家に養子入りし松方正恭となる。
松方正恭の息子として生まれたのが松方正義(血の繋がりは松田にある)。
薩摩藩時代の松方正義も異例の出世を遂げたそう。
生麦事件の時には島津久光の側近だった。





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# by yumimi61 | 2017-04-16 17:49
2017年 04月 14日
日本国憲法の秘密-453-
私が『日本国憲法の秘密』というタイトルで書いてきたことを大まかに分類すれば次のようになる。

日本国憲法→松方正義とその家族→飛行機→戦争→原爆


松方正義は日本銀行の創始者。総理大臣にも2回就任。日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣なども歴任している。
明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても天皇から財政委任の詔勅を得て、大きな権力を持って財政をすすめた。
明治時代(1868-1912年)というのは近代化の名の下、戦争と借金によって世界の金融システムに呑みこまれていった時代である。

ロスチャイルド家が台頭した1700年〜1800年代はちょうど、ヨーロッパにおいてオカルティズムな神秘主義が拡大した時代だった。
その前の1500〜1600年代に起こった宗教改革が良くも悪くも宗教の権威主義に変化を与え、合わせて独裁的な君主に反旗を翻す市民革命も起こったため、様々なことが世俗化し、自由の名のもとに多様化していった。
1人の人間が発揮する吸引力というものが失われた時代であると言える。
またイングランドでの中央銀行の誕生を経て、1800年代半ばから始まった産業革命が、近代化への幕開けを告げた。
それは科学の時代の到来でもあった。

要するに、「金(紙幣・数字)で買えない物はない」「科学で解決できないことはない」という時代を迎え、宗教はその根幹から揺らぐことになった。
「マリアの処女懐胎」や「イエスは神の子」を謳うキリスト教、特にそれによって権力を獲得したローマカトリックへの打撃が深刻であることは想像に難くない。
こうした時代の変化をいち早く読み取れば、宗教や国のこれまでの権力者は金(紙幣・数字)や科学に近づいていくだろうと思う。
それは自身が生き延びる術であるからだ。



明治初期の金庫番は早稲田大学創始者の大隈重信である。
薩長藩(鹿児島・山口)出身者が強大な権力を握った時代にありながら、大隈重信は佐賀出身であった。
このことから考えれば金庫番は実力者である必要があって、大隈は実力があったということだろう。しかしやはり派閥が違うためか何かと合わず辛酸を舐めた。
この大隈の後に金庫番に就いたのが松方正義である。
松方家は武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時が鎌倉時代初期に島津忠久に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たことから始まる。
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


明治天皇は1852年生まれで、明治元年には若干16歳である。
天皇すり替えの噂も絶えないが、そうでなくとも歴史上長いこと天皇は実権を握ってこなかった。
個人的に見ても、明治初期の天皇は実績や実力不足である。
この天皇を中心にすんなりと一国が回っていくとはとても思えない。
明治初期には実力者は別にいて、実権は別の者が握っていたと考える方が自然である。


1868年1月3日(慶応3年旧12月9日)に王政復古の大号令が発令された。
その時に作られた政治体制は「三職」であった。
 1.総裁(有栖川宮熾仁親王)
 2.議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)    
 3.参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)


表の最高権力者は有栖川宮熾仁親王であった。
明治初期に権力を持っていたのは、長州藩でも天皇でもなかったのである。
つまり天皇同様に長州藩もすんなりと一国を回していくにはやや実力不足であった。
転換の混乱期にあまり表舞台に立たないほうがよいだろうという打算もあったのかもしれない。

では有栖川宮熾仁親王とは何者か?
総裁の有栖川宮熾仁親王は明治天皇や長州藩から信頼を得ていた人物だったのだ。
有栖川宮家はもともとは徳川家や幕府関係者とも親密な宮家だったのが、幕末の有栖川宮家の幟仁親王(父)と熾仁親王(子)は長州藩と内通しており、孝明天皇から処分されている。
王政復古後に熾仁親王(子)は三職の総裁に就任したが、幟仁親王(父)は国家神道普及の道を歩んだ。 

(王政復古直後)長州藩に近い皇族→(数ヶ月で)長州藩に近い公家→(1885年)長州藩士という流れで、首相が誕生した。
以前リンクした記事に裏天皇は旧徳川勢力とあったが、江戸時代というよりもそれ以前からある宮家や公家の中に倒幕派に付いた者がいたのである。また幕末にはそれまでの親幕府から翻った藩もあった(親倒幕派が藩主に就いた)。
それに追加して明治維新の混乱に乗じて発生した怪しい宮家もあり、それらも当然のことながら明治天皇や長州藩派であった。



熊本洋学校ジェーンズ邸は、西南戦争にて明治政府側の征討大総督であった有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。
この有栖川宮の許可により、旧ジェーンズ邸に博愛社が設立された。
その博愛社が10年後に日本赤十字社となったため発祥の地と言っているのだが、ジェーンズとも熊本洋学校とも関係ない。跡地だったということだけだ。
今回の熊本地震でジェーンズ邸も倒壊してしまったらしい。



博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。


現在の日本赤十字社社長の近衛忠煇氏は熊本藩細川家に生まれた(兄が細川元首相)。
英国ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスヘ留学、1964年(昭和39年)に帰国。日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚した。同年より日本赤十字社に入社。
1965年(昭和40年)に母の実家である近衞家の養子となった(伯父の文隆の夫人の養子)。

日本赤十字社は皇族が名誉総裁や副総裁に就任しており、当初から皇室との関係が非常に深い。
新島襄の妻だった八重は日本赤十字社に取りこまれた。

近衛家と島津家は親密である。
島津家は関が原の戦で徳川軍と戦った根っからの反徳川派であった。
その島津藩は後に篤姫を将軍の継室として送り込むまでになる。
島津斉彬藩主が養女であった篤姫を近衛家の養女として13代将軍・徳川家定の継室に送りこんだからである。

上記「三職」にある薩摩・尾張・越前・安芸・土佐を現代の県に当てはめれば、鹿児島・愛知・福井・広島・高知である。
実は長州藩(山口)は含まれていないのだ。
そもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。
三菱の岩崎弥太郎、三井資本で外国旅行に出かけ問題となった後藤象二郎&板垣退助、海援隊の坂本龍馬はみな土佐藩出身である。
土佐藩を脱藩し薩長同盟の立役者となった坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩に戻って直に暗殺され、薩摩藩や長崎商人の支援で結成された亀山社中(海援隊)は土佐藩の後藤象二郎に引き継がれ、土佐地下浪人として没落していた岩崎家の弥太郎の手に渡り今なお続く三菱財閥になりましたとさ。
(長州出身の伊藤博文は三井資本、肥前出身の大隈重信は三菱資本で動いていた)
その三菱財閥の岩崎家が薩摩・島津家の家臣だった松方家と婚姻によって親戚になりましたとさ。



では長州藩が表舞台に登場したのはいつだったのかと言えば、これが松方正義とも関係する。
大隈の後に金庫番となった松方正義が中央銀行設立を推進するようになったのは、1877年に渡欧してフランスの蔵相レオン・セーに会ってからである。
日本銀行設立は1882年だが、その前年1881年に前金庫番であった大隈重信とその一派が明治政府中枢から追放された(明治十四年の政変)。
レオン・セーはロスチャイルド家の使用人であり番頭であった。
つまり松方正義はフランスのロスチャイルド家に見込まれて、日本に中央銀行を設立し、権力の中枢に就いていったと考えられる。
もう一人、ロスチャイルド家に見込まれた者がいた。長州5傑の1人伊藤博文である。
真の実力者は往々にして邪魔になるので、見込まれたと言っても実力があったということではないだろう。
傀儡として適任者であった。
伊藤博文は長州藩出身者である。1885年に初代内閣総理大臣に就任した。
長州藩はイギリスとの関係も深いが、1700年代からナポレオン時代が終わる1815年頃までイギリスとフランスの仲はあまりよろしくなかった。
フランスではフランス革命戦争やナポレオン戦争が起こっていて(つまりフランスでは従来の権力の地位が揺らいでいた)、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国(王族のいる国々)が、フランス第一共和制およびフランス第一帝政(ナポレオン)の打倒を目的として同盟を組んでいた。
フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ、金融家に付け込まれるようになった。


・大隈重信と福沢諭吉―横浜正金銀行 
・松方正義―日本銀行

この2つが世界と金融システムを共有することに尽力した。
「金(紙幣・数字)で買えない物はない」という時代になれば、一番の権力は金が握ることになる。
「金は天下の回り物」という言葉があるが、当初お金は金本位制であり銀行によって回されていた。
お金を回す銀行が力を持っていたことは確かだが、金(Gold)を集めるのは容易ではなかった。
金本位制が崩れれば単なる紙幣を発行する者が一番の権力者ということになる。
やがて中央銀行から紙幣が発行されるようになる。
要するにそれはお金は天の下で回るようになったということだ。みな天という傘の下にいるということになる。
日本ならば天は日本銀行ということになる。
でも会社というのは出資者や株主があってこそ。
日本銀行という天の天は筆頭株主(出資者)であるはずだ。
ロスチャイルド家なのか天皇家か、それとも別の誰かか。
国や社会を支配するものがお金になった時、権力は肩書や名誉にあるのではない。お金こそが権力となる。
そして国家や社会は誰かの所有物となる。

日本銀行設立から7年後の1889年(明治22年)にやっと大日本帝国憲法(明治憲法)が制定され、明治天皇が38歳になった1890年に施行された。
天皇が表の権力者になったのはこれ以降である。
翌1891年松方正義は総理大臣に就任した。


松方家は松方正義の女好き子沢山と政略が相まってあらゆる方面に縁戚関係がある。

松方正義の数多い子供とその関連事項について書いている中、飛行機関係に話が移った。
松方正義の14男・義行(1896-1970)の時である。義行は7代目森村市左衛門の養子となった人物。

6代目森村市左衛門が森村財閥の創始者であるが、森村財閥の創始に大きく貢献したのは異母弟の森村豊。
森村家は慶應義塾創始者の福沢諭吉との関係が強い。
森村豊は、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力の下、佐藤百太郎が計画した「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡り、現地で語学と商業を学びながら事業を展開する。
1893年(明治26年)、森村豊は同じ船で渡米した新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)を設立。


新井領一郎(旧名:星野良助)は、群馬県勢多郡水沼村(桐生市黒保根町水沼)にて富農・星野彌平の子として1855年に生まれたが、1866年に隣村の生糸問屋・新井系作の養子となった。
兄の星野長太郎は水沼製糸所設立者で衆議院議員でもあった。
兄弟は日米貿易の創始者として活躍した。
黒保根の星野家は生糸商人になる前は鍛冶屋だった。
祖先の兄弟の兄が黒保根に住み着き、弟は沼田に住んで、ともに鍛冶屋をしていた。

松方正義の9男・正熊の妻は新井領一郎の長女である。(松方家と新井家が縁戚関係となる)
この夫妻には6人の子がいるが、そのうちの1人が1956年に駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーの後妻となった。
駐日大使に就任したのは1961年のこと。任命したのはケネディー大統領。そのケネディ大統領は1963年日米間のテレビ衛星中継開始に合わせるように暗殺された。
翌1964年、ライシャワー駐日大使が日本の大使館前で精神疾患患者に刺される。この時の輸血がもとでC型肝炎を発症。この事件をきっかけに精神衛生法が改正され、日本赤十字社が血液事業を独占した。
駐日大使が襲われたということで日本の医療制度に大きな影響を与えた事件であるが、その影響力の強さのわりにはあっさりと肝炎に感染させてしまうなど杜撰さや稚拙さを感じさせる事件(対応)でもある。

森村財閥は日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)、日本碍子(日本ガイシ)、東洋陶器(現:TOTO)、日本特殊陶業を設立し、成功を収めた。


松方正義の14男・義行が養子に入った7代目森村市左衛門は6代目の次男である。(松方家と森村家が縁戚関係となる)
松方正義の14男・義行は7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
1899年に森村後継者だった6代目の長男(27歳)と、森村財閥の基礎を作った6代目の異母弟・森村豊(46歳)が相次いで亡くなり、次男が森村財閥を引き継いだ。
森村財閥の他にも、横浜正金銀行、第一生命保険、三菱信託銀行、三菱銀行、東芝、三井信託銀行など数多くの企業の役員に就任した。
7代目森村市左衛門の妻は井上勝(長州藩士の息子で伊藤博文と親交があった。清国経由でロンドンに留学した「長州五傑」の1人)の長女。
ちなみに、 松方正義の10男・義輔(1883-1972;日本銀行金沢支店長、日本特殊陶業監査役、共立原料各監査役)の妻も井上勝の三女である。
7代目は企業のみならず多くの大学や研究機関の役職も歴任した。


6代目森村市左衛門の異母弟・森村豊の3男・森村勇は、ハーバード大学で海軍命で留学していた山本五十六に出会う。
1920年頃のことである。
森村勇はこの時に山本五十六から航空機の魅力についてとくと聞かされ、自身も航空機にはまっていく。
当時、森村勇は20歳代前半で、山本五十六は35歳前後。
山本五十六が第26代連合艦隊司令長官に就任した1939年、森村勇は大日本航空監査役として太平洋を横断した。








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# by yumimi61 | 2017-04-14 16:36
2017年 04月 13日
フクロウ
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# by yumimi61 | 2017-04-13 14:15
2017年 04月 12日
青春
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# by yumimi61 | 2017-04-12 22:15
2017年 04月 11日
あなたはまだ本当の奇跡を知らない
3月25日、次男が家を出た(引っ越した)。
その前日だったか、私はたまたま「これ使ってもいいよ」と私が持っていたソンバーユを手渡した。
長男には以前何度かソンバーユを貸したことがあるが次男には初めてだった。
引っ越した次の日、用事があって次男から電話があり、その時に「ソンバーユ持ってくるの忘れた」と言う。
それで「使うなら送ってあげるよ」と言って、翌日(3月27日)に新品ソンバーユを2つ送ってあげた。
(今やネット通販でなんでも買える時代であることは重々承知です)
家にあった次男が何か頼んだアマゾンの箱を利用して送ったのでソンバーユ以外にもいろいろ物が詰められた。
今の若い子はそのへんのお店行けば買えるようなごくごくフツーなものを単品でもなんでも躊躇なく通販する。
本当に宅配業者に申し訳ないようである。

ソンバーユをご存知ない方のために。
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<出典:https://www.instagram.com/p/BSWr22XB08a/


要は馬油です。「うまあぶら」でも「ばゆ」でも「うまゆ」でもなく「ばあゆ」と読みます。
ソンバーユは薬師堂という福岡の会社が製造している馬油(上記写真のもの)。
熊本の馬を使っているとか。
漢字で書くと損馬油尊馬油。
馬油としては一番メジャーですね。

こちらは宮崎のきた商会が製造している馬油。
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馬の産地と言うと競走馬の一大産地となっている北海道のイメージがとても強いけれども、かつては九州も競走馬の産地であった。
また今でも馬の屠殺数ダントツNo1は熊本県である。
熊本の馬刺しが有名だが馬も食用肉になるのである。
馬油は捨てられる脂分を利用して作られている。

馬のと蓄頭数と枝肉生産量(2011年農林水産省の畜産物流通統計)
1.熊本県 5273頭
2.福島県 2197
3.青森県 1212
4.福岡県  992
5.長野県  512
その他すべての都道府県の合計 1738頭
全国合計 11924頭


群馬は県名に馬が付くけど産地ではないのかと疑問に思うかもしれないが、群馬の馬は生活の中の「足」としての馬。
どちらかと言うと「車」寄り。
古代の話ではあるけれども。
実際、古い時代の群馬県(上野国)には「くるま」と呼ばれている地域があった。
現代でも車を作っている!?

最新古墳にコーフンニュース
古代、かなり都会だった!? 群馬県に古墳が多いヒミツ/群馬


■馬を飼い、ハイテク技術の導入で暮らしが豊かに

ポンペイは古代ローマの都市で、火山噴火の火砕流により街全体が埋まってしまったことで知られています。千数百年後に発掘すると、人の営み跡がそっくり残っていたため、当時の暮らしを知る貴重な資料となりました。

今の群馬県渋川市も、約1500年前の榛名山の噴火で、街の一部が軽石層で覆われました。その跡を調べてみると、古墳時代の驚くべき豊かな暮らしが見えてきたのです。

住居は竪穴式だけでなく、壁と屋根を持つものもあり、倉庫、家畜小屋、垣根、道路など江戸時代の農村なみの充実ぶりだったよう。榛名山から離れる方向に複数の人の足跡も見つかり、火山灰から逃れようとしていた様子も推測できます。馬のひづめの跡も、多数見つかりました。

当時すでに家畜だった馬は、もともと日本にはおらず、古墳時代中期に朝鮮半島を渡って中国からもたらされました。馬の登場は、人々の暮らしを激変させます。移動が速く、荷物も運べて、農作業の貴著な労働力になりました。このハイテク技術を広めるため、地域を挙げて馬の生産に力を入れるようになり、日本で有数の馬産地になったのです。









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# by yumimi61 | 2017-04-11 13:21
2017年 04月 10日
父の死②
父が亡くなった翌1月30日に通夜を、31日に葬儀・告別式を家族葬で行った。
2月2日に入院費用を清算するために病院に出向いた。
支払いを済ませた帰りに地域連携課に立ち寄った。
大変お世話になったけれども転院は叶わずじまいで、週末に亡くなったため担当者と会うこともないまま立ち消えてしまったので、一言お礼だけでもと思った。
部屋から出てきて私の顔を見るなり「まあ」という感じで担当者は私の両手を握った。
その手が私よりも暖かかったことをとてもよく覚えている。(お昼時で食事中だったからですかね?)

「月曜日に出てきて聞いてびっくりしました」と担当者。
人は必ず死ぬものだけれど、人の死を予想する(想像する)のはやはり難しいなあと思う。

もしも父ががんであることを全く知らずにいたら、どれくらい生きられたのだろうか。
もしも父にがんであることを宣告しなかったなら、生きる長さは違っただろうか。
もしも放射線治療を受けなかったから、父はもっと早くに亡くなっていただろうか、それとももっと生きられたのだろうか。
思うことはいろいろある。
比較してどっちがどうなのか知りたいと思う気持ちもある。
でもそれは決して叶わない欲求である。
2つ以上の選択肢を1人の人間でどっちが良いのかと実際に両方試してみること出来ない。
巻き戻しは出来ない。原点に帰ることは出来ない。
他者と比べることは出来るかもしれないが、他者は他者。結局それは他人の人生である。
何から何までまっるきり同じ人間なんて一人としていない。
だから偶然でもなんでも何かが一致する時、人はそこに奇跡をみるのではないかと思う。
人生は一度きりで、前に進むしかなく、人間は日々否応なく選択の中を生きている。



世界が終わる時、あなたが食べたいものは何ですか?
あなたがこの世を旅立つ時、手にしていたい物はなんですか?
重力崩壊と究極の愛がずしりと響く。


昨日も書いたこの文は私が過去記事(夏休み)に書いたものである。

本のあれこれに続いて選挙の話を書いた。
人生が選択の連続でありながら、選挙というものは自分の選択が全く反映されないことがあるわけで(勝者に投票した人しか自分の選択が反映されない)、これが選挙の、もっと言うと社会の、根本的な欠陥のような気もする。
反映なきところでは責任も欠如しやすい。
選択が反映されず責任を負わない人や、選挙を棄権して責任を負わない人が増えると、選挙で当選者に投票した人でさえ投票責任を負わなくてもよいのだと思うようになる。
1つの選択であるはずの投票行動には少しも責任が伴わないということになってしまう。だから何があっても他人事観満載となる。

国や東電に責任があると言うのは簡単だが、それを言えば政治家を選んだ責任は、国(首相など)を任命した責任は、原発を造ることを了承した住民の責任は、それに恩恵を受けてきた者の責任は、原発があると分かっていながらそこに住むことを選択した者の責任は、などと責任は波及する。
この考えを持ち出すと、一人の過ちということはあっても、一人の責任ということは在り得なくなる。
選択の余地が全くない社会ならともかく、選択肢のある社会においては、自分の人生を選択するのは自分で、それを引き受けるのも自分。それが原則だろうと思う。
責任をもって一人一人があらゆることに対して真摯に誠実に向き合うべきなのだ。
でもそこまで責任を波及させたくないと言うならばどこかで区切ってやる必要がある。
全てを掬い上げることが出来ないのが社会という単位なのだろうと私は思っている。
それが嫌ならば社会の形態を変え、選択肢のあまりない出来るだけ平等な社会にすればよいのだ。
これこそが共産主義が目指したものである。だけど多くの人はこれを嫌ってきたのである。





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# by yumimi61 | 2017-04-10 16:45
2017年 04月 09日
父の病㉚
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)
1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日) 死亡


1月27日(金)、この日は父の担当医になってくれていた医師が不在ということで、土日明けて来週に担当医に報告して転院になるでしょうということだった。
地域連携課の担当者との話を終えて、父の病室に戻った。
私はB病院の緩和ケア病棟ではなくて一般病床(呼吸器科)に来週転院になりそうとだけ父に伝えた。
特筆すべき反応はなかったと記憶している。
脱いだものを入れておく蓋付きバケツの中を確認すると、中に入っていたパジャマと下着から尿臭がした。
ポータブルトイレがすぐそばに置いてあったけれど間に合わなかったのかなと思った。

私は学生時代に保育園にも特別養護老人ホームにも実習に行ったことがあるが、何が強烈だったかというと特別養護老人ホームの独特な匂いである。
保育園も特養もどちらもトイレが完全ではないおむつ利用の人や粗相をしてしまう人がいる場所であるが、匂いに関しては全く違った。
病院も病棟によっては尿を溜めておく部屋があり(現在は尿量測定トイレなどもある)、そこはやはり独特な匂いがするが特養ほどではなく限定的である。
私はあの匂いで特養では働くことは出来ないと思った。
(もっともその匂いにも一定期間いれば慣れるらしい。実習くらいの期間では慣れなかったということだけなのかも)
私は汚物系の匂いに弱い。好きな人はそうそういないと思うけれども。
一番困ったのは嘔吐の匂い。
嘔吐物を片付けるとかが嫌なわけではないのだが、匂いを嗅いでしまうと私自身吐き気を催してしまう。
要するに反射的に「おえっ」と込み上げてしまうのである。
吐いてしまった人に対して申し訳なさすぎるのだが反射なので如何ともし難い。
子供などが嘔吐した場合には「大丈夫だからね~」と安心させてささっと片付けるが、下手に匂いを嗅いでしまうと「おえっ」となってしまうので、息を止めて匂いを嗅がないようにしなければならないのだ。
鼻と口と両方止める方法はあっという間に苦しくなってくるので、鼻だけ止めて口だけで息をしながら片付けたりするが、口を意識してしまうと今度は食事を思い出してしまい、好まざるものを積極的に口に吸いこんでいるようで躊躇してしまう。


1月28日(土)、父は大変だから毎日来なくてもいいと言ったけれども、着替えを持って午前中に顔を出した。

1月29日(日)
容態が悪くて呼ばれたわけではなく、いつものように父のところに行った。
父の具合はよくはなかったが私は今日この日に父が亡くなるとは思っていなかった。
この日は午後2時に母と父の病室を訪ねた。妹と姪も来た。
彼女たちは私以上に今日亡くなるなんて思っていなかっただろうと思う。
だから虫の知らせだったと言えばそうなのかもしれない。

父は一変していた。
酸素吸入は鼻腔カニューレから酸素マスクに変わっていた。
ギャッジアップされているベッドに苦しそうに横たわっていたが、おむつをしていてズボンを履いておらず布団もかけていない。
少しシーツも汚れていたので(前の晩下痢で大変だったらしい)着るものがないのかと思ってすぐに確認したがまだ着るものはあった。
普段ならばそんな姿を見せるのは嫌がるであろう父だがもはや姿格好なんて気にするふうもない。
女ばかり4人いたので病室に入ってきた看護師さんが気を使ったのか布団をかけようとしたがやはり剥いでしまう。
看護師さんの話だと熱がっているのだと言う。若干熱があるようだ。汗を拭いてあげた。
父はもうほとんど目を開けることも出来ない。時々顔をしかめる。
それでもまだ話しかける声は聞こえていて返事くらいは出来た。
「苦しいの?痛いの?」と私が訊くと、「両方」と答えた。

ベッドサイドモニタのアラームがなった。
ベテラン看護師さんが時々来てくれていたが、アラームが鳴っても誰も飛んではこなかった。
アラームはエラーぽかった。
妹が「さっきからアラームがずっと鳴っているんですけれど」とナースステーションに声をかける。
父が動いた拍子に何か接続が外れたらしかった。

「昨日の夕方あたりからかなり具合が悪くなってきたのですが、まだ大丈夫そうだったので特に連絡などはしませんでした」と看護師さん。
まだもう少しこの状態が続くと思ったのか、おむつを業者から購入するための契約書に署名するように求められ記入した。

私がちょうど席を外していた時に父がコーラを飲みたいと言ったらしく、妹と姪が売店でコカ・コーラを買ってきた。
しかし看護師さんからストップがかかる。「血糖値を測っているので先生に訊いてみてからではないと」ということだった。
さすがにこの日の父は食事は摂れてないらしかった。
看護師さんがおやつの果物を「食べる?」と聞いても首を横に振る父。
でも「食べましょうね」と半ば強引に口に押し込む。なんとか食べている父。
おやつのゼリーやアイスもあって、時々食べさせていた。
「おいしい水があるので飲ませてあげてください」と看護師さんが言うのでどんな美味しい水があるのかと思えばスポーツドリンクだった。
汲みに行ってストローで飲ませた。

父は相変わらず苦しそうでじりじりと重い時間が過ぎていく。
私は父の左手をずっと握っていた。
横に母が座っていた。
下顎呼吸が始まり意識も低下してきた。もう声も出ない父。
でも一度だけ顔を横に向けて母のほうを見て目を開けた。片目がやっと開くような感じではあったが確かに母の顔を見て目を開けていた。
母が「見える?」と訊いたが返事はなかった。
それが最後の意思表示だった。

またアラームが鳴り出す。
経皮的動脈血酸素飽和度(SpO2)、呼吸数ともにかなり落ちてきている。
口からたらりと一筋の液体がこぼれる。
看護師さんが来て吸入をしてくれる。
やがて呼吸が停止した。まだ心臓は動いている状態。
私達はただ心臓が止まるのを待つしかないのだ。

モニタを見ていた看護師が心停止を告げ、すぐに医師がやってきて臨終を告げた。午後4時46分だった。
午後2時くらいに病院にお見舞いに来て、2時間46分父を看取るという形になった。


「アイスがいいならコーラも飲んでもよかったんじゃない?」と後になって姪が言っていたけれど、コーラは結局飲めずじまいだった。
火葬の前の棺の中に紙コップに少しだけコーラを注いで入れて上げた。


世界が終わる時、あなたが食べたいものは何ですか?
あなたがこの世を旅立つ時、手にしていたい物はなんですか?
重力崩壊と究極の愛がずしりと響く。





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# by yumimi61 | 2017-04-09 17:41
2017年 04月 07日
父の病㉙
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)
1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日) 死亡



緩和ケア病棟に転院させたい私と、転院は無理だと思うと譲らなかった地域連携課担当者。
1月26日の夕方に私と地域連携課の担当者が行った面談は平行線のままだった。
刻々と時間だけが過ぎて行った。
「ではとりあえずお父さんと話をしてみましょうか」
担当者はそう言い、私達は父の病室へと向かった。

「お話を聞きたいので少しお時間よろしいですか」と担当者が声を掛けると、父は起き上がった。
「ここでは何なので別のお部屋にしましょう。車椅子を持ってきましょうね」と担当者は部屋を出ていく。
父はベッドを降りて歩いて行こうとするので私は「車椅子を持ってきてくれるって」と言うと、「トイレ」という返事。
父は病室内にあるトイレに一人で歩いて行き用を足した。

その後車椅子に乗って別室へ。3者面談が始まった。
3者面談と言っても私と担当者はここに来るまでに散々話をしたわけで、この時間は担当者が父に質問をするという形で進められた。
私はなるべく口を挟まないようにした。

「私は専門家ではないので詳しいことはよく分からないけれども」
父はそう言って質問に答えていった。

私がよく覚えているのは次の2点。

「緩和ケア病棟をどうして知っていましたか?」という質問だった。
私は「緩和ケア病棟」という言葉は一度も使わずに、がんの苦痛を取り除いてくれる病棟などと父に転院の説明をしていた。
面談についての口裏合わせや指図なども一切していない。
「どうしてって・・それはA病院にもB病院にも案内やバンプレットに書いてあったからね」
「それを見たんですか?」
「そうです」
父は知っていたのだ。


「あとどれくらい生きられると思っていますか?」
なんと残酷な質問であろう。
がんを宣告された時に父は医師に余命を訊いた。でも医師はそれを数字で表すことはなかった。
医師が答えられなかった質問を患者本人にぶつける。
「まあ自分の希望としてはあと4~5年生きられればいいなあと思っているけど。まあ無理だろと思う。どうですかねえ?」
私はちょっと泣きそうになった。
「そうですね~希望としては4~5年と言わずずっと生きられればいいですよねぇ」担当者が答えた。


父の回答は何も問題なかった。私が一番最初に問診票に書いたことと何ら相違はない。
少なくとも私はそう感じた。
担当者も否定する要素はなかったと見られ、「じゃあとりあえずB病院の手続きを進めましょうか。それでいいですか?」と言って話をまとめた。
私達は「はい」と頷いた。こうして面談は終わった。

担当者はバツが悪かったのか、それとも私に対する何らかの批判や疑いが込められていたのか、私と2人になった時に「今朝とは全然様子が違っていました」と言った。


1月27日(金)
この日も私は父の病室を訪ねた。
どころがベッドはもぬけの殻。
父とその隣のベッド(いつも奥さんが付き添っていた方)2つとも誰もおらず未使用仕様になっていた。
(そう言えば隣の人は転院するって言ってたなぁ。転院は今日だったのかぁ)、昨日夕方にはその方もまだいたのでぼんやりとそう思った。
でも父はどこへ?どこへと言ったって病室を変わった以外には考えられないけれども。
私はナースステーションに行って名前を告げ病室を尋ねた。
「ちょっと待ってください。確認してみます」と看護師さん。
「ここですね」
ナースステーションのすぐ前の個室を案内された。
ナースステーション前の個室ということは容態が悪化したということだろうか、私がすぐさまそう思った。
ナースステーション前の個室は差額ベッドの個室とは訳が違う。
通常、頻繁に観察や処置の必要がある重症患者が入るところである。


父はベッドサイドモニタを付けてギャッジアップしたベッドで横になっていた。
動けるような状態の患者が入るところではないせいか、個室であるがトイレは設置されていない。
ベッドのそばにポータブルトイレが置いてあった。
「苦しいの?」と訊くと父は頷いた。

しばらくすると部屋にリハビリスタッフの若い女性が訪ねてきた。
「今日はリハビリは無理そうですね。お休みしましょう」
「そうだね」
「また良くなったらしましょうね」

「この人が凄く良くしてくれるんだ」と父が言った。
「いえいえ」みたいな感じで微笑むスタッフ。
「また頼むね」

私はある出来事を思い出していた。
あれは肺炎で入院した時だったろうか、退院間近の父の病室にリハビリスタッフがやってきた。やはり若い女性だった。
父はリハビリの誘いを無下に断っていた。
2人のやりとりを聞いているとその日の午前中にも誘いにきたらしい。その時にも父は断り午後に再び誘いにきたようだった。しかし父は「リハビリはやらないって言っただろう」と邪険に突き放した。
私はその父の態度にむっとして、すぐにその場で「そういう言い方しなくてもいいんじゃない」と父を諌め、私はそのスタッフに謝った。
「いいんですよ。また来てみますね」と戻っていった。
「どうしてあんなふうに言うの?私だって医療従事者なのに。あの人は若い頃の私かもしれないんだよ」
私は父に言った。
言って気が付いた。ベッドサイドに行って声を掛け邪険にされる、その若い女性にかつての自分を投影していたのだ。
「リハビリはお金取るんだから」、父はそんなふうに力ない反論をしたように思う。

父はその時のことを覚えていたのだろうか。
だから優しく「この人が凄く良くしてくれるんだ」と言ったのだろうか。
それともそんなことはもう全く覚えていなかったのか。

そしてもうひとつ気付いたことがあった。
父は肺炎が良くなっても慢性呼吸不全の患者である。在宅酸素療法をしている患者である。
長時間酸素を吸わなかったり動いたりすれば苦しくなってしまうのだ。
病院に入院しているということで私はそのことをすっかり忘れていた。
酸素吸入をしない状態でのリハビリは苦しかったのかもしれない。
下手に苦しいなんて言えば退院が延びると思っていたのかもしれない。

昨日(26日)3者面談した時にも酸素吸入のことを忘れていた。
面談途中で地域連携課の担当者が「ああそうだ忘れてた、酸素吸入しましょうね。携帯用ボンベを持ってきます」と気が付いたのだった。
車椅子に座っていた父は病院の携帯用ボンベから鼻腔カニューレで酸素を吸入しながら質問に答えた。
病院のベッドでは酸素吸入可能で、在宅酸素療法で使用している外出用の酸素ボンベも「持ち帰ってください」と言われる。
病院に入院するということは具合が悪いわけで、ベッドを長時間離れることをあまり想定していない。
そのせいで携帯酸素ボンベのことが頭からすっかり飛んでしまうのだった。


病室が変わっていたのを知ったのは27日の午前中のことで、私は一旦実家に帰り、午後に再び母と出直した。
私はまた地域連携課の担当者と面談する予定が入っていたので、「ちょっと話をしてくるね」と母を父の病室に残して病室を出ようとした時、「〇〇〇も大変だね」と父が母に話しかけている声が聞こえてきた。


地域連携課の担当者は父がナースステーション前の個室に移ったことをすでに知っていた。
「昨日のお話で分かったかと思いますがあれではやはり難しいと思います」と担当者は話を切り出した。
え?
昨日のお話で分かった・・?いやいやいや分からない、どういうこと?
「4~5年生きられるとか言ってたでしょう、そういう感じではやっぱりねぇ」
え?
希望でしょ、希望を口にしたらいけないのか。本人だって「無理だと思う」と言っていたのに。
もっと言えば、余命の質問にも昨日の問いかけにも、専門家は誰も数字を提示しなかったのだから、どう考えたって勝手だと思うのだけれど。
私は担当者の予想外の言葉に正直驚いていた。
昨日の話の最後の「じゃあとりあえずB病院の手続きを進めましょうか。それでいいですか?」という言葉は社交辞令だったのだろうか?
だけどもう反論する気力は失せていた。
どうしても緩和ケア病棟には向かわせたくないらしい、そのことはよく分かった。

「あれから私、B病院の一般病床にあたってみたんですよ。知り合いがいるので。それで一般病床に入院させてもらえることになりました。もともと呼吸科にかかっていて、先生(ドクター)も知っているわけだし」
それはそうなのだが・・。
「その一般病床から緩和ケア病棟を目指してもいいですし、疼痛コントロールも同じ病院だから緩和ケアの先生と連絡を取ってやりやすいと思うんですよね」
緩和ケア病棟を目指すとはどういうことだろうか。これも言葉の綾だろうか。
一般病床(急性期病床)での入院は1~2週間が目途である。
余命をそれ以下と見越してのことなのか、だったら同じ一般病床に転院させる必要があるのだろうか。このままここにいたって同じではないのか。
「1~2週間でまた次のところを探さなければならないということにはならないでしょうか?」
私は質問してみた。
「いやそれはないです」
「長くいられるということですか?」
「そうです」
俄かには信じ難い返事であった。

若い人の突然死だってあるくらいだから、高齢な末期がんの患者であればいつ容態が悪化しても不思議はない。
不思議はないが、26日夕方から27日の変化は唐突で予想外のものであった。
入院後に父の状態は少し回復して、ベッドに座り、病室内のトイレに行くくらいには動けていて、かつての元気さこそはなかったが隣の人と多少会話し、毎日リハビリも行っていた。
もともと柔らかいご飯を好まない人でもあったが、「普通のご飯に変えてもらったよ」と私に報告したりもした。
がんと診断されてから食欲はガクンと落ちたが、それでも何かしら食べるようにしていた。
私も実家に行く時は大きなプリンとか美味しいカステラを買っていったりした。
茶碗にご飯よりはおにぎりのほうが食べやすいというので(しかもコンビニおにぎりの明太子指定)、なるべく父の希望に沿うようにもした。
元々蓄えもあったせいか目に見えて痩せるということはなかった。それは入院してからも同じだった。
緩和ケア病棟は、突然の変化、それに追いつかなかったり心変わりしてしまう家族の気持ちを恐れているということなのか。
もはや入院先があるというだけでもよしとしなければならないのであろうと思い、私は「お願いします」と言った。










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# by yumimi61 | 2017-04-07 12:27
2017年 04月 05日
外来種
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2017年4月4日、うららかな春の日差しに呼ばれて玄関を開けた。

Hello.I'm a red-eared sliders.

前にいたのは小さくて大きなお客様。

君はどこから来たの?どうしてここに?

しゃがんで顔を覗き込むと赤と黄色のラインが見えた。

アカミミガメだ。日本ではもっぱらミドリガメと呼ばれているあのカメである。

むかし縁日の屋台で見かけたあの小さなカメが小さなままではなく大きくなることを私は結構前から知っていたけれども。


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日本においてアカミミガメ(ミドリガメ)は厄介者扱いされているカメである。
日本生態学会が「日本の侵略的外来種ワースト100」に指定している。
2005年、環境省が「要注意外来生物」に指定。
(この時はポピュラーなカメで飼育数が多いことなどから特定外来生物の指定は見送った)

2015年、環境省及び農林水産省で作成した「生態系被害防止外来種リスト」において、「緊急対策外来種」となった。
そして2020年を目処に特定外来生物に指定される予定である。
特定外来生物に指定されると、「外来生物法」により輸入・販売・飼育などに規制がかかることになる。

植物や動物については、自国の生態系を維持するため、自国の在来種を守るためという理由で、保護主義や自国第一主義がまかり通る。
(だけど本当は、F1、遺伝子組み換え、ミックス、品種改良、そういうことは喜んで当たり前のようにやっているのに在来種を守ると言ってもあまり説得力はない)

貿易やグローバル化の結果として外来種というものが入ってくるわけだが、自由貿易やグローバル化に反して締め出したり廃絶が促される種がある。
それらの多くは大抵、生命力・適応力・繁殖力の強いものである。

生体系を維持し動植物が絶滅しないためには多様性は大事である。
ではグローバル化は多様性に沿うのか?
5つ物があった所に外国から5つ物が入ってきた。全部で10である。この時点では多様性は拡大した。
しかしながら外国から入ってきた1つがとても強く、他を駆逐する勢いで勢力を広げ、やがて天下を取った。
5あったものが10になったまでは良かったが、その後結局1になってしまえば、多様性どころではない。
侵略的外来種とはそういうことである。これを心配して外来種規制を行うわけである。
生命力・適応力・繁殖力の強い動植物に悪意はないだろうに。それを愛している人もいるだろうに。
でも選別される。平等ではない。
では人間はどうなのか?
ダブルスタンダードではないのか?


ここ数年道端でオレンジ色のポピーのようなケシのような可憐な花を見かけるようになったということはないだろうか。
ナガミヒナゲシというお花である。雑草と言う人もいる。外来種である。
危険外来植物だから即刻駆除せよと言う人もいる。
(モネの絵にも似たような花が咲いているのに)
(日本にだって竹とかドクダミとか繁殖力の半端ない植物があるのに)
(雑草は押し並べて繁殖力が強い)(ホトケノザで桃色になっている畑は遠目には結構きれい)
ともかくナガミヒナゲシはあちこちで咲いていて、うちにも種が飛んできたらしく2年位前から咲くようになった。
今年は凄い芽が出ている(繁殖力は確かに凄い)。もうだいぶ育ってきている。
それで私はここ数日悩んでいた。
咲かせたいのはやまやまだがやっぱり嫌がられるかもしれない。花が咲く前に全部引っこ抜くべきなのか。そこそこ抜くべきなのか。
そんなところにカメの訪問を受けたのだった。

ねえどう思う?





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# by yumimi61 | 2017-04-05 09:44
2017年 04月 04日
臓器移植について
雪崩に巻き込まれ犠牲となった生徒の母親が角膜(眼球)提供を決断して提供したという報道があった。
提供した生徒が意思表示していたのか(意思表示記録の有無、記録はないが家族に話していたなど)、それはよく分からない。
本人の意思表示がなくても提供できるものなの?という声が聞かれたので臓器移植についても触れておきたい。

かつては本人の意思が無ければ出来なかったが、2010年に臓器移植法が改正され、本人の意思が不明の場合(本人が嫌だと思っていてもその意思表示がなされていない場合)にも家族(全員の総意)の書面承諾があれば臓器提供できるようになった。

臓器提供をしても良いと意思表示できる年齢に上限はない。高齢になってからでも意思表示は可能である。(実際に全ての人が提供可能かは別問題)

年齢の下限は15歳。
但し臓器提供拒否の意思表示が本人によってなされておらず、家族が承諾した場合には15歳未満でも提供が可能となる。
提供したくない(提供拒否)の意思表示は年齢に限らず誰でも出来る。

現在では提供したいという意思も提供したくないという意思もインターネットで登録可能。
パソコン http://www2.jotnw.or.jp
スマートフォン http://www2.jotnw.or.jp/sp

本人によって拒否の意思表示が登録されている場合には例え家族が希望しても出来ない。
したいという個の意思表示も、したくないという個の意思表示も、どちらも尊重されなければならないということである。
したい方だけを取り上げて美談に祀り上げてはいけない。

現実的には臓器移植や脳死判定はなかなか難しいということを前にも書いたことがある。
病者や死者への思いや尊厳、宗教観なども関係してくるので画一的な結論には至りにくい。
科学的・機械的に脳死や死を見つめれば、もはや何も出来ない・・・そう長くない間にどうせ燃やされて灰になってしまうのだから・・・そう思っても不思議はないが、人の心はそう簡単に割り切れなかったりもする。
移植は時間との戦いでもある。
個の意思表示が無い場合には、せっかくだから提供したいという家族の思いも、まだそんな気持ちにはなれないという家族の思いも、どちらもが汲まれなければなれないと思う。
どちらが良くてどちらが悪いということではない。


例えば角膜(眼球)摘出は、死後6時間以内が理想とされている。
10時間以内でも可能であるが、当然短時間で移植されたほうが成功率は高い。
新鮮であることがやはり重要になってくる。
今回の雪崩による犠牲のケースだと、雪崩が発生して救助隊が現場に到着するまでに3時間という時間を要している。
そこから掘り出して下山させ医師が診察なり死亡確認するまでの時間もさらに必要である。
病気で長く入院していたような場合ならば家族もそれなりに心積もりがあるが、体力のある若者がある日突然亡くなってしまう。
家族に連絡がいって、家族が現場なり病院に駆けつけて、それを確認する。
そして死を現実のこととして受け止めるまでに相当な時間がかかっても不思議はない。
死を受け止め、移植の意思を病院や医師に告げるなりアイバンクに連絡するなりする。
摘出はどこでも行えるが、それでもここまでの過程を6時間あるいは10時間以内にこなすということはかなり大変なことだと思う。
今回特異的だったのは山岳部であったということ。
一般的な若者やその家族よりも多少死が身近にあったと言えよう。(それでももちろん個人差はあると思う)

また今回のようなケースは雪の中に埋まっていた時間や気温によって死後も比較的鮮度が保たれたということも考えられる。

雪崩の場合には窒息死や圧死が多い。
しかし雪に埋まった場合には、低体温の状態になっているがまだ死んではいないという場合もある。


「死亡」実は「生存」
北海道 雪中、脈・呼吸なく硬直 厳寒、判断基準にズレ?

 北海道北見市の北見消防署の救急隊員らに、「死亡」と判断された北見市内の女性(27)が生きていたことが二十日、分かった。女性は同市内の病院に入院、意識はない状態が続いている。雪崩の下敷きになるなどして低体温の状態に置かれた場合、人体の活動レベルが低下して「仮死状態」になることがある。専門家は「現場で的確な判断ができるよう、救急隊員のレベルアップが急務」と指摘、同消防署も「今後は判断基準を厳しくする必要がある」としている。
 北見消防署などによると、二十日午前十時二十分ごろ、北見市豊地の無加川にある豊地大橋堤防の水門近くで、女性が雪をかぶって倒れているのを通行人が発見、一一〇番通報した。
 北見署から連絡を受けた同消防署の救急隊員三人が現場に急行。女性を調べたところ、脈拍や呼吸がないようにみえたことや、死亡をうかがわせる体の硬直があったことから「死亡」と判断し、女性は北見署に移された。
 ところが警察での検視の際、医師が鼻に糸くずを近づけたところ、かすかに糸くずが動いたため呼吸している可能性が浮上。女性は救急車で北見市内の病院に搬送され、生存が確認された。救急車内でも意識はなかったが、心電図には反応があり、蘇生(そせい)措置が施された。
 遺書が見つかったことなどから、北見署は自殺未遂とみている。
 札幌管区気象台によると、女性が発見された当時の北見市の気温は氷点下二・五度で、積雪は六十六センチだった。
 救急隊員らは、総務省消防庁が全国の消防署に通達している救急業務実施基準に従って「死亡」と判断したという。
 基準では「隊員は、傷病者が明らかに死亡している場合や医師が死亡していると診断した場合は(病院に)搬送しない」と規定。「明らかに死亡」と判断するには、呼吸が感じられない▽瞳孔の散大があり、対光反射がない▽体温が感じられず、冷感が認められる▽頸(けい)動脈で脈拍が感知できない−など六項目のすべてに該当している必要があるという。同消防署の新井山勉署長(57)は産経新聞の取材に対して、「現場が屋外で氷点下という状態を考えると、低体温の仮死状態もあり得た。寒い地方なので今後は死後硬直がみられる場合でも、どこまで硬直が進んでいるかなど厳しくチェックする」と話した。
     ◇
 ◆仮死状態なら同様ケース起こり得る
 専門家によると、「死亡」と判断された救急患者が、実は「生存」していたと確認されたケースは極めて珍しい。しかし仮死状態の場合、消防レベルでの「死亡」判断は難しく、専門家は「今後も同様のケースが起こり得る」と指摘する。
 低体温症は中心体温(直腸体温)が三五度以下になる状態。雪山や海などで全身が低温にさらされ、体温を維持する生理機能に障害が起きることで発症する。
 日本救急医学会理事長を務めた杉本侃(つよし)大阪大名誉教授(救急医学)は「低体温症で生きているときには、呼吸は一分間に数回、脈拍も三、四十回となる。手で触れても脈がわからないかもしれない」と説明。
 中心体温が三二度以下になると震えが消え、筋肉の硬直が現れる。二八度以下の「重症」になると、意識や脈拍がなくなり、呼吸も半分以下に減るなどの「仮死状態」となるケースもある。このため、「死亡」判断は困難になるという。
 杉本氏は「救急救命士が病院などの現場で訓練するなどレベルアップを図る必要がある。ただそれは国の救急医療システムの問題で、システムを変えていく必要があるだろう」と話している。

(産経新聞) - 2月21日2時56分更新


<女性蘇生>遺体安置室で生存判明 女性は意識不明の重体

 20日午前10時すぎ、北海道北見市豊地の無加川の堤防で、女性(27)が倒れているのが見つかった。駆けつけた北見消防署の救急隊員は死亡と判断したが、発見から約1時間半後に道警北見署の遺体安置室で生きていることが判明、病院へ搬送された。女性は意識不明の重体という。
 北見署や北見消防署によると、発見現場では警察官が立ち会い、救急隊員が女性を調べた。救急隊員は意識、脈、瞳孔反応がなく、死後硬直が始まっているとして、同10時28分に「死亡」と判断。その後、北見署員が同署の車で女性を署内の遺体安置室へ搬送した。
 ところが、署員が検視のため服を脱がせて胸に手と耳を当てたところ、11時40分すぎに心臓の鼓動を確認、生きていることが分かった。北見市内にある女性の自宅には遺書があり、同署は自殺未遂とみている。
 札幌管区気象台によると、寒波の影響で20日の北見地方は最低気温が氷点下5.8度で、発見された午前10時も氷点下2.5度だった。同署などは、気温が低く、一時的に仮死状態になった可能性もあるとしている。
 新井山勉・北見消防署長は「救急隊員は現場で正当な手続きを踏み、死亡との判断に問題はないと思うが、寒冷地の状況を踏まえ、より厳密な死亡確認方法を考えなければならない」と話している。【丸山博、井上英介】

 ▽林成之・日本大総合科学研究所教授(救急学)の話 体温が32度以下になると、生きているのに心拍が弱まって脈が触れず、鼓動が聞こえなくなることがある。私自身、救急隊が死亡と判断した低体温症の患者を回復させた経験がある。患者が低体温の場合は、生命反応がなくとも病院に運び、蘇生のための医療行為を続けないといけない。
(毎日新聞) - 2月20日23時0分更新


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「死亡」と判断の女性回復 医師の呼び掛けに応じる
【2005年2月23日】

 北海道北見市で20日、救急隊員により「死亡」と判断された後に、北見署の遺体安置所で意識不明の状態だったことが判明した同市内の女性(27)が、自発呼吸をするなど容体が回復しつつあることが22日、分かった。

 女性が入院している北見市内の病院によると、22日午前、女性は医師の呼び掛けに応じるなど、生命に危険な状態を脱した。女性は人工呼吸器を外され、自発呼吸するようになった。

 女性は20日午前10時20分ごろ、北見市豊地の川の堤防付近で雪をかぶって倒れているのを通行人に発見された。駆け付けた北見消防署の救急隊員が現場で、脈拍がないことや体の硬直度などから死亡と判断、北見署の安置所に運んだ。約1時間後、医師の診断で生きていることが分かった。

 低体温の状態になると、仮死状態になることがあるという。当時の気温は氷点下約2度だった。北見署は、女性が自殺を図ったとみている。

記事:共同通信社 提供:共同通信社






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# by yumimi61 | 2017-04-04 13:48
2017年 04月 03日
山岳競技について(続き)
少し前にテレビでスポーツ選手がインタビューに答えていた。
どんな大会の何のスポーツの選手だったか全く覚えていないが若い女性だったと記憶している。
その選手が「皆さんを感動させられるように精一杯頑張ります」と言うような感じで答えていた。
今のスポーツ選手は勝利や記録更新のために行っているのではなく、人々を感動させるために行っているのか、と私は少々驚いてしまった。
感動なんて偶然の産物であって、最初から選手が感動させるために競技していると知れば却って萎える気がするが、昨今は見る側もそうではないということだろうか。


そもそもスポーツって見てもらうことを前提に始まったわけではないと思う。
大前提にあるのは「楽しい」や「面白い」という気持ち。何かが出来るようになったり目標を達成しての「達成感」や「快感」。集団スポーツには集団スポーツならではの面白さや達成感がある(大変さもあり)。健康維持に行う人もいる。
自分自身が感動したり競技仲間と感動を共有することはあるが、見ている者を感動させてやるなんて思って行わない。
ところが最近は見せることを意識し、見ている人に感動してもらうことに意義を感じているようだ。
感動してもらうとは言わなくても良い成績で人々に喜んでもらうことに意義があるように思っているのでは。
プロスポーツとの関連でそうならざるを得ないのか。
日の丸を背負う試合が好きな日本人は特にその傾向が強いように思うがそうでもないのだろうか。
見てもらうこと前提の幼稚園・保育園・小学校の運動会にはその傾向が持ち込まれているような気がする。
兎にも角にもスポーツも承認欲求を満たす手段になっている面がある。

見せる(魅せる)ことを意識して行うのは興行である。
プロレスや相撲は興行である。
お金を取って見せるために行う興行は、舞台に台本があるのと同じで、ある意味シナリオ(八百長)があっても仕方がない。

登山は相手との勝敗を競う競技として始まった活動ではないところにもってきて、基本他者が見学できるスポーツ(競技)ではない。
他者が見ていないので感動させるも何もない。感動は自分の中にある。完全なる自己満足の世界。
孤独で閉鎖的で自己完結的でもある。
だから成果をやたら外に向かって発表したくなる人がいるのかもしれないが、他者が見ていないのだからまごまごすれば嘘がまかり通ってしまう。
行動も誠実さも全てが自身との戦いである。
そうした登山本来の特徴を考えると他者の存在がある合同登山、ややもするとパーティーすら微妙であるように思う。


単独登山かパーティー登山か。
アンザイレン(危険を伴う岩壁・氷面・雪面などで相互安全確保のために2人以上をザイルを結んで登降する)をすべきかどうか。
確保の態勢を取るタイプでもあっても滑落を止めるのは大変なことだろうから、一斉に登降している場合にはザイルを結んでいても止めることは不可能と思っていいのではないだろうか。1人滑落すれば道連れである。
アイザイレンをしていてアクシデントが起こった際には他の者が生きるためにザイルを切断する(アクシデントを起こした者を落とす)という判断を迫られることもある。
どちらにしても1人で済むことが済まなくなる。
それを望むのかそうでないかは外野が口出しすることではなくそれぞれが決めることだろうけれども、複数人いるとどうしたって気を使う(忖度する!)ということが出てくる。
自分の命や行動に自分自身で責任が持てない人は危険な山に登るべきではないと私は思う。
不思議なことだけれど、結構誰もが自分がアクシデントを起こす側だとは思っていなかったりする。
万一の時には道連れにされる側、ザイルを切る側だと思っている。
若いうちは死が身近でないのと同じようなことなのだろうか。


ヨーロッパの山やスキー場では雪崩れ注意の旗や看板が出る。
危険度に応じて黄色い旗、黄色と黒のチェックの旗、黒い旗。
そうしたところでも人の手が入っていない雪面(オフピステ)は非常に危険と言われている。

雪崩対策には、ビーコン、スコップ、ゾンデ棒!?
今回も雪崩対策にビーコンという話が聞こえてきたが、これを持っているかといって雪崩が発生しないわけではない。雪崩が避けられるようになるわけでもない。ビーコンは魔法の杖ではない。
無いよりは有るほうが良いくらいなもので、救出を保証するわけでもない。使い方を知らないのでは話にもならない。
即死してしまえば、何を使っても、使い方が素晴らしくてもダメだろう。まだ生きている人がいてこそ救出が可能。
入出力の指向性や複数の発信音(別のビーコンの電波が入り込む)などに惑わされることなく、精神的な動揺や混乱に負けずにビーコンを使いこなし、ここだ!というポイントを定めてゾンデ棒で確定する。(言うほど簡単ではないので練習が必要)
二次雪崩に十分注意しながら、雪崩のあとの重く締まった雪に耐えられる強度のあるスコップで掘り出す。
雪崩に埋没してから15分程度で急速に生存率が下がる(呼吸空間が確保できたかが生存率に大きく影響する)ので、それ以内に行わなければならない。



【大田原高校山岳の活動実績】(ホームページより)

・大会
県大会 インターハイ予選会(第1位のみインターハイ出場) 8連覇中
      関東大会予選会(第6位まで関東大会出場) 3連覇中
      新人大会(上位大会なし) 3連覇中 
上位大会 インターハイ(全国高校登山大会) 8年連続インターハイ出場
           平成20年(埼玉)  5位
           平成22年(鹿児島) 6位
           平成26年(神奈川) 7位   と全国でも活躍しています。
       関東大会(関東高校登山大会) 7年連続出場
           関東大会は、各都県代表チームとの合同登山を行う大会で順位付けはありません。

・夏山合宿
    平成27年 白馬岳(2932m)第26位  富士山(3776m)日本一
    平成26年 槍ヶ岳(3180m)第5位  北穂高岳(3106m)第9位 富士山(3776m)日本一
    平成25年 北岳(3193m)第2位   間ノ岳(3190m)第3位   富士山(3776m)日本一
    平成24年 奥穂高岳(3190m)第3位 富士山(3776m)日本一
   毎年、夏には、日本を代表する山々を舞台に、魅力ある山行を行っています。

・冬合宿
  毎年12月の下旬に日光白根山を目指して、2泊3日で冬山合宿を行っています。
  氷点下20度になることもある厳しい環境の中で(雪上にテントを張ります)、なかなか体験することができない素晴らしいひとときを過ごします。

・その他、春山(県内)、秋山(県内)も実施しています。



大田原高校は冬山合宿も行っている。
冬山はインターハイには直接関係ないだろう。
広島の先生が「他のスポーツ競技であれば合宿や遠征は大会で好成績を収めるための手段であろうが,登山の場合は,たとえば夏の日本アルプス登山のように,合宿・遠征それ自体が目的となっている」と書いていたが、それ自体が目的の合宿を大田原高校も行っていた。
大会で好成績を収めることと、登山そのものと、両方に足を突っ込んでいたような形になる。
夏山合宿では標高順位が記されている。これだけでも目指すべき登山の嗜好が分かる。
今回の件は、大会で好成績を収めることと登山そのものと、その両者の隙間に落ちてしまったような遭難であるという印象を持つ。
但し亡くなった生徒さんの保護者の方の反応を見ていると、登山が自己責任であるということ十分理解しているような感じがあった。
高体連が主催しているインターハイでの競技中に遭難したとかだったら問題あるだろうし、責任の所在を明らかにする必要があるだろうけれども、登山が目的の合宿であるならば例え部活動中といえど自己責任と言われても仕方ない。
高校生の部活動加入や合宿参加は強制ではないはずである。


かつてはマイナースポーツだった登山が、山ガールブームや中高年の登山人気を経て、今やメジャーになりつつある。
インターネットで社会全体が大きく変わったが日本の登山ブームに一役買っているのが山レコというサイト

ヤマレコは、登山、ハイキングなど、山に関わる全ての方を対象にしたコミュニティサイト です。 写真、GPSログと同期したルート図、標高グラフなどを投稿できる登山の計画や 山行記録(登山記録)を中心に、日記や掲示板などの機能も豊富に揃っています。

他人の旅行記(旅行話)ほど興味を持てずつまらないものはないが、これから自分が行く場所の参考にしようと思えば他人の旅行記ほど役に立つものはない。自分が行ったことのある場所を後から見るのも比較や共感などできるためにそれなりに楽しめる。
このような心理を付いたサイトが山レコだと思う。便利で登山という同じ趣味を持つ人には有益なものであろう。
私も御嶽山の噴火の時には、噴火に遭遇した人の山レコを探した。(記事にリンクしたような気もするが定かではない)
山レコもSNSと同様に弊害もある。基本にあるのは承認欲求だと思う。

佐倉葉ウェブ文化研究室
 自己顕示欲充足システムに飲み込まれる登山者と事故の危険性
 ~インターネットの普及による山行への影響について『ヤマレコ』を事例にして~


 アウトドアレジャーのうち”登山”は油断すると事故に繋がるし最悪”死ぬ”。だから、事前の計画、装備、技術、経験が問われる事になる。

 今回取り上げるのは、”登山”と”ウェブ上の活動”が組み合わさった場合にどうなるかということである。 インターネット時代における登山の問題としてよく挙げられるのは”即席パーティによる遭難”である。 ウェブ上で一緒に山を登る人を募集すると見ず知らずの人達による即席パーティになる。 即席パーティの為、参加者同士の意思疎通がうまく行かなかったり、お互いの実力が判らないまま登山を行うことにより、お互いに足を引っ張ってしまい、事故や遭難に繋がっていくという問題である。 これはこれで問題なわけだがここでは取り上げない。

 ハイカーに”目立ちたい””同情してほしい”という気持ちがあって、ウェブ上の活動でそれを満たそうとする場合、どういう行為に繋がっていくのか。 そしてその行為はやがて事故に繋がっていくのではないか。それがこの文の内容であり、 舞台はウェブ登山界の中で圧倒的な存在感をみせる登山SNS『ヤマレコ』である。


・拍手目的の山行記録
・ユーザーの遭難死

yucon氏(パーキンソン病を患っていると自身で語っていた)
 yucon氏は鈴鹿山脈をよく歩いているハイカーであり、2011年7月3日から山行記録を書いている『ヤマレコ』ユーザーである。 氏は道迷いや滑落を起こしている、危なっかしいハイカーであった。

 2012年07月16日、yucon氏は御池岳山頂からT字尾根(バリエーションハイキングのコース)を道中で出会ったR氏と一緒に進む。やがて道に迷い、予定していなかった谷に降りてしまった。 一日ビバークをしたものの登り返し、再び御池岳山頂に戻ることに成功。しかしながら再びT字尾根を進み再び道迷い。前日と同じ谷に降りてしまう。しかもR氏と逸れてしまった。 T字尾根に登り返すことや谷を下る事を試みるも失敗し谷で数日過ごす。22日、捜索しにきた人(この人もヤマレコユーザー)に発見された。

遭難記を書いたことで『ヤマレコ』内の有名人となり、狭い世界の中の話ではあるが脚光を浴びる存在になったのである。 それを裏付ける数字として山行記録の拍手数が遭難以降上昇している。また、山行記録につけている写真数が遭難以降上昇しており、 山行記録を書くモチベーションが上がったと考えられる(*3B)。 彼は遭難後もバリエーションコースをよく歩いており、しかも夏の低山。さらに時々、道を間違えている。遭難後は以前にも増して危ないハイキングを行っていた。
2013年11月23日、yucon氏はまず銚子ヶ口に登り、そこからを御在所岳へ向う途中で遭難(山と高原地図では赤点線コース)。 27日に救助される。しかし28日、搬送先の病院で死亡した。


uedayasuji氏
uedayasuji氏は八ヶ岳や北アルプスをよく歩いているハイカーであり、2012年12月22日から山行記録を書いている『ヤマレコ』ユーザーである。 氏は『ヤマレコ』内で活発に活動しており、『ヤマレコ』にはまっていたと考えられる。山行記録における氏のコメント数は6000を超える。

uedayasuji氏はナイトハイクが多い(これは仕事の関係上致し方ないところもあると見受けられる)。また、雪渓歩きをして雪渓の下に落ちる、物をロストするなど危険な山行をしていた。 さらに、鐘楼をピッケルで叩いたり鳥居に蹴りをいれたりして、それを山行記録に書くという事も行っていた。 しかし、こういう事に対し、ネット上で他のヤマレコユーザーから注意される事は殆ど無かった。 逆に「生還できてすごいですね!」「すごい運ですね!」「すごい体力ですね!」みたいなコメントばかりであった。 唯一、一人だけコメントで忠告し続けた人(元ヤマレコユーザー)がいたが、その忠告も途中で無くなった。

2015年3月28日、彼は赤岳を真教寺尾根から登る。 前日にナイトハイクで牛首山まで行き、ここで幕営。この時点で標準コースタイムの2倍の時間がかかっていた。 深夜は雪が降り積もり、そのまま赤岳まで行っても下山予定の13時には間に合わないことから、下山した。 4月11日、再び真教寺尾根へ。滑落し死亡した。








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# by yumimi61 | 2017-04-03 15:35
2017年 04月 03日
山岳競技について
山岳部の雪崩事故が依然話題に上るので山岳競技について少々書いておこうかと思う。

死亡者を8人出した栃木県立大田原高校は全国高校総体(インターハイ)県予選会で9連覇中の強豪校であったとも報じられていた。
事故の遠因はこの辺りにあるのではないかと当初からなんとなく感じているが、あまりうっかりしたことも言えない。
山岳競技というのはその捉え方が多様であるため非常に難しい。評価価値基準は一様ではない。
従って部活動として他校と競うには難しいスポーツでもある。

山の近くに住む人々が日常的に、あるいは趣味の一環として山に登ることを別にすれば、山登りというのは歴史的にお金持ちの道楽の1つであった。
高く険しい山ほど人を選ぶ、宇宙旅行するのと同じように(?)、お金持ちでなければ出来なかったのだ。
現地までの旅費やら装備やら現地ガイドを頼む費用やら何かとお金がかかるものである。


ともかく大田原高校の山岳部が強豪ということなので、「がくらん」というサイトをあたってみた。

がくらんより
学力成績は点数化がしやすい側面があるので、学生生活はそれによって評価されがちです。
もちろん、学業に打ち込むことは、将来の可能性を広げたり、考える力の基礎を養うためにとても大切なことです。
だけれど、学校生活は必ずしも学力やテストの点数だけではありませんよね。
がくらんでは、部活動の強さを客観的に数値化して、使える情報としてまとめることを1つの目的としています。

『サッカー部ってどこが強いっけ?』『がくらんで見てみよう』
そんな会話が日常になるように、情報をまとめられるサイトを目指していきます。
今まであまり知られていなかったけれど実績のあるような部活も、存在感を示すことができるはずです。


このサイトに部活動ランキングというものがある。

部活動のランキングは、入力フォームから得られた大会名と結果から計算されます。
過去3年のデータ(今年、去年、おととし)がランキングの点数として反映されます。
ランキングはリアルタイムで更新されます。
つまり、がくらんは全国のユーザーの入力によってランキングが上下推移する、相互作用型の情報サイトです。


要するに在校生なり保護者なり教師なり学校関係者が大会記録をその都度自分で入力しないかぎりランキングには反映されない。自己申告制なのである。
部活動数としては多いだろうと予想される野球部でも全国で39校しかランキングに参加していない状況である。サッカー部では18校。
もっとも大会で好成績を収めなければ入力したくとも入力することがないので、入力できる学校は必然と限られてくる。
しかし自己申告制なので強豪校でもサイトの存在自体を誰も知らないこともあるだろうし、知っていても興味関心もないという学校もあるだろう。
ともかくサイトとしては成功している感じは全くない。

部活ごとのランキングで山岳部を調べて見る。
現時点でランキングに参加している学校は3校のみ。
1 位 / 3校中 広島県 修道高等学校 山岳部 男子 200,000 point
     2015年 全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 団体戦 優勝(200,000ポイント)
2 位 / 3校中 栃木県 栃木県立栃木高等学校 山岳部 男子 2,400 point
     2016年 全国高等学校総合体育大会(インターハイ) 都道府県大会 団体戦 3位(2,400ポイント)
3 位 / 3校中 兵庫県 須磨学園高等学校 山岳部 男子 600 point
    2016年12月 都道府県大会 学校対抗得点 6LQZqAc9BOvS wgQmaLPvtshI 14位(600ポイント)

試しにキャッシュでも見てみた。いつのキャッシュなのかこちらには19校参加している。
大田原高校も含まれていて7位である。大田原高校は総体県大会で連覇中ということなのでポイントにはなるはずだが、現時点ではランキングに参加していないので入力する人がいなくなったということであろう。
このように同じ学校でも年が変わればランキング熱も変わるということである。

1 位 / 19校中 長崎県 長崎県立長崎北陽台高等学校 山岳部 男子 200,000 point
1 位 / 19校中 広島県 修道高等学校 山岳部 男子 200,000 point
2 位 / 19校中 岩手県 岩手高等学校 山岳部 男子 176,000 point
3 位 / 19校中 千葉県 千葉県立千葉東高等学校 山岳部 男子 160,000 point
4 位 / 19校中 広島県 広島学院高等学校 山岳部 男子 144,000 point
5 位 / 19校中 静岡県 静岡県立藤枝東高等学校 山岳部 男子 128,000 point
6 位 / 19校中 山梨県 山梨県立韮崎高等学校 山岳部 男子 116,000 point
7 位 / 19校中 栃木県 栃木県立大田原高等学校 山岳部 男子 104,000 point
7 位 / 19校中 愛媛県 愛媛県立松山南高等学校 山岳部 男子 104,000 point
8 位 / 19校中 福島県 福島県立橘高等学校 山岳部 男子 80,000 point
8 位 / 19校中 山口県 山口県立下松工業高等学校 山岳部 男子 80,000 point
9 位 / 19校中 高知県 土佐高等学校 山岳部 男子 64,000 point
10 位 / 19校中 神奈川県 神奈川県立麻溝台高等学校 山岳部 男子 56,000 point
11 位 / 19校中 群馬県 新島学園高等学校 山岳部 男子 48,000 point
12 位 / 19校中 福岡県 福岡県立修猷館高等学校 山岳部 男子 40,000 point
13 位 / 19校中 三重県 三重県立神戸高等学校 山岳部 男子 36,000 point
14 位 / 19校中 長野県 長野県屋代高等学校 山岳部 男子 32,000 point
15 位 / 19校中 栃木県 栃木県立栃木高等学校 山岳部 男子 2,400 point
16 位 / 19校中 兵庫県 須磨学園高等学校 山岳部 男子 600 point


日本における全国レベルの山岳競技として挙げられるのは、国民体育大会(国体)と全国高等学校総合体育大会(インターハイ)である。

国体の前身は1924年から太平洋戦争中の1943年まで行なわれていた明治神宮競技大会。
国民体育大会と名を変えて復活したのは終戦の翌年1946年(国体としては第1回)。
第1回から山岳部門はあったが当初は講演会などを行っているのみであった。
1959年(東京にて国体開催)に日本山岳協会が設立されスポーツ登山として見直しが図られ、1971年(和歌山にて国体開催)からは名称が山岳競技と改称された。
1980年(栃木にて国体開催)から山岳競技が正式競技となった。
国体には少年の部があり、中学3年生以上から出場可能である。
一般的には高校生が出場することから、全国高校選抜大会、全国高校総体(インターハイ)、国体・少年種別の3大会を制すると「高校3冠」と言われる。
(競技によっては3大会実施していないものもあり)

全国高等学校総合体育大会(インターハイ)では当初は山岳部を有する高校が合同で登山をするような形をとっていた。
1967年の大会から順位は付けないが優秀校を10校ほど選ぶ方式を採用。
1994年の大会からは順位を付ける方式に変更した。
但し高校によってはインターハイ出場を目標にはしておらず高体連に登録していない山岳部もある。
全国高等学校総合体育大会(インターハイ)は高体連が主催。
要するに個々あるいは集団のスキルが高くてもインターハイには出場しない学校もある。



国体では、縦走競技、登はん競技、踏査競技の3種類の種目があった。
縦走競技や登はん競技は正直若さが必要である(そう言ったらオリエンテーリングもか)。
●縦走競技―山岳マラソンとも言われる。約7kmの山岳コースを、荷物を背負い一気に駆け上がる所要時間を競う。持久力を必要とする過酷な競技である。
●登はん競技―スポーツクライミングとも言われる。人工壁の競技場において規定の用具を使用してクライミングし、時間内にその到達高度を競う。
●踏査競技―山岳オリエンテーリングとも言われる。山岳地帯の競技コースにおいて、荷物を背負い、記入した定点の位置の正確さと所要時間を競う。

インターハイの競技は国体のそれとは全く違う。いわゆる採点競技である。
審査員が登山に同行していろいろなことを採点していくのである。
2泊3日で何時間も歩く。

採点内容
 ・事前準備(登山計画、ルート調査、食事メニュー)
 ・パーティーの統制や歩行技術
 ・装備品
 ・テント設営や撤収技術や整理整頓
 ・体力
 ・炊事
 ・天気図作成と気象予測
 ・読図
 ・登山全般に関するペーパーテスト
などなど

何をどう採点されているかは分かるような分からないような。
地元山岳会の人が審査員だったりするので、顧問が山岳会会員だったりすると対策もしやすいだろうけれども単なる山好きの場合には高得点は難しいかもしれない。
全国大会はこの方式で行われているが都道府県予選では踏査(オリエンテーリング)を取り入れている所もある。

日本が国体やインターハイで行っていた山岳競技というのは国際基準ではなく、日本独自の競技と言っても良い。
日本型の山岳競技はかなり手間暇がかかる。
また山岳競技と言っても、普段から登山をする人ではなく大会用に訓練された陸上競技の選手などが出場することもあった。
国際的に山岳競技と言えば、人工壁でのクライミングである。
そうしたこともあって、国体では2002年大会で踏査が、2008年大会には縦走が廃止され、現在国体の山岳競技はクライミング(リード、ボルダリング)に特化している。
従って尚の事インターハイの山岳競技は浮いてしまった形になった。


実際に高校の部活動で登山指導を行っている先生が書いた文章が参考になる。(一部抜粋、ラインは私が引きました)

http://www.geocities.jp/hiroshima_kokotozan/files/sidou.doc
『登山部指導と登山競技』
(第52回広島県高等学校運動部活動研究大会(平成26年11月21日(金)みよし公園カルチャーセンター)発表レポート) 登山専門部 安芸高校 西部伸也

1 登山競技とは
根本的な問題として,「登山は競技なのか」という疑問がある。登山が体育的な活動であり,軽重はあるものの相当の体力を要する活動であることには疑問はない。したがって登山部・山岳部・ワンダーフォーゲル部・等(以下,登山部で代表)が運動部・体育系クラブに属し,登山専門部が高等学校体育連盟に所属するのも不思議ではない。
ところが登山は他のスポーツとは異なり,相手との勝敗を競う競技として始まった活動ではない。
もちろん登山の歴史においては,未踏峰の初登頂を競ったということはあるし,時期も含めてより困難なルートの登攀に成功することで,優れた登山者としての名誉を得ようとしたことはよくあった。しかしながらそれらの活動は冒険家とも言える一部の先鋭的な登山者に限られた話で,一般の登山者は,より困難な登山への挑戦という意識はある程度普遍的ではあるにしても,他者と競うことを念頭に登山活動をするということはあまりない。
さらに,スポーツが競技となるためには一定のルールが整備され,異なった場所・時においても同様な活動を行いうるゲーム・試合とならなければならないであろうが,登山においては長らくそのようなルールの制定・標準化というものはなかった。


3 インターハイ登山大会における登山競技
 一方,学校体育のクラブ活動では,登山部も各都道府県で高等学校体育連盟の一専門部として組織されるようになり,各校の登山部が集う大会が運営されるようになった
。登山の大会は最初は単に各校が集まって合同で普通の登山を行うものであったが,学校のクラブ活動として生徒たちを指導する目標ともなるべく,より熟達した登山ができるパーティーを表彰しようという機運が生まれたものと思われる。
(略)
それではインターハイの登山大会ではどのような観点で競技が行われるのか。
インターハイ登山大会は国体山岳競技とは異なり,学校のクラブ活動の中で登山を指導しているのだということが大いに意識されている。
登山部の活動は,安全に留意しながら,いかに充実した登山活動が行えるかということが第一義であって,競技に勝つことが第一義ではない。もちろん充実した登山活動を行っていれば競技においても優秀な成績を収める可能性は高く,競技において優秀な成績を収めることができれば,充実した登山活動を行う素地が大いにあるといった相関はある。
インターハイの登山大会では,かつての国体山岳競技のように,登山活動の中の一部を抽出して競技化するのではなく,日頃の登山活動の充実と競技での優秀な成績との相関が高められることを意図して競技化が図られていると言ってよい。
高体連登山専門部の中では「安全登山の推進」ということがよく口にされるが,これは「充実した登山活動の推進」と言い換えてもよいだろう。より充実した登山を求めてより高度な登山に挑戦する中でこそ安全ということに価値があるのであって,平易な登山の中で安全といってもあまり意味がない。したがって全国登山大会における『審査基準』・審査細則は,登山の基礎を身につけることはもちろん,充実した登山活動の推進を念頭に制定されていると考えてよかろう。
登山の審査は100点満点方式で,体力30点・歩行技術10点・装備所持10点・設営技術10点・炊事技術5点・天気図作成5点・気象知識テスト2点・読図4点・自然観察(山域概要・登山用語・地形図知識)テスト4点・救急法テスト2点・医薬品所持3点・計画書作成6点・記録書記入4点・マナー5点の配分となっている。スポーツ活動であるから体力点の比重は高くなっているが,それだけではなく,登山に関連する技術や知識,登山に必要な装備・医薬品の適正な所持,なども審査対象となっている。(ただしこの審査基準は,インターハイ登山大会の経費削減と(国体と同様の)競技性の向上が全国高体連より求められる中で,インターハイ登山大会に従来の隊行動や班行動と異なるチーム行動が大幅に取り入れられることとなり,審査基準・配点の変更も現在検討されているところである。)


4 競技のみには収斂されない高校登山部活動
このようにして,元々競技とは異質のものであった登山が,学校体育のクラブ活動としての指導の過程で競技化されるようになったのであるが,それでは学校体育においては登山がすっかり競技に移行してしまったかというと,それは否である。
このことは各校の登山部が各都道府県の高体連登山専門部に加盟しているかどうか,また各校の登山部員が競技をする際に必要な日本山岳協会への選手登録を行っているかどうかに見ることができる。
広島県の場合は各校の登山部の高体連への加盟率は比較的高い方であるが,それでも10年ほど前の五日市高校や本年度の安芸府中高校などのように,登山部として一定の活動を行いながら高体連には加盟しない学校が皆無ではない。
さらに,東京都や神奈川県など大都市圏の都道府県にあってはかなりの数の学校が登山部はありながら高体連には加盟していないと聞く。
また,加盟校の各部員の選手登録率についていえば,広島県の場合は227人の登録で,登録率は92%であるが,例えば加盟校数が広島県の3倍ないし2倍近くあり,部員数も広島県よりかなり多いと思われる埼玉県や群馬県の登録数はそれぞれ25人,20人と少なく,登録率はかなり低いと思われる。
これらのことは登山の活動が決して競技のみには収斂されないことを示している。
選手登録をしない部員,高体連に加盟しない学校にあってはもちろん,登録部員や加盟校の間でも,競技に出場して良い成績を収めることにはあまり主眼を置かず,通常の登山活動に目的を置く傾向があったりするのは否めない。
他のスポーツ競技であれば合宿や遠征は大会で好成績を収めるための手段であろうが,登山の場合は,たとえば夏の日本アルプス登山のように,合宿・遠征それ自体が目的となっている。
登山にはまた,様々なジャンルがあり,岩登り,沢登り,雪山,さらにはバックカントリースキーという分野もある。これらの登山形態は高校生としては一歩進んだ登山であり,ある程度の危険性も増すため,これらの登山形態で競技が行われるということは通常ない。
高校生がそれらの登山形態を実践するときは,それらの登山自体が目的となっている。それらの登山で得られる充実感・満足感が最終目的である。高校生としてどれだけ困難な登山ができるかという観点で他校と競う面が全くないわけではないが,敢えて競い闘うというなら,むしろそれは厳しい姿も見せる自然の世界との闘い,困難に負けそうになる自分自身との闘いということになろう。



山岳競技は難しいと書いてきたが登山自体その位置づけが難しい。
広島の先生が書いている通り、登山は他のスポーツとは異なり相手との勝敗を競う競技として始まった活動ではない。道楽、趣味、レクリエーションである。
登山が道楽、趣味、レクリエーションならば仕事でも職業でもないはずである。もちろんどこかの代表選手でもない。国旗も校旗も背負っていない。好きだから行うのだし自己責任で行うものである。
広島の先生はこう続けている。
もちろん登山の歴史においては,未踏峰の初登頂を競ったということはあるし,時期も含めてより困難なルートの登攀に成功することで,優れた登山者としての名誉を得ようとしたことはよくあった。しかしながらそれらの活動は冒険家とも言える一部の先鋭的な登山者に限られた話で・・・
未踏峰の初登頂や困難なルートを競う一部の登山家(冒険家)も職業ではない。プロ登山家なんて別にないのだ。
自然の前ではみな素人である(な~んて)。
一部の先鋭的な登山も歴史的にはお金持ちが金に物を言わせて栄光や名誉を得るための手段である。
頂上に札束が金銀財宝が置かれているわけではないのだから出費しかない。
ではお金がない人は高みを目指すことは出来ないのか?貯めれば出来る!
あとは節約が大事ですね。パーティーを組むことも節約の1つになる。
成功の暁には本を執筆するとか写真集出すとか、教室などを開いて指導者になるとかガイドになるとか、名声によって儲ける方法はあるかもしれない。
そして何より寄付やスポンサーが大事になります。
どこの世界もスポンサー様さま。
高校の部活動だって強くなればスポーツメーカーからこれを着てくださいだの使ってくださいだの無料で持って来るわけで。芸能人にもそういうことはありますね。
極めるとどうしても商業臭くなってしまうもの。しかしながら極めればそれで食べていくことも可能となる。
登山や登山家として世間一般に注目されるのは(大手メディアが大々的に扱うのは)、一部の先鋭的な登山や登山家である。
そんなわけで、お金持ちの道楽や商業にまみれて行われる登山が目指すべき登山だと勘違いしやすい傾向にある。







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# by yumimi61 | 2017-04-03 11:57
2017年 04月 02日
父の病㉘
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)
1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日) 死亡


地域連携課の担当者は、1月24日(火)の面談の時にはそういう素振りはなかったが、1月26日(木)になると緩和病棟への転院に急に難色を示した。
前にも書いた通り、地域連携課の担当者は26日の朝に父のもとに行ったということだった。
父はその場で転院をしないとかなんとか言ったらしかった。

担当者は施設を勧めてきた。
「実はがん患者も受け入れている施設に1つ空きがあるとの情報をもらったのでちょうどよいと思って。月夜野病院の施設です」
私は、「父は施設に入れるような状態ではないと思うし、父の介護度は要支援1なので施設に入れる資格はないかもしれません」と答えた。


担当者からは施設の詳細の説明も介護度についての回答もなかった。
月夜野病院の施設については家に戻ってから調べてみたが、住宅型有料老人ホームだった。
病院に併設(病院の3階)されているが、病院とは全く異なる施設。医療スタッフも介護スタッフもいないタイプの施設である。
通院するにはとても近いというメリットはあるが、間違っても入院ではない。


私は月夜野病院が施設展開をしているということを知らなかったので、「ほたか病院のような感じでしょうか?」と聞いてみたかしてほたか病院の話題が出たのだった。
父は以前より施設入居については希望していないので説得することは難しいだろうと思うということも付け加えた。
その時、地域連携課の担当者がふとこんなことを漏らした。
「確かにほたか病院の施設は本人が嫌だとはっきりと言っていました」

私はここで思ったのだった。
施設入居についてすでに父と会話している・・・。ということは今朝(26日)の出来事だろうか?
そうだとするならば26日に初めて父を訪問して、転院が嫌だと言ったから即座に代案を提示したのか、いきなりかどうか、二人の会話を聞いていたわけではないので分からないが、施設入居を打診したということになる。
もしそうならば父が気分を害したり、話が違うではないかと訳が分からなくなってしまったとしても不思議はない。
「とにかく話は娘が来てから」と父が言ったのは、父がいないところで施設入居の話が進んでいると思ったからではないのか。

父はどこそこの誰誰さんがあの施設に入っているとか、ショートステイやデイサービスを利用しているとかいう情報は持っていた。
「ほたか病院の施設は誰誰さんが入っている所だ」なんて話を私も聞いたことがある。
しかしながら、それぞれの施設について父がどう思っていたのかは知らない。個別な評価は別に聞いたことが無い。
基本的に父は施設入居自体に積極的ではなかった。

ほたか病院というのは医療法人社団ほたか会が経営している病院。
老人保健施設やケアハウス、サビース付き高齢者向け住宅などの施設運営のほか、通所リハビリ、訪問看護、介護支援事業も展開している。
医療法人社団ほたか会はPAZグループの1つで、他に株式会社ヴィラージュ(介護付き有料老人ホーム経営など)、学校法人群馬パース学園(群馬パース大学経営など)、株式会社サフラン(群馬パース大学の子会社)、社会福祉法人パースの森(特別養護老人ホーム運営など)がある。











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# by yumimi61 | 2017-04-02 17:04
2017年 03月 31日
父の病㉗
かかりつけの病院→A病院→B病院→C病院→D病院→かかりつけの病院

1月17日(火) D病院受診(鎮痛剤トラムセットを10錠処方)
1月19日(木) かかりつけの病院を午後受診→そのまま夕方入院 (午前中は母が受診)
1月20日(金) 入院に必要な荷物を持っていったり書類を提出したり。
1月21日(土)
1月22日(日)
1月23日(月) 地域連携課から電話あり(面談予約)。
1月24日(火) 地域連携課担当者と面談し、その後転院先へ送る書類記入。
1月25日(水)
1月26日(木) 地域連携課担当者から電話あり。面談。夕方3者面談。(午前中は母が受診)
1月27日(金) ナースステーション前の個室に移っている。地域連携課担当者と面談。
1月28日(土)
1月29日(日) 死亡

1月26日(木)
急ぎの話は、「かなり温度差がある」ということだった。
この日の朝に父に話を聞くために訪ねたところ、「転院なんか知らない。家に帰る」というようなことを父が言ったらしいのだ。
その言い方が荒かったのか無下だったのか、ともかく父は「話は娘が来てから」と全く取り合わなかったらしい。
緩和ケア病棟は家族ではなく本人が何もかも納得の上で強く希望していないと入れないそうで、「あれでは緩和ケア病棟に受け入れてもらうことは無理です」ということだった。
でも私は24日に書いた質問の答えに嘘なんか書いたつもりは全くない。
とにかくもう一度お父さんと話をしてみてくださいとは言っていたが、緩和ケア病棟への転院はもはやないような雰囲気があった。
看護学校の講義の時間が迫っていたので、夕方もう一度面談をする約束をして別れた。

(略)

地域連携課の担当者と別れたその足で母と父の病室を訪ねた。
「お父さんっ転院しないで家に帰るって言ったでしょ」
私は家で父に話しかけるように遠慮なくそう言った。
「今朝来て急に言われたから、娘が来てからにしてくれって言ったんだよ」と父。
「あの人は転院の手続きをしてくれている人だから。入院した時に説明したじゃない、転院するんだよって。あの時苦しかったからよく覚えてないんでしょ。だけどここにずっといられるわけではないし、家に帰っても大変だと思うよ。入院する前の日の夜の事を考えたらそう思うでしょう?今は病院で面倒見てくれるから少し楽になったかもしれないけれどさぁ」
「人は、喉元過ぎれば熱さ忘れる、なんだなあ」
結局父はすぐに観念した。
「面会に行くよ、お母さんも連れて行くから。状態がよくなれば外泊もできるんだって」と教えてあげるとちょっと安心したみたいだった。
母が「みんな心配してよくしてくれるんだからあまり我儘言わないで言うことを聞いてくださいね」と「そうだね」と父はうんうんと頷いた。


1月26日(木)夕方
「かなり温度差があり、あれでは緩和ケア病棟に受け入れてもらうことは無理です」という言葉を残して看護学校の講義に出掛けて行った地域連携課の担当者(看護師資格を持つ相談員)と夕方再び会った。
まず私との2者面談を行った。
私は父と話をして転院することに対して了解を得たことを告げたが、相談員さんはもはや転院に積極的ではなかった。
完全に緩和ケア病棟への転院は無理と判断し諦めているような様子であった。
緩和ケア病棟は審査が厳しいので誰でも入れるわけではないというようなことを説明された。
本人が治療を望んでいる状態ではもちろんダメ。
病気の状態や現実を全てを理解し納得していること。迷いがある状態ではダメ。
死を受け入れて、死までを安らかに過ごしたいので「お願いします」というような気持ちや態度である必要がある。
それは家族ではなくあくまでも本人の意志でなければならない。
これだけを聞けば、父は緩和ケア病棟を希望する患者に相応しい優等生ではないと相談員さんに判断されたと理解するしかない。



肺がんであることと治療方法がないことを宣告されてからおよそ1年。
1年もの間、死が迫りくるというストレスの中に身を置いてきた。
年末には胸の痛みが出たり以前にも増して呼吸が苦しくなっていた。これもまたかなりのストレスとなる。
息苦しさと胸痛(肺疾患・心臓疾患)、強い痛みは死を彷彿させるもので患者の苦痛(ストレス)は相当高くなるものでもある。
父はまさにその状況にあった。
年齢的にも80歳を超えている。
この状態にあって鮮明な記憶を維持し、混乱を来たさないことを要求することはあまりに酷である。
命が危ないと感じている状況で本人が意識的にインプットできる情報なんて限られている。
状態の悪かった入院時、「転院するからね」という私の言葉を父が意識的にせよ無意識であったにせよ生命維持には重要ではないと判断したとしてもそれは仕方のないことだ。
痛みがあり呼吸が苦しくて命が危ないと感じている状況でテスト勉強をしてどれほど頭に入るかという話ですよ。100点満点取れると思いますか?


父は入院前から自身の混乱を「頭の中がぐちゃぐちゃになる」などと幾度が口にしたことがある。
何かを忘れてしまったことや勘違いなどがあり本人もそれを自覚していた。
短期記憶が怪しくなる時があるわけだから、認知症テストをすれば点はそれまでよりも低めに出るだろう。
実際父はがん発覚以降に行った介護認定更新時の認知症テストで要経過観察となった。
加齢による記憶力低下も当然あるだろうけれども、多くはストレスから来るものだろうと私は感じていた。

父は介護認定更新時の認知症テストを受けた頃に私に電話をかけてきたことがあった。
「認知症テストしたんだけど、ぼけちゃったらしい。家族と病院に来るように言われた」という内容だった。
その後、指定の日に父と病院へ行った。
病院に行って初めて分かったが、認知症テストは全く関係なかった。
父は耳の下のリンパ節に少し痛みがあり、かかりつけの病院の耳鼻科を自分で受診したのだった。
そこで検査して悪性腫瘍が疑われたため結果説明に家族と来るようにと言われたのである。
父はそのことを忘れていたり分からなかったわけではない。
ちゃんと指定された日時に、呼吸器科でも内科でもリハビリ科でもなく耳鼻科に私を連れて行った。
医師の話も理解していた。
何も知らなかったのは私である。父は私にリンパ節の痛みという不安を打ち明けず自分一人で受診し、来てほしいという電話の時にもバツが悪かったのか私に心配をかけまいと必死だったのか耳鼻科にかかったという話を一切持ち出さなかった。
父を怒る気にはなれなかった。

耳の下のリンパ節に若干異常があることはB病院で指摘されていた。
但しこれを問題にするレベルにはないということも言われた。
肺の腫瘍のほうが大きく、それを治療する手立てがない状況では、リンパ節に異常があったとしてもどうにもならない。
リンパ節に関してはそれ以上詳しい検査などはしなかった。
私はそのことをよく覚えていたので、父に「耳の下のリンパ節に少し異常があることはB病院で言われたよ。だけど問題にするものではないから」と説明した。
「そうか」と父はちょっと安堵した表情を見せた。
私は耳鼻科の医師にも、父は肺がんであり耳の下のリンパ節にも若干異常が認められることをB病院で指摘されていることを説明した。
「父もその場にいました。聞いたこと自体は忘れてしまったのかもしれませんが、聞いたからこそ無意識に耳の下が気になっていて痛みとして現れ、受診したのかもしれません」とも話した。
「そうでしたか、知っていたならば結構です。知らないのかと思いまして」と医師は答えた。


地域連携課の担当者は、1月24日(火)の面談の時にはそういう素振りはなかったが、1月26日(木)になると緩和病棟への転院に急に難色を示した。
前にも書いた通り、地域連携課の担当者は26日の朝に父のもとに行ったということだった。
父はその場で転院をしないとかなんとか言ったらしかった。
私は入院後父が若干元気を取り戻していたように感じていたので、「病院で安心して少し元気になったせいかもしれません」と言った。
担当者も「私が訪ねて行った時にもベッドに座っていたから驚きました」と言った。
もっと容態が悪いことを想像していたということだろう。
ベッドに座って口答えをするような患者は緩和ケア病棟には向かないということなのだろうか。
私は緩和ケア病棟という所に実際に行ったことがないので、いろいろと質問をしてみた。
その担当者は緩和ケア病棟で働いていたことがあるということだった。
緩和ケア病棟にもいろいろあるが、転院しようしている所(B病院)はとにかく審査が厳しいということだった。
26日には担当者はほぼ無理であるという判断をしていたのだが、それがB病院の反応からだったのか、それとも本当に26日朝の父の様子からなのか私は真意を計りかねていた。

「書類審査で断られました」という返事ならば了承するしかない。でもそういう言い方はされなかった。
だから私は「審査を通らなくてもいいので手続きを勧めてほしい」と訴えたが良い返事はもらえなかった。
中間管理職のような医療ソーシャルワーカーにあまり無理強いをしても申し訳ないと思い、「それならば外来(緩和ケア外来)を受診してみるというのはどうでしょうか?」とまでも言ってみた。
しかし何を言っても駄目だった。

担当者は話す。
「本来はD病院で受け入れるべきだと思うんですよ。私もD病院い聞いてみたんですけど断られました」
D病院には緩和ケア病棟はないが緩和ケアチームが作られているそうである。
私は担当者に一通りの経過を24日に嘘偽りなく話しているのだが、D病院の内科を受診したことは確認がとれなかったような口ぶりだった。整形にかかっているとかなんとか言われたとか。
「地域連携課の話ですけれども」と付け加えた。

そして担当者は施設を勧めてきた。
「実はがん患者も受け入れている施設に1つ空きがあるとの情報をもらったのでちょうどよいと思って。月夜野病院の施設です」
私は、「父は施設に入れるような状態ではないと思うし、父の介護度は要支援1なので施設に入れる資格はないかもしれません」と答えた。
すると「とりあえず病院で受け入れて状態が良くなったら施設に行けばいいんですから」ということだった。
たった今「病院」ではなくて、「施設」に空きがあるって紹介したじゃない!(なんてことは口には出していない)
病院が運営している施設で併設されているから医療も受けられて安心と勧められた。
月夜野病院は知っていたが、月夜野病院がどんな施設を有しているのか私はその時点では分からなかった。
担当者から施設の詳細の説明はなかった。介護度についても触れなかった。
状態が良くなったら施設に行けばいいということは介護度が高い人が行く施設ではなさそうだと判断した。


月夜野病院の施設については家に戻ってから調べてみた。
介護関係の施設を幾つか持っているが、担当者から得た情報から判断すると該当するのは1つ。有料老人ホームだった。
有料老人ホーム花水月は、月夜野病院の3階に開設された住宅型有料老人ホームです。全室個室で25室あります。病院と同一の建物と併設し、医療・介護と連携して最高の安心をご提供します。「花水月」は名前の通り、春は美しい花々に囲まれ、夏は谷川の清水に蛍が飛び交い、秋は月夜野の名月を望む自然豊かな環境の中にあります。このような恵まれた環境で入居の皆様と一緒にリラックスした楽しい毎日を作っていくように、職員一同頑張ります。どうぞ、よろしくお願い致します。
月夜野病院ホームページより>

施設詳細はこちら

入居者募集中とある。

住宅型有料老人ホーム
全室個室 25室
(14.3~15.41㎡)

月額利用料金
136,500円
+別途介護費用がかかります。

例外があるのか分からないが入居条件は「要介護の方」と記されている。父は該当しない。
受け入れ体制完備という欄には、経管栄養や点滴などの他にがんの終末期とも書いてあった。


(医療保険)
■一般病床 89.4万床
■医療型療養病床 27.1万床
■精神病床 33.6万床

(介護保険)
●介護療養病床(介護療養型医療施設) 6.1万床 ・・・廃止が決定してから5〜6万床減少した。
●特別養護老人ホーム 54.1万床
●介護老人保健施設 36.2万床

・有料老人ホーム
・軽費老人ホーム(ケアハウス)
・グループホーム
・サービス付き高齢者向け住宅 


前にも書いたことだが有料老人ホームには次の種類がある。

■「介護付有料老人ホーム」(特定施設入居者生活介護)
都道府県より特定施設入居者生活介護の指定を受けた有料老人ホームのみが「介護付有料老人ホーム」と名乗ることが出来る。
特定施設入居者生活介護の指定を受けていない有料老人ホームについては介護付と表示することはできない。
介護サービスは24時間施設常駐スタッフによって提供される。
食事や入浴や排泄など日常生活全般の介護サービス・生活サービスの提供を受けられる。
入居は要介護者を対象とした介護専用型と、要支援者や自立している人(認定を受けていない人)も受け入れる混合型がある。
経管栄養や気管切開といった医療ケア(医療行為)が必要な人でも入居できる施設が比較的多い。(しかしながら看護師が24時間常駐している施設はごく僅か)
部屋は個室、入居は終身が原則。
(以後略)

■住宅型有料老人ホーム
入居は終身が原則。
サービスは食事の提供と緊急時の対応くらいで、施設常駐の介護スタッフによる介護サービスは提供されない。
介護が必要な人は自宅の場合と同様に訪問介護などの介護サービスを受けることは可能。(=介護保険による在宅介護サービス)
入居一時金は0〜数千万と幅広い。月額費用は10〜30万程度。
常駐の介護スタッフがいないため介護度の重い人の場合には外部介護サービスを頻繁に利用することになり介護保険の上限額を超えやすい。
超えた分は全額自己負担となるので、介護度の高い人は費用が必要以上にかかってしまう可能性が高い。

■健康型有料老人ホーム
(略)

■特定有料老人ホーム
有料老人ホームのうち、次の条件を満たすもの。
1.医療法に規定する病院、老人福祉法に規定する養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、軽費老人ホーム又は介護保険法に規定する介護老人保健施設に隣接した場所に設置されている。
2.定員が50人未満。
3.利用料が比較的低廉であり、かつ、入居者からは原則として利用料以外の金品を徴収しない。
これを満たせば独立行政法人福祉医療機構から融資の対象となるため、「介護付有料老人ホーム」(特定施設入居者生活介護)などに比べて利用料を安く設定でき、近くに病院や介護スタッフ・支援スタッフがいる施設があるということで住宅型有料老人ホームなどよりも安心感を売りにできる。
最近はこのタイプも多い。 



「新しい月夜野病院の建物の3階に併設 最高の安心と安全を提供します」と施設紹介ページには大きく書かれている。
しかしながら居室の種類は、介護付有料老人ホームでも特定優良老人ホームでもなく、住宅型有料老人ホームなのである。
医療スタッフどころか介護スタッフも常駐していないのが住宅型有料老人ホームである。
必要な人は在宅時と同様に外部の介護サービスを申し込んで受けるタイプの施設である。
但し月夜野病院は介護サービスを提供する施設やセンター(月夜野病院総合介護センター)を別に持っている。
介護保険あるいは実費で希望者はその月夜野病院が展開する外部介護サービスを受けられるということなのだ。
病院と同じ建物に併設してあっても、法的には全く別の施設である。
言い方は悪いかもしれないが、ちょっとした詐欺のような感じである。


みんなの介護 有料老人ホームの設立の条件とは?

有料老人ホームの中でも、住宅型有料老人ホームでは人員配置に関する基準は特にありません。これは比較的元気な高齢者を入居対象者として想定しているこ と、提供するサービスが利用者ニーズにより異なることなどから施設が提供するサービスに応じて必要なスタッフが配置されていればいいとされているからです。

一方で、介護保険における特定施設入居者生活介護の指定を受けている介護付き有料老人ホームでは、介護保険法に基づき職員配置に関しては最低基準が設定されています。下記の表にある通り、要介護・要支援2の高齢者3人に対して最低1名を配置することが求められています。老人ホームを探している際に、人員体制で 「3:1」と記載されているのはこのことを指し、入居者2名に対し1名の職員を配置している場合は「2:1」などと表記されているはずです。最低基準は 「3:1」ですから、この数字が手厚い介護体制が整っているかどうかなどを判断するひとつの基準となっているのです。

有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅を運営するにあたって、特別に必要となる資格はありません。強いて言えば、「法人であること」ということになるでしょう。








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# by yumimi61 | 2017-03-31 12:29
2017年 03月 30日
父の病㉖
前回、脳細胞(神経細胞)と脳細胞(神経細胞)を繋いでいる神経線維について触れた。
加齢によって脳細胞を減少するが、神経線維は増える。
神経線維が増えると、有機体のように多くの細胞を密に繋ぎ、互いに影響を及ぼし合うことが出来るようになる。
知恵を生み、臨機応変に物事に対応できるようになったり総合的な判断力に優れるようになる。
脳細胞の減少を補うことも可能である。

ネットワーク化が人間一人一人の生きる力になっていくことは間違いない。
但し視点を変えて社会や歴史という観点から見るとこれも諸刃の剣である。

インプットされなかった事柄については当然アウトプットも出来ません。
但しインプットは自身の体験でなくとも、書物やメディアや他人から得た情報を自身の体験としてインプットしてしまうこともあります。
例えば恐怖の体験をインプットしても、その時の空の様子はインプットしていない。(恐怖の体験は空の様子よりも個の生命維持に関係しているため記憶として勝る)
しかしながら後から得た情報をその時に自分が見た空と誤ってインプットしてしまうことがあるということになります。
あるいは別々の情報(記憶)を誤って繋げてアウトプットしているか。


ネットワーク化は事実や証言の妨げになることがある。
他から得た情報を悪意や悪気なく事実(この時のこの体験)と思い込んでしまうことがあるからだ。
また「この情報は今のこの体験に相応しい」と誤って繋げてしまうことがある。こうした際には、取り違え、読み違え、勘違い、誤認など判断ミスが起こる。
回線が込み合ってくると混線したり回線を間違うことがあるということ。
沢山回線があるのにいつも同じ回線しか使わないということもある。
太いよく使う回線が何時も「最適」とは限らない。
SNSのデマの拡散が度々問題視されるが、ああいう誤った情報がリンクされている状態は個人の脳の中でも起こっている。
それが個人の中だけに留まっているうちはまだよいが、外に発信され拡散されるような場合には、やはり社会や歴史に悪影響を及ぼしかねない。


「記憶にございません」「覚えていません」「忘れました」と覚えているのに嘘をつく人ももちろんいるだろう。
そういう嘘は許せないという気持ちは分かる。
しかし現実的な問題として人の記憶はそれほど万全なものではない。
詳細を記憶していて当然という前提のもと、記憶にないことを攻撃する社会はとても恐ろしいとも思う。
(記憶が万全ならば皆さんテストで100点取れるはずですよ)
明確に記憶を語るほうが実は嘘だったり誤りだったりすることもある。
(記憶になくてもとりあえず答案用紙を埋めることはできますよね?)
記憶にないことが病気とも言い切れない。
(失書でなくとも、薔薇という字が読めるが書けなかったりすることはありますよね?)


万全ではないところに持ってきて、腦に病変があれば記憶障害が起こることがある。
加齢による脳細胞の減少によっても記憶力は劣っていく。
神経線維の増加による混乱(混線)も無きにしも非ず。

病変や加齢とは関係なく起こるものにはストレス性記憶障害もある。
愛する者の死、虐待やドメスティックバイオレンス(DV)、事件や事故、災害など強く激しいショックやストレスを受けた場合に、記憶が欠落してしまうことがある。

思い出すことに精神的な葛藤があり、無意識に記憶をシャットアウトしている状態。
元々インプットしていない状態とは違う。
生命維持に強く関係することや激しい感情を伴った出来事で記憶はインプットされていて存在している。しかしそれを引き出してくることが出来ないので「記憶がない」ということになる。
防御反応の1種であるが、起こしやすい性格や環境があるとされている。
非陳述記憶(非宣言的、潜在的)が失われることは少ないので日常生活動作には支障がない。
また新しく記憶することにも問題がない。
記憶の欠落の仕方には幾種類かある。
  ・局在性健忘―限られた期間の出来事を一切思い出せない
  ・局在性選択的健忘―限られた期間の限られた出来事を思い出せない
  ・全般性健忘―これまでの人生の全ての記憶を失っている
  ・持続性健忘―ある時期以降の人生の記憶を失っている
  ・系統的健忘―特定の人物などある範疇に対する記憶だけを失っている
多いのは局在性健忘と局在性選択的健忘。
短期記憶障害に該当するものもあれば、長期記憶障害に該当するものもある。
(短期記憶にはインプットされたはずの最近の出来事が思い出せないと言う場合、自身の中で繰り返し思い出すということがないことや十分な睡眠をとれないなどの理由から側頭葉にコピーされず長期記憶に移行しないことが考えられる。長期記憶にコピーされない短期記憶は時期が来れば必然的に消えてしまう)

こうしたものの他に解離性同一性障害(多重人格)などもある。
これも大きく分ければストレス性記憶障害の範疇になるが、複数の人格が存在していて本来の自分以外の人格が現れている時の記憶は残っていない。


愛する者の死、虐待やドメスティックバイオレンス(DV)、事件や事故、災害など強く激しいショックやストレスを受けた場合に記憶が欠落してしまうことがある一方、記憶に振り回されてしまうこともある。
トラウマやフラッシュバック、心的外傷、PTSDなどといった言葉を聞いたことがあると思うが、これらは記憶に囚われ振り回されてしまっている状態である。
愛する者の死、虐待やドメスティックバイオレンス(DV)、事件や事故、災害などによって心が傷ついてしまったことを心的外傷という。
「外傷」というのは進行形で悪化していく病変とは違い、致命傷でなければ感染でも起きない限りだんだん悪くなっていくということは通常なく、次第に傷は癒えて回復するものである。
数字で表せば、外傷は10→1であるが、進行性の病気は1→10へと次第に進んでいく。

心的外傷の場合、特定の症状を呈し苦痛が持続することがある。
心的外傷を受けてから数日から1ヶ月ほど症状や苦痛が続けば急性ストレス障害と診断される。
若干回復に時間がかかってしまい短期的には重症だが予後は決して悪くない。自然治癒が望める。
1ヶ月以上続いていくようならば心的外傷後ストレス障害(PTSD)ということになる。
急性ストレス障害と心的外傷後ストレス障害(PTSD)の主な症状は次の通り。

・追体験(フラッシュバック)
 心的外傷の原因となった出来事を繰り返しはっきりと思い出したり、夢に見てうなされる。
・回避や麻痺
 心的外傷の原因となった出来事に関連する事柄を避けようとする傾向が顕著になる。
 感情が委縮し無表情になったり、希望や関心がなくなり意欲を失くす。
・覚醒
 神経が高ぶった状態が続き不安定で、不眠や不安などが強く現れる。

心的外傷は、普通の外傷と違って目に見えるものではない。
心的外傷には何らかの出来事に対する記憶が関係しているわけだが、記憶であるがゆえに必ずしも本人が体験したものとは限らないことに留意する必要がある。
3つの記憶パターン
 1.重大な出来事が記憶される。
 2.それほど重大でなかったが事後的に記憶が再構成される。 
 3.もともとなかった出来事が、あたかもあったかのように出来事の記憶となる。



PTSDを発症した人の半数以上がうつ病や不安障害などを合併している、
またしばしばアルコール依存症や薬物依存症といった嗜癖行動も抱えている。これは苦痛などからの回避行動、無自覚なまま施していた自己治療的な試みであると考えられている。
上記のような健忘が問題になることもあるが、忘れてしまうことも治癒に繋がる。
以前アメリカの医療ドラマ『ER』で医学生が精神分裂病(統合失調症)の患者に刺されるというシーンがあったということを書いたことがあるが、医学生はその後一時期薬物依存に陥ってしまうのである。


記憶というのは非常に厄介で映像や音声を記憶することもあれば、言語にして記憶することもある。
例えば、津波が押し寄せる映像を記憶する、逃げ惑う人々の姿と声を記憶する、2011年3月11日高い津波が襲ってきて私は津波に呑みこまれながらもなんとか助かったが非常に怖かったなどと言語的に記憶することもある。その他にも様々な記憶要素がある。
従って追体験(フラッシュバック)は、映像や音声や言語のみ、あるいはその複合とは限らず、怖かったという感情、冷たさ、痛さ、特有の匂いなどが無意識に突然襲ってくるというような場合もある。
また言語能力を有していない乳幼児などの場合には、出来事を言語化して記憶に残しておくことは出来ない。
他の記憶(映像や音声、感情や冷たさや痛さなど)も特に残らず出来事自体を記憶できなければそれで良いのだが、言語以外の記憶が残されている場合には追体験(フラッシュバック)に繋がることがある。
言語的記憶ではないので本人も「あの出来事の記憶」と意識できずに苦しむこともある。
また元が言語的記憶ではないことから言語を獲得してからも再構成が難しく、いつまでも鮮明な記憶として残りがちである。
原記憶よりも鮮明さは増す傾向が強いとも言われている。








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# by yumimi61 | 2017-03-30 11:58
2017年 03月 28日
父の病㉕
コンピューターの性能を決める3つの要素は、CPUとRAM(メモリ)とHDD(ハードディスク)。

・CPU(Central Processing Unit;中央処理装置)

・RAM(Random Access Memory)

・HDD(Hard Disk Drive)

分かりやすく例えれば、CPUは人間、RAM(メモリ)は机(作業スペース)、HDD(ハードディスク)は部屋(書斎)。


書斎には沢山の本やファイルが並び、沢山の引き出しがある。これがHDD(ハードディスク)。

必要なもの(ソフト)を書庫から取りだしてきて1つ調べては戻すを繰り返すと時間がかかるので、作業に必要な本なり物を作業スペースに集めて作業をする。
辞書と参考書と日記、音楽を聞いた方が捗るのでプレーヤーといった感じに。これを置いておく場所がRAM(メモリ)。
狭い場所でちまちまとこれでもないあれでもないとかやっていると作業効率は悪くなる。なんとなく心に余裕もなくなる。
RAMは大きいほど良く、また目いっぱい使わずに余裕を残して使っているほうが良い。
(実際のコンピューターのRAMは半導体、記憶用ICチップ。部品そのもので見た目自体は小さいものである)
使わなくなった辞書(ソフト)を片付けるとその分のスペース(容量)が空くように思うが完全には空かない。
そこに辞書(ソフト)を置いていたという記憶はすぐには完全にはなくならないということである。
「ここは辞書、あっそうかさっき片付けたんだっけ」などと混乱してくるというわけ。
よって長時間コンピューターを使っていると、次第にメモリの残り容量が少なくなっていき、やがてメモリ不足でコンピューターが不安定になるというようなことが起こる。
スペース(メモリ)が足りなくなり、書斎の本棚(ハードディスク)を行ったり来たりしている状態はスワップと言う。

しかしながら幾ら広い作業スペースに有効な物を整然と並べたところで人間が作業をしなければ結局作業は捗らない。人間の作業がCPU。頭の回転の速さなどと例えられることが多いが要するに処理能力のことである。
広い作業スペースがあって沢山の物を置けても、却って何をどう使ってよいのか迷ってしまって作業効率が悪くなるという人もいるだろう。CPUが低いということになる。


人間の指示に従って、有意な情報を抽出したり、目的に沿った加工をするのがコンピューターのCPU。
行われた作業(データ)もまずメモリに保存される。人間の海馬と同じである。
海馬は一時置き。最大最長でも1~2週間が限度。パソコンのメモリは電源を切れば全て消えてしまう。
人間が記憶を長期保存するには側頭葉に、コンピューターのデータを長期保存するにはハードディスク・SSD・CD・DVD・USBフラッシュメモリー・磁気テープなど外部記憶装置に保存しなければならない。



先日ソフトバンクショップに行った。
すると4~5歳の男の子がPepperと戯れていた。(お母さんらしき人と来ていてお母さんは手続き中)
Pepperとは「世界初の感情認識パーソナルロボット」として売り出されたソフトバンク提供のロボットである。
Pepperは喋れるけれども、胸の辺りにパソコンのディスプレイのようなものを付けているので、大人にはロボットというよりもパソコンのように見えてしまう。
ショップのPepperはそのディスプレイに4つくらいの選択肢を出していて、男の子は「年齢当て」をタッチしたようだった。
「私の手を握って目を見つめて下さい」とPepper。
へぇ~手を握ると年齢が分かるのかぁと私は興味津々その様子を眺めていた。
男の子はPepperの手をそっと握りちょこっと見て離した。
Pepperは少し考えて、「う~ん、ひょっとして見た目よりも・・」とか言っている。
見た目よりも? 言葉を続けるとすれば、見た目よりも若いか、見た目よりも年寄りということになりそうだ。
だけど男の子の場合、見た目よりも何もない。見た目も若い!
私は少し面白くなってきた。
さてPepperはどうする?
男の子は年齢当てには興味はないらしく手をもう一度握るとかそういう行動には出ない。
「ねえ歯磨きはできるんですか~?」
男の子は唐突にPepperに質問をぶつける。
Pepperはその質問をガン無視。
「う~ん、ごめんなさい、今日は調子が悪いみたい。また今度試してね」Pepperは年齢当てを強制終了。

男の子は今度は(たぶん)「手品」をタッチ。ディスプレイ上にはカードが並べられている。
男の子はもちろん手品にもカードにも興味はない。
「歯磨きは出来るんですかぁ?」
男の子の興味関心はただ一つ。Pepperが歯磨きできるかどうかである。
Pepperは身体全体白い。白く輝いている。しかし口の中が黒い。
男の子はこれを汚れや虫歯だと思っているのだろうか。
しかもPepperは口が小さい。あーんと大きな口を開けて歯磨きをしてもらうとか歯磨きをする雰囲気がまるでない。
これでは男の子の心配も分からなくはない。
彼はきっとお母さんに「歯磨きをしなさい」あるいは「甘い物を食べないように」と口酸っぱく躾けられている最中なのだろうと私は勝手に推測した。

男の子は再度「年齢当て」をタッチ。
「私の手を握って目を見つめてください」
男の子はもはや手を握らない。ちょっとイライラしたのか差し出されたPepperの手をパンパンとやや乱暴に叩いた。
そしてまた懲りずに尋ねる。「ねえ歯磨きはできるんですか?」
その質問には今度もガン無視だが、ところがなんとPepper、今度は年齢が分かったらしい。
ディスプレイにでかでかと4歳と映し出される。
おおー。私は思わず声を上げるところだった。
手を握らないで叩くと4歳なのだろうか?
しかし男の子は微塵も感動する様子はなく、Pepperに「ぴったり」とか「だいたい当たり」とか「もっと上」「もっと下」とかの情報を与えることもなかった。


Pepperの見た目はともかくとして、コンピューターと人間の記憶の仕組みは人工知能を待たずとも実はよく似ている。
では人工知能とは何かということを考える時に登場してくるのが神経線維である。
人間の脳細胞(神経細胞)と脳細胞(神経細胞)を繋いでいるのが神経線維と呼ばれるものである。
昨日書いた通り、人間の脳細胞は成人以降毎日死んでいき再生はしない(海馬だけは再生の可能性あり)。脳細胞の数は減っていく一方なので必然的に記憶できることは減っていくわけである。20歳頃を境にして記憶力は劣っていく一方。
ただ神経線維は逆であり増えていく。
神経線維が増えるということは、有機体のように多くの細胞を密に繋ぎ、互いに影響を及ぼし合うことが出来るようになるということである。
1つ1つの記憶(情報や体験)がネットワーク化され、情報の共有や交換、処理の分散などが可能になる。
臨機応変に物事に対応できるようになったり総合的な判断力に優れるようになる。
知識(記憶)と判断・思慮分別の卓越性を両極に持ち、それらが相補的関係にあるのが知恵である。
どんなに多くの記憶(体験や情報)を持っていても、それが生かされなければ宝の持ち腐れ。
記憶(細胞)を活かしていくのが神経線維というわけである。
また記憶(細胞)の減少をネットワークでカバーすることも可能である。
コンピューターはこの部分があまり得意ではなかった。
コンピューターが得意なのは数多くの中から命令されたものを探し出すことであったり、命令に対して画一的な答えを導くことであった。
それは感情や主観を排除し、とても正確で便利なものである。でもそれが最適とは限らない。
人間の神経線維の役割を持ち知恵のようなものが生み出されるコンピューターが人工知能として目指されてきた。





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# by yumimi61 | 2017-03-28 13:42
2017年 03月 27日
父の病㉓
少し間があいてしまうと、どこまで話したのか、どこまで聞いたのか、忘れてしまうことはよくありますね。
もっとも「聴いてない」「読んでいない」状態であれば、それは忘れたのではなくインプットされなかっただけのことです。

自分の体験した出来事や過去についての記憶が抜け落ちてしまうことを記憶障害と言います。
但し物忘れは普通によくあることなので、物忘れと記憶障害との境目は非常に難しくもあります。
また上に書いた通り、何かに接してもインプットされない(インプットが弱い)体験や情報などもあります。
全てが同じ強さや量でインプットされるわけではありません。
同じ場所にいても、同じ状況にあっても、見ているもの、聞いているもの、感じているものは、ひとそれぞれ違う。
同じ教室にいても、教師の話を聴いていない、教科書を読んでいない、違うことを考えていた、これでは授業の内容をインプット出来ない。
インプットされなかった事柄については当然アウトプットも出来ません。
但しインプットは自身の体験でなくとも、書物やメディアや他人から得た情報を自身の体験としてインプットしてしまうこともあります。
例えば恐怖の体験をインプットしても、その時の空の様子はインプットしていない。(恐怖の体験は空の様子よりも個の生命維持に関係しているため記憶として勝る)
しかしながら後から得た情報をその時に自分が見た空と誤ってインプットしてしまうことがあるということになります。
あるいは別々の情報(記憶)を誤って繋げてアウトプットしているか。


記憶障害は認知症の主たる症状の1つです。
「年寄りは過去に生きている」と言われることがあるのですが、まず短期記憶が失われるからです。

■短期記憶
短期記憶を司るのは脳の海馬と呼ばれる部分である。
一時的に保存するための記憶装置で、保存できる期間は最大最長で1~2週間と言われる。
インプットされた体験なり情報はまず海馬で一時的に記憶される。
あくまでも一時的な記憶であり時間の経過と共に失われるのが定め。
全ての記憶は海馬が取りこみ、一時的に保存し、記憶の重要性を判断する。
繰り返し入ってこない一度だけの体験や情報は重要ではないと海馬は判断し忘れてしまう。

認知症では海馬(短期記憶)が正常に機能せずに、海馬にすら記憶が格納されにくい状態となっているため、新しい事を覚える事がとても難しくなる。
また元々短い保存期間がさらに短くなっていく。数十秒とか。
これを短期記憶障害と言う。
認知症初期では比較的直近の記憶から失われていき、ついさっきの出来事が思い出せなくなり、次第にこれまでの記憶など思い出せない事柄が増えていく。
そのため認知症テストではこの短期記憶を中心に調べている。

■長期記憶
長期記憶を司るのは大脳新皮質の側頭葉という部分。
記憶容量が1000兆項目分ある(大容量)。記憶保存期間も長い。
海馬で重要な記憶と判断されたものはこちらに移されて長期記憶として残る。(睡眠中にコピーされる)
どんな記憶を重要と判断するかと言うと、生命維持に必要な記憶。
生命維持に必要な記憶とは繰り返される体験や情報である。
(天気予報が毎日繰り返されているからと言って10年前の今日の天気を覚えているということではない。晴れという状態がどういうものか、雨という状態がどういうものか分かっていて忘れないということである。今日の天気が分かるのは短期記憶となる)
また喜怒哀楽など強い感情を伴うほど海馬から側頭葉に移りやすい。

この領域に入った記憶は普段は忘れていてもきっかけなどがあれば記憶の底から引っ張り出すことが出来る。
健常者であれば基本的には死ぬまで持ち続ける記憶。
ここにあったのに、この記憶が抜け落ちてしまうことを長期記憶障害と言う。(例えば自分の名前を忘れるなど)

●陳述記憶(宣言的、顕在的、自伝的)・・・言葉に出来る記憶

・エピソード記憶障害
経験の記憶(エピソード)そのものを忘れてしまう障害。
本人は体験自体が記憶から抜け落ちているので体験していないと主張するため、周囲と話がかみ合わなくなり、人間関係が悪化することがある。

・意味記憶障害
学習から得た言葉の意味などを忘れてしまう障害。意思疎通が難しくなってくる。

●非陳述記憶(非宣言的、潜在的)・・・繰り返し練習によって体得した技術的な動作や経験則に基づいた潜在的な記憶など言葉に出来ない記憶。条件反射もこれにあたる。

・手続き記憶障害
身体で覚えたことを忘れてしまう障害。自転車や楽器の演奏など。
意識しないで出来るようになったはずなのに、いちいち考えないと出来なくなってしまう。
認知症の60~70%を占めるアルツハイマー病の最終段階ではこの記憶も失われるため日常生活の単純な作業も出来なくなる。(家事、歯磨き、衣服の着方など)
通常は身体で覚えたことは忘れにくいものである。
しかしながら逆に、身体で覚えたこと(例えば車の運転)が通用しなくなった(MT→ATなど)場合や、身体で覚えているのに外から「右に切って」などと声を掛けられると、咄嗟にどうすべきか訳が分からなくなり思わぬ弊害を生むこともある。
反対に身体で覚えていて意識していないと思っていても実は意識して行っていることもある。その意識が注意力散漫で外れたり、軸がずれているのに意識しないで身体の記憶だけで行ってしまうと間違いが起こることがある。(アクセルとブレーキの踏み間違えなど)

・条件付け障害
条件反射のような受動的な反応が起こらない、条件刺激に対して習得したはずの反応や回避反応が出なくなる。(例えば反射的に車のブレーキを踏む反応が遅くなる、反応しないなど)

・プライミング障害
チェックと言えばワンピース(バスでもいいけれども)、というような記憶がなくなる。

その他に局在病変による失行・失読・失書・視覚認知異常などが起こることがある。
失行や視覚認知異常はアルツハイマー病に多い。


人間の脳細胞は成人以降毎日死んでいく。脳細胞は再生はしない。つまり脳細胞の数は減っていく一方なのである。
認知症を引き起こす原因の60%以上を占めるアルツハイマー病では、脳細胞が減少し、海馬を中心に脳全体が萎縮するとされる。
再生しない脳細胞だが海馬だけは例外で適切な食事・運動・睡眠・生きがい・恋などがあれば再生増殖可能との報告もある。





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# by yumimi61 | 2017-03-27 20:13
2017年 03月 24日
チェック
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3月23日、英警察当局は、ロンドンの国会議事堂付近で発生した襲撃事件に関連した家宅捜索で、7人を逮捕した。
英国のテロ対策を統括するマーク・ローリー氏(写真)が明らかにした(2017年 ロイター/Neil Hall)


籠池証人喚問で吹っ飛んだのはWBC決勝戦ではなくイギリスのテロでしたね。

上の写真に写っている"New Scotland Yard"は、スコットランドということではなく、ロンドン警視庁。
スコットランドヤードという名のドイツのボートゲームがある。ドイツのボードゲームだがロンドンが舞台。
日本でのコスプレのようなものでしょうか?

東京都浜松町にある都立貿易産業センター 浜松町館で開催されたミリタリー販売イベントのビクトリーショーのぶらり一人歩きレビュー
では、アメリカンポリスに対抗してイギリス警察コスをしたお二人の写真を見ることが出来ます。
(何度抗議されても止められない)ナチス親衛隊コスプレの方々も。

ところで市松模様な感じがどことなく似ていませんか?
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ただのチェックだろう?
チェックと言えばワンピース、今センバツには出場していませんが、桐生第一高校のスクールバスがチェック!
ありそうでなかったチェックのバス!!
中西元男事務所(PAOS)デザインで7色あるそうです。私はまだ2色しか見たことがありませんが。


私が森友学園問題で気になったのはこの発言ですね。

安倍昭恵さん
「せっかく塚本幼稚園で培ったものが公立学校へ入った途端に揺らいでしまう」

塚本幼稚園教頭の籠池氏長女
「せっかく園の教育でお子様たちが成長し純粋な双葉となったのに、公立小学校で汚れた雨に打たれて枯れてしまわないだろうかという心配が年々強まりました」(雑誌のインタビューにて)

私立の幼稚園なり学校を運営する人にとって公立というのは最大のライバルでもあるわけだから、ライバルを批判するのはまあ仕方ないとして。
問題は首相夫人の私立入れ揚げ。
国会議員は仮にも公務員。「公」側の人間である。
国立や公立の学校の設立や運営サイドの人間のはずである。
首相は公務員ピラミッドの頂点にいる人である。
私立に入れ揚げている首相夫人が「公人」では如何せん不味い状況である。それで「私人」と閣議決定したのかどうか。

ともかく今回の件に限らず、公務員(政治家含む)が国公立の学校を信用していないということは問題ありと私は前々から思っているし書いたこともあったかもしれない。
私立のほうが素晴らしい、私立優越という思想は外国で強いものである。
外国では宗教や君主(国のトップや国を代表する者となり得るが公務員ではない)が学校設立に関与してきた歴史があるからだと思う。
日本でもお寺や神社といった宗教法人が幼稚園や保育園を経営している事例は多数あるが、高等教育まで手掛けるということには発展しなかった。
日本では金銭的なこともあるがトータル的に言っても国公立のほうが人気が高いし実績もある。
世論という現実的な観点からも国公立が重視されるべきであるが、東京など大都市では私立と国公立の評価や人気の逆転現象がみられる。
特にその逆転現象の傾向は高校以下で強い。







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# by yumimi61 | 2017-03-24 12:16
2017年 03月 22日
サムライ~生きるために死んでいく~
あの世代の方達は、よく「もののけ姫」とか「侍ジャパン」とかおっしゃるので、ちょっと我々というか、違和感を感じるところであります。

「七人の侍」をしっかりと守ることが私の責任です。



黒澤映画『七人の侍』は、毎年のように野武士に襲われて作物を奪われる農民らが7人の侍を雇って対抗する物語である。
農民は野武士の野盗から村を守るため侍を雇うことを決断する。
雇われたのは食べることもままならない浪人であった。
彼らは農民自らが戦うことが出来るように訓練する。
農民はそれぞれ武器を手に、雇った侍(浪人)とともに野武士と戦うのであった。


タイトルは侍であるが、農民に雇われるまでの彼らは浪人であった。
侍とは武士の別称。
主君に仕える職業が武士である。
侍は「従う」を意味する「さぶらう」 に由来する名称である。
主君のために命を投げ出すことも厭わない。
その代わり普段は主君の後ろ盾があり領地や食糧などが与えられる。
安心な毎日と危険な毎日が背中合わせに存在している。
どうも武士や侍を勘違いしている人が多いような気がする。

浪人や野武士は、主君(主家)を滅ばされたり、解雇されたり自ら飛び出したりして、主君を失った武士の事である。
望んで離れた者もあれば、望まないのに放り出されてしまった者もいる。いろんな人がいる。
武士や侍が主君に使える職業である以上、主君を失った時点で武士ではなくなる。
厳密に言えば、浪人や野武士は武士でも侍でもない。元武士や元侍である。
彼らを持っているのは食う物にさえ困る日々である。
危険を避ければ飢えと渇きが襲ってくる。
飢えと渇きを満たすには結局危険に身を晒す必要がある。


ラストシーンで語られる有名なセリフはこうである。7人の侍のリーダー格のお言葉。(7人の侍は全員無事とはいかなかった)
「今度もまた負け戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ、私達ではない」


「黒澤明と早坂文雄−風のように侍は」(筑摩書房)のなかで、西村雄一郎が、黒澤明本人に、この有名な台詞の意味を直接訊いたというクダリがあります(739頁)。

《黒澤本人に、聞いたことがある。
「七人の侍」のラストで、志村喬の勘兵衛が「勝ったのはあの百姓たちだ、儂たちではない」というが、あれはどんな意味だったのかと。
すると黒澤はこう答えた。
「百姓は、なかには藤原釜足のようにずるいのもいるし、土屋のような賢いのもいる。しかしどんな場合でも、大地と共に根強く生き続けていく。それに対して侍は、ただ旗のように翻っているだけだ。大地をさっと吹き過ぎていく風のようなものなのだ」
と答えた。》
のだそうです。

映画収集狂 勝ったのはあの百姓たちだ、わしたちではない より>

人は食べなければ生きていけない。
作物に始まり作物に終わる映画。
農民は本当に弱い存在なのだろうか。自由とは何か。安心とは何か。安全とは何か。
村に襲来して作物を奪う野武士も雇われた浪人も、実は同じような立場の人間であった。
『7人の侍』、このタイトルが意味するものは、農民という主君によって一時的に侍となり得た浪人たちということであろう。
武士とは因果な職業である。

生きろ!

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# by yumimi61 | 2017-03-22 21:35
2017年 03月 21日
49日
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柔らかな光の粒を宿らせし 仏の御石露の輝き



3月18日、亡き父の49日法要と納骨を行いました。

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実家の後飾りに飾ってあった折鶴。
葬儀の翌日だったか翌々日だったかに実家を訪ねると折鶴があった。
普通の鶴と、入れ物に入った小さな鶴と、繋がっている鶴。

実家には私達姉妹が子供の頃から折り紙の本がある。
子供の時にはそれを見ながらいろんなものを折った。
妹の娘(姪っ子)も子供の頃、実家に来るとそれを見ながら折り紙をしていた。
その本も折り紙もまだ残っていた。
「折り紙があったから作った」と姪っ子。

それから数日して金と銀の折り紙で私も鶴を折った。
その後に姪っ子がまた赤い折り紙で鶴を折った。

近所の人がお線香をあげに来てくれた時、置いてあった折鶴に気が付いたらしく、
「あやちゃんが折ったんでしょう。子供の時によく折ってたものね。鶴が繋がっているやつを器用に折って、私もあやちゃんから貰ったのを家にまだ飾ってあるわ」と。

ちなみに父の母の名前は「つる」である。





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# by yumimi61 | 2017-03-21 12:41
2017年 03月 17日
父の病㉒
以前ローマ帝国について書いたことがあるが、西ローマ帝国は400年代に滅亡した。
西ローマ帝国が滅亡した主たる原因はゲルマン民族の大移動だったと言われている。
ゲルマン民族とは北ヨーロッパからやってきたゲルマン語を話す民族である。
「蛮族」と呼ばれることもあるが、分かりやすく言えば「野蛮人」ということである。
野蛮とは、文明・文化に対立する概念であり、文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。未開や粗野と同義。しばしば自身を「文明」と称する人々によって相手に付けられるレッテルとして用いられる。野蛮だとされる民族は「蛮族」と呼ばれる。
(今日の日本では未開の地やグンマーなどと言われている群馬県なんか当てはまりそうですね!?だから「未開の地」という呼称に怒った人もいるわけですよ)


しかしやがてその蛮族であるゲルマン民族はヨーロッパ全土に広がり各地を支配するようになる。
西ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族がヨーロッパを支配した時代までを「中世」と言っている。
中世は「暗黒時代」とも言われる。
何故暗黒時代なのか?
ゲルマン民族の支配によって古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退・停滞したからだという。
知的でもアカデミックでもない馬鹿な体育会系というような感じに思われていたのではないだろうか。
史上最大とも言える広大な帝国を作り上げたモンゴル帝国の遊牧民なんかも同じように思われていたかもしれませんね。(巻き込まないでくれ?)
ヒトラーやナチスはゲルマン民族の優位性を信じていた。(ヒトラーがゲルマン民族だったかどうかはともかくとしてゲルマン民族にはヨーロッパを支配したという動かぬ実績がありますからね)
ユダヤ人に「馬鹿な体育会系」と言われたことに憤慨したのか(そんなこと言ってませんよ?)、ナチスはオリンピックに力を入れ、青少年団体の加入を義務付けた。やがてこれがドイツの兵力を支えていく。


近代キリスト教・カトリック(あえて近代と言う)は、このゲルマン民族の大移動とともに拡大していき、ゲルマン民族が支配者になることでその地位を動かぬものにしていったのである。
つまりカトリックとゲルマン民族は切り離すことが出来ない。中世・暗黒時代の主役はカトリックとゲルマン民族なのである。


何故に中世の話なんか始めたかと言うと、ホスピスのルーツがあるからである。

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。

旅人とは主にゲルマン民族で、教会とはカトリック教会だったのではないだろうか。


古代―中世―近代
中世は輝かしいルネサンス時代の到来をもって終焉を迎えた。
輝かしいルネサンスとは何か?
ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動であり、14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった(文化運動としてのルネサンス)。また、これらの時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある(時代区分としてのルネサンス)。
早い話、懐古趣味ですか?

宗教改革も同じ時期であり、1500~1600年代(14-15世紀)頃。それによりカトリックは窮地に陥り、プロテスタントが興った。
大航海時代は1400~1600年代(15-17世紀)。
こうして世界の中心はヨーロッパ本土からイギリスやアメリカに移っていくことになる。

ルネサンスに後に来るのは啓蒙時代。大きく分ければ現代もここに属する。
聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動の時代。
中世に学問の中心であった教会や大学にかわり、フランス王立アカデミーやロイヤル・ソサエティなど国家の支援を受けた研究機関が、この時代には人文学、自然学ともに学術の中心となった。こうした動きは中央だけでなく、地方にも及んでいる。アカデミーは学者や芸術家に年金を支給して生活上の保護を与え、あるいは年報を刊行して発表の場を与え、また懸賞金をかけて特定の主題を提示し論文を募集し、学芸の振興を図った。

権威者的には、保守的なのが絶対君主、上から近代化を指示するのが啓蒙専制君主となる。
近代化は国民の総意だとするのが立憲君主!?
そしてここに大きな問題が立ちはだかる。
古代から近代の流れは退化なのか進化なのかということである。
多くは退化であるとの認識を持っている。唯物主義では進化と捉える。
人の一生の前半は進化で、後半は退化!?
さてはて。





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# by yumimi61 | 2017-03-17 11:50