2017年 06月 09日
日本国憲法の秘密-493-
アル・ゴアはハーバード大学を卒業し、1974年にヴァンダービルト大学ロー・スクールに入学したが1976年に中退している。
その年にテネシー州から下院議会選挙に出馬し当選したアル・ゴアは、下院議員の就任宣誓式を待たずに早速活動開始。
彼が一番最初にしたことはテネシー州にあるオークリッジ国立研究所でエネルギーと環境に関する研究に浸ることであった。
ゴア家はテネシー州の出身である。アル・ゴアの父親も議員だったのでアル・ゴアはワシントンD.C.で生まれている。

オークリッジ国立研究所
アメリカ合衆国エネルギー省の管轄下でテネシー大学とバテル記念研究所が運営する科学技術に関する国立研究所。
後にオークリッジ国立研究所となった施設は、1943年にマンハッタン計画の一部として建設された。研究施設とその近くの町であるオークリッジは、一年弱でアメリカ陸軍工兵司令部によって建設された。オークリッジには、約2年間 75,000 人が住み、その存在は秘密にされていた。
マンハッタン計画のオークリッジでの目標は、核兵器に使用するためのウランとプルトニウムの分離精製であった。このため、4つの施設(コード名は、X-10、Y-12、K-25、S-50)が建設された。このうち X-10 が現在のオークリッジ国立研究所に相当する。

現在の(現在も?)売りは中性子の研究である。

過去記事より(受付のお姉さま方?インフォメーション?工場見学案内係?オークリッジに置かれたY-12国家安全保障複合施設のシフト交代の写真を掲載した記事です)
1942年2月~11月、テネシー州オークリッジの土地を取得。
ウラン精製工場とマンハッタン計画の司令部施設用地として取得された。
(面積)56,000エーカー(23,000ha)+追加の3,000エーカー(1,200ha)

今話題の豊洲市場は40.7ha。東京ディズニーランドは51ha、東京ディズニーシーは49.3ha。
上記のオークリッジの土地は豊洲市場の565倍。
どれほど大きな爆弾を作るつもりだったのか!?量産!!?

ちなみにアメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートは日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の100倍以上ある。山手線内側が余裕で2つ入る大きさなんだとか。
ディズニーランドパリも日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の20倍ある。
福島第一原発の面積は350ha。
環境省が、福島県内を除染して出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設に予定している面積は約1,600ha。

(オークリッジに出来た施設は)1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス(CEW)と名付けられた。
最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
オークリッジの施設はサイトXという暗号名を与えられた。後のオークリッジ国立研究所となった。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった。


アル・ゴアはその後もオークリッジ国立研究所を何度も訪れていて、オークリッジ国立研究所も地球温暖化に関する分析や気候変動のシミュレーションを提供した研究機関の1つである。


2006年のアル・ゴアの『不都合な真実』にお墨付きを与えたのは「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」であった。
IPCCは国際連合環境計画(United Nations Environment Programme: UNEP)と国際連合の専門機関にあたる世界気象機関(World Meteorological Organization: WMO)が1988年に共同で設立した機関。早い話、国連の組織である。
第二次世界大戦後に設立された国連にはロックフェラーやロスチャイルドが深く関わっている。

1980年代にNASAの科学者ジェームズ・ハンセンらが論文を投稿し、そのジョームズ・ハンセンが1988年にアメリカの上院公聴会で「地球温暖化は化石燃料の大量消費が原因」と述べた。
その年にIPCCは設立された。
しかしこの説がメジャーになったのは2006年の『不都合な真実』によって。さらに翌2007年にアル・ゴアとIPCCが揃ってノーベル平和賞を授与され、それを煽った。

IPCC
国際的な地球温暖化問題への対応策を科学的に裏付ける組織として、間接的に大きな影響力を持つ。
代表者、会員の氏名は非公開である。
名称は「政府間パネル」であるが、参加者は政府関係者だけに限られず、各関連分野の科学者など専門家も参加している。


ノーベル平和賞を受賞したくらいなので議長は分かっている。
ラージェーンドラ・クマール・パチャウリー(英語:Rajendra Kumar Pachauri, ヒンディー語:राजेंद्र कुमार पचौरी, 1940年8月20日 - )は、環境エネルギー問題の専門家。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の議長を2002年から2015年までの2期13年務めた。2002年よりIPCCの3代目の議長となり、2007年にはアル・ゴアと共にIPCCがノーベル平和賞を受賞した。

インドで生まれ、アメリカのノースカロライナ州立大学で学ぶ。

インドの財閥タタ・グループのタタ・エネルギー研究所の所長や日本の財団法人・地球環境戦略研究機関の理事を務める。2007年の来日時には立命館大学から名誉博士号を授与され、2009年には日本政府から旭日重光章を叙勲されている。

2015年2月24日にセクハラ疑惑によりIPCCの議長職を退任。議長代行にはギズーリ副議長が就いた。


IPCCの議長だったラージェーンドラ・パチャウリーはインドのタタ・グループの関係者である。
タタ・グループ
インド3大財閥のひとつであり、サブグループに分かれていない単一の財閥としてはインド最大である。インドにおける産業や商業に幅広く関与しており、ほとんどの領域で上位の勢力になっている。
構成企業100社以上。車(タタ・モーターズ)、鉄(タタ製鉄)、IT、電力で売り上げの8割を占める。 

ペルシア一帯(現在のイラン)からインドに渡ってきたパールシー(ゾロアスター教徒)の子孫であるジャムシェトジー・タタ(1839年-1904年)が、1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社をその始まりとする。1870年代には綿紡績工場を建ててインド有数の民族資本家となった。


インドはかつてイギリスの植民地であった。
タタ家はその時代にアヘン貿易で莫大な利益を上げたインドロスチャイルドとも言われるサッスーン家(サッスーン商会)と結びついた。

1865年、香港上海銀行設立。
フリーメーソンによる植民地協会(英国王室の後ろ盾)によって植民地香港で設立された。
植民地での利益を本国へ送金するほか、清に融資したり外債発行を担当した。
サッスーン商会、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルドなどが出資者。麻薬と紅茶に関係あり。サッスーンは後にロスチャイルド家と縁戚関係となる。

サッスーン商会の 設立者はデイヴィッド・サスーンである。
インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

このように世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。


第二次世界大戦後のインド独立(1947年8月15日)以後、サッスーン家の権益を受け継ぎついたのがタタ家だった。
インドは1974年と1998年に核実験を行っている。










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# by yumimi61 | 2017-06-09 14:55
2017年 06月 08日
日本国憲法の秘密-492-
トランプ大統領がパリ協定(地球温暖化対策の国際ルール)からの離脱を発表して話題になったが、「地球温暖化」がいつからブームになったか覚えているだろうか?
覚えていません。(不都合な真実?)

『不都合な真実』(原題: An Inconvenient Truth)は、2006年のアメリカ映画である。アル・ゴア元アメリカ合衆国副大統領が主演している。
第79回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞・アカデミー歌曲賞を受賞し、本作で環境問題啓発に貢献したとしてゴアがノーベル平和賞を授与されている。


アル・ゴアが副大統領だった期間は1993~2001年で、大統領はビル・クリントンである。
前述したが、ビル・クリントンを出馬させ支援させたのは、ロックフェラー2世の5男であるデイビット・ロックフェラー。
同じ民主党から立候補したロックフェラー2世の長男の長男(3世)への対抗馬であった。予備選で3世に勝利したビル・クリントンは大統領になった。

アル・ゴアも2世議員である。アル・ゴア(ジュニア)の父親(アルバート・ゴア・シニア)も上院議員であった。
そのアル・ゴアの父親は政界引退後にオクシデンタルという会社の取締役となった。

政界を引退した後、ゴアはユダヤの政商アーマンド・ハマーの経営する石油採掘会社、オクシデンタルの顧問弁護士となった。その後、同社の副社長に就任し、取締役会入りした。

オクシデンタル・ペトロリウム(Occidental Petroleum Corporation、略称:オクシー、OXY)
アメリカの石油、ガス及び化学関係企業。
1920年に創業され、その後大富豪、政商として知られるアーマンド・ハマーが、ソビエト連邦との貿易で得た莫大な資産を元に経営権を握った。「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ規模の独立系石油会社である。本社はカリフォルニア州ロサンゼルス市に所在する。


アーマンド・ハワー
ロシア系ユダヤ人の熱烈な共産主義者で、アメリカ共産党の元となった社会主義労働党の創設者であるジュリアス・ハマーの子としてニューヨーク州マンハッタンに生まれた。「アーマンド・ハマー」という命名の由来は、アメリカ社会主義労働党の象徴である腕とハンマー(arm and hammer)である。1924年にコロンビア大学の医学部を卒業し、医師の資格を持つ事から、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。

大学卒業後に、父親のつてで当時ロシア革命により成立したばかりのソビエト連邦との貿易ビジネスを開始し、フォード車のソ連への輸出や穀物類のアメリカへの輸出、鉛筆の生産などのビジネスを行う。また、父親からの紹介を受けて知り合ったソ連の指導者であるウラジミール・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担う事になった。

1924年にレーニンが死んだ後も、第二次世界大戦を経て冷戦時を通じ、アメリカとソ連の間の貿易の中心的な存在となり、共産主義のシンボル的な存在であるレーニンの信頼を得たことからソ連の周辺衛星国などの、ソ連の影響下にあるいわゆる東側諸国の指導者の信頼も受け、これらの国との貿易ビジネスも積極的に行い、多大な収益を上げた。他にも酒造業や美術品の売買から、石油や原子力発電などのエネルギー事業に至るまで、様々な分野にその事業を広げることとなった。1982年には中ソ対立で進出が遅れた中華人民共和国の鄧小平と会談も行って経済協力を話し合った。

また、ソ連との貿易で得た莫大な資産を元に、「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぐ規模の独立系石油会社・「オクシデンタル・ペトロリウム」(略称「オクシー」、「OXY」)の経営権を握り、イランのモハンマド・レザー・パフラヴィー国王やリビアのイドリース1世国王との深い関係を元にして石油開発、取引を行ったほか、北海油田の開発などで莫大な資産を得て、同社を世界第8位の石油会社に成長させた。

ハマーが手掛けた教育事業として、UWCアメリカ校であるArmand Hammer United World College of the American Westを創設した。また、チェルノブイリ原子力発電所事故と福島第一原子力発電所事故で救助活動に参加したロバート・ゲイル博士はArmand Hammer Center for Advanced Studies in Nuclear Energy and Healthの所長を務めた(1986-1993)。

共和党の熱心な支持者としても知られ、リチャード・ニクソンからロナルド・レーガンまでアメリカの指導者と個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になった他、民主党のアル・ゴアとも親密な関係があった。不正な献金に有罪判決が出た際も、当時大統領であったジョージ・H・W・ブッシュから恩赦が与えられるなど、その影響力をビジネスだけでなく政治や外交にもふんだんに発揮した。


地球温暖化説を否定するのは何もトランプ大統領だけではない。
大国アメリカの大統領だから影響力が大きいと言うならば、この人もいた。

アメリカではブッシュ政権が「地球温暖化など単なる学問上の仮説で、温暖化現象は現実に確認できていない」とする公式見解で温暖化を否定し、ほとんどのメディア報道も追従しており、地球環境の温暖化問題について本作で初めて知ったアメリカ人もおり国内で強い影響を与えた、とする評もある。

他方で、内容が事実誤認やデータ誇大化などにより「センセーショナリズムが勝る」等の批判もある。イギリスでは学校での公開は政治的活動であると保護者らから提訴され、英高等法院は「9ヶ所事実誤認している場所がある」として「是正措置を取るように」と判決した。しかし、地球温暖化の問題提起は妥当として、保護者らの「上映差し止め」請求は退けている。


ブッシュ大統領が石油畑を歩いてきた大統領なら、アル・ゴアもまた石油畑を歩いてきた人物である。
ゴア家は散々地球環境を汚染してきた企業に深く関与してきた。だから改心したのかと言うと、そういうことではない。

2006年の『不都合な真実』で一躍メジャーになった「地球温暖化問題」だが、地球温暖化説の発端はもう少し遡って1980年代にある。
NASAゴダード宇宙研究所の科学者ジェームズ・ハンセンが6人の科学者と共著で書いた論文『増大する大気二酸化炭素の気象への影響』を科学雑誌『サイエンス』に投稿した。
この論文の中で、21世紀に予想される地球温暖化が南極の氷を溶かし世界の多くの都市を水没させ、内陸部は砂漠化する恐れがあると論じられた。

ジェームズ・ハンセン
1981年よりNASAゴーダード宇宙研究所ディレクターを務め、気候変動分析チームのリーダーとして、地球の温暖化傾向を指摘。1965〜66年惑星大気に関する研究のため、京大、東大に留学。
In recent years he has become a climate activist to mitigate the effects of climate change, on a few occasions leading to his arrest.

ジョームズ・ハンセンもアル・ゴアも地球温暖化を回避するために必要なものは原子力発電だと主張してきたのである。

Global Energy Policy Researchより
原子力の活用によって防がれた死亡増と温室効果ガスの抑制
ジェームズ・ハンセン
論文地球温暖化

米国のNASAの前研究センター所長で、温暖化に警告を示したジェームズ・ハンセン博士の学術誌「Environmental Science and technology」への寄稿。原題は「Prevented Mortality and Greenhouse Gas Emissions from Historical and Projected Nuclear Power」。限定公開。原子力を推進することによって大気汚染が抑えられ、温暖化も防止するので多くに命が救われると述べている。逆に原子力が縮小すれば、気温上昇を2度C以下に、CO2排出を450ppm以内に抑える目的を達成することは難しくなると指摘した。米国のメディアで、この主張は大きく取り上げられている。


Prevented Mortality and Greenhouse Gas Emissions from Historical and Projected Nuclear Power

Pushker A. Kharecha* and James E. Hansen
NASA Goddard Institute for Space Studies and Columbia University Earth Institute, 2880 Broadway, New York, New York 10025, United States

In the aftermath of the March 2011 accident at Japan’s Fukushima Daiichi nuclear power plant, the future contribution of nuclear power to the global energy supply has become somewhat uncertain. Because nuclear power is an abundant, low-carbon source of base-load power, it could make a large contribution to mitigation of global climate change and air pollution. Using historical production data, we calculate that global nuclear power has prevented an average of 1.84 million air pollution-related deaths and 64 gigatonnes of CO2-equivalent (GtCO2-eq) greenhouse gas (GHG) emissions that would have resulted from fossil fuel burning. On the basis of global projection data that take into account the effects of the Fukushima accident, we find that nuclear power could additionally prevent an average of 420 000–7.04 million deaths and 80–240 GtCO2-eq emissions due to fossil fuels by midcentury, depending on which fuel it replaces. By contrast, we assess that large-scale expansion of unconstrained natural gas use would not mitigate the climate problem and would cause far more deaths than expansion of nuclear power.



以前に原爆や水爆のことを書いた時に触れたけれど、核開発については軍事機密であるし、簡単に拡散されると人類滅亡の危機に陥るということで各国とも詳細の公表は差し控えている。
原料となるウランについても同様で、生産地や生産に携わる企業が限定されている。
オクシデンタル(グループ会社のオクシデンタル・ミネラルズ)はアメリカ西部のニューメキシコ州にウラン鉱山を所有し(1980年代にカナダのマックス・リソース社に売却)、ウランやプルトニウムの開発を行ってきた。
シベリアにもウラン鉱山を所有していたらしい。また足りない分は多くのウラン鉱山を所有していたバーナード・バルークから調達した。


バーナード・バルーク
アメリカ合衆国の官僚、政治家、投資家。サウスカロライナ州出身のユダヤ系アメリカ人。
ユダヤ系で理学療法の先駆者だった南軍軍医総監のサイモン・バルークの家庭に生まれる。

メリルリンチの共同経営者。ウォール街の伝説の相場師と呼ばれた。

戦争を一種の公共事業と認識している人物で、第一次世界大戦ではウッドロウ・ウィルソン大統領の側近(大統領選挙に協力した見返りとして大統領府へ自由に出入りできる立場)となり、戦時産業局長官を務め、当時世界最大の工業国家となったアメリカにおける軍産複合体の実権を握り、外交分野でもドイツに巨大な賠償金を課した賠償委員会の議長として活躍した。
戦時産業局はパリ講和会議の代表団と計画してブルッキングス研究所を設立した。
(ブルッキングス研究所はキャボット家が出資している) 
バルークはその地位を利用して国家軍事予算から膨大な利益を得て、第一次世界大戦中に自身の資産も増大させた。

以後もハーディングやクーリッジ、フーバー等の歴代大統領に対し、特別顧問という特権的な肩書きでアメリカの重要政策に関わり続ける事でアメリカの執政に必要なあらゆる政治的ノウハウを学ぶと同時に、重要な政治部門の実力者と個人的なパイプを強化し、実質的に大統領以上の政治的影響力を行使できる立場に立った。 
ウィルソン、ハーディング、クーリッジ、フーヴァー、フランクリン・ルーズベルト、トルーマンと6人の大統領顧問であった。

その結果としてルーズベルト政権が成立した1930年代には、強大化した政治的な影響力を利用し、公的にも金融界の大物から長老政治家というスーパーエリートへ転身を遂げることに成功。フランクリン・ルーズヴェルト大統領の顧問として大いに専権を振るった。

ハリー・トルーマン政権でもその影響力は低下することなく国連原子力委員会の米国代表に選ばれ、バルーク案によりアメリカの核独占による世界平和を唱えた。冷戦という言葉を初めて使い、それが戦後の世界情勢を意味する言葉として認められた事実は、彼の特権的な地位を証明している


(第二次世界大戦中、)その権限はまさに戦時におけるアメリカの産業戦略の最高責任者といえるものであり、彼はそこで大統領の実質的な代行として内閣レベルで指揮監督される全ての物流統制を統括していた。(ただ、いかに信頼を得ていたとはいえ、彼にゆだねられたその強大すぎる権限は彼の実質的立場がルーズベルト大統領をしのいでいた証拠と見る向きもある。)
なお、原爆の開発を主導したマンハッタン計画にも関わっており、京都への原爆投下を主張していたと言われている。 




日本に原爆を投下後も核開発を続けてきたアメリカ、私達も原爆を造ることに成功したと宣言したロシア、この両国は東西冷戦時代にアライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)という会社から濃縮ウランを購入していた。
前に散々書いたけれど、濃縮ウランがなければ原爆も原発も不可能である。
アライド・ケミカル・アンド・ダイもオクシデンタルのグループ企業。
アライド・ケミカル・アンド・ダイは「アライド・ケミカル法」と呼ばれるウラン精製方法(ウラン含量の高い粉末にする)を開発し、濃縮ウランの製造(この粉末から濃縮していく)において独占的な地位を占めていた。

この粉末の名称は「Yellowcake」。
鉱石は破砕機でパルプ状に粉砕され、その後さらに濃酸、アルカリまたは過酸化物溶液で処理される。これを乾燥、濾過した後に残ったものがイエローケーキである。近年の機器で作ったイエローケーキは実際には茶色か黒色で、黄色ではない。この名前は、初期の採鉱法によるものの色から名付けられた。

当初、イエローケーキを構成する物質については同定されておらず、1970年にはアメリカ鉱山局は、重ウラン酸アンモニウムまたは重ウラン酸ナトリウムから構成されていると考えていた。組成は、浸出物及びその後の沈殿条件によって異なる。イエローケーキ中に同定された物質には、水酸化ウラニル、硫酸ウラニル、ウラン酸ナトリウム、過酸化ウラニルや様々な酸化ウランである。近年のイエローケーキは、通常重量比で70-90%の八酸化三ウランを含む。他の酸化物には、二酸化ウラン、三酸化ウランがある。

ウランが採鉱される全ての国でイエローケーキが作られている。




アライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)
1920年 染料や薬品類の生産を目的に化学会社の統合によりアライド・ケミカル・アンド・ダイ(Allied Chemical & Dye Corp.)として設立。
1928年 大手化学メーカーとして発展。第二次世界大戦後はナイロンや冷媒などの総合素材メーカーとなる。


2度のオイルショックがあった1970年代に石油・ガス事業に傾倒し、1980年代には経営多角化を目指しアライド・コーポレーション(Alied Corporation)に社名を変更した。

1983年 航空宇宙、自動車部品大手のベンディックス(BENDIX)を買収。
1985年 航空機器メーカーのギャレット(Garrett)を有するシグナル社(Signal Companies)と合併して、社名をアライド・シグナル(Allied-Signal)に改称した。
 石油・ガス事業からは撤退した。

1999年、ニュージャージー州のモリスタウンに本社のある巨大多国籍企業ハネウェル(Honeywell International, Inc.)と合併した。
アライドシグナルの方が規模が大きく、さらにニュージャージー州モリスタウンのアライド・シグナルの本社を今も本社としているが、ブランド名として有名なハネウェルを社名に残した。


ハネウェル(Honeywell International, Inc.)
1886年に設立されたアメリカの多国籍企業であり、電子制御システムや自動化機器を製造販売している。アメリカ航空宇宙局、ボーイング、アメリカ国防総省に技術サービスやアビオニクスを提供している会社である。

フォーチュン100企業の1つであり、現在約13万人の従業員(うちアメリカ国内で58,000人)を抱える巨大企業である。1925年12月7日から2008年2月9日まで、ダウ平均株価を構成する銘柄の1つだった。

ハネウェルが軍需産業に参入したのは第二次世界大戦の時であり、当時は航空機の部品を製造していた。ベトナム戦争のころから様々な製品を製造するようになった。クラスター爆弾、ミサイル誘導システム、ナパーム弾、地雷などである。

ハネウェルはアメリカ合衆国で核兵器製造に関わる企業のコンソーシアムに参加している。

アメリカ合衆国環境保護庁 (EPA) によれば、スーパーファンド法で規定する有害廃棄物で汚染された土地と最も多く関係している企業がハネウェルだという。ハネウェルは米国内の大気汚染に責任のある企業の44位とされており、毎年425万kgの有害物質を大気中に放出している。










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# by yumimi61 | 2017-06-08 14:57
2017年 06月 07日
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# by yumimi61 | 2017-06-07 23:04
2017年 06月 06日
日本国憲法の秘密-491-
前にも書いたように第一次世界大戦でドイツは敗北した。
ドイツの発展が脅威だったから戦ったのに、負けたドイツが何も変わらぬわけがない。
ドイツは敗戦によってロスチャイルドに呑みこまれていった。
その代わり第一次世界大戦はアメリカのロックフェラーの台頭を許すことになった。
第二次世界大戦(ヨーロッパ戦)はロックフェラーが仕掛け、日米戦(太平洋戦争)はロスチャイルドが仕掛けた。
大局的に見れば、ロスチャイルドとロックフェラーの戦いとも言える。
原爆はロックフェラー側の切り札であった。


ドイツが庇護なく発展したように、ドイツがそれまでの支配者にとって脅威になったように、技術は「武器」になる。
第二次世界大戦の落とし子「原爆」は世界の脅威となった。
原爆は本当にあり得るのか。原爆を開発したのは、アメリカかドイツか、それとも日本か。みな疑心暗鬼である。
そして在り得なかったからこそ当のアメリカにとっても脅威であった。
アメリカは核開発を止めることは出来なかったし、事情をある程度察していたソ連が「原爆は在り得ない」と言わず「私達も原爆を造った」と言うことのほうが余程恐ろしかった。
但しこの社会主義国ソ連(共産主義)のおかげで、ロスチャイルドとロックフェラーは再び歩み寄りを見せる。
皮肉にもまさに「平和のための原子力」となったわけだ。
国連ビルはロックフェラーが寄贈した土地に建てられている。そこで働く人達はロックフェラーやロスチャイルドの関係者が多い。
国際社会は核の平和利用に舵を切った。
しかし核開発はもう止めようと言いつつ止められないのは先を越されたら困るからである。



第二次世界大戦の時のロックフェラー家は、ロックフェラー2世(1874-1960)の時代であった。
2世没後は長男である3世(1906-1978)が継承した。
3世は、まだ2世の時代の第2次世界大戦直後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴した。
マッカーサーは親子でカトリック教国フィリピンの総督であったのでカトリック教徒である可能性が高い。
昭和天皇は親カトリックであり、日本の天皇周辺にもカトリック教徒が多い。

ところで最初の話を覚えているだろうか?まあ覚えていませんよね。
日本銀行創始者・松方正義の15男と言われている松方三郎の話から続いてきている。
松方正義の長男(松方家2代目当主)は、十五銀行(華族銀行、初代頭取は最後の長州藩主・毛利元徳、宮内省の御用銀行でもあった)を倒産させてしまい、島津家に多大な借りを作って失脚。
西園寺八郎の実父が毛利元徳である。
そして松方家の3代目当主は何故か松方三郎である。


で、松方三郎や親戚の松本重治はロックフェラー3世と親友だった。
この周辺の人物にはカトリック教徒が多い。
世界の大きな流れとしてカトリックへの回帰が認められる。
 ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                              −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)


ロックフェラー家
初代・・・アメリカの石油事業(スタンダード・オイル)の独占
     弟がナショナル・シティ銀行(現在:シティグループ)の創業者の1人。 
2代目(2世)・・・ニューヨークの大地主(元々はコロンビア大学が所有していた)
3代目(3世)・・・日本の国際基督教大学に関与し息子が留学経験あり、松本重治や松方三郎の親友

ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達
 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978)交通事故死 →息子4世ジェイ・ロックフェラー(民主党上院議員、1992年に大統領選出馬)
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-2017?) ・・・1992年大統領選でビル・クリントンを支援
                                    お家騒動により、民主党、ロスチャイルド寄りか



お金も「物」であることに違いないけれど、ひとまずお金は物でないとする。
あなたは、お金と物と、どちらが欲しいですか?
お金で物が買えるのだからお金に決まっているだろ?
では、卵と鶏では、どちらが欲しいですか?
卵を沢山産んでくれる鶏に決まっているだろう?
鶏を沢山生み出す卵に決まっているだろう?

もしもこの世界に物がなければお金の価値もない。
この世界にもしもお金で動いてくれる人がいなければお金の価値はない。
そう考えると物を生み出す人が重要であることが分かる。物を生み出す≒技術とも言える。
こうして世界に技術信仰が蔓延っていく。
だが黎明期と成熟期では技術の在り方は違うであろう。開発ではなく利用の割合が大きくなってくる。
また成熟期では、技術的に優れているもの=消費者が欲するもの、とは限らなくなってくる。
市場(マーケット)が考える「良い物」「売れる物」は何なのか?ややもすると技術信仰はこれらのことを置き去りにしてしまいがちである。

技術信仰に傾いた世界を金融主義に引き戻したのが投資家や信託銀行。
株式会社は技術者や経営者の所有物ではない、株主の所有物である。誰が偉いかと言ったら株主である。
企業を出来るだけ束ねて、その大大企業の親分(持株会社)の株主になるのが世界を支配するには手っ取り早い。
財産を手にした人のほとんどは願う。手にした財産を苦労なく増やせないだろうかと。せっかく手にした財産を税金なんかに持っていかれたくないと。私は、私達は選ばれし人間なのだと。自分が死んだ際には後継者にそっくり相続させることは出来ないだろうかと。
ロスチャイルドやロックフェラーなどは相続時に法律を変更して相続税がかからないようにしたが、誰でもがそんなこと出来るわけではない。
せいぜい財団や慈善団体などを作って自身の財産を動かしたり、オフショアを利用したりするくらいであろう。
大金持ちになるには世界を舞台にしなければならない。しかし単一単純な世界ではないのでそれだけ物事は複雑になる。また世界は裏付けのない紙幣で溢れているわけだから、財産を管理してくれたり、資産を運用したり、いかに税金を逃れるか指南してくれる人が求められた。
こうして金融第一主義時代がやってきた。


金融第一主義で台頭してきたのは、メロン財閥のメロン・フィナンシャル(現:バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)、ボストン系(キャボット)財閥の資産管理会社ステート・ストリート、世界最古世界最大と言われるカナダのゴールト財閥の保険会社(金融サービス会社)サン・ライフ・フィナンシャル、投資家ジョン・C・ボーグルが創設した世界最大級の投資信託運用会社ヴァンガードなど。

メロン財閥とカナダのゴールト財閥の祖はアイルランドからの移民である。
キャボットもヨーロッパにルーツを持つ移民で黒い貴族を彷彿させるものがある。
やはりヨーロッパ、とくにイギリスとの繋がりを感じさせる。
イギリス連邦加盟国であるカナダ(連邦立憲君主制国家で君主はイギリスのエリザベス女王)のサン・ライフには第二次世界大戦中に、ヨーロッパから金などが秘密裏に持ち込まれて管理されていたとか、イギリスの「クラウンジュエルズ」が保管されていたとかの噂があるくらい。
上記の会社はアメリカをはじめ日本企業においても株主としてよく名が挙がっている。

若干単純ではあるがアイルランドはカトリックの国である。








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# by yumimi61 | 2017-06-06 11:36
2017年 06月 05日
日本国憲法の秘密-490-
ジョセフ・グルーは1908年から第一次世界大戦アメリカ参戦1917年までドイツにいた。

ジョセフ・グル―がドイツで何をやっていたかと言うと、ハーバート・フーヴァーがドイツで何をする気なのか見張っていた(見極めていた)のである。ちなみにジョセフ・グル―は華やかなドイツの社交界生活が結構気に入っていたらしい。

ハーバート・フーヴァー(共和党)は、1929-1933年のアメリカ大統領。
スタンフォード大学(2005年にスティーブ・ジョブスが卒業式でスピーチした大学)を卒業後、オーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後中国で鉱山の開発に従事し、億万長者になる。
1907年から1912年にかけてフーヴァーはドイツの鉱山学の父と呼ばれるゲオルク・アグリコラの古い技術論文を翻訳している。
次期大統領候補の呼び声も高かった。
人々がドイツの発展を脅威に思っている最中にドイツに近づいていったハーバート・フーヴァー(アメリカ)は、親ドイツなのか、それとも反ドイツなのか。
ヨーロッパロスチャイルド系からすれば、反旗を翻しそうなアメリカの動きは気になるところである。

ハーバート・フーヴァーはクェーカー教徒の一家に生まれて自身もクェーカー教徒であった。
クェーカー教徒と言えば、アメリカ建国に一役買ったトマス・ペイン、ジョンズ・ホプキンス(大学の初代学長はラッセル商会にいたダニエル・ギルマン)。GHQにも信者がいて現天皇の皇太子に家庭教師を務めたエリザベス・ヴァイニングもクェーカー教徒であった。


1901-1909年 セオドア・ルーズベルト(共和党)(フランクリン・ルーズベルトと親戚)
1909-1913年 ウィリアム・タフト(共和党)(イェール大学、ラッセル商会、スカル・アンド・ボーンズ)
1913-1921年 ウッドロウ・ウィルソン(民主党)(父がアメリカ長老教会創設者)(ジョンズ・ホプキンス大学から政治学のPh.D. を受けている)


1921-1923 共和党 ウォレン・ハーディング(在任中に急死)
1923-1929 共和党 カルビン・クーリッジ(ラッセル商会の取締役だった一族)
1929-1933 共和党 ハーバート・フーヴァー 
1933-1945 民主党 フランクリン・ルースベルト(ラッセル商会の取締役だった一族、在任中に急死1945年4月)
1945-1953 民主党 ハリー・トルーマン(ルーズベルト大統領死去により副大統領だった彼が昇格)
1953-1961 共和党 ドワイト・アイゼンハワー

ウィルソン大統領(民主党)の下で食糧庁長官、
ハーディング大統領(共和党)、クーリッジ大統領(共和党)の下で商務長官、
そして自身が大統領になる。
第二次世界大戦後はトルーマン大統領(民主党)、アイゼンハワー(共和党)の下で働いた。
ジョセフ・グル―が共和党政権から民主党政権になっても駐ドイツ外交官を留任したように、ハーバート・フーヴァーも共和党と民主党の垣根を超えている。
(なにしろロックフェラーが二大政党制を勧奨しており共和党と民主党のどちらも支援していたというのだから)
但しハーバート・フーヴァーは2期目の大統領選で、ラッセル商会でアジア担当役員だった一族のフランクリン・ルーズベルトに大敗を喫し、ルーズベルト政権にはお呼びがかからなかった。
フーヴァーはフランクリン・ルーズベルトを厳しく批判するようになる。
フランクリン・ルーズベルトは私が民主党っぽくない大統領だったと書いた人である。(原爆開発に消極的)
ハーバート・フーヴァーは大統領退任後にスタンフォード大学に政策シンクタンクである「フーヴァー戦争・革命・平和研究所(フーヴァー研究所)」を創設している。
またアメリカにおける原爆開発発祥の地であるコロンビア大学から、トーマス・エジソンと並んで「アメリカ史上2人の偉大な技術者」として表彰されている。


第一次世界大戦の終盤、ジョセフ・グル―とハーバート・フーヴァ―は一緒にフランスに入った。
彼らが日本の代理人として西園寺八郎と牧野伸顕、松平恆雄、吉田茂を育成した。
西園寺八郎は天皇の私的顧問、牧野伸顕は公式顧問、松平恆雄と吉田茂は私的相談役になった。

=天皇在位=
明治天皇 1852-1912
大正天皇 1912-1926(1921からは正式に皇太子に摂政任命)
昭和天皇 1926-1989

西園寺八郎(1881-1946)・・・長州藩の毛利一族・・・昭和天皇(1901年生まれ)の実父だという説あり
旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生。1899年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。その後、ドイツのボン大学に留学した。1906年、養父公望の長女新と結婚した。
養父である西園寺公望が第一世界大戦後のパリ講和会議に首席全権特使として渡仏した際は妻と共に随行している。
西園寺(毛利)八郎の長男は、ゾルゲ事件にてスパイ容疑で逮捕されている。
ソルゲ事件―1933年から1941年にかけてソ連(スターリン時代)のゾルゲ諜報団(スパイ組織)が日本で諜報活動を行っていたことが発覚した事件。
近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実や含まれていた。
西園寺(毛利)八郎の長男も立場を利用して得た国家機密を流していた。


牧野伸顕(1861-1949)
薩摩藩士・大久保利通の息子(大久保伸顕→牧野伸顕)である。後に華族の称号を得る。
娘・雪子が吉田茂の妻となった。つまり吉田茂の義理の父親。
第一次世界大戦後のパリ講和会議には次席全権大使として参加。首席は西園寺公望であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や吉田茂などがいた。


アメリカも明治期以降の日本もヨーロッパ(ロスチャイルドなど)の影響下にあった。
ジョセフ・グル―とハーバート・フーヴァ―はどちらかと言うとロスチャイルドから独立して勢力拡大を狙うアメリカのロックフェラー寄りになっていったのではないだろうか。
それに追従したのが日本であった。
ロスチャイルドとロックフェラー、両者の影響下にいて、両者を上手く利用した。
両者の影響下にあったという点では中国も同じである。






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# by yumimi61 | 2017-06-05 13:38
2017年 06月 04日
日本国憲法の秘密-489-
※豆知識※

その1:慶応幼稚舎は幼稚園ではなく小学校である!
知ってる?じゃあ。

その2:慶応幼稚舎の所在地は元々は福沢諭吉の別邸(広尾別邸)だった。
1879年(明治12年)、福沢諭吉が現在の幼稚舎の校地の場所を購入し、広尾別邸とした。
1937年(昭和12年)、幼稚舎は福沢家広尾別邸の場所に移転した。
##「幼稚舎」という名称であるが、小学校であり幼稚園ではない。幼稚舎出身の南博は旧制東京高校尋常科(後身校:東京大学)に入ったとき、修身の時間に教育勅語を暗誦できなかったため、「君は教育勅語を知らんのか、いったいどこの小学校からきた」と教師から怒られ、「慶應義塾の幼稚舎です」と答えたが、「幼稚園のことを訊いているのではない、小学校は何処だ」と怒鳴られたという。このようなエピソードからもわかるように、現在でも幼稚園であるとの誤解が多く、また、そう思い込む者も多い。

(森友学園はやっぱり「目指せ東大!」だったのでしょうか?)

その3:福沢諭吉がハーバード大学学長に教授の派遣を依頼したことによって慶應義塾に赴任したトーマス・ペリーのお披露目会である「園遊会」が行われた場所は福沢の広尾別邸(後の慶応幼稚舎)であった。

その4:皇室行事の園遊会が催されるようになったのは戦後1953年のことで、実はそれほど古式ゆかしい行事ではない。
戦前(明治時代)に行われていたものに「観菊会」「観桜会」があるが、これは江戸時代に締結した通商条約の改正交渉をスムーズに運ぶために始められたものであり政府主導。天皇皇后が臨席したが主催者ではない。
成り立ちからロスチャイルドなどヨーロッパ系と繋がっていた明治新政府が条約を改正したかったということは、その条約が日本にとって不平等だったのではなくヨーロッパにとって不平等だった(と感じていた)からに他ならないであろう。
行われた場所は新宿御苑や浜離宮。元は地方藩の下屋敷であった場所である。
現在新宿御苑にて内閣総理大臣主催の「桜を見る会」、環境大臣主催の「菊を観る会」が開催されている。
新宿御苑は大正天皇・昭和天皇の大喪の礼が執り行われた場所でもある。

その5:観菊会(かんぎくかい)はたぶん「見ても聞いても言わない(貝!)」に掛かっている。
ところで日光東照宮をはじめ有名な「見ざる聞かざる言わざる」の三猿。
英語では、"Three wise monkeys"(3匹のずる賢い猿)と言われていて、"see no evil, hear no evil, speak no evil"と訳される。
「あの人たちさぁ良いことしか言わないよね」
「そうそう、自分達に都合の悪いことは見ないし、聞かないし、言わない」
つまり半分皮肉である。
論語には入っている「行わない」(悪いことは行わない)が省かれていることから、あの人達は自分達の悪いことは見ないし聞かないし言わないけれど、悪いことはするという意味が隠されています(たぶん)。

おまけ:お買い物に行ってそらまめを買っておやつに食べました。

以上、豆知識を終わります。

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ジョセフ・グル―
アメリカ・ボストン生まれ。1932~1942年まで駐日アメリカ大使だった。
要するに真珠湾攻撃と太平洋戦争開戦時に日本にいた大使である。
ジョセフの従妹ジェイン・ノートン・グルーが初代J・P・モルガンの長男(後継者)であるジャック・モルガンの妻であった。
モルガンもロスチャイルドの代理人(代理店)である。
このジョセフ・グル―のの妻アリス・ペリー・グルーはその名の通りペリー一族である。


ジョセフ・グル―はボストンの銀行家一族である。
ハーバード大学時代に学生新聞「クリムゾン」の編集に携わっていた。
「クリムゾン」は1873年に創刊された学内新聞としては最古の歴史を誇る。
過去にはフランクリン・ルーズベルトやジョン・F・ケネディなど後に大統領になった人物も学生時代に編集に関わったことでも知られている。
ジョセフ・グル―がクリムゾンに所属していた時の仲間に、キャボットが出資したラッセル商会のアジア担当取締役になり、第二次世界大戦中の大統領にもなるフランクリン・デラノ・ルーズベルトがいた。
この2人は学生時代からの友人であった。

ジョセフ・グル―は後にキャボット一族とペリー一族の血を引くアリスと結婚し、駐日アメリカ大使になるわけだが、家族はジョセフがハーバード大学を卒業すると彼を世界旅行に旅立たせた。この時に日本にも来ている。
そしてジョセフ・グル―は「鈴木」という名の人物を連れてアメリカに帰国した。
ジョセフとアリスとの縁を取り持ったのはこの「鈴木」だったという。鈴木大拙!?
その後は家族や友人のコネクション(圧力、忖度?)を存分に使い外交官大使の地位を手に入れた。
外交官としてエジプト、メキシコ、ロシア、ドイツ、デンマーク、スイスなどに派遣された。
しかしジョセフ・グルーは難聴気味であり他国の言葉での会話は不可能であったという。

ジョセフ・グルーは1908年から第一次世界大戦アメリカ参戦1917年までドイツにいた。
ここで注目すべき点がある。
前に書いたようにアメリカはホワイトハウスの主(大統領)が変われば、長官をはじめ政府高官、その下にいる補佐官や秘書などごっそり入れ替わる。党が変われば尚更である。
ところがジョセフ・クルーは変わらなかったのである。

1901-1909年 セオドア・ルーズベルト(共和党)(フランクリン・ルーズベルトと親戚)
1909-1913年 ウィリアム・タフト(共和党)(イェール大学、ラッセル商会、スカル・アンド・ボーンズ)
1913-1921年 ウッドロウ・ウィルソン(民主党)(父がアメリカ長老教会創設者)(ジョンズ・ホプキンス大学から政治学のPh.D. を受けている)






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# by yumimi61 | 2017-06-04 13:03
2017年 06月 02日
日本国憲法の秘密-488-
キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族、企業にさらに貸し出す。

キャボット家の創始者はアメリカ大陸発見者。コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて航海した。


ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。


アヘンを輸出して儲けていた。
そんなに美味しい商品(麻薬)ならばと、アメリカからも参入(というか権益を分けて上げた)。その1つにラッセル商会がある。
ラッセル商会設立者サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルはピューリタン(清教徒)系大外のイェール大学で「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones、S&B)も創設している。 


このラッセル商会は、ブッシュ大統領(共和党)を輩出したブッシュ家、クーリッジ大統領(共和党)を輩出したクーリッジ家、ルーズベルト大統領(民主党)を輩出したデラノ・ルーズベルト家、タフト大統領(共和党)を輩出したタフト家が取締役や監査役に就任していた。
その他、雑誌「フォーブス」を創刊し上院議員を輩出するフォーブス家、ジョンズ・ホプキンス大学の初代学長を輩出したギルマン家の人物も取締役だった。


※ジョンズ・ホプキンス大学
クェーカー教徒の実業家ジョンズ・ホプキンスの遺産を基に、1876年に世界初の研究大学院大学として設立された。初代学長はアヘン輸出入業者のラッセル商会取締役であったダニエル・ギルマン。
アヘンに関連して人間の支配や心理戦争などを研究した。
それまでのアメリカの大学教育は教養中心の学部教育であったが、新たに研究を中心とした専門教育を行うことを目的とし、大学院教育のシステムを確立した。大学院教育と奨学金を組み合わせることによってPh.D.(博士)の学位の授与制度の改革を行ない、この制度を他の多くの大学が取り入れることによってアメリカ全土に広まったとされる。
全米で初めて実験室での科学実験を行ったのも、また、公衆衛生大学院 (School of Public Health) を初めて設置したのもこの大学である。附属のピーボディ音楽学院(Peabody Institute)も北米で最初の音楽学校であり、この大学には「アメリカで最初」と言われるものが多い。


アメリカの最初のPh.D.は1861年にイェール大学が神学、古典語、物理学の3分野で3件授与したのが最初である。当初は分野も数も限られていたが、上記のようにジョンズ・ホプキンス大学がPh.D.の授与制度の改革を行って広まった。アメリカの学術界の発祥の地とも言えよう。

※クェーカー教はプロテスタントに分類されることもあるが、正式にはカトリックでもプロテスタントでもないキリスト教のフレンド派ということになる。会員は"Friends"を自称している。
平和主義や質素を掲げるが神秘主義を信仰の特色とする。一方極めてリベラル(要するに科学的)でもある。
発祥はイギリス。アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられるベンジャミン・フランクリン(フリーメイソン、父はイギリスからの移民)がイギリスからアメリカに移住させ、『コモン・センス』というパンフレットを発表してアメリカがイギリスから分離独立することが正当であることを強く訴えたトマス・ペインもクェーカー教徒であった。
アメリカ建国にはピューリタンの他クェーカー教徒も関係している。
戦後の日本においてGHQのボナー・フェラーズ准将が熱心なクエーカー教徒で日本でのクエーカーの布教活動に精力を注いだ。また、信徒のエリザベス・ヴァイニングは後に天皇となる皇太子・明仁の家庭教師を務めた。(皇太子明仁とは現天皇)

※エリザベス・ヴァイニング
終戦後の1945年には著作活動を停止しアメリカ・フレンズ奉仕団広報部に勤務、1946年にGHQによって皇太子明仁親王の家庭教師に選ばれ来日、少年時代の皇太子と義宮(現・常陸宮正仁親王)らに英語教育などを施すなどした。また、学習院大学や津田塾大学においても講義などを行なった。

※アメリカ・フレンズ奉仕団
1917年にアメリカ合衆国フィラデルフィアで戦争による民間の犠牲者の救済のために設立されたキリスト友会(クエーカー)系の人道援助や社会正義、人権、平和や死刑の廃止などのために活動する団体である。1947年にイギリス・フレンズ協議会と共にノーベル平和賞を受賞した。
フレンド派は伝統的にあらゆる形態の暴力に反対し兵役を拒否したため、AFSCの当初の目的は良心的兵役拒否の実現のための兵役の代替であった




オーガスト・ベルモント
ドイツ生まれのユダヤ人。ロスチャイルド一族の庶子だった。若い頃からフランクフルトのロスチャイルドのそばで働いてきたロスチャイルド代理人。彼は1837年24歳の時にアメリカに送りこまれた。
ラッセル商会の設立は1824年であるが、その頃にはアメリカでのロスチャイルドの立場が危うくなってきたということだろうか。
このオーガスト・ベルモントが結婚した相手がキャロライン・ペリー、黒船で日本にやってきたペリー提督の娘である。1849年に結婚している。

ジョセフ・グル―
アメリカ・ボストン生まれ。1932~1942年まで駐日アメリカ大使だった。
要するに真珠湾攻撃と太平洋戦争開戦時に日本にいた大使である。
ジョセフの従妹ジェイン・ノートン・グルーが初代J・P・モルガンの長男(後継者)であるジャック・モルガンの妻であった。
モルガンもロスチャイルドの代理人(代理店)である。
このジョセフ・グル―のの妻アリス・ペリー・グルーはその名の通りペリー一族である。


アリス・ペリー・グルー
ペリー提督の兄の孫にあたるトーマス・サージェント・ペリー(アメリカ・ボストンの言語学者)と、キャボット一族であるリラ・サミュエル・キャボット(印象派画家)の間に生まれた娘である。夫妻には3人の娘がいてアリスは3女である。
アリスの父トーマス・ペリーは慶應義塾大学の教授として来日した。妻と3姉妹も一緒に赴任した。
1898年に慶應義塾の創始者・福澤諭吉がハーバード大学学長に書簡を送り、教授の派遣を依頼したことによる。
福沢諭吉は伊藤博文・井上馨・西郷従道など300人以上を招待してペリー教授紹介の園遊会を盛大に催した。
一家は1901年に帰国したが、アリスは駐日大使夫人として夫ジョセフ・グル―とともに再来日した。

キャボット家とペリー家の血を引く人物が日本と関係深いのである。


鍋島信子(松平信子)
アリス・ペリー・グルーの親友。
鍋島信子は佐賀藩主の娘。キリスト教徒。
元会津藩主・京都守護職の松平容保の六男・松平恆雄(明治10年生まれなので幕末を知らない、外交官・政治家)の妻となる。前にも書いたけれど会津藩は徳川幕府に忠誠を尽くし明治新政府に対抗して最後まで戦った藩である。
鍋島信子と松平恆雄の娘は秩父宮妃である。
昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄の長女)の婚礼が執り行われた。会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれる。
朝敵会津藩の復権ではなくて、旧会津藩が変な気を起こさないように取りこんだのであろう。


九条節子(大正天皇の妃、昭和天皇の母、貞明皇后)
アリス・ペリー・グルーの親友(鍋島信子がアリスに節子を紹介した)。
九条家は五摂家の1つで公家。
大正天皇は幼少期から病弱であり最後まで天皇の公務を全うできなかった。
そんなこともあってか、九条節子に関しては替え玉説など様々な噂がある。
また昭和天皇・秩父宮・高松宮・三笠宮と4人の男子を産んだが、子の父親が全て違うという説もある。
昭和天皇が西園寺八郎、秩父宮と高松宮が東久邇宮稔彦、三笠宮が近衛文麿。


牧野雪子(吉田雪子)
アリス・ペリー・グルーの親友。キリスト教徒。
雪子の父親は薩摩藩士・大久保利通の息子(大久保伸顕→牧野伸顕)である。つまり雪子の祖父が大久保利通ということになる。
牧野雪子は吉田茂の妻となる。
吉田茂(旧姓:竹内)はジャーディン・マセソン商会の商人吉田健三の養子になり、吉田健三が40歳という若さで亡くなったために吉田茂は子供ながらに莫大な財産を相続した。
ジャーディン・マセソン商会もロスチャイルド系でアヘン貿易に携わっていた。


吉田茂・雪子夫妻の子供達
 長男(健一)
 長女(桜子)・・・夫・寛は岸信介(安倍首相祖父)・佐藤栄作兄弟の従兄弟。佐藤寛が婿養子となり吉田寛となった。
 次男(正男)
 次女(江子)
 三女(和子)・・・九州の実業家であった麻生太賀吉の妻となる。夫妻の長男が麻生太郎。長女信子は寛仁親王妃。


麻生セメント株式会社
麻生グループの中核企業。麻生グループは麻生太賀吉の父である麻生太吉が明治時代に福岡県飯塚市で始めた麻生炭鉱を源流としている。
麻生セメントは2001年に旧麻生セメントがセメント部門を分社化して新しく麻生セメント株式会社を設立して誕生した会社。フランスのセメント大手であるラファージュ(Lafarge)が資本参加している合弁会社であった。
この会社が2004年に三井鉱山セメントの土地と鉱山を継承している。また同年、麻生ラファージュセメント株式会社に社名変更。
2013年にラファージュの資本5%を買い取り社名からラファージュを抜いた。
ラファージュはロスチャイルド系企業でヒラリー・クリントンが顧問に名を連ねていた。
2014年にラファージュはスイスのセメント大手ホルツィムと合併してラファージュホルツィムとなっている。

2016年6月報道
 フランスのセメント大手が、シリアに持つ工場の操業を続けるため、過激派組織イスラム国(IS)などと取引をしていたと6月22日付の仏ルモンド紙が報じた。
従業員らの通行の許可をISから受けたり、石油を購入したりしたという。
 問題が指摘されているのは仏ラファージュ(現ラファージュホルツィム)。
シリア北部アレッポの北東に工場を構えていたが、近郊をIS(の前身組織)が支配下に置くようになったため、2013年にIS側との「取引」が始まったという。

 ルモンド紙によると、石灰石を積んだトラックや従業員らの往来に支障がないようIS側に許可を求め、通行証の発行を受けた。また、仲介者経由でIS側から石油を買ったり、「税金」を支払ったりし、間接的にISに資金供給した形だという。
こうした「取引」は、工場の操業を断念した14年秋まで1年余り続いた。ラファージュ幹部も事情を把握していた模様。
 これに対してラファージュ側は「工場がある地域に紛争が迫るさなかでは、従業員らの安全確保が最優先課題だった」とする声明を出した。ISとの関係については言及していない。


2013~2014年というのは、湯川遥菜や後藤健二が拘束された時期と重なる。
拘束(人質)事件が発覚し大々的に報道されたのは2015年1月~2月。







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# by yumimi61 | 2017-06-02 16:10
2017年 06月 01日
Memorial Day
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この味がいいねと君が言ったから ファーストジューンはアイス記念日

空見上げ今日はいい日と言う君に 下駄を預けて気象記念日


"Have a nice day!"

The draft divide

you and me

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# by yumimi61 | 2017-06-01 23:33
2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-487-
伊香保・草津界隈の人ならば知っていると思うのですが、ドイツ人のベルツをご存知でしょうか。
伊香保には「ベルツの湯」という日帰り温泉があったのですが、今は食の駅になっています(これはまだありますよね?)。
草津の「ベルツの湯」は、今はベルツ保育園になっています。

ベルツの湯に関する怪文書!?

エルヴィン・フォン・ベルツ(Erwin von Bälz)
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。

1876年(明治9年)に来日。
ベルツは伊香保と草津の温泉の効能を紹介した人物でもある。

草津温泉を再発見、世界に紹介した人物でもある。1878年(明治11年)頃より草津温泉を訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価する。

自身も草津に約6000坪の土地と温泉を購入し、伊香保温泉にも別荘を構え、幾度となく訪れた。
ベルツは大変な健脚で噴火直後の草津白根山にも登頂したことがあり、その際の手記は現在でも貴重な火山学的資料になっている。

しかし同時に日本にとっては手厳しい日記を残している。
ベルツは花子という日本人女性と結婚しており、その2人の間に生まれた息子が後年(ナチス時代)ベルツの日記を日本語、ドイツ語、英語で出版した。
但し息子が母親の出生や両親の出会いなどは『ベルツ日記』から削除されたという。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。


歴史が無いと言ったのは伊藤博文である。
大日本帝国憲法制定時には、一般民衆の様子を「お祭り騒ぎだが、誰も憲法の内容を知らない」(趣旨)と描くなど、冷静な観察を行っている。

日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。


日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。・・・つまり、根本にある精神を究めるかわりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。


もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである。



実はベルツは前記事に書いたベア商会のドイツ系ユダヤ人であるベア(バイル)と非常に親しくしていた。
日記にも再三登場する。
1880年(明治11年)3月17日、前年行われた西南戦争を題材にした芝居『西郷と鹿児島の変』を観覧。「恐ろしく退屈だったので、お昼にバイルのところへ行き、彼と一緒に再び劇場で数時間を過した」と記している。

1881年(明治12年)7月27日、「バイルのところで昼食中に烈しい雷雨があった。マニラ通のバイルは当地の雷雨の威力のちっぽけなことをあざけった」と記す。

1881年8月4日、「彼(ナウマン)はネットーやバイルと共に自分の一番親しい友人」と記す。

1881年10月20日、「又もやバイルと中村屋へ。日本画家の制作ぶりを見ようというのである。バイルは最も優れた画家たち(その中に狂斎もいた)を招いていた」と記す。
※狂斎(暁斎)は古河出身ですよ!
強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師。
海外では高い人気を誇りながら、国内では画業が忘れられかけていた絵師。
明治3年(1870年)に筆禍事件で捕えられたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。


1882年(明治13年)11月8日、「夜、バイル来訪。彼は日本人一といってもその指導階級だが―と国内の経済資源の開発、特に農業と商業の振興を目的とする会社の設立に関して折衝中である。バイルは金持ちだ。彼にとっては、もっと金を儲けることなどあまり問題でないことを日本人は知っている。だから彼は落ちついて相手の申し出を待っている。国民経済の点で日本の発展にバイルほど寄与しし得る人物は他にないという一事だけは疑う余地がない。交渉が好結果に終わることを日本の繁栄のために祈る」

ベア(バイル)のベア商会は1880年に出された通達によって廃業に追い込まれて1881年には高田商会が誕生している。
ベアは結局ドイツに帰国するのだが、1882年の時点ではまだ日本にいた。
ベア商会廃業の代わりに別の会社の設立を提案されたようである。
ベルツは好結果を祈ったが祈りは届かったものと思われる。

ところで中村屋。新宿中村屋のサロンのことである。
中村屋サロン美術館公式より
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は1901(明治34)年、本郷でパン屋「中村屋」を創業しました。そして1909(明治42)年には、新宿の現在の地に本店を移転します。相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになりました。それが「中村屋サロン」のはじまりです。

artscape中村屋サロンより
明治期末から大正期にかけて、新宿中村屋の創業者である相馬愛蔵とその妻・黒光(本名・良)の周りに集まった芸術家たちの交流を指す。1908年に、愛蔵と同郷の彫刻家・荻原守衛(号・碌山)がヨーロッパから帰国し、新宿中村屋の近くにアトリエを構えたことに始まる。荻原を慕う若い画家・彫刻家たちに加え、パトロンである相馬夫妻の関係する文学者や演劇関係者たちがジャンルや国籍を越えて交わり、そのなかで傑作が生まれ、夭逝や恋愛などロマンチックでスキャンダラスな出来事が幾つも起きた。特に、荻原の遺作であり第4回文展三等賞に浴したヌードの彫刻《女》(1910)は、荻原の黒光への秘めた思慕が表われたとされる。また、洋画家の中村彝は、新宿中村屋で出会ったロシアからの盲目の亡命詩人をモデルに《エロシェンコ氏の像》(1920)を制作した。これはレンブラントとルノアールの表現を咀嚼し、半透明の層を重ねた独自の暖かみのある表現に至り、大正期の洋画を代表する作品となっている。中村彝はまた、黒光の娘・俊子をヌードモデルにした作品を制作し、やがて恋愛関係になって求婚するも黒光に拒まれた。その後、俊子は、インドから亡命した革命家のラス・ビハリ・ボースと結婚した。新宿中村屋に関わった美術家としてはほかに、同店の現在も使われるロゴマークを揮毫した画家の中村不折、彝とともにエロシェンコを描いた画家の鶴田吾郎、夭逝した彫刻家の中原悌二郎と戸張孤雁などがいる。ほかにも、相馬夫妻の子どもを教えたことがある美術史家の會津八一、女優の松井須磨子、評論家・社会主義者の木下尚江と秋田雨雀といった多彩な人々が、ここに関わり、さまざまな人生の交差する場となっていた。

何故中村屋に拘っているかと言うと、以前にも出てきたことがあるのです。原爆との関係で。
松方正義の家族から「弐キ参スケ」について書いたコチラの記事中にリンクしたサイトのサブタイトルが「広島・長崎の原爆は「新宿 中村屋」が製造使用した。」なのである。
群馬県沼田市から横浜に出て生糸業者を営んだ星野一家についてはパート4に書かれている。

さて、タイトルの“毛利元就”と云えば、「三本の矢の教え」で有名な話である。
その「三本の矢の教え=兄弟が結束して事に当たれ」が、日本製原爆完成にも生かされたと云う話である。その3兄弟とは、群馬県沼田市からでた星野3兄弟である<星野直樹・星野茂樹・星野芳樹+星野花子>それと、親子2代で朝日新聞記者だった野田豊(野田経済研究所々長)と、「野田皓一」である。
以上、6名の共通項は<皇室、日本キリスト教婦人矯風会、朝日新聞、日本共産党、福井県小浜市発心寺(原田祖岳)、上智大学、間組、京都大徳寺、京都真珠庵、京都青蓮院門跡(東伏見慈洽)、西園寺家、近衛家の旧宮家と旧華族>である。
毎度でてくる「戦争指導者の巣窟」ではある。

星野直樹は東条英機の私設秘書的な存在であり、星野茂樹は“トンネル屋”で、星野芳樹は“日本共産党員、満洲浪人、理論物理学者、静岡新聞記者、アフリカに学校建設、日本水泳界の重鎮”と多才な顔を持つ。
星野直樹と星野芳樹の二人は、大満洲帝国で傍若無人な振る舞いをしていたのであるが、星野茂樹は鉄道省の仕事で「丹那トンネル工事、関門海峡トンネル工事」の監督をしていたと云うのであるが、旧鉄道省(現国土交通省)の工事記録を見られれば、星野茂樹の活躍ぶりも理解できるが、星野茂樹自身の著作がないので“トンネル屋”が本業か?との疑念がある。
石川九五と丹那トンネル工事に従事した証言は、<証言・私の昭和史、テレビ東京、文春文庫刊>に有り、関門海峡トンネル工事に関しては<昭和17年11月、鉄道トンネルの開通に力を尽くした鉄道省下関工事事務所長星野茂樹らに木杯が下賜された際の裁可書>が存在している。

鉄道省に在職していたのだから、“元首相 佐藤栄作”と面識がないと云う事は考え難い。佐藤栄作と面識があれば、岸信介とも繋がり、其処から大満洲帝国に連なる、東京帝国大学系の「満洲帝国官僚の人脈」に繋がるのである。

当時の状況からして、星野茂樹が“大満洲帝国”に一度も足を踏み入れなかった事は更に考え難い。星野茂樹の細君(鳥居はな)が虚弱体質で、星野茂樹夫婦は“ままごと遊びの様な夫婦”だったと、星野芳樹は証言して居る訳だが?星野直樹が大蔵省から推薦されて、「満洲国務院 総裁」になったという証言は偽証である。星野直樹は大満洲帝国建国に始めから関わっていたから「満洲国務院 総裁」に就任できたのである。
又、東京帝国大学在学中に満洲旅行をしている筈だが、そこの部分は抜けている。

そう云った意味で<星野直樹、星野芳樹、星野茂樹>は、満洲で諜報活動をしていたのである。
当然の事ながら、諜報員としての名前には“伏野愿城(ふしの はれき:兵 アムール州・第19収容所 第2017病院 ザヴィチンスク死亡)”姓などを使用していた訳である。

さて、星野茂樹は満洲全土の地質調査報告書を作成して、日本製原爆製造の原材料“ウラン鉱脈”発見に貢献しているのである。
星野芳樹は、日本共産党幹部なのだから、当然、満洲中央銀行総裁西山 勉の秘書“大森寿恵子(日本共産党 書記 宮本顕治の夫人)”とは、昵懇と考えるのが自然である。
大満洲国の下町の情報を、兄星野直樹や大森寿恵子に報告していたのである。又、星野芳樹が共産党員として官憲に逮捕勾留されていた時期に、拘置所内で「理論物理学書を原書で読んだ」と云う事と、戦後原子力の平和利用を合法化した、日本共産党員で反ファシズムを標榜していた「武谷三男(京都帝国大学理学部卒)」が、特高に検挙されたら、取調室で「原爆製造の理論式を書いて、日本製原爆製造に積極的に協力した」のと同じ事を、星野芳樹もしていたのである。

星野直樹の根幹を形成する思想は「ブルードンは財産は盗賊だといってるぞ」と云うのだから、中国東北部を“大満洲帝国”として「国を盗んだ」訳である。
それを承知の上で、<前航空幕僚長 田母神俊雄と、上智大学名誉教授 渡辺昇一>は、日本の行為は「侵略(盗賊)ではない」と述べているのだから、やはり防衛省と日本の大学教授は“盗人たけだけしい連中”の集団だね。
星野直樹と東条英機は、“大満洲帝国”の官僚と軍の象徴的な存在である。その星野直樹が「盗賊」だと云うのだから、その思想で行動していた事は間違いないのである。次に星野一族と野田一族の関係を述べる。

星野直樹(ほしの なおき、官僚:満州国務院)
星野茂樹(ほしの しげき、官僚:鉄道省)
星野芳樹(ほしの よしき、官僚:日本共産党からアフリカまで)
星野花子(ほしの はなこ、戦前からアメリカ在住)
野田 豊(のだ ゆたか、朝日新聞記者、陸軍大佐、野田経済研究所長)
野田皓一(のだ こういち、ウズベキスタン抑留、朝日新聞記者)






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# by yumimi61 | 2017-05-31 23:35
2017年 05月 31日
日本国憲法の秘密-486-
明治維新の志士たちは、お金もないのにヨーロッパの協力を得たせいか、倒幕どころか世界征服の野望を持っていた。
日清戦争と日露戦争に勝利し、借金はその野望は膨らむばかりだった。
第一次世界大戦では空前の好景気に沸いたが、沸いたものは必ず冷める。この地球上に冷めない熱湯はない。
数年後には空前の不況が襲い、1930年頃には恐慌が起こった。
職を失い失望した人々は島にはない何かが大陸にはあるかもしれないと夢を見て海を渡った。
1932年には日本主導で満洲国が建国された。

日露戦争終結から3年後の1908年、泰平組合が設立される。
泰平組合は、三井物産、大倉商事、高田商会の3社が共同出資して設立され、主に余剰となった軍の旧式小銃・火砲の払い下げを受けて中国・タイ等に輸出する事を目的とした組合である。

・大倉商事―大倉財閥の商社。新潟出身の兵器商だった大倉喜八郎が大久保利通や伊藤博文らとの親交により一代にて大財閥を築き上げた。海外支店を開設した初の日本企業(1874年にロンドンに)。

・高田商会―1880年、三条実美太政大臣(公家)により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう通達を出した。これによりその3年前にドイツ人により設立され、兵器商社として主に政府機関を取引先としていたベア商会が廃業に追い込まれ、ベア(バイル)はドイツに帰国した。ベアはユダヤ人であった。
そして同商会の番頭であった高田慎蔵、同じく同商会にいたイギリス人のスコット、ドイツ商人が設立した兵器商社のアーレンス商会(ベア商会のベアも高田も最初はここで働いていた)の出資により、内商であることを明確にするため高田慎蔵を名義人とした上で1881年に設立された。ベア商会の商権は同商会に買い取られた。高田商会も兵器商社である。
高田慎蔵と三井物産の初代社長はともに佐渡出身。

どの商社も日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で大きな儲けを上げた。
しかしながら高田商会は不況と関東大震災で被災により1925年に倒産している。
倒産した高田商会の後釜が三菱商事で、泰平組合は昭和通商(株主:三井物産・大倉商事・三菱商事)という名称で再出発した。

表向きは民間の商社として活動を開始したが、その実態は駐在員(多くは予備役の軍人だった)が現地で情報収集など諜報を行ったり、朝鮮・満洲・蒙疆で生産された阿片を中国市場に持ち込み、里見甫らの宏済善堂(阿片の分配のための阿片問屋。里見はその副理事長(理事長空席))を通じて換金し、戦争遂行に必要な戦略物資の調達にあたるなど、様々な活動を行っていた。

また、駐在武官が軍機内容の通信を陸軍省と行う際に、在外公館の無電を通さずに同社の無電を用いて暗号文を打電する“昭和通商依頼電”(いわゆる“依頼電”)など、日本陸軍の独自外交ルートとしても活用され、南京軍事法廷で死刑判決を受けた田中軍吉少佐が、昭和通商ハノイ支店長を務めていた事でも知られている。



吉田茂(旧名:竹内茂)が養子となった吉田健三(40歳で死亡)はジャーディン・マセソン商会の商人であった。
この商社もアヘンを扱っていて香港上海銀行設立時に出資している。

安倍首相の祖父・岸信介は1936年に満洲に渡った。
建国されたばかりの満州国では国務院高官として満州産業開発五カ年計画を手がけ、「弐キ参スケ」の一角を占める。
昭和戦前は「革新官僚」の筆頭格として陸軍からも関東軍からも嘱望された。
東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の重要閣僚であったことから、極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留されたが、不起訴のまま無罪放免されている。他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除される。


岸信介と吉田茂は、昭和通商の里見甫とともにアヘンの密輸出入や販売に携わっていた。
アイゼンベルグがサッスーン一族を駆逐してアヘン販売網を奪取できたのは、この日本勢の協力があったからである。
上海から日本に来たアイゼンベルグは里見甫とも出会っていたのである。

アメリカのラッセル商会でアジア担当だったウォーレン・デラノ・ジュニアが紅幇いう中国の秘密結社と取引をしており、その紅幇は蒋介石を支援したと前記事に書いたが、イギリスに貢献したサッスーン商会もやはり蒋介石を支援していた。
その蒋介石は日本と戦っていたわけだから次のような関係になる。
これはもうアメリカとイギリスは蒋介石を支援するしかない。
でもアメリカとイギリスは歴史的背景からしてそれほど仲が良いわけではない。

  蒋介石(中国国民党)vs日本・アイゼンベルグ
  ラッセル商会(アメリカ)vs日本・満洲・昭和通商
  サッスーン商会(イギリス)vs日本・満洲・昭和通商・アイゼンベルグ

厄介なことに清(中国)には次のような対立もあった。

  漢民族vs満洲民族(少数民族であるが清の支配層であった)
  漢民族(原住民)vs漢民族客家(北から南下してきた漢民族で我こそが正統であると主張する)
  満洲民族vs漢民族客家
  国民党vs共産党vs北洋軍閥(満洲は北洋軍閥の流れを汲む)

満洲は日本に置き換えられるので、中国(国民党)と日本(北洋軍閥・満洲)の勢力どちらもを抑えたければ共産党を支援するしかない。
サッスーン商会を潰されたイギリスにとってはアメリカを牽制する意図もある。さらに余計なことをさせないためにイギリスはアイゼンベルグも取りこんでおいたのだのだろうか。
ともかくロスチャイルドはアイゼンベルグによってアジアのアヘン市場をだいぶ縮小させられてしまった。

この頃、岸信介はアメリカのロックフェラーが二大政党制を強く主張しており、民主党の支援者になっていることを聞かされる。
それはつまり「ロックフェラーさんは、ロスチャイルドに対立して共和党を支援しているのに、民主党も支援しているんですよ~まったくねぇ」という話である。
ロックフェラーは元はロスチャイルドの子分のようなものだから、親分に忠実(民主党支援)であるふりもしなければならないし、かといっていつまでも子供でいるというのもどうかということで共和党を支援してみたりする。





 

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# by yumimi61 | 2017-05-31 00:54
2017年 05月 30日
日本国憲法の秘密-485-
ラッセル商会でアジアの麻薬と奴隷の輸出入を担当していた取締役がウォーレン・デラノ・ジュニア。
紅幇(ほんぱん)という名の中国の秘密結社と取引があった。(もうひとつ青幇という名の秘密結社もある)
経済的活動を中心とする互助的な組織。省外や海外などの異郷にあって同業・同郷・同族によって組織される。厳格な規約のもとに強い団結力と排他的性格を持つため秘密結社と呼ばれる。
当初は水運業の組合組織だったが、水運業が廃れ始めるとアヘン、賭博、売春を資金源とするようになった。
日中戦争において蒋介石が首都南京が陥落し重慶に政府を移した時に多くの紅幇が政府に協力した。(日本には勝ったものの蒋介石は戦後に中国共産党に敗れて台湾に移った―中華民国)

ウォーレン・デラノ・ジュニアの孫にあたるのが第二次世界大戦中のルーズベルト(フランクリン・デラノ・ルーズベルト)大統領である。
デラノ家は中国とアヘンを中心とした貿易を行い財を成した家系。その始まりはラッセル商会にある。
ノーベル賞を受賞したセオドア・ルーズベルト(共和党)とフランクリン・ルーズベルト(民主党)はもともと親戚関係にあった。
(さらにフランクリンは、)セオドア・ルーズベルトの弟エリオット・ルーズベルトの娘であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。
エレノアはイギリスの女学校で学んでいる。 戦後1952年まで国連のアメリカ代表を務めた。


この2人、党との関係性が何だかおかしい。
民主党系にバイアスがかかっているはずのノーベル賞を共和党のセオドア・ルーズベルトが受賞した。
セオドア・ルーズベルト大統領は大統領就任式に聖書を使わなかった唯一の大統領。
聖書重視のプロテスタント(もっと言えばキリスト教原理主義者)とは思えない行動である。
アメリカ共和党の支持母体はキリスト教原理主義と言われている。
政治スタイルもそれまでと違う民衆を味方に付ける方法を取り入れた。
一方のフランクリン・ルーズベルト。彼は原爆開発に乗り気ではなかった。科学を積極的に取りこんだリベラル民主党っぽくないのである。
そして終盤戦(原爆投下時)は同じく民主党のトルーマン大統領に変わった。
ブッシュ家はSkull and Bonesだけでなくラッセルにも関係しているがキリスト教原理主義で共和党である。

ラッセル商会の取締役にはアルフォンソ・タフトもいた。
タフト家も後に大統領を輩出する。 連邦準備制度を相談したジキル島会議が行われた時に大統領だったウィリアム・タフト(共和党)である。

現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。

黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。


この時(1912年)は誰が大統領になっても良かったのではなく、民主党のウッドロー・ウィルソンを勝たせたかったのであろう。だから共和党の票を割るためにノーベル賞受賞者である元大統領セオドア・ルーズベルトが引っ張り出された。
アメリカ民主党はイギリスやカトリック、ロスチャイルド寄り。
アメリカ共和党はアメリカ独立や聖書を重視している。ここにロスチャイルドからの完全なる分離独立を画策するロックフェラーが付いた。
第二次世界大戦はロックフェラーが仕掛けたのであろうということは前述した。
セオドア・ルーズベルトは共和党でありながら民主党(リベラル)(もっと言うとイギリスやカトリック)に近い政治家であった。
そして第二次世界大戦中のフランクリン・ルーズベルトは民主党でありながら共和党に近い政治家であった。
当時はまだ2期までという決まりが無く史上唯一4選(1933年3月4日~1945年4月12日)している。がしかし、原爆開発には積極的ではなかった。

デラノ家とルーズベルトの出現によって世界は混沌としてくる。



香港上海銀行はアヘン貿易がもたらした銀行とも言える。そして昨日このように書いた。
ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。


その中のデイヴィッド・サッスーン商会。
設立者はデイヴィッド・サスーンである。
インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。
スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。


このように世界一の人口を誇る中国での麻薬販売に多大な功績を果たしたサッスーン商会。
しかし第二次世界大戦後、中国在住のサッスーン一族はアイゼンベルグによって駆逐され、麻薬販売網が奪取された。
ではそのアイゼンベルグとは何か?

・アメリカ最大のマフィアであり、麻薬ネットワークを構築している。
・金銭で殺人を請け負う「殺人株式会社」と呼ばれている。
・イスラエル建国の中心的存在であり、あらゆる産業を支配している。国家そのものと言っても過言ではない。


ショーン・アイゼンベルグ(ショール・アイゼンバーグ、シャウル・アイゼンバーグ)という人物がいる。
その「アイゼンベルグ」だという。

ショーン・アイゼンベルグ(1926-1997年)
旧ハザール王国領に隣接していたウクライナ北西部とポーランド南東部にまたがる地域のうちポーランドに属するガリチア出身の貧しい労働者階級のユダヤ人の両親もと、1926年にドイツのミュンヘンで生まれた。

ここで一つ大きな疑問がある。
アイゼンベルク(アイゼンバーグ)はドイツの地名である。
ドイツ出身ではない一族がなぜドイツ名なのか。おそらくどこかで改名したか偽名だろう。
  
ドイツは第一次世界大戦(第一次世界大戦はロスチャイルドの庇護無しで驚異的に発展したドイツが脅威だったから起こったと思われる)に敗れて民主的共和制のワイマール政権となる。
この頃のドイツ共産党(KPD)の党員の多くがユダヤ人であった。そしてソ連の共産主義インターナショナル(コミンテルン)に参加していた。
王族やローマ教皇、貴族やロスチャイルドなどは旧体制を代表するものである。それらは共産主義が目指すものではない。旧体制にとっては目の上のタンコブ。ドイツの発展が脅威だったように共産主義インターナショナルもまた脅威だったのであろう。
共産主義インターナショナルは独裁で暴力的でろくな組織ではないと吹聴し、それを排除するために多額の資金が提供された。それもユダヤ資本と言われている。
 共産主義インターナショナルに参加していたユダヤ人、
 それを撲滅するために資金を提供したユダヤ人、
相反する2種類のユダヤ人がいることになる。これも混乱のもとになっている。

第二次世界大戦の枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)は親カトリック国で反共産主義インターナショナルの同盟であった。

ユダヤ人であるアイゼンベルグ家は1938~1939年にかけてアルプスを越えてスイスに入った。
スイスから西ヨーロッパに移動し、1940年の終りにはオランダにいた。
第二次世界大戦がの最中にオランダから中国の上海に向った。上海には各国・各組織の諜報員たちが蠢いていた。
そして日中戦争の最中の1940年にショーン・アイゼンベルグは日本にもやって来た。
彼は日本で、日本人女性と結婚したオーストリア人の画家と接触した。その画家もスパイだったのだろうか
日本人女性は官僚の家系の娘だったという。
こうしてアイゼンベルグは財界四天王の一人である永野重雄を紹介され、終戦直後にスクラップ工場を設立している。
またアイゼンバーグは日本人と結婚して日本国籍を取得している。
そのお相手はオーストリア人画家と官僚家系日本人夫妻の娘だという説もあれば、永野重雄の娘とする説もある。(永野重雄の次女の夫は日本銀行職員) いずれにせよその娘はユダヤ教に改宗した。

永野重雄については何度か書いているが、先日も登場した
ソニーの盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した1989年に入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎(カトリック教徒)について書いていた時である。

歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。

全日空(ANA)の前身は朝日新聞航空部である。
会社設立に協力したのは永野重雄。若狭得治に「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と言わしめるほど。
何で急にANAの話が出てくるかと言うと、航空機のことを書いていた過去記事にも経済同友会が出てきたからである。
経済同友会を創立し初代代表幹事に就任したのは他でもない永野重雄である。



これも不思議だが、イギリスに貢献したサッスーン一族を殺して麻薬販売網を力ずくで奪い取ったアイゼンベルグを、イギリスの国有会社インペリアル・ケミカル・インダスト(ICI)の日本での代表者としてイギリス政府が指名し、それによって彼は世界的なビジネス・コネクションを手に入れた。
もっともイギリスは王室と政府(貴族と庶民)という2つの権力があるので、事と場合によっては在り得るかもしれないが。
アイゼンベルグはもちろんアメリカとのコネクションもあった。
パキスタンに原発を売ったのはこのアイゼンベルグで、パキスタンが原爆を開発しつつあるとのキャンペーンを張ったのはアメリカとイスラエル。

スパイ(諜報員)はスパイと名乗って近づかない。詐欺師は詐欺師と名乗って来ない。
思想も主義もない金が全ての人もいる。ある力だけを買われた前後左右の関係や背景をよく知らない人物も増えてくる。
マインドコントロールによって意味も分からず動かされる人もいる。
世界はいよいよ複雑になり、表面的なことだけでは真実は見えにくくなっている。








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# by yumimi61 | 2017-05-30 13:16
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-484-
前記事に書いたシェルバーン家はスイスユニオン銀行(UBS)の経営一族でありスイスの金融家でもあった。
ロスチャイルドなどに有利な条件で資金を貸し付けてきた。
シェルバーン家に財産を管理させたのがキャボット家。キャボット家の創始者はアメリカ大陸発見者。
キャボット家→(資産)→シェルバーン家(スイスユニオン銀行経営)→ロスチャイルドなど(銀行家)→王族や貴族、企業にさらに貸し出す

ジョン・キャボット
中世の航海者。カトリック教徒。北アメリカ大陸の発見者として知られる。
コロンブスと同じジェノヴァに生まれ、前半生はヴェネツィアで活動し、1484年にイギリスへ移住した。1496年に国王ヘンリー7世の特許状を受けて、ブリストルを出航したものの失敗。翌年、息子のセバスチャン・カボットを伴って再び船団を率い、ヴァイキングの航路を辿ってカナダ東南岸のケープ・ブレトン島に到達し、ニューファンドランド島やラブラドル半島を発見するなどの成果を挙げて帰国した。1498年にも探検隊を組織し、グリーンランド東西沿岸の調査航海を行ったものの船員の叛乱によって南下を余儀なくされ、その途上で没した。この二度目の航海でデラウェアとチェサピーク湾を発見したことは、イギリスがフロリダ以北の北米大陸の所有権を主張する根拠となった。


セバスチャン・キャボット
16世紀のイギリスの航海者。父と共に北アメリカ大陸の発見者に名を連ねる。
ヴェネツィアの航海者ジョヴァンニ・カボートの子として生まれる。1484年にイギリスに帰化。1497年には、ブリストルを出航してアジア航路を開拓する船団に参加。父ジョヴァンニは翌1498年の航海途上で亡くなるものの、セバスチャンはその遺志を継ぎ、1508年には北アメリカの東海岸を探検する。そこでは後のハドソン湾、ハドソン海峡を発見し、南北をなぞるようにフロリダまで達した。

しかし、父子ともども庇護を受けたヘンリー7世の死後、後を継いだヘンリー8世が出資に消極的であったためにイギリスでの活動を諦め、1513年に英国王の使節として赴いたスペインにそのまま移住。宮廷に仕えて主席水先案内人の地位を得る。1526年から翌年にかけては南アメリカのラプラタ川流域も探検したが、成果を挙げられずに帰国したためカルロス1世の怒りを買って投獄され、次いでアフリカへと追放された。1533年に赦免された後はイギリスへ戻り、「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands、モスクワ会社の前身で、レバント会社やイギリス東インド会社の先駆者)といった会社の総支配人や製図業者として北極海を通したロシア貿易航路探検隊や北東航路探検隊を組織し晩年を過ごした。


庇護したヘンリー7世と出資に消極的だったヘンリー8世、この2人の何が大きく違うかと言うと、カトリックとの関係である。
結婚離婚や世継ぎを巡ってローマカトリックと揉めて、イングランド国教会をカトリックから分離独立させたのが、ヘンリー8世(在位:1509-1547)である。
さらにアイルランド王を兼務するようになったのもヘンリー8世の時からである。
しかし再びイギリスとカトリックは近づいて行く。それが1700年後半。
シェルバーン家はアイルランド貴族となり重要な役割を果たす。


大航海時代に貿易でお金になったのは、鉱石、麻薬、お茶、絹や綿繊維、香辛料、奴隷(移民希望者)など。
シェルバーン家もアヘンと奴隷で儲けたが、それはつまりキャボット家がアヘンと奴隷で大儲けしたということでもある。
イギリスは清(中国)とアヘン戦争したことからも分かるように国家ぐるみでアヘンを輸出していた。
麻薬の素晴らしいところは中毒性があるところである。
イギリスは中国から物を買うのに銀で支払っていたけれども、「銀なんかいらん、頼む、アヘンで払ってくれ!」とかなんとか言われたらしいから、イギリスにとっては中毒様様である。

ロスチャイルド、イギリス東インド会社、ディビッド・サッスーン商会、ジャーディン・マセソン商会、ベアリング商会などが出資したのが香港上海銀行で、薩摩藩や長州藩にも資金や武器を提供した。
吉田茂が養子となった吉田健三はジャーディン・マセソン商会の商人(横浜在住)だった。

そんなに美味しい商品(麻薬)ならばと、アメリカからも参入(というか権益を分けて上げた)。その1つにラッセル商会がある。
ラッセル商会
19世紀に極東で著名であったアメリカ系の貿易会社である。主に上海に拠点を置き、横浜にも支店を置いた。主にトルコから中国への阿片の輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸入を中心に取引を行なっていた。
1824年、アメリカ合衆国コネチカット州ミドルタウン出身の事業家サミュエル・ラッセルにより広州で設立された。


アメリカのアヘン輸入専売会社であるラッセル商会は、アヘンと中国人奴隷の輸出入業社で、アヘン常用者の中国人苦力(クーリー)を奴隷としてアメリカに運んで鉄道建設などに従事させた。常用者なのでアメリカでもアヘンを欲しがる。当然アメリカにも入っていく。

キャボット家はこのラッセル商会にも出資していた。またフォーブス家(世界の富豪を発表しているあのフォーブスです)も出資していた。

ラッセル商会設立者サミュエル・ラッセルと従兄弟のウィリアム・ラッセルはピューリタン(清教徒)系大外のイェール大学で「スカル・アンド・ボーンズ」(Skull and Bones、S&B)も創設している。

Skull and Bones(S&B)
アメリカのイェール大学にある秘密結社。「The Brotherhood of Death」の異名がある。会員名簿は公開されている。ウィリアム・ハンティントン・ラッセルと、従兄弟のサミュエル・ラッセルが1832年に設立した。また彼らはラッセル商会とカルパーリングをも創設した。

構成員同士が協力し合いアメリカで経済的・社会的に成功することを目的としている。週に二回ニューヘイヴンのクラブストリートのはずれの窓のないクラブハウスで議論をするために集まる。なおイェ―ル大学には他に、「スクロール&キー」「ベルセリウス」「ブック&スネーク」「ウルフズヘッド」と呼ばれる結社が存在している。
アメリカの大学に複数ある排他的結社の一つで、入会に関する一切が不明であり、ただ大学の「新入生の中から15人選出される」のみが判明している。

 入会式に関しては、「新入生がドロレスをする」「棺桶に入り、初体験などを告白する」と言われる。入会者へは高価な振り子時計が送られ、卒業の際には1万6000ドルが送られるという。

 322という数字に意味を付けている。「新入生には、322のナンバープレートを盗ませる」「入会に際し、頭蓋骨と322が描かれ、リボンがかけられた黒い封筒が送られる」「デモステネスの没年であるBC322年を基本とし、会員(ボーンズマンと呼ばれる)はBC322年を紀元1年とするカレンダーを使う」などと言われている。

 これに関し、スカルアンドボーンズは元来ドイツの大学の学友会で、W・H・ラッセルが、在学中ドイツへ留学したおり、むこうの学生と深い親交を結び、帰国後、フラタニティの名前を「322番目の」学生結社とした、という説がある。 

2004年秋のアメリカ合衆国大統領選挙の2人の候補者である、ジョン・ケリー(1966年)とジョージ・W・ブッシュ(第43代アメリカ合衆国大統領。入会時は1968年)が2人ともS&B出身だった。また、ジョージ・W・ブッシュの父である第41代アメリカ合衆国大統領のジョージ・H・W・ブッシュ(1948年)や、祖父のプレスコット・ブッシュ(1917年)もS&Bのメンバーだった。

プレスコット・ブッシュはS&Bでハリマン家の息子ローランド・ハリマンと出会い、銀行家の道を歩み成功する。その後、二人はユニオン銀行の頭取と社長として、ヒトラーの資金援助者だったドイツの鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンと深い関係を築いていく。
歴代のCIA長官はボーンズマンが務めている。その他、ボーンズマンは金融、石油といった産業界の中枢だけでなく、国防総省、国務省などの政府機関にも存在している。

ボーンズマンen:Daniel Coit Gilmanは、en:Timothy Dwight V・アンドリュー・ディクソン・ホワイトの2人とベルリン大学へ哲学を学びに留学した仲間だったが、1856年にS&Bを Russel Trust Association として改組した。これはen:Russell Sage Foundationの前身である。


ブッシュ大統領は一般的にはS&B会員だったというよりキリスト教原理主義者(聖書重視の変わらない福音派でリベラルと対立する、プロテスタント)として有名である。


"Skull and Bones"という名称は儀式に頭蓋骨や骨を用いたかららしい。(なにせ秘密結社なので断定は出来ない)
それもアメリカ大陸の先住民であったアパッチ族の指導者のそれを利用したらしい。
ちなみにアパッチ族のアパッチはズニ族の言葉で敵という意味でフランス人が命名したもので自ら名付けた部族名ではない。(先住民同士でも敵味方があったわけですね)
アパッチ族
ヨーロッパからの移民(いわゆる白人)に対しても絶えず、強力で好戦的な部族であり、アパッチの有名な指導者として知られるコチーズ、マンガス・コロラダス、そしてジェロニモなどは、敵対したアメリカ陸軍やメキシコ陸軍から、獰猛な戦士、また熟練した戦略家として知られている。

こうしたことから"Skull and Bones"は有色人種撲滅を目指していたのではないかと言われることもある。
しかしながらイェール大学は反イギリス・反イングランド国教会のピューリタンがルーツにある。
確かに当初は反イギリス・反イングランドだったフリーメイソンやピューリタンが変異したことを考えれば、後の時代に出来た"Skull and Bones"はすでにカトリックやイギリスと繋がっていたと考えることも出来る。そこに秘密結社の背徳的な感じと奴隷問題などが相まって有色人種撲滅を想像しても不思議はない。
でもブッシュ大統領がキリスト教原理主義だったことから考えると、そういった組織だったとは考えにくい。
聖書の登場人物、ユダヤ人もアラブ人もアブラハムもモーゼもキリストもみな有色人種である。
だからアパッチ族の骨を使った儀式はむしろ獰猛な戦士・熟練した戦略家に肖ろうとするものだったのではないだろうか。
では"Skull and Bones"が思い描いていた敵は誰なのか?
イェール大学だけにイギリス?ロスチャイルド?リベラル派?カトリック?内紛的にアラブ人?イスラム?(ラッセルはトルコ産のアヘンを売り捌いていた。イギリス系は主にインド産)











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# by yumimi61 | 2017-05-29 16:11
2017年 05月 29日
日本国憲法の秘密-483-
押しも押されぬ世界的財閥となったロスチャイルドもロックフェラーも最初から財閥だったわけではない。
いいとこ200~300年の歴史。
ヴェネチアやスイスの金融の歴史はもっと長い。


ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争いである。
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた。
このハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。
ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。
ロスチャイルドは元々はヘッセン家の金庫番であった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)

■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイ家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)

1714年よりイギリスの王家がハノーヴァー出身となる。つまり反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)ということになる。
フリーメイソンは当初反イギリス・反イングランド国教会であった。つまり親カトリック。
アメリカに渡ったのは反イギリス・反イングランド国教会の教徒たち(ピューリタン)で、それはフリーメイソンとも深く関係していた。アメリカをイギリスから独立させた勢力とも言える。
啓蒙思想などを介してフランスのフリーメイソンにも応援を求めた。
それら勢力とアメリカで戦ったイギリス正規軍はヘッセン家(プロテスタント)が調達した。
一方イルミナティは親カトリック(親教皇)。ヘッセン家から破門された男爵が支援しており、神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)側に取り込まれ、反ヘッセン家(反プロテスタント)組織となった。


ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)
ハプスブルク家(カトリック)vsイギリス王家(ヴェルフ家・ハノーヴァー出身・プロテスタント)
         フリーメイソンvsイルミナティ   

右側サイドがやや劣勢に立つ。
そこに登場したのがナポレオン!ヨーロッパの王族や貴族は新しい敵を前に一致団結!!
この反ナポレオン勢力に資金を貸し付けたのがロスチャイルド家で、傭兵を貸し出したのがヘッセン家。
ナポレオンはカトリックの権威を利用しようとカトリックに近づく。
しかしナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
ナポレオン撃破に貢献したのはカトリックということで教皇の地位も上がりイエズス会は晴れて復活。
かつてカトリックに対立したヘッセン家は傭兵と郵便支配(ナポレオン戦争のドサクサに紛れてタクシス家を掌中に収めた)で大儲け。ヘッセン家の財産はロスチャイルドがロンドンに移し守ってくれた。
両者win-winで万歳!!


●イギリスの諜報活動担当:シェルバーン家

シェルバーン家はアイルランド貴族。
イングランドの君主(王)がアイルランドの君主を兼ねるようになったのが1509年から。
シェルバーン家は「伯爵」という爵位を1719年に与えられた(1期)。元はアイルランド議会の議員であった。
貴族は基本的に世襲だが国家功労者などに与えらえることがある。
最初のシェルバーン家(伯爵)は継承者なく一代で途絶えてしまう。
次にまたシェルバーン伯爵の称号が与えられたのが1753年(2期)。1期シェルバーン伯爵のにあたる人物だったとか。
1766-1768年に首相を務めたウィリアム・ピットもシェルバーン伯爵の配下の一人であった。戦争をしたがらないウォルポールを批判して台頭した。1766年にチャタム伯爵の称号を与えられる。
1757年から1761年にかけて第2次ニューカッスル公爵内閣で南部担当大臣を務め、七年戦争を実質的に指導し、インド亜大陸や北アメリカや西インド諸島などの植民地でフランス勢力を駆逐することに成功し、大英帝国の基礎を築いた。

※イギリスのシンクタンクである王立国際問題研究所(通称:チャタムハウス)はウィリアム・ピット一族所有の建築物である。
王立国際問題研究所と外交問題評議会(CFR)は姉妹機関。
"When a meeting, or part thereof, is held under the Chatham House Rule, participants are free to use the information received, but neither the identity nor the affiliation of the speaker(s), nor that of any other participant, may be revealed".
チャタムハウスルール (Chatham House Rule) とは、王立国際問題研究所に源を発する、会議参加者の行為規範である。チャタムハウスルールを適用する旨の宣言の下に運営される会議においては、当該会議で得られた情報を利用できるが、その情報の発言者やその他の参加者の身元および所属に関して秘匿する(明示的にも黙示的にも明かにしない)義務を負うというルール。このルールの適用により、参加者はその所属する組織への配慮や、発言が自らのものとして公表された際の影響を度外視しやすくなるため、進行中の問題や政治的な話題を取り扱う場であっても闊達な議論をもたらすとともに、情報の共有が促進されることが期待される。また、会議全体ではなく、その一部のみへの適用も可能である。このルールは、王立国際問題研究所において1927年に考案され1992年および2002年に改正されたものであるが、その適用は同研究所主催の会議等に限定されるものではなく、英語圏を中心に広く一般に用いられている。


なんでもかんでも出所(出典)を求めるなんてナンセンスですよね!?
それはともかく、シェルバーン伯爵の息子(2代目)もイギリスの首相を務めている(1782-1783年)。

イギリスの爵位
・公爵(Duke)・・・現在ならばウェールズ公チャールズやエディンバラ公フィリップ王配など。
・侯爵(Marquess)
・伯爵(Count)
・子爵(Viscount)
・男爵(Baron)
・準男爵(Baronet)
・騎士(Knight)

1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。
1714-1727 ジョージ1世
1727-1760 ジョージ2世
フリーメイソンはこの時代に創設されている。

シェルバーン家は、ヴェネチア、ジェノバ、ボストン、ジュネーブ、ローザンヌ、ロンドンなどを転々とし、アヘンと奴隷で莫大な富を築いた一家。
イギリス・フランス・スイスのイエズス会との関係を築き上げていて、フリーメイソンの上層部にいた人物でもあった。
シェルバーン伯爵は神秘主義(悪魔崇拝とも言われる)に魅せられていたという。
イエズス会が解散させられたのが1773年。
イルミナティはイエズス会が解散後のイエズス会の内紛をきっかけに1776年に創立されたとされている。(イルミナティ創設はイエズス会の中の親教皇派によるものではなかったということは前述した)
イルミナティ創設にはシェルバーン伯爵が関与していて、ここでプロテスタントのはずのイギリスとカトリックが明確に繋がり、さらにフリーメイソンとも繋がることになる。







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# by yumimi61 | 2017-05-29 00:32
2017年 05月 27日
Horn
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"For there is no good tree that brings forth rotten fruit; nor again a rotten tree that brings forth good fruit."

Beetle spends most of their time on rotting wood or in decaying leaves.

I'm not a bug!

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# by yumimi61 | 2017-05-27 23:57
2017年 05月 26日
日本国憲法の秘密-482-
【イエズス会について】

上智大学は学校法人上智学院のもとにあり、ローマ・カトリック教会に所属する男子修道 会の一つ、イエズス会が設立母体です。上智大学に隣接して建てられている聖 イグナチオ教会も宗教法人ですがやはりイエズス会の経営によるものです。

上智大学の使命は、カトリックの伝統とイエズス会教育の特徴を受け継ぐもので、「キリスト教ヒューマニズム」に基づく人間教育を中心に据えている。

<上智大学公式サイトより>

上智大学の他にも、聖心女子大学(美智子皇后出身校)、清泉女子大学などはイエズス会が設置母体となっている。
このイエズス会発の聖心女子大学と清泉女子大学に、ローマカトリック教会のシャルトル聖パウロ修道女会が設立母体の白百合女子大学を合わせた3校が東京都内でのお嬢様大学3Sとして有名。
3Sは全てカトリック系の大学である。
大学と聞けばすぐに偏差値を持ち出す人もいて、「そんなに偏差値高くないのにどうしてお嬢様大学なわけ?」とか言い出す人がいるけれど、お嬢様に偏差値は関係ありません!
日本の学校や教師はこうした宗教的背景のある学校であっても、生徒や保護者に信仰の有無や信仰している宗教を尋ねることもなく、もっと言うと世間における格式なども全く考慮せず、偏差値の妥当性だけで平気で薦めることが多々あるのだが、それはどうなんだろうと私は前々から少々疑問に思っている。
まぁいろんなことがどっちもどっち状態なんだろうけれども。

イエズス会は男子修道会であり、イエズス会系の学校も当初男子校であった。女子の入学が認められたのは1900年代以降が多い。上智大学が共学となったのは1957年。
イエズス会の初代会長を務めたイグナチオ・デ・ロヨラは「高貴な婦人に奉仕することが最大の理想であった」と後に告白したそう(下世話な話だけどマゾヒスティック?女王様・・)。
「高貴な婦人」が「聖母マリア」に投影されて、聖母マリアこそが理想の女性像になり、深い敬愛の念を抱いたんだとか(下世話な話だけれど処女性にサディズム?ジャンスカ的な?それともやっぱりセーラー服?)。
上智は元男子校だからあれだけど、イエズス会で最初から女子高というのは「高貴な婦人」=「お嬢様」=「奉仕されるべき女性」という発想なんでしょうね。

前記事にも書いたように1773年にイエズス会は教皇によって解散となった。
ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世(ロシア女帝)がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。また、プロイセン王フリードリヒ2世も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。

イエズス会が細々と生き残っていたのがロシアとプロイセン。
プロイセンは当時神聖ローマ帝国内の王国であった。
神聖ローマ帝国は、このプロイセンと、神聖ローマ帝国の皇帝を世襲していたハプスブルク家のハプスブルク君主国が、広い領地を保有していた。
その他に多数の中小領邦国があった。
プロイセン王国は現在で言うとポーランド、リトアニア、ラトビア、ベラルーシ、ウクライナの一部辺りがその領地。

1814年、教皇(ピウス7世、イタリア貴族出身) によりイエズス会の復興が許可された。
その前後に何があったかと言うと市民革命であるフランス革命(1789年勃発)と、それに続くナポレオン戦争である。
フランス革命はアメリカは独立戦争より10年ほど遅れて起こった。
神聖ローマ帝国はナポレオンとの戦いに敗れて1806年に崩壊した。
(しかしハプスブルク家は神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国を、第一次世界大戦の敗北まで統治し続けた。)

フランスの市民革命やナポレオン戦争、それは旧権威・権力(王族やカトリック教会)との戦いだったはずである。
これをもう一度思い出してほしい。

ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                           −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)

・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)


イギリスとカトリック、カトリックと反カトリック勢力(プロテスタント)を繋げたのは「蓄財は悪ではない」のカルヴァン、黒い貴族、ヴェネチア・スイス金融家である。

市民やナポレオンが旧権威・権力と戦うためにはかなりの資金が必要である。
先日私は「フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ金融家 に付け込まれるようになった」と書いたが、誰が新勢力に資金を提供していたのか。
そしてナポレオンに権威を与えるのは誰か。
それがヴェネチア・スイス系の金融家、カトリックのローマ教皇であるならば、フランスはやはり上記ラインに取りこまれることになる。


フランス革命は旧体制との戦いである。当然革命側とカトリック教会(及び反革命勢力)は激しいい対立に陥った。
それを収拾するために、1801年、ナポレオンとローマ教皇(ピウス7世)との間で修好協約が締結され、フランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係を修復した。
ナポレオンは自身が皇帝になったことことからも分かるように、市民がイメージする市民代表者ではない。
そもそも十分な資金がなければ大規模な戦争なんて出来ない。
1804年のナポレオンの皇帝戴冠式にはローマ教皇が出席している。
またナポレオンはカトリック盟主の神聖ローマ帝国ハプスブルグ家の娘と結婚している。
ナポレオンは自分の権威を確かにするためにカトリックを選んだのだ。
以後カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復した。

ナポレオンはカトリックを利用した。
1804年のフランス訪問で「ナポレオンに利用されている」と感じた教皇とナポレオンとの関係は急速に悪化し、ナポレオンが教皇領を接収するにおよんでピウス7世はナポレオンを破門。
1809年、ナポレオンはこれに応えてピウス7世を北イタリアのサヴォーナに監禁した。ナポレオン退位後、1814年にようやくローマへ戻った教皇を市民は歓呼をもって迎えた。


天才騎士だったナポレオンは多くの敵を作り、ローマ教皇とも持ちつ持たれつの関係になれずに(教皇はすでに権威者であったし古参者もいた)、一時代を終えることとなる。
大規模戦争であったからこそナポレオンは天才と形容されたとも言えるが、資金の調達などを考えると皮肉なことでもある。
時代が終われば、迫害されたローマ教皇というイメージだけが駆け巡り、強かったナポレオンが落ちた分だけ教皇の地位は逆に上がる。
イエズス会が復活したのはナポレオンが失脚した1814年のことである。
ナポレオンにとって痛手だったのはロシア遠征での敗北やプロイセンの参戦である。これが失脚に繋がった。
ロシアやプロイセンと言えばそう、イエズス会が生き残っていた地域である。
ヨーロッパ諸国にイエズス会が再び認められたのはナポレオンという新たな敵を倒した功績によるものだったのではないだろうか。

復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。
弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。


教皇不可謬説
カトリック教会において、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、正しく決して誤りえない」という教義のこと。

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アメリカ独立革命とフランス革命の双方において活躍し、「両大陸の英雄」(The Hero of the Two Worlds、le héros des deux mondes)と讃えられた人物がいる。フランスのラファイエット侯爵。
ラファイエット侯爵はベンジャミン・フランクリンの考えに共鳴し、1779年にはフリーメイソンへ加入している。フリーメイソンへの加入儀式を執り行ったのはアメリカ初代大統領となtったジョージ・ワシントン。
アメリカ建国に携わった人物はほとんどフリーメイソンだった。

ベンジャミン・フランクリン
父親はイギリスからアメリカに渡った移民。アメリカでは奴隷所有者であった。
父親にはイギリスで結婚したイギリス生まれの妻がいて一緒にアメリカに渡った。2人の間には7~8人の子供がいたが、妻は亡くなる。
ベンジャミンは妻の死後4か月後に再婚。さらに10人ほどの子供が出来た。(全部再婚した妻の子かは不明)
ベンジャミンはイギリス生まれの妻の子ではない。最後の方に出来た子である。

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。
個人崇拝を敬遠する
(?)アメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。

ベンジャミン・フランクリンは1730年にフリーメイソンに加入し、1734年にはグランドマスターとなる。
印刷業を営んでいたので発行物はお手の物。
図書館や学術協会を設立し、ペンシルベニア植民地議員や郵便総局長を務めるようになると、印刷業から引退し公職に専念しつつ啓蒙思想の普及に身を捧げるようになる。
1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルベニア大学)を創設した。
ベンジャミン・フランクリンは科学者でもあり、ロンドン・ロイヤル・ソサエティ(現存する最も古い科学学会、1660年にチャールズ2世国王の勅許を得て設立)の一員でもあった。
ベンジャミン・フランクリンはイギリスのトマス・ペインにアメリカへの移住を提案。これを受けて1774年にアメリカに渡った。
トマス・ペインはアメリカ独立戦争が始まった翌年の1776年1月に『コモン・センス』というパンフレットを発表、アメリカがイギリスから分離独立することが正当であることを簡潔に力強く訴えた。
このパンフレットがベストセラーとなり独立の気運が高まり、1776年7月4日にアメリカ独立宣言をする。(まだ独立戦争の最中で勝利したわけではない)。
ドイツでイルミナティが設立されたのは1776年5月のことである。

イギリスから独立すべきと煽ったのはイギリス出身者だった。
やはりフリーメイソンの当初の特色である反イギリス王(反ドイツ出身王)・反イングランド国教会がベースにあった。
そこに啓蒙思想や科学が取りこまれる。この橋渡しがベンジャミン・フランクリン。
後にフリーメイソンとイルミナティも結合する。

アメリカの自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物だったそうである。
自由の女神が左手に持っている独立宣言書には、アメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とフランス革命が勃発したバスティーユ襲撃の日である「1789年7月14日」がローマ数字で刻印されている。
またその足元にはかつてフリーメイソンのシンボルマークとともに以下のように記されているプレートがあった。
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AT THIS SITE ON AUGUST 5TH, 1884, THE CORNERSTONE OF THE PEDESTAL OF THE STATUE OF "LIBERTY ENLIGHTENING THE WORLD" WAS LAID WITH CEREMONY BY WILLIAM A. BRODIE, GRAND MASTER OF MASONS IN THE STATE OF NEW YORK. GRAND LODGE MEMBERS, REPRESENTATIVES OF THE UNITED STATES AND FRENCH GOVERNMENTS, ARMY AND NAVY OFFICERS, MEMBERS OF FOREIGN LEGATIONS, AND DISTINGUISHED CITIZENS WERE PRESENT. THIS PLAQUE IS DEDICATED BY THE MASONS OF NEW YORK IN COMMEMORATION OF THE 100TH ANNIVERSARY OF THAT HISTORIC EVENT.

(訳)この地にて1884年8月5日、「世界を照らす自由の女神」の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。
グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる。


1884年にフランスで仮組みし、それを幾つかに分解してフランス海軍輸送船でアメリカに運び、1884年8月5日に設置式典、1886年10月28日に除幕式が行われた。

ただ前述の対立するイギリスのフリーメイソン(グランドロッジ)とフランスのフリーメイソン(グランドオリエント)は1877年頃に公式に関係を断絶している。
従ってフランスに最初に出来た啓蒙思想に忠実なフリーメイソンではないと考えられる。
またフランスはナポレオン失脚後に王政復古し、15年後に7月革命(中流階級であるブルジョワ革命)が起きて、7月王政(立憲君主制、ブルジョワ支配、選挙権を持つ国民は1%に満たない)が18年ほど続き、王政が完全に終了したのが1848年のことで、1700年代のフランス政府と1800年代のフランス政府はかなり違いがある。
自由の女神にはフリーメイソンやイルミナティにとって何かと問題児だったフランスがやっと落ち着いたという意味もあったのではないだろうか。

なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、啓蒙時代のヨーロッパにおいて啓蒙思想の立場をとる団体が好んで使用したシンボルであり、フランス人権宣言(1789年)の上部にシンボルが描かれているのも、基本となる考え方が啓蒙時代の哲学的、政治学的諸原理に由来するためである。







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# by yumimi61 | 2017-05-26 11:50
2017年 05月 25日
日本国憲法の秘密-481-
カトリック教会に異を唱え宗教改革が起こった16世紀以降に出来た新しいキリスト教会(宗派)をプロテスタントと言う。
これを福音教会(福音派)とも言う。
教皇だとか誰か他の偉い人の言葉を信じて動くのではなく、聖書を唯一の神の言葉と信じる教会である。(万人司祭主義)
何故こんな考え方が生まれたかと言えば、カトリック教会が権威を振りかざし信徒の信仰心を利用してお金を吸い上げ腐敗していたからである。

当時改革派だった福音派(プロテスタント)も時代が進むと保守派と呼ばれるようになる。
それは科学の発達(科学信仰)によって、聖書に記されていることをそのまま受け入れることを拒否する人が現れてきたからである。
こうした聖書批判が行われたことによって聖書を信じない、あるいは聖書の記述をそのまま信じることは出来ない(新しい解釈なり変化が必要)という人も増えてきた。
このような立場を取る人達をリベラルと言ったりする。
しかし依然福音派を信じる人もいる。
特に近代主義や合理主義の先端を行くことを自負するアメリカにおいて、科学者が提唱した進化論、人工妊娠中絶や同性愛などを頑なに拒否する福音派の人達は「キリスト教原理主義」と非難や侮蔑の意味合いを持って呼ばれる。
共和党の支持基盤だと言われ、ブッシュ大統領の信仰心が有名である。
でも「キリスト教原理主義」(プロテスタント、福音派)はもともとはカトリックに対立した改革派であった。

宗教改革はドイツのルター(ルーテル派)が有名だが、同じ頃スイスのチューリッヒでも宗教改革が起こっていた。
指導者はフルドリッヒ・ツヴィングリ。
カトリック教会制度に疑問を感じはじめ、やがてルターと同じく聖書や信仰こそが大事であるという万人司祭主義をとるようになる。
しかしながらその他の点についてはルターとの一致点を見出せずルターとも対立した。

神父であることからも分かるようにルターは元々は熱心なカトリック教徒であった。
おそらく神学博士として聖書を研究すればするほど乖離するものが増えていったのだろうと思う。
そんなルターがカトリック体制に反旗を翻した。
なるほど説得力のある話である。

しかしルターは「95のテーゼ(95ヶ条の論題)」をラテン語で記述したのだった。
すでに述べたように1300年中頃の黒死病の大流行を経てラテン語は消滅しつつあった。
ラテン語を読める人などほとんどいない所にラテン語で掲示したというのだ。
神学博士ゆえのプライドか、ラテン語が消滅しつつあるにも係わらず公用語にしているローマ教会や何の疑問もなくローマ教皇やローマ教会を支持する無知な聖職者や修道士に対するアンチテーゼか。
それとも逆に神父であり博士であるが故の非常識さやバランス感覚の欠如がそうさせたのか。
いずれにせよ、その掲示だけで大きな反響と支持を集めることは困難である。


私はルターは利用されたのではないかと思っている。

(略)
こうしてローマ教皇は、東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)という4つの敵を抱えることになった。

しかし同時にヴェネツィアの地中海商業覇権がユダヤ人に変異をもたらした。
前に書いた「サタンは悪者ではない派」や「黒い貴族」が生まれたのである。
さらに事を複雑にするのがユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教を信仰すればユダヤ人になれるならば、ビジネスに成功したユダヤ人を見てユダヤ人になる(ユダヤ教に改宗・入信する)人もいるだろうと思う。
敵対関係にあって差別や迫害の対象になりやすいとはいえ、商いや金融においては「ユダヤ人」がブランド力になるからだ。
この変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったのではないだろうか。
つまりローマカトリックにとっては、味方のユダヤ人もいれば、敵のユダヤ人もいるという状態である。

その後、4つの敵の2つは消えていった。
東ローマ帝国、イスラム勢力、息を吹き返したローマ人(ラテン人)(後のノルマン人)、ユダヤ人(ユダヤ教)

一方、新たに反カトリックという敵が生まれた。
この反カトリック勢力と黒い貴族が近づいていったのではないだろうか。
変異したユダヤ人とローマ教皇が近づいていったように。
ルターは利用されたような気がする。

さらに、変異したユダヤ人と黒い貴族は起こり方が似ているので、この両者を近い存在だと考えれば、複雑な関係が浮かび上がる。
  ローマ教皇―変異したユダヤ人−黒い貴族−反カトリック勢力(プロテスタント)(聖書回帰)(ラテン語回帰)
                              −反カトリック勢力(ユダヤ教・イスラム教)



フルドリッヒ・ツヴィングリはチューリッヒで徹底的にカトリックに対抗し成果をあげていく。
そしてそれがスイス全土に広がりを見せつつあった。
スイスの州はカトリック派とプロテスタント派で武力衝突(スイス内紛)するようになる。(ドイツでも両者が武力衝突した)
その戦いの中でフルドリッヒ・ツヴィングリは志半ばで戦死した。
ツヴィングリの死後にその派閥に近づいたのが「蓄財は悪ではない」と説いたフランス出身のカルヴァンだった。
カルヴァンも蓄財を悪とした既成の教えを否定したのであるから改革派(福音派、プロテスタント)である。彼はジュネーブにいた。
ツヴィングリ存命時の勢いを失っていた反カトリックであるツヴィングリ派はカルヴァンの呼びかけに応じ合同信条を作成したチューリッヒ協定を結ぶことでカルヴァン派と合流した。
これが長老派教会となったのだ。
牧師と教会員から選ばれた長老とにより教会が運営されるため「長老派」と呼ばれる。主にスコットランドやアメリカに広まった。


ツヴィングリが生きている時には戦争をするほど反カトリックであった。
先日私は「長老派教会ほどカトリックと対立しなかったイングランド国教会」と書いたが、それはカトリックからの分離独立の過程が全然違うということなのだ。長老派の前史を指している。
カルヴァン派と合流して出来た長老派も一応プロテスタントである。しかしそれほど反カトリックだろうか。
上に再掲した文章がその答えのようなものである。
スイスの蓄財を橋渡しに融和した。そして反カトリックを隠れ蓑にした。

●カトリック
●プロテスタント(福音派・キリスト原理主義))⇔リベラル派
   ルター(ドイツ) ・・・ルター派(ルーテル教会)
   フルドリッヒ・ツヴィングリ(スイス) ・・・戦死。一応後継指導者がいたが勢いは失った。
                                           ↑呼びかけ ・・・カルヴァン派(長老派教会)
                                     カルヴァン(フランス→スイス) 




フリーメイソンは、反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリックの仲間が集った。
啓蒙主義のようにも見えるが、神や教会を否定しておらず純粋な啓蒙主義ではない。
クラブの資金はロスチャイルドが提供していた。

もうひとつイルミナティという秘密結社がある。(フリーメイソン創立から若干遅れて創立した。1700年代後半) こちらもロスチャイルドが資金提供。
これも前に書いたことがあるが、イルミナティは急進的な社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教、反王制を主張する結社であるが、その設立はイエズス会学者からの迫害が動機にあったという。
設立者はカトリックの支配下に置かれていたバイエルンのインゴシュタット大学の教授。
その大学に集められた学者はみなカトリック・教皇(イエズス会)の配下にあった。
イルミナティの創立者はイエズス会神学校に学び、インゴルシュタッド大学法学部に入学して、カトリック・イエズス会系の学者たちから教えを受けた。20歳で法学の学位を取り、若干24歳にして教授となった人物である。
どこからどう見てもイエズス会系の学者であった。何故にイエズス会学者から迫害されるのか?

イエズス会は宗教改革でカトリックが危機に陥った時に創立されたものだが、1769年に就任したローマ教皇によって解散に至った。
これは反イエズス会(反カトリックではない)だったヨーロッパの諸王室から強い圧力を受けたからと言われてる。
その解散命令が却ってイエズス会系の学者達を団結させ、非イエズス会の学者達に様々な圧力を加えるようになったそう。つまりイエズス会系学者が非イエズス系学者を迫害したというのだ。
イエズス会の庇護のもとに育ったイルミナティの創設者はこの頃に反イエズス会の思想に染まったという。


イエズス会を解散したのは他でもない教皇である。それを裏切られたと感じればイエズス会が反教皇になってもおかしくはない。
何が言いたいかと言うと、イエズス会にも「相も変わらず教皇信奉派」と「教皇に裏切られたと恨んでいる派」がいたのではないだろうかということである。(ルーツはどちらもイエズス会)
イエズス会派  ×教皇精鋭部隊派  〇「利権などを失い教皇に裏切られたと恨んでいる派」
非イエズス会派 ×精鋭部隊以外の信徒 〇「相も変わらず教皇信奉派」=反イエズス会


「イエズス会学者からの迫害が設立動機」と言うと一見もっともらしいのだが実は真相が相当ぼやける。教皇との関係もぼやける。
その上、社会改革思想を持つ結社で、自由と平等を唱え、反キリスト教や反王制を主張するとなると、フランスのフリーメイソンや啓蒙思想とも上手くいきそうな気配がある。
イルミナティはフリーメイソンに対抗してドイツで作られたと言うひともいる。つまりイギリス王(ドイツ出身)の周辺から始まったということである。

イルミナティの創設地であるバイエルンのインゴシュタット大学は、ドイツの州立大学であるルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン(Ludwig-Maximilians-Universität München)の前身。
この大学には現在、かつて強烈に対立したカトリックと福音主義、両方の神学部があるという。


・フリーメイソン(反イギリス王、反イングランド国教会、親カトリック)
・イルミナティ(反イエズス会≒親教皇、反王政)

両者はイギリスの在り方ひとつで結合できる。
イングランド国教会が親カトリックになり、イギリスが王政をやめればよいのだ。
(よくよく考えればすでにそうではないか!)と誰か気が付いたか。
とはいえ、この融和もやはりロスチャイルドやスイスの金融家が橋渡ししている。
逆にヴェネチアやスイスには反カトリックや反教皇、反王政という風潮が全くないわけではなかったが、それを上手く収めたのは黒い貴族出身のイギリス王家だったのではないか。
こうして両者は一体化した。
もっともそれを知っているのは上層部の一部の人だけだと思うけれども。

          
                 








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# by yumimi61 | 2017-05-25 14:06
2017年 05月 24日
rose
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# by yumimi61 | 2017-05-24 23:51
2017年 05月 23日
日本国憲法の秘密-480-
カトリック、イングランド国教会、イギリスの王政と首相誕生、ピューリタン(反イングランド国教会)、市民革命、啓蒙思想、アメリカ植民地、旧約聖書(ユダヤ教)、アメリカ独立。

啓蒙思想やフランス革命、アメリカ独立に関係してくるのがフリーメイソンである。

フリーメイソンは元々は建築関係者の組合(職人団体)であった。
その当時建築職人の地位(評価)は比較的高かった上に、技術の伝承していかなければならない故、秘伝的な要素もあり、また厳しい掟も存在した。
現在に続くフリーメイソンはもちろん職人団体ではない。同じ名称を語った社交クラブである。
1700年前半にイギリスで誕生した。それはちょうどジョージ1世と、その息子ジョージ2世が王だった時代である。

フリーメイソンの信条(会員規定)の要約 ・・・メイソン版聖書
メーソンは、人に博愛と親切心を実行すること、貞操を守ること、血縁と友を尊敬すること、宗教の信条を受け入れ教義に従うこと、貧しいものを支えること、盲を導くこと、足の不自由なものを支えること、孤児に宿を貸すこと、祭壇を護衛すること政府を支持すること、道徳を教えること、学びを普及すること、人を愛すること、神を畏れること神の慈悲を請い幸福を望むことを教える(ラインは私によるもの)

フリーメイソンには神(宗教)への尊崇義務が存在した。但しその神(宗教)を公に特定はしていなかった。
啓蒙思想は王政や教会といった古い価値観を否定したものである。
よってフリーメイソンと啓蒙思想も相容れないはずなのだ。
そこで注目するのが「政府を支持すること」という信条。
このことからフリーメイソンは王政や教会という古い価値観(旧体制全般)を否定したのではなく、「王」を否定したのではないかと推測できる。
つまり首相や議員周辺で始まり広まったのではないだろうか。
フリーメイソンに集ったのは民衆ではなく比較的上流にいた人達である。
反王政と言うことになれば、王が頂点にいるイングランド国教会だって肯定は出来ないであろう。
逆を言えば、それ以外の宗教は容認できるということである(要するにカトリックはOKなのだ)。
「教える」が信条のメインなので啓蒙思想のようであるが、宗教や政府を否定していない。
カトリックの「代理人」になったといった感じだろうか。


これに対して神(宗教)までをも否定したのがフランスで最初に作られた(1733年創立)フリーメイソンだった。
神(宗教)への尊崇義務を会員規定から撤廃し、政治的な会話をすることも禁じた。
これがイギリスのフリーメイソンとの確執を引き起こす原因となった。
フランスという国(一応カトリック国)はなかなか複雑である。
フランス最初のフリーメイソンには上流階級と中流階級に分かれた派閥があった。
1765年に派閥が衝突して中流階級が上流階級を追い出すことに成功。
追い出された上流階級派閥は別のグランドロッジ(グランドオリエント)を設立。これがさらに啓蒙思想に忠実な無神論的な組織となる。(もちろんカトリックもNOである)
残ったはずの中流階級ロッジは発展なく消滅してしまう。
フランスのフリーメイソンは庶民でも会員になれた。

しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの系統から構成されるといわれている。
英連邦メイソンとそれに連なる管区(グランドロッジと呼ばれる)の伝統、そして
欧州大陸系の大東社とそれに連なる管区の伝統(グランドオリエントと呼ばれる)である。




宗教と関係しているのがお金。
キリスト教(カトリック)は個人の蓄財を悪しきこととして認めていない。お金持ちは救済されない。天国へ行けない。そんなにお金があるならば教会に寄付しなさいと言うわけである。(そんなカトリック教会は当時腐敗していた)
ところが宗教改革で蓄財は良いことと言った人物がいた。
フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンである。
物事を比較する時には基準がないといけない。
基準もなく神に選ばれし人物かは分からないではないか。基準はお金である。お金が貯まる人は神の恩恵を受けている人であるから神に選ばれた人なのだと説いた。
お金や蓄財は悪である、欲にまみれている、汚い、人間を堕落させる、そう教えられ思い込んできたのに、そうではないと言う。
人々は神の救済を願い、また選ばれた人になりたいがためにお金を貯めるようになった。
目的は物を買うためではない。だから貯めたお金は出て行かない。
こうしてヨーロッパには銀行が続々誕生しお金が集まり資本となった。

銀行がお金を貸すのは王族や皇帝である。戦争なんかすると莫大な費用がかかる。貸し付ける額が違う。
大金を貸すからには土地や建物など担保をとっておく。返せなければ金貸しに渡るということ。
金融家の中には貴族の称号をもらった者もいた。(黒い貴族などと呼ばれる)
当時は貿易の要であったヴェネチアに本部を置く銀行が多く、ここで育った金融家がこぞってスイスに移ってスイスは金融立国となった。
カトリック教会や王族・皇帝が保有していた権威や権力や不動産をお金で絡め取った。
(思想や信条ではなく金融業で成り立っているのでその利害によってOKにもNOにもなる)



17~18世紀のイギリスとフランスは海上覇権や貿易利権などを争って対立関係にあった。
1700~1815年の115年の間のおよそ半分60年間は戦争状態であった。
1756~1763年の七年戦争(アメリカではフランス・インディアン戦争)では、北アメリカとインドの両植民地でイギリスとフランスが戦いフランスが破れて、フランスは植民地を失った。
1775~1783年がアメリカ独立戦争。アメリカの独立にもフリーメイソンが関与していると言われている。

コロンビア大学の設立は1754年。
おそらく最初の教授サミュエル・ジョンソンはイギリスのフリーメイソン系の人物だったのだろう。
反イギリス王(反ドイツ出身王?)、反イングランド国教会、反フランス、親カトリック、これで辻褄が合う。
アメリカはこの流れを汲んだ国であると言うことだ。



1714年にイギリスの王はスコットランドの家系からハノーヴァー(ドイツ)の家系へと移った。王朝が変わったのだ。
ハノーヴァー朝の最初の王がジョージ1世である。
フリーメイソンが正式に発足したのはこの時代で発祥はイギリスのスコットランドと言われている。
ちょうど王朝の変化に重なるようにして誕生し発展した。

イギリス王家となったハノーヴァー(ドイツ)の家はヴェルフ家である。
中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。初期中世バイエルンに発し、その分家がユーラブルグントの王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その跡を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。

中世の神聖ローマ帝国はカトリックの教皇と結びつきが強い。どちちが偉いかで教皇と皇帝で揉めたこともあったけれど、両者は持ちつ持たれつで権威者になったので基本的にはセットな関係であった。(神聖ローマ帝国皇帝は主にハプスブルク家が継承した)
ヴェルフ家から唯一皇帝となったオットー4世の母方の祖父はイギリス王のヘンリー2世であり、オットー4世は幼少期をイギリスで過ごしている。
帝位争いをする頃にはカトリックの教皇とは味方になったり裏切ったりを繰り返し、神聖ローマ皇帝になった後の1210年にとうとう教皇から破門を宣告されるに至っている。

イギリス王を輩出したハノーヴァー王家は分家だった。
オットー4世の弟・リューネブルク公ヴィルヘルムの子オットーは、子のないオットー4世の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。14世紀にはヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世がルクセンブルク家のヴェンツェルの対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグストが選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。


王朝名の改称はしているものの現在のウィンザー家もこの家系である。
ジョージ1世がイギリス王になったことはカトリックにしたらおもしろくないであろう。
オットー4世がカトリックローマ教皇から破門された上に、イギリスもカトリックから分離独立してプロテスタントに属することにした国である。
フリーメイソンにはカトリック、特に教皇精鋭部隊と言われるイエズス会が関係しているはずである。
フリーメイソンに資金提供していたのはやはりロスチャイルドだった。
そしてそのロスチャイルドにもバックがついているらしい。


また話がややこしくなるが、ヴェルフ家は一度断絶しており、新ヴェルフ家は実は黒い貴族(ヴェネチアの金融家出身)なのではないかという噂がある。
だからこそイギリスは大英帝国として繁栄を極めることが出来たのではないか。
要するに黒い貴族出身のヴェルフ家が王に就いたイギリスは、ヴェネチア・スイスルートのコネクションの恩恵を受けられたのではないかということである。







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# by yumimi61 | 2017-05-23 16:04
2017年 05月 22日
日本国憲法の秘密-479-
(He) was a key figure of the American Enlightenment.

1754年に創立されたコロンビア大学の最初の教授サミュエル・ジョンソンはイギリスからアメリカに渡ったピューリタン(清教徒)の家系であり、牧師の補佐をしていた祖父の影響から自身も厚い信仰心を持っていた。
そのサミュエル・ジョンソンがアメリカ啓蒙思想(主義・運動)の重要人物(黒幕)だった。

啓蒙思想(英: Enlightenment, 仏: Lumières, 独: Aufklärung)
理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して、啓蒙主義とも言う。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」である。自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。

時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近代哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学(倫理学)、文芸活動などを指すことが多い。17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代と言う。


ヨーロッパでは、ゲルマン民族の進出拡大によってローマ帝国が崩壊し、新しくヨーロッパ大陸に拡がったゲルマン民族とともに権威を高めたイエス・キリストを神とするキリスト教(カトリック)が支配した時代を中世と呼ぶ。
ホスピスのルーツのところでも書いた

しかしやがてその蛮族であるゲルマン民族はヨーロッパ全土に広がり各地を支配するようになる。
西ローマ帝国の滅亡からゲルマン民族がヨーロッパを支配した時代までを「中世」と言っている。
中世は「暗黒時代」とも言われる。
何故暗黒時代なのか?
ゲルマン民族の支配によって古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退・停滞したからだという。
知的でもアカデミックでもない馬鹿な体育会系というような感じに思われていたのではないだろうか。
史上最大とも言える広大な帝国を作り上げたモンゴル帝国の遊牧民なんかも同じように思われていたかもしれませんね。(巻き込まないでくれ?)
ヒトラーやナチスはゲルマン民族の優位性を信じていた。(ヒトラーがゲルマン民族だったかどうかはともかくとしてゲルマン民族にはヨーロッパを支配したという動かぬ実績がありますからね)
ユダヤ人に「馬鹿な体育会系」と言われたことに憤慨したのか(そんなこと言ってませんよ?)、ナチスはオリンピックに力を入れ、青少年団体の加入を義務付けた。やがてこれがドイツの兵力を支えていく。

近代キリスト教・カトリック(あえて近代と言う)は、このゲルマン民族の大移動とともに拡大していき、ゲルマン民族が支配者になることでその地位を動かぬものにしていったのである。
つまりカトリックとゲルマン民族は切り離すことが出来ない。中世・暗黒時代の主役はカトリックとゲルマン民族なのである。


中世は輝かしいルネサンス時代の到来をもって終焉を迎えた。
輝かしいルネサンスとは何か?
ルネサンス(仏: Renaissance)は「再生」「復活」を意味するフランス語であり、一義的には、古典古代(ギリシア、ローマ)の文化を復興しようとする文化運動。

宗教改革も同じ時期であり、1500~1600年代(14-15世紀)頃。それによりカトリックは窮地に陥り、プロテスタントが興った。
大航海時代は1400~1600年代(15-17世紀)。
こうして世界の中心はヨーロッパ本土からイギリスやアメリカに移っていくことになる。


啓蒙思想とは、科学的・合理的・批判的精神に基づく思想。
王政やキリスト教に代表される旧来からの権威や思想を徹底的に批判した。
すなわち「反体制」と言えよう。

そんな反体制である啓蒙思想の原義はヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」だそうである。
そこで言葉の意味についてもう一度考えてみたい。

「啓」は、開く、開放する、申し上げるなどの意味がある。
「蒙」は、受ける、被る、覆い隠す、(道理などに)暗い、愚か、無知などの意味がある。ちなみにモンゴルの略称(漢字)は「蒙古」であり、この字が使われている。
「啓蒙」ならばやはり「無知から開放してやる」「本当のことを教えてあげる」みたいな意味がありそうである。

辞書には次のようにある。
▶啓蒙
 (名詞)《「啓」はひらく、「蒙」はくらいの意》人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。

▶enlightenment
 1不可算名詞  a教化(すること), 啓発. b【仏教】 悟り.
 2[the E[N16-A12A]] 【哲学】 (18 世紀のヨーロッパ,特にフランスでの合理主義的)啓蒙運動.
 [ENLIGHTEN+‐MENT]

▶enlighten
 (動詞)啓発する、教化する、疑いを解く、(…に)教える、教える、明らかにする


啓蒙思想のベースにあるのはどうやら「教える」ということのようだ。
注目したのは英語enlightenmentという単語。
この単語は次のように分解が出来る。
en light en ment

mentは、~するもの(こと)、~させるもの(こと)、といった意味。
lightは光。
enは次のように使うことがある。

1名詞につけて「…の中に入れる」の意の動詞を造る.encase, enshrine.
2名詞・形容詞につけて「…にする,…ならしめる」の意の動詞を造る 《★この場合さらに接尾辞 ‐en が加わることがある: embolden,enlighten》.

まとめると、enlightenmentという単語は光にならしめる(外部の力で輝かせる)ということである。
「ならしめる」は外力によって「~にさせる」こと。
自発的あるいはすでに内包しているものは「たらしめる」である。私を私たらしめる、僕を僕たらしめる。

そう考えると上記のこの説明には矛盾がある。
自然の光(ラテン語: lumen naturale)を自ら用いて超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促すという意味。

啓蒙思想とは、神や先人(旧来からの体制)の教えに盲目的に従うのではなく、自分で納得するまで論理的に思考することなのだ。盲目的でないことは確かに大事かもしれない、そこまでは良しとしよう。
がしかし、物事を考える時(何かを評価する時)には基準が必要である。
先日お金の話でもこう書きました。
各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、貿易がコントロールできないし、国際比較も不可能となる。
多種多様なものを客観的に比較する時には何か軸となるものが必要である。そしてそれはやはり普遍的な価値が相応しい。


啓蒙思想の基準も普遍・不変である。言い換えると正しいものは普遍・不変・法則ということである。
「自分の頭で自ら考えて’普遍・不変・法則’を探しなさい」「普遍・不変・法則こそが最適・妥当なものです」というのが啓蒙主義。これを理性や常識とも言う。
普遍・不変・法則から外れようものならば狂気や狂人と呼ばれる。
だけど自分で探しなさいと言っても無知ならば探しようもない。だから予め「普遍・不変・法則」を教えておく必要がある。
一般大衆に広く教育を施すことによって無知から脱却できて貧困も解消されると主張してそれを実践した。
この考え方が公教育(義務教育)に繋がっていく。
結局自発は在り得ないというか自発ではない。嫌と言うほど「正しさ」を刷り込んでおく。「答え」を教えておくのだ。
自分で考えているようでそうではない。一種の洗脳である。
正しいこと(教わったこと、答え)は何だったっけ?と思い出しているに過ぎない。ペーパーテストなんかまさにそうだろう。どれくらい洗脳が進んでいるかの確認作業である。
例えば「江戸朝」だって間違いではない、むしろそのほうが当たっていても、「江戸幕府」と書かなければ×を付けられて点数にならない。
年齢を重ねれば「そんなのでは’良い学校’には進めませんよ」tと脅される。
いや、もう十分洗教育れているので、脅されなくても自分の頭で(江戸朝って書いたら×にされるな)(こんなことを書いたら良い学校に進学できなくなる)と判断して妥当なことをするのだ。
「人類の月面着陸はなかった」とか「あれは原爆じゃない」なんて言ったって狂人扱いされ村八分になるのがオチ、仮に自分の頭で考えてそう思ったとしてももう口になんか出さない。
啓蒙思想は広く浸透している。
(それなのにホロコーストを否定する発言は法的に取り締まらなくてならないということは、答えに相当揺らぎがあるということでしょうか?)
(また人間の記憶は万全ではないため教えられたことを覚えられなかったり思い出せない人が多数いるのも事実)


正さや答え(普遍・不変・法則)を多くの人に、それこそ異端児がでないように、与えなければならないわけだから、それを与える人にはやはりそれなりの権威が必要である。
多くの人がはははははーと跪かなければならない。その昔、跪くという動作は神に祈りを捧げることに他ならなかった。今でもイスラムの人達がやっていますね。
多くの人を跪かせる、すなわち多くの人が「あの人は上の人だから間違うはずがない」と認めて異を唱えない状態を作り出さなければならない。
その役割を担っているのが高等教育。啓蒙させるための先生育成。何か特別な感じの大学。ノーベル賞などの賞。
メディアが効果的に使用される。
権威は高ければ高いほど多くの人を網羅できる。旧来の神といったい何が違うのか?


そういえばコロンビア大学のモットーも旧権威のはずの聖書からの引用である。

大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(我らは汝の光によりて光を見ん。)を元にしている。


「我らは汝の光によりて光を見ん」は、あなたの光が眩しすぎて私が光っているのが見えない!ということではなくて、私たちは汝の光(神の英知や慈愛)によって光(希望など)を目にすることが出来るという意味。
啓蒙思想とは程遠い神あげ。しかも旧約聖書からの引用である。
よく旧約聖書がカトリック、新約聖書がプロテスタントと誤解している人がいるが、旧約聖書や約束の地の時代で、イエス・キリストの時代が新約聖書。キリスト教は後発。
カトリックとプロテスタントどちらもが新旧聖書を聖典としているが、歴史的背景を考え合わせれば、旧約聖書がユダヤ教で新約聖書がキリスト教と言うのが一番しっくりくる。

カトリック、イングランド国教会、イギリスの王政と首相誕生、ピューリタン(反イングランド国教会)、市民革命、啓蒙思想、アメリカ植民地、旧約聖書(ユダヤ教)、アメリカ独立。
この関係性をどう考えればよいのだろう。




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# by yumimi61 | 2017-05-22 13:21
2017年 05月 21日
日本国憲法の秘密-478-
ロックフェラー家はアメリカの石油事業でアメリカ有数の財閥に伸し上っていった。
そしてニューヨークの大地主にもなった。
ニューヨーク・マンハッタンのロックフェラー・センター、その場所はもともとコロンビア大学が所有していた土地であった。

アメリカでの原爆開発はコロンビア大学から始まった。
ではそのコロンビア大学はどんな背景を持っているのだろうか?
コロンビア大学
イギリス植民地時代(1754年)に英国国王ジョージ2世の勅許によりキングスカレッジとして創立され、全米で5番目に古い。
世界屈指の名門大学としてノーベル賞受賞者を101名輩出するなど全世界から多くの優秀な研究者、留学生が集まっている。卒業生はあらゆる分野の第一線で活躍しており、これまで34名の各国の大統領・首相や28名のアカデミー賞受賞者等を輩出している。最近の著名な卒業生は米第44代大統領バラク・オバマ。

大学のモットーは、"In Thy light shall we see the light"("In lumine Tuo videbimus lumen")。旧約聖書・詩編36編9節(Psalm 36:9)の"in thy light shall we see light"(我らは汝の光によりて光を見ん。)を元にしている。



イギリスの植民地だった時代にイギリス王によって創設された学校、つまりイギリスの価値観を反映した学校であろう。
現在イギリスは君主を長とするイングランド国教会(聖公会)の国である。
かつてはそのイングランド国教会もカトリックに属していた。ローマ教皇の下にいたわけである。
しかし1500年代のヘンリー8世王の時に自身の結婚や後継ぎの問題などでカトリックの掟と折り合いがつかずカトリックから分離独立した。要するにイングランド国教会はプロテスタントという位置づけとなった。
そのためイギリスではこの辺りからカトリック信仰者が君主になることは難しくなってきた。

以前私はイギリスの君主について書いたことがあり、その一覧の中にジョージ2世も当然含まれているが特筆はなし。
今日はせっかくなのでこんなエピソードを紹介しておこう。
ハノーファーで生まれる。10歳の時、母ゾフィー・ドロテアが、スウェーデン人のケーニヒスマルク伯と不倫をして、父と離婚させられた上、死ぬまでアールデン城に幽閉されるというショッキングな体験をした。この時以来、母と会うことは許されなかった。ゲオルク・アウグストは母に対してこのような仕打ちをした父を憎むようになり、その不仲は終生続いた。

ハノーファー(ハノーヴァー)は現在のドイツ北部にある街。
■ハノーヴァー朝(1714-1901)   
ドイツ起源の王朝。
ドイツのヴェルフ家の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であった。
1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。
アン女王が子供に恵まれず、且つ宗教的理由(カトリック忌避)によってドイツの家系に王位を継承した。
※ハノーヴァーはハノーファーとも言う。

ジョージ1世
ジョージ2世
ジョージ3世
ジョージ4世
ウィリアム4世
ヴィクトリア女王



現在のウィンザー朝(ウィンザー家)もドイツ起源のハノーヴァー朝の流れを汲む。
第一次世界大戦中の1917年に敵国ドイツの名称を避けてイギリスのウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称した。ウィンザーが姓にもなった。
このウィンザー家まで君主たるものに姓はなかった。何故君主に姓がなかったのか?
それは自分の家だけが潤えばよい家業ではないからである。
〇〇〇朝(朝廷)は「私」ではなく「公」の場。国の政治などを指揮する場所・機関のことである。
テューダー朝、ステュアート朝、ハノーヴァー朝、サクス=コバーグ=ゴータ朝など。
奈良朝、平安朝と同じ。


君主はその場所の、引いては国の最高責任者。
その最高責任者は基本的には世襲にてバトンタッチされた。しかしながら後継者がいない場合などには世襲ではないこともあった。この場合には最高責任者を引き受けてきた家が移り朝廷名も変わる。
引き受け手がおらず立候補すれば誰でもがなれるという状況でもPTA会長や役員決めは苦労するという世相からも分かるように(大した恩恵もなく労が多い)「最高責任者」なんてそんなに魅力あるものではない。
引き受け手がいないのは困るので世襲で覚悟させるというのは1つの手段であろう。(逆を言えば引き受け手が数多ならば世襲である必要もないということになる)
最高責任者なんて本来それくらい敬遠されるものなのに欲が絡むと途端に社会的地位の高さを示すステータスシンボルとなる。
それだけ恩恵に与る最高責任者が存在するということだろうか。

「公」の場と「私」の場をあえて混同させたのが「ウィンザー朝」「ウィンザー家」。
公私混同か、それとも朝廷が国を率いる場所ではなくなり君主が最高責任者でなくなったという実態に合わせて「私」に走ったということなのか。

日本では天皇以外が最高責任者だった時代を幕府と呼んで分けているが、最高責任者がいる場所を朝廷とするならば別に鎌倉朝でも江戸朝でも良かったはずである。
でもそれは譲らなかった。

(初めての武家政権と言われる鎌倉幕府)当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではなく、朝廷・公家は関東と呼び、武士からは鎌倉殿、一般からは武家と称されていた。「吾妻鏡」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、明治20年以降とされる。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の林屋辰三郎は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。



ジョージ2世の時代を一言で表せ「君主が最高責任者でなくなった時代」と言えるかもしれない。

父が即位して王太子になったが、父との不仲は解消されず、1717年に宮廷から追われレスター・ハウスに居住、政府に不満を抱く野党の集合場所となり、父が亡くなるまで関係は修復されなかった。

1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承した。
その治世の前半は、先王より続いていた第一大蔵卿(事実上の初代首相)ロバート・ウォルポールの長期政権の時期に相当する。ジョージ2世は始め父の側近だったウォルポールを信用せず、自分の側近である下院議長スペンサー・コンプトン(後にウィルミントン伯)を政府首班に据えようとしたが、コンプトンが無力であったことと、ウォルポールが王室経費を増額させた上で下院に認めさせると、王妃キャロラインの勧めもありあっさりウォルポールを信用するようになった。

こうしてジョージ2世はウォルポールとキャロラインの助言によりイギリスを統治することになり、この時代はウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリスにとっては平穏な日々が続いた。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅を与えたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった。

ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する1737年までたびたび摂政を務めた。


世襲で国の最高責任者という大役を継承せざるを得ないのに、父親とは個人的な理由によって不仲であった。その父への感情は「公」と「私」と切り離して割り切ることが出来なかった。
さらにハノーファーとイギリスという2つの国の最高責任者である。力は分散せざるを得ない。
イギリスではそんなジョージ1世・ジョージ2世の時代に「首相」が誕生した。


初代首相ウォルポール
彼はカトリックの君主を認めない派のホイッグ(党)に属していたが、反カトリックである長老派教会ほど反カトリックでもなかった。それはそのままイングランド国教会の特色と言い換えることが出来る。
ホイッグ党の起こりはイングランド王チャールズ2世の時代の1678年から1681年にかけての王位継承問題でカトリックであったチャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の即位に反対の立場をとった人達をさして"Whiggamore"と言ったのが始まりである。Whigはスコットランド方言の「馬を乗り回す」から来ていると見られる。

どちらかに偏り過ぎないファジーさゆえに宗教対立が顕在化しなかった。
また彼の出自は貴族(男爵)ではないが地主であり貧しい層ではない。上か下かで分ければ上であるが、上からも下からも激しい拒絶感が少なかった。
またとても現実的であり、外交面では議会の不安定化(自分に不利になること)を嫌って戦争回避の平和外交に努めた。

ウォルポールは良くも悪くも現実主義者であり、理想が高じて冒険的政策をとったり好戦的態度を取るということがなかった反面、金権政治に罪悪も感じなかった。平和外交家だったのも「戦争=悪」という抽象的理念からではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいている。

でも実際にウォルポールの権力が強化されたのは政敵を巧みに排除ないし封じ込めたためであった。また言論弾圧や言論統制も行った。
一方で自分に有利とあれば官職を餌にして取りこんだりもした。
ウォルポールの20年に及ぶ長期安定政権はイギリスを商業国家として躍進させ、後の大英帝国の基礎となったと評価されている。他方、総選挙の度に政府機密費を流用して買収・接待に励んだため、金権政治をもたらした人物との批判もある。

ウォルポールが求心力を失ったのはスペインとイギリスの戦争である「ジェンキンスの耳の戦争」がきっかけ。スペインはカトリック国である。
ウォルポールは戦争に乗り気でなかったため、戦争指導に主導的役割を果たさず、それが彼の政治指導力の低下を招いた。また戦費の捻出のために土地税増額も余儀なくされ、ウォルポールの地主懐柔策が破綻した。



上にも書いたようにコロンビア大学はジョージ2世王の王立憲章に基づくキングスカレッジ(イギリス王立大学)として創立された。(アメリカ独立後に私立となった)
最初はイングランド国教会の教会(ニューヨークのトリニティ教会)で少数の学生をサミュエル・ジョンソンが一人で教えていた。
サミュエル・ジョンソンとは1700年代のイギリスの文壇の大御所のサミュエル・ジョンソンではない。
コロンビア大学のサミュエル・ジョンソンはアメリカのコネチカット州にあったイギリスの植民地(ニューヘイブンコロニー)生まれ。
彼の母はニューヘイブンコロニーの創設者の孫にあたる人物であり、迫害された原住民ではなくてイギリスからの移民だったわけである。
彼は教会執事(牧師の補佐役)だった祖父の影響を受けて育っており厚い信仰心を持っていた。

しかし少々おかしいことがある。
コネチカット州の植民地はピューリタン(清教徒)が住み着いた場所である。
ピューリタンとはイングランド国教会を非難して改革を唱えたキリスト教グループ。プロテスタントに含まれる。
市民革命の担い手にもなった。
逃れるようにアメリカに渡った、いわば反イングランド国教会、反イギリスなグループである。
サミュエル・ジョンソンは(現在の)イェール大学でピューリタン神学を学んでいる。
そして牧師となり教育者(哲学者・言語学者・歴史学者など)となった。

イェール大学もピューリタンによって創設された大学である。
ニューイングランドの植民地で最初に清教徒会衆派によって創設されたハーバード大学が堕落してしまった(つまり、「リベラル」になってしまった)と考えてハーバード当局に反旗を翻した会衆派の人々により創設された(ちなみに、後にイェールも堕落してしまったと考えた人たちがプリンストン大学を創立する。プリンストン大学総長は初代から第3代までイェール出身である)。現在に至っても、「リベラル」であるとされるハーバード大学と比較して保守色が強いと考えられている。

イングランド国教会の長である王が創立した学校なのに、イングランド国教会を非難したピューリタンが先生をしているなんて・・・。

He was a major proponent of both Anglicanism and the philosophies of William Wollaston and George Berkeley in the colonies, founded and served as the first president of the Anglican King's College (the predecessor to today's Columbia University), and was a key figure of the American Enlightenment.





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# by yumimi61 | 2017-05-21 15:23
2017年 05月 20日
Mark
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# by yumimi61 | 2017-05-20 23:53
2017年 05月 19日
日本国憲法の秘密-477-

1865年、香港上海銀行設立。
フリーメーソンによる植民地協会(英国王室の後ろ盾)によって植民地香港で設立された。
植民地での利益を本国へ送金するほか、清に融資したり外債発行を担当した。
サッスーン商会、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルドなどが出資者。麻薬と紅茶に関係あり。サッスーンは後にロスチャイルド家と縁戚関係となる。

1866年、香港上海銀行の日本支店を横浜に設立。
その後も神戸、大阪、長崎にも次々に支店を開設した。日本政府の貿易金融政策の顧問業務を担い、大阪造幣局における金銀通貨の造幣にも協力した。横浜正金銀行(後の東京銀行→東京三菱銀行→三菱東京UFJ銀行)がその体制を作る際には、香港上海銀行がモデルとなったし、香港上海銀行も支援した。

 ⇒倒幕の際に長州藩や薩摩藩に資金援助したのは香港上海銀行だったと思われる。
  新政府以後は融資や外債発行などを担当した。日本の借金に最初から深く関与している。
  
1868年は明治元年。

1870年、ドイツ銀行設立。設立指導者(取締役)にジーメンス社創業者の叔父がいた。
1874年、ジーメンス社の設立。以後急成長しジーメンス財閥を形成。

1874年、日本では小野組が倒産し、古河市兵衛が官営鉱山の払下げを受け、古河本店(現:古河機械金属)を設立した。その2年後に三井銀行が開業。

1876年、ドイツ銀行が国内最大銀行となる。
ドイツ銀行は国内外に出資して勢力を拡大していく。
またジーメンス社のジーメンス兄弟も次々と世界初の発明を成し遂げる。また単なる原理を実用化することにも長けていた。
ジーメンス社のジーメンスは経営者としてだけではなく技術者(発明家)としての顔を持っていた。
発明王と呼ばれるエジソンの発明はジーメンスの発明を応用したものがかなりある。エジソンは発明家というか応用力に優れていたのかもしれない。

1883年、ユダヤ人実業家・エミール・ラーテナウ(ドイツの政治家ヴァルター・ラーテナウの父親)がエジソンの技術を利用する権利を得てドイツ・エジソン電力応用社(Deutsche Edison-Gesellschaft für angewandte Elektrizität;DEG)を設立。出資者はロスチャイルドなど。

1883年、ドイツ人技術者カール・ベンツによってベンツ社(Benz & Cie)設立。

1887年、DEGがAEG(Allgemeine Elektricitäts-Gesellschaft)に社名を変更。
エジソンとロスチャイルド系のAEGがドイツ発のジーメンズ領域に進出してきたことが対立の芽となった。

1889年、エジソンがアメリカでエジソン総合電気(Edison General Electric Company)を設立。(→1892年にゼネラル・エレクトリック(GE)となる)

1889年、独亜銀行を上海設立に設立。独亜銀行は中国の鉄道建設や鉱山開発に出資。
独亜銀行への出資者はドイツの銀行10余り。筆頭株主はディスコント銀行。次がドイツ銀行とロスチャイルド系の銀行、ロスチャイルド親銀行もそれに次ぐ。日清戦争後は香港上海銀行を上回る勢いがあった。

1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールルが現在の和歌山県沖で遭難し500名以上の犠牲者を出した。→この一件からイランイラク戦争を跨いで現代に続くトルコと日本の美談が存在する。その美談と怪しさについてはこちらに書いた

1891年、ロシアのシベリア鉄道建設。←フランス・ロシア・イギリス・ドイツ・アメリカなどから投資されていた。
同じ頃、イギリス(アフリカ~インド、3C政策)とドイツ(ベルリン~イラク、3B政策)も鉄道建設を計画していた。イギリスとドイツの鉄道は一部被っており、ドイツがもっと伸ばせばイギリスの線にもろ被ってくるということでライバルとなっていた。
ドイツのこの鉄道(バクダット鉄道)の社長はドイツ銀行のゲオルグ・ジーメンスの娘の夫である。
ゲオルグ・ジーメンス自身もドイツ国鉄総裁の娘と結婚している。(夫妻には娘しかいなかった)

1892年、ドイツがアナトリア鉄道を完成させ開業させた。(1888年にオスマン帝国から認可を取得していた)

1894-1895年、日清戦争
1894年、露仏同盟。

1900年、ドイツ人技術者のゴットリープ・ダイムラーらがダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社(Daimler Motoren Gesellschaft, DMG)を設立。自動車の燃料に石油を使うということでアメリカで油田開発も推進した。

1901年、ドイツのロスチャイルド家が消滅(息子がいなかったため)。遺産を受け継いだのはゴールドシュミット家とディスコント銀行。(もともとロスチャイルドはゴールドシュミットから独立した家。家業は両替商・金貸し)

1902年、日英同盟。
1904年、英仏協商。
1904-1905、日露戦争。
1907年、英露協商。
1907年、世界恐慌。

この頃、ヨーロッパにとってジーメンス社やドイツ銀行をはじめとするドイツの躍進が脅威となっていたのだろう。
彼らはロスチャイルドの庇護を受けることなく飛躍的発展を遂げたわけだから。

1910年、JPモルガン所有のジキル島クラブで秘密会議を開いた。JPモルガン、ロスチャイルド、ロックフェラー家関係者7名が参集。
1913年、連邦準備法によって連邦準備制度が成立(アメリカのFRB)。

ヨーロッパだけではダメだと思ったのかアメリカを巻き込む作戦に出る。
開戦直前にはドイツ銀行は世界最大銀行とまで言われるようになっていた。

1914-1918年、第一次世界大戦。
第一次世界大戦のきっかけとなったのはオーストリア皇太子の暗殺だが、第一次世界大戦で中央同盟国(ドイツ、オーストリア、オスマン帝国、ブルガリア王国)の敵側になったのは、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国協商(Entente Powers)を中心としていた。つまり、ロシア・フランス・イギリスである。

欧米では石油が非常に重要な資源となりつつあった。
第一次世界大戦勃発時点で、ドイツ銀行はオスマン帝国石油の25%を支配していた。イギリス・オランダ資本のロイヤルダッチ・シェル(ロスチャイルド系)が25%、あとの50%はイギリス資本のBP(ロスチャイルド系)。
戦前ドイツ銀行と交渉を重ねたがその支配率は変わらなかったという。(オスマン帝国は当時中東全域を支配していた要の国であった) これが開戦の背景にあったとも言われる。

そしてドイツは負けた。
負けたのに何も変わらないというのはおかしい。
ドイツはこの敗戦によってロスチャイルドの庇護下に入ったのではないだろうか。

1923年、日本の古河財閥とジーメンス社が合弁会社を設立。富士電機製造(現:富士電機)である。
1924年、ドイツ銀行はロスチャイルド傘下の銀行を吸収。
1926年、ベンツとダイムラーが合併し、ダイムラー・ベンツとなる。ドイツ銀行が筆頭株主。
1929年、ドイツ銀行は最大のライバルディスコント銀行(ドイツロスチャイルド家の遺産を受け継いだ銀行)と合併。

まるでドイツ銀行が戦前と変わらずに拡大していて、ロスチャイルド系をも呑みこんでいるように感じるが、それはやはり逆で敗戦によってロスチャイルドに呑みこまれたのではないかと思う。 

※ドイツの自動車メーカー・ポルシェの創業者ポルシェも元はダイムラーの設計者だった。
ポルシェを創業したのは1930年頃で最初はデザイン事務所で、第二次世界大戦後に息子によって自動車メーカーとなった。



第一次世界大戦でドイツは負けた。しかしドイツだけでなく戦争に参加し戦場と化したヨーロッパはみな疲弊した。
一番の勝者はアメリカ。ロックフェラーはこの戦争で大儲けして資本力を増大させた。
ただ勢力的に言えば、中東や中国、日本などを支配していたのはロスチャイルドであった。

第二次世界大戦がヨーロッパの国で始まったということは仕掛け人はロスチャイルドではないだろう。
例え的に勝利しても本拠地であるヨーロッパを舞台にしてしまうと疲弊してしまうことを第一次世界大戦の経験から身を持って知っていたのだから。
そうとなれば仕掛けたのはロックフェラーである。アメリカと関係ない所で戦争をしてくれて自分達が儲かり勢力拡大できれば一石二鳥。
ナチスを支援したのはロスチャイルドではなくロックフェラー。
ロックフェラー家はドイツの出身だがユダヤ人ではなく、プロテスタントでもカトリックでもなかった。(でもカトリックが利用されているというか、カトリックが利用したというか)
枢軸国(その代表者たち)は反共産主義インターナショナルであり親カトリックであった。、
ドイツに応戦したのは結局イギリスやフランスだが、ドイツはこの時も強かった。
さらに悪いことにドイツが核開発をしているらしいとの情報があった。
このままではヨーロッパが疲弊するどころか、ドイツとロックフェラーに負けてしまうかもしれない。
そこでロスチャイルドはロックフェラーの目論見潰しのため日本の野心を利用してアメリカと戦わせることにした。日米開戦、いわゆる太平洋戦争が始まる。
これが功を奏して1943年から飛ぶ鳥を落とす勢いだったドイツが劣勢に回る。


アメリカ・ニューヨークのマンハッタンにあるロックフェラーセンター。
ほとんどのビルは1931~1939年にかけて建設されたもので、その敷地の所有者はコロンビア大学である。

1938年、ウォルター・ヘンリー・ジン(カナダ)がアメリカに帰化。⇒コロンビア大学へ
1938年末、フェルミ(イタリア)がノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。 ⇒コロンビア大学へ
1939年初頭、シラード(ハンガリー)はイギリス・オックスフォード大学の研究所(アメリカ滞在)を辞めて、アメリカに移住。⇒コロンビア大学に転がり込む
1939年3月、シラードとフェルミがコロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
(1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、戦争が始まる)


1942年、マンハッタン計画のもとフェルミやシラードはシカゴ大学に移る。
歴史上初めて臨界に達したという原子炉(シカゴ・パイル1号)はシカゴ大学にあった。
シカゴ大学はロックフェラーが設立した大学である。
マンハッタン計画には他に長いこと公立ナンバーワンであるカリフォルニア大学が加わっていた。

イギリスやアメリカ政府は原爆開発は無理だと判断しており、当初全く乗り気ではなかった。

原爆は初めて作るわけで、実現不可能という意見が多くを占めていた。それが理論通りに成功する保証などどこにもないはずである。
そもそもルーズベルト大統領がプロジェクトを承認した1941年10月の段階ではアメリカはまだ参戦していない(真珠湾攻撃前)。だから最初から日本に落とす予定だったでは辻褄が合わない。
投下までが上手くいく保証ももちろんない。軍用機の航続力には限界がある。爆撃機が投下前に攻撃されてしまえばそれで終わり。
誰がどこで使う予定で開発し製造するのか?どの範囲を狙い、それにはどれほどの威力が必要なのか、今ある軍用機に搭載可能なのか、少なくともそれくらいの指標は必要ではないだろうか。
そうした検討も行わずに、なんとなく作ってみました?
時間と金と成功率を鑑みれば、いかにこのプロジェクトがギャンブル的であったかが分かる。

またその爆弾が原子であろうが、どんな威力があろうが、爆弾である以上、それだけは何の意味も持たない。
戦争に勝つためには、侵攻して占領するか、相手から降参を引き出さなければならないのだ。
普通の爆弾ならともかく大量の放射性物質が降り注ぐと結論付けた原子爆弾を落とした所になんか侵攻して占領したくないだろう。
放射性物質は無害という評価だったのか?
西に落として東が占領できると思ったのか?
そうでないならば、残るのはただ1つ。相手から降参を引き出すしかない。
原爆は極めて他力本願な決め技である。決め技としては心許ない。どんなに負けが込んでいたって、占領も無く降参もしなければ勝敗は付かないだろう。
原爆の有効性を本当に信じていたらば、最初から日本に落とす予定で(あるいはイギリス?)、降参するという保証がなければ出来ない。







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# by yumimi61 | 2017-05-19 16:29
2017年 05月 18日
日本国憲法の秘密-475-
前回はチェース・マンハッタンの国際諮問委員会メンバーだった長谷川周重(元住友化学社長)に関連する話だった。
今回もその続き。

世界最古の財閥とも言われる住友財閥は鉱山でその地位を築いた。
そんな住友はドイツの重工業(金属・機械・化学工業)と関係が深い。※鉱業や鉄鋼業は金属工業に含まれる。
ドイツにおける重工業の基盤確立に大きな役割を果たしたのはドイツ銀行である。
従ってドイツの重工業と関係が深いということはドイツ銀行と関係が深いとも言える。
ドイツ銀行という名称からドイツの中央銀行と勘違いされることもあるが市中銀行である。中央銀行はドイツ連邦銀行。

ドイツ銀行は1870年に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立された。
日本で最初に貿易金融と外国為替に特化した銀行として設立されたのが横浜正金銀行である。1880年。
ドイツ銀行は創業2年後の1872年(明治5年)に初の海外支店を日本の横浜と清の上海に設立し、その翌年にロンドンにも開設した。
しかし東アジア取引は思ったほどうまくいかず経営を圧迫し横浜支店も上海支店も3年で閉鎖。
以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンクへの道を選んだ。(貿易に特化した横浜正金銀行もあまり上手くいかなかった)
ユニバーサルバンクというのは、一般的な預金や融資などの銀行業務だけでなく、証券、生保、損保、信託業務、リース業など幅広い業務を行うことが認められている総合的金融機関。
ユニバーサルバンクの発祥はドイツ。ドイツやスイスでは古くからこうした総合的なサービスを手がける大手金融機関が主流であった。ドイツ銀行はその筆頭である。
日本は法改正などによって2000年以降にユニバーサルバンク化している。


ドイツ銀行の創業者は銀行家アデルベルト・デルブルックと政治家ルートヴィヒ・バンベルガー。
設立を指導し取締役に就任した人物にゲオルク・ジーメンスがいる。(→後に頭取にも就任)
ドイツにはジーメンス家という財閥がある。
1874年に「ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所」(現:ジーメンス社)を設立したのが始まり。
創業者のウェルナー・ジーメンスは通信・電機産業界の世界初の国際的企業家と言われる人物。

ウェルナー・ジーメンス
ドイツの電気工学者。ジーメンス社を創立した企業家。14人兄弟のうちで6番目(7人の男子の中では最年長)に生まれた。リューベックのギムナジウムで学んだあと,砲兵隊に入り,電気の知識を身につけた。1847年に精密機械工ハルスケJ.G.Halskeと共同でジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所(現在のジーメンス社)を設立した。ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所はロシアに進出して電信を敷設し,成功をおさめた。

ジーメンス社(Siemens AG)
ドイツの総合電機メーカーで,世界有数の電機工業コンツェルン。
当初は電信機器の製造と電信ケーブルの敷設工事を主としたが,その後ロシア,イギリス,フランスなどの各国にも事業を拡大,またアイルランド−アメリカ間の海底電信ケーブルを布設して電信線,海底電線など弱電部門においてヨーロッパで独占的な地位を確立した。1866年には発電機の製造に成功,強電部門も発展させた。
1897年株式会社に改組しジーメンス・ウント・ハルスケ株式会社となったが,株式はすべてジーメンス一族が所有した。 1900〜01年のヨーロッパ恐慌時には多くの企業を傘下に収めた。 1903年自社の重電部門がシュッケルトと合併して,ジーメンス=シュッケルトウェルケとなり,弱電部門 (通信機) を主力とするジーメンス・ウント・ハルスケとともにジーメンス・コンツェルンの中核となった。
第2次世界大戦後,在外資産とドイツ民主共和国 (東ドイツ) の資産を没収され打撃を受けたが,資産分割を免れ,その後のドイツ連邦共和国 (西ドイツ) 経済の発展と歩調を合わせて事業分野を拡大し,1950年代以降急速に発展した。 1966年両社を統合して現社名に変更するとともに主要子会社の業務を統合。ヨーロッパ,カナダなど多くの国に子会社をもっている。
事業内容は発電・送電機器,産業用・輸送用機器の重電部門,電話,デジタル交換システム EWSD,通信システムの通信機器部門,データ処理機器,データ送信機器,鉄道信号システムのデータシステム部門,プラントエンジニアリング,配電・駆動回路,オートメーションなどプラント・設備部門,X線装置,電子医療機器などの医療機器部門,ICカードや ISDN用チップなどの部品部門がある。



創業者ウェルナーの弟ウィルヘルム(ウィリアム)はイギリスにジーメンス・ブラザーズを設立した。
創業者ウェルナーの従兄がドイツ銀行設立を指導したゲオルク・ジーメンスである。
ジーメンス社やドイツ銀行はドイツの産業革命とともに急速に発展した。

1923年に日本の古河財閥とジーメンス社が設立した合弁会社が富士電機製造(現:富士電機)である。
富士は「富士は日本一の山~」の富士ではなくて、ふるかわの「ふ」とジーメンスの「じ」で「ふじ」。「富士」は当て字。
富士電機から分社設立された会社が富士通(Fujitsu)。


古河財閥
古河財閥の源流は、明治8年(1875年)に創立された古河本店(現・古河機械金属)にさかのぼり、足尾銅山における鉱山開発事業の成功を経て事業の多角化・近代化を強力に推進、一大コンツェルンを形成した。しかし、第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解体された(財閥解体)。戦後は古河グループ(古河三水会)を称し、金属・電機・化学工業などを中心とした企業集団を形成、現在に至る。

古河財閥の主要な傘下企業は以下の通り。古河鉱業(現・古河機械金属)、古河電気工業、富士電機製造(現・富士電機)、富士通信機製造(現・富士通)、横濱護謨製造(現・横浜ゴム)、旭電化工業(現・ADEKA)、日本軽金属、帝国生命保険(現・朝日生命保険)、古河銀行(現・みずほ銀行)、大成火災海上保険(現・損害保険ジャパン日本興亜)、古河商事(破綻)、日本農薬、関東電化工業、東亜ペイント(現・トウペ)、大日電線、日本電線(大日電線と日本電線は合併し大日日本電線を経て現・三菱電線工業)など。また、戦後に設立された主要な古河系企業として日本ゼオン、富士通ファナック(現・ファナック)、UACJ(旧古河スカイ)、古河電池などが挙げられる。


傘下企業の「横浜ゴム」はヨコハマタイヤの名で知られるタイヤ・ゴムメーカー。
2015年よりプレミアリーグのクラブ・チェルシーのユニフォームの胸スポンサー。YOKOHAMA!
広告費はおよそ80億円くらいで、マンチェスター・ユナイテッドのシボレーに次ぐ金額らしい。
ヨコハマタイヤはドイツのコンチネンタルタイヤの日本総輸入元(日本の輸入窓口で他者は輸入できない)であったが、現在はドイツのコンチネンタルタイヤの日本法人が出来たので販売代理店である。


古河財閥が足尾銅山で成功したと聞けば、ああ~古河市の古河(こが)かぁと思う人もいるだろうけれども、古河財閥の古河(ふるかわ)さんは古河市出身ではない。京都出身である。
ちなみに古河市の古河は奈良時代あたりには我許すの「許我」であり、日本有数の製鉄場だったそうですよ。
古河財閥の創始者は古河市兵衛。小野組から独立した人物。
京都の没落した貧しい家庭に育ち、子供の頃から豆腐行商をしていた。17歳の時に盛岡で高利貸しを営む叔父を頼り、金銭取立てを手伝う。
その叔父の口利きで京都小野組の番頭だった古河太郎左衛門の養子となり古河姓になる。ついでに名前も変えて「古河市兵衛」となった。


小野組は三井と明治政府に騙された商家。

小野組は為替方であることによって多額の金を無金利で運用して、生糸貿易を手がけ、また1871年には築地生糸所を創立、その後も前橋製糸場をはじめ、長野県各地、福島県二本松などに製糸場を経営し、また、釜石、院内、阿仁など東北各地の鉱山経営に着手した。
生糸取引は古河市兵衛が、為替店は小野善衛門(西村勘八)が統括していた。


1873年(明治6年)には、全国に支店四十余、大阪府の外二十八県と為替契約を結び、三井組を超える勢いがあった。
ところがその翌1874年、明治政府は担保額の大幅引き上げなど一方的に金融政策を急変し、これによって小野組は倒産を余儀なくされた。
小野組倒産のもとに三井銀行はある。

大蔵省で国立銀行の準備に当たっていた渋沢は、三井・小野両組共同出資での銀行設立を提案。
両組は政府主導による設立を望んでいなかったが、公金取り扱いの特権剥奪を条件に出され、渋々1872年に「三井小野組合銀行」を創設した。
1873年、「三井小野組合銀行」(前身)は「第一国立銀行」(後身)となった。初代頭取は渋沢栄一。
しかし両組とも本当は独自の銀行を欲していた。
1874年、明治政府は公金預かり高に対する担保をそれまでの1/3からに全額に突如変更。
これにより小野組は倒産。三井組は生き残り、第一国立銀行から手を引いた。
1876年、三井組は日本初の私立銀行として三井銀行を開業した。



1874年小野組の倒産後、古河市兵衛は渋沢栄一などの資金援助で有利な条件で官営鉱山の払下げを受けた。
小野家の人物にではなく、高利貸取り立てあがりの古河市兵衛に草倉銅山を払い下げたのである。
古河はその後の足尾銅山の成功もあり、1897年には銅山 12,銀山8,金山1など 69鉱区に及ぶ大鉱山所有者となって鉱山王と呼ばれた。金属の精錬事業などにも乗り出し古河財閥を形成した。

現在は新潟県に属する草倉銅山は江戸時代に会津藩が開発した鉱山で会津藩が所有していたものである。
会津藩は最期まで明治新政府に対抗した藩。
明治維新後は明治政府が草倉銅山を接収。そしてその経営権を古河市兵衛に渡した。






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# by yumimi61 | 2017-05-18 15:09
2017年 05月 17日
Flitterwochen  
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# by yumimi61 | 2017-05-17 23:49
2017年 05月 16日
日本国憲法の秘密-474-
チェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

③長谷川周重
東京府立一中、一高を経て、1931年に東京帝国大学法学部政治学科卒業。住友合資入社。その後住友化学へ移り、常務取締役時代に技術導入、逐次展開方式を採用した。1965年、住友化学社長に就任し、以後会長・相談役を務める。
1974年、経団連副会長、日経連理事に就いた。1981年、日本経済協議会会長、日米中西部会代表世話人となる。
日本ギリシャ協会会長として、1988年にギリシャの外国人最高勲章であるグランド・コマンダー・オブ・ジ・オーダー・オブ・オーナー受賞を受賞する。1989年には世界経営協議会会長、名誉会長に選ばれ、藍綬褒章、フェニックス賞、勲一等瑞宝章を受ける。1984年9月から1993年9月にかけて財団法人交流協会会長に。1978年から1992年まで日比谷高校如蘭会会長など。

妻は安宅弥吉(安宅産業及び甲南女子学園創設者)の娘で、1925年・1926年の全日本テニス選手権女子ダブルス優勝者になったテニス選手の安宅登美子である。


妻の父親である安宅弥吉が創業した安宅産業は商社であった。10大総合商社に次ぐ商社であったが創業者の死後1977年に破綻。 メインバンクであった住友銀行の仲介によって多くの事業は伊藤忠商事に吸収合併された。
安宅産業は大阪で開業したが安宅の出身は石川県である。
また安宅弥吉は鈴木大拙のパトロンでもあった。
(鈴木大拙は)禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。
金沢時代の旧友である安宅産業の安宅弥吉は「お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる」と約束し、大拙を経済的に支援した。
生前、1963年にノーベル平和賞の候補に挙がっていたものの、受賞を逸している。


外国で禅と言うとスティーブ・ジョブズを思い出す人もいると思うのでWスズキについて少々。
欧米に禅を広めた2人の鈴木、それが鈴木俊隆と鈴木大拙とである。名字は同じだが親戚ではなく直接的な関係もない。

鈴木俊隆
神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県森町の蔵雲院の玉潤祖温に弟子入り。駒澤大学在学中に蔵雲院住職となる。1930年同大卒業。永平寺、總持寺で修行。1936年に静岡県焼津市林叟院住職に転任。
1959年に55歳でアメリカに渡り、サンフランシスコの桑港寺の住職となる。桑港寺はそれまで主に日系人向けに教化活動をしていたが、当時の社会運動により、非日系アメリカ人の参禅者が増加。日系人との間で軋轢を生むようになり、鈴木は彼らのために1962年にサンフランシスコ禅センターを設立。1967年には長期修行道場として、カルメル渓谷近くの山中のカリフォルニア州タサハラ温泉にタサハラ禅マウンテンセンター(禅心寺)を設立した。



鈴木大拙・・・長谷川周重(住友化学社長)の妻の父・安宅弥吉(安宅産業のメインバンクは住友銀行)がパトロンだった。
石川県金沢市本多町に、旧金沢藩藩医の四男として生まれる。
第四高等中学校を退学後、英語教師をしていたものの、再び学問を志して東京に出た。東京専門学校を経て、帝国大学選科に学び、在学中に鎌倉円覚寺の今北洪川、釈宗演に参禅した。この時期、釈宗演の元をしばしば訪れて禅について研究していた神智学徒のベアトリス・レインと出会う(後に結婚)。ベアトリスの影響もあり後年、自身もインドのチェンナイにある神智学協会の支部にて神智学徒となる。また釈宗演より「大拙」の居士号を受ける。大拙とは「大巧は拙なるに似たり」から採ったもので、『老子道徳経』と『碧巌録』が典拠であるという。

1897年に釈宗演の選を受け、米国に渡り、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社で東洋学関係の書籍の出版に当たると共に、英訳『大乗起信論』(1900年)や『大乗仏教概論』(英文)など、禅についての著作を英語で著し、禅文化ならびに仏教文化を海外に広くしらしめた。

1909年に帰国し、円覚寺の正伝庵に住み、学習院に赴任。英語を教えたが、終生交流した教え子に柳宗悦や松方三郎等がいる。1911年にベアトリスと結婚。1921年に大谷大学教授に就任して、京都に転居した。同年、同大学内に東方仏教徒協会を設立し、英文雑誌『イースタン・ブディスト』(Eastern Buddhist )を創刊した(現在も同協会より刊行中)。1939年、夫人ベアトリス・レイン死去。大拙に先立つこと27年であった。

晩年は鎌倉に在住、北鎌倉の東慶寺住職井上禅定と共に、1941年に自ら創設した「松ヶ岡文庫」(東慶寺に隣接)で研究生活を行った。1949年には、ハワイ大学で開催された第2回東西哲学者会議に参加し、中華民国の胡適と禅研究法に関して討論を行う。同年に日本学士院会員となり、文化勲章を受章した。1950年より1958年にかけ、アメリカ各地で仏教思想の講義を行った。1952年から1957年までは、コロンビア大学に客員教授として滞在し仏教とくに禅の思想の授業を行い、ニューヨークを拠点に米国上流社会に禅思想を広める立役者となった。ハワイ大学、エール大学、ハーバード大学、プリンストン大学などでも講義を行なった。鈴木はカール・グスタフ・ユングとも親交があり、ユングらが主催したスイスでの「エラノス会議」に出席した。またエマヌエル・スヴェーデンボリなどヨーロッパの神秘思想の日本への紹介も行った。ハイデッガーとも個人的に交流があった。1959年に至るまで欧米各国の大学で、仏教思想や日本文化についても講義を行った。
1960年に大谷大学を退任し名誉教授となる。90代に入っても研究生活を続けた。

1966年に、絞扼性腸閉塞のため東京築地の聖路加病院で死去、没年95。


仏教徒なのにわざわざキリスト教である聖路加病院にかかるものなのかしら?(救急搬送?)(医療に信仰は関係ありません!?)
キリスト教徒の松方三郎とも親しかったようだし。

それはともかく、1911年に結婚したベアトリスはアメリカ人。
神智学徒だったということだけれど、じゃあ神智学って何よっていう話ですよね?
神智学とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。
語源的には、ギリシア語で神を意味する θεός(テオス)と叡智を意味する σοφία(ソピアー、ソフィア)の合成語 θεοσοφία, theosophia (テオソフィア、神智)に由来する。

グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。
一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立された神智学協会の思想である。後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。


長谷川周重は日本ギリシャ協会会長で、ギリシャの外国人最高勲章も受賞しているようだけれど、そのあたりは関係ないのかしら?
ベアトリスの神智学はどうも神秘主義に関係しているようである。
ベアトリスは1920年頃に高野山で密教の研究もしていた(密教は神秘主義に通じるものがある)。高野山は天皇家とも関係が深い。

ジョブズと関係が深いのはノーベル平和賞候補の鈴木さんではなくて鈴木俊隆のほう。

乙川(知野)弘文
新潟県加茂市の曹洞宗の寺に生まれる。駒澤大学を経て、1964年に京都大学大学院で修士号(大乗仏教)を取得した。
福井県の永平寺で3年に及ぶ修行を積み、1967年、僧侶・鈴木俊隆の招きでアメリカ合衆国に渡った。タサハラ禅マウンテンセンターにて、1970年まで補佐を務め、1971年に鈴木が死去した後には、ロスアルトスの禅センターにて、1978年まで活動、1979年にはロスガトスの慈光寺に転任した。

1986年にはスティーブ・ジョブズのNeXT社の宗教指導者に任命され、1991年にはスティーブ・ジョブズとローレン・パウエルの結婚式を司った。
その後も各地にて活動していたが、2002年7月26日、スイスにおいて、5歳の次女を助けようとして溺死した。



住友の長谷川周重と関係あるほうの鈴木大拙とベアトリス夫妻には実子がいなかったそうで、イギリス人男性と日本人女性の間に生まれた子供(1916年生まれ)を養子にしている。
その子は鈴木勝(アラン勝, Alan Victor Suzuki)。
なかなか手を焼く子供だったようだ。
1948年に日本コロンビアから発売されヒットした笠置シヅ子歌唱の『東京ブギウギ』の作詞者である。
鈴木勝は、宝塚歌劇団出身だが宝塚では芽が出なかった池真理子(芸名:三日月美夜子)と結婚した。(彼女は宝塚に入る前には女子ミッションスクールに通っていた)
戦後は日本コロンビアから歌手デビューしスウィングの女王と呼ばれるまでになる。
1959年に離婚。


ジョブズが傾倒した禅というのは早い話シンプルということなんだと思う。シンプルは美しさに繋がる。究極の美は何もないことだろう。
私も時々「物がない世界に暮らしたい!」と強烈に思うことがある。(そのくせ次の日には物を買っていたりするからダメなんだけど)
ごちゃごちゃした感じが凄い嫌になることがある。物があると掃除も面倒になるし。(でも美しいと思う庭はシンプルな日本庭園ではないんだよなぁ)
生きていくには、生活していくには、いろんな物が必要であり、モデルルームのような部屋はなかなか維持できない。
それと似たようなことになるけれど、人はごちゃごちゃといろんなことを考える。それは悩みと表現されることもある。
そうした時には何もかも捨てたくなることがある。知っている人が誰もいないところに行きたい、人なんか誰もいないところに行きたい、とにかく余分なものが何もないところにいたい、そのように思う。
本当に死んで清算してしまう人もいるけれども普通は思うだけで変わらない日常を送っている。
そうした人間の雑多な余分な考え(煩悩?)を除くのが精神修行であり、その状態に至るのが悟りなんだと思う。でも本当は日常の場でその状態に達しなければ意味がないとも思う。
余分なものがあまりないお寺かなんかで俗世を捨てて質素な生活をするということは、転地療養と同じで環境的アプローチであって精神的なアプローチとは少し違うような気がする。
シンプルで美しい暮らしと言えばドイツ。
自然を愛し物を大切にする、物をあまり買わない、エコライフの実践。
ドイツの製品は品質が良くて頑丈でデザインもセンスがある物が多い(というイメージがある)。
ジョブズの禅はドイツにも通じている。


【住友グループ】

住友財閥は、日本の三大財閥の1つ。
ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。
世界財閥家系のなかでも最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家である住友忠重が「始祖」ということになるのだが、住友家には、家祖と業祖と2つの創業者が存在する。


室町将軍は源氏の分家筋である足利氏。

・家祖(住友家の本家)
家祖といわれるのは、忠重から数えて八世にあたる住友政友(現在の福井県坂井市丸岡町出身)で、この人が武士から僧侶となり、そののち還俗して京都で書籍と薬を商う「富士屋」を開き、商家・住友家を興した。
 ⇒住友政友の長男が継承(本家)
 ⇒住友政友の長女が政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門の長男(銅吹所の跡取り息子)を養子に迎える。
 ↑
・業祖(住友家に居候していたが名字も家業も別だったという今で言うマスオさんだろうか?)
業祖といわれるのは、政友の姉婿にあたる蘇我理右衛門で、この人は南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発し、1590年京都に銅吹所を設けた。(これが住友金属鉱山の源流)

要するに両家が合体して、養子(蘇我理右衛門の長男・銅吹所の跡取り息子)をが住友家の2代目となった。

住友3代目は養子の長男。幕府御用達の銅山師となり日本一の銅鉱業者へと発展させた。
そして何と言っても4代目。住友4代目が中興の祖と言われる。
それまでも順風満帆だったが1691年に開発に着手した別子銅山が素晴らしかった。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長して住友財閥(現在の住友グループ)の礎を築いた。
この銅山のおかげで住友家は財閥の地位を確実にした。だから4代目が中興の祖なのである。
住友は鉱山に始まった財閥である。世界有数の金鉱脈がある菱刈鉱山も経営している。

菱刈鉱山
鹿児島県伊佐市の菱刈地区東部にある日本最大の金鉱山である。金だけではなく、銀も産出する。
菱刈町は、江戸時代において産金地であった。そのため、昭和40年代より金属鉱業事業団(現:独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構)が金鉱探査を行い、1981年(昭和56年)に鉱脈を発見した。住友金属鉱山により1985年から採鉱が行われている。ここにおける産金量は年間国内産金量のほぼ全てを占めている。
菱刈鉱山における推定の金埋蔵量は250tと推定され、これは国内の他の主要金山全てを合計したものを上回る大規模なものである。1997年(平成9年)には鉱山の累計産金量が国内トップ(83t)となった。探鉱自体は継続的に行われており、2012年(平成24年)には新たな鉱脈も発見された。
また菱刈鉱山の金鉱石は高品位という特徴があり、通常の金鉱石の品位は数グラム/tであるのに対し、菱刈のものは鉱床探査の試錐で290グラム/t、鉱山の平均でも約50グラム/tと非常に高く世界最高水準である。


鹿児島は島津家の本拠地だったわけだが、そのあたりは関係ないのかしら?(所有権を主張するとか)
福岡で買い付けようとしていた(そして紙幣を強盗された)金は菱刈鉱山の金でしょうか?


住友は三菱グループ以上に「結束の住友」として井桁マークののれんにこだわった。また、住友グループ主要企業の社長会である「白水会」においては、他の企業よりも数が少なく、それだけ直系を重視している。

早くから東京に拠点を置いた三井・三菱(創業時は大阪)両グループに対して、住友グループは長らく大阪の地に拘り続け、今も大阪に本社を置く住友グループの企業は多い。住友グループにあっては、少なくとも高度成長期までは名実共に大阪にその中心を置いていた企業が多かったことも事実であり、「住友」と言えば即座に大阪を連想することが多く実際、近畿圏においては、特に年配者層を中心に、今もってなお三井・三菱両グループよりも住友グループのプレゼンス・社会的ステータスをより一段と高く評価することが多いのもまた事実であり、住友グループの大阪での存在感は健在と言える。






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# by yumimi61 | 2017-05-16 14:58
2017年 05月 15日
日本国憲法の秘密-473-
デイヴィッド・ロックフェラーは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン・バンクの頭取だった。
(2000年にJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合している)
そのチェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

古株としては石坂泰三(元東京芝浦電気取締役社長、元経団連会長)。
1967年にチェース・マンハッタンの国際諮問委員会に就任しているので盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会に就任するよりも2年ほど早い。

次に藤野忠次郎(元三菱商事元社長)。1971年就任。藤野が就任していた時期はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取に就任していた時期に一番重なる。



②藤野忠次郎
1901年生まれ。渋沢栄一や石坂家同様に埼玉県出身。
1925年(大正14年)三菱商事に入社。
戦後、渉外部長として財閥解体でGHQとの折衝役を務め、昭和29年の三菱商事再統合で常務、41年社長、49年会長に就任。社長時代は沈滞気味だった社内を活性化して総合商社トップの座を不動のものにしており、同社“中興の祖”といわれる。
また三菱グループ首脳の集まりである金曜会の代表としてグループの結束に努めたほか、40年代の国交正常化前の中国にグループ企業の代表を率いて訪ね、日中貿易拡大に先鞭をつけた。
44年から56年まで東京商工会議所副会頭。


藤野が三菱商事の社長に就任したの日本の高度経済成長期(1954-1973)の最中の1966年。
しかし1970年代、日本は、いや世界は大転換期を迎えることになった。

【ニクソン・ショック】
1971年7月15日―第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)
ニクソン大統領の中華人民共和国(中国)への訪問を予告する宣言。翌1972年2月に実際に北京を訪問した。

1971年8月15日―第2次ニクソン・ショック(ドル・ショック)
ニクソン大統領が米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言した。
固定比率(1オンス=35ドル)(1オンス≒31.1グラム)による米ドル紙幣と金の兌換を一時停止した。


それまでは金と交換できる唯一の通貨がドルであり、ドルは絶対的価値を持ち、だからこそ基軸通貨でもあった。
何故ドルが基軸通貨になり得たかと言えば第二次世界大戦直後、アメリカは世界の金の3分の2を保有していたからである。つまり戦争で疲弊しなかった国とも言える。
(アメリカの製品をアメリカから買うのに日本円を出したって受け付けてもらえない。ドルや他に価値あるもの、たとえば金を渡す必要がある。使い道のない紙幣はいらない)
すでに各国とも金本位制ではなかったが、国際的には金を裏付けにした(金本位制)。
戦後はドルに対し各国通貨の交換比率を定めて、世界経済の安定を図ったわけである。
各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、貿易がコントロールできないし、国際比較も不可能となる。
多種多様なものを客観的に比較する時には何か軸となるものが必要である。そしてそれはやはり普遍的な価値が相応しい。
円は1ドル360円と決まっていた。
1オンス(約31.1グラム)の金を手に入れるためには、12,600円が必要となる。


しかしやはり各国が好き放題に紙幣を製造できるという状況においては、このコントロールも意味をなさなかった。
各国とも紙幣をどんどん増やす。要するに各国の経済規模はどんどん大きくなる。
(人間には製造できないものが、あるいは製造することに限界があったり簡単に作れないものがベースにあれば経済規模が無制限に大きくなることはない)
紙幣の量はアメリカをはじめ世界の金保有量を軽く凌駕するようになった。
簡単に金が買えてしまう状況である。言い換えると紙幣に見合う金が存在しない世界。
そんな中、基軸通貨であるため勝手な政策がとれないアメリカ。
加えてアメリカは第二次世界大戦後も戦争に参戦し、第二次世界大戦で疲弊しなかったにもかかわらず戦後赤字に陥っていく。そしてインフレを招いた。
一方、日本をはじめ疲弊した国々は回復してくる。
アメリカという国はある意味貧乏くじを引いたようなものである。
この状況に待ったをかけたのがニクソン大統領だった。

ニクソンショックの宣言は一時停止だったが、結局これが固定相場制から変動相場制へ移行のきっかけとなり、その後の世界経済にも大きな影響を与えた。
変動相場では為替差損が生まれるため(例えば円高時と円安時の差)、貿易など国際的な取引には常に為替変動リスクが存在する。
経済規模が大きければ大きいほど国際取引に強いとは言い切れなくなった。そういうコントロールの仕方である。
コントロールというと悪い印象も少なからずあるが、裏付けがない世界においては必要なものとも言える。


1970年代の世界経済の混乱はこのニクソンショックからの為替相場制への移行と、もうひとつ、オイルショックによってもたらされた。(何かとショックの時代ですね)


【オイル・ショック】
1973年―第1次オイルショック
1979年―第2次オイルショック

オイルショックは石油原産国が原油の生産や輸出を抑制し原油の価格が上昇したもので、ショックを受けたのは石油をたんまりと必要とする先進国である。特に工業国には痛手である。
1954年から成長を続けた(規模を拡大し続けた)日本経済の高度成長期も1973年のオイルショックにて終焉を迎えることとなった。

人が生きていくためにはエネルギー源となるものが必要である。
多くの事が人間の身体ひとつで完結していた時代には人間のエネルギー源があればよかったが、人間の代わりを機械がするようになると機械にもエネルギー源となるものが必要となる。
イギリスで起こった産業革命は石炭の利用によってもたらされた。これを第二次エネルギー革命とも言う。(第一次エネルギー革命は人間による火の利用)
第三次エネルギー革命は石油と電気の利用。この革命を牽引したのは自動車だった。
欧米で石油の利用が始まったのは1800年代後半から1900年代前半のことで、石油は自動車の動力となった。アメリカではトラクターなども登場して農業も変わっていった。火力発電の燃料ともなった。
石油が必要とあれば、どこかに石油(油田)はないかと探す。そうして1900年代半ばに中東やアフリカで大規模油田が発見された。
日本で石炭から石油に変わったのは1960年代のことである。
1962年の原油の輸入が自由化され、安く大量に石油が入ってくるようになった。
炭鉱は閉山し多くの失業者を生んだ。森林から生まれる木炭や薪などのエネルギー生産者は職を失い森林や荒れ過疎化を招いた。
石油は収入と雇用形態をも変えてしまったのだ。

すでに書いたようにロックフェラー家はアメリカで石油を独占することでアメリカ一の財閥に伸し上った。
そして第一次世界大戦で大きく資本力を拡大した。
第一次世界大戦までは中東の石油利権を握っていたのはロスチャイルド(系の企業)である。
その中東ににロックフェラーが入りこみ住み分けが崩壊。
第二次世界大戦でもアメリカは疲弊しなかったが、ヨーロッパ諸国は程度の差こそあれ勝敗にかかわらず疲弊した。
それをいいことに1954年国際石油資本8社からなるイラン国際企業連合を発足させ、中東の石油利権をロックフェラーに有利な条件で決定した。
ロックフェラーが独占したわけではないが第二次世界大戦後は石油利権に関して圧倒的な支配力を誇っていた。

同じ頃、原子力の平和利用が注目を浴びていた。
1953年12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で原子力平和利用に関する提案「Atoms for Peace」(平和のための原子力)を行ったからである。
アメリカでは1954年に原子力エネルギー法が修正され、アメリカ原子力委員会が原子力開発の推進と規制の両方を担当することとなった。
 ・世界で初めて実用としての原子力発電を開始したのはソ連で1954年のこと。(5MW)
 ・世界で初めて商用原子力発電所を設置したのはイギリスで1956年のこと。(50MW)
 ・アメリカでの最初の商用原子力発電所が完成したのは1957年。
 ・欧州経済共同体による欧州原子力共同体が発足したのは1957年。
 ・国際原子力機関(IAEA)の発足も1957年。

  ・日本にて原子力基本法が成立したのは1955年。
 ・日本で最初の原子力発電が行われたのは1963年。東海村の試験炉。
 ・日本に最初の商用原子力発電所が完成したのは1966年。東海発電所。ガス冷却炉だった。
 ・日本初の原子力発電営業運転開始は1970年(大阪万博に送電)。美浜原子力発電所。軽水炉。


実は世界的規模の石油によるエネルギー革命と原子力の発展時期は戦後の同じ頃なのだ。
原子力利用がオイルショックによってもたらされたというのは適当ではない。

国際石油資本
石油メジャーのうち、第二次世界大戦後から1970年代まで、石油の生産をほぼ独占状態に置いた7社は セブン・シスターズ(Seven Sisters)と呼ばれてきた。また、7社にフランス石油(CFP、現TOTAL)を加えて、エイト・メジャーズと言われることもあった。資源ナショナリズムにより石油輸出国機構(OPEC)が主導権を握るまで、世界の石油のほぼ全てを支配していた。
セブン・シスターズのうち、5社がアメリカ資本で、残りの2社が、イギリス資本系のBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)と、イギリスとオランダ資本系のロイヤル・ダッチ・シェルである。
また、エクソン、モービル、シェブロンは、ロックフェラーが創業し、1911年に34社に分割されたスタンダード・オイルが母体である。


アメリカ資本5社―モービル、テキサコ、シェブロン、ガルフ、エクソン ・・・・ロックフェラー系
イギリス資本―ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)  ・・・・ロスチャイルド系
イギリスとオランダ資本―ロイヤル・ダッチ・シェル ・・・・ロスチャイルド系
フランス資本―CFP(現:トタル) ・・・・ロスチャイルド系


このロックフェラーを代表とする国際石油資本に対抗して1960年に発足したのがOPEC(石油輸出国機構)である。
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟によって発足し、その後も他の中東諸国が次々に加盟した。
1968年にはOAPEC(アラブ石油輸出国機構国機構)も発足。イラク、サウジアラビア、クウェートなどはこちらにも加盟している。他は北アフリカの国々。
1973年にこのOPEC加盟国やOAPEC加盟国が原油価格を引き上げ、生産や輸出を制限した。
そしてこの前後に石油会社の国営化が加速した。

■現在の新セブンシスターズ(全て国営企業)
サウジアラムコ(サウジアラビア)、ペトロナス(マレーシア)、ペトロブラス(ブラジル)、ガスプロム(ロシア)、中国石油天然気集団公司(CNPC)(通称:ペトロチャイナ)(中国)、イラン国営石油(NIOC)(イラン)、ベネズエラ国営石油(PDVSA)(ベネズエラ)  

■旧セブンシスターズ(統廃合によって7社が4社に)
シェブロン、エクソン・モービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)

旧セブンシスターズの原油生産シェアは10%程度、保有する油田の埋蔵量シェアは5%程度に減少した。
一方の新セブンシスターズは、原油生産シェアも保有する油田の埋蔵量シェアも30%にまで増加。
セブンシスターズ以外の国営企業も含めると石油埋蔵量のシェアは70~80%が国営企業で、その他ロシア系の企業が15%ほど保有している。



1966年に三菱商事の社長に就任した藤野忠次郎は、沈滞気味だった社内を活性化して総合商社トップの座を不動のものにしており、三菱商事「中興の祖」と言われる。
これは純粋なバイヤー(商品買付→売却)業の成果ではなく投資の成功によってもたらされたものである。
つまりまだモノはなかった。見えないモノに大枚をはたいたのだ。
その投資額は三菱商事の資本を遥かに上回るもので常識ではありえない。投資に失敗すれば確実に会社は倒産する。
そんなリスクを犯して何に投資したかと言うと、「ブルネイの液化天然ガス(LNG)の開発プロジェクト」である。1969年のこと。
その投資を誘ったのは上に書いた旧セブンシスターズに含まれる「イギリスとオランダ資本―ロイヤル・ダッチ・シェル ・・・・ロスチャイルド系」である。
三菱はロックフェラー系、三井はロスチャイルド系と言われることもあるが、三井と三菱もいろんなところ(松方正義や石坂泰三、福沢諭吉などなど)で繋がっているし、ロックフェラー家も当主とそれ以外の兄弟(いわば本家と分家)がいて後継者問題など人間関係は複雑でありロックフェラー家と一括りに出来ない側面が多々ある。
でも藤野忠次郎はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取のチェース・マンハッタン銀行の国際諮問委員会メンバーだったわけだからデイヴィッド派だろう。
ブルネイの投資はシェルと三菱商事がそれぞれ45%、残りの10%をブルネイ政府が出資し、合弁会社「ブルネイLNG」を設立した。
すでにお膳立てが整っていたのだと思う。
1970年からブルネイから日本への液化天然ガスの供給が始まり、以後、ブルネイから日本に入ってくる液化天然ガスの半分を三菱商事が供給するに至っている。
但し近年の日本の液化天然ガスの輸入量が多い相手国は、オーストラリア、マレーシア、カタール、ロシア、インドネシアなどでブルネイがトップということではない。
ちなみに液化天然ガス(LNG)として輸入しているのはダントツ日本がトップ。韓国、中国、インド、台湾、スペインなどが続くが日本は桁が違う。輸入量としても世界最大。
ドイツも輸入量が多いがドイツはパイプラインによる輸入である。アメリカ、イタリア、トルコ、フランス、中国などが続くが、ドイツは桁が違う。









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# by yumimi61 | 2017-05-15 12:34
2017年 05月 14日
北海道
少し前に私が幼い頃に入院していた時に母がレポート用紙に綴った記録を書き写した。
そのレポート用紙には他にもこんなことが書かれている紙があった。
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レポート用紙は同じ物だがなぜかその一枚は色の褪せ具合が違っていて、少し白い。
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4泊5日の北海道の旅。
月日は入っているがこちらも何年かは記入されていない。
偶然なのか何なのか、私が入院していた期間と重なる月日である。
闘病記録は10月23日で途切れているが、北海道の旅の24日は阿寒湖だった・・・。
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記入されている旅館やホテルを調べたら全て今でも現存するようで何となく嬉しく思った。
それと日産レンタカーのブルーバード。年代的に3代目510型系というものになりそうだが、発売日が1967年8月15日。

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# by yumimi61 | 2017-05-14 23:46
2017年 05月 13日
グランド
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妻に贈る最高のラブソングです。

へぇどんな曲だろう。

♪愛することに疲れたみたい~

え?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・か弱き大人の代弁者?





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# by yumimi61 | 2017-05-13 23:24
2017年 05月 12日
日本国憲法の秘密-472-
それにしても東芝がレコード産業に参入したのが「弔い合戦」だったとはどういうことだろうか。
「あの時は敵わなかったけれど成長して見返してやる」くらいな感じならば分からなくもないけれど、「弔い合戦」と言ってしまうとやはり穏やかではない。
東芝音楽工業(後の東芝EMI)というレコード会社が設立されたのは1960年だが、それより前に東京芝浦電気内に音楽事業部が出来ていたらしい。
それが昭和27年か28年頃(1952,1953年頃)で、事業部長となったのがビクターから戻った石坂範一郎だという。


「弔い合戦」とは、戦死者の仇を打って、その霊を慰めるための戦いである。
1952,1953年頃の直近の戦争と言えば第二次世界大戦(太平洋戦争)だから終戦の年から7,8年経っている。
1954年12月~1973年11月までが日本の高度経済成長期と言われる時代なので、東芝に音楽事業部が出来たのは戦後混乱期から高度経済成長期への過渡期である。
戦争に負けた憂さを音楽で晴らそうと思った、「弔い合戦」はそんな比喩的な言葉だろうか。
しかしながらたとえ合戦が本当の戦争ではなく比喩的な言葉だとしても、弔い合戦という言葉を用いたということは何か戦争に関係があったはずである。


もう一度この言葉を引用しておこう。

東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
(Musicman’s RELAY第82回 石坂 敬一)


仇を打つのが目的だとしたらイギリスと手を組むことは少々不思議ではないだろうか。
第二次世界大戦中、確かイギリスは敵だったはずである。アメリカやイギリスは連合国であった。日本は枢軸国である。
敵と手を組んでいったい誰に仇を打つつもりなのか?アメリカ?それともイギリスと手を組んだふりして乗っ取り作戦?
ひょっとして原爆の恨みだろうか!?
イギリスは当初原爆開発不可能派で、アメリカとイギリスは原爆開発に関して意見がなかなか一致しなかった。チャーチル首相もアメリカ側から半ばコケにされたし。
原爆はアメリカによって投下された。イギリスは面子をつぶされた形になった。その憂さを晴らすために敵国日本と意気投合!?


でも東芝の社長であった石坂泰三は東芝レコードの方針に異を唱えていたようである。
その成長を手放しで喜んでいたわけではなさそうだ。

城山三郎が書いた伝記的な小説「もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界」には、泰三が東芝レコードに対して怒りを抑えられなくなる場面が出てくる。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が爆発的にヒットしていた1967年の年末の出来事だ。

山下太郎を失ったこの年の暮れ、石坂の心を騒がせる歌が流行した。学生バンドのザ・フォーク・クルセダーズによる『帰って来たヨッパライ』で、天国行きを目指した酔っ払いが、天国へ入ることを許されずうろうろするといったユニークでユーモラスな歌であった。
だが、この歌は石坂の癇にさわった。妻の死を「最大の不幸」と記したほどの石坂にとっては、死は生の一大事、天国はまた妻雪子と再会できる静かな聖地のはずであった。いや、妻の死とか、わが身の高齢とかを差し引いても、死や天国をそんなふうにふざけの対象にしていいものなのか。
さらに、そうした歌を少年少女までがおもしろがるという風潮が、石坂の心を暗くした。それは、日本の青少年の思想を悪くし、ひいては少年のような日本を危うくすることにならないのか。ユーモアを解することにかけては人に負けぬつもりの石坂であったが、黙っては居られなくなった。しかも、皮肉にも、そのレコードの発売元が東芝の子会社である。石坂は怒りを抑えきれなくなった。
もっとも、石坂は東芝関係は全て土光に任せ、今は一相談役のみである。その辺のところは心得ていて、はっきり物を言い合える間柄の岩田弐夫専務に鬱憤をぶちまけた。
「同じレコードでもベートーベンならいいが、あんなもので儲けるとは、何事だ」
すさまじい見幕でたたみかけ、
「経営とは徳義だ。あんな歌で儲けるくらいなら、あの会社はつぶしたほうがいい」とまで言った。もっとも、爆発させてしまえば、それで終わりで、そのレコード会社は以後も若者向けのヒット曲で成長を続けることになる。


旧人類と新人類で分ければ、石坂泰三は旧人類。石坂範一郎は新人類。
ビートルズは1962年にEMIからデビュー。1963年にはヨーロッパを席巻した。当時ビートルズは新人類だった。

イギリスのEMIはレコード会社として有名だが当時は多種の事業に参入しているコングロマリット(巨大複合企業体)であった。収益は主に軍事レーダーが上げていた。
レコード産業はアメリカのコロンビアレコードのイギリス法人とドイツのグラモフォンレコード(HMV)のイギリス法人が合併してEMIとなったので、コロンビアとHMVそれぞれのレーベルがあった。アメリカのキャピトルレコードもEMIの傘下にあった。
ビートルズはEMIのパーロフォン・レーベルからデビューしたが、これも元はドイツの会社でEMIに買収されていた。コロンビアやHMVといったレーベルに比べると弱小レーベルだった。
ビートルズは当初コロンビア、HMV、キャピトルなどの大手レーベルからは相手にされなかった。(後にアメリカでのリリースはキャピトルとなる)
キャピトルの海外アーティスト発掘育成担当(A&R;Artists and Repertoire)のデイブ・デクスター・ジュニアはビートルズはアメリカでは売れないと断固拒否していたという。

同じ頃キャピトルが扱いヒットした海外アーティストがいた。日本の歌手・坂本九だった。
坂本九は日本ビクターレコードからデビュー。1960年に東芝レコードに移籍。ビクターから東芝ということで石坂範一郎と同じ歩み。
アメリカでヒットしたのは1963年のこと。英語で歌うビートルズが売れなくて(イギリス英語だから?訛っているから?)、日本人が日本語で歌い、しかもSUKIYAKIなんて歌の内容と全く関係ないタイトルが付いた曲が(もしかして食べ物ではなくて’好き’と’妬く’の好き妬き?)、今ほどの情報社会ではないあの時代に売れる理由が分からない。
1963年6月15日、「SUKIYAKI」(邦題は上を向いて歩こう)がビルボード誌では週間1位を獲得。年間でも10位。(こういう順位も情報操作みたいなことはないのでしょうか?売りが売りを呼ぶみたいなかんじで)(ちなみにこの坂本九は1985年に墜落した日本航空123便に搭乗していて亡くなった)
キャピトルのデイブ・デクスターが手の平を返してビートルズを認めたのは1963年末のことで、1964年ビートルズはアメリカで記録的にヒットした。
日本にビートルズが入ってきたのはアメリカでのヒットとほぼ連動している。
ビートルズ初来日は1966年6月29日。

東芝レコードの石坂範一郎がアメリカのポピュラー音楽のカタログを充実させるために、三大メジャーのキャピトル・レコードと原盤供給契約を交わしたのは1959年の夏のことだ。

1961年、フランク・シナトラと並ぶ大物エンターテイナー、コールの来日公演を永島が実現させている。ZACの出身だったマネージャーのカルロス・ガステルは、ペギー・リーやメル・トーメも抱える腕利きで、キャピトル・レコードの最高経営責任者グレン・ウォリクス会長とも親密な間柄にあった。

戦後の日本のプロモーターの歴史はアメリカのZACとガステルから、永島へというラインで始まったとも言われている。


1962年にデビューしたビートルズは1970年に解散。
ジョン・レノンはデビューの翌年1963年に最初の結婚をしている。
オノ・ヨーコとの出会いは1966年11月9日のことだそうだ。ビートルズが日本に初来日した5ヶ月後。
オノ・ヨーコの曽祖父は銀行家。日本銀行理事でもあったという。
1969年に2人は結婚した。



石坂泰三の妻・雪子はマリアという洗礼名を持つカトリック教徒であった。
そうとなれば子供達だって少なからず影響を受けているはずである。
石坂泰三も晩年洗礼を受けてペドロという洗礼名を授かっていたようである。
ペドロはスペイン語・ポルトガル語での名前である。新約聖書の使途ペテロのこと。聖ペテロ十字(逆十字)のペテロさんである。英語ならばピーター、ドイツ語はペーター、フランス語ではピエール。
例えばポールはスペイン語・ポルトガル語ではパブロになるわけですね。
スペイン、ポルトガルで最大宗教はローマカトリック。
イスラム教に奪われたイベリア半島を700年あまりの運動(戦い)にてカトリックが奪還してスペインとポルトガルという国は生まれた。レコンキスタの地、復活の地である。
宗教改革と大航海時代には貿易と布教がセットになっていて、この2か国の船は世界中に出て行った。



例えどんな宗教であっても信心深いということは死や生や神を冒涜されることについては抵抗感があるだろう。
宗教が戦争の理由になることに関して、宗教を信仰する人がどうして戦いやテロなど出来るのかと訝しがることがよくあるが、冒涜が許せないという気持ちが強いからそうなってしまうのだろう。
自分の子供や愛する者を傷つけるやつは絶対に許さないという人は珍しくない。なかには仕返しをすると公言する人もいる。そこまでではなくても極刑にして欲しいと願う被害者や遺族は多い。最近では関係ない第三者までがそいうことを簡単に口にする。酷いやつはそれにみあった酷い罰を受けなければならない、状況によっては殺されてもいいと考えているわけである。
それは結局深く信じたり愛しているものを冒涜された時の反応と同じである。
死や生や神を冒涜されることについて抵抗感があるということは殊更特別なことではないのだ。
自分は大した信仰心もないのにその気持ちを利用する者がいるとするならば、それは同じではないけれども。

信心深いということに絡んでくるのが旧人類・新人類という区別。
人は老いを感じた時や死を身近に感じるようになるとやはり信心深くなるものである。この信心というのは宗教そのものであることもあるし、そうではなくて価値観の変化みたいなものも含まれる。
前に書いたように、生の中に死がある人と、死の中に生がある人は、同じではない。
年齢的なものだけではなく、戦争の中にある人とそういうものに無縁な人、安泰な生活をしている人と危険の中に身を置いているような人では、価値観や信心深さは常々違うだろうと思う。


石坂泰三は死や天国をおふざけの対象にした歌や、その歌を売り出した会社を許せないと思った。(ちょうど時期的にセンシティブな時でもあった)
そうだとすると、キリスト教を冒涜したと受け取られたジョン・レノンの発言やジョン・レノン、ビートルズなんかもあまり快く思ってはいなかった可能性もある。
そして石坂泰三はデイヴィッド・ロックフェラーではなくロックフェラー3世世代でもある。言い換えると石油派でもあった。


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ビートルズ初来日。
彼らは日本航空の法被(はっぴ)を着てタラップを降りた。
ビートルズより1年早くアメリカでヒットを飛ばした坂本九は日本航空の旅客機に乗っていて死亡した。
そのおよそ5年前の1980年12月8日(アメリカ時間)、ジョン・レノンも暗殺されて亡くなっている。
12月8日は真珠湾攻撃の日にちと重なるが真珠湾攻撃の12月8日は日本時間でハワイ時間では7日だったという。



ところで、すき焼は牛肉派ですか?(ちなみに肉じゃがは牛肉派?豚肉派?)
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前記事に載せた石坂敬一氏の経歴の中に
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当

とあったが、上の牛さんはピンク・フロイドが1970年に発売したアルバムジャケット。
『原子心母』は邦題。原題は"Atom Heart Mother"。

邦題は、「Atom=原子」「heart=心」「Mother=母」と英語をそのまま直訳したものである。このタイトルをつけたのは、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)の洋楽ディレクターだった石坂敬一である。

現在"progressive rock"は英語でも普通に使われている言葉である。省略形は"prog-rock"。
この言葉の誕生説として、1970年に発売されたピンク・フロイドの『原子心母/Atom Heart Mother』の日本盤のタスキに、「ピンク・フロイドの道はプログレッシヴ・ロックの道なり!」 (発案者は当時東芝EMIで担当ディレクターをつとめていた石坂敬一)というコピーが掲げられたのが初であるという説が有力とされるが、1968年に発売されたキャラヴァンのセルフタイトルのデビューアルバムのライナーノーツにも"progressive rock"という言葉が出ている。








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# by yumimi61 | 2017-05-12 13:51
2017年 05月 11日
日本国憲法の秘密-471-
1989年1月、盛田昭夫と石原慎太郎の共著『「NO」と言える日本』が発売された。
その年の5月、盛田昭夫は1969年より就任していたJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した。

入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎。
小林はカトリック教徒である。ローマ・カトリック・イエズス会が設立母体の上智大学から名誉博士号が贈られている。歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。
日米欧三極委員会はデイヴィッド・ロックフェラーが主導で1973年に設立された。
前出の山本正も日米欧三極委員会の事務局。
国際人として有名な女性・緒方貞子もそうである。
共通点はカトリック教徒であるということ。(ということは、対立したロックフエラー3世もデイヴィッド・ロックフェラーどちらもがカトリック教徒を仲間としていたことになる)



デイヴィッド・ロックフェラーは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン・バンクの頭取だった。
(2000年にJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合している)
そのチェース・マンハッタンにも日本人の国際諮問委員会メンバーがいた。

古株としては石坂泰三(元東京芝浦電気取締役社長、元経団連会長)。
1967年にチェース・マンハッタンの国際諮問委員会に就任しているので盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会に就任するよりも2年ほど早い。

次に藤野忠次郎(元三菱商事元社長)。1971年就任。藤野が就任していた時期はデイヴィッド・ロックフェラーが頭取に就任していた時期に一番重なる。

その他、長谷川周重(元住友化学社長、元経団連副会長)、緒方四十郎(元日本銀行理事、元日本開発銀行副総裁、緒方貞子の夫)、江尻宏一郎(元三井物産社長)がいる。


①石坂泰三
1986年(明治19年)生まれ。
第一生命保険、東京芝浦電気(現・東芝)社長を経て、第2代経済団体連合会(経団連)会長(在任、1956年(昭和31年)2月21日-1968年(昭和43年)5月24日)。経団連会長を4期、12年務めた。経団連会長の異名 「財界総理」は、石坂泰三を嚆矢とする。

1911年(明治44年)東京帝国大学法科を卒業。逓信省に入省、貯金局に配属された。
岡野敬次郎法制局長官の紹介で第一生命保険相互会社(現・第一生命保険株式会社)の矢野恒太社長に紹介されたのが機縁となり、1915年(大正4年)逓信省を退官し、第一生命に入社し、矢野社長の秘書となる。


岡野敬次郎は群馬県出身。父は上州岩鼻代官所勤務の幕臣だった。
1886年帝国大学卒業後ドイツに留学。その後帝国大学教授となり商法関係法案の起草にあたった。日本商法学の基礎を作った人物。宮中顧問官も兼任し貴族院勅選議員となる。長官や大臣、中央大学学長などを歴任。

(石坂は)1938年(昭和13年)に第一生命取締役社長に就任し(1947年まで)、同年第一生命本社ビルが完成しし、第一生命は大手生命保険会社に成長した。
戦後GHQの本部となったのがこの第一生命ビルであった。

三井銀行(現・三井住友銀行)頭取の佐藤喜一郎と東京芝浦電気(現・東芝)社長の津守豊治の依頼で、1948年(昭和23年)東京芝浦電気取締役、翌年社長となる。
1956年(昭和31年)に石川一郎経済団体連合会(経団連)会長辞任を受けて、後任の経団連会長、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任する。1957年(昭和32年)石川島播磨重工業(現・IHI)相談役、東京芝浦電気会長に就任する。


東京芝浦電気は先日書いた田中製造所→芝浦製作所の後身会社で東芝の前身。

1957年(昭和32年)にアラビア石油会長に就任。1960年(昭和35年)、1964年東京オリンピック資金財団会長に就任。1963年(昭和38年)日本工業倶楽部理事長に就任。1964年(昭和39年)、日本は経済協力開発機構(OECD) に加入。それにともない、産業経済諮問委員会(BIAC)にも加入し、石坂はBIAC日本委員長となり、積極的に資本の自由化に取り組んだ。同じ年、小泉信三の後を受けて、1975年(昭和50年)まで宮内庁参与に就任。 

小泉信三は現天皇の教育責任者だった人物。慶應義塾の塾長でもあった。小泉信三の父も慶應義塾の塾長や横浜正金銀行支配人を歴任している。


<石坂泰三の親兄弟>
石坂泰三は7~8人兄弟の3男。父親は石坂義雄。埼玉県大里郡奈良村(現埼玉県熊谷市)の地主であった。
江戸時代に領地を持っていた大名ならともかく、地主という考え方は基本的になかった。
地主になったのは明治初期に何らかの方法で土地を得た人達である。
どの程度の地主かは分からないが、明治新政府寄りの人物のほうが地主になりやすかったはずである。

石坂義雄の長男・弘毅(1878年(明治11年)生まれ)は、陸軍士官学校を経て軍人となった。
「石坂家」は通常はこの長男が本家を継ぐ。
長男の妻は、夏目漱石が明治43年に胃病の転地療養のために滞在した伊豆の修善寺温泉・菊屋の主人の弟で滞在中に漱石を診察した医師・野田洪哉の孫にあたる人物。
弘毅の長男・公成も医師である。本家を継ぐべき人物はこの医師である。
石坂公成
1925年(大正14年)生まれ。府立二中、旧制成蹊高等学校を経て、1948年、東京大学医学部卒業。
国立予防衛生研究所免疫血清室長、小児喘息研究所(デンバー)免疫部長、ジョンス・ホプキンス大学医学部教授(京都大学医学部教授兼任)、 ラホイヤ・アレルギー免疫研究所所長、カリフォルニア大学内科教授、米国免疫学会会長等歴任。

弘毅の娘の1人は三井生命社長の井上八三に嫁いでいる。

石坂義雄の末息子・禄朗(1897年(明治30年)生まれ)。
1922年東京帝国大学経済学部卒業。横浜正金銀行に入り東京支店頭取席、神戸、上海、カルカッタ、ロンドン各支店在勤、バタビヤ、神戸各支店副支配人、業務人事各部次長を歴務。
戦後は ニューエムパイヤ自動車顧問 芝浦製作所顧問のち取締役、日本輸出入銀行理事、芝浦機械製作所専務、東芝機械専務歴任。

石坂泰三は官僚から1938年に第一生命の社長に就任したが、弟である禄朗はそれより先に横浜正金銀行に入行している。

石坂家は三井や横浜正金銀行に関係があったことが分かる。埼玉県深谷出身の渋沢栄一繋がりだろうか。
さらに福沢諭吉の慶応義塾系である。


********************************************

日本ビクター
1901年、アメリカで ビクタートーキングマシンが設立される。
1927年、ビクタートーキングマシンの日本法人が設立される。
1929年、 ビクタートーキングマシンはRCA(Radio Corporation of America)に買収され、RCAビクターとなる。(RCA社は日本法人に関しては三井と東芝から出資を受けている)
1938年、日中戦争などきな臭さが漂い外資系への風当たりも強くなったことからRCAが撤退。
その後RCAの株式は日産に譲渡され、さらに東芝に売却。日本ビクターは1943年に完全にRCAとの資本関係を解消し東芝の傘下に入った。
戦後間もなく、資本が東芝から日本興業銀行へ移行。
日本興業銀行から日本ビクターの再建を懇望されたのが松下電器の松下幸之助。松下電器(現:パナソニック)の傘下となった。
2007年、ケンウッドと資本提携。(2012年までパナソニックが筆頭株主であった)。

ケンウッド
1946年、有限会社春日無線電機商会が長野県駒ヶ根市で設立される。(創業者3名親族)
1947年、商標を「TRIO」に決定。
1960年、社名をトリオ商事株式会社に変更。
1961年、日本国外向けブランド名をKENWOODを決定。
1969年、音楽レコード事業に進出(レーベルは「トリオレコード」)。
1972年、創業者3名のうち2名が経営方針の違いから会社を離れる。社名をケンソニックとする。
1970年末、経営危機に陥る。
1979年、日本銀行理事だった石坂一義(石坂泰三の長男)が顧問として送り込まれ、1980年より社長に就任。
1982年、社名をアキュフェーズに変更。
1986年、社名をケンウッドに変更。
2008年、日本ビクターの傘下に入る。


東芝
1893年、三井銀行(藤山雷太を送り込む)が田中製造所を引き受け芝浦製作所と改称。
1904年、株式会社芝浦製作所として再出発。
1939年、重電メーカーの芝浦製作所と弱電メーカーの東京電気が合併し、東京芝浦電気として発足。
1949年、三井銀行頭取の依頼で石坂泰三が社長に就任
1960年、レコード会社・東芝音楽工業(→1973年東芝EMI株式会社→EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサル ミュージック合同会社 EMIレコーズ・ジャパンレーベル→ユニバーサル ミュージック合同会社 EMI Rレーベル)を設立。
1984年、東芝に社名変更。

※EMIを買ったテラ・ファーマがシティグループから騙されたと言って訴えた話はこちらに書きました
「テラ・ファーマ・キャピタル」は、日本の野村ホールディングスのイギリス法人である野村インターナショナルのプリンシパル・ファイナンス・グループから分離独立した投資会社だよという話はこちらに

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音楽関係者ならよく知っているだろう石坂敬一。

昭和20年8月25日生まれ
昭和43年、慶應義塾大学経済学部卒業
東芝音楽工業(現 東芝EMI)入社
洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコ、Tレックス、エルトン・ジョン、ジェフ・ベックなどを担当
昭和56年、同社 邦楽本部において、BOOWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉を担当
平成3年、 常務取締役 就任
平成6年、 ポリグラム株式会社(現 ユニバーサル ミュージック株式会社)入社、代表取締役社長 就任
平成11年、ユニバーサル ミュージック株式会社 入社、代表取締役社長 就任
平成13年、同社 代表取締役社長兼CEO 就任
平成18年、同社 代表取締役会長兼CEO 就任
平成19年7月より、社団法人日本レコード協会会長 を務める


2016年末に亡くなられたそうである。


エンタメステーションMUSIC
生みの親だった石坂泰三、育ての親となった石坂範一郎~「あの会社はつぶしたほうがいい」という発言
より

石坂一族の本家に生まれた石坂範一郎(のりいちろう)は、分家の出身だった石坂泰三とは縁戚にあたる関係にあった。戦前は東芝の子会社になった日本ビクターに出向し、戦後もそのままレコード部門で洋楽部長を務めていた。
石坂範一郎の長男で父と同じ慶応大学を卒業し、1968年に東芝レコードに入社して洋楽ディレクターとなり、ビートルズやピンク・フロイドを担当した石坂敬一は、後に外資系のユニバーサル・ミュージックとワーナーミュージック・ジャパンで社長と会長を歴任してきたミュージック・マンである。東芝がレコード産業に参入したことについては、泰三の「弔い合戦」だったとインタビューでこう語っていた。

東芝のトップだった石坂泰三さんが「弔い合戦をやる」ということで、面子にかけてレコード会社を作ることになったんです。それでEMIというイギリスの国策的レコード会社と東芝が技術提携して、東京芝浦電気音楽事業部という部署ができたのが、昭和27年か28年頃です。戦前から戦後、東芝からビクターに行っていた父が東芝に戻って事業部長をやっていました。
(Musicman’s RELAY第82回 石坂 敬一)


石坂敬一の父親は石坂範一郎。
石坂範一郎は石坂一族の本家の出身で石坂泰三は分家出身との記述もあるが、本家の出身であるならば医師である石坂公成の子であるはずだがそうした裏は取れない。
石坂範一郎は戦前に東芝から日本ビクターに出向していたようで、戦前から石坂一族が東芝で幅を利かせていたような感じだが、石坂泰三が三井銀行に頼まれて東芝の社長に就任したのは戦後である。
要するに石坂範一郎は東芝社長石坂泰三コネクションで東芝や日本ビクターにいたわけではなさそうである。
コネクションならばやはり三井コネクションであろう。



東芝レコードがキャピトルの権利を獲得した1959年頃から61年にかけて、範一郎と永島と草野の3人はすでに海外との契約関係でお互いにつながりを持っていた。この3人に渡辺プロダクションの渡邊晋・美佐夫妻を加えた人たちが、日本の音楽出版ビジネスの先駆者に挙げられる。しかも全員がそれぞれの立場でビートルズの来日公演に、深く関わっていたことは注目に値する事実といえるだろう。
ビートルズの来日公演の前座として出演したのは、内田裕也、尾藤イサオ、望月ひろし、ドリフターズは、いずれも渡辺プロダクションの所属であり、発売元はすべて東芝レコードだった。



・範一郎は前述の石坂範一郎。

・永野は永野達司。プロモーターの先駆者。父親が三菱銀行の銀行家。戦前にニューヨークやロンドンに駐在していた。
アメリカ軍の諜報機関だった「キャノン機関」の一員との噂があるアルフォンゾ・B・シャタラックという人物と組んで、“S・Nプロダクション”を興し、アメリカからのアーティストの招聘を始めたほか、日本のジャズブームの時代にはコンサートの興行を積極的に手がけた時期もある。
1957年に協同企画を設立してからは外国人ミュージシャンの招聘へと軸足を移して、アメリカの大手プロモーターZAC(ゼネラル・アーツ・プロダクション)を通じて、仕事を広げて海外の大物を日本に招くようになり、ほどなくして興行の世界では第一人者の立場を確立している。


・草野は草野昌一。音楽出版社の専務であり訳詞者。

・渡辺プロダクションや渡辺美佐会長のことは前に書いたことがある
以前こちらに、安倍晋三(総理)を囲む「午年の会」のことを書いたことがある。
メンバーは芸能人や文化人だそうだ。
同じく芸能人や文化人が大挙してメンバーになっているのが「エンジン01文化戦略会議」である。「甍(いらか)三」に書いた。
iPS細胞の山中教授も名を連ねる。
一時期三洋電機取締役会長兼CEOに就任した野中ともよ氏や、神奈川県知事の黒岩祐治氏は、「午年の会」「エンジン01文化戦略会議」どちらのメンバーでもある。
この「エンジン01文化戦略会議」のメンバーをほぼ丸抱えしているのが芸能事務所の渡辺プロダクションである。

渡辺プロダクションの歩みを見ると、2009年11月に「英国ロスチャイルド家/バロネス・シャーロット・ドゥ・ロスチャイルド プライベートコンサートパーティー招待出席」とある。
ロスチャイルド家とも懇意なのかしら?

会長個人の経歴はこちらをどうぞ。
フランス政府とも懇意かしら。
2012は藍綬褒章も受章している。


やはり三菱・三井―政財界・貴族・天皇―ロスチャイルドといった繋がりでしょうか。
これが著作権ビジネスにも関わっているということになりますね。


<石坂泰三の子供達>
長男―日本銀行理事、トリオとケンウッドの社長
次男―戦死
三男―三井物産、ディクソンズ・グループ(イギリス家電販売大手)の顧問
四男―三菱銀行常務、松屋会長、ダイヤモンドクレジット(後の三菱UFJカード)会長
五男―東芝アメリカ会長、アメリカのシンキングマシンズ副社長
長女―熊本工業名誉教授・三浦鍋太郎の息子で東芝中央研究所勤務の三浦勇三に嫁ぐ
次女―元最高裁判事・霜山精一の息子で上智大教授の霜山徳爾に嫁ぐ

石坂泰三家は三井とも三菱とも関係があることが分かる。







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# by yumimi61 | 2017-05-11 17:19