2017年 05月 10日
Rain or Shine
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# by yumimi61 | 2017-05-10 23:37
2017年 05月 09日
日本国憲法の秘密-470-
1989年5月、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任した。

入れ替わりでJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなったのは小林陽太郎。
小林はカトリック教徒である。ローマ・カトリック・イエズス会が設立母体の上智大学から名誉博士号が贈られている。

ロンドンに生まれる。父親は大日本セルロイドから独立した富士写真フィルムのロンドン支店長から富士写真フイルム第3代社長となった小林節太郎。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校から1956年(昭和31年)慶應義塾大学経済学部卒、1958年(昭和33年)ペンシルベニア大学ウォートン・スクール修了(MBA)。

1958年(昭和33年)に富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)に入社、1963年(昭和38年)に富士ゼロックスに転じ、1968年(昭和43年)に取締役。副社長を経て、1978年(昭和53年)に吉村寿雄の後任として社長就任。1992年(平成4年)に会長に就任。2006年(平成18年)から2009年(平成21年)まで相談役最高顧問。2000年(平成12年)、西安交通大学より名誉博士号を授与された。
2015年(平成27年)9月5日死去。82歳没。


歴任した理事や評議員は多数。
代表的なものは、日米欧三極委員会アジア太平洋委員会委員長、経済同友会終身幹事(元代表幹事)、慶應義塾評議員・理事。


過去記事(マララさんの新聞記事)にも経済同友会終身幹事(元代表幹事)という役職を持っている人が登場した。
現在のNHK中央放送番組審議会副委員長は北城恪太郎氏。
バークレー・マフィアで名高いあのバークレー校で修士号取得(大学は慶應)。
現在は、日本IBM相談役、国際基督教大学(ICU)理事長、文部科学省中央教育審議会委員、経済同友会終身幹事。
かつて皇后陛下の御父上(正田氏)や麻生副総理兼財務大臣(元総理)の御父上(麻生氏)も経済同友会の幹事であった。
NHK中央放送番組審議会の委員長は元日本銀行総裁の福井俊彦氏。


全日空(ANA)の前身は朝日新聞航空部である。
会社設立に協力したのは永野重雄。若狭得治に「一切永野さんと美土路さんの手によって全日空が作られた」と言わしめるほど。
何で急にANAの話が出てくるかと言うと、航空機のことを書いていた過去記事にも経済同友会が出てきたからである。
経済同友会を創立し初代代表幹事に就任したのは他でもない永野重雄である。
財界のドンとなる永野重雄を社会党の片山哲首相に紹介したのが和田博雄(社会党左派)であり、和田博雄を片山哲首相に紹介したのは吉田茂首相であった。
永野は佐藤栄作とも親交を結んだ。
吉田茂は麻生副総理・財務大臣・元首相の祖父。佐藤栄作は安部首相の叔父。

朝日新聞は左(左翼)寄りや反日と言われることが多い新聞だが、航空業界を通して言えば、朝日新聞は皇室や政府寄りな存在である。
皇室や政府を「右」や「日本(愛国)」にすれば真逆であるが、私は常々ここに人々の思い込みや煽動・洗脳があると感じている。
どういう事かと言えば、皇室や政府自体が人々の思う「右」や「日本(愛国)」ではない可能性もあるということだ。
皇室や政府が「左」は「反日」ならば、そこに近い朝日新聞が左寄りや反日でも、なるほど筋が通る。
皇室や政府の表だっての「左」や「反日」は不味いと思えば、カモフラージュするだろうし、もっともらしく振る舞うだろう。
前にも書いたが詐欺師と名乗ってくる詐欺師はいない。 

・永野重雄(1900年生まれ)
広島県呉市沖の瀬戸内海に浮かぶ下蒲刈島三之瀬にある浄土真宗本願寺派の弘願寺が実家。
重雄の父・法城は本来11代目を継ぐ立場にあったが、明治初期の激動期に寺を出奔して上京、大學南校(東京大学の前身)で法律を学び裁判官となった。法城は島根県浜田市を振り出しに松江市・山口県岩国市・山口市と中国地方の裁判所で判事生活を送ったのち職を辞し広島市中町(現・中区中町)で弁護士事務所を開業した。
重雄は10人兄弟の次男として島根県松江市に生まれた。だが実際に育ったのは広島のため、終生広島出身と押し通した。
広島市名誉市民。

以前こちらに書いたように、浄土真宗本願寺とくれば、織田信長である。
織田信長の一番の敵は石山本願寺だった。
織田信長だけではない、イエズス会も石山本願寺を危険視していた。
現在の本願寺派の総本山は京都の西本願寺だが、本願寺と名の付く宗派は本願寺派しかなく、当然その流れを汲んでいる宗派であろう。

(永野は)新日本製鐵会長、経済同友会代表幹事、日本商工会議所会頭などを歴任した、戦後日本を代表する経済人の一人。財界四天王の一人で、"戦後の財界のドン"ともいわれた。

【財界四天王】・・・池田勇人内閣を表裏で支えた4名を指す。
小林中(富国生命保険相互会社元社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油元社長)
水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)
永野重雄(日本商工会議所元会頭、富士製鐵元社長)
櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)



日米欧三極委員会はデイヴィッド・ロックフェラーが主導で1973年に設立された。
ロックフェラー3世の協力のもと1952年に松本重治らが設立した国際文化会館に対抗したのだろうか?
前出の山本正も日米欧三極委員会の事務局。
国際人として有名な女性・緒方貞子もそうである。
共通点はカトリック教徒であるということ。(ということは、対立したロックフエラー3世もデイヴィッド・ロックフェラーどちらもがカトリック教徒を仲間としていたことになる)


どんなに一生懸命グローバルと言ったって、国際社会で活躍できる人を!と言ったって、女性活躍と言ったって、「緒方貞子なんて別に興味ないし~」という人がほとんどだと思うので、ここでちょっと緒方貞子にも注目してみたい。

緒方貞子----------------------------------------
1927年(昭和2年)、(現在の)東京都港区に生まれる。
曽祖父は元内閣総理大臣の犬養毅。祖父は外交官で犬養内閣外相の芳沢謙吉(犬養の長女・操と結婚した)。
芳沢謙吉・操夫妻の長女が緒方貞子の母である。
父は外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一。
犬養毅の長男の子に共同通信社の社長であった犬養康彦やエッセイスト犬養道子、タレントの安藤和津(異母・妾が産んだ子)がいる。
犬養康彦は上智大学出身。妻は大原財閥の大原総一郎の娘(長女)。大原総一郎の次女は日清製粉の正田英三郎の息子(美智子皇后の弟)に嫁いだ。大原総一郎は親の代からカトリック教徒である。ちなみに美智子皇后の兄・正田巌は日本銀行の監事であった。
犬養道子はボストンとパリのカトリック大学で哲学・聖書学を専攻し、ハーバード大学研究員を経て作家となる。イエズス会の活動を行っているカトリック教徒。
安藤和津も学習院と上智大学出身。イギリス留学後にテレビ朝日「CNNデイウォッチ」でキャスターを務めた。
皆さんカトリックである。
旧犬養邸は上智大学に提供されている模様。

夫・緒方四十郎は元日本銀行理事、日本開発銀行副総裁。朝日新聞社副社長や自由党総裁、副総理を務めた緒方竹虎の三男である。ここにも朝日の存在あり。

父の仕事で都合でアメリカ、中国、香港などで幼少期を過ごす。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入、聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。その後、父の勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得した。
こちらもバークレー校。
聖心女子大出身者には美智子皇后やクリスチャン(カトリック)作家として有名な曽根綾子などがいる。曽根さんは日本郵政の取締役に就任している。

国際基督教大学准教授、上智大学教授を歴任する。
1968年(昭和43年)、国際基督教大学 (ICU) 講師を務めていた時に、参議院議員を務めていた市川房枝の訪問を受けて、市川から「今年(1968年)の国際連合総会日本代表団に加わって戴きたい」と要請される。これが契機となって緒方自身は国際連合の仕事に関わるようになる。


市川房江は後年のイメージと違って戦前国策(戦争遂行)に協力した人物である。
市川は大日本言論報国会(昭和17年(1942年)12月23日に、大東亜戦争遂行のための言論統制を担当していた情報局の指導の下に設立された団体。情報局の外郭団体であり、戦時下における事実上唯一の評論家団体であった)の理事に就任していた。言論統制側の人間であった。

国連公使、国際連合児童基金 (UNICEF) 執行理事会議長、国連人権委員会日本政府代表、第8代国連難民高等弁務官:1990(平成2)年-2000(平成12)年他を務める。2001年(平成13年)からアフガニスタン支援政府特別代表、2003年(平成15年)から国際協力機構 (JICA) 理事長。

2002年(平成14年)、外務大臣田中真紀子の更迭時にはその後任に推す声もあったが、本人が固辞した。2007年11月のデイヴィッド・ロックフェラー来日時には、回顧録出版記念パーティーの発起人を務めた。

小泉純一郎首相(当時)の私的諮問機関として、2004年(平成16年)12月27日に設置された皇室典範に関する有識者会議に、メンバーの一人として参加した

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グローバルとか開かれた世界とか保護主義はダメだとか弱者の味方だとかどんな宗教を信仰していてもとかなんとか言うけれど、国際社会は昔から秘密結社とかインナーサークル的なことが大好き。
誰にでも平等に開かれてなんかいないわよ。表と裏の顔があるの。見えないところでは平気で無視。虫けらみたいな扱いするのよ。ねえそうよね、そうでしょビル?


日米欧三極委員会はビルダーバーグ会議が日本の受け入れを拒否したから設立されたとも言われている。
しかしビルダーバーグ会議の中心人物も日米欧三極委員会を設立したデイヴィッド・ロックフェラーやキッシンジャーなどである。
ビルダーバーグ会議はロックフェラー3世と松本重治らが設立した国際文化会館(1952年)の2年後にスタートしている。
この頃の日本とのパイプ役はデイヴィッド・ロックフェラー(1962年初来日)ではなくロックフェラー3世(1978年没)だった。

ビルダーバーグ会議
1954年から毎年1回、世界的な影響力を持つ政治家や官僚、多国籍企業・金融機関の代表やヨーロッパの王族、貴族の代表者など約130人が、北米や欧州の各地で会合を開き、政治経済や環境問題等の多様な国際問題について討議する完全非公開の会議である。「陰のサミット」と呼ばれることもある。
最初の会議には、西ヨーロッパの11ヶ国から50名、アメリカからは11名が参加した。


アメリカ一の財閥ロックフェラー家の当主3世をそっちのけで大西洋重視というのもなんだかおかしい。
ということはロスチャイルドの意向?太平洋より大西洋重視?

ビルダーバーグ会議は、世界的な影響力を持つ政治家や多国籍企業・金融機関の代表やヨーロッパの王族、貴族などの代表者による会議であり、非欧米諸国からの出席者は少ない。
出席者のおよそ2/3が多国籍企業ないし多国籍金融機関の経営者、国際メディア、およそ1/3が各国の政治家と言われている。毎年、アメリカから30人、欧州各国から80人、国際機関などから10人とも言われている。また、著名な大企業であっても自薦では参加者を送ることができないと言われている。

1991年の会議には、当時アーカンソー州知事だったビル・クリントンが招待された。クリントンは会議の1年半後の1993年1月にアメリカ大統領に就任した。1993年の会議にはイギリス労働党のトニー・ブレアが招待された。ブレアは会議の4年後の1997年5月にイギリス首相に就任した。


オバマ大統領は呼ばれなかったのかなぁ?
2003年のイラク戦争、アメリカのブッシュ大統領が「悪の枢軸」とイラクを非難したり、副大統領が「イラクの核脅威は、予防的攻撃の正当性を証明している」と発言したり、イギリスのブレア首相が「イラクは、化学兵器と生物兵器を保有している。イラクのミサイルは45分間で展開できる」と断言したり、アメリカのパウエル国務長官が「サッダーム・フセインはガス壊疽、ペスト、チフス、コレラ、天然痘など、数十種類もの病原菌の研究に着手した」と言って戦争は始まったけれど、戦争をすることを決定したのは2002年のビルダーバーグ会議(5月30日-6月2日にアメリカのバージニア州で開催)だったとか。
「悪の枢軸」以降の発言は皆その会議の後に行われた。
戦争しても結局何の証拠も出てこなくて、石油畑のブッシュ大統領が悪者になったやつです。

議長
ベルンハルト王配 オランダ (1954–1975)
サー・アレック・ダグラス=ヒューム イギリス (1977-1980)
ヴァルター・シェール ドイツ(1981-1985)
エリック・ロール (Eric Roll, Baron Roll of Ipsden) イギリス(1986–1989)
第6代キャリントン男爵ピーター・キャリントン イギリス (1990–1998)
ダヴィニオン子爵エティエンヌ・ダヴィニオン (Étienne Francois Jacques Davignon, Viscount Davignon)ベルギー (1999–2011)
アンリ・ドゥ・キャストゥル (Henri de Castries) フランス (2012~)


先進国首脳サミット(G7)は日米欧三極委員会の設立(1973年)よりも遅く1975年から。
サミットは、ビルダーバーグ会議や三極委員会の意向を反映すると言われる。下部組織の1つだろうか。

ダニエル・エスチューリン(Daniel Estulin)は以下のように主張している。

・各年のビルダーバーグ会議の決定に従って、各国政府、財界への工作、メディアを通じた世論操作が発動される。

・その都度、議論されるトピックは国際政治経済状況による異なるが、最終目標は、あくまでも欧米による世界統一権力の樹立である。そのための手段として、メディアおよびネットの国際的支配、国民総背番号制と「人体埋め込みチップ」、GPSによる大衆監視、電子通貨システムを通じた国際通貨統合、人口抑制といったサブ・テーマが継続的に取り扱われている。

・9.11以降、米国・ネオコン派に対して米国・非ネオコン派および欧州派の意見対立がある。

・1997年の会議でビルダーバーグでは、カナダからケベック州を分離した残部をアメリカに統合する計画を検討する予定であったが、ダニエル・エスチューリン、ジェームス・P・タッカー(Jim P.Tucker,Jr)らの活動により、「トロント・スター」紙をはじめとするカナダのマスコミが大々的にビルダーバーグ会議について報道するに至った。それが国際世論の注目を集めたことにより、計画は頓挫した。その結果、ダニエル・エスチューリンは暗殺されかけた。 



ダニエル・エスチューリン
ジャーナリスト。1966年3月ソ連生まれ。1980年3月反ソ活動によりソ連から追放される。父のアイザック・エスチューリンは、著名な科学者だったが、反体制活動家でもあり同郷の市民のために、言論の自由を求めたことに対する罪で、投獄され、KGBの拷問を受けて死亡した。さらに、叔父が、スターリンの悪口を言ったことを家族の誰かに密告され、チェーカー(KGBの前身)に殺害される。
一方で、祖父は、KGBの部長を務めていて、1950年代は対敵諜報部員をしていた。その関係で、KGBをはじめMI6や、CIAからも多くの情報が得られ、著者はどのジャーナリストよりも、信頼度の高い詳細な機密情報を持っている。特にビルダー・バーグの権力掌握については、多角的な分析から、衝撃的な事実をいくつも掘り起こし、何度も命を狙われた。そのため、長年カナダのトロントに住んでいたが、現在ではマドリッドに移住し、執筆活動を続けている。


幾らなんでも父と祖父のギャップがありすぎるような気もするけれど・・そういう考え方はやっぱり日本的で家に囚われているからなのかな。
でも子供は父の血を継いでいる、影響を受けていると見做されて当然だと思うのに、拷問を受けて死亡した人物の子が警戒されずに情報が得られるもの?
犬養家はみなカトリックですよ! 3世もデイヴィッドも日本ではカトリック教徒を仲間にしていますよ!








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# by yumimi61 | 2017-05-09 20:51
2017年 05月 09日
日本国憲法の秘密-469-
ソニーはADR発行を通じて、スミスバーニーやモルガンと付き合いがあった。

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1929年、ウォール街で大暴で世界恐慌。
この時、アメリカでは銀行と証券会社を兼ねる経営が禁止される法律が制定された。
   ↓
 JPモルガン分社。
  ①JPモルガン・・市中銀行
  ②モルガン・スタンレー・・証券・投資部門

1960年、OPEC設立。

1969年、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会メンバーとなる。

1978年、ロックフェラー3世が交通事故死。
1979年、スリーマイル島原発事故。
1980-1988年、イラン・イラク戦争。

1984(3月~1985年8月)、グリコ森永事件。
1985年(1月)、アメリカがユネスコ脱退。
1985年(8月)、日本航空123便墜落。
1985年(9月)、プラザ合意。→円高
1985年(12月)、イギリスがユネスコ脱退。
1986年(1月)、ニューヨーク市場株価大暴落。(ユネスコ脱退が株価操作の合図だった可能性あり)
1986年(1月)、スペースシャトルチャレンジャー号爆発事故。
1986年(4月)、チェルノブイリ原子力発電所事故。

1986年、盛田昭夫が経団連副会長となる。

1986年(12月)、日本はバブル景気に突入。
1987年(2月)、ルーブル合意(プラザ合意によって始まったドル安とマルク安に歯止めをかけるための合意)
1987年(9月)、マルクが上昇している中、西ドイツがアメリカの反対を押し切って金利を引き上げ。
1987年(10月)、ブラックマンデー
※ニューヨーク市場の株価大暴落を発端に起こった過去最大規模の世界的株価大暴落。その割には大きな明確な原因がなかったとも言われている。それもそのはず大暴落は1986年1月から起こっていた。

1989年(1月)、盛田昭夫と石原慎太郎の共著『「NO」と言える日本』発売。(アメリカ批判)
1989年(5月)、ソニーの盛田昭夫がJPモルガンの国際諮問委員会メンバーを退任する。


1991年(2月)、日本のバブル景気終了。

1991年(4月)、盛田昭夫が勲一等瑞宝章受章。

1991年(8月)、ソロモン・ブラザーズ不正入札発覚 ⇒有数の投資銀行に成長していたが窮地に陥る。

1991年、日本国際交流センターの山本正と読売新聞の企画に寄りデイヴィッド・ロックフェラーと盛田昭夫が対談。

1992年、盛田昭夫がイギリス王室から名誉大英勲章およびナイト爵の称号を受ける。

1993年(11月)、盛田昭夫がテニス中に脳内出血に倒れる。→以後表舞台から姿を消してハワイで療養。
 ※経団連会長に就任することが決まった後の事だった

1998年、スミス・バーニーとソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となる。(ウォーレン・バフェットによる)

2000年、JPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合した。

2009年、「ソロモン・スミス・バーニー」がモルガンと統合して「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となる。

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ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達

 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978) 交通事故死  ===息子4世ジョン(ジェイ)・ロックフェラー
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-1917?没 ) ===2014年医師である息子が飛行機事故で死亡

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1970年代から1981年までチェース・マンハッタン銀行(現:JPモルガン・チェース)の頭取だったのが、3世の息子4世と後継者争いをしていたデイヴィッド・ロックフェラーである。

ロックフェラー家は石油事業を独占することでアメリカ一の財閥に伸し上った一家である。
従ってエネルギー問題に深く関係している。
ところがロックフェラー家には後継者を巡ってお家騒動が持ちあがった。いわば内紛。
ロックフェラー家の本道エネルギーは石油である。
その本道に対抗しようと思えば、石油以外のエネルギーを持ち上げて本道を陥れようとする。
つまりロックフェラー一族の中に石油派と石油派以外がいるということになる。
そのようなことを前にも書きました

ロックフェラーの闘いとして有名なのは、デイヴィッド・ロックフェラ-vsジェイ・ロックフェラー。(敬称略)

ジェイ・ロックフェラー(以下ジェイRF)は日本にいたこともあるんですね。
野口英世とロックフェラーの関係は前にも少し書きました。
ジェイRFはアメリカ大統領も目指していたそうですが、民主党予備選でビル・クリントン(元大統領)に負けてしまったのです。
自分の叔父であるデイヴィッド・ロックフェラ-(デイヴィットRF)はクリントンを応援したというから心中穏やかではありません。
実はクリントンもロックフェラー家と並々ならぬ関係なんだそうです。

そんなこんなで、デイヴィットRFvsジェイRFが取り沙汰されるわけです。
昨今はデイヴィットRFの情勢が厳しいとか。

それはつまりこういう図式であるということです。

 シティグループvsゴールドマン・サックス  (リーマンショックのリーマン・ブラザーズは、シティグループの傘下)

 石油資源(エクソンモービル)vsクリーンエネルギー(原発含む)



ロックフェラー家がアメリカ一の財閥として大きな力を持ってくると、それを育てたロスチャイルド家もその地位を脅かされる。
大きくなってくれることを望んでいたが、あまりに大きくなると今度は逆に自分自身にとって脅威になるのだ。それは君主と軍隊の関係にも似ている。
こういう背景を考えると、石油派のロックフェラーに対抗する者にロスチャイルドが味方した可能性もある。


『「NO」と言える日本』での盛田のアメリカに関する主張
・アメリカの企業 アメリカの企業はM&Aのようなマネーゲームに躍起になり、実際の商品の創造や製造力を蔑ろにしている。
・アメリカの企業は短期的な利益に躍起になり、製造の海外移転などの長期的な全体の生計を犠牲にしている。
・アメリカの企業の重役の収入は多すぎて企業のためにならない。
・日本の企業は厳格な共同体であり、全体として結果はよい。
・アメリカとの貿易黒字はアメリカには望ましい製品が欠けていることが原因である。
・アメリカの企業は基本的な調査によれば強力だが、製品の進歩やマーケティングにおいてはそうではない。
・日本政府が日本の企業を保護することは当然である。政府は税金の収入に頼っているのだ。



アメリカでも問題視されたこの本を出版した後、盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会役員を退任している。
その2~3年後、勲一等瑞宝章と名誉大英勲章およびナイト爵の称号を相次いで受けている。
これは長年の功績というよりもどちらかというと、モルガン(ロックフェラー本道)を離れたことへの評価だったのではないだろうか。
そんな状況で行ったのが、本筋(3世亡き後の長男4世)とお家騒動を繰り広げたデイヴィッド・ロックフェラーとの対談である。

日本との関係が深かったのは終戦直後に日本を訪れたロックフェラー3世である。
アメリカに渡った盛田夫妻が紹介されたのも3世であった。
盛田昭夫は対談で(こともあろうにデイヴィッドに)3世の妻と私の妻が親しくていたと話した。
デイヴィッド・ロックフェラーが初めて来日したのは1962年のことだったというから3世よりはだいぶ後の事である。(4世が日本の国際基督教大学に留学した後)
それまではもっぱら3世が日本とアメリカのパイプ役だったわけである。
「3世の妻と私の妻が親しくていた」という話をデイヴィッドはどんな気持ちで聞いたのだろうか。
盛田はそれから2年あまりで表舞台から姿を消した。









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# by yumimi61 | 2017-05-09 13:48
2017年 05月 08日
日本国憲法の秘密-468-
少し前に私は商品だけで巨万の富を得たり多国籍企業になることはないと言いきったが、ではソニーに何も売りが無かったかと言うとそうではない。

ソニーの前身・東京逓信工業は、テープレコーダーを日本で初めて世に送り出した。
誰でも簡単に録音することを可能にしたのは盛田ら東京逓信工業だったのである。
創業者の盛田や井深は経営者だけでなく技術屋としての顔を持っていた。
ポケッタブルと呼ばれるポケットに入るほど小型のラジオ「トランジスタ携帯ラジオ」を日本で初めて作ったのも東京逓信工業である。世界的にも最小を達成し、アメリカ市場でも成功した。
1950年代のことで、盛田がアメリカに駐在する前のことである。
ソニーは間違いなく後に続くポータブル機器の先駆者であった。
東京逓信工業がソニーと社名を変えて、東証一部に上場したのは1958年。戦後に急成長した会社の1つである。

「トランジスタ携帯ラジオ」のトランジスタ開発の中心にいたのが後にソニー社長(4代目)にもなる岩間和夫。
日本における半導体産業の基盤を創った男ともいわれた。愛知県名古屋市出身。
東京帝国大学(現・東京大学)理学部地球物理学科卒。東京通信工業(現・ソニー)入社前は東京帝国大学地震研究所(現・東京大学地震研究所)に所属していた。戦時中はレーダー撹乱作戦に従事し日本軍のキスカ島撤退作戦に貢献した。


1972年にノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈は1950代に東京逓信工業にいて、トランジスタ開発に貢献した。
ノーベル物理学賞の受賞理由は「半導体内および超伝導体内の各々におけるトンネル効果の実験的発見」である。
その後アメリカIBM研究所を経て筑波大学の学長に就任した。
IBMはモルガングループの中核企業であり、盛田昭夫は1970年代にIBMの子会社の社外取締役にも就任していた。
同じ頃IBMのCEOがJPモルガンの社外取締役に就任しており、こうした人脈を通じてソニーはIBMとも繋がりがあった。
またIBMの取締役会でプルーデンシャル保険のCEOと知り合ったことによって、ソニーは保険事業にも参画することになる。


岩間和夫の妻は、盛田昭夫の妹・菊子である。
岩間和夫と盛田昭夫は義理の兄弟となる。年齢は岩間のほうが2つ年上である。
岩間和夫・菊子夫妻の娘は、城戸崎武の息子・城戸崎博孝と結婚した。

建築家・城戸崎博孝の経歴
1966年 日本大学理工学部建築学科卒業
1966年-1975年 松田平田設計事務所勤務
1977年 イギリス・シェフィールド大学大学院修士課程修了
1979年-1993年 丹下健三・都市・建築設計研究所勤務
1993年 アーキテクトファイブ共同主宰
2000年 城戸崎建築研究室設立


城戸崎武は三井物産の取締役や常務を歴任した人物。三井銀行の情報開発部門の顧問でもあったそうである。
城戸崎武の兄も三井不動産の取締役などを歴任した人物。後に東京ディズニーランドのオリエンタルランドの常務となった。(浦安沖を埋め立て開発に乗り出してディズニーランドを誘致しようとしたのは三井不動産と京成電鉄でオリエンタルランドという会社を設立した)
ともかく城戸崎家は三井に関係がある。

城戸崎武には娘もいる(博孝の妹)が、その娘は森永製菓創業者の孫・森永剛太(森永製菓6代目社長)と結婚した。
森永製菓にも創業パートナーがいた。松崎半三郎。
松崎半三郎の曾孫が安倍晋三首相の妻の昭恵さんである。

森永製菓の創業者の森永太一郎は佐賀県伊万里生まれ。
横浜で数年過ごした後の1888年(明治21年)にアメリカに渡った。
陶器で商売をするのが目的だったがアメリカで熱狂的なキリスト教徒になり商売よりも伝道に傾いた時期もあったが、西洋菓子の製法を学ぶ。
1899年(明治32年)に横浜に帰国し、森永製菓を設立した。
1935年(昭和10年)、社長を退き念願のキリスト教布教活動を開始した。
ここもキリスト教だったわけである。
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明治期以降の日本は大きく分ければ「三井財閥」と「三菱財閥」で成り立っている。
ここを中心に天皇家や日本の政治中枢部に繋がる大規模な縁戚関係も成り立っている。
世界共通の金融システムに乗っかったのは明治期であるが、システム構築に貢献したのが「横浜正金銀行」と「日本銀行」。
設立者は横浜正金銀行は大隈重信と福沢諭吉、日本銀行は松方正義。
財閥系で分ければ、日本銀行は三井系で、横浜正金銀行は三菱系であった。
大隈重信の立憲改進党は三菱資本、伊藤博文の立憲政友会は三井資本。
これを背景に今でも早稲田大学、慶應大学、東京大学が政界をはじめいろいろな場面で優遇されているというか強いわけである。

以前書いたように松方正義の長男は華族銀行と呼ばれる十五銀行の頭取だったが、倒産で島津家にさらなる借りを作って失脚した。
十五銀行
1877年(明治10)5月21日に国立銀行として開業。
岩倉具視の呼びかけにより有力華族が発起人となり華族銀行とも呼ばれた。
原資は禄(貴族や官人に支払われていた金銭と維新功労者に対して付与された金銭・物資など)制度処分の代わりに発効された公債(国債)。
初代頭取には最後の長州藩主・毛利元徳が就いた。
宮内省(現在の宮内庁)の金庫(御用銀行)でもあった。


十五銀行は整理再建されたが、1944年に帝国銀行に吸収された。
帝国銀行の元は三井銀行であるので、十五銀行は三井に吸収されたことになる。
十五銀行跡地は三井系企業が利用している。
このことは天皇家や華族が三井と繋がっていたことを思わせる。
トヨタもソニーも東芝も三井系企業である。縁戚関係があったり融資してもらったり。

東芝の前身となる田中製造所は東京逓信工業よりも全然古い会社で、天才発明家と言われた田中久重が1875年(明治8年)に設立した。
1881年(明治14年)に創業者が死去。田中製造所は養子が久重を襲名して引き継いだ。
ここまでは家業であった。
しかし事業(電信機の製造)は行き詰まり、1893年三井銀行がこれを引き受け芝浦製作所と改称し、1904年に株式会社芝浦製作所として再出発した。
この時に三井銀行から芝浦製作所に送り込まれたのが藤山雷太。
芝浦製作所は1909年にアメリカのGE社に資本の1/4を引き渡して技術提携。GE社はモルガングループ企業。


藤山雷太は森永製菓創業者の森永大一郎と同じく佐賀県伊万里の出身。
慶應義塾の出身で福沢諭吉の計らいで出世した。

福澤諭吉を介して、福澤の甥であり山陽鉄道社長であった中上川彦次郎の知遇を得て、黒田清隆、大隈重信、鳩山和夫らと知り合ったという。
その後、中上川によって三井銀行に採用され、若輩ながら抵当係長という重要ポストに付けられた。その後、雷太は中上川の妻の妹と結婚し姻戚関係となった。

藤山は王子製紙の専務取締役に就任している。ということで王子製紙も三井系企業。

1909年(明治42年)に渋沢栄一に推挙され大日本製糖(現在の大日本明治製糖)の社長に就任。
この倒産寸前と評される大日本製糖を台湾での生産拡大などの経営方針で僅か2年ほどで再建させ、その後、朝鮮製糖、内外製糖、東洋精糖を合併し、規模を拡大させた。

三井退社後から、この間、駿豆鉄道社長、日本火災保険副社長、歌舞伎座取締役、出版社泰東同文局社長を歴任。帝国劇場の創立にも関わる。1917年(大正6年)から1925年(大正14年)には東京商業会議所の会頭を務め、日本商業会議所連合会会頭にも就任した。1923年(大正12年)に勅選貴族院議員となる。
この間に拡大させた企業群は『藤山コンツェルン』の基礎となる。



以前こちらに三井のことや株主のことを書いた。
近年の日本の大企業に必ずといって名を連ねている2つの信託銀行も結局のところ三井と三菱である。
そして三井や三菱の後ろにモルガン(ロックフェラー)がいる。





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# by yumimi61 | 2017-05-08 15:56
2017年 05月 07日
日本国憲法の秘密-467-
インナーサークルという言葉を知っているだろうか?
かつてヘヴィメタ(ヘビだと~~~~蛇っぽいのでここはあえてヘヴィにしておく)(ベビメタでもない)に陶酔していた彼なら知っているかもしれない。

ヘヴィメタという言葉を聞いたことはあるが実際何を指すのか分からないという人もいるかと思うのでまずはヘヴィメタ。
1960年代の終わりから1970年代の初頭にかけてイギリスやアメリカなどで広く発展したロックのスタイルのひとつである。
日本での発展はそれより遅れている。
そしてヘヴィメタととヴィジュアル系が混同されていることがよくある。
見た目が派手と言うか独特と言うか何というかのヴィジュアル系バンドをヘヴィメタと思っている人も少なくないのだが基本的には見た目は関係ない。
ただ長髪とか上半身裸とか革パンとか、全体的には黒色チックがとても好きかもしれない。
でも音楽だけに特徴は音と歌詞。
音がその名の通りヘヴィ。

ヘヴィメタルは比較的古くから、アリーナ向けの商業ロックとアンダーグラウンドにシーンが分かれていて、また時代が下るごとにシーンも細分化が進んできた。シーンの分化はすなわち音楽性の多様化といえ、ヘヴィメタルは様々なサブジャンルを内包している。
とはいうものの、このジャンルに分類されるバンドのサウンドはハードロック同様、エレクトリック・ギターの歪んだ音を強調した、過激なものであるのが基本的である。それはヘヴィメタルが、ハードロックが限界点を迎えた後、パンク・ロックムーブメントの中で新たな音楽性を求め発展した末に生まれたジャンルであることによる。従って、ハードロックとヘヴィメタルの間に厳密な境界線は無く、ハードロックとヘヴィメタルとをひとくくりにしてHR/HM(HM/HR)と呼ぶこともある。


歌詞が独特。

攻撃的な音楽性に合わせ、歌詞もやはり攻撃的なものが目立つ。 一般社会(特に日本)では悪魔崇拝やオカルト、猟奇的な犯罪、麻薬についてなど、退廃的で過激な歌詞の印象、ないし偏見をもって語られることがあり、PTAなどから批判の矛先になることがある。これは、このジャンルの始祖的存在であるブラック・サバスとそのヴォーカルで放送禁止用語を多用するオジー・オズボーンなどのイメージから、ある程度は仕方の無いものと言える。

しかしメタルのメインストリームはアイアン・メイデンに代表されるように、メロディの美しさやリズムの格好良さに重きを置いており、歌詞の過激さはあくまでもギミックとしてのものである。そうしたものだけではなくポピュラー音楽として普遍的なラヴソングも存在し、他にはスラッシュメタル以降に多く見られるよう政治・社会問題を訴えるもの、移民の歌のように歴史的事象を取り上げたもの、人生観や個人的感情について唄ったもの、ドラゴンフォースに代表されるようなファンタジーもの様々なものが歌詞のテーマにされている。

過激な内容の歌詞も、単に注目を引くためのもので、作詞者の実生活や、メディアの取材やコンサートでのファンとの交流で見せるメンタリティとはかけ離れていることもままある。だが、ブラックメタルやマリリン・マンソンのように、本格的に反キリスト思想などの主張を歌詞に取り入れ、音楽活動全体の指針にしているバンドが存在するのも事実であるが、その一方でストライパーのようなクリスチャン・メタルという分野もある。これらも上記の政治・社会問題や歴史的事象を取り上げたものの派生とも取れる。


メタルとかロックとかパンクとかいう音楽は反体制・反権力であると思っている人も多いし、そうでなければならないと当事者たちが思い込んでいるふしもある。
でも人気者になる、つまり音楽家が職業として成功するということは、反体制や反権力とは相容れないところがある。
だって政治家は選挙で勝利した人達、つまり大衆に支持された人達なのだから、同じ土台(ステージ)に立ってしまう。
大衆に支持された時点で反体制・反権力であることはかなり怪しくなってくる。
これは当事者たちのジレンマにもなり、ストイックであるほど耐え難いものとなる。

でもそもそもメタルやロックやパンクって反体制・反権力なのかという疑問も生じる。
反キリスト思想を持つ者もいるが、その一方ではキリストを熱烈信仰する者もいる。
悪魔崇拝の象徴とされるデビルスター(反五芒星)や聖ペテロ十字(逆十字)を身に着けたり掲げたりする者がある一方で、ローマカトリックという世界的権威・権力の象徴である十字架をこよなく愛する者もいる。
宗教の権威権力は絶大である。
例えばロックバンドが大統領を支持をする。大統領なんて誰がなっても権力者であることに変わりない。
反体制・反権力を謳うならば大統領なんて支持できない。
ちなみに聖ペテロ十字(逆十字)は、ペテロが「私がキリストと同じ磔ではおこがましい」と言ったので逆にされたわけだから、対峙した悪魔ではなく謙虚なバリバリのキリスト信奉者である。
反体制・反権力ではなく、「自分の都合の悪いものには反対する」、これが多くの人間に共通することなのだ。
それにもし権力者も悪魔崇拝者だったら、反体制・反権力で悪魔崇拝しても同類になってしまうわけだし。


さてインナーサークル。
インナーサークル (Black Metal Inner Circle または Black Circle) は、90年代初期のノルウェーのブラック・メタルバンドとその関係者らを指して使われた言葉である。「誰が一番邪悪か」を競うかのように、教会の放火から殺人に至るまで様々な事件を起こしてヨーロッパ中を震撼させ、後のブラック・メタル・シーンにも多大な影響を与えている。
マスコミや音楽ジャーナリズムによって「悪魔崇拝集団」としてセンセーショナルに報道されたが、全ての事件に悪魔崇拝が関係しているとは限らない。中には Emperor の Samoth や Faust のように悪魔主義者ではない者も多数おり、ひとつの宗教的、思想的信条によって括れる性格のものではないと言える。


1991年4月8日、ノルウェーのヘヴィメタ、ブラックメタルバンドのバンドマンが死んだ。
ブラックメタルは反キリストであることが多い。
銃で頭を撃ちぬいたという。彼は同じバンドのメンバーと同居していた。
同居人が何より先にしたことは死体写真を撮ったこと。
その死体写真はアルバムジャケットに利用された。

ノルウェーの首都オスロにとあるレコードショップが開店。オーナーは死体写真を撮ったバンドマンであった。
このショップに集う若者達がショップの地下室で秘密結社(インナーサークル)を作った。
「誰が一番悪魔を崇拝しているか」、悪魔崇拝に囚われ、武勇伝を獲得するために、彼らは悪事に手を染めていく。
教会や礼拝堂を放火、メンバーの自宅を放火、同性愛者の殺人、暴行、不法侵入など・・・。
そしてついにはレコードショップオーナーであるバンドマンも殺害された。
社会を震撼させ、罪を犯した者は当然刑務所送りになったわけだが、懲りることなく刑務所内から作品を発表した。



inner circle(インナーサークル)とは、権力中枢部の側近、あるいは組織内で実権を握る少数の人々、そのグループのことである。
本来ヘヴィメタやブラックメタルバンドには関係ない。
インナーサークルは経済界全般、また政界にも影響力を発揮しうるビジネスリーダーのグループのことである。
いわばビジネス界のトップエリート。ではどうしたらビジネス界のトップエリートになれるのか。

 ・大企業の最高経営責任者(CEO)や経営幹部
 ・大企業の外部取締役や諮問委員会メンバー
 ・経済団体やシンクタンクの理事
 ・大学や慈善団体の理事
 ・政府高官や政府機関の諮問委員会メンバー

上記のどれか1つに該当しているということではなく、あれもこれもやっておいたほうがいい。ネットワークは増えパイぷは太くなり、箔が付き評価が高まるから。


ところで政府高官。
日本の報道で聞く政府高官はかなりの確率で官房長官のことなんだとか。
でも一般的には省庁の役職者。
日本の場合、省のトップは大臣で、庁のトップが長官と呼ばれている模様。組閣の時に決まる人達で多くは国会議員だけれども民間人でもよい。首相が決めている。
一方、省庁の役職者は国家公務員(と言っても広義には国会議員も国家公務員に含まれるけれど)。官僚と呼ばれたりもする。

アメリカの仕組みは日本のそれとは違う。政治任用制度。
各省庁の長官(アメリカに大臣はいない)のみならず、多くの政府高官を大統領が指名する(上院が承認)。
その数3000人ほど。この人達は議員や公務員である必要はない。
但しホワイトハウスの主が変われば、長官をはじめ政府高官、その下にいる補佐官や秘書さんなどごっそり入れ替わる。
だから回転ドア(revolving door)」とも呼ばれる。(まさにサークル!)

ジャパンハンドラーとして有名なアーミテージさん(カトリック信者らしい!)も政治任用制度で政府高官となった人物である(レーガン大統領とブッシュ大統領の時に政府高官だった)。
政治家と言われるが日本のような議員ではない。
経済界出身ではなく元軍人。だから安全保障分野に強い。
いろいろな団体や会社があるので政府高官を辞めても別に苦労はしない。天下りと非難されることもまずない。



1969年、ソニーの盛田昭夫はJPモルガンの国際諮問委員会の役員に就任した。
アメリカに渡って5~6年、48歳の時である。
子供達の学校のお付き合いの中で紹介されたというロックフェラーの力が大きかったであろう。
当時はまだロックフェラー3世(1906-1978)が存命だった。
ロスチャイルド→ロックフェラーのモルガンの国際諮問委員会である。
当然大企業のお偉いさんなどがいるわけである。その上、アメリカの企業の国際諮問委員会は取締役会にも匹敵するほど大きな権限を持っていたという。
ここで培った人脈がトップエリートの道を開いた。








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# by yumimi61 | 2017-05-07 17:23
2017年 05月 06日
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"I be going MIA on people sometimes."

"Don't go MIA on me."

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# by yumimi61 | 2017-05-06 23:11
2017年 05月 06日
日本国憲法の秘密-466-
ジャパン・ハンドラーズと国際金融情報  日本のロックフェラーの総代理人・山本正氏がガンで死去:その功罪とは? より
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タダシ・ヤマモトが作り上げた国際交流ネットワーク

(2010年2月13日 副島国家戦略研究所・中田安彦)

 日本で活動するアメリカ企業でつくる「在日米商工会議所」(ACCJ)というロビー団体では、毎年暮れに「今年のひと」を選出している。

 過去には07年に米企業側からも要望の多かった郵政民営化を推進した竹中平蔵・元参議院議員が選ばれている。他にも、06年には奥田碩(トヨタ相談役)、05年には西室泰三(東芝顧問)が選ばれているが、去年選ばれたのは、山本正(やまもとただし)という人物だった。おそらくこの連載をお読みの方で、この名前を知っているひとは半分もいないと思う。ただ、かつては「あらゆることが山本を経由する」といわれたほどの大人物なのだ。

 山本正氏は、財団法人日本国際交流センター(JCIE)理事長の肩書きを持つ。日本と国際社会との橋渡しをする「民間外交」を担うべく、まだ冷戦時代だった1970年に設立された。今回の受賞は今年が日米安保改定50周年とJCIE設立40周年に当たることがその理由だろう。

 山本氏は日米関係に少しでも携わったことのある人であれば、その名を知らないものはいない。ただ、積極的に表に出ることはせず、あくまで「黒子」に徹している。この連載では、以前に米富豪ロックフェラー家の肝いりで作られた、日米欧三極委員会(トライラテラル・コミッション)について何回か言及してきた。ロックフェラーら米国側のメンバーと一緒に、三極委員会の設立を73年に行ったのが、この亡くなった宮沢喜一元首相であり、この山本氏であった。石原慎太郎氏と共著で『NOと言える日本』を出したソニーの盛田昭夫氏が、デイヴィッド・ロックフェラー氏とニューヨーク郊外で読売新聞の企画で対談した時、盛田氏に付き添ったのもこの山本氏である。 

 山本氏は、三極委員会以外にも、日米議員や知識人の知的対話の場を提供した下田会議(1967年から)の立役者として知られる。この下田会議や続く日米議員交流には、歴代首相の相談役ともなった日本研究家のジェラルド・カーティス、皇太子妃の父上である小和田恒、ドナルド・ラムズフェルド(当時)そして若き日のジョゼフ・ナイら政治家・知識人が参加していた。このように日米人脈のつなぎ役(コネクター)となった山本氏だが、現在も中曽根康弘元首相が議長を務める「東アジア共同体評議会」(CEAC)の副議長のひとりであるほか、数年に一度、都内の米国大使館近くのホテル・オークラで開催される三極委員会年次総会では、ホスト役として活発に動く存在である。

<渋沢ファミリーの縁戚としての人脈力>

 山本氏は滅多にインタビューには応じないが、数年前に日経新聞で数回にわたる連載や、今回のACCJの受賞特集を読むとこの人の“人脈”が見えてくる。山本氏は国際都市・神戸の生まれ(1936年)で、父親が商社勤めであったという。香港、インドのムンバイなどに移り住んだ後、戦争中は母は父を残して5人の兄弟と一緒に神戸に戻ってきたという。

 山本氏より一世代前、すなわち戦後間もないころの日米交流人脈の拠点が国際文化会館(ロックフェラー3世らが設立)である。この理事長を09年に亡くなるまで務めていたのが、東京三菱銀行初代頭取の高垣佑(たかがきたすく)氏である。山本氏がいた頃の香港の日本人学校には、後に緒方四十郎・日銀総裁に後に結婚することになる、緒方(旧姓・中村)貞子(元国連難民高等弁務官)や高垣氏も在籍していたという。

 山本氏はカトリックの家系に生まれたことから若い頃は神父になるつもりだったというが、結局神父になったのは長男の山本襄治(聖イグナチオ教会)であった。イエズス会の上智大学在学中に聖職に就くべきか悩んだあげく、米国の大学に編入し、やがてMBA(経営学修士)を取得し、帰国後の62年には信越化学工業に入社した。

 そうして70年にJCIEを設立することになるのだがそのオフィスは都内麻布にあった。『軍隊なき占領』(ジョン・G・ロバーツ他著)という本には、その住所にあったのはもとはMRA日本センターだったという。このMRA(道徳再武装運動)で重要なのは、今もJCIEの評議員を今も務める渋澤雅英(渋沢栄一記念財団理事長)との関わりである。ロバーツらの著書によれば、雅英と山本は「縁戚関係」にあるという。また、「渋沢家五代目」として外資系金融機関で勤務した経験を生かして、現在は「コモンズ投信」の会長として活躍する、渋澤健氏は自らブログで山本氏のことを「私の叔父」として紹介している。渋沢家といえば、敬三など日銀総裁を輩出したことでもしられるが、その縁戚関係の広がりからも山本氏の日本の民間経済界における位置づけが分かってくる。

 ただ、三極委員会など「山本人脈」に連なるネットワーク組織の多くが、冷戦の時代に設立されたものであり、複雑化するアジア太平洋の国際関係の現在に対応し切れているかといえば必ずしもそうではないだろう。山本氏の人脈は「ロックフェラー人脈」に直結している。そのことがこれまでは強みであっただろう。ただ、ロックフェラー氏自身が、今年で95歳という高齢であり、山本氏自身もすでに現在73歳である。躍進を続ける中国、インドなど、BRICs諸国をいかにしてグローバル経済の枠組みに取り込んでいくかが、日本やG7諸国の現在の重要なテーマである。その中で日米欧という“西側”の三極を越えた、アジアへの人脈構築が求められている。「山本人脈」は良くも悪くも「アメリカ経由の国際交流」であった点はどうしても否定できない。

 三極委員会の北米会長であり、下田会議にも古い段階から参加してきた、ジョゼフ・ナイ元米国防次官補。オバマ政権の駐日大使の呼び声も高かったが、結局はそうならなかった。山本氏が親しいトマス・フォーリーが駐日大使に就任した97年ころから、時代は明らかに変化している。「山本人脈」につらなる竹中平蔵(ダボス会議評議員)、船橋洋一(朝日新聞主筆)らは、リベラル派の親米派知識人といえる存在だが、民主党新政権で存在感を示す、小沢一郎・党幹事長の唱える、「日米正三角形論」の枠組みからはずれた存在のようにも見える。

 山本氏が唱えた、非公式の民間交流の重要さは誰しも認めるところだろう。ただ、時代が変化するにつれて、その方法論もそれに応じて変化が求められていくが、今のところその新しいアジアの知的交流の芽はまだ見えてこない。(了)



山本正の出身地である神戸は以前書いた通り、明治時代の廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めにより九鬼隆義が買い占め、それにより九鬼家は巨万の富を得た。九鬼隆義はキリスト教をはじめ西洋文化を積極的に取り入れ、宮内省にも勤務したという人物。
松方正義の3男で松方三郎の養父でもある松方幸次郎(川崎造船所社長→衆議院議員)の妻の父親が九鬼隆義である。
九鬼家の屋敷があったところにカトリック教会が造られていて、九鬼家には神学者になった者もいる。
ロックフェラー3世の親友だという松本重治の妻は松本幸次郎の娘である。
松本重治の葬儀は東京聖三一教会(聖公会)で執り行われた。
松本重治やロックフェラー3世と親しかった松方三郎は晩年カトリック教会で洗礼を受けたと言う。
何かとキリスト教(主にカトリック)に縁深い。
神戸に生まれた山本正もやはり親の代からのカトリック信者であった。


前にも書いて、先日も書いた、国際基督教大学。
この大学はロックフェラーと所縁がある。
1952年設立の国際文化会館と1953年設立の国際基督教大学(ICU)ともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したのである。
日本銀行(戦後日本の金融界に絶大な権力を持ってローマ教皇庁に例えられ一万田法王と呼ばれた一万田尚登)やマッカーサーも関係している。

国際基督教大学(ICU)
東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。
1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った。


湯浅八郎の父は、同志社創立者の新島襄と同郷(群馬県安中)の湯浅治郎である。
八郎は第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。
このように 国際基督教大学(ICU)は新島襄や同志社との関係を匂わせて設立されている。
(ちなみに大学が置かれた場所は戦前中島飛行機が所有していた土地である。中島飛行機も群馬で創業された会社)
国際基督教大学はキリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲しているとも書かれているのだが、この説明は少しおかしいことを先日も指摘した。
ダグラス・マッカーサーは以前にも書いた通り、フィリピンに長い間いた人である。
マッカーサーがキリスト教を信仰していたとするならばカトリックであったと考えるのが自然である。


そしてこれも前に書いたことになるが、第2次世界大戦後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴したのがロックフェラー3世だった。


山本正、その人がロックフェラーについて(ロックフェラー回顧録を読んで所感などを)述べている。

世界を動かしたロックフェラー
-デイヴィッド・ロックフェラー『ロックフェラー回顧録』
山 本   正  新潮社読書情報誌『波』2007年11月号


筆者は、デイヴィッドとその家族、長兄のジョンに知己を得、長年にわたり親交を深める幸運を得た。初めて会ったのは、1972年、宮沢喜一氏、大来佐武郎氏等とともにロックフェラー邸での三極委員会設立準備会議の席だった。以来、30年以上にわたり三極委員会はじめ、筆者が主宰する(財)日本国際交流センターの活動についてもデイヴィッドは深い関心と支援を続けてくれている。ソニーの故盛田昭夫氏とデイヴィッドの対談を企画したり、マンハッタンやニューヨーク郊外の屋敷や別荘に伺ったり、あるいはプライベートな旅行に同行するなど、親しくその人柄に触れる機会を持ってきた。穏やかでゆったりした語り口で周りに不思議な安心感を与える、その人となりに長年接してきた筆者であるが、本書を通じて実に多くの事実をあらためて知った。

(略)

週給5ドルの店員から石油王として巨万の富を築いた初代ロックフェラーは資本主義の巨悪の象徴として弾劾されたが、敬虔なプロテスタントとして、酒、タバコを控え収入の10%は慈善寄付をするようにとの教育を子どもたちに施してきた。祖父を超えることはデイヴィッドの父には不可能に近く、如何にロックフェラーの富を社会と子どもたちに還元し、ロックフェラー家としての矜持を保つかに腐心した。

(略)

戦前から今日に至る人脈の華麗さは、ロックフェラーという名前だけで王族にも国家元首にも会えるということがなければ築けなかったことではあるが、一時は政治家を志した財界人デイヴィッドの力量に負う所が多い。中東や南米の元首たちとの交渉裏話はまさに、歴史そのものである。デイヴィッドとキッシンジャーが画策したとされるイランのパーレビ国王の亡命は米国政府の約束不履行を繕うためだった等、いくつものエピソードが述べられている。
国際関係に果たした役割の余りの多さ、大きさ故に、日本については世界的な話題となった三菱地所のロックフェラー・センター買収顛末が中心となっている。デイヴィッドが丸ビルの玄関で転倒、骨折し某病院に急遽入院、痛み止めと称してマティーニをホテル・オークラから届け、丁度電話をかけてきた夫人のペギーに見破られたこと、ソニーの大賀会長の好意で自家用機を出してもらい米国に帰っていただいたこと等、今では懐かしく思い出される。
しかし、本書の本質は、「社会の健全性のためにはフィランソロピー(社会変革をめざす寄付・助成活動)が必要」という確固たる一族の信念である。巨万の富を社会向上のために如何に分配するか、現在活躍している数多くの世界的な組織はロックフェラーの資金により生まれている。WHO(世界保健機関)もロックフェラー財団の活動から生まれたものであることは決して不思議なことではない。



「敬虔なプロテスタント」と書いているが、それは誰の事なのか?
ロックフェラー家の初代か2代目か?2代目の子供達も敬虔なプロテスタント信者であったのだろうか。
では3世だけが違っていたということであろうか?
3世の日本での人間関係等から推し測るとこの記述は怪しい。カトリック(あるいはカトリックに近い聖公会)との繋がりが強いと思われる。







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# by yumimi61 | 2017-05-06 00:41
2017年 05月 05日
日本国憲法の秘密-465-
ソニーの創業者の1人盛田昭夫一家はソニーのアメリカ進出をかけてアメリカに渡った。
子供達が通った学校はニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある私立名門校のSt. Bernard's School(男子校)とNightingale-Bamford School(女子高)であった。
校章に十字が入っているSt. Bernard's School(男子校)は文学に強い学校であった。
盛田夫人は出版社三省堂創業一族の出身である。三省堂の成功のきっかけは洋書の翻訳であり外国との繋がりが当初から深い。創業者の息子はアメリカに留学経験もあった。
盛田家に学校を紹介したのはアメリカの証券会社スミス・バーニーのソニー担当役員で、当時スミス・バーニーは米国預託証券(ADR)を発行していた。
現在ADR発行を引き受ける預託機関(預託銀行)は、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン、JPモルガン、シティバンク、ドイツ銀行といった大手銀行によって占められているそうである。

スミス・バーニーは1998年にソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となった。
ソロモン・ブラザーズは1980年にアメリカ有数の投資銀行に成長したが、1987年のブラックマンデーと1991年の不正スキャンダルで地に落ちた。
そんなソロモン・ブラザーズとスミス・バーニーをくっつけたのは、かのウォーレン・バフェット氏である。
その後シティグループの傘下となり、2009年には「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となり、さらにその後、モルガン・スタンレーがシティ保有の株式を買い上げたらしい。


盛田家に学校を紹介したのはスミス・バーニーの役員であったが、モルガンもソニーのADRを発行していた。
ということで、ソニーが1970年にニューヨーク証券取引所に上場する以前よりモルガンとのお付き合いもあった。

ではJPモルガンとモルガンスタンレーの関係はということになるが、それは以前書いた

1838年 ロンドンで「ジョージ・ピーボティ&カンパニー」*設立。
1854年 ジュニアス・スペンサー・モルガンがパートナー就任。
1864年 「J.S.モルガン&カンパニー」と社名変更。
1900年 ロスチャイルド一族のエドワード・グレンフェル
**が支配人となる。

*アメリカ出身のジョージ・ピーボディによってイギリスで設立された。
これは「ブラウン・ブラザーズ」を通じて行われたものであり、ロスチャイルドの三男・ネイサン・ロスチャイルドの代理人となる。
独身だったピーボディは後継者問題に直面し、ジュニアース・モルガンと提携した。
モルガン家はイギリスからアメリカに移住し財をなした一家であり、そのルーツはイギリスにあった。


**エドワード・グレンフェルはイングランド銀行総裁ヘンリー・グレンフェルの息子。
イギリスの老舗投資銀行「ブラウン・シプリー」の重役でもあった。
「ブラウン・シプリー」の創業者はアイルランド移民のアレグサンダー・ブラウン。
1800年に創業したリネン製品の輸入会社が成功して金融業に進出した。

ブラウン家がアメリカにて投資銀行家で鉄道王のハリマン家と結びつき、「ブラウン・ブラザース・ハリマン」になっている。
この「ブラウン・ブラザース・ハリマン」は多くの政治家を輩出。
父ブッシュ(41代大統領)の父親であるブレスコット・ブッシュが「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の前身の1つ「W・A・ハリマン」に就職し、頭取だったジョージ・ハーバート・ウォーカーの娘・ドロシー・ウォーカーと結婚。
2人の間に41代大統領となったブッシュ(次男)が生まれる。
43代大統領のブッシュは孫にあたる。
ブッシュ大統領の「ジョージ・ハーバート・ウォーカー」という名前は、そっくり祖父(母方)の名前である。
父ブッシュの母の家系を辿るとイギリス王室に繋がるらしい。

「W・A・ハリマン」を設立したのは、ハリマン一族で政治家にもなったW・アヴェレル・ハリマン。
ブッシュの父・ブレスコット・ブッシュは合併した「ブラウン・ブラザース・ハリマン」の経営者となった。
「ブラウン・ブラザース・ハリマン」はドイツでナチスを支援していた鉄鋼石炭王フリッツ・ティッセンの良きビジネスパートナーであり、アメリカ参戦後も敵国でありながら財政支援していた。


1861年 ジョン・ピアポント・モルガン(ジューニアス・スペンサー・モルガンの息子)が「J.P.モルガン&カンパニー」をニューヨークに設立。
1871年 ドレクセル・モルガン&カンパニーに改称。(フィラデルフィアの銀行家アンソニー・ドレクセルと組んだ)
      以後10数社の鉄道事業を買収して再編成した。
1892年 発明王エジソンの会社を吸収してゼネラル・エレクトリック(GE)を設立し、電気事業を再編。
1895年 再び「J.P.モルガン&カンパニー」と改称。
1901年 カーネギー鉄鋼会社を買収してUSスチール社を設立し、鉄鋼業を再編。
1907年 当時全米の電話を独占していたAT&Tを買収。

こうして様々な事業に投資し再編を行うことで金融資本による経済支配構造を構築した。(上記はアメリカ版)
構築初期段階で「モルガン」がロスチャイルドやユダヤ系であるということを上手く覆い隠した。
そして全ての富が一族(財閥)に転がり込むようなシステムを作り上げた。
そのために非常によく利用されたのが婚姻である。
一族内で婚姻を繰り返し財産が外に出ていかないようにしている。
また、政略結婚により他財閥や政治家と協力関係を結んだり、他財閥や有力者を取り込むことに成功した。
一族の人間を政治の世界へ送り込む場合もある。
こうして経済と政治を掌握していった。

(略)

1909年 「J.S.モルガン&カンパニー」を「モルガン・グレンフェル」に改称。

アメリカのモルガン親子を通じて、ロスチャイルド(イングランド・グレンフェル)はアメリカ(モルガン)を取り込んだのである。


余談だが沈没したタイタニック号の実質的オーナーは、J.P.モルガン&カンパニーであり、モルガン・グレンフェルである。

イギリス・ロスチャイルド家発の会社(ジョージ・ピーボティ&カンパニー→JSモルガン)のパートナーにジューニアス・スペンサー・モルガンが就任し、JPモルガンはジューニアス・スペンサー・モルガンの息子がニューヨークに設立した。当然この2つの会社は関係があった。
JPモルガンは上記のようにアメリカで巨大化した。
しかし1929年ウォール街で大暴落があり世界恐慌に繋がる。
この時、アメリカでは銀行と証券会社を兼ねる経営が禁止される法律が制定された。
そこでJPモルガンは会社を分けたのである。
JPモルガンは銀行として、証券・投資部門はモルガン・スタンレーとして再出発した。
モルガン・スタンレーの「モルガン」はジューニアス・スペンサー・モルガンでもその息子・ジョン・ピアポント・モルガンでもなく、投資部門の一社員から昇進していった人物の名前に由来すると言われるが、その叩き上げの社員というのはJPモルガンを設立したジョン・ピアポント・モルガンの孫であるのでモルガン一族の人間であり純粋な叩き上げとは少し違う。
モルガンは企業であり法人であるので家業ではないが、当時はモルガン一族が大きな影響力を発揮していたと考えてよいだろう。当然その後ろにはロスチャイルド家やロックフェラー家の後ろ盾があるわけだが。
家業ではなく株式会社なので状況によったり時を経れば創業家と言えど(ソニーと盛田家のように)会社への影響力を失うこともあるので、現在のモルガンがどうかは分からない。


2000年、金融持株会社であるJPモルガンとチェース・マンハッタンが経営統合した。(JPモルガン・チェース銀行とJPモルガンはこの持株会社の子会社である)
その後、アラバマ州で地方債を発行し手数料を稼いだ。賄賂が多方面に支払われていたので事件化した。自治体の財政にとって危険な債務債券化協定を結んでいた。
しかしその後も大手銀行を買収。さらに2007年以降の世界金融危機で経営状態の悪化した銀行を買収し規模を拡大した。
いろいろ優遇されたり悪いことをしていたりして、結構それが公になるのだが、銀行と投資部門のどちらもその地位は揺るがず。ヘッジファンド部門は米国最大。
2011年にはバンク・オブ・アメリカを抜き、アメリカ最大の資産を擁する銀行となったそうである。

チェース・マンハッタン・バンク
1955年にバンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して誕生した銀行。
なお、バンク・オブ・マンハッタンは1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものであるが、かつての水道事業に因んで、木製水道管の断面が図案化されている。

チェース・マンハッタン・バンクがクレジットカードのMasterCharge(Master Card)の生みの親である。
この銀行で1970年代から1981年まで頭取を務めたのが、デイヴィッド・ロックフェラーである。

ここでロックフェラー家のおさらい

ロックフェラー家のルーツは南ドイツでないかと言われている。
初代ジョン・ロックフェラーの父親は問題大ありの人だったようで、決して裕福な家庭ではなかった。

ロックフェラーによる石油事業(スタンダード・オイル)の独占がアメリカ初のトラストだったが、1911年に連邦最高裁から解体命令が出され分割された。
ロックフェラーはシカゴ大学とロックフェラー大学も創設。慈善家としての顔も持つ。
ロックフェラーの息子(2世)は大恐慌時代にマンハッタンの中心地に14のビルから成るロックフェラー・センターを建設してニューヨークの大地主となった。
ジョン・ロックフェラーの弟のウィリアム・ロックフェラーはナショナル・シティ銀行(現在:シティグループ)の創業者の1人。 

ロックフェラー2世・アビー夫妻の子供達

 ♀ アビー・ロックフェラー・モーズ(1903-1976)
 ♂ ジョン・ロックフェラー3世(1906-1978) 交通事故死
 ♂ ネルソン・ロックフェラー(1908-1979) 愛人宅で腹上死
 ♂ ローレンス・ロックフェラー(1910-2004) 肺疾患で死亡
 ♂ ウィンスロップ・ロックフェラー(1912-1973) 膵癌にて死亡
 ♂ デイヴィッド・ロックフェラー(1915年-    )

1女5男。1人目が女の子だったので、後継者(襲名)は2人目長男であった。
次男のネルソンは、ニューヨーク州知事と第41代副大統領を歴任。
3男のローレンスはオバマ大統領の支援者だったらしい。
4男のウィンスロップは、アーカンソー州知事であった。(クリントン大統領もアーカンソー州知事だった)
5男のデイヴッドが現在ロックフェラー家の当主となっている。
デイヴッドは1970年代から1981年までチェース・マンハッタン銀行(現:JPモルガン・チェース)の頭取であった。


初代・・・アメリカの石油事業(スタンダード・オイル)の独占
2代目(2世)・・・ニューヨークの大地主
3代目(3世)・・・日本の国際基督教大学に関与し息子が留学経験あり、松本重治や松方三郎の親友
第2次世界大戦後、日本との平和条約を締結するために来日したダレス国務長官とダグラス・マッカーサーに同伴した。
戦後にジャパン・ソサエティの代表にも就任した。(ジャパン・ソサエティは、1907年にニューヨークで設立された。元々、日本に石油を売るためにロックフェラー家が設立した機関)
人口問題にも関わり、人口評議会と農業開発評議会を設立した。
(緑の革命を広めるためで、世界銀行と国連組織がこれを後援している)
人口問題への関与はカトリックから非難された。
歴とした3世であり、しかも日本やアジアに深く関わった人物であるにも係わらず、日本語版Wikipediaにはその存在はない。(初代、2世、4世はある)
政界入りをせず民間組織などを通じて裏で活動していたせいか、多くを知られていない。
このことは「緑の革命」の印象を悪くし、後の人口削減、種子バンク、悪魔の種(遺伝子組み換えF1種)への批判に通じる。
世界銀行と国連との関係性も両組織の在り方からしてプラスのイメージには働かない。


長男3世が亡くなった後、すぐに3世の長男(4世)に継承されなかった。

亡くなった時に3世の息子(4世)はそれなりの年齢(41歳)になっていた。
しかしロックフェラー家の当主は次男のネルソンに継がれた。
ネルソン・ロックフェラーは1974年~1977年にかけて副大統領に就任した。
1974年というのはニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任した年である。
辞任に伴ってジェラルド・フォード副大統領が大統領に昇格し、そのフォード大統領から副大統領に指名されたのであった。
この頃がどんな時代だったかといえば、こんな時代だった(ジョン・レノンの歴史とともに)。
1977年の大統領選でフォード大統領が敗れたためネルソン・ロックフェラーも副大統領職を去った。
その翌年に兄の3世が交通事故死して当主を継承するが、自身もその翌年に亡くなった。
愛人宅で心臓発作を起こしたが、浮気発覚を恐れた愛人が友人宅などに電話をするなどして時間を浪費。
救急通報までにが約1時間も遅れたことが命取りになったそうである。


本家の家督は本家当主の子供なり養子が継ぐのが筋なので、この場合3世の長男が継ぐのが正当ではある。
しかし3世の弟たちが本家ロックフェラー家の当主に納まった(主張した)のでロックフェラー家のお家騒動が勃発した。特に長いこと揉めていたのがこの2人。
デイヴィッド・ロックフェラ-(3世の末弟)vsジェイ・ロックフェラー(3世の息子の4世)。

※上記過去記事には没年が入っていませんが、デイヴィッド・ロックフェラーは現在お亡くなりになられています。



1991年、デイヴィッド・ロックフェラーとソニーの盛田昭夫が対談した。
この対談を企画したのは日本国際交流センターの山本正と読売新聞。

山本正という人はカトリック教徒である。
2012年に亡くなったが葬儀はカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で執り行われている。
山本は上智大学からアメリカのセント・ノーバート大学へ留学し1960年に卒業した。

上智大学は学校法人上智学院のもとにあり、ローマ・カトリック教会に所属する男子修道会の一つ、イエズス会が設立母体です。上智大学に隣接して建てられている聖イグナチオ教会も宗教法人ですがやはりイエズス会の経営によるものです。この聖イグナチオ教会はイエズス会の創設者で初代総会長を務めたイグナチオ・デ・ロヨラ(1491-1556.7.31)にちなんで名づけられたものです。上智大学ホームページより>

小坂財閥一族の小坂徳三郎(信越化学工業社長)の下で国際交流事業に携わり、1967年に日米の民間政策対話「下田会議」をペリー来航の地である伊豆で開催。
1970年、小坂の政界進出(衆議院議員当選)に伴い独立して、日本国際交流センターを設立した。

小坂財閥
創始者:小坂善之助
信濃毎日新聞創業社長→衆議院議員
   長男:小坂順造(日本銀行→信濃銀行取締役→信濃毎日新聞社長・長野電灯社長→衆議院議員→貴族院議員
       信越化学工業創業社長、信濃毎日新聞会長→社主、日本発送電総裁・電源開発総裁)
   二男:小坂義雄(小坂才兵衛の養子)
   三男:小坂武雄
   長女:小坂ちか(衆議院議員 花岡次郎の妻)
   二女:小坂はる(日本銀行総裁 深井英五の妻)
       (夫妻の長女・結子は日本を代表する天文学者・萩原雄祐の妻)
       (萩原雄祐・結子夫妻の3男は日本テレビの元社長。「視聴率買収事件」の責任を取り副社長に降格)
       ⇒日本テレビの視聴率4冠王を10年連続連覇したのも萩原の功績が一番だと言われている。
   三女:小坂国(三菱銀行副頭取 関根善作の妻)
   四女:小坂菊江(陸軍少将 津野田是重の妻)
   女:小坂信(中央工業会長 今井文平の妻)
   女:小坂ふじ(農商務省 田中隆一郎の妻)

ここでも女子が政略結婚にフル活用されている。

上記の小坂順造の子供達。
   長男:小坂善太郎(三菱銀行→信越化学工業取締役→衆議院議員)
   二男:小坂善次郎
 ◎ 三男:小坂徳三郎(朝日新聞社→信越化学工業社長・信濃毎日新聞社長→衆議院議員)
       (妻は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵と、日本の女子ゴルフ草分けの三井栄子との長女)
   長女:小坂百合子(東京都知事 美濃部亮吉の妻→離婚)

山本正は日本国際交流センター設立以降、日本における民間の国際交流のパイオニアとして数々の事業を推進した。
日米議員交流、三極委員会など、戦後日本の国際化を進める知的交流プログラムを推進したほか、近年は、「人間の安全保障」概念の普及と、地球規模課題における日本の国際的役割の強化にも尽力した。
また、独立・民間の非営利組織としての立場を貫き、日本の民間財団やNPO/NGOなど非営利セクターの強化や国際化を支援した。欧米、アジアの政財界、官界、学界、財団界、NPO界などに広汎な人脈を築き、日本と海外をつなぐ架け橋となってきた。
三極委員会(トライラテラル・コミッション)アジア太平洋ディレクター、 日英21世紀委員会ディレクター、 日独フォーラム幹事委員、 日韓フォーラム代表幹事、 世界基金支援日本委員会ディレクター、 「21世紀日本の構想」総理懇談会幹事委員(1999年)などを歴任。






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# by yumimi61 | 2017-05-05 17:30
2017年 05月 03日
All done
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『Waiting For Love』

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# by yumimi61 | 2017-05-03 23:33
2017年 05月 03日
日本国憲法の秘密-464-
三省堂の創業者
・亀井忠一(旧姓:中川)
・亀井万喜子

中川忠一の父親は幕臣であり江戸に暮らしていた。
明治新政府となった後、一家は静岡県沼津市に移住。生活は楽ではなかった。


幼くして両親を亡くした万喜子は、亀井家の婿養子になっていた姉の夫の養子となった。
その亀井家も明治新政府成立以降は静岡に転居した。
しかし姉の夫も亡くなってしまう。亀井家に残されたのは姉妹であった。
そこで妹万喜子に婿養子前提の縁談話が持ち上がった。そのお相手が中川忠一であった。

当時2人はともに15歳ほど。(2人は同い年くらいなのだが、後年どうして母子に間違われることになったのか・・)
2人が若かったせいか、忠一本人か中川家の意向か分からぬがとにかく一旦はお断りしたそうである。
でも最終的に忠一の両親も同居することで縁談はまとまった。
2人が結婚して忠一が亀井家の婿養子になったのが1870年(明治3年)。
その若き夫妻が万喜子の生家に近い神田神保町で古本屋を開業したのは1881年(明治14年)、2人が25,6歳のことである。
古本屋に持ち込まれる本は洋書や医学書、辞典などであり、客はそれなりの人達だったわけである。
そうした本を扱い、そうした人と接するには無学ではダメだと万喜子は独学でいろいろと勉強をした。
徳と才を兼ね備えた素晴らしい人だったそうである。

古本屋から新刊書店、その後は出版業にも進出。翻訳書の出版を軌道に乗せ、教科書・地図も手掛けるようになった。
1908年(明治41年)には日本の本格的百科事典を目指して「日本百科大辞典」(全10巻)を刊行したが、次第に経営が行き詰まり、6巻まで発行した1912年(明治45年)に一旦は倒産してしまう。(辞典は財界や学会の支援を受けて数年後に10巻まで発行した)
1915年(大正4年)、出版・印刷部門を分離独立し、株式会社化(株式会社三省堂を設立)で再建した。
この時創業者は顧問となり、社長の座は息子(亀井忠一の4男・寅雄)に譲った。
寅雄はアメリカに留学経験もあった。

ソニーの盛田昭夫夫人は亀井忠一の5男・亀井豊治の娘(4女)である。
豊治も三省堂の専務や取締役を務めた人物で、亀井忠一の4男と5男が亀井兄弟として出版業界で名を馳せた。
亀井家本家を継いだのは社長の座を譲り受けた4男寅雄。
5男の亀井豊治は分家した。
亀井良子(後の盛田良子)さんは亀井家の分家の娘であった。

亀井豊治の子供は女子5人。
そこで姉夫妻の子を養子として迎え入れている。
姉は福岡の弁護士に嫁いで亀井姓から坂巻姓になっており、その坂巻家の次男が養子となり、亀井豊治の長女と結婚し(婿養子)、亀井家分家を継承した。

亀井寅雄には後継者がいなかったのか、この養子が寅雄→豊治の後の社長となる。
三省堂が家業であれば、寅雄が養子を迎える必要がある。
しかし三省堂は株式会社化して法人となっていた。亀井家は創業家であるが、もはや家業ではない。
こうした場合には社長職に就くものは家督継承者である必要はない。株主や社長が決めたならば全くの第三者だって構わないということになる。








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# by yumimi61 | 2017-05-03 00:58
2017年 05月 02日
日本国憲法の秘密-463-
(訂正)前記事にマイナンバーが「戸籍筆頭者」宛てに送られたと書いたが、「世帯主」の誤りです。すみません。
死んだ人にマイナンバーは付与されません。
世帯主は生計をともにするグループのリーダー。その家の生計を主に支えている(所得が多い)のが世帯主。誰でもがなれる。
世帯主は住民票に記されている。こちらは死んだら除かれていなくなる。
二世帯住宅などでは生計を別にしている場合もあり、その場合は一軒家でも世帯主が2人いることになる。
でも夫婦共働きで同じ収入があっても通常世帯主は一人で夫の場合が多い。(妻または夫を扶養していなくても世帯主は1人)
学生の一人暮らしなどで住民票を移せば元の世帯から抜けて、新たに自分が世帯主となることになる。
但し学生の場合は親に仕送りをしてもらって生活をしていることが多い。
生計を支えているのが自分ではなく親などの場合には、親の生計を同一とする家族の人数に含まれる(別居の扶養家族)。
住民票上は世帯主だけど実質世帯主ではないという状況になる。
税金・社会保険をはじめクレジットカードや車の保険など様々なことに関係してくるので注意が必要。
だから一人暮らしをしても住民票を移動させない学生も多い。その場合投票券は親許にくるので(郵便物転送で新住所に配達されたとしても)帰ってきて投票するなんてことはまずない。


脱線して天皇の話をしておけば、日本の象徴である天皇(天皇家)には姓がない。(日本人の向かうべき形態、最先端というこですかね?)
戸籍や住民票など日本国民と全く違う人(家)が日本人の象徴になっているということにはいったいどんな意味があるのだろうか?

「家」というのは財産や所得がベースにある。
天皇家を「家」と言うからには財産や所得がなければおかしい。「ある」ということである。
国から支給されるお金が生活保護の類でないとするならば、公務に対する対価(給料)ということになる。
収入や資産が十分にあるのに生活保護はまずいが、そうでないならばその他に私的に儲けていても全く問題ないということ。

分家とは(例えば秋篠宮家)、独立して別の家(戸)を作ったということなので、その家の人間が本家を継ぐことは在り得ない。
源家と足利家と新田家は親戚であるが、家は独立して別になっているので、養子縁組なしで他の家を継ぐということはしない。
家を継ぐということは家督(家名・財産・事業などの全て)を継承するということだったからである。
将軍家や武士家でなくとも旧家はこうして継承されてきたのである(家督を継承した者の意向や権限において別の兄弟姉妹などに財産を分けてあげることはある)。
養子縁組など行わず本家を継ぐ人がいなくなれば本家は途絶えてしまうだけのことである。
それで分家だけが続くということはよくある。
皇室の皇位継承は旧家のそれにも則らないとてもおかしなものだと思う。


本家は皇太子→愛子さんと継承すればよいわけだが、現時点においては天皇は男子の継承しか認められてない。
男子に継承したい場合には通常は養子を迎えるのである。子供の時から養子を迎え入れてもいいし、婿養子でも良し。
例えば秋篠宮家の長男を皇太子の養子にする、愛子さんが婿養子を迎え入れるというようなことが行われるが一般的であろう。
女性天皇は認めないと言うのと同時に女系天皇も認めないと言われているが(昔は女性天皇も女系天皇もいたはずなのに)、女系天皇とは愛子さんが一般男性と結婚して生まれた子供が天皇になることである。
男系女系とは皇族の血が男と女どちらにあったかということ。
男(夫)側が皇族で妻側はなんでもよいのが男系。
女(妻)側が皇族で夫側はなんでもよいのが女系。
でも秋篠宮家の長男を皇太子の養子にして天皇にすれば男系であるのだからとりあえずこれで問題ないのでは?
結婚して分家となった秋篠宮家の人間が、別の家庭(本家)の一切合財を仕切るというのはどう考えてもおかしい。
それとも全く職能も金銭能力も統率力も無く他者が全て管理しているからという前提なんだろうか?戸主であるけど戸主でなし。実体のない象徴?


それから天皇の生前退位とは隠居だと考えられる。昔は隠居するということがあったし、明治民法にも隠居という制度があった。
普通は死んだ時に家督を相続するが、生前に隠居者の意思表示にもとづいて戸籍の届出をすることによって新しい戸主へ家督を継承させることが出来た。
家督とは家名・財産・事業などの全てであり、家とは財産や所得がベースにあるのだから、つまりは現役(主たる生計者)引退ということである。
もちろん現役引退後に収入を得ても構わない。それは隠居者のものになり、隠居者が死んだ時に相続される。現代において現役引退後にも収入が多い場合には税金など様々影響してくるけれども。
旧家や名家は代表者を「当主」とも呼ぶが、隠居すれば当主ではない。当主は戸主である。
但し家長は微妙で、家長には長老という意味合いもあるので、隠居しても家長は家長である。
「家父長制」が問題として語られる時は、この辺りも焦点がぼやける。


実は私、今の名字はこの世に生を受けてから4つ目の名字である。(出生時の名字、母の旧姓、養子縁組した養父の名字、結婚後の夫の姓)
だから名字に然程拘りが無いと言えば無いし、名字が変わる煩わしさがよく分かると言えば分かる。
ちなみに出生時の名字は「NかMか(N or M?)」で言えばNである。

私が少し前まで「父の死」や「父の病」と書いてきた父は厳密に言えば養父である。血の繋がりはない。
でも正直私はそのことを気にしたことがほとんど無い。
名字を書き換えたり変わったことを説明するのがめんどくさいーとか、周囲に変に気を使われるのが嫌だなあと子供の時に思ったことがあるが、実父ではない父と暮らすことを嫌だと思ったり恥だと思ったりしたことは一度もない。その点については恵まれていたのかもしれない。
私はそんな感じだったので、自分が養子であることも、「家」ということについても深く考えていなかった。

そしてある日結婚しようと思った。結婚することになった。
夫にしようと思っている人(現夫)を実家に連れて行った時、父(養父)はこんなことを言い出した。
「一緒に暮らしてほしいということではないけれど、うちの名字を継いでくれないだろうか」
私に下話もなく唐突に言い出したため私はとても驚いた。
何か家業があるならばそういう申し出も予想したかもしれないが、父は普通のサラリーマンだった。
確かに彼(夫)は長男ではない。私は長女という立場であり男の兄弟はいない。
でも私は彼が答える間もなく「私が嫌だから」と返答した。
「それなら仕方ないな」父もあっさり諦めた。
母が父に「名字を継ぐのと継がないのではそんなに違うものなの?」と訊いた。
「違うさ」と父は答えたそうだ。(私はその辺りはよく覚えていないが、後で聞いた時もお金の出し方が違うのだろうくらいにしか考えていなかった)
妻の名字になると妻が戸籍筆頭者になるということを父は知っていたのだろうか。
年をとったら一緒に暮らしたいという願望があったのだろうか。
ただ単に家を継承したいと考えていたのだろうか。
ともかく夫もサラリーマンである。サラリーマンが、とくに男性が姓を変える煩わしさは聞くまでもなく分かったので私が断った。そのほうが角が立たないと思ったから。

父は次男である。でも長男は幼くして亡くなっているので実質長男として育ってきた人。
だけど父は家を出た。要するに家を継がなかった人なのだ。でも遠くに住んでいたわけではない。
それでも生前に本家の墓とは別の墓を建てたくらいなのでやはり別意識があるのだろうと思う。
別の家、かしこまって本家か分家かで言えば分家ということになる。本家を継いだのは弟である(だけど結果的にその弟にも後継者が出来なかった)。
その父が名字を継げというのはいったいどういうことだったのか、今でもって真意はよく分からない。
私は名字を継がなかったけれど別に関係を断絶したわけではない。結婚後も今まで通り父であり母であった。
でも「嫁にくれた子」という言葉は時々耳にしたことがあった。
また父が亡くなってから近所の人などから「子供達には迷惑はかけられない」と父がよく言っていたと聞き、私はふと(それは私が名字を継がなかったから私に迷惑を掛けられないということだったんだろうか)と思った。
父にとって私は家を継ぐべき「養子」だったのだろうかとも考えた。
まあ、晩年は若干弱気になったのか、同居してくれたらみたいな希望を口にしていたこともあるけれども。

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# by yumimi61 | 2017-05-02 09:32
2017年 05月 01日
日本国憲法の秘密-462-
ソニー創業者のひとり盛田昭夫の夫人は三省堂の創業一族である。

三省堂の創業者
・亀井忠一(旧姓:中川)
・亀井万喜子

母子と記されていることも多いが母子ではなく夫妻である。

中川忠一の父親は幕臣であり江戸に暮らしていた。
明治新政府となった後、一家は静岡県沼津市に移住。生活は楽ではなかった。
亀井家は、源義経(源頼朝の異母弟、幼名は牛若丸、頼朝とは対立した)の家臣であった亀井重清の流れを汲む家だそうである。
亀井重清は伊豆の出身で、重清の母は源頼朝の乳母であったと言われる。

以前岩倉具視のことを書いた時に源家について触れたので、少々長いが引用しておこう。

岩倉具視は公家の家の出であり、幕末・明治の公卿・政治家である。
明治初期に岩倉視察団として外国を巡ったのが有名。
公家と言っても江戸時代に分家した新家であるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。また代々伝わる家業も特になかったので家計は裕福ではなかったという。
岩倉具視は公家である岩倉家に養子に入った人物である。

岩倉具視は岩倉家に養子に入った人物で岩倉家とは血の繋がりはない。
岩倉家は第62代村上天皇の皇子を祖とする「村上源氏」の総本家(嫡流系・本家本元)の久我家の支流になる公家である。
岩倉家は鎌倉幕府の源頼朝と対立した源通親の子孫にあたる。
同じ源を名乗っているので分かりにくいが、幕府の源頼朝は武家(武士)であり、源通親は朝廷(天皇)に仕える公家という家柄となる。仕えると言っても天皇の分家など元々は縁戚関係にある。

源頼朝の曽祖父は源義家(八幡太郎)。「河内源氏」の3代目棟梁(嫡男継承)。
現代で棟梁と言うと、大工の棟梁を思い浮かべると思うが(もうそれも思い出さない?ちなみに現場監督とは違います)、武家の棟梁は武家の筆頭者、一番の権威者である。「将軍」とは「源氏の棟梁」のことなのだ。

源氏には嵯峨天皇から分かれた嵯峨源氏や清和天皇からの清和源氏など21の流派があるとされている。
源(祖)は天皇であるが、皇室を離れた(皇籍離脱した)人や家のことである。
皇籍を離脱しないのが宮家である。
源氏は公家や武家を形成したり、仏門や神道を統括するなど流派によってそれぞれ違う。
現代において「源氏」と言う時には、武家源氏として歴史上に名を馳せた「清和源氏」を指すことが多い。
前出の河内国(大阪府南東部)を本拠地とした河内源氏の源義家(八幡太郎義家)もその主流で、源頼朝を生みだした。
また足利尊氏の足利氏(下野源氏)や新田義貞の新田氏(上野源氏)も清和源氏・河内源氏の分派となる。
前に鎌倉幕府倒幕後に同祖である足利氏と新田氏が戦ったことを書いたが、鎌倉幕府の倒幕自体、実は清和源氏・河内源氏内の戦いでもあったのだ。すなわち武士同士の戦いである。
武士だけに勝ち負けの勝敗は潔く着く。
徳川家康の徳川家も清和源氏を名乗っていた。
徳川家は清和源氏新田氏の一族。新田郡(新田荘)得川郷(現在の群馬県太田市徳川町)を本貫とした。書によっては得河・徳河・徳川とも表記される。
新田氏の支流が徳川氏と世良田氏になる。

岩倉家の村上源氏は武家ではなくて公家である。

河内源氏の3代目棟梁・源義家(八幡太郎義家)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)(
美智子皇后の父方・正田家の祖先は新田義重の家臣だった生田隼人と言われている。
上野国碓氷郡(現在の群馬県高崎市八幡町・安中市板鼻付近)にあった荘園・八幡荘は頼義-義家-義国と河内源氏の拠点であったが、それを源義重が相続して新田荘とともに新田氏の本拠地となった。



●源義家(八幡太郎)→源義親(次男)→源為義(四男)→源義朝(長男)→源頼朝(長男)(鎌倉幕府将軍)→源頼家(長男)(鎌倉幕府2代目将軍)、源実朝(四男)(鎌倉幕府3代目将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→足利義兼→足利義氏→足利泰氏→足利頼氏→足利家時→足利貞氏→足利尊氏(室町幕府将軍)

●源義家(八幡太郎)→源義国(四男)→源義重(長男・新田氏の祖)、源義康(次男・足利氏の祖)→新田義兼→新田義房→新田政義→新田政氏→新田基氏→新田朝氏→新田義貞

※源頼朝の長男・頼家は、北条家に将軍職を剥奪され伊豆国修禅寺に幽閉されたのち、北条氏の手により暗殺された。北条家は伊豆国出身の豪族で鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。
藤原家が政略結婚によって中枢部に入っていったのと同様に北条家も婚姻によって源家に入り込んだ。
弟で3代目将軍となった源実朝は北条家に担ぎ出されただけであり、その後は摂関家である九条家出身者と皇族が将軍職に就いた。
摂関家は藤原氏嫡流で鎌倉時代に公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。
鎌倉幕府(鎌倉時代)には9代まで将軍がいるが、源家が実権を握ったのは2代まででしかない。源一族としては3代目まで。
その後2代は九条家出身ながら藤原姓を名乗った2人と、その後4代はみな天皇・親王の子である。
鎌倉幕府と言えば源頼朝、そのイメージがとても強い。
新田義貞は鎌倉幕府を倒したわけだが、初代将軍のイメージがあまりに強いので源一族内の権力争いのようにも思えるが実は違う。天皇家が権力を持っていた幕府を倒したのである。
でも新田義貞は天下を取る気がなく、将軍職に就いていた後嵯峨天皇ではなく後醍醐天皇に味方した。
朝廷が南北(と言っても狭い範囲の南北です)に両立し、南北朝動乱の時代を迎えるきっかけともなった。

亀井家の話に戻ろう。
亀井万喜子の祖先は家臣として源家の近くにいた。
江戸時代には徳川家康に仕えていて旗本(知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格)となった。
亀井家の屋敷は明治時代には小松宮邸(明治初期に、子沢山の伏見宮邦家親王の8番目男子によって創設された怪しい宮家)の一部となり、後に山の上ホテルだか明治大学キャンパスだかに含まれたそうな。

亀井万喜子の両親は万喜子が幼い時に亡くなってしまい、万喜子は亀井家の婿養子になっていた姉の夫の養子となった。

「婿養子」「お婿さん」を勘違いしている人がとても多いが、結婚する男女の男性が女性の名字になることや女性の実家に居候すること(俗に言うマスオさん)が婿養子の定義ではない。
婿養子とは結婚と同時に夫が妻の親と養子縁組することである。(言い方を変えれば、婚姻と同時に妻と異父母兄弟姉妹になるということである)
女姉妹しかいないような家が男の後継ぎが欲しい時、単に養子を迎え入れることもあれば、婿養子を迎え入れることもある。(養子として迎え入れ、後に実の子と結婚するケースもあった)
どんな形でも正式に養子になれば相続人(家長権・戸主権)の権利を得る。
明治民法の家制度では、女姉妹しかいない場合、長女が法定家督相続人ということになる。
家の継続を重んじていたため、法律上家督継承することになっている者(法定家督相続人)は、原則としてその家を去るような形で結婚をすることができなかった。
結婚相手に婿養子になってもらうか、自分が家督を継承し戸主となり夫を家族にするかのどちらか。
夫にしたい人も法定家督相続人ならば結婚自体無理ということになる。
戦後(昭和22年)にこの法律は改正されたが、現実的にはそれからも久しく長男長女の結婚の困難さは存在していた。
女姉妹しかいない場合、長女は「お婿さんを~」と親に懇願されるというようなことが普通にあったのである。


これも知らない人が多いかもしれないが、結婚の際に女性の姓を名乗る(選択する)ということは、戸籍筆頭者が女性(妻)になるということである。
戸籍謄本を取れば筆頭者に妻の名があり、夫はその下になる。
現代においては相続などには直接関係ないので普段はそれほど気にならないかもしれないけれど。
夫婦別姓という制度ははたしてどんなふうにするつもりなのか。戸籍を廃するということになるのだろうか。(戸籍がある国は世界的に3か国しかないそう) 子供はいつ姓を選ぶのだろうか。夫婦別姓がありならば、成人した子が親と同姓である必要もないだろう。


それから戸籍の筆頭者は死んでも変わらないものである。
戸籍から抜けたり新しく戸籍を作るのは離婚結婚した時で、死んでも筆頭者は筆頭者のままである。
戸籍に入れるのは子供であり養子縁組した養子。
親が離婚して再婚するような場合、養子縁組をしなければ、再婚前に生まれた子供は例え未成年であっても(親権に関係なく)元の戸籍のまま。
元の戸籍というのは、元夫の戸籍か、新たに母親が作った戸籍か、母親の実家の戸籍。離婚後にどうするかは姓を含めて選べる。
ただその状態から母親が再婚しても子供は養子縁組しない限り動かない。
例えば母親が筆頭者となって新たに戸籍を作っていた場合に母親が再婚すると、母親は筆頭になっていた戸籍から抜ける。戸籍の筆頭者が除籍になって子供だけが残ることになる。(これでも法律上は特に問題なし)






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# by yumimi61 | 2017-05-01 22:32
2017年 04月 30日
幼子の神頼み
私は3~4歳の頃に生死をさまよう病気をしたことがあるということは前にも書いたことがある。
その時の入院から10日間の私の様子を母が記録したものが実家に残っていた。
レポート用紙に書かれているもので、年はなく月日だけ。
10日目以降は書かなかったのか書いたけど紛失しまったのか分からないが、10日分しか確認できなかった。

======================================================
10月14日

入院 AM11:20 外来にて血液検査の後、入院。
尿便の検査、診察の結果、腸と腎臓内に出血しているための腹痛との事。
2,3日後に体に紫斑が出れば、紫斑病らしい?
4日間の絶食のため体が衰弱しているのでPM3:30より点滴はじめる。
ぐったりしていて口もきけず一人で起き上がることも不可能。
時おり腹痛あり、夜通し点滴しているのでほとんど寝ず、痛みのため時々苦しむ。
夜9:30に2本目点滴交換。

10月15日

8時朝食。おもゆとみそ汁1/4位のむ。
朝9:10点滴終わり、続いて3本目交換。
昼食もおもゆとおすまし。2,3口食べたら腹痛起きてダメ。
まだ口をきく気力なく、ぐったりねたまま。
夕食より5分がゆになるが腹痛のため何も食べない。
夜8時ごろ痛みがひどく30分ぐらい続くので痛み止めを打つとじきに寝る。
しかし30分くらいでまた起きてしまい、又30分くらい激痛で苦しみあばれているので、9時ごろ強力で寝られるという痛み止めを尻よりしてもらったがそれも効かず、相当苦しみあばれた後PM9:30の定期注射でやっと落ち着き寝る。
PM10時点滴終わり4本目入れる。
1時間くらい寝て又痛さで目が覚めPM11時頃より死にもの狂いの激痛におそわれ1晩中苦しみ、手に刺してある注射のことは忘れて床中あばれ狂ってあばれ狂って。
この痛さはもう筆には表せないものだった。
死んじゃいそう、お腹切って、先生呼んで、神様にお願いしてー、と叫び狂った一夜だった。

10月16日

朝食5分がゆ、夕べの腹痛の疲れで食欲なし。
朝6時の定期注射で又落ち着く。朝9時4本目点滴終わり続いて5本目。
夕べの激痛の疲労と寝不足のため午前中ほとんど寝る。
まだ元気はなく口もきかない。
昼食おかゆ1/3位食べる。まだ口が物足りない感じでりんごを半分ほどおろしてやると一寸腹痛起きるもじきになおる。
PM3:005本目終わり6本目入れる。回診の結果、速度が早まり80滴になったので1本6時間平均で、注射も3回から4回に増える。
体内で出血のため1週間位の腹痛は仕方ないとの事。
午後1時又ひどい腹痛。1時間位我慢しても10分間隔でおそってくるので又痛み止めをしていただく。
PM8:40頃6本目終わり7本目入れる。
夕方頃より自分で話しかけられるようになり笑えるようになる。
夕食もおかゆとじゃがいも半分くらい食べてリンゴ滋養糖のむ。
腹痛なく安眠出来た様子。
夜中1:10、7本目終わり8本目交換。

10月17日

夕べぐっすり寝たため早くから目が覚め気分爽快の様子。起き上がって本を読める。
朝食5分がゆ半分食べ、豆腐食べ、リンゴ食べる。
ずっと起きあがって髪もとかす。食欲旺盛。
10時点滴9本目入れる。
昼食半分、途中残した半分も食べる。
今日は気分よく1日寝ずほとんど起きていた。
昼食は9分目ほど食べられ、その他リンゴ半分おろして食べる。
夕方5時半10本目入れる。

10月18日
明け方4:20より痛みだし止まらないので5時痛み止め打ち、点滴も9本目終わり10本目5時に換える。
注射効かずずっと痛がり、6時に定期注射。
その後も痛みとれず6:30再び筋肉痛み止め、7:30頃やっと落ち着き寝る。
朝E先生心配してみにきて下さる。
しばらく寝てから又10:30頃より痛み出し、おさまっては痛むの繰り返しで11時過ぎまたひどいので痛み止め筋肉を打つ。
少しおさまり昼のおかずだけ2,3口食べ、薬が効いてきて楽になり眠る。湯たんぽにて腹を温める。
午後も一時痛みにおそわれる。夕食も食べず。
夕方5時半点滴10本目終わり11本目。
痛み PM5:00 5:30 6:00
7時くらいにおさまる。
PM8:40点滴もれたためはずす。
PM9:50頃より差し替え。1回目逆流してやり直し。2回目の同じところに入れたがうまく入らず。
又別の血管を切ったが細くてビニール管がなかなか入らず、これも2回くらい刺したが血ばかり出てなかなか入らず、痛くて泣き出してしまい、涙がこぼれた。
やむなく3本目の血管に今度は細いトンボ針で入れてやっと成功。
同時に腹も痛んだので痛み止めを夜中12時頃打ち寝る。
明け方5:30落ちなくなっているので又はずす。手を解放して朝まで寝る。

10月19日

9時T先生回診。AM10:20点滴入れ直す(12本目)
足、最初やはりうまく入らず何回もして相当痛く泣く。一度に入らないので恐怖症になる。
反対の足に又さして成功。
朝食食べず、みかん1ヶ、番茶。昼食1/2、リンゴ半分食べて一寸腹痛。夕食全然。
PM4:00から痛み30分様子見てダメなので痛み止め打つ。30分おさまって5時又痛い。6時になってもとれず注射。6:30うとうと寝る。又すぐ痛む。
PM6:20に点滴12本目入れる。
(PM5:30K先生様子見に来て、痛み止めもそう打てないが、いよいよとれない場合は麻酔を打つと言った)
寝ようとしているが痛みがおそって20、30分するとむっくり起き上がり、いたいいたいと叫ぶ。
苦し紛れの叫びの中で「なおちゃん、なおちゃんに会いたい、なおちゃん!!」と叫んでいる。
隣のベッドのなおみちゃんが自分が呼ばれていると思い「私呼ばれてもどうしてもやれない」と悲しい声で顔をおおって答える。
可哀想がって自分のおもちゃをくださる。
でも全然痛み止まらず叫び続ける。相当がまんしてもしきれず、「先生!!看護婦さん、お願い、お腹切ってばい菌と血出して」とか、「神様お願い」といいながら手を合わせ苦しんでいるのを見ていたたまれず看護婦さん呼ぶ。
もう2本注射打ってあるからそうは打てないと言う。少し様子をみるよう指示。
陣痛のような激しい痛みが5分間くらいおそって又少しおさまり静かになり、又20分くらいすると大声で叫ぶの繰り返し。
痛みでじっとしていられず、たえず体を動かしてはあばれまわっているが、足に刺されている点滴注射で思うようにならず相当の苦痛。
夜中12時痛みとれず、看護婦さん当直の小児科ではない先生を呼んで下さる。
腹が大きく張っているが浣腸は腸を刺激するので好ましくない。注射ももう限界らしいがやむなく12:20又痛み止め。ほとんど寝られない。

10月20日

6時検温37.8℃。6:30便あり。7:40血液検査のため採血。7:30点滴14本目(350cc)
10時回診により点滴40より60滴になり、昼食より又おかゆからおもゆに変更。
検温10時37.4℃。PM2時37.2℃、PM6時37.3℃。
昼食果汁。正午15本目点滴。午後元気が出る。
夕食おもゆ全部。スープ半分、ジュース全部。
PM7:50点滴16本目。夜中3:10に17本目入れる。
夜は静かに寝たが今日よりベッドが1つになり私はほとんど寝られず体がくたくた。
夜も点滴をみたり、足の刺してある所をみないと絶えず危険なので寝るひまがない。

10月21日

朝方4時ごろより痛み出し、4:30、5:00、6:00と激痛。
10分くらい直って又10分位痛み。いつもの痛みで一番ひどい。
大声で絶叫。死んでしまうとか、バカーとか、どうしてなおらないのママのうそつきとか、先生のうそつきバカーとすごい叫び。
ほとんど止まる間がなかったのでT先生朝見て下さる。
尻より出血のためと腹痛のため今度はE先生が見て禁食と輸血の必要性。
50ccの輸血。又痛くて大声で叫び、大あばれし、他色々の注射。注射も今日より4回の他あと3回増える。
AM11:20頃の輸血でやっと寝る。11:30に17本目点滴。禁食なのに食事来る。
PM3:30頃、姉と姪がお見舞いに来て下さったが重体で寝たきり話も出来ない。目が覚めてかすかにうっすらと目をあけてうなづくだけ。
PM4時近く園のK先生みえる。もも組のお友達にかかせた画集つづりとパンダちゃんいただいたがもうろうとしていて聞くことにうなづくだけでしゃべろうとはしない。
一通り病状を説明して、間もなく帰る。
午後よりお腹の痛みは全然起こらずほとんどぐったり寝たまま。
夕方頃から周りにつられて何か食べたくてしきりにお腹すいたを連発。
もうなだめるのに苦労で苦労で看護婦さんやみんなになだめられてうなづくものの、お腹が痛くなければもう口がさびしくてさびしくて食べたくて、もう可哀想なほどで涙が出るのをじっとくいしばる。
夜10時18本目入れる。
今日こそ痛みなくゆっくり休めると思ったが夜11時頃よりやはり痛み出し午前4時近くまで熟睡せず起きたり横になったりうとうとしていて一時も休まらず今日もまた寝られなかった。
夜中の12時定期注射ゴムより2本、筋肉1本。

10月22日

6時の起床体温36.9℃。朝7時点滴19本目、PM4:30に20本目。
AM6時 ゴム注2本、筋肉注1本、PM2:00筋肉注射。
AM5時出血あり、シーツが赤く汚れていた。
6時に注射してからまた静かに寝て8時40分ごろ起き、9時におしっこをとったら最初血液がどっとあふれ、その後から尿が出た。
T先生回診にてまた緊急に輸血必要となり、姉たちにTEL。
12時少し回って輸血。
午後は気分がよくなり、又食べ物がほしくてほしくてなだめすかしても我慢しきれず、人が食べていると口を開くほど食べたい様子。でも我慢せねば禁食の意味がないから泣いていて可哀想だけどどうすることもできない。痛い苦しみよりよっぽどましだと思う。

10月23日

夕べ全然痛みなく初めて朝まで静かで、昼間も元気出たらお腹すいた連発。
朝の回診で腹の具合も前よりよく、痛みもなく食欲を訴えるので今日一日我慢して明日より流動食を考えるという。あとは点滴・注射とも変わりなし。
輸血もする。PM2時ごろ輸血。
その後も変わりなかったが午後より手が紫色になってはち切れそうにふっくらと腫れてしまう。
K先生PM3時頃様子を見に来たが変わりなし。
手の僅かな腫れは血液のせいらしいが、心配ないと言うが次第に腫れは増して熱を帯びたので当直T先生見てくださり、同時にPM5時頃より又痛みあり、PM6:30頃痛み止め打つ。
その後晴れのほうがひどく痛がるので、T先生みて止血剤を打っていただく(7時ごろ)。
冷えタオルで手を冷やす。

=============================================

皮肉にもと言おうか最後は止血剤を打ったところで終わっている。
アンダーラインは母の記録では波線で引かれていた。同じペンで書かれてあり後年引いたような感じではない。
以前病気のことを書いた時に私は「後に問題となった血液製剤が使われたのか、そのあたりははっきりとしない。」と書いたのだが、どうやら止血剤(血液製剤)も使ったらしい。


薬害肝炎全国弁護団

原告になるための要件
昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までに製造・販売された血液製剤(フィブリノゲン製剤・および第9因子製剤)は、C型肝炎に感染する危険性が極めて高かったと考えられています。

昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの間に、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用された可能性があり、これによりC型肝炎に感染した可能性があります。

薬害肝炎訴訟では、昭和39年(1964年)頃から平成6年(1994年)年頃までの間に、血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を投与された方で、かつ、C型肝炎に感染された方について、損害賠償請求訴訟を起こしています。

なお、血液製剤は、患者に知らされないままに使用されているケースがほとんどです。

C型肝炎に感染した方で、次の医療機関で、出血を伴った出産あるいは手術を経験された方は、止血剤として血液製剤が使用された可能性が高いと思われます。
→ フィブリノゲン製剤納入医療機関の検索

現在、薬害肝炎訴訟では
1.C型肝炎に感染した方(インターフェロンにより治癒された方も含む)
2.昭和39年(1964年)から平成6年(1994年)頃までの期間に血液製剤(フィブリノゲン製剤あるいは第9因子製剤)を使用されたことが、何らかの手段で証明できる方

が原告となっています。



http://www.okatani.or.jp/hp/html/info_fibrin.html
 フィブリノゲン製剤は、1964年に製造承認され、C型肝炎ウィルスの不活性化処理が十分にされるようになった1994年まで、30年間にわたって手術などで危険な使用が続けられました。
 主として出血を止める止血剤として使われましたが、この血液製剤からC型肝炎ウイルスに感染し、それが原因でC型の慢性肝炎になり、肝硬変、肝がんになる方がいることもわかり、社会問題となっています。
 それは十分な審査をせずこの血液製剤の製造・販売を認めた厚生省(当時)と、高率に肝炎が発生する危険があることを添付文書に明記しなかった三菱ウェルファーマ(旧ミドリ十字)に責任があります。
 東京、大阪、札幌、名古屋、福岡ではフィブリノゲン製剤で肝炎になった患者さんが国、製薬メーカーを相手取り訴訟を起こしています。
そして重要なことは、フィブリノゲン製剤を使用してC型肝炎ウイルスに感染しているにもかかわらず、そのことを知らされていない患者様がいることです。
当院ではフィブリノゲン製剤の使用状況を調査し、使用した患者様、あるいは使用したことを否定できない患者様などにはご連絡をとり、C型肝炎ウイルスに感染しているかどうかの検査をお勧めする活動を行なっています。




1964年から1994年に血液製剤を使った人が感染している可能性があるということだが、その1964年というのはライシャワー事件(駐日アメリカ大使が精神疾患患者に刺され輸血したところC型肝炎に感染した)が発生した年であり、血液銀行業務を日本赤十字社が独占した年でもある。
ライシャワー事件によって売血批判が巻き起こり、事件から5カ月の1964年8月28日、閣議決定により血液銀行の業務が日本赤十字社に一本化された。
路線転換を迫られたミドリ十字社は、血液製剤や人工血液、医薬品への移行を模索し、閣議決定のまさにその日1964年8月28日に社名を「日本ブラッドバンク」(創始者は軍医)から「株式会社ミドリ十字」に改称した。(創業以来、緑の十字が社章であった。緑の十字は国際的には薬局のマーク)
何らかの裏取引があったのでは?
1982年に創業者が急死した後は、多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権が握られることとなった。
止血を目的とした非加熱血液製剤の投与によって患者がHIVに感染し死亡した事件(薬害エイズ事件)はこの後に起こっている。
三菱ウェルファーマは事件発覚後にミドリ十字を吸収合併した。


・22年間ずっと出産時の輸血による感染だと思っていました。病気になったのは、天災のようなもので仕方がなかった。命があるだけでも感謝しなくてはいけないと、己に言い聞かせてきましたが、事実が分かった時は、あまりの展開にめまいがしました。

・私は、昭和59年まで3年程看護師をしていました。その当時、日常的にフィブリノゲン等の血液製剤を出血時に使用していました。私も何度か、あの小さなボトルを点滴台に下げたと記憶しています。そして、手術後、輸血後、肝炎ということで、具合の悪くなる患者にも接していました。1987年に胎盤はく離で死産し、2週間入院した時に医師から言われたのは、「最近、肝炎になる人が多い。必ず検査を受けてね」ということでした。新鮮血の使用については説明がありましたが、血液製剤については何も説明はありませんでした。その時の医師の困惑した様子がずっと気にかかり、何だか違和感を覚えてしまいました。新鮮血では、そんなに肝炎にはならないのではと、ずっと疑問に思っていました。2002年にフィブリノゲンの件が明るみに出て、自分への使用を確信しました。2007年、出産した病院に電話をして、フィブリノゲン使用が判明しました。その時、もやもやしていたものが晴れた気がしました。同時に、製薬会社の責任感のなさに腹が立ちました。

・手術時に輸血もしているので、ずっと輸血による感染だと思っていた。止血剤が原因と知り、輸血に協力してくれた方々からの感染ではなかったことが分かったことが、嬉しかった。

・出産時帝王切開手術で、当時は輸血8本しましたから、原因はそれだと思い、血液製剤が使われていたとは夢にも思わなかった。2度の流産。やっと授かった子供と私が生死の境にあり、親子共々助かり、宝をいただいたが、一生共にする病気になり、憎むこともできず、娘を得た事は、自分の命より大切です。インターフェロンは2回やりましたが、効果はありませんでした。副作用がとても辛いです。又、3回目に挑戦したいと思っています。複雑な気持ちで一杯です。

・輸血後の肝炎だと思っていて、それで命が助かったのだから仕方がないと、前向きに治療などして生きてきたが、血液製剤が原因だった時は、非常にショックを受けた。

・当時は輸血感染だと思って、命が助かったのだから仕方がないと、自分を納得させていた。止血するために使われた血液製剤で感染したことは、納得できなかった。しかも、効果はなかった。

・輸血も同時に受けているので、いろいろ複雑です。


http://www.mhlw.go.jp/shingi/2010/03/dl/s0300-1a_Part9.pdfより






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# by yumimi61 | 2017-04-30 16:11
2017年 04月 29日
Crossover
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# by yumimi61 | 2017-04-29 23:59
2017年 04月 28日
日本国憲法の秘密-461-
貴族とは何か?
貴族とは、特権を備えた名誉や称号を持ち、それ故に他の社会階級の人々と明確に区別された社会階層に属する集団を指す。 その社会的特権はしばしば強大であるが、同時に国や地域により異なり、同じ国・地域であっても時代によって変遷する
貴族階級は多くの場合は君主制の下に維持され、称号の付与や特権の保証なども君主によって行われる。一般的に、貴族などという特権階級を認めてしまうということは反民主主義とされている。


イギリスにはいまだに議会を構成する貴族院が存在する。

日本で言えば、天皇と天皇が特権を与えた人々が貴族に該当するわけだが、貴族というものが浸透してこなかった。
その1つの要因が平安時代に大きな転換があったからであろう。古代からのヤマト(大和)朝廷が乗っ取られるような形で終わってしまった。
その平安時代に華やかな貴族社会が形成される。
京都の朝廷で天皇に仕える貴族は公家として別扱いされるようになる。
しかし平安時代末期に地方に経済的・軍事的基盤を持つ武家が現れ始めた。平家や源家はその代表格。
そして1300~1500年頃には天皇・皇族・公家は経済的・政治的実権を喪失した。
これが復活したのが1800年代後半の明治維新である。

●天皇家
●公家(公家の中でも最高幹部として国政を担う職位にあるものを公卿という)

平安時代に公家の中でのも格式や家格が定まってきて公卿になれる家筋は限られるようになった。
平安時代末期には武家にも公卿になる道が開かれた。

●将軍徳川家
●大名
 親藩:徳川家の親戚(御三家・御三卿など)→格式は高いが権力が集中してしまうため幕府の役職には就かない
 譜代:代々徳川家に仕えてきた家臣
 外様:関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した大名と戦後に服属した戦国大名

大名分類は上記の類の他に知行石高(領地の大きさ)も関係する。
大名という名称のルーツは鎌倉時代にあり、大きな名田(荘園・領地)を持っていた者のことを言った。
また一国以上の領地を持つ大名を国持ち大名とも言った。前田家、島津家、毛利家はその代表格。
(国というのは上野国や下野国などのことで現在の県と考えてよいと思う。藩はその中にあるもので現在の大きな市といった感じ)

●幕臣・・・幕府直属の家臣全て。
 旗本:知行が1万石以上で将軍に直接謁見できる家格にあったもの。
 御家人:知行が1万石未満で将軍に直接謁見できない家格にあったもの。


会社で例えると、德川将軍家が株主であり社長。
親藩が株主。
譜代が本社勤務で役職に就くもの。
外様が子会社で役職に就くもの。子会社などの社長。
幕臣は本社所属の従業員。その中にも社長に直接面会できる人とできない人がいる。
武士というのは公務員であり会社の従業員であった。
自由業ではないので何でも自分の好きなことが出来るわけではないが、お給料がもらえ比較的安定した生活を送ることが出来る。
大名や役職に就けばかなりの権限が与えられて好きなことも出来るようになる。
しかし公務員や従業員は命令によって時には危険な仕事やきつい仕事もこなさなければならない。上下関係もある。
この武士という職業は(商家や農家と同様に)世襲が可能だった。
支持率が高く物事が上手くいっている時に首にしたり解散しますか?という話ですよね。

幕府というのはいわば巨大な会社であるわけだが永久未来その地位が保証されているわけではない。油断をすれば倒されて、別の会社、別の社長になることもある。
世襲にするか、部下を誰にするか、選ぶのは社長であり株主。

一方、君主という存在は動かない。実権を持っている持っていないの違いはあっても、「家」であり「世襲」である以上、それが全く関係ない他の家に移ることはない。正面切って奪うということも不可能。実力や暴力でどうこういうものではない。
奪いたければ正攻法ではダメである。人を騙す、欺く必要がある。
しかしながら世界には君主という存在自体が終わりを迎えた事例が幾つもある。君主を制度と考え廃止に追い込んだわけである。そこには大きな民衆の力が働いた。

実権を失っていた君主という権威を大々的に復活させ、華族制度を敷いたのが明治政府であった。
世襲による特権階級を認めた。それは民主主義に反するものである。世界の風潮の逆をいった。


「家制度」が設けられたのも明治時代のこと。
家制度(いえせいど)とは、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主(こしゅ)と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度である。江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている。
家長権は戸主権として法的に保証されていた。


「江戸時代に発達した、武士階級の家父長制的な家族制度を基にしている」とあるが、これは武士が世襲可能だったことに由来する。
また武士という職業は必要とあれば戦に赴くわけで、そんな危険な任務を女性にさせるわけにはいかないということで、男性から男性へ継承されたのは仕方がないことでもあった。
江戸時代が特異的なのは戦争を行わなかったこと。非常に平和な時代であった。
従って戦争に駆り出される武士という職業が他の時代よりもお得な職業に思えたのではないだろうか。
その平和な時代の反動なのか、戦争をしたくてしかたない人がいたのか、明治時代から昭和の前半は富国強兵路線を直走った。


江戸時代というのはどちらかと言えば家の縛りは緩かった。
藩や長屋的な集まりの中で人々は暮らし、日常においては誰が誰の子であるかとかはそれほど重要なことではなかった。
時に外国から日本の家制度や日本企業の家体質は異質とみられることがある。
では何に違和感を感じるのだろうか。
赤の他人が家族のように付き合うことを異質だと感じるのか、それとも家父長的な世襲を異質と感じるのか、
日本の「家」が社会構造やシステムの問題として語られることがあるが焦点がいまひとつはっきりしない。
もっとも世界の風潮に反して君主制や貴族制度を復興させたことは確かに間違いなく異質ではある。


明治時代の民法で定められた「家」は、「戸主」と「家族」から構成される。
戸主は家の統率者であり、家族は家を構成する者のうち戸主でない者をいう。
一つの家は一つの戸籍に登録される。つまり、同じ家に属するか否かの証明は、その家の戸籍に記載されている者であるか否かにより行われた。


家長権は戸主権として法的に保証されており、「家」の財産など諸々は家長権(戸主権)とともに継承した。
これが「家督を継承する」ということである。
現代においては、妻や子(同一戸籍に入っているかどうかに関係なく)が法定相続人にとして認められ財産を得る権利が定められているが、明治時代には戸主を継ぐ者だけが相続できた。













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# by yumimi61 | 2017-04-28 14:44
2017年 04月 27日
Premier&Premium
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# by yumimi61 | 2017-04-27 23:37
2017年 04月 26日
第三のトビラ
2010年8月11日 『ロック』

この世界がかわる前の最後の光。
それがそのしょうげきにおきた光・・・。
「もとの世界にもどるのにはどうしたら。」
「第三のトビラにいきなさい。
第三のトビラにロックをかければ
この世界とうらは昔のようにまじわらなくなるわ。」
また光が問いかける。
「どこに・・・どこに第三のトビラはあるのですか。」
「それはわからない・・・だけどこの近くのどこかにあるはず。」
さがすしかない・・・いやさがさなければならない。ぜったいに。 

2010年8月13日 『カギ』







 

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# by yumimi61 | 2017-04-26 21:03
2017年 04月 25日
日本国憲法の秘密-460-
学校、特に名門私立校は保護者にとっても子供にとっても人脈づくりの場として非常に重要である。
勉強なんか別に出来なくてもいいの!
一種のサロンみたいなものである。奥様の役割も大事。
PTA活動が嫌だなんて言うのはしがない庶民の証のようなものである。

上流階級に社交は欠かせない。(→「少なくともあなたより上流よ!」・・・上流違い)
社交界とは、王族、貴族、上流階級の名家などの人々が集い、社交(交流)する場のこと。
それゆえ、歴史的には、爵位や称号など勲章や地位を持たぬ者は、基本的には出席することができない集まりだった。
知的で洗練された会話や振る舞いをすることが求められ(国際儀礼第一級)、各国間での高度な外交や交渉事や、政治や経済の方向性や流れなどが、あたかも世間話のように決められている歴史的な場でもある。欧米では、社交界に初めてお披露目をすることをデビュタントと称する。

ヴェルサイユ宮殿などフランスの宮廷に起源を持つサロンが有名である。明治時代の日本でも社交界を育てるため、鹿鳴館が造られ、華族文化が開花した。現代日本においても、皇族、旧華族、名門家、政治家、高級官僚、財界人、各国要人(VIP)、外交官・大使、名士などが集う"社交界"があり、夜会(パーティー)などが催されている。
近年、セレブリティー(著名人、セレブタント、成金など)らが集うパーティーやイベント等が、ほぼ同義の意味で、多くのメディアで報道されたりするが別物である。


中世の王侯貴族たちの戦勝大宴会や、宮廷舞踏会が社交界の原型です。
19世紀に入ると民主主義が台頭したフランスにおいても、社交界が盛んでした。なぜなら社交界は、上流階級が社会に権威を誇示するために必要だったからです。豪華になればなるほど、注目を浴びておのれの階級差を知らしめました。
王政が廃止され、階級制度が無くなったはずのフランスの社交界が、イギリス以上に華やかだったのもそのためでした。


1950~1960年代にアメリカ社交界の華だったのがベイブ・ペイリー。
通常は社交界の華であればよいわけで、野に咲く花である必要はない。
上流階級では目立つことは良しとしない(古風な?)価値観みたいなものがある。
「寄付しま~す!」と言って寄付するのではなく誰も知らないところでこっそりしてこそ根っからのお金持ちというわけ。やたらに表に出てこない。その神秘性と相まり雲の上の存在となる。(だからロックフェラー3世の名前はなかったのか!?)
しかしベイブ・ペイリーという人はファッションアイコンでもあった。
社交界のお嬢様のみならず、庶民までもがそのファッションを真似ようとした。
このベイブ・ペイリーの旦那様(再婚)がユダヤ人でCBSネットワークの創設者で億万長者のビル・ペイリーであった。
盛田夫妻は子供達を通わせた学校における交流でビル・ペイリーを紹介されるに至る。
そしてそのビル・ペイリーからロックフェラー3世夫妻を紹介されたようである。


『ゴシップガール』で主人公たちがよくコーヒー片手にたむろっていた場所がメトロポリタン美術館入り口前の階段。
盛田一家が渡米して借りたアパートはそのメトロポリタン美術館の向いにあった。
アパートと言っても高級アパートである。
盛田一家が借りた部屋はもともとウクライナ出身のユダヤ系ヴァイオリニスト・ネイサン・ミルスタインが住んでいたところであった。
10を超える部屋があり広々としていたというから日本の「アパート」から思い浮かべるそれとは全く違う。
ミルスタインがパリに数年滞在することになったため、ニューヨークのその住居を家具など込みでそのまま借りることになった。
一般的な駐在員が暮らせるような住居(金額)ではないが、億ションが珍らしくないアッパー・イースト・サイドにおいては随分良い話だったのではないだろうか。
とはいってもそこは単なる駐在員盛田家住居となっただけでなく、社交の場として用いられたというから、アメリカ進出の命運がかかった会社だと思えばまあそんなものかもしれない。

背が低く見劣りがして英語もろくに話せない爵位や勲章も持たない一駐在員の日本人が社交の場に出て行っても有り余る成果があるとは思えない。
知らない人が一人でいる盛田昭夫を見たら普通に小さなおじいさんである。(もっとも当時は若かったはずだが)
女の人だって同じであろう。着物だけで勝負できるわけではない。
ホームパーティを開き、上流階級の人々を招いて、家族ぐるみの交流をはかる。
それならば日本人であるという物珍しさやデメリットはメリットにもなり得る。それをよく分かっていたのかもしれない。
とはいっても普通は気後れするだろうから、それが出来たのは夫妻の天性の素質と家柄なのかもしれない。










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# by yumimi61 | 2017-04-25 13:40
2017年 04月 24日
日本国憲法の秘密-459-
ソニーの盛田夫妻の子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's School(男子校)とNightingale-Bamford School(女子高)であった。
どちらも名門私立高である。
アメリカ東部にはセブンシスターズと呼ばれる7つの名門私立女子大学(1つはハーバード大学に吸収された)があるが、ニューヨークのアッパーイーストに在る7つの名門女子校もセブンシスターズと呼ばれ、ゴシップガールのモデル校となったNightingale-Bamford Schoolはそのうちの1つである。
大学とその下の学校のセブンシスターズは別物。

名門私立高では日本の幼稚園年長学年(キンダーガーテン)から高校3年生(12年生)までの13年一貫教育を行っている所が多い。
アッパーイーストのセブンシスターズは全て13年一貫教育、日本で言うところの小・中・高一貫教育である。
一方、St. Bernard's Schoolが含まれるアッパーイーストの名門男子校は8年生(日本の中学2年生)までという所が多い。
それ以降どうするのか言えば、多くはボーディングスクールに進学する。
ボーディングスクールは、思春期から大人への過渡期(日本の中学3年生~高校3年生)の4年間の教育を行う全寮制私立校。男女共学である所が多い。
難関大学受験を目指す子供もいるが、どちらかと言うと、規則・礼儀・自立・協調・コミュニケーション・体力を重視した「エリート教育」が行われる。
Think differentタイプではないかもしれない。
アメリカにもThe Ten Schoolsと呼ばれる10の名門ボーディングスクールがあるが、イギリスやスイスのボーディングスクールに行く子もいる。
スイスのボーディングスクールには世界中から富裕層の子弟が集まり、アメリカやイギリスの名門大学に送り出されている。
富裕層の子弟が行くくらいなので(富裕層の子弟しか行けないように)学費は当然高い。
北朝鮮の金正恩労働党委員長や暗殺された異母兄・金正男氏もスイスのボーディングスクールに通っていたと言われる。


話は脱線するが(時間がかかりそうですか?)、群馬県太田市にぐんま国際アカデミーという日本人相手に英語で授業を行う小中高一貫校があることを以前何度か書いたことがある。(私立なのに市長が関わっていて税金が投入されたということで一時期問題視された)
ぐんま国際アカデミーには英語に慣れるために幼稚園児が通うプレスクール(プリスクール・幼稚園ではない)があるが幼稚園児の教育は行っていない。
前橋にBe English Academyというキンダーガーテンコースを持つインターナショナルスクールがある。
その学校のホームページに「ぐんま国際アカデミー初等部、群大付属小学校、開校以来合格率100%」と書いてある。(合格率100%というのは通った子が全員受かったということではなく、受けた子が全員受かったという意味ですよね?)
それはともかくとして、特徴の1つとして「日本赤十字社の加盟校―群馬県の保育施設の中ではじめて日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校となりました」と書いてある。


日本赤十字社(青少年赤十字社)の加盟校というのはご存知でしょうか?JRCという名前で聞いたことはないでしょうか?
優しさや思いやりを学び国際人を育むことを目的に(!?)、加盟している幼稚園、保育園、小学校、中学校、高校がある。
赤十字のホームページによれば、現在約1万3000校が加盟していて約303万人の青少年赤十字メンバーがいるそうである。
会長は学校長であることが多く、指導者は教員や保育士である。
日本赤十字社では活動のための資料提供、赤十字の全国的・国際的組織を活用した便宜供与や学校間連携の支援、希望する加盟校の教員や生徒向けの研修などを実施しているが、指示や通達によって学校内の組織を拘束することは一切ないとのこと。何をするかは自由裁量だそうである。(加盟はどうですか?忖度とかはありませんか?)
実は群馬県は加盟校が多い。小・中・高合わせて557校が加盟しておりメンバーは15万人を超える。
私が若かりしころ通った学校も加盟校で私も活動したことがある。
(小中高いつだったか忘れたけど、交流会か研修会かなにかで高崎経済大学に行って大学生のお兄さんお姉さんに優しくしてもらったことを覚えている)
首都であり、人口が最多で群馬県より1000万人以上も多く、当然学校数も多く近隣県からも通学する子もいるであろう東京都はどうかと言えば、加盟校は群馬よりも少なく544校である。
西の都(?)大阪府の加盟校は450校ほど(資料がやや古く2010年)。
群馬よりも80~90万人くらい人口の多い広島県での加盟校は291校。
群馬の3.5~4倍の人口数(750万)である愛知県の加盟校は1005校。
赤十字発祥の地(?)の熊本県での加盟校は253校。(人口は群馬よりも10万人くらい少ない)
都道府県別一覧がなかったので全部は調べれませんでした。あしからず。
でも群馬の加盟校は多いと思われる。しかしながら幼稚園・保育園で加盟している所がこれまで1つもなかった。これはこれで珍しい現象。
そんな中、Be English Academyが群馬の幼稚園・保育園で初めて加盟したということなのである。



校章に十字が入るSt. Bernard's School(男子校)と、『ゴシップガール』のモデル校Nightingale-Bamford School(女子高)は、兄弟姉妹校ということである。
『ゴシップガール』でもそんな感じで描かれている。
St. Bernard's School(男子校)が文学に強い学校ということなので、出版社三省堂創業一族出身の盛田夫人の影響かと書いたが、紹介したのはアメリカの証券会社スミス・バーニーのソニー担当役員だったそう。

当時スミス・バーニーは米国預託証券(ADR)を発行していた。
現在ADR発行を引き受ける預託機関(預託銀行)は、バンク・オブ・ニューヨーク・メロン、JPモルガン、シティバンク、ドイツ銀行といった大手銀行によって占められているそうである。
こうした預託機関が外国企業の現地で株式を取得し、その株式を担保に預託証券を発行する。
その預託証券をアメリカの証券取引所に上場させることで、通常の米国株式と同じようにアメリカの投資家が自国通貨(ドル建て)で売買できるようになる。
早い話株式と同じであるが、制度上株式と言うわけにはいかない。

株式とは株式会社の社員権である。間違っても社員証ではない。出資者や株主であることを証明する券(現在はデータ)。
企業は資金調達のために株式を発行するので、株式会社は誰かに多額の借金がある会社と言い換えることも出来る。
株主は企業に利益が出れば配当という恩恵(利息のようなもの)を受けることが出来るほか、株は売買が可能。
持っている人にとっては価値のある(お金と交換可能な)「有価証券」であるが、その価値は永久に保証されてはいない。
何故かと言うと、会社に利益が出るとは限らず、株式の取引(売買)も株価(時価)によって行われるからである。
出したお金が必ず戻るとも限らない代わりに、出したお金よりも戻ることもある。他人の借金でギャンブル、マネーゲームしているというわけ。
企業の価値も株価(時価総額)で比較されるようになるので、株価が上がれば必然的に企業価値も上がる。
しかし株価は噂や雰囲気レベルでも上下する。企業価値は噂や雰囲気でも変動するということであり、実態があるようなないような。

広く株式売買を可能にするには証券取引所に上場(株式公開)させなければならない。
日本には東京、名古屋、福岡、札幌の4ヵ所の証券取引所がある。「東証」が有名ですね。
約3500社が上場していて、上場企業数はムンバイ(インド)、トロント(カナダ)に次いで世界第3位だとか。
アメリカの証券取引所は、ニューヨーク証券取引所、ナスダック証券取引所、アメリカ証券取引所の3つ。

ニューヨーク証券取引所
世界一上場審査が厳しいとされ、上場企業数は約2,800社。そのうち外国企業は約460社(47の国・地域)が上場している。
日本の三大証券取引所とは異なり、企業規模などによる市場指定(第一部・第二部など)は行ってはいない。大規模企業の上場が多く、日本企業では1970年にソニーが上場して以来、2016年12月現在13社が上場している。


上場日本企業(上場の早い順)
ソニー、ホンダ、京セラ、三菱UFJフィナンシャルG、NTT、オリックス、トヨタ、キャノン、野村HD、NTTドコモ、みずほフィナンシャルG、三井住友フィナンシャルG、LINE

パイオニア、TDK、日立、パナソニック、クボタ、コナミHDなどは上場を廃止した。
ニューヨーク証券取引所は企業に厳正なコーポレートガバナンス(企業コントロール)を求めるため、その対策費にかなりの経費が費やされるという。
あげく上場しても企業にメリットがなければ無駄ということになるわけだ。
上記にあるようにソニーが1970年に上場で、次が1971年のパナソニックだった。そのパナソニックが上場廃止となり、1977年上場のホンダが2番目の古参となっている。

ナスダック証券取引所
ニューヨーク取引所よりも中小企業やベンチャー企業が多い。
またナスダックは世界で初めてコンピュータネットワークを導入した取引所でありIT企業や情報関連企業が多い。
世界的大企業となったインテルやマイクロソフトといった企業もナスダックに上場している。
三洋電機もこちらに上場していた。


盛田家がアメリカに渡った1960年代にはソニーはまだアメリカの証券取引所に上場しておらず、ADRが発行されアメリカ市場で資金調達していたのである。

スミス・バーニーは1998年にソロモン・ブラザーズと合併「ソロモン・スミス・バーニー」となった。
ソロモン・ブラザーズは1980年にアメリカ有数の投資銀行に成長したが、1987年のブラックマンデーと1991年の不正スキャンダルで地に落ちた。
そんなソロモン・ブラザーズとスミス・バーニーをくっつけたのは、かのウォーレン・バフェット氏である。
その後シティグループの傘下となり、2009年には「モルガン・スタンレー・スミス・バーニー」となり、さらにその後、モルガン・スタンレーがシティ保有の株式を買い上げたらしい。

ソニー(出井CEO)が出資して「マネックス証券」を設立したのが松本大氏(テレ東の女性キャスターとご結婚されましたね)。→過去記事
かつてソロモン・ブラザース・アジア証券にいたそうで、現在は東証の取締役でもある。

ちなみにソニーの平井現CEOは国際基督教大学の出身である。









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# by yumimi61 | 2017-04-24 15:22
2017年 04月 23日
日本国憲法の秘密-458-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎で1950年に改名、1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
  巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

 養父:松方幸次郎(1865-1950)・・・川崎造船所社長、1936年から衆議院議員
  幸次郎の妻:九鬼好子(隆義の次女)→松方好子
  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

 妻:佐藤星野→松方星野・・・敬虔なカトリック信者

 長男:松方峰雄・・・元日本航空国内旅客事業本部副本部長、元JALフライトアカデミー代表取締役副社長
 
 次男:松方富士雄・・・元トヨタ(ニューヨーク駐在事務所など)勤務


親戚であり友人の松方三郎と松本重治⇔ロックフェラー3世・4世

1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)はロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助した。
国際基督教大学(ICU)は高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。


松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者。
松本重治の妻の母は九鬼家の娘であるため、キリスト教徒(カトリック)であった可能性が高い。
世界でも類を見ないカトリック国であるフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーであるが、親子2代してフィリピン総督だった。
戦後の日本の金庫番(日本銀行総裁・大蔵大臣)一万田尚登は金融面で絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取っていた。
こうしたことから考えても、彼らは、国際基督教大学(ICU)は、カトリック(ローマ教皇)との繋がりが強いと思われる。


松方三郎の次男・松方富士雄はトヨタが1967年にニューヨーク駐在事務所を開設した際にアメリカにいた。
ソニーがアメリカにソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立したのが1960年のことである。創業者の1人である盛田昭夫が取締役社長に就任した。
ウォークマン発売(1979年)より20年も前の話である。(商品だけで巨万の富を得たり多国籍企業になったり、それを維持することはそうそう容易なことではありません。きっぱり)
盛田昭夫一家が本格的に渡米したのは設立から3~4年後のことらしいので1963~1964年頃。
1952年生まれの長男筆頭に2男1女の子供がいた。
その子供達が通った学校は、ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イースト・サイドにあるSt. Bernard's SchoolとNightingale-Bamford Schoolであった。

St. Bearnard’s School(男子校)
1904年創立。イギリス人が多いこともあってイギリスの古き良き(?)伝統を色濃く反映する学校。
「古風な価値観の宝庫」と言われる。アメカジなんかありえない!?
文学に強い学校で、ニューヨークの旧家の子弟や有名作家やジャーナリストの子弟が多い。
ということは!良子の影響か・・(失言でした、すみません。盛田昭夫夫人良子様が出版会社三省堂創業家の出だからでしょうか、ね?)(盛田家も代々続く旧家(酒屋)ではある)
学校のマークには十字架が入っている。
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読みはセント・バーナード?ズ?セント・バーナードと言えば犬。
この学校のセント・バーナードはベルギーのストリート名から取ったらしい。(関係者がいたとかで)

セント・バーナード(犬)
 セント・バーナードは、2世紀頃にローマ帝国軍の軍用犬としてアルプスに移入されたモロシア犬が、その後独自の発達を遂げたものと考えられている。
 17世紀中頃から、スイス・アルプスの山深いグラン・サン・ベルナール峠にある修道院にて雪中遭難救助犬として使役されるようになり、20世紀初頭に至るまで、2,500名もの遭難者を救助した。このエピソードは画家などの絵により首に体を温めるためのラム酒の小樽をぶらさげたスタイルで知られている。なかでも有名なのは、生涯に40名を救助した「バリー」号で、その活躍ぶりにちなんで、一時この犬種をバリー・ハウンド(バリー犬の意)と呼んだこともあった。これにちなんで東京消防庁の特別救助隊や消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)ではセント・バーナードが描かれたワッペンを車両と隊員の肩に付けている。



Nightingale-Bamford School(女子高)
1920年創立。ナイチンゲールとバンフォードは創立者2人の名前。教師だった人物らしい。
アメリカの小説&テレビドラマ『ゴシップガール』はご存知でしょうか?
あれは作者セシリー・フォン・ジーゲザーの体験が元になっている話だそうだが、この学校が作者の母校でモデルになっているそうである。

ゴシップガール
 ニューヨーク市マンハッタンのアッパー・イースト・サイドを舞台とし、名門私立学校に通う高校生を中心に描いた恋愛群像劇。原作本は全米で2002年に発売され、シリーズ通算で400万部のベストセラーとなった。日本では2003年からヴィレッジブックスより順次発売された。全11巻。
 『The O.C.』のクリエイター、ジョシュ・シュワルツとステファニー・サヴェージの製作により、2007年9月からアメリカでテレビ放送が開始され、「ヤング版『セックス・アンド・ザ・シティ』」や「ポスト『The O.C.』」と呼ばれ、出演者もブレイクしてファッション・アイコンとなった。
 日本では、2009年4月16日にスーパー!ドラマTV開局20周年記念番組として放送開始。2010年5月20日には日本テレビでも放送を開始した。

ニューヨーク・マンハッタンのアッパー・イーストサイド。ハイソサエティなこの街の高校生は、酒にドラッグ、パーティー、セックス、そしてお金。何でも無制限にアクセス可能。自分の体面さえ保てばどんなにハメを外そうとお咎めなしなのだ。そしてそんな彼らの間で人気を集めているのは、正体不明の「ゴシップガール」なる人物が管理する情報サイト。街の人気者に関する目撃情報で成り立つこのサイトで、今もっとも注目されているのはセリーナ・ヴァンダーウッドセン。1年前、何も言わずに街を去りコネチカット州の寄宿学校に転校してしまった彼女が、なんと突然舞い戻ってきたからだ。









 

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# by yumimi61 | 2017-04-23 18:01
2017年 04月 22日
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# by yumimi61 | 2017-04-22 23:46
2017年 04月 21日
日本国憲法の秘密-457-
松方三郎(1899-1973) ※本名は義三郎、1950年に改名
                 ※1943年に松方家3代目当主となる

 実父?:松方正義(1835-1924)
      川上佐七郎(1851-1917)・・・松方正義の妻の従兄弟か兄弟らしい

 世話人:松方巌(1862-1942)・・・十五銀行(華族銀行)頭取、2代目松方家当主 →十五銀行倒産で失脚
 巌の娘婿:黒木三次(1884-1944)

黒木三次の父は黒木家に養子入りした薩摩藩士。
父が死去し長男である三次が爵位を継承し伯爵となった。
関東大震災が発生すると復興を目的とした帝都復興院の参与に就任した。(帝都復興院の総裁は医師であり満洲鉄道の初代総裁でもあった後藤新平が就任。幹部は後藤の腹心やブレーン。NHK前身の東京放送局の初代総裁も後藤であった)


 養父:松方幸次郎(1865-1950)

川崎造船所の川崎は地名ではなく創業者(川崎正蔵)の名字。川崎正蔵は薩摩藩出身。国有の郵便汽船会社は西南戦争を機に三菱汽船会社と合併したが、その前から川崎は国有会社の副社長でもあった。
川崎は同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男に会社を譲った。
幸次郎の妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義の娘である。九鬼隆義も三田藩主家に養子入りした人物。その経緯には怪しさが残る。廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得る。キリスト教をはじめ西洋文化を積極的に取り入れ、宮内省にも勤務した。
三田藩主の九鬼家に仕えていた白洲家も慶應出身。
慶應義塾の創始者・福沢諭吉は薩摩の島津家や九鬼隆義から経済援助を受けている。
慶應義塾は島津家や松方家(日銀)、岩崎家(三菱)寄りの立場にあるということである。
慶應は学閥が強いことで昔から有名。
先日まで書いていた話に出てきた阪急グループ創始者も慶應出身。阪急・小林一三並びに三越・三井・三菱の三グループは全て慶應閥であり、東急グループのオーナーだった五島慶太はこの慶應閥から兵糧攻めにあった。
東急グループの母体企業・田園都市株式会社の創始者は(日本経済の父であり理研の創始者でもある)渋沢栄一であり五島ではなく、その田園都市株式会社の経営にこっそり関わっていたのが小林一三であった。
また東急電鉄の株式を握っていたのも五島ではなくフィクサー小佐野賢治であった。
小佐野は日本航空と全日空の株を買収して航空業界へ進出することを狙っていた。その後ろにはロックフェラーがいたとされる。(過去記事参照)

阪神大震災や地下鉄サリン事件が発生した1995年当時の日本銀行総裁は兵庫県神戸市出身者。
1998年3月20日に大蔵省接待汚職事件のスキャンダル(ノーパンしゃぶしゃぶ事件)により任期途中で引責辞任した。
1998年という年は日本銀行法が全面改正され新法となった1997年の翌年だった。
引責辞任した総裁の後任者も神戸出身。


川崎造船所は最初は築地の官有地に作られたが、その後神戸に移っている。
上にも書いてあるが廃藩置県に前後して福沢諭吉の勧めで神戸の土地を買い締め巨万の富を得たのが、川崎造船所の社長だった川崎幸次郎の妻の父・九鬼隆義である。


  幸次郎の娘:松方花子→松本重治に嫁ぐ→松本花子

父・松方幸次郎(松方正義の三男)
                     ======松方花子(松本重治の妻となる)
母・好子(九鬼隆義の次女)

父・松本枩蔵(旧姓・井上、松本家に養子入り)・・・失脚 
                     =======松本重治       
母・光子(松方正義の五女) 
 


井上枩蔵が養子入りしたのは松本重太郎。
肥料、銀行、紡績、鉄道など多くの企業の設立や経営に参画した。
西の松本、東の渋沢(栄一)と呼ばれた、大物実業家。

松本重治(1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。

松本重治は松方家に二重の縁がある。
①母が松方正義の娘(但し正妻の子ではない)
②妻が松方幸次郎の娘

松方幸次郎の養子となった松方三郎と、松方幸次郎の娘と結婚した松本重治は同い年である。

松本重治は東京大学卒業後にアメリカへ遊学。さらにウランス、オーストリア、イギリスを巡る。
松本重治の妻となる花子(幸次郎の娘)もイギリスへ8年あまり留学していた。
重治と花子はイギリス・ロンドンで出会い(落ち合い?)、ロンドンでプロポーズして、1927年に帰国し結婚。
川崎造船所のある神戸の地元紙(神戸新聞)では帰国時に「松方花子さまのお帰り!」とかなんとか記事にするほどであった。
松本重治は東京大学で助手として勤務した後、1932年(33歳の時)に新聞連合社(後の同盟通信社)に入社し、1945年に退職するまで上海支局長や編集局長、常務理事などを歴任した。
前記事の松方三郎の経歴に、「1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職」と書いたが、この会社に先にいたのは松本重治だったのである。
親戚でもあるし、同い年でもあって、松本重治と松方三郎は親しい間柄にあった。
松本重治はロックフェラー3世と大の仲良しだったことでも有名。


戦後、松本重治が設立に関わり、専務理事や理事長を務めた国際文化会館の設立にはロックフェラー3世が関与している。
ロックフェラー家はアメリカ連邦準備制度(FRS)やその理事会(FRB)の設立メンバーにも名を連ね、現在も大株主ではないかと言われている(非公開のため実態が不明)。

2世の5男であるデイヴィッド・ロックフェラーvs3世の長男であるジェイ・ロックフェラー。
ここが長らく揉めていたが、デイヴィッドがお歳を召し(先日亡くなったとか?)、今現在はジェイ・ロックフェラーさんがジョン・ロックフェラー4世ということで落ち着いたようだ。
3世はロックフェラー家やアメリカにとっても不評で隠しておきたい存在なのか、日本語版Wikipediaには存在しない。
ただこの3世とその息子の4世は日本にとても関係が深い。

ロックフェラー4世は、ハーバード大学で東洋の歴史と言語を学んだ後、日本の国際基督教大学に留学し日本語を3年間学んだ。
この大学はロックフェラーと所縁がある。
それもそう、1852年設立の国際文化会館と1853年設立の国際基督教大学(ICU)ともに、ロックフェラー3世(ロックフェラー財団)が関与し資金援助したのである。



国際基督教大学(ICU)
東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。
高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた。
1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った。


湯浅八郎の父は、同志社創立者の新島襄と同郷(群馬県安中)の湯浅治郎である。
湯浅八郎
1890(明治23年)東京に生まれた。同志社理事・群馬県会議長・衆議院議員を務めた実業家・政治家である父・湯浅治郎、徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟の姉である母・初子の間に生まれた。湯浅家は当時の日本ではまだ珍しいクリスチャン・ホームであった(父方の叔父に聖書学者として知られる湯浅吉郎がいる)。少年期は主として京都で過ごした。
第10・12・13代同志社総長および初代国際基督教大学学長を歴任した。


国際基督教大学(ICU)は新島襄や同志社との関係を匂わせて設立されている。
(ちなみに大学が置かれた場所は戦前中島飛行機が所有していた土地である。中島飛行機も群馬で創業された会社)
このような記述もある。
キリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。1949年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。

でもこのあたり少しおかしい。
ダグラス・マッカーサーは以前にも書いた通り、フィリピンに長い間いた人である。
マッカーサーがキリスト教を信仰していたとするならばカトリックであったと考えるのが自然である。

フィリピンは世界でも類を見ないほどの(?)カトリック国である。
国民の90%以上が一神教のカトリック信者で信仰心も厚い。日曜日は家族で教会が当たり前。
そんなフィリピンのアメリカ統治時代を任されていたのがマッカーサーだった。親子2代、フィリピンを担当することになる。



一万田尚登
日本銀行総裁としての在任期間3115日間は歴代最長である。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。

東京帝国大学卒業後、日本銀行に入行した。1944年には、日本銀行の理事に就任した。1946年、前任の新木榮吉の公職追放に伴い、日本銀行の第18代総裁に就任した。インフレーション下の戦後日本経済再建のため、日本銀行は金融面での絶大な権威を持ち、ローマ教皇庁にたとえられたことから、「一萬田法王」の異名を取った。


1946~1954年、日本銀行総裁。
1954~1956年、大蔵大臣。
1957~1958年、大蔵大臣。

戦後の日本の金庫番が国際基督教大学の創立に深く関わっていたということだ。

 
 妻:松方星野・・・山口県出身、実業家佐藤市十郎の次女

松方三郎の妻は敬虔なカトリック信者だったという。
星野という名前は「ベツレヘムの星」ちなんでいるというから、親も熱心なカトリック信者だったのであろう。
しかしですよ、星野といったら名字!
松方星野では、まるで松方さんと星野さんという2人の名字が併記されているよう。
(前にも書いたが星野姓が全国多いのは群馬県)
ともかくこのように松方三郎の妻はカトリック信者。

松方三郎の親戚であり友人の松本重治の妻(松方幸太郎の娘)も母が九鬼家(三田藩主家)出身である。
三田藩家老・九鬼兵庫(松方星野ばりの名前!)の屋敷跡に1952年に献堂されたカトリック三田教会がある。
三田藩の藩主も家老も九鬼家で親戚である。一般的には、藩主が本家筋で、家老が分家筋。

九鬼隆義はキリスト教とも無縁ではない。
神戸在住の宣教師(プロテスタント)と知り合いキリスト教に強い関心を示した。この影響で多くの三田出身者がキリスト教に入信したそうだ。1875年に三田旧領の子女教育のため神戸に「神戸ホーム(のち神戸英和女学校)」(現:神戸女学院)を開校した。
1882年に上京し宮内省(準奏御用掛華族局)に勤務し、1884年に子爵を授かり、1886年に吹上・浜両御苑勤務に異動した。
1887年に神戸教会にてキリスト教の洗礼を受けた。しかしながら三田内部および三田の寺院の強い反対でキリスト教を棄教して仏教に帰信したという説もあるようだ。


三田藩家老・九鬼家の屋敷跡にカトリック三田教会が造られたことからも分かるように、三田藩家老の九鬼家は敬虔なカトリック信者であった。
神学者になった者や修道院に入った者がいるほどである。
家老家がカトリックで藩主家がプロテスタントとは考えにくい。
九鬼家のキリスト教信仰もカトリックとプロテスタントの混同があり少々おかしい状況。
日本人はキリスト教や十字架やイエスやマリアは知っていても、宗派や教派(カトリックやプロテスタントの違いさえ)を理解していないところがあるので、一緒くたになってしまったのだろうか?
中にはカトリックとプロテスタントの違いが分からない人がいたとしても敬虔なカトリック信者を抱えていることから、「家」としてはカトリック信仰であったと言ってよいだろうと思う。
無宗教・無信仰の日本人にはピンとこないかもしれないが、宗教の違いは結婚その他の障害になるほど大変なことである。
「家」「家族」を重視するならば尚のこと。

松本重治の密葬は世田谷(アンゴラ大使館のお隣)の東京聖三一教会(聖公会)で執り行われた。
従ってキリスト教信者であったことは間違いないが、聖公会とはイギリスの王(現在は女王)を頂点とするキリスト教である。
カトリックから分離したのでプロテスタントとも言われるが、カトリックの教義などそのまま維持しており、限りなくカトリックに近いとも言われる。









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# by yumimi61 | 2017-04-21 13:21
2017年 04月 18日
日本国憲法の秘密-456-
21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。

松方正義Wikipediaの家族欄では巌(松方正義の長男)の養子となったとあるが、ここは勘違い。
正式に養子となったのは3男・松方幸次郎のほう。長男・巌の世話になっていたこともあったということのようである。
松方三郎Wikipediaのほうでは松方幸次郎の養子として届け出たことが記されている。
( 昭和30年(1955年)5月9日、本名“義三郎”を“三郎”と改名。子供のころから“義三郎”の名を嫌い、自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた(『松方三郎』341頁))

1899年 8月1日 - 松方正義と松方の妾キタの子として生まれる。“義三郎”と名付けられる。京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ。その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む。
1905年 4月 - 兄松方幸次郎の養子として届出。

はたして、川上左七郎の4男なのか、松方正義の15男か、正解は不明。
(川上左七郎は川崎造船所の取締役、養父の松方幸次郎は川崎造船所の社長である)
正解は不明だが、松方義三郎(後に三郎)は松方家の3代目当主に納まった。
 松方家初代当主 松方正義(父)
 松方家2代目当主 松方巌(長男)
 松方家3代目当主 松方三郎



松方義三郎(三郎)が正式に養子に入ったのは松方正義の三男・松方幸次郎であるが、長男・松方巌の世話になっていた時期もある。
松方巌は十五銀行の頭取であった。

十五銀行
1877年(明治10)5月21日に国立銀行として開業。
岩倉具視の呼びかけにより有力華族が発起人となり華族銀行とも呼ばれた。
原資は禄(貴族や官人に支払われていた金銭と維新功労者に対して付与された金銭・物資など)制度処分の代わりに発行された公債(国債)。
初代頭取には最後の長州藩主・毛利元徳が就いた。
宮内省(現在の宮内庁)の金庫(御用銀行)でもあった。

1897年(明治30年)に普通銀行(株式会社)に転換。
転換後の初代頭取は園田孝吉。

園田孝吉
1848年、薩摩藩士・宮内健吉の長男として大隅国太良村(現・鹿児島県伊佐市)に生まれる。藩内のお家騒動により父親が処罰を受けたため、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。
1874年から約15年もの間、外交官としてイギリスに派遣された。
1889年11月に帰朝し、翌1890年3月、松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取をつとめた。1897年4月、病により同頭取を辞任。1899年には十五銀行頭取、帝国倉庫運輸株式会社社長などを務める。


1920年(大正9年)、十五銀行は 浪速銀行、神戸川崎銀行、丁酉銀行を合併する。
この合併の頃に十五銀行の頭取だったのが松方巌である。
神戸川崎銀行は川崎造船所(現在の川崎重工のルーツ)の創業者で川崎正蔵財閥の創始者である川崎正蔵が神戸にて開業した銀行。
川崎正蔵は松方正義と同郷で旧友という間柄。
当時大蔵次官であった松方正義の計らいもあって、1878年(明治11)に東京築地の官有地(現在の築地本願寺や聖路加国際病院の近く)を借受けて川崎築地造船所を設立した。
1894(明治27)年に勃発した日清戦争にて急成長し、1896年に株式会社とする。
株式会社になった川崎造船所の初代社長は松方正義の三男・松方幸次郎である。

日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と相次ぐ戦争で潤った重工業は、第一次世界大戦後の1920年に本格的な戦後不況に陥り、企業や銀行は不良債権を抱えた。
また1923年に発生した関東大震災で支払いを猶予する処置(震災手形)を行い、それが膨大な不良債権と化していた。
こうして金融恐慌が発生した。
十五銀行は川崎造船所に巨額な融資を行っており、川崎造船所も十五銀行も経営破綻危機に陥る。
1927年(昭和2)4月21日、十五銀行に取り付け騒ぎが発生して休業。事実上倒産した。
川崎造船所は公的資金投入によって再建した。

十五銀行最後の(倒産時)頭取が松方巌である。
彼は倒産の責任を取り私財の大半を放出の上、爵位を返上した。
なにせ十五銀行は華族銀行であり御用銀行である。銀行が倒産して累が及ぶのは天皇家であり華族である。
松方巌がもっとも恐れた頭が上がらなかったのは松方正義立身出世の立役者である島津家であった。

島津家は華族の中でももっとも被害(預貯金・所有株式)が大きかったし、島津家がなければ銀行倒産後のカタを付けることも出来なかったのである。
島津家は東京品川に所有していた不動産(御屋敷)を一部残して箱根土地(後の西武グループコクド、創設時の役員は当時の著名な財界人や公家の血筋の人物)に売却し銀行整理の資金とした。
その後、十五銀行は再開したが1944年帝国銀行(→三井銀行)に吸収された。

品川のお屋敷はもともとは仙台伊達藩の下屋敷であった。
1873年(明治6)に島津家の所有に移り、天皇もたびたび訪れたという。
第二次世界大戦中、島津家もコクドもその土地を日本銀行に売却した。
戦後はGHQの管理下に入り駐留軍の将校宿舎として1954年(昭和29)まで使用された。
接収解除後の1961年(昭和36)、日本銀行は清泉女子大学に売却した。(忖度した!?)

イエズス会の名称ではありませんが、イエズス会の会憲をそのまま受け継いで創立されている女子修道会もいくつかあります。例えば日本では聖心会(聖心女子大学)、聖マリア修道女会、聖心侍女修道会(清泉女子大学)等です。上智大学 イエズス会の女子教育より>


松方巌は一切を投げ出して島津家の許しを乞うたという。
松方家の長男、2代目当主はこうして潰された。
(松方三郎はこの顛末を知っていて長男・巌の養子にならなかった!?)
松方家はこれまで以上に島津家に頭が上がらなくなったことは容易に想像できる。


21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。

学習院の中等科と高等科を経て、京都帝国大学経済学部卒業。
大学卒業後、満洲鉄道東亜調査局に入社。
1934年(昭和9)に新聞連合社(後の同盟通信社)に転職。中国の北支・中支・南支の各総局長、満州国通信社理事長を歴任。
戦後は1949年(昭和24)から1959年(昭和34)まで共同通信社にて編集局長や専務理事を歴任。


学習院中等科時代に登山を始める。
1921年(大正10)21歳の時に厳冬期の燕岳(北アルプス)に初登頂、翌1922年(大正11)に慶應義塾大学山岳部と厳冬期の槍ヶ岳(北アルプス)初登頂した。

登山(山に登る、山を越える)ということは日本でも古代の時代から存在していた。
開山(開拓)、調査研究、山岳信仰、宗教的な登山、狩猟、採掘、採取、戦術、移動、冒険など。
但し山に登ることだけを目的として、高く険しい山を目指す道楽・娯楽・趣味・レクリエーションとしての登山(アルピニズム)が広く伝わったのは明治時代のことで、来日したイギリス人が行って広まっていった。
富山県、岐阜県、長野県に跨る飛騨山脈を日本アルプスと命名したのもイギリス人。
後に日本人が長野県の木曽山脈を中央アルプス、長野県・山梨県・静岡県に跨る赤石山脈を南アルプスとして付け加え、飛騨山脈は北アルプスとした。
イギリスは登山が盛んな国で本場スイスのアルプスの山々の初登頂はほとんどイギリス人によって行われた。
日本では明治末から大正にかけて日本アルプスへ登山する人たちが増え始め、皇族も登山を好んで行うようになる。
大正時代には測量が行われ、山小屋も出来た。松方三郎の厳冬期の初登頂はその頃である。
広島の先生の言う「冒険家とも言える一部の先鋭的な登山」はこの頃に盛んになったわけだが、やはり若さが必要とみえてその主役は高校生や大学生であった。
この時代に高校や大学に通えるということは通常は平均よりも裕福な家庭の子供である。

日本初の本格的な海外登山として位置付けられているのが、1925(大正14)年、慶應義塾大学山岳部OBおよび学習院大学山岳部OBらをメンバーとする日本山岳会登山隊(槇有恒、三田幸夫=11代会長ら)によるカナディアン・ロッキーのアルバータ山への初登頂である。

松方三郎は1925年(大正14)にイギリスに留学し、スイスのアルプスで数多くの山に登った。
1925~1927年の2年間で以下登頂。
ヴェッターホルン、ユングフラウ、 グロース・シュレックホルン、 シュトラールホルン、ダン・ブランシュ、ツィナル・ロートホルン、オーバーガーベルホルン、マッターホルン(ツムット稜・イタリア稜)、ピッツ・ベルニナ、ピッツ・パリュなど。
1927年にはアイガー・ヘルンリ稜下部初登攀。






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# by yumimi61 | 2017-04-18 14:18
2017年 04月 17日
誕生日
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前に犬のロンが4月で16歳になりますと書いたのですが15歳の誤りでした。
長男が小学1年生の年に子犬でうちに来たので間違いなく15歳です!なんで間違えてしまったんだろう。
改めまして、今日15歳になりました!
ロンはミニチュアダックスにしてはやや大型ですが、小型犬として人間年齢換算すると76歳になります。

リン(正式名称はリンク)は2月に13歳になりました。(こちらは合ってます)




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# by yumimi61 | 2017-04-17 23:03
2017年 04月 17日
日本国憲法の秘密-455-
・松方正義の妻・満佐子の父―川上助八郎(薩摩藩士、明治期に米商会である中外商行会社の頭取、蠣殻町米商会所第三代頭取となる)

・松方正義の妻・満佐子の従兄弟―川上左七郎(日本海陸保険、大阪舎密、川崎造船所などの取締役、大阪株式取引所理事、日本銀行監事などを歴任)


松方正義の妻は川上助八郎の長女だという資料が多いが、川上左七郎は川上助八郎の長男であるとする資料もある。
そうなると川上左七郎は松方正義の妻・満佐子の従兄弟ではなく兄弟ということになって、このあたりも辻褄が合わなくなる。
従兄弟なのか兄弟なのか、それとも全く赤の他人なのか、正解は分からない。
「川上」とは川の上流という意味になるので、地名としても比較的ポピュラーであることが推測される。
現に鹿児島市にも町名として存在する。
また「上流に住んでいる〇〇さん」のことを、「川上の左七郎さん」(例えです)と言っても不思議はない。
このように川上自体がそもそも混乱を来たしやすい名字である。

混乱ついでに言えば、同じく鹿児島出身の川上直之介という人物もいる。
銀行家。鹿児島県生。東京帝大卒業後、米・ 独に留学。横浜正金銀行に入行後、日本勧業銀行に転じる。元勧業銀行理事・元日本銀行監事。

川上直之介の父の名は川上助七。
川上直之介の妻は、松方正義の三女(男子含めたトータルでは8人目の子)・松方廣子である。
つまりこちらの川上さんも松方家と親戚である。


それで昨日書いた松方正義の14男・義行が実は川上左七郎の次男だという話の続だが、彼は松方正義の次男・松方正作の養子になった。その後に7代目森村市左衛門の養子となった。
  川上義行→松方義行→森村義行
松方正作は外交官で、彼の妻は三菱財閥創始者岩崎弥太郎の弟で2代目総帥岩崎弥之助(元日本銀行総裁)の長女である。
従って川上左七郎の次男・義行の養父は日本銀行創始者(後に総理大臣にもなる)の息子、養母が三菱財閥の娘ということになる。さらに義行は森村財閥の娘と結婚した。


松方の14男とされている義行が実は川上左七郎の次男だという説を取れば、川上左七郎一家には他にも松方家へ送り込まれた子供がいることになる。

 川上左七郎の4男・川上義三郎―松方正義の三男・松方幸次郎の養子となる。
 川上左七郎の5女・川上文子―松方正義の三男・松方幸次郎の養子となる。

3 三男:幸次郎(1865-1950、実業家、政治家) 川崎造船所*社長、衆議院議員。妻は三田藩最後の藩主・九鬼隆義**の娘。幸次郎の娘・花子は松本重治夫人。孫の操は建築家・槇文彦の妻。

しかしながら義三郎と文子はともに松方正義の子供とする資料もあるわけである。
 松方正義の15男(女子も含めたトータルでは21人目)・松方義三郎
 松方正義の7女(男子も含めたトータルでは22人目)・松方文子
松方義三郎は松方正義が64歳の時の子供、松方文子は68歳の時の子。
そして松方正義にはまだこの後に4人の子がいることになる。



21 十五男:三郎(1899-1973) 登山家、ジャーナリスト、実業家。
ボーイスカウト日本連盟第6代総長。共同通信社専務理事。東京ロータリークラブ会長。巌の養子となり松方家第3代当主となる。本名は義三郎。筆名として「後藤信夫」(G.N.)など。

松方正義Wikipediaの家族欄では巌(松方正義の長男)の養子となったとあるが、ここは勘違い。
正式に養子となったのは3男・松方幸次郎のほう。長男・巌の世話になっていたこともあったということのようである。
松方三郎Wikipediaのほうでは松方幸次郎の養子として届け出たことが記されている。
昭和30年(1955年)5月9日、本名“義三郎”を“三郎”と改名。子供のころから“義三郎”の名を嫌い、自他ともに“三郎”で通っていたのが家庭裁判所で認められた(『松方三郎』341頁)

1899年 8月1日 - 松方正義と松方の妾キタの子として生まれる。“義三郎”と名付けられる。京都の北、松ヶ崎の農婦である乳母の家に預けられ4歳までここに育つ。その後、兄巌に養われ芝区南佐久間町に住む。
1905年 4月 - 兄松方幸次郎の養子として届出。


はたして、川上左七郎の4男なのか、松方正義の15男か、正解は不明。
(川上左七郎は川崎造船所の取締役、養父の松方幸次郎は川崎造船所の社長である)
正解は不明だが、松方義三郎(後に三郎)は松方家の3代目当主に納まった。
 松方家初代当主 松方正義(父)
 松方家2代目当主 松方巌(長男)
 松方家3代目当主 松方三郎





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# by yumimi61 | 2017-04-17 11:26
2017年 04月 16日
日本国憲法の秘密-454-
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


倒幕の立役者である薩長藩。
しかしながらそもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。

1867年大政奉還、1868年に明治時代がスタートする。

その5年ほど前のことである。薩摩藩はイギリスと戦った。
九州のほとんどを手中に収めていた島津家だがそのベースは薩摩にあった。
イギリスは島津家と戦ったとも言い換えることができる。

薩英戦争(文久3年旧暦7月2日–4日(1863年8月15日–17日))は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘。文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする島津兵が、鹿児島湾で激突した。

生麦事件
文久2年8月21日(1862年9月14日)、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村で島津家の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷する(死者が1名、負傷者が2名)。


薩摩藩(島津家)に対するイギリスの心証はよくなかったはずである。
だからイギリスは薩摩藩とは犬猿の仲だった長州藩に近づいたのかは分からないが、1866年なんと犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩は軍事的同盟を組んだのである。

そして江戸時代は終焉に向かっていった。


博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。


以前上記のように書いたが、松方正義も負けず劣らず子沢山である。
・松方は女好きで、非常に子沢山であり、早世した2男も含めて15男11女の26子があった。或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。

正妻が産んだ子は4男1女の5人らしいので、残りの21人は妾やら何やら別の女性が産んだ子である。
松方正義が認知すれば子は「庶子」になるし、認知しなければ「私生児」ということになる。
正妻が産んだ5人を除く21人全てが認知された子だったのかどうかは実際のところ不明。
当然のこと全ての子と女性が松方正義と一つ屋根の下暮らしていたわけではない。
産んだ女性あるいは乳母に育てられ、後年になって養子という形で松方正義の子になったということも十分考えられるわけである。
それどころか、松方正義の子としながらも、松方正義の最初の方に生まれた子の養子になった者も複数いる。
そんなこんなで後年に生まれた子ほどその実態(実父が誰で養父が誰なのか)はよく分からないというのが実情。
また家系図などは歴史を遡って調べたり語られるものであり、一般に多く伝えられている事柄に間違いが少しもないとは言い切れない状況にある。

例えば前回書いた松方正義の14男・義行。
彼は7代目森村市左衛門の養子となり、7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
しかし彼は実は松方正義の子ではなく、同じ鹿児島出身の川上佐七郎の次男(川上義行)とする資料もある。

川上佐七郎
1851−1917 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)4年3月23日生まれ。日本海陸保険,大阪舎密,川崎造船所などの取締役を歴任。帝国商業銀行の設立につくし,大阪株式取引所の理事となった。大正6年10月21日死去。67歳。鹿児島県出身。

日本銀行の監事なども歴任したようである。
川上佐七郎は新島襄の同志社大学設立運動に寄付をしていたようで、新島襄から川上佐七郎に宛てた書簡(礼状)が2012年に発見されている。

川上佐七郎は松方正義の妻の従兄弟にあたる人物。
松方正義の妻は薩摩藩士・ 川上助八郎の長女。
川上助八郎は、薩英戦争の時には薩摩藩士としてイギリス艦艇に突撃する決死隊に参加していたという。(とはいっても戦闘機はまだない)
また最後の(明治2年に廃止)屋久島奉行でもあった。
(屋久島は鹿児島県に属する島で現在は世界自然遺産となっている。ちなみに世界自然遺産の登録されている日本の地は4つ。知床・白神山地・小笠原諸島・屋久島。富士山は当初自然遺産を目指していたが後に文化遺産に変更して、自然遺産ではなく世界文化遺産として登録された)
屋久島は平安時代に近衛家の荘園となり、戦国時代には戦場となり鉄砲が伝来した。
安土桃山時代の豊臣秀吉時代に屋久島は島津家の領地となり、森林資源の厳しい統制が布かれるようになった。



●1867年11月9日(慶應3年10月13日) 朝廷(天皇や貴族)が薩長両藩主に倒幕の密勅

前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は小御所会議により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていた。
京では朝廷が幕府に見切りをつけて慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。
13日に密勅を賜った薩摩はすぐに行動を開始する。相楽総三は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。

(浪士というのは前にも書いた通り、主君を失ったり主家を離れた食べる事さえままならない元武士のことである。風来坊とも言えるかもしれない。雇われた浪士は一時的とはいえ主君が出来たのだから、侍であり武士となる。7人の侍は農民に雇われたが、この場合は薩摩藩に雇われた)

彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などを繰り返して幕府を挑発した。
薩摩藩士は浪士を雇って、放火・掠奪・暴行などの犯罪行為、挑発行為を繰り返した。

その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。
旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。



●1867年11月9日(慶応3年10月14日) 大政奉還

朝廷の密勅によって動き出した薩摩藩。
しかし密勅の翌日(あるいは当日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は政権を天皇に返上した。
大層あっけなく目的を果たしたわけだから、雇われた浪人ももうお役御免のはずである。
無血開城が叶うのだ。

討幕の密勅の直後の慶応3年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。
そうして騒乱は拡大していった。もはや目的なき騒乱である。


●1868年1月19日(慶応3年12月25日) 江戸薩摩藩邸の焼討事件

薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、江戸の三田にある薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失した事件のことである。この事件からの一連の流れが戊辰戦争のきっかけとなった。


権力とは別の場所で暴走が起こったのか。
それともやはり後ろで権力者が糸を引いていたいのか。

倒幕(討幕)に際し薩摩藩として表立って行動していたのは島津ではなく西郷隆盛や大久保利通である。
薩摩藩が諸手を挙げて西郷らの討幕計画に賛同していたかというとそうではなかった。
地元薩摩では西郷の言動を非常に危険視していたとも言う。
松方正義の妻の父・川上助八郎も西郷のやり方には異を唱えていたらしい。
西郷を支援していたのは他でもない島津家であった。
賞典は西郷や大久保に与えられたわけではない。もちろん雇われた浪人たちでもない。
藩であり藩主、結局は権力者に与えられる。

戊辰戦争(新政府vs旧幕府勢力)の戦功賞典
 10万石:島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)
 4万石:山内豊信父子(土佐)
 3万石:池田慶徳(鳥取)、戸田氏共(大垣)、大村純熈(大村)、島津忠寛(佐土原)、真田幸民(松代)
 2万石:佐竹義尭(久保田)、藤堂高猷(津)、井伊直憲(彦根)、池田章政(岡山)、鍋島直大(佐賀)、毛利元敏(長府)、松前兼広(松前)
 1万5千石:前田慶寧(金沢)、戸沢正実(新庄)、徳川慶勝父子(尾張)、浅野長勲(広島)、大関増勤(黒羽)
 1万石:松平慶永父子(福井)、六郷政鑑(本荘)、榊原政敬(高田)、津軽承昭(弘前)、戸田忠恕父子(宇都宮)、黒田長知(福岡)、有馬頼咸(久留米)、秋元礼朝(館林)など

西郷と大久保は幼い頃からの友人であったが、明治新政府が樹立した後は時代の波に呑みこまれ対立する運命を辿る。
そして負けたのが西郷である。西郷は死んだ。
しかしながら大久保もまた暗殺された。
倒幕(討幕)を代表する薩摩藩士はともに不運な最期を迎えた。
薩摩藩一の出世頭となった松方正義は藩士ではなかった人物である。
藩士ではないというのは、武士として戦った実績がほとんどなく、幕末においても勤皇志士としての活動歴がないということ。
父親は商家に生まれた松田正恭。松方家に養子入りし松方正恭となる。
松方正恭の息子として生まれたのが松方正義(血の繋がりは松田にある)。
薩摩藩時代の松方正義も異例の出世を遂げたそう。
生麦事件の時には島津久光の側近だった。





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# by yumimi61 | 2017-04-16 17:49
2017年 04月 14日
日本国憲法の秘密-453-
私が『日本国憲法の秘密』というタイトルで書いてきたことを大まかに分類すれば次のようになる。

日本国憲法→松方正義とその家族→飛行機→戦争→原爆


松方正義は日本銀行の創始者。総理大臣にも2回就任。日本赤十字社社長、枢密顧問官、議定官、貴族院侯爵議員、内大臣なども歴任している。
明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても天皇から財政委任の詔勅を得て、大きな権力を持って財政をすすめた。
明治時代(1868-1912年)というのは近代化の名の下、戦争と借金によって世界の金融システムに呑みこまれていった時代である。

ロスチャイルド家が台頭した1700年〜1800年代はちょうど、ヨーロッパにおいてオカルティズムな神秘主義が拡大した時代だった。
その前の1500〜1600年代に起こった宗教改革が良くも悪くも宗教の権威主義に変化を与え、合わせて独裁的な君主に反旗を翻す市民革命も起こったため、様々なことが世俗化し、自由の名のもとに多様化していった。
1人の人間が発揮する吸引力というものが失われた時代であると言える。
またイングランドでの中央銀行の誕生を経て、1800年代半ばから始まった産業革命が、近代化への幕開けを告げた。
それは科学の時代の到来でもあった。

要するに、「金(紙幣・数字)で買えない物はない」「科学で解決できないことはない」という時代を迎え、宗教はその根幹から揺らぐことになった。
「マリアの処女懐胎」や「イエスは神の子」を謳うキリスト教、特にそれによって権力を獲得したローマカトリックへの打撃が深刻であることは想像に難くない。
こうした時代の変化をいち早く読み取れば、宗教や国のこれまでの権力者は金(紙幣・数字)や科学に近づいていくだろうと思う。
それは自身が生き延びる術であるからだ。



明治初期の金庫番は早稲田大学創始者の大隈重信である。
薩長藩(鹿児島・山口)出身者が強大な権力を握った時代にありながら、大隈重信は佐賀出身であった。
このことから考えれば金庫番は実力者である必要があって、大隈は実力があったということだろう。しかしやはり派閥が違うためか何かと合わず辛酸を舐めた。
この大隈の後に金庫番に就いたのが松方正義である。
松方家は武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県北東部)の豪族河越重頼の四男河越重時が鎌倉時代初期に島津忠久に従って、薩摩(鹿児島県)にやって来たことから始まる。
島津家が九州をほぼ手中に収める中、松方家は鉄砲製造を監督指導を生業としてきた。
松方正義の父は地元の商家の息子であったが、後継者のいなかった松方家に養子に入り後を継いだ。
松方正義は島津家によって立身出世したと言ってよいだろう。


明治天皇は1852年生まれで、明治元年には若干16歳である。
天皇すり替えの噂も絶えないが、そうでなくとも歴史上長いこと天皇は実権を握ってこなかった。
個人的に見ても、明治初期の天皇は実績や実力不足である。
この天皇を中心にすんなりと一国が回っていくとはとても思えない。
明治初期には実力者は別にいて、実権は別の者が握っていたと考える方が自然である。


1868年1月3日(慶応3年旧12月9日)に王政復古の大号令が発令された。
その時に作られた政治体制は「三職」であった。
 1.総裁(有栖川宮熾仁親王)
 2.議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)    
 3.参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)


表の最高権力者は有栖川宮熾仁親王であった。
明治初期に権力を持っていたのは、長州藩でも天皇でもなかったのである。
つまり天皇同様に長州藩もすんなりと一国を回していくにはやや実力不足であった。
転換の混乱期にあまり表舞台に立たないほうがよいだろうという打算もあったのかもしれない。

では有栖川宮熾仁親王とは何者か?
総裁の有栖川宮熾仁親王は明治天皇や長州藩から信頼を得ていた人物だったのだ。
有栖川宮家はもともとは徳川家や幕府関係者とも親密な宮家だったのが、幕末の有栖川宮家の幟仁親王(父)と熾仁親王(子)は長州藩と内通しており、孝明天皇から処分されている。
王政復古後に熾仁親王(子)は三職の総裁に就任したが、幟仁親王(父)は国家神道普及の道を歩んだ。 

(王政復古直後)長州藩に近い皇族→(数ヶ月で)長州藩に近い公家→(1885年)長州藩士という流れで、首相が誕生した。
以前リンクした記事に裏天皇は旧徳川勢力とあったが、江戸時代というよりもそれ以前からある宮家や公家の中に倒幕派に付いた者がいたのである。また幕末にはそれまでの親幕府から翻った藩もあった(親倒幕派が藩主に就いた)。
それに追加して明治維新の混乱に乗じて発生した怪しい宮家もあり、それらも当然のことながら明治天皇や長州藩派であった。



熊本洋学校ジェーンズ邸は、西南戦争にて明治政府側の征討大総督であった有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。
この有栖川宮の許可により、旧ジェーンズ邸に博愛社が設立された。
その博愛社が10年後に日本赤十字社となったため発祥の地と言っているのだが、ジェーンズとも熊本洋学校とも関係ない。跡地だったということだけだ。
今回の熊本地震でジェーンズ邸も倒壊してしまったらしい。



博愛社総長・日本赤十字社初代総裁に就任したのは初代近衛師団長の小松宮彰仁親王。
初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。


現在の日本赤十字社社長の近衛忠煇氏は熊本藩細川家に生まれた(兄が細川元首相)。
英国ロンドン大学ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスヘ留学、1964年(昭和39年)に帰国。日本赤十字社副総裁三笠宮崇仁親王の長女・甯子内親王と結婚した。同年より日本赤十字社に入社。
1965年(昭和40年)に母の実家である近衞家の養子となった(伯父の文隆の夫人の養子)。

日本赤十字社は皇族が名誉総裁や副総裁に就任しており、当初から皇室との関係が非常に深い。
新島襄の妻だった八重は日本赤十字社に取りこまれた。

近衛家と島津家は親密である。
島津家は関が原の戦で徳川軍と戦った根っからの反徳川派であった。
その島津藩は後に篤姫を将軍の継室として送り込むまでになる。
島津斉彬藩主が養女であった篤姫を近衛家の養女として13代将軍・徳川家定の継室に送りこんだからである。

上記「三職」にある薩摩・尾張・越前・安芸・土佐を現代の県に当てはめれば、鹿児島・愛知・福井・広島・高知である。
実は長州藩(山口)は含まれていないのだ。
そもそも薩摩藩と長州藩は犬猿の仲であった。その2藩の仲を取り持ち同盟を組ませたのが土佐(高地)出身の坂本龍馬であったと言われている。
三菱の岩崎弥太郎、三井資本で外国旅行に出かけ問題となった後藤象二郎&板垣退助、海援隊の坂本龍馬はみな土佐藩出身である。
土佐藩を脱藩し薩長同盟の立役者となった坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐藩に戻って直に暗殺され、薩摩藩や長崎商人の支援で結成された亀山社中(海援隊)は土佐藩の後藤象二郎に引き継がれ、土佐地下浪人として没落していた岩崎家の弥太郎の手に渡り今なお続く三菱財閥になりましたとさ。
(長州出身の伊藤博文は三井資本、肥前出身の大隈重信は三菱資本で動いていた)
その三菱財閥の岩崎家が薩摩・島津家の家臣だった松方家と婚姻によって親戚になりましたとさ。



では長州藩が表舞台に登場したのはいつだったのかと言えば、これが松方正義とも関係する。
大隈の後に金庫番となった松方正義が中央銀行設立を推進するようになったのは、1877年に渡欧してフランスの蔵相レオン・セーに会ってからである。
日本銀行設立は1882年だが、その前年1881年に前金庫番であった大隈重信とその一派が明治政府中枢から追放された(明治十四年の政変)。
レオン・セーはロスチャイルド家の使用人であり番頭であった。
つまり松方正義はフランスのロスチャイルド家に見込まれて、日本に中央銀行を設立し、権力の中枢に就いていったと考えられる。
もう一人、ロスチャイルド家に見込まれた者がいた。長州5傑の1人伊藤博文である。
真の実力者は往々にして邪魔になるので、見込まれたと言っても実力があったということではないだろう。
傀儡として適任者であった。
伊藤博文は長州藩出身者である。1885年に初代内閣総理大臣に就任した。
長州藩はイギリスとの関係も深いが、1700年代からナポレオン時代が終わる1815年頃までイギリスとフランスの仲はあまりよろしくなかった。
フランスではフランス革命戦争やナポレオン戦争が起こっていて(つまりフランスでは従来の権力の地位が揺らいでいた)、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国(王族のいる国々)が、フランス第一共和制およびフランス第一帝政(ナポレオン)の打倒を目的として同盟を組んでいた。
フランスは自由の名の下の戦争によって借金を積み上げ、金融家に付け込まれるようになった。


・大隈重信と福沢諭吉―横浜正金銀行 
・松方正義―日本銀行

この2つが世界と金融システムを共有することに尽力した。
「金(紙幣・数字)で買えない物はない」という時代になれば、一番の権力は金が握ることになる。
「金は天下の回り物」という言葉があるが、当初お金は金本位制であり銀行によって回されていた。
お金を回す銀行が力を持っていたことは確かだが、金(Gold)を集めるのは容易ではなかった。
金本位制が崩れれば単なる紙幣を発行する者が一番の権力者ということになる。
やがて中央銀行から紙幣が発行されるようになる。
要するにそれはお金は天の下で回るようになったということだ。みな天という傘の下にいるということになる。
日本ならば天は日本銀行ということになる。
でも会社というのは出資者や株主があってこそ。
日本銀行という天の天は筆頭株主(出資者)であるはずだ。
ロスチャイルド家なのか天皇家か、それとも別の誰かか。
国や社会を支配するものがお金になった時、権力は肩書や名誉にあるのではない。お金こそが権力となる。
そして国家や社会は誰かの所有物となる。

日本銀行設立から7年後の1889年(明治22年)にやっと大日本帝国憲法(明治憲法)が制定され、明治天皇が38歳になった1890年に施行された。
天皇が表の権力者になったのはこれ以降である。
翌1891年松方正義は総理大臣に就任した。


松方家は松方正義の女好き子沢山と政略が相まってあらゆる方面に縁戚関係がある。

松方正義の数多い子供とその関連事項について書いている中、飛行機関係に話が移った。
松方正義の14男・義行(1896-1970)の時である。義行は7代目森村市左衛門の養子となった人物。

6代目森村市左衛門が森村財閥の創始者であるが、森村財閥の創始に大きく貢献したのは異母弟の森村豊。
森村家は慶應義塾創始者の福沢諭吉との関係が強い。
森村豊は、1876年(明治9年)内務省勧商局の支援と福沢諭吉の協力の下、佐藤百太郎が計画した「米国商法実習生」の一人に選ばれてニューヨークに渡り、現地で語学と商業を学びながら事業を展開する。
1893年(明治26年)、森村豊は同じ船で渡米した新井領一郎のパートナーとして日本製生糸の輸入販売を行う「森村・新井商会」(Morimura, Arai & Company)を設立。


新井領一郎(旧名:星野良助)は、群馬県勢多郡水沼村(桐生市黒保根町水沼)にて富農・星野彌平の子として1855年に生まれたが、1866年に隣村の生糸問屋・新井系作の養子となった。
兄の星野長太郎は水沼製糸所設立者で衆議院議員でもあった。
兄弟は日米貿易の創始者として活躍した。
黒保根の星野家は生糸商人になる前は鍛冶屋だった。
祖先の兄弟の兄が黒保根に住み着き、弟は沼田に住んで、ともに鍛冶屋をしていた。

松方正義の9男・正熊の妻は新井領一郎の長女である。(松方家と新井家が縁戚関係となる)
この夫妻には6人の子がいるが、そのうちの1人が1956年に駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーの後妻となった。
駐日大使に就任したのは1961年のこと。任命したのはケネディー大統領。そのケネディ大統領は1963年日米間のテレビ衛星中継開始に合わせるように暗殺された。
翌1964年、ライシャワー駐日大使が日本の大使館前で精神疾患患者に刺される。この時の輸血がもとでC型肝炎を発症。この事件をきっかけに精神衛生法が改正され、日本赤十字社が血液事業を独占した。
駐日大使が襲われたということで日本の医療制度に大きな影響を与えた事件であるが、その影響力の強さのわりにはあっさりと肝炎に感染させてしまうなど杜撰さや稚拙さを感じさせる事件(対応)でもある。

森村財閥は日本陶器合名会社(現:ノリタケカンパニーリミテド)、日本碍子(日本ガイシ)、東洋陶器(現:TOTO)、日本特殊陶業を設立し、成功を収めた。


松方正義の14男・義行が養子に入った7代目森村市左衛門は6代目の次男である。(松方家と森村家が縁戚関係となる)
松方正義の14男・義行は7代目森村市左衛門の長女と結婚した(婿養子でもある)。
1899年に森村後継者だった6代目の長男(27歳)と、森村財閥の基礎を作った6代目の異母弟・森村豊(46歳)が相次いで亡くなり、次男が森村財閥を引き継いだ。
森村財閥の他にも、横浜正金銀行、第一生命保険、三菱信託銀行、三菱銀行、東芝、三井信託銀行など数多くの企業の役員に就任した。
7代目森村市左衛門の妻は井上勝(長州藩士の息子で伊藤博文と親交があった。清国経由でロンドンに留学した「長州五傑」の1人)の長女。
ちなみに、 松方正義の10男・義輔(1883-1972;日本銀行金沢支店長、日本特殊陶業監査役、共立原料各監査役)の妻も井上勝の三女である。
7代目は企業のみならず多くの大学や研究機関の役職も歴任した。


6代目森村市左衛門の異母弟・森村豊の3男・森村勇は、ハーバード大学で海軍命で留学していた山本五十六に出会う。
1920年頃のことである。
森村勇はこの時に山本五十六から航空機の魅力についてとくと聞かされ、自身も航空機にはまっていく。
当時、森村勇は20歳代前半で、山本五十六は35歳前後。
山本五十六が第26代連合艦隊司令長官に就任した1939年、森村勇は大日本航空監査役として太平洋を横断した。








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# by yumimi61 | 2017-04-14 16:36
2017年 04月 13日
フクロウ
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# by yumimi61 | 2017-04-13 14:15
2017年 04月 12日
青春
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# by yumimi61 | 2017-04-12 22:15
2017年 04月 11日
あなたはまだ本当の奇跡を知らない
3月25日、次男が家を出た(引っ越した)。
その前日だったか、私はたまたま「これ使ってもいいよ」と私が持っていたソンバーユを手渡した。
長男には以前何度かソンバーユを貸したことがあるが次男には初めてだった。
引っ越した次の日、用事があって次男から電話があり、その時に「ソンバーユ持ってくるの忘れた」と言う。
それで「使うなら送ってあげるよ」と言って、翌日(3月27日)に新品ソンバーユを2つ送ってあげた。
(今やネット通販でなんでも買える時代であることは重々承知です)
家にあった次男が何か頼んだアマゾンの箱を利用して送ったのでソンバーユ以外にもいろいろ物が詰められた。
今の若い子はそのへんのお店行けば買えるようなごくごくフツーなものを単品でもなんでも躊躇なく通販する。
本当に宅配業者に申し訳ないようである。

ソンバーユをご存知ない方のために。
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<出典:https://www.instagram.com/p/BSWr22XB08a/


要は馬油です。「うまあぶら」でも「ばゆ」でも「うまゆ」でもなく「ばあゆ」と読みます。
ソンバーユは薬師堂という福岡の会社が製造している馬油(上記写真のもの)。
熊本の馬を使っているとか。
漢字で書くと損馬油尊馬油。
馬油としては一番メジャーですね。

こちらは宮崎のきた商会が製造している馬油。
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馬の産地と言うと競走馬の一大産地となっている北海道のイメージがとても強いけれども、かつては九州も競走馬の産地であった。
また今でも馬の屠殺数ダントツNo1は熊本県である。
熊本の馬刺しが有名だが馬も食用肉になるのである。
馬油は捨てられる脂分を利用して作られている。

馬のと蓄頭数と枝肉生産量(2011年農林水産省の畜産物流通統計)
1.熊本県 5273頭
2.福島県 2197
3.青森県 1212
4.福岡県  992
5.長野県  512
その他すべての都道府県の合計 1738頭
全国合計 11924頭


群馬は県名に馬が付くけど産地ではないのかと疑問に思うかもしれないが、群馬の馬は生活の中の「足」としての馬。
どちらかと言うと「車」寄り。
古代の話ではあるけれども。
実際、古い時代の群馬県(上野国)には「くるま」と呼ばれている地域があった。
現代でも車を作っている!?

最新古墳にコーフンニュース
古代、かなり都会だった!? 群馬県に古墳が多いヒミツ/群馬


■馬を飼い、ハイテク技術の導入で暮らしが豊かに

ポンペイは古代ローマの都市で、火山噴火の火砕流により街全体が埋まってしまったことで知られています。千数百年後に発掘すると、人の営み跡がそっくり残っていたため、当時の暮らしを知る貴重な資料となりました。

今の群馬県渋川市も、約1500年前の榛名山の噴火で、街の一部が軽石層で覆われました。その跡を調べてみると、古墳時代の驚くべき豊かな暮らしが見えてきたのです。

住居は竪穴式だけでなく、壁と屋根を持つものもあり、倉庫、家畜小屋、垣根、道路など江戸時代の農村なみの充実ぶりだったよう。榛名山から離れる方向に複数の人の足跡も見つかり、火山灰から逃れようとしていた様子も推測できます。馬のひづめの跡も、多数見つかりました。

当時すでに家畜だった馬は、もともと日本にはおらず、古墳時代中期に朝鮮半島を渡って中国からもたらされました。馬の登場は、人々の暮らしを激変させます。移動が速く、荷物も運べて、農作業の貴著な労働力になりました。このハイテク技術を広めるため、地域を挙げて馬の生産に力を入れるようになり、日本で有数の馬産地になったのです。









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# by yumimi61 | 2017-04-11 13:21