2016年 11月 15日
日本国憲法の秘密-414-
周波数の低い(波長が長い)順だと、電波、赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマ線となる。(アルファ線やベータ線は電磁波ではなく粒子線)

★粒子線  

 ・荷電粒子線・・・電荷を持っている(直接電離放射線)
    α線(原子核から放出されたヘリウム原子核)
    β線(原子核の中性子から放出された電子)

 ・非荷電粒子線・・・電荷を持っていない(間接電離放射線) 
    中性子線

★電磁波

 ・電荷を持っていないが間接電離放射線
    X線(原子核外で発生)
    γ線(原子核内から発生)

 ・電荷を持っておらず非電離放射線
    電波(マイクロ波など)、赤外線、可視光線、紫外線など

電荷とは電子や陽子等の素粒子が持つ性質の1つ。
粒子がなぜ電荷を持つのかは不明であるが、プラス(+・正)とマイナス(-・負)の電荷がある。
プラスマイナスが同じならば反発し合い(斥力)、異なれば引き合う。
陽子は+の電荷を持っていて、電子は-の電荷を持っている。中性子は電荷を持たない。
電荷的に中性な原子や分子に、+または-の電荷を持たせることをイオン化(電離)と言う。
物理学分野ではイオン化のことを荷電とも言う。

電子を放出して正の電荷を帯びた原子・原子団を陽イオン(positive ion)という。→正イオン→プラスイオン
電子を受け取って負の電荷を帯びた原子・原子団を陰イオン(negative ion)という。→負イオン→マイナス


原子核(陽子・中性子)+電子=原子
原子核の周囲を回っているのが電子で、決まっているところを回っているため電子軌道という。
ただ本当は軌道なんかない。分かりやすく説明(図)にするために軌道にしただけ。
軌道とはつまり電子が存在する確率が高い空間ということである。

ともかく原子(電子軌道)の外に電子が弾き飛ばされてしまうことを「電離」と言う。(原子から離れた電子は自由電子となる)
電気的に中性である原子のうちマイナス電荷を持つ電子が放出されてしまったのだから、原子はプラスの電気を帯びたということになる。
また弾き飛ばされないまでも外側の軌道に移った場合を「励起」と言う。
まだ原子を離れてはいないので電気的には中性。

「電離」―電子が原子の外に放出されてしまった状態。(陽イオン・正イオン・+イオン)
「励起」―電子が外側の軌道に移ってしまった状態。(中性)

この状態の原子はとても不安定である。
そこで原子はなんとか安定に戻ろうとする。
どうやって安定に戻ろうとするかと言うと、近くにいる自由電子を捕まえて再び中性になろうとするのである。
こうして捕獲された自由電子はまず外側の軌道に入る。すなわち励起状態である。これではまだ不安定。
さらに内側の空いている軌道に移そうとする。
軌道電子が持つエネルギーは内側ほど小さいので(外側にいくほど運動量が大きいのでエネルギーを持っている)、内側に入るとエネルギーが過剰になる。
過剰なエネルギーは光(電磁波)として放出する。

また電離の前の段階の励起(弾き飛ばされないまでも外側の軌道に移った場合)の時にも、空いた内側の軌道に外側の軌道電子が移ってくる。
この時もエネルギーが過剰なので光(電磁波)として放出する。
こうした励起状態(外側の軌道電子が内側の軌道電子に移る時)の時に原子から光(エネルギー)が出る。これを「蛍光」と言う。 (蛍光ですよ!)(電磁波・光でも可視光線以外は人間の目には見えません)
このエネルギーと原子や分子が化学反応を起こしたり、分子を壊したりすることがある。
つまり放射線が生体に悪影響を与えるというのは、この化学反応や破壊のことである。

厳密に言えば、電波・赤外線・可視光線・紫外線も全て放射線であるが、一般的に放射線と言う場合には電離作用を持つ電離放射線(直接・間接)のことを言い、非電離放射線である電波・赤外線・可視光線・紫外線は含まない。


軌道から弾き飛ばせることが出来る放射線が直接電離放射線。
原子をダイレクトに不安定にさせることが出来る。
原子核の崩壊や分裂に伴って放出されるα線とβ線は直接電離放射線である。

では間接的な電離とは何か言うと、要するに軌道電子にエネルギーを与えるということになる。
直接的な電離は押し出すようなイメージ。エネルギーの大きな(振動が大きい)放射線が入ってきたため、そのエネルギーを受けて弾き飛ばされる。物理的。電子が他力で動く。
間接的な電離は入ってきた大きなエネルギーが電子に自分のエネルギーを分け与えてあげるようなイメージ。電子が自力で動くきっかけを与える。
(波長が短いほどエネルギーは大きい)
イメージではそういうことになるが、エネルギーという観点からすれば直接間接どちらもエネルギーを与えたということには変わりがない(エネルギー保存則がある)。
ごく簡単に言ってしまえば、直接電離放射線のほうがより大きなエネルギーを持っているということになる。

X線は間接電離放射線である。直接的に電子を弾き飛ばすわけではない。
 ・X線が持つエネルギーが全て軌道電子に吸収される。⇒軌道電子が自由電子となる。
 ・X線が持つエネルギーが一部軌道電子に吸収される。
エネルギーを与えられた電子の反応(つまるところ原子のイオン化)によって生体に影響を与えていく。

一昨日の記事で赤外線についてこのように書いた。
全ての物体は赤外線エネルギーを「放射」しているが、同時に外部からの赤外線エネルギーも「吸収」「反射(撥ね返し)」「透過(すり抜け)」をしている。
外部からの赤外線エネルギーを入射とすると、入射= 反射+吸収+透過が成り立つ。(エネルギー保存則)
物体が赤外線を吸収すると物体の温度は上昇し、放射すると物体の温度は低下する。
温度が一定の「熱平衡状態」(地球は宇宙空間と同じ温度にはならないので孤立系と考える。孤立系では熱平衡状態となる)では、赤外線の放射と吸収は同じ量となる。「放射」=「吸収」(キルヒホッフの放射法則)
エネルギーは増えも減りもしないのである。


X線でも同様である。エネルギーは増えも減りもしない。入射= 反射+吸収+透過
赤外線は吸収されたエネルギーが熱(振動)に変わり、吸収と放射で熱のやりとりが行われるが、X線ではエネルギーが電子の動きに用いられ光(蛍光)としても放出されるため熱の上昇(放出)は僅かである。
放射線と言えども、吸収されぬまま(電子に影響を与えず)透過したものは生体への影響はない。
透過率は物質によって違う。
透過しやすいのは密度の小さい物質、原子番号の小さい物質。
レントゲン撮影で骨が写るのは筋肉組織などに比べて骨のほうが透過しにくい(密度が大きく、原子番号が大きい)から。


◎X線による温度上昇について

吸収された放射線のエネルギー(E)をジュール(J)。
放射を受けた部位の重さ(M)をキログラム(kg)。
E/M は単位重量あたりの放射エネルギーということになる。これをグレイ(Gy)という単位で表している。
   1Gy=1J/Kg ⇒吸収線量・被爆線量

1gの水を1℃上げるのに必要な熱量は1calである。
仕事をすると温度は上がる。
4.18Jの仕事をすると1calの熱量を発生する。
   1cal=4.18J  ※ジュール(J)は仕事の単位である。

人間の吸収線量(被爆線量)が10Gyだったとする。
上に書いたように1Gy=1J/Kgと決まっているのだから、10Gyならば次のようになる。
   10Gy=10J/Kg ⇒吸収線量・被爆線量

上に書いたように4.18Jの仕事をすると1calの熱量を発生して水の温度を1℃上げる。
10Gyの時は10Jの仕事がなされているのだから、約2.39calの熱量を発生したことになる。
2.39calの熱量は、1gの水を2.39℃上昇させることが出来る。
しかし吸収線量・被爆線量の重量の単位はKgなので、Kgに合わせなければならない。(要するに2.39を1000で割る)
答えは0.00239℃である。
人間の吸収線量(被爆線量)が10Gyだった時の温度上昇は僅か0.00239℃でしかない。


水の温度上昇に準えたのは人間の身体はほとんど水で出来ているから。
吸収線量(被爆線量)10Gyを選んだのは、10Gyの場合にはほぼ100%の人が死亡(死亡までの日数は10-20日)すると言われているから。
つまりX線が与える生体への影響は温度(体温)上昇ではないのである。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-15 12:57
2016年 11月 14日
日本国憲法の秘密-413-
過去記事より
ドーム部分は鉄骨で形作り、屋根には銅版が乗っていた。
銅の屋根は寺社の屋根などに用いられているのを見かけるが、鎌倉の大仏や自由の女神も銅版だそうである。
上空で爆発したわりにはドーム部分を含め、上階が残っていることになる。
銅版がなくなって、鉄骨がそのまま残っている理由は、融点の差(銅:1085℃、鉄1538℃)だと説明されている。銅版は真っ先に融けてしまったんだとか


昨日掲載した広島市ホームページより
爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなりました。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達しました。(鉄の溶ける温度は摂氏1,536度) 

融点:固体が液体に変わる温度。鉄の融点は1535度。
沸点:液体が気体に変わる温度。鉄の沸点は2750度。

爆心地周辺の地表面の温度が3,000~4,000度にも達したが原爆ドームの鉄は融けなかった。銅版は融けた。
爆心地周辺の地表面の温度が3,000~4,000度にも達したと言っても、実際に測ったわけではないですよね?推測でしょうか?

爆心地周辺の地表面の温度が3,000~4,000度に達したのは熱線(赤外線)がもたらしたものだと言っている。
赤外線は物質によって吸収率(放射率)が違う。非金属ではそれほど大きな差はないが、金属においては種類や状態によって違いがある。
但し構造物に用いられている鉄は非金属とあまり変わらない。
ちなみに貴金属の金や銀やプラチナは吸収率(放射率)が低い物質である。

地表も鉄も赤外線吸収率が似たようなものだとすると、違いは伝導と対流ということになる。
伝導率が高ければ熱を伝えやすい。
温度が違う物質が触れ合うと熱は高いほうから低い方へと移動する。

熱伝導率(室温) 単位W/m-1・K-1
ダイヤモンド 1000-2000
銅 398
金 320
鉄 84
ガラス 1
水 0.6
木材 0.15 - 0.25
空気 0.0241

金属は熱伝導率が高い。だから熱が蓄積しにくい(発火しにくい)(融点や沸点に達しにくい)。
金属周囲が空気で金属よりも温度が低ければ熱はどんどん空気に移動する。
しかし空気は熱を蓄積しやすいのだ。空気が高温になっていれば金属からも熱が出ていきにくくなる。
空気が金属と同じか、それ以上ならば金属にも熱が籠る。
但し大気は大空間なので一時的に高温になってもやがて低い温度の方へ移動して平衡が保たれる。
地表は片側(地中側)に断熱効果がある状態なので、片側からの熱移動が少ない。

銅と鉄には融点の差(銅1085℃、鉄1538℃)があって、銅のほうが低い温度で融ける。
しかし伝導率は銅のほうが遥かに高い。鉄よりも銅のほうが熱が蓄積しにくいのだ(鉄よりも銅のほうが熱が上昇しにくい)。
銅が瞬時に融けて、鉄が全く融けなかったというのは、かなり微妙な落としどころ(説明)である。


一口に火と言うが火にも種類がある。(火の起こし方、燃焼の燃料にするものは様々)
そしてその火も種類によって温度が違うのだ。

太陽の表面温度 6000℃
ニトログリセリン爆発(炎は見えない) 4000℃
マッチ(発火直後) 2500℃
ガス(ガスコンロやガスバーナーなどの火) 1700~1900℃
炭化水素(石油や天然ガスによる火、下限) 1200℃
練炭や木炭(炎は見えない) 1000℃
煙草の火(中心部) 850℃

※ニトログリセリンは今では狭心症の薬としてのほうが有名かもしれないが、元は爆薬の原料だった。
しかしニトログリセリンは非常に不安定な化合物でほんの少しの衝撃を与えただけで爆発してしまうため、実用化は困難と言われていた。
これを可能にしたのはノーベル賞で有名なノーベルさん。
ニトログリンセンを珪藻土(堆積岩) に浸み込ませることで少しの衝撃では爆発しない安定化した爆薬を作ることに成功した。これがダイナマイトである。
そしてノーベルさんは巨万の富を築くことになる。
薬としてのニトログリセリンも原液ではないので衝撃を与えても爆発はしない。

広島市のホームページには次のように記されている。
爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなりました

100万度がいかにべらぼうな数値か上の火の温度を見れば分かるのではないか。
太陽のコロナが100万度と言われている。
いっそのこと太陽爆弾とでも命名したほうが良かったのでは。

太陽コロナ
太陽表面が6000度程度であるのに対しコロナは100万度以上と非常に高温である。高度500kmあたりから温度が上昇し始め、高度2000kmを境に1万度から100万度まで急激に上昇する。なぜ温度が上昇するかは、太陽表面の運動によりひき起こされた波(アルヴェン波)が衝撃波となって温度を上げているという説や、コロナ中の小さな爆発現象が温度を上げているなど諸説あるが、どのような仕組みでコロナが発生するのかは現在でも解明されていない。
コロナは100万度以上の温度であるため、光領域よりはX線領域での放射の方が多い。
大気がX線を吸収してしまうので、コロナの観測には宇宙空間の方が適している。


赤外線は私達が暮らす地球上の常温の物体からも放射されているが、X線は数百万度から数億度という非常に高温のものから出る電磁波である。
広い宇宙はX線で満ちているらしいのだが、ここ地球で人間が用いるX線は装置によって発生させている。
とはいっても、数百万度から数億度という状態を作ってX線を発生させているわけではなく、電子を操作してX線を発生させている。


日本では遺体を火葬している。主な骨が残った状態となる。
残っている骨は、骨の60%を占めている無機成分で、主成分はリン酸カルシウムである。
リン酸カルシウムの融点は1670℃。
この温度以上になると骨も燃焼してしまうので、これいより低い温度で焼いて骨を残している。
火葬の時の温度は800~1200℃くらいだそうである。
炉(燃料)によって焼き上がりの時間にも幅があるが、高い温度が出せる最新型のガス炉だったら冷ます時間を含めても20~40分程度だそうだ。
「爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度」もなかなか凄まじい。


さらに上記の太陽コロナの説明に注目すべきことが書いてあったことにお気づきだろうか。。
コロナは100万度以上の温度であるため、光領域よりはX線領域での放射の方が多い。
大気がX線を吸収してしまうので、


広島原爆の爆発点の温度は摂氏100万度を超えていたそうなのだ。
そうであるならば、光領域の赤外線よりもX線の放射が多いということになる。
しかし広島の原爆被害の説明は広島市ホームページに限らずどれも熱線(赤外線)での被害ということになっている。
同じ電磁波と言えど赤外線とX線では大違いである。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-14 12:41
2016年 11月 13日
日本国憲法の秘密-412-
熱線による被害
爆発と同時に爆発点の温度は摂氏100万度を超え、空中に発生した火球は、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなりました。この火球から四方に放出された熱線は、爆発後100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与え、爆心地周辺の地表面の温度は摂氏3,000~4,000度にも達しました。(鉄の溶ける温度は摂氏1,536度)
強烈な熱線によって焼かれた人々は重度の火傷を負い、多くの人が亡くなりました。火傷は熱線に直接面していた部分にのみ生じており、爆心地から3.5キロメートル離れたところでも、素肌の部分は火傷を負いました。また、爆心地から600メートル以内の屋根瓦は、表面が溶けてぶつぶつの泡状になりました。樹木への着火も多く、約3キロメートル以内では、電柱、樹木、木材などが黒焦げになりました


高熱火災による被害
原子爆弾の炸裂と同時に、放射された高温の熱線により市内中心部の家屋が自然発火し、続いて市内のいたるところで、倒れた家屋の台所で使われていた火気などを原因とする火の手があがり、午前10時頃から午後2~3時頃を頂点に、終日、天を焦がす勢いで燃え続けました。爆心地から半径2キロメートル以内の地域はことごとく焼失し、焼け跡は、すべてのものが異常な高熱火災により溶けて、まるで溶岩のようにあたりを埋め尽くしました。
倒壊した建物の下敷きになって、生きながら焼かれ、亡くなった人も数知れません。



爆風による被害
原子爆弾の爆発の瞬間、爆発点は数十万気圧という超高圧となり、まわりの空気が急激に膨張して衝撃波が発生し、その後を追って強烈な爆風が吹き抜けました。
衝撃波は、爆発の約10秒後には約3.7キロメートル先まで達し、その圧力は爆心地で1平方メートルあたり35トン、最大風速は秒速440メートルに達するという強大なものでした。爆風がおさまると、中心部の空気が希薄になり、周辺部から爆発点に向かって強烈な吹き戻しがありました。
爆心地から半径2キロメートルまでの地域では、爆風により木造家屋はほとんどが倒壊し、鉄筋コンクリート造の建物も、崩壊はしないものの、窓は全部吹き飛ばされ、内部はことごとく焼失するなどの大きな被害が生じました。
爆風により人々は吹き飛ばされ、即死した人、負傷した人、倒壊した建物の下敷きになって圧死した人が相次ぎました。

<以上広島市ホームページより>


原爆被害の話でよく「熱線」という言葉が出てくる。
熱線とは何かと言うと「赤外線」のことである。
赤外線は電磁波。
光としての性質を備える電磁波のうち最も周波数の低いものが赤外線である。
「周波数が低い」を言い換えれば「波長が長い」ということになる。
光より周波数が低いものを電波(マイクロ波やラジオ波など)と言う。
周波数の低い(波長が長い)順だと、電波、赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマ線となる。(アルファ線やベータ線は電磁波ではなく粒子線)
宇宙にある全てがその表面温度に対応した電磁波を放射している。
ということはそう、地球上の物体全てが温度に応じた電磁波を発している。人間の身体も。
物体からの放射は温度が高いほど強い。
温度ということで察するかもしれないが、これも振動に関係している。原子や分子を構成する電子の振動が関係している。

常温の物体からは必ず赤外線が放射されている。高い温度の物体ほど赤外線を強く放射し、放射のピークの波長は温度に反比例する。室温20 ℃の物体が放射する赤外線のピーク波長は10 μm程度である。熱線とも呼ばれる。
なお、科学用語としての遠赤外線とは全く関係のない商品等で「遠赤外線の効能」を謳うものが多数存在するが、それらは科学的な根拠のない疑似科学的なものであり、注意が必要である。

「遠赤外線は体の内部まで浸透し内側から温める」と言われることがあるが、間違いである。遠赤外線はマイクロ波に近い波長を持つが、物質の内部まで浸透する効果は、当然ながらマイクロ波のほうが顕著である。そしてマイクロ波のこの効果は、むしろ人体に有害である可能性が指摘されている。

赤外線は気候にも重大な影響を与えている。地表からは大量の赤外線が放出されるが、この赤外線を二酸化炭素などの温室効果ガスが吸収し赤外線を再度放射する。この働きによって地表の気温は上がる。この一連の動きは温室効果と呼ばれ、地球の気温を大きく上げる役割を果たしている。温室効果による赤外線放射は太陽から直接受け取る熱量を大きく上回っており、もし温室効果が存在しなかった場合は地球は氷点下の凍てついた惑星となる


全ての物体は赤外線エネルギーを「放射」しているが、同時に外部からの赤外線エネルギーも「吸収」「反射(撥ね返し)」「透過(すり抜け)」をしている。
外部からの赤外線エネルギーを入射とすると、入射= 反射+吸収+透過が成り立つ。(エネルギー保存則)
物体が赤外線を吸収すると物体の温度は上昇し、放射すると物体の温度は低下する。
温度が一定の「熱平衡状態」(地球は宇宙空間と同じ温度にはならないので孤立系と考える。孤立系では熱平衡状態となる)では、赤外線の放射と吸収は同じ量となる。「放射」=「吸収」(キルヒホッフの放射法則)
エネルギーは増えも減りもしないのである。

温暖化の原因とされている温室効果ガス(二酸化炭素など)。
これは地表が放射した赤外線を大気中の二酸化炭素が吸収して大気中に熱を封じ込めているから温暖化するという説である。
しかし二酸化炭素が再放射している以上、二酸化炭素が必要以上の温暖化を招いてるとは思えないのだが。

熱の伝わり方には、「伝導」と「対流」と「放射(輻射)」がある。
伝導:物質を通して熱が伝わる。
対流:空気や液体などの流れによって熱が伝わる。
放射:赤外線などによって熱が伝わる。

熱は高い方から低い方へ移動する。
この法則を利用して気象用語の「放射冷却」が説明されていることが多いが、それは対流による熱の移動ではないだろうか?
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-13 17:10
2016年 11月 13日
小春日和
e0126350_11362619.jpg


あたたかい あなたのことと 言えなくて

憂いさえ 忘れて笑う 仮初の

七五三 私は今や 五七五




安眠してください安心してください!?生きてますよ。

ナツ10歳。次の夏で11歳になります。

リン12歳。2月で13歳になります。

ロン15歳。4月が来ると16歳になります。

今のところみな元気にしています。


e0126350_12543792.jpg

[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-13 11:40
2016年 11月 12日
日本国憲法の秘密-411-
焚火やキャンプやBBQで火おこしや炭おこしをしたことがある人ならば分かると思うが、木や木炭に火を付ける(燃やす)ということは言うほど簡単なことではない。
簡単に短時間で火をおこすために着火剤を使うことは珍しくない。着火剤にはガソリンなどが含ませてある。

意外に感じるかもしれないが木材でもおがくずでも発火点は同じである。(木材の発火温度 250~260℃)
木材を加熱するとまず水分を失って乾燥する。
次に木材は熱分解を起して可燃性ガスを放出し、そのガスが発火する。
発火で生じた炎の熱がさらに木材の熱分解を促進して燃焼を継続していく。(分解燃焼)
分解燃焼でガスが全て放散されると炭化し無定形炭素となる。
この状態になると空気と接触している固体の表面だけで炎を出さずに拡散燃焼する。(表面燃焼)
炎が出ないで高温となっている状態を熾(おき)と言ったりする。
幼い頃よく行った母の実家は囲炉裏があった。そこで薪を燃やして出来た熾(木炭)を掘り炬燵に使っていたりした。その掘り炬燵の炭の中で就寝用あんかの豆炭を熾す。

おがくずが燃えやすいと感じるのは乾燥しているように感じるからではないだろうか。(おかくずでも乾燥度はまちまち)
薪でも乾燥させないと燃えにくいが、燃焼するにはまず水分を失って乾燥する必要があるので、素材の乾燥度は発火に影響を与える要素である。
それからおがくずの場合は空間が沢山あるので酸素が供給されやすい。


もうひとつ重要な要素が熱伝導率。

・熱の伝わりやすさは物質によって異なる。
金属と木材だったら金属のほうが熱が伝わりやすい。
取っ手だけ木を利用した鍋があると思うが、あれは取っ手部分が熱くならないようにするためである。

・熱の伝わりやすさは、固体>液体>気体の順となる。
固体のほうが伝わりやすい。

間違いやすいのは粉末である。粉末も固体である。
但し粉末もおがくず同様に空間が沢山ある状態。
この場合、固体でも熱伝導率は低いのである。

空間が沢山あるということは熱伝導率は低くなる。
動かない空気層は保温効果があり、断熱材の役割をはたす。
乾燥したおがかくずは極めて熱伝導率が低い。
熱伝導率が低いということは熱が逃げにくい(放熱しにくい)ということである。
熱伝導率の高い物質は熱が逃げやすく熱が蓄積しにくいので、物質の温度が上昇しにくい。
一方、熱伝導率の低い物質は、放熱されず引火点や発火点に達しやすく、火災の危険性が高くなる。
粉末も同じで、塊状であれば問題ない金属も粉末になると一気に燃焼しやすくなる。
粉じん爆発もその一例。

熱伝導率を分かりやすく例えれば、
熱伝導率が高い物質は触れた時に火傷をしやすい。
熱伝導率が低い物質は熱を蓄積しやすく発火しやすい。


以下はおがくずの温度ではなく、おがくず+断熱材に囲まれたシリコンラバーヒーターの表面温度の例ではあるが、シリコンラバーヒーターではなく電球でも同じ現象は起こる。LED電球であっても。
また熱が上昇し蓄積されれば当然おがくず自体の温度も上がる。

シリコンラバーヒーターの温度 (八光電機ホームページより)
容器内面に接しているおがくずに水分がある間は、水を加熱する場合とほとんど変わりません。水分が蒸発することで熱を奪うためです。ところが、水分がなくなってくると、急激に温度が上がり、300℃を超えてしまいます。乾燥したおがくずは断熱材と同じように熱伝導が悪いので、シリコンラバーヒーターは両面ともに断熱材に囲まれた状態になってしまうためです。
断熱材を使用しない場合は、ヒーターの温度は180℃までしか上がりませんでした。


e0126350_14291219.jpg



物質は温度や圧力によって固体→液体→気体と状態を変えることができる。
温度が高い時ほど原子や分子の振動の振幅は大きくなる。
つまり気体のほうが分子の振動が大きくなる。
振動が大きくなるということは、分子と分子の隙間が広がるということである。
隙間(分子と分子の間の距離)が広がるということはすなわち、膨張するということ、体積が増えるということ。
気圧が同じ状態で固体や液体が気体になれば膨張し体積が増える。
気体に変化したのに同じ体積の中に閉じ込めようとすると気圧が上がる。

物質に外部から力を加えて圧縮した時には温度が高くなる。
これは外から加えた仕事(運動エネルギー)を中の物質の分子が受け取ることによる。
中の分子の運動エネルギーが増加してより活発に動くことで温度が上がる。

自動車などのガソリンエンジン(ガソリン機関)は、燃料であるガソリンと空気の混合気をシリンダ内で圧縮した後にプラグの火花によって点火し、燃焼と膨張を反復させることで運動エネルギーを出力する。

ディーゼルエンジンでは圧縮させ混合気の温度を上げ、燃料であるディーゼル(軽油)を自然発火させて燃焼と膨張を反復させ運動エネルギーを出力する。。


熱の正体は原子や分子の振動(運動)。
原子や分子の振動(運動)とは、熱エネルギーであり運動エネルギーである。
人間はこのポテンシャルエネルギーを増幅させて使っている。

大抵の運動(仕事)には終わりがある。
運動(仕事)の原動力であった大きな運動エネルギーは熱エネルギーに変わって終わる。
この終わりの熱エネルギーを回収して再び大きな運動エネルギーに戻すことは出来ない。
まとまって大きな仕事をしていたものはやがてバラバラになる。
元の小さな原子や分子の振動(運動)に戻る。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-12 14:11
2016年 11月 11日
日本国憲法の秘密-409-
燃焼に必要なものは、
①可燃性物質(酸化される物質)
②酸素(酸素原子を供給する物質)
③熱源(点火に必要な熱エネルギー) 静電気や衝撃による火花、摩擦熱、酸化熱など

爆弾には火薬が用いられることが多いが、火薬の燃焼は通常の燃焼とは違って空気中の酸素を必要としない。

そのうえで爆発と燃焼の違い。
・爆発は急激な膨張(体積増大)があり衝撃を伴う。急激な酸化反応。破裂。
・燃焼(燃える)は発熱や発光などを伴う急速な酸化反応。

一般的に体積に変化を与えるのは気圧と温度である。



自動車などのガソリンエンジン(ガソリン機関)は、燃料であるガソリンと空気の混合気をシリンダ内で圧縮した後にプラグの火花によって点火し、燃焼と膨張を反復させることで運動エネルギーを出力する。
混合気とはガス燃料(気体燃料)か霧状の液体燃料が混ざった状態の空気。
例えば、空気のある所で霧吹きにガソリンを入れて吹けば、その部分は混合気である。

ディーゼルエンジンでは圧縮させ混合気の温度を上げ、燃料であるディーゼル(軽油)を自然発火させて燃焼と膨張を反復させ運動エネルギーを出力する。。
ディーゼルエンジンは発火(着火)、ガソリンエンジンは引火で燃焼させているということになる。
気体の膨張とはつまり爆発のことで、自動車はよく制御された爆発の連続で動くという仕組み。

物質には「発火(着火)点」と「引火点」がある。
●発火点―物質が空気中で加熱された時に火種(火源)がなくとも火が付く(物質自身が燃え出す)最低温度。
●引火点―液体の可燃性物質を一定昇温で加熱し、これに火種を近づけたとき瞬間的に引火する(燃え移る)のに必要な濃度の蒸気を液面上に発生する最低温度。

蒸気の量は薄すぎても濃すぎても燃焼は起こらない。引火点は燃焼の起こる濃度の下限である。
発火温度も引火温度もともに気温ではなく物質の温度のこと。
燃焼が継続するのに必要な温度(燃焼点)は引火点よりも少し高い。
引火点や発火点が低い物質ほど危険が高いという事で保管などに注意しなければならない。

ガソリンの発火温度は300℃。引火温度は-40℃以下(もっと低いことは確かだがその温度は不明という意味)。
ディーゼルの発火温度は250℃。引火温度は45~70℃。
灯油の発火温度は255℃。引火温度は40~60℃。

(参考までに)
古タイヤの発火温度 150~200 ℃
木材の発火温度 250~260℃
新聞紙の発火温度 290℃

油を吸い込んだ布などを放置しておくと油が酸化して酸化熱を生じ、その酸化熱が蓄積し発火することもある。密閉状態や重ねてあって熱が籠るような状態で放置すると危険。

火種があると燃え移るということは誰でもイメージしやすいが、火種がないのに燃えることがあるということはイメージしにくいのかもしれない。
これも誤解している人がいるかもしれないが、灯光器(白熱電球)が原因だったのではないかと言われている火災も、必ずしも灯光器に何かが触れている必要はないのである。
温められて発火温度までに物質の温度が上がれば自然と発火する。
また電球表面温度の違いがあると言ってもLED電球でも同じで、熱が籠るような状況や酸化熱や発酵熱がプラスされるような状況にあり、物質が発火温度までに上昇すれば発火するのである。


エネルギーを動力に変える装置・機械を「機関」という。
熱をエネルギー源とした機関は熱機関である。
外部から熱を取り込むものを外燃機関、装置内で(通常は燃料の燃焼による)生成した熱エネルギーを利用するものが内燃機関。
自動車は内燃機関を利用しており、蒸気機関車は外燃機関を利用している。

人々は夢見た。資源を必要とせず永久に仕事を続ける装置・永久機関を。
資源とは熱エネルギーのもとになる石炭や石油である。
これが実現すれば資源枯渇問題も環境問題も解消される。
しかし残念ながら1700年代末には純粋力学的な方法では実現不可能だということが明らかになり、さらに1800年代には熱を使った方法でも不可能であることが明らかになった。
数多のその苦い経験は熱力学を確立した。

・熱力学第一法則( エネルギー保存則)
   物体に外部から加わった仕事と熱量との和は、内部エネルギーの増加に等しい。
   熱と仕事は等価。熱を含めてエネルギーは保存される。
   エネルギーの総量は増えも減りもしない。置き換わるだけである。
   従って何もないところからエネルギーを生み出す装置・第一種永久機関は実現不可能
・熱力学第二法則 (エントロピー増大則)
   熱は高温から低温に移動し、その逆は起こらない。
   孤立系のエントロピーは不可逆変化によって増大する。
   つまり大局的に見て、エネルギーが自然に流れる向きは一方通行である。
   従って一度利用したエネルギーを完全に回収し再利用する装置・第二種永久機関は実現不可能。
   (つまり何か仕事をするということはエネルギーを消費するということ)⇒エネルギー問題深刻化
   (エネルギーを消費するということは資源を消費するということ)⇒資源問題深刻化

もうお分かりですね?
「再生可能エネルギー」という言葉は正しくありません。
エネルギーは一方通行で再生はない。
太陽や風といった自然の営みから得られるエネルギーは、太陽や地球の寿命が長いから枯渇の心配には及ばないと思っているだけのこと。
当面繰り返し使えるというだけで再生なんかしない。
太陽光や風に手を加えて作るエネルギーは当然他の資源も必要になるわけだが、そのあたりは無視している。
再生可能(循環可能)なのは資源の石油や石炭である。しかしこれも再生するには気が遠くなるほど非常に長い時間を要する。


熱(温度)の正体は何かと言えば、分子の振動(運動)である。温度は分子の運動エネルギー。
分子の振動が大きいほど(分子が動くほど)温度は高くなる。
では何故に分子は振動(運動)するのか?
外力を与えればそのエネルギーをもらって振動(運動)するのは分かりやすい。外のエネルギーが分子の運動エネルギーに置き換わったということ。
何もないところからエネルギーを生み出すことは不可能である。

でも原子は最初から振動している。これを熱振動と言う。
分子や固体中の原子は運動エネルギーを持っていて、基準となる位置を中心に振動運動をしている。温度が高くなるほど振動の振幅は大きくなる。絶対零度であっても、不確定性原理から原子の振動は止まっていない(零点振動)。

原子はもともと僅かながら「熱エネルギー(運動エネルギー)」(温度)を持っている。
もともと持っているエネルギーには以前書いた「結合エネルギー」もある。
こうしたエネルギーをポテンシャルエネルギーという。
どうして持っているのかは神様しか分からない。
熱エネルギーや結合エネルギーを含め、物質に内包し保存されているエネルギーを化学エネルギーと言う。
化学エネルギーは化学変化によってエネルギーの形態を変える。(エネルギー吸収や放出がある)
結合エネルギーが力学的エネルギーになったり熱エネルギーになったりするということ。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-11 13:30
2016年 11月 10日
日本国憲法の秘密-408-
そろそろ戦争の話は終わりにして松方正義(誰それ?)に戻ろうかと思うが、その前にもう一度爆弾(原爆)について。

日本本土に行われていた空襲は「焼夷弾」が用いられていた。
焼夷弾は油のような可燃性物質を詰め込み、それを撒き散らし引火させて火災での被害を狙うものである。
一方、「爆弾」とは発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊するものである。
爆弾には火災が付き物と思っている人も少なくないかもしれないが、爆弾自体には火災を起こす能力はない。


むしろ爆弾は消火に利用できる。
爆風消火
爆弾を破裂させてその爆風で火を消したり、周囲の物体を吹き飛ばして消火帯を作ることで延焼を防ぐ消火方法である。
強烈な爆風で火を吹き飛ばし、周囲を破壊することで破壊消火する。爆風を用いるために一瞬で消火が可能であり、森林火災や油田火災など大規模な火災を鎮火するのに用いられることがある。
通常の爆弾が用いられることもあるが、消火剤の入った専用の「消火爆弾」というものがあり、家庭用のものも市販されている。
なお、爆薬を使わずに衝撃波を発生して消火する場合もある。



これを書くと混同して誤解に繋がりやすそうな気がするが、「爆発」も「燃焼(燃える)」も物質が酸素と化合する酸化現象である。
燃焼とは、一般に熱と光の発生を伴う酸化反応のこと。
酸化反応という括りで爆発も燃焼の一種である。

燃焼に必要なものは、
①可燃性物質(酸化される物質)
②酸素(酸素原子を供給する物質)
③熱源(点火に必要な熱エネルギー) 静電気や衝撃による火花、摩擦熱、酸化熱など

爆弾には火薬が用いられることが多いが、火薬の燃焼は通常の燃焼とは違って空気中の酸素を必要としない。

そのうえで爆発と燃焼の違い。
・爆発は急激な膨張(体積増大)があり衝撃を伴う。急激な酸化反応。破裂。
・燃焼(燃える)は発熱や発光などを伴う急速な酸化反応。

一般的に体積に変化を与えるのは気圧と温度である。
燃焼によって化学エネルギーが熱エネルギー(酸化熱)に変換され放出される。
爆弾内の火薬が熱(温度変化)によりガスに変化し急激に膨張することで、大きな運動エネルギーが発生する。
密閉されている中に運動エネルギーが充満し(高圧高温状態)破裂する。


ちなみに鉄が錆びるのも酸化反応である。急速・急激な酸化に対して緩慢な酸化。
生体にも酸化反応がある。こちらも緩やかな反応だが燃焼と呼ぶことがある。
燃焼系という言葉が流行ったこともあるが、脂肪燃焼と言われているものも酸化の一種。
アンチエイジングでお馴染みの「抗酸化」という言葉も酸化を防ごうというものである。
そう言えば、錆びない人とか言いますよね。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-10 17:36
2016年 11月 09日
日本国憲法の秘密-407-
e0126350_17234484.jpg


超有名な写真。マッカーサー元帥と裕仁天皇(昭和天皇)。
マッカーサーは軍人である。政治家ではない。父親も軍人だった。
マッカーサーは1948年に大統領選に出馬したこともあったが叶わなかった。

1930年、史上最年少(50歳)で参謀総長。参謀総長が陸軍大将職なので臨時で昇進。
1935年、陸軍少将に戻りフィリピン軍事顧問(総監)就任。
1936年1月17日、フィリピンでアメリカ系フリーメイソンに加盟。3月13日には第14階級(薔薇十字高級階級結社)に異例昇進した。
1941年米国極東軍司令官、1942年連合国軍南西太平洋方面司令官に就任。
1944年12月陸軍元帥に昇進。
1945年8月30日連合国軍最高司令官として日本入り。(以後1951年4月11日まで日本占領に当たった)

あの写真を見てあなたはどう感じますか?
アメリカに、マッカーサーに、馬鹿にされている感じがする?
アメリカは、マッカーサーは、礼儀の無い奴だ?

品格の違い ~ 昭和天皇・マッカーサー会談より

伝統によって育まれた品格。
この写真は昭和20年(1945年)9月27日の昭和天皇とマッカーサー会談の時の写真です。話をする前に挨拶を交わした直後に取られたもので、マッカーサーはノーネクタイのラフな格好で天皇より格が上だということを日本国民に知らしめるために撮影されました。ときの内閣の山崎巌内相は写真を発禁しようとしたら、直ちに公職追放されました。

この写真は多くの日本人が衝撃を受け、敗戦を実感させられました。


(略)

日本は2600年の歴史が育んだ伝統・文化があり、その基準でみれば皇太子殿下とご学友の言うとおりであり、たかだか200年の歴史しか持たない米国など礼節をわきまえないこの程度のモノか!ということだと思います。この写真は恥辱を含んでいようとも民族の品格の違い、民度の勝利、伝統の勝利の瞬間を捉えた写真であると言えるでしょう。そして会談の内容も昭和天皇がマッカーサーを圧倒したのです

このあたりが多数派の意見ということになるでしょうか。
天皇のお召し物については明治時代に決定された次第です。
そして天皇には法で定められた正装があったのです。それは武を意識したものでした。
昼食会に出席するのではなく、戦争の降伏文書調印の時です。
天皇は統帥権を持っていました。軍隊の最高責任者でもあったわけです。
モーニング・コートは日本の歴史が育んできた伝統や文化とは全く関係ありません。
なんかいろいろ恥ずかしい。もう誰とも口をきく気になれない(なあんて)。

二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。

— 三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」 


下の写真は、ヤフーオークション 「オリジナル AP報道写真 天皇陛下とマッカーサー将軍 初会見」より
e0126350_1826761.jpg

e0126350_18494962.jpg

e0126350_18504167.jpg


天皇の服が違うのです。
Pコートのような上着を着ています。
RADIOPHOTOとタイプされているので日本からアメリカに送った無線電送写真なのでしょう。
撮った写真を持って帰るのでは何日も後になってしまう。
とはいっても当時の技術ではまだ鮮明な画像を送ることは困難だったのでしょうか。筆を入れたような画像です。
無線電送は1920代には可能となっていたが、30年代40年代くらいはとりあえず無線電送しておき、その後に持ち帰った高画質の画像を掲載するという二段構えの報道だったらしいです。
しかしいくら不鮮明だったとしてもコートを着ているか着ていないかくらいは判別できたと思うし、それは現地にいた人が情報として伝えられたのではないかと思うので、この画は間違えて筆入れしてしまったというよりも作為的だと思うのです。
どうしてコートを着せたのか・・・。
いやいや着てたんだよ?
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-09 18:18
2016年 11月 09日
日本国憲法の秘密-406-
東條英機は信念の人だったのだろう。ブレない人。
権威に必要以上に媚びたりはしないが、自分の役割を心得ている人。
彼はいつでも軍服を着ていた。

e0126350_11553187.jpg

e0126350_120192.png

e0126350_1204052.jpg


東條英機は陸軍士官学校を卒業して陸軍に入隊し、その後陸軍大学校にも進んでいる。
軍学校は学費が不要なので低所得の家庭の子供でも受験出来た。
陸大に進学するには上官の推薦、学業成績、運動能力、勤務成績、全てが揃っていなければならず超難関コースだった。
東京帝国大学よりも遥かに狭き門だった。
東條英機の父親も陸大を卒業している。

1884年(明治17年)7月30日、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。
東條家は安房の土豪で、江戸時代に宝生流ワキ方の能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。
俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。


しかしこれらのことは東條英機という人物が誤解される要因にもなってしまったのだろうと思う。


余談。
現代でも新内閣が誕生した時におめかしして(正装で?)ひな壇で写真をとるのが習わしになっているが、男性の方々はほぼモーニング・コートである。
モーニング・コートは昼間(午前中)の正礼装であり、夜や夕方に着る服ではない。モーニングですよ?
夜は燕尾服(ホワイト・タイ)やタキシード(ブラック・タイ)。こちらは昼間でも可。
夜のモーニングや、ブラックスーツに白ネクタイは、後ろ指をさされる。
しかもモーニング・コート自体がもう古い衣装である。(日本の伝統衣装でもないし)
内閣誕生時にお集まりになりお写真を撮っているのが大抵夜のようなのだけれど、モーニング。


1872年(明治5年)から1947年(昭和22年)まで日本には大礼服と呼ばれる制服があった。

日本におけるエンパイア・スタイルの宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、いわゆる「大日本帝国の服制」における最上級の正装である。


1872年(明治5年)11月12日に文官と非役有位者の大礼服を含む服制が規定され、11月29日より着用規定が定められた。
大礼服は当時ヨーロッパ宮廷での最上級正装として使用されていた宮廷制服(Court uniform)に倣って新たに定められた。
第339号布告では、これらの大礼服に対して現代の正装であるホワイトタイの燕尾服が通常礼服とされた。
通常礼服は小礼服とも呼ばれ、民間人等の大礼服が制定されていない者はこれを正装とした。

大礼服は燕尾服の上に位置していたということになる。
文官(武官以外の官吏)や非役有位者(官職ではない華族)は大礼服を持っていた。

大日本帝国憲法により官吏は天皇が任命しており、現在の国家公務員法に当たるような法律はなかった。
国家の行政職も天皇が掌握していたことになる。
 大日本帝国憲法第10条
  天皇は行政各部の官制及び文武官の俸給を定め、文武官を任免する。
  但しこの憲法または他の法律に特例を掲げたるものは各々その条項による。

e0126350_14421034.jpg


1873年(明治6年)、皇族大礼服が制定された。(その後、1876年と1911年に改正されている)

皇族大礼服の歴史はそれほど古いものではない。しかも皇族大礼服の制定のほうが少し遅いという・・。
天皇も西洋式の御服(天皇の服)を調達することになり、明治5年(明治天皇21歳)、同年制定の文官大礼服に似た正服が作られた。
しかし、お雇い外国人ジ・ブスケからフランス皇帝は武官大将の制服を着用し、文官制服は着用しない旨の助言があったため、その直後には軍服風の御服(御軍服)・御大禮服(錦織)が制定されている。この服は、「明治13年10月11日太政官布告第55号」により陸軍大将の制服に準じた陸軍式御服が定められるまで使用された。

天皇には正装があったのだ。
上は明治天皇の正装。
下はTIME誌表紙。左上が昭和天皇で正装。
e0126350_14514311.jpg

e0126350_14451994.jpg


ジ・ブスケはベルギー生まれでフランスの軍人。
第31歩兵連隊の歩兵中尉だった1866年、十四代将軍徳川家茂の要請でナポレオン三世が派遣した、シャルル・シャノワーヌ大尉を隊長とする第一次遣日フランス軍事顧問団に選ばれた。
幕府崩壊により軍事顧問団は解雇されたが、デュ・ブスケは帰国せず、フランス公使館の通訳として日本に残った。1870年(明治3年)兵部省兵式顧問に採用され御雇い外国人となった。1870年(明治3年)2月、大蔵少輔 伊藤博文、大蔵官僚 渋沢栄一から製糸業の専門家を紹介するように富岡製糸場の機械購入・技師招聘の相談を受け製糸技師ポール・ブリューナを推薦した。ブリュナはリヨンの絹業会で仕事をした後、横浜で日本から輸入する絹を検品する検査官の職にあった。


皇帝というのは通常、古来から領土以外の地や異なった民族をも統治する人のこという。皇帝がいる国が帝国である。
もうひとつの特徴として皇帝という人は「文」だけでなく「武」にも長けている人であるということがある。
武官や軍隊を直接指揮できるような人、武の現場に出られる人、そうした経験が十分にある人。
武士の時代の日本はまさにこれだった。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-09 12:12
2016年 11月 08日
日本国憲法の秘密-405-
権威権力があることと信望があることは違う。
権威や権力があるところにパワハラあり、打算的人物集まり。
天皇は唯一無二の権威者であり、全権を掌握していた絶対権力者であるが、イコール信望を集めていたとは言えない。
とくに体育会系は実力や実績がないと信望を得にくい。
何故オリンピックメダリストがちやほやされたり指導者なれるのかと言えば、実力や実績を見せつけたからだろう。信望を得やすいのだ。
部活動の顧問にその競技を経験したこともない教諭が就くと生徒の信望はなかなか集めにくい。実力や実績がないからだ。
軍隊にもそのような傾向がある。
期待する結果を出すためにも、反乱を防ぐ意味においても、軍隊を引っ張っていく人物は信望がなければならない。
そのことは権威権力者も重々承知しているはずである。
「分かってるけどそれはどうなんだ」というように、唯一無二の権威者や絶対権力者は歯がゆい思いをさせられることになる。
従って軍隊が結果が出せなかったような場合にはパワハラにも直結しやすい。
1番が好きな人は1番になれないことにとても敏感なんだと思う。「2番じゃダメなんですか!」


39代 近衛文麿(近衞家第30代当主・貴族院議員) 1940年7月22日‐1941年10月18日 

40代 東條英機(現役陸軍) 1941年10月18日-1944年7月18日 
41代 小磯國昭(陸軍出身) 1944年7月22日‐1945年4月7日
42代  鈴木貫太郎(海軍出身) 1945年4月7日‐1945年8月17日

43代 東久邇宮稔彦王(皇族陸軍)1945年8月17日-1945年10月9日


太平洋戦争突入時の首相・東條英機も陸軍軍人現役のまま首相に就任した。
天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。

戦争については天皇は回避派だったとかよく書かれているが、全権を持っている天皇が本気でそう考えていたならば戦争を回避させることを出来ないことはない。
それをしなかったのだから回避派ではなかったということだ。
天皇に関しては象徴天皇である今でも報道機関の御言葉遣いが違うほど特別扱いである。批判はご法度。手紙を渡すだけで非難轟々。
当時は憲法に支えられて実権を握っていた。特別も特別、敗戦直後でさえ聖上や聖断などと報道していたくらいである。
厳しい検閲や取り締まりを行って都合の悪いものは禁止したり処分したりした。自由な言論なんてなかったのだ。
天皇にとって都合の悪い情報が出てくるわけがない。
天皇の人柄や言動は戦後の社会情勢に合うように形成されたものだと思って然るべき。

戦争を行う予定があったから天皇とその側近は陸軍の東條英機に白羽の矢を立てた。
上記にもあるように東條は首相になる気があったわけではない。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず」、一番権力を与えたくない人物に自ら率先して権力を与える、危険を冒さなければ大きな成功は得られないということ。
天皇にとって東條英機は最初から危険人物だったのだ。


しかも東條英機は1944年7月のサイパン陥落を受けて同月辞任している。
東條英機が強硬派で戦争を続行させていたならば、ここが講和するチャンスだったろう。
そもそも統帥権を持っているのは天皇なのだから本来どんな言い訳も効かない。
それでも首相の協力が必要だったと言うならば、首相を任命しているのは天皇なのだから戦争終結へ動いてくれる首相を任命すればよいではないか。
でもそういう決定も決断もしなかった。天皇に戦争を終わらせる気がなかったという証拠である。

行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(および嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。
統帥権独立のロジックによりその政治的影響力を昭和初期から拡大してきた陸海軍からの批判はもとより、右翼勢力までもが「天皇の権限を侵す東條幕府」として東條を激しく敵視するようになり、東條内閣に対しての評判はさらに低下した。
この兼任問題を機に皇族も東條に批判的になり、例えば秩父宮雍仁親王は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして批判している。
東條はこれらの批判に対し「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。

このころから、東條内閣打倒運動が水面下で活発になっていく。前年の中野正剛たちによる倒閣運動は中野への弾圧と自殺によって失敗したが、この時期になると岡田啓介、若槻礼次郎、近衛文麿、平沼騏一郎たち重臣グループが反東條で連携し始める。
しかしその倒閣運動はまだ本格的なものとなるきっかけがなく、たとえば1944年(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、近衛は「このまま東条にやらせる方がよいと思ふ」「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になってゐるのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思ふ」と東久邇宮に具申していたという

※東條が三職を兼任したのは1944年2月より。そして7月に総辞職した。
細川日記は細川護貞(肥後熊本藩主細川家の第17代当主、細川元首相の父)による日記。
近衛文麿首相秘書官を務めていた事から、戦中期は近衛の意を受け、高松宮に各種情報を報告する任務についていたそう。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-08 17:32
2016年 11月 08日
日本国憲法の秘密-404-
1885年(明治18年)12月22日、内閣総理大臣と各省大臣による内閣制が定められ内閣制度が始まる。
1890年(明治22年)11月22日、大日本帝国憲法施行。帝国議会(公選の衆議院と非公選の貴族院からなる)設置。
1890年(明治22年)11月29日、第1回議会。
1894年(明治27年)7月-1895年(明治28年)3月、日清戦争。⇒明治天皇は大本営を広島城に設置し広島入り。
1895年(明治28年)4月17日、下関条約(日清戦争講和条約)に調印。⇒
1904年(明治37年)2月-1905年(明治38年)9月、日露戦争。
1905年9月5日、ポーツマス条約に調印。⇒※※


先日書いたように下関条約は前文に大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下が全権大臣に任命して決めたことだと記されている。天皇でなく皇帝である
日本の皇帝が全権大臣に任命したのは内閣総理大臣・伊藤博文(山口県出身)と外務大臣・陸奥宗光(和歌山県出身)であった。
さらに最後の11条では批准するのは両国の皇帝だと述べている。
下関条約が締結された1895年は、上記のとおり、大日本帝国憲法(明治憲法)が施行され、議会も設置済み、内閣制度もあった。
それでも全権を持っていたのは天皇(皇帝)である。国民主権ではないので議会は批准にも関与できなかった。
今と違って非公選の貴族院もあったわけだが、それでも議会は批准に関与できない、つまり天皇が絶対的権力を持っていたことになる。
大日本帝国憲法は現行の憲法(日本国憲法)が施行された1947年5月3日まで有効だった。


※※日清戦争後の日露戦争でも同様である。

ポーツマス条約前文
日本国皇帝陛下及び全露西亜国皇帝陛下は両国及び其の人民に平和の幸福を回復せむことを欲し講和条約を締結することに決定し(・・後省略)

ポーツマス条約第14条
本条約は日本国皇帝陛下及び全露西亜国皇帝陛下に於て批准せらるべし(・・後省略)

この時の日本の天皇(皇帝)が任命した全権大使は外務大臣・小村壽太郎(宮崎県出身)と、アメリカ駐剳(駐在)特命全権公使・高平小五郎(岩手県出身)だった。
一応勝利したことになっており、小国が大国ロシアに勝ったということは周辺国に予想以上に大きな影響を与えていくが、講和はアメリカの仲介によるもので、日本はかなりの借金をして臨んだわりには賠償金を全く得ることが出来ず、後世にまで借金を残すことになった。日本の借金地獄の始まりとも言える戦争。
当時の首相は桂太郎(山口県出身。陸軍軍人)で、首相就任後も天皇の意向で軍隊を引退(予備役)にならず現役続行で首相に就任していたのだが、講和条約交渉の全権大臣に任命されることはなかった。
天皇と軍隊との微妙な関係はこの辺りから始まったのではないだろうか。



ちょっと脱線してイギリスのこと。
国民投票でEU離脱を決定したイギリスだが、EU条約第50条に基づく正式な脱退通告についてちょっと揉めている。
そう言われれば確かに条約に関することを、議会制なのに、議会を無視して決定し実行したら、議会制は崩壊してしまうなあと思う。。
議会は特別な何かではない。国民の代表、すなわち国民と言い換えることが出来るものである。
どうやって国民の代表を選んでいるかと言えば選挙である。
国民が選んだ国民の代表がいるのに、その国民の代表が出す結論に信頼が置けず国民投票を行うということになれば、選挙制度の崩壊も意味する。
国民の代表を選ぶ選挙も国民投票も多数決であることには何ら変わりない。
但しイギリスは現在でも貴族院が存在するので、その意味から議会が国民を代表していないという主張はある程度通るかもしれない。

高等法院は11月3日、一般市民から成る原告団の「第50条を発動する判断は議会だけに認められる」という主張を認め、離脱手続き開始には議会の承認が必要との判決を下した。
デービスEU離脱担当相はこれに対し、「司法の独立を尊重する」とした上で、「判決には同意できない」として、迅速な決着に向け最高裁に直接上告する方針を示した。上告審は12月上旬に開かれ、その後すぐに最終判決が下されるとの見通しに基づき、予定通り来年3月末までにEU条約第50条を発動することは可能との判断を示した。「国民投票の結果は尊重・実行するべきで、EU残留や2度目の国民投票、EU再加盟を目指す動きがあってはならない」と訴えている。
(NNA 2016年11月8日)


イギリスの件とは逆で、東京の市場問題には違和感を禁じ得ない。
議会は議案を審議したり採決する場所であるが、細々とした日々の業務の決定権は議会にあるのではない。
小さなことから大きなことまで膨大な案件を議会が全て抱え込むことは困難だし、そんなことをしていたら業務が滞る。
行政職はすでに存在する法規や条例に則って仕事をしている。
また各職場には一定の裁量権を持った責任者がいるはず。
そして全体の長となるのは知事である。知事は地方自治体の行政長である。一定の権限(決定権)を持っていて然るべき。だから知事が移転延期を決定できたりするわけで。
それと同じで方法を変更することに知事がゴーサインを出して何が悪いのだ?
権限は持っているが通常多くの事は部下に任せてある。それも当然のこと。
専門性の高い話も多く、法規とは切っても切れない世界。難解な言い回しを多用する細かい非常に多くの法規が関わってくる。
膨大な案件の一つ一つを精査することなど出来るわけがない。

盛り土を地下空間(地下ピット)に変更することが何故そんなに問題なのだろうか?
法規違反になるというならば問題もあろうが、豊洲市場の場合は汚染対策としては法規を逸脱するものではない。
ホームページなどを訂正していなかったことや説明不足は手落ちですね。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-08 11:56
2016年 11月 07日
日本国憲法の秘密-403-
ポツダム宣言
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

6.平和と安全と正義の新しい秩序は無責任な軍国主義が世界から駆動されるまでは不可能であると私達は強く主張する。日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。

12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

12.これらの目的が達成され、日本の人々の自由なる意思に従う平和的で責任ある政府が確立されれば、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退する。


日本がポツダム宣言にアクションを起こしたのは長崎原爆投下日の翌日8月10日のことである。
「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾するとの回答を発した。

8月12日、アメリカの国務長官バーンズより日本側が提示した条件に対しての回答があった。
宣言で譲歩することも代案もないと言っているのだから、日本側の条件を呑むわけにはいかないはずだ。


ポツダム宣言はかなり厳しい調子で綴られているが、肝心なことについては曖昧な表現に逃げている。
日本のほうが単刀直入に質問するという展開。裏切られないための再確認だろうか。
バーンズ国務長官はその質問(天皇制の維持・天皇の地位)に対しても直接的な回答を避けている。
天皇制を排除すべきだと思うならばはっきりとそう言えばいい。
それが出来ないということは勝者(強者)と敗者(弱者)の立場がすでに逆転していることを示す。
バーンズ国務長官も自由なる意思の表明、自由な表現が出来なかったのかしら?

但しバーンズ国務長官は天皇が権威権力を持っていないと判断していたわけではないことがよく分かる回答文である。
2)は日本を動かしていたのは天皇であったということの証拠になろう。

バーンズ回答文

 1945年8月11日付 (ジェイムス・バーンズ国務長官)

1)降伏のときより、天皇および日本国の政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施のため、その必要と認める措置をとる連合国軍最高司令官の制限の下に置かれるものとする。

2)天皇は、日本国政府、および日本帝国大本営に対し「ポツダム宣言」の諸条項を実施するために必要な降伏条項署名の権限を与え、かつ、これを保障することを要請せられ、また、天皇は一切の日本国陸・海・空軍官憲、および、いずれかの地域にあるを問わず、右官憲の指揮の下にある一切の軍隊に対し、戦闘行為を終止し、武器を引き渡し、また、降伏条項実施のため最高司令官の要求するであろう命令を発することを要請される。

3)日本国政府は、降伏後、直ちに俘虜、および、抑留者を連合国の船舶に速やかに乗船させ、安全なる地域に輸送すべきである。

4)日本国政府の最終形態は、「ポツダム宣言」に従い、日本国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである。

5)連合国軍隊は、「ポツダム宣言」に掲げられた諸目的が完遂されるまで日本国内に駐留するものとする。



1945年8月14日23時、ポツダム宣言受諾を連合国に通達した。
1945年8月15日12時、ラジオの玉音放送で日本の降伏を国民に知らせた。
1945年9月2日、降伏文書調印。(休戦に至る)
1947年5月3日、日本国憲法施行。(占領下)
1951年9月8日、連合国48か国と日本がサンフランシスコ条約に調印。(戦争終結)

このあたりの手順もドイツやイタリアに比べると非常に甘い。
また降伏を受け入れるにあたり通常は国内でも軍隊の反乱や市民の暴動などを危惧すると思うのだが、そうしたものに対する準備を全くなく、14日の夜に通達して翌日の正午には呑気に発表している。
その挙句、降伏文書調印は9月2日ときている。戦争終結に向けて戦闘が中止され休戦となったのは9月2日ということになる。
8月15日が終戦記念日の根拠はどこにもない。前にも書いたかもしれないがどう見たって8月15日は玉音放送記念日だろう。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-07 14:02
2016年 11月 06日
日本国憲法の秘密-402-
日本は原爆を投下されたからポツダム宣言を受諾したのではない。
原爆が投下されるのを待っていたのだ。

1945年7月12日~8月2日、ポツダム会談。
1945年7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が行われる。爆縮方式のプルトニウム原爆。
1945年7月21日、トルーマン大統領がトリニティ実験の成功の報告を受け取る。(成功?)
1945年7月24日、トルーマン大統領がソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かす。
1945年7月26日、イギリスの選挙開票日。保守党の敗北を受けてチャーチル首相が帰国し退任。
           ポツダム宣言発表。(アメリカ・トルーマン大統領が一人で署名) ⇒ポツダム宣言は無効       
1945年7月28日、大山口列車空襲事件。
            鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?
              ⇒ノーコメントと言ったようだが、黙殺、拒否、全面的に無視と報じられる。
1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。



ポツダム宣言は無効である。他国の首脳の署名を勝手にアメリカ大統領がしたものなど有効であるはずがない。
そのうえでポツダム宣言の話をすれば、ポツダム宣言にはこんな記述がある。(訳は私)

5.Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
(訳)以下は私達の条件である。私達がこれを譲歩することはない。代案もない。一刻の猶予も許さない。

ポツダム宣言は現代においては最後通告として受け止められているように思う。
現に遅延を許さない(We shall brook no delay)といった文言も含まれている。
これが最後通告ならば、遅延を許さないと言うならば、期限を切らなければならない。
ところがポツダム宣言では期限が切られていない。「いつまでに」ということが明記されていない。そうした情報も一切ない。
これでは最後通告として片・手落ちである。

片手落ちと書いたが、そもそも戦時中に最後通告というのがおかしい。完全なる手落ちである。
最後通告(最後通牒)とは国際交渉において最終的な要求を文書で提示すること。何か交渉をしている中でで交渉の終わりを示唆するもの。
これを受け入れなければ交渉を打ち切って自由に行動させてもらいます、という意思表示が最後通告である。
交渉決裂し、話し合いで折り合いがつかないとすれば、残るは国交断絶、封鎖、武力行使、戦争である。
期限を切った最後通告を出し、相手が受け入れなかったことによって宣戦布告し戦争に突入した例は幾つもある。
ところがポツダム宣言はもう戦争を行っている。
交渉決裂しても戦争が続くだけのことであって「戦争」という状態は何ら変わらない。
従って最後通告を無視した時にどんな自由行動に出るのかを知らせないと意味を持たなくなる。
「戦時中の非人道的行為は相手が最後通告を無視したからだ」という言い訳にするためにも、とるべき自由行動を明記する必要がある。そうではければ相手がそれに了承したという証拠が残らず、自由行動をとった側は非人道的行為として裁かれる恐れだってなきにしも非新型爆弾を投下が念頭にあるならば、「期限までに条件を受け入れなければ、私達は新型爆弾を投下する。一般市民が大量虐殺されることになるだろう」と通告する必要がある。
それではじめて新型爆弾の戦争続行抑止力が働くのだ。
本土決戦が念頭にあるならば、「期限までに条件を受け入れなければ、本土決戦に突入する」と通告する必要がある。(但し本土決戦は日本側も行う気があったので抑止力にはならない)
新しい秘密兵器は敵国は知らないはずですよね?それでどんな被害が出るかも分かっていないはずですよね?それでは最後通告の効果は弱くなって当然ですよね?
作戦を教えてどうするんだと思うかもしれないが、降伏する気があるならばもっと早くにしている状況だったわけで、そこでしていないということはこの先も降伏の見込みは薄い判断するのが真っ当である。
よって最後通告を意味あるものにするには手の内を明かさなければならない。

ある意味、だからこそ原爆投下後の受諾でなければならなかったのだ。

もう十分に負けが込んでいたのにここまで降伏してこない日本が、最後通告を無視したらどうなるか分からないままに、最後通告ひとつで態度を豹変するのもおかしい。
しかも最後通告は期限を設けていない。
この最後通告を活かすとしたら新型爆弾を投下するしかない状況になっている。
ソ連はそれをよんでいた。自由行動が「ソ連の対日参戦」ではないと悟っていた。
だからいつでも対日攻撃に出られるように準備していたはずだ。ソ連はアメリカに裏切られたのだから。


日本がポツダム宣言にアクションを起こしたのは長崎原爆投下日の翌日8月10日のことである。
「天皇の国法上の地位を変更しないこと」を条件にポツダム宣言を受諾するとの回答を発した。

8月12日、アメリカの国務長官バーンズより日本側が提示した条件に対しての回答があった。
宣言で譲歩することも代案もないと言っているのだから、日本側の条件を呑むわけにはいかないはずだ。


ポツダム宣言
6.There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

6.平和と安全と正義の新しい秩序は無責任な軍国主義が世界から駆動されるまでは不可能であると私達は強く主張する。日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。

12.The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.

12.これらの目的が達成され、日本の人々の自由なる意思に従う平和的で責任ある政府が確立されれば、連合国の占領軍は直ちに日本から撤退する。


日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力は永久に排除されなければならない。
普通に考えれば絶対権力者であり統帥権も持っていた天皇(皇帝)が真っ先に挙がるだろう。
しかし天皇や皇帝といった明言を避けた。
「日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力」を憎んでいるわりには指名していない。
ファジーである。
「日本の人々を欺き誤らせ世界征服に着手させた権勢や権威権力」は決定する人によって誰にでもなり得るという状況を生む。
上手く出来ている。
そして軍隊だけが、一部の人間だけが悪者になって、永久に排除されたのだろう。
でもポツダム宣言は無効である。
こんな無効なものを盾に排除された人間は浮かばれない。

13.We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

13.私達は全ての日本軍の無条件降伏と、そうした行動をとれるように適切で十分な保証を与えることを日本政府に要請する。要請に従わないならば、即刻、徹底的に破壊する。


無条件降伏が要求され、それに応じさせられたのは軍隊であって、天皇と日本政府は「天皇制維持」という条件を出した。最初から織り込み済み。
君主(権威権力者)が一番怖いものは武力、軍隊である。敵であっても味方であっても。
よく「日本は無条件降伏した(させられた)」と言われるが、それは正確ではない。
「日本軍は無条件降伏した(させられた)」という言うべき。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-06 14:38
2016年 11月 04日
日本国憲法の秘密-401-
1945年7月12日~8月2日、ポツダム会談。
1945年7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が行われる。爆縮方式のプルトニウム原爆。
1945年7月21日、トルーマン大統領がトリニティ実験の成功の報告を受け取る。(成功?)
1945年7月24日、トルーマン大統領がソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かす。
1945年7月26日、イギリスの選挙開票日。保守党の敗北を受けてチャーチル首相が帰国し退任。
            ポツダム宣言発表。(アメリカ・トルーマン大統領が一人で署名) ⇒ポツダム宣言は無効       
1945年7月28日、大山口列車空襲事件。
            鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?
              ⇒ノーコメントと言ったようだが、黙殺、拒否、全面的に無視と報じられる。
1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。



チャーチル首相の前に"Babies satisfactorily born." と書かれた一枚の紙が無言でそっと差し出された。
チャーチルはそれでこれが何か特別なことを意味すると察した。
「ベビーズ?ベビーズが生まれた・・?双子か?」
「いえ三つ子です、トリニティ」
「なぬ、三つ子か・・」
"The experiment in the New Mexican desert has come off. "

ボーンbombにボーンborn。盆にぼぼぼーん、ボン・ヴォヤージュか。
プルトニウム型爆弾の爆発実験を1回行っただけで三つ子が生まれたとは大したタマだな。
君は知らないのか?イエス・キリストは処女懐胎で生まれたんだ。
要するに性交なしで生まれたということだよ。


ポツダム会談中にアメリカのトルーマン大統領はソ連のスターリン書記長に「新型爆弾の開発が成功した」と告げたが、スターリン書記長は特段驚く様子はなく態度を変えることもなかった、そのことにトルーマン大統領はショックを受けていたという。
スパイからの情報かどうかは分からぬがソ連は知っていたのだろう。原爆が出来そうもないことを。
アメリカはヤルタ会談でソ連に対して対日参戦を求めている。そして対日参戦には条件が付けられていた。
ソ連にとってはアメリカにその約束を守ってもらうことのほうが重要であった。
原爆は不可能なのだ。
実験の段階ならば嘘もまかり通るだろう。しかし兵器として使うからには相手がいる。
原爆投下だなんて嘘が通用するわけがない。
もしもそんな嘘が通用するとするならば考えられる状況はただひとつ、日本とアメリカがグルである時のみ。
従ってもしアメリカが原爆を使った宣言したならば、日本が原爆投下されたと発表したならば、ソ連は直ちに対日参戦を開始するつもりだった。
「原爆投下」で日本に降伏なんかされたら困るからだ。

すなわちソ連が対日参戦を開始した日は原爆投下の情報を掴んだ日、あるいは情報が出た日と一番近いはずである。それが一番信用できる日にちである。
しかしながら前にも書いたようにソ連の宣戦布告と対日攻撃開始は史料によって8月8日と8月9日に分かれる。
ソ連が宣戦布告をせずに8月9日に日本軍への攻撃を開始した、これでは困る人がいた。
あるいは、ソ連は日本に8月9日に宣戦布告し攻撃を開始した、これでは困る人がいた。
考えられる理由は、8月9日長崎への原爆投下との関係だろう。


ソ連は新型爆弾を長崎へ投下したとの情報を得て対日攻撃を始めた。つまり8月9日が正解ではないだろうか。
ソ連の対日攻撃開始日は8月6日の広島では爆弾が投下されていないという証拠になる。


では新型爆弾とは何か?
ウラン型原爆でもプルトニウム型原爆でも水爆でもない。
新型爆弾は「パンプキン爆弾」であろう。
原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたもの(総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg)。

正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、重量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。

この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特別に改修したB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。

パンプキン爆弾は内容物によって2種類が存在し1つはTNT火薬を主成分とした高性能爆薬を充填したタイプ、もう1つはセメントや石膏を用いたコンクリート混合物が充填されたタイプであった。いずれのパンプキン内容物もファットマン原爆の内容物球体コア(プルトニウムと、それを核分裂させるシステム。爆縮レンズ)とほぼ同一の形状・比重・重量配分になるよう調整され、爆弾内部のコア配置位置も全く同じとされた。これにより、原爆投下行動に対する有効な事前データが採取できたといわれる。

パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。


パンプキン爆弾の練習ではおそらく爆薬の量が違うのだろう。
そして「ファットマン」も「1万ポンド軽筒爆弾」も「パンプキン爆弾」もイギリスのチャーチル首相を揶揄した命名である。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-04 16:46
2016年 11月 04日
日本国憲法の秘密-400-
多くの人が誤解や混同していると思われるものに、「領有権」と「主権」がある。
分かりやすく土地と建物の関係に置き換えてみよう。
領有権は土地所有者(地主)である。
その土地に家を建てたり、ビルを建てる。建物所有者がいる。
その建物に人が住んだり、その建物に入居して商売をする人がいる。そこには世帯主や会社の社長などがいる。
「土地所有者」「建物所有者」「世帯主や会社社長」が全部同じでもよいが、「土地所有者」と「建物所有者」と「世帯主や会社社長」は各々違っても構わないのだ。

主権を持つ国家を主権国家という。
主権国家となるためには「国内統治権」と「対外主権」を自国で持っていないければならない。
しかしながら土地所有者が誰であるかは関係ない。

昨日の記事の転載文の中に「琉球は中国の領土であると主張するが、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、」とあった。
冊封
称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・ 諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を 伴う、外交関係の一種。
関係とは外交上の上下関係。力関係。「宗主国」のほうが上で強い、権力がある。
「朝貢国」は「宗主国」に媚びへつらう必要があるが、何かあった時には守ってもらえることもある。
従属国で支配下にあるとも言えるが、冊封関係は「朝貢国」が主権を持つ独立国であることを完全に否定するものではない。(「対外主権」がやや曖昧になっている状態)
どちらにしてもこの「主権」とは「国内統治権」と「対外主権」のことであり、「領有権」とは違う話である。



サンフランシスコ条約2条は権利の放棄について書かれている。
この条約の正文(国際条約を確定する正式な条約文)は、英語・フランス語・スペイン語である。
正文が2つ以上の言語の場合には、それ各言語の条文が等しい権威を有する。
但し「解釈に相違がある時は英文」などと条約内で明記されていたり、当事国が合意している場合には正文の中においても優劣がある。
サンフランシスコ条約に於いては第27条で正文について触れられている。

DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language.
1951年9月8日に、サン・フランシスコ市で、ひとしく正文である英語・フランス語・スペイン語、及び日本語にて作成した。

日本語は公定訳文であるが正文ではない。解釈の違いがある場合には英語・フランス語・スペイン語が優先される。

Article 2
第二条

(a) Japan recognizing the independence of Korea, renounces all right, title and claim to Korea, including the islands of Quelpart, Port Hamilton and Dagelet.
日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(b) Japan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores.
日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(c) Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of 5 September 1905.
日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

(d) Japan renounces all right, title and claim in connection with the League of Nations Mandate System, and accepts the action of the United Nations Security Council of 2 April 1947, extending the trusteeship system to the Pacific Islands formerly under mandate to Japan.
日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下にあつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。

(e) Japan renounces all claim to any right or title to or interest in connection with any part of the Antarctic area, whether deriving from the activities of Japanese nationals or otherwise.
日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。

(f) Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands.
日本国は、新南群島及び西沙群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。



鍵となるのがこの部分"renounces all right, title and claim" で、日本語では「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」と訳している。
日本は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したし、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄したのだ。
ここで主権だけ放棄して領有権は放棄していないと言い出す人がいるかもしれないが、 title という単語が入っている。
下記4番の意味で領有権並びに領有権の根拠とする理由(権原)も放棄したと言えよう。

title (Weblio辞典) 
1可算名詞 (本・映画・絵などの)表題,題名.
2不可算名詞 [具体的には 可算名詞] 称号,肩書き,敬称,爵位.
3不可算名詞 [また単数形で]a〔…に対する〕(正当な)権利,(主張しうる)資格 〔to〕.
                   b〔+to do〕〈…する〉権利,資格.
4不可算名詞 [また単数形で] 【法律, 法学】 (特に不動産について)財産所有権,権原 〔to〕.
5可算名詞 【競技】 選手権,タイトル.



北方領土のことを書いた過去記事より。
フランス語正文は今問題になっている北方領土も含めてグループと表現しており、日本語訳の群島は含めないということ。

条約では、「サハリン島(樺太)に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。」としているのである。

その範囲がフランス語正文と日本語訳では違っているが、どちらにしてもその時点では千島列島全てが日本の領土ということには変わりないので特段問題にならなかった。
さらに言えば、君主国国家は君主のものである。従ってロシア皇帝から日本皇帝に対して譲ると記されている。
しかしロシアはロシア革命で帝政が崩壊した。君主(皇帝)は退いて共和国になったのだ。
皇帝同士の約束がはたして共和国において有効なものかどうかという問題もある。

どちらにしてもこの条約は、条約の体を成しておらず有効ではなく、法的拘束力は持たない。
要するに司法の場などで本気で争えば、1875年の条約は無効であるから、1855年の下田条約のままに1905年のポーツマス条約に移行したとの判断が下る可能性が高いということ。



君主国家は君主のものである。
領有権も主権も全部持っている人が君主である。
日本はそのうち主権を第二次大戦後の占領期間中(戦争終結前)に制定した憲法によって国民に移行した。
領有権も国家主権も保証されていない状態で憲法が公布されるなんて異常だがここではそれは置いておいて、主権を国民に移行したとしても君主(天皇)のいる日本の領有権は天皇が持っているはずである。日本の領土の地主は天皇ということ。
上記の過去記事の中では条約(条約は無効であるが・・)自体がそもそもが皇帝同士の約束であったということを書いた。

実は下関条約にも皇帝が登場する。

下関条約の前文
大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下は両国及其の臣民に平和の幸福を回復し、且将来紛議の端を除くことを欲し、媾和条約を訂結する為めに、大日本国皇帝陛下は内閣総理大臣従二位勲一等伯爵伊藤博文、外務大臣従二位勲一等子爵陸奥宗光を、大清国皇帝陛下は太子太伝文華殿大学士北洋大臣直隷総督一等粛毅伯李鴻章、二品頂戴前出使大臣李経方を各其の全権大臣に任命せり。因て各全権大臣は、互に其の委任状を示し其の良好妥当なるを認め、以て左の諸条款を協議決定せり。

両国の皇帝が全権大臣に任命して決めたことだと前文で述べている。

下関条約第11条
本約は大日本国皇帝陛下及大清国皇帝陛下に於て批准せらるべく、而して右批准は明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日に交換せらるべし。

 右証拠として両帝国全権大臣は茲に記名調印するものなり。
 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日 下ノ関に於て二通を作る。


最後の11条では批准するのは皇帝だと述べている。
主権が国民にあるわけではないので、議会(国民)が批准するのではなかった。
批准とは、既に全権代表によって署名がなされた条約に拘束されることを国家が最終的に決定する手続きである。
批准しなければ署名しても成立しない、効力は生まれない。
国家が皇帝のものだったから皇帝が批准したわけだが、ロシアと同じようにそれが後世においても有効なのかという問題が生じる。
「皇帝」と「天皇」は違うし、主権は憲法によって皇帝から国民に移っているからだ。

もっとも日本の場合はだからこそサンフランシスコ条約で放棄しているとも言える。
皇帝の名に恥じぬように(?)日本が新たに獲得していった場所は、敗戦によって放棄させた。
しかしながら日本ではどうも放棄したという認識が全くといって無いみたいだけれども。
また沖縄は宙に浮いたまま。沖縄は日本が領有権を持っているとは言い難い。戦後アメリカが領有権を持っていたとも言い難い。

いわゆる沖縄返還は、アメリカがサンフランシスコ条約の3条を放棄したという形式を採っている。

Article 3
第三条

Japan will concur in any proposal of the United States to the United Nations to place under its trusteeship system, with the United States as the sole administering authority, Nansei Shoto south of 29deg. north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands), Nanpo Shoto south of Sofu Gan (including the Bonin Islands, Rosario Island and the Volcano Islands) and Parece Vela and Marcus Island.
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。

Pending the making of such a proposal and affirmative action thereon, the United States will have the right to exercise all and any powers of administration, legislation and jurisdiction over the territory and inhabitants of these islands, including their territorial waters.
このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。


沖縄に対してアメリカが持っていたのは統治権である。
それをアメリカが放棄して日本に譲渡した。
領有権(土地所有者)には触れていない。

琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定(沖縄返還) 1971年6月17日
第1条
1. アメリカ合衆国は,2に定義する琉球諸島及び大東諸島に関し,1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第3条の規定に基づくすべての権利及び利益を,この協定の効力発生の日から日本国のために放棄する。日本国は,同日に,これらの諸島の領域及び住民に対する行政,立法及び司法上のすべての権利を行使するための完全な権能及び責任を引き受ける。

2. この協定の適用上,「琉球諸島及び大東諸島」とは,行政,立法及び司法上のすべての権力を行使する権利が日本国との平和条約第3条の規定に基づいてアメリカ合衆国に与えられたすべての領土及び領水のうち,そのような権利が1953年12月24日及び1968年4月5日に日本国とアメリカ合衆国との間に署名された奄美群島に関する協定並びに南方諸島及びその他の諸島に関する協定に従つてすでに日本国に返還された部分を除いた部分をいう。

[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-04 11:54
2016年 11月 03日
日本国憲法の秘密-399-
長崎の教会群とキリスト教関連遺産
ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ追加掲載が決まった長崎県と熊本県にある教会、キリスト教に関わる史跡、文化財の総称。
2007年1月23日、文化庁が「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など。2014年に世界遺産登録)、「富士山」(山梨県、静岡県。2013年に「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産登録)、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」(奈良県明日香村など)とともに追加申請を決めた。

長崎におけるキリスト教の伝来と繁栄、激しい弾圧と250年もの潜伏、そして奇跡の復活、という、世界に類を見ない布教の歴史を物語る資産として、ユネスコの世界遺産暫定リストに掲載された。


江戸時代は1603年から1867年までで265年間となる。

1853年、アメリカからペリー黒船来航。 ⇒後世ではここから幕末と呼ばれる。
1854年、アメリカと日米和親条約を締結。


1603年から数えれば、黒船来航の日米和親条約までがちょうど250年となる。
江戸時代は鎖国していてキリスト教も禁じていた、それが開国(日米和親条約)によって解禁されたという考え方なんだろうが、キリスト教を禁じたのは江戸時代よりも前である。
1587年7月、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発令。

江戸幕府が禁じたのは1614年のこと。
1614年、江戸幕府が「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令。大阪冬の陣。
しかしこれを鎖国とは言わない。
鎖国は1639年以降とされている。
1639年、ポルトガル船の入港禁止。 ⇒これ以降が「鎖国」と呼ばれている。

つまり250年という数字には根拠すらない。
また弾圧(処刑)されたのは豊臣時代の1596年であり、これはイエズス会にせっつかれて行われたようなもので、イエズス会と対立していたフランシスコ会の京都や大阪にいた神父・修道士及び日本の信者が捕まり、わざわざ長崎くんだりまで連れて行かれただけのことであって長崎の布教や信者とは関係ない。
長崎での弾圧事件が「浦上崩れ」だが、これは弾圧と言えるようなものではなく実際にあったかどうかは甚だ疑問。四番崩れ(幕末の最後)が本当にあったとするならば明治新政府の仕業である。

第一、弾圧の象徴にした「浦上」の浦上天主堂は「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に含まれていない。
長崎市の構成資産
・大浦天主堂(国宝)
・外海の出津集落:重要文化財出津教会堂・旧出津救助院を含む、重要文化的景観「長崎市外海の石積集落景観」
・大野集落:重要文化財大野教会堂を含む


大浦天主堂と浦上天主堂は別物である。

大浦天主堂  長崎県長崎市南山手町5-3
これは幕末に長崎の外国人居留地内に在留外国人の ために建設されたものである。


日米和親条約を締結したのは1854年3月だが、同じ年に日英和親条約(8月)、日露和親条約(12月)を締結している。
1856年に日蘭和親条約締結。
カトリック国ではない国と条約を結んだということになる。
1858年には日米修好通商条約を締結し、同様の条約をイギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結んだ(安政五カ国条約)。


1862年
フランスのパリ外国宣教会宣教師で日本教区長のジラール神父の命により、横浜にいたフランス人司祭(神父)フューレが長崎に赴任。司祭館と教会堂の建築準備に着手。
1597年に殉教した26名(日本二十六聖人)が、この年にローマ教皇ピオ9世により列聖される。


1863年
プティジャン神父(後に司教)が長崎に着任。フューレを補助し、天主堂建設に尽力。

1865年
大浦天主堂が完成、献堂式を挙行。二十六聖殉教者堂と命名。
大浦天主堂は日仏修好通商条約に基づき、フランス人の礼拝堂として建設され、教区長ジラールが宣教師プティジャン、ロカーニュを従え、献堂式を執り行った。献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列した。

1867年、浦上四番崩れ。(この最中に明治維新)


それまで世界の大国はスペインやポルトガルで、カトリック(イエズス会)の外国布教の中心にいたのもスペインやポルトガルだったが、スペインやポルトガルは直ちには条約締結に至っていない。
そこで日本においては(一応)カトリック国であるフランスが送り込まれてきたのだ。
ジラール神父も プティジャン神父もフランス人である。
上記にもあるように大浦天主堂は長崎の外国居留地にフランス人の礼拝堂として建設された。


フランス人のプティジャン神父
1859年にパリ外国宣教会に入会し、日本への布教を志した。当時の日本は、外国人の入国が困難であったため、とりあえず琉球に渡り、那覇で日本語と日本文化を学んだ。

1859年以降に「外国人の入国」が困難ということはない。
(1854年にアメリカ・イギリス・ロシアと和親条約、1856年にオランダと和親条約、1858年にアメリカ・イギリス、フランス、オランダ、ロシアと修好通商条約を締結)
(1860年ポルトガル、1861年プロシア、1864年スイス、1866年ベルギー・イタリア・デンマーク、1868年スペイン・スウェーデン・ノルウェー、1869年オーストリア・ハンガリー)
1614年に江戸幕府が発令した「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」はまだ活きていた。

当時琉球(現:沖縄県)は日本ではなかった。日本の領土になるのは明治時代のことである。
琉球王国(1429-1879年)という別の国であった。
但し1609年以降は薩摩藩(現:鹿児島県)の支配下に入っていた。日本(江戸幕府)支配下ではない。
日本がイエズス会の宣教師らを追放していた期間に、フランス人宣教師らは琉球王国にいたというのだ。
それはつまり薩摩藩が許していたということになる。

(琉球は)外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。


(プティジャン神父は)1862年(文久2年)についに横浜に上陸することができ、翌年長崎に渡った。任務は大浦の居留地に住むフランス人の司牧ということであった。後にプティジャンは日仏通商条約にもとづいて長崎の西坂(日本二十六聖人の殉教地)を見ることができる丘の上に居留地に住むフランス人のために教会を建築する許可を得た。こうして建てられたのが大浦天主堂である。
プティジャン神父は1868年には日本代牧区司教に任命された。


代牧区(使徒座代理区: Vicariatus Apostolicus、略称 代理区、また代牧区とも)
カトリック教会の教区がまだ設置されていない宣教地域に設立された管轄の一形態である。代理区は一世紀以上の長きにわたり設置される場合もあるが、本質的には当該地域のカトリック信徒数が十分な数に増加し、正式に教区に昇格するまでの暫定措置となる。
使徒座代理区を統率する使徒座代理は通常、名義司教である。 カノン法371.1に拠れば、使徒座代理の管轄は教皇の管轄権の行使であり、すなわち"普遍的な司教"であるところの教皇が使徒座代理を通じ、地域管轄権を行使するものである


大浦天主堂は表向きには外国居留地に建てられたフランス人の礼拝堂として建てられたわけだが、やがて来る時代を見据えていた。
言い換えると大浦天主堂はカトリックのための礼拝堂であり、やがて再びカトリックの時代がやってくると睨んでいた。


<富岡製糸場と絹産業遺産群についての補足>
絹産業遺産群と言ったって、富岡製糸場しか有名になってないし。
御蚕の形したお菓子とかやめてほしいし。
富岡製糸場
日本は江戸時代末期に開国した際、生糸が主要な輸出品となっていたが、粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていた。そのため、官営の器械製糸工場建設が計画されるようになる。

富岡製糸場は1872年にフランスの技術を導入して設立された官営模範工場であり、器械製糸工場としては、当時世界最大級の規模を持っていた。そこに導入された日本の気候にも配慮した器械は後続の製糸工場にも取り入れられ、働いていた工女たちは各地で技術を伝えることに貢献した。
1893年に三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は変わったが、1987年に操業を停止するまで、第二次世界大戦中も含め、一貫して製糸工場として機能し続けた。

第二次世界大戦時のアメリカ軍空襲の被害を受けずに済んだ上、操業停止後も片倉工業が保存に尽力したことなどもあって、繰糸所を始めとする開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で現代まで残っている。


官営模範工場として設立され、三井家に払い下げられとあるが、最初から三井資本で設立されている。
粗製濫造の横行によって国際的評価を落としていたので官営工場を設立したが、残念ながら富岡製糸場で作られた生糸の評価・評判も芳しくなかった。
高い評価を得るのは従来と同じく富岡製糸場以外で作られた生糸などであった。
もっとも「建物の遺産としての価値」は生糸の出来など関係ないだろうけれども。
空襲被害に遭ったところは遺産は残らないのだ。
古き物がそんなに大事ならば空襲なんかされないうちにさっさと降参したらいいでしょうに。


<琉球王国と沖縄の補足>
琉球王国は日本とは別の国だった。
だからペリー黒船は日本とは別に琉球にも立ち寄っている。

1853年(琉球暦:咸豊3年、和暦:嘉永6年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めた。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。

琉球王国(1609年より薩摩藩の支配下にあった)が日本の領土になったのは明治時代だが、それはどんな経緯だったのか?本当に、正式に、日本の領土になったのか?

1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。
明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。
そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。


侵略行為と言われても仕方ないほど強引なやり方である。

琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた
外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。

なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張するが、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も尚泰王、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王が日本の琉球藩王とされた後に侯爵の身分を享受したことからも明らかではない


結論から言えば、沖縄は今なお宙ぶらりんな状態。
上に「日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した」とあるが、これは嘘である。
あえて「完勝」なんて言葉を使っているところがすでに作為的。
戦争に勝利したので日本の立場が強くなった、世間の人が勝者のものと勝手に思っただけのこと。要するに「国際法上の法的根拠はない」。
日清戦争後の下関条約では沖縄のことは触れられていない。

下関条約では領土に関しては2条に書かれている。

第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス

一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地

鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ

遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼

二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼

三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼


分かりやすく言うと、
①遼東半島と、遼東湾東岸及び黄海北岸にあり奉天省に屬する諸島
②台湾全島及びその附屬諸島
②澎湖諸島(台湾の西側約50kmに位置する台湾海峡上の諸島)
を日本に割譲すると言っている。

琉球(沖縄)なんて言葉は出てこない。
琉球を台湾の附屬諸島にすれば②が当てはまるが、そんなふうに考える人はいない。
尖閣諸島領有権を巡って、尖閣諸島が台湾に含まれていたのか、沖縄に含まれていたのかという論争になることもあるが、そもそも沖縄の領有権が明確ではない。
尖閣諸島に関しては日本の主張も中国の主張も正当性が無い。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-03 11:28
2016年 11月 01日
日本国憲法の秘密-398-
当時長崎は鹿児島(薩摩)や佐賀(肥前)よりも立場的に弱かったと思う。九州の有力者のいた地域ではなくて支配していた地域だった。
だから振り回された観がある。

1580年、イエズス会に長崎を寄進。
1584年、イエズス会に浦上を寄進

1614年、江戸幕府が「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令。大阪冬の陣。

1790年、浦上一番崩れ。(「キリシタン禁令」から162年後)


長崎や浦上がカトリック・イエズス会に縁があったことは確かだが、だからといってずっと隠れキリシタンとして信仰していたとは言えない。
浦上をカトリックの聖地としてカトリック(イエズス会)が認めていたとも思わない。
そう思う理由は他でもない浦上天主堂の建築の遅れ。

明治時代に入ると、江戸時代にカトリックが抑制された浦上の地に信者が戻りだし、1880年(明治13年)に大浦天主堂から専任の神父が来て、庄屋の跡地を買い取った。(買い取った?)
つまり屋敷跡地に浦上天主堂(カトリック浦上教会)の建設を始めたのだが、19年もの歳月を要し、完成は1914年だった。

信者が寄付をしたり建設に携わるも資金難と工期遅れのため屋根は木造瓦葺に設計変更したそうだ。
土地を買い取って(?)建設を始めてから19年後の1914年に完成。
象徴的な双塔が出来たのはさらに11年後の1925年で、2つの鐘が吊るされた。


20年も30年も建たなかったのだから、熱心な信者は浦上(長崎)にはいなかったのではないだろうか。
それを思わせる記述が「浦上三番崩れ」にある。

長崎奉行はこの件を村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかったことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、キリシタンの存在を公式には認めなかった

それはすなわちキリシタンがいなかったということだ。


そもそも何故「浦上崩れ」などという名称を付けたのか?
思い出すのは「大物崩れ」である。

戦国時代初期の享禄4年6月4日(1531年7月17日)、摂津大物(現在の兵庫県尼崎市大物町)で行われた合戦。赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍が、細川高国・浦上村宗の連合軍を破った戦い。大物崩れの戦い・天王寺の戦い・天王寺崩れとも呼ばれる。

「大物崩れ」は地名由来なので「だいもつくずれ」と読むが、「おおものくずれ」とか「だいぶつくずれ」とも読める。
また地名だけれど「大物が崩れた」という意味も掛けてあるのだ。

細川家は清和源氏・足利家の支流であり、細川本宗家(本家)は室町幕府で将軍を追い出したこともあるほど権勢を振るっていた。
細川晴元も細川高国も細川本宗家一族。
12代目当主に妻子がなく、澄之・澄元・高国の3人を養子に迎える。
すると12代目は澄之派に暗殺される。13代目細川澄之。
13代目は澄元に討たれる。14代目細川澄元。
14代目と当時の将軍は高国に追い出される。15代目細川高国。
14代目澄元には実子・細川晴元がいた。
15代目細川高国にも実子がいた。これが16代目となるが半年で病死。
細川晴元と細川高国は家督争いで度々戦火を交えていたが、大物崩れの時にはそれぞれ味方を付け、細川高国・浦上村宗軍は大坂の中島付近に陣を布いていた。

赤松軍が中嶋の高国陣営を奇襲すると、それに呼応して三好軍が総攻撃をしかけたので、村宗を始め和泉守護細川澄賢(すみかた、細川政賢の子)・侍所所司代松田元陸・伊丹国扶・薬師寺国盛・波々伯部兵庫助・瓦林日向守ら主だった部将が戦死した。中嶋の野里川は死人で埋まり、「誠に川を死人にて埋めて、あたかも塚のごとく見ゆる、昔も今も末代もかかるためしはよもあらじと人々申也」(『細川両家記』)ほどの大敗を喫した。
三好元長が前線に出てくる「中嶋の戦い」からの2ヶ月間こそ膠着状態に陥ったものの、それまでの細川・浦上連合軍は連勝を重ねて戦意も高く、圧倒的有利であった。だが、新たに参戦した赤松政祐には細川・浦上連合軍の背後(西宮方面)から、続いて正面(天王寺方面)の三好軍からも攻撃されたことによって大打撃を被った(挟撃する側としては理想的な形となった)。
この結果、それまでの膠着が嘘のように戦局が大きく崩れて、高国の滅亡につながった。そこから地名とあいまって「大物崩れ」と呼ばれるようになった。


「浦上崩れ」はやはり「大物崩れ」に因んだのでは?
平和祈念像は大仏崩れ?
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-01 15:11
2016年 11月 01日
日本国憲法の秘密-397-
カトリック教会の宣教師たちはみな修道会に属し、修道会の命を受けて派遣された。

その修道会も、フランシスコ会とイエズス会に代表されるように対立があった。
大航海時代はそのまま宗教改革の時代とも重なり、カトリックとプロテスタントに代表されるような既在宗教と新興宗教(教派)の対立も生まれた。

教皇の精鋭部隊とも呼ばれるイエズス会は宗教改革危機に創立されたもので、修道会としては後発であるが、ローマ教皇の後ろ盾のもとスペインやポルトガルとともに各地に進出していった。
広大なアメリカ大陸では大規模な宣教活動が行われたが、上記のような背景もあって独占状態を生み出すことはなかなか難しかった。
イエズス会の際立った活動は中国などアジアで行われた「適応政策」と呼ばれるものである。

フランシスコ・ザビエルは二年半の滞日で「日本人をキリスト教徒にするには中国人をキリスト教徒にするほかない」と考え、自ら中国宣教を試みたが、果たせず上川島で病没した。
東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノはザビエルの遺志を継いで中国宣教の実現を図り、ヨーロッパ人の宣教師で中国語と中国文化をマスターしたものを宣教に派遣するという大方針を立てた。この計画のために最初に選ばれたミケーレ・ルッジェーリ(羅明堅)は1579年にマカオに到着して中国語を学び始め、3年後にはマテオ・リッチ(利瑪竇)がこれに加わった。

リッチらは苦労の末に中国の土を踏み、自ら中国名を名乗り、中国の儒者の服装をして中国文化の理解につとめた。彼のやりかたは後のイエズス会中国宣教師たちに引き継がれていく。リッチは1601年に念願の北京入りを果たし、知識人たちと交わった。リッチは1610年に没するまでに多くの教義書、科学書を漢訳し、没後万暦帝によって墓所を与えられた。

イエズス会士たちは以後、明朝と清朝の宮廷を中心に活躍し、キリスト教を宣教しながら、西洋の最先端の科学知識を惜しみなく中国に伝えた。リッチ以降の著名なイエズス会員としては、明の宮廷に西洋科学を伝えたサバティーノ・デ・ウルシス(熊三抜)、明末および清初の宮廷で暦法を伝えたアダム・シャール(湯若望)、康熙帝の信頼厚く工部侍郎に任ぜられたフェルディナント・フェルビースト(南懐仁)、フェルビーストの後を継ぎ『康熙帝伝』を著したジョアシャン・ブーヴェ(白晋)、ネルチンスク条約締結において清朝側の代表としてロシアと交渉したジャン・フランソワ・ジェルビヨン(張誠)およびトマス・ペレイラ(徐日昇)、康熙帝の側近として20年以上仕えたドミニク・パルナン(巴多明)、実測によって『皇輿全覧図』を完成させたジャン・バティスト・レジス(雷孝思)、三代の皇帝に仕えて多くの絵画を残したジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)、『孫子』『呉子』『司馬法』などをフランス語訳によってヨーロッパに紹介したジョセフ・マリー・アミオ(銭徳明)などがあげられる。
17世紀後半にはロシア人コサックが北京などに入植し、正教が再度伝来した。 しかし、フランシスコ会やドミニコ会などがイエズス会の適応政策を批判、イエズス会は中国における偶像崇拝を容認していると教皇庁へ訴えた。これが典礼論争である。欧州各国の王権が強まる中で国を超えて活動しながら教皇に忠誠を誓うイエズス会は危険視され、これを機会に総攻撃を受ける。典礼論争は単なる宗教問題ではなく、政治問題でもあった。1773年に中国におけるイエズス会は解散に追い込まれ、宣教活動も終止符を打つことになる。一方で、正教会は存続した。


フランシスコ・ザビエルは1549年8月に鹿児島に上陸。
薩摩(鹿児島)の大名・島津貴久(島津家15代当主)から宣教許可を得て、鹿児島で活動する。
しかし誰かにアドバイスされたのか天皇や将軍に日本での宣教の許可を得ようと京都に向かうため薩摩を離れる。
長崎県の平戸と山口県に立ち寄り宣教を行いながら京都に入るも、宣教許可は拒否される。面会すら許されなかった。
ザビエルは山口県の大名・大内義隆に献上品を差出して宣教許可を得る。
最初に日本に来たザビエルらイエズス会の宣教はほとんど山口県で行われた。
その後豊後(大分県)にポルトガル船が来着したことを聞きつけて、ザビエルは豊後に向かう。
そこで後にキリシタン大名として有名になる大友義鎮(宗麟)に迎えられ宣教を行った。
しかしながらザビエルは日本での宣教が不調・失敗であることを分かっていた。
そして1552年4月に日本を離れインドへ向かう。
「日本全土での布教のためには日本文化に影響を与えている中国での宣教が不可欠」との理由で、同年9月にインドから中国に入るが、12月3日に亡くなる(46歳)。死因ははっきりとしない。過労からの熱病(熱が出る病気)だとか。

イエズス会士たちが中国やインド、アジアの宣教において実践した「適応政策」は、ヨーロッパのスタイルを押し付けるのではなく、当地の文化に自分たちを合わせるという当時のヨーロッパ人にとっては想像もできないほど画期的な方法論であり、大きな成功を収めたが、やがて貿易事業に利権を持つ各国政府の介入やイエズス会の急進を危険視したカトリック教会内での対抗勢力との争いがおこったために頓挫することになった。

以前、伊勢神宮はキリスト教の神殿(若干ユダヤ教な感じも・・)ではないかということを記事にしたことがあるが、イエズス会の「適応政策」を知れば笑い話で済ませられるものではないと思う。


1549年8月、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。
1552年4月、フランシスコ・ザビエルが日本を離れる。
1552年12月、フランシスコ・ザビエル死去。

1580年、イエズス会に長崎を寄進。
1582年、本能寺の変。
1584年、イエズス会に浦上を寄進

1587年7月、豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発令。(しかし空文化)
1596年、サン=フェリペ事件。⇒再び禁教令を出し、京都や大阪のフランシスコ会神父など6名と信者20人を捕縛。
1597年2月、26人を長崎にて処刑。

1600年4月、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)がオランダ船で漂着。⇒家康が外交顧問にする。
1603年、徳川家康征夷大将軍に就任。(江戸時代の始まり)
1614年、江戸幕府が「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令。大阪冬の陣。
1615年、大坂夏の陣。(イエズス会と結託した豊臣家滅ぶ)

1623年、スペイン領フィリピンとの貿易が禁止される。
1624年、スペインと国交断絶、スペイン船来航禁止。
1637年、キリスト教農民一揆「島原の乱」勃発。※島原は長崎県。
1639年、ポルトガル船の入港禁止。 ⇒これ以降が「鎖国」と呼ばれている。

1776年、アメリカ独立。

1790年、浦上一番崩れ。(「キリシタン禁令」から162年後)

1842年、浦上二番崩れ。

1853年、アメリカからペリー黒船来航。 ⇒後世ではここから幕末と呼ばれる。
1854年、アメリカと日米和親条約を締結。

1856年、浦上三番崩れ。

1867年、浦上四番崩れ。(この最中に明治維新)


江戸時代のキリシタン弾圧として有名な浦上崩れ。
1614年に「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」が発令されたのだから、基本的にイエズス会の宣教師などはいないはずである。
だから弾圧があったとするには日本の信者が必要である。それも「キリシタン禁令」が出ているのだから「隠れキリシタン」でなければ都合が悪い。
しかし弾圧事件として有名な「浦上崩れ」はよくよく見ると、四番以外は本当にあったのか?というくらい、取るに足らないような出来事である。

■浦上一番崩れ
浦上村の庄屋・高谷永左衛門が自分が信仰していた円福寺(廃仏毀釈後、山王神社となる)に88体の石仏を寄付することを決めて、村人に寄進を迫ったところ、多くの人々から拒絶された。
これに激怒した庄屋が反対派の村人19名をキリシタンとして告発した。ところが、証拠不十分であった上、当の庄屋による不正事件が発覚したため、事態は複雑化した。最終的に寛政7年(1795年)になって村人は放免され、彼らが円福寺の本寺にあたる延命寺に詫びの一札を入れることで事態の収拾となった。

⇒庄屋・高谷永左衛門の屋敷の跡地が後に浦上天主堂になる。

■浦上二番崩れ
浦上村の住民がキリシタンであるとの密告があり、帳方(隠れキリシタン組織の指導者)利五郎ら主だった幹部が摘発された。だが、捕らえられた者は一人として自分たちがキリシタンであることを認めず、長崎奉行所の役人である益田土之助も事を大きくしないように進言したため、捕らえられた者は注意を受けたのみで釈放された。

■浦上三番崩れ
浦上村のキリシタンに関する密告があり、密告者の中に棄教した「転び者」が含まれていたことから、この年の9月18日に帳方(隠れキリシタン組織の指導者)吉蔵らキリシタン15人が捕縛された。
これまでの浦上一番崩れはもっぱら訴えた庄屋の不正問題に話が移り、続く浦上二番崩れでは内部の慎重論もあって、「証拠不十分」による関係者の釈放の形で終わっていたのに対して、今回は実際に「転び者」による告発があったことから、取調は大規模かつ徹底的に行われ、吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。
にも関わらず、長崎奉行はこの件を村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えと知らなかったことによって生じた「異宗事件」として処理を行い、キリシタンの存在を公式には認めなかった。なお、長崎県立長崎図書館には『異宗一件』と命名された事件に関する帳簿が現存している。


■浦上四番崩れ
隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。欧米へ赴いた遣欧使節団一行は、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年(明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)以来259年振りに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。

「浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた」とあるが、そんな証拠はない。
幕末の最後の最後、長崎で本当にそんなことがあったとするならば、それは明治新政府側の仕業だろう。
カトリック(イエズス会)を認めさせるために仕組まれたのだ。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-11-01 12:37
2016年 10月 31日
日本国憲法の秘密-396-
権威を支えるのは世俗である。
権威に溺れた宗教は世俗化する。
そうこうしているうちに腐敗が進む。

世俗とは、一般的に「世間」「世の中」を意味する語であるが、政治や宗教においては「宗教とは無縁」の状態を言う。
殆どの企業や会社(コーポレーション)、いくつかの政府は、世俗的な組織である。

アメリカ合衆国の一部の私立大学がキリスト教会やユダヤ教に結びついている(例えば、ベイラー大学、ブリガムヤング大学、ボストンカレッジ、エモリー大学、ノートルダム大学、デュケイン大学、南メソジスト大学、イェシーバー大学が著名である。)のに対して、アメリカの州立大学は、世俗的な組織である(特に合衆国憲法の修正第1条による)。
イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そして日本における公立大学も世俗的であるが、一部の国々において私学助成を受ける一部の小学校や中等教育学校は、特定の宗教団体に連なっている。


宗教の世俗化とは宗教の本質を失うことだ。
宗教の本質は心であるので、その反対は物質ということになる。物質を言い換えれば、金や経済ということになる。
宗教の世俗化を簡単に言えば経教一致ということになる。貿易と布教の一体型はもろにこれに当てはまってくる。
世俗には心が無い、金や経済ばかりを追いかけている、まずこれが前提にある。多くの人が救われない社会である。(社会全体の状態のことなので各々に信仰心があるとかないとかは関係ない)
政治の世俗化とは政教分離のことを言う。政治に宗教(心的なもの)は持ち込まないのが政教分離。現実主義、民主主義。
心を担当し物質以外な側面から人々を救っていくのが宗教である。

ところがほとんどの政府が政教分離が出来ていない。
信者から支持が欲しい政治家は宗教に赴くことになる。
お金が必要な政治家は金融家や経済人にも媚を売る。
こうして宗教・政治・経済一致の社会が出来上がる。
全てが一致した社会とは、逃げ場のない社会である。どこからも救われない閉鎖的な社会。

カトリックがイベリア半島の再征服に成功したのが1492年。
この頃からカトリックの世俗化は目に余るようになり腐敗が顕著になってくる。
貿易一体型と言っても、貿易がいつも好調なわけではない。ヨーロッパのカトリック国や住民を相手に商売をしたり貢がせていた。

イギリスのオクスフォード大学教授のウィクリフ、チェコのプラハ大学教授のフス、イタリアのドミニコ会修道士だったサヴォナローラなど腐敗した教会や教皇を批判し改革を試みた者もいたが、彼らはカトリック教会により火刑にされた。
宗教改革の発端となるドイツのルターはその後に出てきた人物である。
ルターは本質を失っている(もともと持っていない)教会や信者に失望し改革に乗り出す。
当時のドイツ(神聖ローマ帝国)の皇帝カール5世は、スペイン王でもあった。
そんなわけで特にドイツは搾取の対象になっており、ルターだけでなくドイツ各地の諸侯もカトリックに不満を抱いていた。
ドイツ皇帝(スペイン王)とドイツ諸侯の対立があったゆえに、ルターはドイツ諸侯に守られる形で改革を推し進めることが出来た。
1529年、ルター派の諸侯や都市が皇帝カール5世に対して宗教改革を求める「抗議書(プロテスタティオ)」を送った。
これが「プロテスタント」(抗議者という意味)という名の由来である。
(イエズス会の創立は1534年8月15日)

織田信長と豊臣秀吉の安土桃山時代、徳川の江戸時代、日本で南蛮貿易や南蛮船と呼ばれていたのは、中国の南方を経由して日本にやってきたスペイン・ポルトガルとの貿易や船のことで、それはすなわちカトリック(イエズス会)のことなのだ。
イギリスやオランダはプロテスタントの国となる。

1614年、江戸幕府が「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令。

1587年7月に豊臣秀吉が出した「バテレン追放令」はキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。
(バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来しているそう)
プロテスタントは神父ではなく牧師であり、バテレン追放令はカトリックが追放されたということになる。
神父らは1614年以降、フィリピン、マカオ、ベトナム、タイなどに順次脱出する。
キリシタン禁令は外国人に適用するものではない。

1623年、スペイン領フィリピンとの貿易が禁止される。
1624年、スペインと国交断絶、スペイン船来航禁止。
1637年、キリスト教農民一揆「島原の乱」勃発。※島原は長崎県。
1639年、ポルトガル船の入港禁止。 ⇒これ以降が「鎖国」と呼ばれている。


織田信長は浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)と戦っていた。
江戸幕府はカトリック教会イエズス会勢力戦っていた。
どちらも著しく宗教の本質から逸脱していたからである。


1614年、大坂冬の陣。
1615年、大坂夏の陣。
江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦い。
豊臣秀吉と徳川家康は一度は和解したが、結局豊臣家は滅ぶことになる。
豊臣秀吉は石山本願寺の跡地に大阪城を建て、豊臣家がそこに入っていた。
秀吉亡き後、秀吉の息子達、特に三男がカトリックに入れ込んで大阪城に籠り宣教師も住まわせた。
そしてスペイン(カトリック)の支援を受けて幕府(徳川家)と戦う算段をしていた。
豊臣家はカトリックの呪縛から逃れられなかったのだ。
幕府は「バテレン追放令(イエズス会)」と「キリシタン禁令」を発令した上で大阪城を包囲。豊臣側の挑発によって戦いは始まった。
このようにカトリックは、徳川政権を武力で転覆する構想を立てていた。
また幕府側に外交顧問としてイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が付いていたため、日本においてもプロテスタントとカトリックという対立が生じていたのだが、全てが「キリスト教」で括られる日本でこういうことが語られることはほとんどない。

幕府の努力によって日本は250年あまり平穏な日々が続いた。
鎖国鎖国言うのが好きだが鎖国なんかしていない。
あの当時船で日本に来るのは命がけだった。
フィリピンや日本の周辺は世界的に見ても熱帯低気圧の発生が多い。
アメリカの東側も東アジアほどではないが多い。
気候の良い時期は台風、ハリケーン、サイクロンに見舞われる確率が高くなる。
残念ながら誰でも来れるわけではなかったのだ。
一般に開国と言われるのが1854年。アメリカと日米和親条約が締結された年である。前年にペリー黒船が来航している。
アメリカが独立したのは1776年。
イギリスの植民地となっていた地域がイギリスと戦って独立を勝ち取ったと言われるが、アメリカを植民地にしていたのはイギリスだけではない。
最初に上陸したのはやはりスペインである。つまりカトリック。
その後多くのヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に興味を示し移民も多く渡ったが、カトリック国領に渡るものにはカトリック信仰が求められた。
ただ宗教改革の時代に多くの国から入植したため、アメリカ全体をみれば宗教も多様化した。
e0126350_22151490.jpg

[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-31 14:11
2016年 10月 30日
日本国憲法の秘密-395-
1596年7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指し太平洋横断の最中に台風に遭遇。日本の土佐沖(現・高知県土佐市)に漂着。
そこでサン=フェリペ号事件が起き、それをきっかけに再び禁教令が発令された。
そしてフランシスコ会の宣教活動が禁教令に対して挑発的であると勝って決めつけられて、京都や大阪にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人(スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人各1人)、および日本人の信者20人が捕らえられ長崎まで市中引き回し(見世物)にされ処刑された。

サン=フェリペ号事件とは対照的な出来事が1609年にあった。時は江戸時代になっていた。
1609年9月、フィリピンのマニラからメキシコに向かっていたガレオン船3隻が航海中に台風に遭遇し、1隻は難破し日本の田尻の浜(現:千葉県夷隅郡御宿町)に漂着する。ここで地元民に救助された。
もう1隻は豊後(現:大分県臼杵市中津浦)に緊急入港し、もう1隻は航海を続けた。
この3隻の中の1隻にはフィリピン総監交代のため召還命令を受けたロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた。
彼はフィリピン総監死去を受けて臨時総監を務めており、その後正式に就任する者が決まったため御役御免でフィリピンからメキシコに戻るところだったのだ。
ロドリゴ・デ・ビベロが乗っていた船が千葉に漂着した船であった。

難破し50人余りが溺死し、300人余りが 上総国岩和田村(現御宿町)田尻の浜に上陸した際はこれを保護し歓待した。ロドリゴは「ドン・ロドリゴ日本見聞録」の中で、一行は約40日間滞在したが、その間、村の人々が献身的に対応してくれたと記している。大多喜城の本多忠朝(藩主)も300人余りの家臣を率いてロドリゴのもとを訪れ、幕府への報告を約束し温情ある措置をとった。
大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。



サン=フェリペ号事件から2年後の1598年に豊臣秀吉は病没した(61歳)。

豊臣秀吉は明(中国)の征服を目指していた。
配下の西国(西日本)諸大名を結集させ遠征軍を立ち上げた。
秀吉は朝鮮の手助けがないと中国征服は難しいと睨んでいたのか(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向ける。
こうして1592年に戦争が始まるも明がそれ以上の戦闘の拡大を防ぐために朝鮮へ出兵させたため朝鮮で膠着状態となり1593年に休戦し交渉が始まる。
しかし1597年に交渉決裂し、翌1598年に再び戦闘が開始される。
そんな中、秀吉が亡くなったわけだが、秀吉の死によって日本は撤退することになった。
この中国や朝鮮半島への野望は明治政府で復活することになる。

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。

豊臣秀吉の死から5年後の1603年(徳川家康60歳)、江戸幕府が成立し、徳川の時代に入る。
後世からみると江戸時代は長いので、初代の徳川家康が並々ならぬ強権者だったように感じるかもしれないが、家康は自分の地位や権力にはわりと頓着しない人であった。
秀吉に絆されて和解したり、秀吉の死後もすぐに天下を取らなかったり、新田が祖先であることを強調したりと、そうした性質は随所に見られるが、家康が征夷大将軍だったのも僅か2年のことで1605年までである。
1605年(家康62歳)に将軍職を辞して息子に譲位し、後で支える人になった。(これが大御所政治と呼ばれるようになる)

大御所政治(将軍を辞した1605年から1616年に死没するまでに家康が行ったこと)
・1605年、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の船友2人をタイ南部パッターニ(Pattani)へ送って日本とオランダの貿易を招聘。
・1607年、朝鮮通信使と謁見し、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復。
・1609年、オランダ使節と会見。オランダ総督からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸にオランダ東インド会社の商館の開設を許可。
・1611年、家康の祖先である新田義重(旧名は源義重;新田氏本宗家の初代で上野国新田荘を本拠としていた。この時はすでに故人、墓所は群馬県太田市別所町の円福寺)に鎮守府将軍を贈官する。
・1611年、エスパーニャ(現:メキシコ)の副王の使者と会見し、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取る。
両国の友好については合意したものの、通商を望んでいた日本側に対し、エスパーニャ側の前提条件はキリスト教の布教で、家康の経教分離の外交を無視したことが、家康をして禁教に踏み切らせた真因である。この後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことから、この禁教令は鎖国に直結するものではない。
・1613年、イギリス東インド会社のジョン・セーリスと会見。イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取り、朱印状による交易と平戸にイギリス商館の開設を許可。

この他中国とも通商関係があった。

日本で徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。
日本と朝鮮の中間に位置する対馬藩は地理的条件から経済を朝鮮との交易に依存していた背景もあり、朝鮮との国交回復のため、朝鮮出兵の際に連れて来られた捕虜の送還をはじめ日朝交渉を仲介した。

※対馬藩は対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)並びに浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩。

朝鮮側から朝鮮出兵の際に王陵を荒らした戦犯を差し出すように要求されたため、対馬藩は藩内の(朝鮮出兵とは全く無関係の)罪人の喉を水銀で潰して声を発せられなくした上で「朝鮮出兵の戦犯」として差し出した。
このような対馬藩の形振り構わぬ工作活動の結果、朝鮮側は(満州の女真族(後金)の勢力拡大で北方防備の必要もあったため)交渉に宥和的となった。
1605年、朝鮮側が徳川政権から先に国書を送るように要求してきたのに対し、対馬藩は国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。書式から偽書の疑いが生じたものの朝鮮は「回答使」(対馬藩は幕府に「通信使」と偽った)を派遣した。


要するに幕府が作成した国書ではなく、対馬藩が勝手に国書を作った(偽造した)のである。
さらに相手からの回答書も改ざんした。
自分の国も相手の国も騙したわけだ。
なんでそんなことをしたかと言えば、日朝貿易の実権を握りたかったからである。
1609年に貿易協定である「己酉約条」が締結されている。
内部告発によって偽造や改ざんが発覚するのは30年も後のことである。
すでに条約が運用されていたため、日朝貿易は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれることになった。
管理を強化するにはそれなりの理由がある。

鎖国ではないが一般的には鎖国と呼ばれている時代は1639~1854年。
1639年、南蛮船の入港を禁止したのだ。

何故南蛮船の入港を禁止するに至ったか、それにはウィリアム・アダムス(三浦按針)を知る必要がある。
江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士・水先案内人・貿易家。三浦 按針(みうら あんじん)の日本名でも知られる。

アダムスはイギリス人であるが、オランダ・ロッテルダムから極東(日本)を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけ、弟のトマスらと共にロッテルダムに渡り志願した。
航海は5隻からなる船団で行われ、1598年6月24日に出航した。

①ホープ号("希望"の意・旗艦) ⇒沈没
②リーフデ号("愛"の意)
③ヘローフ号("信仰"の意・ロッテルダムに帰還した唯一の船) ⇒オランダに引き返す
④トラウ号("忠誠"の意)  ⇒ポルトガルに拿捕される
⑤フライデ・ボートスハップ号("良い予兆"あるいは"陽気な使者"の意) ⇒スペインに拿捕される

アダムスは①ホープ号、弟トマスは④トラウ号の航海士として採用される。
兄弟は航海途上で②リーフデ号に配置換される。
航海は散々で日本に到着したのは②リーフデ号のみ。
これを運命と言わず何を運命と申しましょう。
そのリーフデ号も食糧補給のために寄港した先々で赤痢や壊血病が蔓延したり、インディオの襲撃に晒されたために次々と船員を失っていき、トマスもインディオに殺害されてしまう。こうして出航時に110人だった乗組員は、日本漂着までには24人に減っていた。
アダムスは生き残った1人だったのである。
しかし生存者も危うく殺されるところだった。

1600年4月29日、リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。太田は長崎奉行の寺沢広高に通報した。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。
結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。

5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だったが、路程や航海の目的、オランダやイングランドなどプロテスタント国とポルトガル・スペインらカトリック国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招く。 


徳川家康はここで知ったのだ。
カトリックのイエズス会とフランシスコ会の対立だけでなく、西洋にはカトリックとプロテスタンという対立があるということを。
日本人からは得られない情報、すでに日本で活動していたカトリックからはもたらされなかった情報、貴重な情報でありアダムスは貴重な存在だった。
家康はアダムスを離したくなくなって外交顧問にした。


ここでもう一度、フランシスコ会とイエズス会を整理しておく。これが非常にややこしいのだ。

★フランシスコ会 
 1209年イタリアでフランシスコ(イタリア人)が創立。無所有と清貧を主張し托鉢を行いながら布教。
 レコンキスタでカトリック国となった1429年以降のスペインで浸透し、フィリピン、メキシコと版図を広げていった。

★イエズス会
 宗教改革真っ只中の1534年8月15日にフランスで創立される。(フランスも一応カトリック国)
 創立者はパリ大学の学友6名。 しかし創立者にフランス出身者はいない。
 出身内訳は、スペイン5人、ポルトガル1人、サヴォイア(イタリア・フランス・スイスにまたがるようにしてあった国)1人。
 貿易と布教が一体。教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し現代に至っている。


フランシスコ会とイエズス会は対立していた。
フランシスコ会をスペイン系と書いたが、実はイエズス会も創立者7人のうちの5人がスペイン出身である。
フランシスコ・ザビエルも7人のうちの1人でスペイン出身である。

スペインとポルトガルはレコンキスタ(カトリックが再征服)によってカトリック国となった国。
レコンキスタが成就した後に大航海時代はやってくる。ローマ教皇はこのスペインとポルトガルを利用して貿易一体型の布教を行い植民地化を試みていた。

史上最悪のローマ教皇と言われたアレクサンデル6世(在位:1492-1503年)、スペイン出身。
1494年にスペインとポルトガルに「トルデシリャス条約」を結ばせる。
ヨーロッパ以外の新領土の分割方式を取り決めで、西経46度37分の経線を境に、西側はスペイン、東側はポルトガルものとした。
大西洋側に線引きをしたということ。ところが反対側の太平洋側に線引きを行っていなかったので東南アジアのモルッカ諸島(インドネシア)の帰属をめぐって両国に争いが行った。
そこで反対側の線引き交渉が行われ、1529年に「サラゴサ条約」も締結された。
下の緑の線が太平洋側の線。日本は北海道が少し分割されてしまう。
緑の線の西側はポルトガル、東側はスペイン。
日本が放棄したはずの北方領土にやたらこだわるのは、世界征服を狙ったカトリックのこの条約由来!?
e0126350_14374512.jpg


ローマ教皇(スペイン・ポルトガル)の世界征服の野望が頓挫するきっかけとなったのがフランシスコ会であり日本であった。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-30 11:32
2016年 10月 29日
日本国憲法の秘密-394-
長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)は1580年にイエズス会に寄進され、日本で唯一の外国領(イエズス会の教会領)になったという歴史がある。
当時の長崎では布教と貿易とが一体化していた。
続く1584年に浦上(旧浦上山里村)が寄進され、神父や修道士がともに生活をし、住民を司牧する土地となった。
このように勝手に日本の領土を宗教組織に寄進してしまうので時の為政者たちは貿易や宗教を制限せざるを得なかったのだ。
1913年(大正2年)に町名変更があり、旧浦上山里村の郷の一部が浦上町となった(現在は緑町)。


浦上(この浦上とは旧浦上山里町のこと)は日本におけるカトリックの聖地であると前述したが、上記のように早い時期にカトリックのイエズス会に浦上山里村が寄進されていて、その地にはカトリック信者が多かったからである。

浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった(浦上崩れ)。


日本に初めてキリスト教を伝えたのはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルだと言われている。
1549年8月15日に鹿児島に上陸した。
日本に着いた日がちょうど聖母マリアの被昇天の祭日に当たっていたこともあって、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
それから31年後、実際に長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)がイエズス会に寄進された。

1568~1582年は織田信長の時代。
織田信長の一番の敵は宗教団体だった。
宗教団体が町を乗っ取った挙句、信者を利用し一揆と称してあちこちで戦いを繰り返し、支配地域拡大を狙っていたからである。
織田信長は長いこと浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)と戦っていた。
織田信長の同じく浄土真宗本願寺勢力を警戒していたのがイエズス会であった。

織田信長はダライ・ラマのように神秘的なことは一切信じていなかったらしい。神も仏も信じない超現実主義者。
ところがなんと!1582年5月、織田信長、突如自ら「神」となることを決意。
「盆山(ぼんさん・Bonsan)」 という名前の石を置き、自らの化身として祀って、自分の誕生日に参拝するよう命じた。
これに不快感を示したのが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイス。OMG。
そして・・・。
1582年6月、「本能寺の変」 が起こった。そして織田信長は死んだ。


本能寺の変にはイエズス会が関わっており、当然日本側の織田に近い所にも協力者がいた。
豊臣秀吉は当初反織田信長側の人間だったと考えられる。
長崎(1580年)と浦上(1584年)がイエズス会に寄進されたのは本能寺の変(1582年)の前後である。

德川家康は織田信長の次男と組んで豊臣秀吉に対抗したが、1586年末に和解する。
(豊臣秀吉は)徳川家康に対しては融和策に転じ、天正14年(1586年)、妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。

その頃九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)、関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。

大友宗麟はクリスチャンでキリシタン大名として有名な人物。
九州では秀吉の停戦命令を無視して戦いが続けられ、島津軍が勝利することになる。
その翌年1587年に豊臣秀吉が九州に侵攻する。そして島津軍を圧倒し九州を平定に導いた。

豊臣秀吉はそこで九州の実態を知ることになった。
九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉はイエズス会準管区長でもあったガスパール・コエリョを呼び出し問い詰めた上で博多においてバテレン追放令を発布した。しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。

1587年7月、「バテレン追放令」を発令。
「バテレン追放令」はキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。(バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreから由来しているそう)
禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。

驚いたことは驚いたのだろうが、豊臣秀吉はイエズス会に強硬な態度が取れなかったということだ。


石山本願寺が無くなり、織田信長が死に、豊臣秀吉からは暗黙の了解を得たイエズス会に次なる敵が現れたのは、「バテレン追放令」から6年後の1593年のことだった。

1593年(文禄2年) - フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見
1594年(文禄3年) - 京都に「天使の元后教会」(聖母マリア教会)を建立。


スペイン系カトリックのフランシスコ会である。
当時のフィリピンはスペイン領(1565-1898年)だった。(アメリカ領となるのはその後で1898-1946年)
フィリピンは世界でも類を見ないカトリック国であるが、その歴史はスペイン領だった時代に始まっている。
イベリア半島のスペインとポルトガルはカトリックの執念(レコンキスタ)が実った国で、カトリック国である。
レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた、キリスト教国によるイベリア半島の再征服活動の総称である。
イスラムに奪われた土地を奪還再征服すべく750年も戦ったのだというから恐ろしい感嘆する。

フランシスコ会が日本に進出してきたためイエズス会(1543年創立、創立者は騎士、「教皇の精鋭部隊」)によるキリスト教日本市場の独占は崩れた。
さらにフランシスコ会は京都に滞在が許されるなど日本においては後発でありならがすぐさま大躍進した。
かなり後の時代でも日本人にはカトリックとプロテスタントの区別すら付いていない。
この時代の人に、豊臣秀吉に、キリスト教のイエズス会とフランシスコ会の違いはよく分からなかったであろう。(日本初上陸のイエズス会の宣教師がフランシスコ・ザビエルという名前だし・・)

イエズス会とフランシスコ会、両者は同じカトリック(の修道会)であるが、活動の仕方やその佇まいが異なった。
イエズス会は貿易を資金源にし(貿易と布教一体型)、ローマ教皇に近いだけあって派手で煌びやかなことが好きである。
フランシスコ会は無所有と清貧を主張したイタリアのフランシスコが1209年に創立した修道会であり、染色を施さない修道服を纏い、托鉢(信者などに食料を分けてもらう;乞食)を行いながら布教につとめた。
創立はイタリアにおいてだったが、レコンキスタによってカトリック国となったスペインでも布教し、フランシスコ会がスペインに広く浸透した。その後フィリピンにも進出したのである。
フランシスコ会はどの教会管区にも属さず、ただローマ教皇にのみ属したが、当のローマ教皇に活動を禁止されたり、その主張が異端として退けられてきた歴史も持つ。
一方でローマ教皇はフランスシスコ会を上手く利用する(取り込む)ことで、当時教会が抱えていた最も重要な懸案をともに解決することが可能であるともみておりフランシスコ会を承認し、時には支援したこともあった。
教会が抱えていた最も重要な懸案とは、他の異端の出現を阻み、市民を教え導くということである。
ローマ教会(ローマ教皇・イエズス会)は市民生活からはかけ離れており共感を得にくかったことの証である。
スペインの植民地だったフィリピンを経由して日本に入ってきたフランシスコ会と、先にいたイエズス会とが対立するに至る。


そしてあの事件が起こった。
1596年、サン=フェリペ事件。
事件と言うが暴力沙汰が起きたわけではない。

日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件。
豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。


サン=フェリペ号はメキシコを目指していたが東シナ海で複数の台風に襲われ甚大な被害を受けた。
船には船員の他、7名の司祭が乗っていた。(うちフランシスコ会は2名)
日本に漂着し、船員たちは長浜(現:高知市長浜)の町に留め置かれることになった。
一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の1人増田長盛が浦戸に派遣されることになった。それに先立って使者の1人ファン・ポーブレが一同のもとに戻り、積荷が没収されること、自分たちは勾留され果ては処刑される可能性があることを伝えた。先に秀吉はスペイン人の総督に「日本では遭難者を救助する」と通告していたため、まるで反対の対応に船員一同は驚愕した。

言っていたことと実際にやることが違うってやつですね。

船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。
さらに増田らは「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる3名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。
このとき、水先案内人(航海長)であったデ・オランディアは憤って長盛に世界地図を示し、スペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。


「フィリピンだって日本と同じようなものだろう!」と余計に怒らせてしまったのかもしれませんね。

しかし増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄した。

カトリック宣教師による征服計画の真偽
荷物の没収に抵抗しようとした船員たちに対し、増田が世界地図に示された欧州、南北アメリカ、フィリピンに跨るスペインの領土について「何故スペインがかくも広大な領土を持つにいたったか」と問うたところ、サン・フェリペ号の水先案内人が「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」という意味のことを告げたとされているが、この逸話は徳富蘇峰が大正〜戦前の昭和年間に記した近世日本国民史が初出である。 現在に至るまで実際にそのようなやりとりがあったという当時の史料は日本側の記録には見当たらない。


このことが秀吉に報告された直後の1596年12月8日に再び禁教令が発令された。
さらにフランシスコ会の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して磔の刑に処するよう命じた

京都や大坂にいたフランシスコ会の宣教師3人と修道士3人(スペイン人4人、メキシコ人、ポルトガル人各1人)、および日本人の信者20人が捕らえられた。
市中引き回し(広く一般に公開、つまり宣伝効果がある)の上、「長崎で処刑せよ」という命令を受けて一行は大坂を出発し歩いて長崎へ向かった。
1597年2月5日処刑。

この事件には、秀吉の対明(みん)外交、イエズス会とフランシスコ会の対立などいくつかの問題が関係しており、その真相を決定的に解明するのは難しい。
黒幕はイエズス会だろう。
カトリック宣教師による日本征服計画はフランシスコ会によるものではなくイエズス会だろう。

処刑終了後、彼らの遺骸は多くの人々の手で分けられ、日本で最初の殉教者の遺骸として世界各地に送られて崇敬を受けた。これはローマ・カトリック教会において、殉教者の遺骸や遺物(聖遺物)を尊ぶ伝統があったためである。日本二十六聖人は近世においては、日本よりもヨーロッパにおいてよく知られていたが、それはルイス・フロイスなどの宣教師たちの報告書によるところが大きい。

イエスが処刑されて英雄になり、その地位を確かにしていったのがキリスト教ローマ教会そのものである。
日本の上記出来事は「二十六聖人の殉教」という。
1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって聖人の列に加えられ、「日本二十六聖人」と呼ばれることになった
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-29 13:29
2016年 10月 28日
WC
TLが騒がしかったので(言ってみたかっただけ)(ティーンズラブではなくてツイッターのタイムラインって意味みたい。知ってる?)、批判が殺到しているとか?炎上しているとか?賛否両論真っ二つとか?の東急電鉄のマナー向上広告の話題に乗ってみようと思います。
車内化粧が問題になっているらしいのですが、マナー向上広告は車内化粧以外にも行っているそうです。(これは大事な情報ですね!?)

車内化粧、みっともない? 東急電鉄のマナー向上広告に反発、論争も(2016年10月28日産経ニュース)

「都会の女はみんなキレイだ。でも時々、みっともないんだ」。電車内で化粧をする女性。その姿を批判的に描いた東急電鉄のマナー向上広告の動画が、ネット上で波紋を呼んでいる。「恥ずかしいことだ」と動画に賛同する人がいる一方で、「何がいけないの?」と反発する声も。「みっともなさ」の感覚や公共の場での振る舞いを巡って論争が起きている。


都会の女がみんなキレイとは限らない。
田舎の女を馬鹿にした感じがなんかイラッとしますね?


●その広告を不快だと感じた人のブログ記事
若い女はいつまで「みっともない」と脅される立場でいなきゃいけないだろうのか(車内化粧について思うこと)

●広告では若い女なんて言っていないのに、どうして「若い女」と決めつけたのさとお怒り?のブログ記事
電車の中での化粧が「みっともない」かはともかく、私は不快ですよ
この広告で言っているのは電車内での化粧の話しかしていないのに、こういう考えに発展するということが問題です。フェミとかどうこう以前に読解力の問題です。

はてなブログのはてなき戦い!?

ところで何故東急電鉄の広告は「キレイ」とカタカナを使用したのでしょうか?  
それはやはりハイカラ観を出すためで、それが「若い女」に繋がったのではないかと推測されるがどうだろう。
単に広告で化粧していた人が若かったから?

都会の女はみんなきれいだ。 都会の女はみんなキレイだ。 都会の女はみんな綺麗だ。

電車内で化粧している人は私も見かけたことがある。
車の中で化粧している人を見かけたこともある。
それどころか車の中で歯を磨いている人を見かけたことすらある。(漱ぎはどうするんんだろうと凄く気になった)
私は走行中の車の中で何か食べたり飲んだりしたことがある。運転しながらもある。

私が車内化粧批判よりも驚いたのは、テレビで前に駅のホームや電車内で飲み食いするのはみっともない(恥ずかしい)と言っていたこと。
公園だって、アウトレットだって、ディズニーランドだって、飲み食いしている人はいる。
だいいち、食べて下さい、飲んでくださいばかりに販売している。
駅だって売店があり、立ち食いソバ屋があったりする。
観光客相手の電車だったら車内飲み食いOKである。
新幹線や特急・急行ならばよいが、普通列車では許せないということなんだろうか?
上越線沿いに住みボックスシートが当たり前だった時代に電車をよく利用した私は普通列車内だって飲み食いするをよく見かけた。

だからということもないが電車内で化粧していても別に驚きはしない、えらく迷惑を被ったとも思わない。
しかし見てはいけないものを見てしまったような気にはすごくなる。凝視できない。
実は私がそういう気持ちになるのは電車内だけではない。
トイレでも同じなのだ。
トイレには大抵大きな鏡がある。トイレを「化粧室」と呼ぶことだってあるくらいだ。
デパートやホテルなどちょっと洒落た場所のトイレ(化粧室)には本当に化粧スペースを設けていることもあるが、一般的には手洗い場の前に鏡が設置してあるだけである。
そこで化粧や化粧直しや髪の毛いじりをする人(特に若い人)は非常に多い。
手も洗わないのに手洗い場を塞いで熱中して立っているとすれば迷惑千万。
手洗い場が沢山あって支障が無ければ特に迷惑ということはないけれども、なんとなく目のやり場に困る(鏡を見ないで俯きがちに後にする)。
見てはいけないものを見てしまった気持ちになる。

つまり他の人がいる公共の場で化粧をするという行為は、実はトイレであっても電車内であっても同じなのだ。
トイレの個室ならば他人の目に触れることはないけれど、なかなか出てこないというのも却って迷惑かもしれない。
トイレが電車と違うのは異性の目がないということだけ。
すなわち公共の場で行うのがいけないということではないのだ。
電車内で行うのはダメで、トイレならば良い、それは化粧する姿を男に見せるなということなんだと思う。
言い換えると、女は化粧を男のためにしているということになる。
綺麗な自分を見せたい人がいないところで化粧をする。
電車内で化粧をする人は、「男」がぐっと狭まって、例えば「好きな男」とかになっているのでは。
だから知らない人に見られてもへっちゃらなんだろうと思う。





[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-28 12:02
2016年 10月 27日
日本国憲法の秘密-393-
前記事の住宅地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図だったが、調来助という人は長崎医科大学(現:長崎大学医学部)の教授だった人である。
福岡県朝倉郡大福村(現:朝倉市)出身。東京帝国大学(現:東京大学)医学部卒。

(卒業年の)大正15年9月、北京医院外科医長に27歳の若さで赴任しました。これは、日清戦争後の日本と中華民国(現在の中国)の友好親善という日本の大きな目的と、同仁会(医界と民間外交団体幹部が作った医療事業団体)の主な活動である中華民国の医学・薬学およびその技術を普及させ、一般衛生状態の改善を図るという大きな使命がありました。来助は、2年半にわたり実践し、成果を上げました。
 さらに昭和4年4月からは、現在の韓国の朝鮮京城帝国大学第2外科助教授として8年間にわたって朝鮮の医学の普及と優秀な医師の養成に尽力しました(昭和9年に医学博士号取得)。
 昭和12年5月からは、朝鮮全羅南道立光州医院長を5年間務め、医療業務達成のために努力しました。およそ15年間の長い海外派遣で、日本医学の普及と日・中・韓の友好親善を、医学を通して立派に果たした彼の功績は高く評価されました。

来助は、朝鮮から帰国後、東京帝国大学の推薦と長崎医科大学の強い要請を受け、昭和17年4月、長崎医科大学第1外科教授に就任し、以来、23年間優秀な医師の養成と医学研究に没頭しました。
 昭和20年8月9日の原子爆弾投下で自らも被爆し、原爆症に耐えながら、被爆者の治療・救済に努め、その悲惨さを「医師の証言長崎原爆体験」や、被爆者約8千人の治療と同時に原爆による症状等を分析して「原爆障害の大要」として報告しました。

福岡県朝倉市 ふるさと人物誌21 原爆医療の先駆者 「調 来助」(しらべ らいすけ)より>

しかし放射性物質の影響やリスクは少しも考慮されることなく今日に至る・・・・。
「原爆症」とははたして何か?火傷のことなのか?


地図を掲載していたブログに長崎原爆当時の新聞についても書かれていた。

まずは、長崎に原子爆弾が投下されたことを戦時中の新聞がどのように伝えているか、その一報を見てみます。
朝日新聞は、戦前、戦中、戦後と、一貫して新聞の過去号が出版されており、大きな図書館などで閲覧することができます。1945年8月12日付の朝日新聞には、1面下段に「長崎にも新型爆彈」という記事が載っています。

―――
長崎にも新型爆彈
西部軍管區司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)
一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し、新型爆彈らしきものを使用せり
二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込
―――

長崎の原子爆弾投下の第一報は、わずかこれだけのものでした。この記事の左側には、広島への原子爆弾投下を受けて「新型爆彈への對策」や「一瞬に廣島變貌」といった記事が載っていますが、それらに比べるとごく小さな扱われ方でした。


先日広島のところに出てきた新聞も朝日新聞だった。
原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。
新聞社には原爆(新兵器)という認識は全くない。
それどころか、大きな被害が出たという噂話も届かなかったらしく、被害は若干の模様だと記されている。
これでは報道機関もあてにならんということになってしまう。


広島での大本営発表は投下当日ではなく翌日(7日)だった。
―――
大本営発表(昭和二十年八月七日十五時三十分)
一、昨八月六日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり
二、敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり

―――


長崎の時は大本営ではなく西部軍管区司令部発表だったようだ。

1935年8月西部防衛司令部として発足し中国・四国・九州地方を管轄区域とする西部軍司令部が軍管区内の軍隊を指揮・統率した。1945年2月1日第16方面軍の編成により廃止され、その後は第16方面軍司令部が西部軍管区司令部を兼ね九州地方の軍政を統括した。
第16方面軍司令官は西部軍管区司令官を兼ね、軍管区司令官としては天皇に直隷した。また、参謀長、参謀副長も、西部軍管区のそれを兼ねた。


西部軍司令部は福岡県小倉市(現:北九州市)に、第16方面軍司令部は福岡県二日市(現:筑紫野市)にあった。


9日に投下され、当日(3時間43分後)に大本営発表並みの西部軍管区司令部発表があったにもかかわらず、朝日新聞が一報を掲載したのは8月12日付新聞だったらしい。
そしてその時点でも「詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込」だったのである。

では地元をよく知っているはずの地方紙はどうだろうか。
広島では地方紙の中国新聞が原爆投下翌日と翌々日の新聞を休刊にした。新聞社も被害にあって発行しなかったというのだ。
長崎は?

1945年から1949年の占領期に米国軍から検閲を受けた出版物が眠っているメリーランド大学のプランゲ文庫には、原爆投下後まもないころの長崎市民が読んでいた新聞が収蔵されています。
長崎で発行されていた地方紙も、全国紙だった毎日新聞の長崎版も、プランゲ文庫には収蔵されているそうである。しかし・・・
原子爆弾が投下された直後の長崎市の様子がわかる新聞記事は、残念ながらプランゲ文庫にも収蔵されていません。検閲が開始されたのは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「言論および新聞の自由に関する覚書」を出した1945年9月10日以降となります。


こんな状況でよく爆心地がピンポイントで分かったものである。

長崎市が編纂した『長崎原爆戦災史 第二巻 地域編』によると、被爆直後から、爆心地は松山町であるという未確認の情報が出まわっていたといいます。

後日、公式な爆心地の推計と決定が行われました。文部科学省学術研究会議・原子爆弾災害調査研究特別委員会から、理科学研究所の木村一治、田島英一、また地震研究所の金井清などの科学者が長崎に派遣され、現地を調査しました。
木村らは、浦上天主堂の忠霊碑(爆心地からおよそ450メートル)、浦上天主堂前の記念碑(450メートル)、長崎医科大学附属病院の窓枠(650メートル)、井樋の口の交番所(1470メートル)などに残されている焼け跡の向きなどを手がかりにしました。これらの焼け跡の向きの焦点が合った場所が、爆心地であると考えたわけです。
長崎市松山町171番地が爆心地であることが決定されました。

[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-27 20:54
2016年 10月 27日
日本国憲法の秘密-392-
●浦上天主堂(カトリック浦上教会)
長崎県長崎市本尾町1-79

浦上天主堂もヨーロッパ建築。石と煉瓦造りのロマネスク様式。
信者が寄付をしたり建設に携わるも資金難と工期遅れのため屋根は木造瓦葺に設計変更したそうだ。
土地を買い取って(?)建設を始めてから19年後の1914年に完成。
象徴的な双塔が出来たのはさらに11年後の1925年で、2つの鐘が吊るされた。

左側が爆弾によって壊れる前の浦上天主堂。右側が壊れた後。
e0126350_1123974.jpg


双塔は高さがあるが、建物は2階程度の高さだと思う。(建物は少し高い所に造られている)
教会なのでほぼワンフロアーで天井が高いがらんとした空間である。
従って屋根と外壁が壊れれば何も残らないということになる。


◎爆心地はどこだ?

長崎の爆心地は平和公園の平和祈念像辺りだと思っている人が多いようだ。
観光客が沢山訪れるのも記念式典が催されるのもそこ。
でも爆心地とされている場所は違う。もう少し南側に位置していて、道路を一本挟んでいる。
Yahoo地図には「原爆公園」とある。
通常、「原爆落下中心地公園」「原爆投下中心地公園」「爆心地公園」「爆心公園」などと呼ばれる。
1945年10月、爆心地を「松山町170番地テニスコート跡地」と確定(後の調査で、「松山町171番地」と訂正)。煙突の残骸の円柱に「爆心」「Centre」と書き記して、標柱として建てる。

浦上天主堂の遺壁もこちらにある。
e0126350_11423338.jpg



平和公園にはゾーンがある。
但し、長崎市民が「平和公園」と言った場合、平和祈念像地区・願いのゾーンのみをさす。 毎年8月9日の長崎原爆の日(長崎原爆忌)には、平和祈念像前の式典広場にて原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催される。
長崎市民ではなくても多くの人は「平和祈念像地区・願いのゾーン」が平和公園だと思っている。
だからそこが爆心地だと勘違いすることになる。
平和公園の住所は、長崎県長崎市松山町9で、これは平和祈念像地区・願いのゾーンの南側にあたる。

■平和祈念像地区・願いのゾーン(平和祈念像・折鶴の塔・長崎の鐘・平和の泉・世界平和シンボルゾーン・長崎刑務所浦上刑務支所跡・長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂)
■原爆落下中心地地区・祈りのゾーン
■長崎原爆資料館地区・学びのゾーン(長崎原爆資料館・国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館・長崎市平和会館)
■スポーツのゾーン(県営長崎ビッグNスタジアム・長崎市営ラグビーサッカー場・長崎市民総合プール)
■広場のゾーン(長崎市営陸上競技場・長崎市営庭球場・長崎市営ソフトボール場・長崎市営弓道場)

e0126350_1264622.jpg

クリッククリックで大きくなります
こんな近くに長崎大学医学部がありながら、考えられる原爆(放射性物質や放射線)の影響に対して
何も対策が取られなかったことは驚きではなかろうか。



e0126350_12371722.jpg

この写真が原爆投下2日前に撮られた写真だそうだ。
ちょっとぼやかしてやれば焼野原に見えなくもない。(文字と矢印は私が書き入れました)
陸上競技場らしきものはすでにあるが、県営野球場や市営ラグビーサッカー場はまだない。
右上の広場のような土地は長崎大学医学部のグラウンドだろう。現在もそこにある。
その上が浦上天主堂(カトリック浦上教会)ということになる。
現在「原爆公園(爆心地公園)」となっている所も、当時から広場のような感じだったことが見て取れる。(テニスコートだったと言われている)
赤字で三菱地所と書いた所も当時は広場だったようだ。なんでも三菱の土地で野球場として使っていたらしい。
戦後にはアパート(団地?社宅?)が8~9棟建設されて、「三菱浜口アパート」と呼ばれ、わりと最近までそのアパートは存在していた。
見るたびに切ない三菱浜口アパート
それが壊され2014年に「トレディア浜口」という名の15階建てのマンションが誕生。
西日本菱重興産(三菱長崎造船所の総合建設子会社)が所有で、三菱社員専用の賃貸マンションらしい。
原爆爆心地も当時三菱が買収したばかりだったと言われている。
長崎の商人で富豪の高見和平が所有していた「高見別荘」のテニスコートだったが、三菱長崎造船所が宿舎にする計画で買収したばかりだったとかで、その近辺は無人となっていた。
原爆爆心地には宿舎は建てられないということで、野球場つぶしてアパート建てたんですかね?


今度はこの地図を見てもらいたい。
地図はこちらのブログ、科学技術のアネクドート 松山町171番地は別荘だった――長崎とアトム(2)より。
地図の出典は、調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図より(色付き囲みは上記ブログで付けたものだそうです)。
色付き囲みは爆心地と、防空壕にいて松山町でたった一人生き残った少女(黒川幸子さん・9歳)宅。
e0126350_14112026.jpg


横向きだと分かりにくいので縦向きにして現在の地図とならべて見る。
e0126350_14392095.jpg

左地図の左白抜き部分が当時「松山町」だった地域らしい。
線路、大通り、川が今と変わっていないので、比較しやすい。
右地図にて黒線(長崎本線含む)で囲ったところが白抜き部分にあたり松山町である。
つまり現在の平和公園の一部は松山町に含まれないということになる。
平和祈念像が設置されている場所や式典を行っている場所は、原爆が投下された松山町ですらなかったということなのだ。

縦地図で長崎本線の左側(横地図で長崎本線の下側)には、「駒場町2丁目」と書いてある。
「松山町」は1923年に付けられた名称であるが、1940年にその中の一部が「駒場町2丁目」に変更された。
現在スタジアムや競技場がある所である。1940年の「駒場」というのは何やら意味深。
長崎県下、1940年に変更があったのはここだけである。
「駒場町2丁目」は1964年に松山町に戻り、以降今日まで変わっていない。
長崎県では1964年に住居表示実施された。この時に大々的に町名が整理された。
(土地の番号・地番は分割したり合わせたりすることで番号が順序よく並ばなくなってしまい、郵便局などが不便のため地番とは別に並びのよい住所表示をいうものが導入された)
浦上天主堂は現住所的には本尾(もとお)町となる。小高い丘一体が本尾町で、現在は頂上周囲にぐるりと民家が密集している。
しかしそう、爆心地は松山町と断定され、爆心地を示した公園があるにもかかわらず、原爆は浦上天主堂や現在の平和公園(平和祈念像)の上空で爆発したと言われることが非常に多い。
それを裏付けるかのように、浦上天主堂の遺構は平和祈念像のある平和公園ではなく、原爆公園のほうにある。そこは松山町である。

ちなみに、上記のブログによると、「高見別荘」を買い取った三菱長崎造船所は、そこを「女子挺身隊の宿舎」にする予定だったそうである。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-27 11:30
2016年 10月 26日
日本国憲法の秘密-391-
●原爆ドーム
広島県広島市中区大手町1丁目10

広島市は、日清戦争で大本営がおかれたことを契機に軍都として急速に発展していった。経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓が急務となっていた。その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」である。1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工した。

1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル。
ドームの先端までの高さは約25mあり、ネオ・バロック的な骨格にゼツェシオン風の細部装飾を持つ混成様式の建物であった。レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。



広島県物産陳列館(原爆ドーム)の建物の構造(広島市ホームページ 原爆ドームより
中心に中庭を配置して吹抜けになっており、建物中央は楕円形の階段室がありました。
全体は窓の多い3階建てですが、建物中央の階段室部分は5階建てで、その上にドームが載っていました。また、一部に地下室が設けられていました。
建物は一部鉄骨を使用した煉瓦造で、石材とモルタルで外装が施され、内壁の大半は漆喰壁であったと考えられます。


ドーム部分は鉄骨で形作り、屋根には銅版が乗っていた。
銅の屋根は寺社の屋根などに用いられているのを見かけるが、鎌倉の大仏や自由の女神も銅版だそうである。
上空で爆発したわりにはドーム部分を含め、上階が残っていることになる。
銅版がなくなって、鉄骨がそのまま残っている理由は、融点の差(銅:1085℃、鉄1538℃)だと説明されている。銅版は真っ先に融けてしまったんだとか。

ところで原爆ドームって何か変ではありませんか?

e0126350_12395623.jpg

クリッククリックで大きくなります。

e0126350_126091.jpg

e0126350_12102781.jpg

e0126350_1263076.jpg

クリッククリックで大きくなります。

e0126350_123242.jpg

安田女子大学の皆さん、なんか違うなあと思いませんでした?

[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-26 12:14
2016年 10月 25日
日本国憲法の秘密-390-
長崎での投下目標は、市内中心部の中央橋の予定だったが、実際は、4Km北にずれ、よりによって、長崎でもキリスト教信者がもっとも多く住んでいた浦上地区の上空、しかも日本のキリスト教の歴史上、最も重要な建築物である浦上天主堂カソリック教会のほぼ真上で爆発したのである。
ナガサキ・消えた原爆ドームという話より>



長崎での投下目標は中島川に架かる橋だった。
中島川は市街地を流れる川で、それほど大きな川ではない。
長崎市には北から南に流れる浦上川というもっと大きな川がある。
ただ中島川は江戸時代には大川と呼ばれていたそうだ。
広島爆心地の地名は「中島」だが、長崎の投下目標も「中島」である。
中島川の中央橋の西側地域も中島橋と呼ばれているらしいが、町名で言えば江戸町と築町になる。
長崎県庁は江戸町にある。

しかし実際に原爆投下された場所とされているのは、そこではない。
平和公園や浦上天主堂(カトリック浦上教会)の上空で爆発したとされている。

実は、その教会の廃墟は、被曝から13年後の、ぼくが小学校1年生の頃までは、そのままの姿で残っており、教会の庭には聖像の首が ゴロンゴロンと転がっていたのである。そして、その頃には、長崎を観光で訪れる人々のための市内観光バスツアーというのが既にあり、その目玉が浦上天主堂の廃墟であり、廃墟から掘り出された鐘楼の鐘を鉄塔に吊り下げた「アンジェラスの鐘」だった。
ナガサキ・消えた原爆ドームという話より>

広島同様、長崎も放射性物質や放射線に対する対策は一切取られていない。



長崎の原爆は松山町171番地の上空で爆発したそうだ。
現在は平和公園の一角となる。
当時は長崎の商人で富豪の高見和平が所有していた「高見別荘」のテニスコートだったが、三菱長崎造船所が宿舎にする計画で買収したばかりだったとかで、その近辺は無人となっていた。
周囲は民家が密集しており、頑丈で大きな建物が立ち並んでいたということはなく、焼夷弾で事足るような場所である。
シンボルとなり、ターゲットにしやすく、且つ焼夷弾ではなく爆弾が必要なのは浦上天主堂だったろうと考えられる。
長崎の浦上は日本におけるカトリックの聖地である。
しかしそう、平和公園も浦上天主堂(カトリック浦上教会)も実は松山町なのだ。


長崎の現在の中心市街地一帯はその昔「長崎区」であった。昔からハイカラだったのだ。
「長崎区」の北側は「上長崎村」。
「長崎区」や「上長崎村」の北西方向に「浦上山里村」があった。
長崎の街は埋め立ての歴史であり、市街地も埋め立てて造られたところがあるが、市街地より西側も現在の長崎本線の浦上駅の辺りまで海だった。深く湾入していたのだ。
浦上駅北側の長崎本線と長崎電鉄に挟まれた小さな地域を川口町というが、これはそこが河口(川口)だったことの名残だそうだ。現在もある浜口町と岩川町の一部が川口町になったのだが、どちらにしてもそこまで海が来ていたということが分かる名である。

長崎(恐らく長崎港を中心とした旧長崎区)は1580年にイエズス会に寄進され、日本で唯一の外国領(イエズス会の教会領)になったという歴史がある。
当時の長崎では布教と貿易とが一体化していた。
続く1584年に浦上(旧浦上山里村)が寄進され、神父や修道士がともに生活をし、住民を司牧する土地となった。
このように勝手に日本の領土を宗教組織に寄進してしまうので時の為政者たちは貿易や宗教を制限せざるを得なかったのだ。
1605年に肥後の豪族が浦上山里村の世襲庄屋(村長)に任命され、その庄屋(高谷小左衛門)の屋敷が小高い丘に造られた。
それが浦上天主堂(カトリック浦上教会)のある場所である。
明治時代に入ると、江戸時代にカトリックが抑制された浦上の地に信者が戻りだし、1880年(明治13年)に大浦天主堂から専任の神父が来て、庄屋の跡地を買い取った。(買い取った?)
つまり屋敷跡地に浦上天主堂(カトリック浦上教会)の建設を始めたのだが、19年もの歳月を要し、完成は1914年だった。
1913年(大正2年)に町名変更があり、旧浦上山里村の郷の一部が浦上町となった(現在は緑町)。
繰り返しになるが浦上天主堂(カトリック浦上教会)は松山町である。

要するに長崎の原爆が投下されたという場所はかなり曰くつきの地である。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-25 12:15
2016年 10月 24日
日本国憲法の秘密-389-
e0126350_11561875.jpg


昨日は父と母がいつもお世話になっているヘルパーさんの一人が所属している女声合唱団のコンサートに行ってきた。
1983年創立で33歳になる合唱団で、団員の平均年齢も年々上がっているらしい。
近年は2年に1回コンサートを開催していて、昨日が19回目のコンサート。
母は病気をしたあと視力も聴力も落ちてしまったので、一番前の席で見てきました。
そのかいあって顔も見えて歌も聞こえたということなので良かった。
やはり知っている歌だと聞き取りやすいみたいです。
全曲暗記は凄い!とくにラテン語。
楽しくて素敵なコンサートでした。ありがとうございました。


--------------------------------------------

1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。


1868年、明治元年。
翌1869年3月28日、明治天皇が東京に入り、江戸城改め皇城(1888年に宮城と改称、現:皇居)と改めた。いわゆる「東京遷都」。

1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日施行。
近代立憲主義に基づく憲法とされるが、天皇の絶対性を謳った憲法で実態は「近代立憲主義」とは程遠い。憲法とは名ばかり。
しかも憲法制定は明治時代に入ってから20年も経った後のことであった。
明治元年の時、明治天皇はまだ16歳。神として祀り上げて絶対性を布くには如何せん若いということだったのだろう。
憲法公布の時は37歳、機が熟したということになる。

大本営―陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関。
大本営は1893年5月22日(天皇40歳の時)に公布された戦時大本営条例によって法制化された。
そして翌年に日清戦争が行われるのである。

日清戦争、1894年7月~1895年3月。
日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。
同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が広島に移り、大本営も広島城本丸に移った(広島大本営)。
明治天皇は1895年5月30日まで広島にいた。
広島城本丸には1873年に「広島鎮台」が置かれ、日本の近代軍制史上もっとも早期の軍事拠点であった。その後は第5師団指令部が置かれていた。

日露戦争、1904年2月8~1905年9月。
この時は宮中(皇居)が大本営だった。

広島の原爆ドームは広島城にほど近い場所にある。
広島の原爆は市街地に投下されたということになる。しかも県庁所在地である。
原爆が落とされた場所を移ることなく、県庁をはじめ様々な公的機関、学校や病院、商業施設、ホテルなどが立ち並ぶ。
そう簡単に消えることのない放射性物質の影響など微塵も気にした様子はない。



関東の人間からすると広島は不思議な土地だ。
何が不思議かという川の流れである。
関東を代表する利根川は支流が次々と合流しながら1本の川になって平野に向かっていき海に辿り着く。
広島市街地に向かっていく川は太田川という川なのだが、この川は平野部で幾つにも分かれて、そのまま広島湾に流れ込む。広島中心部には幾本もの川が流れている。
広島は三角州で作られた街である。原爆ドームの場所の地名は中島である。
従って川に架かる橋を落とすと陸の孤島が幾つも出来てしまい、逃げたくても逃げられたない、救助や消火活動に行きたくても行けない、そういう状況が生まれる。
原爆なんか落とさなくても被害を拡大できる土地である。


広島は軍都である。
第二次世界大戦前から広島城の敷地には軍関係の建物があり、戦時中にはさらに増えたらしい。
それにもかかわらず原爆投下の日まで広島は空襲されていない。
アメリカが原爆を落とす予定だったから空襲を避けていたと言われるが、あまりに呑気というか何というか、「戦争とは何か」という根本が揺らぐ。
何故空襲しなかったか。上記のように被害が大きくなってしまうからである。
被害がない状態から大きな被害という落差が必要だったのだ。

(広島城敷地に)戦争末期、空襲下でも指揮できるようシェルター機能を兼ねた半地下式RC平屋構造で司令部防空作戦室が作られた。1945年(昭和20年)6月12日には、本土決戦に備え広島師管区が中国軍管区に改称され、天皇に直隷し中国地方を管轄することとなった。
ここが広島市への原子爆弾投下の第一報を外に向けて伝えた場所である。


とはいえ広島に原爆が投下されたという8月6日には大本営発表はなかった。

原爆が投下された8月6日には大本営発表がなされなかったため、新聞各紙の扱いは小さかった。
新聞社には原爆(新兵器)という認識は全くない。
それどころか、大きな被害が出たという噂話も届かなかったらしく、被害は若干の模様だと記されている。
これでは報道機関もあてにならんということになってしまう。
朝日新聞東京版(昭和20年8月7日付)
広島を焼爆
六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷弾爆弾をもつて同市附近を攻撃、このため同市附近に若干の被害を蒙つた模様である(大阪)

朝日新聞大阪版(昭和20年8月7日付)
天候回復、敵襲にそなへよ / 西宮、広島暴爆 / 今治、前橋等にも来襲
(広島)六日七時五十分ごろB29二機は四国東南端より北進、香川県西部を経て広島市に侵入、焼夷弾、爆弾をもつて同市附近を攻撃の後反転、八時三十分ごろ同一経路を土佐湾南方に脱去した、このため広島市附近に若干の損害を蒙つた模様である、敵米はわが中小都市、重要工場などの爆撃は夜間を選び、専ら自軍の損害をさける隠密行動をとつていたが昼間、偵察をこととしていた敵がわが方が油断したと思つたか、白昼僅か二機を持つて爆弾、焼夷弾を混投したことは今後十分警戒を要する

日本本土に行われていた空襲は「焼夷弾」が用いられていた。
焼夷弾は油のような可燃性物質を詰め込み、それを撒き散らし引火させて火災での被害を狙うものである。
一方、「爆弾」とは発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊するものである。
爆弾には火災が付き物と思っている人も少なくないかもしれないが、爆弾自体には火災を起こす能力はない。

8月7日の大本営発表を受け、8月8日には各紙とも広島が「新型爆弾」で攻撃されたことを1面トップで報じた。

火勢がやや収まってきた6日17時30分、呉鎮守府の呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による被害および正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で「8月6日廣島空襲被害状況報告書」にて原爆の空中爆発による攻撃であると断定した


断定する前に発表したということだろうか?

9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していることを確認、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。
これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医および理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射能測定や被爆者の血液検査などを行った
この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、白血球の減少している被爆者が多いことが分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕んだ放射線はα線、γ線、β線、中性子線であることが判明した。







[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-24 11:58
2016年 10月 23日
日本国憲法の秘密-388-
1945年7月12日~8月2日、ポツダム会談。
1945年7月16日、世界初の核実験「トリニティ実験」が行われる。爆縮方式のプルトニウム原爆。
1945年7月21日、トルーマン大統領がトリニティ実験の成功の報告を受け取る。(成功?)
1945年7月24日、トルーマン大統領がソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かす。
1945年7月26日、イギリスの選挙開票日。保守党の敗北を受けてチャーチル首相が帰国し退任。
            ポツダム宣言発表。(アメリカ・トルーマン大統領が一人で署名)         
1945年7月28日、大山口列車空襲事件。
            鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?
              ⇒ノーコメントと言ったようだが、黙殺、拒否、全面的に無視と報じられる。
1945年8月6日、広島に原爆投下。
1945年8月9日、長崎に原爆投下。
            ソ連対日攻撃開始。


広島原爆投下は護衛機も付けずにたった一機で飛んできて行った。
開発にかけた19億ドルという莫大な費用を背負っているわりには緊張感が無さすぎる。
しかもカメラが故障して、キノコ雲の写真がたった一枚撮れただけだった。(アメリカ軍発表)
e0126350_0121681.jpg

長崎でも天気が悪くてキノコ雲だけしか撮れなかった。
撮れなかった理由は原爆を投下していないからだろう。
地上で原爆ではない爆弾を爆発させた。普通の空爆もプラスしたかもしれない。


広島原爆の地上起爆説

広島に原爆を投下したとされているB-29(エノラゲイ)
現在、機体はスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターという博物館に展示されています。
こんな図体のでかいプロペラ機が原爆を投下後に直ちに旋回して爆風から逃れることができるのでしょうか。
本当に原爆を投下したのであれば、機体は解体されるかまたは海に投げ捨てるはずなのです。
放射線を浴びて二度と使い物にならないのですから。
博物館に行く機会がある方は機体を放射能測定器で試しに測ってみて下さい。
放射線は全く検出させませんので。


下の写真は広島市民(爆心地から7km)撮影で「ヒロシマ新聞」掲載。
ヒロシマ新聞は中國新聞労働組合の被爆50年記念事業として、「もし原爆投下の日の新聞があったら」という仮定にたち、現在の視点で作成、発行した新聞である。
広島県の地方紙は中國新聞。
e0126350_0172234.jpg


1945年3月10日の東京大空襲の死者が長崎の死者(7万人)よりも多く11万人と言われている。
たった一晩、見えにくい夜間の投下でこれだけ多くの被害者を出した。
下町が狙われ、日本家屋の火災が原因だったらしいが、これだってキノコ雲の写真でも出して原爆投下と言えば、原爆投下になっていたかもしれない。

3月10日 - 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸
4月13日 - 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 - 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日 - B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日 - 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。


3月10日以降の東京への空襲はB29の機体数が書かれているが、3月10日は書かれていない。
3月10日の死者は30倍~100倍くらい多いのだが、いったいどれほどのB29が飛んできたというのか。
戦時中でもあるし、流されやすく専門知識も無い市民がごまんといるのだから、情報なんかどうにでもなる。
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-23 09:03
2016年 10月 22日
日本国憲法の秘密-387-
戦後1946年8月1日、アメリカにて"Atomic Energy Act of 1946"(マクマホン法)が成立した。1947年1月1日に発効。
マクマホン法は、民生用軍事用を問わず、どのような経緯で確立され、どこからどんなふうに取得した情報や技術であっても、具体的な機密解除が行われるまでは、一切の原子力情報の国外提供を禁止するものだった。
それは言論の自由を制限することに他ならなかったが、自由の国アメリカはそれを行った。


こうして一方的にマンハッタン計画におけるイギリスとのパートナーシップを破棄した。
この時イギリスはすでに労働党出身の首相クレメント・アトリーになっていた。
アトリー首相はイギリス独自で核兵器開発を行う必要があると決定し開発に乗り出す。
しかしながらアメリカから一切の情報を絶たれたイギリスの核兵器実用化は程遠いだろうと思われた。
1952年2月26日、前年10月に再び首相に就任したチャーチル首相がイギリスも核兵器の開発に成功したと宣言。
最初の核実験(ハリケーン作戦)は同年10月3日に実施された。
すると翌月11月1日、アメリカが史上初の水爆実験(アイビー作戦のマイク実験、核融合による核兵器)を実施した。

アメリカ―1945 年に原子爆弾実験に成功し、広島・長崎に投下。1952年に水素爆弾の実験に成功。
ソ連―1949年に原爆実験に成功し、1953年に水爆実験に成功。
イギリス―1952年に原爆実験に成功し、1957年に水爆実験に成功。
フランス―1960年に原爆実験に成功し、1966年に水爆実験に成功。
中国―1964年に原爆実験に成功し、1967年に水爆実験に成功。


このように世界の大国は遅れをとるまいとイタチゴッコのように核兵器開発という泥沼に引きずりこまれていった。
それはすなわち、原爆が投下されても、戦争が終わっても、日本を占領下に入れても、誰一人として放射性物質や放射線の影響を調査したり危惧するものはいなかったということだ。
このことからも、「原爆から放射性物質は放出されない」、そう結論付けることが出来るだろう。
戦後、アメリカや日本が広島や長崎に対して一切の放射性物質・放射線対策を行わず、観光地になんかして集客に余念がないということが、その揺るぎない証拠である。
そうでなければ爆心地に好き好んで子供を集めるなんて出来ないはずだ。(広島長崎は旅行や遠足・修学旅行のメッカ)(ちなみにメッカとはイスラム教の聖地のことで、それが転じて中心地や発祥地、憧れの地を表す言葉として使用されている)
それとも放射性物質・放射線は無害という認識なのか?
核兵器を反対する理由は単に爆発規模が大きいという理由だけなのか?


下の写真は前にこの記事に載せたもの。
下段の資料は息子が学校から持ち帰ったものです。
広島への原爆投下は8月6日の8時15分。
これが一般的に広く伝わっている日時である。
広島の平和の時計塔は8時15分にチャイムが鳴る。原爆投下時間である。
8時15分で止まった時計は、原爆の威力と悲劇を伝えるために、よく原爆の資料にも使用されている。
しかし実のところ、この時間にも諸説ある。
止まった時計と原爆投下時間の整合性に疑問を持っている人もいる

e0126350_1133149.jpg


福島ではあれだけ大騒ぎしておいて、広島や長崎には何の疑いも無く子供を送り込む、どうしてそんなことが出来る?
1954年、アメリカの水爆実験で日本の漁船・第五福竜丸が被爆した。
汚染された魚(放射性廃棄物)は築地市場内の地中に埋められた。築地市場は最終処分場か!
豊洲市場以前に築地市場が大問題だろう。
豊洲であれだけ「食の安全が担保されない」と言うのに、どうして築地は問題にしなかったのだ?
焼津や東京では「汚染マグロ」が大量廃棄された。特に3月15日に築地市場にマグロやヨシキリザメ水揚げされてしまった際にはセリは中断され、流通する前に行政の指示で場内の地中に埋められた。また他の水産物も軒並み相場は値つかずとなった。埋めた地点には第五福竜丸の事件を後世に伝えるため「原爆マグロ」の塚が建立された(市場再整備等により夢の島第五福竜丸展示館に移設され、市場にはプレートが設置された)。


1945年7月28日、大山口列車空襲事件が起こる。

鳥取県西伯郡所子村(現在の大山町)の山陰本線大山口駅東方約600m地点で発生した、満員状態の非武装(傷病兵輸送の赤十字標章付の車輌も含む)列車に対してアメリカ軍の艦載機3機が機銃掃射を加え、多数の死傷者が出た事件である。日本の鉄道に対する列車銃撃空襲事件としては湯の花トンネル列車銃撃事件に次ぐ大規模なものだった。

1945年3月から始まった日本本土への空襲は当初軍の基地や生産拠点、工業地帯などが狙われていたが、6月以降は全国の地方都市へと広がっていった。
7月23日からは山陰地方への本格的な爆撃が始まった。
鳥取県西部は7月24日から28日にかけて艦載機により攻撃され、特に28日は午前6時から午後4時過ぎまで各所が攻撃されて、山陰海軍航空隊美保飛行場(現航空自衛隊美保基地)、米子駅、日本曹達米子工場、大篠津駅、弓ヶ浜駅などが被災している。

ポツダム宣言がなされた時にはちょうど鳥取が空襲されていた。

アメリカは艦艇から爆撃機を飛ばしていたわけだから、日本はアメリカの艦艇を潰せば良いわけだが好き放題やられっぱなしなのだから、もう制空権も失っていたということなのだろう。
大山口列車空襲事件は列車が狙われた(列車に命中した)わけだが、「非武装(傷病兵輸送の赤十字標章付の車輌も含む)列車」だったらしい。
列車ではないが民間の商船が武器等を輸送していたという事実があるので、戦時中の武装非武装はどっちもどっち的なところがある。
日本は経済制裁を受けており石油などを輸入しにくい状況にあったが、赤十字船によって石油が日本に届けられていたとも言われている。
ドイツの強制収容所では赤十字が間接直接的に関与したということは前述したとおり。(これについては後年赤十字も非を認めている)


1945年7月28日、鈴木貫太郎首相がポツダム宣言を黙殺すると言った言わない!?

「あれ、日本の首相はいつの間に変わったんだ?」とお思いの方も少なくないでしょう。
「鈴木貫太郎なんて知らない、聞いたこともない」、そういう方もいることでしょう。
「寺内貫太郎なら知っている!」とか?
北風小僧の寒太郎~♪ かんたろう違い。

1945年4月、戦況悪化の責任をとり辞職した小磯國昭首相が辞任した。
当時鈴木貫太郎は枢密院議長であったので、首相後継を決める重臣会議に出席した。
枢密院議長なので天皇に近い存在である。
戦前は日本でも首相に議会指名は必要なく、天皇さまと重臣とで勝手に決めることが出来た。

構成メンバーは6名の総理経験者と内大臣の木戸幸一、そして枢密院議長の鈴木であった。若槻禮次郎、近衛文麿、岡田啓介、平沼騏一郎らは首相に鈴木を推したが、鈴木は驚いて「とんでもない話だ。お断りする」と答えた。しかし既に重臣の間では昭和天皇の信任が厚い鈴木の首相推薦について根回しが行われていた。

東條英機は、陸軍が本土防衛の主体であるとの理由で元帥陸軍大将の畑俊六を推薦し、「陸軍以外の者が総理になれば、陸軍がそっぽを向く恐れがある」と高圧的な態度で言った。これに対して岡田啓介が「陛下のご命令で組閣をする者にそっぽを向くとは何たることか。陸軍がそんなことでは戦いがうまくいくはずがないではないか」と東條を窘め、東條は反論できずに黙ってしまった。こうして重臣会議では鈴木を後継首班にすることが決定された。 
重臣会議の結論を聞いて天皇は鈴木を呼び、組閣の大命を下した。


鈴木貫太郎は大阪生まれだが、3歳の時に本籍地の千葉県に引っ越した。
さらに9歳の時には群馬県に転居。(上毛新聞さんそうですよね?)
厩橋学校(現:前橋市立桃井小学校)、旧制前橋中学校(現:群馬県立前橋高等学校)、攻玉社(現:東京都品川区にある私立攻玉社中学校・高等学校)で学び、16歳の時に海軍兵学校に入学し、海軍の軍人だった。
1929年61歳の時に昭和天皇と皇后の希望で侍従長に就任した。
鈴木自身は宮中の仕事には適していないと考えていた。鈴木が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が宮中席次にすると30位くらいランクが下だったが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれる。
昭和天皇の信任が厚かった一方で、天皇に付く悪者として命を狙われることにもなった。

ポツダム宣言発表翌日の7月27日未明、外務省経由で宣言の内容を知った政府は、直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議した。
その結果、外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。その間に対ソ交渉を進めソ連の出方を見た上で何分の措置をとりたい」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針を取った。
翌28日付の各紙朝刊では、「帝国政府としては、米・英・重慶三国の共同声明に関しては、何等重大なる価値あるものに非ずしてこれを黙殺するであろう」等の論評が付せられたものの、その他は宣言の要約説明と経過報告に終始し、扱いも小さなものであった。

ところが、継戦派の梅津美治郎、阿南惟幾、豊田副武らが宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた。
28日午後におこなわれた記者会見において、鈴木は「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」というコメントを述べた。

鈴木は、ポツダム宣言に対しては意見を特に言わない、との態度をとったつもりであり、「黙殺」という言葉についても「no comment(ノーコメント、大人びた態度でしばらく賛否の態度を表明しない)」という意図をこめていたが、翌日新聞各紙に「黙殺する」という言葉を大きく取り上げられ、結果的にこの発言が連合国側にポツダム宣言に対するreject(拒否)と解されたことは誤算となった。
この「黙殺」は同盟通信社により「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、ロイターとAP通信では「reject(拒否)」と報道された。
記者会見に出席した同盟通信国際局長の長谷川才次は、「政府はポツダム宣言を受諾するのか」という質問に対して鈴木が「ノーコメント」と回答したことをはっきり記憶していると戦後に述べている。

[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-22 11:13
2016年 10月 21日
日本国憲法の秘密-386-
ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されたものである。ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。日ソ中立条約の手前ソ連は署名していない。

イギリスのチャーチル首相が帰国した理由、それは首相を退任するためである。

イギリスでは首相(Prime Minister)という地位は20世紀まで公的な地位ではなかったのでその起源に不明確なところは多い。
首相が法律で定められたのは1937年のことで、この年までは「首相」という語は大臣法に無かった。ただし、外交文書ではこれよりも前に首相の語が使われている。


首相は慣習(不文憲法)により、庶民院(下院)議員の中から、総選挙で庶民院の過半数の議席を獲得した政党の党首が任命されているが、これが確立されたのは1900年代のことである。
つまり戦中戦後のことなのである。
それまでは貴族院議員から選ばれていた。
庶民院の議員の任期は5年だが、首相の助言で国王(女王)が議会解散を宣言し、任期満了前に解散することが出来る。戦後もそれが通例だった。
首相を任命するのは国王(女王)。
日本のように国会指名は必要なく、過半数に満たない時や首相の急逝時には国王(女王)がダイレクトに任命できる。
そんなわけでイギリスでは1935年以降選挙が行われていなかった。

チャーチル首相は陸軍士官学校出身の軍人から庶民院の議員となり各種大臣を歴任した人物。
第一次世界大戦の時に海軍大臣に就任しており、ドイツがポーランドに侵攻し戦争が始まった1939年9月に再び海軍大臣に就任した。
首相に就任するのは大戦最中の1940年5月のことである。

ガリポリの戦い以来の惨敗にチャーチルも海相失脚を覚悟したが、5月7日から8日にかけて庶民院で行われたノルウェー作戦についての討議では、その批判はチャーチルではなく、首相チェンバレンに向かった。チャーチルは「ノルウェー戦の敗北は自分の責任だ」と主張してチェンバレンを擁護しようとしたが、自由党党首ロイド・ジョージは「防空壕になるのはやめろ」とチャーチルを止めた。与党議員からも続々と造反者が出る中、チェンバレンは、労働党との大連立による挙国一致内閣で政権強化する道を模索するようになった。だが労働党の議員たちはチェンバレンよりチャーチルを首相とする大連立を希望する者が多かった。彼らはかつてチャーチルが行った労働運動弾圧の恨みを忘れていなかったが、左翼イデオロギーからヒトラーとの戦いを徹底的に遂行する者を希望していたのである。世論もチャーチルの首相就任を支持する者が多かった。

チャーチル首相(保守党→自由党→保守党)は1944年10月にドイツとの戦争が終結次第、解散総選挙を行うと宣言していた。
労働党も1944年の党大会で戦争終結後の総選挙では、挙国一致内閣を解消して野党として戦うことを決定していた。

1945年5月ドイツ降伏。
ドイツ降伏で労働党から解散総選挙すべきとの声が強まった。チャーチルは日本の降伏までは挙国一致内閣を続けるべきであると主張したが、労働党はそれを拒否した。保守党内でもチャーチルが英雄視されている今のうちに総選挙に打って出た方が保守党に有利とする意見が多かった。チャーチルは6月15日にも庶民院を解散し、7月5日に総選挙が行われた。

今のように即日開票ではなく、7月5日に投票が行われたが、開票は7月26日だった。
結果、労働党394議席、保守党213議席、自由党12議席という労働党の大勝に終わった。

世論調査によれば、チャーチルの人気は高かったものの、労働党は1942年以降順調に支持率を上げており、それに勝てなかっただけということのようである。また労働党の大勝は小選挙区制度の賜物でもあり、得票数で見れば実は労働党は過半数も獲得していない。

保守党は181議席を失い、チャーチル、アンソニー・イーデンら6名の閣僚が当選したものの、残りの閣僚は全員落選する事態となった。チャーチルはポツダム会談に参加中であったが、7月25日のポツダム宣言発表後ただちに帰国、翌26日に内閣総辞職した。


戦争に負けたわけでもなく、日本との戦いは終わってもいないのに、選挙に敗れたチャーチル首相は退任せざるを得なくなったというわけである。
上に転載した文に「7月25日のポツダム宣言発表後ただちに帰国、翌26日に内閣総辞職した」とあるが、ポツダム宣言発表は7月26日である。
開票が行われたのも7月26日、チャーチル首相がポツダム(現:ドイツ東北部の都市、イギリスとの時差は1時間程度)を離れたのも7月26日。選挙結果は意外なものだったのだろうか。それとも予想通りなのか。

ポツダム宣言はイギリス首相交代の隙間で行われ、イギリスを出し抜く形になった。

チャーチルの後はクレメント・アトリー首相。史上2人目の労働党出身の首相。
ジョージ6世の反対を押し切って、労働党の公約であった基幹産業の国有化と「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い、社会主義政策を矢継ぎ早に実現していった。しかし、1947年の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカ合衆国が示したマーシャル・プランを受け入れるなど、国際経済における主導権は失われた。
また、アジアにおける長年のイギリスの植民地であったインド、パキスタン、セイロン、ビルマの独立を承認した。
インド・パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれず、その解決を国際連合に委ねるなど、過去における植民地支配、分割統治の爪痕を残す結果となった。


マーシャル・プラン
1947年6月5日、ハーヴァード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、米国が欧州に対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西欧16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成して米国の援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構 (OEEC) を設置した。一方、米国は援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局 (ECA) を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアやオーストリアが原参加国に名を連ねたほか、米英仏3か国の占領下にあったドイツ西部も援助対象として認められた。
マーシャル・プランは西欧諸国の戦後復興に一定の貢献をし、また米国企業には巨大な欧州市場を提供した。


第二次世界大戦はヨーロッパやイギリスの国際的地位を低下させた。勝者も敗者も関係なく。

労働党に大敗し、あっけなく首相を退任したチャーチルだったが、政界を引退するようなことはなく、1951年10月に行われた総選挙でチャーチル率いる保守党が勝利し、再び首相に返り咲いた。
在任中の1953年にノーベル文学賞を受賞。
首相なのに文学賞!?とお思いでしょうが、本を出版したんですよ(口述方式なので、真に文学的なのは執筆者と言えるでしょうね)。
『第二次世界大戦(英語版)』を全6巻で著し、1948年から1年ごとに1巻ずつ出版されていった。チャーチルの口述方式で著され、チャーチルの自画自賛が目立つが、陸海軍将官や歴史学者などを総動員した大著となった。この本はベストセラーとなり、チャーチルに莫大な富をもたらし、首相在任中の1953年にはノーベル文学賞の受賞にも至っている。しかしチャーチルはノーベル平和賞を欲しがっていたので、文学賞の受賞には失望したという。
受賞理由:歴史や伝記の記述の熟達のみならず、高揚した人間の価値についての雄弁な庇護者であること


まさかノーベル賞と引き換えに・・・・・!?
[PR]

# by yumimi61 | 2016-10-21 14:35