2016年 10月 20日
日本国憲法の秘密-384-
半減期についてもう一度。

(1)例えば1秒に1つのスピードで崩壊していく原子核があるとする。
60秒(1分)に崩壊する原子核は60個。

①今ここに60個の原子核がある。
それが半分の30個になるのは30秒後である。(=半減期30秒)(30秒で30個崩壊)

②今ここに600個の原子核がある。
それが半分の300個になるのは300秒後(5分後)である。(=半減期5分)(5分で300個崩壊)


(2)「1秒に1つ崩壊するスピード」という基準をなくして、「半減期が30秒」ということだけにする。

①今ここに60個の原子核がある。
それが半分の30個になるのは30秒後。(=半減期30秒)

②今ここに600個の原子核がある。
それが半分の300個になるのは30秒後。(=半減期30秒)


放射線は崩壊で放出される。
外部被爆について考えると、(1)はそこにいた時間の長さが問題になる。同じ時間ならば量(数)の多さは関係ない。被爆に関して半減期が長いから有利とも言えなくなる。
(2)は②のほうが10倍多い放射線を放出している。同じ時間いても被爆量が違う。原子核の量(数)が多いほど被爆量も大きくなる。また半減期が長いほど人間にとっては有利となる。

(1)の考え方だと、同じ崩壊スピードであっても、存在している元素の原子核の量(数)が多いと半減期は必然的に伸びるということになる。
(2)の考え方だと、原子核の量(数)は関係なく半減する。但し存在している量が多ければ多いほど、元素原子核の消滅までの時間は長くなる(元素寿命が長い)。
しかしながら、60個と600個が同じ時間で半分になるということは、崩壊スピードが違うということになる。
数が増えることによって、つまり原子核同士が核分裂のように互いに連鎖的に何らかの作用を及ぼしあうことによってスピードが速まるということならば分からなくもないが、崩壊という1つの現象から見ると、同じ原子核が数が増えるだけで崩壊スピードが変わるということはおかしくないだろうか?

すなわち半減期とはこの地球が誕生した時に授かった地球上全ての元素の量についてのみ言えることで(寿命、総論)、どこそこの原発にこれだけの量の原子核があるからという各論に適さないのでは?
とはいえ地球が誕生した時に授かった地球上全ての元素の量を推測するのも容易ではない(そんなこと可能だろうか?)。
しかも地球の年齢は46億年だからすでに寿命を迎えている元素が多いということになってしまう。
途中で計算しなおしたならば、その年(起点)が提示されなければおかしいし・・。
半減期って本当に正しいのだろうか?


1941年7月15日、イギリスの科学者が中心となったMAUD委員会の最終報告はウラン爆弾実現可能というものだった。
しかしイギリス政府もアメリカ政府も否定的見解を持っていた。
風向きが変わったのは人工元素プルトニウムが登場したからであり、また両国に危機感を抱かせたのは、違う観点で行われていたであろうドイツの原爆開発の情報だったのかもしれないということは前述した。
1943年8月19日、「チューブ・アロイズに関するアメリカとイギリスの政府間の共同管理に関する協定文章」(ケベック協定)が締結され、これで正式にイギリスもマンハッタン計画に参加する運びとなったわけだが、以降チューブ・アロイズ、すなわちマンハッタン計画はプルトニウムを中心に行われていた。
その証拠にというかなんというか、ウラン爆弾は爆発実験も行っていない。

そんなわけで私も先日プルトニウム239の崩壊だけを書いた。
プルトニウム239(半減期 2.41万年)は放っておけばアルファ崩壊してウラン235になると言われている。(0.7%しかない貴重なウラン235ですよ!)
プルトニウムは人工的に合成された人工元素である。従って人工元素から天然元素(ウラン235)が生まれるという事になる。(それって天然というのか?)
0.7%や濃縮に拘らなくても、中性子が沢山あればウラン235は沢山作れる。
何故そう言わないのだろうか?

崩壊では中性子は放出されない。核分裂の時に放出される。
しかしその核分裂のきっかけも中性子。では最初の中性子はどこから来る?という話になるが、それは中性子源(イニシエーター)だということは前にも書いた。
中性子を利用するには、原子核の中性子を原子核外へと遊離させる必要がある。だけど神様ではないから何でも0からは作れない!
遊離というが、結局は原子核を壊す必要があるのだ。衝突させて、つまり運動エネルギーによって壊すということである。
しかしそれで中性子が放出されるかどうか・・・運を天に任せて・・・・それでは心許ないので・・・・・マハリクマハリタ中性子になあ~れ!?

ともかくどうやって壊すエネルギーを与えてやるかと言うと、原子核に放射線を当てる。
これが中性子源となるのだが、核反応とも言っている。核分裂も核反応の1つであるからややこしい。
放射線にはX線のように原子核外から放出される人工的なものと、α線のように原子核(放射能を持つ元素同位体をラジオアイソトープと言う)から放出されるものがある。
ちなみにα線とはアルファ粒子の流れのことを言い、アルファ粒子とは高い運動エネルギーを持つヘリウム4の原子核(陽子2と中性子2)のことである。

結局は核融合のところで書いた、ラザフォードの実験が元になっている。
ラザフォーはアルファ線(放射線)の散乱実験などを行っていた。
1919年、天然放射性物質から出るアルファ 線(エネルギー値7.7MeV)を窒素原子核に当てると、窒素原子核が破壊されることを発見した。
この実験と発見から、荷電粒子に7.7MeV 程度のエネルギーを持たせる電位をかけて加速し、対象となる原子核に当てると人工的に原子核が破壊できるのではないかと考えられた。
つまり一番最初はラザフォードが原子核の分裂でも融合でもなく人工崩壊(破壊)に気付いたわけである。


原子核物理学における原子核反応または核反応とは、入射粒子が標的核(原子核)と衝突して生じる現象の総称を言う。大別して、吸収、核分裂、散乱の三つがあるが、その反応過程は多彩で統一的に記述する理論はまだない

統一してしまうと、核分裂においても、必要なのは中性子ではなく運動エネルギーを持った原子核ということになる。
核融合には運動エネルギーを持った原子核(水素)を用いたということになっている。
ただその運動エネルギーを作り出すのが放射線なので、放射線源として原子核(ラジオアイソトープ)を用いる場合には、原子核を崩壊させなければならない。
崩壊には自然崩壊と人工崩壊がある。一度に大きなエネルギーが必要ならば人工崩壊に頼ることになりそうだが、人工崩壊は放射線で導くものだから堂々巡りとなって上手くいかない。



ウラン238(半減期45億年)→(中性子を取り込ませる)→ウラン239(半減期23.45日)→β→ネプツニウム239(半減期2.36日)→β→プルトニウム239(半減期2.41万年)→α→ウラン235(半減期7億年)

ウラン235は安定ではない。従ってまだ崩壊は続く。

ウラン235(半減期7億年)→α→トリウム231(半減期1.06日)→γ→プロトアクチニウム231(3.24万年)→α→省略→→→鉛207(安定)


ウランは濃縮が可能で、自然には0.7%の割合でしか存在しないウラン235でも3%(発電用)にも100%近く(軍事用)にも出来るということになっている。
でもこれもプルトニウムと同じ。放置しておけば崩壊して違うものになってしまう。
3%や100%近くを留めておくことなど出来ない。
ではどれくらいの時間でどれくらい変化してしまうのかということについては、半減期の考え方が関係してくる。
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# by yumimi61 | 2016-10-20 12:16
2016年 10月 18日
日本国憲法の秘密-383-
1940年11月、ティザード使節団帰国。(アメリカにエンジンやレーダーの生産を依頼。原子爆弾実現可能性には否定的見解)
1941年3月11日、ルーズベルト米大統領が武器貸与法に署名する。

1941年7月15日、MAUD委員会は原子爆弾(ウラン爆弾)が実現可能と最終報告。

1941年10月、ルーズベルト大統領が原子爆弾研究開発を承認。
1941年10月11日、ルーズベルト大統領がイギリスとの協力体制に関してイギリスのチャーチル首相に書簡を送付。
1941年11月、アメリカの化学者が協議のためイギリスに派遣された。
   ⇒しかしイギリスは協力の提案を受け入れなかった。イギリス側からは対案もなく協力体制は失効した。

1942年2月~11月、テネシー州オークリッジの土地を取得。

(1942年4月? ドイツがチェコで原子爆弾の実験?)
1942年11月、マンハッタン計画の研究所をニューメキシコ州ロスアラモスに置くことを決定。


1943年1月、プルトニウム生産工場としてハンフォードの土地を取得。(土地取得は難航し一部は終戦までに完了しなかった)

プルトニウムの生産には多量の水と電気が必要とされるため、ワシントン州南央のコロンビア川沿いの盆地が候補に上がった。。


【プルトニウムの作り方】
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ウラン238(偶数)=陽子92(偶数)+中性子146(偶数)←中性子1
                ↓
ウラン239(奇数)=陽子92(偶数)+中性子147(奇数) 
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)※反ニュートリノが検出されたのは1956年
                ↓
ネプツニウム239(奇数)=陽子93(奇数)+中性子146(偶数)
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)
                ↓
プルトニウム239(奇数)=陽子94(偶数)+中性子145(奇数)
--------------------------------------------------------------------------------------------


プルトニウム239(半減期 2.41万年)は放っておけばアルファ崩壊してウラン235になると言われている。(0.7%しかない貴重なウラン235ですよ!)
プルトニウム239が中性子を取り込めば一部は核分裂を起こし、一部はプルトニウム240(非分裂性)に変化する。
ウランやプルトニウムは不安定だから核分裂に選ばれたはずであり、不安定ならば崩壊もしやすいはずだが、半減期がやたら長いという大きな矛盾を抱えていることは前述したとおり。
また崩壊は半減期に一気に進むのではなく絶え間なく続けられているものであるから、どこかの段階で分離に成功したとしても、安定に至るまではその瞬間(状態)を留めておくことは不可能である。
よって「プルトニウム生産工場」などというものが出来るわけがない。

1943年4月、プルトニウム生産工場稼働。

※工場建設労働者が5000人、稼働後に工場で働いた労働者は25000人。

他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多くの施設がマンハッタン計画に参加し、米国以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加している。またデュポン、ゼネラル・エレクトリック、ウェスティングハウス・エレクトリックなど民間の大企業も参画している。
この計画に対しては多額の資金(当時の額面で19億ドル)が投入された。



1943年8月19日、「チューブ・アロイズに関するアメリカとイギリスの政府間の共同管理に関する協定文章」(ケベック協定)を締結。
 ・この兵器を互いに対しては使用しない
 ・双方の同意がない限り第3国に使用しない
 ・双方の同意がない限り、チューブ・アロイズの情報を第3国に与えない
 ・イギリス首相はアメリカ大統領が公正と考える範囲を越えて、戦後の原子力の工業的および商業的利益追求はしない 
 ・両国間で完全な情報交換を行う

カナダのケベックでチャーチル首相とルーズベルト大統領によって調印された。
イギリスはイギリスが持っていた原爆開発情報を全てアメリカに渡した。
アメリカはルーズベルト大統領へ提出されていた原爆開発のアメリカ進捗報告をイギリスに渡した。
こうしてマンハッタン計画にイギリスも参画することになり、イギリスとカナダの研究者はアメリカに移った。
ただマンハッタン計画までは研究者がそれぞれ進めていた研究であり、研究者の出身国も研究場所も様々だった。
国家の軍事機密として隠しておけるような状態ではなかったのだ。
1941年7月15日に出されたイギリスのMAUD委員会の最終報告もアメリカに公式に渡されているし、研究者はその前から行き来している。
さらに言えば、イギリス政府もアメリカ政府もどちらも正しい判断を下していて、開発に乗り気ではなかった。
その風向きが変わったのは人工元素プルトニウムの新発見によってである。
また両国に危機感を抱かせたのは、違う観点で行われていたであろうドイツの原爆開発の情報だったのかもしれない。


ケベック協定で重要なのはアンダーラインをした4番目。
アメリカはすでに戦後の商業利用に目が向いていてイギリスを牽制している。
ドイツの原爆開発がかなり成功に近づいている状態ならば、戦争に勝ちさえすればその新技術を手に入れることが出来る。
地理的にも歴史的にもイギリスのほうがドイツに近い存在なので、連合国が勝ってもドイツでの利権をイギリスに奪われてしまうかもしれないとアメリカが考えても不思議はない。
もちろんマンハッタン計画から新技術が誕生してもよいわけだが、その場合でもイギリス発のチューブ・アロイズを基礎にしている以上、イギリスのほうが立場が強い。

世界を動かしているものはエネルギー(E)である。
石炭にしても石油にしても、水にしても風にしても、原子力にしても、そこから生まれるエネルギーが重要なのだ。
エネルギーという物質があるわけではない。エネルギーはポテンシャル。原子に秘められた力。
爆弾は大きなエネルギーを一瞬で解放するわけだが、これまでにない方法でエネルギーを解放できたならば、その用途は広がるだろう。
いつ起こるのか戦争を待たなくても、使うか使わないか定かではない爆弾を作るよりも確実に儲かる。
だからイギリスにとってはやや不利な4番目の項目をイギリスが呑んだということは、ドイツをよほど脅威に感じていたということなんだろうと思う。


イギリスはアメリカから「アメリカ大統領が公正と考える範囲を越えて、戦後の原子力の工業的および商業的利益追求はしない」と突きつけられ、1943年に約束を交わしたわけだが、戦後のアメリカの態度はイギリスの想像を超えるものであった。

戦後1946年8月1日、アメリカにて"Atomic Energy Act of 1946"(マクマホン法)が成立した。1947年1月1日に発効。
マクマホン(McMahon)とはアメリカの上院議員(民主党)の名前。原子力に関する上院特別委員会の議長を務め、同法を議会通過に導いた立役者。
名前だから考え過ぎと言えばそうかもしれないが、「マクマホン」には少々気になる点がある。

Mcはアイルランドやスコットランド系の家系のファミリーネームに付く。
第一次世界大戦中の1915年、イギリスの駐エジプト高等弁務官マクマホンとメッカの主君でアラブ独立運動の指導者となったフサイン・イブン・アリーが書簡を交換し、オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという「フサイン=マクマホン協定」を結んだ。
要するにイギリスはオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めたのである。
「イギリスの三枚舌外交」とも言われる1つである。
矛盾した約束をあっちにもこっちにもした(3つの協定を結んだ)ということだが、それぞれの内容は、実はそれほど矛盾していない。しかし、このイギリスの秘密外交がシオニストらの反発を買い、パレスチナ問題の要因となったことも否めない。


マンハッタン計画はアメリカ原子力委員会に引き継がれ解散した。
マクマホン法は、民生用軍事用を問わず、どのような経緯で確立され、どこからどんなふうに取得した情報や技術であっても、具体的な機密解除が行われるまでは、一切の原子力情報の国外提供を禁止するものだった。
それは言論の自由を制限することに他ならなかったが、自由の国アメリカはそれを行った。
一部改正されたが今でも有効である。
アメリカからは原爆や原子力の秘密が出てこない仕組みになっているのだ。

原子力開発は法律に守られて法の下で行われることになった。アメリカ原子力委員会の監視の下で行われなければならないということである。
マクマホン法にはもうひとつの大きな特徴があった。民生用のみならず軍事用も民間人の下で行われることになったことである。
軍事目的よりもむしろこの目的のためにアメリカ原子力委員会は設立されたのだ。
政府が原爆開発に支出した莫大な費用を正当化するために民間利用は都合が良かった。
しかしながら、民間の原子力産業を開発するためという理由から、つまり民間側からの政府当局などに圧力をもたらすことになった。

マンハッタン計画に参加したにもかかわらずイギリスは原子力に関して一切アクセスできなくなった。

法律による言論統制は、ドイツ・ナチス政権が行ったとするホロコーストでも行われている。
第二次世界大戦は怪しすぎる。

ホロコースト否認(Holocaust denial)とは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人の組織的殺害である「ホロコースト」の一部もしくは全体を否認する主張。 これらの主張を支持する者を、「ホロコースト否認論者」という。ホロコースト修正主義、ホロコースト見直し論、ホロコースト否定論とも言う。

ホロコースト否認論者に関する思想背景や指摘内容は多様であるが、否認論者はホロコーストの規模を数十万人程度に修正し、また、その計画性を否定している。ホロコーストそのものはナチス・ドイツにおいて組織的に行われた歴史的事実であり、数十万程度という否認論の主張は論外であるという見方が通説であり、ドイツ、フランス、イスラエルなどでは、前述したような主張の流布は反ユダヤ主義的思想によって動機付けられたものとされるとともに、「ヘイトスピーチの一種」と認識され、違法行為とされている。また、否認論を裏付ける査読付き論文も、2010年代時点において無い。



ホロコースト否認を規制する法律
国連では1965年に人種差別撤廃条約を採択、1966年には国際人権規約が採択された。同B規約20条2項には「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」とある。ホロコースト修正主義者は人種差別の罪で告発されることもある。
否認論者はこれらは「表現の自由」の侵害であると主張しているが、欧州人権裁判所はガロディ裁判で「明確に立証されたホロコースト」に対して虚偽であるとして異論を唱えることは、人種主義とナチズムの復興をはかり、反ユダヤ主義を激化させる目的があると認定している。同裁判所は否認論の表現を認めることは、かえって人権の基礎となる正義と平和を侵害するものであるとしている。


ホロコースト否認は主に欧州の国において違法とされている。フランス(ゲソ法)、ベルギー (Belgian Negationism Law) 、スイス (刑法261条bis ) 、ドイツ、オーストリア (article 3h Verbotsgesetz 1947) 、ルーマニア、スロヴァキア、チェコ、リトアニア、ポーランド、ルクセンブルク などに存在する。イスラエルでも違法。
カナダやイギリスでは、ホロコースト否認を禁止する法律はないが、名誉毀損や民族間の憎しみの助長やヘイトスピーチを禁止する法律がある。
1997年には否認論者のガロディが、こうしたフランス国内の法律は「人権と基本的自由の保護のための条約」に違反しているとして欧州人権裁判所に救済を求めたが、同裁判所は全員一致でガロディの訴えを棄却している。同裁判所はこの中で「ホロコーストは明確に立証された歴史的事実」であるとしている。

ドイツ・オーストリア・フランスでは「ナチスの犯罪」を「否定もしくは矮小化」した者に対して刑事罰が適用される法律が制定されているが、人種差別禁止法によって「ホロコースト否定」を取り締まる国もある。

1994年からドイツでは「ホロコースト否定」が刑法で禁じられており、違反者は民衆扇動罪(第130条)で処罰される。オーストリアにも同様の法律がある。なお「民主主義に敵対する言論や結社の自由は認めない」という理念は極右と極左の双方に向けられており、旧西ドイツの最高裁判所は1956年にドイツ共産党に対し解散命令を下した。これはドイツが第二次大戦の教訓から「自由の敵には自由を与えない」とする、いわゆる「戦う民主主義」を採ったためである。

2003年のヨーロッパ委員会による「サイバー犯罪条約への追加議定書」では、人種差別的で排外主義的な行為の犯罪化に関する協約で、第6条に「大量虐殺や人道に対する罪の否認、著しい矮小化、是認、正当化」が上げられているが、まだ法律化されていない段階にある。


「ガス室(gas chamber)」と「ガス壊疽(gas gangrene)」を間違えたのでは?
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# by yumimi61 | 2016-10-18 12:29
2016年 10月 17日
日本国憲法の秘密-382-
昨日イオンやローソンという馴染みある言葉が出てきたので(馴染み違い!?)、今日は少し電気系。


原子は電気的には、プラスの陽子とマイナスの電子が同数あって打ち消し合い中性になっている。
電子の過剰あるいは欠損により電荷を帯びた原子、または原子団をイオン(ion)という。

原子の電子配置が非常に安定しているのが「希ガス」と呼ばれるもの。
ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドンの6元素。
ヘリウムは2個だけれども、その他は一番外側の電子軌道の集まり(最外殻)に8個の電子を持ち電子配置が安定している。
希ガス以外の原子は、なんとかこの希ガスに近づいて安定性を図ろうとする性質を持っていて、原子番号が一番近い希ガスの原子と同じ電子配置をとろうとする。
こうして電子を放出したり受け取ったりして電子配置が安定になった物質のことをイオンと言う。

(例)
2番ヘリウム(陽子2・中性子2・電子2)、
3番目リチウム(陽子3個・中性子4個・電子3個)
  ⇒リチウム原子はヘリウム原子の電子配列になるために電子を1つ放出する。

電子を放出して正の電荷を帯びた原子・原子団を陽イオン(positive ion)という。→正イオン→プラスイオン
電子を受け取って負の電荷を帯びた原子・原子団を陰イオン(negative ion)という。→負イオン→マイナス

化学物理分野では、気体のイオンに関しては、陽イオンの代わりに正イオン、陰イオンの代わりに負イオンを用いることが多い。
日本ではさらに陽イオンや正イオンの代わりにプラス(+)イオン、陰イオンや負イオンの代わりにマイナス(-)イオンを用いることがある。
元を正せばpositiveとnegativeをどう訳すかという違いである。
私も先日プラスマイナスという言葉で説明した。

電荷とは電子や陽子等の素粒子が持つ性質の1つ。
粒子がなぜ電荷を持つのかは不明であるが、プラス(+・正)とマイナス(-・負)の電荷がある。
プラスマイナスが同じならば反発し合い(斥力)、異なれば引き合う。
陽子は+の電荷を持っていて、電子は-の電荷を持っている。中性子は電荷を持たない。
電荷的に中性な原子や分子に、+または-の電荷を持たせることをイオン化(電離)と言う。
物理学分野ではイオン化のことを荷電とも言う。


なんとなく、+や-のほうが引きあうや反発をイメージしやすいような気がしたから。
おそらく磁石のSN極と乾電池のプラスマイナスを合わせて作られたイメージなのだと思う。
ややこしいのが「電荷(正電荷・負電荷)」という言葉が、分野によって指す範囲や物が微妙に違ったりすること。
「電子は-の電荷を持っている」と書いたが、電子にも陽電子(正電荷・プラス電荷)なるものが存在する。
陽子の正電荷と電子の負電荷は対としては考え辛いものがある。(正電荷は存在しない説もある)
いろいろ考えると原子や原子核の構造を根本から覆しかねないことになる。

電子は原子核の周囲を回転している。ところがそうでない電子がある。原子核の軌道から外れた電子で、これを自由電子という。
電気は自由電子の動き。
電子はマイナス(-)電荷なので、プラス(+)方向へ動く。
でも電気の流れ(電流)はプラスからマイナス。なんでも最初の発明時にそう説明すると分かりやすかったからそうなったらしい。
電子の流れと電流の流れが反対なのでこれもややこしい。


ある頃から家電業界や世間において「マイナスイオン」が良いということになった。
きっかけはテレビ番組。「発掘!あるある大事典」(フジテレビ)がマイナスイオンの特集番組を放送した。
番組ではマイナスイオンの効能が謳われ、ブームに火がつき、マイナスイオンは2002年の流行語となった。
2002年(平成14年)の家電量販店の店頭は一時マイナスイオン商品で溢れかえる事態となった。


家電的なマイナスイオンブームの火付け役はヘアドライヤーだったような気がする。これもテレビ(CM)の影響が大きいのだろうけれども。
だからメーカーはテレビ様様、CM様様になってしまうのだろうなあ。
効果(本当の事)がよく分からないものほど、そういう傾向が強い。中味が無くても外側を固めさえすれば売れる。
プラシーボ効果ということもあるし!?
ともかくマイナスイオンも健康に良いとか美容に良いとか、いろいろ良いこと尽くしになった。
どうして良いのか根拠ははっきりとしないままに。
理論なき限られた実験データから導き出された良さ、実験データすらない広告勝利、といった感じに。
勘違いしてもらっては困るが、多くの行動には目的がある。
企業は病気を治したり、健康を維持させることが目的ではない。利益を追求することが第一の目的である。それが企業の存在意義である。
企業が病気を治したり、健康を維持させることを第一の目的とすれば、利益追求は二の次となる。
本来第一の目的が達せられないならば開発の価値はない。
もっと言えば利益という目的が達せられないならば企業が存続する価値はないということになる。(こうして企業が倒産していったという事実は山ほどある。売れないけれど良い物を作っていたからなんていう理由は通じない)

原子爆弾(核兵器)開発の当初の目的は、放射性物質を撒き散らすことにあったのではなく、「小さな爆弾で大きな威力」だったはずである。
従ってそれが達せられないならば開発の価値はない。


2003年には、家電メーカー13社は「空気中の原子や分子が電子を得てマイナスに帯電したもの」というほぼ共通した定義を回答している。回答した13社は、松下電器産業、松下電工、三洋電機、三洋エアコンディショナーズ、日立ホーム・アンド・ライフ・ソリューション、富士通ゼネラル、東芝コンシューマーマーケティング、東芝キャリア、三菱電機、シャープ、コロナ、タイガー魔法瓶、象印マホービンである。

日本でマイナスイオンという言葉は、20世紀の終わり頃からメディアに頻繁に登場するようになり、1999年から2003年頃が流行のピークであった。日本の流行語となった。十分な裏付けが得られないまま効能を謳うメーカーが数多く現れた結果、批判も起こった。



<イオン研究の歴史>
・1899年に、ElsterとGeitelはイオンを発見し、分子イオンと命名し、1901年には大気中の電気の伝導性の説明として「気体イオン説」を発表した。

・1901年にはCzermackはドイツやスイスの熱風「フェーン」のイオンを測定し、プラスイオンが増加しているため、肉体や精神に有害な作用があることを主張した。南風が吹くと空気のプラスイオンが増えるため、人の精神に悪影響を与え犯罪発生率が上がると主張され、スイスではプラスイオン量が増大するフェーン現象は犯罪の実刑が軽くなる情状酌量の証拠として認定されている

・Steffensは1910年に大気中のイオンと同じものを人工的に生成し、病気に応用し空気イオン療法がはじまった。

・1920年代以降に、日本の木村正一、ドイツのDessauerやソ連のTchijevskyといった研究者が、発展させていくことになる。フランス、チェコスロバキア、アメリカでも展開した

・1930年代には、空気イオンによる療法として、特に日本やドイツで陰イオンと陽イオンが病気にどのような影響を与えるかという研究論文が医学会誌に掲載された。
日本での空気イオンの研究は活発となっていった。

・アメリカでは健康機器としてion generating device(イオン発生装置)が1950年代頃に一時流行したことがあった。しかし1960年代初頭には、イオン発生装置や副産物のオゾンに対してアメリカ食品医薬品局 (FDA) が警告を出したことにより、イオン発生装置は健康市場から制限を受けることになった。結果として業者らは、空気清浄機として販売しなければならない状況になった。

・1961年にはアメリカで、第1回国際空気イオン学会が開催された。 

・1960年にはモスクワび空気イオン化中央研究所の所長であったTchijevskyの研究報告書が、ソ連連邦国家計画委員会によって出版されている。コロナ放電式のイオン生成機による研究であった。
1976年には『サイエンス』にも掲載され、殺菌作用と、セロトニン仮説などが述べられた。90年代にいたるまで研究は連綿と続くことになる。



マイナスイオンは上記のように多くの家電メーカーが効能を謳ったが、「プラズマクラスターはシャープだけ」と歌っているのがシャープである。
だけどプラズマクラスターがシャープだけなのは当たり前なんですよ。「プラズマクラスター」はシャープが造った造語で、シャープが商標登録(この場合の商標は文字)したものだから。

東芝等他の国内家電メーカーが、マイナスイオンと称する技術を家電に応用した後、シャープはこの技術を自社の家電製品に搭載し、空気清浄機やエアコン、冷蔵庫などの分野で、イオン発生器を組み込んだ製品を展開している。

特許申請は「正イオンとしてのH+、負イオンとしてのO2を放出して空気中に浮遊する浮遊細菌を殺菌することを特徴とする殺菌方法」などで行われ取得した。
従来はフィルタによって行われてきたが、それをイオンを発生するイオン発生装置と空気調節装置によって行うのが「新しい」ということである。
実験は縦2m、横2.5m、高さ2.7mの空間において行われているが、実験の有意差検定は行われておらず、n数も載っていない。

2008年に、「プラズマクラスターイオンによる空気浄化」にて発明協会の発明賞を受賞した。

プラズマクラスターという名称は有名になったが懐疑的見方が強い。

2015年2月現在、「有効性を確認出来ない」とする研究はあるが、開発者と開発者が研究委託した機関以外の純粋な第三者による「除菌効果が実空間で実証された」とする科学論文がみあたらないことが、有効性について懐疑的な主張や、消費者庁による優良誤認の判定につながっている。

シャープが委託した機関での有効とする研究報告など
同社は、東京大学、広島大学、大阪市立大学、ハーバード大学、ソウル大学など国内外の複数機関で研究を行い効果を実証しているとしている。新型H1N1インフルエンザウイルスに対しても2時間の照射で99.9%抑制するなどの効果を検証している。

シャープはまた、財団法人パブリックヘルスリサーチセンターが東京大学大学院医学系研究科大橋靖雄教授監修で行った二重盲検法による試験で、インフルエンザウイルス感染率を約30%低減できたことを確認したと発表している。

シャープはさらに、東京大学医学部附属病院臨床研究支援センターに委託し、大橋靖雄教授監修により実施した臨床研究において、プラズマクラスターイオン技術が、小児アトピー型ぜんそくの気道炎症レベルを低減することが証明されたと発表している。



懐疑的な研究報告など
前述のインフルエンザウイルス感染率試験については、イオン有り群とイオン無し群の間でインフルエンザの発症件数に統計学的な有意差がなかったことから、プラズマクラスターイオンの効果が確認できなかったと解釈する意見もある。また、空気中のインフルエンザウイルスの減少は集塵フィルターの効果であったとする報告もある。

「感染症学雑誌 Vol.86 (2012) No.6」に掲載された論文「殺菌性能を有する空中浮遊物質の放出を謳う各種電気製品の、寒天平板培地上の細菌に対する殺菌能の本体についての解析」によると、プラズマクラスターやナノイー(パナソニック)には極めて狭い空間で濃度を高めた場合には一定の殺菌効果が認められた。しかし、殺菌効果を持つのはプラズマクラスターやナノイーと同時に発生するオゾンであり、プラズマクラスターやナノイーの粒子そのものではないとしている。

グローブボックス内で黄色ブドウ球菌、緑膿菌、セレウス菌、腸球菌に対して使用した試験では、殺菌効果の有効性が確認できなかったとする研究がある。

更に、効能の一つに「機能搭載エアコンの場合、内部のカビを除菌」が挙げられているが、カビの発生自体を防ぐわけではない。プラズマクラスター機能がついていても、定期的な分解掃除は必要である。プラズマクラスター発生装置が備わっている製品は、その分分解掃除が困難になり、むしろカビが多く溜まってしまうという矛盾を抱えている。



消費者庁による不当表示判定(優良誤認)
シャープは製造した「プラズマクラスター」を組み込んだ掃除機に関して、「空気中に浮遊しているダニの糞や死骸等のアレルギーの原因となる物質を分解、除去する」と広告で表示していた。
2012年11月28日、消費者庁が外部の研究機関に依頼して当該掃除機を調べた結果、表示された通りの性能が出なかったため、同社に対し不当景品類及び不当表示防止法違反(優良誤認)で再発防止を求める措置命令を出した。
この措置命令に対しシャープは、プラズマクラスターの性能自体の問題ではなく広告表示への指摘(「エアコンや空気清浄機などは部屋で長時間使うので効果がありますが、掃除機の場合は使用する時間も短く、動き回るので、部屋全体に効果があるような表示が行き過ぎと判断された」)とした上で、2012年10月末までに広告表示の修正を行った。


安全性
シャープは、急性皮膚刺激性/腐食性試験、急性眼刺激性/腐食性試験、吸入毒性試験(肺組織の遺伝子影響評価)から、安全性を確認済みとしている。
「細菌についても細胞膜を破るのでありDNA には変化が無いことを確認した」としている。

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# by yumimi61 | 2016-10-17 11:55
2016年 10月 16日
日本国憲法の秘密-381-
問題は核融合の時に放出されるエネルギーである。
簡単に言えば「質量欠損」から生じるエネルギーだということなのだ。
ここでアインシュタインの特殊相対性理論が登場する。

「質量とエネルギーは等価」ということを時々誤解している人がいるように思うが、これは「質量保存則」「エネルギー保存則」と別々なのではなく、「質量+エネルギー」で保存されるという意味である。
結合エネルギーを必要としなかったものが、結合してエネルギーが必要になったら、その代わりに質量を失うということ。それが質量欠損。


核融合(結合)の際には、質量を減らして新たな結合エネルギーが発生することになる。
しかしそれは融合(結合)時点においては外に放出されることはない。
放出されるのは崩壊や分裂する時である。そのためのエネルギーとも言える。


質量とエネルギーは等価なものである。「質量+エネルギー」で保在。だから質量とエネルギーは相関関係にある。

ウランやプルトニウム 質量が大きい だからエネルギーが小さい(=結合力が小さい)
ヘリウムやリチウムなど  質量が小さい だからエネルギーが大きい(=結合力が大きい)
水素 質量が小さい だからエネルギーが大きい(→だけど結合力は必要ない)

※崩壊も分裂もしないから結合エネルギーは必要ないのでエネルギーを保有しないと考えることも出来るわけだが、アインシュタインの「質量とエネルギーは等価」により水素もエネルギーを保有していることが分かった(裏付けられた)。


エネルギー(結合エネルギー)は分裂や崩壊の際に、必要なくなった分が放出される。
ところが陽子が1つの水素は分裂や崩壊をすることがないので、大きなエネルギーを保有しているのに放出される機会が無い。
このエネルギーを何とか利用できないものだろうか、そういうことだったのだと思うけれども、核融合(結合)では理屈が通らない。

そもそもラザフォードが実験で発見したのは破壊であって融合(結合)ではない。
1919年、天然放射性物質から出るアルファ 線(エネルギー値7.7MeV)を窒素原子核に当てると、窒素原子核が破壊されることを発見した。
この実験と発見から、荷電粒子に7.7MeV 程度のエネルギーを持たせる電位をかけて加速し、対象となる原子核に当てると人工的に原子核が破壊できるのではないかと考えられた。


そこで水素爆弾推進チームはどうしたか?
水素原子核(水素の荷電粒子)にエネルギーを与えて加速させ、これを「入射粒子」とした。
そしてそれを他の軽い原子核(標的粒子)に衝突させると、入射粒子である水素原子核が壊れながら標的にした原子核と合体することにしたのである(発見した)。
これが「核融合」で、その時に大きなエネルギーが得られることにしたのである(発見した)。

どさくさ紛れに「壊れながら合体」としたが、結局のところそれは、壊れなければエネルギーが放出されることはないと認めたようなものである。
「崩壊」→「再編(再結合)」という過程になる。
ただここでも大きな壁にぶち当たってしまった。
「壊れる」と言うからにはやはり原子核が壊れなければならない。

水素原子:陽子1と電子1
水素原子核:陽子1

電子1を弾き飛ばすことは壊れるとは言わない。
つまるところ壊れようがない。(まぁ水素がそんなに簡単に壊れたら困るんですけれどもね)
そこで重水素・3重水素の登場である。

重水素2H(デューテリウム)原子核:陽子1と中性子1
3重水素3H(トリチウム)原子核:陽子1と中性子2

核の中(核子)には陽子1のみだけでなく中性子があるので、これならば「壊す」と言うことが出来る。
(しかし何故に反発するものがいないところに仲介者の中性子がいるんだろうか?役割を持たない単なる同居人?)
但し中性子は電荷を持たず、中性子と陽子は陽子と陽子のように反発しあう存在ではない。
従って陽子と中性子の組み合わせを壊したからといって結合エネルギーが放出されるかどうかは疑問が残るところ。

爆弾を作るとなると更なる問題も生じる。
水素原子核(水素の荷電粒子)にどうやってエネルギーを与えるかということである。
ラザフォードは放射線(アルファ線)を衝突させた。ラザフォードの実験に基づくならば最初に放射線(アルファ線)が必要となる。

そして唐突に電気系にシフトし、登場したのがプラズマのローソン条件だった。
①1億度の超高温
②1 立方センチメートルあたり100兆個の超高密度
③1秒間維持

温度が上昇すると物質の状態は固体から液体に、液体から気体に変わる。
気体の温度が上昇すると気体の分子は解離して原子になり、さらに温度が上昇すると原子核のまわりを回っていた電子が原子から離れてプラスイオンと電子に分かれる(電離)。
この電離によって生じ た荷電粒子を含む気体がプラズマ。
つまり超高温によって電子がはぎ取られた「原子核だけ」(原子という状態が無くなった)が存在し飛び回っているという状態。

原爆は強力な兵器であるが、核分裂反応の連鎖反応の進行時間と温度上昇による飛散(爆発)までの時間との競争の問題などから、ウラン235(235U)やプルトニウム239(239Pu)をどんなに増やしても、最大でも広島・長崎級原爆の10倍程度の爆発エネルギーをもつ原爆しか作ることができない。それに対して、熱核反応(核融合反応)はそれを起こす物質を追加すればいくらでもエネルギーを増加させることができるという特徴を持つ。そのため、特に二重水素・三重水素の熱核反応(D-T反応、D-D反応)を利用することで、広島・長崎級原爆の数十倍~数百倍の爆発エネルギーを持たせた核兵器が開発できると見込まれていた。

WHY?
5W1H
いつ(When)、どこで(Where)、 だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)

実際、原爆開発技術を独占していた米国において、原爆保有国となったソ連に対抗するため、トルーマン大統領によって製造命令が下されたのが、原爆を起爆装置として重水素を熱核反応させる水素爆弾 (hydrogen bomb) である。
初期の核融合装置は液体の重水素を用いており、装置が巨大で実用化には至らなかったが、重水素化リチウム(LiD)を用いることにより、実用化に至った。
原子爆弾を起爆装置として用い、核分裂反応で発生する放射線と超高温、超高圧を利用して、水素の同位体の重水素や三重水素(トリチウム)の核融合反応を誘発し莫大なエネルギーを放出させる。
高温による核融合反応(熱核反応)を起こすことから「熱核爆弾」や「熱核兵器」とも呼ばれ、核出力は原爆をはるかに上回る。


トルーマン?ノーノーノーノー

第二次世界大戦後から現在に至る原爆開発競争に参加した国の中でも、水素爆弾を兵器として実用化したのは国際連合の常任理事国であるアメリカ合衆国と旧ソビエト連邦(ソ連、現ロシア)、イギリス、フランス、中華人民共和国のみであるが、2016年になって朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が開発に成功したと主張している。
(2016年1月6日に北朝鮮が4回目の核実験で水素爆弾の実験に初めて成功したことを発表した)


水爆の構造は重要な軍事機密であるため公式には公表されていないが、以下のようであろうと推測されている。

肝心なことはみな「重要な軍事機密だから非公表」。重要な軍事機密は都合良く使えるものだなあ。
それは重要な軍事機密だから公表できません(きっぱり)。

e0126350_1627364.jpg

テラー・ウラム型として今も標準的な水爆の基本設計とされている。
まず、図の上部の核分裂爆弾=原爆を爆発させ、
その高温高圧を利用して図の下部の水素リチウム核物質に核融合反応を起こさせる。
核融合反応を足すことで核分裂反応に比べて1桁〜3桁ほど大きなエネルギーが取り出せる。



形状と配置
一端が丸い円筒形や回転楕円体をした弾殻内の丸い側や焦点に核分裂爆弾、つまり原子爆弾が置かれる。円筒部分か、もう一方の焦点には、外層に圧縮材としてのウラン238(238U)、中間層に主役の核融合物質としての重水素化リチウム、中心に更なる熱源としてのプルトニウム239(239Pu)よりなる3層の物質が置かれる。


原爆投下を誰も疑っていない戦後だからって安心しきっているけれど、原子爆弾実現の課題は何ら解決されていない。
だから原子爆弾が置かれるという最初の一文で、水素爆弾はアウトなわけです。
プルトニウム239も分離して置いたような書きっぷりだけど、実際は分離できない。だからこれも嘘。


第1段階:原子爆弾の起爆と核分裂による放射
原子爆弾が起爆されると、その核反応により放出された強力なX線とガンマ線、中性子線が直接に、または弾殻の球面に反射して、もう一方の核融合部分に照射される。照射されたX線は核融合物質周辺のスチレン重合体などを瞬時にプラズマ化させ、高温高圧となって円筒部の中心に位置する3層の核融合部分を圧縮する。ウラン238(238U)が推進効果で核融合物質としての重水素化リチウムを中心へ圧縮すると同時に中心軸のプルトニウム239(239Pu)がガンマ線と中性子線の照射を受ける。239Puが核分裂反応を起こすことで中心部からも重水素化リチウムを圧縮する。


原子爆弾が起爆されると核反応から強力なX線が放出される?
原子核外から放射されるのがX線のはずだが、核反応とは?

第2段階:核融合の開始
超高温超高密度に圧縮された重水素化リチウムはやがてローソン条件を満たし、核融合反応を起こす。


第3段階:水素爆弾の爆発
核融合によって放たれた高速中性子がウラン合金製のタンパーに到達し、核分裂を開始させる。このプロセスを最後にケーシングは完全に消滅し、核爆発となる。通常水爆の核出力の大部分はこの核分裂のエネルギーによって得られる


核融合によって中性子が放出される?
そして最後はやっぱり核融合ではなく核分裂。
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# by yumimi61 | 2016-10-16 12:19
2016年 10月 15日
日本国憲法の秘密-380-
Hは陽子1のみ、2H(デューテリウム)は陽子1と中性子1、3H(トリチウム)は陽子1と中性子2である。
電子番号2のヘリウム(He)は陽子2と中性子2、元素番号3番のリチウム(Li)は陽子3と中性子4である。
Hや2Hや3Hは陽子が1つしかないから核分裂は出来ないけれど、では中性子を切り離したらどうなんだろうか?そういう疑問や興味は湧く。
そもそも中性子がないとダメなんだろうか?

中性子というものは、1920年にアーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)が予想したのが最初。
中性子の存在を実験で証明したのが、教え子のジェームズ・チャドウィック(イギリス)であり、1932年のこと。
しかしこのあたりから核物理学の世界は雲行きが怪しくなってきたのだ。
―1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。



太陽のエネルギーは核融合から生じるということになっている。
太陽の核融合は、水素がヘリウムになる変化である。

ヘリウム
無色、無臭、無味、無毒(酸欠を除く)で最も軽い希ガス元素である。すべての元素の中で最も沸点が低く、加圧下でしか固体にならない。
ヘリウムは不活性の単原子ガスとして存在する。また、存在量は水素に次いで宇宙で2番目に多い。ヘリウムは地球の大気の 0.0005 % を占め、鉱物やミネラルウォーターの中にも溶け込んでいる。天然ガスと共に豊富に産出し、気球や小型飛行船の浮揚用ガスとして用いられたり、液体ヘリウムを超伝導用の低温素材としたり、大深度へ潜る際の呼吸ガスとして用いられている。


上の記述では電子を省いたが、水素原子は陽子1と電子1で構成されている。
ヘリウム原子は陽子2と中性子2と電子2で構成されている。

水素―陽子1・電子1
ヘリウム―陽子2・中性子2・電子2

水素の原子4つあると、陽子の総数は4、電子の総数は4となる。

水素原子4つ―陽子電子/陽子電子/陽子電子/陽子電子

この時に融合が起こる。
早い話、太陽の核融合は4つの水素原子核が1つのヘリウム原子に変わることである。
具体的に合体するのは陽子と電子である。陽子と電子が合体して中性子になる。
しかし全部ではない。4つの中の2つの陽子と2つの電子だけが合体する。陽子2と電子2はそのまま。
すなわち、陽子2・中性子2・電子2の原子と変化するわけである。
同じ陽子と電子なのに、どうして合体するものとしないものがあるのだろうか?

陽子陽子・中性子(陽子+電子)・中性子(陽子+電子)・電子電子
=ヘリウム原子(陽子2・中性子2・電子2)


核融合とは軽い(安定)原子核が合わさって、元の原子核より重い別の種類の原子核になること。
一方の核分裂とは重い(不安定)原子核が分かれて、元の原子核よりも軽い別の種類の原子核になること。

しかしどうして「融合」なのかと思いませんか?
ただくっつくだけなら「結合」や「癒合」でもいいのではないかと。(癒合歯というのがありますね)
最初の原子核が一旦壊れてからくっつくならば、「崩壊」という過程を経ているはず。「崩壊」→「再編(再結合)」

「融ける」とは、個体が熱や薬品などによって液状になること。融解。
「溶ける」とは、物質が液体にとけて溶液をつくること。溶解。

おそらくただくっついただけでなく、核子の変化を伴うので(陽子+電子で中性子)、それを表現したかったのであろう。
それが熱によってもたらされるから「融合」にしたわけだ。
太陽や水素爆弾の核融合には高温・高圧・高密度のプラズマ状態が必要であり、これを特に熱核融合と言うこともある。
しかしこの「融合」は個体が液状になる変化とは少々違う。

核融合は英語では nuclear fusion となる。
fusionの主な意味―溶解、融解、溶解したもの、原子核の結合、(政党・党派などの)連合、合同、提携、連合体 。
化学的物理的に厳密な意味合いを持つ単語ではなさそうだ。熱とか水とか別に関係なく、合わさった状態を指すのだろう。


「核融合」の始まりもアーネスト・ラザフォードにある。
ラザフォードはアルファ線(放射線)の散乱実験などを行っていた。
1919年、天然放射性物質から出るアルファ 線(エネルギー値7.7MeV)を窒素原子核に当てると、窒素原子核が破壊されることを発見した。
この実験と発見から、荷電粒子に7.7MeV 程度のエネルギーを持たせる電位をかけて加速し、対象となる原子核に当てると人工的に原子核が破壊できるのではないかと考えられた。
つまり一番最初はラザフォードが原子核の分裂でも融合でもなく人工崩壊(破壊)に気付いたわけである。

電荷とは電子や陽子等の素粒子が持つ性質の1つ。
粒子がなぜ電荷を持つのかは不明であるが、プラス(+・正)とマイナス(-・負)の電荷がある。
プラスマイナスが同じならば反発し合い(斥力)、異なれば引き合う。
陽子は+の電荷を持っていて、電子は-の電荷を持っている。中性子は電荷を持たない。
電荷的に中性な原子や分子に、+または-の電荷を持たせることをイオン化(電離)と言う。
物理学分野ではイオン化のことを荷電とも言う。
すなわちそれは分子や原子がエネルギー(放射線や熱)を受けて、電子を放出したり、外から得ることである。
原子核崩壊から生じるアルファ線やベータ線は荷電粒子から成る。
放射線には粒子線と電磁波があり、粒子線には荷電を有する荷電粒子線と荷電のない非荷電粒子線がある。放射線のエネルギーは一様ではない。
化学と物理が混じり合ってくる世界で、中性子を取り込むと分裂するという「原子核の分裂」ほど単純な反応ではない。


上記のラザフォードの実験を簡単に言えば、放射線(アルファ線)を窒素原子核に当てたら破壊されたということになる。
アルファ線ならば何でも良いというわけではなくて、ある程度のスピード(すなわち電気界における位置エネルギー)が必要である。
荷電粒子を人工的に加速する装置は加速器と言う。

ともかくラザフォードの発見は熱によるものではなく放射線である。
物質を構成しているミクロな粒子(標的粒子)に、外部から放射線のミクロな粒子(入射粒子)を衝突させると、変化が起こるということなのだ。

ただその変化(外部からの入射粒子が標的粒子に及ぼす力)は物質の結合力に左右される。
結合力は、 核子間>原子間>分子間 である。

外部からの入射粒子が標的粒子と衝突することで及ぼす力は、原子や分子の結合力よりも圧倒的に大きい。
しかし原子内の原子核と電子の結合力は、原子や分子の結合力よりも遥かに大きい。
また原子核内の陽子や中性子の結合力は、原子核と電子の結合力よりもさらに大きい。

一方距離的には、核子間<原子間<分子間 となる。

つまり変化を確実に狙うならば標的の種類によって放射線エネルギーも変える必要がある。


粒子同士が衝突した時には次のいずれかが起こる。
・弾性散乱―機械的に衝突するだけ
・非弾性散乱―衝突によってどちらかの粒子の内部システムに変化が生じて運動エネルギーの一部が移行される。
・制動放射―粒子が電子の場合にのみ有意に見られる、原子核の近くで加速度を受けて放射される現象。
・原子核反応―標的粒子の原子核にエネルギーが吸収されて起こる反応。
・透過―物質を通り抜ける。


原子核の外側にある電子の結合エネルギーは数eV程度なので、入射粒子が数MeVの荷電粒子(ある種の放射線)は、百万倍もエネルギーが大きいということになる。
だから1回衝突したくらいのエネルギーの損失は大したことはない。何万回も衝突できる。
ただそれも結合力と距離によって変わるという話は上でもした通り。
それに対して電荷を持たない電磁波(ある種の放射線、光)や中性子は、1回の衝突で大きくエネルギーを失ってしまう。
「核分裂」の発見は、1938年にドイツでオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマがウラン原子核に中性子を衝突させ副産物としてバリウムを発見したことが元になった。
彼らは中性子を衝突させていた。中性子は電荷を持たない。
従って衝突で原子核に変化が起こることは期待できないので、「衝突の衝撃」によって分裂したのではなく、「中性子が取り込まれた」から分裂したとすぐに方向転換されたのではないか。
エネルギーを失うのだから、速いものが遅くなるということも容易に推測できる。(衝突してエネルギーを失ったのちに取り込まれるならば減速材など必要ないということにもなるわけだが)


核分裂の時には結合エネルギーが放出されるが、核融合の時にも大きなエネルギーが得られるとしている。
そこでそのエネルギーについて考えてみたい。

原子核は陽子と中性子で構成される。(原子はそれに電子が加わる)
陽子は+の電荷を持っている。陽子と陽子は+同士となるので反発し合い斥力が大きくなる。すなわち結合力が弱いということなのだ。
ウランは92、プルトニウムは94も陽子がある。
反発し合うもの同士が大勢一緒にいるのだから原子核の状態としては不安定である。

原子核(ウラン)=反発×92
原子核(プルトニウム)=反発×94
原子核(ヘリウム)=反発×2
原子核(水素)=孤立・安定

反発が大きいほど不安定で引き離すのは簡単である。簡単に離れてしまうものは引き離すのにそれほどエネルギーを必要としないということ。
一方、反発が弱くそんなに簡単に離れないものは引き離すのにエネルギーを必要とする。
要するに引き離すのに必要なエネルギーが結合エネルギーと言い換えることが出来る。
引き離された時には必要なくなった結合エネルギーが放出され、それが位置エネルギーになり運動エネルギーに変わる。

そもそも反発し合うのにどうしてまとまっていられるのか?と思うかもしれないが、仲介役が中性子ということになっている。
中性子は+でも-でもない。電荷を持っていない。中立的立場で反発し合う陽子をなんとかまとめているといった感じだろうか。

問題は核融合の時に放出されるエネルギーである。
簡単に言えば「質量欠損」から生じるエネルギーだということなのだ。
ここでアインシュタインの特殊相対性理論が登場する。

アインシュタインがありがちな優等生ではなかったことは有名だと思うが、ドイツ生まれのアインシュタインはスイスの大学に入学した。また兵役を逃れるためにドイツ国籍を放棄した。
4年で大学を卒業し、翌1901年にスイス国籍を取得(スイスの兵役義務は身体的理由から免除された)。
国籍を取得した翌1902年に友人の父親の紹介でスイスの特許庁に就職しており、大学に残り研究を続けていたわけでもなかった。
但し特許庁という場所がらさまざま技術や発明を知るよい機会にはなったらしい。
そんなアインシュタインが1905年26歳の時に特殊相対性理論を発表した。
もともとは博士号を取得するために書いた論文だったが大学に受理されず、違う論文を書いて博士号を取得したが、1905年には重要な論文を幾つも発表して後に「奇跡の年」と言われるまでになる。
E=mc²を発表したのは1907年である。
一般相対性理論発表はそれより後で1916年のこと。

「質量欠損」は特殊相対性理論―質量とエネルギーは等価なものである。E=mc²―に関係している。
では質量欠損とは何か?
質量欠損(mass defect)とは、原子核の質量とそれを構成する 核子が自由な状態にあったときに観測される質量の和との差である。

なんとなく結合エネルギーと似ていますね?要は核子間の間に生じるエネルギーなんだと思います。
だから全く孤立状態の時にはこのエネルギーは生じない。
孤立状態があったものが合体結合する。すると結合エネルギーが生じる

「質量とエネルギーは等価」ということを時々誤解している人がいるように思うが、これは「質量保存則」「エネルギー保存則」と別々なのではなく、「質量+エネルギー」で保存されるという意味である。
つまりE=mc²は、質量のあるものが質量をエネルギーに変えたならこれくらいになる!という式である。

結合エネルギーを必要としなかったものが、結合してエネルギーが必要になったら、その代わりに質量を失うということ。それが質量欠損。
分かりやすい例えを挙げれば、束縛からのストレス(エネルギー消費)で痩せたみたいな感じ。


「質量数」とは1つの原子核を構成している陽子の数と中性子の数の和である。質量とは違う。
水素4つ(陽子4・電子4)で、ヘリウム(陽子2・中性子(陽子+電子で出来た)2・電子2)になるというように、分裂や融合前後で数が同じなのは質量数である。
ある原子についての質量の平均値は「原子量」という。
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# by yumimi61 | 2016-10-15 13:07
2016年 10月 14日
日本国憲法の秘密-379-
原子爆弾(核兵器)開発の当初の目的は、放射性物質を撒き散らすことにあったのではなく、「小さな爆弾で大きな威力」だったはずである。
従ってそれが達せられないならば開発の価値はない。

ウラン(原子番号92)にしてもプルトニウム(原子番号94)にしても原子番号が大きい元素、質量の重い元素、つまり不安定で結合エネルギーが小さい。大きなエネルギーは得られない。
原子爆弾の開発の最中、この致命的な欠点に気付いた科学者たちがいた。
彼らが水素爆弾の推進者となっていったのだと思う。

ジョ・ホイーラ(アメリカ)・・・ ニールス・ボーア、相対性理論と量子力学の二刀流、水爆推進、1939年に「原子核分裂の予想」論文を発表

エドワード・テラー(ユダヤ系ハンガリー)・・・ニールス・ボーア、レオ・シラード(アインシュタイン書簡)、「水爆の父」

スタニスワフ・ウラム(ユダヤ系ウクライナ)・・・ジョン・フォン・ノイマン、水爆機構の発案者



それは再び、量子力学と相対性理論との対立をあぶりだすことになった。
そして「原爆の父」と呼ばれるマンハッタン計画のリーダであったロバート・オッペンハイマーと、「水爆の父」と呼ばれるエドワード・テラーの対立に繋がっていった。
オッペンハイマーは原爆の被害が甚大で恐ろしくなって後悔したから、その後も水爆開発を進めたテーラーと対立したと言われているが、それは後付理由や欺瞞であろう。
結合エネルギーを中心にした科学的な対立である。

ロバート・オッペンハイマー(ユダヤ系アメリカ)・・・ニールス・ボーア、「原爆の父」


前に私が書いた「海を温めるもの」という文章を先日も引用したが、そこにこう書いた。
現代においては太陽のエネルギー源は核融合ということになっている。
核融合も核分裂も核反応である。
例えれば、原子爆弾は核分裂であり、水素爆弾は核融合となる。


太陽のエネルギー源が核融合ということになっているように、水素爆弾も核融合のエネルギーを利用したということになっている。
でも当初は違ったはず。核分裂までを疑ってはいなかったのだ。
問題は結合エネルギーの小ささであり、だからこそ軽く安定している水素(原子番号1)に注目したのである。
しかし原子番号1ということは陽子数が1ということ。これでは分裂ができない。
核分裂は複数の陽子が2つ3つに分かれるものである。陽子1つが2つに分かれるわけではない。
つまり陽子を基準に考えると、1つの細胞が分かれる細胞分裂とは少々異なる。
そこで2Hや3Hの重水素に目を付けた。2Hや3Hを分割させた時に放出する結合エネルギーが注目されたということだと思う。

そのことに早くから気付いていたのはドイツである。
1940年初め、パリのグループは重水が理想的な減速材であるという理論的背景を固めた。彼らは、フランス軍需相にノルウェーのヴェモークにある大きな水力発電所からどれだけの重水を得ることが可能か問い合わせた。フランスはノルウェーの重水の全在庫をドイツが購入する注文を行っていたことを発見した。これは、ドイツも原爆の開発を行っていることを示していた。


Hは陽子1のみ、2H(デューテリウム)は陽子1と中性子1、3H(トリチウム)は陽子1と中性子2である。
電子番号2のヘリウム(He)は陽子2と中性子2、元素番号3番のリチウム(Li)は陽子3と中性子4である。
Hや2Hや3Hは陽子が1つしかないから核分裂は出来ないけれど、では中性子を切り離したらどうなんだろうか?そういう疑問や興味は湧く。
そもそも中性子がないとダメなんだろうか?

中性子というものは、1920年にアーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)が予想したのが最初。
中性子の存在を実験で証明したのが、教え子のジェームズ・チャドウィック(イギリス)であり、1932年のこと。
しかしこのあたりから核物理学の世界は雲行きが怪しくなってきたのだ。
1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。

中性子衝撃や核分裂によって作られる放射性元素(副産物)があることが発表されたのは1938年~1939年。これが大きな転機だった。
中性子発見から10年にも満たない期間の出来事である。
そこで大胆に中性子がない場合を考えて見る。2Hは陽子2、3Hは陽子3である。陽子数的にはヘリウムとリチウムということになってしまうが、これで陽子の分割が可能になる。

結合エネルギーは原子間よりも核子間のほうが強い。 核子間>原子間>分子間

重水は中性子の減速材として必要だったのではないと思われる。ドイツは着眼点が違ったと思う。
ドイツも原爆を開発しており、アメリカやイギリスよりも早くに着手していたと言われている。
ユダヤ人の科学者がみなドイツから逃亡したと言うならば、ドイツにいたユダヤ人ではない科学者らが開発に携わっていたであろう。

「ドイツが原子爆弾の研究を英米より2年も早く着手し、しかも相当進んでいることは英米側ではっきり確認されていた。
さしあたりドイツが占領していたノルウェーの重水工場の機能を奪って、貴重な重水を使わせないようにすることがイギリス戦時内閣の最大の課題であった。ノルウェーに潜入させていたスパイからの報告によると、重水の生産は急速に増加し、毎月ドイツに向かって輸送中だという。もう一刻も猶予はできなかった。
1942年10月、イギリスは2機の爆撃機と奇襲空挺隊をのせたグライダーをノルウェーに向けたが、不幸にして2機とも墜落し、全員が死亡してしまった。更に悪いことには指揮官の死体から重水工場のあるヴェルモク町に赤い線を書き入れた地図が発見されてしまった。


例えば基地に爆弾を落とす。それは基地を狙って基地に被害を与えるものである。
もしもそれが威力の大きな爆弾ならば。基地に落とす、しかし基地の周りにも広く被害を与えることが可能となる。しかし狙った投下場所はあくまでも基地である。
原子爆弾は戦術(作戦)と戦略(威嚇)が同時に可能な爆弾として開発されていた。
しかし幸か不幸か、世間ではユダヤ的な核分裂が一世を風靡していたため(?)ヒトラーが原子爆弾開発に全く乗り気ではなかった。
ユダヤ人に負けたくないということもあったかもしれないが、彼は戦術の人だったのではないだろうか。実力主義。正々堂々と戦って勝ちたかった。わりかし正義感が強い人。それでこそ優越民族たる、とかなんとか思って。
だからこそ目に見えて勝敗が分かりやすいスポーツに傾倒したのだろう。
先制宣誓「我々はスポーツマンシップに則り正々堂々と闘うことを誓います」ってことで。



ナチスの軍需大臣アルベルト・シュペーアは1942年、オットー・ハーンとヴェルナー・ハイゼンベルクという原爆開発の基礎理論を作った二大ノーベル賞物理学者に、「原爆」開発の質問をした。
すると、「生産技術的には、遅くとも2年後には製造可能だろう」という返事を得たという。


オットー・ハーンは、1938年にフリッツ・シュトラスマとともに、ウランの原子核に中性子を衝突させ副産物としてバリウムを発見した化学者。
ハーンらはこの結果を説明できず、かつての共同研究者リーゼ・マイトナー(オーストリアの女性物理学者)に見解を求める手紙を送付する。
そしてマイトナーが「核分裂」と断定した。これによって原爆開発は進んでいったのだから、ウラン核分裂連鎖反応支持派であろう。

ナチスの軍需大臣シュペーアがそれ(オットー・ハーンとヴェルナー・ハイゼンベルクから聞いた原爆の進捗状況)をヒトラーに報告すると、彼は「それは、既に別の研究機関にまかせてある」と答えたきり、二度とふれようとはしなかったという。
「2200種類にものぼるヒトラーとの会談のテーマのうち、たった1回だけ『核分裂』が話題にのぼっただけだった」と、シュペーアは書き残している。
ヒトラーは原子爆弾の構造に全く関心がなかったという。

1939年12月に同盟国日本からドイツに留学し、第三帝国が崩壊するまでをつぶさに実見した哲学者、篠原正瑛氏(彼は当時、ギムナジウムで少年たちに日本語を教えていた)は、『ドイツにヒトラーがいたとき』(誠文堂新光社)の中で、次のように書いている。
「戦後の見方では、『ドイツは原爆の研究を進めてはいたが、技術的にはまだ完成の段階には達していなかった』という意見が大勢を占めているようだ。
しかし、私自身は、あの当時ベルリンで耳にした噂や情報などを総合的に考えてみると、どうもドイツは原爆完成の直前にあったのではなかろうか、という気がする。」


ドイツの原爆実験は1942年にチェコで行われたとも言われている。

ドイツの著名な歴史研究家であるセバスチャン・ハフナー(ユダヤ人)は、著書『ヒトラー注釈』の中で次のように述べている。
「ヒトラーの反ユダヤ主義によって、ドイツの科学がこうむった頭脳の流失は相当のものだった。
アインシュタインを初めとしてユダヤ人の科学者が亡命しただけではなく、ユダヤ人でない著名な科学者もユダヤ人の同僚や教師のあとを追った。そしてそれまで群をなしてドイツ参りをしていた外国の科学者も来なくなった。
ヒトラー以前には核物理学の研究では世界の中心はゲッティンゲンだった。それが1933年にアメリカに移った。
ヒトラーの反ユダヤ主義がなかったら、アメリカではなく、ドイツが最初に原子爆弾を開発する国になったかもしれないというのはなかなか興味をそそる推測である。」 


この見解は正しくはないだろうと思う。
ドイツはウランやプルトニウムではなく最初から水素に注目していた。
「ウランの核分裂こそが」と思っていたユダヤ人が流出したことは何ら痛手ではなかった。
ただマンハッタン計画に参加した科学者の中にも途中でウランではダメだということに気付いた者がいた。
減速材としての重水を提唱したパリの科学者チームやドイツの重水獲得を阻止したイギリスもひょっとすると「減速材」はカモフラージュであり、気付いていたのかもしれない。


結局のところ、ナチスの原爆開発がどの程度まで進んでいたか不明である。
しかし、戦後、連合国側が捕らえた科学者たちの証言では、「最も難解な過程」は乗り越えていたらしい。
イギリス情報局もこの証言を裏付けるような情報を得ていたという。

例えば、次のような情報がある。
「『カイザー・ヴィルヘルム研究所』で原爆リサーチを行なっていたナチスの科学者たちは、戦後イギリスへ連れて行かれ、『ファーム・ホール刑務所』へ一時的に拘留された。
その時、イギリス情報局は当然これら科学者の監房に盗聴器を仕掛けておいた。
1945年8月6日に広島に原爆が落とされた時、そのニュースはラジオを通じてこれら科学者たちにも知らされた。
彼らの反応が興味深かった。
盗聴されているとは知らずに彼らは広島に落とされた原爆についていろいろな反応を示したが、ひとつだけ一致した反応があった。それは『なぜドイツが作った原爆が友好国日本に落とされたのか』という驚きの反応だった。
これによってイギリス側はドイツの原爆開発がいかに進んでいたかをつかんだのである。」

「ナチス製原爆」の謎>より
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# by yumimi61 | 2016-10-14 13:34
2016年 10月 14日
Bad
想い出の曲"Bad Day"
英語の授業の最初に先生がこの曲を流してくれたなあ・・(それは嘘!)
コメント見てたら、英語の授業の導入に使われているというコメントが幾つかあった。
初耳だったんだけどそれは全国区な話なのでしょうか?
日本の子供達はみなこの歌を知っているの?
歌詞の意味に英語の授業前に先生がこの曲を流すということを重ねあわせたら泣きそうになる。
意訳風(上)と直訳風(下)の日本語訳バージョンで。






Bad DayのところでYouTubeの右側にちょうど表示されたので、もうひとつ想い出の曲。
"You Raise Me Up"
歌っているマーチンって誰だ?と思ったらタレントオーディション出身の人らしい。
オーディションの時に下の歯がなかったけれど、後から生えてきたみたい。
はっ!?!

<


 

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# by yumimi61 | 2016-10-14 09:24
2016年 10月 12日
日本国憲法の秘密-378-
ウラン爆弾
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プルトニウム爆弾
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右図はWiki爆縮レンズより

最初の爆縮式原爆であるファットマンでは爆縮レンズの爆薬だけで2500キロにもなり重量の半分以上を占め、直径は137.8センチと大きく原爆が大型化する最大の原因になっていた。
それなら普通の爆弾じゃない?

プルトニウムは不安定で結合エネルギーが小さいにもかかわらず、この構造だと原子核を設置できるスペースが狭く、ウランより少ない量になりそう。爆薬のほうが多い状態である。
少ない量でも放射能力が高いのが放射性物質の特徴だが、特定核種が分離できていない状態での核分裂連鎖反応となると話は違ってくる。

原子爆弾の構造は、大きく分けて、ガンバレル型(広島市に投下された原子爆弾「リトルボーイ」に代表される方式)とインプロージョン方式(長崎市に投下された原子爆弾「ファットマン」に代表される方式)の二種類に分類されるが、爆縮レンズはインプロージョン方式の中心となる技術である。

ガンバレル型は構造が単純であるが、プルトニウムを使用できず、濃度90%以上の高濃縮ウランを用いるしかない上に、小型化が難しく核分裂の効率も低いため、使用された唯一の例は広島の「リトルボーイ」においてのみであり、人類初の原子爆弾であるトリニティ実験の「ガジェット」と、長崎の「ファットマン」以降の世界の原子爆弾の多くが爆縮レンズを用いたインプロージョン方式となっている(核砲弾にはガンバレル型の採用例がある)。

プルトニウム原爆の課題
プルトニウムを用いる原子爆弾では、確実に核分裂反応を起こし、超臨界状態にするために、周囲から強い力をかけて中心部を圧縮する必要がある。このように、周囲全体から圧縮をかけることを、インプロージョン(爆縮)という。
爆縮には、火薬が燃焼した時に発生する衝撃波を用いる方法が考案されたが、中心に球形のプルトニウムを置き、その周囲を火薬でぐるりと包み込んで、電気仕掛けで複数の位置から点火しただけでは、それぞれの点火位置から最も近いプルトニウムだけに力(圧縮力)が先に到達してしまい、核分裂反応が発生しない。また、圧縮力の到達にむらが生じると、プルトニウムもろとも木っ端微塵に飛び散ってしまうため、プルトニウムの周囲全体に均等な力を同時にかけ、圧縮力が逃げないようにすることが必要とされた。

マンハッタン計画の科学者らは、爆破加工に用いられていた爆薬レンズを応用し、燃焼速度の速い火薬と遅い火薬を組み合わせる方法を考えた。
開発に至るまでは火薬の燃焼速度等、様々な条件が一致することが求められ、当時の火薬学で用いられていたCJ理論では取り扱えないほど精密な計算を要求されたため、新たにジョン・フォン・ノイマンらによってZND理論が開発された。
しかし、ZND理論は大変に複雑で膨大な計算を要したため1940年代当時のロスアラモス研究所に集められたジョン・フォン・ノイマンらの数学者達の手によっても、優に10ヶ月以上の時間を要した。当時は、コンピュータが無かったためである。

マンハッタン計画に参加したセオドア・ホールら科学者の一部は、将来アメリカが核を独占する世界になることを恐れて、これらの情報をソビエト連邦に流した。ソビエト連邦はこれを基に第二次世界大戦後すぐに原子爆弾の開発を始め、スパイや共産主義思想を持つアメリカ科学者などからの継続的な技術情報の提供を受けながら4年後の1949年8月29日に核実験(RDS-1)を行った。

その後も爆縮レンズの構造は機密扱いであり、トリニティ実験の映像なども一部がカットされた状態で公開されていた。特に点火装置の位置や数は当時の最高機密に属するものであった。

爆縮レンズは極めて高度な技術である。単純な爆発の同期、圧力の均一化だけが問題なのではなく、他にも様々なノウハウが必要であるため、他国の設計や装置の単純な流用も困難である。しかし、実際にはインドに続いて2006年に非先進国の北朝鮮がプルトニウム型の原爆実験を行い爆縮レンズについて一定の成果を得たとされる。


以上は爆縮レンズのところにあった文章だが、これに限らずプルトニウム爆弾の記述をみるとどれも「原子爆弾」であることの意味が分かっていないような気がする。


原子爆弾は核分裂連鎖反応を用いるのだから本来爆薬は必要ない。
起爆、爆発のきっかけとなるのは、中性子(紫丸で書いたのがイニシエーター・中性子源)である。
そして核分裂連鎖反応が上手くいけば(臨界状態を超えて暴走状態が作り出せれば)爆発する。
臨界に必要な量(最低限の量)は予め計算で算出。
ウラン爆弾がウランを2つに分けたのは臨界コントロールのため。2つに分けることで臨界量未満にしておいた。
この状態では中性子が放出され核分裂が始まっても臨界に達することはない。
2つのウランを1つにするために爆薬は用いられている。
1つにすることで臨界量を超えるので、起爆すると核分裂連鎖反応が急速に進むということ。


一方のプルトニウム爆弾。
プルトニウムを用いる原子爆弾では、確実に核分裂反応を起こし、超臨界状態にするために、周囲から強い力をかけて中心部を圧縮する必要がある。このように、周囲全体から圧縮をかけることを、インプロージョン(爆縮)という」―この意味が分からない。
中心部を圧縮すると確実に核分裂が起きて、臨界状態を超える理由はなんだろうか?イニシエーターの起動?
核分裂反応にも結合エネルギーにも圧縮は関係ない。


プルトニウム爆弾が難しいのは、核種同位体が混じり合った状態になるからである。そしてその中には分裂性を持たないものがある。
前述したこの部分。
分裂性のプルトニウム239(あるいは239+241)が一番多い状態が作り出せれば大きな爆発が起こるが、プルトニウム240(あるいはウラン238・239+ネプツニウム239+プルトニウム240)が多くなれば連鎖が上手くいかないか、上手くいっても爆発力は望めない。
プルトニウム爆弾もプルトニウム239を分離して、それだけを使用するわけではない。分離は困難不可能だと原発のところにも書いてあった通り。
つまり最適な状態にどうしたらなるかを計算する必要があるが、確率も分からない反応の計算なんか出来るだろうか、出来たとして幾つもの反応連鎖がコントロール可能だろうかという話である。これもすでに前述した通り。
核分裂反応は火薬でどうこう出来るものではない。


「汚い爆弾(dirty bomb)」と言われるものがある。
放射性廃棄物などを通常爆弾に詰めて爆発させ 放射性物質をまき散らす兵器。核兵器製造ほどの資金や高度な技術力を必要としない。 → 放射性廃棄物 ・ 貧者の核兵器
核分裂連鎖反応を利用して爆発するのではなく、爆薬などで爆発させて詰めて置いた核物質を拡散させるものである。
プルトニム爆弾は汚い爆弾のような構造である。


プルトニウム爆弾にはさらにもうひとつ大きな問題がある。
前に書いた分裂の仕方に注目してもらいたい。


【ウラン】-----------------------------------------------------------------------------------------

ウラン235(奇数)=陽子92(偶数)+中性子143(奇数)←中性子1
                ↓
核分裂(新たな元素2つ、中性子2~3放出、結合エネルギー)

【プルトニウム】---------------------------------------------------------------------------------

ウラン238(偶数)=陽子92(偶数)+中性子146(偶数)←中性子1
                ↓
ウラン239(奇数)=陽子92(偶数)+中性子147(奇数) 
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)※反ニュートリノが検出されたのは1956年
                ↓
ネプツニウム239(奇数)=陽子93(奇数)+中性子146(偶数)
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)
                ↓
プルトニウム239(奇数)=陽子94(偶数)+中性子145(奇数)→一部は分裂せずにプルトニウム240となる
        分裂するためには中性子が必要
                ↓  
核分裂(新たな元素2つ、中性子2~3放出、結合エネルギー) 

--------------------------------------------------------------------------------------------


最初に投入された中性子はウラン238がネプツニウム239に変わるために必要な物である。
従ってプルトニウム239を分裂させる時にも新たに中性子が必要なはずである。
ウラン238がプルトニウム239に壊変するまでの反応においては中性子は放出されない。
0.7%ほど混ざっているウラン235に中性子を取り込ませて核分裂させれば中性子を放出するが、ウラン238も中性子を取り込むのだから運任せで0.7%のウラン235を当てることは容易ではない。
分離ができないのだからそれだけをターゲットにするのも困難ということだ。
そうなれば、中性子源から2段階で放出する必要がある。ウラン238の時とプルトニウム239の時。
遅い火薬と早い火薬というのはやはり中性子源の起動に関係して出てきたものだろうか?


【ウランの核分裂連鎖反応】
中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功0  ⇒失敗
中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功1・・・ ⇒臨界
中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功3→中性子9→核分裂成功9→中性子27→・・・・

【プルトニウムの核分裂連鎖反応】
中性子1→2回のβ崩壊成功→プルトニウム239→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功→・・・
                        ↑                           ↓
                      中性子1    核種同位体が混合しているので成功率が低い

プルトニウムの場合、ウラン238が全てプルトニウム239に変わった状態で2回目の中性子を投入しないと、せっかく放出した2回目の中性子がまだ残っているウラン238に取り込まれてしまい肝心のプルトニウム239の核分裂は起きないということも考えられる。
前半部分だけでは連鎖は起こらないのだから最初に沢山の中性子を必要とする。これでまた余分なスーペースと重量を稼いでしまう。
それでも何事も100%は難しいし、その状態に至る時間を予測することも難しい。
ウラン238が少なくなった状態を予想するしかないが当然のことながら確実性はない。
従って例えば1回目の実験が成功したからといって2回目が成功する保証など全くない。何事にもばらつきは生じるものだから。
半減期が長いものほどばらつきは大きいはず。
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# by yumimi61 | 2016-10-12 11:19
2016年 10月 11日
日本国憲法の秘密-377-
婚活女子が身に付けるべき、壇蜜にあって菊川怜にないもの(週刊女性PRIME)

この記事が酷いんです。(昨年夏の記事ですけれども)

婚活女子のなかには、華道や書道、ワインやアロマテラピーなどの教室に通って、“内面の美しい女性”になろうとしている人も多いでしょう。
「教養系の自分磨きを婚活対策として考えているのであれば、残念ながら効果はありません。その時間とお金をレーザー脱毛に使って、全身ムダ毛のないツルツル肌にしたほうが、性的メリットを満たしますから、男には何倍も魅力的に映ります」と言い切るのは、男の本音を読む婚活術“ちんころじ~”を提唱している、ライターの仁科友里さん。

 仁科さんいわく、自分磨きが好きな人は、極端に自分に自信がない(ので、特殊能力をもたなければ、愛されないと思っている)か、頑張れば頑張ったぶんだけ報われてきたという平等社会の勝ち組のどちらかとのこと。
 自分に自信がない人は、「若さに負けない実力を身につけたい」と考え、勝ち組は「こんなことも知ってるあたしってすごい!」と知識欲を高めていくのです。

■男が“知的”とほめそやす壇蜜のヒミツ
 しかし、男と女では“知的”のとらえ方がまったく違う、と仁科さんは力説します。
「女性にとって“知的な女性”とは、学歴が高いとか、難関試験に受かっているとか、知識量が多い人を指します。たとえば、東大卒女優の菊川怜は文句なしに“知的”枠です。でも、男性芸能人が菊川怜を『東大なんてすごい』とほめることはあっても、“知的”と表現するのを私は見たことがありません」

 では、男性が思う“知的な女性”って誰なんでしょうか?
「壇蜜です。最近ではテレビのコメンテーターを務めるなど、文化人路線に転向しています。壇蜜のコメントは変なウケを狙わず、小難しい知識も混ぜてこないけれど、独特のユーモアがある。そして特定の誰かを責めないし、ほかの出演者の誰ともコメントがかぶらない。壇蜜は、それだけ相手の話を聞いているということなんですね。これが男性のいう“知的”です」

 つまり、壇蜜はセクシーさで“男の性的メリット”を存分に満たしているからこそ、そのギャップでよりクレバーさが引き立つということ。

「男性に“知的”と言われたければ、“性的メリット”を磨くこと。端的に言えば、やや多めに肌を出すことがいちばんの近道といえるでしょう」

 婚活対策をするときは、「それって本当に男にメリットがあるのか?」を考えるのが大切なのです。女性が陥りがちな思い込みと、本当に効く婚活テクニックは、7月31日発売になった仁科さんの著書『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)にまとめられています。


こんなのセクハラでしょう。「知的」になりたければ「性的」になれなんて、女性蔑視も甚だしい。
あちこちお直しして肌を見せることが知的なのか?
肌を見せるのは馬鹿だから、そのギャップで知的に見えるということなのか?
女の敵は女というけれど、これが「週刊女性」や「主婦と生活社」という女性目線の会社から出されていることが恐ろしい。
社会全体、勉強なんかやるだけ無駄と言っている状態だから仕方ないと言えば仕方ないけれど。

あっ言っておきますけれど、男性の言う「胸が小さいのは女ではない」とか「性的魅力は感じられない」とか、そういうのも立派なセクハラ発言ですからご注意くださいね。
あなたが「知的」だったり「超有名人」ならば問題視されかねませんよ。

それはさておき、この記事は破綻していると思う。
なぜなら結婚は大勢の人とするわけではないから。多夫多妻制ではないから1回につき1人としか結婚できない。
つまりたった一人の人が「そういう君が好きだよ」ということになれば、どんな人だってそれで成立するのだ。
それこそが運命というものですよね?
何も世界中の男性や女性に気に入られる必要はない。
「肌を出したくない人」が「肌を出す人を好きな人」に気に入られる必要なんかない。
もしも結婚したってどうせ上手くいかなくなる。


ところでアメリカ大統領候補のトランプ氏。(そういう繋がりはちょっと・・・?)
クリントンvsトランプで盛り上がっているところに水を差すようで申し訳ないけれど、クリキントンクリントン夫妻とトランプさんはもともとは親しい間柄ではなかったかしら?
リサーチしてみたらこんな記事があるではないですか。

トランプ氏、出馬前にクリントン元大統領と「電話会談」(CNN) -これも昨年夏の記事ですね。

ドナルド・トランプ「クリントン夫妻は、俺が大金を寄付したから結婚式に出てくれた。ハハハ」(THE NEW CLASSIC)

司会者がトランプ氏に投げかけた質問のひとつが、過去にトランプ氏が民主党関係者への寄付の是非についてであった「なぜリベラルな立場の人間への寄付が多いのか?」と。
トランプ氏は以下のように回答した

「もちろん私のビジネスにそれが有利になるからです。どうして私に多くの人がついていくのか?それは私がその人たちに大金を突き込んだからなんです。例えば、クリントン夫妻が私の結婚式に出たのも、私が彼らに寄付をしたからです。彼らは私から寄付をされた立場上、そうせざるを得なかったのですよ(笑)」
この発言は全米に中継された。


オフレコの「有名人になれば女性は何でもしてくれる」「スターならば何だって許される」という発言よりも、世間や共和党の皆様はこちらの公式発言を問題にすべきだったのでは?
「有名人になれば女性は何でもしてくれる」「スターならば何だって許される」という発言は当たらずしも遠からず的で、決して口には出さないけれどそう思っている人は少なくなさそう。自覚にせよ他覚にせよ。
女性蔑視発言というよりは有名人蔑視発言、スター蔑視発言のような気がする。「そんなこと言ってくれるな」「そんなことやってくれるな」と怒っているのは女性が中心ではないのかも。

オフレコ発言でそれ自体は取りに足らないものだと分かっているからこそ、ヒラリー・クリントン候補は、「女性蔑視問題だけではなくて、あれもこれもダメで、大統領になる資質がない」と言ったのだろう。
「資質」と曖昧なものを持ち出してきた。

・ トランプ氏と米民主党 囁かれる『舞台裏での協力』(2016年5月17日) -BBC記事を受けて。
実は、トランプ氏は「民主党のヒラリー候補の大統領当選を助ける為に、敢えて立候補したのでは?」という憶測は、保守派大手メディアだけでなく、リベラル派のメディアの多くも報道しています。

私自身としても、『なぜジョン・ミラーという偽名を使って、自らの女性関係を暴露し、自慢した25年前のテープを「今更」ワシントン・ポスト紙に持ち込んだのか』という疑念と、ヒラリー・クリントン候補のe-mail疑惑が注目を殆ど浴びず、浴びたとしても、「それでも政策的にはトランプ氏よりは、ヒラリー候補の方がマシ」と落ち着くしかない保守派」のジレンマがあります。(BBC)

ジェブ・ブッシュ前フロリダ州知事は、この可能性を否定していない。
「ドナルドは、彼の友人であるヒラリー・クリントンとの何らかの約束をしたのかもしれない。」 ブッシュ氏は、トランプ氏が共和党から独立した場合、殆どの彼の支持者は彼に従っていくという調査結果をひけらかした際に、「このままでは、ヒラリー・クリントンがホワイト・ハウスを勝ち得るだろう」とツイートをしている。

彼は共和党からの同労者を馬鹿にし、2013年に考えられた、異文化共存を鑑みた党戦略とは全く逆方向の、右翼排他主義に引っ張っている。また政治的な酸素(メディアの露出)を独り占めしているため、他の候補者のメッセージがなかなか伝わってこない。全ての専門家は、トランプ氏によって大統領選挙の際に、共和党が苦戦を強いられることで一致している。これらは意図的に行なわれているのではないだろうか。

これらは、ジェブ・ブッシュ氏のツイート以前から囁かれていた仮説だ。
「もしドナルド・トランプ氏が、民主党からの錯乱要員だとしたら、彼の振る舞いは、今とどう違っていると考えますか?」保守派の政治評論家ジョージ・ウィルが7月、問いかけをした。「何ら違いはないでしょう。」



そしてまた結婚の話に戻りますが、私は前にクリントン夫妻の娘さんの結婚のことを書いたことがあります。こちら『政略』という記事の中で。

クリントン夫妻の娘
1980年生まれのチェルシー・クリントン。

彼女もアイルランド好き。
クリントン大統領のルーツでもあるので当然かもしれませんが。
バカンスにも訪れています。
スタンフォード大学では北アイルランドについての論文を書いたそうですが、その論文が公表されないので何か怪しいと言われたりもしています。
卒業後はニューヨークのヘッジファンド、アベニュー・キャピタル・グループで3年間働くものの、仕事への意欲が感じられなくなり2009年に退職。
しかし金融業界を高く評価していることには変わりないそうです。
その後、コロンビア大学で公衆衛生専攻での修士号を得ます。
現在は同大学で複数国間の衛生政策について教えながらオックスフォード大学から国際関係学の博士号取得を目指しているとのことです。

2010年、彼女は大学時代の友人で現在ゴールドマン・サックスに勤務する男性と結婚。(彼の親も政治家)
「好き好き好き好きメズビンスキー」と言ったかどうか。
宗教の違いを有耶無耶にして乗り越えて、ユダヤとの結びつけを強めました。



結婚については「まとめ」に頼り記述は略しましたが、今見たらまとめがリンク切れになっていますね。
ということで、こちらはどうでしょうか。

クリントン家の結婚式は謎だらけ(2010年7月28日、ニューズウィーク日本版)


 秘密主義へのこだわりは、チェルシーを守りたいというクリントン夫妻の愛情の表れか、それとも娘の晴れ舞台まで最大限に利用する政治家魂の表れか。いずれにしても、総額200万ドル(平均的なアメリカ人の結婚式費用の100倍だ)といわれる超豪華ウェディングが、新婚カップルの門出以上の意味をもつことは間違いなさそうだ。

 ワシントンの政治記者が最も注目するのは、400人以上という招待客の顔ぶれだ。リストには、映画監督のスティーブン・スピルバーグや歌手のバーバラ・ストライサンドなど著名な民主党支持者の名前が並んでいるといわれ、オバマ大統領が出席するのではないかとの報道も飛び出した。ホワイトハウスのギブス報道官は「私の知る限りでは(出席)はない」とコメントしたが、支持率が低下しているオバマに代わって、民主党がヒラリーを次期大統領選に擁立するとの憶測も流れるなか、不仲説を封じ込めるためにオバマが飛び入り参加するのではないか、いや、クリントン家のイベントがこれ以上注目される事態は耐えがたいから、出席するはずがないといった憶測が渦巻いている。

 今回の結婚式には、もう一つ注目すべき点がある。どの宗教に則って結婚式を執り行うかという問題だ。チェルシーは、南部バプテスト派の父親とメソディスト派の母親をもつキリスト教徒だが、メズビンスキー家はユダヤ教保守派に属している。ユダヤ教保守派は他宗教の信者との結婚に消極的で、結婚相手がユダヤ教に改宗しないかぎり、ラビが結婚式を執り行うことを禁じている。

 宗教の壁を乗り越えるには、チェルシーがユダヤ教に改宗するか、メズビンスキーがキリスト教会での挙式を受け入れるか、あるいはキリスト教の司祭とユダヤ教のラビが同席するというパターンか。チェルシーがユダヤ教の礼拝に参加したと報じられたこともあり、アメリカのユダヤ人コミュニティーやイスラエルは「チェルシー改宗説」に色めきたっている。実際、もし改宗すれば、ヒラリーは強大なユダヤ人脈にこれまで以上の後押しを受けられることになる。

 いずれにせよ、若いカップルの結婚式の背後には、隠しきれない政治の臭いが漂っている。10代の多感な時期に父親の不倫スキャンダルという試練を経験したチェルシーだけに、余計なお世話と知りつつも、平凡でも幸せな家庭に恵まれますようにと願わずにはいられない





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# by yumimi61 | 2016-10-11 10:35
2016年 10月 10日
日本国憲法の秘密-376-
昨日放射性物質の半減期について書いた。
一度は認められ、ニッポニウム(nipponium, Np)と命名されたが、その後取り消された43番天然元素の取り消し理由について思い出してほしい。
「43番元素は地球上には存在しない(半減期が短いため、地球が誕生してから現在までにほぼ全てが崩壊している)」

失うばかりで補充されなければ、いつか尽きてしまう。
副産物として新たに出来るわけでもなく、崩壊や分裂ばかりで生成できない、要するに循環することがないならば、消えてしまう。そういう元素があるということになる。
例えばウランが生成されないならば、ウランは崩壊する一方で、ウランという元素はいつか消失するということ。
ウラン238は半減期が45億年と非常に長いので、地球の年齢と同じでもまだ45億年は消失しない。


最後に書いた「ウラン238は半減期が45億年と非常に長いので、地球の年齢と同じでもまだ45億年は消失しない」という文章は一般的な半減期の考え方とは少し違う。
天然元素43番が存在しないと言うから、0(ゼロ)を意識して書いたものだ。

私が2011年生まれのセシウム137を100個手元に持っているとする。
これが50個崩壊するのは2011年から30年後(半減期は30年)。2041年。
Aくんがセシウム137を欲しいと言ったので半分あげることにした。
30年後Aくんがそのセシウムを観察したら1つも崩壊していなかった。Aくんは30年間放射線とは無縁。
一方、私の手元に残したセシウムは全て崩壊していた。OMG・・・・

Aくんの所有する50個のセシウム137は2071年に観察すると25個崩壊するはずである。(新たな30年でまた半分崩壊するということ) 崩壊していないセシウム137は残り25個。
2071年というと、2011年に30歳だったAくんも90歳になっている。
2101年はまたその半分の12~13個くらい崩壊している。Aくんは120歳か。いくらAくんが健康とはいえ、厳しいかもしれないな。2011年に生まれたAくんの子供も90歳だもん、そりゃあそうだよね。
2131年にはまたその半分、6個くらいが崩壊している。
こうして延々と続いて行く。
「半減」である以上、「0」に近づくことはあっても、「0」にはならない。
こうした一般的な半減期の考え方では半永久的に0にはならない。数字上(計算上)は消滅することはないのだ。

0にはならないが延々に続けばやがて1を下回る。
私の例は分かりやすいように100という原子核の数としては小さな数字を使ったので、それでも直に1個を下回ってしまうが、天文学的数値ならば1を下回るの遠い。
しかし原子核の数なので1を下回ったら意味がないということで、0にはならなくても存在しないと決定したのだろうか。
「半減期が短いため、地球が誕生してから現在までにほぼ全てが崩壊している」
「1以下」が「ほぼ全てが崩壊」という表現になったのだろうか?
発見されないうちに消失してしまった存在しないものは観察や実験も出来るわけがないのだが、その元素は半減期が短いと断定した。計算や推測・予測だけの半減期が絶対に間違いないと言えるだろうか?

半減期が短いという理由だけで、発見された43番元素が本物ではないと断定することは出来ない。
同様に、まだ発見されてもいない物質の「完全崩壊」「完全消滅」を証明することは困難である。悪魔の証明。

もしも確率論で無いと言い切ったならば、核分裂の実験だって同じようなものではないだろうか?
一方では大発見だと大喜びし、一方は在り得ないとした。仲間達が行った追試が成功したから?
1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
ウランを分離せず、中性子も特段選ばずに行った実験で、分裂が起きた。そう解釈された。
分裂がウラン235で起こるならば、本当に運よく中性子がウラン235に当たった(取り込まれた)結果である。
100分の0.7の確率に当たったことも奇跡のような出来事だが、最適条件を整えていないことも考えれば、確率はもっとずっと低い状況にあったはず。




放射性物質が1秒間に崩壊する原子の個数(放射能力)を表す単位をベクレル(Bq)と言う。
1秒という短い間に崩壊する個数の単位なのだから原子核の壊れやすさ(壊変しやすさ)を表していると言ってもいい。
崩壊する時に放射線を放出するので、放射線がどれくらい沢山出ているかの指標になるが、その放射線が人体にどのように作用するのかはベクレルだけからは分からない。
同じベクレル量であっても、放射性物質が異なれば放出する放射線の種類やエネルギーは異なるのだから。

同じ量の異なる放射性物質があれば、半減期が短いものほどベクレルは高くなる。
早くに多くが崩壊するということだから、短い時間に多くの放射線を放出する。

例えば私が持っていた100個のセシウム137が10秒で崩壊したとしよう。その場合は10ベクレルということになる。
100(個)÷10(秒)= 10(個/秒)=10Bq

実際に半減期を用いる計算式で計算すると、1gのセシウム137が1秒に放射線を放出する脳力は3.21兆(テラ)ベクレルとなる。
1gのヨウ素131ならば4600兆(テラ)ベクレルとなる。
※ヨウ素131の半減期は8日であり、それに基づいて計算しているが、ヨウ素131はまずベータ崩壊してキセノン131のアイソマー(励起状態)になる。次にそれがガンマ崩壊して安定キセノン131になる。
後半のガンマ崩壊のほうの半減期は11日である。そちらは上記計算には含んでいない。

質量(重さ)にすると大したことはないのに、放射線を放出する能力はとても高いということになる。
放射性物質の原子は1つ1つがとてつもなく小さい。当然のことながら目に見えるレベルではない。
だからこそ質量(重さ)にすると大したことはないということにもなるが、これが問題となる。
一般的な化学反応(分析)が当てはまらないことが多いのだ。(この反応を用いて取り除こうというようなことが出来ない)
除染は放射性物質を含んでいると思われる塵や埃や泥を洗い流したり取り除き、どこかに移動させるだけ。
除染で放射性物質を消滅させることなどもちろん出来ない。

ベクレルの話に戻ると、ベクレルは半減期が関係しているのだから、半減期が違うとするともちろん結果も違うはず。それはシーベルトにも言えること。


放射性を持つ元素があることを発見し「放射性物質」と名付けたのはマリ・キュリー。
1898年31歳のことである。一番最初に発見したのがウランだった。
エックス線(原子核外から放出;人工)とガンマ線(原子核から放出)が同じ性質と前述したが(放射線は電磁波)、発見はエックス線のほうが早くて1895年。
マリ・キュリーはポーランド生まれの女性科学者。
放射性物質の研究はマリの博士号取得を目的に1898年より始められ、1903年6月に論文審査を受けて理学博士を取得。
そして1903年にノーベル物理学賞を受賞した。女性初のノーベル賞受賞者だった。この時から化学賞も授けられることがほぼ決まっていた。
1911年にはノーベル化学賞受賞。2度のノーベル賞受賞者は初で、異なる分野(物理学賞・化学賞)での受賞も初だった。
この頃彼女は年下の教え子(既婚者)との不倫がばれて不倫騒動の真っ只中にいた。
(マリの夫ピエールは1906年に46歳で荷馬車との事故で急逝している。体調もあまり良くなかったらしいがリウマチが原因だとか。1903年にノーベル賞を共同受賞した際の授賞式も欠席したほど)
1934年7月4日、再生不良性貧血で亡くなった。66歳だった。

1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフとギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らとの協同研究の結果、細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった。
第一次大戦後、科学者の間で放射線被曝による人体影響への危険が徐々にではあるが認知される様になった。当時の放射性物質を取り扱う科学者らは、鉛を用いて放射線を遮蔽し、白衣は使い捨てるなどの対策を採っており、マリも研究所員らに手袋を用いるように厳しく指導していたが、当の本人は放射性物質を素手で扱うことが多く、防護対策を殆ど行わなかった。そのためマリの手はラジウム火傷の痕だらけで干しスモモのような皺が残っていたという。

1932年、転倒したマリは右手首を骨折したが、その負傷がなかなか癒えなかった。頭痛や耳鳴りなどが続き、健康不良が続いた。
1933年には胆石が見つかったが手術を嫌がった。
1934年5月、気分が優れず研究所を早く後にした。そのまま寝込むようになったマリは検査を受け、結核の疑いがあるという診断が下った。
療養に入ることを決め、エーヴはマリをフランス東部のオート=サヴォワ県パッシーにあるサンセルモスというサナトリウムへ連れて行った。しかしここで受けた診察では肺に異常は見つからず、ジュネーヴから呼ばれた医師が行った血液検査の結果は、再生不良性貧血だった。


ちなみに私の母も数年前にくも膜下出血から生還したが、視力や聴力が落ちた。頭痛やめまいも度々訴えるが検査しても悪いところはないと言われる。立ち上がった時にめまいがして転倒して左手首を骨折したこともあった。

長期間の放射線被曝による再生不良性貧血が死因であると考えられている。放射線の危険性は当時は知られていなかったため、その後開発された放射線防護策はとられていなかった。マリは放射性同位体を含む試験管をポケットに入れて運んでいた。マリは長年の放射線被曝により様々な病気にかかり(白内障によってほぼ失明したことを含む)、ついには死に至ったが、放射線被曝による健康被害については決して認めなかった。

日本の山田延男は1923年から2年半、ラジウム研究所でイレーヌ(マリの娘で物理学者)の助手としてアルファ線強度の研究を行い、マリの支援も受けながら5つの論文を発表した。しかし原因不明の体調不良を起こして帰国し、翌年亡くなった。
1925年1月には別の元研究員が再生不良性貧血で死亡。さらに個人助手も白血病で亡くなった。しかし明白な因果関係や対処法にはすぐに繋がらなかった。

彼女の実験室はパリのキュリー博物館として、そのままの姿で保存されている。マリが残した直筆の論文などのうち、1890年以降のものは放射性物質が含まれ取り扱いが危険だと考えられている。
中には彼女の料理の本からも放射線が検出された。
これらは鉛で封された箱に収めて保管され、閲覧するには防護服着用が必須となる。
また、キュリー博物館も実験室は放射能汚染されて見学できなかったが、近年[いつ?]汚染除去が施されて公開された。この部屋には実験器具なども当時のまま置かれており、そこに残されたマリの指紋からも放射線が検知されるという。


ラジウムはウランの300倍もの放射能力を持つ。
こんな杜撰な状態で実験を続けていて、晩年体調が悪かったにしても、戦前に66歳まで生きられたということは、放射線の影響をどのように結論付けていいのか微妙なところである。

娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリーは白血病で亡くなる。1956年、58歳没。
その2年後の1958年、夫のフレデリック・ジョリオ=キュリー(1925年からマリの助手で1926年に娘と結婚)も白血病で亡くなる。58歳没。
夫妻で1935年に「人工放射性元素の研究」でノーベル化学賞を受賞した。

ただ研究者にならなかったイレーヌ・ジョリオ=キュリーの妹は血縁者で同時代に生きたわけだが102歳と長生きだった。
それを考えるとおよそ半分程度しか生きられなかったのは放射線の影響と言えなくもないけれども、あくまでも1家族の話に過ぎないと言えばそれまでですね。
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# by yumimi61 | 2016-10-10 14:04
2016年 10月 09日
日本国憲法の秘密-375-
福島第一原発事故の後に、「プルトニウムは重いから遠くまで飛ばない、飛ぶはずがない」という主張があった。

質量=陽子+中性子
質量が大きい元素(重い元素)ほど不安定で核分裂を起こしやすい。
ウランは質量が大きい元素であるので、ウランは他の元素に比べて核分裂を起こしやすいということになる。

ウランよりも重く不安定な元素は結合エネルギーも小さい。


私もこのように前述したとおり、ウランやプルトニウムは比較的重い元素である。

「重さ」と言えば分かりやすいけれど、「質量」と言うと何だか急に難しくなった気がするが、私達が通常生活している地球上の場所ならば同じと思ってもらって構わない。
「重さ」とは重力に左右されるもので、「質量」は重力に左右されない単位である。
同じ物質でも大きさが変わると重さ(質量)は変わる。つまり大きさの影響を受けるということ。

従って異なる物質の重さを比べたい時には大きさを揃える必要がある。
それが密度である。
密度=質量÷体積
 (体積とは縦×横×高さがある物体、つまり3次元)(面積は縦×横で2次元)
基準となる標準物質(一般には4℃の水)の密度との比が比重である。

ウランは陽子数だけで92(天然元素は92まで)、プルトニウムは94。
中性子も含んだ質量になると、235や238、239や240や241となる。
ウランやプルトニウムは他の元素と比べると重い元素である。

比重が4~5以上の金属元素のことを重金属と言う。ウランやプルトニウムも重金属ということになる。
重金属が人間の身体に蓄積されて健康障害を引き起こしたのが公害病である。
岩石の比重は3くらい。
砂の比重も岩石と同じである。
ただ通常「砂」という状態は岩石と岩石の間に隙間(空間)が沢山ある。だから密度ならば小さくなる。
岩石と砂という言葉の使い分けは大きさや密度によるもので、元は同じ物である。
飛ぶこともあれば飛ばないこともある。
黄砂や火山灰ならば遠くに飛ぶことがあるが、岩石はそんなに遠くまで飛ばない。

通常何かが飛ぶ場合には塵として飛んでいくのではないだろうか。
他の元素や目に見えないほど小さな砂や埃などの粒子と合わさって塵として飛んでいく。
つまり飛距離は元素や核単体の重さで決まるのではなく、塵の一塊の重さで決まる。
塵の一塊が重ければ早く落ちるが、塵の一塊の重さが軽ければ遠くまで飛ぶことが可能。
また飛距離は重さだけで決まるわけでもない。
風や雨などの自然条件にも左右される。
爆発を原因とするものならば、当然最初の爆発力も影響してくる。


「プルトニウムは遠くに飛ばないから私達は安全ね!」
「でもプルトニウムの半減期は長いらしいわよ。なんでも2万4000年ですって」
「えっ本当?そんなに毒が消えないってこと?」
「そうよ、2万4000年よ」
「じゃあ私達もダメかもしれないわね・・」

プルトニウムは遠くまで飛ばないから安心安全という解釈も間違えているし、半減期が長いから危険という解釈も間違えている。

放射性の元素のことを放射性物質と言う。
放射性の元素とは放射線を放出する能力(放射能)を持つ元素のことである。
但し「消えない光」みたく絶え間なく放射線を放っているわけではない。
いつ放射線を放出するのかと言えば、原子核が崩壊する時である。
崩壊にも種類があって、放出される放射線も異なる。
α崩壊(アルファ線)、β崩壊(ベータ線)、γ崩壊(ガンマ線)。

崩壊には、α崩壊、β崩壊、γ崩壊がある。
α崩壊は原子核の分裂と言えるかもしれないが、通常は崩壊と分裂は別物である。
崩壊は原子核が安定になるために余分なエネルギーを外に放出するもので自然に起こる。
核分裂は中性子を吸収して不安定になった原子核がまとまっていられなくなって2つの核に分かれること。


何故崩壊が起こるかと言うと原子核が不安定だから。
崩壊も分裂も「不安定」の下に起こることは同じである。
ただ分裂のほうは外からの侵入者(中性子)をきっかけに起こる。イレギュラー(不規則)要素で生じる。
一方、崩壊は侵入者がなくても起こる。必ず起こると決まっている。だから崩壊を自発核分裂と言うこともある。

崩壊は元素(核種)によってスピードが違う。
それが半減期で表される。

半減期  ※( )内は表記の核種が崩壊して出来た副産物の崩壊によって放出される放射線
ヨウ素131  8.0日  ベータ線 (ガンマ線)
コバルト60  5.3年  ガンマ線
セシウム137  30年  ベータ線(ガンマ線)
ラジウム226  1600年  アルファ線
プルトニウム239  2万4000年  アルファ線
ウラン235  7億年  アルファ線(ガンマ線)
ウラン238  45億年  アルファ線

●アルファ線
 ・透過力:非常に弱い(空気中では数cm、水中で1mm未満しか進めない)
 ・電離作用能力(原子の周囲の電子を弾き飛ばす力。体内ならば細胞を構成する原子の電子を弾き飛ばし、その飛ばされた電子が他を傷つけるなど悪影響を与える):強い(ガンマ線の20倍)

●ベータ線
 ・透過力:弱い(空気中では数mしか進めない、水中では数cm~数mm)
 ・電離作用能力:弱い
 
●ガンマ線
 ・透過力:強い(鉛の板や厚いコンクリートでないと防げない。人体の深部まで透過できる)
 ・電離作用能力:弱い
※ガンマ線と医療で用いられるエックス線は同じ性質の放射線。原子核内から放出されるのがガンマ線で、原子核外から放出されるのがエックス線。

アルファ線とベータ線は透過力が強くないので、外部被爆では人間の身体に影響を及ぼしにくいと言われている。問題は透過でなく体内に運ばれた場合の内部被爆。
ガンマ線は外部被爆でも透過能力があるので身体内部に影響を与えかねない。


半減期とは半分の原子核が崩壊するまでの時間。
プルトニウム239の原子核がもしも2個あったらそのうちの1個が崩壊するまでの時間、もしも100個あったなら50個崩壊するまでの時間である。
10000個あったなら5000個が崩壊するまでの時間。
崩壊速度は一定である。(夏休みの日記を毎日書くタイプであって、残り1週間になって5日分ずつ書くのでも、最終日に全部まとめて書くタイプでもない)

繰り返しになるが、放射線が放出されるのは崩壊する時。
崩壊しなければ放射線は放出されない。
半減期が長いことは人間一個人にとってはむしろ有利となる。
プルトニウム239を少量体内に入れ込んだとしても、半減期は2万4000年なのだ。80年寿命の人間一個人が生きているうちには崩壊しないと言ってもいいだろう。
人間へのリスクは接触したり取り込んだ物質量によって変わる。
半減期が長くて心配なのは生物濃縮である。


ところで不思議に思いませんか?
何がと言うと、半減期の長さです。

ウランやプルトニウムは重く不安定なので核分裂しやすい元素(核種・原子核)のはず。
それならば崩壊だって同じでは?
核分裂と崩壊は違うものであるが、どちらも原子核が不安定だからこそ起こる現象である。
それなのに重く不安定の元素(核種・原子核)のほうが半減期が長い。つまり崩壊しにくいということになっている。

そもそもなぜ崩壊のスピードを半減期として表す必要があったのだろうか?
例えば私が2011年生まれのセシウム137を100個手元に持っているとする。
これが50個崩壊するのは2011年から30年後(半減期は30年)。2041年。
半減期があるということは100個が同じスピードで崩壊していくのではダメである。同時スタートで同じスピードでは差が付かないから個数半減は起こらない。
Aくんがセシウム137を欲しいと言ったので半分あげることにした。
30年後Aくんがそのセシウムを観察したら1つも崩壊していなかった。Aくんは30年間放射線とは無縁。
一方、私の手元に残したセシウムは全て崩壊していた。OMG・・・・
綺麗に半分に分かれたというのは奇跡のように極端だけれど、そういうことだって無とは言い切れないということでは?
確率や平均でしか語れないかもしれないが、実際のリスクは一様ではないと考えられる。
それとも1つの原子核は来るべき時が来たら一気に崩壊するのではなくて、徐々に崩壊して(亀裂が生じてくるようなイメージ)、そこから少しずつ放射線が放出されているという考えなのでしょうか?耐久度の差というかなんというか。


一度は認められ、ニッポニウム(nipponium, Np)と命名されたが、その後取り消された43番天然元素の取り消し理由について思い出してほしい。
「43番元素は地球上には存在しない(半減期が短いため、地球が誕生してから現在までにほぼ全てが崩壊している)」

失うばかりで補充されなければ、いつか尽きてしまう。
副産物として新たに出来るわけでもなく、崩壊や分裂ばかりで生成できない、要するに循環することがないならば、消えてしまう。そういう元素があるということになる。
例えばウランが生成されないならば、ウランは崩壊する一方で、ウランという元素はいつか消失するということ。
そんな元素を無駄遣いしていいのだろうか?別になくても困らないだろう?
それでは困るから(?)、半減期を長くしておいた?
ウラン238の半減期は45億年。
地球が誕生してから46億年と言われている。
半減期が過ぎたからもう放射線が出ないということではない。半減期は核種が半分になる期間である。
生成されない核種ならば核種寿命の半分まで来たといった感じ。
ウラン238は半減期が45億年と非常に長いので、地球の年齢と同じでもまだ45億年は消失しない。





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# by yumimi61 | 2016-10-09 12:42
2016年 10月 08日
日本国憲法の秘密-374-
戦いを有利に進めるための策は戦術である。作戦。
その一環として軍事基地や生産拠点など目標を絞って爆撃することがある。戦術爆撃である。
これに対して戦争には直接関係ない都市などに(都市だからという理由だけで)爆撃することを戦略爆撃と言った。
戦略爆撃は勝つための戦術ではない。威嚇に近くて、恐怖心を与えるために行われると考えてよいと思う。
恐怖心から相手が降参してくれれば御の字という他力本願なものである。
もっと直接的に言えば、建物の破壊や一般市民の殺害が目的となる。


昨今の日本は「戦略」と言う言葉が大好きなようだが、では戦略とは何だろうか?
ギリシャ語stratēgos(ストラテゴス)が語源。ストラテゴスは古代ギリシャで軍事と政治両面で権限を持っていた高位の役職の名称である。
選挙で選ばれた10名のストラテゴスがいて、任期もあった。
君主や大統領、首相というような役職とは違う。アメリカの州知事のような感じかもしれない。

戦略
最も広義には敵対的な政治集団間の闘争の技術をいう。戦略の語源はギリシア語 stratēgosから派生したもので,「将軍の術」を意味した。この言葉が軍事上の意味で広く使われるようになったのは 18世紀末からで,以後次第に本来の軍事的意味からはるかにかけ離れて用いられるようにもなった。

1 戦争に勝つための総合的・長期的な計略。→戦術
2 組織などを運営していくについて、将来を見通しての方策。
具体的・実際的な「戦術」に対して、より大局的・長期的なものをいう。


英語ならば、strategy(戦略)とtactics(戦術)である。
(タクティクスという名の資生堂の男性コロンが昔流行っていましたね!中学の時、愛用している先輩がいた)


都市に爆撃すること自体がすでに戦術的ではないわけだが、そこにもってきて原子爆弾である。
原子爆弾を何のために用いる必要があったのか、その理由が分からない。
あちこちの都市上空に何回も飛行してきて小さな爆弾を沢山落とすことが面倒になったから、一回で広範囲をカバーできる爆弾を使いたかったのか?
しかし原爆開発は日本への空襲が始まる前にスタートしている。それどころかまだアメリカは参戦すらしていない時期である。
すでに戦争を行っていたイギリスやドイツは原子爆弾に乗り気ではなかった。
だから「面倒になった」という理由は当てはまらない。
要するに爆発力の大きさが目的ではなかったと考えられる。
では放射性物質を撒き散らすことが目的だったのか?
前にも述べたが放射性物質を有害なものと認識していたならば、撒き散らしたところに侵攻したり占領したくないはず。土地の価値も落ちるだろうから占領する気があるならばメリットがない。
さらに撒き散らした所だけで済まなくなることだってあるだろう。誰にとってもリスクが大きくなる。
そもそも放射性物質を撒き散らす理由は何なのか?殺人だろうか?
撒き散らした放射性物質は「ただちには影響はない」ということも予想できるわけで、すぐに結果が出ない。従って戦争に勝つための殺人として放射性物質を使うとしたらこれまた心許ない。
もし当時放射性物質の有害性を認識していなかったとしても、それなら尚更使う理由は見当たらない。
科学的な問題点も非常に多い原子爆弾だが、戦術の観点からみても原子爆弾は優れた兵器とは言えない。

このことから推測されるのは、原子爆弾は相手の鼻をあかすことが目的だったのではないかということである。
出来ないと言われていることが出来たことを見せたかった。それは優越感を満たす。
自己顕示欲の強さ。虚栄心の塊。世界に自己の優位性を示すもの。
科学技術時代の到来。神の時代の到来。アメリカ超大国への道。アメリカと日本の同盟の始まり。
それには原子爆弾で戦争を終わらせる必要があった。
おそらく日本の敗戦込みの(だけど条件付き)戦略だったのだろう。



プルトニウムはウランの欠点を補った。
補うように理論を構築したら、あっけなくその通りのことが現実でも起こったということなのである。
素晴らしい予想家。(ところで今日の雨はこれから降る感じですか?)
①ウラン238が低速中性子(熱中性子)を吸収し、新たにウラン239を作る。
②ウラン239はすぐにベータ崩壊して、原子番号が93で質量数239の新しい元素を作り出す。
②原子番号が93で質量数239元素の原子核も電子を放出し、原子番号が94で質量239の大きな半減期をもった新しい元素に変化する。


新しい人工元素がこうしたら生まれるのではないかと考えたら、その通りに出来た。
それがプルトニウムである。
人工的な元素で陽子数は94。ウランの陽子数は92で天然元素の中では一番多いわけだが、それよりさらに2つ多い。
つまりウランより重く不安定な元素なのだ。

不安定の元素ウランの中でもより不安定なのがウラン235。
ウラン235は中性子を取り込むと核分裂をする。
一方、ウラン238は中性子を取り込んでも核分裂しない。ベータ(β)崩壊するのである。

【ウラン】-----------------------------------------------------------------------------------------

ウラン235(奇数)=陽子92(偶数)+中性子143(奇数)←中性子1
                ↓
核分裂(新たな元素2つ、中性子2~3放出、結合エネルギー)


【プルトニウム】---------------------------------------------------------------------------------

ウラン238(偶数)=陽子92(偶数)+中性子146(偶数)←中性子1
                ↓
ウラン239(奇数)=陽子92(偶数)+中性子147(奇数) 
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)※反ニュートリノが検出されたのは1956年
                ↓
ネプツニウム239(奇数)=陽子93(奇数)+中性子146(偶数)
                ↓
      β崩壊(中性子1が陽子1に変わる)
      (電子と反ニュートリノ放出、エネルギー)
                ↓
プルトニウム239(奇数)=陽子94(偶数)+中性子145(奇数)→一部は分裂せずにプルトニウム240となる
                ↓
核分裂(新たな元素2つ、中性子2~3放出、結合エネルギー)

--------------------------------------------------------------------------------------------


プルトニウムの爆弾と言っても、こちらも分離が出来ているわけではない。
ウラン238からの反応を用いるわけで、実際に仕込むのはウランである。

ウランから出来るプルトニウムは時間の経過とともに新たな中性子を取り込んでいき、プルトニウム同位体を作る。
プルトニウム240が同位体の1つである。
プルトニウムは240はウラン238と同様に、中性子を取り込んでも核分裂しない。
しかしプルトニウム240が中性子を取り込み、プルトニウム241に代わると、再び核分裂性になる。
プルトニウムは時間が長くなると、幾つもの同位体が混ざる状態となる。(煙に巻く作戦ですか?)
原子爆弾として用いるのならば、核分裂性が高くないと分裂連鎖や爆発力は望めない。

ウランは分裂しない238が大部分を占めているという欠点を補うのだから、分裂するプルトニウム239で終われば良かったのに、そうでなくて、放っておくとさらに高次のプルトニウム同位体に変化していくということになったのだ。その中には分裂しない同位体もある。(爆発は時間勝負だから問題ないな!?)
プルトニウム爆弾は時間管理が難しい。
分裂性のプルトニウム239(あるいは239+241)が一番多い状態が作り出せれば大きな爆発が起こるが、プルトニウム240(あるいはウラン238・239+ネプツニウム239+プルトニウム240)が多くなれば連鎖が上手くいかないか、上手くいっても爆発力は望めない。
それぞれがどんな確率で起こるかも分からないのに、次々に起こっていく反応をコントロールできるのかという話ですよね?


先日も引用した「発電所の軽水炉の利点」。
核兵器の製造に適さない(核拡散防止に有利)ということなのだが、そこにプルトニウム同位体のことが書かれていた。
・使用する低濃縮ウラン燃料は直接 核兵器の材料にならない(ただしウラン濃縮技術自体は原子爆弾の製造に繋がるため、新規の技術取得は厳しく制限されている)。
また、商用発電用原子炉では経済性が重視されるため燃焼度を高く取る。このため、使用済み燃料に含まれるプルトニウムを再処理して得られる原子炉級プルトニウムには核兵器原料になり得る239Puは約60%程度しか含まれず、逆に核兵器原料として不適な240Puが40%超に上る。
240Puが7%以上含まれると過早爆発を起こしてしまうため、核兵器に使用するには239Puが93%以上含まれるよう分離精製する必要があるが、これは技術面・コスト面とも極めて困難であり、核兵器の製造は実質的に不可能とされている。


過早爆発とは期待する爆発力が得られないということ、つまり失敗ということである。
この情報時代、金満時代に、技術面・コスト面とも極めて困難であり核兵器の製造は実質的に不可能ならば、昔だって同じだろう。
それとも優越人だけには可能であるとでも言いたいのだろうか?

ウランよりも重く不安定な元素は結合エネルギーも小さい。
ウランとプルトニウム、原子核の核分裂による爆発力という点にのみ注目すれば、プルトニウムは劣る。
(あとはそれぞれが分裂性の原子核をどれくらい含んでいたかによるが、それは分からない)
よくプルトニウムのほうが威力が大きいと言われているのだが、それはどんな根拠によるものだろうか?
なんとなくそんな気がしただけ?
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# by yumimi61 | 2016-10-08 12:28
2016年 10月 07日
日本国憲法の秘密-373-
ウランの分離は今でもって出来ていない。
「分離」ではなく「濃縮」という方法を採ったのだ。
「99.3%のウラン238、0.7%のウラン235」という比率を変えてやることを濃縮と言っている。
軍事的な目的での使用ではウラン235の割合を100%近くにし、発電用では3%くらいに変えてやる。(これらを濃縮ウランと言う)
但しウラン235とウラン238とでは化学的な性質が同じであり、両者の差は僅かな質量の違いだけである。(235と238が質量)。


分離も然ることながら、僅かな質量の違いしかなく化学的な性質は同じなのに、一方は核分裂しやすく一方は核分裂しにくいなんて何だかおかしいと思った方もいるのではないでしょうか?(いませんか?)
核分裂が起こりやすさの違いを説明する時には質量の違いが持ち出される。

質量=陽子+中性子
質量が大きい元素(重い元素)ほど不安定で核分裂を起こしやすい。
ウランは質量が大きい元素であるので、ウランは他の元素に比べて核分裂を起こしやすいということになる。
その中でもウラン235のほうが核分裂しやすいのは何故か。
それが質量の違い、要するに中性子の違いで説明されている。(陽子の数が元素番号であり、陽子の数が変わったら違う元素になってしまうので同じ元素である以上ここは変わらない)
 ・ウラン238=陽子92+中性子146 ・・・・99.3%存在
 ・ウラン235=陽子92+中性子143 ・・・・・0.7%存在

質量数が奇数の原子核は偶数の原子核よりも不安定だということなのだ。
2よりは3のほうが不安定要素を抱えているということは何となく分かりますね?
238は偶数、235は奇数である。
中性子の放出を狙う核分裂には、陽子が偶数で、中性子が奇数であることが適している。

 ・ウラン238(偶数)=陽子92(偶数)+中性子146(偶数) ・・・・99.3%存在
 ・ウラン235(奇数)=陽子92(偶数)+中性子143(奇数) ・・・・・0.7%存在

これは奇数偶数の話だが、原子核が特に安定となる陽子と中性子の数として「魔法数」なんてものもある。
これは非常に安定性が高く、分裂や崩壊が起きにくい数なのだそうだ。
計算上弾き出された特定の値のみが魔法数になれる。
「テクマクマヤコンテクマクマヤコン、安定になあれ」
「マハリクマハリタ、ヤンバラヤンヤンヤン~!」
テクニカルテクニカルテクニクテクニカ、シャランラ~」
「ピピルマピピルマプリリンパ、パパレホパパレホドリミンパ、 アダルトタッチで(ピー!?)」
くるくるさささー「パステルポップルポッピンパ!」 ほぅこれが安定原子核か・・・。

こうしたことは量子力学の分野であり、量子力学には基礎方程式(オーストリアの物理学者の名をとりシュレーディンガー方程式)があるが、その方程式を正確に解いて原子核を明らかにすることは極めて困難で不可能と言わざるを得ない。


ウラン235の核に外から1つの中性子が入ってくる。
ウラン235(奇数)=陽子92(偶数)+中性子143(奇数)←中性子1
                  ↓        
ウラン236!?(偶数)=陽子92(偶数)+中性子144(偶数)  安定したじゃないか?

もともと安定な性質と、もともと不安定な性質では、外部侵入者に対するリスク対応力に違いがあるということではないでしょうか?
たぶんロッテ戦のようなことですよ。


ウラン235の核に外から1つの中性子が入ってきて分裂をする。
新たな2つの原子核(陽子の数が変わってウランではない元素)が出来て、それと同時に、2~3の中性子とエネルギーが放出される。
ここで放出されるエネルギーは結合が強いほど大きい。
複数の要素からなる物(系)において、その系が一か所にぎゅうっと寄り集まって在る状態と、ばらばらに存る状態では、使われているエネルギー(ポテンシャルエネルギー)が異なる。
「ばらばらの総和=寄り集まりひとつ」ということではなく、寄り集まる状態の時のほうがエネルギーが大きくなる。、「ばらばらの総和<寄り集まりひとつ」。(寄り集まりにはストレスがかかるということですね)
結合エネルギーと言われているが、束縛エネルギーとも言う。(これは本当の話ですよ)
結合エネルギーが大きいほど、その結合は強固で安定であると言えるわけで、安定的なものほど崩壊する際に放出されるエネルギーが大きくなる。
人間はこのエネルギーを利用しようとした。


1つ中性子を投入して分裂が起これば、次は2~3の中性子が放出される。ここでは3つとしておきましょう。
その3つの中性子がウラン235に1つずつ取り込まれる。そうすれば今度は3つの核分裂が一斉に起こるわけである。
3つから3つずつ放出すれば9つの中性子。こうしてねずみ算式に数は増大していく。

但し3つ全てが直ちにウラン235に取り込まれるとは限らない。
物事には100%はない。取り込まれず失われてしまう中性子もある。
さらにウラン235が分離できていない状態である。つまりウラン238もあるという状態なので、ウラン238に取り込まれる中性子も当然ある。
3つのうちの1つは取り込み失敗、1つはウラン238に取り込まれ、1つがウラン235に取り込まれたとする。
効率という観点からみればいまいちな状態だが、核分裂が1つでも起これば核分裂連鎖が生じたということにはなる(臨界状態)。
安定的な核分裂を期待する発電では中性子が取り込まれる数がある程度抑えられたほうが良いが、大きな爆発を期待するならばねずみ算式で短時間に増えたほうが良い。
ねずみ算式はある意味暴走状態で制御不可能。ただ分裂性原子核の量に限りがあれば、延々に続くということはない。分裂するものがなくなれば、そこで終わる。必ず終わりが来る。
  中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功0  ⇒失敗
  中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功1・・・ ⇒臨界
  中性子1→核分裂成功1→中性子3→核分裂成功3→中性子9→核分裂成功9→中性子27→・・・・


ウラン爆弾
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連鎖反応を維持するために必要最小限度のウランの量「臨界量」を計算(予想)する。
臨界に達しないと核分裂連鎖反応による爆発は起こらないので、これが最低限の量ということになる。
ウラン238の比率が多ければ多いほど、大量のウランが必要になり、連鎖反応成功率も低くなるし、成功したとしても爆発の威力が軽減する。
(しかもウランは重く相対的には不安定な元素なので、結合エネルギーは大きくはない)
何度も言うようだが238と235比は99.3対0.7である。ウラン235の比率をどれほど上げたのか分からないが、神頼み、奇跡の領域ではないかと推測する。
その他に攻撃にどれほどの威力を必要とするのかによってウランの量は変わってくるが、航空機に搭載するものなので重さや大きさには限度がある。

水色がウラン。半分にして左右に配置する。右側の真ん中にある紫丸は最初の中性子を投入する装置。
重水は結局使用したのかしなかったのかの2H?
爆薬をセットし、それが爆発するとその衝撃で左側のウランが右側に勢いよく衝突する。
要するに圧力によって瞬間的に密になった状態で核分裂連鎖反応が始まる。しかし圧力によって生じた原子核の密度と核子間の密度(結合)は違うものでは?
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# by yumimi61 | 2016-10-07 11:54
2016年 10月 06日
日本国憲法の秘密-372-
マンハッタン計画研究チーム(ロスアラモス)のリーダーにはロバート・オッペンハイマー(ユダヤ系アメリカ人)が就いた。
ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン(爆縮レンズの計算担当)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファインマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが集められた。
当時はコンピュータが実用化されていなかったために、計算だけを任務とする数学に優秀な高校生も集められた。
その他、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネスト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。



マンハッタン計画研究所で働いた研究者
      ・・・以後の名前は師弟関係や共同研究者など関係ある人物
      ノーベル賞受賞はマンハッタン計画までに受賞した人物だけに記したが、戦後受賞者は複数いる。                     

リーダー:ロバート・オッペンハイマー(ユダヤ系アメリカ)・・・ニールス・ボーア、「原爆の父」

ニールス・ボーア(デンマーク)・・・ニールス・ボーア研究所設立しコペンハーゲン学派を主導、原子構造と放射に関する研究で1922年にノーベル物理学賞受賞、アインシュタインと対立、核分裂を提唱した女性物理学者マイトナーの甥が師事していた、アメリカでの物理学会で「核分裂」を伝えた人物、1939年に「原子核分裂の予想」論文をホイーラと発表し原子爆弾開発への重要な理論根拠となった。

ジョ・ホイーラ(アメリカ)・・・ ニールス・ボーア、相対性理論と量子力学の二刀流、水爆推進、1939年に「原子核分裂の予想」論文を発表

エンリコ・フェルミ(イタリア)・・・25歳でローマ大学の理論物理学教授、Natureに掲載を拒否される、熱中性子を発見、1938年にノーベル物理学賞受賞しアメリカに移住、コロンビア大学でシラードと核分裂実験。

レオ・シラード(ユダヤ系ハンガリー)・・・大学時代にアインシュタインに直談判してセミナー受け持ってもらう、SF作家ウェルズの大ファン、アーネスト・ラザフォードの講演記事に衝撃、アインシュタインに頼んで大統領に書簡。

ジョン・フォン・ノイマン(ハンガリー)・・・プリンストン高等研究所の所員(4人のうちの1人はアインシュタイン)

オットー・フリッシュ(ユダヤ系オーストリア)・・・ニールス・ボーア、女性物理学者マイトナーの甥

エミリオ・セグレ(イタリア)・・・エンリコ・フェルミ、1937年ローレンス・バークレー国立研究所で人工元素43番を発見

ハンス・ベーテ(ユダヤ系ドイツ)・・・ロバート・オッペンハイマー

エドワード・テラー(ユダヤ系ハンガリー)・・・ニールス・ボーア、レオ・シラード(アインシュタイン書簡)、「水爆の父」

スタニスワフ・ウラム(ユダヤ系ウクライナ)・・・ジョン・フォン・ノイマン、水爆機構の発案者

リチャード・ファインマン(ユダヤ系アメリカ)・・・ジョン・ホイーラ

アーネスト・ローレンス(アメリカ)・・・ロックフェラー奨学生、ローレンス・バークレー国立研究所所長、加速器サイクロトロン発明、1939年にサイクロトロン発明と人工元素の研究でノーベル物理学賞受賞

マーク・オリファント(オーストラリア)・・・アーネスト・ラザフォード、アーネスト・ローレンス、1934年に水素の核融合発見、ローレンスとウラン235精製研究

アーサー・コンプトン(アメリカ)・・・1927年ノーベル物理学賞受賞

グレン・シーボーグ(アメリカ)・・・加速器を用いて多くの新人工元素を発見

ジェームズ・チャドウィック(イギリス)・・・アーネスト・ラザフォード、1932年に実験で中性子を発見、翌1933年に師匠のラザフォードが「原子核エネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事」と言及。

エゴン・ブレッチャー(スイス)・・・ロックフェラー奨学生、アーネスト・ラザフォード、プルトニウム研究



★フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルート
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト大統領宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
1939年10月21日、アメリカ政府代表者とシラードが初会合。
 ⇒しかしルーズベルト大統領の関心は薄く、研究費要求にも応えてもらえず中断。

★マイトナー(オーストリア)&ボーア(デンマーク)ルート
1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、ウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。



どちらのルートも「中性子の発見」「核分裂」から始まっており、ウランを用いた爆弾の実現を目指していた。
実現可能という理論的結論が出されるが、見る人が見ればそれは取るに足りないものであった。
その欠点を補う形で理論を構築していったのが、当時ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所にいたエゴン・ブレッチャー(スイス)とノーマン・フェザー(イギリス)である。これがプルトニウム爆弾に繋がる。
1941年7月のMAUD委員会最終報告でも実現可能という結論が導かれたが、まだプルトニウムに注目していない。あくまでもウラン爆弾が実現可能という報告であり問題を解決したものではなかった。

プルトニウム爆弾は違う。
ウラン爆弾の欠点の上に構築された理論である。欠点を補ったのだ。
そして新しい元素が登場してきた。
誰も見たことがなかった元素、誰も知らなかった元素、誰も気付かなかった元素で起こる反応。
だから直ちに不可能だとは言い切れない。なんといっても「新しい」ものだから。
全く知らないものや見たこともないものは否定も肯定も出来ない。
またそれは誰もが簡単に見たり知ったり出来ないものである。
①ウラン238が低速中性子(熱中性子)を吸収し、新たにウラン239を作る。
②ウラン239はすぐにベータ崩壊して、原子番号が93で質量数239の新しい元素を作り出す。
②原子番号が93で質量数239元素の原子核も電子を放出し、原子番号が94で質量239の大きな半減期をもった新しい元素に変化する。


さらに研究者の出身国がウランの研究者とは少々違っていた。
またケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所、「核物理学の父」ラザフォードに近い人物達だった(自分から寄っていったのだけれど)。
----------------------------------------------------------------------------------------------
◎エゴン・ブレッチャー(スイス)・・・ロックフェラー奨学生、アーネスト・ラザフォード、プルトニウム研究
◎ノーマン・フェザー(イギリス)・・・アーネスト・ラザフォード、ジェームズ・チャドウィック、プルトニウム研究

マーク・オリファント(オーストラリア)・・・アーネスト・ラザフォード、アーネスト・ローレンス、1934年に水素の核融合発見、ローレンスとウラン235精製研究

アーネスト・ローレンス(アメリカ)・・・ロックフェラー奨学生、ローレンス・バークレー国立研究所所長、加速器サイクロトロン発明、1939年にサイクロトロン発明と人工元素の研究でノーベル物理学賞受賞

ジェームズ・チャドウィック(イギリス)・・・アーネスト・ラザフォード、1932年に実験で中性子を発見、翌1933年に師匠のラザフォードが「原子核エネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事」と言及

グレン・シーボーグ(アメリカ)・・・加速器を用いて多くの新人工元素を発見
----------------------------------------------------------------------------------------------
◎がMAUD委員会最終報告が出る前からプルトニウム研究をしていた最初の2人。
但し、ノーマン・フェザーはマンハッタン計画には参加していない。

スイス、イギリス、オーストラリア、アメリカ、イギリス、アメリカの出身。
アーネスト・ラザフォードはニュージーランドの出身。
オーストラリアとニュージーランドはイギリス連邦。
このプルトニウムの登場によってイギリス政府やアメリカ政府は、核爆弾を相手にしないわけにはいかなくなった。
自国発ときたうえに、イギリスとアメリカの関係は昔から微妙なのだから。


広島に投下された爆弾はウラン爆弾と言われている。
長崎に投下された爆弾はプルトニウム爆弾と言われている。
ウラン爆弾は事前の爆発実験を行わなかった。
プルトニウム爆弾は行った。「トリニティ実験」と呼ばれているものだ。

トリニティは3つ、3重という意味。
3重水素(トリチウム)を発見したのは、原爆をアメリカに売り込みに行ったマーク・オリファントである。
・普通の水素(原子核が陽子1つのもの)―軽水素
・質量数が2(原子核が陽子1つと中性子1つ)―重水素
・質量数が3(原子核が陽子1つと中性子2つ)―三重水素

"the Trinity"ならばキリスト教の三位一体である。
三位一体については、こちらでたっぷり語りました。さらにこちらでも
三位一体実験とは何だろうか?
研究者(学会)、軍人、メディア?(政府がないのはおかしい?) 研究者(学会)、政府、メディア?
「核物理学の父」「弟子」「聖霊」?
ウラン爆弾、プルトニウム爆弾、水素爆弾?



99.3%のウラン238、0.7%のウラン235。
核分裂が起こる(起こりやすい)のはウラン235である。
爆弾でも発電でも、このたった0.7%しかないウラン235を使わなければならないのだ。

実現不可能とした手っ取り早い理由はここにあった。
核分裂連鎖反応にウラン235を用いる必要があるならば、まずウラン235を分離しなければならない。
しかしその分離が出来ていなかったし、出来る目途も全く付いていなかった。

1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
ウランを分離せず、中性子も特段選ばずに行った実験で、分裂が起きた。そう解釈された。
分裂がウラン235で起こるならば、本当に運よく中性子がウラン235に当たった(取り込まれた)結果である。
100分の0.7の確率に当たったことも奇跡のような出来事だが、最適条件を整えていないことも考えれば、確率はもっとずっと低い状況にあったはず。
そんな異例な結果、奇跡を標準にすることは当然できない。
最低でもウラン235が分離できなければ話にならない。


その分離は今でもって出来ていない。
「分離」ではなく「濃縮」という方法を採ったのだ。
「99.3%のウラン238、0.7%のウラン235」という比率を変えてやることを濃縮と言っている。
軍事的な目的での使用ではウラン235の割合を100%近くにし、発電用では3%くらいに変えてやる。(これらを濃縮ウランと言う)
但しウラン235とウラン238とでは化学的な性質が同じであり、両者の差は僅かな質量の違いだけである。(235と238が質量)。

濃縮ジュースや濃縮還元ジュースでお馴染みの「濃縮」方法には、煮沸濃縮、真空濃縮、凍結濃縮、膜濃縮があるが、ウランはガス拡散法とか遠心分離法などで「濃縮」をするそうだ。
生物濃縮は、弱肉強食、大が小を大量に捕食することで、排出されにくい特定の物質が体に溜まり、低濃度だったものが高濃度に変化することである。
きわめて低い濃度で溶存している物質が食物連鎖を通してしだいに濃縮されていく現象。 DDTは水→プランクトン→魚→鳥の食物連鎖の過程ごとに数百倍から数千倍ずつ濃縮され,食魚性の鳥類に高濃度で検出され,これが卵殻形成を妨げたり,その種の鳥の死滅を招いたことが,かつてアメリカにおいて起こった。

ウラン濃縮は実際には非常に難しい技術だそうで、核兵器にも絡むことなので、各国とも重要な機密事項になっていて公開されていない。(だから本当のことは分からぬまま)
さらなる問題はウラン濃縮自体に非常に多くのエネルギーを要することである。
前にも海水を真水にしなければならない日本の原発はそれだけで余分にエネルギーを消費していると書いたことがあるけれども、このウラン濃縮も、核兵器はともかくとして(?)、「発電するのにそんなにエネルギーを消費してどうするんでしょう」という話になる。
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# by yumimi61 | 2016-10-06 12:21
2016年 10月 05日
日本国憲法の秘密-371-
1940年11月、ティザード使節団帰国。(アメリカにエンジンやレーダーの生産を依頼。原子爆弾実現可能性には否定的見解)
1941年3月11日、ルーズベルト米大統領が武器貸与法に署名する。

1941年7月15日、MAUD委員会は原子爆弾(ウラン爆弾)が実現可能と最終報告。

1941年10月、ルーズベルト大統領が原子爆弾研究開発を承認。
1941年10月11日、ルーズベルト大統領がイギリスとの協力体制に関してイギリスのチャーチル首相に書簡を送付。
1941年11月、アメリカの化学者が協議のためイギリスに派遣された。
   ⇒しかしイギリスは協力の提案を受け入れなかった。イギリス側からは対案もなく協力体制は失効した。


アメリカの原子爆弾研究開発プロジェクトは軍隊が管轄することになった。海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に担当させた。
最初の仕事は研究所や生産施設建設のための土地取得である。

すでに戦争は始まっているわけだから、戦争は長引くと予想していたということになるし、膨大な資金を注ぎ込むプロジェクトを戦争終結で無駄にしたくないという状況をも作ることになる。
原爆は初めて作るわけで、実現不可能という意見が多くを占めていた。それが理論通りに成功する保証などどこにもないはずである。
そもそもルーズベルト大統領がプロジェクトを承認した1941年10月の段階ではアメリカはまだ参戦していない(真珠湾攻撃前)。だから最初から日本に落とす予定だったでは辻褄が合わない。
投下までが上手くいく保証ももちろんない。軍用機の航続力には限界がある。爆撃機が投下前に攻撃されてしまえばそれで終わり。
誰がどこで使う予定で開発し製造するのか?どの範囲を狙い、それにはどれほどの威力が必要なのか、今ある軍用機に搭載可能なのか、少なくともそれくらいの指標は必要ではないだろうか。
そうした検討も行わずに、なんとなく作ってみました?
時間と金と成功率を鑑みれば、いかにこのプロジェクトがギャンブル的であったかが分かる。

またその爆弾が原子であろうが、どんな威力があろうが、爆弾である以上、それだけは何の意味も持たない。
戦争に勝つためには、侵攻して占領するか、相手から降参を引き出さなければならないのだ。
普通の爆弾ならともかく大量の放射性物質が降り注ぐと結論付けた原子爆弾を落とした所になんか侵攻して占領したくないだろう。
放射性物質は無害という評価だったのか?
西に落として東が占領できると思ったのか?
そうでないならば、残るのはただ1つ。相手から降参を引き出すしかない。
原爆は極めて他力本願な決め技である。決め技としては心許ない。どんなに負けが込んでいたって、占領も無く降参もしなければ勝敗は付かないだろう。
原爆の有効性を本当に信じていたらば、最初から日本に落とす予定で(あるいはイギリス?)、降参するという保証がなければ出来ない。

プラントのための用地取得は原爆開発のためだったのだろうか?


1942年2月~11月、テネシー州オークリッジの土地を取得。

ウラン精製工場とマンハッタン計画の司令部施設用地として取得された。
(面積)56,000エーカー(23,000ha)+追加の3,000エーカー(1,200ha)

今話題の豊洲市場は40.7ha。東京ディズニーランドは51ha、東京ディズニーシーは49.3ha。
上記のオークリッジの土地は豊洲市場の565倍。
どれほど大きな爆弾を作るつもりだったのか!?量産!!?
ちなみにアメリカのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートは日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の100倍以上ある。山手線内側が余裕で2つ入る大きさなんだとか。
ディズニーランドパリも日本のディズニーランドとディズニーシーを合わせた面積の20倍ある。
福島第一原発の面積は350ha。
環境省が、福島県内を除染して出た廃棄物を保管する中間貯蔵施設に予定している面積は約1,600ha。

(追加分)1942年10月7日に発せられた土地の取得によって影響を受けた家族は1,000以上に上る。抗議も懇願も1943年の議会による審問も何の抗力も成さなかった。1942年11月中旬、連邦保安官は農家の家屋のドアにも退去の告知を貼り、建築請負人はここに転居してきた。

(オークリッジに出来た施設は)1943年初頭、公式にクリントン・エンジニア・ワークス(CEW)と名付けられた。
最初の工場ができると全米から労働者が集められ、人口は増大し、1945年5月にクリントン・エンジニア・ワークスに82,000名、ローン・アンダーソンに10,000名が雇われた時、最大の75,000名となった。
オークリッジの施設はサイトXという暗号名を与えられた。後のオークリッジ国立研究所となった。のちにオークリッジは、アトミック・シティ(原爆の町)、シークレット・シティ(秘密都市)と呼ばれるようになった


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受付のお姉さま方?インフォメーション?工場見学案内係?
オークリッジに置かれたY-12国家安全保障複合施設のシフト交代、だそうです。
(クリッククリックで大きくなります)



1942年11月、マンハッタン計画の研究所をニューメキシコ州ロスアラモスに置くことを決定。

計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのはアメリカ物理学者のロバート・オッペンハイマー。
彼の提案で研究所がニューメキシコ州ロスアラモス(サイトY、後のロスアラモス国立研究所)に置かれることになりオッペンハイマーが所長となる。

ロバート・オッペンハイマー(ユダヤ系アメリカ人)
ハーバード大学(化学専攻)を3年で卒業後、イギリスのケンブリッジ大学へ留学し、あのキャヴェンディッシュ研究所で物理学や化学を学ぶ。
オッペンハイマーはキャヴェンディッシュ研究所でニールス・ボーアと出会い、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へと入っていくことになる。
彼は実験物理学が発展していたケンブリッジから、理論物理学が発展していたゲッティンゲン大学へ移籍して、博士号を取得した。
1929年(25歳)には若くして カリフォルニア大学バークレー校やカリフォルニア工科大学助教授となり、物理学の教鞭を執った。1936年(32歳)には教授となる。

マンハッタン計画を主導し「原爆の父」と呼ばれた。

ニールス・ボーアのおさらい
マイトナーの甥であるオットー・フリッシュは当時、デンマーク・コペンハーゲンのニールス・ボーア(デンマーク)研究所で働いていた。
ニールス・ボーアはユダヤ系物理学者。イギリスにも留学経験あり。
理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を1921年に設立して、外国から多くの物理学者を招きコペンハーゲン学派を成した。
「原子構造とその放射に関する研究」により1922年にノーベル物理学賞を受賞。
ニールス・ボーアは量子力学の確立に貢献した人物だが、彼は実験をせずに科学的発見を行ったと言われている。
量子力学に反対した相対性理論のアインシュタインとは激しく対立した。
アインシュタインの言葉"Der Alte würfelt nicht."(神はサイコロを振らない)に対してし、"Einstein, schreiben Sie Gott nicht vor, was er zu tun hat."(アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない)という言葉で反論したという有名なエピソードがある。
ボーアは1939年1月に物理学会に出席するためアメリカに向かった。新しい発見「核分裂」のニュースはボーアの口から学会出席者に伝えられ、異常な興奮を引き起こしたという。
実験結果とその解釈の論文が発表されると、世界中の物理学者がこぞって、この新しい反応に関する論文を発表した。その数は僅か1年で100を超えた。
物理学会を通して「核分裂」はアメリカに持ち込まれ、「中性子によるウランの核分裂」は動かぬものになった。
1939年9月1日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)*が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)」論文を発表。
 ⇒核分裂連鎖反応、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。

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# by yumimi61 | 2016-10-05 11:59
2016年 10月 04日
日本国憲法の秘密-370-
オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)は、ウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見した。

「核分裂」に喜んだ物理学会だったが、よくあるウラン238ではなく、0.7%しかないウラン235を選んだことが失敗だった。(安全をとったつもりだが、それがネックになった!?)

この問題を解決する方法・・・・。
エゴン・ブレッチャー(スイス)とノーマン・フェザー(イギリス)は「他の副産物があってもよいではないか!」、そう思ったのだろう。
彼らは他の副産物を予想し、理論を組み立てた。
行きついた理論―ウランを燃料とする低速中性子(熱中性子)を用いるタイプの原子炉では「かなりの量の」プルトニウム239を副産物として作り出す。

①ウラン238が低速中性子(熱中性子)を吸収し、新たにウラン239を作る。
②ウラン239はすぐにベータ崩壊して、原子番号が93で質量数239の新しい元素を作り出す。
②原子番号が93で質量数239元素の原子核も電子を放出し、原子番号が94で質量239の大きな半減期をもった新しい元素に変化する。

崩壊には、α崩壊、β崩壊、γ崩壊がある。
α崩壊は原子核の分裂と言えるかもしれないが、通常は崩壊と分裂は別物である。
崩壊は原子核が安定になるために余分なエネルギーを外に放出するもので自然に起こる。
核分裂は中性子を吸収して不安定になった原子核がまとまっていられなくなって2つの核に分かれること。

新しい元素には名前が付けられた。
93番目がneptunium(ネプツニウム)、94番目がplutonium(プルトニウム)だった。
偶然にもアメリカの研究者も同じ名称を考えていた(ほんまかいな?)
実際に一番最初にプルトニウムが作られたのは1941年、アメリカの化学学者グレン・シーボーグ(カリフォルニア大学バークレー校教授、1951年ノーベル化学賞受賞)によってだった。原子炉ではなくサイクロトロンが使用された。


オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)は「ウランの原子核に中性子を衝突させ」と表現したが、これに対しても直に「中性子を衝突させた衝撃で核分裂が起きたわけではない」という見解が導き出された。
ウランの原子核が中性子を捕獲して分裂が誘発されたと考えたのだ。
要するに核分裂を引き起こすには原子核に中性子を取り込んでもらう必要がある。
そして中性子の遅い(低速)速い(高速)という話に繋がっていくのだ。
鬼ごっこをした時に動作が機敏で遠くまで逃げた子と遅くチョロチョロしている子ではどちらが捕まりやすいですか?遅い子ですね。
風邪気味で熱っぽい子と健康体ではどちらが捕まりやすいか?風邪気味の子ですね!?
だから核分裂には「遅い中性子(熱中性子)」が必要ということになったわけである。
動作が遅く風邪気味で熱っぽい子が捕まりやすいことは間違いないが、それを100%の確率で捕まると言うことは決して出来ない。
また全部が速い健康体の子だったら、その場合でも誰かしら捕まってしまうことも考えられる。
こうした例外や異例なケースを持ち出され、それが大手を振るうようになると道理は引っ込んでしんでしまうことがある。

◎ウラン235核分裂に必要なもの―ウラン235原子核・低速中性子

ところで中性子はどこから生じるか?それは核分裂である。核分裂の時に中性子2~3個を放出する。

中性子⇒核分裂(増える)→中性子放出⇒核分裂(増える)→中性子放出⇒核分裂(増える)→中性子放出⇒核分裂(増える)→中性子放出・・・

分裂と中性子放出によって核分裂連鎖反応が起こるという理論になるが、分裂時に放出される中性子は高速だということで(外側に飛び出るわけですからねぇ・・)、低速中性子が必要な核分裂連鎖反応は不可能という結論になったわけである。
核分裂により生じた高速中性子を減速するための減速材なしでは連鎖反応を維持することが出来ないとしたのがパリの研究グループで、重水が理想的な減速材であるという理論を組み立てた。

◎ウラン核分裂連鎖反応に必要な物―ウラン原子核・低速中性子・減速材としての重水


さらに1つの原子核で連鎖反応が可能ではなく(少数のうちは勢いがない)、核分裂の連鎖反応を持続するには、それに見合った状態(核分裂物質の質量)があると考えた。
核分裂の連鎖反応が持続する状態になったことを「臨界」と呼んでいる。
こうなれば後は何らかの条件変化によって核分裂反応の数が減るか、核分裂性物質そのものが減るなどしない限り核分裂の連鎖反応が維持されるとされる。

では最初の中性子はどうするのか?
原子力発電所などでは起動用中性子源(イニシエーター)が設置されていて、これが中性子を放出し起動させているそうだ。
オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)は実験結果の説明が出来なかった(核分裂なんて想像もしていなかった)そうだが、ではいったい何を目的に原子核に中性子を衝突させてみたりしたのだろう?どのような方法で?(中性子は原子核の外では安定して存在することができず、半減期はおよそ15分程度だそうだ)
ひとつ付け加えれば、衝突によって減速するということは容易に推測できる。(減速ありき?)


ここまでの話はウラン。
プルトニウムの場合は、高速中性子でも核分裂するのだという。その理由は十分に説明しきれていない。
分裂のメカニズムはウランとほぼ同じで、遅い中性子ほど核分裂を起こしやすいというのも同じ。
だけど何か引き合うものがある中性子があるらしく、高速中性子でも十分にいけるらしい。
ウランよりハードルが下がったわけである。
さらにプルトニウムには、スタートに沢山あるほうのウラン238を用いるという利点、ウラン239以降の反応は自然な崩壊によってもたらされるという利点がある。


「もんじゅ」などの高速増殖炉はその名の通り高速中性子を利用してプルトニウムの核分裂を狙ったものである。
日本のその他の原発の原子炉は全て軽水炉。(アメリカで開発され世界シェアは80%以上)

軽水炉
減速材に軽水(普通の水)を用いる原子炉である。
水は安価で大量に入手でき、高速中性子の減速能力が大きく、冷却材を兼ねることも出来る。
しかし、中性子吸収量が大きいため、運転に必要な余剰反応度を確保するには、濃縮ウランを燃料とする必要がある。

ウラン235は僅かしか存在しない・・・しかもその減速材に適していたのは重水のはずだった・・・それなのに普通の水でいいなんて話が違い過ぎる・・・。
だから濃縮ウランを・・?
実は発生する熱量の30%はプルトニウムの核分裂と言われている。つまり沢山あるウラン238が低速中性子を吸収し生じたプルトニウム239の核分裂から生じる熱量。
水から生まれた熱量としたほうが整合性が取れませんか?

(種類)
##沸騰水型原子炉(軽水減速軽水冷却圧力容器型沸騰水炉,BWR)
##加圧水型原子炉(軽水減速軽水冷却圧力容器型加圧水炉,PWR)
ただし、沸騰水型と加圧水型は冷却材としての水に基づくので、重水炉や黒鉛炉にも同じ分類がある。

(兵器に適さない利点)
・核兵器の製造に適さない(核拡散防止に有利)
・使用する低濃縮ウラン燃料は直接 核兵器の材料にならない(ただしウラン濃縮技術自体は原子爆弾の製造に繋がるため、新規の技術取得は厳しく制限されている)。
また、商用発電用原子炉では経済性が重視されるため燃焼度を高く取る。このため、使用済み燃料に含まれるプルトニウムを再処理して得られる原子炉級プルトニウムには核兵器原料になり得る239Puは約60%程度しか含まれず、逆に核兵器原料として不適な240Puが40%超に上る。
240Puが7%以上含まれると過早爆発を起こしてしまうため、核兵器に使用するには239Puが93%以上含まれるよう分離精製する必要があるが、これは技術面・コスト面とも極めて困難であり、核兵器の製造は実質的に不可能とされている。




93番ネプツニウムと94番プルトニウムは人工元素である。

 人工元素ってなに?
人工元素とは、自然界には存在しない、人間が作った元素の事を言います。周期表で言うと、43,61,93~109までが挙げられます。ただ、ネプツニウム(43)とプルトニウム(94)は人工放射性元素ですが、例外的にウラン238の崩壊生成物として、微量ながらウラン鉱石中に存在することが分かっています。
 原子はプラス電荷をもった1個の原子核とその周囲を回る多数の電子からできています。原子核は陽子と中性子からできていて、元素の性質は陽子の数で決まります。このことから、陽子の数を人工的に変えてやれば新しい元素ができるはずだ、と科学者たちは考えたのです。
 そして、粒子に高いエネルギーを与えて原子核を壊すための装置「サイクロトロン」が1929年に考案されました。この装置が開発された事により、人工元素の研究が進みました。

人はなぜ人工元素をつくるの?
人工元素の中には、寿命が短いものも少なくありません。せっかく作っても、1秒も持たずに壊れていってしまうものもあります。そんな、人工元素の研究は何の役に立つのでしょうか。科学者の「科学的興味」や、「国の威信をかけた競争」という側面。また、人類が昔から夢見ていた「錬金術」が可能なのではないかという期待を抱いての研究。恒星が最期を迎えたときに「人工元素」のようなものができるのではないかという予想を実証するための、天文物理学に通ずる研究などがあります。

同志社女子大学情報メディア学科元素グループ一同


自然界に存在する元素(天然元素)は、1番水素から92番のウランまで90個が発見されており、長いこと2つの番号の元素が発見されなかった。43と61である。これを見つけることが研究者の夢だった。
ないのに番号があるなんておかしいと思うかもしれないが、理論的に存在すると考えられていたからである。
現在118番まで発見報告がなされている。93番以降はすべて人工元素である。
ウラン238が低速中性子(熱中性子)を吸収しウラン239を作る。そのウラン239がβ崩壊して作り出されるのが93番ネプツニウム。
エゴン・ブレッチャー(スイス)とノーマン・フェザー(イギリス)が構築した理論から生まれた。つまり「核分裂」が発見されたことによって人工元素は生まれたわけである。
人工と言っても全く0から作るわけではない。神様でないから0からは作れない。だから「発見」なのだ。
172~173くらいまで存在可能と言われている。(まだまだ沢山チャンスはありますよ!?)

もともと原子の構造はよく分かっていなかったが、1900年代に量子力学理論によって原子論と電子配置が確立された。
これにより原子には陽子数(原子番号)と同じ数の電子が陽子核のまわりに電子殻と呼ばれる層を形成して存在すること、この殻は複数あり、電子は基本的に内側から順番に埋まっていくと判明(定義)されたのである。

「核分裂」が発見されたことによって人工元素は生まれたわけであると書いたが、例外が1つだけある。
それが43番である。
天然元素番号でありながら、なぜ人工元素なのか?
1828年、1846年、1877年、1908年に発見が報告されたが、どれも「違う」と認められなかった。
1908年の発見者は日本人である。
小川正孝
松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学び、ロンドン大学のラムゼーの研究室に留学した。2年間の留学中、トリウム鉱石のトリアナイト(方トリウム石、ThO2)の中に新元素を探す研究を行った。1906年の帰国後も研究を続け、「原子量が約100の43番目の元素」として1908年に発表した。追試で存在を明確な証拠が得られないまま、43番目の元素は1947年にセグレによって重水素核とモリブデンの衝突実験で発見されたテクネチウムとなった。
ラムゼーはイギリス生まれの化学者。希ガス元素を発見して1904年にノーベル化学賞を受賞した。

一度は認められ、ニッポニウム(nipponium, Np)と命名したが、後に「43番元素は地球上には存在しない(半減期が短いため、地球が誕生してから現在までにほぼ全てが崩壊している)」と取り消されてしまった。(根底から覆したわけである)
元素記号として使用される予定だったNpも、あの93番ネプツニウムに使用されてしまった。(嫌がらせ?)
少し前に日本が命名した「ニホニウム」。日本はNihonではなくJapanかNipponだから「ジャパニウム」や「ニッポニウム」のほうが良いのではないかと話題になったが、ニッポニウムは一度使われている。

小川は東北大学の総長の職の傍ら、総長室の隣に設置した個人実験室でニッポニウムの研究を行い、総長を退いた後も研究を続けた。だが1930年7月3日に実験室で倒れ、入院先の大学病院で帰らぬ人となった。次男の栄次郎もニッポニウムを探し続けたが40歳(1945年)で急逝した。

43番の発見者は、エミリオ・セグレ(イタリア)。
ローマ大学で工学を学んでいたが、1927年22歳の時に物理学に転向してフェルミに師事した。
フェルミとは25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した、フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルートのフェルミ。
セグレは1934~1935年にはフェルミと協力して中性子反応の先駆的研究を行っていた。(ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言及したのは1933年)
その後アメリカに向かい、ローレンス・バークレー国立研究所(国立という名だが、政府が直接運営しているわけではなく、カリフォルニア大学が運営していて、バークレー校の所有地内に設置されている)にて、最初の人工元素テクネチウムを1936年に作り出した。これが43番である。(命名は1947年までされなかった)
所長だったアーネスト・ローレンス(アメリカの物理学者)は加速器サイクロトロンを発明した人物。
それを使って人工元素43番は作られた。
(ローレンスは)マンハッタン計画に参加し、質量分析法によるウラン235の工業的分離に成功した。

セグレは43番発見後そのままアメリカに残った。カリフォルニア大学に講師の職を得た。カリフォルニア大学でのアスタチンとプルトニウム239の発見に貢献した。
1943年から1946年までロスアラモス国立研究所でマンハッタン計画のグループ・リーダーとして働いた。1944年にアメリカに市民権を得、コロンビア大学、イリノイ大学等で教鞭を執った


人工元素は核分裂やマンハッタン計画と非常に関係が深い。

小川家の執念は実らなかったが、人工元素43番発見後もニッポニウムを探し続けたらしいので、人工元素43番を信じていなかったのだろう。


そう言えば、朱鷺(トキ)の学名がNipponia nippon でしたね。
これは日本人が付けたものではありませんけれども。

日本が「ニホニウム」と命名した元素は113番目。
日本の理化学研究所が命名権を得たけれど、発見したのはアメリカとロシアの共同研究チーム。
発見者が命名するわけではないんですね。
「もううちはいっぱい付けたから日本がどうぞ」とか?
アメリカ・ロシアが発見後に日本でもその元素が出来たらしい。違う材料を用いて。
そしたらその日本の113番のほうが安定していたそう。だから命名?
アメリカ・ロシア発見の113番は0.48秒で崩壊。日本の安定113番は1秒くらい?
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# by yumimi61 | 2016-10-04 14:41
2016年 10月 03日
日本国憲法の秘密-369-
1941年10月、ルーズベルト大統領が原子爆弾研究開発を承認。
1941年10月11日、ルーズベルト大統領がイギリスとの協力体制に関してイギリスのチャーチル首相に書簡を送付。

1941年11月、アメリカの化学者が協議のためイギリスに派遣された。
   ⇒しかしイギリスは協力の提案を受け入れなかった。イギリス側からは対案もなく協力体制は失効した。


イギリスのMAUD委員会は1941年7月15日の最終報告をもって解散した。
イギリスに「チューブ・アロイズ(Tube Alloys)」という名の核兵器開発プロジェクトがあったとされているが、この名はイギリスとアメリカの政府高官などは「核兵器(原爆)の可能性」について語る時に用いていたコードネームであって、「チューブ・アロイズ(Tube Alloys)」という組織があったわけではない。
従ってイギリスにおいては結局MAUD委員会のことになるが、研究はそれぞれの持ち場で行われており、MAUD委員会が研究の場であったわけではない。
MAUD委員会が解散した後も、研究者たちはそれぞれの持ち場で研究を行っていたわけで、それは研究者の日常である。
Tubeの意味:管、筒、真空管、ブラウン管、テレビ、地下トンネル、まぬけ。(真空の中でも嵐は起こる!)
Alloysの意味:合金、卑金属、混ざり物、不純物、品質を損なう、価値を減じる。
(マグネトロンも真空管の一種)

アメリカの努力は急速であり、すぐにイギリスを追い越した。しかし、別々の研究はそれぞれの国で継続され、時々情報の交換が行われていた。何人かのキーとなるイギリスの科学者が1942年初めにアメリカ合衆国を訪問し、利用可能な全ての情報にアクセスした。彼らはアメリカの原爆計画が進んでいると言うことに仰天した。
原爆開発を諦めておらず、政府レベルで計画が進んでいることに驚いたのである。



1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。

原子爆弾の開発はここを起点にしている。
それを核分裂と定義したのはマイトナー(オーストリア)だった。
マイトナーとその甥であるオットー・フリッシュ(オーストリア)が上記実験の解釈としての「核分裂の生成」論文を書きイギリスのNature誌に掲載されたのは1939年2月。
物理学会は異様な興奮に包まれた。

この1939年からMAUD委員会が解散した1941年までの間にウランではなくてプルトニウムを研究していた者がいた。
当時ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所にいたエゴン・ブレッチャー(スイス)とノーマン・フェザー(イギリス)である。
その研究所には「核物理学の父」ラザフォード(ニュージーランド)もいて、レーダーの協議と言いつつ原爆をアメリカに打り込みに行ったマーク・オリファント(オーストラリア)はラザフォードに憧れて同じ研究所に入ったほどである。
そのラザフォードは1933年の段階で「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事」と言っており、原子爆弾のようなものの実現可能性には否定的見解を持っていた。

エゴン・ブレッチャー
スイス生まれ。
イギリスのエジンバラ大学で25歳の時に博士号取得。
その後はスイスに戻って大学の臨時講師を務めていた。
1936年、ラザフォードの実験室で働くために、ロックフェラー奨学生としてケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所に移った。

ノーマン・フェザー
イギリス生まれ。ロンドン大学卒業でBA(Bachelor of Arts)を取得し、翌年BS(Bachelor of Science)を取得している。
その後は研究員や講師を務め、1931年27歳の時に、ケンブリッジ大学にてチャドウィックとラザフォードの下でケンブリッジで博士号を取得。
チャドウィックもラザフォードの教え子である。チャドウィックは中性子の存在を実験で証明したという人物
(1935年にノーベル物理学賞受賞)だが、ノーマン・フェザーはその実験を手伝っていた。


こうなるとラザフォードの「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事」という発言潰し、すなわちラザフォードの面目潰しのために団結した仲間と言ってもよいかもしれない。
「父」というものはいつの時代も、子供達にとって煙たい存在、超えるべき存在なのかもしれません。

前に愛の中に憎しみは生まれるということを書いたけれども、親には男性と女性がいる。
一般的に同性の親子関係は難しいと言われている。
つまり女の子だったら母親との関係、男の子だったら父親との関係である。
愛の中の憎しみは一般的に異性間のほうが強い。それならなぜ同性が難しいか?
もともと愛が薄い。これではにべもないですか?そうですね。
同性はかなり早い段階からライバル心を持つ。
幼い頃には、例えば女の子ならば「お父さんは私もの!」みたいな感情や振る舞い。
もう少し世界が広がって異性がお父さんだけでないと知ると、「お父さんは私もの!」のような感情や振る舞いはなくなるが、今度は特定の対象なきライバルになっていくのだ。
「大人なお母さんはずるい」「あんなことが出来るお母さんが憎らしい」
友達や父親ががお母さんを褒めたりすると誇らしくなるような気持ちも持ってはいるが、「なんでお母さんなの?私は?」みたいな気持ちも出てくる。
その逆もある。「あんなふうにはなりたくない」「お母さんは何にも出来ないし、しないから嫌」
血の繋がりを考えた時に自分もそうなるのではないかという恐れを持つので益々憎悪の気持ちが強くなる。
同性には同類を感じやすいものなのだ。
師弟関係は親子ではないが、わりとこれに近いものがあるのではないかと思う。
「憧れて」とは言うが、選べない親子関係とは違う。選択できるところには少なからず打算がある。
だから最初からライバル心を持っている。向上心が強ければ強いほどその傾向も強くなる。

話がだいぶずれるけど、不倫騒動でどうして女性ばかりが非難されるのかと時々話題になるけれど、不倫非難の中心にいるのが女性だから。
同性同士のほうが敵になりやすい。そして女性は男性よりも不倫に対する怒りの沸点が低い。
何故かと言えば、おそらく一番大事なものに直結しているからなんだろうと思う(一番大事なものに直結していない世界では怒りの沸点は高いはず)。一番大事なもの?ささやかな幸せ?日常とか?まあそうですね。
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# by yumimi61 | 2016-10-03 18:43
2016年 10月 03日
日本国憲法の秘密-368-
(1936年11月25日、日本とドイツが共産インターナショナルに対する協定、日独防共協を締結)
(1937年7月7日、日中戦争勃発)
(1937年11月6日、イタリアが防共協定に参加、日独伊防共協定締結、枢軸国の原形となる)
(1938年3月13日、ドイツがオーストリアを併合)

1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
 ↓
1939年2月、マイトナー(オーストリア)と、その甥であるオットー・フリッシュ(オーストリア)が上記実験の解釈としての「核分裂の生成」論文を書きイギリスのNature誌に掲載される。
 ↓
この新しい発見が物理学会に興奮を呼ぶ。
 ↓
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。
1939年9月1日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)」論文を発表。
 ⇒核分裂連鎖反応、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。
 ↓
1939年6月、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。
 ⇒フリッシュ&パイエルス覚書、
 ↓
フリッシュとバイエルスが師匠のマーク・オリファントに報告。(フリッシュはニールス・ボアの弟子でもある)
 ↓
マーク・オリファントがヘンリー・ティザードに原子爆弾の可能性について情報提供。
 ↓
1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織。
 ↓
1940年7月、バトル・オブ・ブリテン(イギリスとドイツの航空戦)勃発。
 ↓
 ↓ 8月21日、ロシアからメキシコに亡命していたトロッキーが暗殺される。
 ↓ 8月24日、ドイツがロンドンを誤爆、翌8月25日、イギリスがベルリンを報復攻撃。
 ↓
1940年8月29月、ティザード使節団アメリカへ出発。
 ↓
 ↓  9月27日、日独伊3国同盟をベルリンで調印。
 ↓
1940年11月、帰国したティザードは核分裂に関して原子爆弾の研究になっていないと報告。
 ↓
1940年12月24日頃、MAUD委員が工業的規模でのウラン濃縮施設の具体的見積もりに関する報告
 ↓
1940年12月29日、ルーズベルト大統領が兵器廠宣言。
             (民主主義の擁護を理由に連合国側に対して軍需物資の供給を行うという宣言)
 ↓
1940年3月11日、ルーズベルト米大統領が武器貸与法に署名する。
 ↓
1940年3月、アメリカ国防研究委員会化学・爆発物部門主任でハーバード大学総長の化学者がイギリスへ。
   ⇒同行した物理学者がMAUD委員会に出席し、アメリカからイギリスに人を派遣するように要請。
 ↓
要請に応えて米国科学アカデミー(NAS)に核エネルギーに関する審査委員会を設立。
 ↓
1940年5月17日、NAS審査委員会が最初の報告を提出。
  ⇒原爆は1945年以前には期待できないとした。イギリスMAUD委員会の進展についてはノーコメント。
 ↓
アメリカ国防研究委員会の議長が新たに科学研究開発局(OSRD)を設立し自ら長官に就任。※2
  ⇒アメリカ国防研究委員会の議長後継には化学・爆発物部門主任でハーバード大学総長だったコナントが就任。 
  ⇒ウラン諮問委員会もOSRDのS-1ウラン委員会となった。    
 ↓
コナントは1–2年以内に成果の出ないものにエネルギーを割くべきでないと言及。


ドイツからMAUD委員会に参加した化学者フランシス・サイモンが、ウラン235の分離(ウラン濃縮)を担当した。
報告書には、毎日1 キログラムのウラン235を産出する工場がおよそ500万ポンドの経費で可能であるとしていた。

※2科学研究開発局(OSRD)を設立し自ら長官になったヴァネヴァー・ブッシュは専門外でありウラン238とウラン235の区別もついていなかった。


イギリスが当初正しく結論付けていたことは前述したが、アメリカもまた正しい結論を出していた。
しかしMAUD委員会の最終報告でこれがあっけなくひっくり返ってしまうのである。
正しい結論を出していた人達も科学者であったが官僚主義と批判されることになる。
それならばこの際科学的な話を抜きにしてもよい。
「戦争のための実験なのか」それとも「実験のための戦争なのか」、真っ先にこれが突きつけられるのでは?
政府や軍が否定していて使う気もないというのに、原子爆弾が実現したとして、それがいったい何になるというのだ?
原子爆弾を使いたいから闇雲に戦争を煽り引き延ばし泥沼化させるのか?
作ったものは使いたいからまた戦争を行うのか?


1941年3月11日にアメリカに於いて「武器貸与法(レンドリース法)」が成立した。
「その国の防衛が合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分する」
1940年12月29日の兵器廠宣言では民主主義の擁護を理由にしていたが、武器貸与で武器を貸与できる国は「その国の防衛が合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考える国」となっている。
連合国と明言しているわけではない。
1945年4月12日、ルーズベルト大統領は急逝した。
副大統領歴3か月のトルーマンが大統領に昇格し、自身は1949年までの任期期間に副大統領を置くことはなかった。
この意味は大きいかもしれない。


1941年3月11日、アメリカに於いて「武器貸与法(レンドリース法)」が成立。
1941年4月13日、日本とソ連が「日ソ中立条約」を締結。
1941年4月16日、日米交渉開始。
1941年6月22日、ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。

「武器貸与法」を1941年3月11日に成立させたアメリカは、4月に中国に武器提供を決めている。
中国と日本は1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。

革命前後から第二次世界大戦終結までの中国の勢力の歴史
革命家・孫文 ←日本支援
北洋軍閥 ←日本支援

北洋軍閥(張作霖) ← 米・日本
中国国民党(孫文が結成した政党)
中国共産党 ← ソ連

馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下、段芝貴を失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。
日本はその張作霖に満洲を支配させたのである。ところが張作霖の野望逞しく、中国に権益を持っていた欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得るために日本から欧米寄りの姿勢に転換。

蒋介石政権(孫文がロシアのボリシェビキをモデルに作った中国国民党による政権) ←欧米支持 ◎現台湾                          (戦後の台湾は旧日本軍が秘密裏に支援してきたと言われている)
共産党政権 ←ロシア支持 ◎現政権
汪兆銘政権 ←日本支持(バチカンも承認していた)


日中戦争当時、日本は満洲や朝鮮を支配していた。
蒋介石政権とは対立関係にあった。欧米は蒋介石政権を支援していた。
つまるところアメリカは蒋介石政権に武器の提供を決めたのだ。
日本とソ連が「日ソ中立条約」を締結したのはちょうどその頃である。
ドイツはソ連に裏切られ、アメリカもソ連に裏切られた形となった。
第一次世界大戦の時、連合国とともにシベリア出兵したが、戦争が終わり連合国が引き揚げてもそのまま高いを続けた日本は、スターリン独裁政権が誕生するのを見届けて撤収した。
スターリン独裁政権と日本はもともと親密だった可能性がある。
中国に武器提供を決めたアメリカは、一方で日本と、引いてはソ連と衝突することを懸念もしていた。
そこで4月16日に衝突を回避するための落としどころを探るべき日米交渉が開始された。


1941年7月15日、MAUD委員会はウラン爆弾が実現可能と最終報告。

それによれば、爆弾に含まれるウラン材料は 25 ポンド(11 キログラム)ほどとなり、破壊力は TNT 火薬 1.8 キロトンに相当し、大量の放射性降下物を生成するとされた。 また1943年末には爆弾製作の資材が提供可能となるとした。 簡潔な箇条書きの3つの文にまとめられた結論は次のようなものであった。

1.委員会はウラン爆弾の計画が実現可能であり、この戦争において決定的な結果をもたらすであろうものと考える。
2.この作業を最優先かつ、可能な限り最短の時間で爆弾を得るために規模を拡大して継続することを勧告する。
3.アメリカとの現在の協力は維持されるべきであり、また特に実験作業の分野において拡大されるべきである。



チャーチル首相は8月30日にさらなる研究の継続を認めた。 チャーチルは参謀長への覚書で「個人的には現存の爆弾に大いに満足しているが、我々は改善の道に立ちはだかるべきでないと思っている」と述べている。
要約すれば、原爆には期待していないということだと思う。

MAUD委員会の最終報告書は、アメリカ科学研究開発局(OSRD)のブッシュ長官にも届けられたがアメリカの反応は鈍かった。
NAS審査委員会やコナントがすでに正しい結論を出していたわけだからそれはそうだろうと思う。
そこでMAUD委員会のマーク・オリファントがアメリカに出向いた。
レーダーについての協議(イギリス・バーミンガム大学がマグネトロンの開発をしていた)という名目で、実のところは原爆の売り込みである。
アメリカ各地で精力的に科学者や行政責任者と会い、原爆開発を推進するよう後押しした。
オリファントが S-1 ウラン委員会のブリッグズを尋ねたときには、MAUD報告が金庫にしまいこまれ他の委員には読まれていないことに落胆し、ウラン委員会に出席して必死に自分たちの危機感を訴えた。
オリファントが「すべての努力は原子爆弾に集中するべきで、爆弾以外の発電所やなにかを研究する権利はあなた方にはなく、… イギリスに金も人もない以上、それ〔原子爆弾〕はあなた方に任されている」と訴えたことを委員の一人は回想している。
9月始めには、やはりアメリカ政府の原子爆弾への関心の薄さに不満だったアメリカの指導的な実験物理学者アーネスト・ローレンスとバークレーで会い、ブッシュやコナントとの面会の手引きをしてもらった。
NAS の審査委員会の暫定議長となっていたゼネラル・エレクトリック社(GE)のウィリアム・クーリッジ (William D. Coolidge)にもウラン爆弾を強力に印象付けるのに成功している。


この売り込みを受ける形で、MAUD委員会の最終報告書が1941年10月3日に公式にアメリカに届けられた。
マーク・オリファント行脚によって足場を固めてもらったアメリカ科学研究開発局(OSRD)のブッシュ長官は直ちにMAUD委員会の最終報告書の内容をルーズベルト大統領に報告。
これによって原子爆弾開発研究が政府レベルで行われることが決定した。

1941年11月26日(日本時間11月27日)、アメリカから日本にハル・ノート(交渉文書)が提示される。
1941年11月27日、原爆に否定的だったNAS審査委員会も、MAUD報告を受けて、この日「ウラン爆弾の実現は確かなもの」と大きく方向転換した。

1941年12月8日、真珠湾攻撃。
 ⇒第一の目標は戦争を長引かせること。(NAS審査委員会が当初、原爆は1945年以前には期待できないと言ったから1945年までがいいかもですね!)
 ⇒第二の目標は世界中を巻き込むこと。
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# by yumimi61 | 2016-10-03 12:18
2016年 10月 02日
日本国憲法の秘密-367-
★フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルート
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト大統領宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
1939年10月21日、アメリカ政府代表者とシラードが初会合。
 ⇒しかしルーズベルト大統領の関心は薄く、研究費要求にも応えてもらえず中断。


★マイトナー(オーストリア)&ボーア(デンマーク)ルート
1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、ウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。

※アインシュタインとボーアは、相対性理論と量子力学で対立関係にあった。


忘れてもらっては困るが、ヨーロッパでは1939年9月より戦争が始まっていた。
現在進行形で戦争は行われているのである。

1940年7月~1941年5月、バトル・オブ・ブリテン(Battle of Britain)。
ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦として、イギリスの制空権の獲得を狙ってイギリス上空とドーバー海峡で行われた航空戦。

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

ロッテ戦とは2機1組の編隊による戦い。
攻撃と防衛という双方の観点から考えれば、一騎打ちというスタイルは難しい。合理的ではない。特に空中戦においては。
そのため編隊で攻守を上手く切り替えながら戦うことになるが、2機1組というのは最小の編隊である。
真っ先にドイツが導入したもので、それまでは3機1組が主流であった。
編隊も数が多ければ多いほど良いと思うかもしれないが、航空機を飛ばすということは思うほど簡単なことではない。
戦闘可能なパイロットや燃料の確保、戦闘機の維持管理、製造など幾つものハードルがある。
3機ではバランスが悪くタイミングを合わせにくいという欠点もあった。
中途半端に多い数では逆に機体の喪失が大きくなってしまう可能性がある。

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。
数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。レーダーにおいて当時世界で群を抜いていたイギリスは近代的なレーダー網を活用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国アメリカ合衆国からは経済支援を得ることができた。


イギリスはこの時ピンチだったのである。
第一次世界大戦でもドイツ相手に窮地に陥ったが、その時にドイツを追い詰めたのはアメリカ軍であった。

1940年8月29日、イギリスのチャーチル首相の意向を受け、ティザードを団長にした極秘使節団(7名)がアメリカに向かった。
第一次世界大戦でもアメリカは終盤まで戦争には積極的ではなかった。
そんなこともあってイギリスは、だいぶきな臭くなってきた1939年5月~6月に、イギリス国王夫妻(ジョージ6世とエリザベス)がアメリカを公式訪問しイギリスへの支援を要請している。
それでも以然アメリカには孤立主義が根強くあった。とくに議会が手強かった。
1940年の段階ではまだアメリカは中立的だったのだ。

ティザードの使節は原爆の情報共有のために送られたと受け取れる記述もあるが、原爆は主目的ではない。

前にも引用したが、下記青字は原爆関連Wikiに書かれていたものである。
技術者の集団(ティザードの使節)は1940年9月に北アメリカに送られ、その代わりに、レーダー、ジェットエンジン、核研究などの全領域の技術を手に入れた。
この文章も誤解しやすいが、手に入れたのはイギリスではなく、アメリカである。

イギリスが開発した高度で最先端なレーダー(水冷空洞型マグネトロン)(空洞型マグネトロンはドイツが開発している)、ジェットエンジン、光学照準器、プラスチック爆薬などの技術をアメリカに提供したのだ。
その中で原爆の可能性についても情報提供をし、フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルートのフェルミなどに面会し、コロンビア大学の研究室などを見学させてもらった。

ティザードの使節は帰還した際に、彼らは、遅い中性子の研究がケンブリッジのパリのグループや、コロンビア大学のエンリコ・フェルミや、カナダのジョージ・ローレンスにより継続されていたことを報告した。彼らは戦争遂行とは関係ないと結論付けていた。

ティザード使節団はアメリカで行われている研究は戦争に使えるようなものにはならないと判断した。
手っ取り早い理由としては、ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したはずだが、そもそもウラン235の分離が実現されておらず、分離の目途も全く立ってない状況であったからだ。

ティザード使節団が目を付けていたのはアメリカの工業生産力だった。
イギリスは技術開発力は持っていても量産体制が敷けなかったので、アメリカに量産してもらおうと考えていた。
イギリスが提供した技術は非常に優れたものであり、アメリカの戦闘能力を格段にアップさせるとともに、それを輸出してもらう狙いがあった。
イギリスはマグネトロン技術を輸出しアメリカで作られたレーダーを輸入する。
ロールス・ロイスのジェットエンジンは使節団がライセンス生産契約を取り付けた。使節団がアメリカでいの一番でやったことは、ジェットエンジンのライセンス生産契約だったのだ。


イギリスの海軍は世界最強と言われたこともあるようにイギリスは海での戦いを得意としていた。
ところが第二次世界大戦では空の戦いが非常に重要となってくる。
空からの爆撃によって、後方の司令部や基地、飛行場や港、生産拠点、発電所などを破壊し、前戦での戦いを有利にする。

イギリスに海から上陸することはなかなか難しいので、ドイツはまずイギリスの航空戦力を壊滅させることから始めた。
ターゲットは飛行場とすでにある軍用機、レーダー基地など。
これが達成されればイギリス上空まで自由に飛べるようになるため、空からの侵攻が可能となり、艦艇や陸上部隊は空から援護を受けられるようになる。
また軍艦は基本的に空からの爆撃に対抗できないため、制空権が奪われるとそのままそのエリアの制海権も失いかねない。
しかし空より海より大事なものは陸である。空や海での戦いは侵攻(上陸)を行う上での前哨戦、戦いを有利に進めるための戦術の1つに過ぎなかった。
戦術の1つだから無差別に都市を攻撃するなんてこともしなかった。

航空戦力をつぶす方法としては、陸上にある飛行場や軍用機を爆撃機で狙うこと(空襲)の他に、空で戦闘機同士が戦うというスタイルがある。

バトル・オブ・ブリテンの戦力
        (ドイツ)(イギリス)
単座戦闘機 1107  754
複座戦闘機  357  149  
爆撃機    1380  560
急降下爆撃機 428
偵察機 569
沿岸哨戒機 233   500

イギリス上陸作戦の前哨戦ということで、ドイツの爆撃機のほうが多くなるのは当然のこと。
戦闘能力においてはドイツの戦闘機のほうがイギリス戦闘機よりも優れていた。
ただドイツの戦闘機は航続力に欠けていた。必要以上に長い距離を飛ぶことは出来なかった。
爆撃機は戦闘機に護衛されて空爆をしていたが、イギリスはレーダーで飛来する飛行機を発見すると、高い高度で待機していた戦闘機に急降下攻撃させ、すぐさま逃げるという戦法を採っていた。距離稼ぎである。
ドイツの戦闘機は航続距離が短かったため(すでにイギリス上空まで飛んできているわけだし)、逃げる戦闘機を追いきれなかった。
そうこうしているうちに戦闘能力の劣る爆撃機は攻撃されてしまう。

そのうちドイツ軍の爆撃機はレーダーに検知されにくい低空を飛んでくるようになったが、イギリスはすでに低空飛行でも検出可能なレーダーを導入していた。
こうなるともうレーダーにも目視でも発見されにくい夜間や悪天候の日を狙って爆撃するしかなくなる。
だから空襲は夜間に行われた。
夜の闇は自分を見えにくくするという長所があるが、相手が見えにくくなるという欠点がある。
ヒトラーはロンドンなど都市部への空襲は行わないようにと命令を出していたが、夜間の攻撃のため、ある日ロンドンを誤爆してしまう。
「何をやってるんだ!」ヒトラーはこれに怒ったが、ロンドンを攻撃されたイギリスも怒っていた。
報復として翌日ベルリンを攻撃する。これにヒトラーが怒りまくって、軍事拠点などへの攻撃から都市部への攻撃へと作戦変更した。
しかしドイツの爆撃機は戦略爆撃機ではなかった。

戦略爆撃機にはその攻撃目標の性質上次のような性能が求められる。
1.敵地奥深くに侵入するための航続力
2.爆弾を多量に搭載する能力
3.護衛戦闘機がつかない場合の防御火器、高々度飛行能力、高速飛行能力
これらの性能を満たすために、大型の発動機を四つまたはそれ以上有している。


結局、戦闘機による空戦勝負になり、どちらの国も空戦には苦戦していた。

8月23日から9月6日にかけての空戦でイギリス空軍は戦闘機を295機を失い、損傷で171機が使用できなくなったのに対し、新規生産や修理で補充された戦闘機は269機であった。損失と補充の逆転は、イギリス空軍に衝撃的であったが、それよりも頭を痛めていたのは搭乗員の消耗であった。

9月15日に午前と午後の2回にわたってドイツ空軍が行った大規模なロンドン空襲でも大きな損害を出した。パーク少将は22個飛行隊を全機出撃させ、ロンドン上空で迎撃した。この日のドイツ空軍の損害は、アドラーアングリフ作戦と比べると撃墜された機数こそ少なかったが損傷を負った機体と搭乗員の死傷が多かった。

9月15日は最大の空戦となった。これによってドイツはイギリス上陸作戦の延期を決定する。
1941年春に再び開始される予定だったが実施されることはなかった。





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# by yumimi61 | 2016-10-02 11:52
2016年 10月 01日
日本国憲法の秘密-366-
★フェルミ(イタリア)&シラード(ハンガリー)ルート

1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)
1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。


(1937年7月、日中戦争勃発)
1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジン(カナダ)がアメリカに帰化。
⇒コロンビア大学へ
1938年末、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。 ⇒コロンビア大学へ
1939年初頭、シラード(ハンガリー)はイギリス・オックスフォード大学の研究所(アメリカ滞在)を辞めて、アメリカに移住。⇒コロンビア大学に転がり込む

1939年3月、シラードとフェルミがコロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。
1939年8月、シラードがアインシュタインに頼み込んで、アメリカ・ルーズベルト宛てに「核開発」を促す書簡を書いてもらい送付。
(1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、戦争が始まる)
1939年10月、ルーズベルト大統領のもとに書簡が届く。
1939年10月21日、アメリカ政府代表者とシラードが初会合。
 ⇒しかしルーズベルト大統領の関心は薄く、研究費要求にも応えてもらえず中断。


★マイトナー(オーストリア)&ボーア(デンマーク)ルート

1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)が「中性子」を予想する。
1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)が「中性子の存在」を実験で証明する。


※アーネスト・ラザフォードはイギリスに留学し、その後イギリスを拠点に研究するようになり、ジェームズ・チャドウィックは教え子である。

1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。

(1937年7月、日中戦争勃発)
◎1938年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)がウランの原子核に中性子を衝突させ、副産物としてバリウムを発見する。
 ⇒ハーンらはこの結果を説明できず、かつての共同研究者リーゼ・マイトナー(オーストリア)に見解を求める手紙を送付する。
 ⇒マイトナー(オーストリア)と、その甥であるオットー・フリッシュ(オーストリア)は、ウランの原子核が2つに分かれることがあるのならば、この現象が説明できる、「中性子による核分裂しかありえない」と結論付けた。
 ⇒マイトナーとフリッシュはハーンらの実験結果の解釈として、「核分裂の生成を提唱する」論文を書きあげた。またハーンらにも実験結果を急いでまとめて発表するようにと勧めた。

1939年1月、オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)の実験結果がドイツの化学誌に掲載される。
1939年2月、上記実験の解釈としての「核分裂の生成」論文がイギリスのNature誌に掲載される。

※「中性子によるウランの核分裂」と結論付けられた新しい反応。この分裂反応に伴って、く大きなエネルギーが観測できるとマイトナーは予測した。
それは長い人類の歴史の中でも誰も見たことのない(?)ほどの恐るべき発熱現象であった。
原子爆弾の生みの親は、オーストリアの女性物理学者のリーゼ・マイトナーと言っても過言ではない。

マイトナーの甥であるオットー・フリッシュは当時、デンマーク・コペンハーゲンのニールス・ボーア(デンマーク)研究所で働いていた。
ニールス・ボーアはユダヤ系物理学者。イギリスにも留学経験あり。
理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を1921年に設立して、外国から多くの物理学者を招きコペンハーゲン学派を成した。
「原子構造とその放射に関する研究」により1922年にノーベル物理学賞を受賞。
ニールス・ボーアは量子力学の確立に貢献した人物だが、彼は実験をせずに科学的発見を行ったと言われている。
量子力学に反対した相対性理論のアインシュタインとは激しく対立した。
アインシュタインの言葉"Der Alte würfelt nicht."(神はサイコロを振らない)に対してし、"Einstein, schreiben Sie Gott nicht vor, was er zu tun hat."(アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない)という言葉で反論したという有名なエピソードがある。
ボーアは1939年1月に物理学会に出席するためアメリカに向かった。新しい発見「核分裂」のニュースはボーアの口から学会出席者に伝えられ、異常な興奮を引き起こしたという。
実験結果とその解釈の論文が発表されると、世界中の物理学者がこぞって、この新しい反応に関する論文を発表した。その数は僅か1年で100を超えた。
物理学会を通して「核分裂」はアメリカに持ち込まれ、「中性子によるウランの核分裂」は動かぬものになった。

(1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻する)
1939年9月1日、ニールス・ボーア(デンマーク)とジョン・ホイーラー(アメリカ)*が「原子核分裂の予想(ウラン同位元素235は分裂しやすい)」論文を発表。
 ⇒核分裂連鎖反応、原子爆弾開発への重要な理論根拠にされた。

※ハーンらの遅い中性子で分裂を起こしたのは、ウラン原子の大部分を占めるウラン238ではなく、0.7%しかないウラン235であると予測した。また核分裂に伴って、複数の中性子が生まれるだろうとことも予測した。

*ジョン・ホイーラー(アメリカの物理学者)
ジョンズ・ホプキンス大学で22歳のときに博士号を取得。
その後1年間はニューヨーク大学のグレゴリー・ブライト**の下で、その後の1年間はデンマークのニールス・ボーアの下で研究を積む。
1937年にノースカロライナ大学チャペルヒル校の助教授となり、翌年にはジョンズ・ホプキンス大学の准教授を勧められるも、素粒子物理学の専門家に近いところで仕事をしたいと望み、これを断る。
教職の一端としてプリンストン大学で研究を続けることになった。
(要するにアイビーリーグ、私立有名校、有名学者を選んだということだろう。打算が見え隠れする)
アインシュタインの共同研究者でもあるが、ボーアの共同研究者でもあって、相対性理論と量子力学の二刀流という矛盾も抱えている。

**グレゴリー・ブライト
ロシア帝国(現:ウクライナ)出身でアメリカで活動した物理学者。
1927~1929年、1939~1941年、1954~1956年、1961~1963年の4度、フィジカル・レビュー誌(アメリカ物理学会が発行する学術雑誌、物理専門誌)の共同編集者を務めた。
ブライトはアーサー・コンプトン(アメリカの物理学者、シカゴ大学教職)からの依頼で原子爆弾開発の企画立案・設計の監督を任された。
しかしながら計画は遅々として進まないうえに、機密保護違反も認められ、この職を辞している。
ブライトの後継がロバート・オッペンハイマー(アメリカの物理学者)だった。

1939年6月、イギリス・バーミンガム大学でユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュ(オーストリア)とルドルフ・パイエルス(ドイツ)が、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見をする。

※オットー・フリッシュ(オーストリア)は上記に書いた原子爆弾開発の母ともいえるマイトナーの甥である。
アインシュタインと対立したデンマークのニールス・ボーアの研究所で働いていたが、イギリスにバカンス(バカンスと言う名の?)に出掛けて、イギリスにいたルドルフ・パイエルス(ドイツ)と一緒に研究をし、ブレイクスルー的に「ウランによる原子爆弾の製造が可能である」ことが分かった。
ウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファント
***に報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザード****にその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。 

***マーク・オリファント(オーストラリアの物理学者)
1925年にアーネスト・ラザフォードの講演をきいて、ラザフォードと一緒に働きたいと願い、1927年にイギリスのラザフォードのいる研究所に入った。
オリファントはヘリウム3と三重水素を発見し、1934年にパウル・ハルテックとともに水素の核融合を発見した。

****ヘンリー・ティザード(イギリスの化学学者)
ガソリンのエンジン内での自己発火(ノッキング)の起こりにくさを示す数値・オクタン価を開発した。
レーダーの開発にも貢献し、UFOを真面目に研究したりもした。


しかしながら、イギリスはこの時もまだ、原子爆弾には大して興味を持っていなかった。
原爆は不可能であると正しく結論づけていたのである。



ヘンリー・ティザードはかつてこう言った。
「科学の極意(秘密)は、天才をマークするより何より、正しい質問をすることと、問題の選択にある」

「答えよりも、どんな質問をするかによって、その人を判断せよ」(ヴォルテール)
「科学者とは、正しい答えを与える人ではない。正しい質問をする人である」(クロード・レヴィ=ストロース)
「大切なのは質問するのをやめないことだ」(アルベルト・アインシュタイン)
「1マイルの中には何時間があるか? 黄色は四角いか、それとも丸いか? 
おそらく、我々が問う質問の半分は、すなわち偉大な神学と形而上学の問題の半分は、この類いのものである」(C.S. ルイス)

第一次世界大戦でティザードが選択した問題は航空だった。
イギリスの陸軍航空隊で飛行機を飛ばすことを学び、実験装置の責任者となり、流線を観測するためにテストパイロットをも務めた。大戦末期には空軍で働いた。
第一次世界大戦後はオックスフォード大学で化学熱力学におけるリーダーとなり、オクタン価を発見した。
その後、彼は科学産業研究部門の政府ポストにも付く。
イギリス空軍への科学研究ディレクターとしてアドバイスし、マーク・オリファントから原爆実現可能性の情報提供を受けた当時はイギリス防空科学調査委員会の議長でもあった。


1940年4月、ティザードは科学者によるMAUD委員会を組織し、そのウラン原爆の実現可能性を検討させ報告を提出させることとした。
委員会
議長:ジョージ・トムソン(イギリス)(電子の波動性の証明により1937年ノーベル物理学賞受賞。父親も電子の発見等により1906年にノーベル物理学賞受賞者)

・マーク・オリファント(オーストラリアの物理学者)(情報提供者)
・ジョン・コッククロフト(イギリスの物理学者)(ラザフォードの教え子)(加速荷電粒子による原子核変換の研究で1951年にノーベル物理学賞を受賞している)
・ジェームズ・チャドウィック(イギリスの物理学者)(ラザフォードの教え子、中性子の存在を実験で証明)⇒助手を出席させる。
・パトリック・ブラケット(イギリスの物理学者)(霧箱による原子核物理学および宇宙線の分野における発見で1948年にノーベル物理学賞受賞)(オットー・フリッシュが師事していたことがある)

このトムソン委員会は、アメリカのウラン諮問委員会 (Advisory Committee on Uranium) とは異なり、有能な科学者が中心を占め、歴史家マーガレット・ガウィング (Margaret Gowing) が「史上最も効率的な委員会のひとつだった」というほど短期間に大きな活動することになる。 1940年4月10日に王立協会で開かれた最初の非公式な会合でこそ覚書の内容は懐疑的に受け取られたものの、4月24日の2度目の会議に参加したチャドウィックが自身も同様の結論に達していたと発言したことで、委員会は覚書が示した原爆の可能性の実験的検証を進めていくこととなった。 ただし会議は極秘の内に進められ、フリッシュとパイエルスにさえ、ドイツからの亡命者であったためにしばらくの間これらの会議の詳細は知らされなかった。 当初、トムソン委員会と呼ばれたこの委員会が6月には MAUD(モード)委員会と称することとなった。

これは見当違いな評価かもしれない。
ティザードは情報提供を無下にするようなことはしなかったが、彼自身は原爆を問題にしていなかった。
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# by yumimi61 | 2016-10-01 13:43
2016年 09月 30日
日本国憲法の秘密-365-
21歳で学位を取得し、1922年25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任したエンリコ・フェルミは、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。
授賞式の足でアメリカに移住し、コロンビア大学を研究の場とした。
昨日も転載したが、フェルミのWikipediaに以下のような記述がある。
実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

実験家と理論家という2つの顔と書いてあるが、これは学位にも言えることである。
もともと学位授与に関しては世界共通の規定があるわけではない。
国によって違うし、大学独自の規定で授与していることもある。
学位は資格ではなく、所定の教育課程を修了したもの(取得学位)、研究などを行って論文を公刊した者(研究学位)、大学などが功績を認めた者(名誉学位)に授与されるものであって栄誉称号である。
本来それだけでは何の意味も無いものであるが、ヨーロッパの大学において昔から教授職の資格として用いられていた。要するに大学教師陣の出世に必要だったものである。
現在においても、日本の学位の考え方や歴史は、欧米のそれとかなり違う。

「核物理学の父」のアーネスト・ラザフォードにはこのような記述がある。
鉄の磁化に関する研究で学士(文学)の学位を取得。 
数学と数理物理学を専攻し修士(文学)の学位を取得。

上記の学位を取得したのはニュージーランドである。

日本人の感覚からすれば、「鉄の磁化に関する研究」や「数学」「数理物理学」がどうして「文学」なのだろう?と思うのではないだろうか。
英語では "Bachelor of Arts degree" "Master of Arts degree" である。略してBAやMA。
この英語は多くの場合、「学士(文学)」「修士(文学)」と訳される。
もっとひどい場合にはArtsが芸術と訳されたりもする。

"Bachelor of Arts degree"(BA)はリベラルアーツに由来する。
ギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持ち、ヨーロッパの大学制度において中世以降、19世紀後半や20世紀まで、人が持つ必要がある技芸(実践的な知識・学問)の基本と見なされた自由七科のことである。
具体的には「文法学」「修辞学」「論理学」の3学、および「算術」「幾何(幾何学、図形の学問)」「天文学(円運動についての学問、現在の地理学にも近い)」「音楽(ここでいう音楽の教育は、現代の音楽教育とは範疇が異なる)の4科のこと。


最近では、そうした伝統的な科目群の位置づけや内容に現代的な学問の成果を加え、やはり大学で誰もが身に付けるべき基礎教養的科目だと見なした一定の科目群に与えられた名称で、より具体的には学士課程における基礎分野 (disciplines) のことを意味する。
この現代的な分類では、人文科学、自然科学、社会科学、及びそれぞれの一部とみなされる内容が包括されることになる。


Arts とは人文学だけでなく自然科学や社会科学も含まれるため、物理や化学や地学などをはじめ多くの分野が含まれてくる。
これらは大学での一般教養であり、昔はどれか1つを専攻するということではなく万遍なく学ぶ必要があった。
だから昔の発明家などはあれもこれもとかなり幅広い分野で名を残していたりするわけだ。

中世の頃の大学は貴族など金持ちの道楽(たしなみ?)的要素が強かった。つまり浮世離れしていたわけである。
そんな一般社会とはかけ離れた大学に見切りを付けたのはフランスで、1800年代に総合技術大学を誕生させた。
基礎的な学問をベースにし、その学問を一般社会に応用できる人物の育成を始めた。
こうした大学で育成された人物にBS(Bachelor of Science)を授けた。基礎科学に対して応用科学となる。
数学や物理や化学や地学は、どちらにも該当する。学んだ内容(大学)によって基礎か応用か違いがでる。
経済学は基礎で、経営学は応用といった感じ。
生物学、医療技術や看護学なども応用科学のBS (Bachelor of Science)にあてはまる。

「実験家と理論家」は、S(Science)とA(Arts)に似ている。
私はかつて「物理学は表現の学問」と書いたが、あながち間違えていないことが分かってもらえると思う。
A(Arts)は基礎や一般教養という意味合いもあるが、ひとつ間違うと浮世離れしてしまう。


Ph.D.にも誤解がある。
「Ph.D.」=「博士号」だと思っているらしく、日本では「Ph.D in Medicine」=「博士(医学)」などとして用いられているが、Ph.D. はDoctor of Philosophy の略で、直訳すれば「哲学博士」である。
直訳では「哲学博士」となることから分かるように、基本的にはあくまで、伝統4学部のうち職業教育系の神学・法学・医学を除いた「哲学部(ないし教養部)」のリベラル・アーツ系の学位である。

伝統4学部とは、哲学、法学、医学、神学。中世からの伝統を持つ。
上にも書いたように現代では基礎分野の範囲も細分化し拡大してきているので、まとめて学術分野(基礎分野)とし、その分野の博士に授けるのがPh.D.(学術博士)と認識している人もいるようだが、外国では神学・法学・医学の他に農学や工学などの技術・技能系分野でもPh.D.ではないし、専門職関連の学部では専門職学位を出している。
基礎の反対が応用。
学術の反対が技術・技能・専門ということになる。
つまり学術雑誌とは基礎分野の雑誌ということで、そこに掲載されたからといって、社会に役立つものとは限らない。技術・技能・専門からはかけ離れていることもある。

専門分野の学位、例えば、Medicinae Dr.(M.D.)医学博士。

M.D.は専門職教育と応用研究に重点を置いた学位であり、アメリカの医学部卒業者という意味でもあるので、それをそのまま外国の医師にあてはめてよいのかという問題もある。
日本の医師はM.D.と称することが多いが、M.D.は博士に匹敵する学位なので、医師免許を持っているだけの、あるいは医学部を卒業しただけの医師がM.D.と称してよいのかは議論があるところ。
医学部6年所定教育修了者を博士として見做すかどうかは社会的なコンセンサスを得ていない。
厳格に言えば、日本の医学部卒業者の学位は、Bachelor of Medicine(医学士)である。
ヨーロッパの医師たちはMBBS(内科学士)やMBChB(外科学士)などと称する。
日本の自称M.D.は博士ではないということが知られてきて、外国で研究職として働く場合にはPh.D.がないと採用されないという話もある。
しかしながら一方で、日本にはM.D.&Ph.Dがやたらいすぎておかしいという見解もあるらしい。
どちらにしてもPh.D.は、ひとつ間違うと浮世離れしてしまう基礎分野の学位である。

アメリカでは1800年代にドイツのフンボルト大学を手本に、アーツ分野(真理発見に資する学術系の学問;基礎科学・一般教養)であれば広くPh.D.の学位を認めるようになった。
現在では、Ph.D.は学術の研究を行う者に与えられており、BA(Bachelor of Arts, 教養学士・文学士〔外国語と哲学を含む〕)、BS(Bachelor of Science, 理学士)、MA(Master of Arts, 文学修士)、M.Sc.(Master of Science, 理学修士)、M.Phil.(Master of Philosophy, 哲学修士)の上位の学位である。そのため、どのような分野の研究にも適応できる学位であるとして「変幻自在な学位」 (the protean Ph.D.) と表現する者もいる。

M.D.&Ph.Dとはアメリカの医学部を卒業した医師で、且つアーツ分野(基礎科学や一般教養)でも博士号を取得したもののことである。


1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)が「中性子」を予想する。
1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)

1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)が「中性子の存在」を実験で証明する。
1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。
1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。

1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、シラードがアメリカに移住。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジンがアメリカに帰化。
1938年、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。 

1939年1月、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)が「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功。

1939年3月、シラードとフェルミがコロンビア大学でそれぞれ別の装置を用いてウランの核分裂実験を行い、ともに複数の高速な二次中性子が放出されることを確認した。

アメリカは1700年代後半に独立した国である。独立国としての歴史は浅い。
伝統あるヨーロッパにはなかなか敵わない。
おそらく原爆の開発はアメリカで行う必要があったのだ。同時にアメリカ発信ではダメだということも分かっていたのではないだろうか。例えヨーロッパ出身であったとしても。
ここで大きくイギリスが関与してくる。

1939年6月、イギリスでは、バーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、ウラン235の臨界質量に関してブレイクスルー的な発見を成し遂げた。
2人の計算によると、ウラン235を爆発させるには数kgから10kgで十分だと見積もられた。

オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構と、ドイツが核兵器を開発しつつあることに対する警告の2つのレポートを書き、バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じてイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送った。
これにより、1940年5月には、MAUD委員会と呼ばれるウラン爆弾の実現可能性を評価する委員会が組織された。 委員会によって起草された調査報告書は、1941年10月に合衆国政府に伝えられた。それによってアメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示された。


オットー・フリッシュ(オーストリア)
ウイーン大学で22歳の時に博士号取得。
1930年にハンブルク大学のオットー・シュテルン(1943年のノーベル物理学賞受賞者)の下で職を得た。
1933年、シュテルンの紹介で、イギリス・ロンドン大学のバークベック・カレッジの一員となり、物理学者パトリック・ブラケット(イギリス)の下で1年間研究を行った。
その後はデンマークのコペンハーゲンに移り、量子力学の確立に貢献した物理学者ニールス・ボーア(オーストリア)の下で5年間研究に勤しんだ。
この間にフリッシュの研究は、原子核物理、その中でも中性子の研究に特化していった。

(オットー・フリッシュは)1938年のクリスマス休暇中、スウェーデンのクングエルブにあるマイトナー(放射線や核物理学の研究を行ったオーストリアの物理学者。フリッシュの叔母にあたる)の元を訪れた。
訪問中、マイトナーは、ベルリンからのオットー・ハーンフリッツ・シュトラスマンからの手紙を受け取った。
そこには、ウランの原子核に中性子を衝突させると、副産物としてバリウムが発見されたと書かれていた。ハーンらはこの結果を説明することはできなかった。
フリッシュとマイトナーは、仮にウランの原子核が2つに分かれることがあるのならば、この現象が説明でき、その時にエネルギーが生み出されることを示した。

このすぐ後に、スタニスワフ・ウラムは、核分裂は連鎖反応を引き起こし得ることを証明した


スタニスワフ・ウラムはポーランド出身ユダヤ系数学者。1938年にはちょうどアメリカのハーバード大学にいた。アメリカに移住したのは1939年。

1939年夏、フリッシュはバーミンガムへの小旅行のため、デンマークを離れた。しかし第二次世界大戦の勃発により帰ることができなくなった。そのためイギリスで、物理学者のルドルフ・パイエルスと共に核分裂に関する研究を行った。その結果、ウランによる原子爆弾の製造が可能であることが明らかになった。2人はその結果をフリッシュ=パイエルスの覚書 (Frisch-Peierls memorandum) としてまとめた。この覚書は原爆の爆発から、その後の放射性降下物までを予測していた。

この覚書はイギリスにおける原子爆弾製造計画(チューブ・アロイズ)の基礎となり、さらにマンハッタン計画においても同様の役割を果たした。フリッシュはアメリカのロスアラモス国立研究所で研究を行うこととなり、アメリカへ行くためにはイギリス市民である必要があったため急遽市民となったうえで、1943年にアメリカへと移動した。


ルドルフ・パイエルスはドイツ出身のユダヤ系物理学者。
1933年にパイエルスはイギリスに渡り、1939年頃までにフリッシュやチャドウィックとともに原子の研究を行うようになる。

ドイツのオットー・ハーンとスウェーデンに亡命していたリーゼ・マイトナーは1938年にウラニウムにおける核分裂を報告した。
1939年パリのコレージュ・ド・フランスの科学者のグループ、フレデリック・ジョリオ=キュリー、ハンス・フォン・ハルバン、レフ・コワルスキー、フランシス・ペランはウランの原子核で発生する核分裂を発表し、2つか3つの中性子が必要であることを示した。
この重要な発見は自然と維持される連鎖反応が可能であると言うことを示していた。
これは即座に多数の科学者が、非常に強力な爆弾「原子爆弾」が理論的に作成可能であることを想像させた。
しかし、ほとんどの科学者はその様な原理的な爆弾は不可能であると考えていた。

パリのグループのフランシス・ペランは連鎖反応を維持するために必要な最小限度のウランの量である「臨界量」(critical mass)を定義した。しかし、自然のウランは核分裂により生じた高速中性子を減速するための減速材なしでは連鎖反応を維持することができないことも発見した。

1940年初め、パリのグループは重水が理想的な減速材であるという理論的背景を固めた。彼らは、フランス軍需相にノルウェーのヴェモークにある大きな水力発電所からどれだけの重水を得ることが可能か問い合わせた。フランスはノルウェーの重水の全在庫をドイツが購入する注文を行っていたことを発見した。これは、ドイツも原爆の開発を行っていることを示していた。


最初イギリスの研究は、自然のウランを使用した高速中性子による原爆は不可能であると正しく結論づけていた。この理由は、ウラン238がたくさんの中性子を捕獲し失われてしまうためである。しかし、1940年2月、イギリスに亡命していたオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの2人のドイツ人の科学者は、原爆は製造可能であり、ウランの同位体の質量の軽いものであるウラン235を数kgと高速中性子のみを使用して爆発させることが可能であると気がついた。フリッシュとパイエルスは、ウラン235がウラン238と完全に分離できた場合、遅い中性子は不要であり、減速材が必要ないという有名なフリッシュ&パイエルス覚書の報告を行なった。

フリッシュとパイエルスは自分たちの教授であるマーク・オリファントに報告を行い、オリファントは、ヘンリー・ティザードにその情報を連絡した。彼は1940年4月に原爆の実現可能性を調査する有識者による最高秘密委員会(後にMAUD委員会として知られる)を作った人物である。

重水のチームは遅い中性子研究をケンブリッジ大学で続けるために招かれたが、その計画は爆弾を作り出すという期待がされていなかったため、優先度を低く設定された。
技術者の集団(ティザードの使節)は1940年9月に北アメリカに送られ、その代わりに、レーダー、ジェットエンジン、核研究などの全領域の技術を手に入れた。

ティザードの使節は帰還した際に、彼らは、遅い中性子の研究がケンブリッジのパリのグループや、コロンビア大学のエンリコ・フェルミや、カナダのジョージ・ローレンスにより継続されていたことを報告した。彼らは戦争遂行とは関係ないと結論付けていた。


誰もが実現不可能だと思っていた原子爆弾の研究は、イギリスというブランドを利用しつつ、アメリカにてヨーロッパ出身者を中心に行われることになった。
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# by yumimi61 | 2016-09-30 14:14
2016年 09月 29日
日本国憲法の秘密-364-
物理学者ラザフォードの言うように「原子核のエネルギーを工業的規模で解放することは出来ない」とするならば、ウェルズ作品は現実のものとはならない。
核戦争が起きないならばそれに越したことはないし、元々小説であり作品だから別に現実にならなくても良いはずだが、シラードはそれでは嫌だったのだろう。
敬愛するウェルズを否定されたようで悲しんだのか、それとも自分の好奇心や高揚感を否定されて落ち込んだのか、シラードはそれから核エネルギーのことが頭を離れなくなった。


核エネルギーが頭を離れなくなったシラードは、すぐさま核エネルギーに関するいくつかの特許を取得した。

STAP小保方騒動の時にも書いたかもしれないが、特許は何か特定の物についての存在の証明をしているわけでもないし、特許申請された方法や技術の正当性や最適化を保証しているわけでもない。
それが有益で優れたものであることを公認したのとも違う。
「今までに特許申請されていない、これまでに認可されていない技術(=新しい技術)」であることを保証し、その技術の開発者と認めただけである。
有益なものもあれば、しょうもないものもある。
特許は物に対して与えるものではなく、形がない発明(技術)に対して与えられるものである。
間違っても「STAP細胞」に特許は与えられない。


シラードは1932年に発見された素粒子中性子による連鎖反応の理論的可能性に思い至る。
「電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれによって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、莫大な核のエネルギーが放出されることになる!」

中性子の発見は1920年のアーネスト・ラザフォードによる予想に始まり、その存在の実験的証明は1932年にケンブリッジ大学の物理学者ジェームズ・チャドウィックによってなされた。
チャドウィックは上記の核反応で発生する粒子(当時はまだベリリウム線と呼ばれていた)n が、陽子とほとんど同じ質量で中性(電荷を持たない)の新しい粒子からなる粒子線である事を確認し、これを中性子(neutron)と名付けた。


アーネスト・ラザフォードとは1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説いたその人である。

中性子はなく、核分裂でもないとすると?

(シラードは)核連鎖反応のアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、この特許をイギリス陸軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの拒絶され、海軍へと同じ申請を行った。
彼はいくつかの根拠からベリリウムやインジウムなどを連鎖反応を生成する可能性のある有力な候補とみなし、病院の施設を借りて実験を行った。 実験によってベリリウムは中性子源として利用できることが判明したものの、期待した連鎖反応を起こさないことが分かった。他の元素での実験を企図したものの、亡命先でしっかりした地位がなかったため資金難から十分な実験を行うことはできなかった。


シラードは敬愛し原子爆弾を描いたSF作家の母国イギリスの軍隊に自分のアイディアを持ち込んだが相手にされなかった。
軍隊に持ち込んだのは需要が必要だったからで、なぜ需要が必要なのかと言えば、資金を得たいがためである。
戦争や敵(ライバル)は需要を掘り起こしやすいということなのだろう。平和や無欲な状態、危機感無き場所では需要が刺激されない。
需要なき研究開発は自分の興味関心を満たすものに過ぎない。
それでも良いという人もいるだろうが、結局資金がないと出来ないので、需要に頼る羽目になる。
もちろん自分の興味関心を満たすだけでは物足らないという名誉欲に満ち溢れた人もいる。
どちらにしても需要頼みとなる。
要するに技術開発というのはいつでもアドレナリン優位、戦闘状態のようなものなのだ。


シラードは1919年に母国ハンガリーから逃げるようにしてドイツに移り住み、1933年にオーストリアに亡命、
イギリスやアメリカを行き来するなか、イギリスのオックスフォード大学クラレンドン研究所の常勤研究員としての職を得て、アメリカに滞在していたがほどなくして退職。
シラードは帰国せずにアメリカで暮らすことを決意する。1939年初頭のことである。
この頃にはシラード自身も核の連鎖反応は実現不可能なもので、自分は時間を無駄にしただけだと思うようになっていたそうだ。

あの論文が発表されたのはちょうどそんな時だった。
1939年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマが「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したそうだ。
シラードはこのことを旧知の知り合いから伝え聞いた。

中性子の照射によってウランは2つの核に別れ、それに伴って莫大なエネルギーが放出される。こうしてシラードの予想とはやや違った形で突如としてウランによる連鎖反応の可能性が浮上した。
ナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い危機感を抱くようになった。

シラードが考えていた核反応は「分裂」ではなかったのだ。

オックスフォード大学の研究所を辞めてアメリカでの職を失ったシラードはコロンビア大学に転がり込んだ。
コロンビア大学には物理学者のエンリコ・フェルミとウォルター・ヘンリー・ジンがいた。

エンリコ・フェルミ
イタリア、ローマ出身の物理学者。統計力学、核物理学および量子力学の分野で顕著な業績を残しており、中性子による元素の人工転換の実験をして、多くの放射性同位元素を作り1938年のノーベル物理学賞を受賞している。フェルミに由来する用語は数多く、フェルミ推定のような方法論やフェルミのパラドックスといった問題、フェルミ粒子のような粒子の分類やフェルミウムといった元素名にその名を残している。他にも物理学の用語にフェルミに因むものが多く存在する。実験家と理論家との2つの顔を持ち、双方において世界最高レベルの業績を残した、史上稀に見る物理学者であった。

ピサ高等師範学校で物理学を学ぶ。1918年(17歳)で入学し、1922年(21歳)で学位取得。
1926年25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。
ここで、ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論(フェルミのベータ崩壊の理論)を完成させた。また、自然に存在する元素に中性子を照射することによって、40種類以上の人工放射性同位元素を生成した。さらに、熱中性子を発見し、その性質を明らかにした。これらの成果によって、1938年にノーベル物理学賞を受賞した。このノーベル賞受賞の為、ストックホルムを訪れた際に、ユダヤ人の夫人と共に、アメリカに移住する。あらかじめコロンビア大学の永住権スポンサーがあったので亡命ではなかった。


1920年、物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)*が「中性子」を予想する。

1926年、物理学者(?)エンリコ・フェルミ(イタリア)25歳でローマ大学の理論物理学教授に就任した。

1930年、物理学者ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)**が「ベータ崩壊に関わる中性粒子(後のニュートリノ)の存在」を提唱。
これを受けて、エンリコ・フェルミが「ベータ崩壊を4種類の粒子が1点で相互作用する過程とする理論」を構築した。
 ⇒フェルミが上記論文をイギリスの学術雑誌Natureに投稿したが、「推測的過ぎる」という理由により掲載拒否された。(Natureはこの審査について、創刊以来の大きな編集ミスの一つであると認めているそうな)

1932年、物理学者ジェームズ・チャドウィック(イギリス)***が「中性子の存在」を実験で証明する。

1933年、ラザフォードが「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と説く。

1934年、フェルミはNatureに拒否された上記論文をイタリアの学術雑誌Nuovo Cimentoとドイツの学術雑誌Zeitschrift für Physikへ投稿し掲載される。

1938年、フェルミが中性子衝撃によって作られる新放射性元素を生成し、熱中性子を発見する。
1938年、シラードがアメリカに移住。
1938年、ウォルター・ヘンリー・ジンがアメリカに帰化。
1938年、フェルミがノーベル物理学賞受賞。授賞式の後にアメリカに移住。
1939年、化学学者オットー・ハーン(ドイツ)****とフリッツ・シュトラスマ(ドイツ)*****が「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功。

*アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド)
21歳の時に学士、22歳で修士の学位を取得、復学をしたり留学したりで23歳と26歳の時にも学士を取得。
博士号を取得したのは30歳の時だった。「核物理学の父」と呼ばれる人物。
1933年に「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言った人。

**ヴォルフガング・パウリ(オーストリア)
ドイツ・バイエルンのミュンヘン大学で21歳の時に(大学入学3年後)で博士号を取得。

***ジェームズ・チャドウィック(イギリス)
イギリスのケンブリッジ大学のカレッジ(Gonville and Caius College)で30歳の時に博士号取得。
20歳で大学卒業、修士号は1913年22歳の時にビクトリア大学で取得していたが、その後第一次世界大戦が始まった。
彼はラザフォードに師事していて、博士号もラザフォードの下で取得している。

****オットー・ハーン(ドイツ)
ドイツのマールブルク大学で22歳の時に(大学入学4年後)で博士号を取得。

*****フリッツ・シュトラスマ(ドイツ)
ドイツのハノファー大学で27歳の時に(大学入学9年後)博士号を取得。


ウォルター・ヘンリー・ジン
カナダのベルリン出身。
カナダ・クイーズ大学で1927年21歳の時に学士、1930年24歳の時に修士の学位を取得。
同年アメリカのコロンビア大学に入学し物理学を学び博士号取得。

1927年~1928年はクイーンズ大学で、1931年~1932年はコロンビア大学で教鞭をとり、1932年にニューヨーク市立大学の講師になった。
1938年にアメリカに帰化し、コロンビア大学の物理学研究所で働いていた。
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# by yumimi61 | 2016-09-29 13:00
2016年 09月 28日
日本国憲法の秘密-363-
1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)
1945年2月、ダウンフォール作戦の骨子が完成。
1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。

1945年3月26日~6月23日、沖縄戦。(4月1日にアメリカが沖縄本島に上陸、6月21日アメリカが占領)

1945年4月12日、アメリカ・ルーズベルト大統領死去(後継はトルーマン大統領)。
1945年4月28日、イタリア・ムッソリーニが銃殺される。
1945年4月20日、ドイツ・ヒトラー総統が自殺。
1945年5月7日、ドイツが無条件降伏文書に調印。
1945年5月8日、ドイツが批准文書に調印。

1945年7月16日、トリニティ実験(原子爆弾を用いた核実験実施)。
1945年7月17日~8月2日、ポツダム会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。
1945年7月21日、トルーマン大統領が原爆実験成功の報告を受ける。


1945年4月12日ルーズベルト大統領が急逝し、この日、副大統領のトルーマンが急遽大統領に昇格した。
トルーマンが副大統領に就任したのは、ルーズベルト大統領の4期目のことで1945年1月20日からである。
従って副大統領の職務経験も3か月に満たない。
しかもトルーマンが大統領に昇格して穴が開いた副大統領席には誰も就かなかった。
1945年4月12日~1949年1月20日までアメリカの副大統領は不在だったのだ。
(もしもトルーマンが急逝したらどうするつもりだったんでしょうね?トルーマンは死なないから大丈夫??)
前にも書いたがアメリカには君主も首相もいない。
副大統領はサポート役や代理であって首相とは立場が違うが、戦争の最中という大事な時期に、しかも経験の浅い大統領だというのに、副大統領さえいない異常事態にあった。
大統領の死去によって独裁体制を敷いたのがドイツ・ヒトラーだが、アメリカもそれに負けず劣らずの独裁期間だったということになる。


Wikipedia日本への原子爆弾投下には以下のように書かれている。
日本への原子爆弾投下までの道程は、その6年前のルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領に届けられた科学者たちの手紙にさかのぼる。そして、マンハッタン計画(DSM計画)により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定されたのは1943年5月であった。一方で、原子爆弾投下を阻止しようと行動した人々の存在もあった。 
具体的に広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日であり、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。


科学や科学者に需要は必要ない。
強い興味関心と名誉欲に突き動かされるのだ。子供のような強い好奇心を持ち、一番になりたい、褒めてもらいたいと願う。

1939年1月、ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマが「ウラニウムの核分裂反応の発見」の論文を発表した。ウラン235に中性子を衝突させて分裂させることに成功したそうだ。

海を温めるもの

日本の原子力発電所は海沿いにあって海水を利用している。
60%の廃熱は温排水として海に戻される。
空冷式ではないので冷却塔は無い。
電気を作るために使う熱の2倍の熱を海に捨てているのだ。
このことは昨年も書いた。
考えようによっては原発は海を温めるためのボイラーのようだ。

原子力発電所では核分裂によって生じる熱(これで電気を作っている)と崩壊熱という熱を生じる。
崩壊熱とはその名の通り、放射性物質の崩壊によって生じる熱である。
徐々に熱量は減るとはいえ、半減期の長い物質もある。
汚染水(放射性物質)が海に放出されれば、半減期に応じて崩壊熱を出し続けることになる。

放射性物質の毒性(生き物への影響)も然ることながら、熱(温度変化)が生態系や地球に影響を与えかねない。
(だから気候変動は嘘じゃないって言ったでしょ?)

現代においては太陽のエネルギー源は核融合ということになっている。
核融合も核分裂も核反応である。
例えれば、原子爆弾は核分裂であり、水素爆弾は核融合となる。


原子爆弾は細胞分裂核分裂なのだろうか?


科学は利用されて初めて需要が生まれる。
需要が無いのに莫大な資金を投入するなんてあまりにも馬鹿げた話だ。
科学は資金のために需要が必要なのである。需要があるから科学が存在するのではない。逆なのだ。

ドイツの科学者に先を越されて悔しがったのがハンガリー(旧:オーストリア=ハンガリー帝国)からアメリカに亡命したユダヤ人学者レオ・シラードだった。
父は土木技師で、シラードは22歳の時にドイツ・ベルリンのベルリン工科大学へ入学した。
当時のベルリンにはアインシュタインなど有名学者が多く暮らしており物理学のメッカだった。
編入なのかどういう経緯なのか分からぬが、半年あまりで工学に飽きてベルリン・フンボルト大学に移り物理学を学ぶようになる。
哲学、倫理学なども受講し、アインシュタインに直談判して統計力学のセミナーを受けて持ってもらったりもした。
シラードの興味の対象は幅広く、また彼の波乱に富んだ生涯と切り離せない。熱統計力学、原子核物理学、分子生物学の科学的研究のみならず、先進の物理的アイデアに基づいた多くの特許や、社会活動団体の設立、さらには小説の執筆にまで及ぶ。
しかしながらシラードは「心の中ではいつでも生物学者であった」そうだ。
また世界政府(国家の上位組織)の実現や世界法の制定による戦争の廃絶を理想としていたそうだ。

1939年、シラードはベルリンで教えを受けたアインシュタインに頼み込んで、ルーズベルト大統領への核開発を促す書簡(アインシュタイン=シラードの手紙)を書いてもらった。
この「進言」では核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があることが述べられ、核によって被害を受ける可能性も示唆された。なお、以降アインシュタインはマンハッタン計画には関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートした事実さえ知らされていなかった。

ルーズベルト大統領は検討するように部下に命じた。
担当官らはアインシュタインではなくてシラードとコンタクトを持った。1939年10月21日初会合。
しかしながらルーズベルト大統領はこの件に関して然程感心を示さず、研究費要求にも応えず、開発話は中断した。

アインシュタインあってのシラードなのにアインシュタイン抜きとは端から怪しい。

シラードはベルリン工科大学に入学する以前1916年18歳の時にハンガリー・ブタペストにある王立ヨージェフ工科大学に入学している。しかし翌年1917年には徴兵される。
第一次世界大戦(1914-1918)後の1919年クリスマスにベルリンに移った。
ベルリン工科大学に入学したのは1920年1月のことだが(半年でベルリン・フンボルト大学に移る)、翌年には博士論文に取り組む。

1921年冬学期にはラウエに博士論文の指導を引き受けてもらったが、与えられた相対論の問題には何か月も実りがなかった。クリスマスに課題から離れて思い浮かぶままのアイデアを考えながら散策していたとき、ひらめきが訪れ、一つの論文を書き上げた。これは課題と異なるものであったため、シラードはまずアインシュタインへと相談した。
アイデアは独創的なもので「それは不可能だ」と始めは驚いたアインシュタインも説明の後にはそれを気に入り、自信を得たシラードは論文をラウエへと提出した。
ラウエはいぶかしくこれを受け取ったものの、シラードは翌朝それが博士号審査論文として受理されたことを知らされた。
1922年シラードはこれにより系の変数のゆらぎへの熱力学第二法則の拡張に関する論文で博士号を取得した。


論文よりも特許を申請することを好み、原子炉や粒子加速器など多くの先進的なアイデアが特許として残されている。科学のみならず世界情勢に関しても人より先を見通すことに長けており、そうした自己の信念やアイデアを絶対視して周囲をまとめようとしたため、しばしば同僚研究者を苛立たせた一方で、その洞察力には一目置かれた。亡命後はわずかなスーツケースを携えてホテル暮らしをし、しばしば朝から何時間も湯舟に浸かって思索するのを好んだ。
お風呂の時もあなたのことを研究のことを考えていました。小保方さんか!

シラードは1933年4月にドイツからオーストリアに亡命した。
では博士号を取得してから1933年までシラードはドイツで何をしていたのか?

シラードは博士号取得後もベルリンのあちこち研究室やカフェで議論を楽しんだ。1925年にラウエ(博士号審査論文指導者)の助手として採用され、1927年には大学の私講師となった。この頃、イギリスやアメリカを含め各地を飛び回るとともに、粒子加速器などの多くの特許を提出している。現代数学に対する自己の能力不足を認識したシラードは、理論物理をあきらめ、リーゼ・マイトナーとの実験核物理学の研究や、生物学への転向、さらにはインドでの教授職など新たな進路を模索したが、見通しは芳しいものではなかった。

1920年代半ば、ヴァイマル共和国(共和政時代のドイツ)の議会制民主主義の衰退を感知していたシラードは、その崩壊に備えて彼がブントと呼んだグループを組織しようとしていた。
ブントは将来「過飽和溶液中の種結晶」となることを意識して、深い宗教的・科学的精神により結びつきその内に民主制を代表させた一種の組織的エリート集団である。この計画は科学者エリートが政治・社会に関わっていくというその後の彼のさまざまな社会活動の端緒となるものとなった。
またシラードは、イギリスのSF作家 H・G・ウェルズの大ファンとして知られ、1920年代のベルリン在住時には彼の小説をドイツ語圏に紹介することに尽力した。


シラードは亡命先のオーストリアで生物学を目指すことにした。
そんな彼の運命を変えたのは、新聞の小さな記事だった。
著名な物理学者アーネスト・ラザフォード(ニュージーランド出身でイギリスで活動)の講演記事で、ラザフォードは「原子核の秘めたエネルギーを工業的規模で解放するのは絵空事(moonshine)」と言及していた。
それはシラードにとって敬愛し信奉するSF作家ウェルズの作品を否定するということに他ならなかった。

ウェルズは文明や科学には批判的な立場であり、その立場から文明や科学の行く末を描いた。
核エネルギーや原子爆弾、タイムマシーンに透明人間、反重力世界などが未来を彩る。
1914年に発表された『解放された世界』では、世界大戦が勃発して大量の原子爆弾によって焼野原になる世界を描いた。核戦争が行われる未来、時代設定は1956年。
そうした状況を防ぐために「世界統一政府」が必要だというのがウェルズの主張の根幹である。
第一次世界大戦は「あらゆる戦争を終わらせるための戦争」と言われたりもしたが、「あらゆる戦争を終わらせるための世界統一政府」といったところか。
1928年の『開かれた策略』では、かつてない変化に直面した世界に対して、科学的精神を持った多くの集団が国家の枠組みを越え戦争を廃絶させる世界共同体の創設をめざして活動するための「策略」が議論されていた。


新しい価値観、新しい時代、愛と平和と自由とセックスを信条にヒッピーが流行り、野外レイヴ、アンダーグラウンドクラブ、トランス、サイケデリック、グランジなどの文化とリンクした新たなヒッピーが形成され、大麻などドラッグを取り込んだ。
この若者集団から学生運動や活動家(過激派)が派生した。
「地球が新しい時代 を迎える」「新しい意識をつくる」といった思考は、「ニューエイジ」や「スピリチュアリズム」のブームを生むことになった。
これらにSF(Science Fiction;サイエンス・フィクション)が絡まって、宇宙や科学の時代の到来とともに、より現実に近くなっていった。
科学と神や精神が繋がらないという人もいるかもしれないが、そうではないのだ、両者は元々とても近いところにあるものなのだ。
現代は再び神に回帰する時代と言えるかもしれない。



カトリックの国に生まれ育ち、カトリックの国に亡命したシラードはウェルズの作品に強い影響を受けていたと思われる。

物理学者ラザフォードの言うように「原子核のエネルギーを工業的規模で解放することは出来ない」とするならば、ウェルズ作品は現実のものとはならない。
核戦争が起きないならばそれに越したことはないし、元々小説であり作品だから別に現実にならなくても良いはずだが、シラードはそれでは嫌だったのだろう。
敬愛するウェルズを否定されたようで悲しんだのか、それとも自分の好奇心や高揚感を否定されて落ち込んだのか、シラードはそれから核エネルギーのことが頭を離れなくなった。
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# by yumimi61 | 2016-09-28 13:22
2016年 09月 27日
日本国憲法の秘密-362-
昨日書いた「白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)」は秘密結社という位置づけにある。
前に書いた「トゥーレ協会」も「イルミナティ」も秘密結社である。
「トゥーレ協会」も「イルミナティ」もドイツのバイエルンで誕生しており本部もバイエルンにあった。
「トゥーレ協会」が生み出した政党が「国家社会主義ドイツ労働者党」、 後にヒトラーが党首となり独裁政権を敷いたナチスである。
「イルミナティ」は今現在でも陰謀論に頻繁に登場する団体である。

近世以降、この名前(イルミナティ)で呼ばれた秘密結社が数多くある。グノーシス的要素やテンプル騎士団、シオン修道会、アサシン、フリーメイソンとの関連等を持つとされる。尚、イルミナティに入るためにはフリーメイソンに入らなければならないという説がある。
陰謀論においては非常に人気があり、現在でも密かに世界へ手を伸ばし影響を与えている影の権力であるとされる。ただし、日本ではそれほど有名ではなく「ユダヤの陰謀」や「フリーメイソンの陰謀」などの表現に置き換えられていることが多い。


もうひとつ陰謀論で人気の高い団体がフリーメイソンリー。
16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社。

秘密結社(secret society)とは、組織の存在や構成員、組織の活動などを外部の人間に秘匿している団体のことを言う。
秘密にしているのだから外部に本当のことが分かるわけがないのに「秘密結社」認定しているという矛盾を抱えているため、どうしても陰謀論自体が胡散臭くなってしまうジレンマに陥るわけである。
こんな観点ではどうでしょうか?
思い出したけれど、上流階級の人達は自分や家族のことを他人に話したりしないそうである。秘密主義。
だからきっと秘密結社とかツボなんだろうね。


もうひとつ犯罪秘密結社というものがある。犯罪を行う者は秘密と何かと縁がある。詐欺師が詐欺師と名乗らないのと同じ。
犯罪秘密結社は犯罪集団や暴力団、暴徒(野次馬連)と言い換えることが出来る。
但し暴力団は見た目で分かることも多いので、そういう意味では秘密には無縁。むしろその姿を誇示し自己PRしている。さらに暴力も秘密的な犯罪とは言えない。
もう少し知能的で表立って見えない犯罪を行う組織が犯罪秘密結社と言えそうである。
暴徒とは徒党を組んで乱暴をはたらくもの。大衆・群衆の乱闘や暴動など。見た目は、普段は、善良(?)市民であることが多いので、日常における見た目では分からないという点においては犯罪秘密結社に通じるものがある。

殺人現場にやじうま達が暇潰しで群がる 中高生達が携帯片手にカメラに向かってピースサインを送る 犯人はともかく まずはお前らが死刑になりゃいいんだ♪ ←この歌詞は様々なことを包括していて素晴らしいと思います。

フリーメイソンは存在が公になっているので秘密結社に分類されないこともあるが、公になっていない活動を行っているとしたら秘密結社にあたる。
儀式など完全にオープンにされていない神秘性を持つので秘密結社と位置付けられることも多い。
フリーメイソンの発祥はスコットランドと言われている。
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

犯罪秘密結社を英語に訳せばsyndicate(シンジケート)。
企業連合・組合や大学評議会、債券・株式の引受団などと、犯罪集団は同じ単語で括られるのである。



フリーメイソンは元々はスコットランドやイングランドの石工職人や大工職人の集まりだったと考えられている。
その名が記録に残るのは1500年代以降であるが、起源や目的などははっきりとしていない。
1500年代というのは宗教改革が起こった年代。要するにカトリックが窮地に陥った年代である。
イエズス会が創設されたのも1534年と、この時代のことである。

下記上段左図は宗教改革後のヨーロッパの宗教領域。前記事に載せた北方人種の地図と比較。
(左図)オリーブがカトリック、ブルーがプロテスタント、レッドがイスラム。
下段はローマ帝国最大版図。
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誤解があると思うが、ローマ帝国はカトリック(イエス登場後の新約聖書重視)ではない。キリスト教(旧約聖書)を含め、多神教であった。
カトリックが勢いを増したのは他でもない北方人種の民族大移動のおかげである。
ドイツはカトリックと一番関係が深いと言える国であるが、宗教改革もドイツから始まった。
そして北方人種とプロテスタントの領域はほぼ重なってくる。
ここで注目すべきは、スカンジナビア半島とアイルランド島、スコットランド、ドイツ以東(ドイツ・ポーランド・オランダなど)である。
ここはローマ帝国の支配が及ばなかった地域である。旧約聖書的キリスト教や多神教といったものには縁遠く、独自の文化を持っていたと考えられる。(民族は神話的なものを共有していた)
逆に言えば、宗教的に無垢であり、感化されやすいという特徴を持っているはずである。
斜に構えることが出来ない。ブームや文明的なものに弱い。
だからカトリックに大いに感化され、次いでプロテスタントにも感化された。

フリーメイソンは宗教改革の時代に元々の職人の集まりから性質を変えて、宗教的な背景を持つ組織に変化したのではないかと考えられる。
プロテスタントが勃興してきた地で秘密に活動しなければならないとすれば、それはカトリックだろう。


ルーズベルト大統領も、トルーマン大統領もフリーメイソンだった。
・ルーズベルト大統領―1911年にニューヨーク州のホーランド・ロッジNo.8で入会
・トルーマン大統領―1909年にミズーリ州のベルトン・ロッジNo.450で入会。

ルーズベルト大統領は29歳の時。上院議員1年生の時にフリーメイソンになった。
トルーマン大統領は25歳の時、上院議員どころか、カウンティ・ジャッジにも兵士にもなっていなかった頃。

「白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)」はプロテスタント支持で反カトリックであった。
トルーマンは票田を棄てても、反カトリックに同調することは出来なかったのであろう。

第二次世界大戦は宗教的に、カトリックvsその他 と見ることもできる。
当時、ドイツとイタリアはバチカンと政教条約を結んでいた。
日本の昭和天皇もローマ教皇と接見し、バチカンと国交を結ぶなど、カトリック信仰が見え隠れする。
ドイツ・イタリア・日本はカトリック国。
対するイギリスやアメリカはプロテスタント。ソ連は正教会だが正教会は国家によって弾圧されていたので無神論的な国と言えたかもしれない。
戦争に勝利したのは反カトリックチームである。カトリック派は敗北した。
それにもかかわらず世界的にカトリックが拡大している。
さらに価値観の一体化によってカトリックとプロテスタントの差がなくなってきている。
世界は多様化を極めているようで、実は一元化しているのだ。


第二次世界大戦は宗教的に、カトリックvsその他 と見ることもできる。
ドイツ・イタリア・日本はカトリック国。
対するイギリスやアメリカはプロテスタント。

こう書いたばかりだが、君主のいないアメリカに国教はない。
移民が多く、宗教も入り乱れた状態である。
アメリカはプロテスタント国家のイギリスやオランダからの入植者の影響でプロテスタント色が強いと思われがちだが、独立戦争ではその人達と戦ったわけであるから、ある意味プロテスタントは長年の敵である。
独立後にアメリカ聖公会はイギリス(イングランド)ではなく、スコットランドと連携した。(このあたりが非常に怪しいことは前に書いた)
またイギリスからの移民にはイギリス国教会に幻滅したり弾圧されてきた人もいる。そうした人達が継続してプロテスタンを信仰したかどうか。
そして、ルーズベルト大統領もトルーマン大統領も、カトリックが背景にあると思われるフリーメイソンリーのメンバーだった。
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# by yumimi61 | 2016-09-27 10:55
2016年 09月 26日
日本国憲法の秘密-361-

1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)
1945年2月、ダウンフォール作戦の骨子が完成。
1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。


1945年3月26日~6月23日、沖縄戦。(4月1日にアメリカが沖縄本島に上陸、6月21日アメリカが占領)


沖縄戦が行われている最中に重大な出来事が発生した。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が亡くなったのである。1945年4月12日。脳卒中で急逝したという。

第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトは、ノーベル平和賞を受賞した第26代大統領セオドア・ルーズベルトとルーツが同じである(遠い親戚)。
そしてフランクリン・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルトの弟の娘(姪)と結婚した。

1932年の大統領選に出馬。
選挙戦は「三つのR - 救済、回復および改革」の綱領で世界恐慌と戦うとして行われ、そのスピーチの中で“ニューディール”(新規まき直しの意味)の用語を使用。1932年の選挙における勝利後の1933年2月15日に、ルーズベルトはフロリダ州マイアミで暗殺されそうになった。暗殺者はシカゴ市長アントン・J・サーマクを殺害した。

アメリカ大統領の中で唯一4選した大統領となった。(4期目当選ほどなく病に倒れ終戦を待たずに亡くなった)
アメリカは今でこそ大統領は1人10年(実質2期)までと定められているが、第二次世界大戦以前は規定はなかった。
初代ワシントン大統領が2期務めたので、その慣例に倣っていただけなのである。
その慣例を打ち破った唯一の大統領がフランクリン・ルーズベルト。


フランクリン・ルーズベルトは1921年39歳の時にカナダでにポリオに罹患し、その後遺症によって下半身が麻痺し車椅子で生活していた。(ギラン・バレー症候群だった説もある)
障害を持つ大統領だったのだ。
原子爆弾の開発(マンハッタン計画)を推進した大統領でもある。

1939年5月~6月、イギリス国王夫妻(ジョージ6世とエリザベス)がカナダとアメリカを公式訪問した。
戦争においてのイギリスへの支援を要請するという政治的目的と、北米の民衆の支持を得る目的があった。
ニューヨーク万国博覧会に出席し、ホワイトハウスでフランクリン・ルーズベルト大統領と会談。
その後、ハイドパークの大統領私邸も訪問した。
イギリス国王夫妻とフランクリン・ルーズベルト大統領は密接な関係を築いた。
これが第2次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼしたと言われている。



ルーズベルト大統領の死後、大統領に就任したのは副大統領だったトルーマン。
フランクリン・ルーズベルト大統領はセオドア・ルーズベルト元大統領と縁戚関係にあったわけだが、トルーマンはそれとは対照的だった。
そうした縁戚はなく、高校卒業後、銀行の事務職、農業、兵士などの職に就いた。
大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だそうだ。
トルーマンを支援したのは犯罪集団のボス民主党員トム・ペンダーガスト。
シカゴのアル・カポネ、カンザスシティのペンダーガストと呼ばれたほどの人物。
1922年、トルーマンはこのペンダーガストの支援を受け、ジャクソン郡のカウンティ・ジャッジ(司法官ではなく行政官)に選任された。
以降もペンダーガストがトルーマンを支え大統領になる道筋を作った。
1934年にトム・ペンダーガスト支援の下でミズーリ州の上院議員に当選。

トルーマンが議員時代の1941年、ルーズベルト大統領が軍事費に国家予算を注ぎ込んでいるとして、軍事費の不正使用に関して調査を行う「トルーマン委員会」を設立し、この委員会の調査報告によって浪費が押さえられたとしてトルーマンはその名を知らしめた。
1944年の大統領選ではじめてトルーマンは副大統領候補となったのであって、前3期の副大統領はトルーマンではなかった。(1933-1941ガーナー、1941-1945ウォレス)
ルーズベルト大統領に2期仕えたガーナーは次第にルーズベルトと意見が合わなくなり対立するようになったという。
そしてルーズベルト大統領が3期目を目指した大統領選にガーナーも立候補するのであった。(何事も長くなると・・やっぱり2期くらいが限界なんでしょうか?)
だというのに、ルーズベルト大統領は1941年に軍事費浪費問題で自分を追い詰めたトルーマンを副大統領候補に指名するなんて。


トルーマンは白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)に加入していた時期があった。

「白人至上主義団体」とされるが、正確には北方人種を至上とし(ノルディック・イデオロギーという)、主に黒人、アジア人、近年においてはヒスパニックなどの他の人種の市民権に対し異を唱え、同様に、カトリックや、同性愛者の権利運動やフェミニズムなどに対しても反対の立場を取っている。
プロテスタントのアングロ・サクソン人(WASP)などの北方系の白人のみがアダムの子孫であり、唯一魂を持つ、神(エホバ)による選ばれし民として、他の人種から優先され隔離されるべきである、と主張する。


北方人種を祖とするのはゲルマン民族である。
ヒトラーは当初ゲルマン民族の優越性を信じていた。
そこに自身が信奉するワーグナーが熱烈支持したアーリアン学説が取り込まれる。
アーリア人は中央アジア発祥だが、言語が似ているからヨーロッパもアーリア人という説である。
白色人種は高い知性を持ち、アーリア人は白色人種の代表的存在で、主要な文明はすべてアーリア人が作ったと主張。ゲルマン民族はアーリア人の末裔とした。
「主要な文明はすべて」というところが重要で、このために中央アジアを含める必要があった。そしてアーリア人になってしまったというわけである。

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北方人種がゲルマン民族になっていく過程が赤色にほぼ一致する。
赤色範囲から民族大移動によってさらに南下して、ドイツやフランスは形成された。
イギリスは北方人種の入植もあったが、大陸から北上した人達もいて、ドイツなどとは少し違う。
ヒトラーが構想した大ゲルマン帝国にはイギリスやフランスの西側は含まれていない。
世界的に北部信仰があることは間違いない。


アングロ・サクソンとはグレートブリテン島に入植したゲルマン民族のこと。つまりイギリス人ということになる。
WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)は、アメリカにおいて使われた言葉で、アイルランド人のカトリック信仰者(アイリッシュカトリック)が白人エリート支配層(プロテスタント信仰者)を指した造語であった。
アメリカに入植して支配層になっていた人達を指したということなのだろうが、その後、この言葉は非常に曖昧なものとなっていく。

社会学では、この語は北西ヨーロッパに家系のルーツを持ち米国建国の担い手となった集団を意味するが、今日では意味が拡大し、多くの人々にとって WASP とはいかなるマイノリティ集団にも属さないほとんどの「白人」を指す語となっている。
21世紀では、アメリカ社会における保守勢力であるキリスト教右派において、従来の福音派のみならずカトリック右派の地歩が拡大し、ヨーロッパ系キリスト教徒の中での保守的な価値観の文化層の一体化が進んでおり、アメリカ保守すなわちWASPという構図は過去のものとなりつつある



1800年代の白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)
結成から徐々に反奴隷解放も主張に加えられるようになり、白い布で作った装束を身にまとって黒人の居住区を練り歩くという、一種の嫌がらせ行為を行うようになった。軽いからかいとしての行動に過ぎなかったが、白人の復讐を恐れていた黒人達は白装束の集団に恐れをなして家の中に逃げこんでしまった。これに味を占めたKKKの一部は示威行為を度々繰り返すようになり、評判を聞きつけた南部の人種主義者達がKKKへの加盟を望む動きが生まれ、民主党最右翼の人種差別過激派として保守的な白人の支持を集め始めていく

白人至上主義は実は民主党に近いところにあったものだ。(トルーマンも民主党員)

それでもこの時点でのKKKには後に見られるような「反ユダヤ的」などの民族主義は無く、あくまで人種主義が思想の中核であった。
また最初の時点でのKKKは「黒人を懲らしめる」「躾け直す」という理屈で行動しており、必ずしも暴力行為を伴う訳ではないデモ活動などを基本としていた。だが次第に過激化し始めた彼らは白装束で街を巡回し、彼らが独断で決めた時刻以外に外出する黒人を鞭で叩いたり、夜中に「ナイトライダー」と呼ばれる馬に乗った団員が現れ、脅迫、暴行を加えるようになった。更にこれに批判的な白人までもが敵として暴力を振るわれ、投票権を行使しようとした黒人が殺害される事件まで発生する。



1900年代の白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)
「黒人を躾ける」とした以前のKKK以上に強硬的な過激派として活動し、その思想も従来の黒人差別のみならず有色人種全体の排撃を主張した。人種主義に加えて民族主義や宗教色も強まり、セム人種ユダヤ系やムスリムも攻撃の対象としたKKKは白人貧困層の絶大な支持を集め、幾つかの州では少なからぬ政治的影響力を持つに至った。他にカトリック教徒や共産主義者も攻撃対象とされた。1923年にはオクラホマ州だけで2,500件以上の暴行事件を起しており、放火や殺人が日常的に行われた。暴力行為も凄惨の限りを尽くし、両手を攻撃、縄で縛って列車に轢かせる、焼印を押すなど残虐さを極めた。

こうした動きに乗る形で伝統的にKKKの勢威が強かった南部の州のみならず中西部のテネシー州やオレゴン州、それにオクラホマ州ではKKKの構成員もしくはKKKに対して好意的な政治家らが州政府を支配するなど合法的な進出を果たし、インディアナ州ではKKKの構成員エドワード・L・ジャクソン (Edward L. Jackson) が州知事にまでなっている。一方ではこの当時影響力を有していたKKKを自己の選挙に利用するために擦り寄る者もおり、後の大統領ハリー・トルーマンもそのためにこの当時KKKに加入していた。この当時(1925年頃)が KKK の絶頂期であり、1928年には構成員数万人を動員してワシントンD.C.でデモ行進を行った。このデモ行進が皮肉にもKKKが行った最後の大規模な行動となる。


最盛期には600万人を超える加入者がいたが、1900年以降は激減して1万人以下になったという。しかしながら現在も分派として幾つかの組織が存続しており活動を続けているという。

トルーマンは白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(KKK)に加入するも、同団体の示す「カトリック教徒とユダヤ人の雇用の禁止」に同意できずに脱退したそうだ。
トルーマンは親カトリック、親ユダヤ人だったのではないだろうか。







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# by yumimi61 | 2016-09-26 14:39
2016年 09月 25日
日本国憲法の秘密-360-
1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。


1945年1月30日~2月3日、マルタ会談(アメリカ・イギリス)。
 ・ドイツとの最終戦の戦略
 ・難民の処遇

1945年2月4日~11日、ヤルタ会談(アメリカ・イギリス・ソ連)。
 ・戦後処理
 ・ポーランドの国境と政権について
 ・ドイツの分割統治について(ソ連東側陣営とイギリス・アメリカ・フランスの西側陣営で共同管理)
 ・東欧諸国の戦後処理
 ・国際連合について(投票方式と拒否権)
 ・ヤルタ協定(アメリカとソ連の対日参戦についての取り決め)

ドイツの敗戦色が色濃くなってきたうえに日本も占領各地で敗戦続き。
この頃には戦争の終わりが見えてきていた。戦争は終結に向かっていた。
ところが日本はそんななか本土決戦を行うことを決定したのだった。
それを連合国も察知したのだろう。
植民地争奪、領土の奪い合いならまだ分かる。しかし侵攻されてもいない国が自ら本土決戦を決定する理由は理解し難かった。
負ければ甚大な被害を出した上に本土が占領されることを意味するからだ。
当時の日本は、冷静に考えれば勝算はゼロに等しい状況である。
戦争には時間や得点など「終わり」のルールがなく、降参や占領を待つしかない。
要するにどんなに負け続けても、どんなに犠牲出し続けても、負けを認めないかぎり続けられてしまう。
勝っている側も、それまでの戦いを無意味にしないためには応戦する以外の選択肢はなくなる。
戦争は泥沼化する。戦争とは残酷なものである。
本土決戦を避けるチャンスは2度あると考えられた。
1つはドイツが降伏した時。
それでもダメならば中国(満洲)における戦いにソ連軍を投入して追い込んでもらう。これが2つ目。
連合国は本土決戦を回避したかった。日本ではそれが及び腰に見えたのかもしれない。


ダウンフォール作戦
1944年以降、太平洋やアジア各地で敗退を続けても、頑なに抵抗を行い続けていた大日本帝国に対し、その本土での陸上作戦を行い戦争を終結させるために検討された作戦である。
1945年2月のヤルタ会談直前に骨子が完成。


①オリンピック作戦(Xデー)・・・1945年11月1日予定
九州南部への上陸作戦。その目的は関東上陸作戦であるコロネット作戦のための飛行場確保のため。

②コロネット作戦(Yデー)・・・1946年3月1日予定
オリンピック作戦で確保した九州南部の航空基地を利用し関東地方へ上陸する作戦である。
茨城・千葉の海岸、神奈川の海岸に上陸して、挟み撃ちのように首都を狙う。10日で東京を包囲する計画。
上陸の3ヶ月前から艦砲射撃と空襲によって大規模な破壊を行なう予定で、攻撃の中にはミサイルやジェット戦闘機、化学兵器の使用も含まれていたという。


オリンピック。
1940年に東京で開催することが決定していたオリンピックを日本政府は日中戦争の激化により中止した。
当時の首相・近衛文麿は、1938年6月23日に行われた閣議で「戦争遂行以外の資材の使用を制限する」ことを決定し、この中にオリンピック中止が明記されていた。
1938年7月15日の閣議で開催権を正式に返上した。(第二次世界大戦勃発前)
IOCの委員で日本招致の立役者でもあった嘉納治五郎は、1938年3月13年)にカイロ(エジプト)で開催されたIOC総会からの帰国途上の5月4日(横浜到着の2日前)、氷川丸の船内で死亡した(遺体は氷詰にして持ち帰られた)。77歳肺炎だった。開催中止が決定したのはその後のことである。

これを考え合わせると「オリンピック作戦」というネーミングは意味深である。
連合国が日本に対して「オリンピックの時のようにもう(戦争を)止めたらどうですか」と言っているようにも聞こえるし、逆に日本が連合国に対して「私達はオリンピックを中止できる国です、あなたたちは止めたくても止められないんでしょ」と言っているようにも思える。
戦争が泥沼化(激化)することが分かっていても戦争を止められない連合国。
戦争が激化してきたからオリンピックを止めた日本。
なんだかこの対比にあるような気がする。
ダウンフォール作戦は本当に連合国が練った作戦だろうか?

作戦的に疑問に思う点がある。
まず第一は、連合国は本土決戦の決定を知っていて首都機能の移転計画を知らなかったのだろうかという点である。
次に思うのは、東京を狙うのに九州南部を基点にすることは有効だろうかということである。
九州南部を占領したとしても、それはすぐに日本にばれてしまうことである。九州南部だけ占領しても北部は残っている。中国地方や四国だってそう遠くはない。
九州南部を基点にしても果たしてそこが上手く機能するだろうか。日本の抵抗に合うと考えるのが普通ではないか。
上陸作戦は敵に気付かれないように行うべきもので、目に見える準備は適さないと思うのだが。

連合国がドイツ占領下の北西ヨーロッパへ上陸侵攻したネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)は次のようなものだった。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2ヶ月以上要した。

第一次世界大戦期から戦間期にかけて各国軍にて上陸作戦専門の舟艇である「上陸用舟艇」が作られた。特に第二次世界大戦期に劇的に発展し、海洋国家であるイギリス・アメリカ・日本によって各種の上陸用舟艇が開発され活躍している。
戦時中のみならずく揚陸任務時にも用いられ、東日本大震災の時にも活躍している。
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トモダチ作戦に基づいて気仙沼市大島地区に接岸するアメリカ海軍の汎用揚陸艇(LCU)


九州南部に航空基地を確保したということは、空からの上陸を予定していたということになる。
落下傘とは飛行中の輸送機などから兵士が落下傘(パラシュート)降下すること。グライダーを利用することもある。落下傘部隊はそれは出来る部隊である。
現在の自衛隊ならば第一空挺団がお馴染み。その昔、船橋の習志野駐屯地近くに住んでいた村上春樹さんが落下傘の練習していたのをぼーっと見ていたと書いていましたよね!?あの部隊ですよ。
ネプチューン作戦(ノルマンディー上陸作戦)では夜間に降下したようだが、1985年群馬に墜落した日本航空123便事故の時には第一空挺団は夜間出動しなかったそうだ。(あれは墜落場所が分からなかったから?)
空挺団は精鋭部隊である。誰にでも出来るわけではない。それでも落下傘降下は命がけである。
森林深くに降下するのは夜でなくても難しい。
海岸や砂漠のような障害物がなく、着地時の衝撃を吸収できる場所がよい。
安全や確実性を重視すれば場所を選ぶ。
しかしそういう場所は真っ先にマークされるので、結局安全に降下できる保証はない。
パラシュートで降下するのだから重装備ではない。いくら人が降下上陸しても重点的に防衛されているだろう首都で大々的な戦闘なんか出来ないだろう。
また目的地に到着するまでに航空機が標的になる。
輸送機が対空攻撃に弱く、敵が対空兵器を多数準備した場合には、輸送機が撃墜されて作戦が失敗することもある。ただし、このことはヘリボーンと共通であり、実際、敵軍の防空網が健在な状態で大規模なエアボーンやヘリボーンが行われることは稀である。
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# by yumimi61 | 2016-09-25 14:28
2016年 09月 24日
坂道
水曜日の朝、中学校の時の同級生が亡くなったと電話をもらった。

小学校は違ったので同じ学校に通ったのは中学の3年間だけだけれども、あの頃の3年間はやはりとても密度が濃い。
私は彼とすぐに仲良くなって彼のことを「あべちゃん」と呼んでいた。
中学1年の春ったか秋だったか、学校の行事で埼玉県秩父の長瀞に日帰り旅行に行った。長瀞ライン下りをしたりしたと思う。
その帰り、もうそろそろ学校に着くという頃にバスの中で、あべちゃんに手紙を手渡された。
12歳か13歳、青春という時代に足を踏み入れたばかりで、ラブレターにはなりきれない甘酸っぱい手紙だった。
それからも私達は友達だった。からかいあって、ふざけあって。

彼は山の方に住んでいた。同級生の中で家が一番遠くにある子だったと思う。
たぶん学校から6キロくらいあったんじゃないかな。自転車通学をしていた。
中学生の通学距離6キロも結構なものだけれど、山だから坂が多い。往路は下りで復路は上り。
暗くなるまで部活して、前店で腹ごしらえして(?)、それから友達や先輩とつるんで前半坂道は自転車を押して帰る。
あべちゃん談によれば帰宅は21時とかになるらしい。
ある日、部活が無かった日だったのか、腹ごしらえをしなかったのか、つるまないでひたすら坂道を漕いだのか、そのあたりのことは忘れてしまったけれど、夕方に帰宅したら、お母さんだかおばあちゃんだかが「今日は学校半日かい?」と訊いてきたんだそうで。
あべちゃんがその話をしてくれたんだけど、それが凄く面白くて、何だか凄く強烈で。
私はその話を大人になってもずーっと覚えていて、前にも書いたことがあるような気がする。それとも誰かに話したのかもしれない。

あべちゃんは正行っていう名前なんだ。
下の名前で呼んだことあったかな。たぶんないなぁ。
お彼岸に向こうに逝っちゃったんだね。

ご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。


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今日前橋でクリテリウムがあった。
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明日は赤城山ヒルクライム。
交通規制がありますので気を付けて下さい。
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# by yumimi61 | 2016-09-24 23:33
2016年 09月 23日
日本国憲法の秘密-359-
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の転機は1943年の独ソのスターリングラード攻防戦だった。
1944年6月6日から始まったノルマンディー上陸作戦(正式名:ネプチューン作戦)が転機と言われることがあるが、こちらは劣勢を確実にしたもので、「転機」は独ソのスターリングラード攻防戦である。


ロシア(ソ連)は第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも連合国の一員だが、他の国々とは少々立ち位置が違う。いわば異端児である。
第一次世界大戦は革命によって離脱。史上初の社会主義国を誕生させた。
しかしレーニン革命政権は連合国に嫌われて、ロシア内戦において連合国は反政権側に味方した。
アメリカは君主制に反対だが、資本主義には賛成という国である。
この考えに基づくと、君主に代わる権力者が生まれて、「強い国」を目指すファシズム国家になりやすい。
国民に分配するために強い国である必要があるという「手段」から、国民に分配するためにがなくなると強い国は単なる「目的」となる。この場合は強い国の恩恵に授かるのはごく僅かな者となるだろう。
それを隠すのが「社会保障重視」や「弱者への寄り添い」などのプロパガンダである。
レーニンは志半ばで亡くなり、後を継いだのがスターリン。何度も書いているがレーニンとスターリン体制は全く違うものだが、スターリンも社会主義国を維持したため多くの人がそれに気付くことなく、社会主義(共産主義)の誤解にも繋がった。

第二次世界大戦では当初ドイツとソ連は不可侵条約を締結していた。
「仲良しこよし」だから条約を締結したわけではない。作戦の一環である。
そのドイツとソ連の作戦的な条約をぶち壊したのが日ソ中立条約である。
東とも西とも手を組んだソ連を信用できなくなったから、ドイツはソ連に侵攻したのだ。
これ(対ドイツ)によってまたもソ連は、連合国が嫌った社会主義国でありながら連合国の一員となった。
連合国の大国として勝利するも、ソ連は連合国共同宣言に反して日本との講和条約(サンフランシスコ条約)に署名しなかった。

ヨーロッパ大陸を占領する勢いだったドイツを劣勢に追い込むという転機に大いに貢献したのがソ連である。
連合国にとって陸上戦に強いソ連軍は非常に在り難い存在であった。
しかし一方、ソ連軍が東ヨーロッパから中央、そして西ヨーロッパに進出してくることは連合国にとって脅威でもあったのだ。
第二次世界大戦勃発当初に連合国からソ連に要請された対日参戦は、太平洋南西部で連合国と戦う日本軍の勢力を分散させる狙いがあった。日本軍の北と南への分散である。
1943年以降にソ連に要請された対日参戦は、ソ連軍を東と西に分散させる狙いがあった。


1945年5月2日~5日、ドイツの各軍がそれぞれ降伏。

1945年4月30日にドイツ総統ヒトラーが自殺すると、海軍総司令官カール・デーニッツが大統領に指名された。
デーニッツは連合軍への降伏は不可避であると考えていたが、できるだけソ連軍ではなく米英軍に将兵を降伏させたいと考えていた。このためデーニッツは各軍の降伏タイミングを熟考していた。
この時、連合国は対ソ戦が念頭にあった。ドイツもそれを見通していた。
独ソ戦では敗れたドイツだが、それでも連合国が対ソ戦を行うとするならばドイツ軍は重要な戦力となりうるはずだと考えていた。

降伏は個人で行われる場合(投降)と組織で行われる場合がある。
降伏とは戦いの中で行われるものなので、組織であっても通常は各軍ごとに行われる。
降伏(投降)した者については戦時国際法(ハーグ陸戦条約)で保護されていて、違反した場合には国際法で裁かれる。
個人や軍の独自の判断による降伏とは別に、国家が戦争を終結させるために自国の軍を降伏させることがある。
戦時国際法の状況下においては、国際法に合意された諸条約において国家による降伏行為の当事適格性については不分明であるが、慣例的にハーグ陸戦条約付属書36条以降にもとづき休戦協定を結び、のち平和条約の締結をすることになるか、第三款「占領」による戦闘終結のいずれかとなる
現場が負けを認めてない状況では敗戦の自覚が薄れるということはあるだろうと思う。
俯瞰して出した結論と、目の前の状況だけを見て出す結論は、違うことがある。
現場を知らない、現場を見ていないから実感がまるでないということも、あると思う。


1945年5月7日、ドイツが無条件降伏文書に調印。

調印に臨んだのはデーニッツ大統領から降伏文書調印権限を与えられたドイツ国防軍最高司令部作戦部長ヨードル大将と、連合国軍司令官ドワイト・D・アイゼンハワー。
調印時間は5月7日1時41分(中央ヨーロッパ時間)(英国夏時間では2時41分)。
文書での停戦発効時間は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていた。(英国夏時間では5月9日0時01分)
ヨーロッパ戦勝記念日は5月8日となっている。


1945年5月8日、ドイツが批准文書に調印。

連合国側は第一次世界大戦の講和がドイツ国民に受け入れられず、「背後の一突き」伝説を生み出してナチ党の台頭を招いたことを繰り返す可能性を感じていた。このため連合国は戦場での降伏文書にだけでは足らず、批准文書が必要であると考えた。
この調印を行う人物は陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物、ドイツ国防軍最高司令部長官ヴィルヘルム・カイテル元帥でなければならないと考えられていた。
ソ連側は調印式にアイゼンハワー元帥の参加を要請したが、アイゼンハワーは代理として副司令官でイギリスのアーサー・テッダー元帥を派遣した。

ロシアやウクライナなど旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。

各国とも信用しきれない状態、不信感の塊である。
敗戦の自覚があるのかドイツを信用できなかった連合国。
そして、アメリカを信用しきれないソ連。
ところで日本は無条件降伏を批准したのでしょうか?


1945年5月6日~8日、プラハの戦い。

チェコの首都プラハ。
プラハがドイツとソ連の最後の戦いの地であった。
チェコスロバキアの歴史をもう一度。
チェコスロバキア共和国の初代大統領に就任したのは、第一次世界大戦前から独立運動を行っていたトマーシュ・マサリク。
第一次世界大戦勃発後は国外に亡命し、連合国を廻ってチェコの独立支援を訴えた。
1917年3月、ロシアで革命が起こり君主制が崩壊。
マサリクもこれに刺激を受けて、連合国へ亡命した政治家や連合国に住んでいる移民などを集めて、つまり国外で「チェコスロバキア国民会議」を発足させた。
この時にロシアの支援を取り付けているが、最初の革命はレーニンらポリシェヴィキはロシア国内におらず関与していない。
革命ロシアから支援を取り付けたとするならば、それは臨時政府(国会議員)かメンシェヴィキであり、ポリシェヴィキではないはず。
ロシア臨時政府を後援していたのはアメリカらしいので、ロシアの支援を取り付けたと言っても、その背後にはアメリカがいるということになる。
実はトマーシュ・マサリクの妻がアメリカ人なのだ。


1918年よりチェコスロバキアは独立運動を開始し1920年に独立した。
トマーシュ・マサリクの息子、ヤン・マサリク。
彼は1919年にチェコスロバキアの外交官となり、1922年まで駐米国の代理大使となった。1925年には駐イギリス大使となった。


1938~1939年、チェコ スロバキアからスロバキアが独立し、段階的にナチス・ドイツ、ハンガリー王国、 ポーランドに併合された。(チェコスロバキアの解体)
「チェコスロバキア国民会議」は共和国を成立させ、第二次世界大戦前と戦争中にスターリン・ソ連に接近したという事実があるが、一応「チェコスロバキア国民会議」は非共産政党と見做されている。
1940年にチェコスロバキア亡命政権がロンドンで設立されると、ヤン・マサリクはエドヴァルド・ベネシュ大統領の下で外務大臣に就任した(父は1935年から体調を崩し1937年に亡くなっている)。
第二次世界大戦中、マサリクはBBCを通じてドイツ軍による占領下にあるチェコスロバキアに定期的に放送を行った。
第二次世界大戦でドイツが敗北したことによりチェコスロバキアは再建された。
亡命政府の代表であった大統領エドヴァルド・ベネシュと外務大臣ヤン・マサリクはそのまま外務大臣となった。


ベルリンでの戦いに勝利したソ連軍(赤軍)はそのまま南下してプラハに向かった。
プラハにはドイツ中央軍集団の残存兵90万人と、その他にも幾つかの部隊が存在していた。
ドイツはヒトラーの死を受けて降伏に向かっていた。
5月2日、国防軍最高司令部はプラハにいたドイツ中央軍集団の司令官に降伏のための準備に入るように連絡した。
ドイツ中央軍集団の司令官は「西へ退却してアメリカ軍に降伏する」と返答した。
降伏文書調印後に国防軍最高司令部はアメリカ軍の護衛付でプラハに向かい、ドイツ中央軍集団司令官にアメリカ軍に降伏するよう伝えたが、「今は出来ない、どの段階で行うかは約束できない」と報告した。
チェコスロバキアでは残存する多くのドイツ軍兵士、迫りくるソ連軍(赤軍)、解放と独立を待ちわびるチェコスロバキア人(蜂起したパルチザンなど)、ドイツのチェコ担当大臣が「暴動を起こした者は血の海のなかでおぼれ死ぬこととなる」とラジオで発表するほど緊張が高まっていた。
ドイツ軍とソ連軍の戦いは5月6日から始まり5月8日にドイツ軍が撤退することに同意。5月9日にソ連軍がプラハを占領した。(しかしドイツ軍の抵抗勢力が11日頃までは抵抗を続けていた)
ドイツ中央軍集団の司令官は5月9日に部隊を捨ててオーストリアへ脱出してしまう。(5月18日にアメリカ軍に拘束された)
ドイツ軍を追い出して、プラハを占領したのはソ連軍だったのだ。


ドイツは連合国の対ソ戦に期待があった。
ドイツ軍がその中で活躍をし、勝利するようなことがあれば、ドイツの敗戦感は薄れるし、講和条約での扱いも少しは良くなるかもしれないという打算があっただろう。
しかし連合国はそんなドイツの打算に乗るわけにはいかない。
さらに日本という問題児を抱えていた。
「叩くべき相手はソ連ではない日本だ」、連合国の対ソ戦は封印された。



1944年1月、大本営の移転計画(東京→長野)が進められる。
1944年7月、占領地サイパンが陥落。
1944年8月、占領地テニアン、占領地グアムが陥落。
1944年10月、神風特攻隊編成。特攻作戦開始される。
1945年1月9日、占領地フィリピンが陥落。
1945年1月18日、本土決戦決定。

なんとなく日本では着々と本土決戦へのレールが敷かれていたような・・。

※大本営
大本営は、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍の最高統帥機関である。天皇の命令を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持つ。本来「本営」とは総司令官が控える場所で、これを更に仰々しい名にしたもの。
日清戦争時の大本営は広島(広島城)にあった。
また広島城は江戸幕末1864年の幕府の第一次長州征討の際に、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となっていた。

※大本営移転計画
初期の計画では、象山地下壕に政府機関、日本放送協会(NHK)、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤は脆く、舞鶴山地下壕に皇居と大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会(NHK)、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。



日本では1944年1月頃から大本営の移転計画が秘密裏に進められていた。
1944年7月にサイパンが陥落すると本土決戦が現実味を帯びてきた。
同月に日本は「フィリピン」「千島列島」「本土」「台湾」の4方面で、連合国軍の侵攻を想定した迎撃作戦の準備を命じた。
翌8月にフィリピンにアメリカ軍が侵攻。(元々はアメリカの植民地でマッカーサーがいたが、日本が占領していた)
このフィリピンでの戦いに敗れて本土決戦が決定されたという経緯がある。

「フィリピン」「千島列島」「台湾」、最近よく聞く名前ですね!

1945年1月20日、「帝国陸海軍作戦計画大網」を制定。
この作戦計画は、「前縁地帯」つまり千島列島、小笠原諸島、南西諸島の沖縄本島以南、台湾などの地域を「外郭」とし、連合国軍が侵攻してきた場合、出来る限り抗戦して敵の出血を図りつつ、長駆侵攻してくる敵を日本本土深くまで誘い込んだ上で撃退するという海軍の漸減迎撃戦略が採用された。

大本営を本土深くに避難させておいて本土深くに敵を誘い込んだらダメだと思うのですが?
それに普通は軍隊の勢力を分散させたくないものです。
すでに負け続きで軍隊は疲弊し物資や船も無い状態。
島のどこからも上陸できる状態で、援助してくれる国もなく、大国数国を相手に回すなんて正気の沙汰ではない。不利極まりなくて負けを承知で戦うようなものではありませんか?
前線で出血するのが敵ではなくて自軍だったらどうするんでしょう。
いざ頂上決戦の本土決戦で戦う者がいなくなったりはしませんか?
敵っていったい誰なのでしょうか?



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# by yumimi61 | 2016-09-23 11:56
2016年 09月 22日
土壌汚染
【土壌汚染】
土壌汚染とは有害物質に土壌が汚染された状態にあることを言います。
全国各地、土壌汚染はかなりあると思います。

①自然由来
鉱石由来の汚染。地中に元々含まれているものだが、地層形成過程での流れや堆積で物質が偏在した場合には汚染土壌となりうる。(金の卵にもなり得るけれども)

②人為的
工場の排水や有害物質の管理や廃棄が不適切で土壌汚染をもたらしたもの。

③埋め立て
埋め立て造成の際に埋め立て用として持ち込まれた土砂や建設残土などに有害物質が含まれていた場合。

【何が問題になるか】
土壌汚染の何を問題にしているかと言えば、ほとんどの場合、健康被害だと思います。
土壌汚染による健康被害は、土壌に含まれている有害物質が人体に取り込まれることによって生じますので、どのように取り込まれるのかということが問題になります。

①地下水(井戸水)の飲用 ・・・土壌中の有害物質が地下水に溶け出す恐れがあるため
②汚染土壌への接触(素手で直接土壌を触る) ・・・皮膚からの浸透や手から口へ運ばれるなどして体内に入る
③汚染土壌の上での活動(1) ・・・砂ぼこり(粉塵)を鼻や口から吸いこむ。
④汚染土壌の上での活動(2) ・・・気化した有害物質を鼻や口から吸いこむ。
⑤農作物や家畜 ・・・汚染土壌で育成された農作物や家畜に有害物質が移行し、それらを食することで体内へ。
⑥魚介類 ・・・汚染土壌や汚染地下水から有害物質が川や海に流出して、さらに魚介類に移行する。生物濃縮あり。

「土壌汚染対策法」(平成14年法律第53号)は、①と②と③、つまり「地下水」並びに「直接」の接触による健康障害を防止することを目的に制定されました。
土壌汚染に該当すると認められた場合には、摂取経路の管理、摂取経路の遮断、土壌汚染の除去などの措置をとる必要があります。

第2条  この法律において「特定有害物質」とは、鉛、砒素、トリクロロエチレンその他の物質(放射性物質を除く。)であって、それが土壌に含まれることに起因して人の健康に係る被害を生ずるおそれがあるものとして政令で定めるものをいう。

【法で定める2つの区域】
区域の指定は都道府県知事が行います。

①要措置区域  ・・・下記の1と2に該当する区域
②形質変更時要届出区域  ・・・下記の1に該当する区域

1.土壌汚染状況調査の結果、当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合しないこと。
2.土壌の特定有害物質による汚染により、人の健康に係る被害が生じ、又は生ずるおそれがあるものとして政令で定める基準に該当すること。


①の要措置区域のほうが問題が多いということになります。①になるには次の政令に該当する必要があります。

*政令「土壌汚染対策法施行令」 (平成14年11月13日政令第336号)
第五条  法第六条第一項第二号 の政令で定める基準は、次の各号のいずれにも該当することとする。
一  次のいずれかに該当すること。
イ 土壌の特定有害物質による汚染状態が第三条第一号イの環境省令で定める基準に適合しない土地にあっては、当該土地又はその周辺の土地にある地下水の利用状況その他の状況が同号イの環境省令で定める要件に該当すること。
ロ 土壌の特定有害物質による汚染状態が第三条第一号ハの環境省令で定める基準に適合しない土地にあっては、当該土地が人が立ち入ることができる土地であること。
二  法第七条第六項 の技術的基準に適合する汚染の除去等の措置が講じられていないこと。


*第三条第一号イ
イ 当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合しないことが明らかであり、当該土壌の特定有害物質による汚染に起因して現に環境省令で定める限度を超える地下水の水質の汚濁が生じ、又は生ずることが確実であると認められ、かつ、当該土地又はその周辺の土地にある地下水の利用状況その他の状況が環境省令で定める要件に該当すること

*第三条第一号ハ
ハ 当該土地の土壌の特定有害物質による汚染状態が環境省令で定める基準に適合せず、又は適合しないおそれがあると認められ、かつ、当該土地が人が立ち入ることができる土地(工場又は事業場の敷地のうち、当該工場又は事業場に係る事業に従事する者その他の関係者以外の者が立ち入ることができない土地を除く。第五条第一号ロにおいて同じ。)であること


【環境省令で定める基準】
工場跡地の豊洲市場の土地はまずこの基準に基づいた調査・検査が行われたと思います。

(項目は報道にでてきた物質を私が抜き出したものであり、他にもあります)
(測定方法も定められています)
●土壌環境基準(27項目)
・全シアンー検液中に検出されないこと。
・鉛ー検液1Lにつき0.01mg以下であること。
・砒素ー検液1Lにつき0.01mg以下であり、かつ、農用地(田に限る。)においては、土壌1kgにつき15mg未満であること。
・ベンゼンー検液1Lにつき0.01mg以下であること。

●地下水の水質汚濁に係る環境基準(28項目)
・全シアンー 検出されないこと。
・鉛ー0.01mg/L以下
・砒素ー0.01mg/L以下
・ベンゼンー0.01mg/L以下


【東京都の指定状況】

◎東京都の要措置区域等の指定状況 東京都環境局より

■要措置区域
土壌汚染の摂取経路があり、健康被害が生じるおそれがあるため、汚染の除去等の措置が必要な区域
 ・汚染の除去等の措置を都道府県知事が指示する(法第7条)
 ・土地の形質変更の原則禁止(法第9条)
■形質変更時要届出区域
土壌汚染の摂取経路がなく、健康被害が生じるおそれがないため、汚染の除去等の措置が不要な区域(摂取経路の遮断が行われた区域を含む。)
 ・土地の形質変更時に都道府県知事に計画の届出が必要(法第12条)



今問題になっている豊洲市場は、江東区豊洲六丁目になるようですが、要措置区域には指定されていません。全て形質変更時要届出区域 です。

(指定年月日)(指定番号)(区域が存在する場所)(面積)(指定基準に適合しない特定有害物質)
============================================
H28.4.15 指-701号 江東区豊洲六丁目地内 10040.09㎡ 砒素

H26.12.3 H28.5.31 指-556号 江東区豊洲六丁目地内 5918㎡ シアン・砒素・ベンゼン・カドミウム・六価クロム・水銀・鉛

H25.10.4 H26.3.13 指-431号 江東区豊洲六丁目地内 16994.2㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H25.5.30 指-388号 江東区豊洲六丁目地内 5090㎡ 砒素

H25.3.15 指-367号 江東区豊洲六丁目地内 7791㎡ 鉛・砒素・ふっ素

H25.3.13 指-364号 江東区豊洲六丁目地内 4437㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H25.3.5 指-354号 江東区豊洲六丁目地内 14690㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H23.11.28 H23.11.29 H25.7.3 H26.5.27 H26.9.29 H26.10.9 H26.10.21 H26.3.10
指−232号 江東区豊洲六丁目地内 384777㎡  カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン( 一部自然由来特例区)

H23.11.17 H25.3.4 H25.3.27 指−223号 指−224号 江東区豊洲六丁目地内 48212㎡ カドミウム・六価クロム・シアン・水銀・鉛・砒素・ベンゼン

H23.5.12 H23.12.13 指−156号 江東区豊洲六丁目地内 13407,1㎡ 砒素・ふっ素


【要措置区域とは?】

①(調査検査するまでもなく)(基準値の越え方が著しく)明らかに汚染されている場合で、地下水を飲用として用いる場合。
②基準値を超えた汚染が認められ、不特定の人が立ち入ることが出来る土地である場合。

③技術的基準に適合する汚染の除去等の措置が講じられていない場合。

①か②のどちらかに該当し、且つ③に該当するした土地が要措置区域となります。
つまり措置を講じれば「要措置区域」ではなくなるということです。


【講ずべき措置】

技術的基準に適合する汚染の除去等の措置がどのようなものかは、「土壌汚染対策法施行規則」にて具体的に述べられています。
第39条と第40条(~42条)で、別表5と別表6を参照。
ここに「盛土」が出てきます。

別表5の9
(土地の状態)
土壌の第二種特定有害物質による汚染状態が土壌含有量基準に適合しない土地(前二項に掲げる土地を除く。)
(措置)
土壌含有量基準に適合する汚染状態にある土壌により覆うこと(以下「盛土」という。)
(環境省令で定める措置)
イ 舗装
ロ 立入禁止
ハ 土壌入換え
ニ 土壌汚染の除去


別表6の11 盛土
イ 当該土地のうち基準不適合土壌のある範囲を、まず、砂利その他の土壌以外のもので覆い、次に、厚さが五十センチメートル以上の基準不適合土壌以外の土壌(当該土地の傾斜が著しいことその他の理由により土壌を用いることが困難であると認められる場合には、モルタル等)により覆うこと。
ロ イにより設けられた覆いの損壊を防止するための措置を講ずること。


これによれば盛土は50㎝以上あれば良さそうですね。
舗装も環境省が定める措置の一方法となっていますので、参考までに舗装措置も。

別表6の8 舗装
イ 当該土地のうち基準不適合土壌のある範囲を、厚さが十センチメートル以上のコンクリート若しくは厚さが三センチメートル以上のアスファルト又はこれと同等以上の耐久性及び遮断の効力を有するもの(当該土地の傾斜が著しいことその他の理由によりこれらを用いることが困難であると認められる場合には、モルタルその他の土壌以外のものであって、容易に取り外すことができないもの(以下「モルタル等」という。))により覆うこと。
ロ イにより設けられた覆いの損壊を防止するための措置を講ずること。


みなさん盛土の意味がお分かりですか?盛るんですよ?「ご飯山盛り」と言ったりしますよね?
盛るというのは上に乗せることです。山にしなくて平らでもいいですけれども、プラスされるということです。
だから前に「いっそのこと山でも」と言ったわけです。
汚染された土壌を掘ってどかして、汚染していない土壌を入れるのであれば、「土壌入れ換え」という措置にあたります。

土壌入れ替えには「区域外の土壌と入れ換える」と、「同じ区域内で土壌を入れ換える」場合があります。
上部(地表近く)に入れる土壌は、基準に適合した(汚染していない)土壌である必要があります。
同じ区域内で入れ換える場合は、基準不適合土壌(汚染土壌)のある範囲や深さについて、ボーリングによる土壌の採取及び測定などによって把握しなければなりません。
区域外入れ換えでも区域内入れ換えでも、汚染土壌から50㎝以上離しなさい(地表面から50㎝の深さは汚染されていない土壌にしなさい)ということ。
汚染土壌を除いて土壌を何も戻さなければ、地下に空間が生まれるだろう。
横と下も必要な措置をとれば、法規を逸脱するものではないので、これ自体は問題ないと思う。(但し地下空間というのは通常でも地上よりもいろいろなリスクが高くなることは確かなので、汚染土壌が周囲に残る地下空間を不特定多数の人が使用する場にするには適さないと思う)
(じゃあ地下鉄は、デパ地下は、地下駐車場はどうなるの?うーん、そうですねえ。分かりました、徹底管理すればいいんじゃないですか!?)

―――地表               
 汚                     
 染
 土
 壌
―――汚染ここまで 
 50㎝
--------
汚染されていない土壌

 ↓

―――地表   
汚染されていない土壌
 50㎝
====
 汚                     
 染
 土
 壌
―――汚染ここまで 


「盛土」や「舗装」、「入れ換え」といった措置は、土壌への直接接触を防ぐための措置となります。
【何が問題になるか】の②と③に対する措置です。
地下水に対する措置は変わります。
豊洲は土壌のみならず地下水の汚染も認められるということなのでしょうか?
盛土や土の入れ換えだけで地下水から完全に遮断することは不可能です。

地下水への特定有害物質溶出の有無を確認して(モニタリングして)、水質汚濁防止法の地下水の浄化基準を超過した場合、またモニタリング前、あるいは基準を超えていなくても土地所有者が措置を行うことを希望した場合には、次のような措置を実施する必要があります。(どちらにしても継続モニタリングは必要となります)
・原位置不溶化措置(重金属等に限る)
・不溶化埋め戻し措置(重金属等に限る)
・原位置封じ込め措置
・遮水工封じ込め措置
・遮断工封じ込め措置(揮発性有機化合物を除く)
・掘削除去措置、原位置浄化措置(浄化措置で、これを行えば指定区域が解除される)
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# by yumimi61 | 2016-09-22 14:15
2016年 09月 21日
日本国憲法の秘密-357-
1945年1月30日~2月3日、マルタ会談。

アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相の会談。
マルタは地中海の島。
有名な会談だと、上記のように首脳の名前で書かれることが多いが、国や軍隊をを動かすような会談が首脳だけで行われているわけではない。
この会談も陸海空軍それぞれの代表者、外相や国務長官などが出席して開催されており、ルーズベルト大統領の出席は最終日のみである。
会談ではドイツとの最終戦の戦略を練った。
また強制収容所の解放によって膨大な難民を生じることになり、この難民をどうすべきかが議論された。
強制収容者はもともと人種差別するために作られたものではない。
戦争中には罪もなく拘引された人もいたが、罪ある人もいたのである。
これをいちいち調べ上げて罪がないと判断された人だけ解放したわけではない。
多くの収容者(難民)は帰国(本国への送還)を拒否したり恐れて、連合国管理の難民キャンプや難民センターに移住した。
移動途上で亡くなった人もいたし、急激に増える難民によって難民キャンプの環境も厳しくなったことには変わりなかった。
そして結局、この難民キャンプにおける自治権の欠如や選択の自由の乏しさは民族主義を拡大させることになる。
その影響を受けて、パレスチナやイスラエルの問題が生じるのである。
イスラエルという国が誕生し、イスラエルとアメリカが多くの難民を受け入れた。



1945年2月4日~11日、ヤルタ会談。

アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン最高指導者の会談。
ヤルタはクリミア。
戦争の終わりが見えてきた時期だったようで戦後について話し合われた。
・ポーランドの国境と政権について
・ドイツの分割統治について(ソ連東側陣営とイギリス・アメリカ・フランスの西側陣営で共同管理)
・東欧諸国の戦後処理
・国際連合について(投票方式とイギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5か国の拒否権を決定)
・ヤルタ協定

※ヤルタ協定
アメリカとソ連の間で締結された秘密協定。
・外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状維持。
・樺太南部をソ連に返還。
・千島列島はソ連領。
・満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保
・上記条件と引き換えにドイツ降伏後2か月または3か月後にソ連は対日参戦する。


1945年4月30日、ドイツ総統のヒトラーが自殺。

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の転機は1943年の独ソのスターリングラード攻防戦だった。
スターリングラードが戦略上の要衝の地であったことに加え、時のソビエト連邦最高指導者ヨシフ・スターリンの名を冠した都市でもあったことから熾烈な攻防戦となり、史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。
緒戦はドイツ側優位に進んでいた戦いだったが、最終的にソ連側が圧倒し、ドイツ軍を中心にした枢軸国合同軍が降伏し、これでドイツは劣勢に転じた。

ノルマンディー上陸作戦が転機と言われることがあるが、こちらは劣勢を確実にしたもので、「転機」は独ソのスターリングラード攻防戦である。
どちらにしても、和平交渉での決着でなく戦争を続行して決着を付ける場合には、陸上での戦いは避けることが出来ないということだ。
ノルマンディー上陸作戦は1944年6月6日に連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。
正式作戦名「ネプチューン作戦」(英語: Operation Neptune)。
最終的に200万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した。2016年現在に至るまで最大規模の上陸作戦である。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により2ヶ月以上要した。


ドイツの劣勢を受けて、ヒトラーは1945年1月16日にベルリンの総統官邸の地下壕に居を移し、ここから統括した。
しかし、連合軍が東西両方から迫っており、敗戦は確実な状況となっていた。4月半ばまでにはソビエト軍はベルリンに入り、ライヒ官房が位置する市の中心部へと侵攻していた(ベルリンの戦い、ベルリン市街戦)。ヒトラーの一部の側近や国防軍首脳部の一部は南部のベルヒテスガーデンへの疎開を進言したが、ヒトラーはそれを拒否した。

ヒトラーは自殺の意向を表明し、その後軍医であったヴェルナー・ハーゼSS中佐に、確実な自殺方法を教えてほしいと依頼した。ハーゼの提案は、シアン化物の服用と、頭に銃弾を撃ち込むことの併用だった。またヒトラーは、同盟国のイタリア社会共和国の指導者ベニート・ムッソリーニが、パルチザンに捕らえられ処刑された後に、遺体がミラノのガソリンスタンドに逆さ吊りにされ見せものにされたことを知っていたことから、自分は同じ運命をたどりはしないと決意する。
そして4月30日に地下壕で自殺したとされる。

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地下とかシアンとか、何だか少し豊洲市場っぽいですね!?
シアンは一般的には青酸カリと言った方が分かりやすいかもしれません。

一口に水と言ってもいろいろな水があります。
「水道水」「井戸水」「飲料水」「排水」「雨水」など。
水質検査においては水の種別ごとに水質基準が設けられています。
基本になるのは水道法第4条に基づく水質基準で、これは「水質基準に関する省令」によって定められています。
物質の危険度の評価が定まらないものがあり見直しが行われていますが、現在51項目の水質基準が設けられています。
その中の1項目に「シアン化物イオンおよび塩化シアン」があり、基準値は「シアンの量に関して、0.01mg/l以下」となっています。

水道水の51項目の水質基準ほどではありませんが、利用者の健康や生活に何らかの影響を及ぼすことが懸念される水質項目に対して「水質管理目標設定項目」及び「要検討項目」として、目標値や指針値が示されています。
これらは水道事業者に測定の義務を課したものではありませんが、自主的に管理することを求めています。30項目ほどあります。農薬もここに含まれます。

飲用井戸水としての水質検査は項目はもっと少なくなり、シアンは項目にありません。
さらに給水人口が100人に満たない家庭の井戸に検査義務もありません。
ただ水道の代わりに使うのであれば、やはり上記の水道水に準じた検査が必要だと思います。

あとシアンが出てくる水質検査としては、「排水」と「消毒副生成物」があります。

「排水」は、下水法・水質汚濁防止法に基づいての水質検査で20項目あります。
その中の1つが「シアン化合物」で、基準値は「1mg/l 以下」です。

「消毒副生成物」はビル管理法における特定建築物(特定施設)において1年に1回、6~9月の間に検査しなければならない水質検査で12項目あります。
その中の1つが「シアン化物イオンおよび塩化シアン」で、基準値は「シアンの量に関して、0.01mg/l以下」です。

地下ピットに溜まった何だか分からない水は、余程のことがない限り飲みませんよね?
命の保障、健康の保障がありませんものね。
それから同じ水を検査したならば、検出されたりされなかったりでは困るのでは?水質検査の信頼性も揺らいでしまいます。

豊洲市場 公明党の独自調査でシアン化合物検出(NHKニュース)

豊洲市場の土壌の汚染対策をめぐる問題で、都議会公明党は、盛り土が行われていなかった市場の建物の地下にたまった水について民間の調査機関に分析を依頼した結果、水産卸売場棟から環境基準を上回るシアン化合物が検出されたと発表しました

豊洲市場の土壌の汚染対策をめぐる問題で、都議会公明党は、今月14日、青果棟、水産仲卸売場棟、水産卸売場棟の3つの建物の地下にある空洞にたまった水をそれぞれ200ミリリットル採取し、民間の調査機関に成分の分析を依頼していました。
その結果、検査項目とした合わせて7種類の有害物質のうちベンゼンや六価クロムなど5種類については検出されなかったと発表しました。
一方で、3つの建物からそれぞれ、環境基準を下回る微量のヒ素が検出されたほか、水産卸売場棟から、環境基準を上回る、1リットル当たり0.1ミリグラムのシアン化合物が検出されたということです。シアン化合物については、先週、発表された東京都や共産党都議団による調査結果では、3つの建物のいずれからも検出されなかったとしています。
公明党は、「今回の調査結果はあくまで参考値ではあるが、新たな疑義であり、都に再調査を求めたい」と話しています。


「建築物における衛生的環境の確保に関する法律」(ビル管理法)の特定建築物とは、3,000平方メートル以上の店舗や事務所、遊技場などに利用される建築物、8,000平方メートル以上の学校施設が該当します。
特定建築物にはビル管理法で管理方法が定められており、建築物環境衛生管理技術者(ビル管理士・ビル管理技術者)の選任が必要となります(常駐でなくて可)。
管理の1つに水質検査があります。
特定建築物で地下水を用いる場合もありますが、多くは水道水だと思います。
それなのに何故別途検査するかというと、受水槽(貯水槽)に一旦水を貯めてから各水道口まで分配しているからです。
受水槽(貯水槽)で貯めているうちに汚染されてしまう可能性があるので厳しくなっています。
地下ピットに溜まっていた水はそれとは全く違います。
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# by yumimi61 | 2016-09-21 12:14