2018年 06月 18日
日本国憲法の秘密-758- (外貨準備と貿易について)
前々記事の終わりに書いた「借金」は国家間(政府や公的機関)の借金のことである。
他国にどれだけ貸し借りをしたかという話で、イギリスやフランスはお金を借りた国でもあるが、貸し出した国でもある。
アメリカはかなり貸し出しているものの借りたのはごく僅か。
ドイツは他国から借金をしていない。
他国から借りたくせに他国に貸し出すということは、国家の信用の違いなどからくる金利差があったり、必要通貨や正金保有量が異なるため可能となる。
信用の高い大国ほど有利である。
また国内で借りて国外に貸し出すという方法もあるので、政府と親密な金融資本家がいれば国内で資金を調達しやすい。


国内における自国通貨の資金調達は増税か公債発行などが考えられる。
第一次世界大戦で増税したのはイギリスとアメリカのみ。
突発的に始まりいつ終わるともしれない戦争の費用は予算に計上されにくいものである。
政府が余剰金(貯金)を持っていればよいが、そうでなければほとんどの場合借金で賄うことになる。
戦争の際に最も行われる資金調達は、国債を自国の中央銀行に引き受けさせ、紙幣を新規発行させてしまうこと。


何かと融通の利く国内で調達(借金)が出来ればそのほうが良いが、国内で調達しきれない金額が必要になったり、決済で外貨や正金が必要な場合でそれが不足する場合には、どうしても国外に求める必要がある。
多くの戦費を費やしたドイツ政府が国外に借金しなかったということは、開戦時に財政上余裕があった、あるいは国内で資金調達が可能であったということであるし、物資の調達もほとんど国内でカバーできて外貨がそれほど必要でなかったということになる。
資金面、物資面、兵士、戦略など、ドイツが有利であったことを示している。残る問題は内政だけ。



ここでもう一度日露戦争の資金調達を考えてみてほしい。
日本は外貨を調達しなければならなかった。
戦争が始まってから、外貨には直接関係なかった日銀副総裁があてもなくアメリカやイギリスの銀行家に依頼にいくなんてことをしなくても、日英同盟を締結済みだったのだから日本政府がイギリス政府と交渉して借りれば良かったはずである。
しかもどうせその多くはイギリスに支払うお金だったのであろう。実に簡単な話である。
民間の銀行家に借りるよりも低金利で期間も長く設定できたのではないだろうか。
イギリスは日露戦争においては中立的立場を維持するからお金も貸せないと断られたのだろうか?
ならばアメリカの銀行家ではなくアメリカ政府と交渉すれば良かったではないか。



政府間のお金の貸し借りのことを借款という。
今の時代の借款はもっぱらODAということになりそうだが、戦争などが行われる時にはもう少し幅が広がるのではないだろうか。

政府開発援助(Official Development Assistance, ODA)
発展途上国の経済発展や福祉の向上のために先進工業国の政府及び政府機関が発展途上国に対して行う援助や出資のことである。

借款
国際機関と国家間または、それぞれ異なる国家の政府や公的機関間における長期間にわたる資金の融資のこと。日本では、「クレジット」とも呼ばれている。英語における正しい表記は「ローン(loan)」である。また、政府と関係の深い民間の金融機関や企業が借款の貸し手・借り手となる場合もある

上にラインを引いたようにこの借款の定義が微妙なのである。
どの定義を使っているかを明確にしないと金額も意味合いも変わってくる。
通常は政府と政府の貸し借りのことを指すはずなのだが、借りる側に政府だけでなく民間金融機関や企業を含めていることもある。また相手も政府だけでなく外国の民間の金融機関や企業に借りた場合を含めることもある(広義)。
もっと広義には民間の銀行や会社が外国の銀行や会社から資金を借りる民間の貸し借りまで含めていることもある。
日露戦争時の日本政府は外国の金融機関・企業から借りたわけだが、広義の意味ならば借款である。(金利は決して低くはなかったが)
ではドイツも他国政府からは借りなかったけれど、銀行からは借りたのではないかと思うかもしれないが、戦時中にすでに多額の借金をしていたならば戦後あれほど莫大な賠償金を課せられることはなかっただろうと思う。


円借款とは、国際協力機構を経由して日本政府から発展途上国政府へ、インフラストラクチャー整備を目的として行われる長期・低金利の資金貸し付け。
日本による政府開発援助(ODA)は伝統的に、被供与国の自立を促すため返還の必要の無い無償資金供与ではなく、有償資金協力のうち特に円借款を重視してきた
2006年(平成18年)に行われた円借款の平均金利は1.03 %、平均返済期限は33年8ヶ月である。1966年(昭和41年)から、2006年(平成18年)までに実施された借款の82 %はアジア諸国を対象としている。



現代の日本は世界の中でもODAの規模が大きい国である。
日本のODAを行っているのはJICA( 国際協力機構)。
独立行政法人国際協力機構は技術協力、有償資金協力(円借款)、無償資金協力の援助手法を一元的に担う、総合的な政府開発援助(ODA)の実施機関です。

JICAホームページより
他の先進国の有償資金協力の比率が低いのに対し、日本のODAは有償資金協力の比率が高い、その主たる理由は、日本のODAは開発途上国の「自助努力」の支援を基本原則とするという考えで供与しているからです。

ちなみにIS(イスラム国)に拘束されて2015年1月に殺害されたらしいジャーナリストの後藤健二氏の奥さんがJICA勤務だったとか。
彼女は殺害の映像が流されたらしい1月30日の前日に声明を発表した。
これが何故かイギリスのロイター通信(親会社はトムソン・ロイターでカナダとイギリスの二元上場会社だったが、イギリス法人は上場を廃止して、カナダ法人がカナダとニューヨークで上場している)とイギリスのフリージャーナリスト支援団体「ローリー・ペック・トラスト」を通しての発表だった。

それから2016年7月にバングラデシュのダッカ(かつて日本赤軍がハイジャックテロを起こした時の行き先地)で武装グループが飲食店を襲撃し、日本人7人を含む22人が死亡した事件、あれもIS(イスラム国)が犯行声明を発表したらしいが、犠牲となった日本人は全員が国JICAのプロジェクトに関わっていた人だった。
イスラム教徒のラマダン(断食月)に高級レストランで食事をしているところを襲われている。


ODAの借款の条件の緩やかさはグラント・エレメントという指数で表わされる。金利が低く融資期間が長いほどグラント・エレメントが高い。
資金を無償提供(贈与)した時にグラント・エレメント100%となるが、日本は25%以上であることを条件としている。援助という名の融資。ある意味、ハゲタカと言われても仕方がないような。

【2013年度までの累計で見た円借款供与額上位30か国】
1 インドネシア 47,219.70(単位億円)
2 インド 44,564.19
3 中国 33,164.86
4 フィリピン 24,209.20
5 ベトナム 22,814.75
6 タイ 21,986.21
7 マレーシア 9,760.38
8 パキスタン 9,759.93
9 スリランカ 9,516.29
10 バングラデシュ 9,456.49

【2013年度円借款供与額上位10か国】
1 インド 3,650.59
2 ベトナム 2,019.85
3 インドネシア 821.82
4 フィリピン 687.32
5 コスタリカ 560.86
6 ミャンマー 510.52
7 トルコ 429.79
8 イラク 391.18
9 スリランカ 350.20
10 ウズベキスタン 348.77


融資とはいえ日本もお金がないのに財源はどこなのかしらと思うと思うけれども、それもアンサーしている。

円借款の財源は?
A. 大きく三つの財源があります。
円借款の貸付・出資業務に要する財源は大きく分けて、(1)税金や国債などを財源とする一般会計からの出資金、(2)財政融資資金借入金、(3)自己資金等から構成されています。
一般会計予算が円借款の主な財源となっていることにより、開発途上国の経済発展のために、非常に低い金利で返済期間の長い円借款を供与することが可能となっています


日本の財政収支は何十年も赤字で、余っているお金などないはずなのだ。(最初から予算に組み込んでしまうから必要経費という扱いで赤字だろうが関係ないという意識なんだろうけれども)
国債を財源にするということは国債を発行し資金調達して貸し出すという意味だろうか。
そうだとしたらせめて日本の新規発行国債の金利よりも、貸し出し金利のほうが高くなければならない。
もしも貸し出し金利のほうが低ければ「援助という名の融資」や「ハゲタカ」すら格好付かない。
ODAの貸し出し金利が1%くらいとして日本の国債金利はどうか。1%を下回ったのは2012年以降である。


中華人民共和国へは1979年(昭和54年)から約3兆3165億円の借款が行われた。2000年代に入り、日中関係の悪化と中国経済の発展を受けて、中国への円借款の批判が高まり、2007(平成19)年度をもって終了した。
無償資金協力(2011年〈平成23年〉現在、累計1544億円)および技術協力(2011年〈平成23年〉現在、累計1704億円)、政府貸付(円借款以外)については現在も対中ODAが続けられている
 








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# by yumimi61 | 2018-06-18 21:12
2018年 06月 17日
地震報告(群馬南部)
ドーンという地震がいきなり来たわけではなかった。
軽くガタガタと揺れ始めたので私は「あっ久しぶりの地震だ」と思って一瞬身構えた。
次の瞬間ドーンという大きな衝撃(縦揺れ)があり、その後も僅かに揺れた。
大きな衝撃を感じたのですぐに避難用に外に通じる掃出し窓を開けたところで、携帯(iPhone)の緊急地震速報が鳴った。近所の外飼いの犬も鳴いていた。
しかし地震はそれきり収まったので地震速報は完全に後出しな形となった。
今いる場所で見える範囲では物が落ちたり物が倒れるようなことは一切なかった。
ちなみに私、携帯電話で緊急地震速報が鳴ったのは今回が初めて。


2011年3月11日の地震の時には外出していて戻ってきたら棚の上の小物が少し倒れていた。
あの時はとにかく横揺れが長く、その後に地鳴りがして大きな衝撃もあり、辺り一帯騒然として世紀末の雰囲気さえ漂ったが、このあたりは震度5弱だった。
同じ群馬南部でも桐生は震度6弱だった。
宮城県栗原市というところが1箇所だけ震度7で、後は大きな被害を出した(といってもほとんどが津波被害なんだろうけれども)東北や茨城県などでも震度6強か震度6弱。
被災地でも桐生市の震度以下のところもある。
あの時は震度5弱でも店舗の陳列していた物が落ちたり、建物の一部が壊れたりしたので、震度ってなかなか難しいなあと思う。
横揺れと縦揺れでは被害の出方が違うのだろうし、継続時間にもよるのだろう。

2011年3月12日には長野県でも震度6強の大きな地震が起こっていたが(先月にも震度5強の地震を観測した所)、東北の津波による被災や千葉の製油所の火災・爆発、原発事故などがあり、完全に隠れてしまった。

2011年(平成23年)の長野県北部地震は、同年3月12日3時59分頃、長野県北部と新潟県中越地方に跨る地域、長野県下水内郡栄村と新潟県中魚沼郡津南町との県境付近で発生した地震。逆断層型の内陸地殻内地震で、マグニチュード(M)6.7(Mw6.35)、最大震度6強。本震に続いてM5以上の2回の余震が2時間内に相次いで発生した。

新潟・長野県境地震]、信越地震ともいう。最も大きな被害の出た長野県下水内郡栄村は栄大地震、栄村大震災と呼称している。なお、顕著な災害を起こした自然現象に対しては気象庁が命名することになっているが、この地震は基準に達していないため命名はされていない。


この扱いに相当お怒りな方もいるわけでして。

アンサイクロペディア 栄村大震災

栄村とは、長野県北部下水内郡に属する人口2300人あまりの小さな村である。長野県と新潟県との県境に位置し、主な産業といえば農業と林業しかなく、特筆すべき施設と言えばダムしかないような栄村に、2011年3月12日、震度6強の地震が発生する。この段階で、地方自治体としてはもはやどうしようもないレベルである。しかも、本震発生から1時間あまりのうちに、同じ震源域内で震度6弱の余震が2度繰り返される。これは、北信濃の鄙びた寒村に過ぎない栄村に、新潟県中越地震以来の近年まれにみる大災害が訪れたことを意味した。

そして、短時間にわたって繰り返された激しい揺れは栄村のインフラ設備に大きな被害をもたらし、多数の建造物を破壊。未明の大災害に栄村は大混乱に陥った。夜が明け、被災した状況が確認されるようになると、そこら中で栄村単独では対応しきれない大被害が続出しており、その結果、村民約2300人のうち2000人に避難指示が呼びかけられ、1700人あまりが実際に避難を行うことになる。

今回の震災は、まさに栄村始まって以来、むしろ縄文時代以降、この地域に人が住み始めてから最も巨大な災害となった。あわせて、長野県の歴史においても、近年、激甚災害にまで指定されるような震災が一度も観測されたことがないことを鑑みれば、いかにこの地震が緊急かつ多大な支援が必要な事例であるかが分かる。

しかし世の中は……。本当に世の中ってものは……。


非道な気象庁
栄村において観測された震度6強の地震とは、近代日本において発生した多くの災害の中でも特筆すべき事象であることは間違いない。実際、2000年代に発生した震度6強を観測する地震(新潟県中越地震、新潟県中越沖地震、岩手・宮城内陸地震)などは、それぞれにおいて国が先頭に立って対応に当たらねばならないレベルの大災害であった。鳥取県西部地震は都合により例外とさせてもらう。
しかも、今回の地震では、中越地震の際と同じように、震源域をほぼ同じとする震度6弱の余震が2回も発生。この段階で、どんなに災害に疎い人間でも、大変な事態であることは丸分かりである。にもかかわらず、気象庁ではこの事実をガン無視するかのごとく今回の長野県北部地域を中心にした大地震に、命名の規定外の規模であることにより、名前さえ付けなかった。
そのため、実際に被災した栄村役場が震災後すぐに命名した栄大地震、もしくは栄村震災、栄村大震災という名前が、そのまま多くのメディアで使用されることになる。また、震源の位置が県境の微妙な場所にあったため、それこそ、新潟、長野両県、もしくは市町村単位で名称が異なるという、笑うに笑えない話が存在する。その全てで情報を共有しようとした際、一体どんぐれえひでえ話になるかは、想像にお任せする。

なお、栄村では震災直後からホームページ上で全国に向けての支援を要請。しかし。

……人口2300人程度の小さな村にできることなど、たかが知れている。


ロクデナシのマスコミ
この大震災において、唯一運がよかったといえること。それはこの地震による被害は家の倒壊など物的損害のみで、死者がゼロだったことである。

しかし、その結果として、東京のボケクソカスマスコミどもは、まったく絵にならない、視聴率が取れない、中越地震と中越沖地震で語ることすら飽きたなどなど、まったく栄村を取り上げようとしなかった。そのため、被災早々に政府から激甚災害に認定され、実際に1500人を越える住民が避難所で生活したにも関わらずに、自前の中継車すらよこさないまま、東北地方沿岸部でどこのテレビ局でもまるで同じ内容の番組を制作する始末。
どうやら彼らの頭の中には内陸部と独自性などという言葉は存在しないようである。結局、全国レベルのテレビ局で栄村の被害を本格的に取り上げたのは発生から3週間後の4月1日、フジテレビがようやく重い腰を上げて栄村のことをとりあげる。

どう考えても遅すぎ。

しかも、ものの見事に栄村の場所を間違って紹介。

すいません、最後、栄村の位置を説明しているときに長野県北部についている印がありますけれど、そこはどう見ても長野市です。いろんな意味でありがとうございました。


忘却
こういった話を積み重ねるまでもなく、3月12日以降、栄村は積み重なる東北からの情報の山の中、多くの国民から忘れ去られることになる。全域の停電、断水、国道の閉鎖、JRの不通、土石流の危険といった住民の生活を揺るがすような多大な被害を受けた栄村が、まるで何事もなかったかのように。

まぁ、たしかに、時期が悪かった点については否めない。けれど、それにしたって、震度7を記録した宮城県内陸部の栗原市も含めてガン無視されるってのは、頭がおかしい。絶対に頭がおかしい。しかし、各局はまるで競い合うように沿岸部一帯の映像、情報ばかりを一極集中。もっとも、今回に関しては、犠牲者の99パーセントまでが津波によるものだった、てのもあるんだが、被災者の50%以上は沿岸部から遠く離れた地域にもいた。

にも関わらず、常にインパクト重視、視聴率優先、東京都中心の報道が続くことになる。国民の求める、これからの展望と将来の希望、ついでに言えば各テレビ局ごとの連携といったものはまったく無い中で、情報は常に一方向で同内容。その結果、無駄に露出しまくった報道関係者の質が丸分かり。ボロ出しまくり。多くのテレビ局が公共性を意識しないことが判明する。そして、ついには震災に関する情報すら、原子力発電所の情報に食われていくことになる。

もしかして、公共性って、死語? 


偏向
そんな矛盾あふれる東京のマスコミから置いてきぼりにされる中、遠く離れた栄村では、被災早々に住宅判定が行われ、村内800戸の住宅のうち、数件が全壊、2割強に危険判定が出され、3割が要注意と診断。さらに、多くの住宅で1階部の車庫が崩れて車を押しつぶし、避難場所への移動手段すら確保できない家庭も散見。このように、地震から数日の間は住民の生活を逼迫させるような話は事欠かず、何よりも村内にある水源16箇所のうち、14個所が枯れている可能性があるとの報告すらあった。

農村の危機である。

これは本当にシャレにならない。しかしながら、こんな話は、今そこにある悲劇に比べれば些細なことであると、マイクを持った渡り鳥ならぬ人でなしどもは勝手に判断。そして、東北地方沿岸部以外の地域に散らばる悲劇を、存在しないものとすることに全力を挙げて取り組み、最終的に震災から1週間後には、福島第一原子力発電所の前で、全てのテレビ局のアナウンサーと解説員が一様に押し黙り続けるまで報道の路線が固定。それをほとんどのテレビ局で3月末まで続けることになる。

……その結果、ラジオが泣きたくなるほど素晴らしい媒体であるかが再認識される。

……各地の地方新聞がいかに生活に大切な情報を発信しているかも再認識される。

……被災地に向けて東京の買占め騒動を報道する大手マスコミがいかにバカであるかも再認識される。

Once Again, 大手マスコミがいかにバカであるかも再認識される。

さらに、被災者たちへの情報も、大手スポンサーが介在する安否確認情報手段などの説明はこれでもかこれでもかと大きく報道したのに対し、被災者の生活に直結する情報である、各地の道路の寸断状況や復旧に関する見通し、実際に回復して通行可能になった箇所などはまるで取り上げず、さらには被災者にとっては命の綱とも言える「臨時災害放送局」に指定されたラジオ局の周波数(メガヘルツ)などは、スポンサーのスの字すらかからないためか、まったく取り上げようとさえしなかった。その結果、高速道路、幹線道路の情報は共有されることなく、日本経済の血の流れ、流通は大きく混乱。実害として、支援物資の配給に大きな混乱をもたらす。

なお、栄村近辺のラジオ局については、臨時災害放送局の指定すら行われていない。

そのため、栄村村内ですら情報の伝達不足から来る必要物資の不足が発生。栄村を通る国道117号線がギリギリ通行可能だったにも関わらず、震災直後から栄村でもガソリンが逼迫、近隣市町村ですら給油制限が行われる。しかも、石油精製施設を管轄する国が何の指針も示さなかった結果、国道が通れる栄村ですら、このような状況が1ヶ月近く継続する。東北各県の被災地域については推して知るべし。

このように、明らかに国や自治体、住民が共有するべき情報が偏向されたことによる弊害は、今回の一連の大震災の中でもっとも顕著な人災であり、放送の危機である。


まだまだ怒りは続きますので、あとは上のリンク先をご参照ください。


大き目な地震があるとNHKがすぐに番組切り替えて地震情報を伝えてくれ、それはそれですごく助かったり役に立つけれども、同じ震度でも切り替わる時とならない時があったり、放送時間(長さ)が違ったりして、時間とか放送していた番組とかの関係なのか、どういう基準なんだろうと思う時はある。
地震速報が流れるまでに凄く時間がかかる時と、すぐに出る時もあり、あれは震度によるものなのか、発生場所によるものなのかと不思議に思うこともある。
緊急地震速報が流れたものは早いだろうけれど、そうでないやつ。
いつだったか夜中に地震があったのでNHKで速報を見ようと思ったんだけどなかなか出てこなかった時があり、地震がよっぽどピンポイントだったのか、それとも夢だったのかとさえ思ったくらい。そのまま15分くらいテレビ観てたらやっと出た。




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# by yumimi61 | 2018-06-17 16:13
2018年 06月 15日
日本国憲法の秘密-757- (外貨準備と貿易について)
イギリスの産業革命1700年代後半~1830年頃。産業革命は資本主義の確立にも寄与。

アヘン戦争(1840-1842年) イギリス大勝
クリミア戦争(1853-1856年) 軍事的にはロシア優位、イギリス・フランス・ロシアともに戦争続行が難しくなり終結 
アロー戦争(1856-1860年) イギリス・フランスが勝利するも泥沼化、ロシアが調停に入る
普仏戦争(1870-1871年) プロイセン(後のドイツ)勝利、フランス第2帝政崩壊
露土戦争(1877年-1878年) ロシア勝利するも、ドイツが仲介し講和条約を修正


産業革命を経て近代的な軍事力を手に入れ、資本家をバックに付けていたイギリスがロシアには勝てなかった。
自国の、あるいは自分の独自性や優越性に価値を置くならば、その上に立つ国や人がライバルとなり憎くなるのは当然の流れ。
イギリスにとってロシアは最大のライバルとなったのだ。

しかし正攻法で負けを重ねたら意味がない。ますます自国や自分を貶めるだけ。
彼らは冷静であり、高い識見を持っている。同じ過ちを繰り返すようなことはしない。
正攻法の反対は奇襲戦法ということになるかもしれないが、奇襲戦法を使うわけでもない。
正面からではなく側面や背後から攻めていくということになる。
その戦いでは、勝利したとしても、輝かしい勝者にはならない。ある意味、地味である。名を捨てて実を取る、ということだろうか。勲章など必要ないということだ。
その代わり完全に背後に隠れる戦法は、奇襲戦法を使った時のように卑怯者と言われることもないであろう。なにせ表から見えないのだから。

クリミア戦争と露土戦争でロシアが勝利した時の皇帝はアレクサンドル2世。

戦争はいつの時代もお金がかかる。
戦争に勝っても余計な出費で内政が不安定となる。
この点においてはロシアも例外ではなかったが、大国であるがゆえに何とか持ちこたえていた。
しかし露土戦争から3年後の1881年、アレクサンドル2世はテロ組織「人民の意志」の爆弾テロにより暗殺されてしまった。
若くして即位した息子アレクサンドル3世も不穏な事故に巻き込まれ、命こそ落とさなかったが健康を害す。
アレクサンドル3世は露土戦争に従軍していたこともあり、講和条約を修正させたドイツ首相のオットー・フォン・ビスマルクやそれに応じた父親も快く思っていはいなかった。(その後ろにいたのは資本家なのだが)
そしてドイツとの友好関係に終止符を打ち、フランスと同盟を結び、資本家のお世話になることにした。ロスチャイルド家に融資してもらいバグー油田を与えたのはこの皇帝の時である。
バグー油田の石油工場では後にソ連の最高指導者となるスターリンがロスチャイルド家に雇われ、彼がストライキなどの首謀者になっていく。
1894年、露仏同盟締結。 

イギリス・フランスやロスチャイルド家にとってロシア皇帝(ロシア帝国)は同類の最大ライバルである。

イギリス・フランス・ロスチャイルド家 vs ロシア

一方、既得権者やヒエラルキーを嫌う革命家は異質なライバルである。

イギリス・フランス・ロスチャイルド家 vs 革命家

イギリス・フランス・ロスチャイルド家はスターリンという隠れ蓑を育てることによって、どちらのライバルも間接的に倒すチャンスが出来る。
簡単に言えば、スターリンがロシア皇帝もレーニンも倒すということになる。
そして実際にそれはどちらも成し遂げられたわけだが、直接的にスターリンが行ったとは考えられていない。
二重三重に隠れ蓑が着せられているので真実は見えにくくなっている。


(1902年、日英同盟締結)

1904年、英仏協商(Entente Cordiale)締結。 

1904~1905年 日露戦争

ロシアに気を取られているうちに、ドイツの存在感が増してくる。
ドイツは独自の資本が確立しつつあり、ロスチャイルド家などはこれが脅威となってくる。

1907年、英露協商(Anglo-Russian Entente)締結。→三国協商の成立 

1914~1918年 第一次世界大戦

ロシアの革命は、日露戦争と第一次世界大戦、この2つの戦争の中で起こった。
第一次世界大戦は「打倒ドイツ」のもと起こってきた戦争だと思うが、ドイツとロシアをいちどきに倒すことを目標にしたのだと思う。
ロシアはイギリスやフランス側で参戦するも結局戦時中に帝国が崩壊することになる。
ドイツも革命により敗退を余儀なくされ、多額の賠償金が課せられた。ドイツで「背後の一突き」と呼ばれるのは、この第一次世界大戦のことである。

革命で倒れ去ったロシア帝国とドイツ帝国。
その時の皇帝はニコライ2世とヴィルヘルム2世。どちらもイギリス王家の親戚である。
ヴィクトリア女王の娘たち
・長女は第2代ドイツ皇帝(プロイセン王)と結婚・・・2人の間に生まれた長男が第3代ドイツ皇帝(在位1888-1918)
・次女はドイツの領邦ヘッセン大公国の君主と結婚・・・2人の間に生まれた四女がニコライ2世(在位1894-1917)と結婚


親戚であろうとお構いなしなのか、それとも親戚だからこそ手なずけ手中に収めていたのか。
ともかくロシアやドイツからすれば王家の親戚であるがゆえに少なからず油断はあったであろう。



1917年11月、ソビエト政府が樹立した。革命家レーニンがそのトップに就任した。
平和に関する布告を発表し、第一次世界大戦の全ての交戦国に無併合・無賠償の講和を提議。同時に土地の私有を廃止する土地に関する布告や世界初の八時間労働制の法制化を発表した。

だが革命が起こりうる土壌であるということは、強大で少なくない既得権者が権力を保持していることの裏返しでもあるので、レーニンの思想なり主張が受け入れられるのは茨の道。そんなことはナポレオンが失脚したことからも容易に想像が出来る。

無併合・無賠償の講和は全ての交戦国に拒否されたが、ドイツ帝国との講和交渉が1917年12月に始まり、ドイツは広範な領土の併合と多額の賠償金を要求した。帝政時代の債務は帳消しにしていたレーニンだが、この要求を受け入れることを主張した

ソビエト側にも強硬派(ニコライ・ブハーリン)や中間派(レフ・トロッキー)の指導者もいて一本化できず、結局ドイツとの講和交渉は決裂してしまう。
決裂後ドイツがロシア国内に侵入を始め、ソヴィエト政府は国土の西部地域の多くを失った。その結果レーニンの主張は多くの支持を得、最終的に不利な条件で1918年3月にブレスト=リトフスク条約に署名することとなった。 
戦争から手を引いたソヴィエト政権は首都をモスクワに遷都、ボリシェヴィキはその名をロシア共産党と改め、7月に開催した第5回全ロシア・ソヴィエト会議においてソヴィエト憲法を制定。


レーニンは無神論者でもあった。
既存宗教の腐敗ぶりに幻滅したのはイエスやルターと同じ。
イエスやルターは宗教改革を起こしたが、レーニンは宗教自体をもはや信じておらず弾圧した。

レーニンは少年時代には既に、権力と癒着し腐敗していたロシア正教会に幻滅していた。マルクス主義的無神論者であり、正教会を反革命の温床とみなしていた。レーニンは後に、「宗教は毒酒である」と言葉を残している。

ナポレオンを許さなかったヨーロッパがレーニンを許しておくわけがない。
1918年8月30日、レーニンが会合での演説を終え自動車に乗ろうとしたとき、3発の銃声と共にレーニンは倒れた。
レーニンは1921年末から健康状態を悪化させ、1922年には何度か発作を起こして職務から離れた。その間、各ソヴィエト共和国をどのように構成するかが問題となり、とりわけグルジアをめぐって党内に対立が起こっていた。


レーニンとスターリンの対立も表面化しだした。

1922年8月、ヨシフ・スターリンは、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、という「自治化」案を作成した。レーニンはこれを大ロシア排外主義として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国とともにソヴィエト同盟に加入する、という代案を出した。スターリンはレーニンの「民族自由主義」に不満を述べたが、修正案を受け入れ、同年10月のロシア共産党中央委員会総会ではレーニンの代案にそった決議を通過させた。

この問題をきっかけにレーニンとスターリンの関係は極度に悪化し、レーニンは翌1923年1月4日の「大会への手紙」(いわゆる『レーニンの遺書』)の覚え書きでスターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。3月5日にはトロツキーにグルジア問題への取り組みを依頼し(トロツキーは病気を理由に拒否)、3月6日にグルジアの反対派に向けて「あなたがたのために覚え書きと演説を準備中です」という手紙を口述した。しかし3月10日、彼は発作に襲われて右半身が麻痺し、会話能力と共に筆記能力を永久に失った。

レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。
スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。
クルプスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。

レーニンの死因は公式には大脳のアテローム性動脈硬化症に伴う脳梗塞とされている。彼を診察した27人の内科医のうち、検死報告書に署名をしたのは8人だった。このことは梅毒罹患説の根拠となったが、実際は署名をしなかった医師は単に他の死因を主張しただけであって、結局この種の説を唱えた医師は1人のみだった。

葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。


レーニンは何かにじわじわと蝕まれていったのであろう。
革命家の命とも言うべき、語る能力と書く能力を奪われてしまったのだ。
失ったものが象徴的で、革命家の終わりを一層色濃く見せる。



第一次世界大戦の前年1913年末にアメリカの連邦準備制度・FRBが設立された。
創立会議ではロスチャイルド、モルガン、ロックフェラーが一堂に会した。
満を持して大戦を迎えたことになる。
勝利したのはイギリス・フランスが中心となった連合国だが、最後の最後までドイツに苦しめられた。
ドイツの軍事力はクリミア戦争ですでに存在感を示しており、イギリスやフランスが知らないはずがない。しかもイギリス王家はドイツ皇帝と親戚である。
第一次世界大戦は経済的にも脅威になっていたドイツを叩くために起こされたようなものなのだからドイツにやり込められるのはある程度織り込み済みだったはず。多くの犠牲を覚悟の上。
最終的に倒せばいいのだ。そのためにアメリカが必要だった。
アメリカは当時ヨーロッパ各国よりも遥かに多くの付加価値を生み出していた。(付加価値とはお金、国家ならばGDPや国民所得のこと)しかも借金が少なかった。
そのアメリカは終盤(1917年)に参戦したにも関わらず、ドイツ、フランス、イギリスに次いで戦費を費やしている。
但し借金はごく僅かしかしていない。それだけ体力があったということ。
ドイツはアメリカ以上に戦費を費やしたが借金を全くといってしていない。当時イギリスやフランスがいかにドイツを脅威に感じてたであろうことがここからも推測できる。
イギリスやフランスはお金を借りた国でもあるが、貸し出した国でもある。
政府にお金が無くても金融家(資本家)はお金を持っている。
イギリスとフランス並みにお金を貸し出したのがアメリカであるが、アメリカ国内ではあまり借金をしていないので国外に貸し出したということになる。










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# by yumimi61 | 2018-06-15 11:49
2018年 06月 14日
なにもの?
・先の日曜日、群馬県渋川市にあるスーパー「とりせん渋川店」に乗用車が突っ込むという事故がありましたが、実はあの日わたしは「とりせん」に行こうと思っていたのです。
もっとも行こうと思っていたのは渋川店ではないのだけれども。あ、でも渋川店の付近も縁もゆかりもないところではないですが。

で、月曜日に行ったのです。
なんとはなしに駐車場の車が少ないような・・やっぱり昨日の今日で皆さん敬遠したのかしらと思ったのですが、よくよく考えると雨が降っていたからそのせいかもしれません。
私はといえばお買い物をして帰宅しました。
ところが家に到着して荷物を降ろそうとしたら荷物が1つ足りないのです。すぐにピンときました。
とりせんでお買い物をする前にお隣のお店で買い物をして、その袋をとりせんのカートにひっかけておいたのですが、それを車に積み忘れたのです・・・
即、とりせんに電話。
雨で人は少な目だったし、駐車場のちょっと遠目のカート置き場に置いたから尚のこと誰にも気づかれていないだろうという都合の良い期待のもと。
まず落し物とか忘れ物で届いていないか尋ねましたが、届いていないとのこと。
「たった今のことなのですが」と説明するとカートを調べてきてくれるとのこと。雨の中すみませんっ。
少ししてお返事の電話がありましたがやっぱり見当たらず。お隣のお店にまで確認してくれたらしかった。
そうかぁ、見つからないかぁ、世知辛い世の中だわ。
でもまあ忘れた自分が悪いのだから仕方がない。諦めました。購入金額は1300円くらい。
それからまた少しして電話があり・・・なんとあったのです!
世の中捨てたもんじゃないわ。


・ところで皆さんはとりせんのキャラクターをご存知でしょうか?
その名も「ハートりん」。
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数年前、このキャラクターを巡ってある事件が起こったのです。

謎の「3万7000票」でゆるキャラGP退場...館林・ハートりんに「かわいそう」の声

熱い選挙戦が続くゆるキャラグランプリだが、あるキャラに何者かが不自然な大量の投票を行い、結局そのキャラがエントリーそのものを辞退するという事件があった。
2014年9月9日、グランプリからの退場を宣言したのは群馬県館林市のスーパー・とりせんの「ハートりん」。

地元紙・上毛新聞ウェブ版によれば、7日~8日の間に約3万7000票という大量の票が、特定の発信源から突然押し寄せた。結果、ランキングは総合5位まで一気に浮上したが、この異常な動きを知ったとりせんは「ゆるキャラグランプリの趣旨、ならびに弊社エントリーの目的に合わない得票」と判断、エントリーを辞退してしまった。


スーパーとりせんは群馬県の館林市に本社がある。もちろん店舗もある。
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・ひっかけておいて忘れてしまったと言えば「りょうもう号」。
私、りょうもう号の壁にパン屋さんで買ったパンをひっかけておいて、そのまま降車してしまったことがあるんです。前にも書いたことですが。
その時に後ろの座席の親子に気を取られすぎたと書いたと思うのだけれど、詳しいことは書かなかった。
どんな親子だったかと言うと・・・姿は見ていない。でも父と娘だったと思う。

りょうもう号というのは東武鉄道の特急列車。
浅草発の場合、埼玉県を通り群馬県へ、一旦栃木県に入り、再び群馬県に戻って赤城または伊勢崎が終点。
全席指定。乗車券と特急券が必要で、特急券が座席指定券を兼ねている。
都内から群馬までの特急料金は1030円。運賃は800~1200円くらい。

私の後ろの席の通路側にサラリーマンらしき人が座っていた。私は前の席の窓際だった。
親子は私より遅く後部のドアから入ってきたので私は直接姿を見ていなかった。
ただ話し声が聞こえてくるのでおよそのことは分かった。
「すみません」とか言って、お父さんと思われる人が奥の窓際の席に座り、荷物を置くかなんかして、その後に娘に「おいで」と言っている。
歩いているということだし、話すこともできていたので乳児ではない。
どうやらお父さんが娘を膝の上に抱っこして座ったようだった。
で、親子の会話をしていた。
お父さんは子煩悩と言うか何というか、とっても優しそうな口調で話す人。だけど何か板についていない感じというか、落ち着きの無さみたいなものがあった。
そのうち横のサラリーマンが席を譲り立ち去って行った。
「ああ、すみません、ありがとうございます」とかお父さんはやっぱり低姿勢だったけれど、サラリーマンらしきその人はそれほど愛想よく立ち去ったわけではなかった。どちらかと言うと居た堪れないといった感じだったのだと思う。
お父さんは娘をその席に座らせた。
その後の会話も私には聞こえてきてしまう。
「隣の人が良い人で本当に良かったなぁ」としきりに娘に話しかけている。

乳幼児の場合は席を占領しなければ特急券はいらず運賃の半額のみ。
席を使うならば特急料金が必要となる。

何時だったか忘れたけれど電車はいっぱいだった。
ぎりぎりに購入して席が1つしか空いていなかったのか(小さい子だから1人で離れた席には座らせられないであろう)、あえて1つの席しか取らなかったのかは分からない。
全席指定だからサラリーマンらしき人は出入り口付近で立っているしかなくなる。
東京や埼玉を抜ければ、降りる人がいて、そこから乗る人が少なくなるから、席も空きだすが、それまでは違うところに座るというわけにもいかないだろう。
なんかすごくモヤモヤした。

小さな子を連れていれば大変だと思う。
お母さんの話もしていたので父子家庭というわけではなさそうだったが、お母さんが入院したとか産後まもないとか何か事情があったのかもしれない。
特急料金を節約しなければならない事情があるのかもしれない。
サラリーマンの運賃と特急料金は会社持ちで懐は痛まないかもしれない。
でもなにかモヤモヤした。
そのお父さんが横柄な人ならば「何あの態度!」と怒ることも出来たかもしれないけど、そうでないので気持ちの持って行き場がなく、モヤモヤした気持ちを引きずってパンを忘れた。(人のせいにしないで?)






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# by yumimi61 | 2018-06-14 00:03
2018年 06月 12日
日本国憲法の秘密-756- (外貨準備と貿易について)
すでに戦争が勃発している時に、その指揮官が明後日の方向ばかりを向いていて目の前のことに身が入らないのでは指揮系統も混乱するし連戦連敗もするだろう。
ロシアの満洲総司令官クロパトキンはその状態だった。
満洲を預かった総司令官なのだから満洲の事に集中すべきである。
でも彼は勝利ではない何かに拘っていた。
プライドなのか違う指示なのか、それは私達には分からない。


一方、日露戦争が行われていた時に全く逆の方向である東南アジアに向いている目があったことも事実である。
日本は当時、東南アジアに食指を動かしていたからである。
ロシアへの攻撃は防衛的な意味もあるだろうけれどもイギリスの鉄砲玉的なところも大きい。
一方、東南アジアへの野望はヨーロッパの指示や助言というよりも明治政府独自のものであり(とはいってもヨーロッパ各国や江戸幕府の進出を参考にしたかもしれないが)、ヨーロッパの強国はそれを警戒していた。
豊臣秀吉はアジアの大国である中国の征服を夢見ていたし、倒幕派の吉田松陰や明治政府は世界征服の野望を持っていた。
現政権に立ち向かわせるためには、そのような心意気は買われるだろう。
しかしそれが行き過ぎれば暴走したり反旗を翻す可能性もなくはなく、傀儡政権でなくなってしまうかもしれない。要警戒なのである。

豊臣秀吉は明(中国)の征服を目指していた。
配下の西国(西日本)諸大名を結集させ遠征軍を立ち上げた。
秀吉は朝鮮の手助けがないと中国征服は難しいと睨んでいたのか(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向ける。
こうして1592年に戦争が始まるも明がそれ以上の戦闘の拡大を防ぐために朝鮮へ出兵させたため朝鮮で膠着状態となり1593年に休戦し交渉が始まる。
しかし1597年に交渉決裂し、翌1598年に再び戦闘が開始される。
そんな中、秀吉が亡くなったわけだが、秀吉の死によって日本は撤退することになった。
この中国や朝鮮半島への野望は明治政府で復活することになる。


昨日気候のことを書いたが、日本ならばそれほど苦労なく東南アジアで戦えたり暮らせる可能性がある。
日本と東南アジアとは朱印船貿易で独自に築いたパイプもあった。
従って日本の進出・侵攻はヨーロッパにとって脅威となり得る。
もしもヨーロッパ支配が崩れて日本が支配するようなことがあれば、貿易に与える影響も大きく、日本の世界征服が大言壮語とも言えなくなる。
それくらい気候が世界に与える影響は大きいのだ。


東南アジアの一国フィリピンはかなり昔からスペインの植民地でありカトリック国である。
マッカーサー父子がフィリピンの総督だったことがあるが、マッカーサーが総司令官となったGHQもやはりフィリピンと関係が深いことを窺わせる事象が第二次世界大戦後の航空機解禁時にみられた。

日本航空はその完全解禁(1952年4月28日)より一足早い1951年8月1日に、GHQや日本政府主導による半官半民の体制でスタートしている。
最初の飛行は試験飛行で同年8月末に実施された。
機体はフィリピン航空からチャーターしたダグラス DC-3型機(機体記号PI-C7、「金星」と愛称が付けられた)。
フィリピン航空は1941年3月に設立されたアジアでは最も長い歴史を持つ航空会社で、フィリピンのナショナル・フラッグ・キャリアである。
試験飛行の機体にはJALや日本航空との文字を入れたもののフィリピン国旗も描かれており、機内サビースを指導したのもフィリピン航空スタッフだった。


そして日露戦争の終結にもフィリピンが関係している。

日露戦争が終結する間近の1905年7月29日、このフィリピンを巡って、日本とアメリカは協定を結んでいる。「桂・タフト協定」である。
アメリカが日本の朝鮮における支配権を承認し、日本がアメリカのフィリピン支配権を承認するという内容の協定。フィリピンに野心を持たないようにとアメリカは日本に釘を刺している。
日露戦争が歴史的大勝利と言っても、最終的な決着はアメリカの仲介による講和である。
日本もロシアも戦争続行が難しい状況となっていた。
講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日にポーツマス条約が締結された。
この時間的な流れを見ると、「桂・タフト協定」が日露戦争を講和に導いたと言えるのではないだろうか。


タフトとは先日も登場したウィリアム・タフト。

桂・タフト協定(Taft-Katsura Agreement)
日露戦争中の1905年(明治38年)7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。「桂・タフト覚書」とも呼ばれる。なお、タフトは後に第27代アメリカ大統領となった。

マッカーサー父のフィリピン総督(軍政長官・民政長官)の後任は、後に大統領になるウィリアム・タフトである。
フィリピン総督時代が1901~1904年で、大統領就任期間が1909~1913年。

フィリピン総督と大統領の間は陸軍長官であったということになる。


1912年の大統領選ではすでにロスチャイルドやクーン・ローブ商会が大統領戦の行方を左右していた。
クーン・ローブ商会が3人の候補を全て支援していた。
その中の1人がウィリアム・タフトである。
日露戦争の日本の公債を大きく引き受けたのがクーン・ローブ商会の代表ジェイコブ・シフ。ジェイコブ・シフはロスチャイルドの代理人。
当初ロスチャイルド家は引受人は直接加わっていなかった。
しかし終結(1905年9月)間近の1905年7月にはロンドン家とパリ家の両方が加わっている。1905年7月は桂・タフト協定が結ばれた月。
終結2か月後にも発行しているが、これも両家とも引受人となっている。
外債は全6回発行されたが、ロスチャイルド家は5回と6回のみ。ナショナル・シティ銀行はロックフェラー系の銀行だが、ここは1回と2回のみ。クーンローブ商会は最後の6回は引受人から外れた。4回と5回はドイツの銀行が加わった。
日本が見積もった日露戦争の戦費は3億円くらいで外債発行予定は1億円だったのに、実際にかかった費用は20億円。発行した公債は13億円。
完全に見積もりミス。


1800年代、ロスチャイルド家にとってロックフェラー家は石油を巡ってライバルだったし、アメリカの企業の巨大化は脅威であったはずだ。
ところが日露戦争でともに引受人になっているように、この頃に両家は近づいている。
間に入ったのがクーン・ローブ商会である。

クーン・ローブ商会
ユダヤ系ドイツ人のアブラハム・クーンとソロモン・ローブが共同で設立した。正式な創業年は1867年となっている。クーン家とローブ家の子が結婚しているので両家は姻戚でもある。
ニューヨークに本部を置いた。
1870年代以降、クーン=ローブ商会は、今日でいうベンチャーキャピタルとして、当時の鉄道事業に積極的に投資。モルガン財閥と競争を繰り広げた。
戦後も1947年発行のオランダ国債や欧州石炭鉄鋼共同体債、オスロ市債、オーストリア国債、デンマーク国債、ジャマイカ債の引受代表となった。引受けた国債銘柄はモルガン・スタンレーよりもずっと幅広い。


ジェイコブ・シフ 1847年生まれ
1865年(18歳)に渡米する。1870年にクーン・ローブ商会に就職。
1885年、ソロモン・ローブの娘と結婚し、シフも姻戚となった。
当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行家の1つ」と謳われたクーン・ローブの頭取に就任する。鉄道建設に投資し、ニューヨークのペンシルベニア駅やハドソン川地下横断トンネルなどを建設、電信会社、ゴム産業、食品加工の分野にも進出した。


(クーン・ローブ商会はロックフェラー家始祖である)ジョン・ロックフェラーへのメインバンク、財政アドバイザーとしても有名。
国内の主要産業への投資のみならず、クーン・ローブを通じ中華民国や大日本帝国などの公債引き受け等にも参画。
日本政府が日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をイギリス・ロンドンで販売した際、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海のバクー油田の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否。その代わり同家は行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介した
日本は戦費を調達できたが、戦後は金利を支払い続け、シフは「日露戦争で最も儲けた」。1911年にはクーン・ローブはロックフェラーと共同で、後にチェース銀行と合併するエクイタブル・トラスト社を買収した。関東大震災のときは台湾電力の社債を引受けている。



クーン・ローブ商会はロックフェラー家だけでなくアメリカの巨大企業に近づいていった。
経営者としてジョン・D・ロックフェラーやエドワード・R・ハリマン、アンドリュー・カーネギーの後援者となり、ロックフェラーのスタンダード・オイル社、ハリマンの鉄道、カーネギーの鉄鋼帝国に融資、巨大財閥に育成した。その後、モルガン家、ビルド家、ドレクセル家という当時の三大有力者と提携し、ウォール街の銀行連合を形成する。

1974年、ネルソン・ロックフェラーが副大統領に指名された時に、個人資産を公表しなければならなくなった。その時に明らかになった事は、ロックフェラー家の資産は、ジェイコブ・シフ以来、クーン・ローブ商会が財務管理しており、その投資はすべてクーン・ローブ商会の承認を受けなければならなくなっていたということである



ロックフェラーはクーン・ローブ商会がヨーロッパのロスチャイルド家の代理人だと知った上で関係を持ったのか、それとも知らなかったのか。
あるいはロスチャイルド家はすでにライバル視していたが、アメリカのロックフェラーはその意識が薄かったのか。
アメリカでは1890年にシャーマン反トラスト法が制定された.
これでロックフェラー家などは目の敵にされたので、ヨーロッパの財閥が救いの手に見えたのかもしれない。
ロスチャイルド家は商商売重視でありながら(商売重視だからこそ?)、イギリス王家や政府、フランス政府、カトリック教会などと非常に関係が深い。

ともかく日露戦争で最も儲けたロスチャイルド家の代理人ジェイコブ・シフが間を取り持つような形でアメリカの中央銀行となる連邦準備制度の仕掛け人・FRBの創立メンバーが近づいたのである。

多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。「準備」とは預金準備のことを意味する。

(運命とは不思議なもので、日本の現在の天皇の誕生日は12月23日ですね。1933年ですけれども)

私は少し前に議会制度があって予算で動く国家が昨日今日で大金を用意など出来ないと書いたが、「預金準備」があればそれも可能になるということ。
「預金準備」や「外貨準備」があると、金を出せと言われれば断る理由がなくなる。

1921年4月、ポール・ウォーバーグがInternational Acceptance Bank (IAB)というノンバンクをニューヨークで開業した。主要株主はクーン・ローブ、M・M・ヴァールブルク&CO、N・M・ロスチャイルド&サンズおよびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上独占した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。

ポール・ウォーバーグはFRBの設立準備会議の出席者の1人。彼もジェイコブ・シフと同じくソロモン・ローブの娘と結婚した。

ロスチャイルド家だけでなくユニオン・バンクもIAB の経営を支えた。ロックフェラーのEquitable Trust Company(現・JPモルガン)やディロン・リードも協力し、IAB の短期信用網をティッセンなどが利用した。

アメリカはヨーロッパ・ロスチャイルド家が支配したようなものとなった。




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# by yumimi61 | 2018-06-12 16:31
2018年 06月 11日
日本国憲法の秘密-755- (外貨準備と貿易について)
沙河会戦
ロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。

キャリアのクロパトキンで連戦連敗したので、ノンキャリアだが輝かしい実績をを持つグリッペンベルクが送りこまれたが、依然クロパトキンが居座り全体の指揮をとらせてもらえなかった。
しかしグリッペンベルク担当した軍のみを引っ張り攻勢をかけ日本軍を窮地に追い込むが突如退却が命じられる。

これは陸軍の戦いである。
イギリスが誇るのは海軍。
日露戦争でもイギリスの観戦武官が日本軍を指揮していたという話もある。
但し陸の戦いはあまり得意とはしておらず、クリミア戦争でもフランス軍に頼っていたくらいだった。
またフランス軍は昔から外国人部隊が存在している。
そうでなくてもヨーロッパは兵士や部隊を派遣する傭兵という制度が昔からあるので、戦っているのが必ずしもその国の人間とは限らない。

海軍が気候に大きな影響を受けたことは前にも触れたが、それは陸軍も同じだったはず。
生身の人間が屋外で戦うのであれば尚の事その影響は大きい。
温暖な季節や地域で天気が安定しているときならばよいが、そうでない場合はそれなりの知識や経験、慣れが必要になってくる。
ロシアでの戦いは寒い季節が問題となるだろう。
耐寒性がない熱帯や温暖の地域からの兵士ならば寒さだけでまいってしまう。
これが逆も然りで、熱帯地域での戦いは耐暑性がある者でないときつい。
その両方を兼ね備えるということは、気候区分をみてもなかなか難しいことが分かる。
1人の人間はもちろんのこと、国としても。
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吉良竜夫『生態学からみた自然』(1979年、河出書房新書)より


熱帯・亜熱帯(赤色)、温暖(オレンジ色)、冷温帯・亜寒帯(水色)の3つの気候帯が国内に揃っているのは日本とアメリカくらいで、日本の熱帯・亜熱帯は沖縄だけ、アメリカはフロリダ半島だけ。

この気候区分から戦地での適応性を考えれば、日本とアメリカが比較的どこでも戦えると考えることが出来る。
キャリアのクロパトキンが日本の軍事力を高く評価していたということだが、例としてこのような考えによって軍事力を評価することもできるので、クロパトキンの評価が間違っているとか見当違いだとかは言い切れない。


ヨーロッパは辺境の地で気候的にも恵まれているとは言い難い。
今でこそヨーロッパには産業革命後の先進国や列強国のイメージが強いが、大昔のヨーロッパは貧しく文化も技術も立ち後れていた。
そんなわけでシルクロードを通じて東洋から運ばれてくる物品はヨーロッパにとっては貴重品となった。
シルクロードを通じての貿易は大陸を無事に移動できる人を介さなければならない。ヨーロッパ人が自力で運ぶのはいろいろな意味で難しい。
地中海や黒海の沿岸地域が交易の要衝となった。
やがて大航海時代を迎え、海を通じて直接行き来できるようになる。
当時はまだまだ航海は命がけであったが、成功すれば利益率は数千倍にもなったという。
ヨーロッパに持って来れば貴重で高価なものがアジアでは驚くほど安く(あるいはタダ同然で)手に入ったということだろう。
そのうち植民地争奪戦が始まった。
奪い合うものも物品から労力、産業革命が拡がってくると資源などに変化していった。
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第一次世界大戦前の勢力図

争奪戦と言ってもそう簡単なことではない。
まずネックになるのが気候である。
隣国ならともかく遥々大陸を渡り幾つもの国や地域を超えて攻め入るなんて現実的ではない。島国ならばそもそも海から行かなければならない。
長く命がけの航海の後に、戦意を削ぐほどの全く違う気候の中で戦うというのは容易ではない。下手すれば免疫を持たない感染症でみんな死んでしまう。
争奪したい国が使った手は、飴(武器や麻薬や宗教)を提供して、特定の地域や民族を支援し、その者達に同じ国内で戦わせるように仕向けたこと。
要するに傀儡政権となりやすいであろう人や地域を支援したのだ。従って武力よりも情報収集能力などが重要となる。
このように策で第一次世界大戦前のアジアはほとんど植民地支配されていたような状況だった。
日本も例外ではないのである。

飴なので受け入れられる要素があることも確かだが、厄介な問題を引き起こした。
日本での鎖国と呼ばれるものもこれを制限することが第一の目的である。
キリスト教の制限は日本だけでなく、中国、朝鮮、ベトナム、カンボジア、タイなどでも行われていた。中国では麻薬も禁じ戦争にまで至った。
日本は江戸末期の開国まで外に出たこともないような印象を持っている人もいそうだがそんなことはない。
日本も幕府の許可で受け入れていた国があるように、日本も外国と朱印船貿易を展開しアジア各地に拠点を持っていた。(上手くいかず交易が衰退した国もある)
タイには日本人町があったくらいである。
自由に貿易させておくと問題が多発するので幕府が直接管理に乗り出した、それを鎖国と言ったりもする。
そもそも当時は誰でも船で日本来られたわけではない。来ることが出来る人や出来る国というのは自ずと限られていたわけで、相手が少ないからといって国を閉じていたということにはならない。
また江戸時代こそ戦争をしていないが、戦国時代もあったくらいで、日本はもともと軍事力の評価が低いわけではない。日本から傭兵が海外に進出していた時代もある。
タイで日本人町が設けられたのはスペイン侵攻を退けたのが日本人傭兵だったから。


遠隔地へ植民地を拡大し「太陽の沈まない国」と言われた国がある。
スペインとイギリスである。
この「太陽の沈まない国」は覇権を意味した。
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現在ではイギリスとフランスが保有領土を含めると、いずれかで太陽が昇っていて「太陽の沈まない国」と言えるそうである。
アメリカもインド洋にヴァージン諸島、太平洋にグアムなどを保有しているので(ハワイ島は州なので上記のフロリダ半島にプラスすべきでしたね)、太陽が昇っている時間が長い。東西に大きいロシアも同じく。
あとは白夜とか。


「日出ずる」ことや「日没する」ことはごく当たり前のこである。
日が出たらいずれまた沈むのが普通だし、日没したらやがてまた昇るのが普通。
太陽が沈まないことを覇権の象徴とするならば覇権の象徴でもない。
でも当たり前のことが当たり前に繰り返されるってとても大事なことですけれどもね。

「日出ずる国」という表現はある時期から国粋(こくすい)主義に利用されるようになった。

国粋主義
自国の文化的ないし政治的伝統の独自性または優越性を強調し,それを政策や思想の中心的価値と考える思想一般をさす。
衆議院議員の志賀重昂が1888年に雑誌『日本人』にて発表した論文「国粋保存旨義」の中で使用された用語。明治維新に始まる極端な西欧文化の流入による近代化に警笛を鳴らし、当時の明治政府の政策を欧化主義として非難したもので、日本人の本来の文化や歴史、その長所を尊ぶことを主張している。即ち天皇を頂点とする日本の国家体制を支持し、その優越性と長久性を強調する国体論が主となっている。
一般論としての国粋主義は、国家に固有の文化・伝統を礼賛して愛国心や愛郷心で意識の発揚をはかる、思想や運動のことで、一般的には保守思想の一つとされる。


天皇を頂点とするとあるが、何をもってして頂点とするかということになるが、日本では天皇が実権を握っていない時代も長い。
また幕末から明治維新の混乱期に付けこんで天皇を摩り替えた説というものもある。中国から連れてきた人物ではないかという推測であり、まるで信憑性のない話でもない。
私はそれにイギリスかカトリック教会が絡んでいるのではないかと思う。あるいはなにがしかの事情を知っている。
また「西欧化を良しとしない」ということは、逆に言えば同じ外国でも「アジアならばOK」ということになる。
でもアジアの国々と日本がそのままイコールで繋がるかと言えば、全てそういうわけにはいかない。
古くから朝鮮や中国との交流がある日本で、しかも中国からは多くの文化を取り入れた日本において、日本固有の文化や伝統や歴史ってなんだろうとも思う。

「日出ずる」の出所は日本ではなく中国の歴史書『隋書』である。

日出處天子致書日沒處天子無恙云云
(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)

『隋書』の中には倭国伝という記述があって、そこに倭国(日本)のことが記され、随の時代の遣隋使についても書かれている。
遣隋使は倭国が隋に学ぶために派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。日本という名称が使用されたのは遣唐使から。

『隋書』には600年の遣隋使の記述もあるが、日本の歴史書『日本書記』には対応記述がない。
日本は教えを乞う側だったので書かなかったのかもしれない。
人間って良いことは書くけれども、格好悪いと思うと書かなかったりしますものね。都合の悪い部分は後で削除したり。

「日出ずる」は607年の遣隋使についての記述の中にある。
607年の遣隋使は『隋書』と『日本書記』両方に記述がある。
でも『日本書記』のほうは時代と中国の朝廷名が一致していない。間違えている。遣隋使なのに大唐に遣したと記述されている。

『日本書記』
七月戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利爲通事
「秋七月の戊申の朔にして庚戌(三日)に、大礼小野臣妹子を大唐(もろこし)に遣す。鞍作福利を以ちて通事とす

『隋書』
其王多利思比孤遣使朝貢 使者曰 聞海西の菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云 帝覽之不悦  謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者、勿復以聞
その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。


「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」と国書に記して隋に持って行ったのは日本ということである。
隋の帝(君主)はその国書の文章で不愉快になったらしい。
それが『隋書』に記されていて、『日本書記』には書かれていない。
不愉快になったのは「日出ずる」「日没する」だという説もあれば、そうでなくて(自国の)「天子」という表現だという説もある。
天子(君主)は確かに、天(天帝)の子であり天命により天下を治めるとする古代中国の思想を起源としている。


ともかく「日出ずる處の天子」が記されているのは隋書であって日本の歴史書ではない。
しかも中国の君主を不愉快にさせてしまって無礼であると書かれているのだ。
実は「日出ずる国」という表現はカトリックと深い関係がある。

<カトリック高田教会へようこそ> 日本の8月と平和 2013年8月19日より
カトリック聖歌集32番と271番です。これらは、第二次世界大戦中の聖歌集にもありました。

32番 祖国-日出ずる国
1 日出ずる国  わが日の本
2 美(うま)しくによ わが祖国よ さいわい 恵みたまえ 平和の 光みちて 天(あま)つみ親 大君を みむねのままに 進みゆけ まもれ とこしえに とわに ゆるぎなく         
       
271番 み心-よろずの国   
1 よろずの国の 君たる主イエズス
2 わが日の本の 国をことほぎ やまとのくにを なれにぞささぐ 神のみくにと なさしめ給え(おりかえし) きみのみ心に 我らとこしえに
3 闇をとりでの 敵をくじきて 誠をぞ誓わん 主よ王たり給えみ旗のもとに 勝ち歌あがる

32番の「天つみ親」は、天皇でしょうね。国民を代表する意味では、いいと思います。271番の「敵をくじきて」の「敵」とは、罪とか悪魔をさします。このような聖歌を歌うときは、やはり日本という国を意識します。神様が造られた日本、神様に愛されるその国民を思うと、その繁栄のために祈らずにはおれません。









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# by yumimi61 | 2018-06-11 15:28
2018年 06月 10日
日本国憲法の秘密-754- (外貨準備と貿易について)
日露戦争 1904年2月8日 - 1905年9月5日
日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。


自国製ではなくイギリス製の軍艦を揃えていた日本が、資金もなく戦争が勃発してからアメリカやイギリスに資金調達に出向いたという日本が、真の意味で「近代戦」の主役になることは難しい。
しかし鉄砲玉、操り人形、猿回しの猿、そういう主役にならばなれるかもしれない。
また「総力戦」ということで言えば、「日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存」が総力を意味することもできる。

日露戦争は観戦武官がいたことで有名である。
「グローバルな規模の戦いを観戦しよう!」って・・まるでオリンピックか何かのようで違和感は禁じえない。

観戦武官
日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ヶ国から70人以上の武官が派遣されていた。日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。観戦武官が持ち帰った日露戦争の戦訓は、第一次世界大戦の各国で活かされることになる。

Military attachés and observers in the Russo-Japanese War←英語版のほうがかなり詳しい
Military attachés and observers in the Russo-Japanese War were historians creating first-hand accounts of what was arguably the world's first modern war.
They helped to create primary-source records of this war between Imperial Russian forces and Imperial Japan forces, which has been characterized by some as a rehearsal for the First World War.



日露戦争の観戦武官の1人にダグラス・マッカーサー(第二次世界大戦で連合国最高司令官)の父親がいた。
マッカーサー父は1900年5月~1901年7月までフィリピンの軍政長官(Military Governor)だった。実質的に植民地の総督である。
以前も書いたが、フィリピンは世界でも類を見ないカトリック国である。
その歴史はスペイン領だった時代に始まっている。
フィリピンは1565-1898年がスペイン領で、1898-1946年がアメリカ領。

そのマッカーサー父のフィリピン総督(軍政長官・民政長官)の後任は、後に大統領になるウィリアム・タフトである。
フィリピン総督時代が1901~1904年で、大統領就任期間が1909~1913年。

(過去記事より)
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現職のウィリアム・ハワード・タフトは人気のある大統領であった。
そしてタフトの共和党は、両院の共和党多数派を通じて政権をしっかりと握っていた。
一方、ニュージャージー州知事の民主党候補者ウッドロー・ウィルソンは、まったくの無名であった。
タフトが再選されることは確実視されていた。
ところが突然、共和党の元大統領セオドア・ルーズヴェルトが大統領に立候補すると発表したのである。
ルーズヴェルトはタフトの票に大きく食い込んだ。
その結果、タフトの敗北は避けがたいものとなり、ウィルソンが勝利した。
しかしこの選挙は結局のところ、茶番に過ぎなかった。

黒幕は、ロンドンのアルフレッド・ロスチャイルド男爵であった。
銀行家たちはこれら3人すべてに資金協力していたので、誰が大統領になっても良かったのだ。
後に議会の証言で、クーン・レーブ商会では、フェリックス・ワーバーグはタフトを、ポール・ワーバーグとジェイコブ・シフはウィルソンを、そしてオットー・カーンはルーズヴェルトをそれぞれ支援していたことが明らかになった。
銀行家たちはタフトを見捨て、ルーズヴェルトを民主党勝利の道具として利用した。


この時(1912年)は誰が大統領になっても良かったのではなく、民主党のウッドロー・ウィルソンを勝たせたかったのであろう。だから共和党の票を割るためにノーベル賞受賞者である元大統領セオドア・ルーズベルトが引っ張り出された。
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何が言いたいのかと言うと、1912年の大統領選ではすでにロスチャイルドやクーン・ローブ商会が大統領戦の行方を左右していたということ。
左右された大統領の1人の歴史を辿るとフィリピン総督だった経歴があり、それはマッカ―サーにも通じる。
で、そのマッカ―サー父は日露戦争の観戦武官だった。

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沙河会戦後に撮られた、黒木為楨と観戦武官の集合写真
戦争中であるということを考えれば、何だかなぁ・・という写真だが、
黒木さんという御方は中央で寝そべっている方でよろしいのでしょうか?

黒木為楨の長男は黒木三次。
この人のことを前にも書いたことがある。日本銀行創立者・松方正義家と関係があるからである。
松方正義の長男(松方家後継者)の娘婿が黒木三次。

1923年2月3日に父・黒木為楨が死去したため、長男である三次が爵位を継承し伯爵となった。同年9月1日に関東大震災が発生すると復興を目的とした帝都復興院の参与に就任した。
帝都復興院の総裁は医師であり満洲鉄道の初代総裁でもあった後藤新平が就任し、幹部には後藤の腹心やブレーンが集められた。
後藤は巨額を投資する大規模な復興計画をぶち上げたが、あまりに巨額過ぎた(国家予算1年分)ため反対もあり承認された予算は半分弱くらいとなった。しかし現在の東京という都市の基礎を築いた。
NHKの前身である東京放送局を設立したのは震災翌年の1924年のことでこちらも後藤新平が初代総裁になった。

黒木三次の養子になったのが西郷従達。黒木従達となった。
従達の父は西郷隆盛の甥である西郷従徳。軍人であり貴族院議員。軍事参議官だった黒木為楨の下にいた。母は宮内大臣を務めた岩倉具定の娘。
黒木従達は1944年に東宮傅育官として宮内庁に入り皇太子明仁親王(現:今上天皇)に仕え、1977年に東宮侍従長となり、1983年に急逝した。

この人の最後は驚くものでした。明仁皇太子の執務室もあったであろう事務所から1983年1月、侍従長だった黒木氏は勤務時間中に仕事場を抜け出し、新宿のトルコ風呂(現在のソープランド)行き、興奮のあまり脳梗塞を起こして天に召されました。享年67歳。 黒木従達侍従より>(心筋梗塞?)



沙河会戦(さか(しゃか)かいせん)
ロシア陸軍が日本陸軍に対して行った反撃により始まった会戦。
会戦の契機はロシアがロシア満州軍をアレクセイ・クロパトキンのみの指揮下であったものを、グリッペンベルクとクロパトキンの二頭体制に移行させる決定をしたことである。この決定に不満のあるクロパトキンは日本陸軍を攻撃して威信を示そうとした。


クロパトキンという人物は言うなればキャリア。エリートコース。
この人物が日本の軍事力を高く評価していたそうで、戦争が始まると自身の推察に沿うように連戦連敗という結果を出していく。

1898年に陸軍大臣に任命されて以来宮廷武官の道を進み、事務能力に優れた政治的手腕の高い軍人として評価される。陸軍大臣時の1903年、皇帝ニコライ2世の勅命により極東視察のため来日、日本の軍事力を高く評価、日本との軍事衝突には一貫して反対していたが、日露戦争開戦直前にロシア満州軍総司令官に任命され日本軍と直接対決する事となる。

会戦においては敗北を繰り返し結果的に後退したのみだった。そして後退を繰り返した結果、各兵士の士気低下を招き終始指揮系統が混乱した。またクロパトキン自身も時勢に流されたその場しのぎの作戦指揮を展開したため、日露戦争においてロシア軍が敗北する結果に繋がった。

実戦指揮能力や決断力・判断力に乏しく日本軍に連戦連敗し、奉天会戦に敗北した責任を取らされロシア満州軍総司令官を罷免され第1軍司令官に降格される。
日露戦争後は軍中央から退き、第一次世界大戦ではロシア北部方面軍・第5軍を指揮しドイツ軍と戦うが大敗する。


やはりロシアもクロパトキンの指揮能力に疑問を感じたのだろう、グリッペンベルクが指揮官として送りこまれた。
こちらは言うなればノンキャリア。しかしクリミア戦争をや露土戦争などに従軍し結果を残している。
孤立無援な状況でトルコ軍の度重なる反撃を撃退して武名を挙げ、受勲多数。
グリッペンベルクは指揮を交代してもらえるとばかり思っていたのに、実際は交代してもらえなかった。

1904年に日露戦争が始まりロシア軍が徐々に北方に追われると、ベテランの将軍として反攻を指揮するべく11月に満州に派遣された。軍を閲兵して自信を深めたグリッペンベルクは「後退は許さない」と訓示して全軍で反転攻勢に転じるつもりであったが、実際はロシア満州軍総司令官アレクセイ・クロパトキンが依然大きな指揮権を有しており、全軍の一部の第2軍の指揮ができたのみであった。酷寒と補給の不足で戦線が停滞していた中、1905年1月25日にグリッペンベルクが渋るクロパトキンを押し切って開始した攻勢(黒溝台会戦)は日本軍を窮地に追い込むが、1月29日になって突然第2軍は退却を命じられた。この戦いの後グリッペンベルクは病気を理由に本国に辞意を打電、皇帝ニコライ2世に折り返し真意を尋ねられると、無制限の指揮権が与えられなかったことへの憾みを上申した。ニコライはグリッペンベルクに帰国を許し、感謝の意を述べた。折しもロシア本国では血の日曜日事件が発生して世情が騒然としており、共産主義者たちは将軍同士の不和を政府の無能の結果として攻撃した。

キャリアのクロパトキンは妙なプライドに凝り固まり後先見えなくなっていたのか、それともあえて日本優位に導くように上手く立ち振る舞ったのか。





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# by yumimi61 | 2018-06-10 16:42
2018年 06月 09日
日本国憲法の秘密-753- (外貨準備と貿易について)
1894年、露仏同盟締結 
 (1894-1895 日清戦争)
1902年、日英同盟締結 
 1904年、英仏協商締結

 
日露戦争 1904年2月8日 - 1905年9月5日
日露戦争も太平洋戦争同様に日本の奇襲攻撃で始まった。

すでに日清戦争を経験し、1890年代にはイギリスに発注して軍艦を作っており、英国貨公債で資金調達もしていた日本。
1902年には日英同盟を結んでいる。外国との戦争を同盟国に相談も報告もなく始めるわけがない。
日本は奇襲攻撃を仕掛けた。2日後には宣戦布告した。
なんの計画もなく戦争を始めたとは言わせない。
まず考えなければならないのは戦争を維持するための資金であるはずだ。そして武器や軍需品、兵士。

だというのに日銀副総裁だった高橋是清は悠長にも戦争勃発後にあてもなく資金調達にアメリカとイギリスに出向いたというのだ。
当時は飛行機ではなく船旅である。船の性能は今より落ちるだろう。となれば、到着までに1ヶ月くらいかかったって不思議はないのに、戦争が始まってから直談判だなんてどう考えたって発想がオメデタすぎる。
それが普通だというならば、戦争というものは私達が考えているような悲惨の塊が降り注ぐようなものではなく、もっとなんていうか日常に寄り添ったルーティン的なものなんだろう。ゲリラ豪雨ではなく毎日しとしとと降る雨のような。
あるいは戦争に筋書きがあったから、特段慌てる必要もなかったということになる。

国立公文書館 アジア歴史資料センターより
1904年2月17日 ロンドン市場での外債募集を閣議で決定

1904年2月24日 外債募集のため英国に派遣される
(『坂の上の雲』文庫版第4巻、159〜167頁)



イギリスに派遣されたとあるが、一般的には2月24日に横浜から汽船でアメリカ・ニューヨークに向かったというのが通説である。
そしてアメリカで無下に断られたので、それからイギリスに向かった。

日本政府は日露戦争にかかる戦費のうち外貨を1億5000万円と見積もった。国内での調達含めて全体の戦費3億円ほどの見積もりだったようだ。
日清戦争の戦費がおよそ2億円だったということなので、それよりは多い
日本が保有している外貨が5000万円分くらいだったので残り1億円分の外貨を調達することが高橋是清に命じられた。

当初イギリスでも散々だったという。
まずすでに発行済みの日本の公債がだいぶ値下がりしているという状況にあった。
それは強国ロシアと戦争なんか始めたからである。
高橋是清はロンドンで銀行幹部に面会し引き受けをお願いするも良い返事はもらえず。
そうこうしているうちにまた1ヶ月が経っていた。もう4月。
日本を出発したのは冬だったが、季節はもう春。もっともイギリスの春の訪れは日本よりも遅いだろうけれども。


ロンドンの銀行家は口を揃えて言ったという。日本には勝ち目がないと。
後々紙屑になるようなモノは誰も買いませんよ、と。
だから高橋是清はこう説得したという。

この戦争は自衛のためやむを得ず始めたものであり日本は万世一系の皇室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存である。
(このたびの戦争は 自衛上やむを得ず始めたものでありますが、しかし日本国民は2500年来の万世一系の皇室を中心とし、老若男女結束して一団となり、最後の一人まで戦う覚悟であります!)

最後の一人まで戦う覚悟って・・・
ロンドンの銀行家は何故かこれに食いついたらしい。
そしてやっと次の条件ならば引き受けてもよいと、条件を提示してきた。

1、発行公債はポンド公債とする
2、関税収入を抵当とする
3、利子は年6パーセント
4、期限は5年
5、発行価額92ポンド
6、発行額の最高限度300万ポンド

希望額は1000万ポンドだったのでどこにも足りない額である。
交渉の末、期限は7年に、発行価額93ポンド、発行額の最高限度500万ポンドで契約に漕ぎ着けた。

だけどそう、まだ500万ポンドの不足。
この状況で登場し、残り500万ポンドを全て引き受けると安請け合いしたのが言ってくれたのがジェイコブ・シフである。
アメリカのクーン・ローブ商会の代表であったが、祖先はフランクフルトのゲットーでロスチャイルドとお隣同士。
アメリカでロスチャイルドの代理人をしていた。


引受人となったのは、
(イギリス)パース銀行、香港上海銀行
(アメリカ)クーン・ローブ商会、ナショナル・シティ銀行


当時、イギリスのキャメロン前首相の高祖父が香港上海銀行で引受を担当してくれた人だとか。

日本の戦費調達を支援したのはキャメロン英首相の高祖父だった! 銀行家として高橋是清から真っ先に外債引き受け…
産経ニュース 2016年6月13日


キャメロン英首相の高祖父(祖父母の祖父)、サー・ユーウェン・キャメロン氏が日露戦争の戦費調達で日本を積極的に支援していたことが明らかになった。氏は、香港上海銀行ロンドン支店長として開戦前から融資案を作成し、横浜支店を通じて日本政府と独占交渉するなど、日本の外貨獲得に奔走していた。背景には日英同盟があった。欧州連合(EU)からの離脱機運の高まりで苦境に立つキャメロン首相だが、日本との深い縁(えにし)が浮き彫りになっている。(ロンドン 岡部伸)

英国立公文書館とベアリングス文書館所蔵の電報や書簡によると、キャメロン氏は開戦前年1903年10月、ランスダウン外相から要請を受け、名門のベアリングス銀行と協力して同盟国の日本への融資の検討を開始。04年1月、横浜支店長に「税収入の担保が得られ、適度な額であれば外債を引き受けるべし」との電報を送り、同2月には、1千万ポンドを年利6%、発行価格85ポンド(額面100ポンド)、期限10年という引き受け案を作成して横浜支店を通じて日本政府と交渉した






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# by yumimi61 | 2018-06-09 00:26
2018年 06月 08日
日本国憲法の秘密-752- (外貨準備と貿易について)
フランス革命戦争・ナポレオン戦争 ・・・資本家は大儲け、イギリスではこの時期に産業革命が進む

カトリック・イエズス会の残党(ロシア・プロイセン)→ナポレオンに反撃を食らわす ・・・カトリックの復権

クリミア戦争 ・・・ロシアの軍事的強さを思い知らされる+プロイセン台頭

普仏戦争 ・・・盟友イギリス(王家はドイツ出身)はフランスを支援せずフランスは負ける
        フランスはイギリスにもドイツに対しても不満を抱く

露土戦争 ・・・ロシアがやっぱり強かったけれど、講和条約締結後にドイツが横やり
        ロシアはドイツに対して不満を抱く(友好関係解消)

フランス→ベルギー(イギリス王家の親戚・カトリック支配)経由→ロシアに投資

1894年、露仏同盟締結



アレクサンドル3世  在位1881~1894年
父2世が暗殺されたことにより36歳で皇帝に即位。

アレクサンドル3世は次男で皇帝を継承するものと思わず育ってきたことや父が暗殺されたことからくる不安もあって、統治者としての自信をあまり持っていなかった。
そのことが却って態度を硬化させた。鎧が必要だったということなんだろう。
近代化に舵を切るのである。(それは資本家のお世話になることを意味するのだが)
また彼は露土戦争の講和条約を修正させたドイツ首相のオットー・フォン・ビスマルクやそれに応じた父親も快く思っていはいなかった。(その後ろにいたのは資本家なのだが)
というのも彼は露土戦争に従軍していたから。ロシアが獲得した領土の放棄を強いられたことはやはり不満に繋がった。
戦争こそ回避したがドイツとの友好関係には終止符を打った。


1883年、財政難に陥っていたロシアに公債発行の引き受けを申し出たのがロスチャイルド・パリ家。
この見返りにバグー油田内の最大油田を譲ってもらうことになった。
油田とスエズ運河を手に入れたロスチャイルド家はサミュエル商会を通じてアジアへと進出していくことになる。
同じころバグー油田では、後にソ連の最高指導者となるスターリンがロスチャイルド家に雇われていた。
アレクサンドル3世は列車事故が原因の腎不全にて1894年49歳で死去した。


後継者は息子のニコライ2世。これがロシア帝国最後の皇帝となる。ラストエンペラー。
ニコライ2世の妻はイギリスのヴィクトリア女王の孫にあたる女性で、その父親はヘッセンの君主。
ニコライ2世は父親が亡くなった年1894年に彼女と結婚。

ニコライ2世の妻
ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックス(Victoria Alix)として生まれる。代父母はプリンス・オブ・ウェールズ(後のエドワード7世)夫妻、ロシア皇太子(後のアレクサンドル3世)夫妻であった。母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母ヴィクトリア女王に育てられたため、ドイツ人というより「イギリス人」であった。

「イギリス人」とあるが、ヴィクトリア女王もその夫もドイツの家系で、ヴィクトリア女王の次女の夫もドイツの家系であり、「イギリス人」というより「ドイツ人」と言ってもよいくらい。
つまり彼女との結婚は「イギリス」と「ドイツ」に強いコネクションが生まれることを意味する。
皇帝だった父親も祖父も早くに不穏な死に方をしたのだから、ニコライ2世だって当然いろいろな面で警戒感は強いはず。

ちなみにこのニコライ2世は皇太子時代に日本を訪れたことがある。
ウラジオストクでシベリア鉄道の起工式に参列するため、1890年11月にロシアを離れ、エジプト、インド、スリランカ、シンガポール、ベトナム、中国などをアジア各地を歴訪し、1891年4月27日に日本の長崎に入った。
ロシアはアロー戦争の仲介と条約で外満洲を手に入れたため、その外満洲の港までシベリア鉄道を引けることになったのだ。
イギリスにしたら「戦争に勝ったのは我が国なのにどうしてロシアが」という気持ちがあるだろう。
当時の清(中国)はロシア寄りだったということになる。
一方アロー戦争でイギリスの盟友だったフランスはそのロシアのシベリア鉄道に投資していた。当初はドイツが投資していたが、ロシアとの友好関係が危うくなってフランスが取って代わったような形となった。
ロシアと中国の接近、さらにはフランスまで。イギリスは日本と組むしかない。そのために傀儡政権を樹立させておいたのだから。
こうして日清戦争と日露戦争が勃発することになる。間に位置する朝鮮半島の取り合いである。
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他国ではこんな見方もあるくらい。
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1891年4月に来日した皇太子ニコライは、長崎、鹿児島、神戸、京都、大阪、奈良、横浜、東京、鎌倉、熱海、日光、仙台、松島、盛岡、青森と日本を縦断し、5月31日に離日してウラジオストクに向かう予定だった。
ところが5月11日、琵琶湖遊覧のために訪れた滋賀県で警護にあたっていた者がサーベルでニコライを切りつけた。
ニコライは後頭部の下側と背中上部に負傷した。ということは犯人は首を狙ったのかもしれない。
来日前ロシアと日本の間では万が一ニコライに何か行われた場合には日本の皇族に関する刑法規定(天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、または加えんとしたる者は死刑に処す)を準用することが取り決められていたという。しかし犯人は死刑ではなく通常の謀殺未遂で無期判決が下った。
ニコライは予定を変更して東日本にも行かず、5月19日離日した。


皇帝となったニコライ2世が父の死とほぼ同時に結婚によって強いコネクションを結んだということは、「イギリス」「ドイツ」に対して警戒感を持っていたということになろう。
相手方(イギリス・ドイツ)にとっても軍事的に強いロシアの懐に送りこむことは悪い話ではない。
要するにロシア帝国の終わりの時代はイギリスや一度は険悪となったドイツともそれなりに近い関係にあった。

ニコライ2世は日露戦争(1904-1905)と第一次世界大戦(1914-1918)の時の皇帝である。
日露戦争前にイギリスが戦艦を日本にもロシアにも売り込んでいたという話を書いたが、商売だからという理由だけでなく、ロシアとは王家が縁戚関係にもあったのだ。


【ドイツとイギリスとロシアの王家・皇帝の親戚関係】

イギリスのヴィクトリア女王(在位1837-1901)
世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王。
現在のイギリス女王であるエリザベス2世の高祖母にあたる。

在位期間1位が現女王で、2位がヴィクトリア女王。

ヴィクトリア女王の娘たち
・長女は第2代ドイツ皇帝(プロイセン王)と結婚・・・2人の間に生まれた長男が第3代ドイツ皇帝(在位1888-1918)
・次女はドイツの領邦ヘッセン大公国の君主と結婚・・・2人の間に生まれた四女がニコライ2世(在位1894-1917)と結婚


ヴィクトリア女王の長男
エドワード7世(在位1901-1910)
デンマーク王女と結婚した。
エドワード7世が結婚したデンマーク王女の妹がロシアのアレクサンドル3世皇帝(在位1881-1894)(ニコライ2世の父)の妻である。


1894年、露仏同盟締結 
 (1894-1895 日清戦争)
1902年、日英同盟締結 
1904年、英仏協商締結
 (1904-1905 日露戦争)

一時期イギリスとフランスは険悪だったが日露戦争が始まった2か月後に協定を結んでいる。
日本では英仏協商と言われるが、元はフランス語で"Entente Cordiale"であり、直訳的には友好協定のほうが近いらしい。
ただ協定を結んでいるのが日露戦争が始まってからなので、やはり何かしら日露戦争に絡んでの情報のやり取りがあり、協定を結んだということであろう。
つまりイギリスはフランスが投資しているロシアが負けることを示唆したと考えられる。
ロシアの軍事的強さはイギリス・フランスが誰よりもよく知っていたはず。
そしてその評判はイギリス・フランスに限らず世界的なものであったはず。だから当初日本がロシアとの戦争費用を調達することは容易ではなかった。
にも関わらず、イギリス・フランス両国が開戦まもなくロシアの負けを読んでいたということは、裏工作があったということに他ならない。

また日本で協商と呼んでいるようにビジネスや資本に関係していることが分かる。
ロスチャイルド家はパリ家のほうがロシアやノーベル家との関係が近かった。
そのロシアとイギリスが対立して、ロスチャイルド家のパリ家とロンドン家が分断されるようなことがあるとわりと面倒なことになる。
ロンドン家とパリ家が友好関係を確認したという意味もあるのかもしれない。







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# by yumimi61 | 2018-06-08 11:35
2018年 06月 07日
日本国憲法の秘密-751- (外貨準備と貿易について)
イギリスの産業革命1700年代後半~1830年頃。産業革命は資本主義の確立にも寄与。

アヘン戦争(1840-1842年) イギリス大勝
クリミア戦争(1853-1856年) 軍事的にはロシア優位、イギリス・フランス・ロシアともに戦争続行が難しくなり終結 
アロー戦争(1856-1860年) イギリス・フランスが勝利するも泥沼化、ロシアが調停に入る
普仏戦争(1870-1871年) プロイセン(後のドイツ)勝利、フランス第2帝政崩壊
露土戦争(1877年-1878年) ロシア勝利するも、ドイツが仲介し講和条約を修正

ロスチャイルド家のような金融家・資本家・実業家は、戦争は大きな商機である。
商売だから戦争に勝つことや負けることを目指しているわけではない。利益を上げることを目指している。
だからどっちが勝っても負けてもよい。但し負けて大きく政情が変わり、自分が今いる国に居られなくなったり、その国で商売できなくなるようなことが考えられれば、勝敗も関係してくるが。
商売自体は商売相手の政府や軍が勝っても負けても成立する。どちらでも稼げる。
むしろお得意様の政府が負けて多額の賠償金を支払わなければならなくなった状況のほうが稼げるくらいかもしれない。

ロスチャイルド家は、ドイツ(フランクフルト)、イギリス(ロンドン)、フランス(パリ)、ナポリ(イタリア)、オーストリア(ウィーン)に散らばって商売をしていた。
ドイツとイタリアは1901年に閉鎖し、オーストリアは1938年に閉鎖。
それらの国が戦争を行えば、ロスチャイルド家は儲かったのだ。
商売がグローバル化したり、資本主義が進めば、自国だけでの仕事とは限らなくなり、国境を超えて顧客を得られるようになる。
しかも前にも書いたようにロスチャイルド家は代理人や代理店という手法で事業を展開したので、自国保護のための外資の規制に引っ掛かりにくい。
さらに資金を金融立国スイスの秘密が徹底的に守られる銀行や全責任を負うバンカーを経由させたり、そこに集めたりすることで、資金の流れが追いにくくなる。


ロシア帝国がオスマン帝国に勝利し軍事力の強さを見せつけたものの条約修正に応じて内政不安定を招いた露土戦争から3年後の1881年、ロシアの皇帝アレクサンドル2世はテロ組織「人民の意志」の爆弾テロにより暗殺されてしまった。
後継は2世の息子のアレクサンドル3世。

実はロシア皇帝は現代のドイツ地域(ドイツ諸邦やプロイセン)から妻を迎えているケースが多い。
アレクサンドル2世(1818-1881)は結婚相手を求めてドイツを旅したくらいである。
そこで見つけたお相手はヘッセン大公(ヘッセンの君主)の娘。とはいっても実父は大公ではなく大公妃の愛人。
1838年、結婚相手を求めてドイツを旅していたロシア皇太子アレクサンドルは14歳のマリーを見初めた。彼はマリーが「不義の子」であることを承知で結婚を決意し、難色を示した母・皇后アレクサンドラ・フョードロヴナを押し切った。

ヘッセンと言えば・・・

ロスチャイルドが台頭してきたのは、カトリックとプロテスタントの対立(宗教改革)に端を発する貴族の勢力争いである。
オーストリアやチェコスロバキアの辺りを中心に広大な領地を支配していたハプスブルク家(神聖ローマ帝国君主家でありカトリックの盟主)は、北や西側のドイツの小中領邦をも統一して大ドイツ帝国の実現を目指していた。
このハプスブルク家に対抗してドイツ周辺の王族を統一し新王国の建設を企てたのがヘッセン家という貴族。
ヘッセン家はドイツ中部に領地を持っていた。
ハノーヴァーやプロイセン、ザクセン・ヴァイマール、バイエルンなどを統一し、プロテスタントのルター派やカルヴァン派(スイス・蓄財は悪ではない派)と繋がる君主を立て、絶対王政を敷こうとしていた。
ロスチャイルドは元々はヘッセン家の金庫番であった。

ハプスブルク家(カトリック)vsヘッセン家(プロテスタント)

■諜報活動担当(通信・郵便):タクシス家 ・・当主としてヨーロッパ一の地主。モナコの産業を支配下に置く。ベルギーが本拠地。
■軍事担当(傭兵):スイス、サヴォイア家・・・麻薬販売、ダイアナ元妃を暗殺したとも言われている。
■資金担当:ロスチャイルド家
(全てがハプスブルク家とヘッセン家どちらの勢力にも加担していた。 vsオスマン帝国(イスラム)という戦いもあったゆえ)

1714年よりイギリスの王家がハノーヴァー出身となる。つまり反ハプスブルク家(カトリック)、親ヘッセン家(プロテスタント)ということになる。




ロスチャイルド家が大きく躍進したのがフランス発のフランス革命戦争・ナポレオン戦争。
フランス軍はユダヤ人解放政策を採った。

自由主義をスローガンに掲げるフランス軍は征服地でユダヤ人解放政策を実施したため、ドイツ・ユダヤ人にとっては封建主義的束縛から解放されるチャンスとなった。ロスチャイルド家にとってもヘッセン・カッセル方伯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却するきっかけになった。

1803年にロスチャイルド家はドイツで宮中代理人の称号を得ている。
1812年にロスチャイルド家始祖である兄弟の父親が死去。

遺言の中で5つの訓令を残した。1つはロートシルト銀行の重役は一族で占めること、1つは事業への参加は男子相続人のみにすること、1つは一族に過半数の反対がない限り宗家も分家も長男が継ぐこと、1つは婚姻はロートシルト一族内で行うこと、1つは事業内容の秘密厳守であった。

父の遺訓に従ってフランクフルトの事業は長男アムシェルが全て継承し、他の4兄弟はそれぞれ別の国々で事業を開始することになった。ウィーンには二男ザロモンが1820年に移住した。ロンドンはすでに三男ネイサンが移住していた。ナポリは四男カールが1821年に移住した。パリは五男ジェームズがすでに移住していた。


元々はヘッセン家(プロテスタント)の金庫番だったロスチャイルドであるが、ヨーロッパには対イスラムという戦いもあり、ハプスブルク家(カトリック)とも仕事をしたりもしていた。
そのうちフランス市民革命とナポレオン戦争(1799~1815)が勃発。新勢力の反乱を前に聖職者や王族、貴族など既得権者が一致団結。
ドイツのフランクフルト・ゲットー出身のユダヤ人であるロスチャイルド家にとって新勢力フランス軍のユダヤ人解放は歓迎すべきものだから、これまで上流社会をお得意様にしていたが新勢力を支援をしても不思議はない。
一方、聖職者や王族や貴族などが一致団結している。こちらにも大々的に垣根を超えて支援できる。願ったり叶ったり。


ロスチャイルド家は大儲けし、革命家ナポレオンは結局失脚することになる。(ちなみにヘッセン家も大儲けした)
ロスチャイルド家と同様に、この戦争が大きな転機となったのはカトリック教会である。
宗教革命によって危機を迎えていたカトリックは、ナポレオン戦争によって王族や貴族から再び信頼を得て権威権力を回復した。
どうしてカトリックが回復出来たのかと言えば、かなり手強い相手だったナポレオンの打倒に貢献したのがカトリック・イエズス会の残党だったから(イエズス会は当時はすでに解散していた)。

ナポレオンはイエズス会の残党がいたらしいロシアやプロイセンの反撃により失脚を余儀なくなされる。
となればカトリック同様に、ロシアやプロイセンはヨーロッパの王家や貴族に対して大きな顔が出来るようになるはず。ことによってはカトリック教会にも。
それはロシアやドイツがヨーロッパで優位に立つことを意味する。
偶然か必然か後にユダヤ人迫害が顕著になるのもその2国である。


アレクサンドル2世がヘッセン大公の娘(実父は男爵)と結婚したのは、ナポレオン戦争の後のこと。
クリミア戦争と露土戦争はアレクサンドル2世の時代に行われた。
産業革命を経て最先端の軍事力を誇ったイギリス、資本家に支えられたイギリス・フランス、イスラムの大国オスマン帝国が束になった戦いでも、ロシアを倒すことは出来なかった。
そこにナポレオン戦争の影を重ねてしまうことは十分にあり得る話だと思う。



アレクサンドル3世の妻は、デンマークの王女マリア(愛称ミニー)。
マリアの父親がデンマーク王のクリスチャン9世。母親はヘッセン家の娘。
父娘ともにキリスト教であることが分かりやすい名前である。
クリスチャン9世の祖先はデンマーク=ノルウェー同君連合(1524-1814年)の宗教改革を推し進めプロテスタント(ルター派・ルーテル教会)国家にしている。
ロシアは同じキリスト教ではあるが正教会であるも、ロシア皇帝はプロテスタントの国から妻を迎えていることが多い。但しロシアに嫁ぐ時には改宗をすることが条件となるが。

デンマーク王女のマリアは本当は長男に嫁ぐ予定だったが(アレクサンドル3世は次男)、婚約後の1865年に肺結核で亡くなってしまったため、1866年に次男と結婚した。

ミニーと姉アレクサンドラは美貌の王女であり、結婚年齢になると姉アレクサンドラと共にヨーロッパ諸王室から縁談が舞い込んだ。父クリスチャン9世は経済的窮地に追い込まれているデンマークを立て直すため、経済力のあるイギリス王室にアレクサンドラを嫁がせ、ミニーをヨーロッパ一の富豪と言われたロマノフ家に嫁がせる事にした。

(ミニーの)姉にイギリス王エドワード7世の妃アレクサンドラ、長兄にデンマーク国王フレゼリク8世、次兄にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にハノーファー王国の元王太子エルンスト・アウグストの妃テューラがいる。


アレクサンドル3世は次男で皇帝を継承するものと思わず育ってきたことや父が暗殺されたことからくる不安もあって、統治者としての自信をあまり持っていなかった。
そのことが却って態度を硬化させた。鎧が必要だったということなんだろう。
近代化に舵を切るのである。(それは資本家のお世話になることを意味するのだが)
また彼は露土戦争の講和条約を修正させたドイツ首相のオットー・フォン・ビスマルクやそれに応じた父親も快く思っていはいなかった。(その後ろにいたのは資本家なのだが)
というのも彼は露土戦争に従軍していたから。ロシアが獲得した領土の放棄を強いられたことはやはり不満に繋がった。
戦争こそ回避したがドイツとの友好関係には終止符を打った。

実際アレクサンドル3世も狙われていた。

1888年10月29日、アレクサンドルが乗った御召列車がボルキが脱線事故を起こした。事故当時、アレクサンドル一家は食堂車におり、彼は崩れ落ちる屋根から子供たちを守るため覆い被さり車外に逃がした。この時に負った怪我が原因で、後年アレクサンドルは腎不全を発症することになる。
(3世は腎不全にて1894年49歳で死去した)

この事故の前年1887年に暗殺計画が発覚したとして容疑者5人を逮捕し絞首刑に処した。この中の1人はレーニンの兄である。
暗殺首謀者らがいなくなったのだから脱線は事故だと思わせたかった人達がいたのかもしれない。


一方フランスは、クリミア戦争で台頭し普仏戦争で賠償金を勝ち取っていった隣国ドイツ(プロイセン)が憎くなってきていたが、武力的には一旦負けたわけだし、同じ武力で戦っても勝利は難しいとなれば戦争は行えない。
そこでフランスはベルギーを経由してロシアへの投資を始めた。
ロシアとフランスは1891年より同盟交渉を開始し、1894年に締結した。



すでに何度も書いているが、1714年以降のイギリス王家はドイツ北部の領邦ハノーヴァーの君主家がルーツである。つまりドイツ出身。
フランスが投資を経由させたベルギーという国は、歴史は古いが1つの国として独立建国したのは1830年のことである。今ではEUの首都と言われるくらい重要な位置づけにある。
このベルギーの初代国王レオポルド1世もドイツの出身。ドイツ中部のザクセン=コーブルク及びザクセン=ゴータという2つの領邦からなるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の君主家の出身。
イギリスのヴィクトリア女王の夫もその家系の出身。ポルトガル女王マリア2世の夫やブルガリアの君主も同家系出身。

そしてすでに述べたようにドイツとロシアの両国はアレクサンドル3世以前は友好関係にあった。
ドイツ領邦君主家出身でベルギー国王となったレオポルド1世もロシアで育ったようなものである。
生まれ育ったのはフランス革命からのナポレオン戦争時代。
ナポレオンは敵であったが、ヨーロッパを踏破していくナポレオンに自分の側近にならないかと誘われたらしい。神童伝説?
そしてイギリスとも関係を深め、イギリス王女と結婚。再婚相手はフランス国王の娘。

1795年、5歳の時にロシアの近衛軍イズマイロフスキー連隊の大佐となり、それから7年後には少将になった。この時、祖国ザクセン=コーブルク公国はフランス軍の占領下にあった。1806年にパリへ行った。ナポレオン1世と会った時、自分の副官になるつもりはないかと持ちかけられたが、レオポルトはこの申し出を断った。その後、レオポルトは兄たちに続きナポレオン戦争に加わることになった。

1815年に陸軍元帥になった。この年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親友として、皇帝と共にロンドンを訪れた。この時摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)の一人娘シャーロット王女に見初められ、5月2日に2人は結婚した。しかしシャーロットは1817年12月5日に息子を死産した後、間もなく死去した。レオポルトはその後もイギリスに留まり、国から毎年5万ポンドの年金を給付されてしばらくは数々の趣味に没頭していた

1830年にオスマン帝国から独立したギリシャから国王就任要請の打診をされたが、これを断った。しかし1831年6月26日には、前年にオランダから独立したベルギーから再び国王就任要請があり、今度は承諾することにした。7月21日にブリュッセルの王宮で初代ベルギー国王に即位した。
1832年8月9日、フランス国王ルイ=フィリップ1世の娘ルイーズ=マリーと再婚した。


ロシアのアレクサンドル皇帝も最初はナポレオンに敬意を示していたが、ナポレオンが1804年にフランス貴族を処刑したこともあり、同年ナポレオンが皇帝に就任した時には「ヨーロッパの圧制者、世界の平和の妨害者」と非難し国交断絶。ロシアはもともと友好関係にあったドイツだけでなくイギリスやオーストリアと同盟を結んだ。
このアレクサンドル1世皇帝の親友だったというレオポルド1世、その息子レオポルド2世はカトリック教徒であることを公表しており、ベルギーの政権政党も1884年以降はカトリック党が握った。
つまりロシアがアレクサンドル3世皇帝の時代、ベルギーはカトリックが支配していた。
フランスはそこを経由させてロシアに投資した。

レオポルド2世が私領地としたのが資源が豊富だったアフリカのコンゴ。

レオポルド2世の積極的なコンゴ植民地化政策を警戒したポルトガルは15世紀にコンゴ王国と関係を持って以来のポルトガルの権利であるとしてコンゴ川河口周辺に主権を主張するようになり、イギリスがポルトガルの立場を支持した。一方植民地問題で英仏を対立させようと目論むドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクはフランスと結託してレオポルド2世の立場を支持した。

コンゴをめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まる中の1884年、利害関係調整のためにビスマルクの主催で欧米14カ国によるベルリン会議が開催された。コンゴに中立の立場をとらせること、門戸を開放してコンゴを自由貿易の地にすることを条件としてコンゴがレオポルド2世の個人的私有地であることが認められた


ビスマルクは前述のロシアに露土戦争の講和条約を修正させた人物。
コンゴの件でイギリスが味方したポルトガルもカトリック教国、それに対立したベルギーもカトリック教国。
イギリスはベルギーと親戚でもである。

前にも書いた通り、コンゴはウランも産出した。

原爆に欠かせない資源はウランである。ウランに新たな需要が生まれた。
当時一番ウランを供給できた鉱山はベルギー領コンゴにあった。
コンゴはもともとベルギー王の私領地だった。
マンハッタン計画へのウラン供給を担当したのは、ユニオン・ミニエール(2001年にユミコアに改称、フランス語でUmicoreと書きます)という鉱山会社。
この会社のルーツはベルギーとドイツ国境付近でナポレオンが開発した亜鉛鉱山にある。
その後、その鉱山にソシエテ・ジェネラル・デ・ベルギー(ロスチャイルド系)の資本が入り会社組織化され、1906年にユニオン・ミニエールという社名になり、1968年まではベルギー王私領地であるコンゴの鉱山を中心に事業を行ってきた。
要するにマンハッタン計画を推進するアメリカにウランを供給していたのはイギリス王家にも繋がるカトリック・ロスチャイルド系企業だったということである。







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# by yumimi61 | 2018-06-07 14:36
2018年 06月 05日
日本国憲法の秘密-750- (外貨準備と貿易について)
イギリスで起こった産業革命は1830年頃までには完了していた。
イギリスはいち早く機械化・工業化・近代化を果たした国である。
当然そこには資本主義が深く関わり、資本主義の確立にも寄与した。

そんなイギリスの産業革命が軍事力に与えた影響を計る最初のチャンスになったのが清(中国)と戦ったアヘン戦争だった。
歴史ある大国、相手に不足はない。
戦闘自体はイギリスの圧勝で、清は破滅的な負け方をした。

アヘン戦争(1840-1842年)
■戦力
 イギリス側 19,000人(イギリス陸軍5,000人、インド陸軍7,000人、王立海軍7,069人
 清側 200,000人
■被害者数
 イギリス側 69人戦死、451人負傷
 清側  18,000~20,000人死傷

アヘン戦争は海軍が中心となった戦争。イギリスの艦隊は海を進み、中国の沿岸地域を次々と制していった。
彼らの支障になったのはモンスーン(風)だけだった。モンスーンの季節は無理をしないで休んでいる。主導権を完全に握った戦いぶりである。
そして少ない戦力と被害者数で大きな成果を上げた、
産業革命は高く評価されることになるだろう。


イギリスが戦った次なる大国はロシアである。

クリミア戦争(1853-1856年) 

フランス、オスマン帝国およびイギリスを中心とした同盟軍及びサルデーニャと、ロシアとが戦い、その戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまで及んだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。
この戦争により後進性が露呈したロシアでは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失う一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まりその影響は中国や日本にまで波及した

多くの歴史学者が認めているように、この戦争で産業革命を経験したイギリスとフランス、産業革命を経験していないロシアの国力の差が歴然と証明された。建艦技術、武器弾薬、輸送手段のどれをとっても、ロシアはイギリスとフランスよりもはるかに遅れをとっていたのである。


上の記述だけ読めばやはり産業革命と資本主義の強さを見せつけた戦争のように取れるが、実はそうでもなかった。
まず戦闘員数ではロシアのほうが勝る。(これは清も同じだった。人口が多い国の方が頭数を揃えるのは有利)
だが被害者数は同盟側のほうが多いという結果になった。

■戦力
 同盟側
  フランス軍 40万人
  オスマン軍 30万人
  イギリス軍 25万人
  サルデーニャ 1万人
 ロシア側
  ロシア軍 220万人
  ブルガリア軍 4000人

■被害者数
 同盟側 14万4550人
  フランス軍 9万人
  イギリス軍 1万7500人
  オスマン軍 3万5000人
  サルデーニャ 2050人
 ロシア側
    ~13万4,000人

さらに・・・

・主力のイギリス・フランス軍ともに現地の事情に疎く、クリミア半島に部隊を移動させた直後から現地の民兵やコサックから昼夜を問わず奇襲を受け、フランス軍にいたっては黒海特有の変わりやすい天候について調べていなかったため、停泊中の艦隊が嵐に巻き込まれ、戦う前からその大半を失っていた(この後、フランスでは気象に関する研究が盛んになる)。

・ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、同盟軍は塹壕を掘って包囲戦を展開する以外に手がなく、イギリス軍は化学兵器(一説では亜硫酸ガスではないかといわれている)まで使用したが、予想外の長期化により戦死者よりも病死者の方が上回り、戦争を主導したイギリス国内でも厭戦ムードが漂っていた。

・イギリスでは戦費の過剰な負担が原因で財政が破綻し、アバディーン内閣は国民の支持を失う。政権を支える庶民院院内総務ジョン・ラッセル卿の辞任が引き金となって内閣は総辞職、外相時代に辣腕外交ぶりを発揮していたパーマストン内相が後を継いでいた。

・セバストポリ陥落直後にザカフカースの要衝カルス要塞(オスマン帝国の都市)がロシア軍の前に降伏したことから、事実上の戦勝国はなくなった
パーマストン首相はもう少し戦争を継続してイギリスに有利な状況で終わらせたかったが、フランスのナポレオン3世が世論を受けてこれ以上の戦闘を望まなかった。フランスの陸軍を頼りにしていたイギリスは、単独ではロシアと戦えなかった。結局両陣営はともに、これ以上の戦闘継続は困難と判断した。

・時を同じくしてロシアではニコライ1世が死去し、新たに即位したアレクサンドル2世は、かつてのオスマン帝国の全権特使でありロシア軍の総司令官であるメンシコフを罷免した。こうして同盟国側と和平交渉が進められていった。



最先端の軍事力をもってしてもロシアには勝てなかった。イギリスにとっては負けたも同然。
イギリスは思うように戦争が進まず財政が悪化してしまったわけだが、この時に公債を引き受けたのはロスチャイルド・ロンドン家である。
要するに資本家が付いているので(いざという時に大金を貸し付けてくれるので)国家の破綻や破滅にまでは至らないのだ。
ロシアもまた戦争によって財政が逼迫し内政が不安定となっていた。
だから結局それ以上の戦争を行わず、自陣のトップを罷免してみせた。
そして明確な勝敗が付かないまま終わった。ロシアからすれば勝利するチャンスをみすみす逃してしまったことになる。
英仏艦隊にも負けず戦争をリードしてきたにも関わらず罷免されたメンシコフ提督やそれに付き従った兵士たちは裏切られたような気持ちにもなるだろう。
アレクサンドル2世皇帝は資本の必要性を感じ近代化に心傾くが、却って国力の低下は否めなかった。


アヘン戦争に大勝利するも、クリミア戦争で尻すぼみ。
その沈滞ムードや悪夢を払拭するかのように、クリミア戦争終結の年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)(1856-1860年)が勃発する。
イギリス・フランス連合と清(中国)との戦い。
大艦艇を送りこみ勝つには勝ったが、清の心証を相当害しており捕虜殺害などが行われ、その報復として略奪や焼き払いを行うなど泥沼化した面もある。
しかも調停に入ったのはロシア。さらにロシアとアメリカは戦争には加担しなかったのに条約には参加した。
イギリスにとってはやはりすっきりとした勝利とは言えないものだったであろう。
清は外満洲をロシアに割譲。ロシアはそこにシベリア鉄道を引いて、軍港ウラジオストックを建設することを計画した。
これが日露戦争の原因にもなっていくことになる。

アメリカが日本や中国と組んだら・・ロシアが中国や日本と組めば・・
イギリスは太平洋の恐怖に加えて、ロシアの恐怖も重ねることになった。
戦争によって中国を押さえたものの、その恐怖を払拭しきれなかった。
だとすれば次に押さえるべきは日本と思うのは当然の成り行き。
だがイギリスは日本進出には失敗しているというトラウマを持っていた。
さらに今日本に戦争を吹っ掛けるとアメリカが日本側に付く可能性があった。イギリスにはアメリカに負けたというトラウマもある。
そんなこんなで、目に見える戦争という形ではなく、現政権を倒して傀儡政権を成立することを目標にした。これが明治維新に繋がっていく。


一方ヨーロッパではフランスが、戦中に工業化を推進させたヨーロッパ社会に影響力を持つようになったプロイセンと戦争をする。
開戦時フランスはナポレオン3世(ナポレオン1世の甥)の時代だったが、ナポレオン3世は戦争には全く乗り気ではなく、準備不足を自認しており勝てるとも思っていなかった。自身の健康状態も良くなかったが引きずられる形で戦争に突入していく。
クリミア戦争やアロー戦争では盟友だったイギリスからの支援は受けられなかった。
結局この戦争がきっかけでフランスの第二帝政は崩壊した。3世は1872年初頭に亡くなった。

普仏戦争(1870-1871年)
■戦力
 フランス 正規兵 49万2,585人
      予備役兵 41万7,366人
 プロイセン 正規兵 30万人
       予備役兵 90万人名
■被害者数
 フランス 死傷者 28万1,871人
      捕虜 47万4,414人
 プロイセン 死傷者 13万4513人

プロイセンの勝利で終わる。
フランスは戦争に負けたが、ロスチャイルド・パリ家はこの戦争でも戦費や賠償金の調達を請け負い利益を上げる。


イギリスがスエズ運河を手に入れたのは1875年。
エジプトの財政が悪化し、スエズ運河の莫大な借金の金利が返せなくなってしまっていた。
共同事業者であるフランスも普仏戦争に敗れていて、フランス政府が支援したり買い取ることは難しかったが、イギリスではフランスに先を越されないようにとの理由から議会の承認なく資金をロスチャイルド・ロンドン家に工面してもらい買収した。



クリミア戦争終結から21年、オスマン帝国とロシア帝国という2つの大国が再び戦火を交えた。
民族問題が絶えない地域を抱えていたオスマン帝国。この戦争も民族問題に端を発している。
イギリスにとってはクリミア戦争での有耶無耶な勝敗に片を付けるよいチャンスであったはずだが参戦はしなかった。
参戦しなかった理由は、オスマン帝国軍が4万人におよぶブルガリア人を虐殺していたことが発覚したからと言われている。
虐殺発覚によってオスマン帝国の味方に付きづらくなったということ。

露土戦争 (1877年-1878年)
勝利したのはロシア。
ロシア強しの観を植え付ける結果になった。

しかし戦後にロシアの内政はまた不安定になる。
何故かというと、一度結んだ講和条約を4か月後に修正したからである。

軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、新生ドイツ帝国の帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルクの仲介でベルリン会議が開かれ、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれた。ベルリン会議後、ロシア国内では皇帝アレクサンドル2世への失望と不満が広がっていった。

オットー・フォン・ビスマルクという人物は駐ロシア大使をしていたことがあり、比較的ロシアに明るかった。
彼はドイツ・フランクフルトのロスチャイルド家(フランクフルト・ロートシルト家)の2代目当主と付き合いがあった。
(フランクフルト家は2代目・3代目がナポリからの養子で、しかも1901年には閉鎖された)
ロスチャイルド家から傘下の銀行経営者を紹介され、個人銀行家に指名して自身の財産管理を任せるようになるなど関係性を強めた。

ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー
プロイセン王国のユダヤ系宮廷銀行家。宮廷ユダヤ人の代表的な人物。
ブライヒレーダー銀行を設立したザムエル・ブライヒレーダーの長男としてベルリンに生まれる。
フランクフルト・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の傘下でブライヒレーダー銀行を経営した。
ブライヒレーダーはビスマルク個人の財産の多額の立て替えをし、株式についての助言を行った。また国政の経済政策面でも宰相ビスマルクの顧問として活躍した。普仏戦争でのフランス政府との賠償金交渉ではビスマルクの命で非公式の交渉を行った。


つまりベルリン会議を仲介し条約を修正させたオットー・フォン・ビスマルクの後ろにはこの人物がいたということで、さらにその後ろにはロスチャイルド家がいた。







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# by yumimi61 | 2018-06-05 13:39
2018年 06月 04日
日本国憲法の秘密-749- (外貨準備と貿易について)
日露戦争 1904年2月8日 - 1905年9月5日

日露戦争の戦費(臨時軍事費+各省臨時事件費)はおよそ20億円(19億8612万円)だった。
うち公債発行での調達 約13億円。(国内5億円、国外8億円)
日銀からの一時借入金 約2億円。
増税、節約、余剰金、献金、寄付など? 5億円。

日清戦争の戦費はおよそ2億円であり、日清戦争から10年後に行われた日露戦争は10倍も費用が掛かっている。
当時は国の一般会計予算が約3億円であり、6~7年分の国家予算が7ヶ月の戦争で吹き飛んだことになる。
20億円には利子が含まれていないので、実際に支払うべき金額はもっと膨大になる。
また上の金額は1903年12月~1905年12月の期間のものだが、実際にはそれより前にも公債を発行しているので、すでに借金体質にあった。


公債発行には引受手が必要。
前記事でサミュエル商会が軍需品を売り戦費公債も引き受けていたという話を書いた。
軍需品に付加価値を多く乗せて売ることが出来れば、お金を貸して返ってこないリスクがなくなり、貸したお金が返ってくればまるまる儲けになる。

 お金を貸すお金を返してもらう
 物を作って売る=物を売った代金が入る

しかし公債というものは大抵金額が大きく期間も長い。5年とか10年とか大金を貸していなければならないのだ。
個人があてもなくタンスに眠らせておくお金ならば(利子を大目に付けてあげれば)期間が長くても良いかもしれないが、金融の商売人にとっては商売道具を5年も10年も手放すことを意味し大層無駄である。
また期間が長くなればなるほどリスクは増す。人間には遠い未来は予想出来ないから。
だから貸したお金は出来るだけ早く回収したい。
そこで引受人は公債を販売するという形で回収してしまう。他の人(公債を買ってくれた人)からお金を返してもらうことになる。

 お金を貸す公債を売り出してお金を得る
 物を作って売る=物を売った代金が入る

こうすれば5年も10年も待たなくても貸したお金はすぐに手元に戻る。
すぐに戻したら利子は付かないから、その代わりに売り捌くことに対して手数料を乗せる。利子の代わりに手数料を稼げる。
万が一、公債が売り捌けなくても、公債自体は有効なのだから、5年後や10年後に借主に返してもらえばよい。でも売るのがプロ。
すぐさま公債発行額+手数料が引受人の儲けになる。



バグー油田を所有していたのはロスチャイルド・パリ本家であるが、当時はまだロンドン家もパリ家もお家騒動(本家分家争いなど)が表面化していなかった。
ロンドン家とパリ家は分担や協力しあったり、ともに資本参加している事業などもあった。
但し産業革命が起こったのはイギリス。1700年代後半から1800年代前半にかけて。
そのせいか日露戦争前に日本が購入した軍艦の多くはイギリス製だった。

日露戦争当時のロンドン家の当主はこの御方。

ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915)
ロスチャイルド・ロンドン家3代目当主、初代ロスチャイルド男爵(イギリスから授かった爵位)

慈善事業にも取り組み、ロンドンの4つの病院のパトロンとなり、英国赤十字社の会長も務めた。ユダヤ人同胞に対する慈善事業にはとりわけ力を入れ、ユダヤ人自由学校の運営に巨額の資金をかけた。
迫害を受ける同胞の保護にもあたり、ユダヤ人迫害を推進するロシア帝国に対しては強い憤りを感じていた。ロシア政府が融資を求めにきた際にも門前払いにしている。また1904年の日露戦争では、ニューヨークのユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフから「日本の勝利がユダヤ人同胞を迫害するツァーリ体制打倒のきっかけとなる」との誘いを受けて日本を財政的に支援した。とはいえ日本に関心があったわけではなく、親日家の次男チャールズがN・M・ロスチャイルド&サンズの支店を日本に作ることを提案してきた際にはにべもなく却下している。

また祖父の代からの付き合いで南米諸国と親しくしていた。ブラジル政府の国債や19世紀後半に独立したチリの国債をしばしば引き受けている。チリの国債は人気があったので、チリ政府は相手銀行を選べる立場にあったが、ロスチャイルド家とは条件に関係なく優先的に付き合っている。



ユダヤ人への迫害はドイツに始まったわけでも、ロシアに始まったわけでもない。長い歴史がある。また時の権力者によってもその対応は違った。
宗教問題と人種問題と経済問題(貧富や支配の問題)が複雑に絡み合っていて、その歴史を理解するのは容易いことではない。
しかしひとつ間違いなく言えることは多数から嫌われる要素を持っていたということに尽きると思う。
誤解がないように言っておくが、大勢に嫌われる者が全ていつも悪者とは限らないし、大勢に嫌われる者が全ていつも被害者で可哀想な者とも限らない。


ドイツでのユダヤ人迫害をホロコーストと呼ぶが、ロシアでのユダヤ人迫害をポグロムと言う。

ポグロム(погром パグローム)とは、ロシア語で「破滅・破壊」を意味する言葉である。特定の意味が派生する場合には、加害者の如何を問わず、ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・破壊・差別)を言う。
歴史的にこの語は、ユダヤ人に対して、自発的計画的に広範囲に渡って行われる暴力行為と、同様な出来事について使われる。ポグロムは標的とされた人々に対する物理的な暴力と殺戮を伴っている。


13世紀から日露戦争の起こった20世紀初頭までのユダヤ人迫害の歴史。

・13世紀のカリシュの法令によって権利および安全をシュラフタ(ポーランド貴族)およびポーランド王の庇護のもとに保障されたことから、ユダヤ人はポーランドに集まり生活していた。

・1543年にプロテスタント運動の創始者の一人であるマルティン・ルターが著書『ユダヤ人と彼らの嘘について』においてユダヤ人への激しい迫害及び暴力を理論化し熱心に提唱した。

・17世紀ウクライナ・コサックのフメリニツキーの乱で起こったポグロムはその犠牲者の数で最悪のものとなった。

・1795年の第三次ポーランド分割によりポーランド・リトアニア共和国が完全に消滅してその東部(旧リトアニア公国領)がロシアに併合された。もはや消滅したポーランド国家による庇護を受けることができなくなったポーランドやリトアニアのユダヤ人はハプスブルク家に庇護を求めたが、ウクライナ人・ベラルーシ人には裏切り行為と受け取られた。

・1819年、ドイツのヴュルツブルクでポグロムが発生すると瞬く間にドイツ文化圏の全域に大規模な反ユダヤ暴動が広まった(ヘプヘプ・ポグロム)。1821年、オデッサ・ポグロム。

・19世紀後半になると、主に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際にユダヤ人が襲撃の巻き添えとなった。1881年にアレクサンドル2世が暗殺されると、ロシアで反ユダヤ主義のポグロム(1881年-1884年)が起こった。後にはロシア帝国をはじめ各国でユダヤ人殺戮のポグロムが盛んに行われた。

・帝政ロシア政府は社会的な不満の解決をユダヤ人排斥主義に誘導したので助長されることになった。1903年から1906年にかけての度重なるユダヤ人襲撃はユダヤ人の国外脱出の引きがねとなりシオニズム運動を招くことになった。



1つ注目すべきは、カトリックに反旗を翻した宗教革命の火付け役でプロテスタントの生みの親であるルター(ドイツの神学者・教授・作家、聖職者)が最晩年にかなり激しくユダヤ人を断罪していたこと。

『ユダヤ人と彼らの嘘について』の日本語訳から一部抜粋

●強い敵意をもった有害な敵
(略)
悪魔を知らぬ者は、なぜ彼らが他のだれよりもキリスト教徒に対してそんなにも敵意を抱くのか不思議に思うであろう。私たちとしては、彼らに善行のみを施すのだから、彼らがそうなる理由がわからないのだ。彼らは、われわれの祖国で、われわれの庇護のもとに住みついており、土地や公道を利用し、市場や街を使用している。
 だが王侯や政府は、みすみす傍観し、鼾をかき、口を開けたままでおり、その財布や箪笥からユダヤ人が思いのままに取ったり盗んだり奪いとるのを許している。つまり王侯や政府は、自分と臣下がつけ込まれ、丸裸になるまで吸い取られ、自分自身の財宝で乞食にさせられてしまうという事態を許しているのだ。ユダヤ人は外国人なので、間違いなく何かを所有していたはずはなかった。したがって、彼らが現在所有しているものは、確実にわれわれの所有していたものに違いないのである。
 彼らは働かず、働いた報酬をわれらから得たわけでもない。また、われわれが彼らにそれを寄贈したわけでも、与えたわけでもない。それにもかかわらず、彼らはわれわれの金銭や財宝を所有し、亡命中のわが国で主人公となっているのだ。
 もし盗人が十グルテン盗むなら、この者は絞首刑にされねばならない。もしも彼が街道で掠奪すれば、首をはねられてしまう。ところがユダヤ人となると、高利貸しによって十トンの金を盗んだときでも、神御自身よりも大切に扱われるのだ。



●彼らはイエスの御名を冒涜する
(偽りの御名でイエスに対して憎しみを隠しもつユダヤ人たちの擦れっからしなやり方についての諸論述はたいへん興味深いものがあるが、ここでは次のように述べている)
 それゆえに彼らは、イエスの御名を次のように扱う。ヘブライ語でJhesusは「治療士」または「救済者」を意味する。古いサクソン人はHeiprichまたはHiprichという名称を用いた。それは、われわれが現在Helprichと呼ぶイエスの古い御名のように聞こえる。しかしユダヤ人たちは、それを故意に捩じ曲げて、彼をJesuと呼ぶ。これはヘブライ語では名前でも言葉でもなく、単なる三つの文字か数字か暗号でしかない。それはあたかも私が、CLUという文字を数字と見なし、CLUを155とするようなものである(CLU=ローマ字ではC‐100、L‐50、V‐5‐155。VとUは語源的には同じである)。
 かくして彼らはイエスJesuを316と呼ぶのである。そのような数字は Nebel Borikを意味するもう一つの単語を連想させるといわれている。この点について、読者はアントン・マルガリタムの著作でより多くのことを学べるであろう。ユダヤ人はそれらの数字や単語を使ってなんという悪魔的な所業を行なっていることか。
 彼らはわれわれキリスト教徒を同様のやり方で扱う。われわれが彼らを訪問し、彼らに迎えられたとき、彼らは「神があなたを歓迎する」(ドイツ語では Gott wilkommen)という言葉を捩じ曲げて「Shed wil kom」すなわち「悪魔よやってこい」ないし「悪魔がやって来る」と言う。われわれがヘブライ語を理解できないのをいいことに、彼らはひそかにわれらを呪っているのである。つまり、ユダヤ人がわれわれを地獄とあらゆる災厄の炎で呪っているというのに、われわれは彼らが友好的だと思っているというわけである。


●彼らは聖母マリアを娼婦と呼ぶ
 かくして彼らは、彼(イエス)を娼婦の子と呼び、彼の母マリアを娼婦と呼ぶ。彼女はイエスを鍛冶屋との不倫のうちに産んだとするのである。実に不本意なことであるが、私は悪魔と戦うために非常に粗野な言葉を使わねばならない。
 彼らが単なる憎悪と身勝手でこうした嘘をつくのは、ただ彼らの哀れな若者やユダヤ人がイエスの教義(それを彼らは否定できない)を受容してしまわぬよう、われらの主に対する偏見を彼らに抱かせるためである。サバスティアヌス・ムンスターもまた自著『聖書Biblia』のなかで聖母を「マリア」と呼ばず「ハリアHaria」つまり泥の山と呼ぶ有害なラビがいると指摘している。そして、われわれが知らない、ユダヤ人たちが仲間内だけで行なっているもっと多くのことは誰も知ることはできない!
(略)
彼らはわが国のなかの疾病やペスト、災難以外のなにものでもない。われわれにとって重い荷物なのである。ある人間が自分の家のなかのある者に我慢ならぬとき、彼は捕らえられていると言うであろうか。
 なぜ彼らは、われわれキリスト教徒を、われわれの国のなかで捕囚の身にすることができるのだろうか。なぜ彼らは、われわれを額に汗して働かせ、自分たちは暖かいストーブの前に座って金や商品を所有しているのであろうか。彼らはなぜ怠け者の大食漢や大酒飲みで、われわれが働いた財貨で安穏かつ裕福に暮らし、呪うべき高利貸しによって、われわれとその財産を掠奪するのであろうか。彼らはなぜ、われわれを嘲り、唾を吐きかけるのであろうか。
 われわれは自分を犠牲にして働かねばならず、彼らが貴族であることを認めなければならないからである。かくして彼らは、われわれの王であり支配者なのである。われわれはみずからの財産と汗と労働を捧げる彼らの召使いなのである! つまり、彼らはわれわれに感謝し、われわれに報いんがために、わが主を呪っているというわけである!



ルターはもともと、欲と金にまみれて腐敗し聖職らしからぬカトリック教会に愛想を尽かして離れた。
しかしカトリックもプロテスタントもイエスを信奉する同じ「キリスト教」であることには変わりない。その点においては正教会も同じである。
ルターもそこからは抜けたわけではない。
当のイエス様は元がユダヤ教のユダヤ人。
当たりまえだけどユダヤ教にイエス・キリストは存在しない。
イエスはユダヤ教に反旗を翻した人で、カトリック教会に反発したルターと同じ立場。
ルターがキリスト教を完全に抜け出せなかったのと同じように、イエスのキリスト教もユダヤ教と同じ聖典を使っており(新たに付け足したけど)、完全にユダヤ教から脱却できたわけではなかった。
完全には棄教できないのだ。良くも悪くも何かに囚われてしまうのだろうか。
バビロン捕囚からユダヤ教は確立されてきたわけだが、自由を奪われたところに宗教は起こりやすいのかもしれない。
ルターは「イエスはユダヤ人なのだから、ユダヤ人の皆さんもキリスト教に改宗すべき」と説いている。

欲と金にまみれたカトリック教会のそばにはユダヤ教であるはずのユダヤ人がいた。そうしたユダヤ人にとって金融は仕事であった。
金融を仕事にしているのだから非常に現実的でシビアでドライな面があるだろう。そして金儲けのことを考えてもいる。
それを「悪いこと」と考える人もいれば、「別にいいんじゃない」と思う人もいる。
キリスト教徒にもユダヤ教徒にも信仰心が篤い人も希薄な人もいただろう。
ユダヤ人ロスチャイルド家を例にとれば、熱心なユダヤ教徒だった人もいたし、キリスト教に改宗した人もいた。キリスト教徒やイスラム教徒を仕事のパートナーにしたり、結婚相手にしたりした人もいた。

もしもこうした近代化や資本主義を否定したいならば、目指すものは社会主義や共産主義となるだろう。

宗教を大事に思うか、仕事(お金)を大事に思うか、家族や親戚関係を大事に思うか、社会形態を最重要視するか、何を一番に考えるかによって手を組む人や問題に向き合う態度も変わってくるだろう。







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# by yumimi61 | 2018-06-04 16:06
2018年 06月 03日
日本国憲法の秘密-748- (外貨準備と貿易について)
日清戦争(1984-1985)時に日本に石油や兵器や軍需品を供給したのはマーカス・サミュエル商会。物資だけでなく戦費公債を引き受けてもいる。

①サミュエル商会→(戦費公債引き受け、つまりお金を貸す)→日本政府
②サミュエル商会→(兵器などを売る)→日本政府
③サミュエル商会←(借りたお金で代金支払い)←日本政府
④サミュエル商会←(借りたお金を利子を付けて返す)←日本政府

大ざっぱに言えば、①で貸したお金は、兵器などの代金として(③部分で)すぐにサミュエル商会に戻ることになる。
とは言っても、物を売るということは、物を製造する費用がかかっている。
少なくともその費用は回収しなければならないもので、回収できなければ製造した会社や買い取った販売会社の経営は悪化する。
だから通常はこのような関係は成り立たない。
 お金を貸す=物を売った代金が入る

出たお金はそれぞれ戻らなければならない。
 お金を貸す=お金を返してもらう
 物を作って売る=物を売った代金が入る

でももし売ろうとしている製品に付加価値を多く乗せられれば(安く作って高く売ることが出来れば)、貸したお金部分もカバーできる。
 お金を貸すお金を返してもらう
 物を作って売る=物を売った代金が入る

こうなると万が一貸したお金が返って来なくても損をすることはなくなる。
でも通常は金融業者(会社組織)が最初から返ってこないと分かっていて大金を貸し付けたりなんかしない。というか「大変だったら返さなくても良いですよ」なんて甘いことを言って許してくれるわけがない。
だから「返してもらったお金」はまるまる儲けとなる。さらに賃借には利子が付くので(普通はその利子を儲けとする)、儲けはさらに大きくなる。

どうしても勝たなければならない戦争、追い詰められた戦争、平常心ではない戦争、見栄やプライドに支えられた戦争、戦争というものは付加価値が乗りやすいのではないかと推測できるがどうだろう。
オリンピックや国体の開催国になると大金を注ぎ込んで成功させようとしたり勝とうとする。あの心理状態はいったい何だろうか。
成功したり自国選手が勝つと出資に勝るリターンがあるのだろうか。
オークションでは手強い敵がいると異様なまでに物の値段が吊り上がっていくことがある。どうして人は突如そういう精神状態に陥ってしまうのだろうか。
(余談だけれど、「オリンピックを成功させましょう」という言葉を聞くたびにいつも思うことがある。成功の基準って何なのかなあということ。今まで「今回のオリンピックは失敗でした」と言っているのを聞いたことがない。開催前にあれこれ問題視されても開催国の失敗宣言や失敗評価を一度して見聞きしたことがない。膨大な資金が投じられるわりには建設的生産的な議論がなされないし、否定的な見解はほとんど出てこない。だから私は成功って何なのだろうといつも不思議に思っている。元手をかけずに高い放映権料をせしめること?それとも気分的なものでしょうか。事前の態度に比べると事後がお粗末すぎる。)



日露戦争(1904-1905)で日本の戦費公債を引き受けたことで有名なのがジェイコブ・シフ。

ジェイコブ・ヘンリー・シフ(Jacob Henry Schiff)
ドイツ生まれのアメリカの銀行家、慈善家。ヤコブ・ヘンリー・シフとも。生まれた時の名前(即ちドイツ名)は、ヤーコプ・ヒルシュ・シフ(Jacob Hirsch Schiff)。
高橋是清の求めに応じて日露戦争の際には日本の戦時国債を購入した。勲一等旭日大綬章を明治天皇より贈られる。

フランクフルトの古いユダヤ教徒の家庭に生まれる。代々ラビの家系で、父は銀行員だった。1370年からフランクフルトのゲットーで、初代マイアー・アムシェル・ロスチャイルド時代に「グリューネシルト(緑の盾)」(de:Haus zum Grünen Schild)と呼ばれる建物にロスチャイルド家とともに住んでいた。

1865年に渡米する。ニューヨークに着いた時はほとんど無一文だった。はじめ銀行の出納係に就く。28歳の時、クーン・ローブ商会に就職
1885年、ソロモン・ローブの娘・テレサと結婚した。当時「西半球で最も影響力のある2つの国際銀行家の1つ」と謳われたクーン・ローブの頭取に就任する。鉄道建設に投資し、ニューヨークのペンシルベニア駅やハドソン川地下横断トンネルなどを建設、電信会社、ゴム産業、食品加工の分野にも進出した。


マーカス・サミュエルもユダヤ人(イギリス在住のイラク系ユダヤ人)。
ジェイコブ・シフも同じくユダヤ人。
両者ともにロスチャイルドの支援を受けたり代理人のような形で仕事をしていた。
また勲一等旭日大綬章を明治天皇から贈られたのも同じ。

クーン・ローブ商会はアメリカFRBの設立に関わった。
設立会議に出席したのはポール・ウォーバーグだが、彼もジェイコブ・シフと同じくソロモン・ローブの娘と結婚した。
クーン・ローブ商会は後にリーマン・ブラザーズに吸収される。(後にそのリーマンが経営破綻し世界金融危機を引き起こした)



日露戦争 1904年2月8日 - 1905年9月5日
日露戦争も太平洋戦争同様に日本の奇襲攻撃で始まった。

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。
2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。



サミュエル商会は開戦前の1903年に戦費公債を引き受けているし、ジェイコブ・シフもまた開戦前に日露戦が行われることを知っていた。
日露戦争の準備は戦艦から始まっている。

日清戦争後、日増しに緊張の度合いを深めるロシアとの関係に備え、日本海軍は10年間で戦艦6隻、一等巡洋艦6隻を主力とする巨大海軍を作り上げた。しかし、バルト海にいるロシア本国艦隊と極東のロシア旅順艦隊が一体になれば、日本海軍は未だ戦力において劣っていた。

【戦艦】(  )内は名称由来、年は計画年で富士も八島も日清戦争時には就役していない
富士(富士山) イギリス製 天皇の建艦詔勅 1893年
八島(日本の美称) イギリス製 天皇の建艦詔勅 1893年
敷島(日本の美称) イギリス製 1896年
朝日(本居宣長の歌から?) イギリス製 1897年
初瀬(奈良県を流れる大和川の上流部を指す初瀬川) イギリス製 1897年
三笠(奈良県の三笠山) イギリス製 1897年 

【装甲巡洋艦】 全て計画年は1896年以降となる
浅間 イギリス製
八雲  ドイツ製 
吾妻 フランス製
常磐 イギリス製
出雲 イギリス製
磐手 イギリス製
日進 イタリア製 ※
春日 イタリア製 ※

海軍の軍艦はその性能や保有量の把握が比較的容易で、軍事力の指標となりやすかった。隠しておきにくいものなので、結果的に軍事力の誇示にも繋がる。よって緊張や対立を生じやすくもある。
軍艦の計画から建造を経て就役までには長い時間がかかるので、海軍をメインにした戦争には計画性が必要である。
だが軍艦の建造には膨大な費用がかかるため、国の財政を圧迫してしまう。
日本も戦艦を建造していた時期にも英国貨公債で資金調達している。

※「日進」と「春日」は元々はアルゼンチンがイタリアの会社に発注して建造していたもの。名称は「リヴァダヴィア」と「モレノ」だった。
1900年代初頭、ブラジルとルゼンチンに並んでチリも南米の地域大国となる中、3カ国では建艦競争が繰り広げられていた。要するに緊張状態が高まっていた。

チリはイギリスの会社に装甲巡洋艦の建造を発注。
しかし建造途中にチリが財政難に陥って造りかけの軍艦が宙に浮く。
但し建造に費用のかかるものは代金前払いかキャンセル料が取り決められている、あるいは保険が掛けられているはずなので、建造会社が損を被るということは考えにくい。通常ペナルティを取られるのはキャンセルした側である。
だからその作りかけの船を正規の料金で売れば、建造会社は通常よりも儲けることが出来るくらいである。訳あり品ということで安く売ってあげるという手もあるが。
この宙に浮いた軍艦を日本政府が購入しようとするが価格の折り合いがつかなかったのか、日本が敵視していたロシア政府とも交渉していたらしい。
結局日本と同盟を結んでいたイギリス政府がロシアへ売却されないように購入したとのこと。(これは伏線だったのかもしれない)

アルゼンチンはイタリアに装甲巡洋艦の建造を発注していた。
チリが財政難に陥り建造を諦めたせいか、両国は和解し、アルゼンチンもキャンセル。
するとイギリスが日本に購入を持ちかけた。
「イタリアで建造中のアルゼンチンが発注していた最先端の巡洋艦2隻を153万ポンドで買わないか」
日本の海軍は当初予算がないという理由で断った。
しかし「ロシア側が購入を計画している」との情報が伝えられた。
日本側は態度を一変し、駐英公使に「イギリスの言い値で購入する」と伝える。
発注を掛けたのはアルゼンチンだし、造っていたのはイタリアの会社だけれども、イギリスの言い値で買うという不思議な状況。仲介者(仲卸)がイギリスということか。
だが日本は本当にお金がなかった。もっとも議会制度があり予算で動く国家が今日明日で大金を用意できるはずがないのは当然のことだけれども。
当時外国との取引には金(ゴールド)かポンドが必要だった。
日本国内での取引や借金ならば信用取引による兌換紙幣などの発行でとりあえず何とかなるが、外国ではそうはいかない。
資金の工面を要請された高橋是清日銀副総裁は約束手形を振り出して対処した。
オリンピックとかオークションとかの心理と似たような感じだったわけである。








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# by yumimi61 | 2018-06-03 16:35
2018年 06月 01日
日本国憲法の秘密-747- (外貨準備と貿易について)
1903年、シェルとロイヤルダッチはロスチャイルド家の仲介により合弁会社Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社)を設立し、本社を中国上海に置いた。
これは日露戦争(1904-1905年)前年のことである。
アジアティック石油会社はシェルとロイヤルダッチとロスチャイルドの3者(3社)が3分の1ずつ資本を出して設立された。
ライジングサン石油会社はシェルの子会社というポジションである。

そして1907年にロイヤルダッチとシェルの両社が統合し、ロイヤルダッチ・シェルの設立と相成った


上の下線部分は両社が合併して完全に1つの会社になったかのように誤解されやすい。多くの場合はそうだからである。
でもこの場合は違うのである。

ロイヤル・ダッチ・シェルは、2005年までオランダの事業親会社ロイヤル・ダッチ・ペトロリアム (正式会社名 N.V. Koninklijke Nederlandsche Petroleum Maatschappij、英名 Royal Dutch Petroleum N.V.) 、イギリスの事業親会社シェル・トランスポート&トレーディング (The Shell Transport & Trading Company plc) の2つの法人が 60:40の比率でアライアンスを組んだ状態(二元上場会社)が100年近く続いていた
一般には、「ロイヤル・ダッチ/シェル (蘭・英)」というような表示をされて、便宜的に単一の会社であるように理解されていたが、あくまでも2社の事業提携(アライアンス)であり、単一の事業法人ではなかった。報道紙面での呼称がそのように通例化されていたのはその現れであった。



アライアンス(英語: alliance)
日本語に直訳すると「同盟」という意味であるが、カタカナ語として日本のマスメディアで使用される場合、企業同士の提携の意味で用いられる。また、キリスト教の宣教団体の提携の意味でも使われている(日本アライアンス教団)。

「A社がB社とアライアンスを組む」などと使われ、ある企業と提携し共同で事業を行っていくことを指す。例えば、コンピューターのソフトウェア開発会社が販売会社と“アライアンス”を組み、開発会社は開発に専念、販売会社は代理店としてソフトの販売に注力する、などである。

別企業と共同で事業を行うと言う意味では下請けと似ているが、事業における企業間の対等性の有無が大きく異なる。アライアンスにおいては提携企業同士がイコールパートナーという形で事業を行うが、元請けと下請けの関係である場合は企業間に「上下関係」があるため、これはアライアンスとは別物と見なされる。

このようなアライアンスの代表的な例として、プロサッカーJリーグにおける、同一リーグのクラブ同士がお互いのチケットを拡販し合う、チケットアライアンス等があげられる。



日本アライアンス教団
日本のプロテスタント系の団体。中国地方を中心に約40の教会・伝道所がある。
1887年 - A.B.シンプソンがクリスチャン・アンド・ミッショナリー・アライアンスという超教派の宣教団体を設立した。
1895年 - 広島県三次市にミッション本部を移転した。これが日本アライアンス教団の本格的な宣教開始年である。
1923年 - 日本アライアンス聖書学校が広島市に設立された。

戦争中の1941年からは日本基督教団(1941年6月24日に日本国内のプロテスタント33教派が合同して成立した合同教会であり、いかなるキリスト教の教派にも属さないという無教派の公会主義を継承する唯一の団体)に統合されるが、戦後1949年に日本基督教団を離脱。
再び日本アライアンス教団を設立し、1950年に広島市で日本アライアンス神学校を再建した。


二元上場会社(dual-listed company, DLC)
2つの上場会社が異なった株主集団をもち、所有権を共有する一体の事業集団を運営する企業構造である。
両社の株主は営業される事業のすべての所有権にともなうリスクと恩典を固定された割合で分け合うことに合意している。これは複雑ないくつもの契約群により取り決められる。

実質上すべての場合、両社は別の国で上場される。
会社が二元上場を選ぶのには、管轄国を選ぶ納税上の理由がしばしばあるが、いったん二元上場するとそれを取り消すには大規模な納税上の障害が起こり得る。国の誇りの問題が時に巻き込まれる。両者が合併や企業買収で強い立場であり、合併を必ずしも要しない場合である。事業が小規模で、企業を「失いたく」ないような国では、二元上場はより容易である。二元上場会社はジョイント・ベンチャーに似たところがあるが、単一のプロジェクトだけではなくすべての保有資産を共有するのである。

(例)
大手の二元上場会社をいくつか以下に列挙する。特記すべきことの一つは、主導的な二元上場会社の大部分は部分的にイギリスの会社であることである。

 ・BHPビリトン(イギリスとオーストラリア、鉱業)
 ・カーニバル(イギリスとパナマ(アメリカ)、客船クルーズ)
 ・リード・エルゼビア(イギリスとオランダ、出版)
 ・リオ・ティント(イギリスとオーストラリア、鉱業)
 ・ユニリーバ(イギリスとオランダ、化学・日用品)

過去に存在
 ・ロイヤル・ダッチ・シェル(イギリスとオランダ、石油)※現在は一元法人(本社オランダ)となっている。
 ・トムソン・ロイター(イギリスとカナダ、メディア)※現在はイギリス法人は上場を廃止し、カナダ法人のみがトロント証券取引所とニューヨーク証券取引所に上場している。


ロイヤルダッチ・シェルはロイヤル・ダッチ(オランダ)とシェル(イギリス)という2つの別の企業が、60:40の比率でアライアンスを組んだ状態(二元上場会社)であった。
ロイヤル・ダッチ(オランダ)とシェル(イギリス)にはそれぞれ別の株主がいる。株主や資本を統合したのではない。「事業」を統合したのである。
「事業」を言い換えれば、「利益や損失」ということになる。
ロイヤル・ダッチ(オランダ)とシェル(イギリス)はどちらもロスチャイルド家からの支援を受けて発展した。
ロイヤル・ダッチ(オランダ)とシェル(イギリス)の当初の力関係(事業規模)からすればシェルのほうが断然勝っていた。
その2社が事業提携し、それぞれの株主が利益や損失を分け合うとするならば、ロイヤル・ダッチの株主のほうがお得感があるように感じられる。
しかも事業規模が大きかったシェルのほうが少ない比率で契約を結んでいるのだ。
シェル側から見ればリターンが減ってしまうのは当然のこと、相手側のリスクまで余計に被る可能性もある。
ロイヤル・ダッチは王室勅許で設立された企業なので、そちらの株主に便宜を図ったということなのか、それとも両社の橋渡しをしたロスチャイルド家はすでに石油事業の将来性(収益性)に疑問を感じ始めていたということだろうか。



1924年レーニン死去に伴い、ソ連の最高指導者となったヨシフ・スターリン。
実は彼はバグー油田近辺でロスチャイルド家に使われていたことがあったという。

スターリンはロシア帝国の支配下にあったグルジア(現在のジョージア)生まれ。聖職者を養成するグルジア正教会の神学校で学んでいたが1899年(21歳)に退学。後に棄教し無神論に転向する。
神学校を退学した後は中央気象台にて気象局員の仕事に就くが、この頃からロシア社会民主労働党の地方組織に参加し労働者のストライキを指導するなど政治的活動を始めるようになり、ロシア帝国の秘密警察からも反乱因子になり得るとして目を付けられていた。一方でグルジア側からはロシア帝国のスパイ(二重スパイ)なのではないかとも疑われていた。

1901年に中央気象台を辞めたあとは、地下組織に潜って政治活動を行い、友人、支持者、そして党からの寄付金で生活した。ヨシフはバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めた。
同年10月、ヨシフはバトゥミに逃れ、精油所を所有しているロスチャイルド家で働く。


バグー油田近辺は革命の温床になっていた。それは石油の全国的な輸送網が革命を広めるのにも好都合だったからである。
レーニンの発行する新聞もバグーのイスラム教徒タタール人地区に印刷所があり配布の拠点にもなっていた。
タタール人は抑圧された民族を資本主義と外国帝国主義の消滅を通して解放しようとした点において革命派と一致し、レーニンの活動などに対して異議を挟まなかった。
現在でもバグーのあるアゼルバイジャンはイスラム教国である。

後にレーニンの後継として最高指導者となるスターリンはロスチャイルド家で働きながら、社会主義運動の責任者(今ならば労働組合の長といった感じだろうか)となり、バグー油田や製油所を所有するロスチャイルド家や地元石油業者に対するストライキなどを起こした。
1901年から始まり1903年頃にはストライキが全国的に広がっていき混乱を招き、ロシア帝国の政情は不安定となっていく。
その状況下で起こったのが日露戦争である。


スターリンはストライキなど混乱のもとを作った首謀者として3年間のシベリア送りとなった。
しかしすぐに脱走。
ストライキの首謀者として認定されたとはいえ、レーニンなどに比べるとまだ革命家として名は通っていなかった。そこでスターリンはレーニン側に付いた。

(日露戦争中の)1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、ヨシフはバクーにいた。この一連の出来事の一部は、ロシア革命勃発の引き金を引いた。暴動、小作農の反乱、民族虐殺はロシア国内に広まった。同年2月、少数民族のアゼルバイジャン人とアルメニア人が、バクーの街でお互いを虐殺していた。

カスピ海と黒海に挟まれた地域は、石油産出や輸送ラインとして重要であり、周辺大国(ロシア、オスマン、モンゴル、イラン、ヨーロッパ諸国など)に振り回されてきたという歴史とともにあり、多様な民族が入り混じる地域でもあり民族同士の対立も絶えない。
逆を言えば、問題を焚き付けようと思えば比較的簡単な地域と言えることになる。一方で管理しようと思えばなかなか難しい地域でもある。



1911年、ロスチャイルド家はバクー油田に所有していた油田をロイヤルダッチ・シェルに売却した。

(ロイヤルダッチ・シェルは)1911年にアゼルバイジャンの油田をロスチャイルドから購入した。世界恐慌のころからシュルンベルジェに油田探査を依頼し、青天井に原油生産量を増やした。


原油生産地や精油所、販売網を世界各地に広げていった。
第二次世界大戦後は、石油を原料にプラスチック・合成繊維・合成ゴム・合成洗剤・界面活性剤など多種多様な化学製品を製造する石油化学工場を建設した。
1970年代は2度のオイルショックで原油価格が高騰し経営が悪化する。
そこで付加価値の高い石油精製品の生産にシフトした。
石油精製品とは原油を精製して得られる ガソリン、灯油、軽油、重油、 アスファルトなどのこと。
その中でも付加価値が高いのは「白油」と呼ばれるガソリン・灯油・軽油である。

付加価値と言うと、「お金で買えない価値がある(プライスレス)」というマスターカードのCMを思い出し、「お金で買えないような何か特別な価値」といったイメージを抱くかもしれないが、マスターカードのCMも舌の根の乾かぬうちに「買えるものはマスターカードで」と言っているように付加価値はもろお金である。

企業がある製品を作った。分かりやすく製品1つを例にとる。
製品1つを5万円で売ったとする。
それを製造するために掛かった費用(原材料費・外注費・機械を動かすための燃料費など・運搬費や保険料など)(言い換えると掛かって当然の費用)が3万円だったとする。
5万円-3万円=2万円、この差額2万円を付加価値という。(控除法)
付加価値を具体的に言うと、純利益・支払利息・手形割引料・賃借料・人件費・税金などがあたる。従ってこれらの額を全部足しても付加価値は算出される。(加算法)
要するに安く作れて高く売れれば付加価値は高くなるのだから、ガソリン・灯油・軽油は比較的安く作れて高く売れるということになる。

人件費は付加価値に含まれるが、だからと言って「従業員はやっぱり価値あるものなのね」とか思うのは安直。
人件費は掛かって当然の費用ではない。
人件費が減れば、その分会社は純利益の増加に繋げられるということになる。
人件費が増えたならば、それに伴って純利益も増えなければならない。そうでなければ従業員が利益に貢献しているとは言えなくなってしまう。

やや脱線するが、GDP(国内総生産)は日本全体の生産活動における付加価値の合計のことである。
販売額(あるいは生産額)から掛かった費用(原材料費・外注費・機械を動かすための燃料費など・運搬費や保険料など)(言い換えると掛かって当然の費用)を引いた差額のこと。
加算法ならば、純利益・支払利息・手形割引料・賃借料・人件費・税金などを足した額。
控除法と加算法は理論上同額になるはず。
GDPは国の経済力の指標にされている。
経済成長率はGDPが1年間でどのくらい伸びたかで示される。

でも販売額を基準にするか、生産額を基準にするかで、付加価値(GDP)は変わってくる。
(例)
①1個5万円の製品を100個製造。全部売れれば500万円(生産額)。
製造に掛かった費用は1個あたり3万円で、100個分で300万円。
全部売れれば200万円の付加価値が出る。
ところが
②100個のうちの50個しか売れなかった。売り上げは50個分で250万円(販売額)。
製造に掛かった費用は同じ、100個分で300万円。
50個しか売れないと付加価値はマイナス50万円。つまり付加価値どころか等価にすらならない。

①方式で計算すれば利益なんか出ていなくてもGDPはどんどん大きくすることが出来る。
また付加価値に支払利息・手形割引料・賃借料などが入っているのがミソ。
借金をすればするほど利息というものは嵩んでいく。借金大国ではこれもどんどん大きくなっていくもの。要するに借金するとGDPが大きくなる。

ロイヤルダッチ・シェルが経営悪化し付加価値の高い石油精製品(ガソリン・灯油・軽油)の生産にシフトした1970年代頃から、日本では自動車の保有台数が右肩上がりに伸びていった。


さらにロイヤルダッチ・シェルは、ガス事業、石炭事業、原子力発電事業、金属事業などにも進出し経営の多角化を図った。
そんな厳しい1970年代という時代に朗報だったのは、1960年代から開発が始まった北海油田(イギリス)の成功である。
この油田のおかげでイギリスは1980年代から石油輸出国となり、長いこと悩まされた英国病からも脱出した。
しかし北海油田の石油生産量のピークは1990年代後半であり、以後減少に転じている。それでも今でもイギリスはヨーロッパ最大の石油輸出国である。


(ロイヤルダッチ・シェルは)第二次世界大戦後から1970年代まで、世界の石油の生産をほぼ独占状態に置いたセブン・シスターズ7社の内の一社であり、ヨーロッパ最大のエネルギーグループである。
グループ企業は145の国に広がり、世界中に47以上の製油所と、4万店舗以上のガソリンスタンドをグローバルに展開している。


石油を支配してきたセブンシスターズの時代は終わっている。
原油生産シェアは10%程度で、保有する油田の埋蔵量シェアは5%以下という状況。もう油田開発を見限っているような状況なのだ。

1970年代まではセブン・シスターズを含めて20社程度しか手がけることが出来なかった石油の蒸留事業も、2000年を過ぎると200社以上が参入し、激しい競争に巻き込まれている。さらに、モータリゼーションが続く新興国では石油需要の伸びが見られるもの、先進国では、需要家が石油以外の熱源の転換を進めるともに、2010年代時点では石油に依存する航空や自動車分野では、燃費の改善を進めるなどして石油需要の低下傾向が顕著となっている。このため、大手4社( エクソンモービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、BP、シェブロン)は石油企業から総合エネルギー商社への転換を急いでいる。

環境問題が取り沙汰されるようになった1980年代頃から石油枯渇(新しい油田の開発とその成果が見合わなくなってきた)が顕著になってきたのではないだろうか。
ローマクラブが1972年に発表した「成長の限界」はあながち間違っていないということになる。
しかし化石燃料を悪者にしてきた手前、石炭へのシフトも今更感がある。
どちらかと言えば固形の石炭のほうが環境負荷は大きいはずなのだから。
そこでセントラルへの転換(見えない中央で石炭を燃焼させる)という手法が導入されたり試みているのではないか。
自動車の電気化に熱心なのも燃料の問題から来ているような気がする。


現在石油生産の中心は新セブンシスターズ。
ロシアや中国などの主な国営企業7社の原油生産シェアが合わせて30%、保有する油田の埋蔵量でも30%と存在感を増してきており、かつてのセブンシスターズになぞらえて、以下の国営企業7社を新・セブンシスターズと呼ぶ声もあがっている。
1 サウジアラムコ(サウジアラビア)
2 ペトロナス(マレーシア)
3 ペトロブラス(ブラジル)
4 ガスプロム(ロシア)
5 中国石油天然気集団公司(中国)略称:CNPC、中石油、ペトロチャイナ
6 イラン国営石油(NIOC)(イラン)
7 ベネズエラ国営石油会社(PDVSA)(ベネズエラ)


要するに新しい油田が見つかれば石油生産は出来るし枯渇もしない。
新しい油田が見つからず同じ油田を使用していれば、その油田はやはり枯渇していく。

(ロイヤルダッチ・シェルは)2001年ごろから傘下の油田の埋蔵量を下方修正するなど財務上の問題が明らかになり、株主よりコーポレートガバナンス(企業統治)上の透明性向上の要求から単一法人化を求める圧力が急激に高まっていた。こうして、2005年5月、98年間続いた2社提携の状態に終止符が打たれ、両社は合併して単一の法人ロイヤル・ダッチ・シェルとなった。

日本の自動車保有数が頭打ちの傾向が見られるようになったのがちょうど2000年頃からである。
2000年前後から登録自動車数は頭打ちの観がある。
時期を同じくして軽自動車比率が伸び続けている。
これは人口動態との明らかな相関性は認められない。
消費税が自動車購入に与えた影響は見られない。
平成13年(2001年)は「聖域なき構造改革」を実施した小泉内閣が始まった年。


2012年2月10日、近年国家戦略としてエネルギー資源の獲得に意欲を見せる中華人民共和国の中国石油天然気勘探開発公司(中国石油天然気集団の子会社)が、ロイヤル・ダッチ・シェルが保有する、カナダブリティッシュコロンビア州グラウンドバーチの権益の20%を買収し、同地域の天然ガス液化工場での共同プロジェクトに参画することとなった。


温暖化とか気候変動とか言って誤魔化していないで、はっきりと資源の枯渇と言った方が説得力があるように思うが、国の誇りの問題とかでそう簡単にはいかないのかしら。
資源が枯渇していくということは、もとが対等な力関係ならば、どうしたって資源のある国の方が強くなる。
(資源枯渇で寒冷化だったら悲惨。みんな暖かい地域に避難しなければならなくなる。温暖化ならまだ救いである)


ともかく10年くらい前から、新しい油田が見つからず同じだけ使用し続ければ、石油はあと30~40年しか持たないと言われている。





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# by yumimi61 | 2018-06-01 11:41
2018年 05月 31日
日本国憲法の秘密-746- (外貨準備と貿易について)
サミュエル商会の日本での重要な事業の1つに公債引き受けがあった。
マーカス・サミュエルはロスチャイルド(のBUNITO)との間で、がロシア灯油の独占販売契約を結び、タンク・シンジケートを設立して石油タンカーを建造し、1892年8月にスエズ運河を抜ける航路での最初の航海に漕ぎ着けた。
それから間もなくして日清戦争(1894-1895年)が勃発。
サミュエル商会は1897年に「日清戦争戦費公債」を4,300万円ほど引き受けている。
その年に、タンク・シンジケートはシェル・トランスポート・アンド・トレーデイング・カンパニー (Shell Transport and Trading Company)という会社組織に改組された。
「シェル」の設立と日本が殊更関係が深いとするならそれは戦争を行い借金をしたことなのかもしれない。

1902年には「横浜水道公債」と「大阪市築港公債」、1903年には「日露戦争戦費公債」(ロンドン市場での英貨公債募集を閣議決定したのは宣戦布告から1週間後の1904年2月17日)、1906年には「関西鉄道英貨公債」、1907年には「横浜市築港公債」など数多くの公債をサミュエル商会は引き受けている。
サミュエル商会は明治初期から鉄道建設に関わるなど外国企業ながら日本政府との密な関係を持っており、1876年には正式に横浜支店を開設した。
イギリスの会社であるサミュエル商会はロンドン金融市場にも通じ、日本国内で公債に応じるだけなく、日本の外債発行に大きな影響力を持っていたとされる。

マーカス・サミュエルがロスチャイルドから得たロシア産灯油のアジアでの独占的販売権は1900年を期限としていた。
日本の規制緩和の動きも受けて、1900年、サミュエル商会は日本にライジングサン石油株式会社を設立した。


1902年、日本とイギリスの間で日英同盟が結ばれる。

1903年、シェルとロイヤルダッチはロスチャイルド家の仲介により合弁会社Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社)を設立し、本社を中国上海に置いた。
これは日露戦争(1904-1905年)前年のことである。
アジアティック石油会社はシェルとロイヤルダッチとロスチャイルドの3者(3社)が3分の1ずつ資本を出して設立された。
ライジングサン石油会社はシェルの子会社というポジションである。


1905年、日英同盟の更新(改定)。第2次日英同盟
1911年、日英同盟の更新(改定)。第3次日英同盟。

•ライジングサン石油、第2回日英同盟を記念して「同盟印ローソク」を販売。「雷神印」「鶴亀印」なども好評。(昭和シェル石油ホームページより)
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日本とイギリスの国旗が用いられた図案。
イギリスの国旗はまるで米という漢字が書かれているかのように見える。
現に、イギリス国旗のことを中国では、米字旗(旗の意匠の漢字は米が類似している)と呼ぶことがある。
中国はアメリカのことを「米国」とは表記しない。「美国」である。
日本では何故アメリカを米国と言うのか?アメリカの当て字である「亜米利加」の米という漢字を使ったというのが定説である。だったら「亜国でも良かったのでは?」と言われたからなのか知らないが、メリケンの当て字「米利堅」の米であると言われることもある。
ひょっとして・・アメリカはイギリスの国という意味だったりして・・?

日の丸は半分ユリ(百合)の花に隠れてしまっている。
ユリという花もキリスト教との関わりが深い。

キリスト教においては白いユリ(マドンナリリー)の花が純潔の象徴として用いられ、聖母マリアの象徴として描かれる。天使ガブリエルはしばしばユリの花をたずさえて描かれる。これはガブリエルがマリアに受胎告知を行った天使であることを示す図像学上のしるしである。

幕末にフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが日本のユリの球根を持ち帰り、復活祭に用いられるイースター・リリーとして大流行すると、球根は近代日本の絹に次ぐ二番目の主要輸出品として外貨を獲得した。
なお持ち帰られたのは琉球列島原産のテッポウユリであり、これが現在のイースターの象徴として定着していった。そしていわば逆輸入されるかたちで明治末に鑑賞花として流行した。
ただし、テッポウユリに関しては、現在主流となっている品種「ひのもと」は、時代を下り、1944年に屋久島から福岡県に持ち帰られた球根の後裔が、1962年に種苗名称登録に出願されものである。 輸出用の栽培は、原産地の沖縄以外にも、主に富士山麓から神奈川にかけて広く行われた。


マドンナリリーの原産地はヨーロッパ南西部、地中海沿岸、バルカン地方、パレスチナ地方、コーカサス地方など 。
一方のテッポウユリの原産地は日本。
キリスト教の本場であるヨーロッパにおいてヨーロッパ原産のマドンナリリーは、1800年代後半以後に日本から持ち込まれたテッポウユリという外来種が繁殖したことで減少し、 今では世界的に希少価値の高い幻のユリとさえ言われている。

しかしながら図案のユリはテッポウユリでもマドンナリリーでもない。
ヤマユリの「白黄」という品種だと思われる。
特色は内側に入る筋。純白の花に黄色い筋が入る。ヤマユリは筋と斑点が入るのが特徴だが、「白黄」という品種は斑点が少なかったり入らない。

ヤマユリ
日本特産のユリ。北陸地方を除く近畿地方以北の山地の林縁や草地に分布する。学名は「黄金色のユリ」の意。和名は、山中に生えることからつけられた。
花の香りは日本自生の花の中では例外的ともいえるほど、甘く濃厚でとても強い。発芽から開花までには少なくとも5年以上かかり、また株が古いほど多くの花をつける。風貌が豪華で華麗であることから、『ユリの王様』と呼ばれる。
1873年、ウィーン万博で日本の他のユリと共に紹介され、ヨーロッパで注目を浴びる。それ以来、ユリの球根は大正時代まで主要な輸出品のひとつであった。西洋では栽培品種の母株として重用された。
ヤマユリは神奈川県の県の花に指定されている。


このヤマユリを改良してオリエンタル・ハイブリッドなどのユリが作られた。

図案中央あたりに見られる花はおそらくアネモネ。
古くから人との関わりが深く、神話や伝説にも多く登場しているアネモネ。ヨーロッパ南部から地中海東部沿岸地域の原生地から各地への伝播には、十字軍や巡礼者が関わっています。(趣味の園芸より)



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# by yumimi61 | 2018-05-31 16:53
2018年 05月 31日
しあわせ╱しわあせ
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・私が好きな寿司ネタを3つ挙げるとすれば、赤貝、ホタテ、ブリ(ハマチ)で、貝が2つ入ります。


・先日「シャンシャンりんごを食べる」という見出しでシャンシャンがニュースになっていた。
私はシャンシャンが丸りんご1個を両手で持ってガブリとしている姿を想像した。それなのになんと!人間様のように小さくカットされたりんごを片手で持ってお口に運んでいる・・皮を剥いていないのだけが救いだった。


・先日あることに気が付いて凄い発見だと思った。
狩人の『あずさ2号』という歌、あの歌詞の主人公の名前(あるいは源氏名)なのでは!?
で、彼女は妾的存在だった。
妾のことを「二号」と言ったりしますよね・・だから「あずさ2号」、それを特急電車の「あずさ2号」に掛けた。
末広がりの八は縁起が良いと言うけれど・・・


・前にしあわせについて書いたことがある。
「手と手を合わせて、しあわせ」という仏壇のCMがありましたね。
あれはどういう意味だったんだろうなぁ。
「幸せ」か「為合わせ」か、はたまた「皺合わせ」か。 

「幸せ」は「為合(しあ)わす」という言葉から生まれた言葉。
「幸」や「仕」は当て字だったわけです。


為って?
1 利益があること。役立つこと。「為にならない本」「子供の為を思う」
2 原因・理由。わけ。「雨の為に延期する」
3 目的や期待の向かうところ。「健康の為に運動をする」
4 一定の関係のあること。…にとっては。「私の為には叔父にあたる」


英語ならばforやbecauseの後に続く何かが「為」ということになる。

「試合」という言葉も元々は「為合い」です。
相手と戦う。「為合う」ということ。
勝つか負けるか、幸か不幸かはその先のこと。

語源を考えれば、「幸せ」というのは必ずしもHappyということではないのです。

さらに考えてみると、試合で相手に「合わせる」ことは幸せなのかどうか。
試合ではなくて人間関係ならばどうなのか。



為合わせ・・どんな為を合わせるのだろう。
名誉や栄誉の為に戦うんだろうか。
自分の出世の為?子供の出世の為?自分の自尊心を満たす為?子供の自尊心を満たしてあげる為?
子供の成長の為?健康の為?教育の為?お金(儲け)の為?貯め?
進学の為?就職の為?生きていく為?

先日「死合わせ」という当て字もあるんだなと思った。
死んだ後は幸せ?それは・・死んだ人がだろうか、残された人がだろうか。
死後の世界って本当に幸せなのかなあ。
現世の私達は死後の世界に行っていないから(もしくは何も覚えてないから)死後の世界を知らない。
本当は死後の世界もドロドロしていて幸せなんかじゃないかもしれない。
知らないから幸せ?
そうじゃなくて、やっぱり知合わせ?






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# by yumimi61 | 2018-05-31 12:29
2018年 05月 29日
日本国憲法の秘密-745- (外貨準備と貿易について)
ロックフェラーをはじめアメリカが得意としたのは幾つかの企業を合併して1つの企業にしてしまうトラスト(企業合同)。
ロスチャイルド家は各地に代理人や代理店を置いて任せる方式、提携などで協力関係を結ぶというやり方で事業を展開してきた。これが発展したのがカルテル(企業連合)。シンジケートはカルテルとなる。


とある国で生まれ育った大企業が海外進出する。外国ではその会社は外資となる。
一般的に各国は自分の国の企業なり産業を守るために外資には様々な規制を掛けていることが多い。
(植民地との貿易ならばその心配はないだろうけれども。だから植民地を持つ権力者の貿易は上手くいく)
(植民地の人がそれを自由と感じるか不自由と感じるかは人それぞれかもしれないけれども、だからこそ自由を守るための規制というものもあるのだと思います)
(動物でも植物でも外来種を目の敵にすることがありますね?在来種を守れ!とか言って。企業だって貿易だって同じことが言えてしまうわけで。それなのに自由貿易が素晴らしく保護貿易を悪だと決めつけるところが胡散臭い。外来種がみんな悪いのか、在来種がみんな良い物なのか、何を基準にそれを決めるのか、難しいところですね)

例えばロックフェラーのスタンダート・オイルが外国に法人を作って事業を展開しようとすれば、外国での規制を受けることになる。
ところが現地の人や現地会社を代理人や代理店にしたり、協力関係を結ぶというロスチャイルドの手法はその規制を受けにくい。
事業は任せてもロスチャイルドが資本参加するということは多々あり、また外資の資本比率が定められていることもある。
しかしもともとの提携者らが資本を分担して持てばよいわけだからさほど問題なくクリアできたりする。
さらに事業のためのお金でなく、お金のための事業ならば、その資本はいつでも引き上げることが出来る。資本自体が商売であったりするのだ(マネーゲームと言ったりもする)。
ここぞという時に株式を売り払って儲けたり、損をしないところで売り払ってリスク回避したりする。


日本では江戸末期に不平等条約を結ばされたという被害者意識が強いが、別にそうでもなかったということを前にも書いた気がするが、外資にも規制が掛けられていた。
その規制が1890年代に外されてきた。規制を外すとともに治外法権も撤廃した。
要するに日本で自由に商売できる代わりに、日本で処罰も受けましょうということになる。自由と責任は相和しない。


この規制緩和の動きを受けて、1900年、サミュエル商会は日本にライジングサン石油株式会社を設立した。
サミュエル商会は様々な物品を輸出入していたが、ライジングサン石油株式会社はその名の通り、石油部門を独立させた会社。
もともとマーカス・サミュエルがロスチャイルドから得たロシア産灯油のアジアでの独占的販売権は1900年を期限としていた。
独占販売権は飴で、期限は鞭といったところだろうか。
サミュエルはその間に一定の成果を上げる必要があったし、それを示してみせる必要もあっただろう。
同じ年、ロスチャイルドはオランダのロイヤルダッチの支援を始める。
ライジングサン石油会社が出来る前のサミュエル商会は、日本に届いた石油を日本国内に展開するのには国内に従来からある会社などを代理店にして利用していたが、直営での展開に乗り出すことになる。


1903年、シェルとロイヤルダッチはロスチャイルド家の仲介により合弁会社Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社)を設立し、本社を中国上海に置いた。
これは日露戦争(1904-1905年)前年のことである。
そして1907年に両社が統合し、ロイヤルダッチ・シェルの設立と相成った。


シェルとは1897年にタンクシンジケートが改組して出来たシェル・トランスポート・アンド・トレーデイング・カンパニー (Shell Transport and Trading Company)のこと。
アジアティック石油会社はシェルとロイヤルダッチとロスチャイルドの3者(3社)が3分の1ずつ資本を出して設立された。
ライジングサン石油会社はシェルの子会社というポジションである。


トレードマークは、サミュエルが財を成す事が出来たのは、湘南の浜の貝殻であることから、それを忘れ無いために貝殻の「貝」印とした。(前出の桐蔭横浜大学客員教授コラムより)
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1897年にシェル・トランスポート&トレーディング・カンパニーを設立した。社名は、貝殻を販売していたことと、出資者の家紋がヨーロッパホタテ(Pecten maximus、ホタテガイに近縁なホタテガイ属の1種)であったことにちなむ。
トレードマークは当初ムール貝であったが、1904年に現在のマークの原型となるホタテ貝に変更した。ヨーロッパホタテの貝殻をモチーフにしたペクテンマークの起源はここにある。


Pecten maximus
Pecten maximus, common names the great scallop, king scallop, St James shell or escallop, is a northeast Atlantic species of scallop, an edible saltwater clam, a marine bivalve mollusc in the family Pectinidae. This is the type species of the genus.
This species may be conspecific with Pecten jacobaeus, the pilgrim's scallop, which has a much more restricted distribution.



一番最初(1900年)に作ったマークは地中海原産のムール貝だったそうである。
当時日本には存在しておらず、後に外来種であったムール貝が大繁殖することになる。

ホタテガイは生物学的にはイタヤガイ類(scallop) の1種で、イタヤガイ=ホタテガイではないそうだが、日本ではそのあたりを区分けしないで似た形のものはほぼ「ホタテガイ」と呼んでいる。

キリスト教圏では英語で言うところの scallop (特にその一種であるイタヤガイ属)の貝殻は、中世以来、聖ヤコブの象徴物とされており、フランス語では「聖ヤコブの貝」を意味する "coquille Saint-Jacques [仮名転写例:コキーユ・サンジャック]" の名で呼ばれている。これは「ホタテガイ」とは異なる。 


St James shell
地中海産のジェームズホタテガイ(ジェームズイタヤガイ)は古くから図案や紋章にとり入れられ,十字軍の従軍記章にもなったことで名高く,エルサレムへいった兵士がこれを従軍の印として故国へもち帰ったので巡礼貝の名がある。


「聖ヤコブの貝」
9世紀初頭に遺骨が発見されたというスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラ(サンチアゴは,スペイン語で〈聖ヤコブ〉の意)は,今日なお巡礼地として名高い。同地は中世には,帽子などにホタテガイの殻をつけた巡礼が西欧各地から集まり,キリスト教三大巡礼地の一つとして栄えた(なお,今日でもフランス語でホタテガイをcoquille Saint‐Jacques(聖ヤコブの貝)と呼ぶ)。ヤコブはイスラム勢力と戦うキリスト教徒を守護すると信じられ,崇敬された。

スペインでは黄色い貝が巡礼の目印になっている。
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http://labarum.ocnk.net/
アンティーク&ヴィンテージ聖品専門店Labarum(ラバルム)より
(イタリア在住店主がイタリア、ヨーロッパで集めたメダイ/クロス/ロザリオ/ご絵/聖像/その他多種多様な聖品類/コレクションボックス等をご紹介しています)

ヨーロッパで実際に使われていたアンティーク・ヴィンテージメダイです。
永い年月を経て味わいのあるお品となっております。

【図柄・刻印・フレーズ解説】
三大巡礼地のひとつ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼記念のホタテ貝型スライドメダイです。
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*ちなみにフランス語ではホタテ貝を「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼びます。
聖ヤコブの姿は往々にして巡礼者の姿で描かれる事が多く、巡礼の格好はつばの広い帽子にマントを着て巡礼杖を持ち、肩に合財袋か瓢箪をさげています。そして貝殻をマントなどにつけて描かれます。
その為彼が埋葬されている世界的にも有名な三大巡礼地のひとつ、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼者は、この貝殻をつける慣わしがあります。
*聖ヤコブはスペイン語でSantiagoサンティアゴ そして聖ヤコブはスペインの守護聖人で、そのシンボルのホタテ貝自体がスペイン人キリスト教徒にとって非常に重要なモチーフです。


メダイ(キンメダイ・・・)
メダイはポルトガル語です。英語ではメダル、フランス語ではメダイユと呼ばれています。
つまり物として金メダルや記念コインのようなものと同じです。
キリスト教の聖品として聖母マリア様やイエス・キリストをはじめ、聖人・聖女の方々などが彫られた様々な種類のメダイが存在します。


ちなみに「ホタテガイ」は寒海性の貝なので、暖かい海にはいない。
日本のホタテガイの産地は北海道や青森県である。
湘南の海では・・・

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# by yumimi61 | 2018-05-29 15:05
2018年 05月 28日
日本国憲法の秘密-744- (外貨準備と貿易について)
息子マーカス・サミュエルは父の死後1873年にアジアを訪れ、1875年には世界中を回ってみた。兄弟とともに。
アンティークインテリア雑貨店が産業革命と自由貿易の後押しを受けて工業製品も扱うようになっていたが、さらに取扱品目を増やしていった。
いわば貿易商社のような仕事をするようになったのである。
世界各地の商社と取引をするため自社に大量の社員や工場などの不動産を抱え込む必要はない。比較的リスクの少ない商売である。

アンティークインテリアや雑貨のお店として雑貨、家具、漆器、陶器、銅器などの輸出入を行っていたが、そこに機械類など工業製品が加わった。
ビルマやタイの米、アメリカやカナダの小麦、フィリピンのタピオカなどの食品も加わる。
日本とは三井物産や三菱商事などと取引をしていた。
日本は機械類、綿や毛の織物、砂糖、石油などを輸入。
日本からは石炭、生糸、茶、米、木材、魚油などを輸出していた。
サミュエル商会は欧米の保険の代理店を務めるようなことも行っていた。
また日本の鉄道建設にも関わっている。

明治新政府は政府が成立すると鉄道建設に着手する。
明治維新の翌年、政府は官営による鉄道建設を決定し、新橋 - 横浜間の鉄道建設が始まったのだ。
明治2年(1869年)11月に自国管轄方式によって新橋・横浜間の鉄道建設を決めた。当時の日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。これは鉄道発祥国イギリスの技術力を評価したことと、日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの存在も大きかった。翌明治3年(1870年)イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任して本格的工事が始まった。日本側では明治4年(1871年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉱山頭兼鉄道頭に就任して建設に携わった。

サミュエル商会は1876年に横浜に支店を正式に設立したが、それ以前より日本政府から鉄道建設資材など受注しており、代理店があったようなのだが、その実態は明らかになっていない。
そもそも明治維新の裏にいたのがイギリスである。


1876年に設立された横浜支店は、マーカス・サミュエルの弟が来日し10年間滞在して、彼を中心に事業を行った。
経営のプロとして、Chartered Bank of India, Australia and China (インド・オーストラリア・中国チャータード銀行)の経営一族と血縁関係にある人物を招く(後にこの人が代表となる)。

チャータード銀行は1853年、ビクトリア女王からのジェームズ・ウィルソンへの特許状交付に基づき設立。
1858年、最初の支店をカルカッタとボンベイに開設したのに引き続き、上海にも進出。翌年には香港に支店、シンガポールに出張所を開設。1862年以降は、香港での紙幣発行銀行となる。1860年代から1900年代にかけてアジア全土へ支店網を広げる中、1880年、横浜に出張所を開設。1900年代初頭には、ニューヨークでの営業許可を得た最初の外国銀行となる。1957年、イースタン銀行を買収し、イエメン、バーレーン、レバノン、キプロス、カタール、アラブ首長国連邦へも支店網を広げた。神戸市の旧外国人居留地にあるチャータードビル(旧チャータード銀行神戸支店)は近代建築として著名である。

当行の英語名称は"The Chartered Bank of India, Australia and China"が正式な行名であり、香港で発行していた紙幣にも当初同じ名称が記されていたが、1950年代以降に意匠変更された紙幣からは、"The Chartered Bank"の略称で表記されるようになった。また、この香港発行の紙幣では、中国語名称として当初「印度新金山中國匯理銀行」と記されていたが、1910年代以降に意匠変更された紙幣からは「印度新金山中國渣打銀行」と変わり、英語名称で"The Chartered Bank"の略称が使用されるようになってからは、中国語名称も「渣打銀行」の略称で表記されるようになっている。

世界第5位[要出典]に位置づけられる同行は、特に新興地域において主導的な役割を担っている。イギリスでの顧客は少なく、アジア太平洋地域、ヨーロッパ地域、アフリカ地域での業務がそれぞれ、65%、25%、10%を占める。中でも香港は、2004年には収益の30%を挙げるなど最も重要な活動拠点となっている。とはいえ、ロンドン証券取引所上場のイギリス企業である点に変わりなく、同国上位企業の株価指数であるFTSE100でも20〜30位以内に位置づけられている。



1870年以降に俄かに注目され出した石油という資源。
言わずとしれたアメリカの石油王ロックフェラーの功績。
当時は産出量も生産量もアメリカがトップだった。
ただ油田としてはロシアのバグー油田が世界最大と言われていて、ロシアの産出量や生産量も大きく伸び始めた。
ロシア産の石油を売り出していたのがノーベル家とロスチャイルド家である。
主な市場はヨーロッパだったが、アメリカのロックフェラーはそのヨーロッパにも触手を伸ばした。
また日本や中国にも輸出をしていた。
以前私は明治維新は「太平洋の恐怖」から始まったのだろうと書いたことがある。恐怖に感じたのはイギリスである。
植民地、戦争を通して手にした中国の権益など、イギリスの繁栄はアジアやアフリカ、あるいは中東などとともにあった。
それは海を制したからに他ならないのだが、かつての植民地であるアメリカが今や大西洋を渡ってヨーロッパに来るだけでなく、太平洋を渡ってアジア圏にも進出しようとしている。ひたひたとした恐怖を感じずにはいられなかったのだろう。
しかもアメリカは、イギリスが進出して失敗した(手に入れられなかった)日本と手を組もうとしていた。
放っておけばそこから綻びがどんどん広がってしまう可能性がある。
イギリスは主導権を握らなければならなかった。だから反幕府側を支援し日本を手中に収めた。



ヨーロッパに石油を運ぶことを考えたロスチャイルド家はまずバクーからジョージアまでの鉄道建設に資金を提供した。
ジョージアに到着すれば後は海路(黒海から地中海に抜ける)で行ける。
鉄道は1883年に開通。
同年、ロスチャイルド家は財政難のロシア政府の国債を引き受ける見返りに、バクー油田の中でも最大級のバニト油田の権利を譲りうける。
1886年、「カスピ海・黒海会社」を設立。
供給先は違うが、ノーベル家とロスチャイルド(パリ家)は一緒にバクー油田の開発を行うようになる。


「カスピ海・黒海会社」は英語で書けばCaspian and Black Sea Petroleum Company だが、ロシア語表記の頭文字からBNITO(ブニト)と呼ばれていた。
ロスチャイルドはこの石油販売会社BUNITOを通してロシア産の石油を輸出していた。
ロスチャイルド家自体が代理人という制度で事業を展開してきたが、ブニトは直接製油には携わらず多くの小規模石油製油業者と契約を結び、ブニト自身はヨーロッパでの販売網の整備に力を注いだ。
しかし前述したようにヨーロッパ市場は思うほど上手くいかず、アジア市場の開拓をめざし、マーカス・サミュエルを紹介された。
アジアへの進出はロックフェラー家との一騎討ちをも意味していた。

1891年、イギリスの貿易商マーカス・サミュエルとロスチャイルド(のBUNITO)は、1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を結んだ。
要するにマーカス・サミュエルがロスチャイルド家の石油事業のアジア部門の代理人になったようなことである。


折しも1891年はバク−油田で大噴油が続出し大増産となった年。
ロシアの石油をスエズ運河経由でアジアへ運搬することを提案したのはマーカス・サミュエル商会の運搬船のオーナーで海運仲買人でもあるフレッド・レーン。ロスチャイルドにマーカス・サミュエルを紹介した人物。
石油は最初シェリー酒の空き樽が利用されて運ばれていたが(石油単位のバレルの由来)、樽自体が高価で石油の価格の半分にもなってしまうという有様で、さらに樽は重量もあり、そのくせ蒸発したり漏れやすかった。到着時にはだいぶ石油がだいぶ目減りしていた。

石油タンカーを最初に建造したのはノーベル家。
とはいってもノーベル家の海路はカスピ海を北上する僅かな距離。陸路の方が長い。
1878年1月に建造契約を結び、その年のうちに最初の航海を行っている。

ロスチャイルド家(マーカス・サミュエル商会)の石油タンカーの最初の航海はノーベル家から遅れること14年。
しかしそれはマーカス・サミュエルとロスチャイルド(のBUNITO)がロシア灯油の独占販売契約を結んだ翌年のことである。
1892年8月に最初の航海に漕ぎ着けた。

スエズ運河会社は開通から6年後1875年にエジプトからイギリスが買い取っていた。イギリス政府に資金を貸し付けたのはロスチャイルド(ロンドン本家)。
スエズ運河はイギリスのものだから、そこを使ってもらいたいのは山々だが、危険物である石油を大量に積んだ船が狭く海賊などにも狙われやすい海峡を通過することはあまりにリスクが大きく、スエズ運河会社がそれを許可しなかった。
「じゃあどんな仕様の船(タンカー)ならば許可が下りるんですか?」と詰め寄って(尋ねて)、許可の下りる石油タンカーを建造した。
運河会社指定の仕様に従って、サミュエルは北イングランドのウィリアム・グレイ (William Gray) に3隻のタンカーを発注した。

こうしてアジアへの輸送の目途も立った。
後はじゃんじゃか石油を使ってもらい、じゃんじゃか売るだけ。
そしてそんなチャンスがやってくる。日清戦争勃発、1894年のこと。
マーカス・サミュエル商会は、日本政府に石油や兵器や軍需品を供給して支援し、儲けることに成功。


石油タンカーという石油に特化した輸送船は往路はよいけれども復路は空になってしまい無駄である。帰りに石油を積んでくることはないから。
単なる輸送船ならば 輸出品を積んで行き、輸入品を積んで帰ってくるということが出来る。
近所に行くならばともかく遠い国々へ燃料を使い危険を背負って膨大な時間をかけて向かうのだ。しかも行きっぱなしでは仕事にはならない。
往ったり帰ったりの繰り返し。いかに無駄なく効率よく船を回していけるかが貿易においての重要な要素の1つである。
サミュエル商会の建造した船は石油タンク部分をクリーニングして、復路には石油以外の物も運べるようにしたという。
さらに1社だけの利用ではなく複数社で利用できるようにシンジケートという形態( 同一市場の諸企業が共同出資して設立した共同販売会社が一元的に販売する組織形態)を採り、タンク・シンジケート(Tank Syndicate)を設立した。
単に船(タンカー)の利便性だけでなく、共同出資であるからタンカーの建造費の負担減にも繋がる。
また複数社が分担で行うことにより新たな市場を大規模に開拓することが出来るため、巨大企業に対抗することが可能になる。ライバルはロックフェラーのスタンダード・オイルだった。

ロックフェラーをはじめアメリカが得意としたのは幾つかの企業を合併して1つの企業にしてしまうトラスト(企業合同)。
ロスチャイルド家は各地に代理人や代理店を置いて任せる方式、提携などで協力関係を結ぶというやり方で事業を展開してきた。これが発展したのがカルテル(企業連合)。シンジケートはカルテルとなる。
但し親会社のようにロスチャイルド家という絶対的存在が上にどーんと居座り、そのロスチャイルドが傘下の企業に資金(資本や融資)提供しているとするならば、それはもうコンツェルン(企業結合)と言えるだろう。
上に存在するのがロスチャイルドではなく王室でも皇室でも政府でも同じことが言える。
コンツェルンはいわばピラミッド型の巨大な支配体系で、財閥と言われたりする。

タンク・シンジケートでは利益は共同配分するということが定められていた。例えば中国市場でスタンダード・オイルに負けて損失を出しても、日本市場で勝って取り替えせれば利益に繋げられるので、1社ごとのリスクはそれだけ少なくなる。しかしそれはやはり独立性が弱いと言えるのでコンツェルンのような形態である。

これでは日本と中国(清)が戦争をしても、シンジケートはどちらにも物資を供給することになる。
商売なのだから当たり前と言えば当たりまえなことだが。
需要があるところに供給する、利益が出そうなところに売り込む。


1897年、タンク・シンジケートはシェル・トランスポート・アンド・トレーデイング・カンパニー (Shell Transport and Trading Company)という会社組織に改組された。
ここで初めてシェルという名を使った。
サミュエル家が過半数の株式を保有し、会社の支配権を握った。









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# by yumimi61 | 2018-05-28 12:29
2018年 05月 27日
日本国憲法の秘密-743- (外貨準備と貿易について)
少し前に書いたバグー油田からの石油の話の続き。

アヘンで大儲けした人達が次に目を付けたのが石油だった。

世界最古の油田、バクー油田。それはアゼルバイジャンという国にあった。国営の油田である。
アゼルバイジャンは歴史的にはイラン政権やアラブ政権の支配下に置かれていた時期が長い。
1813年にロシア帝国領となり、やがてソ連構成国となっていく。

この古くからあったバクー油田に注目したのはノーベル賞のノーベルである。厳密に言うと、爆弾の発明者の兄ノーベル。木材を買い付けに行って油田に興味を持ち、木材を購入する代わりに油田の権利を譲ってもらった。1873年のこと。
アメリカでロックフェラーがスタンダードオイルを設立したのは1870年。アメリカで石油産業を確立し、一大トラストを築いていくことになる。
1879年、ノーベル家も「ノーベル兄弟石油生産会社」を設立し、ロシアに石油供給を始めた。

ロスチャイルド家(パリ本家)も石油事業に目を付け参戦する。
ノーベル家はバクー油田からの石油をロシアに運搬していたが、ロスチャイルドはバクー 油田からヨーロッパに運ぶことを考えた。



ノーベル賞創設者のアルフレッド・ノーベルは北欧スウェーデン出身として有名だが、実は9才の時(1842年)にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに移り住んでいる。
建築家で発明家の父親がアルフレッドが4歳の時にサンクトペテルブルクに単身赴き、機械や爆発物の製造で商売を成功させ裕福となり家族を呼び寄せた。
ノーベル一族の商売はロシアで始まったものである。
アルフレッドは幼少期から化学に興味を持っていたが(学校に通っていたのは8~9歳の1年半あまりで後は家庭教師などに学ぶ)、青年期には文学に傾倒し、イギリスの詩人シェリーに惹かれ詩人を目指すも断念。サンクトペテルブルクで父の工場を手伝うようになる。
だがクリミア戦争後の1859年(26歳)に父親の会社が倒産。それを機にスウェーデンに戻った。(でも研究実験場は依然サンクトペテルブルクにもあった)
アルフレッド・ノーベルはスウェーデンで黒色火薬よりも強力な爆薬ニトログリセリンの研究を行い、スウェーデンで特許取得するもスウェーデン軍には危険すぎるという理由で採用を断られる。
そうこうしているうちにスウェーデン・ストックホルムのニトログリセリン工場が爆発事故を起こす(末弟ら5人が死亡)。
この事故でスウェーデンでの研究開発が禁止されたためドイツのハンブルクに工場を移した。31歳。
その後、不安定だったニトログリセリンをより安全に扱いやすくしたダイナマイトを発明し、50カ国以上で特許を取得し、世界的な大富豪となる。
確かにスウェーデン出身であるが、ノーベル一家の成功はスウェーデンの外でもたらされたといっても過言ではない。
兄とともにアゼルバイジャンで石油会社を設立したのは45歳の時である。
兄はロシアに住んでいたとか。



ノーベル(スウェーデン、ロシア、ドイツ)、ロックフェラー(アメリカ)、ロスチャイルド(フランス、イギリス)のヨーロッパでの石油販売競争。
海路中心にヨーロッパに運搬するロスチャイルド家のほうが有利に思えたが、然うは問屋が卸さない。
ノーベル家がロシアで優位なのは当然だが、ノーベル家はスウェーデンの出身であり地元北欧においても強かった。
寒い地方への運搬は大変だけれども、確実に石油が消費される地域でもある。
またアメリカのロックフェラー家も大西洋を渡ってヨーロッパに石油を運ぶことが出来る。
従ってロスチャイルド家はヨーロッパでの顧客獲得合戦でダントツ優位に立てるわけではなかった。
そんな事情もあったことから、ロスチャイルド(パリ本家)はスエズ運河を抜けてアジアへ運搬することに目を向けた。



ロスチャイルドは、同家の代理人でもあった海運仲買人のフレッド・レーンにマーカス・サミュエルを紹介された。
マーカス・サミュエルはロイヤルダッチ・シェル(本社はオランダ・ハーグ)のシェル側の創業者である。


詳細は後述するが、マーカス・サミュエルはイギリス生まれ(イラク系ユダヤ人)。石油会社は後の設立だが、事業は父親がロンドンで始めた会社を継いでいる。
ロイヤルダッチという会社は、当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)生まれた人物が1890年にオランダ王室からの特許状を得て、1892年に設立した会社。
ロイヤルダッチは石油運搬をシェルに委託しており、最初から両社の関係性は非常に強い。
オランダ王室とイギリス王室は血縁関係にある。ともにドイツ系の王室である。日本の皇室とも親密。


ロイヤルダッチ・シェルは世界のグローバル企業500社のトップにもランキングされたことのある多国籍企業。
1903年、両社はロスチャイルド家の仲介により合弁会社Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社)を設立し、本社を中国上海に置いた。
これは日露戦争(1904-1905年)前年のことである。
そして1907年に両社が統合し、ロイヤルダッチ・シェルの設立と相成った。



マーカス・サミュエルの日本での説明は若い頃の部分がほぼ間違えている。
間違えているというか、都合よく創作した話が伝わってきたという感じ。
どんな説明なのかと言うと、こんな感じ。
「田原都市鑑定株式会社 鑑定コラム」を例として借りた。
※当時代表が桐蔭横浜大学法学部の客員教授であり、2011年度の最初の講義で取り上げたとのこと。
桐蔭横浜大学の客員教授にはオウム真理教をダライ・ラマウ14世に紹介したというチベット出身のペマ・ギャルポがいる。
私はこれを前にも書いたことがある。
もしも私が家を建てたなら白~い家を建てたでしょう~♪
ブータン→日本経営者同友会の代表理事&国連友好協会NPO法人代表の徳田瞳→国連友好協会の理事であるペマ・ギャルポ→日本経営者同友会の事務所は桐蔭横浜大学のペマ・ギャルポ研究室 という流れ。
(徳田御一行様はオバマ政権のホワイトハウスレセプションにも出席している)

※同氏の別コラムでも興味深いことが書かれていた。
278)桐蔭横浜大学の客員教授
 大学の教務課より小さい紙箱を受け取った。
 100枚の名刺が入っていた。
 その名刺には五三の桐の紋章が付いていた。
 五三の桐の紋章を見た時、創始者は旧制の東京高等師範学校(現筑波大学)出身者かその関係者と直感した。


そこで私も桐蔭横浜大学のルーツを調べてみた。
1964年に設立した学校法人桐蔭学園がその始まりである。

学校法人桐蔭学園
1964年(昭和39年)に創立された学校法人で、幼稚部から大学・大学院を擁する総合学園である。横浜市青葉区鉄町にキャンパスを所有し、ドイツにも2012年(平成24年)までドイツ桐蔭学園を開校していた。また、関連法人として横浜総合病院(総合病院)も有していた。
「公教育ではできない、私立ならではの教育」をスローガンに設立され、同時に高校を開校する。設立当初から能力(学力)別クラス編成により、能力別の授業を行っている。

大学は1987年開校。桐蔭学園中学・高校はマンモス校らしい。

創立者は柴田周吉。
福岡県出身。東北帝国大学を卒業後は三菱系企業に就職。中国でも勤務している。最終的には三菱化成工業株式会社(現:三菱化学株式会社)の社長・会長に就任。
1963年(昭和38年)に藍綬褒章受章。
同年、筑波研究学園都市が閣議決定される。
筑波大学(旧:東京教育大学)移転の際には質実共に陰の力となり長期に渡ったプロジェクトの実現に尽力した。筑波学都資金財団を創設し各理事長をつとめ、筑波研修センターを建設した。紫峰会を設立。
理事長をつとめた茗渓会の同窓と共に茗溪学園創立。

(筑波大学の移転は国を挙げての学園都市構想に基づいて行われたわりには大学が駅から遠いという、発展させる気の無さぶりを発揮した。あえての隔離作戦だろうか)
桐蔭学園、茗渓学園、科学技術学園と全く異なる校風をもつ学校の理事長を兼任し、経団連の常任理事でもあった。


768)2011年大学新年度最初の講義とシェル石油創始者

 2011年(平成23年)4月中頃より、横浜青葉台にある大学の新学期の授業が始まった。
 法学部3年生を対象にした私の不動産鑑定評価の講義が始まった。
(略)
いつもは、ここより授業に入っていくが、今年は、現在の大学生の就職状況の厳しさから、大学3年生になった早々から就職活動をしなければならないことを考え、学生に大きな希望を持って人生を切り開いて歩んで欲しいという私の願いもあり、ある人の話をすることにした。

 大学が横浜にあることもあり、横浜に関係するマーカス・サミュエルという人の話をした。
 マーカス・サミュエル ?
 それはどんな人かと思われる人もいると思われるが、私もマーカス・サミュエルを研究した訳でもないから、それ程詳しくは知らないが、私の知っている範囲の事を学生に話し、人生に夢と希望を持って、力強く生きて欲しい例として話した。

 1871年(明治4年)、横浜の港に、僅か数ポンドの金しか持たない18歳の英国籍の若い貧しいユダヤ青年が降り立った。
 住むところも無く、湘南の浜の無人小屋を見つけ、そこで日々を過ごした。
 湘南の海岸で美しい貝殻を見つけた。
 これをボタンとかブローチに加工細工して英国で売れば、金になると思いついた。
 青年は貝殻を集め加工細工して、英国にいる父親に送った。
 父親はそれを売り歩いた。
 英国人は東洋の神秘さに見せられたのか、珍しがって買ってくれた。
 青年の商売は順調に行き、貝殻の加工細工のほか、雑貨も扱い、英国と日本との間の雑貨輸出入業者としてやって行ける様になった。

 青年は33歳になった1886年(明治19年)、横浜で自分の名前を付けた「マーカス・サミュエル商会」という会社を設立した。
 サミュエルの事業は益々順調に進んだ。
 その頃、アメリカでロックフェラーが石油を掘り当て、石油王になった。

 マーカス・サミュエルもその噂を聞き、自分も石油を採掘してみようと思い立ち、それまでの事業で儲けた金の一部で、インドネシアに出かけ採掘したところ、運良く石油を掘り当てた。

 1894年(明治27年)日清戦争が勃発した。
 サミュエルは、日本軍に石油、兵器を供給し援助した。
 
 こうして日本政府の信頼を得る一方、1900年(明治33年)サミュエルは、マーカス・サミュエル商会の石油部門を分離して「ライジング・サン石油株式会社」を横浜に設立した。
 このライジング・サン石油株式会社が、のちに「シェル石油」になるのである。
 トレードマークは、サミュエルが財を成す事が出来たのは、湘南の浜の貝殻であることから、それを忘れ無いために貝殻の「貝」印とした。

 サミュエルは、その後英国に戻り、ロンドン市長になった。

 シェル石油は、1907年(明治40年)オランダのロイヤル・ダッチと合併し、 ロイヤル・ダッチ・シェルとなる。合併後のトレードマークは、貝殻の「貝」印である。
 このロイヤル・ダッチ・シェルは、ロスチャイルドの中心企業に成長する。

 今も日本のあちこちに見られる貝印のトレードマークのガソリンスタンドは、ロイヤル・ダッチ・シェルの日本会社である「昭和シェル石油株式会社」のガソリンスタンドである。

 シェル石油の発祥の地は、日本の横浜である。




マーカス・サミュエルにはマーカス・サミュエルという同姓同名の父親がいた。
父親は骨董品や古美術品を扱う小さな会社を、少なくとも1833年前よりロンドンで営んでいたが、1833年に事業を拡大することにした。
インテリア、雑貨、装飾品などを扱う店である。マーカス・サミュエル商会。

JOYFUL-2店内のアンティーク家具と輸入雑貨の店「Old Friend」をご存知ですか?
「Old Friend」は2017年11月に「THE GLOBE」に変わった。

アンティーク家具、照明、ファッション、雑貨、ビンテージウォッチ、アートフラワー、DIYアイテムを扱う「THE GLOBE」が2017年11月15日にイオンモールつくばにグランドオープンしました。
それに伴い、JOYFUL-2店内に併設されているオールド・フレンドも生まれ変わりました。
ヨーロッパで現地買い付けし直輸入したアンティーク家具を、テイストの異なるブランドに合わせてセレクトすることで、守谷店、富里店、新田店、宇都宮店、瑞穂店はオールド・フレンドからアンティーク家具・雑貨を中心とした品揃えの「ザ・グローブ」に。
荒川沖店、ひたちなか店、千葉ニュータウン店、幸手店はこれまでの「アンティークと雑貨のお店」から「北欧家具と雑貨のお店」オールド・フレンドとして新たにスタートします。


ジョイフル本田は城県土浦市に本社を置く大型ホームセンター。
THE GLOBEはジョイフル本田グループのホンダ産業が運営するアンティーク家具・雑貨の専門店で、東京都世田谷区池尻に店舗があるらしい。
輸入家具雑貨店にイングリッシュガーデンのアンディ&ウィリアムス ボタニックガーデンなどジョイフル本田はイギリスがかっている。雑貨店もイングリッシュガーデンも嫌いじゃないけど。

マーカス・サミュエルのお店は「Old Friend」や「THE GLOBE」みたいな感じだったのだと思う。
イギリスだから日本とは逆で東洋の品物を扱っていた。
貝殻を扱っていたのは事実。ロンドンに寄港する船の船員から東洋産の珍しい貝殻を購入し装飾品に加工し販売していた。
デザイナーや加工スタッフには50名ほどの女性従業員を使っていたという。
当時人気があった商品は漆塗りの黒い小箱だった(私も持ってた!)。葉巻やタバコ、小物などを入れる容器として使われたそう。
貝殻は当初ボタンや子供用のおもちゃなどにしたが、これは売れなかった。
そのため貝殻はその後、富裕層向けの商品の装飾に使ったそう。


イギリスが自由貿易を積極的に推し進めた時代、しかもイギリスは産業革命がほぼ終了しており工業製品を輸出する段となっていた。
マーカス・サミュエル(父親)もイギリスの工業製品を輸出するようにもなり、サミュエル商会は急成長した。
息子マーカス・サミュエルは1853年生まれ。彼が生まれた頃には父親は事業を成功させて立派な商人になっていた。だから彼は貧しい青年なんかではなかった。貧しい青年が生死をかけて海を渡ってきたわけではないのだ。
息子マーカス・サミュエルは小学校を卒業後にベルギー・ブリュッセルのユダヤ系の全寮制学校に入学し商人教育を受けた。
その後にロンドンに戻り家業を手伝う。
父マーカス・サミュエルが1870年に亡くなった後には息子らが家業を継いだ。


上に載せた客員教授のコラムには書かれていないが、日本での説明だと、1871年18歳の時に高校卒業の記念に船のチケットを父親からプレゼントされ、たった1人でアジアに向かったことになっている。
インド、タイ、シンガポールに寄港したがどこでも降りず、終着点の横浜にやってきた。横浜からふらっと湘南へ。つぶれそうな無人小屋に潜んで何日かを過ごした。
海岸では漁師らが貝を集めていた。不要となる貝殻を無料で分けてもらい、それを自分で加工して商品を作り父親に送った。父親がロンドンで売ってみたところ大ヒット。
日本の貝殻で父も息子も大儲けすることができた。
このようなサクセストーリーが語られているが、父親は1870年に亡くなっていて、息子マーカス・サミュエルがアジアを訪れたのは1873年のことである。
彼はすでに規模の大きくなっていたサミュエル商会の事業主であったのだ。







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# by yumimi61 | 2018-05-27 16:11
2018年 05月 25日
日本国憲法の秘密-742- (外貨準備と貿易について)
日本の住宅は気密性が低い。昔ながらの家は尚更。賃貸住宅では比較的気密性が高いけれども。その代わりに一軒家よりも暑い。
最近はエコ住宅として高気密高断熱住宅が宣伝されることもあるが、なにしろ高気密や高断熱の基準が曖昧なため、気分だけの高気密や高断熱にもなりかねない。
宣伝がオーバーになると高気密高断熱住宅ならば暖房冷房知らずで一年中快適であるかのような印象すら植え付けてしまいがちであるが、高気密高断熱であっても寒い時は寒いし暑い時は暑い。何事にも限界というものがある。
もともと高気密高断熱は暖房の熱効率をよくするという観点から寒い地方で重要視された要素である。
要するに暖房を使うことを前提にしての高気密高断熱である。
これまで暖房や冷房を使っていた地域ならば高気密高断熱住宅にしたからといって暖房冷房器具いらずになるというわけではない。

しかも本当の高気密住宅は本当に密閉性が高い。
敏感な人ならば息苦しさを感じるかもしれない。
建築資材などに含まれる化学物質によるシックハウス症候群やアレルギーも気密性の低い住宅よりも起こりやすい。
従って24時間換気が必要となってくる。賃貸住宅だと法律で設置が義務付けられている。
それだけリスクがあるということだ。
隙間風の代わりに人工的に換気させるわけで、結局その部分を開放することになり、なんのための高気密なのかということになりかねない。
これも敏感な人だと高気密なのになんだかスースーすると感じることもある。

住宅の換気方式は大きく分けると次の3種がある。
 ①機械給気で機械換気 →部屋の気圧は調整によって上がることも下がることもある
 ②機械給気で自然換気 →部屋の気圧は上がる
 ③自然給気で機械換気 →部屋の気圧は下がる

機械とはなんてことはない換気扇のことである。
自然とはファンが付いていない自然の給気口。
機械でも自然でも人工的に作った開口部にはフィルターが取り付けられていることが多い。従ってフィルター掃除が欠かせなくなる。
②は温度が上がりやすく結露を生じさせやすい。
気密性が低い住宅では③の自然給気はほとんど意味をなさない(他からも自然に入りこむから)。
高気密住宅の場合には空気の入れ換えは給換気口頼みとなる。他からほとんど入ったり出たりしないから(窓や外に通じるドアを開ければ別だけど)。フィルターが目詰まりしていないように特に注意が必要となる。


うちは高気密高断熱のエコ住宅でも建てて間もない家でもないが、私は今くらいの季節でも人の出入りが少なく窓もドアも締め切った2階の部屋に入ると、もわっとした空気と化学物質臭さを感じる。そのままとても長時間そこにいる気にはならない。
部屋のドアか窓を開けておけば感じないし、まだ温度の上がっていない朝なども感じない。暑い日はカーテンを閉めておいても感じる。。
気温の高さや日射、空気の流れで随分違うと実感する。
ヨーロッパやアメリカ北部、北海道などは比較的緯度が高く、夏も日射が弱く温度も上がりにくい。シックハウス症候群などのリスクの面においては夏が暑い日本の地域ではヨーロッパなどと同じというわけにはいかない。


日本でセントラルヒーティングが流行らなかったのは冷房をカバーできないから。
家の気密性が昔より上がったり、ヒートアイランドなどが進んだこともあって、都会はもちろんのことかつては冷房を使わずに済んだ地域でも夏の冷房が必需品となってきた。
そうなると暖房と冷房の両方で使えるエアコンのほうが重宝されることになる。
病院や会社などでも業務用エアコンを導入するようになり、暖房だけのセントラルヒーティングは次第に廃れていくようになった。
ヨーロッパではエアコン使用が少ない。夏でも冷房なく過ごせることが多いからである。


寒い地方の人は比較的寒さに強いと思う。
寒さに弱い人や温暖な地域の人が寒い時期にヨーロッパで過ごすのにセントラルヒーティングやオイルパネルヒーターだけでは物足りないと思う。
温度差がなくどの部屋も暖かいというのは素晴らしいことだと思うが(同時に無駄も多いが)、その環境を作るにはやはり費用がかかる。
各部屋ごとにラジエーターのスイッチはオンオフできるが、当然のことながらスイッチを入れておかなければどの部屋も暖かいというわけではない。それでは部屋ごとの暖房と変わらないのでは?ということになってしまう。
物価も燃料代も高いイギリスで24時間快適に冬を過ごそうと高い温度設定で入れっぱなしにしたら月10万円のガス代とか恐ろしいことになりかねない。
そもそも管理人や大家さんがいるビルや賃貸住宅などでは決められた季節以外や夜間はセントラルオフされてしまい、ラジエーターのスイッチ入れたところで暖まらないこともある。
使いすぎ、寒ければ厚着しなさい、と叱られることもあるだろう。
初期費用、経費の他、壊れた時の修理も大がかりになりがち。
快適さを手に入れるにはやはりお金がかかるということだ。


石油の最初の用途はランプで、次が暖房であった。
しかしながら現在石油ファンヒーターや石油ストーブといった石油暖房器具を使うのは世界でも日本くらいである。
(もちろん日本以外でもセントラルヒーティングの燃料になることはあるが)
燃焼式のストーブを設置する時には薪ストーブのように煙突を付けて屋外に排気しなければならないことになっていたりする。
煙突なしに狭い室内で石油暖房器具をがんがん燃焼させているのなんて日本くらいということになる。
日本国内でも地域によって石油暖房器具の普及率が大きく違う。
最近は「冬の暖房にもエアコン」と電機メーカーは推しているようだが、少なくてもこれまでは北海道・東北・日本海側地域など冬が厳しい地域は石油暖房器具のパワーが必要であった。
しかもそうした寒冷地ではパワーも依存も大きくなるのでFF式(強制給排気式による燃焼システム。ファンによりガスの燃焼に必要な空気を強制的に屋外から取り入れ、燃焼後の排気も強制的に屋外へ排出する)を使用していたりする。
西日本では電気暖房(エアコンや電気ストーブなど)の比率が大きい。
南関東も電気暖房が多いであろう。
従って灯油さえ入れればどこの部屋でも使えるという石油暖房器具の市場は北関東が主力ということになる。
しかもその売れ行きは冬の寒さに大きく左右される。

北関東でも家(部屋)の様式、生活様式、気候によっては、エアコン、エアコン+こたつ、エアコン+ホットカーペット、エアコン+電気ストーブなど補助暖房、電気ストーブ+こたつ、ホットカーペット+こたつなど石油暖房器具を使わなくても十分に過ごせてしまう。
石油暖房器具には灯油を買う手間(車がないと買いに行けないけれど宅配だと割高)があるし、灯油価格が上昇すると敬遠する人もいるし、子供や老人がいたりする火を使うことを危惧するかもしれない。

海外でも東南アジアとかアフリカなど暖かい地域では冬の暖房は必要ない。
普及する可能性があるとすれば中国だが、中国は石炭埋蔵量や採掘量が世界最大の国であり、それを使わないで石油に置き換えるということは考えにくい。(それでも石炭輸入量は世界2位)
あれだけの人口を石油だけで賄うのは容易ではない。ということで中国での普及も現実的はない。

石油ファンヒーターを開発したのは三菱電機。
一時期は時期になると家電量販店には、三菱の他、パナソニック、シャープ、サンヨー、コロナ、ダイニチ、トヨトミ、アラジンなどの石油ファンヒーターが並んだが、現在の国内メーカーはコロナ、ダイニチ、トヨトミの3社となった。
コロナとダイニチはともに新潟県に本社のある会社。新潟県内の工場ですべて生産している。


石油ファンヒーター 家電大手完全撤退 市場縮小、事故も逆風 2006.12.24 産経新聞

 かつて家庭用暖房器具主役だった石油ファンヒーターの市場から家電大手が姿を消す。エアコンの性能が向上したほか、ホットカーペットやオイルヒーター、床暖房など暖房器具の選択肢が広がってきたことが理由だ。家電大手のなかで唯一残っていたシャープも来年3月で生産を打ち切り、市場を専業メーカーに委ねる。

 シャープは今年度いっぱいで石油ファンヒーター市場からの撤退を決めた。「暖房機の種類が多岐にわたってきた」ために国内市場の拡大は難しいと判断。今冬も新製品は発売せず、前年度モデルの生産も今年度いっぱいで打ち切る。今後はエアコンなどに注力していく方針だ。

 石油を燃料にする暖房器具はファンヒーターとストーブがあるが、家庭用では高出力のファンヒーターが中心だ。しかし、松下電器産業が昨年、ファンヒーターやストーブなど石油関連製品のすべてから撤退。三菱電機や日立製作所グループも取り扱いをやめた。

 相次ぐ撤退は「大手メーカーが品質管理の難しさにリスクを感じた」(業界関係者)ことも理由だ。昨年、松下の温風機事故が表面化したのに続き、今月にはトヨトミ(名古屋市)のファンヒーターが不完全燃焼を起こし、7人が中毒死する事故が北海道で発生。さらに原油価格の高騰で、光熱費が割安な石油ファンヒーターのメリットが薄れた。

 大手の撤退で、販売元は5社に減少。国内で生産するのはわずかに3社のみとなった。このうち、首位のダイニチ工業と2位のコロナが国内シェアの8割強を獲得し、「残存者利益」を享受している。この5年間でシェアを倍増させたダイニチは「どのメーカーでも現行機種は安全装置がついており安全面も大丈夫。エアコンに比べて価格も安く、外気温にも左右されないなど長所は多い」と今後もファンヒーターの“火”をともし続けるという。



石油暖房器具が売れる地域が限られているところにもってきて季節商品で、さらに年ごとの気候にも大きく左右される。
販売ピークは2~3ヶ月といったところであろう。
その時期しか売れず、さらにその年の気候は実際季節を迎えなければ分からないのに、従業員を雇い、計画的に生産し、工場を年間稼働させなければならないとするなら、経営はなかなか大変だろうと思う。
他の商品があるメーカーは非効率、採算が取れないとして、撤退やむなしといったところだろうか。
あるいは生産者も消費者も全体的なレベルが落ち始め、火を使うことに危険性を感じ始めたということなのか。
火は文明の象徴だから、いよいよ人間の退化が始まったか。


人類にとって不可欠な道具の一つであり,人類は火の使用によって自然な居住地帯であった熱帯を離れることができ,さまざまな環境をつくりだし,文明への第一歩を踏出した。
火を使用することから火をおこすようになるまでの人類の歩みは長く,何万年もの歳月を要した。
宗教儀式の聖火や世界の神話にみられる無数の火の神は,人類の歴史における火の古さと重要性を示している。



今年の冬、実家のファンヒーターが調子が悪くなった。三菱製。
エラーコードが出て消えてしまうという不調。エラーコードは1つだけでなく幾つか表示され、しかも大まかな表記であるため実際に何が悪いのか分からない。
まずフィルターを見たり掃除するが問題なさそう。次に思ったのは換気不足かもしれないということ。
ファンヒーターの裏側を見ていたら、高度による空気取り入れと燃焼の調節機能が付いていた。
子供が幼い頃にファンヒーターを使っていた時期もあるが、その頃はそういうのは付いていなかった気がする。その後は対流式ストーブ(停電の時にはとっても重宝する)にしたので、高度調節機能付きのファンヒーターがあることを今年まで知らなかった。

少し前に高度が上がると沸点が下がってお湯が低い温度で沸いてしまうことを書いたが、高度が上がるは酸素が少なくなるので着火も燃焼も難しくなる。
石油暖房器具は着火しても上手く燃焼しなくなる。高度500mくらいがその境となるらしい。
最近のファンヒーターはコンピューター制御されていてセンサーが酸素不足を検知すると自動で消火し、換気が必要というエラーコードを表示する。
換気不足でなくても高度が上がると通常より酸素が薄いので、高度が低い所と同じ調子で燃焼を続けているだけでも酸素不足と誤認識し、消火装置が作動してしまうことになるため、高度による調節機能が付いているということなのだ。
そこで私は実家で高度を調べたが500m以下だった。
センサーの付いていないものであるならば、検知して自動消火するようなことはないが、その代わり本当に不完全燃焼となりうる。
高度が高い地域にお住まいの方ほど換気は大事。あるいは隙間風(寒いだろうけれども)。




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# by yumimi61 | 2018-05-25 12:05
2018年 05月 24日
日本国憲法の秘密-741- (外貨準備と貿易について)
先日暖房器具について書いたが、現在欧米で主流な暖房方法はセントラルヒーティングである。

20世紀はじめのヨーロッパにおいて、各家庭へ蒸気熱の供給を行ったのが、セントラルヒーティングのはじまりといわれています。
玄関からリビング、浴室や寝室にいたるまで、家中いつでもどこでもあたたかい。
どんなに外が寒くても、家に帰ればぬくもりと癒しの空間が待っている。
100年以上たった今も尚、ヨーロッパの家庭やホテルで親しまれ続けています。
 (グレン・ディンプレックス社)

グレン・ディンプレックス社
グレン・ディンプレックス社は、1973年にイギリスの電気暖房機器・リーディングブランドであったディンプレックス社をグレン・エレクトリック社が買収しアイルランドで設立。
その後ヨーロッパ各国の電機メーカーを傘下におさめたホールディングカンパニーとなり、 電気暖房機器においては世界で最大級の企業となっております。
また一般家電製品の分野においても世界市場においてトップクラスのマーケットシェアーを保持しております。
現在は、グループ全体として3000億円の売上、1万人従業員規模となっております。



セントラルヒーティングは日本では馴染みが薄いのでセントラルヒーティングの説明から入らなければならないので、また長くなります。

セントラルヒーティングとは、一箇所の給湯器熱源装置(ボイラーなど)を設置して、熱を暖房が必要な各部へ送り届ける暖房の方式である。全館集中暖房、中央暖房ともいう。

日本においては石油(重油)ボイラーが主として用いられてきたが、建物の種類や規模(民家など)によっては、ガスボイラーも使われている。これらのボイラー熱で湯を沸かし、循環ポンプにより各部屋へ循環させる。各部屋にはラジエーターと呼ばれる放熱器が設置される。 各部屋に設置されるラジエータは、一般的なストーブほど高温にはならないため、火傷や火災の危険が少なく、ラジエータ自体からは燃焼ガスの発散が全くないので、安全性に優れる。一方、設置時に大掛かりな工事が必要となり、初期費用がかさむことが多い。

近代的なセントラルヒーティングの発祥は欧米である。20世紀初頭から欧米の都市ではガス、電気、水道などの供給と共に蒸気の供給も行っている。 初期においてこの蒸気は発電の副産物であり、発電所が供給していた。緯度的に北に位置する欧米都市では、町ぐるみで暖房と給湯に取り組む必要があったため、このような設備が生まれた。 この蒸気を各戸へ分配するシステムがセントラルヒーティングであり、ビルディング等の建設時に、あらかじめ地下に蒸気を温水へと熱交換するボイラーが設置され、温水が作られた。 温水はビル内の各所へ分配され、暖房と給湯を成していたのである。

なお、日本において都市が蒸気の供給を行っているのは現在、札幌市、釧路市一部都市に限られている。


日本語Wikipedia「セントラル・ヒーティング」と英語Wikipedia"central heating"を両方見てみたが、載せている写真が全然違って面白かったので、その写真を拾ってきた。
日本語版は各部屋に設置されるラジエーターのみを掲載していて、英語版はセントラル(中央)の熱源を掲載している。
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まず言っておかなければならないのは、セトトラルヒーティングは各部屋で火を燃やすことはないが、どこか中央(地域のどこか・ビルのどこか・家のどこか)では火を燃やして蒸気や温水を作っている。
そのどこかをボイラー室と言ったりする。
熱源(燃料)となるのは木材、石炭、石油、ガスなど。
蒸気や温水を作るので、当然暖房だけでなく給湯(キッチンやバスなどのお湯)もカバーできる。その代わりと言うかなんというか、日本のお風呂のように追い炊き機能はない。


一般家庭ではほとんど馴染みのない日本であるが、かつては大きな会社や工場、ビル、病院などで結構使われていた。
いつどこでかははっきりと覚えていないが、私は実際に病室や事業所でラジエーターが設置され使用しているのを見たことがある。
上の「欧米のラジエーター」を横に長くしたようなものが窓下に設置されていることが多かったように思う。


様々な機械や薬品を使う工場などには、それを扱う許可を得た資格者がいる。
職場でボイラーを操作するにはボイラー技士という資格が必要である。

労働安全衛生法に基づく日本の国家資格(免許)の一つで、各級のボイラー技士免許試験に合格し、免許を交付された者をいう。空調・温水ボイラーの操作、点検を業務とする。
・特級ボイラー技士 - 全ての規模のボイラー取扱作業主任者となることができる。
・一級ボイラー技士 - 伝熱面積の合計が500m2未満(貫流ボイラーのみを取り扱う場合において、その伝熱面積の合計が五百平方メートル以上のときを含む。)のボイラー取扱作業主任者となることができる。
・二級ボイラー技士 - 伝熱面積の合計が25m2未満のボイラー取扱作業主任者となることができる。

(操作自体は二級以上の資格があれば出来る。級の違いは作業主任者になるための違い)

ボイラー技士は病院、学校、工場、ビル、機関車、銭湯、地域熱供給などの様々な場所で、資格の必要なボイラーを取り扱い、点検、安全管理を行う技術者である。近年、ボイラー技士資格の必要の無いボイラー及び多様な熱源設備が普及してきている。そのため多くの現場や企業では、ボイラー技士の資格を事実上、知識や技能を証明する検定試験的な捉え方をする場合が多くなっている。熱源を用いる現場においては、法的に資格が不要な設備であっても、免許所持者を求める傾向は根強いものがある。

資格が必要ということはそれなりの知識が必要ということ。それを言い換えるとその作業にはそれ相応の危険性があるということでもある。


セントラルヒーティングは次の3種類がある。
熱源によって得られた熱をどのように運ぶかといった違いによる種類。
①蒸気 
②温水
③温風

①蒸気と③温風は気体であることが同じだが同一ではない。
①の蒸気は蒸気をラジエーターまで送りこんで、ラジエーターを通して放熱させる。ラジエーター以後の暖まり方は伝導と自然気流による暖房である。
②の温水も蒸気が温水に変わっただけで放熱(伝導と自然気流)を利用する。
従ってどちらも暖まり方は緩やか。
また水は常圧では100℃以上に上がることはないから(沸点が100℃だから)、通常それ以下の温水が送られることになり、温度上昇の限界が低い。
100℃以上の水を得るには加圧が必要、100℃以下の蒸気を得るならば減圧や真空を利用する必要がある。

①の蒸気と②の温水で比較すれば、①の蒸気のほうが暖める威力は強い。蒸気は100℃以上に上がる可能性がある。
また蒸気(気体)は蒸気よりも温度の低い管やラジエーターなどに触れて液体になる時(凝縮時)に熱を放出する。
接触部分で(液体になる時に)一気に熱を放出するので温水よりも伝熱力が強い。

一方の③の温風は暖かい空気をそのまま部屋に出す。ファンヒーターとかエアコン暖房のように送風される。

水配管内の水流を急に締め切った時や蒸気配管や蒸気使用設備に蒸気を通気し始める時などにウォーターハンマー(スチームハンマー)が起こり、急激な圧力変化によって衝撃音や振動を伴って配管や装置が破壊されてしまうことがある。
バルブ等が破壊されると一気に大量の蒸気や高温ドレン(蒸気が水に変わったもの)が噴出漏水し事故に繋がる可能性もある。

そもそもボイラーは燃料を燃焼させているので排気ガスが出るのは同じ。
当然それは屋外に排出されるもので、大規模な空間を暖めるだけの火を燃やしているのに、もしも排気ガスを外に排出しなければそこにいる人への有害影響は大きくなる。
ボイラー室の位置(例えば地下とか)によっては、また気密性の高い住宅や換気不足ではさらに影響は深刻となる。
セントラルヒーティングは基本的に気密性の高い住宅でないと向かない暖房方法である。


私達日本人には、欧米というと暖炉と煙突のイメージがある。
なんたってサンタクロースは煙突からやってくるわけだし。だけど近頃は暖炉も流行っていないらしい。
外から見ると煙突が付いている家が並んでいても単なる飾りであることも多いのだとか。
暖炉は煙突の管理(掃除)が大変なようだ。
暖炉と言えば薪だが、石炭やコークスも使われていた。
不味い書類やラブレターを廃棄するために暖炉の火にくべて燃やしてしまうこともあるかもしれないが、燃料(薪や石炭)が用意できない場合には紙や段ボール、あるいはゴミ箱をひっくり返して燃やしてしまうかもしれない。
何を燃やすかは個人次第なところがある。
また暖炉や薪・石炭ストーブは意外に部屋中は暖めることに向いていない。
暖炉は目の前にいて揺れる火やパチパチする音を聞いてリラックスするもの。
なんたって壁に埋め込まれていて前面にしか熱が伝わってこない。
その点においては薪・石炭ストーブのほうがまだ360℃の放熱が可能。
暖炉や薪・石炭ストーブで部屋中、家中暖めるには、とにかく燃やし続ける必要がある。


実は排気ガスによって呼吸器疾患に罹るのは、家族の中で暖炉やストーブの管理をしている人や煙突掃除を担当する人(煙突掃除夫)が多いという報告もある。
そうであるならば、子供の該当者は少なくなるだろう。


パーシヴァル・ポット(Percivall Pott、1714年1月6日 - 1788年12月22日)
18世紀のイギリスの外科医である。整形外科学の創始者の一人で、ガンが発癌物質によって引き起こされることを疫学的に示した最初の科学者とされる。
1775年にロンドンの煙突掃除人に陰嚢がんの多いことを報告し、すすがその原因であると推論した。これは化学物質が発癌の原因であることを示す最初の研究であった。この調査結果は1788年に煙突掃除夫(保護)条例の実現をもたらした。


訳のせいか時代の違いか分からないが、現代日本では「陰嚢がん」とは言わない。「精巣がん」とか「睾丸がん」とか。
「煤が陰嚢にたまって癌になる」とか、「陰嚢がんとは陰嚢の皮膚がん」とか突飛且つ統一性がないため、煙突掃除人の陰嚢がん説は胡散臭い。但し生殖器として考えれば、生殖器は内分泌攪乱化学物質(俗にいう環境ホルモン)の影響を受けることも考えられなくはない。
煙突掃除をしない日本人でも他のがんに比べて20~30代の若者の罹患が多い。(多いと言っても稀ではある)
その原因は分かっていないが、考えられる因子として家族歴(遺伝的)や体質的なものが挙げられ、発がん物質云々という話はあまり聞かない。
他のがんに比べて若い人が罹るということで、煙突掃除に結び付けてしまったのかもしれない。
かつて煙突掃除を子供が行っていた時代がある。
煙突の中に入るのは太ったサンタクロースよりも小さく細い子供のほうが適任だから。
貧しい子供達の仕事だった。貧しい子供達が裕福な子供達にする贈り物が煙突掃除だったということだろう。
貧しい子供は学校にも行ってないだろうからスクールカーストにも入れてもらえず、クラスに入れず!?ああ悲しき煙突掃除。

イギリスでは1840年に21歳以下を煙突掃除人にすることを禁じた。
だからそれ以降、イギリスでは子供は従事していないはずである。
しかしヨーロッパでは依然貧しい子供の仕事として人身売買されていたりもしたようだ。

『黒い兄弟』(独: Die Schwarzen Brüder)1941年発行
ドイツ出身でナチス時代にスイスに亡命したリザ・テツナー(Lisa Tetzner)の著作名、またそこに登場する煙突掃除夫の少年達の結社名。19世紀のスイス・イタリアを舞台に少年売買や少年労働の苛酷さを描く。

主人公ジョルジョは、スイスのソノーニョ村から貧しさのため煙突掃除夫としてミラノに売られる。そこで出会った仲間の煙突掃除夫達と同盟「黒い兄弟」を結成し、困難を乗り越えていく。




だけど世の中悲しいのは子供だけではないのです。

とある一家。農夫のおじいさん。
おじいちゃんは汚いからと、お風呂に入る順番はいつも家族の中で一番最後でした。(一回一回お湯を払って入れ直せばいいでしょ?)
それでもおじいちゃんは可愛い孫に美味しい野菜を食べさせるために畑仕事に精を出します。
だけど今どきの孫にはそんな愛情は通じません。
ある時、孫はその若さゆえ容赦ない言葉をおじいちゃんに浴びせかけました。
「おじいちゃん汚いから嫌いっ」
おじいさんは悲観し、山の畑に軽トラを走らせ、自らに火を放って燃え尽きてしまいました。
焼身自殺してしまったのです。

実話です。





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# by yumimi61 | 2018-05-24 12:16
2018年 05月 22日
日本国憲法の秘密-740- (外貨準備と貿易について)
現代の研究でようやく(およそ60年ぶりに)明らかになった事実とはさて!?
前記事のGIZMODO記事より。

昨年末、米国科学アカデミー紀要に掲載されたのが、Texas A&MのRenyi Zhangさん率いる研究チームによる調査結果。中国の北京と西安で行なわれた実験や大気測定の結果が報告されています。

それによるとロンドンスモッグの悪臭や空の色の異常、人体への影響を引き起こしたのは、硫酸塩とよばれる硫酸の粒子。研究チームは自然発生した霧の状況下、硫酸塩が水滴のなかで二酸化硫黄と二酸化窒素の化学相互作用によって形成されたことを証明しました。またこうした硫黄や窒素は、石炭を燃やした煙突や、僅かながら自動車から排出されたと考えられています。 

そして、硫酸塩は硝酸塩や有機物などの粒子が形成するのを促進し、 霧の状態をさらに悪化させました。その後、霧に含まれる水分が乾くと、霧の中に含まれていた酸が濃縮され、有害物質を生み出し、それは人の肺など触れたものすべてを覆い尽くしたのです。



ロンドンに霧(霧とは水蒸気が液化したもの)←煙からの排出物(二酸化硫黄と二酸化窒素)
      ↓
  化学相互作用で硫酸塩

硫酸塩
・硫酸の塩の総称
・硫酸の水素原子が金属によって置換された化合物
・硫酸分子に含まれる二つの水素原子のうち一つまたは二つが金属などの陽イオンで置換された塩。一般に水に溶けやすいが、カルシウム塩・バリウム塩・鉛塩などは難溶。各種金属の硫酸塩鉱物が天然に存在し、資源として有用。



【硫酸塩の作り方】
・金属酸化物、金属水酸化物、炭酸塩を硫酸に溶解する。
・塩化物や硝酸塩などを硫酸と加熱する。
・三酸化硫黄と金属酸化物を反応させる。

硫酸塩は金属塩なので硫酸塩を作るには何か金属類が必要である。
(軽金属)リチウム、カリウム、ナトリウム、カルシウム、マグネシウム、セシウム、アルミニウム、チタン、ヒ素など
(重金属)白金、プルトニウム、金、ウラン、水銀、銀、鉛、銅、カドミウム、亜鉛、鉄など。

大気中の金属は固体(微粒子)であり浮遊粉じんとなる。
労働現場では金属の切断・研磨・溶接作業などの際に飛散する金属粉塵を安全衛生上問題とすることがある。
そうした作業を行う現場では飛散する金属量が他に比べれば明らかに大きくなる。しかしながら量だけみれば作業現場が屋内か屋外か(閉鎖空間か開放空間か)による違いは大きいし、空調や風など天候などによる変化もある。
大気汚染というのはどこか特定の工場内の空気を指すわけではなく、一般的な屋外の大気のことであるからして、そうなると浮遊金属というのも微妙である。
花火を打ち上げた時には金属を大気中に撒き散らすことになるけれども。
あと海由来のナトリウムは考えられるが。
塩害は海に近いことに加えて風向きの影響を受ける。偏西風はロンドン側から海に向かう風なので向きとして逆方向となる。



硫酸塩は日本においては温泉の種類として知られており、硫化水素同様に硫酸塩だけをもってして有害と言うのは無理がある。

硫酸塩泉
掲示用泉質名に基づく温泉の泉質の分類の一種。療養泉のうち塩類泉に分類される。

アルカリ金属・アルカリ土類金属の硫酸塩を主成分としていることからこの名称が付いている。俗に薬効が高いと言われる。
温泉水1kg中に含まれる含有成分が1,000mg以上あり、そのうち陰イオンの主成分が硫酸イオン (SO42-) のもの。

効能 ※効能はその効果を万人に保証するものではない
 泉質に基づく効能として、以下が挙げられる。
 浴用:一般的適応症のほか、動脈硬化症、切り傷、やけど、慢性皮膚病。
 飲用:慢性胆嚢炎、胆石症、肥満症、糖尿病、痛風、慢性便秘。

禁忌症
 浴用においては一般的禁忌症。
 飲用においては下痢のとき。
 「ナトリウム - 硫酸塩泉」においては、腎臓病や高血圧症、むくみがあるとき、あるいは甲状腺機能亢進症のときにヨウ素を含有する温泉の飲泉。




硫酸塩が出来るためには金属だけでなく硫酸が必要となる。

硫酸( sulfuric acid)は、化学式 H2SO4 で示される無色、酸性の液体で硫黄のオキソ酸の一種である。古くは緑礬油(りょくばんゆ)とも呼ばれた。化学薬品として最も大量に生産されている

硫酸の性質は濃度と温度によって大きく異なる。
濃度の低い硫酸(質量パーセント濃度が約90%未満)水溶液を希硫酸という。希硫酸は強酸性だが酸化力や脱水作用はない。
濃度の高い硫酸(質量パーセント濃度が約90%以上)を濃硫酸といい強力な酸化力や脱水作用を有し、濃硫酸のハメットの酸度関数は96%では H0 = −9.88 であり、98%では H0 = −10.27 の強酸性媒体である。

市販の濃硫酸は96〜98%程度のものが多く、96% (d = 1.831 g cm−3) のものでモル濃度は18 mol dm−3、規定度は36Nである。濃硫酸を体積で6倍に希釈した希硫酸は、モル濃度は3 mol dm−3、規定度は6Nであり、質量パーセント濃度は25% (d = 1.175g cm−3)、H0 = −1.47 であり、10%を超え含有する溶液は医薬用外劇物の指定を受ける。
おもに工業用品、医薬品、肥料、爆薬などの製造や、鉛蓄電池などの電解液に用いる。


工業的に大量に作っているわけだから条件が揃えば自然に出来るはずだが、自然に条件が整うことは非常にまれであり(温泉とか)、その出来方が解明されているわけではない。

人工的に三酸化硫黄や硫酸を作る過程。
①硫黄を燃焼(酸化)することによって二酸化硫黄が発生する
二酸化硫黄の酸化によって三酸化硫黄が生じる
③三酸化硫黄を濃硫酸に溶かす
④③を希硫酸で希釈する
(希硫酸中の水が③の三酸化硫黄と反応して濃硫酸となる)

※②の「二酸化硫黄の酸化」は、二酸化硫黄を酸化バナジウムや白金アスベストに触れさせて酸素を吹き付けるという方法をとる。(接触法)
酸化バナジウムや白金アスベストは触媒である。両物質とも耐食性がある。
触媒を使わないと不純物が混じり硫酸の純度が落ちることになる。
②で生じる三酸化硫黄は、①の二酸化硫黄気体中の7%ほど。

硫黄S→①二酸化硫黄SO2→②三酸化硫黄SO3→(③発煙硫酸H2S2O7)→④濃硫酸H2SO4



大気で自然に硫酸塩が出来るとしたら、次の反応が一番可能性が高い。
・三酸化硫黄と金属酸化物を反応させる。

しかし化石燃料中にはもともと硫黄が僅かしか含まれていない。
 硫黄 0.1-3%  ⇒ 二酸化硫黄

元物質の量からして二酸化硫黄の放出量は多くない。
燃焼具合や他物質との反応によってはさらに少なくなったり、放出されない可能性もある。
燃焼や不完全燃焼で二酸化硫黄が確実に出てくるという保証はない。

少量の二酸化硫黄が空気中の酸素で三酸化硫黄になる可能性はさらに下がる。
全て三酸化硫黄に変化したとしても二酸化硫黄の数%でしかない。
硫酸塩になるにはさらに大気中に微量しかない金属と結びつかなければならない。
その大気が人間に大々的に影響を与えるということは現実的な話ではない。






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# by yumimi61 | 2018-05-22 13:23
2018年 05月 21日
日本国憲法の秘密-739- (外貨準備と貿易について)
二酸化硫黄には抗菌作用があるため、食品添加物としてアルコール飲料やドライフルーツの保存料、漂白剤、酸化防止剤に使われている。
腐敗を防ぐためというより、見た目を保つために用いられることが多い。ドライフルーツは独特の風味を持つが、二酸化硫黄もその一因となっている。
ワイン製造にも重要な役割を果たしており、ワイン中にもppm単位で存在している。抗菌剤や酸化防止剤の役割を果たし、雑菌の繁殖や酸化を防ぎ、酸性度を一定に保つ手助けをしている。


上記はWikipedia二酸化硫黄に記述されていることである。
大気汚染の原因として目の敵にされている二酸化硫黄も私達の身近なところで結構使われている。タールの燻製と同じようなこと。

保存料(抗菌作用並びに酸化防止作用)としてはワインの他に果汁やジュース類、ビール類など、ドライフルーツの他にエビやカニやタコ、お刺身、こんにゃくなどにも使用されている。
漂白剤としてかんぴょう、煮豆、甘納豆、れんこんなどにも用いられる。
もちろん使用基準があるのでその範囲内での使用ということになる。

保存料や漂白剤として使われる物質は、二酸化硫黄(無水亜硫酸)の他にも亜硫酸ナトリウム 、次亜硫酸ナトリウム、ピロ亜硫酸カリウム 、ピロ亜硫酸ナトリウムがある。
食品表示(原材料)には個々の物質名を明記していることもあるが、全て「亜硫酸塩」として表示されることが許されている。
要するに二酸化硫黄も亜硫酸塩と表示することが可能である。
しかし化学的な「亜硫酸」は「二酸化硫黄を水に溶かすと得られ水溶液としてのみ存在する化合物」である。

二酸化硫黄は気体(ガス)になり、この気体を亜硫酸ガスという別名で呼ぶことがあるが、二酸化硫黄が水に溶けると亜硫酸溶液となるため、そう呼んでいるだけのことであり、亜硫酸がガスになるわけではない。呼称1つとっても勘違いを誘いそうなほどややこしい。

亜硫酸(sulfurous acid)は、化学式 H2SO3 で表される硫黄のオキソ酸で、二酸化硫黄の水溶液中に存在するとされる酸である。分子量 82 。酸性雨に含まれる物質の1つである。
遊離酸は不安定なため単離できない。
古くは水溶液としては存在するとされていたが、ラマンスペクトルにおいて (HO)2SO という構造を持つ化合物が全く検出されないことから、実際には水溶液中での平衡は以下のようなものであると考えられている。
SO2 + H2O ↔ H+ + HSO3−



亜硫酸はタールや木酢液と同様に、化石燃料を燃焼させた時や不完全燃焼時の煙を液体に戻した物の中にごく少量含まれることが考えられが、その液体や亜硫酸水溶液から亜硫酸自体を単離することは行われていない。
亜硫酸水溶液にナトリウムを反応させて亜硫酸水素ナトリウムや亜硫酸ナトリウムの水溶液を作り、これを濃縮精製して結晶あるいは粉末の亜硫酸を得る。あるいは電解還元して得る。


食品に亜硫酸を添加しても、その全てが抗菌や酸化防止作用を発揮するするわけではない。
食品にもよるが、例えばワインでは半分ほどは「結合型亜硫酸」となり、その役目を果たさない。
残り半分の「遊離亜硫酸」がその役割を果たすが、前述のように遊離亜硫酸は単離不可能であるので、結合型も含めた亜硫酸を用いる。


ワインには酸化防止剤(亜硫酸塩)と表示されているものがほとんど。
各国によって基準は違って、亜硫酸塩の添加を義務付けている国もある(フランスなど)。義務だからあえて表示されないが、一定量を超えた場合には表示されたりする。
表示する含有量(添加量)がここからここまでと決まっている国もある。
従って表記されていないから含有されていないかと言うと、そうでもない。
そもそもワインの醗酵段階において醗酵の副生成物として亜硫酸が生成されるそうで、亜硫酸を全く含まないワインはありえないとか。
過敏症や重いアレルギーを持つ場合にはワイン自体受け付けないということになる。
ワインは輸出入も多いが、輸出品と国内消費用では亜硫酸添加量も違ったりする。輸出用のほうが添加が多い。
多くの添加を輸入国が求めることもあるが(製品の他の品質の基準が厳しい)、逆に亜硫酸添加が多すぎて輸入出来ないこともある。


近年はワインでも酸化防止剤無添加ワインがあり、ワイン売り場の国内産ワインに結構見受けられる。
「無添加ワインだから自然そのもの~」と喜ぶ人も少なくないかもしれないが、無添加を可能にするために製造過程が化学的に管理され尽くした自然とは正反対の「ケミカルワイン」であるとも言える。
熱処理や発酵を防ぐ処理を行う。自然発酵によって生じる甘みや酸味などがは出なくなるので人工的に添加したりする。(もはや発酵食品ワインではない?)
私は甘党なのでワインも甘いのが好きだが(そう言うと偽ワイン好きと言われる)、甘口のほうが未発酵であり(残留糖度が高く)、放っておけばまだまだ発酵が進んでしまうので、それを止めるためには亜硫酸添加量が多くならざるを得ない。




60年前のイギリスの霧の原因、現代の研究でようやく明らかに GIZMODO 2017.01.29

時を経て、国境を越えて、ついに。

1952年12月5日、ロンドンの街を覆った霧「ロンドンスモッグ」(Great Smog)は、英国史のなかで人命に関わる大気汚染被害のはじまりとなりました。

現代の専門家によれば、この大気汚染による死者は1万2千人。イギリスならではの日常的な悪天候から、注意を払った地元民は当初、ほとんどいませんでした。
ところが空が次第に黄色がかり、腐った卵のような臭いが漂い始めたのが同日の午後。翌日も視界の悪さに加えて、ゴミのような悪臭は5日間続きました。息もしがたく、同年12月9日には15万人もの人々が入院していたといいます。

この災害の原因は、すぐに石炭によるものだと考えられました。ただ、正確に何が起きたのか明らかになったのは、半世紀以上の時を経てからのこと。

昨年末、米国科学アカデミー紀要に掲載されたのが、Texas A&MのRenyi Zhangさん率いる研究チームによる調査結果。中国の北京と西安で行なわれた実験や大気測定の結果が報告されています。



60年間も霧の原因が分からなかったのに大気汚染と決めつけてきたことにまず驚きを隠せない。(霧は移流霧では?)
しかも今回原因が分かったのは中国での実験や大気測定からだと言う。
まさに、時も、国も、違う!という感じだが、一心同体ということなのか。(中国の大気汚染の主原因は黄砂では?)
アンダーラインを引いたのは私だが、この辺りはどうも後付けっぽい。他の記事では見られない記述。
死者数や入院数もこのまま信じるわけにはいかない。スモッグがなくても入院したり亡くなる人はいるからである。
また当時は原因がよく分からなかったはずなのに、スモッグが消えた後の死亡者数まで関係ありとカウントしていたということになり、数字への信頼性は薄い。

ある調査報告によると、死亡者の「年令は0~24才を除く全年令層に及び45才以上に多く,老人が特に多かった。(第3表参照)」とある。
私も第3表参照したが、1952年11月1日~12月6日の6週間の1週間平均と、12月6日~13日の1週間の死亡者数を比較したものであった。
6週間の平均と単一1週間の比較は根本的に比較週数が違うので、6週間のばらつき具合を見ないと何とも言えないところがある。
そのうえで、ほとんど変化がないのが1歳~24歳という年齢層。55歳以上が3倍以上になる。それ以外は2~3倍程度多い。
興味深いのは子供の被害が少ないということ。普通何事も子供には大きな影響を与えがちであるが、幼児年齢層でも全くといって変化がない。
当時のロンドンの年齢構成や生活ぶりがどんなものだったか詳細が分からないが、通常子供や若者は外に出る機会も多いので大気汚染だったら真っ先に被害を被りそうである。老人よりは体力があって死には繋がらなかったのか、とにかく意外な結果が認められる。
寒い季節に慢性呼吸器疾患を持つ高齢者がわざわざ屋外で長時間過ごしたり、寒い季節に窓を開け放ったりするだろうか。
この数字だけを見れば屋内に要因があったのではないかと推測可能である。
一般的な大気汚染が昨日今日で死に直結していくということは、そう容易いことではない。


EICネット 環境用語集:「ロンドンスモッグ事件」
有名な大気汚染による健康影響事件の1つ。
1952年の12月5日から9日にかけて、英国の首都ロンドンは高気圧のもとで安定な大気条件となり、濃霧に覆われた。そして、大気汚染物質が滞留して呼吸困難、チアノーゼ、発熱などを呈する人が多発し、この期間を含めた数週間の死亡者数は前年度の同時期よりも約4,000人程多かった。死因の大部分は、慢性気管支炎、気管支肺炎、心臓病であり、死亡者の多くは慢性呼吸器疾患を有する高齢者であった。
ロンドンでは、当時、燃料として主に石炭を利用しており、その燃焼によって生じるすすや亜硫酸ガス(二酸化硫黄)などが、ロンドンに特有の冬の気象条件によって地表付近に停滞したことによって発生した。







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# by yumimi61 | 2018-05-21 12:24
2018年 05月 20日
日本国憲法の秘密-738- (外貨準備と貿易について)
石油と天然ガス

一般的に数億年前の生物の死骸が化学変化を起こしてできたものと考えられている。
主成分は炭化水素。
それに少量の水素、酸素、硫黄、窒素などが混ざっている。

炭化水素は炭素原子と水素原子だけでできた化合物の総称であり、分子構造の違いによって種類が分類される。
燃料ガスとして知られているメタン、エタン、プロパン、ブタン、アセチレンなどが炭化水素。(最も構造の簡単なものはメタン)


石油や天然ガスは様々な種類の炭化水素が混ざっている状態にある。
存在する化合物は数万にも及ぶと言われ、その全てが解明されているわけではないし、植物の産地や栽培方法によって抽出される成分比が異なるように生物由来とされる化石燃料もまた産地や油田による成分比率の違いも存在する。
また単に単一の化合物が集合しているというだけでなく、混合の状態は複雑である。
それらを踏まえた上で、化合物ではなく元素で石油の組成を見れば次のようになる。

炭素 83-87%
水素 11-14%
硫黄 0.1-3%
酸素 0.1-1%
窒素 0.1-1%
金属 0.001-0.1%


石炭

石油が生物由来なら石炭は植物由来と考えられている。

地中に埋まった植物が地圧や地熱を受けて石炭になる変化を総称して石炭化と呼ぶ。これは多様な化学反応を伴った変化である。
セルロースやリグニンを構成する元素は炭素、酸素、水素であるが、石炭化が進むに従って酸素や水素が減って炭素濃度が上がってゆき、外観は褐色から黒色に変わり、固くなってゆく。
炭素の含有量は泥炭の70%以下から順次上昇して無煙炭の炭素濃度は90%以上に達する。化学的には植物生体由来の脂肪族炭化水素が脱水反応により泥炭・褐炭になり、次に脱炭酸反応により瀝青炭となり、最後に脱メタン反応により芳香族炭化水素主体の無煙炭に変わってゆく。植物が石炭化する速度は地中での圧力や温度の影響を受ける。


セルロースやリグニンは植物の細胞壁の主成分。
そのセルロースやリグニンの主成分となる元素が炭素。それに少量の水素・酸素・硫黄・窒素といった有機物、その他若干の水と無機物(燃焼後に灰となる)を含んでいる。
一般的には地中の深いところにある石炭ほど酸素と水素の割合が減って炭素の割合が増える。
炭素含有量の違いによって物理的・化学的構造が大きく変化する。(炭素の割合が多いほどよく燃える)
人為的に炭素以外のものを抜く炭化作業を乾留と言っており、これによって出来るのがコークス(炭素燃料)で、副産物がタールなどである。
乾留は燃焼させない。燃焼させないことによって出てくるものが人々が大層嫌っているタールである。


・炭化水素を燃焼させると、二酸化炭素と水が生じる。
例えば、1リットルの灯油を燃焼させれば、およそ1リットルの水が生じる。

・炭素を燃焼させると、二酸化炭素が生じる。



大気汚染の原因物質とされている二酸化硫黄(SO2)と二酸化窒素(NO2)

それらは、石油や天然ガス、石炭に少量含まれる硫黄や窒素が酸化したり燃焼したりする時に出来る物質。

硫黄 0.1-3%  ⇒ 二酸化硫黄
窒素 0.1-1% ⇒ 一酸化窒素→二酸化窒素


硫黄
「硫黄の匂い」と私達は日常的に使う。
すると硫黄は無臭だ!と怒る人がいるらしいが、「硫黄の匂い」は昨日今日に始まった使用法ではない。
長くて、且つ非常に分かりにくいかとは思うが、宮澤賢治のこの詩を引用しておこう。
詩の内容としても大気に言及したようで興味深いものがある。


    風の偏倚    

   風が偏倚(へんき)して過ぎたあとでは

   クレオソートを塗ったばかりの電柱や

   逞しくも起伏する暗黒山稜(あんこくさんりよう)や

     (虚空は古めかしい月汞(げつこう)にみち)

   研ぎ澄まされた天河石天盤の半月

   すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が

   すきとほって巨大な過去になる

   五日の月はさらに小さく副生し

   意識のやうに移って行くちぎれた蛋白彩の雲

   月の尖端をかすめて過ぎれば

   そのまん中の厚いところは黒いのです

   (風と嘆息(たんそく)との中(なか)にあらゆる世界の因子(いんし)がある)

   きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と

   星雲のやうに決してうごかない天盤附属の氷片の雲

      それはつめたい虹をあげ

   いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために

   みちはなんべんもくらくなり

      (月あかりがこんなにみちにふると

       まへには硫黄のにほひがのぼった

       いまはその小さな硫黄の粒も

       風や酸素に溶かされてしまった

   じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で

   月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる

      (山もはやしもけふはひじゃうに峻儼なのだ)

   どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆきます

   ひるまのはげしくすさまじい雨が

   微塵からなにからすっかりとってしまったのだ

   月の彎曲の内側から

   白いあやしい気体が噴かれ

   そのために却って一きれの雲がとかされて

     (杉の列はみんな黒真珠の保護色だ)

   そらそら、B氏のやったあの虹の交錯や顫ひと

   苹果の未熟なハロウとが

   あやしく天を覆ひだす

   杉の列には山鳥がいっぱいに潜(ひそ)み

   ペガススのあたりに立ってゐたのだが

   いま雲は一せいに散兵をしき

   極めて堅実にすすんで行く

   おゝ私のうしろの松倉山には

   用意された一万の硅化流紋凝灰岩があり

    (明治廿九年川尻断層のとき以来息を殺してまち)

   私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる

   空気の透明度は水よりも強く

   松倉山から生えた木は

   敬虔に天に祈ってゐる

   辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ

     (どうしてどうして松倉山の木は

      ひどくひどく風にあらびてゐるのだ

      あのごとごといふのがみんなそれだ)

   呼吸のやうに月光はまた明るくなり

    雲の遷色とダムを超える水の音

    わたしの帽子のしづけさと風の塊

   いまくらくなり電車の単線ばかりまっすぐにのび

    レールとみちの粘土の可塑性

   月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになってゐる



硫黄の硫は漢字的にはこれだけで「イオウ」の意味があるので、日本ではあえてそれに何故に「黄」を付けたんだろうという疑問が生じる。
日本では硫黄のことを「ゆのあわ」「ゆのあか」「ゆおう」とも言っていた時代もあった。
そのためイオウ(硫黄)という言葉自体がユアワ(湯泡)から転じたものではないかと考えられている。

デジタル大辞泉
ゆ‐の‐あわ【湯の泡】
硫黄(いおう)。湯のあか。
「―、白土(しらつち)また和松(ひきまつ)あり」〈肥前風土記〉


和名類聚抄(平安時代の辞書)
流黄 本草リュウ云、石流黄焚石也(和名、由乃阿和、俗云由王)
(現代誤訳)
本草リュウによると、石硫黄は焚石だとのことである(和名は湯の泡【由乃阿和/ユノアワ】、俗に言う硫黄【由王/ユオウ】)


石硫黄は硫黄鉱石のこと。
火山大国(温泉大国)である日本は自然生の硫黄鉱石が豊富に採れたらしい。
朝鮮や中国への進物にされていたほか、輸出していたこともあった。
つまりかつて硫黄はエネルギー資源だった。

そんなことから人々は温泉地特有の匂いを硫黄(ゆのあわ)の匂いと言っていた。
温泉地特有の匂いの元は硫黄と水素の化合物である硫化水素であり、つまり昔の人々は硫化水素の腐卵臭を「硫黄(ゆのあわ)の匂い」と言っていたということになる。
科学的な硫黄(イオウ)がどうこうという時代は、「硫黄(ゆのあわ)」よりもずっと後の事である。
「硫黄の匂い」は誤った使い方というよりは、そちらの使い方のほうが化学物質としての「硫黄(イオウ)」より先なのである。

硫黄(イオウ)
沸点 444.674 ℃。大昔から自然界において存在が知られており、発見者は不明になっている。硫黄の英名 sulfur は、ラテン語で「燃える石」を意味する言葉に語源を持っている。



硫黄は消防法の第2類危険物にも指定されている可燃性固体。
第1類は可燃物を酸化する酸化性固体だが、第2類は自身が酸化されやすく着火しやすい固体や低温で引火しやすい固体。
粉状(微粒子)の固体が空気中に浮遊し、そこに発火源が存在した場合には粉塵爆発を起こし燃焼する。
身近な所では小麦粉やコーンスターチなどを原料としたカラーパウダーなども可燃性固体であり実際に事故が起きている。消防法では指定されていないが自治体が小麦粉などを可燃物として指定している場合もある。

硫黄は水には溶けない。
前述のように酸化剤と接触したり混合すると発火したり爆発したりする。

硫黄が水素と結合したのが硫化水素。
硫黄は窒素、酸素、フッ素に比べると水素結合の度合いが弱い。
硫化水素は沸点が-60.7 °Cと低く、常温では気体で存在する。可燃性ガス。
また硫化水素は水に溶けやすい。硫化水素水はとても不安定で空気中の酸素により容易に硫黄と水に分かれてしまう。つまり硫化水素が酸化され、酸素が還元されるということ。

硫化水素はあの温泉独特の匂いのもとである。
硫黄成分を含む人間を含めた生物や植物はみな多かれ少なかれ、あの匂いのもとを持っていることになる。
糞やおならや口臭の匂い、たまねぎやにんにくの匂い、植物や生物が腐敗する時の匂いなどにもその匂いが混ざっている。

硫酸塩を硫化水素まで還元するという特別の働きをもった細菌を嫌気性菌という。酸素がなくても生きていける菌であり、地球が出来たての頃の酸素がない条件下で嫌気性菌は有害物質を浄化し、酸素や各種の有機成分を合成し、生命進化の土台を作ったと考えられている。
一方、酸素呼吸しながら有機物を分解する酸素が必要なタイプの菌は好気性菌である。
植物や生物が生きていくためには嫌気性菌と好気性菌のどちらもが必要である。良質な土を作る条件でもある。
硫化水素は好気性生物にとっては有毒であるが、硫化水素を栄養源にして増える好気性細菌もいる。
空気が少なく好気性菌が働かない状態では有機物が悪臭を放ってどろどろになって腐敗しやすい。


化石燃料に含まれるのは有機硫黄化合物(硫黄の共有結合)である。
有機硫黄化合物
硫黄原子を含む有機化合物の総称である。有機硫黄化合物に分類されるものは多岐にわたるが、一般的に不快な臭気を持ち、糖鎖(炭水化物の鎖)や硫黄の化合物を含む生物が生長するときの老廃物として、あるいは腐敗する際に自然に生成する。
海洋においても生物起源の硫黄化合物も生まれ、海水に含まれる。
炭水化物や硫黄は化学的に活性であり、生物が腐敗する過程で容易に生成し、天然ガスなどにも含まれる。


有機硫黄化合物は水素と結合して硫化水素にもなりうるし(化石燃料自体に硫化水素が含まれる)、硫黄や硫化水素を酸化(燃焼)すれば二酸化硫黄など硫黄酸化物にもなる。


二酸化硫黄という物質はそれ自体は不燃性であると言われることが多い。
しかしそもそも不燃性という言葉の定義をどのように考え、あるいはどこに基準を置いているのかという問題がある。
燃えやすいとか燃えにくいとか個人の経験や研究など導き出した性質なのか、消防法によるものなのか、一般保安高圧ガス保安規則によるものなのか、各自治体の条例によるものなのか。それによって微妙に変わってくる。
古紙や乾燥した枝葉などは現実的に燃えやすいが「可燃性あり」とか「可燃物」と言うかどうかといったようなこと。

消防法では前述のように硫黄という固体が第2類危険物に指定されている。
これだってそれ自体は不燃性と言えるものであるが発火も爆発も起こる時は起こる。

一般保安高圧ガス保安規則では次の物質が対象となっている。
硫化水素は含まれるが二酸化硫黄は含まれない。

一  可燃性ガス アクリロニトリル、アクロレイン、アセチレン、アセトアルデヒド、アルシン、アンモニア、一酸化炭素、エタン、エチルアミン、エチルベンゼン、エチレン、塩化エチル、塩化ビニル、クロルメチル、酸化エチレン、酸化プロピレン、シアン化水素、シクロプロパン、ジシラン、ジボラン、ジメチルアミン、水素、セレン化水素、トリメチルアミン、二硫化炭素、ブタジエン、ブタン、ブチレン、プロパン、プロピレン、ブロムメチル、ベンゼン、ホスフィン、メタン、モノゲルマン、モノシラン、モノメチルアミン、メチルエーテル、硫化水素及びその他のガスであって次のイ又はロに該当するもの


二酸化硫黄は不燃性でそれ自身は発火したり爆発を起こすことはない。しかし塩素酸塩類や他の物質との接触や混合による化学反応で発火や爆発することがある。(江藤酸素の説明)

二酸化硫黄は還元剤であるが、酸化剤にもなる。
二酸化硫黄は水に溶ける。
また二酸化硫黄と硫化水素との反応では二酸化硫黄が酸化剤、硫化水素が還元剤として働き、硫黄と水を生じさせる。
硫化水素と似た性質を持っている。
毒性で言えば硫化水素のほうが遥かに高い。

硫化水素で自殺する人もいるくらいで、条件によっては即効性が高い。
オウム真理教の使用したサリンより爆弾のほうが確実だと前に書いたけれども、ガスを使いたかったならば硫化水素にするという手もあったと思うけれど。
でも毒性が強いと言っても温泉に行けばぷんぷんと硫黄臭(硫化水素臭)が漂う温泉もあるくらいで、だからと言って人がバタバタと倒れていくわけではない。
薄ければ全く効果はない。硫化水素に限ることではないが。

第一次世界大戦で、他の毒ガスが不足したため、有用ではなかったが2度化学兵器として、イギリス軍によって使用された。




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# by yumimi61 | 2018-05-20 16:55
2018年 05月 18日
青嶺
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七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 ―山口誓子

分け入っても分け入っても青い山  ―種田山頭火




何かと「青山」が気になる今日この頃?
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写真の山は赤城山だけれども。
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群馬から出ると宣言して群馬大学1校だけを受けた我が息子・・・
母親の私でさえいろいろと理解に苦しむ。

・彼はある時まで東京の大学には行きたくないと言っていた。その理由は「オリンピックがあるから」というものだった。「なんかああいう雰囲気が好きじゃない」とかなんとか。

・テレビで「柳瀬(やなせ)」いう名前を聞くたびにタッキー(滝沢くん)を思い出してしまう。(名前書かないで?)

・最近気に入っているCMはダイワハウスのCM。何度見てもおもしろい。
そういう私は一時期閉所恐怖症っぽい時があったのだけれど(笑)。

・私の母は以前赤城山に行った時、山の山野草をその場で調理して食べる大学のサークルらしき人達に出会ったことがあるそうだ。その人達はどうも間違えて毒草を食べてしまったらしく、登山口の所で警察官らに囲まれて、水を飲んでとにかく吐くようにと言われていたとか。




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# by yumimi61 | 2018-05-18 14:20
2018年 05月 17日
月日
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思い出ばかりがいつも美しいなんてずるいと思う
いつだったか そう言ったのは私
鍵をかけ特別な場所にしまって時間を止めた
ホルマリンに浸したみたいに腐らない思い出
ミイラのように涙は枯れはて

秋でもないのに葉が舞い落ちて
夏でもないのに照り返し
四季のない体育館のドレッシングオイル
上滑りしていく言葉に暗幕を引いて
回す映写機に息を止めた

永遠を信じていたのに気付いてしまった
どんな美しい思い出も決して
今を消すことはできない
眩しすぎてオーバーライト
過ぎ去りし日にできないことアップデート

差し込む光の中を舞っている微粒子が見えた
愛しさが溢れて温かい何かに触れ
どこにいても何をしても真っ白なページ
大事にしてた記憶と情動の束
今だけが美しいなんて同じくらいずるいのに



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# by yumimi61 | 2018-05-17 09:36
2018年 05月 15日
日本国憲法の秘密-737- (外貨準備と貿易について)
こんな暖かい日にヒーターの話題もどうかと思うが、私は遠赤外線ヒーターで暖まっていて服を焦がしたことがある。
原因は近づき過ぎの動かな過ぎ。
要因は厚着(厚手のセーターや上着着用)であたっていたこと。
剥き出しの肌ならば熱くなったのを感知して自然に体勢を変えるものだが、服が厚いだけに人間が熱いと感じることはなく、気が付けば服が焦げていたという事態。

物質にはそれぞれ発火点があり、火がなくとも発火点を超えれば自然発火する。一点を加熱しすぎることはその可能性が高まるということになる。
発火点に達しなければ自然発火することはない。
JTのプルームテックのコイルに綿や糸、紙が巻かれていて、コイルの温度が200~300℃だったとしても、それ以上の発火点の物質ならば発火はしない。種類にもよるが綿や紙は通常それ以上の発火点なので火は出ないということになる。
また物質が水分を含んでいれば、それだけ温度は上がりにくい。

しかしながら発火しないにしても焦げることはある。
これこそが炭化である。
酸素が足りず燃焼できないか、発火燃焼温度には足りず、やや低温で水分や揮発性ガスなどが抜けていく状態。物質は乾いて焦げてくる。
電気ストーブで服を焦がすのは部分的に炭化が起きたということ。


暖房器具を暖まり方別に区分けすると・・・

1.対流  エアコン、ファンヒーター

人工的に温風を送り出すことで対流を作り出し、それに伴って熱が伝わる(対流伝熱)。
空間全体を暖めることが出来るのが大きな特徴。
対流は熱せられた流体が上部へ移動し、周囲の低温の流体が流れ込むことを繰り返す現象なので、暖め始めや外気が入りこみやすい空間ではどうしても暖かい空気が上に行きやすい。そのため扇風機などで空気を循環させるとよいなどと言われる。


2.放射熱(輻射熱) 赤外線ヒーター(電気ストーブ)、こたつ

発熱体から発する熱エネルギー(近赤外線・遠赤外線)にて、主に前面にある物体を空気などの気体を介さず直接電磁波で暖めるのが大きな特徴。
空間を暖める能力は非常に弱い。
スイッチを入れるとすぐに暖まるが、発熱体から赤外線が届く位置にいないと暖まらないので、暖まる範囲はとても狭い。
発熱体が赤くなるが、あれは暖かく見せるためと、スイッチが入っているのが分かりやすいように可視光線で見せているだけのことであって、赤外線に色はない。
発熱体には、ニクロム線(石英管)ヒーター、ハロゲンヒーター、カーボンヒーター、シーズヒーターなど種類があり、遠赤外線の放出量(暖かさ)や熱効率性が異なる。
ニクロム線(石英管)ヒーターやハロゲンヒーターは遠赤外線の放出量が少なく、人体に吸収されにくい近赤外線を多く放出するため、暖める力は劣る。

こたつは布団を被せて用いるため、空間を暖めていると誤解する人も多いが、発熱体が練炭や豆炭や熾火でなく、これらヒーターの場合は、発熱体が空間を直接暖めているわけではない。
人間の足、布団の内側、こたつの脚、こたつのやぐらが暖まるのである。
暖まった箇所から熱伝導は起こるので、その結果、こたつ内の空気温度や物質そのものの温度も多少上がっていくが、それはあくまでも温度差があるところでの熱伝導による上昇である。
二次的な熱が空間を暖める力は弱いので、布団により空間を狭くし冷たい外気を遮断する(対流を防ぐ)ことで熱効率を上げる。


3.伝導&対流(放熱&自然対流) オイルヒーター、パネルヒーター

オイルヒーターは機器内にあるオイルを暖め循環させ、その機器から熱を外側空間に自然に伝えていく方式。
パネルヒーターはオイルではなくて内蔵された電気ヒーターが暖かくなって、機器を通じて外部空間に熱を自然に伝えていく方式。
空間を暖めることが可能だが空間全体が暖まるには時間がかかる。
また空間に伝わる熱は二次的な熱なのでどうしても暖まり方は弱い。
気密性が低い空間には向かない。



前記事でタバコ葉を使う加熱式タバコのアイコス(フィリップ・モリス)、グロー(BAT)、プルームテック(JT)の3商品を紹介したが、タバコ葉を使って加熱するタイプにはもう1つヴェポライザー(Vaporizer)というものがある。
種類は様々あるが、タバコの葉を使う。
小さな部屋にタバコ葉を入れて、外側から熱して出てきた蒸気を吸うタイプと、熱した空気を葉の中に通して吸うタイプがある。
精油抽出法には乾いた高温の空気を葉に通すという方法(高温乾留法)もあるが、後者のタイプはそれと同じ。
石炭からコークス、木材から木炭を作るのも方式的に言えば乾留である。(ただ現実には焚き付け材の燃焼や材料からの水蒸気の発散が多くなってしまうが)
ヴェポライザーはお茶のように葉(シャグ)を購入して自分で詰めることによって使う。
紙巻タバコの葉を取り出して使うことも出来る。
グリセリンを別途購入して添加する人もいるようだが、メーカー各社はその使い方は推奨していない。
葉にいろんな物(例えば大麻とか)を混ぜたり、液体を添加したりしようと思えばいくらでもできる。
それを言ったらパイプだって手巻タバコだって同じではあるが。
加熱温度を細かく、あるいは何段階かで調節できるものが多い。


タバコ葉を使う物に対し、一切葉を使わない物を「電子タバコ」と言う。
種類はいろいろあるが、基本的な構造は同じ。
液体(リキッド)を加熱することによって蒸気にして、それを吸い込む。
液体は綿で吸い上げて加熱はコイルで行う。JTのプルームテックとほぼ同じ形式。吸うと減圧するので液体の沸点は下がる。
電圧と抵抗によって電流(加熱パワー)は決まるので、出力や温度を調節できるものが多いようだ。
タバコの葉を一切使わないので、タバコの税金はかからない。
液体はグリセリン、プロピレングリコール、水、香料からなっているそう。
最初からニコチン入りの液体もあるが、日本では販売されていない。
ニコチンその他液体を別途購入して添加するとかしようと思えば出来る。
おそらく液体大麻(大麻リキッド)なども使われるのではないだろうか。
合法リキッド(合法ハーブエキス)、脱法リキッド(脱法ハーブエキス)、クロロホルムなどの有機溶剤、コカイン、メタンフェタミン、媚薬(催淫剤)、咳止めシロップに喘息薬、どんな液体もセットできることになってしまう。
喫煙というよりも、こ洒落た吸入器である。
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液体を使うために洗浄が欠かせず、コイルも劣化するので2週間~1ヶ月程度で交換する必要がある。
それを怠ると上手く作動しなくなったり、雑菌や有毒物質を吸入することになる。
だからと言って闇雲に殺菌剤なんか使うと、韓国で加湿器によって起こった事故のようになりかねない。
不精な人には向かない。



余談だが、ドラッグ(薬物)には、アッパー(興奮)系、ダウナー(抑制)系、サイケデリック(幻覚)系がある。

アッパー系:覚せい剤、コカイン、MDMA(エクスタシー)、抗うつ剤など
ダウナー系:ヘロイン、大麻、睡眠薬、アルコール、精神安定剤、鎮痛剤など
サイケデリック系:LSD、マジックマッシュルームなど

日本はアッパー天国。アッパー系のほうがダントツ人気があるらしい。だから抑制系の大麻を安全と思ってしまいがちなのかも。
大麻推奨者が「外国では大麻が合法」だと言ったりするが、州は認めているけれど国や医学界は認めていなかったりする。
アメリカの医師は医療用大麻の推薦書を発行することはできても(その手のクリニックに行って睡眠障害を訴えると大抵は出してもらえるらしい)、処方箋の発行や患者への直接投与は禁じられている。
医師が出せるとしたら、「大麻やけしの有効成分から作られた薬剤の処方箋」であって「大麻」や「けし」ではない。
複雑な要素があり言うほど認められたり合法化されているわけではない。
娯楽用が解禁になった州では推薦状なしに堂々と購入できるのだろうけれども。

日本ではダウナー系は合法品が比較的簡単に手に入るので、わざわざヘロインや大麻にまで手を出さなくてもよいと考える人が少なくないらしいし、そもそも使用者の多くは目的が抑制ではないということもあるのだろう。
同じ危険を冒して手を出すならばアッパー系ということになるわけだ。
実はアッパー系の覚醒剤はもともと日本で開発されたもの。
戦意高揚させ、気の進まない仕事にもハイな状態で立ち向かえるように軍人だとかに使われてきた。

一般的なタバコをあえてこの中に分類するならばアルコールと同じく抑制系ということになろう。
ただ同じ系統の中でも依存性や中枢神経系に及ぼす作用には大きな違いがある。
もちろん個人差もあり、意志との関わりもある。






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# by yumimi61 | 2018-05-15 13:04
2018年 05月 14日
日本国憲法の秘密-736- (外貨準備と貿易について)

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日本のたばこ税は20世紀末から2兆円強で推移している。
喫煙率(成人男性)は1966年の83.7%をピークに減少しており、現在は30%前後。
成人男性喫煙者は大きく減り、喫煙の危険性が大々的にPRされるようになっても、価格が値上げされたことなどもあり、たばこ税収はほとんど落ちていない。
かつての喫煙率で今くらいに値段を上げていたらいったいどれくらいの税収になっただろうか。
日本の税収は1996年(消費税3%導入)の54兆円を最高に減少傾向にあり、現在は40兆円ほど。(それなのに支出が100兆円もある)
税収の5%ほどをたばこ税が担っている。
一時期はたばこ税と酒税で10%ほどを担っていたが、酒税は減少傾向にある。

またこれだけ喫煙者が減り逆風が吹き、タバコの価格の半分以上は税金であるにも関わらず、タバコ会社は絶好調。
世界の大手タバコ会社の収益率はどこも非常に高い。
世界にはまだまだタバコ需要が高い地域があると考えられる。
それにタバコ製造と販売には経費があまり掛からないのであろう。


少し前にアヘンと紅茶のアヘン戦争について書いたが、タバコもやはり麻薬(大麻やアヘン)と貿易に深く関わっている。
タバコの健康影響について語られ出した歴史は非常に浅く、1939年にナチスドイツで喫煙者に肺がん患者が多いことが報告され、その後喫煙と肺がんとの関係についての疫学的研究が行われるようになった。
今の喫煙嫌悪のルーツはナチスにある。

ナチス・ドイツの反タバコ運動とは、ドイツ人医師が初めて喫煙と肺癌との関連性を確認して以降、現代医学に準ずる研究として十分に認められるやり方でタバコの害を発見したことを受けてナチス・ドイツ政権が喫煙に対する反対運動を開始したものである。

ナチス政権のこの反タバコ運動は近代史における最初の公共禁煙キャンペーンと云われ、反タバコ運動は20世紀初頭から多くの国々に広がったが、ナチス政府から支援をうけたドイツ以外では大きな成功をおさめることはなかった。このドイツでの禁煙運動は1930年代および1940年代初頭における世界でもっとも強力なもので、ナチ党指導部は喫煙を(一部は公然と)非難した。
喫煙とその健康に及ぼす影響に関する研究はナチスの指導のもとで進められ、それは当時この類ではもっとも重要なものだった。アドルフ・ヒトラーのタバコ嫌いとナチスの多産政策が禁煙運動を支援する誘因となり、それは人種差別や反ユダヤ主義と関係していた。

ナチスの反タバコキャンペーンでは、トラムやバス、市街電車内での禁煙条例、衛生教育の促進、国防軍におけるタバコの配給制限、兵士への衛生講義の開催、およびタバコ税の増税などが行われた。また、たばこ広告や公共の場での喫煙の制限、レストランや喫茶店での規制も課された。
←現代の先進国そのもの。世界が毛嫌いしタブー扱いするヒトラーに倣う世界って・・・。


ヒトラーはタバコ嫌いだったわけではないのだ。元々はむしろ愛好者、ヘビースモーカーだった。だが第二次世界大戦に突入する頃、猛烈にタバコを嫌うようになった。(ヒトラーはニコチン依存ではなかったのかなあ?)

アドルフ・ヒトラーは元々はヘビースモーカーだった — 一日25から40本の紙巻きたばこを吸っていた — が、それは金の無駄遣いだと考えやめた。後年、ヒトラーは喫煙を「退廃的」、「レッドマンのホワイトマンに対する怒り、強い酒を持ち込んだことへの仕返し」だとみなし、「多くの優れた人々がタバコの害に無感覚である」ことを嘆いた。

ひょっとして、水道水が信じられなくなり水代わりに強いお酒を飲む人が増え(国営会社の経営者が労働者に酒を勧めたとか?)、酒のせいで風紀が乱れてしまったため、強い酒を持ちこんだ人への復讐?
あるいは、タバコを吸うとリラックスし闘争心が薄れてしまうので、戦争を前に規制に乗り出したとか?(すなわちタバコの害=リラックス効果という意味だった)


世界的にタバコが広まったのは1600年代であるが、喫煙(タバコを吸うこと)が大麻やアヘンを吸引することに繋がりやすくもあり、中枢神経系に作用し精神活動に影響を与える麻薬の広がりを避けるためにタバコや輸入に規制をかけるということがあった。
また木造家屋の多い日本では火の不始末からの大火にも繋がりやすく、江戸時代にもタバコは規制されたり部分的に解禁されたり紆余曲折の歴史を辿っている。
明治時代に入るとタバコから税金徴取されることが導入され、製造も販売も活発化し、喫煙習慣は広がった。その影響は年少者にもおよび、明治27年にはとうとう「小学校での喫煙を禁ずる」という訓令が出された。当時の小学生は7~14歳。
明治33年には「未成年者喫煙禁止法」が施行され、これは今に続く法律となった。


タバコの栽培は1600年代初頭にアメリカのイギリス領で始まり、アメリカ東部の州の一大産業に成長する。
それがやがて内陸部にも広がり、独立戦争(1775-1783)でイギリスからの独立を勝ち取ったアメリカは世界最大のタバコ葉輸出国となるのだった。
その当時アメリカで主流だったのは火は使わず誰でも手軽に楽しめる噛むタバコだった。
ところが1800年代半ばにイギリスでマッチが作られ、火が簡単に付けられるようになると、噛むタバコからパイプタバコや紙巻タバコに取って代わっていった。
折しも1800年代は産業革命の時代でもあり、あらゆるものが機械化していった時代。手で巻いていた紙巻タバコも機械で巻くことが可能となった。
この機械化によって成功を収め、多くのアメリカのタバコ会社を買収し巨大化していったのがアメリカンタバコ。
アメリカンタバコはイギリスへも進出した。
タバコを産業として確立し普及させたのはイギリスであると言えるが、かつての植民地アメリカの会社に今やイギリスが呑み込まれかねない状況となっていた。
それに対抗するためイギリスのタバコ会社13社が提携してインペリアルタバコを設立。
両社は熾烈な販売競争を収めるために、アメリカ市場はアメリカン・タバコ、イギリス市場はインペリアルタバコが担当し、それ以外の市場は2社の合弁により設立されたBATが担うと取り決めた。
タバコを普及させるからには需要に応える供給源が必要である。
タバコ葉に用いるタバコという植物は基本的には熱帯植物である。温暖地域でも出来なくはないが。そのあたりを考慮すると無暗に対立するのは得策ではないと判断したのだろう。


アメリカでは1901年にセオドア・ルーズベルトが大統領就任。
共和党であるがいろいろと異色の大統領で、1906年にはノーベル平和賞も受賞している。
この大統領が反トラスト法違反によってアメリカの財閥を次々に解体した。
違法かどうか決めるのはホワイトハウスでも議会でもなく世論だった。
ホワイトハウスは調査委員会の調査報告をメディアで公開し、世論の反応を見て違法かどうかを決定した。
以前にも書いたけれどセオドア・ルーズベルト大統領は大衆を扇動して政権運営するという新しい大統領像を確立した人物である。
大衆扇動はナチス政権でも積極的に行われたこと。

巨大化していたアメリカンタバコも世論に後押しされ違法判決が下り解体に追いやられ4つに分社された。この時にBATの株式の売却も命じられた。
BAT株式はアメリカンタバコが3分の2(アメリカ資本)、インペリアルタバコが3分の1(イギリス資本)だったが、完全にイギリス資本に取って代わった。

アメリカンタバコの経営者はジェームズ・ブキャナン・デュークという人物。
タバコ会社は父親がやっていたもので、それを引き継いだ後に機械導入で成功。
4つのタバコ会社を吸収してアメリカンタバコとなった
独立後のアメリカには鉄道王とか鉄鋼王とか様々な〇〇王が生まれたが、デュークは煙草王だった。
彼の兄弟は繊維会社も経営していた。1904年には開発会社(電力会社;現デューク・エナジー)も設立し、繊維工場に電力を供給した。
だが1907年にタバコ会社のトラストで訴えられ、1911年に違法だという判決を受ける。
そんなデュークに声をかけて快く迎えたのがなんとイギリス資本となったBATであった。
デュークはアメリカを離れ、イギリスBATで経営手腕を振るうことになる。(後年BATはアメリカンタバコなどを買収する)
デュークはアメリカでは犯罪者扱いだったが、イギリス王室からはナイトを受章したそう。
1923年にアメリカに帰国し、父親が財政支援していた大学にデューク基金を設置(1924年にデューク大学となった)。
マーケティング導入者としても有名。
ビル・ゲイツの奥さん(ビルさんもナイト受章者だっけ?)とかアップル社の現経営者などはデューク大学の卒業生らしい。



アメリカンタバコ(アメリカ)とインペリアルタバコ(イギリス)の合弁会社だったBATは、アメリカンタバコがアメリカの反トラスト法違反で株式売却を命じられイギリス資本になった後、1980年代まで世界最大のタバコ会社として君臨した。
1980年代にそのBATを超えたのがフィリップ・モリスである。

フィリップ・モリスはニューヨークに本社を置くアメリカの会社(2001年より統括本部はスイス)だが、創業地はイギリスのロンドンだった。
創業者はドイツ移民の息子であったフィリップ・モリスという人物で、1847年創業。
家族経営の小さな会社だったがトルコやエジプトから職人を招いてこだわりのタバコを手作りしていた。
その会社が買収され、創業家の手を離れ、高級葉巻をエドワード7世国王に納める御用商人として名を売り、高級路線を歩むことになる。

エドワード7世はヴィクトリア女王の息子。ドイツ起源の王家。
ヴィクトリア女王は世界各地を植民地化・半植民地化して繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王。
1623年以降イングランドは東インド会社を通じてインドの植民地化を進め、1877年にはインド帝国の成立を宣言して形式的にもイングランド政府が統治することとなり、ヴィクトリア女王が初代インド女帝として君臨した。
エドワード7世の治世下で日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、エドワード7世は「ピースメーカー」と呼ばれた。
エドワード7世の長男は28歳の時(1892年祖母ヴィクトリア女王の在位中)にインフルエンザと肺炎で急死したが、彼は一時期「切り裂きジャック」の容疑者であった。その弟が王位継承し、ウィンザー朝と改称。これが現在も続いている。

フィリップ・モリス社は1902年にニューヨークにアメリカ法人を設立した。
アメリカでは先住民がタバコ葉を燃やして吸っていたという歴史があるが、大衆に拡がる頃には噛むタバコが流通した。その後マッチの登場もあって再び葉を燃やすパイプが流行った。
そんな中、紙巻タバコを製造し始めたのがニューヨークという都市だった。
紙巻タバコが普及するきっかけはクリミア戦争(1853-1856)。
ということはやはりイギリスが一枚噛んでいるのだろうか。
当時のニューヨークでの紙巻タバコには中近東から輸入した高価なオリエント葉が使用されていた。ニューヨークは通関港であり、輸入されてきた葉を使って手巻きしていたらしい。
それがアメリカ国内産の葉を使うことで値が下がり、さらに機械が導入され、爆発的に紙巻タバコが拡がっていくことになる。←これがアメリカンタバコの功績。


フィリップ・モリスは王室御用達としてそこそこ有名にはなったものの、アメリカンタバコやそれに対抗してイギリスのタバコ会社が結集し設立したインペリアルタバコにはどこにも及ばなかった。
そんなフィリップ・モリス社の転換点はやはりアメリカンタバコの解体であった。
アメリカンタバコの資産の一部を継承したタバコプロダクツ(Tobacco Products Corporation)がフィリップモリスを買収して紙巻タバコ製造を強化した。
マールボロというヒット商品を生み出しシェアを拡大していき、やがて世界の頂点に立つタバコ会社となる。
ロンドン発王室御用達会社がフィリップ・モリスのルーツである。

つまり、フィリップ・モリス、BATともに、ドイツ起源のイギリス王室との関わりが深いということになる。









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# by yumimi61 | 2018-05-14 12:48
2018年 05月 13日
日本国憲法の秘密-735- (外貨準備と貿易について)

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•プルームテック(PloomTECH) JT(日本)
ペンタイプ(電子タバコに近い)

プルームテックは写真&図の一番下。

喫煙者が買い足すのは「たばこカプセル」というものだが、カプセル5個とカートリッジ1本のセット販売である。ばら売りはしていない。
カートリッジ1本でたばこカプセル5個分を吸うのが標準。


アイコスやグローは300℃近く加熱するが、プルームテックは30~40℃しか加熱しない(ので全然物足りない)という記事を見かけるが、これも誤解を与えそうである。
30~40℃の低温であるというのはJTが謳っていることであるが、それは「たばこカプセル」内がその温度ということである。
カートリッジ内には加熱するためのコイルが入っている。コイルの温度は種類や出力にもよるが、それが30~40℃ということはありえない。一般的には200~300℃くらいにはなると思うのだが。


カートリッジ内にはチューブが通っており、その外側に綿が巻かれていて、そこにグリセリンなどが含ませてある。
チューブを紐が貫通していて綿から液体を吸い上げているような形となっており、その紐の中にコイルが入っているようだ。


プルームテックはバッテリー側に4つ、カートリッジとバッテリーの繋ぎ目に3つ、空気穴が開いているらしく、そこから吸った空気が内側に入る。
他のものと違って吸ったらスイッチオンされるのは、バッテリー側にあるセンサーが減圧を検知して、カートリッジ内のヒーターに充電池の電圧を供給するという仕組みのようだ。
減圧で思い出したが、減圧環境下では沸点は下がる。
通常の沸点よりも低い温度で液体内部からの気化が始まるということ。
穴が開いているので幾ら吸っても真空にはならないが、抵抗によって圧力が若干落ちるし、またベンチュリ効果(流体の流れを絞ることにより流速を増加させると低速部に比べると低い圧力となる)でも落ちる。
吸った空気はより狭いチューブ内を通過していくので圧力は下がる。


余談だけれども、気圧が低い高い山に行くほど沸点は下がる。
富士山頂での水の沸点は87℃。高度が300m上がると沸点は1℃下がる。
エベレスト頂上では沸点70℃ほどになる。ベースキャンプでも高度5000m超えだから大変だ。
沸点に達したら液体内部から気化してしまい、それ以上温度は上がらないし、水量がすぐに減ってしまう。
高山ではコーヒーやカップラーメンのためにお湯を沸かしてももややぬるく、ご飯を炊いても上手く炊けないから圧力鍋とか活用しないと。



減圧でもう1つ思い出したことがある。それは精油(アロマオイル)。
アロマポットやアロマディフューザーで香りを楽しんだり、医療や美容的にオイルマッサージを行ったり、手作りの化粧品や石鹸に加える人もいる精油。
精油と紛らわしく、化学合成した香料で香りづけしただけの物や精油を抽出する時に一緒に出来る香り付の水が一緒に売っていたりするので注意が必要。精油は高価で量が少な目。
水には溶けないので油と言っているが、いわゆるベタベタした「油」(グリセリンと脂肪酸エステル)ではなく、脂溶性のあるさらさらとした植物エキスといった感じ。
揮発性、芳香性、脂溶性、可燃性の4つの性質を持つ。
化学的成分は、炭化水素類、アルコール類、アルデヒド類、ケトン類、フェノール類、フェノールエーテル類、エステル類、酸化物・オキサイド類、ラクトン類、カルボン酸・有機酸類などに分類される。
これは大きな分類であって、それぞれの類には多くの化学物質が存在している。
何がどれくらい含まれるかは精油の種類によってそれぞれ違う。

実は私、一時期、精油(アロマオイル)も学んでいたことがある。どこかに通って本格的に資格を取ろうと思ったけれど、それは実現しなかったので独学で。
何故精油を思い出したかと言うと、プルームテックの方法が精油の抽出方法に少々似ているから。
精油の抽出方法は幾つかあって、植物の種類によって適した方法があるが、一番多いのが水蒸気蒸留法。
これは植物に下から100℃の水蒸気を吹きかけるという方法だが、水に溶けない物質が水を加えた状態て加熱されると沸点より低い温度で沸騰する。
抽出したい物質が非水溶性(水と混和しない)物質の場合、沸点よりも低い温度で取り出すことが出来るのだ。
精油は非水溶性なので常圧100℃で抽出できる。

タバコ葉に含まれるニコチンは水溶性。従ってこの方法では出てこないから沸点が重要になってくる。
ニコチンの沸点は247℃。

例えば発がん性があり有毒物質となっているベンゼン。ベンゼンは非水溶性(脂溶性)。沸点も80.1℃と水よりも低い。
タバコ葉を直接熱しても出てくるし、プルームテックタイプでも出てくるということになる。その先にあるのは人の口であり肺である。
揮発性、引火性、可燃性が強いので、燃焼させればよく燃える物質である。

しかしながら何故精油が高価なのか考えてみてほしい。
大量の植物からほんの僅かしか抽出できないからである。
タバコ葉くらいでは・・人間には免疫力も備わっているわけだし・・・

プルームテックのタバコ葉(本当に葉っぱ?)
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タバコの害は毒性ではなくて依存性なのだろう。
ニコチンには依存性と耐性(だんだん同じ量では効かなくなる)がある。
それについての評価は様々。

・ニコチンの使用者は身体依存が形成されており、最後の摂取から数時間で離脱症状を生じ、ニコチンへの渇望や他の離脱症状を生じる。

・ニコチンへの依存は他の依存性薬物の使用に対して脆弱にし使用リスクを高める可能性がある。

・日本の柳田知司はアカゲザルの実験を元に、「ニコチンは依存性薬物ではあるものの、身体的な依存性は有ったとしても非常に弱いもので精神依存の増強は認められず、その精神依存性は他の依存性薬物と共通する特性が見られるものの主要な依存性薬物と比較して明らかに弱いこと、また精神毒性(例えば、ニコチンの摂取は自動車の運転などの作業に悪影響を及ぼさない)も依存性薬物の中では唯一、これが認められない」と発表している。

・ある研究は、静脈内自己投与は、薬物の乱用や依存を予測するための最も有効な手法であり、煙草の規制を進めるために研究が継続されているが、ニコチンの依存性の科学的根拠は見出だせていないため、法規制されていないと主張している。

・国際的には、向精神薬に関する条約において特定の薬物の世界保健機関(WHO)による評価でニコチンは規制されていない。たばこ規制枠組条約により、各国で依存性や有害性についてのたばこ警告表示がなされており、ニコチン含有製品は医薬品やたばこ関連法規制に従うことも多い。

・日本では薬機法がニコチンを医薬品にしているため許可なく販売できない。未成年者喫煙禁止法が未成年者の喫煙を禁止している。



依存性や耐性は個人差も大きいと考えられる。
また意志が強く関わっていることも間違いない。
健康だった時には止める気も然程なかったし、止めようと思っても止められなかった。でも死がチラつく病気に罹った時、身体異常を身を持って体験した時にはスパッと止められたという経験談を私は結構聞いたことがある。
意思に関わらず止められないという状態になることはタバコでは意外に少ないと考えられる。本気度が足りないだけ。健康の時には分からないことがある。明日死ぬと思って生きろと言われても人はなかなかそれを実感できない。タバコの依存性と意志は無関係ではない。






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# by yumimi61 | 2018-05-13 17:24
2018年 05月 11日
日本国憲法の秘密-734- (外貨準備と貿易について)
電子タバコには、タバコを使わない「電子タバコ」と、タバコを使用する「加熱式タバコ」が存在する。
タバコを使わない電子タバコはリキッド(液体)を使うが、日本では販売されていないとのことである。輸入は可能。

電子タバコには基盤とリチウムイオンバッテリーが埋め込まれている。
リチウム電池は非常に危険なものである。
通常は中味に触れることのないように作られているので接触するという危険性は少ないが、小型化を実現させてきたリチウムイオンバッテリーにはそれ相応の危険性が潜んでいる。
価格を下げると設計製造ミスが起こりやすい。材料が安価になったり、省略したりする部分が出てきたりするので故障や事故に繋がりやすくなる。使い方や充電器によっても破裂や出火を招くことがある。
スマホのバッテリーが爆発した事例が世界的に見ると結構ある。
電子式タバコは構造が単純なので互換性があるため、いろいろな物が登場してくると尚の事そうした危険性も高まる。

本題に入る。

加熱式タバコ(タバコを使用する)

=代表的な物=
•アイコス(iQOS) フィリップモリス(アメリカ)
連続喫煙不可能(その都度充電が必要)、寒いと調子が悪い、故障しやすい

•グロー(glo) BAT(イギリス)
バッテリー一体型で連続喫煙可能

•プルームテック(PloomTECH) JT(日本)
ペンタイプ(電子タバコに近い)


従来のタバコは乾燥させたタバコ葉を燃やしていたが、加熱式タバコはタバコ葉を燃やすのではなくヒーターで熱するという仕掛けである。
充電の出来る機器を買った喫煙者が以後買い足していくのがカートリッジというもの。
「アイコス」ではヒートスティック、「グロー」ではネオスティックと呼んでいる。
この中にはタバコ葉が入っている。この部分は基本的に従来のタバコの構造と同じだが、タバコ葉は従来品に比べると細かく密である。
そのタバコ葉に熱を加える必要があるわけだが、「アイコス」は加熱ブレードをカートリッジの中のタバコ葉の中心に刺すようになっている。
「グロー」は周囲全方向からカートリッジを加熱する方法を採用している。その分カートリッジがやや細い。


「アイコス」の加熱ブレードの温度は350℃ほどになるらしい。
中心部の葉が300℃前後に加熱されるといった感じだろうか。
外側から熱する「グロー」はもう少し温度が低くなるようだ。
最高が350℃とするとタバコ葉に含まれる化学物質が熱分解する温度には足りないと考えられる。
但し、このタバコ葉にはグリセリンなどが含ませてあるそうだから、純粋なタバコ葉ではない。

従来の紙巻タバコは1度火をつけると吸っても吸わなくても消すまで燃え続けて発煙している。(従来品の葉巻やパイプは吸っていないと消えやすい)
加熱式タバコは吸った時に煙が生じる。それを吐き出せば白い煙に見える。
しかし燃焼させているわけではないから、タールを含んだ煙は出ない、白い煙は蒸気であるというのがウリである。
目の敵にしている煙だってほとんど蒸気なのに。
完全燃焼したら水と二酸化炭素になるって教わらなかったのかしら?
燃やしていないから煤が出ないと言うならばまだ分かるけれども。
燃やさないからタールを含まないという理論もおかしい。加熱されて揮発したガスからタールは出来る。
コークスや木炭を作る炭焼き(乾留)でタールは出来るが、燃やさないからこそタールが得られるのだ。燃やしたら可燃性物質はみな燃えてしまう。含まれている化学物質が危険だと言うならば燃焼させたほうが却って安全である。
多くの人が完全にタールの出来方を誤解している。


加熱式タバコは最高でも350℃程度らしく、加熱分解にはやや温度不足なので、タバコ葉に含まれている物質が熱分解して種々の物資に変わったりはしない。
でもタバコ葉に含まれている物質や人為的に含ませた物質が消えるわけではない。
それらの物質は温度条件が合えば体状(固体→液体→気体)を変える可能性がある。

体状を変える温度が融点(固体が液体になる温度)点や沸点(液体が気体になる温度)である。これらの温度は物質ごとに違う。
一番分かりやすいところで水。 融点:0 °C 沸点:100 °C
350℃に加熱すれば液体の水は気体(水蒸気)になる。
水蒸気は冷やされると白い煙のように見える。


加熱式タバコに使われているタバコ葉が具体的にどのようなものかが分からないが、植物の葉を乾燥させても多少水分は残る。(残る水分量は乾燥の仕方によってかなり違う)
例えばお茶の葉は新芽を摘むが、新芽(生葉)500gのうち400gは水分で、お茶の葉になるのは100g。
新芽生葉の80%は水分で出来ているということ。

お茶というものは、日本茶もウーロン茶も紅茶も同じ種類の木の葉から成る。日本茶の木とかウーロン茶の木とか紅茶の木があるわけではない。
摘み取った葉をそのままにしておくと酸化酵素による発酵が進んで色も変わっていく。前にもちょっと書いたけど完全に発酵させたのが紅茶。
緑茶は摘み取った葉をすぐに蒸して発酵させないようにしている。
その後に揉んで水分を出して乾かすということを何度か繰り返す。
そうして出来た葉を荒茶と言うが、この段階で水分は5%ほどになっている。
当然のことながら水分を飛ばさないほうが嵩が大きくなる。
水分含有率が0になれば出来るお茶の葉は100gになるが、5%であれば125g出来るということ。
荒茶までを茶農家が行い、その後はお茶屋が選別をしたり刻んだりし、火入れしてさらに乾燥させる。ここで水分含有率は2~3%になるという。その後にブレンドなどする。

葉に水分が残っているほど加熱した時の葉の温度は上がりにくい。水分蒸発の気化熱を奪われるから。
燃焼させるタイプに比べると加熱式タバコのほうが温度は低いので、加熱式タバコ用の葉のほうがより乾燥させているのかもしれない。
なにはともあれ、葉に残っている水分が熱せられて水蒸気になる。合わせて吸入した外気に含まれていた水蒸気を吸い込み、自分の呼気に含まれる水分とともに吐き出す。



加熱式タバコの葉に含ませているというグリセリンの沸点は290℃。
液体物質は気相(空気のある空間)があれば、沸騰(液体内部からの気化)だけでなく蒸発(表面からの気化)もする。
蒸発は圧力と温度の相関関係によるが、通常蒸発による気化は沸点以下の温度で起こる。グリセリンの揮発性は低いけれども。

熱は高い方から低い方へ。温度差がある以上、熱は移動して平衡になろうとする。350℃の熱を与えれば、それに近づこうとする。なるかならないかは様々な条件による。
タバコ葉、要するにそれに含まれる物質、また添加した物質が、350℃に近い温度になったとする。
そうなればグリセリンは気化していくことになる。


グリセリン (glycerine, glycerin) は、3価のアルコールである。
学術分野では20世紀以降グリセロール (glycerol) と呼ぶようになったが、医薬品としての名称を含め日常的にはいまだにグリセリンと呼ぶことが多い。食品添加物として、甘味料、保存料、保湿剤、増粘安定剤などの用途がある。虫歯の原因となりにくい。医薬品や化粧品には、保湿剤・潤滑剤として使われている。

無色透明の糖蜜状液体で、甘味を持つ。
水に非常に溶けやすく、吸湿性が強い。

生物の油脂には大量のトリアシルグリセロール(トリグリセリド)が含まれている。これは脂肪酸とグリセリンのエステルであり、加水分解によりグリセリンと脂肪酸を生じる。例えば石鹸を生産する際に副産物として大量のグリセリンが得られる。

摂取しても特段大きな害はないが、皮膚や粘膜に対して軽い刺激性がある。
可燃性の液体で、日本では消防法により危険物第4類(引火性液体)の第3石油類に指定されている。



比較的なじみのある物質であり、特段危険も見つからなそうということで、安心してしまう人が多いのではないだろうか。
しかしながらグリセリンはアクロレインという有害物質を生成することで知られている。グリセリンの脱水で得られる物質である。



アクロレイン
融点 −87 ℃、沸点 53 ℃ で、刺激臭を持つ無色から黄色の液体である。空気中では酸化されやすいため、酸化防止剤としてポリフェノールが添加される。非常に反応性に富む物質なので、安定剤を加え、空気を遮断して貯蔵する。

ラットによる経口毒性LD50が82mg/kg、ウサギによる経皮毒性LD50が250mg/kgと、毒性が強い他、可燃性も強く、取り扱いには十分注意する必要がある。日本では毒物及び劇物取締法により原体が劇物に、消防法により第1石油類に指定されている。

食用油を使って揚げ物等の調理作業を長時間行ったために気分が悪くなる現象を「油酔い」と呼ぶ。「油酔い」は加熱分解された油脂から発生するアクロレインが引き起こすものとされている。2013年に、東京工科大学と築野食品工業株式会社の研究チームにより、アクロレインの生成において、油脂中に含まれるリノレン酸が大きく関係していることが発見された。この研究により、油脂中のリノレン酸が空気中の酸素により酸化されヒドロペルオキシドが発生、そのヒドロペルオキシドが高温下で酸化され分解し、アクロレインが発生することが判明した。なお、これまではアクロレインの発生にはグリセリンが関係していると考えられていた。

また、ガソリンエンジン・ディーゼルエンジン及びタバコの不完全燃焼でも発生し、自動車・船舶等からの排出量は年間1,765トン(製品評価技術基盤機構 2005年調べ)、タバコから年間97トン排出されている。(環境省 2004年調べ)なお、タバコ1本あたりからの発生量は主流煙で9.93〜116μg、副流煙で288〜348μgと分析されている。(厚生労働省 2002年調べ)




2013年の東京工科大学の研究によってアクロレインの発生にはグリセリンは関係していないと言いたいような感じだが、実際にグリセリンを材料に工業的にアクロレインが生産されていた事もあったので無関係とは言えない。


アクロレインは様々な食物や飲み物に含まれているとの報告がある (EU, 2001; GDCh BUA, 1994; IPCS, 1991)。
食物中に含まれる主な理由として、グリセリンの脱水反応が挙げられており、動物油や植物油に含まれているグリセリンが加熱されると、アクロレインが生成するとの報告がある (EU, 2001)。



公益社団法人 神戸海難防止研究会 グリセリンの説明から
用途:火薬(ダイナマイト),合成樹脂などの製造。化粧品,菓子,タバコなどの保湿剤。歯みがき,不凍液などの添加剤。浣腸薬

蒸気は160℃以上で熱分解され,有毒なアクロレインを生じる。熱分解は200℃を超えると激しくなる

吸湿性あり。甘味は砂糖の0.6倍。強酸化性物質(過酸化水素,重クロム酸カリウム,過マンガン酸カリウムなど)と混ざると,爆発のおそれがある。


カートリッジの中でグリセリンが気化され、気体となったグリセリンが熱分解されアクロインを生じ、吸い込むことによって体内に入れることになる。
もっともラットやネスミによって経口毒性が強いと言っても、その毒性がそのまま人間に当てはまるとは限らず、タバコくらいの量ではとも思うけれども、加熱式タバコや電子タバコは燃焼させていないので、熱分解されたものが燃やされるチャンスがない。可燃性のものですら。



グリセリンは吸湿性が強い。従って保湿剤などにも用いられることがあるが、吸湿性とは水分を吸い込む力である。
肌表面にグリセリンを塗った時、グリセリンは肌の水分と大気中の水分を吸い込むことになる。
しっとりしているのはグリセリンであって自分の肌ではないということになる。
水分を含んだグリセリンによって肌は瑞々しく感じるかもしれないが、逆に水分を奪われてしまうのだ。
もっとも人間は生きている限り、細胞を更新しているので、上の方で奪われたとしてもそれで水分が尽きてしまうなんてことはないけれども。
グリセリンだっていつまでも居続けるわけもないし。

でもともかくグリセリンもアクロレインも皮膚や粘膜に刺激を与える。
加熱式タバコや電子タバコを吸っている方、ドライアイや口腔内の乾きが酷くなった、歯周病や虫歯になりやすくなった、喉が乾燥して風邪を引きやすくなった、爪が乾燥する、そのような症状はありませんか?
口腔乾燥によって唾液が少なくなると、口腔内では細菌が増殖しやすくなる傾向にあり、歯周病や虫歯に繋がることがある。
乾燥による歯周病患者増加などは鼻がつまる花粉症の時期にも見られることらしいです。


それからグリセリンの発火点(自然発火温度)は370℃である。
温度だけでなく様々条件にもよるが、グリセリンの発火温度を念頭に加熱温度を設定したのかもしれない。
そのようなことを考えずに改造したり、自己流の使い方などをすると、発火の危険性も無きにしも非ず。




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# by yumimi61 | 2018-05-11 15:10