人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

混水摸魚(19)

e0126350_16252116.png 今日は七五三か。
 ではここで一句。
   千歳あめ 私のせなに 羽リード

e0126350_16571114.png


ダムのことを書くと、ダムにしか問題がないと思われがちなので、もう一度言っておきます。

水が川に流入するのはダムの上流ばかりではなく、川が海に注ぐまでの至る所で流入している。
流入する水は降雨だったり排水(農業・工業・生活)だったりする。
土壌や環境に吸水性・保水性がなく、アスファルトやコンクリートで覆われた都会ほど流入量は多くなる。
(これは支流の合流の話をしているのではない。この他にも当然各地に支流が合流する地点がある)
そしてそれは水だけはなく、土砂や枝葉なども同じことであり、川岸や河川敷の状態などにもよるが、上流から下流どこでも川に落下・混入の恐れがある。都市部では生活ゴミが混入することも多々ある。

その上でまたダムの話に戻ります。

ダムの堆砂率について

ダムにも水だけでなく、土砂や枝葉が流入してくる。
土砂については最初から流入して堆積することを想定してダムを設計している。
ダムの種類や建設時期によっても多少違うかもしれないが、一般的にはダムの寿命は100年と設定されており、100年間で土砂が堆積する量を予想してダム設計されている。
下の図の堆砂容量というのが、設定した容量である。
当然にダムが初めて稼働した時はゼロということになる。それから少しずつ増えていき、100年後に堆積容量の所がいっぱい(100%)になるという計画である。
設定設計した堆砂容量が100%であり、「ダムの堆砂率」と言う時には堆砂容量に対する割合であり、ダム全体に対する割合ではない。
e0126350_00102945.gif
「ダムは100年経つと砂に埋もれて使えなくなる」という意見がある。2002年11月18日付の朝日新聞では『44ダムで堆砂50%以上』というセンセーショナルな記事が掲載された。やがて田中康夫元長野県知事による「脱ダム宣言」の有力論証となった。ここでは日本のダム堆砂の現状と対策について述べる。

ダムの堆砂を測るものとして堆砂率(たいしゃりつ)がある。堆砂率が、20パーセントを超えると堆砂が進行していることになる。
水系別ダム堆砂率で見てみると、中央構造線付近を流域に持つ天竜川・大井川・富士川において水系内全ダム堆砂率が30パーセントを超えている。堆砂率上位10ダムの大半はこの3水系で占められる。
他の河川ではどうかと言うと、全国109の一級水系においてダム堆砂が30パーセント以上進行している水系は前述3水系のほか、四万十川と那賀川の計5水系である。
日本の主要水系では木曽川水系が15パーセント、信濃川水系が8パーセントであり、石狩川・北上川・利根川・淀川・吉野川・筑後川では5パーセント程度しか堆砂が進行していない。
なお、排砂事業を実施している黒部川水系では16パーセント、川辺川ダムで問題と成る球磨川水系では7パーセントである。

ダム個別で堆砂進行状況を見ると、日本では千頭ダム(寸又川)の97パーセントが最高である。将来的な堆砂状況を試算した場合、堆砂問題が特に深刻な天竜川水系では佐久間ダム(天竜川)が無対策で放置した場合約200年で貯水池が砂で満杯となる試算が出ている。天竜川水系や大井川水系等、中央構造線付近にあるダムは地質的に土砂が流入しやすいため、多少にかかわらずこの傾向がある。だが、同様の試算で堆砂の影響が少ない河川の場合、矢木沢ダム(利根川)で約2,600年、岩洞ダム(丹藤川)では実に約70万年未対策で放置しないと貯水池が堆砂で満杯にはならないとされる。


上に記載されている朝日新聞の記事というのが2002年のことで、データは2000年のもののようだ。
下のランキングは朝日新聞の記事より↓

e0126350_18023760.jpg

堆砂率が堆砂量/総貯水容量(総貯水容量に対する堆砂量)と書いてあるが、一般的には私が上に書いたように堆砂容量に対する堆砂量を堆砂率と言うはずである。
総貯水容量に対して砂が100%堆積したら、ダムのほとんどが砂で埋まっているということである。
解釈を間違えたのか、問題を大きくするためにあえて総貯水容量に摩り替えたのか、それとも堆積容量なんかとっくに超えているという事実があるということなんだろうか?

2000年からはすでに19年も経っている。およそ20年だから、記事の後にも想定した寿命100年の5分の1の年月と、その分の堆砂が追加されているはずである。

但し上のランキングに入っているダムの多くが発電用の重力式コンクリートダムのような感じである。
発電用なので洪水調節機能は持っていないし、利水を目的にしているわけでもない。
要するに台風などでダム貯水容量の限界を超えたら、上部の非常用洪水吐から自然に放流されるか越水するタイプのダムである。
発電用ダムの場合は水を下の発電所に落下させて発電させるので、水さえ常時確保できれば、ダムに堆砂していてもあまり関係はない。というかむしろ水の高さが維持できるとも言えてしまうくらいである。
取水という方法で河川や別の多目的ダムなどから常時落下(発電)させる水を確保出来れば、余計に水を貯めて置く必要はないということになる。


ダムの特殊性


上のランキングの16位の品木ダム(群馬、利根川水系、国交省)というのは、群馬県の北西部を流れる吾妻川に関係するダムである。
1965年完成だから2000年の段階では35年経過したところである。堆砂率は75.8%とある。
2000年の堆砂率上位50のダムの中では、11位で80.8%の雨畑ダム(山梨、富士川水系、日本軽金属)に次いで新しい。
雨畑ダムは日本軽金属がアルミニウム製造の電力確保のために建設した民間企業が所有しているダムである。

ランキングに入っているダムは発電用ダムが多いと書いたが、吾妻川の品木ダムはちょっと特殊なダムである。

●品木ダム
群馬県吾妻郡中之条町、一級河川・利根川水系湯川に建設されたダムである。
高さ43.5メートルの重力式コンクリートダム。
目的は他のダムと異なり日本屈指の酸性河川であった吾妻川の水質改善、河水の中性化を最大の目的としているダムであり、これに付随して水力発電も行う。
施工は群馬県が行ったが、完成後建設省に管理が移され現在は国土交通省関東地方整備局が直轄で管理を行っている。
ダムによって形成された人造湖は上州湯の湖(じょうしゅうゆのこ)と命名されている。


台風19号の後に八ツ場ダムに関連して、「一部ではヒ素についても取り沙汰されている」と書いたが、品木ダムは当然無関係ではない。

朝日新聞デジタル 2009年11月13日
八ツ場上流、ヒ素検出を公表せず 国交省

八ツ場(やんば)ダム(群馬県)の建設予定地の利根川水系の吾妻川とその支流で、国土交通省が少なくとも93年以降、環境基準を超えるヒ素を毎年検出しながら、調査結果を公表していなかったことが朝日新聞社の調べでわかった。下流で取水する飲用水の水質に影響する結果ではないが、ダム建設の是非に影響しかねないとみた国交省が、データの公表を避けて計画を進めていた。

 国交省は昨年12月から政権交代直前まで、非公表の第三者機関「八ツ場ダム環境検討委員会」を設け、ダム建設が水質や自然環境に与える影響を検討。朝日新聞社は「八ツ場ダム 環境保全への取り組み」と題した報告書を入手した。非公表とされてきた水質データが記されている。

 ヒ素は自然界に広く分布し、火山の岩盤や温泉水には高濃度で含まれる。環境基本法に基づく河川の水のヒ素の環境基準は1リットル当たり0.05ミリグラムだったが、世界保健機関がヒ素の発がん性を懸念して厳格化。日本でも93年から同0.01ミリグラムに強化された。

 報告書によると、草津温泉を流れる湯川や、酸性の水質を改善するために設置された品木ダムの放水口、八ツ場ダム建設予定地から約10キロ上流の貝瀬地点では86年度以降、ヒ素濃度が高く、基準が強化された93年度以降は基準を上回っていた。08年度の平均値は湯川で基準の約100倍、品木ダムの放水口で約10倍、貝瀬地点で5倍を記録した。

e0126350_00425419.jpg

 吾妻川の水質は、草津白根山系の硫黄鉱山からしみ出す水や草津温泉からの水が流入して酸性が強い。1952年に計画が浮上した八ツ場ダムも、コンクリートが溶けることを理由に一度は断念された。だが、63~65年に、強酸性を改善するための中和工場や品木ダムが造られ、湯川など上流の三つの川に石灰液を投入して中和化が進められ、八ツ場ダム計画が復活した。

 環境省によると、環境基準は政府としての目標値で、基準を超えても国や自治体に法的な改善義務は生じないが、環境基本法は改善に努力するよう義務づけている。しかし、国交省はこうした事態を公表せず、封印していた。

 吾妻川とその支流の水は飲み水には使用されておらず、国交省は「下流に流れるにつれて他の河川と合流するなどしてヒ素は薄まる。ダムでは沈殿するため、下流の利根川での取水で健康被害の心配はない」としている。報告書を作成した環境検討委も、八ツ場ダム完成後は「(下流部での)ヒ素濃度は下がる」と予測している。

 水質調査の結果を長年、非公表としてきた理由について、国交省は「ヒ素の数値が出ると、観光や農業、漁業など流域の幅広い産業に風評被害が起きる可能性があったため」と説明する。

 環境検討委は今年3月までに3回開催され、8月には報告書を公表する予定だったが、総選挙の時期とも重なり、基準を上回るヒ素の公表が、ダム建設の是非にどのような影響を与えるかを巡って検討委や省内の調整作業が難航。4回目の開催は9月に延びたが、結局、政権交代で八ツ場ダム自体が中止の方向となり、4回目の会合は開催されていない。

 国交省は報告書の存在を認めた上で、「まだ検討段階のもので、最終結論を得たわけではない。今後、公表するかどうかは未定」としている。
(津阪直樹、菅野雄介、歌野清一郎)


群馬県のホームページ 最終更新日2019年11月7日より一部抜粋
吾妻川の水質(ヒ素)についてお答えします
 ヒ素は自然界に広く分布し、火山の岩盤や温泉水に多く含まれているものです。国土交通省では、草津白根火山周辺を起源とする吾妻川支川で水質観測を実施していますが、湯川や大沢川のヒ素濃度の観測結果は、他の河川と比べ高い値を示しています。これは、ヒ素が自然由来のものであることを示すものです。

 しかし、国土交通省及び群馬県が湯川や大沢川などが合流する吾妻川本川で実施している水質調査結果では、ヒ素濃度は環境基準を満たしています。理由については、品木ダムでヒ素が堆積物と一緒に沈殿していることや、吾妻川の水と合流し希釈されていることなどが考えられます。

 現在、利根川と合流する吾妻川の水は『安全できれいな水』と判断できますが、県民や下流都県の方が抱くヒ素に関する疑問について、以下で詳しくお答えします。

1.吾妻川を流れる水のヒ素濃度は環境基準を満たしているのでしょうか?
群馬県が監視している地点(吾妻川監視地点:新戸橋、吾妻橋)では、環境基準を満たしています。また、吾妻川と合流してから千代田町の利根大堰までの利根川の水質測定結果についても、すべての測定地点(9地点)でヒ素濃度は環境基準を満たしています。

7.品木ダムは、どのような目的でつくられたのでしょうか?
 湯川などの強酸性の河川を中和するために、品木ダムの上流で石灰が投入されています。品木ダムは、酸と石灰の化学反応を促進させること及び反応によって生じる中和生成物(硫酸カルシウムや塩化カルシウムなど)を沈殿・貯留させることを目的としたダムです。

8.品木ダムの堆積物には、ヒ素が含まれているということですが、その濃度はどの程度なのでしょうか?
 品木ダムの堆積物に含まれているヒ素は、天然の成分として河川水に元々含まれていたもので、酸を中和する過程で、河川水から中和生成物と一緒に除去され沈殿したものです。

9.品木ダムの堆積物は、浚渫(しゅんせつ)され、ダム近くの処分場に埋め立てられているということですが、処分場から浸出した水により、土壌が汚染される恐れはないのでしょうか?
 堆積物と浸出した水に含まれるヒ素濃度は、廃棄物処理法で定める基準値(埋立基準と排水基準)を下回っています。(※「埋立基準」は、堆積物に関する溶出試験結果に基づく基準値です。また、「排水基準」は、処分場から浸出する水に関する水質の基準値です。)

 浚渫(しゅんせつ)された堆積物の性状は、概ね、天然の土砂が6割、中和生成物が2割、未反応の石灰が2割となっています。中和のために投入される石灰は天然の鉱物であり、中和生成物についても元々の河川水に含まれていた成分と石灰が反応して生じた化合物で、天然にも存在する鉱物です。

 処分場は、ダム湖の集水域に立地していることから、処分場から浸出した水は再びダム湖に戻ります。また、ヒ素に着目すると、ダム湖に流入する湯川のヒ素濃度は、処分場からの浸出水のヒ素濃度を大幅に上回っています。以上のことから、処分場から浸出する水により土壌が汚染される心配はないと考えられます。




堆積と浚渫、塵も積もれば山となる


ダムには土砂が堆積する。それが分かっているから堆積容量が予め確保してある。
しかし予想を上回るペースで堆積していたり、出来るだけ多くの貯水量を確保したいと考えたり、最初に予定した寿命よりも長いことダムを使いたいということになれば、堆積している土砂を取り除く(浚渫工事を行う)必要がある。
但しそれには費用が相当かかる。さらに一度行ったからと言って根本的な解決にはならない。浚った土砂をどこに運んで廃棄するのか利用するのかという問題も生じる。
浚渫工事を行うくらいならば、ダムの容量をさらに大きく改造してしまえという考えもあり、実際にその方法を採る場合もある。
それくらい浚渫工事は割の合わない対策と言えるのかもしれない。
それを品木ダムは行っていると言う。
浚渫を行っているのに、記事に基づけば完成から35年で総貯水容量の75.8%もほども堆砂しているというのだ。
それともその記事後に浚渫を行うようになったということなんだろうか。
ともかく品木ダム無しでは再び死の川に戻るしかないというのに、品木ダムは満杯が見えてきたような状態だったわけである。

そして、「品木ダムの堆積物に含まれているヒ素は、天然の成分として河川水に元々含まれていたもの」と書かれているが、塵も積もれば山となるという言葉があるように、1単位的にはどんなに少量でもそれを集めれば(貯めれば)(溜まれば)少量ではなくなってくる。そのことを無視した書きっぷりである。
治療に使用する薬だって適量ならば問題ないが、その薬を貯めて飲んだら大問題になったり、他の薬との飲みあわせに適さなかったり、飲んではいけない人というものがある。
大丈夫だったはずものが大丈夫でなかったということは、幾らでも事例があるだろう。
自然の土や川にあるくらいは問題ないとしても、それを溜めたら間違いや予期せぬことが起こるということはあり得ることである。
ダムは薄めることの逆(ヒ素の濃縮)を行ってしまう結果となりうる。

上流に天然のヒ素化合物鉱床がある河川はヒ素で汚染されているため、高濃度の場合、流域の水を飲むことは服毒するに等しい自殺行為である。低濃度であっても蓄積するので、長期飲用は中毒を発症する。慢性砒素中毒は、例えば井戸の汚染などに続発して、単発的に発生することもある。

IARC発がん性リスク一覧で、ヒ素およびヒ素化合物は最もリスクが高い「グループ1」に分類されている。
2004年には英国食品規格庁がヒジキに無機ヒ素が多く含まれるため食用にしないよう英国民に勧告した。これに対し、日本の厚生労働省はヒジキに含まれるヒ素は極めて微量であるため、一般的な範囲では食用にしても問題はないという見解を出している。






# by yumimi61 | 2019-11-15 16:41

混水摸魚(18)

国土交通省、牧草ロールを作る!?

e0126350_15260220.jpg
e0126350_15280280.jpg
グーグルマップでは千曲川の決壊場所付近に上のような作業場面が写りこんでいた。

すでに書いたように、最初に千曲川の決壊場所の地図(写真)を見た時に私は驚いた。それは河川敷が畑として利用されているみたいだったからである。
その時に見たのはエキサイトブログが提携しているヤフーブログだったのだが、畑なのか更地なのか確認しようと思って、グーグルマップのストリートビューも見てみたのである。
河川敷の部分は道路ではないので入っていけなかったが、決壊場所までは堤防天端の道路が一般道になっているので、幸いというか何というかそこから河川敷のほうを眺めることが出来た。
それで気になったのが河川敷の敷地における有機物の多さだった。
e0126350_15493852.jpg
堤防と分岐点

決壊地点は道路が重なっている場所ということを何度か書いたが、具体的には次のような道である。
堤防の上がったり下がったりする道は当然坂道ということになる。
e0126350_17375370.png
e0126350_17410065.jpg
上の写真2枚は、上がヤフーマップで、下がグーグルマップ。
撮っている時期が違うので土地の感じは違う箇所があるが、決壊地点手前側の堤防の斜面の部分も違うように見える。
e0126350_17553034.jpg
e0126350_18254668.jpg
そもそも、畑として使っているようにも見える河川敷の土地の所有者と管理者、実際の使用者は誰なんだろうか。
河川敷の中にも舗装されたように見える道が存在するが、この道の所有者と管理者も誰なのか。一般道ではないが所有・管理は国道にあたるのか県道なのか市道なのか、それとも私道なのか。


河川敷の風景

下の2枚は、決壊場所付近の堤防上の道路から千曲川の方を向いた時の景色。
平常時には堤防から川の姿が見えないような河川敷である。
e0126350_21155163.jpg
e0126350_21140646.jpg
一番上から3番目の写真(リンゴの木々?と書き入れたもの)は、決壊地点よりもう少し上流の地点である。この上の2枚はそれより少し下流になるが、ここでもやはり草が刈り取って置かれている。
牧草でも生やして刈り取ったのか、それとも生い茂った雑草を刈ったのか。
黄色っぽい花が見られる。ストリートビューには2014年10月とあるので、秋に河川敷に咲いている黄色い花と言えば、おそらくセイタカアワダチソウだろうと思う。
ただ雑草を刈ったのだとすれば、セイタカアワダチソウが残っているのが不思議である。
黄色い花の部分はあえて残して刈っているような感じがする。

=セイタカアワダチソウ=
北アメリカ原産で、日本では切り花用の観賞植物として導入された帰化植物(外来種)であり、ススキなどの在来種と競合する。
日本国内への移入は、明治時代末期に園芸目的で持ち込まれ、「昭和の初めには既に帰化が知られている」との記述が牧野日本植物図鑑にある。
その存在が目立つようになったのは第二次世界大戦後で、アメリカ軍の輸入物資に付いていた種子によるもの等が拡大起因とされており、昭和40年代以降には全国、北海道では比較的少ないが関東以西から九州にて特に大繁殖するようになった。沖縄県へも侵入しているが、沖縄本島や久米島などの一部地域で小規模な繁茂に留まっている。かつては環境適用性が高いことから養蜂家に注目され、養蜂家の自家栽培などによって増殖や配布が行われた。

外来生物法により要注意外来生物に指定されているほか、日本生態学会によって日本の侵略的外来種ワースト100にも選ばれている。

昭和40年代に日本でセイタカアワダチソウが社会問題となった理由として、戦後の減反政策によって休耕田となった土地に今まで見たことのない外来種の大きい草が突然いっぱい生えてきたという他に、当時は気管支喘息や花粉症の元凶だと誤解されていたことも一因であったが、セイタカアワダチソウは虫媒花で風媒花ではないので、花粉の生成量は少ない上に比較的重く形状も風で飛ぶのには不適であるため、無関係と考えられている。

昭和40年代の繁殖状況は、アレロパシー効果でススキ等その土地に繁殖していた植物を駆逐し、モグラやネズミが長年生息している領域で肥料となる成分(主として糞尿や死体由来の成分)が多量蓄積していた地下約50センチメートルの深さまで根を伸ばす生態であったので、そこにある養分を多量に取り込んだ結果背が高くなり、平屋の民家が押しつぶされそうに見えるほどの勢いがあった。

しかし、平成に入る頃には、その領域に生息していたモグラやネズミが駆除されてきたことによって希少化し土壌に肥料成分が蓄えられなくなり、また蓄積されていた肥料成分を大方使ってしまったこと、自らのアレロパシー効果により種子の発芽率が抑えられる等の理由により、派手な繁殖が少なくなりつつあり、それほど背の高くないものが多くなっている。また、天敵のグンバイやガ、ウドンコ病が時を同じくして北米から日本に侵入し、それらへの抵抗性が低下していた日本個体群は大打撃を受けてしまった(現在は抵抗性が再び上昇傾向)。








# by yumimi61 | 2019-11-14 15:30

混水摸魚(17)

土壌の構造

川沿いの土手(堤防)を踏み固めることは、土手にとっても桜にとっても良いことではないということはすでに述べた。
踏圧によって土壌の隙間を潰して土を硬くし、水分も肥料も入りにくくなってしまうからである。
但しこの隙間とはモグラが作るような大きさの空洞のことを言っているのではない。もっと細かな土の粒の隙間のこと。
e0126350_16360473.jpg
上の図の右側が隙間のない硬い土の構造となる。
(粒子の大きさが大きい石の場合は単体構造に近くても左のように隙間ができるので水はけが良くなる。)
最初は左側のような構造の土でも上から踏み固めれば右側のようになっていく。
踏み固めないとしても、植物を生やさなかったり(植物の根が土中にないということ)、植物由来の有機物が土壌に返ることがない場合には、雨が降るたびに隙間は狭くなっていき次第に右側のようになっていく。

柔らかい土よりも硬い方が抵抗力があり良いようなイメージを持ってしまいがちだけれど、それは隙間がない密な構造だからそう見えたり考えてしまうだけで、1粒1粒が単体であるということは離れやすいということでもある。全部が簡単にバラバラになりやすい。だから単体構造の土が剥き出しの場合には土が壊れやすいと言える。
保水力がない土壌なので非常に乾燥しやすく、乾燥すればガチガチになって、ひびや亀裂なども入りやすい。


潰れていく隙間

人が歩く程度の圧でも土壌の隙間は潰れていく。
しかしながら当然重量が重いほど潰れやすい。

あまり表立って問題視されないが、農業に使うトラクターも重量が重い。
こうした大型トラクターが整地した畑は結構滑らかでサラサラの土のように見えることがある。粒子が細かくて見た目はとても綺麗に見えるのだ。
でもこれは、何度も圧することによって団粒構造が壊れていくということではないだろうか。
耕すためにトラクターが入っても、トラクター自身がかなりの重さを持っていて、表面から15cmくらいまでは柔らかくなったとしても、その下は硬い土となっている。粘土化してしまう。野菜も根が深く入らないということになる。
化学肥料などでとりあえずの成長は補われるが、その化学肥料も連投が続けば土を硬くする要素を持つので悪循環となる。
日本の平野はもともと粘土質な土壌が多いので、有機物が入らない農業の先行きも心配なところではある。

人が歩いてもトラクターでも潰れるということは、自動車でも建物でも潰れるということである。
隙間や水分が多い土壌に建物を建てる時には、後々水分が沈んで行ったり圧で隙間が潰れたりして沈下しないように(圧密沈下)、予め対策を施して建設をする必要がある。
昔は畑や水田を宅地に変える場合には、何年か寝かせなければダメと言われた。これは自然に水分が抜けて隙間が潰れるのを待つ時間と言ってよい。だけど寝かせている間に雑草をわさわさ生やしていたら効果は薄くなってしまう。
現在はもっと積極的に土壌改良を行っていくことが多いと思うが、この改良も従来の土壌に盛土しただけではダメで、古い土を取り除いた上で適した土を入れる必要がある。
適した土と言いながら業者が排土(廃土)を投入していないかチェックする必要もありそうだが、現実的にはなかなか難しいのかもしれない。


土とアスファルトの隙間

重量で潰れるということは、土そのものの重さでも潰れてくるということである。
堤防のように土を高く積むということは、それだけ土の重量がかかり、徐々に隙間が潰れる。
土の重さだけでなく、自動車などで余計に圧が掛かれば、尚更潰れやすくなる。土とアスファルトでは圧に対する抵抗力が違うので、同じだけ圧が掛かっても、最初に土が沈む。
この時に問題になるのは、アスファルトなどとの隙間(空洞)である。
これは下記のように、堤防に限らず普通にどこの道路でも起こっている問題であるので、土を盛り上げて作り、その土の重さも加わる堤防は要注意ということになるだろう。
空洞が生じているということは、アスファルトなどにひびが入りやすい。(酷い場合には陥没する)上からも水が入りやすく、横からの水圧にも弱くなる。

堤防天端にアスファルトなどを敷かず、土や植物だけの土手や堤防では、この空洞問題は生じない。万一土が多少沈んだり段差が出来たとしても外から見えやすいが、アスファルトなどを敷いてしまうと酷くなってくるまで見えないだけに、定期的に調査しないと発見が遅れる。

https://www.teretek.jp/case/road_asphalt/
e0126350_18361429.jpg
空洞のリスク

土壌にとって隙間は大事なものであるが、それが空洞と呼ばれるような大きさになってしまうとデメリットになるし、事故だとか災害に繋がってしまいかねない。

アスファルトの下の空洞について、上では堤防を前提にして書いたので、土自体の重さとか自動車による踏圧を問題にしたが、堤防ではなく生活圏では土壌中に埋没されている物体(例えば配管など)が空洞を作る原因(きっかけ)となることが多い。

そして先に述べたように河川敷や堤防ではモグラやオケラやネズミなども空洞を作ることがある。
アスファルトの下に出来た空洞と同様に、空洞があるということは水の引き込みや浸水を助長したり、水圧にも弱くなるので、大雨や増水が著しければ河川敷や堤防を崩すきっかけとなりかねない。


①アスファルトやブロックを敷き詰めた場合
土壌保水力を生かしきれず、土壌を隠してしまうため重量や踏圧による沈下や空洞などの土壌の変化に気が付きにくい。

②土に草を生やすなど自然の環境を維持した場合
有機物が豊富となり、生き物が生息しやすい。このことがモグラなどを寄せ付けることにもなる。

地図や写真で見ただけだけど、千曲川の決壊場所はどちらのリスクも高そうな場所のように感じた。


護岸壁の亀裂

下の図は護岸壁に僅かな亀裂が生じて、そこから土壌が少しずつではあるが水側に繰り返し吸い出されることによって、護岸壁の後ろ側に空洞が生じるという事例である。
堤防の天端や高水敷まで水が上がるということは頻繁にあることではない。
しかしながら水に繰り返し接触する部分(例えば河川敷の低水敷の護岸)ではこのようなことが進行している恐れもある。壁の後ろの支えが無くなっている状態なので、水の勢いや量が増した時には水圧に耐えきれず護岸壁が崩壊しかねない。

e0126350_00062252.jpg

田んぼの横に空洞があったので撮った写真。似ているが2枚は違う場所。
水色の線から下側はコンクリートで用水路となっている。
右側の白い丸は排水口なので、人為的にあらためて土に穴を開ける必要はないはずだから、何か生き物の仕業ではないかなぁと思う。
e0126350_00594767.jpg






# by yumimi61 | 2019-11-12 16:52

略奪

👔 9月に電通事件のことを書いた時(2019年9月6日『コンテント』)に、余談としてテレビ朝日のドラマ『警視庁・捜査一課長』について書いた。
(余談だけど、テレビ朝日のドラマ『警視庁・捜査一課長』の捜査一課長も自宅に帰ったと思ったら、電話が来てまたすぐに仕事に戻るというのがお約束パターン。奥さんが用意したご飯も食べずに出て行くが、奥さんは刑事の鏡刑事の妻の鏡みたいに寛容で優しい。完全に時代に逆行した描写であり観ているだけでヒヤヒヤするが、猫とのシーンが和むので結構好きな場面でもある)

先月このドラマのスペシャル版を観た。
いつも寛容で優しい奥さんが珍しく不機嫌なシーンがあった。だけどその不機嫌具合も優しくて、私なんか最初不機嫌だって気が付かなかった。
一課長のセリフで(あ~これは不機嫌ということなのかぁ)と気付いた次第です。

それからこの間は、電話が来て奥さんのご飯も食べずにすぐに仕事に戻るという時代に逆行したシーンがなかった。ご飯を食べてたんです。娘ちゃんの好きだったカレー♡月命日だったのかなぁ?
だけど、スーツの上着も脱がずに、ネクタイも緩めず、絶対にまたすぐに仕事に戻るんだなぁということが一目瞭然だった。完全に臨戦態勢!電話が来なくても仕事にまた行くってことですね(笑)

😻 それで、ご飯を準備している間、ソファで猫におやつをあげていたのね。←『捜査一課長』の話ですよ
私は今年の3月に猫おやつのことを書いた。(2019年3月3日『ひなまつり』)←ここで使った写真はかつてTBSハウジングにあったハウスです。

・たぶん私はあまりCMに誘惑されないタイプだと思うけれど、最近あきらかに術中にはまっていると思われるCMがある。
ちゅ~る、ちゅ~る、ネコちゅ~る のCMである。
それを狙っているのだろうから当たり前と言えば当たり前なんだろうけど、あのネコちゃんたち、何度見ても可愛い。
そしてペットショップに行くとつい「買っちゃおうかなぁ」と心揺れるのである。

・でも未だ買っていない。
何故かと言うと・・・
うちの猫は今のところカリカリ(固形キャットフード)を食べているのだが、以前落ち込んで帰ってきたっぽい時に柔らかい美味しそうなおやつをあげた。
そしたらその後カリカリを出しても、違うにゃん、これじゃないにゃん、この間食べたやつがほしいにゃん、にゃ~んにゃ~ん、とカリカリを拒食するのである。
これではいけない、先が思いやられる、カリカリに戻さなければ。
そこでカリカリにまたたび粉をかけてあげたら、粉だけなめてにゃ~ん。
柔らかい美味しそうなおやつを忘れさせるまでに労力がかったので、そのことを思い出して、ネコちゅ~るを買うのをためらうのだった。

😿 一課長の家はネコちゅ~るじゃなかったんです。ネコちゅ~るに似ているけど違うやつ。(CMの関係で?)
違うやつがあるなんて私は知らなかったんです。ごめんなさい。

🍮 一課長一家はまだ幼さの残る娘さんを病気で亡くしたんです。
その娘ちゃんが好物だったのがカレーとプリン。
私もプリンが好きでよく食べ比べするんですが、先日パンフレットを見ていたら、1個1500円のプリンがあって、1個1500円かぁ~美味しいのかなぁと思っていたら、1個5000円もするプリンがあるとかないとか。

🐝 一昨日の土曜日にはフジテレビの『世にも奇妙な物語』を観ました。
手のひらを太陽にすかしてみれば~真っ赤に流れる僕の血潮~
トンボだってカエルだってミツバチだって~~~♪
……ガクガクブルブル……

🏦 恋の記憶~♪とCMで歌っていたのは宮島素子さん(役名)。
素子!
ある年齢以上の人にとって、素子と言えば伊藤素子さんですよね?
*三和銀行オンライン詐欺事件*
1981年(昭和56年)3月25日に三和銀行茨木支店(現・三菱UFJ銀行茨木支店)の女性行員が、同支店のオンライン端末を不正操作して起こした巨額横領・詐欺事件。 ←女性行員が素子さん。

3月25日という、給与振込日と決算期の重複で入出金チェックが一年で最も甘くなる日を犯行日に選び、1億円以上の金額をたった1日で横領したその手段は、当時の銀行およびコンピューターのチェックシステムの盲点を巧みに突いた事件として世間に大きく騒がれた。女性行員はマニラでの拘束中にマスコミのインタビューに堂々と応じ、その際に発した「好きな人のためにやりました」は当時の流行語になった。また、この事件は若い美人女性による犯行という点でも世間から注目を浴び、服役中は刑務所にファンレターが殺到したという。
後に事件をモデルにした小説や映画、テレビドラマが数々登場した。また、この事件を契機に類似のコンピュータ犯罪が急増したため、1987年(昭和62年)の法改正で電子計算機使用詐欺罪(刑法246条の2)が新設された。


💸 素子さんが横領したお金を渡していたのは恋人の南敏之という男性だった。
この南さんは歌手のみなみらんぼうさんの従兄弟なんだそうです。

🎸『ウイスキーの小瓶』


🌈 盗作!? これは提供と言います。



📟 神宮寺から観音寺へ… ほんまに?まつもとじゃなくて? いや、なんでもありません。

👆 白衣観音慈悲の御手(びゃくいかんのんじひのみて)
以下、地形屋の日々の仕事(2010年10月14日)より
昨日,FMを車の中で聞いていたら
高崎のシンボル,白衣観音について面白いことを知りました.
聞いていた番組はこちらから.
残念ながら途中から聞いたのですべてきいたわけではないのですが,心に残ったことは下のことです.

1.白衣観音の正しい読み方
「びゃくいかんのん」ではなく,「びゃくえかんのん」であること.
このブログの読者なら,なぜ間違った言い方で僕が覚えたのかおわかりですね.
上毛かるたのルビのせいです.
聞き手のNHKアナウンサーは,「私はアナウンサーなので, 正しい発音の「びゃくえかんのん」で話します」といっていました.

2.観音様の顔立ちが左右で異なること.
完成間近の時に顔立ちがやや貧相だったので
ほおをふくらせるためコンクリートをつけていたら作業中に雨が降ったので,固まっていないコンクリートが流れてしまい非対称になってしまった.
(晴れてから,なぜ対称につくり直さなかったのは, 話していませんでしたけど)

3.田中角栄元首相が若い頃, 高崎観音を建設した井上工業の東京事務所の住み込み見習いをしていたこと.
そのとき,観音の見本模型を設計者から受け取って, 自転車の荷台にそれをくくり, 東京事務所まで運んできたということ.
井上工業で田中角栄が働いていたことは知っていましたが,高崎観音の設立にも関係があるとは知りませんでした.
ちなみに井上工業は倒産してしまいましたけど, 群馬音楽センターも井上工業が施行したものです.
聞いていたのはNHK前橋放送局ですね。
1.「びゃくえ」が一般的なんでしょうけど、「びゃくい」でも間違いとは言えないのでは?それとも誤用が広まって市民権を得たというやつでしょうか?
2.ハチに刺された!?

× 隠語大辞典 皓星社
白衣  読み方:ひゃくえ,びゃくえ 
1.処分ノ寛大ナルヲ意味ス。〔第四類 言語動作〕
2.処分の寛大なることをいふ。白衣観音の慈悲から来た語である。〔犯罪語〕
3.犯罪語にて処分の寛大なることをいふ。白衣観音の慈悲から来た語である。
4.〔隠〕犯罪語で処分の寛大なこと。白衣観音の慈悲からきた語。
5.〔犯〕処分の寛大なこと、白衣観音の慈悲から出た語。
6.処分の寛大なことをいう。〔一般犯罪〕
7.処分の寛大なことをいう。
分類: 犯罪、犯罪者、犯罪語
隠語大辞典は、明治以降の隠語解説文献や辞典、関係記事などをオリジナルのまま収録しているため、不適切な項目が含れていることもあります。ご了承くださいませ。


👻 神呪寺(かんのうじ)なら知ってる?
兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。

鶴舞う形の群馬県、繭と生糸は日本一。
e0126350_23274830.jpg
井上工業で思い出した井上薬局の写真。数年前に撮ったものだけど、この時は閉まっているだけで、こちらは倒産したわけではありません。
右側の看板には折り鶴マークとともに「群馬県産の繭を使用した液体石鹸」と書いてあります。井上薬局から始まった「折り鶴」(HP)という前橋の薬局グループ会社。繭石鹸の説明はコチラ
手を洗いなさい!?


(*´ー`*) 宮島素子さんが出演し、恋の記憶~♪を歌っていたのは、青森の地酒「琴條」のCM。
「琴條」は「きんじょう」と読むんですよね?
漢字が違うけど、「きんじょう」と言えば、今上天皇の今上(きんじょう)がありますよね。
今上天皇(きんじょう てんのう)は、その時々における在位中の天皇を指す言葉。
「今」の「上(上様)」の意をもって呼ばれる「今上(きんじょう)」はそれだけでその時代における皇帝や天皇を指す語として成立したが、「天皇」と繋げれば日本独自の名称となる。
「陛下(へいか)」と繋げて「今上陛下」と呼ぶ例は、大正時代から確認できる。


それで問題あるんじゃないかなぁと思うのは、「上皇」という呼称です。
在位中の天皇が「今上」なのに、退位した人が同じ「上」という文字を使うのは不味くありませんか?
・今
上皇





... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

# by yumimi61 | 2019-11-11 17:10

混水摸魚(16)

千曲川の決壊付近の写真地図↓(赤い所が決壊場所)
e0126350_16204289.jpg
赤い線を引いた部分を含め縦に走っているのが堤防の上の道。
決壊場所は傾斜が付いており確かに堤防のようになっていたが、道沿いにずっとそのような状態になっているのかは上空からの写真ではよく分からない。
決壊場所の傾斜斜面は芝だか草が生えていたが、この写真を見る限り、そうでない場所もありそうなのだ。
ともかく河川敷(高水敷)にはかなり土らしきものを認めることができ、パッチワーク状(格子状)になっているので畑のように見える。


もう少し決壊場所に近づいてみる↓
e0126350_16363941.jpg
決壊場所は、いかにも土手というか堤防っぽい場所なのである。
その斜面に植えられている芝生(草)の緑は上空からでもわりと目立つ。

決壊場所はこれだけの傾斜がある↓
e0126350_16425846.jpg

もっと近づいてみると、どうやら緑の所全部が堤防の斜面ということではないようだ。
この幅であれば、地図に載せた範囲はずっと堤防が続いていると思われる。
決壊場所の堤防手前の緑は何だろうか?
e0126350_17141003.jpg

左右同じ写真で、右側で青い線を引いたところが河川敷で冠水した箇所↓
決壊場所の手前左(白い部分)は青線の所ほどは冠水をしていない。
冠水はしているが他より背の高い木が多くある場所で、上空からはそう見えるだけかもしれない。
e0126350_16581743.jpg
上下が反対であるが、白丸の部分が上の白い部分にあたる。
e0126350_18174278.jpg

これは前にも書いたけれど、決壊した場所は道路が重なっている箇所でもある。
e0126350_00581072.jpg

e0126350_00593014.jpg

堤防上部の道は一般の車は走れず、堤防や河川の管理関係車両だけは進入可という堤防は結構知っていて、通常上(堤防天端)は車が走ることを禁止しているものかと思ったら一般道になっている所もあるらしい。
e0126350_01124146.jpg




# by yumimi61 | 2019-11-08 16:32

混水摸魚(15)

吸収力と結実

若木を植えた時、その木はまず根を伸ばすことに力を注ぎ、次に幹や枝を太くしたり伸ばすことにエネルギーを使う。
花や実にエネルギーが使われるのはその後なので、数年は思ったほど開花しないとか実がならないといったことはよくあること。
もっとも自然のサイクルの中で、若木でも花や実を付けることも普通にあることではある。
しかし木を枯らさずに早く成長させたければ、最初の数年、少なくとも植えた年は花を咲かせたり実を生らすべきではないという栽培方法もよくレクチャーされることである。

木を成長させるには栄養や水分が必要で、それらが十分に適切に存在する場所ほど成長しやすいのが一般的。
また吸肥力や吸水力が強い植物ほど旺盛に吸収していくので成長が早いし、その吸収力ゆえに多少痩せ地でも適応できる。

前回書いたようにサクラは広葉樹の中でも成長が早い。中でもソメイヨシノは最も早く大きく成長する品種。
つまりサクラは吸肥力や吸水力が強い木である。
肥沃な土地に植えればどんどん育つし、痩せ地でもその吸収力の強さで逞しく育っていく。
但しサクラが吸収するばかりで、土壌に栄養や腐葉土などの供給がされない場合には、その土地は痩せていく一方となり、成長や樹勢はいずれ頭打ちになるだろうことが推測される。


サクラは、バラ科モモ亜科スモモ属。
日本のソメイヨシノはもっぱら観賞用だが、サクラは果樹という側面も持つ樹木である。
果樹を商売として栽培する場合には、摘花や摘果を行って、全ての蕾を咲かせたり、全ての実を生らしたりはしない。
エネルギーが分散されすぎて、果実が大きくならないからだし、翌年の成長にも響く。
素人が果樹を育てている場合には、一年おきに豊作不作となることがよくある。豊作にしてしまうと、翌年はエネルギー不足になって実が余り付かないのだ。プロはこれをコントロールする。

サクラはバラ科だけけれども、薔薇(バラ)もその名の通りバラ科である。
販売されているバラ苗はやはりほとんど接ぎ木という栄養繁殖を行っている。挿し木でも可能。
品種改良に携わっている人以外は実生で育てることはほとんどない。
そのバラも植えた年は花を咲かせないほうが良いと言われているし、花が終わったら全て咲きがらをカット(花がら摘み)して、実を付けないようにする。実を付けると樹勢が落ちるからである。
但し野生に自生する野バラはたわわに花を咲かせ実を付けても樹勢はほとんど衰えない。
種を付けると開花が長持ちしなかったり、樹勢が落ちるいというのは全ての植物に言えることで、開花期が非常に長いパンジーやビオラなども花がら摘みを行うほうが良いのである。

ソメイヨシノも吸収力が強いにも関わらず、クローンであるため最初から結実しない木である。
結実というのは相当エネルギーを使うものなので、これがないということはその分、木の成長や開花にエネルギーを使えるということになる。
だからあんなに花を咲かせることが可能なのだろうし、多少痩せ地でも育っていくのだろうと思う。


適している理由

【花見に適している理由】
🌸 サクラは吸肥力が強く、早く大きく育つ性質を持つため、土壌の肥料管理など比較的楽で、若いうちから見栄えが良くなる。
🌸 ソメイヨシノはクローンであり結実しないため、そのエネルギーが開花に使え、花数が多くなり華やかである。またクローンであり木による差異が出にくいので同じ場所の木が一斉に咲き見ごたえがある。

【川沿いに適している理由】
🌸 比較的水を必要とし吸水力もあるので、水がそばにあることは好都合。
🌸 吸肥力も強いのでとりあえず痩せ地でも成長が可能。(但し土壌に腐葉土などの供給が無い場合には限界がある)

【水害予防になるとしたら】
⛲吸水力がある大きな木が川沿いにずらりと並んでいれば、全くない状態の時よりは水を吸収できる。
⛲木があるということは根が張るという事。川沿いに並木があるということは根を張り巡らせた状態となるので、土が崩れにくい。(これはソメイヨシノに限ったことではないが、ソメイヨシノは成長が早いという特徴あり効果が早く出やすい)(山の場合は傾斜、木や根の状態によって、根張りが却って土砂崩れに繋がることもあるが、川の土手くらいの高さならばそういう心配もあまりない)
⛲根が適切に張っている状態の土壌は保水力もある。(根には根詰まりとか根腐れとかデメリットにもなる問題も生じかねないので差が大きいかもしれない)

【問題点】
●川沿いに落葉樹を植えると、落ち葉や折れた枝、花びらなどが川に落ちてしまう。
これもソメイヨシノに限ったことではない。しかしソメイヨシノは大きく成長しやすく花数も多いので、沢山の花びらと葉を落としやすい。それが同じ場所に連なって植えられるとなると、自ずと落下物も多くなる。

→落下物が水門や橋脚などにひっかかったり、溜まったりする。

→落ち葉などがやがて川底に沈む。
落ち葉などは有機物である。川底に堆積した有機物も陸上と同様に微生物などにより徐々に分解されるが、この時に酸素を消費する。
留まって淀んだ水には酸素がないが、流れている水には酸素が溶け込んでいるので、川の水は酸素を含む。
但し堆積した有機物が多くて、川の上層から下層への酸素供給が追い付かない場合には酸素が無くなってしまい、ヘドロ(有機物などを多く含む泥)となる。
川底のヘドロ化は川底から地下に水が浸み込んでいくのを妨げてしまう。
すなわち、ヘドロで川底を上げて、浸み込む水は減るという状態を引き起こしやすい。
(ため池や湖や海に流れ着いた有機物はそこでも同様の問題を引き起こす)

●桜のお花見などで大勢の人が川沿いの土を踏むことがあれば、踏圧で土壌にも桜にも悪影響を与えてしまう。
桜が植えてある土壌を踏み固めることは、桜が川沿いに適している理由も、水害予防になる可能性も潰してしまう結果になる。


浸食と堆積、そして浚渫工事

川の上流にダムが建設されて以降、ダムが土砂を堰き止めてしまい、川が自然に土砂を運んでいくのを妨げてしまっているという側面があり、一般的には川底や海岸線の浸食が問題にされている(川底なら削られて従来よりも低くなるということ)。確かに大きく見ればそうした問題が存在している。

しかし上記のように有機物の堆積の問題があったり、ダムが土砂を堰き止めることで却ってダムより下の地域の川岸を崩してしまい、その土砂が川に流れ込むということも発生していたり、河川敷の利用の仕方如何によっては増水(洪水)時に土や砂が川に流出してしまうこともあるだろうと思う。(このことは後にもう少し説明を加えたいと思っている)

つまり、いつでもどこでも川底が低くなっているとは限らないし、特に大雨が降った時には、土砂が一緒に流れていることは川の水の色で一目瞭然。
流れが緩くなった所や雨が降りやんだ後などには、そうした土砂が川底に沈んでゆく。そうすれば川底は通常より上がる。

東京都板橋区辺りを流れる荒川(笹目橋から戸田橋くらいまで)と、その部分で荒川と並行して流れる新河岸川のどちらかよく分からないけれど、今年の秋の台風前に浚渫工事をしていたらしい。
浚渫工事とは河川や運河などの底面を浚って土砂などを取り去る工事である。
船の航路になっていたり船の航行に利用される場合には尚のこと川の深さには注意が必要である。
都内では隅田川とか荒川とか、新河岸川もそうだけれど航路として使われているので、定期的に浚渫工事は行われているのだろうと思う。
それはとりもなおさず、川底には堆積するものがあるということでもある。


川沿いの土

川岸、川沿いの土手・堤防、河川敷など川の横の部分は、出来れば土の剥き出しは避けたいところである。
何故かと言えば、土は水によってわりと簡単に崩されたり削られたり、運ばれたりしてしまうからである。
そういうことが起きれば、川岸の土砂崩れ、土手や堤防の決壊、土砂の堆積による河川洪水や氾濫などに繋がる恐れがある。

土を剥きだしにしないためには、石を積み重ねる、波消しブロックを置く、斜面を護岸ブロックで覆う、芝生を張る、木々や植物(雑草含む)を生やしておくなどの方法がある。
現在では大抵どこもいずれかの方法、あるいはそれらを組み合わせた方法が採られている。

但し河川敷の高水敷の部分でグラウンドとして使用されている所は、芝生ではなくて土が剥き出しの所もあるかもしれない。
地図写真で見た千曲川の決壊した辺りの河川敷は畑として使われていたようで、土がむき出しな所が幾つもあった。
土が剥き出しな所に川の流れが入れば、当然上層の砂や土は流されてしまう。
それが運ばれて他で堆積し、川底や川の横側(河川敷部分)を上げる原因になる。





# by yumimi61 | 2019-11-07 16:27

混水摸魚(14)

179.png川沿いの土手の桜の豆知識の嘘(誤報)

前記事の終わりがサクラの話だったので、今日も引き続きサクラの話をしたいと思います。

その前に、少し前にモグラやオケラやネズミが土手に穴を開けるという話を書きましたが、今年の春に私が体験したモグラ被害のことを書いています。2019年4月22日『耕起と不耕起』

その記事の最後にこう書いたのだった。
河川敷の土手を踏み固めると水害が予防できるというようなことが言われているが、同じ不耕起でも踏み固めるということは透水性や通気性などが悪くなってしまうので、むしろ害になりやすい。

実はこの記述、「川沿いに桜が沢山あるのは、花見客を呼び込んで、水害予防のために土手(堤防)を踏み固めてもらうためである」という説が念頭にあった。
毎年桜の季節になると、このような豆知識がテレビなどで紹介されている。今年の春も何度か聞いた。ネットで調べても桜並木のように同じような文章がずらりと並んでいる。

ウェザーニュース 2018年3月13日
川に沿ってどこまでも続く桜並木は圧巻ですが、そもそもなぜ川沿いに多いのでしょう。
江戸時代の頃は、大雨が降ると川が氾濫しやすく、土手が決壊することもしばしば。
今のようにインフラ整備が整っていなかった時代の人は、どうすれば土手が決壊しないのか懸命に考えました。
「ローコストで効率よく土手を強化するには…?」
そこで白羽の矢が立ったのは、なんとお花見でした。
土手に桜を植えれば、毎年多くの人が花見に訪れて、自然と土手を踏み固めてくれるに違いない!
そうした先人の知恵から、川沿いには桜が多く植えられるようになりました。


「川沿いの桜は水害予防」という豆知識にはたいてい江戸時代が登場する。
しかしソメイヨシノは江戸時代にはまだ誕生していない。
だから川沿いのソメイヨシノと江戸時代は全く関係ない。

ソメイヨシノ
江戸時代末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された。
葉より先に花が咲き開花が華やかであることや若木から花を咲かす特性が好まれ、明治以来徐々に広まった。さらに、第二次世界大戦後、若木から花を咲かせるソメイヨシノは爆発的な勢いで植樹され、日本で最も一般的な桜となった


日刊サン 2018年3月26日
奈良時代から続く春の楽しみ 桜と花見の歴史 
(一部抜粋)

お花見の歴史
さくらの「さ」は山の神(田の神)、「くら」は神さまの座るところを意味するといわれ、本来の花見は、祓いのための宗教行事だったと考えられています。桜の開花は山の神が桜の木を依代として降りて来た合図とされ、その木の下で神様に料理とお酒を備え、人間も一緒に食事をしながら春の訪れに感謝するという意味があったようです。

奈良〜平安時代(710〜1185) ―梅の花見から桜の花見へ―
奈良時代、貴族の間では、その頃中国から伝わったばかりの梅を鑑賞する花見の習慣がありました。平安時代に入り、日本独自の国風文化が盛んになるとともに、花見で鑑賞する花は徐々に桜へ変わっていきました。  飛鳥時代から奈良時代に編纂された『万葉集』では、桜を詠んだ歌が43首、梅を詠んだ歌が約110首が収められていますが、平安時代に編纂された『古今和歌集』では、桜の歌が70首、梅の歌が18首と首位交代しています。

【天皇主催の恒例行事に】
831年から、桜の花見は宮中で天皇が主催する恒例の行事となりました。また、貴族の家の庭に桜の木が植えられるようになり、『作庭記』には「庭には花(桜)の木を植えるべし」と記されています。現代も花見の名所となっている京都市東山エリアの桜も、この頃に植えられたと言われています。

【江戸時代も桜の名所だった上野公園】
江戸時代、花見の習慣は庶民にも広まっていきました。この時代、江戸で最も有名だった花見の名所は、今も名所となっている上野公園で、当時は忍岡(しのぶがおか)と呼ばれていました。1625年(寛永2年)、津藩藤堂家の下屋敷があった忍岡に寛永寺が建立され、初代住職の天海は、寺の境内に京都の吉野山の山桜の苗木を移植しました。その山桜がうまく開花した1660年頃から、寛永寺は美しい山桜で有名なスポットとなり、元禄期(1688〜1704)には桜の名所として定着しました。

【桜の新名所、飛鳥山と隅田川堤】
1720年、徳川吉宗は、王子の飛鳥山や浅草の隅田川堤に桜を植え、桜の新名所として庶民を誘致しました。その理由の一つに、庶民たちを寛永寺から遠ざけるためということがありました。またこの頃、「生類憐みの令」で一時的に中止されていた鷹狩りが復活したのですが、鷹場に近い田畑が人々に踏み荒らされるという被害が出てしまいました。そこで、農民たちの収入源となるよう、鷹場に桜の木を植えて新名所にし、花見客を誘致しました。これが、今も名所となっている飛鳥山の桜の始まりです。

明治時代以降(1868〜) ―全国に広まった荒川堤の桜―
明治時代に入ると、日清戦争、日露戦争が起こり、貴族の庭園や武家屋敷は次々と取り壊され、植えられていた桜も焚き木などの燃料にされてしまいました。これにより、江戸時代に改良された多くの種類の桜が激減したものの、駒込の植木職人だった高木孫右衛門が、84種の桜を集めて自宅の庭に移植し保存しました。1886年に孫右衛門が助言しながら造られた荒川堤の桜並木は、1910年頃に花見の新名所として定着しました。78種の桜が植えられた荒川の桜は、各地の研究施設に移植されて品種の保存が行なわれました。これが全国へ広がり、今に至ります。また、1912年には、日米友好の証として荒川の桜の苗木3000本がワシントンに贈られ、ポトマック川の河畔に植えられました。


昔から桜はあった。但しそれは現在日本中で見られるソメイヨシノではない。よってあのような咲き方はしないし、品種によって開花期もだいぶ違ってくる。
川沿いに植えられた理由として考えられるのは、上の「明治時代以降(1868~)」というところの記述にヒントがあるように思う。
川沿いに植えておけば、木材や木材燃料として使う場合に運搬に楽だからだろう。
現に運河沿いには木材工場をはじめ金属や機械などの中小工場や倉庫が作られていた。


戦争と桜179.png

毎年3月下旬には今日か今日かと大騒ぎしている桜の開花。東京のソメイヨシノの開花標本木は靖国神社にある。
標本木だけでなく靖国神社には沢山桜の木があるわけだが、靖国神社は明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879年)に「靖国神社」と改称された。桜もそれ以降に植えられたものであろう。
靖国神社は明治維新後の戦死者が祀られている。非常に戦争に近い神社である。わざわざそこをソメイヨシノの開花基準にしているわけだ。
皇居の北西側のお堀である千鳥ヶ淵付近も桜の名所となっている。千鳥ヶ淵戦没所墓苑もある。ここに桜が植えられたのも明治期以降である。


産経デジタル 2019年5月31日
桜にまでイチャモン、難癖! 桜と戦争を結びつけ…ならば、なぜ題字に使い続けるのか


【朝日新聞研究】
 3月30日夕刊、第一社会面トップに、井の頭公園のカラー写真とともに、桜のアイコンが目に飛び込んできた。時節柄のどかな風物詩調の記事かと思ったが、そうではなかった。桜に対して、イチャモン・難癖をつける体の記事であった。

 まず、井の頭公園で花見をしていた人の声が述べられ、次いで桜の歴史の話となり、江戸時代から花見はあるが、明治までは桜は特別な花ではなかったという。
 それが大正から別格になったと、『桜が創った「日本」』(岩波新書)の著者である、佐藤俊樹・東大教授の説が紹介される。それはソメイヨシノの全国的な拡大と、学校・官庁・会社における卒業や入学・入社の時期が一致して、桜が「出会いや別れ」の象徴となったという。

 それはそうかもしれないが、解釈の仕方がかなり“異様”である。

 つまり、「全国で一様に咲くさまは、欧米列強に対抗するのに必要な中央集権的な国家像、同質的な国民像とも結びついた」と言うのである。それに続いて、「一斉に散る桜は、昭和に入るとさらに意味づけされる。軍歌『同期の桜』は『みごと散りましょ 国のため』と歌い、滑空して敵に体当たりする特攻兵器は「桜花」と名付けられた」と解説する。

桜と特攻と言えば、5月14日、「若い世代こう思う」欄に、鹿児島県・知覧の特攻資料館「ホタル館富屋食堂」館長の鳥浜明久さんによる「特攻と桜 裏の真実」と題する文が載っている。
 明久さんは、「特攻の母」と呼ばれた鳥浜トメさんの孫らしい。まず、冒頭に「散り際の鮮やかな桜にたとえられることの多い特攻隊。知覧で撮影された写真にも、女学生たちが桜の小枝を振って隊員を見送る姿が残されています。私の叔母もその中の一人でした」とある。ただし、写真は宣伝用に一度撮られただけで、それが繰り返し使われているのだという。

 つまり、この2つの記事はともに、戦争にまつわる桜の忌まわしい歴史を述べているわけである。

 ところで、朝日新聞の社旗には、異なった2つのデザインがある。それは旭日の方向が、左向きと右向きと2様あることである。つまり西日本と東日本と、区別して使われているわけである。戦争中まで、「東京朝日」と「大阪朝日」が分立していた時代を、反映したものであろう。
 それと同じように、朝日新聞の題字のバックの模様も、2つのタイプがある。西日本版が難波の葦(あし)であるのに対して、東日本版は言うまでもなく桜である。
 桜が忌まわしい歴史を持つというのなら、平和主義の朝日新聞が、なぜ使い続けるのであろうか。

 ■酒井信彦 元東京大学教授。1943年、神奈川県生まれ。著書に『虐日偽善に狂う朝日新聞』(日新報道)など。


私も桜と戦争を結びつけたけど、朝日グループは確かに矛盾が多いところがある。朝日に限らない? 
でも上の朝日新聞の解釈は全然異様ではないと思う。
戦争と桜が関係なければ、どうして川沿いの桜は’江戸時代から’とか’水害予防のため’とか嘘の情報を垂れ流す必要があるのだろうか、と私は思う。


171.pngスギとソメイヨシノの共通点

ソメイヨシノは明治以来徐々に広まった。その中心にあったのは明治期以降の皇室である。
そして爆発的な勢いで桜が植えられたのは、実際に戦争を行った明治時代や日中戦争や太平洋戦争に向かう昭和前半ではなく、戦争が終わった後だった。

スギが全国に大量に植えられたのも戦後、ソメイヨシノが全国に大量に植えられたのも戦後。どちらも全て挿し木で作ったクローンというのも特徴的である。

敗戦後も天皇や皇室は変わらずに維持され、靖国神社も存続している。
桜は日本中に植えられ、法律で制定されているわけではないが、日本を象徴する花として皇室の紋章であるキクとサクラが国花とみなされている。

ソメイヨシノの植栽が著しかったのは、第二次世界大戦後と1964東京オリンピック前であり、昭和20~30年代(1940代後半〜1960年代前半)。
スギの植栽が著しかったのは、昭和30~50年代(1960~1980年代)。
ソメイヨシノは主に平野部や平坦な場所に、スギは山に植えられた。

明治時代や戦後すぐに植えられたソメイヨシノは高度経済成長期における乱開発、公害、社会環境や生活環境の大きな変化によって、実は全国的に一旦衰退しかけていた。
それを再興するきっかけとなったのが1964東京オリンピックだった。
だから現在花を咲かすソメイヨシノの多くは、東京オリンピック生まれと言ってよい。


171.pngソメイヨシノとスギの寿命!?

1964東京オリンピック前に植栽されたソメイヨシノは現在樹齢60年弱くらいである。
ソメイヨシノの寿命は50~60年ということがよく言われているが(以前は30~40年と言われていたことも)、サクラの寿命はそんなに短くはない。但し「ソメイヨシノ」は明治時代に生まれた新しい品種であるため文献やデータがあるわけでもない。
でも一般的に考えれば、ソメイヨシノだけがそんなに短命であるとは思えない。
1964年から50~60年後とすれば、2014~2024年である。

先日私はスギは40~50年で木材として使えるようになると書いたが、これは寿命ではない。国を挙げて人工林を造成した際に想定された伐採期の樹齢である。
盛んに植栽されたのが1960~1980年代だから、想定通りに育っていれば2000~2030年が伐採期にあたる。(この時期に再び戦争でもしようと思っていたんだろうか?それとも次なる戦争の戦後がそれくらいと睨んでいたのか)
スギという植物はもともと長寿である。品種や環境によっては数千年の寿命を有するものもあるとされている。
スギにとって40~50年という樹齢は、若齢期から成熟期にさしかかるくらいの段階である。


179.pngサクラの秘密

サクラは広葉樹の中でも成長が早いことで有名。あっという間に巨木になる。
中でもソメイヨシノは最も早く大きく成長する品種だと言う。
だけどソメイヨシノは明治時代に誕生した品種なので、ソメイヨシノが樹齢300年と誰かが言ったらそれは嘘(間違い)である。
ソメイヨシノでないサクラであっても、樹齢300年と喧伝されているサクラだったのに、「あれはオレが植えた桜じゃ」とかおじいちゃんが言い出したりすることもあったりするかもしれない。
孫「え?おじいちゃん幾つだっけ?」
じい「今年で90歳」
孫「おばあちゃ~ん、おじいちゃんがボケちゃったよぉぉぉ」
e0126350_01213966.jpg
踏み固めること171.png

サクラはスギと違って、横に枝を大きく張っていく広葉樹である。よって浅根性。
お花見などでサクラの根が張っている土を踏み固めてしまう環境がサクラにとっては最悪なのだ。
幹の根本だけに乗らなければ良いという話ではない。根は枝が広がるのと同じくらいに広がっていると考えるべきである。
そこに踏圧がかかる。これが深刻な問題となっており、だからこそソメイヨシノの寿命は短いと言われているのかもしれない。

造園業界ではサクラの踏圧害は有名である。
土壌の隙間を上からの踏圧で潰してしまうので、上の方の土壌まで硬くなってしまう。
そうすると酸素も水分も入りにくい。根は窒息気味になる。苦しくて根が土よりも上に出てくることもある。
本来柔らかい土壌で活躍する側根(細根)も硬い土壌では伸びていきにくく栄養分も吸収しにくい。肥沃な土を作るのに欠かせない微生物の働きも弱くなる。
傷ついた根は病気を引き起こしやすい。

上記のような理由から近年ではソメイヨシノの衰退は始まっていて、お花見が行われるような場所のソメイヨシノがあと何十年も持つことはないだろうと言われている。

土壌的にも保水力が落ちることは望ましくない。特に川沿いにある土に保水力がないというのは看過できない。


177.png次回も川沿いの土手(堤防)についてです。







# by yumimi61 | 2019-11-05 17:58

混水摸魚(13)

矛盾した特性!?

昨日の記事に載せた写真のルピナスは、あまり暑すぎずない場所で、且つよく日光があたる所ならば、土を選ばず勝手に広がり群生するほど強い植物。
だけど栽培しようと思うと意外にかなり難しいのである。

何故かと言うと、、、
①直播きでは発芽率がとても悪い。
こぼれ種でどんどん広がるというのに、人間が種を買ったり採種しておいたものを土に直接蒔くと発芽率は相当低くなる。
考えられる理由としては、種を保存している間の種自体の劣化、蒔いた土壌や気候が発芽に適していない、こぼれ種も蒔いた種も発芽率はそう変わらないが蒔かれる種の数が大きく違うといったところだろうか。

②直播きではなくてセル成形トレイやポットなどに種まきして管理する方法は、ある程度知識が必要で手間がかかる。
ルピナスの種は硬く、一斉に蒔いても発芽するタイミングが種によってかなり違う。種に傷を入れるとか蒔く前に種に十分に水分を吸収させて発芽率を上げるという方法もあるが、ひとつ間違うと逆効果となり却ってダメにしかねない。
また通常は庭や畑、あるいは鉢などに定植する前に、成長に合わせてセル→ビニールポットへの植え替えが必要となるが、これも手間だし材料が必要だし置き場所も取るし、細心の注意が必要になるのでハードルが高くなる。

③種を蒔く時期が秋。
ルピナスも種類が沢山あるが、一般的なルピナスは毎年春に開花する宿根草である。
人為的に種を蒔く時期は前年の夏の終わりか秋頃が適している。
ということは、その年の冬を幼苗で越えなければならないということになる。
ルピナスは基本的には耐寒性のある植物であるが幼苗の状態の時にはなかなか難しい。よほど気候に恵まれている場所(恵まれた年)か、春先まで定植せずにポットで管理する必要がある。

④移植を嫌う植物である。
直播きすると相当発芽率が悪いが、一方で移植を大の苦手とする植物で、よほど気を付けて定植(移植)しないと、せっかく冬越しして定植しても、この段階で枯れることが多い。

⑤水分不足と高温多湿に弱い。
勝手に群生しているルピナスには水やりなんて全く必要ないが、ポット苗を定植後や栽培場所を移動する移植後には水やりをして、葉を萎らせないようにしないと活着しない。
一方、活着後に多湿な状態になると根腐れを起こしやすい。高温にも弱い。

⑥思ったように咲かない。
秋に蒔いて、冬越しして、春先に定植して、春に開花したとしても、最初の開花は十分とは言えないものがある。そうなると「苦労の割には・・」と思う人も少なくなく、花が終われば管理の手から外れてしまいがちとなるが、そこに高温多湿な夏がやってくるので、結果枯らしてしまう。


自分で種まきからしようと思えば、上の全部が関係あるが、苗を買って植えるのであれば、①~③は直接関係なくなる。実際にルピナスも苗が販売されていたりもするが、その場合には①~③はプロ(育苗業者)が行うところである。
ということで、ルピナス栽培の最大の難所は④、次いで⑤といった感じになる。


ルピナスは直根性
e0126350_14204809.jpg
直根性とは左のような根のタイプのことを言う。
根があまり枝分かれすることないため根の数が少なく、太い根が真っ直ぐに下(地中深く)に伸びていく性質を持つ。よって深根性とも言う。
真ん中の太い根が主根であり、これは種から最初に出た根である。養分を吸収するのはこの根ではなくで側根(細根)。
直根性の植物は、主根を少しでも傷めてしまうと植物へのダメージが非常に大きくなり、活着することが難しくなる。

右側は浅根性タイプの根。側根(細根)が沢山あり、根は下ではなく横に張っていく。

ルピナスがまとまって咲いていると目を引いて綺麗なので、開花期には欲しがる人も少なくない。
園芸にあまり詳しくない人だとどうしても開花期に欲しがるが、開花するということはそれなりの大きさになっている。ということは、根もそれなりに伸びている。だから主根を傷つけないで掘り上げるということが難しい。また植物は開花にエネルギーを使っているため、余計に活着しにくい時期である。
掘り上げて誰かにあげるなら、花が咲いていない比較的小さい苗の時に、土を付けたままポットや鉢にあげてやる必要がある。

母はいろいろな人に掘り上げてあげた経験があるらしいが、活着して後々まで咲いていたという家は皆無だったらしい。
だいぶ前に私も貰ったことがあるが、やっぱり活着しなかった。園芸が得意な伯母でもダメだったというから、本当に移植が難しい植物なんだと思う。
但し私が昨年の花後に実家内で移動させたものは大きな苗でも活着したものがあった。
来年春に同じ場所で芽が出れば移植成功だがまだ分からない。


直根性の植物

ルピナスはマメ科だが、マメ科の植物は直根性なので、スイートピーもそうである。
ケシ科の植物も直根性である。昨日写真を載せたナガミヒナゲシもそうだし、ポピーも、ハナビシソウも直根性。
タンポポも直根性。直根性の雑草は結構ある。
野菜で言えば、ニンジン、ダイコン、ゴボウなどが直根性。私達は主根を食べるわけである。
チューリップやヒヤシンスも直根性である。水栽培をしてみると根がいっぱい出てくるので直根性には思えないかもしれないが、枝分かれしない比較的太い値が何本も出ているのであって、細根はほとんどない。

国営ひたち海浜公園の春の「みはらしの丘」はネモフィラ畑になるが、ネモフィラも直根性。あそこは苗を植えているのではなくて、種を蒔き、霜よけのためのシートを掛けて越冬させている。秋にはコスモスやコキア(ホウキグサ)に変わる。どれも土壌を選ばず、こぼれ種でも育つ強健な外来植物であるが、ネモフィラもコスモスもコキアも一年草である。

直根性の植物で、地中深くに根を伸ばしたものは、引っ張って抜こうとしても簡単には抜けない。力任せに引っ張っても根の力に負けて途中で根が切れて抜けてくることがある。どれも移植は苦手なので、直播きが基本である。

e0126350_15393441.jpg
上の絵にはポットや鉢で成長させた時の根を書き入れて見た。

直根性の場合には主根が下の方でとぐろを巻く。直根性の植物は主根が命なので、ここが下に伸びないと成長しにくく、いずれは根詰まりを起こして枯れてしまう。

右側の浅根性のものは細かい根が全体にびっしりと充満する。特に下部や側面には密集する。強い植物に素焼きの鉢といった組み合わせの場合には素焼きの細かな隙間に細根が入り込んでへばり付くような感じにさえなるくらいに。これは根詰まり状態とも言えて、水はけや通気性が悪くなり、生育にも影響してくる。
但しこちらは植え替えの時に密集している部分の根をほぐしたり、思い切って少しカットしてもそれが原因で枯れてしまうということはない。むしろカットしたほうが根が伸びていきやすくなる。


直根が重要な針葉樹

草花の場合にはもともと樹木ほど大きくならない。だから直根性にしても浅根性にしても、根は樹木ほどは下に伸びないし広がらない。
樹木の場合はもっと大きくなる性質を持つ。
だから樹木を育てて販売する場合などには、根の扱いが問題になる。
直根を切ってしまうと直根の再生は無理である。上部の側根だけで一生生きて行くことになる。
側根は土壌上部の比較的柔らかい部分の土の栄養を吸収する役割を持っているので下深くには伸びて行かないのである。
だから直根を下に伸ばしたまま販売したり移植した方が良いが、それには深い鉢などが必要である。また移植先も見合っただけ深い穴を掘らなければならない。
根が剥き出しのまま移動(輸送)させれば傷んだり切れたり乾燥して枯れてしまいかねない。
根を切らないである程度の大きさまで育ててから移植するとなると、根を何かで覆う必要があり、とぐろを巻かせるしかなくなるが、そのまま植えた場合にはもう下に向かって直根は伸びていかないことが多いという。
横に広がらず上に真直に伸びる性質が強い樹木は、根も直根が下の方の硬い土壌にまで伸びないと倒れやすかったり土砂崩れに繋がりやすくなる。

なんでこんな話をしてきたかと言うと、スギなど針葉樹は直根を下に深く伸ばさなければ、成長も悪くなるし、災害などに繋がりやすくなるということが言いたかったから。
天然林では移植することがないので根が下に伸びていく。樹木を一斉に入れ替えるわけでもないので自然淘汰などがあり間隔なども適切になる。
人為的に作った林はなかなかそのようにはいかないものである。


挿し木では直根が出ない

人工林は種から造られるわけではない。
苗木を作ってから植栽するのだが、どうやって苗木を作るのかと言うと、これまた種を蒔く(実生)のではないのである。
枝を挿し木して苗木を作る。いわば栄養繁殖させる。いわゆるクローンである。
挿し木の場合、実生と違って直根が出ないのが特徴となる。なにせ元が枝なので。

e0126350_17593450.jpg

直根がないのが分かる。
上記ページでは、これまではスギやヒノキの植栽には根が剥き出しの裸苗(右側の2本が裸苗)が使われており、植栽時期も春か秋に限られていたが、’新しい技術’のコンテナ苗はどうだろうかという話で、今のところコンテナ苗(左側の2本)について多くは分かっておらず(国内では事例や情報がなく)、これから分析比較などする必要があるとしている。

 コンテナ苗(Containerized seedlings)は、マルチキャビティコンテナで育成される根鉢が成型された「鉢付き苗」です。
根鉢は、ヤシ殻ピートを主とする培地に根が伸張・充満することでコルク栓状に成型されます。
 コンテナの内面には、「リブ」と呼ばれる突起物がついており、側面に接触した根を下方へ成長させます。また、コンテナの底面は穴が開いています。植物の根は、一部の植物を除いて、空中に根が突出すると成長が止まります。そのため、この容器で育苗された苗木は、リブで根が下方へ伸長し底面で根の伸長が止まることから、従来のポット苗で起きる「根巻き」の現象がありません。これが、コンテナ苗の大きな特徴と言えます。



桜のソメイヨシノも全てクローン

前にもちょこっと書いたような気がするが、春の風物詩である「お花見」の花であるソメイヨシノは、全て挿し木や接ぎ木で育ったもの(栄養繁殖)で、種から生じた(実生)ものは存在しないのである。
だから遺伝的多様性は全くない。だからこそ同じ場所にあれば同じ時期に同じ花を一斉に咲き揃えて見事な景色を作るとも言えるわけである。

前述のようにソメイヨシノはクローンなので実を付けることがない。
サクラの実は他でもないサクランボである。
しかし食用のサクランボの多くは、セイヨウミザクラという品種のサクラである。
セイヨウミザクラ(西洋実桜、英: Wild Cherry)は、ヨーロッパ、北西アフリカ、西アジアに自生するサクラ属の植物であり、果樹のサクランボ(桜桃)の多くの品種がこの種に由来する。

クローンではない他の品種のサクラでも食用ほどは大きくはないがサクランボ型の実を付ける。
しかしクローンであるソメイヨシノは実を付けない。
見た目がソメイヨシノに似ていて、実が付いているサクラがあれば、それはソメイヨシノではない別の品種のサクラと受粉させたり、偶然に受粉したりして結実した実から取り出した種で育ったサクラかもしれない。
遺伝的には半分ソメイヨシノで半分は違う品種のサクラということである。ハーフ、ミックス。
それを何代か育ててみていずれもミックスされた花が毎回咲いてくるようならば(それが今までに作出された花とは違いがあり価値がありそうならば)サクラの新品種になれるし、1代限りを楽しんだり代が続かない場合にはソメイヨシノ(ソメイヨシノ自体も本を正せば交雑種)の交雑種で同品種(同亜種)で終わることになる。
多くの植物がそうであるが、サクラも自家不和合性で、自分の花粉では受粉しないため、継代にチャレンジするには同じ品種のサクラを最低2本以上近くに植えておく必要がある。
もっともサクラはかなりの品種が栄養繁殖(クローン)で受け継がれてきたので、素晴らしいと思う新しい花や特性がもしも交雑で生まれたならクローンで継げばよいということになる。

人間がクローンを作らなければ、サクラという植物は絶滅してしまう運命にあり、実はとても人工的な花である。







# by yumimi61 | 2019-11-04 12:34

混水摸魚(12)

e0126350_14542327.jpg
ルピナスとルパン

ルピナス属(学名: Lupinus、英: Lupin)
花の様子がフジに似ており、花が下から咲き上がるため、ノボリフジ(昇藤)とも呼ばれる。
マメ科の属の1つ。地中海沿岸地方と南北アメリカ、南アフリカなどに200種以上が分布している。
日本では、明治期に緑肥用作物として導入された。園芸植物としての栽培が始まったのは近世になってからで、1911年にジョージ・ラッセルが改良種を開発し、多様な園芸種が作られるようになった。現在は園芸植物としての栽培が一般的である。

ルピナスという名前はラテン語でオオカミを意味するループスという言葉に由来する。牧野富太郎は、どんな土地でも育つたくましさがオオカミを連想させた、塚本洋太郎は、ルピナスが大地を破壊すると畏怖されており、そこからオオカミが連想されてこの名が付いたと著書で言及している。これに対して中村浩は語源は狼ではなく、ギリシア語で悲哀を意味するルーペであると推定する。ルピナスの豆は苦く、噛んだ人が苦虫を噛み潰したような表情になることが、その根拠であるという。

フランス語では「アルセーヌ・ルパンシリーズ」の主人公ルパン(リュパン)と読みも綴りも同一になるので、原作小説の『虎の牙』の最後ではルパンが自分の姓になぞらえ、隠居した家の庭にルピナスを多数植えている描写がある。

『虎の牙』は、『813』のラストでティベリウスの断崖から身を投げたアルセーヌ・ルパンが、スペイン貴族にしてフランス外人部隊の英雄、ドン・ルイス・ペレンナとして復活し活躍する、「ドン・ルイス3部作」とも言える三作のうちの最後の一遍。
ドン・ルイスは大戦中外人部隊での英雄的な活躍により、戦友から「ダルタニャンのように勇敢で、ポルトスのように強く、モンテ・クリストのような謎の人物」と評される。が、この作中の展開において世間一般に、彼こそが死んだはずのかのアルセーヌ・ルパンだとばれることになる。
ルイス・ペレンナ(Luis=Perenna)は、アルセーヌ・ルパン(Arsene=Lupin)のアナグラム。


誰だにゃん!?
ダレダニャン物語

日本で有名な『ルパン3世』というアニメ。
ルパン3世はルパン1世の孫という設定となっている。
ルパン1世のモデルは他でもない上記のフランスの小説の主人公である。
原作漫画・・・『漫画アクション』1967年8月10日号(創刊号)から1969年5月22日号まで連載。
原作者・・・モンキー・パンチ(1937年5月26日 - 2019年4月11日)

『8・1・3』
モーリス・ルブランの「アルセーヌ・ルパン」シリーズの一篇で、1910年に発表された。
「8・1・3」と「APO ON」の謎をめぐり、怪盗紳士ルパン、国家警察部長ルノルマン、謎の殺人鬼L.M.が死闘を演じる。フランス・ドイツをまたにかけて展開し、果てはドイツ皇帝ウィルヘルム2世までもが登場する。
1917年に『ルパンの二重生活』(La Double Vie d'Arsène Lupin)と『ルパンの三つの犯罪』(813, les trois crimes d'Arsène Lupin)に分冊化した。「三つの犯罪」とは、「殺人をしない」をモットーとするルパンが、本作のラストで図らずも犯してしまう三つの殺人を指している。


「APO ON」・・・あぽーん?
頭に J を付ければ JAPON でもいけますね!なのにどうして J がないんだろう?(それはストーリーに関係ないからですよ?)

「J」
NHKをエヌエイチケイとカクカク読むNHKなら当然ジェイと読むかと思いきや、なんと!
日本放送協会(NHK)では、Jの発音・表記として「ジェー」を優先し、「ジェイ」を発音の幅として認められるとする。

二十進法において、十九(十進法の19)を一桁で表すのに用いる。ただし、アルファベットの I と数字の 1 が混同し易いために、アルファベットの I を用いない(この場合、J が十八を意味する)例もある。


ということは、「8・I・3」!?


813と終戦

以前私は夢で「終戦前夜」という言葉を見たことがある。
前夜には抽象的な意味合いもあるが、日にち的な前夜と考えると、日本では一般的に終戦記念日が8月15日なので、その前夜は8月14日になる。
しかしポツダム宣言受託は8月14日だった。

ポツダム宣言( Potsdam Declaration)
1945年(昭和20年)7月26日にイギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において大日本帝国(日本)に対して発された、全13か条から成る宣言である。正式には日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)。
他の枢軸国が降伏した後も交戦を続けていた日本は、1945年8月14日にこの宣言を受諾し、1945年9月2日に調印・即時発効(降伏文書)に至って第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。


ポツダム宣言受託の前夜ならば8月13日である。


ルピナスの群生

上の写真は、昨年5月に実家で撮った写真。
実家にルピナスを最初に植えたのは私ではなく母で、随分前からある。
耐寒性があり冬に地上部が枯れても春にまた出芽して花を咲かせるし、それとは別にこぼれ種でどんどん増える。手入れは特に必要ない。
だから気候や環境さえ合えば群生させることが可能である。

日本では北海道などで群生が見られる。
あまり暑い地域よりも少し涼しい地域のほうが合っている。それからこれは多くの植物がそうであるが日向を好み日陰では育ちにくい。
その条件をクリアしさえすれば、森林火災跡地や溶岩石の割れ目などにも群生するほど強い植物である。

しかし昨今、強い動植物は在来種を駆逐してしまうということで毛嫌いされる。これも世界的な風潮であろう。
ルピナス畑が観光地になっているニュージーランドさえ、最近では駆除に精を出しているのだとか。


外来種

今年の初夏、テレビを観ていて、オオキンケイギクという黄色い花が特定外来生物(この’生物’には植物も含まれている)に指定されていると知った。

特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律
この法律では、生態系、人の生命・身体、農林水産業に被害を及ぼしたり及ぼすおそれのある外来生物(侵略的外来種)の中から、規制・防除の対象とするものを、「特定外来生物」として指定する。その指定は、学者などの意見を聞いた上で、主務大臣である環境大臣によって行われ、政令(特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律施行令)に定められる。
その飼養、栽培、保管、運搬、輸入等について規制を行うとともに、必要に応じて国や自治体が野外等の外来生物の防除を行うことを定める。
<罰則>
違反に対しては罰則が設けられている。特定外来生物について、販売・頒布目的での飼養、不正な飼養、許可のない輸入や販売、野外へ放つなどの行為に対しては、個人には3年以下の懲役や300万円以下の罰金、法人には1億円以下の罰金が科される。
また、特定外来生物について販売・頒布以外の目的での飼養、未判定外来生物について通知なしの輸入に対しては、個人には1年以下の懲役や100万円以下の罰金、法人には5000万円以下の罰金が科される。


オオキンケイギクも実家にあって咲いていた。
私なんか昨年までは切花にして仏壇にも飾ったことがあったくらいである。
地下茎でも広がっていくみたいだったし、こぼれ種でも苗ができたので、やはり繁殖力は強いと思う。
だけど実家ではまだ一面に広がっているというよりは一角に咲いていた。
何故かと言うと、通路などは定期的に除草剤を撒いてしまうから。(ちなみにルピナスは私があえて少し広げた)
特定外来生物だというので仕方なく通路ではなかったところのオオキンケイギクにも除草剤を撒いて枯らした。
その後も自然に生えた小さい苗を見つけるところがあるが、それにも除草剤を撒けばいずれ絶えると思う。

特定外来種には指定されていないが、繁殖力が強くて近年やはり警戒されているのがナガミヒナゲシ。
塀の隙間に生えて花まで咲いているナガミヒナゲシ
e0126350_21522162.jpg

オオキンケイギクもかつては自治体などが道路沿いとか河川敷などにあえて生やした時期があったと紹介されていたけれど、春先に河川敷などで菜の花の群生を目にすることがあると思う。
河川敷や道路に群生している菜の花はほとんどの場合、外来種である。セイヨウカラシナ、セイヨウアブラナ、ハルザキヤマガラシ など。

あと近年目にすることが減った気がするけれど(駆除したんだろうか?)、フランス菊やその交配種であるシャスターデージーもよく道路脇や河川敷などに群生していた。(マーガレットを逞しくしたような白い花です)
あれもこぼれ種でどんどん広がる。実はこれも実家で咲く。

日本では盆花として有名なミソハギという花があるが、その近縁でミソハギより大きくなるエゾミソハギは外国では侵略的外来種として扱われ、世界の侵略的外来種ワースト100にランクインしている。
北アメリカおよびニュージーランドに導入され、天敵不在の環境と多産性から瞬く間に増殖した。川や運河をせきとめ、在来の生態系を破壊することで問題視されている。日本では北海道に自生しているため、外来生物法に基づいた指定はない。
北海道に自生とあるが、日本全土に分布している。

ちなみにネコも世界の侵略的外来種ワースト100にランクインする。ブタもヤギも。



🌱まだ植物の話が続きますが、次回、明日になります。





# by yumimi61 | 2019-11-03 15:56

混水摸魚(11)

スギ花粉症の増加と人工林

春にはスギ花粉でお悩みの方が多数おられる昨今ですが、花粉の役割を考えれば分かるように、スギは樹齢30年を過ぎた頃から盛んに花粉を飛ばすようになります。
前々回書いたように、日本は戦後、国を挙げて人工林を造成した。特に昭和30~50年代(1960~1980年代)には大量のスギが植えられた。
そのスギが木材として使えるようになるには40~50年かかる。今年が2019年だから、今が使い時(樹齢60年~40年くらい)のスギが日本には沢山ある!
ということは、そう、花粉放出もピークの時期を迎えているわけですね。


森林国のスギ人工林

日本の国土は森林が7割で世界にも誇る森林国である。人工林をわんさか造成したので国土の2割はスギ林である(森林の4割にあたる)。
でもともかく、森林が多いので、保水力はそれなりに持っている国のはずなのだ。(ダムではなくて自然の保水力の話です)
また植物が育つには水分は必要不可欠なものなので、雨や雪が多いからこそ多くの森林を抱えることが出来るとも言えるのだ。

スギ人工林を造成する場合、一か所に一斉にスギを植える。
戦争で乱伐されて裸山同然になっていたところもあるし、もともと木々があった所ならば、それらを全て伐採してから行った。
この「人間が一斉に植える」というところが後々問題に繋がっていく。

人間には欲があるし、全部がちゃんと育たないかもしれないと考え保険を掛けたくもなり、ついつい多めに植えてしまうのである。
つまり車間ならぬ樹間が狭くなる。
植物は小さく若い時には隣り合う植物がいたほうが、支え合ったり競争でより大きくなるという性質を持つ。
従って密に植えるのも若い木にとってはそこまで悪いことではない。(だから余計に密にしてしまうということもある)
しかしそのままずっと育ててはいけないのである。

間引く必要があるのだ。
林業ではそれを間伐と呼ぶ。

野菜でも草花でも良いけれど種を蒔いたことはあるでしょうか。
適切な間隔をあけて、1箇所に1粒ずつ種を蒔いたなら、間引く必要はない。
しかしながら発芽というものは揃わない。種自体の発芽率、それから気候、不測の事態によって発芽しないものもある。だから数粒ずつ、あるいは大ざっぱにざーっと蒔いたりする。この場合には発芽以降に順次間引いていって、適切な間隔にしなければならない。
だけど芽が出たのを見ると、引っこ抜くことがもったいなくなるし、せっかく出た芽を抜いてしまうのが可哀想な感じにもなる。素人ほどそうなる。
スギの人工林を造る時には林に直接種を蒔くわけではなく苗木を植えるわけだが、間引くという行為は意外にハードルが高い。



間伐の有無

林野庁ホームページより

●間伐未実施で放置されている森林
林内が暗く、下層植生が消失し、表土の流出が著しく、森林の水源かん養機能が低くなる。
幹が細長い、いわゆる【もやし状】の森林となり、風雪に弱くなる。

e0126350_18305617.jpg
●間伐が適切に実施されている森林
林内に適度に光が射し込み、下草などの下層植生が繁茂しているため、水源かん養機能や土砂流出防止機能が高くなる。
幹が太く、生育が良くなり、風や雪にも折れにくくなる。
下層植生が豊かになり、多様な生物の生息を維持できるようになる

e0126350_18312684.jpg


針葉樹の特性

ある程度の大きさまでは、支えになったり競争して成長するため、近くに同じような植物があることは悪いことではない。
しかしそのまま成長して大きくなってくると、水分や肥料や日光を奪い合うことになる。木が多い場合と少ない場合では、多いほど1本あたりに十分いろいろなものが回らなくなって、成長は滞ってくる。
また本数が多く込み合っている場合には日光を求めて上にしか伸びず、幹が十分に太れない。だから「もやし状」になってしまうのだ。

木は下よりも上に枝を張って葉を付ける。
下よりも上の方が大きいというのは非常に不安定な形であり、避難することもなくその場で風雪に耐えなければならない自然界に生きる樹木としては適当な形ではない。
でも木には幹よりさらに下に根がある。枝葉と同じくらいに根が張っていくからバランスが取れて厳しい自然に耐えられる。本当によく出来ていると思う。
すなわち樹木は、少なくても枝葉と同じくらいには、根を張らなければならないのである。
この根ががっしりと土を抱え込んでいく。
針葉樹は広葉樹ほどは枝葉を横に張らない。だから広葉樹ほど根を広げないのはある意味自然の摂理である。

▲針葉樹は落葉期がないので腐葉土を作りにくい
針葉樹の多くは常緑で広葉樹のように葉を落とす時期というものがないので、自らの葉で腐葉土を作りにくい。(新緑の季節に光合成の効率が悪くなった古い葉が落ちる) 腐葉土が少ないということは腐植土が作られにくい。
⇒腐葉土から作られる腐植土は肥沃な土壌である。保水性に優れ、同時に排水性もあり、さらに肥持ちも良い。針葉樹だけでは自然任せにそういう土壌は作りにくい。

▲落ちた針葉樹の葉の特徴のマイナス要素
・葉が細いために広葉樹ほどの空間が出来ない。
・水分や樹脂を多く含んでいて腐りにくく分解が遅い。
・発芽や成長を抑制する物質を含んでいる。
⇒落ちた葉も隙間があまり作れない性質なので保水性に劣る。また発芽や成長を抑制する物質が含まれているため、針葉樹の落葉ばかりでは下草も生えにくい。

(ここでの話には直接関係ないけれど、針葉樹の葉は乾燥すると非常に燃えやすい。タバコ1本で山火事を引き起こすくらいに。一旦燃え盛ってしまうと、その火の熱によって周辺の木々の枝葉もどんどん乾燥させていくので延焼してしまう)


針葉樹の欠点とリスク

針葉樹は広葉樹ほどは枝葉を横に張らないけれども、樹間が狭ければ樹上では隣同士の枝葉が接触してしまうようなことが起こる。
そうするとその針葉樹林の下の方には日光が届きにくくなる。
日光が届かないということは、いつもじめっとしてしまうということ。

▲針葉樹林の土壌は隙間が少ないので、雨が地中に浸み込んでいきにくい

▲樹間が狭く下部に日光が届きにくくなってしまった場合には、土壌がなかなか乾かない(水分の蒸発がしにくい)

▲水分が多い所で、枝葉などの堆積が分解速度を上回った場合には、土壌が泥炭化しやすい(フカフカではなくてベチャベチャな感じの土)
⇒落葉樹とは違って一気に沢山落ちるわけではないが、密に植えているということはそれだけ落ちる葉の量は多くなるということであり、その葉は分解しにくいものであるので、気温が上がらないとか微生物などが少ないなどの環境が重なればリスクは上がる。

(泥炭も実は火災を起こしやすいものである。世界的には森林火災の1つとして問題視されている。報道されるものしか知らないが森林火災は世界的に毎年数多く発生していて、二酸化炭素排出を問題にするならこれも大問題ではないだろうか)
泥炭(でいたん、英語: Peat)
泥状の炭で、石炭の一種。石炭の中では植物からの炭化度が少ない。石炭と泥の中途半端のような状態のものであると言える。見た目は湿地帯の表層などにある何の変哲のない普通の泥だが、可燃物である。採取して乾かせば燃料として使用できる一方で、山火事の延焼要因ともなる。
植物の遺骸が十分分解されずに堆積して、濃縮されただけの状態で形成される。いずれも植物遺骸など有機物の堆積する速度が、堆積した場所にいる微生物などが有機物を分解する速度を上回った時に泥炭が形成される。
泥炭は炭化の過程がかなり短く、少ない時間でできる為、単純な条件下でできる。世界中に大量に埋蔵されており、無くなる事がまず無いと言える。


▲水分が多い土壌だと根が窒息してしまうことがある(根腐れ)
⇒植物は二酸化炭素を吸収し酸素を放出していると習ったが、実は根は生物と同様に酸素を吸っているのである。よって土壌の酸素が不足すると植物の根も窒息して死んでしまう。暗くて水分が多くじめっとしている環境では嫌気性菌が活躍して、その根を腐らせて分解させてしまう。土壌中の水分(流れずに留まっている水には空気が含まれない)が多すぎるとこうした根腐れ状態になる。部分的に腐るということもあるのですぐに地表に出ている部分が枯れなくても不健全状態であり当然ホールド力も弱い。密に生やす芝生にエアレーション(穴あけ)をするのも土中に空気を送り込むためである。
樹齢を重ねて伸びた針葉樹が1本倒れるだけでも密に植えてあるだけに他を巻き込む可能性がある。根張りが狭く浅い木が並んでいれば、巻き込んで一気に他も倒しかねない。酷い場合には土砂崩れに繋がる。

▲日光が届かなければ背の低い下草も光合成出来ないので発芽したり成長できない
⇒土が剥き出しな状態となる。葉が細いので雨のエネルギーを広葉樹ほど落とすことが出来ずに雨が地面を叩く。腐葉土などの堆積もなく土壌も比較的水分を吸収しにくいという性質になりがちであり、結果削れたり流れたりしてしまう。これも土砂崩れに繋がる。


広葉樹なら問題がないか?

腐葉土や腐植土に覆われたフカフカした土では、歩いただけで土が沈むのが分かる。
それだけ土壌中に隙間(空間)が多いということであるが、簡単に沈むくらいなのでこれを強固な地盤とは言えない。軟弱地盤である。柔らかく崩れやすくもある。

大きな樹木を支える土壌があまりにフカフカでは厳しい自然の風雪に耐えられないので、野菜や草花と違って樹木の場合はフカフカな土壌が最適とは言えない。
しかし一方、ガチガチに固められた土壌では空気も水も入りにくく、これもまた最適とは言えない。

上にスギが木材として使えるようになるには40~50年かかると書いたが、広葉樹の場合は150~200年もかかる。樹齢だけで言えば何百年という木もざらにある。
枝葉も根も広げる性質を持つ広葉樹が何十年も何百年も同じ場所に存在しているということは、それだけ根も広く深く広がっている。
柔らかく根が伸びやすい腐植土を抜けて、その下の硬い土壌にまで伸びている。
栄養は張り巡らされたひげ根(細根)という短く細かな根が上の柔らかく肥沃な土壌部分から吸い上げる。
根も層になっているというかで、しっかりと土を抱え込んでいるので、上部が柔らかくても簡単には倒れたりはしない。
硬い土壌にまで伸びずに上の層の土壌にしか根が張っていない針葉樹林や竹林の場合には、びっしりと根が張っていたとしても、それが却って土壌の層を明確に分けてしまうことにもなり、その境目からずり落ちるということもある。

広葉樹は枝葉を大きく広げるので、最初から針葉樹ほど密には植えないものであるし、植えたとしても成長が遅く十分に日光が当たらない木は樹勢が弱りやがて枯れてしまう。
また冬の前に葉を落とすように、枝葉を広げる広葉樹は風雪などに耐えきれないと思えば、枝葉を落とす。
枝葉が落ちるのは傍から見ればちょっと悲しい気持ちもするが、庭木や街路樹であれば剪定することもあるくらいであり、枝が折れたり葉が落ちたりすることは樹木自体が倒れることを防ぐために有効である。
このようなことから広葉樹のほうが土砂崩れなどを起こしにくい。

但し若い木ばかりで根張りが十分ではない広葉樹林、何らかの理由で根腐れを起こしていたりする時には、針葉樹と同じく崩れる恐れはある。
それから造成地などで盛土によって土手や丘や小山を作った場合には、十分に腐植土が堆積していない場合もあると思われる。
その場合には根が伸びにくかったり、栄養が乏しかったりして、成長に支障が出ることもあるだろう。
造成地に入れる土壌は用途にあったものを購入して入れるべきであるが、購入するものは高く付くので、業者などによってはどこかから出た排土(廃土)を使用したりすることもあるらしい(その分の費用が浮く)。
そうした土は用途に合っていなかったり、どんな危険物だとか毒物が混入しているか分からない。
健全に育つを阻害することもあるかもしれないし、雨風などへの耐力が落ちることもあるかもしれない。






# by yumimi61 | 2019-11-01 17:00

Harvest

e0126350_23410276.jpg
e0126350_00361660.jpg10月6日に載せたカボチャの写真のカボチャ、全部収穫を終えました。
種を蒔いたわけでも苗を植えたわけでもないのに13個も収穫できちゃった162.png

e0126350_23560821.jpg

最後のカボチャを収穫した後にあるものを発見しました。
何か分かりますか?
e0126350_00013143.jpg

e0126350_00452950.jpg それは、テントウムシでした~*
e0126350_00070881.jpg


e0126350_00265873.jpgあと、今日、柿をいただきました。
種がない硬めの甘柿で私の好きなタイプの柿でした。売ってる柿みたいで美味しかった。

そういえば以前、味覚がなくなってしまったことを書きましたが、現在は改善して戻っています。
e0126350_00145375.jpg
e0126350_00420620.jpg

... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)
# by yumimi61 | 2019-10-31 23:44

混水摸魚(10)

水の循環と水不足

地球空間にある水はどこか他から新たにもたらされるわけではない。循環している。
e0126350_15193993.png

大部分の水は海にある。
海にある海水以外の淡水で、人間が利用可能な浅い所にある地下水、川、湖、沼など地表にあるものは、全体の水の0.02%程度にしか過ぎないという。
しかしながら人間でも動物でも植物でも、生命維持には水が必要であり、特に人間は生命維持以外にも生活用水を必要としている。

利用できる淡水は限られているのに、使用量が莫大に増えれば水はどうしたって不足する。
世界の水不足は深刻で、世界的に懸念されていることでもある。

日本では一部で、もはや水不足ではなく水余りなのだと言われることもある。
高度経済成長期の増大期に比べれば確かに使用量は安定してきているのかもしれないが、それは輸出入にも関わることであり、見えないところにも水問題は存在している。
水は農業にも工業にもかなり使用されている。
かつて日本で作っていたものを外国で作ったり、輸入に頼れば、その分だけ日本での水使用量は減る。
例えばだけど、米(コメ)を日本で作るのを止めて全部輸入にすれば、日本の水使用量はぐーんと減るだろう。(輸入されてくる米に水は見えないが、その米を栽培するには水が使われている。ある意味、水を輸入しているとも言えてしまう)
そして日本の環境(気候や土壌、山や河川の状態)が昔と変われば、水の必要量や供給量も変わってくる。
また、これから日本の人口はどんどん減少していくことが推測されるわけだが、その代わりに移民をどんどん受け入れるということになれば水を使用する人の数は変わらないかもしれない。これは観光客などにも言えて、観光客が増えれば増えるほど水必要量は増える


降雨の行き先

降った雨がどこにどれくらい流れたり留まるかという数字を書き入れた。
これは地球規模的なパーセンテージであり、どこかの地域に限った場合には環境(森林や都市の状況)が違うので、この通りのパーセンテージにはならない。
 ・地下水になるのが35%
 ・川など地表を流れていくのが25%
 ・森林の木々などの植物に留まったり吸い上げるのが25%
 ・蒸発が15%
e0126350_18120301.png
森林も田畑もなく、ほとんど全てが舗装されていて土の部分が蓋をされている都市があったとする。この都市に限って言えば、降った雨の行き先の植物25%+地下水35%の60%ほどが川に流れ込むにとになる。
受けとめる水が25%であるはずの川がプラス60%(合わせて85%)も受け止めなければならなくなるのだから、川は大変である。
また水が地下に入れば海に出ていくまでには相当な時間がかかるが、川を流れていく場合には距離にもよるけれど数時間で海に流れ着いてしまう。


植物の効果

降った雨の行き先では地下水は35%と前述したが、これは森林に樹木などが生えている場合のパーセンテージ。
裸山など樹木の無い山、木々が生えてない森林では、35%も地下水にならず10%ほどである。(マイナス25%)
さらに樹木など植物に留まる水もないわけだから、マイナス25%も追加されて、合わせてマイナス50%となる。
これは結局川に流れ込むことになるので、川の上流地であっても樹木がなければ、川は75%の雨を受けとめなければならなくなる。

ではなぜ植物がないと地下に水が入りにくいのか。
雨は樹木の幹や根の表面を伝わって土に入っていったりもするから。根が深くに張っていれば、それだけ深くに水が入っていきやすい。
樹木についた水分は雨が降りやんだ後などにも時間差で雫として落下するので、盛んに降っている時の土の吸収力が飽和気味となるのを緩和する。
また上空から落ちてくる雨を一旦受けることで、雨の勢い(運動エネルギー)を緩和して雨が土を削ったり流したりするのを防ぐ役割も果たす。
そして植物は季節ごとに葉を落としたり枯れたりするし、古くなって倒れたりもする。そうして土に落ちた植物は微生物などに分解されて腐植土を作る。
森林の土の表面はこうした腐植土に覆われているが、この腐植土は隙間が多い。よって降った雨を受けとめて吸収しやすい。


足もとを見る必要性

大雨の時のあれこれを見聞きしていると、川の水は上流からしか流れてこないと思っているふしがあるように感じる。もっと言えばダムからしか流れてこないように思っているのではないかと感じるほどである。

ダムが貯められる水はダムより上流側に降った雨や雪だけである。
山沿い地域は雲ができやすいために雨が降りやすいということは確かにある。
しかしながらダムの上流は通常森林地帯なので、森林が健全に機能していれば相当な保水力を持っている。都市部の比ではない。

ダムより下の地域に降った雨の一部は川に注がれる。
ダムは一般的に結構奥地にあるものなので、山間部に含まれる地域とはいえダムの下には生活圏や観光地などがある。そうしたところの排水も川に注がれる。
しかしダム下とはいえ山間部にはまだまだ保水力のある土地が残ってもいるので、都市部ほど川への流入量は多くない。
下流に行くと、下流で降った雨、さらに下流地域での工場・農業(田んぼなど)・生活者から出される排水も川に流れ込む。上に書いた通り、土も植物も少ないとなると、川への依存度(流入量)は大きくなる。


自然の産物

古代に現代のような文明というか生活がなかったとするならば、自然の川は自らの流量に見合ったサイズを自然任せで作ってきたことになる。
これまでよりも多い雨が降って川の流量が増えるようなことがあれば、洪水して少しずつ川幅を広げていったわけである。その結果、氾濫した箇所周辺には川が上流から押し流してきた小石や砂や泥など(堆積物)が堆積された。
氾濫原があるということは、雨量は現代になって急に増え始めたのではなくて、何度も洪水して氾濫するほど雨量が増えていた時代があったことになる。
大昔はまだ堆積物が薄く、地中で水を保持できず、山地にも植物がほとんど存在せずに、降った雨の多くは川になって流れたと考えられるけれども。

現代においては、保水力のある地域の川をわざわざ堰き止めて水を貯めておくダムというものを建設した。
これはもうほとんど利水のためと言ってよいと思うが、洪水予防として機能するとすれば、保水力を失って川への流入量が増す地域での増水を少しでも軽減するために、上流からの流れを少し抑制することによる。
但しダムを建設することによって却って失われる保水力も存在している。


押し寄せるイデオロギーの波

ダムの是非はイデオロギーであるとよく言われるが、結局なんだってそうじゃないないの、と思ったりする。
オリンピックだってイデオロギー。’アスリートファースト’もイデオロギー。

イデオロギーとは、社会構造的に生み出された虚偽(真実ではないのに真実のように見せかけること。嘘、偽り。誤った思考)の意識。
虚偽の意識が1つの権力手段として、特定の政治支配と結びつき、服従を確保するために用いられる。
歴史的過程や科学含め客観的事実から乖離した観念・意識が支配層の正当化や安定に役立てられてしまうということなのだ。

針葉樹と広葉樹のどちらが良いのか論争もイデオロギー的な感じがする。

日本で針葉樹として話題になるのは、ほとんど人工林のことである。
戦時中に広葉樹からなる天然林の樹木を乱伐したため、森林は荒廃し、自然災害を引き起こした。
戦後になっても復興の為にということで木材需要は伸び続けたが、そんな急に木は育たない。
そこで国を挙げて人工林を造成したのである。
戦時中に伐採した跡地、奥山の天然林、里山の雑木林などの木を伐採し、スギやヒノキなど成長が早く、真っ直ぐに伸びて使いやすく経済的に価値のあった針葉樹の人工林に変えていった。
需要に供給が追い付かない時期だったから、木材の価格は急騰していく。
それを見た人々は貯金でもするかのごとく(やがてたっぷり利息が付くと目論んだ)針葉樹を植生した。
しかし幾ら成長が早いと言っても4年5年で使える木になるわけではない。
間に合わない供給を補うべく、1950年代後半(昭和30年代)には木材輸入が始まり、1960年頃に前面自由化となって、安い木材が大量に入ってくるようになった。
その後、国産木材の価格は下がり続け、貯金どころか借金が積み重なるような状況に陥り、針葉樹の人工林は放置されるようになった。
昭和30年代までは日本の木材自給率は100%に近かったが、現在では20%程度である。
それにも関わらず、人工林政策に終止符が打たれたのは1996年(平成8年)のことだった。

このような背景があるので、針葉樹がーと言うと波風が立ったりするわけであり、もう少し丁寧に説明しないといけないので、次回になります。


ところで、愛とか恋って、虚偽の意識(歴史的過程や科学含め客観的事実から乖離した観念・意識)なんでしょうか。





# by yumimi61 | 2019-10-30 16:05

混水摸魚(9)

前記事に、アスファルトには隙間を作って排水性や透水性を高めたアスファルトがあると書いた。今日走っていた道路にそれがあったので写真に撮ってきた。
e0126350_16323608.jpg
地面に近づいてじっくり観察したわけではないが、左側は普通のアスファルトと思われる。あるいは最初は隙間を作ったアスファルトだったが劣化したもの。全体が水っぽく、かなり水溜りも多い。
右は水っぽくもなく水溜りも一切ない。写真上に横断歩道が少しだけ写っているが、そこが切れ目で、左の写真はその先で撮ったものである。

あと前記事には庭の枕木のことも少しだけ書いたが、あれは雨があたる場所である。下の写真は雨のあたらない所。
e0126350_16502870.jpg
以前、群馬県で開催された何かのイベント(全国大会)で使われた県の木材(丸太材)で作ったウッドベンチがイベント終了後に安く販売されたことがあったのだが、それを2台買い、1台は雨のあたる庭に、1台はベランダ軒に置いた。雨にあたるほうのベンチは腐って今はないが、軒のベンチはまだ残っている。



河川による堆積に関係する土の種類

土の種類は主に次のように分けられる。

=粒子の大きい順=
●小石(礫・レキ) 粒径2mm以上の粒子
●砂 粒径2mm~0.074mmの粒子
●シルト(沈泥) 粒径0.074~0.005mmの粒子
●粘土 粒径0.005mm以下の粒子

粒子の大きさに幅があるものほど、安定した土壌を作りやすい。このことを「粒度が良い」と言う。
同じ種類の土でありながら多様な大きさがあるため入り組んで構成され、密な構造になりやすい。
隙間が隙間のままではなく、そこに隙間より小さい様々な大きさの粒子が入り、互い違いに縦方向に摩擦の力が生じて安定する。だけど1つ1つの粒子の間には必ず微細が隙間が出来るので水は捌ける。

「砂」や「小石(礫)」は、水はけが良い。
扇状地や川沿い(自然堤防地)に堆積するのがこれら。
上記の特徴から一般的には良好地盤であるが、液状化が問題になる。

「粘土」と「シルト」は、水はけが悪い。
川の下流や川から離れた場所に堆積するのがこれら。
粒子がもともと小さく、粒子の大きさの幅も狭いため、隙間に粒子が入りにくい。その隙間に一旦水が入ると簡単には抜けにくい。
よってこれらで出来た地盤は水を含んだ不安定な軟弱地盤とされる。
入りこんだ水は長い時間を掛けて下に移動する。(圧縮する)
そうした地に改良なく住宅などを建てる場合には圧密沈下と呼ばれる沈下が問題になる。
また地震で揺れやすい。


軟弱地盤と液状化

軟弱地盤とは、泥や多量の水を含んだ常に柔らかい粘土、または未固結の軟らかい砂から成る地盤の総称である。
その性質上、土木・建築構造物の支持層には適さない。
圧縮性が高く剪断強度が低いため、地震時には、振幅の大きな揺れや砂質土の液状化現象などの被害が発生しやすい。
軟弱地盤の分布地域は、臨海部低地や氾濫原などの地形的凹所をなす低湿地に位置することが多いため、しばしば洪水に襲われ、反乱水が長期にわたって湛水する地域でもある。
日本の都市の多くは軟弱地盤の上に発達しているため、災害時には注意が必要である。


液状化現象は、地震の際に、地下水位の高い砂地盤が振動により液体状になる現象。これにより比重の大きい構造物が埋もれ、倒れたり、地中の比重の小さい構造物(下水道管等)が浮き上がったりする。
なお、この現象は日本国内では新潟地震の時に鉄筋コンクリート製の建物が丸ごと(潰れたり折れたりではない)沈んだり倒れたりしたことで注目されたが、この地震当時は「流砂現象」という呼び方をされていた。

砂丘地帯や三角州、埋め立て地・旧河川跡や池沼跡・水田跡などの人工的な改変地で発生しやすい。近年、都市化が進んだ地区で該当地域が多いことから被害拡大の影響が懸念される。

東京都心部は、河口に位置する上、埋め立て地が多く存在するため、大地震の発生時には液状化対策が施されていない箇所で液状化現象が発生し、道路やライフライン、堤防の破損、基礎のしっかりしていない建物の傾斜などの被害が発生する可能性もある。


液状化は砂質土で起きやすい。
様々な大きさの粒子が入り組んで安定していたものが、地震で揺すられて、入り組んで固まっていたものが外され、バラバラになってしまう。
隙間は上から下に水の通り道を作っていたが、それが無くなった状態で、水が自由に移動できるようになる。こうなると下から上に動く水もあり、地中で洪水が起きているような感じ。揺れが収まると水に動いていた土の粒子と水がゆっくり分離して、先に土の粒子のほうが沈む。


住宅など建設時の軟弱地盤改良工事
e0126350_18342101.png
e0126350_18350054.jpg
ほぼすべてが堆積平野である日本の平野で言えば、扇状地や川沿い(自然堤防地)には良好地盤がある。
しかし川の下流や川から離れた地域には良好地盤は望めない。

改良工事には当然費用がかかる。建設費に乗ってくる。
上の図では右に行くほど費用が高い。
施工技術による結果(強度)の差もある。
また右に行くほど原状復帰が難しくなるため、土地売買をする時に問題になることもある。


田んぼにトンネル

田んぼは水を張っておかなければならない時期があるため粘土質である。よって基本的に軟弱地盤に該当する。
土壌がいくら粘土質とはいっても、中に水を張っておくためには何か囲いが必要である。田んぼではそれを畔(あぜ)や畔(くろ)や畦畔(けいはん)と呼ぶ。
水田と水田との間に土を盛り上げてつくった小さな堤。水をためるとともに、境界・通路とする。
川でいうところの堤防と似ている。

この畔にモグラやオケラがトンネル状の穴を開ける時がある。(堤防や河川敷にも穴を開けることもありますよね)

e0126350_23452535.jpg

e0126350_23461206.jpg
(写真出典)
http://basc.jp/zukan/?ikimono=G017(モグラ穴塞ぎ)
https://blogs.yahoo.co.jp/kawababito/16368676.html(草取りと補植)
https://akirayoshida.at.webry.info/200806/article_3.html(目的地なしのモグラは迷走する)
http://rookiefarmer.blog26.fc2.com/blog-entry-2663.html(田んぼの土手はすっかりモグラの巣)
https://www.aizawa-group.co.jp/fukagawa/agriculture/index04_04.html(ネズミやオケラによる被害状況)



*オケラ*
ミミズだって~オケラだって~アメンボだって~~~~みんなみんな生きているんだ友達なんだ~♫
と、長いこと歌ってきたわりにはオケラを知らない!という人もいるのではないかと思います。
まさか、アメンボ知らないということはないですよね?
ひょっとして、長いことどころか、もはやこの歌を知らなかったりして!?

オケラ(俗称)、正式名はケラ
ケラ(螻蛄)は、バッタ目(直翅目)・キリギリス亜目・コオロギ上科・ケラ科(Gryllotalpidae)に分類される昆虫の総称。コオロギ類の中には地下にトンネルを掘って住居とするものがいくつか知られているが、ケラは採餌行動も地中で行うなど、その中でも特に地中での生活に特化したグループである。

草原や田、畑などの土中に巣穴を掘って地中生活する。巣穴は大まかにはねぐらとなる地面に深く掘られた縦穴と、そこから伸びる、地表直下を縦横に走る餌を探すための横穴からなる。乾燥した硬い地面よりも、水を多く含んだ柔らかい泥地や湿地に多く、そうした環境の地表にはしばしば先述の横穴が盛り上がって走っているのが認められる。
成虫幼虫ともに食性は雑食性で、植物の根や種子、他の小昆虫、ミミズなどさまざまな動植物質を食べる。
収斂進化の類例に挙がるモグラと同様、運動量、代謝量が膨大であるため、水分不足、飢餓に大変弱い。水分が得られないと一晩程度で死んでしまう。

行動可能範囲をまとめると、地中を掘り進み、水上を泳ぎ、空を飛び、地上を歩くと、様々な環境に対応しており、昆虫界のみならず、生物全体から見ても、対応範囲が非常に広い生物である。


オーケストラオケラになる」という言葉がある。意味は賭博などで一文無しになること。なぜオケラが一一文無しになったかと言えば、楽器が高いからオケラの姿が万歳をしているように見えるから。一文無しでお手上げ状態ということなんだそう。
写真を載せようと思ったけれど、虫は好き嫌いが大きいと思うのでやめておきます。


上の写真の下の段の真ん中に排水枡の写真があるが、あれはコンクリート製の枡のすぐ横にトンネルが作られている。説明では「コンクリートと土の界面は、ネズミやオケラの通り道になりやすく水漏れの悩みでした」とある。
何につけ境目というのはやはりそれだけ弱い(堀り進めやすい)ということなんだろう。

*モグラ*
モグラは地下生活をするように進化した動物で、土を掘るための手およびそれを動かすための腕や胸部の筋肉が強大に発達している。そのため、踏み固められたところでも数10秒以内に自分の体を土中に隠す事が出来、軟らかい土であれば瞬く間に体を土中に没することが出来る。
このように強い掘さく力をもっているがモグラは通常硬い土壌を好まず、湿潤で柔らかく土壌層の深い沖積土などを好む。したがって河川地域の堤防や、農耕地、牧草地などでは生息数が多い。また、このようなところではミミズや土壌昆虫などモグラの餌が豊富であることも重要な要素になっているものと思われる。
巣は川岸や畑地周辺のブッシュの下、盛り土、堆肥置場などの地下に広葉樹の枯葉や枯草などで作る。
モグラの被害として、畑にトンネルを作ることによって植物の根を傷めるはかりでなく、根の下に空間を作って乾燥による枯死をまねくこと、河川の堤防や水田の畦にトンネルを掘ることによって堤防を決壊させたり、漏水を起こすこと、トンネルがネズミの通路となって畑地に誘導することにより、農作物の害が発生することなどがある。







# by yumimi61 | 2019-10-29 16:50

混水摸魚(8)

10月25日(金)
こちらでは千葉のようには降っていないし、10月12日(土)の台風の時ほども降らなかったけれど、でも朝から雨は降っていて午後の一時降りが良い時間があったという感じだった。
その日の午後15時頃に撮った写真。

家の庭。通り道にしている所には雨水が溜まっていた。
普通の雨では溜まらないけれど、ゲリラ豪雨とか台風などで雨の量が多いとこのように水が浸透しなくなる。
左側は小石が敷いてある道。右側は芝生だけど通路にしている所。
e0126350_22425931.jpg
下の写真も同じ時に撮ったもの。
左側は芝生の中にテラコッタタイルが入っているけれど、芝生の方がやや高くなってしまっているので、テラコッタタイルの部分に水が溜まっている。
土には水溜まりはない。
通路にしているわけではない芝生にも水溜まりは出来ない。芝生の写真の左側部分は枕木が入っていた。防腐処理を施して埋め込んでも、生きていない木はやはり年月を経ると腐ってくる。その腐った部分にはコンクリートを流し込んである。
e0126350_22423452.jpg
道路のアスファルトは水溜りだらけだった。
e0126350_22432005.jpg
水はけは隙間があるかどうかで決まる。(物質の密度)
隙間がないものほど水はけが悪くなる。
但し一般的には、隙間が沢山あるものや隙間が大きなものほど崩れやすいとか壊れやすいという特徴を持つ。
車など重量のある物が行き来するアスファルトは、通常耐久性が重視されるので、出来るだけ隙間を作らない構造となっている。
だけどそうすると水がはけない。
道路に水が溜まることは運転などにも危険を生じることになるので、排水溝に水を誘導する排水性アスファルトというものもある。
また地下に浸透させることを重視した透水性アスファルトというものも存在する。
これらは通常のアスファルトよりもあえて隙間を作っている。これは温度上昇を和らげる効果もある。
但し隙間があるということは、そこに何かが入りやすいということでもあり、アスファルトの隙間の場合には砂や泥が詰まってしまうことが多々あり、そうなると元の効果はなくなる。
また隙間というものは重量でつぶれてくるので、往来が多かったり、重量のある大型車の行き来が多かったり、動かないで長時間重量のかかる所(例えば駐車場)では、やはり隙間がつぶれて元の効果はなくなってしまう。
隙間の部分から割れが広がってヒビができやすかったりすることもある。






# by yumimi61 | 2019-10-28 23:23

混水摸魚(7)

地震と洪水

私は2005年3月1日に「地震による洪水を恐れている夢」をみた。
これも先日2009年7月1日の『blue』という記事に最後のほうに追記した。
私は他にも浸水の夢を見たことがある。
うちの次男も幼い頃からやたら洪水を心配していた。やはり夢に見たこともあったらしい。
2005年3月1日の夢から6年と10日後に、東日本大震災があって大津波があった。そのとき次男は中学生という微妙な年頃になっており、もう多くは語らなかった。


渡良瀬川近くにある2つの断層

前記事に渡良瀬川と利根川に挟まれた大間々扇状地について書いたが、その扇状地の上部と東端に断層がある。(前記事の綿打小学校の地図に黄色線で断層を入れた)
大久保断層と太田断層である。
e0126350_15441349.jpg
e0126350_15353082.jpg
■太田断層
太田断層は、群馬大学の熊原康博准教授(自然地理学)が発見し、2009年に学会で発表されたもので、2005年の夢の時には太田断層の存在のことはまだ知らなかった。
地表で確認できる長さは約18kmだそうで、地下の断層面の長さも同じと推定されている。
太田断層の断層長さに基づくと、活動時の地震規模はマグニチュード6.9 程度の可能性があり、死傷者は桐生市と太田市を中心に推定9000人となっている。平均活動間隔は不明。
e0126350_16295302.jpg
太田市の防災マップより
(赤-震度7、オレンジ-震度6強、黄緑-震度6弱)
色が付いている所が太田市。
周辺市名と川は私が分かりやすいように書き足しました。


■大久保断層
2018年6月17日(日)15時27分、群馬県南部が震源の地震が発生した。
最大震度は群馬県渋川市の震度5弱で、関東地方を中心に震度4~1を観測した。
この地震が大久保断層に関係したものと考えられている。
下図は、公益財団法人 地震予知総合研究振興会による。但し、断層の赤線と、×印の上の水色マーク(赤城山頂上の火口原湖である大沼の位置)は私が付け加えました。
×が震央。黄色い〇が震度5を観測した地点。現在は渋川市であるが、旧赤城村である。
利根川下流から見ると利根川の右側になる。赤城山西麓である。
e0126350_17185472.jpg
2011年3月11日(金)14時46分発生の三陸沖を震源とし、宮城県で最大震度7を観測した、いわゆる東日本大震災において、群馬県内で一番震度が大きかったのは桐生市で震度6弱だった。
渋川市赤城町は震度5強、赤城山の南麓にある前橋市富士見町も震度5強、太田市でも震度5強が観測された。その他、群馬県側の利根川流域である大泉町、千代田町、明和町などでも震度5強だった。


構造線とフォッサマグナ

日本列島には東日本と西日本を分けるかのようにフォッサマグナがあるという。
いわば目地である。継ぎ目。
e0126350_20364044.jpg
※紫の線は断層。大久保断層と太田断層。
熊谷の下の長い断層は関東平野北西縁断層。
東京湾の線は東京湾北縁断層。ここは沖積層に覆われている伏在断層とされてきたが、調査においてその線上にずれなどが認められなかったため、現在は活断層ではないと判断されているようである。
ただ関東平野北西縁断層と東京湾北縁断層を繋げれば、柏崎・千葉構造線と走り方が似ている。あるいは一部重なることも考えられる(地図に引いた構造線はアバウトな線である)。
e0126350_20543392.jpg
上の右図に6000mとかいてあるが、6000m級のボーリング調査が実施されたが、新しい地層の下にあるはずの古い時代の岩石に到達することができなかったという。従って古い岩石はもっと深くにあるということで、かなり深い溝である。

但しそのフォッサマグナの範囲内にあっても関東山地だけは古い岩石なのだそうだ。
そのためフォッサマグナ説をやや疑問視する向きもあるようだが、地殻変動でフォッサマグナの沈み込んだ時にそこだけ残ったのではないかということである。
関東山地というのは、秩父山地とか丹沢山地などである。1985年に日航機が墜落した群馬県上野村の高天原山(御巣鷹)も秩父山地に含まれる所である。

構造線は目地の端にあたるわけだが、上に書いた2018年6月17日に渋川市赤城町で最大震度5強を観測した地震の震央と最大震度地点はほぼ柏崎・千葉構造線上にある。
また2014年11月22日に長野県小谷村、小川村、長野市で最大震度6弱を観測した地震は、長野県神城断層地震と名付けられたが、その断層はほぼ糸魚川・静岡構造線に重なっている。
それから茨城県南部を震源とする地震もよくあるが、これも柏崎・千葉構造線近辺である。


フォッサマグナ上にある火山と大河川

e0126350_22210848.png
・フォッサマグナの中央部を、南北に火山の列が貫く。北から新潟焼山、妙高山、草津白根山、浅間山、八ヶ岳、富士山、箱根山などである。これらの成因の1つとして、フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすかったことが考えられている。

・西縁の糸魚川静岡構造線上および東縁の一部と考えられている群馬県太田断層では、マグニチュード7規模の地震が繰り返し発生している。






# by yumimi61 | 2019-10-27 15:45

混水摸魚(6)

カスリーン台風での河川氾濫
e0126350_15094465.jpg
e0126350_15100341.gif
先日も書いたカスリーン台風。
1947年(昭和22年)9月に発生し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風のこと。カスリン台風や、キャサリン台風などとも呼ばれる。台風本体の勢力の割には降水量が多い雨台風の典型例とされている。
特に、群馬県の赤城山麓や栃木県の足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。
また、利根川や荒川などの堤防が決壊したため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した。


終戦から2年しか経っていないので、今とは環境が全く違うことは頭に置いておかなければならない。
空襲などで破壊され再建できていない家屋などもあったかもしれないし、物資もまだまだ不足していた時期で頑丈な建物が作れる時代でもなかったと考えられる。また情報伝達手段が限られていたので、ひとたび氾濫が起きれば被害が大きくなったことは想像できる。
この頃はまだダムなんか存在していない。
堤防があったとしても今のようなものではなかっただろうと思う。
しかし自然や田畑は今よりずっと多かったはず。
ダムがないのだからダムでの貯水能力はゼロだが、その代わり自然が今よりも水を保持できた。山や土地の保水力は昔の方が断然上だったと推測できる。

カスリーン台風ではあちこちで氾濫したのだが、利根川は前橋より下流の平野部で何箇所か氾濫しているが、大決壊したのは現在の埼玉県加須市(旧:北埼玉郡大利根町)を流れる利根川だった(赤いの所です)。この決壊が浸水範囲を広げ都内にまで至った。
ここは利根川に平行するように大落古利根川や元荒川が流れているので、これらの河川の水もいっしょくたになってしまったような感じであろう。
大落古利根川は江戸時代以前の利根川本流である。東京を流れ東京湾に注ぐのを避けて現在のように千葉県銚子で海に注ぐようにしたものである。
カスリーン台風では渡良瀬川流域での被害も大きかったが、これが桐生、足利、館林辺りである。


日本の平野は堆積平野

日本という国は海に囲まれているが、河川がなければ現在のような日本という国は存在しえなかった。
それは何故かと言えば、日本の平野はほぼ全て河川が運んだ堆積物が積もってできた堆積平野(沖積平野)だからである。扇状地・沖積低地・台地といった平坦な地形で構成されている。

日本においては一部に河岸段丘や海岸段丘、海進により形成された台地面が見られるが平野と呼べるほどの規模はなく、すべて堆積平野である。これは日本付近の地殻変動が激しいことを裏付ける。日本の平野は基盤岩の沈降ブロック地域に形成されている。比較的大きな関東平野、濃尾平野などでは堆積物の厚さは数km以上に及ぶ。

日本の平野のほとんどが沖積平野である。若干海岸平野があるものの、それとて河川の影響が皆無というわけではない。
沖積平野は、上流域から下流域に向かって、谷底堆積低地、扇状地、氾濫原(自然堤防帯、蛇行原)、三角州の順に配列される。

一般には水害の危険が高いが利水しやすく、肥沃で平らであるため農耕に適する。多くの文明が沖積平野で発祥している。
沖積平野は災害に対して脆弱な地形であるものの、日本においては人口の大部分が沖積平野に集まっている。沖積平野の地層は沖積層と呼ばれる。形成年代が若く締め固まっておらず、地下水面も高く水分に富むため軟弱地盤が広く分布している。



扇状地と堆積
e0126350_22301794.png
山間の川を抜け出た堆積物はまず扇状地をつくる。
川の堆積物というのは小石や砂である。従って扇状地というのは非常に水はけが良い土地となる。水は地下に浸透してしまい地下水となって地上には川さえ出来ないほどである。
水はけが良いのでそのままの状態では田んぼ(稲作)には向かない。果樹栽培とか昔だったら桑畑などが適している。

扇状地の下は低地と台地。川沿いは扇状地と同じく小石や砂が堆積して水はけが良いが、その後方は泥が堆積するので水はけが悪くなる(水持ちが良い)。
川沿いは氾濫などで浸水しやすい箇所であるが、人間が生きていくには、生活するには、どうしても水が必要なので古くは川に沿って生活圏(集落)というものは存在した。基本的には今もそれは変わりない。
水はけが悪い(水持ちが良い)ところは田んぼ(稲作)に適している。

日本の平野はほぼ全て堆積平野なので扇状地も沢山あるが、関東平野の群馬県の北端にあたる箇所に大間々扇状地という扇状地がある。
上の浸水域地図で伊勢崎の東側で桐生の南側の浸水を逃れている箇所である。
下の図も同じカスリーン台風の浸水域地図であるが、赤く囲った箇所がそこである。(出典:国土交通省関東地方整備局)
右側の小さい地図は大間々扇状地を説明している地図になる。(出典:みどり市)
e0126350_22491346.jpg
e0126350_23000230.jpg

(出典:綿打小学校)


利根川と渡良瀬川に挟まれた地域であるにも関わらず浸水をしていないということは、やはり扇状地だから水はけが良かったのではないだろうか。
しかし、現在その地域には、結構田んぼが広がっていたりする。土地改良をして用水路で水を引いて稲作を可能にしたのではないだろうか。
ということは今は水はけが悪いということですよね?


水が流れ着く場所

川沿いを除いた沖積低地・台地は稲作に向くような水はけが悪い(水が溜まりやすい)土地になるが、もはや関東平野では稲作を行っている場所以外の多くの土地は土が剥きだしということはあまりないだろう。
だけどアスファルトやコンクリートでも水はほとんど浸み込んでいかない。
排水路で誘導して最終的には川に流され海に出てくことになるだろう。要するに地中で水分を保持する力がほとんどない。
その場合、保水力のある土地よりも温度は上がりやすい。
しかも都市部は地下空間も利用していたりする。
地下空間を造るということは、その部分の土(堆積物)が取り除かれることを意味する。
その堆積物はどこに持っていかれるのか。

夏場のエアコンも、屋内空間を冷やせば、屋外に排熱と排水される。
排熱されているのだからエアコンを使用しない時よりも当然外気は上がる環境にある。
また排水された水も地中で保持できないとなると、大部分は川を経て海に注ぐしかない。

陸地で水分を溜めこむことが出来なければ、海に流れるしかないのだから、保水力を持つ陸地の時よりも海水量は増えるだろう。
また陸地の堆積物とか何か物体を海に入れれば、海水はその分だけ上昇することになる。
いっぱいにお湯を張った浴槽に、さらに水を注ぎたしたり、人間がざぶんと入ればお湯は溢れるけど、海はあまりに広いし、波があるし、海岸は垂直に崖が切り立っているところばかりではないので、量の変化が分かりにくい。でも全く変化がないということはないはずである。
海に対してそんな量で・・と言う人もいるかもしれないけれど、だったら二酸化炭素だって・・と言いたい気持ちがする。

水はけの悪い土地には蓋をして、水はけの良かった土地も田んぼにし、川沿いも人工的に整えて、山を削り、森林は中途半端に手を加える。これでは保水力は減少するだろうと思う。





# by yumimi61 | 2019-10-25 15:13

混水摸魚(5)

ダムの放流について

e0126350_23464109.gif
・台風19号の時に「緊急放流」が報じられていたけれど、それはこのままでは洪水時最高水位(サーチャージ水位)を超えるだろうと予想された時に行われるものである。
常時満水位(貯水率100%)を超えそうな時や超えた時に行われるものではない。
「緊急放流」の場合には一番上の非常用洪水吐が使われる。

・大雨などでダムへの流入量が急激に増えてきた場合には、緊急放流に至る前に常時洪水吐で放水量を増やして調節する。
この場合には常時洪水吐が使われる。高位と低位に2箇所放流口を設けているダムもあるが、通常は高位常時洪水吐が使われる。

・普段のダムは選択取水設備に水を通して、水の混濁や水温の違いなどを調節してから放流している。これが利水放流である。

①雨が降ってダムに水が流入してきた場合、入って来た水量と同じ水量を放流すれば、計算上はそれ以上貯水されることはない。
②入ってくるより少ない量を放流している場合には、貯まる量の多い少ないの違いはあるが、放流しているからと言ってダムに水が貯まらないということにはならない。
緊急放流は①で、常時洪水吐は②で行う。
これらは実際に雨が降って増水している時や連続する台風など短期間に大雨が続いて貯水量を下げる必要がある時に行う洪水調節である。


前記事に書いたようにダムは洪水期には計画的に貯水量を減らしている。
それを表した図 ↓
e0126350_00102945.gif
さらに台風など大雨が事前に予想され洪水調節だけでは心許ない時などには実際に雨が降る前に予め放流して貯水量を下げておくことがある。これを事前放流や予備放流と呼ぶ。
今回の台風19号は気象庁が事前にあれだけ記録的大雨になると言っていたのだから、事前に放流しておくことが出来たはずである。
但しこの事前放流はせっかく貯めた水をみすみす流してしまうことになる。
洪水期は夏であり、夏は水が必要な時期でもある。
1回大きな台風が来るからといって、貯めた水を放流してしまったら、その後の利水に影響を及ぼしかねない。
また雨が降っていない時に放流して川の水が増えると、思わぬ事故に繋がったりもしかねない。
よってなかなか判断が難しい対応でもある。


ダムにもいろいろある

上の図のダムは利水と洪水調節などを目的とした多目的ダムを前提しているが、発電用ダムとか洪水防止目的(貯めるだけ)のダムなどもある。
上記のようなダムは様々な容量や放水量が定められていて、ゲートを設けており、人間が観測したり放流口を開け閉めしたりと判断が必要なダムである。
でもそうではないダムもある。洪水調節を目的としていないダムでは細かな調節なんか行っていない。
一定量を超えたら、上部の洪水吐から自然に流れ出たり、越流したりするのである。そもそも調節機能を持っていないダムなのだから自然任せ。

常に高位の水が必要な発電ダムでは貯水量を減らしたら本来の目的に沿わなくなってしまう。
水力発電が稼働するには常に水が必要である。
川やダムの大きさに数、天候含めた地域環境などにもよるが、川の上流に水力発電用ダムがあると、川を枯らしかねないとも言われている。
信濃川(千曲川)は発電用ダムが出来てから水量がだいぶ減ったというような話もあり、もしかすると千曲川も枯れ川で、それで河川敷に畑が作れるほどだったとか?

水量のとても少ない枯れ川をいつも見ていたら、幾ら大雨が降ると言われても川が氾濫するなんて想像しにくいのかもしれない。






# by yumimi61 | 2019-10-24 23:52

混水摸魚(4)

降雨量

下の数字は群馬県内8地点の夏季(洪水期)である6~10月の降水量(気象庁の過去の気象データより)である。
2015年、2016年、2018年、2019年をピックアップした。
左側の数字が月間総降水量で、右側が1日あたりの最高降水量。
この4年の夏季で一番降水量が多かった月に水色枠、1日最高降水量に黄色枠を付けた。
e0126350_16104499.jpg
ダム管理においては6月中旬から10月中旬を洪水期としている。
今年の台風19号で大雨になったのは10月12日で、一応10月中旬内に入るわけだが、上の表を見れば分かるように、例年10月というのはガクンと降雨量が減る。

同じ群馬県内でも最高雨量が記録された年月は同一ではない。
・みなかみは2015年7月に月間並びに1日あたり降水量最高を記録しているが、この主な原因はみなかみへの集中豪雨であり比較的局所的なもの。みなかみでは土砂災害などが発生している。

・2015年9月は、広範囲で災害が起きた「関東・東北豪雨」である。
9月7日に発生した台風18号は9月9日に東海地方へ上陸したのち、同日夜に日本海で温帯低気圧になった。この台風による直接的な被害は大きくなかったものの、日本海を北東に進む台風から変わった温帯低気圧に太平洋上から湿った暖かい空気が流れ込み、日本の東の海上から日本列島に接近していた台風17号から吹き込む湿った風とぶつかったことで南北に連なる雨雲(線状降水帯)が継続して発生。関東地方北部から東北地方南部を中心として24時間雨量が300ミリ以上の豪雨とそれに伴う大規模な被害をもたらした。

・2016年8月は、台風9号の影響である。
2016年8月に発生し、平成17年台風第11号以来11年ぶりに関東に上陸し、その後北海道に再上陸した台風である。

・藤原や片品では2016年9月に最高雨量を記録しているが、群馬県では住宅半壊や浸水被害も発生したほどの大雨が降った。
本州付近には前線が停滞し、この前線に向かって南から暖かく湿った空気が流入した。また、台風第13号が8日未明に東海道沖で温帯低気圧となり、前線を伴って本州南岸を北東に進んだ。このため、群馬県では大気の状態が非常に不安定となり、県内の所々で積乱雲が発達し大雨となった。


群馬県内のダム

用途や管理主体は多少異なるが、下図のように群馬県は多くのダムを抱えている水源・電源県である。
なかでも首都圏に水を提供している利根川水系8ダムは、次の8つのダムである。
矢木沢ダム、奈良俣ダム、 藤原ダム、相俣ダム、薗原ダム、下久保ダム、草木ダム、渡良瀬貯水池(下の図に黄色でマークしたダム)
e0126350_16500186.png
川が記入されている地図もどうぞ。
e0126350_16573586.gif
上でピックアップした地点とダムを対応させると、次のようになる。

 矢木沢ダム、奈良俣ダム、 藤原ダム、相俣ダム・・・みなかみ、藤原
 薗原ダム・・・片品
 下久保ダム・・・神流
 草木ダム・・・黒保根
 渡良瀬貯水池・・・館林(群馬県内で近い観測点)

草津と田代(嬬恋村)を取り上げたのは、これが吾妻川(八ツ場ダム)に関係ある地域だからである。
この2つの地域は群馬県内でも夏季の降雨総量が多い地域である(但し1日あたりの雨量はもっと多い雨量を記録している地域もある)。
じゃあやっぱりダムが必要ではないか?
だけど今までダム無しでやってきたわけで・・・
今回の台風19号では早いうちから嬬恋が孤立したと言われていたけれども、これまで吾妻地区で洪水が起きたとか土砂災害が起きて大変だとか聞いたことがありますか?
吾妻地区はほとんど山間部である。部分的に観光地となっている。市もないので人口はどこも少ない。
吾妻川は渋川市(市街地に入る手前)で利根川に合流するが、2015年や2016年の豪雨の時にも利根川はダム無しの吾妻川の水量を受けとめてきた。
だからあとは、何に備えるのかということになる。100年に1度の大雨なのか、1000年に1度の大雨なのか。費用対効果の問題もあるだろう。でもまあ、今更そんなこと言ったところでダムはもう出来ているのだから仕方がないけれど。
この地域はもうひとつ大きな問題を抱えている。
火山と温泉で、強酸水が流れ込んでしまうのだ。近年は一部でヒ素の問題も取りざたれている。

吾妻川はかつて、強い酸性の水が流れるために魚も棲めない「死の川」と呼ばれていました。そして、鉄やコンクリートを使った建造物が作れない、河川水が農業に適さないなど人間の生活にも多くの負担を強いていました。そこで、吾妻川に流入する酸性河川のひとつである湯川の水を中和して、川を甦らせようという取り組みが始まったのです。とめることのできない事業に適した中和材料を見つけることや、中和生成物をどう処理するかなど、たくさんの問題をひとつひとつ解決していったすえ、昭和39年に世界で初めての酸性河川中和事業がスタートしました。  その中和方法は、草津中和工場で湯川に石灰石粉を投入し、その先に建設された品木ダムに流れ入るまでに徐々に進んでいくという仕組みです。  現在、吾妻川には魚などの生物が棲むようになり、下流の人々も中和された河川の水の恵みを受けて生活しています。そして、草津中和工場はこれからも24時間365日、湯川の中和を行っていきます。 (国土交通省関東地方整備局 品木ダム水質管理所)


ダム貯水量
e0126350_20141021.gif
上のグラフは国土交通省関東地方整備局ホームページより、利根川水系8ダムの貯水量変化グラフである。

国土交通省関東地方整備局では7月~9月を洪水期としている。
洪水期というのは台風や集中豪雨などで大雨の恐れがある時期のこと。
降る雨をダムで受けとめるために、通常よりもダム貯水量は下げておかなければならないことが義務付けられている。
グラフは渇水年(水不足が発生した年)、それから昨年(2018年・平成30年)と今年(201年・令和元年)の折れ線グラフで表示されている。
これを見ると、2016年(平成28年)の夏は渇水とされている。
上部に載せた群馬県8地点の降水量を見れば、その夏の降水量は多かったと言えてしまうのだが、渇水だったようだ。
渇水になるかどうかは降水量のみならず需要供給のバランスも関係し、気温などの影響も受けるであろう。
また水は毎日コンスタントに使われるものであり、台風で1回大雨が降ったからといって水不足が解消されるというものでもない。
それは、どんなに大雨が降ろうともダムには容量があり、無制限に貯めておくことが出来ないからであるし、利水(使うために貯める)と治水(洪水防止)の両方を用途にすれば、ダムを空けておくこと、ダムに水を貯めておくこと、どちらにも自ずと限界が生じるものである。

集中豪雨に台風、真夏のゲリラ豪雨と、なんとなく水が溢れている印象があるかもしれないが、はっきり言えば現在ダムは利水が主であり、それでも水は足りない傾向にある。

上のグラフには2019年も含まれていて、赤色の線がそうである。
降水量に大きな変化はないというか、むしろ少ないように感じるが、グラフで取り上げている他の年よりは今夏は水があった。7月~9月の間に大きな変化もない。冷夏とまでは言わないけれどやはり気温があまり上がらなかったのが影響しているんだろうか。
赤グラフは台風19号後の10月20日まで記されているが、それでも常時満水用量(いわゆる貯水量100%)には至っていない。
昨年10月に入って計画的に上げたと思われる水量と現在ほぼ同じだけの水がダムに入っているということになる。

※私は夏の降水量を4年分挙げたが、貯水量グラフに取り上げられていた今年と昨年、それから夏渇水だった2016年(平成28年)、その比較のために渇水年とされていないその前年2015年(平成27年)にした。






# by yumimi61 | 2019-10-24 16:11

混水摸魚(3)

カスリーン台風(昭和22年台風第9号、国際名:カスリーン/Kathleen)  

1947年(昭和22年)9月に発生し、関東地方や東北地方に大きな災害をもたらした台風のこと。カスリン台風や、キャサリン台風などとも呼ばれる。台風本体の勢力の割には降水量が多い雨台風の典型例とされている

現代とは観測方法が違うため、位置や強度についての正式な観測記録は残っていない。後の解析によれば・・
台風発生期間 1947年9月8日-17日
9月8日未明にマリアナ諸島東方において発生。日本列島に近づいてからの進路は下図の通り。
e0126350_22221791.png
台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつあり、進路も東海地方から関東地方の太平洋岸をかすめただけであったため、強風による被害はあまり出ていない。しかし、台風接近時の日本列島付近には前線が停滞していたと推定されており、そこに台風によって南から湿った空気が供給されて前線が活発化。これが9月14日から15日にかけての戦後治水史上に残る大雨を降らせたものと考えられている

死者 1,077名
行方不明者 853名
住家損壊 9,298棟
浸水 384,743棟
耕地流失埋没 12,927


罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。
特に、群馬県の赤城山麓や栃木県の足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。
また、利根川や荒川などの堤防が決壊したため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した
。この地域で大規模の洪水が発生するのは1910年(明治43年)8月の大洪水以来であった。
なお、東北地方では北上川が氾濫。岩手県一関市などで被害が出ており、岩手県内では109人の死者を出している

大きな被害が出た要因として、大量の雨がほぼ一日半の短い期間に降ったこと、戦時中や戦後復興の木材消費により山林が荒れ、保水力が低下していた事が挙げられている

9月14日から15日にかけての主な降水量は、秩父610mm、箱根532mm、日光467mm、前橋391mm、熊谷341mm 、網代329mm、尾鷲25mm、宇都宮217mm、仙台186mmとなっている。



台風19号が近づいている頃、天気予報やニュースや盛んに「狩野川台風に匹敵」と言っていたけれど、正直「狩野川台風なんて知らないんだよー」と思った人は少なくないはずだ。
なにせ1958年(昭和33年)の台風である。この時に20歳だった人は今年81歳。
別に認知症にならなくても人間の記憶なんて怪しいものだが、記憶とか言う以前に、元気でぴんぴんしている日本人のほとんどは狩野川台風なんて経験しておらず存在すら知らないのである。
匹敵と煽る注意喚起するには、比較対象となるものを知らなければ効果は薄いだろうと思う。
ドキッとしたのは全国の狩野さんやAidaさん、あるいはアイさんくらいではないだろうか。
ちなみに私の祖母の旧姓は狩野らしい。私はそれを2ヶ月くらい前に母から聞いたところだった。

さて狩野川台風とはどんな台風だったのか。

狩野川台風(台風第22号、国際名:アイダ/Ida) 

死者・行方不明 1,269名
住家損壊 16,743棟
浸水 521,715棟
耕地被害 89,236ha
船舶被害 260隻


台風第22号は25日も猛烈な勢力を保ったまま北に進んだ。この台風の最盛期は非常に長く、中心気圧が900ミリバール以下であった期間は概略で48時間に及んでいる。しかし26日になって日本本土に接近する頃になると急速に衰え始めた。
風第22号は進路を北北東ないし北東に取って26日21時頃伊豆半島のすぐ南を通過、27日0時頃に神奈川県東部に上陸したが、勢力はさらに衰えて960ミリバールであった。だが日本付近に横たわる秋雨前線を刺激し、東日本に大雨を降らせている。27日1時には東京のすぐ東を通過、6時には三陸沖に抜け、9時に宮城県の東の海上で温帯低気圧になった。低気圧は速度を落として東北地方沿岸を北上、28日未明から午前にかけて北海道の南東部沿岸を進み、29日9時に千島列島の南東沖で消滅した。

狩野川台風は東京湾のすぐ西側を通っており、これは東京湾に最も高潮を起こしやすい経路であるが、幸い、台風が急速に衰弱したことと通過時間が干潮時であったため、高潮の被害は無い
また風も、伊豆半島南端の石廊崎で最大風速37.8メートル、伊豆大島で36.0メートルなどの観測例があるものの、やはり台風の衰弱もあって風害も比較的軽微であった
狩野川台風が急に衰えた理由は、日本付近の上空に寒気が張り出していたためと考えられるが、それは台風を弱める半面で大雨の原因ともなり得る。実際、狩野川台風は記録的な雨台風となって伊豆半島と関東地方南部に大規模な水害を引き起こした。
狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人で、そのほとんどが伊豆半島の水害による。


今年の台風19号は事前にとにかく勢力の強さを強調していた。
予想台風進路図の予想暴風域の円が大きいために「勢力が強い」というイメージは確かに残った。
しかし「狩野川台風に匹敵」と考えていたならば台風の勢力は急速に落ちることが予想されていたはずである。
でもそう言うと、みんなが安心してしまうから禁句にしたのかどうか。勢力が落ちないと想定していたならば、「狩野川台風」を例に出すのはおかしいような気がするがそうでもないのだろうか。

もうひとつ「狩野川台風」という名称を出したことが罪過になってしまったのは、静岡県の伊豆半島を流れる狩野川の印象が非常に強くなってしまったことにある。
静岡辺りに上陸する台風で、東海地方に被害が出る恐れを強く想像させることになった。
固有名詞は被害地域のイメージをピンポイントに絞ってしまう結果になる。
もっとも地元近辺でない場合、「狩野川」自体知らない。
そうなると「いつもの台風の威力の大きいもの」を想像するのが精一杯だろうと思う。

一般的に台風の何が怖いかと言ったら暴風である。夜中に暴風が酷い時の怖さと言ったらないですよね?(昼間のほうがまだ怖くない)。夜中の暴風は生きた心地がしない。
その点、雨というのはそれほど恐怖を感じないものである。確かに雨も窓を叩くけれども、風の音に比べたら可愛いものである。外を歩いていたり、車を運転している時の豪雨は怖いが、屋内にいる時には昼でも夜でも人は雨を怖いとはあまり思わないと思う。
逆に言うとそれが’大雨の怖さ’でもある。

関東在住の人間の考える「いつもの台風の威力の大きいもの」の「いつもの台風」がどんな台風かと言えば、沿岸の暴風雨が酷い台風である。
台風中継のロケーションは海沿いが多い。
今回は特に台風15号での千葉県の被害が大きく、直前までそれが報道されており、且つ台風19号の前にも千葉県の被災地が心配心配と報じられており、これもやはり南関東沿岸や半島への被害を想像させる要素となった。
また台風は中心から右側が雨風とも強くなり危険が大きいので注意が必要ということも何度も聞いた。
開けてみれば、今回は右側ではなくて左側だった。まるで正反対の結果となった。

結局出した情報は全てと言ってよいくらい裏目に出たことになる。

「カスリーン台風」と「狩野川台風」は、主な被害地域こそ違うが、台風の経過ともたらした被害は似ているところがある。
どうせ誰も知らないような古い台風を出すならば、「カスリーン台風」を持ち出せば良かったではないかと思うのだ。
「カスリーン台風」は名称くらい聞いたことがあるという人がわりといるかもしれない。少なくとも「狩野川台風」よりは知名度があるだろうと思うし、カタカナ名だけに(?)何となく威力もありそうである。
過去の台風を持ち出したからと言って対策に繋がるかどうかは心許ないが、それでも今回の被害地域が重なる点もあり、警鐘に使うならばこちらだったろうと思うのだが。


あちこちで被害が出ているので、大きな声でこそ言わないけれど、「思ったより雨も風も酷くなかったよね」という個人的オフレコ的会話は結構あちこちでされていたと思う。
防災が無駄になった!と怒りはしないけれど、このような結果はやはり油断に繋がりやすく、狼少年的結果を生じやすくなると思う。

私自身も風や雨が物凄く強かったというイメージは残らなかった。
沿岸に住んでいるわけではないが、もっと強風だった台風は過去に何度もある。(そもそも冬になれば空っ風の強風が吹き荒れる地域でもある)
雨の強さも強さだけに拘れば、今回の雨よりももっと勢いよく降る雨というのはある。
但し降っている時間は確かに長かった。12日お昼前後からの雨予報が出ていたが、朝からずっと降っていた。前日も時折雨が降っていた。

翌日に利根川を何箇所かで見たが、驚くほど増水している感じはなかった。
八ッ場ダムがどうこう言われているみたいだが、八ッ場ダムは利根川に合流する吾妻川に造られたダムである。渋川市内で利根川と合流するので、合流より上流の利根川も見てみたが、思ったほど増水していなかった。
翌日でお天気も回復し水位が下がったと言えばそうなんだろうけれど、過去には雨が通り過ぎても、もっともっと水嵩が上がっていて、冠水や浸水が心配になるくらいの増水があった(吾妻川合流地点より上流で)。
今回は写真を撮る気持ちも刺激されなかったようで写真を撮っていない。今思えば撮っておけば良かったと思うけれど。






... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

# by yumimi61 | 2019-10-22 22:54

混水摸魚(2)

ちっぽけな悩み

水害について思うことはあり、この間から書こう書こうと思っていたのだが、正直言って何から書いて良いのか分からないというか、どの視点で書いて良いのか分からなかったのである。
この世界は何でもあり得るのだから、何かを方向づけて考えたり書いたりすることが果たして良いことなのかと迷うことが多々ある。
数十年に1度レベルの台風に、100年に1度レベルの大雨に、何をどれくらい犠牲にして、どれほどの費用を投資して備えることが妥当なのか、その答えは難しい。
気候変動でどんな災害が起こっても驚かない世界で、今後1000年に1度レベルと形容される台風や大雨や地震がやってくるかもしれないが、せいぜい100年しか生きない人間はそれにどう対応すべきか、気候変動であり得ることだからと何でも当たりまえと受け止め見過ごすことが良いことなのか、という課題もある。
人間は忘れっぽい生き物だから、100年に1度が頻発されても驚かないという特技だか欠点も持っている。
誰かが「1000年に1度は1000年後ではない、明日かもしれない今日かもしれない」と言うだろう。
誰かは「未来を考えない者は人間の資格がない。人間は未来のための今を生きるべき」と言うだろう。
確かにそうかもしれないし、そうではないかもしれない。
想定外なことが起こるのだから、いつの日か、堤防どころか緑地が決壊して、県庁が傾くなんてことが起こるかもしれないし、とりあえずそれは科学によって否定されるかもしれない。
未来のためにと言うならば、今日までのおよそ2000年間に(本当はもっと長い歴史があるはずだけれども)生きてきた人達はいったい何をしてきたのかとも思う。
逆に先人たちがいたからこそ今日の幸せな未来(現代社会)が存在しているならば、そんなに難しく考える必要はないのではとも思う。


キノコについて

e0126350_13530405.jpg
先日の土曜か日曜日に庭にキノコが生えているのを見つけた。
写真を撮ったのは火曜日(10月21日)と今日(10月22日)。
夏にも載せたと思うけれど、花火の写真を撮ったらキノコみたいになっちゃったという写真も載せておきます(右端)。
e0126350_14024102.jpg
言わずとしれたキノコ雲。英語ではMushroom cloudで、核爆発などで出来る雲についてはRadioactive Cloudとも呼んだりする。
8月15日は玉音放送記念日(天皇ラジオ放送記念日)の方が相応しいと書いたこともあったけれど、’Radio’は放射能という単語の中にも入っている。
  放射線 radiation
  放射能 radioactivity(radio+activity)

信濃川(千曲川)が流れる長野県と新潟県の両県はキノコの二大産地と言っても良い。
但しシイタケは他県に譲る。
 シイタケ原木栽培での産地:静岡県、鹿児島県、群馬県など
 シイタケ菌床栽培での産地:徳島県、北海道、岩手県など
シイタケ以外で販売されているキノコの産地としては長野県と新潟県が抜きんでている。


↓これは今日たまたま目にした記事。
白人至上主義者の新たなシンボルが誕生「マッシュルームカット」が暴力を呼ぶ
Rolling Stone Japan   EJ Dickson |2019/10/20

白人至上主義者の中でも極右過激派の新たなシンボルが誕生した。可愛いはずの「マッシュルームカット」が、今アメリカで暴力のシンボルとなってしまったのはなぜなのか?
数年ほど前までは、マッシュルームカットといえば親に髪を切ってもらった幼児や、1990年代の子役スターの間でよくみられたダサいヘアスタイルだった。ところが名誉毀損防止同盟(ADL)の最新レポートによると、この数年でこの髪型は極右過激思想家から、人種差別や過激な暴力といった背筋の凍るシンボルと見なされるようになっている。
(略)
2015年にサウスキャロライナ州チャールストンのエマニュエル・アフリカン・メソジスト監督教会を襲撃し、9人を殺害した白人至上主義者、ディラン・ルーフの髪型だ(2017年、ルーフは州刑法殺人罪を認め、現在は9件の仮釈放なしの終身刑で服役中)。(略)
マッシュルームカット[英語でbowl cut]は、白人至上主義者の中でも過激な少数派たちの合言葉になっている。自分たちのことを“bowl gang”と呼んだり、他の言葉に挿入してbrotherをbowltherと呼んだりしているのだ。BowlCastと題した白人至上主義者のポッドキャストまである。もちろんルーフのトレードマークにちなんだ名前だ。

マッシュルームカットの台頭は、髪型そのものとは全く関係ない。あの髪型がクールで魅力的だから惹きつけられているわけでもない。実を言うと、多くの意味で、あの髪型がバカげているからこそ、白人至上主義者のシンボルとして人気を得たといえる。ADLの「過激派調査センター」の主席研究員マーク・ピットキャヴェッジ氏は、ルーフのマッシュルームカットをヒトラーの口ひげに例えている。はたから見れば滑稽だが、独特であるがゆえに模倣の対象となりやすい。だが、このシンボルの台頭は、ルーフを神格化しようという白人至上主義者の間で高まりつつある流れと密接に絡み合っている。
(後略)

ざっと読んでみると、英語ではマッシュルームカットとは呼ばず、ボウルカットと呼ぶらしい。日本語版だから「マッシュルームカット」としているけれど。
ところで、特定の髪型をダサいとか滑稽とか言うことはヘイトではないのでしょうか?
ヘイト最低とか言いながら、トランプ大統領なんかしょっちゅうヘイト攻撃にあっていると思うのだけれど。(素朴な疑問であり、どちらの肩を持つとかいうことではありません)
あと、天皇の場合などはまるで腫れ物に触るがごとく呼び方や言葉遣いに気を使っているみたいだけど、他国の国家元首つかまえてトランプだの呼び捨てで悪口を言い、ニュース原稿ですら「トランプさん」「トランプ氏」と言っていることがあって耳を疑ったことがある。アメリカ大統領だからこそニュースに取り上げるんだろうに。

◎マッシュルーム(mushroom)は、英語では「キノコ」一般を指す単語。
◎もうひとつ、ヨーロッパから導入された食用栽培種である担子菌門ハラタケ科のAgaricus bisporus (J. Lange) Imbach(英: common mushroom, White mushroom、仏: champignon de Paris)をマッシュルームと呼ぶ。このキノコの和名はツクリタケやセイヨウマツタケ。
日本ではもっぱら後者を「マッシュルーム」と呼んでいる。
食用栽培種のマッシュルームは小さい。よくレトルトのカレーやパスタソースに入っている。そういうものに入っているマッシュルームの味は大してないように思うが、うちの息子はマッシュルームが嫌いでいちいち出して食べていた時期があった。

私が写真を撮ったキノコは、ハラタケ科のオオシロカラカサタケ(Chlorophyllum molybdites Mass)だと思う。毒キノコである。だけどそう珍しいキノコではなく庭だとか公園だとか身近な所にも生えるキノコである。

ハラタケ科のオオシロカラカサタケは毒キノコだけど、ハラタケ科には食べられるものもあるのでややこしい。でもキノコは種類がとても多く、見分けるのも非常に難しく、間違えば生死に関わることもあるので、栽培して販売されている物以外は食べないほうが無難である。
ハラタケ(原茸、学名:Agaricus campestris)
ハラタケ科ハラタケ属に属する菌類。英語圏ではField mushroomとして知られ、アメリカ合衆国ではMeadow mushroomとして知られる。食用にされているきのこで、同属のツクリタケ(マッシュルーム)と近縁である。薬品として使用されるアガリクスなどとの関係からアガリクス・カンペストリスの名前でも知られる。

e0126350_19061584.jpg
左がマッシュルーム(Common mushroom)で、右がハラタケ(Field mushroom)


上昇気流とキノコ雲


英語圏と日本では言葉にしろ習慣にしろ様々違いがあるわけだが、では「キノコ雲」という呼び方は誰が始めたものなんだろうということが気になった。

キノコ雲(キノコぐも)とは、水蒸気を含んだ大気中へ、膨大な熱エネルギーが局所的かつ急激に解放されたことによって生じた非常に強力な上昇気流によって発生する、対流雲の1種である。
キノコ雲を作るほどの急激な上昇気流を起こす熱源としては核爆弾や大量の爆薬の爆発、大量の燃料の急激な燃焼(爆燃)、火山の噴火などがある。キノコ雲の生成される要件は、あくまで何らかの原因によって熱気の塊が水蒸気を含んだ大気中に急速に出現することであり、爆発や燃焼は必ずしも必要ではない。


台風もまた上昇気流によって発生するものである。

海面水温が高い熱帯の海上では上昇気流が発生しやすく、この気流によって次々と発生した積乱雲(日本では夏に多く見られ、入道雲とも言います)が多数まとまって渦を形成するようになり、渦の中心付近の気圧が下がり、さらに発達して熱帯低気圧となり、風速が17m/sを超えたものを台風と呼びます。
台風の発達のエネルギーは暖かい海面から供給される水蒸気。


Although the term appears to have been coined at the start of the 1950s, mushroom clouds generated by explosions were being described centuries before the atomic era. A contemporary aquatint by an unknown artist of the 1782 Franco-Spanish attack on Gibraltar shows one of the attacking force's floating batteries exploding with a mushroom cloud, after the British defenders set it ablaze by firing heated shot. The 1917 Halifax Explosion produced one. The Times published a report on 1 October 1937 of a Japanese attack on Shanghai in China which generated "a great mushroom of smoke".

The atomic bomb cloud over Nagasaki, Japan was described in The Times of London of 13 August 1945 as a "huge mushroom of smoke and dust". On 9 September 1945, The New York Times published an eyewitness account of the Nagasaki bombing, written by William L. Laurence, the official newspaper correspondent of the Manhattan Project, who accompanied one of the three aircraft that made the bombing run. He wrote of the bomb producing a "pillar of purple fire", out of the top of which came "a giant mushroom that increased the height of the pillar to a total of 45,000 feet".



ダムは巨大な武器にもなる

キノコ雲の生成に爆発や燃焼は必ずしも必要ではない。
爆弾は比較的広範囲の建物や人間(生き物)に被害を与えるわけだが、被害を与えるには必ずしも爆弾は必要はない。
もっと言うならダムを乗っ取れば、甚大な被害を与えることが可能である。
そんなこと今更私が言うまでもなく、すでに小説・映画がありましたよね。
『ホワイトアウト』、作者は真保裕一。新潟県にある日本最大のダムがテロリストに占拠されるという設定。

2000年に映画化。主演は織田裕二。
監督は本作が劇場映画デビュー作である若松節朗。奥遠和ダムのモデルは奥只見ダムとされており、映画の中で使われる地図はダムの名称こそ違うものの奥只見ダム周辺の地形図である。しかし、映画では同ダムは使用されず、富山県の黒部ダムなどが使用された。これは監督が黒部ダムが自身のイメージするダムと重なったからだと言う。
テロリストたちが持ち込んだ武器は東側を代表するアサルトライフルである旧ソ連製のAK-47アサルトライフル、トカレフTT-33、ナガンM1895拳銃である。双方とも、北方領土付近で操業している漁船に乗り込み、警備にあたっているロシアの巡視船の乗組員と取引をおこない仕入れたものである。原作では、この時に使われた水中スクーターは物語の後半で重要な役割となっていたが、映画版では一切使用されていない。



便利なもの、危険なもの

キノコに限らず、毒を持つ植物は身近にも結構ある。死に至る可能性のある危険薬品は鍵かけて閉まっておいたりするが、毒性植物は野放しである。
そんな世界で私達は平気で他人が作った物を食べたり飲んだりしているのである。
考えれば恐ろしいと思いませんか?

事件とか事故とかあると、子供から目を離したとか内縁とか義父といった関係が批判されたりもするけれど、だったらよくそんなに可愛くて大事な子供を長時間赤の他人に預けられるなぁとも思う。

アメリカの銃はよく批判に晒されるけど、凶器になるものは銃だけでない。一家に一本は必ずある包丁だって殺傷能力がある。車だって電車だって飛行機だって、ひとつ間違うと人を殺傷させる凶器に変わる。
だけどほとんどの場合、殺傷能力があるからといって規制がかかることはない。
それは何故かと言えば、そのモノ自体が危険なわけではないからであろう。
モノがあっても使わなければ危険でもなんでもないし、目的に沿って真っ当に間違いなく使用すれば目的以外に対する殺傷能力は発揮できない。

正しく使えば便利だけど、誤って使えば危険。
正しさや誤りは法律やマニュアルによって定義されるものもあるが、定義されないものもあり独自の判断が必要なものもある。
定義されているものを鵜呑みにしてよいのかという問題もあるだろう。
そして実際のところ正しさとか誤りの判断には個人差がある。
だから本当に危険なのは、モノを利用する人間や人間の心ということになる。
ある側面においては人間の心がコントロールされることほど恐ろしいことはない。
とても当たり前なことなんだけど、やっぱりこれも盲点だと思う。






# by yumimi61 | 2019-10-22 12:11

混水摸魚

長野県の千曲川決壊地点

千曲川の堤防決壊場所を地図で見てみた。
すごく驚いたというか、気になった点があった。河川敷である。
河川敷が畑のように見える。
e0126350_17245441.jpg
e0126350_17252850.jpg
上の写真が平常時で、下の写真が今回の台風で決壊した際の写真(決壊時の写真は産経新聞より)。
赤丸は体育館。同じ個所が分かりやすいように印を付けた。
体育館の右側に縦に走る線が堤防で、堤防の最上部(天端)は車が走れる道になっている。

e0126350_17440481.png
上の赤い箇所あたりが決壊場所付近らしい。ちょうど車道が重なっている部分ということになる。
右下の緑部分などが傾斜になっている所で、いわば堤防の川側(内側)の法面(のりめん)ということになる。
つまり法面を川側に下りると畑(?)が広がっていて、その先に川があるという構図。
普段は川の水量が少ないとしても、堤防の内側というのはどこでも川の水がやってくる可能性のある場所である。

堤防の内側の法面の下は「河川敷」と呼ばれ、ここは冠水することが前提にある。
専門的には「高水敷」と呼ばれる箇所で、「計画高水位」の時に水が上がってくる場所である。
岩や石がゴロゴロしている箇所もあれば、自然な樹木を生やしている箇所もある。
グラウンドや広場や駐車場やゴルフ場などを造成して平時に利用されている箇所もある。



堤防と河川敷

千曲川(信濃川の長野県での呼称)の下流域は新潟県であり日本海に注ぐ。
上の写真では画面上側が下流であるので、利根川など太平洋側に流れる川に馴染んでいると位置関係がやや分かりにくい。
地図上では日本海側(上)と太平洋側(下)なので、川の流れは逆向きになる。

千曲川の決壊地点(長野市)は、利根川ではどの辺りにあたるのかと考えてみた。
千曲川の源流は長野県南佐久郡川上村。1985年に日航機が墜落した群馬県上野村の南西部の方角にある地域。そこから日本海に向けて流れていくのである。
利根川の源流は群馬県みなかみ町。
源流からの直線距離では前橋市付近にあたる感じ。

下の写真地図は前橋市内で私が結構馴染みのある河川敷をピックアップしてみた(利根川)。
もちろん周囲の環境を考えない治水などあり得ないのだから、距離だけで単純比較できるものではないことは重々承知している。

中心からやや右にある緑は敷島公園で、県営の陸上競技場や野球場もある所。
黄色い線を挟んでその反対側はだだっ広い広場のような野球場・サッカー場・ラグビー場になっている。
上部の中央やや左の緑は県営のゴルフ場である。
黄色の線は「国体道路」と呼ばれる道路。
水色の線は堤防。
e0126350_21065545.jpg
e0126350_21372943.gif
これで何が言いたいかというと、千曲川の決壊地点付近の堤防は、利根川敷島近辺の国体道路にあたるということになる。
しかし利根川敷島緑地(野球場・サッカー場・ラグビー場)近辺は国体道路の内側に堤防がある。
つまり街は川より2段階上に上がっている。
下の写真は敷島緑地から国体道路の方を向いて撮った写真である。
緑地は堤防の上にあるので、川よりは高いところにあり、道路はそれよりもまだ高い。
堤防は緑地の手前に設けられているが、水嵩が増した場合にはこの緑地も冠水覚悟ということである。
e0126350_21533328.jpg
緑地部分を含めない堤防までの計画高水位の川幅でもかなり幅はあるが、それでも大雨の時は道路への冠水や浸水が心配される所なのである。
上の地図を見てもらうと分かるが、少し下ると国体道路も終点となり、緑地部分もなくなる。
その境目辺りは非常に冠水しやすく、幾度となく冠水しており、大雨と冠水が予想される時は国体道路は閉鎖されるのだが、今回の台風19号でも国体道路は閉鎖されたと聞いた。
e0126350_22385627.jpg
群馬県は県庁が利根川近くにあり、前橋市役所もそう遠いわけではない。
県の中心部、市の中心部を大河川が流れているため、もし市街地に氾濫などしようものなら大変である。
県庁付近では河川敷というか堤防上の敷地を駐車場として利用していたが、20年くらい前の台風ではそこまで水が上がり自動車が何十台も流されたことがあった。40年くらい前にもやっぱり同じような場所で何十台も流されたことがあり、その時は県の職員が事前対応の遅れを苦にして自殺した。

このようにリスクが高く、また土地を有効利用したいというような場合には、比較的幅を持たせた2段階方式を採っているが、全国的に見ればもちろんそうではない箇所も沢山ある。
大きな河川だと流れが穏やかになる下流の方が堤防の内側の土地を利用していることが多い。


堤防の内側の畑(?)

繰り返しになるが、堤防の内側は川の水が流れうる所である。普段なくても増水した時には上がってくる場所である。
もし畑だとして、そこで作物を作るということは、増水した時には何もかも諦めようという覚悟が必要なわけだが、果たしてそうなんだろうか。
部分的というより結構広範囲に畑があるように見えるのだが、今まで一度も水が上がったことがなかったんだろうか。

河川敷の畑問題について、次回も続きます。








# by yumimi61 | 2019-10-21 17:15

サンデー ☀

178.png2009年7月1日まで記事のタグとカテゴリ付け、完了しました。

先日2009年7月1日の記事に最後のほうに追記したのですが、2005年3月にみた夢の話を書きました。
そこに、このように書いたのですが・・・
顔には〆(×?)じるし    
(ノートのメモでは〆でも×でもなく刈るの左側の部首に似た感じに書いてある)

その部分の実際のメモはこんな感じです。
e0126350_14522760.jpg
印っぽいものが2つ書かれているのですが、私は先日、左側は|(縦線)を横に3つ棒を入れて消したものだと思ったのです。書き間違いみたいな感じで。
でもひょっとしたらこれも間違いではなくて印だったのかなぁと思い直したのです。思い直したきっかけはテレビで偶然に結核予防のマーク(ロレーヌ十字・複十字)を見たから。
e0126350_15035466.jpg
それで十字の種類を調べてみたのです。
横線3本は2つありました。「パパル十字」と「ロシア十字」
e0126350_15095305.jpg
「パパル十字」…トリプルクロスまたは教皇十字。横のバーが3本。ローマ教皇のシンボル。
「ロシア十字」…八端十字。東方十字の1種。ロレーヌ十字の下に、短い横のバーが斜めに交差する。ロシア正教会などスラヴ系正教会で広く使われている。


🌸🐝 八端十字の八(はち)で思い出したのですが、わたし何かに刺されたんです。
ハチ?
e0126350_16224888.jpg
刺されたのは10月7日(月)の朝です。ゴミ出しの日。
出そうと思っていたゴミ袋にまだ余裕があったので、庭先の伸びすぎた植物(花)を剪定鋏で切って入れていたのです。庭仕事をする時はいつも手袋をするけれど、ゴミ出しついでにちょっと切るだけだったので、その日は素手でした。
左手に植物を持ち、右手に鋏。植物に左手を差し出した瞬間に激痛。いたたたたた・・・痛い・・
何か虫に刺されたのだろうけれども、虫が何かは分からなかった。何かが飛び立ったりする姿は目撃しなかった。
刺されたところに針があるかどうかもよく見えず、とりあえず絞りだしと吸出しで毒を出したつもりな感じで、すぐに流水で洗い流した。
しかし熱を持ち腫れてしまったのでした。上の写真は翌日10月8日(火)に撮った写真です。


🐶 今日の午前中に市が実施している犬の狂犬病予防接種に行ってきました。
うちには高齢犬が2頭います。
2002年4月15日生まれで現在17歳と、2004年2月1日生まれで現在15歳。
2002年生まれの子は、血統書では4月15日生まれなのですが、一番最初に受けた予防接種証明書には4月17日と書いてあります。
血統書は後から届いたので、当初2002年4月17日生まれと思っていたら4月15日だったというわけなのです。4月17日は長男と同じ誕生日。
ところで、2019年4月15日を覚えているでしょうか。


🚼 私は8月15日生まれなのですが、最近になって何時頃に生まれたのかも知っておいたほうがよいかなぁと思って(笑)、母子手帳を探して確認したのです。
そしたら!なんと私、予定日は8月7日だったんです。8日遅れで生まれてきたんですね。


🎆 前にも書いたことがあったと思うけれど、何年か前に(もう10年くらい経つんだろうか、いやはや)川の近くに住むことは緩慢なる自殺だというような感じの小説があると、とあるブロガーさんに教えてもらったことがあります。内容は忘れちゃったけど、ホームレスの話だったっけなぁ。
住むかどうかは別にして、日曜日の河川敷は穏やかで平和な庶民の暮らしを映し出す場所だと思う。今はもちろん台風19号の爪痕を残している河川敷も多いのだろうけれど。
普段目にしている河川敷の広場とかグラウンドとかゴルフ場などが水に浸っていると何だかとても悲しい気持ちになるけれど、でも河川敷のその部分というのは増水時に冠水することを前提にして平坦になっているわけだから、役割を果たしていると言えるんですよね。その部分まで水が広がるから川幅もぐぐっと広がるわけです。








# by yumimi61 | 2019-10-20 15:22

コンテンポラリー

盲点

太宰治の小説『パンドラの匣』の一番最後は手紙の日付となっている。12月9日。
先日、この日付に関係して宣戦布告と奇襲攻撃について書いた。
理由は何であれ、明治期以降に日本が行った戦争は日本が仕掛けた戦争と言ってよい。防衛で止むを得ずという戦争はなく、しかも奇襲攻撃で始まった戦争ばかりなのである。

現代的感覚だと、戦争を始めるにあたって必要なことが日本にはなかったのだろうかと思うかもしれないが、絶対君主制だったので天皇がやると決めればやれた。「鶴の一声」で決まる。
(あっ!そうか、「鶴の一声」ではなくて「天の声」!?)
そして現に国民は天皇の為に命捧げて戦ったのである。

大日本帝国憲法は第13条で「天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス」と規定しており、天皇大権の一つであった。日本国憲法には宣戦布告に関する規定はない。

戦後は日本国憲法で対外的な戦争を放棄すると規定されているため(9条)、先制攻撃にしろ防衛にしろ戦争をするという前提にない。
従って戦争に関する日本独自の法律は何も存在しないことになり、宣戦布告に関する規定も存在せず、議会の承認が必要であるということもない。
軍隊や自衛隊の話ではなく、戦争そのものに関する法律の話である。

アメリカ合衆国憲法では、第1条8節11項にて宣戦布告権が規定されている。宣戦布告には、議会の承認が必要であり、アメリカ合衆国大統領が自ら発することはできない。

🐦雲雀(ひばり)から雲を取ると、雀(すずめ)!!!!!!!!!!!
「雀の千声 鶴の一声」
正岡子規「赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり」←雀?


条約と批准と内政不干渉

1907年10月18日にハーグで署名された「開戦に関する条約」では、
第1条 開戦に先立ち相手国に宣戦布告を行うこと
第2条 中立国に対し遅滞なく戦争状態の通告を行うこと
を定めている。


国連などが国際会議を開いて、約束事(条約など)を作り、出席国の代表者が署名し、それを持ち帰ったとしても国内で批准しなければ効力は発生しない。
批准とは国家が条約に拘束されることに同意する手続きであり、現代では多くの場合、議会の同意を得る必要がある。同意が得られたら国家元首などが認証して公布に至る。これらによって初めて署名してきた条約の効力が国内で発生することになる。
その国のことはその国が決める。国際機関や他国やがその国の政治に直接口出しすることは出来ない。内政不干渉の原則がある。
じゃあ政治とは何かと言うことになりますでしょうか。

例えばオリンピック。オリンピックに政治を持ち込むなと言うくらいだから、オリンピックは政治とは無関係ということになる。だからIOCのバッハ会長は口出しが可能だ。
では小池都知事は何かと言えば、東京都の行政の長(トップ)である。
いつだったか安倍首相が三権の長の解釈を間違えたことがあったと思うけど、三権は立法・行政・司法であり、国家で言えば安倍首相は行政の長である。立法の長は議長である。衆議院は大島理森議員、参議院は山東昭子議員。

立法は法律を決める、行政はそれを実際に運用する。
政治というと漠然としてしまうが、具体的に立法に政治という言葉を当てはめることもある。
オリンピックは行政と密接に関係しているのだから、もし政治という言葉に行政が含まれてしまうと、オリンピックに政治を持ち込むなという言葉もおかしい。
行政は決まったことを行うのが役割なので、決める権利や権限は持っていない。


主権を失った国家には国際機関や他国が干渉する。
日本は戦争に負けて主権を持たない時代があった。1945年から1952年まで。この間はGHQの干渉を受けたのである。
主権を持つ国の政治に他国の人が口出しすることは出来ない。内政不干渉の原則。
「日本は未だにアメリカの言いなり」とよく日本人は言ったりするけれど、アメリカの大統領が日本の議会の決めたことに拒否権を発動して承認しないなんてことはない。
アメリカ大統領は日本の議会に対する拒否権を持っていない。
もしも日本が本当にアメリカの言いなりになっているとするならば、裏で非公式にアメリカに何か言われて従っているか、アメリカは何も言わないけれど意を汲んで意向に沿っているか、ご機嫌取りに忖度しまくっているかということになろう。

天皇も国政に関する権能を有しないと定められている。内政不干渉である。
日本の政治に口出しできないのは、天皇もアメリカ大統領も同じである。
従って「日本がアメリカの言いなり」が成り立つならば、「日本は天皇の言いなり」だって成り立つはずである。

天皇もアメリカ大統領も国家元首である。
天皇は自国の全権委任状や大使・公使を認証すること、他国から派遣されてきた大使・公使の信任状を認証することは国事行為として行うことが定められている。
現代においては各国に各国の大使館が置いてあるが、大使館には自国の特命全権大使を駐在させている。
特命全権大使は、外交交渉、全権代表としての条約調印・署名、滞在する自国民の保護などの任務を行う。
外交の重要な部分に天皇も関与していることになるが、これは政治ではないと思っているのだろうか?
<大使などの決め方>
 ・アメリカは大統領が指名し、議会が任命する。
 ・日本は内閣(国家の行政府で長は首相)が任命し、天皇が認証する。

日本は宣戦布告などに関する規定がなく議会の承認が必要ないと前述したが、この部分においても議会不在である。
もっとも一党制などで、且つ議員がみな党に従うならば、議会が関わったとしても意味ないということになるが。


守られなかった条約

第二次世界大戦の枢軸国の1つで、日独伊三国同盟の1国でもあるイタリアは、1907年10月18日にハーグで署名された「開戦に関する条約」に署名したけれど国内で批准していなかった。
宣戦布告に関する条約は、条約を締結した国同士の戦争に効力があると第3条に記されている。数国間の戦争ではその全ての国が締結している必要がある。
従ってイタリアが批准していないとなると、「開戦に関する条約」が有効ではなくなってしまうのだ。

イタリアはこの条約に署名したものの批准しておらず、第二次世界大戦に関わる各国の宣戦布告状況は非常に複雑なものとなった。

日本は1911年に批准、ドイツは1909年に批准している。
アメリカ、イギリス、ソ連、オランダはそれぞれ1909年に批准、中国は1910年に加入している。(加入は何らかの理由で期限内に条約に署名しなかった場合でも、後々条件を満たせば条約を締結できる手続き)

第二次エチオピア戦争やポーランド侵攻、独ソ戦、日中戦争などでは正式な宣戦布告は行われなかった。
第二次世界大戦では多くの国家間で宣戦布告が行われたが、この時期に多くの戦線で戦端の口火を切ったナチス・ドイツはほとんどの戦線において正式な宣戦布告なしに開戦を行っている。
ただし日米開戦の時には直後にアメリカに対して自ら宣戦布告を行なっている。



1941年12月1日   日本が御前会議でアメリカ、イギリス、オランダに対し開戦を決定
1941年12月8日  日本がアメリカ海軍の真珠湾基地を奇襲(真珠湾攻撃)した後、アメリカ・イギリスに宣戦布告
1941年12月9日 中国が日本・ドイツ・イタリアに宣戦布告
1941年12月10日  オランダが日本に宣戦布告
1941年12月11日 ドイツがアメリカに宣戦布告
1942年1月11日 日本がオランダに宣戦布告

第二次世界大戦として、連合国と枢軸国の戦争と捉えると、イタリアが「開戦に関する条約」を批准していないので、そもそもこの条約が有効ではない戦争ということになる。だからどこの国も守る必要はなくなる。
でももっと細かく戦いを絞れば、全て締結国同士の戦いもあったわけで、そうとなればこの条約が有効な戦いもあった。






... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)


# by yumimi61 | 2019-10-18 17:10

渾然

健康道場(療養所)はユートピア

『パンドラの匣』に登場する結核療養所「健康道場」はユートピアなのである。
「理想社会を実現しよう」とする主体的意志のある場所で、理想郷。
人工的で、規則正しく、滞ることがなく、合理的な場所、管理社会。

そこは何のためにあるかと言えば、結核を治すためである。
彼らは俗世間で結核に罹患してしまったのだから、治療するためにはその反対側に置く必要があるという考えのもと、俗世間とは違う社会が提供されている。
結核が治って社会に戻った時に再発しないとも限らないけれど、ここでこの方法で治癒を目指すならば、俗世間と同じでは意味がないのである。

しかし小説の終盤では同化しつつあることが示唆されていた。
典型的な描写は1人の患者仲間だった越後獅子が大月花宵という有名な詩人に戻ってしまったところにある。
独特な治療方針に基づく「健康道場」は非常に好成績を収めていて医学界の注目の的となっていたという記述もあったが、やがて治療成績は落ちていくだろうということを予想させる。


俗世間と同化

小説の中で手紙を書いている主人公・ひばりが健康道場(療養所)に俗世間を持ち込んで同化に向かわせる元凶となったわけだが、ひばりが健康道場(療養所)に入るきっかけとなったのは1945年8月15日の玉音放送であった。

小説のもとになった木村庄助という青年は1943年に自殺しているので、日本が戦争に勝ったか負けたかも知らずに死んでいったのだし、1945年8月15日の玉音放送も知る由が無い。だから当然にそれが入院のきっかけや自殺の動機になったということもありえない。
病苦で自殺したということを素直に信じれば、彼の病気は快方に向かわなかった、ただそれに尽きるということになる。
戦時下では俗世間と療養所を違う場所にするということが不可能で、自然治癒力頼みの療法は成果を上げにくかったんだろうと思う。


小説は戦後の療養所が描かれている。
結末は書いていない。
ひばりや患者仲間が治って退所(退院)していったのか、いっさい分からない。
だけど上にも書いたように、これからは健康道場(療養所)の治療成績は下がっていくと思う。
植物の蔓は伸びることはあっても動くことはない。つまり健康道場(療養所)から場所を移す(退院)ことは想像しにくい。
小説の中のひばりも快方には向かわないはずである。
小説のもとになった青年が自殺したという事実を知っているからこそ、その推測を補強する点はあるが、もしそれを知らずに小説だけが存在したとしても、ひばりに明るい未来が待っているとはとても思えない。
俗世間と療養所は違う場所にすべきなのに同化してしまったからであるし、ひばりにはすでにカオスの気配が色濃く漂っている。


パンドラの匣(箱)

あの日以来、僕は何だか、新造の大きい船にでも乗せられているような気持だ。この船はいったいどこへ行くのか。それは僕にもわからない。未(いまだ)、まるで夢見心地だ。船は、するする岸を離れる。この航路は、世界の誰(だれ)も経験した事のない全く新しい処女航路らしい、という事だけは、おぼろげながら予感できるが、しかし、いまのところ、ただ新しい大きな船の出迎えを受けて、天の潮路のまにまに素直に進んでいるという具合いなのだ。


小説に書かれた「あの日」とは1945年8月15日である。

しかし、君、誤解してはいけない。僕は決して、絶望の末の虚無みたいなものになっているわけではない。船の出帆は、それはどんな性質な出帆であっても、必ず何かしらの幽(かすか)な期待を感じさせるものだ。それは大昔から変りのない人間性の一つだ。
君はギリシャ神話のパンドラの匣(はこ)という物語をご存じだろう。あけてはならぬ匣をあけたばかりに、病苦、悲哀、嫉妬(しっと)、貪慾(どんよく)、猜疑(さいぎ)、陰険(いんけん)、飢餓、憎悪(ぞうお)など、あらゆる不吉の虫が這はい出し、空を覆(おお)ってぶんぶん飛び廻まわり、それ以来、人間は永遠に不幸に悶(も)だえなければならなくなったが、しかし、その匣の隅(すみ)に、けし粒ほどの小さい光る石が残っていて、その石に幽かに「希望」という字が書かれていたという話。

それはもう大昔からきまっているのだ。人間には絶望という事はあり得ない。人間は、しばしば希望にあざむかれるが、しかし、また「絶望」という観念にも同様にあざむかれる事がある。正直に言う事にしよう。人間は不幸のどん底につき落され、ころげ廻りながらも、いつかしら一縷(いちる)の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。それはもうパンドラの匣以来、オリムポスの神々に依(よ)っても規定せられている事実だ。楽観論やら悲観論やら、肩をそびやかして何やら演説して、ことさらに気勢を示している人たちを岸に残して、僕たちの新時代の船は、一足おさきにするすると進んで行く。何の渋滞も無いのだ。それはまるで植物の蔓(つる)が延びるみたいに、意識を超越した天然の向日性に似ている。



ありとあらゆる災厄があって、これからも不吉な予感に満ちている。
しかしあえてその中に「希望」を置いた太宰治。
その希望は知識や精神性すなわち意識的思考能ではなく、無意識から来るものだとしている。そしてそれは天然の向日性に似ているというのだから、生命の営みのように無意識の中にも秩序が存在するということである。
秩序が存在するということは全くのカオスな状態ではないので、理想に向かって意志や形を作れる可能性が残っているということ。

太宰治はその意志をラストの「さようなら。」と「十二月九日」で表現したのではないだろうか。

ギリシャ神話の「パンドラの匣」にヒントをもらって希望を置いたのではなく、その逆で、太宰は意識的思考能力ではない何か(信仰・感覚・経験・無意識など)から微かな希望を感じ取っていたので、「パンドラの匣」の話を織り交ぜたと考えた方がしっくりくる。






# by yumimi61 | 2019-10-17 17:37

涙痕

出典と振り仮名について

太宰治『パンドラの匣』を前記事までに何度か転載したが、出典は青空文庫です。

底本:「パンドラの匣」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年10月30日発行
   1997(平成9)年12月20日46刷
初出:「河北新報」河北新報社
   1945(昭和20)年10月22日~1946(昭和21)年1月7日
入力:SAME SIDE
校正:細渕紀子
2003年1月27日作成
2015年10月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



小説の場合、作者の死後50年間著作権が保護されるので、1948年に没した太宰治の場合は1998年で著作権保護期間が切れたということになる。
転載していて思ったのは、振り仮名の付け方の基準がどうなっているんだろうということ。
青空文庫では漢字の上に振り仮名があったが、私は漢字後ろに(  )で書き入れた。振っている漢字はそのまま倣っている。
この漢字は結構誰にでも読めそうな気がするという漢字に振ってある一方、この漢字は読めない人が多いのでは?という漢字に振ってなかったりで、時代の違いなのか何なのか基準が良く分からなかった。漢字ひとつ取っても読書ってやっぱりハードルが高いんだろうなあと思う。


12月9日について

★宣戦布告と奇襲攻撃


さようなら。と、12月9日という日付を最後に、太宰は筆を置いた。
ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月8日で、これは1945年12月9日ということだから、ちょうど4年の月日が流れ、5年目の1歩ということになる。


日本は1937年より日中戦争を行っていたが、1941年にアメリカに奇襲攻撃し、太平洋戦争にも突入した。
それを受けて、中国(中国国民政府)は日本とドイツに宣戦布告したのだが、それが12月9日だった。

日中戦争は宣戦布告が行われていない。
宣戦とは紛争当事国に戦意があることを公式に宣言することで、宣戦布告とは、相手国や中立国に対し、戦争状態に入ることを告知することである。

1894年7月に始まった日清戦争では1週間後に宣戦布告がなされたが、始まりは奇襲攻撃だった
 1894年7月25日、日本海軍は黄海上の豊島沖で奇襲攻撃をかけて北洋艦隊の戦艦1隻を沈めた。陸上でも日本陸軍が行動を開始、清の朝鮮駐屯軍と7月29日、京城南方の成歓で衝突、新軍は大敗し潰走した。このように日清戦争も日本軍は宣戦布告前に奇襲攻撃を行っている。8月1日に双方が宣戦布告.

1904年2月に始まった日露戦争も宣戦布告しない奇襲攻撃によって始まった
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。この奇襲自体がロシア側からも非難されないのは、当時は攻撃開始の前に宣戦布告しなければならないという国際法の規定がなかったためである。

一般的に国家間で何か問題が生じたり対立が起こり、いよいよ戦争以外では決着が付きそうにないとなった時には、戦争開始前に事前警告として最後通牒が交付される。
その最後通牒も効果がなく交渉が決裂すると外交交渉は打ち切りとなり、戦争に突入していくことになるが、その場合にも戦闘が始まる前に宣戦布告するのが外交上の慣習だった。

この外交通告の習慣はルネサンス時代に始まったが、1904年の日露戦争が宣戦布告なく始められたことを契機に1907年の万国平和会議で討議され、10月18日に署名された開戦に関する条約で初めて国際的なルールとして成文化された。
この条約で宣戦布告の効力は相手国が受領した時点で発生すると定められた。しかし当時はほとんど尊重されず、第一次世界大戦後に国際連盟が改めて定めた。


1907年10月18日にハーグで署名された宣戦布告に関する条約では、
第1条 開戦に先立ち相手国に宣戦布告を行うこと
第2条 中立国に対し戦争状態の通告を行うこと
を定めている。

宣戦布告が行われない国家間の武力紛争においては、通告を受けない第三国に中立法規の適用はなく、第三国は紛争当事国と平時同様の外交関係を保つことが認められる。国交断絶状態でも戦争と判断されるとは限らない。第一次世界大戦後には高度な武力紛争状態であっても、戦争状態ではないとして戦時国際法の適用を免れようとする事例もしばしば存在した。

宣戦布告とは、どの国と戦う意思があるということを明確にするものである。
中立法規では、中立国は交戦国の攻撃を受けず、その領土を侵されることはないことを定めている。どちらにも加担する気はないのに隣国で戦争を行っている場合などに戦争に都合が良いからと巻き込まれたら堪らない。
但しその代わり、中立国は交戦国に対して戦争遂行上の便宜や援助を与えてはいけないとされている。

宣戦布告しないと敵味方すら有耶無耶な感じになってしまう。
当事国が戦争ではないと言い張ることも出来て、それによって戦時国際法(人道法)を逃れようとする意図もあった。しかし戦時国際法は宣戦布告されていない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用される。

日中戦争の始まりは1937年だが、その前1931年に満洲事変があった。
1931年9月18日、柳条湖付近の鉄道線路を爆破した日本軍は、これを張学良らの仕業として奉天軍閥がこもる北大営を奇襲攻撃して占領
1937年7月7日、中国に駐屯していた日本軍が盧溝橋付近で夜間演習を行っていたが、その終了直後、10数発の銃弾が発射された。誰が発砲したのか分からないままだが、これ以降対立や衝突が再び本格化し戦線は拡大していく。
同年8月15日、日本政府は「支那暴戻膺懲」(暴虐な支那を懲らしめよの意)の声明を発し、海軍機による南京への渡洋爆撃を開始して、日中戦争の火蓋が切られる。
日本の傀儡政権でアメリカとイギリスに宣戦布告した南京国民政府(汪兆銘政権)は1940~1945年にかけて存在した政府であり、日本が南京を占領したからこそ成立した政府である。同じ中国であっても日本とドイツに宣戦布告した政府とは別の政府。

このように12月9日のみならず8月15日という日も実は中国と深い関係があった日付なのである。


★王政復古の大号令

12月9日は、王政復古の大号令がが発せられた日でもある。
但しこの場合の12月9日は旧暦である。
 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

王政復古
明治維新により武家政治を廃し君主政体に復した政治転換を指す語。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に江戸幕府を廃止し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立が宣言された。倒幕派公家勢力の復活という側面も伴っている。

倒幕の下敷きとして存在したのが国学の発展だった。
江戸後期、国学の進展などにより知識人の間に尊皇思想が広がっていった。
それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問である。


そんな時期に黒船が来航して、通商をめぐって国論は割れるも、尊皇攘夷論が沸き立つことになる。
攘夷論は、日本においては幕末期に広まった、外国との通商反対や外国を撃退して鎖国を通そうとしたりする排外思想である。元は中国の春秋時代の言葉で、西欧諸外国の日本進出に伴い、夷人(いじん)を夷狄 (いてき) 視し攘(はら)おう、つまり実力行使で外国人を排撃しようという考えであり、華夷思想による日本の独善的観念と国学に基づいた国家意識が源となっている。

でもいざ蓋を開けて見たら(新時代になったら)、倒幕派新政府は欧米かぶれで、国学どころの話ではなく、そのため明治時代には結構多くの知識人が絶望の淵を彷徨ったということは前にも書いた。

江戸時代などには天皇が政治を行わない形を採っていたが、それを言いかえれば「政教分離」である。
政教の「教」は、教育ではなく、宗教や教会のことである。

政教分離原則
国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す。

一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする。


世俗主義(英:secularism)、または、俗権主義とは、ラテン語で「現世的」「世俗的」を意味する「サエクラリス」(羅: saecularis)に由来する語・概念であり、
・ 国家の政権・政策や政府機関が、特定の宗教権威・権力(教権)に支配・左右されず、それらから独立した世俗権力(俗権)とその原則によって支配されていなければならないという主張・立場。あるいは宗教に特権的地位や財政上の優遇を与えないこと。政教分離原則。対義語は、聖職者主義(教権主義、英: clericalism)。
・個人が宗教的規則や宗教教育から自由でいる権利、支配者による宗教の強制からの自由。信教の自由。
・人の行動や決断が(宗教の影響を受けていない)事実や証拠に基づいてなされるべきだという主張。
である。


日本の天皇は神話を根拠としている。神と言えば宗教ということになるので、天皇は宗教担当であり、政治とは切り離す。その上で国民の個人がどんな信仰を持とうが自由。
このような政教分離策がフランス革命よりずっと早くから採用されていたのである。
その意味においては日本は世界最先端にいた。
それにあえて終止符を打ったのが明治新政府である。


日本と太陽

日本では明治5年12月2 日(新暦1872年12月31日)まで太陰太陽暦を使っていた。月と太陽の暦で、これを旧暦と呼ぶ。
旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日(新暦1873年1月1日)として、太陽暦を採用した。これが今も使われているもので新暦となる。
明治5年にはクリスマスも大晦日もなかったということになりますね。

日本の皇祖神・天照大神は太陽神である。
日本という国名も、日の丸国旗も、戦前の軍旗も、自衛隊の自衛艦旗も太陽をモチーフにしている。

太宰治が『パンドラの匣』のラスト、’12月9日’と’さようなら。’の前に書いたのは植物の蔓が伸びていく方向の話だった。
僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽(ひ)が当るようです。
 さようなら。

十二月九日


ひばりは、この道がどこへ続いているのかは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよいと言った。
僕たちが歩んでいく道の先を蔓に聞いたほうが良いと言うのである。
どうして蔓だったのだろうか?

蔓は、どこへ続いているのか、なぜそちらに伸びていくのか、何も知らないけれど、伸びていく方向に陽が当たると答えるだろうとも言った。
それはすなわち、蔓には知識というものはないけれど、経験というか事実を持っているということだ。
蔓は伸びていくことは出来る。勢いのある蔓だったらかなり伸びていくことが可能である。だけど自分の意志でその場を動くことは出来ない。

蔓が’僕たち’だとすれば、陽はやはり天皇ということだろうか。

ここで知識を付け足せば、蔓が伸びるのはオーキシンという植物ホルモンが関係している。オーキシンは茎の先端の芽で作られ、根本側に移動して、植物全体の成長を促進する。
実はこのオーキシン、太陽の光が嫌いなのである。嫌いと書いたが、植物のことなので好き嫌いという感情があるかどうかは分からない。
でもとにかくオーキシンは、光を避けるように移動して、全体にオーキシンを伝える。
移動中にも当然茎に光が当たることがあるが、茎に光が当たるとオーキシンは光と反対側に回る。
茎の左から光が当たった場合、茎の右側にオーキシンが多くなる。オーキシンは成長を促進する作用を持つので、左側より右側のほうが成長する。つまりやや左側に傾く感じになる。
それが蔓は光(太陽)の方向へ伸びるということなのである。(→屈光性)
そしてどんなにオーキシンが太陽の光を嫌いでも、植物が健全に成長するにはやっぱり太陽の光が必要なのだった。

それで、さようなら?







# by yumimi61 | 2019-10-15 17:09

混乱

私の佐野友の家は大丈夫だそうです。
e0126350_14592722.jpge0126350_14205675.jpge0126350_14535073.jpg
















太宰治『パンドラの匣』についての続き。

結核の療養所に入っている「ひばり」こと小柴利介という青年。
彼には気になっている看護婦が2人いる。

1人は「竹さん」こと竹中静子。前々回記事のクリスマスケーキの所に登場したが、25,26歳くらいらしい。

塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。
けれども、このひとの笑い顔には特徴がある。これが人気の第一の原因かも知れない。かなり大きな眼が、笑うとかえって眼尻(めじり)が吊(つ)り上って、そうして針のように細くなって、歯がまっしろで、とても涼しく感ぜられる。からだが大きいから、看護婦の制服の、あの白衣がよく似合う。
それから、たいへん働き者だという事も、人気の原因の一つになっているかも知れない。とにかく、よく気がきいて、きりきりしゃんと素早く仕事を片づける手際(てぎわ)は、かっぽれの言い草じゃないけれど、「まったく、日本一のおかみさんだよ。」摩擦の時など、他の助手さんたちは、塾生と、無駄口(むだぐち)をきいたり、流行歌を教え合ったり、善く言えば和気藹々(わきあいあい)と、悪く言えばのろのろとやっているのに、この竹さんだけは、塾生たちが何を言いかけても、少し微笑(ほほえ)んであいまいに首肯うなずくだけで、シャッシャとあざやかな手つきで摩擦をやってしまっている。しかも摩擦の具合いは、強くも無し弱くも無し、一ばん上手で、そうして念いりだし、いつも黙って明るく微笑んで愚痴も言わず、つまらぬ世間話など決してしないし、他の助手さんたちから、ひとり離れて、すっと立っている感じだ。このちょっとよそよそしいような、孤独の気品が、塾生たちにとって何よりの魅力になっているのかも知れない。何しろ、たいへんな人気だ



もう一人は「マア坊」こと三浦正子。マア坊は18歳。

マア坊は、十八。東京の府立の女学校を中途退学して、すぐここへ来たのだそうである。丸顔で色が白く、まつげの長い二重瞼(ふたえまぶた)の大きい眼の眼尻が少しさがって、そうしていつもその眼を驚いたみたいにまんまるく睜って、そのため額に皺しわが出来て狭い額がいっそう狭くなっている。滅茶苦茶(めちゃくちゃ)に笑う。金歯が光る。笑いたくて笑いたくて、うずうずしているようで、なに? と眼をぐんと大きく睜って、どんな話にでも首をつっ込んで来て、たちまち、けたたましく笑い、からだを前こごみにして、おなかをとんとん叩(たた)きながら笑い咽むせんでいるのだ。鼻が丸くてこんもり高く、薄い下唇(したくちびる)が上唇より少し突き出ている。美人ではないが、ひどく可愛い。仕事にもあまり精を出さない様子だし、摩擦も下手くそだが、何せピチピチして可愛らしいので、竹さんに劣らぬ人気だ。


ひばりは最初マア坊が好きだったっぽい。
特に、彼女の言ったある一言に心射抜かれてしまったっぽいのだ。
その一言はというと、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
というものである。
つくしの本名は西脇一夫。やはり入院している男性の患者で、ひばりと同室。35歳、既婚者。ひばりは患者仲間ではこの人が一ばん好きだと書いている。郵便局長かなにかをしていた人だったようだ。
ひょろ長く、美男子ではないけれども上品で、学生のような感じがどこかにある。はにかむような微笑が魅力的とひばりは言う。
マア坊がつくしを慕っているのは皆に知られていること。



おやおや、きょうは、ばかに女の話ばかりする。でも、きょうは、なぜだか、他の話はしたくないのだ。きのうの、マア坊の、
「つくしにね、鈴虫が鳴いてるって言ってやって。」
 という可憐(かれん)な言葉に酔わされて、まだその酔いが醒さめずにいるのかも知れない。いつもあんなに笑い狂っているくせに、マア坊も、本当は人一倍さびしがりの子なのかも知れない。よく笑うひとは、よく泣くものじゃないのか。なんて、どうも僕はマア坊の事になると、何だか調子が変になる。そうして、マア坊は、どうやら西脇つくし殿を、おしたい申しているのだから、かなわない。
(略)
どうもあの、マア坊ってのは、わからないひとだ。いや、なに、別に、こだわるわけでは無いがね、十七八の女って、皆こんなものなのかしら。善いひとなのか悪いひとなのか、その性格に全然見当がつかない。
僕はあのひとと逢(あ)うたんびに、それこそあの杉田玄白がはじめて西洋の横文字の本をひらいて見た時と同じ様に、「まことに艫舵(ろだ)なき船の大海に乗出せしが如(ごと)く、茫洋(ぼうよう)として寄るべなく、只(ただ)あきれにあきれて居たる迄までなり」とでもいうべき状態になってしまう、と言えば少し大袈裟(おおげさ)だが、とにかく多少、たじろぐのは事実だ。どうも気になる。
いまも僕は、あのひとの笑い声のために手紙を書くのを中断せられ、ペンを投げてベッドに寝ころんでしまったのだが、どうにも落ちつかなくて堪(た)え難(がた)くなって来て、寝ころびながらお隣の松右衛門殿に訴えた。


ひばりはマア坊が気になっていて、マア坊はつくしを慕っている。つくしは妻帯者。
ともに片恋慕ということになるが、マア坊は「ひばりのことが一番好き」だなんてことを言ったりもして、ひばりの心は浮いたり沈んだり。
でもつくしは一家の都合で故郷の北海道の病院に移っていった。(その後に入ってきたのが固パン)
内心安堵したであろうひばりだったが、しばらくしてマア坊から「この手紙、どういう意味?」と尋ねられ、つくしからの手紙を見せられる。紳士的でキザで遠回しで情熱的というか荒ぶっている手紙。
締めは短歌である。
 ”相見ずて日(け)長くなりぬ此頃は如何に好去(さき)くやいぶかし吾妹(わぎも)”
                             一夫兄より

「あなたを妹と呼ばして頂きたい」「恋人は科学であり自然美」とか書いた上で、「これからも御便りを送ってゆきたいと思う」とも書いている。
その手紙を「下手な手紙」「意味が分からない」とこき下ろすが内心乱れずにはいられないひばり。


ところがところが小説の終盤でひばりは親友にこんな告白をする。

僕は白状する。僕は、竹さんを好きなのだ。はじめから、好きだったのだ。マア坊なんて、問題じゃなかったのだ。僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目(だめ)なんだ。
君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを数え挙げて、竹さんの悪口をたくさん書いたが、あれは決して、君をだますつもりではなく、あんな具合いに書くことに依(よ)って僕は、僕の胸の思いを消したかったのだ。
さすがの新しい男も、竹さんの事を思うと、どうも、からだが重くなって、翼が萎縮(いしゅく)し、それこそ豚のしっぽみたいな、つまらない男になりそうな気がするので、なんとかして、ここは、新しい男の面目にかけても、あっさりと気持を整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、われとわが心を、はげまし、はげまし、竹さんの事をただ気がいいばかりの人だの、大鯛(おおだい)だの、買い物が下手くそだのと、さんざん悪口を言って来た僕の苦衷のほどを、君、すこしは察してくれ給(たま)え。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、あるいは僕も竹さんを本当にいやになって、身軽になれるかも知れぬとひそかに期待していたのだけれども、あてがはずれて、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮したのさ。
そこで、こんどは、僕は戦法をかえて、ことさらに竹さんをほめ挙げ、そうして、色気無しの親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制(けんせい)しようとたくらんだ、というのが、これまでのいきさつの、あわれな実相だ。僕は色気が無いどころか、大ありだった。それこそ意馬心猿(いばしんえん)とでもいうべき、全くあさましい有様だったのだ。


 君は竹さんを、凄(すご)いほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。
 君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。あの、洗面所の青い電球にぼんやり照らされ、夜明け直前の奇妙な気配の闇(やみ)の底に、ひっそりしゃがんで床板を拭(ふ)いていた時の竹さんは、おそろしいくらい美しかった。負け惜しみを言うわけではないが、あれは、僕だからこそ踏み堪(こた)える事が出来たのだ。他の人だったら、必ずあの場合、何か罪を犯したに違いない。女は魔物だなんて、かっぽれなんかよく言っているが、或いは女は意識せずに一時、人間性を失い、魔性のものになってしまっている事があるのかも知れない。
 今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。古いも新しいもありゃしない。


今こそ僕は告白する。とあるが、告白したのは竹さんにではなく親友にである。
そしてそれは、竹さんが院長(場長)と結婚すると知ってからのことである。
しかも竹さんの結婚を知ったシチュエーションと言えば、ひばりのお母さんが面会に来て、帰るお母さんをひばりとマア坊がバス停まで送っていく間の、お母さんとマア坊のよもや話から。

ひばり母「場長さんが近く御結婚なさるとか、聞きましたけど?」
マア坊  「はあ、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
ひばり母  「竹中さんと? あの、助手さんの。」

お母さんも驚いていたようであったが、僕はその百倍も驚いた。十万馬力の原子トラックに突き倒されたほどの衝動を受けた。
 お母さんのほうはすぐ落ちついて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、眼(め)がお高くていらっしゃる。」と言って、明るく笑い、それ以上突っ込んだ事も聞かず、おだやかに他(ほか)の話に移って行った。
 僕は停留場で、どんな具合いにお母さんとお別れしたか、はっきり思い出せない。ただ眼のさきが、もやもやして、心臓がコトコトと響を立てて躍っているみたいな按配(あんばい)で、あれは、まったく、かなわない気持のものだ。



その後、ひばりとマア坊がお茶する。
ひばりは泣きそうになる。するとマア坊が「竹さんも泣いていたわ」と言い出し、そのマア坊も泣いている。
マア坊の話では、院長(場長)は真面目な人で、竹さんのお父さんのところに直談判に行って結婚の許可を取り付けたらしい。竹さんは自分の父親から自身の結婚を聞かされたのだとか。そして竹さんは2晩も3晩も泣いていたとも言う。マア坊によればそれはひばりが恋しくて泣いていたのだという。

それを聞いたひばりは何故だかマア坊が急に思慮深い美しい人に見えたのである。そして何だかふっと軽くなり満足感すら得ていた。
 その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽(かすか)な細い皺(しわ)が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼(あお)ざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗(きれい)にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。
これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。幽かな「希望」の風が、頬を撫なでる。
僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き「永遠の処女」という言葉を思い出したが、ふだん気障きざだと思っていたその言葉も、その時には、ちっとも気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感ぜられた。
「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、或いは君に笑われるかも知れないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。
 竹さんの結婚も、遠い昔の事のように思われて、すっとからだが軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて望遠鏡をさかさに覗(のぞ)いたみたいに小さくなってしまった感じであった。胸中に何のこだわるところもなくなった。これでもう僕も、完成せられたという爽快(そうかい)な満足感だけが残った。


ひばりには意志がない。だからあっちにふらふらこっちにふらふら漂流する。
でも人は人と交流し、自分が知らない話を聞いたり、本を読んだり、詩や短歌や俳句に触れたりして、互いに影響し合う。時には感化されて考えや情緒に変化をもたらすかもしれない。それを流されると表現することもあるだろうと思う。
すなわち、”あっちにふらふらこっちにふらふら”は「美しい変化」と「醜い裏切り」と、そのどちらでもある可能性があるということなのだ。

「美しい変化」と「醜い裏切り」は嵐の夜に越後獅子が雄弁に語った中に出てきた言葉である。
君子は豹変(ひょうへん)するという孔子(こうし)の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。
支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草(たばこ)もやらぬ堅人(かたじん)などを指(さ)していうのと違って、六芸(りくげい)に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。


実は越後獅子は大月花宵(おおつきかしょう)という有名な詩人だったのである。それを教えてくれたのは病院を来訪したひばりの親友(文通相手)。
ひばりは詩が苦手だったけれど大月花宵の詩は知っているものがあった。越後獅子がそんな有名な詩人と知ったひばりはまず興奮し、次に興奮を通り越して恐れ(畏れ)すら感じるのであった。

今まで誰も彼もあだ名で呼び合っていたのに、急に「花宵先生!」と呼びかける始末。
「あの歌を誰(だれ)が作ったか、なんにも知らずに歌っていたんでしょうね。」と割に落ちついて尋ねる事が出来た。
「作者なんか、忘れられていいものだよ。」と平然と答えた。いよいよ、この人が、花宵先生である事は間違い無いと思った。
「いままで、失礼していました。さっき友人に教えられて、はじめて知ったのです。あの友人も僕も、小さい頃から、あなたの詩が好きでした。」
「ありがとう。」と真面目に言って、「しかし、いまでは越後のほうが気楽だ。」
「どうして、このごろ詩をお書きにならないのですか。」
「時代が変ったよ。」と言って、ふふんと笑った。
 胸がつまって僕は、いい加減の事は言えなくなった。しばらく二人、黙って運動をつづけた。突如、越後が、
「人の事なんか気にするな! お前は、ちかごろ、生意気だぞ!」と、怒り出した。僕は、ぎょっとした。越後が、こんな乱暴な口調で僕にものを言ったのは、いままで一度も無かった。とにかく早くあやまるに限る。
「ごめんなさい。もう言いません。」
「そうだ。何も言うな。お前たちには、わからん。何も、わからん。」


ひばりには意思がない。きっと昔からなかったわけではないのだと思う。いつの頃からか自分の意思を失いつつあった。
それはひばりだけではないのかもしれない。
日本という国が意志や意思を失いつつあった。
ある御方に命を預け、みな命を羽根のように軽いものとして愛し、いわゆる天意の船、新造の船に気軽に身を委ねた。日本という国はその尊いお方の直接のお言葉のままに出帆したのである。
時代は変わったのだ。美しい変化ではなく、醜い裏切りの下で。

この小説は、ひばりや日本という国がカオスに向かっている様を描いている。カオスへの確かな予感がある。


僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓(つる)に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽(ひ)が当るようです。」
 さようなら。

十二月九日


さようなら。と、12月9日という日付を最後に、太宰は筆を置いた。
ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が勃発したのは1941年12月8日で、これは1945年12月9日ということだから、ちょうど4年の月日が流れ、5年目の1歩ということになる。






# by yumimi61 | 2019-10-14 15:03

混成

太宰治『パンドラの匣』より
こないだ、僕は、「死はよいものだ」などという、ちょっと誤解を招き易やすいようなあぶない言葉を書き送ったが、それに対して君は、いちぶも思い違いするところなく、正確に僕の感じを受取ってくれた様子で、実にうれしく思った。

やっぱり、時代、という事を考えずには居られない。あの、死に対する平静の気持は、一時代まえの人たちには、どうしても理解できないのではあるまいか。

「いまの青年は誰(だれ)でも死と隣り合せの生活をして来ました。敢(あ)えて、結核患者に限りませぬ。もう僕たちの命は、或(あ)るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。それゆえ、僕たちは、その所謂天意の船に、何の躊躇(ちゅうちょ)も無く気軽に身をゆだねる事が出来るのです。これは新しい世紀の新しい勇気の形式です。船は、板一まい下は地獄と昔からきまっていますが、しかし、僕たちには不思議にそれが気にならない。」
という君のお手紙の言葉には、かえってこっちが一本やられた形です。君からいただいた最初のお手紙に対して、「古い」なんて乱暴な感想を吐いた事に就いては、まじめにおわびを申し上げなければならぬ。

 僕たちは決して、命を粗末にしているわけではない。



僕たちのこんな感想を、幼い強がりとか、或いは絶望の果のヤケクソとしか理解できない古い時代の人たちは、気の毒なものだ。古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭(めいりょう)に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。
僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。そうしてその羽毛は、なかなか遠くへ素早く飛ぶ。
本当に、いま、愛国思想がどうの、戦争の責任がどうのこうのと、おとなたちが、きまりきったような議論をやたらに大声挙げて続けているうちに、僕たちは、その人たちを置き去りにして、さっさと尊いお方の直接のお言葉のままに出帆する。新しい日本の特徴は、そんなところにあるような気さえする。
 鳴沢イト子の死から、とんでもない「理論」が発展したが、僕はどうもこんな「理論」は得手じゃない。新しい男は、やっぱり黙って新造の船に身をゆだねて、そうして不思議に明るい船中の生活でも報告しているほうが、気が楽だ。



 嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子の蝋燭の火を中心にして集り、久し振りで打解けた話を交した。

「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何いかなる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。

「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌おうかしてずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉まゆをはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」

「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。

「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢ぶらいかんみたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達(おとこだて)とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」

「なんて事だい、」とかっぽれは噴き出して、「それじゃあ、幡随院ばんずいいんの長兵衛ちょうべえなんかも自由主義者だったわけですかねえ。」

 しかし、固パンはにこりともせず、
「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀の頃のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸(はなかわど)の助六(すけろく)も鼠小僧次郎吉(ねずみこぞうじろきち)も、或いはそうだったのかも知れませんね。」

「へええ、そんなわけの事になりますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。

 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。

「いったいこの自由思想というのは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩(はと)が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい』神様はその願いを聞き容いれてやった。然しかるに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔(ひしょう)が出来ません。」

「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。

「あ、」と固パンは頭のうしろを掻かき、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」

「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追及して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩わずらうな、空飛ぶ鳥を見よ、播まかず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍(ふえん)し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」


🍞 「固パン」や「かっぽれ」や「越後獅子」は、入院している「ひばり」の患者仲間のあだ名。

🍞 リベルタンはフランス語 libertin。
libertinというフランス語は17世紀まで、不信仰者と放蕩者を同時に意味する言葉だったが、その後は次第に特定の傾向の思想を持つ者のことを言うようになった。
封建でキリスト教的世界観(宗教的権威)が蔓延った社会に対して合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指し、自由や個性を重視した思想が広がってくるのだが、リベルタンはその過渡期にある。
 カトリック思想→ルネサンス思想→自由思想(リベルタン)→啓蒙思想

啓蒙思想は旧来の伝統や権威を理性のもとに批判し、思考の普遍性と不変性を主張した。啓蒙思想のもとに神・理性・自然・人間などに関する観念が一つの世界観に統合された。これは多くの賛同者を得て、革命的な変化と発展をもたらした。
理性というのは知性や精神(性)ということになるが、もっと分かりやすく言えば意識的思考能力である。理性の反対に位置するのは、信仰・感覚・経験・無意識など。
知識、意識的思考能力、不変や普遍である一つの世界観という啓蒙の特徴は教育を巻きこみ、やがて科学に集約されていくようになる。
キリスト教世界観の矛盾や非現実性をあぶり出すことになり、近現代ではかつての世界観にしがみつく者をキリスト教原理主義者と蔑称で呼ぶようにもなる。
信仰・感覚・無意識などが表立つ思想や主張や見解は、オカルトやカルト、サイコパス(反社会的人格)、陰謀論やトンデモ論、脳内お花畑など揶揄されるようになっているように、現代の現実社会では科学的裏付けのないものは受け入れられなくなっている。

自由思想や啓蒙思想は封建社会や権威主義を打ち破るフランス革命を思想面で支えた。
それまでの絶対君主の多くは「王権神授説」に支えられていたが、こうした思想や革命の出現により新しい支配体制を模索することになり、絶対主義諸国の君主の政治思想にも影響を与えた。
日本の天皇は今なお「王権神授説」に支えられている。


🏁 仲間の前で自由思想を語っている固パンは、自由思想の本来の姿は反抗精神、破壊思想であると解説する。
自由というのは、その反対のものがあってこそのものだと言う。
それは右と左にも言える。右があるから左があるのだ。上があるから下がある。どちらか一方では成り立たない。
ただ単に何かが入り混じっていて区別がつかない混沌(カオス)な世界からは何も生まれてこない。
宇宙は原始カオスだったと言うが、カオスからは意味ある調和のとれた、そして時々バランスを崩す世界は誕生しない。コスモスは生まれない。カオスの反対はコスモスではない。
神というものが宇宙を、地球を誕生させたならば、神に対立する何かがあるということになる。
さてここで問題です。DNAはどちらから読むでしょうか。上からか下からか、右からか左からか。
上から読んだのものと下から読んだもの、左から読んだ者と右から読んだものが同じになる(回文)なんてことは滅多にない。右から読んでも左から読んでも同じ意味になる長文なんてないと思ってよい。また全部読んだものと途中から読んだもの、あるいは真ん中だけ読んだものが果たして同じ意味を持つかどうか。
ノーベル賞も結構だけれど、「ノーベル賞」というものの現実を見ようとしない科学者の何を信じろと言うのだ。
君主(天皇)と対立しようとしない左翼の何を信じろと言うのか。


🍑桃源郷(とうげんきょう)という言葉を御存知でしょうか。
桃という漢字は音読み(中国由来)では「とう」だけれども訓読み(日本由来)では「もも」になる。
「もも」は上から読んでも下から読んでも、左から読んでも右から読んでも「もも」だけれど、同じ桃を意味しても「とう」ではそうはいかないし、英語のpeachでも同じく。

桃源郷は、俗界を離れた他界・仙境。ユートピアとは似て非なる、正反対のもの。

陶淵明の作品『桃花源記』が出処になっている。桃源郷への再訪は不可能であり、また、庶民や役所の世俗的な目的にせよ、賢者の高尚な目的にせよ、目的を持って追求したのでは到達できない場所とされる(日常生活を重視する観点故、理想郷に行けるという迷信を否定している)。

創作されてから約1600年経った現在でも『桃花源記』が鑑賞されているのは、既に人々の心の内にある存在を、詩的に具象化したものが桃源郷であるためとされる。既に知っているものであるため地上の何処かではなく、魂の奥底に存在している。桃源郷に漁師が再訪出来ず、劉子驥が訪問出来なかったのは、心の外に求めたからであり、探すとかえって見出せなくなるという。


ユートピア思想の根底にあるのは、「理想社会を実現しよう」とする主体的意志であるが、桃源郷は「理想社会の実現を諦める」という理念を示している。
ユートピアは理想郷である。イギリスの思想家トマス・モアが1516年に出版した著作のタイトルであり、それに登場する架空の国家名。
理想郷のイメージに引っ張られて、自由で牧歌的な平和な場所と思いがちだが、トマス・モアという人はイギリスの最高位の官僚であり、熱心なカトリック教徒で異端者を処刑するほどであった。
そのトマス・モアが描いたユートピアは、人工的で、規則正しく、滞ることがなく、徹頭徹尾「合理的」な場所である。非人間的と言えるほどの管理社会である。
トマス・モアが官僚だった時代の国王はヘンリー8世。自身の離婚問題を巡り離婚を認めないカトリックと対立し離脱、イングランド国教会を独立させた王である。ヘンリー8世は側近とも言えるトマス・モアに離婚問題について相談していたが、熱心なカトリック教徒でありカトリックの主張を譲らなかったため、イングランド国教会が分離独立後に反逆罪で処刑された。

私はカオスな状態が桃源郷だと考えている。
何か目的をもった途端に秩序が生まれ形を作る。カオスはそれが無い状態であるので、人間という形や意思を持つものは桃源郷とはほど遠い。理想をもって何かを成し遂げようとする時には尚更のこと桃源郷を遠ざける。精神的なことに特化すれば無の境地に至ることができれば、それが桃源郷と言えるかもしれない。
右でも左でもない、選挙にも行かない行ったって仕方ない、フィクションでもノンフィクションでもどっちでもいい、希望もないけれどさりとて絶望しているわけでもない、ケセラセラなるようにしかならないどうにかなる、、、案外日本は桃源郷かもしれないなぁとも思ったりする。
桃源郷とユートピアは混同されやすいが、似て非なるもの。だけど桃源郷とユートピアは正反対のものではない。


🌀カント(ドイツの哲学者)が啓蒙とは何かということを説明している。啓蒙とは人間が自ら留まっている未成年の状態から抜けでることだそうだ。未成年の状態とは、他人の指示を仰がなければ自分の理性(意識的思考能力)を使うことが出来ない状態とされる。
人間が未成年の状態にあるのは、理性(意識的思考能力)がないからではなく、他人の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだと言う。
啓蒙に関して「知る勇気を持て」という有名な言葉があるが、カントに言わせれば「自分の理性を使う勇気を持て」ということなる。
だけど理性を知識とすれば、知識いうものは自然に備わっているものではない。自然に備わっているものがあるとすれば、知識を得る能力や思考する能力であろう。よってそこには能力差もあり努力差も存在する。全ての人が同じだけの知識を有しているわけではないし、思考に耐えられるわけではない。
だから「自分の知識を使う勇気を持て」と言われても、実はそんなに知識がないということもあるし、自分の知識がどんなものなのか自信がないんだよ~ということだってあると思う。


✞ 越後獅子は自由思想の本家本元はキリストだと考えていると言った。西洋の思想は全てキリストの精神を基底にしていると。
それは自由思想の本来の姿は反抗精神であるという固パンの解説にも通じる。
なぜならイエス・キリストは元々はローマ帝国という大国の従属国であったユダヤ王国(パレスチナ)でユダヤ教を信仰するユダヤ人であったからだ。彼が反抗したのはユダヤ教でありローマ帝国であった。
ユダヤ教がなければキリスト教(カトリック)やイエス・キリストは誕生しなかった。ユダヤ教とキリスト教は相反するものである。

プロテスタントはカトリックに反抗して誕生した教派である。ただその反抗はイエス・キリストの存在に関する見解の違いという根本的なところから生ずるものではなかったので、全く別の宗教にはならず教派だけを分けた。でも受け入れがたい違いがあるからこそ分かれたのだろうから、両者に相反する点があるのは仕方がないとも言える。

カトリックでもプロテスタントでも別にどっちでもいいという状態が蔓延れば、なんとなくキリスト教っぽい信仰が個々に点在して残ったとしても、カトリックもプロテスタントも教派としては消滅する。
キリスト教でもユダヤ教でもどっちでもいいという状態が蔓延れば、キリスト教もユダヤ教も消滅していく。カオスな状態に戻っていくのだ。
カオス以外にも消滅する理由がある。それはどちらかがどちらかを呑み込んだ場合、また第三の存在がどちらも呑み込んだ場合。
例えばだけど、新しく誕生したプロテスタントがカトリックを全て呑み込んでしまっていれば、カトリックは消滅していた。
キリスト教がユダヤ教を呑み込んでしまえば、ユダヤ教は消滅する。
イスラム教がキリスト教もユダヤ教も呑み込んでしまえば、両宗教は消滅する。

どれが良くてどれが悪いということに言及しているつもりはない。分かりやすい例を挙げただけのことである。
要するに何かが消滅していく状態には大きく分けて2つある。1つはカオスな状態になること。もう1つはある思想なり理論が他を排斥していく時。


✟越後獅子はこうも言った。「日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」
日本は仏教をもたらした国と戦争をしていた。(日中戦争)
そして、キリスト教の国と仲間になって、キリスト教の国と戦った。(第二次世界大戦・太平洋戦争)
仲間になったのはカトリックの国であり、敵になったのはプロテスタトの国だった。
仲間になったのはユダヤ人を迫害した国であり、敵になったのはユダヤ人の多くが亡命した国である。
枢軸国の三国はファシズム国家とも呼ばれたわけだが、ファシズムとは全体主義である。全体主義は権威主義の範疇に含まれる。
カトリックはイエス・キリストの反抗精神から生まれたが、カトリックに親和し戦争に向かった国々では独裁的な権力の下、反抗を徹底的に弾圧し、反抗精神を封じ込めた。


 それから、みんな、しばらく、黙っていた。かっぽれまで、思案深げな顔をして、無言で首を振ったり何かしている。
「それからまた、自由思想の内容は、時々刻々に変るという例にこんなのがある。」と越後獅子は、その夜は、ばかに雄弁だった。どこやら崇高な、隠者とでもいうような趣きさえあった。実際、かなりの人物なのかも知れない。からださえ丈夫なら、いまごろは国家のためにも相当重要な仕事が出来る人なのかも知れないと僕はひそかに考えた。

「(略)
十年一日の如ごとき、不変の政治思想などは迷夢に過ぎないという意味だ。日本の明治以来の自由思想も、はじめは幕府に反抗し、それから藩閥を糾弾し、次に官僚を攻撃している。
君子は豹変(ひょうへん)するという孔子(こうし)の言葉も、こんなところを言っているのではないかと思う。
支那に於いて、君子というのは、日本に於ける酒も煙草(たばこ)もやらぬ堅人(かたじん)などを指(さ)していうのと違って、六芸(りくげい)に通じた天才を意味しているらしい。天才的な手腕家といってもいいだろう。これが、やはり豹変するのだ。美しい変化を示すのだ。醜い裏切りとは違う。
キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。
狐(きつね)には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕(まくら)するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。
一日も安住をゆるされない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。
日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。」

「な、なんですか? 何を叫んだらいいのです。」かっぽれは、あわてふためいて質問した。

「わかっているじゃないか。」と言って、越後獅子はきちんと正坐(せいざ)し、「天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。今日の真の自由思想家は、この叫びのもとに死すべきだ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない。わしがいま病気で無かったらなあ、いまこそ二重橋の前に立って、天皇陛下万歳! を叫びたい。」

 固パンは眼鏡をはずした。泣いているのだ。僕はこの嵐の一夜で、すっかり固パンを好きになってしまった。男って、いいものだねえ。マア坊だの、竹さんだの、てんで問題にも何もなりゃしない。以上、嵐の燈火と題する道場便り。失敬。



🙌 天皇に関する表現で問題になるとしたら、上に抜粋した部分あたりではないかなぁと思う。
特に最後に抜粋した天皇陛下万歳の部分は、『パンドラの匣』初版(1946年)では掲載されていたが、改訂版(1947年)では削除された部分と言われている。

河北新報社本と双英書房本では61箇所の異同が指摘され、多くは句読点や送り仮名、漢字表記や改行など文法上の改訂であるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあることが指摘される。

全体的に天皇に対する内容の解釈が非常に難しいのだが、特に天皇陛下万歳の部分は’陛下’と相まって分かりにくい。

(万歳は)元々は中国に於て使用される言葉で「千秋万歳」の後半を取ったもの。万歳は一万年で皇帝の寿命を示す言葉であり、本来皇帝に対して以外では使わなかった。諸侯の長寿を臣下が願うときは「千歳(せんざい)」を使っていた

バンザイと発音するようになったのは大日本帝国憲法発布の日、1889年(明治22年)2月11日に青山練兵場での臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが最初だという。
それまで日本には天皇を歓呼する言葉がなく、出御にあたってただ最敬礼するのみであったが、東京帝国大学の学生一同で皇居前に並び明治天皇を奉送迎しようという議が起こり、これに際して最敬礼では物足りないので歓呼の声を挙げようという話が教師の間で持ち上がった。
そこで、フランス語の「ヴィヴ・ラ・フランス(Vive la France=フランス万歳)」や英語の「セーヴ・ザ・キング(Save the King=国王を護りたまえ)」のような唱和の言葉を考えることになり、和田垣謙三教授の提議した「万歳、万歳、万々歳」の唱和が決められた。しかし、当日最初の「万歳」が高らかにあがると馬車の馬が驚いて立ち止まってしまい、そのため二声目の「万歳」は小声となり、三声目の「万々歳」は言えずじまいに終わった。これを聴いた人々は「万歳」を再唱したと思ったようで、以後、めでたい時の歓呼の声として「バンザイ」が唱えられるようになり、「万々歳」は闇へと葬られた。

「天皇陛下万歳」は、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈るものである


明治以降終戦まで天皇は軍隊のトップだった。だから軍隊の兵士は天皇の臣下になるだろう。行政のトップも天皇だったので、官僚も臣下になるだろう。
そういう職業的な臣下(部下・家来)がトップの歓心を買うということは、現代社会でもいたるところで見られるだろうと思う。
職業的な主従関係は、その職業とは関係ない人には関係ない。
でも徴兵令や徴用令で国民総動員すれば、国民は全て天皇の臣下であると言ってもおかしくはない。
つまり国民がみな「天皇陛下万歳」をするということは、国民が絶対君主制を認めているようなものになる。

しかし前にも書いたように’陛下’は尊称ではない。臣下のことである。
だから「天皇陛下万歳」は、「天皇と臣下、ともに万歳」とか「天皇!(呼びかけ)、臣下は万歳です」というような意味にも取れる。それは、戦争が終わったので、もう国民は早死に(無駄死に)する必要はなく長生きできます!という皮肉と受け止められなくもない。

それから、万歳のポーズは、何気に投降のポーズにも似ている。
反抗すると殺されちゃうかもしれないから、万歳して(手に武器を持っていないことを見せて)機嫌を取る=投降(降参)の意を示しているとも取れる。

戦後の検閲だとするならば、それはGHQが行ったものである可能性が高いので、削除させたのはGHQということになる。
太宰は小説内に「アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの自由の叫びを認めてくれるに違いない」と書いたわけだが、GHQはその記述を許さなかった。
GHQはどんな解釈をしたのだろうか。

👑 私は「十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。」という部分も気になる。
神秘主義ってイギリス王室のことを指しているような気がする。

1945年の10年前なら1935年だけど、1943年ならば1933年である。
なぜ1943年なのかと言うと、この部分は戦後に改稿したのではなく戦時中に書いた『雲雀の聲』の中の表現ではないかと思うのである。

1933年というのは、日本が国際連盟脱退した年。
日本は満州事変を契機に中国への侵攻を開始し、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権満州国を建国した。中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴した。それを受けて国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣。リットンはイギリスの御方である。報告書は「日本の侵略」と認定した。
明治維新の頃から日本(反幕府勢力)はイギリスから支援を受けていた。庇護下にあったと言っても良いだろう。
反幕府勢力とそれに続く日本のトップは実質的にはイギリス君主だった。
ところが親密な理解者だったイギリスが日本の味方をしなかった、つまり日本はイギリスから「醜い裏切り」にあったというわけである。
だったらこちらも反抗してやろうじゃないか、日本の自由思想家たちはそう思い、それを実現した。
そして今度こそ名実ともに天皇が日本のトップになるのだ、いや世界のトップになるのだ(ローマ教皇がいるからNo2かな?宗教は別扱いか?)という喜びを表現しているというふうにも読み取れる。
そして、アメリカは日本の自由な叫びを認めてくれると言っている。アメリカは君主国ではなく共和国である。しかもかつてイギリスの植民地だった。アメリカは日本の味方になってくれるでしょ的な表現で、ひょっとしたら日本とアメリカの間で何らかの密約が成立したのかもしれないとも勘ぐれる。
関係の捻転を漂わせている文章である。




# by yumimi61 | 2019-10-12 12:02

混沌

昨日の続きです。

戦時中から戦後設定に改稿

太宰治が戦時中に書いた小説『惜別』と『雲雀の聲』はどちらも戦争期間には刊行されず、終戦直後に刊行された。
検閲に引っかかるのではないかと出版社が心配したという『雲雀の聲』は戦後に『パンドラの匣』とタイトルを変えた。

前回も書いたが、『パンドラの匣』は地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
『パンドラの匣』は出版社が違う初版と改訂版では異なる点がみられ、多くは文法上の違いであるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあった。
戦前の検閲は日本政府が行っていたものだが、戦後しばらくはGHQも検閲を行っており、戦後に刊行された『パンドラの匣』のはGHQの検閲も入っており、初版の『パンドラの匣』では4箇所の部分削除(deletion)の指示が確認されているそうである。。

『雲雀の聲』(後に『パンドラの匣』)は、1940年8月より太宰治と文通していた木村庄助という青年の日記を基に書いたものだそうだ。
その青年は1943年5月13日に病苦のため22歳で自殺している。
同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰に送られたそうだが、ただ殴り書きした日記帳を送ったというよりも、きちんと製本されたものだったらしい。
太宰はそれを受け取って3カ月余りで『雲雀の聲』を完成したことになる。
青年がいつから日記を付けていたのかは定かではないが、戦時中の出来事と思ってよいだろうと思う。
日記を基にしたというからには完全なるフィクションではなく、そして太宰も戦時中に小説『雲雀の聲』を完成させたのだから、内容は戦時中の日本に沿ったものだったはずである。
しかしながら『パンドラの匣』は時代設定が戦後になっているのだ。
こうなると、どこまでが日記に基づいた事実や真実なのかが分からない。もともと分からないと言えば分からないけれど、戦後という設定での会話はどう考えたって事実ではなく(日記に書かれていたことではなく)創作である。


看護婦の日記!?

不思議な点はまだある。『パンドラの匣』は太宰が存命中に映画化された。
1947年7月公開。製作は大映。
『パンドラの匣』を原作とするこの映画のタイトルは当初『思春期の娘達』であったが、太宰がこれを嫌い『看護婦の日記』と改められた。

『パンドラの匣』は健康道場という名の療養所にいる青年(ひばり)が親友に宛てた手紙という形の小説である。
手紙形式の小説だが、手紙は往ったり来たりはしない。もっぱら青年(ひばり)の手紙が綴られている。
女性も看護婦も出てくるが、青年の視点で書かれたものだがら、主人公は手紙を書いている青年ということになろう。

映画だから小説(原作)に忠実とは限らないし、映画を観ていないので何とも言えないところはあるが、映画のタイトルは思春期の娘だったり看護婦だったり女性がメインになっている感じである。
最初に付けられた『思春期の娘達』を太宰が嫌って『看護婦の日記』になったというが、これは原作と設定が違うということなんだろうか。


『パンドラの匣』の設定

🐦手紙を書いている青年…ひばり(小柴利介)
 ’ひばり’というのはあだ名である。小柴利介(こしばりすけ)という名前から付いた。
 こしばり→こひばり(子雲雀)→ひばり(雲雀)

父親は数学の教授。
ひばりは中学校を卒業と同時に肺炎に罹患し、3ヶ月も寝込んでいたため高校への受験が出来なかった。起きられるようになっても微熱が続いたので、家でぶらぶら遊んで暮しているうちに、次の年の受験期も過ぎてしまい、上級の学校へ進学する気力がなくなってしまった。
両親には大層負い目を感じ、せめてもと思い、身体に差し支えない程度に家の畑で百姓の真似事をして暮らしていた。それでも、どうしてもごまかし切れない一塊の黒雲のような不安が胸の奥底にこびりついていて離れなかった。自分や自分のしていることに価値を見いだせなかったのだ。
「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。という意識ほどつらい思いは世の中に無い」

1945年初夏の頃から、ひばりの若いアンテナは一国の憂鬱や危機を感じ取っていた。だからといって何が出来るわけでもなく。ただ毎日毎日激しく畑仕事に精をだした。死ね、死んでしまえ、と言いながら鍬を振り下ろした日もあった。
そんなある日、父親はこう言った。「いい加減畑仕事はやめなさい。おまえの身体には無理だ」
それから3日目の深夜、夢現のうちに咳き込んで、喘鳴がして、喀血をした。
翌日はいつもより早く起きて、朝食も食べずに、また滅茶苦茶に畑仕事をした。誰にも知らせずに病気を悪化させて死んでしまいたかった。お酒を飲んで寝て、深夜にまた喀血した。そうやって8月14日から8月15日に日付は変わっていった。
8月15日の午前中も畑にいた。すると母親が呼びに来た。父親はラジオの前にいた。

そうして、正午、僕は天来の御声に泣いて、涙が頬を洗い流れ、不思議な光がからだに射し込み、まるで違う世界に足を踏みいれたような、或あるいは何だかゆらゆら大きい船にでも乗せられたような感じで、ふと気がついてみるともう、昔の僕ではなかった。

昔の気取り屋の僕ではなくなったひばりは喀血をしたことを母親に打ち明ける。
そして父親が彼を結核療養病院に入れたのだった。
診断では6か月で完治すると言われた。

「健康道場」というのは、風変わりな結核療養所の名称である。
療養所には旧館と新館があって新館のほうが程度の軽い人がいる。ひばりは最初から新館にいる。
軽い体操と身体の摩擦を1日に何度か繰り返すのが患者の日課である。
病気を忘れることが全快への早道と婦長は言っていたそうだから恐らくそれがメインの治療法ということになろう。なにせまだ自然治癒力頼みだった時代であるからして、自然治癒力を落とさないために気に病まないことを第一としたのだろう。完治すると暗示をかけてやることもあったのだろう。
院長は場長、その他の医師は指導員、看護婦は助手、入院患者は塾生と呼ばれていた。名称や療法など全て院長の発案で、非常に好成績を収め、当時は医学界の注目の的となっていたそうだ。

小説はその「健康道場」の他の患者や看護婦など職員との交流を描いたものである。
手紙形式だが、最初の手紙は昭和20年8月25日付となっている。つまりそれは終戦10日後の手紙という設定である。


So this is Xmas181.png

『パンドラの匣』の問題箇所はここではないでしょうか。

塾生たちに一ばん人気のあるのは、竹中静子の、竹さんだ。ちっとも美人ではない。丈が五尺二寸くらいで、胸部のゆたかな、そうして色の浅黒い堂々たる女だ。二十五だとか、六だとか、とにかく相当としとっているらしい。

25、26歳で「相当」年をとっているって・・・クリスマスケーキか!!(なんでクリスマスケーキかって?)




(続く)








# by yumimi61 | 2019-10-11 18:40

混迷

太宰ふたたび

芥川龍之介の有名な作品は、東京帝国大学在籍中含め初期に書かれたものが多い。
一方の太宰治の有名な作品は、井伏鱒二の伝手で教師と結婚(1939年、29歳の時)した以後の後期に書かれたものが多い。
現代の教科書に掲載される非常に優等生的な作品にして超有名作品『走れメロス』は1940年に発表された作品である。
時代的にはすでに日中戦争の最中で、太平洋戦争勃発の1年半ほど前。

以前も書いたが復習。
太宰治の実家は青森県の大地主で、父親は政治家でもあった。金も権力もそこそこある恵まれた家庭に生まれ育った。
芥川龍之介の書物などを愛読する文学少年で、自身も小説家を目指し、旧制中学時代には同人誌を発行していた
東京の旧制一高には行けず、旧制弘前高校に進学するも、この学校は左翼の活動が盛んだった。
太宰は芥川の自殺に衝撃を受け様々な面で変質する。花柳界(芸者・遊女などの社会)に出入りしたり、左翼の活動に足を突っ込み、小説も左翼的なものを書いたり、自殺未遂も起こした。
しかし何事もなかったかのようにロスなく東京帝国大学へ進学し、小説家・井伏鱒二の弟子になったのが1930年。

太宰は旧制高校時代に出入りした花柳界で出会った芸者と恋仲になり結婚を前提でずっと付き合っていたが、芸者との結婚は実家が猛反対していた。
自身が上京後は呼び寄せて同棲を始め、2人は非合法左翼活動にも関わっている。
この活動がばれて太宰は実家から除籍されて、2人は引き離される。
その後、太宰は3回しか会ったことのないカフェの女性と自殺。
女性は死んで、太宰だけが生き残る。
しかしその自殺未遂をきかっけに引き離された2人は再会し、仮祝言(内輪の結婚式)に漕ぎ着ける。但し入籍は認められなかった。これも1930年の出来事である。

大学卒業が怪しくなってきた太宰は1935年3月に都新聞社(現:東京新聞)の入社試験を受けるが不合格となり、また自殺未遂を起こす。
結局大学は1935年9月に学費未納のため除籍となった。
第1回芥川賞は1935年。太宰治は『逆行』と『道化の華』の2作品が予選候補になっていた。どちらも1935年上期にに発表された作品である。
しかしながら芥川賞は取れなかった。選考委員の川端康成から私生活問題発言もなされた。そしてまた不安定になり、鎮痛剤中毒になり、1936年には精神病院にも入院させられることになる。

太宰が不安定で生活も落ち着かないという悩みもあったのだろうか、太宰が入院中、同棲相手(事実婚)の女性が太宰の姉の夫と不倫関係に陥る。翌1937年、太宰の姉の夫が2人の関係を太宰に告白。そして太宰と同棲(事実婚)相手の2人が水上温泉で自殺を図るも未遂で終わる。しかしこれをきっかけに2人は同棲(事実婚)を解消し別れることになる。
太宰はその後、1939年に結婚した。


太宰治と戦争

1935年8月 芥川賞落選
1939年1月 結婚
(1939年12月 ”春服の色教へてよ揚雲雀”という俳句を創作し結婚する知人に送る)
1940年5月 『走れメロス』発表
1941年6月 長女誕生

1937年7月より日中戦争が始まっていた。
『走れメロス』が諸手を挙げて受け入れられるほど日本は穏やかな時代ではなかったはずだ。
1941年11月、太平洋戦争に突入する1ヶ月ほど前、太宰治にも徴用礼状が届いた。文士部隊への徴用である。


日本の徴兵制度は明治時代に始まった。成人男性の日本国民には兵役義務が課せられることになった。

当初は民の抵抗の多かった徴兵制度も、軍人勅諭や教育勅語による国防思想の普及、日清戦争・日露戦争の勝利、さらには軍隊で支給される食事が当時の貧困層の生活レベルから見れば良質で、有料だが酒保が置かれたという俗な理由もあり、組織的な抵抗はなくなった。
しかし徴兵忌避の感情は自然の感情であるので、さまざまな徴兵忌避対策が庶民レベルで繰り広げられた。
創設当初にあった徴兵免除の規定も徐々に縮小・廃止され、1889年(明治22年)に大改正が行われ、ほぼ国民皆兵制となった(ただし、中等学校以上の卒業後に志願したものは現役期間を1年としたり、師範学校を出て教員になったものは現役6週間とするなどの特例があった)。逆に徴兵が免除される者が少数派になると、かえってそれが不名誉とみなされるようになった。

なお徴兵令の適用年代には地域差がある。本土では1873年(明治6年)だが、小笠原諸島・北海道では1887年(明治20年)、沖縄本島では1898年(明治31年)、先島諸島では1902年(明治35年)になるまで徴兵はなかった(例えば沖縄出身で日清戦争に従軍した者は全て志願である)。このため,例えば鈴木梅太郎や夏目漱石のように、徴兵逃れのために本土から沖縄や北海道へ転籍する者もいた


明治期の徴兵令が昭和時代に入ると前面改正され、兵役法となった(1927年・昭和2年)。
明治時代に義務教育制度を導入し、「教育勅語」に基づく皇民化教育を行い「天皇のために命を捧げることは名誉なこと」だと教え込んだため、多くの人は戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと思っていた。
それは天皇の為に戦った戦争に負けても、家族や愛する人や祖先や国民が天皇に命を捧げたり人殺しなどむごいことをしても、なお天皇崇拝を何ら不思議に思わない戦後の状況と酷似している。その精神性は変わっていないのだ、何も。

日本国民男子が20歳になると、とにかく全員徴兵検査を受けなければならなかった。(戦時中の1943年に19歳、1944年に17歳へ引き下げられた)
検査結果により次のとおり、振り分けられる。
・甲種…ただちに軍隊に入営。期間は2年。その後「予備役」として在郷待機。
・乙種…補充兵役。有事以外は在郷待機で普通の生活。たまに教育訓練のために召集がある。
・丙種…補充兵役。身体上にやや難があるが兵役には適すると判断されたもの。有事以外は在郷待機で普通の生活。
・丁種…身体障害者や感染症患者などで兵役に適さない。
・戊種…兵役の判定が出来ない。翌年再検査となる延期者も含む。

この他、職業軍人、志願兵(17歳から可、1944年には14歳に引き下げられた)、義勇隊(男子15歳以上、女子17歳以上)、学徒隊<鉄血勤皇隊・学徒看護隊>(男子15歳以上、女子17歳以上)、現地召集兵や防衛隊や護郷隊(概ね17歳以上)などがあるため、20歳前の少年少女が動員されている。
職業軍人と志願兵以外は強制的なものである。また志願兵も家族や学校や周囲の大人が志願することを強制したり強く勧めることもあったようで半強制的な印象は拭えない。

「召集」とは、現役以外の兵役者を軍隊勤務させることである。
2年の兵役を終えて在郷で予備役になっている甲種や乙種丙種の在郷待機者を呼び出すこと。
有事や欠員の際に呼び出すお知らせの紙が「召集令状」(俗にいう赤紙)である。
呼び出される可能性がある人(兵役者)を在郷軍人と呼んだ。

地域の役所の兵事係は在郷軍人の調査を行っており、基本的な個人情報から、職業・年収・健康状態(けが、病気、入院など)に至るまでの細かな調査書を作成し(在郷軍人名簿)、それを軍司令部に提出していた。
実際に徴兵が可能かどうか見極めたり、どのような技術や特技を戦争に役立たせることができそうかを軍司令部が把握しておくためである。
大本営から各地の軍司令部に動員がかかったときに、どこの誰がその役割に適しているか、動員内容と名簿の照合により綿密に人選され、適した人材が見つかると召集令状が発行された。
もちろん戦争末期は綿密に人選するほどの余裕はなかったと思うが。
どんな職業で、どのような技術や特技を持っているか、これを分業とか得業と呼んだが、そうしたものを持っている人には兵隊ではなく戦争に関連する特定の労働に就かせるため召集がかかることがあった。
徴兵と区別して徴用と呼んでいる。
日中戦争の最中の1938年3月には国家総動員法、翌1939年7月に国民徴用令を公布して国民の職業・年齢・性別を問わずに徴用が可能となる体制作りを行った。
そして徴用として軍需工場をはじめとする重要産業にも大量に動員されていくことになった。
兵役に就かせる召集令状の赤紙に対して、徴用は白紙や青紙だった。

徴用は現実の食料などの物価上昇を無視して、一般国民を国家の命令で転職させて低賃金で働かせるものであったことから、大変評判が悪かった。
当初こそは、徴兵に次いで国家に奉公する名誉が与えられたとする考えもあり、積極的に徴用に応じる空気もあったが、労働環境の劣悪ぶりと度重なる徴用令、そして勤務先の強制的な解散・組織全体の徴用などに伴って、徴用に対する一般国民の反発は高まっていった。
既に1940年(昭和15年)の段階で徴用拒否者が問題化し、徴用の動員令状である「白紙」は、軍隊の召集令状である「赤紙」と並んで人々を恐れさせた。
徴用拒否は1943年~1944年頃には深刻化して徴用制度そのものが崩壊の危機を迎えた。このため、学徒勤労動員や女子挺身隊の名目で学生や女子などの非熟練労働者に対する動員が行われた。



1909年生まれの太宰治は1929年に20歳になった。
太宰は徴兵経験が一度もないというから甲種合格者ではなかったのだろう。
日中戦争が始まった年(1937年)には28歳だった。
そして1941年11月、文士部隊への徴用召集があった。32歳。
しかしその後の区役所の身体検査の結果、胸部疾患のため免除となったという。結局戦争に直接関わることはなかった。師匠の井伏鱒二は文士徴用員としてマレー派遣軍に随行した。

1944年8月、次男誕生。

太宰治が間接的に戦争に関与したと言えば、1943年大東亜共同宣言を受けて、国策に協力するための小説の執筆者に選ばれ、1945年2月に小説『惜別』を完成させたことだろうか。
しかしそれは戦時中には発表されることはなかった。


『雲雀の聲』と『パンドラの匣』

すでに太平洋戦争が始まって2年の月日が流れていた。
戦争に赴かずに済んだ太宰治は、1943年10月末、『雲雀の聲(ひばりのこえ)』という小説を完成させた。
大東亜共同宣言が1943年11月6日なので、その直前に脱稿したということになる。

しかしながらこれも戦時中には発表されることはなかった。
どうも検閲で問題視されることが予想される小説だったようだ。

検閲
書籍、新聞、映画の記事・表現物の内容を審査し、不都合があれば、発行・発売・無償頒布・上演・放送などを禁止や一定期間差止する検閲を行った。行政処分として、現物の没収・罰金、司法処分として禁錮刑を行った。
日露戦争のあと、内務省は逓信省に通牒し、極秘のうちに検閲を始めた 。
1941年(昭和16年)10月4日に、臨時郵便取締令(昭和16年勅令第891号)が制定されて、法令上の根拠に基づくものとなった。


<書籍>
著作物は、出版法による文書、図書を発行したときは発行3日前に内務省に製本2部を納本する必要があり、書簡、通信、社則、引札、番付、写真などは内容が取締法規に触れないものに限り届出が省略された。
検閲にあたって当局は、内容が皇室の尊厳を冒涜し、政体を変改しその他公安風俗を害するものは発売頒布を禁止し、鋳型および紙型、著作物を差し押さえ、または没収することができた(明治26年4月法律15号、明治43年4月法律55号、昭和9年7月内務省令17号)。


どうせ検閲で不許可になるだろうからと出版社が自主的に一旦は出版を見合わせたというのである。

しかし太宰が1944年8月29日付けで、堤重久宛に宛てた書簡には「2~3カ月中に『雲雀の聲』と『津軽』が小山書店から出る」と書いてあった。
堤重久は太宰治の弟子であり、小山書店は『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover の完訳本)を発売して裁判沙汰になった出版社。

堤重久
文芸評論家、京都産業大学名誉教授。
太宰治の一番弟子で、著書に『太宰治との七年間』がある。
東京新宿の開業医の息子。旧制東京府立高等学校(後の東京都立大学を経て現在の首都大学東京)3年在学時、18歳のとき、『晩年』を読んで衝撃を受け、太宰治に心酔する。
1940年初冬に太宰の門人となる。1942年大学卒業後は東大図書館に勤務しつつ、作家を志して長篇小説を執筆。戦時中は外交官の伯父の勧めで外務省に勤務し、外交官試験の準備をする。太宰の死後は京都市に住み、京都産業大学で教えた。
『晩年』など太宰の初期作品に比べて『人間失格』などの後期作品には否定的な立場を取った。


小山書店
1933年に小山久二郎が東京市小石川区諏訪町に創業する(のち麹町区富士見町に移転)。処女出版物は野上弥生子『入学試験お伴の記』、ついで本多顕彰による翻訳本『ハムレット』『ロミオとジュリエット』を発行する。文学書を中心に『新風土記叢書』(太宰治の『津軽』はこの第七編として刊行されている)、『現代詩代表選集』など多くの良書を世に送り出している。
1950年に発行した伊藤整訳『チャタレイ夫人の恋人』がわいせつ文書として告発され(チャタレー事件)、その影響で小山書店は倒産する。その後、小山書店新社を興すが、チャタレー事件の影響で生じた負債で長くは続かなかったようである


『チャタレイ夫人の恋人』は1928年に発表されたイギリスの小説家D・H・ローレンスの小説。
現代の感覚で見れば些末な問題であるが、当時は英国社会における身分制度を大胆に扱った猥褻文書と見なされ、内外で激しい論議の的となり、日本では伊藤整による翻訳本の出版に関して最高裁までの裁判となった(チャタレー事件)。

太宰は検閲については一言も触れていない。
発行されなかった理由、それは―

1944年12月6日付け、小山清(1940年に太宰治の弟子となった人物で、太宰が戦時中に疎開している時期に太宰宅の留守を預かっていた) に宛てた書簡には、「『雲雀の聲』は発行間際に印刷工場が焼夷弾にやられて全焼」と書いてあった。

実はこの『雲雀の聲』はタイトルを変えて戦後まもなくに発表されているのだ。
『パンドラの匣』がそれである。
魯迅の東北医専留学時代を描いた『惜別』は1945年9月に朝日新聞社より刊行されたが、『パンドラの匣』は、地方紙『河北新報』(宮城県仙台市に本社のある新聞社)にて1945年10月22日~1946年1月7日にかけて掲載された後、 1946年6月5日に河北新報社より刊行、1947年6月25日に双英書房から改訂版が刊行された。
余談だけど、小山書店の処女出版物は『入学試験お伴の記』(13歳の次男の受験に付き添った体験を綴ったエッセー)だが、入学試験の保護者同行が話題になったのも東北大学でしたね!(2014年)


パンドラの匣

『パンドラの匣』(パンドラのはこ)は、太宰治の長編小説。
「健康道場」という名の結核療養所を舞台に繰り広げられる恋愛模様を通じて、青年・ひばりの成長を描く。
1947年と2009年に映画化されている。

本作品は、太宰の読者であった木村庄助の病床日記がもとになっている。

1940年(昭和15年)8月より太宰と頻りに文通していた木村庄助は、1943年(昭和18年)5月13日、病苦のため22歳で自殺する。同年7月11日、遺言により日記全12冊が太宰宛てに送付される。日記は京都の丸善に製本させたもので、「健康道場にて」と記した日記の背には太宰の短編「善蔵を思ふ」を模して「太宰治を思ふ」と刷り込んであったという。

1943年(昭和18年)10月末、太宰は木村の日記をもとに「雲雀の声」を書き上げる。小山書店より刊行する予定であったが、検閲不許可のおそれがあるため版元と相談の結果一旦出版を中止。その後許可が下り小山書店より出版される運びとなった。ところが1944年(昭和19年)12月、戦災のため発行間際の本が全焼。本作品はその時残った校正刷をもとにして執筆されたものである。1945年(昭和20年)11月9日までに脱稿。

河北新報社本と双英書房本では61箇所の異同が指摘され、多くは句読点や送り仮名、漢字表記や改行など文法上の改訂であるが、天皇に対する表現など内容の解釈に関わる部分もあることが指摘される



最初に付けようと思っていたタイトルは『雲雀(ひばり)の聲』だけれど、ひばりというのは青年の名前でもあった。
太宰が生きている間に映画化もされている。
戦後2年目の夏、1947年7月1日公開。
ひばり役を演じたのは群馬県出身の小林桂樹さん。

2009年の映画で看護師の1人を演じた川上未映子さんは2008年の芥川賞受賞作家。





# by yumimi61 | 2019-10-10 14:35

混乗

大東亜共同宣言と文学

国は菊池寛に指示して「日本文学報国会」(国家の要請するところに従って、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する会)を1942年に設立した。
1926年に菊池寛が設立した「日本文藝家協会」をそのままスライドさせたような形だったので、多くの作家が名を連ねることになった。
「日本文藝家協会」と「日本文学報国会」は同じ会長の下に存在した組織であるが、表向きの趣旨が異なるため、自動的にスライドされることを拒否した作家もいるし、プロレタリア作家であるため外されてしまうのではないかと自ら大いに心配した作家もいた。

1943年11月6日、大東亜共同宣言が発表されると、「日本文学報国会」は5大原則を文学作品化することにした。
執筆作家は指名制ではなく一応希望制という形式を採っている。
内閣情報局と日本文学報国会が委嘱作家選定のため、執筆希望者全員に「小説の梗概(あらすじ)と意図」の提出を求めたという。反体制や反戦がテーマの小説なんか書かれたら困るということなんだろう。
それによって、全体と5つの原則のそれぞれを担当する6人の作家が選ばれ、執筆が委託された。


【大東亜会議の参加国】
・日本

・中華民国(南京国民政府)
1940~1945年にかけて存在した、中国(当時の正式名は中華民国)の国民政府。首相は汪兆銘。こちらは日本に協力的な政府だったが、中国には、蒋介石率いる重慶政府もあり、そちらは連合国側に付いた。

・満州国
1932~1945年にかけて満洲(現在の中国東北部)に存在した国家。1931年の満洲事変で日本が満洲を占領。日本主導で同地域が中国(当時は正式には中華民国)からの独立を宣言し、1932年に満洲国建国を宣言した。日本の傀儡政権。

・タイ王国
1932年に絶対君主制から立憲君主制になった。植民地支配されなかった珍しい国家。但し国土の一部を割譲している。地理的にイギリスとフランスの勢力圏の緩衝地帯となっていたため独立が維持できた。第二次世界大戦においても枢軸国に名を連ね日本に協力的であった一方、連合国に協力的な勢力も存在しており密に連携していた。
こうした二重外交により、1945年、タイは1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することが出来、降伏や占領を免れた。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。

・フィリピン第二共和国
1943年10月14日~1945年8月17日にかけての日本占領時期のフィリピンに存在した国家。日本占領前はアメリカの植民地だったが、1935年施行のフィリピン独立法によってに独立に向けての政治体制が整えられた(独立準備のための暫定政府)。それを占領したのが日本である。
独立準備のための暫定政府はアメリカに亡命。日本が作らせた別の政府時代がフィリピン第二共和国で、日本の傀儡政権。

・ビルマ
1943年8月1日~1945年3月27日にかけての日本占領時期のビルマ(現ミャンマー)に存在した国家。日本の支援を受けてイギリスの植民地支配から独立する形で誕生したが、日本の傀儡政権。

・オブザーバー として自由インド仮政府
1943年10月21日~1945年8月18日にかけて存在したインド独立運動活動家による団体。「インドの暫定政府」として日本占領時期のシンガポールで樹立され、日本軍の軍政に関与する形でアンダマン諸島とニコバル諸島を統治した。


【大東亜共同宣言(現代語訳版)】
1.大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

3.大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。

4.大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

5.大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。


太宰治が執筆担当することになったのは、2の「独立親和」である。



執筆者選考の深い闇!?

大東亜共同宣言がなされたのは1943年11月6日だが、日本文学報国会は11月10日付の機関紙に小説執筆候補作家25名の氏名を掲載した。
会長である菊池寛の名はあるが、太宰治の名はなかった。

戦中に、たった4日で候補者リストを上げて、機関誌発行の段取りが整ったとは思えない。
日本文学報国会は国家の要請するところに従って国策を周知徹底させ、宣伝普及に挺身し、国策の施行実践に協力する組織なので、当然に随分前から「これこれこういう内容で大東亜共同宣言がなされるから、それに合わせて作家らに小説を執筆させてくれ」というオーダーが来ていて準備してあったか、日本文学報国会が率先して大東亜共同宣言に合わせた活動を事前に企画していたということになるであろう。

候補者として掲載されていなかった太宰治であるが、太宰は1944年1月30日付で東宝の映画プロデューサー山下良三に宛てた書簡の中に「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いていた。

1944年1月20日付の機関紙では、「執筆希望者約50名の協議」が行われたことが書かれていて、実際に出席した作家26名の氏名が掲載されている。
前年11月に発表された候補者25名の中で出席している者は4名だけで、あとの22名の出席者は新たな作家である。ここに太宰治と川端康成が含まれている。
11月の25名と1月の約25名を合わせれば、「執筆希望者約50名」ということになるが、本当に希望者なのかどうか。
この協議で「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出すること、審査委員会は執筆希望者以外の権威ある文学者・官庁関係官で構成することなどが決議された(説明された)。
つまりまだ執筆者は決定していないはずである。

しかし太宰は1944年1月30日付の書簡で「新年早々、文学報国会から大東亜五大宣言の小説化という難事業を言いつけられ、これもお国のためと思い、 他の仕事をあとまわしにして、いささか心胆をくだいています。」と書いているのだ。
このあと2月に太宰は「小説の梗概(あらすじ)と意図」を提出したようである。

執筆者が決定し発表されたのは、1945年1月10日付の機関紙だった。執筆者決定までにおよそ1年かかったということになる。
執筆に先立ち1944年12月19日に「宣言五原則の理念を聴く会」が開催され、関係幹部や執筆者が出席したとの報告がなされ、小説は1945年2月下旬には完成予定と発表された。



戦争の終わりを見据えていた?

御存知の通り、8月15日は終戦記念日である。但しこの日を終戦とするのは他の戦争に鑑みると少々無理がある。アバウトすぎる。
あえて言うならば玉音放送記念日。もっと分かりやすく言えば天皇ラジオ放送記念日。
でもまあ1945年8月15日前後にひとまず戦争(戦争状態)は終わった。

戦争が終わるまでに小説を完成させたのは太宰治しかいなかった。6人中1人である。
執筆を自ら希望しておきながら、太宰以外誰も期限内に書かなかった。
国策の施行実践に協力するのが目的で、国策が戦争であったり大東亜共同宣言に則るものならば、戦争が終わってからでは遅いのだ。いつ書いても良いという小説ではない。目的を持った小説のはずである。
それを考えると、選ばれた小説家も実は書きたくなかった、あるいは最初から書く気がなかったのではないかと思えるのだ。
戦争が終われば書く必要はなくなるのだから、待ってさえいれば書かなくて済む。

太宰は日本文学報国会が告知した通り、1945年2月末にきっちり小説を書きあげた。しかしそれがすぐに発表されたり刊行されることはなかった。
まるで戦争が終わるのを待っていたかのように、1945年9月に朝日新聞社から刊行された。


太宰治が描いた「独立親和」

では太宰治は「大東亜各国の独立親和」をテーマにどんな小説を書いたのか。
タイトルは『惜別』。「惜別」は別れを惜しむこと。

<小説の内容>
・東北大学医学部前身の仙台医専に留学していた頃の魯迅を、東北の一老医師であり、当時の魯迅の親友が語るという設定で、藤野先生・私・周君(魯迅の本名)らの純粋な対人関係を描いた。作中で魯迅の語る偽善や革命運動家への疑問などを通して太宰自身の思想が色濃く反映されており、伝記としての魯迅伝とは若干異なる作品となっている。

魯迅(ろじん)とは?
中国の小説家、翻訳家、思想家である。本名は周樹人。
中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家である。その作品は、中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されている。日本でも中学校用のすべての国語教科書に彼の作品が収録されている。

1881年にやや貧困ではあるが、学問を尊ぶ伝統を残している家の長男として生まれた。
18歳で南京にあった理系の学校に入学、4年間を過ごす。
1902年、国費留学生として日本に留学した。
医学を専攻したが、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれた。ニーチェ、ダーウィンのみならず、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドロノフによるなどロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を与えた。
1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学し、学校側も彼を無試験かつ学費免除と厚遇した。特に解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし、彼は学業半ばで退学してしまう。
当時、医学校では講義用の幻灯機で日露戦争(1904年から1905年)に関する時事的幻灯画を見せていた。このとき、母国の人々の屈辱的な姿を映し出したニュースの幻灯写真を見て、小説家を最終的な自分の職業として選択した。
その幻灯写真には中国人がロシアのスパイとしてまさに打ち首にされようとしている映像が映し出されていた。そして屈辱を全く感じることなく、好奇心に満ちた表情でその出来事をただ眺めているだけの一団の中国人の姿があった。
のちに、はじめての小説集である『吶喊』(1923年)の「自序」にこの事件について以下のように書いた。


あのことがあって以来、私は、医学などは肝要でない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がよく、どんなに頑強であっても、せいぜいくだらぬ見せしめの材料と、その見物人となるだけだ。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。むしろわれわれの最初に果たすべき任務は、かれらの精神を改造することだ。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。そこで文芸運動をおこす気になった。
— (竹内好訳『阿Q正伝・狂人日記』(1955年)岩波文庫)
 



打算と秘密兵器

太宰治の『惜別』は、中国からの留学生の目を通してという形で、日露戦争当時の日本を語らせた。
日露戦争の日本の勝利は世界に衝撃を与えた。大げさに言えばそういうことになる。小国が大国に勝ったということでアジアや中東に影響力を与えたのは事実である。
日露戦争とは、日本にとってそういう輝かしい位置づけにある戦争である。

太宰はあえて「文豪・魯迅」ではなく、「若者の目」から見た日本を語らせているわけだが、その若者が後の魯迅であることを最初に記しており、最後ではわざわざ魯迅の『藤野先生』という作品を一部引用して紹介している。
読者はどうしたって世界の文豪・魯迅から逃れられない。
日本を持ち上げるには上手い構成というか、ある意味こてこてとした構成というか。

(略)
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅ろじんとなって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
太宰治 『惜別』



日本文学報国会に提出した「小説の梗概(あらすじ)と意図」には次のように書いている。(後半部分です)
タイトルは「清国留学生」→「支那の人」→「惜別」と変更した様子がある。

(略)
彼(周樹人)のさまざま細かい觀察の結果、日本人の生活には西洋文明と全く違つた獨自の凜乎たる犯しがたい品位の存する事を肯定せざるを得なくなつたのであります。清潔感。中國に於いては全然見受けられないこの日本の清潔感は一體、どこから來てゐるのであらうか。彼は日本の家庭の奧に、その美しさの淵源がひそんでゐるのではなからうかと考へはじめます。
或ひはまた、彼の國に於いては全く見受けられない單純な清い信仰(理想といつてもよい)を、日本の人がすべて例外なく持つてゐるらしい事にも氣がつきます。けれども、やはり、はつきりは、わかりません。
次第に彼は、教育に關する御勅語、軍人に賜りたる御勅諭までさかのぼつて考へるやうになります。さうして、つひに、中國がその自らの獨立國としての存立を危くしてゐるのは、決して中國人たちの肉體の病氣の故ではなくして、あきらかに精神の病ひのせゐである、すなはち、理想喪失といふ怠惰にして倨傲の恐るべき精神の疾病の瀰漫に據るのであるといふ明確の結論を得るに到ります。
然して、この病患の精神を改善し、中國維新の信仰にまで高めるためには、美しく崇高なる文藝に依るのが最も捷徑ではなからうかと考へ、明治三十九年の夏(六月)、醫學專門學校を中途退學し、彼の恩師藤野先生をはじめ、親友、または優しかつた仙臺の人たちとも別れ、文藝救國の希望に燃えて再び東京に行く、その彼の意氣軒昂たる上京を以て作者は擱筆しようと思つて居ります。
梗概だけを述べますと、いやに理窟つぽくなつていけませんが、周樹人の仙臺に於ける日本人とのなつかしく美しい交遊に作者の主力を注ぐつもりであります。さまざまの日本の男女、または幼童(周樹人は、たいへんな子供好きでありました)等を登場させてみたいと思つて居ります。
魯迅の晩年の文學論には、作者は興味を持てませんので、後年の魯迅の事には一さい觸れず、ただ純情多感の若い一清國留學生としての「周さん」を描くつもりであります。
中國の人をいやしめず、また、決して輕薄におだてる事もなく、所謂潔白の獨立親和の態度で、若い周樹人を正しくいつくしんで書くつもりであります。現代の中國の若い智識人に讀ませて、日本にわれらの理解者ありの感懷を抱かしめ、百發の彈丸以上に日支全面和平に效力あらしめんとの意圖を存してゐます。


日本に留学に来た22歳の若者・周樹人、それは後に世界的な文豪となる魯迅であるが、その若者の心の変遷、そしてそれに大きく影響を与えたもの(つまりそれは、この上なく素晴らしい日本)について書くというわけである。
魯迅が若い時に日本に留学していたのは本当のことであり全くの創作話ではなく、話の骨格は事実に基づいている。
しかし太宰治が描いた周樹人の心象風景が真実かどうかは分からない(かなり怪しい)。
また小説を読んだ読者が抱きうる心象風景には正解がなく、太宰の執筆意図に応えるとは限らない
総合的にみると、フィクションなのかノンフィクションなのか、ドキュメンタリーチックなのか、かなり微妙なところである。

でも日本人が素直に読めばたぶん悪い気はしないだろうと思う。
中国の世界的な文豪を誕生させるきっかけとなったのは日本だったという、日本人がとても好きそうな話なのだ。
それも留学を通じた交流だから、宣言の2にも相応しい話である。(周さんや魯迅が中国のどのあたりの人かまでは確認していないが、大きく中国として捉えれば)

2.大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。

但し医学を捨てて文学に進んだというような精神性を描くことが、現実問題として今起こっている戦争に対して戦意高揚に繋がるかと言えば甚だ疑問である。武より文、科学より信仰みたいな主張となり、読む人が読めば自身を否定されたような気持になるだろう。
一方、太宰の小説から日本賛美だけを感じ取れば、優越性や傲慢さを助長することになり、侵攻が正当化されて領土欲は広がるかもしれない。だから戦意を高揚する可能性もある。
さて、読者はどちらに振れるだろうか。
そもそもこの小説を読むのは誰なのか?戦時中にいったい誰をターゲットにしたのか。

『惜別』は日本にとって心地よいものであるが(現に1字1句直されなかったと太宰が書いている)、この小説を発表する目的が戦争遂行のためでも和平のためでも効果が疑問視できる小説である。

むしろ敗戦してから世に出した方が効果的に使えると思えてくる小説なのだ。(でもそれは、戦時中には発表されなかったということを知っている後世の人間である私の感想だから偏見が入り込んでいる可能性も捨てきれない)





... Ads by Excite .....
無料ブログのため広告が上部及び下部に強制表示されてしまいますが、内容など一切関知しておりません。個人の広告収入などもありません。(yumimi61)

# by yumimi61 | 2019-10-08 18:55