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虐待ー⑤

それも虐待!?

虐待による死亡数のグラフをこちらの記事(『世相』)に載せた。
いわゆる虐待死(心中以外の虐待死)が平均50人/年。
「心中以外の虐待死」の被害児童は0歳児が半数を占め、8割は3歳以下であり、小学校入学前の児童が圧倒的に多い。

虐待加害者は実母が半数を超える。その次に多いのが実父である。その次が複数(父+母など)による虐待。その次がその他であるが、これに内縁関係にある人や同居人が含まれる。養父母は実父母よりも絶対数が少ないこともあるが、虐待加害者になっているケースはとても少ない。

親子心中(無理心中)で死亡してしまった児童を「心中による虐待死」として別にカウントしている。
心中は、経済的不安や親自身の病気、子供の障害などを親が将来を悲観して、親が子供を道連れに死のうとすることである。
「心中以外の虐待死」よりは数は若干少ない。
こちらは「心中以外の虐待死」よりは年齢がばらけて、小学生や中学生年齢の子供との心中もある。

その他おそらく虐待には数えられていない「子殺し」もあると思う。
虐待は主に傷害罪と保護責任者遺棄致死罪であると思うが、そうではなくて殺人事件(殺人罪)として扱われるもの。
子供の首を絞めて殺したとか、ナイフで刺して殺したとか、高所から落としたとかいう事例である。
そこに至るまでに虐待があったのか、それとも突発的なのか、抑えていたものが爆発したのか、個々の背景は不明だが、これも被害児の年齢はいわゆる虐待死よりは年齢がもう少し上がりそうな気がする。

また子供が虐待から逃れるために自殺するということもあるだろう。
要するに自殺の背景に虐待があったであろうという事例だが、これも自殺できるほどの年齢になっていたということになる。

子供を残して親が自殺してしまうこともある。

さらに言えば、子供(+妻あるいは夫)を残して家出し行方不明(音信不通)になる事例もあるだろう。


いま述べてきたことをまとめれば次のようになる。
どれであっても、子供は何かしら被害を被る。
親子心中、親の自殺や行方不明の場合、その原因が子育てに悩んでいたといったものではなく別の理由だったとしても、子供への影響は大きい。それを心理的虐待と言うことだって出来なくはない。
それを言うならば、この世に誕生したことがすでに虐待(生まれてきたくなかった、あなた達の子供として生まれてきたくなかった)とか言い出す子供いるかもしれないけれど。

・子を虐待
・親子心中
・子供を殺害
・子供が自殺(自殺背景に虐待がある場合)
・親が自殺
・子が行方不明(家出の背景に虐待がある場合)
・親が行方不明
(・子を産んだこと!?)


西日本新聞 2016年11月15日「親子心中は虐待」認識あるか 精神科医療と児童福祉 足りない連携 進まぬ対策 社会の考え方に問題は…
心中による子どもの虐待死と、心中以外の虐待死では加害動機の傾向が違う。9月に厚生労働省が発表した子どもの虐待死事例検証報告(2014年度分)によると、心中以外による虐待死は43件44人で、心中が21件27人。加害動機では、心中以外は子どもの存在拒否(31・8%)▽保護を怠ったことによる死亡(11・4%)▽しつけのつもり(9・1%)-などばらけているのに対し、心中は「保護者自身の精神疾患・精神不安」が59・3%と、一つの項目が高い割合を占める。

【心中以外の虐待死】
・子どもの存在拒否(31・8%)
・保護を怠ったことによる死亡(11・4%)
・しつけのつもり(9・1%)

【心中による虐待死】
・保護者自身の精神疾患・精神不安(59・3%)

転載した記事には加害動機が違うと書いてあるが、そうとも言い切れない。
精神疾患という言うといかにも病気な感じだけれど、精神が不安定な状態ならば誰だってなりうる。
うつ病(うつ状態)などは「心の風邪」とさえ言われるくらいである。
精神というとハードルが上がるが、メンタルとか心理状態とか言えばハードルは下がる。
従って、・子どもの存在拒否・保護を怠ったことによる死亡・しつけのつもりに、・保護者自身の精神疾患・精神不安がなかったとは言えない。











# by yumimi61 | 2019-02-22 16:31
女の「きょうだい」だったら、上の子は姉ということになりますよね。
あーね?
皆さん「あーね」を御存知でしょうか。
『アンネの日記』の「アンネ」ではありませんよ、「あーね」です。
息子に何か話しかけると、その返答が「あーね」ということがあったのです。
どうも「ああそうだね」とか「ああそれね」というような意味で使っているらしく、群馬界隈の若者語らしいのです。

そしたら最近「なんなん」が流行っていると聞いたので、「あーそれ、群馬語でしょ」と自信満々に言ってみたところ、「なんなん」というのは関西弁だと言うのです。なんなん、それ。
群馬の若い子普通に使ってますよね?「何なの?」「なにあれ!」というような意味合いで用いるのですが、関西弁由来?
群馬は語尾を「ん」で終わらせることが結構あります。
「なんなん」(なんなの)、「そうなん」(そうなの)、「来たん」(来たの)、「やめたん」(やめたの)、「したん」(したの)、「好きなん」(好きなの)などなど。
「この間、あの人が来たんね」(この間、あの人が来たのね)と、語尾「の」に「ね」を重ねるのも群馬っぽいとか。
「この間、あの人が来たんさ」と「ん」に「さ」を重ねるともっと群馬っぽいかも。

そこで「あーね」も関西弁なのかと調べてみたら、これは福岡をはじめ九州地方で使うらしいとあったの。



「上の子」「下の子」

私は長女である(2歳違いの妹がいる)。だから私もかつて「上の子」だった。
かつてと書いたが生きている限り「上の子」を降りることが出来ないのも事実である。

多くの上の子と同様に、子供の頃には「なんで私ばかり怒られるの」とか「私は全然悪くないのに」と思ったことがある、確かにある。悔しくて泣いたこともあると思う。
「子供の頃、ゆみちゃん(私)ばかり怒られていたよね、可哀想なくらいに」という従姉の大人になってからの証言もあるので、主観だけではなく客観的にも私はよく怒られていたんだと思う。
母親はとても厳しい人だった。でも優しい人でもあった。
子供の時には怒られた勢いにまかせてノートに「お母さん、〇ね」と書いたことがあるかもしれないが、毎日毎日恨みを募らせていたということは絶対にないし、大人になってから子供の時に怒られたことを恨んでいるということも全くない。
そもそも怒られた記憶も概ね小学生以降の記憶であり、それより幼い時代に怒られた記憶というのは記憶としては残っていない(人格形成に影響しただろうとかそういう話は別にして)。
また妹が憎かったということも怒られた子供時代にも全くない。むしろ妹とは仲が良かったほうである。

小学生以降には、勉強とかスポーツとか芸術関係とか、子供を評価する別の視点が出てくる。
子供の時には妹より私の方が上手く要領よく何でも出来たと思うので、その意味では私の方は親や他の人に褒められることが多かったと思う。幼い時と立場が逆転する。
ひいきされているみたいで妹に申し訳なく思ったこともあるし、「下の子」である妹は妹で姉と比較されるのは嫌だと思っていたはず。
この手の話もよく聞くことである。

最初の子である「上の子」は親が初めての育児で緊張状態の中、かなり気合も入れて育てるため、愛情を一心に注がれ(た時期があり)、同時にマニュアルに則って厳しく躾けられる(ことが多い)。
「上の子」は大人中心の世界、大人の感覚の中で育つ。だから比較的大人びてしっかりしていて我慢強く思いやりの気持ちを持つ傾向にある。
「上の子」と「下の子」というのは他人が見てもなんとなく分かるという声もよく聞く。
そうした「上の子」の特徴が他者から良く評価された場合には、親も育てた甲斐があったというもの。

しかし「上の子」の特徴が他者から評価されない場合には、「上の子」の特徴は「生意気」「ませてる」「可愛げがない」「子供らしくない」「鼻持ちならない」「我が強い(マイペース)」「はっきりしない(自己主張・自己表現しない)」という、どちらかと言えばよくないものに変わってしまう。
また他者からの評価があっても、親は「良い子を演じるのが上手い」とか「裏表がある」「要領ばかりいい」と思っていることがある。

昔から「出来の悪い(馬鹿な)子ほど可愛い」という言葉があるくらい。
出来の悪い、手のかかる子が、何だかんだ言いつつも、気になり可愛いということ。
それは何故なのか、突き止めれば出来の悪い子や手のかかる子は「自分の存在意義」を感じさせてくれる存在ということになると思う。
親としての承認欲求を満たしてくれる存在。
乳児などは、おむつを交換したら泣き止む、おっぱいやミルクをあげたら泣き止む、あやせば泣き止んで笑うなど、全身で分かりやすく親を承認する存在である。
親の承認欲求を親が要求したように満たさない子供は、親にとって可愛くない存在となり得る。

あまり可愛がられた記憶がないのに、大人になって(親に対しての)責任ばかりが付いて回り、割が合わないと思っている長男長女も少なくないのではないかなぁと思う。

世間一般にこうした「上の子」「下の子」の特徴があるので、逆に上の子なのに上の子らしくないということが親の神経を逆なでしたり、不安にさせたり心配になったりということもあるのかもしれない。



悩んだり苦しんだのはあなただけじゃない

虐待のステレオタイプやリスクファクターはあるが、本当にいろいろな要素が絡み合っており、こういう場合に起こる、と端的には言い難い。
正直、どこまでを虐待と言い、どこからを虐待と言わないか、そのあたりも難しい。
子育て期には、表面化しない暴力や恫喝は、それこそ当たり前のように存在しているはずだから。
暴力や恫喝と書けば自分とは無縁と思ったり、自分のは違うと認めない人も大勢いるかもしれないが、見る人によっては暴力や恫喝に該当するという例は山ほどあるだろうと思う。それなのにいつの間にか他人事になって別世界を見るような目で眺める。
逆に、過ぎてみれば些細な事や僅かな失敗を、いつまでも後悔したり、自分を責めている親も少なくないかもしれない。親子関係は子供が成人したとしてもなかなか切れず、そのしがらみはいつまでも付いて回る。おそらく日本ではアウトプットのレベルを子育てを含め親子関係に求める風潮が強い。血へのこだわりが存在するというか何というか。だから子育てが上手くいかないと自分の血が評価されないような気がするのだと思う。創造主としての神が前提にある欧米ではその意識が薄い。

そうは言っても死に繋がってしまう事例は現実にはほんの一握り。限りなくゼロに近い。(だから言って死んでしまう子を無視してよいとは言ってない)

平均して年に50人くらいの子供が虐待死する(心中は含まず)。(但しそのうちの2割近く、数にして10人程度は0日児、すなわち産んですぐに放置したり殺されたもの。中絶をしそびれた事例と言ってもよいだろう)
昨今の1年間の出生数はおおよそ100万人程度。
虐待死の統計における児童とは高校生年齢までを含むので、0~18歳として、×19で1900万人。
1900万人のうちの50人。50÷1900万=0.00000263 率にすると⇒0.000263%
1900万人のうちの40人(0日児を除いた)の場合、率にすると⇒0.000211%

ちなみに交通事故の1年間の死者数は昨年が3500人程度。(交通事故は右肩下がりに年々減っている)
総人口に対する死者数として、率にすると⇒0.003175%
虐待死の率とは桁が1つ違うので、分かりやすく言えば3%と30%くらいの違いがあるということになる(交通事故のほうが30%)。
交通事故死者数ゼロを達成するのに自動運転が不可欠ならば、子育てもロボットにしてもらったらよいのでは?介護に可能ならば子育ても可能でしょ?どう?
余談だけど、完全自動運転が達成された暁には、交通違反による罰金の収入が無くなりますね!その時は自動運転税でも導入すればいいかな。

ジャンボ宝くじで1等に当たる確率は0.00001~0.000005%くらい。
虐待死する確率よりもずっと低い。
でも宝くじを買う人は結構いる。それくらい身近なものでもある。
1等が当たった人を見たことなくても、みんな1等が当たることを夢見ている。
1等が当たっても当たらなくてもそこにある精神は同じと言っておこう。

子育てに悩む親はとても多い。でも虐待死に至るような事例は限りなく少なく、多くは親も子も怒涛の日々を何とか乗り越えていく。大丈夫であることがほとんどなのだ。
もちろんその大丈夫だった中には関係機関や関係者の努力によって救われたという事例も含まれるだろうけれども。
一方で中途半端な介入・仲介が不幸を招いてしまうことがあるのも事実。




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# by yumimi61 | 2019-02-19 11:38
弱者としての経験

母子保健事業に携わる保健師は学生時代や新人の頃に、対象のお母さんにこう言われたりすることがある。
「子供も産み育てたこともないあなたに何が分かるのよ」
はっきり言われなくても、そう思っているだろうことをひしひしと感じてしまうこともある。
(かといってベテランが対応すればしたで、「あなたとは時代が違う」と言われたり思われるのがオチ)

そういう時には悔しさ半分情けなさ半分にこう思うのだ。
「人々は癌に罹ったことのない医師の診察を受けるじゃない、子供を産んだこともない産科医に子供を取り上げてもらうじゃない、弁護士は犯罪なんか犯したこと無いでしょ、保育士や教師だって子供を産み育てたことがない人がいる、それと同じことでしょう。出産や育児経験はないけれど、私達はその代わりにそういうことを人よりも学んできたし、そういう経験を持つ人と多く接してきた」と。

だけど自分が実際に妊娠出産や育児を経験すると、その気持ちが少し揺らぐ。
自分で経験しないと分からないことがあるということが分かってしまうから。
綺麗ごとでは済まないことがあり、頭で分かっていても出来ないことがあり、自分が一生懸命やっていても結果に繋がらないことがある。
「こんなに頑張っているのに、あーじゃないこーじゃない、うるさいっ!」と心の中で叫び、次の瞬間には「だけどこれで本当に大丈夫なんだろうか」と不安いっぱいになるというようなことが日常的起こってくる。

専門家は「経験に立脚しない専門性」を認めないわけにはいかない。
だけど「経験の大切さ」というか、「経験に立脚する専門性」の重要性を身を持って知ってしまう。
経験というのはサービスを与えたり正しさやノウハウを教示する側ではなくて、受ける立場としての経験である。
前者を強者とするならば弱者としての経験である。
学生時代や新人の頃というのはその世界の中では経験の浅い半人前の弱者として扱われるだろう。
しかしひとたび肩書き理論武装して外に出ればどんな者でも強者となってしまう。

昨今は弱者の経験を極端に嫌う傾向も強い。


4歳児の心の闇に悩むお母さん(ネット内のQ&Aより)

4歳の息子の心の闇を見てしまいました。長文です。下の子への嫉妬だと思いますが・・・

現在4歳の息子と1歳の娘がいます。
娘が生まれたばかりの頃は俗に言う赤ちゃん返りをしていましたが、ここ半年くらいは落ち着いていました。
息子はよく言えば優しい性格ですが、小心者で慎重、優柔不断なところもあります。
普段は優しいお兄ちゃんという感じで娘によく世話を焼いています。

なのですが、ある日私がたたみ終わった洗濯物をリビングから各部屋に運んでいたところ、私が少しいなくなった隙に息子が「○○ちゃん(娘)、これ全部ぐちゃぐちゃにしてもいいよ!こうやって」と言いながら私が畳んだ洗濯物をぐちゃぐちゃにしていたのです。息子が赤ちゃんの時以来そんなことされたことがなかったのでショックでしたが平静を装って「あれっ!?ぐちゃぐちゃになってる~!!」と言うとすかさず息子が「○○ちゃんがやったんだよ!!これは悪いことだよね!めっ!!」と言って娘の目のすぐ下のあたりにデコピンをしたのです。

これにはさすがに冷静さを失い、すぐに息子を怒鳴ってしまったのですが、こんな叱り方をしてしまって行動がエスカレートしてしまったらどうしようと今とても不安に思っています。


普段は下の娘がかわいそうなくらい上の子に合わせた生活を送っているのにまだまだ愛情不足のサインなのでしょうか?主人は週末も仕事のことが多く、子供が寝てから帰宅、起きるとすぐに出勤なので物理的にかまってやれないことも多々ありますが、自分なりに試行錯誤して過ごしてきただけに今回のこの行動はショックでした。私が気づいていなかっただけで過去にもあったかもしれません。

今回のこのケース、皆さんならどう対応しますか?


(投稿者の)補足
ご回答ありがとうございます。とても参考になります。今、最近の息子の変化を思い返していました。食事の時にお茶やスープをひっくり返す頻度が急増したのは偶然ではなかったのかもしれません。朝、おねしょしちゃった!と言うのに濡れているのはパンツとパジャマだけで、お布団は全く濡れていないことも何回かありました。起きた後わざとしたのかもしれません。もっと息子の心に寄り添う努力をしてみます。


(投稿に対する回答の1つ)
「○○ちゃんがやったの、見てたの?どうして止めたり、ママを呼んでくれなかったの?
赤ちゃんだから、やっちゃいけないことがわからないんだよ。めっ!はする必要ないし、するとしてもママがやる。」と言いますかね。
心の闇というか…性格も陰湿だなぁと思いました。

子供によりそうのは大前提として、お兄ちゃんとしての自覚や、新しいポジションを与えてあげてはどうですか?
「今度やったら、ママを呼んでね」と言って、呼んでくれたら
「良かった!お兄ちゃんが居てくれたから、ママ助かっちゃった!」
とお兄ちゃんとして立てる。

「○○はまだわからんちんだけど、お兄ちゃんはさすがだよね。やっぱりお兄ちゃんだけのことはある!」など誉め殺し、

「○○もお兄ちゃんみたいに優しい子になって欲しいな。良いお兄ちゃんが居て良かったね」
「○○はお兄ちゃんが大好きなんだね。優しいし頼りになるから、大好きだよね。ママもお兄ちゃんに助けてもらってるんだよ」

と上の子に聞こえるように下の子に話したり、
小さい子供とは違うスタンスで親から認められる、愛されることも、試してみてください。
赤ちゃん扱いしても、下にはかなわないのは本能的にわかりますからね。

具体例は良いけれども、この文章で投稿ママが一番心に残してしまうのは、「心の闇というか…性格も陰湿だなぁと思いました」だと思う・・・。


ストレスマックスなお母さん

あーもう上の子(3歳)に腹立ち過ぎて放棄したい。

本当に頭おかしくなる。
私も旦那もお手上げ状態。
今日とうとう引っ叩いた。
頑張ってるんだけど、伝わってくれない。
上の子に関わりたくない。
同じようになった人いますか?


(投稿に対する回答の1つで、投稿者の選んだベストアンサー)
私です!二歳児にですが。。
イヤイヤ期が始まった娘を性悪のどうしようもないやつだと思ってました。
正直、叩いたり怒鳴ったり突き飛ばしたり髪つかんで大声で説教したり挙げたらキリないです。

しかもすぐに後悔して子供に号泣しながら謝ったり、一人部屋にこもって泣いたり。。。
周りに相談しても引かれるしどうすればいいのかなんてわかってるけど、できません。毎回ヒステリック起こしてしまいます。

これ以上にないほどの嫌だと思う一年を過ごしてきました。
でもそろそろ三歳になるんですが子供がだんだん落ち着いてきて以前の絶望的な日常とおさらばかもという状態になってきました。

後悔してるけど振り返ってみると、あのときどう自分を保てばよかったのかわかりません。



上の子可愛くない症候群(?)のお母さん

最低な事を自覚した上での質問です。
釣りとかではなく本当に悩んでいます。

2児の母、上が男の子 下が女の子
3歳と1歳なので2歳差です。
下の子が産まれて1年2ヶ月が経とうとしてい ます。

本題に入ります。
それは下の子が産まれた瞬間、いきなり変わってしまったんです。
上の子が可愛くない、、愛せない、、優しくできない、、嫌い、、いらない、、
などこういう感情ばかりを持つようになりました。
それでも一時的なものだろうと思っていました。
でも1年2ヶ月、、その感情が全く変わる事がなく日に日に悪化する一方、、。
自分なりにいろいろ調べた結果、
上の子可愛くない症候群 と言うのが出てきました

自分にぴったりの名前だ、、と思いつつ見ていたら、やはり自分は上の子可愛くない症候群なのかと思いました。
ですが、私のようにここまで酷い感情を持つ方はあまりいないようにも思えたり、、
酷い時は シ◯ って思ったり産んだ事をすごく後悔するくらいです。
ほぼ毎日手もあげてしまいます。
主人は何も言いませんが今は厳しい時代なので周りから見たら完全に虐待でしょう。
本当に一緒に居られないと毎日思って居ます。
この感情を治すために一時的に離れる事も考えて施設…と言う候補も考えては居ますが、まずどこに問い合わせるのか、それすらもわかりません。

ちなみに、下の子は可愛くて仕方ないしたくさんの愛を自分なりに伝えて居ます。
愛おしいってこう言う事なんだ…と下の子を産んでから知りました。
ちなみに主人も下の子にしか、可愛いと言いませんし上の子にすごく当たりが強いので私と同じ事を思っているのかもしれません。
本当に最悪の事態になる前にどうにかしたいのですが、、どこから手をつけたら良いかわかりませんのでどなたかアドバイスをお願いします。
最低な悩みなのはわかって居ますが、今まで誰にも言えず、この事で鬱になり本当に辛くて耐えきれない状態での相談ですので、批判等のコメントはスルーします。


(投稿に対するたった1つの回答)
まずは地域の市役所で健康づくり課(名前は違うかもしれません)に相談してみては?
もし施設へとお考えならご主人の考えも聞いた上で相談した方がいいでしょう。
または、189にご連絡を。



上の子が愛せないお母さん

子供が二人います。上の子が大嫌いです。
最初は可愛くて「じゃあもう一人」と産みました。
二人目も可愛くて、できれば最終的には5人くらいほしいです。
でも、上の子だけはどうしても好きになれません。
子供は好きです。でも、彼女だけどうしても嫌いなのです。
育てていてつらくて仕方がありません。
客観的には素直で元気でかわいらしい子供だと思います。
ただ、個人的に言動や性格がどうしても受け入れられず、

かといって親としてまさか「大嫌い」などと言えるはずもなく、ただただとてもつらいです。
こんなときどうしたらいいでしょうか。


(投稿に対する回答の1つで、投稿者が選んだベストアンサー)
あ、これ、大丈夫ですよ。そんなに悩まないで。
女の子(特に一番上の)がすっごく嫌いになるお母さんって、結構います。
でも、これ個人差はあるけど、時間が解決してくれます。
こいつ、やなことするなぁ、と思っても、とりあえず深呼吸でもして冷静になるよう努力してみて。
そのうち大丈夫になるから。
自然に子供のほうが変わっていくから大丈夫。
大きくなって、話し相手になってくれるような女の子は、大抵、腹の立つ時期があるものです。


(投稿に対する別の回答)
一人で児童相談所へ行って、先生に相談してみたらどうですか?
子供も可哀想ですが、なんだかあなたも深く悩んでそうで凄く可哀想ですね。
きっと、真面目に子供のことを思って相談すれば、
「なんて親だ!」
なんて叱られないと思います。

あなたは心の病気なんですから、じきに良くなって二人とも愛せるようになりますよ。
だからそれまでできるだけ人前では、自分の子供を大嫌いなんて言わないでください。



孫可愛さに追い詰められたお母さん?

子供殺して私も死にたいです

私が一番上の子供を愛せないせいで、毎日否定し暴言を吐いてきたせいで、上の子が下の子にも同じ様な態度を取ります
それにイライラしまた暴言
もういやです
本当は笑っていたい
見守る事も笑顔でいる事もできない母親なんていらないし、こんな遺伝子を残してはいけないですよね
子供といると毎日毎日イライラしています
毎日大声で怒鳴っているせいで近所の方にも、最低な母親と思われていると思うと、合わせる顔もないです
子育ては原点の小さな頃の記憶を思い出す事で、我に返れると言いますけど
上の子は、義理両親に毎日朝から夜まで連れ出され、お泊まりや旅行。
私は産んだだけなので、思い出すとまたイライラが収まらなく、どうすればいいのか分からないです
悔しい
私の一番最初の初めての子供だったのに
大切に育てたかったのに!
ジジババが出しゃばって、私は鬱病にまでなったのに、ふざけんな!
もう悔しくて苦しくてでも取り戻せない
ジジババに対する怒りが全て上の子にいっちゃってるのもわかります。

最低ですよね
毎日苦しいです
どうすればいいのか本当に分からない
でももうすぐ上の子は小学校卒業だし、いっぱい 母親に甘えたかっただろうに、無償の愛をあげれず、抱きしめた事もない
子供の心を考えるとこれから真っ直ぐ育つ自信ないです
本当は殺して私も死にたいけど、自分の両親の事を考えると、私のせいで、頭がおかしくなったりしないかな。もう歳なのに、私が働いてお小遣いでもあげないと。
など死ぬに死に切れない
どうしたらいいですか誰か教えて下さい



今どきのお母さんも悩んでいる時は長文になる

上の子の育児に限界です。
上の子6歳
下の子6ヶ月の男の子2人です。
上の子は元々育てやすい子ではなく手がかかるヤンチャな子でした。だけど私にとっては可愛い所も沢山あり、それなりに子育てが楽しかったのですが、下の子が産まれてイライラする事が多くなりました。
例えば

寝ている赤ちゃんをすぐ起こす。
起きて泣きだしたら知らん顔で遊び出し私はぐずる赤ちゃんを再度抱っこして寝かしつける。
自分の遊びに飽きると赤ちゃんを扱いまわす。
ひっくり返したり、抱っこしたり、こちょこちょしたり、周りで踊ったり。
それも力が強く優しく触ってあげてと6ヶ月言い続けています。踊ってあやしてるつもりみたいですが、跳ねたり手足をバタバタしたり、赤ちゃんに当たらないかとか、踏んづけないかとか、
とにかく側に来るとヒヤヒヤして目を離せません。これが6ヶ月間続いています。
あと自分の事に関しては、とにかく我慢が出来ません。オモチャを買って家に付いてあけようねと約束しても車の中で開けます。
12時にお友達と待ち合わせしていると言うと
延々とまだまだ言い続け、待ち合わせの前に私の用事を例えば買い物とかクリーニング屋に行くとか、しようとするとウダウダギャーギャー言い出します。
何処かに出掛けると何か買って買ってとウルサいです。今日は一つ買って良いよ。と約束して行くと
二つが良いとか言い出します。
とにかくウダウダする事が多くて出掛けるのも嫌になるし、家にいれば退屈してうるさし、何をしてても上の子の存在が嫌になっています。

今日は何があっても怒らないで上の子との遊びを一緒に楽しもうと思って出掛けて、上の子も凄く楽しそうで良かったと思っていて、ちょっとおっぱいあげてくるからお父さんと交代するね!と言うとまたそこでウダウダ。
怒らず優しくしても駄目だし、何度も注意しても駄目だし、とにかく手に負えません。

最初は嫌な時もあれば可愛いと思える時もありましたが、徐々に頑張って可愛いと思うように努力している自分に気が付き最近では昔は可愛いと思っていた明るくて陽気な所でさえ嫌気がします。
このままでは下の子ばっかり可愛がってしまったりする母親になってしまいそうで怖いです。
何度言っても言う事を聞かない時や、それが危ない事に繋がる時など思わず手を挙げてしまう様にもなりました。もう力でねじ伏せる様な感じで解決する以外ない感じです。


とにかく上の子が嫌いになりそうです。
ちなみに幼稚園では普通の子で、お友達にも優しく自分が我慢して譲ってあげたりしているらしく
集団生活もちゃんと出来て、先生からは何も問題ないと言われています。
時々しか会わない友達などには、人懐っこいし良い子だねーと褒められる事がほとんどですが、
これがまたイライラします。
どうしてこんなに良い子に出来るのか。
使い分けしてる所も嫌です。
おばあちゃんの前ではいつもの息子で、おばあちゃんも本当うるさい、スーパーの買物に連れて行くのも嫌らしいです。

幼稚園の先生にも担任が変わる度に面談で
多動障害などの可能性はないか聞いていますが
そんなのは全くない。と言われます。
苦笑されました。
どうしたら息子は変わってくれるのでしょうか。
叱らず言い聞かせてもダメ。
沢山遊んでもダメ。
叱ってもダメ。
息子に素敵な大人になって欲しい。
沢山友達が出来て、息子の事を好きになって欲しい。沢山の笑顔を溢れる人生にして欲しい。
ただただそれだけなのに全く上手く行きません。

どうやったら息子と上手く付き合えるでしょうか。もう毎日毎日自分の息子に対する感情が嫌です。



自分もかつては上の子だったお母さん

上の子が下の子にものすごく嫉妬し、下の子のことを嫌いとか言ったり、いじめたりします。
私も、長子で、小さい頃弟が母に可愛がられ自分は可愛がられてないと感じていて、かなりいい年になるまでトラウマとなっていて、長女がかわいそうだから下の子をつくらないと決めていたくらいです。でも、そこまで思い悩んだ自分だからこそ、長女を思いやって気にかけてやることができるはず、と思い、自分も主人も歳なので、長女にも兄弟がいたほうがいいのかもしれないと思い直し、もう一人作りました。
でも、やはり次女はまだちいさく(9ヶ月)なにもできないし、なんにつけても待ったなしで、自分の方針でもあるはずだしどの育児書にも書かれている、上の子を優先してあげましょう、それがなかなかできないです。
それどころか、次女にひどく嫉妬してヒステリを起こしたり、苛めたりする長女を、かなりきつく怒ってしまうのです。
だれよりお姉ちゃんの寂しさをわかっているはずなのに、うまくいきません

なかよし姉妹に育てたいのに、この小ささ(三歳と9ヶ月)ですでにものすごいバトルです。
でも、まだ小さいからこそ、私の育てかたひとつかえることで仲良しに育てられるなら、やれることがあるなら、ぜひ経験者のかたに教えていただきたいです。
要領が悪くうまく立ち回れない私でも、上の子が寂しいと感じさせない方法も…。
自分のせいなのか、本人がもともと嫉妬深い性格というのもあるのか、わからないのですが。
来年度から年少さんですが、その前に満三歳児クラスに入れてしまったほうが、本人も気が紛れていいのでしょうか…




数例をピックアップしたが、上の子が下の子に嫉妬し意地悪したり赤ちゃん返りして困るという投稿よりも、むしろ上の子を愛せないと表現する投稿が多いくらい。

通常、下の子の方が手が掛かるものである。
上の子下の子が何歳かにもよるが、上の子は親の顔色を窺って行動できるようになる(それが良いか悪いかは別として)。
下の子はもし乳児ならば親の都合などお構いなしに昼も夜も泣く。
親がストレスを溜め怒りを生じさせてしまうのは、親の都合などお構いなしに訳も分からず昼も夜も泣く乳児である、この因果関係は分かりやすい。(介護なども同様の問題を孕んでいる)
虐待死した児童の半数は1歳未満であるので、このような因果関係はある程度裏付けられるだろうと思う。

だが「きょうだい」がいる場合、手のかかる乳幼児よりも上の子に憎しみや怒り、可愛くない、好きでないというような感情が向くことが結構な頻度である。

2018年3月に虐待死した結愛ちゃん(5歳)にも1歳半の弟がいた。
父親が逮捕されたが、父親の結愛ちゃんへの態度が豹変したのは下の子が生まれた後だったという。
このケースの場合、結愛ちゃんが母親の連れ子で、下の子は再婚した夫の実子であったという事情もあるが、下の子が誕生したことで家族は崩壊していった。
今回の心愛ちゃん(10歳)にも2歳になる前の妹がいた。
そして、このケースはどちらも、下の子の妊娠が発覚した後に結婚している。




# by yumimi61 | 2019-02-18 12:13
一時保護の影響

小学3年生の2学期に(9月より)転校してきた少女が11月に児童相談所にて一時保護される。
沖縄県から引っ越してきたばかり。まだまだ地域にも学校にも友人にも、そしてお父さんのいる生活にも慣れきってはいないだろう時期。
そんな時期に家族から引き離されて、彼女は一時保護所で生活をし、そこから学校に通うはめとなってしまった。

例えば新しいお友達が出来たとして・・
「今日みあちゃんちに遊びに行っていい?」とお友達が訊く。
「私、今おうちにいないの」
「え~どこにいるの?」
「児童相談所」

それを聞いたお友達は家に帰ったらきっとお母さんか誰かに言うだろう。
「転校してきたお友達は児童相談所にいるって言うんだけどなんで?」と。

転居してきて間もない転校生が児童相談所暮らしをしている。だけど親も親族もいるらしい。・・・ってことは何?問題児っていうこと?それとも虐待されてるとか?とお友達の保護者は思う。
はっきりとしたことは分からないが「普通」ではないことを確信する。
友達や保護者の間にそうした噂が流れ、「あの子とは遊んじゃダメよ」「あの子に関わらないでね」と保護者が子供が言うようになるかもしれない。
保護者にしたらとばっちりが怖いから。

南青山に児童相談所の建設計画に猛反対する人がいるということが一時期ニュースを騒がしていたが、我が子のそばに児童相談所のお世話になるような親子がいるということは、青山の不動産の価値が下がることよりも、ある意味ずっと身近な問題である。
細かい事情は何ひとつ分からずとも偏見に晒されることは間違いない。

一時保護した2017年11月時点で、実際に女児がどれほどの暴力を受けていたのかは定かではない。
その一時保護が、その時点において、彼女の生命危機を救う役割を果たしたのかどうなのかという冷静な評価が必要だろうと思う。それほど危険な暴力行為が本当にあったのかどうかということである。
なぜその評価が重要なのかと言えば、一時保護は彼女のその後の人生に与える影響があまりに大きいからである。彼女は転校後の学校デビューや地域デビューに失敗したと言っても過言ではない。
「お父さんの暴力」から一時的に逃れられたとしても、その後の彼女には明るい未来は見えなかったと思う。


一時保護後の転校の意味

アンケートの「父親からの暴力」の訴えに半信半疑だった両親や親族。
12月末に一時保護から戻ってきた子供は、冬休み明けに学校には行きたがらなくなり、その疑念はさらに膨らんだ。
そこでアンケートのコピーを見せるように迫って、コピーを見せてもらい、両親は子供が自分自身で書いたことを確認した。
学校の先生や市教委が嘘をついていたわけではないということが分かった。
だからこそ、そこでそれ以上騒ぐことをやめて、父親は小学校を転校させたのではないだろうか。
世間体(主に同じ学校の保護者)を気にしたということも含めて、一時保護が与える影響を父親は分かっていたということにもなる。

父親本人に多少なりとも娘への暴力の自覚があったのかどうかということも気になるが、ともかく父親はもう一度リセットしようと思った。
「一時保護」という噂による偏見のない新たな学校で娘を再出発させてやりたかったんだろうと思う。
(但し、遠くに転居したわけではなく、転校先は隣接区の学校であり、学校間の距離が最短で1.5kmくらい)


千葉県野田市内での転校後、事件まで(小学3年生3学期~小学4年生2学期終わりまで)

報道された情報(つまりそれは特筆事項ということなんだろうと思うが)、その情報の中で、一時保護解除後の転校後から事件までの出来事として私が確認できたのは下記の2つだけだった。

・小学4年生の夏休み明け、2学期の始業式から1週間ほど沖縄県に滞在していることを理由に欠席。しかし1週間後には元気に登校した。

・2学期の終わり近くの面談でも父親は担任に「下の子の面倒をみてくれるようになったんです」と嬉しそうに話す。

すなわち、この情報だけでは、一時保護解除後から事件まで(小学3年生3学期~小学4年生2学期終わり)はそれほど大きな問題はなかったように見え、転校が功を奏したような印象さえ受ける。
ただ夏休み明けと冬休み明けに始業式から連続して欠席している。
沖縄の母親実家に滞在していることを理由に欠席していたようだが、それが事実だったのかどうか。
もしその事実がないとするならば、長期休み明けに学校に行きたがらないということがあったと推測できる。

学校にあまり行きたくない娘。
普通に学校に行かせたい親。
親は子供や第三者が思う以上に、子供が学校に行きたがらない、子供が学校を休むということに、精神的なダメージを受けるものである。欠席が長期になってくれば徐々に親のほうも追い詰められていく。
親がそのような心理状態にあって、もともとDV傾向を持つような人であれば、当然口調も強くなり手も出やすくなるだろうと思う。
そんな中でもし児童相談所から「長期欠席について」の連絡が入れば、再び一時保護がちらつき、1年あまり苦労して何とか築いてきたものが水の泡になると否定されたような気持にもなるかもしれない。
「またおまえが暴力を振るわれているとかなんとか訴えたのか!」と娘に疑惑の目を向けるかもしれない。なんと言っても前回の一時保護は娘本人の訴えから始まったものだったのだから。
そしてついには自分が抑えられなくなり激昂してしまった、と考えられる。

昨今「学校に行くのが辛いなら学校に行かなくてもいいよ」という大人は巨万といる。
だけどそれを自分の子供に言える、言い続けることが出来る親はそう多くない。
いたとしても「普通の親」とは見做されないだろう。
つまり「学校に行くのが辛いなら学校に行かなくてもいいよ」は他人事なのだ。






# by yumimi61 | 2019-02-17 17:13
2008年4月~2009年1月のどこかで長女が誕生。
2009年9月、母子が沖縄県糸満市に転入。(母親の実家は沖縄県内にあり)<br>
2011年10月、夫妻が離婚。<br>
~~~~~~~~~~~~~離婚前及び、離婚から再婚までに長女と父親との接触はあったのか?
2017年2月に父と母が再婚。
2017年8月に次女を出産するまで母親は妊娠中。

【重要情報】
・母親は長女を21歳頃に出産、次女は30歳頃に出産(9年間のブランクあり)
・父親は40歳頃に次女が誕生したことになる
・沖縄の親族からの妻へのDV情報
・妻の出産の経過が正常ではない
・生まれた次女が低出生体重児だった
・その次女と長女を連れ、母親(妻)を残して先に転居した(8月転居には仕事や学校の都合があったかもしれないが、ハイリスクな生後間もない次女を母親や母親の親族から引き離して転居したことには大いに疑問が残る)


小学3年生の夏休み中、妹が誕生する。
小学3年生の夏休み中、沖縄県から千葉県に転居し転校。2学期より千葉県野田市内の小学校へ。
転校から2か月後11月に、学校で行われた市教委の「いじめアンケート」にて父親の暴力があると記入し、その翌日には一時保護され、年末まで続く。

一時保護は2017年11月7日~同年12月27日まで。
一時保護解除の条件は長女が親族宅で生活することで、2018年2月28日までは親族宅にで暮らしていた。 
この間に妹が生後6か月となる。


小学3年生の冬休み明け、3学期始業式から学校に登校しない。 
1月12日に両親と学校と市教委で話し合いを持つ。
この時に父親が「いじめアンケート」を見せるよう要求したが、市教委が子供の同意がないと見せられないと応答。父親が3日後に同意書を持参したため、コピーを渡す。その3日後に市内の別の小学校に転校。

小学3年生の3学期はじめ(1月18日)に隣接区の小学校に転校した。

・転校から約1か月後(2月26日)、児童相談所の職員が親族宅を訪問。父親が長女の署名入りの文書を職員に渡し、自宅に連れていきたいと訴える。
2日後(2月28日)に条件が解除され自宅に戻った。

・小学4年生の1学期は長期欠席などもなく特に問題なしか。(←この時期の情報はない)

小学4年生の夏休み中に妹が1歳となる。
小学4年生の夏休み明け、2学期の始業式から1週間ほど沖縄県に滞在していることを理由に欠席。しかし1週間後には元気に登校した。
2学期の終わり近くの面談でも父親は担任に「下の子の面倒をみてくれるようになったんです」と嬉しそうに話すなど問題は認められない。

小学4年生の冬休み明け、3学期の始業式から1週間ほど沖縄県に滞在していることを理由に欠席。予定の1週間が経過しないうちに欠席を1月いっぱいまで伸ばすことを父親が学校に連絡。
   ↓
この欠席中に死亡した(1月24日)。
※児童相談所が欠席把握した日と、父親がインフルエンザで会社を早退した日が同じ1月21日。

2019年2月に妹が1歳6か月となる。


もしもあなただったら・・?

例えば、あなたの子供が「お父さん(お母さん)に暴力を受けています」と学校(市教委)のアンケートに記入したとする。
担任の先生が面談をしたところ、叩かれる、10回くらい殴られた、お母さん(お父さん)のいないところで蹴られた、「てめぇ」「~しろ」というような怖いことを言われたと子供が訴えた。
そこで学校が児童相談所に連絡し、有無を言わせず一時保護が決定する。
あなたのところに「あなたがお子さんに暴力を振るっているとの通知がありましたので、お子さんを一時保護します」と連絡が来る。
暴力!? ←多少心当たりがある人も、全く心当たりは無い人もいるでしょう。
「誰がそんなことを言ってるんですか!」
「娘さんです」
「なんで娘がそんなことを言わなきゃいけないんですか。まだ9歳ですよ」
「学校でそう訴えました」
「じゃあ学校の先生が誘導尋問とかしたんでしょ!」
「いえ、無記名でも構わないアンケートに自発的に本人が書きました」
それを聞いてあなたは絶句する。

だけど権力は絶大。そのまま2ヶ月、子供は一時保護所預かりとなる。


アンケートを見たいというのは当然の欲求

一時保護が解除され自宅に(親族宅でもいいけれど)帰ってきたら、おそらく子供に訊くでしょう。
「本当に暴力を振るわれたなんてアンケートに自分で書いたのか?」「なんでそんなことを書いたのか?」とか、いろいろ子供に尋問する。
子供は黙り込む。すると・・「なんとか言いなさいっ!」ってな具合になること必至。
親に怒られるのが怖いと思えば子供は小さい声で「書いてない・・」とか「先生が書けって言ったから・・」というような嘘をつくかもしれない。すると・・「だって学校ではおまえが自分で書いたって言ってたぞ!」と言い返され、「お父さん、ごめんなさい」と謝ったりするかもしれない。
アンケートに書いたほど明確な態度は示さない(示せない)子供。子供も保護者も冷静さを失っている。
主観(自覚)と客観、加害者と被害者の意識というのは往々にして違うので、保護者も何が本当なのかだんだん分からなくなってくる。
子供だってアンケートを書いたことによって、突然親から2ヶ月も引き離されることになるとは微塵も考えていなかったであろう。一時保護後では「あんなこと書かなければ良かった」という後悔の念が生じている可能性もある。

この状態でもしも子供が「学校に行きたくない」と言い出したり、学校に行かせようとすると体調不良を訴えれば、保護者としては事の始まり「いじめアンケート」が俄然気になるだろう。
娘はいったいどんなアンケートにどんなふうに書いたのかと。それを教師や市の職員はどのように解釈したのかと。


守秘義務と知る権利の対決

「ひみつをまもります」と書いておいて親に見せるとは酷いという論調ばかりだった。
それが単なるアンケートに過ぎないならば秘密厳守は可能である。
だがそのアンケートで知り得た事実をもとに問題解決をしようと踏み込めば、当事者や関係者から事情を聴いたり働きかけをしなければならないのだから秘密は当然に漏れる恐れがある。
秘密は守りますもなにも、そもそも無記名でよいアンケートだった。無記名では他の何らかの方法で個人が特定できないかぎり何を書いても個人の秘密暴露にはならない。
それらを考え合わせると積極的に問題を解決しようという狙いを主に行っていたアンケートではないだろう。市教委の実態調査に過ぎない。

しかし少女はそのアンケートに記名して記入し、さらに「先生どうにかなりませんか」と訴えた。
この訴えをさすがに先生は無視することが出来なかった。
問題解決しようと踏み込めば、完全に秘密にしておくことは出来ない。
「お父さんの暴力」を解決するのに、お父さんをはじめ家族に何も知らせないで、いったいどのように対処するというのか。拉致して一生居場所を教えないくらいの方法しか思いつかない。そんなこと出来るわけがない。

医療従事者など厳しく守秘義務が課せられている職種がある。公務員も同様であろう。
しかし守秘義務というのは外部に漏らさないことであり、内部で情報共有することはある。
例えば病院では症例カンファレンスなどが行われる。院内では直接担当していなくても情報が共有されたりする。
看護師が見聞きした様子や患者から情報収集したものを、自分の胸の中にだけしまっておいたり、自分のメモ帳やパソコンに鍵かけて閉まっておいても、治療や看護には繋がらない。チームで24時間対応で治療や看護に携わっているのだから、それに必要なことだと思えば共有する必要がある。個人で出来ることには限界がある。

子供の親はPTAのPであり、チームの一員ということになる。
自治体と住民という観点から見ても、住民には情報公開請求の権利がある。
親権を有する保護者は、当然に子供のことを知る権利があるだろうと思う。
子供が作ったり書いたりしたものの著作権や所有権は、特別に許可を得ない限り、本人及び親権者にあるのであって学校や自治体にあるのではない。
(アンケートに著作権やら所有権は大げさかもしれないけれども、突き詰めればそういうことになる)


転校、お父さんのいる生活、下の子の誕生、年の差

(転居と転校)
大人にとっては単なる引っ越しであっても、子供にとって転校は一大イベント。それは人生の転機になると言っても良いくらい。
それまで馴染んてきた環境、培ってきた友人関係、その中で確立した自我、それらが全てリセット(初期化)されることを意味する。
何から何まで未知の環境に一人ぼっちで放り込まれるのだから大変でないわけがない。
しかも日本の最南端・沖縄県から関東の千葉県への転入転校。
環境の違いはかなり大きいはず。
気候、風景、言葉、食べ物、文化や風習、学校の雰囲気、授業(勉強)の進み具合などなど。
転入前と転入後の地域や学校によって授業の進み方が違うことはよくあり、小学生くらいだとそれがつまずきの原因になることもある。

女児のもともとの性格、学習態度や成績、転入した野田市の転入転出具合(転校生が多いのか少ないのか)などにも多少左右されるが、どんな場合であっても子供の負担は大きい。
登校する時や家に帰ってきても、年の近い、あるいは話の出来る兄弟姉妹がいないことも余計に孤独感を感じさせてしまうことになる。
こうした様々な違い、つまずき、孤独感などは、ひとつ間違うと学校での「いじめ」を呼び込んでしまうというリスクもある。

(お父さんのいる生活)
両親の変わらない転校であっても子供にとってはとても大変なことで、リスクの高い出来事となる。
従ってこれに親の再婚(新しいお父さんやお母さんとの生活)などといった事情が重なっていると、子供の大変さやリスクは倍増することになる。
今回の女児の場合、親が変わったわけではないが、再婚前に父親と接触があったのか否か。
もしほとんどなかったとすると、子供の意識としては「新しいお父さん」を迎えたという状態とほぼ同じ感じだったと思う。

(下の子の誕生)
さらにこのケース、再婚と同時に母親が妊娠しており、転居転校と同時に次女が誕生している。
他人の生活に口出すようで申し訳ないけれども時期的には最悪である。
一般的に下の子の誕生というものは上の子にとって歓迎できるものではない。親を下の子に盗られてしまったような気持になり、親が下の子ばかり可愛がっていると嫉妬心にかられる。上の子は試練の時を迎えることになる。
従って親は必要以上に上の子に気を使わなければならないが、そうは言っても新生児や乳幼児を抱えた親はやはり大変である。
その大変な時期に、大変な転居と転校が重なっているのだから、親も子も精神的な余裕があるわけがない。

(年の差)
またこの姉妹は9歳の年の差がある。
叱ったり我慢させるとしたら当然上の子となってしまう。上の子にいろいろと用事を言いつけたりするかもしれない。
上の子が乳幼児ならばまだ親も気を使ったり諦め感があるが、小学生にもなれば言って分からないということはないので、やはり強めな態度になってしまうと考えられる。

こうした背景や環境を考えると、上の子が問題行動を起こしても不思議はない。
それが実際にあったかどうかは分からないが、それによって親が余計にイライラとストレスを溜めていったり、なんとか矯正しようと試みたということは十分に考えられることである。






# by yumimi61 | 2019-02-15 15:15

虐待死

2019年1月に小学4年生で10歳だった女児が生まれたのは2008年4月~2009年1月。


2008年4月~2009年1月のどこかで長女が誕生。
2009年9月、母子が沖縄県糸満市に転入。(母親の実家は沖縄県内にあり)
2011年10月、夫妻が離婚。


2016年12月5日前後、受精。(8月下旬を予定日として逆算)
2017年1月頃、妊娠に気が付く?(逆算した予定日と一般的な認識時期を考慮)

2017年2月、夫妻が再婚。
2017年7月、母親の親族が市の窓口に「母親へのDVと女児へのどう喝」を相談する。
  ⇒妊娠8~9ヶ月の妻に対してのDVがあったということになる。
 (→市は家庭訪問を計画するも父親からの連絡で延期)
 (→市は学校へ連絡)
2017年7月下旬の終業式、担任・父親・長女本人で三者面談。(→長女への虐待の事実確認できず)

=====夏休み=====

 (→父親が長女を連れて実家のある千葉県に帰省)
2017年8月中旬、母親の親族が再び市の窓口に「一家と疎遠になり子供が心配」と相談。
2017年8月中旬~下旬頃(期間は推測)、妻は沖縄県内で次女出産。
2017年8月下旬、父親は女児と次女を連れて野田市に転居。(妻はまだ入院中。妻に何があったかは分からぬがこれは正常な出産経過ではない。)

2017年9月、妻も野田市に転居。

2017年11月6日、千葉県の通学していた小学校のアンケートに長女が父親からの暴力を記入。
2017年11月7日、児童相談所が一時保護。
2019年11月8日、父親とその親族が小学校で「人の子を誘拐するのか」「暴力はふるっていない」「訴訟を起こす」と抗議。

2017年12月27日、近くに住む親族のもとで生活することなどを条件に一時保護を解除。 

=====冬休み=====

2018年1月始業式、長女が学校に登校しなかった。

2018年1月12日、学校・父親・母親・市教育委員会(指導課職員)で話し合いを行う。
(→父親が長女の書いたアンケートのコピーを要求。「訴訟を起こす」などと学校側の対応を非難)(←市教委が「子どもの同意がなければ見せられない」と説明)

2018年1月15日、父親が長女の同意書を持参して市教委に出向く。
(→市教委はアンケートのコピーを父親に渡す)

2018年1月18日、市内の別の小学校に転校。

2018年2月26日、児童相談所職員が長女が暮らす親族宅を訪問。
(→父親は職員に「お父さんに叩かれたというのは嘘です」「早く家族4人で暮らしたいと思っていました」と書かれた長女署名入り文書を提示し、「家に連れて帰る」と迫った)
2018年2月27日、父親が小学校へ「今後は妻が子どもの送り迎えをする」等と電話連絡。
2018年2月28日、児童相談所で「援助方針会議」を開催。親族宅から自宅へ戻すと決定した。

2018年3月19日、小学校で長女と児童相談所職員が面会。
(→「文書は強制的に書かされた」と明かしたが、「お父さんとお母さんに早く会いたい、一緒に暮らしたいと思っていたのは、本当のこと」とも述べる)


=====夏休み=====

2018年9月、「(妻の実家がある)沖縄にいる」とのことで、始業式から1週間欠席。1週間後には元気に登校した。

2018年12月(冬休み前)、小学校で保護者面談あり。父親は担任に「下の子の面倒をみてくれるようになったんです」と嬉しそうに話した。

=====冬休み=====

2019年1月7日、父親から学校に「(妻の実家がある)沖縄にいる。曽祖母と一緒にいさせたいので15日から登校する」と連絡。

2019年1月10日、長女の欠席について小学校が市(児童家庭課)へ連絡する。

2019年1月11日、父親が学校に「1月いっぱい休み、2月4日から登校する」と連絡。

2019年1月21日、児童相談所が小学校に連絡し、長期欠席を把握する。
父親はこの日の午後からインフルエンザを理由に事件当日まで仕事を休む。


2019年1月24日、23時10分頃に父親が110番通報、野田署員が現場で長女の死亡を確認した。(→死因は不明)

2019年1月25日、傷害容疑で父親逮捕。
2019年2月4日、傷害容疑で母親逮捕。



引き金は児童相談所の連絡か?

2019年の1月21日に児童相談所が長期欠席していることを把握したようなのだが、把握したことにより児童相談所が父親に連絡したのだろうか?
その情報はニュース記事を見たところなかったが、父親がこの日の午後から会社を休み、この日以降に虐待が顕著になり、結局虐待死に繋がったことを考えると、児童相談所が父親に連絡をしたことによって父親が逆上したと推測できなくもない。
前々から問題がなかった家庭ではないが、児童相談所の連絡が虐待死の引き金になった可能性が捨てきれない。
それとも児童相談所は長期欠席把握後、何も動かなかったのだろうか。
また父親は本当にインフルエンザに罹っていたという事実があるんだろうか。

事件後の報道を見聞きしていると、アンケートが父親を逆上させて虐待死に繋がったという印象操作が行われているような感じさえ受けるほどアンケートを見せたことを重視しているが、アンケートを見せてから虐待死までの期間は1年ある。
よく日付を聞いたり見れば分かることではあるが、ぱっと見聞きしただけでは、11月のアンケートを見せて3ヶ月後の1月に死亡したというふうにも受け取れてしまう。
この期間だとアンケートを見せたことが引き金のような印象を受けるだろう。
しかし実際は違うのである。


(とある投稿より)
こういう報道の仕方が
「アンケートの存在を知らなかった父親がアンケートを初めて見て激昂して…」とアンケートを見せたかどうかが直接虐待死につながっているかのような印象をもたらす。
実際は
アンケートの結果→学校が野田市に相談→野田市が児童相談所に連絡→児童相談所が一時保護→その約2か月後一時保護解除
という時系列があるのであって、「虐待の疑いあり」とされた理由を父親に言わずに保護するわけはなく、その時点ですでに父親には児相からアンケートの内容も、存在も知らされている。
さらにアンケートと、この虐待死には約1年の時間の経過があることもこういう報道の仕方では伝わりにくい。
誰がどう考えても問題にすべきは「一旦は一時保護が出来ていたのに、どういう経緯で少女を親元に帰すことを安全と判断したか」であり、間違った時系列で事件に対する間違った理解では全く本質への議論が抜け落ちてしまう気がする。



強権の行方

とある投稿に
誰がどう考えても問題にすべきは「一旦は一時保護が出来ていたのに、どういう経緯で少女を親元に帰すことを安全と判断したか」であり、
とあるが、簡単に言えば「一時保護」だからである。「一時」は一時であり「永久」ではない。

児童相談所は子供達が成長するまで温かく見守る生活の場を提供する施設ではないし、児童相談所の職員は保護した児童の保護者(養父や養母など)になれるわけでもない。
本来どんな理由があろうとも第三者が親や子供の承諾なしに(たとえあったとしても法的手続きを踏まずに)親から子供を奪うことなど許されない。それこそ逆に犯罪として訴えられる案件となる。
未成年の子供に対しては法的に親が親権(成年に達しない子を監護、教育し、その財産を管理するため、父母に与えられた身分上および財産上の権利・義務)を有しているし、経済的にも精神的にも未成年の子供が独り立ちするのは現実味がない。
だけど育児放棄や虐待など問題のある家庭も現実的に存在するので、明日生きていくこともままならないような子供を一時的に保護するわけだが、それには親権やその他の法律に対抗しうる、すなわち保護側にも法律の裏付けが必要である。
善意や使命だけでやれって言うのは無謀である。それこそ「だったらあなたたちがやったらいいじゃない」と言いたい。

紫色の文章は厚生労働省のホームページより
児童虐待防止法では、児童虐待に係る通告(児童虐待防止法第6条第1項)又は市町村等からの送致(児童福祉法第25条の7第1項第1号等)を受けた場合、子どもの安全の確認を行うよう努めるとともに、必要に応じ一時保護(児童福祉法第33条第1項)を行うものとされ、その実施に当たっては、速やかに行うよう努めなければならないとされている(児童虐待防止法第8条)。
 この場合の「速やかに」は、何時間以内などのといった具体的な期限を示すものではないが、事例によっては直ちに安全の確認、緊急保護の必要な場合もある。


しかしながら法律は絶対ではない。
時代が変われば、何かが変われば、良いと思って行ったことが悪いことになることもある。
優生保護法の強制不妊手術が現代では槍玉に挙げられている。
一時保護もかなり微妙なところがある。

上記の児童虐待防止法が法律的な裏付けであるが、あくまでも「努力義務」である。
「努力義務」
日本の法制上「〜するよう努めなければならない」などと規定され、違反しても刑事罰や過料等の法的制裁を受けない作為義務・不作為義務のことである。
遵守されるか否かは当事者の任意の協力にのみ左右され、またその達成度も当事者の判断に委ねられる。


簡単に言えばそこまで強い義務が課せられているわけでないということになる。
なぜそこまで強い義務が課せられないか。
一時保護を行使しようと思えば、他に類をみないほど強力な行政権限を振るうことになるからだろう。

職権による一時保護をするに当たって、まず留意すべきは、それが非常に強力な行政権限であるという認識を踏まえて適切に運用しなければならない、ということである。
児童福祉法においては、従来一時保護の期間は定められていなかったが、児童虐待防止法において、児童福祉法に基づく一時保護の期間を原則として2月に限ることとされた。
施設入所のように児童福祉法第27条第4項のような保護者の同意を要する旨の規定はなく(すなわち職権で実施できる)、
(児童福祉法第27条の3の規定からして、子どもの行動の自由を制限できると解されるので)子どもの意思にも反して実施できる。
関係者の意思に反して行う強制的な制度は、通常は裁判所の判断を必要とするが、児童福祉法の一時保護については裁判所の事前事後の許可も不要である。このような強力な行政権限を認めた制度は、諸外国の虐待に関する制度としても珍しく、日本にも類似の制度は見当たらない。


保護者の意思や同意も、子供の意思(自由)も無視することができて、裁判所の判断も許可も必要ない。
児童相談所の職権で実施することができる。
最高法規「憲法」に謳う人権やら個人の尊重(尊厳)を踏みにじるものだと訴えられかねない。

このように一時保護は強い行政処分なので行政不服申立ての対象となっており、保護者には不服申立権がある。
そのため児童相談所は、保護者に一時保護の事実を隠しておくことはできない。一時保護したことを告げ、一時保護所の所在地までも通知する必要がある。

厚生労働省はこうも書いている。
これまではややもすると、保護者の反発を怖れるあまり、職権一時保護を控える傾向があったことは否定できないが(例えば、職権一時保護は警察からの身柄を伴った通告の場合に限る、という運用をしていた児童相談所もあった)、それは誤りであって、あくまでも子どもの保護を重視しつつ、具体的な運用に配慮する、という姿勢が重要である。

机上で簡単に言うけどさ~という感じかな!?
厚労省だけでなく、皆さん、簡単に考え過ぎ。所詮他人事感は拭えない。(『絶対正義』観た方がいいよね?)
職員にだって家族があり子供だっているかもしれないんですよ。

ともかく2017年11月7日に一時保護して、2017年12月27日に解除したのは、定められている一時保護期間2ヶ月がそろそろ経過するという時期が来ていたのでお正月前に戻したということだろうと思う。
解除しないならば延長させる必要があるが、延長要件に該当しなければならない。
長いこと引き離すならば施設入所とかという話になる。

2ヶ月近く一時保護されていたということは、父親はいろいろ文句を付け法律もちらつかせて職員らを脅したということだが、肝心の「不服申し立て」を行わなかったということでもある。このあたりがなんともかんとも。
それとも申し立ては行ったが却下されたのだろうか。そういう情報は全然出てこないが。


様々なケース、様々な実態


IWJ Independent Web Journal
「虐待していなくとも…」親の同意なしで一時保護、親子の面会禁止のまま長期間隔離、子どもへの危険な薬物投薬 ~医師・弁護士らが児童相談所被害の実態を報告 2014.10.15
(佐々木隼也) から一部抜粋

   「まさに国内最大の拉致事件といっても過言ではない」——。

 児童相談所の「一時保護」が甚大な被害と人権侵害をもたらしているとして、10月15日、医師や弁護士らが厚労省に実態報告と改善の要望書を提出。その後厚労省記者会と、フルオープンの会場で2度にわたり記者会見を行った。
 要望書では、児童福祉法33条「一時保護」の規定が、通報が児童相談所に来るか、児童相談所が恣意的に「虐待」とみなすと、裁判所の令状や親の同意がなくとも、子どもを親元から強制的に引き離し、保護する権限があることを問題視。見直しを求めている。

 この問題に多く携わっている南出喜久治弁護士は、児童相談所が「一時保護」制度を濫用し、実際には虐待が行われていないケースでも、子どもを親の同意なく突然保護し、その後数ヶ月から最長数年間、一切の面会・通信(手紙・電話など)を禁止し、完全な隔離状態に置いている、とその実態を報告。さらに施設内では、殴る蹴るなど職員による虐待や、依存性の高い向精神薬の投薬などが行われているという。

 会見を主催したNPO法人「薬害研究センター」理事長で医師の内海聡氏によると、「母乳育児」をしていたり、「身体が小さい」といった理由だけで児童相談所に保護されたケースもあるという。

 会見では、実際に「虐待親」の判断をされ、生後2カ月の子どもを児童相談所に保護された矢野美奈さんも登壇。矢野さんは、虐待が行われていない、という事実が病院側の証言で判明したにも関わらず、子どもを返してもらえていないという。現在矢野さんは「一時保護」処分取り消しを横浜地裁に訴え、神奈川中央児童相談所と争っている。


■子どもへの危険な薬物投与


南出弁護士「子どもに薬を『飲め』と言っても飲まないから、食事に混入させている。子どもへの治療は『親権』によって立つ。しかし児相は勝手に薬物投与をし、親権侵害を行っている。親子の面会禁止の理由もここにある。親子を面会させると、薬物投与による子どもの激変、『目がトロッとしている』などの変化が分かってしまう。こうした悪事を隠蔽するために子どもを完全隔離をしている。

 なぜ薬物投与をするか。児童相談所は多くの収容者を少ない人数で管理している。その際に『大人しく言う事をきく』ことが一番管理がしやすい。だから薬物で大人しくさせる」

■「一時保護」1人につき30~40万円が国から支給される


南出弁護士「なぜ一時保護が増え続けるか。実は『保護単価』といって、保護1人につき30〜40万円、国から補助金が出る。予算請求した分を使い切らないと翌年から予算削減されてしまう。だから恣意的な一時保護や保護の延長が行われたりする。

 こうした実態を無視してマスコミは『児童相談所頑張れ』という報道のオンパレード。全国の児童養護施設にランドセルを配ったタイガーマスク騒動の後、すぐさま報道で出てきたのが児童養護施設にもっと予算を、という動きだった。

 報道される悪質な虐待、あれは暴行や障害、殺人などいわゆる『刑事事件』であり、本来は警察が捜査すべきもの。しかし警察は予算がないので何の捜査能力もない児童相談所に丸投げをする。警察が、子どもへの刑事事件の捜査を放棄しているといえる。

 後は家庭裁判所や弁護士の問題もある。児童相談所の予算の一部は、一時保護の後、施設入所措置を家裁に申し立てる弁護士、虐待認定をしたり、親の同意なく子どもに向精神薬を処方する児童精神科医にも報酬として支払われる。
 また、児童相談所が一時保護の更新を繰り返した後、児童養護施設への入所を請求する。この請求の承認率は98〜99%。児童養護施設送りになると『無条件で2年間』、子どもは隔離される。子どもにとって2年間がどういうものか。
 児童相談所の専門性の問題も。職員にはキャリアを積んだ人がいない。簡単な研修でカウンセラーになれる。つまり専門性がない。土木課にいた人間や役所の窓口だった人間が、ある日人事異動で職員となる。しかし専門性を高めるような予算は組まれない」
 

千葉県野田市の事件では柏児童相談所が一時保護期限を守り2ヶ月以内で戻し、その際にも自宅ではなく親族宅という条件を付けている。
最低限なことは行っていて、逸脱する余分なことは行っていないということになるが、今回世間はそれが不満だったわけである。
しかし上記のように行き過ぎる問題もある。
児童相談所の一時保護のような強力な行政処分を行わずとも、行き過ぎだとかおせっかいだとか、こちらの話を聞こうともしないとか、偏った知識や昔の知識だけを押しつけてくるとか、そういったクレームや文句は、母子保健事業を行う保健師なども日常茶飯事である。
学校の教員なんかもそうだろうし、もっと言えば祖父母だって攻撃対象になる。
家庭訪問を断られる、「結構です」と門前払い、受けてはくれるもののネットなどで非難されるなど。

同じことをしても従事する個人によっても違うだろうし、受け手によっても違うし、精神状態(虫の居所)によっても違う。
本当に行き過ぎなこともあるかもしれないし、ないかもしれない。
専門的な知識で行っていることは流行とは違うかもしれないし、受けての気に入るものではないかもしれない。
個人の自由と言われれば、それはもうその通りで、それ以上なんと言ってよいのやら。
専門家とはいえ誤診や誤った指導もあるだろう。専門家でなければ尚更である。




# by yumimi61 | 2019-02-14 17:29

抒情

室生犀星は1910年(21歳)に上京した。
『抒情詩小曲集』に掲載した詩は、この上京前後から書き溜めたものであった。

しかし上京したもののお金には苦労し、たびたび金沢に帰っては養父の住職から援助を受けていたという。
1912年、室生犀星は東京の本郷の縁日にて5銭で聖書を買って、以後明けても暮れても聖書を読んでいたらしい。
本郷は東京大学が近いので、レベルが高い本や外国の本など掘り出し物の古本が出たらしい。

1913年(24歳)、室生犀星の詩が 『朱欒』という雑誌に掲載され、同誌を見た萩原朔太郎より手紙をもらい、以来2人は親交を結び生涯の親友となる。
萩原朔太郎というのは群馬県出身の詩人である。
1914年、室生犀星は萩原朔太郎の故郷である前橋市を訪ねた。
この前橋滞在のことを記した随筆『祈祷』からも聖書への傾倒が分かる。

毎日毎日バイブルを読みくらしてゐる。読んでも飽きたることの無いものである。好きな好きなクリスト。センチメンタルでわがままで温和しくて女のやうなクリスト、すこしく嘘つきで真摯なクリスト、柔らかな乳白の頬にしんみりとして喜びを覚える

前橋を去る時には、犀星が欲しくてずっと思い求めていた木彫りの聖母像を朔太郎から貰ったとか。
この年に萩原朔太郎と山村暮鳥の3人で人魚詩社を創立。

1916年、 感情詩社を結成し、室生犀星と萩原朔太郎の二人雑誌として『感情』を創刊する 。その後、数名加わり同人誌となる。
自然主義において最も軽蔑された「感情」という言葉をアンチテーゼとしてあえて用いるために命名したという。

1918年、『愛の詩集』を感情詩社から自費出版。
これは養父である住職が亡くなった翌年のことで、養父の死からは4か月後の出版であった。
その詩集には次のようにある。

みまかりたまひし父上におくる

いまは天にいまさむ うつくしき微笑いま

われに映りて、我が眉みそらに昂る……。

 私の室に一冊のよごれたバイブルがある。椅子につかふ厚織更紗で表紙をつけて背に羊の皮をはつて NEW TESTAMENT. とかいて私はそれを永い間持つてゐる。十余年間も有つてゐる。それは私の室の美しい夥しい本の中でも一番古くよごれてゐる。私は暗黒時代にはこのバイブル一冊しか机の上にもつてゐなかつた。寒さや飢ゑや病気やと戦ひながら、私の詩が一つとして世に現はれないころに、私はこのバイブルをふところに苦しんだり歩いたりしてゐた。いまその本をとつてみれば長い讃歎と吐息と自分に対する勝利の思ひ出とに、震ひ上つて激越した喜びをかんじるのであつた。私はこれからのちもこのバイブルを永く持つて、物悲しく併し楽しげな日暮など声高く朗読したりすることであらう。ある日には優しい友等とともに自分の過去を悲しげに語り明すことだらう。どれだけ夥しく此聖書を接吻することだらう。


養父に実父を重ねている、もっと言えば実父への抑えてきた愛の吐露そのもののようにすら感じられる。

「父なきのち」 『感情』より

父をうしなつてから
わたしはやはり郊外にところを定めて
そこに寂しい日をくらしてゐた
聖フランチエスコの傳記や
カラマゾフ兄弟の中の
長老ゾシマの悲しげな臨終を讀んだりして
深い物思ひに沈んで
いまさらのやうに
蒼褪めた秋の木木の立つ姿を眺めたりした
じめじめふる雨は
僕の心を全きまで沈ませ
嚴しい精進の心を覆ふてゐた

晩は高臺の深い木立から
お祈りの人人をあつめる鐘が鳴つて
僕はいつものやうに出て行つた
父をうしなつてからといふものは
僕はかの會堂の中に坐つて
ぼんやりした想念に抱かれながら
身も心も平安に委ねることを好んだ
そこにある静かな人人の祈りは
たとへその形式がどうあらうと
眞摯な祈りの中に
たえず動いてくるものがあつた
それらは僕を静かに慰さめてくれた
僕は父のことを祈り
あとにのこつた淋しい母のことを祈り
ああ自分はいつ父のそばへ行けるのだらう
いつ父の胸にすがつて
父上私も參りましたと云ふ
此世の一切を終るべき時を得るのであらう
自分はその日まで欒しみ
又 生き永らへるのだ
その上で私は父の温顔を再た見るのであらう
かう思ひながら
永い間祈りかつ咽ぶのであつた
夜は澄んで透つて星は輝いてゐた
白い額と蒼い目を持つた
美しい西洋婦人の祈りは長い間續いた
全ての女性の祈りが美しく
殆んど聽きとれないほど敬虔に
又低い祈りであるが如く
彼女の聲もひくく殆んど啜泣くやうであつた
「主よこの一切の汚れの中にある私共に
あなたの清さとめぐみと愛と
そして又あらゆる人人の上にも
私共にくださるみ心を注いで下さるやう
その祈りは萬人の上にもあつた
その美しい日本語は
會堂の中に充ちあふれる愛を囁いてゐた

ここに集まつた人人らは
すこしの邪念のない
美しい瞬間の光をあびながら
欒しげに一切に祈り上げるのであつた
自分はからだを締めつけられたやうな
身動きのできない静かな緊張された空氣を感じながら
ありありと父の顔を描き出した
僕は自分の中にあるだけの力を出して
その力をもつて
温かな父の呼吸を感じることが出來た
私はうれしく搔き上りたい氣がした

私は間もなく心で囁いた
「主よ あなたの力をいま私に注ぎ込み
私の祈りをあなたにささげた瞬間
私の愛してゐるところを示して下さるやう
此全世界の高い鼓動の中から
私の優しい人の その愛あるところの
ほとばしる美しい目をお示し下さるやう
ああ 一切が平安の中に進みますやう」
私はこう祈り沈んで
病熱を帯びたやうに
會堂を壓する昂奮をかんじた
この瞬間全世界をよくなれといふ
つきることのない願望に震へ上つたのだ
あせははだみを流れた
そして私はうつむいて
力一杯聖書に接吻した
とどめがたい涙は偉大を感じながら
つきることなく僕の立つところを濕した。



故郷になんか帰るものではないという詩が収められた『抒情小曲集』は、『愛の詩集』と同じ1918年(8か月後)に出版されたものである。
但し詩はもう少し若い時に書いたものも含まれているようだ。
この詩集の一番最初が「小景異情」である。
前記事では(その二)を紹介したが、(その六)まである。

(その一)
白魚はさびしや
そのくろき瞳はなんといふ
なんといふしほらしさぞよ
そとにひる餉をしたたむる
わがよそよそしさと
かなしさと
ききともなやな雀しば啼けり

(その三)
銀の時計をうしなへる
こころかなしや
ちよろちよろ川の橋の上
橋にもたれて泣いてをり

(その四)
わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる

(その五)
なににこがれて書くうたぞ
一時にひらくうめすもも
すももの蒼さ身にあびて
田舎暮しのやすらかさ
けふも母ぢやに叱られて
すもものしたに身をよせぬ

(その六)
あんずよ
花着け
地ぞ早やに輝やけ
あんずよ花着け
あんずよ燃えよ

ああ あんずよ花着け





# by yumimi61 | 2019-02-11 10:00

小景異情

「小景異情(その二)」室生犀星

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


「ふるさとは遠きにありて思ふもの」、ここだけがやたら有名なこの詩は、故郷から遠くにいて書いたものではなく帰郷していた時に書いたものだそうだ。
郷愁にかられ故郷に帰ってみたものの、一体何があったのか、何も無かったのか、ここは自分が帰ってくる場所ではないと痛切に感じてしまったという詩。

故郷を離れた経験のある人は多かれ少なかれこのような気持ちになったことがあるだろうと思う。居場所のなさというか、何か違う感じというか。だからといって大都会にも馴染みきれない感じというか。
冬には夏が恋しくなり、夏には冬が恋しくなる感じにも、どこか似ている。

しかしこの詩が一般的に誰にでもあてはまりそうな想いなのか、そうでないのか、これは微妙である。


室生犀星の生い立ち

本名: 室生 照道〈てるみち〉
1889年〈明治22年〉8月1日 - 1962年〈昭和37年〉3月26日
石川県金沢市生まれの詩人・小説家。別号に「魚眠洞」。

1889年、加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種とその女中であるハルという名の女性の間に私生児として生まれた。
生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗寺院)住職だった室生真乗の内縁の妻赤井ハツに引き取られ、その妻の私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この際室生照道を名乗ることになった。
私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出されたことは犀星の生い立ちと文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄された犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた。『犀星発句集』(1943年)に収められた
「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」
との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している。



ダブルバインド(Double bind)

1956年にグレゴリー・ベイトソンによって発表された説。家族内コミュニケーションがダブルバインド・パターンであると、その状況におかれた人が統合失調症に似た症状を示すようになる、と指摘する説。

わかりやすく喩えると、親が子供に「おいで」と(言語的に)言っておきながら、いざ子供が近寄ってくると逆にどんと突き飛ばしてしまう(非言語的であり、最初の命令とは階層が異なるため、矛盾をそれと気がつきにくい)。
呼ばれてそれを無視すると怒られ、近寄っていっても拒絶される。
子は次第にその矛盾から逃げられなくなり疑心暗鬼となり、家庭外に出てもそのような世界であると認識し別の他人に対しても同じように接してしまうようになる。

そして以下のような症状が現れる、とした。
言葉に表されていない意味にばかり偏執する(妄想型)
言葉の文字通りの意味にしか反応しなくなる(破瓜型:はかがた)
コミュニケーションそのものから逃避する(緊張型) 

なお、統合失調症そのものの原因については現在も不明な点は多く、「統合失調症の原因=ダブルバインド」と短絡的に考えることには問題がある。

(統合失調症は2002年まで精神分裂病と呼ばれていたもの)


離れてこその故郷、望郷

故郷という言葉は、その中にいて使うよりも、離れた場所で使ったほうが、詩的な香り立つ。

故郷が「おいで」と言っている。・・・強い郷愁を感じる
しかし実際に帰ると大して歓迎なんかされない。・・・強い拒絶感を感じる

故郷で直接的に何かあったわけではなくても、自己の心の中で、このように矛盾する気持ちが生じることはあると思うので、これ自体は特別なこととは言えない。

室生犀星の場合、私生児として生まれて実の両親の顔も知らない。
引き取られることになるが、最初は養子としてではなく、寺の住職の内縁の妻の私生児として戸籍に登録された。
私生児→私生児ということを知り、「おいで」と言われながら心底歓迎されていなかったのではないかと思ってしまったのかもしれない。二重の拒絶感を味わってしまった感じ。
7歳の時に養子に迎え入れられるが、今度は友人らが「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と揶揄するなどそれを認めていない感じがある。さらなる拒絶感を味わった。
そして13歳の時に学校を中退している。

だが彼は故郷を愛していたともいう。
その故郷とは人というよりも風景だった。
風景を作り出すのが人だとすれば、人と風景を完全に切り離すことは出来ないけれど。

犀星を名乗ったのは1906年(明治39年)(17歳の時)からである。犀星という筆名は、当時金沢で活動をしていた漢詩人の国府犀東に対抗したもので、犀川の西に生まれ育ったことからと言う。犀星が育った雨宝院は犀川左岸にあり、犀星はこの川の風情と、上流に見える山々の景色とをことの外愛した。 

抒情小曲集の「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」の詩句が有名である。この句の通り、文壇に盛名を得た1941年が最後の帰郷となり、以後は代わりに犀川の写真を貼って故郷を偲んでいたという。



犀星が上京したのは1910年(明治43年)。
故郷になんか帰るものではないという上の詩が収められた『抒情小曲集』は、1918年(大正7年)に刊行されたものである。
しかし実際に故郷に帰らなくなったのは、それから23年後の1941年(昭和16年)以降だという。

1935年(昭和10年)、「あにいもうと」で文芸懇話会賞を受賞。 旧・芥川賞選考委員となり、1942年(昭和17年)まで続けた。1941年(昭和16年)に菊池寛賞。
戦後は小説家としてその地位を確立、多くの作品を生んだ。


要するに、「小景異情(その二)」という詩と、故郷に帰らなくなったことの間には、大きな開きがある。
たった1つの詩から彼の人生を語るのは短絡的すぎるということになる。
室生犀星は都に居場所を見つけたのかもしれない。
そして帰らねば帰らねばと思いつつ足が遠のいた晩年。
悲しいのか嬉しいのか「小景異情(その二)」がリアルになったということだ。


近すぎた2組の父母

室生犀星の場合、私生児として生まれて実の両親の顔も知らない。と上に書いたが、本当は室生犀星は両親の顔を知っていた。
生家(実の父の家)と養子に入った雨宝院は近所にあり、事実を隠しておけるような距離ではなかった。例え子供には事実を伏せていたとしても、いずれどこかから本人の耳に入ってしまう。

実の父・小畠与左衛門吉種は加賀藩の足軽組頭である150石取りの武士であった。明治期には剣術道場を開き師範をしていたこともあった。
実の母(ハル)はその小畠家の女中だった。吉種の正妻はすでに他界していたが、ハルとの間に子供が出来た時に吉種は60歳を過ぎていた。
年齢と世間体の悪さを気にして、吉種は近所の寺の住職・室生真乗の内縁の妻に子供を託した。
1898年、室生犀星が9歳の時に実の父・吉種が亡くなった。実の母ハルもそれを機に小畠家を離れた。この時が実の両親との別れであった。

目の届くところで暮らしながら、親であると名乗り出なかった実父母。
すぐそばに実の親がいること分かった上で子供を引き受けた養父母。
そんな環境の中で育ち、その事実を知っていた室生犀星。
ダブルバインド。二重の縛り。絡み合う愛と憎しみ。


匹婦の腹

子供を引き取った寺の住職の内縁の妻は昼間から酒を飲んで住職を顎で使うようなあばずれだった。
不生女(うまずめ:子供を産めない女のこと)で4人も5人も子供を貰っており、馬方(うまかた)と呼ばれた。
時には子供に辛くあたることもあり(今で言えば虐待か!?)、子供たちは恐れてもいた。
大人であれば「不生女」にある種の哀しみを見たりもするが、子供ではそうもいかないであろう。
室生犀星もこの養母に全く良い印象を持っていなかったらしい。
実母は女中であり元武士である主人の寵愛を受けたのだから働き者であり、あばずれということはなかったのだろうけれども、子供にとっては正妻になれずに自分を手放した母であることに変わりない。
「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」
この歌は両方の母に掛かっている。


仏教とキリスト教の狭間で

養父となったのは寺の住職だが、武士であった父は聖書を愛読していた人だったという。正式にキリスト教の洗礼を受けいていたキリスト教徒だったのかどうかは分からないが。

母親に対しては実母にも養母にも憎しみに近い複雑な感情を持ち、後年自身でも不幸な幼少期を過ごしたと述懐し、強烈な母親や女性像となり作品にも大きな影響を与えたが、それに比べると、同じ自分を手放した親でも父親へは愛情を露わにしている。




# by yumimi61 | 2019-02-10 15:40

大丈夫

・受験シーズンですね。
次男が大学受験の時、私立大学の一般入試から帰ってきた次男に「どうだった?」と訊くと「ダメかも」という返事。
「出来なかったの?」とさらに訊くと、「鉛筆持って行かなかったんだよね」と彼。
え?
え・ん・ぴ・つ・を・も・っ・て・い・か・な・か・っ・た・・・・
「マークシートだったんだけどシャープペンしか持っていかなかったってこと」
「ああそう・・・え?マークシートにシャープペン?」
「やっぱダメかな」
「それはダメじゃない、だってセンター試験は鉛筆だったでしょ。なんで鉛筆持っていかないの!」
マークシートは読み取りの機械にかけるので、薄いと上手く読み取れないことがあるので、それなりの濃さの鉛筆が指定されることが多い。
「でも持ち物に鉛筆かシャープペンと書いてある大学もあるんだよ」
「そこは?」
「書いてない」
「・・・・・・」
機械の精度があがりシャープペンでも読み取りが出来るようになってきているらしい。
次男は結局その大学に合格したのでシャープペンでも読み取りできたのだと思うけれど、余計な心配をしないために事前にちゃんとチェックするか両方持って行きましょう。


・私立大学の一般入試は試験日が重ならない限り、幾つでも受けることが可能だけれど、国公立大学は前期日程に1校、後期日程に1校しか受験することが出来ない。
(幾つでもと言っても受験代もばかにならないし、地方からだと交通費やホテル代などもかかるので、受験費用だけで何十万と必要になる。しかも幾ら合格したところで決められた期間に入学手続きをして何十万かの入学金を振り込んでおかなければ入学する権利はなくなる。大学受験はお金がかかる。あっちもこっちも仮押さえしておくには全部お金を払わなければならないということ)
国公立大学は前期後期ともに同じ大学でもいいし(前期に落ちたら後期にも受けるということ)、別の大学でも構わない。
前期日程は3月の上旬、後期日程は3月20日以降に合格発表が行われる。
後期日程の試験は前期日程の合格発表後に実施されるが、前期日程も後期日程も出願期間は同じである。
後期日程は定員が少ないので倍率が跳ね上がる。
センター試験の出来具合と、私大の試験と国公立2次試験の結果を予想し、選択しておく必要があるが、なかなかこの選択が難しい。

次男は後期日程の願書を出すかどうかをぎりぎりまで悩んでいて、最後の最後に「やっぱり出しておく」と言い出し、なぜか西日本のとある国立大学を選び、私に記入した願書を渡して「受験代を振り込んでおいて」と言った。
「まだ間に合うの?」と訊くと、「今日出せば間に合う」と言うので、願書を送りお金を振り込んだ。
しかーし、彼は必着と消印有効を間違えていたらしく・・・必着だったということに気付き・・・それとも西日本だったから配達日数が予定よりかかったからか(でも速達だったような)・・
願書は間に合いませんでした。
受験代は所定の書式に事情を書いて返還請求すれば戻ってきます(豆知識)。


・大学受験シーズンは大学近辺のホテルの予約がいっぱいで簡単にはとれなくなる。遅くとも半年前、早い人では1年も前から予約しているということらしい。
どこを受けるか確定していないような時期になかなかホテルまでは気が回らない。
でもホテルはキャンセルが出来るので、受けそうな大学近辺のホテルはとりあず押さえておくようにと、長男の受験の時に先輩ママから教わった。だが教わったのがすでに秋だった。
その時点ですでに大学近辺のホテルの試験日前後の予約状況は軒並み空きなし。
この場合、都内よりもむしろ地方の国公立大学周辺のホテルの予約が難しい。都内よりもホテルの数が少ないからだ。
そこで試しにやや離れた高級旅館的なところまで調べてみたのだが、それでも空き無しだったことには驚かされた。
センター試験が終わった後や2次試験の願書出願期間が終了した後などにキャンセルが出るから、その時期を狙ってもう一度見てみるとよいということだったけれど、24時間監視していられるわけでもなく、たまたタイミング合えばよいけれど、キャンセル待ちもなかなか難しい。
まだ徒歩で会場に向かうことが可能なホテルや送迎付きのホテルも数が限られているので、結局やバスや電車に乗っていくことになるが、場所によっては超満員ですんなりとはいかなくなるようだ。
地方で自転車通学している子供はあまり電車にもバスにもなれていない。
まあ今はいろいろとスマホが教えてくれるだろうけど。




# by yumimi61 | 2019-02-10 10:39

世相


納税はリターン重視の自分(故郷)主義

ふるさとは返礼品で決めるべし

それぞれがやれることとは節税か

目の前の見知らぬばーちゃん金くれぬ

声色をちょっと変えればくれるかも(それは詐欺ですよ!犯罪ですよ!)

ノーネーム金は天下の回りもの

あげるなと言ってるテレビダダ流し

声かけば不審者扱いされかねぬ

疑いは晴れるものとは限らない

書かされた事件のニュース読まされる

優しさが怖かったのは神田川

私との 約束やぶる あの人の 揺るがぬ正義 許した弱さ

真実が 欲しいわけでは なかったの お嬢とくらい 呼ばれたかった(お姫でも可)

無自覚に心をえぐるDV男子

女の非許すわけないフェミニスト

怖かった素通りしてく高校生(まだ中学生?)

追い抜かれ本気スイッチオンにする

もう少し早めにオンにしませんか




どちらも正解

人は見た目では分からない。
人は見た目で決まる。
どちらも間違ってはいない。

「人は見た目では分からない」ということを分かるには、人と関わることが必要である。関わったら見た目の印象とは違うことがあるということを言っている。
一方、「人は見た目で決まる」というのは、見た目でその人の印象はほぼ決まるということを言っている。関わる前の段階の話である。
見た目からその人の人間性までをも型にはめてしまうということはよくあることである。これをステレオタイプという。
ステレオタイプや先入観などは、沢山の情報を処理するためには必要なものだろうと思う。
1人の人間が数多の人間1人1人と、数多の出来事の1つ1つと深く関わることは物理的に出来ない。全てのものに深く関わって理解するということには限界がある。情報圧縮や情報処理が必要なのである。人が増えれば増えるほど、情報が多くなればなるほど、人々が忙しくなればなるほど、ステレオタイプを必要とする。
人工知能も大量のデータからパターンを認識することから始まる。

ステレオタイプを形成したり、ステレオタイプを何かに当てはめる時には、自ずと何かを捨てて何を拾いあげるという取捨選択が行われている。
だからステレオタイプが強化されるということは、多くの人があてはまることを意味し、違う角度で見ればそこから漏れ落ちるものが増えることを意味する。
また存在する幾つかのステレオタイプのどれを選び支持するかということによって、例えばテレビやネットが何を扱い何を多く流すかによって、一つの流れや傾向を作り出すことが出来てしまう。


ステレオタイプの外側

10歳の女の子が亡くなった虐待の事件、私の正直な感想は「ステレオタイプじゃないな」というものだった。

虐待死のステレオタイプ・・・親の若さ、望まない妊娠、親の見た目の雰囲気、被害児が赤ちゃんか3歳くらいまでの幼児

バイアス的な虐待死のステレオタイプ・・・父親が虐待、連れ子

https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000361196.pdf
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いわゆる虐待死(心中以外の虐待死)の被害児の77%が3歳児未満。
被害児の半数近く(47.5%)は0歳児である。
0歳児の被害児の18.6%は0日児(生後24時間未満に死亡)。つまり産んですぐに殺してしまったとか、産んだ場所や屋外に置き去りにしてしまい亡くなったというような場合。
727人中345人は0歳児で、345人の0歳児のうち0日児が64人。
727人中560人は3歳児未満(0歳児含む)。
727人中の167人が3歳児以上ということになるが、その中ではやはり3~6歳までは小学校入学前の子供が多いだろうと推測する。

14年分のデータでも加害者は実母が55.6%と最も多くなっている。
上記データー外になるが、平成29年度(2017年)に殺人や保護責任者遺棄致死など虐待死事件で摘発された親は55人だった。実母が35人、実父や内縁の夫が20人。すなわち女性が約64%、男性が36%という割合であった。
もっとも0日児虐待(24時間未満に死に至らしめる)の直接的加害者は女性であることがほとんどだと思うので、その分女性の割合が増えてしまうということもある。

亡くなったのが10歳の女児で、虐待したのが父親で、父親の年齢が41歳と報道された。ことごとくステレオタイプではない。
どんな生活をしていたか分からないが、ともかく子供が10歳まで生きていたという事実がそこにある。しかも一度も学校に行ったことがないというような子ではなく学校にも行っていた。
そのうちお父さんの写真も出たが、これまたステレオタイプな感じではなかった。
事件が発覚していない状態で、さらに詳しい情報もそれほどなければ、そこまでの深刻さを持って疑う事例ではなかったかもしれない。
気になる点をあげれば、千葉県に来る前に沖縄県にいたということ、1歳の妹(上の子と少し年が離れている)がいたという点になるだろうか。

前兆

詳しい家族環境を知らずに、9歳ほど年の離れた2人の子供と、10歳ほど年の離れた夫婦が最近引っ越してきたということだけを知れば、夫婦は再婚で上の子はどちらかの連れ子かなあと思っても不思議はない。
だが実際は違うようだ。

 糸満市によると、女児は父親と母親との実子で長女。09年9月、母子で市へ転入した。父親と母親は11年10月に離婚したが、17年2月に再婚し同居した。母親はその後次女を出産した。

この情報で気になるのは、「09年9月、母子で市へ転入した」という箇所である。
長女が小学4年生だったということは、1月生まれでないかぎり2008年生まれである。
2009年9月では1歳になるかならないかといった年齢。
この時、母子だけが糸満市に転入したとある。長女が1歳の時にすでに父親が不在であったということだ。
未婚の母だったのかとも思わせるが、「父親と母親は11年10月に離婚した」とあるので結婚していたことが分かる。
ではなぜ母子だけが糸満市に転入したのか。
すでに妻へのDVや子供への虐待があって夫(父親)から逃げるように引っ越したのだろうか。それとも仕事の都合など一緒に暮らせない何か別の理由があったのだろうか。
後から見れば要チェックな箇所であるが、単身赴任や別居婚などでも住所を別にするということはあり得るので、それだけは異変には気付きにくい。
ただ長女がまだ幼かったので乳幼児健診など自治体の母子保健事業を通して情報収集や働きかけが出来たのではないかと思われる。

沖縄県は離婚率も出生率も全国一を誇る。
シングルマザー率も高く、10代の妊娠出産も多い。
この現状が自治体の担当部門にどのような影響を及ぼすのかは他からは分かりにくい。他からは分かりにくいが比較でないと分からないこともあり中にずっといると見えないこともある。危機意識が下がるのか、忙しくてやっていらないといった感じになるのか、燃え尽き症候群的になるのか、必然的に目が届きにくくなるのか、それとも特段変わるところはないのか。

再婚と次女の妊娠

ともかく2011年10月、長女が3歳前後に夫婦は離婚しているようだ。
それから6年後の2017年2月に夫婦は再婚した。
同じ相手との再婚は全く聞かない話でもないが、やはり珍しいほうに属するだろう。
この再婚の後に次女を出産したということだが、次女は2017年8月下旬頃に産まれたようだ。
逆算すると受精したのが2016年12月5日前後で、妊娠に気が付くのが2017年1月に入ってからといったところだろう。そして2月に再婚。
妊娠に気が付いたから再婚したということで時期的な辻褄が合う。
そうなると夫婦は離婚後も関係があったということになる。夫婦ではなかった6年間ずっと継続していたものか、それとも2017年に再会したのかは分からないが。


生命が危険に瀕していたのは母親と次女

さらに驚くべき情報を糸満市は持っていた。
それは妻(母親)の親族からの訴えだった。

 17年7月、市の窓口に母親の親族から「母親へのDVと女児へのどう喝がある」と相談が寄せられ、市が女児の通う小学校に連絡。学校は女児の様子を観察し、担任が7月下旬の終業式に女児と父親を交え、3者面談した。虐待の事実は確認できなかったという。

 市は7月中に家庭訪問を2度計画したが、父親からの直前の連絡でどちらも延期になった。直後に父親は女児を連れて実家のある千葉県に帰省した。8月中旬、母親の親族が「一家と疎遠になり子どもが心配」と再び市に相談。市は女児らが沖縄に戻り次第訪問する計画を立てたというが、8月下旬、父親は女児と次女を連れて野田市に転居した。母親は出産後入院中だったため、退院後の9月に野田市に移った。


2017年7月に親族から妻(母親)へのDVがあると市に相談が寄せられている。
妻(母親)へのDVがいつからあったかは分からないが、2017年7月ならば妊娠8ヶ月9ヶ月といったお腹も大きい妊婦に暴力を振るっていたということになる。いつならば良いということもないが妊娠中の女性に暴力を振るうなんて酷すぎる。
次女は低体重児で生まれたということなので、ひょっとすると予定日よりも早く生まれたのかもしれない。そうなるともう少し出産予定日も先だったのだろうか。
それとも8月下旬ではなくてもう少し早くに産まれていたんだろうか。
DVでが原因で低体重児となったのか関係ないのか。

市は、母親へのドメスティックバイオレンス(DV)や次女(1)が低体重で生まれたことを踏まえ、一家を「ハイリスク世帯」とし、夫婦の関係や次女の健康不安について野田市へ申し送りしたが「身体的な虐待の事実は確認できなかった」として、女児の記録は提供していなかった。

この経緯だけ見れば、母親と次女への心配が先に立つのは仕方ない気がする。
どうみても2人のほうが生命危機に直結していると判断されると思う。
親族の相談内容が長女に対する「恫喝」という言葉ではなく「暴力」だったらもう少し対応は変わったかもしれないが。

父親は母親を沖縄に残したまま生まれて間もない乳飲み子まで連れて逃げるように千葉県野田市に転居したらしい。
出産のために入院したら通常母子は一緒に退院する。入院は自然分娩ならば4~5日、帝王切開ならば1週間~10日程。
産まれた子供が低体重児や何か問題があった場合には母親だけが先に退院することはある。
母親の健康状態があまり良くなければ母親だけが残るということもあるが、帝王切開で通常より少し長く入院する場合でも一般的には母子は一緒にいて一緒に退院する。
それが母親が入院したままで次女が先に退院し、父親が新生児の次女も連れて転居してしまうなんて、かなり異常事態である。これはもう明らかにおかしい。関係機関がいろいろ動くべきである。
転居後のいろいろや、もちろん仕事だってあるだろう。母親が退院し転居してくるまで新生児の面倒をいったい誰がみてたのか。父親の実家の両親?
だけどこの異常事態とも言える超ハイリスクの中で次女も長女も死ななかった。
それは何故だったのか。


<赤い文字の文章の出典>
千葉10歳女児死亡 2017年まで住んでいた糸満市、ハイリスク認識も…「虐待確認できず」
1/30(水) 10:04配信  琉球新報







# by yumimi61 | 2019-02-08 11:54

続続続続続続・靖国神社

神社は宗教か?宗教とは何か?

明治政府はまず真っ先に宗教改革に乗り出した。
それが神仏分離(修験道など神仏習合の廃止)や廃仏毀釈であり、神社は国家神道として国が管理するものとなり、宗教という枠を外れた。
国家神道の中心にあるのが天皇で、国家神道は宗教の上位に置かれた。

違う宗教を信仰していたとしても(宗教の自由)、国家神道には従わなければならなかった。
従わない者は不敬罪などを適用させ締め付けたり、宗教団体であれば勅令や法律(固有の団体にだけ適用させる法律制定など)で締め上げた。
また国民に教え込まれる国家神道の精神(道徳や倫理)が監視や私刑的役割を果たしていくようにもなった。

宗教とは何かという問いもあるだろう。
科学では解明できない領域のこと、身体という物理的ものではなく心や精神という見えにくい確かめにくい領域を扱うもの、信じられるもの、救済するもの、嘘偽りないもの、嘘偽りそのもの(嘘偽りを認めてくれるもの)、見えないもの(例えば死や愛や信)を形や言葉で示してくれるもの。きっと答えは1つではないと思う。

「嘘偽りそのもの」に救いを求めている人に対して、あなたの信仰している宗教は「嘘偽りである」と幾ら主張しても効果がないし、もっと言えば逆効果となる。
一筋縄にはいかない問題。
信ずるものが何か(例えば神なのか人なのか金なのかというようなこと)、それを信仰する動機や背景、現存する物理的・社会的な要素との関わり、それぞれの損得勘定などが絡み合ったところに「信」や「宗教」はあるだろうから、ある意味とても世俗的であり現実世界を超越したものなんかではない(と私は思っている)。

様々な考え方やいろいろな表現の仕方があると思うけれど、ただひとつ宗教は古くから冠婚葬祭に深く関わってきたことだけは確かだろう。


戦死者は宗教である神道の信仰者だろうか?

靖国神社は戦死者は霊や魂を祀っているという。神社の形式に沿って言えば、それは祭神ということになるが。

ではその戦死者らの遺族は神式の葬儀(神葬祭)や神式の法事を行ったりしているのだろうか。神式の墓があるだろうか。
彼らの宗教が神道ならば神式で行うのが普通である。

仏式の法事・法要にあたる儀式のことを、神式では「霊祭」(故人の死後100日目までに当たる儀式)や「式年祭」(1年目の命日以降の儀式)と言う。神式の祭祀を行う。
神道においては死は穢れ(けがれ)である。
聖域とする神社境内に遺体や遺骨を安置しお墓を建てさせるようなことはしない。(仏教の寺には墓地がある)(明治政府が禁止した神仏習合だったらもう少し許容できた部分がある)
神道の人が墓を建てるならば、神道専用墓地か宗教を問わない墓地を探す必要がある。お骨を納めるならば納骨堂のある神社を探す必要がある。数はそう多くはない。
お墓も仏式のものとは異なる点が幾つかある。
神道のお墓は竿石の先端が尖った兜巾(頭巾)型が一般的である。
竿石とは中央の高い石のことだが、仏式ではそこに「〇〇家之墓」などと刻むが、神式では「〇〇家奥津城」か「〇〇家奥都城」と刻む。
また神式は焼香をしないので香炉はない。

もっともこうした神式の墓はおそらく明治以降のものだろう。
古い神道は自然神(八百万神)信仰である。万物全てに神が宿る的な考えにあるので、特別にお墓を作らずに遺体でもお骨でも自然に還すという考え方ができるし、お墓を作るにしても石や木で目印にするくらいな感じで可能だろう。但し生きていない木は朽ちるので目印にならなくなる(生きている木でも枯れる可能性がある)ので、朽ちない石がおそらくよく使われたのだと思う。現代でも昔からある田舎の墓地に行くと、単に石が置いてあるような所も存在する。

それから竿石の兜巾(頭巾)型だが、兜巾(頭巾)いうものは明治政府が禁止し弾圧した神仏習合である修験道の修験者(山伏)の被り物のことを言う。何かこのあたりもしっくりこない。

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 (図)https://www.makoto-sekizai.com/




靖国神社が宗教ではない根拠

宗教の祭殿に祀るならば宗教の開祖、その親族とか弟子とか、あとは神話上(伝説上)の人物などとか。
一般の人ならば少なくとも信者である必要があるだろう。
その宗教を全然信仰していなかった人物を祭神として迎え入れる理由がないし、迎え入れられた本人(霊)も遺族も困るだろうと思う。
ユダヤ教徒や仏教徒がキリスト教の聖人になるようなことである。
なかには「キリスト教の聖人にしてくれるならば改宗します」という遺族もいるかもしれないが、それにはそれ相応の手続きを踏む必要がある。

戦死者というだけで祭神にしてしまう靖国神社は、神道ではないし、宗教でもない。
国家神道という名の国家組織(天皇組織)、国家機関(皇室の機関)であると考えるのが妥当である。

戦死者というだけでと書いたが、靖国神社の創建目的は維新の志士を祀り反武家政権・反幕府の象徴の場とすることであり、戊辰戦争・明治維新・西南戦争で旧幕府軍や反明治新政府軍に属した者は祀っていない。
靖国神社に祀られるかどうかの基準は「神道への信仰」ではなく、「明治維新への貢献者」「明治天皇崇拝者」「明治新政府への従属者」であるかどうかであった。
それは日露戦争前の靖国神社の例祭日にみれば一目瞭然であるが、
ー1月3日(鳥羽伏見の開戦日)、5月15日(彰義隊潰走の日)、5月18日(函館五稜郭開城日)、9月22日(会津藩降伏の日)ー
特に会津藩の戦死者などに対して新政府は埋葬すら禁じたそうだ。
遺体は獣や鳥の餌食となり、腐敗し、見るも無残な状態になっていったそうだ。見せしめだろうか。
西南戦争で反政府となった西郷隆盛も祀られていない。
この明治維新前後の戦死者で祭神となったのは1万5000人くらい。

その後、祭神は莫大に増え、現在では247万人の霊が祀られている。

日清戦争 約1万
日露戦争 約9万
15年戦争(満洲事変~第二次世界大戦) 約234万人(うち太平洋戦争213.4万人)

靖国神社に祀られているのは15年戦争での戦死者が95%、1941年12月からの太平洋戦争の戦死者だけで86%である。

この戦死者とは軍人や軍属にあった者である(徴兵された者や従軍看護婦など含む)。
一般市民の戦災死没者は含まれない。


原爆死没者

日本には靖国神社に祀られている戦死者(英霊)の他にも特別扱いされている戦争死没者がいる。それは原爆死没者である。
夏になると原爆死没者名簿の追加記帳や風通し、奉納などがニュースになったりしますね。
但しこの原爆死没者名簿は自治体が行っているもの。

原爆死没者名簿
広島市と長崎市に投下された原子爆弾とそれに伴う被害によって死亡した者の氏名を名簿に記載し、毎年それぞれの原爆投下日に執り行われる平和祈念式典において奉納されるものである。
名簿登載には被爆者健康手帳の有無や国籍を問わない。
名簿管理者は広島市と長崎市。

【広島】
1952年(昭和27年)より広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)に奉納されている。
以下の場合に名簿掲載。
・遺族の申し出があった人
・被爆者健康手帳を所有していた人の場合は、手帳の返還手続きなどで死亡が確認された場合

【長崎】
1968年(昭和43年)より行われ、平和公園の平和祈念像に奉納されていたが、現在は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に奉納されている(平和祈念像にはマイクロフィルムが収められている)。
以下の場合に名簿掲載
・遺族の申し出

「原爆死没者」ということだが、遺族の申し出だけで名簿掲載されるようで、原爆で亡くなったという科学的な根拠は必要ない。日本国民である必要もない。
従ってこれを原爆死没者数として、そこから原爆の威力を語るのは不適当。
広島市も原爆によって死亡した人の数については現在も正確にはつかめていないと述べている。

広島平和記念公園と原爆死没者慰霊碑、長崎の平和公園と平和祈念像、それぞれ公園開設者、慰霊碑・祈念像の設置者や運営者は広島市と長崎市という自治体であり、国ではない。

靖国神社の戦死者(英霊)もこのように名簿にでもして、神社ではなくて国家機関で慰霊するのが妥当なような気がするが、どうして国はそうしないのだろうか。
靖国神社は慰霊が目的に存在しているわけではないからでは。

ちなみに広島と長崎には2002年と2003年に相次いで国立の原爆死没者追悼平和祈念館も設立された。
設立は小泉内閣の時である。

●国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
広島平和記念公園(広島県広島市中区中島町1番6)にある、国立の被爆者を追悼する施設である。
2002年(平成14年)8月1日に国立の施設としては初めて広島平和記念公園内に設置された。原爆死没者慰霊碑や広島平和記念資料館、レストハウスに隣接している。建物は、建築家丹下健三の設計。地下2階構造で、地下1階は情報展示コーナー及び体験記閲覧室が、地下2階には平和祈念・死没者追悼空間及び遺影コーナーが設けられている。

原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律の第41条の規定に基づき設置され、1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下により死亡した人々や、その後に亡くなった被爆者を追悼し、世界平和を願う目的で建てられた。
具体的な活動は、被爆者の名前・遺影の募集を行っており、開館時には4804人の被爆者の遺影が登録。2004年8月に登録者が1万人を超えた。


●国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
所在地は長崎県長崎市平野町7番8号。2003年(平成15年)7月開館。長崎市における国の追悼施設は同館が初めてである。財団法人長崎平和推進協会が運営・管理を行っている。入館は無料。単に追悼平和祈念館とも案内されている。

「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」の第41条の規定に基づき、国が広島市に次いで長崎に設置した。死没者名簿と遺影の永久保存、手記・体験記、映像資料などの収集と公開、被爆医療や平和を中心とした国際協力に関する情報提供を主な目的としている。
館内は名簿を保存する追悼空間、被爆証言の視聴、手記や遺影、関連図書類が閲覧できる学習コーナー、来場者が平和のメッセージを記帳する平和・交流コーナーからなる。





# by yumimi61 | 2019-02-05 14:11

続続続続続・靖国神社

天皇の靖国神社行幸

靖国神社の創建 明治2年(1869年)

しかし第二次世界大戦が終わるまで国家の全権を握っていたのは天皇であり、戦靖国神社に首相が公式参拝したことは戦前には一度もなかった。
天皇は戦前も靖国神社を訪れている。
靖国神社、つまり戦争は、天皇の管轄にあったことは間違いない。


■明治以降の歴代天皇が自ら靖国神社に出向いた回数は以下の通り。
明治天皇 44年間で7回 ・・平均は約6年で1回 ※明治時代全期間をベース
明治天皇 22年間で7回 ・・平均は約3年に1回 ※大日本帝国憲法制定後の期間をベース
大正天皇 14年間で2回  ・・平均は7年に1回
昭和天皇 <戦前>19年で20回 ・・平均は約1年に1回
     <戦後>30年で8回 ・・平均は約3.8年に1回
平成天皇 30年間で0回  


■歴代首相の参拝(戦後は首相本人が私的参拝と明言したものも含む)(戦前の私的参拝は不明)
昭和時代 <戦前>19年で0回
     <戦後>30年で60回 ・・平均は1年に2回
平成時代 30年間で8回 ・・平均は約3.8年に1回


明治時代には日清戦争と日露戦争を行っている。
大正時代には第一次世界大戦への参戦があった。
だが天皇が訪れた頻度としては昭和時代の戦前が最も多い。

昭和6年(1931年)満洲事変が勃発。盧溝橋事件に端を発する昭和12年(1937年)〜昭和16年(1941年)の日中間での戦闘期間(北支事変・支那事変・日支事変・日華事変などと呼ばれる〉を経て、日本が昭和16年(1941年)12月にアメリカ・ハワイの真珠湾などを奇襲攻撃し、太平洋戦争並びに日中戦争に突入した。
この期間は「15年戦争」とも言われるが、この戦闘最中というか、徴兵制にて非軍人の男性をも駆りだして戦争に送りこむ大戦前夜の期間とでもいうべきか、この間に天皇は最も靖国神社を訪問した。
戦争状態が終結しているわけではないので慰霊のためというよりも、「英霊」を煽り「御国の為」やら「靖国で会おう」を広くキャンペーンし、国民を戦争に仕向ける必要があったのであろう。


戦後の8回

天皇が第二次世界大戦後(太平洋戦争・日中戦争)終結後に靖国神社を訪問した年。全8回。

1945年(昭和20年)・・戦争終結の年
1952年(昭和27年)・・1951年にサンフランシスコ条約が締結され日本は主権回復した
1954年(昭和29年)
1957年(昭和32年)
1959年(昭和34年)・・新日米安保条約の調印前年
1965年(昭和40年)
1969年(昭和44年)・・1959年日米安保条約の自動延長前年
1975年(昭和50年)・・三木首相が8月15日に参拝した年


1960年と1970年は新日米安保の条約調印や更新に反対する運動が激化した。安保闘争。
60年安保は左翼や新左翼(共産主義者同盟ブント)、労働者や学生を主に行われた反安保闘争で、反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。
これに対して政府側(岸首相←安倍首相の祖父)は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、暴力団(反社会的勢力)の支援を仰いだ。
70年安保は全共闘など大学生の活動家を中心に行われた。
この安保闘争は新左翼と呼ばれる「行動する過激な左翼団体や活動家」を生み出すことになり、その後世界各地で起こすテロ事件、日本でのリンチ事件や浅間山荘事件などに繋がっていた。

日米安保は当然戦争や軍隊・自衛隊に関係することであり、「戦争の亡霊」である靖国神社は無縁とは言えないわけだが、条約調印や更新年の前年という不安定な年にも天皇は自ら靖国神社を訪れている。
それなのに何の騒ぎも聞こえてこないというのは実に不思議だ。
第二次世界大戦終結によって生まれた日米安保に対して過激な反対運動を展開した「行動する過激な左翼団体や活動家」が、その矛先を戦争当時全権を握っていた現役天皇に向けることは無かった。


憲法の壁(壁は人々が認識したり問題にして初めて壁になる)

天皇の最後の靖国神社行幸は1975年11月21日のことである。
その年の8月15日、三木首相が靖国神社を参拝した。「私的参拝」と明言したが問題視された。
マスメディアで首相の靖国参拝が取り沙汰されるようになったのはこれ以降で、しかも問題にするのは8月15日に参拝がなされた時だけである。

三木首相があぶり出したのは、靖国神社が宗教法人の神社ではなくて国家機関であるということである。
現実的には憲法が壁になっておらずスルー状態になっていたものを形(壁)として再認識させた。
靖国神社が宗教法人の神社ならば、国家の代表者・首相が公式参拝することは、いつ参拝しようが憲法第20条に抵触する。
それが問題ないと言うなら靖国神社は本当は国家機関なのだ(現実にそれまでは問題視されたことは一度としてなかった)。
国家機関ならば首相が参拝しても問題はない。
だが宗教法人を隠れ蓑に国家機関(宗教ではない国家神道)を置いているとしたら、それは大問題であろう。

また戦後の日本国憲法下の天皇においては宗教法人であっても国家機関であっても問題がないとは言いきれない。「国事」と「国政」の違いという根本的な問題も含めて微妙なところである。

この場合、議論の的になるのはむしろ天皇の参拝である。
靖国神社への参拝を国政に関与していると考えれば現行憲法に抵触するし、参拝を憲法が定めている天皇国事行為の「儀式を行うこと」と考えれば抵触しないということになる。
戦前の大日本帝国憲法であれば、天皇は国政を行う権限全てを持っていたので、国政に関与するのは当然のことだった。
靖国神社にはその時代の人達の霊が祀られている。
そして昭和天皇であれば、大日本帝国憲法でも日本国憲法でも天皇だった。


憲法第4条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。 

天皇も「私的」に靖国神社に行くならば問題ないはずだが、首相に「私的」が許されない現状の中(首相が私的参拝と言っても問題視される中)、日常生活すら公的に丸抱えされている天皇にそもそも「私的」が許されるかという問題もある。結論的にはかなり難しいだろう。

次の場合には憲法に抵触してくる。

●天皇は国及びその機関の公職者であり、靖国神社は宗教法人の神社である。
 →憲法第20条「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」に抵触。

●靖国神社は国家機関であり、国政に関係する。
 →憲法4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」に抵触。


天皇が文句なく靖国神社を訪れるには次のいずれかをクリアする必要がある。三木首相の8月15日参拝騒動によってそれを突きつけられる形になった。

〇私的な訪問(私的参拝)である。
〇天皇は国及びその機関の公職者であるが、靖国神社は宗教法人の神社でも国政に関係する国家機関でもない。
〇天皇は国及びその機関の公職者ではなく、靖国神社は宗教法人の神社である。

これをクリアできなければ足が遠のくのは仕方がない。
しかし戦争責任を逃れるためにもともと戦前より戦後は足が遠のいていた。
創建から今日までの靖国神社への天皇行幸数を見れば、「慰霊」よりも「戦争扇動」のウェートが高い、靖国神社は陽動作戦に使えるという結論に至ってしまう。

しかし現状では(三木首相8月15日参拝以降は)目的が「慰霊」でも「戦争扇動」でも天皇にとって靖国神社は遠い場所となっている。
結果的には戦後憲法が天皇を靖国神社から引き離す役割を担ったことになる。
(靖国神社を宗教法人の神社と扱えば天皇だけでなく首相の公式参拝も憲法に抵触する)

戦争反対の人は靖国神社を特別視しなくても別に構わないだろうけれど、戦争賛美派や天皇信奉者、首相責任論者、「英霊を慰霊しないなんて!」という遺族なり愛国者にとっては望ましいことではないかもしれない。
憲法の壁を消失させるのは反日心ではなくて、むしろ愛国心なのだ。
愛国心は憲法の壁を再び消失させかねない。
でも「それの何が悪いの?」という感じで、現実的に憲法の壁などいらないと思っている人は決して少数派ではないような気がするのだけれど。


天皇が靖国神社を訪れた最後の日となっている11月21日

皇后様とご一緒だったようだから11月22日すれば「いい夫婦の日」だったのにー。しかも1975年11月22日は大安だった。
ということは実際に訪れた11月21日は仏滅である。
大安とか仏滅は「六曜星」と呼ばれるもので宗教とは関係ない。
今でもカレンダーや手帳に記載されていたりするが、ルーツは中国で戦争や争いごとの吉凶を決める際に利用していた占いではないかと言われているがはっきりは分からない。日本でも戦争の吉凶占い(日の良し悪しの験担ぎ)に利用されていたと言われている。

仏滅は気にしないにしても、どうして例大祭の日に訪れなかったのだろう。スケジュールの都合かしら。
それとも11月21日に何か意味があったのだろうか。
前年の1974年11月21日に長嶋茂雄氏が読売巨人軍の監督に就任している。(さすがにそれは関係ない?)
ではやはりこれだろうか。
1969年11月21日、アメリカのニクソン大統領と日本の佐藤栄作首相(安倍首相の大叔父)が、安保堅持・1972年の沖縄返還などの日米共同声明を発表した。
それとも、1990年11月21日、任天堂のスーパーファミコンの発売記念!?(今や11月21日は任天堂の日でもある)(1975年時には未来予想的になってしまうけれども)


平成の世は平静の世?

平成の時代、天皇は自ら靖国神社を訪れることはなかった(今のところ)。
また首相の参拝も昭和の時代に比べるとかなり減っている。
平成の時代に数を稼いだのは小泉首相で、平成の首相参拝8回のうち6回は小泉首相である。

(平成時代を再掲)

第74代竹下登、第75代宇野宗佑、第76-77代海部俊樹、第78代宮澤喜一、第79代細川護煕、第80代羽田孜、第81代村山富市は参拝なし。

第82-83代 橋本龍太郎(1996年1月11日 - 1998年7月30日)
1回ー1996年7月29日


第84代小渕恵三、第85-86代森喜朗は参拝なし。

第87-89代 小泉純一郎(2001年4月26日 - 2006年9月26日)
6回ー2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日


第90代安倍晋三(2006年9月26日- 2007年9月26日)
この期間にはなし

第91代福田康夫、第92代麻生太郎、第93代鳩山由紀夫、第94代菅直人、第95代野田佳彦は参拝なし。

第96-98代 安倍晋三(2012年12月26日 - 現在)
1回ー2013年12月26日



平成の天皇や首相は概して憲法に抵触しない優等生ということになる。
参拝しなければメディアや国民や近隣諸外国を必要以上に刺激することもないから平静と言えば平静だ。
イメージ的にはすでに10回くらい参拝していそうな安倍首相ですら、たった1回。それももう5年も前の話である。拍子抜け?
このように最近は参拝自体が減っているせいか、安倍首相は8月15日でなく、2013年の年末も押し詰まってきた12月26日に参拝したが、それでも結構話題に取り上げられていた(問題視された)。
12月26日という日は第二次安倍内閣が発足した日であり、内閣発足1年目に参拝したことになる。
何も年末の内閣発足日を選ばなくてもよいような気がするけれど、発足1年目と靖国神社にいったいどんな関係があるのやら。
ともかくこの平静が「嵐の前の静けさ(憲法改正のための目くらまし)」でないことを願いたい。




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# by yumimi61 | 2019-02-04 14:08

夕焼け小焼け

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『夕焼け小焼け』 中村雨紅作詞・草川信作曲

夕焼け小焼けで 日が暮れて
山のお寺の 鐘がなる
お手々つないで 皆かえろ
烏と一緒に 帰りましょう

子供が帰った 後からは
丸い大きな お月さま
小鳥が夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星

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『赤とんぼ』 三木露風作詞・山田耕筰作曲

夕焼け小焼けの赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだはまぼろしか

十五で姐やは嫁に行き
お里のたよりも絶えはてた

夕焼け小焼けの赤とんぼ
とまっているよ竿の先

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●夕焼け小焼けの「小焼け」って何だろうということが話題になることがある。
「小焼け」という言葉は辞書にない。
現在だと、「夕焼け」に重ねて語呂合わせというか音合わせしたもので、響き重視だからそれ自体に意味はないというのが通説になっている。
だけど私は思う。「小焼け」は子供が焼けることだろうと。
子供が焼けると言っても火事で子供が焼けることでも、子供が日に焼けることでもない。
大空を真っ赤に染める夕焼けが、外で遊んでいる子供たちをも赤く染めあげるという意味。
子供は小児ともいうくらいで「小」で表すことが出来る。大人の「大」の対照となる。

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『大漁』 金子 みすゞ

朝焼小焼だ、大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の大漁だ
浜は祭りのようだけど、 
海のなかでは何万の、 
鰮(いわし)のとむらいするだろう
=================

●イワシ(鰯・鰛・鰮)は、狭義には魚類ニシン目ニシン亜目の複数種の小魚の総称である。
小魚の代名詞となるイワシだけど、大羽鰮(オオバイワシ)はイワシの中では大型。
そんな大型のイワシがたくさん収穫できたので、浜で人間は祭りのように喜んでいる。
だけど大型のイワシとはいえ、海の中に行けば小魚に過ぎない。
金子みすゞの詩は、夜郎自大な人間の滑稽さを映し出しながら、一方で人間という生態系の頂点を自負する者の弱さを垣間見ている。

弱肉強食の世界ではイワシは弱に属する小魚。
そのイワシを人間の漁によって一時に沢山失うということは、生態系が崩れるということになる。
イワシを食していた魚が飢えてしまうということだ。
だから金子みすゞは、それを海の中の悲しみとして、「何万のイワシの弔いをするだろう」と表現する。
しかしそれだけではない。
イワシの中では大型であるオオバイワシを人間の漁によって失ったことによって、代わりにもっと小さなイワシの沢山が他の魚たちに食されてしまうだろいうことを想像する。
この場合の「何万のイワシ」はオオバイワシの代わりに他の魚に食べられるイワシを意味する。
一種類を多少失ったところで飢えて死んだりはしない魚や弱肉強食の多様性や逞しさに思いを馳せる。
感傷的に振りながら、一方では現実を引き寄せる。

人間は長い期間子供を守り育てる生物である。弱い者を保護すると言い換えてもよい。
でも弱肉強食の世界では、弱い者は、たとえそれが子供であろうとも、食される運命にある。
全く別の性質を持つ、ある意味全く別の世界に生きている両者が、土足でその別の世界に踏み込むことの危うさを感じさせもする詩である。


●今日は「鬼は外~福は内~」という掛け声でお馴染みの節分ですね。
豆まきをしたり、イワシを食べたり、ヒイラギイワシを門戸に飾ったりしますね。
私が子供の頃には豆やイワシを食べる他にも、節分の豆と梅干に熱いお茶を注ぐ「福茶」を母が作ってくれて飲んでいました。

季節あるいは年を分ける「節目」である「節分」。
鬼という漢字は死者の首を持って踊る様子を形にした象形文字。
「鬼籍」という言葉もあるように、鬼は死を意味していることが分かる。
鬼籍とは死者(漢語で言う「鬼」)の籍であり、仏教や民間信仰などで地獄の閻魔大王の手元で管理されているとされる書類である。

子供は弱く怖がりであるというのは間違いない。しかし一方で子供という生き物は非常に怖いもの知らずでもある。
子供は死に近い場所にいる。子供ば大人よりもずっと簡単に別種のものと(それが死者であっても)仲良くなれる素質を持つ。
そんな子供を大人が見ると大層怖く感じてしまう。大人は「怖いもの知らず」に「怖さ」を見ているから。
子供の時には全く平気だった高所やスピード、水や太陽などが大人になると苦手になるという話はよく聞く。
この世には怖いものがあることを少しずつ知り、後先を考えるようになり、守るものができることによって、子供の頃には怖くなかったものを怖いと感じるようになる。
一方で子供が心底「怖い」と思っているものを、大人はそんなの全然「怖くない」と思っている。
大人と子供は別の生き物と言ってもよいくらいに異なる性質を持つ。

節分は、怖いもの知らずの子供に怖いものや痛いものがあることを教える。
節分は、大人が怖いと思っているもの(鬼の仮面や鬼役の人ではなくて死)(もっと純化すれば弱く保護すべきものの死)を遠ざけることを願う行事でもある。

弱いものの頭(鰯の頭)を差出し、トゲトゲが痛いヒイラギを飾って(ちなみにヒイラギというトゲのある小魚も存在する)、あの世から子供を迎えに来るのを防ぐ。
節分の豆は炒った大豆。
豆という漢字は、中国古来の高坏状の皿や鉢の上に穀物を載せた様子の象形文字。高坏状の皿や鉢は祭器でもあった。
現代において「豆」は小型や子供といった意味合いにする時に使われるが(例:豆電車・豆電球)、「大豆」にはそれと逆行するような「大」の字が付けられている。大いなる豆という意味だそうだ。
大豆は植物の中で唯一、動物や魚の肉に匹敵するだけのタンパク質を含有している。
人間の身体をつくったり、人間の生命維持にはタンパク質が必要である。
オオバイワシではないけれども、小型の代名詞である豆の中では大型というか大きな存在であるのが大豆。しかし炒ってしまった大豆が芽を出すことはない。いわば生命力(連鎖力)を失った大豆。
その大豆を自分達の代わりに鬼(死)にくれてやることで、生命力溢れる子供達を守る。
一方で私達人間は年相応に死を受け入れなければならない。それは連鎖のためでもある。だから生命力を失った大豆を年の数だけ食べる。





# by yumimi61 | 2019-02-03 11:21

続続続続・靖国神社

「御親拝」と「行幸」を使い分ける意味

前回、首相の靖国神社参拝について書いた。
首相が靖国神社を参拝するようになったのは戦後のことである。

明治2年に創建された靖国神社であるが、記録によると首相が初めて靖国神社を参拝したのは第二次世界大戦後のこと。戦前の首相は参拝していない。
これはすなわち靖国神社は天皇が参拝するものという認識にあったのだと思う。
大日本帝国憲法制定から第二次世界大戦終結までは軍事でも政治でも国のトップは天皇だった。
国の代表者が参拝するとしたら、それは天皇だったということである。


名称が靖国神社となっているので「参拝する」と書いたが、天皇の参拝の場合、皇室の祖先神や歴代天皇が祀られているような神社に参拝することを「御親拝」、その他の神社に参拝する場合には「行幸」と、言葉を区別していた。
「行幸」とは天皇の外出のことであり、それ自体に参拝という意味があるわけではない。外出先が神社だったくらいの扱いである。

本来、天皇が靖国神社を参拝しても親拝にはならない、行幸である。
天皇尊び敬っているはずの人が「天皇陛下に靖国神社を御親拝してほしい」などというのは、誤用になっていると言わざるをえない。

例えば、靖国神社、護国神社といった神社の祭神は臣民(人間)であり、天皇にとっては臣下であるので、この場合は親拝ではなく行幸というのが適切だとされている。しかし、靖国神社や護国神社の場合でも、親拝という語はよく使われている。


そもそも論

「参拝」は「参る」と「拝む」がくっついた用語であると思うが、「参る」と「拝む」は「行く」と「見る」の謙譲語である。
謙譲語というのは自分がへりくだる、自分の方が立場が下であることを強調することによって、結果相手を上げる。
尊敬語は自分の立ち位置は同じで相手を上げる。

「行く」の尊敬語は「行かれる」「おいでになられる」「いらっしゃる」、謙譲語は「参る」や「伺う」、丁寧語は「行きます」。
「見る」の尊敬語は「ご覧になる」、謙譲語は「拝む」や「拝見する」、丁寧語は「見ます」。

同じ意味の謙譲語でも、誰を目上として敬意を払って話しているのかという違いがある場合がある。
例えば会話の相手の上司や先輩を目上とみている場合と、会話の相手の上司や先輩と向かう取引先(行動や動作の対象)を目上とみている場合がある。
 「部長、そろそろ駅まで参りましょう」←目上は部長
 「部長、そろそろA社に伺いましょう」←目上はA社

また「参る」は行き先が不特定で一般的なものに用いることができ、「伺う」の場合には特定的という特徴もある。
神社に参拝というのは前者であり、神社の祭神が目上でその他の者を一律に下げているということ。

これを踏まえると「参拝」という用語は、「拝みに参りましょう」「拝みに参る」ということであり、目上となっているのは会話相手か神社や神社の祭神ということになる。
一番偉いはずの天皇が自らへりくだるのはおかしいし、天皇を主語にした文章に「参拝」を使うのもおかしい(例:天皇が参拝した)。
天皇の家来が天皇に対して「陛下、そろそろ靖国神社に参拝致しましょうか」と言うならば分かる。全部自分を下げて会話相手の天皇を上げている。

「陛下」というのは「屋外にある階段の下」という意味。かけ離れていることを表す。転じて宮殿の階段の下のいる者、つまり王や皇帝など君主の部下や家来ということである。
部下や家来が自分をへりくだった言い方。謙譲語のようなもの。
昔は絶対的な権威権力を持つ君主に対して直接名前やら役職で呼ぶことすら憚れたという背景がある。
尊敬語的な言い方は「皇上」となる。
「圣上」という尊称もあるが、これは一塊の土(家来や下々の者)の上にある御方という謙譲語と尊敬語が合わさったような呼び方。
でも昨今は「圣」という漢字が「聖」の簡体字となっているようなので、「圣上」にはへりくだる意味がなくなり尊敬語的になっている。

結構前から使っているから誰も違和感を持っていないようだが、私は「陛下」という尊称には違和感ありまくりである。

「親拝」は、親を拝むという意味。
天皇が歴代天皇が祀られている神社に「親や近親者を拝みに行く」ことであり、自分の祖先に敬意を表すためにへりくだって謙譲語の「拝む」が用いられる。
「親拝」という言葉を目下の者が使う時には「親拝」自体に「御」を付けて尊敬語にしてしまうわけである。

「行幸」は天の恵み・天の幸(天子)が行かれるということ。天子は君主のこと(その他の人間は天の子ですらないということ)。尊敬語的。神社にいくという意味はない。
でも「幸」の漢字は手枷(手の拘束具)の象形文字。
死刑執行の「執」、報復の「報」、「報い」などに幸という字が入っている。
「手枷を解いてやること」から「幸せ」という意味に繋がったとも言われる。
犯罪人を捕まえたので、他の人々が幸せであるという意味もあるかもしれない。
天皇の外出ならば、「自由のない外出」という意味もあるのかもしれない。


御社と弊社

ビジネスマンだったら馴染みある御社や弊社という言葉。
この社は、神社の社ではなくて、会社の社である。

「御社」は尊敬語となる。

弊社の「弊」という漢字にはあまり良い意味はない。それを自分の社に付けることで、自社を下げて相手の社などを上げる。
謙譲語の一種である。
弊社というのは一般的には上げる特定の相手がいる場合に用いる語である。

立場に特に上下関係を付ける必要がない場合や意識的に上下関係を付けない場合には「当社」を用いる。

「我社(我が社)」も「当社」と同じように使うこともあるが、もともとが「私の社」という意味なので、社長とか会社の偉い人が言う感じの言葉である。

「陛下」というのは「弊社」と同様に謙譲語(謙遜語)であるので、同じような使い方をすべきもの。
例えば日産の誰かがどこか取引先に「弊社のごたごたでご迷惑をお掛けしております」と言ったとする。
相手の社名を出しているわけでもなく御社とも言っていないが、「弊社」を用いることで相手を上げている。
だけどそれを言われた相手も、日産問題を報道するメディアも「日産弊社」とは言わないし、ましてや日産がへりくだったその相手(例えばB社とする)を第三者が「B弊社」と言ったりなんかしない。
「天皇陛下」というのはそれくらいおかしな言葉である。
特に「陛下」という語には上下関係を表す「下」という漢字が付いているにも関わらず、誰も違和感を感じない。不思議に思わない。
天皇という存在に疑問を持ってはいけない、異議を唱えてはいけない、言われたとおりに尊重しなければならないと、完全に鵜呑み・洗脳・思考停止状態に陥っていることが分かる。









# by yumimi61 | 2019-02-01 15:31

続続続・靖国神社

靖国神社参拝日

1975年8月15日、第66代首相の三木武夫首相が靖国神社を参拝した。
これが大きく取り沙汰されることになり、以後喧々囂々たる議論となっていく。

靖国神社では春と秋に例大祭が行われている。
例大祭とはその神社において最も重要な祭祀であり、多くは由緒ある日にちに行われる。

創建当時は靖国神社は、1月3日(鳥羽伏見の開戦日)、5月15日(彰義隊潰走の日)、5月18日(函館五稜郭開城日)、9月22日(会津藩降伏の日)が例祭の日だった。
日露戦争後は、4月30日(日露戦争陸軍凱旋観兵式)、10月23日(日露戦争海軍凱旋観艦式)を例大祭の日としていた。
第二次世界大戦後は国家神道が禁止され、靖国神社の存続自体が危うかった(靖国神社を救ったのはカトリック教会と言われている)ので、例大祭日も軍事に関係しない日に変更した。

1946年3月21日春分の日と、1946年9月24日秋分の日。これを旧暦換算し、4月22日(春季)と10月18日(秋季)が例大祭の日に選ばれた。
直接軍事には関係した日ではないが、皇室に深く関係した日である。
何故かと言うと、「皇霊祭」が春分の日と秋分の日に行われているからである。

皇霊祭は、歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式で、宮中祭祀のひとつ。大祭
毎年2回、春分日に春季皇霊祭、秋分日に秋季皇霊祭が斎行される。

1878年(明治11年)にそれまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋に纏め奉祀した。1908年(明治41年)9月19日制定の「皇室祭祀令」では春季皇霊祭・秋季皇霊祭ともに大祭に指定。同法は1947年(昭和22年)5月2日に廃止されたが、1948年(昭和23年)以降も宮中では従来通りの春季皇霊祭・秋季皇霊祭が行われている。

また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、春季皇霊祭は1879年(明治12年)から1948年(昭和23年)まで、秋季皇霊祭は1878年(明治11年)から1947年(昭和22年)まで同名の祝祭日(休日)であった。以降も「国民の祝日に関する法律」により、それぞれ春分の日・秋分の日と改称されて国民の祝日となっている。


現在の靖国神社の春の例大祭は4月21~23 日で、最も重要な日は天皇から勅使が派遣される22日としている。
秋の例大祭は10月17~20 日で、最も重要な日は天皇から勅使の派遣がある18日としている。


首相参拝の意味

明治2年に創建された靖国神社であるが、記録によると首相が初めて靖国神社を参拝したのは第二次世界大戦後のこと。戦前の首相は参拝していない。
これはすなわち靖国神社は天皇が参拝するものという認識にあったのだと思う。
大日本帝国憲法制定から第二次世界大戦終結までは軍事でも政治でも国のトップは天皇だった。
国の代表者が参拝するとしたら、それは天皇だったということである。

それが第二次世界大戦が敗戦で終結するや否や、「戦争の責任は天皇ではなくて政治家にあるでしょう」というくらいな感じになったんだと思う。
天皇や皇族が戦争責任から逃れる必要があったからだ。
だから靖国神社に首相が参拝をするようになった。
戦争が終わってすぐに首相に就任したのは皇族だった。つまり皇族が天皇や皇族の責任を他になすりつける道筋を付けたということであろう。

東久邇宮稔彦王
1887年(明治20年)、久邇宮朝彦親王第九王子として誕生。学習院初等科の同期生には異母兄の鳩彦王、有栖川宮威仁親王第一王子の栽仁王、北白川宮能久親王第三王子の成久王、同第四王子の輝久王などのほか、里見弴もおり親友となる。
香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。

宮家の末子として本来ならば成人の後臣籍降下して伯爵となるところだったが、明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王の降嫁先を確保するための特例措置として、1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。こののち陸軍入り。

近衛歩兵第3連隊長・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任した。フランス留学の経験から陸軍の近代化案を提唱するようになった。
日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留し、武漢攻略作戦に参加した。
1939年(昭和14年)に陸軍大将に昇進。
1941年(昭和16年)12月に防衛総司令官へ就任。



第43代 東久邇宮稔彦王 (1945年8月17日 - 1945年10月9日)
1回ー1945年8月18日

第44代 幣原喜重郎 (1945年10月9日 - 1946年5月22日)
2回ー 1945年10月23日、1945年11月20日

第45代 吉田茂(1946年5月22日 - 1947年5月24日)
この期間にはなし

第46代片山哲、第47代芦田均は参拝なし

第48-51代 吉田茂(1948年10月15日 - 1954年12月10日)
5回ー1951年10月18日、1952年10月17日、1953年4月23日、1953年10月24日、1954年4月24日

第52-54代鳩山一郎、第55代石橋湛山は参拝なし

第56-57代 岸信介(1957年2月25日 - 1960年7月19日)
2回ー1957年4月24日、1958年10月21日

第58-60代 池田勇人(1960年7月19日 - 1964年11月9日)
5回ー1960年10月10日、1961年6月18日、1961年11月15日、1962年11月4日、1963年9月22日

第61-63代 佐藤栄作(1964年11月9日 - 1972年7月7日)
11回ー1965年4月21日、1966年4月21日、1967年4月22日、1968年4月23日、1969年4月22日、1969年10月18日、1970年4月22日、1970年10月17日、1971年4月22日、1971年10月19日、1972年4月22日

第64-65代 田中角栄(1972年7月7日 - 1974年12月9日)
5回ー1972年7月8日、1973年4月23日、1973年10月18日、1974年4月23日、1974年10月19日

第66代 三木武夫(1974年12月9日 - 1976年12月24日)
3回ー1975年4月22日、1975年8月15日、1976年10月18日

第67代 福田赳夫(1976年12月24日 - 1978年12月7日)
4回ー1977年4月21日、1978年4月21日、1978年8月15日、1978年10月18日

第68-69代 大平正芳(1978年12月7日 - 1980年6月12日)
3回ー1979年4月21日、1979年10月18日、1980年4月21日

第70代 鈴木善幸(1980年7月17日 - 1982年11月27日)
9回-1980年8月15日、1980年10月18日、1980年11月21日、1981年4月21日、1981年8月15日、1981年10月17日、1982年4月21日、1982年8月15日、1982年10月18日

第71-73代 中曽根康弘(1982年11月27日 - 1987年11月6日)
10回ー1983年4月21日、1983年8月15日、1983年10月18日、1984年1月5日、1984年4月21日、1984年8月15日、1984年10月18日、1985年1月21日、1985年4月22日、1985年8月15日

第74代竹下登、第75代宇野宗佑、第76-77代海部俊樹、第78代宮澤喜一、第79代細川護煕、第80代羽田孜、第81代村山富市は参拝なし。

第82-83代 橋本龍太郎(1996年1月11日 - 1998年7月30日)
1回ー1996年7月29日  

第84代小渕恵三、第85-86代森喜朗は参拝なし。

第87-89代 小泉純一郎(2001年4月26日 - 2006年9月26日)
6回ー2001年8月13日、2002年4月21日、2003年1月14日、2004年1月1日、2005年10月17日、2006年8月15日

第90代安倍晋三(2006年9月26日- 2007年9月26日)
この期間にはなし

第91代福田康夫、第92代麻生太郎、第93代鳩山由紀夫、第94代菅直人、第95代野田佳彦は参拝なし。

第96-98代 安倍晋三(2012年12月26日 - 現在)
1回ー2013年12月26日


首相は靖国神社の春(4月)と秋(10月)の例大祭に合わせて、あるいはその前後に参拝するのが習わしになっていた。
首相が国の代表者として靖国神社を参拝するという意味合いが少し変わってきたのが、三木首相の1975年8月15日の参拝だった。


終戦記念日と私的参拝

第二次世界大戦の日本が定めた終戦記念日8月15日。
実はこの日はポツダム宣言受諾日でも条約締結日でもない。
いわば「玉音放送記念日」。分かりやすく言うと「天皇ラジオ放送記念日」なのである。

玉音放送
天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。
特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、日本で唯一の放送局だった社団法人NHK(日本放送協会)(現在のNHKラジオ第1放送)から放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書)の音読放送を指すことが多い。
この放送は、太平洋戦争における日本の降伏を日本国民に伝えるもので、日本ではこの玉音放送のあった8月15日を終戦の日あるいは終戦記念日と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に第二次世界大戦が終結したのは、それから半月後の降伏文書が調印された同年9月2日のことである。


でもまあ日本においては終戦記念日として長年特別な日になってきた8月15日。
この日に合わせて初めて靖国参拝をしたのが三木首相。
だからこそ取り沙汰されたわけである。
この時、三木首相は首相としての公式参拝ではなく「私的参拝」である明言したのである。
三木首相は「私的参拝の四原則」として次の4つを挙げた。

(1)公用車の不使用
(2)玉串料は私費による
(3)記帳は個人名のみで肩書きは書かない
(4)公職者を随行させない

この終戦記念日の私的参拝が原因だという見解はないようだが、ほどなくして政界では「三木おろし」と呼ばれる激しい倒閣運動の風が吹き荒れた。


他の日はよくて8月15日の参拝がなぜ問題なのか

8月15日は第二次世界大戦の終戦記念日。
靖国神社に祀られているのは戦死者。
参拝したのが在任中の首相。

この条件が揃っているので、「政教分離」に反しているではないか!というのが建前の問題論である。政治と宗教が分離されていないということである。
だけど憲法には「政教分離」という言葉を用いた条文はない。
「政教分離」の背景には戦後にGHQから国家神道が廃止されたということがある。(国家神道の廃止はGHQのマッカーサーよりもアメリカ政府が強く主張していたことだった)
憲法上「政教分離」を意味していると捉えられているのは第20条である。

第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


宗教法人としての神社か、それとも国家機関か

憲法第20条に抵触していないことを主張するために三木首相は「私的参拝」と言ったのである。
政治に関係する公人ではなく私人として宗教法人の神社に参拝したので問題ないと主張したわけである。

回りくどいが、政教分離に抵触していると問題視されたことにより指し示されたのは、「靖国神社は宗教法人の神社」ということである。
反対説になるが、首相の公式参拝が認められるとするならば「靖国神社は宗教法人ではなく国家機関」であるということになる。

それまで歴代首相の公式参拝は認められてきた。また三木首相も8月15日参拝の4か月前の春の例大祭にも参拝しているが問題視されなかった。
つまり三木首相は「靖国神社は国家機関になっている」という現実を世間に突きつけたわけである。

宗教法人としての神社か、それとも国家機関か、その問題を突きつけるというか、問題提起するには8月15日という特別な日に参拝するのが最適だったのだ。







# by yumimi61 | 2019-01-30 16:30

続続・靖国神社

戦力保持の裏ワザ

天皇は日本国民ではない。
現在の憲法では象徴として定められていて、その地位は「国民の総意」によるものと憲法に記載されている。
だけど「国民の総意」と勝手に誰かが決めただけで、最高裁判所裁判官国民審査のように実際に国民の意思が確認されたことは一度としてない。
でもまあ、今現在確認したとしても、「国民の総意」となるのはまず間違いないだろうと思う。
戦前戦後、日本人は国家神道、あるいは教育や文化を通じて、そのように洗脳されており、天皇制をほとんど誰も疑わないような状況となっている。

国民でなく象徴の天皇は憲法で定められている日本国民の権利と義務の範囲外にある。
宗教に属さない国家神道、宗教法人や神社に属さない伊勢神宮と同じく別格なのだ。

だから日本国民や日本政府が憲法上9条に則って戦力(武力・軍隊)を持てずとも、現状でも天皇個人だったら持つことが可能である。
これまでの戦争は国家神道を通じて天皇のもとに国民が集められ行われてきた。もっと言えば天皇のためにと言って戦わされた。

だけど現在は天皇の軍隊が可能だとしても、国民をその軍隊の軍人にしようとすると現行憲法の9条がネックになる。
何故かと言うと、憲法9条の主語が日本国民だからである。日本国民は国際紛争を解決する手段としての武力行使を永久に放棄すると定めているから。
天皇の軍隊に入ることを断る理由が最高法規に規定されている。
ひょっとすると本当は断りたくない、天皇の軍隊に入って戦争したいという人もいるかもしれないが、それも9条が否定している。日本国民である以上武力行使は出来ない。
天皇と皇族だけで編成された軍隊では何とも心許ないし、責任を被せる国民がいないのも都合が悪いだろう。
よって現状では政府はもちろんのこと、天皇が軍隊を持って戦争を仕掛けるなり応戦するということが出来ない。(日本国民以外を軍人として集めれば可能ではあるが)


憲法改正においては「非常事態条項」を追加するという議論もなされていると思うが、この「非常事態条項」こそ恐ろしい気がする。
非常事態ならば9条を理由に断ることが許されなくなりそうな感じがする。


宗教に非ず

明治維新以後に確立した国家神道は宗教という位置づけに置いていなかった。宗教ではないのだ。宗教を超越したもの。
その国家神道のもとに戦争は行われ、靖国神社は「戦争の亡霊」である。
と同時に靖国神社は、武家政権を倒した者を礼賛する場、武家政権否定の象徴的な場、公家政権や天皇信奉の場である。
靖国神社は本来宗教的な場所ではないので、誰が参拝したって憲法第20条に抵触することはない。

第20条
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

靖国神社に参拝に行くということは、戦争で亡くなった人の霊に会いに行くだけのことである。戦争で亡くなった人の魂と会話するのである。
宗教は関係ないのだが、靖国神社が神社と名乗り、神社神道という宗教と勘違いさせやすいからややこしくなる。

そもそも皆さん、宗教行為を行っているという意識で神社に参拝に行きますか?
祭神や宗派を選んでお参りしてますか?
氏子ですか?
神社神道自体が宗教としては非常にあやふやな位置づけにある。
だから靖国参拝を問題にすれば、「そんな時ばかり(靖国神社参拝の時だけ)宗教を持ち出すか!」という感じになってしまう。
正直、意味のない、生産性のないやり取りが行われている。

生産性がないと言ったが、日本に侵略や占領された外国の人が日本の天皇や政治家が靖国神社を参拝することを問題視したり抗議することは理解できる。
過去の戦争を正当化されたりするのは嫌だろうし、靖国神社参拝に再び戦争の影を見てしまうという心情も分からなくはない。


靖国神社を宗教ではなく国家機関として捉えると

国の政治家が、国家のために殉職した人の慰霊のために、多くの霊が祀られている靖国神社を参拝するということは全くおかしなことではない。首相が国家を代表して公式参拝する、それはとても合理的なことである。

この場合、議論の的になるのはむしろ天皇の参拝である。
靖国神社への参拝を国政に関与していると考えれば現行憲法に抵触するし、参拝を憲法が定めている天皇国事行為の「儀式を行うこと」と考えれば抵触しないということになる。
戦前の大日本帝国憲法であれば、天皇は国政を行う権限全てを持っていたので、国政に関与するのは当然のことだった。
靖国神社にはその時代の人達の霊が祀られている。
そして昭和天皇であれば、大日本帝国憲法でも日本国憲法でも天皇だった。

憲法第4条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。


靖国神社国家管理のための法案提出

靖国神社は宗教の神社なのか国家機関なのかがとても曖昧である。
なぜ曖昧なのかは全権を保有していた天皇の戦争責任を追及せずに天皇制を維持し、天皇の存在意義(象徴とは何かということ)・皇室の宗教・皇室祭祀・伊勢神宮・神社神道などを曖昧な位置づけのまま置いているからである。

戦後は国家神道が禁止されたので、靖国神社も国家管理を外れるしかなく、表向きには宗教法人の神社に甘んじているが、この日本には靖国神社を単なる宗教法人としての神社にしておきたくないという人が少なからず存在する。
宗教ではなくて国家と結び付けたい、国家に承認されたいという人がいる。

現実的に靖国神社を国家管理とすることを定めた「靖国神社法案」が提出されたことがあった。
1969~1974年の間に5回ほど自民党議員立法案として提出されている。
政府法案ではなかったようだが、この時の首相は安倍首相の大叔父にあたる佐藤栄作首相であった。

神社本庁および日本遺族会が中心となって「靖国神社を国家護持による慰霊施設とする」運動が展開された。
1964年、自由民主党内閣部会に「靖国神社国家護持に関する小委員会」が設置され、靖国神社国家管理について議論される。1969年から1972年にかけて議員立法案として自民党から毎年提出されるも、いずれも廃案となる。1973年に提出された法案は審議凍結などを経て、1974年に衆議院で可決されたが、参議院では審議未了となり廃案となった。


政治家の靖国参拝が問題視された最初は上記法案が廃止となった翌年1975年のことだった。
それ以前にも天皇や首相が靖国神社を参拝していたが、別に問題として取り上げられることはなかった。
降ってわいたように戦後30年目の1975年に問題視されたのだ。





# by yumimi61 | 2019-01-29 14:41

続・靖国神社

靖国神社と神社本庁の関係

靖国神社は明治維新後に、明治天皇や明治政府、その政策と密接な関係のもと創建され今日に至っている。
神社本庁も皇室と深い関係にある。
しかし靖国神社は神社本庁の包括下(傘下)の神社ではない。
なぜか。

それは神社本庁が1946年に設立された新興宗教団体だからだろう。
神社本庁は第二次世界大戦終結後に国家神道が禁止されたので、それに対応するため政教分離し、民間の宗教団体として設立され、全国の神社を通して「天皇国・日本」を国民に刷り込んできたというか教え導いてきた。

しかし明治政府が確立した国家神道というのは、もともと宗教という位置づけにない。
国家神道は宗教の上に広く横たわるもの、宗教の上位にある絶対的存在。
伊勢神宮が「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされていることと同じようなことである。別格なのだ。
宗教ではなく道徳や倫理と言うことも出来なくはないが、国家が指導教育し陣頭指揮を執ってきた。そしてその国家神道は戦争に深く関わってきた。

一方の靖国神社は他の何でもない、まさに「戦争の亡霊」そのものである。
そして戦争が国家神道と靖国神社を繋いでいる。
戦争は国家神道のもとに行わなわれたのであり、民間の一宗教団体のもとで行われたわけではない。
天皇以外のものが武力を持つことを否定し天皇が武力を掌握したのが大日本帝国憲法下の日本である。
戦争に負けて多少環境が変わることはあっても、その意識は少しも変わることはなかったのだ。
その強い信念みたいなものが靖国神社を単立神社として存在させたのだと思う。

国家神道ー戦争ー靖国神社

国家神道は宗教でなかったのだから、宗教団体である神社本庁に属することは出来ないということなんだろうと思う。
国家神道を宗教と捉えるといろんなことを見誤る。
おそらく皇室は国家神道を宗教と捉えていないからこそ宗教であるキリスト教と親和できるのだと思うが、諸外国をはじめ一般的には伊勢神宮だってなんだって神社神道という宗教だと思っているはずである。そうでもないんだろうか。
でももし宗教だと思っていないとしたら皇室の祭祀(神事や祭事)を人々を一体なんだと思っているのだろうか。国家神道として認めているということだろうか。
国家神道のもといずれ戦争するのもよいだろうと思っているんだろうか。
とても不思議である。

ともかく靖国神社が神社本庁の傘下になっていないと言っても、神社本庁と方針や意見が合わずに後年離脱した神社とは立場が違う。

靖国神社は単立神社として神社本庁との包括関係に属していない。
これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断によるものである
このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている
例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。例えば第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受けることになる。



宗教団体である「神社本庁」の歴代総裁は女性

NEWSポストセブン 2016年12月20日神社本庁のトップを代々皇族出身女性が務めている経緯

戦後誕生した神社本庁の歴代総裁は、初代の北白川房子さん(明治天皇の第七皇女)に始まり、鷹司和子さん(昭和天皇の第三皇女)と続き、池田厚子さん(昭和天皇の第四皇女)で三代目。これまで皇族出身の女性たちが推戴されてきた。

 神社本庁の総裁は、伊勢神宮の「祭主」も務めてきた。祭主とは伊勢神宮のみに置かれた最高の役職であり、神宮の祭祀に奉仕し、天皇のお心を伝えるとともに、伊勢神宮の神職をまとめる立場である。最近では今上天皇の長女で、清子内親王だった黒田清子さんが「臨時神宮祭主」に就任した。


2017年6月19日付で、池田厚子さん(昭和天皇の第四皇女)が伊勢神宮祭主を退任し、黒田清子さんが就任したことが公表されている。
伊勢神宮の祭主と神社本庁の総裁は兼任となるようなので、ということは現在の神社本庁総裁は黒田清子さんということになる。
神社本庁は公式サイトなどに総裁をはじめ役員など一切公表していない。

皇室の女性は結婚して(しなくてもよいけれど)皇籍離脱し民間人になると言ったりするが、私達と同じ純粋な民間人になるわけではない。
皇室に深く関係する日本赤十字社の名誉職、伊勢神宮の祭主や神社本庁の総裁になったりするのだ。
そうした職が一般の民間人に開かれていない限り、純粋な民間人とは言えない。
民間カモフラージュに女性を利用しているのではないかと思うくらいである。


神社本庁の統理

総裁の下の役職になる。
2011年にこの職に就任したのが靖国神社の祭神になっている北白川宮永久の第一王子(長男)である北白川道久さんだった。

北白川道久
1940年(昭和15年)に父・永久王が航空事故により薨去。3歳で北白川宮家を継承。未成年のため終戦時の宮家の当主の中で唯一の非軍人だった。

第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し、以後は北白川道久となる。
1960年(昭和35年)学習院大学政経学部卒業後、東京芝浦電気(東芝)に入社し、東芝国際交流財団専務など歴任し2000年に定年退職。

2001年(平成13年)4月、伊勢神宮の大宮司に就任。2005年(平成17年)11月15日、紀宮清子内親王(現・黒田清子)の結婚式において、斎主を務めている。2007年(平成19年)7月に退任。

霞会館理事長の他、学習院の同窓会である学習院桜友会理事、中等科・高等科桜友会会長、日本会議顧問を歴任。

2011年(平成23年)6月4日付けにて神社本庁統理に就任した。
2018年10月20日に16時、急性肺炎のため死去。81歳没。


後任の統理は、鷹司尚武さん。

鷹司尚武 1945年生まれ
養母の鷹司和子は昭和天皇の第三皇女であり、今上天皇は義理の叔父にあたる。
松平乗武(旧美濃岩村藩大給松平家当主松平乗長の次男)・章子(ふみこ、鷹司信輔の次女)夫妻の長男として生まれるが、尚武が誕生して間もなく父は戦死した。その後、子供の無かった鷹司平通・和子夫妻の養子となり、鷹司家を継ぎ第28代目当主。

学習院初等科・中等科を経て1964年、学習院高等科卒業。1970年、慶應義塾大学工学部卒業。1972年、同大学院工学研究科修了。同年、日本電気株式会社(NEC)に入社した。NECネットワークスソリューション開発事業本部長、NECネットワークス執行役員を経て、NEC通信システム社長に就任した。2007年6月に退任。
翌月、戦後9人目となる伊勢神宮大宮司に就任し、2017年7月に退任した。日本会議の顧問も務めている。



宗教法人「神社本庁」としての代表役員は総長という職になり、現在は田中恆清さんが就任している。

田中 恆清 1944年生まれ 神職
京都府生まれ。1969年國學院大學神道学専攻科修了。平安神宮権禰宜、石清水八幡宮権禰宜・禰宜・権宮司を経て、2001年より石清水八幡宮宮司。
2002年京都府神社庁長、2004年神社本庁副総裁を経て、2010年より神社本庁総長。

全国八幡宮連合総本部長、一般財団法人日本文化興隆財団理事長、一般財団法人神道文化会会長、公益財団法人京都文化財団評議員、一般社団法人日本国際文化協会理事長、公益財団法人日本宗教連盟理事、世界連邦日本宗教委員会会長。日本会議副会長。






# by yumimi61 | 2019-01-28 23:25

靖国神社

靖国神社のルーツ

日本古来の自然神的な信仰、渡来した仏教、自然信仰に多くの宗教を取り込み日本で独自に形成された神仏習合、宗教は時代によって少しずつ形を変え、カタチ(組織や建物や像など)を作り出してきた。
明治時代には神仏分離で神仏習合が禁止されたり、仏教が忌み嫌われ廃仏毀釈が行われるなど、強制的に強引に形やカタチが変えられた時期もあった。
だから昔ながらのものがそのままの形・カタチで残っていると言い切るのはちょっと怪しいが、それを差し引けば成立してから1000年以上の歴史を持つ神社仏閣などは結構存在する。

それに比べると「靖国神社」というのは明治維新をきっかけに誕生しており、それほど長い歴史を持つわけではない。
明治天皇が創建を命じた「鎌倉宮」「吉野神宮」も同様の事が言える。

靖国神社の創建 明治2年(1869年) 

一番最初は明治維新に功のあった志士を祀るために創建された。
要するに武家政権を倒した者を礼賛することが目的、もっと言えば武家政権否定の象徴的な場である。
それこそ長い長い日本の歴史を否定しているとも言える。
この創建ルーツを考えると、旧幕府など武家政権に関係ある者が喜んで参拝する神社ではないかもしれない。


靖国神社への改称

創建当初は「靖国神社」ではなく「東京招魂社」という名称だった。
「靖国神社」に改称されたのは1879年(明治12年)。
命名者は明治天皇で、神社名にある「靖国」は『春秋左氏伝』第6巻の中の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としているそうだ。
元号もそうだけれど中国の歴史書から引用している。
漢字は中国から入って来たものなので意味を持たせた上で漢字で命名しようと思えば、中国の歴史書の漢文を参考にするというのも理解できる。
裏を返せば日本の歴代の天皇や為政者は、古事記や日本書紀を始めとした日本の歴史書は信を置くに足りないと思っていたということに他ならない。重要な言葉をそれらから引いてくるわけにはいかなかったということである。

改称が行われた1879年(明治12年)6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲ちて各も各も死亡にし其の高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食すが故に靖国神社と改称」とある。

(私による現代語訳)
赤き真っ直ぐな真心を持ち、家を忘れ、身を投げうち、それぞれが死さえ厭わず君主に尽くしたという偉大な功績によって、大皇帝(大天皇)の国が平穏な国となることを(大天皇は)知っていらっしゃるので靖国神社と改称したのです。

歴代天皇が詔勅(公務でのお言葉)で非常によく用いた言葉に「明き浄き直き真の心」というものがある。
「明るく清らかで素直な真心」という意味。
古事記・日本書紀・万葉集に於いてもよく使用されていて、これが徳の三性質と捉えている。
靖国神社改称時の祭文には「明き」ではなくて「赤き」とあるようなので、情熱を表現しているのだろうと思う。
「家を忘れ」には、家に思いを馳せるなんていう私心を捨てることが暗に推奨されている。それは世襲の否定にも繋がるので、やはり武家政権の否定を意味していたのだと思う。
また「家を忘れ」という言葉を入れたことにより、「赤き」という言葉が「赤い血(血縁)」ではなくて、「志を同じにした仲間の情熱」であるということも分かる。その「情熱」は「戦いの末に流す血」に繋がるのだ。

ただ祭文の改称説明にはやや不可解な点がある。
中国歴史書の「吾以靖國也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠としたはずなのに、説明では「安国と知食すが故に靖国神社と改称」と述べている。
「靖」という漢字には澄みきって静まった様を表す。靖国と言えば「平静に治まっている世の中」といった感じになるだろう。
「安」にも安らかや穏やかといった意味があり、「安定的に治まっている世の中」という似たような意味にとれる。
読み方として「やすんずる」で共通する。
しかし靖国と命名するのだからそこは「靖国(靖んずる国)と知食すが故に靖国神社と改称」と書くべきであろう。
「安国(安んずる国)と知食すが故に靖国神社と改称」では微妙に辻褄が合わない。

どうして「靖国と知っていらっしゃる」を「安国と知っていらっしゃる」と書いたのだろうか。
「安」という漢字は女の人が家の中にいる様子が表されたものである。
ということは、赤き真っ直ぐな真心を持ち、家を忘れ、身を投げうち、それぞれが死さえ厭わず君主に尽くしたという偉大な功績が、女性を家の中に留めおき平穏な大皇国を達成すると知っていらっしゃるという意味?
女性が家の外に出ると世を乱すと思っているのか?
ちなみに「知食す」(知ろし食す・しろしめす)という言葉は、知っているの最上級の尊敬語(天皇などに使う)。

「靖国」でも「安国」でも訓読みは「やすくに」である。
では中国由来の音読みではどうか。
「靖国」は「セイコク」であり、「安国」は「アンコク」である。


英霊と正気

嘉永6年(1853年)のペリー来航(いわゆる「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。

この神社が一般的な神社と違うのは祀っている「モノ」が明治維新の志士や、その後の戦争で戦死した軍人であるということ。
神社で祀っているモノだから普通ならば「祭神」と書いたり呼べばいいはずなのだけれど、それが一般人だからか、それとも人数が多すぎるので神としての価値が薄まると思ったのか、通常は「神」ではなく「霊」や「魂」といった取扱い方(呼び方)をしている。
(人数の数え方としては神の数の単位である「柱」を用いている)

靖国神社と言えば「英霊」でお馴染みだが、これは日露戦争後に用いられるようになった用語らしい。
日露戦争の勝利がいかに明治維新後の日本の箔付に貢献したかということがよく分かる。

当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。

正気の歌?
正気じゃないぜ まだここにいて~

「正気(せいき)の歌」は、中国で忠臣の鏡とされた文天祥が詠った歌。
『文天祥の正気歌に和す』というのは幕末の水戸の儒学者で尊皇攘夷論者・藤田東湖が執筆した書。
日本の維新の志士たちだけでなく、第二次世界大戦終結までは愛国者に愛唱されていた。
正気(せいき)とは天地人に宿る根本的な正義と人倫を司る「正大な精気」のことらしい。

文天祥
中国南宋末期の軍人、政治家である。 滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。

南宋(1127-1279年)はその名の通り、現在の中国領土の南半分くらいにあった国(中国)。
元(1271-1368年)はモンゴル帝国の一部となってしまった中国(モンゴル人統治下の中国領)。

中国的な正気の歌?
愛する女性のため "我愛你(ウォーアイニー)" "我愛你(ウォーアイニー)" 泣いた~


靖国神社の謎

靖国神社にはざっと247万人ほどの志士・兵士・軍人らが祀られているそうだ。
神社の本殿内において神様が鎮座している場所を神座という。
椅子でも座布団でもよいけれど、通常は1人に付き1つの席(座)というものが必要なはずである。抱っこして座ることが許されるなんて、せいぜい赤ちゃんと乳幼児くらいなものだろう。
それを思えば神座だって同じで、祭神の数だけ座があるべきだろうと思う。
しかし靖国神社の場合、祀っている神(霊)の人数(柱)があまりに多すぎる。1人1つの座はない。
ということで1つの神座に約247万の神が座している。満員電車も顔負けな状態。

ところが1959年(昭和34年)に靖国神社の神座が増えたのである。
しかしそこに座ったのは台湾や中国といった占領外地に創建した神社などに祀られていた北白川宮家の人物2名。彼らは軍人でもあった。

天皇以外が武力を持つべきではないという後醍醐天皇の理想を具現化した明治天皇。大日本帝国憲法以降、天皇は征夷大将軍ではないけれども「大元帥(国軍の総司令官)」となることが定められた。
国の全ての武力を掌握したのは天皇だった。
そして皇族も軍人として軍を指揮したのである。

創建90年を記念して台湾神宮および台南神社に祀られていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けた。従って現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座である。

北白川宮永久王は北白川宮能久親王の孫にあたる。
北白川宮家というのは明治初期に伏見宮邦家親王の13番目男子・智成親王が新たに創設した宮家。
以前私は近衛師団について書いたことがある。

初代近衛師団長は、小松宮彰仁親王。「伏見宮」の邦家親王の8番目男子。
「伏見宮」は子沢山で明治維新前後に怪しい宮家が起こった元になっている。
「竹田宮」もその1つだが、竹田宮は1906年に創設され、近衛兵に属して日露戦争に従軍した宮家である。
竹田宮の始祖となった人物の父・北白川宮能久親王は、初代近衛師団長・小松宮彰仁親王の実弟である(母親も同じ)。
現天皇家と繋がる久邇宮朝彦親王(4番目男子)は2人(8番目・9番目男子)の兄にあたる。異母。


北白川宮能久親王は台湾征討近衛師団長として台湾に出征していたし、北白川宮永久王も陸軍参謀職として蒙疆方面(モンゴル及び中国北部)へ出征していた。
外地の占領地に赴いていた2人。
しかし北白川宮能久親王の死因はマラリアで、北白川宮永久王の死因は演習中の航空事故。
純粋な戦死とは少々言い難いところがあるが、この2人が数多の霊(祭神)とは別の座で靖国神社の霊(祭神)となった。




# by yumimi61 | 2019-01-28 13:40

単立

最初から単立神社

前記事に比較的規模が大きく有名な単立神社を挙げたけれど、今現在その中で最も有名な神社は「靖国神社」ではないだろうか。行ったことがあるかどうかは別としてニュースに取り上げられることが多いから。
靖国神社は当初から単立神社として存在している神社の1つである。

観光地として圧倒的な知名度を誇るのは「日光東照宮」だろうか。
こちらは1985年に単立神社となった。

「靖国神社」と同じく最初から単立神社であるのが「鎌倉宮」。


鎌倉宮の意味合い

「鎌倉宮」
神奈川県鎌倉市二階堂にある神社である。 護良親王を祭神とする。 建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。 神社本庁の包括下には当初より入っていない単立神社。別名 大塔宮。

祭神である護良親王は後醍醐天皇の皇子で、父とともに鎌倉幕府を倒し建武中興を実現したが、その後、足利尊氏との対立により足利方に捕えられて東光寺に幽閉され、建武2年(1335年)の中先代の乱の混乱の中で尊氏の弟の直義の命で、家来である淵辺義博によって殺められた。

武家から天皇中心の社会へ復帰させることを目的とした建武中興に尽力した親王の功を賛え、明治2年(1869年)2月、明治天皇は護良親王を祀る神社の造営を命じた。7月15日に鎌倉宮の社号が下賜され、7月に東光寺跡の現在地に社殿が造営された。

明治6年4月16日に明治天皇は鎌倉宮を行幸、同年6月9日に鎌倉宮は官幣中社に列格した。

1939年(昭和14年)1月18日、日本郵船の客船「秩父丸」は「鎌倉丸」と改名する。客船「氷川丸」の船橋に氷川神社の祭神を祀っているように、「秩父丸」にも秩父神社を勧請していた。改名に際し、「鎌倉丸」は新たに鎌倉宮から御祭神を奉安した。



後醍醐天皇というのは新田義貞らが鎌倉幕府を倒した時代の天皇。
鎌倉幕府というのは武士が政治の中心にいた武家政権である。
武家政権は鎌倉時代から江戸時代までの約700年間に及ぶ政治形態。
河内源氏という武家の棟梁が長となった。
鎌倉幕府を打ちたてのも倒幕したのも同じ一族の者である。
新田義貞が倒幕に向かったのは、幕府が腐敗し始め強権的支配を行っていることに堪忍袋の緒が切れたからで、自身が権力を握りたいという野望がなかった。(だから結局出世しなかった)
その意味では同じ一族の足利尊氏のほうが多少そうした野望を持っていた。(だから鎌倉幕府倒幕後は後醍醐天皇に反旗を翻し武士を味方に付けて出世することができた)

後醍醐天皇というのは天皇であり、天皇が中心となる公家政権を目指し、かねてから倒幕の計画を立てていた。
その時にちょうど新田義貞らの反乱があったので、後醍醐天皇がそれを上手く利用したというか乗っかったというか、新田義貞らが後醍醐天皇に協力したというかで同じサイドに立つが、もともと新田義貞や足利尊氏は武士であり「公家政権を!」という立場で倒幕に向かったわけではなかった。
同じく武士であり後醍醐天皇の夢のお告げで後醍醐天皇サイドに立って活躍したのが楠木正成である。

倒幕が成功して天皇が自ら政治を行う「親政」の時代となったが(建武の新政・建武中興)、足利尊氏が武士を味方に付けて別の天皇を擁立したので(武家政権)、天皇が2人存在していた南北朝時代に突入することになる。
1336~1392年の56年間が南北朝時代で、その後は戦国時代に突入する。

「鎌倉宮」は武士から政治を奪い取った立役者でもある後醍醐天皇が祭神ではなく、その息子の護良親王である。
この親子、鎌倉幕府倒幕後、その仲が非常に険悪になっていった。
征夷大将軍というポストを親子で争い、武士を取りあいすることになったからである(父に付いていた武士を自分のものとしようと画策し奪っていった)。
後醍醐天皇は天皇以外の者が武力を持つことを否定し、足利尊氏も護良親王も敵に回すことになったが、足利尊氏は足利尊氏で後醍醐天皇と護良親王の両方から命を狙われているという危険な状態にあった。
そんな三角関係というか複雑な情勢の中で、結局は後醍醐天皇の命で護良親王が幽閉され、最後は足利尊氏の弟の家来によって殺された。

明治2年(1869年)2月という非常に早い段階で、後醍醐天皇と険悪な関係にあった息子を祭神とした神社を造営するように明治天皇が命じたというのは、やや不思議な感じがする。
当時の明治天皇は16歳。しかも武士による政治から転換したばかりの時代。当時の政治のあれこれを見ても当初は天皇にそれほど威厳があったようには思えない。
すなわち明治天皇の心情としては後醍醐天皇よりも、親に認められなかった親王寄りだったのではないかと考えられる。


後醍醐天皇が祭神なのは

後醍醐天皇を祭神としているのは奈良県にある吉水神社。
しかしこの吉水神社、もとは金峯山寺の格式高い僧坊「吉水院」だった。
金峯山寺というのは修験道の本山となっており、創立者は修験道の開祖である役小角と言われている。
以前書いたが、修験道というのは神仏習合であり、明治政府が禁止して弾圧してきた宗教である。

金峯山寺の僧坊時代には河内源氏の源義経が弁慶らと身を隠したことがあり、河内源氏とのと関わりがあった。
また後醍醐天皇も足利尊氏に反旗を翻された時に、京都から奈良に移り、「吉水院」の住職・宗信法印にの援護を受けて吉水院に行宮(政変時などにおける天皇の一時的な滞在場所)を設けた。⇒吉野の南朝
当時はまだ修験道聖地近くの奈良寄り大阪を本拠とする楠木正成や河内源氏一族の新田義貞が健在だった時期であり後醍醐天皇に付いていた。
従って彼らの縁もあり吉水院に行宮が設けられたのだと思う。
後醍醐天皇崩御後には、後村上天皇が後醍醐天皇の像を作って吉水院に安置した。 像なので仏教的であり、もちろん祭神ではない。

しかし明治時代には神仏分離となり廃仏毀釈が行われ、とりわけ修験道は徹底的に弾圧された。
金峯山寺や吉水院は廃止に至った。
そして吉水院(修験道・金峯山寺の僧坊)は、後醍醐天皇社(神社)を経て、吉水神社に変わった。
祭神は後醍醐天皇を主祭神とし、併せて南朝方に付いていた武士の楠木正成、吉水院の住職だった宗信法印を配祀している。

明治時代に入ると神仏分離令と国家神道化の観点から天皇を仏式で供養することが問題視され、明治4年(1871年)5月に五条県が吉水院を神社に改めて吉野神社とする案を太政官政府に提出した。後醍醐天皇を祀る神社を別に作ることを計画していた政府は五条県の案を却下したが、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、奈良県が神社への改組を働きかけ、明治6年(1874年)12月17日に後醍醐天皇社の名で神社になることが太政官に承認された。明治8年(1875年)2月25日に吉水神社に改称し、やがて村社に列した。


新たに「吉野神宮」を創建

〇〇神宮(例:明治神宮)や〇〇宮(例:鎌倉宮)という名称の神社は皇室に関係する神社。皇室の祖先神(例:天照大神)や歴代天皇のいずれか(例:明治天皇)を祭神として祀っている神社の事である。
神社を国家が管理していた時代は「神宮」の名称を名乗るには国の勅許が必要であった。
現在も神社本庁の傘下にある神社が「神宮」を名乗るためには、神社本庁の承認が必要である。

女子大生が行方不明になっているニュースで茨城県の鹿島神宮駅という名前が出ていたが、鹿島神宮は実在した天皇ではなくて日本神話に登場する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神としている。雷神、剣の神で、相撲の元祖とも言われる神。
先ほど引退した稀勢の里が土俵入りを奉納したのがこの鹿島神宮だったらしい。
それはともかく吉野神宮。

吉野神宮は明治天皇の命によって創建された神社である。

1889年(明治22年)6月22日 - 明治天皇が官幣中社吉野宮の創立を命じた。
1892年(明治25年)社殿造営完成、鎮座祭。
1901年(明治34年)8月8日 - 官幣大社に昇格。
1918年(大正7年)吉野神宮に改称


1892年に社殿が完成した際に、後村上天皇が吉水院(明治期に吉水神社となった)に安置した後醍醐天皇像を吉野神宮へ移したのである。そして遷座祭が行われた。
明治天皇が創建を命じた1889年(明治22年)というのは大日本帝国憲法が公布された年である(1889年2月11日公布)。
明治天皇が40歳になる年でもあった。
すなわち名実ともに天皇が権威権力を握った年、名実ともに君主国家、公家政権が誕生したその年に、護良親王ではなく後醍醐天皇の像を移して(像は仏教的なのだけれども)、新たに吉野神宮を創建させた。
それはとても象徴的な出来事であったはずだ。

後醍醐天皇は倒幕が成功し親政となると天皇以外の者が武力を持つことを否定した。
明治天皇はそれを具現化した。


階級が好きなのは明治政府以降の公家政権である

後醍醐天皇を主祭神としている「吉水神社」と「吉野神宮」は神社本庁の包括下(傘下)にある神社である。
しかし後醍醐天皇の息子である護良親王を祀った「鎌倉宮」は同じ明治天皇が創建させた神社ながら最初から神社本庁傘下の神社ではない。
「最初」というのがいつかというと、神社本庁が設立された第二次世界大戦後の1946年である。

また両神社は格も全然違う。
後村上天皇が後醍醐天皇像を安置したという「吉水院」を前身とする「吉水神社」ではなく明治天皇が創建して像を移転させた「吉野神宮」のほうが格が遥かに上である。

「吉水神社」(主祭神が後醍醐天皇)・・・村社 神社本庁の傘下
「吉野神宮」(主祭神が後醍醐天皇)(明治天皇が創建)・・・官幣大社 神社本庁の傘下(別表神社)
「鎌倉宮」(主祭神が護良親王)(明治天皇が創建)・・・官幣中社 単立神社

【神社の格】
官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社
 ↓
府社=県社=藩社>郷社>村社
 ↓
無格社

神社の格(階級)は第二次世界大戦後に一応廃止されてはいるが、「旧社格」などとして現実的には存在している。
神社に格(階級)を付けたのは公家政権であった平安時代と明治時代である。
戦後の神社本庁の時代になってからは、旧社格制度で格の高かった神社や規模の大きい約350社が「別表神社」として規定されている。

近代社格制度では、社格を官社と諸社(民社)、無格社に分ける。伊勢の神宮は、「全ての神社の上にあり、社格のない特別な存在」とされた。

官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社であって、官幣社と国幣社に分けられる。
奉幣とは天皇の命によって幣帛(布帛・衣服・紙・玉・酒・兵器など)が供与されること。のちには幣帛料として金銭ということもある。
官幣社には皇室(宮内省)から、国幣社には国庫から金品が支出されていた。
戦後は直接的に国家が神社に関わることが制限されたので、神社本庁が傘下の神社に幣帛を供与する。

では幣帛を供与する神社本庁の収入源は何なのかと言えば、「傘下の神社が売り上げる神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金」と「傘下の神社からの会費」である。

各神社が売り上げた「神宮大麻(伊勢神宮のお札)の売上金の全額」は伊勢神宮に納付する。
納付された金額の半分が伊勢神宮の収入となり、残りの半分が神社本庁に入り、神社本庁はそれを調整して各神社に再分配するという。
神社本庁に入ってくる金額は35億円とか言われている。

「会費」は氏子数と参拝客数で決まるので、それぞれ異なる額となる。
神社本庁は1年間の予算(収入)として10億円ほどを見込んでいる。
ここでもいわゆる「上納システム」が採られている。

その他、各神社の厚意による寄附もあるそうである。









# by yumimi61 | 2019-01-27 17:01

Complete

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# by yumimi61 | 2019-01-26 23:46

鎮守の闇

反対派の宮司死す(400万円の呪い?)

山口県熊毛郡に建設予定の上関原子力発電所の用地に四代正八幡宮の神社地(鎮守の森)が2割程度含まれており、その神社地の中には1号機の炉心予定地も含まれていた。
当時の林春彦宮司は土地の売却を神域だからと拒否。原子力発電所の建設自体にも反対していた。
すると宮司の任免権を持つ神社本庁が林宮司を2003年3月16日付で職務怠慢を理由に解任し、原発賛成派の宮司を就任させた。
この解任劇には林宮司の退任届が偽造されていたという内幕があった。

2004年10月6日、この新たに就任した賛成派の宮司によって正式に神社地の売買契約が締結された。これによって原子力発電所敷地造成区域内の全ての土地売買契約が終了した。
反対派の氏子らが神社本庁を相手取り「売却処分の禁止」を求める仮処分を山口地裁岩国支部にすでに申し立てていたが、契約が正式に締結したことを受けて、中国電力を相手取り「移転登記抹消」と「現状変更禁止」を求める仮処分を申し立てた。
また解任された林宮司の「地位保全」を求める仮処分も申し立てられ、それに関連して林宮司の退任届が偽造された件は「有印私文章偽造」として山口県地方検察庁に告発がなされた。
しかし証拠調べなどの捜査は行われず放置(中断)されたまま、山口県地方検察庁は2005年に2月に捜査中止を通知したとのこと。

林宮司の地位保全を求める審尋は非公開で行われており、被告側となる神社本庁は解任の理由を「宗教団体内の問題であり公開する必要は無い」と述べていたという。
しかし裁判所から宮司の解任理由を明らかにするよう再三促された神社本庁は、解任2年前の2001年に四代八幡宮の役員らに神社本庁に提出させたという「回答書」を裁判所に提出した。
林宮司はこの「回答書」についても虚偽の部分があることや、解任が正式な手続きを踏んでいないということを主張した。

「有印私文章偽造」についてすでに検察から捜査中止を通知されていた林宮司は、2006年4月今度は、退任願を偽造され正当な手続きを経ずに解任されたということで、山口県神社庁に約400万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
そのおよそ1年後の2007年3月29日、林宮司は山口地裁岩国支部で倒れ緊急入院した。そして3月31日帰らぬ人となった。
心労が重なったと言えば間違いとは言えないが不穏な噂もある。

一審判決が出るまでにはそれからまだ2年もかかった。2009年3月24日。
偽造を認めながら山口県神社庁への約400万円損害賠償請求は棄却した。
2010年9月の二審判決でも広島高裁が原告の請求を棄却した。


政教分離と神社本庁

前にも書いたが「神社本庁」は1946年1月に設立された新興宗教団体である。
明治期に設立された3つの団体「財団法人神宮奉斎会」「全国神職会」「皇典講究所」が元の団体を解散した上で合流。
3つの中では「皇典講究所」が一番古い団体なのでここが中心になったと思われるが、
●初代総裁は有栖川宮幟仁親王。
●初代所長は山田顕義(陸軍軍人・政治家。山口県生)
 1899年(明治22年)に日本大学の前身である日本法律学校を設立(当時司法大臣)、日大の学祖である。


「神社本庁」は、国家機関である内務省の外局であった「神祇院」の後継的存在であるが、GHQにより国家神道に制限が加えられ神道に政府が大ぴっらに関与することが出来なくなったので、「神社本庁」は民間の宗教法人という位置づけで設立され、国家は政教分離を謳い、政教の教への関与は皇族が担当した。
形式上分けているだけなので、当然「政教」はどちらにも影響しうる。

神社本庁の所在地は東京都渋谷区代々木1-1-2(伊勢神宮の隣)であるが、地方機関として各都道府県に神社庁を置いている。さらにその下の市や郡に支部がある。
もはや行政機関のようである。


「本宗」に秘められたもの

新興宗教団体「神社本庁」は包括宗教法人という位置づけにあり、傘下にいるのは全国のほとんどの神社(全国の神社の99%は傘下にある)。
企業に例えれば神社本庁は持株会社や親会社といった感じである。
しかし神社本庁は神宮(伊勢神宮)を本宗として崇めている。
要するに神宮(伊勢神宮)は「天皇の国家」を体現したもの。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(持株会社・親会社)ー全国の神社(傘下)

味方を少し変えると、全国の神社は神社本庁という宗教者の信者ということになる。
その神社本庁が「本宗」と崇めているのが神宮(伊勢神宮)、つまり天皇や皇室である。

  伊勢神宮(天皇・皇室の国家)ー神社本庁(宗教者)ー全国の神社(信者)


神社本庁の「本宗」が伊勢神宮である事は、神社本庁が制定している各規程にも記されている。
しかし「本宗」という言葉は一般的に用いられるものでなく辞書にも掲載されていない。仏教用語など既存の宗教語でもない。
だから神社本庁独自の言葉ということになるが、神社本庁もこの言葉の意味(定義)を全く説明していない。
だから改めて「本宗とは何ですか?」と訊かれると神職ですら答えに窮すという。
こうなれば神社本庁は何かを隠しているとしか思えない。何を隠しているのかと言えば「国家神道」「天皇の国」ということ。
表向き(日本国憲法上)は主権が国民の民主主義国家ということになっているので、ちょっと不味いという意識があり隠しているのだろう。

傘下の全国の神社の神職や関係者は、自分が伊勢神宮の職員や関係者でないにもかかわらず、神宮大麻(伊勢神宮のお札)を各家庭に頒布したり、伊勢神宮の式年遷宮に奉賛するなどしている。


1%の神社

全国の神社の99%は神社本庁の傘下にある。
残り1%はどんな神社かと言うと、神社本庁以外の神社神道の包括団体の傘下にある神社と、どこにも包括されていない単立神社がある。

<比較的規模が大きく有名な単立神社>
合氣神社(茨城県笠間市)
味生神社(大阪府摂津市)
淡嶋神社(和歌山県和歌山市)
粟嶋神社 (熊本県宇土市)
石切剣箭神社(大阪府東大阪市)
出雲大社大阪分祠(大阪府堺市)
出雲大神宮(京都府亀岡市)
揖宿神社(鹿児島県指宿市)
新熊野神社(京都府京都市)
新日吉神宮(京都府京都市)
梅宮大社(京都府京都市)
大依羅神社(大阪府大阪市)
沖縄県護国神社(沖縄県那覇市)
鎌倉宮(神奈川県鎌倉市)
草戸稲荷神社(広島県福山市)
熊本大神宮(熊本県熊本市)
車折神社(京都府京都市)
気多大社(石川県羽咋市)
児玉神社 (神奈川県藤沢市)
坐摩神社 (大阪府大東市)
山王神社 (長崎県長崎市)
下御霊神社(京都府京都市)
須波麻神社(大阪府大東市)
垂水神社 (大阪府吹田市)
富岡八幡宮(東京都江東区)
梨木神社(京都府京都市)
日光東照宮(栃木県日光市)
原田神社(大阪府豊中市)
日前神宮・國懸神宮(和歌山県和歌山市)
伏見稲荷大社(京都府京都市)
舊府神社(大阪府和泉市)
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)
靖国神社(東京都千代田区)
山内神社(高知県高知市)
由加神社本宮(岡山県倉敷市)

最初から単立神社と途中で離脱して単立神社になった神社が存在する。
近年だと2010年に気多大社、2013年に梨木神社、2017年に富岡八幡宮が離脱した。
明治神宮も2004年に離脱したが2010年に復帰した。

なぜ途中で離脱するのかと言うと、傘下の神社は神社の運営・財産管理や宮司の就任などについて神社本庁の承認が必要なのだが、その承認が得られなかったことをきっかけに離脱することが多い。
もっとも多い理由としては、新たな宮司の就任を神社本庁が承認しなかったからというものらしい。
傘下の神社は神社本庁の方針に従わなければならないのだ。
神社本庁は傘下の神社に対して任命権や承認権みたいな非常に強い権力を持っている。
世襲的な問題や地域での苦情など正当な理由がある場合もあるだろうけれども、神社本庁が気に入らない者や都合の悪い事は承認しないということが出来る。
私達は神社に行くことはあっても、通常そんな内部のことは知らない。
これはそのまま政治に当てはまるのではないのか。
任命権や承認権を単なる形式的なものと思い込んでいるが、裏で強権を発動しようと思えばできるということ。私達に見えるのは表の部分だけである。

ただ実際に離脱するのは神職や職員が複数いるなどある程度の規模がある恵まれた神社でないと難しいところがあるんだと思う。
神職が1人で切り盛りしているといったような場合には、助言や支援や仲裁など拠り所が必要ということもあるんだろう。

(梨木神社の離脱理由)
社殿の修復等の資金集めに苦慮していた平成25年(2013年)、境内の参道を含む土地をマンション開発業者に60年の定期借地権で貸し、その賃貸料を社殿の修復費用に充てることとしたが、その計画が神社本庁の承認を得られなかったことから、神社本庁から離脱し単立神社となる事態となった。

(気多大社の離脱理由)
神社本庁に報告しなければならないという神社規則を変更することによって離脱を試みた事例。そしたら神社本庁から反撃を食らい、裁判にまで発展した。
平成17年(2005年)11月28日付けで、神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となる決定を行い、同時に「財産の管理および処分に関する役員会の決議事項は神社本庁に報告する」と定めた気多大社神社規則の変更を決議した。
石川県はこの規則変更決議を認証するも、平成18年(2006年)1月に、神社本庁が県の認証を取り消すよう文部科学省に取り消しを申請し、平成18年(2006年)5月に、文部科学省は石川県の認証を取り消す決断を下す。これにより、神社本庁からの離脱が事実上、無効となった
神社本庁は平成18年(2006年)8月29日附で宮司を懲戒免職とし、翌30日に石川県神社庁長(当時)を兼任宮司に特任した。
気多大社側では、これらの処分を不服として裁判を起こし、最終的に勝利して離脱した。

(富岡八幡宮の事例)
富岡八幡宮というのは大相撲にゆかりのある深川八幡宮のこと。
2017年に宮司間で殺人事件が発生し報道されたので覚えている人もいるのではないかと思うが、あの神社である。

第19代宮司の長男が1995年に第20代宮司となった。
しかし1999年以降、その第20代宮司の金遣いの荒さや女癖の悪さなどが問題化し、2001年5月に解任され、先代の第19代宮司が復帰した。
これが2017年の事件の伏線にもなっている

第20代宮司は勘当状態となった後、新たに後継者とされた姉や父たちを恨んで脅迫を行ったり怪文書を撒いたりするなどしており、2006年に脅迫罪で逮捕されている。

2010年に第19代宮司が引退したため、富岡八幡宮は長女を宮司として任命するよう神社本庁に具申していたが、正式な宮司への就任具申が3度にわたり認められなかったため、長女が「宮司代務者」となる宮司空席状態が7年ほど続いた。
つまり神社本庁が女性である第21代宮司(19代宮司の長女)を承認しなかったのである。
そのため、富岡八幡宮は2017年9月に神社本庁からの離脱を決定し、単立神社となり、長女が第21代宮司に就任した。
その3ヶ月後の2017年12月7日に殺人事件が起こった。
神社本庁の包括を離脱して、長女が正式に宮司になったら殺されてしまったという何ともな事件である。
第21代宮司(19代宮司の長女)とその運転手が、第20代宮司(19代宮司の長男であるが解任され勘当された宮司)とその妻に日本刀で襲われて、第21代宮司は死亡し、運転手は重傷を負った。さらに第20代宮司は妻を殺害した後に自殺したという。
そして結局、第22代宮司には富岡家の血縁者ではない者が就任することになった。


明治神宮も一時期離脱

明治神宮は明治天皇と昭憲皇后を祭神として、立地の良さからか日本一の参拝者を誇るという。

その明治神宮が2004年に神社本庁を離脱したことで世間を驚かせた。
直接的な理由は参拝式案内状のミスだったそうだ。
2004年4月天皇皇后が明治神宮を訪れた際、明治神宮は参拝式案内状に「両陛下」と表記すべきところを誤って「両殿下」と表記してしまったのだという。 
そしたら神社本庁が怒った。右翼団体も怒った。「不敬である!」と言ったのか!?
明治神宮側は始末書で済ませるつもりだったが、神社本庁が明治神宮の宮司に進退伺の提出を要求した。
早い話、「解任します」ということである。
「いくら何でもそれくらいのミスで解任って・・」と言ったかどうかは分からないが、明治神宮側は神社本庁の要求には応じず、離脱することを2004年5月に決定し、同年8月に正式離脱した。

明治神宮は明治天皇を祀っている神社であるが、天皇の敬称を誤記してしまい、神社本庁がそれを許さず解任を迫ったため、離脱の引き金になったということ。
どちらかが天皇や国家神道に否定的ということではなく、どちらにしても「天皇様に失礼でしょう」という考えが根底にありそうな一件。
と思ったら2010年に明治神宮は再び神社本庁の包括神社に復帰した。





# by yumimi61 | 2019-01-25 14:34

原子力発電所と神社本庁

こちらも埋め立て~上関原子力発電所~

上関原子力発電所
中国電力が、瀬戸内海に面する山口県熊毛郡上関町大字長島に建設計画中の原子力発電所である。長島西端の田ノ浦の山林を切り開いて14万平方メートルの海面を埋め立て、改良型沸騰水型軽水炉(ABWR)2基の建設が計画されている。稼働後に発電される電力は、50万ボルト送電線で同県周南市まで引かれ、既存の高圧線を経て主に広島・関西方面に供給されるものと見られている。2011年に発生した東日本大震災以降工事が中断しているが、2016年以降は工事着手に向けた準備作業が続けられている状況にある。

山口県熊毛郡は結構有名な地域だと思う。
何故かと言うと、明治維新後の日本政治を牛耳った地域として知られているから。

21483、山口県、鹿児島県、両県にある田布施町の不思議

謎の地域とは、山口県熊毛郡田布施町

*熊毛郡と田布施町は鹿児島県にも存在したのは、両県にあったのは偶然の一致ではないだろうが
① まずは、山口県熊毛郡と田布施町を見る。
山口県熊毛郡田布施町は 2010年8月1日現在で人口僅か16,044人の寒村でもとは同じ熊毛郡束荷村であった光市と柳井市に囲まれて、北朝鮮の被差別部落といわれている。

*鬼塚英昭は大分出身の、民間の歴史家、「日本のもっとも醜い日」、現代史、昭和天皇の歴史を裏事実を含めて、正直に、論理的に納得できる筋書きで構築している。

田布施町出身有名人、山口県出身の人物一覧

大室寅之祐=明治天皇
熊毛郡、田布施町麻郷、南朝の末裔というより北朝鮮被差別部落の出で、後の明治天皇。
橋本龍太郎氏の祖母大室ヨネ(米)の父、大室庄吉の兄は大室寅之祐(東京明治天皇)

伊藤博文 (林家) 熊毛郡東束荷村 (光市束荷字野尻) 生まれ
6歳まで過ごした家は田布施町に残り、大室家とは隣接地にある。
(吉田松陰の命を受けた桂小五郎(木戸孝允)と伊藤博文が大室某を養育していた)
難波八助、宮本顕治(日本共産党)は伊藤家の一族で
木戸幸一も系図の中に入り、京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた、河上肇(玖珂郡岩国町)も一族。

岸 信介  熊毛郡田布施町
大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家がある。
(この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。)、

松岡洋右(元外相)は岸の一族である。

佐藤 栄作 熊毛郡田布施町、岸、安倍とは同族。 
吉田茂(高知出身、横浜、吉田家に養子)にも縁戚関係がある、
安倍晋三 (本籍地: 山口県大津郡で現在の長門市、生まれは東京、新宿)  その父(岸信介の娘婿)晋太郎は朝鮮人で 統一教会に縁が深い。  
                                
安倍源基 熊毛郡曽根村(平生町)
終戦内閣の最後の内務大臣  大室寅之助の生家の近くにある。
宮本顕治  山口県光市((旧熊毛郡束荷村)伊藤博文の一族

② 鹿児島、熊毛郡と田布施町
鹿児島県熊毛郡は屋久島、種子島を含む。県南部にあった田布施町(現在の加世田市金峰町)はやはり被差別部落である。

小泉前首相の父・純也氏は鹿児島の田布施朝鮮人部落出身の朝鮮人である。後に、ヤクザ(稲川会)の婿養子となり、小泉姓を名乗る。

東郷茂徳 終戦時の外相で、本名、朴茂徳、朝鮮人部落の出身 (朝鮮人陶工の子孫、秀吉の朝鮮役の際,島津氏が連れて帰った陶工の一族、島津家では士族身分)、4歳時、東郷家(平八郎家ではない)に養子。

鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。
阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。


山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)

鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。
 長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。
 小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
 ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。

 『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。
 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。


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青マークが熊毛郡田布施町で、1赤マークが熊毛郡上関町。
437と書いてある上関町の東側の島が、昨年8月15日に大分県のボランティアの男性が行方不明男児を見つけた周防大島町。
2と書いてある辺りが、大阪の富田林署に勾留され弁護士の面会を利用して逃走した容疑者が見つかった道の駅「ソレーネ周南」がある所。
右側の方の四国の今治は加計学園の獣医学部新設問題で揺れた市。

上関原子力発電所の計画に当たっては、賛成派・反対派で町内を二分するほどの激しい対立が続いている。

(推進派)
原発推進を町政運営の悲願とする上関町執行部や、6団体(上関町まちづくり連絡協議会、町商工会、町商工事業協同組合、町建設業協同組合、漁業振興問題連絡協議会、上関原電推進議員会)、が中心になって原電(原発)誘致・推進運動が進められている。
中国電力は上関町に対し「原発立地促進に多大な協力をいただいている」として、建設が具体的に動き出した2007年8月以降、上関町に対し計5回にわたって総額24億円の寄付を行っており、町はこれを一般会計に組み込んだ上で基金を設立し、町民の生活支援事業(中学生以下の医療費全額助成や老人の通院用バス運賃の補助、町独自の地域振興券の交付など)に用いている。

(反対派)
一方の反対派は、上関町の離島・祝島の住民を中心としている。祝島は一箇所に集中している島の集落のほぼ真正面(直線距離で約3.5km)に原発予定地が位置しており、農水産物の放射能汚染などへの懸念など生活環境に与える悪影響が甚大であると主張している。島民以外では、環境保護団体らが周辺海域に小型クジラのスナメリや海鳥カンムリウミスズメなど複数の貴重な生物が生息することや、付近に活断層が存在する可能性があることなどの点を指摘している。

(選挙)
原発建設計画が具体化して以降、上関町全域で見ると、選挙時における推進派候補と反対派候補の得票率はおおむね6:4で固定化されていると言われる。このため上関町長選挙では原子力発電所誘致が表面化して以来、片山秀行、加納簾香、柏原重海と3代連続して推進派候補が当選し、上関町議会議員選挙でも推進派が反対派を上回る議席を得ている。

(神社地売却と反対派宮司解任問題)
建設予定地の一部が四代八幡宮の所有する山林にかかっていたが、当時の四代八幡宮宮司は神社地を原発用地に提供することに反対であったため、2003年には原発推進派の氏子が四代八幡宮宮司の解任を要求する騒動に発展した。結果的に当時の宮司は神社本庁により事実上解任され、新しく任命された宮司が用地の売却を認めたため、宮司の任免権を持つ神社本庁と前宮司及び反対派の間で対立が続いている。
四代八幡宮の元宮司とその弟は山口県神社庁を相手取り「自分を解任に追い込もうとして、県神社庁が退職願などを偽造した」として計400万円の損害賠償を求め提訴。一審の山口地方裁判所岩国支部は2009年3月24日の判決で、退職願などが何者かによって偽造されたものであることを認めつつ「文書を偽造しても、宮司らを解任するのに利用できない」などとして県神社庁の関与を否定、請求を棄却した。原告側は控訴したが、二審の広島高等裁判所も、2010年9月2日の判決で「県神社庁が退職願を偽装したとはいえない」として原告の控訴を棄却した。



原発反対を封印した大臣

その大臣はと言えば、現在外務大臣である河野太郎氏。
自民党議員や2世議員でありならが原子力政策を痛烈に批判してきた政治家であった。
もっとも福島第一原発事故が起こった2011年3月は民主党政権であったので、当時自民党議員は野党議員である。与党野党で右左を決めれば、左側の立場にいたということになる。(このあたりが何気にややこしいですね)

その河野議員は2011年9月に現代ビジネスで、(一言で形容すれば左派代表!みたいな)山本太郎氏と特別対談している。
山本氏が参議院議員に当選したのは2013年7月なので、当時はまだフリーの俳優&活動家だった。
当選した後の2013年10月31日の園遊会では誰にも制されることなく天皇に直訴していたっけ(直接手紙のようなものを手渡した)。

2011年9月30日 特別対談河野太郎(自民党前幹事長代理)×山本太郎(俳優)「原発に買われた政界と芸能界」

 自民党前幹事長代理の河野太郎氏(48)と俳優の山本太郎氏(36)には、名前以外にも共通点がある。政界と芸能界という原発とズブズブの環境にありながら、損得感情を超えて脱原発を訴えていることだ。同じ志を持つ「二人の太郎」が、脱原発への道を模索すべく、初めて対談のテーブルに着いた。
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そんな太郎コンビの片割れが自民党安倍政権で外務大臣になった(2017年8月3日~現在)わけだが、かつての反原発の勢いがすっかり影を潜めてしまったらしい。

2018年2月25日
河野太郎氏、脱原発の封印を語る!「閣僚は政府として連帯責任。思っているを言うことはできない」

河野太郎外相が脱原発政策に触れなくなったことについて、初めて明確なコメントをしました。河野太郎氏は大臣になる前は脱原発派として知られており、自民党内でも「異色系の議員」だと言われていたこともあります。
しかしながら、大臣に任命された後は脱原発政策を封印し、今日まで安倍政権の方針を堅持していました。

23日に行われた衆院予算委員会分科会で岡田克也議員から脱原発に対する考え方を問われ、河野外相は「閣僚になれば政府の一員として連帯責任を負う。自分の思っていることだけを言うことはできない」などと心境を語ります。
ただ、具体的な話になると「原発について申し上げたいことはたくさんあるが、これは経済産業省が主管だ」と述べ、言及は避けていました。

大臣は一般的な国会議員とは異なっており、省庁のトップとして強い権限を持っている代わりに、政府方針を最優先で守る必要があります。
そのため、議員個人の思想信条よりも大臣としての立場が最終優先となることから、河野太郎氏のように議員時代とは異なった政策でも守らなければ行けないのです。




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# by yumimi61 | 2019-01-24 16:29

貸与と贈与(小室問題)

「小室」「借金」という見出しを見れば、また小室哲哉さんが何かやらかしたのかと思う人もいるはず。(いませんよ?すみません・・)
今日は懲りずに時事ネタに乗ってみようと思います。
小室は小室でも圭の方ね(馴れ馴れしすぎ?)


よく分かった!?

私、日産関係の記事を書いている途中で、小室圭さんのご家族の借金を引き合いに出したことがあった(13 中国・合弁・OEM)。

秋篠宮家の娘さんが結婚しようと思った男性の家族に借金が400万ほどあったということが問題視された。
これを企業買収(企業価値)に例えれば、結婚費用1億円+有利子負債400万円(実際は無利子なのかな?)ということになる。
買収する側がこの金額で買収する価値があると判断したならば、1億400万円出せばよいだけのこと。
1億400万円も出せないから買収できないと思えば諦めるしかない。
企業買収ならば負債だけが取り沙汰されて問題にされるということはあまりない。負債は信用でもあるから。
でも闇金とか何だか怪しい所から多額の借金をしているとしていたら、それは金額云々ではなく買収自体を考えてしまうと思う。

その時は大ざっぱな把握でどんな借金かよく知らなかったのだけれど、今回どんな借金なのかよく分かった。

秋篠宮家の娘さんの婚約者(小室圭)は母子家庭であった。
小室圭さんのお母様は2010年にとある男性と婚約。圭さんは1991年生まれなので2010年は18歳とか19歳というお年頃で高校生から大学生になる年齢。
その婚約者から圭さんの学費などを金銭支援してもらっており、その額が400万円ほどになっていた。
しかし2012年9月、お母様の婚約者が婚約解消を願い出て婚約は破棄された。
従って支援した400万円が宙に浮いた感じで揉めている。
この理解で間違いないでしょうか?


ICUの学費

小室圭さんの進学された大学は国際基督教大学(ICU)。
眞子さんも同じくそうですね。
神だとか神事がどうこういっている皇室がキリスト教の大学に進学するというのも考えものだけれど、次男家だし女の子だし、いずれ皇室を離れるという前提で今日はそのあたりはスルーしておきましょう。

ICUは学費が高い私大の中でもトップクラス。
入学金は30万円。
1,2年次は「授業料と施設料」で年間141万9,000円。3,4年次は年間143万1,000円。
さらに「在籍料」という名目の徴収も年間9万円。
「授業料と施設料」と「在籍料」で年間およそ151万~152万円が必要。
その他、「聴講生選考料」10,000円、「聴講生聴講料」学期毎に1単位につき40,000円、「科目等履修生選考料」11,000円、「科目等履修生受講料」学期毎に1単位につき41,000円。
実習費・実験費・材料費などは別途実費。


世帯モデルケース

例として30歳の夫妻が子供を儲けたとします。
子供が20歳の時には50歳。
日本の50歳の平均年収は600万円ほど。男性は700万円ほどで、女性は400万円ほどで、その平均が600万円くらい。(平均値ですので個々に見れば、これよりも多い人も少ない人もいるということです)

<年収700万円の50歳男性正社員>
年収700万円が月々の給料とボーナス(賞与)年2回で支給されているとします。
1回のボーナスの平均は給料2か月分。
従って1ヶ月の給料は、600万÷16か月=43.75万円。
ボーナスは1回87.5万円で、年間では175万円。

<年収400万円の50歳女性正社員>
年収400万円が月々の給料とボーナス(賞与)年2回で支給されているとします。
1回のボーナスの平均は給料2か月分。
従って1ヶ月の給料は、400万÷16か月=25万円。
ボーナスは1回50万円で、年間では100万円。

<上記の2人が夫妻の場合>
年収は1,100万円。
月給は合わせて68.75万円。
ボーナス1回は137.5万円、年間で275万円。

ICUの学費は50歳男性正社員ならば出すことが可能、共働きならばもっと可能、母子家庭では正社員だとしても難しいということになる。
住居費とその維持費、住宅ローン、その他ローン、自動車税や車検や任意保険などの自動車維持費、医療費などなど、教育費以外にも必要なお金もあるだろうから、貯蓄がない場合には50歳男性正社員でもぎりぎりといった感じ。
しかも年間151万~152万円の学費というのは1人分なので、兄弟姉妹が同時に私大生、あるいは浪人生やお高い進学塾に通っている場合などには、この2倍3倍と必要になってくるわけで、当然に年収だけではカバーできなくなる。
また実家と大学が遠くて実家通いが不可能な場合には、子供(学生)の住居費5~10万円(昔ながらの学生寮やアパートならばもっと安く可能だが4年間寮生活できる大学は少ない)、子供の生活費などに5~10万円くらいは毎月必要になるだろう。
1ヶ月10~20万円ということは、1年にすれば120~240万円。
そんなに出せない、あるいはそれでは足りないからと子供がアルバイトに精を出したら留年して、もう1年2年授業料やら仕送りしなければならなくなれば、バイトも意味がないような。
また大学生ともなれば、よほど孤独を決め込まない限り、学生同士のお付き合いにもそれなりにお金がかかるもの。
そのあげくにファッションだとか美容だとか、海外旅行だとか留学だとか。
もういったい幾らあったら足りるのよーといった感じですよね?

子供が大学に通うということは大変なので奨学金制度がある。
今は本当にいろいろな奨学金があって、それこそ返済不要なものもあるが、そういうのが使えるのは一部の人だけに限られる。
そもそも無利子にすら該当せずに学生の段階で多額の有利子負債を抱え、それが返せなくなって破産してしまったり、危ない道へ進んだりしてしまう子がいるという現状はもう結構前から問題視されていることだろうと思う。
大学を出ても大学で学んだこととはおよそ関係のない仕事をする人が多いなか、大学の存在意義も微妙である。

小室家は母子家庭だったわけだが、母子家庭には母子家庭ならではの奨学金などがあるので通常よりはよい条件の奨学金が受けやすいはずである。
またICUも学費が高いだけあって各種奨学金が揃っており、決して両親揃いのお金持ちの子息子女だけが通っているわけではないそうである。

疑問と違和感

私は報道されている限られた情報しか知らず、それぞれの人となりも知らない。知人でもないし弁護人でも検察官でもなく、400万円をどう扱うか、秋篠宮家の娘さんが小室さんと結婚をするかしないか、どう転んだって私には関係ないこと。
だからこの件に関してどちらかに思い入れして味方をするというつもりは全くないということをまず言っておきたい。

そのうえで最初に感じた疑問というか違和感。

①婚約者は後々学費を返済してもらおうと思っていたのか?

結局のところ婚約は破棄されたが、支援していた当時は婚約中だったのだからいずれ結婚しようと思っていたわけである。
小室圭さんの母親はいずれ自分の妻になる人だった。
その人に贈与ではなくて貸与していたということは、後で妻に返済してもらおうと考えていたということになるが、そうなのか?
夫婦が世帯のお金の管理をどうするかは夫婦で決めればよいことだし、結婚前の財産は夫婦の共同財産にはならないので男性が結婚前のお金を自分のお金と主張することはもちろん出来る。
しかし一生添い遂げようと思って結婚を考えていた男性が妻となった女性からお金、しかも子供の学費を返してもらおうと考えていたことへの違和感は拭えない。
初めから別れる前提にない限り、夫婦や家族になった以上、貸与という行為は法的に大きな意味を見いだせないと思うのだが。

②妻となる予定の女性にではなくて息子に貸していた?

繰り返しになるが婚約していたのだから結婚すれば2人は法的に夫婦となる。
しかし女性の息子は例え未成年でもあっても、お相手の男性と養子縁組をしない限り親子関係にはならず、戸籍上は赤の他人である。
その息子への学費支援だとすると、法的には他人から他人にお金が渡ることになる。
しかも婚約したのが圭さんが18か19歳の時なので、1年余りで親権者が必要ない成人となる。
日本の一般的な家族であれば、成人になっても大学生であれば金銭支援しているのが普通だが、婚約して1年あまりの女性の息子にはそこまでの情はなかったのかもしれない。
息子が借りていたならば、一般的な奨学金と同様に、息子に支払義務が生じるだろうけれども、それを法的に争うならば借用書なり何か契約を確認できるものが必要なのではないだろうか。

③どうして結婚しなかったのか?

2人(小室母と婚約者)にはすぐに結婚できない事情があったのだろうか。
届出一枚で成立する結婚だから、特別な事情がなければ、さっさと結婚してもよかった気がするが。
世の中には結婚すると言って相手に付け込み、しないでお金をだまし取る結婚詐欺みたいなものがあるが、それが疑われたとか?

④どうして今頃騒いでいるのか?

2012年に婚約破棄して、それからもう6年7年が過ぎようとしている。
事件だって請求権だって時効があるのに、なぜ今頃という印象も拭えない。
騙されたと思っていたり、本気でお金を取り返したいならば、正式に法に訴えるべきだったのでは。
やはり小室圭さんが皇室の女性と結婚するということで再燃した問題というような気がしてしまう。
秋篠宮家の結婚承認問題であるにせよ、純粋に金銭トラブルにせよ、解決方法は他にもあったはずだから、マスコミに訴えるというのはあまり良い印象は受けない。


贈与税

法律的に貸与と贈与で何が違うかと言えば税金である。

お金の貸し借りではなくて、お金や財産をあげたり貰ったりする場(名義変更含む)には、贈与税という税金がかかる。
但し基礎控除額110万円までは非課税となる。
すなわち日本において、1年の間(1月1日~12月31日)に誰からか無償でお金や財産を受け取った場合で、その金額が110万円を超える場合には贈与税を払う必要がある。
この贈与税は他人同士だけでなく、夫婦間や親子間でも課せられるもの。
但し家族(夫婦や直系親族)の場合、そのやり取りされたお金が「家族の生活に必要なお金」「子供の教育に必要なお金」の場合には贈与税の対象とはならない。
家族間であっても110万円を超えて贈与したお金が貯蓄に回されれば贈与税の対象となる。

でも贈与であると言うからには、「あげます」「もらいます」という双方の意思表示がなされていなければならない。
これは口頭で2人だけの確認でも構わないが、後々揉めることもあるので書面で残しておいたほうが無難。
サプライズでこっそり通帳(口座)に入金しておいたとしても、貰う側に貰うという意思がなければ「贈与」は成立しない。
しかし幾ら「贈与」が成立していなくても、110万円を超えた金額が家族間の生活費や教育費以外の目的で実際に動けば「贈与税」の対象となってしまう。
もっともそうは言っても申告がなされなかったり調査されなければ分からないと言えば分からないけれども。

また贈与は現金だけでなく品物も対象となる。
110万円を超える貴金属や高級ブランド品などをプレゼントする場合には、110万円を超えた部分の金額に対しては、たとえそれが夫婦間のプレゼントでも贈与税がかかる。知ってました?


婚約と結納金と婚約破棄

結納をもってして婚約というのは分かりやすいが、結婚式すら省略する人も少なくない時代に結納はどれほど行われているのだろうか。
結納率はちょっと良く分からないが、そもそも「婚約」には明確な法律的定義がない。
2人が結婚しようねと約束しただけでも「婚約」は成立する。結婚への合意が「婚約」である。
ある意味、2人だけの世界でも成立する「婚約」が、問題となって表面化するのは、やはり婚約破棄する時であろうと思う。

正当な理由がないのに婚約を破棄した場合には、法的には破棄した側に賠償金や慰謝料を支払う必要が出てくる。

結婚に向けて動いた金品、例えば結納金、婚約指輪、交換される品々など。
結婚準備のために費やしたお金。住居や家財道具を準備するために使った費用、結婚式場への前払い金など。
結婚に向けて転職したり退職して収入が変わる場合。
このように実際に支出した費用や影響を受けた費用があった場合には損害として婚約破棄した側に請求できる。
当然正当な理由なく婚約破棄した側にはその権利はない。

正当な理由は、例えば婚約相手が浮気したとか、実は他の人と内縁関係にあったとか、結婚する気が全くないことが明らかになったとか。

損害の他に精神的な苦痛に対しての慰謝料を請求をすることも出来るが、結婚状態にある夫婦よりも金額は少ないのが一般的。


結納金の扱い

結納金もピンからキリだと思うけれど、多ければ数百万円の結納金が渡されることもあるだろうと思う。
しかし結納金が贈与税の対象となるという話も、贈与税を支払ったという話も聞いたことがない。
結婚式や生活必需品に用いられる費用と捉えられるからなんだと思う。

但し、結婚と同時に、あるいは結婚からほどなく、マンション購入したり家を新築したりする夫妻の頭金が収入に比較して多かったりする場合には、金銭支援が疑われることになる。
「結納金を充てました」とか、「親からの援助です」とか言えば、立派な「贈与」となり、贈与税の対象となってしまう。






# by yumimi61 | 2019-01-23 15:57

風変り

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夏に車を走らせていると無音の打ち上げ花火を見かけることがある

ヒューっと空を駆け上がっていく音も
ドカーンと闇を劈く音も
シュルシュルと泡沫のごとく消え去る音も
何も聞こえない
無音の小さな花火が
思い出したように点灯し
萎むように消えていく

近くで見たら色とりどりの華やかさでも
遠くから見たら白と赤くらいしか見えなくて
点滅していなければ誰にも気づかれずに十分に夜の暗さに馴染んでしまうようなそんな儚いまでの光
この空は大きく世界は広いということを心の底から受け入れる瞬間
離れることは失うことを意味するのだろうかという思いが巡る

無音の花火まではせいぜい30kmくらいの距離でしかないと思うけれど
遮るもののない空虚さと荘厳さを私達は享受する



※一昨日とっても大きな月(スーパームーン)を私もこの目で見たけれど、カメラがなく写真が撮れなかったので、代わりに小さな月を。



# by yumimi61 | 2019-01-23 01:00

月台

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そろそろ梅の季節ですね。(違う違う?)


月台ーplatformー

世界中すべての人に愛されるなんて無理なんだろうなあってつくづく思うんだ
認識の外に愛は存在するのかという難しい話をするまでもなく
あの人に愛されなかった私の存在がそれを証明してしまうもの

世界中すべての人に嫌われることってあると思う?って君は訊くかもしれないけど
嫌われることの反対が愛されることでないならば
それはあるかもしれないね

だから僕は言ったんだ
「ありがとうは最強だよ、愛が無くても存在するんだから」
あなたは半分怒って言ったんだ
「愛があっても存在するのに」
愛がなくても愛があっても存在する、だから最強なんだ

吹けば飛ぶような魂が今日も飛べないでいるって
なにそれ、なんかの笑い話?誰も笑ってなんかいないのにさ
だけど誰も怒ってもいないでしょ、君は笑ったんだ
5番線から不幸発絶望経由幸福行き発車します












# by yumimi61 | 2019-01-20 11:35
契約期間

オランダにある日産の資産管理会社と日本の新生銀行が通貨スワップだか為替スワップだか何らかのスワップを契約していたが、リーマン破綻からの世界金融危機で契約当初の担保では足りなくなり、日産の資産管理会社が追加担保を求められた。
そこで一時的に日産に契約を移そうとした(あるいは移した)。
オランダの資産管理会社は日産が出資している会社で、オーナーはゴーン氏ではなく日産である。

しかし日本の証券取引等監視委員会が新生銀行を検査した際に、その契約の移動には問題があると指摘し契約移動はなされなかった(あるいは資産管理会社に戻された)。

だが依然担保不足であったため、ゴーン氏がサウジアラビアの知人に協力を求めた。

実際にどのような形で信用保証(追加担保の差し入れ)がなされたのか具体的なことは分からないが、ひとつ言えるのはゴーン氏側がスワップ契約を維持していたならば、その場ですぐにお金が動いたということではない。
スワップ契約(取引)には事前に期間が定められているので、その期間が終了して決済期限が来た時に損益は確定する。
金融危機が起こった時点での損失はあくまでも「評価損」である。バランスシート上のことならば「含み損」と言う。
契約が終了するまで、あるいは資産が売買されるまでは、決済はされない(実際にお金は動いていない)。
但し幾らお金が動いていないとは言っても含み損が大きい財務状況では企業への信用度は落ちて新たな融資などが難しくなる。

リーマン破綻からの世界金融危機は大規模なもので変動も大きかったけれど、一般的には通貨スワップや為替スワップは変動に備えて契約時に将来の価格を固定しておくものなので(そうはいっても市場の動向により多少動くけれども)、もともとそれほど大きな損益が出るタイプの商品ではないし、たとえ途中で「評価損」が起こっても、戻して最終的には損失は出なかったということもあり得るので、契約途中での損益は何とも言い難いところがある。


サウジアラビアの会社への支出

2007年に発生したアメリカのサブプライムローン問題と住宅バブルの崩壊に端を発し、2008年9月15日にアメリカの投資銀行リーマン・ ブラザーズが経営破綻した。
これによって連鎖的に金融機関や企業が経営危機に陥り、さらにショックと不安を呼び、ニューヨーク証券取引所の史上最大の株価暴落を記録し、世界規模の金融危機に繋がった。

この時に日産の資産管理会社は「評価損」を出していたが、これをゴーン氏のサウジアラビアの知人の会社の協力を得て乗り切ったらしく、2009~2012年の間に計1470万ドル(日本円で約16億円)が日産の子会社からサウジアラビア知人会社に支払われた。
日本ではゴーンが逮捕以降、容疑が少しずつ変わってきているが、今現在はこの支払いが特別背任罪にあたるとして問題にされているようだ。

しかしそのサウジアラビアの会社への支払いが日産の資産管理会社に協力してくれた謝礼なり対価だとすれば、それが日産から支出されていても別に特別背任罪にはあたらないだろう。
計1470万ドル(日本円で約16億円)は確かに一般的には非常に大きな金額であるが、もし損失を出していたらそれ以上の金額になっていたとか、それ以上の価値ある協力をしてくれたというならば、日産にとっても別に損にはならないはず。

このサウジアラビの会社への支出は、ゴーン氏の裁量で支出できる「CEOリザーブ(積立金)」から行われたものらしい。
そういう積立金が日産にあったのが事実ならば、それをだいぶ時が経ってからゴーンが勝手に出したと難癖を付けるのはおかしい。

当のゴーン氏はその支払いについてリーマンショックの時期の信用保証への謝礼や対価とは言っていないようだ。
「投資に関する王族へのロビー活動や、現地の有力販売店との長期にわたるトラブル解決などで全般的に日産のために尽力してくれたことへの報酬だった」と供述しているらしい。
「CEOリザーブ(積立金)」にどんな内規があったのかは知らないが、そもそもがゴーン氏の裁量で支出できるものならば、どんな名目で支出するかは問題にならないように思うけれども。
ロビー活動やトラブル解決で支出したのが嘘だったと主張するならば、その真偽を証言できるのはサウジアラビアの会社しかない。
でもロビー活動やトラブル解決が嘘で、リーマンショックの時期の信用保証への謝礼や対価だとして、それが何か悪いのだろうか。
店頭デリバティブが日産の資産管理会社の契約である以上、特別背任罪にはあたらないだろう。


サウジアラビアの知人はハリド・ジュファリ氏

ハリド・ジュファリ(Khaled Juffali)ーサウジアラビアの実業家
財閥「ジュファリグループ」の創業家出身。
サウジアラビア有数の複合企業であるE.A.ジュファリ・アンド・ブラザーズの副会長であり、サウジアラビア通貨庁(中央銀行に相当)の理事を務める。


2008年、日産は、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイに「日産ガルフ」という会社を設立した。
「日産ガルフ」は日産とドバイに本社のあるアル・ダハナ社との合弁会社。
ハリド・ジュファリ氏はアル・ダハナ社の過半数株主だということなのでアル・ダハナ社を支配できる立場にあった。
ゴーン氏とは30年来の付き合いがあるという。

日産ガルフは地域統括会社である「中東日産会社」の機能をサウジアラビア、アブダビ、クウェート、バーレーンの4か国で補完し、販売・マーケティング戦略、ディーラー網整備、顧客対応の管理を向上することで2012年までに中東全域の日産車販売の40%以上にあたる年間16万台の販売を目指す。また、国際的企業であるギャップ・コープ社との提携により、中東全域と北アフリカで新車延長保証、ロード・サイド・アシスタンス、車両価値保証保険、車両保険を含む、包括的な販売金融・保険サービスを展開、顧客にワン・ストップ・ショップを提供する。


サウジアラビア知人の会社側は正当性を主張

Bloomberg
Nissan Saudi Business Partner Details Work in Ghosn's Defense

(By Brian Bremner and Kae Inoue ‎2019‎年‎1月‎8‎日‎ ‎10‎:‎38 )

サウジ実業家:日産からの16億円の支払いは正当-特別背任事件
Brian Bremner、井上加恵 2019年1月8日 12:29 JST


日産自動車のサウジアラビアのビジネスパートナーは、自身の会社は日産自が販売代理店の問題を解決し合弁会社設立に道を開くのを助けたと指摘し、日産自の前会長で特別背任容疑で先月再逮捕されたカルロス・ゴーン容疑者の下、同社から受け取ったとされる1470万ドル(約16億円)は正当な報酬だと主張した。

ハリド・ジュファリ社はニューヨークで広報を担当するテリー・ルーニー氏を通じ、「日産自から4年間で受け取った1470万ドルはサウジにおける日産自の事業戦略の支援・促進に向けた正当な事業目的のためのもので、事業経費の立て替え払いも含まれていた」と説明した。

 ジュファリ社は発表資料で、日産ミドルイーストの売り上げに響いた現地ディーラーの問題解決と合弁会社設立でサウジ政府の承認を得た以外にも、「サウジ国内の日産自の新たな生産工場の認可と資金調達の確保に何年にもわたり取り組んだ」とし、「ハリド・ジュファリ社が日産自動車と日産ミドルイーストの多大な利益に貢献し続ける多くの具体的なサービスを提供してきたのは明らかだ」とコメントした。







# by yumimi61 | 2019-01-18 16:04
通過スワップと為替スワップ

ゴーン氏の資産管理会社が行っていたのではないかと言われる為替スワップ。
スワップとは交換ということだが、スワップには通貨スワップと為替スワップがある。
また通貨スワップと為替スワップには国家同士が行うものと、デリバティブとして扱われるものがある。

(国家間)
●通貨スワップ・・・2か国の通貨当局が通貨を交換する協定
●為替スワップ・・・2か国の通貨当局が民間金融機関に通貨を供給する協定

(デリバティブ)
●通貨スワップ・・・契約した2者が、契約時にお互いの異なる通貨を交換し、契約期間終了時にそれを再び元に戻すもの(反対交換)。契約期間中は交換している通貨の金利を受け取る。
ISDA(International Swap and Derivatives Association)が定める契約書を交わすが、それに先日書いたCSA(Credit Support Annex/担保契約書)含まれる。

●為替スワップ・・・契約した2者が、契約時にお互いの異なる通貨を交換し、契約期間終了時にそれを再び元に戻す(反対交換)という通貨スワップと同様のことが行われるが、期間中の金利は受け取らない。
通貨スワップとの大きな違いは期間が短いこと。3ヶ月くらいの契約が一般的で長くても1年未満。
こちらは法的根拠が明確ではなく、ISDAやCSAがなくても行うことが可能だが、担保がないから短期間の契約しかしないという背景がある。

報道によればゴーン氏は担保契約を結んでいたということになるが、為替スワップをしていたという説もあり、一体どんなデリバティブだったのかはっきりとしたことは分からない。通貨スワップということも考えられる。


目的が違う

一般的に馴染み深いのはFXのスワップだと思う。
2つの通貨の金利差によってスワップポイントが付いて、利益を生むことが出来る。もちろん損失を出すこともある。
FXの最大の特徴と魅力はレバレッジだと言われる。それによって少額で大きな利益を得ることが可能。

しかしデリバティブの金利スワップ(同一通貨の固定金利と変動金利の交換。固定と固定、変動と変動の交換もあり)やクーポンスワップ(異なる通貨の固定金利と変動金利の交換、固定と固定、変動と変動の交換もあり)、通貨スワップや為替スワップはそれとは別物である。
こちらは通常、個人が大きな利益の獲得を目指して行うものではない。
金利スワップは融資の金利を少しでも少なくするためなど、クーポンスワップは金利変動や為替変動リスクに備えるため、通貨スワップや為替スワップは外貨調達のために行われる。

但し法的根拠のない1対1の契約であれば、双方が合意さえすれば何でもありとなる。
「これはこういう取引(契約)」などといった一般的な定義は無意味と言えるくらいに。
だから世界的に問題になってきたのだし、通貨スワップではISDAやCSAが導入されるようになった。


「アライアンス」の怪しさ

1999年、経営危機にあった日産はルノーの傘下に入った。(日産はルノーの連結子会社である)
その前年1998年にダイムラー(ドイツ)がクライスラー(アメリカ)を買収する形で両社は合併した。(→ダイムラー・クライスラー)
合併時には「ドイツとアメリカが手を組めるわけがない」と陰口をたたかれ、2007年に合併が解消された時に「不幸な結婚は終了することになった」とBBCが報じたという、あの合併である。
その合併以降自動車業界は急速に統合の時代に突入した。
ルノーと日産もその流れの中にあるようだが、しかしこの2社、最初からちょっと不思議な関係にある。

合併(事業結合)ではなく、ルノーが日産を子会社化したという形なのだが、明確な親子関係なり上下関係を示すことを避けて、今日の今日まで「アライアンス」などと言って煙に巻いてきた。
1999年にルノーが日産の株式の36.8%を取得。2001年に44.4%になった(その時に日産も15%のルノー株式を取得した)
日本の法律では議決権ベース株式の50%以上を所有すると親会社となる。議決権ベース株式の40%以上50%以下の所有であっても親会社となることがある。
株式保有率を議決権ベースで語らず、パーセンテージも40%前後と微妙なあたりを付いている。
日本では「日産は実質的にルノーの子会社となった」などと報道されてきた。
役員などを見れば、親子関係にあること明白である。
だから私はこの「アライアンス」にずっと違和感を感じていた。

アライアンスは業務提携や戦略的同盟などと言われ、合併でも親子関係でもなく、対等な2つの企業間で行うものである。イコールパートナー。
異業種や異事業での提携を言うことが多い。
日産がルノーの傘下でなければまだ分かるが、親子関係にあってアライアンスを主張し続けているのは何か裏があるっぽい気がしていた。

散々書いてきたけれど、フランスの結婚や家族の在り方は世界でも最も自由でフランク。
それを考えれば企業間の繋がりもそうなのかなぁと思えなくもないが、しかし!いろんな法律に縛られる企業が、しかもフランスと日本というあまりに性質の違う国の組み合わせをフランスの男女関係に当てはめて語るのは少々無理がある。

だがゴーン氏もルノーと日産の関係を結婚に準えている。

Ghosn has compared the Renault–Nissan partnership to a marriage: "A couple does not assume a converged, single identity when they get married. Instead, they retain their own individuality and join to build a life together, united by shared interests and goals, each bringing something different to the union. In business, regardless of the industry, the most successful and enduring partnerships are those created with a respect for identity as the constant guiding principle."

Ghosn was quoted as saying in March 2011 Reuters Special Report, in which he said conventional, top-down acquisitions in the auto industry in the past decade have failed."It is not validated by any example in the car industry that this works. Not one example. And saying something different is just rubbish."



資産管理会社の正体

ゴーン氏の資産管理会社と報道されてきたので、私もそう書いてきたが、その資産管理会社こそが「ルノー日産アライアンス(Renault–Nissan Alliance)」ではないのか。(現在は日産傘下の三菱自動車も加わっていて、Renault–Nissan–Mitsubishi Allianceとなっている)
なんでゴーン氏の資産管理会社と言っているかと言えば、ゴーンが「ルノー日産アライアンス(Renault–Nissan Alliance)」の会長兼CEOだったから。
そして彼はルノーの会長兼CEOでも、日産の会長兼CEOでもあった。

「ルノー日産アライアンス(Renault–Nissan Alliance)」というのは単なる「提携」のことを指すわけではない。
「ルノー日産アライアンス(Renault–Nissan Alliance)」というのは1つの会社、法人である。
2002年にルノーと日産の50%ずつの出資で設立された。
本社はオランダのアムステルダムにある。
事業は行っていない。

In 2002, the Alliance created the Renault–Nissan BV (RNBV), a strategic management company to oversee areas such as corporate governance between the two companies. Based in Amsterdam, it is owned 50/50 by Renault and Nissan and provides a neutral location for the Alliance to exchange ideas, build strategy and help leverage the maximum synergies between the two companies.

いま問題になっているゴーン氏の資産管理会社は日産が100%出資したオランダにある投資会社だと言われていたりもするので、上記とは別の会社があるのかもしれないが、いずれにしても最初から事業目的で設立した会社ではなくペーパーカンパニー的な会社だと思われる。前記事に書いたSPC(特別目的会社)かもしれない。

どちらにしてもゴーン氏個人が所有している会社ではない。
日産が出資して設立した会社なのだから、いくら日産のトップがゴーン氏だったはいえ、取締役会や監査がそれを知らないで、あるいはお金の出入りをまるでチェックできずに、今日まで来たなんてことは普通に考えればありえない。


オランダという国が物語るもの

オランダの法人税
・課税所得20万ユーロ未満は20%
・課税所得20万ユーロを超えた部分は25%

すごく税率が低いというわけではないが、高い方でもない。
この税率だけではタックスヘイブンとは言えないが、オランダには免税や優遇措置が受けられる制度があるので、それらが適用になればかなりお得となりタックスヘイブンとなり得る。
また日本とは「二国間租税条約」が結ばれていて、条件を満たせば配当や金利にかかる税金も低く抑えられたり免税となったりする。

オランダは香港やシンガポール同様に、グローバル企業が税金逃れの特殊スキームを構築する際に組み込まれる国でもある。
以前私は「節税イノベーションこそがアップル社の神髄」と書いたこともあるが、違法合法ぎりぎりな所を綱渡りしていく。
アップルやグーグルなどのIT企業がアイルランドとオランダを使って行った「Double Irish With a Dutch Sandwich(ダブルアイリッシュ・ウィズ・ア・ダッチサンドイッチ」は税率2%を可能にしたとか。
もっともこれは2014年に終了させられて追徴課税されたり、裁判で争っているみたいだけれど。


See you tomorrow!




# by yumimi61 | 2019-01-17 17:04
デリバティブの会計基準づくりの紆余曲折

●店頭デリバティブ市場は1980年代初頭にユーロカレンシー・ユーロ債市場で発生した。発行体のバランスシートには載らないオフバランス取引が、デリバティブについては堂々と行われていた。

ユーロカレンシー・ユーロ債市場とあるが、この場合の「ユーロ」はEU通貨のユーロのことではない。
一般的に国は自国の金融システムの安定を図る目的で他国との通貨やり取りなどに規制をかけている。その規制から除外されて自由に取引できる国際金融市場のことを「ユーロ市場」と言う。
国を超えて資金調達や運用が自由にできる。金融機関を中心に利用されている。

オフバランス取引とは、資産や負債と見做されるべきものが会計上で資産や負債とみなされず、バランスシート(貸借対照表)に計上されないこと。


●1984年、財務会計基準審議会が緊急問題専門委員会(EITF)を設置して、オフバランス金融に関する問題を集中討議した。委員会は金融商品ごとの事後対応に限界を感じて、審議会に包括的な会計基準をつくることを要請した。

財務会計基準審議会(Financial Accounting Standards Board;FASB)は、会計原則(Generally Accepted Accounting Principals;GAAP)を作成・改正するために開設されたアメリカの公益民間非営利団体。


●1986年5月、審議会は委員会の要請を討議の項目に加えた。さしあたりディスクロージャーさせて実態を認識し、各デリバティブを負債/資本項目のいずれとするべきかを考えることにしたが、悠長な姿勢は機関投資家をグローバルに増長させた

ディスクロジャーは経営収支・財政状態・業務状況などの情報を開示すること。


●ようやく1990年3月と1991年12月にそれぞれ基準書を公表して、審議会はディスクロージャーの充実を図った。これらの基準はリスクの顕在化しないデリバティブをディスクロージャーの対象外とする甘いものであった。この点、1994年10月の対応で打ち切りとなった。


●ビッグバン目前の1985年12月、英国勅許会計士協会が「オフバランス金融と粉飾決算」という真面目な会計基準を公表した。実質的な経済効果を重要とするウェールズの会計基準であったが、しかし法律専門家が反発して論争がおこった。機関投資家の時間稼ぎであった。会計委員会の示す妥協案は、支持されながらも会社法改正作業で施行されなかった。会計委員会が蒸し返すと、後継の会計基準審議会(Accounting Standards Board)が早急に基準化することができないといって、また時間がすぎた。1993-4年に分厚いのが出たけれども、やはり遅かったし、内容も結果から推察された。

●レバッジ効果を有するデリバティブは、会計基準の緩さを良いことに、たびたび投機の対象となり多額の損失を生じた。

レバッジ効果は「テコの原理」。小さい力で大きな効果、要するに少ない資金で大きな収益をもたらすこと。


●シティコープが栄える一方で、カリフォルニア州・オレンジ郡などの運用セクションがデリバティブによる資産運用を失敗したことにより、その地方行政の存続に大きな影響を与えた。


●イギリスでは特別目的事業体を駆るクーツ商会(現RBS)出身のディーラーがデリバティブ投機でベアリングス銀行を倒産させた。これらを反省して、多くの会社は、このようなデリバティブへの投資に対して、リスクをモニタリングする仕組みを導入した。銀行業のデリバティブ投資へは、BIS規制や金融検査マニュアル等が自主的な危険管理を促した。

特別目的事業体(Special Purpose Vehicle, SPV)は、金融機関や事業会社などが資産の流動化や証券化だけを目的として設立する事業体のこと。
SPVのうち法人格を有するものを特別目的会社(Special Purpose Company、SPC)と言う。
SPCは事業活動を行わず、資産を管理するための「箱」である。
企業の信用力ではなく対象となる資産からの資金調達が可能となる。
だが単にペーパーカンパニー的な箱であることが利用されて、財務状況の悪化した企業が自社のバランスシートをよく見せるために、SPCを設立して都合の悪い資産(不良債権・価値のない不動産・回収見込みの立たない売掛金など)をそちらに売却してしまうというような使い方も出来る。。
こうすれば自社のバランスシートからは都合の悪い資産が除外できて見えなくなり(オフバランス化)、財務状況が改善したかのように見せることが出来る。
いらないモノを追いやる場所なので箱は箱でも「ゴミ箱」と言われることもある。
要するに粉飾決算(不正会計)に利用できるし、融資などを受けやすくもなる。
かつてはSPCを会計上どう扱うかという基準も曖昧だったが、今現在は、支配下にある会社であれば連結対象としなければならないという会計基準になっているので全くなかったことには出来ない。連結対象外にしてそれが発覚すれば粉飾決済(不正会計)と見做される。

不動産や売掛金を保有するだけのSPC、太陽光発電所を持つだけのSPC、複数の住宅ローン債権を持つだけのSPCなどがある。
資産の裏付けがあり確実に儲かるようなことを言って、SPCへの投資話がなされることもあるが、違法ではないにせよ「ゴミ箱」的だったり、苦肉の策だったりすることもあるので注意が必要。

リーマン破綻からの世界金融危機に繋がったアメリカの「サブプライムローン」もSPCを舞台にしたもの。
これ以上住宅ローンの債権を抱えていると財務状況が悪化すると判断した銀行が、複数の住宅ローンの債権を束ねてSPCに売却した。
住宅ローンの利息収入を原資とした配当金を受け取ることができるなどと言って、このSPCへの出資者を募ることもできるし、SPCは保有する住宅ローンを担保に別の金融機関から融資を受けることも可能。
元来「住宅ローン」は比較的審査が厳しく、ゆえに安全と言われていた。
だがこの時の住宅ローンは返済見込みの薄い低所得者向けのローンが中心だった。
返済が滞ったあげくに担保である住宅も住宅バブルが崩壊して価値が大きく下落。債券は焦げ付き、大手金融機関が倒産し、数多くの金融機関が損失を出した。


●特別目的事業体というのは、エンロン問題の一環でもあったが、パナマ文書で機関投資家の金づるとなっている実態が一層あきらかとなったものであり、モーゲージの証券化(MBS量産による信用創造)も担っていたので、これに関わる規制は大分手心を加えられた。
世界金融危機は起こるべくして起こった。
流動性の乏しいデリバティブ商品(相対型の保証契約やCDSなど)はマーケットメイカーから見放された。AIGは連邦準備制度が尻を拭いた。契約相手にかかわる信用リスク(カウンターパーティリスク)が適切に記述できないといった問題点は、1980年代から何も解決されていない。


エンロン問題というのは、上に書いた通りSPC(特別目的会社)は連結対象にすべきなのに、エンロンという会社が対象外にしておいたという粉飾決済(不正会計)である。

※エンロン事件
アメリカのエンロン社の不正発覚事件のこと。
1985年にエネルギー会社として発足したエンロン社は、エネルギー業界の規制緩和の中、ブロードバンドビジネスや天候デリバティブ取引も手がける多角的大企業に急成長した。
しかし、2001年10月、同社の簿外債務の隠蔽を始めとする不正が明るみにでて、エンロンの株価は暴落した。結局、01年末に同社は破産宣告を出し倒産した。
さらに、エンロンに続いて様々な企業の不正会計が次々と明るみに出たことで、一企業の倒産にとどまらない大事件に発展し、これを契機に、米国全体のコーポレートガバナンスが問われることになった。02年、企業の不祥事に対する厳しい罰則を盛り込んだサーベンスオックスレー法(通称SOX法)が制定されたのもこの流れによるものである。






# by yumimi61 | 2019-01-16 00:43

31💱 デリバティブ取引

特捜部によると、ゴーン前会長は、自分の資産管理会社と銀行の間で通貨のデリバティブ(金融派生商品)取引を契約していたが、多額の損失が発生。このため2008年10月、契約の権利を資産管理会社から日産に移し、約18億5千万円の評価損を負担する義務を日産に負わせた疑いがある。
(前記事に載せた朝日新聞デジタルの記事より)


ゴーンのリーマン案件はデリバティブ(金融派生商品)だった

デリバティブ(金融派生商品)とは、元になる「金融」から派生(枝分かれ)した商品(契約)のこと。
ここで言う「金融」とは何かと言えば、株式や債券、外国為替、金利などである。これを「原資産」とも言う。
デリバテイブ取引は原資産のリスクヘッジ(危険回避)を目的に、あるいはリスク覚悟で通常よりも高い収益性を追求するために行われる。
種類としては先物取引、スワップ取引、オプション取引がある。

デリバティブ(金融派生商品)は市場の急激な価格変動に備えたり回避する役割があるが、一方で市場の変動を先導することにもなりうる。
そう簡単には動きにくい金融商品の相場に変動を与えうる(流動性を与える)ことが可能。

基本的に「差」を利用した取引なのだ。(現時点と将来のある時点の価格差など)
元の金融商品(現物)の取引を行うわけではなく、差額を貰うとか支払うといった差金決済となるため、現物取引をするよりも手持ち金が少ない状態で大きな収益を得ることが可能となる。
必ずハイリスクハイリターンというわけではなく、大きく儲けることもあれば、大きく損を出すこともあり、また儲けも損もそれほどでもないという状態の時もある。ひとえに変動具合による。

デリバティブとは、基礎となる金融商品(原資産)の変数値(市場価値あるいは指標)によって、相対的にその価値が定められるような金融商品をいう。本来のデリバティブ取引は、債券や証券(株式や船荷証券、不動産担保証券など)、実物商品や諸権利などの取扱いをおこなう当業者が、実物の将来にわたる価格変動を回避(ヘッジ)するためにおこなう契約の一種である。原資産の一定割合を証拠金として供託することで、一定幅の価格変動リスクを、他の当業者や当業者以外の市場参加者に譲渡する保険(リスクヘッジ)契約の一種である。

原資産の一定割合を証拠金として供託すると書いてあるが(上のアンダーライン部分)、差金決済で支払わなければならなくなった時にはこの証拠金から持ち出されることになる。
だから大損すると最初に預けた証拠金では足りなくなる。
足りたくなったら現金を投入すれば良いというものでもない。金融商品(原資産・現物)の一定割合の証拠金が必要なのだから、損をして証拠金が足りなくなったら金融商品(原資産・現物)を増やす必要がある。
金融商品(原資産・現物)と証拠金が連動しているのだ。

ゴーン氏がリーマンショックで損を出して追加担保を求められた時に自分の資産管理会社から日産に契約を移したということなので、自分の資産管理会社が保有する金融商品(原資産・現物)では足りなかった(取引の損失額が原資産の一定割合を超えてしまった)ということなんだろうと思う。
日産に契約の権利を移したとしても、それは日産が保有する金融商品(原資産・現物)を証拠金算出のベースにできるということであり、すぐさま日産が現金を支出するとか日産の金融商品(原資産・現物)が直ちに他に渡るとか、そういうことを意味するわけではない。


いろんな意味で難しいデリバティブ(金融派生商品)

繰り返しになるが、デリバティブ(金融派生商品)は市場の急激な価格変動に備えたり回避する役割があるが、一方で市場の変動を先導することにもなりうる。そう簡単には動きにくい金融商品の相場に変動を与えうる(流動性を与える)ことが可能。

これまで多くの大事件に絡んできたデリバティブだが、需要は健在である。尚、デリバティブの利用目的には「リスクヘッジ」の他、「スペキュレーション(投機)」「アービトラージ(裁定取引)」がある。差金決済取引や空売りで利用するのである。

流動性が高い、流動性を与えることが可能ということは、それを出来る人が実際に行えば、相場を意図的に大きく動かせてしまうということでもある。高騰とか暴落なんてことも起きかねない。

デリバティブ取引は、高等数学を用いた金融工学によって考案されたもので、一般的には難しい。
個人がよく理解した上で自分で直接取引するなんてことは多くは無理で、銀行や証券会社に委託して行ってもらうことになる。

デリバティブのプライシング理論は、金融工学の主要なトピックである。有名な「ブラック-ショールズ方程式」は、ヨーロピアンオプションの評価式である。デリバティブのプライシング理論は、文科系出身者が多い銀行業界では、「難しい理論であり、一部のクオンツだけのもの」とされることが多く、金融業界では「デリバティブは35歳を過ぎたら習得できない」などと言われることが多い(実際、デリバティブの数理では、確率微分方程式が出てくることが多い)。しかし、近年ではファイナンス系の大学・大学院が増えていること、デリバティブに関する書籍・解説書が増えており、デリバティブの数理に対するハードルは徐々に下がっている。


店頭デリバティブーお相手は「新生銀行」

デリバティブ市場には二種類ある。証券取引所などの公開市場を介さない相対での取引(店頭デリバティブ)と、市場を介する取引(市場(上場)デリバティブ)である。取引規模としては市場デリバティブより店頭デリバティブの方が圧倒的に大きい。
市場に参加する個人投資家にとっては市場デリバティブの方がなじみ深いが、取引規模としては店頭デリバティブの方が圧倒的に大きい。


報道によればゴーン氏が行っていたのはデリバティブの契約相手が「新生銀行」ということだったので、そうであれば店頭デリバティブである。

店頭デリバティブで取引されるデリバティブの原資産は金利と為替が多い。特に日本においては金利スワップが店頭デリバティブ取引の70%超を占めている。その他に為替予約、通貨オプション、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)、商品先物取引、天候デリバティブ、バリアンススワップ、差金決済取引(CFD)など多様なデリバティブが取引されている。また取引当事者も金融機関同士での取引、金融機関と事業会社や法人間での取引、事業会社同士での取引、金融機関と個人投資家間での取引など多様であり、店頭デリバティブを利用している事業会社や法人も大企業から中小企業、教育機関、宗教法人まで多岐にわたる。さらに外国為替証拠金取引(FX)も一部は店頭デリバティブに類型される。

ゴーン氏は一説によると「為替スワップ」を行っていたのではないかということである。
そうだとすると、取引を行うにあたってゴーン氏(資産管理会社)と新生銀行との間でCSA契約が結ばれたのかもしれない。

CSA
Credit Support Annexの頭文字。金利や為替スワップなどの店頭デリバティブ(派生商品)取引を行う際に、当事者と相手方の間で結ぶ契約のことで、市場動向やリスクに応じて相互に担保資産を差し入れる取り決めをする。その際の契約書形式としては、デリバティブ取引に関する国際的な業界団体であるISDA(International Swaps and Derivatives Association)が定めるマスター(主)契約に従うのが通例である。CSAはマスター契約書に付随して追加される契約を指し、エクスポージャーと呼ぶ取引額に対して双方が差し入れる担保資産の種類や評価のタイミングなどについて取り決める。

取引きにおいては一方だけでなくどちらにもリスクは存在するので、それぞれの信用度とか取引額などを加味して双方が担保を差し入れる。
従ってこの場合ならば、最初の契約において設定された担保がリーマンショックの影響で状況が変わり適当ではなくなったと、新生銀行からいちゃもんを付けられ言われ、ゴーン氏側が契約を日産に移すことでより大きな担保を獲得しようとしたと考えることが出来る。

しかし当の新生銀行もリーマンショックからの世界金融危機で多額の損失を出しており、信用度からすれば新生銀行が一方的に優位に立てるような状態ではなかったと思うが。


新生銀行(前:日本長期信用銀行)

1998年(平成10年)10月に、経営破綻し日本政府により一時国有化された日本長期信用銀行は、2000年(平成12年)3月、中央三井信託銀行グループ他との競争入札の末にアメリカの企業再生ファンド・リップルウッドや他国の銀行らから成る投資組合「ニューLTCBパートナーズ」(New LTCB Partners CV)に10億円で売却された。
代表取締役(2004年(平成16年)6月の委員会等設置会社移行に伴い代表執行役)会長兼社長にエクソンモービルやシティバンクで日本代表を務めた八城政基が就任。同年6月に「新生銀行」に改称した。

新生銀行の取締役会には、スタンフォード大学のMichael Boskin博士、サンタンデール銀行会長のEmilio Botin、リップルウッドのTimothy C. Collins、新日鉄(新日本製鐵)(現・新日鐵住金)名誉会長の今井敬、日銀の可児滋、三菱商事の槙原稔、UBSペインウェーバーのDonald B. Marron、メロン・フィナンシャル会長兼社長のMartin G. McGuinn、ロックフェラーグループ元会長のDavid Rockefeller Jr.、他5名が席を占めた。

ニューLTCBパートナーズとのパートナーシップは2006年(平成18年)11月に解消され、これにより2007年(平成19年)2月でRHJインターナショナル(旧リップルウッド・ホールディングス)の最高経営責任者であるティモシー・C・コリンズは新生銀行の取締役を辞任した。

2008年(平成20年)の世界金融危機により、海外投資で多額の損失が生じたこともあり、2009年(平成21年)4月25日、新生銀行とあおぞら銀行が将来の経営統合について交渉に入ったことが報道される。同年6月25日に、2010年中に合併することで基本合意したと報じられた。これにより総資産が約19兆円、国内第6位の銀行グループが誕生する見込みとなった。

しかし、新生側が2010年(平成22年)3月期の連結決算で最終赤字に陥ったことと、双方との経営方針をめぐっての対立が解消できなかったことを理由に、予定していた合併を2010年5月14日付けで解消することを正式に発表した。



世界金融危機とデリバティブ

デリバティブ、特に店頭デリバティブは問題の多い取引である。
いろいろ難しく、さらに閉鎖的な面が多々あり、それをよいことにカモになって騙されたりしやすい。

日本においては金融ビッグバン以降、店頭デリバティブが解禁されたことで、店頭デリバティブ取引による手数料が商業銀行の重要な収入源の一つとなっている。
店頭デリバティブの問題点としては、特に金融機関と一般法人間、金融機関と個人投資家間での店頭デリバティブ取引における情報格差がもたらす問題がある。
金融機関は店頭デリバティブの売り手としてデリバティブや市況についての知識が豊富であるが、買い手となる一般法人や個人投資家はそうであるとは限らず、店頭デリバティブによる損失をきっかけに法廷闘争にまで至る場合がある。
また店頭デリバティブ取引が金融危機をより深刻化させた問題が指摘されている。


店頭デリバティブは、リーマンショック自体にも深く関わっている。

2007年からの世界的な金融危機とそれに伴うリーマン・ショックは当局による監視が不十分な店頭デリバティブ取引の危険性を顕在化させた。
2008年9月のリーマン・ブラザーズの破綻などにより、金融機関同士で取引される店頭デリバティブ取引におけるカウンターパーティーリスクが顕在化した。そこで大きな問題となったのが店頭デリバティブの不透明性で、店頭デリバティブは相対取引であることから当局もその全体像が把握できず、世界中で信用不安が加速した。
特にやり玉として挙がったのがクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)で、大量のCDSを保有していたAIGが経営危機に陥ると、AIG破綻による信用不安の一層の激化を防ぐためにFRBはAIGの救済を行った。このようにして監視されない店頭デリバティブ取引の拡大がもたらすシステミック・リスクの増大効果が世界で広く認識されるようになった。







# by yumimi61 | 2019-01-15 15:07
朝日新聞デジタル 2018年12月21日12時56分
ゴーン前会長を特別背任容疑で再逮捕 東京地検特捜部

東京地検特捜部は21日、日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者(64)が、私的な損失を日産に付け替えて損害を与えたなどとして、ゴーン前会長を会社法違反(特別背任)の疑いで再逮捕した。

 ゴーン前会長は、有価証券報告書に計約91億円の役員報酬を過少記載したとして金融商品取引法違反の疑いで2回逮捕されている。これで3回目の逮捕となり、身柄の拘束はさらに長期化する見通しとなった。

特捜部によると、ゴーン前会長は、自分の資産管理会社と銀行の間で通貨のデリバティブ(金融派生商品)取引を契約していたが、多額の損失が発生。このため2008年10月、契約の権利を資産管理会社から日産に移し、約18億5千万円の評価損を負担する義務を日産に負わせた疑いがある。

 この権利はその後、再び前会長の資産管理会社に戻された。ゴーン前会長は、その際に信用保証に尽力した関係者が経営する会社に対し、09年6月~12年3月の4回、日産の子会社から計1470万ドル(現在のレートで約16億3千万円)を入金させた疑いがある。

 ゴーン前会長は当時、代表取締役兼最高経営責任者(CEO)で、特捜部は一連の行為は、自己の利益を図る目的で任務に背き、日産に財産上の損害を与えたと認定した。特別背任罪の時効は7年だが、海外にいる期間は時効が停止されるため、成立していない。

 複数の関係者によると、ゴーン前会長の資産管理会社は、08年秋のリーマン・ショックによる急激な円高で多額の損失を抱えた。銀行側は前会長に追加担保を求めたが、前会長は損失を含む全ての権利を日産に移すことを提案し、日産に損失を肩代わりさせたという。当時、証券取引等監視委員会もこの取引を把握し、特別背任などにあたる可能性があると銀行側に指摘していた。

 この問題は朝日新聞が11月27日付朝刊で報道。関係者によると、前会長は報道について「当局の指摘を受け、付け替えは実行していない。日産に損害は与えていない」と説明していた。



勾留の長さと閉鎖性

2回目の逮捕の勾留期限が12月20日だった。特捜部は金融商品取引法違反で10日間の勾留延長を請求していたが、20日に裁判所がそれを却下したことによって、21日にも釈放されると報道されていた中での21日の再逮捕となった。
日本では起訴前の勾留期間は最長10日間。
10日経ったのであれば、検察官が起訴か不起訴か決めなくてはならないが、例外的に勾留延長が行われ更に最長10日間勾留期間を延長することも出来る。すなわち起訴前の勾留期間は最長20日である。
警察での48時間、検察での24時間の逮捕期間を足しても、拘束期間は最長23日。
被疑者が罪を認めていない場合には延長されやすい。

法に定められている勾留(拘束)限度の23日も国際的には非常に長いものであるが、さらに日本では容疑を否認する容疑者に対して逮捕を繰り返し、長期に亘り勾留して取り調べを行うということが普通に行われている。
今回この手法に国際的な批判があったが、証拠隠滅や逃亡の恐れがあるという理由があるにせよ、あくまでも被疑者に過ぎない者に対して外界から遮断して自白強要するような捜査手法は冤罪の温床になることが懸念されるので、やはり少し違和感がある。
裏付けが取れていて罪を犯しているという自信があるならばさっさと起訴すればよいのだから。

もっとも起訴されれば勾留期間はもっと長くなる可能性がある。
検察は取り調べや証拠品の押収や関係者の聴取などを終えてもなお保釈を認めず身柄を拘束したままにすることがある。森友学園の籠池夫妻は公判も始まらないまま10か月と長期に亘って勾留された。
判決が出ていない有罪とも無罪とも分からない人を1年近くも拘束するということは、一般の人ならば生活に支障が出て当然であり失うものもあるだろうから、無罪だったらどうするんだろうといった感じだが特別なにもしないだろう。


粉飾決算?

ゴーン氏が最初に逮捕された罪状は、金融商品取引法違反(有価証券虚偽記載罪)であったが、これは少々無理があったのではないだろうか。
いわゆる利益を水増しする粉飾決算(不正会計)がこの罪にあたり、粉飾決算(不正会計)以外でこの罪に問われること自体が異例である。
今回はゴーン会長の役員報酬を実際より少なく記載したというものだが、もしも無理がない逮捕ならばそれは粉飾決算だったのではないかと考えられる。
報酬を少なくした分だけ、企業利益を大きく見せたということ。
そうなれば当然に有価証券の役員報酬開示だけでなくて財務諸表などもチェックしなければならず、財務諸表の損益計算書に開示した金額が同じだけ計上されていたかどうかも問題になる。
その兼ね合いからの善悪判断もされているはずと思うが、出てくる情報だけではいったい何が問題なのかが見えてこない。
開示した数字だけでなく財務諸表の方にも問題があったのならば、会計監査が適切に行われていたのかどうかといったことまで問われるべき案件となる。

粉飾決算(不正会計)の場合は投資家や取引先が大きな損害を被ることもあり問題がある。
利益が出ていないのに出ているように見せかける粉飾決済をやったならば、経営者や担当者のみならず、企業も上場廃止などの処分を受けることになるが、日産の今回のケースは司法取引も入り込んでいるため、それで逃れているのかどうなのか、このあたりもよく分からない。
粉飾決算が発覚して大問題となり倒産した企業もあれば、粉飾決算(不正会計)が発覚しても逮捕も起訴もされず上場廃止にもならないケースもある。東芝の不正会計はこれにあたる。
こうなると罪に問う問わないは検察の(国家の?)胸三寸。
では今回のケースはどうなのかと言えば、ここまでの経過を見ればやはり日産という会社には罪を問いたくなく、ゴーン氏個人を罪人にしたいとみることが出来る。


それこそ、なぜ今頃、なぜこのタイミングで、というリーマン案件

粉飾決算(不正会計)にまで踏み込まないで、あくまでも有価証券虚偽記載の罪だとして公判を維持するのは厳しいだろうと思う。
公判を維持するためには、その虚偽記載が会社の決算にどのように影響を与えていたのかを立証しなければならない。
金融商品取引法に基づく情報開示ルールと企業会計ルールを照らし合わせ、どこに抵触しているのかを見極め、抵触しているなばらその繋がりを紐解く必要がある。
そうなってくるとゴーン氏個人の問題では済まない。
それが出来そうもないから裁判所も勾留延長を認めなかったのでは。
あと個人攻撃が出来るとしたら特別背任罪しかないという状況で、リーマンショック(2008年)の時の一件が持ち出されてきた。



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# by yumimi61 | 2019-01-14 22:41