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・この前のテレビはSONYでしたよ!
子供が電源をオンオフしすぎたせいか故障しました。テレビって基本置いておくだけのもので、どこかにぶつけるとか落とすとかっていうことはないけれど、故障するんですよね。

・一昔前(二昔前?)、電機メーカーでは従業員が結婚した後には家庭を訪問しての家電チェックがあったらしい。ちゃんと自社の製品を使っているかのチェックです。

・某自動車メーカーに派遣で仕事に行った時、他社車で乗り付け、守衛の方に「他社車だね~」と言われるも、「まあそういうことなら仕方ないか」と通過させてもらった。

・その時から、自動車会社の従業員になると自動車のメーカーの選択の余地がなくなるのかぁと思っていたが、わりと最近、会社から離れた所に他社車に乗っている人専用の従業員駐車場があると聞いた。昔からそうだったのか、時代の波なのか。

・最近カーナビの調子が悪い。使っていると突然画面が真っ黒になることがある。そうなるとタッチパネルはもちろんのこと、電源もメニュー選択ボタンも何も効かない。
だけど画面が消失する直前に流れていた音楽なりラジオの音声は消えることなくそのまま流れ続けている。
今のところ、エンジンを切って再びかければ直る。

・一番早く壊れるのがカーナビだなんて・・と思っている私だが、カーナビは早ければ3年以内に壊れるとか。
カーナビは精密機械なので自動車内の環境がそもそもあまり適さないらしい。
もちろん私はそんな乱暴な運転をしているわけではないし、オフロードで振動を与えまくっているということでもないです。

・近年ではカーナビに限らず自動車自体がコンピュータ制御となっていて電装システム(電気系統)が複雑化している。
近年の自動車の故障は電気系統や電装部品の故障や不備が多いのだとか。
電気系の専門知識や技術が生産段階のみならず整備士などにもこれまで以上に求められてくるが、その切り替えがまだ十分とは言えないようだ。
仕事にしている環境でもそうだから、自己判断なら尚更。
もちろん玄人はだしの人もいると思うけれど、自分で装備したり修理したりすることは、ひとつ間違うと最悪車両火災に繋がってしまうとのこと(どこかに派手に衝突しなくても発火することがある)。

・ちょっと早かったね。

・私の実家の辺りはテレビブースターがないとテレビを観られない(映らない)。
ブースターとは放送電波を増幅する機器で、電波が届きにくい場所で使われます。
私が今住んでいる辺りは平地なのだけれど、やはり電波状況があまり良くなく、テレビを観るにはブースターが必要。
電波状況が良くないのは立ち並ぶ高圧鉄塔と送電線の影響らしい。

・私の実家の辺りはワンセグも観ることが出来ない。携帯(スマホ)でもカーナビでもダメである。
実家に帰る際にカーナビでテレビを付けていた場合、問題なく観られるのは途中まで。以降スムーズにはいかないが時々電波を受信できるのがNHK前橋で、同じNHKでもNHK東京にチャンネルを合わせるとダメである。

・ところが同じくブースター設置の環境にある今住んでいる辺りでは、カーナビのワンセグはNHK民放関係なく概ね問題なく映る。
私の今の携帯(スマホ)にはワンセグが搭載されていないが、以前使っていた携帯には搭載されていた。しかしこの近辺ではまずまともには観られなかった。

・たとえ観たくても観られない環境があるくらいなので、ワンセグを搭載しているからといって受信料を払えというのは傲慢ですよ、NHKさん。







# by yumimi61 | 2019-05-19 10:57

テレビ

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皇太子ご成婚式の日の街の光景 銀座 昭和34年4月10日ー民間からのはじめての皇太子妃に日本中が沸き、祝賀行事が相次いだ。ライオンビアホールの店頭にもお二人の写真が飾られた。その前では腹を空かした廃品回収の男がウィンドウ内の食べ物のサンプルを見つめる。 田沼武能



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私がオバさんになってもディスコに連れてくの♪ ←森高アンニュイに歌う

そう思ってた。 ←森高セリフ
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↑森高千里さんが出演している化粧品のCM。
私は最初、映像を見ずに音声だけを聞いていた。
私がオバさんになってもディスコに連れていくと思っていたのに(あの頃あなたはそう言ってたのに)、実際は連れていかなかったね、というアンニュイさなのかと思った。
その後、映像込みのCMをみたら、「そう思ってた」の前に「若さこそ、美しさ」というテロップが出ていた。

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私がオバさんになってもディスコに連れてくの♪ ←森高アンニュイに歌う

(若さこそ、美しさ) ←テロップのみで音声なし
そう思ってた。 ←森高セリフ
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ディスコは死語だし(もうないし)、当時の「あなた」と海にしてもクラブにしてもドライブにしても一緒に行ったらそれはそれで問題だから、もう行けないのよ・・というアンニュイさ!?

ーーーーーーー
女ざかりは
19だと
誰が言ったのよ。
ーーーーーーーー
紀子さん?


上の写真は昭和34年のことと書いてある。元号から今日までを計算するのは難しいので、西暦に直すと1959年のことだから、今年で60年。
ということは今年がダイヤモンド婚式だったのかぁ。
60年も経てばそりゃあ見た目も変わりますわすよね。

天皇に何を求めるかにもよると思うけれど、「象徴」とか「徳のある人物」だとしたら、やっぱりそれなりにお年を召していたほうがよい。
若さというものはそれだけで傲慢なところがあるから。
そういう内面的なことだけでなく、見た目の印象も加齢って決してマイナスにならないと思う。特に男性の場合は。
同じ人の若い時とそれなりに年をとった時の見た目を比べたら、年をとった時のほうが安心感を感じる。若い時はなんとなく悪巧みしてそうな、傲慢そうな、意地悪そうな、そんな感じがしてしまう。もちろん個人的な印象だけれども、私は結構誰に対してもそう感じてしまう。

新天皇は昭和35年2月23日生まれなので(ご成婚翌月には受胎した計算になる)、今年59歳。
公務員や会社員ならば来年の誕生日には定年を迎えるといった御年だが、前天皇の年齢の印象が強いせいか若くていまひとつしっくりこない。
でも次か次の代には遅くても40代、早ければ30代(20代だって可能性としては皆無ではない)の天皇が誕生することになると気が付き、軽く慄いている。


テレビの歴史と普及

テレビの歴史はそう古いものではない。

・1937年 イギリスのBBCが世界初の白黒テレビの放送(走査線40本)を開始
・1940~1941年 NTSC(National Television System Committee)が白黒テレビの標準方式を走査線525本、60フィールド方式に決定し、アメリカで白黒テレビの放送が開始された

こうして白黒テレビが実用化された。一方で1939年には第二次世界大戦が勃発したためカラーテレビ研究は中断を余儀なくされた。


白黒テレビが実用化されたとあるが、白黒テレビですら普及したのはいずれの国でも第二次世界大戦後である。

日本では1953年2月1日にNHK東京で本放送が開始され、同年8月28日には、民間のテレビ放送会社の日本テレビが開局した。当初は非常に高価なものであったため、日本テレビは街頭テレビを大量に設置して、CM収入によるビジネスモデルを成立させた。

日本テレビは開局当時からコマーシャルを収入源としており、スポンサーを獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。そのため、当時の日本テレビ社長・正力松太郎は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。街頭テレビそのものは試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日本テレビが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。

その後、1950年代後半から1960年代前半にかけて一般家庭に普及していったが(特に1959年の皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀は、普及の大きなきっかけとなった)、1960年代後半からカラー化の波に押され、1972年にはNHKのカラー契約数が普通契約(白黒テレビ用契約)数を上回り、1977年9月30日のNHK教育での放送を最後に、日本から原則として白黒放送が廃止されカラー放送に完全移行した。


上の白黒テレビの説明文に「1959年の皇太子明仁親王と正田美智子の結婚の儀は、普及の大きなきっかけとなった」とあるが、実はこれはそうでもない。

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白黒テレビのグラフで紫丸を付けたのがご成婚の1959年であり、前年に比べてそこまで大きく伸びてはいない。1960年以降の伸びのほうが遥かに大きい。

白黒テレビの普及率が80%を超えたのは1963年。
洗濯機の普及率が80%を超えたのは1966年。
冷蔵庫の普及率が80%を超えたのは1967年。
掃除機が普及率が80%を超えたのは1974年。
カラーテレビの普及率が80%を超えたのも1974年。

もっともこの統計は都市の非農家における普及率だということなので、これで日本全体の傾向を語ることは到底できない。
地方の田舎では大家族で人手があり電気製品を急いで必要としなかったかもしれないし、逆に不便な地方の大家族だからこそ電気製品が重宝したかもしれない。
海外旅行の普及も地方の農家から始まったとも言われるくらいで、金銭的な余裕があったのはむしろ地方の農家かもしれないが、地方や農家では世帯差が大きく、統計的にはまとまった指標になりにくいという側面もあると考えられる。
都市の非農家(核家族のサラリーマン一家が多数)のほうが均一的で比較しやすい。

家電の大量生産やコストダウンが可能となった背景の1つは、鉄鋼の生産量が1960年代に急速に伸びたからだという。
それにしてもテレビの普及率が他の家電製品よりも早いことに驚かされる。
主婦の労働を軽減することよりも娯楽が優先されたということになる。
このことは、ある程度コマーシャルというものに効果があるだろうということを予想させる。
人々が最優先するのは「実」ではないということであり、生活感とか経済観念とか労働の対価といったものは曖昧で、それはすなわち、やりようによっては人々は流れてくれるということである。


テレビ(14型
昭和29年(1954) 12万5千円
昭和34年(1959) 6万7干500円
昭和36年(1961) 5万6千円

洗濯機
昭和29年(1954)2万8000円
昭和34年(1959)2万6500円
昭和36年(1961) 2万3500円  

冷蔵庫
昭和36年(1961)6万2000円

サラリーマン月給
昭34年(1959年)1万7354円
昭36年(1961年)2万21円


サラリーマン月給はフルタイム労働者の平均。時間外勤務手当や家族手当などの手当も含まれる。手取額ではなく税金や社会保険料などの控除前の額。
昭36年(1961年)のテレビと冷蔵庫の価格は月給のおよそ3ヶ月分。洗濯機は月給の1ヶ月分くらい。
2000年以降のサラリーマンの平均月給は32~33万円。テレビの価格が3ヶ月分だとすると90~100万円くらいになる。
1960年代、それでもテレビの普及率は急速に伸びていった。





# by yumimi61 | 2019-05-17 15:35

上陸

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# by yumimi61 | 2019-05-16 18:40

1964五輪

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オリンピック選手団到着 羽田空港 昭和39年ー第18回オリンピックがアジアで初めて、東京で開催された。参加国数大会史上最高の94ヵ国、参加選手5558人。羽田空港と浜松町を結ぶ東京モノレールは開会式前1ヶ月を切って、この年9月17日に開通した。 熊切圭介


これ以上の説明はないけれど、「WELCOME to the TOKYO OLYMPICS」の下にアメリカ国旗とオリンピック旗と日本国旗があり、まるでアメリカと日本がホストのようである。
だから一瞬まだ占領中だったっけ?と思ったが、1952年に主権は回復している。
そもそもどうしてアメリカ国旗のサイズが日本国旗よりもオリンピック旗よりも大きいのだろうか?
写真はアメリカ選手団が到着した時のもので、お客様であるから大々的に歓迎の意を示したということ?

ところで今突然思いついたのだけれど・・・
「ほしはいつつのてんでえがく」(前に私は夢で聞いた言葉です)
 ほしは五つの転(ten)で描く。 五輪→十輪 蹂躙?
 ほしは五つの典で描く。 五輪(オリンピック)という祭典?
 ほしは五つの天で描く。 
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安川第五郎~オリンピックと原子力~

1964年東京オリンピックの組織委員会会長は、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力発電初代社長であった安川第五郎である。

安川第五郎
1886年(明治19年)6月2日 - 1976年(昭和51年)6月25日
日本の実業家。安川電機社長、九州電力会長、日本原子力発電初代社長、日本原子力研究所初代理事長、日本原子力産業会議会長、1964年東京オリンピック組織委員会会長。玄洋社社員。

安川財閥創始者である安川敬一郎の五男として、福岡県遠賀郡芦屋に生まれる。1906年(明治39年)に福岡県立中学修猷館を卒業する。同期に緒方竹虎、一年先輩に中野正剛がおり、在学中は玄洋社の明道館で柔道を学ぶ。第一高等学校を経て、1912年7月に東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、日立製作所に1年間勤務する。

米国ウェスティングハウスで研修の後、1915年(大正4年)7月に兄の清三郎とともに株式会社安川電機の前身である合資会社安川電機製作所を創設し、モーター・電動機に製品を絞り込んで発展して1936年(昭和11年)に社長に就任する。戦時中は大日本産業報国会理事となり、第二次世界大戦後は1946年(昭和21年)2月に石炭庁長官に就任するが、同年GHQにより公職追放を受けた。

1949年(昭和24年)に安川電機会長に復帰し、1955年(昭和30年)に日銀政策委員、1956年(昭和31年)6月に日本原子力研究所初代理事長、1957年(昭和32年)に日本原子力発電初代社長、1960年(昭和35年)に九州電力会長、1961年(昭和36年)に九州経済連合会初代会長、1963年(昭和38年)に東京オリンピック組織委員会会長、にそれぞれ就く。

1970年(昭和45年)に電力・原子力事業への貢献と1964年東京オリンピック運営に尽力した功績により勲一等旭日大綬章を授与される。


SankeiBiz 2014年5月21日
第五郎は財界随一の「原子力通」となった。31年1月、政府は原子力政策を担う原子力委員会を発足させ、同年6月には特殊法人日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立。第五郎に初代理事長就任を要請した。
 同研究所は茨城県東海村に沸騰水型実験炉(出力50キロワット)を建設し、昭和32年8月27日午前5時23分に臨界を達成、日本に初めて「原子の火」が灯った。

 「この寒村にて数多くの困難を乗り越え、この成果に到達した関係者の苦労と努力に深い感謝と尊敬の念を新たにしております…」
 同年9月18日に開かれた祝賀会で第五郎は約700人の出席者を前に笑顔でこう語り、頭を下げた。

 2カ月後の11月には商業炉の建設・発電を担う日本原子力発電株式会社(日本原電)が設立された。第五郎は研究所理事長を辞任し、初代社長に就任した。各電力会社社員の寄り合い所帯となる日本原電で組織をまとめることができるのは、無私無欲の第五郎しかいなかったのだ。

 ある高名な経済評論家は「バカ者でなければこんな役目は引き受けない」と辛辣に批判したが、第五郎は「1人くらいバカがいなくては新事業は興せない」と開き直った。ちなみに、日本初の商業炉である東海原発建造に際し、安川電機製の電気機械は1台も採用しなかった。

 昭和51年6月25日、第五郎は東京・田園調布の自宅で静かに息を引き取った。享年90。葬儀委員長を務めた第五郎の甥で安川電機会長の安川寛(1903~1999)は弔辞でこう述べた。
 「私たちは、あなたが私心を捨てて尽くされた誠(まこと)が天に通じたことを心から喜び、安川電機を超えて、そびえる大樹を創業者に仰ぐことにひそかな誇りを抱いておりました…」


ウェスティングハウスという会社はアメリカの電機メーカーだった。
電機メーカーだったが放送黎明期に放送局を幾つか開局し、CBS放送(コロンビア放送)のオーナーになり、やがて巨大なメディア会社となり、製造部門は売り払ってしまっていた。その中でも唯一残っていた生産(製造)部門が原子力事業だったのだ。
1950年代以降は加圧水型原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めたことで知られた。
東芝が巨額損失を出すことになったのはウェスティングハウス(原子力事業)の買収がきっかけである。
私はウェスティングハウスについても以前書いたことがある。こちらこちら


玄洋社

安川第五郎は玄洋社のメンバーでもあった。

玄洋社は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体とも。

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を支援した。ただし「玄洋社の連中がわしが半島に行って乱を起こしてやると吹聴していた」のは、東学党の綱領の中に「排日」があったので、ただの大言壮語であろうと陳舜臣たちは述べている。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。

玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。
他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。



ケネディ大統領のメッセージよりもセンセーショナルな放送

1963年11月22日(金曜日)12時30分(現地時間)にアメリカ・テキサス州にて現職大統領だったジョン・F・ケネディがオープンカーで演説会場に向かう途中で狙撃された。
ケネディ大統領は30分後に亡くなった。

日本時間で言えば、狙撃されたのが11月23日(土曜日・「勤労感謝の日」で祝日)の3時30分、死亡したのが4時ということになる。

日本時間11月23日朝、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(衛星放送)の実験を行うことが政府間で正式合意されていた。
実験放送はNHKとテレビ朝日(当時は東京教育テレビ)で行うこととされ、ケネディ大統領から日本へメッセージが届くはずだった。
実験放送は2回予定されていた。

①午前5時27分42秒~48分(20分間)
ここで予め録画してあったケネディ大統領から日本へのメッセージが送られるはずであった。(衛星放送なのに録画では・・)
ケネディ大統領が亡くなっても、録画なのでメッセージは送ろうと思えば送れたが、実験開始直前の5時14分、NASAは「実験は予定通り行うが大統領の録画は送らない」という連絡を入れてきた。
大統領のメッセージの代わりに送られてきたのは、カリフォルニア州にあるモハービー砂漠の風景など。
最初に送られた映像は砂漠の荒野にぽつんと立つサボテンだった・・・
日本では次のようにアナウンスされた。
「ただ今、砂漠の映像をお送りしています。砂漠の映像をご覧頂いております。どうやら ケネディ大統領がパレードの途中に何者かに狙撃されたようです。もしかしたらこの中継を送ることができなくなるかもしれません。もう一度繰り返します。ケネディ大統領が狙撃されたようです」

②午前8時58分~9時15分(17分間)
宇宙中継にてケネディ大統領の暗殺が報じられた。
「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」
実験放送でケネディ大統領暗殺事件をリポートしたのは毎日放送ニューヨーク特派員(当時)であった前田治郎(当時35歳)。貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサーとプロデューサーを経て、1963年2月にニューヨーク支局の駐在員になっていた。
前田はニューヨークでケネディ狙撃を知り、情報収集のためABCの国際部に乗りこんだ。
そこで思いがけず、ABCの広報担当者から「2回目の実験放送でケネディ暗殺事件のニュースを日本語でリポートしてみないか」と持ちかけられたのだという。
だがアメリカで実験放送を担当していたのはNBCだった。
ABCの社長がNBCに電話して、NBCの映像にABCにいる日本人特派員(毎日放送)の音声を乗せて放送するように段取りをつけてくれた。

余談だが、ABC本社の所在地はニューヨーク・マンハッタンの西66丁目。現在はウォルト・ディズニーの傘下。


20世紀最大の謎?最大級の謎?

ケネディ大統領の暗殺は多くの謎にも包まれている。
オープンカーでパレードの最中に暗殺されるというテレビドラマか映画の中の出来事のようである。
容疑者が逮捕されたが本人は全面否認していたという。拘留中の尋問調書などは全く残っておらず、逮捕から2日後に警察署で実業家に銃撃されて死亡した。
マスコミが取り巻く中で射殺され、その瞬間も全米で生中継されることとなった。
劇場型犯罪という言葉があるが、この事件は大事件をリアルタイムで見せるという劇場型報道のはしりではないだろうか。

1時間後に逮捕され犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは2日後にダラス警察署でジャック・ルビーに銃撃されて死亡し、法廷に立つことはなかった。
また、翌年に出されたウォーレン委員会の公式調査報告は事件をオズワルドの単独犯行として大統領は後方から撃たれたと結論づけた。しかしこの調査報告に対して数々の疑惑が出るなど長年にわたって真相についての議論が続き、白昼に多くの人々が見ている前で起こった衝撃的な銃撃による現職大統領の死、犯人がすぐに殺害される意外な展開、その後に暗殺の動機も背後関係もわからず多くの謎を残したまま捜査が終了したことから数々の陰謀説が出て、事件から半世紀が過ぎてもなお論議の的となっている。

ジャック・ルビーは1964年3月14日、ダラス地方裁判所で「悪意を備えた殺人」で有罪となり死刑判決を受けた。再審を待っている間、獄中のルビーは精神の安定を欠き「何者かに癌細胞を注射された」「ワシントンの刑務所に移送してくれたら本当のことをすべて話す」など不可解な言動が見受けられたという。1967年1月3日、奇しくもケネディ、オズワルドが治療を受けたのと同じパークランド病院で肺癌による肺塞栓症により生涯を終えた。


日本時間11月26日の朝にも再度実験放送が2回行われて、これらのことが報道された。


1964東京五輪は世界初のテレビオリンピック

上記の通り1963年11月にケネディ大統領の暗殺事件で衛星放送の実験放送をしたわけだが、それが1964年10月の東京オリンピックに活かされた。
1964年東京オリンピックは通信衛星を使用した世界初の衛星生中継を成功させた。
とはいっても、実験放送で使われたのはNASAの「リレー1号」という低軌道衛星で、地球低軌道を回るため通信可能時間は3時間程度しかなかった。
オリンピックの時に使われたのはNASAにより1964年8月に打上げられたばかりの「シンコム3号」だった。
1号は故障により失敗、2号は完全には静止しなかった。3号が世界初の静止衛星となった。
ということで通信衛星の種類が違うので厳密に言えば実験放送が直接的にオリンピックに活かされたとは言い難いかもしれないが、劇場型報道となった実験放送が人々の興味を惹きつけたことは間違いないだろう。
そしてテレビオリンピックは、通信衛星の有用性を広く世界の放送・通信関係者に印象付けることにもなった。




# by yumimi61 | 2019-05-14 16:25

分岐点

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隅田川 昭和38年ー隅田川上流に工場が進出。汚染水のたれ流しで魚の住めない「死の川」に。水上バスの客も悪臭に悩まされた。田沼武能



泥の河とお化け鯉


私はかつて『泥の河』について書いたことがある
あれは大阪の旧淀川が舞台となっている。
淀川は琵琶湖から大阪湾に注いでいる河川だが、大阪府の都島区毛馬で分流する。
分流より下流域で現在一般的に淀川と呼ばれるのは、明治期に大規模な開削工事が行われた人工の放水路(川からの洪水を防ぐため、河川の途中に新しい川を分岐して掘り、海などに放流する人工水路のこと)である。
分流して市街を巡る旧淀川は分流後に大川と呼ばれ、中之島より下流では安治川と名を変える。
大川は中之島で2つに分かれ、土佐堀川、堂島川という名で呼ばれ、その2つの川が再合流し、安治川となる。
『泥の河』の舞台は、2つの川が合流して安治川となった辺りである。

小説が発表されたのは1977年であるが、小説に描かれた時代は戦後10年目の1955年(昭和30年)である。
2人の少年は泥の堆積している泥の河・安治川に巨大な鯉「お化け鯉」を見たのだった。
違う環境に暮らす2人の少年、だけどそれは、全く違うと言い切ることには躊躇を感じる程度の違いかもしれない。
そんな2人がある日一緒にお化け鯉を見た。泥すくい(ゴカイ汲み)の老人が川に落ちて死んだ時だ。
小説の最後ではそのお化け鯉を見るのは1人の少年だけ。
もう1人の少年が乗っている舟の後をお化け鯉が付いて行っていることを必死に教えようとするが届かない。
映画化もされたが、映画のラストではお化け鯉に触れていない。ただ少年の名を呼ぶだけとなっている。


鯉のぼりは鯉を捨てたい象徴だった!

巨大な鯉と言えば「鯉のぼり」。
男子の健やかな成長を願って、5月5日子どもの日(端午の節句)前後に空に泳がせるものが「鯉のぼり」だと思っていることが多いと思う。
だけど現代の「鯉のぼり」と昔の「鯉のぼり」は少々違う。
まず時期が違う。
旧暦の5月は新暦ではだいたい6月くらいである。
5月5日は6月6日にしてもよいくらい。鯉を「六六魚」というくらいだし。

「鯉のぼり」
端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世と健康を願って家庭の庭先で飾られた紙・布・不織布などに鯉の絵柄を描き、風をはらませてなびかせる吹流しを鯉の形に模して作ったのぼり。

端午の節句には厄払いに菖蒲を用いることから、別名「菖蒲の節句」と呼ばれ、武家では菖蒲と「尚武」と結びつけて男児の立身出世・武運長久を祈る年中行事となった。 この日武士の家庭では、虫干しをかねて先祖伝来の鎧や兜を奥座敷に、玄関には旗指物(のぼり)を飾り、家長が子供達に訓示を垂れた。

一方、大きな経済力を身につけながらも社会的には低く見られていた商人の家庭では、武士に対抗して豪華な武具の模造品を作らせ、のぼりの代わりに黄表紙の挿絵などを見ると五色の吹流しを美々しく飾るようになっている。
さらに、吹流しを飾るだけでは芸がないと考えたのか、一部の家庭で「竜門」の故事にちなんで、吹流しに鯉の絵を描くようになった。 現在の魚型のこいのぼりは、さらにそこから派生したものである。


これは主に江戸を含む関東地方の風習で当時の関西(上方)には無い風習であった。天保9年(1838年)の『東都歳時記』には「出世の魚といへる諺により」鯉を幟(のぼり)に飾り付けるのは「東都の風俗なりといへり」とある。

少子化や核家族化の影響、住環境の変化もあるのか、地方においても個人宅で「鯉のぼり」をあげるという習慣は平成の時代に結構急速に廃れたと思う。
さすがに山間部に行くとまだ個人宅でも「鯉のぼり」を見ることは出来て、私が端午の節句前後に実家に帰る時には鯉のぼりではなくて、家紋や子供の名前のようなものが記されている縦長の幟を上げている家も見かける。
江戸時代では鯉のぼりを上げたのは武家ではない。武家が上げたのは旗指物(小旗)や幟である。


明治期での廃りと復活

江戸時代において幕府が式日と定めていたのが「五節供」である。
旬の草木を供えたり食べたりすることで邪気を祓う行事を行う日として祝日としていた。
上に端午の節句は、武家では菖蒲と尚武にかけて男児の立身出世と武運長久を祈る行事となったとあるが、武家だからそうしただけのことで、端午の節句自体は武家特有の行事ということではない。
 ①人日(旧暦1月7日)
 ②上巳(旧暦3月3日)
 ③端午(旧暦5月5日)
 ④七夕(旧暦7月7日)
 ⑤重陽(旧暦9月9日)

明治5年(1872年)、旧暦から太陽暦(グレゴリオ暦)へ改暦することとなり、これに伴い、明治6年に「五節廃止令」が出され、以後全ての節句は廃止され、端午の際の幟も鯉のぼりも見られなくなっていったそうである。

明治27年(1894年)の「幼年雑誌」における端午の節句の説明
五月五日は端午の節句と称し今より二三十年前迄東京に於ては男児ある家にて各々我家の定紋附けたる幟及び鍾馗を画きたる幟、紙若くは巾きれにて造りたる鯉の幟を家の外に立て又家の内にも小幟、冑人形、青龍刀抔などを飾り祝ひたるものなり、現今に於ても鯉幟を立て又は座敷幟を飾る家ありといえども往時の如く盛にはあらず。

こうして一度はほぼ廃れた端午の節句や鯉のぼりが復活したきっかけは戦争だった。
日清戦争(1894~1895)で復活の兆しをみせだし、日露戦争(1904~1905)でますます盛り上がりを見せ、以後再び定着していくのである。
軍拡と富国強兵に伴い、男子に勇敢さを求める機運が高まったことによって、「鯉のぼり」は見事に復活を果たすのだった。


お化け鯉、復活した鯉のぼり、とは何か

輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心、そうしたもの対する人々の強い念がある。
子を持つ親の願いだったり世間一般の願いだったりする。
それを否定することは出来ないから放っておけば巨大化していく。
お化け鯉は、巨大化した凄まじいまでのキラキラとした念の化身。
お化け鯉が貧しい老人を引きずり落とし呑み込んでしまう。彼らによって必要でないもの、見たくないものだから。

お化け鯉は子を持つ親の願いや世間一般の願いの化身なのに、同年代の子供にも身近な家族にも牙を剥くことがある。
それは、輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心を勝ち取るのに邪魔になるものと考えるからだ。
見たくない現実であったり、同類として認めたくないものでもある。
小説のラストは、このお化け鯉に舟に乗った家族が追いかけられているのを、もう1人の少年が見る。


隅田川の汚染

トップの写真は隅田川。
写真を拡大してみるとアサヒビール社が写っていることが分かる。
ということは吾妻橋の所である。

こちらの記事に載せた『佃渡しで』という詩も隅田川が舞台になっている。

昭和時代に突入すると軍需景気の後押しを受けて都市が発展していき、隅田川上流でも化学工場などが新設されていった。
工場が出来れば人口も増える。
工場排水に生活排水、環境汚染は急速に進んでいった。
やがて戦争は負けて終わりになるが(1945年)、朝鮮戦争(1950年勃発で1953年休戦で終結しないまま現在に至る)が起こってくれたおかげで日本経済は朝鮮戦争の軍需によって戦前の水準にまで立ち直り、引き続き高度経済成長期(1955~1973年)に入っていく。

隅田川の汚染のピークは1962~1963年(昭和37~38年)だそうである。
この頃の汚染はとにかく酷く、魚の住めない死の川となり1962年には漁業権も消滅してしまった。
沿岸の家々はもちろんのこと、隅田川上の鉄橋を通る電車の窓すら開けてはいられないほどの悪臭がして、健康被害も生じた。
そんなに酷い状態の隅田川が改善していくきっかけとなったのは1964年の東京オリンピック。
開催都市として恥じない施設と環境を整備するということで投資され短期間に改善をみることになるが、オリンピックを終えた翌年には戦後初の赤字国債を発行することになる。


詩にしかしようがなかった

吉本隆明が『佃渡しで』を書いたのは佃大橋が架かる(1964年8月)直前頃だという。
1964年というのは東京オリンピックが開催された年であり、佃大橋もオリンピックによって造られた橋ということになる。
その前年は汚染のピークだった隅田川だが、1964年のオリンピックに合わせて隅田川も急速に変わりつつあった時期だったのであろう。
輝かしい未来とか希望とか出世とか、世を戦い抜くのに十分な五体満足健康で強健な身体や勇敢な心、そうした念を背景に近代的に美しく街が様変わりしていく。街全体が巨大化した凄まじいまでのキラキラとした念の化身となる。
その中にいる未来ある純粋な子供の目には隅田川が「水がきれいね 夏に行った海岸のように」と見えたのだ。

急速に改善したと言っても前年が汚染のピークなのでまだそこまでは綺麗なはずはなく、よく見れば汚れも見えたのであろう。
だけど娘にはそう見えなくてもそれは特別おかしなことではないと作者は分かっている。
むしろあんなに汚かった川で泳いだり蟹を採ったり、郷愁とも言うべき特別な想いを抱いている自分のほうが、この世から、この時代から、ずれつつあることを感じている。
だから声に出すことが出来ない。
オリンピックなんか開催しなくてよい、なんてこと言えなかったのだ。






# by yumimi61 | 2019-05-13 20:41

女子供と戦争

戦闘員を産み育てるための感謝なら

男の代わりに働く感謝なら

命を投げ出して持ち場を護ることへの感謝なら


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左:国民精神総動員の正月 皇居前のたこあげ大会 昭和13年ー戦時に対応する節約生活を求めた運動が隅々にまで及んだ。土門拳
右:子どもの隣組 牛込区(現新宿区)矢来町 昭和15~16年ー戦時体制の末端組織として整備された隣組は、子どもまで巻き込んだ。林忠彦



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監視哨に動員される婦人会 昭和17年―米軍機の機種識別の講義を受けるところ。成人女性は「大日本婦人会」への加入が義務付けられた。林忠彦



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看護婦の防空演習 大阪・日本赤十字社大阪支社 昭和18年ー「命を投げ出して持ち場を護れ」と職場でも訓練が行われた。濱谷浩



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勤労動員 昭和19年ーこの年、女子挺身勤労令が公布され、12~40歳の女性に軍需工場などで働くことが義務づけられた。木村伊兵衛





その選択はあなたがすべきもの。







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# by yumimi61 | 2019-05-12 16:01

カモとボール

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# by yumimi61 | 2019-05-12 11:21

皇軍

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南京陥落 銀座4丁目 昭和12年ー12月13日、日本軍が南京を占領。
一方的な戦時報道に各地が祝賀ムードに沸き返った。夜には人々を動員して提灯行列も行われた。
背景は服部時計店(現和光) この年10月から始まった国民精神総動員運動のスローガンが掲げられている。 土門拳


上の「皇軍大勝」の写真と文章は↓の本より。「国民精神総動員」の他に「皇軍万歳」とも掲げられています。
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現在の銀座和光。
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銀座は国旗が沢山掲げられている時がありますが、日本では普段あまり国旗に馴染みがないためか、戦時中を彷彿させる時がありますね? パンまで日の丸に見える!?

下の写真は、南京陥落報道で祝賀ムードに沸き返った翌月(昭和13年1月10日)に発行された『アイコクエホン僕等の勇士』という絵本。
こちらの日の丸がはためいています。
古書 古群洞より
アイコクエホン僕等の勇士(日中戦争)画作・古澤岩美 淡海堂出版部 昭和13年 ¥38,000 B5判 全カラー16p 表紙剥げ有り 本体発色良好並上本 I
戦前に児童向絵本を古澤岩美が描いた記録や書誌は見当たらず、本書は幻の一冊かも知れません。

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日本では「日本軍」なんて呼んでいなかった。「皇軍」、天皇の軍隊であり、天皇のために戦ったり戦わされたりしたのである。
そこを有耶無耶にしたまま、そんな大昔でもないにもかかわらず、後世の人々は何も知らず天皇が今でも崇拝されているとなれば、同じ過ちを繰り返しかねない。
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<参考・写真出典など>
戦争でだまされませんか? 70年経ってもホオカムリを見逃し続けますか? 2014/06/29
特攻作戦で数千人もの若い命が散ったことを読んで、気違い沙汰だと思っても遠い過去の他人事のように感じていました。でも私の父の同級生達がその当事者であったこと、もし彼も病気にさえならなかったら やはり飛び込んでいったであろうとここから理解するとゾッとします。抽象的で実感のない遠い歴史の話ではなく、私の父の話なのです。彼もまた、他の一億の国民とともに戦争に加担していたのです。彼が愚かでもなければ気が狂っている訳でもないことは、私がよく知っています。

父が亡くなってから母に聞いたのですが、父は 春の桜の花を見るたびに昔の同級生達のことを思い出すので 花見は好きではなかったそうです。自然は大好きで、中でも雪景色と新緑の春がお気に入りでした。私や弟がまだ子供の頃、学校をさぼってまで何度も山に連れて行ってもらい、自然の美しさを教わり懐かしい思い出になっています。10年ほど前に母とオランダに来た時も彼のリクエストでアルプス見学をし、アイガーの北壁に感動していました。そんな彼でも、桜の花だけはイヤだったそうです。小中を通じて同級生であった彼の幼馴染みが、左の詩を書いていたのを、父の遺品の中に見つけました。彼は戦争中は近衛隊の所属だったと聞いているから、同じ戦中派として彼も桜の花に対して同じような思いを感じていたのでしょう。元カミカゼの飛行士だった方も、同じような気持ちを抱いています。

日本が中国に攻め込み、当時の中国の首都の南京攻略を伝えた毎日新聞の一面は、国旗を掲げ「皇軍万歳」と祝福されていました。
国旗や提灯を持ち寄った大々的なパレードの写真が多く残っています。(伯母によれば、学校でこれに参加するよう命令されたそうなので、これらの人が全員喜んで馳せ参じたのではないかもしれません。一方で、現在でも君が代の斉唱が強制されているそうですが、この頃を彷彿とさせます。)

現在に例えると、日本人チームが五輪かワールドカップで優勝した時のようです。

意図的な天皇陛下万歳三唱 2013年5月2日
「天皇陛下万歳」とは、天皇に対する絶対的服従の表明の儀式である。戦争中の皇軍が玉砕の際に唱えて死んだ言葉でもある。「♪思えば昨日の戦いに朱に染まってにっこりと笑って死んだ戦友が天皇陛下万歳と残した声が忘らりょか」(戦友)


皇軍万歳? 2018年9月17日
昔の着物の中から
懐紙入れ(略式)が出てきて
その中に楊枝入れがあり
その又中に、日の丸と軍旗(陸軍)のマーク付きで
『皇軍萬歳』と書いた爪楊枝が出てきた
ウィキペディアによると
「皇軍」とは
…狭義には、第二次世界大戦以前の日本が保持していた軍隊を指す…
と、あった。
ちょうど敬老の日にこれが出てきたというのは
何かのメッセージか?
戦争を経験された先人達の思いを
『戦争を知らない子どもたち』世代と
「『戦争を知らない子どもたち』を知らない子どもたち」世代が
戦争の理不尽さを含めてメッセージとして受け止めたい
敬老の日の
晩御飯を作りながら
こんな事を考えています


武運長久・皇軍萬歳  2007年8月30日
いやはや驚いた。戦後六十二年目の夏が終わろうというのに、祈 武運長久、皇軍万歳とは、アナクロニズムもいいとこ。
神社の門前に、祭礼の折に建てられる飾り看板の修復を依頼された。高さ五mの二本の柱の上部に渡されるように飾られる長さ1mのたて看板には「町内安全」と「漁涬満足」の文字が紙に書かれて貼ってあった。
 修復のため、その紙をはがしたところ、下の本体には、筆で文字が書かれており、なんだろうとはがしたら、くだんの文句が書かれていたもの。
 おそらく、戦前に、もしかしたら戦中に戦意高揚のために書かれたものだろうが、なかなか達筆である。
 終戦時のわが町の人口は約3500人(推定)。こんな小さな町でも、大東亜戦争では、この言葉に送られた出征兵士のうち163人は、武運長久の祈りもむなしく名誉の戦死を成し遂げ、英霊として神社に祀られている。



日本すきま漫遊記 地守神社 鳥居と境内の間に川があり、橋がない。(群馬県藤岡市下日野)2013年8月27日訪問
同じく縦拝殿の中の額。「皇軍万歳」などとキナ臭いものが残っている。
私は太平洋戦争自体が間違っていたと断じるつもりはないが、その戦争を遂行するために実施された国家神道を基盤にした全体主義は間違いだったと思っている。宗教的全体主義のために、戦争行為において不適切な戦略、戦術が選択され、結果として軍人や国民に無駄な犠牲をもたらしたからだ。


いせさき明治館企画展 時代を映したビックリ和柄展 2012年8月4日
一階展示室でスポーツ競技柄を見学し、古き時代のオリンピックの様子などに懐かしさや楽しさを覚え、そんな気分の延長で訪れた二階展示室。そこに展示されていたのは全て幼い男の子たちの小さな着物。
 遠目に見ると、青色を中心に描かれた着物はどれも可愛らしく、ざっと一回りして一枚ずつ撮り、何枚かをアップで撮ろうと近くへ寄ってみると、そこに描かれていた柄は、戦車や戦闘機、戦艦、槍を突く子供たち、軍刀を持つ子供たち、戦況を伝える新聞社の記事など、どれも戦時中の世相を生々しく反映した一瞬毛穴が立つ思いの絵柄でした。
 戦後67年が過ぎ、平和な日々が続く日本。その日本において、80年ほど前には、生まれて来た男子に戦争兵器柄の着物を着せたこと。その事で大人は子供たちに何を伝えようとしたのか意図は図り知れませんが、子供たちに取って、戦争兵器の柄を身に付けることで、生まれて来た事の喜びや未来への夢や希望を持てることが果たしてできたでしょうか。
 今の平和を噛みしめるためにも、ロンドンオリンピックで盛り上がり、終戦記念日を迎えようとしているこの時に、第二次世界大戦前の時代を悲しくも色濃く反映した着物柄展示に、是非とも足を運んでみてください。

西日本新聞 戦後70年へ ー証言をつなぐー vol6
1941年12月8日午前1時半。太平洋戦争は真珠湾攻撃より約2時間早く、マレーシア北東部のコタバルという港町への上陸作戦から始まった。 「あの戦争に負くることは想像もつかんかったし、これは正しい戦争だと信じて疑わんかった。思えば、あれが間違いの始まりじゃった」。福岡県八女市の古澤健児さん(94)は約5500人の上陸部隊に加わったあの夜のことを今も鮮明に覚えている。








# by yumimi61 | 2019-05-10 15:28

球場


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=私信=
この間教えた年月日が間違えていた!
 (誤)2016年1月→(正)2015年1月 でした。





# by yumimi61 | 2019-05-08 23:37

一点の曇り

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# by yumimi61 | 2019-05-07 18:24

深閑

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遊び疲れて眠る子供のように

町は静寂と喧騒を取り戻す

君を渡すわけにはいかないから

一塊の温もりと齟齬に

ふうっと息を漏らす




# by yumimi61 | 2019-05-06 23:41

六六魚と躑躅

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「こどもの日」と言えば鯉のぼり。
六六魚(ろくろくぎょ・りくりくぎょ)は鯉の異称。
※重訂本草綱目啓蒙(1847)四〇「鯉魚〈略〉鯉は首より尾にいたるまで鱗の数三十六あり。 故に六六魚の名あり」

・関東ではTBSテレビは6チャンネル。
子供の頃、テレビは放送局名ではなく、数字チャンネルで呼んでいた。
だから結構そっちの方が馴染みがあったりしたけれど、地デジ化でチャンネルが変わってしまったところもありますね。
私なんか未だに昔のチャンネルの数字のイメージが強かったりする。
 NHK教育テレビ 3チャンネル→2チャンネル
 テレビ朝日 10チャンネル→5チャンネル
 テレビ東京 12チャンネル→7チャンネル

・政治不信やメディア不信について前前記事で少し触れたけれど、私も以前から気になっていることがある。
それは年末年始。
年末年始は特別番組が多くなり、通常放送している番組がなくなることが多いと思う。
その中でもテレビ朝日の報道ステーションはいつもわりと早くから年末休みに入る。年始も休んでいるので、ニュース番組としては休みの長さが際立つ。
報道ステーションはサッカーなどスポーツ番組でもなくなることがある。
日々の出来事を伝えるのがニュース番組の使命や役割だとしたら、ニュースに休みの日はないはず。
報道ステーションが休んでいる間にも政治は動くし、事件や事故は起こるし、災害も起こる。
それを伝えなくて良い日があると考えているならば、それは日々の出来事を伝えるニュース番組ではないのだろうと私は思う。
ニュースショーというかワイドショーのようなものなんだろうと思うしかない。

・水戸の偕楽園が梅まつりの時期だけ有料化を検討しているらしいけれど、まだしていなかったのかという感じ。どんどんすべきだと思う。
館林市のつつじが丘公園も躑躅(つつじ)の花が咲く季節だけ入園料をとる。
いつから入園料を導入したのかは知らないけれど、数十年も前から市民も県民も県外者も関係なく一律入園料を取っている。但し子供は無料。
入園料を取ったってシーズン中は大賑わい。
だから偕楽園も県外者のみと言わず、県内在住者からも入園料を取ってもいいんじゃないかなぁと個人的には思うけれども。

・ツツジが咲く季節はちょうどGW前後。
ツツジにも種類があるので早咲きと遅咲きがあり開花時期は多少ずれるけれど、公園としてはやっぱり花のピークというものがあるわけでして。
最近はちょっと開花が早いとなんでもかんでも温暖化のせいにする風潮があるが、30年近く前にも開花が早い年も遅い年もあった。
私は館林市に住んでいたことがあるが、GW前に満開ピークを迎えてしまった年があって、遠目にツツジを拝んで「あ~GW前なのにツツジがもう満開になっている・・」と善良市民は入園料の減収を心配したものである。





# by yumimi61 | 2019-05-05 18:30

201955(こどもの日)

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君が言葉を覚える前 君はここにいて

僕はあの頃 その場所に憧れていたっけ

君も僕も 外の世界に飛び出でて

帰りが遅いと ママを心配させた

太陽が西に傾いて この世界が橙色に染まる頃

僕はいつかの 夢の続きを見ていた

優しい眼差しの あの人が近づいてきて

小さな魚と鈴の付いた細い革紐を 僕の首に回した

いったい僕を 幾つだと思っているんだろう

チリリン 可愛い鈴の音にまたあの人が目を細めた気がした




・私はうちの猫に首輪を付けたことがないのだけれど、先日猫の首輪を衝動買いしてしまった。
せっかく買ったので我が家の猫ナツの隙を狙って付けてみた。
猫に付けたことがないので締め具合がよく分からない。犬と同じ感じでよいのだろうか。
近所の猫を見ると首輪が食い込んで見えないくらいの猫もいるのだけれど、あれくらい締めておいたほうが安全なんだろうか。
・・・と、いろいろ考えたり眺めたりして、やっぱり首輪は外してしまった。
いいもん、私がブレスレットにするから。

・子供が幼い頃、プーさんのビデオをよく観ていた。そのせいで私は一頃プーさんの物真似(声と話し方です)が得意となり、よく真似していたのだが子供にはいつも軽く流されていた。似てなかったのか・・・

・私の母は若かりし頃、和文のタイピストだった。カチャカチャカチャ

・携帯電話(スマホ)の操作音を消していますか?
私は操作音がする方に馴染みがあり、音がした方が確かに操作しているという感じもあって音を出していたのだけれど、一方でもし事件とかに巻き込まれて犯人に隠れてそっと通報したりメールしたりする時には音が出たらバレてしまうから予め消しておくべきかと、携帯電話を持ち始めたころ本気で悩んでいました。





# by yumimi61 | 2019-05-05 11:19

本性

朝日新聞とはなにものか

1907年(明治40年)に夏目漱石が入社した朝日新聞社はどのような社であったか。
現代では反日系や革新系、リベラル系として名高い朝日新聞だが、歴史的にみればこのレッテルはかなり微妙である。
朝日新聞は御用新聞となって成長し大きな会社になったのだし、戦争を支持していた時代も長い。

1879年、大阪にて創刊。
創刊期は、新聞小説と通俗記事が主体の大阪ローカルの小新聞だった。
また、参議の伊藤博文らが同じく参議の大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裏に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた
その間に東京の『めさまし新聞』を買収して『東京朝日新聞』を創刊し、東京に進出した。

戦後の一時期まで、朝日新聞は購読者層として政官財のトップエリートを含む社会の高学歴層に支持されてきた傾向があったとされる。しかし同時に、記者をはじめとする朝日新聞社員のエリート意識も極めて高く、同社員の外部に対応する態度は「Donaru(怒鳴る)」「Ibaru(威張る)」「Yobitukeru(呼びつける)」の「朝日のDIY」と言われ、そのことが珊瑚記事捏造事件の時のように、必要以上に相手の反感を買っているという指摘もなされている。



戦争賛美・戦争支持の顔を持つ朝日新聞

・日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。

・満州事変以降は概して対外強硬論を取るようになり、軍部への迎合に転換し、第二次世界大戦終了までは戦争賛美の論調だった。

・大日本帝国陸軍が満州事変を起こし、満州国を建国した後、国際連盟に拒否されて脱退した際には「連盟よさらば」という歌を作成して代表の松岡洋右を賞賛している。

・1930年代後半からは首相・近衛文麿の戦時政府(近衛新体制運動)を積極的に支持した。

日中戦争(支那事変)・太平洋戦争(大東亜戦争)中は主戦論を主張する軍部の御用新聞として君臨し、毎日新聞や読売新聞といった他紙と同様の戦争翼賛報道を行い、大本営発表をそのまま記事にした

・日本の敗戦後は、社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん(関西版では「―起たん」)」(1945年11月7日)を発表し、村山社主家の村山長挙社長以下幹部が辞任した。ただし、村山長挙・上野精一両社主は公職追放解除後に復帰した。

・戦前は朝鮮人による日本への密航や朝鮮人密航組織、さらに朝鮮人労働者が高収入を得ていたという報道を頻繁に行っていたが、1959年以降に北朝鮮への帰還事業が行われるようになると次第に左傾化し、在日朝鮮人は強制連行されたものであるという報道を行い始めた。



人畜無害

例えば、尊皇攘夷運動に身を投じたはずのものが、時代が変われば自分達で実権を握り、喜んで外遊し、外国製を取り入れる。(実は最初から外国から支援されていたのだけれども)
例えば、かつて戦争を賛美し支持していたものが、時代が変われば戦争反対に回る。
例えば、(旧)優生保護法という法律に基づいて行ったはずの手術が、時代が変われば悪行になる。

「政治」も「報道」も簡単に翻る。特に後世に生きる人間にはそれが見えやすい。
「政治」にも「報道」にも強い思想や信念がなく、別の何かで世の中は動いているということが分かる。そのことは人々の心に不安や不信を抱かせる。時代が進めば進むほど政治不信、メディア不信に陥るのは当たり前なことかもしれない。
そんな簡単に翻るものに信を置くことは難しい。
何年か何十年か後には、あの時の報道や政治は誤りでした、我々は罪を犯しましたと平気で言い出しかねないことを私達は知っているからである。

翻るということ、それは言い換えれば変化である。
変化の一側面は成長であり、進化や進歩でもある。
人間は子供から大人に成長する、それを悪いことだとは言えない。
それと同じで進化や進歩は前向きで良いことだと考えられているので、進化や進歩に対して異を唱えるのは大変勇気がいる。
変化(change!)はいつの時代も明るい未来を夢見させる。だから人々は変化への不安を押し隠す。
だけどほとんどの人間は、特に島国に暮らす日本人は大陸に暮らす人々よりも変化や変形が苦手なのだ。出来ることなら不安や不信とは無縁でいたいと思っている。

夏目漱石は小説『野分』の中野君の恋愛論の中で変形を語った。
恋の煩悶の炎火の中に入ると非常な変形を受けると。(同時にそれによって自分の存在が明瞭になるとも)
変形には2種類ある。未熟で柔らかいからこその変形と、非常に大きな熱量を受けての変形。
夏目漱石は恋愛による変形は後者であることを『野分』で示した。


「政治」や「報道」が翻るもので信用ならないものだとすれば、信じられるものはなにか。信を預けるものとして「思想」や「宗教」への道が開かれる。
しかしながら「思想」や「宗教」は無頼の徒に色塗られ、これまた信が絶たれることになり、「思想」や「宗教」や「政党」は危険なものとして映し出される。

簡単に翻ってしまう社会において、変化していく時代の中で、翻らないものや変わらないものは、数字を積み上げた無味乾燥な「天皇制」と、宗教色を払拭した「神社」といったところだろうか。
人々は変化しないことに安心し、熱狂とも言える信を寄せ、変わらないことに感謝すらする。


変わらない土台づくりと変化への布石

「明治天皇の誕生日が祝日になっていて(11月3日)、昭和天皇の誕生日が祝日になっているのに(4月29日)、大正天皇の誕生日(8月31日)は祝日になっていないんだよ、差別だよね~可哀想に」と私は妹に言ったことがあるが、今度は12月23日が祝日になって、2月23日が天皇誕生日として祝日になるのかしら?
明治天皇と昭和天皇では戦争の印象が強い。
今までの歴代天皇の誕生日が全部祝日で学校も仕事もお休みならいいのに~。

あと時代区分だけど、歴史で習ったなんとか時代というのは政治(為政者)の大きな変わり目であって天皇の変わり目ではない。
明治から急に天皇1時代になったみたいな感じに捉えられているけれど(もっとも大日本帝国憲法下では天皇が為政者だけれども)、これは暫定な時代区分であって、もう少し先の時代では別のまとまりになるんですよね?ならないの?

昭和天皇は20歳の時に病弱な大正天皇に代わって政務を摂ることになった。
でも自分は最高責任者の立場で行った戦争に負けても退位もしなければ摂政を取らせることもしなかった。
自らふっかけた戦争で多くの者と金の犠牲を出し負けて天皇制を廃止しないならば、少なくとも表の顔を取り換えるくらいのことはしてもよさそうである。
会社だって何だって何か大きな不祥事を起こせば辞任して交代するではないか。
だけど昭和天皇は象徴として何事もなかったかのように居座った。
今回だって高齢になってすることが出来ないというならば、摂政という方法もあったはずである。でもそうはしなかった。
これは摂政の政が政治を意識させるからなのかな?

人間は、ことに日本国民は変わらないものをこよなく愛す性質だから、変わらない天皇制を下支えにして、変化を前面に出したのが今回の天皇の交代劇。
戦争を永久に放棄する憲法も多くの人が愛しているわけだけれど、変わらない天皇制を下支えにして憲法を変えたいと思っているのが何があってもなかなか変わらない政権といったところか。





# by yumimi61 | 2019-05-03 23:58

煩悶

夏目漱石が作家になるまで

夏目漱石、1867年(明治への改元の前年の慶応3年)、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。

1886年(明治19 年)に公布された帝国大学令によって帝国大学が設立される。

1889年(明治22年)、大学予備門予科の同窓生であった正岡子規と出会い、以後多大なる影響を受ける。

1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された。

1890年(明治23年)9月、帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科に入学。

創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。このころから厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別し、次々に近親者を亡くしたことも影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ(江藤淳説)、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。

1892年(明治25年)4月 - 兵役逃れのために分家し、北海道に籍を移す。
         5月 - 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。

1893年(明治26年)3月、正岡子規が大学を中退する。

1893年(明治26年)7月 - 帝国大学卒業、大学院に入学。
         10月 - 高等師範学校(後の東京高等師範学校)の英語教師となる。

1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。

漱石は帝国大学を卒業し高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。

1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年) 4月17日、日清戦争。

1895年(明治28年) 4月 - 松山中学(愛媛県尋常中学校)(愛媛県立松山東高等学校の前身)に菅虎雄(夏目漱石の親友で、第一高等学校の名物教授)の口添えで赴任。松山は正岡子規の出身地でもあった。
         12月 - 貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子とお見合いをし、婚約成立。

1896年(明治29年) 4月 - 熊本県の第五高等学校講師となる。
          6月 - 中根鏡子と結婚。
          7月 - 教授となる。

親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚するが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。 (ヒステリー症とは解離性障害のこと。『アルプスの少女ハイジ』のクララの立てなかった原因の疾患の1つとして考えられるとして前述したことがある。精神あるいは身体的機能が意識から解離して意思によるコントロールが失われた状態となる。ストレスに満ちた出来事の記憶が欠落してしまう、身体的な疾患が認められないにも関わらず麻痺して立てない、歩けない、声が出ないなどの運動障害、けいれんや知覚麻痺などを生じる)

1900年(明治33年)5月 - 文部省より英語教育法研究のため(英文学の研究ではない)、英国留学を命じられる(途上でパリ万国博覧会を訪問)。

1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥る。同年、12月に帰国。

1902年(明治35年)9月、友人である正岡子規が肺結核にて満34歳で死去。

1903年(明治36年) 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
          5月、北海道出身の旧制一高の学生・藤村操が華厳滝で自殺した。

第一高等学校の受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。

1904年(明治37年)2月8日~1905年(明治38年)9 月5日、日露戦争。

1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。

1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。

1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。

1907年(明治40年) 1月 - 「野分」を『ホトトギス』に発表。
          4月 - 一切の教職を辞し、朝日新聞社に入社。職業作家としての道を歩み始める。

1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍にて死去。享年49歳。


職業作家

この頃の職業作家とはフリーな個人事業主としての小説家なりライターではなく、会社に雇われて、その会社の出版する書物に書く事であったということになる。
夏目漱石は朝日新聞社に入社して、朝日新聞に小説を連載していた。
夏目漱石が職業作家になってから死ぬまでの小説は全て朝日新聞上で発表されたものである。


ある青年の自殺が広げた波紋

藤村操
1886年(明治19年)7月20日 - 1903年(明治36年)5月22日
北海道出身の旧制一高の学生。華厳滝で投身自殺した。自殺現場に残した遺書「巌頭之感」によって当時のマスコミ・知識人に波紋を広げた。

1903年(明治36年)5月21日、制服制帽のまま失踪。この日は栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)の旅館に宿泊。翌22日、華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」(がんとうのかん)を書き残して投身自殺した。同日、旅館で書いた手紙が東京の藤村家に届き、翌日の始発電車で叔父の那珂通世らが日光に向かい、捜索したところ遺書(巌頭之感)や遺品を見つけた。一高生の自殺は遺書の内容とともに5月27日付の各紙で報道され、大きな反響を呼んだ。遺体は約40日後の7月3日に発見された。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。警戒中の警察官に保護され未遂に終わった者が多かったものの、藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名に上った(内既遂が40名)。操の死によって華厳滝は自殺の名所として知られるようになった。


藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通り。


悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。



自殺直後から藤村の自殺については様々に論じられ、そのほとんどは、藤村の自殺を国家にとっての損失という視点から扱ったものだった。
自殺の原因としては、遺書「巌頭之感」にあるように哲学的な悩みによるものとする説、自殺前に藤村が失恋していたことによるものとする説に大別される。
「失恋説」については、友人の南木性海は藤村の11通の手紙を公表し、否定している。南木に限らず、藤村をよく知る友人らはみな一様にこの「失恋説」を否定している。

彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石や学生たちに大きな影響を与えた。在学中の岩波茂雄はこの事件が人生の転機になった。漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。

当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった。


歪んだ恋愛論

夏目漱石が『野分』を発表したのは藤村操の自殺から約4年後のこと。
そしてそれからほどなくして、漱石は一切の教職を辞して朝日新聞に入社して「職業作家」となった。
おそらく昔は、教職(=作家=先生)、という感じだったのではないだろうか。
だからメインとなるべく教職を辞して物書きになるということは、それなりの覚悟が必要だったのだろうと思う。
でも夏目漱石は朝日新聞に入社したからこそ人気作家となり後世に名を残す(紙幣の肖像に選ばれるほど!)作家としての地位を獲得できたのかもしれない。

『野分』は夏目漱石自身を色濃く反映した作品。
前回私は『野分』の主題は恋愛論だと述べたが、夏目漱石は藤村操の自殺の原因が恋愛であってほしいと心底願ったゆえに、主題を恋愛論に置いたのだろうと思う。





# by yumimi61 | 2019-05-03 15:57

野分論

先日のエントリー『桜花』にて最後の一文に夏目漱石『野分』より 世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する を引用した。
今日はその『野分』についてです。

↓これが小説の冒頭。

 白井道也(しらいどうや)は文学者である。
八年前まえ大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然と東京へ戻って来た。




今まではいずこの果はてで、どんな職業をしようとも、己れさえ真直であれば曲がったものは苧殻のように向うで折れべきものと心得ていた。
盛名はわが望むところではない。威望もわが欲するところではない。ただわが人格の力で、未来の国民をかたちづくる青年に、向上の眼を開かしむるため、取捨分別の好例を自家身上に示せば足るとのみ思い込んで、思い込んだ通りを六年余り実行して、見事に失敗したのである。
渡る世間に鬼はないと云うから、同情は正しき所、高き所、物の理窟のよく分かる所に聚ると早合点して、この年月を今度こそ、今度こそ、と経験の足らぬ吾身に、待ち受けたのは生涯の誤りである。
世はわが思うほどに高尚なものではない、鑑識のあるものでもない。同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。




己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。
しかし公正な人格に逢うて、位地を無にし、金銭を無にし、もしくはその学力、才芸を無にして、人格そのものを尊敬する事を解しておらん。人間の根本義たる人格に批判の標準を置かずして、その上皮たる附属物をもってすべてを律しようとする。
この附属物と、公正なる人格と戦うとき世間は必ず、この附属物に雷同して他の人格を蹂躙せんと試みる。
天下一人の公正なる人格を失うとき、天下一段の光明を失う。公正なる人格は百の華族、百の紳商、百の博士をもってするも償いがたきほど貴きものである。
われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵かし硯を磨まするのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。




主たる登場人物


・白井道也
大学を8年前に卒業。 越後・九州・中国地方の3箇所で中学教師をしていたが、いずれも辞職して、ついには東京に戻ってきて、書き物の仕事をしている。妻がいるが、妻は職を転々とし野心のない夫を快く思っておらず、夫妻の間には隙間風が吹いている。

・高柳君(高柳周作)
越後出身で、この夏に旧制の高等学校(現在の大学教養課程に相当)を卒業したところ。
貧乏で暇もないらしい。
口数が少なく、あまり人と交わることもないため、他人からは厭世家の皮肉屋と思われている。
父は郵便局の役人だったが、高柳君が7歳の時に公金を使い込んで囚われの身となり牢屋の中で肺病で死んでしまった。もっとも子供の時にはそのことを知らず、父の行方を母に尋ねても「今に帰る」と言うばかりであった。現在はその母親を田舎に1人残しているという状況であり、仕事をして母へ仕送りをしなければならないと思っている。
越後の中学校に白井道也先生がいて、先生を学校から追い出すのに加担した。
肺病を患っている。

・中野君(中野輝一、中野春台)
高柳君とは旧制高等学校の同級生で一緒に卒業した。
裕福で名門で暖かな家庭に生まれ育つ。
鷹揚で円満で、趣味に富んだ秀才。
婚約者がいて結婚する。


高柳君も中野君も文科で学んでおり、卒業後も書き物の仕事をしている。
中野君は「空想的で神秘的で、それで遠い昔しが何だかなつかしいような気持のするものが書きたい」と言っている。
タイプは全く違うが2人は仲の良い友人。裕福な中野君は高柳君にたびたび奢ってあげたり、具合が悪そうなのを心配する。
しかし高柳君は中野君を別世界に住む人だとも思っていて、寂しさを拭いきれないでいる。というかむしろ中野君を通じて余計にひとりぼっちであることを痛感してしまうのである。


高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁わきまえた秀才である。

彼らは同じ高等学校の、同じ寄宿舎の、同じ窓に机を並べて生活して、同じ文科に同じ教授の講義を聴いて、同じ年のこの夏に同じく学校を卒業したのである。同じ年に卒業したものは両手の指を二三度屈するほどいる。しかしこの二人ぐらい親しいものはなかった。

この両人が卒然と交わりを訂してから、傍目にも不審と思われるくらい昵懇な間柄となった。運命は大島の表と秩父の裏とを縫い合せる。
 天下に親しきものがただ一人ひとりあって、ただこの一人よりほかに親しきものを見出し得ぬとき、この一人は親でもある、兄弟でもある。さては愛人である。高柳君は単なる朋友をもって中野君を目してはおらぬ。

中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越しに眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴さえも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁しみてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横たわっている。歯を病やんだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。



『江湖雑誌』


「僕の恋愛観」 中野春台
「解脱と拘泥……憂世子」 白井道也

中野君の所の取材に行ったのも白井道也先生で、高柳君から中学生の時の出来事を聞いていた中野君は取材終わりに高柳周作という人物を知っているか訊いてみるも、知らないと言われる。


「僕の国の中学校に白井道也やと云う英語の教師がいたんだがね」
「道也た妙な名だね。釜の銘にありそうじゃないか」
「道也と読むんだか、何だか知らないが、僕らは道也、道也って呼んだものだ。その道也先生がね――やっぱり君、文学士だぜ。その先生をとうとうみんなして追い出してしまった」
「どうして」
「どうしてって、ただいじめて追い出しちまったのさ。なに良い先生なんだよ。人物や何かは、子供だからまるでわからなかったが、どうも悪い人じゃなかったらしい……」
「それで、なぜ追い出したんだい」
「それがさ、中学校の教師なんて、あれでなかなか悪い奴がいるもんだぜ。僕らあ煽動されたんだね、つまり。今でも覚えているが、夜十五六人で隊を組んで道也先生の家の前へ行ってワーって吶喊して二つ三つ石を投げ込んで来るんだ」
「乱暴だね。何だって、そんな馬鹿な真似をするんだい」
「なぜだかわからない。ただ面白いからやるのさ。おそらく吾々の仲間でなぜやるんだか知ってたものは誰もあるまい」
「気楽だね」
「実に気楽さ。知ってるのは僕らを煽動した教師ばかりだろう。何でも生意気だからやれって云うのさ」
「ひどい奴だな。そんな奴が教師にいるかい」
「いるとも。相手が子供だから、どうでも云う事を聞くからかも知れないが、いるよ」
「それで道也先生どうしたい」
「辞職しちまった」
「可哀想に」
「実に気の毒な事をしたもんだ。定めし転任先をさがす間活計に困ったろうと思ってね。今度逢ったら大いに謝罪の意を表するつもりだ」
「今どこにいるんだい」
「どこにいるか知らない」
「じゃいつ逢うか知れないじゃないか」
「しかしいつ逢うかわからない。ことによると教師の口がなくって死んでしまったかも知れないね。――何でも先生辞職する前に教場へ出て来て云った事がある」
「何て」
「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊っといものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
「へえ」
「僕らは不相変教場内でワーっと笑ったあね。生意気だ、生意気だって笑ったあね。――どっちが生意気か分りゃしない」
「随分田舎の学校などにゃ妙な事があるものだね」
「なに東京だって、あるんだよ。学校ばかりじゃない。世の中はみんなこれなんだ。つまらない」


高柳君は『江湖雑誌』で中野君の恋愛観を読んだついでに、「解脱と拘泥……憂世子」に出会う。そしてついには自分で白井道也先生を訪ねるのだった。


白井道也先生が辞めた3つの学校

(1)越後(新潟県)のどこかの中学校
越後は石油の名所だった。学校のある町を4~5町隔てて大きな石油会社があり、学校のある町の繁栄は大方その会社の御蔭で維持されていた。

会社の役員は金のある点において紳士である。中学の教師は貧乏なところが下等に見える。この下等な教師と金のある紳士が衝突すれば勝敗は誰が眼にも明らかである。
道也はある時の演説会で、金力と品性と云いう題目のもとに、両者の必ずしも一致せざる理由を説明して、暗に会社の役員らの暴慢と、青年子弟の何らの定見もなくしていたずらに黄白万能主義を信奉するの弊とを戒めた。
 役員らは生意気な奴だと云った。町の新聞は無能の教師が高慢な不平を吐くと評した。彼の同僚すら余計な事をして学校の位地を危うくするのは愚だと思った。校長は町と会社との関係を説いて、漫りに平地に風波を起すのは得策でないと説諭した。道也の最後に望を属していた生徒すらも、父兄の意見を聞いて、身のほどを知らぬ馬鹿教師と云い出した。道也は飄然として越後を去った。
※黄白万能主義=拝金主義

(2)九州北部の工業地帯の中学校

炭礦の煙りを浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格はない。垢光りのする背広の上へ蒼い顔を出して、世の中がこうの、社会がああの、未来の国民がなんのかのと白銅一個にさえ換算の出来ぬ不生産的な言説を弄ろうするものに存在の権利のあろうはずがない。権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された時、道也はまた飄然と九州を去った。


(3)中国地方の田舎の中学校

ここの気風はさほどに猛烈な現金主義ではなかった。ただ土着のものがむやみに幅を利きかして、他県のものを外国人と呼ぶ。外国人と呼ぶだけならそれまでであるが、いろいろに手を廻まわしてこの外国人を征服しようとする。宴会があれば宴会でひやかす。演説があれば演説であてこする。それから新聞で厭味を並べる。生徒にからかわせる。
そうしてそれが何のためでもない。ただ他県のものが自分と同化せぬのが気に懸かかるからである。同化は社会の要素に違ない。フランスのタルドと云う学者は社会は模倣なりとさえ云うたくらいだ。同化は大切かも知れぬ。その大切さ加減は道也といえども心得ている。心得ているどころではない、高等な教育を受けて、広義な社会観を有している彼は、凡俗以上に同化の功徳を認めている。ただ高いものに同化するか低いものに同化するかが問題である。この問題を解釈しないでいたずらに同化するのは世のためにならぬ。自分から云えば一分が立たぬ。
 ある時旧藩主が学校を参観に来た。旧藩主は殿様で華族様である。所のものから云えば神様である。この神様が道也の教室へ這入って来た時、道也は別に意にも留めず授業を継続していた。神様の方では無論挨拶もしなかった。これから事がむずかしくなった。教場は神聖である。教師が教壇に立って業を授けるのは侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである。いくら華族でも旧藩主でも、授業を中絶させる権利はないとは道也の主張であった。この主張のために道也はまた飄然として任地を去った。
去る時に土地のものは彼を目して頑愚だと評し合うたそうである。頑愚と云われたる道也はこの嘲罵を背に受けながら飄然として去った。


では東京はどうか?

 三たび飄然と中学を去った道也は飄然と東京へ戻ったなり再び動く景色がない。東京は日本で一番世地辛い所である。田舎にいるほどの俸給を受けてさえ楽には暮せない。まして教職を抛って両手を袂へ入れたままで遣り切きるのは、立ちながらみいらとなる工夫と評するよりほかに賞めようのない方法である。


100円の行方と告白

・高柳君の体調は思わしくなく、喀血までするようになり、中野君から自分が費用負担するからと転地療養を勧められる。
お金を出してもらうのは心苦しいと感じている高柳君に、思案中の小説を転地先で養生しながら執筆し、完成したら一大傑作として世に送り出す、その対価として費用(100円)(もちろん今の100円とは価値が違う)を出すと提案し、それを高柳君も受け入れて、100円を受け取る。

・高柳君は転居前日に転地療養の報告と挨拶のため白井道也先生を訪ねる。
そこで借金取りに出くわす。
白井道也先生は100円の借金をしており、先生の兄が立て替えていた。
先生の兄は会社の役員で、その会社の社長は中野君の父親である。
教職を離れてお金にも名誉にもならない物書きなんかしていることに不満を抱いている先生の妻と、借金を立て替えている先生の兄が結託して、借金返済を厳しく催促することによってお金になる仕事をするように仕向けたのだった。

・白井道也先生は借金取りに「著作が売れるまで100円の返済は待ってほしい」と頼むが、 兄の意向を受けた借金取りは頑として応じない。

・白井道也先生と借金取りの話を聞いていた高柳君は口を挟み、先生の著作とやらを見せてもらう。それは「人格論」というタイトルの原稿であり、先生は待っている間に高柳君が読んでいるのだと思って渡すと、高柳君はタイトルだけを見て「これを100円で譲ってほしい」と先生にお願いする。


「この原稿を百円で私に譲って下さい」
「その原稿?……」
「安過ぎるでしょう。何万円だって安過ぎるのは知っています。しかし私は先生の弟子だから百円に負けて譲って下さい」
 道也先生は茫然として青年の顔を見守っている。
「是非譲って下さい。――金はあるんです。――ちゃんとここに持っています。――百円ちゃんとあります」
 高柳君は懐から受取ったままの金包を取り出して、二人の間に置いた。
「君、そんな金を僕が君から……」と道也先生は押し返そうとする。
「いいえ、いいんです。好いから取って下さい。――いや間違ったんです。是非この原稿を譲って下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいじめて追い出した弟子の一人です。――だから譲って下さい」
 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去った。彼は自己を代表すべき作物を転地先よりもたらし帰る代りに、より偉大なる人格論を懐にして、これをわが友中野君に致いたし、中野君とその細君の好意に酬いんとするのである。


転移

ここで九州の中学校を追い出されたところの文章をもう一度。

権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲である。無駄口を叩たたく学者や、蓄音機の代理をする教師が露命をつなぐ月々幾片の紙幣は、どこから湧わいてくる。手の掌をぽんと叩けば、自ずから降る幾億の富の、塵の塵の末を舐めさして、生かして置くのが学者である、文士である、さては教師である。
 金の力で活きておりながら、金を誹しるのは、生んで貰った親に悪体をつくと同じ事である。その金を作ってくれる実業家を軽んずるなら食わずに死んで見るがいい。死ねるか、死に切れずに降参をするか、試して見ようと云って抛うり出された・・・


高柳君は自分が中野君からお金を得る権利などないことを分かっていた。
だけど療養先で一大傑作を書くという名目でお金を受け取った。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるというから、この場合、中野君が実業家ということになる。
そのお金を今度は高柳君が白井道也先生に渡すわけである。
原稿を買い取るという名目で。
権利のないものに存在を許すのは実業家の御慈悲であるから、白井先生に100円を受け取る権利がなければ、今度は高柳君が実業家ということになってしまう。
白井道也先生にその権利はあるだろうか?高柳君は原稿のタイトルだけを見て、中味を読んでいないのである。
そして彼はここでかつて自分が先生を追い出した1人であることを告白する。
つまり原稿の対価ではないことが滲み出ている。
そのことに高柳君は気付いていないのかもしれないが、引き上げたいのは先生ではなく自分である。心のどこかで悪行をチャラにしたかった、人格者になるために。
高柳君の100円を出すとういう行為は白井先生を「権利のないもの」にしてしまうことになる。
中野君や中野君の奥さんが高柳君に同情したように、高柳君も白井先生に同情の念を抱いた。
金の力で活きようとした高柳君はその金に誹ることなく、今度は自分がその金で白井道也先生を活かそうとした。
同情とは強きもの、富めるものにのみ随う影にほかならぬ。ーまさしくといった感じである。


『野分』の主題は恋愛論

本文に一箇所だけ「野分」が出てくる。
中野君の婚約者(のち妻)が歌った歌詞の中に。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ



「我々が生涯を通じて受ける煩悶のうちで、もっとも痛切なもっとも深刻な、またもっとも劇烈な煩悶は恋よりほかにないだろうと思うのです。それでですね、こう云う強大な威力のあるものだから、我々が一度この煩悶の炎火のうちに入ると非常な変形をうけるのです」
「変形? ですか」
「ええ形を変ずるのです。今まではただふわふわ浮いていた。世の中と自分の関係がよくわからないで、のんべんぐらりんに暮らしていたのが、急に自分が明瞭になるんです」
「自分が明瞭とは?」
「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦しみを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」


白井道也先生は「解脱と拘泥……憂世子」の中にこう記していた。
物質界に重きを置かぬものは物質界に拘泥する必要がないからである。

中野輝一は恋なんて形ないものに重きを置いている。
中野の恋愛論に賛辞も批評も与えなかった白井道也にも実は心当たりがあるのだろうと思う。
春から夏へと向かう恋の中にいる中野と、秋から冬へと向かう恋の中にいる白井。
白井道也という存在を変形させ明瞭にさせたのは、奥さんだったのかもしれないなぁと思った次第です。






# by yumimi61 | 2019-04-29 21:49

GW

・昨日私はピンクのパーカーにピンクのマスクをしていたが、ピンクはピンクでも薄い色のピンクです。

・国立なのに10連休していないなんて・・!?

・ニュースでもやっていたけれど、金曜日に銀行のATMに行ったら長蛇の列だった。
まず駐車場に整理係が立っていて「満車」の看板があって驚いた。
この辺りは車社会なので店内に辿り着くまでにハードルが立ちはだかる。
実は私、25日にもショッピングセンターのATMに立ち寄ったのだが、うっかり次男に仕送りし忘れてしまったのだ。
25日とか26日は給料日の会社が多いし、月末だから仕送りとか振込とか多い時期である。それに加えて連休が控えている。
だけどATMの貼り紙を見たら連休中もATMは毎日稼働している。
ということはあの行列は休日手数料節約のため?それともお出かけのための軍資金引き出し?

・長男が大学に進学した後に仕送りしていた時、いつもコンビニで引き出すので、引き出すたびに手数料が取られていた。
それも1回で全部引き出すのではなくて、ちょこちょこ出金するので余計に手数料が割高な計算になる。こんな低金利時代にこんな割高の手数料・・
それを長男に言ったら、「手数料の分だけコンビニで買う物を減らしているから同じ」という返事が返ってきた。そんなの絶対うそだー
ということで、次男が大学に進学する前にはしっかり説明をし、さらにいつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないというサービスがある銀行に口座を開いた。次男も「うん分かった」と手数料の割高さを理解してくれたようだった。
ところが彼もまたほとんどをコンビニで出金するようで手数料を取られている・・・。

・いつどこで出金しても学生ならば手数料がかからないからよいのではと思った方もいるでしょうが、そのサービスがある銀行は都市銀行です。
地方には地方銀行はあちこちにあるのですが、都市銀行は店舗もATMもそうそうない。
つまり入金する私が入金しづらい銀行ということになります。
だから入金は郵便局の口座にしている。(次男の通帳を私が持っていて、その通帳で入金し、カードを次男が持っており、そのカードで出金する)
次男には、全部一気に下ろして使い込んじゃうのとか紛失とか盗難とかが不安ならば自分で都市銀行の方に移しなさいと言ったのだが、それをしていないのだった・・・。

・それならばネット銀行では?とお思いですか?
でも結局他行宛に振込するとなると手数料は500円くらいかかりますよね?
自分もネット銀行に口座開設すれば無料かな?

・私はかつてネットショップを開いていたりしたことがあったので、実はイーバンクに口座開設したことがある。ただその当時はまだカードもない時代で、そこまで便利なものでもお得なものでもなく、それほど使われなかったから、私もほとんど利用しなかったと思う。
その口座を閉鎖した覚えもないけれど、口座番号とかも全然残っていない。

・群馬県の北部の国道17号線沿いに永井食堂という「もつ煮定食」で有名なお店があり、お昼前後ならばいつ通っても行列が出来ている。
昔からある食堂でかつてはトラックの運転手さんとか地元の人がたまに立ち寄るくらいな普通の食堂だったけれど、ある頃から頻繁にテレビで紹介されるようになったみたいで、それからは平日でも行列の出来るお店になった。(私は一度もテレビで放送されたのは見たことはないが)
いつから紹介され出したのかはよく分からないが、数年前はそんなに混んでいたことはなかったと思う。
今では混んでいる日は駐車場に誘導員が2~3人出ている時もある。
片側1車線の国道沿いにあり、駐車場に入れない車があると、国道が渋滞になってしまったり(一頃はあの辺が混んでいるとまた永井食堂渋滞かと思った時もあるくらい)、事故を誘発してしまいなかなか危険。現に出入り口で事故っていた車があって警察が来ている時もあった。
あと、駐車場に入りたいけれど入れなかった車がすぐ前を走ってたことがあって、その車、お店を通り過ぎしばらく走ったところで急ブレーキをかけて急に右折した。右側にUターンできそうなスペースを見つけたからだと思うけど、後ろを普通に走っていた私はひとつ間違えば衝突してもおかしくないような急激さで怖い思いをした。
その永井食堂、飲食店というお客様相手のサービス業で、ビジネス街にあるわけではなく、しかも今では昼時にはトラックは止まれないような状態でほぼ観光客相手の商売となっているが、日曜日と祝日は休業日という強気な営業方針である。GWも休業らしいのだけれど今年は10連休なのかな。






# by yumimi61 | 2019-04-28 11:10

桜花

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若者は春を謳歌し、青春を謳歌する。

少年少女は学生生活を謳歌し、惰眠を謳歌する。

青年は休日を謳歌し、独身を謳歌する。

ロートルは第二の人生を謳歌し、余生を謳歌する。

公衆は国歌を謳歌し、勝利を謳歌する。

番人は軍歌を謳歌し、一寸の宴を謳歌する。

万人は生命を謳歌し、人生を謳歌する。

建前は自由を謳歌し、平和を謳歌する。

そして

世は名門を謳歌し、世は富豪を謳歌する。 



色を付けた最後の一文は、夏目漱石『野分』より。


写真は2017年4月20日に撮ったものをレタッチしました。
山は武尊山です。






# by yumimi61 | 2019-04-26 23:29

真実

先日載せた写真をレタッチしてみた。

■スマホカメラで撮影した写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違いで、下段の写真がレタッチしたもの。
レタッチと言っても、 iPhoneに標準搭載されている画像管理アプリ「写真」の編集でライトを調整しただけの簡単レタッチ。
山肌の陰影がはっきりとしたが、少し空が青すぎる。
空の写真でも山の写真でも風景の写真でも「青い空」をよく見かけると思う。
もっと青かったり、もっとクリアだったりする写真も少なくないが、みなレタッチして作り出した写真だろう。自然の空はそんなに青くはない。

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■一番レフカメラで撮った写真
上段の写真が先日のレタッチなし写真のサイズ違い。
下段の写真はアート風にレタッチしたもの。
風景でも肖像でも実物そっくりに、あるいはまるで写真かのように精巧に描ける人もいるが、レタッチで簡単にそうした作品を作り出すことも可能である。
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随分奇妙なものを信じてません?僕たち。お金ってなんなんだろう。
というCMがあるが、真実ってなんなんだろう。
真実を写すと書く「写真」だけれども、随分奇妙なものを私達は信じていませんか? 写真って、真実って、人間って、なんなのだろう。
そもそも真実を必要としているんだろうか。
していないからこそ、修正したり合成したりしまくるのではないのか。
それを考えれば、お金が誰のものかなんて証明する必要もない。真実など必要ないのだから誰のものでも良いということになる。
ゴールドが紙幣になって信用取引に変わった時、お金はすでにその「存在」を失っている。
この世に存在せず、マイナスから生まれてくる価値がお金(紙幣)である。
マイナスして発行したのは中央銀行。
紙幣には名前が書いていないと言うけれど、ちゃんと「日本銀行券」と記名してある。紙幣は日本銀行の所有物である。
レンタルしているものに自分の名前書きませんよね?記名しないのは当たり前な話。
紙幣のマイナスは帳簿上埋めていく必要がある。
マイナスをプラスで埋めたら、プラスマイナスゼロである。結局紙幣はマイナスに吸収されてしまうことになるので、紙幣による人々の豊かな生活というのは見かけ倒しに過ぎない。
では何が人々を豊かにしてきたのかと言うと、最初からプラスな存在である資源や人間の英知。
つまりそれらを現物として持ち利用すれば、紙幣など持たずとも豊かな生活を送れるはず。但し便利を覚えた人間は、豊かさの定義がそもそも変わってしまっていて、不便が即不幸に繋がっていて豊かさは感じにくいのかもしれない。
以前帳簿上プラスマイナスゼロになっても、管理如何によっては現物は消えないという話を書いたことがあった。
完全キャッシュレスにすれば、帳簿上プラスマイナスゼロになったのに現物が活きているという状態は不可能となるかもしれない。






# by yumimi61 | 2019-04-25 18:22

老幼

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# by yumimi61 | 2019-04-23 19:23

耕起と不耕起

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↑の写真:2017年4月17日に一眼レフカメラで撮影(レタッチなし)
↓の写真:2019年4月19日にスマホカメラで撮影(レタッチなし)

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白い山は谷川岳。雪の感じはほぼ同じ。
手前の木の花はコブシ。2年前のほうが若干開花が遅かったか。



忽然と消えた野菜苗

家庭菜園をやっているガーデナーはGWを利用して夏野菜の植え付けを行うことが多い。従って園芸店もGWは大繁盛期。

私の実家にも家庭菜園を行う畑がある。
家庭菜園としては結構な広さがあるので、全面を鍬で耕すのは大変なため、手押し耕耘機がある。
父が管理していた時、秋の収穫が終わって本格的な冬が来る前と、じゃがいもの植え付け前の3月頃に手押し耕耘機を掛けていた。
息子達が使えた時は彼らにやらせていたし、体調がしんどくなった晩年には私が呼びつけられ私が代行していた。

2017年1月末に父が亡くなり、その後は私が管理しているが、2017年の春先に耕耘機をかけて(姪っ子にかけさせて)野菜を作った。
しかしその年の晩秋に私が耕耘機をかけようと思ったら、うんともすんともエンジンがかからかった。手入れもしていないし春もやっとかかったくらいな感じだったので限界なんだろうなあと思って諦め、そのまま冬を越した。(ガソリンはちゃんと入れました!)

2018年春、再び耕耘機のエンジンかけにチャレンジしてみたがやっぱり駄目だったので、作付をする所だけ鍬で耕して畝にした。
しかしこの春に植えた苗の幾つかに異変が・・・・
植えて数日後に見ると、なんと忽然と苗が跡形もなく消えてしまっているのである。

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↑昨年のGWに撮った写真



最初に見つけた時は呆然と立ち尽くして、何が起こったのか考えられなかった。

風や虫の食害で根元付近で折れたということならば、枯れたとしても植物が残っているはずである。でも何もない。
GWに植えた夏野菜の苗には寒さや乾燥や風よけなどのために囲いをしているので、外からの被害というのは考えにくい。
人間が上から引っこ抜いたか、土の中から、ということになる。
開いていた穴を見る限り、人間が引っこ抜いたようには見えない。
となれば、犯人は土の中からやってきた。

小さな盛土があったのでまずモグラがいるのかもしれないと思った。
しかしモグラはミミズや虫の幼虫を食べる肉食動物で植物は好き好んで食べない。
モグラが植物の根の近くにトンネルを掘って、結果植物が浮き上がってしまい元気がなくなったり枯れてしまうことはあるが、植物自体を狙っているわけではない。

だとするとハタネズミなどのネズミである。
ネズミはモグラの掘った穴とトンネルを利用して移動することがあるという。
また自分で穴を掘るネズミもいるとのこと。
ネズミは植物を食べる。根菜が好きだが、苗もネズミの仕業だったんだろう。
つまり植えた苗はネズミに下からトンネル内に引きずり込まれたということになる。

モグラ被害もネズミ被害も父から聞いたことはなかったし、私も経験がなかった。
そこではっとした。そうか、耕起しなかったからだ。

植えて間もない苗の段階で消えたのが幾つかあったり、植物が浮いてダメになったり、ジャガイモやサツマイモはガリガリと食べられていたのが結構あった。


有機栽培

<有機栽培(有機農業)の定義>
「有機農業の推進に関する法律」(平成 18 年法律第 112 号)の第二条において、有機農業は次のように定義される;「化学的に合成された肥料及び農薬を使用しないこと並びに遺伝子組換え技術を利用しないことを基本として、農業生産に由来する環境への負荷をできる限り低減した農業生産の方法を用いて行われる農業」。

農林水産省の「有機農産物の日本農林規格」では、有機農業で生産された農産物(有機農産物)は次のように定義されている。

有機農産物
1.有機農産物:農薬と化学肥料を3年以上使用しない田畑で、栽培したもの。
2.転換期中有機農産物:同6ヶ月以上、栽培したもの

特別栽培農産物
農産物が生産された地域の慣行レベルに比べて、節減対象農薬の使用回数が50%以下、化学肥料の窒素成分量が50%以下

有機JAS規格では有機農産物を「生産から消費までの過程を通じて化学肥料・農薬等の合成化学物質や生物薬剤、放射性物質、遺伝子組換え種子及び生産物等をまったく使用せず、その地域の資源をできるだけ活用し、自然が本来有する生産力を尊重した方法で生産されたもの」と定めている。


注意1)農薬を使わないことになっているが、この農薬とは「化学的に合成された農薬」であり、天然原料による農薬は使用可能である。

注意2)有機JAS制度での表示規制(認可)は商品に対するもので、広告などに「有機栽培を行っています」と記すことに対しては特別な許可は必要ない。但し虚偽の広告というのは虚偽が発覚すれば当然問題になる。(それでも虚偽がないというわけでもないらしいけれど)


農作物栽培における有機とは何かということを簡単に言えば堆肥である。
「堆肥」は微生物の力で有機物を完全に分解した物で原料は様々。
家畜の糞、生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草など。
これら有機物をよく分解・発酵させたものを完熟堆肥という。
有用菌の多い堆肥には土壌病害虫抑止力があると言われ、有用菌重視で言えば完熟堆肥の一歩手前くらいが良いらしい。
但しあまり未熟な堆肥(分解しきれていない有機物)を入れ込んだ畑で栽培すると窒素が不足したり、植物の根を傷めたり、雑草の種などを広げてしまう結果になる。
園芸店などに販売されている堆肥は完熟堆肥と書かれている。

ミミズは有機物の分解に一役買う。
よく「ミミズがいる土は良い土」などと言うことがあるが、ミミズがいる土はまだ完熟化していない未熟な有機物が沢山存在しているということになり、それを良い土と言うかどうかは微妙なところである。

実家の家庭菜園の一角には堆肥を作る場所があり、そこに生ゴミ、収穫後の茎葉、落ち葉、雑草などを入れる。
そこにはおそらくミミズも住みついているはずだ。
本格的な堆肥づくりはしていないが、それでもまあ一定期間経てば自然に再び土になる。
その土(堆肥)を早春に畑に入れ込む。
父はその場所以外は耕耘機を晩秋と春先に掛けており、且つ通路などは定期的に除草剤を使って綺麗にしており、茎葉などは燃やしたりもしていたので、堆肥づくりコーナーに入れる有機物もそこそこの量だった。
且つ化学肥料も使っていたし、農薬も必要な時は使っていた。
周囲の家庭菜園でも完全無農薬や無化学肥料でやるということはあまりない。
それくらい無農薬や無化学肥料というのは場所あるいはお金、手間暇がかかり難しいことである。


(私はほぼ無農薬。化学肥料は最小限使った。除草剤は定期的に使わざるを得ない、でも雑草除けシートなども利用した)
私が管理するようになってから、雑草とか茎葉の処理とかいろいろと追いつかずに、あっちにもこっちにも有機物の山を作った。いずれ堆肥にする予定で。
つまりあっちにもこっちにもミミズが集まることになる。
そうするとそのミミズを目当てにモグラもやってくる。
その挙句、耕耘機をかけないのだから、巣が破壊されることもない。
このようにして昨年の夏~秋の野菜はモグラネズミ被害にあった。


不耕起栽培

1943年、アメリカ人のエドワード・フォークナーは『農夫の愚行』(Plowman's Folly)を著した。その中で、慣例的に農業において基本的な行為と長く考えられてきた耕起は土壌を破壊するだけで何の益もない行為であり、有機物を表土に混ぜ込むだけで肥沃な土壌は維持できると主張した。
また、ランド研究所のウェス・ジャクソンは、土を耕すことは生態学的な災厄であると主張し、耕起を基礎とした農業は持続可能性が証明されていないことを指摘した。

こうした研究や除草剤耐性遺伝子組み換え作物の開発や有機農法の手法の確立とともに、完全な不耕起栽培や、保全耕転と呼ばれる土壌の表面のうち少なくとも30パーセントを作物の残渣で覆っておく緩やかな手法が北米の農家の間で急速に広まっている。1960年代には北米の耕地のほとんどは耕起されていたがカナダでは1991年には33パーセント、2001年には60パーセントの農場が不耕起栽培もしくは保全耕転を採用している。アメリカでは2004年に保全耕転が全農地の41パーセント、不耕起栽培が23パーセントで実施されている。しかし、地球全体の農地のうち不耕起栽培が行われているのは5パーセントほどに過ぎない。

<メリット>
・耕さないことによる省力化が可能である。
・土中に根穴構造が残り、根圏が酸化的に残る。畑では排水性も保水性もよくなり、干ばつにも長雨にも強くなる[要出典]。
・未耕起の土を根が突破り、稲に生じる植物ホルモン的な作用が活力高い太い根を作り、茎を太くする[要出典]。
・前作の作物残渣を地表に放置できることになり、その結果、それらが土壌のマルチとなって風雨による土壌流出を緩和できる。

米国でより広く使われるようになってきており、2010年には米国の60パーセントの農地が不耕起栽培になると予想されている。 海外の畑作での不耕起栽培と日本の無農薬稲作・畑作における不耕起栽培を混同されやすいが、仕組みは全く異なる。


近年は日本でも不耕起栽培のメリットが語られることがある。
私も10年以上前に小さな貸農園で不耕起栽培(雑草すら抜かずに根元で刈りとる)を行ってみたことがあるが、耕さないからといって育たないわけではなかった。だけどなにぜ小さな貸農園では耕さず雑草を抜かないことに対して肩身が狭かった。
では自分ちの大き目な家庭菜園ならば良いのかと言えばそうでもない。周囲がある限り雑草などはやっぱり気にかかる。
そもそも広ければ広いほど夏の雑草の勢いには手が付けられなくなること必至。

作物の栽培自体には問題なく、土壌生物は豊かになり、しかも省エネルギー。
裏山とか林の中の土などは耕起なんかしなくても土はフカフカである。
地に落ちた有機物が地表で自然と堆肥になり土に混じりこんでいくからである。

不耕起で一番の問題となるのは雑草である。
農家の人が大型トラクターで行う定期的な耕起は雑草が生えるのを防止する役割も果たしているのだ。
アメリカの不耕起栽培は除草剤と除草剤耐性作物によって可能となっている。つまり無農薬(無除草剤)での不耕起栽培ではないということ。

災害予防の面からみても、不耕起が悪いという話はあまり聞かない。
落葉樹が沢山生えている山ほど保水力があって、水や土がだだ流れするのを防いでいる。
有機物の少ない針葉樹の森林や人が下手に開発した場合などには水や土がそのまま流れ落ちてしまいやすく、災害に繋がりやすい。
河川敷の土手を踏み固めると水害が予防できるというようなことが言われているが、同じ不耕起でも踏み固めるということは透水性や通気性などが悪くなってしまうので、むしろ害になりやすい。






# by yumimi61 | 2019-04-22 17:06

R17&L15

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さっきお散歩に行った時に撮った写真。
4月15日に17歳になりました。
前足の付け根に脂肪の塊があるので、それを撮ったつもりで、写真見てもちょっとそれっぽく写っているけれど、脂肪があるのは右側なので反対でした。

↓の写真が右足のほうだけれど、今度はリードで隠れていますね。

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17歳と15歳


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↓の写真は昨年の12月30日の夜に撮った写真。

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# by yumimi61 | 2019-04-21 16:03

限界暗期

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陽光は軽やかに煌めき

風はゆるんだ春の匂いを纏う

失意のどん底にいたとしても眩しく

浮かれていても燦然と輝く

世界の始まりにはきっと春があった

花にも葉にもほどけ披く時があり

老木にも若木にも春はやってくる

世界の始まりには衰退がある





・春分3月21日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒夜時間が少しずつ減少していき、昼>夜

・夏至6月21日頃 昼(日の出~日没)が一番長い

 ⇒昼時間が少しずつ減少していくが、まだ昼>夜
   短日植物が花成誘導を受ける(且つ適度に気温が下がり開花する)

・秋分9月23日頃 昼と夜の長さが等しくなる

 ⇒昼時間が少しずつ減少していき、昼<夜となる

・冬至12月22日頃 夜(日没~日の出)が一番長い

 ⇒夜時間が少しずつ減少していくが、まだ昼<夜
   長日植物が花成誘導を受ける(且つ一定期間低温に晒された後に開花する)



短日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より長くなると花芽が形成される植物のこと。 
言うなれば暗いのが好きな植物で、昼時間の減少(夜時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。

長日植物は、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より短くなると花芽が形成される植物のこと。
言うなれば明るいのが好きな植物で、夜時間の減少(昼時間の増加)を感じ取って花芽を形成する。


2つのものの減少と増加は背中合わせの関係にあるので、「昼時間の減少」は言い換えれば「夜時間の増加」ということになるし、「夜時間の減少」は「昼時間の増加」ということになる。
「減少」に焦点を当てるか「増加」に焦点を当てるかは人それぞれだと思うけれど、ただ花成誘導を受けるのは主に春分や秋分の前、つまり前半部分の増加、一番少ないところからの増加ということになる。減少で言うならば、前半部分の減少、一番多いところからの減少を感じ取る。
1日の時間が決まっている以上、昼と夜の一番少ない時期と一番多い時期はセットであり、昼が一番少なくて夜は中くらいの長さ、というようなことはありえない。





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# by yumimi61 | 2019-04-18 16:47

36!

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今日はディズニーランドのオープン記念日

開園は1983年4月15日
私が初めて訪れたのは家族とではなく友達とだった。

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おめでとう~


写真に写る少年は3歳8ヶ月の息子(長男)

長男の友達(男子)はディズニー好きが高じてディズニーランドでアルバイトをしていたとか。
そういう私も高校時代にはディズニーランドのパレードのお姉さん(そういう職種があるかどうか分からなかったが)になろうと思ったことがあった。
ところが当時ディズニーランドの現役ダンサーと知り合う機会があり、その人にすご~く厳しくて大変だととくと聞かされ、私には無理そうだなぁと思って諦めた。
(前にも書いたかもしれないが、その後鴨川シ―ワールドのシャチショーのお姉さんになろうと思ったこともあった。シャチショーのお姉さんというのはトレーナーのことです)
歌のお姉さん?・・・にはなろうと思ったことはありません(きっぱり)。






# by yumimi61 | 2019-04-15 17:29

🌷


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・4月も2週間が経過しましたが、新生活を始めた皆さんいかがお過ごしでしょうか。やっと土日ーみたいな感じでしょうか。

・ちなみに最近はあえて土曜日や日曜日に入学式を行う学校があるそうです。卒業式もですが。

・「五月病」(新人社員や新入生や社会人などに見られる新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の俗称。医学的には、適応障害、うつ病、パニック障害、不眠症など)というのは新生活を始めた人に多いのですが、GWの連休が1つのきっかけになります。
最近は休みをくっつけて連休にする傾向が強いですが、それでもGWに10連休というのは大企業など一部の人だけで、特に学生はカレンダーどおりということが一般的でしたが、今年は学生が10連休になるということで五月病や不登校なども例年になく心配になります。
夏休み明けに子供の自殺が多いというのは最近よく語られていますが、それも結局、長期休みが1つの引き金になっているということです。
夏休みほどの長さはないけれど、まだ新生活1ヶ月という時期にハイな感じの10連休は要注意だと思います。
また5月をなんとか乗り越えたとしても、祭日がなく、どんよりとした日が続く梅雨に突入していく6月も注意が必要です。そして学生ならば7月には夏休みを迎えるということになるので、新生活半年はリスクが高い時期になります。

・コンビニの24時間営業が問題視されている中、’急に薬が必要になった時に夜間でも開いているから安心’みたいなドラッグストア「ウェルシア」のCMがなかなか攻めていると思った。

・CMと言えば、最近見て衝撃を受けたCMがある。
「ダイナムで働く私は街で時々声を掛けられることがある」とナレーションとともに可愛らしい若い女性がスーパーでお買い物をしている。
するとスーパーで働くおばさんがその女性に「今日は私はいらっしゃいませね」と笑顔で話しかける。
いつも’いらっしゃいませ’と言っていて、街で時々声を掛けられる仕事ってなんだろうと思って見ていたら、なんと!ダイナムというのはパチンコ店でした。
パチンコ店ってこんな和やかな感じの人間関係を築ける職場なのか・・・。
今のパチンコ店は私の持つイメージとは違うのかもしれないなあ。

・そろそろ冬タイヤを履き替えようと思い、4月8日にタイヤ屋さんに電話したらその日と次の日が棚卸で休業日だったので、別のタイヤ屋さんに電話した。
すると予約ではなくて受け付け順で、今の時期は開店と同時に5人くらい待っているから、どれくらい時間がかかるとは言えないと言われ挫折し、とりあえず諦めたところ4月10日に結構な雪が降った(吹雪みたいな時間があった)。何が幸いするか分からない。

・先日いつも犬のトリミングをしているお店に予約の電話をしたら「一番早くて7月8日です」と言われた・・。
7月8日・・・今は4月・・・3ヶ月も先・・・
年末に混むのは知っていたけれど、この時期もこんなに混んでいたかしら。すでにサマーカット需要!?




# by yumimi61 | 2019-04-14 11:17

思慮

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# by yumimi61 | 2019-04-13 10:32

春雪

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あの頃の私はそんなことさえ知らなかったんだ
ごめんね、あなたをなきものにして
今はさ、存在しないものをあたかも存在していたかのように見せること
いとも簡単なことらしいんだ
境目も跡形もなく誰かを生みだし
誰かが残したささやかな足跡さえ消し去る
何事もなかったように

儚さは春のお家芸だから
別に悲しくもないし驚きもしない
むしろ、やがてくる人の夢という図太さに
目の前は真っ白になるはずだから

胸の底に静かに沈む小さな意思や趣意は総浚い
大きな船を浮かべるための深い窪みが
渡しに必要かだなんてもう分かりっこないよ
だってもうあそこにもそこにも渡しなんかないのだから




ちひさな群への挨拶  吉本隆明

あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ
冬は背中からぼくをこごえさせるから
冬の真むかうへでてゆくために
ぼくはちひさな微温をたちきる
をはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれる
ぼくががいろへほうりだされたために
地球の脳髄は弛緩してしまふ
ぼくの苦しみぬいたことを繁殖させたいために
冬は女たちをとおざける
ぼくは何処までゆかうとも
第四級の風てん病院をでられない
ちひさなやさしい群よ
昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ
冬は二つの極からぼくたちを緊めあげる
そうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにする
こわれやすい神経をもつたぼくの仲間よ
フロストの皮膜のしたで睡れ
そのあひだにぼくは立去らう
ぼくたちの味方は破れ
戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだから
ちひさなやさしい群よ
苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるとき
ぼくは何をしたらう
ぼくの脳髄はおもたく ぼくの方は疲れてゐるから
記憶といふ記憶はうつちやらなくてはいけない
みんなのやさしさといつしょに

ぼくはでてゆく
冬の圧力の真むかうへ
ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だから
ぼくはでてゆく
すべての時刻がむかうかはに加担しても
ぼくたちがしはらつたものを
ずつと以前のぶんまでとりかへすために
すでにいらんくなつたものはそれを思ひしらせるために
ちひさなやさしい群よ
みんなは思ひ出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出遇ふために
ぼくはでてゆく
無数の敵のだまん中へ
ぼくはつかれてゐる
がぼくの瞋りは無尽蔵だ

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる
ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる
ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる
もたれあふことをきらつた反抗がたふれる
ぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を
湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐる
ぼくがたふれたら収奪者は勢ひをもりかへす

だから ちひさなやさしい群よ
みんなのひとつひとつの貌よ
さやうなら


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ハナモモが鮮やかに咲いていた




一九五二年五月の悲歌  吉本隆明
 
崩れかかつたあつちこちの窓わくから
薄あをい空を視ている
円けいの荷重をかんじてゐる むすうの
にんげんの眼
信ずることにおいて過剰でありすぎたのか
ぼくの眼に訣別がくる
にんげんの秩序と愛への むすうの
訣別がくる

銃口は発しやするな
壁や踏みあらされた稗畑を破かいするな
その引金に手をかけるものが秩序であるとき
ぼくはなほちひさな歌をうたへる
ぼくはなほ悲歌をささげることができる

ぼくのゆいつであつた愛や
ぼくをそだててくれた秩序と狡智にむかつて
そうして太陽は五月のあひだを
火焔をつれてめぐり
そのしたで無数の窓のなかのぼくの窓が
黒布をたれてぼくの悲しみを証してゐる

訣別はどこにはじまつたのか
どこにかたちをあらはしたのか
そのとき五月の空は鮮やかに ビルデイングのうへで
血と蒙塵と湿つた風とを噴きあげ ぼくは
みづからに赦さうとした愛の惰性を憎んだ

萠えでる五月の街路樹よ
陰えいを匂ひでわける微かな風よ
屈折したペイヴメントのうへでぼくの予感が視る
箱詰めにあつたぼくの死とぼくの生とを
埋もれてゆくにんげんとにんげんの苦悩とを
生きのこるもおのとその寂しげな象徴とを
もしぼくたちが機械のひとつであると自分を考へうれば
ぼくたちの文明はしごく平安なのだ
銀行の扉がひらき 有価証券の額面が四散する
フィナンツカピタリズムの再生と膨脹
ぼくにあたえられたふたつの眼
たしかに視るべきものを視てゐる

重荷がぼくたちの肩から 未来の肩にうつされる
そのときのぼくたちの安堵を憎む
鉄鎖のなかにきた五月よ
ちがつた方向から志津かな風をよこしてゐる五月よ
ぼくは強ひられた路上に ぼくの影があゆむのを知つてゐる

星のうた 落下のうた 夕べの風のうた
ぼくはぼくの仲間たちに何を告げよう
かれらのゆく路にかれらの草が騒いでゐる
希望をとりかへにぼくをおとづれようとするな
いつもある者は死にあるものは生きてゐる
つまりいつさいの狡智の繁栄するところで
さびしげなことをしようとするな

鉄鎖につながれた五月よ
おもたい積載量をのせてめぐつてきた地球のうへの季節よ
草と蟲と花々のうへに
陽が照り 影が転移する
ぼくはむすうの訣別をそのうへに流す


※枠内の詩は『転位のための十篇』 吉本隆明 1953年(戦後8年目の昭和28年)より




# by yumimi61 | 2019-04-11 23:11

渡し

佃渡しで 吉本隆明

佃渡しで娘がいった
〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった
〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉
水は𪐷*くてあまり流れない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ堀割のあいだに
ひとつの街がありそこで住んでいた
蟹はまだ生きていてとりに行った
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃渡しで娘がいった
〈あの鳥はなに?〉
〈かもめだよ〉
〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた
〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで堀割はいつもあらわれる
橋という橋は何のためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった

〈あれが住吉神社だ
佃祭りをやるところだ
あれが小学校 ちいさいだろう〉
これからさきは娘には云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる



𪐷* ’くろ’と読む。黒味を帯びた黒、真っ黒という意味らしい。吉本の作った個人文字らしいが、詩が教科書に掲載されたことでJISコードなどに採用された。黝’くろ’(青みを帯びた黒)を意識した字ではないかと思われる。


佃渡しとは

佃渡しとは隅田川に存在した渡し(場・船)のこと。

徳川家康が江戸へと移封されると江戸の町は大きく発展を見せたが、防備上の関係で橋の架橋が制限されたこともあり、市街地を南北に分断する隅田川を渡河するために多くの渡しが誕生した。
関東大震災以後、震災復興事業に伴う新規の架橋も自動車や市電の通行も可能な橋も増え、1966年(昭和41年)に廃止された「汐入の渡し」を最後に、公道の一部としての隅田川の渡しは姿を消した。
現在では東京都北区志茂にある日本化薬東京工場と、対岸の足立区新田にある日本化薬東京を結ぶ従業員専用の渡船のみが存在する。


佃の渡しは隅田川でも海に近い下流(河口)にあった。

現在の佃大橋付近にあった渡し。はじめは佃島の漁民たちと湊町(湊)とを結ぶ私的な渡しであった。佃島は漁村のほか、藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかった。
明治期に入り、佃島や石川島、月島に造船所などが生まれると従業員のための重要な交通機関として発展し、明治9年の運賃記録によると1人5厘の料金だったようである。1883年(明治16年)には定期船の運行が開始、1926年(大正15年)に運営が東京市に移管された。翌昭和2年3月には無料の曳船渡船となった。一日に70往復という賑わった渡しであったが、1964年(昭和39年)8月27日、佃大橋(約800メートル)架橋に伴い廃された。
架橋後は造船所を中心に更に大きく賑わい、混雑した。



隅田川の河口部にはもともと島が存在していた。その島は江戸時代に石川島と呼ばれるようになる。
徳川家康と同時期に江戸に移住した摂津国の漁夫たちが、1645年、石川島近くの砂州に築島して定住することとなり、この島を故郷である佃村にちなんで「佃島」と命名した。
江戸(現在の東京)の佃島の漁民の故郷は大阪の佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)である。徳川家康が命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せ、特別の漁業権を与えたのである。


佃は佃煮の発祥の地である。
佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていた。雑魚がたくさん獲れると、佃煮を大量に作り多く売り出すようになったといわれる。 

明治時代に佃島の南を拡張し、造船所が作られた。
現在の佃大橋の東側の部分である。
そんな佃だが1980年代後半からは「大川端リバーシティ21」が整備され、東京都心に至近の高級タワーマンション街の先駆けとなった。
佃大橋の西側部分も明治時代に埋め立てられ、富国強兵の国策に伴い重工業地帯とされ、造船所に関連する鉄工所や機械工場が多数造られた。これが月島である。
吉本隆明は月島の出身であるが、実家は熊本県から転居してきた船大工だったという。
月島の反対岸は聖路加国際病院などがある所。

東京の中心部にあり、造船所や鉄工所など軍事産業を抱え、さらに家屋も密集していながら、佃と月島一帯は戦時中の東京大空襲の被害を受けなかった。
運河が延焼を食い止めたと言われることもあるが、延焼被害でなくとも狙われたら被害がでるだろう。要するにその地はターゲットにならなかった。それはアメリカ公使館や居住地が聖路加国際病院近くにあったからだとも言われる。


作者の娘

上に載せた詩はまだ佃渡しが存在していた時代ということになる。
詩は橋が出来る直前頃に書かれた(あるいはその頃の出来事)のようだ。
作者の吉本隆明は1924年生まれなので、子供時代は戦前であり、思春期~青年期が戦争真っ只中にあったという世代で、佃大橋が架かった1964年には40歳だった。
2人の娘がいて、1957年と1964年生まれらしいので、詩の中の娘は長女ということになりそうだ。

佃大橋が架かった1964年に生まれた次女は、1987年に『キッチン』で鮮烈デビューして「ばなな現象」と呼ばれるブームまで起こした作家のよしもとばななさんである。『キッチン』の他、『TUGUMI』『アムリタ』などの代表作がある。


解説求む

作者が思想家であったという先入観が邪魔するのか、思想家ゆえの難解さや拘りなのか、分かりそうで分からないなかなかに難しい詩であると思う。

まず〈 〉の使い方に躓く。
娘がいった、という後に続く〈水がきれいね 夏に行った海岸のように〉は話し言葉(会話文)のように思う。
しかしその直後の会話文ともとれる部分に〈 〉は付いていない。
さらに〈これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう〉が会話文だとも思えない。
そもそも詩であるならば会話文にカッコを付けなくても成立させることは出来る。
意味なく〈 〉を付けたとも思えないが、そこにどんな意味を持たせているのだろう。
誰か分かる方いらっしゃいますか?


紡ぐと噤む

私は、’娘に聴こえぬ’の前の部分を娘との会話だったと考えている。
娘と会話したけれど幼い娘には届かなかった言葉があった。
「そんなことはない、みてみな。繋がれた河蒸気のとものところに芥がたまって揺れてるのがみえるだろう。 ずっと昔からそうだった」
「あれは鳶だろう。むかしもそれはいた。流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)をついばむためにかもめの仲間で舞っていた」
届かないというのは分かりようもないことであったり、理解を得たり共通認識を持つことが不可能であること。

娘は風景を見て感じたことや興味を持ったことがあった。
作者は娘の興味や関心に応えてあげたかったが、残念ながら娘と意思疎通することはできなかった。
だから言葉に出すことを諦めて自分の胸の中で言うことにした。

3連目は、作者の方から娘に話しかけたこと。
「あれが住吉神社だ。佃祭りをやるところだ。あれが小学校、ちいさいだろう」
しかし娘からはこれといった返答がなかったのではないだろうか。
だからそれ以上は口を噤んだ。⇒これからさきは娘には云えぬ

男の女の間には暗くて深い川があると言われるが、哀しいかな、父と娘、世代の違う大人と子供の間にもまた、暗い黒い川がある。

2人の間に無言の時間が流れる。
それは一方、無言が許容されるほど打ち解けた関係とも言える。
言葉にはならないありふれた愛情。

作者は、2人を分かつ川と、その川にかかる愛情に、嵌りこんでしまった。
また作者の人生を2つに分けたのが戦争だった。
消失してしまったものと、消失しなかったもの。
消失していくだろうものと、消失しないであろうもの。
その間を行き来しつつ、抜け出したいと思いながら、抜け出せないでもいる。


~掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪み~

手を繋いだ娘への愛情、拳を握り締めるほどの怒りの感情、勉学と精神活動、生きるか死ぬか、肉体的死と精神的死。

大きく見えたものが小さくなった。自分の成長であったり立身出世によって小さく見えることもあれば、認識やそれによる失望によって小さく見えることもあるだろう。

知らないで、分からないでいることの、幸福。
知ることの、分かることの、分かち合うことの、幸福。





# by yumimi61 | 2019-04-09 14:23

記念歌

新元号にちなんだ歌(選由)

新時代生きる私に痕疼き  2019年4月生まれの詠み人知らず  

出る杭は生まれた途端叩かれる  2019年4月生まれの詠み人知らず

マイノリティーいつの時代も等閑視  2019年4月生まれの詠み人知らず

赤をみりゃ召集令状思ひ出づ  詠み人知らず(昭和生まれ)

天平の継続年は知らねども  詠み人知らず(群馬県・長野県・新潟県あたりの昭和生まれ)

例の物持ってきてとはもう言えぬ  詠み人知らず(昭和前半生まれ)

十連休年間有給ほぼ消化  詠み人知らず(非正規社員)

十連休飲まず食わずのサバイバル  詠み人知らず(サービス業従事者・日雇い労働者・恐妻を持つ夫などなど)


今日は日産の臨時株主総会か。
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景気づけ土産はデイズ!!とはならん  詠み人知らず(日産の某従業員・某株主)


ゆとりより集塊世代似合わしい  詠み人知らず(昭和世代から平成世代へ)

ウチらまじ卍西暦のみで構わない  詠み人知らず(平成世代から昭和世代への返歌)

彼女らが古い世代になるなんて  詠み人知らず(昭和生まれ)

あたしらはもう歳だから気にしない  詠み人知らず(平成生まれ20歳)


深刻な社会分断無二の国  詠み人知らず(外国人記者)

111(←スロットと読みます)の依存心配避けるべし  詠み人知らず(カジノ反対一市民)

甘かった更なる脅威(11111)待ちうける  詠み人知らず(通称きょういち)

五輪年(2020)元号でも二これ如何に  詠み人知らず(JOCの某関係者)



e0126350_20500890.jpg1926年12月25日~1989年1月7日 昭和 Showa S1~S64
1989年1月8日~2019年4月30日 平成  Heisei H1~H31
2019年5月1日~        令和 Reiwa?Leiwa?(→Reiwaだそうです)





# by yumimi61 | 2019-04-08 15:34 | 新元号「令和」の典拠

蘭とはなにか

初春令月 気淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

于時初春令月 氣淑風和 梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香

時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。

時はめでたい年の初めであるからして、場の空気は優雅にて和やか。
梅は鏡の前の白粉を開き、蘭は珮(腰に付ける装飾品)の辺りから香を発している。

★さらに⇒<解説と砕いた訳>
時はお正月のおめでたい席である。
香りの良い梅の花は自らの香りを忘れて化粧に精を出し、香りなど必要としない蘭は自ら趣味の悪い香りを燻らせている。梅や蘭は比喩であり、人間、おそらく女と男の比喩ではないだろうか。
それを筆者は快く感じてはいない。しかし年初のおめでたい席の空気は優雅にて和やかであるべきで、目くじら立てるのも大人げないから我慢している。
だけどここには情緒が無さすぎるとも思っていて・・・


歌の花と野暮

「蘭」は香りを必要としないものの比喩となっている。
『万葉集』は植物図鑑ではないので、その種類(所属や種名)を同定する必要など本来はない。
ひとつ間違えば、人情の機微に通じない野暮な行為とされてしまいかねない。
大事なのは歌に詠み込まれた情であり植物の名ではないのだから。

しかしながら、詠われた植物がどんな植物か分からないと、どのような意味が込められているのか理解しがたいというのもまた事実である。
これは植物に限らない。言葉にして言うまでもなく当たりまえのことであるが、知っている人と知らない人の理解の差は大きい。
この知っている知らないという差は、一般的な知識や経験の他にも、個人的な背景や事情であることもあるし、その時代やその場所に特有な事柄であることもある。
その意味において、言葉少ない短い歌から作者の込めた意味(思い)を、間違いや漏れなく汲み取ることはなかなか難しいことだと思う。
短ければ短いほど無駄な言葉は使っていないはずであるから、とはいっても音数を合わるために意味ない語を入れることもあるが、基本的には無視してよい語はないと思って臨むべきだと思う。


そこで今日はあえて「蘭」について記す

上の文章に使われている「蘭」は一般的に2つの解釈があるようだ。

①フジバカマ(藤袴)
②シュンラン(春蘭)

①フジバカマ(藤袴)Eupatorium japonicum
キク科ヒヨドリバナ属の多年生植物。秋の七草の1つ。
本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける
また、生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。

Eupatorium fortunei

Wikiの説明には、万葉の昔から日本人に親しまれてきたと書いてあるが、『万葉集』に藤袴(フジバカマ)が出てくる歌は1つだけである。
「秋の七草」はこの歌にちなんで後世でつくられたもの。
秋の花なので通常では初春を詠った歌には使われないし、咲いた花から香りが漂ってくるということもない。

万葉集1537:秋の野に咲きたる花を指折り数ふれば七種の花(山上憶良)

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)
萩(はぎ)の花 尾花葛花(おばなくずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなへし)また 藤袴(ふじばかま) 朝貌(あさがお)の花
→秋の七草:ハギ、キキョウ、クズ、フジバカマ、オミナエシ、オバナ、ナデシコ


②シュンラン(春蘭) Cymbidium goeringii
単子葉植物ラン科シュンラン属の蘭で、土壌中に根を広げる地生蘭の代表的なものでもある。
名称の由来は「春蘭」で春に咲くことから。花は3-4月に咲く。
日本各地によく見られる野生蘭の一種である。山草や東洋ランとして観賞用に栽培されることも多い。国外では中国にも分布する。
古くから親しまれてきた植物であり、ホクロ、ジジババなどの別名がある。一説には、ジジババというのは蕊柱を男性器に、唇弁を女性器になぞらえ、一つの花に両方が備わっていることからついたものとも言われる。
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中国春蘭(別称:一茎一花)
中国のよく似たものを中国春蘭と言い、古典園芸植物としてはむしろこちらが先輩格である。
日本産のシュンランと同種とされるが、分類上はシナシュンラン (Cymbidium forrestii Rolfe)の名で別種としたこともある。地生ランであり、春に花茎を伸ばし、その先端に一輪の花を咲かせる。花の形もシュンランに共通するが、香りはより強い。葉も日本のシュンランよりやや滑らかな感じの場合が多い。
古来から中国ではランを高貴な花と見なし、これを栽培し、観賞することが行われた。



シュンラン(春蘭)ならば香りのある花である。しかし香りがあると言っても、周囲に香りを漂わせるような香り方ではない。花に鼻を近づけて分かるような香りというか。
それも林の中にひっそりと咲くような野生の蘭であり、多くの山野草がそうであるようにとても小型な花。現代の園芸品種である洋ランのイメージとは大きく異なる。
梅と春蘭が一緒に存在したとしても、春蘭が香ってくることはないだろう。
また春に咲くと言っても、「初春の正月13日」(新暦で2月4日頃)ではまだ早く、時期的には少しずれている。


日本の山野に自生する蘭

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※名称の下の月は日本の山野での開花時期

皆さんご存知ないかもしれないが、野に咲くランの種類は結構ある。決して春蘭だけではない。
上では名称にランが付くものを中心に選んだが、名称にランが入らないラン(ラン科の植物)はまだまだある。
それから同じ仲間の別種も多数ある。
例えば上にはサルメンエビネ(猿面海老根)やキエビネ(黄海老根)を載せたが、ただのエビネ(海老根)もあるし、ナツエビネ(夏海老根)もある。

ランは基本的には熱帯温帯の湿潤な気候を好み耐寒性はあまりないのが普通だが、世界各地・日本各地に運ばれ、運ばれた先で耐寒性を獲得し分布を広げた種類もある。
耐寒性はあまりないと書いたが、直射日光や乾燥に弱いこともあって、カンカン照りの真夏もあまり得意とはしない。
現代の華やかな洋ランは熱帯の大型なランに品種改良を重ねたものである。
また春蘭など東洋ランも多くの園芸品種が作出されており、春蘭という名前が付いているからと言って野生の春蘭とは限らない。

野生においてもランの種類は結構あるが、現代では山野草の生える環境が減ってしまったことや、山野草がブームになった時期もあり乱獲されて絶滅が心配される品種も少なくない。


藤袴の変遷

(1)『万葉集』 飛鳥時代後期~奈良時代(600年後半~700年後半)に編纂された。
原本は残っていない。現存している物は全て写本であり、最も古いものは平安時代中期に書写されたものだと言うが、巻4の一部しか存在していない。
20巻全てが揃っている中で最も古い写本は鎌倉時代後期の写本だという。

万葉集1538:萩の花尾花葛花瞿麦の花女郎花また藤袴朝貌の花 (山上憶良)

★解説など
秋の花を7種類紹介した歌


(2)『古今和歌集』 平安時代前期に成立(905年頃)。原本は残っていない。

巻四 秋歌上
239 なに人か来て脱ぎかけし藤袴来る秋ごとに野辺を匂はす(藤原敏行)
240 宿りせし人の形見か藤袴忘られがたき香に匂ひつつ(紀貫之)
241 主知らぬ香こそ匂へれ秋の野にたが脱ぎかけし
藤袴ぞも(素性法師)

=訳=
239 どなたが来て脱ぎ掛けた藤袴だろうか、秋が来るごとに野辺を匂わす(秋が来るごとにあの人を想いだす)
240 ここにいた人の形見だろうか藤袴は(ここにいた人の残り香がする藤袴)、忘れがたき香に包まれながら・・(二度と逢えないかもしれない人を想っている)
241 持主は知らないけれど香りがしている、秋の野に藤袴を脱ぎ掛けたのは誰だろうか

★解説など
藤袴は乾燥させると香草となる。ハーブみたいな感じで、中国ではそれを身に付けたり、湯に入れたりして利用しており、「香草」の他、「香水蘭」「蘭草」と呼ばれていたらしい。
古今和歌集の秋歌に3つ連続で藤袴の歌が登場し、以後これより藤袴の歌が派生した。
この歌の藤袴は「藤袴の香草」の匂いと「想い人」が重なっている。
匂いで出来事や人を強く思い出すということはよくあることで、後世においては「プルースト現象(プルースト効果)」として知られている。
これはその逆を詠った歌である。要するに、秋の野に咲いている匂わない藤袴を見ただけで、香草となった藤袴の香と想い人を思い出してしまうという心情である。


(3)『本草和名』 平安時代前期に編纂(918年)
日本現存最古の薬物辞典(本草書)である
唐の『新修本草』を範に取り、その他漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準より比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名をことごとく記載しておりかつ来歴も明らかで、本拠地である中国にも無いいわゆる逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で、また中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である。


蘭草 一云水香 一名煎澤草 一名蘭香 一名都梁香草〈己上三名出陶景注〉 一名蘭澤香草〈出蘇敬注〉 一名恵薫和名布知波加末

★解説など
これは薬物辞典であり、生きた植物をそのままの形で楽しむという用途にはない。
漢方薬など物質として使えるものの一覧である。従って蘭草=蘭ということではない。
一伝や一名とは別称や異称のこと。
万葉仮名で布知波加末(ふじばかま)とあるが、それは蘭草の一異称「恵薫」の和名として書かれている。
比定の誤りなども見られ、日本で独自に加えられた文も大量にあるらしいので、間違いや勘違いがないとは言い切れない。


(4)『源氏物語』 平安時代中期に成立したとされるが原本は残っていない。文献初出は1008年。

藤袴の巻より抜粋
の花の、いとおもしろきを、持給へりけるを、御簾のつまよりさし入れて、
「これも、御覧ずべきはありけり」とて、
とみにも許さで持給へれば、うつたへに、思ひもよらで取り給ふ御袖を、ひき動かしたり。
 同じ野の露にやつるる藤袴あはれはかけよかごとばかりも

=訳=
このような機会にとでも思ったのであろうか、の花の美しいのをお持ちになっていたのを、御簾の端から差し入れて、
「この花も御覧にならなければならない縁故があったのです」と言って、
すぐに手放さずお持ちになっているので、まったく気付かずに受け取ろうとする(玉鬘の)袖を引き動かした。
 あなたと同じ野原で露に濡れて萎れている藤袴です、情けをかけてやってください、ほんの申し訳程度でも

★解説など
男性(夕霧)が想い人の女性(玉鬘)にお花を差し上げたという場面である。
一般的にはこれも蘭と藤袴を同じ花と解釈していることが多いが、藤袴は自分(男性)の比喩と捉えることが出来る。
この場合、美しい蘭の花は美しい女性(この前に女性の美しさの説明や着衣の色への着眼があり)の象徴であろう。
従って両者(2つの花)は似ている点もあるけれど、違う性質のものとして描写されていると考えるのが妥当。
源氏物語では植物(花)の香ではなくて形や色に焦点を当てている。






# by yumimi61 | 2019-04-07 15:33 | 新元号「令和」の典拠