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やがてそこに。


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縦横無尽

まだ訓読みが存在していなかった時代

『古事記』『日本書紀』『万葉集』が書かれた時代には平仮名やカタカナは存在していなかった。
それは言葉が存在していなかったということではない。
平仮名やカタカナという文字が存在していなかったのである。
言葉を話したり聞いたりすることは出来るけれど(使うのは口と耳)、その言葉を書いたり読んだりすることは出来なかった(使うのは目と手)。(共通して使うのは脳)
もっとも絵文字や象形文字、ある地域だけに伝わる文字などはあったと思われる。

漢字という文字が『古事記』『日本書紀』『万葉集』が書かれる時代前に日本に入ってきていた。
だから『古事記』『日本書紀』『万葉集』は漢字によって書かれた(はずである)。
中国は広い国で言語(方言)も種類が多かったので、話す聞くだけでは意思疎通が難しいこともあり、目で見て理解できる文字(漢文)というものが早くに確立し普及した。そこには仏教など宗教も関わっている。
中国から入ってきた漢文であり、その読み方も同じものを学んだわけであるが、中国人と日本人ではやはり発音(聞こえ方)が違うため、中国語の読み方と日本語音読みは完全には一致しない。
時間の経過によって日本国内で独自の変化も遂げたため、さらに乖離してしまっている。

『古事記』『日本書紀』は漢文である。
中国の漢文には返り点はなく、『古事記』『日本書紀』が書かれる時代にも返り点は存在しない。
返り点とは、漢文の訓読において返り読みの順序を示すために施される符号。漢字の左下に小さく記入するもの。
訓読は日本独自のものである。
訓読するために返り点や送り仮名を記入したが、その際に漢字をごく簡単に省略して書くようになった。それがやがてカタカナという文字として成立していく。
平仮名も漢字から変化したもの。

以前載せた中国の漢詩『代悲白頭翁』の一節を例に説明する。(横書きにしていますが通常漢文は縦書きです)
左側が漢詩(漢文)。中国では音読みし、そのままの状態で意味も理解する。
日本ではこれを一旦訓読みに直して意味を理解する。訓読みにしたのが右側である。
右側の状態にするために日本では独自に漢文に返り点という符号や送り仮名を書き入れたわけである。

古人無復洛城東     古人 復た洛城の東に無く
今人還對落花風     今人 還た落花の風に対す
年年歳歳花相似     年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同     歳歳年年 人同じからず

現代では右側の状態でもまだ意味が分かりにくいという人も多いだろうから、さらに分かりやすい文章にする。↓
昔洛陽城の東で桃李の花を楽しんだ人たちは既に亡くなり、現在を生きる人たちがその花が散る中を春風に吹かれている。花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。


万葉仮名

『万葉集』の歌や『古事記』内に収められた歌は、万葉仮名を用いている。
万葉仮名(まんようがな、正字体:萬葉假名、正仮名遣:まんえふがな)は、主として上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた文字のことである。『萬葉集』(万葉集)での表記に代表されるため、この名前がある。真仮名(まがな)、真名仮名(まながな)、男仮名、借字ともいう。仮借の一種。

日本語の音数にこだわる歌を、漢文で表し、それを音読みにしてしまったら、例え歌の意味合いが同じであったとしても音数が変わってしまい、違う芸術作品になってしまう。
そこで音数そのままに文字で表すために、漢字が持つ意味は無視して音だけを借りたのが万葉仮名である。
平仮名が確立される以前の歌は万葉仮名で記された。

万葉仮名を簡単に言えば、「よろしく」を「夜露死苦」と書くようなことであるが、「夜露死苦」の夜(よ)は訓読みなので、これは万葉仮名とは言えない。万葉仮名(音読み)では「やろしく」になっちゃうのだった。残念!


神の名前も万葉仮名

神の名称「クマノクスビ」の話に戻る。
・『古事記』では「熊野久須毘」。
熊野は訓読み、久須毘は音読みである。 
・『日本書紀』本文では「熊野櫲樟日」。
全て訓読み由来である。


音読しかない時代に書かれたのだから、読み方としては全て音読である。

「熊野久須毘」は、呉音(日本では奈良時代前)では「ウヤクスビ」か「ウジョクスビ」、漢音(日本では奈良~平安時代)では「ユウヤキュウシュヒ(ユヤキュウシュヒ)」「ユウジョキュウシュヒ(ユジョキュウシュヒ)」、また「ユヤクスビ(ユジョクスビ)」、「イヤクスビ(イジョクスビ)」「イウヤキュウシュヒ(イウジョキュウシュヒ)」という読み方も考えられる。

「熊野櫲樟日」は、呉音では「ウヤヨショウニチ」「ウジョヨショウニチ」、漢音では「ユウヤヨショウジツ」「ユウジョヨショウジツ」、また「ユヤヨショウニチ(ユジョヨショウニチ)」「イヤヨショウジツ(イジョヨショウジツ)」「イウヤヨショウジツ(イウジョヨショウジツ)」という読みもあり。

「熊野久須毘」「熊野櫲樟日」が神の名称という固有名詞だったとするならば、後世においてもこれが訓読になることはありえない。
訓読にすべきものではない。何故なら歌と同様に書いた時に万葉仮名を用いたからである。


キュウシュは九州?

神や日本という国の始まりは現在の九州だったということになっているのが『古事記』や『日本書紀』であるが、「熊野久須毘」の’久須’を漢音読みすると「キュウシュ」であり、九州(キュウシュウ)に似ている。
「久須毘」は「キュウシュヒ」と読めるわけだが、九州の妃と思ったとか?
九州有力説はここから生まれたんだろうかとも思えるが、しかし九州という地名は『古事記』や『日本書紀』の時代に日本では存在していない。

九州
北海道・本州・四国とともに主要4島の一つでもあり、この中では3番目に大きい島で、世界の島の中では、スピッツベルゲン島(ノルウェー)に次ぐ第37位の大きさである。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である。


そういえば、九州には9県あるわけではないって福島さんも言ってた。(誰やねん?)(なんでやねん?)

ではいつ頃に「九州」なる言葉は登場してきたのか?

16世紀の戦国時代を描いた軍記物語として知られる『陰徳太平記』(享保2年(1717年出版)序に、「山陰山陽四国九州」の記載があり、このような近世の書物においては、明確に「九州」という名称を見出すことができるが、この名称がいつ生まれたか正確な時代は不明であるが、鎌倉時代後期に作成された吾妻鏡の元暦2年(1185年)2月13日と2月14日の記事では、源範頼が「九州」を攻めようとしていることが記載されている。もともと中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、九州とは9つの国という意味ではなく、天下のことを指すが、平安時代後期に朝廷が発した保元新制で使われている「九州」の意味も、こちらである。また新羅の九州の実例もある。

中国での九州(きゅうしゅう、くしゅう)
中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。中国では天下、世界全体の意味で用いられる場合もある。


トウコククンカという新説

熊野という漢字表記を信じれば上に書いたような音読になるが、様々な観点から熊野信仰には湯が関係していると考えられてもいる。
「熊野」という漢字の代わりに「湯谷」や「湯屋」という漢字が当てられることもある。

熊野を「くまの」と読めば訓読み、「ユヤ」と読めば音読み。
湯谷は「ゆや」と読めば訓読みである。音読みでは「トウコク(ショウコク)」ということになる。

これは私の勘に過ぎないが、熊野という漢字が使われている神の名称は「トウコククンカ」だったのでないだろうか。
これを漢字で表すには、音読みの音に対応する漢字を当てはめる必要がある。(万葉仮名)
誰かが当てはめた。「湯谷燻火」とか「東国君下」とか。
音読みならばどちらも「トウコククンカ」、訓読みならば「ゆやくすび」や「ひがしくにのきみのもと」とか。
そして、どうせ「ゆや」なら「湯谷」よりも「熊野」のほうがいい、東の国はダメダメ西の国のほうがいい、そう思う人がいたのでは。


「ひがしくに」と言えば

久邇宮(くにのみや)という宮家があった。
明治時代前期に、現在の天皇の曽祖父と言われている伏見宮邦家親王の第4王子・朝彦親王が創立した宮家である。
その久邇宮朝彦親王の第9子である稔彦王が明治後期に創立した宮家が東久邇宮(ひがしくにのみや)だった。

東久邇宮
後継には恵まれたが、1947年(昭和22年)GHQの指令により10月14日皇籍離脱。よって一代限りの宮家となった。その末裔は、現在の皇位継承問題などと絡んで旧皇族の中では露出度が高い。





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# by yumimi61 | 2018-10-19 11:14

転換点

「熊野」という言葉は『古事記』や『日本書紀』にも出てくる。

『古事記』と『日本書紀』は日本の創成期からの歴史書として知られているが、明治天皇と明治新政府がそれまでの歴史を大幅に修正し、それを天下周知させ、教育現場に持ち込んでそう教え込んでいったように、往々にして時の権威権力者やその取り巻きらは歴史を修正してしまう。
自分によって都合の悪いことは抹消し、都合の良いように書き換えるのだ。

神話的なものから日本の創成期の歴史を書かせたのは。何といっても第40代の天武天皇(在位:673年-686年)である。
645年、朝鮮半島の南部から進貢の使者が来て宮中で儀式が行なわれた。 大化の改新につながるクーデターはこの時に起こった。
大化の改新を境に「日本」という国が中央集権化していくのである。
日本史上最大の謎は、大化の改新か明治維新かと言われるくらい、謎多い転換点である。
その転換点には中国や朝鮮の人物が関係しているのではないかと考えられる。

天武天皇が命じたことを現代に例えるなら、現天皇が今生きている誰かに、「700年前後の歴史を詳しく書き記しなさい」と命じたということになる。(初代天皇は紀元前600年頃に没したことになっているので、天武天皇の時代の約1300年前)
「今日から日々の出来事を書き留めなさい」、「今日から毎日の日記を書きなさい」、と命じたわけではない。
もしあなたが命じられたとして、700年前後(飛鳥時代)の日本全体の詳細や力関係を書けますか?

その時代を生きていない者に書けるとしたら、その時代を書いた他の文献を基に(参考に)して書くか、自分で勝手に創り出したフィクションを書くかである。
文献を参考にしたとしても、その文献を書いた者が誰なのかという問題がある。その時代を生きた人間が書いたかどうか。どこに暮らすどういう立場の人だったのか。事実に忠実かどうか、著者の主観や脚色が入っていないか。権威権力者や編集者による圧力や変更はなかったか。
嘘偽りない歴史を残すということは本当に難しいことだと思う。
もっとも嘘偽りない歴史が人間が生きていくために本当に必要なのかという命題もあるかもしれないが。

本来1つ2つの、しかも権力者が介在している歴史書で歴史を決定するのは実に危ういことである。
現代では教科書が公的な歴史書の役割を果たし、テストや試験や受験等で教育者や子供たちを縛り付けて、他の視点を許さない状況を作り出している。

(過去記事より)
古事記と日本書紀
古い時代の天皇史は日本書紀を中心に紐解かれている。
現代の扱いでは日本最古の歴史書が『古事記』、次が『日本書紀』となっている。
天智天皇(在位:668年-672)の時に朝廷に保管していた歴史書が火災によって燃えてしまった。
そのため失った国記に変わる歴史書を次代・天武天皇(在位:673-686)が編纂させた。
しかしそれがそのまま『古事記』だったということではない。

『古事記』
完成は712年。
古事記の資料は天武天皇の命で編纂された『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)である。
取り扱いは第33代推古天皇(在位:593-628)まで。但し第24代仁賢以降は説話や伝承が全くなく系譜のみ。
古事記には天上の国とする「高天原」という語が多用されている。(日本書記には無い)
歌を多く用いているのも特徴的。

『日本書紀』
完成は720年。天武天皇の命から38年の歳月を要した。
最初は川島皇子ら複数名に命じた。
川島皇子(父は天智天皇、母は小豪族出身の女官)は大津皇子(父は天武天皇、母は大田皇女)(大田皇女の父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の遠智娘)の友人であったが、大津皇子が謀反計画を持っていると朝廷に密告したとされる人物。これにより大津皇子は亡くなっている。
唐(中国)の歴史書風なものを目指していたとされる。執筆は複数人でその中には中国人も含まれるようだ。
用いた資料も多く、執筆量も古事記の比ではないが、意図的な取捨や改ざんが行われているとも言われている。
取り扱いは第41代持統天皇(在位:690-697)まで。

執筆者がどんな一族の者だったのか、誰派だったのか、そうしたことが重要になるはずなのだが、執筆者の詳細はほとんど不明である。
完成までに年月がかかっていることから執筆者が途中で交代したことも考えられる。(その際に追記や改ざんを行う)
また分担して執筆したであろうから、代毎の執筆意図や人物評価が一様でない可能性もある。
現代においては古文を現代分に置き換えて読み解く必要もある。
従って非常に難解である。
但し天智天皇・天武天皇が後世に史実を残すことを試みたということだけは確かであり、やはりそこに深い意味があると思わざるを得ない。

「天皇」の起源は明治時代、確定は大正時代
「天皇」という名称がいつから使われ始めたのかも実ははっきりとしていない。
古くは各国に王がいて、その中の一番の権力者が「大王」と呼ばれていたと考えられている。これが倭国(大倭)の王だったと思われる。
かつて天皇というのは死後に与えられた称号であって、生前から天皇と呼ばれていたわけでもないし、死後にも天皇という称号が与えられなかった人物(天皇)もいた。
それが全て「天皇」で統一されたのはたかだか明治時代のことだ。
裏を返せば、古事記や日本書紀の時代はもちろんのこと、それ以降も「天皇」という存在は実に不確かなものなのである。



日本史上最大の謎は「西」からもたらされた
『日本書紀』や『古事記』における古代日本は西の九州が有力で、神なども西から起こったことになっている。
西の神や有力者が東の大和(現在の奈良県)に征服にやってきて、そこを手に入れ住まわって都にしたというのが、日本創成期の歴史である。
大和よりさらに東の地は未開であり全く文明たるものがなく有力者も存在しなかったというのが九州有力説である。すなわちそれが現代において公的に認められている歴史観なのだ。
しかし古代には幾つもの国が存在していて、それぞれに王がいた。その中で有力な国が倭国だったという見方もあり。中国歴史書から見てもこの説の信憑性が高いような気がする。
『日本書紀』や『古事記』と同じ頃に編集されている『万葉集』など歌集における東国は、大和ではなく、大和から見て東の関東近辺である。

クマノクスビ
後世において熊野詣が流行ったり、世界遺産で「熊野」が重要視された理由の1つはおそらく『古事記』や『日本書紀』に日本神話の神の名称やその他にも幾度かその名が登場するからなんだろうと思う。

クマノクスビは日本神話に登場する神である。
(『古事記』や『日本書紀』に記される)誓約の段において、素戔嗚尊が天照大神の持ち物である八尺勾玉を譲り受けて化生させた五柱(『日本書紀』第三の一書では六柱)の神の一柱で、天照大神の物実から生まれたので天照大神の子であると宣言された。

『古事記』では熊野久須毘命、『日本書紀』本文では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、第一の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)、第二の一書では熊野櫲樟日命(クマノクスヒ)、第三の一書では熊野忍蹈命(クマノオシホミ)またの名を熊野忍隅命(クマノオシクマ)、別段(岩戸隠れ)第三の一書では熊野大角命(クマノオオクマ)と表記されている。いずれも最後(5番目または6番目)に化生した神とされている

神名の「クスビ(クスヒ)」は「奇し霊」(神秘的な神霊)もしくは「奇し火」の意と考えられる。



「クマノクスビ」の漢字について
・『古事記』では「熊野久須毘」。
熊野は訓読み、久須毘は音読みである。 

・『日本書紀』本文では「熊野櫲樟日」。
全て訓読み由来である。
由来と書いたのは、「櫲」「樟」という漢字はどちらも1字での訓読みでは「クスノキ」と読むから。
訓読みとしてクスに当てるなら2字入れずに1字でも成立した。
2字「櫲樟」では音読みで「ヨショウ」と言うが、これは「クスノキ」の別称である。
「櫲樟」と2文字入れて「櫲樟日」とすると却ってクスビとは読みにくくなってしまうのだ。

クスノキで思い出しただろうか。新田義貞などが味方となった後醍醐天皇に付いた楠木正成の「楠木」も「クスノキ」である。「楠」1字でも「クスノキ」。

クスノキというのは木の名称。

クスノキ(樟 Cinnamomum camphora)
クスノキ科ニッケイ属の常緑高木である。
世界的には、台湾、中国、ベトナムといった暖地に生息し、それらの地域から日本に進出した。(史前帰化植物)
日本では、主に、本州西部の太平洋側、四国、九州に広く見られるが、特に九州に多く、生息域は内陸部にまで広がっている。生息割合は、東海・東南海地方、四国、九州の順に8%、12%、80%である。人の手の入らない森林では見かけることが少なく、人里近くに多い。とくに神社林ではしばしば大木が見られ、ご神木として人々の信仰の対象とされるものもある。


しかし厳密には「楠」はクスノキではなくてタブノキのこと。似ているが属が違う。

一般的にクスノキに使われる「楠」という字は本来は中国のタブノキを指す字である。別名、クス。


タブノキ(椨 Machilus thunbergii)
クスノキ科タブノキ属の常緑高木である。
イヌグス・タマグス・ヤマグス・ツママとも称される。単にタブとも。ワニナシ属(Persea、アボカドと同属、熱帯アメリカなどに分布)とする場合もある(学名:Persea thunbergii)。
日本では東北地方から九州・沖縄の森林に分布し、とくに海岸近くに多い。照葉樹林の代表的樹種のひとつで、各地の神社の「鎮守の森」によく大木として育っている。また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」と呼ばれ有名である。


クスノキもタブノキも暖地を好む木であり日本では西に多い木だが、北限は東北であり、寒い地域で全く育たないということはない。
また沿岸に多い木であるが、群馬県のような内陸部でも見られる。
桐生市にある群馬県指定天然記念物の「野の大クスノキ」





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# by yumimi61 | 2018-10-18 15:07
※「平民」は、明治維新から第2次世界大戦後の 1947年まで一般庶民に用いられた身分呼称。

(前記事の続き)

熊野(ゆや)と平宗盛
能を代表する『熊野(ゆや)』の熊野とは主人公の女性・熊野御前のことである。
当時の日本三大美人の一人 熊野(ゆや)御前は、平安時代末期に池田荘の庄司の藤原重徳の娘として生まれ育ち、当時遠江国司だった平宗盛に見初められて都に上り、大変寵愛された女性。

平宗盛
安時代末期の平家一門の武将・公卿。平清盛の三男。母は清盛の継室・平時子。時子の子としては長男であり、安徳天皇の母・ 建礼門院は同母妹である。

熊野御前の墓があるのが静岡県磐田市池田330にある行興寺。行興寺は浄土宗のお寺で、藤で有名らしい。


平氏の時代
平氏(平家)が登場するのは平安時代である。平安時代(794-1185年)は奈良時代の後で、鎌倉時代の前。
平氏(平家)とは「平」を氏の名とする氏族のことでもあり、日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)際に名乗る氏の1つだった。
平氏も源氏も元々が天皇を始祖とする由緒ある家系。
本を正せば皇族であり公家ということになり、自ら武装しないという選択もあったわけだが、公家だけには収まらず武士(武将)としても活躍をしていくのが平氏や源氏である。
子供が多くいて時代が行けば傍流は増えていくが、その全てが後世に名を残しているわけではない。

武家に繋がる源氏は概ね清和天皇(第56代、在位858-876年)の子孫である清和源氏と呼ばれる一族である。平氏(平家)を倒して鎌倉幕府を開いたのも清和源氏なら、鎌倉幕府を倒した新田義貞や室町幕府を開いた足利尊氏も清和源氏、戦国時代を戦い抜き戦わない江戸幕府を作った徳川家康も清和源氏である。

一番最初の平氏は桓武天皇(第50代、在位781-806年)の子であり、桓武平氏と呼ばれる。平安京にちなんでの「平」(和訓では多比良)だったらしい。
平氏にはそのほか、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の4つの流派がある。
武家平氏として後世においても活躍が知られるのは、桓武平氏のうちの高望王流坂東平氏の流れのみ。
これに該当する末裔が常陸平氏・伊勢平氏・坂東八平氏・北条氏など。
「東国の源氏、西国の平氏」という俗説があるが、高望王流桓武平氏の始まりの地である東国は当然のことながら武家平氏の盤踞地であった。すなわち坂東平氏の一族がその後中央(朝廷)に勢力を伸ばし、西国にも平氏勢力が広がったとするのが適当である。

東国(とうごく、あづまのくに)とは、近代以前の日本における地理概念の一つ。東国とは主に、関東地方(坂東と呼ばれた)や、東海地方、即ち今の静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指した。実際、奈良時代の防人を出す諸国は東国からと決められており、万葉集の東歌や防人歌は、この地域の物である。



熊野(ゆや)を見初めた平宗盛は平清盛の息子
平氏で一番名が売れているのは平清盛だと思うが、彼は伊勢平氏の棟梁家の生まれで、長男だったので自身も棟梁を継いだ。
なぜ平清盛が有名なのかと言うと、日本初の武家政権を樹立させた人物だから。
平安時代末期(1160年代 - 1185年)が平氏政権だった。
しかし源氏がその継続を許さなかった。

(平清盛は)平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

「後白河法皇」とは、後白河天皇(第77代)が皇位を15歳の息子(第78代二条天皇)に譲った後の名称。皇位は譲ったが院政として天皇に代わり直接政務に関わるという政治形態を採っていた。
後白河天皇の子で第80代天皇の高倉天皇と平清盛の娘(平徳子)の間に産まれたのが安徳天皇(第81代)だが、平清盛はその子が僅か1歳の時に天皇に即位させ実権を握った。
子を表にだして実権を握るというのは、後白河天皇も平清盛もどっちもどっちな感じだが(天皇が低年齢化しているが)、結局平安時代は源氏に倒される。

熊野(ゆや)を見初めたという平宗盛は平清盛の三男。安徳天皇の母(平徳子)も平清盛の娘であり平宗盛の妹にあたる。


平清盛の妻(平時子)の弟の娘が中山家始祖の嫁
平宗盛や平徳子の母親は平時子という女性(もともと平氏)。後妻として平清盛の正妻になったらしい。
平時子の弟に平時忠がいる。
時忠は平清盛の妻の弟だったことから、平清盛亡き後、平家一族の纏め役であったという。
源氏の時代には、現在の石川県珠洲市大谷町に配流された。
この平時忠の娘の1人は、明治天皇の生母と言われる中山慶子を出した中山家の家祖・中山忠親(水鏡 の作者と云われている)に嫁いでいる。


幕末の中山家は討幕派であり十津川郷の天誅組とも関係あり
中山慶子の父親は中山家の第24代当主・中山忠能である。

(中山忠能の)子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。



世界遺産に含まれる十津川村の玉置神社について
十津川村は奈良県にあり、しかもその地は地理的にも歴史的にも独立独歩の精神を持ち、周辺に簡単に迎合するような土地柄ではなかった。
しかし世界遺産には通路の道中としてその地が含まれていて、和歌山県田辺市の熊野三山(熊野本宮大社)の奥宮として奈良県吉野郡十津川村の玉置神社が位置づけられている。

●玉置神社
大峰山系の霊山の一つである玉置山の山頂直下の9合目に位置し、大峯奥駈道の靡(なびき)のひとつである。

社伝の『玉置山縁起』では崇神天皇によって崇神天皇61年(紀元前37年)に、熊野本宮(和歌山県田辺市本宮町)とともに創建されたと伝えられ、古来より十津川郷の鎮守であった。しかし、『旧事紀』には崇神天皇61年の記事はなく、玉置神社のことも伝えられていない一方で、『水鏡 』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、創建年代は不詳である。


要するに記載がない、辻褄が合わないということで、神社の古い歴史に何の裏付けも取れないということである。

●水鏡
『水鏡』(みずかがみ)は、歴史物語。成立は鎌倉時代初期(1195年頃)と推定される。
国書の伝存目録である『本朝書籍目録』仮名部に「水鏡三巻 中山内府抄」とみえることから、作者は中山忠親説が有力である。しかし、源雅頼説などもあり未詳。

神武天皇から仁明天皇まで57代の事跡を編年体で述べている。73歳の老婆が、長谷寺に参籠中の夜、修験者が現れ、不思議な体験を語るのを書き留めたという形式になっている。『水鏡』独自の記事があるわけではなく、僧・皇円が著した『扶桑略記』から抄出したものである。ただし、序文には著者独自の歴史観が盛り込まれており、そこには特異性が認められる。


●皇円(こうえん)
平安時代後期の天台宗の僧侶である。正字では皇圓。熊本県玉名の出身で肥後阿闍梨とも呼ばれ、浄土宗の開祖法然の師でもある。王朝も末期に成立した、編年綱目の体裁を採る国史略のうち「扶桑略記」を撰した(ほかに「日本紀略」「帝王編年記」)。弥勒菩薩が未来にこの世に出現して衆生を救うまで、自分が修行をして衆生を救おうと、静岡県桜ヶ池に龍身入定したと伝えられる。


玉置神社の説明に、『水鏡』伝の新宮創祀と同年であることから作為と考えられ、とある。
これは、『水鏡』に書かれている新宮の創祀と、神社伝『玉置山縁起』による玉置神社の創建年が同じになっているという意味である。
しかし熊野三山で新宮と言えば、和歌山県新宮市新宮1にある「熊野速玉大社」のことを指し、玉置神社でも本宮大社でもない。玉置神社は奥宮という位置づけ。
熊野三山だとしても奥宮と新宮というそもそもの違いがある。
実際『水鏡』の新宮の創祀前後がどのように書かれているか知らないが「新宮」は「新たに創建された神社」という一般的な言葉であり固有名詞ではなく、これだけでは熊野三山と特定することは出来ない。
また細かいことを言うようだが、創祀=創建でもない。創祀は最初に神を祀ることで別に建物は必要ない、創建は建物を設置することである。
新宮の創祀=奥宮の創建と言うのは無理があるので、無理やりこじつけたものであろうという判断がなされているということ。
実際のところ、熊野三山(3つの神社)の創建年はどれも不詳である。





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# by yumimi61 | 2018-10-16 15:37

愛重と加重

・大峰山

前々記事に大峰山のことを書いた。
修験道の開祖・役小角が修行していたのが、現在の奈良県と大阪府の境界にある金剛山と葛城山であり、その山と大峰山の中間に吉野がある。
大峰山はその近辺の山の総称であるが、 狭義には峰の1つである山上ヶ岳のことを指すようだ。
だが現代では、昔は奈良の山上ヶ岳から和歌山の熊野までを「大峰山」と呼んでいたということになっており、世界遺産には修験道の聖地である奈良の金剛山と葛城山が含まれておらず、和歌山の熊野が含まれているということを書いた。

そこで大峰山にも注目してみたい。
実は群馬県にも大峰山があるのだ。
(三峰山という山もあるけれどもマッピングし忘れました。上毛高原駅の東の方にあります)



群馬県みなかみ町のほぼ中央部に位置する大峰山(1254.5m)。
北側に隣接する吾妻耶山につながる登山道(縦走路)が整備されていることから吾妻耶山とセットで登られることも多い中級山岳ですが、急峻な吾妻耶山とは対照的になだらかな山容が女性的な印象を醸し出している上州でも人気のハイキングスポットとして知られています。

登山ルートは吾妻耶山の登山口となる仏岩ポケットパークから縦走して来るコースをとる人が多いようですが、大峰山の南山麓にたたずむ大峰沼から直登するコースも比較的多く利用されています。

大峰沼を経由する大峰山の登山コースは、コースの途中でモリアオガエル(一部地域では絶滅危惧種にも指定される日本固有種のカエル)の生息地などにも立ち寄ることができ、自然を満喫できるトレッキングコースとして人気です。

大峰沼を経由する登山コースの入口まで直接乗り入れている路線バスはありませんのでアクセスにはマイカーやレンタカーを利用するのが一般的ですが、最寄り駅となる上越新幹線の上毛高原駅から約6kmの車道歩きを甘受できるのであれば、公共交通機関を利用したハイキングも不可能ではありません。


大峰山とセットで登る人が多いという吾妻耶山は谷川岳の前衛峰と呼ばれる。
以前に福島県と山形県境の吾妻山(あづまやま)の遭難事例を紹介したが、あの時に群馬の吾妻は「あがつま」と読むと書いたと思う。
郡とか町とか行政区の吾妻は「あがつま」と読むが、上記の吾妻耶山は「あづまやさん」と読む。
また群馬県嬬恋村と長野県境に四阿山という山があるが、これも「あずまやさん」と読む。これが群馬県側では吾妻山と書いて「あずまや(あづまや)さん」と読む。
私は2016年4月16日に熊本の阿蘇山にちなんで、この四阿山について書いた。
阿蘇五岳と四阿火山に共通する山名がある。根子岳である。
なぜここで真田窓を持ち出したかと言うと、連子窓が気になっているからである。

熊本地震の時から気になっていたことがあり、それを連子窓と書いたが、直接連子窓だったわけではない。


・十津川

前々記事の地図に黒マークを付けたのは奈良県吉野郡の十津川村。奈良県の最南端に位置する面積の広い村で、和歌山県や三重県と接している。
十津川は川の名前としても用いられ、十津川村を流れる新宮川(熊野川)の中流域のことになるらしい。

「村より川より警部でしょ」という人もいるかもしれないが、西村京太郎の推理小説『十津川警部シリーズ』の主人公(十津川省三)の名字でもある。
このシリーズ、あちこちの放送局でドラマ化されている。
シリーズの事件の舞台はいつも西の京とは限らず、作家の西村京太郎も東京の出身らしい。

そして北海道にも十津川が存在する。北海道樺戸郡(空知地方中部)にある新十津川町。
滝川市のすぐ近く。ちょっと上のほうには沼田という町もある。
沼田町のちょっと下には秩父別と書いて「ちっぷぺつ」と読む町がある。


新十津川町は奈良の十津川との関係が明確である。

1889年に起きた奈良県吉野郡十津川村での十津川大水害の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。この縁で十津川村を「母村」と呼んで同じ町(村)章を用いるなど交流があり、2017年8月には正式に連携協定を結んだ。


正式に連携協定を結んだのは随分最近のことのようだ。

J-CASTテレビウォッチ 2011/9/ 8
ビビット 母村を助けろ!豪雨災害・奈良十津川村支援に北海道・新十津川町


「母村」という言葉をご存じだろうか。「ぼそん」と読む。生まれ育った国のことを「母国」というが、それと同じような意味で「母なる村」のことだという。「ニュース 目のつけドコロ」コーナーで取り上げた。

台風12号で死者・行方不明10人以上の被害を出し、孤立状態が続き、土砂ダムの決壊など2次災害が心配されている奈良県十津川村。この村の支援にいち早く名乗りをあげた自治体がある。1200キロ離れた北海道の新十津川町だ。実は、新十津川町にとって、奈良県の十津川村は「母村」だという。

話は122年前に遡る。十津川村は、明治22年(1889年)にも豪雨に襲われ、村の4分の1の610戸が被害を受け、168人が死亡、約3000人が家屋や田畑を失った。壊滅的な被害だったのだろう、この惨状を目の当たりに体験した2600人が北海道への集団移住を決意、いまの新十津川町に移り住み、新しい町を切り開いた。

このことは、先祖代々語り継がれ、町と村の絆は強い。菱形の中に十字のマークの町章、村章も同じだ。相互訪問などの交流が続き、今年(2011年)も7月に小中学生が十津川村を訪れたばかりだった。神社も分霊、秋の祭りには毎年、十津川村からも参加する。

全国に両町村出身者の交流会があり、関東十津川郷友会の前々会長は橋本聖子参議院議員だった。今回の野田内閣にも関係者がいる。鉢呂吉雄経済産業相は新十津川町出身で、前田武志国土交通相は奈良県十津川村の出身だ。

【ゆかりの人物】
・さだまさし - 歌手で、十津川郷観光大使。
・鈴井貴之(ミスター) - 『水曜どうでしょう』に出演しているCREATIVE OFFICE CUEの会長である。同番組内で「俺の祖先は十津川村なんだ」と公表している[要出典]。
・西村京太郎 - 作家で、十津川郷観光大使。推理小説に多く登場する十津川省三警部の名前は、十津川村に由来している。西村がたまたま見ていた日本地図でこの地名を見かけたことから。ただし、十津川村の読みは「とつかわ」と濁らないのに対し、十津川警部の名前は「とつがわ」と濁る。
・林宏 - 民俗学者で元奈良教育大学教授。『林 宏 十津川郷採訪録 民俗』シリーズ全5巻などを出している。
・松井絵里奈 - タレントで、十津川郷観光大使。祖父母が十津川村民であった。
・松田忠徳 - 温泉学者で、十津川郷観光大使



奈良県吉野郡十津川村と、北海道樺戸郡新十津川町の旗章。
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この十津川は少々特異的な地域のようであり、十津川郷とも呼ばれる。

十津川郷士(とつかわごうし)は、南大和(奈良県)の十津川郷に在住していた郷士集団。
十津川村は南大和の村で、神武天皇東征のとき道案内に立った八咫烏(ヤタガラス)をトーテムとする。幕末に御所警備の際、日の丸に「菱十(菱の中に十字)」の旗を頂き、それ以前の「丸十(丸に十字)」から、以後菱十紋を旗印とした。今日、十津川村および北海道の新十津川町のマークも同紋である。
後述するような、むしろ特異とも言える独立独歩の精神からか、現在の十津川村も平成の大合併に際しても、最初から近隣のどの自治体とも合併する気などなかったと言われている。その背景として、十津川は独特の地理的歴史的環境から文化や言語の面でも独自性が強いことが挙げられる。民俗学者の柳田國男も、近畿圏にありながら東京式アクセントであるその特色について注目している。

古くから地域の住民は朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の地租改正まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。

南北朝時も吉野の南朝につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、室町時代になっても守護の支配下に入らなかったという。太閤検地時にも年貢が赦免された。大坂の役の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、江戸時代に入っても大和の五條代官所の下で天領となり免租され、住民は郷士と名乗ることを許された。

以上のような経緯があり、十津川郷士は純粋な勤皇であり、討幕の意識は薄かったとされる。
険しい山に守られた稀有な歴史があり、古より先述の南朝をはじめとして源義経など、貴種の流人、時勢の逃走者、表舞台への再起を志す者が多く辿り着く場所であった。


南朝(吉野朝廷)側というのは、新田義貞や楠木正成が付いた後醍醐天皇のほうである。徳川側でもあった。
十津川郷は権威権力者側に付いているが、独立独歩の精神を持ち、それが認められていて、免租までされていたという地域。
近畿圏でありながら東京アクセントということは、関東圏からの流入が多かったと考えられる地域でもある。

但し幕末になるとその様相が変わる。朝廷も変わったのかもしれないけれど(天皇すり替えなど)。十津川郷の郷士らが天誅組として討幕派(反徳川・反源氏・反武士側)に付いたのである。

幕末になると、上平主税などを筆頭に勤皇の志士となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐などと並んで宮廷警護を命ぜられた。天誅組の変の際には多くの郷士が参加していたが、装備の古さや天誅組側の戦略の無さなどから劣勢であり、朝廷より「天誅組は朝廷軍ではない」との正式判断が出されたため離脱。その後、大総督官直属の朝廷御親兵として越後から会津の倒幕戦争に赴き帰還。維新後は全員士族となった。


・世界遺産と熊野、「ゆや」と「いや」
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の中の「熊野古道小辺路」と「大峯奥駈道」が十津川村を通っており、同村にある玉置神社はその構成資産の1つとなっている。
「熊野三山」の’山’が登る山ではないので(現在の熊野三山は神社であり仏教の本山が指す寺でもなく神仏習合でもない)、内陸にある玉置山を奥ノ院とし、その9合目にある玉置神社を熊野三山の奥宮という位置づけにしている。

奥ノ院
1 寺社の本堂・本殿より奥にあって、開山祖師の霊像や神霊などを祭った所。2 人目に触れない奥深い所。3 女陰をいう俗語。

世界遺産の熊野三山は「くまのさんざん」と読む。
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社という3つの神社の熊野も「くまの」と読む。
しかしかながら熊野は「ゆや」や「いや」とも読む。
漢字には様々な読み方がある。
訓読みは日本語固有語(大和言葉)である。
音読みは日本漢字音であり、元になっているのは中国の漢字の読み方である。
これにも種類がある。
・呉音ー主に百済人によつて伝えられた中国南方系の読み方
・漢音-奈良~平安時代に伝えられた中国北方系の読み方
・唐音ー主に鎌倉時代に伝えられた江南浙江地方の読み方

「ゆや」は音読みの漢音読みである「ゆうや」から転じたものであり、「いや」はそれより古い時代の呉音読みである。

熊野本宮大社は、明治22年(1889年)8月の水害時までは熊野川・音無川・岩田川の3つの川の合流点「大斎原(おおゆのはら)」にあったと伝えられているが、熊野権現(ゆやごんげん)のルーツを記したものには「大湯原」との記述がみられるようだ。
また熊野(ゆや)には「湯谷」や「湯屋」が当てられていることもあり、熊野信仰には湯が関係していると考える人も少なくないそうである。
自然の湯と言えば温泉だろう。ということは火山に近いということにもなりそうだ。

また神事として湯を使うことがあり、それを「湯立」や「湯立神事」などと言う。
その神事には笹を使うということであるが、もしかしたら熊笹(クマザサ)を使って行ったのではないだろうか。
熊笹は山地で生育するササだから山にいっぱいある。

湯立(ゆだて/ゆたて/ゆだち)
神前に大きな釜を据えて湯を沸かし、神がかりの状態にある巫女が持っている笹・幣串をこれに浸した後に自身や周囲に振りかける儀式。

釜が置かれるのは屋内に設けられた炉の上であるが、屋外に鼎をおいてその上で行われる場合もある。釜で湯を沸かすのはそれを勧請した神々に対して献上するとともに、舞を舞う巫女が神がかりとなって託宣を行う。巫女舞や湯立神楽、霜月神楽はこの過程が民俗芸能となったものである。

今日では祓としての要素が大きいが、古い時代にはむしろ禊としての要素が大きく、また神意を問うための占卜の手段としても重要視され、問湯(といゆ)と呼ばれていた。古代における神判の方法の1つである盟神探湯は、問湯から発生したとされ、この流れを汲む中世における湯起請のことを「湯立」とも称した。また、平安時代には宮中行事の一環としても湯立が行われていたことが『貞観儀式』から確認できる。

また「弓立」も「湯立」と同じく「ゆだて」と読む。


能の熊野(ゆや)
『熊野』(ゆや)は、能を代表する曲の一つである。作者は、金春禅竹とも言われるが不明。禅竹の著書『歌舞髄脳記』に『遊屋』の記述がある。喜多流では『湯谷』。『平家物語』の巻十「海道下」(かいどうくだり)の場面から発展させたと考えられる。

ドラマチックな展開を可能とする素材を扱いながら、対立的な描写を行わず、春の風景の中、主人公の心の動きをゆるやかな過程で追う。いかにも能らしい能として、古来「熊野松風に米の飯」(『熊野』と『松風』は、米飯と同じく何度観ても飽きず、噛めば噛むほど味が出る、の意)と賞賛されてきた。

・平家物語の巻十、海道下(かいどうくだり)の場面から発展させたと思われる。
・山田検校作の山田流箏曲『熊野』の他、長唄、河東節、一中節の素材にも用いられた。
・三島由紀夫の『近代能楽集』で取り上げられた。
・村上龍の『五分後の世界』に同名の能の「短冊の段」が登場する。

熊野の墓
静岡県磐田市池田の行興寺にある。 (北緯34°44'14", 東経137°48'54")
熊野御前の命日とされる5月3日に合わせ、毎年4月下旬から5月上旬にかけて、熊野の長藤まつりが行われる。国の天然記念物に指定されているこの藤には、熊野が植えたとの言い伝えがある。




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# by yumimi61 | 2018-10-15 13:28

鍵は紀伊にある

(前記事の続きです)

百人一首17番歌
ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは  -在原業平


この歌に出てくる竜田川は奈良県を流れる川で、古来より流域が交通の要所であり紅葉の名所でもある。
竜田川(たつたがわ)は、大和川水系の支流で奈良県を流れる一級河川である。上流を生駒川(いこまがわ)、中流を平群川(へぐりがわ)とも称する。
奈良県の生駒市の生駒山(いこまやま、標高642m)東麓を源として南流、流域に生駒谷、平群谷を形成している。生駒郡斑鳩町で大和川に合流する。

竜田川という地名もあり、地図ではそこを赤マークしている。大和川との合流地点が青マーク。
竜田川という地名の北西には平群町という地名もあり。



世界遺産に含まれなかった修験道の聖地である金剛山と葛城山。

▲大和葛城山(葛城山) 
奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する標高959.2mの山である。単に葛城山と呼ばれることもある。
金剛生駒紀泉国定公園内にあり、北の二上山や南の金剛山に連なる金剛山地の山の一つである。かつては金剛山を含む葛城山脈を総称して葛城山と呼び、大和葛城山は大和国では戒那山(かいな-)、天神山あるいは鴨山と呼ばれ、河内国では篠峰(しのがみね)と呼ばれた。山頂付近は葛城高原と呼ばれ、ツツジの開花時期には多くの観光客が訪れる。
登山道は複数あり、奈良県御所市の麓から登る「櫛羅(くじら)の滝コース」(深谷道)と「北尾根コース」(秋津洲展望コース)のほか、「ダイヤモンドトレール」と呼ばれる二上山や金剛山からの縦走路、大阪府南河内郡の麓から登る「弘川寺道」や「天狗谷道」が知られている。

このうち御所市からの登山口は近鉄御所線御所駅から近く、駅からのバスが定期運行されている。登山口から山頂付近まで葛城山ロープウェイが運行されており、櫛羅の滝コースはほぼロープフェイに沿ったコースで、道中には櫛羅の滝や行者の滝がみられる
北尾根コースは櫛羅の滝コースと同じ登山口から、ロープウェイ北側の尾根を登ってダイヤモンドトレールに至る登山道である
天狗谷道の登山口へは近鉄長野線富田林駅から金剛バスにより「千早線」として土日祝日のみ、路線バスが運行されている。ダイヤモンドトレールは、大和葛城山と金剛山の間の水越峠で国道309号の旧道と交差しており、金剛バス千早線は峠近くのバス停まで運行されている。


▲金剛山 (金剛山地) 
奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にある山。かつては高間山・高天山(たかまやま)や葛城嶺(かづらきのみね)といわれていた。金剛山地の主峰である。

標高1,125m。最高地点は葛木岳(かつらぎたけ)といい、御所市の葛木神社の本殿の裏にあるが、神域となっており立ち入ることはできないため、国見城跡の広場が山頂扱いされている。他に湧出岳(ゆうしゅつだけ)1,112m、大日岳1,094mのピークがある。大阪府の最高地点 (1,053m) がこの山の中腹にあり、その旨の標識が掲出されている。三角点は湧出岳に設置されている。  

「葛城山」の呼称は、歴史的には南北に連なる金剛山と葛城山(大和葛城山)との総称として用いられた。その第一峰を高天山と称し(『大和名所図会』)、金剛山の別称は金剛砂を産出したことによる(『大和志料』)とも、また金剛山転法輪寺の山号にちなむともいわれる。

金剛山ロープウェイが山上の「ちはや園地」まで架けられており、気軽に山上までアクセスできるほか、山頂付近まで林道が整備されており、山頂付近には宿や売店などもある。一帯が金剛生駒紀泉国定公園に属しており、奥河内観光のひとつとなっている。 大阪みどりの百選に選定されている。

金剛山周辺には太平記の英雄楠木正成の城であった千早城、上赤坂城、下赤坂城の城跡や楠公誕生地など、正成ゆかりの史跡が点在している。楠木正成の菩提寺であった観心寺には、正成が少年期に学問を修めた記録が残っている。また古来より金剛山鎮守と称された、建水分神社は楠木氏の氏神であり、本殿(重要文化財)は正成が再建したもので、境内にある摂社の南木神社は正成を祀る最古の神社である。


金剛山は高天山と呼ばれていたこともあったようだが、日航機が墜落した群馬県の御巣鷹山は高天原山の尾根である。
また上にある通り、修験道の聖地である金剛山と葛城山の西側の大阪府の千早赤阪村は楠木正成の城があった地域。
楠木正成も群馬県と関係の深い人物である。

■上赤坂城 
鎌倉時代末期より南北朝時代に存在した楠木正成の本城である。 昭和9年(1934年)3月13日、国の史跡に指定された。
現在、遺構として、等高線に沿った横堀と曲輪が認められる。これは、戦国期に改修を受けたものだと考えられる。

元弘の乱の主要な舞台となった。元弘2年(1332年)の正成再挙兵後、再び下赤坂城が落城すると、新たに築いたが当城が楠木氏の本城となり、幕府軍に対した。翌元弘3年(1333年)、上赤坂城も落城し、正成は千早城に転じてさらに抗戦を続け、幕府軍を苦しめた。

周辺の金剛山の尾根上には下赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。この城塞群は南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年/正平15年(1360年)に北朝方の手に落ちた。


■千早城
大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衝であった千早街道から登りつめた金剛山より西にある一支脈の先端に築かれた山城で、楠木氏の詰め城である。

●楠木正成
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある。
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らとともに天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。


楠木正成が後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった理由。それは後醍醐天皇の夢から始まった。太平記による。

倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、その地で挙兵した(元弘の乱)。
天皇が笠置山に籠ると、笠置寺の衆徒や近国の豪族らが兵を率いて駆けつけてきたが、名ある武士や、百騎、二百騎を率いた大名などは一人も来なかった。そのため、後醍醐天皇は皇居の警備もままならないと不安になり、心配になって休んだ際に夢を見た。その夢の中では、庭に南向きに枝が伸びた大きな木があり、その下には官人が位の順に座っていたが南に設けられていた上座にはまだ誰も座っておらず、その席は誰のために設けられたものなのかと疑問に思っていた。すると童子が来て「その席はあなたのために設けられたものだ」と言って空に上って行っていなくなってしまった。

夢から覚めて、天皇は夢の意味を考えていると「木」に「南」と書くと「楠」という字になることに気付き、寺の衆徒にこの近辺に楠という武士はいるかと尋ねたところ、 河内国石川郡金剛山(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に橘諸兄の子孫とされる楠木正成(楠正成)という者がいるというので、後醍醐帝はその夢に納得し、すぐさま楠木正成を笠置山に呼び寄せる事にした。万里小路藤房が勅使として笠置山から河内に向かい、正成の館に着いてその事情を説明した。すると、正成は「弓矢取る身であれば、これほど名誉なことはなく、是非の思案にも及ばない」と快諾した。そして、正成は人に気が付かれないようにすぐさま河内を出て、笠置山に参内した。


新田義貞が鎌倉幕府を倒幕した人物として知られているが、新田義貞は群馬県の新田に居を構えていた人物。
源義家(八幡太郎)の流れを汲む源氏一族。
源義家(八幡太郎)は源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現:大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれた。
父(源頼義)は弓の達人として若い頃から武勇の誉れ高く、今昔物語集などにその武勇譚が記載される河内源氏の2代目棟梁であり、奥州(現:岩手)の安倍氏と戦ったこともある。

源義家(八幡太郎)の子の1人である源義国が群馬県の新田義貞、栃木県の足利尊氏(室町幕府将軍)の祖であり、新田氏が本家筋で、足利氏が分家筋となる。
足利尊氏は光明天皇(北朝側)に付き、新田義貞は後醍醐天皇(南朝側)に付いた。この時は2人の天皇がいた時代で南北朝時代とも言われる。

1333年5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、その過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞が幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである。

現代のお金にすると10億円を超える金額になるとか。それを5日以内に集めて納めろと幕府側から無理難題な要求と強引の取り立てが行われ、戦意の乏しかった新田義貞もそれには憤激し鎌倉幕府打倒に翻った。
新田義貞の部下を参集し挙兵した場所が新田(現:太田市)の生品神社だったということで、今でもこの神社ではそれにちなんだ「鏑矢祭」という神事が毎年5月8日に行われている。
それに参加するのは地元小学校の6年生男子で黒袴姿で竹製の弓で鏑矢を放つ。(学校が同意書を取るので参加したくなければしなくてもよいことになっている)
うちの息子たちも参加していて、家にまだその時の弓が残っている。
群馬県は大阪や奈良、京都とは結構縁深い所なのである。それを言ったら徳川の江戸(東京)もそうだけれども。

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# by yumimi61 | 2018-10-14 17:08

紀伊と奇異



紀伊半島は日本最大の半島であり、宗教的にも歴史がある地である。
修験道の発祥も紀伊半島内ということになる。
ということで、再び修験道について。


●修験道の開祖ー役小角(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山


修験道
日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。
森羅万象は大日如来の化身と捉える密教思想を背景に、蔵王権現や不動明王などを中心的尊格とする。
明治初年に政府の弾圧を受けて、廃絶とされた経緯があり、現在では仏教教団として存続しているものが多い。
根本道場は、開祖役小角が開いた、吉野・熊野を結ぶ大峰山にある大峰山寺(および金峰山寺)である。主に天台宗(寺門派)の聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派に分かれる。葛城山も開祖修行地として重要視されている。


中央霊場に拠点を置く教団
 吉野修験:修験道の根本道場とされる吉野の大峰山(金峰山)で行われる修験。
 熊野修験:熊野三山を拠点とする修験。
 葛城修験:修験道の発祥地とされる葛城山を拠点とする修験。
 比叡山修験:比叡山で行われる修験。

全国に配下を持つ教団
 本山派:天台宗寺門派の聖護院門跡を本山とする修験道教団。
 当山派:真言宗古義派の醍醐寺三宝院門跡を本山とする修験道教団。



修験道の発祥は地図上の桃色マークの所。
修験道の開祖・役小角が修行していたのが、現在の奈良県と大阪府の境界にある金剛山と葛城山である。
開祖・役小角の出身地である奈良県御所市近くの山である。

その山より右下にも桃色マークを付けたが、そこは大峰山と呼ばれる場所。奈良県にある。
山は大抵幾つかの峰(ピーク)からなっている。それを合わせて「〇〇山」と呼称することが多いが、大峰山も広義に大峰山脈のことで、 狭義には峰の1つである山上ヶ岳のことを指すらしい。
役小角が修行していた山と大峰山の間に奈良県吉野町(吉野地区)がある。この辺りの山は吉野山。

吉野山に金峯山寺という寺があり、この寺を開いたのは役小角だと伝えられている。しかし修験道の修行者・開祖が寺を開いたとは思えない。
金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峰山修験本宗(修験道)の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。

ここからがややこしいが、昔は大峰山の山上ヶ岳(狭義大峰山)辺りから吉野山までを「金峰山」と呼んでいたと言うのだ。
さらに大峰山の山上ヶ岳(狭義大峰山)辺りから熊野までを「大峰山」と呼んでいたと言うのだ。
確かに昔は今よりも山が続いていたのかもしれないが、それに乗じた拡大解釈ではないかと思うようなややこしさである。
そして現代においては根本道場が発祥地(純粋たる聖地)ではなく吉野や大峰方面に移ってしまっている感じがある。

熊野というのは紀伊半島の南東部。黄色でマークしたのが「熊野三山」と呼ばれる「3つの寺」である。
これは奈良県ではなく、和歌山県田辺市・新宮市・なちかつにある。
一頃ワイドショーに賑わした紀州のドン・ファンは和歌山県田辺市の人だった。
群馬で三山と言えば、赤城・榛名・妙義という山のことだが、熊野の三山は山ではない。
本山は、日本の仏教の特定の宗派内において特別な位置づけをされている寺院を指しており、その中でも頂点にあるのが総本山と呼ばれる。
しかしこれも当然実際の山ではない。寺のことである。

先日の記事で東京(江戸)での紀州徳川家の土地を紹介したが、紀州とは紀伊国のことである。
飛鳥時代には紀伊国とは別に熊野国があり、紀伊(紀州)に熊野は入っていなかった。
開祖・役小角が生きた時代は奈良時代より前の飛鳥時代である。


大峰山の西側の赤マークは高野山。ここも和歌山県である。
某放送局の某番組が厳かにここから放送していたことがあると前に書いた場所。天皇が献花していた。

高野山は、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている。
※宿坊は宿泊場所だが、現代では僧侶だけでなく一般の人も宿泊できる。

高野山真言宗の総本山は「金剛峯寺」という名称であり、これまた修験道発祥地である奈良県の金剛山と奈良県吉野の金峯山寺を足したような名でややこしい。


北側の琵琶湖の方の赤マークは、天台宗と真言宗の密教系修験道の本山とされている場所。それぞれ京都の聖護院と醍醐寺三宝院の門跡である。
京都であるからしてすでに紀伊ではないが、平安時代頃には京都に紀伊郷と呼ばれる地域があった。
これは紀州徳川家が江戸や大坂に土地を持っていたのと同様に、紀伊国が平安京のある京都に持っていた土地だったのではないだろうか。
その後明治12年(1879年)に京都府内に紀伊郡という行政区が誕生した。現在の京都市伏見区を中心とした地域である。
真言宗の醍醐寺三宝院はその地域に含まれる。


・世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に含まれなかった修験道聖地の金剛山と葛城山
「紀伊山地の霊場と参詣道」
紀伊山地の霊場と参詣道は、和歌山県・奈良県・三重県にまたがる3つの霊場(吉野・大峰、熊野三山、高野山)と参詣道(熊野参詣道、大峯奥駈道、高野山町石道)を登録対象とする世界遺産(文化遺産)。2004年7月7日に登録され、2016年10月26日に登録範囲の「軽微な変更」がなされた。

高野山、吉野・大峰、熊野三山は三大霊場として、神仏習合の思想によって密接なかかわりをもち、各霊場へと結ばれる参詣道として、大辺路、中辺路、小辺路、大峰奥駈道、伊勢路、高野山町石道が整備されていった。


神仏習合の思想によって密接なかかわりとあるが、明治政府によって禁止され破壊されたのが神仏習合である。それが国家神道の総元締め・伊勢神宮まで繋がっていて(伊勢路)、それが世界遺産ってどう考えてもおかしい。
そのことから言えるのは、高野山、吉野・大峰、熊野三山は神仏習合との関わりを持っていないか、政府公認で仕立てあげた神仏習合の歴史を持っているんだろう。

下の地図は和歌山県世界遺産センターより
2016年の「軽微な変更」は赤い部分。
一番上のオレンジ色塗りつぶし箇所は私が書き入れたものですが、その辺りが修験道の聖地である。霊山・霊場。
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修験道の聖地である金剛山と葛城山の西側の緑のマークはかつて上赤坂城があった所(城跡)。
所在地は大阪府南河内郡千早赤阪村上赤阪。「上赤阪城」と書くこともある。別名、楠木城。小根田城、桐山城とも言う。楠木七城の一つ。

(ページを変えて続きます)





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# by yumimi61 | 2018-10-14 11:25

親水

前記事、天理教の続きです。

中山みきが最初に憑依し天啓を受けたのは1838年のこと。
中山家の評判は悪くなったり、みきの精神状態も不安定となり、順風満帆な滑り出しとは言えなかった。支持する者が増えたのは1864年頃というから最初の憑依から26年もかかっている。
これはやはり異端視や迫害があり、公的にも民間的にもなかなか受け入れてもらえなかったという事情があったからのようだ。

そんな状況を好転させるのに一役買ったのが飯降伊蔵という人物だった。

飯降伊蔵(いぶりいぞう)
大工、宗教家、教祖中山みきの教示にもとづき、甘露台を中心となって建立し、後に天理教の本席を務めた人物である。
天保4年12月28日(1834年2月6日)、大和国宇陀郡向渕村(現奈良県宇陀市室生向渕)にて飯降家の四男として生まれた。幼名は亀松。彼の父親は村の庄屋を務めていたが、彼が8歳のとき村の金を無断で使い込んだ嫌疑をかけられ、その地位を追われた(その後無実であったことが判明している)。その後伊蔵は14歳のころから村で大工としての修行を始め、22歳のころ独立して櫟本(現天理市櫟本町)に出て身を立てた。

1864年、3番目の妻が産後に患った時に、天理教教祖中山みきのもとを訪ね神様の話を聞き、命を助けてもらったと思い天理教信仰の道に入った。
それ以降彼は櫟本から教祖の所へ毎日通い、その間には教祖から、願い人からの相談事などがあった時に扇を持って願いを聞き、指図を出す「扇のさづけ・言上のゆるし」を頂き、「おつとめ」を行う建物の建設に苦心を重ね、世間の迫害が強まる中教祖を支え働いた。

飯降が天理教信仰の道に入った1864年というのは、中山みきを支持する者が増えた年と合致するので、やはりそれはこの飯降伊蔵の功績というべきなんだろう。
中山みきだけでは天理教はなかったかもしれない。

明治15年(1882年)には一家そろって中山家に住み込み、みきが死去した明治20年(1887年)からは「本席」という地位につき、明治40年(1907年)に73歳で死去するまでの約20年間に渡り教祖みきに変わって信者たちに神の言葉を伝え、初代真柱中山眞之亮と共に二頭体制のもとで天理教の教勢を拡大させていった。

晩年、彼は自分の死後に教示を伝える人間が必要に思い、上田ナライトという女性信者を二代目本席にしようと考えていたが、彼女は病気等の理由からその役目を全うすることが出来ず、次第に教団内での影響力を弱めていった。ナライトが中心から離れていったことから、「真柱」・「本席」の二頭体制は終わった。


上手くいけばいったで、今度は新たに権力争いみたいなものが始まるのが常。

初代真柱・中山眞之亮は、中山みきの孫にあたる人物である。
天理教が一端に確立するまでの中山みきを実務的にも精神的にも支えたのは飯降伊蔵のほうだったのだろうけれども、この方は赤の他人と言えば赤の他人。一方は血を引く者。
でもとりあえずは二頭体制を敷いていた。
大学に当てはめれば、「真柱」が理事長で、「本席」が学長。
要するに裏方で経営事務などを担当するのが「真柱」で、教え(対信者や布教)など実務的な部分の代表者が「本席」。
「真柱」(理事長)を中山の親戚筋が担当し、「本席」(学長)を功労者だけど赤の他人が担当した。
「大工上がりの赤の他人が表に出て何を偉そうにしているんだ。あいつが教えの中心にいるのはおかしいではないか!」と親戚筋は口々に言ったそうな。

・原理主義派(神の意思や教祖中山みきの意向に忠実であるべき)→本席派
・親戚派(やっぱり教祖の血筋を大事にすべき)→真柱派
・教会本部作ろう派(国家におもねて時代の潮流に乗り建設的に組織化すべき)
・祈祷派(とにかく私を救って、大事なのは誰かを救うこと)

すなわち原理主義派が「本席」派とも言える。しかしこの派閥はやはり当時(明治期)の国家方針にはそぐわないものだったらしい。
原理主義派以外が国家の力を背景に次第に勢力を増していった。
同じ天理教の中にも国家から認められる派と認められない派があったということである。
天理教が独立教派として認められたのは、「本席」の飯降伊蔵が死んだ翌年のこと。以後は「真柱」一頭体制で中山家が世襲している。

・1867年(慶応3年)、中山みき、みかぐらうた「十二下り」の歌と手振りを教える。京都吉田神祇管領に公認出願、陰暦7月23日に認可。

明治8年(1875年)3月 神道事務局を結成

明治10年(1877年)1月11日 神仏合同布教禁止令、教部省は解散・廃止
⇒教部省の機能は内務省の社寺局へ移された。

神道事務局が事務局という体裁を脱ぎ捨てて宗教団体に様変わりした。明治17年(1884年)のことである。
神道事務局は、有栖川宮を総裁、旧淀藩主の稲葉正邦を管長にした宗教団体に生まれ変わり、明治19年(1886年)に独立教派となった。


・1885年(明治18年)5月23日、神道本局から神道直轄六等教会設立認可。「神道天理教会」として布教が公認される。

・1887年(明治20年)2月18日(陰暦1月26日)午後2時ごろ、教祖・中山みき死去(90歳)。
・3月25日(陰暦3月2日)、飯降伊蔵が本席と定まり以後、本席が親神の意志を伝える。本席により『おさしづ』口述筆録を始める。(1907年(明治40年)まで) 

1888年(明治21年)4月10日、東京府知事から神道直轄天理教会本部設立認可。7月23日、現在の教会本部所在地(現在の奈良県天理市)へ移転。この年立教50周年

・1896年(明治29年)4月6日、内務省訓令第12号発令(秘密訓令・甲第12号)。当局の取り締まりが苛烈となる。

・1907年(明治40年)6月9日、本席・飯降伊蔵死去(75歳)。

・1908年(明治41年)、明治政府より一派独立認可。



・東京からの奈良
注目すべきはラインを引いた箇所。
天理教は東京府知事から神道直轄であることを条件に本部設立の認可を得ている。そして3ヶ月後には本部を奈良県に移転した。
これは裏ワザというか策略である。
すでに明治時代に入っていたとはいえ、天理教は旧都地域であり仏教や修験道の聖地も抱える近畿圏において本部設立許可が得られなかったのだ。
教祖・中山みきのルーツや教祖になった背景には仏教(浄土宗)や修験道が存在している。
政府は神道しか認めておらず天理教にも神道であることを釘さしているが、もし仏教や修験道聖地で勢力拡大するようなことがあれば面倒なことになりかねない。
真柱(親戚派)を中心とした本部設立計画だったが、そんな危惧からか近畿圏での本部設立申請は却下されていた。
「皆に受け入れられないのは私がいるからなんだわ」と思ったのか、「ちょっとお前引っ込んでおけ」と言われたのか、教祖・中山みきは1887年(明治20年)に身を隠す。

そして真柱派(親戚派)を中心にとある計画を企てた。
まず東京府で本部設立の認可を受けて本部を設立した後に、その権利を持って奈良県に本部移転するというものである。
これで天理教本部の発祥地は東京ということになる。しかも教祖が姿を消していた時期。

・水入らず
突然ですが、水入らずという言葉がありますね。
水と油は溶けあわない。だから油に水とは性質が合わずに調和しないことを言う。
「水入らず」とはつまり、油が内輪の者、親しく馴染む者であり、水が馴染まない異質な者ということである。

天理教には「さづけ」なるものがあるらしい。
その「さづけ」を貰った者が病む人に取り次いで回復のご守護を願うものだそうです。
本席派の時代には種々の「さづけ」が存在していたようだが、その中に特別な2箇所の井戸水による「神水のさづけ」があった。

①安堵の水安堵の井戸
大和国生駒郡安堵村(現:奈良県生駒郡安堵町)の資産家・飯田家の井戸水。
1863年に飯田家の子供の腹痛を助けるために教祖・中山みきが飯田家を訪れて滞在する。
滞在中に井戸を見定めて、1つの井戸を選び、「水のさづけ」を渡した。
(ということは、腹痛の原因は水だったのかな)
翌年にも教祖が飯田家を訪れてその子供に手作りの犬のぬいぐるみを渡したりした。

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飯田家の子供が貰った教祖手製の犬の縫いぐるみ(だそうです)


それらが近所で評判になり、飯田家にはその水の御利益に授かろうと多くの人が訪れるようになった。
さらに次第に評判は広がっていき、奈良県生駒郡法隆寺村の修行者が奈良の金剛院の者を従えて厳かに飯田家を訪れたという。
やはり仏教や修験道に影響が及びつつあった。

明治21年(1888年)、東京で設置認可を受けて奈良に移転しようという謀議に使われた場所はこの飯田家であった。謀議には神道本局が一枚噛んでいて、会議から3日後には東京で設立許可が下りる。
設立場所として申請された場所は東京都下谷区北稲荷町42(現:東京都台東区東上野5-3-14)である。

②東の水東の井戸
明治14年(1881年)に天理教の上原佐助という者が関東に布教に出た。
そして東京で講社を設立した。
上原佐助は備中国小田郡笠岡村(現在の岡山県)出身。天理教には明治18年(1885年)に入信した。

東京で本部設立許可を得て天理教の本部が設立されたのは上記の通り1888年で、現在の台東区東上野5丁目になる。
ちなみに台東区東上野1丁目に1879年に設立されたのは、明治天皇から「井上神社」の社号が賜与された禊教の井上神社である。
5丁目が山手線の外側で上野駅近く、1丁目は同じく山手線の外側で御徒町近くとなる。

設置認可を受けて設立するも最初から奈良移転する予定であり、実際に3ヶ月後には移転。
東京のその場所はとりあえず天理教会本部出張所という名目になった。
翌年に東京の講社に譲渡され、東分教会(現:東大教会)となった。初代会長は上原佐助だったらしいが、とはいえ移転前提での土地買収だったので建物がなかった。
しかし上原佐助はお金がなかったわりには食道楽で肥満体型だったという・・。

『清水由松傳稿本』より

明治十八年七月入信、東京のしるべをたよって布教の為上京、食うに食なく三年ほどどん底の単独布教の結果、漸く北稲荷町の現在東大教会所在地に落ちつかれた。明治廿一年教会本部設置につきその地を本部の手で買収、后更に東(あずま)に譲って頂いたのである。
当時は上原先生もまだまだやっと糊口をしのぐ時代で、本部からの先生方を賄う力もなく、先生方は皆自費で賄われた。そして上原さんの信徒で裕福であった中台勘蔵さんがとても力を入れた。その為本部設置后中台さんの日本橋は分離して、直轄の理を頂いた。
上原先生は親切な人で食道楽というほうであった。気まめに家で美味しいものを拵らへては、まづ真柱様や本席様にさしあげられるのであった。非常に甘いものがすきで、当番の時などよくおはぎを拵らえて振舞われた。あまり肥満しておられた為夏は随分苦しかったらしく、「泣きぐらしや」とよく冗談をいわれ、一日に七遍位入浴された。
最初の東詰所は布留の板の古紡績工場買うて建てられ、それ迠は高井先生の家を一部借りて住居し、信徒は皆豆腐屋に泊っていた。明治三十二年頃今の敷地を求めて前記古家を移築したのである。なかなかの経済家で薪炭米穀などの購入は手に入ったものであった。
本部員になられたのは割合遅く、明治廿八年頃で、教祖様の十年祭まえ、おさしづによって理を頂かれた。晩年咳に苦しまれ本席様からよく飴を頂いては、昼当番だけつとめられた



東分教会とは名ばかりで、本部には目を掛けられず。
それを見かねたのか、東分教会に訪れたのが本部と折り合いが悪かった本席・飯降伊蔵。明治24年(1891年)のことである。
これまでは人に直接「さづけ」を渡していたが、この時は上原佐助ではなく土地に「清水の水」という「さづけ」を渡した。
この清水のさづけが天理教の関東進出に貢献したという。
特に築地に出入りする人や吉原の遊女らに広がったという。

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これは上原さんとも天理教とも全く関係なく
前に私が買ったおはぎに細工した「創作おはぎ」です。


明治22年(1889年)2月11日 大日本帝国憲法公布
明治23年(1890年)11月29日 大日本帝国憲法施行


明治新政府が樹立した時に若干16歳だった明治天皇も大日本帝国憲法施行時には37歳になっていた。
大日本帝国憲法第1条および同第4条は「国家の統治権は天皇が総攬する」と規定し、また第10条では「官制大権が天皇に属する」とも規定している。
地方分権を廃し中央集権とし、直接的な君主制を敷いて、天皇が多くの職能を有した。

第28条には条件付きの信教の自由についての記述がある。
「日本臣民は、安寧秩序を妨げず、かつ、臣民としての義務に背かない限りにおいて、信教の自由を有する。」

政府は「神道は宗教ではない」(神社非宗教論)という公権法解釈に立脚し、神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しないとの公式見解を示し、また自由権も一元的外在制約論で「法律及び臣民の義務に背かぬ限り」という留保がされていた。

国家神道は国民的道徳を併せ持ち、それは人民の義務であるからして、国家神道、要するに国の命令や意向に背いての信教の自由などありえない、ということなのだ。
政府は国家神道を宗教とは見做さないというスタンスに立っていた。
国家神道は国家神道。(神社神道と言うこともある。国民の道徳と考えてもよいかもしれない)
神聖不可侵の天皇が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と国民との間に伝統的な強い絆があることを前提に国家神道は存在し、全国の神社はそれに追従をする。
総元締めは伊勢神宮。神官と呼ばれる官吏としての神職は伊勢神宮に奉仕する者のみとなった。

この「国家神道」と、「仏教やキリスト教や教派神道などの宗教」とは全く異なるものであると定めた。
宗教は国家神道の統一的な管轄からは独立した存在であり一見自由であるようだが、日本にいる限り宗教の上に必ず国家神道が横たわることになる。
そのために、一神教であるキリスト教や教祖が一番の宗派宗教、道徳観が異なる宗派宗教など国家の方針に反するものとは衝突するようになり、弾圧が厳しくなった。

大日本帝国憲法施行よりもずっと早い明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となっていた。
明治新政府はそれを「江戸時代までの武士(士族)による軍事的職業の独占を破った!」「武士の階級的な特権は廃止された!」と、須らく国民が戦争に参加することをまるで自由でも勝ち取ったかのように誇った。
大日本帝国憲法第19条は「人民の等しい公務就任権」を規定し、同第20条は「兵役の義務」を規定した。平等や自由は時に容赦なく残酷なものである。

いよいよ日本という国家は外国相手の戦争に突っ走る時が来たのだ。

明治27年(1894年)ー明治28年(1895年) 日清戦争
明治37年(1904年)-明治38年(1905年) 日露戦争




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# by yumimi61 | 2018-10-12 12:45

天空回廊

幕末期に起こった新宗教で明治時代に独立教派として公認された14の神道系教団(のちに1団体が離脱し13団体)が教派神道と呼ばれる。

前記事に13までの教団を書いたので、今日は14番目の「天理教」。

●明治41年(1908年)に独立
14.「天理教」


教祖は中山みき。女性。
寛政10年4月18日(1798年6月2日)に大和国山辺郡三昧田村(三昧田村→朝和村→天理市で、現在は奈良県天理市)の庄屋・前川半七正信の娘として生まれる。

前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の尼僧になることを希望し、19歳の時に中山家の檀那寺であった勾田村(現・天理市勾田町)の善福寺にて五重相伝を受ける。

文化7年9月15日(1810年10月13日)に、前川みきは大和国山辺郡庄屋敷村(庄屋敷村→三島村→山辺村→天理市で、現在は奈良県天理市)の庄屋・中山善兵衛と結婚し、中山みきとなる。

天理教本部がある場所は天理市三島町で、それはかつての三島村であるが、中山家は庄屋敷村にあった。庄屋敷村は後に三島村に吸収された。

運命の日は中山みきが40歳の時に訪れたという。

天保9年10月23日(1838年12月9日)の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。

山伏というのは修験道の修行者のこと。
巫(ふ・かんなぎ)は神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々のこと。巫は女性で、覡が男性で、巫覡とも言う。かんなぎは「神和」とも書く。
自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物を指すことが通例である。古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であった。祭政不分の社会であれば、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持った。
「かんなぎ」と言う場合は、特に日本の巫を指す。現在、神職の一般呼称である「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ職のことであった。日本においては古来より巫の多くは女性であり、巫女(みこ、ふじょ)という呼称で呼ばれることが一般的である。ただし、古代初期の日本においては巫女と同一の役目を担う「巫覡、男巫、巫子」も少なからず存在していた。


巫女の別名には「大弓」や「小弓」もあり、これは祈祷の際に弓弦を用いたことなどから。
朝廷の巫系と民間の口寄せ系に区別することもあり、口寄せ系では東北のイタコが有名である。
明治以降の巫女は神社で神事の奉仕をしたり、神職を補佐する役割へと変化し、現代ではアルバイトの巫女がいたりするが、昔のそれとは全く違う。

中山みきが息子のために祈祷をお願いした際に、巫が不在だったため自身が代役を務めたということなのだ。
そしたら中山みきに憑依した。

このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる。
このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「我は天の将軍なり」あるいは「大神宮」とこたえたとされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依し天啓を受けたとされている。

再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、10月26日(同年12月12日)になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した

その承諾した日が天保9年10月26日(1938年12月12日)だった。
場所は森神社(現在の三島神社)。
中山みきの口を通して親神の意志が伝えられるという形で、天理教が誕生した。
だが中山家の評判は悪くなったり、みきの精神状態も不安定となり、順風満帆な滑り出しとは言えなかった。支持する者が増えたのは1864年頃というから最初の憑依から26年もかかっている。

三島神社はかつて天理教本部(奈良県天理市三島町1-1)の敷地内にあったが、1988年に鏡池を埋め立てて、少し北側に位置する現在地(奈良県天理市三島町92-1)に移転したそう。
ただもともと教会本部は今より少し北側に位置していたらしい。

e0126350_17292653.jpg
天理教本部の東側に布留町という町があり、布留川が西に向かって流れている。布留川の下流には中島という場所があったらしい。
その布留川はかつて三島町で枝分かれし、現在の天理教本部前の天理本通が三島川だった。上の地図に青で線を引いた所(下流はよく分からないので途中までの線になっています)
大正時代の拡幅工事の際に三島川は蓋をされ、地下に潜ってしまっている。
マークしてある所が天理市の市役所。天理駅はJR西日本の桜井線(万葉まほろば線)と近鉄の天理線が乗り入れている駅。

・実家は浄土宗で、自身も熱心な信者だった
上に書いてあるように、中山みきの実家・前川家は浄土宗の檀家であり、しかも檀家ということだけでなく、みきは浄土宗の尼僧になろうと思っていたくらい熱心な信仰者だった。

現代日本では一般的に信仰心自体が薄いために結婚の際に宗教(信仰)が問題にされることはあまりないように思うが、自身の名前や生活や冠婚葬祭に関わることだけに実はこれが違うとなかなか大変である。
外国などでは現代でも両家を巻き込んで揉める原因にもなり得る。正式に改宗が必要な場合も出てくる。

嫁ぎ先の中山家がどのような信仰を持っていたのかは不明であるが、息子の足の病気のために祈祷を依頼したのが「修験道当山派内山永久寺の配下の山伏」だったということである。

・内山永久寺 

当山派というのは、真言宗の密教系の修験道の一派。
そこでもう一度修験道のおさらい。

修験道:日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。

●修験道の開祖ー役小角(えんのおづの)(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
役小角は700年頃に(木曽)御嶽山登頂に成功したと言われている。

役小角は最澄や空海(弘法大師)よりも古い人物で、修験道開祖は仏教の天台宗や真言宗の開祖よりも早い。
天台宗や真言宗は仏教の中でも平安仏教と呼ばれる平安時代以降に勃興した宗派。
その前の奈良時代には奈良仏教(南都六宗)が栄えていた。

●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山

真言宗の密教(東密)は、空海が中国より真言密教を持ちこんだ。
天台宗の密教(台密)は、最澄の時代は弟子を空海の所に送りこんで学ばせていたが、最澄亡き後に弟子たちが独自に完成させた。
この宗派よりも早くに成立していた修験道が密教に関係あるので、比叡山や高野山も修験道に数えられる。


では内山永久寺というのは、真言宗密教系だったのか?
実はこのお寺、規模が大きくかなり有力な寺院だったが、明治時代の廃仏毀釈で目の敵にされた寺院の1つだった。

内山永久寺
奈良県天理市杣之内町にかつて存在した寺院である。興福寺との関係が深く、かつては多くの伽藍を備え、大和国でも有数の大寺院であったが、廃仏毀釈の被害により明治時代初期に廃寺となった。寺跡は石上神宮の南方、山の辺の道沿いにあり、かつての浄土式庭園の跡である池が残る。
三方を山に囲まれていることから内山といい、院号を金剛乗院といった。

『永久寺置文』(東京国立博物館蔵)、菅家本『諸寺縁起集』によれば、永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世院主の頼実が創建し、第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められた。
当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。
『太平記』によると延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、「萱御所跡」という旧跡が残された。

近世には院家の上乗院が寺主となって興福寺の支配下から離れ、真言宗寺院となっている。

明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた当寺は廃寺となって僧侶は還俗し、石上神宮の神官となった。更に、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく徹底した破壊と略取の対象となった。この際流出した仏像・仏画・経典等はいずれも製作当時の工芸技術の精華と言うべき優品揃いであったことが知られている。海外に流出した宝物の内、ベルリン民俗学博物館が購入した真然筆と伝えられる真言八祖像などは第二次世界大戦末期のベルリン市街戦で烏有に帰した。しかし、日本国内に残存した宝物の大半が、現在重要文化財・国宝指定を受けていることは、当寺の得ていた富がいかに巨大であったかを物語るものである。

現在では当寺の敷地の大半は農地となり、本堂池と萱御所跡の碑と松尾芭蕉の歌碑が往時をしのぶだけである。


以下写真と文章は天理市ホームページ文化財より
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明治年間の廃仏毀釈より徹底的な破壊を受け、いまは境内の池などにわずかに面影を残すに過ぎません。
明治維新後に寺領の返還、境内の土地や伽藍の売却などの変事があり、明治9(1877)年までに「大和の日光」ともうたわれた豪華な堂坊が礎石から瓦一枚に至るまでとりのぞかれました。現在は本堂池がわずかに当時の面影を残すのみとなっています。貴重な仏像、障壁画、仏画等は散逸し、一部は国外にも流出しています。


説明にあるように内山永久寺は興福寺系列の寺院だった。
興福寺は真言宗や天台宗という平安仏教が起こる以前より栄えていた奈良仏教のお寺である。
法相宗は、仏教の空、唯識(ゆいしき)思想を持ち、8種の「識」を仮定(八識説)している。

興福寺
奈良県奈良市登大路町にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。
慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。子院は全て廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。

(余談)興福寺と言えば、以前掲載したたぶん高校修学旅行の時の絵葉書セットの1枚に「冬の興福寺」がありました。

内山永久寺が真言宗になったのは豊臣秀吉の時代で、その時代というのはキリスト教イエズス会との関わりが散見される。豊臣秀吉は当初反織田信長だったが、晩年気持ちに変化があったようにも思われる。

中山家が祈祷を頼んだ時代は江戸時代なので内山永久寺が真言宗であってもおかしくはないが、内山永久寺や興福寺が明治期に徹底的に破壊されたように、明治新政府や浄土真宗が認めたり残しておきたくない寺院の代表格であった。
しかも祈祷を依頼したのが、その寺の配下の、これまた明治新政府が禁止した「修験道」の修行者(山伏)である。
そのことが真実ならば、そこで神から天啓を受けて教祖になった中山や天理教をどう考えたって明治政府が認めるわけないと思うのだが。
すなわち、このエピソードは後世に教団で創作されたものか、あるいは最初から政府公認の上で仕立てた嘘エピソードかということになる。





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# by yumimi61 | 2018-10-11 17:11

刷新

明治8年(1875年)3月に神道事務局が結成され4月に開局した。
伊勢神宮が日本全国各地に古くからあった神社の元締めのような感じになり、一定の条件を満たした新宗教教団は独立教派として公認していった。最初の公認は1876年。
明治時代には天皇が神となり神道国家の最高権力者になったのだから、独立教派になるためには天皇の許可(勅許)が必要だったわけである。(まだ大日本帝国憲法も制定されていない時代)
幕末期に起こった新宗教で明治時代に独立教派として公認された14の神道系教団(のちに1団体が離脱し13団体)が教派神道と呼ばれる。

●明治9年(1876年)に独立
1.「神道修成派」
前記事に記載した通り、’阿波’の’新田邦光’が明治2年(1869年)に開教。
2.「黒住教」 
岡山県岡山市にある神社(今村宮)の神官・黒住宗忠が文化11年(1814年)に開教。

●明治15年(1882年)に独立
3.「神宮教」(伊勢神宮教)
伊勢神宮の少宮司で教部省にも所属した浦田長民が神宮教会を設立。
新たに伊勢講社を設立し、従来の伊勢信仰の伊勢講(太々講)とともに神宮教会の傘下として再編成した。各地の講社の名称は最初は愛国講社などであったが、明治6年(1873年)に神風講社と統一された。
明治6年(1873年)には伊勢神宮の大宮司の寄付によって明治神宮内にも神宮教会を設置した。
神宮教会の中枢部を神宮教院とした。
 神宮教院>神宮教会>講社
 教区を設け、全国の各教区に本部教会1つと支部教会を置いた。

・講社ー同じ神仏を信仰している人々で結成している団体。 講。
・太々講ー神社へのお参りを目的とした講。旅費を積み立てて、 くじ引きで代表を選んで交代で参詣した。数十人のメンバーのうち毎年2,3人が行けるといった感じ。

講社は同じ神仏を信仰している人々で結成している団体であるが、宗教的教義がどうこうよりも参詣や登山(山岳信仰の場合)そのものが目的となっている講社もあり、講社と太々講の区別は明確には付かない。
現代では「伊勢講・伊勢太々講(お伊勢参り)(お蔭参り)」だけが知られている観があるが、各地に存在した。
成田講(千葉県の成田山)、熊野講(和歌山県の熊野)、大山講(神奈川県の大山)、出羽三山講(山形県の月山・羽黒山・湯殿山)、榛名講(群馬県の榛名山)、冨士講(富士山)、御嶽講(木曽御嶽山)など。

明治15年(1882年)に「神官教導職分離令」が出され、神職の布教活動が原則禁止されたため、伊勢神宮でも同年、祭祀を司る神官と布教を行う教導職との兼補を廃止し、神宮司庁と神宮教院を分離した。そのうちの神宮教院が教派神道の一派となった。

4.「出雲大社教」(大社教・神道大社教) 
明治6年(1873年)に出雲大社の大宮司が創設した教団。出雲大社は島根県出雲市にある。;

5.「扶桑教」 
明治6年(1873年)に散在する富士講を結集して「富士一山講社」を設立。明治8年(1875年)に「富士一山教会」と改称。さらに翌明治9年(1876年)に「扶桑教会」と改称した。

扶桑とは?
中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木・扶桑木・扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。
Fusang (Chinese: 扶桑; pinyin: Fú Sāng) refers to several different entities in ancient Chinese literature, often either a mythological tree or a mysterious land to the East.
In the Classic of Mountains and Seas and several contemporary texts, the term refers to a mythological tree of life, alternately identified as a mulberry or hibiscus, allegedly growing far to the east of China, and perhaps to various more concrete territories east of the mainland.


6.「実行教」 
富士信仰を持つ富士講の1つだった不二道の指導者が明治11年(1878年)に実行社を組織した。

7.「大成教」 
奥州(福島県)三春藩士で、幕末の1866-1867年には外国奉行の1人だった平山敬忠(後の省斎)が明治維新後宗教活動に身を転じ、明治5年(1872年)に教導職となり、明治9年(1876年)に氷川神社(総本社はさいたま市にあり)大宮司となり、明治12年(1879年)には大成教会を組織した。
また御岳教が独立を果たす際に御嶽教の管長も兼務した。

8.「神習教」 
美作国(現在の岡山県真庭市蒜山上福田)出身で、尊王攘夷を唱え勤王運動に参加した芳村正秉が組織した。
明治時代に入ると芳村正秉は西郷隆盛の紹介により神祇官に就く。明治6年(1873年)には伊勢神宮に奉職。西郷隆盛の紹介で明治天皇に非公式で何度も面会している。伊藤博文に妻子を預けて自己の神道を確立した後、明治13年(1880年)に「神習教会」を設立した。
教丁は東京都世田谷区にある。

9.「御嶽教」 
木曽御嶽山信仰を基盤とする御嶽講社があり、幾つかの講社を集めての組織化(御嶽教結成)に尽力したのは下山応助という油問屋を営む人物だった。明治13年(1880年)にその御嶽教が「大成教会」に属する。1882年御嶽教が独立教派として公認される直前に御嶽教の下山応助が行方不明となり、大成教会の平山が御嶽教の管長も兼ねて独立教派入りする。

●明治19年(1886年)に独立
10.神道本局(のちの神道大教)
浄土真宗が大教院を脱会した2か月後の明治8年(1875年)に結成された神道事務局。その2か月後には大教院が閉鎖され、さらに2年後には教部省も廃止に至る。
よって「天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、宗教統制によって国民教化する」という明治新政府の目標は神道事務局によって統率されることになった。
神道事務局とは伊勢神宮と幕末期に起こった神道系の新宗教教団の教導職によって結成されたものである。

この神道事務局が事務局という体裁を脱ぎ捨てて宗教団体に様変わりした。明治17年(1884年)のことである。
この時に12年間続いた半官半民の教導職(神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども任命された)も廃止された。

神道事務局は、有栖川宮を総裁、旧淀藩主の稲葉正邦を管長にした宗教団体に生まれ変わったのだ。
そして明治19年(1886年)に独立教派となった。

有栖川宮は江戸時代初期から大正時代にかけて存在した宮家(世襲親王家)。
当時は8代目の幟仁親王(1812-1886年)の時代であった。

私はこの有栖川宮熾仁親王についても前に書いたことがある。
ちょっと長いが転載しよう。
(過去記事より)(アンダーラインは今回入れたものです)
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1868年1月3日(慶応3年旧12月9日)に王政復古の大号令が発令された。
その時に作られた政治体制は「三職」であった。
 1.総裁(有栖川宮熾仁親王)
 2.議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)    
 3.参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)

表の最高権力者は有栖川宮熾仁親王であった。
明治初期に権力を持っていたのは、長州藩でも天皇でもなかったのである。
つまり天皇同様に長州藩もすんなりと一国を回していくにはやや実力不足であった。
転換の混乱期にあまり表舞台に立たないほうがよいだろうという打算もあったのかもしれない。

では有栖川宮熾仁親王とは何者か?
総裁の有栖川宮熾仁親王は明治天皇や長州藩から信頼を得ていた人物だったのだ。
有栖川宮家はもともとは徳川家や幕府関係者とも親密な宮家だったのが、幕末の有栖川宮家の幟仁親王(父)と熾仁親王(子)は長州藩と内通しており、孝明天皇から処分されている。
王政復古後に熾仁親王(子)は三職の総裁に就任し、幟仁親王(父)は国家神道普及の道を歩んだ。
 

(王政復古直後)長州藩に近い皇族→(数ヶ月で)長州藩に近い公家→(1885年)長州藩士という流れで、首相が誕生した。
以前リンクした記事に裏天皇は旧徳川勢力とあったが、江戸時代というよりもそれ以前からある宮家や公家の中に倒幕派に付いた者がいたのである。また幕末にはそれまでの親幕府から翻った藩もあった(親倒幕派が藩主に就いた)。
それに追加して明治維新の混乱に乗じて発生した怪しい宮家もあり、それらも当然のことながら明治天皇や長州藩派であった。

熊本洋学校ジェーンズ邸は、西南戦争にて明治政府側の征討大総督であった有栖川宮熾仁親王の宿所とされた。
この有栖川宮の許可により、旧ジェーンズ邸に博愛社が設立された。
その博愛社が10年後に日本赤十字社となったため発祥の地と言っているのだが、ジェーンズとも熊本洋学校とも関係ない。跡地だったということだけだ。
今回の熊本地震でジェーンズ邸も倒壊してしまったらしい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

有栖川宮家は幕末に討幕派に寝返りスパイみたいなことをしていた。
そして新政府になると最重要な役職に就いたのだった。
明治維新前後の有栖川宮家父子。
熾仁親王(子)・・明治天皇よりも17歳年上
明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。
幟仁親王(父)・・明治天皇よりも40歳年上
明治新政府の議定・初代神祇事務総督・神祇事務局督に就任。明治14年、数多の神道家の請願により神道教導職総裁に就任。翌年には皇典講究所総裁として皇学の隆盛に尽力した。

この有栖川宮家は1923年に断絶している。しかし・・・
有栖川宮の祭祀および財産は、大正天皇の特旨によって光宮宣仁親王により引き継がれ、宣仁親王には有栖川宮の旧称である「高松宮」の宮号が与えられている。ただし、旧皇室典範によって皇族の養子縁組は禁じられていたため、宣仁親王が有栖川宮の当主を継承したわけではない。
引き継いだという光宮宣仁親王は昭和天皇の弟であり、現在の天皇の叔父にあたる方。

江戸幕府最後の将軍は第15代将軍・徳川慶喜だった。
徳川将軍の中で、在任中に江戸入城を果たさなかった唯一の将軍。また最も長命だった将軍である(76歳没)。
彼の母親は、有栖川宮家の6代目織仁親王の娘・登美宮である。
登美宮は水戸藩(親藩)9代藩主・徳川斉昭の正妻となった。夫妻の子が第15代将軍となった。
幕末の有栖川宮家当主は8代目・幟仁親王。この方は6代目の孫にあたる。
最後の将軍に非常に近い宮家が討幕派のスパイとして暗躍していたということ。

もうひとつ領地に注目してみた。
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の有栖川宮領は以下の通り。(2村・1,000石)
・山城国葛野郡のうち - 2村
  大石中里村のうち - 664石1斗3升7合5勺1才2撮
  安養寺村 - 335石8斗6升2合4勺8才8撮


注目したのは「安養寺」という名称である。有栖川宮家が京都に持っていた領地に安養寺村があった。
先日、脇屋義助(新田義貞の弟)についての転載文に「兄・義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見された」という箇所があったが、それは明王院安養寺という寺院である。真言宗豊山派らしい。
だが寺院になる前は安養寺館(屋敷)だったのだ。総領家クラスの屋敷で、新田義貞館跡の可能性が高いと言われている。
現在は太田市であるがかつては新田郡尾島町だった所で安養寺は地名でもあった(尾島町に属する前は安養寺村)。
2005年に新田郡新田町、新田郡尾島町、新田郡藪塚本町が太田市と合併し、市名で少々揉めたものの太田市となった。
尾島町は徳川家の発祥の地としても知られている。
新田氏の始祖 義重 の子 義季がこの地を領有し、徳川姓を名乗ったことから「徳川氏発祥の地」と呼ばれる。

安養という言葉は極楽の別名であり、そのため多くの寺院で用いられていて、全国各地に見られる。地名としても幾つかある。しかし討幕派が意識するとしたらやはり徳川氏発祥の地である安養寺だろう。

●明治27年(1894年)に独立
11.「神理教」 
教祖は豊前国企救郡徳力(現:福岡県北九州市小倉南区)出身の佐野経彦。国学を学んでいたが明治維新後に宗教家に転じ、明治元年(1868年)に神理教を開教。明治13年(1880年)に北九州市小倉南区で神理教会を設立した。
その後、御嶽教に属していたが、明治23年(1890年)に御嶽教から独立し、明治27年(1894年)に独立教派として認められる。

12.「禊教」
館林藩士・館林藩勘定方安藤真鐵の子として江戸・日本橋浜町にて生まれ、母方の縁者の養子に入り井上姓となった井上正鉄は国学の他、医学や禅宗を学んでいた人物。
1840年に神職に就き布教を始めるも、寺社奉行より邪教(新義異流)の嫌疑がかけられ入牢。のちに三宅島に流刑となり、同地で死去。
明治維新後、井上正鉄の弟子であった坂田正安・鉄安父子らによってその思想が纏められ、正鉄を教祖とする「禊教」が開教された。
坂田らはやはり邪教の嫌疑をかけられるが、正鉄の門弟は各地に相当数いたためなおも布教が続き、幕末には複数の団体が独自に活動していた。
しかしそのせいで対立もあり1つの組織にまとまらず、2つの派閥に分かれる。
・坂田鉄安が明治7年(1874年)に講社内部に「惟神教会」を組織。
明治12年(1879年)に明治天皇から「井上神社」の社号が賜与されて神社を下谷西町(現:東京都台東区東上野)に建立。
その後、惟神教会は出雲大社教への所属を経て、神道本局に所属先を変更し「禊派」となり、明治27年(1894年)に「禊教」として独立教派として認められる。
・枝分かれしたもう1派のほうは「大成教」に属した。

●明治33年(1900年)に独立
13.「金光教」
江戸末期の安政6年(1859年)に備中国(現:岡山県)にて赤沢文治(川手文治郎)が開教した。
後にこの教祖が金光大陣と改名し、さらには金光大神と神になる。
現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷で、金光町という地名は金光教の本部があることから付けられたものだそうである。
神社本局から独立した。

●明治41年(1908年)に独立
14.「天理教」

次回記載。







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# by yumimi61 | 2018-10-09 17:00

グル

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もう聞こえない
愛らしく騒がしい子供らの声も
僕を従順にさせるあなたの声も
たぶんそれなりに時が流れたんだろう
それは悲しみではなくて

誰よりもこの僕が
そのプレッシャーに
押しつぶされそうな時もあったけど
もう平気だよ
突然振り懸かる雷鳴も窓叩く雨風も
近づく靴音も

あなたの背中を追って
ここでずっと待って
憂愁を閉じ込めて
僕の背中で急に笑う
今でも僕を振り回すところだけ
変わっていない

あなたにはそっと教えてあげよう
僕の隣の少し小さな少し大きな甘えん坊
その叫びだけが
僕にはまだ聞こえてくるんだ


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# by yumimi61 | 2018-10-08 21:32

新興宗教

178.png2008年11月までカテゴリとタグ付が完了しています。
 
明治元年(1868年) 神仏分離令
廃仏毀釈に繋がる。

明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。宣教使の官員には国学者が採用された。

明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年7月14日(1871年8月29日) 廃藩置県

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。

明治5年3月14日(1872年4月21日) 教部省設置
神祇省を改組し民部省社寺掛を併合し、宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織。
浄土真宗・島地黙雷の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。

教部省-大教院(教導職の全国統括機関)ー中教院(府県単位統括機関)ー小教院(各地)

大教院は神仏合併を行う教導職の道場として設置した半官半民の中央機関。
最初は東京紀尾井坂の紀州邸が大教院にあてられた。

紀尾井坂
東京都千代田区にある坂。江戸時代における正式名称は「清水坂」とよばれていた。
当時周辺一帯には大名の江戸藩邸が多くあり、清水坂の南側に紀州徳川家(現在は清水谷公園やグランドプリンスホテル赤坂)、北側には尾張徳川家(現在は上智大学)、彦根藩井伊家(現在はホテルニューオータニ)の屋敷が角を接していた。江戸の住人たちは、要となる三家があった坂道であるところから、紀伊徳川家の「紀」、尾張徳川家の「尾」、井伊家の「井」のそれぞれ一字ずつを取って「紀尾井坂」とよぶようになる。そして元来の「清水坂」の名称は使われなくなり、「紀尾井坂」の名称はのちに一般に広まっていったものである。

※グランドプリンスホテル赤坂(赤プリ)は2011年3月末で閉館し、東京ガーデンテラス紀尾井町として再開発されている。

徳川将軍家の他に、紀州・尾張・水戸の徳川が徳川御三家と呼ばれた。
紀州は紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)。
上記の紀尾井町の旧赤プリ近辺以外にも、現在の赤坂御用地、渋谷区千駄ヶ谷駅から鳩森神社、同じく渋谷区内の松涛公園、渋谷駅近くの御嶽神社、港区芝の浄土宗大本山増上寺(徳川将軍の墓所でもある)、旧芝離宮恩賜庭園、中央区の築地本願寺、築地立体駐車場と波除神社あたりも紀州徳川家の土地だった。

明治6年2月に、紀尾井坂の紀州邸から増上寺内に移した。この移転時期はキリスト教に対する禁教令を廃止したのと同時期である。
増上寺本堂が大教院神殿の拝殿として用いられ大教院の神仏合併が進められた。

増上寺
9世紀、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に建立した光明寺が増上寺の前身だという。 その後、室町時代の明徳4年(1393年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡の時、真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めた。この聖聡が、実質上の開基といえる。

浄土宗と浄土真宗は、国学の本居派と平田派のように、門下であるにしては解釈が全く違う部分があり、浄土真宗と名乗ることは浄土宗の否定とも取られかねなかった。
幕府などから「浄土真宗」と名乗ることを禁じられ「一向宗」と公称された時期もあるが、浄土真宗はこれを認めなかった。
私は歴史的な意味合いからずっと「浄土真宗」と書いてきたが、宗教的には現代においても浄土を使う表記自体を避ける風潮があり「真宗」と記述していることも多い。
織田信長、徳川家康、上杉謙信、朝倉義景など多数の大名が浄土真宗(真宗・一向宗)と対立した。

明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
政教分離、信教自由を主張。(←宗教に対して誰も口出しできない条件と見ることが出来る)

明治6年(1873年)2月 キリスト教に対する禁教令を廃止

明治6年(1873年)2月 大教院を増上寺に移転

明治7年(1874年)1月1日 増上寺が放火される
仏堂の中に神社が設けられた事に反発した廃仏主義者の旧薩摩藩士によって放火され、旧増上寺本堂は全焼したが神体はかろうじて助け出された。この神体は芝東照宮に一時奉遷され、神道勢力が新たに設置した神道事務局の神殿に遷された。

明治8年(1875年)1月 浄土真宗が大教院を脱会

明治8年(1875年)3月 神道事務局を結成
大教院閉鎖の2ヶ月前に伊勢神宮と幕末期に起こった神道系の新宗教教団の教導職によって神道事務局が結成された。

新宗教
新興宗教とも呼ばれる。
日本では、幕末・明治維新による近代化以後から近年(明治・大正・昭和時代戦前・戦後~)にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。 実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。



明治8年(1875年)4月 神道事務局の開局
明治8年(1875年)3月に結成された神道事務局が4月に開局した。
伊勢神宮が日本全国各地に古くからあった神社の元締めのような感じになり、一定の条件を満たした新宗教教団は独立教派として公認していった。最初の公認は1876年(※後述)。

明治8年(1875年)5月 大教院を閉鎖

明治9年(1876年)10月23日 「神道修成派」と「黒住派」とが独立教派として神道事務局から独立
神道修成派は、大講義であった新田邦光が富士信仰、御岳信仰の行者を結集した修成講社にはじまり、行者の低俗視から圧迫を受けたため独立を願い出ていた

明治10年(1877年)1月11日 神仏合同布教禁止令、教部省は解散・廃止
⇒教部省の機能は内務省の社寺局へ移された。
社寺局は全国全ての神社および寺院、新宗教など宗教に関する全ての行政を管掌することになった。


「神道修成派」
新田邦光により1869年(明治2年)に開教し、1873年(明治6年)8月に修成講社として設立。
1876年(明治9年)10月23日に神道修成派として一派独立。
1953年(昭和28年)4月に本部教会(大元祠)を静岡県磐田郡豊岡村敷地(現在の磐田市敷地)に遷座した。

法人本部(教庁)は東京都杉並区松庵にある。

新田邦光
1829年に「阿波」にて竹沢平太あるいは竹沢平太郎の三男として生まれたと言われている。
この「阿波」には2説ある。
1つは、岡山県の北東部に位置し鳥取県に接する阿波村(現:岡山県津山市)。
もう一つは阿波国、つまり徳島県。阿波国美馬郡拝原村(現:徳島県美馬郡脇町拝原)という説。
明治維新前の通称(自称)は竹沢寛三郎だった。あくまでも通称であり出生名は分からない。
徳島出生説では、徳島藩筆頭家老で淡路洲本城代でもあった稲田家の家臣に竹沢平太という者がおり、寛三郎という息子がいたらしいが祖先の関係から自称したルーツとは合わない。
自称したルーツとは脇屋義助(新田義貞の弟)の子孫であるというもの。

脇屋義助(新田義貞の弟)
・上野国新田郡に生まれ、長じた後は脇屋(現在の群馬県太田市脇屋町)に拠ったことから名字を「脇屋」と称した。
・ 義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦した。
・1933年(昭和8年)、兄・義貞の館跡と考えられている群馬県太田市の安養寺から脇屋義助を追悼する板碑が発見された。種字には金泥が塗られていたが、北朝年号であったことから真贋論争が起きた。現在では北朝方についた新田一族(岩松氏?)が建てた本物と考えられている。この板碑から義助の正確な生没年月日が判明した。
・新田氏発祥の地である群馬県太田市と、脇屋義助が病没した地である愛媛県今治市は、2002年に姉妹都市提携を結んでいる。


竹沢寛三郎は明治時代の到来とともに(1868年)名を新田邦光と改め、神祇官御用掛となる。
明治6年(1873年)には教部省より教導職大講義に任ぜられ、御嶽信仰や富士信仰を持つ者を集めて「修成講社」を設立した。
これが明治9年(1876年)、最初に公認された独立教派である。




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# by yumimi61 | 2018-10-07 16:10

伝道と宣教

明治元年(1868年) 神仏分離令

明治2年7月8日 宣教使(明治時代の官庁)設置
大教の宣布準備と国家神道の宣教を目的とした。
宣教使の官員には国学者が採用された。

「宣教」「伝道」は思想や宗教を広める活動、特にキリスト教に於ける活動のことをいう
伝道とは言葉を伝えること。「イエス様はこうこうこうすべきって言ってた。キリスト教って素晴らしいでしょ~」というようにキリストを主に言葉で伝えていくことが伝道。教徒誰もが伝道師になれる。
宣教はミッションを持っている。これは誰もが行えるわけではない。教職者や、非教職の教師、医師、各種専門家(教会や教団や修道会などが運営する学校・病院・福祉施設などがあるため)などがその使命を負う。
自分の属する共同体を離れて活動する者は「宣教師」という。外国に赴き宗教を広め信者を獲得する役割を持つ。場合によってはスパイ的なこと(情報収集と報告など)を行う。

明治3年1月3日(1870年2月3日) 宣布大教詔
天皇に神格を与え、神道を国教と定めて、日本(大日本帝国)を祭政一致の国家とする国家方針を示した。

明治4年8月8日(1871年9月22日) 神祇省設置
大教宣布の理念に基づいた天皇による祭政一致、ひいては神道の国家宗教化を目指す方針のために政府の関与を強めるために新たに省を設置した。


明治維新で政権握ったはよいが、国を管理監督する術を新政府は持っていなかった。
江戸時代は地方分権が進んでいた。言うなれば連邦国家(2つ以上の国や州が1つの主権の下に結合して形成する国家形態)だったのだ。アメリカやドイツなどこのような国の形態を採る国は少なくない。
それまで藩が独立した1つの国のような感じだったため、明治新政府が中央集権を推し進めようにも行政執行能力を持っていなかった。
そこで神社の氏子制度を利用して直接住民管理をしようとしたのである。また基本の道徳教育も神社にさせることを考えた。
神社を通して中央に力を集め掌握するつもりだったのである。

しかしこの企みはそう上手くはいかなかった。
なんといっても日本の神道は八百万神信仰である。地域によって神様はいろいろ。ある日突然急に神仏習合が禁止され、「新天皇が神なので信仰してください」と言われても困る。神様は目に見えないものである。
信仰心が強ければ強いほどそんなこと出来るわけがない。当然神社からは大ブーイング。
教え(教義)だって地域や神社によって様々、あるところもないところもあるだろう。政権が望むような統一的な道徳教育が叶うはずもなく。
それをまとめていくのが宣教使(明治時代の官庁)と言えばまあそうなのだが、日本全体を一気にまとめていくには如何せん人材不足。人数的にも能力的にも。
宣教使の官員には国学者を採用したが、そもそも国学者は本居派や平田派のように相いれない派閥もあるわけで宣教の方向が一致しない。官庁内でも対立してしまうという状況。
さらに国学者なだけに宗教や行政の経験や実地が不足していた。


明治5年3月14日(1872年4月21日) 教部省設置
宗教統制による国民教化の目的で設置された中央官庁組織である。
神祇省を改組し、民部省社寺掛を併合する形で設置した。

宣教使の神道と儒教を基本とした国民教導が失敗したことを受け、当時最大の宗教勢力であった仏教、特に浄土真宗の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれた。キリスト教の(半ば黙認という形での)禁制解除、社寺に於ける女人結界の解除など近代宗教政策を実施する一方で、神祇官が為し得なかった国民教化を実現する為に教導職制度を設け、三条教則による国民教化・大教宣布運動を行った。

教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども教導職に任命された。教部省に置かれた教導職の最上位を教正とし、国民教化をより具体的に行う為、教導職の全国統括機関である大教院、各府県単位の統括を行なう中教院が設置され、全国に小教院が置かれた。


1000年以上続いてきた神仏習合という日本の宗教の在り方を破壊し、仏教では寺院や仏具だけでなく歴史的・文化的に価値のある多くの文物までもが廃棄された。にもかかわらず、のこのこと「神・儒・仏の合同布教体制」ってどの口が言うのかとという感じだが、言ったのは(要請したのは)浄土真宗本願寺派の島地黙雷である。
ここにきて仏教の浄土真宗が国の行政に口出しをするようになった。

島地黙雷
周防国(山口県)和田で専照寺の四男として生まれる。萩で大洲鉄然とともに改正局を開き、浄土真宗の宗徒を教育した。
1872年(明治5年)、西本願寺からの依頼によって岩倉使節団に同行、ヨーロッパ方面への視察旅行を行なった。使節団一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対して一等書記官福地源一郎が派遣され、同国の裁判制度などを研究させたが、黙雷はこれに同行している。エルサレムではキリストの生誕地を訪ね、帰り道のインドでは釈尊の仏跡を礼拝した。その旅行記として『航西日策』が残されている。「三条教則批判」の中で、政教分離、信教の自由を主張、神道の下にあった仏教の再生、大教院からの分離を図った。また、監獄教誨や軍隊での布教にも尽力した。


島地黙雷は現在の武蔵野大学附属千代田高等学院・千代田女学園中学校の創立者でもある。浄土真宗系の学校。
1888年に女学校として東京都内に設立された。(東京都千代田区4番町11番地)
先頃お亡くなりになった樹木希林さんはこの学校の卒業生らしい。

専照寺(浄土真宗本願寺派) 山口県周南市垰ます谷1611

浄土真宗
浄土真宗を覚えているだろうか。私のブログには再三登場している仏教の宗派である。浄土真宗が自治特権を持つ寺内町という独自集落を関西や北陸各地に形成した。
信徒が戦国時代に一揆を繰り返し起こした。
浄土真宗は学のない農民や武士も救うことを目的に「面倒な儀式や厳しい修行をしなくても念仏を唱えれば誰でも救われる」という宗旨を掲げて信者を獲得していった。
要するにもともと対権力になる要素を多く含んでいたということになる。

浄土真宗は、鎌倉時代初期の僧である親鸞が、師である法然によって明らかにされた浄土往生を説く「真の教え」を継承し展開させようという派閥のようなもので、独立した宗派ではなかった。
法然が開祖の宗教は浄土宗である。
親鸞は法然に教えに触れることに喜びを感じ人々にも分け伝えたいと考えていただけで、独立して開宗する意思は全くなかった。
従って浄土真宗の開祖を親鸞とするのは間違いである。
浄土真宗は、親鸞亡き後(死没1263年)に門弟らが親鸞を開祖に据えて「浄土真宗」を名乗り、教団を形成していった。
浄土宗や親鸞を利用したのである。どこかユダヤ教とキリスト教の関係にも似ている。
浄土真宗は「一向宗」や「門徒宗」と呼ばれることもある。

織田信長の一番の敵は宗教団体だった。
宗教団体が町を乗っ取った挙句、信者を利用し一揆と称してあちこちで戦いを繰り返し、支配地域拡大を狙っていたからである。
織田信長は戦国武将に戦いを挑んだというよりも、浄土真宗本願寺勢力(一向宗)(総本山は石山本願寺)並びにそれと手を組んだ武将と戦っていたのだ。
石山本願寺を脅威と思っていたのは織田信長だけではない。キリスト教イエズス会も浄土真宗に注目していた。

本能寺の変にはイエズス会が関わっており、当然日本側の織田に近い所にも協力者がいた。
豊臣秀吉は当初反織田信長側の人間だったと考えられる。
長崎(1580年)と浦上(1584年)がイエズス会に寄進されたのは本能寺の変(1582年)の前後である。


三条の教則
明治5年(1872年)4月に教部省から通達された民衆教化の指針。
「第一条 敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」
「第二条 天理人道ヲ明ニスベキ事」
「第三条 皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」
教導者はこれをもとに教化に取り組むこととした。
神を敬い国を愛し、天理人道に基づき、天皇を中心にした国家秩序を確立するという意味だそうである。

皇道主義への転換
神仏分離し廃仏毀釈した国家神道政策だったが思うように進まず、教部省が設置された1872年に大きな転換を迎えた。
浄土真宗の島地黙雷の要請によって神・儒・仏の合同布教体制が敷かれ、祭政一致の国家方針は放棄した。
浄土真宗は幕末に倒幕側を支援しており、その後も巧みな政治工作によって教部省を政府に樹立させた。
教部省が仏教も含めた諸宗門を管轄し、大教院の下で教導職の資格を得た宗教者が神仏合同で「三条の教則」に則った布教を行うという体制である。
上にも書いたが教導職は半官半民の任命制であり、神官・神職、僧侶などの宗教家を始め、落語家や歌人、俳人なども任命されたが、「三条の教則」に則らないものは教導者にはなれなかった。
この時に「神道国家」は「皇道国家」に変わり、尊皇愛国思想が強化された。
1852年11月3日生まれの明治天皇はこの年(1872年)に20歳を迎えた。

明治5年(1872年末) 浄土真宗本願寺派の島地黙雷が「三条教則批判建白書」を提出
教部省を設立させた張本人の島地黙雷が同じ年(8か月後)に今度は「三条の教則」を批判した。
しかしその時、島地黙雷はヨーロッパにいた。そこから「三条教則批判建白書」を提出したというからいったいどうなってんの?という感じですよね??
島地は敬神愛国は敬神(宗教)と愛国(政治)とが一緒になっていて政教分離になっていない!、国家が宗教を造成して強制すべきではない、信教は自由!!とか主張したらしい。
最初からそういう筋書きだったのか、それとも政府はこれをヨーロッパの意向(圧力)と考えたのか、ともかく今度は政教分離と信教自由に舵を切ったのである。

明治6年(1873年) キリスト教に対する禁教令を廃止

明治8年(1875年) 大教院を閉鎖

明治10年(1877年) 神仏合同布教禁止令、教部省は解散廃止




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# by yumimi61 | 2018-10-05 16:16

意義

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写真は群馬県側から眺めみる2月の浅間山と一瞬白煙かと思うような雲


明治元年(1868年)神仏分離令

明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した。

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。

神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。


明治期以前において、キリスト大名が多くいた九州では、大名が扇動し民衆が加わって、やはり寺院や仏具の破壊を行うなど仏教を攻撃した。
さらに土地や建物をキリスト教に寄進してしまうということも行われた。
そんなこともあり中央のキリスト教への警戒は厳しくなっていったのだ。


平田派国学って?

神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった」ということだが、明治維新派(討幕派)が平田派を利用したと言ってもよいかもしれない。
ではなぜ平田派だったのかと言えば神秘主義的だったからだ。

そもそも平田とは誰か?
秋田出身の大和田胤行である。
父親は秋田藩で軍役に就いていた藩士だったらしい。
だが江戸に出た20歳までの事跡は全く持ってはっきりしていない。
20歳になったばかりの1795年(寛政7年)1月8日に出奔し、遺書して国許を去った。正月八日に家を出るものは再び故郷に帰らない、という諺にちなんだという。篤胤はこの郷土出奔の経緯については晩年になっても詳らかに語ってはいない。 
無一文同然で頼る処とてなく江戸に出た篤胤は、苦学し生活を支える為に数多の職業に就き、火消しや飯炊き、三助などもしている。

そんな大和田胤行がなぜ平田になったのかと言えば、江戸にいた備中松山藩(現:岡山県)の藩士の養子になったからである。
その人物に出会った翌年には駿河沼津藩士(現:静岡県)の娘と結婚した。

1800年(寛政12年)25歳の折に勤め先の旅籠で備中松山藩藩士代々江戸在住の山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の目にとまり養子となる。養子となったいきさつには様々な伝説があるが、詳細は不明である。


平田篤胤は本居宣長(江戸時代の国学者・医師)の弟子と自称した。
しかしながら平田篤胤が本居宣長を知ったのは没後2年後の1803年のことでだった。そこで彼は「夢に本居宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだ」と述べて、没後に滑り込みで弟子に加わろうとした(加わった)。
のちの平田の伝記では没前に知って弟子入りしようとした時にちょうど本居宣長が亡くなってしまったことになっている。
篤胤が宣長のことをその存命中に知ったとしたのは、平田篤胤の学派を国学の正統として位置付けるための後世の改竄ともいわれる。

ともかく平田篤胤は1803年に処女作『呵妄書』を著し、以後、膨大な量の著作を次々に発表していく。
処女作から3年、松山藩士と出会ってからたった5年あまりで、平田篤胤は私塾を開き弟子を取るまでになっていた。

しかし平田篤胤の著作の中には、本居宣長門下としては邪道と見做されるものも少なくなかった。
特に本居の弟子らは後に平田の代表作となる『霊能真柱』(1813年)という著作が本居宣長を冒涜しているとして激しく非難し「山師」と吐き捨てた。

「山師」には幾つか意味がある。
① 鉱山技師 ②山林の買い付けや伐採を請け負う人 ③ 投機的な事業で金儲けを企てる者(投棄師) ④ 詐欺師

本居宣長の弟子たちは④の意味で「山師」と言ったのである。
ちょっと脱線するが、私が国道17号線でよくすれ違うトラックがある。
もう何十回とすれ違っていると思う。
フロントガラスの下の部分に「口は弁護士 心は詐欺師」という大きな文字が掲げられているから、(あっまたあのトラックだ)と認識できるのである。
横とか後ろには丸虎運輸とか、なんとか(忘れた)急行とか書いてあるが、それが社名なのかはよく分からない。

話を戻すと、上記のように平田篤胤の論考は本居派からは受け入れられなかったが、出雲神道として取り入れられ、その後の神道のあり方に強く影響を与えることになる。
出雲神道というのは出雲大社(出雲大社教)のことである。ここもかつては神仏習合であったが、明治維新よりもだいぶ早い1667年にはすでに神仏分離・廃仏毀釈を主張し、仏堂や仏塔は撤去したり経典(仏教の聖典)を破却した。

平田は後に「国学の四大人(しうし)」の一人として本居宣長と名を並べるようにもなった。

本居と平田の死生観

本居派からは拒絶された『霊能真柱』(1813年)が平田の1つの転換ともなったわけで、それは平田の神秘主義(オカルトチック)的なものへの傾倒にも繋がっていった。その時点でのそれは「死後の世界」ということになる。

本居宣長は、死後は黄泉へ行くとした。その黄泉とは汚き他界、現世こそ素晴らしいと説いた。だから人間にとって死は恐怖で悲しいものなのだと。
ごく普通に考えても彼は傷病を治す側に立つ医師でもあるので、「死を恐れることはなし、大いに死にたまえ」と言うのではやっぱりちょっと問題があるというか都合が悪いだろう。

またまた余談だけど、私は学生時代に新興宗教的なものに勧誘されたことがある。その人が病気も治せる的なことも言っていたので、「私は西洋医学を学んでいる身なのでそういうものに傾倒するわけにはいきません」ときっぱり断ったのだが、「医者や看護婦など医療関係者の信者もいますよ」と相手はなかなかしぶとかった。
それがなんの宗教だったかは忘れてしまった。

一方の平田篤胤の死生観はこうである。
生きている時は天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の民である。死後は大国主神が主宰する幽冥界(目に見えない世界)の神となる。
その幽冥界は空の上の天や異次元や別空間にあるわけではなく、顕界の中に共存している。但し顕界の民には幽冥界は見えない。幽冥界からは見えている。
同じところにいて見守ったり見守られたりしているのだから悲しまなくていいよ的な。

(平田の死生観は)近代以降、民俗学が明らかにした日本の伝統的な他界観に非常に近いといえる。逆に言えば、民俗学は、国学の影響を強く受けているということでもある。
現世は仮の世であり、死後の世界こそ本当の世界であるとした。これはキリスト教の影響である。篤胤は、キリスト教の教典も、『古事記』や仏典などと同じように古の教えを伝える古伝のひとつとして見ていたのである。



「天狗小僧寅吉」との出会い

平田篤胤に大きな影響を与えた少年がいた。それが「天狗小僧寅吉」である。
1820年に出会い、その少年を養子にして、1829年まで一緒に暮らしていたらしい。

文政3年秋の末で、45歳のころ、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となる。この噂の発端は江戸の豪商で随筆家でもある山崎美成のもとに寅吉が寄食したことにある。寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたという。篤胤はかねてから異界・幽冥の世界に傾倒していたため、山崎の家を訪問し、この天狗少年を篤胤は養子として迎え入れ、文政12年まで足掛け9年間世話をしている。

篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版している。少年を利用して自分の都合のいいように証言させているに違いないと批判されたが、篤胤本人は真剣で、寅吉が神仙界に戻ると言ったときには、神仙界の者に宛てて教えを乞う書簡を持たせたりもしている。『仙境異聞』に続いて『勝五郎再生記聞』『幽郷眞語』『古今妖魅考』『稲生物怪録』など一連の幽なる世界の奇譚について書き考察している。



それは信濃の浅間山だった

平田は『仙境異聞』という著作の中でその少年自身について書いている。
彼の出生名は「高山寅吉」だった。後に(おそらく平田の養子になってから)は石井篤任と名乗った。
寅吉という少年は7~14歳まで幽冥界にいたという。その時の彼の師は「信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)」だった。

当時この本は平田家では門外不出の厳禁本であり高弟でも閲覧を許されないといわれていた。内容を概略すると「此は吾が同門に、石井篤任と云者あり。初名を高山寅吉と云へるが、七歳の時より幽界に伴はれて、十四歳まで七箇年の間信濃国なる浅間山に鎮まり座る神仙(寅吉の師翁で杉山僧正と名乗る山人)に仕はれたるが、この間に親しく見聞せる事どもを、師の自ずから聞き糺して筆記せられたる物なるが、我古道の学問に考徴すべきこと少なからず、然れど此は容易く神の道を知らざる凡学の徒に示すべきものには非らず」と記載されている。

「信濃国なる浅間山」とあるが、「信濃なる浅間の嶽に立つ煙 をちこち人の見やはとがめぬ」という在原業平の和歌が『伊勢物語』に収められている。
在原業平の歌が多く含まれているが、『伊勢物語』自体の作者や成立年は不詳である。
浅間山は信濃国(長野県)と上州国(群馬県)の県境である上信国境にそびえる今なお活発な火山。
その浅間山を「信濃国なる(信濃の国にある)」というからには、軽井沢目線ということになる。
平田の浅間山観も『伊勢物語』と同じく軽井沢目線だったということである。

以前から異境や隠れ里に興味を抱いていた篤胤は、寅吉の話により、幽冥の存在を確信した。篤胤は寅吉を説得する事により、幽冥で寅吉の見えた師仙の神姿を絵師に描かせ、以後はその尊図を平田家家宝として斎祭った。

9年後のある日、寅吉が幽冥界に帰ると言いだした。
その時、平田は寅吉に手紙を託したという。

寅吉が幽界に帰る際には、この師の住まわれると言う信濃国浅間山の隠れ里の山神に対して、篤胤自ら認めた手紙と自著「霊能真柱」を添え、又神代文字への質疑文を、寅吉に托し委ねて山神に献上手渡したという。これ等の経緯やその折に山神や寅吉に手向けた歌などを詠じた文や和歌を、仙境異聞の中に記述する。山神の図は現在東京代々木の平田神社宗家に大切に保管され、滋賀県大津の近江神宮では山神祭として定例の日に祭られている。

明治維新とは何だったのか

平田篤胤は、儒教や仏教と習合した神道を批判し、やがてその思想は神秘主義的なものに変化していった。
この思想が幕末討幕派の尊皇攘夷の支柱となった。
儒教や仏教を排斥して日本古来の純粋な信仰を復活させようという思想は「復古神道」という。

復古神道
儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという思想である。神々の意志をそのまま体現する「惟神(かんながら)の道」が重視された。

だが天狗や山の神を信仰するということは神仏習合である「修験道」そのものであるし(ただ国学者は自身で修行するわけではないけれども)、山岳信仰は日本だけのものではない。世界的に見られる思想である。
平田が師とした本居宣長は漢方医学の一派「後世方」の医師でもあった。本居が師事したのは日本人医師だが、「後世方」自体は中国から学んだ医学である。
平田はキリスト教、西洋医学、ラテン語、暦学、易学、軍学などに興味を持ち、神秘主義に傾倒していくのであった。
こうなるともはや日本民族固有の精神どころか、当時ならそれこそ西洋かぶれと言えてしまう状況である。
アジア(仏教)は嫌だけれども、他ならば良かったのかどうか。

平田篤胤の学説は学者や有識者のみならず、庶民大衆にも向けられた。一般大衆向けの大意ものを講談風に口述し弟子達に筆記させており、後に製本して出版している。これらの出版物は町人・豪農層の人々にも支持を得て、国学思想の普及に多大の貢献をする事になる。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的民俗的な志向を包含する彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。特に伊那の平田学派の存在は有名である。後に島崎藤村は小説『夜明け前』で平田学派について詳細に述べている。

伊那は長野県南部の天竜川流域。
天竜川は諏訪湖から始まっている。諏訪湖から出ているのはその天竜川のみだという。静岡県で太平洋に注いでいる。
島崎藤村の父親は平田派の国学者だった。
ところが新しく迎えた明治時代は志したものとかなり違っていたということで失意のまま亡くなったらしい。
その息子・藤村はキリスト教に入信した。それは日本民族固有の精神ではないかもしれないが、平田の神秘学はキリスト教的でもあり、その意味では大きく平田派から外れるわけでもないのだ。
父親に反発し背を向けたようで結局父親と同じような立場になってしまったことに気付き離教したんだろうか。

もっとも平田は明治維新が始まる前に亡くなっている。

明治維新の尊王攘夷派は港を開くことに大反対し幕府と対立した。開港し外交関係を結びたくなかったのは幕府側ではなく倒幕側(尊王攘夷派)だったのだ。
幕府側はどちらかと言えば親仏教で反キリスト教であったし、討幕側はどちらかと言えばキリスト教に親和的だった。
倒幕側(尊王攘夷派)は仏教という外来ものを排除した「復古神道」を支柱にしたが、そもそも平田の神秘学は外来ものを取り入れていたし、討幕の志士たちは外国に興味津々で長州藩などはイギリスに遊学させたりしている。外国から武器も調達していた。
明治新政府樹立後は政府要人が国を半ば放置してこぞって外国巡りしたのは周知のとおり。
こうなるとやはり明治維新の目的は仏教排除でキリスト教導入だったのではないかという気がする。

日本古来を支持した人達と新天皇制や明治新政府が乖離していくのは目に見えているが、それも少数派だったのだろうか。





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# by yumimi61 | 2018-10-04 14:28

集り

御嶽山に招いた分神・分霊

御嶽山の王滝口ルートを開いたという普寛。秩父出身。天台宗派の修行者だった。後、御嶽教の開祖となる。
普寛が開山したとされる山が他にも4つある。

1.御嶽山(長野県) 1792年開山
2.八海山(新潟県) 1794年
3.武尊山(群馬県) 1795年
4.意波羅山(埼玉県)
5.阿留摩耶山(長野県)

普寛は御嶽山以外の山の神の分神や分霊を御嶽山に移して祀った。
誰かに了解を得たということではなく(許可なし!)、自分でそうに決めてそうしただけのことである。
だから御嶽山には御嶽山の神だけでなく、他の山の神も存在していることになる。
これが「御嶽五神」と言われるもので、それぞれ名前がある。

1.御嶽山座王大権現
2.八海山大頭羅神王
3.武尊山大権現
4.意波羅山大権現
5.阿留摩耶天宮

権現というのは神仏習合的な呼び方。
神は見えない、仏は見える、神社に本尊(仏像など)はない、寺院には本尊(仏像など)がある。
この正反対な状況を折衷したのが権現である。
目に見えない神が目に見える仮の姿(例えば仏教の仏像的なものや天狗など)で現れた、あるいは仏像などとして目に見える仏が自然界に存在する神に姿を変えたとするもの(例えば釈迦如来・弥勒菩薩・千手観音菩薩が蔵王権現になった)(蔵王権現は修験道の主祭神)。

ただ昨日も書いたように日本は明治維新後に神仏分離し修験道などは禁止され国家神道を行くことになる。
だから御嶽教なども「権現」という呼び名は「大神」などに変更した。

現代においては御嶽山座王大権現(御嶽山大神)の中には3柱(柱は神の数え方の単位)いると言われている。大己貴命・少彦名命・国常立尊。


カーナビならぬ神奈備

御嶽山同様に八海山も武尊山も登山ルートの開拓に地元民の協力が不可欠だった。
武尊山は片品村花咲の行者が協力した。
だが開いたルートは花咲~前武尊山であり、武尊山の頂上ではなかった。
この頃はまだ御嶽教は成立していない時期であり、御嶽教の行者だったということはない。修験道の行者なのか、天台宗密教系の行者だったのか、そのあたりは定かではないが。

武尊山は8つの主な峰(ピーク)からなる。
##沖武尊(2,158m、主峰、最高峰)
##中ノ岳(2,144m)
##家ノ串(2,103m)
##前武尊(2,040m)
##剣ヶ峰(2,083m)
##剣ヶ峰山(2,020m)
##獅子ヶ鼻山(1,875m)
##西峰(1,871m)


武尊スキー場の上に御嶽講が設置したという普寛の像がある。
その背に文字が刻まれている。「武尊中興開山行者普寛法印 享和元」
そこで「中興開山」と書いてあるのだ。中興とあるからには開山が初めてではないということになる。
御嶽講ですら「開山」の認識はないということ。

武尊山頂上へのルートを開いたのは伊勢崎の行者の深沢心明であった。1873年のこと。こちらは明治時代に入っており、御嶽教も成立しているので御嶽教の行者だったのかもしれない。
中山郁氏の「本明院普寛と上州武尊開山」には「明治二十一年、伊勢崎の行者、深沢心明が川場尾根から現在の武尊山頂(沖武尊)までの登山道を開き、翌年、当時の川場湯原村から武尊山の祭祀を委嘱され、活発な布教活動を行い、最盛期には主に勢多郡を中心に弟子三十余人、枝講十八、信者二万人を要する武尊山大協会を作り上げた」とある。

このように江戸時代末期から明治にかけて、片品村側と川場村側から行者が入って、普寛(のち御嶽教)の信仰が持ち込まれた武尊山は王滝口と黒沢口ではないけれども御嶽教に絡む2つのルートがあって、それぞれ峰の呼び方が違ったりする。例えば、花咲側では前武尊、川場側では朝日岳など。
たかが名称だけど、混乱し間違えて遭難しないようにお気をつけ下さい。
麓の住民は、武尊山を神奈備山(神のいる山)として古くから信仰しているが、山中に神社などは置いておらず、麓には武尊神社が点在している。


武尊山頂上の御嶽山大神の石碑

武尊山の頂上(沖武尊)にある「御嶽山大神」の石碑。
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石が外れちゃったのかな・・・
神の祟り・・? 自然の猛威・・?
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左側には「開闢心明」と書いてあるが、心が消されている・・心ない・・・
心明とは伊勢崎の行者・深沢心明のことである。普寛の名前でないのが問題なのか・・?覚明のほうが良いとか?

地図にはない山

下の地図で普寛神社がある場所が普寛の生誕地だったらしい。
この記事の一番上に書いた4.意波羅山(埼玉県)というのは、その生誕地から少し上に上がった地点にあり、秩父御岳山(標高1080.5m)の麓というか中腹にある。
秩父御岳山の峰の1つ、前山とでも言えばよいのかもしれないが、地図などに掲載されている山名ではない。集落の裏山の通称だったような感じだろうか。それとも普寛が名付けたのか。
一応社殿があるが、その社殿がある場所のみを「意波羅山」と呼ぶという説もある。

そして不思議なことに普寛が木曽の御嶽山に連れて行った神は、秩父御岳山の神ではなく、その意波羅山の神だったのである。
従って秩父御岳山の開山も実は普寛ではないという説もある。

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ただ秩父御岳山の頂上には普寛神社奥社がある。やけに目立つ賽銭の文字・・
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五神・・三神・・・

5.の阿留摩耶山(アルマヤ天)は木曽の御嶽山の峰の1つ。
御嶽山は剣ヶ峰(標高3,076m)が最高峰であり、その外側には摩利支天山、継子岳、継母岳、アルマヤ天などの峰々が存在する。

このように普寛の御嶽教は五神としていたが、そのうち三神に変化していく。御嶽山・八海山・三笠山の神にした。
急に三笠山?という感じだが、その理由は意波羅山と阿留摩耶山が三笠山に祀られたからだとか。
でも御嶽山にも意波羅山大権現や阿留摩耶天宮の石造などが存在する。

武尊山大権現
武尊山大権現は上野の武尊山の神である。日本武尊とされる。武尊山(2158m)は山系に属さない独立峰である。山頂には日本武尊の銅像が祀られているが、神社は存在しない。山麓に里宮が祀られているほか、周辺に分社が多く見られるが、木曽御嶽信仰との関わりはほとんどない。木曽御嶽信仰においては、武尊山大権現は普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、八海山大神に取って変わられたこともあって、目立たない存在となった。

意波羅山大権現
意波羅山大権現は秩父御嶽山(1081m)の麓にある意波羅山の神である。意波羅大明神、意波羅三社大権現、伊和羅三社大権現、意波羅天宮などとも表記される。秩父御岳山は普寛の出身地の秩父落合村の裏にある山である。三社大権現と呼ばれるのは、当初、秩父御岳山に意波羅天宮、刀利天宮、提頭羅天宮を祀る神社を建てたことに基づくと思われる。
御嶽山内では意波羅山大権現は王滝口三笠山に祀られた。
普寛による御嶽三神の一神であったが、その後、三笠山大神に取って変わられたこともあって、山中の神祠としては目立たない存在となった。


八海山大頭羅神王
八海山大頭羅神王は越後八海山の神である。八海山大神とも呼ばれる。八海山(1778m)は越後山脈に連なる険しい霊山である。山麓には三つの里宮があるが、頂上奥社はない。霊神碑があるなど、木曽御嶽信仰の伝統が強く残る霊山である。
八海山大頭羅神王は医療の神とされ、特に眼病を司る神とされる。そのため、八海山を祭る霊場には目に関する奉納物が多い。また水の神ともされる。黒沢口、王滝口、あるいは開田口のいずれの八海山大神も清水が湧出する場所であり、神水として神聖視されている。やはり眼病に効果があるとされる。


三笠山刀利天
三笠山刀利天は上野の三笠山の神である。三笠山大神とも呼ばれる。三笠山は、現在の諏訪山(1549m)で日本三百名山の一つとして知られている。山内に三笠山大神を祀った祠がある。八海山、秩父御岳山、武尊山が空に聳え立つ霊山であるのに対して当山は山地の奥深いところにある。大小の山々が連なる山地のなかで、この山に見出された神格というのはどのようなものであったのだろうか。

刀利天とは、本来仏教では「〓利天」といい、須弥山の頂上にある世界のことであり、帝釈天が住む天である。しかしながら、木曽御嶽信仰においては、一つの神格として信仰されるようになった。どのような関係にあるのかは不明である。

三笠山大神の神像は、黒沢王滝の三笠山のほか、大又三社、御嶽教木曽大教殿、御嶽教大和本宮に祀られている。


三神
現在の木曽御嶽信仰においては、御嶽大神、八海山大神、三笠山大神の三神が一組で祀られることが多い。御三方などとも言われる。この三神が御嶽を代表する神だとされている。しかしながら、普寛の当初にはこの組み合わせは存在しなかった。
普寛のときには御嶽、武尊山、意波羅山の組み合わせだったものが、順明(弟子)は武尊山を八海山に変え、広山(弟子)は意波羅山を三笠山に変え、一心(弟子)はこの形式を普及させたものとの推測が成り立つ。


意波羅山と阿留摩耶山の神は木曽王滝口の三笠山に祀られたということで、その木曽の三笠山の神が三神に含まれたのかと思うが、そうでなく、これまた群馬県の三笠山なのである。
その理由は木曽の阿留摩耶天(アルマヤ天)をやめて群馬の三笠山の神にしたからだとか。
群馬の三笠山というのは上野村の諏訪山の峰である。

諏訪山
群馬県多野郡上野村にある標高1,549mの山である。
国道299号(西上州やまびこ街道 / 武州街道)から群馬県道124号上野小海線に入り、楢原登山口から小倉山を経由するか、浜平登山口(浜平鉱泉)から湯ノ沢を遡行する。 前衛峰の三笠山はロープや梯子による登降があるため、注意が必要である。


1985年に日航機が墜落した上野村の御巣鷹山(高天原山の峰)の近く。深い山である。





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# by yumimi61 | 2018-10-02 14:58 | 御嶽山噴火と御嶽教
信仰と教団と講社の関係

1785年に真言宗密教系の覚明が黒沢口ルートを、1792年に天台宗密教系の普寛 が王滝口ルートを開いた。

すでに述べたように御嶽山はそれ以前より信仰されていた山であり、修験道が行場としていた。
また役人が設置した神殿もあった。
最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。


だがこれらは後の御嶽教とは直接的な関わりはない。
木曽御嶽信仰は、覚明・普寛を開祖として江戸時代後期に成立した信仰である。

しかもルートを開いて御嶽教の開祖と言われるこの2人は宗派が違う。
同じ「御嶽神社」ではあるが、登山ルートに沿って2系統の神社が存在している。神主も違う。
両者の神主が違うことから生じる神主の対立、また属する自治体が違うために自治体を巻き込んだ対立となったようだ。
自治体の境界が御嶽山内にある。登山ルートやそれに伴って落ちる金銭などを巡ってトラブルが起こることは想像に難くない。


後から開かれた王滝口ルートにも沢山お金が落ちるようになって両者の対立は最終的にはお金を支払うことで決着したようだが、両者の信者や神社の関係性が今現在実際のところ良好なのかそうでないのか定かではない。
開山や閉山などは合わせており、頂上の社務所のクローズも同じようだが、祭祀などはどのように扱っているのか。

ロープウェイが通っているのは黒沢口ルートの方。そのせいもあるのかこちらのルートでは社殿などが少ない。
一方の王滝口ルートは社殿などが多く、「登山ルートではなくまるで観光ルート」だと揶揄されることもあるくらいにルートが観光地化している。
現在では一般的には王滝口ルートのほうが人気があるらしい。

御嶽教(おんたけきょう)は奈良県奈良市に教団本部(御嶽山大和本宮)を置く教派神道で、神道十三派の一つ。創始者は下山応助とされている。
御嶽山を信仰根本道場としている。

江戸時代に覚明行者が黒沢口登山道、普寛行者が王滝口登山道を開闢する。御嶽大神を崇拝する信仰者が集団結合して1882年に立教独立。br>
修験道を起源としているが、仏教色は薄く祭祀も神道に準じている。


上記はWikipediaの説明だが、これは今現在は王滝口ルート系の教団ということになる。
奈良に教団本部を置いているが、これは本部をわざわざ奈良に移転させたのである。
修験道の開祖が奈良出身者なので、そのあたりを意識したんだろうか。
戦後に黒沢の御嶽神社が中心となって設立されたのが木曽御嶽本教という教団。本部は木曽町三岳にある。
さらに奈良移転に反対した東京の団体が離脱して新たに起こした教団(御嶽山大教)などもある。本部は埼玉県八潮市。

木曽御嶽信仰>教団>講社(同じ信仰を持つ人の団体)

木曽御嶽信仰においては、日本の伝統的宗教団体の一類型である「講社」が活動の単位となる。
講社が教団に属しているような形となる。
講社はやはり覚明派と普寛派に分かれるようで、それはつまり王滝口派か黒沢口派かということになる。


神主家の旅館と島崎藤村、希望と失望の落差

王滝口ルートのほうの神社の神主は滝家。麓の滝神主家の一角に御嶽大神を祀る社殿が設けられている(御嶽神社別殿)。
そこに滝旅館もあるが、そこは島崎藤村の『夜明け前』の舞台ともなった旅館だそうである。

島崎藤村 信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ

王滝村が封印した白川一家の話も悲劇的だっただけれど、この『夜明け前』も悲劇的である。それが自分の父親をモデルにした小説だったというから尚更に。

島崎藤村によって書かれた長編小説。2部構成。「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる。
日本の近代文学を代表する小説の一つとして評価されている。

米国ペリー来航の1853年前後から1886年までの幕末・明治維新の激動期を、中山道の宿場町であった信州木曾谷の馬籠宿(現在の岐阜県中津川市馬篭)を舞台に、主人公・青山半蔵をめぐる人間群像を描き出した藤村晩年の大作である。青山半蔵のモデルは、旧家に生まれて国学を学び、役人となるが発狂して座敷牢内で没した藤村の父親・島崎正樹である。


(あらすじ)
中仙道木曾馬籠宿で17代続いた本陣・庄屋の当主青山半蔵は、平田派の国学を学び、王政復古に陶酔。山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。

半蔵は下層の人々への同情心が強く、新しい時代の到来を待っており、明治維新に強い希望を持つ。しかし、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と政府による人々への更なる圧迫など、半蔵の希望とは違う物であった。更に山林の国有化により、一切の伐採が禁じられる。半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。また、嫁入り前の娘・お粂が自殺未遂を起こすなど、家運にも暗い影が差してきていた。

村の子供たちに読み書きを教えて暮らしていた半蔵は、意を決して上京。自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕する。しかし、同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動に。その後、飛騨にある神社の宮司になるも数年で郷里へと戻る。

半蔵の生活力のなさを責めた継母の判断で、四十歳ほどで隠居することに。読書をしつつ、地元の子供たちに読み書きを教える生活を送る。だが、次第に酒浸りの生活になっていく。

維新後、青山家は世相に適応できず、家産を傾けていた。親戚たちは「この責任は半蔵にある」と半蔵を責め、半蔵を無理やり隠居所に別居させると共に、親戚間での金の融通を拒否し、酒量を制限しようとする。温厚な半蔵もこれには激怒し、息子である宗太に扇子を投げつけるのだった。

そして半蔵は、国学の理想とかけ離れていく明治の世相に対する不満や、期待をかけて東京に遊学させていた学問好きの四男・和助が半蔵の思いに反し英学校への進学を希望したことなどへの落胆から、精神を蝕まれる。そして、自分を襲おうとしている『敵』がいると口走るなど奇行に走っていく。ついには寺への放火未遂事件を起こし、村人たちによって狂人として座敷牢に監禁されてしまう。

当初は静かに読書に励んでいたが、徐々に獄中で衰弱していく。最後には自らの排泄物を見境なく人に投げつける廃人となってしまい、とうとう座敷牢のなかで病死してしまった。遺族や旧友、愛弟子たちは、半蔵の死を悼みながら、半蔵を丁重に生前望んでいた国学式で埋葬したのだった。



父・島崎正樹
中山道馬籠宿(長野県木曾郡山口村)の本陣・庄屋・問屋を兼ねる島崎家17代。国学を学び、33歳で平田篤胤没後の門人となる。明治維新後、文明開化の風潮に失望、木曾山林の解放運動に奔走し戸長を免職され家産を傾ける。東京で教部省考証課雇、飛騨で水無神社宮司となるも志を得ず帰郷、巡幸中の明治天皇に憂国の歌を書いた扇を投げ不敬罪に問われるなど挫折をくり返した末発狂し、座敷牢内で没した。
※座敷牢とは施設軟禁施設(部屋)のこと。だいぶ穏やかに言えば隠居部屋とか。

島崎藤村 1872年(明治5年)生まれ。9歳で上京。
##1881年(明治14年) 上京、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙に、『詩経』などを学んだ。さらに三田英学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(明治学院大学の前身)入学。在学中は馬場孤蝶、戸川秋骨、北村季晴らと交友を結び、また共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典書物も読み漁った。明治学院本科の第一期卒業生で、校歌も作詞している。

藤村の父親は藤村が2歳だった1874年(明治7年)に、天皇の輿に憂国の歌をかいた扇を投げて不敬罪に問われた。
それから10年後の1884年、12歳となった藤村はキリスト教に入信した。
それから2年後1886年に父親は亡くなった。56歳だった。
藤村の通った明治学院は創立1863年。ジェームス・カーティス・ヘボンが横浜で開いた「ヘボン塾」を起源とする、日本最古のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。1887年に「明治学院」と名付けられた。
藤村は20歳の時にキリスト教を離教した。

明治期の文学者はキリスト教に入信したものが少なくない。
だが信仰は定着せずに離教した者もまた少なくない。
それはもう明治文学の1つの傾向と言ってもよいくらいに。


御嶽山と天狗

ちょうど半蔵が座ったところからよく見える壁の上には、二つの大きな天狗の面が額にして掛けてある。その周囲には、嘉永年代から、あるひはもっとずっと古くからの講社や信徒の名を連ねた様々な額が奉納してあって、中にはこの社殿を今見る形に改めた造営者であり木曽福島の名君としても知られた山村蘇門の寄進にかかる記念の額なぞの宗教的な気分を濃厚ならしめるものもあるが、殊にその二つの天狗の面が半蔵の注意をひいた。耳のあたりまで裂けて牙歯のある口は獣のものに近くたかい鼻は鳥のものに近く黄金の色に光った眼は神のものに近い。高山の間に住む剛健な獣の野性と、翼を持つ鳥の自由と、神秘を體得した神人の霊性とを兼ね具えたようなのがその天狗だ。
島崎藤村『夜明け前』より

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中央には御嶽山大権現と書いてある。

天狗は修験道における独自の神の1つである。
御嶽山も古くには修験道の霊山だったので天狗がいると伝えられている。
群馬県の修験道の霊山に数えられるのが沼田市にある天狗で有名な迦葉山。
連合赤軍が起こし山岳ベース事件(仲間同士のリンチ殺人事件)では迦葉山内にアジトの1つ(迦葉山ベース)があった。

迦葉山
古くから「天狗の霊峰」と称され、中腹には弥勒寺が鎮座する。迦葉山信仰として講が組織され、関東をはじめとする広範な信仰を集めた。麓には胎内潜岩がある。

迦葉山弥勒寺
群馬県沼田市上発知町にある曹洞宗の寺院である。沼田市北部にそびえる迦葉山の中腹に鎮座する。寺号は「迦葉山 龍華院 弥勒護国禅寺」だが、一般には単に「迦葉山」と呼ばれることが多い。天狗の寺として知られ、高尾山薬王院、鞍馬寺と共に「日本三大天狗」の一つに数えられる。

嘉祥元年(848年)に、葛原親王の発願により、比叡山の円仁を招いて、天台宗の寺院として創建されたと伝えられている。
康正2年(1456年)に、曹洞宗に改宗する。

曹洞宗は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。


毎年変わらずに8月3・4・5日に行われている「沼田まつり」では、 迦葉算弥勒寺の座禅堂に安置されている大天狗面がお神輿として担ぎ出される。この天狗神輿は全て女性によって担がれる。

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↑これは能面(NoMen)
Omen?




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# by yumimi61 | 2018-10-01 22:22 | 御嶽山噴火と御嶽教

種々様々

続・昔話

木曽の昔話
前記事に昔話を載せたが、昔話だけに同じ話にもいろんなパターンがある。(公平に努め、他のものも紹介しておこうと思います)
前記事に載せた記事は三岳村(現:木曽町三岳)に伝わるもの。
『御嶽山縁起』では、子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、とあったが、乳母が出てこず継母との関係が上手くいかなかったと伝わる地域もある。しかもその継母は天子様(君主)が紹介して後妻に入ったというものである。

木曽福島町・日義村(現:木曽町)辺りに伝わる『阿古太丸』。

平安時代の頃、京都に住む公卿北白川宿衛少将重頼という人が、子供に恵まれないため御嶽山の大神に祈ったところ、たちどころに男女二人の子供が授かった。
 女の子を利生御前、男の子を阿古太丸といい大事に育てたが、突然二人の母親は病死してしまった。
 そのことをお聞きになった天子様は、徳大寺の左大将の姫君で白萩御前を後妻に迎えるよう仰せになった。
 ところが、継母と阿古太丸の仲がうまくいかず、阿古太丸は父方の叔父にあたる欧州の中納言氏家を頼って身を落ちつけることにした。
 そこで、京よりはるばる木曽路をたどりこの板敷野まで来たとき、旅の疲れと病のため、若い十五歳の身で亡くなってしまった。
       この山に捨つる命はおしからで
               あかで別れし父ぞ恋しき

 一方、京にいた父重頼は、夢枕にたった阿古太丸のあとを追って、利生御前と旅立つことになった。
 ようやく木曽についた二人は、そこで阿古太丸の最期を聞き、姉利生御前は悲しみのあまり、阿古太丸の墓前で自害してしまった。
      先たつも後るも同じ草の露
              何れの秋ぞあはで果つべき

重頼は、二人の霊を御嶽大権現のもとへお返し申すと、自らもまた二人の後を追い自害して果てた。
  このことを、風の便りに聞いた継母は、自分のあさはかさを悔い、京からはるばるこの地を訪れこれもまた墓前で自害したという。
 この話が、天子様に伝わると、天子様は哀れにおぼしめしなされ宣旨によって少将父子を御嶽大権現のそばに祀り、信濃の国の国司は、御嶽に登り盛大な供養をして、その霊を慰めたという。
 木曽福島から、ただ一カ所、御嶽が見えるとされている板敷野の一隅に阿古太丸を伝える小さな塚がある。
 なお、三岳村に伝えられるところによれば、板敷野で阿古太丸の死を知った重頼は、娘利生御前とお供えを従え、ゆかりのある御嶽山に登拝しようと山道を登り、八合目で利生御前を見失い、霧にまかれ、雷鳥に先導され無事参拝をはたし、下山の途中一泊したところが白川で、後に人々はここに白川権現社を建て重頼らを祀ったとある。  
 また王滝村の伝説によると、阿古太丸の継母岩長姫は、子どもの霊を弔うため王滝に身をひそめ世をおくったという。   
 後、村人は阿古太丸の霊を継子岳に、岩長姫の霊は継母岳に祀り永く弔ったとある。 


昔も今も王滝村で当の王滝口ルートの麓地区・王滝村では白川話は封印。ガラリと内容の違う話が伝わる。

王滝村の『御嶽山の神様』

昔々、木曽川に沿って二人の落人が、追手に追われて逃げてきました。その落人は、とても高貴な女の人たちで、ひとりは「タカ」という名で、もうひとりはその義母でした。
 いよいよ追手が迫ってきて、義母はタカに、
 「私が先に行って、安全な場所を見つけましょう。あなたが道に迷わないように、私が五月の種を蒔きながらいきますから、花が咲くころ五月をたよりにしてのぼってきなさい。」と言って、王滝川を上流へと進んでいきました。
 季節は変わり、春になりました。タカは義母が言っていたとおりに、五月が咲きだすと急いで出発しました。赤い花が王滝川の流れに沿って、奥へ奥へと続いています。
 ずいぶん進んでいくと、しだいに高い山が見えてきました。タカはずいぶん疲れていましたが、
 「おかあ様が待っていらっしゃるから、急がなければ」」と、とうとう山の麓までやってきました。けれども花は山の上まで続いています。タカは険しい山を、足をひきずり、ころびながらも登りました。
 やっと頂上に着きました。けれども義母の姿が見えません。とたんに疲れがでて、もともと体が弱い人だけに、すぐ亡くなってしまいました。タカは、義母のことが気がかりで、山の神として生まれかわりました。
 この山は、御嶽山と呼ばれ、神様の山ということで毎年多くの熱心な信者たちが訪れています。


宗教とは何か?神とは何か?仏とは何か?

何故日本人はお正月に神社に行き、仏教式でお葬式を行うのか。
神仏習合の名残である。
だけどかつての神仏習合という宗教観が明治期に徹底的に破壊されたため、近代の日本人は確立された信仰心を持つことなく、単に流されて宗教めいたことを行っているだけに過ぎない。要するに中身がほとんどなく外側だけ。

神仏習合
日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。明治維新に伴う神仏判然令以前の日本は、1000年以上「神仏習合」の時代が続いた。

神々の信仰は本来土着の素朴な信仰であり、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びついており、その信仰は極めて閉鎖的だった。


現在の氏子と自治会の問題は古来のこの風習から来ているものである。
地域に固有の神がいて、地域ごとにどんな神を信仰していても構わなかった。だから国には神様が沢山いた。
八百万の神と呼ばれる沢山の神様は自然と共に生きていた。
村人(氏子)は地域を災害から守ってくれるようにとか、農業や漁業が上手くいきますようにとか、商売が繁盛しますようにとか、自分達にあった祈願をし祭典を行ったのである。
信仰は極めて閉鎖的だったとあるが、それが土着の神(氏)→自治会(村)→村人(氏子)だったからで、逆に言うと国や世界に1つの神しか存在しないという考え方にはなかった。
地域で信仰している神を全知全能の存在とみていたわけではない。多くの神々(八百万の神)が力を合わせて自然界や国を守っているというスタンスにあった。

こうした地域限定のような土着の宗教に対して、地域範囲を限定せず比較的どこでも通じるようにした宗教を普遍宗教という。
今風に言えばグローバルな宗教。
日本も各地域にそれぞれ神がいても良いけれど、国という単位では、特に対外的なことを思うと、普遍的な宗教が必要なのではないかと考えたのではないだろうか。(国が宗教を持って対峙しないと、外国のグローバルな普遍的な宗教に国が呑み込まれてしまうため)

普遍宗教である仏教の伝来は、このような伝統的な「神」観念に大きな影響を与えた。

近年において世界三大宗教と言われるのは、キリスト教(紀元0年)、イスラム教(610年)、仏教(紀元前5世紀)である。( )内は発祥年。
この三大宗教は信者の多いだけの宗教ではない。
信者の多い順で言えば、キリスト教(33%)、イスラム教(22%)、ヒンドゥー教(13%)である。仏教は6%。
ヒンドゥー教の信者はほぼインドに集中する。インドは人口が多いので信者も多くなるが、普遍的宗教は地域限定宗教ではダメなのである。
インドの仏教が中国に伝わったのであって、古い文明の歴史を持つ中国には実はいろんな宗教が混在している。だから中国は人口が多いが、仏教徒の世界的な比率としたらそこまで伸びない。
中国と日本が仏教を通して力を合わせるのは利害が一致するというか、理にかなっていた。

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日本古来の信仰を大事にしながら、大陸の人口が多く地域の広い宗教に呑み込まれて国を支配されるようなことがないように、神仏習合という独自の宗教を成立させたのが島国である日本である。
歴史的に国家は宗教を通して支配されていくことが多い。

仏教が社会に浸透する過程で伝統的な神祇信仰との融和がはかられ、古代の王権が、天皇を天津神の子孫とする神話のイデオロギーと、東大寺大仏に象徴されるような仏教による鎮護国家の思想とをともに採用したことなどから、奈良時代以降、神仏関係は次第に緊密化し、平安時代には神前読経、神宮寺が広まった。

日本への仏教の伝来から、神と仏は同じものとして信仰されていた。その素朴な神仏習合観念は、やがて仏教の仏を本体とする本地垂迹説として理論化されるようになり、さらに戦国時代には天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。


神仏習合の形成の過程が書いているが、「修験道」は意図的だったのかそうでなかったのか分からぬが、世界的に通用する山岳信仰を基本に、そしてやはり世界的に人気の高い神秘主義(密教)を取り入れながら、いち早く神仏習合という新しい宗教を形作った。

ただその神仏習合は明治維新とともに完全に分離破壊された。
国教として採用したのが神道。それも昔のような土着の八百万の神に戻したわけではなく、天皇を現人神とし伊勢神宮を聖地として一神教のごとく他の神々は異端として抑圧し、国家神道以外の信仰を禁止した
国家神道に逆らう者は投獄し、天皇には神として最敬礼することを強要し、天皇に命を捧げることが強制された。教育もそれに則って行われた。
その宗教を持って世界制覇を狙ったのか知らないけれど、宗教分布をみれば行く道が遠かったことは一目瞭然。
それとも仏教の部分を神道に置き換えて、世界三大宗教の仲間入りを果たそうと思ったのかな。
今でも神道一本である天皇家は盆も彼岸も関係ない。それが日本の象徴として最上位に君臨している。


神様は目に見えないもの

日本の神々
神道、民間信仰で多数な神がおり、総称して「八百万(やおよろず)の神」といわれる。
日本神話において天津神・国津神の神々のなかでもとくに三柱の御子が尊いとされ、その天照大神は主神となっている。


神道
教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。

神社
祭祀対象は神道の神であり、「八百万(やおよろず)」と言われるように非常に多彩である。神聖とされた山岳や河川・湖沼などから、日本古来の神に属さない民俗神、実在の人物・伝説上の人物や、陰陽道・道教の神、神仏分離を免れた一部の仏教の仏神などの外来の神も含まれる。また稲荷や猿、鯨など動物を祭神とする神社、子孫繁栄の象徴として男根の像を祀る神社もある。

古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬い、社殿がなくとも「神社」とした。現在の社殿を伴う「神社」は、これらの神々が祀られた祭殿が常設化したものとされる。神は目に見えないものであり、神の形は作られなかった。神社の社殿の内部のご神体は神が仮宿する足場とされた御幣や鏡であったり、あるいはまったくの空間であることもあり、さまざまである


神社には寺院のような本尊(最も大切な信仰の対象として安置される仏像)というものはないのが一般的。
現存する神像彫刻はすべて平安時代以降のものである。


仏とはブッダ(仏陀)のこと、仏は目に見えるもの

仏とは、仏教における最高の存在であり、悟りを開いた者である仏陀(如来)とする(狭義の仏)。しかし後に、仏陀に準ずる存在で悟りを開こうと修行している菩薩、密教特有の尊である明王、天部の護法善神などを含めた、仏教の信仰、造像の対象となる尊格を、広義の解釈として「仏」と総称するようになった。

如来部・・仏陀(釈迦)
菩薩部
観音部・・東密、台密の六観音などがある、非常に種類が多い、
明王部・・密教的
天部・・・古代インド、ヒンドゥー教的
開祖・高僧
垂迹神・・日本の修験道的、既存の本尊を踏まえつつ独自の像(本尊)を生み出したり採用した

※観音部というのは菩薩部に含まれる観音菩薩だが、非常に種類が多く、「八百万の仏」化している。

・東密の六観音ー聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音(馬頭明王)・准胝観音(七倶胝仏母)
・台密の六観音ー聖観音・千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音(馬頭明王)・不空羂索観音







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# by yumimi61 | 2018-10-01 13:51 | 御嶽山噴火と御嶽教

それぞれの開祖

●修験道の開祖ー役小角(えんのおづの)(伝承634-706年)
現在の奈良県御所市に生まれた人物。
現在の金剛山・大和葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
役小角は700年頃に(木曽)御嶽山登頂に成功したと言われている。

修験道:日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。

役小角は最澄や空海(弘法大師)よりも古い人物で、修験道開祖は仏教の天台宗や真言宗の開祖よりも早い。
天台宗や真言宗は仏教の中でも平安仏教と呼ばれる平安時代以降に勃興した宗派。
その前の奈良時代には奈良仏教(南都六宗)が栄えていた。

●天台宗の開祖-最澄(767-822年)・・比叡山
●真言宗の開祖-空海(774-835年)・・高野山

真言宗の密教(東密)は、空海が中国より真言密教を持ちこんだ。
天台宗の密教(台密)は、最澄の時代は弟子を空海の所に送りこんで学ばせていたが、最澄亡き後に弟子たちが独自に完成させた。
この宗派よりも早くに成立していた修験道が密教に関係あるので、比叡山や高野山も修験道に数えられる。
空海は修験道の修行場であった御嶽山に登ったことがあるらしい。


昔むかーし

王滝御嶽神社伝によれば御嶽山に最初に神殿(頂上奥社)を作ったのは信濃の国司(中央から地方行政に派遣された役人)であった高根道基という人物で702年のことらしい。
この頂上奥社というのは今でいう王滝口ルートの頂上地点の奥社である。
925年に白川重頼がそこを再建。
白川って誰?っていうことになりますよね。

木曽町三岳の昔話

御嶽山縁起
 「御嶽山縁起」とは、御嶽山先達や神社などに書き残されている伝記です。その内容は千年ほど昔の京都三条に、白川将軍重頼という公家がいましたが子供がおりませんでした。ある日夢の中に白い髭の老人が現れ、「信濃国の木曽御嶽山に祀られている御嶽座王大権現にお願いをしてみなさい」というお告げがありました。さっそく御嶽権現のお社を庭に建て祈願をしたところ、美しい女の子を授かり、3年後には男の子も生まれ阿古多丸と名付けました。

 子供が大きくなったころ母親が病で亡くなってしまい、若い後妻を迎えました。新しい母親は優しくしてくれましたが、その乳母は意地悪で、阿古多丸が持ってきたお土産に毒を入れて犬に食べさせたため、父親は驚き阿古多丸を家から追い出してしまいました。阿古多丸は一人で奥州の親戚の家に行くことにしましたが、途中で御嶽山を拝んでいきたくなり板敷野まで来ました。しかし心労と旅の疲れで倒れてしまい地元老夫婦の介護もむなしく御嶽山を見ながら亡くなってしまいました。
 その晩父と姉は阿古多丸の夢を見たので探しに旅に出て探し当て、板敷野の墓前で姉は自害してしまいました。父親は泣く泣く姫を弔い、その後御嶽山に登り二人の霊を御嶽大権現の元にお返しした後に自害しました。このことを聞いた後妻と乳母も木曽を訪れ墓前で自害してしまったのです。
 この悲しい出来事を聞いた都の天子様は、「亡くなった5人の霊を御嶽大権現のおそばにお祀りしてあげなさい」と言われたため、信濃の国司は家来を引き連れ御嶽山に登り盛大なお祭りをして霊を慰めたそうです。
 地区では今も塚の前の小さな水田にもち米苗を植え、秋には餅をついてお墓に供える行事が続けられています。(生駒勘七著木曽のでんせつより)

阿古太丸の墓
 昔、都に北白川宿衛少将重頼郷という人がいました。重頼には子供がいませんでした。
 ある日、重頼は御嶽山に祈願すると、子供にめぐまれると聞き、その日から毎朝毎晩一心にお祈りしました。祈願が効いたのか、四十歳になって二人の子供にめぐまれました。初めの子は女子で利生御前と名づけられ、二人目の子は男子で阿古太丸と名づけられました。重頼は二人の子を大変可愛がり、大切に育てました。
 ある日、阿古太丸の母親は突然病の床に伏してしまいました。母思いの阿古太丸は、父重頼から自分が、御嶽に祈願して生まれた子だということを聞き、御嶽に再び祈願しようと思いました。
 阿古太丸は、お供の者達と、木曽の御嶽へ向かいました。御嶽につくと阿古太丸は、自分が生まれたことのお礼と、母の病気を治してほしいと、頼み下山しました。しかしその途中、旅の疲れと風邪のために、阿古太丸は寝込んでしまいました。
 一方、都で阿古太丸の旅を心配していた重頼は、阿古太丸がいっこうに帰ってこないので、自ら木曽に向かいました。やっとのことで重頼が木曽に到着した時、阿古太丸は息を引き取りました。
 悲しんだ重頼は、村人らの善意で塚を建て、阿古太丸を供養しました。
 現在、木曽町福島に板敷野という集落がありますが、そこは阿古太丸が病の床に伏した時、板を敷いて休んだ事からきているのだそうです。


1161年には後白河上皇の勅使が登山参拝した。

木曽御嶽山の霊神碑の建立は、御嶽山を死後の魂の安住の場とする信仰であり、 死後の霊魂の憩いの場を御嶽に求めようとする独自の霊魂観が、そこにはある。

御嶽は数多くあれど

御嶽を「おんたけ」と読ませるのは木曽の御嶽山のみだと言われている。多くは「みたけ」である。
「みたけ」という名の山は修験道に関係深い山が多い。
木曽の御嶽山は、王の御嶽(おうのみたけ)から「おんたけ」になったとか。

鎌倉時代頃までの御嶽山は、山そのものを神体とする修験道の修行と、国のお役人や君主らの祈願や慰霊が行われていたことになる。後者は神殿や祭典を伴った。
しかしその後、修験者の行場としては衰退していった。 
何故かと言うと、真言宗や天台宗の密教が入りこんできたからである。
阿闍梨のところに「日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった」というような説明があったが、これは修験道の修行と国のお役人や君主らの祈願や慰霊が御嶽山にて行われていたことにルーツを持つのかもしれない。

天台宗や真言宗の密教の時代には、山頂の御嶽神社奥社まで登るにはまず麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行をすることが必要とし、その厳しい修行を終えた者だけに年1回の登山を許したという。
その修行にはお金を徴収したらしい。どうも3.5両くらいだったらしい。
3.5両は14,000文。室町時代は良く分からないが、江戸時代の初期ではかけそば1杯が6文ほどだったという。
江戸時代のそばの値段で換算すれば、修行するには「かけそば2,333杯」分の費用が必要だったといこと。
1日3食かけそばとすれば100日で300杯。でも2,333杯の費用。
現在の価格で考えてみると、かけそば1杯300円として、58万3,250円である。
登山するためには(修行するためには)結構なお値段を支払わなければならなかったが、それでも結構流行ったらしい。
修行と登山できない者は、登山を許された者にお金と米を渡して願掛けをお願いしたりしたらしい。

白川大神と四国巡礼

上に書いた白川重頼は後に神格化され白川大神となった。
尾張出身で行商人から真言密教の修行者となった覚明が四国巡礼の途上、四国八十八所霊場の第38番札所金剛福寺にて「御嶽山を開山せよ」と白川大神から命じられ、それで開山に至ったと言われている。

ではその寺が白川大神を祀っているのかと言えばそうでもないようだ。
金剛福寺
高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉跎山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。

境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、力の石、亀呼び場、竜燈の松、竜の駒、名号の岩の「弘法大師の七不思議」の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「跎」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示している。


但し金剛福寺には奥の院に白川ならぬ白山神社ならある。
奥の院
白皇権現元は白皇山真言修験寺として白皇山山頂に白皇権現を祀っていた。明治初年の神仏判然令で明治4年(1871年)に佐田山神社となり、大正5年(1916年)に白山洞門の白山権現と合祭される形で現在地に社殿を造営、白山神社と号するようになった。

首が飛んだ白川大神

御嶽山の一番上の剣ヶ峰頂上の社務所(祈祷所)の横に頂上奥社本宮があるが、そこに白川大神の像があり、噴火後にその像の首(頭部)が無くなっていた。
ついでに言うと賽銭箱も見当たらない。
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写真には写っていないが向かって左側に建物があり、噴火口はその建物のさらに左側の谷(地獄谷)である。
だから噴石が横から飛んできたのではこんな上手い具合に像にだけ当たって損傷を与えたとは考えにくい。
もし噴石が飛んできたなら上からということになろうが、それで像にだけに上手い具合に命中して頭だけが落ちるものだろうか。首の所の接着が甘かったのかな?

38と83

覚明が白川大神から暗示を受けた場所の金剛福寺は四国八十八箇所霊場の第三十八番札所。
御嶽山には三十八史跡なるものが存在する。三十八座とも言う。
でもそれを決めたのはわりと最近のことである。

日野製薬 2009.03.13 御嶽山三十八史跡巡り説明会 より

昨年、御嶽山の山麓、山中、頂上周辺に残っている史跡から38の史跡を、700年の歴史を持つ御嶽神社の宮司に認定していただきました。38の史跡を知っていただくために、各史跡の名称と所在地が分かるように石碑を設置し、パンフレットを作成し、更に、各史跡の年代、史実ないしは伝承を伝えるために朱印帳を作成し、「御嶽山三十八史跡巡り」の仕組みを構築してきました。

ほぼ準備が整ったので、3月12日に「御嶽山三十八史跡巡り」の説明会を実施しました。会場は木曽町の合同庁舎の講堂で、広い会場ですが、参加者は50人くらいだろうと予想していたところ、開始時間が近づくと会場一杯に約140名の人が集まって、大盛況の説明会になりました。


【三十八史跡(三十八座)】

・頂上18座ー王権現(五座)・日権現(七座)・八王子・栗加羅・士祖権現・金剛童子・駒ヶ峯(二座)

・中腹6座ー湯之権現・大江権現・西野権現・青木権現(扇の森)・飯之老翁(二座)

・山麓14座ー岩戸(王滝里宮)・大宮(二座・上島)・小宮(上島)・小路之木(上島)・野口高岩(野口)・埵沢権現(鞍馬の滝)・田中社(埵沢)・牧尾大明神・本社(黒沢里宮)・若宮(黒沢若宮)・白川(黒沢白川)・美濃加子母(二座)

ちなみに山荘がある所から剣ヶ峰の頂上に通じる石段階段は83段である。






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# by yumimi61 | 2018-09-30 23:18 | 御嶽山噴火と御嶽教


(前記事の続き)
御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという


普覚の八丁堀時代と全国行脚!?

普覚が江戸に出て過ごした場所は八丁堀にあった法性院だと言われているが、廃絶したとかで何も残っておらず。
普覚の遺骨は分骨され、その八丁堀の法性院にも埋葬されたというが何もなし。そこに分けられた遺骨は御嶽山に移動したとか。
地下鉄サリン事件の日比谷線は被害者を多く出したが、八丁堀駅はその中の1つである。。

法性院がどれくらいの規模だったかは分からぬが修験長になったという普覚は庶民に病気の厄除けをすることを志して、法性院での修験長を辞めてしまったそうである。
再び一人で山修行を積んで、その後は全国行脚したらしいが、昔のことであるし、そうでなくても密教は口頭伝承が基本なので、はっきりとしたことは不明である。

地元の御嶽山だったのでは?

普覚の地元である秩父にも御岳山(御嶽山と書く場合もあり)(標高は1080m)が存在する。
こちらの開山者も普覚である。

普寛は、国道140号沿いの道の駅大滝温泉(大滝温泉遊湯館)のすぐ近く、落合が生誕の地である。落合登山口の近くにある普寛神社(御嶽普寛神社)には普寛上人が祀られており、頂上には普寛神社奥宮の小さな祠がある。
登山口は、贄川(町分)、強石、落合などがある。最寄り駅は、秩父鉄道三峰口駅である。

木曽御嶽山・王滝口ルートの開拓のきっかけ

普覚がなぜ木曽の御嶽山を開山(新ルートを開拓)したかと言うと、1790年に地元秩父で(木曽)御嶽山の麓の村の1つであった王滝村出身の与左衛門に出会ったからだという。
木曽の山では材木伐採や運搬をする日雇い労働者を使っており、その日雇い労働者の中で優秀な者は、他の地域での伐採や運搬における頭領となったり、江戸や名古屋の材木商の代人や番頭になるなどしていた。
与左衛門はその中の1人で、目の病気か何かで失明の危機にあったが、それを普覚が加持祈祷によって救ってやったとか。
秩父で出会ったということだが、与左衛門は仕事で秩父にいたんだろうか。それともわざわざ秩父の普覚を訪ねたとか?

普覚にはアザを治したという評判があったそうだが、これがもし打ち身で出来るアザだったり、ちょっとした内出血だったら、加持祈祷をしなくても自然に治っていく可能性がある。
目もぷっくり腫れたり、かすんで見えなくなれば目がどうにかなっちゃうのではないかと凄く怖い思いをするかもしれないけれど、それも自然に、あるいは適切な治療によって治るものもある。
但し私は信じる力も否定するつもりはないけれども。

目を治してもらったお礼なのか、与左衛門は「私の郷里の御嶽山に登山道を拓くとよい」とのアドバイス(暗示)をしたらしい。
実は御嶽山(黒沢口ルート)は1785年に尾張の行者・覚明(仁右衛門)によって開山されていた。
もし与左衛門が普覚にアドバイスしたというのが事実ならば、与左衛門はその成功例を知っていて、別ルートの開拓を勧めたのだと思う。

尾張(名古屋)の行者・覚明
享保3年3月3日生まれ。行商生活ののち,仏門にはいり真言密教を修行。天明5年木曾へいき,地元の信者をひきつれて御岳にのぼり,従来重潔斎(けっさい)をした道者にのみゆるされていた御岳登山を開放。各地に御岳講が組織される契機をつくった。

アドバイスをした与左衛門は病み上がりだし(?)、そもそも地元民ではあったが(木曽)御嶽山に登った経験はなかった。
そこで同じ王滝村出身で(木曽)御嶽山登山経験もあり、江戸で材木商の代人として活躍していた吉右衛門にガイドを依頼した。
すなわち結局のところ黒沢口ルートも王滝口ルートも山事情に詳しかった地元民が開拓したようなものである。

御嶽山の八丁ダルミ

(木曽)御嶽山の王滝口ルートには八丁ダルミと呼ばれている箇所がある。
王滝口ルートというのは普覚のほうのルートである。
写真:毎日新聞2017年9月27日
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ダルミについて

ダルミは弛む箇所のこと。連なる山の最上部を繋いでいく線が稜線と呼ばれるが、自然の山なので当然に稜線が少し下がる(垂れる)部分が出てくる。
山のピークとピークの間で窪むところである。ピークには小ピークもあるが、ともかくピークの間をダルミやタルと呼ぶ。漢字にすれば「弛」。
日本語では鞍部(あんぶ)と言うこともある。これは馬の乗る時に使用する馬具の鞍にラインが似ているから。
英語やフランス語ではcolで、山の窪む所(要するに鞍部や峠)のことを意味する。ラテン語のcolは首という意味だそうである。
日本の登山家の中にはコルと呼ぶ人もいる。
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馬具の鞍は人間が跨ぐ場所で、人間の股がそこにあることになる。
人間の股の中央は、命を創造し命が生まれてくる場所であり、同時に排泄の場所でもある。


仏教(密教)とコル

「コル」は仏教(密教)とも深い関係がある。

仏教の発祥の地はインドであり、インドからチベットや中国に伝わり、中国や朝鮮を経由して日本にも入ってきた。
ただ発祥の地インドではヒンドゥー教に呑み込まれる形で衰退していった。
古代インドではサンスクリット語(古代インド・アーリア語に属する)が標準語であった。
インド仏教がチベットに伝わる際にサンスクリット語はチベット語に訳された。チベット語への翻訳は意訳ではなく直訳を心掛けたという。

マンダラ(曼荼羅)という言葉を聞いたことがあるだろうか。
マンダラのチベット語キンコルに「コル」という語が入っている。

曼荼羅(まんだら、梵語:मण्डल maṇḍala、チベット語:མཎྜལ(めんでる, maNDal), དཀྱིར་འཁོར་(きんこる, dkyir 'khor))

「曼荼羅」は、サンスクリット語मण्डलの音を漢字で表したもの(音訳)で、漢字自体には意味はない(なお「荼」(だ)は「茶」(ちゃ)とは別字である)。
なお、मण्डलには形容詞で「丸い」という意味があり、円は完全・円満などの意味があることから、これが語源とされる。中国では円満具足とも言われる事がある。

曼荼羅は、密教の経典にもとづき、主尊を中心に諸仏諸尊の集会(しゅうえ)する楼閣を模式的に示した図像。ほとんどの密教経典は曼荼羅を説き、その思想を曼荼羅の構造によって表すので、その種類は数百にのぼる。古代インドに起源をもち、中央アジア、日本、中国、朝鮮半島、東南アジア諸国などへ伝わった。21世紀に至っても、密教の伝統が生きて伝存するチベット、ネパール、日本などでは盛んに制作されている。
日本では、密教の経典・儀軌に基づかない、神仏が集会(しゅうえ)する図像や文字列にも、曼荼羅の呼称を冠する派生的な用法が生じた。

チベット仏教などでは今でも修行の一環として儀式、祭礼を行う時に描かれる。
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マンダラには丸いという意味があるが、チベットの「コル」にも円や輪という意味がある。
円や輪はサンスクリット語では「チャクラ」とも言う。
マンダラのチベット語はキンコル(dkyir 'khor)。
これは「キル(dkyil)」+コル(khor)」を言いやすくした言葉で、キル単独では中心や底という意味があるそうだ。
すなわちキンコルやマンダラは、単なる丸や球体ではなく、中心が強く意識されていることが分かる。

時事ニュース絡みで

中心が意識されているといえば、今回の台風24号の宇宙からの映像を思い出す人もいるでしょう。

偶然にも天台宗系の密教は「台密」と言う。
真言宗系の密教は「東密」である。

(木曽)御嶽山の黒沢口ルートを開いた尾張の覚明は真言宗系の密教の修行者である。
王滝口ルートを開いたいう普寛は天台宗系の密教の修行者であった。
両者は宗派が違うのである。

(ページを改めてまだ続く予定です)




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# by yumimi61 | 2018-09-30 14:01 | 御嶽山噴火と御嶽教

人工

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写真の山は武尊山、赤い橋は関越自動車道。
この近辺一体はかつて沼田ダム建設予定があった。日本最大、それもとてつもなく大きな人造湖(ダム)の建設計画である。
もしダムが建設されていたならば私の実家も水没する地域であった。
沼田高校や沼田女子高校も水没地域であった。


沼田ダムは1952年(昭和27年)に第3次吉田内閣によって閣議決定され、建設省関東地方建設局による正式な事業となった。

必要な事業費を現在の貨幣価値に直すと順調に事業が進捗したと仮定しても約9,777億円と実に1兆円近くの巨費となり、日本最大級のプロジェクトとなる。

地図で水没予定地を見た場合北は赤谷川合流点を越えて利根郡月夜野町]付近、群馬県道273号後閑羽場線の月夜野橋まで水没する。また東では片品川が沼田市下久屋町付近、薄根川が沼田市岡谷町まで完全に水没する。沼田市は高台の一部が半島状に残り、低地は全く水没する状態となる。上越新幹線や関越自動車道が沼田市付近を避けて高台を通過しているのは、沼田ダム建設を念頭に置いたものといえなくもない。特に関越自動車道については、ダム完成時に付け替えられる国道17号の予定路線とほぼ同じ位置を通過しており、沼田インターチェンジは水没を免れる新沼田市街予定地に建設されている。

水没予定地の中には沼田市役所・沼田警察署・沼田消防署・国立沼田病院・国鉄沼田駅といった沼田市官庁街が含まれる。移転世帯も2,200世帯と莫大なものとなり、沼田市はダム建設によって多大な損失を蒙る。このため沼田市民や月夜野町民は「沼田ダム」計画に猛然と反発、「沼田市・利根郡を繁栄から零落へ引きずり落とす」・「藤原ダム・相俣ダム水没住民の例を見れば、移転住民の将来は暗い」として「沼田ダム建設反対期成同盟連合会」を結成。計画発表の3ヵ月後、10月7日に沼田公園において「沼田ダム建設反対総決起大会」を挙行した。この大会に集まった住民は約3,000人。めいめい鉢巻やムシロ旗を携え、市街地をデモ行進してダム反対を訴えた。
これを受け沼田市議会は「総決起大会」後の10月11日、沼田ダム建設に対して「沼田市が壊滅する」と反対決議を全会一致で採択。周辺の利根郡昭和村等も反対の意思を明確にし、建設省に対し激しく抵抗した。

沼田市が官民一体となって繰り広げたダム反対運動は世間の注目を浴び、国会でも問題になった。この頃は吾妻川でも八ッ場ダムが川原湯温泉水没を理由に吾妻郡長野原町が反対決議を採択して激しい反対運動を展開しており、利根川の河川開発のあり方を巡って国会でも建設の是非について度々取り上げられた。だが政府・建設省は基本的に沼田ダムの必要性を訴求、当時第3次池田内閣の建設大臣であった河野一郎や小山長規も沼田ダム建設促進の姿勢を崩していなかった。

1966年(昭和41年)2月、第1次佐藤内閣の建設大臣・瀬戸山三男が「沼田ダムは首都圏のために必要な事業で、建設を推進したい」と発言した事から沼田市はさらに態度を硬化させた。

これまで状況を静観していた神田坤六群馬県知事や群馬県当局・群馬県議会も「大勢の県民が犠牲となり、群馬県全体を混乱させる沼田ダム事業は容認できない」として、事業に対し反対する姿勢を見せたことから群馬県全体が官民一体でダム事業に対し明確な反対意思を表明。ここにおいて事業は完全に膠着化する状況となった。

佐藤内閣はそれでも沼田ダム建設推進の姿勢を崩さなかった。だが建設省はその後の利根川水系における治水計画・「利根川水系工事実施基本計画」の中で沼田ダムを盛り込まず、「本庄ダム計画」(烏川)や「跡倉ダム計画」(鏑川)、「神戸ダム計画」(渡良瀬川)を進めるようになった。また、水資源開発公団も「利根川水系水資源開発基本計画」で沼田ダムを盛り込まなかった。
さらにダム計画の目的でもあった赤城・榛名大開田計画が水源を矢木沢ダムなどに求め、沼田ダム計画を利用しない形で1964年より群馬用水が建設され1969年(昭和44年)に完成、ダム計画地点の直上流にある綾戸ダム湖に取水口を設置し灌漑用水供給が開始。東京都への上水道・工業用水道供給についても矢木沢・下久保ダムを水源に利根大堰より葛西用水路・見沼代用水・埼玉用水路が整備され荒川水系に連結、沼田ダム計画の進捗を待たずに東京都内への供給が開始された。
このように沼田ダム計画が次第に放置・形骸化する中で転機が訪れた。佐藤内閣から引き継いだ田中角栄内閣の誕生である。

「日本列島改造論」を引っ提げ総合開発事業を強力に推進していた田中内閣であったが、沼田ダム計画については事業の再検討を行った。1972年(昭和47年)10月11日、第1次田中角栄内閣の建設大臣である木村武雄は沼田市を訪問し、ダム予定地視察や関係者との懇談を行った。そして「地元に多大な犠牲を生じる沼田ダム建設は不可能」として談話を発表。ダム計画の白紙撤回を表明した。こうして1952年に第3次吉田内閣が事業を承認してより20年目にして沼田ダム計画は中止されたのである。




武尊山は標高は2158mとさほど高くはないが決して甘くはない山であり、特に冬ともなればなかなか厳しい山となる。
山田昇もこの山に学んだという。
武尊山では山田昇にちなんだ記念レースも行われている。
山田昇の実家のりんご園は沼田ダムに沈む予定ではなかったインターチェンジ側の沼田市にある。

実はこの武尊山、御嶽山と無縁ではないのである。


武尊山と御嶽山

武尊山の山名の由来は日本武尊。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は日本書記や古事記に登場する古代日本の皇族(王族)。
日本武尊は征西にも東征に出掛けたが、その東征の際にこの山に登ったという伝承がある。
登山後に疲労と病気で体調を崩したが、白鷹に導かれて温泉を発見し、そこで湯治したら全快したそうで、その温泉が(かつてクマもいた)宝川温泉。

日本武尊ばかりだけでなく、古代の人だって山を眺めていただけでなく登った人はいた。また山は修験の道場(宗教の修行の場)でもあった。
「開山」というのは比較的誰でも上りやすいような登山ルートが開かれたことを言う。それが何か記録に残っていれば、後世においてはそれが開山年だったり開山した人だったりになる。

武尊山には「御嶽山大神」や「普寛霊神」の石碑がある。
「なんで御嶽山なんだ?」と思う登山者は少なくないらしい。
これは御嶽山を開山(厳密には王滝口ルートを開拓)した人物と、武尊山を開山した人物が同じだからである。


行者・普覚

その人物は修行者である普覚(ふかん)という人物である。
1731年、秩父郡大滝村(現在の埼玉県内にある地)に生まれた。
一度は江戸に出たが、1764年に秩父郡にあった三峰山の修験道本山派の寺院・観音院に入門し修験するようになる。


修験道について

修験道
日本在来の山岳信仰を基盤とし、神道、仏教(特に密教)、道教などと習合しながら成立した日本の宗教。
森羅万象は大日如来の化身と捉える密教思想を背景に、蔵王権現や不動明王などを中心的尊格とする。
明治初年に政府の弾圧を受けて、廃絶とされた経緯があり、現在では仏教教団として存続しているものが多い
根本道場は、開祖役小角が開いた、吉野・熊野を結ぶ大峰山にある大峰山寺(および金峰山寺)である。主に天台宗(寺門派)の聖護院を本山とする本山派と、真言宗の醍醐寺三宝院を本山とする当山派に分かれる。葛城山も開祖修行地として重要視されている。
地方では、東北地方の出羽三山、九州の英彦山、中国地方の五流修験などが有力で、独立傾向が強い。特に出羽三山は開祖を役小角ではなく、蜂子皇子としており、独自性を打ち出している。
また富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ、修験道からは半ば独立したような固有の世界を形成している。また天台密教、真言密教の総本山である比叡山や高野山でも修行が行われた。

古代
最澄や空海が霊山を開く。
日光山など開かれる。

中世
熊野信仰が興隆。熊野詣が流行。
大和国の大寺院を中心とした修験教団が形成。後の当山派。

近世
幕府が本山派、当山派を改めて認定
富士信仰の中で、角行系富士信仰が成立
木曽御嶽信仰が成立

近代
神仏分離・廃仏毀釈と修験道廃止
教派神道教団の成立
修験道教団の復興と再編成


中央霊場に拠点を置く教団
 吉野修験:修験道の根本道場とされる吉野の大峰山(金峰山)で行われる修験。
 熊野修験:熊野三山を拠点とする修験。
 葛城修験:修験道の発祥地とされる葛城山を拠点とする修験。
 比叡山修験:比叡山で行われる修験。

全国に配下を持つ教団
 本山派:天台宗寺門派の聖護院門跡を本山とする修験道教団。
 当山派:真言宗古義派の醍醐寺三宝院門跡を本山とする修験道教団。

普覚はもともとは天台宗の密教系である本山派に属していた。
上の説明で「富士山、石鎚山、木曽御嶽山もガラパコス的発展を遂げ」とあるが、これらは近世・近代に勃興した山岳系宗教であり、歴史的にはそれほど古いものではない。

修験道は江戸幕府はもとよりもっと古くから認められていたが、明治政府は神仏を分離し、神道国教制を敷いた。こうして近代天皇制国家が作られたのであって、要するに神替わりしているというか、今の天皇制の歴史は近代しかないということになる。

明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものも破壊された。
修験系の講団体のなかには、明治以降、仏教色を薄めて教派神道となったものもある。御嶽教、扶桑教、実行教、丸山教などが主で、教派神道にもかかわらず不動尊の真言や般若心経の読誦など神仏習合時代の名残も見られる。


修験道は密教と密接な関係を持っているわけだが、密教はユダヤ教やキリスト教の神秘主義にも通じるものがある。
チベットのチベット密教(チベット仏教)はインド密教(インド仏教)がチベットに伝えられて成立した。
1960年代のヒッピー文化を経て、1980年頃から欧米においてインドのヨガや日本の座禅などを中心に東洋の神秘主義が注目されるようになり、特にチベット密教(チベット仏教)が人気を集めた。ダライ・ラマはチベット仏教の最高指導者。
オウム真理教はそことコンタクトを持ち、新興宗教として頭角を現していくことになる。


阿闍梨

御嶽山の王滝口ルートや武尊山を開山した人物として知られる行者・普覚。
秩父で何年か修験した後に昇格して、再び江戸に出て府下の聖護院派の修験長となり、52歳の時(1783年)に「伝燈阿闍梨」を取得したという。

阿闍梨(あじゃり、あざり、ācārya アーチャーリヤ、阿舎梨・阿闍梨耶とも音写)
サンスクリットで「軌範」を意味し、漢語では師範・軌師範・正行とも表記するが、その意味は本来、正しく諸戒律を守り、弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことである。

南伝の上座部仏教や、北伝の大乗仏教をはじめ、中世の日本密教や、現在のチベット密教では衆僧の模範となるべき特別な資格を有する高位の僧侶の称号であり、日本では主に天台宗と真言宗において、歴史上では天皇の関わる儀式において修法を行う僧に特に与えられた職位であった。

ただし、現代では一定期間の修行を経て「伝法灌頂」を授かった、宗派の認定する資格を有する職業としての僧侶を意味する。従って、現在の真言宗や天台宗では、阿闍梨は普通に密教を学んだ僧侶一般を指し、特別な高僧の称号ではない。

本来、阿闍梨の称号を得るためには「阿闍梨の五明」といわれる教養と学問と、実技や修行とを身に付けなければならないため、現在でも、チベット密教では厳しい基準や、三昧耶戒の「阿闍梨戒」があり、衆僧や一般信者の尊敬を一身に受ける立場となる。また、チベット密教においては、密教の阿闍梨を金剛乗の阿闍梨という意味で、「金剛阿闍梨」(チベット語;ドルジェ・ロプン)ともいう。


「阿闍梨」は外国と日本、昔と今では、言葉の重みが違うが、どちらにしても宗派の認定する資格である。
「伝燈阿闍梨」は弟子に教えることができる資格であり、一定の課程や経験を積む必要があり、50〜60代で得られる称号。宗派の中だけで有効な資格であり、どこでも使える教員資格というようなものではない。

現在の日本密教では阿闍梨は職業上の「習得資格」の名称であり、伝統的な仏教上の名称と「四度加行」という行道を一応は踏襲してはいるが、実質的な内容を伴うものではなく、例えば、高野山真言宗では一般の僧侶が持つべき最低限の資格ともされている。
いわゆる日本で事相面での教師としての阿闍梨となると、伝法灌頂を終えて各本山に3年ほど残り、その期間を含めて流派や人によるが、最短で約10年ほどで「一流伝授」の資格を得て初めて、弟子にものを教えることのできる伝灯の阿闍梨ということが出来る
高野山真言宗では、高野山の勧学院で行われる勧学会に毎年出仕して修学し終え、特別に選ばれて十数年に一度開壇される学習灌頂を受法すると、最奥の阿闍梨位とされる伝燈大阿闍梨に昇達する。


高野山の例が書かれているが、高野山も真言宗の密教。
いつか某放送局の某番組が高野山から放送していた。
放送局も然ることながら、神仏を分離させ修験道を禁止し弾圧した明治政府の頂点に立った天皇家の子孫で仏教とは無縁の天皇が、仮にも仏教や修験道に区分される高野山に献花するってどういうことなんだろう?

過去記事より
今年5月1日、テレビ朝日の報道ステーションは高野山・金堂から放送し、これは巷でもちょっとした話題になった。
なぜ酸いも甘いも嚙み分けるはずの報道番組が宗教の懐に抱かれなければならないのだ?
本来ならば両者はとても遠い存在であるべきだろう。
現世で達観してしまい宗教に親近感を感じてしまったということだろうか。

カメラは舐めるように本堂内を映していく。
中央の御本尊(?)の横に佇む献花に添えられた天皇陛下の文字がやけに眩しい。

日本の象徴である天皇陛下の文字があるからまだいいが、これがただの高野山ならば何故公平であるべき報道機関が一宗教法人から放送する必要があるんだ!と非難轟々となったはずだ。
宗教はその取り扱いが非常に難しく、慎重にならざるを得ないものである。
テレビ朝日と高野山はどんな関係なんだ?ということになる、こんなことはなかなか出来ない。

その高野山、実は投資運用に失敗したらしい。



オウム真理教の3女のホーリーネームに「アーチャリー」と入っているが、これは「阿闍梨」である。
麻原(松本智津夫)の3女と4女の仲があまりよろしくないようで(遺骨でも争ってましたよね?)、さらに3女はかつて教団幹部だった上祐氏(早稲田大学理工学部卒業後に特殊法人宇宙開発事業団に就職したという経歴あり)や滝本弁護士などとも対立しているらしい。
教団内には上祐派とA(アーチャリー)派があったとか。




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# by yumimi61 | 2018-09-28 16:07 | 御嶽山噴火と御嶽教

至当

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この写真は2016年9月29日に撮影したもの。
爆発のような噴火のような凄い雲だったので撮った。
空が低い雲に覆われ、その中でもちょうど山がある場所に雲が下りていて、山を隠すような形となっている。


御嶽山噴火から4年目

今日9月27日には御嶽山が噴火した日で、もう4年になるという。
時間が経つのは本当に早い。

御嶽山が噴火した2014年9月27日(土)は次男の修学旅行の前日だった。
学校の行事ではあるが日曜日出発であった。そのことは

に書いた。(写真は高校の正門前で撮ったもの)
その記事で「航空便リアルタイム追跡ページ」にリンクし、次男たちが乗ったANA663便の運航状況を書いた。
この間の台風でヘリコプターに怯え(?)フライトレコードを見ていた人達がいたけれども、私はこの時のことを思い出していた。


2014年10月11日~18日までの1週間、私は御嶽山特集記事を書いた。
特集六では、とあるNHK取材班が噴火のあった9月27日に御嶽山8合目で山頂に向けてカメラを構えていたという話を書いた。あと山での携帯電話事情など。
実は近年私がNHKを見るようになったのはこの時からである。
この時まで自発的かつ定期的に見ているNHKの番組やニュースといったものはなく、アナウンサーなど出演者も全くといって知らなかった(初恋の人と同姓同名騒動で『のど自慢』のことはちょっと知っていた)
(だけどその代わり、私がテレビをほとんど見ていなかった時代に一番見たテレビは紛れも無くNHKの教育テレビだった。子供が幼かった時代だから)

特集二の中には、次のように書いたがこれを書いた時点ではアナウンサー名も分からなかった。後で知ったがこれは今は朝のニュースを担当している高瀬アナウンサーだったみたいですね。

NHKのアナウンサーが噴火当初「おんたけ」でなく「みたけ」と言ってしまい、「おんたけっ!」と注意されていたが、黒沢口の麓は木曽町三岳(旧三岳村)で「みたけ」という名称は今でも多く使われている。



信仰の山としての御嶽山

御嶽山は山岳信仰、霊山としての顔を持つ。

御嶽山は山岳信仰の山である。通常は富士山、白山、立山で日本三霊山と言われているが、このうちの白山又は立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とする説もある。日本の山岳信仰史において、富士山(富士講)と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山である。教派神道の一つ御嶽教の信仰の対象とされている。最高点の剣ヶ峰には大己貴尊とえびす様を祀った御嶽神社奥社がある。鎌倉時代御嶽山一帯は修験者の行場であったが、その後衰退していった。

江戸時代に、王滝口、黒沢口および小坂口の3つの道が開かれることにより、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていった。江戸時代末期から明治初期にかけて毎年何十万人の御岳講で登拝され賑わっていた。

王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡がある。御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習がある。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並ぶ。御嶽神社には蔵王権現が祀られていて、遠く離れた鳥居峠や和田峠などの遥拝所に御嶽信仰の石碑や祠が設置されている。江戸時代後期の絵師谷文晁が『日本名山図会』この山を描いて、名山として紹介した。
林道黒石線と白崩林道の有料道路や御岳ロープウェイの開業に伴い、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者で埋め尽くされていた登拝道に、一般の登山者が混じるようになってきた。 

1944年(昭和22年)に御嶽教などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っている。


頂上の奥社(社務所)を含め御嶽山にある拝殿や社務所は御嶽神社の社殿ということになる。
仏教やキリスト教やイスラム教といった大きな宗教区分の違いも然ることながら、同じ宗教でさえいろいろな宗派や団体が存在するものである。
熱心な信者ほどどこでもよいというわけにはいかないであろう。
敬虔なキリスト教徒が仏式で葬儀してお寺にお墓を建てたりはしない。
仏教徒が教会でお葬式することはないだろう。
もっと細かな区分での宗派や団体、檀家や氏子などということになれば長く続く慣習や細かな決まり事、外の人間には分からない濃密な関係があるのだと思う。
同じ仏教だから、同じ神道だから、同じキリスト教だから、どこで何をして構わないということにはならないだろうし、信者らはどこで何をしても同じ御利益があるとも思っていないんだと思う。
信仰とは、観光客があちこちの神社に行って、そのたびに好きなことをお願いしてくるのとは違うし、仏教徒がキリストの十字架を身に付けることとも違う。少なくても熱心な信仰者はそう思っているはずである。
他地域からの観光登山、信仰者の信仰登山、地元民の登山、プロ登山(?)、それらも同じではない。


相撲問題と村八分問題

今話題になっている相撲の一門問題と少し前に話題になった奈良県天理市の村八分問題は、問題の根っこが似ている感じがする。
だから村八分を批判して相撲協会を庇うのはおかしいような気がする。

天理市は天理教のお膝元、いわば宗教都市のようなもの。
天理市
中心部に天理教関連の施設が集中していることなどから、宗教都市として知られている。
名称は天理教に由来する。同教の本部が市中心部の丹波市町にあったこと、同教が市制施行時に一帯に普及していたことによる。県に対する合併申請書類の一つ、市名選定の理由書は、次のように述べている。

「 (前略)市の中心たる元丹波市町は天理教教会本部の所在地であり従来より天理の町として又宗教の町としてその名は全国の隅々にまで知れわたつております。
この際合併を契機として宗教都市たる本質を明瞭に表現し関係町村相携えて街を天下の理想郷たらしめるべく住民の意向や感情を勘案してこゝに「天理市」を選定したものであります。 」

2017年現在、日本で市名に宗教団体の名称が使われている唯一の例である。


しかしながら村八分の件は氏子以外は自治会の構成員として認めていないということだったので、これは天理教ではないのかな。
自治会側が天理教以外の宗教で、移住者が天理教とか?

地方の田舎にいくと、地区ごとに神社があり、その地区の住民は基本的にその神社の氏子扱いになるというのはよくある話である。
要するに自治会=氏子だったわけである。
神社の祭典(なんかのお祭りとか)の費用を集めて、祭典をし、各戸にお札が配られたりする。自治会なので役職なんかも回ってくるし、お祭りなどあれば皆お手伝いなどに参加しなければならない。
ただ神式で葬儀をする人はそう多くない。
地域にはお寺もあり、そのお寺の檀家であったりするわけだから。
仏教のほうが神道よりもしっかりとした宗派があり、同じ自治会に属していても同じ寺の檀家でないこともある。
がしかし、田舎では宗派やお坊さんによらず、葬式は自治会(隣組)が仕切るという仕来たりが古くからあった。不幸のあった家の人は何かと大変だから、ご近所さんが手助けをしてほとんどのことをしてくれるわけである。
これも最近では田舎でも自宅で行わず葬儀社に全部任せるということが非常に増えている。

現代では多くの地域が何でもかんでも氏子が中心になっているわけでは決してないと思う。
自治会の年間行事の1つに地域の祭り(神社の祭典)が入っているくらいの感覚である。

だが自治会の祭りというものは神社なんか一切関係なくとも現代人には嫌われるものである。
何日もそれに(半ば強制的に)関わるはめになるのだから、まあ大変と言えば大変だし、この祭りって何か意味あるの?とか通りすがりに思ってしまうことは正直ある。
基本面倒くさいことはしたくない。役員とかやらされるなんて最悪。希薄な関係を望む。近所にいて濃い関係なんて角が立つだけ。同じ地区に住んでいるというだけの共通項は心許ない。その日その時限りの付き合いなんて心底信じていない。そんなような理由でよそから転居した移住者が多い新興地域ほど地域行事は嫌われる。地域の運動会の参加者を集めるのも一苦労。
都会人は回覧板すら過去のもの、あるいは存在を知らない。
賃貸住宅の居住者は地域行事の何やらかんやらに含まれてないこともある。

天理市のその自治会では、移住者はそういう煩わしいものに参加しなくてよいと言うのだから、世相に合致していて移住者にとったら良いような気がするんだけれども。しかも移住者(非氏子・非自治会員)のほうが数が多いんだし。
お金をとられることが問題なのかな。お金の問題は大変だからね。
でも市からお達しのある地域の一斉清掃に欠席するとお金を取るという自治会もあり(参加者と不参加者がいるのは不公平だからという理由)、お金で正々堂々と参加しなくてよいのならばそのほうがいいという意見も実際あるから、そのように割り切れる人ならば「参加しないけど支払う」ということのほうが却って良いのかも。
それとももっと根深い問題が隠れているんだろうか。
ちなみにうちにも広報が配られない。それは市が自治会を経由して配布していないから。広報は新聞に折り込んでいるので新聞をとっていない家には届かない。でも市役所とか郵便局とか図書館とかコンビニとか市内のあちことに置いているから欲しい人はそこから持って来ればよい仕組み。その場でささっと読んでまた置いてくればエコだし!?


選ばれし時

御嶽山の噴火で多くの被害者を出したこともどこかやるせない。
噴火のタイミングにみる神に見放された感、エアポケットに巻き込まれたような警戒のない突然の噴火。
何かが少し違っていたらそんなに被害者は出なかっただろうと思わせることがやるせなさに繋がる。
ある意味、「選ばれし時」に起こってしまったようなそんな。


御嶽神社の開山祭は例年7月1日で、7合目の田の原社務所で催される。
頂上奥社での開山祭は7月10日と少しずれる。
開山祭は御嶽神社の祭典の1つである。
昔から今日に至るまで御嶽教の信仰者は白装束に身を包み夏登山をする。
頂上奥社は大宝2年(702年)創建。全国に1000万人を超える信者がいるとされ、毎年夏になると白装束に身を包み、「六根清浄」と唱えながら登る信者の団体で賑わいます。

頂上奥社で閉山祭が行われるのは例年9月上旬。
開山祭から閉山祭までの間は頂上の社務所も毎日開所している。
閉山後は閉めて誰もいなくなる。
9月27日は御嶽神社の頂上社務所は完全にオフに入っていた。
だから戸締りがしてあり、噴火時にその中に避難するということが出来なかった。

実は9月上旬で完全にオフに入るのは頂上の社務所だけなのである。
〇頂上社務所
 開山から閉山までの毎日
〇8合目の遙拝所社務所
 開山から閉山までの毎日、5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇7合目の田の原社務所
 開山から閉山までの毎日、4・5・6・9・10月の土曜・日曜・祝日
〇5合目の八海山神社社務所
 開山から閉山までの毎日、1月1日~2月3日までも毎日、5・6・9・10・11月の土曜・日曜・祝日
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境内の湧水は目の病気に良いとかで、め!

〇1合目の別殿社務所と里宮社務所
 通年 

8合目以下の社務所は9月10月は土曜・日曜・祝日は開所している。

選ばれし者たち

2014年の記事では紅葉にはまだ早いと書いたが、御嶽山の紅葉シーズンは9月下旬から10月上旬だということなので、ちょうど紅葉が始まった頃。紅葉のピークではないかもしれないが、秋の行楽シーズンでもあるので観光登山客は少なくないであろう。
暑くもなく寒くもなさそうな一番気候が良いと感じるであろう9月。
それも頂上社務所が開いている上旬ではなくて下旬。白装束の登山集団がいなくなる時期。
しかも噴火があったのは休日土曜日。(NHKの取材クルーの皆さんはわざわざ土曜日に取材に行かなければならないお仕事だったわけですね、ご苦労様です)
どう考えても一般登山客が多い時期や曜日である。
しかも噴火が夜とか夕方とか早朝とかではなくてお昼頃。頂上で一休みしてお弁当でも食べちゃおうかなあというまさにそんな時間であり、噴火が起こる時間的にも最悪。

そういう選びに選んだようなタイミングで噴火が起きてしまって、そのタイミングがもたらすであろうことから外れることなく死者・行方不明者を63人も出した。
その山は山岳信仰のある霊山であるにもかかわらず、信仰登山者の犠牲者は一人としていない。
御嶽教に信仰する者でなくても神に見放されたと表現したくなるような噴火と犠牲であった。




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# by yumimi61 | 2018-09-27 17:13 | 御嶽山噴火と御嶽教

Fate

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ジョン・レノンのこのアルバムジャケットの白い丸は月か太陽か、それとも月と太陽なのか、そもそもなぜ2つあるんだろう、と思いませんか?
そのヒントは裏側にあるんだと思います。
ジャケット裏側では、同じ場面にて白い丸の代わりに虹が見えています。
虹は太陽の反対側に出来るもので、太陽側に見えることはありません。
そうとなれば表側の白い丸が太陽であることはありえないということになります。
月です。それも満月。

満月は太陽の180℃後ろから太陽を追いかけるように東から出て西に沈んでいきます。
例えば三日月ならば太陽の45℃後ろにいます。三日月は太陽の近くにいるので太陽が沈むまでは太陽の光で人間は三日月の姿を見ることは出来ません。
人間が見れるようになる頃には三日月もすでに西の空に回っています。
満月は太陽の180℃後ろ、すなわち地球上の人間から見ると太陽の反対側にいることになります。だから満月は夕方から東の空で見ることが出来ます。
このことから考えてもジャケットの白い丸は月なのです。

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# by yumimi61 | 2018-09-25 15:53

晨星落落

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# by yumimi61 | 2018-09-24 15:41

放縦

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愛と呼ぶには何が足りなかったんだろう
恋と呼ぶには何を持て余したのか
青く高い空を突き抜けることも
覆い尽くすことも出来なかった
横たわるは あなたの憂鬱と私の懸念
切り分けられたクラウド 2つの人生


溶け込むには眩くて蒼い夜を探してた
撥ねかえすには合いすぎた白い月
天空海闊あの空を飛んでいくことが出来たのに
僅かな日々を駆け抜けることが出来なかった
横たわるは あなたの生命と私の抜け殻
立ち込めたミスト 空きのなくなったメモリ




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# by yumimi61 | 2018-09-23 21:42

RGB

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"In nature nothing exists alone." 
そう言ったのは『沈黙の春(Silent Spring)』の著者レイチェル・カーソン。
生態系はそれほど大事というお話みたい。

"Those who dwell, as scientists or laymen, among the beauties and mysteries of the earth, are never alone or weary of life."
これもレイチェル・カーソンのお言葉。
「地球の美しさと神秘を感じ取れる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることは決してないでしょう」
そう?どう?

光と影(陰)がないと私達は物を認識できない。
月影、星影、日影、これみんな「光」のこと。月の光、星の光、日の光。
光が当たっていないのが日陰。

この地球にはRGB(赤緑青)の光しか届かず、私達の眼球はRGBの光しか認識できない。
この世界はRGBの反射と吸収具合で色付いている。
分かったような分からないようなだから全てを混ぜて灰色に?

黒髪の色素が抜けて白くなる時、彼らはそれをグレーヘアーと言った。
グレーじゃなくて黒と白なのに、ブロンドとホワイトなのに。遠目で見るとグレーになるから?
吸収から反射に転じる時が人生の終わりの時なの?それとも人類の終わり?あるいはこの世界の終わり?誰か教えて。


昨日の写真に載せた言葉の”年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず”は中国の漢詩から。

(ブログ)流離の翻訳者 果てしない旅路はどこまでも
「代悲白頭翁」 劉希夷
より

劉希夷(651-679年)
「代悲白頭翁」      「白頭を悲しむの翁に代わる」  劉希夷

洛陽城東桃李花     洛陽城東 桃李の花
飛來飛去落誰家     飛び来たり飛び去りて誰が家にか落つる 
洛陽女兒惜顔色     洛陽の女児は 顔色を惜しみ
行逢落花長歎息     行くゆく落花に逢ひて長く歎息す

今年花落顔色改     今年(こんねん)花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在     明年花開いて復た誰か在る
已見松柏摧爲薪     已に見る松柏の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為るを
更聞桑田變成海     更に聞く桑田(そうでん)の変じて海と成るを

古人無復洛城東     古人 復た洛城の東に無く
今人還對落花風     今人 還た落花の風に対す
年年歳歳花相似     年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同     歳歳年年 人同じからず

寄言全盛紅顔子     言(げん)を寄す 全盛の紅顔子
應憐半死白頭翁     応(まさ)に憐れむべし半死の白頭翁
此翁白頭眞可憐     此の翁の白頭 真(まこと)に憐れむべし
伊昔紅顔美少年     伊(こ)れ昔 紅顔の美少年

公子王孫芳樹下     公子王孫 芳樹の下(もと)
淸歌妙舞落花前     清歌妙舞す 落花の前
光祿池臺開錦繡     光禄の池台は 錦繍(きんしゅう)を開き
將軍樓閣畫神仙     将軍の楼閣は 神仙を画(えが)く

一朝臥病無相識     一朝病(やまい)に臥して相識(し)る無く
三春行樂在誰邊     三春の行楽 誰(た)が辺(あたり)にか在る
宛轉蛾眉能幾時     宛転(えんてん)たる蛾眉(がび)能く幾時ぞ
須臾鶴髪亂如絲     須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し

但看古來歌舞地     但だ看る 古来歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲     惟だ黄昏鳥雀(こうこんちょうじゃく)の悲しむ有るのみ

(現代語訳)
洛陽城の東では桃や李の花びらが飛んできて、それは誰の家の屋根に落ちるのだろうか?それを見る洛陽の若い女性たちは、自らの容姿が色褪せていくことを惜しみつつ溜息をついている。

今年花が落ち、その分だけ歳をとり容姿も衰える。来年再び花が開いた時に果たして誰が生きているだろうか?松や柏の木が割られて薪となったり、桑畑が海になってしまったのを見たことがある。

昔洛陽城の東で桃李の花を楽しんだ人たちは既に亡くなり、現在を生きる人たちがその花が散る中を春風に吹かれている。花は毎年同じように咲くが、その花を楽しむ人は毎年同じではない。

血色の良い若者たちに一言言わせて欲しい。あの死にかけた白髪頭の老人は哀れで、その白髪は本当に憐れかもしれないが、彼も昔は君たちと同じ血色の良い美少年だったのである。

王侯や貴族の子女が芳しい樹の下に集い、その花びらが散る中をかつては彼も楽しく歌ったり踊ったりしていた。その屋敷には錦と刺繍が美しく飾られ、将軍の楼閣には不老不死を願う神仙が描かれていた。

しかし、ひとたび病に倒れると誰も彼を訪ねては来なくなる。あの楽しかった春の行楽はどこへ行ってしまったのか。女性の美しい眉も長くは続かない。あっという間に糸のように乱れた白髪になってしまう。

かつて歌や踊りの宴が行われた跡を見れば、今はただ黄昏時に鳥や雀が飛び来て悲しげに囀(さえず)るのが見られるだけである。


(自作英訳・改訂ニ版)
“On behalf of the old man lamenting over his gray hair”

In the east of Luoyang, onto whose door would flowers of peaches and plums fly and fall? Girls in Luoyang sigh deep sighs for their fading features whilst strolling to encounter fallen blossoms.

Indeed our features have changed when flowers fall this year, but who could see the flowers bloom again next year? We've already seen pines and oaks cut into firewood, further we’ve heard mulberry fields turned into sea.

Those who used to see flowers blooming are never found again in the east of Luoyang, nevertheless those who currently see fallen followers are facing the spring breeze again. Flowers bloom every year in the same manner, however, those who see the flowers have been changing year by year.

I'd like to say it to blooming ruddy boys that you should certainly feel pity for the dying gray-haired old man. His gray hair would really be pitiful, however, he used to be a rosy good-looking boy like you.

Under sweet-smelling trees, he would often sing and dance among sons and daughters of kings and lords in front of falling blossoms. Luxurious brocades and embroideries colored splendid residences, and paintings describing gods and saints decorated general’s pavilion.

One day, he came down with an illness, and no one would visit him ever since. Where would the pleasure at the height of his life have gone? How long could a beauty keep her crescent eyebrows? In the twinkling of an eye, her hair will turn gray like strings.

Looking at the site they used to sing and dance, now we can solely hear sparrows or little birds singing sadly in the twilight.








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# by yumimi61 | 2018-09-21 16:34

悲願


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# by yumimi61 | 2018-09-20 23:54

Helicopter 
















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# by yumimi61 | 2018-09-19 00:36
組織人とボランティア、職業人とボランティア

消防隊員もパイロットも、ドクターヘリに乗る医師や看護師も、それを業務で行っている。業務で行う限り、多かれ少なかれ対価である報酬を得ている。
しかし防災ヘリや救急車やドクターヘリの利用者からは利用料を取らない。
かなりリスクのあるサービスを無償提供している。
労働者に対する報酬やら事業運営する経費が掛かっているにも関わらず、利用料が発生しない。要するにこれらは税金で賄う事業である。

国や自治体が行うこれらのサービスは、国や自治体にとっては率先して行っている「ボランティア」ということになる。
自らその職業を志し就労している労働者もある意味「ボランティア」である。
でも労働者がヘリコプターに乗ることを就労前に予想できず、事業主の命令によって否応なく行っているとするならば、それが志願して行っているボランティアと言えるかどうかは微妙である。

東京オリンピックのボランティアの話も同様で、国や自治体は誰に強制されたわけでもなく強く志願してオリンピックを開催するわけである。
そこに属する大学や大学に属する学生は、自らそこに大学を設置したり、自ら志願してその大学へ進んでいる。
要は事業主に雇われている労働者のようなもの。
だから「ボランティア活動に参加しなさい」は「ヘリコプターに乗りなさい」と同じだと捉える事が出来る。

もしも国や自治体が国民の中から無作為に、あるいは作為的にヘリコプターに乗る人を選んで、「あなたがこの仕事をしなさい」と強権的に押し付ければそれは強制となるだろうが、自分で選択したところに属していて(且つ属さないことを選べる自由が存在していて)何らかの役割が回ってくるということは少なからず「志願」の要素が潜んでいるということになる。

ボランティア(volunteer)
聖書の副詞形ヴォルンターテ「自ら進んで」の語源は動詞「volo(ヴォロ)」(「欲する」「求める」「願う」の意)である。ラテン語ヴォルタースから英語の volunteer が誕生した。ボランティア活動において、交通費や実費、その他経費を受け取る活動を有償ボランティアと称する例も存在する。英語の volunteer の語の原義は志願兵であり、「ボランティアをする人」、「ボランティアをする」のほか、志願兵の意味もある。徴集兵を意味する drafts とは対義の関係にある。十字軍の際には「神の意思」(voluntas) に従うひとを意味した。

volunteer
(名詞)志願者、ボランティア、篤志奉仕家、志願兵、義勇兵
(形容詞)有志の、志願(兵)の、義勇(軍)の、〈植物が〉自生の
(他動詞)〈奉仕・援助などを〉自発的に申し出る[提供する、買って出る]、〈意見・情報などを〉自発的に[進んで]述べる、〈…と〉進んで言う
(自動詞)進んで事に当たる[従事する]、〔…に〕志願する、〔…の〕徴兵に応募する、進んで〔…として〕勤めたいと申し出る


ボランティアに無償という意味は無く、無償であるとは決まっていない。あくまでも志願したかどうかがポイントである。
有償という条件であっても無償という条件であっても求めている人がいるならば、それに自ら応じるかどうかということだ。
一方、求めがないのに自ら提供するサービスがある。
求めてない人から対価(お金)が取れるのかという問題があるので、これは基本的に「無償」であろう。

「求めがないのに自ら提供するサービス」は自分がしたいから行っているというスタンスである。行動の責任は自分にある。対価を求めるのもおかしい。相手から感謝されるとも限らない。自分がしたいことは相手にとっては迷惑な行為かもしれない。下手をすれば訴訟を起こされるかもしれない。

航空機内のドクターコールは航空会社が資格者を限定し求めているわけである。
それに医師が自ら名乗り出ればボランティア(有償でも無償でも)だけど、医師には法的に応召義務があると言われれば、そこには強制力が働いている。義務を怠れば違法となり得る。
そういった強制力が働けば、それはもう志願とは違うと思うが、医師になったこと自体が自らの意志(志願)だったと言われれば、もはや全てがボランティアである。

強制してやらせたことには強制した側が責任を持つべきである。
では志願した場合はどうだろうか。
求めと志願が何らかの契約によって行われているならば責任の所在は比較的はっきりしやすいが、そうでない場合には有耶無耶になりやすいというか、志願側が責任を持つ覚悟が必要なんだと思う。


上がる下るの罠

ボランティアと言えば8月にスーパーボランティアが流行りましたね。
スーパーボランティアのスーパーってなんだ?と思ったけれど、それはさておき。
山口県周防大島町で8月12日の10時半頃に行方不明となった男児が8月15日の朝に発見された一件。
男児は8月12日その日に母親とともに実家に帰省したというから、男児が祖父と兄とともに海のほうに向かったということ自体、到着後数時間あるいは数十分内の出来事であったということである。
男児は8月13日が誕生日だったので、行方不明になった時にはまだ1歳だった。翌日2歳となった。
もともと土地勘を持つような年齢でもないが、普段暮らしている場所と違った所で、しかも海に出るのに通った道でない道を1人で帰らせたというのは如何せん注意不足が過ぎる。
後から来た母親たちもその道を使っていないということからしても、その道が妥当だったとは思わない。

そもそも1人帰らせたのがぐずったからであり、祖父は「母親べったりな子」だったとも話していた。
かなり人見知りが強い子であったと思われる。
それを考えると、スーパーボランティアさんの発見時の説明は納得できないことも多い。
状況的にもちょっと信じられないというか不可解な点が多い。
発見されて解決した一件だが、教訓になるような事例ではない。

その中で特に教訓にしてもらっては困るという点を1つ。
「子どもだから下に向かって下ることはない、上に上がるのが子どもの習性と思っていた」というスーパーボランティアさんの談。
捜索開始20分で発見した極意のように語ったおられ、その判断というか知識が称賛されていたが、これはそんなことはない。

幼い子供は確かに高い所が好きな傾向はある。
それは山の高いところということではなく、家の中のテーブルとか椅子とか階段とかベランダとか窓際とか、屋外だった路肩の縁石とかジャングルジムとか滑り台とか、そういうところに上ったりよじ登ったりするのが好きなのである。
同時にそこから飛び降りてみたりするのも怖がらないというか好きなのである。
好奇心旺盛な子供達は視点や視界が変わるのが面白いと感じている。
外が眺められるエレベーターとかエスカレーターとかも好きだったりする。
そうやって自然に空間認識能力を身に着けていく。野山で遊ぶこともその能力を培うのに役立つ。

空間認識能力とは、物体の位置・方向・姿勢・大きさ・形状・間隔など、物体が三次元空間に占めている状態や関係を、すばやく正確に把握、認識する能力のこと。
球技等で狙った場所にボールを当てることや、飛んでくるボールを掴むこと、もしくは2次元に描写された地図を見て、その地形の構造を把握する能力、これが空間認識能力に当たる。

生物が生きていくのに必要な、外敵から身を守ったり、迫り来る危険の度合いを測定するといった能力も、空間認識能力に関係するといわれる。
空間認識能力は、視覚・聴覚など複数の感覚器の協力で成立し、右脳によってコントロールされる。


外科医はこの能力に長けているのではないかと考えられる。
迷子になりやすい人はこの能力がやや劣っていると言えてしまう。
行方不明になった男児は好奇心が旺盛に1人でも野山を駆け回るタイプにはとても見えなかった。

山ということで言えば、人間には下る本能がある。
登る苦しさよりも下りていくほうが楽だと感じるから。
子供には特に下る本能がある。丘を駆け下りていくことや滑り台を滑り落ちることがとても好きである。
登山において道に迷ったら下ることは危険だと言われている。下ると沢など水場に出てしまうことが多いから。
沢には崖や滝、岩や石などがゴロゴロしていて、転倒や滑落をしやすい。
水が飲めたとしても怪我をして動けなくなったり、水に濡れて低体温症を導いてしまったりで、道迷いがいよいよ遭難になってしまい、命が危険にさらされる。
そういう場所は意外に発見されにくい。
にも関わらず人間の本能はどうしても下を目指してしまうのだ。水を目指してしまうのだ。
「迷ったら下るな」という理性が大人だって非常時にはなかなか働かない。1~2歳時では理性を期待するのも無理がある。


どうして彼らはその日に飛んだのだろうか、どうしてあの日に事故に遭わなければならなかったのだろう

防災ヘリは着地するドクターヘリと違って上空から要救助者を吊り上げる機会が多いかと思う。
そのような装置(ホイスト)が付いているから可能であるし、救助に出向く場所が着陸しにくいからでもある。
関東近県の防災ヘリは相互応援協定なるものを結んでいるそうで、点検や不具合、すでに出動している時などヘリが不在の時には応援に入るのだとか。だから県内にのみ出動するとは限らない。
また防災ヘリだから山岳救助だけを専門にしているわけでもない。

山岳地帯は地形が複雑、空気が薄い、気象条件が悪いことが多い、天候が変わりやすい、局所的・突発的な変化もあり得る。
そのような特殊な環境にあるので、本来山岳救助には山岳地帯専用のヘリを使ったほうがよい。もちろんそれだけ高価ではあるけれども。

強風下での救難活動や、高度が高い山岳地(4000 - 5000m位が限界)などでのホバリングは、空気が薄いため揚力を得るのが困難で、高度な操縦技量が要求される。したがってエベレスト山などの高山にはヘリコプターでの支援は望めない。

しかし日本の場合、最高峰が3,776mであり、外国の高い山々に比べれば・・というところはある。救助は頂上ばかりではないと考えればもっと高度は下がる。
一般的なヘリコプターだって低い高度しか飛べないということもない。
ということで一般的なヘリコプターを使用している。
それだって購入代金も維持費も安いものではない。
でも高い所に行けば機体性能ぎりぎりな感じになることもあると思う。
山岳救助のパイロットの技術はそれだけ高いということでもあるはずなのだが。

群馬県防災ヘリ「はるな」は中型ヘリで9人が乗っており、全員が亡くなった。
中型ヘリというのは人間も荷物も適度に乗せられて汎用性が高い。
安定性ならば高出力な大型ヘリ、機動性ならば小さく軽い機体に高出力エンジンを積んだ小回りのきく小型ヘリだが、そのどちらでもない。一番使い勝手がよいヘリと言えるのかもしれない。
その使い勝手の良いヘリが救助ではなく稜線トレイルの視察に向かって事故に遭った。それも開通前日に。
救助中の事故だったら救われたのかと言えば決してそんなことはないと思うけれども、特に遺族にとったら死という現実が何より大きなわけで・・ああだったらこうだったらなんていう仮定は無意味ということは分かっている。
それでもやっぱりどこかやりきれない。






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# by yumimi61 | 2018-09-18 13:29
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか」
「この中に医療関係者の方はおりますでしょうか」

飛行中に急病人が出た時に航空機内でなされるアナウンス。
学界その他、航空機を利用する医師や医療関係者は少なくないだろうと思う。
急病人だってそう頻繁に出るわけではない。誰もが無事に飛行を終える方が圧倒的に多いのだ。
しかしそれだけに、このアナウンスは思うよりずっと医師や医療関係者を追い詰めるものとなる。名乗り出るべきかどうか逡巡する。

国際線ならば、そもそもアナウンスが聞き取れないこともある。
アナウンスは聞き取れたとしても母国語以外の言語で症状や経過を間違いなく確認したり何かを的確に指示したりすることが出来るのかという不安もある。

Gigazine 2016年09月06日
「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいませんか?」で実際に医師が対処した結果、わかってきた問題点とは?


上空を飛行中の飛行機で急病人が発生し、医師による対応が必要になるケースは日本航空の場合だと1年あたり200件ほど発生しています。そんな場合には「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」というドクターコールが行われることになるのですが、実は処置中や処置後に思わぬトラブルが起こることが懸念されることから、対応を躊躇するケースがあることが指摘されています。

2016年に入り、日本の2大航空会社である日本航空と全日空は、医師が飛行機に搭乗する際にあらかじめ医師であることを登録しておく制度をそれぞれスタートさせました。これは、各社のマイレージクラブのアカウントを用いる形で登録する仕組みとなっており、搭乗時に登録者がどの席に座っているのかを把握しておくことで、措置が必要な事態が起こった際の迅速な対応を可能にすること、そして機内に従来のような「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」というアナウンスが流れることで他の搭乗者に与える不要な動揺を抑える狙いがあります。

あらかじめ医師の存在を把握しておくことで、客室乗務員の対応がスムーズになること、そして医師以外の乗客の場合は万が一の際にも手際の良い対応を受けることが期待できるため、誰にとってもメリットがありそうな制度ですが、実際には措置後の責任をめぐって訴訟騒ぎになりかねないなど、一筋縄ではいかない状況が存在しています。
この状況は日本に限らず、世界中で同じようなことが起こっています


医師や看護師は養成期間に、飛行中の航空機内で医療や看護を行うことを学んでいない。(ドクターヘリに乗る場合は別途研修や講習を受ける)
航空機内にどんな医療器具や薬品が搭載されているのかを知らない。だからそれが使いこなせる物なのかも分からない。
アナウンスの段階で傷病者の状態が提供されるわけではないので、専門の範囲内なのか専門外なのかということも分からない不安もある。
医師や医療関係者は訴訟を起こされるかもしれないリスクを常に抱えている一方、航空機内の対応や処置について感謝・謝礼・報酬がない(断ったとかいうことではなく、する気がない。医療者なんだから行って当たり前だと思っている)ことが多いことも消極的となる理由であると思う。出張中であろうと休暇中であろうとハイリスクノーリターン状態。
また出張中であろうと休暇中であろうと医師として仕事をするからには病院や大学の看板を背負っている。無意識的にも医師という資格やその看板が重く圧し掛かったりしてしまう。

航空会社も訴訟沙汰やコスト増は出来れば避けたいであろう。1人の乗客の健康や生命と多数の乗客の予定や安全、乗務員の労働やローテーション、いったい何を優先すべきなのか迷うこともあると思う。
会社としての責任を考えて動くと、せっかく名乗り出てくれた医師に対して資格提示を執拗に求め気分を害させてしまったり、その場で資格が証明できずに活用できないということもあるようだ。

なぜ医者は「飛行機の中にお医者さんはいませんか」に手を挙げないのか?
医師の本音 中山祐次郎 | 一介の外科医  2016年8月4日
 

一度目は筆者が医師になって4年目の駆け出しの頃、ヨーロッパの国際学会に発表に行く途中のフライトでした。英語のドクターコールがあり、私はすぐには反応しなかったのですが、おそらく名乗りでる医者が居なかったのでしょう、次に日本語のドクターコールがあったので立ち上がりました。

その方は意識がぼんやりとしていて、血圧を測定すると60/30とかなり低下していました。私は慌て、ざっと全身を診察しました。そして救急バッグから大急ぎで見つけ出した見慣れぬ針をその方に刺して「saline(生理食塩水のこと、点滴で使います)」とかかれたバッグの点滴をしたところ、幸い数十分で元気になりました。原因はおそらく迷走神経反射だったと推測しますが、機上の救急バッグだけでは何もわかりません。もしその方が心筋梗塞や脳梗塞など重病だったとしたら、私にはなすすべがなくそのまま死亡していたでしょう。

機上で治せるのか?

医師なら強くご同意いただけると思いますが、乗客の方がなにか致命的なものを発症した場合にははっきり言ってほとんど治せません。もし致死的な状況でも医者がいたらなんとかなるかな、というのは、

・機内食などのアレルギーからアナフィラキシーショックになった場合のアドレナリン投与による救命
・突然の致死性不整脈(VTなど)になった場合の除細動(AED)による救命

くらいではないかと思います。筆者は救急のトレーニング(6年も前ですが)も積み日常的に外科医として働いていますから、一通りの救命行為は可能です。心臓マッサージ・気管内挿管を含む蘇生行為、止血、そして胸腔穿刺など。しかしそれでも、機内で出来ることはかなり限られるでしょう。

医師が急病人に対応する時は、「原因」を考えつつ「生命徴候(バイタルサイン、血圧や心拍数など)を安定させる治療」を並行して行います。ところが機内ではまずこの「原因」を考えるところが極めて困難です。機内には10数種類の薬とともに、いくつかの医療機器(聴診器・血圧計・挿管セット・パルスオキシメーター・AED)がありますがこれらで出来る診断はかなり少なく、「命が危ないかそうでないか」くらいしかわかりません


ところで生理食塩水の saline。sarin にするとオウム真理教が製造し使ったという神経ガスのサリンになります。
発音が違うから聞けば区別が付くはずだけど(区別が付く人もいるだろうけれど)、ぱっと見たらどちらもサリンですね。


病院はチームで動いている。医師だけでも看護師だけでも医師と看護師だけでも成り立たない。
医師を診断を下したり指示を出すが、実際には自分で行わない問診、計測・検査や処置も多い。
学生時代や研修期間にはやらされたけれど、一人前になってからはほとんど経験がないという処置などもあり、看護師のほうが扱いに詳しいとか上手くできるということもある。
チームであるというだけで安心感はあるし、それとなく助言を求めることや助言することが出来る。
機内でも地上にアドバイスを求めることも出来るが、緊急時に医師という資格者がそれを行うのもハードルが高そうだ。

日経ビジネス 一介の外科医、日々是絶筆  中山祐次郎
私が機内のドクターコールに応じたときの話
第17回 飛行機の中では、医者は何もできない 2017年10月26日


点滴が英語で書かれていて分からない

 まずは点滴を入れるための針を血管に入れなければなりません。医者はこの針のことを「ルート」と呼びます。血管にいろいろな薬を入れるための通り道なので、ルートと呼んでいるのです。適当に皮膚に注射するのではダメで、血管の中に入れると一瞬で全身に運ばれるのです。この時私の頭の中には「ルート確保、そして点滴を全開で入れる。それをやりながらこの人の状態が悪い原因を考えよう」というプランが立っていました。これは、地上で発生し病院に運ばれたすべての救急患者が受ける治療でもあります。

そこで私は、すでに3~4人集まってきていたキャビンアテンダントさん達に「血圧計とか、ルートを確保するための点滴の針とか、生理食塩水があったら出してくれ」と英語で言いました。しかし彼女らは全員それらのありかが分からず、代わりに大きなボストンバッグ4つを持ってきました。「おいおい誰も分からないのか……」私は眩暈を覚えつつ、全部ひとりでやるしかない状況であることを認識しました。大急ぎで全てのボストンバッグを開け、血圧計や注射、点滴や消毒用のアルコール綿を探しました。そこで再び危機が訪れました。なんと、点滴のバッグがすべて英語表記で書かれていたのです。当時経験の浅かった私は英語が分からず、ただ一つだけわかった「SALINE」、生理食塩水を使うことにしました。しかも点滴の針も外国製で、見たことがないタイプ。点滴って、0.1mmくらいのブレで失敗するようなかなり繊細な技術が必要なので、普段使っていないものを使うのは非常にストレスです。さらに、今目の前の患者さん(私の頭の中ではこの女性はすでに「患者さん」でした)は血圧が低く、血管が縮んでしまっているから点滴の針を刺すのが難しい。その上点滴の針はかなり細くて使えないものか、異常に太いものしか入っていない。さて、どうしたものか……。

頼む、入ってくれ点滴の管よ

 私はばたばたと動かしていた手を止め、一つ深呼吸をしました。このような場面、つまり自分がリーダーかつただ一人のプレーヤーで、条件が悪い戦いではパニックになったら100%自滅します。よし、これで落ち着いた。まずは現状分析だ。そう思い、血圧を測りました。血圧計も「水銀柱」というアナログのもので、国内のほとんどの病院では使っていません。私はたまたま学生のころ離島の診療所に行ったり地域の巡回診療をしたりした経験がありまして、このアナログ血圧計に慣れておりました。なんとか測ると、血圧は60/30mmHg。やはり危機的な数字です。よし、次は点滴だ。

 点滴を下げるための棒(点滴架台といいます)も当然機内には備えられていませんから、テープで点滴バッグを高い位置に貼り付け、そこから細いチューブをつなげて先端を患者さんのすぐ近くに置いておきます。なぜこんなことをするかというと、一人ぼっちだからです。他に医師やナースがいれば、そっち準備しといて、で済むのですが、一人きりでやらねばならずこんな準備をしました。そして、さあ刺すぞ、となった時。


m3.com スペシャリストの視点第6回 この中に、医療関係の方はいらっしゃいますか?  呼吸器 内山伸(浅草クリニック)

場所は機内ですが、自分の中では救急外来で、キャビンアテンダント(CA)もCAではなく看護師のように思えてきて、あれこれ薬のことや医療機器のことを聞いても何のことやら? という感じで、ふとわれに返って「そうかここは機内か……」と考えた瞬間、着陸前のシートベルトサインの点灯のアナウンスが流れました。


余談だけど、薬や医療機器がどんどん新しくなっていき、ブランクがあると全く別世界に来たようになることが、妊娠出産子育てで職を離れた看護師の臨床への復職を妨げる理由の1つにもなっている。


Gigazine 2016年09月06日
「お客様のなかにお医者様はいらっしゃいませんか?」で実際に医師が対処した結果、わかってきた問題点とは?


上空を飛行中の機内は、医療用器材が大きく不足していること、そしてエンジン音などの騒音が大きいために、聴診器で呼吸の状態を把握することすら難しく、上空の機内で判断できることは「この患者の命が危ないか、危なくないか」レベルでしかないと語る医師もいるとのこと。普段では診療できない環境で医療行為を突然担わされ、しかも結果的に誤診だった場合には大きな責任を負わされるということになると、たとえ善意で命を救おうという気持ちがある医師であっても、急病人の救護に手を挙げることが難しいと感じてしまうことも当然といわざるを得ないのかも知れません。しかも、医師には助けを求められた際にその要請を断ってはいけないという応召義務が課せられており、場合によっては「医師としての品格」を問われてしまうという、非常に過酷な前提が存在しています。

このような状況において、医師がリスクの存在に惑わされずに職責を全うできるようにするための考え方「善きサマリア人の法」というものが、欧米では取り入れられています。これは、「災難に遭ったり急病になったりした人などを救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人ができることをしたのなら、たとえ失敗してもその結果につき責任を問われない」という趣旨の法であり、医師が訴訟などのリスクを恐れて対応を躊躇することで、救われるはずの命が失われてしまうことを防ぐ狙いがあります。

日本には「善きサマリア人の法」はまだない。



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 フライト中に遭遇する疾患として浮動感、意識消失、悪心、嘔吐、呼吸器症状、循環器症状が多いようです。New England Journal of Medicineに掲載された論文(2015; 373: 939-945)によると、フライト中に一番多い症状は失神で(37%)、次に呼吸困難(12%)、嘔吐と胸痛と続きます。これはフライト中の環境が影響し、特にSpO2は92-95%と低下します。

フライト中の急病人で一番多いのは失神である。
上記論文では37%とドクターコールの3分の1を占める。
この失神は迷走神経反射によるもの。いわゆる「脳貧血」である。

迷走神経反射 (日本救急医学界 医学用語解説より)
ストレス,強い疼痛,排泄,腹部内臓疾患などによる刺激が迷走神経求心枝を介して,脳幹血管運動中枢を刺激し,心拍数の低下や血管拡張による血圧低下などをきたす生理的反応。脳幹血管運動中枢からの刺激は末梢各臓器の運動枝を介して,伝えられる。運動枝は骨盤内臓器を除く全臓器に分岐し,気管喉頭や消化管機能に影響を与える。本反射は生命維持のための防衛反応であるが,過剰反応をきたして身体異常を生ずることがある。排尿時の迷走神経反射により血圧低下をきたしたり(排尿時失神),迷走神経の過緊張により一過性の心停止をきたし失神することもある(迷走神経性発作vagal attack)。

迷走神経にはストレス・興奮・運動などによって上昇した心拍数を元に戻す働きがある。
これが過剰に反応しすぎて必要以上に心拍数を下げてしまうことがあるのだ。結果、脳に十分な血液が回らなくなる。
学校の朝礼で倒れるのはこの脳貧血である。
起立状態は血液が下に溜まりがちなので心拍数を上げて循環を活発化させる。心拍数が上がるので迷走神経が下げようとする。
つまり上げ下げのバランスが崩れた時に脳貧血は起こってくるが、起立状態だけでなくストレスや睡眠不足などの要因があることが多い。
この脳貧血が暑い時期に起こると熱中症として扱われることがあるということを夏に書いた。

今は深部体温が上がるという本来の熱中症以外にも脱水症、ヒートショック、脳貧血、過呼吸(過換気症候群)、貧血や低血圧、めまい症、パニック障害などが暑い日に起これば「熱中症」として扱われていたりする。
同じことが起こっても、暑い日でなければ熱中症としては扱われない。
これでは深部体温の上がった人(熱中症重症者=かつての熱射病と日射病)やその手前にある人が増えていなくても、熱中症となる人が増加するのは当たり前のことである。
熱中症が増えたのではなく、熱中症の概念を広げたからである。

学校の朝礼や集会で倒れたり気分が悪くなるという子は昔も今も季節関わらず一定数いる。
倒れる子は「貧血」と言われたりするが、学校の朝礼や集会で体調不良になるのは血液中の赤血球やヘモグロビンが不足している貧血ではない。脳貧血(迷走神経反射)である。
急激な自律神経失調によって、血圧や心拍数(脈拍)が低下し、一時的に脳に十分な血液を送れなくなる状態。
これが発汗による脱水と末端血管の拡張によって起これば、熱失神(とその手前の体調不良)ということになるが、起こる原因は様々で脱水や末端血管の拡張によって引き起こされたとは限らない。
ストレスやショックや不安を感じていることが多い。
もちろん暑さも人によってはかなりのストレスになるが、人が集まっている状態にストレスを感じる人もいれば、たまに見る校長先生や物々しい雰囲気、先生のとげとげしい緊張感にストレスを感じる人だっているだろう。
ここで何か起きたらどうしようと思うことが原因になることもある。
病院などでは採血時や注射時になる人もいるが、それは自分に何か(例えば針)が向かってくるということが大きなストレスになっている。
当然痛みもストレスになるが、直接何か起こっていない状態でも人は実際に体調変化を来たしてしまうことがある


迷走神経反射を誘発する要因は、長時間の立位、運動、恐怖感や情緒的不安定、痛み、高温、脱水、アルコール、睡眠不足など。
極端な場合は失神(意識喪失)が起こるが、失神の前兆としては、浮動感(ふらふら感)、発汗、視野のぼけ、頭痛、吐き気、あくび、熱感や寒気などがある。

航空機内は平地よりも気圧が低い。そこで心拍数を上げて低酸素にならないように身体は自動調節する。
心拍数を上げるので、下げようとする迷走神経も働くが、それが過剰に反応してしまい失神(脳貧血)となる。
航空機内は非常に乾燥しているので身体の水分が奪われて知らず知らずのうちに脱水状態となっていることがある。
起立ではないが座位が長く続き血液は下に溜まりやすい。
そんな状態で立ってトイレに行き、排尿して水分を出して腹圧も下がる。だから航空機内ではトイレでもよく起こる。
だけど突然倒れた見知らぬ人を背景も分からず何の検査もせずに「脳貧血」と決めつけるのは医師と言えども結構勇気がいると思う。





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# by yumimi61 | 2018-09-17 17:32
今日は日曜日で明日は敬老の日かぁ・・・・来週の日曜日は秋分の日(お彼岸中日)で月曜日は振替休日だなぁ


子供と老人はいろいろ違う。
見た目や生活習慣もそうだろうけれども、身体的機能も違う。

健康長寿ネット 高齢者の身体的特徴

高齢者の身体的特徴は、老化によって生理機能の低下が生じます。体の器官を構成している細胞にも老化は起こり、細胞数の減少や細胞の働きが低下することによって臓器の機能低下もみられるようになります。身体の水分量も減少するため、脱水によっても臓器の機能低下が起こることもあります。
加齢による生理機能の低下により、高齢者では以下のことがみられます
高齢者の身体的特徴
 •呼吸機能の低下
 •循環機能の低下
 •消化・吸収機能の低下
 •排泄機能の低下
 •運動機能の低下
 •感覚機能の低下
 •神経機能の低下
 •免疫機能の低下
 •性機能の低下
 •造血機能の低下
また、老化によって予備力・回復力の低下、防衛力の低下、適応力の低下により、疾病にかかりやすくなり治りにくいということもみられます。



気圧の変化を敏感に感じ取る人達

「そろそろ雨が降る」「天気が下り坂」「台風が近づいている」
天気予報を見なくても、天気図が読めなくても、天候の変化を敏感に感じ取り、そのようなことを口にしてピタリと言い当てる人がいる。
要は気圧の変化を感じ取っているということなのである。それが自律神経に影響を与えてしまう。
リウマチ、神経痛、交通事故によるむちうち(外傷性頸部症候群)、骨折・捻挫・打撲・手術跡などの古傷、喘息、メニエール病、めまい症、うつ病、頭痛、腰痛などを持っている人の中には気圧変化で体調が悪くなる人が少なくない。
これらの訴えや症状を気象病や天気病(天気痛)と言ったりもする。
気圧の変化を感じ取ったことで起こるものなので、天気が悪い状態が長く続いている時よりも、天気が悪くなる前や変化途上のほうが症状が強いことが多い。だから天気予報的なことを言ったりするわけである。
もし天気が悪化した状態に身体が慣れなければ、悪化している間中ずっと通常と異なる状態と認識し、体調が回復しないこともある。

飛行機に乗った時や登山をした時に、耳が痛くなったり、歯が痛くなったりすることもある。
これも気圧の変化が関係したもので、突然起こる場合もあるし、中耳炎や虫歯・歯槽膿漏などの基礎疾患があることも多い。
気圧高度が2,500~3,000m(8,000~10,000feet)付近で起きやすいと言われる。


高度と気圧と酸素

先日、有視界飛行の気象条件を載せた。
高度によって条件は変わるが、高度区分は3,000m(10,000feet)以上か未満か、あるいは地表または海面から300m(1,000feet)以下となっている。

地表または海面から300m(1,000feet)以下の場合、ヘリコプターは特別扱いとなる。
※この高度におけるヘリコプターの場合は、この気象条件を当てはめる必要なし。視程規定なし。他の物と衝突を避けることができる速度で飛行すれば雲からの距離からも自由。要するに機体が雲の中に入り覆われ前後横上下が見渡せないような状態でも飛行が認められるということになる。

旅客機の巡航高度は1万メートル(33,000feet)。長距離を行くほど巡航高度で飛行する時間が長い。

気圧と高度と酸素分圧は大いに関係があり、一般的に高度が高くなるほど気圧も酸素分圧も下がる。

標準大気圧(1気圧)は海面上で 1013.25 hPa とされるが、大気圧は上方の空気の重みを示す圧力であるから、高所へいくほど低下する。高度上昇と気圧低下の比率は、低高度では概ね 10 m の上昇に対して 1 hPa であり、計算上富士山頂で約0.7気圧、高度5,500 m で約0.5気圧、エベレストの頂上では約0.3気圧になる。

標準大気圧では、酸素が21%、窒素が78%の割合で存在している。
酸素分圧は、気圧×0.21で求められる。

平地(海抜0m) 気圧760 酸素分圧159 ・・・標準1気圧
低気圧(950hPa) 気圧700 酸素分圧146 ・・・約0.9気圧
飛行中の航空機内 気圧600 酸素分圧125 ・・・約0.8気圧
標高2,000m  気圧595 酸素分圧124  ・・・約0.8気圧
標高4,000m  気圧462 酸素分圧97  ・・・約0.6気圧 
標高8,000m  気圧267 酸素分圧56  ・・・約0.35気圧
(気圧は平均。実際は気圧配置などによって変わる)
(気圧と酸素分圧の単位はmmHg)

平地(海抜0m)の気圧が標準なので、それを1気圧とすると飛行中の航空機内の気圧はおよそ0.8気圧になるということである。

気圧が下がり、酸素分圧が下がると、動脈血酸素分圧や肺胞気酸素分圧も下がり、酸素飽和度も下がり、低酸素血症の状態となってしまう。
人間の身体には負担がかかり、最悪死ぬことだってある。
登山で起こることがある高山病(高度障害)は低酸素状態で発生する症候群のこと。
酸素飽和度の正常値は99~96%であるが、これが90%以下になると呼吸不全と言われるようになり、酸素飽和度が88%以下になると在宅酸素療法の適用となる。

高高度を飛行する航空機には与圧と空調(エアコン)が必要であり、気圧が0.8気圧、気温25度、湿度10−20%を維持するようになっている。
調整していても航空機内は平地の1気圧よりは気圧が低い状態。0.8気圧というのは富士山の5合目(2,300m)の気圧と同程度。
この0.8気圧では酸素飽和度は90%くらいに低下してしまう。
でも健康な人は心拍数を自然に上げることなどによってそれを補うことができるし、何日も飛行が続くわけではないので、酸素吸入などしないで普通に過ごすことができるわけである。

飛行中の航空機内よりもよっぽど低酸素となる標高の高い山に登る時には酸素ボンベを使用したりする。
前に書いた登山家の山田昇は無酸素(ボンベ)を得意としていたが、無酸素(ボンベ)で高い山に登るということがいかに凄いことか。


どうせ調整するなら1気圧にすれば?

上に書いたように人間が高度を上げていった時の身体的変化は高度が2,500~3,000m(8,000~10,000feet)付近で起きやすいと言われている。
飛行中の航空機の気圧は、その高度の下あたり1,800~2,500m(6,000~8,000feet)の気圧と同程度で設定されるということになる。

なぜ平地と同じ1気圧に調整しないのか言うと、調整幅が大きいほどそれだけ圧力が必要ということでエネルギーが必要になる。
また差が大きいほどリスクに繋がりやすい。高高度で耳が痛くなるとか歯が痛み出すというのは、中の圧力のほうが高くなるからである。
内外の差が大きくなれば航空機はその圧力に耐えられるだけの頑丈な造りにしなければならない。そうすると必然的に重量化してしまう。
重くなると離陸時などにはそれだけ大きなエネルギーが必要となるし、スピードなどにも影響を与える。

航空機はとても大きいものだからそれなりに重いけれども、もしも紙ヒコーキを航空機と同じ大きさにまで拡大すれば、紙ヒコーキのほうがよっぽど重くなるそうである。
つまり航空機は紙よりも軽くて薄い材質で出来ているということである。そのうえで当然それなりの強度も必要である。
保たなければならない強度と機体の軽量化という点において現状航空機内の気圧を1に保つことは出来ないということになる。

商業的に、あるいは生活に密着して、飛行機を飛ばすということは、単なる夢でも遊びでもないので、当然コストも関係してくる。
「出来ること(可能なこと)」と「実際に行うこと」がイコールでないこともある。


非常時だから仕方ない?非常時だからすべきではない?

人間が高度を上げていった時の身体的変化は高度が2,500~3,000m(8,000~10,000feet)付近で起こりやすい。
旅客機の場合はどんなに高度を上げても上記のように1,800~2,500m(6,000~8,000feet)の気圧と同程度でコントロールされる。

ヘリコプターは飛行機ほど高度を上げないで飛ぶことが多い。
与圧装置のないヘリコプターは基本的に1,800m(6,000feet)以下で飛行するはずである。
だから健康な人ならば目に見えた変化はない。
しかし平地よりも高度を上げていけば酸素飽和度の正常値99~96%から外れていき、高度2000m近くになれば酸素飽和度90%という呼吸不全に近い状態となっている。想像以上に身体には負担がかかっているものである。

健康な人だってそうだっていうのに、ドクターヘリに乗せる人は傷病者。
高齢者の割合はどんなものか、多いのかな、そうでもないのかなあ。
高所恐怖症の人だっているだろう。心臓に負担がかからないと良いけれど。
与圧装置はないので患者には酸素マスクで酸素を供給しながら飛行する。
傷病者が高度を上げたことによる低酸素で悪化したら踏んだり蹴ったり。本末転倒。
肺疾患の既往がある傷病者、登山での高山病、ダイビングでの減圧症(潜水病)などは、搭乗前に低酸素状態にあったり気圧の変化を受けているので特に注意しなければならない。
高い所を避けて低高度を行けば接触や衝突のリスクも高まる。天気が悪ければ尚更。
広い空を飛ぶヘリコプターは地上を動く人間と違って、低気圧の中に急に入りこんでしまうことも考えられる。
天気図に示された大きな低気圧だけが低気圧ではないのだ。
局所的に気圧が低くなっている箇所があるので、そういう場所にも注意が必要である。。
悪循環というか何というか、ドクターヘリが救急車よりも圧倒的に有利・有効という状況はなかなか見つからない。





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# by yumimi61 | 2018-09-16 11:27

有視界飛行✇✇✇✇✇✇

100%はありえない

消防機関が運用する消防ヘリ、都道府県の防災ヘリ、警視庁や県警の警察ヘリ、海上保安庁の巡視船搭載ヘリ、自衛隊ヘリ、ドクターヘリ(後年追加された)、これらのヘリコプターは救助のためならば法的にはどこでも離着陸できることになっている。
そうはいってもどこででも離着陸できるわけではない。
搭乗者や離着陸地点周囲の安全や影響を考えれば自ずと制約はある。
ドクターヘリは交通事故でも出動するが、公道に着陸することはほとんどない。
公道のみならず、急ぎだからと言って何の連絡も調整もなくヘリコプターがいきなり降下してきたら困るし驚くだろう。

以前私が書いたドクターヘリの短所
[短所]
・有視界飛行であるために夜間は飛べない(出動できない)。濃霧や雷雨、台風の時も飛べない。
 現在「PM2.5」が流行っているが大気汚染がひどくなった時も飛べないかもしれない。
・強風時も飛べない。(群馬県ドクターヘリ運航開始式に予定されていたデモフライトは強風のため中止だった)
・どこにでも着陸できない。着陸に適した地形、着陸できるだけのスペース、着陸するための許可が必要。
・有視飛行なのにパイロットが1人しか乗っていない。
 飛行中にパイロットに緊急事態(急病など)が発生した場合、搭乗者全員の命が危ない。
 ヘリが地上に落下すればさらに被害は拡大する可能性がある。
・燃費が悪い。



特にドクターヘリは、搬送に関して救急車という他の選択肢があるため、飛ぶ判断は難しいと思う。
救急車とドクターヘリの違いの1つは、ドクターヘリには医師と看護師が乗っているということである。
救急車は救急救命士が乗っている。

救急救命士は病院への搬送途上に限り一定の救急救命処置を施すことが認められている資格者。かつて救急車は病院への搬送が仕事であり医療行為は認められていなかったが、現在は従来医師でなければ行えなかった気管挿管や薬剤投与などの処置も可能となっている。それは救命率や傷病者の社会復帰率のアップのためであろう。
問題はそれなのに何故いまさらヘリコプターに乗って医師と看護師が現場に出向かなければならないのかということである。
「医師と看護師が乗って現場に駆けつける」ということを利点と捉えるならば、それは救急救命士資格の制定や一歩踏み込んだ応急処置が出来るようになった時代に逆行しているのではないだろうか。

もっと言えば胸骨圧迫(心臓マッサージ)や除細動(AEDによる電気ショック)などは救急救命士でなくて一般市民だって可能な処置である。

以前にドクターヘリが出動した事故関連の記事を掲載したこともあったが、その事故は医師が駆けつけても救命できなったという事例だった。ヘリコプターで医師や看護師が現場に出向いたところで全てが救命できるわけでも完全なる社会復帰に繋がるわけでもない。


飛べないと飛ばない

ドクターヘリを本気で運用しようと思ったら、救急車や病院と同じように24時間体制を敷くべきであろうが、ヘリコプターが危険を冒してまで現場に飛んでいく理由を見つけることは上記のように結構難しいと思う。

ドクターヘリを運用するには、出動要請があろうとなかろうと、ヘリコプターを置いておく病院にパイロットと整備士、ドクターヘリ専門の医師と看護師を常駐させておかなければらない。
医師と看護師は10名ずつくらいドクターヘリに乗れる人材を院内(救急救命部門)に確保しておいて、当番制で回すのが一般的ではないだろうか。

ヘリコプターが事故にあえば、慢性的な人手不足の病院が救急救命を生業や使命としている健康な医療従事者という貴重な人材を失うことになる。
そのリスクを病院が背負う必要があるのかどうか。

だからドクターヘリは、夜間は飛べない、濃霧や雷雨、台風や強風時も飛べない。
さらに付け加えれば、休日や年末年始も飛べないかもしれない。


夜は暗いという当たり前なことが

有視界飛行に対して夜間飛行が禁じられているというわけではない。
有視界飛行であっても飛ぼうと思えば飛べる。環境が整っていれば飛べる。
しかしいずれにしても計器飛行(IFR)よりリスクが高いのは間違いない。

なぜ夜間は特別危険なのかと言えば、それは暗いからである。
一年中一日中暗くなることを知らない都会に暮らす人には分からないかもしれないが、夜の闇は実に深い。

それでも月が出ている夜はまだなんとかうっすらと見える。
月の出ていない夜はそのへんにぶつかる。
これはヘリコプターの話ではなく、田舎の庭での数メートルの移動の話。本当に真っ暗で何にも見えない。
目が慣れたら見えるのではないかという微かな期待を抱いても、やっぱり何にも見えない。
仕方なく携帯電話の明かりを頼りにすることになる。
明かりのない海でもそうだった。どこから海が始まっているのか、波音はしてくるが、その境目を夜は教えてはくれなかった。

ちなみに旅客機が夜間の離着陸時に機内の照明を落とすことがあると思うが、あれは離着陸のトラブルで急に照明が落ちて客がパニックに陥るのを防ぐためと、非常脱出した時などのために暗さに目を慣らしておくという意味合いがあるとか。
だけど残念ながら本当に真っ暗な場所では目は慣れないけれど。


航空機にとっての照明

航空機には飛行中に付けているライトと離着陸時に付けるライトがある。空港には照明設備がある。
飛行中のライトは他機などに自分の存在を知らせるためのものである。接触や衝突防止。
自動車のように前方を照らすライトにて明るくして目視で進むわけではない。
それは有視界飛行であっても同じである。有視界飛行はその暗い中を目視で進まなければならないのだ。

暗い空の中では障害物も他機も雲(天候変化)も見えにくい。
そういう意味においては明るい都市の上空や空港近辺は夜間でも飛びやすい。高度が低いほど明かりが届きやすい。
航空機や鉄塔などは赤や緑のランプを灯しているので夜でも見つけやすいかもしれない。でもそのランプも濃い雲に覆われてしまったら効力はないけれども。
暗くて天候も変わりやすく山々が連なる山間地は大変危険である。
どうしても視界を確保しなければならない状況ならば暗視装置を用いる必要がある。


誰かにとって救いとなる夜の明かりや音が、誰かにとっては光害や騒音となる

飛行時も然ることながら離着陸時はもっと明かりを必要とする。
有視界飛行においては、夜間照明設備がなく、何かそれに代わる照明を準備出来ない所での離着陸は極めて難しい。
空港ならば照明設備はあるだろうが、空港でさえ24時間稼働しているのは、羽田・関西・中部・新千歳・北九州・那覇の6空港しかない。

24時間空港
国内では羽田、関西、中部、新千歳、那覇、北九州の6空港。騒音問題などを配慮して成田(午前6時〜午後11時)や福岡(午前7時〜午後10時)は時間制限がある。時差や飛行時間の長さを逆手にとって国際便で威力を発揮する。例えば関西を午前1時25分発のバンコク便なら現地の午前6時ごろに到着でき、効率よく観光が楽しめる。24時間空港は世界的には珍しくなく、シンガポールのチャンギ空港は深夜0時から午前6時の間に50便以上も発着、アジア最大級の拠点空港に成長して経済貢献している。

ヘリポートや場外離着陸場を使用するならば、夜間照明があるところに限られる。
多くの病院はその環境にはないし、夜間照明のある所にしか傷病者はいないということもない。

そもそも夜に飛ぶことや計器飛行(IFR)を前提とはしていない

じゃあヘリコプターも計器飛行(IFR)にすればよいではないかと思うかもしれないが、それではどこでも飛んで行けなくなり、どこでも離着陸できなくなる。
有視界飛行の利点を捨てるようなものであり、捜索や救命なんか意味をなさなくなる。
じゃあせめて離着陸の時だけでも切り替えればよいではないかと思うかもしれないが、それには対応したヘリコプターやパイロットや切り替え環境を準備しなければならない。
日本のヘリポートでは、計器飛行(IFR)で離着陸できる所はないというのが現状である。




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# by yumimi61 | 2018-09-14 11:41