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懇切丁寧

柿柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

柿を食べたら、鐘が鳴った法隆寺。
法隆寺の茶屋で柿を食べた時に詠んだ句とのこと。
鐘は次に進むべき合図の音と捉えているのではないかと思い巡らせてみる。
花より団子ではないけれども、格式高いお寺よりも秋の紅葉よりも柿に舌鼓を打っていたところで鐘がなり、’柿も良いけれど、そろそろ休憩は終わりにして、次に進んでくださいな’というお知らせに聴こえたというような・・・
次というのは相も変わらず法隆寺かもしれないし、奈良の別の何処かかもしれないし、京都や大阪かもしれない。
また俳句には季節が付き物であり、柿は秋の季語である。
この俳句の鐘を合図と捉え、秋の次を感じ取れば、待っているのは冬である。
歴史を想ったか人生を想ったか分からぬが、正岡子規はこの時点で冬を見ていた。
そう思うと、鐘の音は1年の終わりと新しい年の始まりを告げる除夜の鐘にも通じていく。
ここまで考えて味わえば、「法隆寺で柿食ってたら鐘が鳴ったよ」という味わいのない写生的な俳句ではなくなる。
秋を感じさせる名句だと言われているが、過ぎた夏(夏季)や来たる冬に思いを巡らせることが出来てこそ秋の名句となり得るのであって、単なる秋の風景描写では心に響かない。

鐘は合図の音だったのかもしれないと私が思いついたのは、修学旅行と学校のチャイムからであり、学校生活という経験がなければ、想いは巡らなかったかもしれない。

(続く)






# by yumimi61 | 2019-09-20 11:45

渾渾沌沌

俳句は新進の文芸

前回俳句を取り上げたけれど、俳句というものはそれほど歴史があるものではない。
短歌に比べると1000年くらい遅れて確立した定型詩である。
短歌は7世紀頃の作品が残っているが、俳句は17世紀の松尾芭蕉の俳諧連歌(俳諧)の発句に始まったもので(当時はまだ俳句とは呼んでいなかった)、「俳句」として成立したのは明治時代のことである。
明治時代に俳句と名付けて成立させたのは正岡子規。
松尾芭蕉は俳諧師であった。

俳諧連歌
「俳諧」には、「滑稽」「戯れ」「機知」「諧謔(かいぎゃく)」等の意味が含まれる。平安時代前期に編纂された『古今和歌集』に集められた滑稽な和歌は「誹諧歌」と呼ばれていた。
和歌の連歌の表現を滑稽・洒脱にして、より気軽に楽しめるようにした文芸が「俳諧連歌」もしくは「俳諧の連歌」と呼ばれて一般に好まれた。
江戸時代に大成し、堅苦しい正統の連歌をしのぐ程の人気を誇った。 


連歌は1人で創作するものではない。最低2人の複数人で創り出す集団文芸である。
基本となったのは、和歌(短歌)の上の句五七五と下の句七七を別の人が詠むというもの。
さらに五七五七七だけでは終わらずに、その後も五七五、七七、五七五、七七というように詠み続けていき、おおよそ百句をもって連歌一作品となっていった(長連歌)。さらに長く千句にもなる連歌もある。
連歌の中でも面白みや洒落っ気のあるのが俳諧連歌ということである。
このような連歌の冒頭の句(一番最初の五七五)を「発句」と呼ぶ。

(正統的な連歌にしろ俳諧にしろ連歌は)連句としての前後のつながりを含めて作品であること、複数人で続けて句を詠みあうという表現の性格から作り手と受け手が同一空間にいることといった特色があるため、本来連歌としての俳諧は、近代以降の俳句と評価の視点が異なる。

俳句は連歌の発句が独立したものであり、複数人いなくても個人で成立する。
発句だけが独立しても観賞に耐えうる句という位置づけで発展したわけであるが、もともとが連歌の発句であり、その発句だけを取り出したり、発句分の文字数でしかないということは、言うなれば主語のみで述語のない文章、結論のない文章、状態や風景描写のみで結果や感情表現のない文章、に相当することになる。
だからぶっちゃけ誰か知らない人の詠んだ俳句を心底理解することなんて到底無理な話である。


俳句は写生という時代

俳句は写生に徹し主観(心象や幻影)を入れてはいけないと言われることもある。
自然と生活をありのままに詠えということである。
それを芸術的に表現できたのが松尾芭蕉と言われており、与謝蕪村は芭蕉を継承しつつ、自然と生活への感動を盛り上げるべく詠うのが俳句であるとした。
いずれにしても目の前の事実(真実)が重要視され、それを写生的に詠むのが正統(正風)な俳句とした。
彼らにしたら心象風景なんか詠み込んだらダメというわけである。

でもそれは発句と考えれば、ある意味、当然のことである。
いつどこで、何があって、どうしたこうした、こう感じた。←これが文章の流れとしては一般的である。
発句は、「いつどこで」とか、「いつどこで何があって」くらいの所にあたるので、自ずと写生的になる。

連歌の発句という位置づけから完全に独立させたのが正岡子規。
発句から自立した俳句の変革者ということになるが、正岡子規は松尾芭蕉の発句のような俳句はつまらないと言った。
どちらかと言えば与謝蕪村派だったのである。蕪村は風景描写だけでなく実感も込めるべきという主張であった。
しかしながら写生が基本であることは、正岡子規も松尾芭蕉とも与謝蕪村とも同じであった。

ちなみに正岡子規は夏目漱石と生涯の親友で同居していたこともある。
1897年に俳句雑誌『ホトトギス』を創刊し、夏目漱石の『吾輩は猫である』(1905~1906)や『坊っちゃん』(1906年)はこの雑誌で発表された。
夏目漱石が芥川龍之介を門下生にし、『鼻』を称賛するちょうど10年前の事である。

正岡子規は、松尾芭蕉嫌いだったのか、それとも極めて個人主義なのか、連句を全くといって評価しなかった。
また俳諧連歌の豊かな言葉遊びや修辞技巧を強く否定した。

萩原朔太郎も芥川龍之介の俳句を批判した『俳句研究』に掲載された文章を読む限りにおいては、与謝野蕪村や正岡子規の考え方に通じるものがある。


川柳

川柳は現代においても、季語は必要ないし、写生である必要もないし、感動ではなくダメダメな生活を詠んでも誰も怒らないし、どんな言葉を使っても構わず、自由である。
この川柳も俳諧連歌から生まれた。
五七五七七の下の句の七七が最初にお題として与えられ、各々が上の句を創作するという付け句と呼ばれる遊戯的な文芸が川柳のルーツである。
今は下の句をお題にするということはないが、大会などでは今でも何かお題が与えられることが多い。


柿食うな身体冷やすと君は言う

正岡子規は生涯で20万句を超える俳句を詠んだらしい。
それに比べたら確かに芥川も太宰も寡作ですね。

その中でもっとも有名な句。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

写生的であるのは分かるとして、正岡子規の実感をここから感じ取れますか?
自然や生活への感動を読み取れますか?
う~ん・・・
奈良県が柿の名産地で、法隆寺が歴史ある古いお寺で世界最古の木造建築物である、といった豆知識を考え合わせれば、なんとなく高尚で趣きがある気もしてくるけれど、何の情報もなく「法隆寺で柿食ってたら鐘が鳴ったよ」とか思えばちょっと微妙な感じも致します。
私などは、鐘と金(金堂だけにね)に掛けていて、柿の色で金色を思い出したのでは?とか思ってしまうタイプです。
あ~でもなんとなく京都の秋を想ってしみじみとはするかな。


一方、こちらの句は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」よりもずっと心に響く。
柿くふも今年ばかりと思ひけり

正岡子規は1902年に34歳で肺結核にて亡くなっている。1895年から約7年間結核を患っていた。
彼は夏目漱石が小説家として大成したことも知らずに亡くなったのだ。
柿くふも、という句は死の前年に詠んだ句だそうで、もう来年の秋はないだろうと死期を悟っていた。
心情を詠った句はすっと浸み込みやすい。

一般的に他者が詠った写生的俳句が、その場にいもしないのに、心に響いてくるというとはあまりないだろうと思う。
同じ場所に行ったことがあるとか、同じ経験があるとすれば、自分をそこにワープさせて感傷に浸ることはあると思うけれど、真っ新の写実は心には響きにくい。
真っ新な写実でも響くとすれば、俳句に接する側が俳句の背後にあると思われるストーリーを勝手に脳内創作して観賞する時だろう。


ちなみのこの句も正岡子規ですね。
赤とんぼ筑波に雲もなかりけり







# by yumimi61 | 2019-09-19 21:50

多情多恨

なんでも症候群を付ければよいわけではないけれども、ディレッタントが怖い症候群!?

芥川龍之介が死の暗黒と生の無意義について語った時、うっかり「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある」と言ってしまい、「著作? 名声? そんなものが何になる!」と激しく芥川を怒らせた萩原朔太郎。
2人は親友であったが、この時だけでなくたびたび激論を交わしていたようだ。
俳句についても意見の相違があったようである。

小説家の俳句 俳人としての芥川龍之介と室生犀星  萩原朔太郎
 (下記文章は私が部分的に抜粋したものです) 

 芥川龍之介氏とは、生前よく俳句の話をし、時には意見の相違から、激論に及んだことさへもある。

他の小説家の俳句を評する時に言つた事だが、一体に小説家の詩や俳句には、アマチユアとしてのヂレツタンチズムが濃厚である。彼等は皆、その中では真剣になつて人生と取組み合ひ全力を出しきつて文学と四つ角力をとつてるのに、詩や俳句を作る時は、乙に気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として、綺麗事に戯むれてゐるといふ感じがする。

室生犀星氏がいつか或る随筆で書いてゐたが、仕事の終つた後で、きれいに机を片づけ、硯に墨をすりながら静かに句想を練る気持は、何とも言へない楽しみだと。つまりかうした作家たちが、詩や俳句を作るのは、飽食の後で一杯の紅茶をのんだり、或は労作の汗を流し、一日の仕事を終つた後で、浴衣がけに着換へて麻雀でもする気持なのだ。したがつて彼等の俳句には、芭蕉や蕪村の専門俳人に見る如き、真の打ち込んだ文学的格闘がなく、作品の根柢に於けるヒユーマニズムの詩精神が殆んどない。言はばこれ等の人々の俳句は、多く皆「文人の余技」と言ふだけの価値に過ぎず、単に趣味性の好事としか見られないのである。

 芥川龍之介は一代の才人であり、琴棋書画のあらゆる文人芸に達した能士であつたが、その俳句は、やはり多分にもれず文人芸の上乗のものにしか過ぎなかつた。僕は氏の晩年の小説(歯車、西方の人、河童等)を日本文学中で第一位の高級作品と認めてゐるが、その俳句に至つては、彼の他の文学であるアフオリズム(侏儒の言葉)と共に、友情の割引を以てしても讃辞できない。むしろこの二つの文学は、彼のあらゆる作品的欠点を無恥に曝露したものだと思ふ。即ち「侏儒の言葉」は、江戸ツ子的浮薄な皮肉とイロニイとで、人生を単に機智的に揶揄したもので、パスカルやニイチエのアフオリズムに見る如き、真の打ち込んだ人生熱情や生活体感が何処にもない。「侏儒の言葉」は、言はば頭脳の機智だけで――しかも機智を誇るために――書いた文学で才人としての彼の病所と欠点とを、露骨に出したやうな文学であつたが、同じやうにまた彼の俳句も、その末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ヂレツタンチズムの衒気で露出したやうなものであつた。

 いつか前に他の論文で書いたことだが、芥川龍之介の悲劇は、彼が自ら「詩人」たることをイデーしながら、結局気質的に詩人たり得なかつたことの宿命にあつた。彼は俳句の外に、いくつかの抒情詩と数十首の短歌をも作つてゐるが、それらの詩文学の殆んど全部が、上例の俳句と同じく、造花的の美術品で、真の詩がエスプリすべき生活的情感の生々しい熱意を欠いてる。つまり言へば彼の詩文学は、生活がなくて趣味だけがあり、感情がなくて才気だけがあり、ポエヂイがなくて知性だけがあるやうな文学なのだ。そしてかかる文学的性格者は、本質的に詩人たることが不可能である。詩人的性格とは、常に「燃焼する」ところのものであり、高度の文化的教養の中にあつても、本質には自然人的な野生や素朴をもつものなのに、芥川氏の性格中には、その燃焼性や素朴性が殆んど全くなかつたからだ。そこで彼が自ら「詩人」と称したことは、知性人のインテリゼンスに於てのみ、詩人の高邁な幻影を見たからだつた。それは必ずしも彼の錯覚ではなかつた。だがそれにもかかはらず、彼の宿命的な悲劇であつた。


1938年『俳句研究』に掲載された文章であるので、芥川龍之介が自殺して11年後ということになる。
ちなみに前に転載した「詩人の死ぬや悲し」は1934年の文章であり、そちらでは一応芥川も詩人扱いになっていたが、俳句を語っているこの文章では随分と酷評している。

萩原朔太郎(1886-1942)は友人である芥川龍之介(1892-1927)と室生犀星(1889-1962)について書いた。
室生は自身で句想を練るのは仕事を終わった後と書いていたそうで、それについて萩原朔太郎も作家たちが詩や俳句を作るのは飽食の後で一杯の紅茶を飲んだり、仕事の後に麻雀でもする気持なんだろうと述べている。
しかしながら芥川と室生は全く正反対であり、室生の俳句等は生活や肉体を感じさせるものがあり、粗野で逞しく、そのくせ優しくセンチメンタルだと褒めている。

でも私は、俳人や詩人が創作する俳句と、小説家が創作する俳句が、同じ傾向や意義を持ち同じ価値に値する必要は別にないと思う。
小説にしろ俳句にしろ、それを読んで何かを感じたり解釈する人が一様ではないように、俳句を詠む人だって一様ではないし、ましてや詠まれる俳句が一様の傾向や価値を持つ必要は全くない(俳句と称する以上は俳句のルールは守ったほうが良いけれども)。

但し、その多様性というか傾向や価値の違いは、大衆受けするしないという区別、プロによる審査や評価において称賛されるされないという区別を生むだろう。
萩原朔太郎が俳句の審査員だったら、芥川龍之介の俳句作品は賞を取れないということだ。でも審査員が変われば評価は全く違うかもしれない。
さらにひょっとしたら、同じ俳句でも芥川龍之介ではない違う人物の創作したものだったとすれば、そこまで酷評はされなかいかもしれない。
逆もありうる。芥川龍之介だから良い評価が付いて、無名の素人だったら箸にも棒にも引っかからないということ。


水洟つながり

先日、水洟の俳句を取り上げた。
芥川のそれは辞世の句と言われているものである。

 水洟や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介(1892-1927)

 水洟も郷里艶めく橋の上   飯田龍太(1920-2007)


水洟の俳句はあの人達も詠んでいる。

 水洟や喜劇の灯影頬をそむ   飯田蛇笏(1885-1962)

 水洟や仏具をみがくたなごころ  室生犀星(1889-1962)

 幇間(ほうかん)の道化(どうけ)窶(やつ)れやみづっぱな  太宰治(1909-1948)


関係性は次の通り。

・芥川龍之介は飯田龍太の父親である飯田蛇笏(1885-1962)の俳句の影響を受けている。
飯田蛇笏は最初に芥川の「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」という俳句と接し、芥川が創作したとは知らずに称賛した。萩原朔太郎は上記文章中でこの俳句に対しても厳しい評価を付けている。
飯田蛇笏は芥川の俳句を小説よりも高く評価したという。

・室生犀星は芥川の親友で、近所にも住んでいた。

・太宰治は芥川が自殺した時には高校生だった。大変衝撃を受け、以後芥川を理想とし心酔していった。そのせいなのか、再三自殺を試みて(未遂に終わる)、最終的には愛人と玉川上水で入水自殺した(享年38歳)。

萩原朔太郎は、芥川が『余が俳句観』と題するエッセイを書いていたほどなので、さぞかし俳句作品が沢山あるかと思っていたが、全集を読んでみたところ意外に寡作なのに驚いたと述べているが、太宰はそれ以上に寡作で20~30くらいの俳句しかないそうである。

それぞれの俳句の創作時期がはっきりしないが、この関係性から考えれば、それぞれみな「水洟」をあえて使って俳句を作ったと考えるほうが自然だろう。


crownとclown

飯田蛇笏の俳句には「喜劇」という言葉が、太宰治の俳句には「幇間(ほうかん)」や「道化」という言葉が入っている。
幇間は太鼓持ち、男芸者のことで、道化師と言ってもよい。
芥川の俳句の「鼻の先だけ暮れ残る」を「鼻が赤い」と解釈すれば、ピエロ(クラウン・道化師)が彷彿できる。
道化師ー人を滑稽な格好、行動、言動などをして他人を楽しませる者の総称。

「水洟」は冬の季語である。鼻水のこと。
鼻水が出るのは寒い時や風邪をひいたとき(感染症に罹患した時)。
もうひとつ泣いた時にも涙と一緒に出ることが多い。そして大抵鼻が赤くなる。

悲しみと励まし(失望と希望)、幼さと成長、悲劇と喜劇、不浄と神聖、披露と疲労。
上に挙げた全ての俳句が対比を織り込んでいるように思う。


春の木漏れ日の中で君の優しさに~

1927年に自殺した芥川が主治医に渡してくれと頼んだ俳句「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」には元になった俳句があった。

そちらは1925年に創作された俳句だという。もう自殺を決心していた頃ではある。

 土雛や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介

土雛というのは春の季語で、雛人形のこと。
身近にある安価な材料(土や紙)を使って自給自足で素朴な雛人形を作った時代や地域があったのだが、土雛は文字通り土を用いて作った陶器の雛人形である。

さては、陶器に冬季を掛けたのか?
春だけど、少し寒いね、みたいな感じ?
春なのにお別れですか~~~とか?

素朴な風合いの土雛の鼻が実際に赤く塗られていたので、自然の夕焼けの赤を重ねて詠んだ歌かもしれない。
しかし芥川龍之介の子供達はみな男の子である。
どこかで偶然目にした土雛に心が動かされた?

1920年(大正9年)3月30日、長男芥川比呂志、誕生。
1922年(大正11年)11月8日、次男芥川多加志、誕生。
1925年(大正14年)7月12日、三男芥川也寸志、誕生。



過去と未来の交錯

鼻というのは、芥川龍之介の作品名でもある。

そして、先という言葉は、過去のことであったり、未来のことであったりする。
先人、先妻、先頃、先日など、現時点から見たら後ろ(過去)を指している。
でも、先に進むなど、今よりも手前(未来)のことを指したりもする。

芥川の俳句の「鼻」が自身の作品『鼻』にも掛かっているとすると、先はどちらだろうかと考えてみる。
一般的に考えれば、おそらく過去側だろう。
つまり夏目漱石が作品を評価する前が「鼻の先」にあたる。
暮れ残っているのだから、そこにはまだ明るさがあった。


筆を擱く

芥川龍之介は『鼻』のラスト
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。


芥川は哂ってくれる人を欲した。哂ってくれる人がいなければならなかったのだ。

なぜなら芥川は人間の愚かで悲しい性(さが)や不幸を描いたからだ。
これはめでたしめでたしで受け取ってもらっては困ると思っていた。
そこには小説としての捻りや技巧や機微がある。

夏目漱石の評。
あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。

夏目漱石はそれを評価したが、大衆に受け入れられることは難しいとも言った。だというのに市場に引っ張り出した。

土雛や鼻の先だけ暮れ残る
この俳句も、上の夏目漱石の評がそのまま当てはまると私は思う。
小説ではないが捻りや技巧や機微もある。

萩原朔太郎はきっと哂うだろう。哂ったのだ。
萩原朔太郎にかかったら、「気取つた他所行きの風流気を出し、小手先の遊び芸として綺麗事に戯れている」ということになりそうだ。
肉体も生活も、野生味も素朴さも何処にもなく、末梢神経的な凝り性と趣味性を露出した俳句と言われそうである。


それなら肉体と生活を入れてやろうじゃないか!

自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れ残る

これでどうだ。





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# by yumimi61 | 2019-09-17 17:46

雅俗混淆

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出来ない集団


前記事が耳と目の話だったので、今回は鼻のこと。

芥川龍之介の『鼻』は元話があり、その話を参考にして、そこから展開した話になっている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」および『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」を題材としている。
『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」は、同じ内容の話である。


京都に禅智内供という高僧がいた。熱心にお勤めされる僧で、そのせいか寺は繁盛し、多くの人が訪れ、弟子の法師もたくさんいた。
その高僧は鼻が長く、15~18㎝はあった。
(但しどうやら元々鼻の形体が大きいというわけではなく、腫れて大きくなっているようである。ある対処をすれば普通の人と同じサイズになるのだが、それでも2,3日もするとまた大きくなってしまうのだった)
大きな鼻の時には、鼻が口を塞いでしまうために食事がしにくい。そこで弟子の法師に鼻を持ち上げさせていた。しかしコツがあるようで、誰でも上手にサポートできるわけではなく、1人の弟子法師が担当していた。彼がいなければ食事は抜いていたほどだった。
ところがその弟子法師が体調を崩し、その役目が出来なくなってしまった。さてどうしたものかと困っているところに、1人の寺童(召使的の少年であり弟子法師よりも地位は低い)が「私は今までの法師よりも上手に出来ます」と名乗りを挙げた。
その寺童は見た目が良かったので、他の者に比べると上の者から呼ばれることが多かった童だった。そして今回も呼ばれることになった。
実際やらせてみると、「今までの法師よりも上手である」と禅智内供も大満足。
ところが急に寺童は自分の鼻がムズムズしだし、大きなくしゃみをしてしまい、持っていた鼻が椀の中に・・・結果、禅智内供が食べていた粥が大散乱。
禅智内供は怒った。「情のない乞食小僧め!私ではなくもっと位の高い人の御鼻を持ち上げていてもこんなことをするのか。出て行け!」
追い立てられた寺童は隠れて言った。
「この世にあんな鼻をしている人が他にあるものか」
これを聞いた弟子法師たちも隠れて大笑いしましたとさ。

という話です。(私が要約・解釈したものです)

=鼻対処法=
たらいに湯を沸かし、蓋をして、その蓋に鼻が入るだけの穴を開ける。
そして穴に鼻を入れて鼻だけを茹でる(温める)。よって鼻の色は濃い紫になる、
その鼻を人が踏む。するとぶつぶつした穴ごとに煙のようなものが出てくる、さらに踏むと穴から白い虫が出てくるので、それを取り出す。
その後に、また鼻を湯に入れて茹でると鼻が小さくなる。


どうでしょうか。白い虫と書いてあるけれど角栓っぽくもないですか?
そうでなければ、粉瘤とかガングリオンとか脂肪腫とか、あるいは化膿しているか。
あるいはあるいは、気にし過ぎて触ったりいじったり対処しすぎで、腫れていたり火傷しているだけとか。

食事時に鼻を持ち上げるにはコツがあったようなのだが、このコツというのは平常心ではないだろうか。
白い粥から白い虫を想像してはダメなのである。例え想像しても平常心を保たなければならないのである。
グロテスクな腫れ物と白い粥という組み合わせに、気持ち悪いと感じたり不快に思い、心乱して手元を狂わせたり、ムズムズしてははいけないのである。
すなわち、1人以外の弟子法師はそれが出来なかった。そして寺童にも出来なかった。
でも出来ないと言っても、その寺童は「気持ち悪い~」と言って逃げ出したわけではない。
くしゃみなんてものは不可抗力なので、禅智内供も怒ったりせずに許すべきだったが、それが出来なかった。
それだけではなく、わざと恥をかかせたのではないかという被害妄想的な意識に陥っている。
さらに言えば、「突然のことだから禅智内供も怒りの感情が抑えられなかったんだろう、仕方ない」と禅智内供の怒りを受容すれば良かったのだけれど、それが出来なかった。寺童は陰口を叩き、弟子もそれに乗ったということになる。
人間は緊張感のない時または緊張感を持った時、修羅場や追い込まれた時など、要するに予定外の出来事が起こった時に本性や本音が出るというけれども、結局のところ、高僧や繁盛している寺であっても、その本性や本音は俗世間と何ら変わるところなく、俗っぽい’出来ない集団’に成り下がることもあるというお話である。


他人の不幸は蜜の味

ダ・ヴィンチニュース
【1分間名作あらすじ】芥川龍之介「鼻」——不幸を乗り越えた人を素直に祝福できない自分はいませんか?

 禅智内供(ぜんちないぐ)という僧は顎の下までぶら下がった腸詰のような巨大な鼻を持つことで有名で、長年彼はその大きな鼻をコンプレックスに感じて苦しんでいた。ある秋の日、京から帰ってきた弟子が医者から鼻を短くする方法を教わってきたと言うので、内供はこれを試すことに。

 熱湯で鼻を茹で、それを弟子が踏む。そして出てきた脂を毛抜きで取り、再度茹でる。すると顎下まであった鼻は嘘のように萎縮し、常人のサイズと同じようになったのである。これでもう以前のように他人から嘲笑されることはなくなると安堵した内供だったが、2、3日経つうちに彼は意外な事実を発見した。

 鼻が短くなった彼を見た人々が、あろうことか以前にも増して笑うのである。内供は初め、これは顔が急に変わったせいだと思ったが、それだけでは説明のつかないような人々の嘲笑の様子に気味悪さを覚える。彼は再び塞ぎ込み、果てにはかつての長かった鼻を恋しがるまでになる。

 人の心には互いに矛盾した2つの感情があり、他人の不幸に同情するが、その人がどうにかして不幸を切り抜けることができると、今度はどこか物足りなさを覚え、もう一度不幸に陥れたいといったある種の敵意さえも抱くようになるのだ。その後内供は熱を出して寝込み、彼の鼻は元の大きさに戻る。こうなればもう誰にも笑われない、と清々しい気分になった。




芥川龍之介は、禅智内供が鼻を苦にした最大の理由は、食事の不便さではなかったと書いている。プライドを傷つけられるのが耐え難かったというのだ。
町の人達は、あの鼻だから妻になる女もいないだろうし、出家できたのかもしれないから、普通の鼻でなかったことは寺や僧になるうえではむしろ幸せなことだと思っていたそうである。(明治時代までは僧の妻帯は禁じられていた)
しかし本人はそんな幸せには露いささかも満足していなかった。ありきたりの幸せを望んでいたのである。
そして自意識過剰とも言えるほどに鼻のことが気になって気になって仕方なかった。

上のあらすじにあるように、自意識だけでなく他者の勝手気ままな振る舞いについても、次のようにも書かれている。
人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。――内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからにほかならない。


何だかんだ言っても不幸なんてものは自分や自意識が作り出すものであるという話とも受け取れるし、人間には裏表があるから真摯な態度や優しさや情けなども仮面に過ぎないという話にも受け取れる。
寺でも神社でもキリスト教でも新興宗教でもいいけれど、俗世間で宗教が繁盛するのは人間に不幸や悩みがあるからこそ。皆が皆幸せになったら商売あがったり。不幸な人が多いほど宗教繁盛。
それと同じで、社会的価値ある成功者を生み出すためには、多くのそうではない平凡であったり貧しかったりする価値のない落伍者が必要なのである。
でもそんなことを言っても、大衆受けするわけがない。


ちゃんちゃらおかしい

肌の色は関係ありません。何色だっていいのです。肌の色で差別するなんて最低です。
とか言いながら、みんな必死で日焼け止め塗りたくって、日差しを避けて、白い肌を目指している。
「私は白い肌が美しいと思っている。だから白い肌になりたい!」とは絶対に言わずに、皮膚がん予防とかなんとかおよそ心配のない理由を引っ張り出したりして白い肌を目指す。

そもそも差別撤廃を訴えている黒人の人だってクルクルな髪の毛をストレートにしたりするじゃない。肌の色は変えようがないから抵抗するけれど、変えようがあるものだったらそれに乗る。ポリシーはないのか。

どうして化粧することが常識なわけ?
どうして機能には何一つ不自由はないのに、リスクを冒してまで整形したりするの?
もしも手や足がない障害を持っていたら、それを隠さなければいけないということ?隠すことやお直しすることが社会常識なの?
そのままでは愛されることがないというのが本音だから?

障害者をじろじろ見たり冷やかしたりするなんてもってのほか。障害は個性です。健常者と障害者を差別すべきではありません。
とか言いながら、相手が障害者じゃなければ、シミもシワもブツブツもカサカサも、ハゲもデブもヤセも、じろじろ見たり冷やかしたり、笑いのネタにしたり、未陰口叩いたり。イケメンにカワイイに美女美男子ともてはやし、ブサイクや劣化とこき下ろす。何だってみんな個性じゃないの?人はみんな年をとるのよ。
好きで不潔にしている人もいるかもしれないけれど、世の中には本人がどんなに努力しても、努力したくても、どうにもならないことがある。だというのに自分本位で何もかも決めつける。
障害者差別はいけないはずのに、オリンピックとパラリンピックは別に行われているし。

見た目が悪ければ、何か他の事で頑張って立派になればよいじゃないか?はっ、じゃあ知的障害者はどうなるのよ?
知的障害者が生きている意味が分からないと誰かが言えば、あるいは社会のためにならないからと殺人が行われれば、猛烈に非難するけれど、じゃあ訊くけど障害者じゃなかったらどうなの?

あ~生き苦しい。


同病相憐れむ

芥川龍之介はノンフィクションを書いたわけではない。
元になった説話(『今昔物語』の「池尾禅珍内供鼻語」と『宇治拾遺物語』の「鼻長き僧の事」)があったが、その説話も実話かどうかは分からない。
少なくとも芥川は、小説、フィクションとして、『鼻』を執筆したはずである。
だからどのような話にも展開できたのだ。

鼻が短くなったら、周囲に奇異の目で見られなくなり、自信も付いて、ますます寺は繁盛した。いつしか「鼻寺」と呼ばれるようになり、鼻の悩みを持つ人達がひっきりなしに訪れるようになった。めでたしめでたし、という話だって良かったわけである。

鼻が短くなったら、周囲から妬まれ、策略に嵌り、高僧から引きずり降ろされた。でもそのおかげでありきたりの幸せを手に入れ、平和に暮らした、という話でも良かったわけである。

でもそうは書かなかった。
つまり、これは↓、芥川龍之介が書くという行為の中で自分が行ったことでもある。
その人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうしていつの間にか、消極的ではあるが、ある敵意をその人に対して抱くような事になる。

『鼻』のラストの部分はこうである。
内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分に囁いた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

これで禅智内供は一生ハッピーに暮らしたと思いますか? 思わないですよね?
同じことを繰り返すことが目に見えている。
何故かと言えば、芥川は人間の愚かで悲しい性(さが)や不幸を描いているはずだから。

ありきたりで平穏な小説とか、ハッピーエンドの小説とか、すごく分かりやすい小悦は、高尚な感じもないし、小説としての捻りも技巧も機微もない気がしてしまう。読ませたかったり評価してもらう相手が小説家など文学者であれば尚更。

ということは、夏目漱石の芥川への評価はいたって的確であったとも言える。

Misery makes strange bedfellows.(不幸は奇妙な仲間を作る)
Misery loves company.(不幸は仲間を愛する)




🍆トップの写真は昨年の7月24日に撮った写真です。その頃、芥川龍之介のことを考えていたということは全くなかったのだけれど、なんと偶然にも7月24日は芥川は亡くなった日です。ガクガクブルブル・・・・
そして写真のナスも私が育てたものです・・・・
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# by yumimi61 | 2019-09-16 13:13

往古来今

無駄骨を折る?

「芥川賞」で名高い芥川龍之介は日本一有名な作家であろう。
ではあなたはその著作をどれくらい読んだことがありますか?
おおかた、タイトルが挙がるのは、教科書に掲載されたこともある定番作品(有名作品)『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』程度ではないだろうか。
しかも、それがどういう話だったかと訊かれれば、これまた(さてどういう話だったっけ・・?)というような感じになるではないだろうか。

私は読書が足りないとか覚えが悪すぎるとか言いたいわけではない。
私自身はたぶん上に挙げた定番作品よりもう少し読んだことがあると思う。
でも私も、1つ1つどういう内容だったかと訊かれれば、ほぼ即答は出来ない。
なにも芥川作品だけではない。
私が買って今なお家の本棚に収まっている、芥川より新しい時代の作家の小説だって、どんな話だった?と訊かれれば、どれもこれも答えることは出来ないと思う。
つまり読んだ本の大部分は、その内容をことごとく忘れていく。

だとしたら、身を削りながら(?)、話を組み立て言葉を選び、推敲を重ねて完成させた小説に、いったいどれほどの意義があるのかという話にもなりかねない。
このことは、「学校の勉強が将来何の役に立つのさ」という話にも通じるものがあるかもしれない。


記憶(記録)と意識の関係

テレビでドラマを観ていたら、「刑事さんたちは保育園や幼稚園の先生のことをどれほど覚えていますか?覚えていないでしょ。私達はその程度のもなんです」というようなセリフ(保育園の先生役)があって、私はその言葉が胸に刺さった。
自分が保育園や幼稚園の時だった時の先生を覚えていますか?
確かに誰一人覚えていない。
名前、顔の輪郭、人物像、何もないに等しい。先生に教えてもらったこと、先生と遊んだこと、全く記憶にない。
ただ私はその時代に病気で入院をしたことがあり、何か月か園を休んでいた。復帰した時に園の先生の1人が私の登園手帳(出席ノート)にシールをいっぱい貼ってくれた出来事は覚えている。でもその先生の名前も顔も覚えていない。
登園していないのでシールが貼られなかった白いだけのカレンダーページがあったのだけれど、そこをどんどんシールで埋めてくれたのである。
今思えば、そんなことをしたら登園手帳の意味が全くないと言えばないんですけどね(笑)。
小中校だと誰一人覚えていないということはないけれど、覚えていない先生の方が多いと思う。

では何がどうやって強固な記憶に繋がるのだろう。
英語の覚え方ではないけれど、動きか、単純な反復か。それとも意外性か。個人の精神や感情と関係があるのかないのか。記憶もまた誰もが等しく経年劣化していくに過ぎないのか。

どちらにしても人は記憶というものにやや信頼を置きすぎなのかもしれないと思う。
人間の記憶なんて’その程度のもの’である。
だからこそ記憶媒体(記録媒体)が発達したとも言える。
記憶媒体(記録媒体)は人間が記憶を失うことを防ぐ。
だけどもともとが「その程度の記憶力しかない人間」だから、当然のことながら記憶媒体(記録媒体)によって人間の記憶は大きく左右されてしまう。
そのうえ人間は、記憶媒体(記録媒体)を用いて、いかようにも出来事を作り込んでいくことが可能である。
よって記憶媒体の出来事が事実と言えるかどうか、記憶媒体によって補強されている人間の記憶が正しいものかどうかと言えば、怪しいと言わざるを得ない。
少し前に、悲しみという実体のない意識が創り出した世界について書いたけれど、事実(記憶・記録)と意識の世界もボーダレスである。


河童には耳がない?

私は今回、芥川龍之介と河童について書くために、『河童』を読み直した。
そして大変驚いたことがあった。
河童には耳がないと書かれていたのだ。
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耳がない?
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耳がないと書かれていたのは、河童の国に迷い込んだ主人公が詩人の河童と音楽会に行く場面である。17に分かれた章の7章目。

(略)
 クラバツクは盛んな拍手の中にちよつと我々へ一礼した後、静にピアノの前へ歩み寄りました。それからやはり無造作に自作のリイドを弾きはじめました。クラバツクはトツクの言葉によれば、この国の生んだ音楽家中、前後に比類のない天才ださうです。僕はクラバツクの音楽は勿論、その又余技の抒情詩にも興味を持つてゐましたから、大きい弓なりのピアノの音に熱心に耳を傾けてゐました。トツクやマツグも恍惚うつとりとしてゐたことは或は僕よりも勝つてゐたでせう。
(略)
 クラバツクは全身に情熱をこめ、戦ふやうにピアノを弾きつづけました。すると突然会場の中に神鳴りのやうに響渡つたのは「演奏禁止」と云ふ声です。僕はこの声にびつくりし、思はず後をふり返りました。声の主は紛れもない、一番後の席にゐる身の丈抜群の巡査です。巡査は僕がふり向いた時、悠然と腰をおろしたまま、もう一度前よりもおほ声に「演奏禁止」と怒鳴りました。それから、――
 それから先は大混乱です。「警官横暴!」「クラバツク、弾け! 弾け!」「莫迦!」「畜生!」「ひつこめ!」「負けるな!」――かう云ふ声の湧き上つた中に椅子は倒れる、プログラムは飛ぶ、おまけに誰が投げるのか、サイダアの空罎や石ころや噛ぢりかけの胡瓜さへ降つて来るのです。僕は呆つ気にとられましたから、トツクにその理由を尋ねようとしました。が、トツクも興奮したと見え、椅子の上に突つ立ちながら、「クラバツク、弾け! 弾け!」と喚きつづけてゐます。のみならずトツクの雌の河童もいつの間に敵意を忘れたのか、「警官横暴」と叫んでゐることは少しもトツクに変りません。僕はやむを得ずマツグに向かひ、「どうしたのです?」と尋ねて見ました。
「これですか? これはこの国ではよくあることですよ。元来画だの文芸だのは……」
 マツグは何か飛んで来る度にちよつと頸を縮めながら、不相変静に説明しました。
元来画だの文芸だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この国では決して発売禁止や展覧禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です。何しろ音楽と云ふものだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。
「しかしあの巡査は耳があるのですか?」
「さあ、それは疑問ですね。多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寝てゐる時の心臓の鼓動でも思ひ出したのでせう。」
(後略)


これはいったいどういうことか。
河童という生き物には耳がないということなのか。
それとも、音楽を聴く耳を持たない河童もいるという意味か。
あるいは作曲者や演奏者など音楽家の中には耳がない者がいて、ひどい演奏がされることもあるから、演奏禁止があるという意味か。
河童と主人公の会話が成立しているということは、河童という生物に耳(聴力)が全くないとは思えない。
ということは、聴く耳のない河童がいる、誰にでも分かる良い音楽を提供できる耳を持たない河童の音楽家がいるということか・・・
でもそうだとしたら、画や文芸を見る目がない河童がいたっておかしくないと思うのだけれど・・・
ならば、耳を持たない音楽家はいるけれど、目を持たない画家や文芸家はいないということ?


何のために、誰のために、書くのだろうか

芥川龍之介が執筆活動を始めたのは1914年。東京帝国大学在学中のことである。
そして翌年1915年には『羅生門』を発表した。
上に教科書にも掲載される定番作品(有名作品)として挙げた芥川龍之介の代表作は初期のものである。

『羅生門』 1915年10月
(1915年12月に夏目漱石門下生となる)
『鼻』   1916年1月  ←この作品を夏目漱石が絶賛
『蜘蛛の糸』 1918年
 ・
 ・
 ・
『河童』 1927年
『蜃気楼』『歯車』『或阿呆の一生』『西方の人』『続西方の人』 1927年
自殺 1927年

※1922年には自殺を決心したことを小穴隆一に打ち明けようと思っていた。
1925年に実際に打ち明けた。


書いたからといって読まれるかどうか分からず、読んだからといって理解されているかどうかは不明で、読んだと言っても記憶には残らない。
いったい何のために、誰のために書くのか、そう思っても不思議はない。


夏目漱石なくして芥川龍之介なし

夏目漱石の門下生になった後に発表した最初の作品を夏目漱石が絶賛したという。
ではどのように絶賛したのか見てみよう。

サライ
夏目漱石、無名の文学青年・芥川龍之介の短編小説に仰天する【日めくり漱石/2月19日】
より
《あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫山戯(ふざけ)ていなくって、自然そのままの可笑味(おかしみ)がおっとり出ている所に上品な趣があります。それから材料が非常に新らしいのが眼につきます。文章が要領を得てよく整っています。敬服しました。ああいうものをこれから二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。しかし「鼻」だけでは恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙過するでしょう。そんな事に頓着しないで、ずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です》

芥川龍之介の短編小説『鼻』を激賞する、日本文学史上、不可欠の手紙である。


『鼻』を読んだ夏目漱石が芥川龍之介に宛てた手紙だそうだが、大衆受けしないということが思いのほかはっきりと書かれており、私はこれを一般的な意味での絶賛や激賞と捉えるには少し抵抗があるが、いかがでしょうか。

この手紙によって、まだ一介の文学青年に過ぎなかった龍之介は大きな自信を得た。創作に取り組む心構えというものも教えられた。加えて、このあと続けて、一流雑誌の『新小説』や『中央公論』から龍之介のもとに執筆依頼が舞い込む。これも漱石の推薦があったことは想像に難くない。前者は漱石門下の鈴木三重吉が編集顧問に名を連ね、後者は漱石山房に頻繁に出入りしていた滝田樗陰(たきた・ちょいん)が編集長をつとめていた。

こうして、まもなく龍之介は大正文壇の寵児となっていく。のちに、この時期のことを回想し、龍之介は次のように書いている。

《夜は次第に明けて行った。彼はいつか或町の角に広い市場を見渡していた。市場に群(むらが)った人々や車はいづれも薔薇色に染まり出した》(『或阿呆の一生』)

漱石のもとに出入りする前の龍之介は、『羅生門』などの佳作を発表しても、仲間うちからもまったく評価されなかった。それどころか、かえって「小説を書くのはもうやめたらどうか」と意見の手紙を出してくる者まであったのである。


素晴らしい作品であるが大衆受けはしないと断言し、しかしそんなことは気にせずに邁進すべきとアドバイスしておきながら、広い市場に引っ張り出したのもまた夏目漱石だった。
「私は作品を評価しないし、大衆受けもしないであろう」、そう言われれば諦めが付いたかもしれないし、あるいは反発心がバネになったかもしれない。
でもそうではなかった。ある意味、生殺し、生煮え状態に置いたのである。
群衆は眼中に置かない方が身体の薬です、そう書いておきながら、群衆の目前に引きずり出した。
そのことをどのように受け取ったらよいのか、若い青年はどう感じただろう。
そしてその夏目漱石は、芥川が市場デビューしたその年、つまり1916年12月には亡くなる。
船頭もいないオールもない船は、徒広い海を彷徨うしかなかったのではないか。


感性を仕事にすること、個人の幸せを追求することの難しさ

――彷徨う作家、芥川は煩悶したはずだ。

大衆に受けずとも、大衆に嫌われても、自分の書きたいものを書いていくべきなのか。
命を削って、お金にも名誉にもならないものを、なぜ書く必要があるのだろう。はたして書き続けることが出来るんだろうか。
いやそうではなくて、命を灯し続けるために書かずにはいられないということか。

それともやはり大衆に迎合すべきだろうか。
お金も名誉も手に入れれば、幸せな人生が待っているのではなかろうか。
大衆に歓迎されないものは自己陶酔と自己満足にしか過ぎない霞のようなものかもしれない。
そもそも生活していくにはお金や物質が必要であろう。それを得るために書くならば結局、大衆に迎合しても己のために書くということに他ならない。
いや違うかもしれない、一人ならもっと気楽であろう。家族を養うために稼がなければならないのだ。
書くことは信念でも思想でも風刺でも批判でも評論でもない、ただ単に仕事であるということかもしれない。




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# by yumimi61 | 2019-09-15 11:07

釈根灌枝

・私は夏の胡瓜(きゅうり)が結構好きなのだが、今年は春に夏野菜の胡瓜苗を1本も植えなかった。
だから当然1本たりとも生らない。
(当然と書いたけれど、植えなくてもカボチャとかプチトマトとか前年に落ちた種から勝手に生えてくる野菜もある。ゴーヤも何年かは勝手に生えてきたけど、今年は出なかった)
いつぞやの夏なんてあまりにも胡瓜が出来過ぎて、乾燥胡瓜まで作ろうとしたほどだったのに。
それでも夏野菜なので時期になればスーパーでも直売所でも安く売られるのが常だが、今年の夏は売っている胡瓜もあまり安くなかった。
さらに、例年は実家に行くと、お隣の方が胡瓜をくれたりすることもあるのだが、今年は1回しか貰わなかった(とはいえ、いつもいろいろとありがとうございます)。
ということは、今年の夏は胡瓜が不作だったんだと思う。
日照不足か、なんだかんだ言っても夏野菜には気温が足りなかったということか。

・胡瓜と言えば、かつて私は郷里というタイトルでひとしきり胡瓜のことを書いたことがある。
過去記事『郷里』(2008年9月17日)

・日本語でカッパと言えば、「河童」か「合羽」である。
「河童」は、日本の妖怪。魑魅魍魎。
「合羽」は、雨合羽、レインコートのことである。
「河童」は、英語でもKappa(日本のものだからそのまま)。もしくはJpanese specterとかJapanese monstarとか?
「合羽」(勝羽と書いた時代もあったらしい)は、Raincoat。レインコートがカッパと呼ばれるようになったのは、ポルトガル語のcapa由来。capaはポルトガルのキリスト教宣教師が着ていたマントのことだそうです。

・芥川龍之介は『河童』という小説に「どうか Kappa と発音して下さい」というサブタイトルを付けた。
ということは、河童を「かっぱ」ではなく、例えば「かわわらべ」とか「かわわら」とか「かわわらわ」とか読んでいたこともあったのかなあ?(山童と書いて、「やまわら」や「やまわらわ」と読む)
それともただ単に日本語ではなくて英語にしてという意味だろうか。

・日本語ではなくて英語、でひとつ閃いたことがある。
それは、利根川。
川の流域面積日本1位、川の長さ日本2位。
利根川は群馬県大水上山(標高1,840m)に源を発し、関東地方の北西部より関東平野を南東に流れ、千葉県銚子市において太平洋に注ぐ日本を代表する大河川です。流域面積は我が国最大であり、水源から河口までの支川を含めた流路延長は約6,700kmになります。古くから人々の生活を支え、親しまれ、今でも首都圏の水利用はその大半を利根川に依存しています。(国土交通省関東地方整備局)
利根川は、Tone River、つまり利根(Tone)は英語だと、トーン!
音に関係したトーンとなるわけですよ。


芥川龍之介の囘想 小穴隆一
『河童の宿』より

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久米は芥川のいたづらをみると、芥川が河童が馬に蹴とばされたところを畫くのを待つてて、どれと言ふなり芥川龍と書き、似てゐるだらうと言つてゐた。本郷の江知勝で三人が飯を食つた時のあそびである。


僕はまだ河童をみてもをらず、河童といふものが地上に棲息するかどうかも知らないが、「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀れるのがあたりまへだよ、君、」とあとで芥川が言つてゐた布佐行、そもそも書く會をやらばやの僕ら、僕らはなぜ芥川の伊豆箱根説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、いまにして思へば、僕らは芥川を河童の畫の名題の妙手、小川芋錢のゐる牛久沼のほとりへ無意識に誘つてゐたといふことになるが、僕ら芥川、碧童、遠藤たちの四人が、我孫子で降りて、布佐の辨天を振出しに、青い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ歩きに歩き、日暮れて行きつくところで泊つた旅籠屋、ああいふのが河童の宿かも知れない。大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを何なすとなく、何話すとなく、終日歩るきそのまた翌日も歩いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされてゐたのかも知れない。
河童の宿の主は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯に行つてくれと湯札をだした。(湯にはいかなかつたが、女郎屋の入口を皆で見てすぐ戻つた。)旅籠賃があまりに安いので、それ相當に、四人の頭で壹圓の茶代をだすと、手拭のかはりに敷島四個をうやうやしく盆の上にのせてよこした。僕はその旅籠屋を河童の宿と思つてゐるが、宿の主のはうでは僕らを河童だと思つてゐたのかも知れない。
なぜならば、女中は四人の床を昨夜は並べて敷いておいた、朝になるとそれが昔のロシヤ帝國の旗のやうに襷になつてゐた。僕らはほの暗い電燈の下を中心にして臥せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌、句、畫などを畫いてゐただけであつたのであるが、人の寢るその恰好にはそれ相應の恰好があらうといふもので、僕らのやうな眞似をしてゐるものこそ、宿の人には利根の河童にみえたかも知れない。




前記事に芥川龍之介が自殺を決心した後に詠んだとされる短歌を紹介した。
  この句⇒ 橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭  芥川龍之介

その短歌と同じく’橋の上’という言葉が入る俳句がある。
  水洟も郷里艶めく橋の上   飯田龍太

飯田龍太
1920年7月10日 - 2007年2月25日
山梨県出身の俳人。飯田蛇笏(俳人)の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。


1920年生まれだから、芥川龍之介が死んだ時には彼はまだ7歳。もっとも父親も俳人だったけれども。
この歌を取り上げたのは、’橋の上’が芥川の短歌と共通していたからだけではなく、’水洟’も共通しているから。
芥川を想ってか、何かしらの影響を受けて詠んだものではないかなぁと私は想像するけれど、決して想像の域は出ない。
次の俳句は芥川龍之介が詠んだ水洟の俳句である。

  水洟や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介

辞世の句とも言われているが、実際に自殺直前に創作した俳句だったのかどうかは分からない。
自殺する前日(深夜)に、芥川は同居の伯母に「これを明日主治医に渡してほしい」と託したそうであり、そこに書かれていた俳句だったという。そして前書きに「自嘲」とも書かれていたそうである。

主治医は下島勲という人物であり、彼も医師でありながら俳句を詠んだ俳人であった。
1870 - 1947年。日本の医師、俳人。号は空谷(くうこく)。
長野県伊那郡原村(現・駒ケ根市)出身。上京後苦学して商業学校、ついで東京慈恵医院医学校を卒業し軍医となる。日露戦争などに従軍して陸軍一等軍医となり、1907年軍隊を退く。東京の田端に医院・楽天堂を開業。書画・俳句などを通じて芥川龍之介・室生犀星・久保田万太郎・菊池寛・板谷波山・萩原朔太郎ら多くの文士・彫刻家・画家などと親交を深めた。芥川とは特別懇意になり主治医としてその最後を看取った。また郷里の伊那に埋もれていた井上井月を紹介した。甥に下島連がいる。


俳句は575のたった17文字の世界である。
だからぶっちゃけ誰か知らない人の詠んだ俳句を心底理解することなんて到底無理な話である。
その人を本当によく知っていて、その人がどんな状況やどんな心境でいた時に、いつどこで詠んだが分かって、初めてぼんやりとその意味が見えてくるのではないだろうか。





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# by yumimi61 | 2019-09-13 17:50

引古証今

そんなものが何になる!

詩人の死ぬや悲し   萩原朔太郎

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
 「でも君は、後世に残るべき著作を書いている。その上にも高い名声がある。」
 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟(しげき)し、真剣になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞(はに)かみやで、いつもストイツクに感情を隠す男が、その時顔色を変へて烈(はげ)しく言つた。
 「著作? 名声? そんなものが何になる!」

 独逸(ドイツ)のある瘋癲(ふうてん)病院で、妹に看病されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂気の頭脳に記憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
 あの傲岸(ごうがん)不遜(ふそん)のニイチエ。自ら称して「人類史以来の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁(し)みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める為(ため)に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞(うつろ)な悲しいものであつたらう。
 「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」

 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戦で重傷を負つたネルソンが、軍医や部下の幕僚(ばくりよう)たちに囲まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖国に対する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷(とうごう)大将やの人人が、おそらくはまた死の床で、静かに過去を懐想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
 「余は、余の為(な)すべきすべてを尽した。」と。そして安らかに微笑しながら、心に満足して死んで行つた。

 それ故(ゆえ)に諺(ことわざ)は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善(よ)しと。だが我我の側の地球に於(おい)ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、もつと悩み深く言ひ換へられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!
 
(『行動』1934年11月号)



鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し。
人の将に死なんとする、その言うや善し。

『論語』より

<意味>
鳥の死にぎわの悲鳴には、人の胸をえぐるような悲痛さがこもっている。
人が死を前にして言うことばには、真実がこもっている。


鳥がまさに死ぬ間際に発する鳴き声は物悲しく、人の胸を打つ。
同様に、人間がまさに息を引き取ろうとしている時に口にする言葉は、誰の胸をも打つし、悪いものなどない。
なぜなら、その内容がどのようなものであれ、その人にとっては偽りがなく、真理を含んだ言葉であるからである。
また、人間本来の善性に立ち戻っているからだとも言える。



芥川賞でお馴染みの芥川龍之介は、1927年に自殺した。享年35歳。
日本一有名と言っても過言ではないだろう作家は自殺によって亡くなっており、35年しか生きなかったのだ。
彼は「芥川賞」をどう思うのだろうか。


芥川龍之介と室生犀星と萩原朔太郎

萩原朔太郎は群馬県生まれの詩人である。
今年の2月に室生犀星のことを書いた時に登場した。
過去記事『小景異情』『抒情

萩原朔太郎と室生犀星は1913年以来親友だった。
そして、芥川龍之介が自殺した当時、室生犀星は芥川邸の近所に住んでいたのだという。

死の前日、芥川は近所に住む室生犀星を訪ねたが、犀星は雑誌の取材のため上野に出かけており、留守であった。犀星は後年まで「もし私が外出しなかったら、芥川くんの話を聞き、自殺を思いとどまらせたかった」と、悔やんでいたという。

また、死の直前に
「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」
と河童に関する作を残した。



我鬼(芥川の俳号)の句

「橋の上ゆ胡瓜なくれは水ひひきすなはち見ゆる禿の頭」が死の直前に残したとあるが、1920~1922年頃に書かれたと思われる芥川龍之介の手帳の中に記されていたものという説もある。
もっとも小穴隆一の回想によれば、芥川は1922年には自殺を決めていたという。

 芥川は十五年の四月十五日に自決することを僕に告げた。さうしてその後しばらく僕らは鵠沼で暮らしたが、その鵠沼で芥川は星が一つ足りない北斗七星を畫いて、それに、霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉、と書いて「君、これがわかるか、」と言ふので「わかるよ、」と言ふと、畫いたものを座布團の下にさしいれていつた。星一つ落してゐるのは、この世から消えゆくことを言つてゐるのだが、霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉といふ句は、十一年の晩秋、僕の足の痛みがリウマチといふ下島のみたてであつたので、しばらく伊香保にいつてゐることになつたときに、芥川が留別の句として示したものであつた。
 芥川は、僕が足を病み隻脚となる、さうして、義足で一人歩きができるやうになるのを待つてやうやく心の底を告げた。
 芥川は退院してからの僕に、「僕はあのとき、どうしようかと思つたよ、」と言つてゐたが、あのときといふのは、芥川が留別の句を僕に示してゐたときのことで、芥川は僕に先きに死なれたらどうしようと思つたと言ふのであつた。

(十五年は大正15年で1926年、十一年はその4年前で1922年)

小穴隆一
日本の洋画家、随筆家、俳人。
両親は長野県出身で、小穴は父の任地の長崎県において生まれた。小学校を終えるまでは北海道函館市で暮らし、その後は開成中学校にすすんだが、洋画家を志して中退した。
1919年、瀧井孝作(俳人、小説家)に連れられて芥川龍之介邸を訪れ、以後芥川の親友となる。芥川の遺書にも名前が出てくる人物。


橋の上ゆ 胡瓜なくれは(投ぐれば) 水ひひき(響き) すなはち見ゆる 禿(かぶろ・かむろ)の頭

「橋の上ゆ」を「はしのうえゆ」と読めば、6文字でいきなり字余りで語呂が悪い。「橋上ゆ」で5文字にしても良かったと思うけれど、本当に「の」が入っていたのかしら。

意味としては・・
橋の上から胡瓜を投げれば水が響き その時に見える禿の頭(→河童)
ということになりそうだ。
河童の好物は胡瓜として知られている。


小説『河童』

 前出の小穴によれば、芥川は小説『河童』を書上げればもういつ死んでもよいと言っていたそうである。

『河童』どうか Kappa と発音して下さい。
芥川龍之介が1927年(昭和2年)に総合雑誌『改造』誌上(3月号)に発表した小説である。

当時の日本社会、あるいは人間社会を痛烈に風刺、批判した小説であり、同じ年の芥川の自殺の動機を考える上でも重要な作品の一つであるといえる。芥川の晩年の代表作として有名で、芥川の命日7月24日が「河童忌」と呼ばれるのもこのためである。

副題には「どうか Kappa と発音して下さい。」という半ば不可解な言葉が記されている。

物語は、ある精神病患者の第二十三号が誰にでも話すという話を語ったものであるとして進められる。3年前のある日、彼は穂高山に登山をしに行く。その途中で彼は河童に出会い、河童を追いかけているうちに河童の国に迷い込む。

上高地の河童橋は本作以前に存在しており、むしろ「河童」橋の名称の方が本作の着想に影響を与えたと思われるが、本作の発表および芥川の自殺によって、より知名度が上がることになった。



河童橋(かっぱばし)
長野県松本市安曇上高地の梓川に架かる木製の吊橋。
1891年(明治24年)に初めて橋が架けられた。全長37m、幅3.1m、長さ36.6mのカラマツ製の橋。中部山岳国立公園内の標高約1,500mに位置する。この橋から穂高岳、焼岳などの山々を望むことができる。上高地を象徴するのシンボルの一つである。毎年4月27日にアルペンホルンの演奏と共に橋の袂で『上高地開山祭』が開催されている。

河童橋という名前の由来には諸説あり、
昔ここに、河童が住みそうな深い淵があったため。
まだ橋のなかった時代、衣類を頭に乗せて川を渡った人々が河童に似ていたから。
などがある。
1927年、芥川龍之介が小説『河童』の中で、上高地と河童橋を登場させたこと(および芥川が同年に自殺したこと)でより有名になった。



死の前に残した作品

『河童』を書き終えたらいつ死んでも良かったはずなのに、その後にもちょこちょこと書いている。

『河童』と同時期、あるいはその後に書かれた短編小説。
『誘惑』『蜃気楼』『浅草公園』『歯車』『或阿呆の一生』(『河童』以後の発表で早い順。死後に発見され発表された作品もあり)

『蜃気楼』
芥川龍之介の短編小説。初出は『婦人公論』1927年3月号。芥川が自殺する半年前に書かれた作品で、当時芥川をはじめとした文学者たちが逗留することで知られた湘南の鵠沼を舞台とし、主人公の「僕」が「芋粥」という短編を書いているなど私小説的な雰囲気が色濃い。また志賀直哉の『焚火』の影響を受けているという指摘が複数ある。 副題は「或は『続海のほとり』」。『海のほとり』は1925年の芥川の短編で、やはり「僕」が友人と海辺をふらつくという物語である。
この晩年の掌編はごく短いものであるが「歯車」などに劣らぬ数の評論が書かれており、三島由紀夫もこの作品を「不思議と」好む人間の多いことを記している。


『歯車』
芥川龍之介の小説。芥川は1927年(昭和2年)服毒自殺を図るが、生前に第一章が雑誌「大調和」に発表され、残りは遺稿として発見された。『河童』、『或阿呆の一生』、『西方の人』と並ぶ晩年の代表作で、遺稿中では唯一の純粋な小説である。執筆期間は1927年3月23日から4月7日までとされる。ストーリーらしいストーリーはなく、芥川を自殺に追い詰めたさまざまな不気味な幻視、関連妄想が描かれている。

「僕」は知り合いの結婚披露宴に出席するため東京のホテルに向かう途中、レエン・コオト(レインコート)を着た幽霊の話を耳にする。その後事あるごとに季節はずれのレエン・コオトが現れ、「僕」は段々と不気味になってくる。披露宴後そのままホテルに逗留して小説を執筆しだしたとき、「僕」は、義兄がレエン・コオトを着て轢死したことを知る。
レエン・コオトだけでなく、復讐の神、黄色いタクシー、黒と白、もぐらもち(もぐら)、翼(飛行機)、火事、赤光など、過去の罪の残像とも、死の予告とも知れないものが繰り返し現れることに、「僕」はおびえ、苦しみ、夜の東京の街を逃げ回るように彷徨する。ときおり「僕」の視界には半透明の歯車が回るのが見える。やがて「僕」はホテルを出て、家へ帰るが、激しい頭痛をこらえて横になっていると、妻は「お父さんが死にそうな気がした」と言う。

妻の文は後年、追想記でこの作品のラストシーンが事実であったことを明かしている。


『或阿呆の一生』
芥川龍之介作の短編作品。雑誌『改造』1927年10月号に掲載された。
1927年の芥川自殺後に見つかった文章で、自分の人生を書き残したと思われている。友達への遺書の中に、この事が詳しく記されてある。冒頭部分には久米正雄宛ての文章がある。
「先輩」として谷崎潤一郎、「先生」として夏目漱石、発狂した友人として宇野浩二が登場する。
断章の総数は51。



芥川は自殺の前日に脱稿したのは『続西方の人』というエッセイ・評論。
続とあるようにその前に『西方の人』を書いている。

『西方の人』
芥川龍之介のエッセイ、評論。1927年8月、雑誌『改造』に初出。1927年7月10日に書き上げられ、「続」と銘打たれた『続西方の人』(『改造』1927年9月)は、自殺前夜に脱稿された。読み方には「せいほうのひと」、「さいほうのひと」の両説がある(青空文庫では後者を採っている)。

芥川が自裁を前にしてクリストの一生を自身の一生となぞらえ、あるいは対置しながら描いたものとされる。新約聖書の福音書、特にマタイ福音書をベースに、項目を拾い出し、37の短い章が立てられている。「西方の人」が語られる時は、必然的に「作者の死」と深く関わってくる。「作者の自画像=クリスト」なのか、あるいは「クリストと作者の距離」があるのかという議論が繰り返されてきた。芥川の作品の中でも特に論評が多い作品である。

又、作品の末尾に描かれるクリストの最後を表現した「折れた梯子」が、「天上から地上へ登る」と形容されている事から、生への希求が表現されていると主張する一派が生まれた。「地上から天上へ登る」の誤記ではないかとする人たちとの論争は、平行線のまま解消されていない。最近は当時の言説全体からの位置づけなどが課題になっている。






# by yumimi61 | 2019-09-12 17:12

コンジェスチョン

自殺2か月前のツイート
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あなたならどうですか?

自殺した高橋まつりさんのお母さんは、「命より大切な仕事はありません」と言いつつも、「自分の命より大切な愛する娘」とも言っている。

そこで私は考えてみた。
何を考えたかと言うと、「自分の命より大切な愛する娘」ということである。

1)自分は妊娠していて、自分のお腹の中には女の子がいたとする。
私はその胎児を愛している。胎児であっても私にとっては「大切な愛する娘」である。
だけど医師から「その子供を産んだら、あなたは死ぬかもしれません」と言われた。
「どれくらいの確率で死にますか?」と私は訊く。
この時、医師の返答が、「50%の確率です」だったなら・・・私は出産に臨むかもしれない。
だけど「99%死にます」とか「80~90%の確率で死にます」と言われれば・・・出産しない方を選ぶような気がする。
ということは、「大切な愛する娘」よりも「自分の命」を選択したことになる。「自分の命より大切な愛する娘」であるとは言えなくなるだろう。
しかもこれ、他にもすでに子供がいるかどうか、自分の代わりに子育てをしてくれる人がいるかどうかによっても選択は異なるだろう。
私的には胎児が男の子か女の子は関係ないと思う。

⇒動植物ならどうか?
親が生きようが死のうが、他のきょうだいがいようがいまいが、子育てする人がいてもいなくても、ちゃんと生まれ育つ保証があってもなくても、出来たものは生み落とすという選択肢しかない。


2)自分の子供が重病に罹患したとする。
救える可能性があるのは臓器移植のみで、母親である私が適任であることが分かった。
しかし医師はこうも言う。
「但し現在の医療技術ではお子さんにもあなたにも生命の危険が伴います」。
「生命の危険の確率は?」「ともに50%くらいです」
正直、このケースのするしないの選択は、いろんな意味で怖いし悩むと思う。
そしてこの場合、周囲の目を気にしたり、社会の雰囲気に流されたりしそうな気がする。
もっともこれも他にもすでに子供がいて、その子が何歳で、自分の代わりに子育てをしてくれる人がいるかどうかなどにも影響されるだろう。

⇒動植物ならどうか?
自然界では臓器移植なんかしない。
不幸にも病気になったら死んでいくしかない。
でもそこに人間が介在すれば、人間と同じような治療が行わることはある。だけど人間は動植物の意思なんか確認しない。人間本位、人間の都合で、するしないを決定する。

3)目の前で自分の子供が殺されそうになっているとする。
この場合にはすぐに抵抗するだろう。
あれこれと考えて行動を起こすということではなく、たぶん咄嗟に身体が動いたり声を発したりする。これはもう本能だと思う。

⇒動植物ならどうか?
動物も子供が幼いうちにはそうすると思う。
でもそれは動物の種類とか、オスとメスによっても違うのかもしれない。
植物は自分ではめったやたらに動けないし声も出せないから、そもそも不可能。自分の子供という区別もつかないかもしれない。

4)自分の子供が殺されたとする。
自分の命よりも大切な子を殺されたから、返り討ちや死刑覚悟で直接的な反撃(復讐)に出るかどうか。
私はとても出来そうにない気がする。
私は死刑制度について思いを巡らせるとき、死刑の執行ボタンを被害者の遺族に押させたらどうかということを考える。もちろん希望する遺族者にだけという条件で。
被害者が極刑を望むと言っているのはよく見聞きするけれど、それですっきりするのかどうか。少しは復讐になるのかどうか。少しは悲しみが癒えるのかどうか。

⇒動植物ならどうか?
弱肉強食の自然界に悲しみや復讐心ってあるのだろうか?興味ある。
自分の子供が殺されたというケースでないにしても、動物が人間に刃向ってくる時などは、何かしら恨みつらみを抱いているものなのか。
そんな精神や感情は全くなく、本能的行動であったり、ただ単に大きさの違いや力の強弱や生活様式の差が人間にとって好からぬ結果を生じてしまうだけなのか。

5)自分の子供が自殺したとする。
自分の命より大切で愛していた子供だった。だから後追い自殺するか。
たぶんしないし、自分も死にたいなぁと思っても出来ないと思う。
でもそれは、平常心だからそう思うだけであって、心が病気になって本当に疲れてしまったら、何も考えられずに死んでしまうこともあるんだろうか。
それはそうなってみないと分からないことだとも思う。

⇒動植物ならどうか?
動植物に自殺ってあるのかなぁ?
細胞レベルの自殺ならあるけれども。
人間も含めて多細胞生物である動物や植物には、アポプトーシスと呼ばれる細胞の自殺がある。この細胞の自殺もプログラミングされていて、生命維持には効果的に働いていると考えられているものである。
単細胞にはそれがない。
地球の初期の生物は全て単細胞であった原核生物や原生生物だったとされる。
つまり死が身近ではない生物の時代があったということである。
単細胞生物
単細胞ということで、単純な生物だと判断するのは大きな間違いである。単一の細胞だけで世渡りする彼らは、多細胞生物の細胞より遙かに複雑で、全体の多様性も極めて広い。また、原生生物の場合、個々の機能のための特別な器官のようなものを発達させるものも少なくない。
単細胞の限界としては、体を大きくするのが困難だったことが挙げられる。
単細胞で大きくなることの問題点の一つは、大きくなると核の支配を細胞全体に行き渡らせることが難しい点にもあるらしい。 また、乾燥への対応も難しいようだ。しかも陸では体を支えるのがさらに困難である。単細胞で大きなものはなく、乾燥に対しては休眠で耐えるもの以外にはないようである。


わたし?

私は若い時に目を腫らして出勤したことがあるよ。
目が腫れたのは殴られたわけじゃなくて前の晩に泣いたから。
朝になって瞼がぷっくり腫れていて焦って冷やしたりなんだりするのだけれど、後の祭り。
上司に「どうした、何かあったか?」くらいは、言われたような気がする。
わたし「いえ、何もありません。え?め?腫れてます?もともとこんな感じですよ、奥二重だし」

あまり泣くと次の日に形跡が残る。学校や女子社会ではそれをそんなに気にしたこともなかったけれど、会社では何となくばつが悪い。
だけど泣きたい時もある。
それでどうしたらよいのか、対策をリサーチしたら、目をこすったり涙を拭いたりしないで泣けば腫れないらしいということが分かった。
涙放置、垂れ流し泣き。決して人には見せられない。
社会で生きて行く女は人には見せない顔を持つ。な~んて。


何のために、誰のために、生きるのか

上に書いた単細胞生物は細胞分裂によって個体が増えていく。
これを無性生殖と呼ぶ。クローンはこのタイプになる。
生殖細胞が融合して、遺伝子を交換し、新たな個体を発生させる有性生殖ではない。
よって無性生殖では基本的に親と同じ性質の個体が発生する。
単一の細胞だけで新しい個体を生み出す単細胞生物は、多細胞生物より遙かに複雑な細胞を持っている。
だからこそ無性生殖が可能であるとも言える。

STAP細胞は多細胞生物の体細胞からクローンを作ろうとしたのである。無性生殖を目指したということであるが、多細胞生物の細胞はそれに耐えうる細胞ではないはず。

多細胞生物が無性生殖を目指すとしたら、一番可能性が高いのは栄養生殖だろうと思う。自身の栄養器官で子を作っていく方法。
イチゴの苗は匍匐茎で、ラズベリーの木は地下茎でどんどん増えていくのだけれど、これも栄養生殖という無性生殖である。
栄養体として分化した器官が、繁殖のために分化した形をとっていく。
でもどんどん増えると言っても、もちろん環境が整っていなければ増えることにも育つことにも限界がある。イチゴやラズベリーには土がなかったらダメだし、土地の酸性度が変われば成長に影響を与えかねないし、水が一滴も降り注がなければ枯れてしまうかもしれないし、光のない暗黒の世界ではダメだろうし、適度な気温も必要だし、周囲に他の強く勢いのある逞しい植物が生い茂って光や栄養や水分を奪われ続けたらちゃんとは育たない。


原子の地球に生まれた生命体は単細胞1つであり、そこから全て進化してきたのか。
それとも幾つかの単細胞生物が同時に生まれ、進化の系統は複数あったのか。
はたまた、最初から単細胞生物と多細胞生物がいて、初めから枝分かれした状態で置かれたのか。
この辺りの違いによって、必然なのか偶然なのか、創造主の意図なのかそうでないのか、といった考えも変わってくるような気がする。

もし原子の地球にいたのは単細胞生物のみで、そこから多細胞生物、すなわち多種多様な植物や動物や人間が誕生してきたとするならば、多細胞生物になることで半永久的な命を手放したということが言える。

一人の人間はとても弱いけれどそれでも みんながみんなが集まれば強くなれる~♪
という歌があるけれど、多細胞生物の1つの細胞もまた、それほど強いものでも優秀なものでもない。だからこそ寄せ集まって何かを可能にしたり強くなったりする。
細胞1つのサイズを大きくすると弊害が生じてしまうので単細胞生物は複雑な細胞を持ってはいるが、大きくなることは難しい。
細胞が1つではなく寄せ集まった多細胞生物は、必然的に単細胞生物よりもサイズは大きくなる。
そしてこのことを考えつめていくと、動植物にとってサイズが大きいということは、実は生命体としての弱さの裏返しなのではないかと思う。
細胞がそれほどまでに集まらなければ生き延びられなかったからこそ、大きくなったということである。

有性生殖となり、半永久的な命を手放し、弱く単純な細胞の集まりである生命体(種)が生き延びようとする時、どうするか。
なるべく条件の良い、つまり、弱点を補いあうことが可能な遺伝子(生殖相手)を求めて残そうとするのではないだろうか。
もちろん意識的にそんなことは考えていないけれど、無意識はそれを知っているというか。細胞レベルでは知っているというか。
無意識を心や直観と言い換えてもよいかもしれない。
少なくとも人間は生殖相手が誰でも良いなんてことはないはずだし、沢山産めば産むほど良いとも思っていない。
そこに愛や選択を介在させるわけだが、本当に大切なのは目の前に並べられた見てくれや条件ではなくて、心や直観に忠実であることなんだろうなぁと思う。
心や直観に忠実になって無意識や細胞レベルで知っていることに辿り着く必要があるが、様々な情報が溢れていて、いろんな人間がいて、自分の心や直観というものも分かりにくくなっていると思うし、そもそも1人では完結しないことでもある。
よって愛や選択を介在させる性や生は最初から心許なく、生命体として他の動植物と比較した場合にはリスクが高いことは間違いない。

でもまあ、人間は誰のために何のために生きているのかと言えば、愛や選択のために生きている、ということになる。





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# by yumimi61 | 2019-09-10 14:00

コンシール

時間外労働と自由度

電通事件はどちらも時間外労働の多さによる労働の過酷さが問題視されたわけだが、時間外労働時間についてはあくまでも推定時間となっている。本人より申告されていた時間外労働の時間はもっと少ない。

男性社員の1ヶ月あたりの残業時間は147時間にも及んだとされる
遺族側弁護士の推計によると、1ヶ月の時間外労働は約130時間に達し、過労死ラインといわれる80時間を大幅に越えていた。電通は労使協定で決められた残業時間を越えないよう、勤務時間を過少申告するよう指示していたとみられる

推定時間外労働時間(本人が申告してた時間ではなく実際にはこれくらい残業していただろうと遺族やその弁護士が推定した時間)が130時間や147時間は確かにかなり多いが、これが純粋に時間外労働だけの時間なのか、それとも休日出勤した時間も時間外労働時間としてまとめているのか、そのあたりはこの記述では分からない。
とにかく、もしも製造業の現場作業者がこんなに時間外労働したら、健康を損なうのは必至である。

男性の方は日中は広告勧誘企業や制作会社との連絡や打ち合わせに追われ、企画の起案や作成を時間外に行っていたそうで、会社で徹夜をしたこともあったようだが、この場合には、仮眠や食事など本来は労働時間に含まれない時間が挟まれていると考えられる。
こういう働き方の場合には、外出先で私用を挟んだり、会社に居たが途中抜けして私用を済ませるなどといったことも十分に考えられ、会社にいた時間=労働時間ではないことが多くなる。
営業職など外出が多い職種、社内の福利厚生施設が閉まってしまう時間にも労働している従業員、日常的に深夜まで残業している、あるいは徹夜する従業員などは、上記のような理由でタイムレコーダーだけで労働時間を管理することができないため、みなし労働制の対象にしたり、労働時間や残業時間を申告制にしたりする。
そうなると、仕事をするもしないも、申告するもしないも、本当に本人次第なところがあり、一筋縄ではいかない。

自宅に帰ってこないというのはもっと曖昧で、会社にいたのか、同僚と食事したり飲んでいたのか、趣味や遊びに興じていたのか、恋人の住まいに入り浸っていたのか、いろんな理由が考えられ、全て時間外労働していたとは言い切れない。

時間外労働時間にしても、所定労働時間が実働7時間の会社の従業員が、一般的によくある実働8時間と同じだけ働けば、それだけで1時間残業したことになる。
1ヶ月毎日そうしたとして、1ヶ月の所定労働日が20日ならば、20時間の残業が付くことになる。
もともと就業規則上の条件が良い会社では、そういうことになるのだ。
休日出勤は時間外労働とは通常別にカウントして手当ても変わってくるものだが、事件記事だからとざっくり時間外労働に含めたとすれば、月に4回土曜日に出社して8時間働けば、32時間の労働時間となる。
9時半出社で、8時間勤務(うち1時間残業)して、18時半に退社。その他、月に4回土曜日に出社した。これだけで20時間と32時間で52時間の時間外労働となる。


残業をする理由と健康度

残業が多いという人にもいろいろな人がいて、心身の健康状態も様々である。

①どちらかと言えば好きで残業をしていて、心身ともに健康
 ・残業代目当て
 ・自宅に帰りたくない症候群(帰宅恐怖症、帰宅拒否症)
 ・会社や仲間といるのが好き
 ・とにかく仕事が好き

②どちらかと言えば好きで残業をしているが、心身の状態はあまり良くない
 ・残業代目当て
 ・家に帰りたくない症候群(帰宅恐怖症、帰宅拒否症)
 ・会社や仲間といるのが好き
 ・とにかく仕事が好き

③仕方なく残業をしているが、とりあえず心身は健康
 ・残業代目当て
 ・こなすべき仕事が終わっていない
 ・使命感や責任感に駆られ、且つ時間内に納得した仕事が出来ない
 ・定時退社しにくい(残業する者が非常に多い、性格的に定時退社に気が引けて出来ない)
 ・残業は上司の命令
 ・上司という立場、あるいは管理職であり部下より先に帰るわけにはいかない

④仕方なく残業をしていて、心身の状態もあまり良くない
 ・残業代目当て
 ・こなすべき仕事が終わっていない
 ・使命感や責任感に駆られ、且つ時間内に納得した仕事が出来ない
 ・定時退社しにくい(残業する者が非常に多い、性格的に定時退社に気が引けて出来ない)
 ・残業は上司の命令
 ・上司という立場、あるいは管理職であり部下より先に帰るわけにはいかない
 
従業員の健康管理をする立場から考えれば、指導や調整を一番しやすいのは④、一番しにくいのは①である。
③と②はケースバイケースで、どちらがとは、はっきりと言いにくい。
上司と部下の組み合わせが、①上司&④部下という場合には、様々な面においてリスクが高くなる。①上司&③部下も予備軍である。


問題の本質はどこにあるのか

様々な情報から読み取った印象では、電通の自殺した2人の若い従業員は、残業を好きでやっていたようではない。
入社してまだ1年2年というところであり、何をするにも他の従業員よりも不慣れで手際が悪く時間がかかり時間外にずれこみ、時間外労働が増えたという可能性もなくはない。
特に近年の新入社員は、社会人や会社人としてのあれこれや仕事の基本的なノウハウを教える研修期間・試用期間が長くなる傾向にあるという話も聞く。
身体的な健康には特段異常はなかったようだ。
心の健康度は外部からは計りにくい上、時期によっても違うことが考えられる。さらに亡くなってからの推測はバイアスもかかりやすい。よって何とも言えない。
でも上記の状態に当てはめれば、③か④だったと考えられる。

④という状態にあって、本人あるいは周囲が不調を認識しており、さらに不調の原因が会社にあったならば、然るべき対応を取りさえすれば最悪の事態は避けられた可能性もある。
不調を発見したり相談したり、指導や調整をするといった対応に関しては、やはり大企業の方が進んでいるはずである。
よって認識していながら、その対応を会社が怠ったということになれば、大企業だけに批判されても仕方ない。

③の場合は、残業負荷は大きかったかもしれないが、とりあえず心身の健康は保たれていたとなると、ただちに自殺に至るとは考えにくい。健康な状態から突発的に死んでしまうことまでは予想できない。


懸念されるのは、時間外労働にばかり注目してしまうと、他の問題や真の自殺原因、自殺の引き金になった出来事を覆い隠してしまう恐れがあるということ。
この世の中にはいろんな人がいるから、同等の、あるいはもっと多くの時間外労働をしていても自殺しない人もいる。
そんなのは当たり前だと言うかもしれないが、だとしたら彼らもまた自殺しなかった可能性だってあるということになる。

(注)私は決して時間外労働を無条件に是認しているわけではありません。


命より大切な仕事はありません vs 命より大切な仕事はあります!?

亡くなった高橋まつりさんのお母さんはシンポジウムで「命より大切な仕事はありません」と訴えた。
「命より大切な仕事はあります」と主張したのは、この夏7月の参院選に千葉選挙区から出馬した平塚正幸さん(37歳)。
この方、「NHKから国民を守る党」から出馬したようなのだが、「NHKから国民を守る党をぶっ壊す党」代表らしい。

NHKなんちゃら党はNHKをぶっ壊す党とかなんとかという名称じゃなかったんでしたっけ?
「NHKから国民を守る党」の党派の「NHKから国民を守る党をぶっ壊す党」?
すみません、ちょっと混乱して、意味がよく分からないのですが、どういうことなんでしょうか。

政見放送の経歴放送(ナレーション)では・・・
 千葉県選挙区 NHKから国民を守る党 平塚正幸 37歳
 NHKから国民を守る党をぶっ壊す党代表
 「さゆふらっとまうんど」という名の社会活動家
 YouTuber
 千葉出身

「NHKから国民を守る党」から出馬しておきながら、「NHKから国民を守る党」にも今回は自分にも投票しなくてよいと言っているのですが、ではなんでここから出馬?
また、よく「NHKから国民を守る党」の候補になることが許されましたよね?
スクランブル放送には反対しているようで、「NHKから国民を守る党」に幾つか質問したけれど返答がなかったみたいだけれど、そのお詫びに出馬させてもらったとか?

さゆふらっとまうんどHP ブログ
 命より大切な仕事はあります。
 より部分抜粋

それは自分が生まれてきたことによってこの世に残した未来が、自分が生まれてこなかった未来より、良い社会に変えるという仕事です。
つまり、公益を社会に残すということです。
しかもこれは人間が漏れなく持っている生まれてきた目的であり、責務です。

我々が生まれきた目的は、公益を後世に残すことです。
それは人が生まれきた目的ですから、命と同等またはそれ以上に価値があることなのです。
私の言う「仕事」に命を懸けずして、なぜ人は生まれてきたと言えるのでしょうか?
人は、生まれてきた責任を全うしなければ生きている意味はありません。
生まれてきた目的を果たさずして生まれてきた意味はないのですから、命より大切な仕事はあるのです。

逆に、後世に地獄を受け渡す助けをして死んでいくのなら、「貴方は生まれてこなければよかった」ということになってしまいます。
自分可愛さに目先の楽に甘んじ、命を後世の幸福に受け渡せないのなら、存在は公害ですから「貴方は未来の為に生まれてこなかったほうがよかった」、「貴方が生まれてこなかったほうが未来はよいものになっていた」ということになります。

「命より大切な仕事はない」という言論は、個人を大切にするという言論から個人主義、自分さえ良ければよいという社会風潮へと誘導されています。

確かに、人の命は尊い。
しかし、それは命を正しい方向に擦り減らし、「公益に寄与しなくては、生まれてきた意味、生きている意味などないんだ」、という強さがあって初めてその尊さが生まれます。
命を尊いものにするのも、軽いものにするにも、すべて当人の行動次第です。
何もしない人または、公益とは逆の方向に動く人を、「貴方の命は尊い。生まれてきた意味があった。」ということはありません。
それらの人達に対して公益有る人間等も含めて一律に等しい価値であるはずがないのです。
人は等しくチャンスと教育を受ける権利、人権を持っていますが、本人の行動次第でその人の価値の重みが変わるのは事実としてみるべきです。
本人の行動次第では生きる価値がない人間になることができるのです。

生物の普遍性に沿った人の公益ある行動の一つは、子孫を残すということでしょう。
しかしながら、その生まれた社会環境が、人の善意に沿って形作られた社会設計でなければ、後世の行動が「公益にならないように誘導される」ということになってします。

我々は、我々の為に生まれてきたのではありません。
後世の為に生まれてきたのです。
後世が、自分自身と同一と捉えられるなら、それは自分の為とも言えるでしょう。
命より大切な仕事はあるのです。

死をもってしてでも公益を生み出し、未来への責任を果たす。その自害、自殺を私は悪いことであるとは思っていません。
自分の命は自分の物であり、それをどうゆう形で終わらせるかも当人の自由であるべきだと私は思っています。死んだらそれで終わりです。目の前に自殺しようとしている人がいたら私は止めるでしょう。しかし、本人の意思を一番に尊重すべきだと思います。人はいつか死ぬのです。人は自由なくこの世に生まれてくるのですから、死ぬ自由があっていいのではないかと思っています。自分の意志で生まれてきたのではないのですから、自分の意志で終わりを選んでもいいのではないかということです。



以下、記事の解説 だそうです。


電通の仕事は、公益にはなりませんから、公益有る命より大切な仕事とは言えないでしょう。
電通(時事通信)は、民放マスコミの報道の指揮系統として機能しています。
電通社員の死の原因は複合的なもののはずです。その原因を一つに絞るということは、他の複合的原因の隠れ蓑にする行為です。

なぜ死んだのか?
このたった一つの問題を掘り下げれば、電通の闇だけでなく、社会毒や愚民化政策などから世界構造までもが見えてくるのです。
それらまで掘り下げて考え行動することが、死者を重んじ、今を生きるものができるより意味のある行動です。

このお母さんは娘を無くした悲しみから「命より大切な仕事はない」と言っているのは明らかです。お気持ちはお察しいたします。
しかし、その発言が労働基準法をより企業にとって厳しいものに変えることで、内部留保を抱えている大企業しか営めない「企業のNWO化」の流れを推し進める方向への変化の契機に寄与してしまっていることもまた事実でしょう。

もし私が殺されたら、私の死を当たりにした母親は同じことを思うかもしれません。
しかし、それが「僕の生き方なんだよ。悲しまないで。ごめんね。」
としか言いようがありません。
「何をして生きていくか。」それは当人の意思であったはずなのです。
子を産んだ瞬間に、子の死を見る可能性もまた同時に生まれるのです。
そして同時にその本人が自らの意思をもって歩んでいくこともまた受け入れなければいけません。


私も先日、スティーブ・ジョブズの「死はたぶん、生命の最高の発明。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。」とも言っていたスピーチを紹介し、地球や生命体の持続には死が最大の貢献になるという話を書いた。
その考え方に似ていると言えば似ているが、少なくとも私は「そもそも有機体システムに精神や感情が存在することが最大の謎にあたる」と思っていて、人間は公益を社会に残すよう努めるべきとか良い社会に変えるべきとか、そういう類の話で書いたつもりはない。

高橋まつりさんのお母さんは、「命より大切な仕事はありません」と言いつつも、「自分の命より大切な愛する娘」とも言っている。






# by yumimi61 | 2019-09-09 16:09

コンテント

もうひとつの電通事件

若い人は知らないだろうし、若くない人も多くは忘れて記憶がない、あるいは知らないだろうと思うけれど、電通は高橋まつりさんの前にも若い従業員の自殺で騒がれたことがあった。
この時は労基法違反で会社が起訴されたということではなく、自殺した男性の家族が会社を相手取って民事訴訟・損害賠償請求を起こしたのである。
知らないし忘れただろうと書いたけれど、この件は社会に一定の影響を与えた。

電通事件
1991年8月27日に電通の社員が過労により自殺した事件、およびこの社員の長時間労働について使用者である電通に安全配慮義務違反が認定された判例である。
「過労自殺」という概念はこの事件によって初めてクローズアップされるようになったといわれる。

電通に入社して2年目の男性社員(当時24歳)が、自宅で自殺した。男性社員の1ヶ月あたりの残業時間は147時間にも及んだとされる。
遺族は、会社に強いられた長時間労働によりうつ病を発生したことが原因であるとして、会社に損害賠償請求を起こした。これは、過労に対する安全配慮義務を求めた最初の事例とされ、この訴訟をきっかけとして過労死を理由にした企業への損害賠償請求が繰り返されるようになったといわれる。
2000年、この裁判は同社が遺族に1億6800万円の賠償金を支払うことで結審した。
判決では、酒席で上司から靴の中に注がれたビールを飲むよう強要されたり、靴の踵で叩かれるなどの事実も認定された。


1991年に自殺して、裁判の結審は2000年。
会社も争ったので、最高裁までもつれ込んだ。
遺族に1億6800万円の賠償金を支払うことで結審したからまだ良いようなものの、裁判は時間もお金もかかり、一個人がこれをやるとなると負担は大きいだろう。


新旧波及

ヤフー知恵袋 2017年1月9日より
Q
1991年に起きた電通事件の被害者大嶋一郎氏の父親久光氏の勤務先を教えてください。
電通は超一流企業ですが、大嶋氏の出身大学は東京都内にある一般私大です。
電通は、コネ入社を行うことで有名な企業なので、政財界の偉い方のご子息ではないか興味があります。
私も同時期に同様な加重勤務で「過労死」こそは免れましたが、自殺未遂を起こし、今でも「うつ病」の後遺症で苦しんでおります。
私は、以前「障害年金の給付」を求めましたが、認められませんでした。
しかし、2015年に起きた電通事件で、政府の対応は一変しましたので、救済が受けられるのではないかと期待しております。私は東大卒ではありませんが、都内の超一流私大の出身です。
今回の電通事件での対応は、政府が働き方改革実現会議を提言していることが影響しているとは思いますが、 被害者が東大卒で、可愛い女性であるためとの、「ひがみ」もあり、質問する次第であります。
被害者のプライバシーに関することで申し訳ありませんが、訴訟を起こした事件であり、その程度の内容は オープンにしても差し支えないと思っております。よろしくお願いいたします。


1991年に自殺した電通の従業員は、1966年(昭和41年)11月生まれの男性。
1990年3月に明治学院大学の法学部を卒業。
浪人か留年か、それとも留学や休学があったのか分からないが、1966年生まれで1990年3月の卒業では、ストレートよりは1年遅い。
(高橋まつりさんもストーレートより1年遅く大学卒業し入社しているが、1年間北京の大学に留学していたということなので、その期間なんだろうと思う。文科省を通した留学のようだけど、留学先で取得した単位が日本で在籍している大学の単位に出来なかったということになる)
1990年4月に電通に入社。同年6月、ラジオ局ラジオ推進部に配属される。

就職後も彼は自宅で両親とともに暮らしていた。
入社時及び定期健康診断でも色覚異常以外の異常所見はなかった。

配属当時は当日中に帰宅していたが、8月頃より翌日の午前1,2時頃に帰宅するようになった。
さらに帰宅時間はどんどん遅くなり11月頃になると翌日の午前4,5時頃の帰宅になっていた。
それ以降は社内で徹夜し帰宅しない日や父親が利用していた東京都港区所在の事務所に泊まる日が出てきた。
初年度の有給休暇は10日与えられていたが、取得したのは0.5日だったという。

2年目の1991年になると、自宅には帰宅しない日が多くなった。
帰宅したとしても朝帰り(7時頃)で、8時頃には再び自宅を出た。
(余談だけど、テレビ朝日のドラマ『警視庁・捜査一課長』の捜査一課長も自宅に帰ったと思ったら、電話が来てまたすぐに仕事に戻るというのがお約束パターン。奥さんが用意したご飯も食べずに出て行くが、奥さんは刑事の鏡刑事の妻の鏡みたいに寛容で優しい。完全に時代に逆行した描写であり観ているだけでヒヤヒヤするが、猫とのシーンが和むので結構好きな場面でもある)


当時の電通の労働環境

彼の主な業務内容は、広告勧誘企業関係者と制作会社との連絡・打ち合わせ、企画の起案と作成だった。
上司の評価は悪くなかった。(文書として残っている)
1990年秋に会社が行った調査において本人は、企画が通った時の喜びなどを記していた一方、不満としては慢性的に深夜まで残業あることを挙げていた。

1990年当時の電通の就業規則では次のように決められていた。
 ・就業時間 9時30分~17時30分(うち休憩時間1時間)で実働7時間
 ・休日 原則として週2日

一般的に多い就業時間は、8時から17時まで、8時30分から17時30分、9時から18時までで、うち休憩1時間の実働8時間というもの。
実働時間を減らしている場合には休日が週1日となる会社も決して少なくなかった。
それに比べると電通の規則の実働7時間、休日週2日、これは法定労働時間よりも短い。

法定労働時間
1日につき8時間、1週間につき40時間を超える労働をさせてはならない。

法定労働時間ぎりぎり実働8時間を就業規則で定めている企業がほとんどだが、大手広告代理店の電通は実働7時間としていた。
実働8時間の場合の最低年間休日日数は105日である。これも最低ラインを採る企業が少なくなかった。

また労基法の改正により1988年よりフレックスタイム制が導入可能になったので、1990年にはフレックス制度が導入されている企業や適用される部署もあった。
フレックスタイム制では始業及び終業の時刻を該当労働者の決定に委ねることが出来る。
この場合、清算期間(1ヶ月以内の期間で、労使協定で定めた期間)を平均し、1週間あたりの法定労働時間(1日につき8時間、1週間につき40時間)を超えない範囲内において、1週又は1日の法定時間を超えて労働させることができる。

さらに36協定(労働基準法36条)というものがある。
労働基準法第36条では、法定労働時間の例外として、あらかじめ労働組合等と使用者が書面による協定を締結し届け出ることによって、法定労働時間を超えた時間外労働や休日労働をさせることができる。
当時は、この協定を締結して、労働基準監督署に届け出れば、実質上限なく時間外労働に従事させることができた。


残業上限と実際

労働基準法第36条に基づき、電通と労働組合で締結された36協定において、男子従業員の時間外労働の上限は1日につき6時間30分と定められていた。
1日という単位では、電通の所定就業時間が17時30分までだったので、そこから6時間半の残業が可能、すなわち深夜0時までは残業が出来ることになっていた。
但し月間の上限も定められていたので、1ヶ月毎日それだけ残業していたら36協定違反となる。
当時、ラジオ推進部では1ヶ月に付き60時間または80時間を1ヶ月の残業時間上限にしていた。

一口に36協定違反といっても、協定というのは労使双方が納得して結ぶものであるので、結んだ協定に関しては両者双方に義務や責任が生じてくるものであろう。
従って、一方的に違反することを強要された場合以外は、違反についても両者双方に責任が生じてくるものと考えられる。

電通では予め所属長より残業許可を得てから残業することと決められていたが、実際には事後報告が少なくなかったとのこと。
自殺した彼の残業時間がどうだったかと言うと、会社に申告された残業時間は月間残業時間を超えている月もあるし、超えていない月もあった。(但し実際の残業時間はもっと多かったらしい)

彼に限らず、労使間で36協定を結んでいるにも関わらず、それを超える残業時間を申告する者もいた。一方、実際の残業時間よりも少ない申告(過少申告)をしていた者も少なくなかった。
個人や部署によって、残業時間、残業の在り方や申告に大きな差が有り、このことは会社と労働組合の協議においても問題として挙がっていた。
会社側は残業する従業員へのフォローの一環として、夜22時~朝5時の深夜帯に業務に従事した者に対しては就業規則で定めた所定労働時間を例外的に取扱う制度を設けていたほか、午前0時以降に業務を終了したが朝定時に出勤しなければならない従業員に対しては会社負担でホテル宿泊も提供されていた。
しかしそれらの制度は新入社員にはあまり利用されていなかった。


亡くなった1991年8月の出来事

1990年4月入社の彼は、1991年4月からは入社2年目ということになる。

彼はその年の8月3日~5日(月~水曜日)の3日間、旅行のために会社を休んでいる。
8月1日2日が土日なので、合わせれば5連休ということになる。

8月24~26日(月~水曜日)は、取引先企業が長野県内で行う行事に立ち会うため長野県に出張した。
前日8月23日(日曜日)も会社に出勤しており、18時頃に自宅に帰宅。そして22時頃に自家用車で長野県に向けて出発したという。
この辺りがどうもおかしいのである。一般的な社会常識(会社常識)からすると不可解である。

都内から長野県への出張が電車など公共交通機関利用でも社有車でもなく自家用車移動だった。
出張の移動時間は労働時間には含まれないため、時間外手当なども付かなくなる。(但し必要な荷物を運搬したり監督したりする場合には含まれる)
ガソリン代や高速料金は出張旅費として精算出来たかもしれないが、自身で夜間に長距離を運転するとなれば一時も休めない状態であり心身への負担はかなり大きくなる。また万が一事故を起こした場合などには保険の問題なども生じてくる。

前日に出発しているわけだが、前泊にしては出発が遅すぎる。
そして宿泊先がラジオ推進部班長の別荘だったというのだ。
会社の出張で、会社が前泊を認めていたならば、ホテルに宿泊すべきだろう。
出張に行って上司の別荘に宿泊なんて公私混同もいいところではないか。
これは本当に業務出張だったのか?

自宅に帰宅したのは8月27日の朝6時頃。「体調が悪い、病院へ行く」と弟に話していた。同日9時頃に欠勤すると会社に連絡。10時頃に風呂場で首を吊って亡くなっているのが発見された。

自殺後に行われた裁判などでは、残業の多さなどから遅くとも8月上旬頃までにうつ病になっていたとされた。
8月24~26日の長野での行事が終わり肩の荷が下りてほっとした反面、終わることのない長時間労働の日々を思うとむなしくなり、うつ状態が悪化して、衝動的・突発的に自殺に至ったと認められた。

彼は1991年8月に入ってから、「自分に自信がない」「自分が何を話しているのか分からない」「眠れない」と言うようなことがあったそうである。これは別荘上司の回顧によるものである。
またその上司は長野の別荘で彼の異常な言動に気が付いたとも証言している。
どちらも自殺後の発言であり、ある意味”死人に口なし”状態である。



150.png 明日に続きます。台風が無事に通り過ぎますように)



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# by yumimi61 | 2019-09-08 10:16
人々の感情に訴えるものは何か?

電通の若い女性従業員が自殺し、電通が労働基準法違反容疑で書類送検されたということで、ニュースを賑わしていたことが一時あった。

2015年(平成27年)12月25日、新入女性社員が、社員寮から飛び降りて自殺(過労自殺)した(享年24)。
この社員は2015年4月の入社後、デジタル・アカウント部に配属され、インターネット広告を担当していたが、本採用後の10月以降に仕事量が急増。遺族側弁護士の推計によると、1ヶ月の時間外労働は約130時間に達し、過労死ラインといわれる80時間を大幅に越えていた。電通は労使協定で決められた残業時間を越えないよう、勤務時間を過少申告するよう指示していたとみられる。女性社員個人のTwitterには過労だけでなく、パワーハラスメントやセクシャルハラスメントの被害を窺わせる書き込みがされていた。
2016年(平成28年)9月30日、三田労働基準監督署は、この社員が自殺したのは長時間労働によりうつ病を発症したのが原因と判断し、労働災害(労災)を認定した。


マスメディア、電通という有名な大手広告代理店(日本最大、世界5位の広告代理店)、新入社員、若く美人な女性、そんな女性がクリスマスの日に自殺。
自殺の原因が過労(長時間労働)にあったとして労災認定される。自殺との因果関係が公的に認められたに等しい。
そして電通に捜査が入り書類送検されるはめになり裁判沙汰になった。
労基法違反が罰金刑とする略式命令ではなくて、正式に起訴されて公開裁判になることは極めて異例であった。
このように、そうでなくても人目を引く要素が満載である。

しかし一方、長時間労働があり労災認定もされ、会社側が裁判で糾弾されたということで、きわめて四角四面な型にはまった自殺にもなった。
言い方を変えると、社会性を帯びた自殺というか、お役所的な自殺というか。
お役所的というのは、恋愛の悩みや痴情のもつれ、親子の確執などきわめて私的な原因による自殺ではなく、公に繋がるというかお役所仕事を呼び込む要素がある自殺という意味。
よって報道から受ける自殺の印象もかなり固いものとなった。

しかしながらこの一件、少し多角的にみると、最初に持つ固い印象とは違う感じも受けるのだ。


なぜオーソドックスな選択や努力をすべきなのか、それはいらぬ疑いを掛けられないためである

『週刊朝日』で働きたかった高橋まつりさん 
電子書店パピレス(犬耳書店)ルポ・エッセイ
  『電通の深層』著:大下栄治 発行:イースト・プレス


書店だけに(?)著作権に厳しくコピーが出来ない状態になっており、さらに著作権についても次のような記述があるので、文章はリンク先に飛んで読んでください。

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万一、上記に該当する行為が行われた場合、著作物に埋め込まれた著作権管理情報を用い、然るべき処置をとらせていただくことがあります。
なお、ホームページ自体の著作権は株式会社パピレスに属します。



上記のルポ・エッセイ(ドキュメント)によれば、かつて『週刊朝日』の編集長を務めていた山口一臣さんという方は高橋まつりさんと親交があったそうなのだ。
高橋さんは大学生(東大)の時に、『週刊朝日』でアルバイトをしていたそうであるが、そのきっかけが東京大学の入学式の模様を伝えるテレビの情報番組だったという。彼女はインタビューされ、「将来は週刊朝日で働きたい」と答えていた。
それをテレビで見ていた週刊朝日の編集部員がすぐさま編集長に報告。
編集長は直ちに編集部員を集めて「この子を探し出してきて」と命じた。
それから1ヶ月後、別の編集部員が知り合いの伝手を辿って、めでたく彼女を週刊朝日編集部に連れてきた。
彼女は編集長の「アルバイトをしないか」に二つ返事し、以来、卒業するまでそこでアルバイトをしていたとのこと。

東大入学生として偶然にインタビューを受けていた名も分からぬ学生だったということだが、東大の合格発表の際に、すでに『週刊ポスト』のグラビアにも取り上げられてもいたそうで、だったらすぐに見つかるんじゃない?と思うけれども。その伝手で見つかったということなのでしょうか。


高橋まつりさんは静岡県出身。
彼女のお母さんは、彼女が中学2年生の時に、子供(彼女と弟)を連れて家を出た。以来、市営住宅に暮らしていた母子家庭だった。
その中学時代に一発奮起して東大を目指すことを決めたという。
環境の変化は心境の変化をもたらしたということなのでしょうか。

高校は静岡県沼津市にある加藤学園暁秀高校に進んだ。私立の中高一貫校なので高校から入学したということになる。
高校には、特進クラス、進学クラス、アルファクラス、バイリンガルクラスがあり、どこのクラスにいたのかは分からない。
バイリンガルコースは英語で授業を行うようだ。

国際バカロレア資格認定校である。また、文部科学省からスーパーイングリッシュランゲージハイスクールに指定されていた。 国語以外の授業を全て英語で行うバイリンガルコースがメディアでも紹介された

偏差値は特進クラスで62、バイリンガルクラスで58である。
この偏差値は静岡県内の私立高校では上位2,3の偏差値であるが、静岡県全体でみると上位は公立高校が占めているため287校中の28位となる。
かつてはどこの県でも公立高校の受験には学区制というものが存在していて、現住所地に縛られ、どこでも好きな学校を受験できるという環境にはなかった。今はその学区制が撤廃され、全県制になっているところが多い。群馬県もそうだし、静岡県も同様である。
縛りが無い状態で、中学時代から東大を目指していたならば、上位公立高校への進学(沼津市への通学が希望ならば沼津東とか)のほうがはるかに現実味があったと思うのであるが・・。
学校関係者の皆様、生徒・学生諸君、大学進学アドバイザーの方々いかがでしょうか。
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(表の出典)http://www.katoh-net.ac.jp/GyoshuHS/university-02.php

さらに一般的な感覚からすると、母子家庭になってから中高一貫の私立校の高校に入学するというのは、いろんな意味で何かと大変な気もする。
母子家庭だった高橋家は裕福ではなく、まつりさんが中学高校時代に家で読んでいた週刊朝日は離れて暮らす祖父が自分が読み終わったものを送ってくれていたのだという。
そんな家庭環境であったが、特待生となり高校の3年間授業料は免除であり、本人はそれを自慢にしていたという。
公的に母子家庭救済制度があるので高校の学費的には母子家庭となったことが幸いしたのだろうか。
でも授業料だけじゃないもんね。
私立高校の多くには特待制度があるのも確かだが、対象となる人数やその範囲は学校によって違う。学校授業料だけを免除するのか、施設費(学校給付金)も免除するのか、さらには修学旅行費も免除するのかなど、学校や成績などによって違う。免除されていたのが純粋に授業料だけとすれば、公立高校より費用はかかる。
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(表の出典)https://hoken-kyokasho.com/public-hs-fee


北京の清華大学に中国政府奨学金で留学

高橋まつりさんは逆境を乗り越え、東京大学に現役で合格したという。
そして大学3年の時には北京の大学に1年間ほど留学していたそうだ。

お母さんの発言より
娘は、高校卒業後、現役で大学に入学しました。大学3年生の時には、文部科学省の試験に合格し、1年間、北京の大学に国費留学しました。帰国後も学問にはげみ、持ち前のコミュニケーション能力を活かし、就職活動にのぞみました。そして、早い時期に内定をもらい、大手広告代理店に就職しました。
娘は「日本のトップの企業で、国を動かすような、様々なコンテンツの作成にかかわっていきたい。自分の能力を発揮して、社会に貢献したい」と夢を語っていました。


上記のルポ・エッセイ(ドキュメント)によれば、清華大学に1年間、中国の国費で留学していたそうだ。
だとすれば、中国政府奨学金留学生だろう。
学費の他、住居費や生活費まで支給されて、もちろん返済は必要ない。
募集ルートは複数あり、倍率は比較的低い。
「そんなに美味しい(儲かる)投資はありません!」と詐欺への注意喚起では言っているけれど、そんなに美味しい条件だとしたら、知らない間にお礼奉公が約束させられているとかないのかしら?


メディア露出と女子力

週刊朝日編集部でアルバイトをしていたので、企画やセッティング、取材なども行っていたそうである。
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週刊朝日のインターネット配信番組ではアシスタントとしてレギュラー出演。
またテレビ東京の『くだまき八兵衛』にも出演していたことがあったそうだ。

『くだまき八兵衛X』は、2010年4月15日から2012年9月27日までテレビ東京系で放送されていた深夜トークバラエティ番組である。
当初は、中島知子、名倉潤、河本準一が居酒屋の中で素人客と5分間相席し悩みを聞くのがコンセプトだった。 しかし、客の悩みを聞くのではなく特定の特徴を持った出演者を集めて私生活や経験談などを話させる内容に変化。 恥部を暴露攻撃されて動揺する様を辱め喜ぶパターン等が主体。

演出・プロデューサーがあの俳優さんと同じ水谷豊というお名前なのですが、同姓同名の演出プロデューサーがいるようですね。

自殺する数日前のツイッター。
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命より大切な仕事・・

2016年11月9日、厚生労働省が主催する「過労死等防止対策推進シンポジウム」が開催され、高橋まつりさんのお母さん(幸美さん)も登壇して心境などを語った。

弁護士ドットコムニュース
高橋まつりさん母「社員の命を犠牲にして優良企業と言えるのか」過労死シンポ発言全文
より一部抜粋

幸美さんによると、まつりさんは2015年10月、「今週10時間しか寝ていない、会社辞めたい」「休職するか退職するか自分で決めるのでお母さんも口出ししないでね」と話していたという。また、11月には、電通事件と呼ばれる1991年の電通若手社員の過労自殺の記事に触れ、「こうなりそう」と語っていた。

自殺する直前の12月、「大好きで、大切な母さんさようならありがとう、人生も仕事も全ても辛いです。お母さん自分を責めないでね。最高のお母さんだから」とメールが送られてきたことを打ち明け、声をつまらせた。

幸美さんは、「自分の命よりも大切な愛する娘を突然亡くしてしまった悲しみと絶望は、失った者にしかわかりません。だから、同じことが繰り返されるのです」と語ったうえで、過労死や過労自殺の防止に向けた今後の対策について、「残業時間の削減を発令するだけでなく、根本からパワハラを許さない企業風土と業務の改善をしてもらいたい」と強調した。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

「年末には実家に帰るからね、お母さん、一緒にすごそうね」と言っていたのに、「大好きで、大切な母さん、さようなら、ありがとう、人生も仕事もすべて辛いです。お母さん自分を責めないでね。最高のお母さんだから」とメールを残して亡くなりました。

社員の命を犠牲にして業績を伸ばして、日本の発展をリードする優良企業と言えるでしょうか。有名な社訓には、「取り組んだら離すな、殺されても離すな、目的を達成するまでは」とあります。命より大切な仕事はありません。娘の死はパフォーマンスではありません。フィクションではありません。現実に起こったことなのです。

娘が描いていたたくさんの夢も、娘の弾けるような笑顔も、永久に奪われてしまいました。結婚して、子どもが生まれ、続くはずだった未来は失われてしまいました。私が今、どんなに訴えかけようとしても、大切な娘は二度と生きて戻ってくることはありません。手遅れなのです。

自分の命よりも大切な愛する娘を突然亡くしてしまった悲しみと絶望は、失った者にしかわかりません。だから、同じことが繰り返されるのです。今、この瞬間にも、同じことが起きているかもしれません。娘のように、苦しんでいる人がいるかもしれません。

「命より大切な仕事はありません」 このちょっと有名になった言葉はこのシンポジウムでお母さんによって語られたものであった。

「命より大切な仕事はありません」という言葉に対比させて「自分の命よりも大切な愛する娘を突然亡くしてしまった悲しみと絶望」という言葉を用いたのか、それとも偶然にどちらにも’命より大切’という言葉が入ったのか分からないけれど、その2つの想いをまとめると「愛する娘を生み育てるということは、自分の命より大切な仕事」ということになりはしませんか?
これも挙げ足を取っているのはではなく真剣な問いというか疑問です。


(本題はこれからなのですが、日付も回りましたので、今日はこのへんで終わりにしたいと思います)



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# by yumimi61 | 2019-09-06 21:53

コンファウンド

存在意義

人間は誰のために何のために生きるのだろうか。
普段はそれほど意識せずに暮らしているけれど、生きることは死に向かうことである。
「仏教ウェブ入門講座」の中にも書いてあったけれど、これは随分いろんなところでいろんな人が言っている。私自身も前に書いたことがあるような気がする。

マハトマ・ガンジー
明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。

スティーブ・ジョブズ
スタンフォード大学卒業式(2005年6月)のスピーチより抜粋
私は17歳のときに「毎日をそれが人生最後の一日だと思って生きれば、その通りになる」という言葉にどこかで出合ったのです。それは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。「違う」という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということです。

自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。

1年前、私はがんと診断されました。朝7時半に診断装置にかけられ、膵臓に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知らなかった。医者はほとんど治癒の見込みがないがんで、もっても半年だろうと告げたのです。医者からは自宅に戻り身辺整理をするように言われました。つまり、死に備えろという意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。別れを告げなさい、と言われたのです。

誰も死にたくない。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。

あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。

私が若いころ、全地球カタログ(The Whole Earth Catalog)というすばらしい本に巡り合いました。私の世代の聖書のような本でした


私達は大きな有機体というシステムに組み込まれた一部であって、だからこそ死がないと困るわけである。死が無ければ循環しないのだ。
死が無ければあらゆるものが使い果たされていくだけで、新しい生命は生まれなくなり、システム自体がどんどん古臭くなって終わりに向かう。
死があることで持続可能となっている。

有機体というシステムに意味なんかない。ただそこに存在しているだけ。
意味があるとすればそれはシステムを構築した創造主の意思であるということになり、その意思を信じるかどうかは人それぞれ。どちらにしても現代においてはこれは宗教の領域ということになろう。
創造主は何か意味を持って有機体システムを生みだしたのかどうか。
それとも有機体システムは偶然に生じた産物なのか。
はたまた私達は見ている世界は、「実体」がないに等しく、壮大な「意識」の世界に過ぎないのかとか。

ジョブズは、人間を含めて有機体というシステムに意味などない、あるとすればそれは創造主が組み込んだものだから、あなたはすでにそれを知っているはずだ。すなわちあなたの嘘偽りない心や直観こそがあなたの存在する意味であるし、システムにとっての意義であるということが言いたいのだと思う。
悲しいかな有機体システムの中に生きるものにとって最大の貢献は死であるということになる。
たとえ地球上の全ての生命体が絶滅したとしても、長い長い目で見ればいずれまた何かが始まるはずなのだ。だって今私達が暮らしている世界はそうやって起こってきたのだろうから。
個でなく有機体として見た場合には、死は終わりではなく始まりなのだ。

多くの人間は、有機体というシステムに、地球に、人間に、自分に、意味がないと認識することに関して耐え難い。
神に与えられたとか、神によって運命づけられているという考えを拒絶する人もいる。
だから必死で生まれた意味や生きる意味を探し、有意義な自分を目指す。


最大の謎

この世界の最大の謎は、なぜ人間は精神や感情などといったものを持っているのかということである。
人間を含めて有機体というシステムに意味などない。1人の人間は一時的にそこに存在しているだけ。その存在は死んで初めて意味を持つ。
死は当たり前なもので、死が最大の貢献となる、そんな世界にどうして精神や感情などといった半ば実体のないものが必要だったのか。

考えられる理由は1つ。新しい生命を誕生させるため。
精神や感情を介在させないと新しい生命は生まれない仕組みが人間には与えられた。
人間だって植物のように、他の動物が受精させたり、空気(風)で受精させたりする方法でも良かったはずなのに、そうではない。
動植物に人間のような精神や感情があるかどうかは分からないけれど、ないと仮定すれば、人間だって精神や感情を介在させない生殖法を選択しえたはずだ。それを選択すれば、有機体システムに精神や感情などといったものは全く必要なかった。
精神や感情を存在させなくても有機体システムは十分に機能したはずなのだ。

人間は新しい生命を誕生させるために愛のような精神や感情を持たされたとして、ではどうして当たり前であるはずの死に対しても心が動き感情が高ぶるのか。
人の死(時には動物や植物や物にまで)に悲しみを覚え、時には絶望や怒りの感情が起こることもあるだろう。
それは人間のポーズに過ぎないのだろうか。悲しみという実体のない意識が創り出した世界。
実体のない世界だから、実際に深く悲しんでいる人、何となく悲しい気持ちがしたけれどすぐに忘れる人、悲しんでいるふりをしている人などが混在している。
実体がないというのは、物が胸に当たったせいで胸が痛い、何かに強く頭をぶつけたから頭がおかしくなる、そういうことではないということである。

新しい生命を誕生させるため以外の精神や感情は、想定以上に人間の精神や感情が暴走した結果から生じたものだろうか。
本来与えられたものを超えて、様々なものに様々な感情を生じさせてしまった、いわゆる想定外の事態が起きているとか?

違う観点でみれば、地球は生命体の無い世界だとして誰が困るのかと考えた時、別に誰も困らないような気がする。
無でもよいのに生命体が有る世界が造られ、さらに精神や感情を持つ生命体がある。
その創造にはやはり創造主の何らかの意思(意図)があったのだろうか。
私達が実験をして何かを確かめたり発見したりするように、創造主も何かを試したり比べたりしようと思ったのか。


グローバルとは何か

『全地球カタログ』(Whole Earth Catalog)
アメリカ合衆国で発刊された、ヒッピー向けの雑誌。WECと略される。

1968年に、スチュアート・ブランドによって創刊された。ヒッピー・コミューンを支えるための情報や商品が掲載されていた。
創刊号の表紙を飾ったのは、1966年にブランドが起こした運動が功を奏してNASAから発表された、宇宙に浮かぶ地球の写真である。
『宝島』『遊』『POPEYE』など日本の主要なサブカルチャー雑誌にも大きな影響を与えたとされる。

1974年に、『Stay hungry. Stay foolish.(ずっと無謀で)』という言葉を裏表紙に飾って廃刊した。この言葉を、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式の式辞で、卒業生に贈る言葉として紹介した。


スチュワート・ブランドというメンロパークに住む男性の作品で、詩的なタッチで躍動感がありました。パソコンやデスクトップ出版が普及する前の1960年代の作品で、すべてタイプライターとハサミ、ポラロイドカメラで作られていた。言ってみれば、グーグルのペーパーバック版です。グーグルの登場より35年も前に書かれたのです。理想主義的で、すばらしい考えで満ちあふれていました。

スチュワートと彼の仲間は全地球カタログを何度か発行し、一通りやり尽くしたあとに最終版を出しました。70年代半ばで、私はちょうどあなた方と同じ年頃でした。背表紙には早朝の田舎道の写真が。あなたが冒険好きなら、ヒッチハイクをする時に目にするような風景です。その写真の下には「ハングリーなままであれ。愚かなままであれ」と書いてありました。筆者の別れの挨拶でした。ハングリーであれ。愚か者であれ。私自身、いつもそうありたいと思っています。そして今、卒業して新たな人生を踏み出すあなた方にもそうあってほしい。


2004年にがんを告知された翌年のスピーチである。
治癒の見込みがほとんどなく、もって半年だろうと告げられたとスピーチで語っているが、亡くなったのは2011年。
人間はいずれみな死ぬということをよく分かっていて、死を常に覚悟しながら、告知から7年生きたということだ。
このことをどう考えたらよいのだろうと、思う。



(先が長くなりそうなので、記事を変えて続けます)






# by yumimi61 | 2019-09-06 13:33

数字の当て方の間違い

前の記事の本文中の数字の当て方に一部誤りがありました。
ピラミッドを上から数えるか下から数えるかで数字が変わってしまうわけですが、それが一部逆になっていました。
大変失礼いたしました。
前記事はすでに訂正済みですが、こちらでも再度訂正しておきます。


前記事に載せた図と文
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①「自己実現の欲求」(自分の持つ能力や可能性を最大限発揮したいという欲求)

②「承認の欲求」(集団から価値ある存在と認められたいという欲求)

③「所属と愛の欲求」(自分が社会に必要とされていると感じたいという欲求)

④「安全の欲求」(安全・健康・暮らし・経済的安定の欲求)

⑤「生理的欲求」(食事・睡眠・排泄など生命を維持するための欲求)


上の図と文と数字を合わせたもの
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【前記事の本文の訂正箇所】

近年の社会的傾向として承認欲求が肥大化しているということが言われる。承認欲求は②(←④になっていました)の段階である。
では承認を強く求める人々は、③「所属と愛の欲求」を本当に満たしているのだろうかという疑問が生じる。
一生涯孤独で完全に引きこもっている状態を除けば、家庭、学校、会社、サークルなど誰にだって所属しうる場所はあるはずだ。独身だって親きょうだいがいたり恋人がいたりするだろう。
では③「所属と愛の欲求」(恋人や家族を持ちたい欲求)(自分が社会に必要にされていると感じたい欲求)とは何だろうか。
所属する場所があり、家族や恋人がいさえすれば、③「所属と愛の欲求」は満たされるものなんだろうか。

もっと言えば、④(←②になっていました)「安全の欲求」(安定した仕事に就きたい)(安全・健康・暮らし・経済的安定の欲求)だって十分に満たされている人がどれほどいるのかとも思う。
客観的な収入でも資産でもなく欲求だから、幾ら貰っても何を持っていても、何か心配がある以上、欲求が十分に満たされているとは言えないのではないだろうか。
昇給しない給与、非正規雇用の増加、物価や税金の上昇、年金の不安、老後の不安、異常気象や地震への不安、交通事故や巻き込まれへの不安、暴動や戦争への不安など挙げれば安全欲求への不満・不安だって限りなくありそうである。

結局のところ、進歩や発展や科学が寄与できたのは、⑤(←①になっていました)の生理的欲求に対してのみだけなのではないだろうか。
未だにそれさえも満たせない国があると盛んに喧伝されている状況だから、進歩や発展や科学は地球や人間という有機体にほとんど力が及ばないということになる。
それが現実なのだ。
人間が有機体に影響を与えるなんていうのは買いかぶりすぎで、人間が有機体に影響を与えるのではなく、人間は有機体に全くといって歯が立たないのではないか。
だからこそ人間は宗教というものを求めることになったのではないだろうか。
それとも⑤(←①になっていました)の欲求充足に寄与したことが有機体に悪影響を与えたと言わなければならないのだろうか。



言いたかったのは、進歩や発展や科学は、一番下位(⑤)の要求にしか寄与してこなかった、あるいは有機体にはほとんど無力なのではないかということでした。






# by yumimi61 | 2019-09-04 22:52

コンフロント

死んでも・・

知り合いの女性は息子さんを自殺で亡くした。
その女性は北海道から群馬県にお嫁に来たという。
夫妻が出会ったきっかけは酪農の研修だったそうだ。
亡くなった息子さんはピアノが好きでピアノばかり弾いていたという。
お父さんは息子がピアノにのめり込むことを快く思っておらず、「男なのにピアノばかり弾いているなんて」と反対し嘆いていた。
そして息子さんは自殺してしまった。
周囲は自殺にそこまで驚かなかった、とまで言ってしまうと語弊があるが、芸術家肌の男の子の自殺に周囲はいかにもありそうだというような反応を見せたらしい。
しかしピアノに反対していたお父さんもまた、息子を追うように自殺してしまったという。
自殺の真の原因なんて、そう簡単に他人に分かるわけがない。
そもそも私は、この話、又聞きしたものである。
私にとっては信頼できる人から聞いた話であるが、その人が誰から聞いた話なのかまでは分からず、どこまで正確な情報なのか私には判断もつかない。
この話を思い出すたびに、私の中にはベートヴェンのピアノソナタ第8番『悲愴』第二楽章が静かに流れる。
息子と夫を自殺によって亡くした女性は、故郷から遠く離れた地で、残された子供達と逞しく暮らしている。

私は中学生の時に、少年の主張大会の学校代表になったことがある。
その作文のテーマは「生と死」だった。
1,2年くらい前に母が、当時その作文が行政無線?有線放送電話?か何かで読まれた(私が読んだ?)・・という話をし出したのだが、私は全くそれを覚えていないのである。


アリとキリギリス アリストテレス

昨日の続きで 仏教ウェブ入門講座 なんのために生きるのか より

「なんのために生きるのか」の答えは、「幸せ」だという人は、よくあります。

2000年以上前のアリストテレスも『ニコマコス倫理学』で、 これに異論を唱える人は誰もいないと言っています。
それはその通りなのですが、問題は、何が幸せなのかは色々といわれていることです。

アリストテレス自身の主張は、幸せとは、ある程度お金などに恵まれた上で、自分の卓越性(強み)にそって活動し、これからもそのように生きてゆくことだと言っています。

「これからもそのように生きてゆく」というのは、 今は強みを活かして生きていても、 途中でできなくなってしまうと幸せも終わってしまうからです。

アリストテレスは、卓越性にそって活動していれば、ちょっとやそっとでこの幸せは壊されないだろうといいますが、やはり、大きな不幸が連続して起きれば、壊されてしまうといいます。
それは確かに、事故や病気などで卓越性が発揮できなくなることはありますし、 年をとって卓越性が衰えて行くこともあります。
そして最後は死ななければならないので、この幸せは続きません。

この「強みを活かしてみんなに喜ばれる活動をする生き方」は、2千年経った今でもいい生き方としてよく言われることですが、やはり「なんのために生きるのか」の最終的な答えにはならないのです。



前記事とこの記事で転載した文章は「仏教ウェブ入門講座」の中に書かれていたものであり、仏教では「なんのために生きるのか」をどのように考えるかの導入になっており、その先はメール講座と小冊子になるようなので、私はそれを確認していません。またお勧めしているわけでもありません。

乃木坂46とアンパンマンの歌詞を扱っている点が私的にタイムリーだったのと、アリストテレスの部分の記述が「自己実現」の話に通じるものがあったから取り上げた。

特にこの部分である。
アリストテレス自身の主張は、幸せとは、ある程度お金などに恵まれた上で、自分の卓越性(強み)にそって活動し、これからもそのように生きてゆくことだと言っています。

アリストテレス
古代ギリシアの哲学者である。
プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。

アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア(Philosophia)と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。
著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。
アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている。



「自己実現」とは

「なんのために生きるのか、誰のために生きるのか」の答えに”自己実現”を持ってくる場合が結構ある。
では自己実現とは何か?

自己実現(Self-actualization)
もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。

●クルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein)
ドイツのベルリン大学の教授であったが、ナチスによるユダヤ人迫害が始まったので、アメリカに渡り、タフツ大学の教授となった。
彼は細分化された機能から人間全体を理解することは困難であると考え、生命維持をはじめ思考や行動など人間が生きていくうえで必要な事の全ての司令塔となる脳に注目したのである。
脳に損傷を受けた患者の研究により、脳が損傷を受けても残っている現在の能力で環境に適応しようとする傾向を見出した。
そして人間は自分が持っている能力を環境に適応させていくことが出来ると結論付けた。
「自己実現(Self-actualization)」は彼が初めて使った言葉と言われることもあるが、実際には直接的に「自己実現(Self-actualization)」という言葉は使っていなかったとも言われる。

●カール・ロジャーズ(Carl Rogers)
クルト・ゴルトシュタインの教え子であるアメリカの臨床心理学者。
厳格なキリスト教徒(プロテスタント)の家庭に生まれ育つ。
ウィスコンシン大学に進学し、父の農園を継ぐために農学を専攻するが、YMCA活動を通じて、キリスト教に興味が移り、牧師を目指すために、史学に専攻を変える。
ウィスコンシン大学を卒業した2ヵ月後に、妻ヘレンと結婚する。ユニオン神学校に入学するが、牧師を目指す道に疑問を感じ、コロンビア大学教育学部で臨床心理学を学び、在学中ニューヨーク児童相談所の研修員になる。
卒業後、ロチェスター児童虐待防止協会で12年間臨床に携わる。その中で、従来のカウンセリング理論に疑問を感じ、自らの理論的枠組みを形成し始める。 オハイオ州立大学、シカゴ大学、ウィスコンシン大学で教授職を得て、教育と研究に従事し、非指示的カウンセリングを提唱する。 これがのちに来談者中心療法と称されるようになり、さらにパーソンセンタードアプローチへと発展する。
1982年、アメリカ心理学会によるアンケート調査「もっとも影響力のある10人の心理療法家」では第一位に選ばれた


来談者中心療法(Client-Centered Therapy)
カウンセリングの研究手法として現在では当然の物となっている面接内容の記録・逐語化や、心理相談の対象者を患者(patient)ではなくクライエント(来談者:client)と称したのも彼が最初である。

彼はフロイトによって提唱された精神分析には否定的だった。
ロジャーズのカウンセリング論の特徴は人間に対する楽観的な見方にあり、それはフロイトに見られるような原罪的な悲観論とは対照をなすものである。
彼によれば、人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっている。有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。
自分自身を受容したとき、人間には変化と成長が起こる。カウンセラーは、クライエントを無条件に受容し、尊重することによってクライエントが自分自身を受容し、尊重することを促すのである。


アンダーラインを付けた部分が「自己実現」の元になったカール・ロジャーズ思想である。

しかし「自己実現」を有名にさせたのは前2人ではなく、こちらの御方である。

●アブラハム・マズロー(Abraham Maslow)
彼は人間性心理学の最も重要な生みの親とされている。これは精神病理の理解を目的とする精神分析と、人間と動物を区別しない行動主義心理学の間の、いわゆる「第三の勢力」として、心の健康についての心理学を目指すもので、人間の自己実現を研究するものである。
彼は特に人間の欲求の階層(マズローの欲求のピラミッド)を主張した事でよく知られている。
マズローは人間についての学問に新しい方向付けを与えようとしたが、彼の著作はそれ以上に内容豊かなものになっている。著書、雑誌論文は100編以上におよび、アカデミックな心理学のみならず、教育や経営学のような隣接領域にまで彼の思索は及んでいる。


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欲求5階層説

「自己実現」という言葉が広がったのは、アブラハム・マズローの「欲求5階層説」の影響が非常に大きい。
人間の欲求は5段階に分かれると提唱し、これを「自己実現理論」とした。
セルフ階級社会とでも言ったらよいのか、とても分かりやすい5段階のピラミッド構造が世に受けたのである。
マズローは下位の欲求が満たされると上位の欲求を満たそうとするという理論を展開した。
そして下位の欲求ほど心身の健康を損なう恐れがあるとした。

①「自己実現の欲求」(自分の持つ能力や可能性を最大限発揮したいという欲求)

②「承認の欲求」(集団から価値ある存在と認められたいという欲求)

③「所属と愛の欲求」(自分が社会に必要とされていると感じたいという欲求)

④「安全の欲求」(安全・健康・暮らし・経済的安定の欲求)

⑤「生理的欲求」(食事・睡眠・排泄など生命を維持するための欲求)


自己実現と成功

自己実現理論が特に受けたのはビジネスシーン。
マズローの思索が教育や経営学のような隣接領域にまで及んだことも影響している。
従って今では自己実現と自己啓発がごちゃごちゃになっている感じがする。

自己啓発
自己を人間としてより高い段階へ上昇させようとする行為である。「より高い能力」、「より大きい成功」、「より充実した生き方」、「より優れた人格」などの獲得を目指す。

結果、自己啓発も自己実現も目指すところは、社会的価値のある成功者になってしまった観がある。だから自己実現にはお金とか名声とか、名誉とか、そういうものが深く関わってくる。
お金持ちや有名人など成功を収めたと思われている人間が、いつの間にやら優れた人格者として扱われていくのは、彼らが自己実現した最上の人間だと見做されるからなんだろう。

でも「自己実現」の大元は、脳に損傷を受けた患者の研究である。
研究が発展してきたと言えばそうかもしれないが、研究が曲解されてきたと言えばその通りとも言える。

以前にも書いたと思うけれど、世界中の人が全員社会的価値のある成功者になったら、もはやそれは社会的価値のある成功者とは言わないであろう。
大勢の中の少数者だから成功者と言っているわけであり、横並びだったら成功も何もない。
だから目指すものが社会的価値のある成功者である場合、ほとんどの人は自己実現しない。自己実現しないことが不幸で不健康と言うならば、ほとんどの人は不幸で不健康である。


自己実現理論の否定

「自己実現」は脳に損傷を受けた患者の研究が大元であると書いたが、それを発展させたカール・ロジャーズのカウンセリング論は楽観的である。
よく性善説と性悪説が議論されることがあるが、それに当てはめればカール・ロジャーズは性善説に合致する。

でも性善説と性悪説に決着が付かないように、楽観的なカウンセリング論や欲求5階層説は否定もされてきた。
脳に損傷を受けた患者の臨床研究を除けば、科学的根拠が乏しいからである。
否定派は、「人間は本能的に楽をしたがる生き物である」「自発的に積極的に行動するのは条件次第であり、無条件に上位欲求に向かうということはありえない」などと主張する。


承認欲求の肥大した社会

近年の社会的傾向として承認欲求が肥大化しているということが言われる。承認欲求は②の段階である。
では承認を強く求める人々は、③「所属と愛の欲求」を本当に満たしているのだろうかという疑問が生じる。
一生涯孤独で完全に引きこもっている状態を除けば、家庭、学校、会社、サークルなど誰にだって所属しうる場所はあるはずだ。独身だって親きょうだいがいたり恋人がいたりするだろう。
では③「所属と愛の欲求」(恋人や家族を持ちたい欲求)(自分が社会に必要にされていると感じたい欲求)とは何だろうか。
所属する場所があり、家族や恋人がいさえすれば、③「所属と愛の欲求」は満たされるものなんだろうか。

もっと言えば、④「安全の欲求」(安定した仕事に就きたい)(安全・健康・暮らし・経済的安定の欲求)だって十分に満たされている人がどれほどいるのかとも思う。
客観的な収入でも資産でもなく欲求だから、幾ら貰っても何を持っていても、何か心配がある以上、欲求が十分に満たされているとは言えないのではないだろうか。
昇給しない給与、非正規雇用の増加、物価や税金の上昇、年金の不安、老後の不安、異常気象や地震への不安、交通事故や巻き込まれへの不安、暴動や戦争への不安など挙げれば安全欲求への不満・不安だって限りなくありそうである。

結局のところ、進歩や発展や科学が寄与できたのは、⑤の生理的欲求に対してのみだけなのではないだろうか。
未だにそれさえも満たせない国があると盛んに喧伝されている状況だから、進歩や発展や科学は地球や人間という有機体にほとんど力が及ばないということになる。
それが現実なのだ。
人間が有機体に影響を与えるなんていうのは買いかぶりすぎで、人間が有機体に影響を与えるのではなく、人間は有機体に全くといって歯が立たないのではないか。
だからこそ人間は宗教というものを求めることになったのではないだろうか。
それとも⑤の欲求充足に寄与したことが有機体に悪影響を与えたと言わなければならないのだろうか。



( この話はまだ続きますが、今日のところはこれで終了です173.png )




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# by yumimi61 | 2019-09-03 12:50

コンディション

おはよう175.png

少し前に『コンフリクト』という記事を上げた。

『涙はロンド』のあとがきを転載した。
見出しに「誰のために生きるのか、何のために生きるのか」と書いたものの、はて人間は誰のために何のために生きるのだろうかと考えているうちに夜が更けて、なんだか尻切れとんぼになってしまった。

そんなわけで揚げ足を取るつもりは全くなく、私自身はいたって真剣なのだ。
あの時なぜ「死んでも彼らと離れたくない」と言い張らなかったのか、なぜ「絶対、絶対、絶対嫌です」と、もっと頑張らなかったのか、「意気地なし!」と私を責めつける、もうひとりの私の叱咤に沈み込む毎日でした。 

「死んでも離れたくない」
恋人とか夫婦などが自分の意に反して別れなければならなくなった状況だったら、この言葉はしっくりくる。だって本当に心中する人がいるくらいだから。心中は「死んでも離れたくない」を体現したことになる。
でもそれ以外の関係に対して用いることが、私はしっくりこないのだけれど、そうでもないでしょうか。
脚色しすぎただけなのかなぁ。

 私はこの一年、生徒と離れてみて、やっとわかりました。生徒を失ってみて、初めて気がつきました。やはり、私は生徒と離れていては、とても生きて行けそうもないんだと。
 しかし今ごろ気がつくなんて愚かなことです。生徒達を諦める積もりでこの本を書き始めたのに、本当にどうしたことでしょう。


とても生きて行けそうもないことに気が付いた大木先生は、それからしばらくして自殺したとか病死してしまったわけではない。
ではとても生きて行けそうもないということはどういうことだったんだろう。
これも脚色が過ぎたのか、それとも生きて行けそうもないように思った時期もあったけれど、じきに生きて行く意味を見つけたのか。


教師であるということ172.png

「死んでも彼らと離れたくない」と書いてあったけれど、例えば’彼ら’ではなく、「死んでもこの仕事と離れたくない」と言い換えたらどうだろうかと考えてみた。

「そんなに根を詰めて仕事をしたら健康を害して死んでしまうよ」
「部活動だなんだと言って、そんなにも残業していたら死んでしまうよ」
「コンクールなんて別にいいじゃないか、たかが部活動だろう、あなたが死んだら元も子もない」
誰かにそんなふうに言われた時、「私はたとえ死んでもこの仕事(彼ら・生徒)と離れたくない」と主張することはあり得る。
たとえ死ぬようなことがあっても好きなことをしているのだから本望である、という意味合いになる。

私は更に考えた。
「死んでも彼ら(この仕事・生徒)と離れたくない」の’彼ら’は誰でもよいのだろうかと。
実は『涙はロンド』の中表紙には、”群馬県立〇〇〇〇高校吹奏楽部とともに”と記されている。(実際には〇ではなくて学校名が記入されています)
例えば、弱小吹奏楽部で全国大会の金賞なんて在任中にはまず叶いそうもない学校の吹奏楽部員だとか、吹奏楽部も声楽部もない学校の生徒でも、先生は「死んでも彼らと離れたくない」と思ったのだろうか。
そうではなくて、5年連続金賞を目指していたのに途中で異動することになったから「死んでも彼ら(この仕事・生徒)と離れたくない」と思ったのか。

それとも、学校という現場の教師を継続することを強く希望していて、教育委員会に行って指導主事なんかしたくないと思っていたということなのか。
将来的にも管理職、教頭や校長になるつもりはなく、ずっと教諭でいることを希望していたということなんだろうか。

そもそも教諭の仕事が死ぬかもしれないほどハードで、指導主事がハードではないなんてことがあるのだろうか。
やっぱり「死んでも」は単なる比喩で、若干脚色が過ぎたということなのかなぁ。


君と話し疲れて~いつか黙り込んだ~ストーブ代わりの電熱器~赤く燃えていた~~169.png

仏教ウェブ入門講座 なんのために生きるのか より

「なんのために生きるのか」は、アンパンマンや乃木坂46が歌っていますが、単純なようでいて、意外に深く、答えを出すのは一筋縄ではいきません。

乃木坂46の『命は美しい』では、
何のために生きるのか?
何度問いかけてはみても
空のはてまで暗闇が黙り込む

と何度も問いかけますが、答えはわかりません。

そしてやがて、
何のために生きるのか?
答え見つからなくたって
目の前にある真実は一つだけ

と続きます。

この『命は美しい』という曲の結論は、サビの部分で繰り返されるこの部分です。
命は美しい 初めて気づいた日から
すべてのその悲しみ消えて行くんだ
永遠ではないもの 花の儚さに似て
その一瞬一瞬が生きてる意味


つまり、儚い命が生きている一瞬一瞬が生きる意味だ、ということですから、 乃木坂46の答えは「生きるために生きる」ということです。

これは、確かに多くの人が主張する答えの一つです。
「命は美しい、人は生きるために生きているんだ」といえば、おそらくそのときは「はあ、そうですか」と言うでしょう。
しかし、しばらくすれば、すぐまた同じ疑問が起きてきます。
一時的には元気づけられるのですが、答えにはなっていないのです。

どんな人にとっても、生きることに共通するのは「最後死で終わる」ということです。
一日生きれば一日死に近づきます。
これは誰にも否定できない事実です。
つまり、生きるということは、死へ向かっての行進であり、イコール死んで行くということなのです。

「生きる」=「死んで行く」
そうすると、「生きるために生きる」というのは、言葉は美しいのですが、実質 「死んで行くために生きる」ということになります。

死ぬために生きるというのは意味が分かりませんから答えにならないのです。

では「生きるために生きる」以外には答えはないのでしょうか?
もう一つの「なんのために生きるのか」をテーマとしている
有名な歌で、『アンパンマンのマーチ』を通して考えてみましょう。

何の為に生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!
と歌われています。

ではその答えはどこにあるのかとなると、サビの部分で
ああ アンパンマン 優しい君は 行け!皆の夢守る為
と3回繰り返されますので、この歌の結論としては、夢を果たすことによって、幸せになろうということになります。

その夢は、自分で見つけなければならないので、 2番の最初には、
何が君の幸せ 何をして喜ぶ  わからないまま終わる そんなのは嫌だ!
自分の夢は何なのか、何が自分の幸せなのか、 自分で見つけましょうということです。
では、何が幸せなのでしょうか?

♪森田童子『ぼくたちの失敗』 作詞作曲:森田童子
♪乃木坂46『命は美しい』 作詞:秋元康、作曲:Hiroki Sagawa
♪ドリーミング『アンパンマンのマーチ』 作詞:やなせたかし、作曲:三木たかし


(このテーマ、まだ続きますが、また明日)



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# by yumimi61 | 2019-09-02 18:07

さかさま

君は胸いっぱいに息を吸い込んで

命を与えるみたいに思い切り

そして出来るだけ長く吐き出した

バチンと目の前で弾け

終わるのは一瞬だから

僕はそれが怖くて目を閉じ耳を塞いでいた


*゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。. 


さかさまなまさかさ
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さかさまさかさ』という絵本があります。原題は”Topsys & Turvys"。

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今から120年前にアメリカの絵本作家・イラストレーターのピーター・ニューエルが描いた絵本です。
日本でも翻訳されて2015年に発売されています。
同じ作者の『穴の本』もなかなか奥深いです。hole、whole、zero。


「逆さバイバイ」と自閉症

「逆さバイバイ」という言葉がある。
バイバイと手を振る時には、一般的には手のひらを相手側に向ける。
「逆さバイバイ」は、手のひらを自分側にして手を振ることである。
自閉症の子は「逆さバイバイ」をすることが多い。
それは社会性の獲得が遅いことと関係している。

社会性とは、その社会の文化、価値や規範を身に付けることで、後天的に獲得される。
社会性の獲得には、模倣、同一視、観察学習、愛着などが関わっているとされる。
社会性獲得の最初の一歩は、自分ではない他人を認識することから始まる。
子供が認識する最初の他人は多くの場合、母親である。そして母親以外の家族、家族以外の人間(子供も大人も)と、他人の範囲を拡大してゆき、その人間関係の中から社会性を身に着けていく。

だけどこう書くと誤解を与えることにもなる。
「後天的なものを獲得させられないのだから私の育て方が悪いんだわ」と母親が自分自身を責めたり、「母親が悪い」と周囲や社会が決めつけたりという誤解。
あくまでも社会性の獲得が後天的なものであると述べているだけで、自閉症が後天的な原因で発症すると言っているわけではない。
自閉症の原因は今のところ不明である。多くの遺伝的な要因が複雑に絡んで起こる生まれつきの脳の機能障害が原因と考えられている。
要するに自閉症は先天的である可能性が極めて高い。決して育児が原因ではない。
但し、妊娠時の胎内環境や周産期のトラブルなどは発症に関係している可能性はあると言われている。
もちろん想定外のやむを得ないトラブルもある。どんなに気を付けても現代医学をもってしても避けられないトラブルもある。
しかし、低栄養(母親の痩せ)・飲酒・喫煙・薬・極度の冷え・母親の肥満、ウイルス感染(人ごみへの外出)など、妊婦や周囲が気を付ければ避けることのできる環境もあるので、それは最善を尽くしたほうが良いかもしれない。

自閉症の子供は、先天的要因で発症する自閉症を持っているので、後天的に獲得する社会性を獲得しにくい。
他人とか社会に対する興味や関心が全般的に薄く、他人の立場になって物事を見たり考えたりする想像力が欠如しやすい。
それは社会性の獲得に必要な、模倣、同一視、観察学習、愛着などにあまり反応を示さないということなので、感情表現が乏しく言語の獲得も遅れがちとなる。一言で言えば外界に興味がない状態である。


模倣とは何か

子供は多くの事を模倣から学ぶ。
バイバイもその1つであるが、バイバイは模倣とは何かということをちょっと考えさえられる一件なのだ。

誰かが子供に向かってバイバイをする。この時、子供に見えているのは相手の手のひらである。
もし子供が「手のひらが見えるのがバイバイ」だと認識すれば、自分でバイバイする時も逆さバイバイになる。
でも子供は不思議なもので誰に教えられずとも、見よう見まねで相手に手のひらを向けるバイバイをするようになる。一般的には1歳以下でもそれが出来ることが多い。

こんな経験はないだろうか。
対面して2人の人間がいる場合、その2人の人間の右と左は逆になる。
だから手遊びだとかダンスなどを教わる時、講師の先生が分かりやすいように、あえて反対側の人に合わせることがある。
つまり講師の先生は、「右手を上げて」と言いつつも、自分は左手を上げて見せている。
だけど、右左が反対になるはずと分かっている大人などは、その講師の右左と自分の右左が一致することに、余計に混乱するというようなことが起こる。
こんがらがっちゃうのですね。
右左反対や右左同じの混乱を防ぐには、講師が同じ向きで前に立つ前面背面式や鏡の前でのダンス練習などがよいわけですね。


社会性の混乱

要するに、普通にバイバイができる子供は、「手のひらが見えるのがバイバイ」という認識を持つのではなくて、「他人に手のひらを見せるのがバイバイ」だと認識していることになる。
つまりつまり、まず’自分’と’他人’(の違い)を認識しないと、「他人に手のひらを見せるのがバイバイ」という認識にも至らないし、普通のバイバイも出来ない。

自閉症の場合、自分と他人(の違い)の認識が弱いので、自分が何か欲しい物があったり、したいことがあったりする時に、近くにいる人間(例えば母親)の手をつかんで取らせたり行わせたりすることがある。
このようなことはクレーン現象という。
例えばお菓子がテーブルの上に置いてある。食べたければ自分で取って食べればよい状況にある。でも母親などにそれをやらせる。それも言葉で「取って」などと言うのではなく、誰かの手を掴んでその手をお菓子のところに持っていくなどしてやらせようとする。そこまでするなら、自分で取ったほうが早いと思うけれど、そうはしない。
自閉症の子が誰かが何かをしているのをかつて見たとする。それを模倣する時にはそのままの形でやろうとする。誰かがしていたことを、自分に置き換えるということが苦手なので、誰かがしていたことは同じように誰かがすべきだと思ってしまうのだろう。
自分と他人(の違い)の認識が弱いため、他人に気をつかうこともあまりない。

しかしながら社会性はどちらにしたって後天的に獲得していくものなので、学習すなわち教え込むということがある程度までは可能であると考えられる。
「バイバイはこうやってします」
「あそこにお母さんがいるから、今バイバイしましょう」
そんな感じで繰り返し教えれば出来るようになることもあると思う。
でもそれはバイバイの仕方を学んだということであって、自分と他人(の違い)を認識したというわけではないのかもしれない。
バイバイの仕方を学んで、逆さバイバイでも普通のバイバイでもどちらでもよいけれども出来るようになった。それもある意味においては1つの社会性を獲得したと言えるけれど、それは教え込んだ表層の社会性であって、自分と他人(の違い)を認識したことから始まる個の情緒からなる社会性とは少し違うような気もする。

自閉症の例をとったが、社会性は全ての人間に関係することであり、表層の社会性と個人の情緒からなる社会性との違いは、社会の混乱の元というか隠れた問題なのかもしれないなぁと思ったりする。




*゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。. 


あなたからバイバイという言葉を聞くだけで

胸がドキドキする

明日の朝起きられるって信じて疑わないからこそ

眠れるっていうけど

こんな私にも眠れない日だってあるから

逆さバイバイこんにちは

逆さバイバイおはよう

もしも逆さバイバイが永遠を約束してくれるなら

あなたにそっと…逆さバイバイおやすみ







# by yumimi61 | 2019-09-01 11:48

コンサーン

実るほど頭を垂れる稲穂かな

週刊文春 2002.09.19号
 創価学会にアタマの上がらない新聞社はここだ!
 「聖教新聞」「公明新聞」印刷会社全リスト入手

 ── 創価学会の機関紙、「聖教新聞」の発行部数は約550万部。しかし、不思議なことに自前の印刷所は持っていない。他社の印刷所に委託しているのだ。聖教新聞の印刷を請け負うことで多額のカネを稼ぐ新聞社に、はたして創価学会を批判することはできるのか?── 

「最近、創価学会や池田大作名誉会長に対する新聞の迎合が目に余る。創価学会は与党・公明党と実質的に”政教一致”していて、憲法違反(憲法20条宗教団体による政治上の権力行使の禁止)の疑いも指摘されている。それなのに、社会のお目付役であるべき新聞が、ジャーナリズムの批判的な精神を放棄していいのか」
 NHKで政治部記者として活躍した川崎泰資・椙山女学園大学教授は、新聞の論調を憂えている。

 読者の皆さんもお気づきかもしれないが、最近、池田大作氏(74)が「創価学会名誉会長」の肩書で登場する署名・インタビュー記事が多い。

 毎日新聞は、今年8月19日、社説と同じぺージで、「憲法に『環境権』の規定を」と題したオピニオン記事を写真入りで掲載。また、米国同時多発テロの直後の昨年9月25日には、テロを導入口として、世相・教育、政治、憲法までにわたる2ページの、インタビューも載せた。

 読売新聞は、昨年7月4日、「首相の靖国参拝は問題」と題する池田氏のインタビュー記事を掲載。

 産経新聞は、昨年9月17日から4日連続で、「宗教と国際社会」、「小泉政権と国内政治」などの記事を連載している。

 ちなみに全国紙で、池田大作氏の署名記事やインタビュー記事の先鞭をつけたのは、朝日新聞である。昨年5月23日、「私の視点」というコーナーで、「教育基本法見直すより生かせ」という提案を掲載したのが最初だった。

 前出の川崎教授は、不思議がる。
「池田氏が教育問題や環境問題の専門家だったなどと聞いたことはありません。それに、朝日が掲載した教育問題に対する提言は、それまでに創価学会の機関紙・聖教新聞や複数の地方紙に掲載された内容の焼き直しでした。全国紙は、創価学会以外の宗教団体のトップの意見を載せることはほとんどないのに、なぜ創価学会や池田氏だけを特別扱いするのでしょうか」

 新聞各社の創価学会に対する不可解な対応を説明するようなリストと手紙を、小誌は関東の印刷所関係者から入手した。その人物は、「このリストは、聖教新聞が、同紙を印刷している全国の委託印刷会社に送っている印刷指定です」と説明する。
 北は札幌・旭川から、南は奄美大島・沖縄まで、信濃毎日新聞社、新潟日報社、静岡新聞社、京都新聞社、四国新聞社、長崎新聞社、熊本日日新聞社など有力地方紙を含む34四社の「委託印刷会社」が記されていた。

新聞社は学会から”金縛り”

 創価学会に詳しいジャーナリストの乙骨正生氏は、このリストを見て言った。
「これは、聖教新聞の印刷所リストに間違いないでしょう。昨年9月に公開された公明党の政治資金収支報告書の平成12年版に、党機関紙・公明新聞の印刷所リストが記載されていますが、それがすべてこのリストにありました。それに、これまでに聖教新聞を印刷していると確認された新聞社も入っています」

 公明党の政治資金収支報告書(平成12年)には、公明新聞の印刷所として、毎日新聞社北海道支社、福島民報社、静岡新聞社、中国新聞社、四国新聞社、鹿児鳥新報など16社の新聞社名が記載されていたのだ。

 その公明新聞印刷所の中で、公明党から平成12年の印刷費がもっとも多く支払われていたのは東日印刷(東京都江東区)で、約2億9400万円。同社は毎日新聞系の中核印刷会社で、大株主は毎日新聞社(発行株式の約88%)と、同社系列のスポーツニッポン新聞東京本社(同約10%)である。

 リストにあった印刷会社の企業情報を調べると、毎日北海道、毎日旭川、東日オフセット、福島民報社、東日印刷、毎日新聞北関東コア、エスティ・トーニチは、毎日新聞グループであることがわかった。創価学会系新聞を、もっとも多く印刷しているのが、この毎日新聞グループ。

 そして創価学会側も、この毎日新聞の中核印刷所を重視していることが、聖教新聞平成12年1月25日付一面の記事からよくわかる。
<本社名誉社主の池田名誉会長、最高参与の秋谷会長は(中略)、「東日印刷」の國保仁社長、奈良敏夫顧問一行を信濃町の聖教新聞本社に歓迎。(中略)東日印刷で本紙の委託印刷が開始されてから今年で45年となることから(中略)。名誉会長は、次の和歌を贈り、今後とも手を携えて発展していくことを念願した。
  ~東日と 家族の如き 聖教は 共に栄えむ 歴史を築きて~>

 この日、池田氏は國保社長(当時)と奈良顧問(同)に、「SGI(創価学会インターナショナル)勲章」を贈呈している。
 この國保氏は、元毎日新聞取締役である。

 公明新聞の印刷費が二番目に多いのは、日刊オフセット(大阪府豊中市)で、1億3700万円。同社の大株主は、朝日新聞社(発行株式の約45%)と大阪日刊スポーツ新聞社(同24%)。つまり朝日新聞グループである。
 その日刊オフセット側は、「両紙ともお得意さんです」(総務部担当者)と認めた。

 さらに、聖教新聞を印刷している東京メディア制作(東京都府中市)と南大阪オール印刷(大阪府高石市)の大株主は、それぞれ読売新聞社と大阪読売新聞社だった。ともに読売新聞グループである。

 なぜ、新聞社または系列の印刷所が、創価学会系メディアの印刷をすることが問題なのか。最大の問題は、印刷代の額である。
 公明党の政治資金収支報告書(平成12年)で、公明新聞の印刷費の総額は、年間約10億6000万円。
 公明新聞(全8面)の発行部数は250万部なので、その印刷費をもとに、発行部数550万部の聖教新聞(全12面)の印刷代を推定すると、年間で約34億9800万円になる。
 両紙を合計すれば、年間でなんと約45億5800万円が、創価学会側から新聞社や系列の印刷所に流れているのだ。

 前出の乙骨氏はいう。
「昭和40年代には、創価学会が自前の印刷所を作る計画もありましたが、計画段階で中止されました。それよりも、新聞社や系列の印刷所に印刷させる方が、創価学会に批判的な記事を封じるのに有効なんです。
 それに創価学会は、全国紙からスポーツ紙まで毎月のように聖教新聞社の書籍広告を一面カラーで掲載させています。全国紙で1回の広告料は、1000万円から2000万円。印刷と広告で、新聞社は創価学会から”金縛り(かねしばり)”なんです」

 その”金縛り疑惑”について、毎日新聞は、「(印刷と創価学会の記事は)関係ありません」(社長室)と回答。
 池田氏の受賞や名誉博士号の授与を逐一報じてきた静岡新聞も、聖教新聞と公明新聞を印刷しているのを認めたうえで、「読者が必要と思う記事を掲載しています」(編集局)と答えるばかり。
 しかし、創価学会系新聞を印刷している新聞社の中には、池田会長に強姦されたと訴えた「信平事件」の提訴を記事にしなかったにもかかわらず、原告の上告棄却(敗訴)だけを報じたり、創価学会の会館内で起きた幹部どうしの不倫刃傷事件を報じないケースもあった。こういう報道姿勢を、どう理解したらいいのだろうか。
 ある地方紙の幹部は、小誌に匿名でこう答えた。
「うちで聖教新聞の印刷を始めてから、創価学会や池田さんに対する批判的な記事は、掲載できなくなりました」
 創価学会から新聞メディアに流れる金を問題にするのは、創価学会に問題があるからだ。

 カルトに詳しい東北学院大学名誉教授の浅見定雄氏はこう指摘する。
「創価学会を脱会した人たちによって、この宗教の実態がわかりました。複数のメンバーで取り囲んで入会の意思決定をさせる。『脱会すると不幸になったり、罰が下る』などと恐怖感を与える。脱会を望むメンバーに対して、無視、非難、降格、破門などの精神的罰を受けさせる。脱会したメンバーを尾行したり、脅迫や嫌がらせをする。私は、これらの理由で、創価学会は、かなりカルト度が高いと判断しています」
 これらの行為は明らかに人権侵害である。が、創価学会は『信教の自由』という”隠れ蓑”を着て、なぜか不問に付されているのである。



金は天下の回りもの!?


引用した週刊文春の記事が古いものなので、私も新しい公明党の政治資金収支報告書を調べてみた。
2018年(平成30年)11月30日公表の2017年(平成29年)分の政治資金収支報告書である。
週刊文春は平成12年の政治資金収支報告書と書いているので、17年後のものということになる。
私も一人で行っていることであるし、そこまでの時間はないので、2017年1月分だけ注目した。しかし主に公明新聞(毎日発行される新聞)の印刷代なので、取引が継続される限り、月ごとの変化はそれほど大きくはないと考えられる。
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■公明党が2017年1月に公明新聞の印刷費を支払った会社■

【地方新聞社】
岩手日日新聞社
秋田魁新報社(秋田県にある新聞社)
福島民報社(福島の地方新聞社であるが、毎日新聞と協力関係にある)
新潟日報社
市民タイムス(長野県松本市にある新聞社)
静岡新聞社
山陰中央新報社
四国新聞社 ・・・金額5位(1月で750万円くらい)
高知新聞社
愛媛新聞社
長崎新聞社
奄美新聞社

【地方新聞社のグループ印刷会社】
道新総合印刷(北海道新聞社のグループ印刷会社)
かなしんオフセット(神奈川新聞社の子会社の印刷会社)
ショセキ(石川県金沢市にある北國新聞社の子会社の印刷会社)
中日高速オフセット印刷(愛知県名古屋市にある中日新聞社グループの印刷会社)
神戸新聞総合印刷 (神戸新聞者の子会社の印刷会社)
中国印刷(広島県にある中国新聞社のグループ印刷会社)
中国新聞福山制作センター(中国新聞社の印刷会社)
西日本新聞印刷(福岡県にある西日本新聞社のグループ印刷会社)・・・金額2位(1月で1000万円くらい)
南日本新聞オフセット輪転(鹿児島県にある南日本新聞社のグループ会社)

【毎日新聞グループ会社】
毎日新聞北海道センター
エスティ・トーニチ (毎日新聞社の子会社の東日印刷の子会社) ※縮刷版
高速オフセット (毎日新聞社の子会社、大阪市の毎日新聞ビルに入居している)・・・金額4位(1月で800万円くらい)
東日印刷(東京都江東区にある毎日新聞社の子会社の印刷会社)・・・金額1位(1月で3100万円くらい)
東日オフセット(青森県にある毎日新聞社のグループ印刷会社)

【読売新聞グループ会社】
読売プリントメディア(読売新聞社の子会社の印刷会社)・・・金額3位(1月で900万円くらい)

【印刷会社】
池宮商会(沖縄の印刷会社)
凸版印刷 情報コミュニケーション事業本部(凸版印刷は大日本印刷とともに国内印刷業界2強、世界最大規模の総合印刷会社) ※公明グラフ
精興社(東京都青梅市にある印刷会社)  ※月刊公明


壺中の天地

上記の印刷代はあくまでも政党である公明党が発行する「公明新聞」の印刷代の1ヶ月分の支出である。
しかし創価学会は「聖教新聞」も発行しており、信者にとってもこちらのほうがずっと馴染みが深く、発行部数も多い。
そして週刊文春が伝えているように、創価学会では印刷所を所有しておらず、全国の主要新聞社に印刷を委託しているわけだが、その多くは公明新聞と聖教新聞のどちらも印刷している。
つまり上記の金額よりずっと多い金額が創価学会から支払われているということになる。

●公明新聞
公明党機関紙局が発行する、日刊・週刊機関紙。公称発行部数は80万部。

●聖教新聞
聖教新聞社が発行する日本の在家仏教系新宗教団体・宗教法人創価学会の日刊機関紙。創刊は1951年であるが、日刊になったのは1965年。
聖教新聞社は、宗教法人創価学会の機関紙発行・出版部門であるため、法人格がない。
発行部数(公称)は創刊時が5000部で、近年は550万部。



去る者は日々に疎し?恋は思案の外?

平成12年の収支決算報告書で2番目に印刷代が支払われていたという朝日新聞グループの日刊オフセットという会社は平成29年1月分には見当たらない。
しかし毎日新聞グループとの蜜月ぶりは20年近く経っても相変わらずである。
読売新聞グループの会社も金額3位である。

では毎日新聞って?毎日新聞社って?
毎日新聞はとある高校の国旗掲揚(揚げっ放し)を非難したらしい新聞ですが、それはともかく。(今年5月に書いた国旗の話、『』『毎日』)
毎日新聞は皇軍万歳の新聞(『皇軍』)。
毎日新聞社は春の高校野球(センバツ)の主催者。夏大会の主催者の朝日新聞社は春大会も後援している。夏と同じく甲子園で開催されるが、夏の大会とは出場校の決め方が違う。夏は都道府県大会の優勝校が出場しているが、春はセンバツというだけあって選考方式。電話がかかってくる場面とか春先にニュースでやってますよね。やってませんでしたっけ? ちなみにセンバツ大会も東京都と北海道は必ず1校以上の出場が保障されているそうです。(東京都と北海道は吹奏楽の支部が単一なところ)

■毎日新聞
日本国内で一番歴史のある新聞。戦前から朝日新聞と共に2強に数えられていたが、拡販競争と西山事件による経営危機で後れを取り、1960年代後半から1970年代前半に掛けての読売新聞の発行部数増加などで販売不振が続いた。

西山事件とは?
1971年の沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件。
西山が情報目当てに既婚の外務省事務官に近づき、酒を飲ませ泥酔させた上で性交渉を結んだとして、情報源の事務官を国家公務員法(機密漏洩の罪)、西山を国家公務員法(教唆の罪)で逮捕した。これにより、報道の自由を盾に、取材活動の正当性を主張していた毎日新聞は、かえって世論から一斉に倫理的非難を浴びることになった。

(裁判要旨より)
当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである。


■毎日新聞社
1943年- 「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」が統一されて「毎日新聞」となる。

1977年11月4日- 株式会社毎日新聞社(旧大阪毎日新聞社。本店・大阪市。資本金1億5千万円)は、経営悪化のため新旧分離による再建を実施。
下野新聞、スポーツニッポン新聞東京本社や従業員持株会、主要販売店、東京放送(現・TBSグループHD)、毎日放送、三和銀行や三菱銀行(メインバンク。いずれも現在の三菱東京UFJ銀行)などの40億円出資による毎日新聞株式会社を東京に設立。

1985年10月 - 株式会社毎日の債務返済が一段落し、同社を存続会社として合併(商法上の本社は東京本社とした)。再建に一応の目途を付ける。日本の主要新聞で資本金が最多であり、発行部数では業界3位の約340万部で読売新聞社(約1000万部)・朝日新聞社(約800万部)に大きく水を開けられても十分な経営が成り立っているのはこのためである(業界4位は中日新聞社)


経営悪化したのに資本が最多というのもなかなか凄い話ですね。
上記発行部数は朝刊と夕刊を合わせた数。聖教新聞は朝刊のみで550万部。

安倍首相のお父上(安倍晋太郎)が1949~1956年の間、毎日新聞社の従業員だった。
統一教会との関わりが取り沙汰されたこともある。

義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。
「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた。
事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。

2006年には、息子の晋三(当時は官房長官)が「統一教会」の関連団体天宙平和連合のイベントに祝電を寄せたことが報道され、岸信介、安倍晋太郎の代からの深い関係があるのではと見られ波紋を呼んだ。この件に関し晋三は、「秘書が行った行為で、誤解を招く行為であった」という旨のコメントをした。

晋太郎は当時反共独裁体制だった韓国政界と太いパイプを持っていたので、親韓派と言われることが多い。晋太郎の福岡事務所が入っていたビルはパチンコ事業で成功を収めた在日コリアンの実業家の経営する本社のビルであり、1980年代末には、その実業家との癒着に疑惑がもたれたこともあった。


枢軸国(日本・ドイツ・イタリア)も戦前は反共独裁(ファシズム)体制だったですけどね。

そういえば、立正佼成会も統一教会とは無関係ではなかったようである。
(1962年頃)庭野開祖会長の指示で統一教会の教えを学んでいた青年部50名ほどが同会に転じ、庭野開祖会長秘書(当時)だった久保木修己が統一教会日本教会長になったのを初め、統一教会幹部となる者を多数発生させた。のちに久保木修己は除籍処分。

庭野開祖会長は同じ頃、カトリックのローマ教皇とも会見している。
枢軸3国はカトリック(ローマ教皇)に接近した国でもあった。

1963年 9月14日 庭野開祖会長が「核兵器禁止宗教者平和使節団」副団長として欧米諸国を訪問。ローマ教皇パウロ6世と会見し平和提唱文を手渡す。

1965年 9月14日 庭野開祖会長がイタリアのローマで開かれた第2バチカン公会議の開会式に出席。ローマ教皇パウロ6世と会見。


余談になるが、大学病院ドラマの金字塔?である『白い巨塔』や123便墜落事故や日本航空を如実に想起させノンフィクションであることを読者に印象付けながら取材に基づくフィクションと言い張った『沈まぬ太陽』の作者である作家の山崎豊子も毎日新聞の従業員だったことがある。1944~1958年の間。
吉本興業を創業した吉本せいをモデルにした『花のれん』により1958年に直木賞を受賞した後、毎日新聞社を退職して専業作家となった。
ノンフィクションなのかフィクションなのか分からないというのはNHKも得意そう。歴史を扱う大河ドラマとかいろいろ。公共放送とか言ってるからNHKがやっていることは事実と思わせるだけに罪が深いけど、「ドラマに過ぎない」「フィクションである」と言えばどんな誤解を与えても済んでしまう。逆を言えばフィクションをノンフィクションのようにみせることだって出来るだろう。もっとも視聴者も事実かどうかなんて大して関係ないのかも、利があればそれで。


苦しい時の金渡しNO! 苦しい時の神頼み

週刊FLASH  2017年3月14日号
 石原慎太郎は霊友会と蜜月 「政治家と宗教」大研究

「2016年参院選で、公明党は全国比例で757万票を獲得。さらに同選挙で立正佼成会が民進党・白眞勲(はくしんくん)、藤末健三両議員に推薦を出し、2人合わせて約28万票の得票に大きく貢献しています。政治家にとって、新宗教がいかに大きな存在であるかの証左でしょう」(季刊「宗教問題」編集長の小川寛大氏)

 集票力と動員力で、政界に存在感を放つ新宗教。その代表格は創価学会だ。

「実質的な学会員数の3倍票を集める」(小川氏)とされ、選挙のパフォーマンスは群を抜く。

「政権の要、菅義偉官房長官の選挙区は無党派層が多い神奈川。学会員には『私たちがいなければ菅さんは終わり』と公言する人も。菅氏の当落を、創価学会が握るほどなのです」(小川氏)

 選挙での比類なき強さは、創価学会だけが作り上げたシステムだ。
 宗教学者の島田裕巳氏が言う。

「政治に熱心というより、あくまで選挙に熱心なのです。創価学会には、『仏法は勝負だ』という教えがあります。勝ち負けがはっきりする選挙を組織の引き締めに使う仕組みを、戸田城聖・第2代会長が作り上げたのです」

 戸田会長の後継は、1960年に、32歳の若さで第3代会長に就いた池田大作名誉会長だ。現在の公明党結党を主導し、政界進出を強めた。

「高度経済成長期に信者数が急増。1960年代、1000万人近く集めたとされ、公明党が第一党になるといわれるほど、勢いがありました」(島田氏)

■創価学会に続いて政界を彩った新宗教 

 創価学会の政界進出に危機感を持ったのが、立正佼成会だった。

「創立者の庭野日敬氏は、生涯、創価学会と対峙した人物。立正佼成会はもともと、親・自民党でした。自公連立が成立してからは、民主党(現・民進党)の支援に。政治的な立場には、あまり重きを置いていないのです」(小川氏)

 立正佼成会は、白眞勲、藤末健三両参院議員に加え、大島九州男(くすお)、風間直樹両参院議員を支援している。

「参院選で、民進党は労組系候補者を出しますが、電力総連の候補者が得た票は、約27万。2016年参院選では、白、藤末両氏を見事な票割りで当選させたわけで、労組を超えた集票力を立正佼成会は持っている」(同前)

 実際の信者数は「30万人ほど」(島田氏)とはいえ、その結束力は強い。

 昨今、豊洲市場移転問題で注目を浴びている、石原慎太郎元東京都知事と霊友会との蜜月は有名だ。

「石原氏は初出馬のとき、『20万票を頼んだら、小川喜美教主から、もっと出すから弟子になりなさいといわれた』という逸話を著作で紹介しています。事実上、霊友会の顔役だった石原氏を、教団は引退まで全力で支えました。しかしいまや、信者から、『石原さんが引退してよかった』という声を聞きます。じつは、もともと政治家の支援に熱心な教団ではないのです」(小川氏)


■宗教と政治は縁を切れない

 奈良県天理市に本拠を置く天理教は、地元に深く根を張っている。

「歴代市長や市議会議員に信者が多く、教団からの寄付が市財政を支えるほど。天理市が選挙区の一部である高市早苗総務相なども、逆らっていいことはありません。友好的なら、教団は信者でない政治家でも助けます。高市氏とは、関係はよいようです」(島田氏)

 2009年に国政進出を試みた幸福の科学。だが、337人の候補者は全員落選、11億5000万円の供託金を没収された。とはいえ、教団の潜在力は侮れない。

「没収が教団の財政を痛めたようですが、いまだにアルファードなど高級国産車に乗る富裕層の信者が多くいます。2016年参院選では、全国比例で約36万票を獲得するなど、立正佼成会を凌ぐ集票力があります」(小川氏)

 新宗教の力があっても、必ず当選するわけではない。「生長の家」の信者で、かつて教団の支援を受けていた村上正邦元参院議員が指摘する。

「団体から思いを託されますから、信者は議員をよく見ています。最近は、議員になりたい、票が多くほしい、と宗教団体にすり寄る人がいますが、そんな人の応援に、力が入るわけがありません。けしからんですよ」

 信心の力を見くびってはいけない。



一葉落ちて天下の秋を知る

上の週刊FLASHの記事では、2016年参院選にて公明党が全国比例で757万票を獲得したと書いているが、この夏の参院選では100万票以上も減らしてしまったそうである。

時事ドットコムニュース 2019年07月28日
 得票減少、募る危機感=議席最多も組織力に陰り-公明


 公明党は参院選比例代表で、得票数を2016年参院選から100万票以上も減らし、自民党との連立政権発足以降の国政選挙で最低となった。支持者の高齢化が進み、盤石を誇った組織力には陰りが見える。過去最多に並ぶ14議席を獲得したにもかかわらず、党内には危機感が募っている。

 公明党は、候補者を擁立した7選挙区全てで議席を獲得、比例でも7議席を得た。改選11議席を14に伸ばし、16年に並んだ。

 ただ、5割に満たなかった低投票率に助けられた面は否めない。比例の得票数は653万6336票で、17年衆院選に続く700万票割れ。計画的に準備ができる参院選は750万票超で推移していたが、今回は大幅に下落し、05年衆院選で898万7620票とピークを迎えて以降の減少傾向が鮮明になった。

 原因について、党関係者は「支持者の高齢化で運動量が低下している」と指摘。一時的な現象ではなく同党が抱える構造的な問題との見方を示した。集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法の成立など、「安倍1強」の下で党の基本的立場と相いれない政策に協力していることへの支持者の不満もあるとみられる。

 ある幹部は「投票率が下がっただけで100万票も減るわけがない。深刻に受け止めないといけない」と懸念を示したが、党勢回復への妙案を見いだせるかは不透明だ。

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# by yumimi61 | 2019-08-30 17:40

コンセッション②

1930年  創価学会創立
1937年7月~ 日中戦争
1938年 立正佼成会創立
1941年12月 太平洋戦争勃発
1945年8月 戦争終結

1948年 立正佼成会が宗教法人として認証される
1952年 創価学会が宗教法人として認証される

創価学会の2代目会長時代の出来事

1951年(昭和26年)5月3日、戸田城聖が創価学会第2代会長に就任した。
戸田は就任挨拶の中で、自分の存命中に75万世帯を学会に入信させるとの拡大目標を打ち出した。


就任した1951年には51歳だった。1951年の日本の男性の平均寿命は60歳だったので、あと10年くらいは生きるだろうと思っていただろうか。
その場合、存命中に75万世帯を入信させるということは、1年に7.5万世帯ペースになる。

(2代目会長が就任した)当時の当時の創価学会はまだ会員数3,000世帯程度の日蓮正宗内でも小さな講中で、挨拶を聞いた当時の学会幹部は「75万世帯などとは途方もない数字だ」と述べるなど、達成できるとは到底信じられなかったという。

しかし戸田城聖の下で、75万世帯を目標にした「折伏大行進」という名の大規模な布教活動が行われ、日本国内での創価学会の勢力は急拡大したが、強引な勧誘の手法は批判を呼び、社会問題化した。 

当時の「折伏」の対象、また入会者は、貧しい人や病人、都会に出てきたばかりの若者が多かったという。
折伏大行進の過程では、学会に入会しようとした家庭に他宗派の仏壇や神棚が置かれていると、それを焼却(謗法払い)するといった行為が、創価学会以外からは奇異に写り、時として大人数で対象者を取り囲むと言った強引さを伴った。長崎県では入信を強要された19歳の少年が飛び込み自殺をするなどした。
1957年(昭和32年)12月の本部幹部会で、戸田は自ら掲げた75万世帯の目標が達成されたと発表した。



当初は創価学会より勢いがあった立正佼成会

立正佼成会は、1948年に18,000世帯の信者がいたそうなので、1951年に3000世帯しか信者のいなかった創価学会の6倍も信者を獲得していたことになる。
また前述したように、宗教法人として認証されたのも立正佼成会の方が4年ほど早かった。

その後も立正佼成会はかなり勢いがあったようで、読売新聞が国会を巻きこんで批判キャンペーンを繰り広げた1956年頃の信者数は33万世帯だった。(それが報道などのダメージを受けて30万に減った)
だが驚くべきことに、創価学会は同じ頃(1957年)に75万世帯という目標を達成したと発表したのだという。
立正佼成会が急速に発展したためにマスコミの餌食となったということだが、創価学会の発表を信じれば、創価学会はそれ以上に急激に発展したことになる。
よってこの数字は俄かには信じ難いし、もしそれが本当ならば、立正佼成会のみならず創価学会の調査もして通告文を発行すべきだっただろう。

1956年の報道などにより教勢にダメージを受けたという立正佼成会だが、杉並区に一大拠点を築いていくのは結局のところその後であり(大聖堂完成1964年、普門館完成1970年)、庭野開祖会長は国際的な活動にも参加するようになる。


立正佼成会と政治(自民党)

庭野開祖会長は1956年に国会に参考人招致されたりもしたが、立正佼成会は自民党との繋がりを強くしていく。
そもそも大規模に土地取得したり、ぎりぎりなところでホールを建設したり、土地取得に不正疑惑があったということならば、政治家との繋がりが疑われる。
立正佼成会問題の国会での追及の急先鋒が社会党の議員だったということからも、立正佼成会には与党である自民党がバックにいた可能性が高い。

自民党は1955年に、鳩山由紀夫元首相の祖父である鳩山一郎によって設立された保守合同政党で、これが今日まで続く自民党の始まりである。
野党第一党であった日本社会党と対立する政治構造は1993年まで続いた。

自民党

1955年(昭和30年)に自由党と日本民主党の保守合同により結成された保守政党。立憲政友会、立憲民政党を遠い起源とし、翼賛体制の中核を担った会派である翼賛議員同盟、翼賛政治会、大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)および翼賛体制に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)、護国同志会(日本協同党の前身)、日本自由党、日本進歩党、日本協同党の流れを汲む。

早い話、戦争前夜から戦時中、すべて政党を解党して結成された大政翼賛会という政治結社の流れを汲むということである。


創価学会2代目会長の死と3代目会長の就任

創価学会の2代目会長が亡くなったのは1958年4月、58歳の時。75万世帯の目標が達成されたと発表した僅か4か月後のこと。突然死で、創価学会は「急性心衰弱」と発表したそうである。

池田大作が3代目の会長に就任したのは1960年5月だった。


読売新聞社の立ち位置

読売新聞が立正佼成会の批判キャンペーンを繰り広げたという1956年の社長は正力松太郎である。

東京帝国大学を卒業後に内務官僚になり警視庁へ。
1924年に読売新聞の社長に就任。
1941年の開戦時は大政翼賛会の総務であった。
戦時中の1944年から戦後1946年まで貴族院議員だった。
1955~1969年までは衆議院議員でもあり、鳩山一郎設立の自民党に所属していた。


戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたるアメリカ中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している。また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた。
駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

(駒澤大学は禅宗の1つである曹洞宗がルーツにある)

正力は日本テレビ放送網の設立者でもある。
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

立正佼成会を批判した読売新聞のトップ正力松太郎も自民党だったのだ。

「私達はあなたたち(立正佼成会)を握りつぶすくらい簡単だけれども、戦後のこの時代にそんな野暮なことはしない。そこでだ、私達と手を組むというのはどうだろうか。あなたたちにはぜひとも我が党の選挙に協力してもらいたい」←まったくの想像で、私が作った文です。

でもそんな感じで立正佼成会は改めて自民党と手を組むことになったのではないだろうか。

この正力という人がなかなか分かりにくい。
警察、読売新聞の社長、大政翼賛会の総務、貴族院議員、自民党所属の衆議院議員、プロ野球、テレビ、原子力、、、、そしてCIA。
この人が見こんだ渡邉恒雄、読売新聞入社は1950年。でも本当は朝日新聞に入りたかったとか言っている。戦後の1945~1947年、大学生時代であるが、共産党に入党していた。しかしレッドパージ(赤狩り)が吹き荒れる前に自ら離党。


鳩山一郎の次の自民党総裁・総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり、中曽根と親密になった。
1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた。
早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった。
1966年(昭和41年)の大手町にある国有地払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている。


渡邊恒雄が読売新聞社の幹部になった1977年。
1977年というのは偶然にも、朝日新聞社主催の全日本吹奏楽コンクールの中学・高校部門が普門館に固定された年であり、カラヤンが初めて普門館のステージに立ち、ベートーヴェン・チクルスを演奏した年でもある。
読売新聞社の社長就任は1991年。
55年体制が終わりを告げたのは1993年。
細川護煕・非自民党8党連立内閣が成立。この政権に創価学会の公明党が参加しており、国務大臣まで輩出することになった。
1950年代までは立正佼成会にも及ばなかった創価学会だったが、池田3代目会長就任から33年の月日が流れ、創価学会は名実ともに巨大な団体になっていた。





# by yumimi61 | 2019-08-29 21:37

コンセッション

かつて読売新聞に批判された立正佼成会が、朝日新聞主催のコンクールの聖地へ

「吹奏楽の甲子園」「吹奏楽の聖地」とも言われていた立正佼成会の普門館というホール。
1977~2011年まで全日本吹奏楽コンクールの中学・高校部門の会場となっていたが、完成したのは1970年のこと。
普門館のある地域は都市計画法における第1種中高層住居専用地域であり、建物などの建設に厳しい規制がかかる。
そのためホールのような建物や大規模駐車場などは建設許可が下りない。それ故に建て直しは断念したということだが、1970年完成の時点でもぎりぎりな建設だったと思われる。
ある意味、普門館は曰くつきな建物なのだ。
さらに立正佼成会の本部の土地取得も曰くつきなのである。

立正佼成会
日蓮系・法華系の新宗教である。文化庁『宗教年鑑 平成30年版』における信者数は、2,609,979人。
1938年(昭和13年)3月5日創立。
 
創立は大戦前夜で日中戦争の最中という時代である。
霊友会の有力な信者であった庭野鹿蔵(庭野日敬に改名)(男性)、庭野の勧誘で共に霊友会を信仰していた長沼政(長沼妙佼に改名)(女性)、他数十名が、霊友会を離脱して創立した。

「揺るぎない信仰心」が培われた時代とされ、庭野日敬開祖会長(当時)と長沼妙佼脇祖(当時・副会長)の姓名判断・霊能指導によって、「貧病争」の苦しみから救い、仏道精進に導くというスタンスで布教活動を行っていた。当時、第二次世界大戦の影響で多くの人々が苦しい生活を強いられていたため、それらの人々を救うためには、方便が必要であったという。
一方で、戦後急激に拡大した教勢がマスコミの注目を集め、1956年、読売新聞が本部用地の取得にあたる不正疑惑を報道した。庭野開祖会長が国会に召喚され、事態を説明するに至っている



男と女の微妙な関係!?

政治と宗教団体の微妙な関係

1948(昭和23)年には信徒数18,000世帯となり、短期間に急速に教勢が伸びました。その後も勢いは衰えず、信徒たちの努力により学校・病院を次々と建設するに至っています。
しかし、あまりに急速に発展したためにマスコミの餌食となり、1956(昭和31)年には読売新聞にて立正佼成会批判キャンペーンが行われることになりました(読売事件)。本部用地(大聖堂)取得に関して不正があったとされた事件です。
読売の記事は女性教祖の前歴を水商売と書きたてるなどセンセーションなもので、社会党の猪俣浩三衆院議員も国会で攻撃に立ち、4月30日には庭野鹿蔵(日敬)が衆院法務委に参考人招致されています。国会答弁に立ち誤解を解くことに努めましたが、反論の場が教団雑誌でしか与えられなかった佼成会の受けた打撃は大きいものがありました。
さらに9月には入会強要と脱会妨害が人権蹂躙に当たると、日弁連の後押しによる文部省の警告が出されたりしました。
こうしたダメージから信徒数は33万世帯から30万世帯へと後退、一時期の勢いは衰えてしまいます。
またこの事件の対処法などを巡って教団内に庭野批判が起こり、ついには「庭野を追放して長沼を教祖にしよう」というクーデターも計画されましたが、翌年に長沼妙佼が病気で死去したため、この騒ぎも沈静化していきました。


女性教祖
というのは、長沼政(長沼妙佼に改名)という人のことである。
天理教の信者→霊友会の信者→立正佼成会の副会長
長沼妙佼(1889年12月25日 - 1957年9月10日)
埼玉県北埼玉郡志多見村(現・加須市)出身。16歳の時に姉の養女となり、天理教に入信。
25歳で結婚後、夫の身持ちの悪さから11年後に離婚。
その後、41歳で再婚。夏は氷屋、冬は焼き芋屋の「埼玉屋」という店のおかみさんをしていた。40代後半、心臓弁膜症、喘息、胃下垂、子宮内膜炎が悪化し、寝込むことが多くなった。
これを聞いた庭野日敬は、霊友会に入ることを勧め、これに納得し、入会した。
1938年、霊友会会長小谷喜美との対立から霊友会を脱会し、庭野や村山日襄らと大日本立正交成会(後の立正佼成会)を設立。1943年に副会長に就任。



かつて立正佼成会を批判した読売新聞系列の日本テレビが、今度はライバル朝日新聞社主催のコンクールをPR

(全日本吹奏楽コンクールは)各種TV番組などで度々紹介される。特に最近では、2004年から2005年、また2010年に日本テレビ系列のバラエティ番組『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』で特集が組まれた。この番組で「普門館すなわち吹奏楽の甲子園」というコンクール経験者間の認識が一般にも紹介された。


(『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』という番組は)ほとんどのコーナーでは取材対象はテーマ毎に所ジョージがあらゆる方法(ダーツなど)で無作為抽選し、そこで選ばれた地域等へスタッフが取材する。『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)、『YOUは何しに日本へ?』(テレビ東京系)、『ブラタモリ』(NHK総合)などに代表される、いわゆる「素人いじり番組」の元祖的番組ともいえるが、(突っ込みの)コメントやテロップなどで積極的に素人をいじろうとするのではなく、「普通の人同士(の会話)のスタンス」を守っているという。

『1億人の大質問!?笑ってコラえて!』 日本列島 吹奏楽の旅
「日本列島 部活動の旅」の初期に吹奏楽部を取り上げたところ、所ジョージの提案でコーナーの趣旨が変更されてスタート。中学校・高校の吹奏楽部に密着し奮闘ぶりを紹介する。初回は大きな五線譜に並べられた2つに割ると中に都道府県が書かれている作り物の音符を所が無作為に選ぶ抽選が行われたがすぐに廃止され、スタッフが予め調査してから特定校を長期取材する形式になった。一時は「ダーツの旅」に代わる番組のメインコーナーとして扱われるほどの人気を博した。
2004年11月3日放送分のスペシャル回は本企画が中心に据えられ、「吹奏楽の甲子園」とも呼ばれる普門館(当時の全日本吹奏楽コンクール本戦会場)を目指す青森山田高校、習志野高校、淀川工業高校(現・淀川工科高校)の3校に密着取材した模様が放送された。本コーナーにより吹奏楽文化の知名度が高まり、結果的に全日本吹奏楽コンクール本選への入場希望者数が増える、吹奏楽人口が増えるなどの効果があった。2005年にレギュラーコーナーとしては終了したが、2010年の全日本吹奏楽コンクール直後の時期に「日本列島 吹奏楽の旅2010」として復活(市立船橋高校を取材)し、その後は2013年まで毎年放送された

2004年11月3日放送に放送された「笑ってコラえて! 文化祭 吹奏楽の旅 完結編 一音入魂スペシャル」が、バラエティ番組として初となる「第42回ギャラクシー賞テレビ部門大賞」を受賞している。
2010年11月3日放送の『吹奏楽の旅スペシャル2010』では番組初の生放送を行った。


私が初めてこの番組を観たのは、2010年11月3日の吹奏楽の旅だった。(正確に言えば、後にも先にもこの時しか観たことがない)
それも偶然だったので、後半か最後のほうだけを観た。
そして翌日のブログ記事『歩調』にこのように書いている。

「泣いて上手くなれるならもっと泣け」

小学生の時だったか中学生の時だったか覚えていないのですが、読んだ本に書いてあった言葉。
もしかしたらこれが本のタイトルだったかも。

県内のある高校の吹奏楽部の顧問の先生が書かれた本で、全国大会を目指して日々練習に取り組んでいる部活動の様子を綴ったものでした。
もともとは母が買って読んでいたもので、私は家にあったので何気なく手にして一気に読みました。

やっぱり出会えたことは奇跡ですね。


「泣いて上手くなれるならもっと泣け」が書いてあった本というのは、今回取り上げてきた『涙はロンド』のこと。2010年の時には本が実家にあって私の手元にはなかったのですが、その後しばらくしてから実家から探して持ってきたのです。


創価学会に水をあけられる

立正佼成会が向かう「緩慢な死」、再興は次世代カリスマの双肩に
週刊ダイヤモンド編集部  2018.10.11


「今までのやり方が、全く通用しない時代になってしまった」──。

 新宗教教団において、創価学会(827万世帯)と幸福の科学(1100万人)に次ぐ公称信者数を誇る立正佼成会。この巨大教団の行く末を古参信者はそう嘆く。

 立正佼成会は、パーフェクトリバティー(PL)教団や崇教真光(すうきょうまひかり)など35の宗教法人が加盟する新日本宗教団体連合会(新宗連)の中心的存在で、反・創価学会の旗手である。今年は創立80周年の節目でもある。影響力や歴史を加味すれば、新宗教界で創価学会に次ぐナンバー2の立ち位置にあるといってよい。

立正佼成会は若者に吹奏楽の聖地を提供してきたのに、皮肉なことに、立正佼成会の信者の高齢化は進み、信者数も減少の一途なのだとか。

信者数の減少は当然、教団の収入にも直結する。

 立正佼成会の月会費は、わずか100円。この額は他教団が時代とともに会費を値上げする中、格安とされている。しかも、機関紙の購読が漏れなく付いてくる。つまり、会費だけでは赤字なのだ。もちろん、会費以外にも寄付金である「喜捨金」などの収入はある。だが、会員が支払っている金額は、1人当たり年間数万円ほどとみられている。

 お布施や会費など「祈祷料収入」の減少を穴埋めする収益事業も、創価学会の足元に及ばない。

 例えば、出版事業では「聖教新聞」の購読料を大きな収入源とする創価学会に対し、立正佼成会は前述の通り実質無料。また、創価学会のように墓苑ビジネスを大規模展開しておらず、霊園を都内に一つ所有するのみだ。葬儀や墓は信者の菩提寺を基本とするからだ。

 もちろん、巨大教団だけあって病院や学校など、揺り籠から墓場まで一通りそろえてはいる。その一方で、世俗的な収入事業は、立花産業という信者向けの団体保険販売事業を主力とする1社にほぼ集約。その立花産業も信者数の激減で苦しさを増しているというのが、関係者の一致した見方だ。

もちろん下図のように、その資産額は、不動産だけでも2190億円(本誌推計)と莫大な額に上る。だが、それはあくまで教勢が右肩上がりだった過去の遺産だ。教団の苦しさは“吹奏楽の甲子園”といわれた「普門館」の、今冬から始まる解体に象徴される。


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宗教団体の不動産

下の写真は、時々通る道沿いにある「立正佼成会 前橋教会の渋川道場」という建物である。普門館のことを書いていたので写真を撮らせていただきました。
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この近くには創価学会の建物もある。

しかし改めて考えると宗教団体って凄いですよね。
都内に広大な土地と建物を所有していたり、それだけでなく全国各地にそれなりの土地建物を所有している。
個人で全国にそれだけの不動産を所有するなんてまず無理だし、企業だとしても余程の大企業でなければ難しい。
宗教団体ってやっぱり相当に寄付があるのかしら。
ある所には腐るほどお金があるのか、それとも塵も積もれば山となる方式で集めるのか、いろいろ優遇されるのか、よく分からないけれど、フツーに考えれば凄いことだと思います。

だからと言って、コンクール会場として部外者が借りたホール近辺で、しかも騒がないようにと予め厳しく言われていたにも関わらず、そんなのお構いなしに騒いでよいわけがない。


立正佼成会 VS 創価学会

創価学会の創立は1930年(昭和5年)で、1938年(昭和13年)創立の立正佼成会よりも8年ほど早いが、長いスパンで見れば、ほぼ同じ頃に創立されたと言ってもよいのではなかろうか。
ということで、信者獲得合戦のような対立は最初期からあったのであろう。となれば、対立の歴史は戦後の歴史よりも長いということになる。

かつて創価学会と立正佼成会の信者獲得活動に対して、様々な行過ぎや人権侵害等、公共の福祉に反するという訴えが各方面より度々なされた。
(創価学会の折伏大行進による数多のトラブルや人権蹂躙、佼成会による霊能指導は、多くの問題を生むこととなった)
昭和20年代後半から40年代初頭に掛けて創価学会と立正佼成会間での非難合戦は熾烈を極めた。
こうした動向が国会でも取り上げられる問題となり、衆議院の法務委員会の調査結果に基き、1956年3月6日、不当な宗教活動に対して警告を発する「不正なる宗教活動に対する決議」が満場一致でなされた。


立正佼成会と創価学会、両方に行き過ぎがあったようだが、国会(法務委員会)が調査し、通告文を出したのは立正佼成会の方だけだったようだ。

「不正なる宗教活動に対する決議」
 戦後の混乱と人心不安の裡に族生したいわゆる新興宗教団体の中には、世道人心に極めて憂慮すべき影響を及ぼしているものがある。もとより信仰の自由は憲法の保障するところであるが、布教その他の方法において不当に人心を強制し、或は基本的人権を侵害するが如きことは許されない。
 本委員会が右の趣旨により立正交成会に関する人権侵害問題を調査したところによっても種々の行過ぎがあり、加入、脱退、金品受授、治療等につき欺罔、強制、圧迫、迷信等により、公共の福祉に反すると思われるものがある。
 政府は、この際、立正交成会は勿論、いわゆる新興宗教その他宗教団体の不正不法な宗教活動の横行している現状に鑑み、人権擁護の立場から速かに
 (一)布教活動にして、人権の侵害行為又は犯罪を構成するものについては、その摘発につとむべきである。
  (二)宗教法人法第八十一条の解散権を発動すべき事由ありや否やにつき、徹底的に調査すべきである。
 (三)宗教法人法中「認証事項」「役員の欠格条項」「書類の閲覧権、提出権」第八十一条解散権発動の前提たる「調査権の整備」「罰則強化」等につき、検討すべきである。
 (四)公益代表者にして、宗教法人の解散請求権をもつ検察庁は、宗教法人調査につき適宜の措置を講ずべきである。
  右決議する。


 この決議に基づきまして、文部省調査局長福田繁名義をもちまして、昭和三十一年六月二十一日各都道府県知事あてに「不正な宗教活動について」の通知を行いました。そして、趣旨とするところは、「今後、宗教団体の布教その他の活動において、人権の尊重、公共の福祉などの上から見て、行き過ぎや不正の疑をもつて一般の誤解を招くことのないよう特に御配慮をお願い」をする等の趣旨の通達を行い、また、法務委員長高橋禎一から文部大臣清瀬一郎あてにこの決議について通告を行った次第でございます。そして、その中でこの四項目を具体的に指摘をして、適当な措置を講ずるよう要請をいたしたところであります。

 なお、同じく三十一年九月二十一日、文部省調査局長福田繁から、宗教法人立正佼成会代表役員長沼総一あてに、「立正交成会の宗教活動について」の文書が発送をされました。そして「貴教団においても、布教活動の行き過ぎ、欠陥について反省すべき点のあることは認めているところであります。信仰は個人の自主的行為であるにもかかわらず、入会の強要、脱会の阻止等の行為により信教の自由を拘束し、あるいは宗教的暗示によつて徒らに恐怖、心を与える等、人権じゆうりんにわたる疑いのある事件が指摘されたことは、まことに遺憾とするところであります。貴教団においては、これらの事件の起つた原因につき篤と考察し、公共の福祉に反することのないよう重ねて通告します。」こういう文書が出されたわけであります。


前述のように、1956年3月6日に「不正なる宗教活動に対する決議」が行われ、その後に通告文まで出したわけだが、読売新聞が立正佼成会批判キャンペーンに打って出たのも同じ1956年のことである。
用地取得不正疑惑報道は1956年1月であり、これが以降の国会を巻きこんだ批判キャンペーンの大きなきっかけとなったのだが、叩ける時に叩いておこうという感じだろうか。
ということは、おそらく、読売新聞は創価学会寄りだったんだろうと思う。


(続く)






# by yumimi61 | 2019-08-29 15:09

コンフィデンスゲーム

芸術の難しさ

全日本吹奏楽コンクールは、全国高等学校野球選手権大会(高校野球の甲子園大会)と同じで、朝日新聞社が主催している。(高校野球の場合は、日本高等学校野球連盟が、吹奏楽の場合は全日本吹奏楽連盟が主催者に加わっている)

学校が背景にあるため日本の吹奏楽人口は異様なほど多いことで有名だが、野球の競技人口も多い。少年からシルバー世代まで幅広く楽しまれ、且つ様々な大会が催されている。
高校野球(全国高等学校野球選手権大会)への参加校や参加人数も他の部活動の大会に比べたら群を抜いて多いだろう。しかも全国高等学校野球選手権大会はトーナメントの一発勝負。しかも野球は個人競技ではなく集団競技。その意味において、高校野球大会の頂点に立つということは並外れた成功(結果)と言える。
並外れた成功には並々ならぬ対策が必要ということで、本来は高校の部活動に過ぎないのに、しかも都道府県代表とか言いながら、どこか遠い所からも選手をスカウトしてくるなどといったことが横行するのだろう。

こうした野球のような大会しか知らないと、吹奏楽コンクールの全国大会も同様なシステムで行われていて、全国大会の金賞も野球のような頂点だと思うかもしれないが、そこは審査員による採点競技モノであるし、コネあり金あり何でもありとも言われる芸術領域。かなり違うのである。

【全国大会までの流れ】
道府県内の各地区大会→府県大会→支部大会→全国大会
※なぜ「道府県」や「府県」であり、「都道府県」ではないのかと言えば、北海道と東京都は支部が複数の都道府県で編成されているのではなく単一だからである。つまり、道大会や都大会=支部大会である。

【支部】
北海道吹奏楽連盟(北海道のみ)
東北吹奏楽連盟(青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県・福島県)
東関東吹奏楽連盟(千葉・茨城・神奈川・栃木
西関東吹奏楽連盟(埼玉・群馬・山梨・新潟)
東京都吹奏楽連盟(東京都のみ)
東海吹奏楽連盟(長野県・岐阜県・静岡県・愛知県・三重県
北陸吹奏楽連盟(富山県石川県福井県
関西吹奏楽連盟(滋賀県・京都府・大阪府・兵庫県・奈良県和歌山県
中国吹奏楽連盟(鳥取県・島根県・岡山県・広島県・山口県
四国吹奏楽連盟(徳島県・香川県・愛媛県・高知県
九州吹奏楽連盟(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県大分県宮崎県鹿児島県沖縄県

北関東や南関東という分け方はよくあるが、東関東や西関東という分け方はなかなか斬新である。
赤字の県は地区大会がない県。
よって、地区大会のある県の県大会銅賞と、地区大会のない県の県大会銅賞は、同じ価値ではないということになる。

【入賞とは何か】
大会に出場した学校は、金賞・銀賞・銅賞のいずれかを受賞する。
全国大会の場合、金:銀:銅≒3:5:2とよく言われているが、審査内規には各賞の数には制限を設けないと記されているそうだ。要するに、審査は相対評価ではなく絶対評価である。

但し1969年以前は、審査の点数上位より、1位・2位・3位・・・と全て順位を付ける順位制だった。

1970年から
 審査員が審査項目それぞれにABCDEの評価を行い、ABCDEを点数化し合計点を算出。
 点数の多いほうが金賞。真ん中辺りが銀賞、下位の方が銅賞。トータル順位は分からない。
 (1996年からは最高評価と最低評価の審査員分をカットする、カット方式となる)

2013年から
 審査員が学校ごとにA(金)B(銀)C(銅)の評価を付ける。それをまとめて・・
 金賞:審査員の過半数がA評価の場合・・①
 銀賞:①と②以外の場合
 銅賞:審査員の過半数がC評価の場合・・②

高校野球の応援の美爆音が有名になった千葉県の習志野高校は、「全日本吹奏楽コンクールで金賞を23回獲得」しているそうだが、これは「高校野球の甲子園大会で23回優勝した」ということとは全く意味合いが違うといことである。

【連続出場について】
野球のように明確なルールがあって得点で勝負が決まるという競技ならば分かりやすい。優勝の価値も、連続出場の価値も、連続優勝の価値も明確だろう。
しかし芸術の採点コンクールで、予選の仕方なども各地域で違うとなると・・・

芸術は誰が観ても聴いても同じ評価ということは、まずありえない。
誰かにとっては人生を変えるような衝撃や感銘を与える作品でもあっても、他の誰かにとっては酷く退屈なものであったり嫌悪感すら感じさせるものだったりすることがある。
感じ方はそれだけ違う。
生前には全く見向きもされず認められなかったという芸術家も少なくない。
時代によっても、誰かの都合によっても、人々の気分によっても、芸術的価値は大きく変わる。
音楽の場合には、審査員含め聴く人の聴力という大きな問題も孕んでいる。
さらに生徒や学生の場合には演奏メンバーが大きく変わる。公立学校では顧問(指導者)も変わることがある。
この意味において、連続出場や連続受賞にはどうしても胡散臭さが漂ってしまう。実際に不正があるかどうかは別にしても嫌疑をかけられやすい。

また、機械的な評価で変わらずに高得点を取り続ける芸術作品に、人の心を大きく動かす芸術的価値があるかと言ったら、それも結構微妙ではないかと思う。
この意味からしても、連続出場や連続入賞(高評価)は芸術そのものの大きな価値を落としかねない。
吹奏楽連盟は「できるだけ多くの人に全国大会を経験して欲しい」という理由から全日本吹奏楽コンクールへの連続出場に関する規定を設けていた。

過去に「3年間連続して全国大会に出場した団体は、その翌年は地区大会、県大会や支部大会といった下位大会も含め、吹奏楽コンクールに参加することができない。」という制度(通称「三出制度」もしくは「三出休み」)が存在した。←2013年大会から廃止

・1956~1969年大会 「全国大会で3年連続1位の団体」を翌年の全国大会に招待して演奏させる
・1970~1995年大会 「全国大会で5年連続金賞の団体」を翌年の全国大会に招待して演奏させる
・1994年~ 「全国大会で3年連続金賞の団体」は翌年の大会に参加できない
・1999年~「全国大会に3年連続して出場した団体」は翌年の大会に参加できない

『涙はロンド』の大木先生が、5年連続金賞受賞しての招待演奏を目指していたのに、3年連続受賞で異動を命じられたということであったが、1970~1995年大会の連続規定に該当した時期である。

2度と出られなくなるわけではなく、1年でも開ければよいわけであるし、他の大会での招待演奏や推薦などが提供されていたが、それでもこの規定は不評だったそうで、2013年に廃止になったようだ。
社会人ならともかく、中学高校生となると、3年のうちの1年は大きいということなんだろう。

但し、全国大会の規定は廃止されても、県単位での吹奏楽コンクール実施規定の中で独自の規定が活きているところもあるようだ。
例えば「埼玉県吹奏楽コンクール実施規定」より。
全国大会へ3年連続出場した団体は、該当団体の意志により、県大会に於いて審査を受けるか、招待演奏をするかを選ぶことができる。ただし、審査を受ける場合は賞は与えるが県代表には選出しない。



宗教施設

1977~2011年までの34年間、全日本吹奏楽コンクールの中・高校生部門が開催されていた普門館。
上に書いた通り、全日本吹奏楽コンクールの主催は朝日新聞社と全日本吹奏楽連盟である。
そしてこれも前述したとおり、普門館は立正佼成会という一宗教団体の多目的ホールだった。

普門館が箔を付け、有名になって、吹奏楽関係者の憧れの地になりえたのは、間違いなくカラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の公演のおかげだろうと思う。

しかも、日本の、それも全国の中高校生及びその関係者の憧れの地にするためには、音響がどうこうということよりも、とにかく大きな会場であることが望ましかったはずだ。音楽に然程詳しくない人が声や音の大きさを以て凄いだとか上手だと思ってしまうように、会場の大きさはそれだけである種のステータスを獲得する。

だが、そこが宗教施設だということをよく知っていて、且つ、吹奏楽になんてまるで興味のない近隣住民が、普門館に集い大騒ぎしている様子を見たら、はたしてどう思うだろうか。
信者たちが集って馬鹿騒ぎしていると思っても何ら不思議はない。
この場合、イメージダウンとなるのは宗教団体である。
宗教の、特に日本における宗教の特異性というか特殊性と相まって、マイナスイメージに振られやすい。
だから余計に、宗教とは関係ない部外者でありながら、そこを使わせてもらう者は、周囲に気を配る必要がある。「付近で騒がないこと」と厳しく言われていたのならば、それはもう絶対に守らなければいけないことだろう。

吹奏楽コンクールには演奏時間の規定がある。課題曲と自由曲合わせて12分以内に演奏を終了しなければならない。12分を超過した場合は審査はされず失格となる。
この12分という制約が厳しく、失格となる団体が全国大会でもある。

野球は「筋書きのないドラマ」と形容されることもあるが、何が起こるか分からない野球には延長戦がある。
でも吹奏楽には楽譜というものがある。楽曲ごとに基本的なテンポは決められており、それに基づいて練習を重ね、本番でも指揮者が付いており、全国大会に出場してくるくらいなのだから、それほど厳しい制約でもないような気がする。
ともかくその制約には、だらだらと際限なくホールを延長利用することはご遠慮願いたいという思惑があるのかもしれない。
「12分を超えれば失格」というルールと同じで、「外で騒いだら失格」くらいのペナルティを与えてもよかったのかも。

<余談だけど>
この間、何気に還暦野球を見ていたら、「時間になりましたので6回裏で試合終了となります」とアナウンスしていた。次の試合チームが集まってスタンバっていたから、予定時間内に規定回が収まらなかったっぽい感じだった。還暦野球ルールなのか、大会ルールなのかよく分からないけれど、野球でも時間制限がある試合もあるのだなぁと思った。


営利か非営利か

宗教法人は非営利団体である。
非営利で、公益だからこそ、税制優遇措置を受けている。
よってどんなに高額で素晴らしいホールを建設したところで、ホール使用料をたっぷり戴いて儲けるということは出来ないはず。

宗教法人
宗教者と信者でつくる、法人格を取得した宗教団体の事である。
持分が全くなく、営利(剰余金配当、残余財産分配を出すこと)を目的としない非営利団体(収支相償)で、文部科学大臣もしくは知事が所轄庁である広義の公益法人の一つ。
また、境内地などは公共施設でもあり、さらには社会的慣習、儀式及び祭礼行事を始めとして、口承による伝統及び表現や庭園、建築物、芸能、自然及び万物に関する知識及び慣習、伝統工芸技術などの分野においてユネスコの無形文化遺産や世界遺産、文化遺産などへ該当したり、加えて日本国の文化財保護法に示される数々の文化財や、その上に経済産業大臣指定伝統的工芸品等も数多く承継したり、宗教法人法18条では法規に反しない範囲で宗教上の規約、規律、慣習及び伝統を十分に考慮するよう求められている団体でもある。税法上の扱いは公益法人等。

公益法人の「収支相償」について
公益法人が利益を内部に溜めずに、公益目的事業に充てるべき財源を最大限活用して、無償・格安でサービスを提供し、受益者を広げようとするもの。公益法人が受けている税制優遇の重要な基礎となっています。



裏が取れているわけではないが、一説によれば、普門館は無料で貸し出していたという話である。
一般的に、公演を行う主催者は、観客から代金を取るし、物販なども行ったりする。会場での物販の売上は、売上の何%かを会場主に手数料として支払わなければならないことが多いが、会場主が宗教団体だとそれも微妙そうだ。
主催者はチケットや物販売上代金から、ホール・設備使用料や演奏者への対価を支払う。
ホール・設備使用料や演奏者への対価が高く、売上が少なければ赤字公演となる。
それを考えたら、ホール・設備使用料が無料なのは非常に魅力的である。かなりの節約になる。
しかも全日本吹奏楽コンクールの場合、演奏者への対価を支払う必要もない。
むしろ演奏者側が主催者側に大会参加費を支払うシステムになっている。(予選ではホール利用料が掛かってくるであろうけど)
だけど開催費用がほとんど必要ない全国大会も観覧チケットはしっかり販売されている。あっ審査員の御手当ては必要かな。
普門館には利用料ではなくお礼の品がたっぷり贈られていたのかは知らないが。




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# by yumimi61 | 2019-08-27 14:16

コンフリクト

我を忘れる

しばらく遠ざかっていた『涙はロンド』の話です。
この本の構成は、以前も書いた通り、第一部が出版するにあたって書いた部分。9~29ページの20ページ。
第二部の「すべてに王道なし」は、1979年(2回目の金賞を受賞した年)に群馬大学教育学部の音楽専攻の学生に対して行った講演の記録になっている。29~75ページの46ページ。
第三部は定期演奏会の生徒の原稿。
第四部は生徒の手紙。

第一部の最後の章はこれです。
夕闇の胴上げ 全国大会三連覇 

 「やめなさい!ダメだ、やめろ!」私の大声の制止が全然生徒達の耳に届かない。
 いつもなら私の目つき、顔色だけでその感情のすべてを察し、素早く判断して行くこの生徒達に、私の声が聞こえない筈がない。完全に無視している。
 昨日の打ち合わせ会で「会場周辺での胴上げや嬌声は慎むこと」と強く言われていたので、必死で逃げ回ったのだが、OBも加わった厚い興奮の輪が、私を追いかけ、足を捕まえ、手を握り、肩を押さえつけ、ついには身体は完全に宙を舞ってしまった。涙が溢れ出て、普門館の丸い屋根が夕闇の中に大きく揺れ、かすんで見えた。見渡すと胴上げを囲む、女子部員と父兄の輪が。これも涙の中で痛いほど大きな拍手を送っている。
 宙に舞いながら、私は感謝の気持ちで一杯だった。叱って叱って叱り抜いた練習の日々。口汚く罵り、厳しい規律で縛り付けた部活動。どんなにか辛くて長い毎日だったろう。
 時には、五、六時間休みなしの練習、わずか一小節が吹けなくて何度も罵声を浴びながらじっと耐えた子。鼻水と涙が一緒になって、それでも楽器を口から離さなかった子。大太鼓の陰で泣いていて「顔を見せろ!泣いてうまくなれるのなら、もっと泣け!」と余計に叱りつけられた子。多感な年代の子供達に気違いになってわめきちらしたこの男に、今、生徒達はすがりついている。泣いている。



普段は怖い怖い顧問の顔色を窺って行動するような生徒たちが、全国大会3連覇した時には、その顧問の言い付けを平然と無視したという。
顧問の注意の言葉が顧問の本音ではないことを十分に察し、言い付けに従わなくても許されると分かっているから無視できたのであろう。
顧問の価値が金賞にあるということを嫌というくらい知っていて、それに応えたのだから私達には何でもする自由があると思っているから出来る。
だとしたら周囲の大人、つまり保護者やOBが冷静になって、禁止事項くらい制するべきだろうが、一緒になってやっている。
そこにいる全ての人の価値がコンクール金賞にあるからだ。
金賞をとった自分達は特別だと思うから、他のことがないがしろになる。

この3連覇は1980年のこと。中・高校生の全日本吹奏楽コンクールが普門館に固定されて4年目にあたるが、短いながらも大騒ぎした様子が記されている。
普門館での全国大会の際には、必ず「うるさい」という苦情が近隣住民から寄せられていたそうだ。マナーは年々悪くなっているという評判であったが、中高層住居専用地域にある普門館の近隣住民は何十年もこの狂乱に付き合ってきたわけだ。

「やめなさい!ダメだ、やめろ!」私の大声の制止が届かない。
興奮の輪が、私を追いかけ、足を捕まえ、手を握り、肩を押さえつけ、ついには身体は完全に・・・
涙が溢れ出て・・・かすんで見えた。


胴上げだから良いけれど、これがもし誘拐の場面だとか、輪姦の場面だとしたら、どうですか?
やってはいけないこと、行うべきでないことをするという意味では、同じではないでしょうか。
集団心理の怖さというか、欲望を貪欲に追い求める恐ろしさというか。
これが許されてしまうと、違う場面でも、やめてとかダメとかいう言葉は本音ではない、と思われてしまう恐れがある。


誰のために生きるのか、何のために生きるのか

あとがき

 生徒達ときっぱり別れる積もりで、その思い出の集大成として、この本を書き始めたのに、今、こうして書き終えてみると、どうしたことか、むしろ、彼らのもとに戻りたいという思いが一層大きくなっている自分に驚いています。
 それにしても、日が経つにつれて、生徒への思いが次第に募ってくるというのはどうしてなのでしょう。
 書き綴る一節一句の中に、彼らの泣き顔が浮かんでは消え、消えては現われ、遅い筆を更に遅くさせてしまいました。
 両手を広げても、とても抱えきれそうもないほどいっぱいの思い出は、不思議なことに、それがもうずうっと遠い昔の出来事のように思えてしまったり、また、昨日の事のように鮮やかに登場したりして、私の身体の中を駆け巡りました。
 そして、あの時なぜ「死んでも彼らと離れたくない」と言い張らなかったのか、なぜ「絶対、絶対、絶対嫌です」と、もっと頑張らなかったのか、「意気地なし!」と私を責めつける、もうひとりの私の叱咤に沈み込む毎日でした。
 私はこの一年、生徒と離れてみて、やっとわかりました。生徒を失ってみて、初めて気がつきました。やはり、私は生徒と離れていては、とても生きて行けそうもないんだと。
 しかし今ごろ気がつくなんて愚かなことです。生徒達を諦める積もりでこの本を書き始めたのに、本当にどうしたことでしょう。
 往生際の悪い男です。


(夜も遅くなってしまったので続きは明日になります)






# by yumimi61 | 2019-08-26 18:32

ナツオワ

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なぜだろう。夏休みがある子供でもないのに、夏の終わりはなんとなく寂しい。


’あつ’ってあるときは、うっとうしいけど、いざなくなると、じぶんがじぶんでなくなっちゃうみたいな、、、かんじ。

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♻ 暑い日のお留守番には、500mlのペットボトルを凍らせて、それを中に入れて置いてあげていました。写真のは中に何も入っていない状態だから、ペシャンコになってます。一応中に入れるクッションもあるんですけどね。

🐶 以前にチワワが目をウルウルさせるCMがブレイクしたことがあったと思いますが、最近ロンちゃん(上の写真の犬)の涙が多くて、ウルウルどころか溢れ気味。少し「涙やけ」も起こしている。

😿 17歳の犬のロンちゃんは、人間で言えば84歳。最近めっきりおしっこが我慢できなくなったみたいなのです。
うちは老犬が2頭いるので、長時間お留守番させる時はペットシーツをそれこそ何枚も使って、かなり大きめなトイレスペースを作って出掛けます。ケージは開けておき、ケージとトイレスペースを大きく囲むような形でフェンスを立てていくので、設置がそれなりに手間なわけなのです。
だから1時間か2時間くらいの外出の時には、ついつい「これくらいの時間ならば大丈夫だろうなぁ」と思ってケージに入れて閉めていっちゃうのです。
だけど帰ってきたら、ロンちゃんのお尻辺りが濡れていたことがありました。我慢できずにケージの中でしちゃったみたいで・・・。そんなに我慢できなかったんだね。うぅ、ごめんね、

💨 お留守番の時じゃなくてもね、トイレまでたどり着くのが間に合わなかったのか、それとも少しボケてきているのか、トイレ(ペットシーツ)ではない床におしっこがしてある時があるのね。
ペットシーツのちょって手前(半分シーツが吸い込んでいるけど、半分は床に漏れているみたいな感じ)でしちゃうことは少し前から結構あるけれど、最近は掠りもしない「なんでここしたのか・・」というような場所に水たまりが出来ていることがあるのです。

🏰 東京ディズニーランドにはペットを預かってくれる「ペットクラブ」があったのだけれど、2018年3月31日をもって閉鎖したのだそう。
うちの犬たちも若い時にお世話になったことがありました。
普段はすごく食欲旺盛なのに、TDLのペットクラブが出してくれるペットフードも食べず、万が一のことを考えて持参したペットフード(カリカリ)も食べなかったみたい。
そして帰り道の途中の車の中でそわそわしだしたロンちゃん。私は喉が渇いたのかもしれないと思い、コンビニに立ち寄り水を買って飲ませたのだけれど、ほとんど飲まない。
家に帰った途端、トイレ(ペットシーツ)にまっしぐら。かなり長い時間ジョ~~~とおしっこをしたのです。
おしっこをずーっと我慢してそわそわしていたのかぁ。うう、ごめんね、ロンちゃん。まああの当時はそれだけ長時間おしっこを我慢できたということですよ。

🐩 以前は犬のトリミングも動物病院のトリマーさんにお願いしていたのだけれど、動物病院がお引越しして大きくなってからはトリミングも予約がなかなか取りにくくなったので、思い立ったらわりとすぐに受けてもらえたペットショップにお願いするようになりました。しかしそこもだんだん予約が取りづらく何か月も先になることも。
しかもそこ、最初は動物病院よりかなりトリミング料金が安く、一時に2頭お願いする私は助かっていたのだけれど、直に大幅値上げと相成りました。
そして先月連れて行った時にも、「来月からトリミング料金が上がります」のお知らせがありました。
さらに、高齢犬の場合の注意、たとえば状態が急変することがあるとか、状態によってはオーダーが完了しない時もあるとか、連絡が取れない場合にはこちらの判断で動物病院に連れていくとか、万が一の時の責任は一切取れませんなどといったことが書かれた説明書(契約書)にサインを求められ、してきました。
トリミングのお客様(犬)も高齢化が進んでいるということなのかなぁと、ちょっとしみじみしてしまった。

📱💻📺 そういえば、秋から消費税が上がるんですよね?
携帯電話とパソコンをそろそろ買い換えなければならないような気がしているけれど、未だしていない私。
先日、テレビを観ていたら、画面がフリーズしたのです。最初は一瞬だったのだけれど、それが何回か続いたものだから、これはもう完璧に放送事故だと思ったわけですよ。でもあまり長く続いたものだから、さすがにおかしいなぁと思って、試しに違うチャンネル(放送局)にしてみたら、なんとその局でも放送事故!フリーズ!・・・ということは・・こ・の・テ・レ・ビ・が・・・・(フリーズ)

🍎 ネットでどうしたらよいか調べたら、とりあえず本体の電源を切ってみましょう、ということでした。そうかぁ、PCと同じなのね。
早速そうしてみると、確かにちょっと回復。
もっと念入りなのは、コンセントを抜いて5分間待つ、というものだったので、コンセントを抜いて1時間くらい放置。
以後はまだフリーズ現象は起きていないのですが、消費税が上がった頃にテレビが壊れるということはないのかしら。

📨 先日次男宛に封書の郵便物が届いたのです。
封筒には「『5年後の自分への手紙』在中」という紙が貼ってありました。
"「先輩からのアドバイス」は諸事情により今年度から中止させていただきます。同封の講師依頼につきましては、お手数ですが破棄願います。" とも書いてあります。
自分への手紙ということは、差出人も次男になっているのかと思いきや、高校名にキャリア教育部と書いてある。宛先と同じ筆跡だから次男が書いたものだけれど。
私は高校でこういうのをやっていたとは露知らず。
次男は今家にいないけれど、自分宛になっているから、やっぱりこれは開封すべきではないですよね?
送ってあげるべき?(本人に訊けばいいじゃないか?)
5年前の自分からの手紙、読みたいのかなぁ・・どうなんだろう・・。
10年20年30年前ということならば、書いたことも書いた内容も忘れてた!ということもありそうだけれど、学生の5年前なんてまだ覚えていそうじゃないですか。だとしたら、こそばゆいというか、気恥ずかしというか、そんな感じしませんか?
10代から20代への手紙?子供から大人への手紙?進路の岐路に立っていた自分から再び進路の岐路に立っている自分への手紙?それとも進路の岐路に立っていた自分から進路が決まったであろう自分への手紙?

🌽🍉 実家に帰った時に防災無線で「どこそこでクマの目撃情報がありましたので、お近くにいる方や近隣にお住まいの方はご注意ください」みたいな注意喚起がなされているのを聞いたことがある。
最近のクマはトウモロコシとかスイカが大好きらしいからね。

🏮 私の母の実家の裏庭(裏山)には防空壕があったんだとか。
私がそれを知ったのはなんと去年のお盆のこと。伯父さんから聞いたんだけど、全然知らなかったー。子供の頃、母の実家に行くと、裏庭(裏山)でよく遊んでいたのに。
防空壕は夏は涼しく、冬は暖かいので、戦後は貯蔵庫として使っていたんだって。
母も伯父も年齢的に防空壕として使っていた記憶はないそうだけど、貯蔵庫として使っていたのは知っていたとか。

🐎 戦時中、赤城山のふもとには、戦車も隠して置いてあったらしい。

🌋 群馬県内の小学校の運動会では昔から、学年クラス関係ない縦割りで団編成されることが多い。その団で鉢巻などが色分けされて、順位を競うのである。
団は「赤城団」「榛名団」「妙義団」という山の名称にちなんだ3団に分けるのが定番中の定番。4団に分ける時には「浅間団」や「白根団」が加わる。
そして何故か子供達には「赤城団」が強いというイメージが根強くあり、赤城団に振り分けられると、「よっしゃ~」みたいにそれだけで喜ぶという(笑)。
あれはなんなんでしょうね、やっぱり赤に闘争感を感じるのでしょうかね。

🐰 近年では、全国放送やインターネットなどにおいて、春に子供の運動会が催されることが話題になっていることがよくありますが、群馬の幼稚園・保育園、小中学校は、未だ秋に開催されることが多く、春では全然ピンとこない。運動会は秋というイメージが俄然強しです。
夏休みが終わると即効練習が始まるんですよね。夏休みボケした子供達にはすぐに勉強よりちょうど良いのかもと思ったり。

🚀 でも近年は、授業時間を確保するために、夏休み期間を1週間~10日くらい短縮するという学校は群馬県内の公立小中学校においても増えてきているみたい。
今年はGWも多く休んだから余計にそうなのかなぁ?
(寒冷地では昔から北海道や東北と同じで、2週間くらいだったかなぁ、2学期が始まるのが早かったけれど)
息子達が小中学校の時でさえすでに、「どこそこの学校はもう夏休み終わりらしいよ~」なんてことが話題になっていた。

🕙🕐 夏休みと言えば、学校のプール解放がありますよね。夏休み中だからプールに行くかどうかは自由だけど、プールカードにスタンプを貯めるのや友達に会えるのを楽しみにしていた子供もいましたね。
でも最近はこれも縮小傾向にあるとか。
暑すぎて入れない日が少なくないとか学校までの往復が大変だとか、保護者のプール当番が面倒だとか、素人の監視員(保護者)は不安だし事故が怖いとか、変質者が出やすいとか、季節関係なく入れる温水プールが身近だから夏のプール自体の価値が下がっているとか、そんなに日焼けさせたくないとか塩素が身体に良くないとか、まあいろいろ理由はあるみたいですけれど。

🌛 私の中学時代は、女子と男子の保健体育の授業は別々に行われることが結構あった。水泳の授業も基本的には別々に行われた。
そのせいなのか何なのか、生理中という理由で水泳の授業を休むことが許されなかった。保健体育の女性教諭は「水圧で血が流れ出ることはないから大丈夫」とか言っていて、当時の女子たちも凄いこと言うなぁと思っていた。
今ならば問題になりそうな感じだけど。
でも生理を理由に欠席したがる女子が多いからというのもあったみたい。プールは季節もので、直に夏休みに入ってしまい、夏休み明けは運動会の練習になってしまうので、入れるチャンスがあまりなく、欠席すると水泳授業への取り組み評価が出来ない(水泳検定で結果が出せなかったり、検定に休んでしまうと、自動的に水泳の評定は悪くなってしまう)という事情もあったそう。
「あなた、この間も生理で休んだでしょ、1ヶ月にいったい何回(何日)生理があるのよ!」
だけどさすがに先生も本当に生理かどうか確かめるわけにはいかない。
生徒と先生の悪知恵比べ。
「先生~、わたし生理不順なんです。生理痛も酷いし」

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⚾ 野球部の男子は、放課後に練習試合がある日(主に土曜日、当時はまだ土曜日は半日学校があったのよ)などには、肩を冷やすからと言って水泳の授業を休むことが(男性教諭から)認められていた。
「なにそれ、差別~」と女子のひんしゅくを買っていた。当時から野球部の特別感は半端なかった。

🏊‍♀️ 私は小学生の時はプールも川も海も好きだった。泳ぐのは嫌いではなかったから、中学生になっても水泳の授業をずる休みするようなことはなかった。
でも思春期の頃って泳ぎも然ることながら、その周辺にもいろいろあるわけで。体型とか、ムダ毛とか、教室あるいは更衣室での着替えの煩わしさとか、濡れた髪の毛のこととか。若くても若いなりにやっぱりいろいろ面倒くさいし大変だったりする。
だから高校にプールがないことは喜んだ。私だけでなく高校にプールとマラソン大会がないことは女子高生には概ね好評だった。

🌊 海のない県に生まれ育ったせいか、私は海に入ったあとの砂のジャリジャリ感がとっても苦手である。子供の時はそれでも海で遊んだり泳ぐ魅力には勝てず海にも行ったが、大人になってからは海水浴に行きたいとは全く思わない派である。

🚏 保育園の先生をやっている知り合いによれば、やっぱりネグレスト(育児放棄・育児怠慢)なケースもあるのだとか。中にはお風呂に入れてもらえてないんだろうなぁという子供もいるので、園のプールの時間にシャワーでワシャワシャ洗ってあげると言っていた。

📊 小学校の時、夏休みの自由研究で、CMの種類を調べるという調査をした男子がいた。
当時は自分がした自由研究をクラスで発表していた。
発表の中でだったか、休み時間とかだったか忘れだけれど、生理用品を何に分類したのか私達女子は追及した。薬品に分類したって言っていたっけ。

🚚🚙🚑 私は小学生低学年の時に国道を走る自動車(の数だったか種類だったか色だったか詳細は忘れた)を調べたことがあった。

💮 小学の夏休みの宿題と言えば、夏休みドリル、絵(ポスター)、読書感想文、絵日記や朝顔などの観察日記、工作(発明展への出品を兼ねる場合もあり)、作文、自由研究といった感じかしら。
今は自由研究と工作が一緒になっているみたいな感じなのかしら?よく分からないけど。
私は息子達が夏休みの宿題に自由研究や工作をしたという記憶がまるでない。だからもちろん手伝ったという記憶もない。
息子達が取り組んでいたという記憶があるのは絵(ポスター)と読書感想文くらい。
作品を作って提出するような宿題はみなバックにどこか主催のコンクールが付いていて、その一覧がプリントに記載されており、その中から自分の好きなものを2つくらい選んで、規定に則って作った上で作品名や氏名や学校名などを書いた紙を貼り付けて提出するのではなかったかなぁというような気もするけれど、違うかな。
提出された作品は学校経由で各コンクールに出品されるか、学校代表を選んでコンクールに出品されるような感じだったと思うけれど、その記憶も怪しいのでホント良く分からない。
でも、コンクールに出品されたとか受賞したとかの表彰歴になるので保護者もついつい熱が入ってしまうのでは、というような気がする。’ゆとり教育’と言った時代もあったとはいえ、学校はやっぱり競争社会を反映するから。学校だって自分の学校の生徒が何かのコンクールで入賞すれば鼻が高いのだろうし、保護者や子供も学校の評価よりも外部評価による賞のほうが箔が付くと思っていそうだから、持ちつ持たれつと言うかなんというか。

💹 中学生や高校生の夏休みの宿題(作品ではなくて勉強系)を大学生などが代行してあげるアルバイトがあるという話は聞いたことがある。

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# by yumimi61 | 2019-08-25 11:21

コンパレータ

扇風機のエコー

扇風機 乃木坂46 作曲:角野寿和 作詞︰秋元康

心がざわざわしてる
最近ちょっとね
好きな人できたから
なぜだか扇風機に向かって
あああって言いたくなる
あああああ…








昔は誰に教わるともなく、子供達はみな、この扇風機前での発声をやっていましたね。あ゛~
扇風機前の発声で聴こえる音にも反射音(反響音)が含まれています。
扇風機にかなり近づいて、クルクルと回っているプロペラに向かって声を出すので、その声(音)がプロペラの羽根にぶつかって、跳ね返ります。非常に近いところで跳ね返ってきます。また幾つかの羽根があって、それが回転しているので、ぶつかった音が拡散されやすい。
その反響した音が聴こえるのです。これは空気を伝わってくる音です。
でもそれだけではないのです。
人間が自分で発する声は、声帯から直接自分の身体を伝っても耳に届いています。これを骨導音と言います。

骨伝導は、空気を伝って鼓膜(中耳)を振動させ聴覚神経(内耳)に伝わる(気導音)に対して、声帯などの振動が頭蓋骨を伝わり直接聴覚神経に伝わる(骨導音)ものである。この骨伝導は意図的に起こさずとも日常で常に起こっており、例えば自分が聞く自分の声は気導音と骨導音が合わさったものである。録音した自分の声を初めて聞くと強い違和感を覚えるのは、録音機器のマイクは空気伝導によって伝わる音のみを録音するからである。

上記のように骨導音は、振動する物体を頭部や頸部(乳様突起が用いられることが多い)に接触させることで音の一部が外耳・中耳を介さずに直接内耳に到達する。これを利用し、外耳・中耳に障害のあるタイプの伝音性難聴用の補聴器へ活用されている。

外部の騒音に妨害されずに音を聞き取ることが出来たり、逆に骨伝導で音を聞きながら耳から入ってくる音も聞くことも出来るため、空気伝導を利用した音響機器と異なり耳を開放しておくことが出来る。そのため、耳を開放しておかなければ危険な状況で働く人(消防士や兵士など)の通信機器に利用されている。さらに長時間空気伝導を利用した音響機器を使用すると、疲労や聴覚の機能を低下させる可能性があるが、骨伝導ならばその可能性が少ないとされる。

この利点を生かしたスピーカーやヘッドフォンが発売されており、ジョギングやマラソン、アウトドアの愛好者が使用する例も増えている。また、携帯電話でこの骨伝導スピーカーを搭載した機種が発売された事もある。そのほか、骨伝導ヘッドフォン内蔵のヘルメットやサングラスなど、その形状も多様化している。


外部の騒音に妨害されずに音を聞き取ることが出来るとありますが、自分でそれを確かめるには、自分の耳の中に指を入れて両耳を塞ぎ、外部の音をシャットダウンした後に、あ~と声を出してみてください。外部の音は聞こえてこなくても自分の声はちゃんと聞こえます。これが骨導音です。

音の伝わりやすさと弱まりにくさは、固体>液体>気体の順番になります。
あと空気中では気温が高い方が若干(1℃上昇するごとに0.6秒)伝わり方が早くなります。
前記事に音は1秒で340m進むと書きましたが、これは1気圧・気温15℃の時。
気温が0℃で331m、15℃の時に340m、25℃になれば346m、35℃になれば352mとなります。
扇風機を使うくらいだから暑い日だと思うので、寒い時より少し響きがよくなるでしょう。

声を出している本人は、骨導音と、すぐ近くの反射板(扇風機のプロペラの羽根)で跳ね返された音(気導音)、その両方の音を聴いているので、通常とは違って聞こえます。
もっと厳密に言えば、普通に話をしている時と同じに、扇風機の羽根以外でも跳ね返っている(反響している)音があります。
響きが弱い所で話したり歌っている本人が聴く声は骨導音の比重が大きくなりますが、扇風機前は響きが良い。

 あ~と発声している本人・・・骨導音+気導音(反射音・反響音)
 聞いている人・・・気導音(直接音・反射音・反響音)

さらに骨導音や直接音と反射音・反響音の音波の山の部分と谷の部分(振動周期)が一致すると、共鳴(共振)が起こって、ゥワ~ンというように響く(音の振幅が大きくなる、音波の高低が大きくなる)。


響かない世界

音が響いたほうが豊かな音楽が奏でられるクラシック。
PAを使ってどんなふうにも響かせることが可能だけど、程々にしておかないと歌詞が不明瞭になるなど弊害もあるロックやポップス。
響くと何を言っているのか分からずに困ってしまうスピーチ。
音が響かないことを嘆いたり、音が響くことを嘆いたり、人間は忙しい。

日常生活ではお風呂場でくらいしか、音が響いていると改めて感じることはないけれど、私たちの周りに物が存在する限り、多かれ少なかれ音は反射し響いている。

では響かない世界は存在するか。響かない世界は存在する。空気中を進んで壁に伝わった音を反射させないで丸ごと呑み込んでしまう。全て吸音してしまうのである。
人間は響かない世界も造れるのだ。
真空は無響室と違って、空気が存在しないので、そもそも音が壁まで伝わらないということになる。

無響室、それが人間が造った響かない世界である。

無響室(anechoic room)
音の反射をほとんどなくし、室内での音の反響を無視できるほど小さく設計した部屋のことである。
無響室は、自由音場の条件を実現するために、壁、天井、床を高い吸音性に仕上げてある。室外の音響や振動を完全に遮断するとともに、床・天井・壁を厚い吸音体で覆い、室内の反響が生じないようにしてある。
工業製品や家電製品の動作音測定や音響機器開発などに用いられる。残響時間は、ほぼ0になる。そのため、周囲の音の反射具合に影響されずに、被測定物の発生または検出する音だけを忠実に測定できる。たとえば、スピーカーの周波数特性、マイクロホンの指向性などを測定するために使用する。

残響が非常に少ないため、聴覚的には壁・床・天井などあらゆる物体が自分の周囲にない状態と同じになる。そのため、無響室にこもり室内の照明を消すと、独特の浮遊感を得ることがある。また、会話をしても、発声に費やしたエネルギーの多くがすぐに当該室内の内面に吸収される。


私はソニーの無響室に入ったことがあり、前にもちょっとだけ書いたこともある。
かつて一度、「無響室」というところに入れてもらったことがあります。
オーディオ製品の実験に使用していた部屋でした。
その名の通り、音がまったく響かない部屋です。
すべての音が、自分の声さえ、瞬時に消えてしまうような、ちょっと異様な世界でした。
説明してくれた人は、「ここには長時間はいられない。気がおかしくなって危険なんだ」というようなことを言っていました。
随分と前のことですが、今でもよく覚えています。


世界一静かな部屋、マイクロソフトの「無響室」を体感する
2018.04.01 Sun posted at 18:14 JST
 より

(CNN) しばらくの間じっと立っていると、自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。耳鳴りの音が耳をつんざく。動けば骨がきしむ音を立てる。やがて平衡感覚がなくなる。反響音の一切ない環境が、空間認識力を破壊するためだ。

この部屋は、米ワシントン州レドモンドのマイクロソフト本社内にある。外部の音は完全に遮断され、室内で発生する一切の物音を抑える。ここが「無響室」と呼ばれるのは、一切の反響を生じさせないことによる。拍手をしても、不気味なほど音が響かない。

背景音を極端に抑えた環境は、数学上の理論として存在する完全な無音に近い。もう1つ下の段階は、音が伝わらない真空。

ここは世界一静かな場所だ。

無響室を設計したマイクロソフトの研究員ハンドラジ・ゴパル氏は言う。「入室した瞬間から、形容しがたい、奇妙な、独特の感覚を覚える」「ほとんどの人は、無音状態に耳をつんざかれるように感じ、耳が詰まったように感じたり、耳鳴りが聞こえたりする。背景音が極めて小さいため、ほんのかすかな音でもはっきり聞こえる。首を動かせばその動作音が聞こえ、自分の呼吸音が大きく聞こえる」

同氏によると、実世界では耳が継続的に何らかの音にさらされていて、鼓膜には常にある程度の圧力がかかり続ける。しかし無響室に入ると、壁からの音の反射がないために、鼓膜に圧力がかからなくなる。

(マイクロソフトの)無響室の騒音レベルはマイナス20.3デシベル。つまり、人の聴力の限界とされる0デシベルより、20.3デシベル低い。これと比較して、静かな室内で聞こえる静かな呼吸音は10デシベルの大きさになる。

マイクロソフトの無響室は2015年、ギネス・ワールド・レコードで世界一静かな場所に認定された。

それまで世界一だった米ミネソタ州ミネアポリスのオーフィールド・ラボは、マイクロソフトと違って一般に公開されているため、ちょっとした観光スポットになっている。

無響室は主に、さまざまな製品が出す雑音や音響の検査に使われる。マイクロソフトはマイクやヘッドホンといった音響機器の検査や、キーボードやマウスなどのコンピューター機器から出る音を分析するために利用している。

無響室の中で過ごした時間の「世界記録」は存在しない。それでもオーフィールドには、世界記録に挑戦したいという人からの問い合わせが後を絶たないという。

マイクロソフトのゴパル氏によれば、無響室に入った人の最長滞在時間は約55分。「30分ほど中にいられた人も数人はいたが、わずか数秒で出してくれと頼む人もいた」という。







# by yumimi61 | 2019-08-23 16:41

コンベンション

 音が1秒間に移動する距離

音が出ると必ず反響音や残響音も生じるものである。
反響音や残響音の時間が短いにせよ長いにせよ、特別に響かない仕様にしない限り、響きが無ということはない。

クラシック音楽、特にオーケストラの場合は、反響音や残響音が比較的長いほうが良い。

身近なところで反響音や残響音が強く長いのは、お風呂場やトンネル、洞窟や鍾乳洞(あまり身近ではないですか?)など。
材質が音を反射させやすいものであり、空間も狭いので、響きやすい。

音波が壁などにぶつかって往復することによって反響や残響は生じる。
空気を伝わってくる音は、1秒間に340m進む。
単純に一方向に進むものとして考えれば、壁から壁までの距離が10メートルだとして、片方の壁際で音を出せば、34回(往復17回)往ったり来たりすることになる。もちろん音の大きさにもよるし、距離が進んだり壁にぶつかれば音はだんだん弱くなっていくので、その全てを人間が聴き取れるわけではないが、それだけの回数を音は移動しうる。
もし壁から壁までの距離が34メートルだとすれば、上と同じ音だったとしても10回(往復5回)しか移動しない。
だから大きな会場ほど響きは弱いし、さらに音源から遠ざかるほど音の大きさも小さくなる。


残響時間と周波数特性

残響時間とは、音源が音を出すのを止めてから、空間の音の平均エネルギー密度が最初の100万の1に下がるまで、音の強さで言えば最初の音の大きさから60dB下がるまでに要する時間のことと定められている。
スピーカーからピンクノイズを発生させて測定したりする。
簡単に言えば、最初の音の大きさが60dBだったならば、それが0dBになるまでの時間である。
従って理論的には、最初の音が60dBよりも小さい音ならば、もっと早くに聴こえなくなっているはずだし、60dB以上の音だったなら、残響時間よりも長く響いている可能性が高い。


残響時間が同じでも高周波音が残響になる場合と、低周波音が残響になる場合では、音の印象はだいぶ変わってくる。周波数によるバラつきがない空間が良いというわけでは決してない。
だから本来は周波数ごとに調べて、最適な音響設計をする必要があるが、この評価自体が難しい。

・クラシック音楽で言えば、低周波音は重厚感を出す。音に厚みを付ける。高周波音はエネルギッシュな力強さを表現する。
ロックでは、低周波音がリズムを担っている。またPA使用時などで大音量を出す際には低周波音の比重が高くなる。

・音の広がりは、低周波音のほうが様々な方向に広がる傾向が強い。高周波音ほど直進しやすい。

・吸音されやすいのは、高周波音のほうで、低周波音は高周波音の15~25%程度しか吸音されない。

・多くのホールは、125Hz以下(日本語会話音域より低い音、低周波音)の方が残響時間が長い。

前記事には低周波音は一般的には聴き取りにくい音だということを書いた(聴き取れなくても振動として感じることはある)。
若く健康で感度の良い耳を持っている人であっても、低周波音は通常の音よりも大きな音でないと聴こえない。
しかし低周波音は楽器ではわりと身近な音でもある。
音に対する感度が悪くなれば(聴力が低下すれば)、それこそ爆音でも出さない限り、この低周波音も聴き取れなくなってくるわけである。


つまり、
低周波音は、残響しやすいが、人間には聴き取りにくい音でもある。

高周波音は、残響しにくいが、聴き取りやすい音である。(但し10000Hz以上は30代以降は聴き取りにくくなる)


このように全く正反対とも言える特徴を持つ音を、例えば「残響時間を延ばす」とか「大きな音を出す」といった1つの対策だけで、調和のとれた心地よい音楽にしようとすることには無理がある。
全体の音量を上げても、正反対の特徴が解消されるわけではない。
全体の残響時間を延ばしても、正反対の特徴が解消されるわけではない。

低音域の楽器が聴こえるようにと音を大きくすれば、低周波音だけがやたら残響している破目に陥る。
もともと聴き取りやすい高音域の楽器が響かせようようと音量を張っていけば、低音域の音を尚更掻き消してしまう。

オーケストラや吹奏楽の生演奏などは、会場特性、演奏者(楽器)の位置、指揮者の判断と指示、演奏者の判断と技量、これらが本当に全てピタリと嵌らないと音響的には素晴らしい音楽にはならないし、素晴らしい音楽だったとしても聴く席によってなお微妙に違いが出ることは避けようがない。
聴力の問題は前回書いたので省略するが、生演奏においても、どうしようもないのが聴力の問題である。


反響すれば良いというわけではないホールや体育館

多目的ホールでは音楽コンサートだけではなくて、講演会や記念式典など多様な用途で使われる。
従って当然にスピーチがメインになる催し物も沢山ある。

学校の体育館も運動以外の用途は、合唱や楽器演奏もあるけれども、負けず劣らずスピーチする機会も多い。
学校以外の体育館は運動競技が主である。ただそれに伴うアナウンスは必須である。
体育館は広いから反響しやすく残響時間が長いという音響関連の記述をわりと結構見かけるが、反響しやすいのは狭い方であり、広い方ではない。
もっとも体育館が広いか狭いかということは、何と比べるかによるけれど。

体育館が反響しやすいとするならば、構造体並びに天井と壁と床の材質が反響しやすい材質だからであろう。窓がありガラスが入っていれば、ガラスも反響しやすい。
但し、予めスピーチやアナウンスを見込んで、また防音などのために、壁などに吸音(音漏れ)対策を施して建造していることもあるので、反響するかしないかは体育館によって違う。対策を施していても経年劣化することもある。
もっとも冷暖房完備ではない体育館は季節を選ばないと、何をするにも問題が生じる。限界というものがある。

競技用の体育館で周囲にぐるりと観客席があり、中央で演奏するような場合には、アリーナ型となり音響的にはあまり良くない。
学校の体育館にはステージが設置されているが、ステージ上に幕だとか窓にカーテンなどが吊るしてあり、それが吸音の役目を果たしてしまうので、それらの物は生合唱や生演奏には向かない。
そのわりにはスピーチやマイクを通した音楽が聴き取りにくいという場合には、おそらくスピーカーの種類や設置・配置場所、個数、音響機器の不足や設定などに問題がある。

話を聞き手に正確に伝えるためには明瞭度の高い音づくりをする必要があり、その場合には反響音や残響音が問題になる。まさにこれが障壁になってしまう。

歌詞のある歌の場合も、反響音や残響音が強いと歌詞が聴き取れないで不快感が増してくる(満足度が減少してしまう)ので、PAを使用して音量が確保されるロックやポップスでは反響音や残響音をある程度抑える必要がある。
歌詞を知っている場合には、脳内で、あるいは声に出して歌い、よく聴き取れなくても自分で補うので、多少不快感は緩和されるかもしれない。(ライブに行く時には予め楽曲を聴きこみ、歌詞を暗記するくらいまでになっておくことを、人は予備練習と言う?←観客の話です)


齟齬

Musicman-net 第78回 大賀典雄氏 ソニー株式会社 相談役  2010年12月18日 より

−−軽井沢大賀ホールは5角形で平行壁面がない作りだそうですね。

大賀:シューボックススタイル(長方形タイプ)にしてしまうと平行壁面ができて音が消し合ったり、増幅されたりして音が悪くなるんです。東京芸術大学に講堂ができたときにオープニングの式典があったんですよ。そのときに学長が話し終わったら誰かがすっと立って「今仰ったことがひと言もわからないんですけど」と言ったんです。私も本当に平行壁面というのはこんなに音を悪くするものかと思って。ウィーンの楽友協会のホールは平行壁面ですが、あれは立地の事情から平行壁面で作らざるを得なかったんです。だから両側に彫像をずっと置いていったわけです。他にも上から大きなシャンデリアをおろしたり、正面はパイプオルガンのパイプで音を反射させているのですが、そういうことができればいいけれど、ただのシューボックススタイルだと音が悪くなるに決まってると。


シューボックススタイルの講堂で、学長が話をしたら音響が悪く、何言っているか分からなかったという話だが、シューボックススタイルは反響しやすいのだから、そんなの当たり前。
オーケストラの音楽とスピーチを一緒に考えてはいけないと思います。

但しシャンデリアなど何か物が何かあったほうが(それが吸音性の低い物ならば)、反響音を拡散させて空間全体に響き渡らせる効果があるのは確か。特に直進性の高い高周波音を散らすことが出来る。

ウィーン楽友協会↓
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軽井沢大賀ホールは2005年4月に開館した。
大賀(1930年1月29日 - 2011年4月23日)は、その時75歳だった。
こう言ってはなんだが、聴力的にはかなり微妙な年齢になっていた。
しかも先に書いたように、ジェット機操縦などもしていた御方である。

中年期に入る頃には、健康を損なうようにもなっていた。
そうでなくても中年期は、身体的にも精神的にも感覚器的にも転回期にあたる。
それに加えて、それまでの激務と不養生がたたり、病気のデパートとまでは言わないが、病気とは随分と親しくなったのではないだろうか。
周囲の心配もあっただろうけれど、救急搬送されたことは10回以上に及んだそうである。
2001年には北京でオーケストラを指揮中に脳梗塞で倒れた。飛行機で日本に運ばれたが一時期は意識不明だった。
残酷かもしれないけれど、大賀ホールを建設する頃には、大賀自身はもう音響を語れるような健康体ではなかった。





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# by yumimi61 | 2019-08-22 18:15

コントラバス

音波

音は空気の圧力変動を振動として感じるものである。

●音の周波数・・・単位はHz(ヘルツ)で示される
 1秒間に振動する回数のこと。(音波の周期)
 振動回数が多い方が高周波、少ない方が低周波である。

●音の大きさ・・・単位はdB(デシベル)で示される
 圧力変動の大きさ(音波の高低)

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低周波音と超低周波音

人間の可聴域は100(20)~16000(20000)Hzである。
( )内は若くて健康な感度の良い人の場合。
例え若くて感度が良くても20Hzより低い周波数の音や20000Hzよりも高い音は人間には音としては聴こえないとされる。但し振動としては認識可能(但しそれも振動の大きさや個人差による)。
100~20Hzを低周波音、20Hz以下を超低周波音と呼ぶ。

高音域を聴き取る力は加齢によってどんどん低下するので、30歳を超えれば16000(20000)Hzが小さな音で聴こえるということは稀になってくる。

以前も書いたが、人間の耳の感度の良い周波数は2000~5000Hzである。
これは一般的に、小さな音でも聴こえる周波数、と言い換えることが出来る。(騒音性難聴の場合は4000Hz辺りから低下しだすので、小さな音では聴こえなくなる)

今回はグラフの左端に低周波音を聴きとれる音の大きさを示した。(水色の線)
若く健康で感度の良い耳を持っている人であっても、低周波音は通常の音よりも大きな音でないと聴こえない。
しかし低周波音は楽器ではわりと身近な音でもある。
音に対する感度が悪くなれば(聴力が低下すれば)、それこそ爆音でも出さない限り、この低周波音も聴き取れなくなってくるわけである。

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低周波音
一般に周波数100 Hz以下の音を指す。したがって、ヒトの聴覚では感知できないような低い周波数の音も含まれるが、そのような音でも振動などとして感知できる場合がある。
多くの楽器において基音が含まれる周波数帯域であり、音楽において重要な音域である。
電気的な音楽再生においては、この帯域をより正確に容易に再生するべくサブウーファーなどの導入が試みられる場合がある。

※この場合の基音(Fundamental tone)とは、楽器が出す最も低い周波数の音。fo と表記される。

サブウーファー(英語: Subwoofer)
概ね 100 Hz 以下の超低音域のみを担当して再生するスピーカーである。主たるスピーカーシステムとは別体である場合が多いが、一体となっている場合もある。

PAなどの設備音響においては、ロックミュージックの商業化により、PAシステムに対して可搬性と低域の再生レンジ拡大の相反する仕様が求められた結果、1980年代にはそれまでの帯域ごとにブロック化されたスピーカーユニットを積み上げる方式から、2~3ウェイのユニットをワンボックスに収納し、必要に応じて低域を増強するためのサブウーファーを別ボックスで組み合わせるスタイルが出現した。これにより、低域の再生限界への対応とPAシステムの可搬化、セットアップの時間短縮が可能になり、今日における標準的なシステムとなっている。



低周波音の影響

2000年頃から低周波騒音への苦情は増加しているという。
今後の課題としては、国はどう世界各国に合わせた「低周波騒音の規定値」を早期に定めるかが必須課題であり、現在多くの民事で訴訟が発生していることも事実である。

低周波音の影響は、住宅などの建物や建具のがたつきとして現れたり、人体への種々の影響としても現れる。頭痛、イライラ、不眠、肩こり、耳鳴り、吐き気、食欲不振などの不定愁訴。何とも言えない不快感や圧迫感として感じることもある。

よくあるのは工場のボイラー音や施設などの大型室外機音。港の近くならば船のエンジン音。
近年新たに風力発電も問題になっている。
身近なもので言えば、冷蔵庫の運転音、エアコンの室外機から出る音、扇風機の動作音、換気扇の回る音、家庭用コージェネレーション(エコキュートやエネファームなどエコ給湯器)のヒートポンプの音、車のアイドリングなどが挙げられる。

私も睡眠不足や体調が少し悪い時、アイスコーヒーを飲み過ぎた時(笑)などには、エアコンの低周波音が気になる。
一般住宅や節約している建物の場合、全体にエアコンが効くわけではなく部屋単位なので、エアコンを付けたら部屋を閉め切る。そうすると余計に部屋の空気が重くなったように感じて、何とも言えない不快感や圧迫感やらを感じることがあるのだ。低い音とともに部屋の空気というか壁が微妙に振動しているような感じを受ける。
またエアコンの使用で耳から喉の調子が悪くなる時もある。山のほうへドライブした時とかトンネルの中に入った時、飛行機に乗った時などに耳が痛いというか、こもるというか、ぼうっとして聞こえにくいような感じになることは、誰でも一度くらい経験したことがあると思う。あれは気圧差(圧力差)によるもの。あれよりは軽い変調だけど長引くみたいな感じで起こるが、やっぱり部屋や車の内外の気圧差が影響しているのだろうか。

学校から漏れ聞こえてくる楽器の音、これは低周波音だけでなく、いろいろな周波の音が混ざっているので、「楽器の音がうるさい」と言うことはあっても「低周波音がうるさい」とは言わないかもしれないが、かなり低い音が出る楽器があり、それを響かせるには中高音域の楽器よりも音の大きさは大きくなりがちなので、聞く人が聞けばズドーンと身体に響くような不快な音になりかねない。


音のデジタル化

アナログ的に音波を表せば、すべてが繋がれて描かれる。
音波の高低や回数は違っても途切れることはない。連続している。レコードはこちら。
デジタルの場合は、それがとびとびな値で表現される。何故かというサンプルの値(標本値)を繋げるからである。CDはこちら。
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CD(Compact Disc)はデジタル情報を記録するもので、いろいろなメーカーが開発競争にしのぎを削っていたが、ソニーとオランダの電機メーカーのフィリップスが共同開発し商品化した。
1978年、フィリップスに声を掛けられて、これを進めたのが当時ソニー副社長兼CBS・ソニーの社長であった大賀だった。
最初のCDプレーヤーが発売されたのは1982年のこと。

大賀は東京芸術大学出身の声楽家であった。
同大学在学中に東京通信工業(のちのソニー)のテープレコーダーの音質にクレームをつけたのがきっかけで同社嘱託となる。井深大とは、大学進学前に東京通信工業の出資者のひとりから紹介されて顔見知りであり、同社が国産初の磁気録音機を芸大に売り込んだ際に協力していた。
東京芸術大学の音楽学部を卒業後、同大学の専攻科を修了し、東京通信工業の嘱託として給料をもらいながら、ドイツに留学した。ミュンヘン国立高等音楽大学にて学んだのち、田中路子の勧めでベルリン国立芸術大学に移り、同大学の音楽学部を卒業した。このころ田中路子の紹介で、ベルリン・フィルハーモニーの新指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと知り合う。

生音にこだわるクラシック音楽家がデジタル化に積極的だったというのは少々意外な気がするが、マスターテープからレコード化する時にはどうしても物理的な劣化が生じ、再生するにあたってもノイズが乗る。デジタルは劣化しないし、ノイズも乗らないので、その意味での音質ならば当然デジタルに軍配が上がる。
創業者の1人である井深はデジタル化に反対であったという。


サンプリング周波数

CDのサンプリング周波数は44100Hz(44.1KHz)である。
簡単に言えば、1秒間に44100回の音波標本をとるのである。
人間が音として聴くことが可能な最大周波数は20000Hz(20KHz)。
この音は1秒間に20000回振動するということ。
振動(波)というのは結局高低が出るということでもあるので、高い所と低い所の両方をサンプリングしないと元の音に近づかない。よって20000回の倍の40000回に予備を入れて44100回。
その後、このサンプリング周波数は多いほど原音に近づくということで、ハイレゾなるものが誕生してきた。ハイレゾのサンプリング周波数は192000Hz(192KHz)。1秒間に192000回も標本値を取るということになる。
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上の図では水色の波は8周期(8回)あるが、規則的8回サンプリング(オレンジ色)しただけでは揺れのない単調な音となる。茶色8回も入れれば、オレンジ色8回だけの時よりも細かな揺れが表現できる。
かなり雑な例えだけど、「コントラバス」と言う言葉、規則的にとびとびの3つの字を選べば「コトバ」になる。「コントラバス」と「コトバ」を言い比べてみてください。どうですか?似てるような似てないような。もちろん意味は全然違うものになるわけですが。
回数を増やせば増やすほど、なめらかな連続音(つまり原音)に近づく。但しこの作業自体は、標本値を増やしても正確に波が再現できるだけのことであって、聴き苦しい音楽が調和の取れた美しい音楽に取って代わるものではない。

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ビット数

CDは16ビットで、ダイナミックレンジ(小さい音と大きい音の差)は96dBである。
DVDやハイレゾは24ビットのものもあり、それだとダイナミックレンジ(小さい音と大きい音の差)は144dBである。
小さい音を0dBとしても、大きい音は96dBや144dBにもなるわけだから、耳にはあまり良くない音の大きさですね。
それをヘッドフォンやイヤフォンで大音量で聴くのはやはりちょっと怖いですね。


根本的な問題

レコードの音にしても、CDの音にしても、スマホでの音楽配信にしても、どんなに原音を正確に再現し、広範囲の音を提供したとしても、聴く人の聴力が低下していたら、原音や提供している音通りには聴こえない。
それは歌手や演奏者やエンジニアたちが幾らあがいても、解決しようのない、どうしようもないことである。

但し音を大きくすれば聴こえてくるという低下具合もあるので、聴力低下には音を大きく出すという対策がある程度までは有効と言えば有効である。
でも大きな音に晒され続ければ、聴力は落ちる一方なので、卵が先か鶏が先かではないが、どっちが原因で結果なのかよく分からなくなる。

よく聴こえない人にとっては救いの大音量かもしれないが、感度の良い聴力を持つ人や特別に良いわけではないけれども普通に聴こえる人にとったら、大音量ははた迷惑となるだろう。

人間には、あまり慣れない周波数や音の大きさは、雑音や騒音にしか聴こえないという側面もある。

アナログであるレコードの無理なく制作できる周波数は、70~10000くらいだそうである。これはある意味、人間の耳に馴染みのある音域で、健康な人ならば40代くらいまではそれほど低下もない音域である。
CDの場合はサンプリング周波数が44100Hz(44.1KHz)と決まっているので、再生できるのは20000Hzくらいの音まで。10000Hz以上の高周波音は加齢によって聴こえなくなるので、せっかく20000Hzまで出たとしても聴こえない。





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# by yumimi61 | 2019-08-20 16:53

イヤコン

加齢による聴力低下

カラヤンは公演のためにトータルで11回来日した。
先日も書いたが、初来日は1954年。

1954年(46歳) NHK交響楽団への客演指揮
1957年(49歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1959年(51歳) ウィーン・フィルハーモニーの指揮
1966年(58歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1970年(62歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1973年(65歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1977年(69歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮 ←初「普門館」、ベートーヴェン・チクルス
1979年(71歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮 ←リベンジ「普門館」
1981年(73歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1984年(76歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮
1986年(78歳) 来日予定だったが病気のため来日できなかった。
1988年(80歳) ベルリン・フィルハーモニーの指揮

1986年の病気は「長引くウィルス感染」とアナウンスされた。
ウィルス感染と言ったっていろいろあるが、聴力に大きな影響を与えるウィルス感染もある。
最後の来日公演は1988年80歳で、指揮台に上がるどころか、もう一人ではステージに出てくることも困難な状態にあった。

前に載せたこのグラフを再掲載する。
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初来日40代と70代の聴力を見比べてみてほしい。
もちろんこれはカラヤンの聴力ではない。比較的低い周波数の言語を持ち、静かであることを好む日本人の平均である。常に音を聴いている音楽家の平均でもないし、個々には個人差があるだろう。
それでも目安としてみれば、40代に比べれば70代はかなり聴力が劣っている。
実体験としても、生活に支障が出るほど耳が遠くなる老人は少なくないように感じている。例えば、電話での話が聴き取れないとか、どちらか片側の耳の方で話さないと聴こえないとか、大きな声で話しかけないと聴こえないなど。
そして、聴こえにくくなっていても、「聴こえない」とはっきり言う老人はわりに少ないし、分かるまで聞き返すということもしない。
適当に相槌を打ったり、愛想笑いをしたり、自分から畳み掛けるように話しかけたりして、何とか誤魔化して、その場をやり過ごそうとすることが非常に多い。
質問と違う答えが返ってくることで、よく聴こえていないことに気が付くこともある。


指揮者は必要なのか?

合唱でも吹奏楽でもオーケストラであっても、自分が歌っている時や演奏している時、あるいは聴いている時、あるいは指揮棒を振っている時、ふと、指揮者って必要なのかなぁと思ったことがあるはずだ。
バンドには指揮者がいないのにと。

指揮者は曲の基本的な速さと緩急(テンポ)、規則的な音の塊と強弱(リズム)、音を出すタイミングなどを演奏者に伝えるという役目を担っている。
同じ本を読んでも感じ方や解釈は人それぞれ違うように、同じ曲を聴いても同じ譜面を見ても楽曲に対する解釈は違う。
大人数の演奏者が解釈の違ったまま演奏したら纏まるものも纏まらない。例え音が協和融合していたとしても微妙に不協和音が生じてくる。
だから楽曲の解釈や方向性を決定し、各楽器にどのように演奏させるかを考えて指示を出すのが指揮者である。
楽曲や演奏者に感情を乗せる役目もある。

もちろん指揮者がいなければ演奏できないなんてことはない。
指揮者がいなくても合わせる工夫はいろいろあるだろうし、指揮者の代わりになりうる人(例えばコンサートマスター)もいる。
また事前に十分な練習やリハーサルの時間が取れれば、その段階で解釈や方向性や演奏の仕方を取り決めておけばよいのだ。(だから学校のコンクールなど素人集団ほど指揮者の必要性を感じない、笑)(特に多感な青少年期にあり、感情が伝播しやすい女子集団なんかは余計に、笑)
でも沢山の種類の楽曲を演奏する機会があり、1曲1公演の演奏時間が長丁場であり、また指揮者やメンバーが変わったりすることもあるオーケストラなどでは、やはりそんなに事前の練習やリハーサルに時間を割くわけにはいかないであろうから、指揮者はより重要になるのだろうと思う。

しかし、ひとつ重要なことを忘れがちなのだ。
それが音響である。


PAオペレーター(PAエンジニア)としての役割

ロックでもポップスでも、ライブ会場でもイベント会場でも、今はPAオペレーターがいて、音を聴衆に聞こえやすく調整していることが多い。
だいたいそのPAオペレーターはミキサーというものを操作している。

女子的にはミキサーと言えばキッチンのミキサーを思い出すかもしれないが、音響機器のミキサーは音をミックスさせる機械である。
スピーカーにマイク、CDプレーヤー、ギターやアンプなど複数の音響機材をつなげるための装置で、音量やイコライザーなど個別に操作して補正などができる。
ミックスさせる機械のミキサーなので、音を混ぜる機械と言われることもあるが、若干分かりにくい。音を調和させてひとつに纏める機械と言った方がよいかもしれない。

PAオペレーターはステージ上ではなくて観客側にて音を聴いている。
但し規模が大きなライブやイベントだとステージ上で音が聴き取れなくなるので、観客側に音を出すスピーカーとは別に、ステージに向けて音を出すモニタースピーカーや個人の耳に音を送るインイヤーモニター(イヤモニ)が必需品になる。これを使っている場合にはステージ上にもPAエンジニアがいることがある。

基本的に生演奏であるクラシックはPAを使わない。
しかしながら、他の音楽と同じように、またそれ以上に、ステージで演奏される音を会場の音響特性に合わせて最適な音質で提供することが求められる。
それにはどんな対策が必要で、どの楽器がどんな音量で演奏すれば良いのか、指揮者はそれを見極めて会場主や演奏者に指示を出す必要がある。
そして演奏の最中にも常に音響に気を配りながら、演奏を進めていくる必要がある。
指揮者は演奏者と逆を向いている。観客と同じ方向を見ている。
つまり演奏者に一番近い観客であり、音を聴きながら音を調和させてひとつに纏めるPAオペレーターでもある。
だからこそ音響には煩く厳しい必要があり、だからこそ聴力は重要なのだ。


職業病と趣味病

聴衆の手前にいて、一番大きな音が届く演奏者(楽器)の近くで、いつもいつも大きな音に晒されていたら、普通の人よりも聴力が落ちるリスクは高い。
しかもいつも研ぎ澄まされた神経で敏感に慎重に音を聴き分けるという行為はかなりストレスがかかる。
ストレスや疲労は難聴の引き金になるとされている。

さらに飛行機に乗って、国内外を頻繁に移動するとなると、耳への負担も増す。
移動後にすぐに演奏というスケジュールでは耳が休む暇がない。

カラヤンは自家用ジェット機を自ら操縦するほどの飛行機好きで、公演や別荘など世界中を飛び回っていたという。
これだけでも高高度と騒音のダブルパンチを食らってしまう。
さらに晩年になってもまだ、80歳で期限が切れる飛行機免許の代替としてヘリコプターの免許を取得したというから、もはや・・といった感じだったのだろうか。

カラヤンと親しかったソニーの大賀も、音楽家でありながら飛行機好きでジェット機を自ら操縦していた。






# by yumimi61 | 2019-08-19 17:14

ヒバリ

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📷 前記事に載せた中学校の合唱コンクールの写真の元記事に、生徒と先生の何人かがスピッツの『空を飛べるはず』を歌ったというシーンがある。

吹奏楽部の発表準備中に突如乱入!?
歌うはスピッツ「空も飛べるはず」
君と出会った奇跡がこの胸にあふれてる~♪


😭 実は次男の高校の卒業式の最後の最後に、卒業生が「歌を歌わせてください」と全員で歌った歌がある。それもスピッツの『空を飛べるはず』だった。

🐦 ヒバリ? スピッツの歌に『ヒバリのこころ』という歌もあったなぁと思って。

1991年3月25日にポリドールより発売。 都内のライブハウスで活動していたインディーズ時代からのレパートリーであり、現在でも一部のイベントを除き、ツアーでは必ず演奏されている。
メジャーデビュー前にも二度レコーディングされていたが、1stアルバムのレコーディングではリズムパターンやギターソロ、歌詞などが変更され、1stアルバム『スピッツ』と同時発売という形でシングルカットされた。
PVは竹内鉄郎が監督。映像中の風景は茨城県の田舎でバスを走らせながら撮影された。なお、このPV制作のために、竹内は大学の卒業単位を落としたというエピソードがある。
NHK「長野冬季五輪」CMソング(1998年)


🎤 ヒバリと言えば、ミソラですね。(それはやめなさい?)

1984年12月31日、第35回紅白歌合戦の放送終了間際に起きたハプニング。「ミソラ発言」と騒がれ、アナウンサー人生が大きく変わった生方さん。あのときなぜ間違えたのか――。四半世紀たったいまも、自分に問いかけている。
 「放送の仕事は消しゴムが効かない怖さがある」
 練馬区西大泉の自宅で生方さんはそう語った。現在の肩書はフリーアナウンサーだ。

 ハプニングは、84年の紅白を締めくくろうというクライマックスで起きた。「引退宣言」をした都はるみさんのラストステージ。アンコールが終わり、どよめきと拍手が鳴りやまぬ中、「もっともっとたくさんの拍手を、ミソラ……」とやってしまった。
 生方さんによると、台本には「はるみさん」と書き込んであったという。
 「でも、ロウソクの炎が燃え尽きたように崩れ落ちていくはるみちゃんの姿を見たとき、美空ひばりに並んだな、ここはきちんとフルネームでなければいけないな、ととっさに思ったんです。その結果が『ミソラ』でした」
 視聴率は過去10年間で最高の78.1%。が、正月のテレビは「世紀のトチリ」に明け暮れ、笑いのネタにされた。

生方さんによると、84年の紅白の台本は188ページ。「感動」を演出しようと、都はるみさんがアンコール曲を歌う場面の178ページは空白だった。アンコール曲を歌うことを都さんは最初了解していなかったという。
 12月31日の当日。白組が終わり、紅組のラスト、都さんが「夫婦坂」を熱唱する。会場から「アンコール」の声がわき起こる中、舞台に躍り出た白組司会の鈴木健二さんが「私に1分間、時間を下さい。いま交渉してみます」と絶叫。泣き崩れそうになる都さんを支え、「1曲歌う気力がありますか。お願いします。お願いします」と説得した。
 都さんが同意する直前、アンコール曲「好きになった人」のイントロが流れた。異様な盛り上がりの中、都さんは2番だけをやっとのことで歌い終えた。「ミソラ」発言が飛び出したのはその直後だった。

「ミソラ発言」いま語ろう 元NHKアナ生方恵一さん 2009年11月16日 朝日新聞DIGITALより

🙏 生方恵一アナウンサーは群馬県前橋市出身でした。2014年12月にお亡くなりになられました。

⚓ 埠頭を渡る風を見たのは~♪
松任谷由実さんの『埠頭を渡る風』の埠頭は、晴海埠頭らしいです。
(はるみで晴海を思い出したのは確かですが、他意や悪意は全くございませんのでお許しください)

👣‍ 先日「努力」の話で私たちが中高校生の頃は卒業時にサイン帳に何か書いてもらうのが流行っていたと書いた。
サイン帳のことは前にも記事にしたことがあり、これも以前に載せたような気がするが、字は水前寺清子さんの『365歩のマーチ』の歌詞が書いてある。
人生はワンツーパンチ~ 汗かきべそかき歩こうよ~ あなたの付けた足跡にゃ~ きれいな花が咲くでしょう♫
これを書いてくれたのが、うぶかっちゃん。名字が生方(うぶかた)、普段は下の名前で呼んでいたけれど、時々ふざけて’うぶかっちゃん’と呼んでいた。

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🎶 これも前に書いたかな。高校の時の校内合唱コンクールで優勝したことがある。
その時に、朝練や昼連や夕連などでクラスを引っ張っていたのは先生ではなくて声楽部の女の子だった(女子高だから女の子は当然なんだけど)。
それで歓喜の優勝をはたし、大会の歌唱(自分達のクラスの歌唱だけ)をクラス全員にダビングして渡したんだけど、学校の視聴覚室で行ったダビングに私も携わった。で、カセットテープのケースに入れる紙に絵を描いたのが確か、絵の上手なうぶかっちゃんだったと思う。

™ 小保方騒動の時に書いたような気がするが、小保方や生方という名字は群馬県に多い。
オボカタ【小保方】
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名字由来net
・現群馬県である上野国佐位郡小保方が起源(ルーツ)である。近年、群馬県に多く、特に佐波郡に多数みられる。(市町村合併などがあり変わっているので旧佐波郡のことだと思う)
日本姓氏語源辞典
・群馬県伊勢崎市、群馬県太田市。群馬県伊勢崎市東小保方町・西小保方町発祥。戦国時代に「小浦方」の表記で記録のある地名。姓は戦国時代に「小甫方」とも表記した。小甫方は現存するか不明。

ウブカタ 【生方】
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名字由来net
・宇夫方と同じ出自ともいわれる。中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流、南部家の士族に見える。
日本姓氏語源辞典
・群馬県。小保方の異形。群馬県渋川市上白井に江戸時代にあった。群馬県桐生市黒保根町下田沢の小字の清水では栗生姓の「生」と地名の小保方の「方」から南北朝時代に称したと伝える。小保方(オボカタ)参照。栗生(クリウ)参照。

📚 そういえば、小保方騒動(iPS細胞STAP細胞騒動)真っ只中の時に、たまたま『5時に夢中』に夢中」を見たことがある。
今何やら話題になっているらしいけれど、『5時に夢中』はTOKYO MXの生放送番組。TOKYO MXは東京都全域、その他には神奈川県、埼玉県、千葉県、茨城県の一部が受信可能で、エリア内の約1500万世帯が対象となっている。
群馬県は基本圏外だけど、『5時に夢中』は群馬県のローカル局群馬テレビが放送しているので、リアルタイムで見ることが出来る。番組は2005年4月に番組は始まったらしいけれど、2009年4月にどこよりも早く群馬テレビがネット局になった。
もっとも動画サイトに上がれば、いつでもどこでも見られるわけだけど。(普段著作権どうこうと煩い人達が、自分達に都合が良ければ?平気で動画をアップしたりもしますね・・)
私がこの番組を知ったのは、部活を引退して夕方早くに帰宅するようになった次男が暇つぶしに(勉強しなさいっ!)テレビをサーフィンしていて、見ていたことからだから2012年だったと思う。その時は群馬テレビではまだ番組途中からの始まりだった。このことも以前書いたはずである。次男が見ていたのは僅かな期間だった。

🗽 言論の自由が売りな番組だそうで、確かに他のテレビ局や番組では見られない自由な感じを当初は受けた。今は全体的にテレビの垣根というか壁というか線がなくなっていて、NHKだからとかMXだからとか飛び抜けた特徴が無くなっている気がする。どこも横並びなことが多く、コンプラと言って厳しく制約される面がある一方で、お堅いはずのニュースなどにも誰もが出演できてわりと好きなことを言えるような雰囲気があるように思えて、ある意味とてもくだけていて自由な感じを受ける。

🏩『5時に夢中』は子供が見るような夕方の時間帯でもありながら、性の話、それも大人が聞いてもかなりえぐい話がしょっちゅうされている。
しかも話だけに留まらず、新聞などの三面記事を紹介する場面では、風俗関連の裸の写真などが平気で映し出されたりもする。
決定的に私が見なくなったのは、男性同士の性交渉をわざわざご丁寧に絵に描いて見せていた時から。

📑 小保方騒動(iPS細胞騒動)の時には『5時に夢中』の出演者はみな小保方絶賛擁護派だった。
その騒動時期の出演者の発言で驚いたのが、今話題になっているマツコさん。
「私は時々ネイチャー(小保方女史の論文が掲載された雑誌)を読んでいるんだけど、」という発言。
マジか・・
英語版のNature誌?それとも日本語版のNatureダイジェスト?
ともかく人は見かけによらないんだなぁ・・という驚きでした。

📹 NHKなんちゃら党の方は、打倒NHK!ということならば、当時NHKに追い回されて怪我まで負ったらしい小保方女子さんを擁立するのはいかがでしょうか。(それはいい!と本気に受け止められそうでちょっと怖いけど、笑)

💹 NHKなんちゃら党の代表の方は、NHKの不正経理を告発してNHKを辞めたらしい。
どんな不正を告発したのかはちょっと良く分からないが、私がNHKの決算報告書を見ても確かに不可解な点があった。私はそれを記事にしたことがある。
それを言ったら財務省もおかしかったんだけどね。財務省でおかしなバランスシートを作った元財務官僚は当時大阪市長だった橋した徹氏(維新の会)の特別顧問でもあったのだ。そして散々騒がれた岡山理大の獣医学部新設(国家戦略特区)にも関わりがあった。
バランスシートなど経理関係の過去記事は、「昭和 質拾」 「昭和 陸拾玖」「昭和 陸拾捌 」などに。


🎫 サイン帳にいたもう一人の生方さん。
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🎹 りょうこお姉さんも沼女だったんだよ。(セーフ!?)

🔎🔍 一つだけの視点は危険・・・ということは複眼ですか!
トンボのメガネは水色メガネ~ 青いお空を飛んだから~ と~んだか~ら~~♪

🎡 トンボと言えば、赤トンボ研究の殺人事件、ではありません。
またしても生方さんです。
生方秀紀(うぶかた ひでのり、1948年生まれ)
日本の生態学者。理学博士(北海道大学)。北海道教育大学名誉教授。専門は昆虫生態学・自然環境教育。群馬県生まれ。
群馬県立沼田高等学校を経て、北海道大学理学部生物学科動物学専攻を卒業。1975年、同大学大学院理学研究科博士課程を単位修得退学。1979年12月、「カラカネトンボの個体群動態、行動およびテリトリー制に関する研究」で理学博士(北海道大学)。
日本学術振興会奨励研究員を経て、北海道教育大学教授および同大学釧路校初代ESD推進センター長を務めた。2013年の定年退官後も2015年より大正大学、2016年より日本大学の非常勤講師を並行して務めていた。


大学外においても、1993年International Symposium on the Conservation of Dragonflies and Their Habitatsコーディネーター、1993-97年Societas Internationalis Odonatologica(国際トンボ学会)理事、1999年国際協力事業団(JICA)理科教育短期派遣専門家(エジプト)、1999-2009年Worldwide Dragonfly Association(世界トンボ協会)理事、2005-07年Worldwide Dragonfly Association会長、2017-19年Worldwide Dragonfly Association日本代表、2011 -2015年日本環境教育学会理事などを歴任した。現在も、日本生態学会、日本環境教育学会、Worldwide Dragonfly Association、日本トンボ学会(編集委員)の各会員。
トンボ自然史研究所ホームページ

🗾 タイトルがヒバリなので、トンボから再びヒバリへ。
日本の以下の都道府県でレッドリストの指定を受けている。
 ●絶滅危惧II類 - 東京都区部、北多摩、南多摩(西多摩は準絶滅危惧)
 ●準絶滅危惧 - 福島県、山口県
 ●一般保護生物(D) - 千葉県(環境省の準絶滅危惧相当)
 ●その他 - 神奈川県(繁殖期・減少種)


👀 日本野鳥の会 ひばりは どこに? ~見かけなくなった、春の風物詩~
のどかな田園で陽気なさえずりを響かせ、空高く舞い上がっていくヒバリ――。
かつては春の風物詩として、だれもが知っている身近な野鳥でした。
しかし近年、都市部などではその姿を見かけなくなりました。
丈の低い草地を好むヒバリは、開けた原っぱや麦畑などに生息していますが、土地の開発や農業の衰退などによって草地環境が消失・荒廃し、近年ではヒバリやセッカ、ウズラといった草地性の野鳥も減少しているのです。

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20~30年前の1990年代でも、ヒバリはすでに東京では暮らしにくかったようだけど、今はどんなになったのかなぁ。少しは復活したのかな。

🚇 参考に東京地図も貼っておきますね。上の図と見比べると、ひばりが丘辺りも微妙な感じでしょうか。
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✈ 🌏 もっともひばりが丘という地名は、1959年に造成された「ひばりが丘団地」という日本住宅公団(現:都市再生機構)最大の公団住宅から名付けられたものだそう。地名より団地名が先ということ。
しかもその公団住宅地は中島飛行機の関連会社(中島飛行機田無鋳鍛工場→中島航空金属田無製造所)の跡地であった。
太平洋戦争が始まる4年前の1937年12月に戦闘機のエンジンを製造するために武蔵野に作られたのが中島飛行機武蔵製作所(陸軍の命を受けた軍需工場)であった。1941年にはその西隣に中島飛行機多摩製作所(海軍の命を受けた軍需工場)が作られ、1943年には両工場は合併し巨大な工場となった。戦時中にはこの製作所と田無製造所が線路で繋がれたという。
1944年7月、アメリカ軍はサイパン島を占領し、そこに大型爆撃機B29の基地を築いて、11月よりそこから日本本土への空襲を開始した。最初の爆撃目標となったのが中島飛行機武蔵製作所だった。同工場は度重なる空襲を受けて死者も出している。

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🌋 武蔵野台地は火山灰起源の関東ローム層(いわゆる赤土)で、腐葉土の土壌の蓄積がないために、植物の生育に必要な栄養分をあまり含まず、基本的には水はけが良い(乾きやすい)。水持ちが悪いうえ、台地であるがゆえに農業用水の確保が比較的難しい。だから農業に適した土地とは言えない。特に稲作には向かない。水はけの良い土壌の特徴を活かして畑作地や果樹園として利用されていることが多い。

🏭 農地としては利用価値が低く、都心部でもなく地価も安かった。平坦であるため造成費も安くあがる。よって工場や住宅地の開発は進めやすかった。
平坦な土地が広く得られることから、飛行場や飛行機製造のための大工場、軍の演習所として利用された。
武蔵野台地には軍需工場が続々と造られた時期があった。それに伴い、人口は増加し、町は発展していった。
軍需工場があったがゆえに戦時中には空襲のターゲットになり被害を出した一方で、町が発展する契機になったことも確かである。
戦争は嫌だということが多いが、戦争は雇用を生み、景気を大きく刺激し潤すことも一方の事実としてある。そして戦後には戦時中の発展を活かしながら跡地を利用して平和な町をもたらすのだ。
それを含めて迷いなく”NO WAR”と言えるのか。発展を享受しているだけの”NO WAR”にはやっぱり他人事感は禁じえない。その意味ではかつて流行したヒッピーのほうが覚悟があったと言えるが、何でも商業的になると本来の目的が薄れていくし、覚悟はどこかで行き詰まり妥協に向かうことが多い。

🌇 軍需工場の跡地に建てられた大規模公団住宅「ひばりが丘団地」。
戦闘機のエンジン製造という太平洋戦争の象徴は、戦後には高度経済成長の中で平和の象徴に掌を返した。
1960年、「ひばりが丘団地」には当時の皇太子・皇太子妃(現在の上皇・上皇后)が視察に訪れたという。
1960年(昭和35年)の皇太子・皇太子妃(現在の上皇・上皇后)の視察をはじめとして多数の要人が視察に訪れ、その様子は当時のニュースで配信された。
現在は住棟の老朽化が進んだために、「ひばりが丘パークヒルズ」へと建て替えが行われている。また、建て替え地区内の一部の古い住棟は様々な実験に用いられており、2008年(平成20年)には1列に4階立ちの住棟を3階建てに減築する実験が行われた。
当時4棟あったスターハウスのうち53号棟が改修・保存されており、その1階部分が「ひばりが丘パークヒルズ管理サービス事務所」として利用されている。53号棟前には上述の皇太子・皇太子妃が視察した部屋(74号棟208号室)のベランダ部分が、切り取られて保存されている。


🌾 うちの近くの田畑が広がる所ではヒバリが春先によく鳴いていて、私は犬の散歩に行った時に鳴き声を聞くことが多い。
姿が見えないくらい高い空でホバリングをしたり辺りを飛びながらが、長いこと高い声を響かせている。





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# by yumimi61 | 2019-08-18 10:52

カラコン

カラヤン来日の背後にいたマスメディア

世界的指揮者で音響に煩く厳しいカラヤン(1908-1989年)が初来日したのは1954年のことである。カラヤン、御年46歳。
NHK交響楽団への客演指揮のために来日した。

カラヤンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者になったのは1955年。
その2年後の1957年にベルリン・フィルを率いての初めての来日をした。
日独文化協定記念という名目で、11月3日~22日、東京のNHKホールを皮切りに日本各地で公演をしている。
主催は各地のNHK中央放送局とラジオセンター。
会場は、NHKホール、日比谷公会堂、名古屋市公会堂、福岡市電気ホール、八幡製鉄体育館、広島公会堂、大阪宝塚劇場、神戸国際会館、仙台市公会堂、東京体育館。
東京体育館での公演は東京都共同募金会による慈善演奏会という位置づけにあった。
この時は体育館でも演奏をしているくらいであり、音響がどうこうと煩いことを言ったような感じはない。

カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が普門館で最初に演奏したのは1977年であった。
カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は5度目の来日。カラヤン、御年69歳。
この年に来日した理由は、大阪国際フェスティバル20周年記念の公演を行うためである。11月6日~11月12日、カラヤン指揮の管弦楽の全5公演を大阪にて。(他公演が2公演あった)
東京に移動して、11月13日~18日、全6公演が普門館で催された。

【大阪国際フェスティバル】
朝日新聞文化財団が主催し、大阪国際フェスティバル協会が1958年から毎年開催しているクラシックの音楽祭。
わが国で唯一の国際音楽祭協会加盟の音楽祭で、原則として4月に、大阪のフェスティバルホールを主会場に行われる。大阪フィルハーモニー交響楽団、NHK交響楽団、アレクシス・ワイセンベルクらが毎年のように参加するほか、世界の優れた演奏家、芸術家が加わる。また「フェスティバル能」として能と狂言がホール形式で上演される。
フェスティバルホールの建て替えのため2009年~2012年にかけて休止していたが、2013年より再開した。


全国高等学校野球選手権大会(甲子園大会)の主催も朝日新聞社、全日本吹奏楽コンクールの主催も朝日新聞社。高校生を巻き込んだ狂想曲がどれだけ好きなんだろうと思いきや、大阪国際フェスティバルの主催も朝日新聞社(朝日新聞文化財団)なのであった。


チクルス

1977年来日の普門館にての東京特別公演では、ベートーヴェン・チクルスが演奏された。
チクルスとは特定の作曲家の作品を連続して演奏すること。
この時はベードヴェンの交響曲第1番~第9番まで(演奏順は数字通りではない)が6日に亘って演奏された。(全演奏を1万円くらいの席で聴けば6万円ですね!)
カラヤンにとってはこれが生涯最後のベートーヴェン・チクルスだったそうだ。

これが響きが悪く、聴衆を失望させた演奏である。
会場が多目的ホールで音響には配慮しておらず、しかも巨大すぎたことが第一の原因であるが、もうひとつベートーヴェン・チクルスだったことも要因だったのではないだろうか。

クラシック愛好家にもそうでない人にも、ベートーヴェンの交響曲は有名。
生ではなくても、全部ではなくても、どこかで一度くらい耳にしたことがある曲があろと思う。しかもベートーヴェンの交響曲は迫力があるイメージが強い。
知っている曲があって嬉しいー、それを世界的なカラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団が演奏したらいったいどんな大迫力になるのだろうと思い込んで聴きに行ったら、えっ・・・という感じだったいうか・・・有名損というか何というか、余計に失望上乗せ感が強かったのではないでしょうか。


普門館の反響板(音響反射板)
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上は1972年の全日本吹奏楽コンクールの写真(朝日新聞社)である。

中学・高校生部門の会場が普門館に固定されたのは1977年のことだった。
その前は持ち回りだったということは前述したが、その持ち回り期間に1度普門館が会場だった年がある。それが1972年の第20回大会である。

下の写真は『涙はロンド』という本に掲載されていた写真。
1980年の第28回大会である。

上の写真はサイドは見えていないが、演奏者の後ろにある板が反響板であると思う。
上の写真と下の写真では違うものであることが分かる。
下の写真に写る反響板こそが、カラヤンが1979年の公演前に作らせた反響板である。

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『涙はロンド』の著者である大木隆明先生は、群馬県の県立高校の吹奏楽部を3年連続金賞に導いたわけだが、それが、1978年・1979年・1980年である。(そして県教育委員会にお呼ばれして1981年に異動して専任指導主事となって学校現場での直接的指導から離れた)

1977年カラヤンが大阪にいる時に、東京の普門館では吹奏楽コンクールが実施されていた(11月4日~6日)。この普門館固定最初年の吹奏楽コンクールで銀賞。
翌1978年に金賞。
この2回はまだ古いタイプの反響板だったはずだ。
1979年のカラヤン来日は10月16~26日。全9公演で公演会場は全て普門館。
そしてその後、11月2日~4日に吹奏楽コンクールが実施された。これでも金賞。
つまり、元からあった反響板でも金、カラヤンオーダーの真新しい反響板でも金、だったということである。


エアリスの反響板

下の写真は息子が中学生の時の校内合唱コンクール。
校内コンクールだけれど、太田市新田文会館というところで実施されていて、保護者も観覧に行くことが出来た。
1日中ホールを借り、午前の部は合唱コンクールで、午後の部は少年の主張や英語スピーチコンテストの校内代表者の発表、部活やクラブ、有志、教師などの出し物というか発表があって、とても楽しいものだった。(出し物詳細は過去記事stageで)

知っている曲があって嬉しいーではないけれど、知っている子が沢山いて、知っている先生が沢山いて、嬉しいー面白いーとやっぱり思うものなのだ。
誰かの普段は見たことのない一面を見ることが出来て、人生の豊かさだとか楽しさだとかを知ることが出来る。
泣きながら練習したこともあったのかなぁという切なさだったり、他の道があったのではないかという人生の哀愁だったりをどこかに感じたりもする。
そして、いろんな子供達や教師がいるのだなぁと、しみじみと実感する。
傍目には、何にもならない、賞にも進路にも関係ない、無意味な時間つぶしなだけのモノかもしれないが、誰もがステージの上で光を浴びている姿にはとても幸せな気持ちにさせられた。

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写真に写っているステージ上の後ろ・横・上の板は反響板。
校内コンクールで一番になれば、市のコンクールに出場できるのだけれど、この頃は市のコンクールもここで行われていたので会場は同じ!
市のコンクールに出なくても、市のホールでいっちょまえに、反響板に囲まれて、照明をあててもらえて、披露できるなんて本当にそれも幸せなこと。観る方も良い経験でした。先生ありがとう。

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カラヤンのリベンジ!?

1977年の普門館公演(ベートーヴェン・チクルス)で聴衆を失望させてしまったカラヤン。
その2年後1979年、またしてもカラヤンはベルリン・フィルを引き連れて来日した。御年71歳。
この来日公演の主催は、日本音楽芸術振興会と新芸術協会だった。

=演奏された曲= 全9公演(10月16~26日の9日間)すべて普門館にて
①モーツアルト 交響曲第39番 変ホ長調 K543、R.シュトラウス 交響詩「ツァラトゥストゥラはかく語りき」 作品30
②マーラー 交響曲第6番 イ短調「悲劇的」
③シューベルト 交響曲第8番 ロ短調「未完成」、チャイコフスキー交響曲第5番 ホ短調 作品64
④ドヴォルザーク 交響曲第8番 ト長調 作品88、ムソルグスキー(ラヴェル編) 組曲「展覧会の絵」
⑤ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」
⑥ハイドン オラトリオ「天地創造」(1798)
⑦ヴェルディ 「レクイエム(鎮魂ミサ曲)」
⑧モーツアルト 「レクイエム(死者のためのミサ)」、ブルックナー 「テ・デウム」
⑨ヴェルディ 「レクイエム (鎮魂ミサ曲)」

④と⑤の間に1日公演休みがあるので、後半戦の幕開けがベートーヴェンの第九。
その後は宗教色が濃い楽曲が続く。
オラトリオ「天地創造」から一挙にレクイエムに行って、レクイエムが並ぶという展開。
カラヤンにいったい何があったのか。


日本のホールの劣悪な音響

1979年の来日が決まった時、実は会場は普門館とは決まっていなかったという。
巨大な普門館での1977年公演のトラウマがなくもない。

カラヤンは会場を決定するにあたって、ドイツの音響学の権威で、コンサートホールの音響設計士であり、ベルリンの放送局のプロデュ一サでオ一ケストラなどの録音にも長く携わっていた友人に、日本の会場の音響調査を依頼した。
1979年来日公演の候補となっていた会場は、普門館、NHKホール、東京文化会館であった。
結果、東京文化会館とNHKホールの音響は良くないという評価だった。
この2つだったら、まだ普門館の方が何とかしようがあるのではないかということで、新たな反響板の設置やら椅子に板を張り付けるなどの細工をして、残響時間2秒になるように変更を加えた。

カラヤンは残響時間は少なくとも2秒を理想としていたそうだ。(太田市新田文化会館の反響板を使った時の残響時間は1.83秒と書いてある)
カラヤンは結構教会での演奏がお気に入りだったそうで、残響時間3.5秒という教会もその1つだったという。
世界初のヴィンヤード型のベルリン・フィルハーモーニーの音響が悪く、本拠地でありながら、そこでは10年近く録音しなかったことは先に述べたが、その期間も教会を好んで使っていたらしい。

日本の地方のホールは通常多目的である。ホールの建設者や利用者などを考えれば、多目的にならざるを得ない。
しかし都市部の比較的多くオーケストラをはじめクラシック音楽演奏者が利用するホールでも音響は良くない。
音楽そのものよりも多くの人を呼び込んで儲けたほうが良いという意識が強い。確かに経営の一環で運営を行うならば万年赤字では維持が難しいという側面がある。
さらに生演奏であることを重視していない。
高いお金を出して演奏を聴きに来ている人に提供する臨場感(音響)や一発勝負であるという緊張感ではなく、テレビやラジオの放送や録音が前提にある。おそらく録音しての先のことまで念頭にある。
NHKホールなどはその典型なのだ。


厳しさ

1977年の普門館の演奏の反省から、1979年の普門館での公演にあたっては、日本側から残響可変装置(残響調整装置)も提案されたという。

アナログ的な反響板や可変吸音体(空気層を持つ吸音体の設置、簡単なものではカーテンや幕)も残響可変装置であるが、そうでなはくて電気音響設備としての残響可変装置があり、それを提案されたらしいのだ。
残響時間を自由に調整できるという特徴を持つが、しかし当時はまだ今よりも性能はだいぶ劣っていたはずである。
信号処理技術や電子機器が発達した現在でも、使用すること自体、またその質に対して、演奏者の拒否反応は強いそうである。
当然カラヤンにも断られた。

反響板などアナログ的な変更により残響時間2秒は得られ、カラヤンは納得した様子を見せたが、カラヤンが音響調査を依頼した音響の権威は、ホールで実際の演奏を聴いて、2秒に達しても音響が良いとは言えない、素晴らしい演奏だったとの感想を持てない、と辛辣な評価を下したという。





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# by yumimi61 | 2019-08-16 16:33

ガラコン

赤レンガ倉庫と地震

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の時には、その10年前(1913年)に完成した赤レンガ倉庫1号館は半壊したそうである。
その後、大改修をしたそうだが、1号館が2号館より小さいのはそのせいなのだとか。

レンガ自体は耐久性に優れていて半永久的とも言われる。
アンティークレンガなども売られているが、レンガは魅力的である。
しかし地震と雨の多い日本ではレンガ造りの家は適さない。
地震でバラバラガラガラと崩れ落ち、雨では漏水する。
地震でブロック塀が倒壊したり瓦屋根が落ちたりすることが多いが、レンガ造りの家は柱がないので、支柱の入っていないブロック塀のようなものである。
だから日本ではレンガ造りの家は普及してこなかったが、明治時代以降に欧米文化が積極的に取り入れられるに伴い、レンガ造りの洋館が数多く建てられた。
しかしそれも関東大震災などの地震で多くの建物が倒壊するという被害を受けてしまった。
それ以来、レンガ造りは地震に弱く、日本には合わないとの評価が再定着した。
日本でレンガの家にしたい場合には、構造体を鉄筋コンクリートにして、レンガを貼っていくような形になる。

横浜の赤レンガ倉庫も廃墟と化し、ボロボロで今にも崩れそうで、落書きだらけにもなったが、再びの大改修を経て2002年に復活を果たした。
おかげでレンガ造りでありながら2011年の大震災にも倒壊することはなかった。(もっとも震源に近かったわけではないけれども)


復活を諦めた普門館

吹奏楽の甲子園と言われるようなっていた「普門館」は、2011年3月11日の大震災をきっかけとして、2012年に耐震調査が行われた。
普門館は1970年4月に竣工しており、1910年代初めに竣工した赤レンガ倉庫よりは60年くらい新しい建物である。
しかし耐震性に問題があることが発覚した。震度6以上で天井が崩落する危険性があると判定された。
古くて規模が大きく、中ががらんとしたホールような建物はちょっと考えただけでも危なそうな感じがする。
2012年から全日本吹奏楽コンクールの中・高校生部門も名古屋国際会議場に会場を変更した。

ホールを所有していた宗教団体「立正佼成会」は様々な検討を重ねた結果、耐震改修や建て直しを断念したという。

普門館のある地域は、都市計画法(1968年に新法施行)によって第1種中高層住居専用地域に指定されている。
その法律には幾つかの用途地域というものがあり、それぞれ建てられる建物が決まっていたり、建設をする上での制限が設けられている。
第1種中高層住居専用地域は、住居専用地域とあるようにマンションなど中高層住宅のための地域。
住民の生活に密着している、学校、病院、老人施設、図書館、神社・寺院・教会、一定規模以下の店舗などは建設可能である。
しかし、事務所や工場、ホテル、遊戯施設・風俗施設 、展示場等、運動施設、映画館、ガソリンスタンドや自動車修理工場、大きな駐車場や倉庫などもろもろ建設が認められない。

普門館は1970年竣工であり、1968年よりは後に完成しているが、認可がその前に下りていて引っかからなかったのか、それとも法律の改正があってより厳しくなったのか、地域の姿が大きく変わったのか、よくわからないが、ぎりぎりのところで建てられたホールであるということになる。
普門館はホールの大きさも然ることながら、吹奏楽部の楽器を運搬する大型車や学生を乗せてくる大型バスが駐車できる大きなスペースがあったことが重宝された理由の1つでもあるが、本来は大きな駐車場なども造ってはいけない地域である。

2018年末から2年かけて解体予定が発表されたので、まだ解体中というところだろうか。


普門館の形式

先日コンサートホールには大きく分けて3つの形があるということを書いた。
では普門館はどうなのかと言うと、メガホン(扇)型である。

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メガホン(扇)型の中でも横幅が長く、しかも収容人数が多く大きいので、音響は見るからに良くない。

AERA 2013年12月16日号 「爆音系」が減る? 聖地「普門館」消えた影響 より抜粋
※アンダーラインは私が入れたものです。

 東京メトロの方南町駅(東京都杉並区)を降りて、環状七号線を北に進んでいくと、住宅街の一角に突如、圧倒的な存在感を放つ巨大な建物が現れる。吹奏楽の「聖地」、普門館だ。長年、全日本コンクールの中学、高校の部が開かれ、毎年約50万人の生徒たちがこの地を目指して練習に励んできた。

 この普門館、もともとコンサート専用ホールとして建てられたものではなく、あまりに巨大なため、演奏者たちは他のホールよりも音量は大きめに、音は長めに、と意識する。09年と13年に全日本コンクールの審査員を務めた指揮者の小林恵子さん(39)はこう指摘する。

このところ、普門館を鳴らそうと、音楽性や音色よりも、迫力や音量ばかり追い求める学校が増え、『爆音系』が主流になってきた印象があります

 普門館が使用停止になった12年以降、コンクールは、3千人を収容する名古屋国際会議場センチュリーホールで開かれている。昨年は、普門館仕様の演奏で臨み、音のバランスが崩れ、思ったような結果を出せなかった学校もあったが、今年は少し変化が見られた。

今年のコンクールを審査していて、爆音系が減ったと感じました。会場が普門館じゃなくなったのも影響していると思います」(小林さん)

一方、普門館を「コンクールにとって最高のホールだった」と評するのは、普門館で審査員を務めた経験があり、昨年まで35年間、普門館を拠点とする東京佼成ウインドオーケストラでトロンボーン奏者として活躍した萩谷克己さん(61)だ。

「舞台が広く、反響板まで距離があるため、セッティング(楽器の配置)による有利不利が出にくい」

 名古屋は普門館と比べて狭いため、特にシンバルやドラなど打楽器の大きさのバランスを取るのが難しく、初出場の団体は予想もしない演奏となってしまう可能性もあるという。


爆音は爆音

2019年春に野球部が甲子園に出場して、応援の吹奏楽部が「美爆音」として話題になった市立習志野高校は、吹奏楽コンクールが普門館最後の年の2011年夏にも甲子園に出場して準々決勝まで進んでいた。
2011年と言えば大震災のあった年であり、応援を自粛したのか、高校野球のニュースが控えめだったのか、それとも私が興味を持てず見聞きしなかっただけなのか、美爆音なんて話題になっていた記憶は全くない。
習志野高校野球部はその後、甲子園から遠ざかっていたが、2019年春に出場を決めて、賛否の声がありながらも一躍「美爆音」が有名になった。今夏の大会にも出場していた。

この期に及んで美爆音なんて一体誰が命名したのか、またマスコミの仕業かと思いきや、どうも前顧問らしい。

美爆音
この命名者、実は習志野高校吹奏楽部の前顧問の先生だそうですよ。
「自分たちで爆音なんて言うと”うるさい”と言われる。うちの音は爆音は爆音でも美しい爆音なんですよ」と周囲に解説していて付いた名前だったとのことです。







# by yumimi61 | 2019-08-15 22:36

BAY8BAY9


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上の写真はこちら(PHOTOCLIP 新港埠頭 ::: 赤レンガ倉庫 (1983) )より借用したものです。


下の文章は別のブログより。
BAY8 BAY9のアップ写真も掲載されています。
ブログ 週刊 横濱80’s  赤レンガ倉庫一号館

ボロボロで今にも崩れそうな一号倉庫だったのに、なぜかこの「BAY8 BAY9」のペイントだけがハッキリ、クッキリ残っていたモノ。
ただ不思議なのは、「BAY8 BAY9」があっても、その前後の数字がどこにも見あたらないこと。
消えた跡すら見つからなかったこと。
このことが当時はナゾでしたが、復元された時に、このペイントは消されてしまったようで、とうとう永遠のナゾとなってしまいました。 

 


横浜の赤レンガ倉庫は2つの建物がありますよね。
横に短い方が1号館で、長い方が2号館。

神奈川県横浜市中区新港一丁目の横浜港にある歴史的建築物である。明治政府によって保税倉庫として建設され、建設当時の正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫。みなとみらい地区内の2街区に当たる。
赤レンガ倉庫の設計は、妻木頼黄・部長率いる大蔵省臨時建築部によって行われた。妻木頼黄は、馬車道にある横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした、明治建築界三巨頭の一人である。
2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。
保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていた。2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。


1号館、2号館という呼称も後から付けられたものなのか、先に完成したほうが2号館で、後に完成したほうが1号館になっている。これも謎ですね。

保税倉庫としての役割は1989年までに終えたとあるが、先に使われなくなったのは後に完成した1号館の方で、1980年代前半にはもう使われていなかったらしい。
そしてテレビや映画の撮影(ロケ地)として、その場所が時々使われていたが、特にロケ地として有名になったのが『あぶない刑事』(1986年10月~1987年9月放送)だったようだ。
半ば廃墟化していたこの場所へ、この放送頃から訪れる人が増えて、建物への落書きも日に日に増していった。

落書きの写真と新旧比較あり↓
ちわわ一家の 食べ歩る記・飲み歩る記  横浜旅行 赤レンガ倉庫の今と昔

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赤レンガ倉庫は今では横浜を代表する
おしゃれな観光スポットとして認知されていますが
今から20年以上も前、ここは落書きで埋め尽くされ、
整備もまったくされないままの廃墟のような倉庫でした
しかしここはかつてから『ハマの赤レンガ』と呼ばれ
多くの市民に愛されていたことから1992年に
横浜市が国からこの赤レンガ倉庫を取得し、
補強工事・整備を進め10年後の2002年に新たな施設として
オープンさせました





ところで、先日載せた撮影地が赤レンガ倉庫のテレフォンカードは、テレカ用の袋に入っていたのだけれど、その袋には"loop now"と書いてあった。
そのテレフォンカードはリンゴのケースに入っていたのである。

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loopとリンゴと言えば・・・

1 Infinite Loop
Cupertino, CA 95014

アップル・キャンパス(英語: Apple Campus)
1993年から2017年までのアップルの本社である。現在では主要部分はアップル・パークに移転したが、オフィスや研究所として引き続き利用されている。
アップル・キャンパスはカリフォルニア州クパチーノにあり、そのデザインは郊外のビジネスパークに似た、緑地の周囲に建物を持つ大学のものと似ている。

アップルの元々の本社はクパチーノのマリアニ通り(Mariani Ave)20525号の1号ビルにあった。
アップル・キャンパスはディ・アンザ大通り(De Anza Boulevard)の向かい側のマリアニ通りの東側にあり、この場所は元々Four-Phase Systemsが占有していた。面積は850,000平方フィート (79,000 m²)である。
アップル・キャンパスは1992年に建設が開始され、Sobrato Development Companyによって1993年に完了した。
1997年までは研究開発に専念しており、当時はR&D 1-6と呼ばれていた。
1997年にスティーブ・ジョブズがアップルに復帰すると、アップル・キャンパスには多くの変更が加えられた。アップルが専有する建物を増やし、研究開発に関係しない多くの活動がインフィニット・ループ内に移転した。彼らはIL(インフィニット・ループ)という名称で知られるようになった。スティーブ・ジョブズは従業員がペットを連れてくることを禁止したり、カフェテリアのメニューを劇的に改善するなどの追加のマークを残した。

2008年8月12日の夜、Valley Green 6の2階で火災が発生した。消火のために消防士は翌朝まで活動した。この火事による怪我人はいなかったが、築40年の建物で200万ドルの火災被害があった。


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ITmedia “Let us loop you in.”ってどういう意味?
 Appleが2016年3月21日に開催するイベントの招待状をメディア宛てに発送し、同時にライブ中継を行う予定のWebページも公開されました。招待状や中継ページには、おなじみのリンゴマークのヘタの部分をモチーフにした模様が描かれており、その下には“Let us loop you in.”の文字。あまり聞き慣れない表現ですが、一体どういう意味なのでしょうか。








# by yumimi61 | 2019-08-15 15:26