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機宜*111

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新島襄と内村鑑三の苦悩

1884年に私費でアメリカに渡った内村鑑三は、アメリカにおいても個人的な経済援助は受けたがらなかった。
そこで、あるアメリカ人が、「それならば伝道資金を募ってみてはどうか」と提案した。
10年ほど前(1874年)に同じ日本人である新島襄がキリスト教系学校設立のための資金を募金にて集めた前例があったからである。
しかし内村鑑三は断固拒否した。
「いいえ、私はやりません。新島は新島、私は私です」
(しかしながら、内村は帰国前にアマースト大学の総長に援助申し入れの書簡を送っている)

新島襄と内村鑑三は年齢は20歳近く離れていたが、同郷であり、同じキリスト教を信仰し、伝道を使命と考えた同志であった。
新島は内村を目に掛けていた。
内村と妻との仲を修復しようとしたり、大学(アマースト大学)や総長を紹介したり、帰国後は就職の仲介もしてやった。
その好意に甘え、影響を受けながら、それでも尚且つ内村には納得できないことがあった。
帰国後、内村は新島に「日本での伝道に外国人の援助を受けることは良くない」という自説をぶつけ、これに対し新島襄は「君は我国基督教界の伯夷・叔斉」と言った。(伯夷・叔斉とは?
新島が内村の強い独立心を嘆いたという向きもあるが、新島も密航という手段でアメリカに渡った人物である。


伯夷・叔斉は私利私欲がなく正義を貫いた清廉な人物として儒教では聖人とされているが、後世での評価は分かれるところでもある。
新島襄はどのような意味で内村を「伯夷・叔斉」に例えたのだろうか。
新島はその日のことを日記に残している。
内村も生涯その言葉を忘れることはなかったという。




新島襄の秘密とメンタル

新島襄は日本に帰国前(1874年)、アメリカン・ボードの年次総会で日本でキリスト教の学校を設立するための寄附を訴え、多くの資金が集めたという。
アメリカン・ボードなくしては同志社英学校は設立できなかったであろう。


1880年からは大学設立のための準備を初め、新島は金策に追われた。
1884年、帰国から10年目の春、再び日本を離れ、今度はヨーロッパへ。
同年8月6日、スイスでアルプス登山中に心臓発作を起こすものの回復。12月に帰国した。
以後、新島は心臓病を抱えながら、大学設立のために奔走した。
体調は芳しくなく、激務の合間を縫うように療養を重ねた。


1889年夏、医師は新島襄の妻の八重に、「心臓病は治る見込みはないので、突然亡くなる可能性があります」ということを告げた。
医師は心臓病の襄を慮って「ご主人にはくれぐれも内密に」と釘を刺した。
しかし妻の八重はあっさりとそれを襄に言ってしまう。
襄はそれを聞いて少なからず動揺した。
妻から打ち明けられた2日後に、八重の目を盗み、アメリカで自分を面倒をみてくれたハーディ夫人に手紙を書いている。
”She could not keep her secret."
その日はアメリカ独立記念日の7月4日だった。

告知がいつも素晴らしいとは限らない。

その年の晩秋11月28日、新島襄は群馬県の前橋で倒れた。
こちらに書いたがそれを看病したのは看護婦の不破ゆうであった。
神奈川県大磯の旅館「百足屋」で静養するも、1890年1月23日に亡くなった。
死因は心臓ではなく、胃腸炎からの急性腹膜炎症だった。


不治の病がいつも死因になるとも限らない。

亡くなる少し前に、新島襄は遺言などを口述し筆記させた。
その中で新島は、こう述べている。
「天を怨みず人を咎めず。吉野山、花待つころの朝な朝な、心にかかる峰の白雲。同志社に対する私の思いはいつもこの歌のようである」

「天を怨みず人を咎めず」は、論語の一節である。
キリスト教を信仰した新島が最後に引用したのが論語だったのはというのは興味深い。
「吉野山、花待つころの朝な朝な 心にかかる峰の白雲」は佐川田昌俊の和歌。

「行き先は我墓なれと思ふ身も 故郷こひし入相のかね」 ・・・(涙)

新島襄 1843-1890(享年47歳)
新島襄の父親 1807-1887(享年80歳)



---昨日父が肺炎で緊急入院したので、しばらく更新はやや不定期になるかもしれません。(もともと不定期だった?)---
by yumimi61 | 2013-06-04 11:41