人気ブログランキング |

by and by yumimi61.exblog.jp

カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

器官73

e0126350_1472629.jpg





タイタニック号の犠牲者には3人の大富豪がいたということは、こちらに書いた
その3人の背景などを少し補足する。
(タイタニック号沈没は1912年)


●ベンジャミン・グッゲンハイム(1865年生まれ)-フランス人歌手の愛人と乗船

マイアー・グッゲンハイム一10人の子のうちの1人であった。
美術館のソロモン・R・グッゲンハイムは弟である。

ソロモン・R・グッゲンハイムの妻はアイリーン・ロスチャイルド・グッゲンハイム。
アイリーンの母がロスチャイルド家の出身であり、ロスチャイルドというのは母のファミリーネームだった。
父ビクター・ヘンリーはドイツから移住し、ニューヨークで衣料関係の会社を経営していた。
アイリーンはニューヨーク生まれ。
美術に関して深い造詣があり、児童福祉にも熱心だった。
ソロモンR.グッゲンハイムとは1895年に結婚した。

タイタニック号で亡くなったベンジャミン・グッゲンハイムの娘・ペギー・グッゲンハイム(1898年生まれ)も美術収集家であった。
ペギー・グッゲンハイムは、ヨーロッパでボヘミアン的な生活を送った後、アメリカに帰国。
画家や彫刻作家のパトロンとなって、その作品を収集した。
ドイツ人の画家マックス・エルンストのパトロンでもあった。
第2次世界大戦中の1941年、マックス・エルンストは彼女の支援により、スペインとポルトガルを経由してニューヨークに移住した。
この時マックスはベギーから結婚を条件にされたらしく、2人は結婚(ともに3度目の結婚)。
しかしこの結婚も2年で破局した。
イタリアで彼女のコレクションが展示されている。



●イシドール・ストラウス(1845年生まれ)-妻と乗船。妻もタイタニック号で亡くなった。

イシドール・ストラウスの弟(1850年生まれ)は、オスカー・ソロモン・ストラウス
アメリカにて最初のユダヤ人官僚となった人物である。
セオドア・ルーズベルト大統領(第26代)の下、1906年~1909年、商務労働長官を務めた。

オスカー・ストラウスの息子の妻の名はグラディウス・グッゲンハイム・ストラウス。
どのグッゲンハイム筋なのかは分からないが、グッゲンハイム家と婚姻関係を結んだということである。



●ジョン・ジェイコブ・アスター4世(1864年生まれ)-妻と乗船。

ジャック・アスターという別名を持つ。

1891年に社交界の名士アヴァ(1868年生まれ)と結婚。
2人の子(1891年生まれ・1902年生まれ)を儲けたが1909年に離婚。

翌年には新しい恋心が芽生える。お相手は18歳。社交界の名士マドレーヌ(1893年生まれ)。
彼女の父親は「ウィリアム・H・フォース」という海運会社のオーナーだった。
離婚再婚だけでもスキャンダラスな時代に47歳と18歳という年の差カップルは社会に衝撃を与えた。
最初の妻との間にできた息子よりも年下の妻である。
周囲からも猛反対された。
しかしそれを押し切って、1911年9月9日に結婚した。

長いハネムーンの道中でタイタニック号に乗船した。
妻は妊娠5か月だった。
助かった妻は8月に子供を産んだ。
1916年には再婚した。



アスター家について

●ジョン・ジェイコブ・アスター1世

初代ジョン・ジェイコブ・アスターはドイツに生まれてロンドンで楽器商人をしていた。
1784年にアメリカへ渡る。アメリカの地では毛皮商人となった。
当時イギリスの植民地であったカナダや中国から密貿易のような形で毛皮を輸入したことがアスター家の富の始まり。

1700年代後半、イギリスは輸出入の不均衡を補うために、植民地のインドで栽培したアヘンを清(中国)に密輸出していた。
清はアヘンの輸入を再三禁止したが効果がなく、アヘンが蔓延し国民に影響を及ぼすようになった。
貿易収支も逆転し、輸入代価となった銀が流出した。
怒った清とイギリスの間で1840年から2年間行われた戦争がアヘン戦争である。

アスターは毛皮だけでなくアヘンの密貿易も行っていた。
時代が変わり大っぴらには語られないが、アスターは毛皮よりもむしろアヘンの密貿易で財を築いたと言うほうが適しているかもしれない。
1800年頃から密貿易で得た資金をニューヨーク・マンハッタンの土地に投資するようになった。
この時代はまだニューヨークは今のような街ではなかったが、アスターは土地を購入するだけで開発にはタッチしなかった。
ある一定の期間で契約を結び土地を他人に貸したのである。
ニューヨークが開かれた街になることを知っていたのである。
土地を借りた人が勝手に開発してくれ、契約満了時期には土地の価格は高騰していた。
彼はリスクを負うことなく巨大な富を手にした。
金融業に手を出すこともなかった。


●ジョン・ジェイコブ・アスター2世とウィリアム・バックハウス・アスター

この時代の後継ぎは長男と決まっていた。(今でも余程の事情がないかぎりそうだろう)
しかし2世の長男は精神障害を有していた。
よって後継者は、次男のウィリアム・バックハウス・アスターとなった。

1800年代前半、アメリカには多くのアイルランドから移民が押し寄せた。
しかしアメリカでの生活は厳しいものであった。
イギリスに支配されていたという歴史やカトリック信仰などを背景にアイルランド移民への反発は少なからずあった。
ユダヤ人や黒人と同じように差別されていたのである。
多くの企業はアイルランド人を雇用しようとはしなかった。
従って彼らが就ける職業は肉体労働くらいしかなかった。マフィアになる者もいた。
英語が話せて教養のあるアイルランド人は、警察官や消防士、教師などの職業に就くことも可能だった。

そんな時代にアイルランド移民を支持した団体があった。
タマニー・ホール」である。

「タマニー・ホール」は移民など貧困層に関わる代わりに選挙の時に投票してもらうという方法を取っていたのである。
これがニューヨーク市政に強力に影響を及ぼすようになって、否応なく経済界をも巻き込んでいく。
雇用、特定候補への投票依頼、企業への見返り。選挙の企業票というのはこの時代に確立した。

第3代大統領となったトーマス・ジェファーソンが、前政権を打破するために「民主共和党」(現在の民主党)を結成し、草の根運動を展開していった。
「民主共和党」はフランス革命を支持し、イギリスと連携することを嫌った。(しかしトーマス・ジェファーソンはフランスやイギリスの多くの知識人と親しかった)
トーマス・ジェファーソンが草の根運動に利用したのが「タマニ・ーホール」であった。
これにより政治色がより強くなった。
それはそのまま「民主党」が歩んできた道である。

「タマニー・ホール」のボスとして名高いのが、ウィリアム・ツィード
アイルランド移民にボスあり。
移民や貧困層への慈善活動でその地位を揺るぎないものした。
「票は金で買うもの」と言って憚らず、ニューヨーク市会議員にもなった。
殺人、恐喝、売春、違法な酒場、密輸、密輸品の売買など、彼が絡まなかった犯罪は存在しないとまで言われた。
政治にも不正の限りを尽くした。
ニューヨーク市当局とマフィアのボス、それに群がるギャング達が公然と取引していたのである。
ウィリアム・ツィードはニューヨーク市のお金を着服していたことがばれて失脚したが、「タマニー・ホール」はその後もアイルランド人がトップに立ち続けた。
タマニー・ホールとアイルランド系移民と民主党の癒着はここに始まり育っていった。(ユダヤ人とドイツ人も、タマニー・ホールの集票マシーンに認められていた)
その集大成はおそらくケネディ大統領の誕生であったのであろう。
ケネディ大統領とは直接的な関係はないとされているが、アイルランド移民がアメリカやイギリスに恨みを晴らした瞬間であった。

だいぶアスターから話が逸れてしまったが決して無関係なことではない。
ウィリアム・バックハウス・アスターは、ボスのウィリアム・ツィードと組んでの不正取引で、アスター家の財産を拡大したのであった。

アスター家のこの代は、暗黒街に生きたアスター家の中でも特にアウトローに彩られていた。


●ジョン・ジェイコブ・アスター3世とウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニア

2世代理を務めたウィリアム・バックハウス・アスターには2人の息子がいた。
(長男)ジョン・ジェイコブ・アスター3世-後継者
(次男)ウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニア-父の名前が継がれた。
     しかし後にバックハウスとジュニアを外して、ウィリアム・アスターと改名した。

次男のウィリアム・アスターは、社交界の名士キャロライン・ウェブスター・シャーマーホーンと結婚した。
妻のキャロラインはニューヨーク社交界のスターであった。
夫妻の周りにはニューヨークの名士が集った。いわゆる取り巻き連中である。
キャロライン400人限定の「The Four Hundred」という名士会を作った。
その地マレーヒルがニューヨーク五番街の始まりと言われている。
マレーヒルの南東端にはエンパイア・ステート・ビルが立っているが、ここはアスター家の土地で彼らの邸宅があったそうだ。
その後はそこに彼らがニュヨーク最大の高級ホテルを作ったが、1930年のエンパイア・ステート・ビル建設に伴ってホテルも移転した。
私はマレーシアの御嬢さん達をまとめてマレーちゃんと呼んでいたが、マレーヒルのマレーはマレーシアではなくて独立戦争の頃にこの地を所有していたマレー夫妻に由来するものらしい。本当かしら?

【有力な取り巻き】
・ロスチャイルドがアメリカに送り込んだオーガスト・ベルモントの一族。
 オーガスト・ベルモントは1853年に黒船で日本にやってきたマシュー・ペリーの娘と結婚した。
 一族は民主党支持者である。

・『ティファニーで朝食を』で名高い貴金属店を営むチャールズ・ティファニーの一族。
 以前こちらに書いたが、ティファニーには共同創業者がいた。ジョン・ヤング
 経営権をティファニーが買い取って名前を消したのである。 
 貴金属だけに富裕層がいなければ商売にならない。
 尤もマレーヒルに至ったのは創業者の息子の時代らしい。

・J.P.モルガンの一族
 すでに書いたがイギリスやロスチャイルドを上手く覆い隠して巨大化したあのモルガンである。 
 


●ウィリアム・ウォルドルフ・アスターとジョン・ジェイコブ・アスター4世

2世代理ウィリアム・バックハウス・アスターの息子世代(3世)と、その息子世代(4世)を整理してみる。

(長男)ジョン・ジェイコブ・アスター3世 ― (長男)ウィリアム・ウォルドルフ・アスター
(次男)ウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニア(ウィリアム・アスター) ― (長男)ジョン・ジェイコブ・アスター4世

ジョン・ジェイコブ・アスター3世はシャーロット・オーガスト・ギブスという名の名家の娘と結婚した。
2人の子供は息子1人だった。

取り巻きを引き連れた派手な次男夫婦(ウィリアム&キャサリン)には5人の子供がいた。
しかし4人までは女の子。5人目にやっと男児が誕生した(5人目にして長男)。

どういう話し合いが持たれたのか、それとも何か計略があったのか知らないが、4世を継承したのは次男夫婦の長男であった。
この4世がタイタニック号で亡くなったその人である。


乗りかかった船だ。4世の姉達も紹介しよう。

【ジョン・ジェイコブ・アスター4世の4姉】(父母はウィリアム&キャロライン)

①エミリー・アスター: 政治家ジェームス・ジョン・ヴァン・アレンと結婚。
②ヘレン・ シャーマーホーン・アスター: フランクリン・ルーズベルト大統領(第32代)の異母兄と結婚。
③シャルロット・オーガスト・アスター: ジェームズ・コールマン・ドレイトンと結婚し離婚。ジョージ・オギルヴィー・ヘイグと再婚。
④キャロライン・シャーマーホーン・アスター: マーシャル・オーム・ウィルソン*と結婚。

*マーシャル・オーム・ウィルソンはイギリスの富豪であったリチャード・ソーントン・ウィルソンの息子。
しかしアスターの父はマーシャル・オームの受け継いでいる財産が少ないと当初結婚に難色を示したというから、「どんだけ~」という感じである。(でも認めてくれたんだけど)

バンカーのリチャード・ソーントン・ウィルソン・ウィリアム・ジュニア、鉄道王ヴァンダービルト家息子(3世)と結婚したグレースはマーシャル・オーム・ウィルソンの弟と妹。

マーシャル・オーム・ウィルソンの邸宅は妻の父・ウィリアム・アスターが建ててくれた。
インド政府が購入し、現在はニューヨーク市の歴史的建造物に指定されている。



4世までの享年

悪趣味は持っていない(つもり)が享年を調べてみた。
------------------------------------------------
ジョン・ジェイコブ・アスター初代 1848年(85歳)
                 妻① 1832年(44歳)
                 妻② 1855年(77歳)
--------------------------------------------------------
ジョン・ジェイコブ・アスター2世 1869年(78歳)
ウィリアム・バックハウス・アスター2世代理 1875年(83歳)
                        妻  1872年(72歳)
-----------------------------------------------------------------------------------------------
(2世代理の長男)ジョン・ジェイコブ・アスター3世 1890年(68歳)
                            妻  1887年(62歳)
(2世代理の次男)ウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニア(ウィリアム・アスター) 1892年(63歳)
                                         妻(キャロライン)  1908年(78歳)
------------------------------------------------------------------------------------------------
(3世の長男)ウィリアム・ウォルドルフ・アスター 1919年(71歳)
(ウィリアム&キャロラインの長男)ジョン・ジェイコブ・アスター4世 1912年(47歳)
                                   妻① 1958年(89歳)
                                   妻② 1940年(46歳)
-------------------------------------------------------------------------------------------------



ウィリアムとトーマス兄弟の確執!?

家族が一つ屋根の下に暮らしていれば揉め事の一つや二つ無いほうがおかしいが、別の家庭を持った兄弟姉妹がすぐ近くに住んでいるというのも結構面倒な事らしい。

ジョン・ジェイコブ・アスター3世は1890年に68歳で亡くなった。
妻は先に亡くなっており、邸宅を含め財産を相続したのは一人っ子のウィリアム・ウォルドルフ・アスターである。
その2年後、ウィリアム・アスターも他界。
後継者問題の恨み辛みがあったのか、長年の鬱憤が爆発したのか、確執は上記の青字の2人に表面化した。

未亡人キャロラインが欧州に旅行中に、ウィリアム・ウォルドルフが相続した邸宅地に「ウォルドルフ」という13階建てのホテルに建設しオープンさせたのである。
これはウィリアム・アスターが亡くなった翌年1893年のことである。
未亡人は夫を亡くした傷心を癒すためか長い旅行に出ていたわけである。
帰ってきたら自宅近くに巨大なホテル。
「日当たりも悪いし人目もあるし、こんなところには住めないわ」と言ったかどうかは不明だが、彼女は取り巻きを引き連れてアッパー・イーストへ転居した。
ウィリアム&キャロラインの邸宅地には、息子(4世)が17階建ての「アストリア・ホテル」を建設。1897年のこと。
この2つのホテルが合体して「ウォルドルフ-アストリア」という超高級ホテルが誕生したのである。
著名な宿泊者達や国連大使がなかなかヤバい凄いですね。



タイタニック号の沈没はアスター家の斜陽

若くして突然亡くなってしまったジョン・ジェイコブ・アスター4世。
困るのは後継者である。
彼が亡くなった時には4世の子供はまだ妻のお腹の中。
先妻との子は1891年生まれと1902年生まれで21歳と10歳だった。
血は繋がっているとはいえ、いろいろと難しい状況である。

3世の長男ウィリアム・ウォルドルフ・アスターは64歳。
5世襲名には今更感がある。
そこで登場したのが、ウィリアム・ウォルドルフ・アスターの息子である。
彼には3男1女という4人の子供がいたが、5世となったのは末子(1886年生まれ・当時26歳)であった。
しかもなんと彼ら家族は1891年にニューヨークを離れ、イギリスで暮らしていたのである。
さらに5世となった末子はライフガードで任務にあたっていた。
タイタニック号沈没当時はインド総監であった。
ジョン・ジェイコブ・アスター5世

5世は1971年に亡くなり、6世を継承したのはタイタニック号乗船の時にお腹にいたベビーである。
1912年8月14日生まれ。40歳の時。
亡くなったのは1992年。ついこの間のような、遠い昔のような。







by yumimi61 | 2013-10-14 00:40