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器官75

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平和のドングリ、2013年秋

私の姪っ子が幼い頃のこと。
お外で沢山ドングリを集めて家に持ち帰った翌日、彼女がドングリの袋を覗いたら・・・
ドングリとともに白い小さな芋虫がウジャウジャいたらしく・・・
パニックで半べそ。
可笑しいやら可哀想やら。


歌詞にドングリが出てくる、ある愛の歌 





個と集団の功罪

大統領権限を拡大し、自らが世論を誘導するスタイルを取り入れたセオドア・ルーズベルト大統領。
官僚の管理者という位置付けではなく、国民の指導者であることを望み実行した。

J.P.モルガンなどが次々と企業を買収し再編を行うことで金融資本による経済支配構造を構築していた、まさにあの時代である。
儲かるのは財閥ばかりで労働者や消費者がその恩恵に与ることはなかった。
資本主義の巨大化により民主主義は弱体化。セオドア・ルーズベルトはそれに危機感を持っていた。
その他大勢の国民に沿った政策を推進するため、利権などで繋がる議会を飛び越えて直接国民に訴えたのである。
国民へ訴えるというやり方は現代では当たり前のように感じるが、それを初めて行ったのがセオドア・ルーズベルト大統領だった。
国民だけではなく報道機関やその記者をも取り込み、不正を暴くことを支持し、自身の訴えの拡散協力を依頼した。

しかしこの方法はハイリスクハイリターンである。
議会ではがんじがらめになり動けない大統領、つまりリーダーシップをいかんなく発揮することが出来ない大統領でも、国民に訴えかけることによってリーダシップを発揮できてしまう。
数の多さからして世論は十分な圧力となりうるために議会が世論に屈してしまう。
要はたった一人(もしくは大統領側近数名)の考えが世論や国を動かすということ。
間違いや私利私欲、利権誘導がなければいいが、人は間違う生き物であり、私利私欲にまみれた生き物である。
世論を扇動し誤った道へ一直線に突き進む危うさを抱えている。
危機感を持って見た独占的に市場を支配するトラストと同じ形態を取っているのである。


日本国憲法では主権は国民にあると謳っている。
主権という言葉本来の意味と、「国民」とがどうしても一致せず、こそばゆい。
選挙権のない子供にも主権があるのだろうか?
それとも国民には個はなく常に「国民」という団体なのだろうか?
国会(立法)、内閣(行政)、裁判所(司法)。この3つが抑制しあい、権力濫用を防ぐのが「三権分立」である。
世論誘導はこれを正常に機能させなくなる可能性をいつも秘めている。

権力を持った大統領が個人的な事情を持ち出して同性婚を語ったり、黒人の裁判に口出すことは、とても危険なことなのだ。
個人の特定の考えを説き広めることを目的に大統領になる人だっているかもしれない。
再出馬をしなかったセオドア・ルーズベルト大統領は何か感じるところがあったのかもしれない。



セオドア・ルーズベルトの姪っ子は、フランクリン・ルーズベルトの妻

セオドア・ルーズベルトは2男2女の4人兄弟姉妹の上から2番目。
上に姉がいて、下に弟と妹がいた。

思い出したけれど、上流階級の人達は自分や家族のことを他人に話したりしないそうである。秘密主義。
だからきっと秘密結社とかツボなんだろうね。
こんなブログなんか論外中の論外だろうけれど、オバマ大統領やスティーブ・ジョブズの自伝にも眉をひそめているかも。


話は戻って、セオドア・ルーズベルト大統領。
その弟エリオット・ルーズベルトの娘は、フランクリン・ルーズベルト大統領(第32代・民主党)の妻である。
結婚したのは1905年だというから、セオドア・ルーズベルト在任中(1901~1909年)のこと。

セオドア・ルーズベルト大統領は連続しての再出馬はしなかったのだが、放浪の旅先で何かあったのか、それともフランクリン・ルーズベルトの政界進出が気になったのか、1912年の大統領選に出馬。
しかしウッドロウ・ウィルソンに敗れてしまうのである。
ウッドロウ・ウィルソン大統領(第28代・民主党)は国際連盟設立への貢献でノーベル平和賞を受賞したその人である。

フランクリン・ルーズベルトの大統領就任期間は、1933~1945年である。
第2次世界大戦時のアメリカの大統領がフランクリン・ルーズベルトだった。
アメリカ大統領の中で唯一4選した大統領となった。(4期目当選ほどなく病に倒れ終戦を待たずに亡くなった)
アメリカは今でこそ大統領は1人10年(実質2期)までと定められているが、第二次世界大戦以前は規定はなかった。
初代ワシントン大統領が2期務めたので、その慣例に倣っていただけなのである。
その慣例を打ち破った唯一の大統領がフランクリン・ルーズベルト。
彼以外に8年以上務めた大統領はいないそうである。
もしもセオドアが再出馬するか、1912年の大統領選に当選していれば、副大統領からの昇格分も含め8年以上となった。
連続しての再出馬ならば当選確実と言われていたようだ。



ルーズベルト、2つの家系

先日「ルーズベルトはのルーツでこのように書いた。
クラウス・M・ ローゼンベルツは、この時代にニューアムステルダムにやって来た。
次の代が「ローゼンベルツ」を「ルーズベルト」に改名した。


次の代というのはニコラス・ルーズベルト(1658~1742)である。
この人の時代にルーズベルトの家系は2つに分かれた。
「ジョハネス・ルーズベルト」(1689年生まれ)と「ジャコバス・ルーズベルト」(1692年生まれ)。
ニコラスの子供はこの2人だけだったのか、それとも後世に名を残した人物を出した家系がこの2兄弟だということなのか定かではないが、2人の大統領はそれぞれこの家系から生まれた。
2人は従兄弟ということであるが、実際にはかなり遠い。
しかし両家は付き合いはあったようだ。


●オイスターベイ系のルーズベルト(共和党支持)

ニコラス・ルーズベルト→ジョハネス・ルーズベルト→ジャコバス・ルーズベルト→ジェームズ・J・ルーズベルト→コーネリアス・V・S・ルーズベルト→セオドア・ルーズベルト・シニア→セオドア・ルーズベルト(第26代大統領)


●ハイドパーク系のルーズベルト家(民主党支持)

ニコラス・ルーズベルト→ジャコバス・ルーズベルト→アイザック・ルーズベルト→ジャコバス・ルーズベルトⅢ→アイザック・D・ルーズベルト→ジェームズ・ルーズベルト→フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)



ハイドパークとオイスターベイは地名であるが、初代からずっとこの地に暮らしていたかどうかは不明。
ハイドパークは、イギリスでもシカゴでもなく、ニューヨーク州 北部のハイドパークだそうだ。
オイスターベイはニュ―ヨーク州南東部(マンハッタンの東)のロングアイランドにある。
セオドア・ルーズベルトは休暇時に訪れた地とある。(参照



フランクリン・ルーズベルト

(父)ジェームズ・ルーズベルト(1828年生まれ)

裕福な家庭に生まれ、成人後はデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の副社長や複数の企業の役員をしていた。
1853年に、はとこと結婚し、1854年に男の子(ジェームズ・ルーズベルト・ルーズベルト)を1人儲けた。
1876年に妻を亡くす。
1880年、セオドア・ルーズベルトの大学卒業祝いのパーティーでサラ・デラノと出会い、その年に結婚。
ジェームズは52歳での再婚だった。
先妻との間に生まれた息子は、前年1879年に子供を儲けており、祖父となっていた。


(母)サラ・アン・デラノ・ルーズベルト(1854年生まれ)

再婚相手のサラ・デラノとジェームズは26歳も年齢差があった。
ジェームズの先妻の子と同い年である。
デラノ家はフランス系プロテスタント教徒(ユグノー)。
アヘン戦争の頃より中国とアヘンを中心とした貿易を行い財を成した家系。
ジェームズと再婚相手のサラ・デラノの間に生まれたのが、フランクリン・ルーズベルトであった。


(異母兄)ジェームズ・ルーズベルト・ルーズベルト(1854年生まれ)

ウィーンのアメリカ公使館書記官やロンドンの大使館書記官などを歴任した。
彼は、ニューヨーク社交界のスターであったウィリアム・アスターとキャロライン夫妻の次女であるヘレン・アスターと結婚した。(タイタニック号で亡くなったジョン・ジェイコブ・アスター4世の4人の姉の上から2人目) 
2人の子供を儲けたが、ヘレンは1893年に38歳で亡くなった。
彼は1914年に、エリザベス・ライリーと再婚した。


(本人と妻)フランクリン・ルーズベルト(1882年生まれ)&エレノア・ルーズベルト(1884年生まれ)

1905年、セオドア・ルーズベルトの弟エリオット・ルーズベルトの娘であるアナ・エレノア・ルーズベルトと結婚した。
エレノアはイギリスの女学校で学んでいる。
戦後1952年まで国連のアメリカ代表を務めた。

フランクリン・ルーズベルトは39歳の時にポリオに罹患し後遺症で下半身が麻痺。身体障害を持っていた。
日常生活では車椅子が使われていたようだが、上手く隠しており当時はあまり知られていなかったようである。
愛人が複数いたことは知られていたようだ。

見てきたとおり、フランクリン・ルーズベルトの家系には欧州の影がある。



イギリス国王夫妻とフランクリン・ルーズベルト大統領と戦争

1939年5月~6月、イギリス国王夫妻(ジョージ6世とエリザベス)がカナダとアメリカを公式訪問した。
戦争においてのイギリスへの支援を要請するという政治的目的と、北米の民衆の支持を得る目的があった。
ニューヨーク万国博覧会に出席し、ホワイトハウスでフランクリン・ルーズベルト大統領と会談。
その後、ハイドパークの大統領私邸も訪問した。
イギリス国王夫妻とフランクリン・ルーズベルト大統領は密接な関係を築いた。
これが第2次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼしたと言われている。

この訪問を終えた1939年9月に、イギリスはナチス・ドイツに宣戦布告した。
フランクリン・ルーズベルト大統領自らがラジオで参戦を呼びかけたことは以前こちらに書いた。
これに協力したのがイギリス出身のヒッチコック『海外特派員』やチャップリン『独裁者』といった映画である。
つまりハリウッドであり、それに熱狂する民衆である。



by yumimi61 | 2013-10-17 16:59