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やがてそこに。


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器官102

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夫妻とは何か?父母とは何か?

前の記事に書いたが、ユダヤ人の定義は当初、母親が民族的ユダヤ人かユダヤ教徒(改宗者を含め)であった。
今でもこの考え方が完全に無くなったわけではない。
ここにユダヤ人の血への拘りが見える。

なぜ母であり、父ではダメなのか。
子供は母親の胎内に宿り、母親から生まれてくるからであろう。
「そんなことは子供でも知っている。何を今更」と思うかもしれない。
その背後に隠れているのは婚姻への不信である。
婚姻関係にある男女、夫と妻。
しかし子供は夫妻の間にしか生まれないわけではない。
生物学的には子供の誕生に婚姻も愛も必要ない。生殖能力のある男と女であればいいのだ。
男女がセックスをすれば婚姻の有無に係わらず妊娠する可能性がある。
子供の父親が夫とは限らないということである。
生物学的な父親が誰かということは母親にしか分からない。
同時に複数の者と関係を持てば本人さえ分からない場合もあるだろう。
父親は確定ではなく、(夫がこの人だからこの人だろうという)推定に過ぎない。希望的観測と言ってもいいかもしれない。
または、「絶対にこの人以外考えられません」という女性の自己申告により決まる。


つまり、夫(父親)だけがユダヤ人の場合、女性が嘘をついていれば、生まれてくる子供はユダヤ人とは何ら繋がりを持たなく可能性がある。
しかし女性がユダヤ人であれば、少なくとも子の半分はユダヤ人と繋がりを持っていることになる。
ユダヤ人やユダヤ教は婚姻への不信をベースに持っていたのであろう。


現実的なことを言えば、社会的な実父とは何の調査もせず推定や自己申告をもとに承認された者である。(現代ではDNA検査をする人もいるようだけれども)
社会的な養父とは意思や合意を確認した上で承認された者である。



露呈したユダヤの矛盾

上記のような考えを踏まえるとユダヤ人に遺伝的疾患が多発するということに若干矛盾を感じる。。

ユダヤ人は民族だけでなく宗教での結び付きがあるのだから、他の民族よりも人種やDNAに多様性があると考えられる。
また最初から婚姻に不信を持っていたくらいなので、隠れた多様性も推測できる。
多様性があるところに劣性遺伝疾患は起こりにくい。

ユダヤ人の中でも劣性遺伝疾患を多発しているのはアシュケナジムであり、セファルディムには見られない。
ということはアシュケナジムには多様性が少なく、セファルディムには多様性があるということになる。
早い話、アシュケナジムは父も母も「遺伝的特性を持ったユダヤ人」であることが多いということだ。
そうした人を選んで結婚し子供をつくる。妻がこっそり嘘をついていることもない。
これを何と言えばいいだろう。
狭い世界に生きている。限られた価値観。支配的。盲目。従順。絶大なる信頼。排他的。選民意識。隔離社会。見えざる壁。慎重。計画的。愛よりも血。無情。
1つ確かなのは、ユダヤ教を信仰していれば何人もユダヤ人になれるなんて、ユダヤ民族はさらさら思っていないということである。
ユダヤ人(ユダヤ教)さえ信じていないのだから、他民族や多民族、他宗教を信じられるわけがない。



ホロコーストの矛盾

ホロコーストは第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったユダヤ人虐殺のことを言うが、本来はユダヤ教の宗教用語である燔祭(獣を丸焼きにして神前に供える犠牲)を意味するギリシア語であった。

燔祭を行うのはユダヤ教。
その祭事を「ホロコースト」と表現したのはキリスト教。
「イエス・キリスト」はギリシア語である。
旧約聖書の原語はヘブライ語であり、新約聖書の原語はギリシア語であったとされている。
ヘブライ語は古代パレスチナに住んでいたヘブライ人 (ユダヤ人)が母語として用いていた言語。聖書ヘブライ語とも言われる。
ヘブライ語は一旦は廃れたが、20世紀に現代ヘブライ語として再生し、イスラエルで使用されている。
このことから2つの仮説が立てられる。
仮説1―戦時中にホロコーストを行ったのはユダヤ教である。
仮説2―戦時中にホロコーストを行ったのはキリスト教である。




ナチス・ドイツによって行われたとするホロコーストで犠牲となった(虐殺された)ユダヤ人は600万人以上とされている。
しかしそうだとすると戦前と戦後のユダヤ人人口において辻褄が合わなくなるという説がある。
人口はほとんど変わっていないというのだ
ホロコーストは捏造であった

これまで述べてきたようにユダヤ人は定義が曖昧であるため、範囲が変われば数値も変わってしまう面がある。
また時代的に、戦前戦後という動乱・混乱期に、どれほど正確に人口把握する手段やシステムがあったのかという疑問もある。
しかしそうは言っても歴史書はそうした数値を憚らず採用しているわけだから、一方だけを否定するわけにもいかない。
ユダヤ人の人口は戦後も減っていなかった。
虐殺されたはずの600万人が消滅してしまっているのだ。
このことから3つの仮説が立てられる。
仮説1―ホロコーストはなかった。(捏造されたものである)
仮説2―戦後にユダヤ教徒が爆発的に増えた。(亡くなった人とほぼ同じ600万人ほど)
仮説3―虐殺された人は最初からユダヤ人としてカウントされていなかった。



キリスト教の矛盾についての解説

かつて子供を儲けることを「子を授かる」と言った時代があった。
今でも使われる言葉ではあるけれど、現代では「子作り」のほうが主流かもしれない。
「子作り」とは何か?
身も蓋もない言い方をすれば「セックスに励む」ことである。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ではないけれども数で勝負するカップルもあれば、「ウララウララウラウラで」のように排卵日を狙って勝負するカップルもあるだろう。
世の中はさらに進化し、精液を生殖器に注入することによっての受精や試験管ベビーも可能となった。
これらは受精の相手が結婚相手でなくても良いのである。
考えようによっては不倫による妊娠。
「精子の持ち主に愛なんかこれっぽちも感じていないの!不倫と同じにしないで!!」と反論されるだろうか?
それならば、「愛はなくセックスがしたかっただけ」の不倫からの妊娠ならば尊いと言ってくれるだろうか?
「子供が欲しかっただけ」の行きずりのセックスによる妊娠ならばどう?
子供って何だろう?見栄や欲を満たすための道具や装飾品だろうか。
授かるなんて概念は廃れ、遅かれ早かれ「人間を作る」時代がやってくるだろう。

下記青字はWikipedia人工授精からの引用。
精子の提供者について配偶者間人工授精(AIH:Artificial Insemination by Husband)・非配偶者間人工授精(AID:Artificial Insemination by Donor)に区別される。
日本では非配偶者間人工授精は、1948年に慶應大学病院で始まり、これまでに数千~1万人以上以上生まれたと見られている。
海外では精子の仲介をするビジネスが盛んである一方、そういった企業や医療機関を介在しない非配偶者間人工授精も、珍しくない。
例えばアメリカでは、家庭で容易に精子の採取が出来るキット(精子の運動性を阻害しないような材質が使用されている)や、家庭で女性一人で人工授精できる専用のキット(Zavos Home Insemination Device)が17ドル程度で販売されている。


非配偶者間人工授精で生まれた子は血が繋がっていなくとも実の子(嫡出子)として認められる。
人工授精したかどうかなんて役所の戸籍係をはじめ他人には分からないのだから。
しかし、ばれてしまって認められないケースもある。
認められるか否かで相続に大きな違いが出る。
先頃も嫡出子と非嫡出子の法による相続格差が論じられていたが、実は不倫出産だけではなくこうした問題も含んでいる。
この問題も見える人と見えない人がいたであろう。



キリスト教におけるマリアの処女懐胎。
マリアは婚約中に婚約相手の男性とセックスすることなしに子を宿した。
処女懐胎というのは彼女がセックス経験がないと断言しているわけではなく、婚約相手の男性に対して処女であったということである。
婚約者ヨセフは戸惑って当然。疑いもしたし婚約も破棄しようとした。
しかし「恐れずに受け入れなさい」という声が彼には聞こえたのである。
マリアにはたぶん公にはなっていない事情があったのだと思う。
レイプされて出来てしまった子かもしれないし、生きてくために体を売っていたかもしれない。
別れた元彼との間に出来ていた子かもしれない。
マリアはマリアで悩んだのだと思う。
しかし彼女にも「生みなさい」という声が聞こえたのであろう。
もしくは誰かに説得されたのかもしれない。
「生まれてくる子(イエス)が民衆を罪から救うはずだ」(英語の出来ないジョナサンが日本人を救ったであろうように)、街の年長者か聖職者か分からないけれども、そんなアドバイスをした人がいたのではないだろうか。
マリアは本意ではなかった妊娠を受け入れ、婚約者のヨセフは自分と血の繋がっていない子を受け入れ、その子を育てていくことにしたのである。
ふたりは正しさでも血でもなく愛を選択した。
胎児の死(中絶)ではなく生を選んだ。
素晴らしい決断だと思う。
キリスト教が中絶をいけないこととしているのは、ここにルーツがある。
キリスト教にとっての中絶は宗教の根幹を揺るがすようなことなのである。


聖書はダイレクトな表現を使っていない。身も蓋もないような書き方をしていない。
それは私達の日常にもよくあることだ。
「子供が欲しいからセックスに励むつもり~」などあっけらかんと言う人は滅多にいない。
「彼女とまだセックスしてない」ことを「僕はまだ彼女を知らない」などと言う。
出来ちゃった婚は「結婚前にコンドームもしないでセックスし快楽に溺れたらうっかり妊娠しちゃったので仕方ないから結婚しま~す」というようなことであるけれども、そうは言わない。
「新しい命を授かりました」「コウノトリが運んでくれたのだと思います」「これも何かのご縁」「素晴らしいタイミング」などとオブラートに包む。
聖書もそういうものである。言葉とはそういうものなのだ。
文字通りのことを言っていることもあれば、言いたいことは文字の裏側にある場合もある。
キリスト教(イエスを尊ぶこと)は、異質なものを受け入れることであり、見えないものを信じることである。
親や子はともに育んで成るものであり、愛とは思いやることである。
世の中には不完全なものがあるが、完成されたものがいつも素晴らしいのではなく、不完全が誰かを救うことがある。
人は往々にして罪を犯すが、人は誰でも生まれながらにして罪を背負っている。
だってそう、赤ちゃんはまだ完全ではないのだから。

しかし残念ながら全ての人が同じ文字列を見て同じように解釈できるわけではない
また聖書が書かれた時代と現代では科学的な状況などがあまりにも違いすぎる。
バランスが著しく崩れてしまっている。
それは結局、人の心のバランスをも崩すことになるだろう。
遺伝性の疾患などを考慮すれば「見えないもの」が必ずしも良いとは言えない。
私達はもうそうした事実も知っている。
疾患や障害や罪を受容した愛の陰には夥しい苦労や犠牲がある。
愛から抜け出したい人がいたっておかしくない。
誰にも彼にも「異を唱えるな」「信じろ」では済まされない時代となっているのだ。









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by yumimi61 | 2013-12-06 10:21