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器官151



"knoll"→「ノール







分断した思考

論文の不正不備が明らかになって小保方さんが非難される中、小保方さんを擁護する人達がいる。
自分も同じような立ち場にいれば非難しにくいだろう。
または問題の本質を理解できていないということも考えられる。

小保方さんへの個人攻撃に違和感があるという人も少なくないようだが、そうであるならば共同研究なのに1人だけが持ち上げられチヤホヤされた時点で違和感があると言うべきである。
マイナス評価には文句は言うがプラス評価ならば全面的に賛同支持するという姿勢は平等ではない。
こういう姿勢や世論はとかく間違いを生みやすい。
そこれそ反対勢力や真の可能性を潰しかねない。
完全ではない人間への過度な称讃を許すなら個人攻撃も受け入れなければ釣り合いが取れない。
かなり観点は違うが、小保方サイドはバランスを考えて「ブランドファッションと割烹着」や「生物学や人類の歴史と若い女性」、「却下と大発見」などを組み合わせたのでないだろうか。
つまりバランスとは落差でもある。

小保方さんを擁護する人は、STAP細胞は人類にとって有用な研究なのであるから論文の不正不備くらいでとやかく言わず研究を続けさせるべきだと言う人が多い。
新しいことや価値のあることであれば多少の悪や欠点は見逃せということらしい。

私が一番違和感を感じるのは人々が「再生医療」を良いものと信じて少しも疑っていないことである。
原発を良いものと信じて疑ってこなかった人達が原発事故で原子力に幻滅し「脱原発」「ソーラー発電万歳」と騒いだのはついこの間のことだ。
行き過ぎた科学を手放しで受け入れたことに、科学への盲信や無関心に反省したのはどこの誰だったのか。
原爆を作ったのは、ダイナマイトを作ったのは、誰か?
余計な薬を出し過ぎだと怒り、病院を金銭的に追い込み、健康食品会社を潤わせたのは?健康ブームで儲けたのは?
政治家に多額の資金が流れるのは許せないが、特定の研究や研究者に多額の資金が流れるのはいいのか?
経済至上主義や資本主義社会を嘆く一方で勝ち組を夢見て投資したり、経済のためなら何でもかんでも善となる。
以前こちらにも書いたがもう一度言おう。
ノーベル賞を受賞する人が世界の先端にいて新しい素晴らしい発見をしたとするならば、他の人にはそれが良いとも悪いとも判断できないはずである。
なぜ新しい発見が良いものと決めつけるのだ。
新しいものは世界を破滅に導く可能性をも秘めている、そのことも考えなくてはならない。


嘘も100回言えば本当になると言うが、捏造なら100回もいらないだろう。

「なぜ新しい発見が良いものと決めつけるのだ」と書けば、STAP細胞は存在するんだろうと勘繰る人もいるかもしれないが、私はSTAP細胞は捏造だったと思っている。ありえない。
「Nature」の当初の評価ではないが、愚弄している。

しかしながら本当はあまりそう言いたくなかった。
何故かと言うと、「再現できればいいんだろう」という風潮があまりに強いからである。
初めての実験も再現実験も人間が行うことに変わりない。
完璧な人間などいないのだ。間違うこともあれば邪心もある。
例えば、お金や脅迫によって「再現実験成功」を強要されたとしたらどうだろうか?
世界の先端にいるような人々が行うことは、他の多くの人はそれが正しいとも間違いだとも判断できないはずである。
今回のように他の研究者によって問題提起や批判があった場合には良いが、研究者がまとめて強要されていたらもう太刀打ち出来ない。
国連、大学、宗教、国家圧力、世論、洗脳など、、、戦争を好む人がほとんどいないのに無くならないことを思えば、まとめる方法はなくはないだろうと思う。
「多数」は正しくなってしまう。
それと同じく「有名」も正しくなってしまう。

そもそも英語が主流の世界においてはそれだけでも平等ではない。
英語力で同じ土台に立つのは少々無理がある。
「英語が世界共通語」という言葉のイメージから騙されやすいが、英語を母語とする国(人口)はそれほど多くない。
英語でのコミュニケーションは80%以上が英語を母語としていない人(ノンネイティブ)の間で行われていると言う。
母語でさえ怪しいのに母語でない言葉や文章を間違いなく理解したり発信したりすることは難易度が高い。
つまり英語のみを基盤とする研究土台はそれほど確固たるものではないのである。


悪魔の証明、神の証明

悪魔の証明という言葉がある。
元々は中世(5~15世紀くらい)ヨーロッパにおいて土地の所有権の帰属の証明は難しいという意味で比喩的に使われた言葉であったそうだ。 
現代では契約・台帳・登記簿などが幅を利かせているが、ルーツを辿るということはそれほど難しいということなのだろう。領有権なら尚更。
「人類皆兄弟」ではないが、突き詰めていけば「地球は誰の所有物でもない」に辿り着いてしまう。
もしも所有権があるとすればそれは大地を創造した神ということになる。
だからこそ、神でない人たちが争っていることを揶揄して「悪魔の証明」と言ったのではないだろうか。
しかしそんなこと言ったって誰も納得などしない。「神の存在の証明」に飛び火するだけだ。
または「権利は主張しなけりゃ無いも同然」とあしらわれるのが落ち。

後世においては、土地所有権だけでなく消極的事実の証明の困難性を表す表現として用いられるようになった。
「ないこと」を証明するより「あること」を証明するほうが簡単なことが多い
最近も容疑者が口にして話題になったらしい。


これらと同じで、万能細胞が作れることを証明することよりも、万能細胞は人間には絶対に作れないと証明することのほうが遥かに難しいのである。
それほど難しいことなのに、「悔しかったら作れないという証拠を見せなさいっ!」と言い放つのが現代における悪魔の証明(悪魔からの言いがかりという意味)である。
万が一作れないことの証明に挑んで論文を書いたとして、その論文は高く評価されるだろうか?人々の興味を惹くだろうか? お金に繋がるだろうか?
「作れること」と「作れないこと」は同じ土台に乗せてもらえるだろうか?
「作れない」なんて古臭くて夢の無い話だと切り捨てられることはないか?
「あなたには作れなくても作れる人はいるはず!」、そう言うのではないだろうか?
悪魔が神になるためには100回の嘘が必要だけれど、科学的な証拠を見せれば数回で神になることが可能。
そうした意味においても、新しく画期的な発見を盲目的に信じ賞賛することは非常に危うい。



赤門と赤点、赤ちゃんと赤組・・あなたにとって東大とは?

・日本人は全員東大卒になれる(日本人=東大卒)。
教育界の歴史や常識を覆すこの命題は真か偽か?

現況ではなれない。よって偽である。
何故なれないかと言えば定員があるから。
定員を取っ払って誰でも東大卒になれてしまうと既得権や既存の価値を失う人も出てくるので定員を取っ払うことがまず大変であることが予測される。
しかし「定員を取っ払う」という条件を付ければ論理的には可能となる。
既存大学や新設大学を全て「東大」にしてしまうという手もある。(名は体を表すと言うから嫌がる人もいるだろうが)
通学しにくい人のためにインターネット授業も導入する。
しかしながら、誰でも入れると謳っても「大学に払う金はない」という人が出てくるはずだから、「全員」を達成するのは難しい。
お金の問題をクリア(無料化)したとしても、「俺は東大なんかで学びたくない」「僕は日本の大学なんか嫌だ」「私はもう勉強したくない」という人もいるはず。
また入学しても途中でドロップアウトする人もいるだろう。
等しく卒業させるのかさせないのかという問題もある。
様々な策を講じても日本人全員東大卒になることは非常に難しい。

そこで東大卒の若者は考えた。
東大で学んだ知識や成功術を本にして広く一般の人にも知ってもらおう。
本の帯には「あなたもこれを読めば東大卒!」の文字。著名な教授からの推薦文も欠かせない。
ではこの命題は真か偽か?
・東大卒の執筆したノウハウ本を読めば東大卒と同じ人生を歩める。
・東大卒の執筆した(実際は東大卒ではないゴーストライターが執筆した)ノウハウ本を読めば東大卒と同じ人生を歩める。

その本の隣に「あなたもこれを読めばハーバード大卒!!」という本があったらどうだろうか。
東大とハーバード大とどちらを選ぶ?それが早稲田大だったらどうだろうか?
全部買えばいいじゃん?
ハーバード大ノウハウ本がなどんな言語で書かれているかは選択(売り上げ)に大きな影響を与えるだろう。

日本国が破産するほど費用を注ぎ込んでも「日本人は全員東大卒になれる(日本人=東大卒)」を達成することは困難だと考えるのが一般的ではないだろうか。
また「日本人は全員東大卒になれる(日本人=東大卒)」を達成したからといって全員に豊かな人生を約束できるわけではない。
では「日本人は全員東大卒になれる」で恩恵を受けるのは誰か?
もしも東大が教育ではなく他の事を目的にしていたら?


早い者勝ち、言った者勝ち

この社会は「言った者勝ち」という要素を含んでいる。
「万能細胞が作れた」と小保方さんが言えば、それを否定するためには「万能細胞は作れなかった」という再現実験の結果だけでは事足りない。
小保方さん以外の人の再現実験の成功が「万能細胞が作れた」ことの証明になっても、小保方さん以外の人の失敗が「小保方さんが作れなかった」ことの証明にはならなくなってしまう。
奇跡や偶然での成功を加味すれば尚のこと完全否定は出来なくなる。
導かれるのは「再現が出来ない」「実用化には程遠い」ということだけ。
再現実験に依らない「出来ないという証明」も悪魔の証明であり、非常に難しいことは前述した。
誰が何を言っても、例えば捏造だったと本人が認めたとしても、出来たと一旦発表した以上、「STAP細胞」をこの世から完全に消去することは出来なくなる。

「出来る」と言うことはそれくらい重みのあることでありながら、「出来る」という言葉には幅がある。

そこで私は考える。
世界で一人ないしは限られた人しか出来ないことをスタンダードにしていいのだろうかと。
もちろん基礎研究は技術基盤確立の前段階の話で、応用や実用化には手技手法が確立されなければならない。
しかしそれが確立されたとしても、それを理解し上手に失敗なく利用できる人というのは限られている。
例えば医療現場における手術。
手技手法が確立されていても行えるのは医師免許のある人のみ。
医師であっても専門外ならば難しいし、同じ専門であっても得意不得意はある。

ある事柄が地球や人間(人類)の生命にとって望ましいことかそうでないかは、ある事柄の簡易さに比例するのではないかと思う。
多くの人が簡単に出来ることのほうが地球や生命には優しいということである。(便利さは度外視)
高度な科学技術を駆使した物ほど地球や生命には厳しい物、つまりマイナス要因として働く物であると言えないだろうか?








by yumimi61 | 2014-03-19 13:09